戦国ちょっといい話17

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話16
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1260254478/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話16
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1260458448/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2010/01/12(火) 15:40:19 ID:kpQ4Ww0d
>>1乙であった。

>>1殿に相応しい家格の未亡人が居るので是非紹介の労をとりたい。
3人間七七四年:2010/01/12(火) 16:27:39 ID:tcZElVhz
紀州大納言、南龍公徳川頼宣が未だ若い頃、傍の者を手討ちにしたことがあった。

この時安藤帯刀、すぐさま諫言に及んだ

『罪過のある者を御成敗するときは、ご自身ではなく家臣の者に仰せ付けられるべきです!
もし殿が、私の言った事をお聞きになれないと言うのなら、
この帯刀すぐさま切腹つかまつる!』

安藤帯刀、これをなんと誓紙神文の形にして頼宣に捧げた。安藤は本気だ。
と言うか、本気にも程がある。
これを見て頼宣、以後自ら手打ちを行うようなことはなくなったそうだ。

後に駿河大納言徳川忠長が、度々自ら手討ちを行うと聞いたとき、
安藤帯刀は松平志摩守に言付け、忠長の家老朝倉筑後にこう伝えたそうだ

「諫言を行ってもご随心がないのなら、さっさと切腹するべきだ。」


常に命をかける。それが安藤帯刀の奉公である。
4人間七七四年:2010/01/12(火) 17:10:47 ID:GpXRLqFm
そういえばシグルイの冒頭でも腹を切って諫言に及んだ老臣がいたっけな。
5人間七七四年:2010/01/12(火) 21:20:13 ID:jOazsnk8
初代の付家老衆の中では安藤が一番有能っぽいな、逸話も多いし・・・
6人間七七四年:2010/01/12(火) 21:30:41 ID:1LFLd8JI
前スレ976で蜂須賀茂韶とタバコの話について書いたものですが、ちょうど一ヶ月前に
「戦国ちょっと悪い話16」の11で出た話だったorz
正勝(小六)がらみとはいえ、戦国時代じゃないからかぶることはないと思ったのに
7人間七七四年:2010/01/12(火) 23:33:44 ID:QAQ/FOb+
結局忠長に諫死すること少なく後に一緒に改易になったんだっけ>朝倉筑後守
8人間七七四年:2010/01/13(水) 01:56:21 ID:U7wWqQfH
>>1-1000
鮭ネタ禁止でお願いします
9人間七七四年:2010/01/13(水) 07:42:16 ID:GxFsF5/4
>>8
そんな君にピッタリのスレがある
こちらで好きなだけ吠えて下さいな

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263092993/
10人間七七四年:2010/01/13(水) 08:32:10 ID:7PqzFwVf
>>5
成瀬さんとか、自家が絶えちゃったけど平岩さんとか
附けられた家を残したのは硬骨漢、って感じだねあくまで印象だけんどもさ
11人間七七四年:2010/01/13(水) 09:25:42 ID:UtrdxJw1
>>8
トリップとは言わんがせめてコテ付けてくれんかな
12人間七七四年:2010/01/13(水) 10:35:57 ID:R3tOQVzK
>>9
だからスルーしろって
いい加減頭使えよ
13人間七七四年:2010/01/13(水) 12:24:53 ID:64mCZX0X
本多三弥左衛門正重と言う人がいる。
あの本多正信の弟で、物好きだがいやしいところが全く無く、常に身に香の香りをただよわせる
風流人であったが、さらには信長から『海道一の勇士』とまで呼ばれた武勇の者でもあった。

この正重、長篠の戦いの後、徳川家を出奔し牢人となり放浪したが、
ある時滝川一益に仕えて、播磨神吉城攻めに参加した。

この日の戦いにおいて、滝川軍の幕下に入った牢人の多くが手柄を立てる働きをしたが、
正重は何の武功も得られなかった。
彼は当時既に高名な勇者であった。これに一益は使いを立てて

『そなたはこれほど高名な武士であるのに、今日首尾が無いのはどういう事か?』

と言ってきた。これに正重
「この返事は明日申しましょう」と伝言した。

次の日、正重は名のある者の首二つを取ると言う殊勲をなした。その上で一益に
報告した

「これぞご返事に候」


この時代を代表する勇者の一人の心意気である。
14人間七七四年:2010/01/13(水) 17:11:30 ID:auDpEoqS
口で言うより、行動で示す
理想像だね
15人間七七四年:2010/01/13(水) 18:24:23 ID:KqtqRKho
ちくいちめんどくせーよ
16人間七七四年:2010/01/13(水) 18:49:40 ID:IpFMEDh0
めんどくさいけど扱いを間違えなければ忠節は尽くす、
主君に諫言も厭わず、しかも文武に秀でた人間が揃ってる。
こんな家臣ばかりだもん、そりゃ天下もとるわな。

逆に譜代の家臣もいないのに天下人になった秀吉の異質さが際だつな。
17人間七七四年:2010/01/13(水) 19:11:27 ID:KqWqRvAG
徳川義直「イライライライラ#」
家臣「(うわぁ、めっちゃ機嫌悪そうだよ…)う、上様…ご報告したいことが……。」
義直「あぁ!?なんだよ!!」
家臣「ひぃぃ!」
義直「…ちょっと待ってろや!!」

しばらくして…

家臣「上様は何処へ……。」
義直「いやぁ、すまんすまん。待たせたのう。」
家臣「上様、いままでどちらに?」
義直「うむ、厠で用を足してから謡曲をうたっておったのだ。では報告を聞こうか。」

機嫌が悪いと判断を誤る、というのが義直の自論だった。
18人間七七四年:2010/01/13(水) 19:18:07 ID:64mCZX0X
>>17
そう言えば今年は名古屋開府400年だそうで。これも400年近く前のお話なんだなあ。
http://www.nagoya400.jp/
19人間七七四年:2010/01/14(木) 08:16:50 ID:ahqzR10A
>>13
近くにいる武者が法螺貝を吹き損なうと益々めんどくさいので、
タイミングがむつかしい三弥さんですね
20人間七七四年:2010/01/14(木) 22:11:50 ID:atwj6awi
「徳川四天王」、「東三河筆頭」としても有名な酒井忠次の家臣に。
石原ずんと右衛門と言う人がいた。

…ずんと右衛門である。なんだそりゃと思われても、そう記録されているんだから仕方がない。
とにかく石原ずんと右衛門と言う人がいたのだ。

このずんと右衛門、姉川の戦いの時酒井帯の先鋒を指揮し、300の備を酒井本隊の筋違い、
丁度酒井本隊の脇に置いていた。

さて合戦が始まる。織田軍は浅井軍の猛攻に本陣まで攻め寄せられた。
この時ずんと右衛門の部隊が浅井に攻撃を仕掛けた!
実は彼らが最初位置どった場所が丁度、浅井軍の横を付く形になっており、これに
浅井はたまらず攻勢の足が止まった。

この頃徳川軍が、ついに朝倉軍への反撃に成功していたが、守勢に立った朝倉軍は
浅井の足が止まったのを見て撤退を開始、浅井もこれにつられ軍を返し、ここに姉川合戦は
織田徳川連合軍の勝利に終わった。

合戦の後信長は、この酒井隊の働きを激賞し、忠次に従四位下「左衛門督」の官位を与えた。
が、忠次の方は「こっちのほうが言いやすいから」と言う理由で後々まで、本来従五位の官位である
「左衛門尉」と呼ばせていたそうだ。

ずんと右衛門のこの時の働き、人々は長く称えたとのことである。
21人間七七四年:2010/01/14(木) 22:28:52 ID:66VFgFDm
関ヶ原の戦いが終わった直後、雨が轟々と降り注いでいた。
東軍各隊の指揮官たちは「勝った勝った、めでたいめでたい」と
勝利を噛み締めていた。そんな時、徳川家康から触れが出された。

「兵士たちは飢えと寒さにより生米をかじりだしている。雨が止まず
米が炊けないようならば、米を水によく浸し、四時間ほどしてくずれ
かけてから食べろ」

このような時に生米を食べると腹を壊す。勝利に浮かれる指揮官
たちは兵士のちょっとした動きに気づかなかった。しかし、家康は
兵士たちを見ていたのである。
22人間七七四年:2010/01/14(木) 22:51:33 ID:WQ4Ibb5i
>>21
叩き上げの武人はこういう気遣いに凄味がでるね
23人間七七四年:2010/01/14(木) 23:27:54 ID:xtTTXtt7
でも相当腹減ってるだろうから4時間も待てないやつもいるだろうな。
24人間七七四年:2010/01/15(金) 04:25:44 ID:EhZKWmuK
合戦用携帯食とかなかったかな?四時間待たせて生米とかひどすぎる
干し飯のことを生米とは言わないですよね?
あれだけの人数を動員したので間に合わなかったのだろうか?


25人間七七四年:2010/01/15(金) 05:00:26 ID:fawX8RiH
西軍が大垣を出撃したという急報で慌てて出陣したわけだから、全く準備出来ないだろ。
26人間七七四年:2010/01/15(金) 06:05:23 ID:su3zMq7g
>>24
干し飯はといで、炊いて、干したものだからそのまま食える。
生米は干さず、炊かず、とがずの代物で食べると腹を下すので注意。
27人間七七四年:2010/01/15(金) 06:51:36 ID:q8kEhX6c
>>26
注意といわれても現代人は普通食わんけどなw

子供の頃、漫画「はだしのゲン」でゲンが美味そうに米粒をバリバリ食ってる描写があって
つい真似して食ってみた事はあった。
勿論美味しくなんかないw
28人間七七四年:2010/01/15(金) 09:06:21 ID:n/hYJdaL
ご飯がないならパンを食べればいいじゃない
29人間七七四年:2010/01/15(金) 09:46:01 ID:BP6+3zm+
曲淵(孫)「米が食べられないなら犬を食えばいいじゃない」
30人間七七四年:2010/01/15(金) 10:53:40 ID:FOCrxTPd
ある日、京の公家衆が福島正則主催の茶会に招かれた。
一同は邸内の庭に面した一室に案内され、しばし待ったが、やがて主人の正則が庭から
やって来て挨拶した。
「やあ皆様、お待たせいたした。どうぞ、この中門から茶室へ・・・・・・(怒)」
中門をくぐろうとした正則の顔に、クモの巣がかかった。どうやら茶室周りばかり綺麗に整え
本邸には目が届かなかったようである。

「・・・誰かある。ここを掃除した者を、すぐに連れて来い!」
(こ、これはいかん!福島殿なら、この場で手討ちもありうる!)
公家衆が顔を青くしながらもその逆鱗に触れるのを恐れ、正則に声をかけられずにいると、
「ホッ ホッ ホッ ホッ ホッ・・・・・・」
高らかに笑ったのは、古田織部を師に持つ茶人としても名高い新左大臣、近衛信尋だった。

「いや、邸内で待っている間、お庭を拝見させていただいたが、一匹のクモが松の樹から
ブラ下がりましてのう。
みるみるうち、あなたこなたに往き通い、早や一つ網を作ってしもうて、我が思わず興に
入っているところに、福島殿が出迎えに来られた。
これはさだめし、福島殿がクモに命じ我らに見せよ、との数寄の趣向に違いなし。
ぜひ、我にもクモの家臣とやらの伝手を教えてたもれ。」

「へ?いや、これは・・・ハハハ・・・・・・」
「ホホホ・・・左大臣は、ときどき妙な事を申される・・・・・・」
一同笑い出して正則は面目を保ち、掃除人は手討ちを免れたという。

教訓:笑いの力とは強きもの。
最近、大宮人の評価が下がってるようなので、こういうお公家さんもいた、という話を。
まぁ近衛信尋はのちに豪商と一流芸者を賭けて恋のバトルするような変わった人ですが。
31人間七七四年:2010/01/15(金) 11:30:28 ID:9wC4AvPN
血筋から見ても、戦国一の傑物公家である近衛前久の娘、前子と後陽成天皇の子ですからな>近衛信尋
母の前子もかなりの人物ですし(信尹は少しアレだけど)
32人間七七四年:2010/01/15(金) 11:30:38 ID:SZR2sEMS
>>13
天地人にも出てたけど政重ってやっぱり
言葉より行動で示す素直で実直な人間だったんだな
加賀藩に再就職後、後妻のおとらさんや部下達が後を追っかけてくわけだわw
33人間七七四年:2010/01/15(金) 11:49:21 ID:Gg4LPdUF
それは甥じゃ
34人間七七四年:2010/01/15(金) 13:19:48 ID:EEDKRzxJ
叔父甥で同じ名だから混同しやすいんだよなw
35人間七七四年:2010/01/15(金) 14:07:56 ID:fawX8RiH
政重と正重
名前は似ている
36人間七七四年:2010/01/15(金) 23:42:25 ID:6f7CWfYy
>>30
たしか近衛信尋って水戸黄門の奥さんの父親だよね?
37人間七七四年:2010/01/16(土) 10:40:36 ID:a/UwFIRH
福島正則の娘婿

水無瀬兼成(将棋駒書体、水無瀬の作者)
千宗守(茶道、武者小路千家初代)

以外と文化人だった?可能性のある市松
38人間七七四年:2010/01/16(土) 11:14:03 ID:O/Km0VAR
市松は三成の煮え湯を嗜んでるからから意外となw
39人間七七四年:2010/01/16(土) 15:38:22 ID:9mDECEhE
なんというか、>>38の評価こそ市松っぽくて吹いたw
きっとガッツとやる気はあるが、空回りする子だったんだろうなぁ
40人間七七四年:2010/01/16(土) 16:28:11 ID:vCVITMJ1
すみません。
スレ違いですがここの皆さん色々詳しいようなので分かる方ちょっと教えてください。
幕末の本を読んでたら、仙台藩の片倉家は18000石でおよそ1400戸7500人の家臣団を
抱えていたと書いてありました。
これって異常な数じゃないですか…?
この禄高だと普通家臣はもっと少なくないですか?
誤植かと思ってネットで調べてみましたが、数字自体は間違っていないようなので…
41人間七七四年:2010/01/16(土) 16:36:32 ID:1jWIrI4S
ふむ、確かにちょっと異様な数だな
全部割り当てて乱暴に計算しても平均一人200石強か
まぁ、そんなわきゃないけど

多分見栄張ったか、そもそも元本の数字自体が間違ってるかかな?
42人間七七四年:2010/01/16(土) 16:37:29 ID:a/UwFIRH
一桁間違っている?
43人間七七四年:2010/01/16(土) 16:41:47 ID:ZYcHOQUs
家臣ではなく「領民」ならわからんでもないが。
44人間七七四年:2010/01/16(土) 16:45:56 ID:1jWIrI4S
む、俺200石とか書いてるな
間違いだ20石な
45人間七七四年:2010/01/16(土) 16:49:14 ID:O/Km0VAR
1万8千石で1400家か・・・その半分ならまあ納得なんだけどさすがに多すぎるよね。
46人間七七四年:2010/01/16(土) 17:09:24 ID:vCVITMJ1
元本の数間違いかと思ってもうちょっと自力で調べてみたら、
片倉家は江戸初期の13000石だった時代にも軍勢を1467人動員できると
伊達家に届けられていて、実際大坂の役でもこの数を引き連れているそうです。
軍役としてもやっぱり異常な数ですよね…?
ますます分からなくなりましたが、この家が何かおかしい事は分かりました。
騒がせてすみません。
47人間七七四年:2010/01/16(土) 17:12:38 ID:O/Km0VAR
伊達領って表高に対して内高多いのかな?
48人間七七四年:2010/01/16(土) 17:13:24 ID:1jWIrI4S
表高と裏高かなぁ
それにしたって7500人雇えるくらいだとちょろまかしすぎだし
大坂の時の軍勢1467人が家中の半分とかなら理解できない事もないけどねぇ…
49人間七七四年:2010/01/16(土) 17:18:31 ID:1jWIrI4S
7500人の家臣団って足軽中間入れても国持大名クラスでも多いよな
50人間七七四年:2010/01/16(土) 17:27:03 ID:O/Km0VAR
7500人は妻子込みじゃない?
51人間七七四年:2010/01/16(土) 17:44:50 ID:FZzCd9Qy
>>46
以前白石城で買った「白石城物語」にもこの数字がありました。
また幕末の軍事演習にもほぼ同数が動員されたとあり、国境の
前線基地的な役割を担っていたので名誉ではあるが家臣領民の
暮らしは非常に厳しく、温麺等の特産品開発にも力を入れていた
とのことです。
52人間七七四年:2010/01/16(土) 17:53:16 ID:8zsgL0Su
何の裏も無く、少ない禄に窮乏しつつ必死に人員を維持してたってオチじゃないだろうなw
53人間七七四年:2010/01/16(土) 17:57:12 ID:a/UwFIRH
もしかしたら付属する寄騎足した数じゃないか。
五カ国時代の徳川勢一万八千のうち井伊勢は一万だったらしいし。
54人間七七四年:2010/01/16(土) 17:59:51 ID:Xvbzq3yF
「伊達政宗と片倉片小十郎」の復刻本では実高は十万石とか
片倉家の家臣団の知行の半分は政宗の懐からこっそり出していたとか
55人間七七四年:2010/01/16(土) 18:00:06 ID:Xvbzq3yF
「伊達政宗と片倉片小十郎」の復刻本では実高は十万石とか
片倉家の家臣団の知行の半分は政宗の懐からこっそり出していたとか
56人間七七四年:2010/01/16(土) 18:03:44 ID:O/Km0VAR
実高10万石・半分持ちなら可能だろうね
それでも毛利の吉川や細川の長岡佐渡に比べたら多すぎるけど・・・
57人間七七四年:2010/01/16(土) 19:07:28 ID:VRY69GWL
東北はいろいろちょっとおかしいよね、秋田の表高二十万石実高八十万石とか
幕末だと新庄藩(新政府軍)なんかも六万石で三千強の兵員動員してるし
どの藩も表高と実高の差異がえらいことになってそう
58人間七七四年:2010/01/16(土) 19:12:07 ID:VRY69GWL
訂正、新庄藩は約五千動員してた
自己レスすまん
59人間七七四年:2010/01/16(土) 19:26:37 ID:Z7/XkxRF
クソ忙しい時にぐうたらしててムカつくから喧嘩別れした昔の女が
こっちが落ち着いてリッチになったとたんに媚びに来たみたいなもんか
60人間七七四年:2010/01/16(土) 19:28:05 ID:1jWIrI4S
悪い方の誤爆?
61人間七七四年:2010/01/16(土) 20:03:20 ID:O/Km0VAR
東北諸大名や、西国の毛利・山内あたりは実高すごいね。
上杉も15万石であれだけの家臣を抱えてるし・・・
62人間七七四年:2010/01/16(土) 20:06:12 ID:3pOSfSeE
63人間七七四年:2010/01/16(土) 20:21:12 ID:yfpUDm8W
白石に武家屋敷が残ってて観光名所になってるけど、
その家を所有してた侍は50石くらいの人だったと書いてたな。

「刈田の百姓になるか、鉈で頭を剃るか、裸で茨を背負うか」
なんてことわざ?ができるほど白石の侍は質素だったと聞いた。
石巻のほうに飛び地も所有してたらしいが、これは計算に入ってるのかな。
64人間七七四年:2010/01/16(土) 21:03:21 ID:8r+nW5og
こっち↓のスレのほうが詳しい人がいるかもよ。

【疑問】スレ立てるまでもない質問 5【戦国時代】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/l50
65人間七七四年:2010/01/16(土) 21:47:21 ID:COOk51eI
「泣いた黒鬼?」

今川・武田・徳川に仕えた歴戦の武人にして苦労人、岡部正綱が亡くなった。
後継者の長盛は16歳。
世間は「あんなお子様じゃ岡部の家名は荷が重いんじゃないの?」と笑った。
この世評を憂慮した三人の岡部家重臣が集まった。

桜井縫殿助「今度の戦では俺たち三人の誰かが討死してみせなければ、世間の評価は変わらんだろう。
      だから俺は討死することに決めたよ」

大塚八右衛門「いや。信玄公にも特別な旗印を許された俺こそが適任だろう」

剣持次郎右衛門「俺だって信玄公からも家康公からも賞せられた男だ。俺が死ねば世間も納得するさ」

三人とも亡き正綱に長盛を託された男たちである。忠義も武勇も劣らない。意地の張り合いで決着がつかない。
最終的に桜井が押し切った。

「この三人なら誰が死んでも世間は納得するだろ。そもそも俺が言い出したんだからさ。
討死は俺に譲ってくれ。二人は俺の分も長盛様を頼むよ」
       
やがて小牧・長久手の合戦にて、宣言どおり桜井討死。
奮起した岡部軍は羽柴秀次軍を痛撃し、その武名を轟かせた。
桜井の死に様と長盛の武功の前に、もう誰も岡部家を侮るものは無かったという。

岡部長盛は以後も武名を上げ「黒鬼」とまで称されていく。
そんな彼の第一歩を飾った忠臣の話。
66人間七七四年:2010/01/16(土) 23:12:19 ID:A3YhhBJI
過去ログ見たけどさわりしか出てなかったのでカキコ
「立花城と内田入道玄叙」

高橋紹運の立て籠もる岩屋城をやっとのことで攻略した島津勢、予定より遅く立花城に迫った。
城下を埋め尽くす島津勢を前にして、立花城では開城やむなしとする者で大勢を占めたが、一人宗茂だけ戦闘意欲が高かった
「岩屋は玉砕、その弔い合戦をせずして開城とはもってのほか、去るものは去れ。俺は闘ってこの城で死ぬこととする」
宗茂の決意により一人として城を去る者もなかった。

これを知った島津忠長、立花城攻略となれば岩屋城に倍する犠牲を覚悟しなければならない。どうにか無血開城させたかった。
忠長は城方の気勢を削ぐため、城下を焼き払ったりしたが宗茂も負けじと兵を出し城に傍観するようなことをしない。
そのうち忠長は毛利と四国勢が大友氏救援のために九州に気配を察したため、やむなく城攻めを覚悟した。

立花城の宗茂、城を取り巻く島津勢の慌しい動きから、いち早くそれを察知した。
そのとき内田入道玄叙という者が宗茂の前に進み出た、玄叙とは道雪も一目置いていた歴戦の軍師である。
「それがしに策がござる」玄叙は宗茂に耳打ちすると、島津本陣に向かった。
「和を講ぜんために参った。主君の意向がこれにしたためてござる」
城を明け渡すからには、それなりの準備もある、数日の猶予を願いたい
「ついては拙者が人質としてここにとどまる所存」半信半疑の忠長も玄叙が人質になるなら良かろうと信じる気になった。
ところが幾日経っても、城方に降伏の様子は無い、玄叙に問いただしたところ平然と言い放った。
「虚言で日を稼ぎ申した、府内にも毛利勢と四国勢が加わった。お主らに勝ち目は無いただちにこの首はねられい」
島津の諸将はいきりたったが忠長が制した。
「玄叙お主の勝ちじゃ、身をもって城を救おうとしたその気概天晴れである。帰るがよい」

日を稼がれた忠長、援軍の援軍の九州上陸を聞き立花城の囲みを解いて撤退を命じた。
それを見た宗茂、ただちに追撃を命じた。篭城50日に及んだ城の重臣達は反対したのだが、その決意は固かった
「父の仇も報ぜず、母と弟の恥辱もはらさで、このままおめおめと生きながらえておれようぞ、俺一人でも奴等のあとを追う。斬り死にして、父上に餞せん」
敵が引き返してくることも憂慮されたが、撤退となると島津勢にも戦意が無かった。
翌日、岩屋城の奪還にかかりそれに成功する。

長くなってごめんね
67人間七七四年:2010/01/16(土) 23:43:14 ID:hjmVr/dD
島津忠長、かっこいいな
68人間七七四年:2010/01/17(日) 01:58:15 ID:/Ntp0T2a
この人、京でさらされた歳久の首を奪い返したりしてるんだよね。
69人間七七四年:2010/01/17(日) 02:11:38 ID:WnsQz/Gt
格好いいのには異存はないが、軍を預けちゃダメな人だな。
70人間七七四年:2010/01/17(日) 03:20:18 ID:AjC8yxWb
>>69
状況的には秀吉の援軍が来るから戦線縮小して防御ラインで迎撃は正しいと思う
71人間七七四年:2010/01/17(日) 06:25:01 ID:6Xf7WGha
86年8月時点で九州に入った援軍は毛利軍3千人程度で、撤退するほどじゃなかったんだけどな。
宗茂が単独で追撃したのは引き返してこないようにするための戦略的な必要性もあったと思う。
72人間七七四年:2010/01/17(日) 08:13:17 ID:NE7yyNQL

日本が終わる外国人参政権
http://www.youtube.com/watch?v=GKVx3a1Jhuw

小沢民主党が、外国人参政権を急ぐ理由
http://www.youtube.com/watch?v=9QxuJY0N8f0

転載 マスコミが隠す小沢の正体
http://www.youtube.com/watch?v=UCXcJ_qgpl0

石原慎太郎都知事 「小沢一郎の正体」
http://www.youtube.com/watch?v=y-rEJAYGju0

世界経済日本外しと「外国人地方参政権」の危険性 2of2
http://www.youtube.com/watch?v=UqgsiuXykdo
73人間七七四年:2010/01/17(日) 09:57:22 ID:Cyfiy+Ox
>島津忠長、かっこいいな
同意。
日新おじいちゃんの子供や孫、曾孫には外れがないなあ。
74人間七七四年:2010/01/17(日) 10:22:42 ID:/k9lrLQB
量産しているから出来がいいのもいるが、ハズレもかなりいる
75人間七七四年:2010/01/17(日) 10:51:21 ID:RoVrXbcz
7675:2010/01/17(日) 10:52:13 ID:RoVrXbcz
間違えた
>>65だった…

いい家臣団だよね
77人間七七四年:2010/01/17(日) 11:00:40 ID:PQnFZS7k
「龍造寺隆信の最後」
沖田畷の戦いにより隆信の山駕籠を担いでいた6人は討ち取られ、駕籠から投げ出された隆信は身動きが取れなくなった。
その間に川上左京亮忠智に首をとられるのだが、忠智にこう言った。
「汝、大将の首を、如何にして切るか知るや」
忠智それに答え
*「如何なるか、これ剣刃の上の事」
これを聞くと隆信、悠然と首を差しのべて言った
*「紅炉上一点の雪」
隆信の最後は見事なものであった

*「俺に一刀両断されたら、貴様は一体どうするのだ」
*「真っ赤におきた炭火の上に、どこからともなく、一点の雪が降る。雪は一瞬にして消え、跡形も無い。
 振り下ろされる刃の下でも、生もなく死もない、生への一かけらの執着もなく、死への微塵の恐怖もない」

書いてて思ったけどこれ、信玄と謙信の逸話にもあったような…
78人間七七四年:2010/01/17(日) 12:05:29 ID:jaWZi4fI
名前に「信」の文字を持った男はみんな思考が似てるんだよw
79人間七七四年:2010/01/17(日) 12:26:48 ID:WglyZeOi
信雄「まったくだ」
80人間七七四年:2010/01/17(日) 14:05:25 ID:nzfDT6cQ
>信雄=おまえだけは別

「如何なるか、これ剣刃の上の事」
「紅炉上一点の雪」
禅書の中の有名な言葉で、切羽詰まった極限状態の中、死の覚悟を問うた川上忠智に
これほどの者になら首をくれてもよいと、同じく禅書の返答をした。
カッコ良過ぎるが、隆信も最後くらいは大物らしくと・・・
81人間七七四年:2010/01/17(日) 14:09:12 ID:PsyJKmLn
いやいや、隆信さんは最後どころかいつも大物でしょう。何の意味かは……わかるな?
82人間七七四年:2010/01/17(日) 14:25:21 ID:pKZXqgqj
話の主旨とはズレるが、これがクマーを「悪魔の手先」とか言ってるフロイスだと
「(隆信は)不快な思いをして、手を合わせて槍を受けた」

とか書いてるんだよな
なぜ近畿にいるバテレンが九州にいた死者の心情までわかるのかと・・・
83人間七七四年:2010/01/17(日) 14:36:51 ID:8jTvGoyI
有馬、大村あたりがお手紙したんでねーかな?
84人間七七四年:2010/01/17(日) 14:41:19 ID:DmEgY63A
竜造寺は鍋島に乗っ取られてカワイソス

85人間七七四年:2010/01/17(日) 15:11:57 ID:cW/SGBO4
>>83
(・◎・)さすがいけめんのおおむらさんやで
86人間七七四年:2010/01/17(日) 15:14:50 ID:PsyJKmLn
>>85
確かに「大村直之」って戦国時代でも通用しそうな名前だけど、プロ野球板に帰りましょうか
87人間七七四年:2010/01/17(日) 15:27:06 ID:PQnFZS7k
「立花宗茂、軍法の根本とはと聞かれ」
軍法の根本は大将たる者の気持つ一つと説く
「兵は兵数の多少ではない。兵の和があれば勝利は得られ、和の根本は日頃の自愛にある」

家康は宗茂を重用しながら秀忠にこういい残している。
「今後ますます立花を懇意にせよ。されど決して十五万石以上の大名にしてはならぬ
 いかに心安く親しくしようとも、軽々しく扱えぬ人間である」
88人間七七四年:2010/01/17(日) 15:28:39 ID:PQnFZS7k
「戦は兵数の多少ではない」に脳内変換お願いします><
89人間七七四年:2010/01/17(日) 15:30:58 ID:PQnFZS7k
うほっ、自愛も慈愛やった。
ちょっくら鬼武蔵に勉強教えてもらってくる
90人間七七四年:2010/01/17(日) 15:58:47 ID:FY6cpEbN
民主党も同じようなこと言ってんのにここまで違うとはな
91人間七七四年:2010/01/17(日) 17:58:27 ID:AvFIlf0T
いやいや、民主党は「兵数で押し切れば何でもあり」でしょ
92 :2010/01/17(日) 19:06:41 ID:qZ99OtRg
>>87
立花宗茂が言うと胡散臭くないね



地方発行っぽい本に載っていた話で出典も分からないのですが、埋め程度に。

毛利家が山口に転封された時、
広島城築城以来、農民から先取り徴収していた米21万石は、福島家への借金として残っていた。

ある時、毛利家から福島家へ、藩中きっての酒豪である宍道五郎兵衛という者を使いにやった。
五郎兵衛は、主君・輝元に挨拶をして山口を立ち、数日後広島に到着。
正則の面前に平伏し、輝元からの伝言の口上を述べた。

「おお、左様か。遠路大儀であった。酒を取らせよ」
「ありがたき幸せに存じますが、手前は誠に不調法にございますれば・・・」
と、やんわりと断る五郎兵衛。しかし市松。
「何!わしの盃が受けられぬと申すか!」
既にかなりの酒が入っていた上に、五郎兵衛相手に呑む積もりでいた。

「決して左様なわけではございませんが・・・」
「そちも武士であろう!相手が槍を持っていた時、拙者は槍が不調法だから許せと申せるのか?
 ・・いや、無理にとは申さぬぞ。ただ、毛利公の名代は、左様な腰抜けだと所存するまでよ!」

「・・・殿の御盃頂戴仕る」
進退きわまった五郎兵衛。もともと酒好きなので、内心久しぶりの酒が嬉しかったかもしれないが、
辛そうな表情のもと、覚悟を決めた様子で受けた盃をやっとこさ呑み干した。

「今一献遣わせ」
「も早や殿・・・」
「その方、もう参ったか?参ったのなら、毛利は福島に参りましたと、はっきり申せ!
 ならば無理にとは申さぬぞ!」
「しからば、殿も御酒を召して頂きたいと存じますが」
「よしよし、わしも同じように飲もう」
「では、少し大きいので」
「大きいので?・・・よかろう、大きい盃を持て!」
と、今度は二人して大きな盃に注がれた酒を、荒息を吐きながら飲み始めた。
93 :2010/01/17(日) 19:07:53 ID:qZ99OtRg

かなり時間をかけて飲み終わった両者は、しばらく見合っていたが、
今度は五郎兵衛から「今一献戴きとう・・・」と、さらに大きい盃に酒を注がせた。
それを見た市松。待て待て、さすがに危ないと声をかけるが

「殿は借りにも大名、戦が長引いた時、疲れたから中止にしようと、戦場でその様な事が言えますか!
 いや、御無礼なことを申し上げました。決して御無理を申し上げる所存ではございません。ただ…」
「ただ何じゃ・・・申してみよ」
「誠に恐れ多いことでございますので・・・」
「戯け!わしを何と心得る。思うことがあるのならば申せ。そちの言うこと位では驚かぬわ!」
「ははッ。この大盃の酒、拙者見事に呑み干しましたる際には・・・」
「おお!その盃の酒、見事呑み干したなら、そちの望みの物を取らすぞ!何が望みじゃ?言うてみい」
「恐れながら・・・毛利の借り分21万石の米を戴きたく!」
「何!21万石だと!?」
「如何にも。」

これには市松も腹を立て「こやつ、わしを計ったな!手打ちにしてくれるわ!」
と、立ち上がろうとするが、酔っているため腰がふらふらときてドスンとその場に座ってしまった。
「ええい、武士に二言は無い!望みどおり21万石の米をその方に遣わそう!
 しかし、喜ぶのはまだ早いぞ。見事その盃の酒を呑み干せたならの話じゃ!!」

五郎兵衛は「ははッ、有難う御ざります ― 」と平伏し、頭を上げて大杯に手をかけ、
顔を盃に押し付けてぐいぐいと呑み始めた。
酒好きとは言え、斯様に立て続けに大盃で酒をあおる様に飲むのは始めてである。
しかし苦境の主家・毛利を救うべく、必死になって呑み続け、遂に一滴も残さずきれいに呑み切った。

五郎兵衛は、山口に帰り主君に報告を終えると、パッタリその場で息を引き取った。

21万石を呑み取った毛利武士のお話。
94人間七七四年:2010/01/17(日) 19:22:10 ID:RkCkx/Z1
母里の件で同じ過ちを犯す福島さんw
95人間七七四年:2010/01/17(日) 19:48:20 ID:Cyfiy+Ox
市松さん+酒=大失敗
はもはや公式ですな。
96人間七七四年:2010/01/17(日) 20:04:08 ID:cW/SGBO4
なんともおいしいキャラだ
97人間七七四年:2010/01/17(日) 20:27:03 ID:n+YlODGb
このころ、菅沼定政や松平康元といった面々は井伊直政の指揮下に入っていたが、誰も直政の指示に随おうとはしなかった。
家康は諸将を集めて宴を開き、その席上でいきなり直政に服を脱がせ、家康を守るために刻まれた傷の由来を一つ一つ語らせ、
最後に「私が将軍になれたのは、君のおかげだ」と言い涙を流して感謝した。

さらに直政に対し陣羽織を与えるなど、目に見える厚遇を施した。
このことがあって、定政達は直政の指揮下に入ることを納得するようになった。

        名将言行録
98人間七七四年:2010/01/17(日) 20:33:37 ID:PsyJKmLn
家康が将軍に任官された時にはすでに直政は故人……というのは無粋か。
99人間七七四年:2010/01/17(日) 20:35:15 ID:infsKnzn
>>95
秀家「うえ〜ん広島の酒が呑みたいよう」
100人間七七四年:2010/01/17(日) 20:50:42 ID:TjfmWbEy
周泰じゃねーかw
101人間七七四年:2010/01/17(日) 20:56:25 ID:8jTvGoyI
菅沼定政って誰だっけ?
って思ったら、明智家出身で田峯菅沼家の人なのか
102人間七七四年:2010/01/17(日) 21:37:29 ID:PQnFZS7k
まとめブログに木村重成と食事の話があったが、最後が書かれていなかったのでカキコ

大阪夏の陣にて、重成は出陣の前夜湯を浴び、髪を洗い、香をたきこめ、西行ものの謡曲であるひとふしを静かに謡い、小鼓を打って心を澄ました
翌日六日、一軍を率いて河内の岩江方面へ討ってでた。藤堂高虎の軍勢は破ったが、井伊直孝の軍勢には敗れ、ここで重成も戦死
首実検の場で家康は
「不憫な事よ、討ち死にを覚悟して出たものと見える」
と言った、本多正純は叔父の三弥に「それは」と聞くと三弥は
「長門守は兜との結び緒を解けないようにして端を切っておる、再びこの兜を脱ぐまいと言う覚悟がこれで知られる」
江戸時代、庶民は重成の墓を無念塚といい、無念詣りという行事さえやったと言う。齢二一か四である

103人間七七四年:2010/01/17(日) 22:26:03 ID:OM+XQli3
木村重成の親父さんもあんな死に方してるし
思うところがあったんだろうな。
104人間七七四年:2010/01/17(日) 22:48:25 ID:n+YlODGb
>>103
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D%E8%8C%B2
一族皆殺しにされているのに、良く豊臣のために戦死したよね
105人間七七四年:2010/01/17(日) 23:16:45 ID:infsKnzn
豊臣のためというより秀頼のためになんだろね
106人間七七四年:2010/01/18(月) 09:32:03 ID:jtCdaLiw
石田三成でひとつ。


大阪城に在城中のある年、豪雨のため淀川の堤防が切れ京橋口が危機にさらされた
このままでは、大阪全体が水没するため、秀吉自ら陣頭指揮に立とうとしたとき、決壊箇所に三成が駆けつけた。
水の勢いが強いため土嚢の製造が間に合わないのを見ると、三成は京橋口の米倉にかけつけた。
米倉の番人に米倉をすべて開放しろと命じる。
担当の役人が飛んできていかなることですかとたずねる。
担当にとっては1表でも不当に処分したら切腹ものなので顔色を変えるのも当然である。
米俵を土嚢代わりに堤の切れた箇所を補修するという。
しぶる担当に対し、太閤殿下のご命令だと強引に蔵を開かせ、
市民や足軽を指揮し米俵を決壊箇所に積み上げさせた。

この処置により市内の浸水を防ぐことが出来たという
107人間七七四年:2010/01/18(月) 10:42:22 ID:byRqt9JS
いいか悪いか微妙ですが、性懲りも無く宗茂祭りに便乗して一つ。

豊臣家も滅んだ後、秀忠・家光の相伴衆となった頃のお話。
徳川家中にはそれをよく思わない者達も少なからずいた。
徳川御三家の諸大名達もその中に居り、ある時義直、頼宣、頼房らは
申し合わせて宗茂に使いを出した。

「この度は関ヶ原合戦の際、貴殿の行動について詰問に参った。」
「詰問とは穏やかならぬお言葉。伺いましょう。」
「その方、関ヶ原合戦の際は大津攻めに参戦しておったとのこと。
 これは徳川家に対する謀反ではないのか?」
しばし押し黙っていた宗茂。ゆっくりと口を開いた。
「それがしが大津を攻めた事を謀反と取られるのは心外。
 謀反とは主君を裏切る事である。
 大津の一戦は、大友家の窮地を救って下さった太閤殿下への忠義の為、
 三成殿らとその恩を返さんと起った戦でござる。」
「なんと…それでは徳川家が主君ではなかったと申されるか!?」
「それがしは義父・道雪、父・紹運と共に戦って参った頃より
 年老いた今日まで、道義に背く行いはした事はございませぬ。」
使者もこの正直過ぎる物言いに唖然としてしまったが、その後特に処罰はなかった。

また、将軍となった家光の御前での事
関ヶ原の戦いについて尋ねられた家光にこういったと言う。
「その方、関ヶ原合戦では徳川の敵方であったというがまことか?」
「まことでございます。あの時は徳川方の大名首を一つ一つ討つ存念ござりました。」
「…」

後日「心底を正直に語るとは、宗茂は尋常な者でない。」と家光を感心させたという。
108人間七七四年:2010/01/18(月) 10:54:52 ID:bhcu5P7G
正直も行き過ぎるとDQNに見えてくるな。

それにしてもこの宗茂世代(政宗、幸村)は
優秀だけどDQNが多いなw
109人間七七四年:2010/01/18(月) 11:33:35 ID:dXoNzrcW
>>108
あまりDQNDQN言うのもなんなんだが。
DQNだからこそという側面もあるのではないかと。
110人間七七四年:2010/01/18(月) 11:40:38 ID:ixkpti+e
謀反には間違いないので、
無理やり謀反では無いと言い切るのはDQN
111人間七七四年:2010/01/18(月) 11:48:23 ID:ud5K8EBm
この時代の武将をDQNの一言で片付けるにはあまりに一面しか見てない奴だから、
「DQN」は余り使わないほうがいいと思われ

・・・まあ失敗の多い奴はそう呼ばれてもしょうがないだろうけど
112人間七七四年:2010/01/18(月) 12:15:12 ID:kFacBJH+
名将と言われた戦国武将のDQNをまとめた本もあるよ。
当時は「だから何なの?」って感じなんだろ。
113人間七七四年:2010/01/18(月) 12:47:20 ID:igwVBaK0
宗茂の場合吐いた言葉に責任を持って生きてきたんだから許されるんだよ。
今の政治家どもに爪の垢を煎じてやりたい武将No1
114人間七七四年:2010/01/18(月) 12:54:23 ID:NeWABIrl
>>110
裏切ったのではない。表返ったのだ!
115人間七七四年:2010/01/18(月) 13:13:51 ID:Oc9sZeq2
関が原の時点じゃ徳川は主君でもなんでもないんだから謀反じゃねーよなあ

単にいちゃもんつけているだけに見える
116人間七七四年:2010/01/18(月) 13:24:59 ID:NFoLX3kz
既出のような、そうでもないような…

三成もこういうときは正直に言いそうだけど
「関が原の折は豊家政権下で豊家のご恩に報いるために家康公に弓を引きました。
 そのため、その後に執政された家康公に豊家政権での罰として改易とされるも
 徳川家より仕官を求められ徳川家の下で天下泰平のために力を揮うことを許されたのが
家光義直頼宣頼房
「黙って首を差し出せ」
ってなるんだろうな
117人間七七四年:2010/01/18(月) 13:47:33 ID:igwVBaK0
118人間七七四年:2010/01/18(月) 13:53:59 ID:LAJtX6f0
>>116
家康は三成を呼び出して声をかけた。
「戦は時の運という。昔からどんな名将もこのようになることはあることじゃ。恥にはあたらぬぞ。」
三成はこれを聞いて少しも卑屈になることなく、いかにもうちとけた様子で
「ただ天運が味方しなかっただけのこと。疾く疾く首を刎ねられよ。」
とおだやかに言った。家康はこの様子を見て
「三成はさすがに大将の器量がある。平宗盛とは大いに異なることよ。」
と語った。
119人間七七四年:2010/01/18(月) 14:08:20 ID:q576OTkr
三成と言うと、兎角あの逸話の印象からか
茶坊主、文官、官僚、悪くすると三国志の十常侍みたいな佞奸ってなイメージだけど
何かここの所の逸話見ると武人(或いは統率者)としても結構な器量を持ってたのかな
120人間七七四年:2010/01/18(月) 14:31:48 ID:nq8/L5ro
文句だけ垂れて成すことなしの常識人<<<一事を成したり、貫いたりするDQN
121人間七七四年:2010/01/18(月) 15:00:21 ID:KOGP5qps
>>119
家臣統率は出来てたと思うよ
本人が采配苦手でも島左近を呼ぶことでそれを補ったり
ただ自分が組織の一員になったときにダメな人
会社の仲間とプライベートな飲み会にいった先で仕事の話に終始しちゃうような人
122人間七七四年:2010/01/18(月) 15:16:35 ID:Kz5RExKQ
三成の逸話で印象的なのは、大阪だか伏見だかで普請が行われている最中、夜に台風が来て、
その早朝、担当者でも何でも無いのに普請奉行よりも早く普請場の被害状況を確認して、
しかも秀吉に直接報告したって奴だな。

そりゃ嫌われるだろうと思った。
123人間七七四年:2010/01/18(月) 15:59:15 ID:WCWzMOoR
今の会社にも時々いる
仕事はできるけどプライベートなつきあいは絶対したくない同僚みたいなもんだな
124人間七七四年:2010/01/18(月) 16:12:29 ID:mYUUi8sV
つうか単純に
この頃の大大名は面子が大事なんだし
ぶっちゃけ石高でも官位でも小身の身の上である三成には従えないでしょ
よく、黒田官兵衛なら天下が云々って言う人が居るけど、同じ理由で黒官とかでも従えられない

当時大将張れるだけの家格と国力もってたのは、徳川、前田、毛利、上杉くらいのモンだと思うよ
125人間七七四年:2010/01/18(月) 16:27:47 ID:+O/d3/51
>>124
だから総大将を輝元にしたんでしょ?
126人間七七四年:2010/01/18(月) 17:35:20 ID:mYUUi8sV
>>125
だからその毛利が先頭となって動いてないから皆イマイチ従わなかったんだと思うが
結局三成が出しゃばったからとも言えるかも知れんけど、毛利も吉川とか抱えてたからなぁ
127人間七七四年:2010/01/18(月) 18:06:46 ID:3a87dwk3
みっちゃんは癖のある部下(新之丞さんとか)使いこなしているから
虎っちとか市まっちゃんとも折り合いつけるスキル持ってるはずなんだけどなあ

まぁ徳川家でも長安とか正純とか嫌われものだけど
128人間七七四年:2010/01/18(月) 18:18:22 ID:rBTpYQeD
癖のある部下使えるからって癖のある同僚と上手くやれるってもんでもないしね

三成は上下関係はよく見えるけど横は見えてない印象
129人間七七四年:2010/01/18(月) 18:20:18 ID:mYUUi8sV
まぁ、明らかに清正とか正則とか中枢から遠ざけられてるからなぁ
逆恨みしても仕方ないというか、三成が政権を壟断してるという意見も正しいと言えば正しい
130人間七七四年:2010/01/18(月) 19:30:48 ID:lWnu/bTV
軍が動かす人間の評判を見て動くとしたら
若い頃から戦上手で、四国攻めや九州攻めで軍監務めても敵を増やすどころか
人望が集まる黒田如水さん(55歳)と、出たら負けの三成(あくまで結果から見た
世間の評判であって無能って言ってんじゃないからね)を比べるのは三成が気の毒
131人間七七四年:2010/01/18(月) 19:36:43 ID:CC6/F3xT
信長の野望では、小西行長と三成は武将としては三流だけど、
小西は強力な水軍持ってたし、三成は軍事組織としては平均以上の攻撃力があった。
でもゲームでは反映されてない。
132人間七七四年:2010/01/18(月) 20:01:42 ID:QFj58J9k
>>110
大津攻めの時は徳川の家臣じゃねえのに何言ってんだろう?
133人間七七四年:2010/01/18(月) 20:04:34 ID:mYUUi8sV
出ると負けなんてのは後世の後付じゃない?
後、単純に比べたんじゃなく、格の問題だって解って欲しいんだが
ぶっちゃけていうと、黒田も石田も豊臣政権の家格としちゃ変わりないよ
黒官が従三位中納言とかだったら話は別だけど
豊臣政権は明確に位階を地位を計る物差しとして使ってる訳だし
朝鮮出兵のグダグダっぷりからも解る通り、なんで同輩とか格下に指図されなきゃなんねーのよ、ってなる訳で
もちろん格において同じでも、暗黙の了解などに依る序列は有るだろうけど

そもそも秀吉が中央集権指向を目指すなら、秀次を処断したり、秀秋を遠ざけたりしなきゃ良かったつう事で
まぁ、秀吉が悪いとなっちゃうけどね
134人間七七四年:2010/01/18(月) 20:14:01 ID:bMwXAebB
>>132
今の理屈を持って過去を断罪する奴は昔から居るってことじゃね

その時代の背景とか常識考えれんのだね
135人間七七四年:2010/01/18(月) 20:18:57 ID:Kz5RExKQ
まあ武将としての三成はどうにも運が無いよね。
三傑は勿論そうだけど、一流の武将には、世界中の幸運を全部集めたんじゃないかって
思うような瞬間が何度かあるものでして。

能力があっても運が良くなければ、この時代武将としては不十分だった、とは思う。
136人間七七四年:2010/01/18(月) 20:19:25 ID:hJ4Pu8Hk
金吾と隆景の親子仲ってどうだったんだろうね・・・
137人間七七四年:2010/01/18(月) 20:24:02 ID:ud5K8EBm
秀吉のろくでもない始末が三成のせいにされてるあたりには同情を禁じ得ない
138人間七七四年:2010/01/18(月) 20:25:54 ID:ZoogJMkv
一緒に過ごした時期なんて殆ど無いんじゃない?
丁度やる夫関ヶ原でその辺やってるけど
139人間七七四年:2010/01/18(月) 20:51:56 ID:pz9cQFju
宇喜多秀家「中納言の俺の名が上がらんとかマジ不可解」

まあ、家中ズタボロだったからか。
140人間七七四年:2010/01/18(月) 20:54:22 ID:ZoogJMkv
まぁ、そういうのもあるし
猶子つうことで意図的に除外されてたのかもね
金吾は結局養子のまま又養子に出されたけど、やっぱり猶子扱いだったのかな
141人間七七四年:2010/01/18(月) 20:55:59 ID:ZoogJMkv
つうか朝鮮出兵のときは、猶子である秀家を仮の大将として誓詞交わすことで、やっと指揮系統が統一されたんだっけ?
142人間七七四年:2010/01/18(月) 21:21:11 ID:CC6/F3xT
>>133
源頼朝も、息子に相続させる為に、弟を殺しまくって簡単に家が滅んだ。
秀吉は、成り上がりで学問がないから、歴史を知らないし、先が読めない。
143人間七七四年:2010/01/18(月) 21:30:22 ID:RmYbBnhZ
「ダイダイ武者」
大阪冬の陣でのこと、博労ヶ淵の砦を守っていた薄田兼相隊は十一月二十九日の夜蜂須賀至鎮の奇襲を受け、砦を奪取された。
このとき守将の兼相は遊女屋に泊り込んでいた。
このていたらくに対し、大阪城内の味方から図体は大きいが役に立たない、柑橘類のダイダイとのあだ名がついた。
これを恥じた兼相、大阪夏の陣では汚名をすすぐため道明寺の戦いで水野勝成軍と壮烈に戦い、討ち死にしている。
どうでもいいが大野治長の弟、治胤も「ダイダイ武者」と呼ばれている

汚名をそそげた良い話…?
144人間七七四年:2010/01/18(月) 21:32:39 ID:RmYbBnhZ
島津家の史書に 「古今東西において、類稀なる働きをした勇士」
と真田信繁や木村重成らと共に評価される働きをして討死した逆襲のオレンジファイターでもある
145人間七七四年:2010/01/18(月) 21:50:35 ID:+pWEYxsn
>>142
秀吉は頼朝の名前も業績も知っとるよ。その辺は逸話もあるし。
その上で同じ失敗歩んでまうんだよな。
146人間七七四年:2010/01/18(月) 21:57:41 ID:hiDLsFAG
大阪方諸将の多くに死に花を咲かせたことで歴史に埋もれることを免れた
という面はあるかも知れない。

御宿政友(勘兵衛)とかもそう。
俺は故郷の近所に地名が残っている(東名裾野IC付近)から知っているけど、
夏の陣が無ければ埋もれてしまったかも。
147人間七七四年:2010/01/18(月) 22:08:29 ID:yOiTxWZl
長篠の戦いの時。

「ややっ、あの男…」
山県昌景は敵軍の中に一人の男を認めた。男は柵の取り付けかたを
教えていた。
「あの侍はただ者ではないぞ…。討ち取れ!殺すのだ!」

昌景がそう指示した直後、彼は徳川の銃弾に倒れてしまった。
昌景は馬に乗って采配を口に加えたまま往生した。その姿を見て
誰もが偉大な勇者だと昌景を讃えた。

さて昌景が最後に殺そうとした男。彼こそのちの太閤秀吉であった
という。
148人間七七四年:2010/01/18(月) 22:24:50 ID:GIUOYASu
米沢市上杉博物館の所蔵品の中に"姫鶴一文字"という太刀がある。
この重要文化財にも指定されている太刀にまつわる逸話。

刀剣マニアでもあった謙信公、あるとき一振りの太刀を手に入れた。
無銘ではあったが見目美しく良い太刀であった。が、長さがちと中途半端。
謙信公、これを馬上で使い易いように摩り上げようと御腰物係を通じて研ぎ師に預けた。
研ぎ師は預かった大切な刀に何かあっては大変と、刀を抱いて寝た。
すると夢の中に長い黒髪も麗しい姫君が現れ「どうか私を切らないで下さい」と
涙ながらに訴えてくる。翌日、面妖な事もある物だとその日の摺り上げを中止して、
またも抱いて寝る事とした。するとまたも昨夜の姫君が夢の中で訴えてくる。
「そなた、名は?」研ぎ師の問いに姫は「鶴と申します」と答えて消えうせた。
これはいよいよ面妖なりと、研ぎ師は御腰物係のところに赴き仔細を説明した。
御腰物係は半信半疑であったが、物は試しと刀を抱いて寝る事とした。
と、やはり夢の中に(以下同文)
かくして謙信公、御腰物係、研ぎ師との鳩首会談となり、その結果刀は摺り上げを免れた。
そして姫君の名を受けて"姫鶴一文字"の銘を授かったのであった。
さしもの"越後の虎"も女の涙には敵わなかった"いい話"

…では終わらない。

"姫鶴一文字"は後に"景勝公御手選び"にも選ばれ、時を越えて明治14年には明治帝の
米沢巡幸の際に御照覧あられた数々の名刀の中から特に押形を所望されるという名誉も
授かった。しかし、この時に謙譲された押形と1588年(謙信公没後十年)採られた押形を
比べると前者の方が2センチ程短く目釘孔も増えている事が分かる。
江戸期の上杉家当主の誰かが摩り上げてしまったらしい。
というわけで、女の涙すら振り切れる御名前不明上杉家当主の"度胸のいい"話。

ところで、今"姫鶴一文字"を抱いて寝るとショートヘアーのおねーちゃんが
現れるのだろうか?
149人間七七四年:2010/01/18(月) 22:59:28 ID:lWnu/bTV
>>148
ロマンだなーいいなー美人だったんだろうなー
150人間七七四年:2010/01/18(月) 23:17:53 ID:hiDLsFAG
「いや待てよ、鞘を抜いて抜き身のまま抱いて寝れば裸で現れるんじゃね?
うはwwww夢がひろがりんぐwwwwww」

なんて危険なことを歴代藩主たちが繰り返していくうち2センチ減ってしまった
のでは無いだろうか。
151人間七七四年:2010/01/19(火) 00:21:54 ID:ZyKzcHW+
>>147
出典は?
152人間七七四年:2010/01/19(火) 00:41:02 ID:o/jVjrMK
抜き身の刀を抱いたまま寝るとは、天晴れな心意気
とは思うが、流石に危なくないか?w
153人間七七四年:2010/01/19(火) 01:06:57 ID:V36qghNa
寝像の悪さを直すために(ry
154人間七七四年:2010/01/19(火) 01:17:07 ID:un1BsL3u
それなんて鍋島(ry
155人間七七四年:2010/01/19(火) 01:19:01 ID:VQ3evuS7
"姫鶴一文字"の逸話補足。
(ある刀剣の本に載っていた、書名失念)

なぜか『鶴姫』ではなくて『姫鶴』という不思議な名前であるこの刀には
「名のある武将を斬った」「その切れ味は〜」といった武功を誇るような
逸話は一切残されていない。それは謙信公が"姫鶴一文字"を佩いている間は、
太刀を使わねばならない状況に一切晒されなかったからだ。
心優しき姫は、訴えを聞き入れて初身のまま使ってくれる謙信公に対して、
"使われない事"で恩返しをしたのかもしれない。
生涯身辺に女生を近づけなかった謙信、その身を守った美しき姫の物語。

いや実戦に使われていない太刀なんて幾らでもあるので眉唾べとべとなんですが、
上の話と併せると趣があるなぁ、と。

まあ今頃はセミロング(?)な鶴ちゃんは上杉博物館で「なんで切っちゃうんだよー」と
泪目でぶんむくれているでしょうがw

>150
御当主の"愛刀"が短くなって上杉家断絶の危機だぞw
156人間七七四年:2010/01/19(火) 01:33:27 ID:o/jVjrMK
戦国板に萌え要素なぞ不要!と弾劾しようと思ったが
最後の一行で吹いたw
157人間七七四年:2010/01/19(火) 02:17:50 ID:JqlFoqax
>>155
妻帯しなかったのは実は姫と恋仲になったからじゃね?とか
短くなったのは、謙信が鬼籍に入ったので、
髪を落として尼になったから短くなったんじゃね?とか
158人間七七四年:2010/01/19(火) 06:04:05 ID:K2X3M93Q
森忠政と清巌宗渭

書画、茶道の達人として知られる清巌宗渭(せいがんそうい)は
幼い頃に預けられ、養雲院という女性が養母となって育てた。
清巌宗渭が五歳の頃になると、兄の宗園(名古屋山三郎)が
母の元に顔を出したが、暫くの時が経つと還俗してしまい
姉達も森家家臣のもとに嫁ぐ事が決まった。

森忠政も義母養雲院に、何度か森家へ住居を移すよう誘い
清巌宗渭も幼いながらに実子が4人もいる森家に母は行き
自分は小坊主となり、一人で生活していかなければならないのだと思っていた。
清巌宗渭は母に捨てられるものだと思っていたが母養雲院は
女手一人で京に残って育ててくれた。

いつか立派になって恩返しがしたいと9歳で兄宗園と同じ
玉甫紹j(細川忠興の伯父)に参禅し、苦しい修行を乗り越え
15歳の立派な少年に育ったが、兄が森家でとんでもない死に方をし
当主である我が子を失った母は病で伏せ気味になってしまった。

森家中では親類だけで小規模の葬儀が行われたが、せめて母に
実子であり嫡男の遺骨や遺品を渡したかった清巌宗渭は山三郎が
師である玉甫和尚と生前に墓所を決めていたのを知っていた上で、
思いきって全く面識のない忠政室の姉を通して森忠政に
「同じ師に参じ、同じ母に育てられた兄をこちらで預からせ頂きたい」と
書状を送ると「この度の御不幸は云々...こちらから使者を使って送らせる」
とえらく丁寧な文が帰って来た。

義母への義理立てもあっただろうが、山三郎の嫡男が森家に居るにも関わらず
配慮してくれた事に感謝した清巌宗渭はのちに大徳寺の住職となると
高桐院に山三郎の墓を移し、忠政が亡くなり大徳寺三玄院で忠政が眠りにつくと、
二人の命日には欠かさず訪れ、墓を綺麗に磨き供養をしたようだ。

伝承のようなものなので本当に忠政なのか疑問だがこれくらいは優しかったんだろうか
159人間七七四年:2010/01/19(火) 08:54:13 ID:tepgfi3C
>>151
そもそも長篠での羽柴隊って後方だよな
160人間七七四年:2010/01/19(火) 10:55:27 ID:wvaw3V5v
鬼武蔵の目にも涙ってところか
161人間七七四年:2010/01/19(火) 11:06:41 ID:/1TXUUTG
>>57
小沢みたいな奴が出てくる土地だぜ
162人間七七四年:2010/01/19(火) 11:09:22 ID:dE6UQSik
>>134
徳川厨だから仕方がない
163人間七七四年:2010/01/19(火) 11:09:52 ID:mfrdRwr5
>>147 >>159
武田から見て秀吉隊は右から2番目、
山県隊は最左翼、お互いの距離は900m。

ありえない、けどいいよ。
俺その話、なんかの漫画(劇画)で見たような気がする。
164人間七七四年:2010/01/19(火) 12:46:15 ID:uG5r2Es7
話の真偽がどうこうってな話をするよりは
なんでそんな話になったんだみたいなのを語る方がこのスレっぽいしなあ。

とりあえず有名人だしとけみたいなオハナシも少なからずあるんだろうけどさ。
165人間七七四年:2010/01/19(火) 12:56:18 ID:zgmwIXkH
>>163
川中島の一騎討ちは
謙信が単騎で突進した事と武田本陣に突っ込んできた騎馬武者いた事の融合という話があったけれど
同じように長篠で山県隊の正面にいた徳川軍の内の誰かを見て本当に>>147と言ったのが
時とともに秀吉の話になっていったのかも、なんて。
166人間七七四年:2010/01/19(火) 15:10:40 ID:zLL1cSs0
逸話が主なスレなんだから夢があったほうがいいじゃないか
167人間七七四年:2010/01/19(火) 15:37:41 ID:KUXvBX/q
桶狭間の戦いの時。

「ややっ、あの男…」
今川義元は敵軍の中に一人の男を認めた。
「あの侍はただ者ではないぞ…。討ち取れ!殺すのだ!」

義元がそう指示した直後、信長の馬廻の一人の服部一忠に斬りかかられるものの、逆に服部の右ひざを斬って負傷させた。
しかし服部との格闘の間に迫ってきた新手の毛利新助と乱戦になり、組み伏せられた義元は毛利によって討ち取られた。

その奮戦振りに、誰もが偉大な勇者だと義元を讃えた。

さて義元が最後に殺そうとした男。彼こそのちの太閤秀吉であったという。
168人間七七四年:2010/01/19(火) 15:49:15 ID:sD+MBCOb
「ややっ、あの男…」
小林吉隆は味方の中に一人の男を認めた。
「あの侍はただ者ではないぞ…。撃て!殺すのだ!」

吉隆がそう指示した直後、背後からある男を撃ち殺した。
彼の奮戦振りに、誰もが偉大な池沼と彼を評した

殺された男。彼こそのちにヒャッハー富田と呼ばれる富田長繁であったという。
169人間七七四年:2010/01/19(火) 18:56:22 ID:hOGURVAW
改変すんなw
170人間七七四年:2010/01/19(火) 20:04:37 ID:ZyKzcHW+
>>147の返答待ちなんだけども
あくまでいい話の逸話を紹介するスレであってここで新たに作るスレでは無いと思うのよ
そういう意味で出典を聞いてみたの
あるのならごめんなさい
171人間七七四年:2010/01/19(火) 20:30:09 ID:sD+MBCOb
「松田左京亮康吉」
さる戦いで里見越前の嫡子長九朗十五歳、初陣での敗戦でただ一騎、味方にはぐれて落ち延びた
その姿を遠く目にしていた松田左京亮康吉、これを追撃し馬上に組打って馬の間に落下した
豪のもの松田は難なく長九朗を膝の下にとりおさえ、首を取ろうとして見れば、まだ幼さをとどめた少年ではないか、一瞬松田は若武者を逃がそうと思った。
しかし味方の雑兵が馳せ寄ってきたので、やむなく長九朗の首を掻き取ったものの、松田の胸を掠めたのが武士の世界の無常観であった

松田は小田原に凱旋しなかった、ただちに山寺に入って頭を丸め、黒染めの衣を身にまとい、ただひたすらに長九朗の後生を祈り暮らしたのである
これを聞いた人々は、源平の熊谷次郎直実の故事と思い合わせ、戦国乱世の厳しさを胸に刻んだのであった

良い話よりか残念な話かな?
172147:2010/01/19(火) 20:41:13 ID:DEFxf9HR
>>170
続武将感状記だよ。

1551年に武田晴信は法体になって信玄を名乗った。自分の代で武田家が
滅んでは26代の先祖に申し訳ない。古い家はみな滅びているから次は武田家
ではないか、と信玄は思っていた。

出家について信玄は
「一つはかつて平清盛が仏門に入ったのは長生きするためだった。
しかし、わしの場合は当代で家が滅んでは先祖に申し訳ないからだ。

二つ目はわしの運勢が豊、つまり太陽が中天に達しているからである。
人生は60年、わしのあとの30年は昼以後だから思い通りにならない
こともあろう。

三つ目は甲斐は遠国だから宮中にご奉仕できず位がすすまないが、出家
すれば大僧正になることもできるからだ。」

と理由を語った。しかし、ある話によれば本心はかつて追放した父信虎
のことを心配して、父への義理から頭を剃ったのだという。
173人間七七四年:2010/01/19(火) 20:57:50 ID:DEFxf9HR
>>172
ごめん間違っちまった…。

×かつて追放した父信虎 のことを心配して
○かつて父信虎を追放したことを気にして
174人間七七四年:2010/01/19(火) 21:13:26 ID:yEuZnOWZ
追放したことを気にして というのは、

@外聞が悪いから
A父に恨まれるのが心苦しいから
B純粋に反省して

どれが信玄の本心に近いの?
175人間七七四年:2010/01/19(火) 21:18:19 ID:6ir1coL0
追放は国人衆や家臣団からの突き上げの要素が高いからなぁ
176人間七七四年:2010/01/19(火) 21:47:36 ID:DEFxf9HR
>>174
「父の罰が当たらないよう用心して」らしいからAが一番近いんじゃないかなあ
177人間七七四年:2010/01/19(火) 22:57:36 ID:al3b2xdh
>>97

>家康は諸将を集めて宴を開き、その席上でいきなり直政に服を脱がせ、

武将たち「え、真昼間からですか?」
家康「いや違うから!そう言うつもりで脱がしたんじゃないから!(汗」
178人間七七四年:2010/01/19(火) 23:19:27 ID:+aOUWyAt
>>171
つーか、どう見ても、平家物語の敦盛の下りの焼き直しだよな、それ。
179人間七七四年:2010/01/20(水) 00:46:12 ID:1v2PKVZN
「三方ヶ原で敗走中の家康にまつわる伝承地、地名」
佐鳴湖の北富塚には、逃亡途中に鎧兜を投げ捨て、百姓に成りすまして難を逃れた「よろい田」
追分の南には、逃げ帰る家康が腹を空かせて餅屋に飛び込み小豆を食べ、代金を支払わなかったため店の老婆に追いかけられて金を払ったと言う「小豆餅」や「銭取」
浜名湖東岸の村櫛には、腹を空かせて逃亡中の家康が素麺を食べて急場をしのいだ「そうめん谷」などという地名が残っている
180人間七七四年:2010/01/20(水) 00:53:26 ID:Al3S1n+g
>>179
弘法様ゆかりの地、みたいだなw
多分その辺の地域のいろんな時代の落ち武者の話が、家康って名前に集約されちゃったんだろうなあ。
181人間七七四年:2010/01/20(水) 08:30:16 ID:dNxDXqou
讃岐じゃよくわからないことは全て御大師さまのやったことにするという不文律があるんだが
同じ感じで三河〜駿府あたりは全部家康のやったことになっちゃったのかw
182人間七七四年:2010/01/20(水) 08:43:24 ID:M11Nel86
讃岐は更に狸までいるからややこしい
183人間七七四年:2010/01/20(水) 09:13:37 ID:QxLOfzjS
全部魔王上皇様の祟りじゃ
184人間七七四年:2010/01/20(水) 11:01:17 ID:HD1dHNsp
孔明の罠理論
185人間七七四年:2010/01/20(水) 13:41:50 ID:WDuT2KKU
>>179
味噌を漏r・・・落とした場所はないのですか?
186人間七七四年:2010/01/20(水) 14:55:03 ID:JegZKg1o
>>179
浜松にはこんな地名もあるよ
「布橋」
武田軍との戦いの時、、
犀ヶ崖の上に大きな道の橋があるように見せかけるために、
両端に布を掛け、その上に土をのせ、らんかんを紙で作る。
多くの兵士が落下して死んだ。布橋の地名は「布でつくった橋」
187人間七七四年:2010/01/20(水) 15:41:37 ID:P4so1OGI
188人間七七四年:2010/01/20(水) 19:17:11 ID:1v2PKVZN
「成瀬吉正と南蛮胴」
成瀬吉正は徳川家康の家臣、成瀬吉右衛門一斉のニ男である
家康の小姓となるが、十七歳との時、伏見において同僚を口論の末斬り果たし逐電した
そのご前田利光に仕え、根来40騎足軽40人を預けられる
慶長十九年、大阪冬の陣に従軍した吉正は前田利光の使者として家康の本陣に派遣された
再会に喜んだ家康は以後の作戦連絡には吉正を使者として派遣するようにと命じたという

同年一二月四日、前田勢は大阪城南側の出丸、真田丸を攻撃した
だが、真田丸からの反撃はすさまじく、前田勢はつぎつぎに打ち倒された
赤熊の采配で指揮していた吉正、堀の際で銃弾を腹に受け落馬、家人らに抱えられて退いた
結局成瀬隊は多数の死傷者をだすこととなったが、吉正は着用していた南蛮胴により九死に一生を得た

ttp://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/sitei/h19ken/bunkazai/nanban.html

この南蛮胴は和製のもので、老齢の父一斉が自分の愛用品を息子達の中で力量抜群の吉正に譲ったものであった
胴の正面左よりの弾痕が銃弾の痕である
城の狭間に据え付けて撃つ、大口径銃身の、いわゆる置き筒で撃たれたものらしく、弾痕は大きな窪みとなっている
吉正が衝撃で落馬したのは当然で、この南蛮胴を着ていなければ即死したであろう

尚、吉正は大阪夏の陣でもこの南蛮胴を着て出陣し、大野主馬の旗奉行、原田加左衛門を討ち取っている
189人間七七四年:2010/01/20(水) 19:37:23 ID:slbWdD1n
>>179

家康の焼き味噌は老婆製か。
190人間七七四年:2010/01/20(水) 20:10:57 ID:nweHyVLS
では、「萌え」の無い刀の逸話なんぞを…

刀剣マニアの上杉家から刀を送られた立花宗茂、その刀を佩いて戦に臨んだ。
宗茂の戦だから当然勝利である。追撃戦のさなか、宗茂は今しも川に飛び込もうとする
武者に追いつき背後から斬り付けた。しかし武者はそのまま川に飛び込み泳ぎ逃げる。
宗茂、仕損じたか? いやいやそうではない。
向こう岸にたどり着いた武者が水から上がった途端に、その体がズンバラリンと
二分された!
あまりの切れ味に斬られた事にも気が付かなかった武者がそのまま泳ぎ続け、水から
上がったら"水圧"という箍が外れてしまった体が…というわけだ。
武者の末期の台詞は「あべし!」か「たわば!」か「ひでぶ!」か?
その恐るべき切れ味から"波遊ぎ兼光"(なみおよぎかねみつ)と難読な号を付けられた
刀は立花家の重宝となり、未だに門外不出の秘宝とされている。
なお、宗茂が「お前はもう死んでいる」と言ったかどうかは伝えられていない。
そんな"戦国末九州(之)逸物伝説"とその佩刀の"切れ味のいい"話。

尚「竜の彫り物が刃紋の波間を泳いでいるように見える」事が名前の由来であるという
説もあるが、それじゃあつまらないので書かない。
191人間七七四年:2010/01/20(水) 20:16:52 ID:d78770MY
>>190
おなかすうすうするw
192人間七七四年:2010/01/20(水) 20:26:51 ID:0qI0nk+t
>>188
あの成瀬正成の弟か!

甲冑の凹みスゲー
こんなの食らったら気絶するわ。

でも、どんな強烈な銃撃を受けても、
映画と違って、衝撃で人間が吹き飛ぶことってありえないんだよね。
おそらく馬上で悶絶して落馬したんだと思われ。


※参考:
http://www.nicovideo.jp/watch/1229323032?index_top_osusume
【火曜夜10時/ディスカバリーチャンネル】
アクション映画では、銃弾に当たって派手にぶっ飛ぶのがお約束。
でも実際のところ、弾丸に人間を後ろに飛ばす威力がある?
193人間七七四年:2010/01/20(水) 21:32:32 ID:/4vPtW3+
ある時、城内で徳川家の新参神谷与七郎が酒井忠世とすれ違ったので
脇によけて頭を下げたことがあった。

神谷「これはこれは忠世様(ペコリ)」
忠世「……」
神谷「えっ?えっえっ?」

しかし忠世は返礼をしなかった。それを根にもった神谷は忠世に礼をしなく
なったどころか、非礼なことを言うようになってしまう。これを知った徳川家康は
大層腹を立てた。

家康「なんて非礼な奴だ!即刻クビに…いや、あいつはこの件以外は
   特に過失もないし人柄もいいから家臣たちがよく思わないだろう。
   しかしクビにしないと忠世の面子が立たない。どうしたものか…」

そこで家康は以前神谷と約束した千石の知行をわざと八百石にして神谷が
文句を言ってきたらクビにしようと思い立った。この案を忠世に相談したところ…

忠世「それでは千石で召すという約束と違います。むしろあれは優秀ですから
   約束より多めに与えてはいかがですか?」
家康「奴は振舞いが悪いと聞いたぞ」
忠世「まさか。あれはそう簡単には見つからない逸材ですよ」

家康「はあ?わしはお前が迷惑しているというからだな…」
忠世「はは、新参のくせに私にあんな態度がとれるなんて骨のある奴じゃない
   ですか。ちょっと調べたところ人柄も心がけも揃っているようです」
家康「ではいくら出すのが妥当だと思う?」
忠世「約束の倍で」
家康「…千でいいだろ」
忠世「ぜひとも二千!」
家康「よし!千五百だ!」

というわけで忠世の強い推薦で神谷は千五百石取りになった。家康から
「これは忠世の推薦である」と聞かされた神谷は忠世の公私に捉われない好意
に落涙し、以降忠実に勤めた。
194人間七七四年:2010/01/20(水) 22:20:29 ID:3wuX97nZ
弾丸の大きさと重さと命中時の運動エネルギーにもよるんじゃないの>吹き飛ぶってありえない
置き筒って『銃』っていうより小口径の『砲』だから、
結構な重さの弾丸がそんなに早くない速度で命中してるはず
どっちかっつーとハンマーでがつんとやられたのに近い
195人間七七四年:2010/01/20(水) 22:58:10 ID:0qI0nk+t
>>194
> 弾丸の大きさと重さと命中時の運動エネルギーにもよるんじゃないの

もちろん『運動エネルギーによる』のはその通りだが
火縄銃のエネルギーでは、人間を吹き飛ばすには全然足りないんだわ。
30匁玉でも弾頭重量は112グラムに過ぎず
これが時速500km/hで飛んできたって、人間を跳ね飛ばす威力は全くない。
人間を飛ばすには、自動車で撥ねるくらいしないとね。

人間が吹き飛ぶほどの銃弾を食らったら
人体は原型をとどめてないと思う。
196人間七七四年:2010/01/20(水) 23:04:33 ID:ecvzL7Ce
そもそも元の話衝撃で落馬ってだけで吹き飛んだとか何も書いてない気がするんだが…
197人間七七四年:2010/01/20(水) 23:12:32 ID:mkxJs0py
>>196
拡大解釈はお約束です。
198人間七七四年:2010/01/20(水) 23:15:05 ID:0qI0nk+t
>>196-197
スマソ。
自分の関心ごとでした
199人間七七四年:2010/01/21(木) 00:27:01 ID:numyPDPq
>>190
>宗茂の戦だから当然勝利である

勝って当然なんだww
すげえな
200人間七七四年:2010/01/21(木) 00:36:28 ID:H1IUK9/i
宗茂は記録上では負け戦ないんじゃなかった?
関が原みたいに主戦場で本軍は負けました、パターンは大友時代から何度かあるけど
201人間七七四年:2010/01/21(木) 01:07:47 ID:6M65VgDu
多少出遅れた感があるが、逃亡する家康由来の地名シリーズで。

1563年、家康は三河一向一揆と激しい戦いを繰り広げていた。
ある日、家康は一揆勢との戦闘に敗れ、逃走する。
そして山中八幡宮という神社の洞窟に身を隠した。

家康は息をひそめて追手の目を逃れようとするが、
門徒衆は家康のいる洞窟を見つけ、中を覗き込もうとした。

家康がもはやこれまでかと、覚悟を決めたそのとき!

ばさばさばさっと二羽の鳩が洞窟から飛び出した!

「うわ、な、何だ!」
「なんだ鳩じゃないか、びっくりさせやがって。」
「今まで鳩がいたんなら中に誰かいるわけないな、別の場所を探そうぜ。」

追手たちはこう言うと中を探さずに洞窟の前を立ち去り、家康は難を逃れた。

以後、この洞窟は”鳩ヶ窟”と呼ばれるようになったということである。
202人間七七四年:2010/01/21(木) 09:09:56 ID:eOzFP92T
さすが宗茂
リアル完璧超人
203人間七七四年:2010/01/21(木) 09:47:25 ID:nzFkGYMK
>>200 これか?レス324の
http://www.unkar.org/read/schiphol.2ch.net/gamehis/1143343083/

厳密に言うと戦場での負けは柳川城篭城戦だけか
あれは周り全て敵だから負けというのはかわいそうだが北条の例もあるしどうなんだろうね。
204人間七七四年:2010/01/21(木) 11:25:02 ID:g4we4JXZ
>>193
そこで倍にしないのが家康クォリティ
205人間七七四年:2010/01/21(木) 13:04:55 ID:IqscTHAV
>>193
忠世さんは家康の動かし方をよく分かっていらっしゃるw
206人間七七四年:2010/01/21(木) 13:39:35 ID:FFSAp0Lx
酒井忠世著めんどくさい主君の動かし方
土井利勝著めんどくさい同僚の動かし方
真田信幸、徳川秀忠共著めんどくさい父・弟との付き合い方 別冊付録怖い妻との付き合い方
宇喜多直家著目障りな主君・同輩の(あの世への)動かし方
207人間七七四年:2010/01/21(木) 14:03:50 ID:fx8g092c
直家こえええ
208人間七七四年:2010/01/21(木) 14:52:35 ID:JHiqZK3a
>>204
新規採用者に最初からドバッと知行与えたらダメだって三斎さんが言ってた
209人間七七四年:2010/01/21(木) 15:08:19 ID:2GBZUE2Z
家康はケチだからな。
でも忠世も多めと言っておいて倍を提示しているから、家康の性格を理解した上で多めにふっかけてるのだよ。きっと。
210人間七七四年:2010/01/21(木) 17:21:34 ID:gT8FFnaP
>>206
信幸と秀忠の共著って・・・
何か不安になるな
211人間七七四年:2010/01/21(木) 17:39:30 ID:X2cojBvP
直江兼続のイキイキ農業 充実した夫婦生活で楽しく農業
212人間七七四年:2010/01/21(木) 18:02:30 ID:oEFE44I1
「小幡景憲の暗躍」
大阪冬、夏の陣にて、甲州流軍楽の祖として名高い小幡景憲は大阪城でスパイ活動をしている。
真田幸村と後藤基次が積極的に先制攻撃を仕掛ける事を軍議で発言した時、反対したのがこの景憲と言われている
だが冬の時点で、前田利常の家臣富田越後守に仕え真田丸攻撃に参戦していた事から誤伝と伝えられている

景憲が大阪城内に現れるのは大阪城冬の陣の和議以降のこと
主家を退去した彼を大野治房が味方として招き入れ、夏の軍議に参加したとされている
彼の諜報活動と内部撹乱活動は幸村ら主要武将から疑いの目を向けられたが、巧みな話術で偽装し、思惑通りに事を運んだと伝えられている

大阪の陣後、その功を認められた景憲は幕府のお使番として1500石を与えられ「甲陽軍鑑」を編纂する事となる
213人間七七四年:2010/01/21(木) 18:09:39 ID:oEFE44I1
いい話の方だった、ごめんね。
214人間七七四年:2010/01/21(木) 21:58:32 ID:PNlxEd0L
阿菖蒲姫救出


大阪夏の陣が終わって十日ほど後の事。
世間は残党狩りが激しく行われており、
捕まった者は男女、年齢に関わらず首をはねられるなどの厳しい処遇が待っていた。
街道や国境には徳川の検問が設けられ、通行する者は厳しく検分された。

そんな中、馬に引かせた荷駄車が数台、検問に差し掛かった。
車の上には竹駕篭が設えられており、日よけの幌もかぶせてある。
中にはどうも人がいる様子だ。
あからさまに怪しすぎるが、この荷駄車には旗がつけられていた。
竹に雀。そう、所謂伊達家の家紋である。馬印も同じであった。

不審に思った役人たちは、この荷駄車を調べることにした。
「伊達家中とは重々承知であるが、役目であるゆえ吟味いたす。
この大籠は何か、してどちらへ参られるか」
この一隊を指揮していたのは、伊達家家臣・片倉小十郎の配下の野田伝八郎。
「この度の合戦で負傷した者達を仙台へ運び、療養させるのでござる」
彼は将軍直々のお墨付き手形と、政宗の花押の書付を所持していた。
しかし、こんなに荷駄車をいくつも連ねた仰々しい隊列は珍しい。
「それでは少し、中を拝見させていただきたい」
「ごもっともでござる、どうぞご覧くだされ」
野田は快諾すると、部下に命じて幌を上げさせた。
中には、身体をサラシで巻いた者、腕を縛った者。
あるいは腕を失った者、両足を失った者……身動きできない負傷者ばかりである。
「これは失礼した、結構でござる」
「いやいや。大阪方の残党狩りは厳正にやらねばならぬと、我君も仰せでござった。
どうぞどうぞ、さあ遠慮なく」
と。乗り気でない役人を小突くようにして、すべての荷駄車を開けさせた。
やはり中には、目を背けたくなる負傷者ばかり。
この話はすぐに評判となり、伊達の荷駄車一隊は関所につくたびに
「此度の合戦、ご苦労でござった、吟味は不要でござる」と、
フリーパス状態で通れるようになってしまった。

そうして辿り着いた伊達領、一山越えた頃。
急に乗っていた負傷兵たちが、次々荷駄車を降り出した。
目を負傷していたものは見えるようになり、
腕がなかったはずのものは腕が「生え」。
みなピンシャンとして動き出したのである。
そしてその中に、一際小柄な、そして一際重傷そうな者がいた。
顔がわからぬほどに布を巻かれ、腕をなくした大柄な武士が片時も離れずついていた。
その小さな負傷者もまた荷駄車を降りると、
やはり新しく腕が生えてきた付き添いの武士が、巻かれていた布を取り去った。
中からは緑の黒髪と、まだ幼い少女の顔が覗く。
「さぁ阿菖蒲さま、仙台に着きましたぞ、ここまでくれば安心でござる……」
そう、その小柄な武士は実は、真田信繁の娘の阿菖蒲だった。
年は当時、八〜十歳というところ。
伊達軍によってカムフラージュされ、密かに大阪から脱出したのである。
その場には護衛のついた女駕篭が用意されていて、すぐにそれに乗り込むと、
姉が先に保護ざれているはずの白石へと向かったのだった。
(片倉家に伝わる話だと、この時「おかね」という娘も一緒に保護されている)

その後、阿菖蒲は愛姫実家である田村家の嗣子で、
伊達家家臣の田村定広(後、喜多の名跡を継いで片倉金兵衛)に嫁ぎ、
その墓は今でも白石市にある。
215人間七七四年:2010/01/21(木) 22:29:08 ID:7jV7hz1v
>>214
姫一人のためにそこまでやったのか。
演出上手な伊達家らしいと言えばらしいな。

でも、数え年8歳の姫を、見知らぬ屈強な男たちと一緒に、荷馬車に放り込むなんて・・・
姫は不安にならなかったのかな?
216人間七七四年:2010/01/21(木) 22:36:56 ID:Tt4fCfz9
>>215
命あっての事だ
真田の娘なら覚悟は出来ていただろう
217人間七七四年:2010/01/21(木) 22:52:37 ID:Zk3xQXIe
>>214しっかり自分の子孫を残す方策を講じているあたり
真田らしいしたたかさを感じる
218人間七七四年:2010/01/22(金) 00:28:35 ID:HfWNZOkG
天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦いの緒戦で中川清秀を倒した柴田軍は、余勢を駆って
秀吉軍の出城に襲いかかった。最前線の砦を任されていた黒田官兵衛は、覚悟を決めた。
「どうやらオレも、ここまでか。」
官兵衛は重臣の栗山利安を呼び、15歳の自分の長男・長政を連れて逃げるよう命じた。

「お言葉ですが、私も殿と共に討ち死にしとうございます!」
利安は官兵衛の命を聞こうとしなかったが、
「今、長政を連れて逃げるのは、ここで死ぬより百倍も忠節になるのだ。頼む、逃げて
黒田の家名を保ってくれ!こうしている間にも時が過ぎる、早く!!」
やむを得ず官兵衛の願いに応じ、泣く泣く砦を脱出した。

抱えられるように連れ出された長政は、砦から一里ばかり離れたところで、必死の形相の
利安に聞いた。「なあ、わしらはこんなに急いでどこに向かうのだ?」
「・・・じ・・・実は・・・・・・」


「こうしてはおれん、砦に戻るぞ!」
「な、なりません!若殿が逃げ延び、黒田の家を残す事こそ、官兵衛様の願いですぞ!」
しかし、長政は言い返した。
「バカを言うな!子が父を見捨てて逃げ、どの面下げて生き延びるのだ?
それに、『武士は「逃げる」という事はない』と教えてくれたのは父上だ!それっ!!」
長政は乗馬を蹴立てて向きを変え、砦に駆け戻った。

「あぁ、あの方こそ間違いなく官兵衛様のご子息である。」
利安らは、感涙にむせびながら後に続いた。

黒田父子は秀吉の大返しまで必死に砦を守り抜き、大大名としての礎を築くことになる。
219人間七七四年:2010/01/22(金) 00:45:00 ID:m3yMr2Ab
>>218
いい話だけど
官兵衛の一人称が「オレ」ってのはちょっと違和感が・・・
220人間七七四年:2010/01/22(金) 00:56:34 ID:YdArtEIg
>>219
おまえさんの勝手なイメージでいわれても
221人間七七四年:2010/01/22(金) 01:05:12 ID:tUA/ZTDm
佐久間が攻めてくるのは想定してたのかと思ったけどそうでもなかったのね
後から見ればすべて計画どおりな勝利も現場では生きるか死ぬかの瀬戸際にいたんだね
222人間七七四年:2010/01/22(金) 01:54:50 ID:Dc8RWNa9
敵に突っ込んでこそ長政
223人間七七四年:2010/01/22(金) 03:53:29 ID:pAMnhFTc
>>220
オレってのも書いた人の勝手なイメージだよね
224人間七七四年:2010/01/22(金) 03:55:12 ID:SXgNEXyC
枝葉の議論は勘弁して
225人間七七四年:2010/01/22(金) 04:01:37 ID:pAMnhFTc
>>224
ID:YdArtEIgに言ってください
226人間七七四年:2010/01/22(金) 07:57:46 ID:yeVSWn95
>『武士は「逃げる」という事はない』
やっぱ2代目武将はそういう発想になりがちなのかね
織田信忠も父親の逃げ足ぶりをまるで受け継がずあっさり自刃しちゃったし
227人間七七四年:2010/01/22(金) 08:13:39 ID:Dm+WpYnF
>>226
親父が偉大であればあるほど、その名を汚しちゃいかんと思っちゃうんだろうなあ。
228人間七七四年:2010/01/22(金) 08:24:34 ID:32xgQdvm
秀忠がアップを始めたようです
229人間七七四年:2010/01/22(金) 08:30:30 ID:UH8fXYzu
家久(aku)「暗君なしの島津家には関係ない話だな」
230人間七七四年:2010/01/22(金) 09:32:04 ID:aHH4wuD3
>>227
隆元「さすが、よく分かってらっしゃる」
231人間七七四年:2010/01/22(金) 09:47:12 ID:5fUUapnH
>>227
信雄「御意。我が命より、父の遺した家名の方が
   大事でござる。」
232人間七七四年:2010/01/22(金) 09:55:17 ID:ENbQXb+k
>>221
計画通りでは無いだろう。
計画では柴田方が動かず、長期戦化する予定だった。
佐久間が動いて柴田の堅陣が崩れて、羽柴方は計画よりも楽に勝てた。
233人間七七四年:2010/01/22(金) 12:16:22 ID:YdArtEIg
>>223
そうだよ。だから>>219みたいにいちいち言う事じゃない。俺もだけど。
234(1/2):2010/01/22(金) 19:40:42 ID:aGGyzyi9
>>214の続きというか、もうひとつの脱出劇。
長いのでめんどい人はスルーでどうぞ。

大八丸救出


阿菖蒲姫の大阪からの救出でひと芝居うった伊達側であるが、
真田の息子である大八丸の救出はさらに困難を極めた。
何故なら、すでに徳川方の探索網に引っかかり、
母親の大谷氏共々捕縛されていたからである。

当然ながら、真田の血筋、特に男子は根絶やしにするべきだと、
すぐにも打ち首にしようとの話が持ち上がった。
だがここで、政宗が横槍を入れる。
「別に打ち首の決定には反対はしない。
だが4つの子供なんて、まだ乳飲み子じゃないか。
そんな子供の首が刀で切れるだろうか?
せめて乳離れして、首の骨が固まる5つになるまで、待ってやったらどうか」
これに秀忠が賛同したので、大八丸は一年だけ延命されることになる。

とはいえ、打ち首の決定は覆るわけではない。
母親の大谷氏は髪を落として尼になり、大八丸と共に
京都知恩院の尼寺に篭った。
この寺周辺には徳川の警戒網が敷かれ、
特に九度山にいる真田信繁を大阪城へ入れるなと厳命されていたにも拘らず、
まんまと警戒網をくぐられて大阪城へと入られてしまったという「前科」がある浅野長晟隊は、
面子にかけても失敗するわけには行かない。

そんな尼寺に、一人の尼僧が入っていた。
見目も麗しく、立ち居振る舞いも気品がある尼僧は、
夏の陣で死亡した夫の菩提を弔うと言って寺に入ったのであるが、
生来の子煩悩だったのか、大八丸とすっかり仲良くなり、
まるで母子同然のように、楽しげに遊ぶ姿が垣間見られたという。
流石の徳川方の警備の者も、その光景には涙を誘われた。

さて、そんな日々も足早に過ぎ、とうとう大八丸は5つになる年を迎える。
元和二年五月五日、この日京都の加茂河原で、子供達が印字打ちに興じていた。
この印字打ち、雪合戦の石バージョンとでも言おうか、
二手に分かれて集団で石をぶつけ合うという、実に危険この上ない遊びだった。
すっかり廃れてしまったが、戦国の子供らには人気があったらしい。
この子供達の印字打ちも、徳川方の監視がつけられていた。
何故なら、大八丸も参加していたからである。

異変は、石合戦が終わった後に起こった。突然、大八丸の母親の大谷氏の、
凄まじい号泣が河原に響いた。
「何事か!」
慌てた監視の者達が河原に下りてみると、
そこにはすでに冷たくなった子供の遺体をかき抱いて号泣する、
大谷氏の姿があった。
慌てた監視の者達は、将軍家や自分達の主君・浅野邸に知らせに走るなど、大騒ぎになる。
半狂乱になって泣き続ける大谷氏から子供の遺骸を取り上げてみれば、
顔は酷く腫れあがり、二目と見られぬ顔になっていた。
「印字打ちの石の総攻撃を受けたに違いない!」
大八丸、刑場の露と消える前に事故で死す……この知らせはすぐに幕府に届き、
正式に検死が行われ、大八丸の死は確定した。
高野山蓮華院の記帳に「大八丸五月五日、加茂河原の印字打ちにて御死去賜う」とある。

そんな大騒ぎの最中。
あの、大八丸と仲の良かった美しい尼僧が、
ひっそりと姿を消していたのを、気付いた者はいなかった。
235(2/2):2010/01/22(金) 19:43:34 ID:aGGyzyi9
それからしばらく後。
奥州刈田郡白石の小原温泉郷の河原で、川遊びに興じている母子の姿があった。
母親と見られる女は、まだ髪が伸びきっていない。
子供の顔は母親とあまり似ていない。
……そう、あの尼寺にいた美しい尼僧と、死んだはずの大八丸である。

この尼僧、正体は「お麻紀の方」と呼ばれる、政宗の側室だった女性である。
政宗の寵愛深かったが、残念ながら子供に恵まれなかった。
政宗はそんなお麻紀の方を哀れに想い、将来を案じていたのだという。
大八丸の処刑に横槍を入れて稼いだ、一年の猶予。
これを使い、政宗は子供を欲しがっていたお麻紀の方を、尼僧に仕立てて尼寺へ送り込み、
大八丸を手なずけ、まんまと仙台へと連れて帰ったのだ。

では、印字打ちで死んだ子供は一体誰か。
これは同じ頃に伊達家中で、はしかで亡くなった子供だと言う。
死んだ子供の顔は熱で膨らんで、一見石打で死んだのと判別がつかない。
しかも子供の顔は成長につれて変わるから、他人には更にわからなくなる。
そこで子供の遺体に大八丸の着物を着せて、
大谷氏にひと芝居うってもらったのであった。

こうして伊達家と片倉家に保護された、阿梅や阿菖蒲、大八丸ら真田信繁の子供達は、
片倉家の身内として遇されて養育され、
大八丸は元服すると片倉久米ノ助を名乗り、
食客扶持一千石の破格の待遇を与えられた。
大八丸もこれに応えて忠勤に励み、その血筋は仙台真田家となる。
(ただし真田姓に復するのは、約百年の時を待たねばならない)
大八丸救出に一役買ったお麻紀の方は、
終生大八丸の育ての親として、その傍らにあったという。
236人間七七四年:2010/01/22(金) 19:47:31 ID:32xgQdvm
>>234-235
芸が細かいなあ
237人間七七四年:2010/01/22(金) 20:29:42 ID:RouLmvBu
いかにも伝説じみているけど、こういう話好きよ〜
238人間七七四年:2010/01/22(金) 20:58:45 ID:JRHDzDbd
新人物往来社の『伊達政宗と片倉小十郎』内の文章と
激しく似てるんだが・・・・引用?
239人間七七四年:2010/01/22(金) 21:38:16 ID:XUcHJsy4
伊達家のすることはいちいち手が込んでるなwww
240人間七七四年:2010/01/22(金) 22:20:58 ID:yZRXBJgI
            伊達政宗┌伊達忠宗─田村宗良
              ├──┘
┌田村清顕─愛姫

└田村氏顕─田村宗顕─片倉定広
                        │
            真田信繁─阿菖蒲姫

こんな感じ。(関連:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2448.html
241人間七七四年:2010/01/22(金) 22:37:37 ID:fPeLY/OY
末裔が湾岸戦争時に在イラク大使だったんだよね
242人間七七四年:2010/01/22(金) 23:23:19 ID:ogY8sp1n
事の真偽はさておき、政宗が嬉々として計画立ててそうな話
243人間七七四年:2010/01/22(金) 23:25:36 ID:OV0SG0Bw
244人間七七四年:2010/01/23(土) 21:46:33 ID:/yXHvKEi
細川忠興といえば、甲冑作りの名人としても歴史に残る存在である。
将軍徳川秀忠も、忠興に兜を作るよう依頼した。

しばらくして忠興、完成した兜を持って参上する。土井利勝の手に渡され秀忠の前に置かれた
真新しい兜のデザインは、角頭巾の形状で、その角がキッと立った形。
その斬新かつ洗練された造形に秀忠も大いに満足し、忠興を傍に召して様々に褒めたたえた。

が、秀忠には一つ疑念があった。

「この兜の忍の緒であるが…、これは練絹を紐にしたものを使っているな?
しかし忍の緒には麻布を紐にしたものを使うのが良いと聞き及んでいる。
練絹の紐であっても良いものなのか?」

「フフフ…」

忠興、不敵に笑う

「さすが上様、そこに気がつかれましたか。しかし私がこの様なことを知らずにやっているとでも?」

と、懐から桐の箱を取り出しそれを開いた!その中には…!

土井利勝「ああーッ?上様あれはッ!」
秀忠「うむッ!麻布の紐ッ!」

「兜に練絹の紐を付けたのはあくまで兜進上のご祝儀としてのこと!
忍の緒は肌に直接着けるものであるゆえに、ここに別に用意しておいたのですッ!
只今より私の手で、この場で付け替えをいたしましょう!!」

「流石は忠興である!」

秀忠さらに喜び、大坂の陣にはこの兜をつけて出陣したと言う。
細川忠興、抜かりの無い男なのである。
245人間七七四年:2010/01/23(土) 21:53:46 ID:DDa4ghM1
忠興って太鼓持ちとしては優秀だったんだな。
武士にしておくのが勿体ない。
246人間七七四年:2010/01/23(土) 22:01:21 ID:q2Fm7etm
三斎様は気配りの人だからな
甲冑作りとかお茶とかでアーティスト的な側面が強いけど、
それでも死に際には戦場が恋しいとかいっちゃうあたりは生粋の戦国人
247人間七七四年:2010/01/23(土) 22:04:09 ID:zCNBlCE5
>>244
このエピ、現代社会でもゴマのすり方の参考になるなww
248人間七七四年:2010/01/23(土) 22:06:09 ID:GqbGsYuX
父親譲りの処世術で要は自分の行動をいかに相手に印象づけるかなんだろ

武辺者が派手な甲冑つけたりことさら自分の武功を喧伝するのと同じ理屈だが
「細川」のソレは文化面で特化しててしかもセンスの良さを感じる
249人間七七四年:2010/01/23(土) 22:11:05 ID:DDa4ghM1
三河武士相手に、こんなゴマすりしたら、
間違いなくへそ曲げられる。
250人間七七四年:2010/01/23(土) 22:28:34 ID:hE9k4Eqn
二代目は三河武士じゃないからな
251人間七七四年:2010/01/23(土) 22:34:30 ID:1KwdTBTp
>>245
そこは「としては」ではなく「としても」だろう。
252人間七七四年:2010/01/23(土) 23:02:06 ID:1F9lZO0d
息子の忠政・忠朝兄弟が槍稽古しているのを見た本多忠勝が一言

「わしが若い頃は小身だったから槍をとって遮二無二励んだものだった。
しかし、いまでは御恩により家来を多く使うまでになることができた。
故に大将として指揮・統率・部隊配置などを学ばねばならなくなったよ。

あ、いやなにも跡継ぎのお前たちに槍稽古などするなと申しておるのではない。
ただ、人には己の役目に相応しい度合いがあるということだ。」
253人間七七四年:2010/01/23(土) 23:10:26 ID:uAQgtozu
>>244
靴買ったときに箱から出してまず靴紐つけることを連想したw
254人間七七四年:2010/01/23(土) 23:18:03 ID:23EzLHuA
>>252
小十郎Jrが親父に怒られたのと似たようなエピがあったんだね
255人間七七四年:2010/01/23(土) 23:21:40 ID:FhkcJgLR
>>245
同僚、上司とはうまくやるけど、部下や家族には厳しい。
256人間七七四年:2010/01/23(土) 23:29:55 ID:q2Fm7etm
>>255
徳川四天王の赤い人もそうだよね
257人間七七四年:2010/01/23(土) 23:45:32 ID:OpGjXNiM
上杉謙信のお手紙

信玄がいよいよ西上作戦を開始しようというとき、
そのターゲットとされた家康は対応に苦慮していた。
国力は勝負にならないし、誰かと組もうにも、同盟国の織田家は、ろくに援軍もよこさないし、
武田家の背後の北条家は武田と同盟している。しかし・・・
「そうだ、上杉家と同盟しよう。」
思い立ったものの、当時の上杉家は徳川家と比べ物にならない大国。
相手してくれるかどうかも不安だったが、とりあえず使者を送る。

しばらくして戻ってきた使者が持ってきた手紙。
謙信「お付き合いするのは初めてだけど、手紙くれてとてもうれしい。今後一緒にやっていきましょう。」
家康(いいひとだー。)

その後、家康は信玄と三方が原で対決。奮闘したがさすがに倍以上の敵には勝てず惨敗。
落ち込んでる家康のもとに謙信から慰めの手紙が。
謙信「ナイスガッツ。ナイスファイト。さすが街道一の弓取り。」
家康。(なんていい人なんだー。)

こうして、家康は上杉家に好意を持ち、関が原の合戦後、
無礼な直江状送ったり、吉川広家のような協力者がいなかったりしたにもかかわらず、
上杉家を30万石の大名として残したのであった。
258人間七七四年:2010/01/23(土) 23:48:59 ID:ePs8T7i6
>>256
ひこにゃん
同僚とうまくやってたっけ?
259人間七七四年:2010/01/24(日) 00:04:23 ID:3Jvkz5Aq
>>258
ちょっと訂正しておくが、>>256は井伊直政だが、
>>258のひこにゃんは井伊直孝だ。

・・・わかってるよね?
260人間七七四年:2010/01/24(日) 00:15:44 ID:IGYCNWjq
井伊直孝ってひこにゃん居なかったら死んでた?
261人間七七四年:2010/01/24(日) 00:55:33 ID:eJGOkEHB
>>259
えーと・・・
訂正も何も・・・
262人間七七四年:2010/01/24(日) 01:21:09 ID:Lh1mcQWS
>家康(いいひとだー。)

不覚にも和んだww
263人間七七四年:2010/01/24(日) 01:46:03 ID:cEGeL4dT
謙信いい人だなー印象が変わるわ
264人間七七四年:2010/01/24(日) 01:58:25 ID:exajRfVt
>「お付き合いするのは初めてだけど、手紙くれてとてもうれしい。今後一緒にやっていきましょう。」
>「ナイスガッツ。ナイスファイト。さすが街道一の弓取り。」
打算なし、駆け引きの素直な気持が出てていいなww
265264:2010/01/24(日) 01:59:21 ID:exajRfVt
訂正

×:駆け引きの素直な気持
○:駆け引き無しの素直な気持ち

お恥かしい…orz
266人間七七四年:2010/01/24(日) 07:50:45 ID:JEoT6ia5
>>257
でも、武田オタクから上杉オタクに鞍替えとはならなかったんだな。
267人間七七四年:2010/01/24(日) 08:03:52 ID:qf7XkorL
筆まめな謙信はなごむわー
268人間七七四年:2010/01/24(日) 09:31:31 ID:rChLPyAo
>>257
相手してくれるか不安だっただけに、
手紙もらった時はさぞ嬉しかっただろうなw
269人間七七四年:2010/01/24(日) 10:45:39 ID:mbTLeJJ1
>>266
「自分は謙信にはなれない」と思い知ったんでしょう。
三河一向一揆の時に家出することで家中の結束を再確認する家康さんも見てみたいが
270人間七七四年:2010/01/24(日) 12:00:08 ID:j3fOIEbc
>>265
謙信「ドンマイ。気にするな。」
271人間七七四年:2010/01/24(日) 12:47:35 ID:Jr9Cgzdx
義景頓智話

アレな滅び方をしたためか、アレな見方しかされない朝倉義景。
その義景さんのアレじゃない意外なエピソードの一つ。

ある日、朝倉家の菩提寺である心月寺の和尚と歓談した時のお話。

【義景】(牛の絵が描かれている扇子を和尚に渡し)
「この扇子を進呈いたしましょう。でも牛は返してくださいよ(ニヤニヤ)」

【和尚】(扇子を受け取ると、「叱」と言って地を叩く)

【義景】「??・・・和尚、牛は??」

【和尚】「足の向くまま気の向くまま何処かに行ってしまいました。早く追いかけなさい。」

【義景】「(そう来たか)」

【和尚】(船の絵が描かれている扇子を取り出し)
「では御屋形様、この船は何処へまいるのでしょうなあ(ニヤニヤ)」

【義景】(扇子を受け取ると、くるりと裏返して)
「この浦(裏)に着く」

【和尚】「なるほどお見事、わはははは」

【義景】「わははははは」
272人間七七四年:2010/01/24(日) 14:06:13 ID:S/DQszRj
>>271
くそう・・・義景公を讃えたいのに、最後の2行のせいで
「こやつめ!ははは!」のAAに変換されてしまう・・・。
273人間七七四年:2010/01/24(日) 15:42:23 ID:7FM3h20Y
義景って六角からの養子説があるんだっけ
六角系家臣を重用してるうち、本来の朝倉一族と養子義景が対立するようになって
家中ゴタゴタを引き起こし、あの優柔不断とも取れる出陣と撤退っぷりの一因になったとか
274人間七七四年:2010/01/24(日) 15:59:48 ID:IGYCNWjq
それって秀吉が浅井一族で六角氏の元家臣とかいう話だろ。
あまり信憑性が無いな。
275人間七七四年:2010/01/24(日) 16:01:39 ID:7FM3h20Y

なんで秀吉の話が?
提唱者が同じとかなのか?
276264:2010/01/24(日) 16:59:07 ID:exajRfVt
謙信公が励ましてくれたので俺も頑張って逸話を投下してみる。

島津家家老、新納忠元の元に次男の忠増から手紙が届いた。
忠増は島津忠恒の供をして朝鮮から凱旋し、今は京都に滞在中の身である。

手紙には、家老の伊集院忠棟が忠恒の頭越しに他大名とお付き合いを始め、
不穏な気配を漂わせている事が書かれており、地元の都城にいる息子の忠真と示し合わせて
良からぬ事を企んでる可能性もあるので用心するように、と締めくくられていた。

有り得べからざる事と思った忠元だが、これは息子からの手紙という形で忠恒から出された命令でもある。
良からぬ事、即ち謀反が起こったときに主戦場となるであろう都城の地勢について忠元は考えをめぐらした。
「都城の反乱を鎮圧するのであれば、主戦場は平野ではなく山道や田畑の畦が多い地形となろう。
 そうなれば馬は適さぬ。だがワシは七十過ぎの老将。若者達と供に戦場を走り廻るなど思いもよらぬ。
 かといって一番乗りの役目はわしが果たさねば若い者に示しがつかん…どうしたものか」
忠元の頭の中には後方で督戦するつもりなど全くなく、最前線へ出る気満々だったのだ。

七十過ぎの自分がどうやって若者達と同じように戦場を走り回るか…
兵の訓練、物資の調達を進める傍らでそんなことを考えていると、忠元の目に止まったものがある。
炭を納めに来た樵…が背負っている大きな籠だった。「そうだ、これだ!」
忠元は樵に命じて、自分が中に入り尚且つ人が背負うことの出来る籠を作らせた。
外は竹、中は藁で編んだ二重構造の籠である。

「よし、あとは背負う人じゃな。」自分を担ぎ、尚且つ戦場で走り回る。力もあり肝の据わった男がいるだろうか。
家中のものを集めて相談したところ、牢番の和泉牛之介が口を開いた。
「牢屋に繋いでいる山賊の六太郎は頭目をしていただけに力も抜群、肝も据わっておりましょう。
 助命の許可さえいただければ私が使いこなして見せます」
忠元の許しを得た牛之介は六太郎を牢屋から引き出すと仔細を説明した。
「実は斯々然々の次第で、うちの大将はお前を必要としておる。危険な仕事ではあるが、
 前非を悔いて此度の使命を全うすれば命を助けると仰せだ。どうだ、やって見ぬか?」
またとない更正の機会である。
その日から牛之介と六太郎の猛特訓が始まった。

「お役人様〜、もう無理です。」
「なんだ、もう音を上げたのか」
「いくらなんでも無理ですよ。こんな大きな籠に石を一杯つめて城と山の間を往復するなんて」
「ほほう、まだ弱音を吐く余裕があるのか、それなら城から山頂までのダッシュもう1本追加!」
という会話があったかどうかはさておき。

…数ヵ月後の庄内の乱、そこには元気に走り回る牛之介と六太郎の姿が!
籠を担いだ六太郎、籠から上半身を乗り出して号令する新納忠元、
そして後ろから六太郎の籠を支え自身も予備の籠を担いだ牛之介。
猛特訓を乗り越え、文字通り三位一体となった彼らは縦横無尽に戦場を駆け、
忠元の目論見どおりに城への一番乗りを果たしたという。

血気盛んな老将とそれを支えた二人の男のお話。
277人間七七四年:2010/01/24(日) 18:19:45 ID:TnFt+IhL
>>276
>かといって一番乗りの役目はわしが果たさねば若い者に示しがつかん
さすが親指武蔵と言わざるを得ないw

にしても殺気立ったジジイが籠に背負われて顔出してる絵はなかなかシュールだなw
278人間七七四年:2010/01/24(日) 19:44:50 ID:z5Rbo0jz
難しいことをさらっと言ってしまうことに定評のある立花宗茂の人生訓
肥後一揆鎮圧の際、こんなことをいってます

「彼のなすところを以てこれ我になせば、すなわち克たざることなし」

相手がやろうとしてることをこっちが先にやっちまえば、勝てないことなどない
勝ちたいなら相手の立場に置き換えて考えてみろ

ってことらしい
至極シンプルでごもっともな言葉だがこなせる人はめったにいないよなぁ・・・

279人間七七四年:2010/01/24(日) 21:05:16 ID:VnfTvrBp
既出かもしれませんが、
投下いたします

慶長十九(1614)年のいわゆる冬の陣の事である。
12月13日のこと、
東軍が重成の持ち場に鬨(とき)の声を揚げて攻めかかってきた。
重成は櫓に登って一見した後、真田幸村に会ってこう言った。
「今、私の持ち場に攻め寄せてきた関東勢の旗の紋は六文銭です。きっと御一家なんでしょう。
それについてお尋ねしたいのですが、ことのほか若い武者二騎が真っ先に進んできて弓や鉄炮をものともせず、
兜を傾けて柵に取り付いています。どなたの子なんでしょうか、櫓からご覧下さい」
と言ったところ、幸村は、
「ああ、それは見る迄もなくいかにも六文銭の旗は兄伊豆守信之のもので、
その若者の一人は河内守といって十八歳、もう一人は外記といい十七歳、二人とも私の甥です。
かわいそうですが、彼らを侍分の人に命じて討ち取って下さい。
そうすれば若くして木村殿の持ち場で討死にしたとその名が後世に伝わり、われら一族の喜び、これに過ぎるものはありません」
と答えた。それを聞いた重成は、
「いや、そうではありません。一族が引き分かれての戦いにどうして後日お咎めがあるでしょうか。
必ず和睦になりますから、めでたくご対面なさって下さい。御心底お察し申します」
と言って士卒に命じて言うには、間違ってもその二騎の若武者を鉄炮で撃ってはいけない、
くれぐれも過ちのないように、と彼らを気遣った とのことである。

そんな木村重成のお話 
280人間七七四年:2010/01/24(日) 21:18:53 ID:j3fOIEbc
>>279
謙信「………ナイスガッツ。ナイスファイト。さすが海道一の物知り。」
281人間七七四年:2010/01/24(日) 21:43:35 ID:zAq6UiRz
家康 あの援軍お願いしまつ…
謙信 ナイスガッツ ナイスファイト だが断る!
282人間七七四年:2010/01/24(日) 22:10:48 ID:eJGOkEHB
>>281
ホント、口だけなら何とでも言えるよね・・・
同盟、役に立ってないよ・・・
283人間七七四年:2010/01/24(日) 22:21:15 ID:exajRfVt
まあ、使者が到着する頃には勝敗の帰趨が決してた…という可能性もあるだろうし。
それにしても、徳川が上杉に援軍を求めるとしたら使者はどういうルートを通るんだろうね?
信濃は危険だから美濃⇒近江⇒越前といった具合に日本海側へ抜けて越後に行くのかな。
284人間七七四年:2010/01/24(日) 22:27:48 ID:IGYCNWjq
飛騨越えじゃねえか?
285人間七七四年:2010/01/24(日) 22:57:51 ID:wDZvFPn3
佐々成政「呼んだ?」
286人間七七四年:2010/01/24(日) 23:42:47 ID:YRz/FYKW
石川さゆり「一曲歌いましょうか?」
287人間七七四年:2010/01/24(日) 23:53:45 ID:7FM3h20Y
援軍とか出せないでしょ、領地が接してないんだから
ワープなんか出来ないんだから、出来るのは精々北信濃を牽制するくらい
それ以上の行動はマジモンの大戦以外あり得ない

つうかこのとき上杉側では越中方面で大規模な一向一揆が起こってるから
信濃に進軍する余裕なんて無いよ、実際
288人間七七四年:2010/01/25(月) 00:20:02 ID:ydFjaKBI
>>287
領地が接してなくとも
後方を攪乱したり、あるいは出兵する様子を見せるだけでも
十分な支援になるんだが。
289人間七七四年:2010/01/25(月) 01:40:32 ID:gT/FRt6x
よく読めよ
当時信玄からの依頼で、越中において大規模一向一揆発生中だ
290人間七七四年:2010/01/25(月) 02:00:36 ID:CAiZR4Yt
>>264
俺の中では謙信が女のコ声で再生された。
291人間七七四年:2010/01/25(月) 02:58:14 ID:0Ofp852X
>>271
遅で申し訳ないが、「叱」と言って地を叩く→「足の向くまま気の向くまま〜」
この流れがどうして頓知になるのかいまいちよくわからない
もし誰か理解している人がいれば、教えてもらえるとありがたい
292人間七七四年:2010/01/25(月) 03:40:40 ID:E09ch4MW
牛を驚かせたら暴れ牛になって足の向くまま気の向くまま走り出したって事じゃないか?
293人間七七四年:2010/01/25(月) 08:37:36 ID:fRlupSp/
>>289
三条夫人の影響力は馬鹿に出来ないよな
294人間七七四年:2010/01/25(月) 08:46:50 ID:EmBEev/r
謙信のジイサンをブチ殺した越中軍団
295人間七七四年:2010/01/25(月) 09:27:30 ID:gT/FRt6x
長尾能景も結構な名将というか、かなり強かったっぽいのに、神保の裏切りであっけなく一揆に討たれちゃうんだよな
神保も裏切って勝ったのは良いけど、後々の没落の遠因とも言えるよな
296人間七七四年:2010/01/25(月) 17:34:05 ID:yE+m8ajH
今川義元の爺さんも確か、遠江の諸将をシバいた帰りに土民に奇襲されて死んだんだよな
いよいよって時はあっけないものか
297人間七七四年:2010/01/25(月) 18:21:51 ID:fCztu4Er
つ織田右府
298人間七七四年:2010/01/25(月) 19:34:24 ID:YAeASj/M
>>295
考えてみると長尾の家は三世代続けて歩く台風みたいなのが生まれてきてるんだよな
戦国とは全く恐ろしい時代だ
299人間七七四年:2010/01/25(月) 20:04:17 ID:ALy+fBxl
人間なんてあっけなく死ぬから、いつでも死ねる準備しとけみたいな話もあるよね
やっぱり現代とは死生観が全然違うんだろうなぁ
でも、負けても生きてこそって考えも無かった訳ではないだろうし
そこらへんのバランスってどうなってたんだろうね?
人間誰しも、強いては死にたくないんだろうけども・・・
300人間七七四年:2010/01/25(月) 20:05:33 ID:cs7DXMyq
女系ではあるけど景勝も大坂の役とかで連戦しながらも倍の敵破ったりしてるし
普通に強いわな
かなり血は濃いんじゃないだろうかw
301人間七七四年:2010/01/25(月) 20:09:33 ID:bLnMorph
恐るべき長尾一族

『この男の有る所に戦有り!動く戦争マシーンとは俺のこと!
出城捨て城戦術にかなうものはいない!太田道灌以外。
現在の歴史学者は口を揃えてこういう「何がしたかったのか良く分からん」
本当は山内家守護代になりたかっただけ!?長尾景春!』

『下克上の体現者とは彼のことだ!
越後守護?関東管領!?邪魔する奴はぶっ殺す!
戦いすぎてしまいにゃ国人に大反乱されて、葬式まで臨戦態勢でやったが
それもそれで彼らしい。世間的には「謙信の父親」、長尾為景だッ!」

『さあ真打の登場だ!並み居る戦国武将を抑え、軍神の名を恣にするのは伊達じゃない!
キチガイ行為ばかり喧伝されるけど、実は案外寝技の政治家だ!
趣味は梅干を肴に飲酒!体には実に悪いぞ!
毘沙門天の生まれ変わり、上杉謙信こと長尾景虎だーーーーーッ!』
302人間七七四年:2010/01/25(月) 20:35:16 ID:cs7DXMyq
まぁ、長尾一族は割とウォーモンガーそのものだよなw
303人間七七四年:2010/01/25(月) 21:56:29 ID:ljNhNnSX
謙信の前後なんかは特にエキセントリックだよなぁ。

親父は類稀なる戦馬鹿。
後継いだ甥っ子は笑わぬ喋らぬの無口っ子。
謙信自身にいたっては軍神とか言われながらちょくちょく母性本能炸裂させる始末。

これでみんな戦上手だから恐ろしいw
304人間七七四年:2010/01/25(月) 21:57:20 ID:AYG+tIkB
>>301
その調子でバキっぽく他の武将も頼む
305人間七七四年:2010/01/25(月) 22:18:25 ID:HnscmX1V
>279
昔読んだ池波正太郎の小説だとその場面で
信吉、信政兄弟が壕の底にとりついてヒーヒー言ってるときに
「カモンBoys!ガッツのあるところ見せてみろ!そらもう一押し!」
みたいな掛け声を真田丸の櫓からかけてくる奴がいたので
「誰じゃゴルァ!」と良く見たら「・・・やっぱり叔父さんかよ・・・」
って言う話になってて思わず笑ってしまった

これってちゃんとした元ネタある話なのかな?
306人間七七四年:2010/01/26(火) 00:49:13 ID:lyxR+AiT
>>304
面白いとは思うけど、スレ違いなことをお願いするのはやめましょう。
307人間七七四年:2010/01/26(火) 01:58:43 ID:j3uYmKTE
>>292
>>291だが、そういうことなのかな?
この種の禅問答じみたやり取りは、どうも腑に落ちない話が多いから困る
まあ>>271は、義景の機知を証明する分には不足ないから良いけど
どうもありがとう
308人間七七四年:2010/01/26(火) 02:34:59 ID:G0uklF3N
驚かせたつうか
動物追い払うとき、なんて言うよ
309人間七七四年:2010/01/26(火) 06:33:53 ID:NnwaTA3A
>>305
出典はわからないけど、おもろい左衛門佐叔父さんの話だねw

実際は幕府方の六文銭に遠慮して旗印をしまったり、奥ゆかしいところもあったみたいだけど
310人間七七四年:2010/01/26(火) 10:59:28 ID:Vrz/uZMy
>>301
クソワロタwwwww
謙信は塩をアテに酒飲んでたっていう話もあるし
そりゃ脳卒中にもなるわって話だよなぁ

そういや晩年には中風の記録もあるらしいし
一回くらいは倒れてそうだな
311人間七七四年:2010/01/26(火) 16:06:39 ID:8GewORB6
そんな謙信パパと仲が良かった氏康パパはまともな人だったんだよな。
ある意味凄いデコボココンビだな。
312人間七七四年:2010/01/26(火) 16:11:22 ID:y1i15NtW
里村紹巴と言えば、戦国後期を代表する連歌師である。
その紹巴には、心前兼裁などといった、優れた門人が多かった。
彼らは皆、それまでに無いような奇句や作意を行い、聞く人の耳を驚かせたが、
その師匠の紹巴と言えば、彼らの句に比べると、その中に子細を含めているわけでもなく、
作意と言うべき所も無い、ただ素直なばかりで、人が『面白い!』と思うような所も無かった。

ある人がこの事を、思い切って紹巴自身に聞いてみたことがあった。
紹巴はこれに

「どんな事でもそうなんだけどね、風景の内、面白く奇妙な部分をとりわけ強調して
人の耳を驚かすと言うこと。これはね、技術が未熟なのを取り繕ってごまかす行為なんだよ。

そういう段階を超えると、奇妙と言うような所も、無理矢理に風景を強調するところも無く、
ただ平素そのままの姿ばかりになるんだ。

古歌に『田子の浦に 打出てみれば白たへの 富士の高嶺に雪は降りつつ』と言うものがあるな。

これには、何か強調した風情も無く、作意と言うべき所も無く、珍しい句や故事を入れ込んだりも
していない。にもかかわらずこの歌は、幽玄だ。

ここぞと言うべき風情は無いのに、無限の道理がこの歌の中に存在している。
人が通りいっぺんに聞けば、別にどれほどのことも感じないだろう。
だが、歌の上手が聞くほど、嘆美せざるを得ない所が出てくる。
歌に対する研究の浅いものでは、これを良く称える事は出来ないものさ。

連歌の沙汰も、歌道と同じく、結局はそこに極まれるんだ。
私もね、昔修行していた頃は、今心前兼裁が詠んでいるような句を好んで、
人の耳を驚かすことばかりやっていたものさ。

だけどね、今はそういう所は通り過ぎた。

だから未熟な人からすれば今の私の句は、耳に入らない事が多いだろうね。」
と、答えた。

歴史にその名を残した連歌の宗匠の、連歌論、芸術論である。
313人間七七四年:2010/01/26(火) 16:56:32 ID:nUrVIMiJ
>>311
ん〜
仲良かったっていえるのかなアレw
ご機嫌取りに必死としか思えんのだけど

実際為景ってもの凄い恐れられたらしいし
なりふり構わない復讐者ってのは怖いからねぇ
314人間七七四年:2010/01/26(火) 16:58:46 ID:IuFRzNCT
ヒュー、奴らが鷹交換してるらしいじゃないか、横から奪っちまえ!
315人間七七四年:2010/01/26(火) 17:02:03 ID:Db4ZY39Z
>>314
虎さん自重www
316人間七七四年:2010/01/26(火) 17:03:02 ID:nUrVIMiJ
つうか氏綱って、信虎とか為景から舐められてたの半端じゃないよなw
なんでそこまで見下すかって位に
317人間七七四年:2010/01/26(火) 17:35:18 ID:LWYsOO0W
上杉家の天敵は北条よりむしろ長尾家でござる。
能景<扇谷上杉を追いつめる
為景<越後守護&山内上杉を殺す
謙信<そしたら何故か俺が関東管領になったでござる
景勝<憲政殺した噂有り
318人間七七四年:2010/01/26(火) 17:42:25 ID:wrYuwpAa
他所からの部外者ってのが大きかったんじゃない?
オヤジの早雲はまだ今川配下だったし。
319人間七七四年:2010/01/26(火) 17:49:38 ID:BUAOL7Cz
>>312
それ、スポーツにも通じるよね。
派手なプレーは実はファインプレーじゃなくて、実力が足りないから派手に見えるだけ。
本当の名手はは実はものすごく難易度が高いはずのことをこともなげにこなすって話。
(三遊間を抜けそうな打球を横っ飛びでとめるショートより正面でキャッチするショートのほうが巧い。)
320人間七七四年:2010/01/26(火) 18:05:35 ID:q7cYHkZu
>>319
家康にも同じような話があるよな。
騎乗のまま通るのは難しい難路があって、
馬の名手の家康がどうするかと思ったら馬を降りて通ったって奴。
それを見ていた雑兵たちは馬鹿にしたけど、武将連中は唸ったってのも同じだよなあ。

素人と玄人では見る視点が違うよね。
321人間七七四年:2010/01/26(火) 18:38:50 ID:Q3k/ipMn
>>319
あたってるようで微妙に外れてるような…
例えばNBAとかで後向きでダンクしたりするのは実力が足りないからじゃなく
むしろ実力がある人がやるファンサービスの一種だし
一概に派手なプレーは〜とか言えないだろ
322人間七七四年:2010/01/26(火) 18:42:56 ID:yAJ05kA0
政宗「武将たるもの、パフォーマンスで点数稼ごうとしちゃいけないよな」
323人間七七四年:2010/01/26(火) 19:22:24 ID:4BZ312JO
>>320
馬で通りにくい所は馬で通らない
本物の名人だけが見せるすごみ…という話らしいがやっぱ拍子抜けするよねw
324人間七七四年:2010/01/26(火) 19:36:26 ID:MQZNjq5j
>>315
その件てたしか信虎が結局強奪したままなんだよなww
信虎は氏綱はおろか為景も舐めてたってわけかw

信玄、謙信、氏康は三者で争った仲だけど、
その親父たちもそれぞれ因縁あったっていうのが面白いよなぁ。

てか為景って氏綱見下してたの?
この二人は仲良しってイメージがあったんだけど…
325人間七七四年:2010/01/26(火) 19:41:47 ID:y1i15NtW
>>324
ID:nUrVIMiJはいつも北条スレを荒らしているキチガイアンチだから相手にしない方が良い
326人間七七四年:2010/01/26(火) 20:04:05 ID:nUrVIMiJ
なんでだよ
北条スレ書き込んだ事なんてね-ぞw

為景は氏綱から援軍要請の見返りとして贈られた絵を
やっぱ気にいらねぇから違うのよこせとか、舐め腐った態度取ってるだろ
327人間七七四年:2010/01/26(火) 20:30:37 ID:vzSSh4Bk
ある時、松平信綱が阿部忠秋に
「聞いて下さいよ阿部殿。私は部下の○○に騙されたのです」
と非常に迷惑そうに言った。

すると忠秋は
「失礼ながら伊豆殿、それはあなたの考え方が間違っています。
武士が嘘を言うものですか。ましてあなたのような重職の方を
騙すわけがないでしょう。

筋の通った内容のある話であれば何度騙されたってよいでは
ありませんか。それをまるで後悔されているかのように仰るのは
いかがなものでしょう。

そんな考え方で部下の申すことを疑うようになられては不都合です。
よいことであれば何度でも騙されるようになさいませ」

と言った。信綱はこの忠告を真摯に受けとめたという。
年下にたしなめられる知恵伊豆であった。
328人間七七四年:2010/01/26(火) 21:05:31 ID:FSSijQuY
そういえば、
武士は嘘をつかないって概念はいつごろ生まれたんだろう?
平家物語や太平記でも、武士が虚言やだまし討ちで相手を討ち取る話は
賞賛されてこそすれ、一切非難されてないんだよね。
戦国時代はもとより。
鮭様が、「味方をだましてはならない」という掟を作ったのが、非常に珍しかったくらいだ。

戦国→江戸の転換期に一般化したのは間違いのないところだけど。
329人間七七四年:2010/01/26(火) 21:25:14 ID:DE/no4ts
>>319
小坂ZONEを思い出した
330人間七七四年:2010/01/26(火) 23:22:44 ID:Q3k/ipMn
>>328
敵はともかく味方はだましちゃ駄目だろjk
331人間七七四年:2010/01/26(火) 23:27:19 ID:T9TFClDB
>>330
だが「敵を騙すならまず味方から」という言葉もあるからな
そういえばこの言葉の成立は何時だろう
332人間七七四年:2010/01/26(火) 23:28:02 ID:cEp2+t41
武士の嘘を武略といい、坊主の嘘を方便という。
こんな決まり文句もあるし、別に必要なら嘘はついてたと思うよ。
333人間七七四年:2010/01/26(火) 23:38:27 ID:4BZ312JO
家臣が主君のためを思ってつく嘘なら細かいこと言わずに気持ちよく騙されてやればいいんだ
みたいなことは黒田如水も言ってた気がする
334人間七七四年:2010/01/26(火) 23:45:32 ID:2ysfVbtj
嘘つかないのはインディアンだけ
335人間七七四年:2010/01/26(火) 23:49:15 ID:mxV1MkKW
下半身もですがw
336人間七七四年:2010/01/26(火) 23:55:26 ID:FSSijQuY
>>330
それは近代軍隊が入った後の感覚だよ。

武士は自分の功名と、家の存続のためだけに戦ってるのだから
盗み首に代表される手柄の横取りはしょっちゅう。
先陣争いでは味方だますし。
337人間七七四年:2010/01/27(水) 00:05:40 ID:UIWUso2R
>>336
問題はめんどくさい武士の場合だ
手柄の押し付け合いになって誰かが仲裁しなければ刃傷沙汰になる
338人間七七四年:2010/01/27(水) 01:14:19 ID:CI6Zf6lM
>>326
氏綱「絵がお気に召されなかったようですね。
今度はあなたに喜んでもらえる絵をさがしますのでよろしくお願いします」
信虎「やい、氏綱よ。こないだ2匹のうち1羽奪って、1羽だけ返却してやったが
考え直したら、やっぱり返却した方の鷹の方がよいから交換しろよ」
あいまいな記憶しかないが、こんな感じの手紙じゃなかったか?

>>328
>>鮭様が、「味方をだましてはならない」という掟
下記で論破されたガセネタの話か?
159 :人間七七四年:2009/05/19(火) 20:46:08 ID:OFEEn+eW
>>131>>132
マジレスすると37巻の事だろうが、鮭厨はちゃんと文章が読めないバカなのか、悪質な隠蔽捏造歪曲してる。
そもそもその法が書かれてる寸前の話を隠蔽してる。
鮭登の息子が鶴岡の義光に会いに行った帰りに毒殺による急死。
15歳で上杉戦に参加した息子はずば抜けた智と延沢を超える武力の持ち主だったので家康らの耳にまで聞こえたほど。
慶長8年18歳で死去後に書き置きが発見され、そこには小野寺氏がうまく統治されていた時代の法が書かれており、教訓のような感じで息子が書き遺した物だった。
それをほぼ踏襲して手直ししたのが鮭登越前守書伝であり、鮭登の領内で施行したかもわからんが最上領全域でやってたかもわからんし、
施行したのも関ヶ原もとっくに終わった後だし、
その37巻にはすぐ、義光が最上の将来を心配して才能豊かな鮭登の息子を暗殺したのを匂わせ、義光の義康暗殺、義光の死と遺命で里見一族抹殺。最上義親が弟の清水を殺した話など最上崩壊への話が登場する。


339人間七七四年:2010/01/27(水) 01:23:26 ID:iEVBAKXp
なんだまたsubか…
340人間七七四年:2010/01/27(水) 02:08:18 ID:FtFH4JCw
巡回ご苦労様です
341人間七七四年:2010/01/27(水) 02:34:02 ID:sWhYbGoQ
>>319
(・◎・)は打球反応が異常に早くて難しい打球でも淡々と普通に捕球するのであまり印象に残らないのに対して、
某外野手はスタートは遅いが球際に強いので派手なプレーが多く印象が残りやすい

そんなもんなんだよな
342人間七七四年:2010/01/27(水) 02:34:04 ID:f8fFTUwd
>>531
自分は武将甲冑パンツなるもののチラシをもらった。
もしや直江兼続モデルの股間に「愛」の字が!?と思ったけど、それは無かった。
とりあえず、井伊モデルが赤いのは一応押さえてるなと思った。

しかし次開発商品希望アンケートのラインナップがカオスだな。

前田慶次 山本勘助 毛利元就 北条氏康 長宗我部元親 竹中半兵衛
加藤清正 石田三成 明智光秀 島津義弘 本多忠勝
343人間七七四年:2010/01/27(水) 02:35:31 ID:f8fFTUwd
>>342は誤爆です。ごめんなさい。
344人間七七四年:2010/01/27(水) 04:14:49 ID:qAGFGYZQ
1582(天正10)年3月11日
天目山にて武田勝頼自刃、武田家滅亡。

そして3月12日、真田昌幸のもとに1通の書状が届いている。
差出人は武蔵国鉢形城城主北条氏邦で北条氏への帰属を勧めている。
気になるのはこの書状は「真田家からの申し出への返事」であることである。
つまりこれ以前に昌幸は北条氏への帰属を申し出ているのだ。

新府城で昌幸が勝頼に岩櫃城行きを勧めたのが3月3日
それから2週間ほどの間にこれらのやり取りは行われていたのか?
それとも昌幸は3月3日以前に武田家に見切りをつけていたのか?
だとしたら勝頼が岩櫃城行きを選んでいた場合どうなっていたのか?謎は尽きない。

なお昌幸は3月15日に織田信忠に服従を申し出ている。
他の信濃諸氏族の多くが3月20日に鷲峰山法華寺で信長へ服従を申し出ていることから考えると
素早い動きはやはり昌幸の腹は初めから織田への降伏にあった故とも考えられるが…

表裏比興の者の2週間の話。


勝頼自刃の報を受けた昌幸が
「小山田めを信じたためにあのような事になったのだ!!我が岩櫃城を頼られておれば!!」と
勝頼を救えなかったことに号泣したなんて話もあったりする。
感情と理性は別ということだろうか。
345人間七七四年:2010/01/27(水) 08:12:55 ID:9RR9luVr
まさに昌幸らしい行動。
仮に勝頼の身柄を押さえたら織田、北条、上杉の何処が高く買ってくれるか?
346人間七七四年:2010/01/27(水) 08:22:55 ID:9w/PQdVH
主君ともども岩櫃に数年篭城だろうな
周りの勢力がどう動くかはわからんが 
347人間七七四年:2010/01/27(水) 09:24:51 ID:loK1r3It
その頃は上杉は手一杯だし、北条は織田方だしな。
もし御館の乱で北条に味方していても駄目だったのかな?
348人間七七四年:2010/01/27(水) 11:01:38 ID:3gNU8Aao
長篠の後だからやっぱり直ぐ目の前の金に飛びついちゃうよね
349人間七七四年:2010/01/27(水) 11:38:35 ID:7shRcYSD
昌幸って意外と義理堅いから、上杉に勝頼逃がすくらいはするんじゃね。
その後は史実通りの表裏比興だろうけど。
350人間七七四年:2010/01/27(水) 11:39:11 ID:iG0Uepe+
>>346
勝頼がいれば、織田に降参は無理だよね。
完全に破滅している。
信長の、武田への恨みは深いから皆殺しになる。
351人間七七四年:2010/01/27(水) 11:52:23 ID:RYZo5E1X
力攻めで落とせるわけもなし 昌幸には謀略も通じない
織田が攻め倦んでもたもたしている間に明智謀反でアボーン
352人間七七四年:2010/01/27(水) 12:20:17 ID:CLJ8hbcT
攻め倦んでたら状況まるで変わって明智にあんな好機がこねーだろ
353人間七七四年:2010/01/27(水) 12:21:51 ID:Y03EttDI
昌幸さんの(抜け目のな)いい話か
354人間七七四年:2010/01/27(水) 15:18:47 ID:/kIXE3TS
勝頼がいきていたら、史実の本能寺のようなシチュエーション事態がまず発生しないだろうしなあ
のちの大改修もしていない唯の岩櫃城で、後の対徳川の上田合戦のような防御力はまだないしねえ
355人間七七四年:2010/01/27(水) 15:52:00 ID:dbAf9fzZ
>>350
北条もこの時期にわざわざ織田と対立するようなことはしないし、
その他関東・東北の諸大名も織田に臣従しているか、しつつある。
東国唯一の織田の敵国上杉は詰み状態だし、勝頼を匿えば真田が終わるよな。

>>351
付城封じ込めは秀吉の常套手段だけど信長もやってる。
援軍は一切望めない状況で年単位で封じ込められるのどうにかなんてできないよ。
昌幸はそれがわかってるからほうぼうに手紙を出して生き残ろうとしてるんじゃない。
356人間七七四年:2010/01/27(水) 16:04:52 ID:rtbXo4DU
>>341
新庄なんかは内外から日本一の外野手と評価されたのに、
一般的にはそれ以外の部分(奇行的な意味で)しか印象持たれてないからねぇ。

>>344
事態がどう転んでも良いように根回ししてたって事か。
流石は昌幸。
357人間七七四年:2010/01/27(水) 16:07:11 ID:BRPtD+UU
数年持てばいいだろ 速攻で主君を裏切るようなマネはしない
まあその間織田が持つかは知らんが
358人間七七四年:2010/01/27(水) 19:10:27 ID:vM3d4cjb
勝頼とその子の信勝が生きてると信濃甲斐の統治が安定しないだろうから
織田が全力で確実に殺し来るよな
359人間七七四年:2010/01/27(水) 19:42:55 ID:mlqqd/kI
信濃に来てる間に畿内で謀反が発生する ( ;∀;)イイハナシダナー
360人間七七四年:2010/01/27(水) 19:58:52 ID:/kIXE3TS
織田軍が戻ってくれば舜殺されることが判りきっている状況で、反乱に呼応する馬鹿がいるとも思えん
起こってもボヤ程度で済んで終わりだな。
361人間七七四年:2010/01/27(水) 20:13:23 ID:hZtQ9dTw
実際起こって死んでるがな 
362人間七七四年:2010/01/27(水) 20:57:54 ID:3m+mkegP
信幸「来ないの判ってたから言ったの?」
昌幸「ワシがそんな人間にみえるか?」
363人間七七四年:2010/01/27(水) 22:50:22 ID:uEmwc6dm
「待っとけよ息子」「やだ。武田ヌッコロスよ」ではじまった織田の武田殲滅戦だからな
その後が「ウチの息子スゲー」って会話になると考えると織田が武田をトドメをさしに来ない理由がどこにも見あたらない
組織と現場のトップがノリノリだから武田詰んでる
364人間七七四年:2010/01/27(水) 23:39:02 ID:G6vXNULi
佐竹義宣公が転封先の久保田にようやく城を築いた頃、
穴門橋前に浅原甚之丞という者が住んでいた。
ある日彼は同僚が緞子の半襟を掛けているのを見つけ、それを咎めた。
「おい、それ、規則違反だぞ!」
「んだよ、ありあわせの古いやつだからいいんだよ!」
些細な事から口論となり、二の丸にある安楽寺の前で本格的な大喧嘩。
松下門の坂道まで来たとき、とうとう甚之丞は同僚を殺してしまった。

さて、ここに異変に気付いた者がいる。
城主の佐竹義宣その人である。

たまたま御隅櫓に昼寝に来ていた彼は
血の付いた刀を引っさげて帰っていく甚之丞を発見。
幸い、すぐ向かいが渋江内膳政光の屋敷である。
大声には自信のある義宣公、事態を知らせようと内膳宅に向かって声を張り上げた。

「内膳!内膳! なー! いー! ぜー! んーーーー!!」

が、あいにく内膳は留守。代わりに梅津半衛門憲忠がいた。
内膳宅の向かいが半右衛門宅で、これまたたまたま馬の爪髪をこしらえに来ていたのである。

「え、なに?殿の声?一体どこから…って、櫓から!?どんだけでかい声出せるの!」

半右衛門は大急ぎで長刀を持って駆けつけ、自宅に戻っていた甚之丞をバッサリ。
飛び掛ってきた甚之丞の弟も同じくバッサリ。
二人の首を手に引きあげてきたそうである。
365人間七七四年:2010/01/27(水) 23:42:48 ID:UsFh2fM9
>>350
別にうらみはないだろう
ずっと戦ってきたの家康だし
越前のように旧領主を残しとくと失敗するから根絶やしにしただけで
366人間七七四年:2010/01/27(水) 23:50:02 ID:IXa0lZM7
>>364
むう、まさに家政婦ならぬ義宣様は(御隅櫓で)見た。
367人間七七四年:2010/01/28(木) 00:28:56 ID:H37h9Yp1
昌幸「二三ヶ月後信長、高ころびにあおのけに転ばれ候ずると見え申候」

情報通だからこれくらい先を読んでたんだろうね 篭城しとけばあいつ死ぬしみたいな
368人間七七四年:2010/01/28(木) 00:51:34 ID:oAAAud0m
まぁ安国寺でも読めたぐらいだから、
昌幸や家康や秀吉なら当然読めたろうね
信長は読めなかったようだけど

こうですか、分かりません
369人間七七四年:2010/01/28(木) 00:59:11 ID:hyAKmW8E
勝頼と息子始末しななきゃ
甲斐征伐終わらず信長、信忠も引き上げないし
本能寺なんて起こんないんじゃね
370人間七七四年:2010/01/28(木) 01:10:35 ID:vcC9SjcR
たいした根拠もないIF話はつまらん。せっかく新しい逸話が来たのに
371人間七七四年:2010/01/28(木) 01:29:41 ID:9weoB+cD
>>365
甲州軍の遠州侵攻に際し、
信長は信玄と武田家に対して、海よりも深い恨みを抱いた。
武田側が、友好関係を一方的に破って、信長を滅ぼそうとした(と信長は受け取った)わけだからね。


元亀3年 11月20日 (三方原合戦の一ヶ月前) 上杉謙信宛書状

 信玄の行いは前代未聞のひどいもので、侍の義理を知らず、日本中の嘲笑を顧みないものだ。
 遺恨は幾重にも重なり、尽きることがない。
 信玄とは、二度と再び付き合わない。


天正3年 長篠合戦直後の書状

 信玄が恩を忘れて勝手な真似をした。
 よって今回その鬱憤を晴らした。


合戦の直後、信長は勝頼を殺したと判断したために、「鬱憤を晴らした」と書いたが
勝頼の脱出が判明したので、鬱憤は武田征伐まで残っていたわけだ。
372人間七七四年:2010/01/28(木) 01:29:53 ID:hu86tCJe
いつ投下しようかと思っていたら、偶然にも義宣さんの話が出ていたので便乗します。
地元の事を調べてたら面白い話が見つかったので投下します。

【佐竹の殿様と間久里のウナギ】

舞台は、現在の埼玉県越谷市。
ここは家康の鷹狩の際の御殿があった他、日光街道が通り、越ヶ谷宿という宿場町となっていました。
その日光街道 越ヶ谷宿〜粕壁宿の中間、間久里にも立場(旅人の休憩・食事処)があり、
その中に3軒ほど、近くの元荒川で捕れたウナギなどの川魚を出す料理屋がありました。

(引用)
『水戸より秋田に転封された佐竹の殿様は特に秋田屋のウナギにぞっこんで、
秋田産のヒバ材で自分専用の座敷まで造作し参勤交代時には必らず立寄って蒲焼をたべました。』

とのことです。
わざわざ自国から木材まで持ってきて、お店に専用座敷を造ってしまう辺り、
本当に『ぞっこん』だったのでしょうね。
特定はされてませんが、転封の件からして義宣さんでしょうね。
まあ案外、専用座敷があるのを口上に、後のご当主方も立寄っていたかもしれませんね。

遠い秋田からの参勤交代は、他の大名方と同じく出費・疲労と諸々大変だったのでしょうが、
佐竹家は一つ楽しみを見つけられたようですね。
373人間七七四年:2010/01/28(木) 02:23:15 ID:hu86tCJe
ちょっと補足。

間久里は現在、上間久里,下間久里という地名で残っています。
が、住宅地化が進んでいるので、この話を元にその近辺を探してもウナギ屋は見つからないかも。
(件の秋田屋も、現在まで続いているか確認できず)
もし越谷でウナギを食べたい!と思われたら、元荒川に沿って店を探せば見つかるかと思います。

好みはそれぞれと思います。
戦国に関係無さそうなのでカットしましたが、引用文は、豪商が江戸からの客を間久里のウナギ屋に連

れて行ったら「江戸の味に劣る」と言われ、「江戸人の舌にはむかない」と笑ったという話が続いてい

ました(笑)

個人的には、その近辺のウナギ・川魚料理屋だと、元荒川沿いの県道325号を北上して、末田須賀堰わ

ずか先、
武蔵第六天神社の前に並ぶ3件の店が面白いと思います。まず通の地元民しか知りませんし(笑)
ウナギは勿論おいしいですが、特徴的なのが『ナマズ料理』を出すことです。
興味があれば以下↓に紹介されていたのご参照下さい。
ttp://www.dairokuten.or.jp/kankou.html
※営業時間を要確認!また、隠れた店ながら客入りはそれなりで、休日は電話予約・確認を推奨。
特に、夕方〜夜の部は団体さんの宴会も来る様なので、特に注意。
374人間七七四年:2010/01/28(木) 02:29:27 ID:hu86tCJe
↑改行を少しミスりました。確認不足すみませぬorz
375人間七七四年:2010/01/28(木) 02:32:52 ID:gb7jpn+m
中村高次という武将がいる。
それ自体、あまり通りのよい名ではない。
鑓中村、あるいは中村新兵衛といえば多少は通りが良くなるかもしれない。
三好家の重臣であり、武辺の人であった。

永禄七年、戦国中期の巨人の一人である三好長慶が河内飯森山城で没した。
この頃に三好家の重要拠点である芥川山城を預かったのが、松山安芸守、松山彦十郎とこの中村新兵衛である。

さて、永禄十年のこと。
松山安芸守とともに三好三人衆方についた中村新兵衛は、松永久秀に止めを刺すべく東大寺の三好本陣に在った。
列座の席次から言えば、三人衆方の総大将は一門筆頭たる三好日向守長逸であっただろう。
しかし、どうした風の吹き回しだったか。軍議の席において、突如総大将を互選で選ぶという話が持ち上がった。
なにぶん、兵力で松永方に勝った上で、東大寺を盾にしての布陣である。
仏罰や、それに伴う不名誉への気後れもあったのかもしれない。
かくて、あれよあれよという間に互選の話は進み、なんとしたことか中村新兵衛が総大将に選ばれてしまった。

こんなものは、無茶の無理押しの話である。
承服できぬ、と新兵衛は固く断った。しかし、長逸とて汚名は当然受けたくはない。
無理を、押し通した。新兵衛を、説き伏せ、みなの勧めとして総大将を飲ませた。

「……選ばれた以上、それに報いねば生きただけの価値とてない」

新兵衛はそう、嘆息してこれを受けたという。

果たしてまもなく、東大寺は深夜の失火により焼け落ちて、
その混乱を奇貨として劣勢の松永勢は夜襲を断行、三好三人衆方は総崩れとなった。
この混乱の中、中村新兵衛は討ち死にを遂げた。
彼はたとえ互選とはいえ三好党の総大将を引き受けた身として、
敗軍の中に踏みとどまって、弟正之とともに討ち死にを遂げたのである。

かくして義を貫いた中村新兵衛の死に様を、
のちに伝え聞いた(久秀あたりからか?)織田信長は義士であると賞賛したという。
成り行きをしっかりと受け止め、己に課した勤めを果たした武人の義侠心のあるお話。

ただしソースは甫庵信長記なので信憑性はあんましない。
376人間七七四年:2010/01/28(木) 03:07:52 ID:7EcZOIWS
最後の一行が決め手となって、又聞きの又聞きを聞いた…ってぐらいなレベルの話になっちゃった。

久秀が焼き討ちの責任を逃れるための話にも聞こえるし…。
377人間七七四年:2010/01/28(木) 07:40:08 ID:lwnumM20
久秀「本殿に火をつけたの三人衆だよ!ホントだよ!」
378人間七七四年:2010/01/28(木) 09:09:50 ID:F75okTwv
ハメられたとも言われる市松さんの信州転封、その命が下されると市松さんの屋敷は表門を陸奥会津藩主
蒲生忠郷に、裏門を陸奥磐城平藩主鳥居忠政の軍勢に取り囲まれてしまった。
両勢とも甲冑を身につけ大変物々しい雰囲気で、市松さんが転封を受け入れたと聞くと信州出発の催促をしてきた。
これに市松さんは
「言われずとも、すぐに信州へ出発するから少しの間待っておられよ。」
と答え、家臣の熊沢半右衛門、上月新八の二人を呼び
「奥州の連中は躾が悪いって言うからさ、蒲生と鳥居の連中が門内に入ってきたらうちの衆に難癖つけて
ドンパチ吹っ掛けて来るってのは充分ありえるじゃん?だからさ、二人は門内居てなんとかしてあいつらを説得して
欲しいんだ。それでも聞き入れないようならすぐに知らせてくれ、自害するからさ。」
と言った。しかし、半右衛門が
「これは納得しかねる事を仰せられるのですね・・・」
と答えると市松さんは
「何?俺がこんなんなったからってお前まで俺を馬鹿にするの?そうなの?ウガーッ!」
と怒り出すが半右衛門は驚かず脇に居た新八に向かい
「奥州の連中が野蛮なのは当然のこと、あいつらを相手にいくら道理を尽くして説得したって聞き入れるわけが無い。
それで殿に知らせに戻ったとなるとそれは逃げ帰ったも同じで末代までの恥になる。ならば、なだれ込んでくる奴らを
この腕が続く限り斬り合ってそれを注進してから、その後に殿はお好きなようになされればよかろう。」
と言うと新八も「元よりそのように思っていた。」と答えた。
「(´;ω;`)ブワッ
 二人の言う通りだよ。だけど、何度も何度も穏便に済むように道理を尽くすんだよ、それでも駄目なら
その通りにして。」
と市松さんは大いに喜び、半右衛門と新八も嬉しそうに承り門内に向かった。

結局、事は荒立つ事は無く、市松さんは無事に信州へ出立しましたとさ。
379人間七七四年:2010/01/28(木) 09:46:18 ID:GEa8jfsB
いい話なんだろうけど、良く考えると
勝手な想像で勝手に友情を深めた
とかそんな感じなんだよな…
380人間七七四年:2010/01/28(木) 09:52:51 ID:U/gz7UPf
>奥州の連中は躾が悪い、奥州の連中が野蛮

(●∀・)「誰だろ?」
381人間七七四年:2010/01/28(木) 10:02:27 ID:B8i8d9Sf
津軽「九戸とか阿弖流為とかそういう話なんじゃねえの?」
382人間七七四年:2010/01/28(木) 10:03:15 ID:lwnumM20
>>380
津軽為信「おぬしじゃ」
383人間七七四年:2010/01/28(木) 12:35:07 ID:+z2vJtXX
最上「はて」
384人間七七四年:2010/01/28(木) 13:14:41 ID:z2ViSufk
>>371
自分のしてきた悪行がもとで裏切られたのに逆恨みも甚だしいな
385人間七七四年:2010/01/28(木) 13:26:44 ID:gb7jpn+m
>>381-382
浪岡顕村さんがじっと熱視線を送っています
386人間七七四年:2010/01/28(木) 13:42:14 ID:oARrqyXk
まぁ、そもそも武田、というか信玄は内外問わず,盟約破りばっかりしてた人だからなぁ
大体頼まれれば誰とでもホイホイ同盟結んじゃう謙信にすら
お前のトコの親父がやってきた事考えろって、勝頼が断られちゃう位
387人間七七四年:2010/01/28(木) 13:44:42 ID:tmYy39al
まぁ、そもそも織田、というか信長は内外問わず,盟約破りばっかりしてた人だからなぁ
大体頼まれれば誰とでもホイホイ同盟結んじゃう謙信にすら
お前がやってきた事考えろって、手取川で溺死させられるくらい
388人間七七四年:2010/01/28(木) 13:54:38 ID:oARrqyXk
何言ってるのか良く解らんけど
信長は信玄みたいに盟約結んで一緒に戦っておいて、特に盟約上の落ち度もないのに突然同盟者や配下の所に攻め込むとかは無いよ
関係悪化の末に攻めるとか、単純に勢力拡大のための意図見え見えでも何らかの理由を付けてやってる
389人間七七四年:2010/01/28(木) 13:56:17 ID:tmYy39al
信長厨はおめでたい脳みそしてんな 
390人間七七四年:2010/01/28(木) 13:57:33 ID:hLIjAgs7
相手にしちゃいけない
391人間七七四年:2010/01/28(木) 14:08:32 ID:4chuuOO0
>>365
信長は、西で勢力拡大するための時間稼ぎに、貢ぎ物を毎年送るなど、プライドが高い信長にしては相当我慢している部分がある。
その武田を征伐したんだから、残党狩りなど長年の恨みが爆発している。

392人間七七四年:2010/01/28(木) 14:11:46 ID:oARrqyXk
つうか、一番苦しいときに武田が盟約破って攻めてきたんだから
恨み骨髄だろう、織田側としたら
今川の時もそうだけど、同盟相手が苦しいときにあっさり反故にして攻めてくるのが武田
393人間七七四年:2010/01/28(木) 14:12:03 ID:tmYy39al
卑屈な奴だな信長ってw
394人間七七四年:2010/01/28(木) 14:13:15 ID:9JcRYIUi
さんざん信玄公のために尽くしてきたのに!攻められて悔しい ムキー
395人間七七四年:2010/01/28(木) 14:46:49 ID:e0ZnNPm0
なんで信長の話題が続いてんの?
396人間七七四年:2010/01/28(木) 14:53:56 ID:XQIaj2nn
織田厨と武田厨は罵りあいが大好きだからだよ
397371:2010/01/28(木) 15:02:12 ID:9weoB+cD
>>384
信長側には、かつて信玄の大ピンチを「救ってやったのに」という意識があった。
これが>>371で信長が言ってる『恩』ね。

永禄8年頃から鮮明になった信玄と、嫡子義信との権力争いに勝利し
永禄10年に義信を粛清することに成功したが
彼が今川氏の娘を娶っていたことで、今川と武田の関係が急速に悪化する。
年内には、今川氏真が武田と断交し、上杉と同盟。
翌11年、これに北条も加わって、駿・越・相の三国同盟が成立し、
包囲された武田は、あわや滅亡というところまで追い込まれた。

これに手を差し伸べたのが信長だった。
永禄11年7月に、信長と武田が和睦し、信長の子分である家康の軍を動かすことで、
まず三国同盟の首魁である今川を潰すことに成功し、信玄はからくも虎口を脱した。
「信長に見放されたら当方は滅亡してしまう」(歴代古案)という書状は、信玄の本心だ。
その後の4年間は、概ね、織田=徳川=武田の関係は良好だった。

ところが、4年後、元亀3年にいわゆる信長包囲網が敷かれ、信長がピンチに陥ると、
信玄は味方するどころか、敵方の主力となって、織田・徳川を滅ぼそうと攻めて来た。
一番困った時に裏切られたと感じた信長は、>>371の怒り心頭の書状を送ったわけね。


ここら辺の経緯は、鴨川達夫の『武田信玄と勝頼』に書いてあるから読んでみて。
この新書は非常に面白い。
信玄も信長も、高度な戦略にのっとって行動したのではなく、
恨みや怒りなど、生々しい情念に突き動かされて生きたことを、文書をもとに解説してくれる。
398人間七七四年:2010/01/28(木) 15:18:52 ID:e0ZnNPm0
どうせならスレタイに沿った話を出してよ
信長でも武田でもいいからさ
でないと不毛なやり取りが続くだけ
399人間七七四年:2010/01/28(木) 15:21:31 ID:z8I90KOb
>>397
これは恨まれても仕方がないな。
信長は文字通り死ぬ思いしてるし。
400人間七七四年:2010/01/28(木) 16:12:39 ID:p23rP7iH
信長に救われた覚えはないけどな
将軍に勝手なことすんなって言ってたのは信長だし
将軍のかわりに信長が謙信を牽制するのは当然の役目だ
401人間七七四年:2010/01/28(木) 16:19:55 ID:p23rP7iH
徳川と盟約結んで今川潰すのは徳川の望むところだろ
徳川としては自分も今側攻めにまぜてくれてありがとうございますみたいなもんさ
それを信長が徳川にお願いして参戦させたみたいなおめでたいこと言うなよ
402人間七七四年:2010/01/28(木) 16:49:19 ID:p0O9EyRo
伊達政宗は鷹狩が好きで、家臣を引き連れての鷹狩を、度々楽しんだと言う。

ある時のこと。政宗の狩りの行列の前を、老婆を背負った百姓が横切った。
大名の行列を横切ること、これは例え狩りのものであっても、重大な罪である。

「無礼者!」

政宗の家来たちは刀を抜いてその百姓に迫った。百姓は青ざめて土下座をし

「母親が急な病で苦しみだし、急いで医者のところに連れて行く最中だったのです。
お殿様の行列とは知らずに横切ってしまいました。どうかお許しください。」

政宗はこれを聞いて、

「よいよい、許してやるのだ。親と言うものは一度なくしてしまえば二度と持つことが出来ない。
さあ、早く医者に連れていけ。」

そう言って百姓を逃がしてやり、さらにその後で、親孝行の見本であると褒美まで下した。

さてさて、とある怠け者の百姓が、これを聞いて思い立った
「俺もその真似をしてご褒美をもらおう!」
この怠け者は、病気でも何でもない母親を無理矢理に背負うと、政宗の狩りの行列の前を横切った。

「無礼者!」

家来たちがまたも刀を抜いて迫る。ここまでは計算通り。
が、この怠け者、刀が怖くて口を開くことができなくなってしまった。
今にも叩き斬られそうにな息子に、慌てた母親が叫ぶ

「このバカを育てた母は私です!どうかこのバカの代わりに、こいつをこのように育てた
私を斬ってください!」

政宗これを聞いて

「よしよし、許してやるのだ。
それからそこの若いの、よいか、いつまでもあると思うな親と金。
真似事でも良いから、親が生きているうちに孝行をして大切にせよ。」

そういって逃がしてやった。
怠け者はこれに恐れ入り、それからは真面目に働くようになったのだとか。

仙台に伝わる昔話である。
403371:2010/01/28(木) 17:01:28 ID:9weoB+cD
>>400-401
仰るとおり、そこが信長と信玄の意識のズレだった。

信長から見れば、「家康を動かして、信玄の窮地を救ってやった。感謝しろ。」

けど、信玄から見れば、「信長は上洛し、家康は遠州を取ってお互い得した。貸し借りなしだ。」
と思ったんだろうな。


なお、信玄がまず織田と手を結び、それから徳川と協定を結んで駿河を攻めたのは、時系列で間違いない。
永禄11年7月   織田と武田の和睦
      8〜9月 武田と徳川の国分け協定
      10月〜 甲州軍駿河攻め

同時期の信玄の文書に「家康は信長の命令には必ず従う」と書いたものがあり、(古今消息集)
合わせて考えると、まず信長と交渉して、次に信長を通じて家康を動かした可能性はかなり高い。

ついでに永禄12年春には、信玄が信長に仲介してもらって、謙信との和睦を試みている。
信長が「救ってやった」と考えたのも、それほど無理はない。

※スレ違いなので、これで消えます。
404人間七七四年:2010/01/28(木) 17:15:26 ID:4gLCNs5D
>>402
秀宗「ほんとーに真似事でもよろしゅうございますか、父上?」
405人間七七四年:2010/01/28(木) 17:16:30 ID:7EcZOIWS
しつこい

全然良い話じゃない

スレタイ読め
406人間七七四年:2010/01/28(木) 17:37:00 ID:tWRCvwx1
>>402
政宗の両親の経緯を考えると、
>親と言うものは一度なくしてしまえば二度と持つことが出来ない。
>真似事でも良いから、親が生きているうちに孝行をして大切にせよ。
この辺の台詞は重いね

>>405
言いたい事は同感だけど、
スレ違いの時点で相手する価値皆無なのだから、
相手にするなよw
どっちもNGIDに直行させればすっきりだぜ
407人間七七四年:2010/01/28(木) 17:53:55 ID:hj+48bT/
今運営に通報してくれば、もしかしたら、
論争厨全員にたいしてピンポイント規制+ピンポイント●焼きまでセットでやってくれるかもな。
最近規制に熱心だから。
408人間七七四年:2010/01/28(木) 17:59:17 ID:Wi/Q+8XA
運営が熱心なのは政治コピペだけ
政治コピペは1レスでも全鯖規制
409人間七七四年:2010/01/28(木) 18:20:36 ID:OirVtKD+
小田政治の話したら規制されちゃうのか
410人間七七四年:2010/01/28(木) 18:21:14 ID:xlUY+yS0
>>402
本当にあった話ならお優しい藩祖様ってことになるんだろうけど
作り話なら、何故父親を討ち、母親に疎まれた政宗を主人公にしたのか作者に聞いてみたいw
411人間七七四年:2010/01/28(木) 18:45:24 ID:Fs7QzGQO
>>410
だからだろう?
他に家中平和・孝行話で有名な人で作るより
ギャップがおもしろいじゃん
412人間七七四年:2010/01/28(木) 18:51:33 ID:OyfhTAqt
宇喜多直家「主君に尽くし、舅とも良好な関係を維持し、周辺諸氏の信頼を得るのが戦国の処世術」
413人間七七四年:2010/01/28(木) 19:01:24 ID:6D6YWEap
>>410
義姫と険悪だったなんていつの話だよ
414人間七七四年:2010/01/28(木) 19:03:25 ID:hLIjAgs7
ぶっちゃけ宗景さんの直家への待遇悪過ぎると思うんよ。

今川所属時の三河衆並に前線に出される事に加えて福岡とか港とか収入の要が
宗景の直轄地にされててこってり絞られてたし。
415人間七七四年:2010/01/28(木) 19:17:52 ID:F75okTwv
TERU「TERUなんてパパンが早死したせいでひどい目にあったお!」
416人間七七四年:2010/01/28(木) 19:18:59 ID:+z2vJtXX
>>412
信用出来なさすぎ吹いたwww
でもやっぱ>>414みたいに冷遇されてたみたいだから仕方ないのか
417人間七七四年:2010/01/28(木) 19:24:00 ID:4chuuOO0
>>397
> その後の4年間は、概ね、織田=徳川=武田の関係は良好だった。

徳川が遠江、武田が駿河を取る約束だったけど、武田は隙があれば徳川領まで攻め込む態度を見せたので

家康は、上杉に同盟を持ちかけて、助かった〜と言う事実がある。

信玄は目先の利益だけで信用ゼロ
418人間七七四年:2010/01/28(木) 19:35:19 ID:X39e+y0C
信玄も大概信用無いけど、武田って信虎の頃から近隣に信用無いよなw
北条氏綱も「あの国はいつも言うこと変わるからわからん」って言ってる
419人間七七四年:2010/01/28(木) 19:42:33 ID:KwjYBZfj
信虎とも信玄とも関係良好だった今川義元すげーですか
420人間七七四年:2010/01/28(木) 19:55:36 ID:f/+jjOeG
信用ないならなんであれだけの外交力持ってたのが説明つかない
めちゃくちゃ強かったからみんなびびってたっていうならそのとおりだけど
421人間七七四年:2010/01/28(木) 20:29:04 ID:vcC9SjcR
騙されてるの分かってるけど同盟結んじゃう。く、くやしい ビクッビクッ
422人間七七四年:2010/01/28(木) 20:56:30 ID:aZAZ3x6V
>>410
義姫と不仲説は今は研究でだいぶ疑問視されている。

先日読んだ本で、
政宗の境遇が信長と重なる部分があって、父の輝宗が信長と親交があったこともあり、
信長をテンプレにしたんじゃないかって説があったて面白かった。

母親が弟を偏愛→勘十郎信之と小次郎(竺丸)
父の息子の実力信任と帝王学実施→沢彦宗恩と虎哉宗乙 
乳母→池田氏と片倉喜多子
当主移譲共に18歳、不安定時に父親死去、
後継争いは実兄が実弟を成敗することで決着

ってことらしい。
423人間七七四年:2010/01/28(木) 21:25:13 ID:X2gTNlUT
>>422
なるほど!そういう解釈もできるね!

政宗は過度に英雄視されてきてしまったから
悲劇の武将を演出されていたとしても不思議ではないな
424人間七七四年:2010/01/28(木) 21:51:54 ID:L2O5kCnt
こんどはSubが沸いたかw
425人間七七四年:2010/01/28(木) 22:07:24 ID:7EcZOIWS
NG ID:4chuuOO0
426人間七七四年:2010/01/28(木) 22:17:51 ID:X2gTNlUT
>>424
いやいや、自分はSubじゃないからw
政宗はおらが殿様だしww
ただ、最近は妙に持ち上げられすぎているように感じるんだ
ヒーロー然した政宗より人間臭い政宗のほうが好きだ
427人間七七四年:2010/01/28(木) 23:43:21 ID:GboJyzWo
天正8年(1580)7月、織田信長より丹後半国12万石を授かった細川藤孝(幽斎)は、
御礼言上のために嫡男・忠興を名代として安土城に派遣した。

「丹後拝領のこと、父・藤孝に成り代わり、厚く御礼申し上げまする。」
「ふん、藤孝からの礼など要らぬがな。」
「……は?」
「おれは丹後をお前の父親にやった気など、無い。お前自身にくれてやったつもりよ。」

従五位下兵部大輔、細川藤孝の実績や能力に与えたのではなく。
2年前に初陣したばかりの17歳の若者の、将来性に期待して12万石を与えたと言うのだ。

忠興の中に熱いものが込み上げ、涙があふれ出た。
「こっ、このご恩は決して…決して忘れませぬ!」

泣き続ける忠興の前に、信長が来た。「ガキが、吠えるじゃねーか。マジで忘れんなよ?」
(原文:倅めが、吠えをるわ。誠に恩を忘れ間敷者ぞ。)

そう言って笑いかけ、忠興のオデコを小突いたという。
428人間七七四年:2010/01/29(金) 01:09:44 ID:zcX5bn9K
悪い話の方にも逸話来てるが信長は忠興気に入ってた感があるね
429人間七七四年:2010/01/29(金) 01:10:19 ID:jJIABq5N
ひ、人たらし右府殿…
430人間七七四年:2010/01/29(金) 01:43:55 ID:C/gtZ3/J
信長って人間味のある逸話が多いね

いい悪いスレ見る前と後で、信長と秀吉への見方がすごく変わった
431人間七七四年:2010/01/29(金) 01:45:41 ID:7t9V3pCz
忠興は信長に似ているとかいう評があるんだっけ?

つうか、信長って割りと重臣の子供は大事にしてるよね
どこの家でもそうだとはおもうけど、いい年扱いたオッサンが一緒に遊んだ的な逸話も結構多い
やっぱ子供っぽかったのかな
432人間七七四年:2010/01/29(金) 02:22:55 ID:HDRP39yT
つかやっぱりさ、目の前に子どもがいたら
人間ちょっとはほだされなきゃ嘘だろ

ってことで、
あんまり子どもに優しいイメージが一般には無さそうな
この人が人質の少年に送った手紙

お手紙頂戴しました
珍しい気持ちで読ませて頂いています
こちら小田原では貴方のご家族に会いました
皆さんとても元気そうです、安心してくださいね
貴方の噂も話したりしました
春には小田原に帰るということだから、
色々と教養など身に着けておいたほうがよいですね
どの兄弟達も大きくなっています
呆れられてしまったら大変ですよ
追伸、お手紙嬉しいです
腕前が上がりましたね。もっと励んで下さい
二、三日のうちにここを立ちますから、
二十日頃には駿河に帰ると思います
家内にもこのことを伝えておいて下さい
帰ったら色々会ってお話しましょう。かしこ

今川義元から北条氏規への手紙
433人間七七四年:2010/01/29(金) 02:37:50 ID:FZcY1b+6
>>430
まあ悪人がたまにいいことするとすごく褒められるのと似てる
434人間七七四年:2010/01/29(金) 02:48:26 ID:xOlOg5RX
氏真が外交的にアレ程強気になれない子になっちゃったのは義元が
優しい親父だったから甘やかしちゃったのかも、と考えることも可能だし
435人間七七四年:2010/01/29(金) 02:54:36 ID:C/gtZ3/J
人質時代に家康と面識あったって説もあるよね<氏規
436人間七七四年:2010/01/29(金) 03:24:42 ID:QGX+FoUg
>>432
義元は家康の近習が元服した時に主従セットの槍送ったりしてるし、案外優しいとこあるんだよね
ただ氏規の親父には厳しかったらしいけどw 親と子は別だってことかね
437人間七七四年:2010/01/29(金) 03:44:45 ID:ZWfCBJJp
家族関係の話がよく出ているんで便乗して。初カキコ+文章力皆無なんで、お見苦しかったらすいません。

九戸の乱も終え、朝鮮出兵の軍役も終えて故郷へ帰った南部信直。
この頃彼は、病弱で体調の悪い娘婿の八戸直栄と娘千代子への手紙を幾つか書いている。

『次郎殿(直栄)の病気良くないそうだね、とても心配しているよ。
養生ばかりしてないで、湯治にでも行ったらどうだい、薬をやめて食事に注意してはどうだろう』
『近習の者を使いに出しても、くわしいことを教えてくれない。ちゃんと養生しなさいよ』
『梅を二櫃送ります、何か用事があればいってよこしなさい。孫達がみんなで梅を拾っています。
次郎殿が少しいいようだったら、四・五日泊まりに来なさいな』
『次郎殿の病気はどうですか? 心配なので知らせてください。くわしい返事を待っています』
こんな手紙を数日おきに送っている。娘夫婦を心配する老人そのままです。

戦乱の中、分裂しがちな南部家を取りまとめ、津軽・安東等と戦い、九戸の乱を乗り越えて、
ようやく彼にもこんな手紙を書く余裕が出来たのでしょう。
最後の手紙を書いたちょうどその日に、八戸直栄はわずか25歳で死去してしまうのですが、
南部信直の細やかな心遣いが感じられる話なのでこっちに投下してみました。
安息の日々を得た南部信直の、家族思いなお話。

438人間七七四年:2010/01/29(金) 05:03:35 ID:enBYCy0O
しかし八戸氏は利直の時にあわや取り潰しにされかかったな
親の恩人でも子の代では……黒田さん家みたいなのもアレだがw
439人間七七四年:2010/01/29(金) 09:48:50 ID:kFQoOJv/
嫡子が家を継ぐのは当たり前だが、甘やかされた息子に名君が少ないような気がするな。

それはそうと、信長ってDQN好きなのかな。
お気に入りにはスーパーDQNもいたし。
440人間七七四年:2010/01/29(金) 10:21:11 ID:B03sDK/7
>>438
黒田さん家も孫の代でヤバかったはず
441人間七七四年:2010/01/29(金) 11:13:18 ID:owvxw7mt
>>431
そりゃあそうだろ?将来の幹部候補を育てないといけない。
442人間七七四年:2010/01/29(金) 17:29:48 ID:pc8WfSIB
家臣の子供あつめて期待してるぞと励ましたり父親のことを褒めたりかばったり
してたのは島津義弘だったか 
443人間七七四年:2010/01/29(金) 19:23:04 ID:cdLDvvZH
>>426
そういえば政宗って江戸時代になってから、多くの豪族(芦名や佐竹など)と同時に戦って負けなかった自分の戦上手振りを秀忠に
自慢してたらしいけど、同席してた佐竹義宣が「母(伊達家出身)が父(義重)に頼んだから、本気で攻めなかっただけなのに・・・」と
屋敷に帰ってからぼやいた話があるんですって?
444人間七七四年:2010/01/29(金) 19:47:20 ID:5cSV5GwY
>>437
信直の娘大好きっぷりは見ていてちょっと恥ずかしいw
逸話とは時期は違うけど大体こんなペースで手紙を書いてるね

1957年12月 3日 八戸おちかたへ
      6日 八戸千代子かたへ
      9日 八戸千代子かたへ
      23日 杢方(五戸代官木村秀勝)へ
   28日 八戸千代子かたへ
1598年1月  4日 八戸千代子かたへ
      7日 八戸千代子かたへ
      9日 八戸千代子かたへ
      15日 八戸千代子方へ
      24日 八戸千代子かたへ
   2月  1日 おちかたへ
   2月  1日 八戸千代子かたへ(二通目)

部下宛の書状が娘宛の書状に完全に埋れてる
445人間七七四年:2010/01/29(金) 19:51:22 ID:5cSV5GwY
ごめん、ずれちゃった
446人間七七四年:2010/01/29(金) 20:04:55 ID:mgHpKWg3
朝鮮出兵が終わり朝鮮では戦功を立てた者達の選考をしていた
光海君の下、次々と選別されていく中、水軍の将で討ち死にした元均をどうするかという話になった

すると光海君が口を開き

「壬申倭乱の緒戦の頃、元均が李舜臣に救援要請したけど
あいつ王命がないからって渋って出陣を半月以上も遅らせやがって。
元均は死を恐れず常に先鋒に立って軍の士気を高めて功績は李舜臣と同じだが
李舜臣は元均が将兵を倒して接収した船を掠め盗りやがった。
元均が李舜臣に代わって水軍の長になった時、何度も勝てない事を進言していたが
備辺司も都元帥の権慄も出陣を促したから敗北を知りながらもやむおえず出陣し
溺れ死んだ全兵士と共に自らも国に命を捧げたのだ。
元均は知略と勇敢さを備えていたのに運に恵まれず戦功が消えてしまい不憫でならない…。
今日の選考で彼を二等功臣などにしてしまったらそれこそ無念であろう。」

こう言うと権慄、李舜臣と共に元均を一等功臣にした

頑張った人がちゃんと評価されたという良い話
447人間七七四年:2010/01/29(金) 20:27:39 ID:L5pDAXlb
>>416
信用出来ないというのは直家の経歴を知る後世の評価であって、
同世代の人物にとっては>>412のように見えたからこそ数々の成功を果たしたのだろう。
448人間七七四年:2010/01/29(金) 20:28:45 ID:QGX+FoUg
光海君自身が不憫な人だから思うとこがあったのかも知れないな
449人間七七四年:2010/01/29(金) 20:46:09 ID:7dw7tdj9
>>438
三戸と八戸南部氏の関係を思えば八戸信栄の滅私ぶりは奇跡じゃね?
元お隣りの実季は親子二代で取り組んだ檜山と湊の確執解消が関ヶ原後の転封をきっかけにグダグダだし
450人間七七四年:2010/01/29(金) 23:35:16 ID:0qFdMQE8
>>432>>436
ただ隆元君のように厚遇されたのが嫡男なら問題ないが、
人質の次男三男が有力者に目をかけられて帰ってくると悲劇を生む場合があるよね
細川忠利とか最上家親とかな
451人間七七四年:2010/01/29(金) 23:54:22 ID:F3MiGX8T
>>449
八戸信栄って誰?
452人間七七四年:2010/01/30(土) 00:00:42 ID:gjHCpONs
>>443
ただの負け惜しみじゃねーの?
「本気でやってなかった」「今日は調子が悪かった」等の台詞は
三下の台詞だしw
453人間七七四年:2010/01/30(土) 00:13:11 ID:o9M1eHGr
負けてないし
454人間七七四年:2010/01/30(土) 00:17:13 ID:gjHCpONs
じゃ「本気出せば勝っていた」かw
455人間七七四年:2010/01/30(土) 00:21:24 ID:o9M1eHGr
滅びなかったことを自慢する正宗がおかしいんだよ
456人間七七四年:2010/01/30(土) 00:37:13 ID:gjHCpONs
滅びなかっただけじゃなく
目的の田村領の確保に成功してるだが
457人間七七四年:2010/01/30(土) 00:40:41 ID:qIUg1aFT
滅びたら滅びたで戦国史で一二を争う暗愚マンにされてただろうな>政宗
458人間七七四年:2010/01/30(土) 00:49:49 ID:fz98y8Zc
鬼義重「今日はこれぐらいにしといたらぁ!覚えとけよ独眼竜!」
459人間七七四年:2010/01/30(土) 01:03:15 ID:2hln6knb
伊達→佐竹→北条→上杉
460人間七七四年:2010/01/30(土) 01:03:30 ID:BV9Xt3mt
本気で攻めなかっただけなのにってか
「政宗勝ってないのに何自分が大手柄みたいに喧伝してんだよ…」
と言ってたって話じゃなかったっけ。
461人間七七四年:2010/01/30(土) 01:13:43 ID:F+GvNpsF
佐竹「へ、へへっ…。あ、あいつを倒すのは簡単だったが、
   あいつにも親がいるしな…。て、手加減してやったのよ…」
家臣「さ、さすが親分」

>>460
もともと将軍秀忠の「満足の行く戦はあったか?」の質問に対して
政宗が郡山合戦をあげたって話だったはず
郡山合戦は不利な状況を回避したってだけじゃなく
伊達の勢力拡大に転じる契機となった戦いだし
462人間七七四年:2010/01/30(土) 01:30:19 ID:rSDBxjEF
福島正則が細川忠興に言った。
「おまえは何故、千利休などを敬っている?あいつは何の武功を立てたことも無いだろう」
忠興「まあ一度、千利休の茶を経験してみろ」
茶事の後
正則「忠興、お前が利休を尊敬するのはもっともな事だな。利休の茶に臆してしまった。
今日は本当に良い経験をさせてもらったよ」と大喜びしていたらしい。
463人間七七四年:2010/01/30(土) 01:31:52 ID:esbhslr8
(●∀´)自称副将軍
464人間七七四年:2010/01/30(土) 01:39:19 ID:rSDBxjEF
千利休が加藤清正、福島正則を含む五人の武将を茶事に招いた。
しかし問題が発生した。1人我儘な破天荒な男が居たのである。
福島正則たちは作法に従いおとなしく刀を置いていったのだが、
加藤清正だけは利休の制止聞き入れず、「刀は俺の魂だ」と無理やり茶室へ
刀を持ち込んだのである。
仕方なく茶事を始めた利休であった。がどうしたことか柄杓の湯を炉へこぼしてしまった
のである。
たちまち茶室には煙がたちこめ、五人の客は慌てて外へ飛び出していった。
その時、利休が一言
「加藤殿、魂が落ちてますぞ」
清正は刀をほったらかして逃げて行ってしまっていたのだった。
465人間七七四年:2010/01/30(土) 01:39:20 ID:wQm6PWZG
なんか変な安置が暴れてるな
Subさんだろうか?w
466人間七七四年:2010/01/30(土) 02:02:08 ID:z+OGs40u
>>464
そんな市松がやりそうなことをよもや虎之助が……
467人間七七四年:2010/01/30(土) 02:02:41 ID:rSDBxjEF
松江に大橋茂右衛門の茶室がある。
この茶室には他の茶室にはない特殊な穴があいている。
言い伝えではこの茶室は福島正則が千利休に指導してもらいながら
造ったものであり、のちに家臣の大橋茂右衛門に譲ったものが移築されたのだという。
そして福島正則が茶室開きに招いた客の中に加藤清正が居た。
最初の客に予定されていた加藤清正は三尺余りの太刀を所持していることで知られていた。
福島正則は客に招く予定の清正の太刀が通常の刀掛に収まらないことに気付いていたので、
予め壁に穴を開けておき、清正の太刀が収まるように設計したと言われている。
468人間七七四年:2010/01/30(土) 02:06:11 ID:wQm6PWZG
利休「計画通り」
469人間七七四年:2010/01/30(土) 02:12:09 ID:eWD22/Tm
敵に「弓なんて捨てて刀でかかって来いよ!」といいながら槍で突き殺した男に言われてもなあ
470人間七七四年:2010/01/30(土) 07:03:00 ID:ClAn9jLh
>>464
全員集合のオチの音楽が脳内再生された
471人間七七四年:2010/01/30(土) 07:54:08 ID:i22FKQRO
>>464
これとほとんど同じ話だけど他にも客がいたのか…
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1922.html
472人間七七四年:2010/01/30(土) 09:31:54 ID:nn6/izNM
地元の事調べてたら、越谷でもう一つ小ネタが見つかったので投下しますよ。

【鼻紙朱印状:家康と浄山寺、謎の寺領寄進】
小田原征伐も終わり、関東へ加増転封された家康。
彼が趣味と領内見回りを兼ねて、頻繁に鷹狩を行っていたのは、もはや有名な話。

越谷でも、どうやら鷹狩を兼ねながら、自ら各地域に寄っては実際に人と会い、
小豪族の所領安堵,寺社への寺領寄進等も一緒に行っていたらしい。
さて天正19年11月、越谷野島にある浄山寺にも、鷹狩のかたわら家康が寄りに来た。

「おお、住職殿!いやあ、丁度近くまで鷹狩へ来ていましてな」
「これはこれは。わざわざ当寺に御労足頂き…(自ら何の用件だろ?ドキドキ)」
「まだ渡してないと思いましてな。…コレ、朱印状!」っ寺領寄進
「おお、何とありがたい事です…。(おいくらでしょうか?)…って、ええ!?」
『浄山寺へ、寺領300石を寄進』
「さ、300石!?」

この数字、大名の石高や、万単位の寺領を得たような寺社と比べれば小額かもしれないが、
同時期に越谷各地の寺が受けた寺領寄進は軒並み一桁。
立派な山門を持つような所でも数十石。いきなし三桁寄進の寺なんて見当たらない。

(い、いったい何で?そりゃ小さい寺じゃないけど、言う程大きくもないぞ。
他寺との違いったって…武蔵七党野島氏の館跡ってくらいだし…)
「いやいやいや、ウチにはあまりに過分です。こんな沢山受け取れません!」
「えー」
住職はこれを過分として辞退。どの位過分だったかは、以下を見れば分かる。

「っても書いちゃったしなあ。うーん、他に何か紙はあったかなあ」
ごそごそやって、懐に一応紙があるを見つけた。
「紙あった…けど、これしかないんだが」
鼻紙(懐紙?)。
家康はその場でこれに書き直し、平均的な3石に決めなおし改めて住職に渡したという。
これが、野島浄山寺に現物が残る『鼻紙朱印状』の話である。
他、家康はこの寺を『野島浄山寺』と改めるようにも言ったという。

ドケチに定評のある家康が、何で急に太っ腹になったのかが謎だ。
特に肩入れする理由も見当たらないし、浄山寺にいったい何が…。

っ鷹狩

(元々の寺の土地,大小,由緒などなど)× 鷹狩の成果。かねえ?
事前の鷹狩のボーナスポイントで×100か。随分でかいなw

まあ、無欲だった住職の良い話ってことで。
473人間七七四年:2010/01/30(土) 12:48:35 ID:7Ic0Jyxv
300石は現代の米の値段(1kg=450円として)で考えると、約2000万円。
474人間七七四年:2010/01/30(土) 12:53:03 ID:l6s3CWuw
本多忠勝「あんなに気前の良いお方であったか?」
酒井忠次「わが息子にももっと気前良くして頂きたいものですな」
475人間七七四年:2010/01/30(土) 13:32:35 ID:+L31MNQo
井伊直政「pgr」
476人間七七四年:2010/01/30(土) 14:00:48 ID:qIUg1aFT
各々方、三河名物焼味噌で我慢致せ
477人間七七四年:2010/01/30(土) 14:18:13 ID:O+gcxJ1l
なにやらえらく臭う味噌に御座いますな
478人間七七四年:2010/01/30(土) 15:21:16 ID:xu+ibyvR
家康の倹約術 麦飯編

徳川家康が三十路になるかという頃、家康は夏になると麦飯ばかり食べていた。
ある時、近習が白米の上に麦飯を覆って出したところ、家康はこう言ったという。

「お前は俺の心がわかっとらんな。俺はケチだから麦飯食ってんじゃないの!
いまは乱世だから、兵士たちは戦に忙しくてゆっくり休めないし、衣食にだって困っている。
そんなときに俺だけが贅沢できるもんか。百姓だって苦労して米作っているんだからな。
俺だけが美味いもの食べるなんてできない。それにこうやって倹約した金は戦の備えになるんだぞ。」
479人間七七四年:2010/01/30(土) 16:32:02 ID:MrvH35Da
まずは天婦羅食ってお怒りを鎮められよ
480人間七七四年:2010/01/30(土) 16:36:59 ID:mHKyc/Uk
久秀「ささ、拙者がじかに揚げた天麩羅を」
481人間七七四年:2010/01/30(土) 16:41:09 ID:LxE0OtuP
直家「いやいや、某の持参した天麩羅を」
482人間七七四年:2010/01/30(土) 17:12:10 ID:rSDBxjEF
本多重次「わしの焼き味噌を」
483人間七七四年:2010/01/30(土) 17:38:43 ID:ClAn9jLh
氏郷「毒盛るやつなんか嫌いだ!」
484人間七七四年:2010/01/30(土) 18:08:43 ID:jat6Vern
直家しょっちゅう出てくるなw
485人間七七四年:2010/01/30(土) 20:06:28 ID:u1yI5pgV
まーくん、家康に助けられる。

これは「老談一言記」などにあったお話。

1591年ごろのある日、家康が朝食をとろうとしたとき、打ちひしがれたマー君の家来が尋ねてきた。
聞けば、九戸の乱に加担したことを疑われ、秀吉に四国・伊予への国替えを命じられそうになっているので助けてほしいとのこと。
家康はまーくんの家来に朝食を相伴させ、その後一喝する。
「大体、政宗という男は、荒々しく見えるが、実は腰抜けだからこんなことで狼狽する。四国に行って魚の餌になるか、切り死にするか、もう一回よく考えてみろ。」
そして、使者にこっそりと秘策を耳打ち。

翌日、政宗邸を訪れた秀吉の使者は仰天する。
政宗の家来はみな槍、弓、銃などで武装しており、ものものしい雰囲気で、
政宗だけは丸腰だったが、
「殿下の命なので従うつもりだが、家来が、見知らぬ土地に行きたくないから、ここで一戦するか、みんなで腹切りましょうといっていうこと聞いてくれない。挙句の果て自分にも自害を進める有様。」
と泣きつく始末。

空恐ろしくなった使者が立ちもどり、それを聞いた秀吉も苦りきった顔。
そこに出てきた家康が、このままでは大騒ぎになるからと秀吉を説得して、国替えは中止になりました。




486人間七七四年:2010/01/30(土) 20:53:41 ID:fz98y8Zc
山岡荘八だと秀次事件のときにそのエピソード使ってるね。
ほんとは九戸の乱のときだったのか。
487人間七七四年:2010/01/30(土) 22:35:37 ID:Zy/IUp8X
岳宏一郎の本には家康は政宗の失敗の尻拭いばかりさせられていたとあってワロタ
488人間七七四年:2010/01/30(土) 23:07:48 ID:LxE0OtuP
(●∀・)<俺もワロタ
489人間七七四年:2010/01/31(日) 06:41:37 ID:tCEfzVn4
>>488
TERU「周りの人間を大事にしろよ」
490人間七七四年:2010/01/31(日) 12:22:34 ID:n/tt6AYw
>>485
「まーくん」て言われても、読み進めるまで誰だかわからなかった。
このスレ用の符丁・隠語をまとめたサイトとかないんですかね?
491人間七七四年:2010/01/31(日) 12:43:48 ID:NkMJttWd
レスをする前にまず>>1を読もう
どのスレでも最低限するべきことだ

で、一応スレで通じるあだ名等はここにある
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-338.html
伊達政宗=まーくんは載ってないけど
492人間七七四年:2010/01/31(日) 12:48:36 ID:AFfxrAZw
戦国板限定での用語だから、別板で使ったりしないようにね
493人間七七四年:2010/01/31(日) 13:00:59 ID:ryowtvQg
BASARAスレで普通に使っていた…
494人間七七四年:2010/01/31(日) 13:12:50 ID:NkMJttWd
合意形成出来てる場なら別に構わんだろ
使っちゃだめと強制も出来ない
ただ合意形成出来てないのに使って
不快に思われたり怒られてもそれはそいつの責任よ
リアルで2ちゃん用語使うようなもんだ
495人間七七四年:2010/01/31(日) 13:29:50 ID:u84wBlSA
まーくん、鮭様、鬼武蔵あたりは2ちゃん以外でも使われてるようだ
496人間七七四年:2010/01/31(日) 13:47:00 ID:jPBpjVuw
鮭様は違うだろ
鬼武蔵は数百年前から一般に通用する
497人間七七四年:2010/01/31(日) 14:07:00 ID:u84wBlSA
>>496
いや、そういう意味じゃなくて個人ブログとかで使われてるっていう事で書いた
498人間七七四年:2010/01/31(日) 14:51:39 ID:qz9rC8aa
そういやちょい昔は俄には鬼武蔵って通じない場合多かった気がする。
鮭様、まーくんとかはゲーム厨や歴女?のブログでも使われてるの見かける。
まとめブログやニコ動から広まったんだろうなぁ。
499人間七七四年:2010/01/31(日) 15:12:28 ID:z2TgQcmi
>>498
いや、昔から鬼武蔵で通じていたからこそ、武蔵守の官途を与えられてるわけだろ
何言ってんだか
500人間七七四年:2010/01/31(日) 15:20:49 ID:3Ogl+0fG
歴史ヲタでもそういう風に呼んでるのはいなかったって事だろ
そもそも森長可が日の目を見たのも最近じゃないか
501人間七七四年:2010/01/31(日) 15:28:51 ID:ub+9Ou6f
昔からしょっちゅう森長可の話なんかしてなかっただろw
鮭様は初めて見たとき鮭延越前かと思った
502人間七七四年:2010/01/31(日) 15:30:13 ID:RGRRBTgk
現状は各人TPOをわきまえて使ってるってことでいいじゃないっすか
俺はまーくんとか鮭様とか言われたらハァ?なにそれって言う気満々ですけど
今まで遭遇した事ないし
503人間七七四年:2010/01/31(日) 15:33:15 ID:jPBpjVuw
歴史オタ歴三十年の人間と
最近興味を持ちだした歴史オタ歴十年程度のやつでは違うだろうな。
鬼武蔵はドラマにも全然出てこないから、最近の歴史オタには
急に鬼武蔵の話が出てきたように感じるだろう。
504人間七七四年:2010/01/31(日) 15:42:28 ID:3Ogl+0fG
興味がなけりゃどれだけヲタ歴長くても同じだよ
そもそも全国の大名や武将の知識までカバーしなきゃいけないものとは思わないね
505人間七七四年:2010/01/31(日) 15:42:43 ID:R5+Tol06
懸けている時間の長さと濃密さは必ずしも等しくはないと思う
だらだら30年とみっちり10年もいるのだから
506人間七七四年:2010/01/31(日) 16:08:40 ID:qz9rC8aa
>>499
俺が言いたいのは別段歴史ヲタではない一般人だと、官途もわからん奴が多いし森長可本人すら知らん。
それに ヲタも森長可に注目してる奴はあんまりいなかったしな。
だが、最近はいい意味でも悪い意味でも鬼武蔵を知る人間が増えたなって話だ。

『俄』って書いたのを理解してほしかったな。
507人間七七四年:2010/01/31(日) 16:09:21 ID:fOgRS5hT
「まーくん」だけは気持ち悪くて苦手だなあ。歴女が言ってそう、、って偏見があるわ。
それはそうと、政宗のこと、「伊達ムネ」って言うのは俺の周りだけかな……
508人間七七四年:2010/01/31(日) 16:22:02 ID:t2CEyajY
毛利輝元の事をTERUって呼ぶのもあり得ない



509人間七七四年:2010/01/31(日) 16:27:22 ID:IrZ4C3LX
>>507
伊達ムネっていうとどうしてもシリコンな乳が浮かぶ
510人間七七四年:2010/01/31(日) 16:34:35 ID:XOsGpTlY
ニックネームの簡単なテンプレがあっても良いかも。

ただ、めんどくさい三河武士の手を借りぬよう申し上げ候w
511人間七七四年:2010/01/31(日) 16:41:29 ID:jPBpjVuw
仏高力
鬼作左
512人間七七四年:2010/01/31(日) 16:58:46 ID:GGzhrKyQ
>>507
徳川イエとか毛利モトとか足利ヨシとか言いそうだな
513人間七七四年:2010/01/31(日) 17:00:02 ID:ryowtvQg
>>511
どちへんなしの天野三郎
514人間七七四年:2010/01/31(日) 17:11:36 ID:64c4b6f3
鬼武蔵という呼び名は知らないのに、
鮭様やまーくんで誰だか分かるのは俄とは言わない。
単に無双やドラマに登場しない人物に興味が無いだけだ。
515人間七七四年:2010/01/31(日) 17:17:47 ID:85wdHz76
>>511
>>513
この通称議論を三人が裁くとこんな感じかな?

作左「最近作られた通称など身内ネタに過ぎぬ!そう言う事を解らず使用している者は即刻アク禁にせよ!!」
高力「いやいや、誰にも読むことを強制しているわけでもない。通称を使用するのも個人の自由であろう。」
天野「ふむ。個人の自由と言うのはその通りである。だがやはり「まーくん」や「TERU」といった通称は、
    身内ネタの感が強く初心者、部外者にもわかりにくい、というのも確かであろう。
    無駄な摩擦を作らないためにも、書き込む者もそう言ったことを自覚し、通称を使用するにしても、
    TPOを考えると言う姿勢を取るべきであろう。」
516人間七七四年:2010/01/31(日) 17:21:13 ID:9kX3YscU
というよりこのスレしか知らんだけでは

このスレの中やら2chで生まれたものは当然分からんって話も出るだろうけど
「鬼武蔵」はググりゃ一発でそ
517人間七七四年:2010/01/31(日) 17:27:01 ID:GGzhrKyQ
でもグーグル鬼武蔵で森長可が上位に出るのってここ最近だぞ
 
いい・悪い話スレで鬼武蔵の話が出てしばらくたっても
どこぞのネトゲのプレイヤーの話題しかなかったわけで
518人間七七四年:2010/01/31(日) 17:30:15 ID:cnYlui2x
検索したらGoogleが新納さんとリアルファイトしたがってるのは理解した
519人間七七四年:2010/01/31(日) 17:38:18 ID:jPBpjVuw
禿鼠=秀吉
禿=利休
狸=家康
金柑頭=光秀

このへんは問題無いな
520人間七七四年:2010/01/31(日) 17:42:11 ID:mNCvgMcA
市松の前に市松なし
市松の後に市松なし
521人間七七四年:2010/01/31(日) 17:44:30 ID:VENDbR73
>>519
これさぁ
はげねずみや金柑頭は歴史的に当時使用された用語だけど
家康を狸って呼んでる文献は存在するの?

明治・大正時代に家康嫌いの関西人が使ったあだ名だろ?
522人間七七四年:2010/01/31(日) 17:44:44 ID:8/WY2z+J
極論すれば他の板で「サーセンだの厨房だのマジレスだの使うな」って言ってるようなもんなんだがな
523人間七七四年:2010/01/31(日) 17:45:30 ID:Q7zmJH0b
>>522
わかりにくい
524人間七七四年:2010/01/31(日) 17:47:03 ID:NkMJttWd
現代では家康=タヌキで一般人にも通じる位知名度の高いあだ名だろ
ってかそういうことするスレじゃねぇから
525人間七七四年:2010/01/31(日) 17:50:34 ID:oY3n4aRD
「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」だね
中国でも同じような諺なかったかな。丞相といえば諸葛みたいな
526人間七七四年:2010/01/31(日) 17:56:16 ID:euQe+YaW
>丞相といえば諸葛

あちらには各王朝に有名な丞相が山ほどいるのでそれはない
曹操も「丞相」だし
527人間七七四年:2010/01/31(日) 17:57:12 ID:3SP3RsbX
>>512
イエだけだと、なぜか徳川家夷が真っ先に浮かぶ
528人間七七四年:2010/01/31(日) 17:59:44 ID:3SP3RsbX
>>526
相国だと、日本じゃ平清盛あたりか?黄門だと、誰もが光圀を思い浮かべるだろうけど、政宗だって黄門だよね
529人間七七四年:2010/01/31(日) 18:05:46 ID:thYXebs+
>>507
とても意外だと思うが歴女とか、それに準ずるライトな女性層は
むしろ「政宗様」と呼んでる奴のほうが多いと思う。


まーくん呼びは恐らく、仙台にとても全国区の「マー君」が出てきたからじゃないかと推測する

根拠はない。
530人間七七四年:2010/01/31(日) 18:07:56 ID:euQe+YaW
日本だと
姓(の一部)+役職?で呼ぶ事が多いね

菅丞相=菅原道真
平相国=平清盛
豊太閤=豊臣秀吉
藤原なら藤○○とか
531人間七七四年:2010/01/31(日) 18:13:45 ID:3XaRdNAM
狸というと、同時代だと蜂須賀家政を思い浮かべるな。
532人間七七四年:2010/01/31(日) 18:14:07 ID:Q7zmJH0b
つかまーくんって政宗の事だったのかよ
さらっと読んでたからずっと福島正則の事だと思ってたわ
正則ならネタになるけど政宗だとマジっぽくて怖い
533人間七七四年:2010/01/31(日) 18:15:26 ID:m2/joRBf
水戸の黄門(=中納言)と言えば普通は光圀だけど
じつは水戸藩11代のうち7名は黄門になったんだよな…
534人間七七四年:2010/01/31(日) 18:25:34 ID:AFfxrAZw
家康は「古狸」であって、「狸」一文字じゃちょっとわかりづらいよ
535人間七七四年:2010/01/31(日) 19:06:22 ID:tCEfzVn4
政宗は一つ目小僧でいいだろ
536人間七七四年:2010/01/31(日) 21:16:27 ID:QwxykdVG
浅野長政が城に帰ってくるのを家中一同が出迎えた。
その中の200石取りの侍10人が持馬を引いているのを見た長政は
「彼らは200石ではないのか?」と家老に尋ねた。

「左様でございます。みな普段から武備に心を配り、持馬を連れて参上
したのであります」と家老が言うと、どうした事か長政はご立腹であった。

その後、長政は先の10人を呼び出し、
「人は貴賎に関わらず父母兄弟を、歳を取ったら妻子を養い、もしもの
蓄えをしなければならない。だから300石以上の者は自前の馬を持ち
それ以下は主人が馬を貸して、いざという時に働かせるのが慣わしだ。

それをお前たちは考えの浅いことに、武備を心がけてますよとわしに馬を
見せつけたのじゃ!わしは誠実な人間が好きで、こうして媚びる者は嫌いだ。
なぜなら、分をわきまえない者は父母兄弟の養育を怠け、妻子の持ちどき
が分からない者であり、忠孝に欠けるからじゃ。

それは人の吉凶に当たり前のつけとどけもできないとか、借りた物を返さない
とか世間の義理を欠く事に繋がるのだ!」と長〜い説教をした。

しばらくすると長政は
「どうもお前たちは馬が好きらしい。馬が欲しかったのだろうが、身の程を
わきまえなければ人の道を外れることもある。武備を好むのは武士として良い
事であるが限度は考えなければいけない。これからは節度を守って真の武備
を怠るな」と戒めると、侍たちを50石加増したという。
537人間七七四年:2010/01/31(日) 21:26:00 ID:0bE04Att
無茶苦茶な理屈だな
538人間七七四年:2010/01/31(日) 21:40:15 ID:7f0EonSN
まぁ、加増してくれたんだからいい話だな。
539人間七七四年:2010/01/31(日) 21:44:49 ID:NkMJttWd
まぁでも一理ある
自分の為だけだと自己判断が甘くなりがちで頑張れないけど
養う人間が出来た途端にその人の為に頑張り始めたって人何人か知ってる
話の趣旨としてはそういう事なんじゃなかろうか
540人間七七四年:2010/01/31(日) 21:52:09 ID:0bE04Att
馬を飼っているというだけで
頭ごなしに十把一からげで叱られたら堪らんわw
しかし戦国時代だからそれもありか
541人間七七四年:2010/01/31(日) 21:52:43 ID:sOGqnC9v
でも250石にしたという時点で微妙な…
542人間七七四年:2010/01/31(日) 21:57:02 ID:NkMJttWd
>>540
馬を養う石高なんて与えてないのにどうやって親族養ってんだよって事だろ
馬なんて養う金あったら親族をもっと大事にしろよと
>>541
お前らが馬よりも親族を大事にして親族の為に努力すれば
馬が養える300石与えてやるから〜
と、好意的に解釈したな俺は
543人間七七四年:2010/01/31(日) 21:58:38 ID:7lZdjBhl
>>533
それを言うなら八丈島のあの人だってそうだろう
544人間七七四年:2010/01/31(日) 22:03:18 ID:0bE04Att
>>542
長政がそういう意味で怒ったというのは解るんだが、
馬を飼っている事情は人それぞれじゃねーかと思ったんだな俺は。

親兄弟や嫁を貰うより馬を選んだ奴もいただろうし、
食うや食わずでも代々馬を飼っている家の奴もいただろう。
そういう個々の事情はまるっと無視して「お前らけしからん!」と沸騰するのは
江戸時代の大名では見られない傾向だ。
545人間七七四年:2010/01/31(日) 22:28:55 ID:7f0EonSN
瞬間湯沸かし器は浅野家の血統なのか。
546人間七七四年:2010/01/31(日) 22:53:13 ID:SA2vGl4A
江戸時代の大名って結構キチ多いけどねえ
547人間七七四年:2010/01/31(日) 23:06:45 ID:85wdHz76
江戸時代の大名って、落語に出てくるような鷹揚で世間知らずじゃとても務まらなかったそうですな。

譜代大名だと、家督を継ぐとまず「奏者番」に任命されるんだけど、ここで先任の奏者番から
家来扱いされて徹底的にしごかれて、殿様気分ってものを完全に消し去り、
お城づとめがどういうものかを体に叩きこまされる、のだそうな。
548人間七七四年:2010/01/31(日) 23:10:59 ID:VENDbR73
>>536
家禄に分不相応な馬を買ったということは
見栄を張った側面も強いのだろう。

あいつが馬持ってるから俺も、っていう。

確かに主君としては戒めなきゃならん事態だよね。
549人間七七四年:2010/01/31(日) 23:31:26 ID:MOG8A7Up
一豊涙目ww
550人間七七四年:2010/01/31(日) 23:40:09 ID:f7vIfBzq
>>544
>親兄弟や嫁を貰うより馬を選んだ奴もいただろうし、
それは家を保ち名を立てることが目的の武士としてはふかくごもいいところだろう。

>食うや食わずでも代々馬を飼っている家の奴もいただろう。
貧しい暮らしして無理に馬を飼ってるなら他の奉公や家族妻子に無理が出る。
そもそも代々馬を飼ってるなら代々そういう分限なんだろうし、
ちょっとその個々の事情とやらを長政が斟酌する必要はないと思うな。
何より最後に加増してる。
これで馬を手放したら相当生活は楽になるはず。
それでもって分相応な武備を整え、手柄を上げれば馬も飼えるようにしてやるぞというわけで。

分不相応なことして忠も孝も果たせず、では本末転倒で武士としての名も上げられまいぞ、というむしろ親心だろ。
551人間七七四年:2010/02/01(月) 00:27:03 ID:vwLBiOyW
でも馬乗りって財政どうのというより身分の証だろ
懐が寂しいからって歩いてくるやつがいたらそれはそれでどうかと思うよ
しかも200石なんつったら結構な侍じゃん
552人間七七四年:2010/02/01(月) 00:34:46 ID:CS5/Pd0J
たしかに200石は普通に自弁の騎馬武者だな。
553人間七七四年:2010/02/01(月) 00:34:48 ID:/6sqZ4Ss
騎馬の身分は基本300石からだったはず。
554人間七七四年:2010/02/01(月) 00:45:15 ID:D9D9e66r
>>536に300石取り以上が自前で馬を飼い
それ以下は主君に馬を借りるのが慣わしって書いてあるじゃん。
555人間七七四年:2010/02/01(月) 03:19:22 ID:WbsQ8YFB
そのあたりは織田時代と藩幕体制下じゃだいぶ価値観違いそうだよね
556人間七七四年:2010/02/01(月) 03:41:35 ID:aaNH3o6o
藤堂高虎「母衣衆に昇進したのに給料据え置き、
       これじゃあ馬飼う事できないので退職しましたが何か」
557人間七七四年:2010/02/01(月) 08:29:14 ID:8lvA2lUV
馬が一頭いればいいってものじゃないから、替え馬に馬の世話をする人やらでけっこうな物入りじゃないか。
馬だからといって甘く見がちだけれど、奢侈だからな。
558人間七七四年:2010/02/01(月) 08:36:42 ID:cPGd7ZNf
現代でも馬一頭食わせて世話するだけで月何十万もかかるものなあ
そりゃ今ほど豊かじゃない戦国時代じゃ貴重品もいいとこだ
559人間七七四年:2010/02/01(月) 08:39:29 ID:3y6aQv2z
余分に馬を買ったり、余分に兵を養うより金をためる方が大切
560人間七七四年:2010/02/01(月) 09:49:54 ID:MRLYmq5S
>>556
後の名ばかり店長問題である。
561人間七七四年:2010/02/01(月) 10:52:43 ID:cUYveO4g
>>559
さすが犬千代!
562人間七七四年:2010/02/01(月) 11:01:39 ID:LmoLWYkY
一豊さんがなにか言いたそうです
563人間七七四年:2010/02/01(月) 12:17:08 ID:CS5/Pd0J
本物(?)の秀吉辞世


露と散り 零と消ゆる 世の中に
    
       何と残れる 心なるらん
564人間七七四年:2010/02/01(月) 15:03:40 ID:FJZGeX3w
ちょっとスレ違いになるんだけど

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1716.html

ここの室町初期DQN三人衆って誰のことを言ってるのかぐぐっても分からないんだが誰のこと?
565人間七七四年:2010/02/01(月) 15:13:07 ID:jQw9pN73
佐々木道誉、高師直、三人目は多分土岐頼遠かな?
566人間七七四年:2010/02/01(月) 15:16:06 ID:/6sqZ4Ss
>>564
多分、高師直、佐々木道誉、土岐頼遠。
567人間七七四年:2010/02/01(月) 15:30:38 ID:FJZGeX3w
>>565-566
ありがとう勉強になったわ
568人間七七四年:2010/02/01(月) 19:22:38 ID:/RibKrCZ
>>565
放火魔、強姦魔、通り魔だな
569人間七七四年:2010/02/01(月) 19:41:19 ID:wThWnS0V
通り魔って土岐のこと? なんでなの?
570人間七七四年:2010/02/01(月) 19:51:05 ID:upovvfv5
天皇張り倒し事件だろうか?
571人間七七四年:2010/02/01(月) 19:52:59 ID:/6sqZ4Ss
>>570
上皇上皇
572人間七七四年:2010/02/01(月) 19:53:08 ID:Dmpi0C7d
酔った勢いで上皇の牛車を襲ったことならwikiにあるね
573人間七七四年:2010/02/01(月) 19:57:51 ID:XAiVzUR8
三河の名族吉良氏の家中に富永伴五郎忠元という剛の者がいた。

富永家は吉良氏譜代の家臣で、伴五郎も弱冠25歳ながら家老職を務め、
主君である吉良義昭にしたがい数々の合戦で多くの武功があった。

桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、今川氏の三河統制が弱まると、
独立を模索し出した家康と今川氏に従う周辺武将の間で緊張が高まる。

主君の吉良義昭は、西三河で今川氏に従う武将たちの旗頭的な存在となり
松平勢に先制攻撃を仕掛け一旦は勝利する。しかし、調略により寝返りが
相次ぎ、遂には本城である東条城を四方から包囲されることになる。

攻城はおよそ半年に渡ったが、伴五郎らの奮戦により容易に城は落ちない。
苛立った家康は、未だ東条城籠城中の伴五郎の所領を攻城陣中の主な武将に
宛がって奮起させた。家康の心を察した武将連は総攻撃の期日を9月13日に定め
それぞれ支度に入った。攻め手の一人、本多広孝は出陣当日、鎧の上帯の結んだ
端を家臣に切らせて解けないようにして決意ののほどを示した。

松平方の総攻撃を見た伴五郎は(もはや敗戦を覚っていたのか)、

「籠るばかりでは御運も開かれまい。某が打って出て殿の御運を開きましょう」

と言って己れの手勢のみを率いて攻め手の中へ斬り込んだ。
富永勢は大いに奮戦したが、多勢に無勢、郎党ことごとく討たれて伴五郎も城の
南西、藤波畷に追い詰められた。押し寄せる敵をなおも斬り倒す伴五郎であったが
本多広孝の槍にかかり遂に斃れた。


伴五郎戦死の報が松平陣中に伝わると、それを聞いた者は皆こう呟いた。

「ああ、伴五郎が逝ったか・・・城も落ちたな・・・」

果たしてその日のうちに吉良義昭から城を明け渡し降伏する旨の使いが来た。


伴五郎は、敵・味方ともに認める勇士であった。彼を斃した本多広孝は伴五郎戦死の地に
供養塚を建てたが、地元民の手によりいつしか地蔵に建てかえられ「伴五郎地蔵」として
崇拝されている。何故か「眼病によく効く」と言われている。
574人間七七四年:2010/02/01(月) 20:40:14 ID:/6sqZ4Ss
>>573
なんか激しいけど、余韻を感じるような良い話ですな。
しかしこういう勇者を祀ったお地蔵様は、たしかに下手な神様よりご利益がありそうだ。
575人間七七四年:2010/02/01(月) 22:27:13 ID:hg/q/0N1
馬も普段は農作業に使うようにすりゃ元は取れるんじゃね?
576人間七七四年:2010/02/01(月) 22:31:35 ID:/6sqZ4Ss
>>575
マジレスすると軍馬と農耕馬は全く別の生き物と考えた方がいい。
軍用場は常に軍事用の調練をしておかないと、実戦では何の役にも立たない。
577人間七七四年:2010/02/01(月) 23:53:56 ID:FUOVrnNJ
何かそんな逸話あったよね。
農家に補助金出して馬の育成やらせたら軍馬として使えなかったっていう話。
578人間七七四年:2010/02/02(火) 02:50:26 ID:Jq4Iv8mU
それでもポンジュースの運搬に役立ったから結果オーライ
579人間七七四年:2010/02/02(火) 02:54:16 ID:vgPRIJb4
乗馬としての訓練とか銃声に慣れさせる訓練とか色々大変みたいだよね。
580人間七七四年:2010/02/02(火) 08:29:36 ID:NOTlHgzD
>>529説に則ると、立花宗茂はムネリンになるのか・・・

嫌じゃのう・・・
581人間七七四年:2010/02/02(火) 09:45:37 ID:u0wx+rDb
>>580
(・◎・)わいのいけめんらいばるやで
582人間七七四年:2010/02/02(火) 17:43:25 ID:95bzSe79
>>577
それ悪い話スレかなんかにあった、
「名馬を作ったら報奨金出すが駄馬だったら下げ渡す」みたいなお触れを出したら、
農民みんな馬が欲しいから駄馬ばっか生産されたって話じゃなかった?
583人間七七四年:2010/02/02(火) 17:52:33 ID:TRONuo6m
イギリスなんかじゃ成長しても一定の体高以下の馬は躊躇無く殺しまくってデカイ馬作ったんだけどな。
なんかやるにはそういう非情さが必要なんだろうか。
584人間七七四年:2010/02/02(火) 17:55:36 ID:TAUvmNDa
宣教師が「日本人は飼っている動物を家族のように大切にして、これを食べようとは考えもしない」
みたいなこと書いてたな。
585人間七七四年:2010/02/02(火) 18:17:39 ID:bx9luT7L
犬の種類が豊富なのもイギリスが狩りに使う為に、
用途別に特化させたからだしね。
まぁ、魚介類や家畜などの為に供養塔建てる文化の方が
世界的には異端なんだろうけど。
586人間七七四年:2010/02/02(火) 18:18:30 ID:Ft3GhjWE
家族のように、というか本当に家族だからねえ
一緒に働いて一緒にご飯食べて一緒に寝るんだもの

うちの田舎でもつい四半世紀前まで飼ってたけど、多少見た目や性格が
悪かったところで処分とか無理絶対無理ほんと無理何と言われても無理
587人間七七四年:2010/02/02(火) 18:20:54 ID:jz0T5Eeb
つか戦国時代は食肉を得るための畜産業が殆どなかったからじゃないの
588人間七七四年:2010/02/02(火) 18:30:20 ID:Ij9s5Iz1
畜産できるスペースが東北北海道にしか無い
589人間七七四年:2010/02/02(火) 18:31:23 ID:og1KXpeQ
必要な農地とカロリーの効率だけ考えると肉より穀物の方がいいからね
590人間七七四年:2010/02/02(火) 18:34:57 ID:jz0T5Eeb
島国だし海産物が豊富なのも要因か
川もいい感じに多くて水害も多かったけどw
591人間七七四年:2010/02/02(火) 18:59:40 ID:95bzSe79
>>588
スペースもそうだけど放牧できる土地があったら開墾して田畑にしちゃうよな
東北は気候の関係で馬飼うしかなかった感じ
592人間七七四年:2010/02/02(火) 19:39:12 ID:Kywsd1sL
甲冑や武具で大量に使うはずの革はどうやって生産してたんだ?
牛や馬が死ぬまで待ってたの?
593人間七七四年:2010/02/02(火) 19:44:41 ID:Hi1eVWkm
ないものは輸入。
594人間七七四年:2010/02/02(火) 19:55:34 ID:TAUvmNDa
>>592
当然の事ながら戦国期の日本にも屠殺業者と言うものは存在してて、
病気や老衰などで死んだ、もしくは役に立たなくなった家畜を買い取り、これを屠殺して解体し
皮をなめし業者などに下ろしていたらしい。
そういう一種の流通ルートがあった。
595人間七七四年:2010/02/02(火) 20:20:55 ID:B4DWkCSp
この頃は数こなしてたせいで皮革加工技術がめちゃくちゃ発展して
戦国時代終わってから後退しちゃったもんで再現できない技術もあるっていうよね
そういうのってなんかロマン感じるわー
596人間七七四年:2010/02/02(火) 20:36:19 ID:m9Uzejxl
あと農村じゃ鹿なんかの大型害獣駆除も農民の大切な仕事の一つ
需要分の原料は取れてたわけで
まぁ玄米と五穀食ってりゃそれなりの栄養取れて、生産効率もすばらしかったから
不安定な狩猟や非効率な牧畜に、頼らなくてもいい恵まれた土地ってことさね
597人間七七四年:2010/02/02(火) 21:39:52 ID:0TI2CjP2
安房だと里見氏が戦国時代に軍馬を育成してたんだけど、
幕府に没収されたあとの牧場は日本初の酪農施設として利用されたとか。
何がどう変わるかわからないもんだねー。

http://www.e-makiba.jp/dairy/index.html
598人間七七四年:2010/02/02(火) 22:42:59 ID:im2a++cx
>>596
江戸期でも農村には、そういう害獣を追っ払うための鉄砲が置かれていたようだしね。
599人間七七四年:2010/02/02(火) 23:35:55 ID:95bzSe79
久留米藩でそういう名目で鉄砲を借り出した百姓が一揆起こしたことあったな
迎え撃とうにも武器はあちらの手にあるという…

藩主有馬家は藩祖豊氏が渡瀬繁詮の家老から独立して、関ヶ原で石高倍、大阪の陣でさらに倍、国持大名になったうえに、
(特になんかしたのこの人…?)
一揆の時の当主は別にお咎めなし、宮家から嫁をもらって算学の研究していたという幸運な藩
600人間七七四年:2010/02/02(火) 23:43:41 ID:Ij9s5Iz1
有馬といえば、天下一の名物茶器「九十九茄子」
(松永久秀が織田信長に献上し、代わりに将軍殺し不問と大和一国を与えられた)
を秀吉から拝領したほどの人物だから。
601人間七七四年:2010/02/03(水) 01:16:43 ID:IPmOHaaq
>>599
子孫が「何したのか分からないのにいつの間にか国持大名になってた」って書いたくらいだからなw
ちなみにその子孫というのが有馬頼寧(有馬記念で有名、たぶん有馬家では一番の有名人だと思われ)
602人間七七四年:2010/02/03(水) 03:24:07 ID:DUx93pIE
九州の有馬ってーとキリシタン大名の有馬晴信が有名だけど、全く別系統の人?
603人間七七四年:2010/02/03(水) 04:18:56 ID:xinkw1s9
>>602
別系統。九州じゃなくて元々播磨の赤松氏の庶流の有馬氏。
赤松有馬氏、もしくは摂津赤松氏と言う。

有馬豊氏のラッキー人生

・赤松氏の庶流の有馬氏の、そのまた次男として生まれる。実家にいても目が出ないので
 義兄にあたる渡瀬繁詮に家老として仕える。

・そのうち小牧長久手で秀吉軍に参加していた兄忠頼が討死、嫡男扱いに。

・そうこうしている内に豊臣秀次の附家老をしていた主君渡瀬繁詮が秀次事件で連座して切腹。
 家老の豊氏が親族であると言うことで、渡瀬家の家臣団と領地を引き継ぐことになる。
 遠江国横須賀3万石ゲット

・関ヶ原で他の東海道諸侯と一緒に当然のように家康に味方。戦後この功で
 丹波福知山6万石に加増

・さらに父親が死んでその遺領摂津三田2万石もゲット。計8万石になる。

・そんなこんなで駿府城や江戸城の普請に精を出していると大坂の陣が起こる。
 当然幕府方で参戦し功を立て、戦後筑後久留米で、一気に2.5倍増の21万石をゲット。
 久留米藩成立。


特に目立った功は無いが、手堅く有能な人だったらしい。ついでに、地味に利休七哲の一人だったりもする。
604人間七七四年:2010/02/03(水) 04:40:17 ID:DUx93pIE
すげぇw

普通に手堅くしてるだけ、ってのがよかったんだろうかw
605人間七七四年:2010/02/03(水) 04:53:52 ID:+2N1+24n
どっかの小田さんに爪の垢煎じて飲ませてあげたいw
606人間七七四年:2010/02/03(水) 05:07:53 ID:zWsJBzFD
真の風雲児は織田ではなく小田
607人間七七四年:2010/02/03(水) 07:04:51 ID:MVQ55LHF
九州の有馬と同姓でややこしいから
有馬温泉さん言っとけばいいな
有馬温泉の地名から有馬なんだろうし
608人間七七四年:2010/02/03(水) 07:10:59 ID:c1+EX63e
決してそんなことは有馬温泉
609人間七七四年:2010/02/03(水) 07:49:10 ID:4r4WfOyO
なんとまあ、一豊以上のラッキーマンがいたとは
610人間七七四年:2010/02/03(水) 09:43:44 ID:Z7fHFOr9
でもこの時代に普通に手堅くってけっこう難しいと思うんだ。
勝ち馬だと踏んだやつが一瞬にして転げ落ちることもザラだし。

有馬豊氏の場合、
不相応な欲を持たずに流れに身を任せてたら、
気づいたらこうなってたって感じがする。

逸話的に平凡という意味で、
豊氏にこそ小田さんの爪の垢煎じて飲んでいただきたいw
611人間七七四年:2010/02/03(水) 10:23:18 ID:RMVhRN5v
まぁラッキーだけじゃ何なので時代的にちょっとルール違反だけど有馬さん家の話

ある時、有馬家中の侍が不正を働いたとして糾弾された。糾弾された当人は、全くの無実である
と申し立てたが、家老たちは協議の上、拷問して真実を糾明すべきだと主君である豊氏の孫の
頼元に報告した。
「当家で士分を拷問した先例はない。無用である。」
と、頼元は異見を述べたが、家老たちは拷問を強行して容疑者から自白を引き出し、切腹させた。

翌年、頼元は趣味として小鳥を飼い始めた。特に、小倉で大金を出して求めた九州無双という鶯を
大事にして、わざわざ係の侍を置き他の者には見ることも許さなかった。
ある日、飼育係の侍がエサをやり行くと、鳥カゴから鶯が消え失せていた。驚いて飼育係が頼元に
報告すると、頼元は激怒して飼育係を捕縛し、家老たちに引き渡した。

「多分、こやつが盗んでよそへ売り払ったのであろう。厳しく詮議し、なお偽りも申すようであれば
拷問にかけよ。」
命を受け、家老たちが拷問にかけようとすると、飼育係は白状した。
「この上は、有り体に申し上げます。薩摩家中の者に売り払いました。」

家老たちが自白について頼元に報告すると、頼元は茶坊主を呼び出した。
「この間、預けた鶯はどうしたかな?」
「はい、殿のお言いつけ通り、鳥カゴを開けて庭に放しました。」
驚く家老たちに、頼元は申し渡した。
「どうだ?真の侍という者は、拷問などは死後までの恥辱と思い、無実の罪さえも引き受けて
しまうという事がわかったか?以後、侍に拷問は無用である。」


またある時、家老たちが頼元に盗人を死罪にするよう意見したが、頼元は却下した。
「下々の些細な悪事にこだわり、みだりに人を殺すものではない。」
「いえ、以後の見せしめになりませぬ。ぜひ死罪を仰せ付け下され!」

「では、殺せ。お前たちはそれが見せしめになり、以後は盗賊が出ない、と言うのだろう?
ならば、もしもまた盗賊が出たら、お前たちの失態として、責任を取ってもらうぞ。」
家老たちは答えに詰まり、盗人の死罪は取り止めとなった。
612人間七七四年:2010/02/03(水) 10:46:33 ID:RzKyt+9S
飼育係の人カワイソス(´・ω・)
613人間七七四年:2010/02/03(水) 10:49:16 ID:5/vigasW
そこでご褒美が出れば市松模様だな
614人間七七四年:2010/02/03(水) 11:26:37 ID:Fa74WeVG
>>612
どこまで仕込んであったのかね。
というか仕込んでなかったら本当にカワイソスだ。
615人間七七四年:2010/02/03(水) 11:55:28 ID:yGOPRIyK
仕込みで拷問される方はたまったもんじゃねーぞ!
616人間七七四年:2010/02/03(水) 12:24:20 ID:4r4WfOyO
普通にいい話だなー、
でも最初から部下に命令を無視されないような貫禄をもっていれば良かったんだろうけど
617人間七七四年:2010/02/03(水) 12:49:43 ID:vDinjm/X
よく読め。拷問前に自供してるだろ?
618人間七七四年:2010/02/03(水) 12:52:12 ID:4r4WfOyO
ちゃうちゃう、最初の方だ
619人間七七四年:2010/02/03(水) 12:54:53 ID:QWsUoZEI
自供してるからよかったが自供しなきゃ拷問にかけられてたんだよな。
飼育係が事前に知ってました、じゃ教訓にならないからな。
620人間七七四年:2010/02/03(水) 14:37:00 ID:8njowIcn
自供しなくても呼びつける気はあっただろうな
「拷問するべきだ」→「拷問は無用」→「拷問を強行し自白を引き出した」→「切腹」
これをいかんと思って
「仕込みに何も知らない侍を一人用意する」⇒「本気で驚いて報告する」→「拷問してみよう」→「拷問されるくらいなら自白する」
⇒「ネタバラシ」

そもそも相手が拷問をする気になってる段階で無実だと言っても誰が信じるだろうか?
魔女裁判に近い物だから改めたって所じゃないか
621人間七七四年:2010/02/03(水) 14:48:56 ID:xJql0QJ+
有馬氏は何もしなくて生き残ったのじゃなくて
庶流とはいえ名門赤松氏の一族で、細川の血をひいたりして親戚に有力者が多く
結果、結構太いパイプと情報網を持ち、そのため時流に敏感で
かつほぼ正確に勝つ側を読み切るだけの材料があり

何よりも則頼や豊氏にトラブルがあっても生き残るだけの才覚と
警戒されないだけの無害さをもってたんだろう
622人間七七四年:2010/02/03(水) 14:52:27 ID:ZgwC4EBP
>>621
同じ赤松氏なのに則英と政広は・・・
623人間七七四年:2010/02/03(水) 14:54:09 ID:xMP8EPeN
名門でござるとふんぞり返ってる場合と
ささ、我が領内の温泉に招待いたしますぞ!ではそりゃな
624人間七七四年:2010/02/03(水) 14:57:00 ID:QWsUoZEI
>>622
斎村政広は藤原惺窩が最も評価していたほどだから
赤松家は教養が非常に高いんじゃないかな。
家格は文句なしだし。
625人間七七四年:2010/02/03(水) 14:59:53 ID:xJql0QJ+
>>622
亀井に殺された言っても過言では無いとされる斎村政広
面白いのは亀井氏は後に有馬氏から養子が来るんだよね
なんつうか、同じ赤松系でもいろんな運命があるよね
626人間七七四年:2010/02/03(水) 16:44:33 ID:5/vigasW
俺の勝手な想像だが、
秀吉が頻繁に有馬温泉へ湯治に行く。
そのお世話のご褒美に九十九茄子拝領。
関ヶ原合戦の戦勝祝いに九十九茄子を豊臣秀頼へ献上。
ご褒美に領土大幅増。
大坂の陣で豊臣領内の北摂地域で反豊臣工作を行い
ご褒美に領土倍増。
627人間七七四年:2010/02/03(水) 17:26:53 ID:joefM0Zn
そうなると、なんという一房で二度美味しい茄子なんだ……(茶器だが)
628大和の名無しさん:2010/02/03(水) 17:51:02 ID:HQasj/EW
ワシにちょっと寄越せ
何、すぐ返す
629人間七七四年:2010/02/03(水) 18:16:28 ID:wQIS7BJn
小田さんなら、どこでもツッコミ入れられるのに
>>603のどこにもボケがなく、ノリツッコミする余地も有馬せん><
630人間七七四年:2010/02/03(水) 18:46:25 ID:5fDmskRz
こやつを拷問に掛けよ
631人間七七四年:2010/02/03(水) 19:52:30 ID:MVQ55LHF
有馬の手前の宝塚から箕面にかけて秀吉の資金源の北摂鉱山地帯だったんだよな
そういう重要な場所の近くを所領にしてたから大事にされたのかも
それ故に酷い目に遭った人の方が多そうだけど
632人間七七四年:2010/02/03(水) 20:10:01 ID:5/vigasW
恩賞=鉱山という単純な見かたもあるが、当時の人間の感覚だと
数万石から数十万石の価値があると見なされた鉱山や都市、茶器などの
褒美も加味しなければならないな。

大坂夏の陣で東軍の戦果一万二千のうち六千個(内一個は真田幸村)を獲得した
越前藩の恩賞が「初花肩衝茶入」一個だけだったという事実もある。
633人間七七四年:2010/02/03(水) 20:10:04 ID:NiHzKzri
>586

家の近所なんかどこもトラクター買うても牛は牛で維持してたよ・・。
最後の方じゃ草刈り機代用みたいなもんで休耕田や山にに放しておいたら
きれいにしてくれるつーんで重宝やったけど・・・。

ま、いつのまにか寿命きたのから消えていったけど。
634人間七七四年:2010/02/03(水) 20:20:40 ID:MVQ55LHF
ちなみに北摂鉱山には秀吉の埋蔵金伝説がある
猪名川町や川西市の山奥には現在でも狸掘りの間歩がぼこぼこ口を開けてるし
埋もれて現代人は鉱石マニアでも存在を把握してない穴も多いと思われる
誰か糸井重里に掘らせろ
635人間七七四年:2010/02/03(水) 20:50:44 ID:xJql0QJ+
斎村政広が処分された理由として、銀山が近かったから
難癖付ける良い機会だった、つうのも有るらしいな
636人間七七四年:2010/02/03(水) 22:03:18 ID:kIP8Uv/0
しかし一豊は一世一代の芝居で2倍、
有馬は乗っかっただけで同じぐらいだからな
大坂の陣でも敵地は豊臣領しかないんだから、外様でこんな加増ってラッキーだよな
637人間七七四年:2010/02/04(木) 01:50:45 ID:6XbxU3fL
伊予松山藩だな
638人間七七四年:2010/02/04(木) 09:03:58 ID:D5Zj7D9L
ん?
松山は喜明さんのあとは久松家で外様じゃないでしょ?
639人間七七四年:2010/02/05(金) 11:56:58 ID:4VMmwEjp
信長の小姓であった森蘭丸がミカンの入った大きな箱を運んでいると、信長が「その重さでは危ない。倒れるぞ」と注意した。
すると、そのすぐ後で森蘭丸は転んでしまい、信長は「それみろ。倒れると言ったではないか」と笑った。
後日になって、小姓仲間の間でそのことが話題になると森蘭丸は「信長様が倒れると注意したのに倒れなかったら信長様の
目利き違いになるのでわざと倒れたのです」と、平然と言ってのけた。
640人間七七四年:2010/02/05(金) 13:49:43 ID:dBWByPOh
佐野昌綱の居城が北条氏政勢3万に包囲された。
知らせを受けた上杉謙信は8千を率いて救援に向かったが、すでに城は
危険な状態だった。

謙信「わが方には優秀な武将たちがおるから、なにも心配する事はない。
   心配なのは包囲されている城兵たちの方だな…。
   よし、私がみずから入城して兵を安心させよう。あとは任せたぞ!」

と言うと謙信は武具も着けず、ただ黒木綿の胴服をつけ十文字の槍を携え、
わずか二十三騎のお供を従えただけで、氏政の大軍の前を静かに馬で通り
入城していった。

氏政勢はその姿に圧倒されたのか「あいつは夜叉羅刹の再来に違げぇねぇ」
とビックリ して誰も近づこうとはしなかった。
やがて氏政勢は小田原に帰ろうとしたので謙信は城兵らとともに追撃したが
ついに両者は刃を交えなかったという。
641人間七七四年:2010/02/05(金) 14:30:39 ID:GOohDGR3
>>639
蘭丸の逸話はなんというか佞臣っぽいなぁ
主君の目利き違いを正す意図が全く無いのは…
642人間七七四年:2010/02/05(金) 14:49:57 ID:F1GgqWXP
やるなよ! 絶対にやるなよ!の精神は昔からあるんだな。
同じような蘭丸の逸話見た気がするけど、テンプレ逸話だからか
643人間七七四年:2010/02/05(金) 14:53:00 ID:t2Jk+MfY
蘭丸って基本的に主人に気持ちよくするタイプの使用人だよな
644人間七七四年:2010/02/05(金) 14:54:35 ID:y/+cvhYo
>>640
で、佐野は上杉を裏切って、北条に付いた?
645人間七七四年:2010/02/05(金) 16:09:57 ID:YgmdNZ8n
>>644
佐野はあっちへふらふらこっちへふらふらですから。
唐沢山城は当の謙信にも攻められたことがある。
646人間七七四年:2010/02/05(金) 16:28:44 ID:+8o16L0H
何故か命日を謙信と同日にするとか、ツンデレ臭い読み物が戦国Xファイルにあるよなw
647人間七七四年:2010/02/05(金) 18:40:39 ID:9eV7YU+O
森蘭丸と言えば森可成の旧領の近江坂本を所望した逸話と
明智光秀の謀反を予想していた逸話が有名だが、両方組み合わせると
近江坂本が欲しくて、明智光秀を失脚せようと讒言したように思える(´・ω・`)
648人間七七四年:2010/02/05(金) 18:52:21 ID:nu3tEFiT
兄や弟の性格を考えると有りそうな気がしてくるから困る
649人間七七四年:2010/02/05(金) 19:10:55 ID:FNKRqLir
>>648
忠政ってなんかしたっけ?
650人間七七四年:2010/02/05(金) 19:56:48 ID:iPH3YSbX

■■織田信成が織田信長の子孫って本当?■■
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1251535688/

あれ?なんで織田家の末裔がいるの?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1072618541/

織田信成アンチスレ Part18
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1262783333/
651人間七七四年:2010/02/05(金) 20:39:12 ID:v+8b9G2G
>>649
忠政さんはあんな事やこんな事を・・・・・・・
652人間七七四年:2010/02/05(金) 23:41:53 ID:JKidTTy5
653人間七七四年:2010/02/05(金) 23:43:28 ID:JKidTTy5
654人間七七四年:2010/02/05(金) 23:54:45 ID:JKidTTy5
失礼

>>624
亀レスなうえにあまり話とは関係ないんだけど
惺窩の政広評価は文才学才そのものではなく、学問を保護しようとしたことにあるのではないかという話がある
というのはかの朝鮮儒者姜の「看羊録」では政広について
「学問を好み、馬上でも書を手放さない。が、生来魯鈍で倭訓がなければ一行も読めない」とあるからで
学問のレベルは低かったのではないかと。

まあ例の評価は「文を好んだ武将」評価だから
当時の武将の学識の平均を考えると政広でも十分高位なのかもしれんが。
帰国の便宜を図ってくれたことには姜も十分感謝しているんだけど
学者として学問の評価をどうこうはできなかったんだろうな。
655人間七七四年:2010/02/06(土) 09:45:16 ID:4Ao+7Faf
まあ英語が出来ない人の中にも賢い人はいるから、とフォローしてみる。
しかし「生まれつき馬鹿だから」はヒド過ぎだろ・・・
656人間七七四年:2010/02/06(土) 10:47:33 ID:+FX4dSAG
つまり辞書持ってないと翻訳ができないタイプと…
657人間七七四年:2010/02/06(土) 11:23:54 ID:tyRNzDZN
実際問題政治とか軍務とかで忙しい武士と
日がな一日、本読んでる儒者が同レベルの学問スキル持ってたら
儒者の存在価値ないだろーと。
そこを考慮せずに「生まれつき馬鹿だから」って
バカって言う方が馬鹿レベルの発言だよな…
658人間七七四年:2010/02/06(土) 11:29:31 ID:LIftOnis
なんかこんなやつ日本史板にいそうw
659人間七七四年:2010/02/06(土) 12:07:44 ID:OgLwmG8T
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1664.htmlといったゴタゴタの末、天正14年(1586)初冬、
毛利宮松(のちの秀元)は秀吉への人質として大坂へ行くことになった。

大坂城では秀吉が毛利の御曹子を歓迎し、宮松に手づから則重の脇差を与えた。
七歳の少年は自分の脇差を外し、拝領したばかりのピカピカの脇差を腰に差し、胸を反らした。
「まだ小さいのに拝領品の扱いを知るとは、日本の子供ではない、唐の人物のようじゃ。
ゆくゆく一かどの者になろうぞ。」見ていた秀吉は感心した。

宮松が気に入った秀吉はある日、毛利家の一行を京に誘った。
「今日は珍しい行事があるゆえ、見物するが良かろう。」
供の者まで歓待されて、あちこちを見て回った宮松は、御所にいた秀吉のもとに一旦戻った。
「すまんな、わしはこれから大事な用がある。お前も今朝から方々見物して疲れたろう。
御所の局に相手してもらえ。」
秀吉は、菊亭晴季を呼び、宮松を長橋の局へ案内するよう預けた。

キャッキャッ゚+。:.゚ヽ( ´∀`)ノ゚.:。+゚
晴季に手を引かれた、御所には珍しい元気の良い七歳児の姿は、やんごとなき御方の目にも止まった。
「…右大臣、その子は?」
「はっ、毛利一門、穂井田元清が一子、宮松にございます。関白の客人なれば、ご無礼ありとても
平にご容赦を……」
「ならば、その子は毛利元就の孫でしょう。元就朝臣と言えば、ひいお爺様の後奈良院へ多大な寄進を為し、
即位礼に大いに貢献した者。その孫が、わが代始めに参りたる事、何たる吉兆。こちらに連れて来なさい。」
「ははーッ!仰せのままに、天子様!」

天正14年11月7日、後陽成天皇、皇位に就く。

その御代の始めに吉兆をもたらしたとされた少年は、七歳にして天子に拝顔し、宿に戻っても
「京中見物の際は、心静かに何時までも逗留あるべし」とのお言葉を賜わった。
宮松同行で天皇に面目を施した秀吉は、ますます少年を気に入り、後年宮松こと秀元が秀秋をさし置いて
輝元の養子になる際も大した軋轢は起こらず、深まった皇室と毛利家の関係は、280年後に大きな意味を持つ。


>>603の有馬さんに感心したので、こんな天下御免のラッキーボーイ(?)の話を。
660人間七七四年:2010/02/06(土) 12:21:25 ID:eMVvy2WW
>>659
ところでその元記事の輝元の北の方の話だけど、
そもそも宍戸元秀って五龍の息子だから、一応毛利の血は引いてるよね
661人間七七四年:2010/02/06(土) 13:08:15 ID:XDgeFvtn
当時、インテリ系の武士は漢文読める人多かっただろうし
朝鮮じゃ漢文出来ないのは馬鹿扱いが当然なんだから
朝鮮人にアイツ馬鹿って言われても仕方ない気がしないでもない
662人間七七四年:2010/02/06(土) 13:38:00 ID:4Ao+7Faf
>>661
現代なら「英文学専攻したけど英語とか全然わかんないしw」ってことか。
あれ?・・・ヒドく・・・ないような・・・?
663人間七七四年:2010/02/06(土) 13:50:19 ID:VTL81N5W
後の世の事を考えると姜は間違ってる
倭訓、つまり自分たちの言葉で海外の文献を学べると言うことは実は重要
現代で高等教育を学ぶのに母語で専門語彙を表せないので
どれを学ぶにしろまず英語やフランス語を学ばざる負えないという自体が発生してるから

姜は日本の記録を多く残し旧来の考え方に縛られない献策もしてるが
中華は尊く倭は野蛮という意識からは逃れられなかったみたいだな
664人間七七四年:2010/02/06(土) 15:40:32 ID:sfU/cvhk
>>663
確かに逆に言うと漢文も読めないようなやつが難しい本を読めるわけだから便利だよね
しかしそんなに好きなら原文で読んだ方がニュアンス伝わるのにという気持ちもわかる…
665人間七七四年:2010/02/06(土) 15:50:35 ID:m8NG157K
>>657
姜は役人でもあるから
当時の大陸における官僚=地主=文人という構図を日本に当てはめた場合
領主でなおかつ惺窩の支援者という政広に期待する物は大きかったんじゃないかと。

>>662
英文学者なら苦笑いするんじゃね?
しかもその人が国内最高峰の英文学者のパトロンだったら。
666人間七七四年:2010/02/06(土) 16:28:15 ID:GOTj4Tds
>>664
日本人は大抵の各国文学が邦訳されてるのが当然の事だと思ってるけど
英訳ペーパーバックが出回るだけって国も多いと留学生が言ってたなあ

半端な語学能力で間違った知識を覚えてしまうよりは、素直に
邦訳から入るのもアリだとは思う
楽師をかかえたパトロンが演奏の達人である必要はないわけで
667人間七七四年:2010/02/06(土) 16:58:15 ID:L7LRvpap
自分は一応外国語で食ってた人間だが、
大学教授とかが翻訳した本でも誤訳が結構見つかったりする。
だからどうせなら原書で読む事にしてるな。
ってか、今でも大学とか教材に原書使う事多い筈じゃ?
668人間七七四年:2010/02/06(土) 17:23:40 ID:6l+g86sB
チェコスロバキアでは人口が少ないせいで、よっぽどの需要がないと
チェコ語で出版できないそうな。
一億以上の人口を擁する日本は、恵まれているのかもしれない。
669人間七七四年:2010/02/06(土) 17:43:25 ID:jhIoWiwu
>>663
惺窩は、中国がもっとも進んだ文明国で、次は朝鮮、日本は野蛮な国と言う認識。

実際は、北方騎馬民族に蹂躙された、シナ・チョンの方が野蛮なんだけどね。
670人間七七四年:2010/02/06(土) 17:54:45 ID:VTL81N5W
>>669
お前がどんな価値観持ってようが勝手だが人をダシにするな
不愉快だ
671人間七七四年:2010/02/06(土) 17:56:19 ID:cSAaXgnB
中国の野蛮という表現はただ単に中国に忠実であるかどうか、それだけ
前文明を完全否定したあとでそれを評価するから良い物なんて残ってないよ
672人間七七四年:2010/02/06(土) 17:57:01 ID:0i24mdk8
ロドリゴじゃなかった踊り子さんには手を触れないでください
673人間七七四年:2010/02/06(土) 18:04:33 ID:GOTj4Tds
>>667
学問のプロはそうあるべきなんだろうとは思う
ただ武将には別の本業があったという話では
674人間七七四年:2010/02/06(土) 18:05:55 ID:68biQvXg
日本人であることに誇りがあるから
他国の人間を一面だけみて罵倒する奴が同じ日本人であると思うと恥ずかしい
中国は歴史が長く人も多い分、もしかしたら日本よりも多種多様な考え方があるかもしれない
差別主義者もいるだろうけど、傑物だって必ずいるよ
一枚岩ってことはないだろう

物事を多角的に見れて、差別をしない人間になりたいもんだ
ここに出てくる偉人達(例外はあるがw)の列伝を読むと本当にそう思う
675人間七七四年:2010/02/06(土) 18:30:34 ID:CyPV0EDy
このスレで出てくる偉人たちというと

伊達
福島

あたりが即座に思い浮かぶな
676人間七七四年:2010/02/06(土) 18:39:15 ID:qec5oSM5
関係ない逸話にもすーぐ乗っかるからな
677人間七七四年:2010/02/06(土) 19:20:26 ID:NoMs5Lwj
立花宗茂は疲れていた

宗茂が2代将軍、徳川秀忠から非常に重用されたこと、これは有名であるが、
宗茂はさらに、3代家光からも高い信頼と寵愛を受けた。

これは考えてみれば不思議なことで、家光は父秀忠に近い人間に対しては、基本
敬して遠ざける、といった態度をとっている。その中で宗茂だけは、秀忠の時代にもまして
重用をしたのだ。これは武人としての宗茂の、その立ち振る舞いと実直さを愛したためとも言われる。

さすがの宗茂も、もはや老境である。そんな宗茂に家光は、寒くなったと思えば頭巾を与え、
これを貴人の前でも脱がなくて良いとし、足が弱くなったと聞けば手づから杖を与えた。
そしてどこに行くにも宗茂を扈従させた。『将軍が宗茂を敬愛すること、父子のごとし』と言われた。

この頃の宗茂の書状にはよく

「草臥れ申候」

と言った言葉が並ぶ。
若い家光に付き合うのは、さすがに寄る年波から、疲労も大きかったのだろう。


…が、それと同時にこんな言葉も並ぶ

「忝ない仕合せに候」


『たいへんだけど、嬉しいんだよね』そんな言葉が聞こえてきそうである。


波乱万丈の勇将、立花宗茂。彼はその晩年を、幸せにすごしたようである。
678人間七七四年:2010/02/06(土) 20:52:06 ID:LV6PZ9US
>これは考えてみれば不思議なことで、家光は父秀忠に近い人間に対しては、基本
>敬して遠ざける、といった態度をとっている。その中で宗茂だけは

( ●∀゚)<………………
679人間七七四年:2010/02/06(土) 20:59:58 ID:eMVvy2WW
忠興や高虎とも仲良しだし、基本ジジイ連中大好きじゃね?>家光
毛利秀元は秀忠とは仲良くなかったっけ?
680人間七七四年:2010/02/06(土) 21:02:26 ID:VTL81N5W
父子のごとしって家光親父との仲良かったっけ?
681人間七七四年:2010/02/06(土) 21:08:53 ID:tOBav2L1
阿部忠秋と松平信綱は、共に幼少のときから家光に仕え、幕府の体制作りに尽力し、家光亡き後は、寛永の遺老として重きをなした人物である。
二人の仲はよかったが、性格は正反対であった。

ある日、家光がお供のもの(上記二人を含む。)と共に、鳥撃ちに出かけたときのこと。
鳥はたくさん見つけたが、飛び立たせるための石が近くにまったくなかった。
鳥が飛ばないと撃つこともできない。いらつく家光。途方にくれるお供の者たち。
すると、そこで進み出たのが知恵者(というより逸話見る限り頓智といったほうがいいかもしれない)松平信綱である。
「おまかせください。」

信綱は、近くを通りかかったシジミ売りからシジミを徴収すると、石の代わりにシジミを鳥に投げつける。
びっくりした鳥はあわてて飛び立ち、家光の銃の餌食に。
思わぬ大漁に家光は大いに満足。信綱もお褒めの言葉を賜った。
ここまでは信綱のいい話。

さて、鳥撃ちを終えた一行が帰ろうとするとき、阿部忠秋は、シジミ売りを呼び止め、代金を支払った。
信綱が、シジミ売りも将軍の役に立てたのだから代金は払わずともよかろうにというと、忠秋は、
「シジミ売りも生活があるんだし、将軍一行だからこそ、こういうことはきちんとしなければいけない。」と逆に説教した。
庶民への配慮を欠かさない、忠秋のいい話。

でも、信綱にしてみれば、
「将軍にシジミを献上したといえばいい宣伝効果になるんだから、わざわざ金払わなくてもいいじゃないか。」
と考えていたかもしれない。
682人間七七四年:2010/02/06(土) 21:39:27 ID:bMPzXYAw
ふむ、家光はジジイでもイケるのか
683人間七七四年:2010/02/06(土) 21:44:43 ID:ByWezmar
徳川家康は上杉景勝が関東を攻めると聞いて、関東に向かった。
そして家康が近江水口まで来ると、水口城主の長束正家から使者
がやって来て「食事をもてなしたいので是非来てください」と伝えてきた。

しかし家康のスパイによると正家は石田三成と組んで家康を亡き者に
しようとしているという。
「うーむ、不味いな。寡兵の我々では水口城の兵とは戦えぬ…」
「私に良い考えがあります」

行動を起こしたのは家康の側室於奈津だった。
行動とは男装女装である。於奈津は自分の衣類を家康に
着せて女籠にのせると、自分は家康の陣笠、陣羽織をつけて
家康の代わりに馬に乗り、軍の先頭にたった。そして一向は
夜中に水口城下を走りぬけ、伊勢経由で三河にたどり着いた。

「お前は危ないときにいつも身替わりとなってわしを救ってくれるな。
これからもわしの側を離れないでくれよ」
三河に着いた家康はそう言うと、於奈津に愛刀を授けた。

そういうことがあったからか、於奈津は関ヶ原の戦いでも大坂の陣
でも家康の側にあっていつも男装であったといわれている。
684人間七七四年:2010/02/06(土) 22:02:08 ID:yPgz3mr9
>>680
家光の方が秀忠を嫌っていたという話はあるな・・・
自分の父は権現様だと言ったとか何とか。
あやうく廃嫡されるところだったし。
685人間七七四年:2010/02/06(土) 22:03:08 ID:RyGm8wzq
うーん…関ヶ原の時は凛々しい娘だったかもしれないが、
大阪の時は男らしいオバハンに。。。
686人間七七四年:2010/02/06(土) 22:06:18 ID:sfU/cvhk
家康のふりができるってことは遠目にも恰幅の良い女だったんだろうな
当時はそれも美人の条件か
687人間七七四年:2010/02/06(土) 23:47:55 ID:n4ybctFM
家康のチョイスならなおさらだな
きっと安産型だろう
688人間七七四年:2010/02/07(日) 02:26:38 ID:UgXm3AG8
>>684
父親というか、自分を家康の生まれ変わりと自負してたみたいだな。
家光が所持してたことで有名な「二世権現」という守り札も、「二世」というのは
二代目というよりも生まれ変わりというニュアンスのものだしね(夫婦の契りは二世、
というのと同義)。

でもまあ、家光の場合、夢に見た家康を度々描かせていたりと、自身の中で偶像化というか
理想化された家康像というのを盲信していたといったほうが適当かもしれんが。
こういうところとかをみても、家光って、性癖に限らずいろいろと倒錯している人物のように思うんだよなあw
689人間七七四年:2010/02/07(日) 09:04:25 ID:hvK8lV6Y
>>670
事実を書いただけ
690人間七七四年:2010/02/07(日) 09:14:34 ID:KvrkWMsP
家康に似ていたとするとげんなりだが、狸娘と考えると萌えるな。
691人間七七四年:2010/02/07(日) 11:12:22 ID:pb+5C9RN
>>690
ああ、宮崎アニメにでっかい母ちゃんがいたよな
692人間七七四年:2010/02/07(日) 12:23:36 ID:zjHHw30p
>>688
家康生きているときに生まれたのに生まれ変わりとは
どこのお塩?
693人間七七四年:2010/02/07(日) 12:38:23 ID:3aw70Nqd
>>692
徳川家康を自らと思い込んでた
現実には本物がいると理解っていた
694人間七七四年:2010/02/07(日) 13:01:47 ID:pQKYcs4d
家光と宗茂といえばこんな逸話もある。

島原の乱に思いのほかに時間がかかってしまったというのが世間の評判。
総指揮をとった松平信綱は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3219.html#more
こんな話で笑われているように百姓連中に手間取ったと中傷をされていた。

当然そういった評判は将軍・家光の耳にも入る。
生まれながらの将軍とはいえ大規模な戦闘ははじめて。
信綱の仕儀がよかったけど時間がかかったのが手際が悪く時間がかかったのわからなかったので
褒めてもよいものか苦言を伝えるべきか悩んでいた。

そんな折、一人の老将が登城してきた。立花宗茂である。
まあ、現場にいて経験もあり発言も確か。この件を正しく裁定できるのはこの人か水野勝成ぐらいだろう。

すぐに宗茂を召し、信綱の仕儀を問うたところ、
宗茂は
「全く持って完全万端な仕儀。それがしが考えていたよりもよほど早く治まりました。」


家光はそれ以後この件で信綱を中傷する者に耳をかさなかったという。



もともと長期戦を訴えていた宗茂にしてみれば信綱に対する嘲笑なんて
「物を知らない口ほどよく動くw」
と言ったところだったんだろうなwww
695人間七七四年:2010/02/07(日) 13:04:59 ID:XE5bEUOW
勝成もなんというか、ある意味で正しく裁定出来るのか怪しい気もするがなあ……w
696人間七七四年:2010/02/07(日) 13:07:26 ID:KsQJxXPy
>>695
森忠政の口車で城昌茂を即日クビにしたりしてるもんなぁ
697人間七七四年:2010/02/07(日) 13:26:35 ID:JdT05n0F
小説だけど「出星前夜」では水野さんとこも (ノ∀`)な感じに
書かれてたような
出典あるのかなー
698人間七七四年:2010/02/07(日) 13:31:09 ID:TUxd3o13
まぁ宗茂が公正な判断するのは間違いないから聞く相手は間違ってはいないかw
699人間七七四年:2010/02/07(日) 13:44:13 ID:un3tZpiB
>>682
※但し権現様と仲の良かったジジイに限る
700人間七七四年:2010/02/07(日) 13:54:15 ID:un3tZpiB
>>694
   . . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
        Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
       /:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
      / :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
      / :::/;;:   ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄

もう一人いると思うんだよななぁ・・・
17歳の頃にあの北条を手玉に取って大活躍して
腹黒親父やKYな弟に振り回されて
鬼嫁に頭が上がらなかった名将がさ・・・

701人間七七四年:2010/02/07(日) 13:56:08 ID:zjHHw30p
>>700
兄ちゃん・・・
702人間七七四年:2010/02/07(日) 14:11:35 ID:pQKYcs4d
>>700
あんた、島原に居なかったじゃん
それにちゃんと細川さんが名将の言う事を聞いて手柄立てたんだから
これぐらいのことは気にしない
703人間七七四年:2010/02/07(日) 14:42:45 ID:lABf2Otc
影薄いネタで自己主張する真田さん
704人間七七四年:2010/02/07(日) 15:04:31 ID:XbnpCXPE
鍋島勝茂・・・は絶対に公正な意見は言わないか
705人間七七四年:2010/02/07(日) 15:46:16 ID:sSRMEc93
家光って鬱病持ちなんだっけ?
秀忠との軋轢なんかを考えると納得できる気がする。
706人間七七四年:2010/02/07(日) 16:04:49 ID:4re10Sdk
そりゃ絶対に自分を脅かせない弟はかわいがるよな。
それまでのいろいろの反動からも。
707人間七七四年:2010/02/07(日) 17:06:48 ID:tbHDwvTA
>>706
正之と秀忠の面会の後
忠長は自分の葵の紋服を与えたりとたいそうかわいがったが
家光は型通りの挨拶をするだけだった、なんて話もあったりする。
708人間七七四年:2010/02/07(日) 17:15:22 ID:XbnpCXPE
>>707
よく言えば、相手に公的な場面での自分の立場を分からせる器量があるとも言えるのかも
家臣に過ぎない異母弟をむやみに厚遇しても、それに阿る家臣が出たり、異母弟が増長する可能性もあるわけだし

大雑把に言えば、義経の如く
709人間七七四年:2010/02/07(日) 19:11:29 ID:R2jxMWTi
忠長としては対家光の共同戦線張る味方として正之を自分の側に引っ張りたかったのかも
だから殊更に人前でかわいがって見せたのかもね
710人間七七四年:2010/02/07(日) 19:18:52 ID:23Pj7PRQ
>>707正之は秀忠と対面していない、と言う説もある。
711人間七七四年:2010/02/07(日) 20:57:44 ID:dClHMl7D
>>707
父子の名乗りはしてないんじゃなかった?
712人間七七四年:2010/02/07(日) 21:31:28 ID:HUndgckH
「月さびよ 明智が妻の 咄(はな)しせむ」 ・・芭蕉

(趣のある月明かりのもと、明智の妻の話をしよう。
 あなたの心遣いが、報いられますように)

芭蕉が伊勢参詣のため、門下の又玄の家に泊まりました。
又玄は神職間の勢力争いに負け、貧窮にありましたが
けなげなその妻のまかないに感動し、歌を贈ったそうです。

【明智の妻】
連歌会という、食事しながら兵法や合戦を語る会がありました。
当時の光秀には、ホスト番の費用が工面できず、気落ちしていました。
ところが妻が密かに髪を売り、この費用を工面しました。
会の後、妻の髪を見た光秀は驚き、不憫に思い
「五十日以内に出世し、必ず玉の輿に乗せてやる」と誓ったそうです。

やがて1572年、近江志賀郡坂本城主となります。
しかし1576年、妻煕子は病にかかり生涯を閉じます。

月さびよ あけちがつまの はなしせむ ・・
713人間七七四年:2010/02/07(日) 23:15:15 ID:4re10Sdk
利休「下の句は…?」

なるほど、これ芭蕉の句だったのか
714人間七七四年:2010/02/07(日) 23:20:41 ID:uzf0GZHg
うろ覚えだが、江戸の狂歌に

「賢妻は 髪切る尻に 酒を買い」 ていう明智妻をパロった句があったな
715人間七七四年:2010/02/08(月) 14:29:36 ID:Hk77GJ/f
O・ヘンリーの「賢者の贈り物」みたいにはいかなかったんだね
716人間七七四年:2010/02/08(月) 17:26:17 ID:sZsLy9Cx
島原の乱の話で
勝成の事が出てたので、この話のその後のお話を一つ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2780.html

上の話の最後にあるように
水野家の軍は、城の本丸一番乗りを有馬康純と争ってた訳だけど
では、どちらが先に一番乗りであったのか?
という訳で、これにはある逸話がある。


当初、本丸一番乗りを果たしたのは、水野家の者達であったらしいのだが
ここで待ったをかけたのは、有馬家の者達
そう、こちらも別方面から攻めて、本丸に来ていたのだ。

有馬家の方は、大将自ら本丸に来ており
有馬康純は自ら周りの兵士達に「俺が一番乗り」と言い
その場でアピールをした。

これには水野家の方でも譲らず

「何が一番だ、俺たちはもう既に旗も立ててる
お前達が自ら二番目を認めるなら、ここに登ってきても良いぜw」

と煽り口調で家中の者達が反論。

そう既に水野家の方では、兵士達が本丸に旗を立ててアピールし
「俺たちが一番乗り」を印象づけていたのだ。

有馬家の方では、それを見たうえでこう反論した。

「おまえ達の大将はまだ下の陣にいるじゃん
俺たちの大将は今この本丸にいる。
だから、おまえ達は二番乗りだ」

こう言い、さらには、なんと大将の康純自ら
「美作守(勝俊)は何処にいるんだ?」と
水野家家中に尋ねて、この場にいないことを知ると
「じゃあ俺より後じゃないか」
と言い、なんとその場にずっと居座ったw

勿論、まだ戦が完全に終わった訳じゃないので
有馬の家中の方々は必死になってその場で守るような状況に。
鉄砲を前に並べて、鉄の盾を構えて朝まで必死にガードw
717人間七七四年:2010/02/08(月) 17:28:42 ID:sZsLy9Cx
それから、次の日になって
ようやくその場に、勝成の息子で
水野家の軍を指揮してた勝俊が到着。

ここで本丸に居座った康純と、ようやく対面を果たすが、
勿論、勝俊は真っ先に、水野家が本丸一番乗りである事を反論する。
その場には、水野家一番乗りの証人でもある部下もいた。

「たとえ自分達大将が陣地にいても
軍法において、旗を最初に入れた者がいれば、一番なのは当然じゃないですか?
我々は力攻めで多くの犠牲が出てしまいましたが、
そのおかげで本丸一番乗りを果たしました。この事は誰にも譲りません」
といい一歩も譲らなかったが

康純の方は康純の方で
「旗の前後なんか関係あるか、この場には俺が一番最初に乗りこんだんだ。
俺以外の将がその場に誰がいたか?」
と、こちらも怒った口調で一歩も譲らない。

これでは埒があかないので、そこで勝俊
「今ここで争っては無益です。ですので、あとで戦に慣れた方に
どちらが一番乗りだったのか、決めてもらうのはどうでしょうか?」と言うと

途端に康純は打ち解けた様子になりw
その場で小姓を呼んで、そこでお茶を飲み、
一緒に来ていた勝俊の部下にも優しく言葉をかけ、
その場から去ったそうな。

これには勝俊「康純という方、並々ならぬ人だ」と
康純、勝俊共に互いに褒めあったそうな。


大将だからこそ、一番乗りにこだわる康純さんと
一番槍好きで、癇癪持ちの勝成さんの息子なのに
妙に人間が出来てる、勝俊さんの対比が見えるのが何とも。
718人間七七四年:2010/02/08(月) 18:48:01 ID:DZfGhAM6
新田義貞の墓がある福井の称念寺に浪人時代の明智光秀が訪れ、
江戸時代に称念寺を訪れた松尾芭蕉がその歌を詠んだという壮大な話。
719人間七七四年:2010/02/08(月) 20:27:59 ID:Jv5ZJkpF
>>716-717
有馬康純さん、いかにも戦国の気風を残した武人って感じでいいですねーw
これだけアクが強いのに嫌味が無い。
720人間七七四年:2010/02/08(月) 21:39:50 ID:ny0NKRDI
めったに無い名を上げる機会なので皆必死なんだよな
参戦して無いはずの大名も「陣中見舞い」と称して人派遣して
そのまま居残りあわよくば家中の名を上げようと虎視眈々とチャンスを狙ってたとか
721人間七七四年:2010/02/08(月) 22:28:10 ID:Gjd+uPA1
有馬とか池田は別系統がいるから系譜がごっちゃになる
722人間七七四年:2010/02/09(火) 12:35:45 ID:Lv/mpRtt
有馬康純の嫁の親父が水野勝成の弟だね。
義理の従兄弟か
723人間七七四年:2010/02/09(火) 13:26:28 ID:JSt2VNvd
上杉謙信が関東攻略の拠点とした上州厩橋城。
この城に北条、武田の連合軍が攻め寄せた。
謙信も懸命に防戦するが、夜になっても攻撃は続き、城下の街は焼き払われ、城門をも打ち破られてしまう。
さぁ城内へ北条軍が雪崩込もうか、という時、城の一角から敵味方誰にも見覚えのない不思議な一軍が現れ、手に手に松明を翳して北条勢の只中に切り込んでいった。

この見知らぬ軍勢の勢いに乗じて城方は反撃に出た為、流石の北条、武田連合軍も敗走してしまった。
上杉軍は追撃をしようと意気が上がるが、謙信は「逃げたと見せかけて伏兵を置いてる危険がある」と追撃を禁止した。

翌朝、もっとも激しい戦いが行われていた城門の辺りを見ると、そこかしこにおびただしい獣の毛が散らばっている。
「さても怪しきこと」
一同で不思議がっていると、近くの草むらから一匹の獣が発見された。
なんと、びっくりするほど大きな狸が甲冑を着て蹲っているのだ。手と言い、足と言い、身体中傷がない所はないという有様で、息も絶え絶えの様子であった。

一人の武士が狸に走り寄ると、狸は「私は古くからこの城に棲んでいる狸です」と人の声で話し始める。
昔から将兵達にも見知られており、あたかも城で飼われているようであった。
その恩ある将兵達が昨夜の戦いで苦しみ、落城してしまうかも知れない。
獣の身ながらこの事態を傍観している事は出来なかったのだ。そこで多数の兵士がいるかのように変化し、力の尽きるまで戦い抜いた。
ご覧の通り傷は深く、もう長くは生きられまいが、この城を守りぬけたのは本望である。
そう語り終えた後、大狸は静かに息を引き取ったと言う。


永禄年間となっているようで、その時期に北条武田連合軍が厩橋城に攻め寄せたのは永禄六年かな?「関八州古戦録」ではその場に謙信はおらず、北条山城守が防戦の指揮を取った事になってる戦ですね。謙信の援軍が沼田に着いたと聞いて連合軍は引き上げたようです。

ちなみにこの大狸はココで死んでしまいますが、ラスボスの関東仕置きの際にも厩橋城には狸軍が出現しているとの事。
石垣の上にずらりと並んだ軍勢が石飛礫で北国軍を悩ませたんですが、蟇目の矢を射られると綺麗さっぱり掻き消えてしまったとか。
落城後の厩橋城では「茂林寺の分福茶釜狸が援軍に駆けつけたのだろう」と噂したとか。
724人間七七四年:2010/02/09(火) 13:39:43 ID:LjEqBp+K
この秀吉の仕置きに歯向かうとはさても憎い狸よ
狸を殲滅せよ

とかオチがつかなくてよかった
725人間七七四年:2010/02/09(火) 13:47:01 ID:1iobDkjq
いい狸だな。

狸だらけの国、関東だから家康の経略がうまくいったのか。
726人間七七四年:2010/02/09(火) 13:51:56 ID:k2SfLWUd
狸を殲滅せよ!
ほらそこにいるではないか!!
そこの人に化けた狸を討て!!!

とだな
727人間七七四年:2010/02/09(火) 16:03:10 ID:QB90/Ut7
野々村真が声優をやる訳だな
728人間七七四年:2010/02/09(火) 16:58:27 ID:W95o+9JV
動物が健気にも人に尽くすタイプの話は駄目だ・・・
仕事中なのに、泣きそうじゃないか
729人間七七四年:2010/02/09(火) 17:14:25 ID:CBIOewsT
>>722
調べてみたら康純さん
女系とはいえ家康の玄孫なのか。
と言うことは、遠いながらも
こちらの方からも水野さんとは血縁関係。
あと本田忠勝の孫でもあるのね。
730人間七七四年:2010/02/09(火) 17:16:13 ID:hyrZmAaj
ここの狸は厩橋城が火事の時にも助けに来たんだぜ。
731人間七七四年:2010/02/09(火) 19:34:18 ID:IhlBMWx0
何という義理堅い狸・・・・
人間が裏切りまくりの時代だというのに
732人間七七四年:2010/02/09(火) 20:06:06 ID:Nc5QoP6P
狸って奴は日露の戦争にも出征したって話があるし意外と郷土愛があるんかね
733人間七七四年:2010/02/09(火) 20:21:48 ID:z/RHotmC
だから人間も獲らず皮算用だけで済ませた、と。
734人間七七四年:2010/02/09(火) 20:59:39 ID:M4QsFxhc
大東亜戦争ではどうだったんだろうか。
735人間七七四年:2010/02/09(火) 21:01:13 ID:578llGqm
狸だけに他を抜く軍功を挙げたわけだな。
736人間七七四年:2010/02/09(火) 21:23:39 ID:mc2KAfeB
俺の知ってるタヌキはバアサン殺して鍋にして食ってたぞ。
まあ、俺の婆さんはタヌキ殺して鍋にして食ってたが…。
737人間七七四年:2010/02/09(火) 21:26:24 ID:Lqcl8lbK
泥船に乗って沈んだんじゃなかったっけ?
738人間七七四年:2010/02/09(火) 21:33:37 ID:SyRkC80+
>>736
あれはタヌキ鍋ではなく正確にはアナグマ鍋な。
タヌキは臭くて食えたものではないというのがひとつ、
それから、昔は地方によって『タヌキ』と呼ばれた生き物が異なっていたらしい。
必ずしも現在の動物学で言う『タヌキ』とはイコールでないってさ。

だから>>723の言う『狸』も
今で言うアナグマの可能性はあるね。
739人間七七四年:2010/02/09(火) 21:39:05 ID:vonjJcBJ
>>735みたいな人物が気の利いた和歌詠んで
処罰を免れたり加増されたりするんだろうなw
740人間七七四年:2010/02/09(火) 22:13:44 ID:F92M7arG
地元のお話が少ない気がするので小ネタを

天正の頃、津軽平野を瞬く間に席巻した津軽為信でしたが、彼が次に目をつけたのが外ヶ浜(今の青森市〜外ヶ浜町)の要衝、油川城でした。
連戦連勝で勢いに乗る津軽勢は、一気に青森平野へとなだれ込み、油川城へと迫ります。

……が、この城を守る南部家家臣奥瀬善九郎はなかなかの名将であったらしく、津軽勢は城を落とすどころか野戦で叩きのめされ、撤退……というか潰走。
青森平野から追い出されました。
※ちなみに、この時為信が『白旗をあげて逃げた』ことから、この周辺を『白旗野』と言うようになったという説を聞いたのですが……白旗?

さて、これに懲りた為信は、正面攻撃では勝ち目がないと踏んだのか、はたまた無駄な兵力の損失を惜しんだのか
それともただ単に奇策が好きだったのか、策略によって城を落とすことにしました。
というのもこの善九郎、戦場ではなかなかの名指揮官だったのですが、かなりの怖がりで、
夜厠に行くときは、鈴を鳴らして外にいる家臣に返事をさせる……それでようやく安心して用を足す、といった具合だったそうなのです。

そして、ある夜、彼が厠に行った時……どうかは知りませんが、ふと外を見ると多数の篝火が山をおりてきます。
その数は圧倒的で、とても油川城の手勢で守りきれそうもありません。
これを見た善九郎は抗戦を断念、持ち出せるだけの軍資金等を運び出させ、自身は船に乗って対岸の田名部(現むつ市)まで落ちていきました。

説明するまでもなく、この篝火は為信が実数以上に多く焚かせ、大軍に見せかけたものでした。
為信は一兵も損じることなく、城を落とすことに成功したわけです。


いい話と悪い話、どちらに投稿するのか迷ったのですが、為信に一度は土をつけた善九郎と、それを策略によって敗走させた為信の知恵ということでw
ちなみに、奥瀬善九郎の話、臆病者で篝火で逃げた……というのばかりで、野戦で為信を撃破したという部分があまり出されていないので、優れた面もあったのですよ、と弁護。
741人間七七四年:2010/02/09(火) 22:19:18 ID:VzTu9/4Q
>>740
> この篝火は為信が実数以上に多く焚かせ、大軍に見せかけたもの
この辺は武田流の軍略って感じですな。血のなせる技なのかw

武田といえば

> この時為信が『白旗をあげて逃げた』ことから、この周辺を『白旗野』と言うようになったという説を聞いたのですが……白旗?

この時期からそうなのか知らないが、津軽氏は源氏を名乗っているから、源氏の白旗なんじゃないかな?
742人間七七四年:2010/02/09(火) 22:39:57 ID:4GpG7GxE
741の言うように、源氏の白旗だろうね。

戦国時代じゃないんで詳細は省くが近所に白旗塚って地名がある。
新田義貞が鎌倉幕府(北条氏)追討の南下の際に何回か合戦をやってるわけだけど、
そのうちの一戦で本陣を構えた場所(源氏の白旗が翻った場所)だから、って由来で。
743人間七七四年:2010/02/09(火) 22:54:50 ID:C7cGclZX
為信は久慈家からの養子だから後に近衛家の傍流を自称して、本姓を藤原としたみたいだね。
744人間七七四年:2010/02/09(火) 23:34:12 ID:F92M7arG
>>741
>>742
ありがとうございます。今まで津軽は藤原(近衛)氏だと思っていたんですが、今調べたら源氏も名乗ってたんですね……
不勉強で申し訳ないです。そして、長年気になっていた疑問が氷解しました。
教えてくれた方が『降伏の意味で〜』みたいな話っぷりだったので、疑問だったのですが、これは近代になってから降伏の白旗とごっちゃになったのかなぁ……とw


お礼かたがたもうひとつ為信ネタ。
さっきのと同じく、昔郷土史の先生に聞いた話です(ネットで補足)

天下もそろそろ安定し、武勇よりも世渡りが大事になってきた頃のお話。
どうにかして秀吉にお近づきになりたい津軽為信でしたが、如何せん文字通りの『陸奥』の田舎大名……
まともに行ってもとても相手にしてもらえません。
そこで為信は考えました。
そういえば、奥州藤原の末裔と名乗っていることもあったり、ご先祖様の大浦政信は前関白近衛尚通の隠し子だという伝承があったりなかったりする。

よし、近衛(藤原)氏になっちゃえ!
……実はお前南部一族の出身だろとか言われたくないしねw

ということで、時の関白近衛前久に接待攻勢、よっぽど貧乏だったのか、はたまた東北の珍物が効いたのか、
まさか本当に近衛家に心当たりがあったのかは知りませんが、意外とあっさり養子にしてもらった為信、
近衛の牡丹紋を描いた駕籠で秀吉の所へと向います。

さて、有名無名問わず、大名武将がずらりと並ぶ中でも、近衛の牡丹紋は大層目立ちます。
あれに乗っているのは何者だ? 偉いお公家様か、はたまたどっかの名門大名か……
みなが注目している中で、駕籠からのそりと顔を出したのは……髭もじゃで熊のごとき大男、
これには見ていた者も度肝を抜かれたとのことでした。

結局、これが奏功したのかどうか知りませんが、所領は安堵され、後の津軽氏の礎となるのでした。
そういえば、言葉はちゃんと通じたんでしょうかね?
745人間七七四年:2010/02/09(火) 23:36:05 ID:F92M7arG
>>743
補足ありがとうございました。レス書くのにこんな時間かかってたなんて……orz
746人間七七四年:2010/02/09(火) 23:48:26 ID:7vAhELt+
>>744
一応当時も共通語として室町言葉があったから、大名としての教養のうちだったんじゃないかな>言葉

近衛家と通じることができるくらいだから
上方の文化や人材を仕入れるルートもあったんじゃないかと。
為信の軍師?と言われる沼田祐光は畿内出身ともいわれるし
近衛家と通じるために近衛家にいた者を召抱えたという話もある。
747人間七七四年:2010/02/09(火) 23:56:28 ID:F92M7arG
>>746
>一応当時も共通語として室町言葉
浅学を恥じるばかりですが、知りませんでした。ありがとうございました、勉強になります(平伏)
結構上方とは連絡をとれているみたいなので、つて(話せる人)はあったと思うのですが、
本人はどうだったのかなーとふと疑問に思ってしまいまして。
近衛〜召抱えはそういえば聞いた記憶があります。
748人間七七四年:2010/02/09(火) 23:57:05 ID:9hnEjf4g
というか、当時の日本海側は太平洋側に比べて
海運商船流通によってかなり情報聞達速度も速かったはず
749人間七七四年:2010/02/10(水) 00:04:34 ID:1z+pZgEC
東北から太平洋を渡る東廻り航路が確立したのは江戸時代だもんな。
日本史の教科書は河村瑞軒をもっと称えるべき。

ちなみに津軽藩だと青森が、港湾都市として発達したのは、すべてこの
東廻り航路の成立のお陰だったりする。
750人間七七四年:2010/02/10(水) 00:10:17 ID:iYDtUm5u
>>748
あ、はい、海運のところは知っていたのですが、江戸時代以前はお国訛が凄かったイメージがあったので、実際会った時はどうだったのかな、と(汗
今でもわからない言葉とかあるので……(青森育ちなのに)
スレ違い申し訳ありませんでした。
751人間七七四年:2010/02/10(水) 00:19:52 ID:7LAGs3Zi
あれ?言葉が鈍ってるからって
上方大名が馬鹿にするよーと泣いてたのは
津軽さんじゃなかったっけ。あ、南部さんだっけ?
東北大名や九州大名の訛が酷かったってのは
当時でもあった話だと思う。
ちゃんと公家やら上方衆やらにしっかり室町言葉を
教えてもらえる環境を作れた有力大名とかならともかく。
752人間七七四年:2010/02/10(水) 00:26:12 ID:Lj+2KIFW
>>751
島津豊久は本当にひどかったらしいな
753人間七七四年:2010/02/10(水) 00:28:03 ID:lDiZ8BLW
関ヶ原の辺りだったか、軍議の席で南部と津軽の人間が口喧嘩した時の応酬が周りからは意味不明だった、ってのもあったような。
754人間七七四年:2010/02/10(水) 00:28:44 ID:cb2Ozr/4
>>751
通じる言葉と訛っていない言葉は別というか
儀礼関係は室町言葉でやれるだろうけど、日常会話ではやはりお国訛りが出たんじゃないかな。
おまけに織豊系大名は方言丸出しでも問題なさそうだけど、それ以外は…
755人間七七四年:2010/02/10(水) 00:47:45 ID:sIqHjWfY
>>751
南部さんですね
756人間七七四年:2010/02/10(水) 00:49:39 ID:98o4Rkzp
>>751
今だってテレビで毎日標準語聞いてるけど訛らないで話すの難しいからなー
757人間七七四年:2010/02/10(水) 01:12:31 ID:OcFb0rvu
当時の標準語っていうのは現代だと狂言で聞ける言葉だよね。

「〇〇じゃ」「〜〜ござる」

しかし謎なのは、当時の人は実際にも、
狂言の台詞回しみたいに、ゆーっくりしゃべってたのかということだな。

実際ゆっくりしゃべっていたと唱える人もあり、
いや、あれは演劇用の特殊なしゃべり方で、実際は現代人と変わらない速度でしゃべっていたと言う説もあるが。
758人間七七四年:2010/02/10(水) 01:13:55 ID:TwpfJJSw
津軽弁は「い〜」の抑揚と数で話が通じるってタモリが言ってた

「婆ちゃん俺だよ俺、為信だよ」
「い〜いいいいっい!」
「あのさあ俺事故っちゃって・・」
「い〜!いっいっいいいいーい!」
「相手と示談にするのにお金がすぐいるんだよ」
「いっ!いいいいいいいいいいっ!いいい?いっいいいっ?」
「こんな事頼めるの婆ちゃんしかいないんだよ、頼むよ、一生のお願い」
「いーぃ」
「ほんと?」
「いー」
「じゃあ200万でいいから」
「いひひひひひひひひひうひぃw」

そんな訳で津軽ではオレオレ詐欺が少ないらしい

759人間七七四年:2010/02/10(水) 01:23:38 ID:WSLagN+k
新撰組で津軽浪士と会津(たしか)浪士が言葉が通じなくてお前ら同じ奥州なのに
言葉通じないのかよと言われたとか、会談した会津藩士と薩摩藩士が浪曲言葉で話したとか、
太平洋戦争のときに薩摩弁を早口でしゃべる海軍の暗号は米軍も解読できなかったとか。
方言すげー。
760人間七七四年:2010/02/10(水) 02:05:16 ID:OxHTrl2g
自分も地元民なので髭殿の話は嬉しい、もちろん南部にも興味がある

そういえば前田利家&慶次って奥州検地の際津軽にやって来たらしいね。
その時田の半分をわざと荒れ地にして見せ、石高を少なく見積もらせたとか。
これは悪い話か…
ちなみに慶次の検地法は小高い所に行って目測するだけ。
761人間七七四年:2010/02/10(水) 02:08:50 ID:98o4Rkzp
前に能を二倍速だかにしたのを見たことあるけど普通に聞き取れて感動したな
うわーすげー読み慣れた言葉でしゃべってるーみたいな
762人間七七四年:2010/02/10(水) 02:58:40 ID:ZVQu6xd1
>>760
それは「検地法」ではない。
ざっくり見てるだけじゃねーかw
763人間七七四年:2010/02/10(水) 06:28:38 ID:b/ozhLNY
>>757
300年くらいしたら「昔の日本人は『にぱぁ』と笑っていた」とか「語尾にへんな口癖がつくのが普通だ」とか言われるのかな
764人間七七四年:2010/02/10(水) 07:45:07 ID:iYDtUm5u
>>760
喜んでもらえて嬉しいぜ
南部は俺も好きなんだが、今のところネタを思い出せない……orz

>田の半分をわざと荒れ地にして見せ、石高を少なく見積もらせた

この時のことかは知らないが、津軽平野の半ばまで検地の者が来たときに
検地の人
「この先には何がある?」
津軽家臣
「黄金色の波がさざめいております」
検地の人
「そうか、海ということか」

って感じで誤魔化したっていう伝承が。
さすがにここまで出来すぎだと、地元の言い伝えレベルだと思うけどw
俺もうろ覚え。
……っていうか、ただ単に面倒くさくなっただけなんじゃないの? 検地の人。
来るのだけでも大変そうだし、東北やたら広いし……
765人間七七四年:2010/02/10(水) 08:50:54 ID:VE07m/gw
『解決屋勝重』

大坂冬の陣が起こるちょっと前の、慶長十九年(1614年)6月。
朝廷で猿楽の興行があったそうな。
さて、此処に招かれたものの中にとある者がいた。
名を吉岡又三郎といい、武蔵との対決で有名な吉岡憲法の一族である。

この又三郎が禁門をくぐる時に何か粗相をしたのか、雑色に「無礼者!」といわれ棒で打たれた。
カッとなった又三郎、一瞬の内にその雑色を斬って捨てた。
これにおさまらないのが、そのほかの雑色諸氏。
次々と前後左右から又三郎に打ちかかるも、又三郎はひらりひらりとかわしながら、雑色諸氏をどんどん斬り捨てていった。
どうやら剣の腕は本物だったらしい。

あれよあれよと大騒動となった時に、警固担当の板倉勝重京都所司代がついに解決に乗り出した。
解決には定評のある、あの勝重さんである。
今回もスマートな解決をしてくれるに違いない。

ところが彼は「禁裏を血で汚すとは、この無礼者が!!!」と言い放つや、

 自 ら 刀 を 手 に し て、

討ち取ってやろうと意気込んだ。
いつものスマートさはどこいった、勝重。
(怒って当然だけどw)
それを見ていた側近の太田忠兵衛、上司の暴走を押し留めるや解決に乗り出した。

一対一で対峙する、忠兵衛と又三郎。
二人がにらみ合った、その時!



……又三郎が何かにつんのめってコケた。
片膝をつく又三郎に、忠兵衛はこう諭す。

「倒れたものを斬る気はない。立つがよい」

なかなかカッコいいことをいう男である。

又三郎は安心して立ち上がろうとし、


地面から片膝が離れた瞬間、忠兵衛に斬り捨てられましたとさ。

いい話か悪い話かわからなかったが、まとめでスマートな解決屋と言われていた勝重さんの(血の巡りが)いい話ってことで。
もしくは太田忠兵衛の機転のいい話。
(血生臭いから悪い話な気もするがw)
766人間七七四年:2010/02/10(水) 09:50:37 ID:Y5YWJjzE
>>765
さすがの板倉さんもやはり三河武士だったということかw
767人間七七四年:2010/02/10(水) 10:03:40 ID:NEYQSu5/
膝が離れた時点で既に立っている、油断するのが悪い

ということか
768人間七七四年:2010/02/10(水) 12:01:08 ID:ew3VIK6o
>>765
現代の総合格闘技でも両膝をマットにつけてる状態の相手の顔面に蹴りを入れるのが反則というルールの試合で、立ち上がり際にぶち込んだのがいたな。
膝を付いてたか、付いてなかったかで試合後揉めた筈。
769信長、名将を光秀に問う:2010/02/10(水) 13:09:09 ID:9w+zTgpj
武田信玄の死後、岐阜城での出来事。

信長は信玄の死を聞くと周囲の者にこう言ったという。
「信玄こそはまことに当世の名将であった。」

ここでふと古来より名将と呼ぶべき者がどれほど居たであろうかと
思い立った信長、こういうことは光秀に聞くべきかと光秀を呼んだ。

「そちは古今に精通せし知恵者なれば古より名将と呼ぶべき者を挙げてみよ。」
「承知いたしましてございます。」

坂上田村麻呂、平将門、藤原純友、源頼信、清原武則、平清盛、足利尊氏、
新田義貞、北畠顕家、楠木正行、菊池武光・・・
光秀は挙げた諸将それぞれに事跡等を逐一申し述べながら理路整然と語ってゆく。
それを飯尾新七が一々書き留めていく。
光秀の語りが信長自身の話になったところで信長が口を挟む。

「待て待て。俺が名将と言うは片腹痛いわ。」
「ですが殿」
「そういうそちこそ無双の名将であろう。」
「これはお戯れを…」
「いやいや。俺が知る限りお主の才幹に並ぶ者は猿と三河殿ぐらいのものであろうが。」

こういわれた光秀、実はまんざらでもなかったのではなかろうか?
実際信長は天下を治めた後、政事の取り仕切りは光秀に任せようと思っていたという。
後に最悪の結末を迎える二人ですが信長、光秀、秀吉の三人が作る日本というのも
見たかったものですな。
770人間七七四年:2010/02/10(水) 13:30:29 ID:rO2GXv7G
卑怯だらけの戦国時代だったのに、江戸時代から現代まで正々堂々が正しいと思われるようになったのは権現様のおかげなのか。
771人間七七四年:2010/02/10(水) 13:56:42 ID:IB7FnLqh
儒教を広めた成果だな
ただしその後に、兵学で謀略の扱いに苦慮することになったが
772人間七七四年:2010/02/10(水) 14:07:00 ID:Gxh7x2wD
>>769
でもアレ長坊主には恨み骨髄でブチ滅ぼさないと気が済まなかったんですよね、右臣さまー
773人間七七四年:2010/02/10(水) 14:08:05 ID:LQCrDXJY
>>765
冷静沈着な京都所司代のイメージが音を立てて・・・w
774人間七七四年:2010/02/10(水) 14:09:01 ID:Gxh7x2wD
>>759
時代違いだが、坂本龍馬最大の功績は
全く言葉の通じない薩長を同じ席につかせてメシ食わせたことだ、、という話まであった気がするw
775人間七七四年:2010/02/10(水) 14:42:57 ID:Gxh7x2wD
>>773
めんどくさい担当奉行(所司代)に何をお求めか
776人間七七四年:2010/02/10(水) 16:10:18 ID:OpWwx50q
キレる直前までは冷静沈着です
777人間七七四年:2010/02/10(水) 16:15:15 ID:b/ozhLNY
市松もキレるまでは冷静沈着たよ!
778人間七七四年:2010/02/10(水) 16:22:36 ID:shhyOjo/
酒飲ませりゃ一発よ
779人間七七四年:2010/02/10(水) 17:13:27 ID:sjisgfGw
よ〜しパパ、自分用にバレンタインのチョコ買っちゃうぞ〜
780人間七七四年:2010/02/10(水) 17:28:15 ID:6CMB4jL7
名所司代誕生にまつわる逸話。

徳川家にとっての京都所司代は、関ヶ原後に奥平信昌が就任したのが初めである。
さて、信昌は後に大幅な加増転封を受けたため、所司代から身を引いた。
京を差配できる後任は誰なのか。
家康は、知恵袋の本多正信を呼び、意見を聞いた。

正信「左様、板倉勝重を推薦します」
家康「勝重か。あれはまだ小禄で、町奉行だぞ。京での仕事に向くかどうか…」
正信「なんの、能は確かです。これを機に、加増なされませ。二万石ばかり」
家康「二万!?」
正信「京で奉行となれば、彼が幕府、すなわち上様のお顔となるのですぞ。安く見られたいのですか?」
家康「……わかった」

と、こんな経緯で名奉行・板倉勝重が生まれたのだという。
781人間七七四年:2010/02/10(水) 17:32:57 ID:1z+pZgEC
>>780
そう言えば正信は、三好の代官として京を支配していた頃の松永久秀に
仕えていたらしいから、だとすれば京の市政に関してよくわかっていたんだろうな。
782人間七七四年:2010/02/10(水) 18:03:23 ID:lDiZ8BLW
最後の「わかった」の前の沈黙の長さが想像できるなw
783人間七七四年:2010/02/10(水) 18:10:39 ID:0vU3Kzae
>>781
正信が久秀に仕えてたってなんかイメージわかないんだよなぁw
久秀は正信のことけっこう買ってたらしいけど。

正信はなんで途中で久秀のとこ出ってたんだろう。
784人間七七四年:2010/02/10(水) 18:20:23 ID:oO4lSJDq
>>759
でも米軍側もアメリカにいた薩摩人使って結局解読したしかも日本側にいた薩摩人とアメリカ側にいた薩摩人は知り合いで恩人だったためアメリカ側の薩摩人は戦後そのことを気に病んで自殺してしまった
785人間七七四年:2010/02/10(水) 18:24:22 ID:b/ozhLNY
>>783
一向一揆絡みじゃね?(隆慶一郎脳
786人間七七四年:2010/02/10(水) 18:27:20 ID:oO4lSJDq
>>771
せっかく忍者とか謀略に長けた人材があったのにその技術が滅んじゃったから近代戦でも謀略戦でも日本は一部をのぞいてダメダメでした
787人間七七四年:2010/02/10(水) 18:40:17 ID:dAhC6sKf
徳川家の政務といえば大久保派と本多派の足の引っ張り合いばかりが目立つ
勝重はどっち派だったのか知らんが、大御所が死んだら
秀吉没後みたいになってなのは容易に想像がつくな
初代が長生きして本当によかったねぇ
788人間七七四年:2010/02/10(水) 18:56:38 ID:V/foVCIL
>>787
俺も特に正信・正純親子の主君以外はどうなっても
いいと考えてたところが大嫌い
宇都宮つり天井事件はあの土井利勝の陰謀ともされているが
起こるべくして起こったといえるな
正に「人を呪わば墓二つ」
ああいう風に人を蹴落として出世するなんてお天道様が許さねえってとこだな
789人間七七四年:2010/02/10(水) 19:01:55 ID:q9sI860y
鮭様かむしまん崎、頼む
790人間七七四年:2010/02/10(水) 19:09:06 ID:sjisgfGw
>>786
九鬼に領土与える時に、内陸部を選んだ。水軍は不要てこと。
守りに入るのは仕方ない。
791人間七七四年:2010/02/10(水) 21:20:32 ID:+6hDvxAd
>>787
しかも大久保が武功派で本多が吏僚派と考えれば土井利勝を初めとした次の世代がちゃんと育ったのが大きいよな。
やっぱり秀次事件が大きかったのかなあ。
それとも外様を政権運営に関わらせなかったのがいいのか。
そもそも徳川が豊臣に対して大きすぎたんだからやっぱり小牧の戦いか。

>>788
豊臣家にもいたと思うけどね。
一本気な忠義が同僚に理解されなかった人。
石田は近年再評価が進みすぎて好意的な評価ばかりになってるみたいだけど
本佐はいつそういうときがくるかな。
792人間七七四年:2010/02/10(水) 22:52:54 ID:DnDf0wDL
寛永の遺老の一人、安部忠秋は毎年数十人の捨て子を養育していた。
このことはたちまち江戸中に知れ渡り、安部忠秋の屋敷前や通勤経路には、捨て子をする人が増えた。

捨て子を見つけるとすぐに抱き上げる忠秋に、家臣が
「殿、際限がございませぬ。」と制止すると、
「捨てたくて子を捨てる親はいないのだから、捨て子がいるということは、われらの政治がいたらなかったということ。
だからこそ、子を育てることで穴埋めをしたい。」と言い、
「しかし、金が掛かります。」と家臣が食い下がると、
「遊興を控えて浮かせた金で養育しておる。そなたらに迷惑をかけてはおらん。」と答えたという。

成長した子は、男の子は家臣とし、女の子は嫁ぎ先を見つけてやったという。
793人間七七四年:2010/02/10(水) 23:01:30 ID:lDiZ8BLW
現代で言う赤ちゃんポストか……
794人間七七四年:2010/02/10(水) 23:15:54 ID:pfCbXhQ1
>>792
>男の子は家臣とし

自分のシンパを安く増やしてない?
795人間七七四年:2010/02/10(水) 23:16:40 ID:OcFb0rvu
>>792
『阿』部忠秋でしょ?

生類憐みの令が徹底される頃まで、
一切良心の仮借なく、自分の子供を殺したり捨てたりする世の中だったんだよな。
796人間七七四年:2010/02/11(木) 00:23:20 ID:ff2dhh6t
えらい豪勢な殿様だな。
足軽、中間には困らんのか・・
797人間七七四年:2010/02/11(木) 00:41:38 ID:RPBpHrJO
夜譚随芼より、阿部忠秋のエピソード 
徳川家光が櫓に登って小姓たちに「ここから飛び降りた者には褒美を取らせる」と言った。
小姓たちがそんな家光のムチャ振りに困っていると、家光は不機嫌になり「阿部豊後(忠秋)ならばどうするか尋ねよ」と叱った。
そこで小姓達は忠秋に相談した。すると忠秋は「再び上様がそのように申されたときは、傘をさせば安心して飛んでご覧に入れますと返答せよ。
戯れのお言葉には当意即妙に答えるのがお側につくものの心得という物だ」と教えた。後日、家光から同じように櫓の上から飛び降りろと言われた者が、
忠秋から教わった通りに答えると家光はたちまち上機嫌になったという。

ここで質問なのですが、忠秋の「傘をさせば安心して飛び降りる」というのはどういう意味なのでしょうか?
分かる方がいましたら教えていただきたいです。
798人間七七四年:2010/02/11(木) 00:50:10 ID:CueyNjUv
空気抵抗でゆっくり降りられるからw
江戸のメリーポピンズですな
799人間七七四年:2010/02/11(木) 01:00:50 ID:T7Aho1e6
えらい人が調子乗ってボケたときに、
マジになって畏まられたら興ざめだもんな
800人間七七四年:2010/02/11(木) 02:13:30 ID:r53KIJ31
戦国の世なら普通に飛び降りるのにな
801人間七七四年:2010/02/11(木) 02:22:48 ID:9y+7iYEH
国親さんとかな
802人間七七四年:2010/02/11(木) 02:22:52 ID:s+HqUkQC
飛び降りた後で、主君に対してお前は飛べないんだろwとか言っちゃう。
803人間七七四年:2010/02/11(木) 02:34:13 ID:h207FjSw
飛び降りたらクビになるけどな
804人間七七四年:2010/02/11(木) 04:50:55 ID:RF3qBP/b
傘って人が人を支えてる字に見えないか?
その辺に何かのヒントが・・・・
尤も、昔はどう書いたのかは知らないがw
805人間七七四年:2010/02/11(木) 08:05:38 ID:vVcHOmSf
褒美といっても何をくれるかわかたんからな。大名にしてやると言えば一人くらいは飛び降りたかも。

薩摩じゃ飛び降りは子供の遊びなんだっけか。
806人間七七四年:2010/02/11(木) 08:14:29 ID:C1eGNjUF
>>804
傘の人の部分って首を表しているんだぜ…
とか言ったら途端にホラー
807人間七七四年:2010/02/11(木) 09:36:49 ID:Il6QoA/f
>>802
黒田さんちにありそうな展開だw
808人間七七四年:2010/02/11(木) 09:37:32 ID:rASkYBly
頼房で、そういうエピソードがあったような。「天下をくれるなら、天守閣から飛び降りてみせる」
809人間七七四年:2010/02/11(木) 09:56:24 ID:gSs1okAo
>>807
黒田さんちだと飛び降りる前に家臣から説教食らって終わりそうだ
810人間七七四年:2010/02/11(木) 10:03:06 ID:zaYWelHf
長政は家臣に飛び降りろとか無理難題は言わないよ、たぶん
811人間七七四年:2010/02/11(木) 10:31:46 ID:KzQeaNme
>>797

        Λ_Λ
        (´∀` )-、    
       ,(mソ)ヽ    i 
       / / ヽ ヽ l
 ̄ ̄ ̄ (_,ノ ̄ ヽ、_ノ ̄ ̄ ̄

うちのはI can fryしても普通に戻ってきたよ
812人間七七四年:2010/02/11(木) 10:41:14 ID:6ZDCeCT9
その代わり貴方の親父さんに怒られたあげくクビになりましたよねw
813人間七七四年:2010/02/11(木) 10:47:52 ID:KcIIX3Zb
五重の塔くらいの高さから飛び降りたあげく、受け身の技使って無傷だった柔術家がいたとかなんとか

この人の前世は絶対に猫だ
814人間七七四年:2010/02/11(木) 11:02:24 ID:PO2pqXQ0
市松「ここから飛び降りた者には褒美を取らせる」
本当にやられて涙目ですね
わかります
815人間七七四年:2010/02/11(木) 12:22:08 ID:1e9KbKKr
その情景が目に浮かぶなw
816人間七七四年:2010/02/11(木) 12:53:56 ID:VHbzS9q5
>>813
いつの間にか奥義に舞空術があるって話になってたアレか
817人間七七四年:2010/02/11(木) 12:56:28 ID:m1E1l1dq
戸田武蔵守(勝成/重政)は文武に優れ、茶や歌をよくする名将であった。
丹羽親子(長秀・長重)に仕え武勇のみならず内政・外交に素晴らしい手腕を見せた。
謀略にも長け長秀のために様々な武略・政略をたてことごとく当たった。
しかし、長重は武蔵守の忠言・諫言を聞かず家を治められなかったため、太閤(秀吉)
により所領を削られ、太閤はかねてより目をつけていた武蔵守を直臣に加えた。
武蔵守は出家することも考えたが、太閤のもとにあって丹羽氏を滅ぼそうとする
太閤を留めるべくその招きに応じた。
一説に、太閤に仕えるにあたって「丹羽家を滅ぼさないこと」を条件にしたと言う。
長重への忠誠心から、太閤の直臣になってからは特に目立つ活躍もせず、他人と
功を争うこともなく太閤に馴れ親しむこともなく超然としていたため、一万石の
ままに終わったが、後に(黒田)如水は「武蔵守なれば、本来は十万石以上の
大名に取り立てられても誰も不満に思わないだろう。少なくとも周防守・伯耆守・侍従
(村上頼勝・溝口秀勝・長束正家。みな丹羽家家臣から秀吉の直参になった)
の上に来ることはあっても下ではあるまい」と語った。
だが、その優れた人柄を慕うものは多く、大身の大名から町人まで分け隔てなく
付き合い誰からも好かれた。
武蔵守はもはや主君や自分のためにその謀才を使うことは無かったが、困っている
者があれば相談にのり、その者のために謀(はかりごと)を行った。
武蔵守のおかげで、太閤の怒りや罰から免れたものも少なくない。
関が原の戦いにおいては、その義侠心ゆえに家康公に怒りを抱き豊臣家のために
西軍に馳せ参じたが、かつての主君・長重には自重するように送ったという。
しかし長重は軽率にも西軍につき、その所領を失うことになった。
小早川秀秋が必ず禍根になると考えた武蔵守は、戦が始まる前に秀秋を殺さん
としたが果たせなかった。
その後の武蔵守の武勇は語るまでもないが、その死に東軍の大名・小名多くの
者が涙を流したことこそ、武蔵守最大の誉れなり。 (高杉家称譚記より)
818人間七七四年:2010/02/11(木) 13:07:57 ID:m1E1l1dq
戸田武蔵守が数万石の大名になっていたら、司馬遼太郎の「関が原」でも
エピソードとして取り上げられた、武蔵守が落とした槍を拾って刀をもらった
従僕はどんな身分になったのでしょうね?
相変わらず従僕のままだったらおもしろい。
819人間七七四年:2010/02/11(木) 13:20:23 ID:9y+7iYEH
>>814
もちろん
状態異常:深酒
なんだな?

820人間七七四年:2010/02/11(木) 14:00:11 ID:/1V/VjMa
>>814
今週のへうげで市松飲みとられてたなぁwタイムリーw
821いつもと違う風景:2010/02/11(木) 18:00:11 ID:wLR5o1MU
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-667.htmlで奇襲により米田城を獲った森長可だったが
城主の肥田玄蕃は殿軍の各務小左衛門が放つ強弓に阻まれ、逃がしてしまった。

のちに長可は家臣に尋ねた。
「先の戦で各務小左衛門と名乗る武者がいたが、どうなったか知っている者は、おるか?」
家臣の一人、各務孫太郎が進み出た。
「あの者は私の息子で、仙千代様(忠政)に仕える長助の兄です。肥田に従い逃げようとしていましたが、
私が説得して止め、匿っております。何とぞ命だけはお助けを…」

長可は小左衛門を呼び出して言った。
「長助の兄だそうだな。肥田家ではいくら知行を取っていた?同額をくれてやる、わしに仕え父や弟と
共に暮らすが良い。譜代同様に扱ってやろう。」
小左衛門は答えた。
「肥田家では二百石取っており、同額を頂戴できれば幸いですが、二君に仕えるは我が本意にあらず。
申し訳ござらぬが、世を捨て出家致したいと考えております。」

長可はあきらめなかった。
「"二君に仕えず''、それも道理よ。だが、"侍は渡りもの''とも言うぞ?親子兄弟が別れ、古い付き合いを
捨てて敵となるなど、昔からある事だ。
それも皆、必死に生き延び子孫へ家を伝えんが為にした事。お前も、ここは理を非に曲げて当家に仕え、
子孫を残すが良かろう。」
そう言って、すぐさま二百石給付の折り紙を書き付け、盃と一緒に小左衛門の前に差し出した。

「(そうか、このお方のご家族は…)…たってのお頼みとあらば、有難くお受け致しまする。」
小左衛門は盃を呑み干し、めでたく家族そろって長可に仕えた。
822人間七七四年:2010/02/11(木) 18:10:25 ID:JA7RdmEG
うむ。鬼武蔵が言うと説得力あるな。
823人間七七四年:2010/02/11(木) 18:14:50 ID:IfAk6KOK
いい話しのスレでその名前を見ようとは、何か天変地異の前触れであらうか・・・。
824人間七七四年:2010/02/11(木) 18:16:58 ID:RtTV3MQU
>>823
そう言えば明日は関東も雪らしい…
825人間七七四年:2010/02/11(木) 18:17:33 ID:ueBpwNW8
こっちにも来てたのか鬼武蔵の逸話。

ここいう逸話見ると気骨のある男だなと思うんだが。
826人間七七四年:2010/02/11(木) 18:26:37 ID:RtTV3MQU
>>825
そりゃ気骨があって優秀じゃないと、いくら信長が長可に甘いからと言っても、
26歳で20万石は与えないだろうしね。
同時期で46歳の丹羽長秀や45歳の池田恒興とほぼ同等。宿老格と言っていい存在になってる。
827人間七七四年:2010/02/11(木) 18:54:17 ID:GjFb2n8t
>>826
師団長格だからね…
同年代では出世頭、将来的には織田政権の中枢を担ったかもしれない。
828人間七七四年:2010/02/11(木) 20:03:19 ID:MRvxO3TP
酔った市松なら倍の知行だすなw
829人間七七四年:2010/02/11(木) 20:18:45 ID:9y+7iYEH
>>821
「俺の前に立ちはだかるたぁ、いい度胸じゃねえか!テメエ、気にいったぜ!」
っていうボイス的にうえだゆうじな森長可を想像した。
830人間七七四年:2010/02/11(木) 20:22:32 ID:QjClByCb
弟討った勇者を召抱えるとか為政とか度量感じる話はあるんだよな。

がもーさんとか名人とかこれとかが長生きしてたら色々面白かっただろうに
831人間七七四年:2010/02/12(金) 04:42:52 ID:pcPFxpNi
黒田家と島左近と言えば、こんな話が有名ですが、
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-947.html
関ヶ原で黒田武士にトラウマをう植えつけたその左近さんの生前の話

ある日、左近さんが甲冑を身につけて嫁さんを呼びつけたところ、
彼女は夫の姿を恐れてこちらに近づかないどころか顔を上げようともしない
左近さんはそんな嫁さんにキュンとしたのかニヤニヤ笑いながら、
「俺の姿に怯えてるようじゃ、黒田長政の姿を見たらショック死しちゃうぜ」
などと嫁さんをからかったと言う

そんな話を聞きつけて当の黒田さん家の長政さん
「え?俺、あの左近より恐いの?」と相当ショックを受けたのか、
とにかく家臣たちに恐れられるのを嫌がったらしい
家臣たちにあまり用事を申しつけず、何か言いたそうにしてるならそれを察し、
常に柔和ににこやかに、冗談を言ってふざけてるのも素知らぬふりをし、
あまりガミガミ口うるさく叱ることを避け、アットホームな黒田家を目指した結果、
黒田家臣たちはあのような有様になったそうな

しかし、よっぽど恐い顔してたのか(常にしかめ面だし)、
戦場でのバーサクモードの迫力が凄まじかったのか
832人間七七四年:2010/02/12(金) 08:51:19 ID:h0h09FQA
単純に水牛兜が見た目おっかない的な話なんじゃないかなw
833人間七七四年:2010/02/12(金) 09:21:56 ID:8NBUZtlD
と、又兵衛さんが申しております。
834人間七七四年:2010/02/12(金) 09:29:25 ID:plt9ifAJ
又兵衛ならこうだろ

はっ、威圧するなら威圧するで徹底すりゃいいものをくだらん外面気にして日和るとはやはり若殿は駄目だな!
835人間七七四年:2010/02/12(金) 09:35:12 ID:LWZqUT28
まぁ、栗山や母里あたりも平気で、

女子供に怖がられるのを嫌がるとは何事です。
若殿がこのようなことでは、黒田家も終わりですな。

くらいは言いそうだw
836人間七七四年:2010/02/12(金) 09:59:15 ID:h/r2A6Z9
>>760
小説で慶次の話にしてしまったものがあるけど、小高い場所に
登って適当に「あそこは何石、そっちは何石」と決めて、実際
に測ったらあまり違っていなかったというのは、利家の逸話。
慶次は利政とコンビを組んで堀越城を拠点に検地して歩いた。
これが載っている津軽の史料には、慶次について「武道ノ達人
ニテ、世を超えた異様人也」と注釈が付けてある。
837人間七七四年:2010/02/12(金) 11:49:04 ID:TKqBWoKn
立場を行政官の長として考えると恐れられ過ぎても困るんだろうけどね
838人間七七四年:2010/02/12(金) 13:44:18 ID:bZJTKkVW
>>835
そして、それをしっかり記録する文官w
839人間七七四年:2010/02/12(金) 14:01:59 ID:bJ2rdFLI
行政官とか文官とかいう言葉を見て、ふと室町前期との
領国支配体制の違いに唖然とするな。
大名がそのまま残るパターンは少ないながらもあったけど、地頭とかはどこへ消えたのかね。
840人間七七四年:2010/02/12(金) 14:45:37 ID:OeJrBOBW
長政がアットホームな黒田家を目指したおかげで、
息子は口うるさい家臣どもと死ぬまで衝突起こしてるんだよね

>>839
国人化したり守護の配下に組み込まれたりで、結局戦国大名化していったんじゃないの?
841人間七七四年:2010/02/12(金) 14:48:30 ID:Ni+6Nwjx
地頭クラスじゃ大名化したのは少ないんじゃないかなぁ
842人間七七四年:2010/02/12(金) 15:05:56 ID:RhOYPXqm
江戸幕府が長く安定したのは、参勤交代で外様大名が疲弊したのが大きいかな?

室町幕府なんて、一族で固めているのに、争いごとが絶えなかった。
843人間七七四年:2010/02/12(金) 15:17:47 ID:xK26ezAt
松平氏って大元は松平郷の地頭なんだっけ?
真田とか国人出身は室町期まで地頭ってのは多そう。
てか鎌倉初期くらいまで遡ればたいてい地頭くらいじゃないかな。
844人間七七四年:2010/02/12(金) 15:17:50 ID:jR+8LHZ3
>>842
参勤交代で疲弊したのは、大名同士の見栄の張り合いのせいだけどね
幕府はなんども「参勤交代は質素にしろよ!」って振れさせてるのに
「あそこの家には負けたくねぇ!」ってなかなか質素にしなかった
逆に言うと、そんな風に大名家が戦以外のところで競い始めたからかなーとも思う
845人間七七四年:2010/02/12(金) 15:21:19 ID:vT6cicuu
>>839
信長・秀吉の時代に日本から一掃されたんじゃない?
庄屋としてどうにか江戸時代まで存続した例はありそうだが。
846人間七七四年:2010/02/12(金) 15:24:25 ID:jR+8LHZ3
>>839,845
wikiソースだけど室町中期くらいに地頭は国人に変化したらしい
847人間七七四年:2010/02/12(金) 15:34:05 ID:bZJTKkVW
地頭って元々は幕府から任命されて現地に赴いてたんだっけ?
本来は土地と結びついてない官僚みたいなイメージなんだけどさ
そいつらが任期を終えても帰らないで在地領主化して
土地の実権を握っちゃった?そんな感じ?
848人間七七四年:2010/02/12(金) 15:36:32 ID:atwj6awi
地頭ってのは荘園の武家管理人のことだからねー。
戦国期になって荘園が解体されると、当然存在意義も失った。
849人間七七四年:2010/02/12(金) 15:46:24 ID:bZJTKkVW
あー、やっぱり荘園がなくなったり横領されたりした時にいなくなっちゃったのか…

気合入った荘園とその地頭が、天皇様やお公家さんのために
周りの侵略を退けまくって米や金銭を京都に送り続けた、って例はないのかな?

「天皇様がオラたちを待ってるだ…急ぐズラ…」みたいな輸送プロジェクトはなかったんだろうか
御所は一時期、めちゃくちゃ貧乏だったらしいけどさ
850人間七七四年:2010/02/12(金) 16:01:05 ID:CszPAZyE
とても上手く立ち回った奴らは国人になり、
そこそこ上手く立ち回った奴らは庄屋のような村落の指導者層に落ち着いた。

上手く立ち回れなかった奴らは歴史の闇に消えて言ったとさ。
851人間七七四年:2010/02/12(金) 16:19:10 ID:M8EpOiMw
そこまで気合の入った地頭なら
明治になって勤皇家として評価されてそうだがそんな話は聞かないな
852人間七七四年:2010/02/12(金) 16:25:02 ID:bZJTKkVW
二階から飛び降りたら麻呂がなんとかしてやるでおじゃるの土佐一条さんは
京都の本家にお金やらお米やらを送ってたのかな
それとも現地で大名化しちゃうと「これは麻呂の分でおじゃる」になっちゃうのかね

泉州に下った九条関白さんも、現地の経営とか大変みたいなこと書き残してるし
そんな苦労して得たものをわざわざ京都に送ろうとは思わなくなるのかも…
853人間七七四年:2010/02/12(金) 16:49:15 ID:WnQ9Ux75
律儀に輸送しても、朝廷側で受け取って適正な処理をする組織は
いつまで生きてたのかという疑問も
854人間七七四年:2010/02/12(金) 17:05:38 ID:EpeetbWn
土佐一条は在地でも任官とかしてるから、別家の扱いになってたんじゃないのかな
だとすれば幡多荘は私領ってことに
ただ、献金や贈呈はかなり豪勢にやってたみたいだけど
855人間七七四年:2010/02/12(金) 19:32:44 ID:LtqFEjH0
上杉家が伏見城の普請を担当した時の話だ。
この時期、伏見城普請に関わって課役負担の不十分などで改易された
武将も多く、作業は難航していたと思われる。

そんな中、豪勇で知られた水原親憲(常陸守)は、普請奉行の直江兼続
と口論になった。キレた直江は水原の頭を思い切りぶんなぐった。水
原は怒ったが、普請奉行と喧嘩して家中を乱してはいけないーと我慢し
て帰った。

しかし思い出すとやっぱり怒りがこみ上げる。「明日直江をぶっ殺して、
自分も死ぬ!」
その前に本庄繁長に別れを告げると、本庄に諭されて、一緒に直江の
もとを訪問することに。迎えに出た直江は水原に言った。

「あなたから訪問させてしまい、私はまたあなたに対して失礼を重ねた。
 重任は威がなければ成し遂げられません。成し遂げられねば、国の利に
 ならない。あなたは天下に聞こえた豪傑です。あなたさえ怒りを抑えて
 くれれば、命令に背く者は出ないでしょう。あなたに失礼をしたのはそ
 のためです。幸いにあなたはあの場で私を許しました。どうか、私の頭
 を存分に蹴って怒りを鎮めてください」

その言葉に水原も怒りが解け、大いに喜んで宿舎に帰った。
856人間七七四年:2010/02/12(金) 19:38:15 ID:Ni+6Nwjx
兼続は水原さんとは結構仲が良いのに、同じ様な気の良く回る豪傑系の安田能元とは仲が悪いよね
やっぱ兄貴が死んじゃった事へのスケープゴートつう事なんかな
857人間七七四年:2010/02/12(金) 21:39:44 ID:uL1KPQc/
例によってマイナー武将の話で申し訳ないが……

津軽家家臣七戸修理と雷電宮

青森県平内町は、南部と津軽の境界に位置し、かつ、両者を隔てる奥羽山脈が尽きるところにあることから、
幾度となく勢力争いの舞台となっていました。
そして、戦国の頃この地を治めていた七戸氏が信仰していたのが、現在の小湊地区にある雷電宮です。

さて、この七戸氏は福舘を居城とし、南部氏に仕えていたものの、七戸修理尚昌の代に津軽為信が勢力を伸張し、
外ヶ浜一帯を制圧するに至り、津軽氏に帰順しました。
当然、南部氏は面白くありません。ある時、大軍をもって福舘へと進軍してきました。
津軽氏の本拠は遠く、速やかな援軍は期待できませんでしたが、今更帰参しても許されないだろうと、
七戸修理は迎え撃つ覚悟を決め、雷電宮へと戦勝祈願に向いました。

ところが、真剣な祈りを奉げ、いざ戦場へ向わんとした彼が目にしたのは、何処からか集まってきた数千羽の白鳥達でした。
白鳥達は次々と境内に舞い降り、修理らを驚かせましたが、それ以上に驚くことがありました。
境内に集う多数の白鳥を見た南部勢が、津軽の援軍来るとみて引き返していったのです(羽音に驚いたという説もあり)

以来、白鳥は雷電宮の神の使いであるとされ、捕獲を禁じられました。
危害を加えられない為、白鳥は人を怖がらず、雷電宮に集まるようになったそうです。

数百年の後「小湊のハクチョウおよびその渡来地」は、国の特別天然記念物に指定され、
付近の小学生が白鳥に餌をあげる光景が、青森の冬の風物詩となっています。


今でも大切にされている『神の使い』のお話でした。
次は南部のいい話も投稿したい……
858人間七七四年:2010/02/12(金) 22:51:47 ID:vT6cicuu
富士川の戦いみたいだね。
明らかにそれを下敷きにした話だ。
859人間七七四年:2010/02/12(金) 23:25:39 ID:Cbrc55W3
ところで修理ってなんて読むんだ?
860人間七七四年:2010/02/12(金) 23:27:48 ID:iqOSZOUT
>>856
水原と直江もだけど、安田と直江も本当に仲が悪かったか分かんないんだよね。
ソースが直江だけを徳川への反逆者にしようとした「会津陣物語」だし。
861人間七七四年:2010/02/12(金) 23:27:57 ID:pPpyJjJR
小学生かお前は
862人間七七四年:2010/02/12(金) 23:35:46 ID:QkFk4p7s
しゅり
863人間七七四年:2010/02/12(金) 23:50:03 ID:O6oNeRnH
>>857
白鳥を恐れた鶴(南部)か。
昔あそこで白鳥にパンやった事あるがそんなエピソードが…。
864人間七七四年:2010/02/13(土) 00:06:24 ID:+KiVpyx0
>>860
兼継は上杉鷹山が来るまで奸臣扱いされてたらしい
865人間七七四年:2010/02/13(土) 02:03:20 ID:7MBEdoOk
それもよくわかんないんだよな
時代というか、世代を重ねるにつれてそうなったんだろうか
まぁ跡継ぎが居なかったから当然と言えば当然だろうけど
866人間七七四年:2010/02/13(土) 02:24:20 ID:H9g4Kupn
>>860
直江自身は、米沢の町割をする際に奉行の平林正恒に当てて「安田と黒金をそっちに送るから、
町割について相談してくれ」というなど、結構安田上総介を重用してるんだよね。
亀岡文殊堂での兼続主催の歌会にも、前田慶次や千坂伊豆なんかと一緒に参加してるし、正直あまり不仲という
印象は受けなかったりする。
867人間七七四年:2010/02/13(土) 08:40:26 ID:2XklYDQo
綱憲の時代に編纂された景勝公御年譜は長谷堂合戦の内容などに軍記物の
影響は見られるけど、三成との密約なんてスルーだし、特に奸臣扱いはさ
れてないんだよね。直江。
868人間七七四年:2010/02/13(土) 11:55:22 ID:3GEYLVhe
米沢領に押し込まれて貧乏したから家士たちに恨まれた、てことかもねえ。
主筋(殿様の先祖)の悪口は言いたくないし、君側の奸がいたからだ!ってことになりやすい
869人間七七四年:2010/02/13(土) 12:40:26 ID:2XklYDQo
井伊掃部守の屋敷前に、ずいぶんと立派な井戸があった。
井伊家の人間が汲むわけでもないのに立派な瓶縄を備えてあった。
そのあたりはかつて鱗屋敷と呼ばれて、直江山城が住んでいた時に
使われた井戸であった。
井伊家では「直江は天下の英雄である」として、直江が使った井戸を
自分たちでは使わなくても代々大切に保存していたという。
870人間七七四年:2010/02/13(土) 12:43:49 ID:2XklYDQo
掃部頭だった。
871人間七七四年:2010/02/13(土) 13:40:32 ID:AFBdymou
>>865
後継者が居ないのは、つらいね。松平忠吉とかみたく
後継者なしでも、色々と評判になる松平忠輝みたいなのもいるけど
872人間七七四年:2010/02/13(土) 14:35:02 ID:q6U7xgSs
お団子の食べ比べ


とある正月二十日の事。
毎日毎日、正月だからと餅ばかり食べていた政宗は、そろそろ嫌気が差していた。
(毎日毎日、こう餅ばっかり食べていては飽きるなぁ。そうだ!いいことを思いついたぞ)
政宗はちょうどその場にいた家臣たちを呼び集め、そのいい考えを提案した。

「こう毎日餅ばっかり食べていては飽きてしょうがない。
どうだ、今日は団子の食べ比べをしようではないか。
百個食べた者には、小粒一枚を褒美に与えるぞ!」

その場にいたのは茂庭、原田、亘理、大條、古内らといった伊達家きっての豪傑揃い。
誰も異を唱えるものがいなかったので、正月二十日のお祝いは
団子の食べ比べで楽しむことになった。

困ったのが台所衆である。何しろみんな、食の豪傑ぞろいなのだ。
百個の団子など、すぐに食べられてしまうのは目に見えている。
そこで、台所衆は思案の上で、団子を通常の倍の大きさで作って、
大皿に盛り付けて出すことにした。
それを見た政宗、大喜び。

「これは見事じゃ!さぁさぁ、みんな好きなのを取って食べるがよい、
わしは醤油五十個、黄な粉二十個、餡子が三十じゃ」

そう言って、早速小姓に言いつけて団子を取らせたので、他の家臣たちも
小姓に言いつけて好きなように団子を取り分けた。
政宗が食べ始めるのを待って、みな一斉に食べ始める。
だがやはり通常の倍の団子である。百個まで食べられないものが続出した。
流石の政宗も六十六、その他の者も六、七十ずつを食べて、もう駄目と云った顔。

そんな中、唯一人百個をぺろりと食べた家臣がいた。彼の名は平田五郎兵衛。
もともと会津葦名家の宿老職という家柄の出で、葦名家滅亡後に
政宗からその人物が惜しまれた祖父と父が、伊達家に仕えるようになった。
五郎自身も、ここでは割愛するが神霊の加護のもと、
神力によって剛力を得、数々の手柄を立てたと伝わる。
また彼の得意技は、政宗を乗せた駕篭を一人で背負って駆けることだったとか。
(駕篭を担ぐための棒を前方で背負い、なおかつ平衡にして走れたという)

そんな平田五郎、百個食べてなおかつケロリとしていた。
この勝負、文句なく平田の勝ちである。
約束どおり政宗から、小粒一枚を褒美に頂戴して帰ったのだった。

そんな、仙台に伝わる平田さんのお話である。
873人間七七四年:2010/02/13(土) 15:06:51 ID:FLOp92Su
跡継ぎ云々の話で一つ。こんな選択肢もあるよ?


南部利直VS八戸(南部)祢々

北東北の雄、南部氏には、有力な二つの氏族が存在しました。
三戸(後に盛岡)に本拠を置く三戸南部氏と、八戸は根城を本拠とする根城南部(八戸)氏です。
根城南部氏は、南北朝期に南朝について没落し、戦国期には前者が本家として扱われていたようですが、
それでもなお『三戸南部の家臣ではなく、独立した大名である』との気概を持っていたようです。

さて、その八戸氏の二十代直政の時、徳川家から命が下りました。
南部家当主利直の名代として、徳川家康の六男忠輝の居城である、越後高田城の普請に向うようにというものでした。
ところが、ここで頑張れば独立した大名として認めてもらえると思って頑張りすぎたのか、
それとも南部は領地から離れては生きてはいけないのか、彼はこの地で病死してしまいました。
その八戸氏をさらなる不幸が襲います。直政の葬儀が終わった一週間後に、
その一人息子である久松までもが病死してしまったのです。

根城では後継者を誰にするかで頭を抱え、本家の利直に助言を求めました。
これに対して、利直は名家である根城南部をここで絶えさせるわけにはいかぬ、さしあたって直政の妻であった祢々(ねね)を当主とし、
落ち着いて後継を探せばよろしかろうと応じます。八戸氏二十一代当主、八戸祢々の誕生です。
彼女は利直の姪にあたり、当時の正確な年齢は不明ですが、二十代だったようです。
874人間七七四年:2010/02/13(土) 15:09:51 ID:FLOp92Su
長くなったので分割

さて、ここまでなら普通のいい話なのですが、利直とて乱世を生き抜いてきた武将です。親切だけでそんな助言をしたわけではありません。
自家の中に半独立勢力がいるのはうまくない、これを奇貨として、八戸氏を完全に家臣としてしまおうという魂胆でした。

後継も決まり、ほっと一息ついていた根城の祢々とその家臣の下に、利直からの書状が届きました。
曰く、これからも久しく女主人とはいかなるものか、戦の時に侮りを受けるのではないか
『幸い我が家中の者にふさわしきものがいるので婿につかわし、この者に根城南部家を相続させては如何だろうか』(大分略)
半ば命令ともとれるこの言葉に、またしても根城の八戸氏家臣団は頭を抱えます。
この助言を容れれば、八戸氏は完全に三戸南部氏に取り込まれてしまうでしょう。
ですが、当主が変わったばかりの家中で、三戸南部氏と不和になるのはまずいことになります。
ところが、頭を抱えた家臣達へと、当主祢々は言いました。すなわち、私が自ら回答すると。

さて、これを聞いた利直はにんまりとしたでしょう。
年は若く当主について日も浅い、しかもかなり近い血縁者。あっさり助言(と書いて要求と読む)を受け入れるに違いありません。
……が、そんな利直の元に届いたのは、祢々が髪をおろし、尼となったという情報でした。
続いて、祢々からの書状も届きます。曰く、ありがたき勧めなれど、御仏に仕える覚悟を決めました故、お断り申し上げます……と。

これを読んだ利直は、彼女の覚悟の見事さに舌を巻き、婿を送り込むのを諦めると、自ら後ろ盾になる事を約しました。
尼となった祢々は、この一件の見事さから清心尼と称され、永く八戸家中をとりまとめることとなります。

実は、この後も何度か二人はぶつかったりするのですが、それはまた別の物語。大阪の陣の頃にあった(なので戦国からはちょっとずれるかもorz)
南部利直と八戸祢々のいい話、でした。
875人間七七四年:2010/02/13(土) 15:29:48 ID:3GEYLVhe
相手がラスボスじゃなくて良かった・・・
876人間七七四年:2010/02/13(土) 15:51:33 ID:YnMxpowm
家光「尼さんと聞いてすっ飛んできました」
877人間七七四年:2010/02/13(土) 16:50:44 ID:2XklYDQo
でも結局は盛岡藩の筆頭家臣の地位に甘んじちゃうんだよな。
878人間七七四年:2010/02/13(土) 17:47:25 ID:uqWDCHzC
>>877
まあそうなんですけどね(汗

しかも田名部とられ(正確には廃藩置県まで借りられ)たり、遠野に国替えされてしまったり。
ただ、清心尼も、色々と譲歩を引き出していたりしたようです。
自談判&利直の妻にお願いで田名部の借り上げ証文とったりとか、三戸南部から養子を送り込まれるのを拒否して、
八戸家家臣の新田直義を養子にしたりとか。
直義が後を継ぐも城代家老として盛岡に出ると、遠野の内政は清心尼が取り仕切り、女大名とか尼殿様と言われたようです。
結構評判はよかったみたいです。
879人間七七四年:2010/02/13(土) 19:25:31 ID:L024oP/5
そんじょそこらの尼ちゃんとは大違いだな
880人間七七四年:2010/02/13(土) 19:57:52 ID:m9GVCeag
そして市松に斬られる>>879
881人間七七四年:2010/02/13(土) 20:01:50 ID:UeiqASq3
>>880
関係ないエピソードに割り込まないでくれますか
882人間七七四年:2010/02/13(土) 20:19:52 ID:VnWXm6zE
>>872
大食いより正月二十日まで毎日餅食ってるのに驚きだよw
そりゃ飽きるだろ
883人間七七四年:2010/02/13(土) 20:20:58 ID:iG8s2w/o
毎日食う餅があるなら四国のあの人に分けるべき
884人間七七四年:2010/02/13(土) 20:58:00 ID:RVAy0Vvq
(●∀・)「モチ食い飽きたから次はネズミにするぜ」
885人間七七四年:2010/02/13(土) 21:34:29 ID:c8tULCuF
>>872
リアルで磯野藻屑源素太皆みたいなのがいたとは
886人間七七四年:2010/02/13(土) 22:12:16 ID:FXM09BN8
>>885
波平の先祖ktkr
887人間七七四年:2010/02/13(土) 22:14:01 ID:SzYZWZ7q
>>872
こんな食生活してたらそりゃデブになるわ
888人間七七四年:2010/02/13(土) 22:48:56 ID:BPXx8pr9
>>883
公文さんのことかーーー!!
889人間七七四年:2010/02/13(土) 23:13:18 ID:TRxTiwF8
>>885
彼はおはぎを38個だから、彼よりもはるかに上を行くね
890人間七七四年:2010/02/14(日) 01:07:44 ID:R0DYOXYs
戦国人は飲む量も食う量も半端ないな。
普段はそんな事なかったんだろうが
891人間七七四年:2010/02/14(日) 01:34:37 ID:T6rDTepa
通常の団子の倍程度、となると政宗で通常の団子132個分も食べた事になる
一本三個三本入りの団子ですら10パック以上とか異常な量だ
最も元の団子のサイズが今のより小さい可能性は大いにあるが

ギリシャ神話の酒の神ディオニューソスが飲んでいたワインだって度数10%無かったって話です
892人間七七四年:2010/02/14(日) 01:58:42 ID:1mfWx95G
普段飯も食わずに塩をアテに酒しか飲まない謙信が
どんぶり飯を山ほどモリモリ喰うから、家臣はそろそろ戦が始まるんだな、って気づいたらしい
893人間七七四年:2010/02/14(日) 02:05:12 ID:ROlC72ue
>>873
八戸南部の隆盛はむしろ南北朝だと思われ
顕家、顕信から郡検断貰って勢力拡張して、鹿内を切り取ったのこの頃だし
義満に降伏するときも八戸の所領は安堵されている上、
津軽から安藤氏を追っ払ったのも八戸政経だし
その後の水軍経営が失敗したけど
894人間七七四年:2010/02/14(日) 06:29:51 ID:op+QSI+G
>>882
江戸時代は正月といえば1月くらいは働かなかったそうな
今の日本人と違いすぎる
895人間七七四年:2010/02/14(日) 08:10:50 ID:8G4GsHSw
旧暦1月つったら雪も多いし一番寒い季節だから
雪のある地域じゃ働きたくても働けない時期だと思う
896人間七七四年:2010/02/14(日) 11:43:52 ID:qllCrKLM
「働くことができない冬の間〜」という民芸品って多いもんね。
897人間七七四年:2010/02/14(日) 12:16:52 ID:klqNo7HZ
>891
他の地方にあるかどうかは知らないが
北陸地方では釈尊入滅の日(2月15日)に
寺が集まりを開いて檀家に涅槃団子というものを配る
これの直径がおよそ2センチくらい

涅槃団子がいつ頃からあるものか良く判らないが
昔の団子がこれくらいの大きさだとしたら
まだ何とかなりそうな気もする
898人間七七四年:2010/02/14(日) 12:40:54 ID:y9a2bmMv
>>893
873です。書き方が悪かった……申し訳ない。
『南北朝期に南朝方についた為、戦国期には勢力を減じ』と訂正させて下さい。
没落というか、じわじわ三戸南部に侵食されてきたような雰囲気が。
899人間七七四年:2010/02/14(日) 13:13:16 ID:owa2lGI4
>>891
田舎が旧伊達藩領ですが、細っこい婆ちゃんが市販の切餅
15個くらいは軽く一気食いしたりする魔境ですよ
甘党のオッサンなら団子の10パックくらいは軽く食いそう

んで確かに法事とかに使う団子は超プチサイズ
お墓に供えたあと1人1個食って帰るんだけど
あれが昔のデフォだとしたらそう無茶な数でもないのかも
900人間七七四年:2010/02/14(日) 13:28:49 ID:18U87d+f
素太皆さん大人気。
磯野家って源氏の系統だったんだね。
30年目にして初めて気がついた。
901人間七七四年:2010/02/14(日) 13:52:33 ID:n7yuf5vR
さざえさんって、確か福岡の出身だよね?素太皆って、黒田家の家臣?
902人間七七四年:2010/02/14(日) 14:05:09 ID:i+zUDrpj
>>891
>>899
旧伊達藩領出身だが、ドカ食い魔境系の話は聞いた事がない。
仙台からの距離によるんだろうか
903人間七七四年:2010/02/14(日) 16:03:25 ID:Bgq7bk4J
>>901
『ささざえさんうちあけ話』と言う長谷川町子の自伝に、母が
黒田家重臣の家の出で云々と言う話があるわな。
904人間七七四年:2010/02/14(日) 17:03:59 ID:BdJdkrfv
磯野サザエ家と黒田家のつながりの話はまとめサイトにもあるな

2009.04.17 サザエさんの先祖は原伊予
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1847.html
905人間七七四年:2010/02/14(日) 17:04:17 ID:eGx9JlGU
>>891
>>902
うちの田舎も南の方の旧伊達領だが、ひいばさんの餅大食いは聞いた事ある
個数は忘れたがまじで?!って驚いた記憶が
906人間七七四年:2010/02/14(日) 17:56:19 ID:7WKew7uy
>>901
福岡には疎開に行ってただけじゃなかったっけ?
907人間七七四年:2010/02/14(日) 18:04:48 ID:8G4GsHSw
北の方の旧伊達領だと名物が餅で
汁餅、納豆餅、あんこ餅、ずんだ餅etcと全部餅料理だけの餅御膳なんてのを
売りにしてる所もあるよ
908人間七七四年:2010/02/14(日) 18:07:15 ID:1FkF3LWt
>>907
一関から水沢辺りかね
909人間七七四年:2010/02/14(日) 18:08:47 ID:7WKew7uy
そういえば今日はサザエとの勝負の日だったな
同じ相手に九度は負けないぜ!
910人間七七四年:2010/02/14(日) 18:14:52 ID:8G4GsHSw
>>908
そう
餅御膳は中尊寺だかどっかのレストランで食えたはず
911人間七七四年:2010/02/14(日) 18:17:52 ID:18U87d+f
>>909
てことは8連敗中なのかw
912人間七七四年:2010/02/14(日) 18:21:00 ID:7WKew7uy
>>911
うん…
今日あたり何とかしないと、11段抜かれそう><
913人間七七四年:2010/02/14(日) 18:50:20 ID:qllCrKLM
>>906
フネは波平の兄の海平を「福岡の義兄さん」と呼ぶので
波平の実家があるから福岡に疎開したのだろう。
914人間七七四年:2010/02/14(日) 18:59:10 ID:7WKew7uy
また負けた…サザエ強すぎorz
915人間七七四年:2010/02/14(日) 22:04:19 ID:owa2lGI4
>>908
宮城県北も餅魔境のようで
宮城ではわりと大きめな餅・団子屋の本社が大崎市にあったりします
916人間七七四年:2010/02/14(日) 22:07:33 ID:GsbSlBI+
  /
  \/\
\/\
   /
\(`Д´)本願寺の変!
917人間七七四年:2010/02/14(日) 22:28:53 ID:Fu2w5EsZ
旧大崎領なんて、思いっきり穀倉地帯だから、
伊達ちゃんも領土を欲しがるわけですよ。
918人間七七四年:2010/02/14(日) 23:03:25 ID:NPqwzrkm
新しく入った奴も木村吉清っていうお前誰だよっていう
マイナーにもほどがある奴だしな
919人間七七四年:2010/02/14(日) 23:23:13 ID:7/MqJu2d
>>916
その紋章にはおかしな奴らを引き寄せる効果があってな・・・
お祓いをしなければ・・・
920人間七七四年:2010/02/14(日) 23:26:27 ID:kRFd4JcJ
>>839
毛利とか浅井とか吉良とか朽木とか相良とか普通に地頭だけど。
921人間七七四年:2010/02/14(日) 23:34:27 ID:ihBLHWa1
>>918
一瞬だが、旧主・明智光秀の石高に並んだ明智家最大の出世頭
それが木村吉清
922人間七七四年:2010/02/15(月) 00:21:02 ID:HosiOUYr
天正12年(1584)9月、上杉景勝のもとに、秀吉よりの使者・木村清久(吉清の子)がやって来た。
「わが主君・秀吉が越中の佐々成政を攻めます。上杉家には佐々に助勢なさらぬようお願い致したく・・・」

居並ぶ上杉家臣達は、色めきたった。
(まだ家中静まらぬ中、近ごろ天下人の呼び声も高い秀吉と結び、隣国の騒ぎを黙っていては
後々他国を平定しても秀吉の威光を借りた、と言われるわ。)
家臣達が苦々しく思っていると、

「魚津は・・・」景勝が、口を開いた。

「佐々に攻め落とされた。当時は故あって戦えなかったが、佐々は謙信公以来の土地を奪った仇である。
しかし今、佐々と戦うという秀吉殿の使者を迎えながら彼奴を攻めるのは、秀吉殿と争うようにも見えよう。
それは、わしの本意ではない。
だが、一度も佐々と戦わず秀吉殿の御意に従うのも、わしの面子に関わる。
そこでだ、使者殿に越後武者の弓の取り様をお見せ致そう。」
「・・・は?」

話についていけない清久をよそに景勝が家臣達に合図すると、たちまち戦支度が整った。
「出陣!!」
あわてて清久が装束を改めて景勝に追いついた時には、既に上杉軍八千が越中宮崎城を攻めていた。
「おお、使者殿!ご覧の通りだ。見たままを都の人々に伝えて下され。」
「は、はぁ・・・・・・」

景勝は翌月には宮崎城・境城を落とし、さらに滑川に放火して越中を荒らした。
清久の報告を受けた秀吉は驚いて越中攻略に本腰を入れ、翌天正13年、越中の乱は終結する。
923人間七七四年:2010/02/15(月) 00:56:01 ID:z5M6UgRW
>>922
景勝、喋ろうと思えばしゃべれるんだねw
924人間七七四年:2010/02/15(月) 00:58:53 ID:GCgUexgO
佐々は魚津騙し討ちの件からして景勝から恨み骨髄だろうしな
首謀者と言われる利家との仲はどうだったんだろうなぁ
925人間七七四年:2010/02/15(月) 00:59:07 ID:Ev6YOfQ4
魚津は上杉重臣のかなりの人数が殺されてるからなあ。
本当は利家の事も嫌いだっただろうな、景勝。
926人間七七四年:2010/02/15(月) 01:10:02 ID:GCgUexgO
魚津の件は正々堂々と、って言うのとはまるで違うからなぁ
正直な話、無用の虐殺ではあったよね
927人間七七四年:2010/02/15(月) 02:12:08 ID:+E0JyHAv
>>920

いま考えたんだけど毛利とか吉良とか朽木とか相良は
地頭じゃなくて普通に荘園領主だったんじゃないの?
(浅井は違うと思うが)
928人間七七四年:2010/02/15(月) 02:51:21 ID:Dpzyk3lj
簡単に言っちゃうと幕府直臣の在地領主が地頭
彼らは体裁的には地頭で実質国人(及び戦国大名)
929人間七七四年:2010/02/15(月) 12:31:28 ID:mwN3R+OK
守護と地頭は上下関係にあるとは限らないからね。
守護は特例を除いて基本的には無収入。守護を務める報酬として
どこかの地頭に任命するという場合はある。領地を与えるというのは地頭に任命する
ということ。
肥後のように国内最大の地頭勢力である菊池氏が守護、国司兼任という場合が多かった
らすっきりした支配体制になるが、(ただし阿蘇氏という厄介な身分の高い宗教勢力も居るが)
常陸のように、最大の地頭勢力大掾一族、守護佐竹一族、国司小田一族、一宮の宗教勢力鹿島一族、
と激しいドングリの背比べ状態のバトルに突入する場合もある。
930人間七七四年:2010/02/15(月) 17:06:34 ID:OeYabupf
常陸って戦乱前からカオス状態だったのかよw
931人間七七四年:2010/02/15(月) 18:41:30 ID:z5M6UgRW
常陸だけでなく、旧利根川の東側、つまり東関東はそんなのばっかりだよ。
一族間だけでなく、一族内部での争いが非常に激しい地域だ。
国人の自立性が強すぎて、ついに統一権力が生まれなかった場所。
932人間七七四年:2010/02/15(月) 19:01:03 ID:qJcNwdj7
佐竹が近隣を切り崩して本格的戦国大名化したのも秀吉の世になって義宣の代になってからだしね
義重の頃はあの辺の代表者争いというか、直轄地的な領土は殆ど増えてない
傘下つうか影響下には入るけど臣従はせずみたいな感じで
933人間七七四年:2010/02/15(月) 19:03:48 ID:1rhyEp70
元の利根川って江戸湾に注いで、ド派手に関東平野を分割してたからな。
934人間七七四年:2010/02/15(月) 19:11:51 ID:VWAIrI6H
大和大納言秀長の穏やかな日常

ある日、大和大納言秀長の御伽集の法師が出仕したときのこと。
法師はいつもより少し遅れて来たので、不審に思った秀長は聞いてみた。

秀長「今日は遅れてきたけど、どうかした?」
法師「はい、御普請場を見てまいりました」

この頃、秀長は何かの普請をしていたらしい。

秀「そんなことしなくて良いんだけど…
  で、堀の石垣はどれくらい出来てた?奉行たちちゃんと働いてた?」
法「はい。皆さん殊の外精を出していました」

秀「それはよかった。その中でも誰が一番良く働いてた?」
法「それが、抜きん出て働いていた奉行がいまして、
  その男の名を聞いたはずなんですが、ド忘れしてしまいました」
秀「誰だよ、思い出して」

法「……」
秀「……」

法「…名字が…魚っぽい感じの名前でした…」
秀「魚って言うと、鈴木か益田か、それとも魚住か?」
法「いえ、そのどれでもありません」
秀「ってことは鯰江?」
法「あっ!そうです、鯰江です!」

無事名前を知ることが出来た秀長は非常に機嫌がよく、
その鯰江某を加増してやったそうな。(備前老人物語)

どうということのない普通の会話なんだが、
秀長の性格を現しているようなまったり感が面白かったので投下してみた。
935人間七七四年:2010/02/15(月) 19:18:13 ID:CXx0a/eN
>>934
大納言さんの逸話少ないからちょっとした小話でもいいね。
何でこんなに少ないのかな?100万石以上の大名なんて数えるほどしかいないのに。
大納言さんだけ逸話が少ない。太閤さんの弟と言うことで実績が割引されてるのかな。
936人間七七四年:2010/02/15(月) 19:18:37 ID:Abl4ZKz9
「ちょっといい話」のお手本のような話
937人間七七四年:2010/02/15(月) 19:56:16 ID:EmMLW2Zl
秀長さんってこんな感じの逸話あったよね
九州出兵の前くらいだっけかな

誰か「最近秀長様が諸大名にめっちゃ高く米を売りさばいてるらしいっす」
秀吉「なんだとー( ゜Д゜)」

秀吉「ちょっと、アンタそんなセコイことは、おやめなさいよ(*´д`)」
秀長「うん…了解…(´・ω・`)」
秀吉「アンタ、こういう時は、気前よくあげちゃいなさいよ(*´д`)」
秀長「兄ちゃん、ごめん…(´・ω・`)」

ラスボスのせいでビッグビジネスを潰された話
ちなみに家康さんは朝鮮の役の時に気前よくあげちゃって株を上げてる…ような記憶…
938人間七七四年:2010/02/15(月) 20:42:55 ID:z5M6UgRW
>>937の家康の逸話を聞いてみたいです。
誰か書いて下さい。
939人間七七四年:2010/02/15(月) 20:45:48 ID:jnf+76qI
熊野杉の代金着服事件もあったな
秀長の代官吉川平介が熊野の杉2万本を大阪で売ったさい、
その代金を着服したとして処刑されたが、秀長も監督責任を負って秀吉に怒られた。

ただこれだけの話で秀長まで勘気を被るというのもおかしな話だから、
秀長の命令で建築ラッシュの大坂で高値で杉材を売りさばいてたんじゃないかな
買い手の兄貴(ラスボス)としては面白くなかろう
940人間七七四年:2010/02/15(月) 20:45:53 ID:Hq1YmbpV
秀長のいい話・悪い話が、天下人の秀吉のエピソードに吸収されてしまっている可能性は大いにあるね
941人間七七四年:2010/02/15(月) 21:08:43 ID:EmMLW2Zl
>>937
ごめん、家康がってのは確証持てないや…本当にごめん…

島津さんに貸してたような気がしたんだけど…
大老として島津が預かってる太閤蔵入地みたいなのを
勝手にあげちゃったってなかったっけ…
942人間七七四年:2010/02/15(月) 21:19:01 ID:WUqdCkeb
大和大納言のとこは饗応とか斡旋半端ない数あるから100万石の収入じゃ足りなかったんじゃないかな。

秀吉にたしなめられた時に異を唱える性格じゃないから
蓄財の理由を教えてくれる逸話にならんので推測するしかないんだけどさw
943人間七七四年:2010/02/15(月) 21:52:32 ID:mwN3R+OK
戦争に負けても笑いのネタになるような負け方する秀長だからね
944人間七七四年:2010/02/15(月) 22:07:45 ID:7dTwAIMf
早雲様のありがたいお言葉〜友について〜

友はよい友を求めなさい。手習学問の友がよい友である。
碁、将棋、笛、尺八などの友は悪友である。こういう事は知らないから
恥になるというわけではない。習って悪いとは言わないが、いたずらに時間を
ついやす事になるであろう。

人の善悪はすべて友によって決まる。三人集まれば、その中に必ず師がいるものである。
友の中の善い人を選んで従いなさい。悪い人は遠ざけて、つき合ってはいけない。
945人間七七四年:2010/02/15(月) 22:27:38 ID:4GI3bVQw
>>944
早雲さまは本当にいい事を言うな
946人間七七四年:2010/02/15(月) 22:35:55 ID:nu+sYiRw
要するに漫画とかゲームとか音楽とかやってる暇あったら勉強しろよって言ってんだぜ?w
947人間七七四年:2010/02/15(月) 22:42:43 ID:WofikhEd
惜しいな
このスレ読んでるぐらいなら勉強しろって事だ
948人間七七四年:2010/02/15(月) 23:26:10 ID:tTbVKweV
>>944
仲間内で先に大名になったやつに従うって約束をした話があったよね、早雲。
殺伐とした時代だったからこそ友人のありがたみが身に染みたんだろうね。

まぁ一方で元就さんは「俺に真の友達なんて一人もいやしねえよ」って愚痴ってるがw
949人間七七四年:2010/02/16(火) 01:09:38 ID:dTj6ePcN
良い友を選びなさいか
よーし、>>948>>937>>916とお友達になる
950人間七七四年:2010/02/16(火) 05:11:57 ID:OfGb73Pj
>>944
下の2行は早雲様オリジナルじゃなくて
論語だったか孔子あたりが言ってた気がするが
951人間七七四年:2010/02/16(火) 05:20:52 ID:oGVz7wa8
論語にあるね。

孔子曰「益者三友、損者三友。友直、友諒、友多聞、益矣。友便辟、友善柔、友便佞、損矣。」
952人間七七四年:2010/02/16(火) 11:55:17 ID:lgKBHOur
謙信の願文

短慮をやめ健気を致すことにおいては嫌いみちなく人に高尚に‥

短気をやめられれば 人に尊敬され嫌われない‥
36歳頃というから ちょっとかわいい
953人間七七四年:2010/02/16(火) 14:29:57 ID:Owi7sF1D
どーしてもやめられなかったんだろうな、短気。(^^;;
神頼みまでしちゃって……
954人間七七四年:2010/02/16(火) 15:22:54 ID:4sU1Rnd1
八割大賢人、二割大悪人の二割の部分だな
955人間七七四年:2010/02/16(火) 19:51:58 ID:LimCUsY3
>>937
なんか最近でも、地震被災地でコンビニとかが被災地に無料で配布する中で、ただひとつ大安売りで売り出した大型スーパーがあって
非難されたというのを思い出させるね。歴史の教訓は、普遍的と言うことか
956人間七七四年:2010/02/16(火) 19:58:58 ID:k2QlNYJJ
>>955
米不足の時に売り渋ったりタイ米との抱き合わせ商法やった米屋も
ほどなく潰れまくったそうで
日本人の食い物がらみでの恨みは今も昔も半端じゃない模様
957人間七七四年:2010/02/16(火) 20:09:09 ID:a2w14OwC
>>956
諸外国が、どうやったら日本を怒らせることができるかを話し合うコピペを思い出すな
958人間七七四年:2010/02/16(火) 20:15:06 ID:Y+94BjQI
そういえば古代ローマじゃ暴動が起こったとき真っ先に攻撃されるのが、
粗悪なパンを売るパン屋だったとか。
959人間七七四年:2010/02/16(火) 21:58:26 ID:4sU1Rnd1
>>956
んー
チト違う
抱き合わせなんてやってた米屋は初期のごく一部だけ
で、米屋はタイ米を受け取らないと日本米売ってもらえなかったんだよ
タイ米はただで入手できたんだわ、米屋は
で、タイ米なんて一般人には売れないから倉庫を圧迫するんだけど
海外からタイ米買い付けに来るバイヤーが居たんだよ
ただで入手できたものが安いなりに売れる
米屋は儲かる!とおもって米屋始めたヤツが居たんだけど
当然ながら次の年にはタイ米なんて入ってこなくなって廃業したってのが実際
960人間七七四年:2010/02/16(火) 22:25:47 ID:AWnqNNth
俺の地域はまだマシな方だったからタイ米なんて食わなかったな
961人間七七四年:2010/02/16(火) 23:07:36 ID:LimCUsY3
当時、日本に来たタイ米はあちらでは高級品だったらしいね。そう考えたら、海外のブローカーが目をつけるのも道理かも
962人間七七四年:2010/02/16(火) 23:33:23 ID:k2QlNYJJ
>>959
そういうのもいたんだ
自分が見聞きしたのは固定客がいるような昔からの米屋の話ね
その「初期のごく一部」の悪さが尾を引きまくったという

確かに日本料理には合わなかったけど、善意で融通した米が
あの扱いじゃタイに失礼だよなーとは子供心にも思ったっけ
963人間七七四年:2010/02/16(火) 23:55:26 ID:sAjraO7k
 遠路ご使者とお便りありがとうございます。
そちらはお変わりもない由、くわしくうけたまわり満足いたしております。こちらも無事ですからご安心ください。
わたしの身の上のことですが、殿様(豊臣秀頼)のご懇意がひとかたならないのはよいですが、いろいろと気苦労ばかりしております。
一日一日と暮らしております。お目にかかってでないとくわしいことは申し上げられません。
手紙ではいろいろと申し上げられませんが、お使者が申し上げると思います。
当年中何もないようでしたら、何とかお目にかかりたいと存じます。知りたいことがたくさんあります。
しかし、さだめなき浮世のことですから一日先のことはわかりません。
わたしたちのことなどは浮世にあるものとは思わないでください。恐々謹言

(追伸)なお、御両人別々にお手紙をさし上げるべきですが、さしたることもございませんし、
また御使者がご存知だとおもいますが、少し取り乱れておりますので、とりいそぎこのようにしたためました、
いずれおってくわしくお知らせいたします。以上

三月拾日     真(真田)左衛門佐
   小(小山田)壱岐様
   同主膳殿       信繁(花押)


慶長二十年大阪冬の陣と夏の陣の間に書かれた書状への信繁の返書。
宛先の小山田壱岐こと小山田茂誠とその息子之知は信繁の義兄と甥であり
武田家滅亡時に高遠城で討死した小山田昌行の子と孫である。
信繁は九度山在中からたびたび書状のやり取りをしていたが
二人は大阪の役において当主信之の名代の信吉、信政兄弟に従い戦っている。
信繁の気苦労の一因は多くの身内を相手取った状況にあったのかもしれない。
964人間七七四年:2010/02/17(水) 00:31:41 ID:54vipKig
だから九度山でのんびりしておれと言うたに
胃が痛いわ
965人間七七四年:2010/02/17(水) 00:47:26 ID:NymvKmF1
奥さん米屋です

イイ話ですな
966人間七七四年:2010/02/17(水) 00:49:11 ID:kn1yxJSA
>>964
信行さん乙です
967人間七七四年:2010/02/17(水) 00:53:58 ID:q5zf9d3r
>>962
日本が敗戦した時タイは「今、日本は苦しい時だからこれだけでも持って行ってくれ」
と言って、タイから復員する日本兵みんなの飯盒にタイ米をこっそり詰め込んでくれたんだよな。
当時、日本の同盟国だったタイは連合国に睨まれていたので、ばれたら危険なのに。
それを考えたらタイ米をバカにしたらバチが当たる。
968人間七七四年:2010/02/17(水) 01:15:25 ID:NymvKmF1
チベットはおなじように日本に味方したら中国に侵略されたらしいな
969人間七七四年:2010/02/17(水) 01:16:16 ID:k/cDgXZR
>>944
早雲さまの21ヶ条ですね。
他には早寝早起きをしろとか、水を無駄にするとか、たまには文字を読まないと忘れるぞ
とか、神仏の信心しろとか細かいですよね。

同じ21ヶ条のひとつに女性についてかかれたものもあります。

ゆひべには台所中居の火の廻り我とみまはりかたく申付。
その其の外類火の用心をくせになして。毎夜申し付けるべし。
女房は高きも賎しきも左様に心持ちなく、家財衣装を取り散らし。油断多きことなり

訳すと火の元の後始末の確認は自分でやれ、女に任せるな。
女というのは、身分が高かろうが、低かろうが、家財やら衣装をちらかしてばかりいて、
油断多くて、当てにはならんのだよ。

友は信用しても、女は信用していなかった早雲さまでした。
970人間七七四年:2010/02/17(水) 06:25:11 ID:D1EEiHkT
寝煙草失火は男の方が多いんだけどなぁ
971人間七七四年:2010/02/17(水) 06:36:46 ID:yhdhb6HL
「武士が女性に必要以上の責任を負わせるな」という、早雲なりの女性への気遣いだと
解釈してみる。
972人間七七四年:2010/02/17(水) 08:58:36 ID:9EkyQ6iP
衣装はともかく家財をどうやって散らかすんだろうw
政務から疲れて居間に戻ったら何故か
衣紋掛けが倒れ鏡が床に落ち行李が縦横に転がり、とか?

嫁も娘も奥仕えの侍女も「片付けられない女たち」だと厳しいなw
973人間七七四年:2010/02/17(水) 10:04:03 ID:YD0YGTb+
多分、女に用事を申し付けても、途中で綺麗な着物や
豪華な家具に気を取られて、火の始末をうっかり忘れて
しまうから、そう言うのは男にさせろ。って意味じゃないかな?
974人間七七四年:2010/02/17(水) 10:20:44 ID:oTYJYMSR
他の作業を同時にいろいろやってると重要な事をコロッと忘れたりするからな。
こういうもっとも重要な一点の確認は担当者以外がするという体制は
実は理にかなっているのかもしれない。
975人間七七四年:2010/02/17(水) 11:24:50 ID:DDJA2BLo
試験前になると妙に部屋を片付けたくなるのを思い出した
976人間七七四年:2010/02/17(水) 13:37:36 ID:Vu5m50Xs
大事なところの最後の確認だけは上司が自ら行えってことだべ。
現代でも変わらんね。
977人間七七四年:2010/02/17(水) 16:59:23 ID:fU1aydYB
さすが現代日本政府官僚群直系のご先祖様
978人間七七四年:2010/02/17(水) 17:11:02 ID:yhdhb6HL
「蘆名の宰相」と呼ばれた会津蘆名家家臣、金上盛備。
彼が豊臣政権との折衝のため、上京した折のことである。

盛備がとある京の名家での集まりに顔を出した時、茶を持ってきた小姓を見て

「眉目清らかなる、めごい御児子ですなあ」

と、褒めた。

めごい?めごいって…。めごいですって?

。゚m9(゚^∀^゚)゚。ブハハハハハハハハ !!

一座、どっと笑った。めごいとは東北の方言でかわいい、愛らしいと言う意味である。
人々は盛備の方言が面白く、つい笑ってしまったのだ。
田舎風を見下す都会の人間のいやらしさでもあろう。

これに盛備

「おやおや、これはこのような名家に集まる人々の沙汰とも思えません。
古の歌にも、『花のめごさよ』と詠んでいるではありませんか?
その様に笑われるほどの、東の鄙辞とは思いませんが…。」

座の者たち、盛備のこの答えに言葉も無く感心した、との事である。
979人間七七四年:2010/02/17(水) 17:12:55 ID:cp1UHj2t
早雲様はインテリな感じの逸話もあるけど
泥棒を許したり色んな逸話があるな。
980人間七七四年:2010/02/17(水) 18:38:49 ID:9gPxcog1
>>978
方言ももとは京都で流行った言葉だったのが多いしねぇ
981人間七七四年:2010/02/17(水) 18:47:46 ID:yhdhb6HL
そろそろ次スレたててみる
982人間七七四年:2010/02/17(水) 18:50:06 ID:yhdhb6HL
ERROR:新このホストでは、しばらくスレッドが立てられません。
またの機会にどうぞ。。。

どなたか頼みますorz

↓スレタイ

戦国ちょっといい話18

↓テンプレ

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
983人間七七四年:2010/02/17(水) 18:56:31 ID:Vipd4Fwu
では立てようか
984人間七七四年:2010/02/17(水) 18:57:13 ID:Vipd4Fwu
あい
戦国ちょっといい話18
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1266400609/
985人間七七四年:2010/02/17(水) 18:58:22 ID:yhdhb6HL
>>984
ありがとうございますー
986人間七七四年:2010/02/17(水) 19:37:25 ID:Vu5m50Xs
>>978
地方出身者として、これは一座の人間むかつくわw
金上さんは偉い!
987人間七七四年:2010/02/17(水) 19:50:54 ID:qSQ/TfXB
>>978
こういうのがスッと返せるのはカッコいいな。

南部だったら引き籠って、家族に愚痴の手紙を書くだろうなw
988人間七七四年:2010/02/17(水) 19:53:29 ID:PqxYYo7y
そして柱の影からのぞき見してニヤニヤする津軽為信
989人間七七四年:2010/02/17(水) 20:47:37 ID:NymvKmF1
松本図書なんとかさんにもなんかエピソードないか?
990人間七七四年:2010/02/17(水) 22:00:38 ID:FNJGIvMg
東北はもういいから四国や近畿南部、山陰の話プリーズ
991人間七七四年:2010/02/17(水) 22:13:29 ID:XTEgBcWs
>>978
蝸牛考という奴でしたっけ、すいません「アホバカ分布図」の受け売りです。

>>990
四国にはいい話ほとんどないんじゃないでしょうか。
何といっても大名家はみんな消えちゃうくらいですし。
近畿南部(紀州?)や山陰も四国ほどじゃないですが、似たようなイメージかも。
992人間七七四年:2010/02/17(水) 23:08:48 ID:pVNBc16O
誰の話題でもいいから八丈島の話プリーズ
993人間七七四年:2010/02/17(水) 23:17:23 ID:fN11dH4/
泳いでまいった
994人間七七四年:2010/02/17(水) 23:23:39 ID:UFi2wgqV
ドッグブリーダーがいいな
995人間七七四年:2010/02/18(木) 01:15:24 ID:N8l4uBgV
方言ってのは、単になまる以外に
中央では昔使われていたが今はすっかり廃れてしまった言葉が
地方には残って方言になるってのが結構あるからな。
996人間七七四年:2010/02/18(木) 01:54:58 ID:mFQN1gXL
「めごい」って今でも使う?
997人間七七四年:2010/02/18(木) 02:19:04 ID:9os8KnxK
めんこいとか
998人間七七四年:2010/02/18(木) 02:31:24 ID:kTdprzr/
めんこいはめごいの転訛なんだろうなぁ。東北で言う地域多い気がする。
(●Д・)←この人の嫁さんの名前はまんまその言葉からだね。
英語で言ったらプリンセス・ラヴリー?
999人間七七四年:2010/02/18(木) 04:58:14 ID:9os8KnxK
キュートだと思うが
1000人間七七四年:2010/02/18(木) 05:35:21 ID:0SUsbO8h
愛実のめぐと同じ語源か
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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