戦国ちょっと悪い話16

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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戦国ちょっといい話16
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2009/12/11(金) 00:28:45 ID:jawMPTcc
>>1
3人間七七四年:2009/12/11(金) 00:28:50 ID:aQkSbS3E
>>1
トン!
みなさんいつも面白い逸話をありがとう ございます
4人間七七四年:2009/12/11(金) 07:11:08 ID:OiAEBiCb
>>1乙です
5sage:2009/12/11(金) 09:43:38 ID:EagfA3pZ
  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)       >>1 大儀であった!好きなものを取るがよい
 ( ∪ ∪          ただし、自己責任じゃ!何があっても与り知らんぞ!
 と__)__)
                                                              
                ,ハiヽ..         ┌─┐     ┌───┐       ∞         (・ω・)
              ノ"・,,'' ヽミ      /. ̄ ̄.\    │狙撃願│      ∈||∋        ((   )) 
              (。,,/ )  ヽミ〜   ∪⌒∪⌒∪    └───┘        ||         (_)_)
               百段         平蜘蛛    稲富狙撃依頼券  蜻蛉切のトンボ    秋田木像
             (長可付き)     (火薬入り)   (成功率13%)   (プライスレス)(木像守の役職付き)
      
            ┌┬┬┬┬┐       /\                  __        ┌───┐
            │§§§§│      /   \.    <ニニニ||===   <´゚ノ  `,>《.     │GO! │ 
            └┴┴┴┴┘     .(_ 人 _)              Φ ` ̄ ̄(∞).     └───┘
            利家のそろばん  季節外れの大桃   小豆長光    義姫の手料理   八丈島へのチケット
          (利家憑依で守銭奴化) (献上品だお)     (短い)     (毒見禁止)       (片道)

              ←──≪                ┌───┐     ∠二二二ア      ┌───┐
              ←──≪     <ニニニ||===.   │ 山内 │    │  酒  │|     ├───┤ 
              ←──≪                └───┘     ヽ┴┴┴ ′    └───┘
              三本の矢      怪刀痣丸   山内相撲招待券    備前の酒       直江書状
           (お兄ちゃん早すぎる) (眼病注意)  (一両具足とドスコイ!!)  (直家寄贈)   (閻魔様によろしく)
6人間七七四年:2009/12/11(金) 09:49:42 ID:DAw93X9x
あの…普通のお茶を…
7人間七七四年:2009/12/11(金) 10:02:03 ID:sm2YWhxf
柿を頼む
8人間七七四年:2009/12/11(金) 10:09:56 ID:EdH6loha
>>5
泳いで帰れば楽勝じゃーん、乙!                   w
9人間七七四年:2009/12/11(金) 10:15:02 ID:ZtDG+ZBA
季節外れの大桃って元ネタはなんだ?
10人間七七四年:2009/12/11(金) 10:17:30 ID:/jlTRTqW
>>1
>>5
折角なので聚楽第に落首しよう

大仏の功徳もあれや鑓かたな
釘かすがいは子だからめぐむ
11人間七七四年:2009/12/11(金) 10:41:53 ID:hd5iNcTG
>>1乙。

タバコを失敬して明治天皇に「血は争えないな」とからかわれた蜂須賀侯爵だが
当時盗賊だと認識されていた蜂須賀小六正勝の血は
池田家を介して明治天皇に流れており、徳川家斉直系の侯爵には全く流れていなかった。

時代は違うわちょっとメモに使ってみんなに悪いと思った話。
12人間七七四年:2009/12/11(金) 13:01:12 ID:iP8oERkq
森絡みでしょ
献上品の桃を下賜されて食べたら逝っちゃったとかなんとか
13人間七七四年:2009/12/11(金) 13:09:38 ID:P6/1GdvZ
14人間七七四年:2009/12/11(金) 18:43:14 ID:DYlr/8te
三成に検閲で引っかかったアレですよ
15人間七七四年:2009/12/11(金) 19:18:13 ID:Yw55u6bN
  /i (~) iヽ
 《 ヾ⌒ソ /
.  {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ まいど、ま〜くんだze!
  (:::::::::::::::)
   しωJ
16人間七七四年:2009/12/12(土) 01:27:05 ID:jTu2UPHz
>>9
家康が家臣の奢侈を怒った話もあったな
17人間七七四年:2009/12/12(土) 11:34:57 ID:xNZixm2D
最近の学説ではあの大桃の中には赤ん坊が入っていて
その子が将来豊臣家を救ってくれるはずだったっていうのが定説になってる
18人間七七四年:2009/12/12(土) 12:54:27 ID:wuz30Z7q
三成め…
19人間七七四年:2009/12/12(土) 17:01:35 ID:eh4HWLjs
それは近代になってできた後付だろ
桃食って秀吉とおねが若返るはずだったと俺は聞いた
201/2:2009/12/12(土) 17:14:32 ID:DwFBCdhh
文禄の役の休戦により、長宗我部元親が朝鮮より帰国した頃の事だそうだ。

長宗我部の配下に、土佐高岡郡志和を領する、志和と言う一族があった。
当時、難波家より養子に入った当主の宗順を初めとして、長男難波権之佐、
次男志和勘助、三男で志和、薬師寺の住職である椿蔵主まで、何れも無双の勇士と
称えられていた。

中でも次男勘助は、色白で背が高く、弁舌さわやかで文学にも通じ、とりわけ笛の上手として
有名で、普段は大変優しい性格だったが、事に及べば、太刀打ち、軽業、強弓の矢継ぎ早、
さらに1日に四十里を闊歩する事も、苦も無くやってのけたと言う。
特にこの健脚を、勘助は自慢しており、

「当国は他とは違い、六十町(約6.5キロ)を一里としている。私はこの測り方で
1日に四十里(約260キロ)を行く。人より少しは早いだろう?」

などと言っていたそうだ。

ある年長宗我部元親は、この勘助を阿波の蜂須賀家政の元に、使者として派遣した。
家政は勘助を見て大変感心し、家臣に

「あの勘助と言う者、骨柄と言い弁舌と言い、天晴れな器量を持った若者だ。
高禄を与えて、我が家で召抱えられないものかな?」

長宗我部より引き抜けないものか、というわけだ。これを承った家臣、
すぐに勘助の元に行って

「我が主君家政様は、あなたの事をこのように褒めておられました。

ところであなたの志和家は、元々は一条殿の家臣でした。しかし、一条家が没落したため、
今のように元親殿に仕えられました。あなたは長宗我部譜代の士と言うわけではありません。
武士は渡るものだと申します。当家に仕える気はありませんか?
もし望まれるなら私はそれを取り持ち、必ず高禄で召抱えられるようにいたしましょう。

しかし勘助は「ありがたいお噂でありますが、その話はまた後日…」と言って帰国した。
212/2:2009/12/12(土) 17:15:56 ID:DwFBCdhh
「後日」とは言ったがこれはあくまで当座の挨拶としてであり、その後この話が
進展する事はなかった。だが、どうしたわけか、この話が元親の耳に入った。
しかも『勘助は蜂須賀家に仕えることを許諾した』との尾ひれが付いて。

元親は『いかにもありそうなことだ』と甚だ怒り、実否を確認する事もせずに言った

「志和一族を誅殺せよ!」

先ず長男、難波権之佐を伊予に派遣し、「その帰りを討て」と、檮原の住人
船戸三郎左衛門、松原蔵人に命じた
彼らは権之佐の帰路で酒宴を行い、そこを通りかかった権之佐を誘う。
権之佐がこれに喜び酒器を受け取ったところを飛び掛って殺した。

次男、勘助は阿波へ使いに出した。
そして黒岩玄蕃に「その途中の安芸で仕留めよ」と命ずる。
黒岩は勘助が泊まった安芸の町屋の亭主に命じて風呂を炊かせ、
勘助がそこに入っているところを乗り込み、事の次第を告げて殺した。

後でこれを聞いた玄蕃の父、冶部左衛門は
「玄蕃はわが子と言うに及ばぬ不覚者である!士に対して太刀も持たせず、
丸裸であるところを討つのは死者の首を取るのと同じ事、武士の本意にあらず!」
と怒り、3年間にわたって勘当をしたという。

勘助の死骸は安芸の浜に葬られた。その塚からは夜な夜な、勘助の得意とした笛の音が
聞こえてきたそうだ。

この二人が殺されると、多くの軍勢が志和の城に攻め寄せた。
当主、宗順は自害。三男椿蔵主は落ち延びようとしたが、仁井田にて討ち取られた。

これらは文禄四年、四月十二、十三、十四日の出来事であった。
わずか三日の間に、志和一族は滅びつくしたのである。

一説に、幼い宗順の末子を、志和家の家士が抱きかかえて出奔した、とも言われるが、
定かではない。

長宗我部元親による、志和一族誅殺の顛末である。
22人間七七四年:2009/12/12(土) 18:12:03 ID:tXbzqsfk
仙石さんが原因とは言え、本当劣化ぶりが酷いな…
23人間七七四年:2009/12/12(土) 18:15:37 ID:jI7NAfur
仙石ちょっと悪い話
24人間七七四年:2009/12/12(土) 18:43:55 ID:eOEYSt/K
>あなたは長宗我部譜代の士と言うわけではありません。
>武士は渡るものだと申します。当家に仕える気はありませんか?

この言い方が面白いな
戦国ではこういう感覚だったのか
25人間七七四年:2009/12/12(土) 19:27:01 ID:JawmazIO
>>22
まあ長宗我部も島津と同様、四国統一寸前で土佐一国に転落してしまい、
中央集権も中途半端で終わったわ、大量に召抱えた家臣たちを食わせる為に
自分で自由になる領土があまりなかったわと、悲惨な状況だからなぁ。
長宗我部にしてみれば、中央集権化と直轄領拡大のために、形振り構わない状態じゃなかったの?
家久(悪)の場合は、子供を有力家臣団にばら撒く事ですんだけど、元親には手駒が殆どいなかったし。
26人間七七四年:2009/12/12(土) 19:39:41 ID:MUPBnWCG
いわゆる元親の乱行は、検地や元親百箇条制定らへんの時期なんだよね
信親が死に、幼い盛親の政権を見据えねばならなくなって、ブーストかかったんだろうな
27人間七七四年:2009/12/12(土) 19:44:55 ID:avNHC3/C
>>24
戦国っていうか当時はいったん収まった時期だから当たり障りない言い方だ
「お前、ご先祖の恨みとか、ちょっとは感じてないの?ウチに鞍替えしなよ」っていう上品な言い方だと思う
28人間七七四年:2009/12/12(土) 20:17:01 ID:scxfnkTu
>>26
当時の評判が悪い話ってそういうとこあるよね
もちろん、だから本当は悪い話じゃないってわけでもないけどさ
29人間七七四年:2009/12/12(土) 21:44:36 ID:tn1pXveN
幕府も、不安要素排除と所領の別分配のために
些細な落ち度で改易しまくったりとかだもんな
30人生七十四年:2009/12/13(日) 13:17:19 ID:obzYfh+M
>>5
百段がいるな。
それでは百段が死亡フラグになった人のお話を。


森長可ら織田勢に大暴れされて壊滅した武田勢。
投降した人の中には信玄の弟で、教養人として名高い武田逍遥軒信廉の姿もあった。

しかしあいつらは武田の血族を生かす気はさらさらなかったのである。
武田信廉殺人事件のいきさつはこうであるといわれている。


織田家家臣 「見てください、あれが有名な鬼武蔵の馬の百段ですよ。」

逍遥軒   「はじめてみたけどかっこいいなあ(ホレボレ)」

織田家家臣 「(隙だらけだぜ)今だ、死ねー。」

百段に見とれてるうちに信廉さんは殺されてしまいました。
画家として、武田信玄画像や信虎画像、信虎夫人で母でもある大井氏の画像も残している信廉さん。
生きていれば、有楽斎や氏真のように文化人として大きな功績を残したでしょうに。
31人間七七四年:2009/12/13(日) 13:41:46 ID:fhslj5sQ
>>30
がいしゅつじゃね?
32人間七七四年:2009/12/13(日) 14:14:45 ID:5L3r9W/W
>>29
実際にはそうとは言えないぞ。
特に大坂の陣以降は、むしろ大名家存続に力尽くしてる位。最上や蒲生はその一例。
些細な落ち度で改易しまくったのは、綱吉の時くらいだろうねぇ。
あれはもうやりたい放題だったから。
33人間七七四年:2009/12/13(日) 15:48:13 ID:DZP6wFwH
織田信雄の小姓に、丹波左平太という男がいた。
後、ゆえあってか豊臣秀頼とともに大坂城へ篭もることになる。

さて、大坂の陣が徳川軍の勝利に終わり、城が焼け落ちたあとのこと。
左平太は落ち延び、泉州貝塚のあたりを逃走していた。
そこで、武装した野伏達に取り囲まれてしまう。
しかし左平太、戦おうとはせず、彼らを説得にかかった。

「お前ら、おれを殺して、武具を剥ごうというのだろう。
武士として身ぐるみ剥がされたとあれば恥である。
だが、おれはすでに日本を敵として戦った身だ。この世に望みも無い。
そこでだ、この場で出家しようと思う。僧を連れてきてくれ」

大戦だけあって、戦死者の弔いをする僧が多くいたのだろうか。
野伏としても、武士相手に戦って武具を奪うより、穏当に脱いでもらったほうがいい。
そう判断し、僧を連れてきた。
左平太、「ああお坊様」などと言いながらにじり寄り、突然 刀 を 突 き つ け た。
「おい野伏ども、道を開けろ」
左平太は僧を人質にとり、しかも盾にしながらその場を脱出。
さしもの野伏も後生を恐れたか、追っては行かなかった。

左平太は知人を頼って紀州に隠れたが、後に赦免されたという。
34人間七七四年:2009/12/13(日) 15:58:30 ID:fPh5uxVY
うまく生き延びたな
35人間七七四年:2009/12/13(日) 16:35:53 ID:21l+RcZd
>>33
そこでお坊さんに、「野伏から逃れるためとは言え申し訳ない」と言って、
後日十分に礼をしたというエピソードがあれば、
いい話になりそうなのに…
36人間七七四年:2009/12/13(日) 18:17:46 ID:AG65fBDZ
襲う方より襲われた方が凶悪とは
37人間七七四年:2009/12/13(日) 18:21:43 ID:EKWyoRoF
落ち武者狩りの野伏たちも流石に坊主ごと掠奪の対象にするようなことはないんだね
38人間七七四年:2009/12/13(日) 18:31:23 ID:rb4fKYrz
坊主なんか知るかよ!ヒャッハー! となるかと思ったけど
野伏意外と信心深いのね
39人間七七四年:2009/12/13(日) 18:44:46 ID:o1Iyneh3
豪腕僧兵みたいなのが来なくてよかったというか
坊主災難すぎる
40人間七七四年:2009/12/13(日) 19:18:24 ID:4hT+OGGk
野伏、落ち武者狩りってことは、地元の人間だったんじゃないか?
で、地元の寺の僧侶を連れてきたと。それなら人質にもなる。
41人間七七四年:2009/12/13(日) 19:41:18 ID:jmDKjX/0
自分ちの墓のある寺でなくても、兄弟の嫁だとか母親の実家だとか
地縁血縁ネットワークはとんでもなく広いからなあ
42人間七七四年:2009/12/13(日) 21:17:27 ID:kWLj7nMH
有名かどうかわからんが、ちょっと悪い逸話を投下

清正と腐った豆


文禄の役のころ、加藤清正の軍は奥地まで侵攻していたが、
次第に補給に苦しむことになった。
そして米は尽き、煮豆を食べながら進軍する日々が続いていたが、
ある時、この煮豆を多くつくりすぎてしまった。
だからといって、捨てるわけにもいかず、
煮豆をすでに空になっていた米俵に入れて、馬の背に乗せて運ばせることにした。

しばらく行軍すると、この煮豆をいれた俵から
香ばしい匂いを立て始めたことに清正が気付いた。
清正は部下に命じて俵を開けさせると、そこには糸を引き始めた煮豆があった。

「いかん、馬の体温でせっかくの豆が腐ってしまったのか
 しかし、この香ばしい匂いはどうじゃ。捨てるのももったいない」

清正はこう考え、試しに腐った煮豆を食べてみた。

「おお、これはうまい!」

部下達は最初気味悪がっていたが、食べるものも満足にない状況なので
恐る恐る清正に続いてこの煮豆を食べてみたら、
意外と食べられるではないか!という事になり、
その日は皆でその豆を

「香ばしい、香ばしい・・・・」

と舌つづみをうちながら平らげてしまった。


とある納豆誕生の話
43人間七七四年:2009/12/13(日) 21:22:59 ID:kWLj7nMH
ちなみに、この逸話は源義家の東北出兵時のバージョンもありますが、
スレチになるので清正のほうを使いました。

補足すると納豆自体は1051年の時点で文献にあるそうですが、
ここでの納豆は塩辛納豆の事であると一般には解釈されています。

納豆が普及したのは江戸時代なので、この逸話もある意味現実味は
あるのかな・・・?
44人間七七四年:2009/12/13(日) 21:34:05 ID:lObP5YPR
この逸話を信じるなら九州で納豆を食う習慣がないとおかしいな
関西では喰わないらしいけど九州はどうなのかな?
45人間七七四年:2009/12/13(日) 21:37:26 ID:WNwfaJqH
関西は納豆食わないって嘘だよ
普通にどこでも売ってるし消費されてる
好きな人は食うし嫌いな人は食わん
46人間七七四年:2009/12/13(日) 21:40:33 ID:EKWyoRoF
つまらんことをいうなら納豆の臭いって
香ばしいものではないというか…
アンモニア臭だよね
47人間七七四年:2009/12/13(日) 21:49:18 ID:HRyg50Mn
今の市販されている納豆はほとんどが匂いを抑えているから食べやすいしね
48人間七七四年:2009/12/13(日) 22:06:58 ID:lObP5YPR
wikiみてたら九州では例外的に古くから普及しているとか書いてあるな
分類が何故か清正ゆかりの熊本で説明と微妙に食い違ってるけど
>>42の話もあながち作り話ではないかもね
納豆の再発明
49人間七七四年:2009/12/13(日) 22:09:42 ID:9sYI9iX5
>>45
関西でも特に大阪の奴は自分が違うと周りもみんな違うみたいに言う奴が多いからな
50人間七七四年:2009/12/13(日) 22:21:07 ID:/vr+Zeub
いや関西で糸引き納豆が普及してなかったのは
ホントの話

20年くらい前(つまり昭和50年代ぐらい)までは。

現代では関西の場末のスーパーでも納豆皆無!…ということはない。
しかし関西出身のわしは今でも納豆大嫌いだな あんな腐った物食べるものの気が(ry
大徳寺納豆ならばOK

九州では普通に喰ってたと思う
わしの母(南九州出身)が納豆フェチだから
51人間七七四年:2009/12/13(日) 22:42:44 ID:fhslj5sQ
時は天正十八年、伊豆半島のとある麻畑。
後北条家の部将、富永山随は麻の大いに茂ったその畑の中で、
息を殺して人目を忍んでいた。

というのも、彼の守る丸山城は先刻豊臣方の手に落ちて、
残敵掃討のため四方八方を豊臣方の兵が探索して回っていたからだ。

『何事もなく、通り過ぎてくれよ……』

すでに麻畑にも豊臣の兵はふみ込んでいる。山随は切にそう願っていたことだろう。
不幸中の幸い、後北条家の長年の治世に百姓は親しみ、
豊臣方に彼の在所を密告するようなものとていない。
やがて彼と、彼を匿う百姓の願いが通じたか、探索を諦めた豊臣方は帰り支度をはじめ――、

「コケコッコー!」

た、その瞬間。しまった、と思ってももう遅い。
麻畑の中、山随を見て驚いたニワトリが羽音鳴き声けたたましく、畑の外に飛び出した。
不審を覚えた豊臣方がその周囲を再捜索。
今度は隠れおおせることもかなわず、哀れ山随は外に引き出され、その場で首を打たれてしまった。

一部始終を見守っていた百姓達は、
「自分達がにわとりを飼ってさえいなければ……」と主君の不幸を招いたことに悲嘆にくれて、
以後周辺の村々では山随の霊を弔って、ニワトリを飼うことも麻を栽培することもなくなったという。
52人間七七四年:2009/12/13(日) 22:43:42 ID:fhslj5sQ
さて、時は降って慶長十一年の夏。

伊豆国加増野の村を、武家が一人騎乗して通り過ぎようとしていた。
村を領する小林上野守は、挨拶もなく自分の領邑に立ち入った非礼を甚だ不快に思い、

「馬上、挨拶もなしとはさても無礼な奴め」

とたまたま手にしていた弓を引き絞り、遠矢を射掛けてこの武家を射落としてしまった。
さて、顔を拝んでやろうと小林上野守は斃れた武家に近づき、一驚して腰を抜かしてしまう。

それもそのはず、なんと射殺した武家は彼の主君たる富永山随ではないか!

とんでもないことをしてしまった、色を失ったもののもはやどうすることもできず、
上野守は短慮を悔いつつその場で自害して果てた。

一部始終を見守っていた百姓達は、
「弓矢さえこの村になければ……」と主君の不幸に悲嘆にくれて、
以後加増野の村々では山随の霊を弔って、案山子に弓を持たせることも、
子供に弓矢の玩具を持たせるともなくなったという。


何の因果か民話上何度も蘇らせていろんな物を禁止するきっかけになってしまう、
ある意味ちょっと間の悪い武将のお話。
……慶長十一年って、後北条どころか関が原すら終わってるんじゃ?とか言ってはいけない。
53人間七七四年:2009/12/13(日) 22:47:07 ID:IZfAZK29
関西出身だが納豆は普通に食う。うちの母親が子供の頃(40年以上前)も勿論あった。
54人間七七四年:2009/12/13(日) 22:48:17 ID:7OgVbK5o
伊豆のそのあたりの地域じゃ、昔のご領主といえば富永山随の事だったんだろうね。
55人間七七四年:2009/12/13(日) 22:57:30 ID:K6IYeOMp
それだけ死を惜しまれる領主だったのかもわからん。
56人間七七四年:2009/12/14(月) 00:27:58 ID:iQC7zv7l
こんなのがあったw

> 21 名前:名無しのやる夫だお[sage] 投稿日:2009/12/11(金) 00:02:20 ID:MP8Ke7Gw
> 戦国時代のロクデナシだって祀る神社あるし。
>
> でも、DQN四天王を明神とか大明神とか権現にしている神社は聞いたことないなー。


> 22 名前:名無しのやる夫だお[sage] 投稿日:2009/12/11(金) 00:52:15 ID:oEEjJkps
> >>21
> とりあえず皆あったよ
>
> 伊達政宗…青葉神社(宮城県仙台市)
> 細川忠興…出水神社(熊本県熊本市)
> 森長可…赤穂神社(兵庫県赤穂市)
> 島津忠恒…鶴嶺神社(鹿児島県鹿児島市)
57人間七七四年:2009/12/14(月) 01:32:19 ID:0YL05pjb
>50
発酵が駄目なの?
乳製品も駄目だとしたらかわいそうじゃ
58人間七七四年:2009/12/14(月) 01:35:25 ID:uAFyfXq7
>>57
俺は>>50じゃないが、西日本ではボチボチ聞くネタの一種だよ、
とボケ殺しをしてみる
59人間七七四年:2009/12/14(月) 01:36:23 ID:2BcS9+mW
>>32
綱吉の場合は、喜多見とか山内とか自分が取り立てた連中ですら容赦なしだもんな。
最近は再評価が進む綱吉だけど、どっちにせよ、こういう上を戴く連中は大変だよなと思う。

>>56
山名豊国とかも神様になっとるしね
60人間七七四年:2009/12/14(月) 07:59:18 ID:HIQipgo6
神様だらけの戦国だったのか、神社の数だけ色んな神様がいるわけだし当然か
いかにも多神教の日本らしくて面白いなあ
61人間七七四年:2009/12/14(月) 09:03:45 ID:lGStoUR+
>>51-52の富永山随も祠に祀られてるしね
62人間七七四年:2009/12/14(月) 09:47:27 ID:V4EYV9SO
富永山随は二度死ぬ
63人間七七四年:2009/12/14(月) 11:57:25 ID:ouL5lA0h
長久手の戦いの時、家康は小牧の守りを最も経験のある三人の将に託した
酒井忠次、石川数正、本多忠勝の三名である

この時、本多忠勝はこう提言した
「秀吉は楽田に移動、犬山は無人である。この隙を狙って犬山を攻め落としちまおう」
この時の留守勢は五千、信雄の千五百を足しても数万の秀吉に攻勢をかけようというのだから
恐ろしい話である

もちろん他の二人が止めて犬山攻めは無くなったが、そのうちに秀吉が長久手に出陣して
これを見た忠勝が僅か五百でこれを追ったのは有名な話

実際に行った行動もトンデモナイが、その前の計画も十分トンデモナイという話
でも忠勝ならなんとかしてしまいそうな気もしないではないのが恐ろしい

後日談として家康が小牧に戻った後に酒井・石川・本多は秀吉の陣地を襲撃し楽田、羽黒の小屋を
千件ほど焼き討ちしたという
64人間七七四年:2009/12/14(月) 19:24:10 ID:0ZH5NSiN
>60
神社はちゃんと調べてみないと、明治の新仏分離令後に建てられたものも多い。
65人間七七四年:2009/12/14(月) 21:08:41 ID:nYduLWC7
豊臣秀吉が舞の上手い織田信雄と下手糞な徳川家康を見て、
家康を「下手だったから海道一の弓取りになれたのだ!」
信雄を「舞うのが上手な奴にろくな奴はおらん!」と評したという
逸話がある。(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3262.html
しかし、こうした感想を抱いたのは秀吉だけではなく…

加藤清正「まったく信雄は愚か者よな。上手く舞ったからなんだというのだ」
石田三成「対して家康は馬鹿のふりをしている。げに恐ろしき男よ」

清正、三成なども同意見だったという。どこまでも馬鹿にされる織田信雄であった。
66人間七七四年:2009/12/14(月) 21:17:06 ID:ouL5lA0h
でも、家康は実は能に対して造詣が深かったとされる
家康の諧謔だったのかな
67人間七七四年:2009/12/14(月) 21:22:38 ID:4/bigeqD
芸を評価、評論する分には造詣が深かったけど、実際にやる分には上手くなかった、
って事かもね。

まあ家康も若い頃武田信玄から

「あいつは戦ばっかりやってて、歌が上手いとか茶の湯の上手とか、そう言う噂が
全く聞こえてこないのが偉い。」

って、へんなほめ方をされた人だしw
68人間七七四年:2009/12/14(月) 21:22:51 ID:pzpPmolR
家康は何か芸術系が苦手ってのが多いな。
まあ、地味なイメージ強くてエンターテイナーって感じはしないけど。
69人間七七四年:2009/12/14(月) 21:40:42 ID:yWq5NRaS
秀吉は本人や秀次みたいに一族に芸術の素養がある人間が多いみたいだから対照的だね……
と、書こうとしたが木下勝俊は血がつながってなかったか、残念。
70人間七七四年:2009/12/14(月) 21:46:01 ID:G1R0fAg/
というより戦国時代って、能舞にせよ神楽にせよ、
舞踊全般が大衆化が進む代わりに文化サロンの主流から排斥されてるような気がする
71人間七七四年:2009/12/14(月) 21:48:05 ID:+44I9rOF
でも吉川元春などの名将という評価を得ているひとは、芸術に優れていても批判されない。
まあ武士である以上、まずは武技・戦で評価されるべきで、その上でさらに文にも優れている場合は賞賛されるけど、
武士の基本、で業績を上げないで文芸に能力を発揮すると貶されると。

信雄もそうだが、今川氏真とかもエライ言われようだからな。
72人間七七四年:2009/12/14(月) 22:09:21 ID:x2ogB1xw
氏真は個人戦闘能力高いんだけどねぇ
73人間七七四年:2009/12/14(月) 22:15:46 ID:JP+ZEa7F
むしろ下手の横好きな武将の話のほうが聞きたいわ
74人間七七四年:2009/12/14(月) 22:18:41 ID:4/bigeqD
下手の横好き…
黒田さんちの長政…

ブワッ(;ω;)
75人間七七四年:2009/12/14(月) 22:20:25 ID:iqdrcdyl
黒田家の親父様や家臣から見たら戦自体下手の横好きだからな
76人間七七四年:2009/12/14(月) 22:22:01 ID:Qd3Ekm5Q
みんな手厳しいけどNGMSはくじけない

だが又兵衛、お前だけはダメだ。
77人間七七四年:2009/12/14(月) 22:23:41 ID:9SSSgNPj
バ…もとい若殿が川で一騎打ちすると聞いて飛んできますた!
78人間七七四年:2009/12/14(月) 22:27:31 ID:G1R0fAg/
>>71
三好長慶「まあ人の文芸活動にケチつけるような奴に限って、
     弓矢もまともに持てなかったりするんですけどねw」
79人間七七四年:2009/12/14(月) 22:33:25 ID:MfEF4O0O
>>52
上野『守』?
上野介じゃなくて?
80人間七七四年:2009/12/14(月) 22:36:14 ID:Vaz5iVFB
そういやDQN四天王の内、鬼武蔵の教養がある話は聞いたことがないが存在するんじゃろうか?
81人間七七四年:2009/12/14(月) 22:39:46 ID:ml9ZV601
増田長盛にも刀で敵将を一刀両断したっていう逸話があったよね?
今ぐぐっても見つからなかったんだけども
82人間七七四年:2009/12/14(月) 22:44:34 ID:ef5TPmCZ
農民目線なら「字書けるんだ、頭良い」
武士目線なら「あいつヤベ――よ」

になるんどろうからどうとでもとれそう
83人間七七四年:2009/12/14(月) 22:53:52 ID:YlKb9R9s
能の上手とされた下間仲孝を師匠とする宇喜多秀家も武将としての評価は今一だが、
能楽研究者の間では難度の高い能を演じている記録から、名手であったと思われているようね。
84人間七七四年:2009/12/14(月) 23:10:27 ID:Qd3Ekm5Q
>>80
教養といえるかどうかは微妙だが

「澤姫の茶壷」


小牧・長久手の戦いも間近な時期のこと・・・秀吉と長可は二人で街に繰り出していた。
一応は親睦を深めるための集まりではあったがこの2人、正直あまり仲が良いわけでもない。
そこで共通の趣味である茶の湯で話題を作ろうとしたのか2人は茶器の売っている店へと入った。
秀吉はそこである茶器を長可に見せた。

秀吉「この茶器を見てくれ、こいつをどう思う?」
長可「すごく・・・名物です。」

一応は鬼武蔵とて茶人の端くれ。見ればこの茶器の素晴らしさがわかった。
すっかりこの茶器に惚れ込んだ長可はさっそく購入する事に決めた・・・が

長可(高い・・・手持ちではとても足りん!

さすが名物。とてつもなく高額であった。
そこで長可は贔屓の豪商に金を借りることにした・・・しかし

豪商「これ以上はちょっと・・・」

上限まで借りたがそれでもまだ買えないぐらい高かった。
そこで次に目をつけたのは

長可「・・・」
秀吉「・・・」
長可「金を貸してくだされ」
秀吉「え・・・ワシ?」

結局、秀吉も金を払わされた。
この茶器、かの足利義政も愛用したという東山名物、澤姫の茶壷という超名物だったのである。
長可はこの茶器を手に入れてすぐに家臣をわざわざ集めてお披露目したという。



※ちなみにこの茶壷、長可の遺言の「もし戦死したら秀吉様に譲る茶器リスト」に入っていたので一応は秀吉への借金は完済しています。
85人間七七四年:2009/12/14(月) 23:13:51 ID:JP+ZEa7F
買う人間から借りるなw
やはり鬼武蔵は何か違う物があるw
86人間七七四年:2009/12/14(月) 23:50:07 ID:m7a2U9v1
ツレの友達感覚だな
87人間七七四年:2009/12/15(火) 00:08:34 ID:WQrkFUR7
結局仲良くなれなかったなw
88人間七七四年:2009/12/15(火) 00:11:08 ID:uUMUGY6v
秀吉は気前は良いからなw
良い人選だ、鬼は茶器だけでなく人を見る目もあるな。

これが家康だったら、この金は何時何時のへそくりでと、あの時はこんな苦労をした、と始まるわけだ。
めんどくさい。
89人間七七四年:2009/12/15(火) 05:00:29 ID:LtKgDX7r
>>84
金額すっげー高かったんだろうけど、
なんか…かわいい話やねw
90人間七七四年:2009/12/15(火) 07:47:18 ID:pRFKyPRM
不仲の相手にお金を借りるぐらいだから、よっぽどの数寄者だったんだねw
戦国時代は吝い人間ばっかりだから、秀吉は珍しいタイプだね
91人間七七四年:2009/12/15(火) 11:07:36 ID:a7hX4Y8W
朝鮮出兵の折、森忠政は秀吉の命を受けた修羅船作りに必要な材木を集めていた。
忠政は各務兵庫に武並神社のご神木の伐採を命じたが、
このご神木を切ろうとすると切り口から夥しい血のような物が噴出し、
怖がって切れる者がなく結局伐採を諦めたという。

現在武並神社にそのご神木は残っていない。
忠政と各務兵庫が絡んで切れなかったご神木を一体誰が切ったのかが
一番気になる所である。
兄貴ならヒャッハーとか言いながら喜んで自ら切ったのであろうが。
92人間七七四年:2009/12/15(火) 11:56:51 ID:jTfFYCIz
吝いのにはわけがある
 
贅沢する

お金が無い

年貢増やす

領民逃散

それどころか村そのものが他家へ寝返り

自家弱体・敵戦力強化
93人間七七四年:2009/12/15(火) 12:09:39 ID:LtKgDX7r
>92万一、飢饉のときには減税や施しするための蓄えも必要だし、
戦になったら蓄えを使い果たしてでも兵や武具を揃えて、
家や領地を守らないといけないからねえ。普段はゼータクしない

岡崎の城下が武家屋敷までむちゃくちゃ質素な有り様を見て
「家康め、ため込んでるな!」て言ったのは信長だっけ秀吉だったけ……

そのへそくりマニア家康も合戦に臨むときは美々しい甲冑に最新モードの指物を揃えたりド派手な装いをしたっていう。
戦国武将の蓄財、消費観念てそういうもんらしいね
94人間七七四年:2009/12/15(火) 12:17:11 ID:pwPjoPSv
贅沢や華美には、政治的な意味も持つから、金を使う武士がダメってわけでもないけどね。
95人間七七四年:2009/12/15(火) 14:29:56 ID:kRwUjegv
畿内と地方で金銭と米の重要性の比重が反対になったりするしね
96人間七七四年:2009/12/15(火) 17:42:34 ID:qKMWnRK/
>>81
増田長盛のは根来攻めの時の話だな

別スレから転載
>前略〜なんだかんだで追いつめられた根来衆、
>凄腕の津田堅物という人物が最後まで抵抗をつづけ白兵戦
>津田は組み伏せられても起き上がり、堀の軍勢相手に仲間の杉本荒法師と無双状態
>さらに大谷、増田に襲いかかるが…… 以下原文↓
>
>「大谷慶松増田長盛ニ 杉本坊津田堅物切テ掛ルヲ
>大谷一声喚テ杉本ヲ突伏レバ 増田ハ津田ヲ一刀ニ討倒シ
>西谷延命院ト戦ヒ是モ同ク切倒ス」

大谷慶松は大谷吉継ね
97人間七七四年:2009/12/15(火) 19:20:10 ID:+AQTdX6c
>>93
前田利家「俺だっていざという時のためにせっせと蓄えていたのに守銭奴扱いです」
98人間七七四年:2009/12/15(火) 19:23:39 ID:WV9ePtc4
>>96
ありがとう! そうか津田監物か。
以前監物を調べたときに見かけたんだな、すっきりした。
99人間七七四年:2009/12/15(火) 19:40:26 ID:uUMUGY6v
>>97
あなたにとって戦争はいざって言う時ではないんですよねw
100人間七七四年:2009/12/15(火) 21:08:16 ID:9xMb8D0L
犬っころにとってのいざという時は
他人に金を貸す時だもんなw
101人間七七四年:2009/12/15(火) 22:00:44 ID:eu0PZHdc
文禄のはじめ、博多に遊んだ豊臣秀吉は豪商・神谷宗湛の饗応を受けた。
宴が終わり、秀吉から茶を所望された宗湛は、茶室の床に南宋画の一幅を掛け、秘蔵の
『博多文琳』の茶入を用い、茶を点てて秀吉に献じた。

茶を飲み干し一息ついた秀吉は、床と茶入をジッと見ると宗湛に言った。
「どうじゃ、宗湛。その床の画、余にくれぬか。」
「これは、わが曽祖父・寿貞が明に渡った折り、不思議の縁あって手に入れたもの。
東山殿(足利義政)、大内左京大夫(義興)よりお望めがあっても、固くお断りした品なれば、
殿下ご所望だからと差し上げては、先祖に申し訳が立ちませぬ。
どうしても、と仰せなら殿下ご所蔵の品と交換致しましょう。失礼ですが、この画に匹敵する
ほどの品をお持ちですかな?」
宗湛の問いに、秀吉はあっさり応じた。
「あるぞ?牧谿の『遠浦帰帆図』じゃ、それなら良かろう!」
「・・・・・・!!」

南宋画の巨匠、牧谿の画ならば確かに交換品として不足はない。
しかし、この『遠浦帰帆図』、もともとは巻物だったものを手に入れた足利義満が場面ごとに
断ち切って掛け軸に作り直したもので、幅が三尺余(103cm)もある。
ttp://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kaiga/chuugoku/item07g.html
観賞するなら大名が城屋敷の広間・大書院に飾るべき品で、とても四畳半の茶室の床に
釣り合う代物ではない。が、それを抗議した所で天下人に通用するはずもない。

結局、宗湛から画を代償なしで譲り受けた秀吉は、満足して宗湛邸を後にした
・・・かに見えたが、駕籠に入りかけ、何か用でも有り気に辺りを見渡し立ち止まった。
その意を察した宗湛は、秀吉の前に進み出た。

「殿下、何かお忘れ物ですかな。もしや、これではありませんかな。でしたら、探しても
ムダですので、当家の中をお探しのお人を、下がらせてはいただけませぬかな。」
宗湛は懐から巾着を取り出し、中身を見せた。『博多文琳』の茶入だった。
「なるほど、お前は抜からぬ奴じゃな!」
「いえいえ!とても殿下には、かないません。」二人で大いに笑い、別れたという。
102人間七七四年:2009/12/15(火) 23:38:30 ID:5VJgK450
金貸しと思ったら詐欺紛いと空き巣もやってたでゴザルの巻
103人間七七四年:2009/12/16(水) 02:55:59 ID:hOF4YeWc
>>101
結局絵画と茶入を両方手に入れたってこと?さすがラスボス

まぁ天下の三肩衝よろしく、商人(というか茶人)からこのような名物を献上させるには、武力が背後に無いと無理ですよね…
104人間七七四年:2009/12/16(水) 12:57:26 ID:VH2zDlv/
画は取られたが、博多文琳は渡さねーよってことじゃね?
105人間七七四年:2009/12/16(水) 13:45:39 ID:jzeftW6o
ああ、確かに茶入れは渡してないっていう解釈でよさそうだよね。
茶入れは約束にはいってないものだし、宗湛も笑ってたってあるしね。

茶入れを忘れてますよ、お持ちください。
だと、卑屈すぎて違和感があるねぇ・・・。
106人間七七四年:2009/12/16(水) 13:53:23 ID:S2Kk3u4K
博多文琳は黒田忠之が召し上げるまで宗湛が所有してたはずだから

宗湛「どさくさでパクらせようったってそうはいきませんぜ」
秀吉「バレたか」

の解釈でいいと思う
107人間七七四年:2009/12/16(水) 14:11:01 ID:ORpcTfxO
戦国の梟雄 爆弾正こと松永久秀

その独特の感性で天守閣および多聞作りを創始したり
串柿に使われている串を溜め込んで城郭の補強に使ったり等
城郭建築においても当代一を自負しておりました。

そんな彼の建築技術の粋を結晶した城が多聞山城であり
「ワシの自慢は何と言ってもこの城を築城したことよ。」と
ご満悦でありました。

そんな爆弾正様も筒井順慶との争いや一時は配下となった信長との
不和により多聞山城を失ってしまったがどうせそのうちとりかえせばよいと
暢気に構えていたのだが、天正4年のことであった。

信長「今度新しく城を作ることになった。」
爆弾「…(( ´_ゝ`)フーン どうせ大した城ではあるまい。ワシの城のほうが数倍上よ。)」

しかしその完成図を見て愕然とする。

爆弾「!!(ちょwこれ多聞山城のパクリじゃんwwwしかもワシの城より豪華にしやがって…)」
信長「築城奉行は五郎左衛門とする。以上である。」

それでも第一人者は自分とやせ我慢をして帰ってきた久秀の元に
さらに信じられない報告が入ってくる。

家臣「久秀様。多聞山城が破却されるというお話はご存知ですか?」
爆弾「なに?どういうことだ?」
家臣「表向きは筒井城改修のための石材集めということですが…」
爆弾「おのれ信長め、謀りおったな!」

そう、新しく出来た城が多聞山城そっくりではパクったと思われてしまい
天下一を自負したい信長にとっては邪魔な存在であったのだ。
納得が行かないのは爆弾正様
自慢の城を壊され、プライドに激しく傷をつけられ
多聞山城破却の翌天正5年、再度反旗を翻したのでありました。

爆弾正様、爆死覚悟の無謀な反旗の裏にはこんな事情がありましたというお話
108人間七七四年:2009/12/16(水) 17:48:04 ID:IHWEQdk6
携帯から失礼


香西氏の家臣に真鍋佑重という男がいた
彼は剣技に秀で、その早斬りから「ちろり真鍋」と異称された勇将で主家と共に長宗我部氏に抵抗した


その後彼は讃岐領主となった生駒親正に仕え、朝鮮の役にも従軍したが、その際福島正則に誤って唾を吐きかけられ激怒し、それを知った正則は平謝りしたという
109人間七七四年:2009/12/16(水) 17:54:13 ID:yo0/CCOL
正則の話しだったのかよw
110人間七七四年:2009/12/16(水) 17:59:58 ID:KP3EsDyn
いい話スレで正則見直したら,、あっというまにいつもの市松になったw
111人間七七四年:2009/12/16(水) 18:06:11 ID:1c8fP1pu
なんというか…よい方面にも悪い方面にも、素直なんだよな市松。
「悪い意味での武士のメンツ・プライド」ってのが無い。そこが、現代人には好感が持てる部分なのかも。
112人間七七四年:2009/12/16(水) 18:38:13 ID:CWU7nbx9
安心の市松クォリティ

というか「誤って唾を吐きかける」ってどんな状状況だw
113人間七七四年:2009/12/16(水) 19:17:47 ID:3RftTszI
馬上であくびしたら口の中に虫が飛び込んできたんで
ぺっぺっと唾飛ばしてたら
たまたまと横に通りがかった真鍋さんに
風で飛ばされた唾が掛かったとかじゃね?
114人間七七四年:2009/12/16(水) 20:37:55 ID:hOF4YeWc
>>104-106
読解力が無さ過ぎて申し訳なかった
ありがとうございました

それにしても、当時の茶人は「絶対譲れません」と、
あの信長にすら命がけで渋れる度胸がすごい
115人間七七四年:2009/12/16(水) 22:18:12 ID:FFHn0w5r
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%C3%D3%C5%C4%CF%C2%C0%F4

この話の別Ver

主君村重が尼崎城に脱出した後、池田和泉は荒木久左衛門と共に有岡城を守っていたが、
明智光秀の降伏勧告を受け、温厚篤実な人柄で知られた久左衛門が村重の説得のため尼崎城へ向かうのを見送った

しかし久左衛門は尼崎城に入城することもできず、かと言って有岡城に帰ることもできず、
進退窮まった久左衛門はそのまま淡路岩屋に逐電してしまった

一方有岡城の池田和泉は久左衛門が逐電したということを聞いて絶望し、

「もはやもう何も見とうはない 聞きとうもない さらばじゃ」

と言い残して鉄砲自殺してしまった
116人間七七四年:2009/12/17(木) 01:37:25 ID:UcECl7/o
なぜ鉄砲自殺w切腹じゃなく爆弾正さんみたいに新しい自決方法模索してたのか
117人間七七四年:2009/12/17(木) 01:47:51 ID:3DKjujp/
これは日本初の鉄砲自殺だったりするのかな?
118人間七七四年:2009/12/17(木) 09:58:27 ID:WKfhg8Bs
いい話といえばそうなんだけど、語っている内容自体は別にいい話でも無いので
こっちに。


大阪夏の陣による大阪落城後、捕らえられた長宗我部盛親は、二条城において
板倉勝重の尋問を受けた。
このとき板倉

「実際に戦ったあなたから見て、幕府方において最も軍功が優れていたのは
どなただと思いましたか?
それから、夏の陣における大阪方の敗北のきっかけは、何であったと考えますか?」

と、質問をした。これに盛親、

「幕府方で軍功最も優れていたのは、井伊掃部頭(直孝)殿でしょう。
そして大阪の敗北のきっかけ…、それは、わたくしです。」

「盛親殿が?」

「はい。5月6日の合戦(八尾・若江の戦い)、あの時幕府方の先手は藤堂和泉守(高虎)殿と
井伊掃部頭殿、大阪方の先陣は木村長門守(重成)殿と、この、盛親でありました。
長門守殿は井伊殿の部隊に当たり、私は藤堂殿の部隊と対峙しました。

『天晴れ高虎を討って忠勤に備えん』、そう意気込んでいましたが、長門守殿が
不意に討死し、その部隊が壊乱した為、それに当たっていた井伊殿の軍勢に、
我が部隊の横合いから攻めかかられました。これにより我々は、この合戦に
敗北したのでありますが、この敗北の影響は大きく、大阪方では多くが逃亡し、
軍隊として崩壊してしまったのです。

すなわち、大阪が落城した原因の第一は、私の敗北にあるのです。」

敗北の責任は自分にある。そう言い切った盛親に、板倉は大いに感銘を受けたと言う。
119人間七七四年:2009/12/17(木) 10:01:01 ID:yet//tKj
腹切るより遥かに楽に死ねるじゃん。
もう絶望して武士の意地とかもどうでも良くなって
とにかく早く楽に死のうと思ったとか?
120人間七七四年:2009/12/17(木) 13:41:18 ID:iir5zqbG
拳銃と違って火縄銃で自殺って難しい気がするがw
確かに火縄ってセルフタイマーみたいなもんだろうけど
自分撮りの写メみたいな自殺って何だかなあ
121人間七七四年:2009/12/17(木) 14:45:12 ID:xK+OPYMG
短筒も存在したし、それで自決したんでない?
122人間七七四年:2009/12/17(木) 14:48:05 ID:sG8zLLZG
足で引き金引くんだろ
123人間七七四年:2009/12/17(木) 16:59:15 ID:dvTkZJ3w
>>122
昔そうやって自殺した俳優いたな
124人間七七四年:2009/12/17(木) 17:35:55 ID:4xBNAjrY
大河の毛利元就で井上なんとかが「新しい切腹して死んでやる!」
って火縄で自害してたな。
125人間七七四年:2009/12/17(木) 19:32:40 ID:CVV1MnXC
>>118
盛親かっこいいなー、信親兄貴さえ健在なら改易されなかったろうに
盛親って浪人七衆じゃ一番の大身で、幸村の真田丸に兵貸してたんだっけ
126人間七七四年:2009/12/17(木) 19:43:32 ID:KpSqNdPh
>>116
最初の鉄砲自殺は毛利元就に粛清されたか滅ぼされた豪族じゃなかったっけ?
127人間七七四年:2009/12/17(木) 19:51:07 ID:cSbKqOhD
>>126
それ>>124
正直ドラマの話だと思う
128人間七七四年:2009/12/17(木) 20:55:30 ID:MYVooW02
だろうね
明確ではないが種子島銃の製造・普及がおそらく1550年以降であるから
井上一族の粛清はちょうど1550年に起きたから鉄砲自殺とは考えにくい
129人間七七四年:2009/12/18(金) 03:03:42 ID:+KnLqQFE
土佐物語十九巻「盛親古き士の事」より

長宗我部盛親改易の後長宗我部家中は、新規外様は勿論、譜代恩顧の者たちも、
新たな主君を求めて土佐を出、散り散りとなった。
吉田猪兵衛は福島正則に仕えたが、大阪の陣の勃発に、旧主盛親が豊臣方として
参戦したという事を聞くと、彼は当時江戸にいたがすぐさま出奔し、盛親に合流すべく
大阪へと向かった。

ところが大阪では既に合戦は始まっており、猪兵衛が大阪城に入る事は出来なくなっていた。
途方にくれあちらこちらと彷徨っているうちに、幕府方の寄せ手の中に、同じく長宗我部旧臣、
桑名弥次兵衛一孝を見つけその陣所を尋ねた。

「土佐退散の後は音信もありませんでしたが、本当にお久しぶりです。」

猪兵衛と桑名は、互いに涙を流して旧交を懐かしんだ。そして猪兵衛

「私は福島家に仕えていましたが、この度の事を聞き、盛親様のところに駆けつけねば
どうにもならないと思い、こちらへ参りました。しかし来て見れば寄せ手の警戒は厳重で、
とても城に入ることが出来ません。」

と言う。桑名はこれを聞くと

「お主が大阪に入城しようと言う志、まことに立派だと思う。
どうにかして城に入り忠勤をなされよ。

…私も伴に入城したいが、今仕えている和泉守(藤堂高虎)様から、非常な厚恩をいただいた。
今もし籠城衆に参加してしまえば、主君に弓を引く罪人となり、しかし主君に忠義を成そうとすれば、
譜代相伝の主を敵とすることになる。八逆罪の無道人とはこの事だ。
正直に言って、進退窮まっている。

この上は敵が大勢居る所に駆け入り、何も手を出さずに討死して、主君に不忠を成さず、
旧主に不義をなさないようにしよう。そう思い定めている。
どうか私を、お主たちの手にかけよ。…これは暇乞いである。」

そう行って盃を交わし、涙ながらに別れた。


翌年
八尾の合戦において、長宗我部の部隊の前に、藤堂家の部隊が立ちふさがる。
そこに、桑名弥次兵衛の姿もあった。
盛親はこれを見つけると

「おのれ譜代の主に向って弓引く曲者!誰でも良い!弥次兵衛を討ち取った者を
今日の合戦一の高名の者とするぞ!」

すると吉田中務、および和食の人々進み出て「弥次兵衛は我らが一族であります。
どうして他人の手に懸けさせましょうか!」

桑名弥次兵衛は真一文字に駆け入った。そこを長宗我部の部隊に取り巻かれ、
たちまち討ち取られた。
弥次兵衛は討ち取られる時、槍を構え直す事もなく、真正面を向いたまま討たれたのだと言う。

その首が盛親の元に実検に持ち込まれる。桑名の首は兜をかぶったままだった。
桑名は兜の忍緒を真結びにして、両端を切り捨てており、兜が取れないようにしていたからである。
この時、吉田猪兵衛が盛親の前に出て、先に桑名と対面した時の話をした。
これを聞くと

「さては桑名は今日、討死すると思い定めたのか。不憫な事だ…」

そう、涙を流した。長宗我部旧臣同士が戦い会った中で起こった、悲劇の一つである。
130人間七七四年:2009/12/18(金) 03:37:39 ID:pKgGud1U
盛親の話が出てるんで便乗なんだけど、
以前読んだ小説に盛親の部下に唖の部下がいて、他の家臣はなんでそんなやつを召抱えたんだって非難してたけど、
盛親が大阪に入場する際に、この人が各地に散らばった家臣を集め軍勢を集めたってような小説があったんだけど実話かな?
なんか元ネタとかありそうな気がして気になってたんだけど・・・
131人間七七四年:2009/12/18(金) 06:24:52 ID:9aNZY2yQ
盛親って改易されて寺子屋教師時代の逸話ってあるかな?
町民相手だったのか下級武士相手の教師だったのか

宗茂と違って改易されてからもちゃんと働いていたのに御家再興は出来なかったのは
やっぱ伝手が無かったのか
132人間七七四年:2009/12/18(金) 09:31:08 ID:l1zn3xgh
寺子屋ってんだから町人じゃないかな
大岩祐夢でググッてもまあ、「寺子屋で学問を教えていた」と出る。

京で武家の子弟の教育を許すとか危険すぎるし。
133人間七七四年:2009/12/18(金) 09:59:37 ID:cHvoePbf
伝手もないし宗茂みたいに勇名を知られた大将でもないし
関ヶ原後のお家騒動での兄殺しで不興をかったのがやっぱまずかったんじゃない
1341/2:2009/12/18(金) 10:31:05 ID:5TKBqXIu
慶長5年(1600)9月、真田昌幸は信州上田城において、徳川軍に十重二十重に囲まれた。
物見に出ていた部隊も、徳川の先鋒・牧野貞成隊の猛攻に手もなく退き、間もなく
城付近に攻め手が迫って来た。

上田城に迫った牧野隊は、空堀に飛び入り土塁を越え、城壁の前までやって来た。
と、その時、城兵が塀の上に現れ、竹の皮を下にバラまいた。
「・・・・・・・・・」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-502.htmlである。ベタである。古典ネタである。

「・・・って、見えていれば何という事もないわ。構わぬ、進め!」
牧野隊は竹の皮を踏まぬよう避けてさらに突き進み、とうとう城壁に取り付いた。
と、その時、城兵が塀の上に現れ、柄杓から何かをブチまけた。

「熱っつうううううううううう!!!!!」
煮えたぎった粥をかけられた牧野隊はあわてて逃げ出したが、一面に広がった竹の皮に
滑って転んで起きてまた転んだ。
その間にも非情の粥爆弾は降り注ぎ、人も馬も火傷だらけになって転がりながら、ようやく
本陣まで逃げ帰った。
1352/2:2009/12/18(金) 10:32:31 ID:5TKBqXIu
さて、先だって逃げた真田の物見は囮部隊で、城主の真田昌幸親子みずから率いていた。
まんまと敵の先鋒を釣り上げ、城門まで戻って来たところで昌幸は信繁に言った。
「おまえ、まず先に入れ。」
これに対して、信繁は昌幸に言った。「いや父上、お先にどうぞ。」
「まだケツの青い小僧がイキがるんじゃない。早く入れ。」
「年寄りの冷や水とか、みっともないですよ。早く入ってください。」

見ていた重臣の池田長門がキレた。
「うるせーッ!こんな時にくだらねえ親子ゲンカしてんじゃねえ!早く入れ!!」
(原文:詮ナキ御父子ノ御時宜ニテ候モノカナ。御入リアレ。)
(´・ω・`(´・ω・`)ゴメン
池田がムリヤリ昌幸の馬の口を取って引き入れ、続いて信繁も入城した。

真田信幸は、遠くからこの騒ぎを見ていた。
「敵が後ろに来てるのに、何やってんだアイツら・・・」信幸は馬に飛び乗った。
重臣の祢津らは、驚いてこれを止めた。
「な、何をなさっておられるか!」「いや、あのバカどもの仲裁をだな・・・」
「家康公への忠節を水に流すおつもりか!」「・・・・・・」
信幸、家族の危機を前に、何か大事なものが飛んでしまったらしい。

「気でも狂われたか?!」
「それなら、最初から東軍と西軍に別れなきゃよかったでしょ!?」
(´・ω・`)ゴメン
信幸は落ち着きを取り戻し、陣中に戻った。
136人間七七四年:2009/12/18(金) 10:52:21 ID:Lp8S6qp1
この親子はw
137人間七七四年:2009/12/18(金) 11:00:53 ID:W6rfzcIg
信之兄ちゃんも熱くなるタチだったと見るべきか
骨の髄まで苦労性の仲裁役が染み付いてる気の毒なお人と見るべきか…w

まったく、寿命が縮んじゃっても知らないよ?
138人間七七四年:2009/12/18(金) 11:07:01 ID:Cj3QT00u
>>137
第一次上田では無双状態だったらしいじゃない
139人間七七四年:2009/12/18(金) 11:08:58 ID:NeHqNgpO
>>137
じゃああの苦労が無ければ150くらいまで生きてたのか……
140人間七七四年:2009/12/18(金) 11:47:47 ID:j1cOpn+M
親子喧嘩を始める親父と弟、仲裁に入る兄ちゃん。
それを( ゚д゚)ポカーンと見守る敵味方の軍勢。

               シュールだ。
141人間七七四年:2009/12/18(金) 14:55:57 ID:97dTTb9z
敵味方に別れてたのに仲裁しに行くとか、
お兄ちゃんはほんとに家族思いだなぁ。

にしても喧嘩のレベルが低いw
142人間七七四年:2009/12/18(金) 16:13:32 ID:ZR0E+Ofu
>>141
中山道軍3万8千を相手にGIANT KILLINGやってる真っ最中こんなアホな喧嘩が始まるあたり、
安房守ってガチでチート武将なのか、こすい田舎のおっちゃんなのか評価に迷……わないかw
143人間七七四年:2009/12/18(金) 16:49:31 ID:k5VnTuhj
ガチにチートで守備ゲリラ戦の鬼でこすい田舎のオッサンなんだろうな。
悪い魅力満点。
144人間七七四年:2009/12/18(金) 17:34:25 ID:HqlyF4Bu
暇だったら昌幸公のお墓(真田地主大権現)参りに来てくれ〜

(↓のページの管理人とは関係ないのであしからず)
ttp://sanadamaru.syuriken.jp/s-kudoyama020925.html
145人間七七四年:2009/12/18(金) 17:51:47 ID:UuBFxvjy
>>143
あれ?
楠木正成思い出した
146人間七七四年:2009/12/18(金) 20:57:26 ID:c27vVMz/
ヨーロッパの戦争だと、煮えたぎった油とか、汚穢とかぶちまけられたらしいけど
煮えたぎった粥というのが、日本的かつ合理的だね
敵に降りかかる瞬間まで熱い保温性、まとわりつく粘性、滑って転ぶぬるぬる
そして何よりも引火しないというのがいいね。
日本で油撒いたら、引火して逆に城燃えちゃいそうだし
147人間七七四年:2009/12/18(金) 21:23:24 ID:scQH2dKM
しかし城に篭ってるのに、よく食い物を攻撃手段として使うよな。
熱湯攻撃なら水だけで済むだろうに。
水もそう浪費できるもんじゃないだろうが、
粥攻撃は両方消費するからやるにはけっこう勇気いると思う。

物資に余裕があるってとこを見せ付ける意味もあったのかな?
148人間七七四年:2009/12/18(金) 21:37:12 ID:pyxlKd12
粥は粘性が高い点にポイントが有る
熱湯は喉元過ぎればだが、粥は皮膚に付着する上、熱を保持し続ける
後、中国にも粥攻撃はあったと思う、うる覚えだが
149人間七七四年:2009/12/18(金) 21:46:12 ID:4a9B4k6J
その後、ちゃんと回収して食べるんだよ
無駄にしませんよww
150人間七七四年:2009/12/18(金) 21:57:44 ID:sQJHEESd
船でお粥を作りながら航海して海賊に遭遇した時にひしゃくでぶっかけて撃退する
もちろん無事に港に着いたら船員たちで美味しくいただきますみたいな風習があるんだよってのを昔何かでみた気がする。
でも何でみたか思い出せないし小説とかだったら作者さんの創作かもしれないから本当にやっていたかはわからないなぁ
本当にやっていたとすると粥はある意味食べられる武器あつかいだったのかな?



ところで竹の皮をばらまいておいて敵を滑らそう作戦はそんなに戦国時代ではメジャーな戦法だったんですか?
151人間七七四年:2009/12/18(金) 22:01:34 ID:gd7WOcEY
竹自体が鉄砲除けに使われてるし、あまりモノの再利用なんじゃないかな
152人間七七四年:2009/12/18(金) 22:27:54 ID:mBTXc3mV
参考にはならないけど、司馬の小説だと幕末でも使われてる>竹の皮
153人間七七四年:2009/12/18(金) 22:29:22 ID:ey+FTfRc
どう応用するかが将器なんだろうなぁ。
154人間七七四年:2009/12/18(金) 22:34:33 ID:+npztOY0
下らん親子喧嘩するなw
誰か小早川隊みたいに鉄砲撃ちかけてやれよw
155人間七七四年:2009/12/18(金) 23:22:40 ID:O+c8tQOo
粥攻撃には余剰の水、米、木(燃料)を必要とする
つまり篭城準備ばっちりでないと使えないわけでくらう方にしてみれば
少なくとも月単位での篭城準備が済んでる城とうつるな
156人間七七四年:2009/12/18(金) 23:26:12 ID:gd7WOcEY
粥攻撃といったら楠正成のイメージだ
煮えたぎった糞尿も撒き散らしてた気がする
157人間七七四年:2009/12/18(金) 23:26:35 ID:MHVr7UJ7
>>150
シバリョの夏草の賦で見た
158人間七七四年:2009/12/18(金) 23:49:01 ID:XhzRsudr
>>144
そのサイトさ、幸村の父、幸村の父ってしつこい位出てるけど


時々で良いので嫡男の事も思い出してあげてください(´・ω・`)
159人間七七四年:2009/12/18(金) 23:56:39 ID:gd7WOcEY
当時の人たちにしてみれば昌幸の次男でしかないよな
むしろ信幸の方が経験豊富で知名度が上だったかも知んない

幸村が大坂入城した時も昌幸の次男て言う評判だったらしいし
160人間七七四年:2009/12/19(土) 01:06:31 ID:ZIfGuUMW
兄ちゃんは真田家の嫡男だし、嫁が本多の娘で内府の養女だし、普通に当時は知名度あったんでない?
関ヶ原後は言わずもがな、大名だしさ
161人間七七四年:2009/12/19(土) 02:35:47 ID:KHRWDj89
当時は幸村そんなに知名度ないけど、
冬の陣で真田丸の奮闘と、玉砕覚悟のいえやす本陣への特攻が評価されたんじゃないだろうか

島津がべた褒めしたし、儒教の精神と戦前教育で時代がたつにつれ
講談がヒットして、一躍真田の代名詞になったんだと考えてる
162人間七七四年:2009/12/19(土) 02:42:15 ID:q1nN+eV0
大阪の陣の戦闘に全く参加していない島津が褒めた事が、なんであの合戦の代表的な
感想として残っちゃったんだろう、という疑問は当然あるなw
163人間七七四年:2009/12/19(土) 02:45:34 ID:IF82WoWm
家久(悪)のコメントなんだよな、そういえば
164人間七七四年:2009/12/19(土) 04:31:11 ID:b95C8AQQ
大谷さんとこのお婿さんの話し?
165人間七七四年:2009/12/19(土) 07:09:40 ID:DpQVMjE1
当時の日記関連探せば、当時の信幸と信繁の評価が垣間見れるかもしれんけど
真田関連の記述なんか、殆んどないだろうし大坂の陣直後くらいの日記探してみないとかなー
166人間七七四年:2009/12/19(土) 08:08:34 ID:LHDwpXuE
幸村が日本一の兵じゃないと、真田丸とかで大損害出した諸侯の面子が立たないしねえ
「幸村相手じゃ仕方がない」と、「幸村? 何それ? 外人? 歌?」じゃだいぶん違うだろうし
167人間七七四年:2009/12/19(土) 09:06:49 ID:G2vX0x9d
日本一の兵といったのはかつて恥かかされた秀忠へのゴマすりでもあると思う。
あんなに凄いんだったら、しょうがないよね、という。
168人間七七四年:2009/12/19(土) 09:26:51 ID:713FLDVo
幸村の遺児を保護したまーくんとこの片倉さんちには、
幸村の武勇にあやかる為にみんながちょっとずつちぎり取っていくので
ひらひらの部分が少なくなった遺品の采配とかが伝わってるよ。
大坂の役の後は一躍ヒーローだね。
存在から抹殺される勢いだった三成とは大違いだ・・・
169人間七七四年:2009/12/19(土) 09:28:41 ID:b6+wIw7X
>>143
チョー悪オヤジかっけええええw
170人間七七四年:2009/12/19(土) 09:37:32 ID:UnTfP0Uh
当時の知名度なら、長宗我部>勝永≧後藤>明石>>信繁くらいかな?

>>168
三成は生前権力持ってた分、敵も多いし仕方ない
関ケ原でも左近や大谷なんかはあんま悪くいわれんし
171人間七七四年:2009/12/19(土) 10:13:14 ID:q2lXUprw
>>168
遺児をちぎっていくのかとおもった
172人間七七四年:2009/12/19(土) 11:28:16 ID:2hpsV0NW
幸村が大阪城に初めて入った時、
小柄で風采も上がらないもんだから門番から「誰だよこのジジィ」扱いされたというのは有名な話だな
173人間七七四年:2009/12/19(土) 12:47:19 ID:FhkEJQ53
風雲真田幸村面白かったな
あの時代背景と主人公でべたべたの勧善懲悪時代劇というのが妙に新鮮だった
174人間七七四年:2009/12/19(土) 13:07:01 ID:RiOOK/CM
「六文銭が三途の川を渡してやる」か。
北大路さんかっこよかったな。
毎回最後に家康が「おのれ幸村め〜!」で締めるんだよなw
175人間七七四年:2009/12/19(土) 14:50:16 ID:Dr40thUy
柳生宗矩ともマブダチの沢庵和尚は三成の大ファンで、
三成を裏切った連中には頼まれても絶対仏事をやらなかったというね。
そういう徳川に重用されるような人間でも、三成ファンはいたんだよ。
ただしおおっぴらにやるとさしさわりがあるんで、沢庵クラスの変人じゃないと
なかなか表に出さないだけで。
176人間七七四年:2009/12/19(土) 14:57:07 ID:IF82WoWm
沢庵が三成をコケにした森忠政にどんな対応してたのか気になる。

大徳寺とはそこそこ縁があるし墓もそこに有る。
177人間七七四年:2009/12/19(土) 16:38:43 ID:LHDwpXuE
そりゃ百人が百人、例外なく嫌う人間なんかおらんだろう>三成
なんつうか、三成は仕事付き合いはしたくないタイプだと思うけ。
178人間七七四年:2009/12/19(土) 16:55:20 ID:drMlibgR
既得権を擁護してくれる人のことを応援する
ただそれだけの関係かとw
179人間七七四年:2009/12/19(土) 17:12:54 ID:G2vX0x9d
>>175
敵は許しても裏切り者は許さないというんなら
それは三成ファンとかじゃなくて倫理観とか美学の問題じゃ?
180人間七七四年:2009/12/19(土) 17:39:11 ID:ikzixm6a
上杉謙信が川中島で退けられ、越後へと撤退する最中のこと。
道中、野原を大河がどうどうと流れている。
往路にこんな河を渡ったか、謙信は驚き、
傍らに控えていた和田嘉兵衛という武士に、「あれはなんという河か」と尋ねた。
「あれはそば畑です。花の盛りなので、白波に見えるのでしょう」
嘉兵衛の答えに目を凝らすと、
確かに、そばの花が風にさらさらと揺らいでいるだけだった。

謙信は悔やんだ。
「ああ、一代の失言であったわ
謙信ほどの大将がこの合戦で慌て、目がくらんでそば畑を川と見間違えたよ、と
世間に語られることになる。不覚だった」
大将たる人はよくよくものを考え、口に出すべきで、
下郎のように口数を多くしていれば軽く見られるものだ、と反省したという。

そばの花シリーズですが、オチが面白かったので。
181人間七七四年:2009/12/19(土) 17:59:58 ID:37iqIsOF
なるほど、その教えを受けて景勝は・・・
182人間七七四年:2009/12/19(土) 18:29:00 ID:6j3SZpHd
飲み過ぎ(ボソッ!!
183人間七七四年:2009/12/19(土) 19:02:24 ID:xteQPDvS
『センゴク』のムック本の中で、
座談会を参加していた小説家さんが
『戦国武将の感動した書状』に、鬼武蔵の書状を上げてたな。

内容妹にあてた書状でいい話スレでも出ていたかもしれない
『俺が死んだら、武士とは結婚するな、医者と結婚しろ』って内容らしいんだが、
その人曰く

『父親も長兄も討ち死にしてるし、弟達も本能寺で信長に殉じた。
ほとほと戦が嫌になってたんでしょうね』


このスレの住人としてはその感想にはツッコミ入れたい気分なんだがw
184人間七七四年:2009/12/19(土) 19:43:55 ID:G2vX0x9d
つまり戦争のない平和な世の中を作るために、敵どころか戦争ごと撃滅する勢いで闘ってたんだな。
そう考えると数々の無茶な振る舞いにもそこはかとない哀しさを感じ…マ、ス…ネ
185人間七七四年:2009/12/19(土) 19:48:35 ID:37iqIsOF
186人間七七四年:2009/12/19(土) 19:53:38 ID:q1nN+eV0
豊臣秀次は武具の好みに拘りのある男であった。

金の御幣のまといと言えば、柴田勝家のそれが有名であったが、「あれは大変見事である。
あれにすべき。」と、御幣をまといとした。

甲冑は、「様々あるが、日根野弘就の唐冠の形のものほど見事な物は無い。」と、
これを所望した。日野根、これを拒みがたく献上したが、この時

「これは我が家に秘蔵の甲冑ではございますが、貴き命令により献上仕ります。
ただしこの甲冑は今まで、押し付け(鎧の後部、背中の部分)を見せた事の無い鎧であります。
この意味をどうかお忘れないように。」

そう、念を押した。

その後、木村常陸介の鳥毛の羽織を所望し、これを陣羽織とし、指物は金の棒とした。

さて、天正十二年四月、小牧長久手の戦いにおいて秀次は三河中入りの大将として、
例のまとい指物甲冑羽織にて出陣した。その後の大敗、皆知るところであるが、
この折、唐冠の冑鳥毛の羽織を着ながら甚だ見苦しい有様であったと、人々に言いそやされた。

秀次はこれを大変に恥じ、自分が任を務められなかった事を悔い、この時より、鷹狩り狩猟の時は
勿論の事、詩歌の会、酒宴、遊山のような時であっても供の者に必ず具足箱を持たせ、
その行動も剛強をもっぱらにしたのだという。

が、このように武張った事が後に、殺生関白の汚名に繋がる事にもなる。

秀次の、その思いと噛みあわぬ結果、の話である。
187人間七七四年:2009/12/19(土) 19:57:26 ID:0QvjZqbG
>>180
その話の出所は知らないけど、
吉川英治の「上杉謙信」でもその蕎麦の花の話があったな。
そっちは傍にいた武士の名前が和田喜兵衛ってなってたけど。
謙信が勘違いするところは同じだが、反省の言葉とかは特に書いてなかったな。


ただこっちにはもっとひどいオチがあるので蛇足だけど書いてみる。

その後無事春日山に戻れたものの、
和田喜兵衛はまもなく異様な吐き気をもよおしてしまった。
これを憐れに思った謙信は手ずから薬を飲ませ看病したものの、
それもむなしく喜兵衛は血を吐いて死んでしまった。
これに関して広がった噂がこちら。

「謙信ほどの大将が川と蕎麦の花の群生を見間違えるとはまさに一代の恥。
 天下の笑いものになるに違いないから口封じのために殺したのだろう。」


さらに蛇足だけど、
この和田喜兵衛は和田業繁の弟で、
兄の反乱計画を察知したときに兄の説得役を買って出ている。
もっともこの説得には時間稼ぎの意味もあったらしく、
説得が失敗してもすぐに鎮圧できるように、
喜兵衛の派遣と同時に謙信自身密かに軍を動かしたらしい。
が、どこからかこの話が業繁にばれてしまい、
喜兵衛はそれを知らせるため謙信のもとに駆けつけたのだが、
「この俺に無駄足を踏ませた上に恥をかかせるとは不届き千万!」
と、激怒した謙信に手討ちにされてしまったそうな。


和田喜兵衛、その死の真相や如何に…。

と、蛇足のくせに長くなってしまいましたが、
どちらも謙信のお人が悪い話ということでひとつご容赦を。
188人間七七四年:2009/12/19(土) 20:26:33 ID:+WaNqXG4
>>183>>185
件の長可書状、いわゆる死亡フラグが立てまくりの、「鬼武蔵」らしからぬ
かなり悲観的な内容の文書なんだよねこれ。

妻子(妻と娘、あと姉妹と思われる「おひさ」という女性がいた模様)には、金山城は要衝なので秀吉方の
確かな人を置いてもらえという次の条で、大垣に引っ越すように伝えて、その上で秀吉方が惣敗北(壊滅)
したら死んでくれといっている。娘の「おこう」の行く末についても、
「娘のおこうについては、京都の町人のもとへ出して下さい。医者のような人に嫁がせるようにして下さい」と
言っていて、文章を読む限りだと娘や弟に自分と同じような生き方をしてほしくないと考えてるような印象すら受ける。

・・・・それだけに、このスレの数々の逸話を見た時には、大分驚いたものだがw
189人間七七四年:2009/12/19(土) 20:28:36 ID:jSH3qOpY
多分、武器を持つと人格変わるんだろ。
190人間七七四年:2009/12/19(土) 21:07:51 ID:NVkFy0ZG

一、澤姫の壷、秀吉様へ進上。但し、今は宇治にあり。
一、台天目(茶碗)、秀吉様へ進上。仏陀(山城仏陀寺)にあり。
一、もし討ち死に候はば、此の分に候。母に候人は堪忍分、秀吉様へ御もらい
  京にお入り候べく候。せん(忠政)は、今のごとく、御側に奉公の事。
一、(忠政を)我々跡目、くれぐれ嫌にて候。此の城(兼山)は要にて候間、確かなるものを
  秀吉様より  置かせられ候へと、御申すの事。
一、女どもは急ぎ大垣へ御越し候べく候。
一、悪しき茶の湯道具、刀脇差、せんに御取らせ候べく候。
  いづれもいづれも、仏陀の如く御届け候べく候。仏陀の他は皆せんに取らせ申し候。
  但しなり次第此の由、御申し候べく候。

天正十二 三月二十六日朝  (鬼)武蔵  尾藤甚右衛門(友宣)さま(へ)申し給へ

又、申し候。
京の本阿弥ところに秘蔵の脇差二つ御いり候。せんに取らせ申し候。尾甚に御申し候べく候。
おこう(鬼娘)事、京の町人に御とらせ候べく候。薬師の様なる人に御しつけ候べく候。
母に候人は、構いて構いて京に御入り候べく候。せん、此処もと跡継ぎ候事、いやにて候。
十万に一つ、百万に一つ、総負けになり候はば、皆々火をかけ候て、御死に候べく候。
おひさ(妹?)にも申し候。以上。
191人間七七四年:2009/12/19(土) 21:11:45 ID:IF82WoWm
>悪しき茶の湯道具、刀脇差


どんなんだと毎度突っ込みたくなる、ココ
192人間七七四年:2009/12/19(土) 21:24:38 ID:6FkgXE1T
こち亀の本田並に武器持ったらキャラ変わるんじゃね?

「えー?僕に戦なんて無理ですよー・・。」
         ↓
「ヒャッハー!汚物は消毒だー!」
193人間七七四年:2009/12/19(土) 21:28:12 ID:713FLDVo
忠政に家継がせるなは華麗にスルーされたが、娘を医者に嫁がせよはどうなったんだろ。
これもスルー?
194人間七七四年:2009/12/19(土) 22:20:04 ID:LHDwpXuE
弟の葬儀の日に出陣とか、手元に数珠しかないタイミングでもヒャッハー全開思考の鬼武蔵だぞ?
中ボス格なだけに、秀吉のラスボス覚醒を感じ取ってたとかなんじゃね
195人間七七四年:2009/12/19(土) 22:21:22 ID:aks7vrkh
>>191
名物は秀吉様に!身内にやるのは微妙な奴ですよ!
ってポーズなんじゃねえの
196人間七七四年:2009/12/19(土) 22:22:35 ID:q1nN+eV0
基本的に遺書だけは合戦のたびに用意したんだろうね。まあ領主として
討死の後遺書も無いようじゃ無責任だし。

で、この遺書だけは実際死んじゃったので後世に残った、って事ではないかと。
197人間七七四年:2009/12/19(土) 22:49:26 ID:6U0ICtd0
人間無骨って呪いのアイテムか何かだったんじゃないか
198人間七七四年:2009/12/19(土) 22:57:49 ID:6FkgXE1T
名前からして物騒だしな
199人間七七四年:2009/12/19(土) 23:35:10 ID:CHM2In/6
人間無骨……
その槍を振るう度に使用者は魂を削られ
その果てに鬼武蔵になるといふ……

あれ?
200人間七七四年:2009/12/19(土) 23:37:55 ID:6FkgXE1T
まるでヴァンパイアハンターのあの鎧のようだ。
201人間七七四年:2009/12/19(土) 23:50:29 ID:TPV5EROB
くれぐれ嫌にて候、ってなんか可愛いな
202人間七七四年:2009/12/19(土) 23:50:42 ID:jWo6wtpI
>>195
金借りて名物買ってたりするからちゃんとそういうのは戻さないといかんし。

何も書き残さずにおいて知らん弟や家臣たちがこれは良いもの、って自家に残しちゃったらまずいからねぇw
203人間七七四年:2009/12/19(土) 23:53:39 ID:6FkgXE1T
そう考えると遺言って大事だな。
いつ死ぬか分からない武将は、戦前に必ず遺言毎回書いてたのかね?
それなら、三傑や戦しまくってた御歴々の遺言は凄い数になってる気がw
204人間七七四年:2009/12/19(土) 23:56:10 ID:TPV5EROB
一回書いといて、変更があったらまた書き直したんじゃね?
205人間七七四年:2009/12/20(日) 00:07:46 ID:i3YJfLnO
ラスボス「ワシから金を借りておいて借りパクか、森家の連中は。ほほぅ…良い度胸をしておる」

とかなったら改易フラグたっちゃう。
206人間七七四年:2009/12/20(日) 00:12:31 ID:nPe+3bmL
>>205
信長「借りパクかよ・・・。まぁ、森のやつらなら仕方ない。」
207人間七七四年:2009/12/20(日) 00:20:59 ID:8JRZ8P6U
>>175
江戸時代は明智光秀と斉藤道三の人気が特になかったらしい
208人間七七四年:2009/12/20(日) 00:26:46 ID:G1sta73l
まあ近い時代の人って評価が難しいよな
自分が昭和とかの政治家評価しろって言われても情報ありすぎて上手く評価できない
209人間七七四年:2009/12/20(日) 00:31:58 ID:dtyoMaJo
斉藤道三は、司馬遼太郎が小説に書くまで
ほとんど忘れられた存在だった、というのは本当か?
210人間七七四年:2009/12/20(日) 00:37:04 ID:+fIaV8M3
ちょっと時代は前になるが朝倉(英林)孝景ほど死んだ時の皆様の評価の声がボロクソな奴は居まい。
211人間七七四年:2009/12/20(日) 00:46:36 ID:nPe+3bmL
時代によっては考えまちまちだよな
江戸・豊臣悪
明治・徳川悪
昭和・豊臣神
な感じで。
212人間七七四年:2009/12/20(日) 01:04:59 ID:badG+iQv
今は信長の時代かな
光秀や三成なんかは再評価の揺り返し部分というか
今はいい目で見ることに傾注し過ぎてきらいがあるね。
213人間七七四年:2009/12/20(日) 01:09:41 ID:nPe+3bmL
そう考えると、世間一般の感覚は司馬史観に基づくところが強いな。
実際俺も、歴史上の人物のイメージはここと司馬作品に影響されてるところが強いし
214人間七七四年:2009/12/20(日) 01:20:25 ID:sS5fIm1E
でも戦後の三英傑マンセーの流れを作ったのは山岡荘八じゃないか?
司馬の影響が強いのはむしろ幕末の方かと
215人間七七四年:2009/12/20(日) 01:35:45 ID:nPe+3bmL
言われてみれば。結構作家の影響って大きいよね。
俺は司馬→山岡って流れで、歴史好きになっていったタチなんでw

ちょっと悪い話なのに脱線すんまそ。
216人間七七四年:2009/12/20(日) 01:39:45 ID:EX3RZcIh
では武将の評価と言う事で

江戸は元禄の頃、戦国時代の「良将」と言えば、明智光秀、柴田勝家、石田三成の三人を
指したそうだ。
これはこの三人ともに、天下分け目の合戦をした故であると言われる。
217人間七七四年:2009/12/20(日) 03:16:41 ID:X9w/3LlC
>>199
ストームブリンガーですかい。いや鬼武蔵は虚弱児でもなんでもないがw

ムーングラムこと各務兵庫が傍にいないとワタシ暴走しちゃうの・・・
218人間七七四年:2009/12/20(日) 04:10:27 ID:5VNQw3Hp
獣の槍だろ
219人間七七四年:2009/12/20(日) 08:26:24 ID:VN5alRVg
>>216
そういえば光秀、三成の再評価は進んでいるけど、勝家は・・・
220人間七七四年:2009/12/20(日) 09:22:16 ID:CEa4krhm
>>209
忘れられてたのではなく、悪者としてしか認識されないから、岐阜県では話題になることも少なかった、程度の記述だったとおもわれ。
戦国大名って、昔は露骨にお国自慢の材料だったからね。
221奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/20(日) 09:29:19 ID:8hvqw1Bj
それでは「道三めん」の立場がないではないか。
222人間七七四年:2009/12/20(日) 09:32:35 ID:CEa4krhm
ageてしまた。

鬼武蔵の遺言って、
かばってくれた信長が死んで、気がつくとみんなに嫌われてて、
さすがにちょっと考えてちゃったんじゃなかろうか。
で、殊勝な気分で遺言書いたけど
やっぱり「ザマアw これで俺らは長袴」と言われてしまう。
223人間七七四年:2009/12/20(日) 10:21:36 ID:+fIaV8M3
果たしてそんな事を気にしてたのかどうなのか。

秀吉とあまりうまく行ってないという自覚ぐらいはあったのでああいう遜ったものになったとは思うが。
224人間七七四年:2009/12/20(日) 11:44:57 ID:XociF0W1
秀吉が天下穫った後、配下の大名は勿論の事、各大名の陪臣クラスにまで官位を授けてたじゃないですか。直江山城とか

とすると、大阪や伏見では
@朝廷から正式に叙任された官位を名乗ってる人
A官位を勝手に自称してる人
の両名が鉢合わせる可能性があったと思うんだけど、そういう時って自称してる人は何か負い目感じたりしたのかな
225人間七七四年:2009/12/20(日) 11:49:47 ID:EX3RZcIh
>>224
負い目も何も、正式な任官と自称、もしくは受領名は公の場での扱いが
全く異なるわけで。正式に任官していない人間は、本人も周囲も
ある種の通称ぐらいにしか考えてないよ。

アメリカとかでよくある、名誉称号や自称の大佐とか大尉とか、あのへんと同じ。
226人間七七四年:2009/12/20(日) 11:58:09 ID:Rwl1AvtD
勝家は過小評価されてるよなぁ
北陸を制圧し最強期の上杉を単独で押さえ込んだりと
実績はトップと言っても過言じゃないのに

清洲会議後、前田利家に秀吉との和解の仲介を依頼し
和解の約束を取り付けたりとどちらかというと無駄な戦は好まない
理知的な将であったことが伺われる。
猪突猛進な武将のイメージは某ゲームとかのせいかも。
信長死後もあくまで織田家を立てようとする勝家に
対し織田家から離反、独立の意志を見せ始める秀吉に
危機感を感じ何度も詰問を行ったが態度を改めるどころか
挑発→信孝、滝川一益を討伐にかかる→やむなく兵を挙げた

というのが賤ヶ岳決戦にいたる過程であり
賤ヶ岳決戦でも利家の勝手な退却がなければ勝っていた公算が高い。
しかも北ノ庄へ落ち延びる途中、府中城前田利家に会い、
決定的局面で勝手に退却し、敗残の元凶となった利家に対し
勝家は一杯の湯漬けを所望、運ばれてきた湯漬けを静かに
食べ終わると利家に長年協力してくれたことの礼を言い
今後は秀吉に仕えるよう勧め、無断退却のことは全く詰問等
する事無く北ノ庄へ向かったと言われている。

漢や…
227人間七七四年:2009/12/20(日) 12:02:04 ID:+fIaV8M3
そういえば何故「柴田勝家=猪」のイメージが作り上げられたんだろうか
228人間七七四年:2009/12/20(日) 12:02:18 ID:Rwl1AvtD
すまん誤爆した・・・
229人間七七四年:2009/12/20(日) 12:03:58 ID:EX3RZcIh
>>226
> 決定的局面で勝手に退却し、敗残の元凶となった利家に対し
> 勝家は一杯の湯漬けを所望、運ばれてきた湯漬けを静かに
> 食べ終わると利家に長年協力してくれたことの礼を言い
> 今後は秀吉に仕えるよう勧め、無断退却のことは全く詰問等
> する事無く北ノ庄へ向かったと言われている。

これ前田家の記録にあるだけだからw
利家が秀吉に属する免罪符として作られた話で、実際にはおそらく
こんな事は無かっただろうね。

前田家はこの手の、自家が関連する歴史の記述に対する改竄捏造とみられるものが
大変多い。
230人間七七四年:2009/12/20(日) 12:11:59 ID:yDCu+ju1
>>229

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
231人間七七四年:2009/12/20(日) 12:13:03 ID:EX3RZcIh
>>230
以後気をつけます。スマン。
232人間七七四年:2009/12/20(日) 12:21:09 ID:XociF0W1
>>225
やっぱそういうものなのか
例えばリアル武蔵守と自称武蔵守が出会ったらとか、なんか逸話の一つでも残ってるかと思ってたんだけど
233人間七七四年:2009/12/20(日) 12:40:23 ID:VN5alRVg
>>226
甥で養子の勝豊が秀吉に寝返ったり、
同じく甥の佐久間玄蕃が勝家の指示を聞かずに賤ヶ岳に深入りしたり、
重要な配下の利家が最悪のタイミング離反してしまってるので、
きちんと部下の手綱をとれてなかった凡将の側面もあるけどね
234人間七七四年:2009/12/20(日) 12:42:35 ID:j33kmaYe
>>232
その理屈だと池田輝政(義兄の称号を継いだ?)と新納さんの鉢合わせとか
エラい騒ぎになっとるわw
235人間七七四年:2009/12/20(日) 12:47:47 ID:badG+iQv
権六は腹の斬り様はすごいよね。
佐久間盛政が命令聞かなかったり、養子が裏切ったりと、最終局面では生彩欠いたのは間違いないけど。
236人間七七四年:2009/12/20(日) 13:02:05 ID:sS5fIm1E
柴田勝家の猛将のイメージは「鬼柴田」だの「かかれ柴田」だの渾名つけられてるからじゃないの?
政治力があったり知略に長けてても、武功のある武将はどうしても「武」の人のイメージが強い気がする
暗殺だの偽報だの離間だの、「汚い」やり方をやり過ぎてるとそっちのイメージが先行して
武功がスルーされることもあるけど
237人間七七四年:2009/12/20(日) 14:10:43 ID:nixsCwUm
猛将なのは北陸一向門徒撫で斬りのイメージじゃないかな
まあ文字通り撫で斬りした地に北ノ庄城を作ったわけでけっこうな政治的センスは
あったと思うけど
ただ政治的センスの塊のような(天下を統べるまでの)秀吉相手としてみると
残念ながら政治的センスは数段劣る
238人間七七四年:2009/12/20(日) 14:36:13 ID:wNSnSGQo
勝家、利家の撤退なくても勝てたかどうかは微妙だなあ
万が一あの場は勝ったとしても、兵力集積の点で動員力で劣り、
山越えの遠征になる勝家には長期的な展望が持てない
結局、年内に終わるか数年かかるかの違いしか生まれないように思う
家康と景勝と氏政は、関東で遊んでられる時間が長くなるからかなり違ってくるかもだけど
239人間七七四年:2009/12/20(日) 14:50:26 ID:motJ3TQ1
仮に二年、柴田討滅にかかったとして、
その遅れの最中に四国は長宗我部が統一して、九州は島津が統一して、
上杉が介入しようがしまいが佐竹一党は伊達と北条に絶賛フルボッコ中だろうなあ。
なかなかに厳しい情勢になってるかと。
240人間七七四年:2009/12/20(日) 16:17:05 ID:opADNuXq
>>235
そういう事態を招いたのもある意味ラスボスとの「将才」の差で、でたことだからなぁ…
241人間七七四年:2009/12/20(日) 16:31:47 ID:XATfj6xT
自分が天下とるんだと思って動いてる人と織田家支えるつもりで動いてる人だと打てる手の範囲変わってくるからなぁ…

ま、組んでる信孝がこんにちは、鬼武蔵です、東美濃貰いますねとか
稲葉と安藤でガチバトルするんで西美濃に絡んでくんな、ゴルァ!!!とかやられて猫の手以下だったってのも大きいがw
242人間七七四年:2009/12/20(日) 17:05:38 ID:nPe+3bmL
名将と呼ばれる武将の息子は凡庸が多いなぁ・・・。
一族そろって優秀なのは真田一門と・・・本多くらい?
243人間七七四年:2009/12/20(日) 17:07:14 ID:0FGIeQ26
島津も優秀は優秀じゃない?
244人間七七四年:2009/12/20(日) 17:20:31 ID:pdCSDHr+
汚点が多少あっても早死にしているとノーカウントだからな
長生きな方が損
245人間七七四年:2009/12/20(日) 18:01:39 ID:3K42j6ix
江戸時代に片足つっこむ時期になると、もう長生きして天寿を全うしたってだけで
既に凡人扱いフラグだからな
246人間七七四年:2009/12/20(日) 18:05:32 ID:AWi03kn6
>>245
(●∀・)「あぁん?表出やがれ」
247人間七七四年:2009/12/20(日) 18:20:28 ID:EXefvls5
>>245
ご長寿お兄ちゃんに謝れゴルァ
248人間七七四年:2009/12/20(日) 18:22:08 ID:sS5fIm1E
何をもってして優秀とするかによるんじゃない?
三英傑より下の世代は遊泳術とどこにつくかの判断力が優れてるほど勝ち組だし

とりあえず、NGMSはもっと評価されてもいい
249人間七七四年:2009/12/20(日) 18:30:17 ID:lDVFQ1MY
>>248
家臣一同「蝶々トンボが鳥の内ならうちの殿も優秀なお人でござる」
250人間七七四年:2009/12/20(日) 21:12:00 ID:CFG4m3+O
>>242
名将と呼ばれてる人の息子がより名将なら、
その息子を中心にその息子(最初の名将の孫)が凡庸となるんだから、
そりゃ名将の息子は凡将になるがなw

島津・毛利・朝倉・北条・伊達あたりは、
良くも悪くも派手な人材を輩出してる感じがある
251人間七七四年:2009/12/20(日) 21:15:43 ID:wCLyiBiP
織田政権の重鎮たちは秀吉以外信長がいなくなった後にほとんどろくな目にあってないように見えるから
結局信長いなけりゃ1人じゃだめな人たちとか思われてる面もあって過小評価になっちゃうんじゃないかな?
実際はそんなことないのかもしれないけど秀吉以外はなんかそう思われてそう。

柴田、明智→敗死
丹羽→秀吉に怒って憤死
滝川→敗れて余生をさびしく過ごす
河尻→武田遺臣とかの一揆にやられる
蜂屋→わりと早く死んで断絶したみたい
佐々→切腹
信長の側近たち→本能寺で運命を共に

多分イメージとしてはこんなイメージだろうから。
252人間七七四年:2009/12/20(日) 21:21:27 ID:VN5alRVg
島津家は凡君と名君が代わりばんこに出るのが伝統
253人間七七四年:2009/12/20(日) 21:25:01 ID:sS5fIm1E
>>251
守銭奴は無視か
254人間七七四年:2009/12/20(日) 21:25:32 ID:+fIaV8M3
池田恒興も信長の死後、長くなかったが池田家自体は勝ち組に。
255人間七七四年:2009/12/20(日) 21:27:50 ID:EX5aDC1/
伊達家は明治になっても順之助なんていう逸材を輩出してる
256人間七七四年:2009/12/20(日) 21:29:19 ID:IeCgSd1k
>>252
忠恒「なるほど、

日新公→爺様→オジキ→オヤジ→俺か。」
257人間七七四年:2009/12/20(日) 21:37:45 ID:wCLyiBiP
>>253
個人的には彼らは重鎮というよりはやや下なイメージだから。
逆に織田政権下でこの辺の地位の人たちは江戸時代まで生き残った勝ち組になってるイメージだ。
むしろ織田政権の重鎮と豊臣政権の中心にいた武将たちが生き残れなかっただけのイメージもあるんだけど。
258人間七七四年:2009/12/20(日) 21:40:49 ID:lpgzPEY9
豊臣の中心もふつうに生き残ってる奴いるじゃん
259人間七七四年:2009/12/20(日) 21:44:36 ID:+fIaV8M3
浅野が筆頭だな
260人間七七四年:2009/12/20(日) 22:15:33 ID:zFDIvZda
クリスマスも近いという事で、松永久秀の話を…

乱世の梟雄、松永久秀。
彼が三好長慶に仕えていたのは、ご存じの方も多いだろう。

(諸説あるが)長慶は、後々一族の者が松永に暗殺され、実権を握られるなど夢にも思わず彼を非常に信頼していた。
また、松永の器量に惚れ込み自分の娘を松永に嫁がせる。

しかし、ここでちょっと考えてほしい。
松永の生年は1510年前後。対して、主である長慶の生年は1522年。
そう、この二人実は12歳の差があるのだ。

長慶には20歳の時に嫡男の慶興が生まれている。その後に生まれた姫が、松永に嫁ぐのだが
逆算すると松永は30歳以上歳の離れた姫を娶る事になったのだ。
初夜の光景を考えると、どう考えても松永がロリコ(ry


この時代では幼くして輿入れしたり、かなりの歳の差での婚姻も珍しくないが
主君の娘を、30歳前後の歳の差があって娶った話はあまり聞かないので投下。

ちなみに松永の嫡男、久通は生年から考えておそらく前妻の子。
その妻が病か何かで亡くなり、その後長慶から娘を娶ったんだと…


まとめサイトに長慶の妻を自分の物にした話もあったが、それってもしかして親子(ry

乱世の梟雄、松永久秀。
彼はやっぱり凄過ぎる。いろんな意味で。
261人間七七四年:2009/12/20(日) 22:28:46 ID:EX3RZcIh
>>260
松永一族って長慶が死ぬ直前には、家中において三好一族に匹敵するほどの
大勢力になってるんだよね。
それだけ有能だったんだろうけど、あれじゃあ長慶がいなくなれば内紛になるわ。
長慶が松永を信用しすぎて家中のバランスを考えなかった悪い話でもあるな。
262人間七七四年:2009/12/20(日) 22:51:13 ID:NQXQWG5k
兄弟の死が続いて一族の藩屏が崩壊していたってのもあるがな
263人間七七四年:2009/12/20(日) 23:07:12 ID:qiwXvu45
>>260
クリスマスが近いから久秀の話ってのもなんだかなぁw

それはさておき、
その幼妻は久秀の秘伝のテクによりメロメロにされちまったわけだ。

なんという悪い話。
264人間七七四年:2009/12/20(日) 23:27:23 ID:bRQN8E0O
>>261
三好氏の場合、久秀と長逸が三好長慶への取次ぎ全般を行っているので、長慶が
衰えてくると自然このふたりが台頭してくる。阿波も三好実休がかなり強い権限をもって
統治しており(「新加制式」も実休が生前支配してた範囲で適応された分国法だし)、
主要な一族(実休、長逸)・家臣(松永兄弟、篠原)に権限が集まる傾向があったみたい。
265人間七七四年:2009/12/21(月) 00:21:20 ID:3QHMS5cS
北条氏康はその武辺は勿論、文事の嗜みも深く、特に和歌を好み、多くの秀逸な歌を
詠んだそうだ。

ある夏の夕暮れの事

氏康が高楼に上って涼んでいたところ、ふと狐が鳴いた。
側に侍った近習の人々これに、「夏の夜に狐が鳴くのを聞けば、その身に不吉が起こると
申します」と言った。

それを聞くと氏康、歌を詠んだ

『夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ』

翌朝、その高楼の側で狐の死骸が見つかったと言う事である。

氏康、歌である種の呪い返しをしたというお話。
266人間七七四年:2009/12/21(月) 00:35:14 ID:yo5VxcXl
>>265
なんか漫画みたいだなw
267人間七七四年:2009/12/21(月) 10:42:01 ID:wqiwGjVh
>>169遅レスだがチョー悪オヤジ、こんな人

天正12年(1584)、本能寺の変後の混乱が続く中、真田昌幸は小県郡の覇権を巡り
笹洞城の室賀義澄と対峙した。双方が陣を整えた時、室賀の家臣・松沢五左衛門が
真田の陣近くまで物見に出て来た。

真田の武者が一騎出て五左衛門に斬りかかると、五左衛門は右手で太刀を抜いて受け、
左手で真田武者の頭をつかんで自分の馬の鞍に押し付けると、あっという間に武者の首を
落とし、地面に投げ捨て立ち去った。
「おのれ、逃がすか!」追いかけようとする家臣を、昌幸は止めた。
「待て!わしに策がある。追っつけ室賀を討ち、あの松沢もわが家臣にしてくれよう。」

しばらくして後、義澄と和睦した昌幸は彼を居城に招き、祝宴の用意が整うまでの間、
嫡男の信幸と御用医師の坂巻夕庵が接待した。
「それがし、夕庵と将棋を打ちますゆえ、それでも見てお慰みにしてくだされ。」
「おお、それは良い。ぜひ拝見させてもらおう。」

義澄は手をついて盤面を覗きこんでいたが、そこへ真田の重臣・北能登守がやって来た。
北は脇差を抜くと、義澄の胸めがけて襲いかかった。
間一髪、義澄は皮一枚斬られただけでこれをかわしたが、北はそのまま部屋を走りぬけて
出口の前に立ちふさがり、さらに三人の刺客が現れた。

(謀られた!この上は、せめて真田の嫡男を道づれに・・・)
義澄は信幸に斬りかかろうとしたが、三人の刺客のうち木村五兵衛に組み付いて倒され、
残る二人に刺されて血の海に沈んだ。

夕庵「 (゚Д゚≡゚Д゚)エッナニナニ? 」
信幸「知らないうちに暗殺の片棒かついでたようだな。真田昌幸にはよくあること。」

主君を失った室賀氏は降伏し、松沢五左衛門は真田の被官となった。
268人間七七四年:2009/12/21(月) 10:42:15 ID:pBnMzuLX
>>263
如安ってことかな?
それとも岐阜にいったのが24日だからかな?
269人間七七四年:2009/12/21(月) 11:18:16 ID:0UehFI5j
>>268
日本で最初にクリスマス休戦したからでしょ?
270人間七七四年:2009/12/21(月) 11:20:05 ID:vTjbjZkh
クリスマス休戦して性夜に幼な妻を責め抜く久秀…
271人間七七四年:2009/12/21(月) 13:06:43 ID:LsVyp6F+
そう考えると、昔はロリコン歓喜な世界だな
272人間七七四年:2009/12/21(月) 14:48:30 ID:GFuA8lao
人って希少価値を求める傾向があるから、むしろ
「幼妻?フーン。むしろ、すぐ子供産める熟女萌え。」
な時代だったのかもしれない、権現様とか
273人間七七四年:2009/12/21(月) 14:54:19 ID:IsYmFpkF
節子、それじゃ希少価値ちゃう。実用性や。
274人間七七四年:2009/12/21(月) 14:58:16 ID:OyFY0qpX
権現様は晩年ロリコンにジョブチェンジしてるけどなw
275人間七七四年:2009/12/21(月) 14:59:25 ID:j1RlLY+j
権現様だと「若い女子のエキスを…」っていう実用性のつもり方向な気も
276人間七七四年:2009/12/21(月) 15:05:27 ID:d4qU//m1
>>270-276
だからおまえらこっち池
戦国ちょっとエロい話
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1253797280/
277人間七七四年:2009/12/21(月) 17:42:23 ID:cdz1qIH8
>>276殿
誰も住んでおらぬようですが・・・
278人間七七四年:2009/12/21(月) 20:45:35 ID:AF314uSI
>>277
女人は皆久秀公が城にお持ち帰りになりました
残った面子は大内殿がおいでになって…
279人間七七四年:2009/12/22(火) 00:02:46 ID:/CLsSIzx
忘年会シーズンなので、酒の席でのちょっと悪い話。

長尾遠江守藤景という人がいる。
越後国守護代、三条長尾家の支流にして、
三条と栃尾を結ぶ軍事的要衝、高城を治める下田長尾家の当主である。

この人物、長尾一門であるばかりでなくなかなか武略に優れた将であったようで、
長尾政虎の軍中にあっても重きをなして謙信七手組の一翼を担い、
永禄二年に記された披露太刀之次第では披露太刀の中で第十位の序列につけていた。

実際の軍功では、永禄五年の第四回川中島で謙信を助けてよく戦い、
主戦場に到着した武田別働隊による挟撃で、総崩れとなった退き戦において抜群の働きを示している。

が、その後がいけなかった。
事実上の敗戦となった川中島合戦に直面して藤景は主君への忠誠心をすっかり失ったようで、
普段はまだしも酒が入るとことあるごとにこの時の謙信の指揮を批判するようになったのだ。
謙信はこのことを恥辱として甚だ恨みに想い、
数年後に下田長尾家に謀反の疑いありと濡れ衣を着せ、本庄繁長に命じて春日山城中で騙まし討ちにしてしまった。
その報を聞いた藤景の家老長尾外記入道興里は急ぎ兵を集めて高城に篭ったが、
時を置かずに攻め寄せた本庄軍によって防備も疎かな城は落城、
興里は討ち死にし、婦女子はその防戦の間に辛うじて落ち延びて何処かへと隠れ潜み、
これにて下田長尾家はまったく滅亡となってしまった。

いかに酒の席、無礼講といえど相手も人間。
言いたいように言われて赦してくれる上司はあんまりいないという悪いお話。

藤景を討った繁長に謙信が恩賞ケチって、
次はわが身と怯えた繁長が武田家の誘いに乗って謀反を起こしたのはまた別のお話。
280人間七七四年:2009/12/22(火) 00:17:43 ID:NhXhOxLP
三条って謙信が餓鬼の頃に滅んだ訳じゃなかったのか
281人間七七四年:2009/12/22(火) 00:18:14 ID:/4OKj8Xf
そういう逸話もあるのか。
繁長が藤景と宴会の席で揉めて怒って斬り殺しちゃって
「やっべ俺謙信に信頼されてる一門衆の藤景斬っちまった!
どう考えても無罪放免になるとは思えない
だって相手は一門…どうしようどうしよう」
と城に真っ直ぐ帰ってそのまま謙信に謝らずに籠城、
謙信と散々戦って手を焼かせた末に
「もう怒ってないから帰ってこい…」と説得されて
戻ったんだとおもってたw
282人間七七四年:2009/12/22(火) 00:23:17 ID:9g5hpzzj
長尾も島津並みに分家がごちゃごちゃしてて覚えづらいな
283人間七七四年:2009/12/22(火) 07:44:11 ID:1Bl4bUcp
>>281
そっちのが、らしくていいなw
284人間七七四年:2009/12/22(火) 08:05:51 ID:WLd1maVC
確かに謙信のイメージなら、誅殺はあんましなそう
どっちかって言うと、「怒ってないから帰ってこい」ていう
オカン武将の印象
285人間七七四年:2009/12/22(火) 09:17:39 ID:xnlAophU
謙信が怒らないイメージはないが
越後の国人たちを統制するのが難しくて怒るわけにはいかないというか
憤懣を戦争で晴らしてたのかなとも思う。
286人間七七四年:2009/12/22(火) 09:36:19 ID:/CLsSIzx
柿崎さん……
287人間七七四年:2009/12/22(火) 11:16:08 ID:Hm+sPVf7
逸話的謙信なら藤景を自らの手でスパンと斬って「悪は滅びた!」の方がそれっぽい。
別に藤景が悪くなくても正々堂々成敗。
騙し討ちにした挙げ句に褒美をケチる謙信って逸話は珍しいな。
288人間七七四年:2009/12/22(火) 14:49:11 ID:vNoEqt3h
実際武将って剣術は特に強くないって人多いよね。創作だと、武将がバッタバッタと敵兵薙ぎ倒すシーン多いけど。

太閤立志伝大人気の14代将軍さまの最後の逸話は、いつ聞いてもかっこいいw
289人間七七四年:2009/12/22(火) 15:23:21 ID:7JxY9Yka
戦国武将の逸話っていい話悪い話どっちも酒飲んでるシーンがたくさんでてくるけど
戦国時代の人で体質的に酒飲めない人っていなかったのかな?
戦国大名から一騎がけの武士までみんな浴びるように飲んでるイメージがあって
酒に弱い人がいないんじゃないかと思えてしまうんだけど
現代人でいうところの梅酒やビール一杯で一晩中吐き気に苦しむし酒に酔う=吐き気+頭痛で
酒に酔うのが気持ちいいなんて経験したこともないから
飲酒は罰ゲームとしか思えないってかんじの人っていなかったんだろうか?
酒が飲めない人は現代以上につらく厳しい時代だったのかな?
290人間七七四年:2009/12/22(火) 15:31:29 ID:LUH5kywv
今程清酒の技術が発達してないからアルコール度数弱くて殆ど水だったんじゃなかったか?>酒
291人間七七四年:2009/12/22(火) 16:03:45 ID:BDILQLDI
信頼には値しない話でいくと光秀が下戸なのに無理やり飲まされて信長を恨んだとか、
幾分信頼性の高い話でいくと、甘いもの好きな信長はフロイスの接待のときも酒を飲まなかったとか。
292人間七七四年:2009/12/22(火) 16:17:31 ID:SYiYRNj5
アル中で家族亡くしてる元就も飲まなかったんじゃなかった?
293人間七七四年:2009/12/22(火) 16:34:37 ID:vWeUBZyG
>>286
俗説です。
294人間七七四年:2009/12/22(火) 16:40:31 ID:CKWnxHnw
俗説になるほど上杉家中だと柿崎は有名だったんだろうな
295人間七七四年:2009/12/22(火) 16:48:37 ID:RWdERj4f
醸造がすすまないと考えたら、今よりアルコール控えめで甘い酒が主流だったのかな。
下戸だったと伝わる人って本当に>289な人だったんじゃないかね。

スコッチ派の俺は現代人で本当に良かった。
296人間七七四年:2009/12/22(火) 17:03:52 ID:HehlvT1Q
ってか当時はみりん飲んでたんじゃなかったっけ?
297人間七七四年:2009/12/22(火) 17:08:40 ID:vWeUBZyG
>>290
それは水で薄めて売っていた話と混同してるのでは?
アルコール化が進んでいないとしても、それは残った糖分や乳酸が大量にあるということだから
酸味や甘味が強くなる。水みたいってことはない。

それに、高級品として現在の清酒と変わらないもの(澄み酒とか呼んでたらしい)も作られていたし、
戦国時代も末になれば蒸留酒も造られていたはず。
298人間七七四年:2009/12/22(火) 18:06:04 ID:7JxY9Yka
あー、なるほど・・・
現代の酒よりアルコール控えめで飲みやすかったのか
じゃ、現代の酒だったならあまり飲めないって人もいたんだろうなぁ。
日本人は実はあまりお酒強くない体質って話も本当か嘘か知らんけど昔に聞いたことがあるから。

そういえば宣教師だったかがミサか何かに使おうとしてお酒を前日に買っておいたら
翌日お酢になっていたって話もどっかで聞いたことがあるような。
宣教師はワインの作り方とかパンの作り方とかあっちのほうの食品は伝えなかったんかな?
なんとなく信長とかがワインみたいの飲んでるイメージはあるけど
パン好きで食ってたって大名や戦国時代のパン屋さんとかは聞いたことがないし。
299人間七七四年:2009/12/22(火) 18:34:56 ID:CKWnxHnw
日本人ならコメ 腹持ちいいし
世界でもコメのとれる所は人口が多かったって聞いた
300人間七七四年:2009/12/22(火) 18:35:04 ID:HehlvT1Q
ワインの作り方といっても原料のブドウがそもそも手に入らないだろう
十六文先生が栽培したって記録があるらしいが(誰か調べてくれ)
それもブドウの品種自体違うだろうし
ワインにしてもパンにしてもイースト菌が必要だ
301人間七七四年:2009/12/22(火) 18:46:15 ID:NS4hgffn
焼酎くらい振舞えよとかなんとかの職人の落書きが残っていたのっていつのだったっけ?
302人間七七四年:2009/12/22(火) 18:48:27 ID:TwvT88e/
西洋の船はパン種を持って航海していたんじゃなかったっけ。
あとキリスト教の儀式で、聖餅として一種のパンを使うし、
全く無かったわけではないのでは。
303人間七七四年:2009/12/22(火) 18:53:31 ID:HehlvT1Q
>>301
これか
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2585.html
戦国半ばぐらいかな?
304人間七七四年:2009/12/22(火) 19:00:11 ID:9HDy/OEe
ザビエルは日本でパン作りをしたらしい。

パンじゃないけど、金平糖やカステラ以外にもボーロやビスケット、
ケジャト(チーズケーキみたいらしい)など伝わっており
キリシタンたちはクリスマスには信者以外も参加自由のパーティーを開いて、
菓子を作って配ったり劇をしたりして祝ったらしい。

江戸時代の蘭癖大名はパン好きで食ってたってどこかで見たような。
305人間七七四年:2009/12/22(火) 19:11:35 ID:KIOJ6AKE
前テレビでなんかどっかの大名家の資料に残ってたやつの再現とかいうので
酒粕か何か使った江戸時代のパン作ってるの見たよ
ワイン作ってたかは不明だが、干し葡萄はあったという話を見た覚えはあるけど(うろ
306人間七七四年:2009/12/22(火) 20:23:42 ID:Zs7DZ+jh
酒も現在のものとは違うけど、茶も違うんだったっけ、
明るい緑の緑茶は江戸時代に製法が発明されたもので、
戦国時代に茶道で使われていたものはどんな色だったかよく分かってないとか
307人間七七四年:2009/12/22(火) 21:05:05 ID:WbjooeIa
当時は濁り酒が主流
火入れの記録は永禄11年にある
佐竹家の記録に御酒之日記ってのがあって、これの成立時期がもっと早いらしいから16世紀はじめから半ばには清酒に近いものが造られてるらしい

ちなみに鴻池家では、七難八苦の男の子供・山中新六が江戸に清酒を運んで大もうけしたという伝承がある
308人間七七四年:2009/12/22(火) 21:10:33 ID:mutVHffy
>>267
油断も隙もねえぇwww
しかもよくあることなのかよwww昌幸スゴス
309人間七七四年:2009/12/22(火) 21:24:11 ID:cIq8qww7
そういやDQ眼竜が柳生さんとこから杜氏を招いて
葡萄酒とか色々作らせてたとかいう話があったね
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2945.html
310人間七七四年:2009/12/22(火) 23:24:08 ID:LvYbHjbI
>>305
多分鉄腕DASHかな。
確か斉昭時代の水戸藩の資料から当時のパンを再現してた。
311人間七七四年:2009/12/23(水) 01:08:00 ID:jsxquVZs
あれから、直接会えず残念だ。送った壷に焼酎を詰めてくれ。
今、手持ちが無ければ、ついでの時でも結構だが、ぜひお願いする。

送る時は、面倒でも壷の口をよく締めて、紙で封をしてほしい。
そちらの都合次第で取りに行かせる。

つまらない物で申し訳ないが、(謝礼として)単衣を一つ送る。
また、ヒマな時にでもこちらに立ち寄ってほしい。

なお、壷は二つ送る。焼酎を入れて返してくれ。できればもっと送ってほしい
ので、(それが可能ならば)その旨、使いの者に伝えてほしい。

六月二十三日 河原左京殿へ  真田信繁



河原綱家「濁り酒全盛の時代に、殿様の弟(受刑者)が
『蒸留酒たくさんよこせ』とか言ってきたでゴザルの巻」
312人間七七四年:2009/12/23(水) 01:17:58 ID:+8vTAjYa
真田は相変わらずだなw
313人間七七四年:2009/12/23(水) 03:45:17 ID:k9zNedas
真田はまだ恵まれてるよな 宇喜多さんのほうは…
314人間七七四年:2009/12/23(水) 06:23:16 ID:oNU1F+0p
「真田」で一くくりにしてやるなw
315人間七七四年:2009/12/23(水) 06:32:59 ID:7K8aJLvN
働き盛りの成人男子が軟禁状態で家で内職ばっかとか
そりゃいい酒飲んだり子作りしたくなるよ
316人間七七四年:2009/12/23(水) 11:48:11 ID:PqlOTI2t
九度山ニートの一発屋弟のほうが、あんなできた兄よりもてはやされるこんな世間なんて…
317人間七七四年:2009/12/23(水) 12:06:35 ID:FIq1R9v0
>>311
「真田の殿様はすっかり酒浸りか、安心じゃな」と、油断させてる気がしてならない

>>316
保守家ってのは同じ立場からすれば有り難い人だけど、逆の立場や後世から見ると平凡な人物に見えるからねえ
318人間七七四年:2009/12/23(水) 12:23:39 ID:PqlOTI2t
一方最上義光は、

8/14
すばらしい肴と林檎をおくってくれてありがとう!
明日お祝いをするのでみんなで食べます。

8/20
蔵屋敷の祝儀に鮭塩引き二尺をおくってくれてありがとう!

9/29
そちらでとれた鮭一匹が届きました。とてもおいしかったです、ありがとう!


と、わざわざ北楯大学にお手紙でお礼を言っていた。あんまりいいもん喰ってないな。
当時のりんごはすももサイズのさくらんぼみたいなもの、らしい。
319人間七七四年:2009/12/23(水) 12:31:29 ID:2Xt7cShF
鮭様相変わらずかわいい
320人間七七四年:2009/12/23(水) 12:38:55 ID:LbqNU4Mq
相変わらず鮭まみれだなw
321人間七七四年:2009/12/23(水) 14:36:18 ID:VvkfHFlh
伊藤七蔵と言う男がいた。
元々は相模の国の住人で、信長、秀吉に仕え、秀吉の旗奉行にもなった武勇の男であった。

この七蔵がまだ若い頃、父の武者修行に付き従い国々を転々とし、尾張の前田村と言うところに
住み着いた。ここでまだ尾張統一も成していない頃の信長に見いだされ、仕える事となった。

ある時、尾張の三本木と言う地をめぐって取り合いがあった。
信長はすぐに兵の収集をかけたが、それがあまりに急であったため、集まった兵の多くは
武装もままならぬ有様であった。中でも七蔵は頭に編笠をかぶっただけの姿だったが、
これで一番槍の手柄を立てた。

信長はこれを大いに激賞し、七蔵を呼んで言った

「お前は編笠をかぶって戦っていたな?」

「はっ」

「よし、今日からお前の呼び名は”編笠”だ!!」

「は?」

「これからも励めよ編笠!」

「は、はあ…」

剥げたネズミに似ているから禿鼠、金柑みたいだからキンカン頭、
そして編笠をかぶっていたからと言う理由だけで、「編笠」
どうも信長が付けるニックネームは、どれもこれも捻りもなく、ただただ『見たまま』である。

このようにして伊藤七蔵、幸か不幸か、この後信長が本能寺で死ぬまで
編笠呼ばわりされることになった。と言うお話。
322人間七七四年:2009/12/23(水) 14:59:35 ID:+BDrlaHj
なんか絡みづらい上司思いだした
323人間七七四年:2009/12/23(水) 15:14:48 ID:Xkvew/5c
>>321
乙。
編笠の逸話書いてくれたから321は今日から編笠七七四さんということで
324編笠七七四:2009/12/23(水) 15:31:04 ID:VvkfHFlh
>>323
今日から「ビニール傘を差していても編笠とはこれいかに?」とか言われてしまうのか…
325人間七七四年:2009/12/23(水) 15:48:19 ID:LI+gxm4A
>>321
編笠七蔵の逸話は、司馬遼の「女は遊べ物語」で西田敏行主演でドラマ化もされてたな。

信長が付けたニックネームだと、川崎金左衛門が筑紫出身という理由で「筑紫川崎」、
平野甚左衛門が尾張津島出身のチビという理由で「津島小法師」なんてのもある。
一方、武勇絶倫の道化清十郎は「無双道化」というニックネームを付けられたが、「編笠七蔵」
も無双系統のかっこいいニックネームだと思うね。
326人間七七四年:2009/12/23(水) 15:59:40 ID:+BDrlaHj
てか、国外出身者って結構いたんだな
武田の甲陽五名臣も国外出身者だった気がするけど
327人間七七四年:2009/12/23(水) 16:57:17 ID:yrcay5tN
明日明後日一人ぼっちだっていいじゃない


中世、朝廷は徐々に権力を喪失していった。
が、限られたパイを守るため、かえって家格や家業が細分化・厳格化されてくる。

しかし、これが困った事態を引き起こす。
戦国時代になると、藤原摂関家の娘は格下の家と婚姻しない慣例ができた。
皇族か、同じ摂関家で適齢の者がいないと、結婚できないのである。
おかげで、近衛房嗣は、自分の娘をすべて尼僧にして院に入れてしまった。
息子の政家も、娘はすべて出家。
その息子の尚道はさすがにまずいと思ったか、足利義晴に一人嫁がせた。
だが、他はまたしても尼僧院へ。
さらに息子の稙家は、父にならって義輝に嫁がせ、他はまたまた出家。

お家の身分ゆえに尼にならざるをえなかった女性達、
不幸だったのか、かえって幸せだったのか、定かではない。
328人間七七四年:2009/12/23(水) 18:16:59 ID:t3KpnCA5
>>327
でも義晴に嫁いだ慶寿院は義輝に殉じているんだよな。
九条稙通も養女が十河一存に嫁いでいるようだけど、公家にとっては
大変な時代だったんだろうね
329人間七七四年:2009/12/23(水) 19:49:30 ID:2n2U9Saj
>>321
信長にあだ名付けて貰えるなんて果報者だなw
330人間七七四年:2009/12/23(水) 22:41:59 ID:oGlaTy4z
信長にもうつけものという立派な仇名があるじゃないか
331人間七七四年:2009/12/23(水) 23:04:06 ID:a048GT4W
自称第六天魔王
332人間七七四年:2009/12/24(木) 01:44:24 ID:WwHvRJtu
<<327
そうか、わらわも藤原一門のはしくれ、家格のせいで1人なのじゃな…
333人間七七四年:2009/12/24(木) 09:11:42 ID:QXqW5TnJ
>>332
クソ、おれも摂関家に運れたばかりに
334人間七七四年:2009/12/24(木) 09:52:24 ID:oIwYFRIO
なるほど俺も家紋にも姓にも藤原氏の痕跡など無いが
つまりこの様は実は我が家が摂関家だったからなんだな
335人間七七四年:2009/12/24(木) 10:06:15 ID:O/YlYDNN
貴い血筋の人が多いスレでつねw
         サ   ン  タ
みなみなさんに第六天魔王さんが来ますように
336人間七七四年:2009/12/24(木) 10:50:40 ID:YUacFBGT
節子!それサンタやない、サタンや!
337人間七七四年:2009/12/24(木) 11:10:11 ID:C/k2ORiu
第六天魔王というと、能の『第六天』と言う演目に出てくるのだが、
これが素戔男(スサノオ)尊にフルボッコにされて逃げ出すと言う、非常にかっこ悪い
魔王様だったりする。
338人間七七四年:2009/12/24(木) 11:55:42 ID:CVv6LmVG
摂関家の息女が嫁入りできなかったのは結納金とか持参金が準備できないからとかじゃなくて?
339人間七七四年:2009/12/24(木) 12:03:04 ID:y3mHsaiL
第六天魔王ってシヴァ神の事じゃなかったっけ
340人間七七四年:2009/12/24(木) 12:17:26 ID:/paXSiS4
微妙
魔羅だったり波旬だったり大自在天(シヴァ)だったり
341人間七七四年:2009/12/24(木) 12:46:00 ID:oIwYFRIO
四国に住んでる人間には崇徳院も忘れがたい大魔王
342人間七七四年:2009/12/24(木) 15:29:07 ID:KYuIpmHJ
どこまでもハブられるアマノカガセオノミコト可哀想です
343人間七七四年:2009/12/24(木) 16:43:37 ID:8LVoX2iA
>>338
そういうわけでもないらしい
下級貴族に嫁ぐくらいなら、仏門に励んだ方がいい、みたいなステータスがあったのかね
344人間七七四年:2009/12/24(木) 18:53:14 ID:Pycn5hbV
結婚できない人間は仏門に入ればいい
345人間七七四年:2009/12/24(木) 19:02:53 ID:hiFV4EQD
禅智内供「そう思っておった時期が拙僧にもありました」
346人間七七四年:2009/12/24(木) 19:20:05 ID:I4sJz1yU
>>344
一瞬、仏門が菊門に見えた俺は間違いなく大内家臣。
347人間七七四年:2009/12/24(木) 19:31:48 ID:KYuIpmHJ
蓮如上人「童貞が許されるのは小坊主までだよねー」
348人間七七四年:2009/12/24(木) 23:08:14 ID:pT2b9DMY
あきらめるな、人生何があるかわからないもんだ。
と山口直友さんが皆さんを励ましていますよ。
349人間七七四年:2009/12/25(金) 00:17:43 ID:qCljr/pM
なぜベストを尽くさないのか
350人間七七四年:2009/12/25(金) 06:57:37 ID:TtScnEBK
武州忍の領主成田長泰の家臣に、手島美作と言う者がいた。

この手島、永禄3年(1560)上杉輝虎の小田原攻めの際、人質として謙信に出された長泰の
幼い二男に付けられ厩橋城にいたのだが、成田長泰はご存知のように、この小田原攻めの最中
上杉陣営から離脱し忍に帰った。
俗説では鶴岡八幡宮における輝虎の関東管領への任官の儀式で、輝虎から打擲されたためだという。

さて、明日はこの輝虎が厩橋に帰城すると言う夜、この城の宿直のものが手島を、
密かに物影へと呼んだ。

「手島殿、あなたの御主君が長泰様が別心をいだき、忍に帰られたことご存知か?
明日輝虎様が帰城されるとあなたも、人質ともども殺されることになっているそうだ。」

手島、これに大いに驚いた。主君長泰からは、何の連絡も来てはいないのだ。
なんたることかと愕然としていると、宿直の男

「…ところであなたは、国に帰れば五千貫の大身だと聞き及びます。どうでしょう、私に
三十貫の知行をいただければ、あなたをここから脱出させ命を助けますが…?」

「そんなもの容易いことだ!」

すぐに約束状を書き与えた。そこで宿直の男は小舟を用意し、手島を人夫の姿にさせて
城を出ようとした。この時手島は「若君も連れて行きたい。」と言ったが、
「子供をつれていくのは無理ですよ。だいたい父親である長泰でさえ捨てたんですよ?
他人である我々が気に掛ける必要があるでしょうか。是非に及びません。」

と、若君がまだ寝入っている間に、城を出た。

翌朝、この二男は目を覚ましてから、自分が殺されると言うことを知った。
慌てて手島のもとに駆けつけたが、そこは既にもぬけの殻であった。
そうしているうちに二男を探しに来た追っ手が現れ、これから逃げようとし、最後には
川に飛び込んでそのまま死んだ、と言う。

手島美作は無事脱出に成功したが、長泰に対し「今まで一度も不忠の事は無かったのに、
棄て殺しにしようとしたのはあまりに酷い」とこれを恨みとし、後、長泰の嫡男氏長と共に、
長泰の追放に働いた、との事である。
351人間七七四年:2009/12/25(金) 08:10:00 ID:yV6EENhY
70過ぎて19の嫁さんとか
若い頃が病弱だったとか嘘だな
352人間七七四年:2009/12/25(金) 12:39:56 ID:jqpCh1IM
成田長泰次男って確か謙信が厩橋に帰ったあとも普通に厩橋に元気でやってて
謙信がおんぶして遊んであげてたとかいう話も残ってるんだが…。
成田の家臣が危険を冒して救出して連れ帰ったバージョンの話も見た覚えがある。
353人間七七四年:2009/12/25(金) 14:18:59 ID:VtI7ZOi6
というか、一般的に長泰の次男とされる長忠(当時九歳)にはそもそも上杉の人質に出された形跡がない。
成田長泰が人質を見棄てたのは事実だが、本当は誰が人質に出されたものやら。
354人間七七四年:2009/12/25(金) 14:30:30 ID:Zf7s28F8
>341
菅公も若い頃、讃岐国司として下向してきてるなあ。

崇徳院といえば白峰か…
355人間七七四年:2009/12/25(金) 15:00:02 ID:Zf7s28F8
>>347
一休さんが「童貞のまま死にとうない……」と(

蓮如の逸物に一休禅師が讃文を寄せたら「馬並みじゃげな」だな。うん
356人間七七四年:2009/12/25(金) 15:22:23 ID:IJwbU0OK
蓮如上人はモノがどうこうちうより種の性能がすごすぎる
357人間七七四年:2009/12/25(金) 17:27:36 ID:eT+d0tKE
>>350
友誼とか同情じゃなくて知行目当てかよ!>宿直
358人間七七四年:2009/12/25(金) 19:09:08 ID:Ib5Z+IDJ
>>91

>このご神木を切ろうとすると切り口から夥しい血のような物が噴出し、
怖がって切れる者がなく結局伐採を諦めたという。

それなんて魏王様?
359人間七七四年:2009/12/25(金) 19:16:21 ID:vISwS27l
木の病気か寄生する菌類でそういうのがあったと思ったが。>切り口から夥しい血のような物が噴出し
360人間七七四年:2009/12/25(金) 19:21:47 ID:mRf6URfa
製材所は神社経由の木の加工をいやがるそうだ。
かなりの確率で幹に五寸釘が埋まっていて、電動鋸の歯がダメになるから・・
361人間七七四年:2009/12/25(金) 19:45:41 ID:RoublK9D
>>359
これの最後の画像がそれっぽい
ttp://kinoko-nikki.hariko-manekiya.com/?eid=151566
362人間七七四年:2009/12/25(金) 19:53:16 ID:6prZiSW/
本当に真っ赤だな、気色悪い
363人間七七四年:2009/12/25(金) 20:23:22 ID:rvsi5HQi
>>361
良い物見せてもらったけど、喰うなよw
364人間七七四年:2009/12/25(金) 20:51:58 ID:zQSmgWGi
>>361
菌だってわかって見れば「どう見ても血とかじゃねーだろ」って思うけど
こんな真っ赤なのがぶわって出て理由知らなかったら血とかそれ系の
不吉なものにしか見えんよね
365人間七七四年:2009/12/25(金) 20:58:48 ID:RoublK9D
菌だって判っててもそれが神木だったらなんかあるんじゃないかと思っちゃうよ
366人間七七四年:2009/12/25(金) 20:59:49 ID:lvqlpIII
きのこで真っ赤な液体出す奴とかもあるな
367人間七七四年:2009/12/25(金) 22:41:47 ID:63sDaNJo
〉〉361
近所の山にこんなになっている木があって
こんな山の中までペンキぶちまけに来るなんてひまな人もいたもんだと思ってたが違ったんだな。
368人間七七四年:2009/12/26(土) 01:47:09 ID:DjuibA9D
天正元年(1573)、信長の越前攻めに朝倉義景はついに一乗谷を放棄、大野へ退くと言う時、
家臣、福岡石見守に二人の娘を預けた。

「一人は、女ながら髪をおろさせ、後々比丘尼として出家させよ。もう一人の喝食(稚児)の姿を
している方は、大阪の本願寺にいる顕幸殿に嫁がせると約束しているので、そこまで送り届けよ。」

しかし福岡
「私にはこのお二人を預かることなど出来ません!死のうとも殿のお供を仕りたいのです!」
と抗議したが、「達ての命である」と言われ致し方なく、急ぎ二人の子女を連れて宿所に帰り、
一首の歌を書き残すと、妻女にも告げず出立した。

『今日出て 廻り合わずば小車の 此輪の内に無しと知れ君』

今日出立して行くが、このまま音信が無くなれば、もはや私はこの世にはいないものだと考えて欲しい。
自信の運命を覚悟をした、別れの歌である。

福岡は御息女を馬に乗せると中間を2,3人連れ豊原寺に向かって進んだ。

ところが途中、落ち武者を狙う野伏達に遭遇、押し留められた。
「おまえたちは何者で、どこに行く!?」
福岡はありのまま、正直に語った。

「ふむ…。で、お主の名は?」

「福岡石見守である。」

「!?、ならば通すことはできぬ!先年我らの村と鳴鹿の村との訴訟のとき、お主は鳴鹿村の
奏者となった。そのため我らはその訴訟に負けたのだ!
今ここでめぐり合った事こそ幸いである!あの時の返報をさせて頂く!」

言うやいなや合図を送り、村より多数の人々が出て彼らを取り囲んだ。
福岡は「多勢にに無勢、ここを無事通り抜けることはできない。」と覚悟を決めると、下人に持たせた
薙刀を手にとり、御息女を逃がすようにと中間に任せ、野伏たちに一人斬りかかった。
彼は多人数を相手に大いに戦い、野伏たちを苦しめた。だがやがて討ち取られた。

福岡が奮戦している間に逃げた二人の息女は、その後方々を流浪したがどうにか逃げ切り、
喝食姿の方は無事、顕幸の妻になった、とのことである。


朝倉家崩壊に際し多くのものが裏切った中で、朝倉義景の命を守り抜き死んだ、
一人の忠臣のお話である。
369人間七七四年:2009/12/26(土) 03:48:11 ID:rojAa77F
今でも建築屋土木屋って縁起かつぐよね
つか身体はった職業ってどれも縁起かつぐ傾向あるな…(アスリート系含め)
370人間七七四年:2009/12/26(土) 04:22:21 ID:s+g8cg0v
警察や消防、893の人たちのそうだね
命がかかってる商売の人はちょっとの差が死命を制するって経験上わかってるからだろうね
371人間七七四年:2009/12/26(土) 09:11:14 ID:rrNHv7Hh
血を流した俺の松茸のことかー!
372人間七七四年:2009/12/26(土) 09:28:15 ID:rojAa77F
>>371
しめじ乙
373人間七七四年:2009/12/26(土) 15:10:45 ID:341I9axe
>>296
いい味醂を味わったことある?
デザートワイン感覚で飲める逸品だよ。
374人間七七四年:2009/12/26(土) 16:36:55 ID:2FHv55TN
>>371
エノキなんだろw
375人間七七四年:2009/12/26(土) 17:06:50 ID:DjuibA9D
天正元年(1573)9月1日、
織田信長の攻撃により近江小谷城は陥落寸前となり、浅井長政は今まさに
切腹に及ぼうとしていた。

ところがこの時信長より、不破河内守を通じて

『我らは縁者である以上そなたを疎意に思ってはいない。悪いようにはしないので、
ただ兜を脱いで降参なされよ。』

と言ってきた。長政は「このようなもの返答に及ばない。ただ腹を斬るだけだ。」と拒絶したが、
傍の者たち、「信長がこれほどまで慇懃に言ってくるからには、何かの仔細があるのでしょう。
どうかここは降参なさって、お家の存続を図るべきではないでしょうか?」
などとしきりに言うため、長政も「父久政も許されるならば」と、ついにこれに同調し、
百二三十騎ばかりで、降参の体でもって城を出た。

ところが信長、矢倉の上よりこれを見つけると、彼らに向かって

「あれは長政か!?何の面目があって降参するのか!?」

と、声高に叫んだ。
長政は大いに面目を失い、すぐさまその道沿いの赤尾美作の屋敷に入り、自害して果てた。

信長は長政に、この恥辱を与えんがため降伏勧告を送り続けていたのだろうか?

一般には長政は降伏勧告を最後まで拒絶し切腹したとされているが、浅井家滅亡に関して伝わる
異説の一つである。
376人間七七四年:2009/12/26(土) 18:57:41 ID:jQOt8u8V
|┃三ガラッ! ____
|┃    |どっきり|
|┃ ≡/⌒\ ̄‖ ̄ミ
|┃ ( 信長 ) ‖ サッ
|┃≡(_》^ω^)E)
|┃=⊂   ノ
|┃≡(_ノノ
377人間七七四年:2009/12/26(土) 20:47:22 ID:FFAKAVw5
>>375
不破さん気の毒
378人間七七四年:2009/12/26(土) 20:53:11 ID:vx2EV2jQ
信長、二重人格説
379奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/26(土) 20:59:40 ID:byqSJsF4
赤尾曲輪の位置。
380人間七七四年:2009/12/26(土) 22:10:28 ID:a2uNevY3
「おあん様おあん様、昔話してくれろ。」「はいはい。」
…おらが親父は山田去暦と言って、石田治部少輔様に仕えて近江の彦根におったが、
関ヶ原の戦の時は、美濃大垣城に篭もることになり、家族みんなで篭城した。

城中では不思議なことがあってなぁ。真夜中になると、どこからともなく男とも女ともつかぬ
三十人ばかりの声で、『田中兵部どの…田中兵部どのぉぉ……』とわめき、その後わッと
泣き出すので、夜な夜な恐ろしゅうておぞましゅうてならんかった。
しばらくして後、徳川様の攻め手が大勢、城へやって来て昼も夜もなく戦となったが、
攻め手の大将は、なんと田中兵部大輔吉政というお人じゃった。

石火矢(大砲)を撃つ時は、城の近所にその旨、触れが出たものじゃった。
なぜかと言うと、石火矢を撃てば櫓も動き、地も裂けるほどに凄まじい音がするもんで、
気の弱い女衆は、すぐ目を回して難儀するんで、前もって知らせたんじゃ。
初めのうちは触れがあれば生きた心地もせず、ただ恐ろしや怖やと言うばかりじゃったが、
後には慣れて何とも思わんようになった。

普段は、おらも母者も、その他家中の内儀・娘も、皆々天守で鉄砲の弾を作ってのぅ。
またある日、味方が取った首を天守に集めて、それぞれ名札をつけて分かるようにしたが、
その首にお歯黒を付けにゃならんかった。
昔は身分の高い者はお歯黒を付けたもんで、首を取った者から首の価値を上げるためと
頼まれたのじゃ。
なに、生首なんぞ怖いもんではない、おら達はその首の血生臭い中で寝たもんじゃ。

さて、そうしていると、ある日攻め手より激しく鉄砲が撃ち放たれ、もはや落城じゃ、と
噂が流れ城中、事の外騒がしゅうなった。
そこへ侍頭が来て、『敵影は無くなった、去ったのだ。もう騒がれるな、静まれ。』
と言っているところへ、また鉄砲が撃ちかけられ、おらの十四歳になる弟に弾が当たって、
そのままヒクヒクと痙攣して死んでしもうた。むごいものを見てしもうた……


この後、おあん一家は徳川家で手習い師匠をやった父のコネで脱出を許されて土佐に逃れ、
おあんは土地の侍と結婚し、六十余歳で亡くなったという。
上記は、おあんが語った原文も口語体で記された、落城悲話である。
381人間七七四年:2009/12/27(日) 00:10:06 ID:+MQzUgek
>>379
これ原文には「赤尾美作の屋敷」じゃなくて、「赤尾美作の衣装部屋」になってるな。
382人間七七四年:2009/12/27(日) 00:40:58 ID:W1PGHEo+
>>380
助かった人間でもこんな体験してるわけで、実際には悲惨な目にあった人が大勢いたんだろうな…
383人間七七四年:2009/12/27(日) 06:08:04 ID:SmoZxO9k
>>382
その悲惨な例

実録「九戸城の落城」(祐清私記より)

九月四日に戦が終わった。城方の降参が決まり明日にも開城である。
篭城する兵、譜代の郎党達は一様に落胆の色を隠せない。
もはやこれまでと人質の父母妻子を見捨てる者もいれば、一方で人質を勝手に連れ出し落ち延びる者もいる。
宵の月が山の陰に隠れた夜半、彼らは闇夜に紛れて我も我もと抜け道より落ち延びる。
城内での彼らの持場は旗と幕だけを残すのみである。
降参の前に逃げ出した者は、落城の報を聞き事の推移を見極めようと近場に潜伏している。
落人は、ある者は松前、津軽、秋田に。また、ある者自領に引きこもる。それぞれ思い思いの地に落ち延びる有様である。
足が弱いからと年老いた親、幼い子供を縁故の町人、百姓に預ける者もいれば、一蓮托生という者もいる。
(続く)
384人間七七四年:2009/12/27(日) 06:12:32 ID:SmoZxO9k
(続き)
本道は監視の目があるので、落ちるには脇道を行かなければならない。
木々を掻分け、道無き谷をよじ登れば、旅慣れぬ老弱男女の足の裏は石や枝で傷付き、足跡は血で真っ赤に染まる。
痛い痛いともう歩くことができずに木陰に伏せ転び、目に涙を浮かべながらそのまま寒風の中一夜を過ごす。
食料の持ち合わせもなく、歩くこともできず、人知れず山奥で飢え死にする者もいれば、妻子を殺し自害する者もいる。
食料を得ようと村へ降りて殺される者もいれば、逆に運良く落ち延びることができて他国で慣れない仕事をしながら生きる者もいる。
いずれの落人も九戸が繁栄していた頃には、肘を張り、肩をいからし、美しく着飾っていた人々である。
九戸という大木が一本倒れて、彼らのような小木千本が残った。小木の末路とはなんと悲惨なことか。

ちなみに落ち延びずに城に残った人達は城ごと焼かれた。
385人間七七四年:2009/12/27(日) 08:23:45 ID:J7SGr3iU
降れば助命するって、浅野の空約束でしょ?

なんか、浅野のってあんまりいいイメージないんだよなあ
386人間七七四年:2009/12/27(日) 10:01:08 ID:LG8sM1q0
老若男女は「ろうにゃくなんにょ」って読むんだぜ?
387人間七七四年:2009/12/27(日) 10:05:12 ID:ehZGeS3v
そうなのか!?
おいもわかきもおとこもおんなも、だと思ってたよありがとう!
388人間七七四年:2009/12/27(日) 10:08:33 ID:ySmU5tN9
斬新すぎる
389人間七七四年:2009/12/27(日) 12:36:32 ID:7RAvVMLX
が、こういう女性もいる。

その日、大坂城で淀殿に仕えるおきくは小腹が減って、「ソバ粉の焼き菓子を作れ。」と
下女に命じ、台所に向かわせた。
あわてて戻って来た下女が「玉造口が燃えています!」と言うので、おきくが千畳敷の間の
縁側へ出て見ると、すでに他の方面からも火の手が上がっていた。

時に元和元年(1615)5月、大坂落城である。

急いで自室に戻ったおきくは、着物を三枚ほど袋に詰め、秀頼から拝領した手鏡を懐にして
逃げ出すことにした。
部屋を出ると、物頭の竹田永翁らが黒具足に身を固め、「お女中方、出てはなりませぬ!」
と叫んでいたが、構わず外に出た。

城外は竹束があちこちに立っていたが人の気配はなく、先を急いだ所、急に竹束の陰から
錆び刀を持った男が現れた。
「金目の物を出せ。」と言うので、隠し持った金塊を一つ差し出し、「藤堂殿の陣はどこじゃ。」
(おきくの祖父が、浅井家時代の高虎の上司)と聞くと、「松原口だ。」と答えたので、
連れて行けばもう一つ金塊を渡す約束で案内させた。

途中、常高院(京極高次妻、淀殿妹)が降伏勧告の使者に来ていて逃げ遅れていたのに
出くわし、「お供いたします。」と言って一行に加わり、無事に城外へ逃げることが出来た。


この後、おきくは常高院の縁で京極家出身の元秀吉側室・松の丸殿に仕え、のちに
備前池田家の医師・田中意徳に嫁ぎ83歳まで生きたという、たくましい戦国OLの話。
390人間七七四年:2009/12/27(日) 17:16:29 ID:BzWH+HOH
>>383
リアルだなあ
名のある武将のもとには無数の人生があるんだよな

>>389
雑兵とのやりとりなんか、手馴れたもんだなw
地獄の沙汰も金次第とはこのことか
391人間七七四年:2009/12/27(日) 17:32:55 ID:yCWykjXL
予め金塊用意かぃw
冬の陣が終わった時点で逃げゃ金塊渡さずにすんだのにw
392人間七七四年:2009/12/27(日) 17:40:06 ID:MYouKdxA
落城寸前まで菓子食いたいとかかなり肝の据わった人だな。
しかもその後の手際の良さといい、淀殿に殉じようとは一瞬たりとも思わなかったようだし。
393人間七七四年:2009/12/27(日) 17:40:40 ID:h8gvQDPs
夏の陣じゃないと金塊もちだせなかったりして
394人間七七四年:2009/12/27(日) 19:24:54 ID:hdW1Vj35
というか降伏勧告の使者送ったタイミングで強襲掛けたのか
395人間七七四年:2009/12/27(日) 22:26:35 ID:h8gvQDPs
降伏勧告をうけた後で攻めるのはいくらなんでもまずいからなぁ
396人間七七四年:2009/12/28(月) 00:00:47 ID:oQ7vuB03
>>389
「おきく物語」って残ってるんだよね。
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/nihon/okiku.htm
397人間七七四年:2009/12/28(月) 00:02:42 ID:AHuxj+lS
講談社だったかの戦国クロニクルに、おあんもおきくも載ってたなあ
398人間七七四年:2009/12/28(月) 15:05:03 ID:XvFNtzYV
天正4年(1576)11月25日、織田信長の命による北畠具教の謀殺。
後世に言う「三瀬の変」が起こる。

元の国司、北畠具教に対し、北畠譜代の士である藤方刑部少輔朝成、滝川三郎兵衛、長野左京亮らが
刺客として向かうことを命ぜられ、彼らは元の主君を殺した。
藤方は自らは出向かず、家臣の加留左京を名代として行かせた。

この頃、藤方朝成の父、入道慶田は、北畠家に送り込まれた織田信雄の居城、田丸城に
人質としてとられていた。
具教謀殺を聞いた慶田は悲嘆にくれ、それに参加した息子朝成を口を極めて批判した。
曰く、人倫に非らず。

朝成これに
「私も本意ではありませんでした。が、父上が人質として田丸におられたのです!
その為仕方なく、この企てに参加したのです!」

「それが間違っておる!」

慶田は言う
「この企てを聞いたとき、お前は速やかに具教様にご報告し、共に織田と戦い命を捨てるべきであった。
そのうえでわしが磔になれば、それこそ当家の面目と言うべきではないか!
お主は武士の義を知らぬ!」

入道慶田はその後、自ら命を絶った。切腹だとも、入水したのだとも言われる。

信長の北畠一族謀殺の中で起こった、悲劇の一つである。
399人間七七四年:2009/12/28(月) 15:38:49 ID:XQTJGUPJ
信長の命令なら仕方ない
400人間七七四年:2009/12/28(月) 15:53:59 ID:lBsAIquP
え?進撃止めの命令が殿から?
そんなんしらね。信濃甲斐の城は全部攻め落としてやるぜえええええええええええ
401人間七七四年:2009/12/28(月) 16:44:20 ID:0HUrnFpJ
>>398

しかも自分の手は汚さない小狡さ。
だが、こういうこすい奴が結局は生き残って家名を残してゆくんだな。

平成の世にまで汚名が伝わる羽目にはなっているが。
402人間七七四年:2009/12/28(月) 17:03:08 ID:8DnLaP79
しかし、北畠は南朝が完膚なきまでに打ちのめされた時、滅亡しておかしくなかった
ここまで、よくも伊勢の雄として存続したよ…
403人間七七四年:2009/12/28(月) 17:24:07 ID:AuUBKWNH
後南朝の時もやられてるしな
戦国に入るころから六角、細川と急接近した辺りが奏功した感じ
404人間七七四年:2009/12/28(月) 18:09:24 ID:4iMd+H3r
北畠って、公衆便所みたいな所の便槽に吊るされて
死んだんじゃなかったっけ?
405人間七七四年:2009/12/28(月) 21:05:09 ID:G9mHKhgu
足利義輝みたいな感じの最期じゃね?
406人間七七四年:2009/12/29(火) 00:27:35 ID:DOj3UvUs
天文21年(1552)、関東管領・上杉憲政は、平井合戦で北条氏康に敗れ厩橋城に逃れたが、
手勢五百という凋落ぶりに厩橋からも逃走する。
紆余曲折の末、憲政は越後守護代・長尾景虎のもとに亡命、数年後に管領家の家督を
景虎に譲り、のちの「上杉謙信」が誕生する。

しかし、実は憲政には龍若丸というれっきとした嫡男がおり、憲政は家臣の菅野大膳と
上原兵庫に、この龍若丸を預け、厩橋城に置き去りにして逃げ出した。
すると、菅野・上原も逃げてしまい、あとには龍若丸と乳母の夫・目方(妻鹿田)新助の
一族だけが残された。

目方は、「憲政様が越後から戻られるまで、この城は支えきれん。天から見放された主君の
命を守って死ぬよりは、龍若丸を小田原に差し出し、知行の一つも頂戴しよう。」
と考え、主君の子を氏康に引き渡した。

縛り上げて馬に乗せられた龍若丸は、中間二人に馬の口を引かれて小田原に入った。
氏康は武士の習いに従い、翌日に宿敵の子の首をはねた。
目方一族は、幼君を売って手柄にせんとする二心ある態度を氏康に憎まれ、新助以下、
弟の長三郎や叔父の九里采女正など、八人が処刑された。

余談だが、大河ドラマ『風林火山』では、逸話と同じく処刑が決まる龍若丸だが、氏康は
その境遇への憐みから最後の抵抗を許し、少年に太刀を与える。
龍若丸は太刀を掴み、氏康に斬りかかるが、歴戦の将である氏康には通じず、一太刀で
返り討ちに会い、若い命を散らす。

しかし、その執念の一撃は氏康の額を傷つけ、「氏康傷」が出来る、というストーリーに
なっている。視聴率的には苦しんだ『風林火山』が、「近年の良作」として歴史ファンから
評価される所以である。
407人間七七四年:2009/12/29(火) 00:31:07 ID:WBAQT8lB
>>406
古くは藤原泰衡を殺した河田次郎、これより後には小山田信茂なんかもそうだけど、
逃げ延びる途中の主を裏切る、土壇場で寝返る、というような寝返り方は忌避されるんだよね。
事前に内通していたとかなら別だけど、関ヶ原寝返り組で改易された連中も急遽現地で寝返った連中だし・・・
408人間七七四年:2009/12/29(火) 10:42:56 ID:ZTHsLThX
脇坂さんが大谷陣の横でアップを始めたようです
409人間七七四年:2009/12/29(火) 11:01:44 ID:y86l1xx6
朝倉景鏡「織田殿は寛容でしたよ?」
410人間七七四年:2009/12/29(火) 11:42:12 ID:AeTiCGkS
朝倉さん所はあっという間に崩れちゃったからちょっと違うかもしれないね
411人間七七四年:2009/12/29(火) 17:58:39 ID:Tn/va7Xj
大身の武家が人質見殺しにしてでも裏切る、とかいうと武略になるけど、
お付きの者が命惜しさにっていうと途端に見苦しくなるな
412人間七七四年:2009/12/29(火) 18:44:34 ID:KMkZJKVO
>>406
これがその時のシーンか
ttp://www.youtube.com/watch?v=4z6C7Ts0-9U
413人間七七四年:2009/12/29(火) 19:01:07 ID:rQtvZIdn
”脚色”ってのはこういうのを言うんだよなあ。
主人公だからエピソード捏造とか他人の業績適当にすげ替えるとか
道中飛ばしすぎて直線を待たずに一杯になるとかそういうんじゃなくて。
414人間七七四年:2009/12/29(火) 21:06:39 ID:7XXMYVbI
>>413
他人の逸話をそのまんまいただきはほんとやめてほしいよなあ…よくあるけど…
元の話知ってると一気にさめるし主人公にも元の逸話の主にも失礼だと思う
415人間七七四年:2009/12/29(火) 21:19:19 ID:O+quvlG0
書いた人にしてみれば、

あーこのメイド服可愛いなぁ。
俺のご贔屓の女の子が着たらもっと可愛いぞ!
→アイコラしてみた
やっぱ可愛いじゃん!やってみた俺Goodjob!

的な、極軽いノリなんじゃないのかな。
後世になってそんな迷惑になるとは思いもよらぬ・・・
いや、だからOKって話じゃないけど。
416人間七七四年:2009/12/29(火) 21:23:29 ID:R8Hc/o6V
>後世になってそんな迷惑になるとは思いもよらぬ・・・

大河の話してるんでねえの?
こないだまでやってた打ち切りのやつみたいな。
417人間七七四年:2009/12/29(火) 21:38:30 ID:O+quvlG0
>>416

あ、ごめんwそっちの話だったか。理解した。
確かにたまにびっくりなのあるよね・・・
418人間七七四年:2009/12/29(火) 22:59:42 ID:rDAzdPqB
天地人は打ち切りではなく、最初からあれで全話。
坂の上の雲を放送するために例年の大河より話数を少なくした。
419人間七七四年:2009/12/29(火) 23:24:17 ID:R8Hc/o6V
元より存じておりますよ。
「しょうもない+話数少ない=打ち切り」と揶揄しただけ。
420人間七七四年:2009/12/30(水) 03:31:42 ID:WZ3LlEKh
最近の大河ってこんなに酷いのか
オカマの長尾景虎とか勘弁してくれよ
421人間七七四年:2009/12/30(水) 06:18:01 ID:cOEpQlRo
謙信たんは女の子だったはずだから墓暴いて確かめさせろ!
って大真面目に言う奴もいるんだぜ?
422人間七七四年:2009/12/30(水) 07:23:26 ID:bcfhXU3o
骨フェチか!そういうのもあるのか
423人間七七四年:2009/12/30(水) 10:30:15 ID:5qkThxqq
直江山城守さんも閻魔様への手紙のエピソードからして結構な性格なんだけどね
戦国武将なんて大なれ小なれ現代人からみたら…

つか大河でやったっけ?
424人間七七四年:2009/12/30(水) 10:35:20 ID:aNhk1yWw
長谷堂城すら省略する天地人で、閻魔への手紙なんてやるわけなかろう。
425人間七七四年:2009/12/30(水) 10:56:09 ID:5qkThxqq
直江山城の一番の見せ場じゃん!
426人間七七四年:2009/12/30(水) 11:08:59 ID:se42lngz
韓流バァさんを脚本に充てられたことが悲劇だったな。
427人間七七四年:2009/12/30(水) 12:29:51 ID:Sn9mauPn
兼続は、
性格悪いわ変わり身早いわ戦下手だわ皆殺しするわだが、
上杉への忠義は本物だし、汚いことはしても私腹はこやさないし、内政家や文化人としては一流といった、
良い面も悪い面も極端だから面白いのに。
428人間七七四年:2009/12/30(水) 13:46:03 ID:eD4NiU3O
>>427
なんだかんだ言っても、家臣への面倒見もよかったようだし、まあこれは政宗とかも
そうだけど、良くも悪くも非常にアクの強い人物で、そこが魅力でもあるのに、
どうしてそのアクを全部とってしまうのかと。
429人間七七四年:2009/12/30(水) 14:19:32 ID:MVDG25Aq
ツマブキ君の泣き顔が可愛かったから毎回泣かせちゃおうかな(はぁと)

と言った脚本家ですから・・・

1)妻夫木さんだから、泣き虫にしようとした!
2)その兼続が立派に家老となって上杉を導いて行くようになるまでの青春ドラマにした。
3)雪深い越後の地域性と自然をイメージして紅葉の木と葉の関係を、主君と家臣として
  オリジナルで描いた。
4)男性同様に女性の歴史上の存在を描きたい。
  関ヶ原の戦いも女性たちが起こしたものだったと感じられる程に描きたかった・・・・。
5)戦国時代でも、現代人と心のあり方そのものは変わっていない。人を好きになること。
  悩み、考える事。 現代人も戦国時代も根本は変わっていないであろうという事。
  戦に勝つか負けるかで生死というものは常に覚悟していた時代ではあるけど
  今の時代でもリストラ、倒産など過酷な戦いはある。

こんな感じだそーで。
430人間七七四年:2009/12/30(水) 14:38:27 ID:0NELleUk
創造の産物を視聴者の認識にどうすれば落とし込むことが出来るかをちゃあんと考えてたのかなあ?
結局はオナニーを見せ付けただけでしかなかったんでしょ?

よく引き合いに出される風林火山の一部(川中島だから最後のほう?)をネットで見たけど、
正直カメラワークとか台詞回しとか独眼竜の頃なんかと比べるとかなり落ちてると思うなあ
431人間七七四年:2009/12/30(水) 15:00:21 ID:guG6tYc+
流れをぶち切ってすまん。

三河水野藩主・水野忠胤が、ある日遠江浜松藩主・松平忠頼を自宅に招いて茶会を開いた。
この時、水野家臣久米左平次と服部半八郎の両名が囲碁を打っていたのだが、服部と旧知の忠頼は後ろからアドバイスしてあげた。
松平「あ、そこじゃない。それよりほら、そう、そこ!」
服部「勝っちゃったwww」
久米「・・・・・・それ、てめーの実力じゃねえだろ?」
服部「はあ?俺、アドバイス関係無しに打ったもんね。何それ。負け惜しみ?」
久米「調子に乗ってると殺っちゃうよ?」
服部「てめえにできんのかよ。あ?」
   両者抜刀。
松平「まあまあ。たかが囲碁じゃん。仲直り仲直り」
久米「お前が原因なんじゃあ!!」
松平「はうあっ!!」

松平忠頼、刺殺。
さらに後継者幼少のため改易処分。
水野忠胤、責任取らされて切腹。
水野家も改易処分。

お家騒動の方がまだマシに見える、囲碁で大名家(それも親藩)が二つ潰れた話。
432人間七七四年:2009/12/30(水) 16:06:58 ID:hS9w6Ztq
囲碁で潰れたり屁で潰れたり大変だな。
将棋と小便が揃えば完璧
433人間七七四年:2009/12/30(水) 18:36:54 ID:z7D2qpf0
以上、戦国怠惰ドラマの悪い話 ですた
434人間七七四年:2009/12/31(木) 09:57:49 ID:wfYRL+4q
龍造寺四天王、奥方に頭上がらぬ事

百武「あー・・・腹減った・・・・・・」
成松「なんだよ、戦の前なんだからしっかり食って来いよ。」
江里口「寝坊でもしたのか?」

百武「い、いや・・・浮気がバレてカミさんにメシ抜きの刑にされた・・・」
江里口「オマエが悪いのかよw」
木下「どうするんだよ、余分な兵糧なんて無いからやらねーぞ?」
百武「うぅ・・・・・・」

円城寺「おーい百武、お前の奥さんが面会に来てるぞ。」
百武「えっ :*.;".*・;・^;・:\(*^▽^*)/:・;^・;・*.";.*: ・・・ハッ!」

( ゚∀゚)´ー`) ゚,_ゝ゚) ^ω^) ニヤニヤニヤニヤ

百武「い、戦の前に何しに来やがった?!」
「ゴメンよぉ、あんたァ・・・弁当作って来たから、機嫌直してしっかり稼いで来ておくれよ。」
百武「エッマジで?・・・うまい!うまいよカアちゃん!うん、オレがんばるから!!」

( ゚∀゚)´ー`) ゚,_ゝ゚) ^ω^) ニヤニヤニヤニヤ


甲冑投げつけられた話( http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-321.html
と言い、聖誕祭を一人で過ごした拙者には良くわからん話。

それはともかく、来年の皆様のご家庭が円満でありますように。
435人間七七四年:2009/12/31(木) 11:28:18 ID:L6FiDoQp
>>427-428
むろん能吏ではあったんだろうけど、御館の乱の働きとかみてたら
「黄金で武田と単独講和して〜」だもんな。おもいっきり利で説いてる、普通の知将じゃないかという

(タテマエはともかく)土壇場で義義義なんていってねーぞ本人、という
436人間七七四年:2009/12/31(木) 12:47:26 ID:BPWi77mJ
大河に関しては都合の悪い部分全カットだったからなあ、今回。
あの一豊の時だってかなり無理やりごまかしながらも一応はやったのに。
437人間七七四年:2009/12/31(木) 13:12:24 ID:dipw/QV7
大河ってなんで女流脚本家ばかりなん?
438人間七七四年:2009/12/31(木) 13:13:25 ID:Y7b6/QdD
ジェームズ三木の事もおもいだしてください
439人間七七四年:2009/12/31(木) 13:16:26 ID:YDwvYphb
いい加減ゴミドラマの話は専用スレでやってくれよ

>>434
戦前に飯抜きって亭主死ぬぞww
440人間七七四年:2009/12/31(木) 15:04:16 ID:NajUKlJc
>>438
つうかなんでジャームズ三木が脚本を書いてくれないんだろ?
まだ生きてるよな。いっそのことクドカンに津軽とか松永とか宇喜田直あたり
をコミカルに書いて貰うかw
441人間七七四年:2009/12/31(木) 16:42:49 ID:0Qnt3cM4
>>434
これはいい話に聞こえるんだけど。

大名の重臣クラスでも、食事は使用人ではなく奥さんが作ってたのかな?
442人間七七四年:2009/12/31(木) 18:17:39 ID:ctqUPiQj
>>438&440

二人ともそれを言うならジェームス三木だろ・・・
443人間七七四年:2009/12/31(木) 18:36:51 ID:16ZZiSIq
百武の嫁さんは女城主として有名だからな
444人間七七四年:2009/12/31(木) 18:55:10 ID:NajUKlJc
ゴミドラマの話をして怒られたので、お詫びに、この間熊本に行ったときに仕入れた話を。

加藤清正が小西行長と険悪になった天正天草合戦。

このときの国人衆側に木山弾正という豪の者がおり、この豪傑と一騎討ちになった。
勿論、その一騎討ちに勝利したから、今の熊本城があるわけだが、この勝ち方が
セコかった。

木山弾正が弓の名手で弓で清正を狙ったので、
「一騎討ちなんだからさ〜、太刀でやろうぜ」と持っていた槍をその場に
投げ捨てた。弾正も弓を投げ捨てたところを、清正はすかさず槍を拾って
弾正を討ち取ってしまいましたとさ。

これには後日談がある。
この討ち取られた弾正の遺児が、父の敵を討とうと、名を横手五郎と変えて
熊本城の人夫にもぐりこんでその機会を狙っておりました。
それに気付いた清正公は、五郎が井戸堀の作業をしているときに、
石や土を投げ込ませて、生き埋めにしちゃいましたとさ。
445人間七七四年:2009/12/31(木) 19:13:40 ID:2b7V2utu
>>441
実際作ってたっていうか、台所の監督作業じゃない
たぶん「今日はうちの人の飯はなしだよ、わかってるね!」「OKボス!!」みたいな感じ
446人間七七四年:2009/12/31(木) 19:20:00 ID:G2ugPjgV
>>445
「OKボス!!」にフイタwwwww
イメージがドーラ婆さん風な百武嫁になっちまったじゃないかww
447人間七七四年:2009/12/31(木) 21:15:42 ID:3+shbe+e
>>444
その逸話はガイシュツだが
見るたびにどうしてもコマンドーを思い出してしまうw

     ,,;;彡彡リリソソミミヽ
     ミミ´  ̄ `''''´ ̄`ヾ
    ミミ; 〈     i    〉ミ    
    ミミ| ,,,/~\´ l`/ヽミ.
    ミミr ,《  ;・;〉´「;・; ノ,ミ    弓なんか捨てて太刀でこいよ弾正!!!
    {6( ヽ´" ノL_}」ヽ''` )  |ヽ
     ゝ,| 、  ,,,;;;;;; ;;;;;,, ィ   l:. ',
      | i ||ュェェェェュ|| .|   l:::. |
      |  ||l-ーrー || .|  ミ:::i |
    _x-.`、 ヽニニニニソノーx.,ミ:::i |
  /⌒ヽ|;\`、__i_ノ::|;;;;|::ミ:::i_|
  l  ⌒`ヾ、\____/:::|;;;;|-l−l-
  ゝ (     ヾ::::::::::::::::::::/~::ニ三::)
   `ヽ   ´ ⌒ ⌒  ̄ ヽ::::: 三ニノ
    |::..`ヽL ___./~:::`iー-´
448人間七七四年:2009/12/31(木) 21:16:59 ID:6lh3JEjd
>>444
ちなみにその井戸にはゴローの亡霊がでるって怪談があります(地震でもないのに井戸が揺れるとか)
449人間七七四年:2009/12/31(木) 21:28:07 ID:Ox0o6Msk
その五郎生き埋めの際も
剛力の五郎は投げ込まれる石を受け止め、それを足元に置いて上ってくるもんだから
石はやめて土砂を投げ込んで生き埋めにしたという伝説がある。
450人間七七四年:2009/12/31(木) 21:53:32 ID:NajUKlJc
・・・もの凄くガイシュツだったお話を失礼しました。
451人間七七四年:2009/12/31(木) 22:57:10 ID:b+q7JUZA
その年の土佐は不作であった。
困り果てた土佐の農民たちは領主一条氏に嘆願をした。
年貢を軽くし頂きたい、春までの食料を供出してはもらえない、できれば徳政をしてはくださらぬだろうか…




と言うのではなく、
「大将貸して大将。これから伊予に略奪に行くから」
これに一条氏は
「儲けの半分はよこせよ?」

そんな一領具足の国のお話。
452人間七七四年:2009/12/31(木) 23:10:12 ID:bOZIaC2B
微笑ましいじゃないかw
453人間七七四年:2009/12/31(木) 23:11:19 ID:2b7V2utu
半分って多くね?
でも大将は大事だよね
454人間七七四年:2010/01/01(金) 10:11:49 ID:dMCCpBL3
関ヶ原の時のこと
有名な小山会議において、諸将は家康に対し人質を出し宣紙を差し上げることを約束した。

ところが松倉重政が、人質も出さなければ宣紙も提出しない。
では松倉は西軍に通じているのかー、と、いうわけでもなく、松倉は島左近より諸大名に送られた
書状を、真っ先に家康に提出したほどで、異心があような人物でもないのだ。

井伊直政が、松倉の宿舎に尋ねどういう事かと聞くと、松倉、困った顔で

「それがですね、今私には人質に差し上げられるような親類などがいないのですよ。
人質を出さないまま宣紙だけを提出すると言うのもどうかと思われますし…」

と、いかんともしかねると言った風情。この時直政、ふと松倉の傍を見て

「ところで、あれはどなたかな?」
「は?この者は私の小姓の、吉岡と言うものですが…?」
「彼を人質に出せばいいではないか。」
「え?しかしこの者は譜代とはいえ他人で…」

直政は松倉にしらばっくれたような表情を向ける。これに松倉、だんだん直政の言うことが
飲み込めてきた

「…ああ!そ、そう、この者は長年側近くで召し使っている家譜代の大切な者です。
心の通っていない親類の者を人質に遣わすよりも、他人ながらこの者を人質に差し上げた方が、
私が裏切らない保証になると言うべきでしょう。義は恩に勝るとの言葉もあります。」

「尤もである。」

と、直政は同意し、この松倉は吉岡を人質として提出した。
直政とすれば『人質があろうがなかろうが、松倉が裏切らないことなどわかっている。
しかし他の大名たちへの手前もあるので、形式だけでもきちんと人質を出しておくべきだ。』
と言うわけなのだ。

まあそんなわけで、数字合わせのような形で人質にされた吉岡さんには悪い話。
ちなみに松倉重政、小姓を人質にしたからと言って、特に面白い事をしたと言うこともなく、
普通に家康に付き従ったそうである。
455人間七七四年:2010/01/01(金) 11:21:01 ID:le3UVsBN
>>446
ドーラか
つまり百武の嫁さんも若い頃は可愛らしかったってことだな
456人間七七四年:2010/01/01(金) 15:40:28 ID:sS7lyNb6
>>455
百武嫁「あの入ったばかりの女中はあたしの若い頃にそっくりだよ。お前たちも嫁にするならああいう子にするんだね!」

成松・江里口・木下・円城寺「え?ボスみたいになるの?あの子?うそぉ・・・」

って事ですかw
457人間七七四年:2010/01/01(金) 15:49:31 ID:zLOtJsXn
年貢と同じ扱いじゃね?
458人間七七四年:2010/01/01(金) 17:11:33 ID:sSa6mukU
>>456
……バロス!                          (沖田畷、それは滅びの呪文であつた)
459人間七七四年:2010/01/01(金) 17:13:13 ID:sSa6mukU
>>454
松倉さん家は後の世で大事(島原のアレ)やらかしちまったんだが、

元「筒井の右近左近」でも松倉右近さんは普通というか、ぶっ飛んだところのない真面目な人だったんだな。
吉岡少年は出世したんだろうか。
460人間七七四年:2010/01/01(金) 17:38:45 ID:TCCLMVDz
>>459
真面目だからアレをやらかしたんでしょ。
幕府から取り締まりが甘いんじゃねと言われて、発奮して弾圧したわけだから。
461454:2010/01/01(金) 17:43:42 ID:dMCCpBL3
うわ、見直したら「誓紙」が全部「宣紙」になってる…
な、直しておいてください…orz
462人間七七四年:2010/01/01(金) 23:03:52 ID:RKwkzygm
>>455
慶ァ尼を思い浮かべて、ドーラのママが嫁入りしてきて困惑する鍋島父を想像してしまった
463人間七七四年:2010/01/02(土) 05:53:25 ID:VenamTkc
天正七年の頃

阿波、岩倉城は三好康長の城であったが、その頃本人は河内高屋城に有り、
岩倉にはその子徳太郎が、横田内膳正、藍田左馬助入道一閑に補佐され置かれていたのだが、
彼らは土佐の長曾我部元親の猛威に屈し、三好一族でありながら元親に降伏していた。

このような時、同じく三好方から土佐方へと寝返った西林村の三橋丹後守、常陸守兄弟が
三好徳太郎の屋敷に赴き、密談をした

「我々はこのように土佐方になりましたが、長曾我部に対し何の忠節もなければ、やがて心を
隔てられてしまうでしょう。土佐への手土産として、一手柄立てなければ。」


天正七年十二月二十六日、
未だ三好方として長曾我部に抵抗を続けている森飛騨守の元に、岩倉城より密書が届く。

『我らは累代三好家の臣であるのに、長宗我部の強圧に致し方なく屈したこと、誠に口惜しい。
ところで明二十七日、土佐勢が本国に引き上げることになっています。長宗我部の軍勢が
減少した隙に攻撃を仕掛ければ、勝利間違いありません。軍勢を差し向けられれば、我々もきっと
お味方仕ります。』

森飛騨守を始め、三好越後守、矢野駿河守、川村左馬亮と言った阿波の三好方の人々、これを
尤もと信じすぐさま軍勢を招集、岩倉城のある阿波西部へと発進した。

阿波の西部は岩倉城と、その西にある脇城が防衛の拠点であった。森飛騨守はまず、
長曾我部家の検使、桑名弥次兵衛のいる脇城を攻撃した。

脇城を攻める寄せ手は、岩倉城から合力の軍勢が来るものだと考えていた。が、岩倉城より出撃した
軍は、そのまま三好勢に対して攻撃を始めた!

「謀略か!?」

三好勢は一転、脇勢、岩倉勢の挟み撃ちに会った。しかもその地は狭い山中であり、軍の展開を
変えることもままならず、瞬く間に陣は崩壊した。

三好勢は争って逃げ出したが、そこは細い山の端に当たる地形で、土地の案内に暗い三好勢は、
多くの兵が谷から落ちて死んだ。
その混乱を突いて脇城、石倉城の軍勢は追い打ちを仕掛け、三好勢は森飛騨守を始め
多くの名のある者たちが討たれた、とのことである。
464人間七七四年:2010/01/02(土) 09:44:39 ID:3C4SRTfy
>>459
松倉重政は右近(重信)の息子
465人間七七四年:2010/01/02(土) 12:44:55 ID:VenamTkc
関ヶ原の時のこと

南部利直は家康からの命により、上杉景勝征伐のため、山形は新庄までその軍勢を進めていた。
が、ここで上方に置ける石田三成挙兵の報が伝わり、さらに南部領内において一揆が勃発した。
まあ、この一揆の黒幕は西軍ではなく例によってこの人なのだが… →(●∀゚)ナニカ?

利直は進退極まり、とにかく本国に引き上げようと仙北と最上の境の山道を通って撤退を始めた。

さて、仙北との境金山と言う場所に最上の端城があり、ここに丹の与三という小身の者が、少数の
守備兵と共に置かれていた。

退却中の南部からこの金山城に軍使が送られる

『ここを通って本国に引き上げようとしている最中であるが、この城をお借りして
一泊させていただきたい。』

これに与三は激怒した

「義光様より、あなた方をお通し申せとの命もない以上、いかなる理由があろうともここを通すことは
出来ません!是非にまかり通ると言うのなら、一戦に及びましょう。
ましてや城を宿として貸すなど、沙汰の限りでござる!」

南部勢はこの勢いに驚き、なんと小荷駄を捨てて逃げてしまった。
そして致し方なく新庄へ再び戻ろうとしたが、この事が最上義光に報告されると、義光は
南部の通行を許可する旨を命じ、これで南部勢はようやく本国に帰ることが出来た、と言うことである。

たかだか端城の勢いに腰の砕けてしまった、南部さんのちょっと情けない話。
466人間七七四年:2010/01/02(土) 16:36:28 ID:1DuPsclb
ただでさえ、当初の東軍助成をうっちゃつて帰るところなのに東軍の軍勢と一戦なんてとんでもないと、
南部さんにしてみたら、怖いのは家康だったんだろうな。

467人間七七四年:2010/01/02(土) 17:04:27 ID:pvVMS2Tq
>>465
投げ捨てた小荷駄に鮭が入っていてだな…
468新春時代劇?(上):2010/01/03(日) 09:23:49 ID:rp35tO7T
慶長の終わり、戦を知らない侍も出てきたころ、大御所家康に仕える若侍たちが一室に
集まり、昔の武功話に議論を白熱させていた。その夜の話題は、
「川中島の戦いで、龍虎一騎打ちは本当にあったか?」
「大将が一騎打ち?無いわw」「うむ、旗本衆が黙って見ていたとでも言うのか?」
「あったよ?」
驚く若者たちをかき分けやって来た老武者こそ、信玄の使い番まで勤め今は徳川に仕える
かの仕込み名人・初鹿野伝右衛門その人であった。
「旗本衆がおりながら、両大将が相打つ。もっともな疑問じゃ。あれは確か天文23年……」


天文23年(1554)8月18日早朝、武田軍の先鋒・高坂(春日)昌信は、川中島の野を上杉の
草刈りが駆けているのを見つけ、足軽100人を出して追い散らした。
しかしこれは上杉の策で、前夜から周囲に潜んでいた村上義清・高梨政頼隊が高坂隊に
襲いかかった。高坂隊は敗れ、他の先鋒隊も崩れ去り、武田の前線は突破された。

これを見た武田の第二陣、信州衆が動いた。上杉からも新発田綱貞親子・水原隆家らが
出て迎え撃ち、いよいよ多くの死傷者が出るようになる中、高梨政頼の子・頼治が真田隊を
崩し、退こうとする真田幸隆その人を組み伏せて倒し、鎧のすき間から二度刺した。
「!真田を討たせるな!!者ども、かかれ、かかれーぃ!!」
これに気づいた保科正俊の激励により気力を取り戻した真田隊が頼治を討ち取り、幸隆は
重傷ながらも命を拾った。
正俊自身も囲まれ危険な時もあったが、他の信州衆の支援を受け、上杉軍を押し戻した。

保科正俊が『槍弾正』と呼ばれるようになったのは、この時の武功によるものと言う。
469新春時代劇?(中):2010/01/03(日) 09:27:13 ID:rp35tO7T
高梨隊を破り勢いに乗った武田軍は、崩れた先鋒の残存兵を加えてさらに突き進み、
『毘』の旗たなびく上杉本陣近くまで斬り込むことに成功した。
上杉軍も柿崎景家・斎藤朝信・北条高広らの主力が動いてこれに当たり押し返したが、
戦いは膠着し、負傷者・死者の数は数え切れないほどになった。

「よし、今が好機よ!!」一進一退を繰り返す戦局に、ついに信玄は本隊を動かした。
命を受けた飯富(山県)昌景らが、葦や雑草の茂る細道を旗指物を伏せ忍ばせて進み、
上杉本陣を一気に突いた。上杉軍はたちまち崩れ、これに武田本隊が追い討ちをかけた。

だが、これも謙信の策だった。突き進む武田本隊の横を伏兵・宇佐美定満隊が襲い、動きの
止まった武田本隊を反転した上杉本隊と宇佐美が挟撃する。
不意を打たれた武田軍は川に落ちて流された者、川の深みに嵌まり討たれる者が続出した。

信玄自身も本隊とはぐれ、旗本30人ほどを率い、馬で川を渡り退却しようとしていた所へ、
白頭巾をかぶり、三尺余の太刀を抜き放ち、鹿毛の駿馬に乗った武者が駆け寄って来た。
「信玄はいずこ!」「あれは……謙信!?」

「なんでここに御屋形様がおろうか!あわて者が、消えよ!」原大隅(昌胤?)がこれを槍で
三度突いたが、実は原自身がうろたえており、全て外してしまった。
他の旗本も止めようとしたが、川の中とて足元が不安定で、謙信に近づくこともできない。
「餓鬼め、推参なり!ここまで来てみよ!」
信玄は川へ馬を乗り入れ、謙信を誘った。謙信も続いて川に入り、信玄に斬りかかった。

一の太刀は避けて外した。二の太刀は信玄が軍配で受け、軍配の柄を斬り、信玄の篭手に
食い込んだ。三の太刀は、ついに信玄の肩先に当たった。
ここに至って原大隅が追いつき、謙信の馬を槍で叩いたので、驚いた馬は飛び上がって
川の深みに入り、謙信は流れて行った。
470新春時代劇(下):2010/01/03(日) 09:28:31 ID:rp35tO7T
信玄の旗本で流されて行く謙信に追いついた者もいたが、鬼神のごとき謙信にかなう者は
おらず、逃げられた。武田軍の間ではこの時、「あれは越後の士・荒川伊豆守であろう」と
噂されていたが、後で謙信その人と知り、「溺死覚悟で追うべきだった」とみな歯ぎしりした。

後詰にいた信玄の弟・典厩信繁は兄が負傷したと聞き、報復するべく謙信を追いかけた。
川向こうに乗り上げた謙信を見つけた信繁は、
「そこに退くは、大将・謙信と見た!我こそは武田左馬助である。貴殿は兄の仇、引き返して
勝負されたし!!」と、呼びかけた。いい加減疲れていた謙信は、
「自分は謙信の家臣、甘糟近江守と申す者。貴殿の相手には不足である。」と言ったが、
相手が早くも川に馬を乗り入れていたので、やむを得ず戻って信繁と切り結んだ。
信繁は川に真っ逆さまに落ち、その間に謙信は向こう岸に逃げ、本陣に戻ることが出来た。

信玄も本陣に無事帰り着き、その後も両軍は戦い、夜明けから日暮れまでぶつかり合った。
夜になって武田軍は陣を払い、それを見た上杉軍も翌日に越後へ引き上げた。


「…という訳で、『二度目の合戦』に一騎打ちがあったのじゃ。典厩殿は謙信に敗れた時は
落馬しただけで生きており、後に村上義清が討ったという話もある。」
伝右衛門は話を終えた。

「しかし、さすがは信玄公。若造の相手はこれで十分とばかり太刀を抜かず、軍配で受ける
とは…まことにもって名将の威儀、厳重なことですな。」
若侍の一人、諏訪忠恒が言うと、
「いやいや、わしがかつて聞いた話では、その話を聞いた謙信公は大笑いして
『信玄は片手で馬を操り、もう片手で軍配を持っていた。そこへわしが斬りかかったから
太刀を抜けず、軍配で受けただけのことよ。』と、申しておったそうな。」
いつの間にか座に加わった藤田信吉が顔色を変えて言いつのり、伝右衛門に代わって
上杉に伝わる武辺話を語った。


「武辺咄聞書」と「川中島五箇度合戦之次第」より、異説・川中島。連レス失礼。
上杉側の記録が元になってるせいか、謙信がチート過ぎてアレなのでこちらに。
471人間七七四年:2010/01/03(日) 11:41:24 ID:SSXddc4n
中身がGacktだったんじゃねぇ?w
472人間七七四年:2010/01/03(日) 12:06:25 ID:lrnHU44B
大作乙です。
しかし「謙信の策」すごいなw
しかもあの200日も対陣した第二次川中島でこんな大戦が。
473人間七七四年:2010/01/03(日) 14:11:22 ID:hOUkGIEM
謙信に「貴殿の相手には不足である。」と言われた近江守カワイソウス(´・ω・`)
474人間七七四年:2010/01/03(日) 14:44:44 ID:RIwNMqhe
いや、チートでも何でも謙信のいい話で良いと思うが、


謙信強すぎワロタw
後の戦国無双である。
475人間七七四年:2010/01/03(日) 17:13:53 ID:2G1ctJf6
なんか前にも謙信が川に流されかけた話があった気がする
川中島では良くあることなのか
476人間七七四年:2010/01/03(日) 17:17:00 ID:BNoorI4V
政景と宇佐美定満の例もあるし、上杉軍の弱点は水だったんだな。
477人間七七四年:2010/01/03(日) 17:47:23 ID:RIwNMqhe
そういえば、謙信は(増水した)利根川を越えられなかったな・・・
478人間七七四年:2010/01/03(日) 18:05:32 ID:4MThOQzG
> 「大将が一騎打ち?無いわw」「うむ、旗本衆が黙って見ていたとでも言うのか?」
こういう議論は昔も今も変わらないんだな
479人間七七四年:2010/01/03(日) 18:49:24 ID:ull5XOTX
>謙信が川に流されかけた
川を超えられないのはバンパイア
そういえば「夜襲」も見破ったし
女説もあるし
なんか政虎(まんとら)さんが金髪赤眼のお姉さんに思えてきた
そういえば遺体も門外不出だなあ
480人間七七四年:2010/01/03(日) 19:11:23 ID:itLsjk9n
川中島五箇度合戦記って、米沢藩公式編纂で将軍家にも提出されたけど、
全五回がすべて激戦だったり典厩さんが第二回で討ち死にしてたりで、
史料価値は甲陽軍鑑以下とかいう公式同人誌だったような
481人間七七四年:2010/01/03(日) 20:54:03 ID:lrnHU44B
御宿勘兵衛政友と言う侍がいた。
彼は武勇の者であり、今川義元、武田信玄、勝頼、北条氏直と仕え、
北条滅亡の後は結城秀康に一万石で仕えたが、秀康の死後、何が気に入らなかったのか牢人となり、
大坂の陣が始まると、豊臣秀頼の招きに応じ早速大阪城に入城した。

御宿勘兵衛この時秀頼より、戦に勝ち天下を取り戻せば越前一国を与える、との書付をもらい、
この時より『越前守』を名乗ったと言う。
彼は冬の陣において、蜂須賀への夜討などで大いに活躍した。

そして夏の陣、四月二十七日のこと
御宿は大阪を密かに出て、京の板倉勝重の下を尋ねた。
板倉、自分の所へと来た仔細を聞けば、御宿

「私は子にほだされてここへ参ったのだ。私の子が江戸で放埒な事を仕出かし、
禁獄されたと聞き及んだ。どうか、わが子を御赦免いただきたい。その為に私は、
侍として相応しくないことをこれより述べる。

明日二十八日、家康公、秀忠公の両御所様が、京より大阪に向けて御動座なされると聞く。
これにより防備が手薄になったところを、大阪方は古田織部と申し合わせ、
京、伏見を焼き払う計画を立てている。

秀頼公より過分の御恩に預かっていながら、このような密告をするのは武士の本意でないこと、
よくわかっている。しかしこれは、我が子を救いたい一心でのことなのだ。」

板倉はすぐにこれを家康に報告。家康はその内容を信用し、「御宿なら小田原にいた時から
存じておる。このたびの忠節、息子だけではなく御宿本人も許し、このまま我が陣に留まらせ
奉公させよ。」と、板倉に言った。

御宿は板倉よりこれを聞くが、「最前より申し上げているように、わたしは秀頼公より深い恩顧を
頂いている。この上はせめて、秀頼公のためこの身を捨てるしかないのだ。
出来うるなら、私の代わりに息子を召し出してやって欲しい。」

そう言うと又、大阪へと帰っていった。御宿からの情報により、二十八日の動座は中止となった。

五月七日、御宿勘兵衛は天王寺・岡山合戦にて討死。
奇しくも彼がかつて仕えた越前松平家の手の者に討たれた、とのことである。
482人間七七四年:2010/01/03(日) 23:15:20 ID:7d7kPH3S
息子思いのいい話、だけど武士としては一分の立たぬ悪い話…。
483人間七七四年:2010/01/03(日) 23:49:57 ID:mPEJFC4w
>>481
極めて高確率でとばっちりのゲヒ殿かわいそす
484人間七七四年:2010/01/04(月) 00:08:52 ID:ksdOHxYs
織部一家のその後を知ってると、とっても悪い話・・。
485人間七七四年:2010/01/04(月) 00:25:29 ID:YG67U258
三が日も過ぎたけど、まだまだ小正月なので酒の上での悪い話をまたもや一つ。

上州の雄、由良氏の家老に藤生紀伊守善久という人がいた。
由良氏の家臣の中でも政戦両面に長けたひとかどの武将であった人で、
桐生氏の居城柄杓山城を攻めてこれを滅ぼすなど、由良国繁の勢力拡大に大きく貢献した人物だった。

さて、天正十八年。小田原征伐がはじまろうかという年の正月のことである。
この日、紀伊守は旧友の邸宅でつもる話を肴に飲み明かし、泥酔状態で自邸に帰る所であった。
正月のことである。水呑み百姓はいざ知らず、武家や商家の軒先には大小の門松が飾られている。
紀伊守の私邸にあっても、それは例外ではない。
ここは自領の奥深く、しかも自邸前、ましてや正月という目出度い時期のことである。
いかに良将とて、酔っ払った状況では何も不安など感じていなかったであろう。
紀伊守は、果たして身を貫く激痛に気づいたことだろうか。

なんと、紀伊守邸の玄関に飾られた門松の影に、誰の手のものとも知れぬ刺客が潜んでおり、
これが放った一矢が善久を狙いあまたず射殺してしまったのだ。

このため藤生氏一門(群馬県に多いらしい)では、
現代に至っても「門松立てるの禁止」という家訓が根付いているそうな。

門松より深酒を避けるべきだと思う、そんなちょっと格好悪いお話。
486人間七七四年:2010/01/04(月) 00:46:13 ID:/+Cw0dOD
刺客がお年玉(新しい魂)をいただいた、ということで……
正月は宴に呼ばれてだまし討ちに遭ったりと、武将には大変厳しい時季だなあ
487人間七七四年:2010/01/04(月) 06:03:30 ID:PGh2hm7Y
>>470
旧武田遺臣の初鹿野さんの話に混ざってくる上杉家に仕えていたことがある藤田さん、
そして話を聞いているのが信濃の諏訪さんか・・・

>>481
なんだか高待遇なのに代替わりのときに跡継ぎが気に入らないとかいう理由で辞めちゃう人って
江戸時代初期にやたらいるイメージがある。なんでだろう?
戦国時代を生き残ってきた人たちにすると同時代を生きた主君以外の世代に
仕えたくないという感じの共通認識でもあったのだろうか?
もったいないことするよなぁって思うのは後世の人間たちの視点だからなんですかね?
488人間七七四年:2010/01/04(月) 08:09:24 ID:i9CrBGsm
江戸時代というか戦国時代が何度も主変えるのが常態だったので
そういう気風がまだ残ってたんでしょう
それにまだまだ腕に覚えある人なら就職先には困らなかったし
だんだん平和な世になったのだと認識されるにつれ再就職は難しくなっていくが
 
だから解雇されないように忠とか義とか殉死などでアピールしなければならなくなるのだけど
489人間七七四年:2010/01/04(月) 09:12:04 ID:oipJTKXO
あとまあ、そういう人たちってのは代々の縁などなく、家ではなく主君個人との契約のような意識があったというのも
490人間七七四年:2010/01/04(月) 20:45:46 ID:TrW0ckhw
些細な事ですまないんだが、うちの家系図だと御宿さんは元和元年五月六日没天王寺
となってる。
491人間七七四年:2010/01/04(月) 22:23:59 ID:flBA1/oY
>>490
天王寺・岡山の戦いが一般的に五月七日に行われたとされているので、どうしても
そこまで細かく貴殿の家系図が正しいと主張するなら、他にも五月六日に天王寺の戦いが
あった、あるいは御宿勘兵衛が死んだとする信頼性のある史料を揃えるべき。

まあ、これ以上はこちらで
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
492人間七七四年:2010/01/05(火) 00:56:39 ID:iOLtVnQl
天文元年(1532)秋、七夜の月の下、阿波三好川の川辺で水垢離をする女性がいた。
「…なにとぞ、三好七代のうちに天下を持たせたまえ……」

彼女の夫、三好元長は細川晴元の政権奪取に多大な貢献を為したが、その勢力を恐れた
晴元は、一向宗の力を借りて元長を堺の顕本寺に攻め、殺害した。
元長の祖父・之長も細川管領家の家督争いに介入し、永正6年(1509)、如意ヶ嶽の戦いで
長男であり元長の父である長秀を失った。さらに永正17年(1520)、京等持院で敗れ、
次男・三男とともに処刑された。

小笠原分家の義長が阿波三好郡に住したのに始まる三好家は、三代・之長から三世代に
渡って非業の死を遂げたことになる。
これを憤った元長の妻は、「自分の孫の代までに、三好に天下を取らせてくれ。」と願った。

彼女の願いは、天に通じた。
四男は、十河家の養子となって一存と名乗り、『鬼十河』と呼ばれ、恐れられた。
三男は、安宅家の養子となって冬康と名乗り、淡路の水軍を支配した。
次男は、三好義賢または物外軒実休と名乗り、阿波・讃岐を牛耳った。
そして長男は、修理大夫長慶と名乗り、仇敵・細川晴元を追放して幕府の実権を掌握し、
彼を『天下人』と呼ぶ者さえいた。

だが、天は三好家の男たちの運命を変えようとはしなかった。
永禄4年(1561)、十河一存が、松永久秀と湯治に出かけた際、落馬がもとで死んだ。
永禄5年(1562)、三好実休が、畠山高政との戦いで戦国武将として初めて射殺された。
永禄6年(1563)、長慶の嫡男・義興が、芥川城で変死を遂げた。

相次ぐ肉親の死に長慶の心身は病み、永禄7年(1564)5月、あろうことか久秀の讒言により
三弟・冬康を誅殺した。この暴挙はむしろ長慶の苦悩を深め、同年7月、長慶は世を去った。


作家・有吉佐和子は、認知症に正面から取り組んだ意欲作の題に悩んでいた。さまざまな
文献に当たるうち、江戸後期の大学者・頼山陽が書いた『日本外史』の、三好長慶について
書いた記事に目が引かれた。

「時に長慶、老いて病み恍惚(とぼける・ほうける)として人を知らず。政を久秀に委ねる。」

その小説、『恍惚の人』は大ベストセラーとなり、『恍惚老人』は当時の流行語になった。
493人間七七四年:2010/01/05(火) 03:24:35 ID:rWk2kxsi
>>492
三好氏の一族ってのは長慶はじめ優れた武将ぞろいなんだけど、「運」というものには
とことん見放されている感があるんだよね。

一応長慶は晩年まで飯盛山で裁許をやってるんだけど(久秀と長逸で飯盛山に訴訟を取り次ぎしてる)、
後世に描かれた史料の描写なんかを見ると、嫡子を亡くして以来は40代前半にしてめっきり老け込んでしまった印象を受ける。
494人間七七四年:2010/01/05(火) 03:58:06 ID:IYCq0tlX
織田有楽斎の嫡男、河内守長孝の所に出入する牢人に、鈴木道休と言う男がいた。

ある時のこと。長孝の屋敷において人々寄合う事が有り、そこで長孝の弟左門頼長が
余興として鼓を叩いた。
叩き終わったところで道休、頼長の鼓の腕前を褒めた。が、頼長はその褒め方が気に入らず、
なんとその鼓を、道休に向かって投げつけた。

これに道休は激怒し、頼長を討ち果たそうと刀に手をかけた。が、大勢が
二人の間に割って入ったためその場は不首尾に終わった。

しかし道休は屈辱を忘れず、返報の機会を待っていたところ、大坂の陣が起こり
頼長は大阪城に入ることとなった。
「その行きすがらを狙うべし!」
道休は頼長の後を附けたが、頼長は大身で常に周りに多くの家臣が居り、襲撃する隙が無かった。

ここで道休は思った。
「自分は既に年老いている。この期を逃せば二度と復讐の機会はないであろう。
しかし頼長は、明日には大阪城に入ってしまう。屈辱を受けて遺恨も晴らせないのであれば…!」

道休、枚方において切腹し果てた。とのことである。


ところで頼長の方は大阪城内において、牛に角に金銀の箔を貼り、自身はその牛に乗り、
それを遊女に引かせて遊ぶなど、頓狂な行動が目立ち、冬の陣の講和の後は城を出て
侍を辞め、入道となり雲正寺道八と名乗ったそうである。


侍が屈辱を受けたまま生きることなどありえないのだ。と言う話である。
495人間七七四年:2010/01/05(火) 09:27:02 ID:h6AEfY+V
有楽の息子ってことは、信長の甥にあたるのか。
ほんとこの一族のカブキ具合というか芸術方面への突き抜けた狂いようはw
496人間七七四年:2010/01/05(火) 10:45:11 ID:MoslQIGY




■■織田信成が織田信長の子孫って本当?■■
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1251535688/


江戸時代の旗本、御家人についてpart2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1246553669/l50






497人間七七四年:2010/01/05(火) 10:47:30 ID:MoslQIGY




■■織田信成が織田信長の子孫って本当?■■
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1251535688/


江戸時代の旗本、御家人についてpart2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1246553669/l50






498宇喜多直家:2010/01/05(火) 15:08:53 ID:P+JQb2fr
  _, ._
  ( ゚ Д゚)
  ( つ旦O
  と_)_)
みなさん疲れたでしょう、
お茶をどうぞ
499人間七七四年:2010/01/05(火) 15:31:08 ID:CpCBCMzr
>>494
ただの(^q^)あうあうあーな人に見えるな>頼長
500人間七七四年:2010/01/05(火) 22:48:42 ID:YDarq4E0
幕府の目をくらます演技だったとしたらたいしたものだが・・
501人間七七四年:2010/01/06(水) 00:02:55 ID:jcsXx5Hu
むしろ豊臣方をだまくらかす目的なんじゃないかなw
頼長は親父とセットで織田信包の毒殺疑惑や情報漏えい、
冬の陣での唐突な指揮権放棄、休戦期間に政争起こして退城、
とどう見ても徳川のスパイとしかいえないことしかやってないし
5021/2:2010/01/06(水) 00:09:47 ID:Oe5gUBV5
松平秀康が死んで、間もなくのことである。

越前松平家家臣、久世但馬守は元は佐々成政の家臣であり、その後秀康に仕えた。

同じく越前松平家に仕える伊木左衛門という侍があった。彼は元々関東の人間で、
算術に巧みであり、越前家において勘定奉行を任されていた。

ある時久世の領地の百姓が、伊木の領地の百姓から妻を娶ったことがあった。
ところが何事かあったのか、伊木領の百姓たちが久世領におしかけ、その女房を
取り戻す、と言う事件があった。

久世はこの事を大変に憤り、鷹師の某と言うものを使い、連れ戻しに押しかけた伊木領の百姓を
闇討ちにした。

伊木左衛門は、自分の領民が殺されたこの事件に驚き、独自に捜査をしたが、
犯人の目星は付かなかった。
そうしているうちに、先の鷹師が犯人である、と言う噂が世間に流れた。これを伊木は
取調べようとしたが、その前に、これも秀康に取り立てられた竹島周防守と言う者が、
密かに手の者を出してこの鷹師を殺させ、遺骸も埋め立てた。

鷹師が行方不明になったことに伊木はさらに不信の念を強め、ついに、この事件に関する
情報を伝えたものに賞金を出すと触れた。

この時、久世但馬の家来に堀内新三郎と言うものがいたが、これが賞金に引かれ、
伊木の元に申し出た

「伊木様の百姓を殺したのは、久世但馬の指図です!」

又同じ頃、竹島周防守の徒士に、罪を言われ逐電したものがあったが。これも伊木の元に
逃げ込み、鷹師を竹島の手の者が殺したことを暴露した。
これにより伊木は、自領の百姓を殺したとして、久世但馬を正式に告訴した

久世は伊木の元に密告があったことを知らなかったため
「証拠もないことを言われても困る」と、取り合わない。

ところが、伊木の元から証人が出、さらに鷹師の埋められた場所まで言い当て、
実際にそこから死体が出てくると、久世はもはや言い逃れることも出来なくなり、
自分の屋敷に籠り籠城の構えを見せた。この事件、いよいよ合戦へと発展したのだ。

越前家では、久世は歴戦の武功の者であり、容易く討つ事は出来ないと、しっかりと準備をして
討伐に向かった。
やがて大手には多賀谷左近、裏口からは吉田修理、落合主膳などが軍を集結、一斉に乱入すべく
屏を乗り越えんとした。

しかし久世但馬はかねてから屏の内側にも高もがりをゆわせてあり、これに引っかかった兵を
次々と鉄砲で撃たせた。
自身は邸内に物見の小櫓を作らせそこから四方を見て下知をしていたが、ついに兵が
屋敷の中に侵入すると、もはやこれまでと、屋敷に火をかけ自害して果てた。

寄手にも多くの被害が出たが、これは久世但馬が、普段人使いが荒く家来から嫌われていたにも
かかわらず、それでも「この期に及んで逃げ出すことは出来ない」と、皆とどまって抵抗した
故だと言う。
久世がかけた火は、他に延焼する前に無事、鎮火された。

5032/2:2010/01/06(水) 00:10:45 ID:Oe5gUBV5
さて、この事を知った駿府の徳川家康は、越前家の家老たちを呼び出し報告をさせ、
その一部に、秀康の死後早々家中を混乱させ、合戦にまで自体を悪化させた責任をとらせた。

さて、この時あの鷹師を暗殺させた竹島周防守も駿府に召喚された。
「お主はなぜ、久世但馬に一味したのか?」

竹島、申し上げるに
「私は但馬とは何の繋がりも無く、また友達付き合いをしていたわけでも有りません。
ただ私には、秀康様の御重恩があった故に、この度の事を行ったのです。

秀康様はご生前、良くこの様に言っておられました。

『私には越前を拝領して、嬉しい事が二つある。一つは北陸道の大名にしてもらい、実に良い城を
頂いたこと。
もう一つは、佐々成政秘蔵の臣として知られた久世但馬を我が家に迎えたことだ。

久世はかつて成政の家臣たちを取りまとめていた男で、成政のさらさら越の時、その家臣一人残らず
成政に付いて行くと言った。困った成政は、それならば久世但馬を残すと言ったところ、皆も、
但馬が残るなら我らも残るとして、皆留まったほどだそうだ。これほどその人間の確かさが
解る話はあるまい。また、鳥越の合戦での働きも、世の人皆知るところである。
このような男を望むままの領地を与えて家臣に出来た事、これほどの大慶があるだろうか?』

秀康様ががここまで思われていた但馬を、少しの事で、その身上破滅させてはお家のために
よろしくない。あの鷹師を殺しさえすれば別状はないだろう。そう思ってやった事なのです。
彼に親しみがあって行ったことでは、決してありません。」

家康は竹島の、その志に感じ入り、「罪を許し、前と同じように召し使われるように図ろう。」
と言ったが、

「一度縄目を受けたと同じ囚人の立場になった以上、再び御奉公するなど、私の本意ではありません。」

この様にそれを断ると、駿河、丸子において切腹して果てた、とのことである。
504人間七七四年:2010/01/06(水) 00:57:09 ID:TKz8zQ8p
>ある時久世の領地の百姓が、伊木の領地の百姓から妻を娶ったことがあった。
>ところが何事かあったのか、伊木領の百姓たちが久世領におしかけ、その女房を
>取り戻す、と言う事件があった。

鷹師殺す前になぜここをしっかり詳らかにしなかったのかと・・・
505人間七七四年:2010/01/06(水) 12:36:41 ID:bIyLHG1K
露見して台無しになったけど、あくまで闇に葬り穏便に済ますつもりだったんだろうな
悪い意味で日本的
506人間七七四年:2010/01/06(水) 13:31:04 ID:sqvCnYm8
そだな、取り繕って終わりにしようとしたら破綻したって感じだな。
507人間七七四年:2010/01/06(水) 13:39:03 ID:JAYRqitJ
風通しをよくするために、時には空気読めない人も必要かも。
508人間七七四年:2010/01/06(水) 14:52:32 ID:uVtcBN0b
おいおい、空気読めよ、ここは殿様が自分より先に通るなといった橋だぜ?
509人間七七四年:2010/01/06(水) 19:20:57 ID:YS0pXap1
貴族はこまめに日記を記したが、これは子孫のために先例や故実を残さねばならなかったからだ。
それに残ってしまった悪い話。

明応の六年のこと。
摂関家の近衛尚通が、徳大寺実淳の娘を娶ることとなった。
当時の近衛家の家長は、尚通の父・政家である。
当然ながら、婚姻の話は政家と実淳の間で進められた政略結婚だった。

さて、祝儀の土壇場になって、一つの問題が持ち上がる。
実淳が、「娘を送るから輿と侍を迎えに寄こせ」と言ってきたのだ。
政家は公職にないとはいえ、かつて太政大臣まで務めた公卿トップの人物。
プライドがある。
「そんなことは先例にない。そっちで用意しろ」と居丈高な応答をした。
これに、実淳もかちんときたのか。意地になったらしく、
「『園太暦』(洞院公賢の日記)の貞和二年四月十六日の条を見てください。
近衛家が洞院家から娘を娶る時、輿を出してる。ほうら、先例はあるでしょう」
と、南北朝時代の記録まで持ち出して要求を取り下げなかった。
仕方なく、政家は迎えの人数を負担した。

政家は「件の例は不快」とはっきり日記に記したうえ、
「一向諸事は省略す(もう結婚式の段取りとか書かないわ)」と言い捨てた。

祝儀の空気や尚通妻が心配になるような事態だが、
妻・維子は公での活動も多く、長寿を全うしたようなので、幸福な家庭だっただろう。
たぶん。
510人間七七四年:2010/01/06(水) 19:32:32 ID:a1cbga9K
冠婚葬祭の準備は本当に大変だよね…
今みたいに式場なんてないし
511人間七七四年:2010/01/06(水) 19:54:59 ID:z8/3DECI
>>509
当時から見たらだいたい150年前の記録か。
しかも日記にちょろっと書いてあるだけのものを
引っ張り出してきて、それを仕方なくだが承認とは…。

今で言ったら
「江戸末期にウチとお宅でこういうことあったから従え」
ってとこだろうが、現代ならまず納得してもらえんだろうなw
512人間七七四年:2010/01/06(水) 21:03:10 ID:P9XYlbql
官位の猟官運動とかでおもしろいエピソードとかないかな
513人間七七四年:2010/01/06(水) 21:27:55 ID:eBbs+giN
>>512
割と有名なところ

少弐資元を討つために官位を欲しがった大内義隆
前々から欲しがっていた大宰大弐を得るために二千貫の大金を朝廷に寄付してゲットするも
金で官位を得るその態度が気に入らないと一日で取り消されてしまうという、
ノブヤボ脳も真っ青なクソミソな結果に
514人間七七四年:2010/01/06(水) 21:32:33 ID:P9XYlbql
サンクス!

たった1日でも前大宰大弐を名乗れたのかな


515人間七七四年:2010/01/06(水) 21:40:35 ID:5ZGYcGzK
>>513
なにそれ、全く同じことやった信秀とはエライ違いだ。
516人間七七四年:2010/01/06(水) 21:47:27 ID:P9XYlbql
大内義隆は官位に執心してるけど、毛利はあまり興味なかったんだろうね
輝元も豊臣時代に従四位下参議に補任されるまでは、従五位下右馬頭っぽいし・・・
517人間七七四年:2010/01/06(水) 21:56:02 ID:Oe5gUBV5
>>516
いや、毛利も官位には熱心だったよ。元就はものすごい勢いで献金して、
陸奥守を任官してるし。

輝元が官位に縁遠くなったのは、敵対していた織田が武家への官位任命権を掌握したため、
任官の仕様が無くなったから。
本能寺後武家への官位任命権は秀吉が掌握し、その秀吉政権に服属することで
毛利氏はこの後正式に任官することが出来るようになった。
518人間七七四年:2010/01/06(水) 22:04:40 ID:P9XYlbql
なるほど、そういうことなんだね

豊臣時代になると、毛利は一門・重臣が十人以上も従五位下に任官してるね
これは徳川よりも多いのかな
519人間七七四年:2010/01/06(水) 22:28:02 ID:OdORZ3B/
>>515
伊勢神宮の修理費とか、天皇の即位儀礼式の費用とか、ちゃんと名目立ててやってたからかな
520人間七七四年:2010/01/06(水) 22:42:44 ID:GZUenpGz
>>519
つまり公家のプライドを立てたってことか。
名目をつけた信秀にたいし、
「金やるから官位くれ」
の大内は、使者の態度にも出ていたんだろうな。
521人間七七四年:2010/01/06(水) 23:00:02 ID:Hy5zRU0d
>>520
義隆も天皇の即位儀礼式金として献金していますよ
というか名目と形式絶対主義の義隆がそこのところを外すわけがない
信秀と違うのは得ようとした官位の高さ
それでなくても高官位の働きかけが頻繁な家だし

つまるところ欲張りすぎやねん
522人間七七四年:2010/01/06(水) 23:02:52 ID:jcsXx5Hu
官位は確か、三好長慶が修理大夫に任官した辺りから暴落したんだっけ?
従四位以上の官位はそれなりの家格のある武家しか就けなかったのに、
以後は気軽に成大夫を果たす武家が増えたとか

でも大内アッーさんの家は普通に従二位まで登れる家だよな……
太宰大弐より格式上なのに。
523人間七七四年:2010/01/06(水) 23:26:36 ID:jgtAJyqw
父親の大内義興は足利義稙の将軍復帰に功あって一時期管領代まで務めてるしね

戦国時代に入ってから胡散臭い方法で日向守護(?)に成り上がった
伊東さん家の義祐さんの従三位とかどんだけ工作したんだろか
524人間七七四年:2010/01/07(木) 00:13:43 ID:CFkO0J+G
毛利は幕府役職についても毛利隆元が周防・長門・安芸・備後・備中守護に任じられており
実に手際良い。

隆元兄貴は外交手腕もなかなか優れていたようで、大内コネクションが朝廷や幕府への
働きかけに十二分に活躍していたようだ。
永禄二年(1559年)には元就・隆元の連署で正親町天皇が践祚して三年間も即位の礼を
挙げられないままにっていた朝廷に献金するセンスも見せている。
525人間七七四年:2010/01/07(木) 00:42:58 ID:34TAoiQ4
>513
書き方が乱暴すぎ。

2000貫文を後奈良天皇即位式の費用として献金したのは天文3年(1534)4月で、
その返礼のようにして4月のうちに義隆は従四位下に叙されている。

天文4年(1535)には、少弐氏の勢力を筑前から追い出すことにほぼ成功したとみられ、
これを受けて筑前支配の名分を強化するために(すでに天文2年に筑前守は任官済)、
同天文4年12月22日に内裏の造営費の名目で100貫文を献金し、
同時に大宰大弐就任を求めている。
天皇は12月27日にこれを一旦認めるが、28日に翻意。任官問題は棚上げに。

結局、翌天文5年(1536)5月(あるいは6月?)に正式に大宰大弐任官を認め、
同時に即位礼の資金を準備したことを賞して剣を賜ることとして使者を下向させている。

潔癖すぎる後奈良天皇が気まぐれで一旦取り消したってだけで、
大内義隆に特に非はないし、その後の朝廷との関係も問題ないと思うが。
526人間七七四年:2010/01/07(木) 01:57:36 ID:eE/nvCus
そういう事情か
1日任官の件は大内家の家格からすれば大宰大弐の官位自体が低くて不釣合いなので
「前」大宰大弐という形だけ貰ったという感じなのかと思ってた
527人間七七四年:2010/01/07(木) 13:11:19 ID:hT5Pdbhx
軽くwiki見たら伊東氏は尊氏以来の日向の有力な家だな。相伴衆になったのも
日向守護になったのも島津家が勝手にごたごたしたせいじゃないの。
俺もどこぞの国人上がりの胡散臭い家だと調べるまで勝手に思い込んでたがw
528人間七七四年:2010/01/07(木) 15:55:43 ID:hxpW6pz8
常陸国下妻に、三郎左衛門と言う大百姓がいた。
彼は配下に数十人の百姓を従えていたが、不義のことがあったとして、そのうちの
一人の百姓を殺した。
殺された百姓には6歳の子があったが、この子と百姓の下人の5歳の子の二人が、
この後逐電し、そのまま行方不明となった。
三郎左衛門も彼らを探し出そうともせず、そのままにしていたと言う。

10年後、深夜。

何者かが三郎左衛門の屋敷に侵入、彼を殺して逃亡した。

在所の者たちこの騒ぎに集まり犯人を探し、一人の怪しい男を討ち取った。
夜が明けてその死骸を見ると、なんとそれは、10年前に三郎左衛門に殺された百姓の
息子であった。10年の間行方不明であったが、百姓でありながら今父の仇を討ったのかと、
ある者は感心しある者は恐ろしく思ったが、ともかく穴を掘って遺骸を埋め、印を立てて
墓とした。

さて、殺された三郎左衛門家だが、ここでは配下の百姓たちが嫡男を盛立て、
嫡男が新たに三郎左衛門を名乗り家を継いだ。その頃、
あの墓の前に、板札が立っていた。そこに書かれていたことは

『ご主君の父の敵をとるため年来付き従い、ついにその目的を果たし引き上げていたところ、
追っ手に迫られた為松明を消したせいで、離れ離れになりましたが、ご無事に落ちられたと
思っていたのに、このような事になってしまうとは。

最後を見届けることも出来ず、不義の思いに、この墓の前で腹を切って後を追おうとも
考えました。
ですが考えてみればそれも詮無いことです。ここで死なず、御主君の敵を取って
恩義に報います。

牛坊』

人々驚いた。牛坊とはあの百姓の子と共に行方しれずになった、当時五歳の下人の子であったのだ。
これを見た人は、健気な事だとも恐ろしいことだとも感じた。

その四、五年後、当代の三郎左衛門が屋敷で酒宴をした夜、牛坊は密かに侵入し主君の敵を討ち、
さらに家の中の者たちを尽く切殺して、その後難なく逃げおおせたと言うことである。

ちなみにこの時牛坊を、とどろきの彦右衛門という百姓が助けたのだそうだ。
彦右衛門はその夜の押込みの前日、三郎左衛門の在所に鶏を3、4羽かかえて赴き、
わざとこれを取り逃がし、三郎左衛門の屋敷に鶏が逃げてこなかったかと言って敷地の中に入った。
この時彦右衛門は屋敷の構造を見てそれを牛坊に教えた。このおかげで牛坊は夜討に
成功したのだと言う。この彦右衛門、元は盗賊だったそうだ。

歴史の表舞台には関わりがないが、激しく又恐ろしい、とある敵討ちの話である。
529人間七七四年:2010/01/07(木) 18:28:13 ID:7fsouSY6
明治政府があと一歩早く仇討禁止令を出していれば・・
530人間七七四年:2010/01/07(木) 18:37:03 ID:CN4QBpTP
そんな最近の話じゃないだろ
531人間七七四年:2010/01/07(木) 19:00:33 ID:MsEfJBEm
>>524
そのときの当主は隆元だったのかな

散々既出だけど、隆元は地味だけど相当な名将だったっぽいね
この時期の毛利と島府に馬鹿が一人もいないというのはすごい
532人間七七四年:2010/01/07(木) 19:04:59 ID:CDSq65i0
伊東さんちは藤原氏じゃなかったかな。
伊豆押領使になって伊東庄に住んでたから伊東を名乗った。

途中で二家に分かれて、片方が鎌倉時代に日向の地頭になって日向伊東氏が誕生した。
533人間七七四年:2010/01/07(木) 19:57:39 ID:xlhHVVdD
>>528
熱い百姓主従って初めて聞いたわ、面白え
これいつ頃の話?
534人間七七四年:2010/01/07(木) 20:22:29 ID:hxpW6pz8
>>533
何せ伝承なんではっきりとした時代はわからないんだけど、おそらく戦国から、
遅くても江戸初期くらいの話らしい。
535人間七七四年:2010/01/07(木) 21:29:34 ID:3h7pk6Yv
>>532
確か曾我兄弟に討たれる工藤祐経が先祖なんじゃなかったっけ?
536人間七七四年:2010/01/07(木) 22:20:53 ID:JiNUrroD
>>525
伊予介にも同じ目的(伊予侵攻)で任官してもらったんじゃなかったっけ。
何で伊予守じゃなくて伊予介なのかは不思議なところなんだけど。
537奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/07(木) 22:37:05 ID:UsoiDHHn
>>535
工藤伊東なんてどこまで行っても惣領争いのいとこ同士だから、無理に血統を詮索しなくてもいいんじゃないの。
538人間七七四年:2010/01/07(木) 23:15:18 ID:daGriUf6
無理にといっても、あそこは割と家系はっきりしてるじゃん
伊豆の本領失ったあたりで少し怪い部分はあるけど
539人間七七四年:2010/01/07(木) 23:49:00 ID:CDSq65i0
>>535
そうそう。
祐経さんの親父さんの祐継さんの時に分かれたはず。
540人間七七四年:2010/01/08(金) 09:18:39 ID:6qbdpNdX
九州は東国から引っ越した人たちがやたらと多いよねえ。
541人間七七四年:2010/01/08(金) 11:49:55 ID:ZakExmMz
元寇の時に現地移住をした一族が多い
それまでは名目上は九州各地の守護とか地頭でも実際住んでるところは鎌倉
という武士がほとんど
542人間七七四年:2010/01/08(金) 12:00:31 ID:KbwLZqsk
わりと長崎県は源平以前からのが残ってる気がする
松浦とか大村とか
543人間七七四年:2010/01/08(金) 20:10:55 ID:kQvPLhXR
いい話スレで道雪、紹運、宗茂親子が盛り上がっているのでこっちにも宗茂のちょっとしたお話を

大坂の陣の時の事。
将軍、徳川秀忠は立花宗茂を重用し、何かにつけて彼の意見を聞いていた。
しかし大御所家康は、これを余り良く思ってなかったらしく、秀忠に対してこんな諫言をした

『宗茂に戦のことを聞くのはいいけど、あいつはああいう性格の人間だから、
あまり親しくしすぎて影響を受けないようにしろよ?』

家康公、どうも立花宗茂に関しては、性格に問題ありと考えていた模様。
まあ、わからんでもない気もするw
544人間七七四年:2010/01/08(金) 20:14:22 ID:m4jq27+d
>>543
天下の将軍があんなんなっちゃったらそりゃ大変だろうなw
545人間七七四年:2010/01/08(金) 20:15:05 ID:IaeMnFaf
人格者の宗茂に家康が嫉妬したんですね、わかります。
546人間七七四年:2010/01/08(金) 21:07:44 ID:ywHt+lvj
>>545
将軍は綺麗ごとでは務まらない。まっすぐすぎるのも問題がある。
547人間七七四年:2010/01/08(金) 21:15:38 ID:gHJFIDmM
家康は自分の譜代は律儀で真っ直ぐでややこしい三河武士で揃えたくせに
外様にはそういう性質を持って欲しくなかったみたいだな
548奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/08(金) 21:18:02 ID:esgA07xo
譜代筆頭が三河武士じゃなかろう。
549人間七七四年:2010/01/08(金) 21:18:51 ID:IaeMnFaf
家康が黒すぎるんだよw
550人間七七四年:2010/01/08(金) 21:22:42 ID:zUjXsMbl
3代目4代目ならともかく2代目の将軍だからなぁ。

そんなまっすぐで曲がったことを嫌う人格者になられちゃ困るだろw
ただでさえ真面目な秀忠なんだから
551人間七七四年:2010/01/08(金) 21:26:14 ID:IaeMnFaf
かといって政宗に強く影響を受けたらと思うと・・・
552人間七七四年:2010/01/08(金) 21:35:56 ID:b/mVVDQH
平地に乱を起こす将軍・秀忠ですねわかります
553人間七七四年:2010/01/08(金) 21:37:57 ID:NUF3gHqH
将軍が乱を起こしてどうするんだw
554人間七七四年:2010/01/08(金) 21:41:34 ID:FIpbhgCO
真田のお兄ちゃんにチン圧されます
555人間七七四年:2010/01/08(金) 21:45:04 ID:gT9laSGg
宗茂もどちらかというと面倒臭い(義理堅い的な意味で)に分類される気がするが、
曲淵吉景さんみたいな訴訟マニアの旧武田家臣すらむしろお気に入りにする程の
家康だし、自身も宗茂に好意的だったっぽい。

でも秀忠にはほどほどにせよとか言っちゃうのも家康。
556人間七七四年:2010/01/08(金) 21:48:12 ID:qkb2zHJu
結局大友は没落したしね
557人間七七四年:2010/01/08(金) 22:54:07 ID:gHJFIDmM
家康(ベイダー卿)VS秀忠(ルーク)なIFはないものか
558人間七七四年:2010/01/08(金) 22:57:48 ID:0zvnTTzO
ベイダー卿家康 ○1R13秒KO ●ルーク秀忠
559人間七七四年:2010/01/08(金) 23:01:54 ID:nWJprKGm
今更なのかもしれないけど、
まとめの管理人さんの画像が堀久の自画像になってて吹いた。
久太郎は美男と言われるけど、自画像を見たらなんか宇宙人ぽく見える。
これは現代との価値観の違いなのか、それとも単に絵が下手だったのか。
560人間七七四年:2010/01/08(金) 23:07:40 ID:IaeMnFaf
美男子すぎても主君にウホッの相手にされてしまうという皮肉
561人間七七四年:2010/01/08(金) 23:15:38 ID:kQvPLhXR
>>559
切れ長でくっきり二重の目の細面、と言う顔をややデフォルメするとあんな感じになるんじゃないかな?
562人間七七四年:2010/01/09(土) 00:37:03 ID:LFZS0b8m
騎手の蛯名のAAだなw
563人間七七四年:2010/01/09(土) 01:26:08 ID:BiNLMYFP
玄以さん、出番です
564人間七七四年:2010/01/09(土) 03:59:25 ID:FIKpk1e9
        __ __
      ./ `´ \ 
     /  ,ー―‐、 ヽ 
     |  | 〃ゞ 〃ゞl
     | 、/ =・= =・=| <ああっ!もう!!
     | (6.  ,∪、/ 
     ∨ヽ  (━)/ 
        \__/ 
565人間七七四年:2010/01/09(土) 04:36:23 ID:gsne5dd5
ある南部家臣の災難

元亀3年3月、南部信直がまだ田子信直と名乗っていた頃
三戸城近くの毘沙門堂参詣の際に不仲だった養父南部晴政に襲撃され
近所の家臣川守田常陸入道正広宅に非難、危機を脱した。
この時北信愛は自宅でまったり中、信直の傍には居なかった。
実はコレ、北信愛がわざと信直に隙を作らせ晴政の謀反を誘ったとも言われている。
川守田「えー、マジ勘弁」
 
天正10年1月、南部晴継の葬儀の帰途で信直は九戸政実の襲撃に遭い
またもやたまたま近所の川守田宅に非難した。
もうとっくに日は暮れ、突然の訪問者に驚く余裕も無く
老体に鞭打って門内に入ってきた数人の九戸党を
信直のお供北主馬之助・金田一久助等と松明と刀で蹴散らし門外へ追い出した。
あ、信直もちゃんと働いたよ!自ら鉄砲を撃ち政実の弟実親に命中。
川守田「ほんとマジ勘弁」

豪腕として知られた川守田は三戸城の北側を守りつつも
火急の用事や連絡の際には自宅から城に矢文を飛ばしたとされる。
何となくだが、信直との直接的な関わりを避けてるようにも思える。
アイツに関わるとトンデモねー事に巻き込まれる、みたいな。
566人間七七四年:2010/01/09(土) 17:46:52 ID:BiNLMYFP
>>565
ホームドラマにしてくれんかのう。昼ドラでw
567人間七七四年:2010/01/09(土) 17:49:54 ID:BiNLMYFP
「また親父殿に狙われちゃったよ・・・ちょっと匿ってくれませんかね」

「若殿がそんな受け身でドースンノ!」でも匿ってあげる川守田さん

顛末を聞いて「九戸の連中、後で泣かす!」と歯ぎしりしながら復讐ノートに書き綴る北さん
568人間七七四年:2010/01/09(土) 17:57:30 ID:YNr0pvks
川守田「早くこの車に乗るんだ!」
信直「私を連れて逃げて!」
北「社長、信直さんをどうする気です?」

実親「この泥棒猫」
569人間七七四年:2010/01/09(土) 18:31:11 ID:0EeqjNTL
大坂の陣の時

秀忠「このような作戦計画書を作りました。ご覧下さい」
家康「どれどれ…」
秀忠(ドキドキ)

家康「うむ、この作戦でよいぞ」
秀忠(ヤッタ!)

家康「しかし、作戦計画書か…。わしは若い頃から多くの
   合戦を経験したが、こんなものを作ったことは一度も
   ないのう。

   作戦通りにやらせて失敗でもしたら、部下を叱れぬから
   のう。それに急遽作戦とは違う行動をとって、それが成功
   すれば、作戦を立てた者が信用されないという事になる。

   わしは作戦などというものは、その場の状況に応じて
   臨機応変に対応したものじゃったがのう」

秀忠「(´・ω・`)」
570人間七七四年:2010/01/09(土) 18:52:44 ID:N8KDrFJO
大阪の陣とか長期戦だし兵力量も膨大だし戦域も広いし、
結果として個々の戦闘結果より補給の維持が大切になってるし……

これは秀忠の方が正しいと思うんだ
571人間七七四年:2010/01/09(土) 19:08:30 ID:UV8z54r9
最晩年は少々劣化してたと思うんだ
572人間七七四年:2010/01/09(土) 19:20:44 ID:Vc9kJYOx
「作戦計画」ってのがすでに近世の発想だからなあ。
戦国期は家康に限らず、どの武将もざっと方針を立てるくらいで
後は現場でのライブ。
朝鮮役ですら方針はあっても作戦計画は存在しなかった。
573人間七七四年:2010/01/09(土) 20:08:41 ID:mOjecxdF
大阪の陣で臨機応変に対応できる将も少なくなってるしな
574人間七七四年:2010/01/09(土) 20:17:14 ID:UAjuIO8E
前の戦から十数年経ってるからそれはしょうがない
575人間七七四年:2010/01/09(土) 20:29:27 ID:Vc9kJYOx
あったあった

馬場信春、合戦を語る・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1116.html
> 戦場は千変万化し、臨機応変が求められるだろ?それで戦って物は、最初の取り決めとは
> 違ってくる部分が出てくるわけだ。そうなったら取り決めにこだわらず、手筈の違う部分は無理に
> 修正しようとせず、その流れの中で勝利するよう奮戦する、これが肝要だな。

戦国期はどれだけアドリブをきかせられるかが大切だった、って感じのお話。
576人間七七四年:2010/01/09(土) 20:59:21 ID:BiNLMYFP
>575
高級将校(武将)には「イザというとき命令違反できるための権限が与えられている」だっけ
それだけの機転というか、戦術眼が備わってなかったら幹部将校に引き立ててはダメという組織論もセットでね
577人間七七四年:2010/01/09(土) 21:27:46 ID:RwXbNCO2
>>572
実は唐入りは逆で、作戦計画はあったが方針が決まっていなかったという評価がある
正確にいうと、方針が秀吉と先鋒の小西と加藤でバラバラで、統一されていなかった
578人間七七四年:2010/01/09(土) 22:44:49 ID:5eKIk6R4
開戦の何年も前から湾の水深調べたり、強襲偵察掛けて抵抗の強度測ったりしてるからなぁ
579人間七七四年:2010/01/09(土) 23:10:05 ID:gpYi2DD+
朝鮮の陣も終わりに近い慶長3年(1598)10月初め、島津義弘率いる7千人が篭る泗川城は
明軍数万(一説に20万)に囲まれた。
義弘は城中を巡察して出撃を固く禁じ、門を固く閉ざし、鉄砲を撃つことさえも戒めた。
「よいか、弱きを装い敵を驕らしめ、その鋭気が衰えたところを討つのだ!」

明軍が城壁に取り付き始め、義弘が矢弾での応戦を許した頃、嫡子の忠恒がやって来た。
「父上、あれを!」二匹の狐が城中から走り出て、明軍の群がる中に消えて行った。

「人を恐れる狐でさえ、明軍を恐れぬ。あれこそ我ら島津の守護神、稲荷明神の使いが
反撃の時を示すものなり!」
そう言った忠恒は、みずから鉄砲を取って数人を撃ち殺した。その高揚に乗った兵によって
城門が開かれると忠恒は馬に飛び乗り、単騎駆け出した。

忠恒は敵を斬り伏せながら風の如く駆け抜け、丘に至って休息した。ようやく追いついた
近習たちは彼を諌めた。「軽々しく進んで士卒と功を争うのは、良将とは言えませんぞ!」
しかし、伊勢貞昌が血刀を振るっているのを見た忠恒は、
「あれを見ても、まだそんな事が言えるか!」と怒り、また百余人ほどの部隊に突き進んだ。

これに対し、明軍からは三人が同時に忠恒を襲った。忠恒は馬から飛び降りながら一人を
斬り殺して首を取り、残る二人を近習に追い払わせた。また馬に乗って進んだ忠恒は、
北郷三久が敵と組打ちをしているのに出くわし、この敵を斬り、その首を北郷の家臣に与え、
さらに攻め入った。
忠恒の武勇に奮い立った島津軍は敵3万余を討ち取って大勝利し、忠恒は都合7つの首を
取った。明軍が去った跡には、狐の死骸が残された。

義弘「つまりアレか、ただの野狐を神の使いと称して、大将みずから一騎駆けしたと。」
忠恒「・・・はっ。」
義弘「何が「はっ。」だ!軽率かつ危険なマネを・・・近習たちも、なぜ止めなんだ!?」

近習の一人、川上四郎兵衛が進み出た。
「お言葉ですが、その軽率によって全軍が一丸となって、勝利しました。その事を思えば、
忠恒様の行為、危険と言うに足りません。」
「むうぅ・・・よかろう、今回は許すが、厳重に叱り置くものである!」
「ははーッ!申し訳ござらん、父上!!」という、『鬼石曼子』誕生秘話。


豊久「そんな事言っちゃって、伯父上だって自身太刀を取って首を4つも・・・」
義弘「やめてよして、恥ずいからみんなには言わないで!!」←ホントに言った
580人間七七四年:2010/01/09(土) 23:44:51 ID:MY1ixghP
見事に話しのオチがついたなwww
可愛いよ鬼島津www
581人間七七四年:2010/01/10(日) 02:48:56 ID:1x6AzRAj
>578 ぬう、厨恒がヒャッハー活躍したとは

>579 帰国したら、ぬこ神社を造営してお稲荷さんにもお礼の品を奉納するんですねー
582人間七七四年:2010/01/10(日) 09:55:28 ID:U+188naB
最上や蒲生みたいな外様家臣に気前良くばら撒いた家は、まとまりがなくすぐに崩壊するね
583人間七七四年:2010/01/10(日) 11:00:22 ID:UaxLXPd8
>>579
いいオチだw

でも義弘自身も若い頃は自分で突っ込んで鬼武蔵(善)にお説教されてるよね。
やっぱり血は争えないようで。
584人間七七四年:2010/01/10(日) 14:59:05 ID:tbq43g4u
義弘は若い頃、川上久朗を犠牲にしてしまったからなあ…
585人間七七四年:2010/01/10(日) 16:18:17 ID:20cO0w+7
ニャンともケッコー困った話

天正五年(1577)、五月の事である。
奈良の町中の人々が一斉に、自分たちの飼っている
ネコとニワトリを持って興福寺に押し寄せたのだ。

「お願いです!どうかこのニャンコとコケッコーを匿って下さい!」

興福寺の僧たちは驚いた。「一体、ネコとニワトリがどうしたというのだ!?」
「私たちのネコやニワトリが、取り上げられてしまうのです!」
「誰に?」

「織田信長に!!」

話を聞くとこう。安土にいる織田信長が配下の者に、奈良中のネコとニワトリを集めてくるよう
命じたというのだ。
「それも鷹狩りの大好きな信長が、自分の鷹の餌にするためだというのです!」
「鷹の餌のため?」
「そうです!」
「わざわざ奈良で?」
「そうなんです!」
「それは、どうかなあ…?」
「なんですか!?ウチのニャンコとコケッコーが鷹の餌にされてもかまわないと!?」
「いやその…」

この事さすがに後で、ただの風聞であるとわかったようだが、それまで興福寺、実際に
奈良の町中のネコやニワトリを預かっていたそうだ。

この当時の大和の実質的な支配者と言っても良い興福寺に、大量のネコとニワトリが匿われ、
それを寺僧たちが一生懸命町世話していたかと思うと、彼らには悪いが妙にほのぼのしてしまう。
そんなお話。
586人間七七四年:2010/01/10(日) 16:23:05 ID:BkWYW9uQ
これはいい話向きではないだろうか?
587人間七七四年:2010/01/10(日) 17:47:19 ID:knNBKusK
    ______,.___, |;:;:.... |
 ゚     。  :     ..:| |l ̄|
:         。    ..:| |l彦|  このスレはひこにゃんに
      ゜  :  ..:| |l根|        監視されています
    ゜     : ..:| |l_|
  :       ゚   ..:|;:;:.... |
    ゚   :     ..:|;:;:.... |.    iヽ
      ゜  :  ..:|;:;:.... |/| ̄|\))
  。           ゚ ..:|;:;:.... |ニ二二ス
   :     :   ..:|;:;:.... |,,=・ェ・=)ゝ
 ゚  。  :   :  ..:|;:;:.... | ⊂ノ
  :      :   ..:|;:;:.... |-u'
      ,,.,、-‐''"´~ `ー-‐'
588人間七七四年:2010/01/10(日) 18:40:53 ID:Z8cJ96JH
一度戦争とか政変とか起きると、この手の風聞って蔓延したんだろうな
後から聞けば笑えてしまうけどね…
589人間七七四年:2010/01/10(日) 18:52:01 ID:tC5GnMLu
まぁ信長ならやってしまうかもしれないという点で、
より恐慌したんだろうな
…後に信長よりやってしまいそうな太閤殿下が現れるわけだがw
590人間七七四年:2010/01/10(日) 19:06:07 ID:C04OiiO4
ぬことニワトリ同じとこに集めたら大変だったろうなww
591人間七七四年:2010/01/10(日) 19:17:32 ID:aYszjBNH
>>583
実は義弘、豊久や鬼武蔵だけでなく中馬にも
「殿が陣頭で働いていては、我々は手柄が立てられません」
と遠まわしに諫言されてたりする。
自ら陣頭に立つ癖はなかなか直らなかったようで。
592人間七七四年:2010/01/10(日) 19:46:41 ID:4rmhpWaC
豊臣期の小早川隆景とか立花宗茂あたりって人格も優れた名将として評判良いけど、
毛嫌いしてた大名の一人もいなかったのかな?
593人間七七四年:2010/01/10(日) 19:51:06 ID:v9wwhwDH
主家をたてた人だから下克上した奴は内心嫌悪感があったかもね
594人間七七四年:2010/01/10(日) 19:51:29 ID:LAc1td7h
秀家は宗茂とそりが合わなかったと聞いたような
595人間七七四年:2010/01/10(日) 19:58:21 ID:oRgFWAvC
あれはどちらかというと秀家の無神経発言だな
市松とも一時不和になったらしいが
後は嫁か?
不和では無かったって説もあるにはあるらしいが
596人間七七四年:2010/01/10(日) 20:00:29 ID:zx2fayXE
>>592
隆景は兄弟と不仲だった分、外ではいい子だからな
597人間七七四年:2010/01/10(日) 20:01:22 ID:4rmhpWaC
>>593
それはあるかもね
逆に隆景も深い仲だった大内義隆を下克上で失ってるから互いに合わなかったかもw

>>594
秀家と隆景(毛利一門)も中国攻め以来の反目とかなかったのかな・・・

>>595
あの嫁はなぁ・・・
598人間七七四年:2010/01/10(日) 21:21:37 ID:ZcASfp9b
599人間七七四年:2010/01/10(日) 21:47:36 ID:QViAaYGF
小早川の家臣もどう思ってたかわからんぞ
そもそも乗っ取りだしな
600人間七七四年:2010/01/10(日) 21:51:57 ID:i+OfinSE
「忠広はまだか……」

徳川家康は心中穏やかではない。武田信玄が家康陣を無視して
西進したからである。家康は物見の鳥居忠広を待っている。

「殿ーーーー!」
「おお、戻ってきたか!はよう、はよう報告せい!」

「殿、いかに士気が旺盛でも信玄と戦ってはなりませぬぞ。
敵は山に布陣しております。戦えばふもとから攻めることとなり、
我らは確実に敗れましょう」

(なにをぬかすか!)

忠広は率直に述べたのであろうが、生憎と家康は苛立っていた。

「俺はお前が有能だと信じてこの大事に物見を任せたというに、
そのように臆病ではどうにもならぬ!おおかた武田の大軍に恐れを
なしたのであろう!」

(あ、あまりのこと……)

忠広は『臆病』という言葉にキレた。

「俺は有能で戦況を見極める能力があるから勝敗が分かるのだ。
戦いを仕掛けて敗れたら、あなたの責任だからな!勝敗の予測さえ
つかぬ者こそ臆病者よ!」

そう吐き捨てて忠広は去った。そして忠広の予想通り家康は信玄に
敗れ、忠広もこの戦で死んでしまった。
601人間七七四年:2010/01/10(日) 22:23:01 ID:vMtuMC0Y
有名な話だと思ったけど出てなかったので

黒田長政と言えば、短気かと思えば口の悪い家臣たちの讒言を何だかんだと受け入れたり、
頭のグリグリ回る親父殿にダメ出しされつつ嬉しそうだったり、実はドMな気がしないでもない大名ですが、
そんな長政と後藤又兵衛基次が仲違いしたのは有名な話
この二人、不遜な又兵衛に長政がついにブチ切れ、と思われがちなんですけども、
どうやら実際のところ、又兵衛の方がやってらんねーと出奔したが本当のところのようです
様々な逸話を見る限り、なんで又兵衛の方がキレんの?と疑問に思わずにいられないのですが、
どうやら次のような事情があったようです

又兵衛の二男・後藤左門基則は長政に小姓として仕えておりました
ある日、長政が催した能楽の宴でのこと、長政は鼓の名手であった基則に鼓を打つように命じます
ところが、基則これを固辞します
自分は武士として長政に仕えているのになんで鼓など打たにゃならんのだと
しかし、長政は許してくれず、鼓を打たされた基則は屈辱のまま無断で城を出て行ってしまいます
父のところに戻った基則は、無断で主君のもとを立ち去った責任を取ろうと腹を切ろうとします
又兵衛は息子の切腹を思い止まらせ、次の日家族揃って黒田家を去ったのでした

以上、長政と能楽が絡むとろくなことにならないという悪い話
それにしても、母里太兵衛(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-613.html)と言い、
鼓の名手の後藤基則と言い、絵心のある黒田一成(例の長政の肖像画描いた人)と言い、
黒田家中は中々のアーティスト揃いで、更に長政が不憫に思えてきます
602人間七七四年:2010/01/10(日) 22:35:33 ID:zS8fvCJ9
長政は何も悪くないぞ、ただちょっと芸術が苦手なだけなんだ!…多分
つか鼓の名手だからこそ頼んだんだろうに、そこまで嫌なことだったのかねえ

>頭のグリグリ回る親父殿にダメ出しされつつ嬉しそうだったり
これちょっと意外、おとーさん大好きっ子?普通嫌いになりそうだけど
603人間七七四年:2010/01/11(月) 00:12:49 ID:J2MMkGhu
>>585-590
当時はまだネコは貴重品で
紐でつないで飼うのが一般的だったらしい。
ネコかわいそう・・・
604人間七七四年:2010/01/11(月) 00:13:47 ID:J2MMkGhu
>>601
司馬遼太郎の小説に書いてあったね
605人間七七四年:2010/01/11(月) 01:37:52 ID:S0a8gZB4
>>600
久しぶりのめんどうくさい三河武士だ

鳥居忠広は殿軍で討ち死したそうです。
最期に意地を見せたのか・・・
606人間七七四年:2010/01/11(月) 11:20:07 ID:/8u9zG2I
>>602
確か、「殿の伴奏ならともかく芸人の伴奏とかやってらんねー」という理由だったはず。
他に「長男が不行跡で追放されたのを赦してもらえなかったから」とかいう説も。
こうして諸説あるくらい又兵衛の出奔は突然の事だったらしく、長政側も慌てた事だろう。

あと、黒田長政は父親好きだったかは知らないけど、路線対立もないし当時の大名の
親子としては普通に仲がいい方だと思う。
607人間七七四年:2010/01/11(月) 11:49:16 ID:Wj1WvWv0
達者な芸人の伴奏よりもあの殿の伴奏の方が大変な気がするのは気のせいかもしれないw
608人間七七四年:2010/01/11(月) 12:08:31 ID:J2MMkGhu
長政、音痴なんだっけ?
609人間七七四年:2010/01/11(月) 13:21:10 ID:/8u9zG2I
黒田長政は如水の死に際して、枕元で寝ずの看病をし、薬も自分で試してから口にさせた
といういい話があるんだが、
悪い話スレ風に言うと、如水はその息子に「自分は三月二十日の辰の刻に死ぬだろう」
と予言していたらしい。そんなこと言わなくていいだろ…。
この話といい、長政を案じてボケた風を装って家臣に当たり散らした話といい、
如水は戦国時代的にオーパーツかっていうくらい開明的でいい人なんだけど、
ちょっと人の自分を思う気持ちがわからない人なんじゃないかと思ってしまう。
尊敬する主君が突然アッパラパーになって無茶苦茶なこと言って怒鳴り散らすように
なったらトラウマものだろ…。
如水と長政の秘密の話なのに周囲に伝わってるのは、家臣団の動揺をしずめるために
長政が話したんじゃねーのと疑ってる。
610人間七七四年:2010/01/11(月) 14:03:27 ID:6HnVJixB
アッパラパーw
611人間七七四年:2010/01/11(月) 14:22:06 ID:Wj1WvWv0
如水:ややKYでヤンチャなカリスマ親父
長政:短気なきらいがあるが、何かと必死な孝行息子
家臣団:悪乗りが過ぎる口の悪い体育会系集団

こんな感じで役割がはっきりしてて逸話が何だかドリフのコントのようだ
612人間七七四年:2010/01/11(月) 14:56:16 ID:+XvoFDWo
如水と幽斎って仲悪どうだったのかな?
息子同士はライバル関係だけど・・・
613人間七七四年:2010/01/11(月) 15:28:35 ID:JTs2C7qC
>>609
アッパラパーに不覚にも吹いたw
長政良い子過ぎだろ…
614人間七七四年:2010/01/11(月) 17:16:22 ID:Wa+DjvUz
これが息子と仲の悪かった幽斎さんだと、当代記に

「俗世間の事を良く知っていたが、晩年はモウロクして筋のわからない事を喋っていた」
とか、書かれちゃってるんだよなぁ…
615人間七七四年:2010/01/11(月) 17:37:53 ID:mDuLU/Ha
>>614
それでも息子は老成してかなりの名君になったんだから、いいんでないの。

親や自分の愉快なやらかしを膨大な手紙や書物に残してくれたのもスレ的には功績だよな’(
616人間七七四年:2010/01/11(月) 18:15:53 ID:Wj1WvWv0
親父の言いつけを死ぬまで守ったり、手紙をずっと持ってたり、長政は基本的には父親大好きなイメージ
親族とことごとく喧嘩してる(後で仲直りしてるけど)三斎様とは対照的だな
関ヶ原後も正室は持たなかった三斎様と、徳川との縁談のためにあっさり離縁する長政とそのへんも真逆

>>612
如水と幽斎は普通に友人同士じゃなかったっけ?
617人間七七四年:2010/01/11(月) 18:29:35 ID:kjPs9m4s
幽斎が信長と同い年で天文3年(1534)生まれ、
如水が天文15年(1546)生まれなので12歳違うから、流石に世代として違う感じだな。
如水から見れば幽斎は、偉大な先輩のひとりだろうし、幽斎は如水のことを
次世代の俊才、って見てたでしょうな。

ちなみに忠興は永禄6年(1563)生まれ、長政は永禄11年(1568)生まれなので
こっちはまあ世代的には一緒くらいですな。
618人間七七四年:2010/01/11(月) 18:51:54 ID:q31qJIj8
>>600
講談「湯水の行水」だな。
三方ヶ原の前夜、物見から帰ってきて籠城を唱えた鳥居忠広に対して成瀬正義が
腰抜けと罵って喧嘩するお話。

二人は仲直りするけどともに戦死してしまう。
619人間七七四年:2010/01/11(月) 20:04:58 ID:ZfFULuXt
つか幽斎さんの得意分野と如水さんの得意分野かぶってなさそうだしね

忠興と長政は似たタイプの武将だから競争相手になるし
620人間七七四年:2010/01/11(月) 20:17:22 ID:qQg2CDvV
如水の友達は小早川隆景でしょ。幽斎さんは武士のお友達は少ないタイプと見た。
621人間七七四年:2010/01/11(月) 20:33:24 ID:YU7Kfq40
>如水の友達は小早川隆景でしょ。幽斎さんは武士のお友達は少ないタイプと見た。
こう言い切れるのがちょっと不思議
現代でもそうすっぱりと人間関係を言い切れないのに
622人間七七四年:2010/01/11(月) 20:35:27 ID:+XvoFDWo
幽斎と足利昌山ってギクシャクしなかったのかな
結構同席することも多かったようだけど・・・
623人間七七四年:2010/01/11(月) 21:00:14 ID:Wj1WvWv0
幽斎の友達と言えばお玉ちゃんの父上だけど、
隠居後は秀吉の側近として有力大名と普通に人間関係築いてるわけだけども
624人間七七四年:2010/01/11(月) 23:30:47 ID:stxta5Kz
我が家に伝わる大内さん家の家庭不和の事情。

永正四年、当時の管領細川政元が家督を巡る養子間の抗争の煽りで暗殺された。
いわゆる永正の錯乱である。
養子の一人で暗殺の首謀者である細川澄之は、程なく澄元との抗争に敗北して自害したが、
今度はその澄元と、澄之打倒までは澄元を支持していたもう一人の養子、高国が対立。
この高国が西国の雄大内義興と結んでその軍を山城に引き入れ、
以後約十年にわたって畿内に大内軍が駐留することになった。

さて、永正十五年。
長らく留守にしていた領国が尼子氏をはじめとする周辺敵対勢力の蚕食に遭い、
また強大な大内義興の存在を将軍や管領が疎ましく思い始め、
義興の立場は時を追うごとに極度に悪化してきていた。
義興はこれ以上京の都に留まることに意義を見出せず、ついに帰国の途に着くのである。



この時、山口目指して山陽道を進む大内勢の中には、
数万の武家のほか、長槍が林立し甲冑が日光を照らし返すその行列にそぐわぬ人の姿があった。
本来都に在って帝に侍るべき公家衆が加わっていたのである。

625人間七七四年:2010/01/11(月) 23:31:06 ID:stxta5Kz
十年に渡る大内軍の畿内駐留の間に、義興と親しくなったその公家は、
暮らしの厳しい都を離れ、大内勢に従って一路山口目指して旅立ったのだ。

「姓を考えねばならぬな」

小松原という土地に差し掛かったところで、義興はその地下人の公家にそう告げた。
公家は藤原某を名乗っていたが、都を落ち、周防の地からもう還らぬ覚悟であるなら姓も変えたほうがいい。
そんな話の成り行きだった。

「ちょうどこの土地は小松原……小は新たにつける苗字には余りよき漢字ではないな。
 そこもとは今日より松原某を名乗るがいい」

都落ちの公家に否を告げるべくもない。かくして大内家の家臣団の末席に、
新たに松原某という公家崩れの武士が加わったのだった。

さて、こんな光景はこの行列中ではもう何度も繰り返された光景だった。
じつは都落ちの公家はこの松原某ばかりではない。
少なからぬ公家が大内義興の都落ちに同行し、そのまま周防長門の地で在地化、武士化して、
大内義興、義隆の近臣を形成してしまったらしい。
後年、太寧寺で大内義隆に殉死した近臣の中に、譜代には見えぬ名前が多くあるのはそういう理由もあるのだとか。

相良武任だけならばまだしも、蹴鞠や和歌しか知らぬような公家崩れの側近が多く義隆の周囲を固めている。
陶隆房や内藤興盛らの心中いかばかりか……というのは想像に難くない。

歌や蹴鞠では国は保てない、ましてや一門譜代をおろそかにしては……
知らずと我が子我が家の災いを自ら持ち込んでしまった、そんな大内義興の悪いお話。
626人間七七四年:2010/01/11(月) 23:39:47 ID:+XvoFDWo
戦国といい幕末といい、山口と公家は何かと縁があるな
627人間七七四年:2010/01/11(月) 23:54:56 ID:q31qJIj8
相良武任さんは肥後で下相良氏との争いに敗れた上相良氏の末裔らしいので、
大内における地盤が無く、軋轢を覚悟で働かざるを得なかったわけで少し同情はする。
628人間七七四年:2010/01/12(火) 00:23:45 ID:DGzbScrA
>>612
仲良いかは知らんが幽斎→如水で
「援軍ありがとう!今度句会開くから新しい句考えとけよ!」
みたいな手紙があると聞いたので、そこそこ交流あったんじゃないかな。
629人間七七四年:2010/01/12(火) 00:30:59 ID:jOazsnk8
>>628
なんか微笑ましいな
如水から幽斎だと何か裏があるんじゃないかと穿ってしまうけどw

>>627
義隆がとっかえひっかえ男色しすぎなのがよくないんだよな



昌山は豊臣政権でも准后・前将軍として厚遇されてるし同席することも多かっただろうけど
幽斎は昔のことで昌山に詫び入れたのかな



630人間七七四年:2010/01/12(火) 00:38:34 ID:kz15k83h
>>625
まさにそれご先祖様w
義興公の山口帰還に加わった公家の1人というか一族で、その後うちの長は太寧寺で自刃
生き残った一族はほぼ全滅しかけたけどツテを頼って安芸に移動して土着
(吉見領に向かおうとしたけど封鎖されており安芸路のほうが安全だったという話)
631625:2010/01/12(火) 00:54:24 ID:n2IpQAI7
>>630
いよう、ご先祖のご同僚w
632人間七七四年:2010/01/12(火) 01:48:43 ID:mWjPlpO3
公家が遊芸と机上の学問しか能がない、というのは誤解だと思うじぇ
新規の政治集団が大量に入ったことで、在地豪族との軋轢を生んだのは間違いないだろうけど
633人間七七四年:2010/01/12(火) 07:15:30 ID:hkOZ+VGZ
そういえば土着武断派のトップ陶隆房の息子と
新参文治派相良武任の娘を結婚させて縁続きにして
丸く収めようという計画があったのに、肝心の隆房が泣いて抗議した為に
縁談がこじれたばかりか、話を進めていた義隆の面目まで丸潰れになってしまった
っていう話を見た事がある

大内関係の小説だとテンプレのように使われるからどこかに元逸話があるのかもしれない
泣いて抗議ってどれだけ嫌なんだよって感じだがw
634人間七七四年:2010/01/12(火) 09:23:32 ID:z8BZhFJO
>>612
如水と幽斎は親交があった。関ヶ原の合戦の時、
九州で孤立した細川領の豊後杵築に援軍を出したのは如水。
杵築の城代に「何かあったら如水殿に頼りなさい。」と
幽斎は命じていた。
635人間七七四年:2010/01/12(火) 09:31:21 ID:2xMRyNRR
大名同士の交流が制限されたり
親交を自粛したりするようになるのは
いつ頃からだろう?
秀忠の時代にはまだわりとフリーダムだよね。
やっぱり家光あたりから?
636人間七七四年:2010/01/12(火) 12:18:44 ID:9MKAegtN
>>512
大内は受領名が当たり前な家臣にも朝廷の正式な官位を叙任させている。さすが末世の道者はやることが違うぜ。
毛利元就も大内義隆に言われて献金して右馬頭を叙任されているし。

せっかく献金して叙任した左京大夫を朝廷が伊達など弱小勢力にまで乱発したので拗ねたり、
もてなしが異常に豪華だったので、九州に使いに行く為に近所を通った朝廷使者の公家が長期滞在してすみついたり
と大内と朝廷がらみの逸話は多いよな
637人間七七四年:2010/01/12(火) 13:26:48 ID:JnuR6l8J
>>633
陶隆房は、負け戦で退却中に「俺のせいじゃない!(殿のせいだ)」と怒ったり、
短慮で部下を斬って亡霊にたたられたりと、坊ちゃん気質の悪い面が出る逸話ばかり多い気がする。
泣いて抗議も、坊ちゃんならありうるなあと思えてしまった。
これも毛利の謀略……?
638人間七七四年:2010/01/12(火) 13:58:55 ID:G4UHZ0ly
>>637
陶晴賢が部下を生きたまま火あぶりにして祟られたというのは
江戸時代の僧、浅井了意の書いた怪談物語「伽婢子」の五十章、厚狭応報・厚狭が死霊の事
というのが出典でモトネタは中国古典だかにあるらしい
そもそも火あぶりにされた厚狭弾正という人物も大内家には存在しなかったので、
良かった!部下を火あぶりにした陶晴賢はどこにもいなかったんだ!

まあそれを抜きにしても強引で何かと災いを振り撒く武将ではある
謀反後にかつての政敵だった杉重矩を討ったのはいいけど、
厳島の戦いの後には、逆に杉の息子に自分の息子が殺されてるし
晴賢が首を突っ込んだ山田事件も悲惨だった
639人間七七四年:2010/01/12(火) 14:04:46 ID:L04w149B
まぁ、簒奪者なんだし、結構強引なことしないと何にも出来ないだろう
満場一致で簒奪大歓迎というわけでも無いんだし
640人間七七四年:2010/01/12(火) 14:12:30 ID:wW3AMWs3
>>635
秀忠のころからだろ。
勝手に会うと謀反の疑いをかけられるのが当たり前。
何かの役目を共同で行う場合にでさえも、前もって直接面会することはない。
家老クラスが会って段取りを決め、当日は会釈程度。
これがうまくいった場合、後のために文通や贈り物で親交を深める。
大名役(寺社奉行、奏者番、若年寄、老中など)に就任して
評定の合間に多少話すことはあっても、常に監視の目があって、簡単な世間話で終わる。
江戸城総登城の時は、広間で他の同格の大名何人もと一緒になるが、一切の私語は禁じられていた。
履物を脱いでから、帰りにまた履物を履くまで数時間我慢するため、ストレスで「乱心」と判断される大名もあった。
その場合、病気療養を命じられるか、ひどい場合は隠居。
641人間七七四年:2010/01/12(火) 14:20:04 ID:jOazsnk8
>一切の私語は禁じられていた
マジで!
同じ席だと幼少の大名をサポートしてたりしてるから多少の私語はしてるものだと
思ってたけど、一切ダメだったの?
642641:2010/01/12(火) 14:20:12 ID:E0gVlAnC
ある日641が本屋に行き歴史の雑誌読みふけっていた

641は長宗我部元親・盛親の雑誌を手に取り読んでいると…
仙石秀久をピックアップしているコーナーを発見した
その内容はいつもの仙石無能批判ではなくその時の秀吉配下の状況など
第3者目線で一歩離れた視線から書かれていた。
641はふとそこである記事が目に飛び込んできた、ちょっと何処かで見たような内容である、そこには…

2008.10.16 仙石秀久と長曽我部信親と十河存保・悪い話
仙石秀久
661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/12(火) 07:13:45 ID:0By7/lLV
四国で泥沼の争いをした長曽我部信親と十河存保
二人とも仙石秀久のせいで戸次川の戦いで戦死する
十河は九州仕置きの後改易
長曽我部は関ヶ原の後改易

でもそれから30年後に再び仙石と十河と長曽我部が共に味方として戦うときが来たんだな
十河存保の息子の十河存秀と仇敵長曽我部家の元大名長曽我部盛親
さらには憎き仙石秀久の次男仙石秀範

三人とも大阪の陣で大阪方について、そろって死んだ

人の縁の不思議な話

手元に本が無いのでうる覚えではあるが
殆どそのまんまで載っていたのである、これには641も呆れ果てた
ネットの内容を載せるなど、まして2chからのネタを引用するなどもっての外である
少しくらい自分で調べて物を載せてもらいたいものだ

たしか元親・盛親特集で最近の雑誌だから探したらあるだろうな
643642:2010/01/12(火) 14:22:09 ID:E0gVlAnC
>>641
なんてタイミング!この馬鹿者ぁ!!w
644人間七七四年:2010/01/12(火) 14:30:26 ID:Wk8gmlB/
>>643
タイミング云々以前に意図が読み難いぞw
資料の読み方・逸話の採り方の難しさは、
確かに良い話、悪い話を産むものじゃあるから、
一度手元で検討した方が良いのはそうだと思うけど…
そういう意味だよな?
645642:2010/01/12(火) 14:38:17 ID:E0gVlAnC
http://www.amazon.co.jp/gp/reader/4813080529/ref=sib_dp_pt#reader-link

あった、確かこれだ
>>644
すみませんwそういう事です。
646人間七七四年:2010/01/12(火) 15:31:03 ID:iW1IMkp1
>>640
想像以上に厳しいな!

そうすると、よくネタに出てくる
「ある日お茶会で大名Aと大名Bと大名Cが〜」
というのは、偶然江戸城内でバッタリ出会って
「やあ久しぶりだね、ちょっとお茶しない?」
と気楽に誘った話じゃないんだな。
647人間七七四年:2010/01/12(火) 15:39:19 ID:jOazsnk8
佐竹義和の蕗の逸話って伺候席での話じゃなかった?
648人間七七四年:2010/01/12(火) 18:39:42 ID:PV+DdEUK
「柳生宗矩の死に様」

柳生宗矩の病死については奇怪な噂があったという。
ある日、走りまわる鼠を見つけた宗矩が竹刀で叩いた。
が、鼠はこの一撃をひらりとかわし、逆に竹刀に飛び移ってそのまま駆け上ってきた。
一気に間合いを詰めると、宗矩の指を噛んで逃げ去ったという。
雑菌が入ったせいだろうか。宗矩が痛みに苦しみ、ついには寝込んでしまった。
周囲の人々が治療しようとすると、宗矩が拒絶する。

宗矩「俺は剣の道に生涯を捧げ、その道を極めた。
   それなのに鼠を相手にこの様だ。天命だよ。
   だからいかなる治療をしても完治することはないだろうよ」

そのまま亡くなったのだという。
まあ、ただの噂話ではあるんだが、こういう逸話が作られてしまうってことは、
やっぱり同時代人からは好意的に見られてなかったのかなぁ……
649人間七七四年:2010/01/12(火) 19:07:02 ID:zfewnccg
その鼠の正体、果心居士ちゃうか?
650奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/12(火) 20:45:15 ID:vq9OhzF0
賛同。
651人間七七四年:2010/01/12(火) 21:09:28 ID:6vrV2cWP
            _  -───-   _
            ,  '´           `ヽ
          /                 \
        /                    ヽ
      / __, ィ_,-ァ__,, ,,、  , 、,,__ -ァ-=彡ヘ  ヽ
       ' 「      ´ {ハi′          }  l
      |  |                    |  |
       |  !                        |  |
      | │                   〈   !
      | |/ノ二__‐──ァ   ヽニニ二二二ヾ } ,'⌒ヽ
     /⌒!|  =彳o。ト ̄ヽ     '´ !o_シ`ヾ | i/ ヽ !  領民より年貢を納めさせるには、女を扱うようにすべし
     ! ハ!|  ー─ '  i  !    `'   '' "   ||ヽ l |  男を御すような態度ではならぬ
    | | /ヽ!        |            |ヽ i !    by水戸光圀
    ヽ {  |           !           |ノ  /
     ヽ  |        _   ,、            ! , ′
      \ !         '-゙ ‐ ゙        レ'
        `!                    /
        ヽ     ゙  ̄   ̄ `     / |
            |\      ー ─‐       , ′ !
           |  \             /   |
      _ -‐┤ ゙、 \           /  ! l  |`ーr─-  _
 _ -‐ '"   / |  ゙、   ヽ ____  '´   '│  !  |     ゙''‐- 、,_




相手が女なら双方気持ち良いわけだが、男に突っ込んでも痛がるだけである。
年貢を取るなら、領主と領民、双方喜んで徴収できるように心がけねばならない。
652人間七七四年:2010/01/12(火) 21:44:05 ID:SRxoAxyr
細かい事言ってすまんが
寛永生まれで従軍経験ない水戸アナル様の話は全然戦国の逸話じゃないだろ常考
653人間七七四年:2010/01/12(火) 21:50:08 ID:jOazsnk8
そうだけど多少の脱線ならOKじゃね?
654人間七七四年:2010/01/12(火) 22:06:53 ID:E6zVvrmw
蒸し返すようで悪いが、伺候席で私語厳禁なら
秀忠〜家光時代の大名同士の逸話はあり得ないかもしれないけど
真偽は問わずに逸話として楽しみましょうってことでおk?
655人間七七四年:2010/01/12(火) 22:08:59 ID:tcZElVhz
永禄十三年(1570)、武田信玄による、駿河花澤城攻めの折のことである。

城攻めの真っ最中に寄せ手の武田軍、初鹿伝右衛門がふと、同僚の名和無理之介に
こんなことを言い出した。

初鹿「なあ、あそこの城の上げ戸、閉まってるだろ?」
名和「ああ?閉まっているな。」
初鹿「アレ上げてこいよ。」
名和「俺が!?」

しかしその上げ戸のある場所には、城方より激しく矢弾が降り注いでいた。

名和「…ムリムリ。あんな攻撃の激しいところで戸を上げられるものかよ。」
初鹿「ほう…、無理…だと!?」

とたんに初鹿立ち上がり、ものすごい勢いで城の縁まで駆け寄るとその上げ戸を押し上げた!
さらに諏訪越中も初鹿の後に続き、手に持つ鎌槍にて上げ戸をさらに高く押し上げた!
もちろん矢弾の雨あられの中を、である。

そうして陣に帰って来ると、「お前無理って言ったのに、俺達上げちゃったよ〜」と、
初鹿と諏訪、無理之介が具足の上に着ていた、高名な縄の羽織りを無理矢理はぎ取り、

「お主は無理を通すから無理之介と名乗っているはずなのに、
今回”無理”だと言って断ったよな?
よって以後、無理之介と名乗らないように!」

と言って捨てた。

この事、この後四郎勝頼の扱いにより、無理之介に縄の羽織りは返還されたが、
甲府では

『無理之介 道理之介に名はなれや 無理なることをする身でも無し』

と言った落書が出るなど、無理之介さん、もう散々だったそうである。


「あのバカどもは平気で嫌がらせに命を賭けるから大嫌いだ。」
名和無理之介、そう言ったとか言わないとか。
656人間七七四年:2010/01/12(火) 22:13:47 ID:qjJTbErB
「嫌がらせに命を賭ける」を比喩でなくホントに命かけてる話は初めてだw
657人間七七四年:2010/01/12(火) 22:39:25 ID:/MGFo+Y/
大友家が大国のまま維持していれば、現在の大分県はもっと経済発展していたかな?
658人間七七四年:2010/01/12(火) 22:45:53 ID:dAmiLUFD
宗麟はともかく息子があれじゃ望めないな、きっとすぐに改易されるはず。
キリスタンのままだと島原みたいになるかもしれないし
659人間七七四年:2010/01/12(火) 22:48:04 ID:d6SnNuIP
関ヶ原合戦に勝利した東軍は翌日から直ぐ様、石田三成の居城である佐和山城を攻めるため行軍を始めたその時のお話

17日になっても街道は多数の軍勢、そしてそれを支える小荷駄の駄馬によって大渋滞をしていた
相当、苛立っていたであろう家康はある小荷駄に目を向けた
それは小荷駄を載せた馬三十疋、野陣小屋道具を載せた馬三疋で、家康は誰の小荷駄かと聞いたが小荷駄の者は恐れて
(これからも相当、不機嫌であったのが垣間見える)告げなかったが側衆が阿部左馬介(おそらく阿部正次、当時二千石、31歳)
と告げると、
「今時の若い者は、この程度の陣でこんなにも陣道具を持ち歩くとは腹立たしい、昔の者ならこんなことは無かった」
と大そう腹を立てていると、今度はそれ以上の小荷駄馬に、小屋道具付の馬十三疋の行列が通った
当然の如く、怒り心頭の家康は腹立たしく誰の行列かと尋ねると
「渡辺忠右衛門(おそらく渡辺守綱、所謂「槍の半蔵」、当時、三千石、58歳)」
と変事が返ってくると家康、
「…………」
何にも言えずにそのままスルー
同じく老功の水野左近(二千石)にも特に何も言わず、これを見た供の者は忍び笑いを禁じえなかったという

自分で勝手に上ったとはいえ、老巧の家臣に梯子を外された家康
三河武士はこういう点もKYなのであった
660人間七七四年:2010/01/12(火) 23:35:23 ID:QAQ/FOb+
>>654
実際はそこまで厳しいもんじゃないよ
江戸城内の大名間刃傷沙汰なんかだと、普通に雑談がきっかけで発生してることも多いし
661人間七七四年:2010/01/12(火) 23:45:53 ID:xlqmC7/u
秀忠や家光くらいまでの大名って、戦闘狂というか文官タイプと言われてる人間ですら、
戦場でドンパチやるのが当たり前のごついオッサンどもだろうから、
そうそう型にはまって大人しくしてられるとは思えないし、戦を知らない若い侍が意見できるとも思えないしなあ
662人間七七四年:2010/01/12(火) 23:54:44 ID:QAQ/FOb+
大名間の刃傷だと思ってたら、旗本間の刃傷の誤認だったでござるorz>雑談
663人間七七四年:2010/01/12(火) 23:55:19 ID:tcZElVhz
つーか「私語厳禁」って言う規定があったとしても、それは
儀礼の最中でもガンガン私語をする学級崩壊も真っ青の現実が有ったから。
664人間七七四年:2010/01/13(水) 00:10:54 ID:p8ZCnyij
御三家に準ずる外様筆頭の藩主が殿中で金玉見せたりする世界だからな
学級崩壊なんてレベルじゃない
665人間七七四年:2010/01/13(水) 00:16:01 ID:64mCZX0X
>>659
この逸話は全く知らなかった。良かったら後学のため出典を教えてもらえませんか?
666人間七七四年:2010/01/13(水) 00:45:04 ID:+KxuH9Uf
>>665
俺は659じゃないけど

「板坂卜斎記(卜斎覚書)」
ttp://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013493&VOL_NUM=00000&KOMA=23&ITYPE=0
の左ページをご覧下され
667人間七七四年:2010/01/13(水) 00:46:24 ID:kfhcBDAa
>>655
諏訪さんまで何やってんだw

一応タグがわりに
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-352.html
668人間七七四年:2010/01/13(水) 00:54:58 ID:64mCZX0X
>>666
おお、ありがとうございます!大感謝。
669人間七七四年:2010/01/13(水) 01:28:08 ID:7PqzFwVf
>>659
当時はやっていた小屋道具の持ち歩き、って行為そのものを家康が好きじゃなかったみたいだしなあ。

 でも関ヶ原の前後で雨に降られたときはどうしたんだろ。
670人間七七四年:2010/01/13(水) 01:34:42 ID:QNUHWoNO
長陣や野戦築城の概念が織豊時代にだいぶん発展したけど、
そういうのもひっくるめて家康嫌いだったのかね?

戦闘力の維持って観点からすると、陣小屋の常備はむしろ準備のいいことなんだが。
こないだの秀忠の作戦計画くさした話もあわせて、どうも感覚の古さが目立つなぁ。
671人間七七四年:2010/01/13(水) 02:44:10 ID:64mCZX0X
神子田正治の出奔

小牧長久手の戦いの時のことだ。
秀吉草創の頃からの配下であり羽柴四天王の一人とされ、竹中半兵衛よりその
後継を託されたとも言われる神子田正治は、尾張二重堀城より撤退の際、後勢が崩れたのを
知ってか知らずか、自分だけ先に引き上げた。
秀吉はこの事を非常に不審に思っていたところに、神子田が首を一つ携えてやって来た。

ともかくも秀吉、神子田に「今に始まったわけではないが、いつもながらの戦功見事である。」
と賞した。ところが神子田

「これを褒められるとは何事か!?」

秀吉にくってかかった

「あなたがこんな小事を褒めるようでは、人々は皆匹夫の働きに心を入れ、
大利の了見を失ってしまうでしょう!
こういう場合あなたは軍全体への影響を考え、私を一方的に叱り飛ばすべきなのです!」

秀吉はこれに激怒した
「お前のような輩が、そういう小事を勤めずして何を勤めると言うのか!?
分をわきまえず過言を言うこと甚だしいわ!」

神子田言い返す
「大利、小利を分ける事無く、ただ戦いに手を砕くことだけを功と言う者は暗将である!
あなたには謀り事が足りない!」

「お前は先に敗軍した上に、敵の攻勢を阻む努力もせず後勢を捨てて撤退したではないか!
そのような者に大軍の勝敗がどうして解ろうか!?
お前のような者を大臆病の至と呼ぶのだ!」

「あなたは目が暗く理非と言うものも知らない!誠に暗将と言うべき人だ!」

そう言い捨て、神子田は出奔した。


神子田はむしろ、秀吉の為に成る事を考えて行動していた事、これも確かであろう。
そして秀吉も又、古参である神子田に対して気を使っていた。
しかし本質的に二人は、人間として合わなかったのであろう。そしてついに、双方のその感情が
爆発してしまった。

そんな事を感じさせる話である。
672人間七七四年:2010/01/13(水) 04:16:34 ID:BetKXrmN
そのあと帰参しなけりゃよかったのにね・・・
673人間七七四年:2010/01/13(水) 04:39:21 ID:QDrLWf57
家康なら面倒くさい三河武士で耐性があるから大丈夫だっただろうけどな
秀吉に食って掛かっちゃダメだろ・・・
674人間七七四年:2010/01/13(水) 05:48:59 ID:/l8L37/0
ドモンと東方不敗みたいだな  
675人間七七四年:2010/01/13(水) 08:49:37 ID:otXsx6rj
>>659
身軽さ・機動力を重視するのが家康ですな。
676人間七七四年:2010/01/13(水) 10:43:34 ID:+ZTsfTuk
神子田さんなんというバッドエンドフラグwwwww

ま、結局秀吉は上に直言するタイプが一番嫌いですからね。
黒田さんみたいにワンクッション置ければ命くらいは助けてもらえますがw
677人間七七四年:2010/01/13(水) 12:09:03 ID:3DViXSrz
>>659
家康は兵站をあまり重視してなかったのかな?
「戦争は兵站で勝つ」という格言もあるのに
678人間七七四年:2010/01/13(水) 12:18:48 ID:Rmxhg43m
>>677
兵站は重視する
ただし、それによって機動性が損なわれるのをより嫌う
つまり何事もバランスが重要と言う事

家康は特に隠密行軍や急速行軍で先手を取り、早期決戦を仕懸けるのを
好むから、長期対陣を前提とした多量の陣道具を嫌ったのでしょう
大阪冬の陣で糧食が不足した時に後方に集積させておいた物資を取り寄せる
という命令を出しているので、必要になったら取り寄せるという形かと
679人間七七四年:2010/01/13(水) 12:28:07 ID:ACNTX/+4
659は家康にしちゃ、らしく無いというか軽率な発言だな
たぶん関ヶ原で勝利の興奮状態が収まってなかったんだろう
佐和山城、大坂城を落とさないとまだ安心できない頃だろうし
680人間七七四年:2010/01/13(水) 12:32:33 ID:64mCZX0X
つーか佐和山城攻めは、石田軍と言うものが既に崩壊している上、
徳川家ではなく小早川らが寝返りメンバーが先陣となって攻撃するんだから
家康の配下がそんな重装な城攻めの準備をする必要は全く無いわけで。
徳川軍はむしろ、なにか突発的なことがあった時のための機動性を確保しておく事こそ
必要だった。

そういう全体状況を見ること無く、旗本たちが四角四面に攻城戦の準備をしていることに
家康は怒った、と理解すべきでは。

それに戦国のベテランが兵站を軽視するなんてことはありえないよ。
681人間七七四年:2010/01/13(水) 12:48:34 ID:9fjkhSn4
つうか、家康って結構軽率なこと言ってるでしょ
特に晩年は
人間なんだから間違いはあるけど
年取ると何にでも腹立てて説教臭くなるよね、つう説話の一種な気がする
682人間七七四年:2010/01/13(水) 12:49:10 ID:Rmxhg43m
家康は兵站を理解していたからこそ、長期戦を嫌ったともいえる
「こんな金のかかる戦争ができるか!」
683人間七七四年:2010/01/13(水) 13:12:22 ID:8PvVkVNO
兵士雇う金も無駄でござるよ
684人間七七四年:2010/01/13(水) 13:15:19 ID:ACNTX/+4
ああ、それが正解かもなw
家康は自分の懐の痛まない外様大名を利用するのが上手いわ
685人間七七四年:2010/01/13(水) 13:40:53 ID:PSH7/UF2
>>676
案外三成はそういう神子田とかの行く末を見てたから
秀吉に上手く接していれたのかも。
686人間七七四年:2010/01/13(水) 13:49:51 ID:9fjkhSn4
>>683
利家乙
687人間七七四年:2010/01/13(水) 15:26:52 ID:aaGkxu3d
てらわろす
688人間七七四年:2010/01/13(水) 16:20:24 ID:z0VVrbvQ
仙台長大根

ある時、伊達政宗は次男の忠宗を連れて江戸城に登場した。
忠宗が伊達家を相続することになったので、その挨拶のためである。

将軍にお目見えする前に、奥の控えの間に入ると、
前田公、島津公らがすでに到着しており、
時間があったのでお茶を飲みながらお国自慢を始めた。

島津公は桜島大根を自慢した。
前田公は備前備中カブラを自慢した。

次は伊達殿の番、となったが、政宗ははたと困ってしまった。
なにしろこの時代、牛タンもなければ萩の月もないのである。
だが何もないとは勿論言えない。

「中田大根という長さ五尺(約1.5メートル)の大根があるよ!」

と、咄嗟に大嘘をついた。
勿論そんな長い大根は見たことがない。その場にいた一同吃驚して、
是非一度見せてくれと政宗に頼み込む。
これは困ったと思ったものの、あると言ってしまった以上は嘘とは言えない。
では次の登場の折に持参してお目にかけよう、ということになってしまった。

将軍とのお目見えもすみ、祝儀もいただいて帰ってきた政宗は、
急いで国許から大根を持って来るよう、家臣に言いつけた。

「同じ太さの大根十本を持ってくるように」

早速仙台へと向かった家臣は、
言いつけどおりの大根を十日ほどで持って帰ってきた。
政宗はその大根十本を上手に切り合わせ、
切り口には土をつけてカモフラージュ。
見事に五尺長さの一本の大根にと仕立てさせ、
それを持参して皆に見せたのである。
将軍も見たいと言うので、家臣にそーーーーーーーーっと運ばせて
お目にかけた。・・・・・・何とか上手く誤魔化した。

それから仙台地方で取れる大根を「仙台長大根」と呼ぶのだそうな。




※政宗以外の名前がはっきり出てきていないのはソースままです
民間伝承ベースなので信憑性はゆるゆるです
689人間七七四年:2010/01/13(水) 16:32:50 ID:qJU+XmUM
中田大根が仙台長大根に化けた話か
690人間七七四年:2010/01/13(水) 16:43:43 ID:QwVj/tBq
このころって守口大根って無かったのかな
691人間七七四年:2010/01/13(水) 17:41:20 ID:lnq+IXxi
根元に土をかぶせ、伸びてきたらまたかぶせれば、長く育つ……のは白ネギか
692人間七七四年:2010/01/13(水) 17:50:51 ID:p4goAWZI
鰈で懲りてなかったんだな。
693人間七七四年:2010/01/13(水) 18:34:23 ID:kvRFQv6x
この話はこっち向きかな、と。

武田勝頼の耳に、家臣某が敵方と内通しているという情報が入った。
勝頼は山県昌景に相談し、密かに抹殺することが決定。山県は配下にこの命を伝えた。
この話を聞いた三井弥一郎は、まだ家督相続もしていない少年でありながらその首を狙った。

某「ん?俺の家の前に鶏抱いたガキがいるぞ?(結構カワイイな……)」

弥一郎「あの、すいません。ぼ、僕、帯びがほどけちゃって……」

某「(おお!ナマの太もも!!)で、俺になにか?」

弥一郎「結び直したいんで、ちょっとだけ、僕の鶏抱いててもらえないかな?」

某「おう、そうか(太もも太もも)」

弥一郎「スキあり!!」

某「げ!?」

鶏で両手が塞がっていた上に、目線も変な部分を注視していてはどうにもならない。
あっさりと殺られてしまった。
この功に山県も大いに驚き、家督相続を許し、以後は三井吉盛と名乗った。

が、やはり年少であったためか、山県の戦死時には従軍していなかったようだ。
しかし山県同心衆の中心としてその後も忠義を尽くし、本能寺の変後には河尻秀隆を討っている。
後に徳川家臣井伊直正に仕えたが、長久手で討死したという。

694人間七七四年:2010/01/13(水) 19:27:33 ID:ZiyIIiv8
話の主役が弥一郎なんだからこれはいい話
695人間七七四年:2010/01/13(水) 20:10:17 ID:9fjkhSn4
なんだろう、徳永寿昌もこんな逸話あった気がする

原典とかがあるんだろうか
696人間七七四年:2010/01/13(水) 23:07:26 ID:jzstffgI
逆に考えるんだ
美少年の脚チラに惑わされて死ぬのは戦国にはよくあることだったと
697人間七七四年:2010/01/14(木) 00:45:18 ID:T3rTxCfn
鶏持った子が来たら気をつけようということか
698人間七七四年:2010/01/14(木) 02:10:23 ID:krI2NeOO
○○「結び直したいんで、ちょっとだけ、僕の鮭抱いててもらえないかな?」
699人間七七四年:2010/01/14(木) 07:42:40 ID:wVJPxhgy
義光
700人間七七四年:2010/01/14(木) 08:14:01 ID:ahqzR10A
>>696
杉良サマみたいな腿チラ、褌チラでゼニの取れるイケメンだったんだろうねw
701人間七七四年:2010/01/14(木) 08:57:50 ID:atwj6awi
鬼武蔵の最後

小牧長久手の戦い。
森長可は羽黒で敗戦したが、その後長久手において非常に勇猛に戦った。
その常軌を逸した勇猛ぶりに、長可に付いていた池田恒興の家臣伊木清兵衛忠次は心配し、
長可の袖を取って言った

「武蔵殿、あなたの今日のお働きは、あまりにかぶき過ぎている!(今日の御働、あまりに
かぶき玉ふにこそ)」

これに長可

「敗軍の将は二たび謀らず!」

そう言い捨ててますます先へと突出し、ついに討死したのだと言う。


一度敗戦した者は、作戦などは考えずただただ戦ってその恥をすすぐものだ、と言うことであろうか。
勇猛をもって鳴った鬼武蔵らしい、その最後でもあろう。
702人間七七四年:2010/01/14(木) 09:25:03 ID:EsJb+vf0
武蔵も最期は空気を読んで自ら退場したんだよ
703人間七七四年:2010/01/14(木) 10:12:24 ID:qV/9BShq
>>701
鬼武蔵を知ってるはずの人間にこれだけ言わせるんだから、
敵方はさぞかし恐怖だったろうなあ・・・
704人間七七四年:2010/01/14(木) 12:31:43 ID:6VrafLWX
鬼武蔵と言えど敗戦を覆す力は無かったと言う事だな。
705人間七七四年:2010/01/14(木) 14:06:23 ID:IRp25Mpq
>>703
大阪のときだっけ?
鬼武蔵の居る戦に比べれば余裕だろって、家康が部下を励ましてたの
706人間七七四年:2010/01/14(木) 17:20:07 ID:G+dyJ0+m
>>700
某「ゼニじゃなくてタマ取られました……」
707人間七七四年:2010/01/14(木) 18:41:27 ID:g5vOvzrp
鎧に白装束羽織った目の危ない人が暴れてたらそりゃ狙撃もされよう
708人間七七四年:2010/01/14(木) 20:53:38 ID:p0O362to
「戦国武将は命を賭けて戦ったんです」
度重なる萌えキャラ化に縁者らが激怒
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1219830792/
709人間七七四年:2010/01/14(木) 20:54:53 ID:qu1+Z+1G
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1219830792/
文化 [創作発表] “またまた騙されて創作発表板に飛ばされた訳だが”

専ブラじゃあ丸見えだから馬鹿携帯釣りたいの?
710人間七七四年:2010/01/14(木) 22:12:16 ID:9v8vTekR
>>701
・゚・(ノД`)・<しょ、勝ちゃん・・・・
711人間七七四年:2010/01/14(木) 23:34:47 ID:atwj6awi
>>693
この三井弥一郎の三井家は、弥一郎も含めて四代の当主が戦場で討死したんだよなー。
まさに武門の家。

>>705
関ヶ原の時ですな。
712人間七七四年:2010/01/15(金) 00:23:07 ID:we7PRanc
>>709
無粋だぞ
713人間七七四年:2010/01/15(金) 06:53:45 ID:IqTPIK8h
スレの流れとも全く関係ない「無粋」な釣りスレイラネ
714人間七七四年:2010/01/15(金) 09:47:25 ID:I8T1JW+/
>>703,707
鬼武蔵ほどの武将なら自分の名をあげるために
刃を交えて討ち取ろうとするのが普通だよな。

勇敢で立派なな者に対して、「あのような者を鉄砲で討つなど以ての外」
と言ったなんて逸話もあるくらいだし。

よっぽど鬼武蔵は恐れられてたんだな、敵からも味方からもw
715人間七七四年:2010/01/15(金) 09:54:08 ID:rofx8h/u
いなくなって敵味方双方から喜ばれてたもんな
716人間七七四年:2010/01/15(金) 10:04:10 ID:lQd8MWbh
某漫画で一躍脚光を浴びた流派創始者と忠利のお話

故あって細川忠利に仕えた松山主水
剣術指南になってからは忠利の剣の腕前もめきめき上達し
あの柳生宗矩から一本取れる程になったという。
父・忠興からも「こいつは凄い!」という文が何度も来るほど
剣の腕前であったがある時、主水が忠利と弟子・村上吉之丞へ
自らの剣術の奥義の中である「一文字」と「八文字」を伝えると言った。
剣術道場では人払いがされ、他の者は道場の外へ出て三人のみが残った。
しばらくして、道場から「ドシーーーーーン!!!」という物音が響いた。
その後中から忠利と吉之丞が道場から転がるように出てきたという。
二人の顔は真っ青であったそうな。

忠興、忠利を驚かせる程だったんだから相当な使い手だったんだろうが
それにしても一体中で何があったのか…

忠利公の心臓に「悪い」話
717人間七七四年:2010/01/15(金) 10:31:40 ID:BP6+3zm+
でも意外と兜首は意図的に鉄砲で狙撃されてたりする
雑賀なんかになると兜首の狙撃を主要戦術にしてたし
718人間七七四年:2010/01/15(金) 10:54:29 ID:tShVr14X
>>716
一と八でさえそれなら、十だったらどんなことになるんだろうな。
719人間七七四年:2010/01/15(金) 10:58:43 ID:Gg4LPdUF
4つに分かれた忠利の死体と伝授失敗じゃ…とつぶやく主水の姿
720人間七七四年:2010/01/15(金) 12:22:45 ID:ZKKg+ifp
DQNとシグルイマニアがたまげるてどんだけだよw
721人間七七四年:2010/01/15(金) 12:31:44 ID:Xhs932er
ttp://homepage3.nifty.com/ganryu/sub/mosiryou.htm
忠興と忠利が松山主水について述べてる文書↑が現存してるんだよな。
これをみると忠興のほうがかなり買っている感じ。
722人間七七四年:2010/01/15(金) 16:05:54 ID:J9JXBIrV
秀吉の九州征伐において、軍監として九州に赴いた仙石久秀が、戸次川の戦いで
島津軍に大敗し、久秀が軍監を解任、改易されたこと、これは有名であるが、
実は久秀の後任の軍監も、おなじ目にあっている。
羽柴四天王の一人、尾藤知宣である。

豊臣軍による高城攻略の最中、宮部継潤の守る根白坂砦に島津軍が夜討を仕掛けたとき、
羽柴秀長らは援軍を出すことを主張したが、軍監の尾藤はこれに慎重論を唱えた。

「仙石の時のように、これが罠であったらどうするのか。」

秀長もそれを了承したが、秀長麾下の藤堂高虎は独断で救援に出撃、これにより島津軍は
大損害を受け撤退した。
撤退の情報が入っても、尾藤は慎重を旨とし追撃を控えさせた。

この報告を受けた秀吉は激怒。すぐさま尾藤を軍監から解任、改易させた。
九州征伐の軍監は、二代続けて改易されたのだ。

さて3年後、小田原の陣が起こる。

仙石久秀は早速甲冑に身を固め、諸侯に先駆け一番に秀吉のもとに参陣した。
秀吉はこれに大いに感じ入り、彼に山中城攻めを命じた。久秀の帰参はかなったのだ。
ところが尾藤の方は、小田原陣が終わった後剃髪して、下総の古河にいた秀吉の前に、
許しを乞いに現れた。

秀吉は「尾藤」と声をかけ、さらに自分の馬を引き出させ尾藤にそれを乗らせ、これを見物する
などをした。尾藤は秀吉のこの扱いに大いに喜んだ。が、下野において突然、「尾藤を成敗せよ」と
命を下した。

尾藤知宣は耳鼻を削がれ、さらに手足を斬り落とされた上で首を撥ねられるという、
残忍な殺され方をしたのだと伝わる。


仙石も尾藤も、同じく秀吉草創の頃からの古参であり、又同じ頃改易を受けたのに、どうして
これほどまでの違いが起きたのか。

「仙石は小田原陣が始まる前に参陣したのに、尾藤がお目見えしたのは北条降参の後だったためだ。」
「そもそも九州の時、仙石はやるべきではない戦をしたが、尾藤はやるべき戦すらしなかった。
同じく法に背いたとは言え、尾藤の方には勇気が無い。ここが根本的に違ったために、
秀吉の扱いも異なったのだ。」

人々、この二人の異なった運命について、この様に語り合ったそうである。
723人間七七四年:2010/01/15(金) 16:42:05 ID:Cn8SFSK4
長宗我部信親・十河存保「そんな勇気誰得だよ……」
724人間七七四年:2010/01/15(金) 17:28:05 ID:0Da3/Ulr
長宗我部元親「最初から尾藤の方を軍監にしといてくれよ……」
725人間七七四年:2010/01/15(金) 17:28:12 ID:BP6+3zm+
生駒親正「俺得です^^」
726人間七七四年:2010/01/15(金) 17:40:57 ID:ThXfyU+D
>>722
仙石「秀久」じゃないの?
727人間七七四年:2010/01/15(金) 18:01:31 ID:JbKwQv2X
仙石ちょっとばつが悪い話でした。
728人間七七四年:2010/01/15(金) 18:05:53 ID:J9JXBIrV
>>726
おわあ、又妙なミスを…

ま、まとめに載せるときは直しておいてくださいorz
729人間七七四年:2010/01/15(金) 18:38:27 ID:EEDKRzxJ
そのレス含めて乗せて貰えw
730人間七七四年:2010/01/15(金) 18:41:55 ID:DfJvOv/F
>>701さん、よければ出典教えてください><

疑うとかそういう意味じゃなくて参考までに。
731701:2010/01/15(金) 19:51:24 ID:4gKuJLcB
>>730
これは山鹿素行の「士談六 勇」からです。
原典は多分他にあるんだと思います。
732人間七七四年:2010/01/15(金) 19:56:44 ID:DfJvOv/F
>>731
ありがとう!
733人間七七四年:2010/01/15(金) 21:48:03 ID:LAJQBi9d
戦国時代、税制・軍制を求める一般的な知行高はいわゆる「貫高」であった。
田で収穫することのできる平均の米の量を通貨に換算するこの貫高
貨幣経済の発展に伴い全国的に普及した。

しかしながら貨幣の自給ができなかったことや粗悪な鐚銭の流通などで
十分な貨幣流通量を確保することができず
豊臣秀吉による太閤検地によって、知行高は支給される米の容積による「石高」となる。

が、豊臣政権時代どころか江戸時代になっても貫高制が存続している家があった。
信州の真田家である。
兵農分離が進んでいなかった真田家では貫高制の方が都合が良かったとも言われるが
なぜ石高制への転換が行われなかったのかは謎である。

さて仙石氏がやってきた時、上田領一帯の検地帳はttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-826.htmlの一件により消滅していた
改めて検地を行うこととなり、同時に石高への切り替えを試みたのであるが
なんと収入が減ってしまうという自体が生じた。
それほどまでに従来の貫高制による課税基準は重かったのだ。当然石高への切り替えは中止されている。

「知行一貫文は二石四斗七升」という換算基準が対外的には使われたものの
年貢の取り立て等の藩内行政ではあくまでも貫高が使われ(土地に関する文書も貫高・石高の順に併記されている。)
昌幸時代の貫高制による課税基準は仙石氏、松平氏の時代を経てそのまま明治維新後の地租改正を迎えてしまった。

余談だけど重税をかけ過ぎると農民の一揆や逃散が起きて問題になるため
歴代上田藩主は年貢に関して様々な減免処置をおこなっている。
真田時代も同様の処置があったか、あるいは文書ではわからない他の収入源があった可能性はある。
まあ信之時代には農民の逃散が起きているんだけど。
734人間七七四年:2010/01/15(金) 22:48:11 ID:g6q7W8YO
非常に興味深いが、どうして悪い話なんだ?
735人間七七四年:2010/01/15(金) 22:49:36 ID:e7OjaBdK
農民にとって悪い話だな
736人間七七四年:2010/01/16(土) 00:03:12 ID:0q5qgUGa

>734-735 九度山への仕送りが厳しゅうてのう……
737人間七七四年:2010/01/16(土) 00:03:31 ID:+GOgm4VM
仙石秀久の場合、家康のとりなしがあるから神子田や尾藤とは
同列に語れないんじゃないか?
738人間七七四年:2010/01/16(土) 00:11:34 ID:hjmVr/dD
>>736
ねえ、焼酎買う金が足りないんだけど?
739人間七七四年:2010/01/16(土) 02:36:10 ID:rSUcAW6M
>>736
馬を見たい、とびきりの名馬を送ってよこせ
740人間七七四年:2010/01/16(土) 03:58:21 ID:31q/DS8V
>>736
にぃちゃん、また子供が出来ちゃった☆テヘッ♪
741人間七七四年:2010/01/16(土) 05:08:27 ID:dIhw0H/p
>>736
紐作るのも飽きたから仕送り増やして
742人間七七四年:2010/01/16(土) 07:19:13 ID:aK9+XBDl
こないだ送ってもらったシャケうめー
ところで仕送りマダー?(チンチン
743人間七七四年:2010/01/16(土) 09:30:20 ID:hrff6A8M
弟がそんなんだからお兄ちゃんの寿命が縮むんだよ…
744人間七七四年:2010/01/16(土) 11:31:15 ID:wy8LJF85
信之「だって、うちの弟は大人しくって我慢強い子なんだもん。
   面倒見てあげたくなるじゃない」
745人間七七四年:2010/01/16(土) 11:32:28 ID:PYGLn7EB
>>736
今の妻にばっかり子供産ませたらほら、かわいそうじゃん?
だからもうちょっと側室増やしたいなあって思うんだよね〜。
兄貴だって大名だし理解ある奥さんだから、いっぱい側室いるんでしょ。
いやあ、モテモテ兄弟って困るよねw
746人間七七四年:2010/01/16(土) 12:29:57 ID:aK9+XBDl
親父さんが老害ジジィに濡れ衣着せられて死んじゃった娘がいるんだけど
可哀そうだったから側室にしたよ
747人間七七四年:2010/01/16(土) 13:26:28 ID:ZOdy4nUy
>>737
何で家康は秀久をとりなしたのかという新たな疑問も生じるけどな。
748人間七七四年:2010/01/16(土) 13:31:00 ID:IIQl8aID
何でセンゴクをとりなしたんだろうな
749人間七七四年:2010/01/16(土) 13:45:01 ID:1jWIrI4S
単純に気があったんじゃねーの
面識が有ってもおかしくはないし

お気に入りの仙石を惜しんだ秀吉に、おもねった可能性も有るけどね
750人間七七四年:2010/01/16(土) 14:03:51 ID:hFNX2S8R
まぁ秀吉の気質つかんだ復帰時期の選択が結局一番大きい気もするけどな。

参陣して手柄を立てて見せましょう!
勝ったから気をよくしていて許してもらえるかも!
とかの底意すぐ読めるだろ。

自分が上の意を見る仕え方の達人だったんだし。
だからって達磨はねーよwとは思うが
751人間七七四年:2010/01/16(土) 15:59:26 ID:yfpUDm8W
まーくんが来た頃にくればギリギリ間に合ったものを・・・

つーかまーくんも一歩間違ったらこの仕打ちだったんだろーか
怖い怖い
752人間七七四年:2010/01/16(土) 16:25:58 ID:ZYcHOQUs
お金を借りたい


弘治四年(1558)、大和宇智郡(現奈良県五條市)でのことである。

百姓一揆「国人一揆さん国人一揆さん」
国人一揆「なんだ!?徳政令ならお断りだぞ!」
百姓一揆「いや…、それもちょっと関係あるんですけどね、去年酷い日照りだったじゃないですか?」
国人一揆「ああ、ひどかったなあ」
百姓一揆「あのおかげで不作になって、生活がめちゃめちゃ苦しいんですよ。それでお金が無いので
      金融業者から借金しようと思ったんですが…」
国人一揆「借りればいいじゃないか。」
百姓一揆「それが業者の奴ら、徳政を警戒してわしらに金を貸してくれないんですよ!」
国人一揆「そりゃあそうだろうなあ。おまえら困ったら徳政一揆起こすもん。
      俺らもずいぶんひどい目にあった。」
百姓一揆「で、国人一揆の皆さんに、誰か金の貸し手を斡旋してもらいたいんですが?」
国人一揆「俺たちが!?なんでそんな事を!?」
百姓一揆「もうあなた方しか頼れる所がないんですよ!お願いです。高野山の僧でもなんでもいいので
      誰か斡旋してください!」
国人一揆「そう言われてもなあ…。紹介したあと徳政一揆なんて起こされたら、
      我々の信用問題になるし…。」
百姓一揆「金さえ貸してもらえれば、今後最低10年間は徳政の訴訟を起こさないことを誓います!
      それにこのまま我々が困窮して村から逃散でもしたら、国人のみなさんも困るでしょ?」
国人一揆「まあ確かに…」

と、まあこんな事があり、宇智国人一揆はその影響力を行使し金融業者に百姓への貸付を承認させた。
その上で国人一揆と百姓一揆は相互に、お互いの中で徳政一揆を企てる者がいたら、その者を
処分すること。幕府や守護が徳政を実施してもそれに従わないことを誓い合った。


まあ、いい話とも悪い話とも言い難い感じですが、
百姓などに取って良いことのように思われがちな徳政令には、こういうマイナス面が有ったんだよ、
と言うお話。
753人間七七四年:2010/01/16(土) 16:52:43 ID:iO3b0vlW
>>727
結局は人間の相性、好き嫌いの違いなだけって気も。
754人間七七四年:2010/01/16(土) 16:54:35 ID:IDWtn/N5
>>752
面白い
755人間七七四年:2010/01/16(土) 17:54:45 ID:19LZRvQZ
>>753
好き嫌いだけでかつての部下を惨たらしく殺すなんてさすがラスボス、という話だよね。
756人間七七四年:2010/01/16(土) 18:04:36 ID:9m/4zBCk
>>755
今回の件に関しては最初から命取る気じゃなかった所に、
最悪のタイミングで突っ込んできたんだから、ある程度仕方なかろう
北条戦の段階で事実上東北も皆恭順して居るから、基本的にもう戦は無い
そこにのこのこ来るのは、相当空気読めない行為だし
757人間七七四年:2010/01/16(土) 19:35:28 ID:999i72LI
小田原攻め前期:ラスボス覚醒直前
小田原攻め後期:ラスボス第一次覚醒
758人間七七四年:2010/01/16(土) 19:35:33 ID:999i72LI
小田原攻め前期:ラスボス覚醒直前
小田原攻め後期:ラスボス第一次覚醒
759人間七七四年:2010/01/16(土) 19:48:38 ID:x4IqsnTg
大事な事なので(ry
760人間七七四年:2010/01/16(土) 19:59:08 ID:ayw8/G14
佐竹さん家の引越しにまつわるゴタゴタ話

関ヶ原の後、数世紀にも渡って支配した常陸から出羽秋田へと転封になった佐竹義宣
水戸から出るのにも車丹波斯忠が駄々こねたりして大変だったけど、やっとこさ秋田へ引越したらさらに大変だった

それは新たに築く城地の選定から始まった
候補は二つあり、一つは横手、もう一つは久保田
この二つのうちどちらに城を建てるかで家中が真っ二つに割れてしまったのだ

横手を推すのは先代義重以来の宿老達
久保田を推したのは義宣と子飼いの若手達

宿老達曰く
「横手の地はまさしく天然の要害にて山城を作るにはもってこいの場所
加えて、家祖新羅三郎義光様が後三年の役の際にご活躍された縁地でもある。まさに義光様の思し召しだ」
と、熱烈プッシュ。

が、結局は港も近く土地も広大であり、街道や城下町を作るに適した久保田へ城を建てることになり、わずか1年あまりで久保田城は完成
この後、義宣派と宿老達の溝は深まるばかりで、遂には義宣と渋江内膳政光の暗殺計画にまで発展する訳ですが
それについてはこちら↓に

佐竹義宣、近世大名への脱皮
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1042.html

761人間七七四年:2010/01/16(土) 20:00:07 ID:4ZEszlpG
小説的解釈で「秀吉は統治方法を信長に学んだので過酷な処置をあえて行った」のだと言ってみる
762人間七七四年:2010/01/16(土) 20:41:39 ID:n5+dzAJ2
>>760
漫画になったやつだな読んだことある
763人間七七四年:2010/01/16(土) 20:59:02 ID:8r+nW5og
>>760
うーん・・・・そういうネタは既出の一種なんじゃないかな
764人間七七四年:2010/01/16(土) 21:00:45 ID:hjmVr/dD
>>760
それで終わり?
続きの書き込みがあるんじゃないの?
765人間七七四年:2010/01/16(土) 21:37:26 ID:Uruj26UE
上杉謙信は機嫌がよいとき、たびたび家臣たちに

「川中島の戦では武田の小伜(義信)にしてやられた。今でも悔しい」

と語っていた。やがて義信が切腹し、その報を聞くと謙信は

「信玄は了見ちがいをしおった。惜しい大将を殺して勝頼に家を継がせる
とは悲しきことよ……」

と義信の死を嘆いたという。
766人間七七四年:2010/01/16(土) 22:21:52 ID:r3O8+XC9
そういう謙信も駿河攻めで手薄の信濃に攻め込んで留守居の勝頼がわずかな手勢で
迎撃に出てきた時にはその勇猛さに頬を染めて撤退していったという…
767人間七七四年:2010/01/16(土) 22:23:28 ID:ZYcHOQUs
>>765
> 川中島の戦では武田の小伜(義信)にしてやられた。

何をどういう風にしてやられたのか、って部分を言い残してくれているとありがたかったんだがなあ。
768人間七七四年:2010/01/17(日) 01:08:51 ID:ygQpLZoo
義信が次々に越後勢を蹴散らして謙信に迫ったとかいう話じゃね。
一方で義信が越後勢の挑発に乗って突出したせいで
陣形が崩れた武田軍は危ない目にあって
信玄と義信が不和になったという話もあるんだが。
769人間七七四年:2010/01/17(日) 01:27:25 ID:Frn25LJO
昔の人もやっぱ、なんで義信殺したんだよ…と思ってたんだな
770人間七七四年:2010/01/17(日) 01:49:28 ID:TjfmWbEy
川中島と言えば
信玄実弟の典厩信繁を討った刀が典厩割国宗といって佐竹家に伝わたのは有名な話だが
なぜかまとめサイトでは小豆長光になってるんだよな

つうか、この刀について刷り上げ以外の逸話は既出だったかな?
いい話悪い話がいくつかあるんだけど
771人間七七四年:2010/01/17(日) 02:06:48 ID:Ao1KEMSq
秋田の魚と言えばハタハタ
佐竹義宣の秋田転封後に秋田沿岸に押し寄せるようになったとも言われ、秋田の民衆はサタケウオとも呼んだ。
子持ちハタハタの卵はブリコと言い、その食感からそう呼ばれてる。
こう一般に伝わる話だと、佐竹の殿様はハタハタが大好きだったようだが、異説がある。
佐竹義宣は鰤が大好きだったが、秋田では鰤がなかなか手に入らず、出される魚は秋田で嫌というほど獲れるハタハタばかり。
鰤を食べたい食べたいと募る思いから、ハタハタの卵をブリコと名付け、自らを慰めてたそうな。

ソースは10年くらい前に読んだ新聞記事。何新聞の何面かは覚えてない。
新聞のこの手の記事は記者の紙面埋めのでっちあげが多いのであまり信用できない。
772人間七七四年:2010/01/17(日) 08:27:46 ID:tols9rfi
>>771
上三行既出
773人間七七四年:2010/01/17(日) 09:26:26 ID:DmEgY63A
>>772
文章全体で判断してやれよ
既出でも前置きとしてならアリなのでは?
774人間七七四年:2010/01/17(日) 12:15:18 ID:8jTvGoyI
戦国時代末期、四国の東半分に覇を唱える三人の兄弟があった。

といっても、父親は同じではない。
阿波守護細川持隆の子、真之。
その家臣である三好義賢の子、三好長治と十河存保。

天文二十二年に義賢が持隆を弑した際に、
真之の母である側室小少将を娶ったことで兄弟となった、異父兄弟の三人である。

父の世代が亡くなった後も権力と怨恨の関係はそのまま息子たちに受け継がれ、
天正五年に失政ばかりの長治を長宗我部氏と阿波国人の支持を得た真之が阿波で攻め滅ぼすと、
すぐさま讃岐を治めていた存保が阿波に入国して三好方の体制を整え、
五年後の天正十年十一月、真之の守る茅ヶ岡城を攻め落としてこれを自害せしめた。

細川真之を支持していた長宗我部元親は、こうした混乱を見て阿波に出兵。
同年八月の中富川の合戦で三好家の勢力を阿波から駆逐することになる。

と、いう流れが長宗我部氏の四国統一の流れで定説となっているが、だが少し待ってほしい。
日付を追いかけてみれば、どうにも順番がおかしくはないか。
史書に残る中富川の合戦は、天正十年八月二十八日。
勝瑞城の落城は同年九月二十一日で、一方三好軍による茅ヶ岡城攻略は十月八日。
つまり大打撃を受けて讃岐方面に駆逐された三好方が、
その直後に長駆して阿波の東南部(那賀郡那賀町)にある細川真之の城まで遠征軍を送り込み、
周囲の長宗我部方にも制止されることなく城を攻め落として帰還した、ということになる。

諸書に残る日付が間違っているのか、あるいは攻め滅ぼした側が伏せられてしまったのか……
ちなみに同年、細川真之の子で三好家支配を逃れるため反三好の雄・畠山高政の養子となり、
四国に戻ってからは長宗我部氏にしたがっていた畠山之照が謀反の咎で誅殺されたという話も見える。

今となっては確かめるすべもない話だが、はたして真之殺害の実態は……?
そんな悪い話の予備軍っぽいお話。
775人間七七四年:2010/01/17(日) 12:34:31 ID:xxBlnurE
>>774
面白い。ミステリーの香りのするお話だなー。
長曾我部の四国統一の過程も、史書には出てこない、相当の紆余曲折が有ったんだろうね。
776人間七七四年:2010/01/17(日) 14:46:38 ID:MNxgQFfr
>>770
亀だが、kwskおしえてちょーだい
777人間七七四年:2010/01/17(日) 14:51:14 ID:MNxgQFfr
>>774-775
お母ちゃんの話はコッチで出てるね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2181.html

小少将は後に元親の側室にもなっててもう、わけわからん
778人間七七四年:2010/01/17(日) 14:52:14 ID:KkN8aK1K
相当長くなるけど一個投下していい?
779人間七七四年:2010/01/17(日) 14:56:24 ID:KkN8aK1K
ごめん長くなるけど投下します。

宇佐美家の系譜1 

上杉家の軍師として有名な「宇佐美定満」
その最後も謀反の疑いのあった長尾政景と共に野尻湖に沈んだという
最後まで上杉家の為に忠義を尽くした。

しかし、その息子「勝行」は「定満」の
「自分の死後は宇佐美家を取りつぶしてほしい」
という遺言通りに上杉家を解雇されてしまう。
その後、勝行は仙石秀久、黒田孝高、佐々成政など、
他家を転々としながらも武功を重ね、
一時は一万石の知行をもらうまでに出世したが、
最後は、つまらないイザコザで追い出され故郷の越後で病没した。

そして、その息子「勝興」は越後の稲垣家に仕えるがこれも出奔。
その後、尾張徳川義直に仕えるが、ここでもうまくゆかず出奔。
今度は、水戸の徳川頼房に仕えたがすぐに立ち去ってしまった。
しかしその後、高野山で紀州徳川頼宣と出会い「浪人分」として仕え
頼宣の軍学の師匠として仕えその地で病没。

最後「勝興」の息子「定祐」は徳川頼宣に正式に家臣として採用。
その後は軍学者として名を馳せたのであった。

以上、宇佐美家四代の波乱に満ちた系譜でした・・・・・・



では、終わらない。
実はこれのほとんどが嘘かもしれないのだ。
780人間七七四年:2010/01/17(日) 14:57:34 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜2 


宇佐美定満の孫「勝興」が水戸への就職が決まりかけた時。
米沢藩主の上杉景勝が「宇佐美といえば我が旧臣。ぜひわが藩に」と申し出た、
ところが、かつて謙信にも仕えていた畠山義春に宇佐美家について問い合わせてみた所


「宇佐美定満には息子がいなかった」と答えた。


そのせいで米沢への就職はかなわず水戸を追い出されてしまった。
では「勝興」とは一体何者?そしてなぜ徳川頼宣は軍学の師匠として仕えさせたのか?

じつは、この「勝興」元は越後の稲垣家に仕える料理人の息子、
若い頃から軍学が好きで甲州流軍学などを学んでいた。
そして「宇佐美定満」の子孫と嘘をつき尾張などに仕える事になるのだが、
畠山義春に嘘を見破られ尾張を出奔するはめになる。
そして、高野山にいた所で徳川頼宣と出会い紀州に就職するのだが、
すぐには、紀州に行かず十一年もの間大阪住まいを命ぜられる。

さて、「勝興」大阪で十一年もの間何をしていたのか?

それは「歴史の偽造」である。
781人間七七四年:2010/01/17(日) 14:59:02 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜3 


詳しい説明は省くが「勝興」はここで宇佐美家に伝来されたといわれる
大量の古文書の偽造を行っている。
それは、また畠山義春の時のように嘘を見破られては困るので、
何としてでも自分が宇佐美定満の子孫であるという証拠作りたかったのだ。

この偽造は息子「定祐」にも受け継がれ、
「定祐」も「北越軍紀」とその裏付けとされている一次史料の数々の偽造を行った。
そして畠山義春の息子に「父の発言は間違いだった」と証文まで書かせている。


だが、ここでこの宇佐美親子最大の嘘が作られる、それは

「宇佐美定満は謙信の軍師でもなんでもなかった」
782人間七七四年:2010/01/17(日) 15:02:32 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜4 


宇佐美定満が謙信の近臣に当てた手紙にこういうのが残ってる。

「私には現在に至るまで知行を一カ所も渡されていない・・・・」
「私が無力なので家来たちはやる気をなくしている・・・・・」

何とも情けない手紙であるが、これを見る限り
定満は軍師としてどころか全く信用されていなかったようだ。
実際の宇佐美定満は、この手紙を最後に史料からは一切姿を消してしまっている。

しかし、なぜここまでする必要があったのか?

全ての黒幕は、紀州藩藩主「徳川頼宣」である。
783人間七七四年:2010/01/17(日) 15:04:08 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜5 

徳川頼宣は家康の十男で、二代将軍秀忠により紀州藩初代藩主に命ぜられている。
今でこそ、紀州徳川と言えば「水戸」「尾張」と並ぶ御三家として名が知れているが、
当時は、将軍家の分家といえどもなにかあれば容赦なく取りつぶされてしまう。

そこで、徳川頼宣は紀州を「最強の軍事国家」にしようとし、関ヶ原や大坂の陣など
戦国末期に活躍した武士の子孫を新たに召し抱え、まず「最強の軍団」を作り上げた。
頼宣は「最強の軍団」と「最強の軍学」がそろってはじめて
「最強の軍事国家」が作られると考えていた。

当時は、甲斐の武田信玄の軍学である甲州流が流行り将軍家もこの甲州流を取り入れていた。
その将軍家に対抗しようと、信玄相手に互角に渡り歩いた謙信の越後流を取り入れようと考えた。
そこで、宇佐美の子孫という事になっている「勝興」と出会うのである。


そこで、徳川頼宣は上杉軍の軍師「宇佐美定満」を作り上げ、
その子孫を軍学者としてでっち上げ、「最強の軍学」を手に入れたのである。

徳川頼宣そして宇佐美親子の大掛かりな歴史偽造の話。
784人間七七四年:2010/01/17(日) 15:06:18 ID:KkN8aK1K
以上です。
賛否両論あると思いますが、好きな話だったので投下しました。
あまりに長文&説明不足なところがあるとおもいますが、
ご勘弁ください。
785人間七七四年:2010/01/17(日) 15:16:37 ID:nzfDT6cQ
『誰が歴史を捏造したか』だな。
吉宗の時代に定着しちゃったんだろう。
三河物語も槍玉に挙げられている。
徳川260年の罪のひとつ。
786人間七七四年:2010/01/17(日) 15:20:51 ID:8jTvGoyI
太田資宗「家系の偽造とは感心しませんな」
787人間七七四年:2010/01/17(日) 15:24:17 ID:xxBlnurE
まあ逸話と言うよりも「仮説」ではあるな。
788人間七七四年:2010/01/17(日) 15:31:57 ID:SNLuR1KS
「宇佐美定行」という架空の人物に対して下すべき評価と若干混同してない?

資料価値では高く見られてる諸国衆太刀乃次第写じゃ、家臣団の序列十五位につけてるし、
軍師説は疑わしいけど宇佐美定満が相手にされてなかったてのはもっと疑わしいな
789人間七七四年:2010/01/17(日) 15:33:14 ID:CGf880kT
まぁ面白かったから良いではないか
推理小説でも読んだかのようだわ
真偽鑑定なら検証レがやってくれるさ
790人間七七四年:2010/01/17(日) 15:33:24 ID:w8fy5LPv
劉備「家系捏造なんて、そんな事する奴の顔が見たいですな」
曹操「全くだ」
孫堅「然り然り」
楊堅「不正をしても天が見ており、地が見ておる以上、いつかはばれるものだと私の先祖も言っておりました。」
李世民「秦漢よりの名族で、母方は漢皇室の外戚に連なる、紛う事なき漢人であるところの私にも到底信じられません。」
791人間七七四年:2010/01/17(日) 15:46:13 ID:KkN8aK1K
>>788
「北越軍紀」のなかでは「定行」が「定満」に改名した。
とあるので、「定満」に統一しました。
多分「定祐」は実在の「定満」をベースに
架空人物「定行」を作り上げたんではないかと自分は考えています。

これも、説明不足ですね。すいません
792人間七七四年:2010/01/17(日) 18:38:09 ID:TjfmWbEy
>>776
俺も又聞きなんで、色々不明点は多いけど

佐竹義重の初陣の際、その活躍を伝え聞いた謙信は大変に喜び
『我が軍略を継ぐのは貴方しか居ないと確信しました。
この刀は老後の杖代わりにしようと思っていた物ですが
我が魂と思い、是非受け取ってもらいたいものです』
と一振りの刀を贈る

その刀こそ川中島で信玄の実弟、典厩信繁を討ったと伝わる典厩割国重であった
義重と謙信はその後、急速に仲が冷え込んだり、また改善したり、
謙信の後継者、景勝から兄の様に慕われたりしながら時代は進むが
義重はこの刀を大変大事にし、後に自らの後継者、義宣へと伝わる事になる

それからしばらくたったある日、義宣の脇差しに目をとめた義重が
『あれっ、なんか見たこと無い脇差しだな。それなに?』
と問うたところ
『ああ、これは親父から貰った国重だよ。長くって持ち歩くの大変だから、刷り上げて脇差しにしたんだわ』
これには義重大変なショック、刀の魂が失われてしまった、と嘆いたと言われる
とまぁ、ココは大体既出の話

ある日、大阪の役で助けられたりして兄とも慕う景勝と城中で出会った義宣は
他の幾人かを交え、朗らかに世間話をしたりしているウチ
『そういえば、典厩割国重とかいう銘刀が佐竹さんの所にあるそうですけど』
と、某者から問われる
『ええ有りますよ。謙信公から贈られたらしいんですが…』
と義宣が答えるやいなや、
『国重は当家の宝で御座る。従って当家に今も存在して御座る!』
と何故か景勝が突然青筋立てて大激怒。一転一触即発の空気に様変わり

なら出してみろ、宝だから軽々と出せん、と言い争いケンカ別れして有耶無耶に
刷り上げの話を聞いて憤ったのか、謙信が義重を後継者のように言ったと伝わったのが
気にくわなかったのか…その後この刀にまつわる話は出てこないので不明

ただ後々別段両家の仲が悪くなったわけでも無いのが不思議なところ
793人間七七四年:2010/01/17(日) 18:39:00 ID:yrH0fCGK
江戸時代初期の各藩・各家形成期に、色々とあったのは確かだからね
家系図に限らず
794人間七七四年:2010/01/17(日) 19:27:30 ID:BDM8OJ6M
川中島の戦いで武田の家臣・長坂長閑は、上杉謙信が乗り捨てた
名馬・放生月毛を拾った。長坂は馬に乗ると

「ハハッ、流石の謙信も馬を捨ておった。」

と謙信を嘲笑った。するとこれを聞いた武田信玄は非常に怒って

「馬が疲れたら乗り替えて当然。そのまま戦に負けて中間どもが
馬を捨てて逃げることもある。そんなことも分からずに輝虎が弱い
など浅知恵というものだ。」

と長坂を叱った。その三年後、信玄は謙信の噂を耳にした。なんでも
川中島の戦いのときに、謙信は和田喜兵衛を一騎だけ供にして越後に
戻ったが、越後に到着して馬から下りると、すぐさま和田を斬りすてた
という。これを聞いて信玄は

「うーむ、謙信ほどの武士でも負けたときには取り乱すこともあるのか…。
武士はいかなる場合でも自分を見失ってはならない。」

と言った。
795人間七七四年:2010/01/17(日) 20:12:53 ID:n+YlODGb
796人間七七四年:2010/01/17(日) 20:28:56 ID:eykGDK9W
>>795
逸話イコール史実というわけではないから
>>794>>794として見ればいい。
797人間七七四年:2010/01/17(日) 20:37:00 ID:E0lPuqBo
元が同じ話から派生した逸話の色んなパターンからその人がどう思われてたかかいま見えたりするしな

まてよ、酒の失敗ばっかということは市松は今も昔も…
798人間七七四年:2010/01/17(日) 20:58:17 ID:WnsQz/Gt
酒で失敗しない市松は市松じゃないやい!w

あいつはあれでいいんだよ、今も昔も、これからも・・・
799人間七七四年:2010/01/17(日) 21:14:53 ID:goPKDwN0
過去進行形だな
800人間七七四年:2010/01/17(日) 21:21:02 ID:fEUFKsVP
>>797-798
正則「・・・・・・」
801人間七七四年:2010/01/17(日) 22:17:45 ID:xxBlnurE
昔々のお話

陸奥は宮床(現宮城県黒川郡大和町宮床)という所の谷川に、カジカと言う魚がいた。
このカジカ、同じ谷川にいる鮒と非常に仲が悪く、お互いにいつか倒してやろうと虎視眈々と
その機会を狙っていた。

ある時ついに鮒が決起!背びれを剣のように尖らせて「今日こそカジカの奴に一泡吹かせてやる!」
と、カジカの姿を探しまわった。

が、谷川のどこにもカジカの姿が見えない。次第に鮒は疲れ果て、ついうとうとと眠ってしまった。

その時である。それまで石の下に隠れていたカジカはそっと鮒に近づくと、その鋭い歯で
尾びれに噛み付いた!
鮒はこれにたまらず、谷川から逃げ出した。

鮒が逃げた先には泥鰌や鯰がいた。彼らはこの話を聞いて、
「生意気なカジカめ!俺たちが敵を打ってやるッ!」と、谷川へと攻め寄せた。
が、やはりカジカの姿はどこにも無く、疲れてうとうとした所に、密かに近づいたカジカによって
尾びれを噛み付かれ逃げ出した。そういうわけでこの谷川は、とうとうカジカが独占することとなった。

さて、これを聞いたのが伊達政宗である。

「なんとあっぱれなカジカだ!そのカジカをここに連れてこい!」

そう宮床の領主に命じた。領主は谷川のカジカを捕え政宗のもとに届ける。
届いたカジカに政宗は、「偉いカジカである」と、早速これを焼いて旨そうにムシャムシャと食べた。
嗚呼、激しい生存競争に勝ち抜いたカジカも、最後は政宗の腹の中に収まってしまったのだ。

ちなみに政宗、この負け知らずのカジカを食べてから、その後は戦で負けることが無くなったそうである。
縁起がいいようなカジカが気の毒なような、宮城に伝わる昔話である。
802人間七七四年:2010/01/17(日) 23:18:56 ID:t9DQnr6n
>>799
非常に分りやすい概念で説明してくれたな。
おまい、中学生に英語を教えてやれ。
803人間七七四年:2010/01/18(月) 00:30:47 ID:48MeXIGa
>>788
「宇佐美定満」については「謙信は俺のこと重用してくれない」とか
なんとか愚痴ってる書状が残ってるんじゃなかったっけ?
ともあれ、義春よりずっと謙信の傍にいて政景を実父に持つ景勝が
宇佐美家に嫡男がいたかどうかを知らないわけがないので
景勝が「宇佐美の子孫ならうちにこい」って言ったのは
本物じゃないと分かってたうえでの妨害だろうな。
804人間七七四年:2010/01/18(月) 01:46:59 ID:bfS5Vm2m
呼び寄せたあとで
謀殺するつもりだったのだろうか。

イヤー、戦国時代は怖いね。
805人間七七四年:2010/01/18(月) 02:05:33 ID:3Z+6/pSi
富田長繁と富樫政親
806人間七七四年:2010/01/18(月) 08:47:35 ID:7INnT5/F
最初の部分で創作だという事がわかるな
まぁ昔話なんてそんなもんか
807人間七七四年:2010/01/18(月) 09:09:04 ID:Oc9sZeq2
死後に家が潰されたって時点で、やっぱ策略でもなんでもなく不祥事だったんだろうな>宇佐美定満
808人間七七四年:2010/01/18(月) 09:18:56 ID:3m+csMAt
>>801
食うのかよ!w あんなに褒めてたのに…
809人間七七四年:2010/01/18(月) 10:58:03 ID:YOc0tLi1
>>801
         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|          あ…ありのまま (ry


「偉いカジカである」と褒められたと思ったら喰われていた…
810人間七七四年:2010/01/18(月) 11:40:25 ID:ud5K8EBm
定満と定行の違い、ややこしいな・・・上手い覚え方ないか?
811人間七七四年:2010/01/18(月) 13:09:47 ID:U/qJEbUZ
>>801
なーんだ、単なるまんが日本昔ばなしか!
・・・と思ったら最後にDQNがおまけに付いてきていたでござる
酷い友釣りでござる
というよりマグロの延縄漁で本マグロが釣れたと思ったら人食い鮫だったでござる!・・・ぐらいの気分
812人間七七四年:2010/01/18(月) 13:55:17 ID:+pWEYxsn
宇佐美の死後にすぐさま上杉一門が枇杷島城に入って枇杷島氏を称しとるし、
いろいろとなんかありそうだけどね
813人間七七四年:2010/01/18(月) 17:06:54 ID:v9OsxzXn
「真の後継者は」


森忠政とその子忠広・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-444.html

寛永10年(1633年)森忠政が嫡子、森忠広が色々あって30歳の若さでこの世を去る。(上記逸話参照)
これにより忠政の実子はみな親に先立って亡くなった事になり、忠政は新たな後継者を決める事になった。

忠政「やはり関家の兵助かなぁ・・・」

まず最初に頭に浮かんだのが関兵助(当時24歳)。兵助の父の関成次は忠政の娘を娶っており兵助は忠政の外孫にあたる。
更に成次の母も森可成の娘であり兵助は森家の血を色濃く引き継いでいる。それになかなか聡明な男であった。
そういう訳で後継者を関家の兵助に定めた忠政は早速、津山に兵助を江戸へと呼ぶ書状を送った・・・のだが

忠政(いや・・・待てよ。果たして本当に兵助でいいのか?)

書状を出した後で忠政はにわかに変節する。
というのも忠広は徳川秀忠の養女を娶ったいわば将軍家の準一門だったのであるがその後任が家臣筋の関家というのも如何なものかと思ったのだ。
やはり未練があったのか忠政は家格的に考えてもっと良い後継者を考えた。

忠政「本多家の唐之助!そうだあの子にしよう。」
814人間七七四年:2010/01/18(月) 17:07:50 ID:v9OsxzXn
そこで思いついたのが忠政の娘婿である本多忠義(忠勝の孫)の子である唐之助であった。ただ当時2歳の子供である。
しかしながら思いついたら即行動、忠政はすぐに本多家の屋敷に行くと交渉に乗り出した。
実はこの当時はまだ忠義と忠政の娘の子は唐之助一人しか居ないので本多家としても思うところあっただろうが忠政は無理やり話を通してしまった。
こうして唐之助の森家への養子縁組の話が決まったのである。しかしながら忠政は兵助を江戸に呼び出したという事はすっかり忘れていた。

忠政「『兵助は津山に帰れ』・・・と。これでよし」

唐之助に継がせると決めたので兵助は津山に戻るように書状を出した・・・のだが。

兵助「ただいま到着しましたぞ」
忠政「え・・・?手紙は?」
兵助「届きましたが納得行きませぬので処断覚悟で参りました!」

兵助としてもあそこで引き返せばもはや自分への相続は無いという事を悟ったのか忠政の手紙の言い付けを破って江戸へとやって来てしまった。
森家の濃く血を継ぐ自分の方が本多家から養子を取るよりふさわしいと熱弁する兵助と関家付きの家臣達。
忠政も帰れとは言いにくい雰囲気になってきて悩んでしまった。兵助か、唐之助か、決めねばならない。
答えに窮した忠政は細川屋敷へと駆け込んだ。

忠政「という訳でかくかくしかじかで〜どっちにしよう?」
三斎「俺に聞くんかい・・・まぁいいけど」

相談するのはもちろん親友の三斎どの。
そうして話合った結果、「本多家に謝って養子縁組を白紙にしてもらい、やはり兵助が跡を継ぐ。」という事に決まったのである。

そして同年10月8日。忠政のの決定を受けた老中酒井忠勝と細川忠利(忠興のお節介で同席)の2人が幕府に届けを提出。
これによって関兵助改め関家継。後の津山藩2代藩主、森長継が誕生したのである。
815人間七七四年:2010/01/18(月) 18:42:55 ID:aiEybyub
>>801
それ、自分が聞いたパターンだと

「ワシは負けるのが嫌いだが、その川魚はいつでもカジカ(勝つか)!
めんこい奴じゃな、よし、その魚を祝魚としてお正月のお雑煮の、
上に乗せて添えることにしよう。正月にカツは縁起がよい!」
と政宗が言ったので、それ以来
海辺の家ではカジカの親類のハゼ、
山辺の家ではカジカを添えるようになったそうな。

という感じになってたが、やっぱり食われてた。
816人間七七四年:2010/01/18(月) 18:47:08 ID:q576OTkr
まあ魚は食べてなんぼだよね
817人間七七四年:2010/01/18(月) 18:48:24 ID:mYUUi8sV
飾っても生臭いだけだしな
818人間七七四年:2010/01/18(月) 22:04:24 ID:Kz5RExKQ
黒田長政は後藤又兵衛と、主従でありながら武功を競い、戦場においては常に先陣を争い、
危険な場所に真っ先に突き進むため、黒田家の士卒は合戦が終わっても安心することが無く、
長政が帰陣するのを見て初めて生きた心地がした、と言う。

黒田家の宿老、栗山備後利安、井上周防、黒田美作と言った者たちはこれを諌めたが、
長政は

「もし、父如水がいないのならば、わしは大将として重々しく本陣に有り、先手は息子の忠之にまかせるさ。
だが今は父上がいらっしゃる。父上がある以上本陣を気遣う必要は無い。
先手として合戦に出て、もしわしが討死しても、父上が生きていれば何の心配も無いだろう?」

そう言った後長政は、宿老達に聞いた

「ところで何事か有った時にわしの名代として出し、采配をとり軍勢を任せるのは
我が家中の内誰がいいだろうか?」

これに菅和泉守まかり出て

「御家は武辺によって成り上がった家ですから、家中のものは誰であっても、一角の器量を
持つ者ばかりであり、何事であっても出来ないと言うことはないでしょう。
しかし考えてみますと、既に大きな武辺をなしていて、さらに長政様の御名代として指揮を取ることが
出来るほどの者と言えば、これは後藤又兵衛しかおりませぬ。

高麗陣でこんなことが有りました。夜明けの頃我が陣の厩に虎が侵入し、馬を噛み殺して
暴れました。しかし我が陣のものは、そのあまりの猛威に誰一人虎に手出し出来ずにいました。
そんな所に駆けつけた拙者は、刀を抜いてこれに斬りかかったものの、その猛りようにどうにも
難儀していたところ、駆け寄った後藤又兵衛がたちまち斬り倒しました。

これは畜生を相手の事ではありますが、こんな時でも人に秀でた働きを見せる後藤は、
やはり家中において最も優れた武辺者である、と考えます。」

長政、これを聞くとたちまち機嫌を悪くし、座を立ちその場を出て行ってしまった、と言う。


しかし黒田家宿老の皆さん、絶対長政と又兵衛の対立を煽っているだろ。
って気がしないでも無いお話。
819奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/18(月) 22:09:50 ID:wnyj/5O8
それは仕方ない。又兵衛は官兵衛の庶長子なのだから。
8201/2:2010/01/18(月) 23:10:48 ID:DOyHMIQJ
美濃の梟雄、斎藤道三の婿は世に大たわけとの評判が高かったが、道三は信じなかった。
「皆が皆たわけと申すような者は、存外たわけでは無いものよ。俺みずから婿に会い、
事実を確かめてやろう。」

美濃と尾張の国境、正徳寺で婿と会見することになった道三は、婿を脅かしてやろうと、
寺の門前の街道に衣服を整えた八百人の家臣を並べて、自分は街道沿いの町屋に隠れ
婿の来るのを覗き見ようと、待ち構えた。

「こ、これはw」やって来た婿を見た美濃衆は、苦笑せざるを得なかった。

"…萌黄の平打にて茶筅の髪を巻き立て、湯帷子の袖を外し、のし付の太刀脇差、二つ
ながら長束に、みご縄にて巻かせ、太き芋縄、腕ぬきにさせられ、お腰の周りには猿使いの
様に火燵袋、瓢箪七つ八つ付けさせられ、虎革・豹革四つばかりの半袴を召し…''

現代で言えば、舅との食事会に金髪無造作ヘアに上半身は裸の上にアロハだけ、下は
ポケットパンパン、アクセジャラジャラのハーフパンツで来たようなものだ。
さらに「老人雑話」によると、"広袖の浴衣に、陰茎の図を大きく染めて…''となっている。
裸アロハにチ○コのバックプリントとか、道行くオバサンに汚い物でも見るような目を
向けられるレベルである。
8212/2:2010/01/18(月) 23:12:05 ID:DOyHMIQJ
だが、会見の場に姿を見せた道三の婿を見て、美濃衆は度肝を抜かれた。
"御髪折曲げに、一世の始めに結わせられ、何染置かれ候知る人無き褐色の長袴召し…''
先程までの金髪アロハが、黒髪オールバックにタキシードで現れたようなものである。

驚く美濃衆を尻目に、婿は広間を通り抜け、縁側の柱に背をもたせかけた。
道三が着座しても態度を改めぬ婿に、たまりかねた仲介役の堀田道空が声をかけた。
「こちらが、斎藤山城入道殿にござるぞ。」
「…で、あるか。」婿は道三に軽く一礼すると、席に着いた。
ようやく対面した舅と婿は、形ばかり食事を共にし、言葉を交わして別れた。

帰国の途上で、側近の猪子兵介が道三をなだめるように言った。
「いや、あの態度!やはりどう見ても、あれはうつけにござりましょう。」
「………」
あの早変わりも、無礼を承知で縁側に陣取ったのも、こちらを警戒し虚を突くため、入念に
準備してきたものだろう。
別れ際、美濃兵と尾張兵がすれ違ったが、尾張兵の槍の方が長かった。槍ぶすま主体の
歩兵の槍は、長い方が有利である。しかも長槍を整然と揃えて行軍するのは、かなりの
調練を必要とする。
…が、わが配下どもは、あの男の立居振舞いに気を取られ、そんな事は気付こうともせん。

"無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候。''
道三の苦い予言は、十数年後に現実のものとなる。
822人間七七四年:2010/01/18(月) 23:19:31 ID:F7C5rwlq
有名な話だけど、この話まだ出てなかったのか…
この話で散々扱き下ろされてる猪子さんは、
本能寺の時まで信長の側近として仕えて死んでるんだよな
それだけ長い間信長の配下で居れたのだから、
結構優秀な人だったはずなんだけど…この扱いはかなり可哀想だ
823人間七七四年:2010/01/19(火) 00:27:19 ID:un1BsL3u
一番かわいそうなのは義龍だと思うんだ。
このお話が広まった結果、
義龍時代は信長は美濃に足がかりも築けなかったこととかガン無視されることが多いし
824人間七七四年:2010/01/19(火) 01:01:40 ID:NnvdFm16
「前田家最大の見せ場・その真相」

前田家にとって唯一の、いや最大の見せ場「末森城攻防戦」。
佐々成政が急襲した末森城を守るのは、前田利家の部将・奥村助右衛門永福の兵五百余。
利家が最初に家来にしたという、村井又兵衛とならぶ二大功臣といわれる男だ。
その助右衛門の妻である「つね」も、身体が弱く普段は病床に臥していたにもかかわらず、
戦が始まるとと自ら薙刀を掻い込んで、城中を警護し、時には兵士に粥を振る舞ったり、酒をあたためて馳走したりした。
が、兵力にまさる佐々勢は水の手を断ち、さらに三の丸を占領、二の丸をも脅かしはじめた。

助右衛門「……もはやこれまでだな。城に火を放ち、潔く自害いたそう」
つね「何をたわけたことを……」
助右衛門「え?」
つね「昔、楠正成は全国の兵を相手に籠城したと聞いております。
   あなたは、たかが佐々の勢に囲まれただけでしょう!?」
助右衛門「……」

妻に叱りとばされた助右衛門は奮起、本丸のみにて佐々勢の猛攻に耐えた。

同じ頃、「兵が足りない」と援軍を渋っていた利家は、正室おまつから
「普段から兵も雇わず小金ばっか貯めてるからでしょうが!?銭つれて戦に行け!!」
尻を蹴飛ばされるようにして出陣。
前田利家の後詰が佐々成政の軍勢の背後から襲いかかる。
ここに形勢は逆転し、佐々勢は落城寸前まで追い込みながらも、末森の囲みを解いて越中へ向かって敗走した。

利家と助右衛門のちょっとかっこ悪い話。
825人間七七四年:2010/01/19(火) 01:23:46 ID:3aXtO5nr
>>823
そりゃ、義龍時代の信長は美濃にはまったくノータッチなんだから
信長の視点で語るのなら、義龍時代が触れられないのは当然だろ
826人間七七四年:2010/01/19(火) 01:33:48 ID:ZiJdnAGb
>>819
忠之出生が1602年で如水の没年が1604年なんだが、
どう考えても長政の言ってることおかしいような>上の方
しかし、長政なんてほとんど一人っ子みたいなもんで、
忠之できたのが30過ぎてからなのにあの突撃ぶりはやっぱり考えなしと言われても仕方がないと思ったり
827人間七七四年:2010/01/19(火) 01:33:53 ID:un1BsL3u
>>825
長良川合戦の後と永禄三年の桶狭間の後、
東側の脅威が少ない時期に頻繁にちょっかい出してるよ>信長

結果は得るところなく敗退してる
(長良川合戦の起きた弘治二年ごろは、三河で田峯菅沼氏や西郷氏、
奥平氏などによる大規模な反今川反乱が起きてて織田家はフリーハンドだった)
828人間七七四年:2010/01/19(火) 01:57:26 ID:miSDti95
義龍は強かったんだぜ・・・道三「息子は手ごわいぞ」
829人間七七四年:2010/01/19(火) 02:08:55 ID:zgmwIXkH
>>822
道三の息子である斎藤利治も二条城で死んでいる。
猪子もだけれど信忠付きというのはそれなりの位置だよね。
830人間七七四年:2010/01/19(火) 07:41:11 ID:O46BzNkO
息子にぶっころされてる時点で道三の目はもうろくしてたとしかいえない
831人間七七四年:2010/01/19(火) 08:50:27 ID:+Ob0JNxS
>>824
女は強いなw
対して男は情けないw
832人間七七四年:2010/01/19(火) 09:01:46 ID:O46BzNkO
「普段から兵も雇わず小金ばっか貯めてるからでしょうが!?銭つれて戦に行け!!」

現代日本の軍事費ももっとかけろという戦国の女からの警告だな
833人間七七四年:2010/01/19(火) 09:34:11 ID:KLPzMLPQ
>>832
軍事費にするなら俺にくれと利家君が言ってたよ
834人間七七四年:2010/01/19(火) 09:37:02 ID:3aXtO5nr
>>827
長良川合戦の後って道三救援にきた信長の撤退戦のことか?
桶狭間の後も信長は三河で兵を動かしていても、美濃への出兵はほとんどないよ。
それでも約七年にたった一度、他に主戦線がある状態でちょっと小兵をだしては退却しただけで
>美濃に足がかりも築けなかった
なんてまるで信長が何度も攻め込んではことごとく敗退したかのような印象を与える描写はどうかと。

別な例を出すと、明智光秀は丹波を攻略するのに最初に攻め込んでから足掛け四年かかった。
しかしこれも内実をみれば、最初の数ヶ月の作戦と敗退後はまるで丹波に手を出さず他方面の
戦争にかりだされていただけで全く手付かず。その後に再出兵した第二次で問題なく攻略成功。
これをもって、開始と終了の年月日だけをみて「波多野氏は光秀の攻撃に四年も耐えたのだ」
なんて言えますかね?
835人間七七四年:2010/01/19(火) 10:06:56 ID:KLPzMLPQ
波多野じゃなくて赤井直正の評価じゃないの?
836人間七七四年:2010/01/19(火) 10:48:05 ID:mejrptl4
>>834
義龍が良く国内を纏め、調略などを受ける隙を作らせなかった、
という意味では
>美濃に足がかりも築けなかった
という表現も良いと思うけど、少し噛み付きすぎじゃないか?w
他に主戦場が有ったのは、相対的に美濃に攻める価値が低い(経済的、地勢的、軍事的、名分的)からで、
その要素の一つに義龍の指導があったのはまぁ間違いないのだからねぇ。
837人間七七四年:2010/01/19(火) 16:13:23 ID:Ou3bGrow
信忠は美濃が領地だったから、現地の情勢に明るい人間を付けておいたってのもあるんだろうね
838人間七七四年:2010/01/19(火) 18:10:31 ID:V5td71de
美濃衆は岐阜城時代の信長の直下の遊撃部隊だったから
それを引き継いだだけとも言える
839人間七七四年:2010/01/19(火) 18:30:13 ID:CaFL7vUc
これかな?

死期が近いことを悟った元就は、輝元、元春、隆景の三人を呼んだ。
三人に元就はこう言った。
「各々、この矢を折ってみよ。」
それぞれに一本ずつ矢が渡された。三人は苦も無くそれを折ってみせた。
「うむ。では、次にこの三本に纏めた矢を折ってみよ。」
再び、それぞれに今度は三本ずつの矢が渡された。
輝元は折ることが出来なかった。しかし、元春は力任せに、隆景は膝を使って折ってみせた。
「父上、折ってみせましたが・・・?」
予定と違う。
元就は狼狽し、次の言葉に困った。が、こう言った。

「う、うむ。これはだな、三本の矢も折ることが出来ない輝元がこの毛利家を継ぐ。
 そこで、輝元は二人を頼りに、元春と隆景はしっかりと輝元を支え、
 三人協力して毛利家を守らねばならん。そう言いたかったのだ!」
840人間七七四年:2010/01/19(火) 18:35:26 ID:CaFL7vUc
ごめん板間違えた切腹しとく
841人間七七四年:2010/01/19(火) 18:38:18 ID:wvaw3V5v
元春ってそんなに(筋力的な意味で)豪腕な男だったのかな・・・
842人間七七四年:2010/01/19(火) 18:55:28 ID:hRkG090F
本人も誤爆っつってるし逸話じゃないって
コピペだよ
843人間七七四年:2010/01/19(火) 22:05:43 ID:m5pkqve0
既出の「伊達政宗と四人の客とつまみ菜の吸い物の話」にまつわるプチネタをひとつ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-308.html

この時、秀吉、家康、利家、政宗は、何の意味があるのかよくわからないが
夜着と着替えのつづらを一つずつ持ち寄って、四人枕を並べて寝て
夜通し昔話からなにからいろんな話をしていたそうな
・・・ってこれ合宿なの? そうなの?
その時の「今日あった面白話」的なネタとして熱々吸い物の話が出るわけだが
秀吉はもちろん座敷に伺候していた家来たちまで腹抱えて笑ったという

んで、実はその茶会はどうやら仲の悪い奴らをいっちょ仲直りさせるべかと
秀吉が仕組んで組み合わせたのを後から知ったよ・・・と書いてあったんだが
これどう考えても仲直りよりなんかおもろいことやるに違いないと期待して組み合わせたろとw

元々悪い話なうえに太閤殿下の人が悪い話なのでこっちに投下
それにしてもこの仲直り茶会(と見せかけたネタ振り茶会)で
家康・利家に誰が当てられたのかすごく気になるw
844人間七七四年:2010/01/19(火) 22:13:23 ID:297UVYYk
>>843
これはいい後日談w
しかし秀吉、家康、利家、政宗が枕を並べてるのって、またものすごい光景ではあるなw
845奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/19(火) 22:16:58 ID:OZp+qZJ/
まつの舞いを見まいぞ、か。
846人間七七四年:2010/01/19(火) 22:19:12 ID:1DcrVqkM
天下人とも思えないフリーダムさだなw
847人間七七四年:2010/01/19(火) 22:21:10 ID:c02/kciW
ラウンジ同盟下位の人が
どれぐらい兵力あるか教えてください
お願いします
848人間七七四年:2010/01/19(火) 22:22:26 ID:c02/kciW
すいません
誤爆しました・・・・
849人間七七四年:2010/01/19(火) 22:35:05 ID:rGWOtQ0a
この合宿はなんのために開催されたんだろうかw
850人間七七四年:2010/01/19(火) 22:42:22 ID:297UVYYk
ある時のこと、伊予の加藤嘉明と阿波の蜂須賀至鎮が同道して、江戸へと参勤の道を進んでいた。
途中、荒井と言う場所の西で、豊臣秀頼の使者として駿府の徳川家康の元に行っていた
片桐且元とばったり出くわした。

三人、「久々であるなあ!」と喜び、付近の原っぱに降りて共に弁当をとった。
この時色々物語しているうちに、蜂須賀至鎮がこんなことを聞いてきた

「私は若輩にて、昔の合戦の事など詳しくは知りません。加藤殿、片桐殿と言えば
賤ヶ岳七本槍として高名な方々です。もし宜しければ後学のため、賤ヶ岳の折のことを
語って頂けないでしょうか?」

これに嘉明「私は物忘れが酷くて、あの時の前後のことも覚束ない。市正、おぬしが語ってくれ。」
と、且元に任せた。そこで且元は賤ヶ岳の合戦の時のことを、一つ一つ「左馬介、左用であったな?」と
確認しながら話し、嘉明もそのたびに「うむ、その通り」と相槌をうっていた。

さて、いよいよ七本槍の活躍の場面に入る。

「あの時は、加藤清正が銀の馬藺串の指物にて真っ先に槍を入れた、
そこに左馬助と私が続いて槍を入れたのだ。」

話し終わると、嘉明は至鎮に向かって言った

「蜂須賀殿、市正の話は全部、ウソ偽りでござる。」

えええ!?あんなに相槌打っていたのに!?当然且元は激怒した!

「どこに嘘があったと言うのだ!?言ってみろ!!」

「これを見よ!!」

嘉明、荷物の中から、文禄二年七月十五日、朝鮮陣において敵の番船を沈めた時の
感状を取り出した。そこには

『その方先年、江北柳ヶ瀬表での柴田合戦の時、秀吉の眼前にて一番槍を合わせた。
その軍功は明らかである。』

とある。

「どうだ!それがしこそ一番槍である!」

これに至鎮は感服した。嘉明の言ったことに納得したのかどうかは分からない。
だがこんな所にまで感状を持ち歩いていた自身の武功へのこだわりには、
感服するほかないではないか。
そんな事より至鎮には、今目の前に緊急の問題があるのだ、


「お主を討ち果たす!」


加藤嘉明と片桐且元が口論の末頭に血が上り、お互いを斬り倒そうと刀を抜いて向い合っていた。

「おやめください!おやめください!!」

蜂須賀至鎮、この後さんざんに苦労してこの二人を引き離したと言う。


大坂の陣より前の時期の、微笑ましいエピソードであるw
851奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/19(火) 22:47:49 ID:OZp+qZJ/
不良親父の酔態にしか見えんね。
852人間七七四年:2010/01/19(火) 22:49:12 ID:al3b2xdh
>>774

小少将っつうより小娼将
853人間七七四年:2010/01/19(火) 22:51:52 ID:V5td71de
う〜ん
秀吉が死ぬ直前で無いとしたら、政宗と景勝は別に仲悪くないんだけどな
そもそも伊達と蘆名が敵対する様になったのは政宗が御館の乱の時に新発田支援を取りやめたからだし
政宗が最初に秀吉に対する取りなしを頼んだのが上杉だし
まぁ、会津移封後は立場上悪くなったかもしれんし、どう考えても気が合いそうにないから仲悪かったのかもしれんけどw
蒲生の方が適当だと思うけど、氏郷出ないって事は死んだ後かなぁ
そう考えるとやっぱり仲が悪くなっててもおかしくはないか
854人間七七四年:2010/01/19(火) 22:57:06 ID:JqlFoqax
>>850

「こんなこともあろうかと、感状を持ち歩いておった!」


・・・・・ごめんなさい言ってみたかっただけです
855人間七七四年:2010/01/19(火) 23:09:43 ID:ud45uYIE
>>850
これかわいいんだよなー
久しぶりに会って外でお弁当広げたり、口下手そうな嘉明と一々嘉明にも確かめながら話す且元とか
まあ簡単に果し合いに発展するんですけどね
武功へのこだわりって大事だよね
856人間七七四年:2010/01/19(火) 23:22:03 ID:wvaw3V5v
7本槍の末路を見ても、家を保つのは容易なことじゃないよなー
運がよかったのは脇坂ぐらいか・・・
857人間七七四年:2010/01/19(火) 23:22:56 ID:iCHt/S7V
>>850
且元にしてみたら確かに「いちいち確認しながら言ってやってたのに今更ふざけんなてめえ」だよなあw
858人間七七四年:2010/01/19(火) 23:52:38 ID:CrQnQvHX
>>853
うろ覚えだけど、政宗「と」仲が悪い面々じゃなくて集められたのがお互い
仲が悪い集団だったって話だった気がする。
加藤清正とは険悪になる要素もないと思うし。
特別仲が悪いメンバーというより、なんとなく気が合わなくて話が弾まないような
大名を集めましたっつー人選だったのかも。
859人間七七四年:2010/01/20(水) 00:33:10 ID:d78770MY
>>857
一々確認しながら話した結果最後の最後に譲れない相違点が出たからしょうがないんです
860人間七七四年:2010/01/20(水) 09:12:13 ID:QxLOfzjS
全部って言わなければよかったんだろうな。
最後が違ったので全部違うって言われたらお主を討ち果たす!しかないわw
861人間七七四年:2010/01/20(水) 10:22:39 ID:71BGgXUk
>>858
そもそも実際にあった話ではなく
後世の人が面白半分に作ったネタという見方も出来る。
862人間七七四年:2010/01/20(水) 10:28:19 ID:dNxDXqou
>>861
確かこの話は政宗公御名語集のやつだから
後世の人が〜というのはないと思う
まーくんが作った可能性はあるがw

名語集は治家記録にも引用されてるというし
作者不詳だけど成実が書いた説もあるっていう端書きがあったはずなんで
政宗没後にしても成立まではそれほど時間がたってないはず
ちょっと家帰ったら名語集見てみるわ
863人間七七四年:2010/01/20(水) 10:38:28 ID:r22TJ5RG
>>850
地味〜な組み合わせでもこれかよ....。
864人間七七四年:2010/01/20(水) 11:30:07 ID:WT8KokrI
>>861-862
それを疑ったら歴史資料はほとんど
・本人や家臣が作った(良い話など)
・敵対していた大名が作った(悪い話など)
・無関係の第三者がある事ない事書いた
・後世の人が作った
って見方ができるぞ?
865人間七七四年:2010/01/20(水) 11:36:57 ID:DI+PiNYC
本人や周りの人、その時代を知る人が作った逸話は興味深いわな。
本人の性格や回りにどう思われてるかが見えるし。
後世の人が作った、でもその時代にどう見られてたが見える。

今作ったは要らんw
866人間七七四年:2010/01/20(水) 11:53:48 ID:dNxDXqou
>>864
ああ、いや俺が言いたかったのは「ほぼ同時代に編纂されたものだよ」っていうことで
後世の人が作った話じゃないんだってことを言いたかった
名語集は政宗が側近に語った話をまとめたってことなので
成立年代の推測からしても、政宗から実際に話を聞いた人がまとめたもので間違いないと思う
だから「もし作ってるとしたら政宗本人だよね」と書いたわけで、特に他意はないんだ
言葉足らずでスマン
867人間七七四年:2010/01/20(水) 17:27:06 ID:1lyCSa2x
ものすごいうろ覚えプチネタなんだけど
仙台の博物館で

(●∀・)「今日人と会う約束してたんだけど二日酔いひどすぎワロタ
      人と会うとか無理だからお前適当にごまかしておいてくれな!」

って家臣の茂庭綱元に宛てた政宗の書状見たことがある
相手が誰だったか(そもそも特定されてたかどうか)忘れたんだが
まとめ見たら戸田康長な気もしてきた・・・でもけっこう頻繁にやってそうだしなw

茂庭綱元苦労してただろうな
868人間七七四年:2010/01/20(水) 18:28:21 ID:OocueCSR
>>867
そんな綱元は政宗から自分に届いた書状を
150通ほど保管していたという、お手紙マニア
その中には「読んだら燃やしてね!」と書かれた手紙も含まれている。

因みに現存する綱元宛の手紙のほとんどが政宗自筆なので、
保管されていた150通ほぼすべて自筆であっただろうと推定されている。
869人間七七四年:2010/01/20(水) 18:31:21 ID:MTiACbbd
なにかあった時の保険の為に持っていたんだろうか>「読んだら燃やしてね!」と書かれた手紙
870人間七七四年:2010/01/20(水) 18:37:48 ID:wqcS0o+c
ラスボスから貰った女房を奪われたり
子どもができたら押し付けられたりと
いろいろ苦労してるからなあ綱元さん…
871人間七七四年:2010/01/20(水) 18:45:32 ID:OocueCSR
>>869
「急いで書いたから読みにくいと思う。読んだら燃やすように」
「ごたごたしてる所で書いたから、内容が無茶苦茶なので、読んだら燃やすように」
と、知っているだけで二通あるらしい。
燃やしてやれよwといつも思う。

(他の家臣の片倉小十郎も白石宗実も「読んだら燃やしてね」と書かれた手紙を数通貰ったが、
後生大事に死ぬまで保存して、とうとう後世に残してしまった)
872人間七七四年:2010/01/20(水) 18:48:38 ID:MTiACbbd
>>871
あー、そういう方向の「読んだら燃やしてね!」か。
宴会のネタだな。
873人間七七四年:2010/01/20(水) 18:49:31 ID:khy8ZVIg
↓この話に出てきた人じゃね?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1260.html
874人間七七四年:2010/01/20(水) 18:50:43 ID:khy8ZVIg
スイマセン>>873>>867宛です
875人間七七四年:2010/01/20(水) 20:33:22 ID:GJ13FBvc
政宗の「読んだら燃やしてね」は、ダチョウ倶楽部の「押すなよ、絶対押すなよ!」に似ている気がしないでもないw
876人間七七四年:2010/01/20(水) 22:38:56 ID:AaHk54ga
燃やしたら燃やしたで難癖付けられそうなw
877人間七七四年:2010/01/20(水) 22:45:50 ID:ecvzL7Ce
元就の読んだら燃やしてねはガチなんだろうけどなw
878人間七七四年:2010/01/20(水) 22:51:07 ID:UTnXOJue
「父上の手紙燃やすくらいならオレが腹を切る」
879人間七七四年:2010/01/20(水) 23:06:38 ID:Al3S1n+g
ここで紹介された『おあむ物語』
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3396.html

さて、この「おあむ」は、石田三成の元、300石を知行した武士の娘なのだが、
自分の少女時代を、こんなふうに語っている

「私の着物は13歳から17歳まで、麻の帷子一枚だけでした。そのため最後の方は
着物の裾から膝が出てしまい、大変難儀したものです。」

19万石の石田家中において300石といえば、堂々の中堅家臣である。
江戸期の軍役で言えば、乗馬の当主に侍、槍持、馬の口取、甲冑持、小荷駄、草履取りの
六人がつく身分である。その娘であってすら、当時はこの様な生活であったのだ。

べ、別にぱっつんぱっつんでミニスカ状態の着物の裾から出る17歳の生ひざ小僧萌えとか
そういう事ではないぞ。間違えないように!
880奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/20(水) 23:12:08 ID:5qPwzSlA
おいしい話かよ。
881人間七七四年:2010/01/20(水) 23:24:57 ID:UbxDvaEO
戦国ちょっとエロい話だな。もっと頼む。
882人間七七四年:2010/01/20(水) 23:37:54 ID:qjjpWJF1
男子は大事にされても、娘は大事にされないって家もあるんだよ。
現代でもたまに。
883人間七七四年:2010/01/21(木) 00:07:08 ID:7jV7hz1v
中世では、女の方が大事にされたようだ。
人身売買でも、女の奴隷の方が値段が高かったし。
人口も、正確な統計はないが、当時の人の実感として、女性の方が多かったとか・・・
884人間七七四年:2010/01/21(木) 00:16:08 ID:exfCY26t
あずみはどうなる。。。
885人間七七四年:2010/01/21(木) 00:48:38 ID:AcDmdIcF
子供を生むとまた立ち位置変わってくるしな
海の物とも山の物ともつかない娘じゃ扱いは軽いよな

>>879
6人つくというより身分上つけなければならない
だから侍ってまれに従者より貧乏なことがある
886人間七七四年:2010/01/21(木) 00:57:56 ID:5vF8nonj
>>885
侍ってホントに大変だったらしいね。
江戸期でも、主人よりそこで雇っている下人の方が裕福だったって話が
いくらでもあったんだとか。
887人間七七四年:2010/01/21(木) 01:57:20 ID:Tt4fCfz9
>>885
欧州の貴族王族もそうだったらしいぞ
ただこちらは事情が違って貴族の矜持として下働きを雇う事は貴族としての格が上がる、また給金も支払われた
ただ給金を支払われても(食住は保障されてるので)使い道が無くわりと豪勢な品を身に付ける一方、
主人は先祖代々の品を新調せずに着続けてしまうという
888人間七七四年:2010/01/21(木) 02:09:07 ID:5hVd3Gav
うちも俺より飼ってる猫のがいいもん食ってるわ・・・
889人間七七四年:2010/01/21(木) 08:48:03 ID:CT1WgDWV
ガラシャの首飾り

ガラシャが奉公人をかばったら忠興がブチ切れて奉公人を殺し、その首をガラシャに投げつけた事件。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-533.html
それに似たような話がある。

ある日、ガラシャ関係で失態を犯した男をその場で手打ちにし、首と胴を一刀両断にした忠興。
ガラシャが悲しそうに顔を伏せるので、忠興は「そんなに大事なら飾っておけ!」と近くの棚の上に男の首を置いた。
誰も片付けしようとしないため、首は数日の間ガラシャの部屋の棚に飾られたままだった。
腐敗臭がしてきたにも拘わらずガラシャはいつもどうりに暮らしていた。
片付けろと言われていないため、奉公人たちも首をそのままにせざるを得なかった。

これに困った奉公人たち。ガラシャの部屋に行くたび肝の冷える思いをする羽目になるのだ。
彼らは幽斎にどうにかして欲しいと訴えることにした。
それを聞いた幽斎は忠興とともにガラシャの所へと向かい、どうにか首を片付けてもらおうとした。
ガラシャの前には平謝りする大の男ふたり。なんとも情けない図だ。
しばらくふたりを見つめた後、ガラシャは奉公人へ首を片付けるように言った。

何故首をそのままにしたのかはよくわからない。
とにかく、流石ガラシャと言わざるを得ない。
細川親子のなさけない話。
890人間七七四年:2010/01/21(木) 09:40:31 ID:pS1Uik82
伊予松山を治める事になった松平定行は領内の農民に軍馬の繁殖を委託した。
体高4尺を定尺とし、それを上回る大きな馬には報奨金を払い増産を奨励した。
一方、定尺に満たない小さな馬は、報奨金を払わないかわりに、農民に無償で払い下げられた。
これは日本では例が少ない馬の品種改良であり、松平定行の思惑としては、やがて大きく逞しい軍馬を量産するつもりだったのだろう。
しかし、農民にとっては、報奨金よりも無償で馬を払い下げられる方がおいしかったらしく、
定尺に満たない小さな馬同士の交配を重ね、最小の和種馬、野間馬になってしまった。
松平定行の思惑とは全く逆の形で品種改良は成功し、野間馬は農民の労働力として農業が機械化される近代まで大変役に立ったという。
891人間七七四年:2010/01/21(木) 11:26:25 ID:74e3qBvB
>>889
幽斎が事態の収拾に乗り出したのに、
結局息子連れていっしょに頭下げただけかよw
892人間七七四年:2010/01/21(木) 12:18:33 ID:7jV7hz1v
>>889
いつの時代でも、男が謝るのが一番の解決法なんだなぁw
893人間七七四年:2010/01/21(木) 12:20:43 ID:7jV7hz1v
>>890
http://zookan.lin.go.jp/kototen/uma/u324_4.htm
これは小学生にちょうどいい馬だなw
894人間七七四年:2010/01/21(木) 12:44:53 ID:DGOVgwLb
>>889
手打ちにされた男はいったいどんな失態を犯したのかなあ
不倫でもしてたんだろうか?
895人間七七四年:2010/01/21(木) 14:24:31 ID:LJGd58ST
>>894
私は>886じゃないが……ガラシャを見ただけで忠興の怒りに触れた植木職人とあった気がする
殆ど言い掛かりだよな
浮気なんざしてたら、(ガラシャの相手)一族もろとも抹殺しそうだよ、忠興は
896人間七七四年:2010/01/21(木) 14:27:05 ID:ox20zh/B
そういえば島津貴久が南蛮船との貿易でアラブ馬を輸入・交配させて
品種改良を目論んだらしいが結果どうだったんだろうな
897人間七七四年:2010/01/21(木) 14:41:05 ID:T7HghYfR
>>896
牛だか馬だかよくわからない珍獣になったあげく、第二次大戦中に食われて絶滅しました
898人間七七四年:2010/01/21(木) 16:33:47 ID:TZ+ldNof
城中での控え席・伺候席で大名同士のひどい逸話って意外と少ない?
899人間七七四年:2010/01/21(木) 17:15:07 ID:k+x6AFbH
>>897
うまそーだななんつって
900人間七七四年:2010/01/21(木) 17:53:27 ID:R9FjoilT
>>896
300年後の明治29年発行『大日本馬種略』によれば鹿児島馬は
「稍々小形なれども(中略)頗る亜剌伯純種の風あり」と評されるほど影響を残しているので
どうも江戸時代を通じて定期的にアラブ種の輸入は続けられていたっぽい。
貴久の努力は無駄にはならなかったのだ
901人間七七四年:2010/01/21(木) 20:13:27 ID:H1IUK9/i
トカラ馬とは別物なん?>鹿児島馬
902人間七七四年:2010/01/21(木) 20:38:18 ID:OKUjg8dG
>> 896,900
薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』だと
『吉野は異国の種を牧畜す』とあって、今の吉野町で幕末まで
牧畜は行われていたそうな。
あと比志島にも「ジャガタラ牧場」なるものがあるとか。
903人間七七四年:2010/01/21(木) 21:26:26 ID:XXHGKgcu
その割には満州の馬と交配したと言われる南部馬みたいな評判を聞かないなぁ
島津の軍勢で馬の運用が凄かったって話も聞かない
904人間七七四年:2010/01/21(木) 22:41:51 ID:osD3Tp6U
むしろ逆に、もともと運用が低レベルなところが窮余の打開策として
「活躍できないのは馬が悪いからじゃね?品種改良したら一発逆転狙えるんじゃね?」というパターンもありえる。
905人間七七四年:2010/01/21(木) 23:43:43 ID:5vF8nonj
大坂の役も終わった元和の頃のこと。

浅野家の家老亀田高綱と言えば、小田原、朝鮮、関ヶ原、大阪で活躍した、当時有名な武勇の者であり、
彼のフクロウの鞘の十文字槍は、知らぬものの無かったほどであった。

さて、江戸城の石垣の普請が浅野長晟に命ぜられ、亀田高綱がその総奉行となった。
ところがこの浅野家が担当した石垣、工事中に崩れてしまった。しかも、二度。

将軍、徳川秀忠が普請場を巡検した際、奉行の亀田を召し出して尋ねた。「どういうわけでここの石垣は
こうも度々崩れるのか?」

亀田、これに

「私がフクロウの十文字槍を持ってすれば、備(戦国期の軍隊の作戦単位)であれば一度たりとも
崩れることはありません!ですが…、
残念ながら石には心が無く、私のそう言う頼もしさがわかりませんようで、
まったく仕方の無いことでございます。」

と、自慢なんだか言い訳なんだか、良くわからないことを言ってその場を収めた。

そんな亀田であったが、この普請がどうにか完成すると、秀忠より「骨折り、ご苦労であった」と
馬が下された。その馬は鹿毛のまだらであったのだが、亀田はこの馬を見るや、
土井利勝の家臣、品川弥五左衛門に言った

「チェンジ!」

「せっかく頂いた御馬ではあるが、まだらでかっこ悪い!これ以外ならどんなのでもいいから
とにかく交換して!」
品川、これを土井利勝に報告すると、利勝は「しょうがないなあ」と苦笑い。
新たに別の馬を下げ渡すようにした、とのことである。

ちなみにこの亀田高綱さん、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-114.html
↑この件で上田宗箇にかなり腹を立て、それが遠因になって浅野家を出奔、紀伊に隠棲することに
なるのだが、その後も「亀田大隅一代働覚」「泉州樫井表合戦次第覚書」といった、ぶっちゃけ
自分の武功を自慢する本を著すなど、実に元気に隠居生活を過ごした模様。

なんというか、この時代の武辺者はとにかく面の皮が厚くてめんどくさいのだ。と言うお話。
906人間七七四年:2010/01/22(金) 00:19:21 ID:bJuK72vR
そもそも上田重安は普通に槍働きで万石取りなった人なのに
何故そこまで侮るのかってのがよく解らんよねw
907人間七七四年:2010/01/22(金) 00:49:47 ID:StUnpmmR
相手の武功を知ってる小人物は張り合う気持ちから今零落してるのを過剰に馬鹿にする
知らん連中は…福島家の重臣たちを馬鹿にする若衆みたいなもんでしょ。
908人間七七四年:2010/01/22(金) 09:59:14 ID:qo1/Bypk
加賀百万石ならともかく、3、40万石程度の大名家での1万石だからな。
むしろいろいろ言われない方がおかしいというもの。
909人間七七四年:2010/01/22(金) 13:26:45 ID:SXgNEXyC
宮城に伝わる昔話。

昔、伊達政宗が仙台地域を制圧する戦いをしていた頃のこと。
あらかた平定したものの、粟野氏の郡山城だけがどうしても落とすことが出来ない。
郡山城を攻めた兵たちは

「城の周りを蜘蛛の巣のようなものが垣根のように取り巻いて近づけない。」
「黒い雲が降りてきて、城を隠してしまう。」

などと、口々に不思議な体験を語った。
一体郡山城に何があるのか?政宗が密かに調べさせると、郡山城主の粟野氏は
毘沙門天への信仰が大変厚く、この度の怪異も毘沙門天への祈りが通じたものである、
と言うことがわかった。

「そういう事ならば、我らが粟野以上に毘沙門天に願をかければよいことだ!
毘沙門天よ、郡山城を陥落させられたなら、我が城下に立派な毘沙門堂を建立することを
約束する!」

さすが政宗。神様相手にも功利主義全開である。しかしこの願が効いたのか、
次の郡山攻めでは今までの苦労が嘘のように簡単に攻略を果たし、ついに郡山城を
陥落させた。

これに政宗は大いに喜び、城中にあった毘沙門天の像を見つけると、約束を果たすため
持ち帰ることにした。

その途中、ふとこんな考えがよぎった

『まてよ…?、これほどまでにご利益の強い毘沙門天である。もし誰かが、わし以上の
好条件をもって、「政宗を倒せ!」と祈願すれば、それも聞き届けられるのではないか?
ならば、こんなものを持ち帰ることは…』
と、その毘沙門天を


「ていっ!」

捨てた。

思いっきり投げ捨てた。神様なのに。


「こんな危険なものもはや必要ない!ふう、危ないところであった。」
さすが政宗。神様相手にも実にドライである。

ちなみに政宗が投げ捨てた毘沙門天は、後で子どもたちが見つけ、その地域の人々によって
お堂が建てられそこに祀られた。今の、仙台市荒町にある毘沙門堂がそれであるそうだ。
しかしこの毘沙門天、変わらぬご利益があるものの、これ以降戦にかかわる願掛けだけは
まるで聞き届けなくなった、ということである。


そんな政宗公、神様までも呆れさせたお話。
910人間七七四年:2010/01/22(金) 18:17:57 ID:aGGyzyi9
>>909
残念ながらガイシュツ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1312.html

因みにこれ、
「実は地元の農民たちが捨てた神様をどうするか観察してました」
ってオチのバージョンもある。
911人間七七四年:2010/01/22(金) 19:09:13 ID:ubPsIaZH
いざ、鎌倉へ!!!!!  1/2

前田利長が江戸入府を果たした時の事でした。
加賀藩は、当時はかなり資金が潤っていた為に

「見苦しい姿をしていて、田舎サムライと思われたくない。
 きれいに格好を整えて参ろうではないか」

そこで、馬の鞍に新調の虎の皮をかけ、
南蛮渡りの美しいラシャの布であつらえたカッパを着用するという
おしゃれぶりでバシッときめた利長の一行は、意気揚々と富山城を旅立ったのでした。


そして、江戸に向かう道中、鎌倉近くにやってきた時の事。


( ゚Д゚)「なぁなぁ俺ら、せっかく鎌倉の近くまで来たのに、
    このままだと一生鎌倉なんて見ることもねェぞ!
    ちょっと鎌倉見物行かねぇか?」
(=゚ω゚)「あ!俺もそれ思ってた、行こうぜ、行こうぜ!」
ヽ( ゚Д゚)人(゚Д゚ )ノ「いざ、鎌倉へ!!!!!!!」


と供の者50人中30人近くが勝手に鎌倉見物に行ってしまったのでした。
912人間七七四年:2010/01/22(金) 19:10:12 ID:ubPsIaZH
いざ、鎌倉へ!!!!!  2/2

そして、タイミングの悪い事に
このとき、一番逢いたくない西国大名と出会ってしまい

(・∀・)「あれ〜〜〜利長殿。格好はえらく立派ですが、またえらく少数精鋭ですなぁwwwww」

( ゚Д゚)「ハァァァァ?なに言ってんだ?ここにちゃーんと・・・・」
Σ(゚Д゚)「あれ?うそ!少な!」
とびっくり仰天!!!!

さすがに温厚な利長もこれにはブチギレ
(# ゚Д゚)「このようなことは、あってはならぬこと!!!!!!! 切腹じゃぁ!!!!!!!!!!!!」


・・・・がなぜか?
鎌倉見物に行った者に切腹や召し放ちはせず、
罰金を科しただけでしましたそうです。

どこまでも甘いぞ利長・・・・・・・・
913人間七七四年:2010/01/22(金) 19:15:39 ID:JRHDzDbd
なんたるフリーダムwwww
914人間七七四年:2010/01/22(金) 19:17:41 ID:zOyTLTOT
江戸時代初期の加賀人
しかも終わり生まれ近江育ちの利長の部下が
田舎侍に見られるかどうかを気にするものなのかね?
915人間七七四年:2010/01/22(金) 19:27:33 ID:ubPsIaZH
田舎侍と同じように見られたくないという意味だと思われます。
派手な格好して流石加賀藩と思われたかったんでしょうね。
916人間七七四年:2010/01/22(金) 19:33:21 ID:ZD6gLp+O
全体の6割が居なくなってるじゃねーか
917人間七七四年:2010/01/22(金) 20:23:14 ID:kFO6Yo2v
「戦国武将の妄想イラスト」

徳川家康の家臣、松平家忠。貴重な戦国史料である「家忠日記」の著者として有名だが、
その家忠日記に奇妙な事件が記述されている。

正月廿日二かんてんちへあかり候、安土ニ而食人をくい候、聲ハとのこほしと鳴候、せいハ六尺二分、名ハ人魚云、

天正9年1月20日。「人魚が」(琵琶湖から)乾天地に上がって、安土で人間を食ったそうだ。「とのこほし」(殿恋し?)と鳴いた。全長1.8m?

この人魚はなんだったのか?そしてどうなったのかは書いて無い。信長公記や他の記録にも無い。
(丹羽長秀の家来が人魚捕まえた話もあるが、それは別の人魚だし)
そして家忠さんはイラストが大好きな人で、この人魚のイラストも(想像で)書いちゃってる。
ttp://blog-imgs-18-origin.fc2.com/k/e/s/kesanji/k.jpg
まあ「萌え絵」とかそういうのじゃないが書いてるところ想像するとなんか笑える。
胸を隠す所が時代の限界か……と、どっちの話にすべきか判断つかんのでムリヤリ悪いオチをつけてみた。
918人間七七四年:2010/01/22(金) 20:25:18 ID:+QtxIcEW
武骨な三河武士がノリノリでお絵かきか……

戦国のイラストレーター、松平家忠、ってヤツか!
919人間七七四年:2010/01/22(金) 20:30:43 ID:ubPsIaZH
なんか味のあるイラストですね。
920人間七七四年:2010/01/22(金) 20:54:56 ID:/GdPmdrL
>>917
人魚っていうよりは人面魚に見える…
921人間七七四年:2010/01/22(金) 20:57:41 ID:HQefB4kB
>>919
「神君伊賀越え」の顛末を記した天正10年6月の日記の余白には、棒を持ったマントヒヒみたいな
落書きが書いてある。
なぜ?
922人間七七四年:2010/01/22(金) 21:02:11 ID:ubPsIaZH
>>921
そのイラストも見てみたいな。
ただのいたずら書きなのか、それとも・・・・・・

十中八九いたずらだろうな・・・・・
923人間七七四年:2010/01/22(金) 21:02:52 ID:ZD6gLp+O
「道案内をする半蔵」

作:松平家忠
924人間七七四年:2010/01/22(金) 21:04:55 ID:CnozXrCs
道案内してくれた伊賀者、甲賀者を書いたつもりなんじゃないか
925人間七七四年:2010/01/22(金) 21:09:36 ID:SXgNEXyC
926人間七七四年:2010/01/22(金) 21:09:54 ID:ubPsIaZH
>>923-924
そうかなるほど。
よく考えればそうですね。
927人間七七四年:2010/01/22(金) 21:12:06 ID:ubPsIaZH
>>925
見ようによっちゃ鬼みたいだね。
928人間七七四年:2010/01/22(金) 21:23:19 ID:bhC3IEZQ
こういう人物が彦左のように語り部的に生き残ってくれると面白いんだけど、
伏見城で死んじゃうんだよね家忠…
鳥居元忠は家康との絆とか老将の意地とかいい話になるけど、
徳川の天下を見れなかった他の3人は悲惨だよね
929人間七七四年:2010/01/22(金) 21:24:14 ID:HQefB4kB
>>925
もっと毛むくじゃらだけどアングルは同じ。
この絵に似ている。
ttp://blog-imgs-18-origin.fc2.com/k/e/s/kesanji/p.jpg
930人間七七四年:2010/01/22(金) 21:48:41 ID:XUcHJsy4
オレは家忠の菩提寺のすぐそばに住んでるんだけど
副葬品が見つかったって記事を見ていろいろ調べるまでは知らなかったよ、この人

何つったってわが町、幸田は彦左押し
でもよく考えたら彦左は三河物語の著者
戦国〜江戸初期の文豪の産地なのか…
931人間七七四年:2010/01/22(金) 21:54:39 ID:dMGX95Wj
家忠は築城で有名だけど、その技術が培われたのは領内に矢作川の支流、
広田川があってそこのよく氾濫するので、堤防をよく補修していたからとか

ちなみに伏見城の手伝普請にも駆り出されているので、彼が残された理由の
一つはそこにあったかも
932人間七七四年:2010/01/22(金) 21:55:03 ID:SXgNEXyC
>>930
幸田といえば夏目吉信の出身地でもあるじゃないか!
江戸初期どころか明治の国民的文豪のご先祖様の産地。
933人間七七四年:2010/01/22(金) 21:59:54 ID:XUcHJsy4
>>932
夏目吉信って三方ヶ原で家康の身代わりになった人だよね。
でも、明治の文豪って誰?
934人間七七四年:2010/01/22(金) 22:01:34 ID:6h897GtR
>>933
え?
935人間七七四年:2010/01/22(金) 22:01:55 ID:SXgNEXyC
>>933
夏目漱石は夏目吉信の子孫
936人間七七四年:2010/01/22(金) 22:05:25 ID:XUcHJsy4
>>935
マジでか!!
ふわ〜〜〜!俺全然地元の人たちを知らなかった・・・orz
937人間七七四年:2010/01/22(金) 22:05:53 ID:kFO6Yo2v
>>919
ちなみに家忠さんのイラストで一番好きなのはこれだったりする。
ttp://blog-imgs-18-origin.fc2.com/k/e/s/kesanji/h.jpg

……誰か解説してくれ。これはなんだ?
938奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/22(金) 22:06:21 ID:XPHLmvow
一応マジらしいな。血統は完全男系ではないらしいけど。
939人間七七四年:2010/01/22(金) 22:10:38 ID:ubPsIaZH
>>937
どせいさんをかぶった唐人
940人間七七四年:2010/01/22(金) 22:24:09 ID:/pbrbubR
上の話の前田利長が逢いたくない西国大名って誰だろうか?
941人間七七四年:2010/01/22(金) 22:32:03 ID:Sr28ZkWU
往年のシュール系四コマみたいな絵をw
942人間七七四年:2010/01/22(金) 22:32:37 ID:bhC3IEZQ
どうせ市松か三斎だろw
943人間七七四年:2010/01/22(金) 23:04:42 ID:/GdPmdrL
>>937
俺もなぜか中国人に見えた。

>>942
アンカないから家忠のイラストのことかと思ったじゃねえかw
944人間七七四年:2010/01/22(金) 23:06:31 ID:Sr28ZkWU
満人か朝鮮人には見えなくもないが、中国人と言われるとちょっと微妙。
945人間七七四年:2010/01/22(金) 23:07:27 ID:fWnU6mWr
俺は朝鮮人に見えた
通信使の連中ってこんな帽子で描かれてない?
946人間七七四年:2010/01/22(金) 23:14:08 ID:uLihxfBj
>>945
ぱっと見山高帽みたいに見えるやつな。
時代的にも自分で見た朝鮮人を珍しがって描いてみたとかかな。
でもかごになにか丸いものを入れて頭に乗せている人に見えなくもない。
それにしても本当に達者なイラストだな。
>>937の絵なんか、顔や手足のデフォルメの利かせ方かなりレベル高いんじゃないの。
947人間七七四年:2010/01/22(金) 23:32:05 ID:x2DtMfpi
ああ、確かに頭に荷物を載せてるようにも見えるなあ
それと、杖のつき方がなんとなく盲人っぽいような・・
948人間七七四年:2010/01/22(金) 23:58:39 ID:cxFWnmb1
>>917-947
無粋な書き込みで悪いが
家忠日記の原本は著しく保存状態が悪く
特に江戸時代に家忠の子孫の子供たちによって
落書きがたくさん書かれている。

上の絵のほとんどは、家忠が描いたものじゃないよ。
949人間七七四年:2010/01/23(土) 00:33:15 ID:ps3H2wZc
なにいーwそういやそんなこと上に書いてあったなw
950人間七七四年:2010/01/23(土) 00:44:37 ID:/yXHvKEi
朝鮮役の頃のこと
肥前、名護屋の本営にある徳川家康の陣屋には、清水の湧く所があった。

大陸出兵のための基地として急遽建設された名護屋には、30万とも言われる人々が
集結しており、無論水道などの整備も行われていない以上、多くは生活用水に困っていたと考えられる。
家康陣の清水には、多くの大名が家康に断った上で水を汲みに来た。

ところが、諸大名があまりにその清水の水を汲み過ぎたためか、6月になると清水が枯れ始めた。
徳川家は朝鮮に渡海していないとはいえ、大名の中でも最大規模の人員を名護屋に駐在させている。
このままでは当の家康本陣の分さえ覚束ないと、諸大名の水の汲み上げに制限をかけることになった。

こんな時前田利家の陣より12,3人の者たちが水を汲みに来た。
これに清水の番人たちが出て、「水は多くない。汲むことは出来ないよ。」と断る。
が、前田家の者たちは「何を言うか!必ず汲むぞ!」と譲らず、番人との間で
押し問答となった。

この頃名護屋の徳川の陣と前田の陣は、そう離れているわけではない。
元より戦をしに来た連中である。ただでさえ気が立っており、こういう時にためらいは無い。
前田の陣の侍たちはこの騒ぎを聞きつけると、徳川の陣の前に10人20人と駆けつけ、あっという間に
3千人が集結した。

当然、徳川の者たちも黙ってはいない。若侍を中心に千人程が出てくる。
しかも彼らは弓鉄砲をかまえ槍の鞘を外し完全な臨戦態勢。
今まさに、日本軍の本営たる名護屋城下で、徳川、前田と言う大諸侯同士の合戦が始まろうとしていた。

これに驚いたのは家康陣の、本多忠勝、榊原康政、松平家乗といった重臣たちである。
彼らは喧嘩を止めようと、本多忠勝は渋手ぬぐいで鉢巻をし、榊原康政はもろ肌脱ぎになって
両軍の間に割って入った。
しかし両軍は、数刻にわたって声高にお互いを罵りあった。

この様に騒然とした中、家康の鉄炮頭である服部半蔵、渡辺忠右衛門といった者たちは、
徳川陣前で行われているこの騒ぎには加わらなかった。
さすが、古強者達は冷静である。

「全く、若い者達は何も解っていない。」

彼らは配下の鉄砲隊の精鋭300を集めると、それを引き連れ、なんと前田本陣の後門前に陣取った。

「戦端が開いたら一気に前田陣を攻め滅ぼす!前田の人数の多くは
徳川陣の方に行っているから簡単だ!」

もっとたちが悪かった。


自分の方にも火の粉が飛んできた事に驚いた前田利家は、慌てて徳川陣前の喧嘩の場に、
喧嘩を止めるよう使者を出す。
双方、そのうちにだんだんと引き下がり、どうにか衝突すること無く収まった、とのこと。

その後、秀吉の命により前田の陣は場所を差し替えられ、徳川陣から遠く離れた場所に
配置されたのだとか。

以上肥前名護屋、徳川前田の水騒動である。
951人間七七四年:2010/01/23(土) 00:56:41 ID:F0MAzZ2X
さすがに古強者達はよくわかってるなw
952人間七七四年:2010/01/23(土) 01:12:00 ID:rikeiZ4r
流石に服部正成、渡辺守綱の両半蔵が揃って出張ってくるとインパクトデカいよな。
953人間七七四年:2010/01/23(土) 01:13:50 ID:uZwM5JsV
古強者達の機転で平和裏に終わったいい話じゃないかw
954人間七七四年:2010/01/23(土) 01:23:13 ID:XcYoWv0u
>911-912
「鶴岡八幡に詣でてきますた!!!」とか言われて許しちゃったんでしょーか。
武士の端くれ、一度は詣でてみたい〜後年、庶民にとっての〜お伊勢さん、善光寺みたいなモンだったのか。。
955人間七七四年:2010/01/23(土) 01:23:18 ID:fVZ2eKXF
ここで本格的な衝突に至っていたら、その後の歴史が大きく変わったろうなぁ。
たかが水汲みでw
956人間七七四年:2010/01/23(土) 01:28:28 ID:ePs8T7i6
>>950
三河武士強ぇーw

本当に前田家の対応まで読んで行動したのか?
だったらすごいんだけど、本当に前面衝突するつもりだったようにも思えるから怖いw
957人間七七四年:2010/01/23(土) 01:33:20 ID:XcYoWv0u
>955分権(大老)派と集権(奉行)派の代理戦争かなーと妄想したが、きっかけがアレすぐるな;

まあ徳川家も決して補給・兵站を軽視してはいなかった傍証の一つ、ってことで
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3477.html
958人間七七四年:2010/01/23(土) 02:20:00 ID:7JV9GEOq
そういえば徳川と前田の水争いってDQN絡んでなかったっけ?
前田家にいい顔しつつ、陣中見たら鉄砲がしっかり前田家のほう向いてたとかなんとか
959人間七七四年:2010/01/23(土) 07:03:01 ID:gRMr77lU
とある倭臣の禁書目録

永禄11年、織田信長軍の伊勢侵攻の折に伊勢国司である北畠具教の
弟,木造具政は一つの決断を迫られていた。
具政「このまま兄と共に織田軍と戦うか,それとも思い切って反旗を翻し織田家に与するか」
この重大な決断に際して織田派か北畠派か意見が分かれる中,木造家重臣である
柘植三郎左衛門保重は口を開いた
柘植「主家に叛き織田に付き従えましょう」
具政「うむ、しかしそなたの息子は北畠家に人質として残っておる
 もし兄に叛いたら,そなたの子もただでは済むまい。。良いのか?」
柘植「重々承知しております」


かくして木造具政は北畠を捨て織田家に寝返り織田軍の伊勢侵攻の道案内役を
勤めることになる。もちろん人質の保重の息子はry

そしてこの人物,主君である具政を織田家に味方させた功を認められ北畠の名跡を継いだ信雄の直臣に
抜擢される事となる。しかし人質であった息子の命を掛けてまで主君を説得し出世を遂げた
彼の栄光はそう長くは続かなかった

時は下り天正7年、伊賀の豪族の不穏な動きを察知した保重は信雄に一つの提案を持ちかけた
保重「伊賀国の情勢が不穏な今こそ,討伐の軍を起こすべきです」
信雄「しかし勝手に軍を動かすことは父上に止められておる」
保重「此度が絶好の好機でございまする。相手は所詮,片田舎の土豪共,精強な伊勢の兵と
  強力な鉄砲部隊の前には手も足も出ますまい」
信雄「そ,そこまで言うなら,よし出陣の準備じゃ」

実は何故に保重がここまで伊賀侵攻にこだわったかと言うと、この人の領地の
すぐ近くであり,伊賀の土豪達が目障りであったから主君を巻き込んで討伐を進言した
とういう説がある。ちなみにこれが俗にいう第一次天正伊賀の乱ある

しかし結果はご存知のとうり信雄1万は伊賀の諸豪族の奇襲作戦の前に惨敗を喫し
保重にいたっては伊賀豪族の植田光次の強襲をうけ討ち死。
さらに,この責任を問われた信雄は信長の叱責を受け信頼を失うこととなる

主家である北畠を裏切り,息子を死なせ,状況を見誤った判断で主君の株を
下げた悲しい家臣の末路です。やはり人間は人道に背いてはいけない,そんなお話し
960人間七七四年:2010/01/23(土) 12:09:49 ID:DF7RTHW1
>>950
水の番人は鬼武蔵が来なくてよかったねという運のいい話でもあるなww
961人間七七四年:2010/01/23(土) 12:34:03 ID:KMbjYHBa
>>912
>一番逢いたくない西国大名

もしかして、水野?
962人間七七四年:2010/01/23(土) 13:56:33 ID:Ax3i9TjJ
>>959
人道に叛かなければ叛かないで「馬鹿だから滅んだ」になるから困るw
963人間七七四年:2010/01/23(土) 16:31:49 ID:ndM7juZQ
突出した戦上手だと人道を守って零落しても復活したり出来るし滅んでも武名上がるだけ

戦国の世の中結局力か
964人間七七四年:2010/01/23(土) 16:43:18 ID:FhkcJgLR
>>963
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/index.html
高橋、立花軍は、作戦も陣形も上手。
でも立花の家来はいろいろ有名な武将が多いけど、玉砕した高橋の家来は無名なのが多い。
965人間七七四年:2010/01/23(土) 16:53:10 ID:QCziW0Pb
別に離反自体は非難されることでもないし、戦に負けたのは人道とかの問題じゃないしねえ

そんなこと言っていたら、信長秀吉家康信玄謙信元就その他はどうなるのかと
966人間七七四年:2010/01/23(土) 16:55:31 ID:nofcY51S
他家を乗っ取って前線で戦わされて半独立行動を許される様な立場だから
作戦立案とか陣立に長じるのは当たり前というか、状況が許さないだろう
というか、そうでなかったら家が絶えてる
967人間七七四年:2010/01/23(土) 17:34:40 ID:ViykMY8V
>>965
宇喜多直家「まったく非道い奴らだな」
968人間七七四年:2010/01/23(土) 18:36:56 ID:i8/hBlDC
>>965
松永久秀「まったく。武士の風上にも置けんな」
969人間七七四年:2010/01/23(土) 18:58:29 ID:smOWn7FJ
>>965
伊達政宗「そうそう、毎度バレてパフォーマンスでごまかすなんて無いわ」
970人間七七四年:2010/01/23(土) 19:06:31 ID:uZwM5JsV
>>965
藤堂高虎「武士たるもの、一人の主君に忠節を尽くすべきだよね」
971人間七七四年:2010/01/23(土) 19:08:04 ID:MTDGHYid
お前たちwwwいつまでwww
972人間七七四年:2010/01/23(土) 19:17:41 ID:ePs8T7i6
>>965
小田氏治「日頃の行いさえ正しければ、百戦百勝さ。」
973人間七七四年:2010/01/23(土) 19:21:08 ID:/yXHvKEi
そろそろ新スレたててみる
974人間七七四年:2010/01/23(土) 19:23:41 ID:/yXHvKEi
無理だったorz どなたかお願いします

↓スレタイ

戦国ちょっと悪い話17


↓テンプレ

戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話16
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1260458448/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話17
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263277160/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
975人間七七四年:2010/01/23(土) 19:24:42 ID:FvtNZ4+F
>>972
菅谷政貞が横で泣いてるぞ。
976人間七七四年:2010/01/23(土) 19:32:54 ID:6LFjWC1t
では立ててきます
977人間七七四年:2010/01/23(土) 19:34:16 ID:6LFjWC1t
次スレ

戦国ちょっと悪い話17
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1264242815/
978人間七七四年:2010/01/23(土) 19:37:30 ID:/yXHvKEi
>>977
乙です。ありがとう!
979人間七七四年:2010/01/23(土) 20:06:19 ID:vcTfwB+/
>>959
目先の欲に釣られて自滅した典型とも言えるね。
980人間七七四年:2010/01/23(土) 20:09:39 ID:bZ1lr2VA
>>977GJ
>>973の心意気に乾杯
981人間七七四年:2010/01/23(土) 22:20:41 ID:KMbjYHBa
埋め
982人間七七四年:2010/01/23(土) 22:33:37 ID:/yXHvKEi
埋めがわりに

成瀬隼人正正成は、老年になって自分の若い頃のことを、こんなふうに語っていたそうだ

「そりゃあ若い頃だから、それほど色々な経験をしたわけではないよ。
そのせいかも知れないが、あの頃出会い、語った若い人や老人の中に、
武辺において自分が負けたと思う人は、一人もいなかったものさ。」

実に若武者らしい気概ではないか。成瀬隼人はこの心持で、戦国乱世を生き抜いたのだろう。
さて、そんな成瀬隼人は同時に、こんな事も言っている

「ところが年を取った今でも、負けたと思う人に会った事が無い。」


成瀬隼人、武辺において生涯自信の塊であった。
983人間七七四年:2010/01/23(土) 23:52:01 ID:CjeFwZOb
武人は自分が他人より劣ってるなんてそうそう認めんし
戦場なんかで武辺で自分に勝る者に出会ってたら死んでるからな
984人間七七四年:2010/01/24(日) 13:50:37 ID:4J7G4zWK
能登畠山家、畠山義続(あの”伝武田信玄像”の人)の息子で、上杉謙信の養子となり、
また景勝の時には上杉家を出奔するなど波乱の生涯を送った畠山義春。

義春は隠居後、京都麩屋町に暮らした。晩年は両目共に見えなくなったが、徒然の慰みとして、
度々書物を読ませ、これを聞くことを楽しみにしていたそうだ。

寛永十二年(1636)の事、ある人が義春の元に甲陽軍監を持って来、これを読み聞かせた。
義春、聞いて

「その本の内容は、殆ど間違えている。」

「第一に上杉謙信を梶原景時の末裔であると書いているが、謙信の元々の氏である長尾は、
村岡将軍忠通(平忠通)の三男、鎌倉四郎景村の孫、鎌倉次郎景弘が初めて長尾氏と号し、
その子孫に受け継がれたものだ。
梶原は村岡忠通の次男、権大夫景通の末裔である。兄弟によって別れた別流なのだ。

又、あの本の中に長尾義景と書いてあるのは、私の舅である長尾政景の事である。義景の事ではない。

さらに、天正三年の記録に、「公方霊陽院義昭公」と書かれている。
足利義昭公は、秀吉公御他界の前年まで生きておられたが、慶長二年(1597)八月二十八日に薨逝された。
この時、霊陽院の号を贈られたが、甲陽軍監の著者だと言う高坂弾正が死んだのは、天正六年(1576)
である。その高坂がどうして、21年後に贈られた霊陽院の号を知り書き残したのか?大変に不審なことだ。

こう言った間違いは他にも非常に多い。
松永久秀滅亡の事を、天正三年六月(1575)の記録の中に書かれている。
しかし実際に松永が滅んだのは 天正五年である。松永が滅ぶことを、2年前に
知って書いたと言うのか?

天文十六年(1547)二月十五日の記録には、武田晴信が甲府八幡へ参拝し、山本勘助を呼び、
西国の事を尋ねると勘助は、大内義隆を家臣陶尾張守晴賢が討ち滅ぼした事を事を語る、と書かれている。
義隆は天文二十年(1551)九月、長門国深川村大寧寺にて自害した。先に勘助が晴信に語った
年月から四年後の事である。ここも違っている。

それから、河越夜戦を北条氏康と両上杉との戦いだと書いているが、ここは年月に内容も大いに間違っている!
そもそも河越夜戦は、氏康の父氏綱と扇ヶ谷上杉五郎朝定との戦いであり、天文六年(1537)
七月の十五夜の事であった。

山内、扇ヶ谷の両上杉を北条氏康が討ち破った河越『合戦』は、その九年後、天文十五年(1546)
四月二十日の、昼間にあったものである。おそらくこの二度の河越合戦を混同し、一度の合戦として
記載してしまったのであろう。酷い間違いである。

さらに甲陽軍鑑十巻の下に、松山の城主上杉友貞とある。しかし、その頃の松山の城主は
上杉左衛門大夫憲勝なのだ。
憲勝は、山内上杉民部大輔憲顕から六代の子孫に当たる。そもそも『友貞』などと言う人物は
上杉一門にはいないのだ。読みが同じ『朝定』の事なのか?それでも朝定は十五年前の
河越合戦にて討死している。もうどう考えて良いのやら。

甲陽軍鑑という本は偽りだらけで全く信用出来ない。私が直に見聞きした謙信の事にいたっては、
違わない事を探す方が難しい。」

そう言って、二度と甲陽軍監を読ませることはしなかったそうだ。
畠山義春さん、甲陽軍監を完全否定。と言うお話。
985人間七七四年:2010/01/24(日) 14:26:06 ID:YTXniRmx
という夢を見た
986人間七七四年:2010/01/24(日) 14:27:48 ID:n9QuT92J
>>984
こうまで理路整然と否定できるのはすごいな
畠山義春△
987人間七七四年:2010/01/24(日) 15:25:03 ID:vav3aoFU
大坂冬の陣終了後、和睦の条件として大坂城の二の丸・三の丸の破却を豊臣家が、
惣構・惣掘(城の外周部分)の破却を徳川家が行うことになり、普請奉行として徳川家からは
本多上野介正純・安藤帯刀直次・成瀬隼人正正成が選ばれた。

三奉行は突貫工事で惣構を破却すると、自分たちの持ち分ではない二の丸・三の丸までも
壊し始めたばかりか、堀まで埋め立て完全な更地へと代え出した。
持ち分を形式的な破却で済ませようとしていた城方は驚き、淀殿の侍女のお玉という者を
派遣して、三奉行を詰問することにした。

安藤直次は、お玉が話しかけても一言も答えようとしなかった。

本多正純は、「ごもっとも。物頭どもが聞き間違えたのでしょう、止めさせます。」
と、答えた。しかし、翌日になっても堀の埋め立ては止まらず、お玉が改めて抗議すると
正純は「推参者め!」と、物頭たちを叱りはしたが、結局工事は続けられた。

成瀬正成に至っては、お玉の抗議を聞くと
「は?"総"堀とは全部の堀のことではないか。何も間違っておらんわい。」
とムチャな抗弁を返したあげく、なおも抗議するお玉に
「そなたは女の身ながら口が達者だの。」「良く見れば、いい女ではないか!」
などと言いながらお玉のケツを撫で回した。

「!!・・・・・・・・・/// 」
たまりかねたお玉は黙り込んでしまい、その間にも埋め立ては続けられ、とうとう大坂城は
本丸だけの裸城になってしまった。



諸説ある逸話ですが、「埋め」ついでに。
988人間七七四年:2010/01/24(日) 15:48:13 ID:6dOwdJ0b
>>984
>義春は隠居後、京都麩屋町に暮らした。晩年は両目共に見えなくなったが、徒然の慰みとして、度々書物を読ませ、これを聞くことを楽しみにしていたそうだ。
>寛永十二年(1636)の事、ある人が義春の元に甲陽軍監を持って来、これを読み聞かせた。

なんで朝定の字が違うって分かったの?
989人間七七四年:2010/01/24(日) 15:48:58 ID:3rHS08Vq
>>986
これを見ると畠山義春は
謙信が七尾から連れ帰って養子にした男子じゃないな。
謙信は能登畠山嫡流から二人も養子にしたのか。
990人間七七四年:2010/01/24(日) 15:57:42 ID:6dOwdJ0b
>>989
上条政繁のことを言いたいんだろうけど、近年まで畠山義春と混同されていたわけで
今では別人説が有力になってるよ

だから畠山氏からは1人だけ
991人間七七四年:2010/01/24(日) 16:23:00 ID:7FM3h20Y
つうか、上条政繁自体、まだ何者かよく解ってないんだよな、実際
案外ホントに能登畠山からの養子だったりしても、まぁおかしくはない
992人間七七四年:2010/01/24(日) 20:30:07 ID:547rEKgv
>>987
その女も裸にすれば良かったのに・・・
993人間七七四年:2010/01/24(日) 21:21:53 ID:BEPPDDUS
>>988
自分が盲目だったらどうするよ
994人間七七四年:2010/01/24(日) 21:23:54 ID:j3fOIEbc
>>992
口では言うほど女に興味がなかったんじゃないかな
堀を埋める事に集中しているくらいだからさww
995人間七七四年:2010/01/24(日) 21:47:25 ID:/w03fZh/
交渉役に女を遣わせている点ですでに負け
996人間七七四年:2010/01/24(日) 22:03:27 ID:DuPBEVE6
忠興「「お玉」にセクハラできると聞いて」
997人間七七四年:2010/01/24(日) 22:05:23 ID:547rEKgv
>>996
るせぇ!!てめぇの下の口を埋めるぞ!!!

っつーことで埋め。
998人間七七四年:2010/01/24(日) 22:07:46 ID:zrirclrO
品の悪いスレですね、最後は。
999人間七七四年:2010/01/25(月) 01:07:54 ID:e6g8uOMf
>>990
いやだからこの話の義春が「謙信が七尾城から連れ帰った子」だと変じゃん。
七尾城落城後に上杉家に入った子どもが
関東や信濃の当時の情勢に詳しい訳がない。
1000人間七七四年:2010/01/25(月) 01:43:43 ID:CAiZR4Yt
>>999
直に見聞したわけではなかろうが、
謙信の養子になったからにはレクチャーを受けていた可能性は大。
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
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