家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5

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1人間七七四年
家督相続で貧乏くじ引かされた大名5人あげるとしたら?
2人間七七四年:2009/10/03(土) 14:59:17 ID:8gO7rJp/
マニフェストに書いてるんだからそれでいいんだよ
選挙で民主が勝ったんだから国民すべてマニフェストに書かれてる事に賛成なんだよ
3人間七七四年:2009/10/04(日) 01:30:38 ID:FeXxBvdu
信長
家康
景勝
有名どころではこのくらいか?
4人間七七四年:2009/10/04(日) 01:34:47 ID:k1XslaDZ
勝頼は?
5人間七七四年:2009/10/04(日) 01:52:29 ID:vPVhdicO
勝頼はそんな悪くはないだろ
織田に敵対するだけして信玄死んじゃったのは痛いが
甲斐信濃駿河支配して北条とも同盟結んでたんだし
勝頼がもっと傑物だったらまだなんとでもなったんじゃね
6人間七七四年:2009/10/04(日) 02:00:07 ID:FeXxBvdu
不穏の種になる反抗的な兄弟がいない
優秀な家臣団
外交関係もまずまず
130万石の良く統治された領土
勝頼は恵まれてるな
戦争をみだりにしなければあんなことにはならない
7人間七七四年:2009/10/04(日) 02:35:54 ID:NOPUXNi/
氏真なんか家督相続時は問題ないんだよなあ
8人間七七四年:2009/10/04(日) 02:37:21 ID:EyOoYpMF
武田信玄、斎藤義龍、上杉謙信はクーデターだから、お世辞にも状況がよかったとはいえないな。
9人間七七四年:2009/10/04(日) 03:34:44 ID:sNxCCInS
謙信(景虎)の場合
下越の有力豪族が府中政権に従わず
「春日山が何か言ってきたら我ら協力して撃退してやろう by色部」状態
ようやく景虎に協力し始めたのは出奔事件の後

中越では春日山城内でクーデター(一説には長尾兄弟惨殺)を起こした黒田が暴れまくり

上越は国内でも大勢力だった上田長尾が家督相続して間もない景虎と衝突
この上田長尾含め、景虎の父・長尾為景を引退に追い込んだ豪族がワンサカ

ここから何とか越後〜越中50万石を纏め上げた頃には
北条200万石、武田50万石、加賀&越中一向衆&神保50万石が国境へ肉薄

越後の財政は破綻状態、領内の有様は街道の荒廃に加え、大橋は焼け落ちたまま、
永正以来から打ち続く激しい内乱で商人達は皆逃げ散っていたという
謙信の相続前〜相続後は酷い
10人間七七四年:2009/10/04(日) 08:23:12 ID:lmqXydyK
勝頼は領土こそあれ金がなかったならな
11人間七七四年:2009/10/04(日) 13:05:13 ID:iWRdkgIt
羽柴秀頼や織田秀信は?
12人間七七四年:2009/10/04(日) 15:35:11 ID:EyOoYpMF
>>9
その時点で北条200万石とかありえない
13人間七七四年:2009/10/04(日) 19:45:48 ID:m91kbdcc
>>12
謙信による関東侵攻直前の北条勢力
上野 沼田城、平井城を一族支配、厩橋氏、那波氏、館林赤井氏が北条に従属
→少なく見積もっても25万石はある
下野 佐野、小山、壬生らが北条に従属→15万石
下総 結城含め千葉など殆どの豪族が北条に従属、関宿城も支配→39.3万石
上総 西上総は北条の手に落ち、里見は久留里城を包囲され絶体絶命
→最低でも25万石
武蔵 太田資正までが北条配下の武将→66.7万石
相模 19.4万石
伊豆 7万石
常陸 小田と佐竹が北条勢力に抵抗して結城太田と争っていたが、北条に従う豪族も居た
→10万石前後
200万石は有るだろう

謙信が死ぬ直前だと沼田、厩橋(毛利北条)、佐野、宇都宮、結城、佐竹、佐野など
北関東〜上総にかけて多くの豪族、大名らが北条に敵対
北条は120万石を超えたくらいか
14人間七七四年:2009/10/04(日) 22:40:12 ID:iWRdkgIt
>>13
情勢によって簡単に旗色を変えるような勢力まで
北条の石高に入れるのは無理があるだろ。
15人間七七四年:2009/10/04(日) 23:07:03 ID:eI0gniYD
上野国は北条幻庵自らが統治にあたってたしね
16人間七七四年:2009/10/05(月) 02:31:21 ID:88TqkLFs
>>14
河越城の戦いの後には
武蔵(太田資正、大石)から下野(佐野、小山)の諸将らが北条氏康に服従
それから謙信出没まで十年以上もの間、北条勢力圏として働いてる
上野は平井合戦の後、北条幻庵が関東管領の元居城・平井に、
氏康の実子・孫次郎は上野最北端(越後国境)にある沼田城へと配置されて十年近く支配
上野那波、館林赤井に到っては謙信が沼田、厩橋、平井を落しても尚、北条方を貫いた
簡単に〜と言うけど十年間も従えたら立派な勢力圏だよ

それに情勢によって諸勢が旗色を変えてしまうのは日本全国どこでも起こってる
大友も尼子も今川も武田も伊達もそして長尾上杉も
強大な版図、勢力圏を誇った所で瓦解する時は一気に後退するもんだし
17人間七七四年:2009/10/05(月) 05:46:39 ID:Ci8iwNPf
秋田実季→相続時に本能寺の変と重なる
長曽我部盛親→相続時に関ヶ原の戦いと重なる
18人間七七四年:2009/10/09(金) 17:29:41 ID:iqT7Yg7u
>>16
謙信が凄いのはわかるが、謙信相続時と比べるにしては、その説明だと時代が長すぎじゃないか?
19人間七七四年:2009/10/10(土) 13:58:52 ID:/rbAtGBB
信雄や義継や義昭らへんはガチ
泥沼っぷりが半端じゃない

飛ばされがちだけど山名とか細川はヤバイ
いったんデカくなって一族で分割した後に内紛勃発
忠興はある意味奇跡だけどヤンデレが原因で子供がアレになっちゃったのが残念
豊国は兄貴から普通に継げはしたが周辺状況がカオス過ぎてまともに領有できるのに数年かかった
20人間七七四年:2009/10/10(土) 14:52:17 ID:wv1vw3qt
いや、やっぱ神君父子の家督相続時のひどさはガチだろw
広忠…森山崩れ直後、叔父たんによる岡崎城占拠で吉良を頼ったり、伊勢に逃げたり…
神君…家督相続時(父親死亡によって自動的に継承したとみなしてよいのかはわからんが)、尾張の織田信秀の人質(いつ殺されても不思議ではない)
拠点となる三河領も今川氏派遣の代官による支配

21人間七七四年:2009/10/10(土) 17:22:32 ID:UmJzAv4Y
家康は織田でも今川でも厚遇されてたけどな。
22人間七七四年:2009/10/10(土) 17:31:52 ID:nzH2OuD0
信勝だろ
家督相続後に自刃滅亡
23莫邪 ◆Bakuya.ugA :2009/10/10(土) 20:53:59 ID:hDz7VB5z
豊臣秀頼だけはどうしようもない
状況最悪
24人間七七四年:2009/10/10(土) 22:17:46 ID:rk9KlYIl
>>22
武田信勝はガチすぎるw
詰んでるってレベルじゃねー
25人間七七四年:2009/10/11(日) 06:39:16 ID:NOqIEMoL
阿蘇惟光はどうだ
年齢的に本人の力じゃどうしようもない
26人間七七四年:2009/10/12(月) 15:15:01 ID:xjbHmwYI
長宗我部盛親もなかなか
あの時機に父ちゃん死んじゃったらキツイ
27人間七七四年:2009/10/19(月) 13:38:45 ID:p8hPGkkX
最上義光とかはどう?
28人間七七四年:2010/02/26(金) 19:02:16 ID:YwQ0A1Bh
逆に大友義統は最高の状態で家督を継いだはずなのに、
急転直下で没落していったなw
29人間七七四年:2010/06/22(火) 18:31:20 ID:1Tj9bvlZ
>>28
DQN母の奈多布陣が神道に固執し過ぎて義統を
脅迫しまくってたから政道も安定しなかった。
布陣の兄の田原親賢は人望無さ過ぎて
諸将を統帥できず耳川で大敗してるしよ。

義統の弟の親家なんてあろうことか
島津に内通して島津を豊後に引き入れるし。

30人間七七四年:2010/06/23(水) 19:21:50 ID:vZMQv49M
そら父親がキリスト教にかぶれた揺れ戻しで夫人のせいとは思えん
田原は人望云々より2線級の戦力だからあんなもんじゃね
主将がダメでも普通あんなに崩れない
31人間七七四年:2010/06/24(木) 20:50:39 ID:e1PTsX92
二本松義綱
32人間七七四年:2010/06/24(木) 21:16:33 ID:D2hh0qMs
尼子義久だろ
尼子晴久は責任放棄だ
33人間七七四年:2010/06/24(木) 23:05:36 ID:e1PTsX92
肝付兼亮
34だぅ:2010/06/25(金) 23:27:53 ID:oIcsz+3Z
政宗はやばくね?

信長も
35人間七七四年:2010/06/26(土) 04:00:28 ID:h5KgyIuy
富樫稙泰は家督継いだの最悪の状況だな。
一向一揆に擁立されたのに、一向一揆の内紛に巻き込まれ
名ばかりだったものの、加賀守護さえ剥奪されてしまうとは。
36人間七七四年:2010/06/26(土) 05:13:25 ID:22VonRsh
政宗とか信長とかはもっとガチにヤバイ奴を前にしてもそう主張できるのかよ

義就「あ、ありのまま起こったことを話すぜ……
    実の息子だからって幕府にも嫡子に立てられたと思ったら
    守護代も管領も国人まで認めてくれずに河内に追い出された
    お袋が売女だからとかそんなチャチな理由じゃねぇ
    味方してくれた山名のおっさんもいつの間にか和睦してやがる
    戦国の始まりの恐ろしい何かを垣間見たぜ……」
37人間七七四年:2010/06/26(土) 09:36:35 ID:/SnujgLl
政宗は伯父さんと比べ十分に恵まれていたよ。

東北でスタート最悪は秋田実季だと思う。
父が病死、12歳で後を継ぐ、不満を持ったいとこが反乱。
領土を狙う津軽、南部、小野寺、戸沢、大宝寺にフルボッコ状態。

んで、晩年は人形遊び。
38人間七七四年:2010/06/26(土) 10:46:49 ID:0OfpEs0W
・佐竹義舜
父義治の死により家督相続するもいきなり葬儀で重臣達が喧嘩を始め反乱に発展
更に一族の山入氏が突然居城を襲い、命からがら脱出し以後12年間流浪する
流浪先でも反乱軍に度々襲われ落命寸前までいくが奇跡の逆転劇で居城に復帰
しかし領地の大部分が周辺大名や家臣達に乗っ取られていた

・宇都宮広綱
父尚綱が那須氏との戦いで討ち死にし宇都宮勢は大潰走する
広綱は5歳で家督を継ぐ事になるが居城を守っていた壬生氏が混乱に乗じて反乱
宇都宮城は乗っ取られ広綱は命からがら脱出し、以後8年間家臣の芳賀高定に匿われる
その後、高定の活躍や佐竹氏、北条氏などの助力を得て居城を回復するが
宇都宮氏の支配力は大きく衰退していた

・石川昭光
伊達晴宗の子として生まれるが石川晴光の要請で養子に入る
しかし当時石川領は葦名氏、田村氏、白川氏、岩城氏、佐竹氏の係争地であり
各勢力の都合で昭光はたらい回しにされる
何とか家督を継ぐも配下の多くが他家に吸収されており
一郡の支配もままならぬ状況であった
39人間七七四年:2010/06/27(日) 12:27:49 ID:EtqXN1hS
>>37
政宗はむしろ良好な状態ベスト5だな
秋田さんとこは酷すぎるw
40人間七七四年:2010/06/27(日) 12:50:59 ID:NLGsah/M
>>39
以前、俺がレスったものが参考になるかな。
安東の存続の危機を切り抜けた愛季生前の布石。

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169809266/376
41村上浦宗:2010/07/02(金) 12:40:26 ID:qav4V38h
少弐資元・冬尚
42人間七七四年:2010/07/17(土) 18:34:17 ID:Re5Hkc8h
三好長慶も最悪と言っていいほど状況が悪いな
10歳で家督相続・相続時は芝生周辺の吉野川上流域のみが活動区域
畿内での活動は堺近辺限定という…
細川晴元と細川持隆の仲が悪かったってのが無いと生き残れてないな
あと晴元が阿波出身で阿波の兵を頼らざるを得なかったのもあるけど
親兄弟が殆ど消えてて残ってるのが晴元腰巾着の叔父従兄弟の三好政長
生き残れたのは、持隆の庇護もそうだけど
三好之長が畿内で評判落としたのを孫の元長が立て直したのも大きいな
勿論長慶の実力あってのことだが
43人間七七四年:2011/01/10(月) 00:34:03 ID:w1vq+mOe
ここまで秋月種実なし
44人間七七四年:2011/01/10(月) 12:50:08 ID:IT026o+c
有能なんだろうが
なんか混乱に乗じただけというか感じが否めないから今一好きになれない
45人間七七四年:2011/01/30(日) 14:49:38 ID:DuYdui/r
秋月種実
46人間七七四年:2011/01/31(月) 20:47:12 ID:dX3DeuFs
恵まれた状態での相続のほうが珍しい気がしてきた。
47人間七七四年:2011/01/31(月) 21:15:23 ID:CUA6DQ4q
>>46
信長や政宗はむちゃくちゃ恵まれてる。
48人間七七四年:2011/02/01(火) 10:14:27 ID:PCM8/jVZ
毛利元就は?
49人間七七四年:2011/02/01(火) 17:32:19 ID:PeG1CA90
元就も恵まれていない。
っていうか、謀将と言われている大名はだいたい弱小スタート。
真の弱小大名は戦う兵力すらないから、謀略に頼って領土拡大するし
50人間七七四年:2011/02/01(火) 23:59:42 ID:PCM8/jVZ
謀将といえば宇喜多直家とかもそうだったな

祖父を殺されて、一緒に逃げて放浪していた父が死んで家督相続
51人間七七四年:2011/02/03(木) 01:40:14 ID:gHsrfuBv
足利義昭や尼子勝久なんかも相当ひどいね。滅亡寸前どころか継ぐべき組織が壊滅してから引っ張りだされてる。
52人間七七四年:2011/02/04(金) 08:24:40 ID:gfY/Qw/Z
信長もめちゃくちゃ恵まれているとは言い難いと思うが、財力はあったからなぁ。
その分だけマシか。
53人間七七四年:2011/02/04(金) 13:41:13 ID:Aikw/WtZ
>>49
元就スレに下記のことが書かれているから元就はかなり有利でしょ。

毛利は反上位権力国人一揆のリーダーとしてその婚姻関係をフルに使っている為に
保護者である大内も尼子も一目を置かざるおえない強固な立場で両天秤にかけてちょくちょく加増してもらう楽な立場。
そもそも毛利は総領光房以外に4人が連署に加わったほどの発言力で安芸一揆の盟主の地位が毛利家。
毛利光房・平賀妙章の一揆中心人物が義満の一揆討伐軍派遣を逃れる為に降伏交渉しており
山名氏を通して降伏し七通の赦免の御教書を出してもらう予定だったが時期に恵まれず
特に毛利光房がたびたび懇願していたのにも関わらず義満が死去で沙汰止み。
1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上る巨大勢力である。
毛利家文書151・252号によればすでに1475年備後国伊多岐・重永・山中など
世羅台地にも毛利は3000貫を獲得し備後国にも発言力を持っている。
幸松丸が鏡山城先陣を勤めたのは毛利家文書239でわかるが鏡山城攻防に信頼できる史料は無く
平賀氏は鏡山城落城の現形の功で東西条616貫を経久から与えられてる(平賀家文書61号)
ただ義興による加増の由来が毛利家文書251号に書かれておりそこで元就が言い訳しながら過去を振り返って書いている。
(20年に渡り安芸の大半が尼子になびいたが毛利だけが大内に忠勤したとか
兄弟も親戚もいない天涯孤独な元就などとデタラメが書いてある)
ここに尼子がやってきた時に幸松丸が死んで元就が継いだと書いており、なぜ死んだのかまったく触れてない実に不審である。
しかも1513年3/19付で志道広良が元就は今後は広良の援助を得て毛利のために奉公する誓約書を書かされていたりと
元就の謀反をすでに警戒している姿が現れていて、その3年後に興元が唐突に急死・・・実に怪しい。
毛利家文書239号に元就が跡を継ぐのは尼子の承認ありの動かぬ証拠があり・・・
尼子の安芸進出に伴い鏡山城における幸松丸暗殺と毛利の尼子への寝返りが完全にリンクする。
54人間七七四年:2011/02/04(金) 13:52:29 ID:Aikw/WtZ
>>52
信長はかなりめぐまれてるんじゃね。

各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達

駿河英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)分国法『今川仮名目録』を制定したが早世した。
遠江で検地をした兄氏輝の早世(〜1536年)後の家督争いに勝った
義元は補佐役の太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して
歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。

越前英主 朝倉孝景(〜1548年)加賀一向一揆との和睦を成して一乗谷の文化的繁栄をもたらす。
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟の謀反で死ぬ。

南近江英主 六角定頼(〜1552年) 浅井久政を従属下に置き、家臣団を本拠である観音寺城に集住させる。
経済発展のために楽市令を出して城下は空前の繁栄を迎えていた。
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)

美濃英主 斎藤義龍(〜1561年) 旧土岐家臣2万を自らの旗本に結集させ信長を死ぬまで撃退し続ける。
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。

跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。

結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、
織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。
さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解中。
三好配下内で闘争していた池田勝正などもあっけなく信長に降伏し労せずして摂津支配も確定させ
将軍権威を背景に若狭武田なども帰属させ大商業都市の堺・大津・草津をも支配下に組み込む。

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
天候不順と河川氾濫ばかりの甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
55人間七七四年:2011/02/04(金) 22:13:11 ID:+939vN3b
民主党かな
かなり最悪だ
56人間七七四年:2011/02/05(土) 14:17:19 ID:XDaHM7Sb
ルーピーズは、愚民どもの圧倒的な支持と言う超恵まれた条件を、
カネへの執着と、数々のルーピー発言で自爆している
典型的な不肖の息子型だな
しかも歴史上ワーストクラスのw
57人間七七四年:2011/02/08(火) 20:10:20 ID:Iq978DIL
謙信がかなりキツい状況でしょ
58人間七七四年:2011/02/09(水) 04:27:07 ID:MwmdjJ/x
>>57
>>9>>13>>16に書いてあるよ。
59人間七七四年:2011/02/09(水) 13:19:54 ID:MwmdjJ/x
>>58
氏康は信玄にも完敗して死んでるよな。
小田原を焼き討ちされ、
三増峠で大敗し、
今川領を見事に奪われ、
氏直と今川氏真の養子関係を作って相続を主張してまで奪回しようとしたのにな。
60人間七七四年:2011/02/10(木) 12:46:13 ID:NHQNfrV8
>>54
かなり恵まれているか?
織田信長だけで進めていくとそうでもないんだけどなぁ。
殆どの重臣達に認められていなかったようで、桶狭間の時に参加した
重臣クラス僅か数名。筆頭家老の林でさえ参加していない。
当然、織田家随一と言われた勝家も参加していない。
これは、まだ織田家が信長の元に一本化していなかったと言う事だから、
言うほど楽では無いと思うよ。
自分自身だったらどうしたものか考えれば解る。
主家衰退期というが、それは結果で、当時の尾張守護代は2家とも健全だしね。
あと、山地だから平地だからと言う人がいるが、確かに山地は攻めにくいが、
平地には逆に人口が多い為、なかなか統治しずらい面もある。
山地だ、平地だとかはあまり考えない方が良いと思う。
いや、信玄も名将だけどね。
61人間七七四年:2011/02/10(木) 13:30:10 ID:+rnKOcM1
家臣に認められてない?
そんなこと書かれてないだろ。
そもそも円滑に家督を継いでるじゃん。
尾張守護代家だって信秀の剛腕ぶりに文句すら言えないまでに衰退してんじゃん。
そもそも信秀は独力で斎藤や今川と互角に戦ってんじゃん。
62人間七七四年:2011/02/11(金) 00:43:01 ID:XDKpB3ty
伊達絶頂で家督譲られて危うく滅ぼしかけた政宗さんのスレはどこですか
63人間七七四年:2011/02/11(金) 01:33:15 ID:LbQNqNon
伊達と戦い続けた相馬さんのとこの義胤はどうよ
64人間七七四年:2011/02/13(日) 22:41:45 ID:QUkCQxSz
竜造寺政家はどうよ
65人間七七四年:2011/02/13(日) 23:01:20 ID:PO9YqGnH
政家は戦国時代でも上から10人に入るぐらい良い状況で家督を継いでるだろ
親父が壮絶な死に方してひっくり返ったけど
66人間七七四年:2011/02/13(日) 23:24:54 ID:y+6+7etR
足利義昭
67人間七七四年:2011/03/05(土) 05:10:54.36 ID:hq/GZUDy
>>60
ものすごい信長は恵まれてる。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293734035/469-470
68人間七七四年:2011/04/19(火) 23:03:40.00 ID:rDz+c052
一色義清だろ。
家督相続直後に討死滅亡。
69人間七七四年:2011/04/20(水) 14:16:38.63 ID:+mDgymZJ
立花宗茂はどうかなって思ったけど絶望的に悪い状況ではなかった
ただ建前上はギン千代タンからの家督相続ww
70人間七七四年:2011/04/21(木) 00:43:06.49 ID:ZjOcZ7Sd
>>68
南部晴継も酷いぜ。
親父の葬儀の帰りに暗殺されてる。
71人間七七四年:2011/04/21(木) 08:17:19.30 ID:TS5vSo7H
そう言えば、結婚式だかで殺された武将いなかったけか?
72人間七七四年:2011/04/22(金) 00:54:41.89 ID:tkdmf2/W
浦上政宗とその息子だったかな。
息子の結婚式で討たれたらしい。
73人間七七四年:2011/05/05(木) 21:03:33.95 ID:VumlHoEh
黒田家との縁組だったねぇ。

職隆と官兵衛は出席してなくて助かった。
74人間七七四年:2011/05/26(木) 22:33:04.06 ID:fEfCJSEa
戦国じゃないけど徳川家茂は結構かわいそう。
75人間七七四年:2011/06/08(水) 18:45:20.07 ID:F5hUGZMY
扇谷朝定は?
76人間七七四年:2011/06/08(水) 19:42:44.25 ID:fyZjaznI
豊臣秀頼
77人間七七四年:2011/06/08(水) 22:57:41.79 ID:OtAYF0+n
一条内政
78人間七七四年:2011/06/09(木) 03:09:03.93 ID:urkmIkD2
一条政親
79人間七七四年:2011/06/09(木) 07:08:44.62 ID:P2W43DCS
赤松政則
生まれる前に嘉吉の乱で幕府軍に討伐され一族壊滅。親は京都の寺に預けられていたため助かる。
長禄の変における旧臣達の頑張りによって3歳で家督相続して、
富樫氏の内紛で荒れていた地盤の全くない加賀北半国守護大名として復活。
元服したと思ったら翌年文正の政変で親戚の季瓊真蘂の巻き添えで失脚。
応仁の乱では旧領播磨に攻め込みそれ以降強大な宿敵山名勢と直接対決することに。

赤松氏と山名氏との宿敵関係から細川勝元の支援を受けられた点だけは状況良かったか。
家督相続から何から全て勝元のおかげ
80人間七七四年:2011/06/09(木) 08:37:30.13 ID:vnnqFdnj
秀頼
81人間七七四年:2011/06/09(木) 18:08:03.66 ID:/QKY5gyO
北条氏苗
後光厳天皇
後亀山天皇
82人間七七四年:2011/07/03(日) 16:14:38.45 ID:PLo5q9yv
宇喜多直家
小野寺輝道
一色義清
北畠具房
最上義守
83人間七七四年:2011/08/18(木) 16:04:56.94 ID:NbwgiJ+h
>>70
北信愛がいただけマシじゃないか?
84人間七七四年:2011/11/27(日) 16:44:08.93 ID:2mmii0nW
尼子経久(いきなり領地消失)
龍造寺家兼(途中で滅亡するぐらい酷い)
織田信長(清州同盟まで毎回がクライマックス)
毛利元就(大内義興の傘下に入るぐらいまでは毎回がクライマックス)
上杉景勝(滅亡リーチ状態)
85人間七七四年:2011/12/09(金) 23:49:01.15 ID:X7J30o1y
大内義長
86人間七七四年:2011/12/11(日) 00:56:22.11 ID:t/Nwc3xo
尼子勝久(家が滅亡してから担ぎ出される)
87人間七七四年:2011/12/11(日) 13:44:23.71 ID:Djkegssg
>>84
織田信長
毛利元就
この2人は恵まれまくってるだろ。
88人間七七四年:2011/12/11(日) 20:32:24.59 ID:QO26Fpos
自分が分家の初代の家兼は家督なんて継いでない
89人間七七四年:2011/12/11(日) 23:54:24.07 ID:dD7TTOcK
蘆名盛隆(元人質だったせいで求心力皆無)
90人間七七四年:2011/12/12(月) 10:27:37.31 ID:4V/W91w7
恵まれてる
織田信長(肥沃な領地で超イージーモード)
北条氏康(主に早雲の遺産。氏綱も名君だった)

恵まれてない
長宗我部元親(土佐七雄でもベベの領地、一領具足がまだない、一条の客将)
武田信玄(小山田とか穴山のような豪族が乱立しすぎて統制が超むずい、海必要)
武田勝頼(継いだ時点で詰んでるよ、出生のせいでもう無理ゲーだな)
91人間七七四年:2011/12/12(月) 11:09:34.45 ID:z2fdKoS5
>>90
国親と元親を間違えてるぞ
92人間七七四年:2011/12/12(月) 14:09:55.63 ID:0AHmOtto
信長が尾張一国丸ごと継いだって思ってる奴まだこの板にいたんだ
93人間七七四年:2011/12/12(月) 19:47:14.97 ID:0zaZEh0E
信長が恵まれてるとか…
さすがに上の尼子達よりかはマシだが
勝頼は親父のイメージのツケまで回ってきてるのが可哀想
94人間七七四年:2011/12/12(月) 21:08:23.15 ID:GfaRNwQb
織田厨必死過ぎワロタ
95人間七七四年:2011/12/13(火) 11:37:33.89 ID:LVHLtn6E
武田信勝は家督相続時に一体何をどうすりゃよかったのか…
96人間七七四年:2011/12/13(火) 12:47:18.40 ID:M8HbrcWu
ひたすら逃げれば良かったんだよ
97人間七七四年:2011/12/13(火) 21:35:37.24 ID:uZGebFff
長宗我部国親
98人間七七四年:2011/12/13(火) 23:17:50.97 ID:JLPSuf2Z
元親も結構状況わるいんじゃね?
99人間七七四年:2011/12/14(水) 00:05:55.11 ID:CN8BoLrs
勝てた連中の不幸自慢苦労自慢より
ドン詰まりな状況でやっぱりダメでしたって方を聞きたい
100人間七七四年:2011/12/14(水) 00:31:47.97 ID:q7zshtE5
>>99
勝頼をおす
101人間七七四年:2011/12/14(水) 03:29:26.56 ID:AssCzbK3
武田信玄が恵まれてないってなんかの冗談か?
こいつが恵まれてないんだったらほとんどの大名は家督相続で恵まれてないだろ。

・甲斐守護という一介の守護の地位をまるまる頂く

・後継者争いでワリを食うことなく相続、信繁信廉はじめ武田一族の多くが信玄に従う

・隣国でもあり大勢力を誇った今川義元と和議、同盟を結んでいる

どこに恵まれてない要素あるんですかだがさんw
102人間七七四年:2011/12/14(水) 10:37:19.84 ID:RBpRrwUp
武田信勝は、とりあえず天目山から上総武田氏か佐竹氏あたりに逃げて、
本能寺の変が起こるまでの3か月間を生き残れば、甲斐復帰はありえたかもね。
天目山近くまで付いてきてた松姫とか落ち延びるのに成功してるし。
結果論だし、一度甲斐復帰できても天正壬午の乱を生き残れるか分からんけど
103人間七七四年:2011/12/14(水) 10:59:37.34 ID:NCdN9Nqz
わずか数ヶ月だもんなぁ。
後世からみると、実にもったいない気もする。
104人間七七四年:2011/12/14(水) 11:56:54.16 ID:I6pEgeYn
信玄と謙信は
いずれも山谷に割拠する国人たちが強すぎて
信虎は追放、為景は隠居に追い詰められ
権臣国人たちの専横のための家督交代が行われ
傀儡として擁立された。
105人間七七四年:2011/12/14(水) 13:01:52.67 ID:v6mSenoS
石高、後ろ盾などは上記の人々より遥かに恵まれているけど、
それでも詰んでたと思うよ、織田三法子
斯波義銀さんとか土岐頼芸さんとかも同列だな。
まあ土岐さんは道三や信長以上の能力があれば、逆転できた立場かな。
(能力がないからこそ傀儡に取り立てられたんだろうけど)

父が忙殺されて浜を一家追放された九鬼嘉隆…は大名でもなんでもないな。

106人間七七四年:2011/12/14(水) 13:58:49.64 ID:I6pEgeYn
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
107人間七七四年:2011/12/14(水) 14:00:30.10 ID:I6pEgeYn

焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと
依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。

信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」

大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…

まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
108人間七七四年:2011/12/14(水) 14:05:09.03 ID:I6pEgeYn
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
http://members.at.infoseek.co.jp/twt/oda/kenkin.htm
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、だいたい600人を1年間雇えるくらい

尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。

岐阜城は竹中重治や斎藤利堯や織田信雄や福島正則などに落とされるなど
馬鹿みたいに簡単に落城しまくった城で落すのに苦労したのは信長だけ。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。

1565年9月28日に織田への味方をして孤立奮闘してた加治田城の佐藤紀伊守親子って信長に会って
感涙にむせび言葉も無いほど感激してありがたがったんだけど翌29日に龍興が信長と決戦に出てきたら、
佐藤紀伊守親子を見捨てて信長逃亡しちゃうんだよな・・・
佐藤紀伊守が斉藤に出してた人質の娘が串刺しにされたのに。
結局のところ息子は斉藤軍の前に討死するし岐阜陥落後に加治田城は斎藤新五郎のものになっちゃうし。
109人間七七四年:2011/12/14(水) 17:22:36.44 ID:AssCzbK3
斎藤利堯と織田信雄はほとんど混乱期にかっぱらっただけじゃん
福島にしても前城主の池田輝政がいたからこそ

こんな当たり前のこともわからないだがさん・・・

信玄が信濃攻略に10年もかけた城群を
織田の甲斐征伐軍が数日で落としたから織田家最強とでも言っていいの?w
110人間七七四年:2011/12/14(水) 19:51:53.80 ID:I6pEgeYn
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。
甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、
金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉・旱魃・大風・疫病・稲皆損・大水損が
数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ
信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。
ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。
父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負けた時にはその危機が更に深まりました(信玄を傀儡にした権臣が死んだのは良かったが)
貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として
関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる。北条の関東開発は根拠がない完全なデタラメです)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。
普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状において謙信に劣る訳ではありません。
111人間七七四年:2011/12/14(水) 19:54:42.15 ID:I6pEgeYn
それは反動する力が多分に残されていたからであり、その原因はまず永正の乱〜天文の乱に求められる
竹俣、色部、本庄宗家らが、上杉房能を討った長尾為景に対し、叛旗を翻した
為景は中条らと力を合わせ、彼らの拠る竹俣城、平林城、本庄城を瞬く間に落としていったが
討ち果たすまでには到らなかった
この際、一度降伏した筈の竹俣&本庄宗家は関東管領・上杉顕定の大軍を越後へ呼び、再び反抗する
当初は上田長尾まで関東管領に味方したので、為景も越後から逃げ出すしかなかった
関東管領の旗色が悪くなると、上田長尾は為景方へと乗り換えたので、上杉顕定を討ち果たす事には成功した
が、依然として揚北衆&上田長尾らは健在で、後に上条の乱において為景を打倒してしまう

その上条の乱でも、上条定憲が繰り返し兵を挙げ、
その度に為景は勝利するも、上条を殺せず結局上条はすぐに復活してしまう
そして定憲は三度目ともなる「打倒為景」の檄を越後全土に飛ばした
為景は堪らず、北条毛利&安田毛利に辞を低くして破格の条件を提示し、なんとか味方に引き込む
しかし揚北衆連合や上田長尾はじめ、大多数の越後豪族は上条方へつき、
次第に追い詰められた為景は敗北>隠居>死去
府中長尾家に恨み骨髄の豪族達は勢力を盛り返し、その為景の葬儀は武装で行われた。
上条はじめ上杉一門と上杉の元被官達、それに味方した有力な越後豪族達
彼等は府中長尾家に対しては、勝利者という意識を残したまま、屹立した存在を維持し続けた
叩き潰されてもおらず、勢力も温存されたので、府中長尾に従う意識も当然、希薄
晴景時代には春日山への出仕を拒み、景虎時代には第三次川中島の時点でさえ派兵に応えない
そんな連中を政権内に取り込む課題は、かなりの難題だった。
こんな状態なので、政権を確立させ、浸透するまでも長き道のり
しかも景虎が家督を継ぐにあたって、上杉定実は長尾に大きな借りを作っており
上条の乱で長尾を破った上杉からの影響がさらに増し、二重支配の状態からスタートしなければならなかった
つまり長尾と敵対し、勝利した豪族達だけでなく、上杉一門からも干渉を受けた景虎政治の実態は、
晴信以上に外部から強い干渉を受けている第三次川中島の時点では、
色部&本庄宗家に軍役を負わせられる立場でも無い。
112人間七七四年:2011/12/14(水) 19:56:46.61 ID:I6pEgeYn
将軍義晴から白傘袋や毛氈鞍覆を必死に貰い守護代の地位で立場を必死につなぎとめていたが
享禄・天文の乱で義晴が京から追放されるや上条定憲が上田長尾と揚北衆や葦名に敗北し
父が隠匿に追い込まれ翌年死去。
幼年の謙信は謀反を恐れて甲冑姿で警戒中の葬儀をでた後は出家させられる。
操り人形として兄が守護に擁立される始末。兄より20歳以上離れた謙信への守護代変更も
守護がより操り易いと考えての事。さらに三国同盟で背後を固めた北条や武田の猛攻。
謙信は家督を継ぐまでにも、何度も追い詰められ、その命を危険に晒してきた。
叛乱が相次ぎ兄の命により周囲が敵だらけの栃尾の小城を本拠にして、
景虎を若輩と侮って襲いくる近隣の豪族達これを撃退する存在でしかなかった。
家督を継いだ後も、為景の残した借財を背負わされ上条の乱で敗北した
府中長尾という家柄にも苦しまされた、という話がまず有る。
(為景は年間300貫の赤字を出していたつまり府中長尾家が没落する一要因を生み出している)
支配者から引き摺り下ろされた父親が亡くなった際、その葬儀を行うにも、
どの勢力が、いつ襲撃してくるかも分からない状況。
七つの子供さえ甲冑を身に付けて参列するほど異常な有様だった。
つまり族滅の可能性が有ったくらい出身の家柄は没落しきっていた本拠地でクーデターが起こり、
城内は阿鼻叫喚の地獄絵図。そのクーデターを起こした黒田秀忠は父親の元寵臣。
一説によると謙信の兄二人が城内で惨殺され、若い謙信も命を狙われ、殺される所だった。
これだけの事件を起こした黒田の処分は、春日山への出仕停止、府内追放〜といった軽過ぎる処分で、
府中長尾は追討出来る実力を持ち合わせていなかった。
若き日の氏康、信長そして政宗の本拠地はこんな有様だったろうか。
謙信が春日山城主になった頃は、上条の乱で勝利した上杉派の力が強く幽閉の身から開放された
上杉定実、為景に叛いた上田長尾親子、大熊政秀&朝秀親子など彼ら
大部分の戦国領主達は独自に文書を発給出来ている。
謙信初期の政務は、長尾景虎が発給する認可だけではなく、別に上杉家の認可をも必要とされており、
その貧弱な政治体制を受け継ぐしかなかった。
こういった二重支配を強いられた立場が、そのまま長尾景虎が最初に背負わされたスタートライン
それは信長、氏康、義元、義景とは比較にならないほど後方に位置している。
上杉定実の死〜栃尾本庄&直江&大熊ら三重臣からなる体制など、
ここで謙信が隠棲した原因は上杉派vs長尾派が対立した
新体制の歪みでありきっかけは上野下平の領地争いで、謙信が裁定を下し一応は決着
しかし上野と関係が深い栃尾本庄が暗躍し、府中から派遣された僧を説得するなどして
謙信の下した裁定を反故にしてしまった(これに大熊が激怒)
裁定権を否定された領主は存在価値が薄い。よって謙信は、
以後は皆で相談して決めるように〜と当然の対応をして隠棲。
家臣の説得で戻った後は、重臣、奉行衆を次々に組み換え、新しい人材を組み込んでさらに新しい体制を構築している
守護代の府内長尾や栖吉長尾、三条長尾、上田長尾は実力がほとんど一緒。
そんな中、争う事無く越後をまとめあげるために二度目の上洛。
相伴衆に任命され、裏書御免・塗輿御免の御内書を与えられる。
これは長尾権力では越後を治められなかった父同様に幕府権力にすがり上位権力者になろうとすることであり国人達を取り込む苦肉の策。
府内長尾の権力は脆弱で将軍義輝によりそれによって守護上杉氏の領地であった越後府中も支配下にする
こうやってあまり疲弊させることなく越後を統一していくって様はなかなか見事。
113人間七七四年:2011/12/14(水) 19:59:02.35 ID:I6pEgeYn


謙信が上田長尾を屈服させ、揚北本庄が混乱している頃、北条氏康は上野北部の沼田城に
北条孫次郎を配置し、関宿も手に入れ、里見も佐竹も降伏寸前 北条による関東制覇は目前だった。
晴信は村上を追い出して北信濃攻略に着手。残された北信の小豪族らを放っておけば
易々と武田に吸収されて飯山にまで攻め込んでくる勢い。
この強大化した北条と武田が協力し合って北上中すると言う危機から越後統一を目指したのが謙信。
青苧交易というのは国内の魚沼&揚北〜小千谷〜柏崎など越後における支配が広範囲に安定していないと流通できない
魚沼&揚北の山間部で青苧を収穫、これら越後の南北から中越の小千谷で荷を集積し、
柏崎港まで運び、北前船で上方へ送るという流れ
魚沼を支配しているのは上田長尾氏、揚北は揚北衆、小千谷(稗生城)は上田長尾寄りの平子氏
柏崎港の周辺は上条の乱で上杉方についた宇佐美&柿崎、家中が混乱していた越後毛利氏、
そして何と言っても最大の敵、上条氏が隣接しているという不安定地域。
1473年から38年間にも渡って青苧出荷が途絶えた大乱を経て、ようやく為景が越後を掌握した短い期間(大永4年〜同8年)
青苧座を束ねる三条西家が再三催促しているにも関わらず、交易が下火になっている
為景は上田長尾との関係が改善していたこの時期、国を富ます政策を等閑にし、
越中東部守護代を兼任し、父の能景が騙し討ちを受けた一向宗や神保討伐で越中遠征に没頭。
この遠征に駆り出され、疲弊し切った越後豪族達の不満は高まり、上田長尾を含む殆どの豪族は上条方へと付き、
為景は四面楚歌に陥る。府中長尾に勝利した上田長尾親子は春日山に居座り、実権を握ったと見られている
幾ら青苧を育む土地があったとして、それを交易するには越後全体の安定が必要。
それは国内の内情を鑑みると非常に厳しい条件だった
当時の越後は雪国の気候に適した作物の品種改良がなかった事などから二毛作も厳しく、
39万石程度というあの国土の広さにしては考えられないくらい貧困な石高でありながら、
海運業の発展や青苧・越後布の奨励、さらに伊勢商人の掌握などで度重なる戦でも
決して財政難にはならなかった程の経済のスペシャリストである謙信
直江津&柏崎〜能登〜越前若狭経由の海運を活発にし、その安定に尽力してる
為景の頃は京の三条西家から青苧の催促をされるほど、交易が下火になっていた
しかし謙信は青苧はじめ数々の特産物を奨励し、大赤字だった財政を建て直した
摂津・天王寺の青苧座も中央商人に頼らず、越後から派遣した地方商人が活躍できるよう
二度の上洛で三条西家と相談、協力を取り付け、神余などの代官も置いた
当時、日本の着物は殆どが麻であり、この大部分を越後が引き受けたと言われている
一説には船頭前だけで年間六万貫もの巨利を得たといわれる謙信
為景時代に大破した大橋や焼失した城下町、街道、宿送制度などを次々に整備
これらの富は下越(揚北)にまで到り、領内全体を潤した
謙信によって数々の夫役、橋賃、諸税が撤廃&禁止され、領民は勿論、旅人や商人達を喜ばせた
謙信自身も関東、北陸、京〜摂津を飛び回り北信濃へは村上義清に任せた根知城〜塩の道を経て、互いに助け合った。
114人間七七四年:2011/12/14(水) 22:57:31.97 ID:n/3ywaAj
戦国一恵まれた継承をしたのは、
間違いなく信長だろ。
115人間七七四年:2011/12/14(水) 23:10:52.70 ID:DOuiOB8p
今川氏親は幼くして父を失い小鹿範満が専横していた。
早雲が協力してくれたのは恵まれてると言えるかもしれないが。
116人間七七四年:2011/12/14(水) 23:12:10.46 ID:AssCzbK3
>>114
間違いなく信玄ですよだがさんw
117人間七七四年:2011/12/15(木) 03:02:02.56 ID:QE2HGoTv
毛利輝元とか島津義久とか北条氏政とかのほうが恵まれた相続してるだろ
118人間七七四年:2011/12/15(木) 03:04:45.46 ID:PaTbZcYm
毛利は最初から巨大勢力でしかも足利将軍家にも直接文句言える国人連合の盟主の家柄しかも中国地方で大災害記録もまったくない。
「渡邊世祐氏」によれば1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上るとしていた。
毛利家文書151・252号によれば1475年備後国伊多岐・重永・山中など
世羅台地にも毛利は3000貫を獲得し備後国にも領地と発言力を持っている。
つまり毛利の3000貫しかなかったってのはそもそも大ウソw
「山室恭子氏」が元就による自己正当化目的での「歴史の偽造」を告発してたが
「鴨川達夫氏」も元就の家督の簒奪に同意してるな。元就の半生はほとんどデタラメばっかり。
そもそも福原一門全員が興元と上洛したわけじゃないし
井上一族に元就の多治比300貫が奪われた苦労話は「池亨氏」も実に怪しい話で信じ難いと却下してるね。
井上はのちに元就が殺して重要通行路収入の利権収奪してるから井上の罪状をでっち上げる必要があり
城を乗っ取られたとかウソを書いて元就正当化に利用しただけ。
元就黙殺とか福原の叔父さんとかみんな何やってんだよ?と思う。
過去を振り返った書状で元就は自分を天涯孤独って言ってて、
叔父さんどころか家督争いで殺した弟までいないことにしていたり…
尼子が相合元綱を使って元就を追い落とそうとしたってのも捏造だしね。
7/15に幸松丸が突然死して7/19には元就擁立決定。 動けるのは実質たった3日しかない。
その間に元就擁立を確定づけたのはたまたま上洛し神仏詣をしていた栗屋元秀が
将軍から相続許可を貰ってタイミングよく帰ってきたことと尼子から家督を継ぐことを元就が認められたことがある。
明らかに3日の間に相合元綱を出し抜いてる。
どう考えても幸松丸死去以前から家督奪取へ向けて計画し動いていたとしか理解できないし
元綱がいつ死んだのかもわからないどころか元就自身が天涯孤独だと言って元綱の存在自体を抹消してる。
元就の人生は捏造ばっかりで怪しいことばかりだからね。
児玉就忠・桂元忠連署書状で尼子家との今までの経緯を説明する中での冒頭に
尼子方として西条陣に出陣した幸松丸が死んだことに触れられ
毛利之家督を元就可存之旨、従與州被仰候て、事を存候処に、
其以後渡辺之者共能州(尼子筆頭家老亀井秀綱)へ色々頼申故、不被打置、
荷擔(負担を尼子が担がされる)させられ候つる、其外御取扱無曲子細敷多候に付、
しかるに防州へ仕えたと、元就が尼子へ渡辺を派遣して懇望してくるので尼子も捨て置けず荷物になるが
元就を後援してやったが元就が尼子を裏切り大内に仕えたと経緯を説明してる。
その後の文章は塩冶興久と経久の対立における毛利の対応についての弁明が続く。
毛利って分国法すら編纂されてない内政・裁判すら明文化がなされてないと言う
ロクな政治体制すら確立されてないダメ大名だったからな。
毛利は代々の安芸における対大内&将軍への交渉を司る一揆の盟主の家柄であり
武田が大内の支配に協力しないとわかると毛利を保護し、海側に領地をやったりと厚遇していた。
尼子も安芸を握るポイントを一揆の盟主の家柄である毛利と踏んで好条件を提示したりしており
二股をかけて利益を得ていた毛利の肥え太り。大内も尼子も毛利を滅ぼそうとしたことなど一度もない。
ただ自陣営側に引き入れたいだけだった。
119人間七七四年:2011/12/15(木) 03:07:01.28 ID:PaTbZcYm
安芸東部の鏡山城の意義・・・大内は周防口入り口(周防守護代は戦下手の陶)に当たる
厳島神主家の紛争とそれを後援する広島湾とその背後の山脈(向こう側は石見銀山)を支配する
武田&白井備前の府中城を抜くことができず、安芸と備後の支配の拠点として
東西条の地に鏡山城を築城して東から武田を威圧する一方で尼子の進出への睨みを利かせていた。
これを守るも落とすも安芸一揆国人連合ネットワークのリーダーの
毛利の帰趨次第だったので安芸でもっとも重要な拠点
毛利が大内と尼子の間をくるくると渡り歩いているのは、その都度、罰せられるどころが領土が貰えるから。
安芸可部七百貫・温科三百貫・深川上下三百貫・玖村七十貫等の地を
大内から加増してもらった大恩を忘れ大内を裏切り元就が晴久と義兄弟にまでなっている事実・・・
1541年に武田を滅ぼした大内から毛利は佐東や安南に合計1000貫の所領をもらい
翌年には武田の一族判氏の遺領である判の地も貰い武田の佐東川川口の川内衆水軍をもらう。
(大内は備後北半七郡直接支配は元就に委ねている(「譜録」渡辺三郎左衛門))
陶の謀反に同調した元就は陶が厳島接取した同日8/20金山城(武田の主城である佐東銀山城)を手に入れ、
さらにその周囲の地域として陶から己斐河以東の左東郡を与える約束をしてもらっている。
また9月には義隆側の孤立無援の西条槌山城も手に入れる。
(大内が安芸東部支配の牙城にしていた西条鏡山城を廃して新たに築城していた)
地元の吉田歴史資料館の職員によれば
「最近の研究では、尼子側が毛利をあまり激しく攻めた痕跡が見られない」との事からや、
実際に尼子氏は本隊を動かした戦が殆どなく、むしろ元就との直接戦闘を避けて大内氏との決戦前に
やっと本陣を動かしたことからも大内との戦いを待っていたようにも見受けられる。
また尼子方はこの後も美作三浦氏・備中中村氏攻撃の為に、遠征をしている。
厳島合戦
石見で陶と戦う吉見正頼領に接して南に広がる旧武田方の山里一揆が
元就に味方すると申し出たので周防口の岩国まで毛利領になり安芸への通路が完全封鎖され
石見から周防へ陶軍が帰国する退路すら山里一揆エリアであり危険に晒される始末。
各種権益を否定された村上水軍が陶の出す船舶に
ゲリラ活動していた為に陸路も海路も通商路が遮断される。
陶は毛利と共謀して大内義隆を滅ぼしたのち、上関での村上氏の特権を認めず騎下の米良船を自由に通過させ
1552年2月厳島に掟を下して港に立ち寄る諸回船から警護米を取り立てるのを禁止。
さらに4月義隆時代に能島村上武吉の叔父で後見人の村上隆重を通して村上一門に与えていた特権も否定。
さらに厳島で京・堺商人から駄別安堵料を受領することを禁止し、
京堺商人から礼銭の献上を要求と度重なる権限制限による陶による統制に村上水軍は反抗的態度になる。
陶の周防16万石対毛利領備後18万石・安芸19万石+長門13万石(隆元の正室の実家内藤氏)
厳島の戦いに感状がまったくない。前年の陶との明石での戦いで元就は感状を51通出していて
厳島の年の4月には矢野城攻略の感状として12通も出してる。
やはり来島水軍300隻が戦ってただけで毛利は傍観してただけで何もやってない。
「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」(永禄十一年 元就書状)
厳島の戦い後、十三年経ってもあの戦いは来島水軍の助力がなければ、毛利家滅亡の危機
であったことを元就自身が白状している。
桶狭間の戦いとその時期の情勢はデタラメなのは明白だが、厳島の戦いは一次史料がないとはいえ
上記のような断片史料の組み合わせで上記のような戦況推移で戦いがあったのは証明できる。
戦がヘタクソで臆病な元就は大友に大敗し、大友と宇喜多が後援した尼子残党に巻き返され、
領土の大幅縮小による毛利滅亡危機を憂いながら憤死したわけで、元就の葬儀に元春が出席できないほど危機的だった。
120人間七七四年:2011/12/15(木) 04:29:34.77 ID:HlXDJch2
>>116
明らかに信長だと思うよ(笑)
最後はあっさり崩壊したけど(嘲笑)
121人間七七四年:2011/12/15(木) 06:21:40.07 ID:4vaK+Kj7
尾張の一部しかもらえなかったのに楽www
信玄が信長と同じところにいたら尾張統一もできないままさらし首w
122人間七七四年:2011/12/15(木) 10:01:00.36 ID:YdxEiRVO
商業収入を含む日本一豊かな尾張一国
三河の水野氏の隷属
美濃大垣城
娘婿になったことによる強力な道三の後見
竹千代譲渡による今川との和睦

こんなに親父が信長のために遺してくれたのだから日本一恵まれてるのが信長。
123人間七七四年:2011/12/15(木) 10:07:06.31 ID:yL30xaL2
いつも思うのだけど、信長が最初から尾張一国持っていたするのは何故なんだろう。
124人間七七四年:2011/12/15(木) 10:28:30.08 ID:YdxEiRVO
125人間七七四年:2011/12/15(木) 10:40:07.15 ID:YdxEiRVO
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。

森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。


126人間七七四年:2011/12/15(木) 11:19:17.02 ID:YdxEiRVO
山谷に囲まれた国は国人達が天嶮に割拠するから
支配が難しいね。
越後や甲斐や豊後は四方を山並みに囲まれていて
国外へ出るのすら厳しいからねぇ。
大友義鑑も国人家臣達に殺されて、宗麟が擁立されたし。

奥羽は下克上がずっと起きなかったぬるま湯地域だったが。
127人間七七四年:2011/12/15(木) 16:55:51.84 ID:Swn8yyyq
>>126
下剋上が無くてなぜ、
羽州探題の嫡子が庄内あたりで戦争するんだ?
陸奥最大勢力として伊達の名前があがるんだ?

下剋上の結果だろうに

下剋上らしきものが少なかったのは紀伊と大和くらいじゃね?
128人間七七四年:2011/12/15(木) 17:28:10.45 ID:dRX6uR2j
羽州探題なんてもん存在しねー
単なる自称なのも知らんとか
あまりにもバカ過ぎフイタw
伊達は買官しただけで下克上でもなんでも無い。
もっともお礼は一切してないから
田舎者伊達のあまりの無礼は天下に轟いたけどw
129人間七七四年:2011/12/15(木) 18:02:10.00 ID:Swn8yyyq
>>128
伊勢が浪人だと信じてそうなバカ発見

旧来の守護・国司が倒れたのが下克上だろうに
ゆとり教育おそるべし
130人間七七四年:2011/12/15(木) 18:28:59.97 ID:b+M7wRKf
>>123
だがの捏造
そもそも尾張一国を受け継いだのなら
清洲織田家と岩倉織田家と守護斯波家の展開が説明できない。
清洲織田家が勢威を誇っていたのは事実だが、
所詮その配下でしかない信長がいきなり尾張一国なんて夢のまた夢

よほど信玄が日本屈指の恵まれっぷりで大したことも
できなかったというのを認めたくないらしいw
131人間七七四年:2011/12/16(金) 10:31:22.78 ID:f/uv5BwD
>>130
なんら内容を語れない無知織田厨の落書きはチラシ裏に書いてくれよアホ。
>>108
義竜は信長の弟の信勝に弘治三年4/19に
そちらの様子を承りたい。
こちらからは使者から用件を直接聞いてください。
詳しくは書きません。
などという書状を出してるからな。
そして弘治三年冬に信長により信勝が清洲城で誘殺されてる。
あきらかに義竜が尾張を混乱させてるんだよな。
132人間七七四年:2011/12/16(金) 10:43:50.86 ID:f/uv5BwD
>>129
金で幕府や朝廷から職を買うのを下克上と言うと思っているとは
なんと言うゆとりっぷりだ…驚いたw
133人間七七四年:2011/12/16(金) 18:37:54.97 ID:mBY1/vY3
奥州探題や羽州探題は、倒れる前にそもそも立ってもいないので、
下克上の例として語るのは適切ではない。
134人間七七四年:2011/12/16(金) 20:03:25.24 ID:ZzzbUaQS
室町幕府じたいがグダグダだったからね。
有名無実な職が多すぎて参考にならないな、確かに
135人間七七四年:2011/12/16(金) 21:21:48.08 ID:3UWdoZvh
有名無実では無く
羽州探題は最上の自称で幕職にない。
奥州探題は細川高国や幕府要路に伊達が金をばら撒いて手に入れた。
ただ探題なのに守護代をその下に任じたり、
任官の年月日が不明だったり、
裏書き御免や唐傘使用許可などの付随権利を使用した形跡が無く、
売官だから田舎者向けなんちゃって探題みたいな名誉職っぽい。
136人間七七四年:2011/12/16(金) 22:46:48.45 ID:mBY1/vY3
奥州探題は大崎氏の頃からアレだったからまあ良いとして、
羽州探題が自称だというのは何か根拠のある話なの?
137人間七七四年:2011/12/17(土) 00:07:36.60 ID:C0JDmr2q
>>122
竹千代を戸田康光が奪ってきて織田家に引渡した際に
即金で千貫文を払ってるくらいバブルなのが信秀。
138人間七七四年:2011/12/17(土) 00:19:03.82 ID:iP3Oy+Mk
>>136
南九州探題が無いと言う主張には何か根拠あるの?
139人間七七四年:2011/12/17(土) 00:32:24.35 ID:uXWrrLtJ
つか、羽州探題は日本史の教科書にも載っている職名なので、
存在しないという説があるのなら当然何らかの検定意見がないとおかしい。
140人間七七四年:2011/12/17(土) 01:35:05.04 ID:wcUKL0dP
www.geocities.jp/michio_nozawa

2007年現在発行されている高校日本史の教科書11種のすべてに記載されている単語だそうだが、
羽州探題も含まれているな。
141人間七七四年:2011/12/17(土) 02:50:29.29 ID:ZX688ffS
別に悪意は無いが羽州探題って言葉軽いなぁ…

九州、奥州、西国、羽州(笑)って。
そもそも羽州ってどっからどこまで?ってなるし。
他の物と比べると言葉の重みが無さすぎる
142人間七七四年:2011/12/17(土) 03:03:33.11 ID:uXWrrLtJ
まあ、寒河江氏他の出羽の南朝方に対抗するために奥州探題から分かれたらしいので、
他の探題職に比べると、(笑)感が否めない。
143人間七七四年:2011/12/17(土) 09:25:58.89 ID:ffSR/Fol
幕職に無いのは事実。
羽州探題があったと言うなら証拠は?
無いものに証拠は出せ無い。
あったなら論証は簡単に出来るはずだろ?
まさか教科書がソースとかバカなことは言わないよな?
144人間七七四年:2011/12/17(土) 10:29:54.79 ID:i93mRpHw
疑問符ばかり使ってるとなんか馬鹿そうに見えるよね
145人間七七四年:2011/12/17(土) 10:34:05.16 ID:uXWrrLtJ
つか、なかったものが教科書に載ろうとしたら教科書検定で引っかかるしな。
あれは、その時代時代の定説という意味では信頼できる。

後に定説がひっくり返る可能性もあるだろうが、それはまた別の話。
146人間七七四年:2011/12/17(土) 10:43:13.22 ID:wcUKL0dP
教科書ソースが気に入らないならセンター試験の問題でも良いが。

www.fujimi.ac.jp/modules/mydownloads/visit.php?cid=5&lid=5

存在しないものがセンター試験に出題されたら
全国ニュースで放送されて大事になるな。
147人間七七四年:2011/12/17(土) 11:07:33.69 ID:ffSR/Fol
無いものは無い。
なら聞くが最上はいつ幕府から羽州探題に任じられたのかね?
148人間七七四年:2011/12/17(土) 11:20:37.75 ID:uXWrrLtJ
教科書そのものっつより、教科書検定の結果生み出される産物というのは、
その時々の学説上の常識を知る上ではこの上ない情報源になるな。

うん、まあ個人が勝手に不存在説を唱えるのは構わないのではないかな。
その手の説が過去に全くなかったわけでもないようだし。
149人間七七四年:2011/12/17(土) 12:14:07.69 ID:vBsllqee
教科書なんてどんだけいい加減な内容が
書かれてると思ってんだw
教科書聖典にしてバカ過ぎレベル低すぎ
しかも羽州探題があったとする一次史料すら出せずとかw
ガキ以下の知性。
150人間七七四年:2011/12/17(土) 12:18:07.76 ID:wcUKL0dP
というか、こんな議論になっちゃってる時点で

>128 :人間七七四年:2011/12/15(木) 17:28:10.45 ID:dRX6uR2j 返信 tw
>羽州探題なんてもん存在しねー
>単なる自称なのも知らんとか
>あまりにもバカ過ぎフイタw

などという状況ではないことは明白。
151人間七七四年:2011/12/17(土) 12:21:00.17 ID:uXWrrLtJ
>>149
教科書の場合いい加減な記述や学説の分かれる表現には検定意見が入るよ。
152人間七七四年:2011/12/17(土) 12:26:56.54 ID:vBsllqee
ボウヤ、とりあえず羽州探題があったとする証拠を出そうねw
153人間七七四年:2011/12/17(土) 12:32:15.06 ID:uXWrrLtJ
教科書のみならずセンター試験にまで出題されてクレームすらつかない状況をひっくり返すのは容易ではないな。

これは大変な努力を求められそう。
154人間七七四年:2011/12/17(土) 12:40:00.26 ID:vBsllqee
ボウヤ、とりあえず羽州探題があったとする証拠を出そうねw
まさかソースはねーけど教科書にあるからいいだろとか言わないよねwww
155人間七七四年:2011/12/17(土) 12:42:11.92 ID:uXWrrLtJ
>>152
うん、俺は羽州探題なんて存在しなかったと思っているのだが、
こうまでも「存在した」という記述にクレームがつかない状況では
些か分が悪いと思わざるを得なくて困っているのだよ。

とりあえず、存在しなかったと言っている人の学説をあたりたいのだが誰もおらず、
学術上の常識の壁を打ち破るすべがなくて困っている。


さて、どうやってこのバカの壁を打ち破るか…。
156人間七七四年:2011/12/17(土) 12:46:17.63 ID:Vkp4v8nj
実際どうだか知らんけど、最上が自称したってことと役職そのものが室町幕府に存在しないってことは別だろ
存在しないのなら驚きだ
157人間七七四年:2011/12/17(土) 12:48:12.67 ID:uXWrrLtJ
>>154
証拠なんかない筈なんだが、室町幕府の職制に羽州探題が含まれる記述に対して何故誰も疑問を持たないのか、不思議だよね。
もし実在しないのならこれまでの常識を覆す新説で、大注目されることは間違いないのに、
なぜ誰も手を着けないのか。
158人間七七四年:2011/12/17(土) 12:51:51.71 ID:uXWrrLtJ
>>156
まず、羽州探題の職自体が南北朝時代の代物だからね。
戦国時代がどうだったかなんて、多分誰も何も言っていないし、
実際のところ興味すら持たれていない。
159人間七七四年:2011/12/17(土) 12:52:09.72 ID:vBsllqee
アホか。戦前からの絡みもあるし、
もともと室町時代の研究はもっとも遅れてる分野だ。
だから戦国時代を除けば大河ドラマですら出来る限り避けてきた時代区分だ。
160人間七七四年:2011/12/17(土) 12:55:28.93 ID:wcUKL0dP
いずれにせよ、
↓が常識ではない状況であることだけは間違いなさそうだな。
>128 :人間七七四年:2011/12/15(木) 17:28:10.45 ID:dRX6uR2j 返信 tw
>羽州探題なんてもん存在しねー
>単なる自称なのも知らんとか
>あまりにもバカ過ぎフイタw
161人間七七四年:2011/12/17(土) 13:03:27.67 ID:uXWrrLtJ
>>159
つまり、羽州探題という職名が存在するというのが現在の歴史教育の立場で、
そこから積極的な転換が図られていないのが現状ということになるな。

まあ、そのうち新しい学説でも示されればまた違った展開がある、かも知れないね。
162人間七七四年:2011/12/17(土) 14:53:30.97 ID:vBsllqee
そろそろ一次史料で
羽州探題が存在したとするもんは
見つかったのか?
早く出せよ。
待ってるんだから。
163人間七七四年:2011/12/17(土) 14:59:23.31 ID:uXWrrLtJ
というか、誰もそんなことに興味ないんじゃないだろうか。
164人間七七四年:2011/12/17(土) 15:05:07.94 ID:wcUKL0dP
羽州探題が存在しないと主張するのは結構だが、
それをすべき相手は、ここの人間ではなく、
文科省や大学入試センターの類なのではないだろうか。
165人間七七四年:2011/12/17(土) 15:10:37.54 ID:vBsllqee
>>164
いちいち教科書のドコソコが間違ってると
列挙してくる謎の人がいたら気持ち悪いわw
逃げてばっかいないで責任もって
早く一次史料出せよw
166人間七七四年:2011/12/17(土) 15:13:38.43 ID:vBsllqee
>>163
>>ないだろうか。
>>164
>>ないだろうか。


自演乙w
167人間七七四年:2011/12/17(土) 15:16:30.23 ID:uXWrrLtJ
>>165
実際に制度としてそれをしている人達が居てね、
一般には教科書検定と呼ばれている。
168人間七七四年:2011/12/17(土) 15:22:22.74 ID:wcUKL0dP
試験問題に関して意見したければ、
この辺からどこか辿ればいいんじゃないの。
http://www.dnc.ac.jp/

教科書に関する議論はこっち。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/main3_a2.htm
169人間七七四年:2011/12/17(土) 16:09:40.70 ID:uXWrrLtJ
しかし、日本史Bの頻出単語にあがっちゃってるのが痛いな。
これでは日本人全員が、羽州探題が実在するものと誤解してしまう。
170人間七七四年:2011/12/17(土) 16:24:08.70 ID:vBsllqee
別に誤解しても何も困らんだろ。
たかが教科書ごとき
学術レベルの論議じゃあるまいし。
なんでお前が心配する必要あんだよw
別にお前が論文書くわけじゃねーだろ。
試験のために暗記する単語であって
真の学問じゃねーし。
171人間七七四年:2011/12/17(土) 16:31:04.15 ID:uXWrrLtJ
そうだな。
このスレの俺ら以外は多分日本人全員が誤解しているが、
真の学問が理解できる人間なんか
2、3人居れば充分だもんな。
172人間七七四年:2011/12/17(土) 16:37:51.10 ID:vBsllqee
で、しょーもない話はここで終わりな。
そろそろ羽州探題があったとする一次史料を出してくれよ。
173人間七七四年:2011/12/17(土) 16:56:30.26 ID:uXWrrLtJ
正直ここには居ないだろう。
俺らを含めてこのスレには、実在派はいないようだし。
このスレの中でだけは我々の勝ちだ。

このスレはすでに、真の学問を理解する我々だけのためのサロンとなっているのだよ。
174人間七七四年:2011/12/17(土) 17:20:04.88 ID:uXWrrLtJ
真の学問という言葉の響きは美しいな。
以後我々のグループを、真の学問を探求する者達の同盟(略語:真学同盟)と称してはどうか。
175人間七七四年:2011/12/18(日) 00:16:38.94 ID:qHczQAWD
3人NGIDしたらすっきりした
176人間七七四年:2011/12/18(日) 04:46:50.57 ID:UYGFo+Pf
羽州探題は南朝方を駆逐した時点で役目を終えているからな。
後年のそれはほとんど内実のないものになっている。
177人間七七四年:2011/12/18(日) 08:55:04.89 ID:9Xge0ZUF
>>176
それ奥州管領のことだろ。
義満の時に廃止されて鎌倉府管轄下に入って、
大崎も鎌倉出仕になった。
羽州探題は存在しないから、廃止命令もなければ、
該当者の鎌倉出仕も無い。
178人間七七四年:2011/12/18(日) 10:33:25.38 ID:UYGFo+Pf
同志>>177
羽州探題は奥州探題大崎氏から分かれた、といちおうされているぞ。
179人間七七四年:2011/12/18(日) 10:43:09.71 ID:Yv9H6II8
>>178
「されてる」だけで
それを証明する史料的裏づけは一切ないよ。
だから最上の自称でしかない。
いったい最上の誰が羽州探題に任命されたと主張したいのか?
最上の歴代の誰もが探題なんて主張してないぞ。
180人間七七四年:2011/12/18(日) 10:44:15.49 ID:Yv9H6II8
>>178
「されてる」だけで
それを証明する史料的裏づけは一切ないよ。
だから最上の自称でしかない。
いったい最上の誰が羽州探題に任命されたと主張したいのか?
最上の歴代の誰もが探題なんて主張してないぞ。
181人間七七四年:2011/12/18(日) 10:57:52.19 ID:UYGFo+Pf
同志>>179-180よ、慌てるな、ゆっくり書き込むのだ。

さて、本日の真学同盟の会合を開始するが、
最上は探題を自称したのか、それとも誰も探題など主張していないのか、
同志>>179-180の立場を明確にして欲しい。
182人間七七四年:2011/12/18(日) 11:43:09.85 ID:3JRenMxF
幕府から最初に羽州探題に任じられた人って、斯波頼兼でいいんだっけ?
183人間七七四年:2011/12/18(日) 11:53:07.24 ID:Yv9H6II8
>>182
そんな記録は無い。
184人間七七四年:2011/12/18(日) 12:06:54.18 ID:3JRenMxF
斯波兼頼だった。

>>183
羽州管領とか出羽大将とか按察使とか、
羽州探題の他にもいろいろ言われてるみたいですね〜。

どういう名前の官職だったのか、明確ではないのだとか、
羽州探題というのは、状況証拠から「こうだろう」と
されているのが実情だとか。
185人間七七四年:2011/12/18(日) 12:24:21.91 ID:UYGFo+Pf
まあ、兼頼=羽州探題というのが今のところ定説みたいになってるからねえ。
186人間七七四年:2011/12/18(日) 12:43:56.99 ID:9Xge0ZUF
>>184
ウソ書くなよ。
あくまで事実だと主張するなら一次史料出せよクズ
187人間七七四年:2011/12/18(日) 12:55:09.34 ID:UYGFo+Pf
ま、事実だとされているのが今の現実だからな。
188人間七七四年:2011/12/18(日) 12:58:30.98 ID:3JRenMxF
>>186
「いろいろ言われている」だけなら山ほどソースがあるよ。
日本史の教科書とか。
189人間七七四年:2011/12/18(日) 13:13:27.61 ID:3JRenMxF
それでその兼頼って人が羽州探題として出羽の武将たちを率いて南朝方と戦ったんですよね。
190人間七七四年:2011/12/18(日) 13:49:03.13 ID:9Xge0ZUF
一次史料はまだなのか?
191人間七七四年:2011/12/18(日) 14:01:28.09 ID:UYGFo+Pf
兼頼が羽州探題に任じられたのはいいとして、その後のことがよく分からないな。
白鳥十郎が羽州探題を名乗ったみたいな謎逸話もあるし。
192人間七七四年:2011/12/18(日) 14:30:43.89 ID:ngDYRhQC
任じられたとする一次史料は?
193人間七七四年:2011/12/18(日) 14:41:37.43 ID:UYGFo+Pf
うーん、教科書11冊全制覇の衝撃の前では、正直一次資料とかどうでもいいかな。
やはりなんだかんだ言って国家権力のお墨付きは強いよ。
194人間七七四年:2011/12/18(日) 14:47:01.32 ID:UYGFo+Pf
兼頼の羽州探題については、羽州管領とか、ものによっていろいろ表現が変わるね。
195人間七七四年:2011/12/18(日) 15:05:04.02 ID:RT0Up4Ea
よくわからんけど、結局、「羽州探題」って織田上総介信長の「上総介」みたいなもん?
196人間七七四年:2011/12/18(日) 15:48:08.47 ID:UYGFo+Pf
「羽州〜」の方は幕府の役職だし、いろいろ違うかも。
197人間七七四年:2011/12/19(月) 09:56:43.38 ID:BvFrf060
>>194
デタラメ書きまくってキチガイなの?
198人間七七四年:2011/12/19(月) 13:49:26.28 ID:sQKuajvU
自演してるキチガイ最上厨に触れない方がいい
199人間七七四年:2011/12/19(月) 15:29:26.54 ID:m6mY74mc
教科書なんて鎖国の説明すら間違ってるからなw
200人間七七四年:2011/12/19(月) 16:55:55.60 ID:unDw1Uoi
実際には羽州探題なんて幕府から任命されてもほとんど意味なかったんだろ?
201人間七七四年:2011/12/19(月) 18:38:10.33 ID:sQKuajvU
幕職にそんなのないしw
斯波頼兼が出羽探題に任命されてたなら
なんで義満が出羽と陸奥を鎌倉管轄にした時に
大崎みたいに鎌倉出仕しなかったんだよw
202人間七七四年:2011/12/19(月) 19:08:52.36 ID:unDw1Uoi
鎌倉出仕って、奥羽が鎌倉府管轄になるに伴う処置であって
探題職かどうかとか関係なくない?
203人間七七四年:2011/12/19(月) 21:32:46.20 ID:92oKdKlU
羽州探題って、何か微妙だな。
幕府から任命される正式な役職とは思えんヘタレ感がある。
204人間七七四年:2011/12/19(月) 21:49:20.77 ID:unDw1Uoi
.
205人間七七四年:2011/12/19(月) 23:31:22.14 ID:g73ondAG
名ばかり支店長並の軽さ。
羽州探題です(キリッ
ぷー くすくす

みたいな
206人間七七四年:2011/12/19(月) 23:47:44.65 ID:unDw1Uoi
あーそれそれ。
あんた居たんですか?的な、そんなイメージがあるな。
207人間七七四年:2011/12/23(金) 11:35:24.80 ID:4iKk8bBw
>>203
正式の意味にもよるんじゃね?
幕府から出たとしても、じゃそれがどうした?ってやつだろ。

三国志演義でいう馬エンの伏破将軍みたいなもんだろ?
まあ、出羽守護とは別に出羽の支配権を消極的に承認する程度のもんじゃね?
そもそも、あの辺は畠山の支配地だろ?
208人間七七四年:2012/06/11(月) 11:28:09.19 ID:fvxs281x
武田勝頼
209人間七七四年:2012/06/12(火) 01:17:57.46 ID:F+hV2NrW
↑以上に恵まれている大名なんか、数えるほどしかいないだろ。

どんだけゆとり世代???
210人間七七四年:2012/06/13(水) 17:12:47.91 ID:vQpNanRp
信長
211人間七七四年:2013/06/21(金) 10:31:01.22 ID:UbI1pXNB
元就と家康はそれぞれ保護国化していて
大内や今川からよい待遇で遇せられていたからなぁ。
寄らば大樹って感じで。
大内も今川も当主が不慮になるアクシデントが無ければね。
212人間七七四年:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN ID:x90PgRCv
蒲生秀行

親父が早死し、13歳で家督を継ぐが、
家臣達が言うことを聞いてくれないよ。減封だよ。お家騒動だよ。
その家臣達は氏郷の生前から対立していたから、蒲生氏郷って本当に有能な人だったのかと思う。
213人間七七四年:2014/03/15(土) 11:40:33.91 ID:u7kM3jOb
守護の相続がいずれも権臣による擁立が多かったから
戦国時代を生き残った守護はほとんどいない。
島津ですら、嫡子家が滅ぼされ簒奪された。
逆に守護で状況はよかったと言えば大内義隆。
214人間七七四年:2014/03/16(日) 16:16:54.93 ID:NYMP8Wre
三好長慶
215人間七七四年:2014/03/17(月) 09:22:00.43 ID:ZyWn4Buc
尾張一国、美濃大垣、美濃岩村、三河水野領。
今川との和睦、妻の実家道三の後見、六角との友好。

スタート段階の信長はこれだけしか与えられてないため著しく超不利だった。
216人間七七四年:2014/03/17(月) 15:05:21.20 ID:1T+F3qIa
・三好義継
後見人の三人衆とボンバーマンが将軍を殺した挙句に内乱、東大寺焼き討ちで汚名を着せられる。

・阿蘇惟光
伯父、父親、忠臣が連続で死んで2歳で家督相続。島津の大軍が迫り家臣団は分裂。ムリゲーの極み。



状況の悪さで言えばこの二人がツートップではないか?
217人間七七四年:2014/09/09(火) 22:02:49.26 ID:s3EvZRUk
大内義長
218人間七七四年:2014/10/21(火) 21:35:42.55 ID:Tb5UaY3a
赤松政則もなかなか
219人間七七四年
毛利とか、宇喜多とか、家康とか
幼少期に苦労するとああまで腹黒くなるのか