戦国ちょっといい話14

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話13
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251985444/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話14
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1254321432/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2009/10/02(金) 15:31:33 ID:pGHCL7x9
  /i (~) iヽ
 《 ヾ⌒ソ /
.  {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ >>1乙である
  (:::::::::::::::)
   しωJ
3人間七七四年:2009/10/02(金) 16:03:16 ID:JAxanAu3
>>1乙です
4人間七七四年:2009/10/02(金) 19:00:26 ID:3zYNZYDQ
>>1大儀であった 好きなおにぎりをとっていくがよいぞ

  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)                                      ○
 ( ∪ ∪  ,.-、   ,.-、   ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   .,.⊥、
 と__)__) (,,■)  (,,■)  (,,■)  (,,■)    (,,■)      (,,■)   (,,■)
       梅干  高菜 大腸菌 こんぶ クロロホルム 豚インフル オプーナ
          ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   ,.-、   ,.-、    ,.-、
          (,,■)  (,,■)    (,,■)     (,,■)  (,,■)  (,,■)   (,,■)
          砒素 唐辛子 ちりめんじゃこ 宇宙人  柴漬  塩辛 とりかぶと
      ,.-、   ,.-、     ,.-、    ,.-、    ,.-、   ,.-、    ,.-、   ,.-、
     (,,■)  (,,■)    (,,■)   (,,■)   (,,■)  (,,■)   (,,■)  (,,■)
      鮭 御玉杓子  鳩山弟  サリン 鳩サブレ 石見銀山  鳩山兄 鮭ハラミ
           ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、  ,.-、、  
          (,,■)  (,,■)    (,,■)     (,,■)  (,,■)  
         マムシ ウラン    河豚     毛虫  唐揚げ
5人間七七四年:2009/10/02(金) 19:12:22 ID:O7qay/dK
>>4
宇宙人と鳩山兄が被っているような気が・・・
6人間七七四年:2009/10/02(金) 19:15:56 ID:gky2YTiz
                 ∧ ∧   
                ( ´・ω・) 
                ( ∪ ∪
                と__)__)

秋田実季「では、それがしはコレ↑を・・・」
7人間七七四年:2009/10/02(金) 19:21:28 ID:DkCr5Zqo
寂しいのか・・・
8人間七七四年:2009/10/02(金) 20:40:51 ID:R05VlIBQ
>>1乙です!
>>6何とまあ、そこに目をつけるとはw
9人間七七四年:2009/10/02(金) 21:33:28 ID:p/bFVAWk
>>1乙武蔵
新スレ記念(?)で、蠣崎の(一応)良い話と悪い話を投下
まず、こっちに"蠣崎氏から見て"良い話。

蠣崎氏の台頭

鎌倉幕府成立以降、蝦夷島は流刑地として使用されるようになり、
やがて土着した人々(和人)はそこで支配者化し、アイヌ民族と対立するようになっていった。
15世紀中ごろの道南には、安東氏の配下の上之国・松前・下之国の三守護と、
各守護の下に全部で九の領主が居り、蠣崎氏は上之国守護であった。

1456年春、鍛冶職人とアイヌ人青年との間でマキリ(アイヌの小刀)の出来・値段をめぐって争いになり、
鍛冶職人は遂に青年を刺殺してしまった。
これに端を発したアイヌ民族の蜂起は数十年間断続的に起こるのだが、
中でも最大のものが1457(長禄元)年の「コシャマインの戦い」である。
東部アイヌ首長のコシャマイン率いるアイヌ軍の勢いは凄まじく、道南にある十二の館のうち十の館が陥落。
残ったのは下之国守護の安東家政(安東政季の弟)と、上之国守護の蠣崎季繁の館のみとなった。

ここで登場するのが、蠣崎氏の客将であった武田信広である。
信広は和人軍の惣大将として出陣すると、コシャマイン父子を射殺
さらにその他のアイヌ人を斬殺し、蜂起を鎮圧した。
この活躍に、家政と季繁は信広の武勇をを賞して大刀を与え、信広も家政に大刀を進じた。
さらに安東政季の娘を、嫡子のいない季繁の養女としたうえで、信広に嫁がせ、蠣崎の家督を継がせた。
これにより、蠣崎氏は蝦夷の正当な支配者として安東氏から認められたのである。
また、1512〜13(永正九〜十)年のアイヌの武装蜂起により、蠣崎を除く各地の守護・領主たちはほとんど滅亡。
かくして和人の指導者としての地位も手に入れた蠣崎氏は、近世大名松前氏となっていくのである。


蠣崎氏にとって(家運の上がった)いい話。
…もっともアイヌの人たちからすれば、後の圧政の始まりとも言える悪い話でもあるが。
10人間七七四年:2009/10/02(金) 22:39:29 ID:4stZsGet
そして松前藩はアイヌに勘違いしていくのである。
アイヌへの差別や搾取をしても良いと考えていたためアイヌは度々放棄している。
アイヌが蜂起したら大半は、人間とは思えない和議と見せかけた騙まし討ちを蠣崎氏は行った。
シャクシャインの乱では松前藩で圧政にあっていた、
アイヌが決起をし松前藩を圧倒したが日本側の圧倒的勢力で鎮圧されている。

松前藩は徹底してアイヌ搾取をした。
アイヌへは重労働がかされて、アイヌの人間は松前藩に搾り取られていった。
日本人に好きでもないのにアイヌの娘は強制的に犯され、逆らうものは殺されていった。
アイヌへの人道的な意識は無かった。アイヌは土人であり松前藩が搾取しても問題ない。
このような考えをしていたのだろう。差別もされていたと考えられる。
松前藩からの被支配史はアイヌにしてみれば圧政と差別の歴史であり、現在でも禍根が残っている。

そして交易では鮭との交換などでは始め、1-10、終わりに見られるような行為を行っている。
これははじめと終わりを入れて12個を鮭を持っていっている
心底なめ切った行為であり、アイヌの土人扱いをしている行為である。

最後に起きた乱は、北方四島での決起である。日本人の搾取に耐えかねてアイヌはついに反乱を起こした。
商人がアイヌへの酷い労働を負わせていためだ。いろんな人間が入りアイヌを搾取していたのだろう。
幕府はお金を得ていた。日本の商人がアイヌに入り、アイヌを使って金儲けした。

アイヌが決起して商人は次々に殺されていったという。これはこれで酷い話だが
鎮圧されたアイヌは大量に殺されていった。結局全て決起したアイヌは殺された。
松前藩下のアイヌ統治ではこのような酷いことが行われていたのである。
11人間七七四年:2009/10/02(金) 22:47:57 ID:Pv5WYzlM
悪い話しは悪い話しスレに。
12人間七七四年:2009/10/02(金) 22:53:16 ID:37KDcm1F
しかし極悪すぎる話しだなw
13人間七七四年:2009/10/02(金) 22:56:30 ID:0O6+BZC0
どこでも弱者は惨めなものだな
14人間七七四年:2009/10/03(土) 00:00:05 ID:TmOiL+4O
アイヌも決して一枚岩ではなく、日本人と組んで「金儲け」をしていたアイヌも多く存在した。
アイヌ同士の抗争も珍しくなかった。

この視点はよく無視され、あたかもアイヌ支配が、日本人とアイヌ人の民族抗争で
あったかのように言われがちだが、そんな単純なものでは決して無い。

アイヌにも複層的な階級と勢力があり、それぞれにアイヌ社会の中での立場も、そして
日本人とのかかわり方も違っていた。
「日本人側」についたアイヌもまた多かったのだ。
15人間七七四年:2009/10/03(土) 00:06:54 ID:dw4R3Jys
関ヶ原の戦いで大津を攻めた立花宗茂であったが、味方の敗報を聞くと
すぐに領国に向かった。その途中で宗茂は島津義弘と出くわした。
義弘の一行には僅かな者しかいないことを確認した宗茂の家臣たちは

「ちょうどいい、岩屋城の敵討ちに義弘を討ってやろう」

と言い出した。かつて宗茂の実父である高橋鎮種が島津に攻められて
岩屋城で死んだ。家臣たちはそのことを恨んでいたのである。だが宗茂は

「なにを言うか、此度の戦はお互い同じ西軍に属し、彼らと生死をともに
したのだぞ。それに島津殿は激しい戦いで僅かな人数になっている。
そんなときに、かつての仇を討つなど勇者のすることではあるまい」

と言って家臣たちを戒めた。島津側はこうした立花勢の不穏な様子を警戒
していた。しかし宗茂が使者を送って

「私はかつて敵同士だったことなど、なんとも思っていない。一緒に力を
合わせて九州に帰ろうではありませんか」

と伝えると、義弘はこの言葉に心を動かされて

「柳川で籠城されるときには、援軍を送りましょう」

と約束した。やがて宗茂は柳川城に籠って抗戦のかまえを見せたが
のちに開城した。このとき島津は約束を守って新納山城守を援軍として
送ったが、開城の報を聞くと引き上げたのだった。その後、島津義久は

「薩摩に来られたら種子島を差し上げますよ」

と宗茂を誘ったが、宗茂は

「此度の戦で西軍に属したのは豊臣秀頼公の命に従ったまでのこと。
これからのことは徳川、豊臣両家の成り行きに任せるまでです」

と言って断ったのだった。
16人間七七四年:2009/10/03(土) 00:09:49 ID:FhmNr4mO
>>15
いい話だが・・・既出じゃね?
17人間七七四年:2009/10/03(土) 00:21:18 ID:FukZwViQ
いい話

蠣崎家は戦国時代から江戸時代末期までアイヌとは深く関わった大名である。
アイヌとは交易もしたし、戦争もした。

アイヌは元々交易に特化した勢力である。
コシャマインの乱だって、日本人がレートを切り下げたから起こったものであるし
それ以後の乱も交易が原因だ。アイヌが日本人と組んで金儲けをしても全くおかしくは無い。

交易というのはお互いが儲けるべきであり、いろいろな大名が交易してきてアイヌにも恩恵があった。
松前藩の出現が全てを変えた。
松前家は幕府より蝦夷地の領地、懲役権、アイヌとの独占交易を1604年に得ることに成功した。
アイヌの独占交易により儲けたのである。
これは幕府に根回ししたおかげだと考えられる。蠣崎氏は徳川幕府との関係も良かったからだ。
松前家の初代藩主はこうして、儲けたのである。
松前慶広は頭が良かった。
18人間七七四年:2009/10/03(土) 00:25:43 ID:FukZwViQ
>>14
日本人と組んで金儲けをしていたアイヌがいたのは事実だが、
圧倒的に半奴隷化されたアイヌのほうが多かった。
北方四島で起きた反乱では、飛騨屋が入り碌に食べられない状態にアイヌが追い詰められていて
決起をしたわけだし、前から反乱のたびに勢力を無くし、松前に搾取されていっている。
そもそもにして松前藩のアイヌ差別は酷いものであり、結局これは明治になっても終わらず現在でもアイヌ差別は存在する。
シャクシャインの乱は騙まし討ちで殺され、アイヌは絶対服従を誓わされ厳しい生活を余儀なくされた。
結局半奴隷だから人間に所有されて、厳しく搾取されているということだ。
しかもアイヌ差別は松前藩が始めた。これは松前慶広以来の知略によるものであろう
19人間七七四年:2009/10/03(土) 00:31:07 ID:TmOiL+4O
つーかアイヌは日本人とだけ交易してたわけじゃないぞ。清やロシアともやってた。
なんか松前藩を悪役にしたくて仕方が無いようだが、松前藩はあくまで、日本側の窓口でしか
ないぞ?

松前藩がアイヌにとって決定的な存在だったわけではない。もしそうなら逆に、
松前藩の出現した時点でアイヌは、松前、もしくは日本に寄生した民族でしか無いということになる。

どうも近代以前のアイヌを、矮小に捕らえすぎているような。
20人間七七四年:2009/10/03(土) 00:36:11 ID:FukZwViQ
歴史の事実
http://www.k3.dion.ne.jp/~kamishin/Ainurekishi.htm

アイヌはロシアにもいるのは事実だけど北海道アイヌはこんなん
21人間七七四年:2009/10/03(土) 00:37:59 ID:cjeFUBn/
アイヌ差別を訴えたいならよそでやってくれ。政治色が強すぎるし、スレ違い。
22人間七七四年:2009/10/03(土) 00:46:48 ID:FukZwViQ
いい話

武田信虎は、武田勝頼の時代の武田家の信濃に入っている。
追い出されて以来およそ30年ぶりくらいの武田家に帰参したのであろう。
信虎は武田家に帰ったときにどう思っただろうか?感慨深かったのか
それとも、恨みを抱いていたのか?武田信虎は武田勝頼と対面することになった。
そしたら武田信虎は日本刀を持ち出して
「いうことを聞かない家臣は日本刀で殺したものだ」と言い出し刀を振り回した。
刀は家臣に取り上げられたが、勝頼としても年だから手がすべり誰かを切りそうで怖かったに違いない。
そのような爺さんだったのである。
気概を持った爺さんであった。老いても戦に出せば活躍したに違いない。
23人間七七四年:2009/10/03(土) 00:59:52 ID:LlFbAYhf
>>21
区別を差別に言い換えて飯を喰っている連中がいるくらい
平和な世の中なのに
事を荒立てることばかり考えているのって
結構いるんだよな。
24人間七七四年:2009/10/03(土) 01:01:13 ID:FukZwViQ
そんなことより>>22にレスしろよ。どっかのサイトで拾った。
25人間七七四年:2009/10/03(土) 01:02:33 ID:a08JlASh
ID:FukZwViQ
26人間七七四年:2009/10/03(土) 01:13:14 ID:8uJTPDKN
皆さん、地元だけの英雄っていますか?
アイヌの話でふと思い出した地元、松山の英雄を。

伊予松山の初代藩主は『地味加藤』加藤喜明公、今回の主役はその家老足立重信、彼は今も松山に残る素晴らしいものを幾つか残している。
その一つは日本三大平山城の一つ松山城、その普請奉行だったんですね。
だがこれよりも松山にとって大きいのは伊予川、湯山川の治水工事、伊予川は当時は雨が降ればすぐ氾濫する暴れ河で、みんな苦労していたらしい、そこに巨額を投じて堤防を作り川の氾濫を治めることに成功したのだ。
27人間七七四年:2009/10/03(土) 01:14:33 ID:8uJTPDKN
もう一つの湯山川はもっとすごい、本来湯山川は松山の平野の端っこを地味に流れる川だったのを流れを変えて前述の伊予川と合流させたのだ!
結果松山平野の中央近くを川が流れるようになり、農地開拓が進んだらしい、因みに湯山川の元の流れの付近は今も大規模な地下水脈となって、松山の水瓶の一つになっている。
さて、この二つの川わそれぞれ工事の後は重信川、石手川と名を変える事となる。
重信川そう足立重信にあやかった名前だ、日本で個人の名が河川につくのは極めて稀な例らしい、それだけ感謝されたんだろう。

そんな、松山では昔は道徳の授業に出てきた有名人のお話。
28人間七七四年:2009/10/03(土) 01:28:28 ID:8uJTPDKN
26-27
も少し続きを、この足立さん結局松山城の全域が完成する前に松山で亡くなっている。
そして地味加藤さん自身も会津に転封、治水工事に巨額を投じてその資金を回収しきる前に。
その後蒲生さんをはさんで松山には親藩松平家が入ったあたりに幕府の『転封前に金使わせて弱らせとけ、その見入りは俺たちが貰うけどなー』的なものを感じてしまう。
そんな加藤にとっては悪い話かもしんない。
29人間七七四年:2009/10/03(土) 01:41:57 ID:IlOIJGpJ
奈良には「三名椿」と言われる椿があります
東大寺開山堂の「糊こぼし」
白毫寺の「五色椿」
そして伝香寺の「散り椿」です

この散り椿は普通の椿のような花の落ち方をせず、その色がまだ盛んなとき、
花弁が桜のごとく一枚一枚と散るため
その散り際の美しさを若くして亡くなった三好順慶になぞらえ
その魂を弔うため順慶の母、芳秀尼が自らの手で寺に植えたものなのだそうです

そんな経緯からこの椿は「武士椿(もののふつばき)」という名でも伝えられています

椿見学は3月下旬からですが
もし興味のある方は土日のみ見学できるので、是非ご覧になってみて下さい

以前雨に濡れたところを見ましたがとても美しい花でした
30人間七七四年:2009/10/03(土) 01:48:24 ID:IlOIJGpJ
あ、筒井順慶です
三好順慶って誰やorz
31人間七七四年:2009/10/03(土) 01:54:10 ID:pqYeKiot
誰かと思ってググったら3件しか出てこなかったw
32人間七七四年:2009/10/03(土) 07:13:14 ID:/JCnFUpd
若くしてなくなった三好×→筒井○順慶になぞらえ ってことね

戦国期の筒井家は短命だな
順興(51歳)
順昭(28歳)
順政(おそらく30歳代)
順国(49歳)
順慶(36歳)

一番長生きした定次(54歳)はgdgdでお家取り潰しの挙句自害・・・ 
33人間七七四年:2009/10/03(土) 08:04:26 ID:GCBF9Pl9
よく知られた話だけど載っていなかったので。


織田家の大御乳

織田信秀の嫡男・吉法師。いわずと知れた後の織田信長である。
癇の強い赤ん坊で、乳を与える乳母の乳首を噛み切るという、とんでもない癖があった。
何人もの乳母が逃げ出し、信秀が困っていると、家臣の森寺秀勝から推薦があった。
朋輩の池田恒利の正室・養徳院である(出家後の名前。本名は伝わっていない)。

召しだされた養徳院が吉法師と対面し、乳を与えようとした。
吉法師はこれまでどおり乳首に噛みつこうとしたが、

      ∩))
( ´Д`)彡  ピシャン!
  ((⊂彡☆∩ 
   ⊂(⌒⌒(;゚Д゚)
      `ヽ_つ ⊂ノ

「吉法師さま、乳を飲まねば大きくなれませぬよ」
穏やかな口調で諭す養徳院。吉法師がなんだこの、とばかりまた噛みつこうとすると、

       ピシャン!
 ( ´Д`)
  ⊂彡☆))(_(_, )←尻


         /:/  -  ̄  ハ ` ‐ 、ヽ  !,
         Y .// / /  |:i    \、 i
         /ー-、/、_ :/ ', i i,.ヘ ',  ヽ:i|
       r―´   ´  /   i /:  ト 、  i:ヘ
      ノ          ヘ | ,.ィ  i  `ー 、 i
     i ,.イ        / ハi,|//|  i    `
      /   i ハ  i /  i|`ー- |
      'i i  ハ ト! ィ:ハ i ハ   ノイ /  i  吉法師さま。
      ハ/|  |iL__V`'くハハ     |イハ  :i
      / V\ト卞乏`ミヾ`  ー-=≠―| ./
    /  | :ト、ゞ、:.:.:´彡  i えzゥ‐ラ/:/  /
   /   :/| /iト-=;,;_i'    `   ‘/イi イ /
- ´  / :/ | i :ヘヾ、;,/       /イ//イ |ハ
   /  /,.イ :/ :||;ヘ=:{ _`´_   /イ|i  |  i
  / .:ノ´./:/  |:|:i,:\{ `ー- `  ,.イ: `| i |   i
/_ -/ //  /:|:i:',: \ ` ,. イi;:/:.  | l ト、
ニ -/  :/´  :/ \:i,.  ` ´  i:;ハ:  | :l | ヽ
.:/   /´  /   `!      /  ヽ |  i:l ヘ
※イメージです。


今度はおとなしくオパーイに吸い付く吉法師。
「こんなに、いい子なのにね」。そう言って吉法師を優しくなでる養徳院。
以後吉法師は素直に乳を飲むようになった。

こうして正式に乳母となった養徳院は、生まれたばかりの実子・勝三郎(後の池田恒興)を森寺秀勝に預け、
清洲城に移り住んだ。2年後には夫の恒利が病死したが、髪を下ろして出家したこと以外は変わらなかった。
吉法師の養育に専念したのである。

信長は養徳院の育ての恩を終生忘れず、「大御乳(おおおち)」「大乳人様(おおめのとさま)」と呼んで敬った。
英語なら「BIG MAMA」というところだろう。
養徳院は秀吉・家康の代まで生き、慶長13年(1608年)に94歳で大往生した。
34人間七七四年:2009/10/03(土) 09:08:02 ID:vryiuWTd
信長が童貞を捧げたという噂の人か
35人間七七四年:2009/10/03(土) 09:40:44 ID:qaBB+dVj
よっぽど恐れられてたのか秀吉まで宛先に
「大御乳 まいる」って書いた手紙が残ってるんだよな
36人間七七四年:2009/10/03(土) 09:48:37 ID:UF7bdwTe
春日局以前にこんな女性がいたのか、天晴れじゃ
37人間七七四年:2009/10/03(土) 10:59:38 ID:LXolYnpR
でも、親子で「おおちち」と「いちもつ」かよ....。
38人間七七四年:2009/10/03(土) 11:11:39 ID:GCBF9Pl9
>>35
秀吉は池田恒興が小牧・長久手の戦で戦死しているから、信長とは別の意味で
敬意をはらう必要があったのでは。
恒興が戦死したとき秀吉は養徳院に対して、
「恒興をみるつもりで筑前(秀吉)をご覧ください」
と丁重な弔意を述べている。
39人間七七四年:2009/10/03(土) 12:27:34 ID:3BTLwtJR
>>30-31
むしろ3件もあったことに驚きw
40人間七七四年:2009/10/03(土) 12:49:34 ID:rC0/Tysr
松前藩のだいぶ悪い話が出たので、面白い逸話がないか探してみたぜ!
北海道のオサレさん松前慶広と神君の話

お人形遊び実季ちゃんをスルーして秀吉に謁見し、あっさり独立に成功した松前慶広。
時流を読むのに長けた彼は、秀吉在世中から次の天下人家康とも誼を通じていた。

文禄2年1月のことある。松前慶広は肥前名護屋にいた。
秀吉の唐入りに従軍するためで、北海道から遠路はるばるやって来た慶広に秀吉は
「えっマジで来てくれたの!?嬉しいなあ、よーしそんな慶広くんにはおじさん近江に
領地あげちゃうぞ!」とはしゃぐほど喜んだ。

同7日、慶広は今度は徳川家康に謁した。
挨拶もそこそこに、家康はじろじろ慶広の姿を眺めた。

家康「(゚Д゚)お前、なかなかナウい服着てんな。この辺じゃ見ねーな」
慶広「ああ、これですか?これはサンタンチミブ(唐衣)と言って、
樺太からアイヌ経由で手に入れたものです。もとは中国の官服なんですよ」
家康「(゚Д゚)へー、ちょっと格好いいじゃん。へーっ、へー」
慶広「…………よろしければ差し上げましょうか?」
家康「(゚Д゚)えっ、マジで?いいの!?」

家康がよほどもの欲しそうな目をしていたのか、それとも始めから慶広の計算だったのか。
慶広は着ていた唐衣をその場でサッと脱ぎ、家康に献上した。
家康も珍しいものを貰って大喜びし、以後松前家と徳川家は深く交誼を結ぶことになった
という。

松前家の歴史では有名な話だったかな?すみません。
ちなみに唐衣は別名蝦夷錦ともいい、大体こんな感じ→
ttp://www4.ocn.ne.jp/~gensifu/santan.htm
これによれば、蝦夷錦は江戸時代に入っても松前藩のオリジナルブランドとして重宝
されたみたいですね。
41人間七七四年:2009/10/03(土) 13:02:54 ID:1/HJ98tU
家康を可愛いと思う日が来るなんて!
42人間七七四年:2009/10/03(土) 13:07:54 ID:RKGgwspt
>慶広は着ていた唐衣をその場でサッと脱ぎ、家康に献上した。
そしてそのままアッー!な展開に
以後松前家と徳川家は(性的な意味で)深く交誼を結ぶことになったという
43人間七七四年:2009/10/03(土) 13:12:32 ID:wQt+adtT
>40
現代でいうとビンテージのライダースジャケットみたいなもんかね
写真の唐衣もしぶくてかっこいい
こりゃヤスも欲しくなるわ
44人間七七四年:2009/10/03(土) 13:20:02 ID:UI3TRw1b
>>40のは清代のだけど、時代的に明朝官服だろうから、
こっちのが近いんじゃねえかな?
http://www.epochtimes.jp/jp/2008/11/img/m89278.jpg
http://8031.teacup.com/cszj/shop/01_01_04/Y-D1606001/
まあどっちにせよカッコイイよな!
45人間七七四年:2009/10/03(土) 13:33:29 ID:IRfI92PV
松前って姓も松平+前田のゴマすりだからな。
まるで北国のラスボスだ
46人間七七四年:2009/10/03(土) 15:54:07 ID:rC0/Tysr
>44
こっちのが時代的に合ってるぽいね
しかし相変わらず刺繍が派手だ

>42
家康「わしが欲しいのは唐衣ではない、そなただ!」
慶広「アッー!!」
こうですか?わかりません><
47人間七七四年:2009/10/03(土) 16:19:02 ID:wQt+adtT
清代のほうが袖の切り替えが黒くてかっこいいんだよなあ
俺がもしこれもらったほうだったらそりゃ仲良くなるわ
48人間七七四年:2009/10/03(土) 17:23:00 ID:TmOiL+4O
細川幽斎は、武将としてだけでなく、才人としても非常に高名であったが、
そう言うことを鼻にかける事も無く、偉ぶるようなところが全く無い人であった。

連歌師の里村紹巴がある頃、他人より優れんとの執念に、まるで何かの病のように
取り付かれていたことがあった。
これを見て取った幽斎、

「人と言うものは、心はもちろん、その姿形、言葉使いに至るまで、全て
謙虚であるべきものなのだ。
紹巴殿、今一度、その心に立ち帰ってみなさい。」

このように、懇ろに教訓したそうである。

又ある時、幽斎が蒲生氏郷にたまたま出くわしたとき、氏郷がこんなことを言ってきた。

「幽斎殿、あなたは学問芸術での高名が高すぎて、その武功に対しては
世間ではあまり語られません。そういうことであれば、学芸に長じると言うのは、
武士として不必要なのではないでしょうか?」

これに幽斎、笑いながら

「いやいや、私は少々学芸をいたしましたが、どれもこれも皆、口すさび手すさび程度のもので、
何一つとして他人に優れているようなものはありませぬ。
ましてや武家の勤めにおいては、一体誰が私などに劣るものでしょうか?」

こんな挨拶を返したそうである。

謙遜と言うか、ここまでくると京都人特有の強烈な嫌味を感じないでもないがw
ともかくも、幽斎公の謙虚なお話。
49人間七七四年:2009/10/03(土) 18:56:59 ID:EC4VgCVv
信雄さんちの門番がなにか言いたそうにしています

        / ̄ ̄ ̄\_
       /:::/:::::::::::\( ;:;:;)
      /( ;:;:;:;:;ノ:::::::<−> \  ・・・・・・・・・。
    (;:;:;:;;;:;  (__人__)   .:::::)
    ./ ||    ` ⌒|||    ,/
   / / |\/ /  /l |  ̄
   / /__|  \/ / | |
  ヽ、//////) /  | |
   /  ̄ ̄ /   | |
____,/  )--- ヽ   ヽ つ
50人間七七四年:2009/10/03(土) 19:56:39 ID:IlOIJGpJ
天文十一年(1542年)
三河の小名、松平広忠に嫡男が生まれた頃の話であります
現在の碧南市にあります、称名寺という寺で、
連歌の会が行われ広忠もこれに出席していました
広忠はここで前日に見た不思議な夢を題材に歌を詠みました

めくりはひろき園のちよ竹

美しい広い竹林を歩く夢を見たのです
その歌を聞いた称名寺の住職が
前日生まれた広忠の嫡男には、この縁起の良い歌から取った
「竹千代」という名前を付けるのがよいのではないかと提案し、
広忠もそれに同意して、彼の嫡男は「竹千代」という名前になったそうです
51人間七七四年:2009/10/03(土) 20:54:39 ID:nINy5ZmA
蝦夷錦姿の慶広って残されてなかったっけか
52人間七七四年:2009/10/03(土) 21:18:41 ID:OAWzJz2C
2076年 岡山県運輸が自前の貨物機で月面に到達
2099年 岡山県が正式に領有を表明
2100年 岡山市月面区が制定され、区役所ができる
2101年 月面表町商店街アーケードができる
2102年 最上稲荷が月面に進出、宇宙OH!守りが販売され人気
2103年 天満屋が出店、農協観光第一号36名が到着する
2107年 岡山電気軌道が月面に電車を走らせる
2109年 ベネッセが学習塾を開設
2115年 林原が岡山駅前から本社を移転
2117年 クラレが工場を稼動させる
2121年 三菱が月面三菱に移転
2123年 月面岡山駅にリニアが開通
2124年 宇宙初のぽっとん便所ができる
53人間七七四年:2009/10/03(土) 21:19:31 ID:hwsu7vlS
申し訳ないが誤爆はNG
54人間七七四年:2009/10/03(土) 21:28:59 ID:AmWqBl9l
岡山城に行った時にバスが天満屋行きとかあったが、岡山限定で天満屋ってかなり有名な百貨店なのか?
55人間七七四年:2009/10/03(土) 21:44:29 ID:EC4VgCVv
大都会岡山

岡山駅東口からの風景
http://listverse.files.wordpress.com/2007/10/coruscant.jpg
岡山県庁と市内東部を流れる旭川 向こう岸の巨大な緑地帯が後楽園である
http://features.cgsociety.org/stories/2004_12/talaros/highrez_tal.jpg
岡山のビジネス街
左からベネッセ本社、中国新聞社本社、英会話イーオン本社、そして一番右が林原グループ総本社である。
http://listverse.files.wordpress.com/2007/10/origamicitymp.jpg
岡山一番街(岡山駅地下商店街) 世界初の本格的ジオフロント
http://listverse.files.wordpress.com/2007/10/60256-1152359707-large.jpg
岡山駅を発車した新幹線500系
http://www.transfuture.net/transart/future_city_249.jpg
児島湖周辺 奥に見える超高層ビル群は天満屋ハピータウン
http://cache.gizmodo.com/assets/images/gizmodo/2008/06/doha-quatar-mead.jpg
児島・下津井 瀬戸大橋が見える
http://home.comcast.net/~chrisstoski/gallery_images/sf_waterfront_sunset_01.jpg
56  :2009/10/03(土) 21:48:49 ID:wNJEVDQ3
>天満屋
広島にもあった気がするから中国地方じゃね?
今広島にいるんだけどこっちの主力の百貨店が何か分からん
とりあえず伊勢丹・高島屋はではなさそう
57人間七七四年:2009/10/03(土) 22:00:04 ID:zMTkPsis
なんのスレだよここはw
58人間七七四年:2009/10/03(土) 22:05:47 ID:TmOiL+4O
岡山だと、直家の暗殺話か秀家の家中大混乱の話のどちらかで、
なかなかいい話が無いなw

はっ!初代津山藩主!
59人間七七四年:2009/10/03(土) 22:08:43 ID:WPCBvO19
>>54
天満屋は岡山市最大の商店街「表町」の中ごろにあり、バスターミナルがあって
バスの交通網は天満屋を中心に構成されてる
表町商店街周辺に岡山城、後楽園はもとより県庁、音楽ホール、図書館、美術館などがある
まあつまりお城周辺が発達してるってこと
岡山駅は実は中心から外れた所にあるので地元民に冗談で辺境と呼ばれたりする
60人間七七四年:2009/10/03(土) 22:10:42 ID:dKRGSY4c
>>58
いい話を探すのが困難なんだがw
61人間七七四年:2009/10/03(土) 22:14:26 ID:KzJZx8n5
>>58
清水宗治さんは岡山の人
62人間七七四年:2009/10/03(土) 22:51:32 ID:C7LSzHhO
>>58
備中兵乱やら暗殺(される側)やら水野勝成の舅でおなじみ三村一族・・・
やはりいい話はないなw
63人間七七四年:2009/10/03(土) 23:09:00 ID:IlOIJGpJ
なんかどっかで北条早雲こと伊勢新九郎は元は備前美作に知行を持つ岡山の国人だったかもしれない
という話を聞いたことがある
いずれにせよ腹が黒い人だが
64人間七七四年:2009/10/03(土) 23:18:03 ID:TmOiL+4O
>>63
国人と言うか、幕府の政所長官である伊勢氏の分家で備中伊勢氏である伊勢盛定の次男、盛時が
後の北条早雲だね。若い頃から京で、将軍足利義尚の申次衆として活躍している。
最初に駿河の紛争調停しに行った時は、何と19歳だぜ。
65人間七七四年:2009/10/03(土) 23:18:44 ID:hXDSt8kw
つ桃太郎                         戦国時代じゃねーよ
66人間七七四年:2009/10/03(土) 23:47:58 ID:IZYGFNBb
>>65
ああ、どちらかというと江戸時代だな。
67人間七七四年:2009/10/04(日) 00:32:12 ID:nzAmKCa3
いい話だ。

織田信秀が朝廷に4000貫を寄与したことは有名だ。
他の武将も寄与していた。
今川義元100貫であり、朝倉義景は10貫くらいである。
ものすごい小額であり、現在の天皇の地位を考えるとありえないといってもいい。
寄付が少なすぎる。戦国大名はこのように実利が無ければお金など投入せず、
実力で天下を勝ち取っていったのである。

しかし、豊臣秀吉は違ったのである。
死ぬ半年前に大量の金子を公家にばらまいた。
家康はどう思ったであろう。恩顧大名も無駄だと思ったに違いない。
秀吉としては立場を固めるという意味もあったのだろうが、
戦国時代の公家の困窮を見たのであろう。
これには公家も唖然としたに違いが無い。

そして秀吉は死んだ。公家は糞の役にも立たなかったが、
困窮している人にお金をあげる精神は評価したい。
68人間七七四年:2009/10/04(日) 00:34:26 ID:nzAmKCa3
>22はいい話だからな。日本刀で人を切り殺す信虎は悪い人ということはないぞ
69人間七七四年:2009/10/04(日) 00:36:17 ID:N9IOOfbm
>>63
備前美作じゃなくて、備中荏原郷な。
70人間七七四年:2009/10/04(日) 00:41:15 ID:LWulkm9x
>>67
うん…でも無駄な出兵軍事費捻出で年貢をあげたり、
土木建築人足をブラック環境でこきつかったりしていたと思うと…

それと公家が役立たずなのかはどうだろう?
家康は将軍だから武家の親玉だけど、秀吉は一応太閤だから
名目上は公家のボスっつうことになるわけだしなあ。
そりゃ他の連中とはちがうような気がする。
71人間七七四年:2009/10/04(日) 00:44:46 ID:EyOoYpMF
72人間七七四年:2009/10/04(日) 00:50:14 ID:N9IOOfbm
>>71
こwれwはww
73人間七七四年:2009/10/04(日) 01:01:24 ID:nzAmKCa3
いい話

1575年長篠の戦いで、武田家を破った織田信長は、
その後一向宗が支配する越前に攻め込み平定した。
そのとき、一向宗が男女を動員して抵抗を示したため一向宗の大虐殺を行っており
7万の人間が死んだといわれている。
もちろん見せしめのために、拷問じみた殺害も行われ磔や釜茹でで殺された人間もいた。
越前は周囲が死体だらけとなった。戦った武将は胸を痛めたに違いない。

越前征伐で前田利家は信長に命じられ、釜炙でや磔を行っている。
越前から見つかった瓦版に前田利家が磔、釜炙を行ったと書かれていた。
前田利家が残酷な行為をやったことを示すものである。
一向宗はペンで反撃をした。そのためこの事で前田利家は、延々と叩かれ続けている
ペンの強さを示す話である。
74人間七七四年:2009/10/04(日) 01:09:04 ID:lkgXS4Ia
主観が入りすぎの話しはここではつまらん
75人間七七四年:2009/10/04(日) 01:10:03 ID:KESzjJdo
>>70
別に征夷大将軍が武家の親玉なんて意味はないんだけどな
実力あって報償の権利があれば鎮守府大将軍であろうと征西大将軍であろうと武家がついて行った歴史があるわけで
関白も令外官だから別に百官の長でもないし。だからこそ天皇を祭り上げたんだけど
秀吉からしたら(当時の人間からしたら)征夷大将軍も太政大臣も縁起悪かったんかな、足利氏が衰退しているし
76人間七七四年:2009/10/04(日) 01:17:27 ID:867rzfhi
>>74に同意
てか「ペンは剣よりも強し」になぞらえたいんだろうが、戦国時代だから違和感が強い
77人間七七四年:2009/10/04(日) 01:28:59 ID:KESzjJdo
歴史関連でペンが強いのはその事件が起きた瞬間ではなく
その事件が過去になってからの方が殆どだから
あんまり強くは感じない
78人間七七四年:2009/10/04(日) 01:41:35 ID:867rzfhi
>>77
すまん、筆だろって意味だ
79人間七七四年:2009/10/04(日) 01:50:15 ID:KESzjJdo
いや別にキミのレスに関係なく俺はそう思うって話だ
80人間七七四年:2009/10/04(日) 02:26:52 ID:MhGDo5rt
>>73
つかこれいい話か?
81人間七七四年:2009/10/04(日) 02:28:22 ID:NOPUXNi/
天正十年、本能寺の変が起こると
その年の始め武田勝頼を滅ぼし織田に平定されたばかりの甲斐では乱が起こり、
代官の川尻秀隆がSUKEKIYO流に殺害されるなど不安定な状況に陥っていた

どうにか西から伊賀を超えて帰還したばかりの徳川家康は
これを何とか抑え、あわよくば甲斐を手に入れる為に
武田の旧臣である穴山梅雪(この時には京で死亡している)の残兵を
甲斐に入れて鎮圧しようと考えていたが、ふと思いついて岡部正綱を呼んだ

岡部正綱は元今川の旧臣で、今川が滅んだ後は武田に仕え、高天神城を守っていた
更に高天神城が落ちてからは徳川に仕えていた武将である
今川時代には家康と交友関係を結んでいただけでなく、武田のことにもとても詳しかった
話を聞くと正綱は言った

「恐れながら申し上げます。甲斐に穴山の残兵を入れ、力づくで鎮圧を行えば
きっと川尻の二の舞となり、人心は安んらえず、乱れたままとなりましょう
ここは私と、普請に優れた曽根下野守(曾根昌世・武田家旧臣)を甲斐に遣わし、
信玄公の菩提寺を修理し、勝頼・信勝親子の自刃した地に寺を営み、
両将の霊を祭れば、甲斐の民はきっと我々をただの侵略者とは見ないはず
まずは民の心を掴むことです」

家康はその意見を受けてその通りにさせた
正綱と曾根昌世は、ほぼほったらかしだった勝頼達の遺体を納めると、
それらをねんごろに弔い、また武田家縁の寺社を修復して回りながら
甲斐の国人達を訪ねて、徳川に降ることを大いに説得した
結果、徳川は甲斐を上手く治めることが出来たのだった



ちなみに蛇足な話だが、
正綱はこの後、武田家の旧臣達を接待する際に急性アルコール中毒で没してしまった
と言われている



高天神城で見殺しにされてしまいそうになったりしながらも
それでもこうして死後の供養をしてやろうというのは
理由があるにせよ、良い話なのかなあと思って
82人間七七四年:2009/10/04(日) 03:17:44 ID:w8z8Mbck
ID:FukZwViQ = ID:nzAmKCa3 = キチガイ。放置推奨。
83人間七七四年:2009/10/04(日) 06:16:24 ID:lkgXS4Ia
>>81
激しい飲み会だったんだろうなあw
84人間七七四年:2009/10/04(日) 08:33:06 ID:cnXxkMps
このころの酒はまだ質も良くないしね、飲み過ぎると悪酔いしそうだ
85人間七七四年:2009/10/04(日) 08:41:19 ID:ns0vnGDJ
今川、武田と仕えた家が滅んで、残された将たちが
その後どう生きた(あるいは死んだ)かというのは興味深いな。
86人間七七四年:2009/10/04(日) 09:08:14 ID:bt53n0x/
>>81
黒鬼の親父さんだよね
成瀬正成の親父も武田時代の人脈を大切にして甲斐入部に貢献してるんだよね
87人間七七四年:2009/10/04(日) 11:02:35 ID:FnrbS9UL
朝飲んで昼飲んで夜飲んで・・・が当然の時代だもんな。
88人間七七四年:2009/10/04(日) 11:43:07 ID:HmzKTA4h
>>81
高天神城にいたのは岡部元信じゃねえの?
89人間七七四年:2009/10/04(日) 11:59:17 ID:nzAmKCa3
安国寺

彼は毛利家に仕えた武将であるが、秀吉の台頭を予言し関ヶ原の時に破れて死んでいる。
毛利家の、外交を勤めてきた武将だ。毛利家の存続も彼が大きい。
関ヶ原は勝てると思ったのだろうか?安芸武田の息子であり、関ヶ原で負けてわざと毛利家を減封させたのではないか?
90人間七七四年:2009/10/04(日) 12:01:33 ID:nzAmKCa3
安国寺恵慶な
91人間七七四年:2009/10/04(日) 12:04:32 ID:nzAmKCa3
生存説1

石田三成は関ヶ原で敗れて死んでいるが生存説がある。
佐竹領まで逃げて、佐竹の世話になり佐竹が転封になった秋田の寺で暮らしたそうだ。
大阪の陣以降の年に、いきなり腹を切ってしんでしまった。そういった話がある。何か思うことでもあったんだろう。
92人間七七四年:2009/10/04(日) 12:06:11 ID:nzAmKCa3
生存説2

明智光秀の生存説といえば、天海が有名だが
93人間七七四年:2009/10/04(日) 12:21:08 ID:NOPUXNi/
>>88
すみません頭の中で元信と正綱を混同して間違えていたみたいだ
高天神城を守っていたのは岡部正綱の弟とも親戚とも言われている岡部元信で
正綱は高天神には居ませんね
指摘ありがとうございます

岡部元信も義元の首を織田から奪い帰ったなんて話があったり
長篠合戦で徳川軍とぶつかって攻撃を凌いでいたり
かなりの猛将ですよね
94人間七七四年:2009/10/04(日) 12:39:07 ID:/CweEkCi
>>84
中川某「ん?」
95人間七七四年:2009/10/04(日) 12:50:13 ID:0a3uw5Be
>>94
亡くなったからやめとこう。
96人間七七四年:2009/10/04(日) 12:54:11 ID:o3Svi6D+
酒の飲みすぎというか飲まされすぎで死んだといえば家久(善)
97人間七七四年:2009/10/04(日) 13:14:31 ID:j6ycjINM
伊達政宗「酒ごとき出ぶっ倒れるなんて情けねーw」




土井さんか何かいいたそうに見ています
98人間七七四年:2009/10/04(日) 16:13:05 ID:hKHLTtBa
ただ当時は酒って貴重品だったと聞いた事もある
急性アル中は兎も角そう毎日飲めるものだったのだろうか?
99人間七七四年:2009/10/04(日) 16:16:47 ID:EyOoYpMF
戦国時代、足軽に1日当たり配給される米が平均1升だったんだが、まとめて与えると
それを使ってどんどん酒を醸造してしまうので、何回かに分けて与えていたそうな。
100人間七七四年:2009/10/04(日) 17:45:12 ID:cnXxkMps
まだ白米すら無かった時代だから、酒を造っても酔えるだけの不味い代物だったろうなあ
101人間七七四年:2009/10/04(日) 17:47:32 ID:ou+d10Rw
映画の大脱走でも捕虜がサツマイモで酒を造る話があるな。
102人間七七四年:2009/10/04(日) 20:36:00 ID:HlEohJc3
室町時代は畿内の寺社を中心に、醸造技術が発達した時代だっていうな
民間では、まだまだ甘酒に近いものを飲んでただろうけど
103人間七七四年:2009/10/04(日) 20:46:44 ID:w8z8Mbck
フランシスコ・ザビエル曰く「酒は米より造れるが、そのほかに酒なく、
その量は少なくして価は高し」だからねい。

もっとも、16世紀中盤に九州で蒸留酒が作られてはいたそうだけど。
104人間七七四年:2009/10/04(日) 21:35:06 ID:BcMaBwOZ
武田信玄が子どもを集めて合戦の話をしたとき、
聞き手には4つのパターンがあった。

1人目は口を開けて信玄の顔ばかり見る。
2人目は耳を澄まして少しうつむいている。
3人目は信玄の顔を見て時々笑ったり、頷く。
4人目は途中で席を離れた。

「1人目はぼんやりして話を聞いていない。
2人目はわしの話を吟味している。
3人目はわしの話がよく分かると相槌をうつ。
4人目は怖くなると逃げ出す臆病者。

この中でもっとも役立つのは2人目だ。
顔を見て話を聞くと、話し手の表情で話の内容が左右する。
いい話を聞くときは相手の顔を見ないことだ」

信玄は大人に話すときも4通りに区分した。
105人間七七四年:2009/10/04(日) 21:38:14 ID:eI0gniYD
幕府の将軍とその重臣たちは毎日飲みまくっては吐いていた。
息子に酒飲むなと注意したあげくに禁酒令を出した義持自体が酒飲みまくってた。
106人間七七四年:2009/10/04(日) 23:11:30 ID:cnXxkMps
>>104
深イイ話が来たね

けど現実は、
「人が話しているときはよそ見しないでちゃんと顔を見なさい!(#゚Д゚)」だよなw
107人間七七四年:2009/10/04(日) 23:26:17 ID:aWjElfZn
関ケ原の役が終わりを迎えたときの話。
主君徳川家康公に本多正信が言う。
「直江兼続は、こたびの乱の張本人ですから、死を与えるべきかと。」
すると家康公は、
「もっともではあるが、上杉家重臣の直江に限らず、毛利、島津をはじめ、諸大名の老臣たちは、
石田三成にすすめられて主人を動かし兵をおこさせた。
ここで直江に死を与えたなら西軍大名家の老臣たちは必ず危惧を持ち国内にたてこもるだろう。
そうなれば再び大乱となる。
だから直江を許すかわりに、早々と上洛せよと申してやろうではないか。」
と言った。

本多正信はその理に感服し、諸大名の老臣はいずれも安心したという。
108人間七七四年:2009/10/04(日) 23:32:48 ID:ri+4UZIZ
酒と政宗で思い出した。良くも悪くもない話なので余談ということで。


柳生宗矩は伊達政宗と親しくしており、
政宗の江戸桜田上屋敷で茶会や能が模様されたときに招待されたり、
また政宗も時々柳生邸を訪れたりしていた。
そんなある日のこと、柳生邸を訪れた政宗は、
出された酒のあまりの美味しさにすっかり酔っ払ってしまった。
あんまり美味しかったので、酔いが覚めてから
宗矩にこの酒作った杜氏紹介してよ!と頼み込んだ。
そこで宗矩は、柳生の里から諸白屋又五郎を派遣。
喜んだ政宗は、早速苗字帯刀御免、十人扶持、金十両で召抱え、
仙台城太鼓部屋の崖下(三の丸の付近、現仙台市博物館裏)に酒倉を建てた。
倉には「御城御用御酒屋」の看板がかけられた。

酒倉では、夏氷酒、桑酒、延令固本酒、忍冬酒、枇杷酒、泡盛酒、
葡萄酒、蜜柑酒、楊梅酒、苺酒、菊酒、紫蘇酒、梅酒、龍眼酒、南蛮酒など、
二十六種類の酒を醸造していた。
中でも珍しいのは印篭酒である。
戦場に持ち運びする目的で、粉末にした酒を印篭に詰めたもの。
明治10年に子孫が先祖の法要を営んだ時、少しばかり残っていたので、
熱湯に入れてかき混ぜると、1〜2升の酒ができたという。
しかし、この印篭酒、再現が試みられたが成功せず、
製法も現在に伝わっていない。


……酒のみたくなってきた。
109人間七七四年:2009/10/04(日) 23:34:55 ID:v9lrMYkm
実は信玄の顔がまれにみる面白顔だったとか…

1人目:信玄の顔ばかり見る→あまりの面白顔に度肝を抜かれている
2人目:少しうつむいている→顔をまともに見ていられない
3人目:信玄の顔を見て笑う→そのまんま
4人目:途中で席を離れる→とても顔をあわせていられない
110人間七七四年:2009/10/04(日) 23:47:18 ID:w8z8Mbck
>>108
常温でアルコールを粉末にするのは化学的にありえないから、
酒っぽい飲み物を作ったってことなんだろうなぁ
111人間七七四年:2009/10/05(月) 00:25:56 ID:mKuThcbP
>>108
インスタントコーヒーみたいだな。
現代でも固形のインスタント甘酒なら売ってるが、当時のインスタント酒はどんなものだったのだろう。
ぜひ飲んでみたい。
112人間七七四年:2009/10/05(月) 00:54:52 ID:LNbbESCi
>>108
現在では粉末酒というのはあるけど
当時の粉酒がどんなものだったのか興味深い話だ
113人間七七四年:2009/10/05(月) 00:56:16 ID:LATUOwTJ
>>58
関ヶ原戦で大活躍した、
安濃津城主富田信高の北の方、は宇喜多氏
114人間七七四年:2009/10/05(月) 01:15:58 ID:AfGNPlfA
えー、そうだったのか
この頃の婚姻関係見てると意外なところが繋がってて面白いね

ただ早婚で早く子供が出来るのと&2度目3度目の結婚で年の差あたりまえなんで、
嫁の親父と夫が同世代か、なんなら前者が若かったりしてびっくりする
115人間七七四年:2009/10/05(月) 01:21:33 ID:4D0oF87d
>>113
まとめサイトに出ている話だね。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%C9%D9%C5%C4%BF%AE%B9%E2
弟が出てこなければ幸せだったろうに・・・
116人間七七四年:2009/10/05(月) 02:20:17 ID:bnztgGPh
>>108
凄く面白い話しを聞いたありがとう
俺も酒好きなので飲みたい。
まだそこの造り酒屋が健在ならば歩いてでも行きたい・・・・・残念
117人間七七四年:2009/10/05(月) 02:28:41 ID:ec7woD+z
下総千葉氏の家臣で後北条氏の家臣でもある高城胤則は柴田勝家の養女を嫁にもらっていたりする

賤ヶ岳後に佐久間安政が後北条氏を頼り胤則と仲良くなったそうな
で、一緒に逃げてきた勝家の養女を貰うことになった


千葉の陪臣が柴田の養女を嫁にするとか、初めて知ったときは接点もなければ家格も違うだろと思ったっけ
118108:2009/10/05(月) 04:06:14 ID:jJt3zUWK
>>116
残念ながらこの酒屋を営んでいた榧森氏は明治に入って、
三の丸から鉄砲町に移り、その後、家が絶えて文書資料は散逸してしまった。
製法は秘伝として代々口伝とされたそうで、粉酒が再現できないのはそのためかと。
でもこの酒屋のおかげで、地元の酒屋のレベルが上がりまくったとか。
安政ごろに仙台藩から御用御酒屋に認定された別の酒屋(勝山酒造)は今もある。
119人間七七四年:2009/10/05(月) 09:00:55 ID:b9dSmXBW
>>114
そこかしこに義兄弟やら穴兄弟がw
120人間七七四年:2009/10/05(月) 12:57:54 ID:gvK7A9XQ
天正十八年、小田原攻めを控えた年の春
家康は三男の長丸(後の秀忠)を京に上らせ、秀吉に合わせた
秀吉は家康が人質を寄越したという政治敵理由もあったが、
子どもが好きなこともあり、長丸の見参を大いに喜んで歓迎した
そのもてなしようは大変なもので、奥に連れてゆき、大政所ともども
髪を結い直したり、服を着せ替えたり、黄金の太刀をくれてやったりと
大変な可愛がりようだった

そんな中で秀吉は、長丸の共をしている井伊直政にこう言ったという

「家康公は幸運なお人で、よい男児を多く持たれたものだな
長丸はとてもおとなしくて、生まれの良いお子さんだ
ただ、ちとばかり、髪の結い方や衣服が田舎臭いから
今流行りの都風のファッションに変えちゃったんだけどね
こんなかわいい子を遠方に置いていたら家康殿も心配してらっしゃるだろうし
名残惜しいけど帰ってもいいよ」

まさかこの少年が、将来実質的に豊臣家の息の根を止めるとは
さすがの秀吉にも見抜けなかったのだろう
121人間七七四年:2009/10/05(月) 15:31:42 ID:vc/c9lK2
杜氏集団の血縁/地縁の結び付きって傍から見ると異常に強いよな
酒造りに興味ある人なら分かるはず。あと大手以外は消滅の危機のピンチってことも。

地元の同級生が農大卒業して500石くらいの蔵元だったかな、親から継いでやってるけど
懇意にしてる杜氏一族の数が減りすぎて手を借りたくても適任者が少なくて凄え困ってる
122人間七七四年:2009/10/05(月) 17:29:39 ID:vT9xCZsc
>>108
岩出山名物の凍り豆腐がDQ眼竜さんの開発ってのが本当なら
フリーズドライ甘酒くらいは作れそうな気がするw
123人間七七四年:2009/10/05(月) 19:43:46 ID:XxfzEDZn
伊達の印籠酒ってぶっちゃけた話、ただの甘酒じゃね?
本格的な甘酒は日本酒と同様、米から作るが、
伊達の印籠酒は今現在家庭用に売られているような、
酒粕にお湯を注いで作るお手軽なもんだったんじゃないか。
124人間七七四年:2009/10/05(月) 19:46:45 ID:84PRxkM0
>>122
流行らそうと思ってるな?>DQ眼竜
ちくしょう、俺も今度使ってみよ
125人間七七四年:2009/10/05(月) 20:31:50 ID:nPpENOLa
>>123
印篭酒の詳細はいまいちわかっていないのだが、
明治に子孫が残っていたものをお湯で溶かした話も、
「鬢付け油より少しゆるいくらいの濃縮酒だったよ」説と
「粉末酒だったよ」説に分かれているくらい詳細がわからない。
ただ少量残っていたものに、
味見をしながらお湯を足していったら二升位になって、
立派に酔っ払えたそうなので、甘酒とは違うんじゃないかな。
126人間七七四年:2009/10/05(月) 21:21:15 ID:2w/7CFSa
その人奈良漬けで酔えるタイプだったりしてなw
127人間七七四年:2009/10/05(月) 22:14:01 ID:cLf+mmdx
>>120
むしろ豊臣を支えてくれる人として、そんなことをしたのかもね
予想は外れてしまったけれど
128人間七七四年:2009/10/05(月) 22:59:10 ID:Utvpdhov
>>121
仙台には俺がこよなく愛した銘柄醸してた蔵があったんだが…しばらく前に廃業しちまったよ
129人間七七四年:2009/10/05(月) 23:15:39 ID:ZpCZde9k
>>127
今川義元「この親にしてこの子あり、というであろう」
130人間七七四年:2009/10/05(月) 23:34:56 ID:LATUOwTJ
戦争で決着つけるなどと物騒なことをせず、平和に剣道か蹴鞠で勝負すればよいのだ
131人間七七四年:2009/10/06(火) 00:26:31 ID:7UyL+aYS
薩摩藩から第13代徳川将軍家定に嫁いだ篤姫(天璋院)の幼名が、
定説である「かつ」ではなく「いち」だった可能性が高いことが、
鹿児島市の歴史資料館「尚古集成館」所蔵の史料の記述から、
5日までに分かった。鹿児島県歴史資料センター黎明館によると、
記述があった史料は薩摩藩主の生活などを記した「日記 表方御右筆間」と
「典姫様日記 宝印御方」。篤姫の幼名はこれまで「かつ」が定説だった。
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_kagoshima__20091005_2/story/05kyodo2009100501000491/
132人間七七四年:2009/10/06(火) 18:25:45 ID:0lflWXcv
駿河のファンタジスタ今川氏真が駿府を追われて後の動向といえば
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2243.html
↑の記事に詳しいのだが、この話にはこんな話もある

信玄の刺客が氏真を狙っている、という噂が小田原に流れるようになると
一番最初に行動を起こしたのは、氏真ではなくその嫁の早川殿であった
早川殿は不穏な噂を耳にすると、真っ先に弟・氏政を訪ね

「ちょっとこれどーいうことなの!」

と、弟をガンガン問い詰めた。
問い詰められた氏政が事情を説明すると

「わかりました。そんなに邪魔なら私たちは氏真さまと一緒に出ていきます。
穏便に出て行ってやりますから船をお出しなさい!」

と言って旅の支度と船を用意させ、氏真と一緒に小田原から出て行った
という話である
良妻と評判な早川殿
案外しっかり者の「鬼嫁」だった可能性も無きにしもあらず?
133人間七七四年:2009/10/06(火) 18:52:00 ID:44PNh/LV
>>132
しかしいい嫁さんだなあ。絶対氏真にはもったいないw
こんな人と結婚したいわー(*´Д`)
134人間七七四年:2009/10/06(火) 19:42:16 ID:RYL8Zq1r
旦那が農民でも寝てるだけで武将にしてくれそう
135人間七七四年:2009/10/06(火) 20:29:19 ID:1Nhdzrym
千代さんの旦那の事か
136人間七七四年:2009/10/06(火) 21:40:23 ID:Xq6aB9Dv
武田信玄、娘を想う

北条氏政の妻は信玄の娘であった。
信玄は彼女のことをよく気にしていたらしい。
郡内の僧侶によると彼女が出産したときの信玄の喜びようは
大変なものだったという。

娘がまた妊娠したときには、富士浅間大菩薩に願書を出して
「安産かつ無病延命にしてほしい。もし聞き届けてもらえたなら
来年6月より富士参詣に訪れる者が通る船津の関所を廃する」
とまで記している。

1565年にも「娘の病が癒え、元気で長生きしてほしい」と、
翌年には「もうすぐ娘が出産するので、お産が無事に済み、
母と子どもに災いがありませんように」と願った。

例え娘を政治の道具として扱ったとしても、愛情がなかった
わけではないのである。
137人間七七四年:2009/10/06(火) 22:25:21 ID:/k35cXhR
政治の道具としてみられることが多い戦国時代の娘だけど、やっぱり娘ってのは本当にかわいいんだよ
娘の幸せを祈る気持ちは凄い分かる。嫁に行ってしまったら絶対に泣いてしまう。これはいい話
138人間七七四年:2009/10/06(火) 22:25:23 ID:5v/0sFm9
氏政も奥さん大事にしたみたいだね。
139人間七七四年:2009/10/06(火) 22:37:27 ID:J+E7LA2Q
謙信は逆に姪っ子(景勝の姉妹)をよそにやらず、身内の男と結婚させてるなあ。
可愛かったからか、兄妹の母たる仙桃院が淋しがるのを思いやったか、
家族が少なすぎて増やすことが第一だったからか、
「子供が生まれたらそばで見たいじゃないか!!」かは知らんけど。

まああんまり同盟とか婚姻の絆とかを信用してない風でもある。
140人間七七四年:2009/10/06(火) 23:26:40 ID:5ygGsuYr
一応まとめで検索してみたが見つからなかった。
ガイシュツだったらすまん。


藤堂高虎の改宗

徳川家康が、そろそろ臨終も近くなった頃。
枕元に家臣の一人、藤堂高虎を呼んでこう言った。

「お前は秀吉の頃から、何かとわしを助けてくれた。
その志、死んでも忘れぬぞ。
本当は死んだ後も、なお側にいて助けて欲しいのだが、
わしとお前は宗旨が違うから、
あの世では別々の所に行かねばならぬ、
それだけが心残りじゃ・・・」

これを聞いた高虎、感じる所があったのだろう。
別室にいた天海僧正に速攻で面会し、
家康と同じ天台宗に改宗する旨申し出たのだった。


……あの世で二人が再会できたかどうかは、
残念ながらイタコにでも聞くしかない。
141人間七七四年:2009/10/06(火) 23:44:26 ID:sDr3jcYP
>>138
でも、信玄の駿河攻めで離縁。黄梅院は夫、子供と引き離されて甲斐に
帰される。翌年だかに黄梅院病死。切ないね。
142  :2009/10/07(水) 00:06:39 ID:ZshCoO3p
>>140
>本当は死んだ後も、なお側にいて助けて欲しいのだが、

あの世でも何かやる気かいな。
じゃあ天台宗の人が死んだら、あの世で
徳川幕府inあの世〜天台宗ver(城付き)が待ち構えているわけだな・・・
143人間七七四年:2009/10/07(水) 00:10:49 ID:6y4S17wS
しかし「宗旨が違う=行くあの世も違う」って意識は面白いな。
日本人には「同じお墓に」って感覚から言っても、確かにそう言う考え方があるな。

日本人にとっては、『死ねば同じ』ではないわけだ。
144  :2009/10/07(水) 00:32:13 ID:ZshCoO3p
寝る前にお一つ。既出だったらごめん。
良くも悪くもないけど木村重成。

大阪の陣において、塙団右衛門が大将となって蜂須賀陣へ夜討をかけた。
この夜討で、大野主馬の組下の侍も手柄を立てたので
主馬は木村長門守重成に頼んで感状を貰おうと申し込んだ。

すると重成は

「確かに、そう上申すれば感状は下附されるでしょう。
 しかし、感状を貰ってどうするのです?
 外様の者ならば、また主取りをする時に役に立つでしょうけれど
 あなた方大野兄弟は、当城無二の譜代で
 主君と生死を共にする身ではありませんか。
 何故、感状が必要なのです?」

と言ったので、主馬は赤面してしまった。


もしかしたら大野主馬のこっ恥ずかしい話やもしれぬ・・
145人間七七四年:2009/10/07(水) 00:32:45 ID:k7L1b8ez
>>143
かのガミラス帝国のデスラー総統閣下もボラー連邦と銀河を二分した大戦のとき
ベムラーゼ書記長にわざわざホットライン繋いで

「キミの宗派は何宗かね?」と粋な質問をしていたねえ・・・
146人間七七四年:2009/10/07(水) 00:40:30 ID:qYUJNSNP
九戸政実の家臣の畠山重勝は九戸政実の乱において主君に殉じ死亡した
しかし、妻と娘は従者と共に脱出を果たした
娘の名は‘於感’、当時19歳であったという

脱出を果たした於感達は流れ流れて盛岡に居た
従者の三平と身分違いながら結ばれ、既に子をなしていた
しかし、彼女に悲劇が襲いかかる
夫、三平が事故により両足の自由を失ってしまったのである
家族を養う為に於感は労働者の炊き出しの手伝いを始めた
いうなれば下女である
しかしながら元々武家の娘である、立ち振る舞いは自然と目立っていた
当時於感は28歳であったとされている
その労働者達の責任者に高瀬軍太なる男が居た
軍太は於感を見初め、権力を傘にかなり強引な手段で密通を求めた
そして押し負ける形で於感は軍太に条件を出したのである
「夫を殺してくれたならあなたに嫁ぎましょう」、と
軍太は三平が出掛ける事を突き止め銃を持って待ち構えた
深く着物をかぶって馬にまたがる人影を三平と確信し狙撃、見事に三平をしとめた
…はずだった
しかし、軍太が三平と思った人影は於感であった
既に事切れた於感を前にして軍太は全てを理解した
於感は不義を働く様な女ではなかったのだ
そして…

軍太は逃げなかった
彼は三平に自らの横恋慕を告白し自らの罪を認めた、生殺与奪を委ねたのである
三平は怒りに震えたが命は取らなかった
そして軍太は出家し浄覚と名乗り大泉寺に入った
於感の霊を弔い、その三平達遺族の為に尽くした

数年後、浄覚の枕元に於感が立っていた
浄覚の罪を許し自らは成仏する、と
その証に彼女の墓を叩けばキンキンと鳴るであろうと

現在、盛岡市大泉寺に小石で叩くとキンキンと金属音がする不思議な古い墓がある
そう、於感の墓である


既出ならごめん
147人間七七四年:2009/10/07(水) 00:52:48 ID:jiTCjz+M
>>145
よーするにそれ、
お前今から死んでこいって事じゃ…
148人間七七四年:2009/10/07(水) 01:03:06 ID:QwAh1RHC
いい話だ。

1600年
織田秀信は徳川家康と戦うために西軍についた。
家康が専横をしていたため石田三成らが徳川家康を打倒しようと
関東に家康が上杉家を討伐しに出陣している最中に決起したのである。関ヶ原の戦いである。
秀信の臣下だった秀吉が秀信の主君となっており、
織田家を乗っ取っているし美濃18万石しか秀信は貰えなかったのである。
豊臣家に恨みを抱いてもおかしくない立場であり、
旧織田系大名も東軍についているので秀信は当然豊臣家打倒の東軍についたほうがいいと思われる。
しかし美濃尾張が恩賞で貰えると聞いて、織田信長の旧領を取り戻すべく豊臣家維持の西軍についたのである。
秀信は東軍が美濃までやってくるのを見て、岐阜城を出撃しようといった。
家臣は野戦をすると数が違うので敗北するので岐阜城に篭れと反対していうが、
「祖父は一回は打って出ろといった」といい、野戦をすることとなった。
祖父の言葉が秀信の中で生きていたのである。
秀信軍は東軍を向かえうち河によったものの数の違いもあって大敗して、岐阜城に篭るが岐阜城もすぐも落とされてしまった。
その後、石田三成らの西軍は岐阜城がすぐに落とされた影響もあったか関ヶ原で大敗した。計算違いだったのだろうか。
秀信は幼少の時代しか織田信長にあったことは無いだろうが、信長の言葉はちゃんと秀信の中にあった
そのせいで大敗してしまい、結果西軍も負けてしまったが。信長の子孫としての、誇りは織田秀信はもっていたのである。
織田秀信はその後、高野山送りとなりそこも追い出され死んだ。
149人間七七四年:2009/10/07(水) 02:05:08 ID:osgV8WWa
爺ちゃんがちゃんと彼我の戦力差と状況を考えて、と一言言い添えて置いてくれたらよかったのに
とは言え思えば爺ちゃんも無謀な攻撃かまして逃げ帰ったことも数知れず・・・
逃げ足の速さを受け継がなかったのが孫の不幸か
150人間七七四年:2009/10/07(水) 02:21:40 ID:8Xcbk46o
母親が鬼武蔵の兄弟かもしれないんだよな>秀信
151人間七七四年:2009/10/07(水) 02:22:11 ID:Xdz7W1Jz
で、どこがいい話?
152人間七七四年:2009/10/07(水) 02:24:25 ID:HGqKCmGc
触れるな
153人間七七四年:2009/10/07(水) 02:25:47 ID:QwAh1RHC
おまえが俺のレスを妨害したいのはわかるけど俺はちゃんとレスしてるんで
妨害するなよな負け犬ボケ
154人間七七四年:2009/10/07(水) 02:32:45 ID:QwAh1RHC
上杉家について

上杉家は関ヶ原の合戦で30万石まで落ちてしまった。
そのため、かなり苦労したが誰も武家は追放しなかった。
相当試行錯誤したらしいが。江戸時代は飢え過ぎといわれて馬鹿にされていた。
しかしそれでも上杉鷹山や吉良事件を乗り越え存続していくのである。
155人間七七四年:2009/10/07(水) 02:53:36 ID:8Xcbk46o
>>154
まじで!?スゲーいい話だな!
つーかよくそんな話知ってるな。学者か?
156人間七七四年:2009/10/07(水) 02:55:34 ID:n7V7X2HG
ボンクラで有名な織田信雄
織田家を解体させてしまったり百万石を一瞬で棒に振ったり
大馬鹿伝説はあまたある。

しかし明治まで大名として存続した2つの織田家は彼の子孫である。
157人間七七四年:2009/10/07(水) 02:56:57 ID:4ZaAackO
でも所詮はノブオ
158人間七七四年:2009/10/07(水) 02:57:39 ID:QwAh1RHC
あはははははは
負け犬どもが擦り寄ってくるな。
負け犬はクソレスしてろボケあはははは
159人間七七四年:2009/10/07(水) 03:23:43 ID:d+doxHKH
ID:QwAh1RHCは今日も湧いてきたのか。コテハンを付ければいいのに。
sageも知らないぐらいだから、コテハンすらしらないだろうけど。
160人間七七四年:2009/10/07(水) 04:16:48 ID:OcvH6qna
このキチガイの話は、さすがにまとめには載せないよな?
161人間七七四年:2009/10/07(水) 04:18:28 ID:QwAh1RHC
俺の書いてる話しは真実だからまとめに載せないなら載せないでいいけど、
話は投下し続けるよ
162人間七七四年:2009/10/07(水) 04:28:32 ID:3fmmZyQ3
最近変なの湧き出したしそろそろここも寿命か
163人間七七四年:2009/10/07(水) 04:30:40 ID:OcWTdU+r
待て待て、史実と真実は違うから。今はA級資料と思われてる文献だって後に創作と判明する可能性もあるんだから、
歴史で真実なんて言葉を使うのは感心出来ませんぜ旦那
164人間七七四年:2009/10/07(水) 04:57:40 ID:n7V7X2HG
資料はすべて人が作るもの。
そして当事者ほど、当事していた時点では記録を取れない。
伝聞で他人が作るか、記憶という捏造の入りやすいフィルターを通して
後から書かれるかのどちらか。

そして出来上がった資料をこねくり回す様を指すのに、昔からいい言葉がある。
“葭の髄から天井を見る”
165人間七七四年:2009/10/07(水) 06:20:27 ID:m+J+5Ib1
まあ下記のような考え方の人もいるし、歴史に真贋を求めすぎるのは酷というものだ

嘘&捏造だらけの日本史をなぜ学習・議論してるの?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1217727345/
166人間七七四年:2009/10/07(水) 07:23:32 ID:+0A+1scn
荒らしにマジレスするなよ…
167人間七七四年:2009/10/07(水) 07:29:55 ID:GANXui2n
>>144
内藤さん「俺のほうが早いのに・・・」orz
168人間七七四年:2009/10/07(水) 08:34:42 ID:HfPoZm4B
経験上、文体の統一感やてにをは含めて文章中の日本語がおかしいヤツには極力触れない方がいい。
レスしてもまともな返事が返ってこない率高し。
169人間七七四年:2009/10/07(水) 08:50:52 ID:QnCe1bRU
マジレスするなら、資料と史料くらい区別してくれ。
170酒と泪と男と漢 1/2:2009/10/07(水) 10:25:49 ID:SWUx4Vul
井門亀右衛門は、単身敵城に忍び込み敵将の首を掻いたり、関ヶ原の戦いの際、
田辺城攻めに参加し、城方の矢弾が雨あられと降りそそぐ中、単騎殿軍を果たしたりした
剛の者だったが、関ヶ原後に主君・赤松氏は切腹となり、浪人の身となった。

次に亀右衛門が仕えたのは、なんと田辺城主だった細川幽斎の子・忠興だった。
かつての敵を細川家は温かく迎え入れ、益田蔵人という親友まで出来た。

しかし良い事は長く続かず、親友・蔵人が危篤に陥った。臨終の床で蔵人は息子と
亀右衛門を呼び、息子には
「これからは亀右衛門殿を父と思い、夢にも逆らうな。」
と言い、亀右衛門には
「日頃のよしみを忘れぬならば、こやつをおぬしの子と思って導いてくれい・・・」
と言って愛用の扇を亀右衛門に譲り、息を引き取った。

さて、蔵人の子は父の名跡を継いでそのまま益田蔵人を名乗ったが、この二代目蔵人
酒癖が悪く、昨日はあちらで宴会、今日は遊郭と、放蕩の限りを尽くしていた。
「・・・・・・」
ウィーヒック「おや!これはこれは井門どのー!」
「・・・蔵人殿、その有様では父上があの世で嘆いておられるぞ。」
「いやはや、ごもっとも!それでは、宴席の約束がありますので失礼!」ウィー

(・・・これは荒療治をせねばなるまい・・・・・・)
171酒と泪と男と漢 2/2:2009/10/07(水) 10:26:35 ID:SWUx4Vul
益田蔵人は江戸勤番を終えた帰国の途中で、異様なものを見た。
旧知の井門亀右衛門が武装した十数人の供を従え、江戸へ向かおうとしていたのだ。
「い、井門どの、その姿は何事ぞ?!」
「なんじゃ蔵人どの、知らぬのか?いよいよ大阪で戦じゃ。我らが殿も江戸にて軍を整え、
将軍家に従い出陣するとの事。わしもとりあえず人数を揃えて、江戸に向かうところよ。
おぬしも早く国許に帰り、郎党を集めて江戸に戻られい。」

それを聞いた蔵人は、顔を青くして汗を滴らせた。
「どうした、蔵人どの?おぬしの知行ならば、軍役として数十人は連れて行かねばなるまい。
こんな所でモタモタしているヒマはないぞ。早く帰られよ!」
蔵人は、ついに泣き出した。
「じ・・・実は日頃の酒色がたたり、数十人も養えるだけの蓄えがござらぬ・・・」
「何と!ならばどうする?」
「こ、この上は、潔く腹かき切って殿と父に詫びる所存。介錯をお願い致す・・・」

「良く言った。その覚悟で、以後は武道に励むべし。」
「?い、井門どの、どういう事ですか?」
「戦はウソじゃ。おぬしの帰国に合わせて、一芝居打ったのよ。」
「そんな・・・どうしてこんな酷いことを・・・」
「おぬしのご尊父に代わって折檻せんが為よ。現在は太平なれど、大阪の出方によっては
いつ東西に風雲起こるとも限らん。その時、今のごときうろたえたる様にて何とする?
おぬしの知行は酒色の為に賜わったものか?禄盗人とはおぬしが事じゃ!」
叫んだ亀右衛門は、懐から先代蔵人形見の扇を取り出し、ピシリと蔵人の頭を打った。

これが堪えた蔵人は帰国すると、蒐集した美服等を全て焼き捨て、食事に酒・魚・肉を除き
倹約に努めた。数年後、実際の大阪の陣の際には、軍役をはるかに超える人数を揃え、
家中を驚かす活躍を見せたという。
172人間七七四年:2009/10/07(水) 10:28:00 ID:SWUx4Vul
以下蛇足

亀右衛門の次男、井門重之は細川分家・宇土藩に仕え、島原の乱で手柄を立て、
家老として重きをなした。
藩主の細川綱利(のちの本家五代目)は、その武功と長年の忠勤を賞し、知行の加増を
申し出たが、重之はこれを断った。
「要り申さず。どうしても褒美を、とおっしゃるなら、益城郡に良き枝振りの松がござる。
その松を、わが屋敷の庭に植え替えて下され。老いの愉しみにいたしまする。」

一説によると千石にも及ぶ加増を断り、松を所望した重之の心意気を称え、いつしか
その松は「千石松」と呼ばれるようになった。
この話を聞いた宇土細川家出入りの菓子職人は感銘を受け、明治初年に出した菓子店で
松の焼印を押した薄焼煎餅を売り、同じく「千石松」と名づけた。

この菓子店「一心堂老舗」は今も宇土市で「千石松」を作り続け、井門家の士風を
今に伝えている。
ttp://www.i-kumamoto.net/bussan/itiran/index.php?shopItem=2
173人間七七四年:2009/10/07(水) 10:40:20 ID:D6UjE//s
( ;∀;)イイハナシダナー
いま親友の子供の世話をきちんと見られるほどの気概を持った人間っているんだろうか?
174人間七七四年:2009/10/07(水) 10:51:20 ID:APscASuI
久々に本当のいい話を読んだ。ありがとう。
175人間七七四年:2009/10/07(水) 11:04:11 ID:hjC9vi2O
ファンタジー方面から不思議な名刀のお話

讃岐京極家にはこんな狂歌が残る。

京極に過ぎたるものが三つある ニッカリ茶壺と多賀越中

多賀越中とは佐々木京極氏が近江にある頃から仕えた重臣で、
代々多賀越中某と名乗り、江戸時代は家老職を務めた。

茶壺とは京極家と関係の深かった野々村仁成作の茶壺で、
京極家所蔵だった茶壺の中には重文、国宝指定されているものもある。

最後の一つであるニッカリ青江は備中青江貞次作。現在は丸亀市立美術館所蔵。
このニッカリという名前には逸話がある。

近江蒲生郡のとある領主・中島修理大夫は、
領内に物の怪が出ると聞き退治することにした。
た。
その夜分、子を抱いた女が現れた。
女は子を下ろし、ニッカリと笑いながら「殿様に抱いてもらえ」と言うと、
その子が修理太夫に向かってきた。気味の悪さを感じた
修理太夫は、にわかに首を刎ねた。
すると女も「私も抱いて」と迫ってきたので、これも首を刎ねた。
翌朝、その場所に行くと、石塔が斬られて落ちていた。

このことで、斬った化物の顔から
ニッカリ青江と呼ばれるようになった。
また、慶長7年(1602)、完成した讃岐丸亀城において、
築城を担当した大工が些細なことで死罪となった。
その後、大工の祟りで、この地を領する大名・生駒家は
減封の上、僻地に飛ばされ、代わりに入ってきた
山崎家も断絶した。
そしてやって来た京極家は家宝「ニッカリ青江」のお陰で
祟りに遭わず、明治維新まで大名として存続した。

そんな魔除けの名刀のお話。
176人間七七四年:2009/10/07(水) 11:12:18 ID:uj6riz2x
ちょっと宇土に行ってくる。

百段で。
177人間七七四年:2009/10/07(水) 11:14:54 ID:uj6riz2x
って書いてる間に新ネタが!>>175ゴメン。
ついでに丸亀にも行ってくるわ。蜻蛉斬り持って。
178人間七七四年:2009/10/07(水) 11:27:29 ID:IS4vEVFR
関ヶ原の戦い後、広島に入った福島正則は領内の検地を行った。
ここまではどの大名でもする普通の話。
しかしこの後、福島正則の方法はほかの大名とは違っていた。
完成した検地帳をすべての村に配布したのである。
そして村役人に農家一軒一軒回らせて、検地帳を見せて検地結果をいちいち説明
させたのである。

いい話というには無理があるが、福島正則にしては不思議にまめなお話。
179人間七七四年:2009/10/07(水) 11:54:07 ID:1x3yTeAS
ほほぉ
つまり福島の先祖代々続く家ならばどこの家も検地帳を持っているのか
180人間七七四年:2009/10/07(水) 12:06:41 ID:0+UO0R3q
いい話というか、良心的な話だな
役所仕事にしては透明度があって公平な感じ
181人間七七四年:2009/10/07(水) 12:17:40 ID:8Xcbk46o
>>179
こういう話見ると市松が家臣は有能揃いだったんだな
織田秀信の旧臣もいたみたいだし
182人間七七四年:2009/10/07(水) 12:25:24 ID:1x3yTeAS
なんで福島って書いたんだ広島だろjk
毎年最低納める年貢を認識させる役目もありそうだ
183人間七七四年:2009/10/07(水) 12:31:11 ID:frGcc0Q7
後任者はやりづらいだろうな
それを見越してやったとしたら正則は策士
184人間七七四年:2009/10/07(水) 12:49:09 ID:6y4S17wS
ただ、検地帳がすべての村に送られること自体は普通。
当時の村は基本的には自治で運営されているので、村役の所に検地長が来ないと、税の収集が
出来ないから。
それでも、一軒一軒に確認させるのは先進的。

幕府の場合、徳川家光のときに完成した年貢確認方法は、毎年秋に、庄屋から小百姓まで
全員立会いの下、検地から割り出された一人あたりの年貢高である「免割」を、小百姓まで含めて
一人ひとりに確認させ、それぞれ判を押して「免割帳」を作った。

さらに実際の年貢納入のときにも「庭帳」という帳簿を作って、納入者の名と納入領を書き加え、
これにも判を押させた。

最後に年貢の納入後、代官、庄屋、百姓全員の立会いの下、この庭帳と先の免割帳を比較確認して、
問題無しとされると、庭帳の綴目ごとに手代によって「押切の判(割印)」が押された。

このほか、庄屋などの村役が必要経費として使える金額なども、法律で細かく規定されていた。
この時代、納税内容を透明化して、不公平感が出ないようにするのに、これだけのチェックを
させてたわけですな。
185人間七七四年:2009/10/07(水) 13:22:32 ID:sLXf9D1X
>>183
その後任者は浅野長晟と水野勝成
186人間七七四年:2009/10/07(水) 13:54:21 ID:krlH7wVo
女傑の話
慶ァ尼(龍造寺隆信の母)1509〜1600
龍造寺16代当主胤和の長女として生まれ、分家の周家に嫁ぎ隆信を生む。

隆信18才の時、本家一族が謀略により殺害され、隆信が当主となる。
未亡人となった彼女は尼となり慶ァ尼(けいぎんに)と名乗った。
分家出身の分際で当主となった隆信をこころよくなく思う家臣は多く、
彼女はひたすら隆信を補佐した。

隆信に優秀な補佐を付けたいと考えた彼女は、鍋島直茂(17才)に目を付けた。
そして1556年に計画を行動に移す。
直茂の父清房(男やもめ)に新しい妻を紹介するから娶れとせまった。
しぶる清房を説き伏せ日取りまで決めてしまった。

さて輿入れ当日、期待に心ときめかせる清房の屋敷に輿が到着した。
なんと!中から出てきたのは慶ァ尼本人だったのだ。
清房は必死で辞退するが、強引にそのまま夫人に収まってしまった。
主家の未亡人と年下の家臣という常識破りの夫婦の誕生である。

直茂と隆信は兄弟ということになり、当然家中での発言力も重きを増す。
彼女の思惑は成功し、直茂はその後龍造寺を支えて行く。

隆信が沖田畷で戦死した後、
直茂を当主に指名し、家督を鍋島家に譲るという裁断を下したのも彼女である。
187人間七七四年:2009/10/07(水) 13:59:42 ID:b5Y4HNuk
>>178
情報公開度は先進的だなあ
無視されるだろうけど
188人間七七四年:2009/10/07(水) 14:11:58 ID:D6UjE//s
押しかけ女房の奔りだなw
189人間七七四年:2009/10/07(水) 14:42:40 ID:IS4vEVFR
平安時代のお話なのでスレ違いだが良いお話なので

神戸の話

平清盛という人がおりました。海外と貿易したいと思ったのですが近くに湊がありません。
そこで琵琶湖に目を付けました。琵琶湖から若狭湾に繋がる巨大運河の建設に取り掛かったのです。
ところが反対派が「琵琶湖の水が海に流れ出しなくなってしまう」と言い出して近江の住民たちは運河を
掘るのを嫌がりました。掘っている最中に岩の中から血が流れ出し、掘り出すと中から仏像が
出てきました。それは麓の村の護り仏でした。「仏様が琵琶湖を守ろうとしている」と住民たちは言い出し
ボイコットしたので、清盛は運河建設を諦めなければならなくなりました。

そこで目を付けたのが兵庫でした。都を遷都し、新しい湊を造ろうとしたのです。
ところが西は和田岬で遮られていて良かったのですが、東側は何もなく風の強い日などは
湊として運用するのが困難でした。そこで人口の島を造る計画ができたのですが、潮流が速く
いくら土を入れても流されてしまい、工事は失敗しました。そこで人柱を立てることになりました。
しかし清盛は猛反対。「人を殺すなんて可哀相だ」というわけです。そこで平家一門総出で
大量の石にお経を刻みそれを人口の島建設地に人柱代りに投げ込みました。
すると不思議なことにそれ以降は土が流されることなく島は完成し、現在の神戸港の礎となった
のです。その島は仏の御加護でできたので、経ヶ島と呼ばれるようになりました。
190人間七七四年:2009/10/07(水) 15:21:46 ID:j0tT7rZR
>>140
野暮だが家康は天台宗でなく浄土宗だよ。
191人間七七四年:2009/10/07(水) 15:55:15 ID:WsMb+MDX
>>189
スレどころか板が違うよ
192人間七七四年:2009/10/07(水) 16:42:10 ID:D6UjE//s
さすがに源平時代オンリーはちょっと…
193人間七七四年:2009/10/07(水) 16:44:20 ID:ZHaOcH59
TVCMになった藤堂高虎

愛媛第二の都市、何気に難読な今治(イマバリ)を知ってますか?(余談だけどあと愛媛の難読地名といえば越智とか松前とか)ここの名付けの親は藤堂高虎、関ヶ原の後加増された高虎さん、新しい城を今張浦という場所に築城しました。
そして、こう宣言したんです。
「今よりこの地を治める!!」
そして今張から今治に名を改めたそうです。

因みにこのエピソードは20年位昔に地元銘菓の宣伝で語られていました、おかげで当時の愛媛では高虎さんジミー加藤(嘉明、松山藩主)さんより知名度高そうです。
194人間七七四年:2009/10/07(水) 18:33:13 ID:WsTUlqBE
「主君の仇を二度討った男」

徳川家康の祖父にして、名将の評価も高かった松平清康。
その彼があっけなく暗殺された。
犯人である阿部弥七郎は、その場で植村新六郎氏明によって斬殺された。

やがて家康の父である松平広忠が今川家の後援を受けて再興するのだが、
今度はその広忠が暗殺された。
そして犯人の岩松八弥を斬ったのはまたしても植村新六郎氏明であった。
主君殺害現場にたまたま二度も居合わせ、二度とも刺客を斬った男。
195人間七七四年:2009/10/07(水) 18:36:57 ID:WsTUlqBE
上記補足

これが「事実」なら世界史にも存在しない記録だと思う。

もちろん、何らかの作為による捏造かもしれんが・・・
この頃の松平家には色々謎が多い。
196人間七七四年:2009/10/07(水) 18:57:39 ID:WgpBfE/W
植村家は錚々たる面子と縁組してるのに子孫はパッとしないねえ
ググって見たら信康切腹の時に一度浪人になってるからそれのせいなのかな
197人間七七四年:2009/10/07(水) 19:18:38 ID:ly/djnaM
>>194
実はその人が暗殺の黒幕だったりして…というのはさすがに毒されすぎか。
198人間七七四年:2009/10/07(水) 19:23:03 ID:QwAh1RHC
いい話

武田勝頼は滅亡前に、人質を殺している。
織田信長に屈せず戦国のルールを守るという心意気であろう。
武田勝頼はその後死んだ
199人間七七四年:2009/10/07(水) 19:31:38 ID:anGYReYS
いい話

俺の口内炎がなおった
200人間七七四年:2009/10/07(水) 19:36:08 ID:YSJ/4wIe
>>199
虫歯で歯医者に通っている俺には悪い話だな


歯に関係する逸話ってあったっけ?
201人間七七四年:2009/10/07(水) 19:48:41 ID:anGYReYS
>>200
詳しくは知らないけど
信長は癇癪持ちだったのは虫歯でイライラしてたからって聞いた事がある
史実かどうかは知らない
202人間七七四年:2009/10/07(水) 19:49:14 ID:Q1HtL1M/
>>200
虫歯の神様になった宇喜多かどこかの女性の話が有ったように思う

当時って歯ブラシとかあったのかな?
203人間七七四年:2009/10/07(水) 20:02:12 ID:sUgRFJvn
>>202
この話だな。水野勝成の嫁、お柵の方
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2817.html

あとは歯痛に悩まされた藤堂家の子孫が歯医者やってるなんて話もあったw
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2655.html
204人間七七四年:2009/10/07(水) 20:28:54 ID:CqWJNkv2
>>194
水さすようですまんが、
本人にしてみりゃ二度も目前での主君暗殺を
防げなかったわけで良い気はしないだろうねえ。
205人間七七四年:2009/10/07(水) 20:56:38 ID:sLXf9D1X
>>200
本当かどうかは知らないけど

秀吉の晩年の頃
秀吉自身の歯が年を取って抜けた際
その歯を家臣にあげてたそうな

で、その貰った家臣は
その歯を家宝として大事に扱ったらしい
中には現代にまで残ってる物もあるそうで
206人間七七四年:2009/10/07(水) 21:08:49 ID:KHW4dGW8
仏舎利とか、鬼の腕のようだなw
207人間七七四年:2009/10/07(水) 21:21:01 ID:sLXf9D1X
調べたら貰ったのは加藤嘉明さんかw
ttp://kyouno.com/turezure/20060303_sanjusangendou.htm
208人間七七四年:2009/10/07(水) 21:23:46 ID:VMQFfQxe
>>145
遅レスだが、書記長でなく首相でしょ。
気持ちは判るけどw
209人間七七四年:2009/10/07(水) 21:26:06 ID:40CrtiVF
川でも戦った海賊

織田信長の軍を二度にもわたって撃退し、信長の弟、彦七郎信興、
あまたの重臣らを屠った伊勢長島の一向一揆門徒の戦意は盛んであった。

というのも木曽川をはじめとして三本の河川を生かした自然の要害の地にあり、
浅瀬を渡ろうとする織田軍の兵士らは、地の利を知り尽くし半裸で機敏に活動する
宗徒の兵によって、鎧を着たまま泥の中に引きずり込まれ、
もがくうちに次々と討ち取られていった、いわばゲリラ戦だったからである。

天正2年7月、朝倉、浅井を滅ぼし、意を強くした信長の大軍7万は、この地に襲いかかった。
次々に小城、砦は力攻めで陥落させていった。
しかし主城である長島は容易には落とせず、止む無く包囲しての兵糧攻め、
長期戦の様相を呈してきた。

焦燥を露わにする信長であったが、志摩を領する水軍の将、九鬼嘉隆が案を奏した。
果たして効あるや否や疑心暗鬼ながら九鬼の水軍に信長は先陣の任を与えた。

九鬼嘉隆率いる水軍、小舟を先頭に、関船、安宅船を連ね広くもない川を慎重に遡上し始めた。
浅い泥の河である。座礁を期待して見守る一向宗徒をしり目に、長島城の城壁のすぐ傍までに
船団は達した。そこで安宅船は、ついには浅瀬に乗り上げてしまった。
一向宗徒らが盛んに鉄砲、矢を射かける中、座礁した安宅船を砦とし、次々に織田軍の兵士らは
長島城内に攻め込んでいった。
また安宅船の船上から、九鬼嘉隆自慢の長鉄砲の一斉掃射により、城の城壁は
次々に砕かれ破壊されていった。
ここが正念場と一斉に小舟に分乗した織田の大軍、城内にどっと攻め込み、
次々と一揆軍を討ち取っていった。
こうして精強を誇った伊勢長島の一向一揆は、信長の前に屈したが、この和睦、
すんなりとはいかず、信長の兄弟二人が殺される散々な始末となった。
情け深き信長公であったから、二万人の一向宗徒らを、遂には焼き殺し冥土に
送って差し上げたのであった。

この川戦を予測した九鬼嘉隆、随分と前から志摩の狭く入り組んだ海において、
自らの水軍に艦隊編成、帆の操作、舵操船、漕ぎ手の気合、船上からの射撃、
等の特訓をしてあらかじめ鍛え上げていたのである。


210人間七七四年:2009/10/07(水) 21:52:41 ID:6y4S17wS
> 座礁した安宅船を砦とし、次々に織田軍の兵士らは
> 長島城内に攻め込んでいった。

海兵隊みたいな発想だな
211人間七七四年:2009/10/07(水) 21:53:21 ID:bzIM0QGD
>>209
重箱の隅だが、一向宗なら行き先は冥土ではなく極楽浄土だな。
(浄土真宗=一向宗には死後の世界として冥土という概念はなくあるのは極楽浄土のみ)
212人間七七四年:2009/10/07(水) 22:00:57 ID:GfrLSrBo
一応逸話と関係あると思うので

落語 「 太閤と曽呂利」 笑福亭鶴光
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7707201
ニコニコのアカウントの無い方はこちらで↓
http://www.nicozon.net/watch/sm7707201

秀吉関係で出た逸話がかなりちりばめられてて面白いです。良かったらどうぞ。
213人間七七四年:2009/10/07(水) 22:16:27 ID:bM27IXo7
三浦按針ことウィリアム・アダムズは徳川家康に仕えたのだが
祖国イギリスを想わない日はなかった。
しかしアダムズが
「妻や娘に会いたいのです。どうか帰国をお許し下さい」
と頼んでも家康はムッとして願いを退けた。
彼は家康に気に入られて命を救われたが、気に入られすぎて
帰れなくなったのである。
それでもめげずにアダムズが帰国を願うからだろうか。
家康はこれまでの働きを賞してアダムズにたいへんな贈り物をした。
三浦半島に広い領地を与えた上に将軍の直臣、旗本にしたのだ。
これが上手くいったのかアダムズは着物を着たり、お雪という女性と結婚
もしたが祖国に戻りたい気持ちは変わらなかった。

その後、家康がイギリス人のセーリスにジェームズ1世宛ての返書を
渡したとき、家康が上機嫌なのを見たアダムズは再び帰国の許可を求めた。
アダムズは日本のならわしに従って朱印状を家康の前に置いて
これまでの恩を感謝した。
家康は黙っていたが、やがて口を開いた。
「お前、そんなに帰りたいのか」
「もう15年も戻っていません。ぜひ家族や友人に会いたいのです」
「…わかった。今、お前を止めたらこれまでの働きを無下にしてしまうからな」
なんと何年も願いを拒否してきた家康があっさりと帰国を許したのである。
アダムズはこの思いがけない幸運を神に感謝したという。

ここまではいい話なのだが、一緒に帰るセーリスと折り合いが悪いことや、
蓄えがないためにアダムズは帰国を断念することになる。
214人間七七四年:2009/10/07(水) 23:44:27 ID:40CrtiVF
アダムズは誠実な人物だったらしく、寵臣として家康から随分と可愛がられたみたい。
三浦半島の逸見に領地、wikiには250石とあるが、生活ぶりからは実際にはもっと
多かったような印象もってしまう、どうなんでしょう?
215人間七七四年:2009/10/08(木) 00:00:24 ID:XnQl3HZe
>>213

        __
       ヽ|・∀・|/ ズコー!!
      \[\ ]ノ
    、ハ,,、
216人間七七四年:2009/10/08(木) 00:17:40 ID:uWJKYZLJ
アッーでウホッでバキューンな関係だったのかな?
217人間七七四年:2009/10/08(木) 00:54:32 ID:ugJgTTLK
伝説『塙石』

筑前国の直方と飯塚の間にある赤地村は小さな村であったが、長崎街道が
通る要所でもあった。

ところが赤地村を通る街道のど真ん中に大きな石が横たわっていて、村人
たちの悩みの種となっていた。

村人たちは石を何とかしようとは思っていたものの、石はびくともせず
何も出来なかった。
そんなある日、村を通りかかったある武士がこの話を聞いて「それならば
拙者がなんとかしてみせよう」と石の前まで来ると、なんと1人でその石を
抱えあげたのである。

そして彼は抱えあげた石をそのまま道端にある地蔵堂の境内まで運び、
そこへ下ろした。

村人たちは礼を言い、名前を聞こうとしたが彼は「名乗るほどの者ではない」
とそのまま立ち去った。

後にこの武士の正体が豪傑・塙団右衛門その人であったことをたまたま知った
村人たちはこの石を『塙石』と呼ぶようになった、との事である。
218人間七七四年:2009/10/08(木) 00:58:36 ID:PWh5S07b
伊勢つながりで

義将の末裔

永禄11年信長の北伊勢侵攻の際,北伊勢の諸豪族は激しく抵抗した
その中でも一際激しく抵抗したのが伊勢国治田城主,楠木正具...
あの楠木正成公の子孫である

彼は手勢わずか500ながら正成ばりのゲリラ作戦や夜襲,ヤケクソ戦法で
織田軍を翻弄,苦戦させる
特に前年,永禄10年の信長軍の侵攻の際には偽りの降伏作戦を用いて時間稼ぎを
している間に本国,美濃の不穏の動きや武田家の織田領侵攻という偽報を流し
主力部隊の撤退に成功させている

しかし結局は衆寡敵せず織田軍の包囲作戦に落城寸前、絶体絶命
この時,またしても正具は一計を案じた
正具は足立新五郎という忍びを長島願証寺に遣わせ,かねてから親交のある
服部左京亮に援軍を要請。門徒兵を織田軍に忍び込ませ敵陣をかく乱し
甚大な被害を与え,とうとう治田城を落とせなかった

結局,彼は主家である北畠降伏後も石山本願寺に指導者的立場で入城し
天正4年石山合戦のさなかに織田軍の流れ弾にあたり絶命した,享年61歳であった





219人間七七四年:2009/10/08(木) 01:21:47 ID:+poULN9O
楠木って戦国時代まで北畠と一緒にいたのか?
220人間七七四年:2009/10/08(木) 01:29:20 ID:PWh5S07b
たしか楠木正成の姉か妹が伊賀の上嶋っていう豪族に嫁いだっていう
記録があるから,その辺の繋がりはあったと思う
北畠も楠木も同じ南朝側だし
221人間七七四年:2009/10/08(木) 01:35:41 ID:qrC1Ob32
それに比べて楠長譜ときたら
222人間七七四年:2009/10/08(木) 02:53:06 ID:LJyLjb3c
この楠木さんは 楠木正儀の子孫?

223人間七七四年:2009/10/08(木) 06:06:35 ID:dh2o8j7h
>>219
南北朝が一つになったあとも楠木氏は各地に潜んで抵抗を続けていたらしい。
そのうちの一派が応永の乱の際に大内方として堺に籠城
落城時に北畠氏に匿われ、そのまま伊勢に土着した。

この家系からは村正の弟子として刀匠になった人物や
禁闕の変の実行者になった人物が出ている。
224人間七七四年:2009/10/08(木) 06:16:16 ID:PWh5S07b
たしか正義の子孫の楠木正盛という人が応仁の乱で京から落ち延びて
来た所を北畠に匿われて,正盛の三男の正威が楠山城を建てたのが
伊勢楠木氏の始まりとされます

ちなみに正盛の長男の正重は,なぜか家を継がず(継げず?)伊勢で
代々続く刀匠の家となって後の時代の剣豪国司,北畠具教の刀も
正重が作ったと云われています
225人間七七四年:2009/10/08(木) 06:22:55 ID:PWh5S07b
たしか正義の子孫の楠木正盛という人が応仁の乱で京から落ち延びて
来た所を北畠に匿われて,正盛の三男の正威が楠山城を築城したのが
伊勢楠木氏の始まりです

ちなみに正盛の長男の正重はなぜか家を継がず(継げず?)伊勢で
代々続く刀匠の家になり後の世の剣豪国司北畠具教の刀も
彼の子孫が作った話が残っています
226人間七七四年:2009/10/08(木) 06:51:05 ID:eFb38AQJ
193
そうそう、書くの忘れてたけど越智、松前はそれぞれ『オチ』『マサキ』と読む、おかげで某松前藩を『マサキハン』て読んだ事が。
オチはまとめのコメにもあったけど人名として有名かな?実は愛媛で一番多い名字らしい。
河野氏とかと同じ一族だそうな。
スレ違いスマソ。
227人間七七四年:2009/10/08(木) 07:48:13 ID:KiHehKf4
マサキはともかく、オチは難読か?
228人間七七四年:2009/10/08(木) 08:40:06 ID:2I50u3RW
>>222
楠木正成の三男・正儀の子供である正勝が正具の祖先。

>>224-225
>>218の正具はその話の正盛の直系じゃないよ。
そっちの子孫は由比小雪。

by Wikipedia
229人間七七四年:2009/10/08(木) 09:00:20 ID:+poULN9O
>>227
有名な野球選手がいるから世間一般ではポピュラーな名前だと思う
230人間七七四年:2009/10/08(木) 09:58:03 ID:eFb38AQJ
≫227
越智は近年≫229のプロ野球選手のおかげで有名になったけど一昔前だと県外の人からはよく『エチ』と誤読されていた。
231人間七七四年:2009/10/08(木) 10:20:23 ID:oR79nEqS
今治は甲子園のおかげで知名度上がったんじゃないか?
232人間七七四年:2009/10/08(木) 10:28:00 ID:Cx5ko/gt
>>226
越智娘っていう天智天皇の嫁さん、持統天皇のおかんがいたね
天皇家に嫁ぐ嫁候補の育児を任される名族だったってことかな越智氏
233人間七七四年:2009/10/08(木) 10:40:20 ID:Hddq60px
アニオタ的には越智一裕氏の名前で覚えてた
もっとも本人は岐阜の生まれだそうだけど
234人間七七四年:2009/10/08(木) 11:06:55 ID:eFb38AQJ
>>231
今治西高校ですな、例の巨○の越智もここの出身じゃなかったかな?
235人間七七四年:2009/10/08(木) 11:19:51 ID:kkCZsEeV
>>232
つ 蘇我遠智娘

越智氏自体は古い氏族だが物部氏亜流説があるところをみると
物部氏と対立していた蘇我氏の姫・遠智娘とのつながりは考えられないのではないかな

板違い失礼
236人間七七四年:2009/10/08(木) 12:03:57 ID:gOqdTnYz
今治も越智も難読どころか普通の日本人なら一般常識レベル
237人間七七四年:2009/10/08(木) 12:59:48 ID:xjBxl5vh
昔の難読名見てるとDQNネームも由緒があるように思えてくる
238人間七七四年:2009/10/08(木) 13:34:32 ID:eFb38AQJ
>>236
難読は語弊があるかも、一般的でない読みをする名前位のつもりだったんだよ。
有名になったけど予備知識ないと今治も『イマハリ』とかやる。
239人間七七四年:2009/10/08(木) 13:37:52 ID:tfzMqEzc
今治は甲子園ファンには強豪の今治西高校で有名
240人間七七四年:2009/10/08(木) 13:42:19 ID:3CjGQWht
飯富虎昌「素人にオレのフルネームが読めるかな?」
戸次鑑連「いやいやワシの方が」
杉原親憲「理由が理由なオレはどうすれば…」
241人間七七四年:2009/10/08(木) 13:55:14 ID:9SsuCGzV
鮭様の「常に先を征く」ちょっといい話?

高湯温泉にて
義守「なんじゃ?賊か?」
義光「ちょっと倒してくる」
義守「ちょ、ちょっとって、あっー!」
結果:山賊の首魁の首を討ち、山賊退治に成功。

上山(かみのやま)攻め
満茂「上山満兼が伊達と誼を通じている模様です」
義光「よしわかった」
満茂「わかったって殿!?!?」
結果:上山家臣、里見民部の抱き込みに成功

横手小野寺氏攻め
肥前「小野寺氏が我が領内に攻め込んで来ました…」
義光「わかったわかった」
肥前「わ、わかったって殿!?!?」
結果:小野寺氏の重臣、鮭延秀綱の抱き込みに成功

庄内攻め
秀綱「大宝寺が戦の準備を行っている模様です。」
義光「わかった、ちょっと行って来る」
秀綱「ちょ、ちょっとって殿!?!?」
結果:大宝寺家臣前森筑前の抱き込みに成功

白鳥征伐
定直「白鳥長久が従いません…」
義光「わかった、ちょっと横になろう」
定直「ね、寝るって殿!?!?」
結果:白鳥十郎長久の暗殺に成功

天童氏攻め
守棟「天童が従いません…」
義光「わかった、ちょっと行って来る」
守棟「ちょ、ちょっとって殿!?!?」
結果:天童氏の重臣、延沢満延の抱き込みに成功

八つ沼城攻め
光安「殿、敵は大したことなさそうですな」
義光「うん、ちょっと行って来る」
光安「と、殿、うしろ、うしろー!!」
結果:先頭で暴走し、敵の首を獲ってきたものの家臣たちに諌められショボーンとする

(中略)

直江追激戦
喜吽「殿、天運は味方にありです!」
義光「わかった、ちょっと行って来る」
喜吽「ま、待って( ;´Д`)ぇぇぇぇぇー!ー!!」
結果:義光自身兜に被弾し、義光を庇おうとした堀喜吽戦死。

義光(´・ω・`)ショボーン「だって、三つ子の魂、百までって言うじゃない…?」
242人間七七四年:2009/10/08(木) 13:56:39 ID:eFb38AQJ
浅井長政の『アザイ』なんかも難読というより罠みたいな読み方だと思う。
そういえば密かに変んな読ませ方の伊達さんの読みにもなんか由来がなかったっけ?
243人間七七四年:2009/10/08(木) 14:00:41 ID:xjBxl5vh
いだて
244人間七七四年:2009/10/08(木) 14:02:55 ID:eFb38AQJ
このスレ読むまで鮭様、こんな人だとは思わんかった、以前はもっと裏で策だけ巡らしてるような感じ?
そういや知将のイメージ強い小早川隆景なんかも戦場でハッスルしちゃうみたいな話があったよね。
245人間七七四年:2009/10/08(木) 14:04:01 ID:VweJCeqZ
「よしあき」も5〜6回見てようやく覚えたな
字と読みがぜんぜん合わないから覚えにくい
246人間七七四年:2009/10/08(木) 14:08:53 ID:eFb38AQJ
>>245
うん、『よしみつ』と読んでしまう、確か、手紙とかで読み方が判明したんだよね鮭様は、もしかしたら読み方不明の人の中には鮭様みたいな意外な読ませ方していた人いるかもね。
247人間七七四年:2009/10/08(木) 14:17:40 ID:vdz6C941
>>246
明石全登「わかるー、絶対いるよねー」
248人間七七四年:2009/10/08(木) 14:20:46 ID:9SsuCGzV
>>247
「明石全澄」→「シ」が略されて
手紙などから「てる澄」→「てるずみ」と判明した様な気がする。
249人間七七四年:2009/10/08(木) 14:31:41 ID:ILl4EmPY
当時は諱で呼ぶことなんかなかっただろうし、
読み方わからなくても困ることは無かっただろうね。

一度も諱で呼ばれることも無く一生を終える人もいたんだろうか。

250人間七七四年:2009/10/08(木) 14:41:27 ID:As6sW2A5
正月には神社かお寺で呼ばれたんでね。
251人間七七四年:2009/10/08(木) 15:18:38 ID:eFb38AQJ
>>240
知らない人に読ませた場合の予想、飯富虎昌『いぶとらまさ』戸次鑑連『とつぎがんれん』杉原親憲『すぎはらちかのり』
こんな感じ?ベッキーよく考えたら諱も読み辛いね。
252人間七七四年:2009/10/08(木) 15:22:40 ID:H2BUuOcM
飯富をイブとか戸次をトツギと読むのも逆に難しいと思うぞ
なんやかんやで日本語って音がいいし、言いづらい音をわざわざ発音はしないだろう
253人間七七四年:2009/10/08(木) 15:25:39 ID:wNQwfd1a
全を「てる」と読むなんておかしいんだお!
「てる」はひかり輝くのが一番だお!
254人間七七四年:2009/10/08(木) 15:33:47 ID:PcxlyLUc
義光の話マジいらねぇ
死ねやカス
255人間七七四年:2009/10/08(木) 15:43:49 ID:xjBxl5vh
さいじょうよしみつさんの話だろ
鮭様じゃなくて鱒様だし
256人間七七四年:2009/10/08(木) 15:46:23 ID:VfDHuGdF
鮒鱠鯰・・・

鱒が読めない。
257人間七七四年:2009/10/08(木) 15:46:31 ID:eFb38AQJ
>>252
確かにそうかも、俺もやっぱり染まってるなー。
まあ、杉原『すいばら』はいろいろしょうがないとして。
有る意味一番読めんし。
258人間七七四年:2009/10/08(木) 15:51:59 ID:lcR9hSz9
>>249
百数十年前の西郷隆盛ですら諱の問題が起こったくらいだからね。
いわんや戦国をや。
259人間七七四年:2009/10/08(木) 16:09:08 ID:jodHvD3x
鮭様の人気に>>254がファビョった模様です。
260人間七七四年:2009/10/08(木) 16:09:48 ID:WxcbL9XT
>>256
魚名だけに釣り?
一応答えると、「マス」
261人間七七四年:2009/10/08(木) 16:11:28 ID:VfDHuGdF
>>260
ありがとう、自分で調べもせずに「なます?」と思って
変換してみたら鱠と出てもう迷宮入りしておりました
惜しかった・・・
262人間七七四年:2009/10/08(木) 16:20:15 ID:Yfs1skOt
またキチガイがでてきたw
いいぞ、こいつが発狂して死ぬまで鮭様の話を頼むw
263人間七七四年:2009/10/08(木) 16:30:57 ID:b826M1/c
おれの家の初代は謙信の家臣で家に謙信の直筆「花押」があるのだが、どうしよう。
他にも、上杉顕定やら武田勝頼やら、よくわからない書状が10点ぐらいあるんだけど、どうしよう。
親父は寝たきりでお袋は好きにしろとか、無責任なこと言ってる。

ちなみに武田勝頼の書状は重要文化財クラスらしい。
勝頼に関しては、ここで詳しいこと書くとやばいから書かないけど。

やっぱり博物館へ寄贈した方がいいのか?でも、じいちゃんが外に持ち出したら、だめじゃって、死ぬとき
言ってたし。
博物館へ預けるってことできるのか?そのとき金払うのか?

申し訳ないが、おまいらの意見聞かせてくれないか?
m(_ _)m



264人間七七四年:2009/10/08(木) 16:32:20 ID:jodHvD3x
鮭様のなんとなく良い話。

慶長年間、長谷堂の戦いの功績で念願の鮭の獲れる庄内を手に入れた鮭様。
志村や下、本庄の整備する酒田の町割りで風の強い日に大火事が起こった。

( ´・ω・)「光安、被災者の人には長屋を設けて、食事や仕事も斡旋してね。」

他に出来る事が無いかと無いかと城下で立て札を設けたところ、山形城下の職人や商人が盆栽や植木の市を開き、義援金を酒田の為にと鮭様に献上した。

これが現在日本三大植木市と呼ばれる「山形薬師植木市」の始まりである。
265人間七七四年:2009/10/08(木) 16:35:21 ID:VfDHuGdF
>>263
武田とか有名だから資料館的なもんあるでしょ
門外不出を貫かなくてもいいと思ってるなら、そういう資料館とか歴史博物館みたいなところへ
相談してみるといいと思う。
寄贈なら、謹呈する側はお金払うことってないと思うんだが一度問い合わせた方がいいよ
266人間七七四年:2009/10/08(木) 16:36:09 ID:jodHvD3x
>>263
マジレスすると、写真でも撮って博物館の学芸員にでも見てもらえ。
話はそれからだ。
267265:2009/10/08(木) 16:36:20 ID:VfDHuGdF
間違った、武田じゃなくて上杉ですな。すみません。
でも上杉でも同様で資料館とかあると思うんで調べてみれ
268人間七七四年:2009/10/08(木) 16:39:33 ID:wNQwfd1a
・・・輝元のことだったんだけど・・・
だお!って言ってるんだから察して・・・
輝元乙とかレスついたら
名前も言ってないのにバレたんだお!
このスレには元就じいちゃん並の策士がいるんだお!
とか書き込んでみたかっただけなんです
正直すまなかった
269人間七七四年:2009/10/08(木) 16:41:57 ID:b826M1/c
>>266
その通り、写真撮って、学芸員から回答があった。
歴史的に大変重要な資料で「勝頼文書」は本物の可能性が極めて高くて、
写しもないらしい、新出かもって。
そこに相談する前にみんなの意見を聞いてみたいんだが。
270人間七七四年:2009/10/08(木) 16:43:28 ID:rfJsvsgb
お前ら釣られ過ぎw
271人間七七四年:2009/10/08(木) 16:43:56 ID:As6sW2A5
博物館に預けるって手もある
272人間七七四年:2009/10/08(木) 16:46:23 ID:jodHvD3x
最上義光の良い話。

長谷堂決戦が終了し、直江掃討戦も終わった時にとある戦死者の家族が
志村光安に訴え出た。

(´;ω;`)「大風某の隊の者ですが、戦で亡くなったとは聞いたのですが、首や衣類を獲られた為か死体で判断が出来ません。なにかせめて遺品の様なものでも見つけられませんか?」

光安「どうです?殿?何か手がありますか?」
義光「…とりあえずやってみるか…」

長谷堂集落や須川に高札を立て、名主に指示を出し
後日本人が来ていたと思われる、家族の見覚えのある血染めの小袖が遺族の元に届けられた。

不可能を可能にした鮭様の良い話。
273人間七七四年:2009/10/08(木) 16:47:35 ID:xjBxl5vh
>>269
お祖父さんは持ち出し厳禁とのことだけど何か理由はあるの?
最近は書状を公表して新たな事がわかるって事例が多いよね。
乗るしかない、このビッグウェーブに!
274人間七七四年:2009/10/08(木) 16:50:43 ID:b826M1/c
>>273
いや、特に持ち出し厳禁とは言っていないが、門外不出って言ってた。
要は「売るな!」ってことだと解釈してる。
275人間七七四年:2009/10/08(木) 16:51:51 ID:/fWORYXJ
>>269











           国 に 売 れ
276人間七七四年:2009/10/08(木) 16:51:57 ID:9UQQGlNW
おお義光フィーバーだな!
277人間七七四年:2009/10/08(木) 16:52:05 ID:aCbprb0v
マジレス
満足な保存を自前でできるしあんまり内容にも興味ない→お前んちで置いとけば?
内容や価値に興味がある→黙って研究者に見せろよ
売りたい→マジで勝頼なら余裕で七桁いくし、売れば?
278人間七七四年:2009/10/08(木) 16:52:38 ID:b826M1/c
>>275
そんなことできるんか????
279人間七七四年:2009/10/08(木) 16:52:46 ID:/fWORYXJ
>>274
武田勝頼は、歴史人物で山梨県民の英雄だから寄贈するのが筋だろ。
釣りだと思うが、釣りじゃなかったら寄贈しろボケ
280人間七七四年:2009/10/08(木) 16:53:45 ID:/fWORYXJ
>>278
写真アップしないと信じない
281人間七七四年:2009/10/08(木) 16:53:59 ID:9UQQGlNW
詳しくは分からんが、まず貸し出して内容を調べてもらうのは?
内容分かってから、その書状をどうするかを考えたらいいじゃない
282人間七七四年:2009/10/08(木) 16:54:26 ID:VfDHuGdF
>>277のが一番正解っぽいかな
周りの人に話して、了解得られたら自分が望むようにすればいーじゃん
釣りじゃないなら。
283人間七七四年:2009/10/08(木) 16:56:40 ID:b826M1/c
>>279
おれはもともと米沢の出だから、申し訳ないが、山梨に寄贈するつもりはない。
勝頼から山崎(ry
284人間七七四年:2009/10/08(木) 16:58:37 ID:/fWORYXJ
>>283
米沢も何も、勝頼は山梨県で称えられているんだよ。
銅像まである謙信の書状を新潟に返すようなものだ。
285人間七七四年:2009/10/08(木) 16:58:40 ID:jodHvD3x
>>283
明日の山形新聞の一面だな。

「勝頼文書、旧家で発見!」
286人間七七四年:2009/10/08(木) 16:59:03 ID:aCbprb0v
なにげに勝頼の書状って国宝や重文がゴロゴロあんだよな
信玄ほどじゃないが
287人間七七四年:2009/10/08(木) 16:59:21 ID:/fWORYXJ
釣りだろうが、俺は書状よりも内容が知りたいからここに書いてる内容アップしてくれ。
じゃなきゃ釣り認定だ
288人間七七四年:2009/10/08(木) 17:00:23 ID:b826M1/c
当然、家に置いときたい気持ちはあるが、保存・管理をし続けることへの責任もない。
でも、売るのはご先祖様に申し訳ない。
やっぱり預けることができれば一番いいのかなあ。
写真うpしてもいいけど、どうやってやるの?
時間限定ならいいと思う。
289人間七七四年:2009/10/08(木) 17:01:26 ID:/fWORYXJ
>>288
デジカメ使って全部うpしてくれ。
あとはデジタルデーター化すれば、書状は保存できる。
290人間七七四年:2009/10/08(木) 17:01:48 ID:aCbprb0v
>>288
花押と印は必ず写してくれよ
特徴あるから
291人間七七四年:2009/10/08(木) 17:02:30 ID:b826M1/c
>>288
間違えた、「責任」じゃなくて、「自信」w
292人間七七四年:2009/10/08(木) 17:04:48 ID:aCbprb0v
つかこの話題はいい加減スレ違いだし
武田勝頼には専用スレもあるから、そっち行ったらどうだ?
293人間七七四年:2009/10/08(木) 17:05:18 ID:/fWORYXJ
写真うpじゃなきゃ釣りだ。
294人間七七四年:2009/10/08(木) 17:08:31 ID:/fWORYXJ
うp
295人間七七四年:2009/10/08(木) 17:15:18 ID:JeZsmM86
>>251
いいとみさん、いいどみさんなら知ってる。

ベッキーさんは最初、地名から「へつぎ」だとおもってた
296人間七七四年:2009/10/08(木) 17:15:53 ID:b826M1/c
>>292
これはスマンかった。
みんなの意見聞いたらスタコラしますので。。

http://imagepot.net/view/125498959358.jpg

http://imagepot.net/view/125498959699.jpg

これでいいのかな?
一時間だけ公開します。
くれぐれも他に公開しないでください。
お願いします。
297人間七七四年:2009/10/08(木) 17:17:09 ID:VcPsBMLG
最上義光のなんとなく言葉を失ってしまう話。

驟楽第において公卿を集める宴席の間、今を時めく古田重然を見かけた鮭様。
(`・ω・´)「突然の失礼で申し訳ない。織部様、それがしにお茶を教えてくださらんか?」
織部「はい?どちらさまで?」
(`・ω・´)「羽州の最上出羽と申します。お見知りおきを」
織部「みちのくと言うと伊達様(政宗)しか知らない(面識がない)んですが…」
(´・ω・`)「その母の兄でございます…」
織部「・・・・・・」
(´・ω・`)「・・・・・・・・・」

そんなんでも桃山の茶会では織部に招かれている鮭様
なんかカワイソス
298人間七七四年:2009/10/08(木) 17:18:41 ID:iU8cSrbc
何で最上ってこんな嫌われてるの?
地元のイメージアップ作戦に対するカウンターの人?
299人間七七四年:2009/10/08(木) 17:20:29 ID:/fWORYXJ
>>296
もっと高解像度でアップしないと真贋付かないよ。
釣りだろ?画像転載した

本当なら、学芸員に寄付して山梨の美術館にでも入れたほうがいい
彼らはまだ武田を賛美している
300人間七七四年:2009/10/08(木) 17:20:51 ID:VcPsBMLG
>>296
GJ!
一枚目の保存状態がいとあはれ
301人間七七四年:2009/10/08(木) 17:21:30 ID:/fWORYXJ
>>296
他の白紙にidを書いてアップしてくれ
302人間七七四年:2009/10/08(木) 17:22:35 ID:iU8cSrbc
凄い事になってるけどなんでこんなとこで相談するのさ・・・
しまいにゃうpまで
身バレすんぞ
303人間七七四年:2009/10/08(木) 17:23:04 ID:aCbprb0v
>>296
携帯からだから本文は読めないが、字や花押は確かに勝頼の書状っぽいな……
しかし保存状態やべえなこれ
こんだけ悪いと専門家と相談してどっか預けるのを勧めるわ
304人間七七四年:2009/10/08(木) 17:23:26 ID:tfzMqEzc
305人間七七四年:2009/10/08(木) 17:25:00 ID:b826M1/c
>>301
スマン、どういう意味??
306人間七七四年:2009/10/08(木) 17:28:15 ID:+BB9p1B9
実質既に身バレしたも同然だ罠
良いもの見れて眼福だけどね

基本的には博物館とかに渡して欲しいけど、
公に出して売り払っちゃってもよし、
判断付かないならしばらく保留してもよし、だろう
基本的に無責任な2chにいる俺達の妄言は聞かないほうが良いさ
金になるものだし、暫く保留して冷静になってゆっくり判断すれば良いと思う
307人間七七四年:2009/10/08(木) 17:28:40 ID:b826M1/c
>>302
今、手が冷たくなってきた。
なんか、どきどきしてる。。
308人間七七四年:2009/10/08(木) 17:29:14 ID:tfzMqEzc
>>305
他の所から画像をもってきただけじゃないか?ってう違われてるだけ。

しかしすごいぞ。武田氏研究なら、地元の
山梨県立博物館に画像送って鑑定してもらってみると言いかと
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/2nd_link.html
309人間七七四年:2009/10/08(木) 17:29:35 ID:/fWORYXJ
大事なのは書状じゃなくて、内容だからアップしてデジタルデーターに残して欲しいだけだ。
負け犬大名だし
310人間七七四年:2009/10/08(木) 17:30:08 ID:9UQQGlNW
>>297
なんか吹いたwww
311人間七七四年:2009/10/08(木) 17:30:29 ID:tfzMqEzc
>>309
キミみたいなのは用がない。消えろ。
312人間七七四年:2009/10/08(木) 17:30:48 ID:VcPsBMLG
「謙信」は
輝虎時代の越後時代のものか

「勝頼」は
重六(為?)々儀(信?)成福院ねがい言?本ヰ?目○○□州に出馬し松る(これで「奉る」の当て字か?)シ届□為龍毛?欣(修?)□に□□く

出陣記録?
313人間七七四年:2009/10/08(木) 17:32:43 ID:/fWORYXJ
>>311
てめえみたいな馬鹿野郎に言われる筋合いねーから、自刎しろカス
314人間七七四年:2009/10/08(木) 17:32:54 ID:b826M1/c
>>308
なるほど。
まあ、この辺で勘弁してください。
今年中には、必ず公にしますので。
早く、なんとかしたい。。。
315人間七七四年:2009/10/08(木) 17:36:57 ID:wNQwfd1a
>>253
よく見たら俺のレスで荒れ始めたんじゃなかったお・・・
光り輝くで最上義光ってのが、ややおかしいとは思ったんだけど・・・
スレ汚しすまんかった
316人間七七四年:2009/10/08(木) 17:39:54 ID:2spEMoz1
儒家の家かな?
317人間七七四年:2009/10/08(木) 17:41:01 ID:As6sW2A5
>>314
歴史好き達のために内容の公開は切にお願いしたい。
ブツ自体は好きにしてくれw
318人間七七四年:2009/10/08(木) 17:42:52 ID:tfzMqEzc
ちなみに博物館への貸与、もしくは寄贈の場合、金を取られることは無いよ。
319人間七七四年:2009/10/08(木) 17:44:49 ID:rJjQou06
なんでも鑑定団に出すがよろし
320人間七七四年:2009/10/08(木) 17:45:53 ID:b826M1/c
>>318
そうなん?
んじゃあ、貸与って方向で相談することにします。
皆様、どうもありがとうございました。

なんか、一人で悩んでたので、少しスキリしますた。
321人間七七四年:2009/10/08(木) 17:47:45 ID:b826M1/c
>>319
テレビに映るのは絶対にいやじゃw
322人間七七四年:2009/10/08(木) 17:48:13 ID:VcPsBMLG
>>320
結果が出たらこのスレに報告して欲しい。
いい話14スレの○○ですーとかで
323人間七七四年:2009/10/08(木) 17:49:28 ID:/fWORYXJ
変なスレで馬鹿にされたからそいつが謝るまでここを潰ように荒らすことにする

そいつが謝らなきゃ駄目だ
324人間七七四年:2009/10/08(木) 17:50:17 ID:/fWORYXJ
病んでるとか書かれてむかついたからな。
謝れよボケ
325人間七七四年:2009/10/08(木) 17:58:21 ID:l4v+ff8h
すげえ脅しw「謝らなきゃ荒らすぞ」だってw
怖すぎてハライタイw
326人間七七四年:2009/10/08(木) 17:59:10 ID:VcPsBMLG
>>323-324
マジアドすると、そのスレに戻らなきゃこっちのスレなんて見てないんじゃない?
327人間七七四年:2009/10/08(木) 18:00:52 ID:VcPsBMLG
>>325
すげえ!idが「FFVIII」
328人間七七四年:2009/10/08(木) 19:07:20 ID:IaBIc9lR
>>312
勝頼の宛先は山崎専柳斎?
329人間七七四年:2009/10/08(木) 19:12:47 ID:sUvfbanE
>>288
文化財の預託だかってできたんじゃない。県の文化財課に相談したら。
後、知り合いに山形勤務の記者がいるんで、連絡したいな。
330人間七七四年:2009/10/08(木) 19:14:48 ID:Q44mcw83
>>296

EXIFは家庭用デジカメで最近撮ったことになってるな。
まぁ証明になるもんではないが。
331人間七七四年:2009/10/08(木) 19:23:36 ID:Q44mcw83
最近も遠藤元信の直系子孫から新出文書が大量公開されてローカルの新聞記事になってた。
地元の教育委員会あたりも窓口になると思う。
332人間七七四年:2009/10/08(木) 19:33:22 ID:pMV/7IER
最近、新潟の高田で秀吉の聚楽第図屏風が見つかったりもしたな
先祖が小作人の俺には羨ましい限りだ
333人間七七四年:2009/10/08(木) 19:34:42 ID:C9lY8piw
探してきたよー(^O^)/
■■武田勝頼 総合スレッド パート2■■
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1182803942/
334人間七七四年:2009/10/08(木) 20:05:37 ID:c91FQ0/C
うちは昔、街道筋で温泉宿をやってた家で
蔵にひとつ、刀やら古文書やらあったらしいんだが
後取り長男(俺の伯父)が引っ越すからと全部火中に投じてしもた
内容見たらどんなんがあったのかと思うと
残念すぎて床を転がる。俺当時生まれてなかったしな・・・
なので実際に文書が残っているのなら
是非保存できる方向で頑張って欲しい。
335人間七七四年:2009/10/08(木) 21:19:23 ID:aCbprb0v
久野(久能)宗能は今川家に代々仕えた、現在でいう袋井あたりの人である
嫡男ではなかったが桶狭間で兄・元宗が戦死したことで家督を継いだ
ところが義元死後、遠州は武田や徳川の介入から荒れに荒れ、
とてもではないが今川に従ってはいられなくなった
宗能は氏真を見限り徳川に仕えるようになる
汚いと思われるかもしれないが、当時の遠州の小さな家の主としては
他にどうしようもない選択だった

だが、徳川に従ったからと言って、平穏が訪れたわけではない
久野の土地は今度は対武田戦線の最前線となった
武田の駿河侵攻の際、宗能は秋山信友と鼻欠淵で戦った
そして信玄の西上作戦の際も武田と戦って武功を上げた

以降も宗能は徳川に仕えて天正壬午の乱、小牧・長久手の戦いなどに従い
その甲斐もあってか、家康の関東入府に伴い下総の佐倉に一万三千石を下賜された

ここまでは順調であったのだが……
慶長元年、宗能の嗣子宗朝が喧嘩の末に相手を殺し自害するという事件が起き
当主の不始末を咎められた久能家は所領没収となった
既に宗能は隠居の身であり、どうすることも出来ぬまま失意の隠遁生活を送っていた

だが、彼のこれまでの忠勤を見てくれている人はいたのである

関ヶ原の後、宗能には彼の旧領に七千五百石が下賜された
これは家康が彼の昔の忠勤に報いるために下したものであるが、
実は、失意の宗能の姿を見ていた本多正信の口添えによるものであった
正信はかつて必死で徳川の為に武功を重ねた宗能のことを忘れずに覚えていたのである

その後、宗能の孫が紀州徳川家付の人間として異封されたため、
久野に久野氏の領土は残らなかったが、
宗能は故郷で生涯を終えた
336人間七七四年:2009/10/08(木) 21:40:58 ID:laTyz4YZ
しっかりとやっていれば、誰かが見ていてくれているってことだね
何か勝手に嫌な奴というイメージを作り上げていた正信ですが、
好きになりそうです
337人間七七四年:2009/10/08(木) 21:56:38 ID:TpGUvAbp
一般的に人気はないけど実は公正とか無私とかいうタイプ好きになりだすと色々めんどくさいぜw
338人間七七四年:2009/10/08(木) 23:01:22 ID:3k6Gmati
>269
ぼーっとしてるとタダで巻き上げられるぞ
ただしメンテナンスと保持するのが大変なら博物館にかしとくか
市町村に物納してしまえ
339人間七七四年:2009/10/09(金) 00:00:49 ID:7IIki8ek
>>297
鮭様カワイソス
最上義光の「言葉に出来ない」の
方がしっくりとくる。
340人間七七四年:2009/10/09(金) 00:07:39 ID:iZFRp7pz
>>297

その反動で連歌や源氏物語に突き進んでしまったのだろうかw
でも最上義光歴史館には、山形城址から発掘された織部茶碗があるんだぜw
341人間七七四年:2009/10/09(金) 00:36:19 ID:YNAq8h+s
山形は左遷地になっちゃったから義光のものってわかんないんじゃないのか?
342人間七七四年:2009/10/09(金) 00:57:52 ID:bTp3nYTg
>>335
良い話だな
343人間七七四年:2009/10/09(金) 01:04:37 ID:rfB1Z2KL
>>341
まあそうだよね、だけどだいたいの年代はわかるみたい。
義光が買ったか、家臣のものかはさておき、山形でも買っちゃったみたいなノリですな。
344人間七七四年:2009/10/09(金) 01:44:48 ID:qCjfYDzV
最上はアンチも基地もいらない
両方出てって欲しい
345人間七七四年:2009/10/09(金) 02:23:31 ID:7IIki8ek
もまえらとは良い鮭が呑めそうだ。

最上義光の敵を褒める話。

『最上義光記』には慶長出羽合戦の直江の撤退戦をこう評している。
「直江は近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、取って返し。追い乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ、直江も虎口を逃れ、敗軍集めて、心静かに帰陣しけり」

(`・ω・´)「兼続、軍神謙信公を思わせる、敵ながら天晴な戦いをする。」

「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、(中略)誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」

攻め込まれながら敵を評価する。これぞ「最上クオリティ」。

(´・ω・`)「でも最上家改易のときに上杉家に長谷堂城棄却されてるのよね」
346人間七七四年:2009/10/09(金) 02:33:03 ID:7IIki8ek
最上義光と大崎合戦の裏話。

志村光安「伊達政宗が大崎攻めを始めました!」
(`・ω・´)「妻の実家の大崎家を守るんだお!」
義光、大崎領へ出陣。

中山朝正「殿、庄内に上杉が侵攻しました!」
(´・ω・`)「・・・こんな時期に?・・・」

秀吉による不戦条規を無視した伊達家と上杉家により
大崎家滅亡、十五里ヶ原敗戦による鮭の獲れる庄内失地
鮭様の「言葉に出来ない」カワイソスな話。
347人間七七四年:2009/10/09(金) 02:36:52 ID:tIhlOycZ
>>346
これが問題にならなくて
名胡桃城は大問題になり後北条家は滅亡しました

という流れを大河視聴者に見せたいわ
348人間七七四年:2009/10/09(金) 02:48:24 ID:7IIki8ek
延沢光昌のちょっといい話。

最上家改易によって延沢城には軍監として伊達成実が入城した。
そこで兵糧庫の武器などが接収された。
監物「殿、これって本物ですよね?」
成実「何がだ?」
監物「この鎧兜なんですが・・・」

先に最上義光記念館で400年ぶりに公開された延沢満延の息子の光昌の鎧兜がある。
桃山期の装飾の、義光の兜に似た総金覆輪の兜(重さ6kg)に鎧(40kg)である。
成実が「最上の兵はバケモノか?」と言ったかどうかは定かではないが、
父親並みの剛力で
「身分以上の武具を揃え」といった義光の掟を守った最上家臣団の武具に関するいい話。

この鎧兜は成実系伊達家の個人所有物として保存されています。(実話)
349人間七七四年:2009/10/09(金) 03:03:38 ID:7IIki8ek
義姫婚姻に関する最上義光の心温まる話。

妹義の婚姻が決まり、鮭様は腹心の山家国頼を呼びました。

国頼「殿、なにか御用で?」
(´・ω・`)「うん、国頼だから言うんだけど、寂しいお」
国頼「せっかくの婚儀、最上・伊達の均衡を左右する大切な役目ではございませんか?」
(´・ω・`)「そうなんだけどさ・・・義姫が寂しくならないようなものって、なんかない?」

結局義光は信頼の置ける国頼の息子の公頼を義姫の警護役として伊達家に出向させた。
義姫の子の政宗の代にも公頼は重用され、宇和島伊達家の家老として仙台藩から貸し出されたが、
宇和島伊達騒動により暗殺され、政宗も公頼の死を悼んだのは後の話。
350人間七七四年:2009/10/09(金) 03:11:45 ID:7IIki8ek
最上騒動の家族愛の話

義光「オレの方が義に愛されてるもんね〜」
義守「ワシなんて大きくなったらパパのお嫁さんになる〜って言われたもんね〜」
義光「うぬ・・・!」
義守「ふんぬらば!!」

義守が義光に家督を譲るのを渋ったのはこんな裏話があったりして・・・
351人間七七四年:2009/10/09(金) 03:15:22 ID:T61aXQT1
書状とかを学芸員に見せるとか博物館に送って調べてもらうとかは
細心の注意を払えよ
偽物になって帰ってくる可能性があるんだからな
昔から調査させてくださいっつって旧家にやってきて
これは〜の書状かもしれませんねどんな内容なのか
真贋も調べてあげますから貸してくださいって言われて長期間借りられて
返ってくると偽物に摺り変わってるって手口が当たり前の世界だから>学会
素人には何書いてあるかさっぱり判らんし偉い先生様が
これは偽物だったとか価値はないといわれると信じてしまうし
そう言われると知識のない一般人はそれ自体に興味を無くして
じゃあいいやと手放してしまうもんでそこを狙う訳だ
酷いのは上に書いた露骨に偽物とすり変える手口
まだマシなのは偉い先生から
これは大して重要な書状ではありませんが
興味あるので買い取らせてくださいと言われて二束三文で買い取られるか
この書状は〜の写しなので価値はありませんが興味〜(以下略
何ごとも自分で立ち合わないと危険だぞ!
352人間七七四年:2009/10/09(金) 04:31:45 ID:UxOwRURv
義義義のヒトリ男の家臣の家系だし十中八九本物だろうから至れり尽くせりで調査してくれるだろうよ
353人間七七四年:2009/10/09(金) 07:18:26 ID:DD9Y/5F5
354人間七七四年:2009/10/09(金) 07:34:50 ID:qCjfYDzV
荒らすな馬鹿
355人間七七四年:2009/10/09(金) 07:50:38 ID:q6rJI6FU
>>348
>>この鎧兜は成実系伊達家の個人所有物として保存されています。(実話)
ってことは明治期に今の北海道伊達市に移住した時も売らずに持って行ったってことか
356人間七七四年:2009/10/09(金) 09:00:40 ID:ynfMdofi
>>345 >>346 >>349>>350

GJ! やっぱ鮭様にはいい話が多いな。
357人間七七四年:2009/10/09(金) 09:02:38 ID:U2nEb05G
>347
家康だけが当時、豊臣制限の裁量に異を唱えたんだっけ。大崎・庄内攻め
358人間七七四年:2009/10/09(金) 09:20:03 ID:ZKTWoEoj
>>351
お偉い学者様だから、と信じて預けて騙されたり奪われたりって、昔からよくあったそうですしね。

田舎の旧家いくと、学者・大学・学生の類はいっさい入れない相手にしないなんてところが今でもあるそうな。
359人間七七四年:2009/10/09(金) 11:07:10 ID:eatqjU1f
>>349
>結局義光は信頼の置ける国頼の息子の公頼を義姫の警護役として伊達家に出向させた。

なるほど、寂しくならないように夜の相手をつけてあげたんですネ
360人間七七四年:2009/10/09(金) 11:51:58 ID:qfWOzOBn
>>359
逆に義光タソに他領でも命を狙われますわwwwwwwww
(`・ω・´)「いいか、伊達の者がお義に手出したら目にもの見せてやれ!!」
(´・ω・`)「殿、シスコンもほどほどになさいませ・・・」
361人間七七四年:2009/10/09(金) 12:54:45 ID:z9ShmEPi
宇喜多秀家の八丈島でのエピソードを教えて
362人間七七四年:2009/10/09(金) 13:43:21 ID:eatqjU1f
>>361
たぶん、まとめにあると思うけど
a)正則たんのための酒(備前産)を船の責任者に頼んで分けてもらった
b)島の役人に料理を恵んでもらった
c)大坂や島原まで泳いで参った

のみっつが、有名なエピソード(捏造含む)
363人間七七四年:2009/10/09(金) 13:44:27 ID:ycChqS8l
>361
まずは八丈島まで泳いでから訊いてくれ
364人間七七四年:2009/10/09(金) 14:02:55 ID:WN0eMudG
八丈島でせっせと子作りに励み子孫も繁栄、おかげで「八丈島には眉目秀麗な人が多い」という
なんともいえない伝説を作り上げたw
365人間七七四年:2009/10/09(金) 14:42:06 ID:fDKimdvu
これだから貴公子はw
366人間七七四年:2009/10/09(金) 15:28:47 ID:UxOwRURv
皆ネタにしてるけど離島で50余年ってある意味凄いよ
映画化できる
367人間七七四年:2009/10/09(金) 15:37:56 ID:smIvQYzy
>>366
>>364をもとに映画化してもらおう
368人間七七四年:2009/10/09(金) 15:57:53 ID:qZCnGTEH
そんな大袈裟な。
別に無人島でも無いんだから。
369人間七七四年:2009/10/09(金) 16:00:23 ID:d7XU8oxl
大河ドラマ
宇喜多秀家の方が確率ありそう
370人間七七四年:2009/10/09(金) 16:01:03 ID:Owu0nYmf
離島でもない九度山に10年余り蟄居した真田親子を思うと
離島に行って50年生き延びたってすごい気もするがなあ。
今とは時代も違うし。
371人間七七四年:2009/10/09(金) 16:01:46 ID:HVm1FQbf
もちろん10話で関ヶ原で以降は八丈島生活な
372人間七七四年:2009/10/09(金) 16:05:10 ID:YgcM4KU0
373人間七七四年:2009/10/09(金) 16:29:54 ID:tIhlOycZ
白石一郎の「鳥もかよわぬ」とか
宇喜多の八丈島ものだけどすごく面白いよ
この人は他にも流人ものとか書いてるけどどれも面白い

ただ俺、鬼海ヶ島の俊間より壮絶な流人って日本史だといない気がするんだよね
小さい頃平家物語読んでえらいショック受けて
大学で能で見て夢に見て寝ながら泣いた

秀家も俊間の気分だったのか
それとも意外な地でそれなりのユートピアを見つけた一条教房の気分だったのか
374人間七七四年:2009/10/09(金) 16:32:56 ID:v4CnALGL
流刑になった人って日々の生活は保障されてるの?
住む所と食事くらいは出るのかな。
375人間七七四年:2009/10/09(金) 16:39:31 ID:smIvQYzy
>>374
流刑じゃない人達の日々の生活すら保障されてないというのに
376人間七七四年:2009/10/09(金) 16:41:01 ID:UxOwRURv
生誕から絶頂期を動、関ヶ原から八丈島期を静として交互に織り交ぜるような映画が取りたいな
最後のシーンは若き秀家が大阪城天守閣より世を見る図から老いた秀家が八丈島の岬より世を見る図に変る
共に新しき世が来て満足げな表情なの
377人間七七四年:2009/10/09(金) 16:45:30 ID:YNd9E3ui
関ヶ原の戦いって、坂崎出羽守に肩入れした家康に対する秀家の私怨という感じがしないでもないが。
378人間七七四年:2009/10/09(金) 16:46:52 ID:eatqjU1f
>>375
家綱たんが、パパたんに流刑になった人はご飯大丈夫なの?
と家光にたずねた後、そういった保障をせよと命令が出たとか言う逸話があったような…

>>364
真田信繁
「罪人の分際で子作りとは…」
379人間七七四年:2009/10/09(金) 17:01:43 ID:smIvQYzy
相方に寄生して生活している人の事を「ひも」っていうけど、これ真田信繁(幸村)が語源なんだぜ
九度山で真田「ひも」作り、かつ親族からの仕送りで生きながらえていた事からきてるんだぜ
嘘のような嘘の話だけど豆知識な
380人間七七四年:2009/10/09(金) 17:28:11 ID:QrU+2gHp
>>376
昔、自分が建てた寺だったかの消息を聞いて、平和になったんだなと安堵したって話があったよね
381人間七七四年:2009/10/09(金) 17:49:11 ID:tnbHrPrz
>>380
たぶんまとめのこの話かと
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-749.html
382人間七七四年:2009/10/09(金) 18:40:08 ID:7oEt1/x7
>>350
調子に乗りすぎだ、バカが。
383人間七七四年:2009/10/09(金) 18:42:11 ID:JDRwy+xi
>>379
そんな餌にオレ様がくm(ry
384人間七七四年:2009/10/09(金) 20:37:03 ID:AhTEnriX
>>369
八丈島のイベント作りに苦労しそう
台風に火山じゃねえ

やっぱり親父どのとセットじゃないとw
まあ個人的には親父殿とセットでなら
細川親子とか黒田親子の大河ドラマを見てみたい気がする
385人間七七四年:2009/10/09(金) 21:06:25 ID:1oQ+p9mO
官兵衛:津川雅彦
長政:西田敏行

ですかっ!
386人間七七四年:2009/10/09(金) 21:34:58 ID:tnbHrPrz
>>384
リアル親子の三国連太郎、佐藤浩市で見たいな。
387人間七七四年:2009/10/09(金) 22:02:18 ID:f4xzNw89
>>386
爺過ぎるじゃねえかw
直家が死んだの53だぞ?
388人間七七四年:2009/10/09(金) 22:56:59 ID:CtmQTQaO
>>387
つ布川敏和(ふっくん)親子
389人間七七四年:2009/10/09(金) 22:57:15 ID:XFOB4Sc0
始まって2ヶ月くらいまでで関ヶ原、潜伏生活が終了し
残りの10ヶ月あまりで八丈島の生活が淡々と語られるのか
390人間七七四年:2009/10/09(金) 23:21:51 ID:GrsxE/aD
そしてIF話として大坂の陣参戦、夢落ちでした
ってのを映像で見てみたい
391人間七七四年:2009/10/09(金) 23:47:35 ID:BRMz7yIE
義姫を愛さずにはいられない奥羽野郎ども。

奥羽の鬼姫、戦国猛女の代表格義姫。その夫輝宗は側室なし、
息子の政宗はマザコン、兄の義光はシスコンである。
どうも義姫におねだりされると男は断れない、かつ彼女をみていると
何とかしなきゃ、と思わせるものがあったようである。
実は鬼ならぬ小悪魔姫、かもしれない。

柏木山にて、夫・輝宗、兄・義光と対峙。その戦場まっただ中をつっきり、義姫登場。
「あなた〜、兄上を攻めるのはやめて」「女だてらに何を生意気な!」
「でも父上が伊達と最上は戦っちゃダメって…それに義を悲しませないで〜」
「ああ…なんだか戦やめたくなってきちゃった(´Д`;)」→輝宗撤兵

大崎合戦、兄・義光、息子政宗を攻める。その戦場まっただ中をつっきり、義姫登場。
「兄上〜、まーくんを攻めるのはやめて」「いくらおまえだってそりゃないぞ!」
「どうしてそんな意地悪を言うのぉ〜…それに義を悲しませないで〜」
「ああ…なんだか戦やめたくなってきちゃった(´Д`;)」→義光和睦

朝鮮出兵、息子・政宗、母から手紙を受け取る。
「母上〜、素敵なお手紙だな…なんだかお土産プレゼントしたくなってきちゃった
(´Д`;)」→政宗、部下に命じて最高級朝鮮木綿を入手、母に贈る

義姫、婚家から出奔。山形に出戻り
「かわいそうなお義、よーし兄は立派なお屋敷たてちゃうぞ!(´Д`;)」
→義光、山形悪戸に義姫専用屋敷をわざわざ造り住まわせる

慶長出羽合戦、最上領を上杉軍が猛攻
「伯父貴にゃ悪いけど、こりゃ最上終わったな」
義姫から何通も手紙。「政宗おねがい、援軍ちょうだい〜」
「母上〜、必死なお手紙だな…なんだか援軍派遣したくなってきちゃった(´Д`;)」
→政宗、留守政景に三千の兵を与え山形に派遣

最上家改易後、義姫居場所を失う
「母上をむかえにゆかねば! かわいそうな母上、よーし政宗は立派なお屋敷
たてちゃうぞ!(´Д`;)」
→政宗、母のためにわざわざ温暖な土地を選び屋敷を造り、住まわせる

義姫ついに死去
「母上〜、もっと親孝行したかったですぞ。
…なんだか位牌つくりたくなってきちゃった(´Д`;)」
→政宗、母の位牌を自らハンドメイドで制作

tぎなみにこれはガセ?
「まーくん、(毒入れたけど)手料理めしあがれ♪」
「母上〜、とってもおいしゅござります〜…ウッ!」

そして政宗・義光の義姫宛の手紙はものすごくデレデレ炸裂であり、
なんだかこの人は変なフェロモンかエロ光線でも出していたのかと思えてくるのであった。
輝宗・政宗・義光が特殊ではなくて義姫が異常体質か?
ちなみに当時の文献によれば、義姫は伊達家中で平和を愛し、実家と婚家の
争いに胸をいためていたと思われていたとのことである。
『伊達秘鑑』によればたいへんな美人だったらしい。
392人間七七四年:2009/10/09(金) 23:48:21 ID:BRMz7yIE
最終行修正します。

×tぎなみにこれはガセ?
○ちなみにこれはガセ?
393人間七七四年:2009/10/10(土) 00:01:24 ID:tnbHrPrz
>>387
いや、宇喜多じゃなくて下の細川親子or黒田親子のドラマ。
394人間七七四年:2009/10/10(土) 01:14:45 ID:8jvguQE2
そこであえて本多正信と正純の父子
395人間七七四年:2009/10/10(土) 01:22:27 ID:z/cT2e2v
そこであえて由比正信と正純の父子
396人間七七四年:2009/10/10(土) 01:25:56 ID:4vQ0GWyG
鮭様の、妻の実家に駆ける話1

天正小田原の参陣に義守の葬儀の為に遅参した義光は
骨を折ってくれた徳川家康に次男の家親を小姓として差し出した。
そして小田原の役後、遅ればせながら義光は天下人秀吉に三男義親を近習として差し出した。
奥羽の再編により義光の妻の実家の大崎家が朱印状を貰いながら領内での一揆を理由に改易されると
義光の嘆願を聞いた豊臣秀次が義光にこう切り出した。

秀次「なあ、駒姫ってかわいいよな」
義光「ええ、それは目に入れても痛くないくらいに」
秀次「駒姫くれたら大崎の件、とりなしを考えてもいいけど、どうよ?」
義光「!!・・・」

藁にも縋る思いで、また断腸の思いで愛娘の駒姫を秀次に差し出すことを
義光は決意した。このとき駒姫わずか13歳。

三条河原の悲劇の起る2年前の事である。
397人間七七四年:2009/10/10(土) 01:38:19 ID:4vQ0GWyG
鮭様の、妻の実家に駆ける話2

羽柴秀長への鮭様からの手紙
「先に秀吉様が大崎に対し知行半ばを与えるの朱印状、なんとか
秀長様からも、大崎の大名復帰を話してもらえませんか?」

徳川家康への鮭様からの手紙
「小田原の遅陣の折はありがとうございます。これはお礼の鷹です。
ついでなんですが、大崎の大名復帰の件もお願いできませんか?」

伊達政宗への鮭様からの手紙
「一揆扇動するなんて何考えてんの!
困っているんだよね。ウチのとしよ(嫁)も不安がってんだけど。
こっちが妻に何て言えばいいかとか、ちょっと考えて欲しいよね!?」

木下家文書に残る鮭様の手紙
「太閤は一度は大崎家を認めると朱印状まで出してるので、親戚の方からも
根を廻してもらえませんか?」

渡会文書に残る鮭様の手紙
「としよ(妻)が大崎家の事が不安で不安で日に日にやつれていきます。
大崎家の御家再興が果たされますように」
398人間七七四年:2009/10/10(土) 01:42:25 ID:qDWz/Tol
北条氏康と氏政の親子がいいな
渡辺謙とつるの剛士で
399人間七七四年:2009/10/10(土) 01:54:37 ID:mWMH94a5
本人は良いと思ってやってるのかもしれんが、
連投と既出でウンザリしてくるぞ。
400人間七七四年:2009/10/10(土) 01:57:02 ID:/N8cMNmD
>>399
鮭ネタうざいと思わせるための新手のアンチの手口じゃね?
401人間七七四年:2009/10/10(土) 02:18:24 ID:U+nGhW9H
だな
もうまとめに載ってるやつ拾ってきて連投してんだろ
日本語不自由みたいだからある意味見苦しい長文見なくて助かるが
ご苦労なこった
402人間七七四年:2009/10/10(土) 02:28:05 ID:S9VkSi7y
菅原左近のこと

天正期に葛西家中に菅原左近という城持ちがいた。
大崎葛西一揆の際に、主君晴信に付き従い
佐沼落城の後に帰農したといわれる武将である。

「風土記写本」に以下の様な記述がある

佐沼落城後暫くして
千葉某「ワシらは南部領に逃れるがお主はどうする?」
左近「ワシはこの地に留まる事にする。
  一揆での御家再興は叶わなかったが
  何れの世にか同じ志を持つ者が集い、
  葛西再興が果たされるのを待つのも一興よ。」

葛西再興は果たされることは無かったが、葛西家中の心意気を感じさせる良い話。
寺池、佐沼、栗駒近辺には未だに多くの菅原姓が存続している。
403人間七七四年:2009/10/10(土) 08:42:17 ID:mcN5F8Pe
宇喜多は確か八丈島の代官と婚姻して
八丈島一の名族な扱いで前田花房の援助もありわりと良い生活だったっぽいぞ
贅沢で家を傾けたらしい秀家には満足のいくものではなかったんだろうが
404人間七七四年:2009/10/10(土) 09:13:21 ID:UmJzAv4Y
鮭厨ってかなり基地外だな
405人間七七四年:2009/10/10(土) 10:01:43 ID:dG2FxguH
会社に宇喜田という苗字の人がいるんだが
宇喜多と何か関係があるんだろうか
ちなみに数代前の出身は京都らしい
406人間七七四年:2009/10/10(土) 10:03:42 ID:DoNWlwFI
泳ぎが得意な人なら本物だ
407人間七七四年:2009/10/10(土) 10:13:44 ID:f4VMos4B
宇喜多氏の子孫がもらった土地は浦安の辺りなんだけどね
408人間七七四年:2009/10/10(土) 10:28:04 ID:ZwJUPr5j
今日明日は地元で真田祭りだが今年も来るであろうK大の真田先生に
「やっぱり奥さん怖いですか?」とか聞いて良いものだろか
409人間七七四年:2009/10/10(土) 10:41:11 ID:YDX3Ziwz
逸話とは全く関係がないが

落語「荒大名の茶の湯」 桂春雨
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8419513

福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政
オールスター揃い踏み。
410人間七七四年:2009/10/10(土) 10:48:42 ID:vNVdw05B
>>409
三成殺す気かな
411大谷刑部:2009/10/10(土) 12:40:58 ID:LjK+CjUK
>>409
そこでワシが呑んだ茶碗でも・・・
412人間七七四年:2009/10/10(土) 12:50:52 ID:kLuovsI4
>>409
それなんて七将襲撃?
413人間七七四年:2009/10/10(土) 12:52:05 ID:kLuovsI4
鮭厨とか言いたくはないが、確かにネタがあるならある程度時間あけてからのほうがいいね。
414人間七七四年:2009/10/10(土) 13:06:51 ID:kLuovsI4
雰囲気かえるためには話を投稿すべし。

平蜘蛛異聞・柳生宗矩&沢庵のばつが悪い話

松永弾正久秀といえば、平蜘蛛を抱えて爆死。ボンバーマンとして有名である。
しかし柳生家に残る記録によれば…
この松永一族に柳生石舟斎、弟・松吟庵、嫡子・厳勝らが仕えていた。
さて爆死寸前、久秀は松吟庵を呼び出しこう告げた。
「なんかわし、もうあかんわ。せやかてこの平蜘蛛が信長の手に渡るのは
しゃくにさわるんや! おまえ密かにこれ、預かってくれへん?
爆弾つめるのはフェイクにしとくわ」
かくして松吟庵は平蜘蛛をあずかり秘蔵した。石舟斎は貧乏にあえいでいたころ、
「もうわし、だめかもしれんね。いざとなったら茶道具売って葬式だして」
と言っている。この茶道具とはつまり…?

さてその後、柳生一族からは宗矩が輩出され、見事徳川将軍家につかえ大名になった。
あるとき、家光は狩りを楽しみ帰りに品川にある東海寺に立ち寄り、茶を所望した。
住職である沢庵が茶をいれつつ、家光の傍らの宗矩を見てこう言った。
「そういえば柳生家には平蜘蛛という名器があるとか(ニヤニヤ)」
宗矩は突然こうふられて言いよどみ、( ゚д゚)こんなかんじになった。
すると沢庵、「あると思えばあるし、ないと思えばないわな。本心が一箇所に固まるのを
禅では妄心(もうじん)と申しますな。ふぉつふぉっ…」
415人間七七四年:2009/10/10(土) 14:24:57 ID:oJLpezVI
沢庵の話はなんかあんまり適当なごまかしかたとも思えないが・・・
416人間七七四年:2009/10/10(土) 15:31:26 ID:wv1vw3qt
>>409
いろいろと突っ込みどころはあるが…
誰だよ、こいつらを"茶の湯"に招待しようと思ったやつわw
417人間七七四年:2009/10/10(土) 15:54:05 ID:iVi496JB
何かのコピペで柳生の子孫がオランダ人にガキの使いのDVD見せて笑い死ぬ寸前にさせたのを見た
418人間七七四年:2009/10/10(土) 18:34:39 ID:vNVdw05B
>>416
細川が福島を利休の茶に誘って行ったことがあるらしいから、音頭をとったのは細川だろう
招待するのは蒲生あたりでは?
419人間七七四年:2009/10/10(土) 19:32:35 ID:Tm7EelQh
>>418
治部もだけど、客がDQN眼竜の人でもヤバいね。
氏郷はイライラするだろうし、三斎と政宗は妙な化学反応を起こしそうで…
420人間七七四年:2009/10/11(日) 12:22:18 ID:qwmPAdhw
246-248
遅レスですまん、今閃いた!つまりこうか!
明石全登 あかしぜっと!
そしてこう!

明石「我が名はあかしぜっーと!!宇喜宇喜戦隊筆頭であーる、悪の徳川幕府を倒す為ここに見参なり!!」
ナレーター「次週新番組宇喜宇喜戦隊明石Z、第一話『関ヶ原』乞うご期待!」

決戦の明石ならこのノリでもいけるか?
421人間七七四年:2009/10/11(日) 13:07:02 ID:Pv4R7DCG
パイルダアアアァァーーーオオオォォーーーンッッ!!
422人間七七四年:2009/10/11(日) 13:28:04 ID:qwmPAdhw
ナレーター「関ヶ原で惨敗した我らが明石Z、秀家博士は悪の徳川幕府に連れ去られてしまった!!明石Zに再起の時は来るのか!!次週宇喜宇喜ロボ明石Z最終話『八丈島』」
>>421を受けてちょっと路線変更、てか悪ノリスマソ。
あっ、これから直家さんにお茶会お呼ばれしてるんで…。
423人間七七四年:2009/10/11(日) 13:40:58 ID:Rs6kshVL
森蘭丸が信長の小姓として仕え始めてから暫くたったある日
諸将が集まる中信長が「障子を開け放ってきた。すぐに閉めてまいれ」と蘭丸に命じた。
蘭丸が障子を閉めに行くと障子は閉められていた。そう、信長はあえて閉まっている障子を
閉めてこいと命令することで蘭丸を試したのだ。そこで蘭丸はどうしたか。

障子を音がしないように開けると音を立てて閉めて戻ったのである。
そして信長は満足そうに「どうだ、障子は開いていたであろう?」と蘭丸に言った。

さて、その後武将達が退席して信長と二人きりになると蘭丸は
「いえ、障子は閉まっておりました」
と改めて報告した。
「しかし、先ほど障子を閉めた音がしたが、あれは聞き間違いじゃないよな」と信長。
そこで蘭丸は
「殿は皆に聞こえるように『いま障子を開け放してきた』と仰せられました。私が閉まっておりましたと
 申し上げれば殿の間違いを周りの者に知らせることになります。それで、わざと開けてから
 皆に聞こえるように音を立てて閉め直したのです」
信長はこの答えを聞いて大いに満足したという。

蘭丸の機転が利いたいい話。
424人間七七四年:2009/10/11(日) 13:46:30 ID:6azTHL1k
うむ、やはり蘭丸は美醜の話以上にこの機転の良さがしっくりくる。
425人間七七四年:2009/10/11(日) 13:51:57 ID:Tf2guOt4
これもそうだけど逸話から見えてくる蘭丸の関心ってとにかく、「信長に恥をかかせない」の
一点だけなんだよなー。
なので忠義と言うより先に、「奸臣」って印象を受けてしまう。もしくは過保護なママ。
426人間七七四年:2009/10/11(日) 13:58:12 ID:uu4lIopc
側近という言葉がしっくり来るな
427人間七七四年:2009/10/11(日) 15:36:15 ID:eXEYdVo7
三成と少し印象がかぶる
本能寺が無ければ同じような立ち位置にいたかな?
428人間七七四年:2009/10/11(日) 16:20:42 ID:KYXeMmY3
森乱丸
直江兼続
石田三成
本多正純
知恵伊豆

なんかこのあたりって凄く似たにおいがするよな
性格とか思考の仕方とか
429人間七七四年:2009/10/11(日) 16:39:24 ID:lAvlZLZM
上司からは重用されるけど、同僚からは嫌われるそんなタイプだな、組織の必要悪。

こういったタイプが生き残るのって難しいんだよね、
本人にそのつもりがなくても私欲と取られた瞬間に回りからフルボッコにされる。
気に食わないけど私欲がないってんなら嫌われるだけですむ。
成功したのが直江とか本田正信、失敗したのが三成や正純。
430人間七七四年:2009/10/11(日) 16:40:59 ID:aDduP/wq
>>428
こいつらを同じ部屋に放り込んだらどんな会話をするか興味がある
431人間七七四年:2009/10/11(日) 16:58:09 ID:55i3JBeH
宦官というか、執事とか私的な秘書官はそれでいいんだよ。
それが公的な分野にまで関わると害になる。
432人間七七四年:2009/10/11(日) 17:23:43 ID:ZzhIyK0v
人取り橋の戦い・小エピソード1


伊達政宗が、人質に取られた父親もろとも畠山義継を撃って後。
輝宗の初七日を終えてすぐ、政宗は二本松城攻撃を始めた。
ここには義継の惣領、国王丸を擁した二本松勢が立て篭もっていた。
これが十月十五日からの事である。

十一月十日になって、安積郡郡山に潜入していた黒脛巾組の
大町宮内、太宰金七から、二本松救援のために、
佐竹・葦名・二階堂・岩城・白河・石川らの
南奥州連合軍三万が向かっているとの知らせが入る。

対する伊達は八千。
この時の伊達勢は、全員刀の鞘に細い白紙を右巻きに巻いていた。
連合軍との決戦三日前の夜、この白紙を右巻きから左巻きに変更せよと命令が下る。
翌朝になって調べると、右巻きの者が八人いた。
これを二人ずつ連れ出した政宗は、
彼らを二階堂・石川・白河の家中の者のように扱い、
「二階堂らは葦名・佐竹を裏切ってくれるそうな」と言って、
酒と引き出物を与えて帰した。

実はこの八人、葦名の間者であった。
このため、戦う前から連合軍の結束は弱まったという。


その2

戦いは苛烈を極めた。
観音堂山のふもとの瀬戸川周辺が激戦地となったが、
ここであまりに多くの人が討ち取られたことから、
後に「人取り橋」と呼ばれるようになった。
連合軍は次々に新手を繰り出し、対する伊達勢は劣勢に追い込まれる。
「伊達の命運風前の一燈にひとし。」
一時は、政宗も鎧の上帯をといて腰の刀を抜き、
桑折摂津に介錯を命じようとしたときもあったという。
だがその時、小姓として付き従っていた津田七之助という十六歳の若者が、
政宗の刀を奪い取って言った。

「こは日頃にも似ぬ後れたる御振るまいかな。
腹召されんは何時にも手裏を返すよりもいと易し。
未だ左右の重臣も盡きず、諸手の滅亡も分明ならず、
大将の命を果たし玉わんには未だ半刻早し」

政宗は自害を覚悟するほどの危機的状況だったが踏みとどまり、
鎧に五発の弾丸を受ける激戦の上、ようやく勝利を勝ち取ったのだった。


その1はいい炙り出しの話、
その2は津田七之助のいい話。
その2に関しては彼がいなかったら、
僕らのアイドルDQN眼竜、早々と歴史から退場していたかも知れませぬ。


おまけ・七之助の台詞超意訳(適当)
「普段威勢がいいくせになにやってんですか!
腹切るなんて手の表裏を返すより簡単でしょーが!
周りにいる重臣もこのとおり生残ってるし、諸々の隊が全滅するかも分かってないし、
大将が自害するにはまだ早いでしょう?!」
433人間七七四年:2009/10/11(日) 17:41:15 ID:i1a86Xe8
政宗が戦った当時はまだ「人取橋」じゃなかったのか……。
誰だかの小説で政宗が「あの橋は?」と聞いて名前を聞くと
「人を取って食う橋か!わっはっは!」
というエピソードが印象的だったんだが(創作だとは思っていたけど)。
434人間七七四年:2009/10/11(日) 18:22:12 ID:lAvlZLZM
秀吉の小田原攻めで作った石垣山城なんかも同じ類だな。
秀吉が城に石垣を多量に使ったから後世石垣山と呼ばれるようになったのであって、
城を築いた当時は笠懸山(城)って名前だったって話。
大河ドラマとかで石垣山城って名前を見るたびになんか切なくなる。
435人間七七四年:2009/10/11(日) 19:21:40 ID:2O1JL/60
伏見なんかでも「安土桃山時代」というぐらいだから、桃山だったのかと思うが、
実際は桃が植えられたのは明治時代から。
436人間七七四年:2009/10/11(日) 20:29:50 ID:fj9oTRqP
細川幽斎「鼻のあたりに 松虫ぞ鳴く」
新納忠元「上髭を ちんちろりんと 捻り上げ」

新納忠元と細川幽斎がこんな遣り取りをする前の出来事。

島津義久が豊臣秀吉に降参した後も、薩摩にはまだまだ徹底抗戦を主張するものも多かった。
弟の義弘や歳久がそうであり、新納忠元もその一人であった。

彼は大口城に留まり続け、ついには細川幽斎の軍勢に包囲されるに至ったのである。
ところが幽斎の軍勢、存外に動きが鈍い。これを見た忠元は行動を起こした。
奇襲をかけるのか、と思いきや使者を派して糧米を送り届けたのである。

使者が持参した書状にはこう書かれていた。
「京都の軍勢兵糧乏しくお困りの由承り及ぶ、これをきこしめして我が大口城に押し寄せられよ、忠元随分にご会釈仕るべし」
そちらの兵糧不足はお見通しだ。攻めるなら、こちらの送った米を食べてから大口城に来られよ、
不肖忠元が心行くまでお相手しよう、というのである。

これを見た幽斎は驚いた。事実、幽斎の軍勢は大軍であるため兵糧が行き渡らず、
土地の貧しい薩摩では徴収もままならなかったのである。

この男、死なすには惜しいと思ったか幽斎は石田三成、伊集院忠棟と供に忠元に返書を送った。
その内容は兵糧の件を謝すと供に、
・たとえ自分の軍勢が敗れても後に控えている秀吉の軍勢には到底太刀打ちできないであろう事
・既に主君の義久が降伏している以上、これ以上の抗戦は不忠であること
等を述べ、一命は助かるように取り計らうからと降伏を勧めるものであった。

だが忠元はこれを撥ね付けた。
「この国中一戦して相防ぐ者が無ければ薩摩に男児一人も無きが如し、この城下に寄せつけて一戦に及ばん」
秀吉の軍勢が来ているのに薩摩国内で誰も一戦交えなかったとあっては、まるで薩摩に真の男児が一人も居ないようではないか。
ここは城下にて一戦して雌雄を決しよう。

…自分では忠元を説き伏せることは出来ない、さりとて殺すには惜しい、そう思った幽斎は秀吉を通じて
義久、義弘から降伏を進めさせることにした(この時点で義弘も義久に遅れて降伏していた)。
幼少から仕えた主筋の二人に言われては、忠元も従うほか無く渋々降伏するに至った。

この後に秀吉とどんな遣り取りがあったのかはこちらをどうぞ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-201.html

徹底抗戦を貫くことで、却って好印象を与えた新納忠元のお話。
尤も歳久の場合は逆効果だったけど…
437人間七七四年:2009/10/11(日) 20:39:01 ID:QyAWSkGw
>>425
これに限らず、森乱で有名になっている信長絡みのエピソードは、
ほぼ全て江戸時代以降の書物にしか確認できない。
いってしまえば、乱丸が実際にどのような活動をしていたのかについては、
史料がほとんどなく不明。美少年だったとかも含めて、巷間に伝わった話は
創作と考えておいた方が無難。
438人間七七四年:2009/10/11(日) 21:06:07 ID:Z2C9XlDn
>>436
かっこいいね、薩摩隼人の鑑ですな。
「敵に塩を送る」って話も、実際こう言うやりとりを
信玄と謙信がやったら絵になるな…っていう発想かも
しれないな。
439人間七七四年:2009/10/11(日) 21:17:55 ID:ha/2En6n
普通に考えればたかだか15のガキがそんな機転を利かした行動を取れるわけが無い罠
秀吉にしろ三成にしろ若い頃から才知のあった人物って、この手の話がまことしやかに作られてしまう
440人間七七四年:2009/10/11(日) 21:36:50 ID:HVTEDT9q
でも>>432の津田七之助は16歳なんだろ
441人間七七四年:2009/10/11(日) 21:53:32 ID:Z76PAKyj
昔、「知るは楽しみなりと申します」のクイズ面白ゼミナールで出題されたの思い出した。

「さてこの時小姓はどうしたでしょう?」

1 障子を開けてきた
「『おまえはバカか』といわれます」
2『閉まっていました』と報告する
「主人に恥をかかせます」3自分で開けてから、閉めてきた
「これが正解です」

懐かしさで書いてみた。
442人間七七四年:2009/10/11(日) 22:09:52 ID:YsrdqhJl
>>441
4「お前が開けたんだろ?自分で閉めてこいよ」と反抗する
「処刑されます」
443人間七七四年:2009/10/11(日) 23:24:14 ID:7q/tqMa0
>>439
当時は機転を利かさないと出世どころか時に命が危うい時代だったわけで。
現代のように20,30年も主家に補給を頼りつつ篭城していてもお咎めの無い時代の15歳とはメンタリティが根本的に異なります。
444人間七七四年:2009/10/11(日) 23:57:41 ID:vKB8yCne
>>441
とりあえず、障子をはずしてみる
445人間七七四年:2009/10/12(月) 00:01:39 ID:C02a9t+Y
>>439
ガウスが等差数列の総和(1から100までの数字を足したらいくらになるか、とかいうやつ)を
即座に解いたのが小学生のとき。
また15歳のときには100年後に証明されることになる素数定理を予想した

ここまで極端な例じゃなくても機転がきいたり、頭の回転が早い神童・天才ってのは現代でもいるわけで
我々凡人の常識で切り捨てるのはみっともないですね
446人間七七四年:2009/10/12(月) 00:20:08 ID:ICv/BvWU
西尾仁左衛門の黙して語らぬ話

大坂夏の陣、道明寺の激戦で真田信繁が結城越前隊に討ち取られた。
真田の御首を挙げたのは西尾仁左と呼ばれる一介の侍頭だった。

徳川家康に接見を許され、真田を討ち取ったときの陣中報告を行う際
西尾は顔を伏せ、「某はただ敵を討った、それが結果として真田の大将首だっただけです」
としか言わず、詳細を知りたがった徳川の諸将や軍監にそれ以上の報告をする事はなかった。

怒ったのは徳川の近臣達である。
(`Д)「家康公の前できちんとした報告も出来んのか!鮒侍め!!疲れてる真田をだまし討ちか、はたまた落ち首でも拾ってきたからなにも言えないんだろう?」

当初真田を討ち取ったものには10万石の褒章が用意されていたが
徳川の近臣等により「KY的な西尾はもとより、その主結城秀康にも褒美を
与える必要なし」とされ、仁左には特に徳川家から領地も褒章も与えられなかった。

福井県には仁左が大坂から帰って後に真田の霊を慰めるべく建立した「真田地蔵」が今も残る。

仁左(´・ω・`)「・・・自分、不器用ですから・・・」
447人間七七四年:2009/10/12(月) 00:25:08 ID:577BFM1s
>>446
良い話ってより、
自分達も散々面倒臭いくせに他人のそれを許容できない、
家康の近臣達の悪い話のように思うなぁ
448人間七七四年:2009/10/12(月) 00:32:52 ID:o7kGTT1y
>>446
西尾って家康から
「信繁を討ち取ったときはどのような様子であったか?」
って聞かれて

「そりゃあもう激しく抵抗されましたが私はそれを払いのけ見事しとめて…」

家康「嘘をつけ!朝から戦っていた信繁に激しく抵抗するような体力が残っているわけがない!」

って怒られて、恩賞が与えられなかったって話じゃなかったっけ?
449人間七七四年:2009/10/12(月) 00:36:51 ID:ICv/BvWU
>>448
「徳川実記」だと「はしゃいでるアレ」とか「ホラ吹き」で
「福井県史」「越前風土記」や「結城家文書」だと「商人上がりの武家への養子なんだけと根は真面目でおとなしい奴」になっている。

評価は人の見方それぞれ。
450人間七七四年:2009/10/12(月) 00:37:17 ID:o0RER5+t
>>448
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-682.html
数パターンあるみたいだよ。
451人間七七四年:2009/10/12(月) 00:42:41 ID:o7kGTT1y
>>449
>>450
ありがとう。なるほどなあ。
同じ話でもそれぞれに伝わり方が違うものなんだね。
452人間七七四年:2009/10/12(月) 01:05:57 ID:DwVKMCXC
伝わり方が違うところで評価すら変わる話。

小田原の陣では北関東でも豊臣vs北条の代理戦争が行われていた。
下野榎本城を守るのは北条方、小山小四郎秀綱、近藤綱秀庶子、藤岡山城、石島主水等。
これを攻めるのは豊臣方、結城晴朝(小山秀綱の弟)、結城秀康、皆川某、大田原の軍勢等である。

短いながらも熾烈な戦いが行われ、結城勢による付け火の混乱の中
小山秀綱は榎本城を放棄し埼玉柳生へ落ち延びた。

この後を補填する二つの書物がある。
「戦国人名事典」…石島主水助、結城の臣。榎本城攻めに功あり。勧状を頂く。
「乗国寺文書」…石島主水、小山の臣。榎本攻防で功あれど落城時主小四郎と落ち延びる。後に埼玉柳生に住まう。

主水(´・ω・`)「マイナーですいません・・・」
453人間七七四年:2009/10/12(月) 01:52:56 ID:I75LrOTZ
猫利雪兎のちょっといい話。

猫利太郎右衛門尉は後北条家臣、玉縄衆であった。『小田原分限帳』では、永禄二年(1559)で126貫文。
猫利氏は相模三浦氏の家臣であったが、主家三浦氏が北条氏に滅ぼされた後、北条氏に降伏。その後は玉縄衆の中堅として活躍した。
猫利の父、三郎左右衛門は永禄七年(1564)の第二次国府台合戦で遠山景綱に従って奮戦したが敵将正木大膳介に討たれ、猫利も右目を負傷した。
冬の代田の屋敷で療養中、猫利は庭に迷い込んだ、白い兎を目に捉えた。
獣にでもやられたのであろう、その兎は血だらけであった。
兎も猫利に気付いたのか、後ろ足で立ち上がると、背を伸ばし猫利を敵とでも見做したのか気丈に威嚇を掛けてきた。
猫利は「こんな兎でも強大な敵に向かおうとしてるのに、俺はなんて弱いのだ」と
その兎に敬意を示し、気付かぬ内に落涙をしていた。
この後、猫利号して「雪兎斎」。
猫利は勇猛果敢で知られ玉縄衆筆頭格となるが、北条幻庵と性格の不一致で衝突を繰り返し、天正元年(1573)には北条幻庵と殴り合いの抗争にまで発展。
小田原の北条氏政が介入して雪兎は蟄居を命ぜられたが、後に復帰した。
天正13年(1585)2月、またも幻庵批判を北条氏勝に注意されたが雪兎はこれに従わず、
北条氏政の怒りを買って切腹を言い渡され、同月25日、自刃した。
454人間七七四年:2009/10/12(月) 01:55:59 ID:ucYsjlCF
まとめにすでにあるのにも投稿者の完全な作り話のやつとかあるんかな
455人間七七四年:2009/10/12(月) 02:05:53 ID:FfJRXQE3
とりあえずオレが知る限りでは>>453みたいな完全創作はないな
456人間七七四年:2009/10/12(月) 02:08:58 ID:H9ZXPW9z
>>423
みたいな気の付く蘭丸話は多いのかな
何で読んだか創作か忘れたけど、切った爪を数える話とか
457人間七七四年:2009/10/12(月) 06:31:10 ID:tvP9wbyU
>>453
たしか、下のほうに戦国完全妄想話みたいなのがあるので、そちらへ
>>456
蘭ちゃんはそういう神経質な話が多いよね
刀の釘目の数とか

あとは蜜柑を盆に載せて運ぶときに、信長公が
「おい、危ないぞ」といったので、わざと転んで主君のいったとおりになった
という姑息な演出とか

周りの小姓仲間には主君の面目を保つためとかいったそうだが、
そこまでいくと姑息としか思えんわw
458人間七七四年:2009/10/12(月) 08:20:33 ID:QJaOeZYE
蘭丸の場合、どんな人間だったかすらわからないまま死んだから、
後から後へとどんどん話が作られていったんだろうね
ただ、蘭丸が当時から評判の美童ってことが創作者の気をひいたんだろうなw
459人間七七四年:2009/10/12(月) 09:47:49 ID:nhnOIzl0
谷口克弘の『信長の親衛隊』で少し触れられていたが、乱丸には信長の使者として
その意思・命令を伝える、あるいはよそからの使者を応対して信長に取り次ぐ、などの
仕事の形跡があるが、範囲は狭く、対外的にはほぼ無名だった模様。年齢を考慮すれば
抜擢を受けたといっていいが、そう重用な仕事もなく、史料上確認できることは、
乱丸はあくまで有能な秘書団の中の一人でしかなかったと。

もう一つ、乱丸が出てこない別人の逸話が、後代の書物では脚色されて乱丸の逸話に
されていた、という話もある(>456の爪の話など)

こうして創作されていった乱丸話のいくつかが、19世紀に編纂された『森家家譜』に納められた。
460人間七七四年:2009/10/12(月) 12:19:05 ID:00pi+FQq
長可や忠政をキャンペーンしてやればいいのにw
461人間七七四年:2009/10/12(月) 13:06:08 ID:1UtImktS
現代ではあらゆる武将が女性にウケる形に再編纂されている最中です
462人間七七四年:2009/10/12(月) 13:12:19 ID:UqoujrQi
鬼武蔵を女性に受ける形に・・・どうすりゃいいんだorz
463人間七七四年:2009/10/12(月) 13:17:29 ID:vh9PhgrK
>>462
ピザが西洋槍持ったり
DQNが筆頭で珍走団だったり
次男が親方様殴ったり
キンカンがギニアスだったり
愛宕が愛民で無敵と叫んだり
おじいちゃんがオクラだったり
兄貴が海賊で錨を持ったり
宗派が脳筋だったり
脚色されるワケですね。わかります。
464人間七七四年:2009/10/12(月) 14:14:49 ID:edAhLJ5F
ときどき話を投下してるが
ここの住人も、板の住人も、まとめ見てる人もめちゃくちゃ詳しい人いるから
特に自分が地元じゃないとこの話なんかはいつも間違いが無いかドキドキして投下してるよ
だからつい訳をする時も固い文調になりがちだなあ
遊びを入れるにもセンスと知識が問われるよね
465人間七七四年:2009/10/12(月) 14:28:56 ID:dE2OvxKp
>>464
滅茶苦茶詳しくない人もいるんだから気負わないでいいと思うけどね
たまにあれこれ長文連投で突っ込み書いてくる人がいるけど、だいたい直後に専門スレ挙げられて移動しろって言われているし
466人間七七四年:2009/10/12(月) 14:32:35 ID:4lkTpg3g
>>463
なにそれどういうこと?

>>464
投下乙です
緊張せずに投下してくれればそれでいいと思う
文章を分かりやすく伝えるのは大変だよなー
467人間七七四年:2009/10/12(月) 15:04:57 ID:IdJB3MGE
流れに乗って

ある時、信長が私室で一人でいる時「誰か有る!」とのたまった
近習の一人が「何の御用でございますか」とやって来たが
信長は黙ったまま、「もういい」とその者を下がらせた

またしばらくして信長が「誰か有る!」と大声を上げ
別の近習がやって来たが、これまた何も命じずに下がらせた

するとまたまた信長が「誰か有る!」と声を張り上げた
さらに別の近習がやって来たが、これも何も命じずに下がらせた
しかしこの近習は前の二人と違い、退出する前に出入り口の脇に落ちていた
小さなゴミをそっと懐に入れてから出て行った

実はこれは信長がわざと置いた物で、それ以降重用されるようになった
ゴミを拾った近習こそ森蘭丸である

という蘭丸ちゃんがらみの頓智話
468人間七七四年:2009/10/12(月) 15:14:14 ID:iRiv0J22
>>466
戦国BASARAというゲーム内の武将アレンジ。
時代考証も史実も一切無視している。
469人間七七四年:2009/10/12(月) 15:14:51 ID:qUt2BSnD
何かの本で読んだけど
信長の小姓たちの間だけで伝わる秘密の飾り紐が
あったって本当かね?
結び目の数や色で、その日の信長の機嫌を教え合うという。
御前での私語が禁止だったから…
470人間七七四年:2009/10/12(月) 16:11:25 ID:5MWVHbDa
>>466

ちょっと悪い話スレに貼られてた↓を参照

ついに公職選挙にもゲームキャラが登場! 宮城県知事選挙のイメージキャラクターに『戦国BASARA』の伊達政宗
カプコンは、10月25日に宮城県で行われる「宮城県知事選挙」の選挙啓発イメージキャラクターとして、
同社の人気ゲーム『戦国BASARA』に登場する「伊達政宗」が起用されたことを発表しました。

画像 http://www.inside-games.jp/imgs/zoom/111352.jpg
画像 http://www.inside-games.jp/imgs/zoom/111353.jpg
動画 http://to-hyo.com/about-cm.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091008-00000004-isd-game
471人間七七四年:2009/10/12(月) 16:22:37 ID:5lJfNZ36
>>469
ありそうな話しではあるけど、信長の機嫌が日替わりだとは思えないな。
秒単位で変わりそうだけど・・・
472人間七七四年:2009/10/12(月) 19:20:51 ID:dnu17r2x
>>462
イケメンでツンデレでブラコンにすれば受けるよ!
473人間七七四年:2009/10/12(月) 19:24:29 ID:SeDUZJQA
474人間七七四年:2009/10/12(月) 19:38:21 ID:LTpM9LU1
>>473
ひ、兵部どのー!
475人間七七四年:2009/10/12(月) 19:53:52 ID:Nzyspqjv
鮭様の論功考証

長谷堂決戦の後の恩賞配分

寒河江城主 寒河江良光 27,000石
(旧・大江氏家臣。主家は義光に滅ぼされている)

野辺沢城主 延沢康満 20,000石(義光の娘婿、延沢満延の子)
(父満延は元天童家臣反義光の天童八楯筆頭)

長崎城主 里見民部 17,000石
(旧・上山家臣。義光に上山城主の権限と引き換えに最上家に寝返る)

真室川城主 鮭延秀綱 11,500石
(旧・小野寺家臣。長谷堂城戦の殊勲者)

東根城主 東根景佐 12,000石
(反義光の天童派。義光に敗れ下る)

長崎城主 中山朝正 7,000石
(反義光の天童派。義光に下る)

八柏城主 谷柏直家 4,000石
(反義光の安東派。義光に下る。)

を含め
一万石以上の家臣が16人、
一栗高春など千石以上が63人、
大井五郎など100石以上が850人いたという(「最上家伝覚書」)。

(`・ω・´)「みんな良くやってくれたし、これくらい当たり前だお」
家臣「して、殿の直轄領は?」
(´・ω・`)「あ・・・」

友達君主と呼ばれた鮭様のいい話。
476人間七七四年:2009/10/12(月) 19:56:50 ID:+4lba+Xg
最上話はもうちょっと投下するペース落としてくれ。
投下すんなとは言わんけど。
477人間七七四年:2009/10/12(月) 19:57:37 ID:4Raj1BM6
注文を付けれる立場なのかお前は?
478人間七七四年:2009/10/12(月) 20:01:47 ID:1RxFSorh
谷柏直家は山形直臣の一人じゃないのんか
479人間七七四年:2009/10/12(月) 20:04:32 ID:Nzyspqjv
>>478
八柏と混同してますた。すいません。
480人間七七四年:2009/10/12(月) 20:42:51 ID:/BIviHO8
>>466だがみんなありがとう
そんな意味不明なソフトがあるんだな
時代考証無視って…戦国である必要ないんじゃないかと思うが

>>475
義光ってどこか抜けてるw
481人間七七四年:2009/10/12(月) 21:07:36 ID:vGGDAsvw
どうでもいいけど堀とか蒲生とか宇喜多とかこのスレで部下思いのいい話の残ってる
一代で急成長した大名家って大概深刻な家中内紛が二代目あたりで起きるのな。
実力と実績と部下への配慮のすべてのハードル高くて二代目はきつかったろう。
482人間七七四年:2009/10/12(月) 21:29:14 ID:cjlIkcji
>>480
百聞は一見にしかずなので公式サイト見てきたらどうだろう
http://www.capcom.co.jp/sengoku/
483人間七七四年:2009/10/12(月) 21:47:25 ID:5MWVHbDa
>>481
それ考えると、長政頑張ってるよな、身内からの評価が著しく低いけれど。
484人間七七四年:2009/10/12(月) 21:56:38 ID:+4lba+Xg
>>475
だからかしらんが、義光の生活レベルは五千石程度におさえられていたそうな。
485人間七七四年:2009/10/12(月) 22:03:49 ID:t7QmqS1x
これは朝鮮での話。加藤清正に仕えていた男が陣屋で眠っていた
ところを虎に襲われた。男は襟上を咥えられて山に連れていかれてしまう。

さて、虎はしばらく男で遊んでいたが、やがて眠ってしまった。
男は虎が起きたらもうお仕舞いだと、半ばあきらめていたが、辺りを見回して
藤葛を見つけた。

閃いた男は葛を食いちぎると、それで虎のニャン玉を擦ってやった。
すると虎はよく眠ったので、一方の葛でニャン玉を括り、一方を松にしっかりと
結んで、その場から逃げ出した。これに気づいて目を覚ました虎は勢いよく
跳び出して…

虎「ギェ――――ッ!」

死んでしまった。このことを知った加藤清正は大いに喜んで褒美を与えた
ばかりか男を武士にして姓を与えたのである。

清正「どのような姓にするか考えなければならんな。
   うーん……よし、今日よりお前の姓は『きん玉』だ!」

きん玉侍、誕生の瞬間である。
486人間七七四年:2009/10/12(月) 22:04:54 ID:UTgLdO1o
美濃の小領主、妻木雅楽介の郎党、那須作蔵の下人に、牛太郎と言う若者が居た。

この牛太郎、まるで童子のように物を恐れる性格であった。
齢は18になったにもかかわらず、暗い場所には一人で行くことも出来ないほどの臆病者で、
回りからも散々馬鹿にされていた。
が、作蔵は何故かこの牛太郎をかわいがっていた。

さて、関ヶ原の決戦まで一月あまりとなった慶長五年八月、東軍の攻勢は美濃における
東軍派の諸勢力も活性化させ、同月十二日には作蔵の主君妻木雅楽介も、
西軍方田丸直昌の城、岩村城を攻め立て、大きな衝突となり、この日は一旦引き分けた。

その翌日の事。

那須作蔵の父、忠左衛門は息子を呼んで言った。
「十二日の競り合いで、味方の兵士の多くが手柄を立てたが、作蔵、其の方が
何の働きもないのはどういうことだ?
今日はどうしても良き敵を討ち取り、主恩を奉ずるのだ!」

「わかりました。」

作蔵はそう言われ、この日の合戦、突出して先手を進んだ。

さて、この頃の武士は一人で戦場に出るわけではない。
士であれば最低限、騎馬の士に数人の徒歩の下人がつくユニットで参陣する。
この時の作蔵も、自身は騎乗し、その下に数人の下人が武器を持って付いている。
その中には、あの牛太郎の姿もあった。

『あんな臆病者が戦の役に立とうものか』そう陰口を言うものもあったが、作蔵は気にせず、
牛太郎を従わせたのだ。

さて、先手を駆ける作蔵は敵将を発見、采配を振り回し士卒に下知をしている、
どうやら敵の物頭であるようだ。これは大物である。

作蔵はこれに駆け寄ると馬上で格闘となり、やがて二人は組みつき、二人ともに馬から落ちた。

それでも二人は互いに首を取ろうと組討ちを続けていたが、敵は存外に力強く、ついに作蔵は
押さえつけられ、今や首を掻き切られんとした、その時である

「うわああああああああああああ」

作蔵の下人が一人、物凄い勢いで駆けてきた。牛太郎である。

彼は敵に体当たりをすると、そのまま作蔵から引き剥がした。
これで身の自由を得た作蔵、見事この敵の首を討ち取った。

すると、この男がここ周辺の指揮官だったらしく、敵軍はたちまち崩れ、戦は妻木方の
全面勝利となった。

作蔵がこの日の最高の殊勲となった事は、言うまでもない。


ちなみにこの那須作蔵、この時の働きが見事であるという事で、後に蜂須賀至鎮に特に請われ、
その家臣になったという。
記録には残っていないが、勇士として蜂須賀家へと赴く、晴れがましい那須作蔵一行の中に、
牛太郎の姿もきっとあったことであろう。

臆病者の下人、主人に功を成させる。のお話。
487人間七七四年:2009/10/12(月) 22:16:22 ID:PqYsTsnD
>>481,483

一、家臣と一門は、ともに面倒を見てやれるよう思慮すべきである。やたらに新参者など
欲しがるのは、無用だ。
(中略)
一、何事も思うようには行かぬものなので、堪忍できる分別を持たねばならない。
一、一人では、何をするにも無理がある。だからと言って、家臣をこき使うのも無用だ。
一、ワシはあと五年十年で死ぬだろうが、前にも言った通り盛大な弔いなど一切いらぬ。
一門・家臣を慈悲を持って見守り、母に孝行し、上様に忠を尽くせば神頼みさえ不要である。

善人だろうが悪人だろうがいつかは死ぬが、ワシは死んでから人から「善い人だった」
と言われれば、恐れるものはない。
とは言え、そこに至るまでの心境など口に出来るものではないので、お前はお前なりに
心構えを工夫するのが大事だろう。

文禄二年八月九日   長政殿へ   官兵衛
======================================
以上は高麗在陣の時、父上(官兵衛)がオレに送ってくれた書状で、今までわが手元に
取り置いたものだ。今度はお前の心得となるよう、渡し置く。
ここに書いてある訓戒に従い、何事も覚悟の上、行動するのが肝要である。

元和四年七月九日   忠之殿へ   長政


要はどれだけ先代に反発せずその忠告を守れるか、「偉大な先代」と比較する家臣団に
対してツッパらず、うまく配慮してやっていけるかと。
……黒田さんちは極端な例だし、訓戒継いだ忠之は家臣とうまくやれず、黒田騒動を
起こしてますが。
488人間七七四年:2009/10/12(月) 22:16:30 ID:fWCY/8vy
489人間七七四年:2009/10/12(月) 22:58:43 ID:Mq+v6TAB
又兵衛「……」
490人間七七四年:2009/10/12(月) 23:25:01 ID:vcJv3Ha7
>>487関係で
ただし黒田長政としては思うところもあったようで、息子に対する手紙で
「うちは親父が大雑把だったので家中の連中も行儀が悪い。
今時は多少バカでも立ち居振る舞いが立派な方がウケがいいもんだ。
お前はしっかり行儀作法の勉強をして弟たちのことも躾けるように。
いいか、じいちゃんのいいところはな、真似しようとしてもそう簡単に
まねできるもんじゃない。
だからせめて悪い所は似ないようにしろ」
とか送っている。
ただし本人の行儀作法については
「お前がさー座敷に伏せる癖があるのって俺のまねしてるんだよな。
でもあれダメだから直せよ。
あ、父ちゃんはいいのいいの、もうね、年寄りだし生まれたのもいい時代
だったからね。
お前は今が大事な時期なんだからしっかりしろよ!」
と自分を棚に上げまくったことを書いてたりする。
ていうか黒田長政、手紙で子供に顔しかめないように注意しすぎワロタ
そうだね子供の頃にしかめっ面する癖がつくと直らないね!

ttp://image02.wiki.livedoor.jp/n/4/nobunaga_1534/b81d4426cdef7fad.gif
491人間七七四年:2009/10/12(月) 23:36:13 ID:amZ2/2Ih
>>481
家臣団に譜代が少なく、必要以上に気を使った結果じゃないか?
堀さんは細々と大名として生き残ったが、最上・蒲生・宇喜多はきれいさっぱり消えたしねえ。
492人間七七四年:2009/10/12(月) 23:37:57 ID:UqIi9x53
鮭ネタいらん。わざわざ投下するような内容じゃないだろ。
493人間七七四年:2009/10/12(月) 23:40:59 ID:GiOvYxKc
>>452
逸話ではないけれど

連休中に北関東いって北条氏北関東の拠点で、北条氏邦の居城・鉢形城跡に行ってきたけれど
埼玉・群馬の県境にあって荒川ともうひとつの川に挟まれた中々堅そうな城跡だった

資料館で展示してあったものを見たら、関東征伐時に三千五百で籠り
前田利家・上杉景勝主力の北国勢三万五千に攻められ
十倍の豊臣連合軍に約一カ月持ちこたえた末、開城したとのことだった

城主の氏康の四男・氏邦は利家に助命され、氏直と一緒に高野山に行くことなく
能登に領地を貰い金沢で亡くなったとの事だった


特別展で何故か、真田昌幸展が開かれていて昌幸の武具が展示してあって
個人的にはそちらの方が面白かった
494人間七七四年:2009/10/12(月) 23:41:32 ID:4Raj1BM6
>>490
そういやしかめっ面だなw
495人間七七四年:2009/10/12(月) 23:49:38 ID:lFRWKZFb
>>485
この話は短編小説にもなっていて、
その話では昭和初期に九州の金たま姓の人が苗字をかえてもらえるよう裁判所に訴え出たとか言う逸話もある。
496人間七七四年:2009/10/12(月) 23:55:42 ID:4Raj1BM6
ある武将が鬼のような働きをしたので「鬼」って名字を授かったってのをテレビで見たことがあるな
現代でも子孫がいて節分は「鬼は内、福は内」ってやってるとか
497人間七七四年:2009/10/13(火) 00:06:10 ID:1ITmBOR5
>>446
スーパーヒーローの首をあげてしまった者の悲劇だな。
越前松平家の700石取り侍頭なのに「一介の」とか「下級の」とか
「あいつ真田を討ち取って調子乗ってるな!!」とか。
498人間七七四年:2009/10/13(火) 00:08:56 ID:tBiTgSek
>>493
「二人の安房守展」だね
どっちも安房守で、しかも名胡桃城問題の当事者だからって理由の展示会だよな
俺も気になってるんだよなあ
499人間七七四年:2009/10/13(火) 00:45:55 ID:lpTycij/
>>475
あえて書かなかったのか抜けてるのか
大山城主 下吉忠 10,500石
(元上杉家臣。義光に下る。)
500人間七七四年:2009/10/13(火) 01:05:15 ID:KviRhaAW
>>498
こう言う展示はどこで調べればいいのかな?
501人間七七四年:2009/10/13(火) 01:19:41 ID:0unHnAAY
>>500
地元の新聞とかローカルニュースとかで知ったよ
後、図書館行くと県内の特別展のチラシとか置いてある
遠隔地の人はネットとかで情報収集ができるんじゃないかな

鉢形の特別展はあくまでオマケみたいなものだったから
北条氏に興味あったら小田原で、真田見たかったら長野行って専門的な場所の方が
展示物豊富でいいと思う
502人間七七四年:2009/10/13(火) 01:22:35 ID:YR4zQCpX
>>500
まとめにでてた

開館5周年記念特別展「北条安房守と真田安房守」
http://www.town.yorii.saitama.jp/modules/xfhachi/article.php?articleid=48

面白そうだ。
503人間七七四年:2009/10/13(火) 01:43:04 ID:KviRhaAW
>>502
ありがと!寄居は関越のICがあるし行ってみたいところだ。
504人間七七四年:2009/10/13(火) 07:20:30 ID:Ld1Fyqcv
最上ネタ執拗に書く基地害常駐してるなw
つうか石高合わねーから捏造じゃんw
505人間七七四年:2009/10/13(火) 08:40:04 ID:C+o6Q2Xa
いやもうなんか自演にしか見(ry
506人間七七四年:2009/10/13(火) 09:16:35 ID:U5JuQwB9
年貢払えない奴はこのスレ来るなよ
507人間七七四年:2009/10/13(火) 09:34:24 ID:PFz4K7QE
>>497
最期まで豪壮に闘って散りましたの方が信繁の格も上がるだろうにな。
逆に言えば最期は小物に追い首・落ち首されました、のほうが徳川にとって都合が良かったのかもしれん
508人間七七四年:2009/10/13(火) 09:47:28 ID:x1xucpAu
>>505
自演に見えるからアンチも基地も出てけと思う
509人間七七四年:2009/10/13(火) 13:38:19 ID:GZNoct+N
>>504
おまえが何も言わなきゃ最上ネタ書かれないのになw
510人間七七四年:2009/10/13(火) 13:41:44 ID:+IlpJG1J
単発ID連発とか
511人間七七四年:2009/10/13(火) 14:46:22 ID:7iUV/mrJ
あるとき、安藤直次が徳川頼宣にこう言った。

「我が藩には彦坂九兵衛なる者がおりますが、私は奴が
大嫌いです。奴が私の家に来たことは一度もありませんし、
私が奴の家に行ったこともありません。それだけ我らはそりが
合わないのです。

…が、奴は優れた者だと思います。絶対に殿のお役に立つこと
でしょう。ですから、九兵衛をよく重用なさいませ」
512人間七七四年:2009/10/13(火) 15:47:00 ID:N9Bem7fO
かっこいいわあ
公と私をきっちり使い分けられる人って凄いな

三成もこれくらい器がでかければ
513人間七七四年:2009/10/13(火) 16:34:46 ID:PM04I4wk
三成が個人的な好悪で排斥・失脚させたなんてあったっけ?

政治的な対立はそりゃあっただろうけど。
514人間七七四年:2009/10/13(火) 16:42:05 ID:tBiTgSek
慶長19年10月、江戸参勤のため米沢を発った上杉景勝に徳川秀忠から
豊臣秀頼討伐の兵を上げよとの命が届いた
景勝はまずはとりあえず江戸の手勢を率いて上洛すると、
米沢の直江に命じて本国の兵を整えさせて西上させた
その数騎馬350騎、雑兵は約9000ほど

そんな上杉の兵の中に、坂田采女義満と、渋江熊蔵という二人の信濃侍の姿があった
いずれも出身は信濃の高井郡須坂の同郷仲間である

二人は冬の陣でも有数の激戦地鴨野表の戦いに参加した
そして坂田采女が敵将穴沢盛秀(秀頼の槍術の師)を討ち取る手柄を上げた
ところが渋江の方は、うまいこと敵に遭遇することが出来ず、
手柄を得ることが出来なかった

実は以前から上司である直江に叱責を受けていた渋江は、
この戦で手柄をあげ汚名を晴らすことに賭けていたのだ
すっかりがっかりとしている渋江を見た坂田采女は、
自分が挙げた穴沢の首をこっそりと渋江に手渡した

「ひとまずはこの首で汚名を晴らし、またいずれ本物の手柄を立てれば良いではないか」

一旦はそんな坂田の申し出を受け、喜んでその首を受け取ったものの、
渋江の心は晴れなかった
坂田の心遣いはありがたかったが、しかしこれは本当の手柄ではないのだ

結局渋江は、実検の際に、この首を討ち取ったのは本当は
坂田采女であるということを正直に言ってしまった
だから恩賞はどうか坂田にくれてやって欲しいと申し出たのである

この話を聞いた秀忠は、渋江の実直さと坂田の心意気を誉め称え
両名に恩賞を渡したということだ
515人間七七四年:2009/10/13(火) 17:06:14 ID:N9Bem7fO
>>513
公私混同と別なんだけど
なんか三成って人を褒めたりおべっか使わないイメージだったもので
516人間七七四年:2009/10/13(火) 20:03:29 ID:FTh5AfDa
>>473
   鬼武蔵
    ↓
    敵
    ↑
  ひこにゃん
517人間七七四年:2009/10/13(火) 20:07:34 ID:vskUhHZC
   鬼武蔵
    ↓    敵→
  ひこにゃん
518人間七七四年:2009/10/13(火) 20:15:03 ID:YR4zQCpX
>>517
      |:::::::::::::::::::::::::       |:.:.:.!. : . : |,ィ
        !::::::::::::::::::::       l:.:.:.| . ://!
       i:::::::::::::::::      ,,-''"゙゙゙゙゙"'' / l  かかったなマヌケ
         !:::::::::::::    ,,,r'.. r''""ゞ、  ヾ
       |:::::::::,,-''''"" ';:::ミ ;;;,,  〉   .:ミ
          i::::;:'      .::ミ:::..      .::ミ                    →鬼武蔵
        レ':.    , '""''-,,_  てlフ=====i~i=ニニ0
        ミ:::   ミ      )ニー'"tュi三三iミ'"ゞ二≡≡ニニ二二()
       ミ:::    ''""ヽi i i j'_ノノーi・ ̄二,ミ  ミ──’
       ミ::   、    "'''"ミ ̄ヽ └─''"""'''''"
      彡:.    ヽ:.    '"⌒ヽ::::ヽ \"'-,; . : ."''-,,_
       ヘ:::..   ノ::..     .:::t-、_::ヽ  \:."'-,, . : . :"''-
       /i,,- t -<;;;;、;;;;、,,、,、;;、;;;i_ゝ::::ヽ  \:.:.:"'-,,. : .
      / ゙''ー-゙ー'::::::::::::::::::::::::::::::    ::::::ヽ   \:.:.:"'-,,:
     /     .:::::::::::::::::::::::::::::      :::::::ヽ    \:.:.:.:.:
    /    ....:::::::::::::::::::::::::::::         :::::::ヽ     \:.:.:.
519人間七七四年:2009/10/13(火) 20:36:44 ID:PzcopdUO
鬼武蔵ー!逃げ・・・

いや、やっぱりどうぞ。
520人間七七四年:2009/10/13(火) 20:38:02 ID:jUWBzfJq
個人的な好悪かどうかは知らないが、堀の年貢取り分を上杉がかっぱらっていったのは三成との協議の上なんだよな。
公平無私ってこともないんじゃないか。
521人間七七四年:2009/10/13(火) 20:54:20 ID:tBiTgSek
三成は別に本人が公正にやってないつもりはないんだが
ちょっと視界が狭くて独善的なところがある自信家だから、
何かの仲裁をしたりすると、自分が正しいと思った方の話だけを聞いて
それで判断して決定を下してしまうところあるよね
結果その仲裁した相手の一方からは感謝されるけど
もう一方からは本来の喧嘩相手以上に憎まれてるような気がする
悪い奴だとは思わないが一緒に仕事はしたくないなあw
522人間七七四年:2009/10/13(火) 20:56:41 ID:YR4zQCpX
まあ>>518見たいなのを投稿している俺が言うのもなんだが、それ以上は

【治部】石田三成総合スレ 5【佐吉】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251481680/

こっちでやろうや。
523人間七七四年:2009/10/13(火) 21:02:05 ID:SKli8bKN
>>122やっぱり最後は「サクセスブロッケン!!!!!」だろ

146 名無しさん@実況で競馬板アウト New! 1575/06/01(日) 15:22:52 ID:FWcUp0c/0
出陣キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

武田勝頼、めちゃ落ち着いてる。天下人の雰囲気。お館様の三方原の時みたいだ!!

161 名無しさん@実況で競馬板アウト New! 1575/06/01(日) 15:38:24 ID:FWcUp0c/0
よし、合戦じゃーーーーー!!!!!!!

武田勝頼の天下統一の幕開けじゃーーーーーーーーっっ!!!!!

163 名無しさん@実況で競馬板アウト New! 1575/06/01(日) 15:39:52 ID:FWcUp0c/0
武田勝頼のための法螺貝キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

164 名無しさん@実況で競馬板アウト New! 1575/06/01(日) 15:41:24 ID:FWcUp0c/0
よし!武田勝頼、長篠城包囲!見て!これが天下人の城攻め!!

165 名無しさん@実況で競馬板アウト New! 1575/06/01(日) 15:41:59 ID:FWcUp0c/0
武田勝頼、絶好の魚鱗の陣!!

166 名無しさん@実況で競馬板アウト New! 1575/06/01(日) 15:42:51 ID:FWcUp0c/0
織田信長、柵の中でビビってるぞ〜、ワクワク。

168 名無しさん@実況で競馬板アウト sage New! 1575/06/01(日) 15:43:25 ID:FWcUp0c/0
さぁ、武田騎馬軍団、止めをさすがいい!お見せっ!信長の最期を!!

169 名無しさん@実況で競馬板アウト New! 1575/06/01(日) 15:43:52 ID:FWcUp0c/0
サクセスブロッケン!!!!!
524人間七七四年:2009/10/13(火) 21:10:03 ID:e1RwRKx0
>>523
           ___   ━┓
         / ―  \  ┏┛
        /  (●)  \ヽ ・
       /   (⌒  (●) /
       /      ̄ヽ__) /
.    /´     ___/
    |        \
    |        |

      ___    ━┓
    / ―\   ┏┛
  /ノ  (●)\  ・
. | (●)   ⌒)\
. |   (__ノ ̄  |
  \        /
    \     _ノ
    /´     `\
     |       |
     |       |
525人間七七四年:2009/10/13(火) 21:11:49 ID:PzcopdUO
武田実況は現地神のカキコがどんどん減っていくんだろうな・・・
526人間七七四年:2009/10/13(火) 21:12:26 ID:SKli8bKN
>>524すいません誤爆です。忘れてください。
527人間七七四年:2009/10/13(火) 21:15:03 ID:Ia2W4zRa
最早、逸話の信憑性を問う事が虚しくなる男

深甚流開祖 草深甚四郎時信

最初に言っておくが、実在の剣豪である。
元は百姓の子であったが、幼少の頃から剣術に夢中。ただし独学。
13歳で家出して剣術修行に出、冨田流を学んで17歳で帰ってくる。
この時点ですでに一流の兵法者であったという。
後に伝説の剣豪塚原ト伝と仕合い、一勝一敗(槍で勝ち、剣で負ける)

ある時、山伏が立会いを望んで訪問したが、甚四郎は不在だった。
すると山伏は散々言いたい放題わめき散らし、引き上げたという。
帰宅してこれを聞いた甚四郎は、たらいに水を張った。
そして、水面を一刀両断した。
その瞬間、村外れで山伏の体が真っ二つになった。

戦国の剣豪は数多いが、こんな無茶な逸話が残ってるのは彼だけだろう。

528人間七七四年:2009/10/13(火) 21:18:32 ID:/1POQ7KB
うぇっ、どんな術を使ったんだよ
無茶すぎるぜw
529人間七七四年:2009/10/13(火) 21:19:11 ID:vaS76y3P
武勇伝通り越してもはやホラーだろこれw
530人間七七四年:2009/10/13(火) 21:25:07 ID:l6gkAGdf
むしろ現実だったら卜伝先生がすげぇよw
531人間七七四年:2009/10/13(火) 21:43:25 ID:jUWBzfJq
なんだ、たらいの化け物だったのか。

鬼武蔵といい勝負ができそうだ。
532人間七七四年:2009/10/13(火) 22:25:00 ID:eGO1S27K
甚四郎、むしゃくしゃしてたらいの水を斬る。
同時刻にたまたま別の人間が山伏を真っ二つにした。

うむ、これなら話に全く矛盾は無いな!
533人間七七四年:2009/10/13(火) 22:32:26 ID:GxrQ2wiF
甚四郎、むしゃくしゃして山伏を斬る
帰宅後それを誤魔化すためにタライも切った

だったりしてなw
534人間七七四年:2009/10/13(火) 22:37:17 ID:TDHrAJJw
>>527
一刀両断って
その刀はもしや剛刀・風林火山
535人間七七四年:2009/10/13(火) 22:42:25 ID:d9awLYq9
もはや剣豪とか武芸者とか、そんなレベルの話じゃないなw
536人間七七四年:2009/10/13(火) 22:52:05 ID:DF3UypCQ
>>527
柳生石舟斎「あ、ありのままに起こったことを話すぜ…
天狗だと思って斬ったら岩だった…信じられry」

http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/yagyu.html

戦国の剣豪にはよくあること。
537人間七七四年:2009/10/13(火) 22:58:48 ID:YR4zQCpX
>>536
上泉信綱「石舟斎?あなた疲れているのよ。」
538人間七七四年:2009/10/13(火) 23:09:11 ID:SpOh1bmC
蘭丸と爪で思い出したので、遅ればせながら。

ある日、私室で爪を切っていた信長、切った爪を捨ててくるように蘭丸に命じた。
蘭丸が退出した後、別の近習に命じて蘭丸の後をつけさせた。

近習「城の堀に捨てておりました」

爪を燃やすと気が触れる、爪や体毛が呪いの材料になる、と信じられていた
時代である。
信長自身がが信じていたかは不明だが、燃やされたり他人の手に渡ることが
ないように処分した蘭丸の行動に、信長は満足した。

以後、蘭丸はさらに重用されるようになったという。
539人間七七四年:2009/10/13(火) 23:18:54 ID:/1POQ7KB
あーもうこの2人なんかムカツクw
言い表せないけどなんかムカツクwwww
540人間七七四年:2009/10/13(火) 23:20:18 ID:PM04I4wk
>>520
>堀の年貢取り分を上杉がかっぱらっていったのは三成との協議の上なんだよな
初めて聞いた。
541人間七七四年:2009/10/13(火) 23:27:26 ID:YR4zQCpX
>>540
そう言う説は確かにある。
つーか、江戸初期くらいの噂話程度の記録だと、堀の年貢をかっぱらったのも、蒲生氏郷を殺したのも、
上杉が会津に移封されたのも、全部兼続と三成の共謀。

大河はアレだが、兼続と三成は当時、確かに仲が良いと見られていたらしい。
542人間七七四年:2009/10/13(火) 23:40:02 ID:hbegLRly
>>527に便乗して……

剣豪魔人マツヤマ君

細川忠興の子、細川忠利の配下に松山主水大吉という男がいた。
この男の祖父は同じく通り名を主水といい、竹中半兵衛とは母方の従兄弟にあたる血筋であり、
あちこちで働いてから最後には加藤清正に仕えたという中々の武人であった。
さて、この孫の方の主水だが、実は祖父から「二階堂平法」なる兵法を受け継いでいた。
これは、かの最古の剣術である中条流とも関係あるとされる流派で、
開祖が中条流開祖兵庫頭と共に慈恩について学んだという伝説もある非常に古い流派だ。

彼には、こんなエピソードがあった。
主水の主君、細川忠利が江戸に出仕したときのこと。
江戸城に登城しようとすると、各地から集まった大名行列が作る大渋滞に巻き込まれてしまった。
この大混乱に困り果てる細川家だが、この事態に一人の男が立ち上がった。
松山主水大吉である。
なんと彼が行列の先頭に立つや、他の大名行列はおろか、整理係の侍までもピタリと動きを止めてしまった。
これによって、細川家の一団は見事に順番破りをして中に入っていった。

そう、この金縛りの技こそ、二階堂平法の奥義「心ノ一法」である。
いや、なんかもう剣法と言うより超能力か魔術のようだが、主水はこの術を試合でも平気で使ったものだから堪らない。
案の定、恨みを買って最後は刺客に殺されることになる。
無論、ただで死ぬ主水ではない。
後ろから襲ってきた相手を金縛りにして返り討ちにしたり、最後に襲ってきた刺客に術をかけて相打ちにしたりしている。

ただ、残念なことに息子の代でこの二階堂平法は潰えることになる。
数百人規模の人間を一度に金縛りにする技。
残っていれば、幕末でさぞ活躍したであろう……
543人間七七四年:2009/10/13(火) 23:41:32 ID:DF3UypCQ
それなんてザ・ワールド?
544人間七七四年:2009/10/13(火) 23:52:22 ID:d9awLYq9
  |l、{   j} /,,ィ//|     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ     | あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
  |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |     < 『我が藩の大名行列が細川の大名行列の前を進んでいたと
  fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人.    |  思ったらいつのまにか細川家の大名行列が前に居た』
 ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ   | 剣術だとか兵法だとか
  ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉.   | そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
   ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ. │ もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
  /:::丶'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ \____________________
545人間七七四年:2009/10/13(火) 23:52:48 ID:PM04I4wk
>>541
悪いことは全部押し付けたってわけですね。
546人間七七四年:2009/10/13(火) 23:53:48 ID:8hIVy5QQ
うむ。二階堂の顔すりゃ大概の人の動きは止まるかもしれん。
547人間七七四年:2009/10/13(火) 23:58:06 ID:N9Bem7fO
>>二階堂平法の奥義「心ノ一法」
るろ剣の鵜堂刃衛を思い出すw

>>527もるろ剣で石堂雷獣太が
昔の剣術家は飯綱使いと呼ばれていたってのを連想した
一種の修験者やみたく思われていた時期があったんかな
548人間七七四年:2009/10/14(水) 00:03:20 ID:TDHrAJJw
気術とか言う類だね
江戸時代の剣豪、正木俊充も
遠当で天井裏の鼠を落としたとか言うから
武術と言うより、ある種の異能のようなものなのかも。

ちなみに本来は密教の術で、不動金縛りなんて言うものがあるけど
それを拡大解釈して、非常に信憑性の怪しい技で、
本当に人を金縛りにするという同名の技もあるそうな。
549人間七七四年:2009/10/14(水) 00:04:25 ID:f47ATKII
>>545
逆に君の書き込みは三成擁護をすっ飛ばして信仰じみたものを感じ気持ち悪い
550人間七七四年:2009/10/14(水) 00:12:03 ID:GdOiooOk
>>545
押し付けたって言うよりも、「兼続や三成ならそのくらいのことはする」って認識が、
当時あったと考えたほうがいい。
551人間七七四年:2009/10/14(水) 00:12:20 ID:X+WmOjpm
>>547
得体の知れぬ技を使うってことで、同類にされてはいそうだな。
果心居士とかもな。
552人間七七四年:2009/10/14(水) 00:21:20 ID:CyjzmN3U
>>548
真偽未検証だが、俳優の高倉健がこの不動金縛りの達人だとか。
553人間七七四年:2009/10/14(水) 00:43:24 ID:AnRT62wS
でも、上杉も蒲生とはもめてないよな。
ほんとかどうか知らんけど、“出て行く方はもといた領地の半歳分の収入は持って行って
いい”っていう慣習があったらしいのはどうなんだろ。
出て行くときに半年分、入った先で半年分、で一年分らしい。
銀行口座のない時代、財産持ち歩くのも大変だからだろうか。

どっちにしても、堀もそんな大事なことはあらかじめ関係先と協議しといた方が
良かったかもね。
そして、あとから泣きついても「今更知るか!」って言いそうなみっちゃんではある。
554人間七七四年:2009/10/14(水) 00:48:23 ID:lxBpFst+
国替えがぼんぼん行われるのは桃山時代になってからだから
それ以前に慣習があったというのは眉唾なんじゃないかなあ

実際あちこちでもめ事が起きているし
555553:2009/10/14(水) 01:04:40 ID:AnRT62wS
>>554
もちろん国主クラスの大名の移動はそうだと思う。
とはいえ、○○家中の部将なにがしが移動でA城からB城へ、的な集団の引っ越し
てのは、鎌倉室町通じてないはずがないし。
そういうときのルールは幕府が公式に法度を作ってたのか、地域的な慣習だったのか、
なにかはありそうな気がするんだよね。

そういうルールを意識するか、いつの何を参考にするか、そもそもぶっつけでやるかで
もめ事が多発したんじゃないかと。
556人間七七四年:2009/10/14(水) 02:35:55 ID:8oF5JLdC
>>527
戸部新十郎著「秘剣水鏡」という小説に深甚流の話が載ってたが、この人白山に一晩で登り頂上付近に住む蛇と黒百合を捕ってきた、手取川を地べたを歩くように渡り、蹠を全く濡らさなかった、とかまだ不思議な伝承があるみたいだね。
557人間七七四年:2009/10/14(水) 03:29:21 ID:rWTzIWTb
>>556
波紋使いかよ
558人間七七四年:2009/10/14(水) 03:54:08 ID:/WjpNiav
水面を歩いて渉るってのはキリストもやってたなぁ。
ひょっとして深甚流ってのは、日本に渡ってきたキリストから
一子相伝で伝えられた剣法かも知れん。
559人間七七四年:2009/10/14(水) 04:15:40 ID:U8SqMYVJ
いや、剣豪とは世を忍ぶ仮の姿
その正体は忍者だったんだよ!
560人間七七四年:2009/10/14(水) 07:08:07 ID:h2ErSPmA
Oh! japanese ninja!?
561人間七七四年:2009/10/14(水) 10:23:16 ID:zBTxfqWO
Yes! HAHAHAHA!
562人間七七四年:2009/10/14(水) 10:44:08 ID:PfFG1yBF
Noob...
563人間七七四年:2009/10/14(水) 11:45:32 ID:WtkBFRHc
>>559
白山信仰は忍者と深いつながりがあるんじゃないかとも言われてるな
564人間七七四年:2009/10/14(水) 11:54:24 ID:MzgGioOm
修験者や歩き巫女から盲人まで
なんでも諜報活動させてたからね
565人間七七四年:2009/10/14(水) 12:11:55 ID:ABdA3VrY
>>556
成政たん「あ、黒百合がちょっといるのでとってきて」

527と542…こいつら人間じゃねーよw
566人間七七四年:2009/10/14(水) 13:54:22 ID:RoJUfV3h
>>553
上杉と蒲生の間では揉めてないし
豊臣方の監督官である奉行(は三成だが)も
何も問題にしてない。
つーことは三成と兼続が個人的にどうこうというより
単にホントに堀の落ち度だっただけという見方も出来るな。
567人間七七四年:2009/10/14(水) 14:04:38 ID:GdOiooOk
天文十三年(1544)、二月五日の夜、子の刻(0時〜午前2時)の頃、
土佐は長宗我部国親の居城豊岡において、不思議な事が起こった。

この城中には周囲一丈余り、高さ十余丈という、どれほどの春秋を経たかわからない
巨大な楠があった。
類稀なる楠であると、豊岡城の名物であったのだが、この時
風も無いのにこの楠が、中ほどから折れて倒れたのだ。

城主長宗我部国親は、これはいかなる凶瑞を示すものかと、天文卜占に詳しい
池澤何某と言う者を呼び、これに対する解釈を聞いた。
池澤、畏まって申し上げるに

「このことを、今、文字から判断いたしますに、楠と言う文字は『木』に『南』と書きます。
『木』と言う文字は『東』に通じます。しかればこれは、『東南の方が滅びる』と言う瑞相で
あります。

今は張る半ばの季節で、本来であれば東南の運勢が元も強くなる頃です。
それがこのように倒れるという事、これすなわち、天の与えたもう時が来た、と言うことです。

時節は到来いたしました。殺伐の気を得て、西北より東南に討ちかかれば、
敵は木の葉のように散り失せるでありましょう!」

これに国親は大いに喜び、池澤に、即座に褒美を与えた。そして

「池澤の言った事を考えるに、あれには全く、恣意や憶測は入っていない。
あの言葉は間違いなく、八幡大菩薩が我が長宗我部家の復興を示し給うたお告げであろう!」

そこで吉日良辰を選び、八幡宮において臨時の祭礼を行った。
その日は国親を始め豊岡の老若男女悉くが八幡宮の庭上に群集した。
そこで神楽など奉納していたが、そのうち群衆の中にいた12,3ほどの少年が、
突然、飛ぶとも走るとも知れぬ動きで社殿まで駆け上がり、叫んだ

「我は八幡大菩薩である!
我をこの地に勧請して上下が深く信仰する事、喜びに耐えない。また、我は
お前達を守らずには置かれないだろう。

その中でも国親!お主は常に父の敵を討つ事を日夜考え、寝食すら忘れるほどの志、
まことに不憫の至りである。
が、今や家を興す時節到来せり!我はそのことを楠の奇瑞で現し、池澤の口から言わせたが、
国親は正しくこれを理解し、この臨時の祭礼を行った。

急げ!南方より初めて、四方に馬を出すのだ!
我はお前の軍に付き添い力を貸すであろう。
見よ!国親の向かう所、従わずと言う所は無く、攻める所攻め込めない場所は無い!
行く末もまた守るであろう。頼もしく思え!」

そうして四方を見回すと、この童子は庭上に降りてぱたりと倒れた。
しばらくして起き上がったが、自分が何をしたのか、全く覚えていないという。

国親は余りのありがたさに涙を流した。
これより、国親による長宗我部家の拡大が始まったのだという。

豊岡城、楠の神意、のお話。
568人間七七四年:2009/10/14(水) 14:19:09 ID:z21tGhgU
>行く末もまた守るであろう。

孫までは…守りきれなかったのですね
569人間七七四年:2009/10/14(水) 14:19:53 ID:MzgGioOm
これが自演だとしたらよく考えつくなって思うわ
570人間七七四年:2009/10/14(水) 15:02:03 ID:rx1kbvDx
>>567>>569
エピソードなんだからいいんじゃないの
講談なんかに出てきそうな話だ。
地元で語り継がれている話か・・・・
571人間七七四年:2009/10/14(水) 15:08:42 ID:Gv09ynlD
>>570
そうじゃなくて国親の自演だったらってことでしょ>>569がいいたいのは。
572人間七七四年:2009/10/14(水) 16:12:05 ID:UETSZwRt
>>569
日本の戦国時代に限らず、戦乱期の武将が受けた神託の類は部下の士気を高めるための自演が多かったって話はあるね。

で、豊岡城って南国市だから高知県のど真ん中なんだけど、こっから南東方向へ進軍すると室戸岬方面。
なんかより辺境へ攻めていってる気がして仕方ない。
573人間七七四年:2009/10/14(水) 16:14:16 ID:GdOiooOk
>>567
うわああ13行目

×今は張る半ばの
○今は春半ばの

修正お願いしますorz
574人間七七四年:2009/10/14(水) 16:32:04 ID:coF2EnlF
>>572
だって西には全盛期の本山家が居座ってるもの
575人間七七四年:2009/10/14(水) 18:28:14 ID:revITxjy
>>428
何で蘭丸なんだ?w
576人間七七四年:2009/10/14(水) 18:59:29 ID:+xPCAZRY
577569:2009/10/14(水) 19:05:15 ID:4pkjapUs
>>570-572
紛らわしい書き方してすいません
信長が桶狭間の時に、熱田神宮で自分で鳥を飛ばして吉兆だとやった話があったので
国親もそういったことしたのかなと思いまして

お詫びに柿崎景家の逸話を紹介させて貰います、なんか直江以外上杉家臣団の
影が薄い気もしますので


上杉謙信に仕え、「和泉に分別があれば、越後七郡に敵う者はいない」とまで評され、
猛将と名高く、川中島でも武名を響かせた柿崎和泉守。

しかし、奉行に任じられたり越相同盟締結に尽力したなど内政・外交面でも活躍していた。

領地の旧柿崎町では、とても夫婦仲が良かったと伝えられている。
夫婦ともに薬師如来を信仰し、薬の調合がうまく領民に薬を施したと伝えられ「柿崎公」として
現代まで讃えられお祭りも開かれている。
菩提寺の楞厳寺には、穏やかな顔で描かれた「柿崎景家夫妻肖像画」が収められ、夫婦仲のよさを忍ばさせる。

そんな夫婦仲のいい話なのですが、
息子晴家が、御館の乱で上杉景虎を支持して景勝と敵対した為、
景家を貶める記述がされたとも、後世に息子と混同されたか俗説では信長に内通したとされている。

そんな現代でも地元で愛される、いい和泉守の話。
578人間七七四年:2009/10/14(水) 20:36:38 ID:d8I3mJeR
>>576
ガンダムに漢字を当てるとそうなるんだ…
頑張っても駄目な無能者。ダセエw
579人間七七四年:2009/10/14(水) 20:37:40 ID:5NmAWCXB
青山忠俊は人の名前をすぐに憶えるという特技があった。
小身の者でさえ一度会えば憶えてしまい、ちょっと会ったときに名前を呼ぶので、
皆が忠俊に親しんだ。

*「どうしてそんなに名前を憶えられるのですか。なにか秘訣でも?」
忠俊「頑張って憶えるだけですよ」
*「しかし、いくらなんでもコツぐらいあるでしょう?」
忠俊「そうですね…あえて言えば底意地の問題でしょうか」
*「???」

忠俊「あなたは大名や大身の方々の名前ならすぐに憶えてしまうでしょう。
   なのに小身の名前が憶えられないのは彼らを歯牙にもかけていないからです。
   私はどんな身分でも同じ人間だと思うので、すぐに憶えられるのですよ」
580人間七七四年:2009/10/14(水) 20:44:02 ID:Ot5pQfDu
>>579
いい話だなーw
俺も人の名前はしっかり覚えよっと
581人間七七四年:2009/10/14(水) 20:49:09 ID:3nvaIbNO
>>578
何故頑張って駄目な部分を無くすと読めないのか…お前の心は曇っている(キリッ
582人間七七四年:2009/10/14(水) 20:52:11 ID:MXrHA4QP
>>579
医龍って漫画であったな。
583人間七七四年:2009/10/14(水) 20:53:27 ID:+xPCAZRY
>>579
木沢長政
浅井長政
浅野長政
黒田長政
池田長政
山田長政
織田長政
早川長政
木造長政
丹羽長政
…あたりを順に紹介して、次の日
「さぁこの長政さんは何長政でしょうか?」って聞いたら
答えられるかな?
584人間七七四年:2009/10/14(水) 21:03:18 ID:GdOiooOk
>>583
青山「では…」

> 木沢長政
「左京亮殿!」
> 浅井長政
「備前守殿!」
> 浅野長政
「弾正少弼殿!」
> 黒田長政
甲斐守殿!」
> 池田長政
「河内守殿!」
> 山田長政
「仁左衛門殿!」
> 織田長政
「丹後守殿!」
> 早川長政
「主馬頭殿!」
> 木造長政
「左衛門佐殿!」
> 丹羽長政
「か、官位不明!?…丹羽殿」
585人間七七四年:2009/10/14(水) 21:05:20 ID:Ot5pQfDu
>>583
ちょw長政多いとは思ってたけど、こんなに居るのかよwww
586人間七七四年:2009/10/14(水) 21:14:56 ID:hjSz8q+I
>>578
頑張っても無
駄じゃ
無い

って映像(イボルブ)で言われてるんだけど

武者頑駄無、最初のシリーズの時点で鎧とか本物参考にしてた筈なんだが
(ν→真田、MkU→徳川)なんで今更戦国武将にガンダムつけるんだろ
587人間七七四年:2009/10/14(水) 21:20:24 ID:qoSnLkJG
>>514
ぐぐってみたら、穴沢盛秀は薙刀の指南役だね。
槍は渡辺糺だったのでは。
588人間七七四年:2009/10/14(水) 21:57:06 ID:Yb7CXNYK
>>576
俺的には伊達政宗はこっちじゃないかと。
ttp://www.dullahan.jp/
589人間七七四年:2009/10/14(水) 22:04:53 ID:EFwQPQ7W
>>579
>>583-584
こっちは、名字と顔で区別つくだろ
むしろ
清盛時代の平○盛シリーズとかの方が大変だぞw

あと時代は下がるが家斉時代の斉○とか--;
腐るほどいやがる
成人する前に腐ってしまった連中も数多いがw
590人間七七四年:2009/10/14(水) 22:14:04 ID:+xPCAZRY
591人間七七四年:2009/10/14(水) 22:30:22 ID:6MCNhAyY
>>583
田中長政(吉政)
592人間七七四年:2009/10/14(水) 22:48:56 ID:6MCNhAyY
長政がらみでいい話を

浅井久政は六角氏に従属していました。
そして息子の賢政(六角義賢から一字拝領)と六角家臣一の美女平井氏との縁談をまとめました。
しかし賢政は美人というところに反応してしまいました。美人で懐柔される俺ではないというわけです。
そこで賢政はクーデターを起こし父親の浅井久政を捕え島流しにすると、嫁を送り返し強大な六角氏に戦いを挑みました。
わずか十六歳の少年と侮った六角氏の油断もあり、圧勝した賢政は北近江を平定し六角氏に肩を並べる
大大名になりました。そして賢の一字も返却し長政と名を改めました。
後年久政配流先の竹生島の宝厳寺には長政の外孫、徳川家光によって大伽藍が建てられました。
593人間七七四年:2009/10/15(木) 00:59:40 ID:bSZg3tlU
>>592
なぜ市はおkなんだww>美女NG
594人間七七四年:2009/10/15(木) 01:10:18 ID:q885aU/t
実は美人じゃなかおっとこんな時間に宅配便だ…
595人間七七四年:2009/10/15(木) 01:13:00 ID:9bp/i47G
賢くなくなった訳だ
596人間七七四年:2009/10/15(木) 02:04:54 ID:E+g63Jvm
上手い事言うなぁ
597人間七七四年:2009/10/15(木) 08:00:50 ID:pXJu0XQh
>>577
最後の一文は直家公ディスってんのか、メーン
598人間七七四年:2009/10/15(木) 08:12:01 ID:7XvkQPJd
宇喜多と島津は朝鮮半島からの渡来人だが、あの殺伐とした(DQN)気質は
北方遊牧民系のものなのかな?
599人間七七四年:2009/10/15(木) 08:48:45 ID:lZ8UY7HT
両方自称で信憑性は皆無だったり・・・・・
600人間七七四年:2009/10/15(木) 08:54:36 ID:Z24B0wdi
秦の始皇帝の末裔と言ってるんだから
仮に本当でも朝鮮人というより中国人じゃねーの?
601人間七七四年:2009/10/15(木) 08:58:31 ID:Z24B0wdi
あ、それは島津か
宇喜多は確かに古代朝鮮王族の末裔とも言ってたけど
同時に古代氏族三宅氏の後裔だとも児島高徳の子孫だとも言ってるから
信憑性皆無だけど
602人間七七四年:2009/10/15(木) 09:22:41 ID:pap4kibd
subは氏ね
603人間七七四年:2009/10/15(木) 09:38:20 ID:Z24B0wdi
            ,ィァァニZァァュ._
          ,ィf巛リ彡'ノノ从ミt_
           イリル-−…−-く〈巛ハ
         /ノ》'         ヾヘ比
        代リ             }川弌
       {り{            Vルリ
          }川 .::=='  '===::. }彡}
        心} ィfテY  イfテy   レリ^l
        ゞl  -‐ :   l ‐-   ノノV
            Y   / r  r ヽ       ノ
          {   l ` _ ´ l  |l  |
          ヽ   ー===一    /\
           \  ` ̄´    //  \
            l \ー-‐  / /    ∧
         _//  >‐<::://    ///\__
       // /二ニTTニ二V  /    /////////\__
     _/// {    八    } /    ///////////////\
   ///////   lー‐'   ー‐' /    /////////////////∧
604人間七七四年:2009/10/15(木) 09:56:57 ID:+twmNbyi
>>601
 もう本当かどうか裏を取ることが困難なところを手当たり次第にあげているって感じだな
605人間七七四年:2009/10/15(木) 11:20:42 ID:zTiQBfnd
坂上田村麻呂とかからやってることだしw>ハッタリ箔付け
606人間七七四年:2009/10/15(木) 12:15:28 ID:Z24B0wdi
>>603はサブちゃんだろって突っ込み待ってたんだが…

ところで政宗と兼続の廊下ですれ違って後姿が云々って逸話だけど
伊達と上杉って戦った事あったっけ?
伊達が最上の援軍で来たけど、実際はポップコーン食って
高見の見物してただけって話はあったけど…
607人間七七四年:2009/10/15(木) 12:21:36 ID:hqyuj7r3
>>606
> 伊達と上杉って戦った事あったっけ?

松川の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
608人間七七四年:2009/10/15(木) 12:21:58 ID:7XvkQPJd
>>606
福島城、白石城
609人間七七四年:2009/10/15(木) 12:32:48 ID:Z24B0wdi
>>607-608トン
610人間七七四年:2009/10/15(木) 12:38:02 ID:n6OuCzSV
>>600長宗我部も秦氏を称してたね
611人間七七四年:2009/10/15(木) 14:54:08 ID:HBmkQ+Cg
>>595
陶隆房から陶晴賢に改名したワシは晴れて賢くなったというわけじゃな
ハッハッハッハッハー
612人間七七四年:2009/10/15(木) 15:00:39 ID:AQT5eMXw
>>567 >>572

おそレスだけど、岡豊城、だよな?
知らない間に本当は豊岡だったって資料でも発表されたか?

ところで「正しくは豊岡だから、戻せ」って言った人に元親が「先祖が伝えてきた地名を簡単に変えるな」って言ったのは資料にあること?
613人間七七四年:2009/10/15(木) 17:11:23 ID:R3zGcC1M
政宗が上杉の会津転封作業中に会津を奇襲して大敗してる。
兼続が会津入りした際に報告を受けている。
614人間七七四年:2009/10/15(木) 17:15:42 ID:6iSf7B/2
>>610
名前の似ている香宗我部はれっきとした源氏だよね(武田勝頼が頼って落ち延びたという未確認情報アリ)

そういえば○連関係者が「長宗我部は同胞」っていう内容の事を言ってたなw
コーラ吹いたwww
615人間七七四年:2009/10/15(木) 17:19:15 ID:LT4gus6i
>592
信長についていたら、どうなったか?
616人間七七四年:2009/10/15(木) 17:20:05 ID:etif6bTY
長宗我部さんも大変だwwww
617人間七七四年:2009/10/15(木) 17:36:00 ID:HBmkQ+Cg
法則発動ですか?
618人間七七四年:2009/10/15(木) 18:33:16 ID:MSkGJepS
400年前にさかのぼって法則発動したのか
恐るべし半島パワー
619人間七七四年:2009/10/15(木) 21:13:57 ID:vSnWOpNl
ふと思ったのだが、戦国時代に盲腸になったら死んでまうんだろか?
620人間七七四年:2009/10/15(木) 21:31:18 ID:EluD/Wn+
虫垂炎ということなら冷やせば何とかならなくもないが
患部が破裂して膿が体に回ったら腹膜炎になって危ないな
621人間七七四年:2009/10/15(木) 22:19:27 ID:5o8E5gFt
昔TVで古代中国の盲腸手術の医学書を見たことがある。
たしか竹突っ込んで直してたはず。
622人間七七四年:2009/10/15(木) 22:39:30 ID:WaKAHOxP
自分で腹切るぐらいの猛者だから、開腹。
化膿部切除し、あり合わせの糸で縫い針で縫い合わせとく。
縫合閉鎖時にドレインの代わりに細い竹筒2,3本入れとく。

術後、筒から清水を入れ、その後ストロ−みたいにして
筒から膿を充分に吸い出してやる。

感染、絶食時の脱水乗り切ればおk。

刀傷等外傷も基本同じ要領で、維新入道ならやっていたような希ガス。
623人間七七四年:2009/10/15(木) 22:58:34 ID:+twmNbyi
>>622
 麻酔と抗生物質のありがたみがよく分る話だな。
624人間七七四年:2009/10/15(木) 22:59:52 ID:7XvkQPJd
森一族の腹なら、盲腸の方が退散する
625人間七七四年:2009/10/15(木) 23:01:54 ID:wYwFX+n6
うちのじいさんはなんかしらんが、麻酔なして盲腸手術受けてたらしい。
手術中ずっと「あいたたた、何すんねん!」と絶叫。
626人間七七四年:2009/10/15(木) 23:03:09 ID:3sCncTUq
自害がてらに癌を腹からほじくり出して握りつぶした丹羽長秀

実際にやったのかどうか知らんけど
627人間七七四年:2009/10/15(木) 23:04:08 ID:7XvkQPJd
>>625
切腹の時、どれほど痛いかを知るために、盲腸の手術で麻酔を辞退したらしいな。

山本五十六は。
628人間七七四年:2009/10/15(木) 23:33:17 ID:d+ghhgid
>>627
真珠湾攻撃を強く強く主張した売国奴だよね?
629人間七七四年:2009/10/15(木) 23:53:03 ID:WaKAHOxP
戦国時代、西洋医学は、イスラムからの先端医療の導入、
戦争医療での教訓から外科医療は発達した。
イエズス会修道士で医師アルメイダが大分で行った外科手術が、本邦での
外科医療の先駆けとか。

ただし、内科医療は相変わらず馬鹿の一つ覚えの瀉血ばかりで、
却って死期を早めさせる藪ぶりだった。
日本の漢方医療、民間伝承医療のほうが、16世紀時点ではずっと進んでいた。
630人間七七四年:2009/10/16(金) 00:11:38 ID:G5YcYA2+
曲直瀬道三の医学天正記に虫垂炎に罹った武将とかの処方が載っているかもね。
必要なところをコピーしたの中には虫垂炎の治療は無かった。
史籍集覧に収められているので大きな図書館ならあると思う。
631人間七七四年:2009/10/16(金) 00:35:27 ID:9VbFT3gG
>>630
どういう方面で必要があったのか気になるところだ
632人間七七四年:2009/10/16(金) 00:41:08 ID:bUtFi59s
曲直瀬道三の本とかって、結構現在も通用する養生訓をいってるね。
中には完全なでたらめもあるけど、かえってそういうほうが少ない。
なるほどと感心してしまう。
633人間七七四年:2009/10/16(金) 01:09:11 ID:BLhf/Grr
だからこそ名前がのこってるんだろうね
634人間七七四年:2009/10/16(金) 01:11:12 ID:lfThVbzo
SEXマニュアルだけじゃないんだよ。
635人間七七四年:2009/10/16(金) 07:48:21 ID:N65nOyUQ
636人間七七四年:2009/10/16(金) 09:36:15 ID:JqeyYHL2
最近知ったんだけど、家康には3人の異『父』弟がいたんだね。

家康の母於大の方と松平広忠は離縁していて(時期には諸説有り)その後、久松勝俊と再婚、そこでの子が上記の3人。
後にこの3人は松平姓と葵紋を与えられている。
この3人の家は久松松平家と呼ばれることに。
んで、久松氏なんだけど、遠祖を菅原道真とし、本姓は菅原を名乗っている。
ただし、江戸時代は徳川(松平)が源氏だからか、源義家の末裔としている。
大政奉還後、久松松平家の大名は菅原姓久松氏を再び名乗ることになる。

異父弟、て珍しいなと思って投下してみた、良くも悪くもない話だけど。
637人間七七四年:2009/10/16(金) 09:38:21 ID:BQydfTz/
>>636
NHKのアナウンサーが有名
638人間七七四年:2009/10/16(金) 10:10:07 ID:JqeyYHL2
>637
伊予の久松松平家の分家出身なんだっけ、確か。
639人間七七四年:2009/10/16(金) 13:18:08 ID:ZWvZohFD
>>636
神君には同父弟もいるんだが、そっちのほうって本当に話に出てこないんだよなぁ
640人間七七四年:2009/10/16(金) 13:21:28 ID:03eiOppi
すぐ死んだんじゃないの?
当時の乳幼児死亡率は相当だったろうし
641人間七七四年:2009/10/16(金) 13:34:30 ID:KPVS2Z0r
>>640
恵最(けいさい)
家康と同日同刻に生まれているため、家康と双生児であったとする説がある。
また、家康と同じ日に生まれたため出家して僧侶となり、桑谷広忠寺を建立。
642人間七七四年:2009/10/16(金) 13:50:47 ID:BDELAbFl
あんまりにもスルーされているからな
半分伝説だ
643人間七七四年:2009/10/16(金) 14:02:42 ID:M8CAOd2G
影武者家康が発動して謎になったわけだな。
644人間七七四年:2009/10/16(金) 14:08:15 ID:QUrhDob+
>>628
真珠湾の話は、山本が言ったのはあくまで「戦うなら」という話で、
開戦を譲らなかったのは海軍省で、開戦やむなしが外務省じゃなかったっけ。
山本・米内・井上の三羽烏が反対で、それが海軍善玉論の論拠になってるけど
実は彼らは海軍内では少数派だったって話だった気がしたんだが、違ったか?
645人間七七四年:2009/10/16(金) 14:09:04 ID:KPVS2Z0r
まとめに里見家と小田原の陣について載っていたので、
その続きを「イイい話」の砲へ。

関八州を与えられた家康にとって片隅に居座る里見家は邪魔な存在だった。
主家の危機を感じた正木時茂は、又従兄妹である家康側室「お万の方」を通じて、
お家安堵を計るが、大久保忠隣の失脚に連座させられ里見家は改易となった。
里見忠義は倉吉藩にながされ失意の中で没する。

この時家臣8名が殉死しており、みな戒名に「賢」の文字が入っていたことから、
「里見の八賢士」と呼ばれた。
後に滝沢馬琴はこのことを知ると、「賢」に「犬」をあてて
「南総里見八犬伝」の構想を練ったという。
646人間七七四年:2009/10/16(金) 19:17:34 ID:B0JAY/ZU
宇喜多詮家(坂崎出羽守直盛)のイエズス会にとってはいい話。
いい話のはずなんだが坂崎出羽守の、はた迷惑な性格が見え隠れするお話です。
オルガンティーノ師のイエズス会総長宛書簡(1595年2月14日付)

 備前、美作、備中の国主なる宇喜多備前宰相殿の従兄弟に当たり、アゴステイノ(小西行長)
の非常な親友で、あたかもこの国主の養子のようにしていたおもだった貴人の若者が、大坂で
洗礼を授かってから二ヶ月が経っている。

 若者は洗礼を授かると備前国の自宅に帰った。彼が帰宅して後、妻は病気に罹り数日を経て
死亡した。彼は妻の死去でひどく悲しんだが、それはその夫人が非常に高貴で賢明であり、
また十一歳の娘をもっていたからであり、また生まれたときから彼はこんな辛い目にあった
ことは無かったからである。混乱した彼の心の中に、「それがお前に起こったのは、新しい
宗教に入信したためではないか」という考えが入り始めた。非常に多くの仏僧のような他の
人々や幾人かの親族たちには、同じようなことを彼の耳に入れた者がいた。

 しかし彼はやがて気を持ち直し、目を天に上げて心の中で次のように言った。
「悪魔のこの誘惑は大きいが、デウス様は私の堅固さを確かめるために、この誘惑を許し給うて
いるのだ。そのようなものであるのなら何ものも私から得るものはないであろう。」と。

 そこで彼は不屈の勇気をもって涙を抑え、亡妻の遺骸のもとへ進み出て彼女の高価な衣装、
装飾品、その他すべての所有物を抛り出して、その場にいた人々にこう言った。
「彼女は別な宗派に属していたから、仏僧たちによって彼女は埋葬されるように配慮するが良い。
 私はキリシタンであるから、彼女のものについては何も口出しはすまい。」と。
 すると仏僧たちは反対にこう言った。「汝がキリシタンを棄教して、亡妻の宗派の信仰告白を
しない限り、我らは指一本も遺体には触れぬであろう。」と。彼はこれに対して激しく怒りに
燃え反対にこう言った。「仏僧らはこの件については、何もぐずぐず言わず、遺体については
こちらが望むように処理して欲しい。もし彼らが望むなら、遺体を泥土に投げ込んでも良い。
自分は意見を変えるつもりはないであろう。」と。
 そこで仏僧たちは、彼の固い決心を知ると遺体を墓地へ運んだが、それといっしょに部屋
から抛り出されたすべての衣装を運んだ。
647人間七七四年:2009/10/16(金) 19:21:25 ID:/+vodDSU
 その若者は非常に高貴であったのでヴィセンテ修道士は国主関白殿の耳に入って、若者自身と
我らに何らかの危険が迫らぬよう、すべてのことを隠しておくように願った。彼はそうしよう
と約束したが、洗礼を授かって恩恵を受けると驚くほど熱心で気が強くなり、すべてのことを
いとも自由に仲間たちに言いふらし始めた。

 その後、彼は大坂から生地の備前国に行き、毎日自分がキリシタンであることを
いっそう宣伝し、我らの宗教の奥義を称賛するだけでは満足できなくなった。ついてはすべての
諸侯が驚嘆し、とりわけ宇喜多備前宰相殿の母がそうであった。
 彼女は、かの全領国の者とともに、日本中でも非常に邪悪な一向宗に帰依していた。
 この若者は、この宗派に決してはいることを望まず、いつも非難を浴びせ、その誤謬と不正
を暴いた。しかし彼が高貴な素性であるため、このことで誰も彼をあえて咎めようとせず、
それのみならず多くの人々は、彼がデウスのことについて話すのに非常に熱心に耳を傾けた。

 我らは彼に、こちらから一枚の金貨とデウス像のメダル一個を贈った。我らは彼が十日も
たてば大坂に帰り、それからもっと詳しく聖なる信仰箇条を学ぶために都に行くことを期待
している。

(十六・七世紀イエズス会日本報告集 第T期 第2巻)
648人間七七四年:2009/10/16(金) 19:25:17 ID:l+27aq+W
これはひどい…
649人間七七四年:2009/10/16(金) 19:26:52 ID:lfThVbzo
これは…、典型的な新興宗教にはまった迷惑な親戚!
650人間七七四年:2009/10/16(金) 20:21:26 ID:r+Sj+c8S
>>636
久松康俊(2番目の弟)は超悲惨
桶狭間の後、家康が独立するに当たって駿府で人質だった信康と瀬名を石川数正が引き取ってきた話は有名だが、
このときに替わりに送られたのがこの人
しかも武田の駿河侵攻で駿府が陥落すると甲府へ連行
脱出するも凍傷にかかって足の指を失う
しかも35で早死にしたために大名になれなかった(子孫はなった)

弟の定勝も小牧のときに人質に出されそうになったが、
お大の方の嘆願で秀康が人質になったとか
651人間七七四年:2009/10/16(金) 21:04:27 ID:0URXJ031
秀康にとっては悪い話だな
あの頃、後継ぎ有力候補だろ
652人間七七四年:2009/10/16(金) 21:07:45 ID:lfThVbzo
秀康は母親の地位が低いし、他にも兄弟が居たから、どのみち跡継ぎは無かったと思う。
653人間七七四年:2009/10/16(金) 23:55:06 ID:gOoNMD51
武田信玄は家臣を用いるとき、家臣の性格を見極めてバランスのとれる
組み合わせにしていた。
例えば、無口で威厳のある馬場信房は気さくで明るい内藤昌豊と、
勇敢で短気な山県昌景は慎重で思慮深い高坂昌信といった具合だった。

あるとき、信玄が温和な者とお硬い者を呼んで
「お前たち2人が力を合わせれば不可能などない。多少の失敗など恐れるな」
と言って仕事を任せたところ、果たして仕事は上手くいったという。
654人間七七四年:2009/10/16(金) 23:59:32 ID:52DZR+uJ
気が合わないと仕事上手くいかないと思ってる俺は駄目なのか…
655人間七七四年:2009/10/17(土) 00:37:56 ID:VGrJTFNT
気質(性格)が違っても気が合う事もあるしな。
656人間七七四年:2009/10/17(土) 00:48:37 ID:vB9YWuST
>>653
つまりこういうことですね

鬼武蔵と富田ry
657人間七七四年:2009/10/17(土) 00:50:42 ID:0tSXDne2
温和なやつとお硬いやつっていかにも気は合いそうだな
658人間七七四年:2009/10/17(土) 00:53:40 ID:AMiHmEt6
>>656
鬼に金棒
659人間七七四年:2009/10/17(土) 01:15:58 ID:9Oy3CJzZ
気さくな内藤昌豊?
地味で無口なイメージが…
660人間七七四年:2009/10/17(土) 01:58:18 ID:kMpF0qsk
>>658
鬼に狂犬というべきだろ
661人間七七四年:2009/10/17(土) 02:38:13 ID:SQPWTUHi
内藤昌豊のイメージ?




662人間七七四年:2009/10/17(土) 03:04:23 ID:I4j7SLGx
キチ外に刃物だよもん
663人間七七四年:2009/10/17(土) 03:36:35 ID:0t3plVjw
>>659
副将として働くなら誰とでも打ち解けられる気さくさがいるんじゃないかな?
664人間七七四年:2009/10/17(土) 05:48:25 ID:XOVuKB0d
652
そういや、信長も母の身分が低いために家督相続出来なかった兄がいなかったっけ?
秀康もそんな感じだったの?
665人間七七四年:2009/10/17(土) 07:00:15 ID:qjQtivhY
>654
小西と加藤とかか。
666人間七七四年:2009/10/17(土) 07:13:23 ID:2FfnTrOt
>>664
信広ね、家康と人質交換された後
家督継いだ信長に謀反起こしても許されたんだったっけ

>>665
小西と加藤は唐入りまでは特に仲悪くなかった気がする
清正の方が、自分の方が格上だとは思っていたろうけど
667人間七七四年:2009/10/17(土) 12:04:04 ID:khRMfPWk
>>656
富田は相手の弱い所を見抜く戦術眼だけは持っていたわけだし、
後は余裕と忍耐力と落ち着きと対人スキルと冷静さと目上を敬う心を身につけ暴走を止めたら副将として理想的だったかもな
668人間七七四年:2009/10/17(土) 12:12:20 ID:OVNDaO+n
正妻の息子が普通家督継ぐものだからなぁ
秀康は朝鮮出兵後梅毒の症状がでてたって話もあるし
長生きできなさそうなところも後継者候補として痛い
669人間七七四年:2009/10/17(土) 12:23:25 ID:rjeMK6Qp
伊達秀宗と忠宗もそうだよね?
忠宗の方が弟だけど正室の子供だから
伊達家の家督を相続して
秀宗は宇和島へ島流し・・・
670人間七七四年:2009/10/17(土) 12:31:42 ID:2vg/If/3
しかも親父から執拗な取立てにあうと
671人間七七四年:2009/10/17(土) 12:38:26 ID:XOVuKB0d
667
どんだけ足りてないんだ!!
と、一応突っ込んでおく。

668
成功する為には寿命も重要なアドバンテージだしね、それは家康パパが証明してるしなぁ。
秀康のおじさんの久松氏の3人の血筋で一番栄達したのも一番長生きした末っ子定勝の一族だし。
672人間七七四年:2009/10/17(土) 12:44:12 ID:RrZQbrpl
>>666
天草の乱の時から既に仲が悪い
673人間七七四年:2009/10/17(土) 13:59:29 ID:mJC1MBiK
DQNとも仲良くやってた立花宗茂は武断派とはそりは合ってたのだろうか。
某小説だと、三成を評価し清正は「女々しい奴」と評価していなかった(礼は欠かさなかったが)。
674人間七七四年:2009/10/17(土) 14:07:23 ID:nfItTYzG
>>673
いや、清正には慕われて礼を尽くされているのにそんなこと言わんだろ
三成をどう思っていたかは知らんが、正則とは仲が悪い時があったな
でも三歳や政宗・島津とも親交があるし
高虎ともそれなりに親しかったらしい

武断派・文治派なんて曖昧なくくりではこのあたりの交友は説明できんだろ
割と一歩引いてた印象はあるが
675人間七七四年:2009/10/17(土) 14:36:58 ID:KMjDk7hv
>>669
でも維新後は宇和島伊達家は侯爵、仙台伊達家は伯爵と逆転しているね
676人間七七四年:2009/10/17(土) 14:49:21 ID:IAs8ozdA
伊達宗城出したかんねぇ
677人間七七四年:2009/10/17(土) 15:06:47 ID:y3HWe6NL
奥羽越列藩同盟に参加したのも痛かったんじゃないか?>仙台伊達
678人間七七四年:2009/10/17(土) 15:12:12 ID:XazhSaD2
>>674
九州の大名とはご近所さんだし九州征伐・朝鮮出兵と轡を並べた戦友だから
加藤も黒田も立花の復帰のためには骨を折ってる
伊達とか細川とは風流大名同士趣味友だちって側面も強かっただろうし
政治派閥以外のコネも作っておくのって大事だよね
679人間七七四年:2009/10/17(土) 15:25:39 ID:QjpHcR+N
宗茂と三成の逸話って1個しか知らないや

朝鮮出兵のある日の事。戦目付の石田三成が宗茂に会いに来たとき。
「貴殿の働きはよく承知している。されど悲しいかな秀吉様の耳に入っておらんようだ。
如何であろう。もし貴殿が願うならば拙者から太閤殿下へお伝え申し上げるが・・・」
と三成は宗茂に持ちかけてみた。すると宗茂は笑って、
「おかしなことを申される。目付とは太閤殿下に真実をお伝えすることが役目のはず、
人から頼まれて報告するなどというものではありますまい。それに拙者は命によって
ここで戦をしている身。武功が太閤殿下の耳に入るも入らぬも関係なく武士としてその
本分に従って戦をするのみでござる」と答えたという。
この宗茂の態度を見て、三成はすぐ頭を下げ「失礼いたした今の話はなかったことに
して欲しい。他の者が如何なる報告をしようと拙者は誓って真実を秀吉様に報告しよう」
と宗茂に誓ったそうな。

多分三成が宗茂を試してみたのだと思うが、仕事仲間としては仲良かったようだ。
680人間七七四年:2009/10/17(土) 15:31:11 ID:IAs8ozdA
試してみる時点で怒っちゃう奴続出のやり方だよなw
681人間七七四年:2009/10/17(土) 15:43:22 ID:3I6SpZy8
「お前らがどんなに頑張ろうが、私が情報握りつぶしていれば太閤殿下の耳には届かないよバーカ」
と言われてるんだと邪推されても仕方ないような…

まあ宗茂が生真面目クンだとわかった上でそういう言い方したんだろうけど
682人間七七四年:2009/10/17(土) 15:56:27 ID:XOVuKB0d
場合によっては袖の下要求されてんのかと思うよな、これ。
683人間七七四年:2009/10/17(土) 16:50:42 ID:bOt7CpB/
 種子島に西洋式の鉄砲を持ったポルトガル人が漂着し、領主がそれを買い上げてからしばらくたったころ、
鉄砲の複製を命じられた鍛冶屋は悩んでいた。鉄砲の銃身の底をふさいでいるネジの作り方が解らないのである。
思い悩んだ鍛冶屋はある決断を下す。自分の娘をポルトガル人に売って鉄砲の作り方を教えてもらおうとしたのだ。
「この娘と引き換えに鉄砲の作り方を教えてくだされ」
頭を下げる鍛冶屋にポルトガル人は答えた。
「言葉はよくわからんが何が言いたいのか大体わかった。この娘を一人前の鉄砲鍛冶にすればいいんだな!!」

 数年後、おそらくフィリピンでの鉄砲鍛冶の修行を終えた娘によってネジのきり方が日本に伝えられた。
鉄砲伝来時の微妙にスポコン風味のお話。
                                 ―娘が生娘のまま戻ってきたのかどうかは定かではない―
684人間七七四年:2009/10/17(土) 18:41:32 ID:TxJWxHU0
>>682
場合によっては、というよりも袖の下要求以外思い浮かばんかったw
でも、三成ってあんまりそういうイメージは無いなあ・・・。
三成の贈収賄絡みの逸話ってありましたかね?
685人間七七四年:2009/10/17(土) 18:46:36 ID:pgxm5fPq
>>684
贈収賄と言うわけではないが、当時の当然の慣習として、申し次をした場合には
何らかの金銭などがお礼として渡される。
686人間七七四年:2009/10/17(土) 18:47:50 ID:nfItTYzG
>>684
無いな
むしろ三成の後で佐和山に入った井伊が質素な暮らしぶりを褒めてる

俺はむしろ三成って自分が持っている権限を相手に示し過ぎるきらいがあったのかな
とこの逸話見て思ったわ
舐められたくないというか、まあそういう風にして強く出ないと大変な仕事だったんだろうが
687人間七七四年:2009/10/17(土) 19:20:01 ID:C88Q5800
当時は基本自弁で働いてもらうわけだから、何か依頼したら礼物を贈るのが普通なんだよな
688人間七七四年:2009/10/17(土) 19:38:16 ID:97HRYGkr
>>683
何故娘の話を持ち出す前に
俺に教えてくれないかと言ってみなかったのだ親父・・・・
689人間七七四年:2009/10/17(土) 19:53:21 ID:RvhwWRB1
>>688
それ、自分が知ってる話だと娘貰う代わりに親父に螺子の作り方を教えたって話だったんだが。
690人間七七四年:2009/10/17(土) 20:11:59 ID:ZRLgf8iS
自分が聞いた話だと娘送り込んで秘伝を盗ませた(きちんと教えてもらったわけではない)だったような
なんにしろその娘は後年鉄砲鍛冶たちに技術をもたらした恩人と崇められたとか
691人間七七四年:2009/10/17(土) 20:18:24 ID:pgxm5fPq
まあ実際には種子島は、日本刀が打てる位の鍛冶師なら、問題なくすぐにコピーできる代物だったそうな。
692人間七七四年:2009/10/17(土) 20:52:37 ID:p3MhH9Dm
日本に螺子の概念が無かっただけだからな
ゆえに実物を解体したら意外と簡単に習得できた
693人間七七四年:2009/10/17(土) 21:23:53 ID:9AEhImiq
ねじは中国で独自に生み出されなかった、唯一の重要な機械装置である と言われてるが
中国人はなぜ螺子を発明できなかったんだろね
694人間七七四年:2009/10/17(土) 21:25:09 ID:QPt0LQys
>>692
しかしタップとか螺子山、螺子穴切る技術ってどう伝わったもんか、すげえよね。
型抜きできるモンでもなし、最初はいちいち削って精度出してたという

日本人のコピー技術が凄いのか種子島の構造が意外とアバウトだったのか・・
695人間七七四年:2009/10/17(土) 22:34:44 ID:csoIfRB/
>694
雌ネジのほうは今みたいにダイスのような器具で切り出すのではなく、
鍛造によって作っていたらしい。

筒の雌ネジになる部分を熱して、
柔らかくかつ膨張してやや口径が大きくなった状態にしたら、
雄ネジと同じピッチでやや小さめのネジ型を突っ込み、
筒を外側からがんがん叩いて成型、
2回目からは少しづつ大きなネジ型を入れては叩きを繰り返して、
最終的に雄ネジとちょうど合うようにしたんじゃないかといわれている。

http://www.riflesports.jp/nraj/archives/neji/index.html
696人間七七四年:2009/10/17(土) 23:26:57 ID:e8w1PBYQ
>>684

吉川広家が贈り物したけど、三成から何ももらえなかったとかいってなかったっけ?
まあ、この人は地味にアンチ三成だからなんとも言えないけど妙に具体的。
697人間七七四年:2009/10/18(日) 01:07:22 ID:Wn5kn+0Z
>>695
エエエェェェ(´Д`)ェェェエエエ
螺子を鍛造って…
鉄砲もそうだけど技術伝搬無しに既にある技術でなんとか作ろうって心意気は関心するわw
698人間七七四年:2009/10/18(日) 01:17:16 ID:Vgn3Up+x
>>697
需要があるんだな、と南蛮の奴らが気づいて大量の種子島を持って再来日する訳だが
その頃には種子島より命中精度の高い火縄銃が量産体勢に入っていてゴクリッと喉を鳴らすのに時間は掛からなかったそうな
699人間七七四年:2009/10/18(日) 01:50:22 ID:afFX3eoE
>>683 の話は種子島言った時にガイドが詳しく話してくれたな
結婚したけど両親に一目会いたいと言って帰国して
そのまま日本に居続けたという・・・
気持ちは分かるけど一寸それだまして無いかい?と思った

でも結婚したはいいけどなかなかネジについて教えてくれなくて苦労したとか
どっちもどっちか
700奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/10/18(日) 03:23:57 ID:1xpHWRsT
鍛造の螺子でよく暴発しなかったものだと妙に感心した。
701人間七七四年:2009/10/18(日) 04:20:33 ID:RUuqAqPF
大根を刃の欠けた包丁で皮剥こうとして螺子の作り方閃いたって
なんかで見たんだが実はこんなエピソードだったのな
そりゃ娘売って技術教えてもらったとは言えませんな
702人間七七四年:2009/10/18(日) 08:39:31 ID:qpqfu8J2
ネジってたしか古代ギリシャからあったと聞いた気がする
703人間七七四年:2009/10/18(日) 09:25:58 ID:6QHr5jyQ
第二次国府台合戦、北条家と里見家や太田三楽が矛を交えた戦いである。
北条氏康がその機転により河越夜戦の再来とばかりに鮮やかに勝ちを決めた戦いとしてしられている。
しかし実はもう一人、勝利の立役者が居たことはあまり知られてはいない。
そんな彼の珍しい武勇譚。

里見軍が夜中に後退した。
その情報を得た北条氏康は遠山・富永らを先手とし、がらめきの瀬を渡り陣を構えさせた。
そして要衝・国府台を占拠せんとそこに登らんとする北条の先手。
そこにわっと正木大膳が先頭に里見軍が立ち襲い掛かる、そう罠だったのだ。
待ち伏せにあった北条の先手は、遠山・富永両将をはじめ名だたる武士が次々うたれ散々に打ち負かされた。
浮き足立つ北条軍に余勢を駆る里見軍が襲い来る。
「敵は勝ちに乗じて長途を走り疲弊している。まさにこれを討て!」と、団扇を振るい手勢に下知をするは北条氏政。
氏政の旗本達は命は義によって軽しと、脇目も振らず一歩も引かず、氏政勢だけでまっしぐらに攻めかかる。
思わぬ逆撃と連戦の疲労でこれ以上の深追いは危険と追撃を断念、兵を引いた。
里見軍が引いたそこには、钁湯無冷所と書かれた旗が堂々と翻っていた。

里見方は画竜点睛を欠いたとはいえ勝利は揺るがず、日暮れから小雨が降りだしたのもあって英気を養いまた休息をとることにした。
明日こそは北条を悉く討ち果たさんと万全の体制を整えんとする里見勢、そう「明日」の決戦の為に。

里見の追撃をかわしたとはいえ、その日の戦いは先手壊滅の大敗北なのは変わりない。
北条方では緊急の対策会議が開かれていた。
氏康は遠山・富永を討ち取られたまま引くのは武士の面目が立たぬと即時の決戦を主張する。
それに賛同するもの、一旦引いて体勢を立て直すべきと主張するものなど、意見は様々まとまる気配もなくまさに小田原評定の態であった。
その時、北条氏政が口を開いた。
「先の戦いの最中、郎従二人を敵勢に紛れ込ませその動向を探るように命じておきました。
 その報告によれば敵は国府台の陣を構え、我が軍を破り遠山・富永を討ち取っと諸勢入り乱れて酒宴を催しております。 千秋万歳と謡い、今が戦という覚悟も忘れ、夜襲あるを弁えず、主は従者の所在を尋ね、従者は主人の在所も知らぬ有様。
 軍法の秩序もなく勝ちに酔って算を乱したこの体たらく。
 北条勢が急襲すれば敵の前方は台を下りて向かい来るでしょうが、次の手は立ち尽くす他なく、後の勢は国府台にとどまるしかありません。
 敵は分散し、前陣の戦いを他の者共は見物するほか術はなし。前の一手も秩序なく蟷螂の斧に等しく、それを切り崩したその時は後陣は言うに及ばず。
 この度も氏政前陣」
これを聞いた氏康はついに決戦に決断。
軍勢を二手に分け、一方は氏康、一方は氏政がそれぞれ率いる事となった。
策を講じたその夜半、北条軍は粛々と動き出す。

雨がやみ、しかし霧がふかくふかく国府台を包み込んでいく。



敵を討つ 心ままなる 高野台 夕詠(ながめ)して かつ浦の里     北条氏康
704人間七七四年:2009/10/18(日) 18:52:59 ID:wfjPGwnh
>>703おー北条氏政の戦術眼と土壇場での強かさが示されているじゃないか。北条四代目のいい話。

これからすると本人は地味で普段あまり才知も感じさせないが、家のためなら即座に覚悟完了!
毛利隆元みたいな人柄だったんかね…
705人間七七四年:2009/10/18(日) 18:58:25 ID:wfjPGwnh
>700
現代レーシングカーのホイールだって鍛造して磨いて真円の精度(!)出すんだっつうから、むしろ手間暇かけたいい技術じゃねえ?

費用対効果わるいで代替技術があれば使わなかったかもしれんけど、
やらなきゃ最新の種子島を作れない、だから鍛造やる…ってだけの話かと。まあ驚いたけどさw
706人間七七四年:2009/10/18(日) 23:44:06 ID:jONcHr+p
アニメ「ガーゼィの翼」ではオスねじつくる→型にはめてメスねじつくる、
みたいに簡単に作れるような口ぶりだった。
千秋クリスの知識があいまいだったためだろうが、それでいまくいったのは
バイストン・ウェルの自然法則が地上界よりゆるくできていたためだろう。
707人間七七四年:2009/10/18(日) 23:54:40 ID:edF+Z9Bo
徳川頼宣が元・堀直寄家臣の堀田九郎右衛門と大坂の役の話をした。
そのとき、頼宣は当時の堀家臣の功名記録を見せて堀田をからかった。

「これにはお前の功名について一切書いておらぬぞぉ?」
「それは直寄殿の直筆ではなく、なにも知らない奴が書いたのです。
あとで直寄殿直筆のものを探しだして、殿にお見せします」

さて、このあと堀田が江戸から紀州に帰るときに小田原で宿泊したのだが、
そこに頼宣の重臣から急飛脚が送られてきた。その書状にはこう書いてあった。

「そなたは堀直寄殿直筆の記録を探しだしてくると殿に申し上げたそうだが、
あのあと殿がご自身でお探しになり、確かにその記録を見つけられた。
殿が見つけられたものと、先に見せたものをそなたにくだされるとのことなので
命により急いで知らせた次第だ」

堀田は頼宣の心遣いに涙した。それからの堀田はいつも

「あのときの有難い思い出は忘れることができん。
もしも殿に一大事が起こったら必ずご馬前で死ぬつもりだよ」

と語っていたという。
708人間七七四年:2009/10/18(日) 23:58:38 ID:qJ8bat5+
武士にとって武功は何にも代えがたいものだからなあ。
その記録をきちんと見つけてくれた事は確かに、馬前で死ねるほどの恩なんだろうな。
709人間七七四年:2009/10/19(月) 00:16:58 ID:VjcdDuWZ
「信長公記」の筆者の太田牛一は池田家に仕官していたが、池田家のリクエストで「信長公記」における池田恒興の
活躍場面が増えたり、堀尾家に仕官していた小瀬甫庵が「太閤記」で堀尾吉晴の活躍場面を増やしたって話もあるね。
710人間七七四年:2009/10/19(月) 00:25:35 ID:a4JG0ZnG
>>709
甫庵太閤記と言えば、前田利家が前後の脈絡なく活躍したりするねw
露骨な宣伝工作。
711人間七七四年:2009/10/19(月) 00:41:07 ID:cjWCGXC1
Wikipediaより転載
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9

仙台藩の主な産物は米である。江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発によって実高100万石とも言われるほどに
多くの米を収穫できるようになった。 (中略)
だが、米に頼りすぎた経済は藩に他の産品の開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来及び米相場の状況によって翻弄され、
不安定であった。凶作が起きれば藩は大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。
まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩経営であった。

当主が面白いからって藩まで面白くする必要ないのにw
712人間七七四年:2009/10/19(月) 02:19:03 ID:ww69P/xS
戦後後のコーヒー栽培もそうでしょ
たくさん豆の採れる品種にシフトして大量生産が可能になった


ただ、コーヒーの場合は投機筋や収穫高に応じて市場価格が激変しちゃうから、中には銀行に差し押さえられる農場も出てきてる

利益を出すために強い農薬を使うこともあるそうで、このままでは安全な美味しいコーヒーは飲めなくなるって嘆いてる人がいる
713人間七七四年:2009/10/19(月) 04:44:25 ID:hWysGjzi
>>698
関が原の合戦においては
東軍西軍合わせると
当時の地球上に存在した銃のおよそ半数がそこに集結していた、というハナシは聞いたことがある。


1600年頃の欧州での銃器事情はどうだったんだろ?
714人間七七四年:2009/10/19(月) 06:46:03 ID:hhzgBQBJ
日本国内で過剰になった銃が欧州に輸出されてたという話もあるな
715人間七七四年:2009/10/19(月) 08:28:15 ID:ww69P/xS
オスマンだかが買ってたかもという書き込みをどこかで見たな
716人間七七四年:2009/10/19(月) 10:33:07 ID:OBP94c3/
>>713
というか戦争に従事している人数も欧州の常備軍全てより多かった時代だよ?
たとえ話でよく言われるのが日本が本気で制圧戦をかましていたなら日本はモンゴル帝国に続く大帝国を打ち立てただろうって
獲った国を維持できるかどうかは別としてその頃の戦力の数値は工業化日本並のチートがされてます
717人間七七四年:2009/10/19(月) 11:02:58 ID:gHF+FgYr
大日本帝国ですら中国の縦深抜けなかったのになんで戦国期の日本が出来るのよ
そんな例え話ははじめて聞いたわ
718人間七七四年:2009/10/19(月) 11:28:35 ID:3o8J8p2L
このスレ読んでて思うのは「いい話しと悪い話は表裏一体」ってことだな。
それゃ当事者にとっては「いい話し」でもそのせいで酷い目にあった人たちもいるって話が多い。

>>154の「上杉家では減封されても武士は追放しなかった」ってのは武士にしてみればいい話しだが、
そのせいで武士の何百倍もいる領民たちはトンデモない重税や取立てでひどい目にあってるんだし、
酷い取立てに耐えかねた村ごと離散したなんて話しもゴロゴロある。
もしも領民の事をちゃんと考えているんだったら、
ちゃんと武士の数を整理して経済力に応じた数にした方が本当はよっぽど「いい話し」なんだが。

まあ福島正則の数々のDQN逸話もあるように「戦国のいい話し」ってのは
大概は武士のことしか考えてない話しが多いんだよね。
719人間七七四年:2009/10/19(月) 11:52:44 ID:Rnf16a1S
四方八方、丸く収まるなら、
これほど都合のいい話はない
720人間七七四年:2009/10/19(月) 12:06:44 ID:6oPEyUNA
すると森武蔵の悪い話も視点を変えるといい話に!

721人間七七四年:2009/10/19(月) 12:30:06 ID:FFnj73gD
ない。それはないから。
722人間七七四年:2009/10/19(月) 12:43:54 ID:Td4Gfk/l
乱世で力を付けた宗教勢力にはっきりと反目して影響力を排除し
権力の集権化をもって安定を計るという理念からの行動
と、とれば鬼武蔵の悪い話の半分くらいはいい話に変わる
問題は橋だ
723人間七七四年:2009/10/19(月) 12:50:15 ID:Qaa58eCb
えーっとほらあれだ
完成してるのに通行禁止とは利用する民百姓を苦しめるだけだと諌言を…
724人間七七四年:2009/10/19(月) 13:06:33 ID:Td4Gfk/l
民百姓を苦しめるだけだと諫言をするために
主君と法に忠実な家臣を使って抗議させてもらったのか
なるほど、いい話ですね
725人間七七四年:2009/10/19(月) 14:00:04 ID:aQ5iVcBl
武蔵「はしを渡ってはならぬ? なら真ん中を渡ればよいのだ」
726人間七七四年:2009/10/19(月) 14:30:20 ID:aV+2rpT7
どこぞの毛利家老さんみたいに全力で直進すんじゃね?
大きい石を引きずって行くっていうのもやりそうだが








鬼武蔵なら立て札と言った農民を切り殺し・・・・おっと誰か来たようだ
727人間七七四年:2009/10/19(月) 14:38:31 ID:a4JG0ZnG
有名な永禄4年(1561)の、第四時川中島合戦の後のこと、
上杉謙信は、武田信玄と和平を結ばんと、長遠寺の僧にその仲介を頼んだ。

謙信はこの僧に尋ねた。

「甲斐の家士に、向井與左衛門と言う者がおるか?」

「は、いらっしゃいます。」

「その男には、傷跡は無いか?」

「…は?そういえば顔に刀の跡があったようですが…」

「うむ。その男である。
実は先の川中島合戦の折、その向井は名乗り上げて、後ろからわしを槍で突き通そうとした。
そこでわしはとっさに振返り、刀で斬り払った。
あの手応えでは、よもや助かる事は無いと思っていたが、そうか、生きながらえておったか。」

そこで謙信、その合戦のときに着ていた、向井の槍後の残る萌黄の胴肩衣を取り出し、
それに書簡を添えて、「おぬしの武勇、見事であった」と、向井與左衛門へ送り届けた。

これを世に、『かえり感状』と呼ぶそうである。


上杉謙信、敵であっても武勇の士を愛し称える、と言うお話。
728人間七七四年:2009/10/19(月) 14:55:55 ID:QcKKbDUT
もしかして、名乗りを上げなければ謙信に槍をつけられたんじゃないかい?
729人間七七四年:2009/10/19(月) 15:08:55 ID:aV+2rpT7
敵の大将に挑む果敢さから武勇に感服したのは間違いないが
功を焦らず律儀に名乗りを上げたところにも思うところがあったのかも
730人間七七四年:2009/10/19(月) 15:44:10 ID:a4JG0ZnG
皆さんお待ちかね!ひさしぶり、めんどくさい三河者達ですよ〜

天正二年四月、家康の大井城よりの撤退戦の折の事。
殿を務めたのは大久保忠世であったのだが、この時、忠世の同心である
杉浦久蔵が深手を負った。

これを見つけた忠世は馬から飛び降り、「この馬に乗って退け!」と久蔵に命じた。
当然のことながら、三河者にこれに感謝し素直に聞くような可愛げは、無い。

「何でそんなところで馬から降りるんですか!?あんたはアホか!?」

重症の久蔵、忠世を叱り付けた。

「よろしいか!?われ等のような連中がいくら討たれた所で、軍全体に大きな影響は
出ないものです。が、あんたはこの殿部隊の大将ですよ?
それが馬から降りるだけでも、指揮命令に影響が出るって事がわからんのですか!?
八幡大菩薩も御照覧あれ!私は絶対に何があってもその馬には乗りません!」

けんもほろろとはこの事か。
さて、忠世もこんな事で引き下がりはしない。何故なら彼も三河者だからなのです。

「そう言う道理や礼儀も場所によるだろうが!いいからこの馬に乗れ!」

「冗談じゃない!私がこの馬に乗って生きながらえて、大将を捨て殺したなんて言われたら
誰が責任取るんですか!?わしはそうなったら切腹するしかないですよ!殺す気か!?」

しまいには忠世、切れた

「あーーーーーーーーっ!そこまで言うなら、この馬、ここで捨てる!!
お前がこの馬に乗らないなら俺だって絶対乗らないからな!!」

もうむちゃくちゃである。

ここに、騒ぎを知った小玉甚内が駆けつけた!

「あんたらなに馬鹿なことやってるんだ!早く撤退しろ!!」

忠世・久蔵「だって〜」

甚内「だって、じゃない!!」
そうして甚内、久蔵を無理やりに馬に乗せ、兎にも角にも引き下がらせた。


さて、撤退のさい細道に入ったところで、馬から降りて徒歩の忠世は、後ろから来た者に
突き飛ばされてしまった。

この時忠世は、兵藤弥惣、犬若と言う、二人の小者を引き連れていたのだが、この二人が
突き飛ばされた忠世に押されて、一緒にすっ転んだ。そのため犬若は、転んだ拍子に、
手に持っていた揚羽蝶の指物を放り投げてしまったのだが、運の悪いことにこれを敵が発見。
駆け寄って指物を奪い取ろうとした。

「指物を奪われてなるものか!」これを見た弥惣は敵に向かって走りより、なんと殴りかかろうとした。
敵は刀を抜き弥惣に斬りかかろうとした所に、忠世はとって返し、敵三人をたちまち討ち取った。

やがて無事帰還した忠世主従に、家康は、「剛将の下に弱兵はいないものだな」と、
大いに賞賛したそうである。

731人間七七四年:2009/10/19(月) 16:20:46 ID:Z/HJ/7pl
>>727
よく考えると、後ろから攻められても返り討ちにした謙信の武勇が凄いと自慢してるんじゃね?w
そりゃノブヤボでも鬼強だわ
732人間七七四年:2009/10/19(月) 18:05:51 ID:vFJDR4pR
>>731
個人戦のある太閤立志伝でも武力90+αあるからなあw
733sage:2009/10/19(月) 18:23:18 ID:8fzS1rTj
三河武士の話で質問なんだが、wikipediaの榊原康政の人物の項で、
「とても命を大切にしていた」という一文があるけど、これは何かエピソードがあるのかい?
どなたかご存知なら教えていただきたい。
734人間七七四年:2009/10/19(月) 18:23:21 ID:4omFPtZp
>>730
どう見てもコントです本当に(ry
7351/2:2009/10/19(月) 20:24:36 ID:S7aSGDaj
>>733貴殿のご希望に沿えるか分からんが

その一

姉川の合戦の際、徳川軍は先陣が酒井忠次、第二陣が榊原康政だった。
酒井隊は川を渡り敵に掛かろうとしたが、川の向こう岸は坂になっており登り難く、
敵の的になり始めた。

それを見た康政は、「それ、無二無三にでも押し上げよ!」と叫び、みずから真一文字に
馬を走らせ、岸を登りきってしまった。
榊原隊がそれに続くのを見た忠次は、「しゃっ!先陣が二陣に後れてなるか!」
と兵を鼓舞し、競って岸を駆け上がらせた。

戦後、家康は
「康政が二の手の仕方、以来の手本なり。二の手はかくの如くありたきものぞ。」
と、康政を称えた。
7362/2:2009/10/19(月) 20:25:23 ID:S7aSGDaj
その二

小田原攻めの時、家康が自軍に通達した。
「火の用心を厳しくいたせ。もし出火せし時は、失火者は死罪に処すべきものなり。」

これを聞いた榊原康政は、家康に申し出た。
「このたびのご通達、出火した時はその陣屋の主人に切腹を仰せ付けくだされ。
生死を共にした譜代、その働き頼もしきご秘蔵の面々と言えども、出火の際はご通達に
従い、お許しあること、まかりなりません。
この小平太ごとき者も、後々何があるか分かりませぬが、お仕置きあれ!」
「・・・・・・・・・」

家康はただちに通達を取り止めたという。


連投の段、平にご容赦
737人間七七四年:2009/10/19(月) 21:51:09 ID:Dzza+yNV
小牧の戦で家康が負けて家が取り潰されてたら
康政は取り合いになったんだろうなあ。
秀吉の下に仕える康政というのも想像しがたいが
738人間七七四年:2009/10/19(月) 22:08:11 ID:Vdq3/1VL
>>730
久々のめんどくささ

実にいいなw
739人間七七四年:2009/10/19(月) 22:50:08 ID:KPt7O7YN
>734江戸の町人長屋の花見噺かと思ったわw

三河武士みな、八っつぁん熊さん(=忠世&久蔵)与太(=犬若)に大家さん(=小玉甚内)の世界...
740人間七七四年:2009/10/19(月) 22:56:25 ID:L3m7BWma
ある戦いで徳川家康が敵地深くに侵入したときの話。
斥候が戻ってきてこの先は危険だと伝えた。
なんでも前方右に湿地帯があるのだという。
もしも馬が入りこんだら、身動きがとれないことだろう。

家康(ひょっとしたら敵は我らを沼に誘いこんで、動けない
   ところを一網打尽にするつもりかもしれない。
   しかし、もうすぐ敵城なのに引き返すというのも…)

伝騎が後続に注意を促しているが、どうも徹底していないようだ。
このままでは兵たちはなにも知らずに泥沼に足を踏み入れてしまう
かもしれない。そのときである。

ザッパーーーーーーーン!!!

「と、殿ーーー!」

家康は突然駆け出して泥沼に跳び込んだ。
やっと這い上がった家康の姿はまさに泥人形だった。

「おい、殿が沼に落っこちたらしいぞ」
「お命も危うかったらしいな」

大将の一大事とあって、この事件は瞬く間に兵たちに広まった。
兵たちはこの先に泥沼があることを意識するようになったのである。
この家康の機転によって、このあとの戦いで沼に足を取られて
討たれた者は一人としていなかった。
741人間七七四年:2009/10/19(月) 23:00:48 ID:yTSdkPBw
泥に紛れて脱糞とかって・・・そんなことあるはずないですよね〜
742人間七七四年:2009/10/19(月) 23:24:32 ID:vFJDR4pR
家康が最も恐れた沼地の話し・・・とか・・・。
743人間七七四年:2009/10/19(月) 23:25:00 ID:pSeSBWkt
744人間七七四年:2009/10/19(月) 23:27:57 ID:sqFzzFCT
家康を助けようとしたところを一網打尽にされたらどうするのか
745人間七七四年:2009/10/19(月) 23:29:52 ID:zFZHuFKS
家康のとっさの機転みたいになってるけど
泥沼にはまったドジ話を後世の人が無理に良い話にしようとしただけじゃないかなw
746人間七七四年:2009/10/19(月) 23:42:25 ID:KPt7O7YN
>>740-741こっちでは、家康が珍しくハッスルしちゃった話として出ているね。同じエピかな?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1027.html
747人間七七四年:2009/10/20(火) 00:00:32 ID:hhzgBQBJ
「おい、殿が泥まみれだぞ」
「どうせいつものウンコだべ」
748人間七七四年:2009/10/20(火) 00:05:20 ID:tNV+XWiu
「勝って兜の緒を締めよ、じゃっ!」

関が原の合戦後、小雨が降ってきたのでそれまで脱いでいた兜を急にかぶった家康をみんなが笑ったので
照れ隠しに言った言葉。後に違った意味のことわざになる。
749人間七七四年:2009/10/20(火) 00:09:29 ID:keiNGFtt
>>748
マジで?
この逸話も司馬関ヶ原の作り話だと思ってた。
750人間七七四年:2009/10/20(火) 00:44:33 ID:SpfJETaa
最初に言ったのは北条氏康だよね?
751人間七七四年:2009/10/20(火) 00:46:21 ID:SpfJETaa
ごめん、お父さん(氏綱)の方だった
752人間七七四年:2009/10/20(火) 00:57:22 ID:CmfIGhVf
>715
遅レスだけど
オスマンが買って銀象嵌の飾りをつけ
ダイヤモンドを嵌めた銃が確か数年前に日本に来てた
派手派手なんだけど極渋だったよ
あの人ら趣味は悪くないんだよな

ちなみに日本の古伊万里にも金文字でコーランの章句を描いてあった
あのみっしり絵が描きこまれてる古伊万里の数少ない余白にみっしりと…
753人間七七四年:2009/10/20(火) 07:54:17 ID:lR64OdCj
>>748
水野勝成『兜ねーし…』
754人間七七四年:2009/10/20(火) 09:16:40 ID:VYtfk9u0
>>748
でもそれ一説じゃなかった?
755人間七七四年:2009/10/20(火) 09:30:32 ID:xyWJ6xbs
褌武者たちの場合は勝ったら服着て良いよ、なのかな
756人間七七四年:2009/10/20(火) 10:02:41 ID:cIDfxDzM
>>735-736
いい話だ。家康は本当にいい家来をたくさん持ってるな。
めんどくさい三河武士を召抱えていられるのは、器量がでかいからなのか。
757人間七七四年:2009/10/20(火) 10:34:16 ID:pBQTuM/E
単純に同類だか(ry
758人間七七四年:2009/10/20(火) 10:43:17 ID:B0qY4o6l
とくがわのひみつをってしまったな…?
ばつをうけてもらわねばならぬ

さくさがしかるえんどれすりぴーと。
759人間七七四年:2009/10/20(火) 12:44:04 ID:e8wTjCK2
>>758
こうですか?

        ∧_∧ 
     ( ゚ω゚ ) 説教は任せろー 
ガミガミ  C l丶l丶 
     /  (   ) やめて! 
     (ノ ̄と、 i 
        しーJ
760人間七七四年:2009/10/20(火) 20:21:10 ID:u1TPEx0q
駿河拝領したお礼に上洛した徳川家康とその重臣
その一人、酒井忠次から指揮下の松平家忠に手紙が届いた

「今度、中国に出陣することになったが、畿内の指物(背中に付ける目印)は
しない(しなる棒に長い布を付けたもの)が主流なので、それに替える事。
これまでの四半旗(真四角の旗)では田舎者と言われるぞ」

意外に流行に敏感な三河武士であった
そしてこの数日後、本能寺の変が生じるのであった
761人間七七四年:2009/10/20(火) 21:01:20 ID:87lk7TI6
酒井さんの家中はめんどくさいことにはならんのかね?
もし、めんどくさい旗本連中に家康公がそんな発言しちゃったら…

大勢が真四角でキメて、指示に従ったごく少数のお洒落さんの差物を
見るも無残にへし折って主君に啖呵切りそうなイメージなんだけど…

「ああ情けなや、お家滅亡の兆しなり…」とかなんとか
762人間七七四年:2009/10/20(火) 21:10:02 ID:MvQOQF3R
>>761
いやそれが、めんどくさい代表の作左衛門さん、他の事には厳しいのだが、
事ファッションに関しては寛大、というかむしろ、積極的に「どんどんお洒落な格好しろ」って
感じだったらしいw
763人間七七四年:2009/10/20(火) 21:27:16 ID:hx0dcsy9
なんつーか、意外だ
764人間七七四年:2009/10/20(火) 21:31:08 ID:87lk7TI6
>>762
なんでだろ…家康公は、木綿で質素にまとめるような人なのに…
それはファッションとは関係ないかもしれんけど

765人間七七四年:2009/10/20(火) 21:33:29 ID:MvQOQF3R
家康には何故か地味なイメージがあるが、例の三方ヶ原の武田軍による、
「家康に過ぎたるもの〜」に上げられている、「唐の頭」からもわかるように、
実は家康の軍装と言えば、派手できらびやかな事で当時有名だったらしい。
766人間七七四年:2009/10/20(火) 21:58:02 ID:B0qY4o6l
ファッションごときで殿に対して後ろ指を指させるわけにはいかーん!ということだろう。

皆殿が評判落ちることに関しては過敏だから
767人間七七四年:2009/10/20(火) 22:18:36 ID:YFXzevTt
>>764
小説かもしれんけどなんだったかで、木綿はその頃高級織物で
(確かに歴史の授業で普及したのは江戸時代からって習ったような)
家康が木綿を着てたのは領地の特産品だったので歩く広告塔と
して木綿スタイルを広める目的とかなんとか
768人間七七四年:2009/10/20(火) 23:00:05 ID:BAesZqHK
>>767
かもね。木綿は室町時代には朝鮮・中国からの輸入品で、かつ重要な軍需物資でもあった。
戦国の頃から東海地方で栽培が始まり、国内産がじょじょに広まっていく。
769人間七七四年:2009/10/20(火) 23:04:43 ID:MvQOQF3R
実は三河は日本の木綿栽培発祥の地。
伝えたのはインド人(自称)
770人間七七四年:2009/10/20(火) 23:20:28 ID:uQNA3xOW
そういえば永井路子の姫の戦国で京から嫁いできたばかりで絹しか着たことない寿桂尼が
木綿の着物に面食らうシーンがあったな


あと関係ないかもしれんがリンカーンが
「男は四十過ぎたら自分の格好に責任持て」
って言ってたの思い出したわ
四十過ぎたらっていうか、やっぱ立場がそれなりなら
それなりの格好しろってことだよなあ
771人間七七四年:2009/10/20(火) 23:26:34 ID:jbKA1TIX
ふんどしは絹より木綿がいいんだよ。絹はすべってダメだ。
772人間七七四年:2009/10/21(水) 00:05:01 ID:2Mwgb649
>>770
格好だっけか。自分は「顔」だと聞いた。両方あるのかもしれないけど。

「男は四十にもなればそれまでの人生が顔にでる。だから顔が悪いヤツはダメだ」

と。ただここで言う顔ってのは造作の良し悪しでは無いんだろうけど。
773人間七七四年:2009/10/21(水) 00:10:30 ID:xZ4sRzhF
対馬藩の国書偽造事件と政宗


豊臣秀吉の朝鮮出兵により、朝鮮王朝との国交は断絶していた。
その国交を回復しようとの動きが、徳川幕府発足後に起こる。
間に立ったのは対馬の宗氏。
昔から半島貿易に頼ってきた島では、国交回復は悲願であった。

国交回復交渉に当たり、朝鮮王朝の出した条件は二つ。

 ・ 秀吉軍出兵の際の王墓破壊者を引き渡す事
 ・ 二度と侵略しない事を約束する事

前者は、朝鮮出兵とは一切関係のない、藩内にいた犯罪者の喉を
水銀で潰して身代わりに差し出すことで解決した。
だが、後者は宗氏から「戦争放棄」を将軍家に申し入れることが難しく、
窮した対馬藩はなんと国書を偽造してしまう。
更に朝鮮からの返書も改竄、その後も国書の偽造と改竄を繰り返し、
それによって貿易協定を結ばせるなどし、国交は回復した。

だがこれを幕府に告発した者がいた。
主家からの旗本独立を狙って宗氏と対立していた、対馬藩の家老・柳川調興である。

事件が表ざたになった時、幕府はすでに三代目の家光の時代になっていたが、
幕府を欺く国書偽造である。大問題となった。
対馬藩は取り潰しにあうのではないかという最悪の噂まで飛び交った。

寛永12年、家光の前で宗家当主・宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われた。
江戸にいた大名は総登城し、江戸城大広間にてこの対決を見守る。
結果として幕府は、日朝貿易は対馬藩に委ねた方がよいと判断し、
宗義成は無罪(ただし事件に関わった外交僧・玄方が盛岡藩に流罪)、
柳川調興は津軽藩に流罪となり、その後の貿易は幕府が厳しく監視した。

これが「柳川一件」と呼ばれる国書偽造事件の経緯である。

この国書偽造事件について家光の裁断が下る前に、
事件のとりなしのために一肌脱いだのが伊達政宗である。

宗氏は古くから朝鮮王朝と深いよしみを通じており、
秀吉の理不尽な要求で半島出兵が行われた時の宗氏の苦悩を政宗は知っていた。
「朝鮮に討つべき罪はない」と言った宗氏に同情も持っていた。
更に国書偽造事件がこじれることで、再び昔のような戦が起こることも怖れた。
政宗は義成をこう励ましている。

「朝鮮の役の時、我々は貴方の父上、義智公に危機を救っていただいた。
今こそ恩に報いたいと存じております」

この当時、政宗は死を一年後にひかえた69歳になっていた。
老骨に鞭打って、政宗は裁断前、家光にこう言った。

「朝鮮は昔から親しい国でございます。それなのに、秀吉は理由もなく兵を動かした。
間もなく豊臣家が滅んだのも天の報いだと、人々はそう言っております。
権現様は、その過ちを正されたお方。再び兵を動かすようなことになれば、
殿は地下の権現様にどんな顔で会われるおつもりですか」

最早残り少ない往時の戦役体験者の言葉は、説得力を持って響いた。
この諫言が功を奏したのか、対馬藩最悪のシナリオは避けられたのだった。
774人間七七四年:2009/10/21(水) 00:15:36 ID:szMICUqk
この政宗にはDQNの面影が無い…
775人間七七四年:2009/10/21(水) 00:16:24 ID:eeGK85+j
これはいい政宗
776人間七七四年:2009/10/21(水) 00:22:44 ID:TvYVeO2L
四天王だなんだと言われていても、いい話しはちゃんとあるんだよなあ・・・。

・・・約一名以外は。
777人間七七四年:2009/10/21(水) 01:05:19 ID:zjDwjbiY
DQNだDQNだと言われても、政宗のエピソードは彼の情の深さを思わせるものが多いよね
778人間七七四年:2009/10/21(水) 01:25:26 ID:CMJmABD0
晩年の政宗は「オレも昔はワルだったんだけどさ・・・」って将軍に説教するちょい悪親父だからな。
779人間七七四年:2009/10/21(水) 01:27:58 ID:qf0yRDBy
あの遺訓を見れば、いかに味わい深い人物であったかが分かる
だいぶ家康を意識した遺訓ではあるけど
780人間七七四年:2009/10/21(水) 01:43:25 ID:4F1NDdXE
>>765
ふんどしの色は浅黄が一番だそうです
さすがにそれは受け入れられなかったらしいがw
781人間七七四年:2009/10/21(水) 02:01:20 ID:16+ulZD6
関ヶ原、東軍による美濃攻めの時の話である。
合渡堤の合戦で西軍は東軍に圧倒され、兵たちは逃走、
その中に石田三成の鉄砲足軽、勘右衛門と言う者の姿もあった。

さて、鉄砲を持って逃げる勘右衛門の姿を、田中吉政の家来坂本和泉が発見、
駆け寄ると、これを斃さんと馬上より槍を繰り出した。

勘右衛門とっさに避けると、坂本に向ってこんな事を言い出した

「ま、待て!味方を討ち取ると言う事があるか!」

自分を東軍側の侍だと言う事にして、この場を逃れようとしたのである。
これを聞いた坂本

「味方だと?何所の部隊の者だ!?」

そ、それは…

勘右衛門、東軍の者の中で田中吉政家臣である、西村五右衛門のことを
同郷であると言う事で見知っていた。そのため

「に、西村五郎右衛門の部隊のものでござる!」

と答えた。
これに坂本

「なんだ、西村殿の所の者か…。では行くがいい。」

助かった!勘右衛門がそこから離れようとしたところ、後ろから坂本が声をかけた

「あ、そうそう、西村殿の所の者だと言うのなら、お前が今着ているその羽織、
脱ぎ捨てていったほうがいいぞ?
石田三成の部隊の足軽は、皆そろいの羽織を着ているのだよ。今お前が着ているのと同じ物をな!」

そう言って他へと駆け出した。

坂本、この勘右衛門が敵方だと解ってはいたものの、同僚の西村の見知ったものだと悟り、
これを逃がしてやったのだ。
後に人々、「坂本は情けを知る人だ」と言い合ったそうである。
782人間七七四年:2009/10/21(水) 02:30:43 ID:EvCFeXBL
>>773
しかし、宗氏の国書偽造は昔からだよな。
その場しのぎの浅知恵外交が多いのは島侍の特徴だろうか?

琉球も、そういう一面なんか持ってたよな。
783人間七七四年:2009/10/21(水) 02:36:03 ID:hsA9FtcH
>>782
僧の嘘は方便といい
武者の嘘は武略という
784人間七七四年:2009/10/21(水) 02:37:27 ID:zV0zrzen
外交とか政治の嘘だけどな
785人間七七四年:2009/10/21(水) 02:47:09 ID:BIOUozcF
>>781
「あ〜、ワシは今、何も聞いてはおらなんだ、よってワシの預かり知らぬとことじゃ」
とか
「これから言うことは独り言じゃからな…実は○○は××であるのだ、おっとこれは独り言じゃぞ」
とか
「ワシは今こっちを向いておる、そっちは見ておらんからな、決して見ておらんからな」

こういうのけっこう多くない?


786人間七七四年:2009/10/21(水) 02:56:02 ID:EvCFeXBL
嘘っていうより、なんかその場凌ぎすぎるのがスゲエ気になる。
787人間七七四年:2009/10/21(水) 03:06:30 ID:luBPPdK3
>>767
> 家康が木綿を着てたのは領地の特産品だったので歩く広告塔と
> して木綿スタイルを広める目的とかなんとか


昭和の頃の話で、名前は忘れたが自民党の大物議員で絹づくめの服装で
有名な人がいたな。
スーツは勿論、ハンカチ・靴下・下着に至るまで全て絹。
で、会う人ごとに絹はいいぞ、お前も絹にしてみろと薦めるんだよな。
新人議員なんかは下手に睨まれると大変だから、一応は買って次に会った
ときに絹はいいですね、ぐらいの事は言わないとまずい。
知らない人が見たらなんて嫌味なヤツだろうと思うかも知れないが、実は
この人の選挙区は養蚕農家が大票田。
地元の有権者にしてみたらこんないいセンセイはいなかったって噺を思い
出した。
788人間七七四年:2009/10/21(水) 04:12:01 ID:xfzd4bvi
武士がお洒落するのは
戦場での武功を周りの軍監や同僚に証明してもらう必要があるためだから
一所懸命な連中にとっては死活問題だよ
派手で目立たなきゃあ誰も気づいてくれないかもしれないしね
789奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/10/21(水) 04:15:04 ID:tp14k0U4
命がけの死活問題って生存率25%だな。
790人間七七四年:2009/10/21(水) 08:16:24 ID:60xFBOMg
無駄に改行するの反対
791人間七七四年:2009/10/21(水) 09:57:44 ID:q3r8LgdX
パソコン通信時代はホント、改行・桁折りにうるさかった
792人間七七四年:2009/10/21(水) 11:04:21 ID:4hRLmZGn
>>781
関ヶ原戦後には
揃いの羽織がいっぱい脱ぎ捨てられてたんだろうか・・・
793人間七七四年:2009/10/21(水) 11:25:18 ID:6ITPTRlI
そういや合戦の後の死体処理や武具の処分・リサイクルなんかは
誰がやってたんだろうか。
いわゆる被差別階級の人たちがやってたのかなあ。
794人間七七四年:2009/10/21(水) 11:33:05 ID:IixOd/zU
>>783
農民
795人間七七四年:2009/10/21(水) 11:45:06 ID:6ITPTRlI
>>794
ありがとう。
まあ落ち武者狩りなんてやるくらいだから
積極的にやってたんでしょうねえ。

その武具のリサイクルを生業にしてる商人もいたんでしょうね。
目利きが出来ればそれなりに稼げそうだし。
796人間七七四年:2009/10/21(水) 12:14:04 ID:pGNF5JdE
>>787
謙信も上洛するときには越後の特産品の
越後上布で身を固めて京都に越後上布を売り込んでたとかなんとか。
797人間七七四年:2009/10/21(水) 12:31:33 ID:6rAQYMej
上杉の収益の多くは青芋(あおそ:麻の一種)の売り上げだしな
798人間七七四年:2009/10/21(水) 12:46:41 ID:bMZuhxzR
>>795
落ち武者から村を護る目的と、戦災から逃れるために大名との契約で落ち武者狩りしてたりもする
799人間七七四年:2009/10/21(水) 13:24:35 ID:jDa6reVU
>>795
一応、古金買い(戦場漁り)は違法なんだけどな、少なくとも武士からは良い顔はされない。
ま、戦場になるって事は刈田狼藉とか人災を被ってる可能性が高くて、
農民からしてみれば戦場漁りでもなんでもやって少しでも損害を補填する必要はあるんだけどね。
その結果、釘一本のこらないといわれる現在の業者も真っ青な廃品回収業者と化す。
800人間七七四年:2009/10/21(水) 14:46:09 ID:6ITPTRlI
>>798-799
ありがとうございます。
リサイクル率高そうですねw
きっと肝とか漢方として売られたりしたんだろうなあ・・・
801人間七七四年:2009/10/21(水) 15:46:21 ID:IG5kg9PT
上杉の収入の大半は塩田だぜ。
なんせ越後人口比で田畑で従事するよりも塩田で働く人間の方が圧倒的に多かった。
802人間七七四年:2009/10/21(水) 16:07:27 ID:Mmb3+mg8
めんどく作左「さて女房、こなたも、長い間ご苦労であった…」
(´;ω;`)
803人間七七四年:2009/10/21(水) 16:44:48 ID:16+ulZD6
関ヶ原も終わり、家康は天下を取ると、かねてより構想があったのだろう、さまざまな施策を
一気に推し進めた。新田開発、治水事業、通貨政策、街道の整備、貿易振興…
その中に、大久保長安などを抜擢しての、鉱山開発も含まれていた。

家康が大御所となってのお膝元、駿河においても、海野彌兵衛を奉行に、安倍川の源流地域にある
井川(静岡市)の笹山金山や、梅ヶ島(静岡市)の日影沢金山などの採掘を盛んに行った。

これにより、これらの金山からは年間、四斗樽(72リットル)に三百杯と言う、多量の採掘を見た
そうである。

さて、ある時家康がこの金山に、直々の検分に出向いた。
この時金山の者達が餅を搗き、これに黄粉をまぶして献上した。

「黄粉は、この金山から安部川に流れる砂金をイメージして
まぶしました。よってこの餅は金粉餅』と申します」

家康はこの餅を大変気に入り、金山の者達の褒美を与え、改めてこれを
『安倍川餅』と名付けた。

これ以後、『安倍川餅』は東海道の名物となり、京から江戸に下る勅使や八代将軍吉宗、
また、西郷隆盛などもこの餅に舌鼓を打ち、今に至るも多くの人々に愛されている事、
ご存知の通りである。

『安倍川餅』由来のお話。
804人間七七四年:2009/10/21(水) 16:46:49 ID:sv5HtGuB
それまでは黄粉まぶして餅を食う習慣はなかったのか
あっても呼び名がなかったのか
805人間七七四年:2009/10/21(水) 17:11:55 ID:uZM1itvC
家康って餅関係の逸話多いよな。
806人間七七四年:2009/10/21(水) 17:23:01 ID:roPX3UNJ
尻から餅を出せるしなー
807人間七七四年:2009/10/21(水) 17:33:54 ID:ziUCgMWe
>>800
人肝を薬に使うのは江戸時代な。
戦国時代はまだ明から製法が伝わっていなかった筈。
伝わっても製法は広まらなかったと思ったが。
808人間七七四年:2009/10/21(水) 17:52:45 ID:vdfN36yy
>>804
大豆は縄文時代からあるから、似たような物は
あったと思う。
ただ、安倍川餅は江戸時代、当時まだ珍しかった
「白砂糖」をつかっていたため、東海道の名物
として広く喧伝されたみたいだね。
809人間七七四年:2009/10/21(水) 18:49:20 ID:gUZsMDs/
江戸時代は遊山目的の旅も増えて庶民の購買力も高まったから
各地域で名物を作ったり名所を作ったり、という今と同じことをやり始める
810人間七七四年:2009/10/21(水) 19:47:13 ID:Cy0dRL93
きな粉か。金粉をまぶしていたら大変なことになっていたな。
811人間七七四年:2009/10/21(水) 20:36:14 ID:UQc25V8c
別にいいんでは?金粉の入った食品って結構あるし
812人間七七四年:2009/10/21(水) 20:39:55 ID:16+ulZD6
土地柄なんだろうけど、金沢は和菓子店も洋菓子店も、お菓子に軒並み金箔を使いますなw
もはや一種の調味料だ。
813人間七七四年:2009/10/21(水) 22:57:33 ID:Wu8nzTL0
まあ金は唾液や胃酸じゃ溶けないだろうし触感はあるかもしれないけど
味はしないよな?
814人間七七四年:2009/10/21(水) 23:23:50 ID:NARI/eZd
三河一向一揆の大将格の一人、浪切孫七郎は戦闘中に、小豆坂で
徳川家康に会ってしまった。するとどうしたことか、孫七郎は敵の大将に
背を向けて逃げ出したのである。

彼は家康と敵対してこそいたが、家康を殺したいわけではなかったのだ。
ただし、慌てて逃げるとみっともないので、そろ〜りと馬を進めた。

「待たんか貴様!孫七郎だろう!」

(やべ、バレた!)

焦った孫七郎、やっと本気になって馬を走らせるが、家康に背中を
二度突かれてしまう。しかし、致命傷ではなく、孫七郎はなんとか逃げおおせた。

そして一揆鎮圧後のある日、家康は帰参した孫七郎を呼び出した。

「小豆坂で負った後ろ傷はその後どうだ?」

「某は後ろ傷を負ったことなどありませぬ!人違いでありましょう!」

「ほう、白を切るつもりか。わしは確かに二度お前を突いたぞ。
そこまで違うと言うのなら、裸になれ!」

孫七郎は追いつめられて顔を真赤にするが、まだ認めない。

「確かに二ヶ所槍傷がありますが、断じて殿に突かれたものではありませぬ!
他の者に突かれたのです!」

「それ見ろ。それは間違いなくわしのつけた傷だ!
その傷があるかぎり、お前は一生わしに頭が上がらんな?」

いよいよ言い訳できなくなった孫七郎は、ついに降参した。
それからの孫七郎は熱心に奉公したという。
815人間七七四年:2009/10/21(水) 23:53:47 ID:2HW5Osko
おちゃめな逸話だことw
上手く言えないけど三河一向一揆時の逸話って、
みんなが家康のこと好きって感じがするから和む
まあ面倒くさいんだけどw
816人間七七四年:2009/10/22(木) 02:36:54 ID:EHhuq9cn
じゃあ初めから敵対するなって感じだよなw
ツンデレっていうのか、これはww
817奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/10/22(木) 04:03:08 ID:s5FLGh4z
ツンデレだけではなく、2ちゃん名物ウホッになりそうな流れに見えた。
818人間七七四年:2009/10/22(木) 06:03:56 ID:bpL7bpaA
二回も後ろから突かれるだなんて・・・
819人間七七四年:2009/10/22(木) 06:49:12 ID:Ax6RX8fI
>>818
万千代殿が睨んでおりますぞ、殿ー
820人間七七四年:2009/10/22(木) 07:33:20 ID:uOZc5aNI
 他 の 三 河 武 士 が ア ッ プ を は じ め た よ うで す 
821人間七七四年:2009/10/22(木) 10:48:45 ID:6H9jewl5
>>814
蜂屋さんといい、神君も戦いにくかっただろうなぁ…^^;;

822人間七七四年:2009/10/22(木) 10:57:07 ID:iMbeqKR7
>>821そういえば、
門徒一揆に同心した本多弥八郎どん(後のサドの守)はどうしてたんだろうなw
若い時分だけど陣頭で馬を駆って暴れ回る姿は正味、想像つきませんて
823人間七七四年:2009/10/22(木) 10:57:31 ID:nBC8WEI+
確か三方が原で、家康をぶちのめして馬に押し上げ浜松まで暴走させて脱糞させた後、
武田勢に「徳川三河守」だと名乗って殺された人も、三河一向一揆の参加者だったはず。
824人間七七四年:2009/10/22(木) 11:19:28 ID:D0br9rS+
>>823
なんか、
「別にあんたを助けたくて助けるんじゃないからね。
あんたが私以外の奴に倒されるのが嫌なだけなんだからね。」
ってセリフが聞こえてくるな。
825人間七七四年:2009/10/22(木) 11:34:16 ID:nBC8WEI+
信長のコレクション 茶器
秀吉のコレクション 茶器 女
家康のコレクション 年増女
正則のコレクション 家臣
826人間七七四年:2009/10/22(木) 11:45:57 ID:QT9Bi9/5
>>825
>家康のコレクション 年増女
まてまて「めんどくさい三河武士」が無いぞ
827人間七七四年:2009/10/22(木) 12:07:20 ID:mQh+Y3Rx
>>826
めんどくさい三河武士は集まってくるものではなく自生しているのだから
蒐集には当たらないと思うがどうかw?
828人間七七四年:2009/10/22(木) 12:56:39 ID:iMbeqKR7
>823夏目吉信、通称アナゴさんですね(違)

「こんな所で討ち死にだの切腹だの弱音を吐く殿様には心底愛想が尽きたぜ!」
「俺は殿を見放して謀反した。今から俺自らが殿様になってやるぜヒャッハー!」というツンデレ殿軍


まとめサイトにもっと綺麗な文章で纏められてるよ...
829人間七七四年:2009/10/22(木) 16:35:38 ID:TlI5SVF/
めんどくさい三河武士は伝染したり吸引されたりする性質のものなんだよ。

三河育ちじゃない人たちもめんどくさい人ばかり集まってくるし、家康自身も
乳母も学者もめんどくさいのが徳川家の家風。
830人間七七四年:2009/10/22(木) 16:38:07 ID:gIOiVpPs
ただの類友じゃあ・・・おっとこんな時間に伊賀者が何の用だろう
831人間七七四年:2009/10/22(木) 21:16:29 ID:e5cSMZoU
誰かこの板か日本史板にあった戦国大名の失策スレみたいなタイトルのスレ知らない?
2から100までは○○家
101から200までは○○家ってスレの流れがテンプレで決められてるやつ
832人間七七四年:2009/10/22(木) 23:00:38 ID:TFQ5Qxar
家康さんはある時期からロリコンになるんだよね。
833人間七七四年:2009/10/22(木) 23:12:27 ID:bZBUhbfW
面倒くさいでこんな逸話を思い出した。

関口柔心氏心(せきぐちじゅうしんうじむね)
関口義広(築山殿の父)の孫という名門出身。
まあ、今川の滅亡で没落するんだが、あらゆる武術を極め、ついに柔術の祖となった人物だ。
この人は本多甲斐守に仕えていたが、待遇が悪いので脱藩。
で、紀州の徳川頼宜に仕えた。が、本田家の顔を立てる為、家臣で無く客分待遇となった。
実際は「今後紀州の藩主はみんな関口流を学べ」と頼宜に言わせる程気に入られていたが・・・
そんな彼は、藩士達の酒席に呼ばれても常に下座だった。そんなある時、
「先生、上座へどうぞ」
「自分は、客分ですから・・・」
「いや、事情はみんな知ってますし。どうぞ上座へ」
「自分は上座に座る資格がありませんから・・・」
「今日こそは座って頂きます。おい!」
その場にいた4〜5人でムリヤリ持ち上げて上座に運ぼうとした。が、
「う、動かん!?」
どうやっても持ち上がらなかった。まさに達人の業である。
「自分はここで結構ですから・・・」
「そ、そうですか・・・」
その後は無理に上座に座らせようとするものはいなくなったという。

ちなみにこの人、ぬこが屋根から飛び降りるのを見て、
「これだ!ぬこにできて人間に出来ぬはずは無い!」
と自分も屋根から飛び降り、長い苦闘の末「受身」の技法を編み出したという逸話が有名。

かなり面倒臭い人だったんだろうな〜と思う。
834人間七七四年:2009/10/22(木) 23:21:25 ID:MUYvBKtt
>>833
ニャ、ニャンコ先生!!
835人間七七四年:2009/10/22(木) 23:37:05 ID:aTkwYEXG
面倒臭さも極めると達人とかに通じるのか
836人間七七四年:2009/10/23(金) 00:10:03 ID:ryiurhkC
>>833に補足というか明らかに蛇足を
柔心=氏心、両方ウジムネと読みます。
関口刑部少輔氏広の子、関口弥六右衛門氏心(柔心)
氏広は築山殿・信康親子と結び武田に内通したと嫌疑をかけられ浪人。
氏心は生まれが三河で今川家家臣というより、松平家の家臣として育つ。
松平飛騨守に仕え、主の死後近江膳所(異説に大和郡山)城主本多甲斐守に
招かれたが長続きせず、寛永十六年に本多家を去り、紀州家に仕える。
居合を林崎甚助に、組打ちを三浦与次右衛門に学び、長崎で中国の拳法を
シナの武芸者から教わったという。後に関口流(新心流)を興す。
息子の八郎左衛門氏業は父の遺領をそのまま受け継ぐのを潔しとせず、
開国修行に出る。後、信州松代藩主、真田伊豆守ら大名も彼の門人となっている。
837人間七七四年:2009/10/23(金) 03:45:25 ID:sQ3yZc5Y
>>833-834太田道灌どのが話を聞かせてくれとおっしゃってますが…
838人間七七四年:2009/10/23(金) 05:15:13 ID:d2zdxnm7
唐代の「酉陽雑俎」、江戸時代の「和訓栞」に書かれているように、中国日本では
猫の目、虹彩を見て時を計っていた。

鹿児島市郊外、薩摩藩島津家の別邸地跡磯庭園の森林の中を川が流れる広大な敷地の
一角に「猫神神社」がある。小さな鳥居をくぐると、両側に石灯籠があり、正面に
小さな石碑が鎮座している。
ここには、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した猫たちが祀られているというのだ。
文禄慶長の役(1592〜98)秀吉の命を受けて出征した島津家十七代義弘公の軍団に、
7匹の猫がお供をしたのだ。お役目は時を告げるため、まさに“陣中時計”だ。
7匹というところから想像すると、部隊同士で攻め込むタイミングを示し合わせるために、
それぞれが猫の目をのぞき込んだのではないだろうか…?
猫の瞳とがっちりと目を合わせて「それいくぞー、エイエイオー!」と出陣したとすると
すごいことだ。
このエピソードについては、当時書き残された確固たる資料は何もない。
言い伝えられてきたものを、後の時代になって書きとめたものだけである。
しかし、これは実際にあったことだと思いたくなるようないい話が残っているのだ。
7匹のうち生還した猫は2匹しかいなかった。そのうちの一匹は、義弘の二男久保に
可愛がられ、“ヤス”という名だった。白地に黄色の波紋があり、つい最近まで地元の
人たちは、この模様の猫をみんな“ヤス”と呼び敬ったというのだ。
そして、毎年6月10日の「時の日」には、鹿児島市の時計業組合の人たちが、
ヤスたち7匹の小さな霊をなぐさめるために、猫神神社にお参りするのだという。


ぬこ好き2ちゃの皆さんへちょっといい話。
島津義弘するか二男久保(ひさやす)にするかどっちだろ?
839人間七七四年:2009/10/23(金) 07:18:07 ID:QomoWYek
犯人はヤス
840人間七七四年:2009/10/23(金) 08:36:54 ID:kAqN8Bpm
く…久保…
841人間七七四年:2009/10/23(金) 12:25:01 ID:YPabc/3b
>>108
ここの逸話にあわせたかのようなこんなニュースが!


政宗ゆかりの「造酒屋敷」? 仙台城跡で礎石や井戸跡発見

仙台市教委は22日、青葉区川内の仙台城跡で、仙台藩祖伊達政宗ゆかりの「造酒屋敷」の
可能性がある建物基礎や井戸、排水設備跡などが見つかったと発表した。
炉の跡など明治期にはかじ屋があった形跡も見つかった。

調査した三の丸南側の約420平方メートルから、基礎となる石の列や礎石跡が発見された。
直径5メートルと、一般民家に比べて大きい井戸跡が見つかった。木製のとい、石組みの溝なども
発見された。

江戸時代の絵図には、この地に「御酒や 又五郎」と記されているが、酒造りの形跡が見つからず、
不明な点も多い。

文献によると、政宗は1608年、奈良から職人を招き、城内の一角に屋敷地を与えて酒を造らせた。
市教委文化財課は「酒造りの証拠は来年度の調査で明確にしたい」と話している。

24日午後1時半から、遺跡を一般公開する。駐車場はない。
連絡先は文化財課022(214)8544。

河北新報
http://www.kahoku.co.jp/news/2009/10/20091023t15015.htm
造酒屋敷と関連があるとみられる井戸跡
http://www.kahoku.co.jp/img/news/2009/20091023010jd.jpg
842人間七七四年:2009/10/23(金) 17:03:11 ID:jeVF1/cc
>838
鍋島直茂どのが猫神人事やに供物を捧げるから堪忍して下さいと……
843人間七七四年:2009/10/23(金) 17:08:09 ID:rCoty9P/
>>841
おおおお、逸話に関連する遺跡が出ると
テンション上がるね!
844人間七七四年:2009/10/23(金) 20:30:05 ID:8an/sbGP
まとめに見受けられなかったので、いい話?というか立花宗茂伝説の一端を。

幕藩体制も整ってきた寛永14年(1637年)、幕府を震撼させる事件が勃発した。
ご存知、島原の乱である。

この乱を鎮圧させるため、
幕府は板倉重昌を大将とした九州諸藩で編成された討伐軍を派遣した。
しかし、寄せ集めの兵であったうえ、
大坂夏の陣以降の泰平の世にどっぷりつかっていたためか士気もあがらず、
なかなか反乱を鎮めることができなかった。

家光「なかなか難儀しておるようだな。
   長引かせると幕府の威信に関わるゆえ、しかるべき人物を中央より派遣せねばなるまい。」
幕臣「ならば老中・松平伊豆守殿が適任かと。」
家光「知恵伊豆か。
   それはよいが、彼でも鎮められなかったとなればいよいよ面倒じゃ。
   誰か、伊豆守を補佐する者も選ばねばなるまい。」

そこで白羽の矢が立てられたのが、宗茂だった。
この時、御年72歳。

家光「乱を長引かせぬため松平伊豆守を遣わすことにしたが実戦経験が乏しいゆえ、
   ご老体にはご苦労であるが、彼を助けて乱を鎮めて欲しい。」
宗茂「乱が長引いているのは、武士が泰平に慣れてたるんでおるからでしょう。
   あと1、2年ほどは、乱が続いてもよろしいではございませぬか。」

冗談とも本音ともとれる言葉を残して、宗茂は一路島原へ向かった。

着陣後、さっそく松平伊豆守や現地の幕臣も交えて軍議となった。

幕臣「伊豆守殿が来られたのならば、原城も落ちたも同然。
   一気に総攻撃と参りましょう。」
信綱「・・・宗茂殿はどうお考えか?」
宗茂「原城を包囲し、兵糧攻めにするが上策かと。」
信綱「まさか、本気で乱が長引けばよいと考えておられるのか!?」
宗茂「原城に篭っている敵勢は決死の覚悟を決めておるでしょう。
   そんな相手に正面からぶつかればこちらの被害も甚大になりまする。
   ゆえに、まずは兵糧を無くさせ、
   士気が落ちたところを攻めれば容易に鎮圧できましょう。」

この兵糧攻めが功を奏し、
食料が尽きたところに総攻撃を受けた一揆勢は全滅を遂げ、反乱は終結した。

西国無双・立花宗茂の、最後の戦である。   
845人間七七四年:2009/10/23(金) 20:45:30 ID:qE+Lmnqp
決死の覚悟で籠城すればどうなるか、
誰よりも知ってる男だもんな。
846人間七七四年:2009/10/23(金) 20:47:41 ID:ZpwKzTKz
実父の岩屋城か
847人間七七四年:2009/10/23(金) 21:08:30 ID:Cf7uDR6Q
伊豆守と聞いて真っ先に腹黒父親とKYな弟と鬼嫁に苦労した
あの人(当時71歳)かと思ったぜ
848人間七七四年:2009/10/23(金) 21:15:25 ID:AvEZk7sX
信之w
宗茂と年齢近かったんだな
849人間七七四年:2009/10/23(金) 22:04:00 ID:0K918zt4
確か幸村、政宗、宗茂が同年生まれだった気がしたから
wikipedia見てみたら1567年生まれで纏めてあった
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/1567%E5%B9%B4
850人間七七四年:2009/10/24(土) 00:20:12 ID:a0flqpiq
有馬晴信「お、俺も!」
851人間七七四年:2009/10/24(土) 00:44:23 ID:sUaTkIQM
>>838
猫好きの太田道灌が二人に話したがっているようです
852 :2009/10/24(土) 01:06:40 ID:oGtYEKWB
>>554
黒田と細川も国替えの時に揉めて中悪くなったんだっけか?o興
853人間七七四年:2009/10/24(土) 01:09:25 ID:/wdobL2F
それこそ信之を引っぱり出してもええのに

歴戦の強者で負け知らずじゃなかったっけか
854人間七七四年:2009/10/24(土) 01:27:54 ID:/wdobL2F
あ、丸子は負けか
855人間七七四年:2009/10/24(土) 01:30:46 ID:bzblgcfg
信之は半分隠居状態だったんじゃない?
856人間七七四年:2009/10/24(土) 02:17:02 ID:oGtYEKWB
信之兄ちゃんの活躍は見たいけど
九州勢でもないのにご老体に九州まで向かわせるのはなぁ。
何か助言してる話ならまとめにあったよね。
陣中見舞いと称して部下を参戦させてる大名も結構いたらしいけど
兄ちゃんも誰か送ったりしてたんかな?
857人間七七四年:2009/10/24(土) 06:11:29 ID:vJYCzmj2
>>856
コレですね
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2240.html
父親と弟に苦労した人が、父親に苦労した人に助言すると言う
何とも良い話ですな
858人間七七四年:2009/10/24(土) 09:08:42 ID:Q+Q8bGMB
>>853
信之は文禄・慶長の役や関ヶ原など大掛かりな戦を経験してないからなぁ
そうなると宗茂の方に白羽の矢が立つでしょ
859人間七七四年:2009/10/24(土) 10:18:40 ID:WXLvOFs2
島原総攻撃で、宗茂、しらーと抜け駆けやったんでしょう?
鴎外の阿部一族にあったけど。


860人間七七四年:2009/10/24(土) 12:13:26 ID:m+GNGrur
戦場における本音と建前の匙加減は若造の敵うところではないって事で
861人間七七四年:2009/10/24(土) 13:26:57 ID:h7cIQ739
宗茂にあそこが勝負どころでした故無断でも攻めねばならぬと判断した、
と言われたとして反論できるかって言うと微妙だよなw

幕府の権威背負ってても下手すりゃ戦の分からん馬鹿扱いで笑いものだし。
862人間七七四年:2009/10/24(土) 13:38:46 ID:Se7STLm0
島原で立花軍を指揮してたのは忠茂で、
宗茂は助言してただけじゃなかったかな?

あと、抜け駆けしたのは鍋島軍だったような
863人間七七四年:2009/10/24(土) 16:29:53 ID:1N7aNTBa
抜け駆けといっても、幕府への忠誠の裏返しでもあるから、文句言わないんじゃないか。
864人間七七四年:2009/10/24(土) 16:46:28 ID:iGxtlF6U
島原で抜け駆けといえば佐賀藩のイメージだったから意外といえば意外。
865人間七七四年:2009/10/24(土) 18:27:41 ID:fDG4Fcyp
そのころ黒田藩は…(´・ω・`)
866人間七七四年:2009/10/24(土) 19:40:42 ID:oGtYEKWB
>>865
原城を兵糧攻めにするなら自分だけにやらせて!とか言い出したらしく
忠利が「黒田が手に負えないのは言うまでもないですけど・・(呆)」
と忠興に手紙だしてたな。
867人間七七四年:2009/10/24(土) 20:51:37 ID:vPZZ1kyb
黒田忠之公、へまばかり。

地元では、黒田騒動後に山笠大盤振る舞いで人気なんですが。
爺ちゃんには似なかった。
868人間七七四年:2009/10/24(土) 21:14:21 ID:iQViGi0W
宗茂のwikiみてたら戒名に俗名がそのまま入ってるのは有名すぎたから、なんてあるけど本当?
そこら辺の逸話ってあるんですか?
869人間七七四年:2009/10/25(日) 01:43:18 ID:oICP9TT8
天正十三年四月七日、土佐での事である。

岩井屋次右衛門が小船に乗って浅島(へさじま)の沖に漁に出たところ、一匹のタコを
釣り上げた。

ところがそのタコ、一つの茶碗を、二つの腕でしっかりと掴んでいた。
この茶碗飴色に光り、幅三寸四、五分(約10センチ)、深さ二寸四、五分(約7センチ)ほどの
大きさだったと言う。

次右衛門、これは稀代の珍事なりと、長宗我部元親の元に、この茶碗を差し上げた。
すると元親これを見て、

「ふむ、まことに前代未聞の不思議な事だ。これは岩井屋次右衛門が家の吉兆であろう、
彼に、これを家宝にせよと伝えよ。」

と、茶碗を返し給わったとのことである。
そんな、珍器をわたくしせず、引き上げた者に幸運がくるように配慮した、長宗我部元親のいい話。


決して、海から引き上げられた気持ちの悪い茶碗を押し付けられるのが嫌で適当な事を言って
つき返したのではない。と思う。
870人間七七四年:2009/10/25(日) 01:47:56 ID:JC0zVAQg
その釣り上げたタコは刺身にして食べたのかなw
871人間七七四年:2009/10/25(日) 02:24:08 ID:Z93s1Ysg
最初に茶碗を所有(?)していたタコには幸運どころか不幸が訪れた悪い話w
872人間七七四年:2009/10/25(日) 07:41:28 ID:dml/JKbE
この前NHKでやってたダーウィンが来た!の蛸を思い出した
ttp://www.nhk.or.jp/darwin/program/program166.html
873人間七七四年:2009/10/25(日) 10:55:54 ID:srSqUKyo
岩井屋次右衛門はこれで褒美をせしめようとしたんじゃないの?
それを見抜いた元親のいい話なのかなと思った
874人間七七四年:2009/10/25(日) 20:53:38 ID:6KblIV6t
平岩親吉と徳川家康の3人の息子

平岩親吉は家康の人質時代から生死を共にしてきた忠実な家臣であった。
家康は、長男信康の教育係を選ぶとき、平岩親吉以外の人物しか考えなかったし、
親吉も、信康をよく補佐し、信康に数々の武勲を立てさせた。

しかし、信康は、1979年、信長の命があったかどうかは別として、
家康の命により自害。親吉も1年ほど謹慎し、のち復職した。

十数年後、家康に8男仙千代が生まれたとき、家康は、「そちにもう一度子を与える」
といって、仙千代を子供のいない親吉の養子とした。
これまでの子は跡取り(信康、秀忠)を除き、豊臣家、武田家、松平家分家など
そうそうたる家を継いでおり、名家とはいえ家臣の平岩家に養子に出すことは異例であった。
だが、仙千代は5歳で死去する。

1603年、家康の9男義直(仙千代の同母弟)が甲州25万石に封ぜられると、
親吉は幼少の義直の後見を任される。
慶長12年(1607年)、義直が尾張名古屋藩主に転ずると、
親吉は義直付の家老として尾張に移り、藩政を執行した。

1611年、親吉死去。跡取りのいない親吉は所領を義直に譲る遺言を残していたが、
家康はその昔、親吉との間に生まれたという噂のあった子を見つけ出し、
その子に平岩氏の所領を継がせようとした。
しかしその子の母が、この子は親吉の子供ではないと固辞したため、
結局、平岩氏は慶長16年(1611年)の親吉の死をもって断絶した。

子とも主君とも思ってきた信康の死に堪え、さらに2人の子を任された一人の男のお話。
875人間七七四年:2009/10/25(日) 21:03:38 ID:cCTQxg7m
今時の汚い相続紛争を見ると、昔の人、というよりこの侍の一族は偉い!
がたがたインチキやって家業続けても、いびつで醜い家族神話が
子孫に残るもの。
876人間七七四年:2009/10/25(日) 21:11:51 ID:pnRUwIRd
>>874
つーか、信康長生きしすぎじゃね?
877人間七七四年:2009/10/25(日) 21:17:09 ID:ajVOKyYF
超・征夷大将軍 徳川信康(1559〜1979)
878人間七七四年:2009/10/25(日) 21:26:57 ID:mwyx23yx
いままで〜があと何年生きてたらとか
〜がもし死ななかったらとかはあったが
まさかそこまで長生きさせるifモノがかつてあったであろうか!!
879人間七七四年:2009/10/25(日) 21:35:01 ID:HtzVR/Pl
徳川幕府が潰れていく様を見た気持ちを聞きたい
880人間七七四年:2009/10/25(日) 21:52:10 ID:ajVOKyYF
信康「徳川の危機にあの世より蘇って参った!」
881人間七七四年:2009/10/25(日) 22:18:17 ID:CQYlX+tH
武田信玄が御咄衆にこう言った事がある。

「人にとって大事なのは遠慮(思慮)の二字だ。これがあれば分別者になる。
なぜかというと、己で判断できないとき、大身は家老に、小身は親類か友人に
相談して筋道を踏めば、越度がなくて済む。

分別のもとは遠慮だと信玄は考えておる。遠慮深く、才覚、分別があれば、
なんでもできて、歴史に名を残すことだろう。

例えば大織冠・藤原鎌足公は分別と才覚をもって海の龍王から奪われた
水晶の玉を取り戻した。海女と契りを結んで玉を拾わせたのはまさに鎌足公の
才覚である。そして、その契りが偽りだったとしても、水晶によって日月から光を
とり、水精に水をとらせたのは、人間の工夫、思案する才覚である。

しかし、人間として工夫と才覚でどうにもならないものが一つだけあるぞ。
一体それはなんだろうか?」

その問いを当てた者はいなかった。

「それは人の命だ。寿命が縮まっていくのだけはどうしようもない」

信玄はそう言って笑った。
882人間七七四年:2009/10/25(日) 22:26:28 ID:Gn1oPHbv
今日織部関係の本を読んでいたところ、森長可だったか忠政が
その辺の領主だったので織部十作の繁栄に何らかの協力をしていた
だろうという意見が述べられていたが、あの鬼武蔵に限ってと思ったので
ググッたところ、全然関係ないいい話が載っていたんだが、
そのままコピペはここではダメですよね?
883人間七七四年:2009/10/25(日) 22:31:31 ID:oICP9TT8
>>882
そう言うものならこっちの方が良いかと

【DQN】森長可【鬼武蔵】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1245426381/
884sage:2009/10/25(日) 22:36:41 ID:Gn1oPHbv
>>882
d!掲載はやめとくけど、
dqn以外の鬼武蔵の一面も語られてるみたいで
参考になりそうです
885sage:2009/10/25(日) 22:37:23 ID:Gn1oPHbv
自分にレスしてどうするよorz
>>883でした
886882:2009/10/26(月) 00:06:40 ID:QxMmFs3k
>>881
龍王のくだりがよく分からなかったので、ググッたところ、
曲になっているとのことでしたが、内容を見るとちょっと
「いい話」という感じじゃないように思われるんですが、
戦国ではこれが「いい話」の基準なんですかね・・・?
(最後に房前の追善するのはいい話ですが)
せっかく話を投下してくれたのに流れぶったぎって
申し訳ありませんでした
887人間七七四年:2009/10/26(月) 01:05:02 ID:k2hdthqs
平岩親吉は「毒まんじゅう二人の主計頭事件」の片方の人だね
888人間七七四年:2009/10/26(月) 02:15:16 ID:x6E75C+p
>887まあ後世の創作というかデタラメだろうけどねえ・・・

>>874
信康切腹のとき、自分の首を信長に送りつけてくれと大泣きに哭いたとか。
結城秀康を匿って育てた本多重次(さくざがしかるひと)や安藤帯刀と並ぶ忠臣やね
889人間七七四年:2009/10/26(月) 09:51:12 ID:84Kd4IF1
信康ってさ、家光の御世にふらっと現われたって言い伝えがあるよね
890人間七七四年:2009/10/26(月) 10:01:38 ID:6fYApT9k
>>889
Kwsk

信康が21歳で死んでからちょうど21年後の信康の命日が関ヶ原とか偶然にしてもホラー
891人間七七四年:2009/10/26(月) 10:20:15 ID:mS66P8NV
それなんてサンジェルマン
892人間七七四年:2009/10/26(月) 10:46:18 ID:BovAYeVs
>>890
信康、生存説
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7#.E7.94.9F.E5.AD.98.E8.AA.AC

どっかで読んだと思ったらWikiだった
893人間七七四年:2009/10/26(月) 12:17:43 ID:XIrfYTgY
こういう生存説ってどこの家にもあるような気が
信長や政宗の弟が坊主としてひっそり生存説とかさ
894人間七七四年:2009/10/26(月) 12:21:42 ID:SWwUAniN
>>893
つ光秀
895人間七七四年:2009/10/26(月) 12:41:40 ID:mS66P8NV
つ空海
896人間七七四年:2009/10/26(月) 12:48:58 ID:l2jSrKBl
つ久秀
897人間七七四年:2009/10/26(月) 13:00:07 ID:fFIP5yLG
つ秀家
898人間七七四年:2009/10/26(月) 13:37:48 ID:aXRzajvg
つ信之
899人間七七四年:2009/10/26(月) 13:38:15 ID:hby83VUV
つ信之
900人間七七四年:2009/10/26(月) 13:43:07 ID:BovAYeVs
901人間七七四年:2009/10/26(月) 14:36:08 ID:vrz9zLAt
>>884
鬼武蔵のいい話なんて、メチャクチャ気になるんだが…
902人間七七四年:2009/10/26(月) 15:12:09 ID:ilVpvExb
豊臣秀吉(紀元前5000〜1598)
903人間七七四年:2009/10/26(月) 16:08:00 ID:mpUr/cPi
文禄の頃の話である

豊臣秀吉が諸大名に命じ、伏見に築城をはじめたが、
宮部継潤もそのうちの一箇所を担当し、友田左近右衛門を奉行としてこれに当たらせた。

ある時、秀吉が工事状況を巡検した折、宮部の担当箇所の石垣が、事のほか
出っ張っている事を見つけると、甚だ機嫌を悪くし、奉行の友田を呼び出して

「あの石垣を直ぐに崩すように」

と命じた。
ところが、これに友田

「承りました。この事、善祥坊(継潤)に申し聞かせ、その上で改めて主君からの命令をいただき、
その後築き直しましょう。」

この返答に秀吉は激怒した

「わしが直々に下知した以上、継潤を憚る理由があるものか!いいから直ぐに打ち崩すのだ!」

それでも友田、この仰せに従わず、その場から大阪に飛脚を立て、宮部継潤に伺い、その上で
石垣を築きなおした。

さて、秀吉は大阪に帰り諸将に対面の時、宮部継潤に向って怒鳴った

「おぬしの所の奉行、友田左近右衛門は憎き奴なり!」

かくかくしかじか、伏見であった事への憤りを言い放つ。
宮部は真っ青になって驚き、『ああ、友田を切腹させよと言われるのであろうか、そうでなくとも
何か重い罪を命ぜられるのであろう。友田はわが家の大切な家臣だと言うのに、なんと言う事だ』と、
びくびくしながら畏まる。

秀吉、伏見での鬱憤を一通り言い終わると、

「…と、かように友田は憎き奴である。
友田は憎き奴だ。なれど、」

継潤のほうを向き

「おぬしは、まことに篤実なる家臣を持ったものだ。」

と、逆に友田を褒め、罪を言い渡す事はなかった。

その場にいた人々、なんと言う意外な事かと驚き、宮部は心底安堵し秀吉に感謝をしたそうである。
904人間七七四年:2009/10/26(月) 16:25:48 ID:SWwUAniN
>>903
これは良い秀吉…と言いかけたけど
良く考えたらマッチポンプじゃねーかw
905人間七七四年:2009/10/26(月) 16:35:53 ID:ColvTzyA
基本秀吉ってめんどくさい子嫌いじゃないんだよなw

むしろ功利で動く奴根っこでは信頼してない印象がある
906人間七七四年:2009/10/26(月) 16:36:22 ID:XIrfYTgY
このころまでは秀吉もまだ耄碌してなかったのね
慶長のあたりから完全に自失したか
907人間七七四年:2009/10/26(月) 17:40:48 ID:R6drDZ3I
>>905
若い頃三河辺りを放浪してたんだから
めんどくさい人達の気性や習性をよくわかってたんじゃないかなあ

めんどくさい人達って基本一本筋が通った法則があって、
それを譲らないとこ以外は、犬みたいに従順でしかも意外と規律正しいんだよなあ
908人間七七四年:2009/10/26(月) 20:11:30 ID:vyxkG7Hz
めんどくさい人は今でも現存しているからな。

「10数年前に拾ってもらった恩義」とかで、地元の町工場で薄給で80近くまで働いても文句言わず、
逆に下から上から慕われてるってのがうちの親戚にいた(親戚は生まれも育ちも愛知東部)

ただ1つ「嫁さん(自分の他人の問わず)に関して文句言うやつは説教の末鉄拳制裁」ってのを除いて。
909人間七七四年:2009/10/26(月) 21:31:31 ID:mBKn9o+W
めんどくせぇ親父だなwww
910人間七七四年:2009/10/26(月) 21:55:04 ID:8/vX+IUd
工場で80までおいてくれる会社もすごいな。
体が動かないから役に立たないだろうに。
911人間七七四年:2009/10/26(月) 22:21:18 ID:NIW0aA1B
チラ裏

昔NHKの番組で生涯現役80歳のエンジニアって番組やってたが立派に役に立ってたぞ
流石に一戦は退いてよく判らん実験が主みたいだったが
ある時若手が何かの機材の試作品を作ってそのじいさんの所に持って行くもその爺さんは見ただけで問題点を看破、
若手は忠告をあまり気にしなかったが実際に看破された箇所が原因でその機材は使い物にならない
結局様々な枷があって若者だけでは解決出来ず爺さんの助言でなんとか製品化に漕ぎ着けるって内容だったと思う
今だって定年過ぎても働いてるのなんてかなり多いぞ
歳食ってるからって侮るもんじゃない
戦国武将だって死ぬまで働いてるのはかなりいるしな
912人間七七四年:2009/10/26(月) 22:37:18 ID:1b/aL+m+
伝説のホンダの老メカニックみたいだな
引退したあとも何か重大な問題があるとその人に電話して
エンジン音聞いてもらってどこがまずいか教えてもらうってやつ
913人間七七四年:2009/10/26(月) 23:08:08 ID:NIW0aA1B
調べたら80歳じゃなくて90歳だった…
しかも2006年に95歳で退職したらしい
よくそこまで働けるわ
914人間七七四年:2009/10/26(月) 23:11:14 ID:MLW8gopB
S田N之「いい歳こいて働くなんてマジ勘弁だわw」
915人間七七四年:2009/10/27(火) 00:04:38 ID:HEgwDREh
A倉S滴「いや、ほんとほんと」
916人間七七四年:2009/10/27(火) 00:35:00 ID:BAsQlkie
NKBT海「さっさと隠居するに限るて」
917人間七七四年:2009/10/27(火) 00:51:46 ID:fcgDcQAd
I栗H牛「90超えて現役とか大変ですな」
918人間七七四年:2009/10/27(火) 00:59:57 ID:5EF10v+4
M利M就「孫がいるから何も心配することはない」
919人間七七四年:2009/10/27(火) 01:11:52 ID:9bN22qvu
T川M氏「>>914->>918みんなの寿命をオラに分けてくれー!」
920人間七七四年:2009/10/27(火) 07:37:38 ID:p64zHe+9
H条G庵「ワシらの短い寿命を分け与えたら余生を楽しむ間がないわい」
921人間七七四年:2009/10/27(火) 07:38:48 ID:RuBOY2P5
>>919
誰?
922人間七七四年:2009/10/27(火) 07:45:56 ID:eqFgCrUl
>>921
津川雅彦
923人間七七四年:2009/10/27(火) 08:10:28 ID:C8pcq4nx
ある意味そういう部下のほうが欲しい件

上司や同僚?( ゚ω゚ ) お断りします
924人間七七四年:2009/10/27(火) 08:34:05 ID:9DoSYHuc
松平忠輝「余生ばかり長くても困ります」
925人間七七四年:2009/10/27(火) 09:04:39 ID:qljAZzos
>>924
U多H家「ホント、人生は太く短くに限るよね。」
926人間七七四年:2009/10/27(火) 09:29:55 ID:71SD7tfl
T豊T松「短すぎてもアレですよ」
927人間七七四年:2009/10/27(火) 09:31:01 ID:JzMAfG0s
D達M宗「残躯天所赦、不楽是如何」
928人間七七四年:2009/10/27(火) 09:46:22 ID:yG6/2XEf
>>926
誰?
929人間七七四年:2009/10/27(火) 10:10:24 ID:iSmClHhH
>>919
ほんとに誰?
930人間七七四年:2009/10/27(火) 10:25:21 ID:CDg+Ny8/
>>926=豊臣鶴松。3歳で病死。
931人間七七四年:2009/10/27(火) 10:33:18 ID:CDg+Ny8/
>>919は多分、滝川益氏だと思う。享年は100歳を超えていたらしい。
932人間七七四年:2009/10/27(火) 11:43:12 ID:+af9UuB2
>>930
T豊 だからね…
933人間七七四年:2009/10/27(火) 11:49:46 ID:VKAbEz3c
>>919
T沢M安「10年くらい分けてやんよ」
934人間七七四年:2009/10/27(火) 17:48:04 ID:6QzJqkh9
>>901
岐阜県土岐市にある稚児岩という天然記念物にまつわる話で、
最初見たサイトでは主人公は長可の家臣と断定されてたからこれはwと思ったけど、別の観光サイトでは兼山城の家臣となっていて、
まぁ森家なんだろうけどはっきり分からないし、
分からなかったけどガイシュツくさいので止めました
935人間七七四年:2009/10/27(火) 17:56:14 ID:/LWYHVDG
豊豊豊松
936人間七七四年:2009/10/27(火) 18:46:20 ID:fbok/887
豊臣国松公(秀頼嫡男)が大坂の陣後処刑されたが
豊臣家に対して行った非道な行いを糾弾したという伝説があるが
昔の人はしっかりしてたんだな。
937人間七七四年:2009/10/27(火) 20:24:06 ID:AJCBLIZk
珍しく?男気溢れる政宗。


(゚∀゚)「政宗さーん、例の巻物みーせーてー。」
(●Д゚)「あん?巻物?
    あぁ、すまねぇな。あれもう持ってねーんだわ。」
(゚∀゚)「エー。なんでなんで〜?あんだけ自慢げに見せびらかしてたのに〜。」


政宗恩顧の商人で、佐渡屋某という者がいた。
その日政宗を訪ねた茶人陸阿弥は、佐渡屋から取り次いだ逸品を政宗に渡した。
藤原家隆自筆の「名歌百首」という巻物である。

(●Д゚)「こいつはスゲーや!ありがとよ陸阿弥さん!佐渡屋にも充分お礼しといてくれよ!」
(´ー`)「喜んでいただいて何よりです。
     そうそうその佐渡屋さん、質屋もやってるみたいなんで、まだ掘り出し物があるかもしれませんよ。
     またいい物見つけたら持って来ますね〜。」
(●Д゚)「え・・・質屋?
    ちょっと待て!じゃあこれってもしかして質に入ってたヤツなんじゃね!?」

案の定、それは質に入れられたものだった。
なんでも、若狭の今川求馬という浪人が金に困ったので質として入れたが、
期限までに金を返すことができず、そのまま佐渡屋が手に入れたのだという。

(●Д゚)「質に入ってたモン手に入れるなんてなんか気分ワリーな・・・。
    ・・・やっぱコイツは元の持ち主に返してやるか!」

結局政宗は、その巻物に金五両を添えて求馬の元に送り届けた。


(●Д゚)「つー訳だ。
    まぁ質に入れたとはいえ、そいつにとっちゃ大事なモンだからな。
    そうと知ったら持ち主に返してやるのが人情ってもんよ!」
(゚∀゚)「へー。政宗さんてやさしーんだー。」


後日、今川求馬がお礼を述べに政宗を訪ねて来た。
彼が南蛮流の外科を学んだ者だと聞いた政宗は彼を召抱え、後に足軽大将まで出世したという。


(●Д゚)「ホラ、あれだ。情けは人の為ならずってな!」
938人間七七四年:2009/10/27(火) 20:40:12 ID:OkzZi9lU
>>937
ずいぶんと粋な江戸っ子政宗だな。かっこよすぎる。
まさに伊達男ってとこか。
939人間七七四年:2009/10/27(火) 20:41:39 ID:R2u6TNxX
返してやるのはともかく、一介の浪人に金五両もつけてやるとか家臣が泣いちゃいそう。
まあ優秀な外科医が手にはいるなら安いものだが。
940人間七七四年:2009/10/27(火) 21:10:29 ID:7K9clZ0q
政宗って、和歌とか狂歌とかそっちの素養のある人にはわりと好意的な気がス。
941人間七七四年:2009/10/27(火) 21:22:57 ID:9bN22qvu
悪いスレでも和歌の話題で結構盛り上がったから
戦国時代の色んな人が詠んだ和歌のスレでも立ったら面白いだろうな
942人間七七四年:2009/10/27(火) 21:43:19 ID:WLXXrvqk
【】武士の格言名言辞世の句【】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195107110/

こういったスレならあるけど和歌限定だとなかった気がする
943人間七七四年:2009/10/27(火) 22:09:12 ID:C8pcq4nx
伊達さんは一般人には容赦ないが教養高い相手にはちょっと優しいよな


有名な茶器「ano・・・・・わたしにもやさs・・・バリーン」
944人間七七四年:2009/10/27(火) 22:14:21 ID:xSS6zS82
叔父さんとか引っ越して来たばかりのお隣さんにも優しくしてやれよ
945人間七七四年:2009/10/27(火) 22:27:27 ID:Ma+3iU2r
最初に引っ越してきた人は、教養高い人だったような気がしたが・・・。
946人間七七四年:2009/10/27(火) 22:33:34 ID:G2e6zzWt
政宗は掴み所がないなw
947人間七七四年:2009/10/27(火) 22:35:37 ID:iyNKigsI
程よくDQNで国宝ものの本とか半分こしても怒らない人じゃなきゃ駄目なんじゃないか?
きまじめ相手には反発するんだろうよ
948人間七七四年:2009/10/27(火) 22:40:33 ID:3MCAVE4x
政宗はの逸話も良い話も悪い話もカラッとしてるものが多いね。
だからDQNでも憎めないんだなあ。
949人間七七四年:2009/10/27(火) 23:10:21 ID:5wAo//Rn
>>944
おじさんは教養人なのにな。
950人間七七四年:2009/10/27(火) 23:12:59 ID:xJ4D9XGf
国宝や文化財になったのは昭和になってからの物が多いんじゃないか
政宗の頃は「ちょっとした文化人の作」程度の認識だったんじゃないかな
951人間七七四年:2009/10/27(火) 23:56:32 ID:L9/xmwI2
当時でもお宝大切にせずにぶっ壊したら
豪快な男と褒める奴もいるだろうが、物の価値が分からん馬鹿扱いされる奴の方が多そうな気もする
952人間七七四年:2009/10/28(水) 00:25:41 ID:dXKcAMFa
政宗なんかより水野勝成の方がよっぽど滅茶苦茶な人生ですよね
953人間七七四年:2009/10/28(水) 00:50:29 ID:9t2uvfbn
そんなすごいものを持ってた今川さんは何者なんだ?
954人間七七四年:2009/10/28(水) 08:02:30 ID:LUBB8QKb
>>944
伯父さんには優しかった気がする
伯父さんが上杉に攻められた時に援軍を出してるし
何だかんだ言っても伯父さんの家は攻めなかったし
955人間七七四年:2009/10/28(水) 08:17:12 ID:tU/+jRii
伯母さんちは容赦なく攻めたけどな
956人間七七四年:2009/10/28(水) 08:21:04 ID:ri/xq+XB
(●Д゚)「そんなこと言ってたらどこも攻めらんねーだろ」
957人間七七四年:2009/10/28(水) 09:09:36 ID:tWnGpji/
たしかにまーくん、周り中親戚だらけだもんなぁ。
958人間七七四年:2009/10/28(水) 09:32:04 ID:ADz0Fcuu
攻 め  る 必要 な  い じゃ な い
       親   戚  だ も  の
         
             親  戚  一  同
959人間七七四年:2009/10/28(水) 11:01:17 ID:H+iymVt8
「っぐわ!・・・くそ!・・・また暴れだしやがった・・・親族といえど攻めねばならぬようだな・・・」
親族の大名に「何で攻めてくんだよ!?」と聞かれると
「っふ・・・・内なる龍を持たぬ者にはわからんだろう・・・」と言いながら人取橋に突撃した

そんな頃のことを思い出すと心が躍る

こんなことかもしらんぜ
960263:2009/10/28(水) 12:29:14 ID:6qNxOwXA
ご無沙汰。
今週米沢博物館へ預けに行きます。
古文書の文面はすでに解読されていますが、詳しい前後関係は学芸員に聞いたのち
次スレにて来週報告します。

相当やばいものらしい

あれほど釘刺したのに写真転用した人へ。
別スレ立ててまで、何がしたかったんだ?

まあ、いいけどw

ここのスレに山形在住の方いますか?
オヌヌメのスポットあったら教えてください。
961人間七七四年:2009/10/28(水) 12:36:17 ID:4BdMxGUP
>>960
久しぶり。
やばいって値打ちものってこと?
まあ歴史上の新しい発見が世に出るのはファンにとっては喜ばしいものだよ。

米沢は牛肉と天地人関係のが色々あるんじゃない?
962人間七七四年:2009/10/28(水) 12:42:43 ID:fcD2044x
>>960
あの時は仕事で携帯から見てたから何がなんだかさっぱりだった
楽しみに待ってるよん
963続報キタワァー(`・ω・´)シャキーン!:2009/10/28(水) 12:58:14 ID:SPjQ6/HC
>>960がんがれ

天童いったら酒蔵やさくらんぼ畑をすすめるが、山形不案内でスマソ
964人間七七四年:2009/10/28(水) 12:59:27 ID:6qNxOwXA
>>961
一応、ヒント言っときますね。(本当はいいたくて仕方ないw)
やばいのは値打ちのことじゃないよ。
勝頼と景勝の立ち位置がはっきりしました。
965人間七七四年:2009/10/28(水) 13:01:48 ID:jk8vLwTv
このスレから歴史が動くか
966人間七七四年:2009/10/28(水) 13:10:10 ID:TwnQscZB
>>964
マジ!!
それ高校教科書書き換えレベルの話になりそうなのか?
967人間七七四年:2009/10/28(水) 13:29:21 ID:VOTubqDZ
>>964
来週まで全裸待機してるか・・・
968人間七七四年:2009/10/28(水) 13:32:57 ID:ADz0Fcuu
本当ならすごいがスレ違いじゃね?
969人間七七四年:2009/10/28(水) 13:53:17 ID:pfgLpC0w
謙信に仕えていた侍女・・・直江家お船の姉・・
旦那は・・その子供は景勝兼続の・・その末裔は・・・・米沢市あなどれん。

確信した!
武田信玄の末裔も蒲生氏郷の末裔も兼続の実家の末裔も甘粕・・霊的にも守護されている。
970人間七七四年:2009/10/28(水) 14:03:30 ID:gKcYFr0D
もし仮にホンモノの新資料なら
戦国板のどこでやっても大歓迎じゃね?
971人間七七四年:2009/10/28(水) 14:24:51 ID:IlX4Tek6
文禄の頃の事だそうだ。

朝鮮出兵の前線基地、肥前名護屋において、豊臣秀吉が、徳川家康の本陣で、
一日遊んだ事があった。

この時秀吉に御茶を持ってきたのが永井右近太夫直勝。
秀吉、あれは何者かと家康に聞く。家康、これを答えると

「ああ!あの者が先年長久手の戦で、池田勝入を討った手柄者か!
その姓名、確かに聞き覚えがある。」

このように言い、自然、秀吉、家康の間で、小牧長久手合戦の話となった。

秀吉はふと思い出し
「あれは四月下旬の事だったか、家康殿、貴方の先手が小牧山の麓に降りてきた。
しかし終日戦わず、そのまま陣に帰らせたという事があったな。
あれは一体どういう理由だったのか?」

これに家康
「は。あの時それがしは、あの部隊をおとりに貴方の御先手を、一重堀のこちら側へと引っ掛け
東の野で戦おうとしたのですよ。
が、こちらの挑発にもそちらの御先手がまるで動かないので、しかたなく部隊を下がらせました。」

秀吉、これを聞いて突然大笑いした
「なんと、実はあの時我等も、貴方の先手を堀のこちら側に引き付けて戦おうとしたのだよ。
そのため、そちらの部隊が堀を越えるまでは堅く陣を守っておけと、動く事を禁じておったのだ。
いやはや、同じ事を考えておったか。」

このように言い、実に面白がった、とのことである。
972263:2009/10/28(水) 14:25:12 ID:6qNxOwXA
>>965-966
期待しているところ、申し訳ないが、んなことはないと思うよ。
ただ、時代背景的には一番おもしろいタイミングだけどね。

>>968
そうだと思うけど、古文書の中身が「ちょっといい話」でもあるとオモタからここのスレ借りマスタ。
大目にみてね。
973人間七七四年:2009/10/28(水) 14:30:47 ID:+QxEdekO
>>960
山形は蕎麦旨いよ
あとありきたりだけど山寺はおすすめ
974人間七七四年:2009/10/28(水) 14:47:05 ID:4BdMxGUP
>>968
まあ、残された資料によって歴史の解釈が一つ増えるなんて事は
そうそうあるもんじゃないから歴史好きにはちょっといい話だしさ。
975人間七七四年:2009/10/28(水) 15:21:38 ID:ynLoCruJ
こじつけりゃなんでもありのスレになりそうだな
976人間七七四年:2009/10/28(水) 20:02:50 ID:JWUa2VgK
戦国の話題から大きく逸脱してるわけじゃないからいいじゃないか

>>971
何故だかわからんが面白がってる二人が怖い
977人間七七四年:2009/10/28(水) 20:16:16 ID:+1//xfbw
池田涙目
978人間七七四年:2009/10/28(水) 20:21:51 ID:bcigLfRB
 |∧∧
 |・ω・`)  お茶を持ってきました…
 |o旦o
 |―u'
 永 井 直 勝
979人間七七四年:2009/10/28(水) 21:01:54 ID:OOUWHLvF
>>978
池田輝政「父の首を打ちとったものに美濃尾張を与えてはいかがですか?」
980人間七七四年:2009/10/28(水) 21:27:52 ID:GsPr2cN3
>>960
大河ドラマで見事にスルーされた長谷堂城跡とかどうでしょう?
歩きなれた運動靴(できればハイキングシューズ)が必要ですけど。

山形城(霞城公園)なんて山形駅から歩いて5分の立地だから気軽かも。
ってか山形駅自体が山形城三の丸の跡地みたいなもんだからな。
最上義光記念館で銃弾の痕がある鮭兜も見られるよ。

蕎麦食うなら三津屋にしとけ
981人間七七四年:2009/10/28(水) 21:33:05 ID:GuZjlm1F
山形というと水蕎麦と芋煮だろうな
へぎ蕎麦は新潟だっけ?
982人間七七四年:2009/10/28(水) 21:58:38 ID:IlX4Tek6
新スレ立ててみる
983人間七七四年:2009/10/28(水) 22:03:31 ID:IlX4Tek6
出来なかった…
どなたか頼みます

↓スレタイ

戦国ちょっといい話15

↓テンプレ

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話14
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1254464290/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話14
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1254321432/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
984人間七七四年:2009/10/28(水) 22:06:37 ID:Cq4grqAX
やってみる
985人間七七四年:2009/10/28(水) 22:07:34 ID:OfyREL5K
置賜から庄内まではちょっと遠いかも知れんがとりあえず思いつく限り
さくらんぼ/将棋の駒/ラ・フランス/玉こんにゃく/米沢牛/だだちゃ豆/
最上川川下り/映画村/ミイラ/羽黒山五重塔/蔵王/
986人間七七四年:2009/10/28(水) 22:10:27 ID:Cq4grqAX
立ちました

戦国ちょっといい話15
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1256735299/

このスレを消費したらドゾー
987人間七七四年:2009/10/28(水) 22:52:19 ID:RTfQGJ0K
上山の丹野こんにゃく番所はマジパネェw
こんにゃくでトマトゼリーとか誰得っておもって喰ったらマジうまくてはまったわw
あとミルクケーキうめーぜ。車乗るときは喰うなよ
988人間七七四年:2009/10/28(水) 22:57:34 ID:esg3e+w6
スレチになっちゃうけど、上山の競馬場跡ってどうなったの?
989人間七七四年:2009/10/28(水) 23:07:59 ID:IlX4Tek6
>>986
乙です

埋め代わりに
”脇を合わせる”

福島正則が改易された後、川中島の配流先でのこと。
正則に付き従った人々集まり、物語などをしていると、関ヶ原の話となり、正則は、
関ヶ原で討死した家臣、星野又八の事を語り始めた。

「あの時の星野は脇を合わせると思ったが、あれだけ優れた働きをして討たれてしまったのは
不憫であった。」

左右の者達これを聞いて「”脇を合わせる”とは、一体どういうことなのでしょうか?」
と、おずおずと尋ねた。

こう質問されて正則「おいおい、お前達は、わざわざわしの配所まで従い来て、
後日にはわしの軍功を語り伝える人間達だと言うのに、そんな事も知らないようでは、
わしまで世間から馬鹿にされてしまうぞ。

よいか、”脇を合わせる”とは、1度武功があった上で、次の合戦で続けて手柄を成す事を言うのだ。
星野は岐阜で高名をし、関ヶ原のときもずいぶんと張り切っていた。
だから皆、星野は脇を合わせる物だと思っていたのさ。」

福島正則の改易の頃には既に、このような「合戦用語」はかなり廃れていた、と言うことを
うかがわせるお話。
990人間七七四年:2009/10/28(水) 23:28:01 ID:+LQBIEWL
>>986
乙です

>>989
乙なんてのも後2、30もしたら廃れるんだろうなあ
991人間七七四年:2009/10/28(水) 23:32:43 ID:BUMWmkV7
>>975
役所じゃねえんだから、戦国関連なら細けえこと言うなよw

それこそ、歴史が変わる瞬間に立ち会ってるかもしれねえんだから、それはそれでいい話
だよ。
992人間七七四年:2009/10/29(木) 00:59:59 ID:6+lva72m
やっぱり山形と庄内の芋煮の食べ比べをしないとね
993人間七七四年:2009/10/29(木) 01:05:49 ID:Dgl4V3PI
>>991
それなら悪い話をここに書いてもよくなるわけだがw
994人間七七四年:2009/10/29(木) 06:53:24 ID:F6+VDXqM
袖ふれ合うも多少の縁と申しますし、スレ違いながらも縁のあった話題
公式に発表されてから、いい話ならここに書き込む、で良いと思われまする
995人間七七四年:2009/10/29(木) 08:01:54 ID:QFaI6B/S
まぁいい話(悪い話)スレもいい話(悪い話)なら創作もおkになってるしなぁ…
996人間七七四年:2009/10/29(木) 09:15:12 ID:LR2aA54d
ちゃんとイイ話として書いてくれるならいいけど、
勿体ぶって情報の小出しするのはいい気しない。
997人間七七四年:2009/10/29(木) 09:32:03 ID:QFaI6B/S
>>996
まぁ釣りでも事実でもウザい気はする…
ぶっちゃけ結果だけ報告すれば良いし
998人間七七四年:2009/10/29(木) 09:47:05 ID:9ZMPLzjZ
いい話や悪い話といった話を楽しむスレなのに
事実報告だけなんて野暮な事いうなよ。
999人間七七四年:2009/10/29(木) 09:55:02 ID:QFaI6B/S
>>998
来週報告します、みたいな予告はいらんがね
まして他のいい話をぶった切ってまで
1000人間七七四年:2009/10/29(木) 10:21:10 ID:3G0TWkZQ
>>999
Take it easy!
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
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