長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】

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901人間七七四年:2011/05/27(金) 03:52:05.65 ID:NPtiouIP
>>895
伊達治家記録のデタラメ捏造ぶりと言うのは実に笑えて
例えば和賀領が南部信濃守に渡ったのを恨んでたのを
政宗が憐れみ招いて住まわせたなどと書いたりしてるが
そもそも和賀郡が南部領になったのは信直の時で信濃守ではないため歪曲がモロバレw
>>900
いやいや実際、上杉と伊達と佐竹はグル。
7月29日、1日付真田宛で大坂奉行衆が最上伊達は味方であると伝えてる。
7月29日付で家康が内々に最上へ上洛すると伝える。
8月7日付書状で家康は警戒していたのか政宗に実は江戸に帰っていたと今になってやっと知らせる。

この時期の使者往復には例えば
小山→院内(秋田南部)の間で11日かかり、院内→江戸13日かかるなど
関所などの警備が厳重なのか異常に日付がかかっている。
そういう状況下で政宗は和賀一揆を起させてる。

急度申入候 御当洞中 一揆少々蜂起之由
乍伝説無御心元候 無申迄候へ共 早々御退治尤に候
若当方境目 迯来者候者則成敗仕 其検可進候由 堅申付候間 可御心安候
先度者御懇之御使忝候 自是も必以使者可申入候
今度者右之仕合無御心元候間 先以飛札申入候 非疎意候恐惶謹言
八月十三日 羽柴越前守政宗
南部信濃守殿御宿所(最上口の陣所か) 元南部伯爵家文書

一揆発生してすぐ政宗が南部に「一揆が起きたんだって?」なんてモロバレなことをやらないだろうから
一揆発生から少なくとも4.5日程度を経てから出しているのは明白で、
政宗もまだ家康が江戸へ帰ったとは知らないだろう。

「奥南旧指録」附載 天和4年「慶長以来拝領物品付御書上写」の中に
慶長五年会津・最上取合之時 親信濃守 加勢被仰付 最上迄人数召連罷出候所
領内和賀一揆有之由申来 比旨出羽守に相断り 罷帰一揆之輩討鎮申事
このように南部は一揆の通報を受けて撤退しており

内々御床敷存 先達従是も 為使者申入候処 御使札忝候
即御報可申入処 他行仕昨夜中帰宅之故 令延引候
其元一揆之者共 無異儀被仰付之由 肝要に候
此度之一揆に此方之百姓も 少々相加之由 言語道断沙汰之限に候
併稗貫其外 以下之者共 互根本好味之有筋目少々罷越候哉
努々於此方不存事に候 境目之者共も 何も家中以下召連 白石表在陣仕之間 是又曾不存候
今度以注文承通 則此方相払可申候
具に書中に不被申候条 委細口上に申渡候間 不能一二候 恐々謹言
九月四日 羽柴越前政宗
南部信濃守殿 御報  元南部伯爵家文書
こののち乱は次々と拡大し遠野・気仙・釜石まで広がっていく。
902人間七七四年:2011/05/27(金) 07:03:09.71 ID:bKnQ7FUM
最後まで伊達に振り回された上杉は、蒲生氏郷以下だな。
903人間七七四年:2011/05/27(金) 07:53:52.42 ID:PCWSGZ6y
>>901
>伊達治家記録のデタラメ捏造ぶりと言うのは実に笑えて
そういうバイアスのかかった記事は伊達に限らずどこの史料にもある。
だから一次史料と突き合わせた精査が必要。中島書状などの信憑性が損なわれる
ものではない。
>7月29日、1日付真田宛で大坂奉行衆が最上伊達は味方であると伝えてる。
奉行衆は毎回、最上と伊達をセットに書いている。これを根拠にするなら、
最上もグルという指摘をしなくてはいけない。ただ、奉行衆は「最上や伊達
は自分の妻子だけでなく、家老の妻子もみんな上方にいるので」というのを
理由にしており、味方だと楽観視しているだけ。
また、この時点で政宗が一揆に加担していたかは不明。
最上軍の崩壊は直江が「内府ちがひの条々」をまわしたことなど、会津
征伐の正当性が失われたから。でなければ、南部以外の軍が帰陣した説
明がつかない。

>>902
サブの論の根底には政宗が上杉から白石城をだまし取ったというサブが
生み出した密約説がある。実はサブは伊達とともに上杉を馬鹿にしている。
904人間七七四年:2011/05/27(金) 12:11:43.11 ID:hydu0wK1
>>903
中島書状を始めとして悉く伊達治家記録の恣意的解釈を
君が踏襲していて改めようとしない態度で
しかも俺は伊達厨じゃないとアピるので笑っているのに気づかないの?
7/29付書状の伊達や最上については景勝談じ申し候者と書いてあり、
景勝から直接確約を得た話で
人質の件は追加情報でありさらにそれを保証する話。
他の諸大名だって大坂に人質がとられてるわけでわざわざ伊達や最上の名をあげるのは確定情報だから。
しかも8月朔日付け長束増田書状でも伊達や最上は味方と書いてる。
この7月内に内府ちがい条が伊達や最上にはまだ届いてないだろう。
最上は家康の命令で安東や南部らが集まってきて最上口の大将として先陣命令を受けて
家康の策によって否応なく米沢攻め責任者に祭り上げられてしまい
おまけに田中清六・中川忠重・津金胤久は家康の目付として最上口にやってきて最上仕置き条書を出している。
伊達は他家の軍が集結してない決定的な違いがある。
内府ちがいの条では無く政宗が一揆を煽り南部帰国と言う最上口瓦解に導いている。
南部は8/13に最上と起請文を書いてるから、それ以降に早々と帰国
しかし内府ちがい条が届いてからも18日に戸沢が19日に本堂が起請文を書き
義光からも返書起請文が20日に出されている。
家康の帰陣命令21日付が月内に最上口に届いたかは疑問で
実際に安東は月内は最上にいたのはわかるから
内府ちがい条が半信半疑であり安東もやっと家康が帰っている情報をつかみ帰ったのかも知れない。
905人間七七四年:2011/05/27(金) 12:17:46.47 ID:hydu0wK1
わかるとは思うけど念のため
「景勝談じ申し候」とは「景勝断じ申し候」の意だからね。
直接に面と向かって談じた会議じゃないよ。
906人間七七四年:2011/05/27(金) 12:48:54.72 ID:hydu0wK1
ついでに12日付で直江は岩井に南部が陣を引き払ったと書いてるが
13日に南部は最上に起請文を書いており
まだ撤兵してないため見事な予言文になってしまっている。
これは上杉と伊達が和賀一揆の件で合議しているからこその直江の発言である。
907人間七七四年:2011/05/27(金) 12:50:23.06 ID:Fq7p0Er/
へうげの言語障害景勝と腹話術師兼続ワロタ
908人間七七四年:2011/05/27(金) 14:59:56.84 ID:RwdnjnJX
家治と大岡忠光かよorz

909人間七七四年:2011/05/27(金) 15:01:32.06 ID:RwdnjnJX
家治じゃなくって家重か..
910人間七七四年:2011/05/27(金) 17:42:22.10 ID:8l2NVrkJ
>>905
張り切ってるとこすまないが、その書状で申し談じるのは上杉と
真田じゃないのかい?「秀頼さまに忠節を尽くすのが肝要です。
その上で上杉と『申し談じ』れば、関東は即時に破滅するでしょう」
伊達最上の話はそのあと。
911人間七七四年:2011/05/27(金) 18:48:07.81 ID:NPtiouIP
>>910
それはないんじゃないかな。
同日29日付けの輝元や秀家の文書はほぼ同内容で
「景勝申談上者 関東之儀〜」と書いてあり
談じ申し上げたと言う表現なので真田と相談しろとは言ってないだろう。
それに上杉と真田で関東を攻略せよなんてのちの文書でも言ってない。
言及してるのは真田の地の沼田から内通した?越後経由で会津への飛脚の通過についての話や
小諸・深志・川中島・諏訪の仕置きを真田に急いでやれと言ってるだけ(美濃への中仙道をふさげって話)
下野に秀忠や秀康が残留している状況では
とてもじゃないが上杉と真田が相談しての上野挟撃すら覚束無い。
そもそも軍事通路が整備されていないのに
上杉軍が大湿原地帯の尾瀬を通過するのはリスクがありすぎる。
912人間七七四年:2011/05/28(土) 02:37:59.04 ID:yFwBK3MG
いずれにしても伊達最上と申し談じ候は関係ない
913人間七七四年:2011/05/28(土) 06:22:28.74 ID:w/2eqGhm
上杉と伊達が和賀一揆を白河決戦のタイミングに合わせて
引き起こそうとしていたのは明らかだな。
伊達軍による北奥攻略が成功していたら面白かったのに。
914人間七七四年:2011/05/28(土) 08:29:50.00 ID:hMYB8oZ2
12日直江→岩井書状内での南部の動きや
13日政宗→南部書状内での和賀一揆発生を
突き合わせて検討してみると
さすがに伊達と上杉が共謀してたのは認めざる負えない…
915人間七七四年:2011/05/28(土) 08:46:28.08 ID:diNnGCEh
>>911
よく読むと、上杉と真田で相談という意味でも伊達や最上について上杉が申し断じて
いるという意味でもないようだ。
奉行衆からの書状は「貴殿の御事、太閤様別して御懇、御忘却無く候はば、此の節、
秀頼様へ御忠節肝要に候、其の上景勝申し談じ候は(またははば)、関東即時に破滅
たるべく候、伊達・最上事も〜」
景勝が「関東即時に破滅たるべく候。伊達や最上も〜」と申し談じているのではなく、
「真田が味方になる上に、景勝ともすでに話し合っていて味方なので関東をすぐに滅
ぼせるでしょう」と解釈するのが適当だと思う。
続く「伊達・最上の事」以下は「伊達や最上については大坂に自分の妻はもちろん、
家老まで悉く妻子をこちらにいるので、人質にしています(だからこちらにつくで
しょう)」
「下向する時に秀頼様に忠節を尽くすと言っていた」というのは伊達・最上なのか、
下向中のほとんどの大名たちなのか分からないが、いずれにしてもこの部分は、奉行
衆たちが「『秀頼様に忠節を尽くす』と言っていた大名たちは内府ちがひの条々で反
秀頼勢力とされた家康にはつかない」という見方をしているという意味ととらえる。
三成が挙兵したら味方に付くと事前に打ち合わせていた訳ではないと思う。
916人間七七四年:2011/05/28(土) 09:07:57.78 ID:diNnGCEh
>>914
南部の最上表からの引き上げと和賀一揆の関連性、さらに蜂起当初
の和賀一揆と政宗の関係は不明。
江戸時代に書かれた編纂物に「会津征伐を命じた家康公が謀反人に
されたから解散した」とは書けない。
「秋田実季・最上義光対決の次第」では、内府ちがひの条々が「直
江山城方より」状を添えて送られてきたので、出羽国に集まってい
た諸将が「色めき立て見え候」という状態になったとしている。
直江の策略なので、南部が引き上げるだろうということも直江は「予
言」できる。
917人間七七四年:2011/05/28(土) 15:03:43.42 ID:hMYB8oZ2
>>915>>916
すげー曲解ワロタw
輝元や秀家書状でもほぼ同内容で景勝が断じ申し上げたと書いてるし
和賀が伊達領に呼ばれて住んでいて
陰に陽に後援を受けてたのも明白だし
今まで和賀一揆に伊達が関与してた話は否定して来なかったくせに日付付き書状を出したら都合が悪いから突然否定を始める態度ってどうなんだ?
それじゃ聞くが最上口に内府違い条は何日に誰に届いたの?
内府違い条が届いて動揺したなら
なんで南部以外は安東を始め最上からの起承文を貰って月内ずっと最上口に留まってたの?
最上が家康が江戸に帰ったのを知らせずにいたから帰らなかったのであり、
内府違い条で動揺なんてしていないんだよ。
だから和賀一揆と言う理由で撤退した南部と最上に恨みある小野寺以外は帰らなかった。
対決の次第なんて裁判用に作られたものじゃん。
918人間七七四年:2011/05/28(土) 16:15:32.33 ID:q+eCuPkK
「秋田実季・最上義光対決の次第」によると
前田・長束・増田の三名連署の檄文を受け取ったのは
8/21付の家康の帰陣命令が届いた以後であり
当時、実季自身も院内まで後陣を率いてきた最中で
帰陣命令を読んで先手を山形へ置いたまま
8月〜9月にかけて帰陣し、山形の先手も庄内攻めさせるため
義光の同意を得て撤兵させたとしてる。
実際、21付家康の帰陣命令書状とその福状22日付榊原・有馬・佐々木返書があり
28日までの兵粮米拠出を報告してるので裏が取れる。
激文を受け取った帰陣中に激文を受け取った実季は家康への奉公を六郷・由利衆と
百三段というところで誓って起承文を取り交わし
直江書状と激文を榊原康政に送付したと言っている。
家康の帰陣命令21日付には安東・六郷・仁賀保・小介川に宛てており裏が取れる。
諸将が「色めき立て見え候」したのは実季らが帰陣して秋田に戻っていく途中であり
早くても9月に入ってからであり、直江の岩井へ宛てた南部に関する話は完全に予言。
直江に予知能力がないとするなら
大坂方が景勝から聞いたと言うように上杉と伊達は共謀していて
白河で決戦が始まるタイミングで和賀一揆を起して南部を撤退させ最上口を瓦解させ、
伊達口では政宗が南部領へ攻め込み北奥平定に向かい
越後口もすでに内通しており(怪しげな動きがあれば越後遺民一揆を起す)
上杉と佐竹による徳川挟撃の予定があったのは間違いない。
919人間七七四年:2011/05/28(土) 16:28:31.00 ID:diNnGCEh
>輝元や秀家書状でもほぼ同内容で景勝が断じ申し上げたと書いてるし
輝元や秀家の書状も意味は同じ。「景勝も申し談じているので関東を平らげ
ることができるだろう」の意味。
ケアレスミスだと思ってスルーしていたけど「断じ申し上げた」って何?
「其上景勝申談候者、関東即時に破滅たるべく候」
をどう読み、どう解釈したのかな。談を先に読んで申に返ったってこと?
なぜあえて「談」を「断」に変えているのか。
景勝の部分は奉行衆も輝元や秀家の書状も同内容だが、伊達最上の話はない。
「申談」と最上・伊達は関係ないということだよ。
>今まで和賀一揆に伊達が関与してた話は否定して来なかったくせに
和賀一揆に詳しくないのでよくわからないが、南部や伊達の史料だと9月下旬とか
10月の蜂起になっているんだが、本当に8月13日には発生していたのか。
上杉には詳しくなくても伊達に詳しいようなので確たる史料があるなら教えてほしい。
>それじゃ聞くが最上口に内府違い条は何日に誰に届いたの?
日付は不明だが、「木村宇右衛門覚書」でも景勝からの廻文がまわったとある。
>なんで南部以外は安東を始め最上からの起承文を貰って月内ずっと最上口に留まってたの?
留まっていない。
920人間七七四年:2011/05/28(土) 16:54:11.82 ID:q+eCuPkK
>>919
>>ケアレスミス
>>905>>911

>>伊達最上の話はない
輝元や秀家はあくまでも福状だから短く略しただけで同内容。

>>901の書状が偽書状との指摘は聞いたことがない。
八月十三日には「一揆少々蜂起之由 」と書いてあるので
蜂起が開始されたばかりで9月下旬には大拡大していると言うこと。
南部信濃守殿御宿所が最上口の陣所を思わせ時期的にも符号する。

>>日付は不明だが
前田・長束・増田の三名連署の檄文を受け取ったのは
8/21付の家康の帰陣命令が届いた以後

>>留まっていない。
安東・六郷・仁賀保・小介川は同行動をとっていると思われるので
庄内攻めで義光との合意を得て完全撤兵しているので8月内はいた。
921人間七七四年:2011/05/28(土) 18:01:58.40 ID:diNnGCEh
>>920
なぜ「断じ申し上げる」になるのかと聞いているんだよ。
意味をどうとらえているのかもわからないから教えてほしいのだが。
922人間七七四年:2011/05/28(土) 18:45:42.50 ID:q+eCuPkK
>>921
書いてある通りだろ。
毎回、伊達厨としてその擁護目的の捏造に加担し
「意地でもそれは認められない」「なんでも反対!万年野党」
と言うスタンスの君の態度では
何を言っても曲解と屁理屈と理解できないフリの繰り返しだから無駄だろうけど。
なんせ和賀一揆における政宗の関与すらも
今になって強烈に否定してくるほどのキチガイだもの。
しかも8/13政宗書状までまったく根拠もないくせに
捏造だと主張し始めるほどの理不尽さ。
923人間七七四年:2011/05/28(土) 19:00:14.59 ID:q+eCuPkK
そもそも>>673のような言語力では理解できないだろうけど。

だいたい8/13政宗書状を苦労してやっと探してきてやったのに感謝の念すらないとはな。

>>8月13日の政宗書状というのを知らないので教えてほしいんだけど
>>南部家文書の8/13付の政宗書状がなんて書いてあるのかのほうが気になるが。
南部家文書の8/13付の政宗書状は現在の俺の手持ち史料にないから転記できない
>>南部家文書の8/13付の政宗書状の件も同様だが、出典を明かせないようではお話しにならない
>>出典を明かせないようではお話しにならない
あっそう。勝手にすれば。
>>sub敗北宣言www
こんな三段論法でこちらの意見を完全否定するキチガイ伊達厨を相手にしてきてるから疲れるわ。
924人間七七四年:2011/05/28(土) 19:13:32.83 ID:diNnGCEh
>>922
>書いてある通りだろ。
書いてない。普通は「申」「談」の順で読むべきでは?「断」でもない。
書いたとおりに読めば伊達・最上の話と「申談」は別の文。
だからサブ君がどう解釈したのか知りたいのだよ。
>>923
>>673も自分ではないし
>>sub敗北宣言wwwみたいなどうしようもないことも書かない。

925人間七七四年:2011/05/28(土) 20:16:32.51 ID:diNnGCEh
あと、お話にならないと書いたのも別人。
8月13日付政宗書状は青森県史でだいぶ前に入手済みだが、苦労して
探してくれたようでありがとう。ただ、南部家の複数の史料が和賀一揆
の発生を9月としている。また、一緒に最上表にいたはずの六郷は10
月中旬に秋田へ南部領内の一揆発生を報じている。
926人間七七四年:2011/05/28(土) 23:24:12.03 ID:hMYB8oZ2
当時は文部省も無いから漢字使用に統一基準はない
膝を突き合わせて話し合いしたわけじゃないんだから
談が断と理解するべきなのは明白だろ。
それとも君は城を責めると記述されていたら城に鞭でも入れたと解釈したり
正宗と書かれてたら偽書状だと主張するのか?
927人間七七四年:2011/05/29(日) 00:07:31.40 ID:rFEKsUTK
誰も偽文書だとは言っていない。
不自然な部分があるから日付なども含め検証が必要ではないかという話をしている。
最上表から引き上げた理由が本当に一揆なのかも含めて。

>談が断と理解するべきなのは明白だろ。
当て字がよくある時代だけど、今回のが「申し談す」でなく「断し申す」
にしなくてはいけない意味がよくわからない。
仮に断じ申すだとどういう意味になるのかもはっきりしない。
ケアレスミスを責めるつもりはないよ。
ただ、あくまで「(伊達や最上のことを?)断し申す」と読まなくては
いけない理由があるのなら教えてほしい。
928人間七七四年:2011/05/29(日) 02:23:33.67 ID:dt4nCmzY
>>927
お前の脳内で納得したくない気持ちなんて知らないし。
ケアレスミスでもねーし。
政宗13日書状で「一揆少々蜂起」と書いてるんだから
大規模になる前だから、大規模になった9月末とは違うのだろう。
そもそも政宗が「一揆少々蜂起」如きでわざわざ南部に書状を出す不自然さこそ怪しい話。
しかも続く4日付け政宗書状では白石にいて俺ら関係ないとアリバイの言い訳までわざわざしてる。
8/13・9/4政宗書状を読めば和賀一揆で南部が撤退した事実に間違いはないし
だからこそ南部の言い分を了解した家康は、
最上が中傷したところで南部を咎めることはなかった。
直江が添付した大坂方の激文の到着日付も
安東が榊原に提出したと書いており
それがウソなら榊原に聞けばすぐバレるウソをつくとも思えない。
929人間七七四年:2011/05/29(日) 03:23:27.52 ID:rFEKsUTK
奉行衆の真田宛て書状をどう読んで、どう訳したのか示していないのに納得するも
しないもないでしょう。普通に読めば上杉と伊達や最上が内通していたなんて証拠
にはならないのだから。「この書状が内通の証拠だ」と言いながら「原文をどう解
釈すればそうなるのかは言いません」それなら誰でも新説唱えられるよ。
分からないなら分からないでもいいんだよ。
サブはたまに熱くなってるけど、別に喧嘩するような場所ではないんだし。
ともかく、肝心な部分を明らかにしないのではいつまでたってもまともな議論にな
らないでしょう。
>納得したくない気持ち
根拠も示さずに研究者の誰も唱えていない珍説を納得してくれというほうが無理だよ。
930人間七七四年:2011/05/29(日) 04:25:57.56 ID:dt4nCmzY
>>929
だから>>905>>911を是とすると言ってるだろ。
931人間七七四年:2011/05/29(日) 10:00:55.33 ID:rFEKsUTK
>>930
新説の根拠にしたいならきちんと訳さなくては。
奉行衆の書状には「申談」がほかに2度出てくる。
「(家康が)秀頼様取り立てらるべき儀にあらず候に付きて、各『申談』し、
 西の丸の留守居追い出し〜」
「自身(大名)の事は申すに及ばず、家老まで人質を相しめ申候、九州、西
 国、北国一篇に『申談』候、但し、羽肥州は〜」
だいたい意味は分かるでしょう。

>>904
>7/29付書状の伊達や最上については景勝談じ申し候者と書いてあり、
>景勝から直接確約を得た話で
としているようなので、この考えに沿って勝手に訳させてもらえば、
「景勝が決定し(こちらに)申した話では、『関東は即時に破滅
させられるでしょう。伊達や最上も大坂に自分の妻子は申すに及ばず、
家老からも人質を取っている。下向の時も政宗や最上は(または東国の
多くの大名も)いつでも秀頼様へ忠節を申し上げるということを申し置
いていった』ということです。こちらの様子をお伝えしました。あなた
も(こうした状況)に合わせ、是非ともご忠節を尽くす時です」
奉行衆は伊達や最上からも人質をとっていることや、下向の時に秀頼に
忠節を尽くすと申し置いていったことを、景勝から聞いたと解釈したの
かな?

秀家と輝元の書状は
「今度各相談(奉行衆の書状に対応しているのでこれが『申談』と同意)し、
戦に及びました。上方は一篇に申合(これも『申談』)わせ、ことごとく大
名の妻子を人質にとりました。景勝が『申談上者』、関東を平らげることが
できるでしょう。あなたも太閤様の御懇意を忘れていなければ、この節は秀
頼様に忠節を尽くすのが肝要です」

『申談上者』はサブ的な読み下しは『断じ申し上げるは』かな?。こう読む
と意味は「決定して(秀頼様に)申し上げた」または「秀頼様にお味方する
ことを決定した」だろうけど、>>904によると前者か。
「決定して(秀頼様に)申し上げたことは『関東はきっと平らげられるでし
ょう』」となるのかな
932人間七七四年:2011/05/29(日) 14:51:56.24 ID:a7hunTbv
またキチガイ伊達厨が歪曲解釈で粘着してるのか。
933人間七七四年:2011/05/29(日) 16:59:29.10 ID:rFEKsUTK
答えられない時の常套句はいらないよ。

奉行の書状はサブ君の訳を想像して書いたんだよ。
あまりに無理矢理な訳になったので、きっと君の訳とは違うのだろう。
どこが君の訳と違うのかぜひ指摘しておくれ。
934人間七七四年:2011/06/03(金) 14:56:01.07 ID:rYBQqb84
『直江兼続と関ヶ原〜慶長五年の真相をさぐる』
(福島県文化振興事業団2011)
935人間七七四年:2011/06/04(土) 22:56:33.07 ID:AJLsLx8m
>>880
新井白石は仙台から金をもらってたんだろうな。
なんせ佐竹義重が義宣に家督を譲渡したのは
秀吉が小田原陣の時に常陸一国安堵を許され水戸城を手に入れてから家督を譲渡したとデタラメを書いて
政宗が葦名を滅ぼし義重に勝ったと言う捏造をしてるからな。
936人間七七四年:2011/06/05(日) 21:04:57.10 ID:IDPEiSvj
関ヶ原後は最上対上杉は内応の成功で最上の勝ち。
上杉対伊達は梁川との挟撃作戦で上杉の勝ち。

家康から安堵された領土的観点からは間違い無い所だろう。
937人間七七四年:2011/06/06(月) 17:09:53.16 ID:3R9q82+J
史実では上杉は伊達に惨敗。福島表では完全に掃討されて手も足もでない
状態に陥った。これが上杉の徳川への講和のきっかけとなったことは疑いようがない。

それ以前に白石城はわずか1日で陥落。葛西大崎一揆の鎮圧戦より陥落スピードが速かったわけだ。
白石城の落城の際には上杉は同士討ちの失態までおかしている。
938人間七七四年:2011/06/06(月) 17:37:40.40 ID:RMBhPoKh
>>937
デタラメばかりで気持ち悪いよ伊達厨くん
939人間七七四年:2011/06/07(火) 02:18:02.38 ID:kjNYFzr1
ウソをたくさん吐けば事実になると誤解してるのが伊達厨。
940人間七七四年:2011/06/07(火) 07:32:52.19 ID:cRLV9hqc
サブもサブだが、>>937も同じことしか言わないな
941人間七七四年:2011/06/11(土) 09:28:48.15 ID:Z72CEwPp
梁川城(約800名)国見山急襲から一転。
福島城(約2,000名)から討って出た本庄父子や岡らの反撃で
僅か一日で命からがら北目城迄逃げ帰った伊達・片倉主従(本隊約18,000名)。
如何に伊達軍が弱いか判る。

白石を一日で落とせたのは伊達の大軍にビビって登坂式部が内応したため。
内応がないと伊達全軍でも上杉の一城すら落とせない、それが伊達。
942人間七七四年:2011/06/11(土) 11:47:39.18 ID:AzqrH8NT
せっかくあるなら上杉景勝VS伊達政宗スレ使いましょう。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1232709847/l50
943人間七七四年:2011/06/13(月) 07:43:48.42 ID:e5UANRP2
>941
>福島城(約2,000名)から討って出た本庄父子

すぐに福島城に押し込められたけどね w
944人間七七四年:2011/06/13(月) 15:14:47.58 ID:6G/WB1b9
伊達はスレ違い。
ここは最上と上杉のスレ。
伊達の話は執拗にループを繰り返すだけになるだけだから>>942の指摘に従えよ。
話が元に戻り通常運行しそうになるたびに
いちいち伊達の話を蒸し返し粘着すんなよ。
945人間七七四年:2011/06/18(土) 04:41:13.25 ID:Qm9wVRUw
直江自ら殿(しんがり)となって山形盆地からの撤退を図った長谷堂撤退戦について最上義光は家臣にこう語っている。
「公、誠に景虎勇武残りたりけると斜にならず感じ賜う。直江は古今無双の兵(つわもの)なり、と」
最上記(斯波家伝)
946人間七七四年:2011/06/18(土) 04:48:59.56 ID:Qm9wVRUw
長谷堂撤退戦のその見事さは後々まで地元で語り草となり、家康も「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者」と評している。
また、旧日本陸軍参謀本部「日本戦史」において撤退作戦の見本として取上げられている。
947人間七七四年:2011/06/18(土) 04:53:21.01 ID:Qm9wVRUw
ちなみに伊達から派遣され東軍勝利後に上杉追撃に参加した留守政景隊約3,000名は殆ど名を挙げることもなく直江の撤退を許している。
それを最上が弱いため直江を取り逃がしたと政宗に報告している辺りに伊達軍の脆弱さが垣間見える。
948人間七七四年:2011/06/18(土) 11:21:11.88 ID:oLw3O+iA
結局ダテガーかよww
949人間七七四年:2011/06/18(土) 11:29:16.66 ID:H+c0J8fq
>>948
実際は「いたて」って読むんだよ。
950人間七七四年
944で良いことを言っても結局subは…