長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】

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543人間七七四年
そもそも得体の知れない架空の人物名がやたら出てくるのがこの戦いにおける捏造の重症ぶりを示している・・・幕府への言い訳で大変だったのだろう。
下記リンクの佐瀬平八のように葦名で在籍確認が取れたように
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164706052/126
蒲生氏郷譜代之由で名志れ申候者ほどの者なのに在籍確認が取れないのはなぜだ?
例えば相馬の記録の補填になる奥相茶話記みたいに
田村旧臣の石川弾正の肝煎りで景勝に紹介され、相馬旧臣の泉左京胤政が700人扶持で上杉に召し抱えられ、また瀧迫日向がそれに合流。
直江騎下で最上侵攻に相馬衆119人で参加し、相馬流の軍配で功を立て戦後には泉に越後6万石、日向には1万石の内儀の約束があった。
このようなちゃんとした具体性が伴う証拠くらいあるのかね?
さらに仙台領の戦国誌では葛西大崎一揆についてしか書かれてないが
政宗が甘言で大崎葛西一揆の首謀者達を集めて須江山で謀殺した数は葛西側資料には70以上はあり、
秀次の命でやむを得ず殺したと知る成実記はウソを書いてるし、伊達秘鑑における二十数名を殺したってのもウソだとしている。
葛西氏と山内首藤一族は
やはり大崎葛西一揆鎮圧で政宗は甘言で深谷に呼び出して集合させた武士500農民2000を虐殺したとしてる。

さて白石落城記述についてだが三光録にある白石軍記(白石城攻略)と山中記(白石城攻略後日談で石川義宗の手柄話)と言う
軍記を元ネタ種本にした片倉代々記に書いてある内容そのものだ。700人討ち取りのガセもこれ。
もちろん史実にはまったく認定されない妄想話で石川義宗などはとっくに死んだはずの中野常陸介を討伐して政宗から褒められたりする笑える話が書かれている。
無論、大崎三次や葛西長三郎が当主の息子だとは一切書いてない。
それどころか鹿子田右衛門が二本松畠山義継を唆して輝宗を拉致させた張本人の息子だと書くムリヤリ感ある基準が実に講談風だ。
さて葛西氏の系譜は独自の口伝や相伝で30以上あるわけだ。
しかも2つのまったく別系統の系譜がありそれぞれが葛西当主だと主張してる。
>>紫桃氏は再起を期したものであろう、〜とする家譜がある。
さすがに紫桃氏も曖昧さのある書き方をしてるな。
さて再興運動後に葛西晴信は加賀へ行き慶長2年に死去。さすがに再興の望みを持ってれば変な真似はできん。
左沼城撫で切りで百姓2000人武士500と桃生郡江糠塚山の一揆物頭衆騙し討ちで伊達に殺された加西氏は完全に息の根を止められたしな。
大崎義隆は直江の2700石客将だが息子は義満・義道・満隆が確実に存在していたとされる。
口伝レベルの史実かの確認がとれない実に怪しい話である。
北越軍記では甘粕が会津の妻の訃報で留守、また白石落城では鹿子田日向守171人討ち死にと記すね。もちろんこれも信用性ゼロの軍記だ。
白河については福島市史によると「報を得た景勝の招きにより甘粕は白石城から残りの兵を率いて白河の軍議に参加した」と断定している。
7月中に白河防衛についたりしている佐竹と宇都宮代表の結城朝勝については秋田藩家蔵文書三十に記されている。
白石軍記では米沢から白石までの七ケ宿街道を伊達側の野伏達が支配し白石城から米沢へ向かおうとする鹿子田を襲撃したりしたと書く。
さらに茂庭の足軽隊200にその野伏ら(九代政宗時代からの恩を感じていたらしい)と
湯原城守備を担った住民達(これまた政宗時代からの恩〜)が味方を申し入れ新宿攻略に活躍とのこと。
(新宿城主大畠吉兵衛に人質を取られていた湯原の18人も人質を犠牲にしてまで)
さて北越軍談→湯原城で政宗は甘粕備後や岩井備中の前に敗れ渡瀬へ逃走。

政宗→政景9/26「急度申遣候。昨日二十五日湯原へ足軽動申付、彼城即手に入候、内々撫切に可申付候処、
普代の筋を以、頻に詫言候条、身命ばかり相助け引出候、新宿峠まで打かけ、悉く郷村放火仕り」
この政宗の文書でわかるのは、湯原城で撫で切りしようとしたが、住人達が詫びをいれたから助けたのち、新宿城攻めに失敗し村に火を付け帰ったと言うこと。
さらに置賜郡史「米沢地名選」には遠藤盛利の守る新宿城攻撃で大敗した片倉が湯原まで敗走したと言う。
白石軍記などは七ケ宿村の者達が口伝を書いて藩に提出したそうな。
明らかに七ケ村の者達が自分を擁護して伊達の恩とか主張してるし 片倉代々記が新宿城で大敗した話を黙殺してるのがわかる。