戦国ちょっといい話9

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話8
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1237483814/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話8
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1237446002/

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2009/04/23(木) 22:24:42 ID:oYhzVaQS
>>1

   /.   ノ、i.|i     、、         ヽ
  i    | ミ.\ヾヽ、___ヾヽヾ        |
  |   i 、ヽ_ヽ、_i  , / `__,;―'彡-i     |
  i  ,'i/ `,ニ=ミ`-、ヾ三''―-―' /    .|
   iイ | |' ;'((   ,;/ '~ ゛   ̄`;)" c ミ     i.
   .i i.| ' ,||  i| ._ _-i    ||:i   | r-、  ヽ、   /    /   /  | _|_ ― // ̄7l l _|_
   丿 `| ((  _゛_i__`'    (( ;   ノ// i |ヽi. _/|  _/|    /   |  |  ― / \/    |  ―――
  /    i ||  i` - -、` i    ノノ  'i /ヽ | ヽ     |    |  /    |   丿 _/  /     丿
  'ノ  .. i ))  '--、_`7   ((   , 'i ノノ  ヽ
 ノ     Y  `--  "    ))  ノ ""i    ヽ
      ノヽ、       ノノ  _/   i     \
     /ヽ ヽヽ、___,;//--'";;"  ,/ヽ、    ヾヽ
3人間七七四年:2009/04/23(木) 23:04:40 ID:+vjIx2u0
>>3なら>>4のちんぽをしゃぶる
4鬼武蔵:2009/04/23(木) 23:10:21 ID:aMbCT3cy
よし、さあ来るがいい>>3よ!
5人間七七四年:2009/04/24(金) 00:35:57 ID:5O2oHKga
もういいよ…鬼武蔵くん…
今や嫌いな武将No.1、うんざり…
6人間七七四年:2009/04/24(金) 00:47:08 ID:0TyDXnWg
>>1大儀であった 好きなおにぎりをとっていくがよいぞ

  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)                                      ○
 ( ∪ ∪  ,.-、   ,.-、   ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   .,.⊥、
 と__)__) (,,■)  (,,■)  (,,■)  (,,■)    (,,■)      (,,■)   (,,■)
       梅干  高菜 おかか こんぶ ごはんですよ わさび漬け オプーナ
          ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   ,.-、   ,.-、    ,.-、
          (,,■)  (,,■)    (,,■)     (,,■)  (,,■)  (,,■)   (,,■)
          砒素 明太子 ちりめんじゃこ ゆかり  柴漬  塩辛 とりかぶと
      ,.-、   ,.-、     ,.-、    ,.-、    ,.-、   ,.-、    ,.-、   ,.-、
     (,,■)  (,,■)    (,,■)   (,,■)   (,,■)  (,,■)   (,,■)  (,,■)
      鮭 鮭ごぼう  野沢菜  天むす ツナマヨ ツナマヨ  鮭マヨ 鮭ハラミ
7ある兄弟の話 1/3:2009/04/24(金) 09:05:31 ID:0ZxPb6Qe
新スレ記念に連投失礼


黒田官兵衛の家臣、井口与次右衛門には、四人の息子がいた。

秀吉の命で黒田軍が播磨長坪城を落とした時、官兵衛は四兄弟の長男・猪之介と
三宅藤十郎を留守居として城に残し、他の城の攻略に向かった。
その夜、長坪城から逃げ落ちた兵たちが再び集まり、城を取り戻そうと夜襲をかけて来た。

猪之介は、三宅に言った。
「攻め破ったばかりでロクな備えも無い、この城は長く持つまい。幸い殿は、
そう遠くに行っておるまい。三宅、おぬしが囲みを突破して殿に知らせてくれ。」

三宅は二十人ばかりで包囲を抜けたが、そのスキに敵は城内になだれ込んだ。
わずかな手勢とともに残った猪之介は奮戦したが、ついに足を斬り落とされ、石垣に
寄りかからねば立てぬ程になった。しかし敵はその気迫に呑まれ、近づこうとしなかった。

夜が明ける頃、ついに官兵衛の軍が救援に駆けつけたのを見届けた猪之介は、
「この城の大将、井口猪之介じゃ!首取ってみよ!」と叫んで、自害した。

彼のすぐ下の弟・六太夫も別の砦を守り、見事な討ち死にを遂げた。
8ある兄弟の話 2/3:2009/04/24(金) 09:06:48 ID:0ZxPb6Qe
数年後のある日、官兵衛は罪を犯した家臣に刺客を向けた。
しかし、罪人は刺客を返り討ちにして、仲間二人とともに屋敷に立て篭もった。

「拙者が、見て参りましょう。」
井口四兄弟の三男、甚十郎が名乗り出たのを、はじめ官兵衛は許さなかったが、
再三に及ぶ申し出に折れ、彼を差し向けた。

現場に着いた甚十郎は、門の横にある潜り戸をもぎ取り盾にして、屋敷に飛び込んだ。
戸による体当たりで罪人のうち二人を吹き飛ばし、ひるんだ残る一人を斬り倒した。
そのまま、吹き飛んで倒れたままの二人にもトドメを差した。

たちまち三人の首を獲り、意気揚々と馬にまたがった甚十郎の体に、衝撃が走った。
腹に槍が、刺さっていた。

屋敷に戻った罪人の従者が、主人の遺体を見て、甚十郎に襲い掛かって来たのだ。
返す刀で従者を切り捨てた甚十郎だったが、ついに力尽きて落馬し、戸板で官兵衛の
前に運ばれた。

官兵衛はヒザを枕にして甚十郎を横たえ、問いかけた。
「じ、甚十郎・・・こ、これはどうしたことじゃ・・・・・・」
「・・・かくの如くに、候。」 一言だけ残し、甚十郎は息絶えた。
9ある兄弟の話 3/3:2009/04/24(金) 09:07:38 ID:0ZxPb6Qe
「兄弟三人が、わしのために死んでくれた。言葉もない、この通りじゃ。」
官兵衛は、四兄弟の父・与次右衛門の家に弔問に出向き、深く頭を下げた。
家には末弟・与一が残っていたが、まだ八歳であった。与一は官兵衛に呼び出された。

「おまえの三人の兄は、みな尋常ならぬ勇士だった。
だが、人の性質は測りがたく、おまえもそうであるとは限らぬ。ゆえに、試す。
おまえは、磔にされた者を見たことがあるか?」
「ありません。」与一は答えた。
「今夜は月夜じゃ。刑場に磔にされた者がおる。そこへ行き、磔柱に印を付けて来い。」
「わかりました。」

刑場へ向かった与一が、磔柱に印を付けようとすると、磔柱が動き出した。
「むっ、こやつ、まだしにきっておらぬか?とどめをさしてくれる!」
与一が柱に登り出すと、なんと磔にされた者が飛び降り、逃げ出した。
「まてー!にがさんぞ!」

「ま、待った!わしは殿の仰せで、おまえを脅かすために刑死者に化けておったんじゃ、
許せ!・・・おまえは子供なのに大した奴じゃ。これを持って、殿に見せて証拠にせい。」
罪人(?)は、白装束の片袖をちぎり、与一に渡した。

この話で、幼いながら家中に面目をほどこした与一は、のちに元服して兵助と名乗り、
他家にも名の知られる武辺となった。

すなわち、黒田家きってのメンドクサイ男、井口兵助である。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1776.html
10人間七七四年:2009/04/24(金) 09:46:14 ID:66eygMqe
>>9
よくそんな役目を受けたな>刑死者役の人
11人間七七四年:2009/04/24(金) 10:45:32 ID:udWUc9lE
>>1乙也!

>>10
度胸試しの脅かし役みたいなもんで、案外wktkしてたんじゃない?
したら逆にガキンチョに脅かされてちょwまぢかよwwwwやめれww、という
小学生の頃、子供会で度胸試しあって田舎だったから怖かったわ
12人間七七四年:2009/04/24(金) 11:44:28 ID:K86F4Fs+
>5
異なる逸話を紹介して流れを変えるんだ

死ぬ気でやれば案外なんとかなるかもしれないし、ならないかもしれない
13人間七七四年:2009/04/24(金) 14:02:18 ID:e2tWe1WA
>>1
14人間七七四年:2009/04/24(金) 17:28:07 ID:gx1OGd2y
武田信玄の家臣小幡信貞は、長野業正の娘婿であった。

さて、信玄がこの長野氏を滅ぼした後、小幡信貞に「長野家の者であるお前の本妻を離別し、
武田の譜代の家と新たに縁付いてもらいたい。」と言い出した。

これに信貞
「もしこれが、長野家の没落以前の事なら、お受けしていたでしょう。
私は主君、上杉憲政を疎み、その上、越後の輝虎には憎まれ、彼らに一族内の紛争を利用され
討たれる寸前となった所を、武田家に救っていただきました。この信玄公の深い御恩は
どれほどの事をしてもお返しは出来ません。

ですが、今は我妻は、父の実家も既に滅び、もはや寄る辺も無い身柄です。
そうである以上、たとえ御成敗を仰せ付けられようとも、離別する事はできません!」

そう、言い切った。

信玄、信貞の言葉に深く感じ入り、「お前のその見事な意地に、次の戦、先手を申し付けるぞ。」
と、言い渡し、さらに甥の武田信豊を、この信貞の婿にした。

嫁さんを守る旦那と言うのは、やはりこの時代でもかっこいいのだ。
15人間七七四年:2009/04/24(金) 18:03:47 ID:e0rks3wu
信豊を婿養子じゃなくて婿に迎えたのか
男気があるな信貞ァーッ
16人間七七四年:2009/04/24(金) 18:04:29 ID:0TyDXnWg
>>14
細川精神年齢三歳「俺のことだな」
17人間七七四年:2009/04/24(金) 18:55:21 ID:b2Va249y
あんたは離婚「しなかった」んじゃなくて
「できなかった」んだろw
18人間七七四年:2009/04/24(金) 19:36:06 ID:wRqCz7Ui
徳川秀忠「そうじゃそうじゃ。むしろワシのことじゃろう」
19人間七七四年:2009/04/24(金) 21:07:42 ID:gRNJnM6J
遅ればせながら>>1乙です
にしても逸話は尽きないな
20人間七七四年:2009/04/24(金) 21:12:41 ID:DL8FBJDL
逸話だけに、いつわでも続く。ナンツッテ
21人間七七四年:2009/04/24(金) 21:16:27 ID:udWUc9lE
戦国の世にも駄洒落好きの上官がいて部下が苦労したであろうことは想像に難くない
22人間七七四年:2009/04/24(金) 21:42:26 ID:h4C/54Kx
織田信長の初期の有力家臣としてそこそこ有名な佐久間大学助のちょっといい(?)話。
ある日、酔っ払って寝ているところを暗殺者に襲われた。
しかし、そこは剛毅な大学助、逆に暗殺者を斬り伏せ難を逃れた。
とはいえ、無傷とはいかず顔に傷を負ってしまった。
さて、大学助、しばらくして傷は癒えたものの鼻が曲がってしまった。
そこで医者に診てもらったのだが「治すのは無理」と言われてしまった。
それを聞いた大学助、脇差を抜き、鼻の傷と逆側を自ら斬り強引に治してしまったとさ。
23人間七七四年:2009/04/24(金) 22:23:54 ID:Wu3b2GB1
あまり話題にならない今川義元公の逸話。

ある戦で義元は家臣に偵察を命じた。しかし家臣は戦いに巻き込まれて
やむなく敵兵と戦い、その首を持って帰って来た。義元は家臣が
任務を全うしなかったことを怒った。

「偵察したらすぐ戻れと命じたはずだ。それが功名を求めて戦うなど
言語道断、忠義を欠いておる!軍法に従って裁かれるものと思え!」

叱られた家臣はガックリと肩を落としながら、こう言った。

「苅萱に身にしむ色はなけれども見て捨て難き露の下折れ。」

これは歌人の家隆(藤原家隆?)の歌であった。その様子を見て
何か文句を言っていると思い、さらに怒った義元は側近に家臣が何を
言ったのか尋ね、その内容を知った。すると義元はしばらく
家臣の言った歌を口ずさんでからこう言った。

「当意即妙に家隆の歌を連想するとはたいしたものだ。」

義元は家臣の機転のよさに感心して怒りを解いたようであった。
こうして機嫌をよくした義元はこの家臣の罪を許したと伝える。
24人間七七四年:2009/04/24(金) 22:27:36 ID:S3m9e9BK
>>7
如水もポカするんだな
救援は間に合ってるけどさ
>>22
治した…?
25人間七七四年:2009/04/24(金) 22:40:59 ID:h4C/54Kx
>>24
多分、切り傷が治ったことにより鼻が片側に引っ張られてしまったので逆側に傷をつけて同じようにしたんじゃないかな。
26人間七七四年:2009/04/24(金) 22:50:30 ID:S3m9e9BK
それは治すというのか…?w
27人間七七四年:2009/04/24(金) 23:02:16 ID:VA1h2ZHe
治すじゃなく、「直す」だなw

>>23
そういう逸話、いい意味で似合うな、義元
28人間七七四年:2009/04/24(金) 23:30:09 ID:jFlJy5Qs
三斎の息子も奥方関係でアレしちゃったな
問題は親父が爺ちゃんよりもキれた人間だったことだが
29人間七七四年:2009/04/25(土) 12:35:53 ID:5PbosU8L
>>9
この肝試しの話だけまとめの初期になかったっけ
井口さんだったか覚えてないけど
30人間七七四年:2009/04/25(土) 12:37:51 ID:Uk5Qv9Kx
>>29
豊臣家での肝試しならあった覚えが。
ある種のテンプレなんじゃない?
31人間七七四年:2009/04/25(土) 13:52:36 ID:gjOBlMEZ
無学で申し訳ないが、>>23の歌の意味を教えてもらえないだろうか。
検索してみたけどわからんかった。
32人間七七四年:2009/04/25(土) 14:08:06 ID:paH/tCa+
「秋の刈萱には、この身に染み込むような趣があるわけではない
しかし、露に濡れてしっとりと垂れる様を捨て置くには、あまりに惜しいではないか」
みたいな感じなのかな
33人間七七四年:2009/04/25(土) 14:30:30 ID:Uk5Qv9Kx
まあつまり「確かに不必要な事だったかもしれませんが、敵を前にしてそのままスルーするのは
余りに惜しかったのです。」って事を歌に託して言ったわけですな。
34人間七七四年:2009/04/25(土) 18:43:50 ID:Uk5Qv9Kx
永禄8年5月19日(1565年6月17日)、松永久秀と三好三人衆によって、将軍、足利義輝が
殺された永禄の変。
このとき義輝が、足利家稀代の名刀・名物を並べて、次々と取り替えながら奮戦したと言う話は
大変有名です。
ですが、このとき義輝の使った名刀・名物は、今もほとんど残っており、国宝や重要文化財として
大切にされていると言う事は、ご存知でしょうか?

この名刀たちを保護したのは、襲撃した三好三人衆の一人、三好政康であったと言われています。

彼は当時一流の、刀剣の目利きであり、「三好下野入道聞書」という、目利き論の著書もあり、
その鑑定術において、細川幽斎の師でもありました。
そんな、剣の価値を知る彼がいたからこそ、義輝としては皮肉な事でしょうが、
将軍邸の消失の中、この文化財は保護されたのでしょう。

三好政康は長く生き、老齢ながら大阪夏の陣に、大阪方として参戦し、討ち死に。
後に真田十勇士の一人、三好青海入道のモデルになったとも言われます。

「将軍の剣」を、救ったお話。
35人間七七四年:2009/04/25(土) 18:54:20 ID:TJXlDhrQ
そのとき童子切安綱が失われていたら
おまもりひまりや11eyesも無かったと思うと感慨深いな。
36人間七七四年:2009/04/25(土) 20:08:27 ID:keYTjb6I
織田信長が鷹狩に出た時に森蘭丸らと民家に立ち寄ったところ、突然
地震が起きた。大きな地震だったのだろうか、お供の連中はこぞって
外に飛び出してしまう。しかし、信長と蘭丸は顔色を変えずに家に
留まった。やがて揺れが収まると二人は外に出て来て、蘭丸が

「どうか危険なことはなさらないで下さいませ!天下を統一なさる
お方がくだらないことで大事な御身を危険にさらすようなことはやめて
ください。揺れてる最中に申し上げようと思いましたが地震を恐れたから
言っていると思われたくなかったので今申し上げるのです。なにとぞ
お願い申し上げます。」

と述べて信長を諌めた。信長は蘭丸の切実な思いに感じたという。
37人間七七四年:2009/04/25(土) 20:54:38 ID:3KJg7jmq
>>35
どらららぁぁぁああ
38人間七七四年:2009/04/25(土) 20:57:35 ID:5dohJfk6
>>36
その晩、信長と蘭丸は寝所で再び地震を起こした。
39人間七七四年:2009/04/25(土) 21:03:25 ID:TSFsl2HA
誰がうまいこと言えと
40人間七七四年:2009/04/25(土) 23:27:19 ID:14Tnsblf
>>33
オレは主君から見限られそうな自分の身を秋の刈萱にみたてたのだと思った。
感じ方も人それぞれだな
41人間七七四年:2009/04/26(日) 00:13:41 ID:gJ44A6sQ
毛利輝元が播州での戦に破れ、撤退していた時の事。

敵の追撃があって危険な状況の中、その先の道は二手に分かれていた。
この時、道脇に神社があるのを見つけた輝元、ここに立ち寄って社人に

「どちらの道を通ればよいか」

と聞けば社人、籤を引いて「そちらの道から落ちられると良いでしょう」

輝元、これをかしこまって申し受けたが、いわれた事をまるっとスルーして
逆の道を通って下った。

さて、間もなく敵の追撃部隊がやってきた。
彼らもこの神社を見つけ、社人に「どちらに逃げたか」と聞いた。
そこで社人は籤でこのように出ましたと経緯を説明。追っ手もその教えられた道を追撃。
おかげで輝元一行は無事、逃げおおせたとか。

輝元籤を逆手に取った気転のお話。
42人間七七四年:2009/04/26(日) 00:38:57 ID:PDdcun8C
とっさの時に、良い判断ですな
43人間七七四年:2009/04/26(日) 00:52:29 ID:/0ZTGJE0
ある時、徳川家康は側近たちにそれぞれ一万石を与えた。しかし、
安藤直次だけ横須賀五千石だった。じつは家康は横須賀が一万石だと
思いこんでいたのだ。

それから十年。家康とかつて加増された者たちが一同に会したことが
あったがそこには直次もいた。

「以前お前たちに一万石ずつ与えたが、その後どんな様子だね」

と家康は家臣たちに尋ねたが、直次だけは五千石しか貰っていない。
そこで家臣たちの一人がそのことに言及したのだった。

「あのー、畏れながら直次だけ五千石なのですが・・・」
「え?!マジで?」

家康は加増から十年目にしてやっと初めて自分の勘違いに気付いた。

「そうだったのか・・・。わしは決して直次だけ低い禄高にしようと
思ったわけではないのだ。それにしても、
直次はわしの間違いを顔に出さず、口にせず、怨みも怒りも抱かずに
今日まで耐えてよく頑張った!感動した!」

そう言うと家康は足りない五千石に十年分の差額を加えて五万石を
加増した。これは今まで勘違いしていたことを恥じたことと、直次が
決して家康の間違いを指摘しなかったことを賞してのことであった。
44人間七七四年:2009/04/26(日) 01:07:08 ID:/0ZTGJE0
>>43
間違った。管理人さん修正お願いします。

×五千石に十年分の差額
○五千石と十年分の差額
45人間七七四年:2009/04/26(日) 01:18:37 ID:/0ZTGJE0
また間違ったorz

×五千石に十年分の差額を加えて五万石を
○五千石と十年分の差額の五万石を併せて
46人間七七四年:2009/04/26(日) 01:41:30 ID:YnD78bO+
>>43
何処かの家臣には500石足りなかっただけで不満ぶちまけて、庇ってくれた同僚にも泥をかける行為をした家臣がいたようなw
47人間七七四年:2009/04/26(日) 02:36:44 ID:B7ww1LE9
加藤さん家の庄屋殺しのことかー
48人間七七四年:2009/04/26(日) 02:37:53 ID:8545qA0V
>>43
これって山内一豊でも同じ話が伝わってるよね
家康うっかりしすぎだろw
49人間七七四年:2009/04/26(日) 03:19:45 ID:3FVLr0/W
安藤直次さんはメンドクサイ三河武士の中でもメンドクサイ逸話が
豊富な人だけど、この場合はいい方に作用したんだな。
50人間七七四年:2009/04/26(日) 07:57:17 ID:GKOsqRac
>>49
めんどくさいから意見具申しなかったってこと?
昔の人はすごいな。
51人間七七四年:2009/04/26(日) 08:49:30 ID:q3FoUt/T
>>34

襲撃してそいつから剣を奪っただけにしかw
52人間七七四年:2009/04/26(日) 08:54:17 ID:Qlq8UZoS
お救いした と言うべきだな
53人間七七四年:2009/04/26(日) 10:18:42 ID:ia0c2yit
>>41
これさらっとしてるけどいいな
社人が気を利かせて逆の道教えていたら大惨事だろうけど
54人間七七四年:2009/04/26(日) 10:34:46 ID:cY7WK7BI
家康の場合、ケチで有名だからわざと間違えたフリしてる様な気がしなくもない。
「あー、こいつはどうせ文句言わない奴だから、余裕が出来るまで後回しでいいや」
55人間七七四年:2009/04/26(日) 10:43:09 ID:jQ0lsR8U
批判がしたいためだけに思い込みで批判をする人間の小さきことよ
56人間七七四年:2009/04/26(日) 10:44:53 ID:gJ44A6sQ
つーか一豊の場合、土佐は太閤検地の時は9万8千石だったのに、
実際に拝領してから検地したら20万2千6百石余だったらしいからね。
倍以上。

これについては家康の持った印象の方が正しかった。
57人間七七四年:2009/04/26(日) 10:58:09 ID:+Juf3Ch9
>>56
一領具足を大粛清したからな。
みんな田んぼせいやー という
58人間七七四年:2009/04/26(日) 12:37:28 ID:bbVM4j9U
>>50
意地にかけて恩賞ごときで主君に不満などいえるか、ってとこじゃね
5931:2009/04/26(日) 13:58:35 ID:RBBtWKMn
>>32
>>33
レスサンクス。勉強になりました。

咄嗟にこういう返句ができる人になりたい……
60人間七七四年:2009/04/26(日) 14:01:44 ID:uEwi+xfM
相手間違えるとバカにしてんのか、貴様で手討ちかもしれないぞ
61人間七七四年:2009/04/26(日) 15:13:56 ID:CR0aSHpK
今でいうとコピペ改変みたいなもんだな
62人間七七四年:2009/04/26(日) 15:53:31 ID:EUF5RgWw
政秀!これを食え!エピソードがまだ無いな
63人間七七四年:2009/04/26(日) 17:28:37 ID:YfWISDUb
>>53
TERU直卒の軍勢が播州で敗走ってそもそもあったっけ?
64人間七七四年:2009/04/26(日) 17:44:07 ID:ia0c2yit
>>63
お、俺に聞くなよ
逸話書いた人に言ってくれよ
65人間七七四年:2009/04/26(日) 18:07:35 ID:B7ww1LE9
上月城の時は毛利の勝利だし
三木城の時はTERUは出陣してないもんなぁ
66人間七七四年:2009/04/26(日) 18:13:41 ID:Rn/Y7nMr
いつから逸話の揚げ足取っていいことになったんだ?
67人間七七四年:2009/04/26(日) 18:31:40 ID:aHolapUk
どこかの奥方を攻めに行ったけどだめで敗走してたって事にしておくんだ
68人間七七四年:2009/04/27(月) 02:58:34 ID:g1rIpQoV
細川忠興が、公儀普請を仰せ付かった時のこと。

忠興は家臣の加賀山権左衛門に、その普請の見積り計画書を作らせた。
加賀山は仔細に検討した綿密な見積りを作るが、それを忠興に提出する前に、
この普請自体が中止になり、当然、加賀山の作っていた見積りも、
もはや不必要と言う事になってしまった。

しかし、忠興の近習の者達は、
「加賀山は実に見事な仕事をしていたのに、これをなかった事にするのは酷すぎる」と、
その見積書を忠興に見せた。

忠興はそれを見て大いに感じ入り、その夜、加賀山を招いて、
「無駄にはなってしまったが、見事な仕事をした。」
そう申し述べ、千石の加増を約束した。

ところが加賀山、翌日さらに忠興に呼び出された。
何事かと思って御膳に出れば


「加賀山、昨晩はお主に千石加増などと言ってしまったが、あれはわしの目利きが違っていた。

あれからお主の見積書を仔細に確認してみた所、そなたの作った見積りは、
そのすべてにおいて完璧であった。

普請がなくなったとはいえ、これだけ詳細なものを作り上げた事、これは普請を勤めたのと同じ事である。
またこれは、今後も普請の見積りを作る際の手本となるであろう。

これほどの仕事をしたお主の手柄は、千石では足らぬ。後日更なる加増を約束する。
今日はわしの不明を謝りたくて呼んだのだ。」

家臣の無駄になった仕事を評価し、さらに評価し足らなかった事も反省した、忠興公のお話。
69人間七七四年:2009/04/27(月) 04:28:17 ID:Ia3zSJ6s
>>68
うちの社長がこんなだったらオレは今頃万石もらって専務だわ
70人間七七四年:2009/04/27(月) 08:17:28 ID:aAmeUaoF
>>68
そこで三河武士なら「普請が沙汰止みになったのに恩賞など頂戴できませぬ」とか何とか
また面倒くさいこと言い出すのだろうな
71人間七七四年:2009/04/27(月) 11:00:21 ID:ew2uVG4P
>>70
ツンデレは日本伝統の様式美だな。

精神年齢三斎のヤンデレも実は源氏物語の昔からあるわけだが('A`
72人間七七四年:2009/04/27(月) 12:41:23 ID:ry4ZEnjz
六条御息所かぁ。精神年齢三斎さまも生霊とか出しそうな雰囲気だな、そういえば。
73人間七七四年:2009/04/27(月) 18:07:35 ID:fccQsgrw
最古のツンデレは乙姫だろ
「べ、別にまた来て欲しいから玉手箱あげたわけじゃないのよ!//」
74人間七七四年:2009/04/27(月) 20:37:04 ID:ew2uVG4P
>73単なる罠じゃ……
75人間七七四年:2009/04/27(月) 20:50:48 ID:aQ6cQfyV
寛容な忠興に続き厳しい忠興。

三斎様から忠利さんへ(いつものように)お手紙ついた…が、時に毛色の違う手紙もあった。

「昨日の墨跡三百貫と申す由候、百五十貫になら、取り申すべき者に候。
たって聞き被るべく候。」
(昨日の掛け軸は金三百貫という話だが、百五十貫で良い。交渉し直してこい。)


「御かざり書立て越し被り候内、円座之御茶入は如何様に見て被り候哉。
ちと平き様に在り被るべきかと存じ候。昔は日本に四つの茶入に候えつる、
入らぬ義ながら様子承りたく候。」
(おまえが将軍の茶会に呼ばれた時の茶器一式を聞いたが、そのうち『円座茶入』を
どう見たか?書いてある様子だと少し平たいようだが、昔から日本四大茶入として
知られた道具のことだ。余計なようでも、感想を言ってほしい。)


「鮎持ち給いて候、此のあぶり様にては無き之候。からりと汁の無きほどに
あぶりたるが能く候。
(略)
利休の茶杓とて持ち給い候、利休の手にも取られざる茶杓にて候。
知らぬ者が似せたる物に候。」
(こないだの鮎、なんだ?焼き方が全然ダメ!鮎はカラッと汁気がないくらい焼くのが
いいんだよ!
あと、『利休作』とか言って送ってよこした茶杓だけどなぁ…こんなモン利休先生は
触ったこともないだろうよ!ニセモノじゃねーか!!)


尊敬する利休から継承した『道』については、たとえ跡取り息子でも容赦しない
三歳様でした。
76人間七七四年:2009/04/27(月) 21:09:13 ID:BtmGPM2Y
浦島って成立年代はいつごろだっけ?
77人間七七四年:2009/04/27(月) 21:13:48 ID:iT3vudze
浦嶋子は風土記じゃなかったっけ?
78人間七七四年:2009/04/27(月) 21:14:35 ID:MPu1wz+O
>>75
英才教育だね。
79人間七七四年:2009/04/27(月) 21:36:02 ID:Cdej5ynw
>>75
やな父親だよったくw
80人間七七四年:2009/04/27(月) 21:46:15 ID:nDjNxJm+
今度鮎焼くときは細川家風にしてみよう
81人間七七四年:2009/04/27(月) 22:18:19 ID:wX9Wk8Pn
    _ □□    _      ___、、、
  //_   [][]//   ,,-―''':::::::::::::::ヽヾヽ':::::/、  誰  焼   こ
//  \\  //  /::::::::::::::::::::::::::::::i l | l i:::::::ミ  だ  い   の
 ̄      ̄   ̄/ /:::::::::,,,-‐,/i/`''' ̄ ̄ ̄ `i::;|  あ  た  
―`―--^--、__   /:::::::::=ソ   / ヽ、 /   ,,|/   っ  の   鮎
/f ),fヽ,-、     ノ  | 三 i <ニ`-, ノ /、-ニニ' 」') !! は  
  i'/ /^~i f-iノ   |三 彡 t ̄ 。` ソ ハ_゙'、 ̄。,フ | )         を
,,,     l'ノ j    ノ::i⌒ヽ;;|   ̄ ̄ / _ヽ、 ̄  ゙i )
  ` '' -  /    ノ::| ヽミ   `_,(_  i\_  `i ヽ、 ∧ ∧ ∧ ∧
     ///  |:::| ( ミ   / __ニ'__`i |  Y  Y Y Y Y
   ,-"        ,|:::ヽ  ミ   /-───―-`l  |  //     |
   |  //    l::::::::l\    ||||||||||||||||||||||/  |     // |
  /     ____.|:::::::|    、  `ー-―――┴ /    __,,..-'|
 /゙ー、,-―'''XXXX `''l::,/|    ー- 、__ ̄_,,-"、_,-''XXXXX |
/XX/ XXXXXXXXXX| |         _,  /ノXXXXXXXXXX|
82人間七七四年:2009/04/27(月) 22:22:11 ID:NfgKVbmD
鮎をたらふく食って死にたい
83人間七七四年:2009/04/27(月) 22:26:21 ID:KHFjlfRW
>>81
wwwww

おまえの息子だよw
84人間七七四年:2009/04/27(月) 23:17:00 ID:RP0YfCYp
律義者と二代目大御所の話

最初の養子を廃嫡してしまった佐竹義宣
すでに五十七歳、急ぎ甥の岩城義隆を新たな世継ぎに仕立てようとした
頼ったのは、当時大御所となっていた徳川秀忠である

義宣「かくかくしかじか、というわけなんですが」
秀忠「佐竹家は旧家だし、親戚とか家来筋に、義宣がこれはって思う人がいるんじゃないの?」
義宣「いえ、みな非才で…義隆は御前で挨拶してますし、大御所様がご存知なだけでもマシかと…」
秀忠「律儀だねー、まあその辺は義宣の好きにしていいよー」
義宣「ありがとうございます」
秀忠「義宣はまだ若いから、これから子供できちゃうかもしれないけどね(・∀・)ニヤニヤ
   そうなっても、義宣の選んだ人が世継ぎなのは変わらないから」

妙に義宣に優しい秀忠であった
85人間七七四年:2009/04/27(月) 23:20:25 ID:cLzxjDfQ
ってか名門には甘い気がする徳川幕府
86人間七七四年:2009/04/27(月) 23:25:07 ID:g1rIpQoV
「名門」って一朝一夕に作れないからね。
変に名門を潰すと、秩序体系そのものに影響を与えかねない。
87人間七七四年:2009/04/27(月) 23:30:39 ID:cLzxjDfQ
当時の名門は佐竹、、伊達、上杉、細川、島津辺りかな?
家格は何処が上なんだろ?
88人間七七四年:2009/04/27(月) 23:46:18 ID:NiqUqB5s
一番は佐竹では?
伊達、島津は家系が怪しいし
89人間七七四年:2009/04/27(月) 23:50:35 ID:cLzxjDfQ
まぁ確かなのは佐竹だけど当時どの程度真偽を疑問視されてたのかによるよな
徳川が源氏と言ってる建前もあるし
新羅三郎義光も源氏ではあるけどどっちかっていうと平家よりだよな
90人間七七四年:2009/04/28(火) 00:18:44 ID:evGzxcoB
>>74
玉手箱でジジイになった後、鶴にトランスフォームして
乙姫の元へ行き結ばれる、って話だったはず。
91人間七七四年:2009/04/28(火) 00:38:30 ID:nPOmxtln
細川は芸風から考えると細川の血よりも清原の血のほうが濃いのかしら
それとも生き様からするとまさに細川の血そのものな生き方なのかしら
92人間七七四年:2009/04/28(火) 01:34:15 ID:78epXXKV
蜂須賀家政の孫の忠英は幼年の頃やんちゃで、家来たちは非常に
手を焼いた。もうどうにもならんということで、家臣たちは家政に
忠英を戒めるよう頼んだ。しかし家政はすぐに忠政を戒めなかった。

しばらく経って、家政は忠英と食事しているところに、家臣に命じて
犬を連れてこさせたが、なぜかその犬は家政の顔を見ると怯えだし、
逃げ去ってしまった。犬が逃げると、家政は庭に粟をまいた。すると、
雀がまかれた粟に群がった。そして政はおもむろに忠英を抱えると

「いいかい忠英。さっきの犬はわしがいつも杖でひどく叩いたので、
わしを見て逃げ去ったのじゃ。対して雀はいつも可愛がっておるから
すぐに集まって逃げたりはしないのじゃ。主君と家臣の関係も同じで、
日頃愛をもって接していれば自然と家臣は主君を慕うのじゃ。だが、
権威で押さえつけるようなことをすれば、従わないだけでなく、犬の
ように逃げだすことじゃろう。今言ったことはよく心に留めるのじゃぞ。」

と諭したのだった。どうやらすぐに忠英を戒めなかったのは、犬の
仕込みと雀の飼い馴らしをしていたからのようだ。
93人間七七四年:2009/04/28(火) 01:57:51 ID:dLVvj9sF
>>81
いつから雄山先生になったんだYOw
94人間七七四年:2009/04/28(火) 04:01:46 ID:pO1AnOht
『こんなこともあろうかと。』

吉田修理は元は関白秀次に仕え、後に結城秀康に仕えた人であった。

・修理が始めて結城秀康にお目見えしたときの事。
秀康は丁度その頃、北ノ荘の城を改修しており、修理に向かって

「これより二の丸の虎口縄張りの改めをせねばならぬ。おぬしも付いて参れ。」

と、その席より立ち、修理もそれに付き従った。
さて、工事現場に着くと、どういうことか長さを測る間竿をなくし、その場の者たちが困っていた。

「何をやっておるのか!早く見つけて縄張りの計測を再開せよ!」秀康公も不機嫌そう。
しかし間竿は見つからずみな慌てている。その時である

「お待ちください!」

秀康の傍にいた吉田修理が声をかけた

「こんなこともあろうかと、家臣にこれを持たせておりました。」

一同「ああーっ!それは間縄(一間ごとに結び目をつけた縄)!!これで長さが測れるー!」

流石は名臣吉田修理。


・結城秀康の嫡男松平忠直の下に、将軍秀忠の娘、勝姫のお輿入れがあったときの事。

吉田修理はお迎えのため、街道まで出ていた。その日は快晴であったのだが、どうしたわけであろう、
にわかに曇ったかと思えば、たちまち激しい雨となった。お輿入れのお供の者たち、突然の雨に打たれ
困惑した、その時である

修理「こんなこともあろうかと。これを用意しておりました。」

一同「ああーっ!それは大量の傘!お供の者全員にいきわたるように2,3百本はそろえてあるーっ!」

流石は名臣吉田修理。


・松平忠直が、その家臣久世但馬を成敗する、と言うときの事。

吉田修理の屋敷は、久世但馬の隣であった。
この久世成敗の時、その混乱の中で屋敷は出火し、大変な家事になったのだが、
不思議と隣の吉田修理邸に延焼することは無かった。

後で人々が、「あなたの屋敷は無事で本当によかった」と言えば、修理

「こんなこともあろうかと、あれを用意してました。」

一同「ああーっ!久世の屋敷に近い長屋には残らず濡れムシロがかけられているー!!
延焼対策は万全だーっ!!」

流石は名臣吉田修理。
95人間七七四年:2009/04/28(火) 06:55:16 ID:jVetBLIH
そんな用意のいい吉田修理ですが、秀次、忠直と主君二人の暴走を止める事は出来ませんでしたとさ・・・
96人間七七四年:2009/04/28(火) 09:10:22 ID:vfKB/cMf
秀次の暴走は嘘だらけだが
97人間七七四年:2009/04/28(火) 09:12:37 ID:i7AWNKbR
>>92
ずいぶんと回りくどいことをw
ってか結果息子はちゃんと心変わりしたんだろうか?
98人間七七四年:2009/04/28(火) 10:10:38 ID:Hy9SfFOw
吉田修理の家臣、常に大荷物を持って付き従ってそうだな。
99人間七七四年:2009/04/28(火) 10:41:41 ID:Uuks431N
>>94某宇宙戦艦の真田技師長かとおもたw

どこかで忠直卿を諌めることができたら名臣に「忠臣」の評も加わったんだろうがちと惜しい。
100人間七七四年:2009/04/28(火) 10:48:36 ID:Uuks431N
>>97蜂須賀家政公て
なんか病で出仕を休んでて(なのに)往来で殿と出くわし、
錯乱した家臣の受け答えをサラッと流した寛容仁愛の人だね。<まとめスレにあったはず

きっと小六正勝さんも面白い人だったろうと期待してしまふ
101人間七七四年:2009/04/28(火) 11:02:15 ID:Uuks431N
>>87河内源氏の出自なら小笠原、南部なんかもそうだっけ
大江広元の裔って毛利家に意外と甘いあたりも名門旧家マニアが故か?
なんだかんだ桓武平氏や田原藤太流もいたよな


あとは石高低くても高家の人とかね。小弓御所、陪臣だが平島公方あたりは前の将軍・足利さんの親戚筋

吉良さんちは徳川に家系図を貸したんだっけ、よく覚えてないが新田義貞の末裔

逸話でなくてすまん
102人間七七四年:2009/04/28(火) 11:33:13 ID:nqOR1X53
日本史上で一番新しく氏族として認められたのって豊臣氏で当ってるよね?
まさか秀吉も二代で豊臣氏の栄華が終わるとは思わなかっただろうな・・・・
と思ったが五大老への遺書を見ると、豊臣氏の先行きに関してはけして楽観視してはいないな。
103人間七七四年:2009/04/28(火) 12:23:22 ID:ofVoG2N1
>>102
秀吉自身幼君を立てて権力を握っていったからな
この先どうなるか嫌っていうほどわかってるだろう
104人間七七四年:2009/04/28(火) 20:34:37 ID:2kFRY5vE
そういえば、島津って頼朝の子孫って設定になってんのねw
105人間七七四年:2009/04/28(火) 20:37:41 ID:yx6NYlMK
>>94
吉田修理があのタヌキ型ロボットとしか思えなくなったじゃないかw
106人間七七四年:2009/04/28(火) 20:46:55 ID:u3/+4KUG
>>104
初代当主の忠久は、頼朝の愛妾の丹後の局、
あの十字の紋も頼朝からもらったことになってる。
まあ、島津家の資料にしかない記載だからあくまで
そういう設定なだけかもしれないけど。

ちなみに丹後の局のお産を狐が助けたという言い伝えもあって
島津家では狐は大事にされたそうな。
107人間七七四年:2009/04/28(火) 20:47:36 ID:QfIzPQnM
戦国の世で、さすがに虎右衛門と名乗るのはいないだろうな。
108人間七七四年:2009/04/28(火) 20:48:09 ID:u3/+4KUG
ごめーん、訂正。

誤)
初代当主の忠久は、頼朝の愛妾の丹後の局、

正)
初代当主の忠久の生母は、頼朝の愛妾の丹後の局、

慌てて打ち込んじゃダメだなー…
109人間七七四年:2009/04/29(水) 00:17:58 ID:KURZYAm1
近江でのこと

ある旱魃の年、隣り合う村同士で水論があり、ついに一方の村が、隣村への水を堰き止めるため
堤を作る。そこで双方、出入りとなった。

水を止められた隣村の方、大勢を出してこの堤を切りに来る。
堤を作った方の村は、人数では少なく甚だ不利であった。

その頃この、堤を作った方の村には、一人の牢人が住んでおり、村人は彼に相談した。
牢人、地下の者たちのうち、老人達を大勢集め一隊とし、少数だが壮健な若者達も又一隊とした。
そして老人の部隊には、堤の所に小石を多く集めさせ、若者の部隊には竹槍を持たせ、
川の下のほうにおいて合図を待たせた。

さて、隣村の勢が堤に近づく。
彼らは集まっているが老人達ばかりであるのを見て侮り、これを蹴散らさんと一気に近づいた。
矢ごろの距離まで来た、その時である。老人達は一斉に小石を取って投げつけた。
これに隣村の衆、辟易して足が止まる。ここに牢人の合図と共に隠しておいた若者の部隊が現れ
竹槍で散々に突く。

これには隣村の衆もたまらず、ほうほうの体で逃げ帰ったとのことである。

村の軍師と、名も無い合戦のお話。
110人間七七四年:2009/04/29(水) 01:03:04 ID:jJ/wGlDg
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111人間七七四年:2009/04/29(水) 01:19:22 ID:oZurEIPs
姉妹スレで坂崎出羽守の話が出たので関連した話でも。

幕府の要人たちは坂崎事件の対応を協議していた。結論は早期鎮圧
ということになり、坂崎の家老に書面を送ることになった。内容は
「あなたの主君の罪は許されないが、あなたが主君に薦めて自害させた
ならば出羽守の嫡男が家督を継ぎ、坂崎家が存続することを約束する」
というようなものだった。

本多正純は協議していた人たちに「家老がその要求どうりにしたら本当に
坂崎家を存続させるのか」と聞いた。この問いに要人たちは「この書面は
鎮圧のための謀略です。謀反人の家を存続させるわけがない」と答えた。

正純は書面の内容が偽りと知ると「謀略なら書面を出すのはよくない。
出羽守の不忠を断罪するために、その家老に不忠な行為をさせるような
ことを天下の政道を守る幕府がやってはならない。天下の政道は信に
基づかなければならないのだ。この事件を鎮圧するためにはすぐに兵を
派遣して誅罰すべきだ。家老に不忠を行わせた上に、騙すようなことを
すれば天下の風儀は乱れるであろう」と言って要人たちの案に反対した。

要人たちは「ですが正純殿、既に議論の上、結論は出ております」と言った
のだが、正純は「そんな結論に賛成できるか。私は署名しないぞ」と言って
署名しなかったという。

その後、このやり取りを知った柳生宗矩は「正純は批判されることを
いろいろやったが、この一言だけは天下の名言である」と言って感心したという。

正純いいこと言ってるけど、孤立してる気がしなくもない・・・。
112人間七七四年:2009/04/29(水) 01:30:12 ID:w6tya9yd
どっかの三成を思い出すな
113人間七七四年:2009/04/29(水) 02:05:52 ID:4Hk4+/io
もし生きていたら三成が辿ったかもね
前も言われていたけれど
114人間七七四年:2009/04/29(水) 08:59:25 ID:L05OLb4I
>>109
牢人って浪人のこと?
115人間七七四年:2009/04/29(水) 09:02:53 ID:7XZsnuGM
>>114そだよ。俗字かもしれんが牢人て書き方もある。
116人間七七四年:2009/04/29(水) 09:28:38 ID:7XZsnuGM
>111正純さんらしいな。一理あんのにその言い方じゃあ同僚に嫌われるわなぁ。

>>112-113
ただ信義っつーよか謀略としての巧拙を評しただけのようにも読める。

「赦免や御家存続の許可を(後々残り得る)書面で渡すって馬鹿なの?死ぬの?」てニュアンス。
関ヶ原後の毛利との交渉みたいに徳川(幕府)から直の手紙は出さず
仲介役を挟んでそいつに交渉させ、後で反故にする方がいいじゃん、という……


大坂の陣では上野介正純さんも色々やってるワケだが、
アレは悪名被ってでも乱世を終わらせて天下泰平百年保たせるためだって
徳川幕府なりに民衆に強弁できる大義名分を押し立てたからでしょー。
マスタープランを描いたのは(正純じゃなくて)神君と本多サドの守だけど。
117人間七七四年:2009/04/29(水) 10:36:32 ID:Y8vMbgNv
三斎殿を(頭が)三歳殿と書くのと同義。
118人間七七四年:2009/04/29(水) 11:58:22 ID:kXn74eZv
>>114
古代中国じゃ主家が潰れたり職を辞したら自宅でヒキッて晴耕雨読がフツー、
これを「牢籠(ろうろう)する」と言った。
「牢人」というのは、ここから転じて、宮仕えをやめて落ちぶれた人のこと。

対して「浪人」ってのは本来は戸籍を離れた「浮浪者」つまりホームレスのことだった。
江戸時代中期から「牢人」もフラフラするようになって、ゴッチャになったらしい。
119人間七七四年:2009/04/29(水) 12:03:55 ID:9Wh5GN8d
>>106
そう言えば義久の兜の前立にちっちゃい狐ついてたっけな
島津家伝来の大鎧だったっけ?

狐の嫁入りとも言われる天気雨(狐雨)は島津家にとって吉兆の験だったらしーね
戦場では大いに士気があがったとか
120人間七七四年:2009/04/29(水) 12:20:59 ID:6BvWbNve
正純は自分が反対したところで覆らないとわかった上での
ポーズ作りのような気がする。
121人間七七四年:2009/04/29(水) 12:54:21 ID:+QXUItJN
>>118
>>114じゃないけど、トンクス。
知識が一つ増えたよ。こういうのを教養っていうんだな
122人間七七四年:2009/04/29(水) 13:09:41 ID:L05OLb4I
>>115>>118
私が114でございます。
勉強になりました。
わからないことは質問してみるもんだね
123人間七七四年:2009/04/29(水) 13:46:15 ID:68zAVEv8
おれも牢籠してー
124人間七七四年:2009/04/29(水) 14:59:47 ID:xLxrkhBd
>>110なんと言う七人の侍w
125人間七七四年:2009/04/29(水) 15:03:42 ID:T5Qybrp8
>>109
こういうのって各地でありそうだな
俺もちょっと郷土史漁ってみようかなぁ
126人間七七四年:2009/04/29(水) 16:31:29 ID:VmuoeKUA
>>119
>狐の嫁入りとも言われる天気雨(狐雨)は島津家にとって吉兆の験だったらしーね
>戦場では大いに士気があがったとか
そうそう、島津雨って言うらしいです。

島津で狐ということでこんな逸話を。

義弘・忠恒親子が朝鮮の役で明の大軍を迎え撃ったときのこと。
いざ敵を迎え撃たんという時に、親子が篭る泗川の新塞から
白い狐が現れ、敵中に駆け入るや風を起こし雨を降らせ、様々な奇瑞を起こして敵を混乱に陥れた。

ありがたやありがたやと親子で拝んでいると、
今度は赤い狐が現れて敵方の城へ駆けていった。

実は敵方の火薬庫爆破の使命を帯びた決死隊の佐竹、瀬戸口、市来の3人が
城の付近に潜伏していたのだが、この狐に驚きつつも導かれるままに
着いていったところ無事に火薬庫にたどり着く事が出来た。

火薬庫の爆発によって生じた混乱を逃すことなく、
『朝鮮の方扉』と呼ばれる大勝利を得た義弘だが、後に戦場を見て回っていると
矢を射られて死んだ白狐と火傷を負って死んだ赤狐の遺体を見つけた。

義弘は
「この狐達こそ我が軍に勝利を導いた霊狐に相違ない」
と、先に戦死した決死隊の三名とともに
この狐達を帰国後に市来郷の稲荷神社に祀ることにした。

このことを伝え聞いた国元の義久も
「戦場へお稲荷様語出現の様子承り奇特神妙に候」と
書状を義弘親子に送り、京都と鹿児島のお稲荷様へお礼に詣でたという。

猫に時間を教えてもらった話は有名だけど
狐もいろいろ助けてくれたんだよ!というお話。

猫神神社もいいけど鹿児島にお越しの際は稲荷神社にもお越しください
(最後に宣伝)
127人間七七四年:2009/04/29(水) 17:55:59 ID:MnG+G+jk
政宗は10年早く生まれれば天下を取ったとか言うけど、実際の天下人家康と比べて貫禄が違いすぎる

一揆扇動して、後で証拠もみ消しとか、子供のやること
128人間七七四年:2009/04/29(水) 18:18:55 ID:T5Qybrp8
>>126
この手の話にはいい話でも悪い話でも大抵狐が出てくるな
しかし紅白とは縁起がいい
129人間七七四年:2009/04/29(水) 18:29:27 ID:qB+SHhzV
政宗に平定後のビジョンとかあったのかな
まあ、信長横死で天下人になった秀吉も元から持ってたわけじゃないだろうから
政宗もそれだけの地位になっていれば考えたんだろうけど

一揆扇動とか嫌がらせみたいなことやってんのも鬱屈してた立場なせいもあるんだろ
せっかく獲った会津没収させられちゃうし
自業自得だけど100万石のお墨付きも反故にされちゃうし
130人間七七四年:2009/04/29(水) 18:48:43 ID:IUhbQQkJ
天下取りなんて運次第だよ
131人間七七四年:2009/04/29(水) 18:49:10 ID:L05OLb4I
政治や戦争は、あまり先のことを考えすぎてもダメなんだろうな・・・・
状況は刻々と変化していくし、
なにか決まった将来像があったとしても、それに拘りすぎていると、
不測の事態が起きたときに固まって身動きがとれなくなってしまうし。
そこいくと、本能寺の変後の太閤と神君の動きは他とは違ったからな(運を含めて)
やっぱ天下人はどこか違うんだろうな
132人間七七四年:2009/04/29(水) 19:36:03 ID:kI0qyD7s
>>126
二年前に知っていたら・・・
駆け足の鹿児島観光だったけど無理矢理にでもコースに入れたなあ

133人間七七四年:2009/04/29(水) 22:16:06 ID:9VxVrzLe
>>126
赤い狐と聞いてつい緑の狸が出ないかと期待してしまったw
そういや日露戦争では赤いちゃんちゃんこ着た狸が203高地攻略に尽力した話があったような。
134人間七七四年:2009/04/29(水) 23:13:44 ID:MGGrjqgg
>>133
遠野物語であったような

太平洋戦争ではカラスが僧に化けて戦地で死者を弔ったとか
んで今は犬が服着て人間より美味いもん喰って肥満気味だとか
135人間七七四年:2009/04/29(水) 23:30:34 ID:KURZYAm1
徳川家光が将軍に就任したばかりの頃の事である。

安藤帯刀の鷹師が、将軍家の御鷹場にて、鷹を使ったという事が老中に報告された。
老中一同そろって安藤に迫る、

「家光公治世の始まりでもあり、この不届きな鷹師を成敗すべし!」

つまりこの鷹師を処分する事により、家光の政治の強さを世間に印象付けよう。
そういう思惑なのだ。
が、安藤、一言の返答もせず、これには老中達もどうにも出来ず帰っていった。

その後、井伊直孝が一人で安藤を呼び、再びその意見を聞いた。

「私の心底を申しましょう。
私は公儀がその能力を認め信任され、紀伊公に御付けなされたほどの者です。

さて、今回の事、これは鷹師の責任ではありませぬ。責任の無い者を成敗するなど、
これは勇士が本意とするものではありませぬ。

そして御公儀より篤い信任を受けた私が、老後に無実の鷹師を成敗するような、不覚な事をして、
それが世間に知らされれば、さてはて、これは御公儀のためになりますかな?

すなわち、かの鷹師を成敗など、公儀の御為にも、私は断固として拒否いたす!」

この安藤の態度に、鷹師の件は結局、沙汰無しという事になったそうである。

安藤帯刀、幕閣の浅慮をたしなめたお話。
136人間七七四年:2009/04/29(水) 23:59:28 ID:ZI0qH5PD
逆ギレだなあ
137人間七七四年:2009/04/30(木) 00:42:02 ID:LsQ8+CXD
徳川家康が駿府にいた頃のお話。

家康は大奥の女中たちが浄慶の悪口を言っているのを聞いた。
浄慶とは台所頭のようなことをしていた坊主である。家康は
年寄の女中にどうして浄慶を嫌うのかと問いただした。

「それが浄慶のつくるおしんこが塩辛いのなんのって、それはもう
酷いのでございます。いつも何とかしろと言っているのですが、いまだに
塩辛くて食べられたものじゃございません。」
「成る程。では、わしからよく言い聞かせておこう。」

約束通り家康は浄慶におしんこの塩を減らすように言った。すると・・・

「そのことですが大御所様、実は・・・ゴニョゴニョ。」
「ふむふむ。フフフ、成る程。」

浄慶は家康に何か囁いたのだった。それからしばらく経っても
おしんこの塩辛さに変化はなかった。疑問に思った家康の近習は
「いったい大御所様になんと言ったのだ。」と質問すると、浄慶は

「女中たちはいくら塩辛くてもおしんこをたくさん平らげます。まして
女中たち好みの味にしたら、いくらつくっても追い付かないことでしょう。
ですから、女中たちの話は聞かなかったことになさるとよろしいでしょう、
と申し上げたのだ。」

と答えたという。
138人間七七四年:2009/04/30(木) 00:54:57 ID:CGnprqNi
>>137
ケ……倹約家のツボをついたなw
139人間七七四年:2009/04/30(木) 01:36:25 ID:EqMMbB6h
>>135
自分の身分と御所の威光を嵩に罪をうやむやにした、悪い話だと思う
140人間七七四年:2009/04/30(木) 02:27:43 ID:r3kE7ifX
もしくは戦の経験も無いのに余は生まれながらの将軍じゃんとか言ってる糞ガキを
自分の身分や評判を賭けてまで諌めようと仕組んだめんどくさい三河者の忠義かな
家光の阿呆さ加減や小さなことにまで目くじらを立てる幕閣の態度に腹を据えかねて
141人間七七四年:2009/04/30(木) 12:59:54 ID:9K4FjIx7
暗に処罰すんなら俺を処罰しろっつーてるな
142人間七七四年:2009/04/30(木) 13:07:16 ID:DSq56PEK
将軍の御鷹場とわかっていてやったのかにもよるな。
不可抗力なら殺してはならないが、そうでなければ専制君主としては殺すべき。

まぁ、責任がないという言葉を信じる限り不可抗力だったのだろう。
不可抗力だったのに殺したら残虐のそしりは免れないだろうな。
式典の進行を遅らせたとか、行事に関わることならともかく。
ただ厳しくすることが厳格な法運用だというわけではなく、量刑を正しく、かつ例外なく罰するべきなわけで。
鼻息荒く勢い込み過ぎている点を指摘したのかもな。
143人間七七四年:2009/04/30(木) 15:15:06 ID:0p1VJH8y
>>137
八丁味噌と同じ発想w
144人間七七四年:2009/04/30(木) 23:11:51 ID:d5XLo8Sf
もしかして関東の醤油が塩辛いのはそういう理由か?
145人間七七四年:2009/04/30(木) 23:23:46 ID:eMWLTJKi
>>144
東日本のほうが味付けが辛いのを好むのは昔から。
信長もそれで三好の料理人から馬鹿にされたでしょ?w
146人間七七四年:2009/04/30(木) 23:42:13 ID:3/ZUsyss
>>137
>塩辛くて食べられたものじゃございません。」
>「女中たちはいくら塩辛くてもおしんこをたくさん平らげます。
女中達はツンデレなのか…
まあ食べ物を粗末にしないのはいいことだよね。
147人間七七四年:2009/05/01(金) 00:41:54 ID:YafMd8XC
細川幽斎が豊臣秀吉に物語などを申し、やがて次の間に下がると言う時、

秀吉近習の若い悪戯者が、幽斎が床を踏む瞬間に足を取って転ばしてやろう、と、企んだ。
その時幽斎、足を返そうとこっそり伸びてきた手を見もせずに、そのまま踏みつけた。

「おっと失礼。そんなところに手を出しては危ないぞ?」

これには悪戯者、言葉も無かったそうである。
148人間七七四年:2009/05/01(金) 02:42:00 ID:hEtW5ndw
>>62亀ナリヨ、
信長が後々まで平手の爺様を敬っていた話かな。

だいぶん前のスレに何かあったから、まとめサイトで探せばあるかも。

今携帯厨なんで検索できんが
149人間七七四年:2009/05/01(金) 06:39:23 ID:zc+e64Cz
>>147
その悪戯っ子、幽齋さんが豪腕の持ち主ってしらなかったのか?
握撃食らったら漏らすぞ
150人間七七四年:2009/05/01(金) 09:32:27 ID:yPG8iXXk
黒田に弱兵とボロクソ言われた鍋島
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1906.html
が、その鍋島にボロクソ言われる軍があった
その軍とは朝鮮、明軍
朝鮮から帰った鍋島は家臣に常々
「朝鮮の役ほど働きやすい楽な戦は無かった。」
と語っていたという
諸将と語り合ってる時も
「日本の戦とは全然違う。敵脆過ぎ。先鋒がすぐ崩れる。」
とボロクソ言っていた

下には下がいる
日本では弱兵でも国外では十分通用した
そんなお話

鍋島の扱いがこのスレでは悪い気がするのでちょっと支援
151人間七七四年:2009/05/01(金) 09:34:14 ID:hEtW5ndw
>149
手や指の関節が強制的に増やされてな。
152人間七七四年:2009/05/01(金) 10:56:51 ID:4jiXoic1
>>150
実は殺した数で言うと
鍋島家はあの鬼島津よりも加藤清正よりもずっと多くてダントツの一位らしい・・・
これはちゃんとした史料に載っていたと思うが、その史料名が思い出せない・・・

なのに綺麗さっぱり半島民には忘れ去られている鍋島さんなのでした。
鍋島さんちの(都合が)いい話。
153人間七七四年:2009/05/01(金) 11:14:07 ID:4bOhHmy1
織田有楽斎の述懐

あれは忘れもしない天正10年のこと。
6月2日未明、妙覚寺の外が騒々しい。
小者の喧嘩かと思うと、やがて木がはぜる音が地を這うように響いてきた。
何事かと外に出ると、本能寺の方角が火の海である。
仰天しておると、村井定勝からの知らせ。
惟当日向守謀反、攻め寄せられた兄信長は火の中で自刀したと。
本能寺に向かおうにも大軍にはなす術もない。
茫然とする間もなく手狭な妙覚寺では適わぬと、二条御所に慌てて逃げ込んだ。
10歳年下の主君で甥でもある信忠、その一党は、評定となる。
逃げ出そうにもすっかり囲まれている。信忠から尋ねられたが、
腹を切るとしか言いようもない。
寄せ手の光秀軍に手向かいながら、信忠は切腹、側近旗本、弟の長利までも皆後を追った。
遺体は御殿と共にすぐに火に呑み込まれていった。
自分も腹を切るつもりであった。遺体は燃やすつもりで薪を寄せ集めた。
ところがそこに敵兵がなだれ込んできた。
腹を切るいとまもない。とっさに薪の中に身を隠した。
誰も気づかない。助かってしまった。

薪の中で考えたのであるが、織田一族、皆が死に絶えてどうなろうか。
それこそ光秀の思うつぼである。
一人でも生き残れば、また運はめぐってくるというものである。

それにわしは兄からそれ程目をかけてもらった、というわけではないからな。
生き残ったおかげで陰口も散々叩かれたが、茶という瑞々しい世界が
わしには開けつつあったし、現に今花開いておる。
今思えば死に損なって良かったぞ。
154人間七七四年:2009/05/01(金) 11:14:55 ID:Rf1F68P+
鍋島って朝鮮でなんか活躍してたっけ?
155人間七七四年:2009/05/01(金) 11:43:01 ID:jFPmZjTN
鍋島は焼き物の職人を大量に連れ帰って伊万里を興してるな
156人間七七四年:2009/05/01(金) 12:07:17 ID:hEtW5ndw
つ シグルイ(の元祖)

>150
つうか戦術は洗練されてなかったかもしらんが佐賀竜造寺、鍋島は普通に強いだろ?

沖田畷でコテンパンにされてっけど、それまで勝って支配地を広げてたからこそ
肥前のクマーさんは五州大守なんて吹きまくってたわけで。
157人間七七四年:2009/05/01(金) 12:24:39 ID:X5bkA68X
直茂さんの扱いってそんな悪いか?
人気者じゃないか。
158人間七七四年:2009/05/01(金) 12:35:53 ID:Ophlqd6B
スレ違いスマソ

>>156
ただ、最後まで戦った大友と違って、沖田畷でコテンパンにされた後は島津に
臣従しちゃったのがねい。しかも、裏で秀吉と通じていて、秀吉がやってくると
すぐに裏切るし。

関が原のときだって、日和見したあと裏切るし。
159人間七七四年:2009/05/01(金) 12:37:15 ID:KTzOXAAv
近畿東国といった軍制先進国からみたら、しょぼいってだけで
九州でも弱いって話じゃないな
160人間七七四年:2009/05/01(金) 12:45:17 ID:Cyqo4bLP
1570年、今山合戦では鍋島直茂、油断していた大友親貞を700の手勢で
討ち取って一躍名をあげたと。
絶体絶命の死地での起死回生の大ギャンブル

佐賀の周囲をぐるり取り囲む大友勢6万の間隙を突いて小勢で
急襲し、酒宴の後で寝込んでいた大友の御曹司を討ち取ってしまった。
すぐ横には猛将戸次鑑連の陣があったが、なす術もなくまんまとやられてしまった。
161人間七七四年:2009/05/01(金) 13:01:58 ID:hEtW5ndw
>158
九州征伐や関ヶ原での去就は評価が割れるだろけど、
巧みに勝つ方へついて家を残したら弱いと言われるんじゃいい気はしないよ…

何か最前線では猪武者みたいな鍋島武士と、背後で政略巡らす直茂公のギャップがあるから、かなあ。
162って:2009/05/01(金) 13:03:06 ID:hEtW5ndw
サパーリ逸話から脱線しちまった。御免
163人間七七四年:2009/05/01(金) 13:59:23 ID:g6JTvg1I
>>145
薩摩の醤油は甘い…甘すぎる。
九州や日本各地に甘口醤油の地域あるけど薩摩のは別格。

鹿児島には甘口以外にも辛口醤油とかもあるんだけど、辛口も甘いんだよw
濃口とか淡口とか薄口とは全くの別モン
他地域の人が引越しとかで来県するとスゲー戸惑う。地元の醤油の持参は必至

味噌や醤油の話すると薀蓄や逸話多くて長くなるよね
164人間七七四年:2009/05/01(金) 14:33:08 ID:k9r8XADZ
ちなみに醤油のことを"Soy sauce"って言うのは、
外人に醤油を指して"これは何だ?"ときかれた
薩摩の侍が"そい(鹿児島弁で醤油のこと)"と答えたのが由来。
豆知識な。

鹿児島出身だけど、>>163の言うとおり鹿児島に来るときは
地元の醤油を持参したほうが良いよ。いやホント。
165人間七七四年:2009/05/01(金) 14:56:12 ID:3VMxZNHL
大豆のソースだからじゃないんか
166人間七七四年:2009/05/01(金) 15:00:37 ID:Ophlqd6B
>>165
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Soybean
The English word soy is derived from the Japanese pronunciation of 醤油
(しょうゆ, shōyu), the Japanese word for Soya sauce; soya comes from
the Dutch adaptation of the same word.
167人間七七四年:2009/05/01(金) 15:02:04 ID:usk5ftlO
>>165
醤油の方から大豆の名前が付いた格好らしい
168人間七七四年:2009/05/01(金) 15:05:58 ID:3VMxZNHL
大豆って中国原産だったと思うからそっちから来てるもんだと思ってたわ
知らんかったな
169人間七七四年:2009/05/01(金) 15:41:08 ID:9NvB0gRR
薩摩醤油w
知らないでお寿司食べた人吹くね、
あと味噌wなんでみそ汁に砂糖!!

でもって、聞いた話。

高価で貴重な甘味料、それだけで美味い(うましはあましの転訛説あり)時代、
琉球南西諸島の窓口で比較的砂糖が手に入りやすかった薩摩と中継港長崎
料理だったらなんでも砂糖いっぱい使うようになったそうです。
長崎の地元コース料理、卓袱(しっぽく)これ自体コース全般いいかげん甘いのに
最後のデザートがさらさらのぜんざい。甘いのなんのってこれ全部砂糖じゃないかとわろたw

170人間七七四年:2009/05/01(金) 16:34:19 ID:u4yPjPp0
まぁ、香川県の雑煮は砂糖入りの白味噌に餡子餅なわけだが
子供の頃、正月帰省して無理やり食わされて泣きじゃくってたw

脱線スマソ
171人間七七四年:2009/05/01(金) 16:41:08 ID:k9r8XADZ
こういう地方の料理やお菓子関連で良い話って無いかな。
戦国時代に考案された非常食が時代とともに名産品にって…
伊達のずんだもちは政宗が考えたんだっけ。
172人間七七四年:2009/05/01(金) 17:04:51 ID:hEtW5ndw
>>171
讃岐や阿波の和三盆糖は密偵だったのか?腕利き浪人が
あのよそ者に厳しい薩摩から苗を密輸(もろ窃盗)して、東四国の特産品に育てたんだよな。

サトウキビ自体の糖度は薩摩や琉球より低く、そのままでは砂糖の用をなさないってんで
秘伝の職人芸で「砂糖を研ぐ」工程を繰り返す。
ちょっぴり雑味を残して、かえって深みのあるまろやかな甘味になっているよ

天領、とくに上方で高級菓子や薬扱いされていい値がついたそうなー


漏れも白味噌あん餅雑煮はアレだ、一膳は平気だけどおかわり出されると倒れるw
173人間七七四年:2009/05/01(金) 18:43:53 ID:FvQBufao
家康の小姓に大久保藤五郎という者がいた。
この者、三河一向一揆の時に足を怪我して不具となり、もう武者働きはできぬ
と家康の元を致仕した。

武士を辞めた藤五郎は菓子作りをはじめ、時おり浜松の家康のもとに手作りの
菓子や餅を献上していた。
やがて家康が関東移封となると、藤五郎も不自由な身体をおしてこれに従った。

家康は「また藤五めの菓子が食えるわい」とたいそう喜び、藤五郎に三百石の
知行を与えるとともに、徳川家の菓子司に任じたという。
174人間七七四年:2009/05/01(金) 19:03:40 ID:LFOC5tRy
>>153
ダメだ、どうしても介錯人蹴倒して颯爽と逃走する長益さんしか思い浮かばない
175人間七七四年:2009/05/01(金) 19:13:26 ID:GvmXFZ0U
愛知県知多半島の銘菓『生せんべい』の物語

永禄三年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元公に加勢した徳川家康公は織田信長公に押され、
やむなく母(伝通院)のいる坂部城(今の知多郡阿久比町)に逃れて来ました。
そこから伝通院の妹の嫁ぎ先の岩滑(やなべ)城(今の半田市)を訪れようと、さらに南下。
矢勝川を渡り半田に着いた時は昼近く、疲労と空腹のために駒の足もにぶっていました。
家康公は、とある百姓家の庭先に干してあるせんべいを目にしました。
娘みつは、そのせんべいが生であることを恐る恐る申し上げたところ、
「いや、生のままでもよい」と、家康公はたってそれを所望。いかにも美味しそうに頬ばりました。
そして、家康公が半田に滞在中はせんべいを生のまま献上するように申し付けて、百姓家を後にしました。
翌日、献上品を持って岩滑城を訪れ、再び家康公に会ったみつは思わず目を見張った。
この方が昨日のお人・・・・。
その天下をのむ気概と精悍な面持ちに心を奪われ、一人ひそかに慕うようになりました。
しかし所詮届かぬ思いのはかなさを知ったみつは、家康公が陣をととのえ三河に去ったそのとき、知多の山の緑にかこまれた美しい池に姿を消しました。
そのしらせに村人がかけつけた時は折りしも昇る朝日にきらきら輝く雲母があるばかりであったそうです。
のちにその雲母にちなんで一枚一枚重ね合せた生せんべいを作るようになったと伝えられてます。

http://www.namasenbei.jp/index.php?cID=2
176人間七七四年:2009/05/01(金) 19:44:51 ID:jFPmZjTN
>>173
ただの菓子屋に三百石とは、ドケチのヤスがずいぶん奮発したもんだ
177人間七七四年:2009/05/01(金) 19:56:39 ID:XXGRyLil
176氏は>>175での神君モテモテエピソードに嫉妬したんだと思います
178人間七七四年:2009/05/01(金) 20:12:08 ID:9SJdEWkp
扱いの差が酷すぎる、とH.Y様が申しております
179人間七七四年:2009/05/01(金) 20:50:40 ID:mPUOClTk
>>172
おぉ、それテレビで作ってる所を見たことがあるぞ
そういう歴史があったんだなぁ
180人間七七四年:2009/05/01(金) 21:19:57 ID:00yTRdc8
>>179
テレ東?
181人間七七四年:2009/05/01(金) 21:33:34 ID:q4i2AQib
正月の雑煮紹介には欠かせないやつだぜ

俺もろ地元だけどな

一個がやっとだぜwww
182人間七七四年:2009/05/01(金) 21:34:34 ID:X5bkA68X
家康はケチなイメージが強いけど、いわゆる守銭奴的なものではないと思う。
俺の勝手なイメージだけど。
183人間七七四年:2009/05/01(金) 21:38:40 ID:y98CFT2Z
>>172〜175
こういう話があると地方へ出張したときのお土産探しにも
気合が入るな〜
184人間七七四年:2009/05/01(金) 22:14:02 ID:mPUOClTk
>>180正解!
185人間七七四年:2009/05/01(金) 22:21:19 ID:jFPmZjTN
>>182
どうしても秀吉と比較されてしまうからな
その点は不利だと思う
186人間七七四年:2009/05/01(金) 23:05:01 ID:YafMd8XC
黒田如水の訓戒より、本当に恐ろしいもの。

「神の罰より主君の罰のほうが恐ろしい、しかし主君の罰よりも、臣下、百姓の罰が恐ろしい。

何故なら、神の罰は祈れば免れよう。主君の罰は詫び言をすれば許されよう。
だが、臣下百姓に疎まれては、必ず国家を失うものだ。
祈っても詫び言しても、その罰は免れ難い。

ゆえに神の罰主君の罰よりも、臣下万民の罰が最も恐ろしいのである。」

元キリスト教徒でありながら神が最も怖くないと言ってのけるあたり、如水の怜悧さが垣間見える
感じがしますな。
187人間七七四年:2009/05/02(土) 00:14:25 ID:iyIi9UGS
>>171
政宗ずんだはガセだと思う。そもそもずんだって、宮城だけじゃなくて
山形にも福島にもフツーにある。あれがなぜかいつの間にか宮城名物になっているのは、
山形福島の民にとってはちと納得いかんのだよ。
188人間七七四年:2009/05/02(土) 00:22:58 ID:SCHixyT7
紀州徳川頼宣が、晩年に語ったことである。

頼宣四歳の頃、父家康に従って、漁り(すなどり)をしたことがあった。
その道すがらに、谷川があったのだが、この時家康は頼宣に向かって

「ここを馬に乗って渡れ」

と言ったが、頼宣はためらい、頼宣の左右の者たちはこれを察して手助けしようとしたので、
家康は「臆病な事である」と言って、頼宣の従者達を叱り、結局谷川を渡る事はなかった。

頼宣七歳の時にも、家康が漁りに連れて行った。
この時にも途中谷川があり、家康もまた「ここを馬に乗って渡れ」と言う。

頼宣は四歳の時、渡らず臆病と言われた事を思い出し、一人で憤然と谷川に乗り入れた。
しかし過って水に落ち、流された。

ところが、である。
水の途中には網が張ってあり、そこに引っかかった頼宣を、従者達が引っ張って助けた。
川にはあらかじめ、家康の命により網が取り付けられていたのだ。
このようにして家康は、頼宣に剛毅の心を育てようとしたのであろう。

これを語ると頼宣は、「今にして思えば、父上が私のことを思い訓育してくれたこと、
涙の出る思いである。」

と、振り返ったそうだ。

自分の子供に冷たいイメージのある家康の、父性愛を感じさせるエピソード。
189人間七七四年:2009/05/02(土) 00:34:14 ID:Zd51S0RB
結城秀康、松平忠輝 「今にして思えば、父上が私のことを思い訓育してくれたこと、
涙の出る思いである。」
190人間七七四年:2009/05/02(土) 04:02:23 ID:te2ha9Ni
>>189

信康「良いぞ二人とも、もっと言ってやれ!」
191人間七七四年:2009/05/02(土) 07:12:28 ID:QeXyOw91
>>171-172
越後長岡9代目藩主・牧野忠精が病に倒れた。
心配した近臣が菓子商・大和屋に相談を持ちかけた。
大和屋が試行錯誤の末に創ったのは、口にすれば淡雪の如く溶ける真白な干菓子。
身体に染みいるその甘さに、忠精はたちまち食欲を取り戻したという。

快復して後、大和屋を召して曰く、
「このうまさ、私一人にはもったいない。我が藩の名産とし広めよ」
藩主直々に『越乃雪』と名付けられたその菓子は、
やがて日本三大銘菓に数えられるまでになり、
現在も当時のままの製法で伝えられている…。


和三盆で思い出した。
戦国でなくてすまん。
192人間七七四年:2009/05/02(土) 08:18:19 ID:PErHbdVx
>>186
富樫一族「まったくだw」
>>188
この場合の正しい答えは「馬をこんなことで損なうわけには参りませぬ」だと思う
詳しくは神君の小田原の陣の時のエピ山椒もとい参照
193人間七七四年:2009/05/02(土) 08:50:50 ID:PyEQ8bLk
富樫は政争の結果でしょ
194人間七七四年:2009/05/02(土) 11:55:40 ID:0/HDd7iL
昔の教科書だと加賀一向一揆は戦国の話として普通に載っていたが今はどうなんだろ
百姓の持ちたる国・・・として持ち上げられていたが、実際には下手な武家勢力より重税を課せられていたわけでいいもんじゃない
あと、なぜかこの時点で富樫氏滅亡扱いになっていたようなw

実際には1574年の富樫泰俊まではれっきとした一勢力として残っているわけだし、その前の富樫晴貞(でも泰俊の弟)の代だと
一向宗とやりあえるまでには勢力を回復していたわけで。・・・・まあ結局攻めおとされたけどさ。
富樫氏はその後は泰俊の孫が帰農して十村肝煎(10の村を統括する庄屋)として残っていくわけだけど。

・・・流れ的に書いたがいい話に書くことじゃないな
195人間七七四年:2009/05/02(土) 12:02:02 ID:CBXgoMyH
>>194いや、その後の顛末まで書いてくれたから
一向宗、門徒に翻弄されながら家名を残した一点を「いい話」でいいっしょ。
守護、大名としての家格は失ってもさ
196人間七七四年:2009/05/02(土) 12:10:54 ID:SCHixyT7
本願寺もそうだが、寺社領と言うのは、農民、惣村が、代官などの中間の存在を通さず、
領主である寺社に直接訴訟を上げる事ができる権利を持っていた。
これは守護大名や戦国大名の支配地域では不可能な事で、こういう、領民の権利の意味で寺社領は
戦国大名の支配より、確かに進んでいた。
197人間七七四年:2009/05/02(土) 12:17:18 ID:MEtlXHpr
調べてみたらWikipediaには富樫氏は明治以降もその地域で村長を務めたり名家として残ったみたいだね

まあ、統治の方向はともかく実際にそれを担当する人間次第だからなあ
加賀一向一揆崩壊の元凶の一つは統治担当の七里頼周や下間頼照がアレな手合いだったのもあるし
198人間七七四年:2009/05/02(土) 12:32:27 ID:mKB4JKHC
徳川が天下取ったから家康に都合がいい記録が残りがちだろうけど
数々のエピソードを見ると、家康の人間の大きさ、政治家としての貫禄が目立つね。

上から押さえつけるだけの信長とは違いすぎる。
199人間七七四年:2009/05/02(土) 12:42:30 ID:SCHixyT7
そう言う単純比較は荒れるもとでござるよ。

あと、信長が上から押さえつける武将かといえば(そうイメージされがちだけど)
調べるとそう言うわけじゃなく、むしろ合意形成を大切にする、待ちのタイプの政治家だったりする。
たしかに独裁色は強いけどね。

信長秀吉家康のキャラクターの違いは、置かれた状況による部分が、正直大きいと思うよ?
200人間七七四年:2009/05/02(土) 13:32:35 ID:dCnazr1M
上から押さえつけるってのも後世のイメージなんだけどね
秀吉時代に比べればかなり自由だったらしい資料もあるよ
ただ、今で言うDQNには厳しかったようだね
201人間七七四年:2009/05/02(土) 13:42:20 ID:ydTvCfPT
>>196
戦国大名にも守護大名にも、直接訴訟を受け付けた記録が残っているのだが
202人間七七四年:2009/05/02(土) 14:08:26 ID:Mj5GM+xA
島津が朝鮮の役に非常食として持参した灰汁巻は
今では端午の節句に欠かせないお菓子。

帰省の土産に買ってきたのはいいが、
糸で引き切るのを説明しないまま大学の友人におすそ分けしたら
『包丁一本台無しになった』といわれてしまった。ゴメンよ…
もち米を蒸したお菓子だから包丁じゃ切れないんだよなー。

http://www.kt.rim.or.jp/~wadada/cyokayume/kodomonohi1455.html
203人間七七四年:2009/05/02(土) 15:11:10 ID:CFHNfAh+
示現流開祖東郷重位と弟子の話 1/2

重位と弟子が雑談していたときのこと。
突然、真剣な表情で弟子が重位に問う。

弟子「斬り合いの場にて、絶対に負けない奥義を教えてください!!」

現代人からすると無茶苦茶な質問に見えるが、流石に達人東郷重位。
静かな口調で弟子に答える。

重位「それなら斬り合いの場で何があっても刀を抜かなければいい。
そう、戦いの場にて刀を抜かない。
これこそが百戦百勝の奥義だよ。」

弟子が唖然として問い返す。

弟子「…あの失礼ですが、こちらが抜かねば、相手だけ抜いて、私はたちまち斬られないですかね?
それでも抜かないんですか?」

重位が涼しい表情で答える。

重位「うん」

しばらく黙って考えていた弟子が言う。

「わかりました!弟子は尊敬する師匠の言うことを信じればいい。
今後はそのようにしたいと思います。」
204人間七七四年:2009/05/02(土) 15:13:53 ID:CFHNfAh+
示現流開祖東郷重位と弟子の話 2/2

それから数日の後、坊の津で牢人らしき者が役人と従者の二人を斬りすて、
民家に立てこもるという、平成の今にもありそうな事件がおこった。
坊の津地頭の重位と件の弟子も事件に駆けつける。
数人で民家を取り囲んだところ、
このまま籠城しても埒があかぬと覚悟を決めた牢人が上段に構え民家から身を現わした。
牢人は討手全員をゆっくりと見定める。
その落ちついた様子にかなりの手錬者だと重位も気付いた。
そのとき討手を見回す牢人の視線が止まる。
ひとりだけ刀を抜かず青ざめた顔をしている討手を見つけたからだ。
そう件の弟子である。
流石の重位も、抽象的に剣の奥義を教えたすぐ後に実戦の場に立った弟子を心配し不安にもなったのかもしれない。
そして牢人の刀が弟子に振り下ろされる。

重位「抜け!!」

心の中でさけぶ重位。
そして激しい逆袈裟の抜き打ちの音が響きわたる。
当たりに静寂が戻ったときに倒れていたのは牢人だった。
弟子は重位の教えの真髄を体得していたのであった。
205人間七七四年:2009/05/02(土) 15:35:11 ID:N2ryNTFW
死中に活ありってことですか?師匠…
206人間七七四年:2009/05/02(土) 15:43:30 ID:flZ4RAVZ
・・・居合い?・・・・・・・示現流??
207人間七七四年:2009/05/02(土) 15:45:45 ID:SCHixyT7
後の先って事か?
208人間七七四年:2009/05/02(土) 15:59:03 ID:kwUcreHA
こういう話は禅問答と同じ感覚で見たほうがいいと思う。
剣禅一如という言葉もあるし。
言葉だけ見るとただ矛盾した話だから。
現われている言葉の裏を読むみたいなことじゃないか?
月という言葉は月を指す指であって、
本当の月は夜空に浮かんである綺麗なもの。
じゃあ湖に映る月はあれはなに?

喩えになってないね(笑)
209人間七七四年:2009/05/02(土) 16:09:29 ID:v7/1OTVN
これが簡単に理解できたら誰でも
百戦百勝の猛者になってしまうじゃないかw
210人間七七四年:2009/05/02(土) 18:20:03 ID:GN6yP79e
一休さんの屏風のトラのとんちみたいなもんで
「絶対に負けない」というのは「刀を抜かずに勝つ」
と同様に不可能だって言ってる…じゃだめかな(´・ω・`)
211人間七七四年:2009/05/02(土) 18:49:28 ID:CBXgoMyH
>>210
塚原卜然
「ふむ、場所が川の中洲でよければ勝負に応じましょう」
212人間七七四年:2009/05/02(土) 18:53:28 ID:AsVbGF3E
さすがに先生は格が違った
213人間七七四年:2009/05/02(土) 20:03:16 ID:CBXgoMyH
>197
坊主貴族て、織田や上杉の武士より味方の筈の一揆衆からボロカスに非難されていたんだっけ。

織田方の北陸一向一揆征伐軍に攻められて、門徒百姓に紛れて逃げようとしたが
お歯黒していて、いい着物着ていてあっさり捕まり斬首

北斗の拳の拳王先遣隊みたく怪しすぎる変装でバレバレだったんだろう
214人間七七四年:2009/05/02(土) 20:26:35 ID:6vMqYba+
ヒャッハー富田長繁が一時的に越前を手にした後、これを撃破したはいいが結局それまでを
上回る悪政で人心を得られずあっさり奪還され追撃で殺されているなかなかに駄目な二人ですな。
下間は専修寺で、七里は朝倉景健にぬっ殺された(鏑木頼信という説も)
215人間七七四年:2009/05/02(土) 22:19:55 ID:WBnkI1Rg
力で自衛しないといけない時代、富田さんみたいな人の方が信頼できたんじゃないかな
それでも富田さんなら・・・富田さんなら俺達の田畑を守ってくれる
みたいな感じでさ
216人間七七四年:2009/05/02(土) 22:22:22 ID:KsXv7Hkz
なんという世紀末救世主伝説

世紀末じゃないし、死んじゃったけどな
217人間七七四年:2009/05/02(土) 22:48:27 ID:te2ha9Ni
世紀末って言うか末法の世って感じだねw
218人間七七四年:2009/05/02(土) 23:07:31 ID:SCHixyT7
大久保忠成は小田原陣の折、まだ13歳であったが、家康に直訴してこれを初陣とし、
お供として、家康の傍にあった。
ある時忠成が、大筒の音を聞いて、驚いて頭を下げた。するとこれを見た家康が
「侍の子はそんなふうにはしないものだぞ」
と、注意をした。

そこで大久保忠成、この小田原陣の最中、鉄砲の音が鳴る度ごとに、ぴょこんと
飛び上がるようにしていたそうだ。

子供がむきになっている感じの、戦場のちょっとほほえましいお話。
219ちょっと補足しま。:2009/05/02(土) 23:13:07 ID:KO47OFhs
>170-172
和三盆て江戸時代も後期、宝暦以後たぶん安永天明ごろからの産だからほんまはスレ違いなんだけど、ご容赦。

当初、白砂糖の製法を研究したのは脱藩前の平賀源内センセだったそうな。讃岐では弘法さんに並ぶ「お約束」だがこれは確からしい。
実際のサトウキビ苗窃盗犯は讃岐高松を治めた松平さん-水戸系、初代は光圀の兄の松平頼重公-の家臣(NINJA)説がある……

とか言いつつ源内さんの知り合い藩医のお弟子さんだった向山周慶って医者が製法を完成させたんだと。
向山が偶然、旅先で病に苦しんでいた関良助って薩摩人を助け、関がアングラ突破者と化して
サトウキビの苗を密輸入したって話が製糖業者さんのパンフや案内看板にのっとる 。なんだこれ。

原書を読んでない伝聞交じりだからアレだけど、
現東かがわ市の白鳥町と、高松城下の松島に「向良神社コウラジンジャ」てのが残る。向山+良助で向良、ね
220人間七七四年:2009/05/02(土) 23:31:45 ID:ABz4qG/5
しかし藩が違えば特産品の持ち出しが許されるとは思えないし、阿波三盆糖は讃岐三盆糖とは別ルートでサトウキビが流れたんじゃないのかなあ。
221人間七七四年:2009/05/03(日) 02:23:58 ID:NGAVX0Iz
豊臣秀吉は良く、こんな事を言っていたそうだ

「お前達が部下の立場から、主人に対して何か諫言がある場合には、主人の事を褒めた上で
語るべきだぞ?

主人は『諫められている』と感じても、褒められれば嬉しくなる物だ。
逆に批判的なトーンで語れば、言っている事は正しいと感じても、どうしたって機嫌は悪くなる。

同じ事を話すにも、相手の感情の機微をきちんと考えた上でやるものなのだぞ。」

信長にもこの手で接していたのか。そんな事を想像させる、秀吉流処世術の一旦。
222人間七七四年:2009/05/03(日) 02:39:37 ID:VTCK/ll6
これは現代社会でも通じる部分があるなぁ。
秀吉は今の時代にいたら出世しそう。
223人間七七四年:2009/05/03(日) 04:16:50 ID:NGAVX0Iz
「山本菅助」への信玄書状を発見
群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/05/01/2.html

こんな大ニュースがあった記念、武田信玄と山本勘助のお話

ある時武田晴信が、山本勘助にこのようなことを問われた
「他国を占領した際、その国の侍達を皆斬り捨てるか追放をし、一人も召抱えることなく元からの
自分の配下達だけに、その国の知行を分けるという事はいかがであろうか?」

勘助これに答えるに
「それはその大将が手柄を誇り、将来への配慮もなく、外聞を気にしての浅はかな判断だと
申せましょう。
その措置には先ず、国持ち大名として無くてはならない慈悲の心がかけております。
これでは天より憎しみを受け、必ずや災いを呼ぶでしょう。
私もそのような例を、いくつも見聞きしております。」

又、晴信は問うた
「関東の上杉憲政の様子はどうか?」

「はい。憲政は新規の人を召抱え大切に扱います。しかしこれは、そう言う外聞を大切にすれば、
各国各郡から四方にこの事が宣伝され、諸国から大いに人が集まってくることを、
期待してのものです。
人多く集まり憲政に奉公すれば、関東管領としての上杉憲政の威光が上がり、
北条氏康やその支配下の者たちもこれを恐れる。そう言う目論見の元に、大身の親類、或いは
遠国の牢人がやってくれば、これを抱え厚遇しているのです。
このため上杉家中では新参の者が幅を利かし、知行を過分に取り、働いております。

ですが、そのせいで譜代の人々で、上杉家のため熱心に働くものは、十人に一人もいないという
有様になっております。」

晴信はこれを聞いて笑い
「憲政は後先を考えず新参を厚遇するため、古参の者は恨みを抱いて役に立たず、
新参は思い上がって主君を軽んじているため、これも役に立たない。それで双方忠功を怠る。
そんな事だから北条氏康の少数の兵に切り崩され、合戦に敗れるのだ。

憲政のやり方は、下手糞な医者が工夫を間違え、薬を毒にしてしまったようなものだ。
『薬は人を殺さぬ、医者が人を殺す。』と言うやつだな。

大将の人の使い方が悪ければ家臣もまた悪くなる。
世の中にはそれを勘違いをして、家臣が悪くなった事を、家臣の責任だとする者達がいるが、
この武田晴信は、絶対にそのようには考えないと、御旗盾無に誓おうぞ。」

この晴信の言葉に勘助、かたじけなく、感じ入ったとの事である。
224人間七七四年:2009/05/03(日) 09:40:49 ID:zvGJ7m4p
>>222
秀吉はどの時代に生まれてても出世しただろうな。
225人間七七四年:2009/05/03(日) 10:35:28 ID:/PlM/CtP
出自でガッチリ決まっちゃう社会だと無理じゃね
重宝されるだろうとは思うけどそんな社会でやる気出るかは微妙だな
226人間七七四年:2009/05/03(日) 11:16:42 ID:RyuzDG1g
インドとかだと無理じゃね?
227人間七七四年:2009/05/03(日) 12:16:16 ID:a3vYXFyi
>224
古代ローマは無理かもしれん。
ガチホ……アッー!ガイファイトで勝ち上がらなければ良いローマ兵、退役してローマ市民になれない
228人間七七四年:2009/05/03(日) 18:54:09 ID:Lt8lpMGd
大名達の酒席の多さについては、まとめサイトにあるとおり
さて、彼らはこれ以外に茶会で付き合いをしなくてはならなかった
以下、佐竹義宣が元和五年に参勤した際の記録である

3月8日 数奇屋の料理屋を御成書院風に改築させるよう命令
3月10日 米津勘兵衛の数寄に出かける
3月11日 島田直時の数寄に出かける
3月12日 内藤正重の数寄に出かける
3月13日 今小路親清の数寄に出かける
3月14日 岡孝賀と朝会、ますや道句と昼会
3月16日 森川氏信と朝会、田代養元と昼会
3月18日 猪子一時と朝会、山名禅高と夜会、料理屋改築の入札
3月19日 島田利正に茶を振る舞う
3月20日 堀田若狭と朝会、土方雄重と夜会
3月・・・

とまあ、こんな調子で4月28日までほぼ毎日、どころか日に二度も茶会をやっていた
茶の相手は幕府要人や有力商人だけでなく、
丹羽長重、黒田長政、安藤重信、細川忠興、津軽信枚、相馬利胤ら大名もいて、
数寄は接待に必須の場だったらしい
お付き合いのいい話
229人間七七四年:2009/05/03(日) 18:59:29 ID:LPdeCFYg
あんたも数奇ねえ
230人間七七四年:2009/05/03(日) 19:01:21 ID:kxuz9VOv
なんという過密日程
231人間七七四年:2009/05/03(日) 19:44:53 ID:kqhXMGFb
大名稼業も楽じゃねえな
232人間七七四年:2009/05/03(日) 19:48:05 ID:I84Q6hz/
家臣任せに出来ないし、大名本人の教養も問われるし
大変だな、こりゃ。
233人間七七四年:2009/05/03(日) 19:49:49 ID:I84Q6hz/
…と書いた端から思ったけど、茶会と聞いて
「望むところだ!」と張り切っちゃう大名も居たかもしれん。
234人間七七四年:2009/05/03(日) 22:47:11 ID:dY8KohpT
現代社会も茶の湯接待が必要だな
茶道やってたけどあれって会話のきっかけがたくさんあるから楽なんだよな
花とか茶道具とか掛け軸とか
初対面でも会話に花が咲くんだよ
235人間七七四年:2009/05/03(日) 22:58:10 ID:KBbLOaTI
>>224
秀吉は今川家の松下で働いていたけど、一人だけ頑張りすぎて回りにいじめられて逃げ出したとか

光秀は朝倉家では見込み無しと織田に鞍替え

本人の努力、才能、運勢の他に、使える大名家などで変わってくる
236人間七七四年:2009/05/03(日) 23:02:15 ID:w2KXqfSu
見てるこっちの腹ががばがばになりそうだ。
…厠に閉じこもる大名が多かったのはそのせいか?
237人間七七四年:2009/05/03(日) 23:06:36 ID:w9O7Bhja
>>236
ただ単に当時の食料が今のより消化し辛かっただけだと思うぞ
238人間七七四年:2009/05/03(日) 23:37:04 ID:iGzx9N7n
>>234
風流に取り入る術ってのがあったな
むっつりした人でも自分の趣味の話になると、口が軽くなるもんだから
趣味をもつことは重要だと
239人間七七四年:2009/05/04(月) 01:30:40 ID:zw89xRT3
武闘派の武将だと、武士が茶の湯なんかにうつつ抜かしてどうするんだ?みたいな人もいる。
風流を嗜む武士も良いけど、あくまでも武骨な武士も格好いい。
240人間七七四年:2009/05/04(月) 01:48:52 ID:+hLfnim5
既出だったらスマソ。

「幽斎と百姓の狂歌」
丹後国、鉈の庄の百姓が同じ村の百姓に米を貸した。ところが、その後いくら催促しても返してくれないのでこんな狂歌を詠んだ。
「借銭を 乞へどもくれぬ気の毒や なま木に鉈の 庄の者かな」
いくら言っても借りを返さない、難儀なことだ。という事であるが、「なま木に鉈=木の毒(気の毒)」という当時のはやり文句を「鉈の庄」という地名にかけて読み込んでいる。

この歌を細川幽斎が聞いて大いに感心して褒美に米を三石与えた。百姓はお礼にまた一首詠んだ。
「日本さへ 及びなき身に三石(三国)を
ままにせよとの 御意ぞめでたき」
日本一国さえ及ばぬ身に三ごくを意のままにせよ(飯ママにせよ)とはありがたい仰せ。

こんな風流百姓もいたんだなって話し。
241人間七七四年:2009/05/04(月) 01:51:44 ID:hAw+G9bq
すげえな、百姓!
242人間七七四年:2009/05/04(月) 01:53:51 ID:o9b9+S/E
地方では中央権力との繋がりがきたいできるから茶や連歌なんかが持て囃されてたのかなあ
あと蹴球とか
243人間七七四年:2009/05/04(月) 01:59:51 ID:L+WjALSG
二条河原の落首とかもあるんだし、
町人や農民にも教養のある人はいたんだろうね。
244人間七七四年:2009/05/04(月) 02:00:41 ID:/LFpNEDm
百姓といっても豪農とかそういうんじゃない?
中央文化の地方への伝播に一役買っていた人達
245人間七七四年:2009/05/04(月) 02:15:01 ID:zw89xRT3
皇族だろうが部落民だろうが、
賢い奴は賢いし、アホはアホだろ
246人間七七四年:2009/05/04(月) 02:51:03 ID:Lf9pNoDV
そういう話はしていない
247人間七七四年:2009/05/04(月) 03:04:29 ID:zw89xRT3
>>246
逃げるなチンカス
248人間七七四年:2009/05/04(月) 04:18:36 ID:Limu2FPZ
>>245
そういう話ではないだろう。
ある程度は訓練あるいは既存の技術を見る機会が必要な、落首や狂歌の技術が高いということは、
相応の階級である可能性は確かに高い。

別に階級の低い人が愚かだなどとは誰も言っていない。
近代にならないと、階級が低くなる程そういう技術を学ぶ機会が与えられていない、
ましてや戦国期は江戸期よりも学ぶ機会は少ないということを背景に言っているんだよ。
249人間七七四年:2009/05/04(月) 08:32:14 ID:eweNkCi3
幽斎はこの歌をどこで聞きつけたのか。
250人間七七四年:2009/05/04(月) 11:25:51 ID:YgpNnMWZ
>>248
立場によって育ち方が違うよね。
同じ大名家でも、嫡男でなかったために教育を手抜きしたのか、
島津忠恒や森長可は、DQN四天王に加えられてる。

農民なんて字を学ぶ必要も余裕も無い
251人間七七四年:2009/05/04(月) 11:58:00 ID:tnARPYsg
>>250
教養とDQNは関係ない。
政宗は立派な教育を受けた教養人だし、忠興はとーちゃんはインテリナンバーワン。
教養があろうがなかろうが、DQNはDQN。
252人間七七四年:2009/05/04(月) 12:25:11 ID:qKLQgpyn
教養とDQNに関係無し
教育とDQNに関係有り
253人間七七四年:2009/05/04(月) 12:27:31 ID:hQNrQetV
鬼武蔵はともかくとして何故に悪い家久は育成に失敗したんだろうか
254人間七七四年:2009/05/04(月) 12:42:15 ID:JzeeLw+Y
DQNは人間性の違いでしょ。生い立ちやらなんやら。
けど北条家には子育てマニュアルやら性格矯正システムやらありそうだが。
255人間七七四年:2009/05/04(月) 12:46:35 ID:gZBEeQUy
おっと氏政タンの悪口はそこまでだ
飯くらい好きに食わせろ
256人間七七四年:2009/05/04(月) 12:58:31 ID:Z0kSDEgK
本来久保が次期当主のはずだったし家久(悪)は英才教育してなかったんじゃねぇの?
しかも兄貴の嫁を宛がわれるし叔父が怖かったのか離縁も出来ず側室も持ってない
ストレス堪るような環境ではある
257人間七七四年:2009/05/04(月) 13:03:42 ID:G9D4ezfB
そうだな。
教養人(風流人)=常識人というわけではなし。
258人間七七四年:2009/05/04(月) 13:11:40 ID:lbrGa9Fv
北条教育といえば長老玄庵様の「玄庵おほえ書き」思い出すぜ
北条からよその家に嫁ぐ女の子たちに
嫁ぎ先での四季折々の儀礼やら、
お姑さんへの挨拶の仕方やら、
女子としての礼儀作法の様々
こと細かくアドバイス書き連ねたやつを持たせて送り出してるんだよな。
「わからないことがありましたら、
こういう立場の方や○○さんにお聞きなさい。
その際は玄庵が気にしておりましたと言って聞くのですよ」
なんてことまで書いてあったりする。
氏真の妻や勝頼の妻もこんな感じのアドバイス受けてたのかね
259人間七七四年:2009/05/04(月) 13:17:03 ID:G9D4ezfB
義弘公もなぁ…
家臣に子供が生まれたときには、子供を自分の膝の上に乗せて
『お前も父上を見習って立派な武士になるのだぞ』
とか
『お前も父親のような武士に嫁ぎ、
 母上を見習って夫を支え、息子を立派に育てるのだぞ』
と言い聞かせた逸話が残ってるくらい
家臣の子供には教育熱心だったのだが…。
260人間七七四年:2009/05/04(月) 13:27:11 ID:zfEQ2hfy
>>245
身の振り方を知るという意味での賢さではなく、
知識教養を身に着けているという問題。
261人間七七四年:2009/05/04(月) 13:47:17 ID:JzeeLw+Y
>>258
後北条家は始祖が武家のトップに礼節や作法を叩き込む伊勢氏の出で
自身も幕府のエリート官僚で寺で禅を学ぶ完璧節約超人だしな。
そりゃ飯の食い方にも嫁のあり方にもうるさいわな。
262人間七七四年:2009/05/04(月) 13:48:23 ID:4QWdzgkb
>>250
それがよ
宣教師のローマ宛の通信に
この国では路辺の農夫でさえ詩を詠むって書き送ってるんだぜ
農村が豊かで清潔ってさ
室町時代の推定人口の増大から類推すると農業生産が飛躍した時期
テレビドラマみたいな貧乏飢餓農村ってえのはどうもね
263人間七七四年:2009/05/04(月) 13:51:22 ID:4QWdzgkb
>>261
京都だろうがどこだろうが、
飯食い終わった椀に湯茶いれて一粒も残さないって
作法に適ったお行儀

豆知識余計か?
264人間七七四年:2009/05/04(月) 14:21:28 ID:fQoUe2rl
当時は連歌師が全国廻ってたから百姓が歌に触れる機会が
多かったのだろうか
265人間七七四年:2009/05/04(月) 14:54:39 ID:GMcKKSQD
豪農とかは教養への憧れとかあるんだろうかね
266人間七七四年:2009/05/04(月) 16:36:41 ID:eweNkCi3
半農半士はたくさんいたんだし。
戦がなければ見た目は農民というのも当然いるでしょう。
267人間七七四年:2009/05/04(月) 16:56:50 ID:LDDO5JS0
基本的に進歩史観の教育受けてるから近代以前の農村なんて
大暗黒社会としてしかイメージ出来んのよね
アジア諸地域で見られる貧困丸出しの農村の延長でイメージしちゃうんだけど
そうではない日本独自の農村てものがあったんかねぇ
268人間七七四年:2009/05/04(月) 17:36:40 ID:CUX8bANZ
>>267
あったと思うよ

地方に小作人がたくさんできたのは 明治以後でそ

小さな田畑でも 先祖代々守ってきて 長男以外の男は ほとんど奉公に みたいな
269人間七七四年:2009/05/04(月) 17:40:31 ID:cu+Phync
江戸なんて奉公に出された次男三男ばかりなんだろうな
270人間七七四年:2009/05/04(月) 17:49:34 ID:5fM8VKyH
>>262
さすがにほんの100年前まで世界のド田舎だった西欧人から見れば
世界の半分以上の農民は豊かになるんじゃないの
まして近代化始まったりしたら底辺が真っ先に貧しくなるんだしさ
(明治期の日本の農家の落ちぶれ具合を見れば分かるはず)。
271人間七七四年:2009/05/04(月) 19:15:15 ID:a2RmFuzv
>>267
 少し前に読んだ本(学術系)によれば、
農民が戦場に出るのは乱取り(奴隷として敵を売り飛ばす)のが目的で、必ずしもみんな武士になろうとはしてなかったらしい。
んである程度豊かになると自分の代わりに流れ者傭って訓練やら戦場に行かせていたとか。
 ここから考えるに、当時としてはそれなりに旨みのある職業だったと言えなくもないと思う。
 なんせ米の栽培は元の100倍が望めるみたいな話も聞くし。
 収穫高とかいろんな意味で>>270の言うように西洋の農民とは違うと思う。
 だって西洋の土地の痩せっぷりはスサマジイからな。
 土地が痩せすぎているせいで芝刈りしなくても芝生の草自体が成長しないとか。
272人間七七四年:2009/05/04(月) 19:22:02 ID:fQoUe2rl
米と麦じゃ同じ面積でとれる量が段違いだって聞いたなあ
西洋の百姓は大変だね
273人間七七四年:2009/05/04(月) 19:32:50 ID:FKahq63f

灌漑整備必須→土が痩せないので狭い農地で重層的生産を発達させる


灌漑いらない→土が痩せるので土地を広く使う輪作を発達させる
274人間七七四年:2009/05/04(月) 19:32:57 ID:Z0kSDEgK
その上小麦は連作出来ないからな
ただ100年戦争とペストで人口が激減して以降、西洋では農奴が農民にジョブチェンジしてるから
戦国の頃なら東欧と比べてまだマシな方
275人間七七四年:2009/05/04(月) 19:44:02 ID:cu+Phync
でも向こうは牧畜も盛んだったから栄養面では何とかなったんじゃないの?
男はエール(酒)でカロリー摂取してたって話も聞いたし
276人間七七四年:2009/05/04(月) 20:34:26 ID:Z0kSDEgK
酒飲んでたのは清潔な水が確保出来ないから水代わりにって理由もあるけどな
中世ヨーロッパは貧しさのあまり農民が50過ぎの妻を一輪車に乗せて体売らせたり
領主に初夜権があったり
両親がいようが鍵がかかってようが男が強姦目的で徒党を組み無理矢理家に侵入したりするのが日常化してたり
キリスト教の教えを守る為に女性を男性に接触させないように結婚まで家に隔離してたら
ゲイが爆発的に増えて教会経営の娼館作るのを真剣に検討されたり色々あるけどスレ違いだろう
277人間七七四年:2009/05/04(月) 20:37:18 ID:tFn6xOgJ
自分は散々好きなだけ語っといて誘導とかw
278人間七七四年:2009/05/04(月) 21:00:12 ID:3BRDPUij
>>272
だから現在のアジアはやけに人口多い国が多いのか
ヨーロッパの国って意外と人口が少ないし

>>276
領主の初夜権は我が邦の地方にもあったって聞いたことがある
どのくらい一般的だったかは知らないけど
279人間七七四年:2009/05/04(月) 21:33:46 ID:j+ZmCmvs
>>275
考え方が逆かな
非効率な牧畜や不安定な狩猟に頼らなくてはならなかったのは、農作物が貧弱だったから
玄米五穀でほとんどのエネルギーやビタミンとれる日本が恵まれてたというか
280人間七七四年:2009/05/04(月) 22:02:01 ID:khmOfjre
麦の倍率が

ヨーロッパが
中世で三〜五倍
近世で十二〜十三倍
現代でも二十倍くらい

に対して日本が
平安の頃に七〜八倍
江戸時代に二十五倍
現代で五十倍
と聞いた。
まあ品種の違いもあるだろうし、ヨーロッパも日本も場所で変わってくるだろうが。

ちなみに日本では古代から文字の普及がハンパでない。
平安時代にすでにものすごい文書行政を確立し、農民でも訴状から生産収支その他の
報告文書を自前で作成している。
281人間七七四年:2009/05/04(月) 22:15:44 ID:fsgwyYnv
>だから現在のアジアはやけに人口多い国が多いのか
>ヨーロッパの国って意外と人口が少ないし
江戸の人口が100万を越えて、世界最大の都市に…ってのを
昔授業で習ったときは、意外だったけど
(他にも江戸くらいの都市があるんじゃないの?と思ってた)
ここの遣り取りを見てると納得だな〜。
282人間七七四年:2009/05/04(月) 22:15:46 ID:9bPVB1Jt
ヨーロッパの収穫率の低さは土壌と気候が原因だなぁ。
メソポタミアなんて麦でも収穫率80倍あったんだし。
283人間七七四年:2009/05/04(月) 22:30:16 ID:Z0kSDEgK
ttp://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1169.html
都市で言えば昔からそこそこデカイ都市を持っていた日本
スレ違いな流れを変える為にも誰か戦国の農政や牧畜のいい話をするんだ!
284人間七七四年:2009/05/04(月) 23:03:55 ID:fsgwyYnv
じゃあ、こんな話を。

江戸の初期、日本に煙草が伝わってきたが「無用の長物である」として幕府は禁煙令を出した。
だがその一方で、煙草は戦傷の薬になるとも言われていたため、
隠れて吸っていた物も依然として多かった。

ある日、島津義弘が兄の義久を尋ねて加治木から国分に出掛けていた。
道の途中、とある老人の家で水を求めて入ったところお供の目付け(煙草の監視役)が
家中から煙草を見つけた。
老人を問い詰めたところ「それがし、伊地知大膳と申しまする。この上は切腹して罪を謝せん」と答えた。

このことを聞いた義弘は「目付けも家の中まで覗かなくて良かろうに」と言ったが
役目に忠実なのをとがめるわけにも行かない。
また、伊地知大膳が家に尽くしてくれた歴戦の武士であることも知っていた義弘は
苦慮した挙句こう言った。
「伊地知大膳は若い頃から方々の戦に参戦し、幾多の戦功を立てた剛のものである。
 ことに福山の役では我が方が敗退し、全滅せんという時に身を挺して私を守り
 ついには敵を撃退した主家にとっての功臣でもある。
 彼が戦傷を癒すために煙草を吸ったと言うのであれば、彼に傷を負わせるような
 戦いをした私の責任でもある。
 横目の役目をないがしろにするつもりは無いが、ここは私に免じて見逃してやってはくれまいか」

まるで自らのことのように懇願する義弘の言葉に、
切腹の覚悟を決めていた伊地知はかたじけなさのあまり大声を出して泣き崩れたと言う。

この事件があった国分は、後に義久によって煙草の生産が奨励され
「花は霧島、煙草は国分」と称されるほどの高級煙草の産地になった。
285人間七七四年:2009/05/04(月) 23:09:42 ID:+hLfnim5
薩摩って言えばすごく厳しいイメージがあるけどさすが名将義弘公、泣けた。
286人間七七四年:2009/05/04(月) 23:11:48 ID:Z0kSDEgK
義弘は家臣を大事にする話が多いなぁ
しかし薩摩は色々特産物があるな
287人間七七四年:2009/05/04(月) 23:16:35 ID:j+ZmCmvs
特産の多いところは米がな
288人間七七四年:2009/05/04(月) 23:19:07 ID:fsgwyYnv
そうなんだよね。
米が作れないからタバコに頼らざるを得なかったと言う面もある。
289人間七七四年:2009/05/04(月) 23:25:57 ID:fBxGHIxH
神奈川県の秦野盆地も富士山大噴火の火山灰が積もって水田が作れないので
タバコ生産が盛んになった
290人間七七四年:2009/05/05(火) 00:02:23 ID:hIiqKVnA
福島正則がある時、使番を勤めていた者に、新たに組頭を申し付けたことがあった。この時この者、
「思う次第が有るので、私が頭をおおせつかった組の者たちと話し合いをさせてください」と言った。
そうして宿舎に戻り組の者たちを集め、彼らを前に言った

「私のような若輩者が、この組の頭を命じられました。しかし、あなた方と相談したいと申し上げ、
お請けするかどうかを待って頂きました。
この中で、若輩の者が下地するなど片腹痛い。何を言っても聞くものか、と思われる方が
いるのであれば、この事、お断りしようと思っております。」

これに組の者たちは、「何事もあなたの指図次第に任せましょう。」と答えた。

するとこの者、「ならば、一つだけお願いがあります。私もこの通り若輩であり、全て指図するのは
無理だと思います。そこで、私が『かかれ』と言えば、各々どのような目利きがあってもそれを捨てて、
一度にかかっていくよう、約束していただきたい。
この事、お聞きいただけるでしょうか?」

これにも一同「安き事」と答えた。そこでこの者は組頭をすることを引き受けた。

さてその後、この者の組、合戦の度に、他の老巧なものが頭を務める組より早くかかり、
しかも落ち度なく、正則もこの組頭を招いて褒美を取らせようとすれば、この者
「みな、組の老巧の者たちが指図してくれたおかげです。私の功では有りません。」と言う。
そこで正則、その組の老巧の者たちに尋ねれば、「いいえ、頭に指図などしたことはありません」
と言い出す。

不思議に思って、もう一度その組頭に尋ねると、「別にこれと言った秘密はありません。私は合戦の折、
自分の組の者たちを観察していて、老公の者たちが打ちかかるため、備えに動きがあると、
それをもってかかるようにしているのです。それで多くの利を得ましたが、これは全く、
私の手柄ではないのです。」

これに正則、さらに感じ入り、褒め称えたとのことである。
291人間七七四年:2009/05/05(火) 00:03:25 ID:v8/fAZAo
今と違って果樹栽培を奨励できるような状況じゃないし
292人間七七四年:2009/05/05(火) 00:39:05 ID:fn3LWi/H
>>290

正則って本当に家臣かわいがるよなぁ。
家臣達も主君を愛している感じ。
この話しも感動するなぁ
293人間七七四年:2009/05/05(火) 09:21:37 ID:X6JubW7L
有名かな?でも謙信の話は少ないから投下する。

ある日のこと、上杉謙信は聴衆に混じって説教を聴いていた。
説教しているのは禅僧の益翁で菩提達磨の『不識』についての
話だった。

謙信は「俺は禅について多少は知っている。ちょっとこいつを
試してやろう」と思い、周りの聴衆と同じ格好をして、様子を
うかがっていた。すると益翁は不意に謙信の方を向いて、

「では御屋形様、達磨不識の意味はなんですかな?」

と質問してきた。しかし謙信は呆気にとられてなにも言えなかった。
益翁は続けて、

「どうなされた。あなたはいつも禅の話になると弁舌ではありませんか。
何故お答えにならないのです」

と畳み掛けた。実は謙信は禅についてちょっとした自信があった
のだが、これで彼のプライドはずたずたになったのだった。

その後、己の未熟さを思い知った謙信は益翁のもとで禅を熱心に
勉強し始めた。益翁はいつも、

「真に禅を会得したいならば、命を捨てて死の穴に飛び込まなければ
ならないでしょう」

と謙信に語ったという。
294人間七七四年:2009/05/05(火) 10:01:36 ID:d+u/+rYl
いくつの時の話かで
己の無知を悟って真面目に勉強するいい話なのか
いい年して知ったかして恥をかいた話なのか違ってくるな
295人間七七四年:2009/05/05(火) 12:29:01 ID:hIiqKVnA
>>294
益翁宗謙が林泉寺住職をやっていた時代だとすると、謙信は30代後半から40代だな。
296人間七七四年:2009/05/05(火) 14:56:39 ID:PLTbSjga
>>294
この後上杉輝虎は達磨不識と益翁宗謙から名前を頂いて
「不識庵謙信」と法名を名乗ったという話だから
いい話だと思うが。
297人間七七四年:2009/05/05(火) 15:58:10 ID:/vUGgS2K
>>294
後者だとしてもそこから一念発起して道を究めようとしたんだからいい話じゃないかな
298人間七七四年:2009/05/05(火) 17:01:48 ID:d+u/+rYl
なるほど
輝虎から不識庵謙信になったきっかけの話ですか
転機になった話ですね
299人間七七四年:2009/05/05(火) 18:13:52 ID:eNSQME33
謙信本人としては「他の連中と同じ格好してるのになぜバレた!?」って方がショックだったりしてw
300人間七七四年:2009/05/05(火) 18:26:36 ID:2F6dsc8s
益翁「そんなでかい雑兵がいるか」
301人間七七四年:2009/05/05(火) 18:44:19 ID:ACwYAZ+L
>>262
なんでもいいけど、君はポエムかいたことあるの?
あるなら是非披露しておくれw
302人間七七四年:2009/05/05(火) 19:34:09 ID:/vUGgS2K
↑放置で
先週あたりから少し変な人が良い悪い双方に沸いているので注意
303人間七七四年:2009/05/05(火) 19:39:55 ID:f89cEk3h
つまんないかもしれんけど…

水野勝成、前線での心得

これは水野勝成が福山城主になってからの晩年の話

諸大名に負けず劣らず狩りが大好きだった勝成は、御供と懇意にしていた茶坊主を連れていつもの様に鹿狩りに山へ出掛けました。

ちなみにこの頃の勝成は若い時に戦場と放浪で足を酷使し過ぎて歩く事もままならず、狩りに出るのにも馬を使わずに駕籠で移動してました

んで勝成は山へ狩りに入る前に家臣達に『すべての勢子が揃うまでは鉄砲は撃つな』と厳重に命じ山に入った


がしかし、しばらく進むとあれ程厳重に発砲しない様に下知したのにも関わらず…
ターン!ターン!と遠くから銃を発砲する音が鳴り響いて来ました

それを聞いた同席していた茶坊主が『鹿が逃げる、不届者よ』と言い勝成の駕籠を一瞥したが何も反応が無いので、『さては寝てしまわれたのかな?』と思い黙っていましたが、
しばらくするとまた同じ様に数回銃声が聞こえたので堪らず茶坊主が『仰せ付けに背き度々鉄砲を撃つ者がいます』と勝成に告げた

すると駕籠の中から
『このたわけが、先程からの銃声が聞こえぬ訳は無かろう、
いかに法度に背いたといえ、鹿に侍が替える事ができようか、そなたは無知である』と勝成が茶坊主を叱った。

それを聞いた家臣達は畏縮し、すぐさま無駄に発砲するのを止めたという。


 勝成は狩りに戦の演習も兼ねていたので、前線にいれば前線の考えもあり、
鹿が逃げようが逃げまいが自分の配下の者が撃つと判断したならそれなりの理由が前線であったのだろうから
撃つのにイチイチ上司に伺いをたてなくても自分で判断して身を守ればいいと考えていた

と今まで前線で好き勝手にやって来た勝成のお話
304人間七七四年:2009/05/05(火) 20:21:59 ID:xUr7WqNh
>300
バレちゃあ、しゃーねーなァ〜 ヒャッハー!!
305人間七七四年:2009/05/05(火) 22:24:57 ID:8SYwJAPp
>>303
プロシアのウィリアム皇太子も同じようなこと言ってたな
「階級は命令違反するときを判断できる者に与えられている。
命令通りするだけなら将校ではなく、兵士でよい」
国を問わず、実戦経験豊富な人間は同じような考えなんだな
306人間七七四年:2009/05/05(火) 22:41:43 ID:FoNyJD/n
中国の兵法にも、前線の将は必ずしも主君の命に従わない方が良いって話があったな。
孫子だったか。
イギリス海軍にも似たような規定があったような。
307人間七七四年:2009/05/05(火) 22:50:55 ID:K7oFpaJ/
権能の分与と言う奴ね
308人間七七四年:2009/05/05(火) 23:13:13 ID:dIjprNoB
>>306
将、外に在れば、君命も受けざる所有り
ってやつですね
309人間七七四年:2009/05/05(火) 23:39:51 ID:DTXa5K4e
慶長14年(1609)、仙台に拠点を移した伊達政宗は、菩提寺として松島瑞巌寺を再興した。
だが、彼の師・虎哉宗乙は大伽藍に入ることなく慶長16年(1611)、大往生を遂げた。
独眼竜に『へそまがり』の精神を叩き込んだ名僧の後継選びは難航し、選ばれた者も
その重責からか次々と短命に倒れ、その後は長く瑞巌寺住職の座は空けられた。
では、瑞巌寺の中興開山となり、『虎を継ぐもの』となったのはどんな男か?


大阪夏の陣直後、蜂須賀家老・稲田九郎兵衛は、立派な甲冑を着けた怪しい男が
さまよっているのを見つけた。「まだ敵がうろついていたか!」
手柄にせんと男に組み付いた九郎兵衛が兜を奪い顔を見ると、なんと若い僧であった。

青年僧の名は雲居(うんご)。塙団右衛門は牢人のころ、僧となった時期があったが、
その時に知り合い、団右衛門に甲冑を託されたと言う。
後に大阪の陣が起こり、甲冑を返さんと駆けつけたが、城はすでに落ち、団右衛門は
討ち取られた後。ならば、せめて遺族か知人に甲冑を渡そうと、目立つようにみずから
甲冑を着け、城跡付近をうろついていたのだそうな。

雲居の義理堅さに感心した九郎兵衛は、甲冑をしかるべき者に渡すまで預かり、彼を
寺まで送り届けてやった。

その後、団右衛門の甲冑は政宗の側室となった彼自身の娘の手に渡り、数十年の
歳月が流れた。
ある日、瑞巌寺住職の選定に悩む政宗の耳に、天皇も帰依する高僧の名が入って来た。
その僧の名は『雲居希膺(うんご・きよう)』と言った。側室の持つ甲冑の話を聞いていた
政宗は、ハタと思い当たった。 「さては、かの青年僧・・・・・・!!」
それはまさしく、寺に戻ってから欠かさず団右衛門の菩提を弔い続け、修行を重ね、
宮中にも招かれるまでになった、あの僧であった。

「ぜひ、瑞巌寺に来てくれ」との政宗の頼みを断った雲居が、再三の要請に負け、
重い腰を上げたころには政宗は死去し、子の忠宗の代になっていた。

「済みませぬが、あと数日待っていただけませぬかのぅ?」
「はて、もう旅支度は整っておられるようですが、まだ何かござるかな?」
さすがにイラついた使者・片倉重綱が、雲居に聞いた。
「いや、この間ツケの約束で釜を買いましたが、まだ支払いが残っておりまして。
数日、托鉢して支払いを済ませて約束を果たそうと思いましてなぁ。」
高位に着き、老いてなお義理堅い雲居であった。

瑞巌寺中興和尚九十九世・雲居和尚、瑞巌寺に入ってからも数々の逸話を残して
おりますが、戦国と関係ないのでこのへんで・・・
310人間七七四年:2009/05/06(水) 01:29:28 ID:ePCQLW6L
柳生宗矩が将軍家光の剣術指南役だった頃、ある旗本が指南を
頼んできた。すると宗矩は旗本に

「どうやら、あなたは剣道の師のようだが、いったい何流を
学ばれたのか」

と尋ねてきた。しかし、旗本は特に剣術を教わったことがない。
旗本はそのことを正直に伝えた。

「恥ずかしい話ですが、今まで剣術を教わったことがないのです」
「からかわないでもらいたい、私は将軍御指南役ですぞ。あなたが
ただ者ではないことぐらいわかっています」
「そのように仰られても、本当に教わったことがないのです」

宗矩は困った。旗本に剣術の心得がないのは本当らしい。しかし、
ただ者ではないという自分の見立てが誤りとも思えない。宗矩は
しばし考えてからこう言った。

「そこまで否定なさるならそうなのでしょう。しかし、何とは
言えないが、何かの師匠でいらっしゃったのは間違いない」
「・・・しいて言えば一つだけ会得したものがあります。拙者は
年少のときから武士は死を恐れてはならないと思い続け、長い間、
死の問題と格闘してきました。そしてある日、全くそのことに
思い煩わなくなったのです。先生が仰るのはこのことではありませんか」

旗本の死を恐れぬ心こそ宗矩の感じた何かだった。合点がいった
宗矩は「確かに!」と叫んで

「そう、それだ!私の見立てに狂いはなかった。剣道の極意とは
死を恐れない心です。私は多くの弟子を抱えていますが、誰一人、
あなたほどに免許皆伝に及んではいない。あなたが学ぶことは
何もない。あなたは立派に師範なのだから」

と言ったという。
311人間七七四年:2009/05/06(水) 01:42:32 ID:RJpyBfp1
んん〜??
宗矩引っ込みがつかなくなっちゃったからって
312人間七七四年:2009/05/06(水) 01:45:24 ID:nT+OtUt2
>>305
現場の独断専行はドイツ軍の伝統だね
運用が合理的で柔軟なんだよなあ
313人間七七四年:2009/05/06(水) 02:01:28 ID:hUa+SROt
>>310
剣術より哲学を専攻したほうがよかったんじゃないのか、その旗本
314人間七七四年:2009/05/06(水) 03:09:31 ID:dlTuFrBp
前田慶次と安田能元の落語みたいな話。


優れた内政手腕をもって、会津三奉行のひとりに数えられる安田能元。
趣味を同じくする慶次とは気が合ったようで、たびたび連歌会や茶の湯を共にしたという。

ある日、慶次は能元宅に招かれ、食事を振る舞われた。
質素ながらも、慶次の好みに合わせた、客人をもてなす正しく「御馳走」であり、慶次は喜んで口にした。
が、頬張った飯が炊きたてで、喉が焼きただれんばかりに熱く、これには流石の慶次も思わず
 「アッー!熱っ!!すまぬが水をくれぬか」
普段は何事にも動じない慶次の慌てっぷりが面白かったのか、はたまた天然か。能元は涼しげに
 「香の物を口に含まれよ。さすればじきに冷めるだろう」
と返した。

後日、慶次は「先日の礼も兼ねて、我が家自慢の風呂を馳走したい」と、能元を自宅に招いた。
当代きっての風流人である慶次から招待をされるのは嬉しくもあったし、また、空気の冷たくなってきた時期でもあったので、能元は喜んで受ける事にした。
見事な拵えの風呂に
 「さすがは前田殿、自慢するだけの事はある」
と足を湯に入れると、これまた熱い。肌が焼けんばかりの熱さで、豪胆を自負していた能元も思わず
 「アッー!熱っ!!水を、水を差してくれい」
これを聞いて、待ってましたと慶次。香の物を一切れ差し出した。
能元、一瞬唖然とするも、すぐに慶次の頓知のきいた意趣返しだと悟り、声に出して笑ったという。
315人間七七四年:2009/05/06(水) 08:10:26 ID:O7BjcUSz
>>314
前田犬畜生「アッ-!冷たいっ!湯をっ、湯を差してくれい!」
316人間七七四年:2009/05/06(水) 09:23:26 ID:0kMypVLv
風呂焚きの魔術師、前田慶次
317人間七七四年:2009/05/06(水) 09:26:47 ID:0Pt3GCix
>>314
こういう事で笑いあえる友は宝だと思う
318人間七七四年:2009/05/06(水) 10:46:58 ID:ZHWaJsew
>>315
信長公がナニかしてあげたそうな顔で眺めていますアッー
319人間七七四年:2009/05/06(水) 11:48:59 ID:ytfHfFK6
>>314
慶次は愛すべき人物だなw
320人間七七四年:2009/05/06(水) 12:44:00 ID:RJpyBfp1
風呂でいたづらが大好きな奴だなwwww
321人間七七四年:2009/05/06(水) 12:51:15 ID:+v7Uv8Vr
戦国一の風呂使いだなwwww
322人間七七四年:2009/05/06(水) 12:53:10 ID:qyKJUV9v
戦国一の風呂使い ワロタwww
323人間七七四年:2009/05/06(水) 12:53:14 ID:vtLelGT/
なんという風呂焚き魔術師www
324人間七七四年:2009/05/06(水) 12:56:31 ID:8MJjnBhJ
秀康「熱くてうまいです!」
325人間七七四年:2009/05/06(水) 13:32:42 ID:dlTuFrBp
おぉ、反応があって良かったw
慶次と能元は、お互いに一杯喰わせたり喰わされたりの関係だったようで、いくつか逸話が残ってます。
文章に纏められたら、また。
326人間七七四年:2009/05/06(水) 13:58:30 ID:OW9cjIfE
尾張は熱田の大宮司千秋氏の話である。

宮司でありながら次第々々に武家化した千秋氏。
千秋季光の時、頭角を現してきた織田信秀に従うようになった。
しかし天文13年9月、信秀の美濃侵攻に従軍し討ち死にしてしまう。
その後を長男の季直が継いだが夭折、弟の季忠が当主となった。
しかし季忠も永禄3年5月、桶狭間の合戦のおりに今川の先鋒に突撃し討ち死にしてしまった。

それから時が経ち天正2年、季忠の遺児季信(ちなみに季信は父季忠が戦死した時はまだ母の胎内にいた)が初めて信長に謁見した。
信長はそこで天下統一した暁には本領を安堵することを約したが、とりあえず今の段階で三ヶ所を与えた。
さらに付け加えて言う。
「大宮司は大変高貴な職であるが、残念ながら三代にわたり戦死してしまい血脈が耐えてしまう惧れがある。これからは軍事に携わらず神職を全うせよ」
これ以降、千秋氏は大宮司の職に専念することになったのである。

> 天下統一した暁には本領を安堵すること約した

このあたり微妙にけち臭いが一応信長のよい話?

ちなみに戦死は二代続けてはわかるが、三代目はよくわからない。
季直も地味に戦死したのか、季光の父も戦死したのか、季忠の後を代理的に継いだ弟の季重も戦死したのか。
327人間七七四年:2009/05/06(水) 14:05:21 ID:avYsSvhN
戦死といえば、こんな話が

始め武田、その後徳川に仕えた三井氏と言う一族があって、
その当主は代々、弥一郎十右衛門を名乗った。

この弥一郎さん、七代連続で合戦において討ち死にし、そのうち五代は伊部、川中島、三方が原、
長篠、長久手の合戦において討ち死にしたそうである。
328人間七七四年:2009/05/06(水) 19:20:03 ID:NUropqAW
毛利家の新年恒例行事「今年は勘弁しといたるわ」

新年になると家臣筆頭が毛利候を訪れて
家臣「殿、出兵の準備が整いました。今年こそ徳川のやつらにいわしてやりましょう」
毛利候「うむ。…しかし今戦争を始めると天下や民草に迷惑がかかる。天下の事を考え今年は止めておこう」
家臣「殿の慈悲に感動いたしました。やれば絶対に勝てますが、今年は止めておきます」

この行事、江戸時代を通じて密かに行われたという
さすが毛利家!俺たちに出来ないことを(ry
というわけで、慈悲深い歴代の毛利候の良い話でした
329人間七七四年:2009/05/06(水) 19:32:30 ID:avYsSvhN
>>328
まあぶっちゃけるとそれは、幕末に出来たプロパガンダですな。
330人間七七四年:2009/05/06(水) 19:35:10 ID:OEaS4MSc
幕末のあるときに「うむ、今年はやる!」というやり取りがあったのかどうか気になるな。
331人間七七四年:2009/05/06(水) 19:45:52 ID:OW9cjIfE
>>328
teru元
       ____
     /      \
   /  _ノ  ヽ、_  \
  / o゚((●)) ((●))゚o \  ほんとは徳川幕府を倒したいんだお…
  |     (__人__)    |
  \     ` ⌒´     /


       ____
     /      \
   /  _ノ  ヽ、_  \
  /  o゚⌒   ⌒゚o  \  でも天下や民草に迷惑がかかるお…
  |     (__人__)    |  
  \     ` ⌒´     /

 
       ____
     /⌒  ⌒\
   /( ●)  (●)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \   だから、天下の事を考え今年は止めておくお!
  |     |r┬-|     |
  \      `ー'´     /

こんな感じ?
332人間七七四年:2009/05/06(水) 20:07:05 ID:avYsSvhN
まあ、輝元の孫の綱広が継いだ時は、幼少(12歳)で、あまつさえ長府藩との紛争抱えてたって事で、
幕府から国目付(藩を代理統治する幕府の役人)まで入ってるわけで、当時とてもじゃ無いけど
一枚岩ではなかった毛利家がそんな儀式やってれば、一発でばれますわなw

しかもこの綱広にいたっては、徳川に反抗的だって事で、毛利家の家臣団によって
強制的に隠居させられてたりする。

幕末のぎりぎりの段階まで、毛利家は幕府に反抗しようだなんて、おそらく考えもしなかったかとw
333人間七七四年:2009/05/06(水) 20:29:17 ID:wRrmsF59
王政復古の後
そうせい候「所で俺はいつ将軍になれるの?」
334人間七七四年:2009/05/06(水) 20:33:14 ID:yR1JttNq
はあ
335人間七七四年:2009/05/06(水) 20:46:05 ID:HIONCHCZ
>>333
それ言ったのは島津の方とも聞くな
336人間七七四年:2009/05/06(水) 21:15:57 ID:cnvommna
関ヶ原といい、幕末といい、要所要所で二派に別れてその後の歴史の潮流を作ったという意味では毛利家らしいと言えそうな。
337人間七七四年:2009/05/06(水) 22:38:57 ID:/Oz1/eEH
明治期の逸話って時代が近い事もあるだろうけど、あからさまにプロパガンダってのが多いよな
338人間七七四年:2009/05/07(木) 00:06:54 ID:WwHE/t5W
>324
一夢庵ヒョット斎はんが関ヶ原戦後、風呂を馳走に結城屋敷へ推参しますぞw
339人間七七四年:2009/05/07(木) 00:22:06 ID:WwHE/t5W
>>328これはしたり、
上方の新喜劇に受け継がれ現代へ伝わりましたな。
340人間七七四年:2009/05/07(木) 00:27:09 ID:O7JOjAhL
某戦国自体漫画を読んだ方いますか?既出ですかね?
ここを見たのか森さんが取り上げられてましたよ
341人間七七四年:2009/05/07(木) 01:34:38 ID:Cz/opyZ3
薩摩の風習では武士の子が何歳かに達すると、殿と面会するという。

島津義弘は面会の時、誰の子であるか紹介されるとその子を
しっかと見つめて

「お前の父は○○○に巧があった。お前は父に負けないように
しなくてはならぬぞ」

「お前の父は○○○の戦で活躍したものだ」

「父によく似ているのう。その様子なら父よりも大巧をあげること
はあっても、劣ることはないだろう。しっかり忠勤するんだぞ」

などと言って励ました。しかし、父親に巧がない子も当然いる。
そういう子の場合、義弘は

「お前の父はよく働いたのだが、運と場所に恵まれず、今の所は
手柄がない。だがお前は父よりも優れているように見える。今後、
多くの手柄を立てることであろう。よく忠勤するのだぞ」

などと言って決して蔑むことなく、一人一人に相応しい言葉を
かけたそうである。
342人間七七四年:2009/05/07(木) 01:38:41 ID:LSObyfWZ
自分の息子にはなんと言ったんですかなあ
343人間七七四年:2009/05/07(木) 01:56:16 ID:CqtcrpLt
>>335
言った人が似たような立場でも、その人柄次第で天然になったりイヤミになったりと
ニュアンスが180度変わるな。
344人間七七四年:2009/05/07(木) 07:59:27 ID:pqurwi+4
345人間七七四年:2009/05/07(木) 08:37:38 ID:+B2BGzWP
たった三千人で征伐ってすごいよな
346人間七七四年:2009/05/07(木) 09:53:31 ID:OjAvUrax
>>344
やっぱ島津軍強いねー
話は変わるがアメリカに負けたことを、いつまでもグタグタ言っている日本人はあまりいないし、
そんなコピペを見たこともない。
347人間七七四年:2009/05/07(木) 09:56:30 ID:yyFm0AAN
>>346
日本人は未来を見て生きているから
ttp://up2.viploader.net/pic/src/viploader1006505.jpg
348人間七七四年:2009/05/07(木) 10:54:43 ID:pqurwi+4
平和に暮らしていた琉球王国の人々は家久、義弘の軍に蹂躙された。
女は犯され、男は殺され、王国はひどい仕打ちをうけた。
今の天皇はそんな島津の血を引いている。
日本は沖縄にひどいことをしたよね・・・・・。
349人間七七四年:2009/05/07(木) 10:59:25 ID:pqurwi+4
http://ryukyujichi.blog123.fc2.com/blog-entry-438.html

島津藩侵略400年を考えるシンポジウムの開催

29日に沖縄島の那覇で、島津藩侵略400年を考えるシンポジウムが開催されました。

薩摩の琉球支配から400年を振り返り、意見を交わす討論者たち=29日、那覇市の教育福祉会館
 「薩摩の琉球支配400年を問うシンポジウム・大激論会」(薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会主催)が
29日、那覇市の教育福祉会館で開かれた。

1609年に薩摩が琉球を侵略したことについて、県内の歴史研究者や奄美の特定非営利活動法人(NPO法人)代表らが登壇し、さまざまな視点を提示した。

 問う会共同代表の平良修氏は薩摩の琉球侵略について「『侵攻』または『進入』とよく聞くが、なぜはっきり『侵略』と言わないのか。言い換えるのは
どこかに侵略した側の自己弁護、甘さがある」と指摘。

また「廃藩置県」の用語についても「『廃国置県』だ。言葉に対する違和感を失っていないか」と疑問を呈した。
350人間七七四年:2009/05/07(木) 11:34:21 ID:xfYmfLNA
山崎の合戦にて、明智軍が敗北した。

この時明智軍の林亀之助は深手を負い、身動きもまま成らない状態であったが、
彼の若党二人が支え、ともかくも八幡まで退いた。
この八幡には、亀之助のかねてからの友人である法師があり、若党二人はこの法師に
助けを求めた

「亀之助様が負傷いたしました。今近くまで連れて参りましたので、どうか助けて下さい!」

法師、それを聞くと

「明智は天下の逆臣ではないか!これに組する家臣など、誰が助けようか!
皆の者出会え!この者たちを討ち取るのだ!!」

若党たちはこの言葉に恐れ逃げ出した。
深手を負って逃げることの出来ない亀之助は取り残されていたが、そこにかの法師がやって来て、
亀之助の手を取って、言った

「その傷で良くぞここまで来られました。ご安心ください。
私はあなたを看病し、必ずお助けいたします。

先ほどあなたの若党を罵ったのは、あなた一人ならともかく、さらに若党二人をも加わっては、
残党狩りから隠し置く事が難しいと判断したからなのです。
あのようにしなければ、返って災いを招く元になってしまったでしょう。どうかご理解ください。」

そうして亀之助を自宅へ連れて行き、養生させ、ついに隠し通した。

林亀之助はこの後、福島正則、松平下総守に使えたが、彼は常にこの時の、かの法師の
奇特な志を語り、感謝していたと言う。

そんな、山崎の戦いの、敗残兵の思い出。
351人間七七四年:2009/05/07(木) 11:46:22 ID:4GkIFE0o
>348
それって中山が北山、南山、奄美、石垣にやった事だね。
352人間七七四年:2009/05/07(木) 11:47:53 ID:02YRtMOH
戦国武将は華麗にスルーが吉
353人間七七四年:2009/05/07(木) 12:27:20 ID:OjAvUrax
朝倉宗滴と言えば、「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つことが本である。」の言葉が有名な歴然の武士。
七十九歳の齢に達した古強者が一生涯の経験を語ったものを家来の萩原某が筆記したものが「宗滴話記」である。
その中で当時の国持ちと人を使うことの優秀な武将として、
今川義元、武田信玄、三好長慶、正木大膳亮を挙げている。
その他には、仁、不肖、上下に関係なく、
武者ずきの士には天道の冥加があって、多くの人に敬愛される徳があるが、
武者ぎらいの士は、仏神に見放され、人には憎まれ、貧乏するのが関の山である。
その理由は武者ぎらいは要は人々に対して不親切で、
身内や仲間のために戦うことすら出来ないから自然と没落してしまうのだという様に説いている。
そして最後には、自分はもはや命を惜しむ気はないのだが、あと三年は生き長らえたいと思っている。
なぜなら、織田信長の行く末を聞き届けたいからである、と結んでいる。

古強者の深いい話。
354人間七七四年:2009/05/07(木) 12:47:55 ID:pqurwi+4
>>353
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AE%97%E6%BB%B4

信長の桶狭間デビューの三年前に死んでいるというのに、他国のうつけの行く末なんかどうでもいいんじゃね?
355人間七七四年:2009/05/07(木) 12:55:52 ID:WwHE/t5W
>354だから「あと三年は生きてみたかった」んじゃないか。
本当は義景の後見をあと三年やりたかったんだとおもうけどね。

平手の爺様は家臣だから割引くとして、
斎藤道三や朝倉教景と百戦錬磨の戦国武将に
なぜか気にいられるじじーずアイドル信長きゅんであった……
356人間七七四年:2009/05/07(木) 13:08:59 ID:pqurwi+4
道三はともかく、のりかげって信長にあったことすらないんじゃなかったっけ。
357人間七七四年:2009/05/07(木) 13:17:06 ID:XQbIQECy
まあ、朝倉と織田はもともと重大の因縁があるといえば
358人間七七四年:2009/05/07(木) 13:23:09 ID:pqurwi+4
しかし嗅覚はすごいな 第6感という奴か? それはともかく のりかげがいきていたらな まあ姉川のころまでいきても第一線じゃ無理だろうけど
359人間七七四年:2009/05/07(木) 13:50:15 ID:yyFm0AAN
どっちも斯波家の被官だったから信秀とうつけのことは知ってたんじゃない?
信長の奇抜な振る舞いも有名だったらしいし
360人間七七四年:2009/05/07(木) 14:09:53 ID:+fxmgt2P
>>353の文章を読むと、

信長は「武者ぎらいの士」であり、だから最後は没落するに決まっている。
信長は聞くところによるととんでもないうつけだそうだから、その末路が
どんな無様な死に様になるか拝見したいものよのう。

こんな風に言っているようにも読めるんだが。
361人間七七四年:2009/05/07(木) 14:13:07 ID:xfYmfLNA
まあ信長の部分に関しては、宗滴の死後に書き加えられたものだと言う説も有る。
うつけ時代の信長は、どうも本気でグレてたっぽいがなw
362人間七七四年:2009/05/07(木) 14:15:31 ID:+fxmgt2P
確認した。

宗滴話記で国、人を動かす手本の人物として挙げられているのは

今川義元、武田信玄、三好長慶、上杉謙信、毛利元就、織田信長、正木大膳

なんで>353はわざわざ信長を抜いて文章をつなげているんだ?
363人間七七四年:2009/05/07(木) 14:17:23 ID:yyFm0AAN
ところで正木大膳て誰?
364人間七七四年:2009/05/07(木) 14:19:52 ID:xaa/OyXp
里見氏家臣
365人間七七四年:2009/05/07(木) 14:23:52 ID:yyFm0AAN
因幡正木は関係ないのね
そんなに評価高いのか
366人間七七四年:2009/05/07(木) 14:24:08 ID:FxxTtDsU
里美家の猛将で槍の達人だよな。
弟は水軍担当だっけ。
ってか皆大名なのに正木だけ浮いてるな。
367人間七七四年:2009/05/07(木) 14:26:31 ID:xfYmfLNA
正木は里見の重臣だけど、実質的には独立勢力と言うか、同盟に近い関係だな。
368353:2009/05/07(木) 14:32:59 ID:OjAvUrax
>>362
申し訳ない。長尾景虎、毛利元就、織田信長も国持ち良く人を使うのが上手い武将として書かれています。
単純な書き忘れであって、自分のミスです。もちろん他意はない。
正木大膳亮について調べていて、上の三者を書き忘れたのが実情です。
369人間七七四年:2009/05/07(木) 14:57:09 ID:ez26uD39
戦国ちょっといい話スレのちょっとかわいい話
370人間七七四年:2009/05/07(木) 15:47:59 ID:swGNB9dK
朝倉と織田は共同で道三を攻めてなかったっけか

あと正木大膳って、最近の研究だと息子の事績がかなりまじっててハッキリしない処がある


正木家の人間がかいたとかだったりして
紀州徳川家は正木の血を引いてるからなあ
なんてトンデモをいってみる
371人間七七四年:2009/05/07(木) 18:15:15 ID:XQbIQECy
成立年代的に親父の槍大膳ほうっぽいね
372人間七七四年:2009/05/07(木) 20:07:02 ID:Z6QMCmBq
>>350
タイムスクープハンターの落武者で再生された
戦乱から命を永らえた話は、やっぱりほっとするね

>>362
本州の各地方から代表あげてるって感じなのかな
東国代表が正木大膳・・うーむ、何か裏がありそうだ
373人間七七四年:2009/05/07(木) 20:16:19 ID:1PVq8WKI
あと400年後ぐらいには俺もこのスレで語られたいものだ
374人間七七四年:2009/05/07(木) 20:33:46 ID:ts0x9WQ2
氏康が挙げられていないのは編集者がアンチ北条だからか。
375人間七七四年:2009/05/07(木) 20:42:36 ID:1c4eR7a2
>>365
山名禅高「幾多の旧臣を拾ってきたが、はてそのものは誰かね?」
376人間七七四年:2009/05/08(金) 01:48:11 ID:O+EPmnA0
徳川秀忠の乳母は、その名を大母殿と言った。

さてこの大母殿、秀忠が将軍となってからは、それこそ下にも置かれぬ待遇を受けていたのだが、
少々変わった所があった。

月に一二度、大量の飯を炊き、旗本から中間、六尺と言った貧乏な下級家臣まで
自宅に呼びいれ、それを振舞った。
なんとこの時、大母殿自らも椀に飯を持って渡していた。
しかし将軍家の乳母が、軽々しくこのような行為をする事はいかがなものか?
幕閣の間でも少々宜しくないのではないかとの意見が出、本多正信が注意をしに現れた。

「こちらには女中も多くいるではありませんか。何もご自身で飯を盛る様な真似をしなくても
いいでしょう?」

これを聞いた大母殿、意外な顔をして
「あなたが驕っていると言う話を色々な人から聞きましたが、そんなことは嘘だと今まで
信じておりましたのに、只今の言葉で、人の言うことは真実であったとわかりました。
佐渡守様?あなたは、弥八郎と呼ばれた頃のことをお忘れになりましたか!?

この婆、三河において卑しい身分であった頃は、五、六人の客人に、飯を振舞うことすら
ままならぬものでした。
それが今上様のおかげで、何人に振る舞いをしても大丈夫な身になりました。

だからこそ、卑しい時の頃を思い出し、こうやって自分で、飯を盛るようにしているのですよ。
この婆、今は富貴になりましたが、昔を忘れぬようにしているのです。
あなたはもう、弥八郎の時代を忘れたのですか?
そんな心がけで大事な御政務を預かっているとは、甚だ心もとなく思いますよ!」

このように逆に説教され、流石の本多正信も、ほうほうの体で帰って行ったそうである。


徳川秀忠を育てた人はこんな人、と言うお話。
377人間七七四年:2009/05/08(金) 02:20:22 ID:XVrcVrWZ
でも、本多佐渡の言い分も間違ってないんだよな。

三河の豪族だった頃ならいざしらず、天下人として統治を考えるなら、
他人から「さすが自分たちの上にたつ身分のものは、俺らとは違う存在だ」
と支配を受けることを納得させるだけの権威を纏わなくてはならない。

心の中、プライベートで貧しかった頃を忘れないようにするというのは
優れた心がけだが、それを万人が見てしまえるようにするのは、支配
という観点からはよろしくない。
378人間七七四年:2009/05/08(金) 08:00:57 ID:uQhdbbjt
垂  れ  流  す  な  天  下  人
379人間七七四年:2009/05/08(金) 11:53:02 ID:BPcbo5+t
>>376
スゲェ感動した。
身分制度のハッキリした時代にこんな考え方持った人間がいることはすごい。
生き仏みたいなおばはんだな。
380人間七七四年:2009/05/08(金) 12:47:58 ID:Hlurts1q
>>378
やめろよ、権現さまだと別のイメージが頭をよぎるじゃないか
381人間七七四年:2009/05/08(金) 13:32:45 ID:NujX1PUi
大河ドラマ「秀忠の乳母」、ご期待ください
382人間七七四年:2009/05/08(金) 14:04:45 ID:cpu0gvFi
>>377
いや、彼女の地位にあって尚且つ傲らず謙虚なその姿勢こそが人々を心から感服せしめるのではないか。
堂々たる権威によって感服させるのは、高い地位にある者にあってはある意味当然の事として必要とされる資質であり
だからこそ彼女の稀有な姿勢が輝きを放つのだろう。
どちらにせよ人の上に立つ者としての人心掌握の能力がテーマであるなら彼女の姿勢は賛美されて然るべきものと思われるのだが。
383人間七七四年:2009/05/08(金) 14:32:28 ID:CPP07Ni5
俺は日本に強制連行されてきた両班の名家なんだが、韓国では使用人と一緒に飯を食うなどありえない。
日本人は基本的に野蛮だな、俺の体に日本人の血がながれていなくてありがたいよ。祖先と両親に感謝あるのみ。
384人間七七四年:2009/05/08(金) 14:33:30 ID:ZDEMq2pF
クマー
385人間七七四年:2009/05/08(金) 15:08:16 ID:Hlurts1q
>>383
早く日本政府に帰国事業を再開するように民団・総連に働きかけるんだ
我々はそのためならン十兆の支出も惜しまないっつうか早く帰れ
386人間七七四年:2009/05/08(金) 15:15:37 ID:fwNKmu/R
何時の時代だったか、皇后自ら炊き出しに加わってたことなかったっけか
387人間七七四年:2009/05/08(金) 15:54:44 ID:gf+gl0P4
宗麟が自ら握り飯を配った話ならWikiにあったが…
388人間七七四年:2009/05/08(金) 16:00:08 ID:gt8U1wph
北政所さまの握り飯なら
元祖おふくろの味でウマーイ!!ですね。
宇喜多直家さんの握り飯なら
食べる前もドキドキ、食べた後もドキドキですね。

389人間七七四年:2009/05/08(金) 16:02:48 ID:gf+gl0P4
義姫の握り飯なら
義光はウキウキ、政宗はドキドキですよw
390人間七七四年:2009/05/08(金) 16:35:53 ID:O+EPmnA0
>>388
大儀であった 好きなおにぎりをとっていくがよいぞ

  ∧直∧   
 ( ´・ω・)                                      ○
 ( ∪ ∪  ,.-、   ,.-、   ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   .,.⊥、
 と__)__) (,,■)  (,,■)  (,,■)  (,,■)    (,,■)      (,,■)   (,,■)
       梅干  高菜 おかか こんぶ ごはんですよ わさび漬け オプーナ
          ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   ,.-、   ,.-、    ,.-、
          (,,■)  (,,■)    (,,■)     (,,■)  (,,■)  (,,■)   (,,■)
          砒素 明太子 ちりめんじゃこ ゆかり  柴漬  塩辛 とりかぶと
      ,.-、   ,.-、     ,.-、    ,.-、    ,.-、   ,.-、    ,.-、   ,.-、
     (,,■)  (,,■)    (,,■)   (,,■)   (,,■)  (,,■)   (,,■)  (,,■)
      鮭 鮭ごぼう  野沢菜  天むす ツナマヨ ツナマヨ  鮭マヨ 鮭ハラミ
391人間七七四年:2009/05/08(金) 16:50:56 ID:AFYf7MEJ
>>388
食べた後、何事もなかったのでほっとしてお茶を飲みました。
なんだか気分がわるkl」:l」;」;vd
392人間七七四年:2009/05/08(金) 17:00:57 ID:eI6uCziq
>>390
右上が美味そうDESUNE
393人間七七四年:2009/05/08(金) 17:22:51 ID:O+EPmnA0
豊臣秀吉が京に、聚楽を完成させた頃の事。

この聚楽の門に、何者かが張り紙をした。
そこには、豪華絢爛たる聚楽の建設を批判したものであろう、

『驕れる者久しからず』

と、書かれていた。
これを見た秀吉、自ら筆を取って、その張り紙に、こう書き加えた

「驕らなくても久しからず」


なんとも秀吉らしい、諧謔のお話。
394人間七七四年:2009/05/08(金) 17:31:57 ID:Rc23EUqb
>>393
時代が時代なら「誰がうまいこと言えと」って言われていただろうなw
395人間七七四年:2009/05/08(金) 18:03:28 ID:apRma50S
太田道灌にも似た逸話がなかったっけ?
氏政の汁かけみたいにいろいろ地方でパターンがあるのかね。
396人間七七四年:2009/05/08(金) 18:35:55 ID:oOuY3AYq
>>393
まあ実際、ほんの数年後に秀次事件であっけなくぶっ壊されたしな聚楽
地名ぐらいしか後世に残ってねえ
397人間七七四年:2009/05/08(金) 19:16:54 ID:w3I95nvU
聚楽か、地震で壊れて立て直して、秀次事件で壊して....
大名も民もキレていい
398人間七七四年:2009/05/08(金) 19:26:52 ID:LVzaGpjA
>>348
負け犬ほどよく吠えるw
399人間七七四年:2009/05/08(金) 19:30:44 ID:rDQ34WYF
俺ら負け犬国家だけどそんなに吠えてないぞ
400人間七七四年:2009/05/08(金) 19:35:20 ID:zQPcuyp+
戦勝国家の韓国がやたら吠えてるのはなんで?
401人間七七四年:2009/05/08(金) 19:37:44 ID:AFYf7MEJ
>>400
戦勝国家じゃないから。
402人間七七四年:2009/05/08(金) 19:41:53 ID:O+EPmnA0
スルーしましょうぜ。
403人間七七四年:2009/05/08(金) 19:43:54 ID:LVzaGpjA
>>399
IDがリアルDQN
404人間七七四年:2009/05/08(金) 20:25:52 ID:KepPXsmn
>>390
中段の両端の具は一体何なんだYOw
405人間七七四年:2009/05/08(金) 20:34:32 ID:VWJmxoYK
直家様のなさること、
そっちのが寧ろ安全なのでは
406人間七七四年:2009/05/08(金) 20:56:39 ID:Xc0B0vFh
江戸屋敷で病となった佐竹義宣
死期を察し、秋田にいた家老・梅津政景に遺言を送った

「佐竹家は新羅三郎義光公より、義宣まで二十一代を数えるが、
先祖死去のみぎりに殉死などはしてこなかった。
これは当家の手柄だ。
当世は流行のようにして、主人が死ねば追い腹を切って手柄と思っているようだが
佐竹家では恥ずべきことだ。
万が一、自分が死んでも殉死などは無用。
これに背けば、お家の恥辱になると思え」

この頃、政景も病気がちであり、義宣は彼が早まった真似をしないか心配したらしい
義宣は1633年に江戸滞在のまま没した
政景は帰国した義宣の通夜を終えると、後を追うように病死した
407人間七七四年:2009/05/08(金) 21:40:10 ID:dXN3JkOY
秋田出身の俺は佐竹の殿様の話は
涙無しでは読めない
408人間七七四年:2009/05/08(金) 21:48:41 ID:H0zhCEnm
秋田出身なら安東氏や小野寺氏にも優しくしてやれよ
409人間七七四年:2009/05/08(金) 22:58:02 ID:y+Q5sbCH
戸沢氏や浅利氏や由利十二頭にも涙してやれよ
410人間七七四年:2009/05/08(金) 23:01:42 ID:dXN3JkOY
サーセン
411人間七七四年:2009/05/08(金) 23:16:11 ID:BPcbo5+t
佐た毛虫
412人間七七四年:2009/05/09(土) 00:02:34 ID:0Mxylzzy
工作員と低脳だらけのν速ならともかく分からんことは資料を手当たり次第に漁る人間の多い歴史板で工作するのは無駄だぞ白丁
413人間七七四年:2009/05/09(土) 01:05:44 ID:w5uRA9fa
しかし江戸時代の佐竹家は人間門松やら金が無いのをぶっちゃけちゃったりやら
414人間七七四年:2009/05/09(土) 04:42:46 ID:8KGfg2kI
徳川秀忠の乳母、大母殿のお話もう一つ

大母殿が病気になり、甚だ具合がよくないと言うので、徳川秀忠は急ぎ見舞いに行った。
病床から起き上がろうとする彼女を留め、秀忠声をかける。

「思いの外顔色も良くて安心した。
…ところで、前々からも言っている事だが、何か私に伝えて置きたいことは無いかな?
どんな事であれ、かなえてやるぞ?」

大母殿
「特にありませんわ?」

「うむ、しかしお主ももう歳じゃ。とにかく良く養生をするのだぞ?
…ところで、何か私に伝えて置きたいことは無いかな?」

大母殿
「特にありませんわ。」

「そうか。しかしいろいろ先々に思う事もあるであろう、
な、何か私に伝えて置きたいことは無いかな?」

大母殿
「こんなに結構にして頂いているのに、これ以上なにを望む事がありましょう?
特にありませんわ?」


「さ、左様か」
こうして秀忠、少々がっかりしたように立座し、帰ろうとしたとき、大母殿

「上様?」

秀忠に後ろから呼びかけた。

「さきほどから再三、願いが無いかとのお尋ねですが、それは老い先短い私が、
倅の事を気にかけているのではないかと、そうお考えなのでしょう?」

秀忠、少々慌てたような顔をし、頷く。
大母殿、病床から起き、秀忠に顔を向けて言う

「どうか、お気になさらないで下さい。
上様がこの婆に、そのような事をお許しなされれば、
『上様に御乳を上げた馴染みだから、天下の大法をお曲げになったのだ』と
批判を受け、後世にまで、ご政道の傷となるでしょう。」

少し笑って
「そんなことになれば、私の黄泉路のさわりにもなってしまいますよ?」


そう、倅の取立てを断り、その後しばらくして亡くなったそうだ。
この話を聞いた多くの人が、彼女の志に感銘を受けたとの事である。

最後まで、秀忠のことを思った、乳母のお話。
415人間七七四年:2009/05/09(土) 04:44:21 ID:BbCM6DW+
乳母までメンドクサイのか三河人
416人間七七四年:2009/05/09(土) 05:00:19 ID:2LY+Xc3s
もしその倅が母親のコネをアテにしていたら、倅にとっては悪い話になっちゃうなw
Σ('A`)エェー!?母ちゃんヒデーや!
417人間七七四年:2009/05/09(土) 07:08:27 ID:UIKhR5am
このやりとりからすると秀忠は乳母の倅のことを知っていたようだが
彼に多少なりとも見所があれば乳母が亡くなる前に取り立てていてもいい筈
幼くても小姓にしてやる手もあるし

それをしなかったということは、まあ、その程度の器量だったのでせう
418人間七七四年:2009/05/09(土) 07:57:27 ID:0h5IOZnL
そういうことしたらこのかあちゃん文句言いそうだな
だから自分の口から言って欲しかったのでは
419人間七七四年:2009/05/09(土) 12:34:13 ID:wFVF4jvz
ちなみにwikiに載っている秀忠の乳母はこの人。

大姥局(おおばのつぼね)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A7%A5%E5%B1%80

このご婦人、秀忠の乳母になった時には既に50過ぎだ。凄げー!
乳母を勤め上げたからにはちゃんと乳も出たんだろうな。
420人間七七四年:2009/05/09(土) 13:39:44 ID:Sf4gU2dw
>415
政治家や公務員の家族って、ここまでやらにゃあいかんのだよね
421人間七七四年:2009/05/09(土) 14:05:50 ID:ULX7mmEB
政治家、公務員だけじゃなくフリーターに至るまで、皆がこの気概でやれば、日本完全復活するな
422人間七七四年:2009/05/09(土) 14:16:07 ID:LBqRCTLs
昭和のころでも55歳が定年だったのに
その歳で乳母をやるとは・・
423人間七七四年:2009/05/09(土) 14:40:36 ID:vQ5iVRdC
大坂の陣も遥かかなた、平和な時代となった日本。
生き残ったかってのツワモノ共は
退屈な屋敷勤めを紛らわすために一風変わった事をやっていた。
屋敷の中で各々が軍装に身を包み、鍋をつつくのである。
鍋と言っても非常に粗末な物で、味は不味い。
要するに戦場を再現したゴッコ遊びの一種なのだが
(外でやらないのは年齢的に辛いから)
鍋ををつつきながら、あの戦ではこうだったとか
いや、ああだったとか言って爺さま達は昔を偲んだそうだ。
424人間七七四年:2009/05/09(土) 15:35:19 ID:pghvoa9x
海外だと今でも退役軍人が似たようなことやってるなw
425人間七七四年:2009/05/09(土) 17:11:31 ID:5+XyVrAw
>>423
それに混ざったら色んなこと聞けるだろうなぁ、何かほのぼのした
426人間七七四年:2009/05/09(土) 17:27:19 ID:ipSlmHcn
日米でもかつて銃を向け合った退役軍人同士が、交流会開くこともあるから
なにか思い通じるものがあるんだろうなぁ
427人間七七四年:2009/05/09(土) 18:43:39 ID:ByKcWb+F
加藤清正と髭とその続き
あまりにも有名だから出てないのか加藤清正と徳川家康の髭の話。

徳川時代になって戦国の気風が謀反の心として警戒されるようになり、
大名たちに髭を剃ることが流行りだしたとき加藤清正は髭を剃ることはなかった。
家康は本多正信に命じて清正に聞きに行かせた。

「諸侯は挙って髭を剃っている。貴殿も剃られてはいかがか?」
と勧められたのに対して
「鎧の頬あてに髭があたる感覚が心地よいので。」と断った。
これを聞いて家康は「はっはっは、清正め」っと笑った。
この笑を苦笑いととるか冷笑していると取るかで家康の清正の見方が少し変わる。

関ヶ原合戦から数年後、家康のはからいで東軍諸侯で宴が開かれた。
最早次の天下人は徳川という流れを受け、家康は諸侯に過剰な接待を受けた。
そんな中清正は一人不機嫌で酒を飲んでいた。黒田長政はそれを見て
「そんなところで一人でいないで盛り上がろうぜ!」
っと誘うも清正はこれを断って一人で酒を飲んだ。

家康「関ヶ原の戦いは正に雨が降って地が固まるだな!」
っと上機嫌に言った。諸侯は「正にその通りだ」と家康に同調した。
しかしここで清正が一人大声で反論した。
「心は天候と同じもの!次なる雨がいつ降るかそれは誰にもわからぬ!」
突然の大声、家康に対する反論に一同は( ゚д゚)ポカーンっとなった。
家康は、清正を睨み付け、くっくと冷笑し
「確かに次の雨が何時降るかなどわからぬなぁ。加藤殿の言うとおりだ」
と答えた。

その後

家康「今日の加藤の態度はどういうことか?」
佐渡「わかりませぬなぁ・・・ひょっとして加藤殿は何か企んでいるのでは?」
家康「あいつは豊臣家への義をいまだに大事に思っているのか。加藤家の監視は厳に行うようにな」

428人間七七四年:2009/05/09(土) 21:12:19 ID:n8HzMcZn
清正は大坂の陣の前にぽっくり逝ってるから去就が気になるな。
やっぱり兵糧を出すだけなのか。
429人間七七四年:2009/05/09(土) 21:16:14 ID:8KGfg2kI
清正がもし生きていても、さすがに表立って豊臣家に味方するのは無理だっただろうが、
冬の陣の後に大阪城の牢人処理を上手くやって、結果豊臣家を生き延びさせた可能性はあるかな、
とも思う。
430人間七七四年:2009/05/09(土) 21:34:46 ID:UwiHxv6g
こういう逸話があると、清正が本当に梅毒で死んだのかも怪しく思えてくるなぁ。
431人間七七四年:2009/05/09(土) 22:23:05 ID:aaM8D1MV
>>393
聚楽第って落書き多いなw

432人間七七四年:2009/05/09(土) 22:29:34 ID:m0e9Ddi9
>>427
加藤、福島は潰される運命だね。浅野は寧々の協力があったから特別扱いだけど。
433人間七七四年:2009/05/09(土) 22:38:06 ID:DGlwaVpo
浅野こそ潰せよと宇都宮さんが心の中で思ってますがいえるわけもありませんでした
434人間七七四年:2009/05/09(土) 22:40:53 ID:aaM8D1MV
>>428
・大坂攻めの前に江戸に呼び出されて軟禁、正則と愚痴あう
・肥後で挙兵、名城熊本城に籠もり九州の幕府方をコテンパン、r
・豊臣家の御危機を聞き、熊本より泳いでr

お好きなのをどうぞ
435人間七七四年:2009/05/09(土) 23:03:10 ID:Sf4gU2dw
>>423
夏草や、つはものどもがコスプレパーテー
436人間七七四年:2009/05/09(土) 23:13:24 ID:DDgQEJqX
>>414
秀忠って、決して完璧じゃない、普通の人間っぽさを感じさせてわりと好きだな
人気ないわけだが
437人間七七四年:2009/05/09(土) 23:16:16 ID:OqQjUB2q
ある作家のせいで秀忠と宗矩が一番好きだぜ
438人間七七四年:2009/05/09(土) 23:19:46 ID:vQ5iVRdC
>>423の続きというか余談。

いつもは冴えない爺ちゃん達が輝いて見える……。
衝撃を受けた若い連中、俺も俺もと真似し出した。
何しろこいつら、武士と言っても実戦経験がないのだ。
遊びとは言え、戦場気分を満喫できるのでかなり流行ったらしい。
「当家の軍法では味噌に大根のぶつ切り、これでござる」とか
「味付けなど不要よ、不味ければ不味いほど良し」などと
大いに知ったかぶりながらやったに違いない。
また、老人達の反応も
「何も知らぬ若造共が粋がりおって」と苦々しく思う者もいれば
「いやいや、そこはこうやるのだ」と進んで教える者もいた事だろう。

鍋ひとつとっても、色々と思いを巡らす事ができるのだ、というお話。
439人間七七四年:2009/05/09(土) 23:24:26 ID:p7ECIVTn
可愛いなw
440人間七七四年:2009/05/10(日) 00:09:14 ID:Um/cWBf4
>>437
「殺せ」

(なんという男だ)

441人間七七四年:2009/05/10(日) 00:13:06 ID:rzGxgjaN
>>440
よくわかったなw
442人間七七四年:2009/05/10(日) 00:15:36 ID:InCg2Ybm
隆さんは秀忠愛しすぎて裏返っただけなんだ。
443人間七七四年:2009/05/10(日) 00:26:19 ID:ja7ZKO4s
筒井順慶の家来に、板倉権内と言う者があった。

この権内、どういうことであろうか、誰が言い出したのか「彼は臆病者である」という
風説が広まり、家中はもちろん、ついには隣国までも評判となり、当時世間では、臆病の話が出ると
「ああ、筒井家の権内か」
などと言われる有様となった。

権内、当然このことを大変憤り無念に思っていたが、だれかれと言う事ではなく、世間一般が
そのように言うので、怒りの持って行き場もなく、心も鬱屈し、ついに筒井家を立ち退いて
牢人となった。

さて権内、それからしばらくして蒲生氏郷の所に仕官を求めた。
氏郷を初めとした蒲生家の面々の前で権内、先ず挨拶に言う

「拙者のことは、お聞き及びの方も居られるかも知れません。
『臆病者の板倉権内』と申します。
臆病であってもお使いいただけるのなら、こちらに御奉公仕りたい。」

これに一同、「あれが臆病者の権内か」と囁き合い、露骨に軽蔑の目を向けるものもいる。
しかし氏郷、彼に尋ねる。

「その方が権内であるか。しかし、何故わしに仕えようと思ってきたのだ?」

「は…、諸侯多く有れども、臆病者を抱えてくれる主君は、氏郷様の他には無いと考え、
罷り出て来たのです。」

氏郷はこれにうなずき、彼を召抱える事とした。
しかし家臣たちは、「殿も臆病者を召抱えるとは物好きな」と、不評であった。

それから間もなく、とある合戦に氏郷が出ることとなった。
この時、彼はそれに権内を連れて行った。

権内、この合戦にて大将首を二つも取ると言う抜群の働きをする。
これに氏郷は大いに喜び
「どうだ!わしの眼鏡は間違ってはいなかっただろう!」
と、左右の者たちに言い、権内に、即座に二千石を加増し、物頭にしたとのこと。

そのような内に、権内の臆病者との呼び名も消え、諸方から勇者として称えられるようになり、
彼に名により、蒲生家の武名も大いに挙がったという事である。


主君を変え、臆病者が勇士になった、と言うお話。
444人間七七四年:2009/05/10(日) 00:34:19 ID:InCg2Ybm
( ;∀;)イイナー
445人間七七四年:2009/05/10(日) 01:06:13 ID:MW9GT5rP
さすが蒲生道場
446人間七七四年:2009/05/10(日) 01:52:15 ID:nSOWF9t9
水野勝成は年をとってもよく鷹狩をした。年齢が年齢なので、
布団をしいた駕籠に乗って移動した。この事について勝成は
「お前達はおかしな事をしていると思っているかもしれんが、
わしにはちゃんとした考えがある」と語った。考えとは下情を
知る事だった。

勝成がいつものように鷹狩をしていると、昔勝成に仕えていた
男に会った。勝成は「お前は昔三百石で仕えていたな。越前で
召し抱えられて千石と聞いたが、何かあったのか?」と尋ねた。

男は「確かに越前で加増していただきましたが、かつて上様に
お仕えしていた頃、上様は下の者でも、お優しくしてくださいました。
また、懇ろにお話をしていただいたことも思いますと、七百石など
取るに足りないと感じ、こうして戻って来た次第です」と言った。
こうして勝成はその日の内に男をかつてよりも高禄で召し抱えた。

勝成は隠居しても鷹狩に行った。ある日、先述の男の家に行くと
門が閉ざされていた。不思議に思って理由を聞いたところ、勝成の
息子勝俊の勘気に触れて去って行った
という。

いきさつを知った勝成は「惜しい男を失った。わしの倅は下の者の
気持ちがわからないとみえる。立派な人物なら、主君や上司の
言う事だろうと無理な事を簡単に承服したりはしない。部下に
多少の咎めがあっても、二、三度は気付かぬふりをするべきだ。
例えどうしようもない場合でも、まずは相手の友人に諌めさせる
ようにするものなのに」と言って残念がったという。
447人間七七四年:2009/05/10(日) 02:28:31 ID:nf3mLhLz
>>446
この逸話って最近紹介されていても、大概が勝成の下に帰って来てめでたしめでたしで終わるんだよな

でもここではちゃんと勝俊のオチまで書いてくれて、単なる勝成を称賛するだけの逸話に終わらなくって良かった。
448人間七七四年:2009/05/10(日) 05:19:40 ID:kPaSybNz
島津義弘は晩年にはすっかり耄碌し、食事もまともに取れない程だった。
で、今のように流動食や点滴のある時代ではないんで色々試してみたら、枕元で法螺貝を吹いて、
鉦太鼓を打ち鳴らし、一斉に鯨波の声を挙げると急にシャキッとして、食事が取れたんだと。


で、食事が終わるとまた元に戻っちゃうもんだから、食事のたびに枕元で法螺貝吹いて・・・
ってやったんだって。

介護してる連中にはいい迷惑w

でもちょっと可愛いよね
449人間七七四年:2009/05/10(日) 08:17:57 ID:nA8QoU+3
既出
450人間七七四年:2009/05/10(日) 09:24:18 ID:lozu6vxF
3回目か四回目の既出だね
451人間七七四年:2009/05/10(日) 09:37:32 ID:ja7ZKO4s
しかしまとめサイト見ると逸話の数、もう2000越えてるのな。
そりゃあ既出もでるわw

しかし恐ろしいデーターベースだなあそこは。
452人間七七四年:2009/05/10(日) 09:44:22 ID:nA8QoU+3
武将ごとに分類分けされてるしブログ検索機能も付いてるんだから活用しようぜ
しかしもう2000超えたのか…
まとめ管理人様、毎日お疲れ様です
453人間七七四年:2009/05/10(日) 09:49:39 ID:v+cydzfH
アフィでメシウマだから仕事みたいなもんだ
454人間七七四年:2009/05/10(日) 09:56:20 ID:ja7ZKO4s
>>453
あのサイト、アフィやってないぞ?
455人間七七四年:2009/05/10(日) 09:59:22 ID:nA8QoU+3
本紹介するときに貼り付けてる位だな
どの道手間がかかってる分ブログ主の役得としてアフィは有りだと思ってるが
456人間七七四年:2009/05/10(日) 10:49:01 ID:BwgsdaEJ
いつ書籍化するかな
457人間七七四年:2009/05/10(日) 11:05:58 ID:KDwmio/I
しかも拍手ランキングとかやってるし
頭の下がる思いだ
458人間七七四年:2009/05/10(日) 12:39:26 ID:Um/cWBf4
>>446
儂も昔はヤンチャしたもんだぜ。だがな……
という、DQNから転じた名君だな。

頭ごなしに咎めたり、失敗を責めればにんげんだもの、意固地になって余計反抗したりする。
身に覚えがあるだけに聡い殿様になったんだなぁー
459人間七七四年:2009/05/10(日) 12:58:43 ID:ja7ZKO4s
加藤清正のある家来が、朋輩の陰口を言った事で、その朋輩から討ち果たされるという事件があった。
これを聞いた清正、家臣たちを集め、このように言った

「今後、清正の家中において、陰口は硬く慎む事とする!
ただし、慰みに誰かの、陰口、噂話をしたくなるときも有るであろう、
その時はかまわぬから、わしの陰口をせよ。

朋輩について批評すれば、喧嘩が絶えず、主人に損をかける。これは不忠である。
しかし、わしの事を言うのならそれは、善きにつけ悪きにつけ、我が身の戒めとなるであろう。
皆の者、よいな?」

そう言われたからといって、中々主君の陰口はいえないと思いますが、
ともかくも清正の度量を感じさせるお話。
460人間七七四年:2009/05/10(日) 14:34:39 ID:1u8r8rQl
秀吉の好色対策は各大名それぞれ。
完全武装して登場するギン千代、
懐剣ちらつかせるガラシャ、気をつけろ気をつけろ気をつけろ気をつけろと手紙を出しまくる戦国嫉妬王
出家する蒲生さんちの未亡人

さて鍋島さん家の仲良し夫婦はというと…
奥方は額に剃り込みいれてわざとブサイクに見えるような化粧をして拝謁に向かいましたとさ。

秀吉がその後彼女を呼ぶことはなかったという。
461人間七七四年:2009/05/10(日) 15:08:03 ID:D5XZkSbH
どうせ種なしなんだから
相手させてゴマすればいいのに
462人間七七四年:2009/05/10(日) 15:13:41 ID:MEpcVSEu
まさに外道
463人間七七四年:2009/05/10(日) 22:29:23 ID:Pu01XfKI
>>420
そりゃ今の民主政治の体制の中ではそうあるべきだけど、封建体制でご恩を無視するってことは反対に「有能なら何をやってもいい」ということになる
「例え能力が微妙でもこれこれこういう理由で選んだのだ。本来キミの能力ではこの地位ではない事を忘れないように。そして取り立てた組織へのご恩も忘れないように」
専制政治っていうのは政治を行える特権階級がどんなレベルであれ行政が機能するシステムを構築しているもんだから
もちろん有能であるに超したことはないけど、よっぽど酷くなければ問題はない。問題があった場合はシステム自体の問題
有能な野心家より平凡な忠義者が喜ばれるべきで、乳母子なんてその典型なんだから拒否する乳母はちょっとおかしい
464人間七七四年:2009/05/10(日) 22:53:56 ID:D5XZkSbH
やる気満々でも、昇進抜擢に際して一旦は辞退することが儀礼プロトコルだった社会ですが。
当時でも美談となりこそすれ批難の対象にはなりえない。

まあ無能なくせにコネで潜り込んでいたことを自覚していた連中にとってはうざったかったかもしれませんが。
本当に無能ならば自分の無能をわきまえることもなかったので。
465人間七七四年:2009/05/10(日) 23:44:13 ID:Um/cWBf4
>463
公私の別をきっちりして情に甘えない、って
政治体制に関係なく必要な心がけじゃないの?

李下に冠を正さず、って汚職慢性の中国ですらことわざになってるやんか
466人間七七四年:2009/05/11(月) 00:10:25 ID:z9JABvOZ
封建体制の公私と現代の制度での公私をごっちゃにしてるようだな。
467人間七七四年:2009/05/11(月) 00:43:49 ID:0Kvh24AK
日本には「依怙贔屓」
中国には「一視同仁」
という言葉が昔からございまして
468人間七七四年:2009/05/11(月) 01:04:07 ID:xoFd8K9I
褒美と罰は私情を交えてはダメだけど、雇用は私情を交えないと成立しないのが家長制度ってものだしな
中国だって藩屏として本人の資質問わず血縁の王を各地に配置しているし
日本だって幕府の親藩、大名の支藩は縁者だからな
乳母兄弟なんてものは木曽義仲に対する今井兼平に代表されるように最後まで主君に付き従うものだし
普通に登用してやるのが武家の習いって気がするが、戦国は遠くなりけりってことなんだろう
469人間七七四年:2009/05/11(月) 01:08:21 ID:RluBM2WU
将軍秀忠はクソ真面目な性分で、一度決めたことはまず変えなかった。

例えば辰の刻に鷹狩に行くと決めたら、食事中だろうが鷹狩に出掛けた。
こんな次第なのである日、近習が気をきかせて
秀忠が食事を終えるまでは時計が鳴らないようにした。

これを知った井伊直孝は近習達を呼び出して「貴様らは主君に仕えることが
どういうことかわかってない。主君は天下が正しく治められるのを望んで
おられる。貴様達はそのことを汲んで行動しなければならんのに、偽りごとが
主君の御心にかなうと思っているのはどういうこてだ。

俺の言っていることがくだらないことなんて思うなよ。こういうことが
続けば上が正道を望んでいるのに下がわからなくなり、上を怨む輩が現れて
姦臣を産む土壌となるのだ。

今後は時計を遅らすなんてことはしないで、早めに食事を用意して予定の
時間より早く終わるようにはからえ。こういう小事が国家にとって重要
なのだ」と言って近習達を戒めたという。
470人間七七四年:2009/05/11(月) 01:18:42 ID:0Kvh24AK
>>468
確かに一理あるな。
ただこの場合は乳母への恩恵というニュアンスでは。

>>469
戦後の国会でも時計を止めて会期切れを防いだ話が。
こんな時間まで2chで遊んでいる俺には秀忠の爪の垢が必要。
471人間七七四年:2009/05/11(月) 01:25:04 ID:2tvfwBph
秀忠の極端な頭の固さは
案外江戸初期の秩序を固めるべき時代には良かったのかも。
472人間七七四年:2009/05/11(月) 02:09:12 ID:aa0KNXhV
まじめ秀忠は父ちゃんでさえ恐れ入ったからなぁ、女性関係では。
ま、浮気はしちゃうんだけどさ。
473人間七七四年:2009/05/11(月) 04:15:30 ID:0Kvh24AK
人間関係は最初期に力関係が決まるからな。
結婚した時のお江与は秀吉寵妾の妹。
秀忠ならずとも頭が上がらんだろう。
蛍大名しかり。
474人間七七四年:2009/05/11(月) 08:37:24 ID:+z/CfhwQ
>469 >471-472
なんというか、秀忠の几帳面さ律儀さって

「親父殿と我が家(徳川)天下分け目の合戦に遅参した」トラウマもあるんじゃないかと勝手に思ってしまったり
475人間七七四年:2009/05/11(月) 11:30:06 ID:TEuyXApe
父には叶わないと知りつつも頑張ろうとした
秀忠の真面目さは嫌いではない。むしろ人間ぽくて好き。
476人間七七四年:2009/05/11(月) 12:26:56 ID:9rHlKCDT
>>461
あれだけやりまくってるからには、悪い病気持ってると思った方がいい。
犯された上に病気うつされたんじゃたまったもんじゃない。
477人間七七四年:2009/05/11(月) 12:41:19 ID:OZkc0j7i
>>476
風俗やら出会い系で得体の知れない相手とやりまくってたワケじゃないから・・・
女好きとはいえ立場が立場だし、さすがに相手は選んでるだろw
性病患ってた話聞かないし
478人間七七四年:2009/05/11(月) 12:50:23 ID:pi5/mi8Y
>>477
種なしの原因は成長期の栄養失調が原因とは良く聞くな。
実際秀吉本人以外の親類縁者はみんな大柄で、少年時代に家を飛び出した秀吉だけが小柄だし。
479人間七七四年:2009/05/11(月) 13:06:06 ID:hsRslH39
現代でも不妊は普通にあるし
そんな単純なもんじゃないよ
480人間七七四年:2009/05/11(月) 13:10:34 ID:eziJS0Lf
小説や漫画だと秀吉って
京の白拍子と遊んでる描写があるんだよな
あれって元になった逸話が昔からあるのかな
481474:2009/05/11(月) 13:19:50 ID:+z/CfhwQ
>475そこは同意。>>436-437にもねw

偉大すぎる父へのコンプレックスを抱えながら、
家康死後も弛緩せず統治し続けたんだから大した二代目だよ。

……隆センセの時代小説シリーズじゃすっかりポンチ主従と化しているが
総目付、大目付やってた柳生宗矩も無能には程遠い政治家だし。
482人間七七四年:2009/05/11(月) 13:23:22 ID:i+8UkPpU
天正八年、細川藤孝が丹後に入部した頃の事。

彼が領内の白杉という場所に鷹狩りに出かけると、その近辺の百姓であろうか、
藤孝に近づくと、竹杖に挟まれた書を差し出した。
これを開いてみれば

『一つ迷惑しているのは
二がにがし(苦々し)き御仕置きです
三んざん(散々)
四わくて(吝くて)
五ん語(言語)道断
六月の日照りには
七(質)貧乏となり
八(鉢)を開く(物乞いをする)風情
九にに(国に)(仕置きの)堪忍があるように
十分(充分)にするよう仰せ付けていただきたい』

藤孝、これを見て笑い、傍にいた閑雪という僧に筆を取らせ、
こう書かせた

『十分(充分)な世の中だと言うのに
九せごと(癖事)を申す百姓かな
八幡に誓って聞くまいと思ったが
七生よりこのかた
六(碌)に(遠慮が)無いのが地下の習い
五くもん(獄門)にかけるか
四ばりて(縛りて)腹を切ろうかと思ったが、(そんなことをしようとすれば)
三りんに(山林に)隠れてしまうだろう
二くき(憎き)仕置きを変えさせて、
一国一命、赦すものなり。』

これを、その百姓に渡したと言う事である。

まあ、江戸期に出来た逸話だとは思うのですが、登場するのが幽斎とその領民であるところが、
妙に説得力を感じさせますなw
483人間七七四年:2009/05/11(月) 13:26:06 ID:+z/CfhwQ
>469
井伊直孝のめんどくさいガチ正論DNAも好きだなー

今川からの転職組ジュニアなのに、三河武士の古老どもと変わらぬ頑固者。
芋煮会だっけ、井伊家中の教育も厳しかったんだろうね
484人間七七四年:2009/05/11(月) 13:28:01 ID:+z/CfhwQ
>482
あんたらw百年早く生まれて一休さんや蓮如と遊んでやってつかぁさい
485人間七七四年:2009/05/11(月) 14:05:28 ID:R4bJbOsb
>>482
細川藤孝は江戸時代において
歌の上手い武将の代名詞だったので
歌に関する逸話はよく藤孝に結び付けられてる。
それらは当意即妙なイメージが多いんだけど
「衆妙集」などを読むと、バリバリの正統派で
ゆれのないしっかりとした歌が特徴だとわかる。
(悪く言うとバランスが良すぎてつまらない)
本来とは正反対のイメージが逸話によって作られていく
というのは歴史の面白い所だね。
486人間七七四年:2009/05/11(月) 15:27:04 ID:VZo3swX9
弟子に当たると思われる秀吉の方が狂歌っぽい
(現代人から見て)面白い句を詠んでるよね

辞世の句は出来すぎのような気がするけど
487人間七七四年:2009/05/11(月) 15:55:37 ID:c8SzojPt
>>486
東大文V紫綬褒章の詩人が、中卒土建屋あがりの大臣に歌教えて抜かれたみたいな。
細川幽斎の歌は後世ひとつも人の口にのぼってないもんなあ。
他人が創って小判で買った説もあるかもしれんが

つゆとおち つゆときえにし わかみかな なにはのことは ゆめのまたゆめ

好きな歌の五指にはいるんだわこれ
488人間七七四年:2009/05/11(月) 16:18:54 ID:AVh+SLf4
文学部教授なのか文章家なのかの違いでしょ
489人間七七四年:2009/05/11(月) 16:39:20 ID:OZkc0j7i
歌や俳句は個人の感性や好みが大きい。
これが正解というのがないから、一概に秀吉と幽斎の歌に優劣はつけられないわな。
そこが醍醐味でもあるわけだし
490人間七七四年:2009/05/11(月) 16:59:34 ID:RvVZaxdN
真面目な好青年です
全て逸話のせいです

桜島の方から来た方が仰っておられました
491人間七七四年:2009/05/11(月) 17:58:21 ID:lqRS/jBc
秀吉の書を高く評価していたのは魯山人だっけ
492人間七七四年:2009/05/11(月) 18:03:49 ID:R4bJbOsb
歌つながりという事で。

天正15年、聚楽第が完成する。
落成祝いに沸く中で、秀吉が一首詠んだ。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

絶頂期にある男が、我が身や世の儚さを詠うという
矛盾やおかしさを秘めた、秀吉一流の工夫が冴えた歌であった。
「なかなかよくできたわい」
家臣に命じ、箱に入れて保管させた。
この時点では、良くできた歌の一つでしかなかった。

それから12年の月日が経った。
死の床にあった秀吉はあの歌を取り出させ
しみじみと眺めた後、こう言った。
「この歌をもって我が辞世とすべし」

朝鮮出兵の泥沼化、幼い秀頼の将来、天下の行く末
様々な思いが秀吉の胸に去来したはずである。
最後の最後に、歌と歌い手の心が一体となった。

慶長3年8月、秀吉は死んだ。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢
493人間七七四年:2009/05/11(月) 18:07:45 ID:i+8UkPpU
>>492
そういえばこの歌って、聚楽じゃなくて伏見城完成のときに歌った、って話もあるんだよね。
494人間七七四年:2009/05/11(月) 18:17:22 ID:ThJR+2j4
>>492
あの辞世の句にはそんな逸話も隠されてたんだな。
秀頼公もまだ幼かったし将来が気になっただろうね
あと10年くらい成長を見たかっただろう
495人間七七四年:2009/05/11(月) 21:21:48 ID:jyfGqODU
>>492
やっぱ天下人の辞世がこれって切ないわな・・・
496人間七七四年:2009/05/11(月) 21:24:48 ID:zHmmR7+G
まさかこれを辞世にするような心境になるとは絶頂期には思ってなかったろうに
497人間七七四年:2009/05/11(月) 22:04:06 ID:pNyxPBA8
豊臣家オワタ\(^o^)/っていう辞世の句だよな。
498人間七七四年:2009/05/11(月) 23:11:14 ID:i+8UkPpU
大将の「威」

黒田如水がある時言う事に

『大将には威が無ければ、人々を抑えられないものである。
しかしながら、これを間違って解釈して、わざと我が身に威が有るように振舞うのは、
返って大きな害となるものである。

そう言う事をすれば、ただ諸人を怯えさせる事が威であると心得、家老に会っても威猛々しく、
必要も無いのに目をいからし、言葉を荒くし、人の諫めを聞かず、自分に非があるときも
それを認めず、我意にばかり振舞う。こうなれば家老も諫言をせず、自ら身を引くようになる。
家老でさえそうだとすれば、まして諸士末々の者達はただ恐れ萎縮し、忠義を思うものは居なくなり、
自分の身を守るのに精一杯で、これでは奉公がよく勤まるわけが無い。

このように高慢で人をないがしろにすれば臣下万民これを疎んで、必ず家を失い、国は滅びる。
よくよく心得ておくべき事である。

本当の「威」と言う物は、先ず、その身が行儀正しく、理非賞罰を明らかにしていれば、
強いて人を叱り付けるような事がなくても、臣下万民敬い恐れ、自ずから身に着く物なのである。』

そんな、黒田如水の威厳論。
499人間七七四年:2009/05/11(月) 23:21:09 ID:OZkc0j7i
>>498
確かに強く押さえつければ大体の人間は媚びへつらうけど、
これをやると本当に根性のある人間に反逆されてしまうんだよな。
松永久秀、荒木村重、明智光秀に反逆された人みたいに。
500人間七七四年:2009/05/12(火) 00:13:26 ID:wCzWquEQ
>>498
ただ諸人を怯えさせる事が威であると心得>竜造寺隆信
人の諫めを聞かず、自分に非があるときも
   それを認めず、我意にばかり振舞う>伊東義祐、後年の大内義隆
501人間七七四年:2009/05/12(火) 00:24:01 ID:uzQrFp/I
>>499
反逆しなかった人間には「本当の根性」がなかった、とおっしゃりたいのですか?
秀吉とか家康とかも?
502人間七七四年:2009/05/12(火) 00:33:26 ID:U+zP9JIP
>>501
言葉を一面的に捉えないでほしい。
反逆する人間には理由も性格もあるし、
従う人間にも理由と性格がある。
別に反逆する人間が根性があって、
機を伺うタイプや忠臣タイプが根性がないとは言っていない。
ただ苛烈に支配すれば、反逆する人間も苛烈に反逆せざるをえないと言ってるんだよ。
503人間七七四年:2009/05/12(火) 00:46:33 ID:NIr4b7pn
まとめにちょっと書いてあったけど、内容までは書いてなかったので投下。

徳川家康は板倉勝重を町奉行に抜擢した。すると勝重は自分には
荷が重いと言って辞退したが、家康はそれを認めない。勝重は
家で妻と相談すると告げて帰宅した。

勝重が帰ると、妻は勝重の栄転を聞いていてどんな役職なのか
尋ねてきた。勝重は黙ったまま妻と面を合わせてこう言った。

「私は駿府の町奉行になるようにと命令された。私は荷が重いと
思って断ったのだが、辞退は許されなかった。それでお前と相談する
ために帰ってきたのだ。お前の考えを聞かせてくれ」

「私の拙さゆえに相談しろと仰せられたのですか?上様の命であれば
職が務まるかはあなたの気持ち次第ではありませんか。私がどうしろ
と言うべきことではありません」

「違う。重職が務まるかはお前の心掛けも関係する。いいか古今東西、
失脚や滅亡の例は多くあるが、それは裁判で縁故を贔屓したり、賄賂で
道理を歪めたからだ。そして、しばしば女がその原因になる。だから、
私が奉行になったら、裁判の時にお前が親しい者の訴訟を取り持ったり、
少しでも賄賂を受け取るようなことはするな。そして私の身の上に口を
挟むな。それを確認するために相談すると申し上げて帰ってきたのだ」

「わかりました、あなたの仰せの通りにします。ですからこのお話を
お受けください」

妻の言葉に勝重は喜んだ。このことを神仏の前で誓うと、勝重は袴を着て
家康に報告しようとした。すると妻が袴の後ろがねじれているのに気付いた。
彼女がそれを教えて直そうとすると・・・

「お前はたった今神仏に誓ったのに口出しするのか!やはりお前には心掛け
が足りない、この話は断る!」

「そ、そんな!?私が悪うございました、お許しください!」

袴を脱ごうとする勝重に妻は必死に謝るが、聞く耳を持たない。妻が
口出ししないと誓約書に書くとようやく勝重は納得した。

「この誓い、決して忘れるでないぞ」

勝重はそう言って家を出ていったという。勝重にも多くの逸話が
あるが(大岡裁きと全く同じ話も)、公平な人物として描かれる
ことが多い。

しかし面倒くさいね。
504人間七七四年:2009/05/12(火) 00:52:49 ID:2JxClRPD
なんか信長と謀反の事が頭にあってそれに無理矢理如水の逸話を結びつけてない?
単純に『ちゃんと襟元ただしていればみんなついてくるよ、それが一番の威厳だよ』ってだけの事なんじゃないの?
505人間七七四年:2009/05/12(火) 00:59:46 ID:U+zP9JIP
>>504
無理矢理のつもりはないよ。
でも実際に謀反おこされてるんだから何がしかの理由はあるだろ
506人間七七四年:2009/05/12(火) 01:02:57 ID:DB8UiSkP
>>498
結城秀康は立ち上がって周囲を見渡すだけで、先程まで思い思いの雑談で騒いでいた大名達がいすくんで静謐になったって話しが何かであった。
家康はこれほどの『威』を備えた秀康を非常に恐れ危険視したらしいし、秀康擁立派の家臣はついに実戦の指揮をとる事がなかった事を非常に惜しんだって話しあったね
507人間七七四年:2009/05/12(火) 01:29:29 ID:tc0jmCW1
威厳っていうか徳って事なんだろうな。他人を従わせる
それを持っている人なんて万人に一人だから、乱世の時は力で威圧してでも統率すべき
力で威圧するのには才能いらないからねって荀子は仰ったが
平時なら徳を磨こうっていう姿勢は大事だけどな
508人間七七四年:2009/05/12(火) 01:37:35 ID:Y9lTTzdj
>>506
やはり一大名ならともかく、天下の大将軍ともなれば「威」がありすぎるのも
支障がでるやもしれませぬからな。
509人間七七四年:2009/05/12(火) 01:40:53 ID:jPagyO9i
つーか、信長は必ずしも家臣を力で押さえつけていたタイプではない。
信長が家臣から多く謀反されたのは、信長個人の資質と言うより政治力学からの
問題だと考えた方がいい。

あと、結城秀康の「立ち上がっただけで静まり返したほどの威」は逸話として確かにあるが、
「家康がそれを危険視した」というのは、後世の創作。

まあ如水の話は、無理に背伸びをして偉そうぶって、独りよがりになるな。と言うくらいの物として
捕らえた方がいいかと。
510人間七七四年:2009/05/12(火) 01:48:27 ID:6yntLxks
ぶっちゃけちゃうと息子への説教だしね
511人間七七四年:2009/05/12(火) 01:55:29 ID:WWxD8DqE
>>508
秀康殿の「威」はご本人のものじゃなくて実父と養父お二人のものと思うのでござるが。
512人間七七四年:2009/05/12(火) 02:22:06 ID:uzQrFp/I
>>502
「苛烈な支配」というのであれば、豊臣政権における農村支配は相当なものがありました。
信長の頃はまだ農村への直接介入は始まったばかりであることを思えば、比較になりません。
同じく、徳川幕府の大名統制の苛烈さはそれは厳しいものがありました。秀忠・家光二代に
潰した武家を思えば、信長の頃の部下統制はぬるいものです。
で、豊臣政権や徳川幕府に逆らったものというのは?性格の問題なんですか?

>>505
離反の理由は、それぞれにあるでしょう。
しかしあなたの問題は、その理由を「信長の人格・支配体制」のみに押し付けていることです。
>509でも指摘されていますが、裏切りや反乱というものは、単純に主君と家来の個人の
感情・心理の問題だけで引き起こされるようなものではありません。
「あいつ嫌いだけど仲良くしたほうが得だしな」と同盟が結ばれることもあれば
「あいつは好きなんだけど、こっちにも立場があって仲良くはできない」と敵対することもある。
513人間七七四年:2009/05/12(火) 02:38:10 ID:+BaypHt8
なんだなんだ
結束麗しきちょっとスレに謀反人が出たのか!?
514人間七七四年:2009/05/12(火) 02:45:53 ID:fUctbMbO
むしろ正純
515人間七七四年:2009/05/12(火) 02:46:35 ID:U+zP9JIP
>>512
アナタは後世からしか見てないんだよ。
豊臣政権下の農民と織田家臣の明智光秀の不満度は本人にしかわからない。
後世の人間が織田政権下より豊臣政権下のほうが苛烈だったとしても、
明智光秀にとってみれば織田政権下でも謀反するに足る理由があったからこそ謀反が起きているわけであって。
別に織田政権下と豊臣政権下を比べようという意志はない。
現実として織田政権は決定的な謀反を起こされたという結果を言ってるの。
別に議論することでもないだろ
516人間七七四年:2009/05/12(火) 06:47:41 ID:jPagyO9i
まあ、あまり議論がヒートアップするようならこっちに行きましょうや

【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
517人間七七四年:2009/05/12(火) 07:00:31 ID:02WPnjJg
>>515
まああれだ、手前に威厳のいの字もないことだけは確かだなw
518人間七七四年:2009/05/12(火) 07:22:20 ID:jPagyO9i
九州の立花家に、明智光秀の元家臣、安田作兵衛という者が、仕官を求めにやってきた。

安田作兵衛と言えば、かつては明智三羽烏の一人として、天下に名の聞こえた勇者である。
立花宗茂、早速これを呼び出した。

ところが呼び出された安田、立花家の重臣達に向かってこんな事を言った

「私は今、流浪の身でありますが、もしお召し抱えが有るのなら、
知行は一万石。これに一粒たりとて欠けるのは嫌でござる。」

一同仰天した。当然である。何せ当時立花家は、僅か13万石ほどであったのだ。

重臣の十時(ととき)伝右衛門、安田に問いただす
「お主は、どれほどの技能があってそんな要求をするのであるか?」

「技能?そんなものはござらん。」

「では何ゆえかッ!?」

「私は戦場に出れば、いつでも必ず一番槍をいたします。ああ、これが私の能力ですかな?」

ここは立花家である。先代道雪の時代より、猛者達の集まる武勇の家である。
事もあろうに、そこで安田作兵衛は、このような高言を吐いているのだ。
立花家の一同、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
しかし十時、言う

「さても憎らしい高言だが、立花家のほうから呼び出した以上、これを召抱えないと言うのも又恥辱である。
…ところで安田殿、先ほど言われた一番槍、もし仕損じればいかがいたす?」

「言うまでも無いこと。一番を仕損じれば、即刻牢人に戻ります。」

安田は彼が望んだとおり、一万石で召抱えられる事となった。
この時十時は宗茂にこう宣言した
「私の目の黒いうちは、あの安田めに一番槍を取らす事は、絶対にありません!」
彼も立花四天王の一人として数えられる、名の聞こえた武勇の士である。

さて、程なく朝鮮の役が起こる。
立花家も渡海し、やがて碧蹄館南大門において、明軍15万との戦いに参加した。

日本軍は先ず、小早川隆景が討って出、やがて合図により、伏兵の立花軍三千、
明軍の後ろから鬨を上げて突撃した!

この時早くも立花軍の先頭を行くのは、安田作兵衛であった。続く兵たちに
「立花家の中に、わしほどの剛の者はいないようだな!」
と言い捨て明軍に一直線に向かう。

不覚にも十時伝右衛門、安田より5,6歩も遅れた。このままでは主君宗茂に言った事が嘘になる。
正に絶体絶命の窮地。先を見れば今にも安田が一番槍を入れようとしている。
その時である。南無三!安田の後ろから大音声で

「一番槍、十時伝右衛門!!!」

そう叫んで、槍を、投げた。
この槍、狙い過たず明兵一人を貫いた。
安田は朝鮮の地にて、再び牢人となった。

やがて安田は天野源右衛門と名を変え、寺沢家に召抱えられる事になるが、
この時は『一度一番槍をしそこなったため』と、八千石での仕官となったそうである。

立花侍意地の一槍、のお話。
519人間七七四年:2009/05/12(火) 07:23:03 ID:IRWbXWS4
>>515
致命的な謀反を起こされたって事実は誰でも知ってる
反論すべきはむしろ下の方でそ
もっと言えば当時信長が特別>>498で否定されるような大将であったか、という話
520人間七七四年:2009/05/12(火) 07:39:49 ID:OavpmR4+
521人間七七四年:2009/05/12(火) 07:45:15 ID:jPagyO9i
あああああやってもうたorz
522人間七七四年:2009/05/12(火) 09:02:53 ID:Jtscmyry
名奉行、板倉勝重の話が出たので、板倉さんの大岡裁き(?)を一つ。

勝重が京都奉行の折、「拾った」といって金三両を届けてきた男がいた。
奉行所で落とし主を探したところ、「自分が落とした」という男が現れた。

ところがこの男、「自分が金を落としたのも運命、その金を人が拾ったの
も運命。だから自分がこの金を受け取るわけにはまいりません」といって
どうしても金を受け取らない。

拾った男も、「落とし主がみつかった以上、自分が金を(ry」といってこ
れまた金を受け取らない。

このやりとりを聞いていた勝重、「このご時世にめずらしいことだ。感動
した!」といって自分の懐から金三両を取り出して金を六両とし、
「ここに天下の奇人が三人いる。そして金が六両ある。この金を三人で分
けようではないか!」といって落とした男に二両、拾った男にも二両与え、
自分も二両を受け取った。
「これにて一件落着!」
523人間七七四年:2009/05/12(火) 09:05:37 ID:jPagyO9i
これはまだ無いはず。同じ一万石知行のお話


丹羽家の重臣として有名であった江口三郎兵衛は、関ヶ原による丹羽家没落の後、
越前黄門、結城秀康に呼ばれ、なんと一万石で召抱えられた。

これを快く思わないのがそれまでの家臣たちである。
秀康の家臣で武勇の知られた高木勘平も、
「新参者がいきなり一万石を領するとはなにごとか!」
と、怒りがおさまらない。

ある時この高木が、江口と同席する機会があった。高木、この時とばかり江口に詰め寄り
こう尋ねた

「上方の武辺とはどういう事を言うのか!?」

一般に東国の武士からは、上方の者は柔弱と思われている。高木はその上方者である
江口の武辺を笑って恥をかかせてやろう、そう思ったのだ。

これに江口、答える。

「上方の武辺と言うものは、人に武辺者と言われ、この殿のような方に召し出され、
高い知行を取ることでござる。」

高木はこれを聞くと、「うーん」と唸り、そのまま言葉も無く引き下がった。

高木勘平が後に言うには
『あの時江口が、それまでに自分のなした武功を語ろうものなら、「わしはそれほどの事を
八百度も成したぞ!」と言ってやるつもりだった。
江口と言う男は武のみではなく、才も優れた人間だ。」

と、感心したとの事である。


正直この程度の答えに素直に感心しちゃう高木勘平が、ちょっと可愛いお話。
524人間七七四年:2009/05/12(火) 09:16:18 ID:OavpmR4+
言ってやろうとした台詞を考えるに脳筋だったんだろうなぁ高木
525人間七七四年:2009/05/12(火) 09:36:20 ID:U+zP9JIP
>>517
捨てゼリフ吐くような男に言われたくない
526人間七七四年:2009/05/12(火) 09:43:08 ID:sg9D4rMX
せっかく>>522>>523が流れ変えようとしたのに…
527人間七七四年:2009/05/12(火) 09:48:34 ID:guhlsXzg
もうほっといてスルーしようぜ
528人間七七四年:2009/05/12(火) 10:53:01 ID:2JxClRPD
ID:U+zP9JIPは多分>>245から現れている粘着質な荒らし気質な人だとおもうんで相手しない方がいいよ
論点変えて一日中同じ話題続けてくるから
529人間七七四年:2009/05/12(火) 10:56:57 ID:jT8keCtC
>>522
浮浪雲にそんな話があったが、これが元ネタだったのか。
530人間七七四年:2009/05/12(火) 11:17:22 ID:fjxapkX+
これが伝説の超必殺技、三方一両損か。
一番得したのは、実質一両で後世まで伝わる名声を手に入れたお奉行様だなw
531人間七七四年:2009/05/12(火) 11:38:04 ID:HiGu3EJj
元ネタは文曲星こと抱丞さんだっけ?
532人間七七四年:2009/05/12(火) 11:40:11 ID:ZP8uLSKm
三河武士にしては面白いよな、板倉さん。
533人間七七四年:2009/05/12(火) 11:45:29 ID:IXMzi/Nz
>>492
家康が辞世の句でこの句の返歌をしたって聞いた時は
震えが止まらんかった
534人間七七四年:2009/05/12(火) 12:04:42 ID:6nBlsbYI
「能無く大封を食らうを上方では武辺と申すかw」
と返すと思ったら感心しちゃうとは。
535人間七七四年:2009/05/12(火) 12:09:23 ID:jPagyO9i
>>533
「嬉しやと 再びさめて一眠り うき世の夢は暁の空」

この歌だよね。歌だけじゃなくその行動も含めて全力で返歌したと言うべきか。
家康の辞世の句といえば、もう一つ伝わっているこっちの方も好きだな

「先に行く 後に残るも同じこと 連れて行けぬを別れとぞ思う」

人生への諦念に溢れていて、なんとも心に来る。
536人間七七四年:2009/05/12(火) 12:39:12 ID:QsicrOUG
>>531
「三方一両損」は日本オリジナルらしい。
ソースは井沢。
537人間七七四年:2009/05/12(火) 12:53:52 ID:NWa2RFc5
大岡越前版だと「三方一両損」で
板倉勝重版だと「三方二両得」なんだよね。
東西の違いが出てて面白い。
538人間七七四年:2009/05/12(火) 13:15:32 ID:ca+wtIvg
板倉版も三方1両損じゃないのか?
539人間七七四年:2009/05/12(火) 13:18:17 ID:6nBlsbYI
実質一緒でも、損を美談とするか得を美談とするか
540人間七七四年:2009/05/12(火) 14:11:40 ID:VYGcmMml
>532-533
奉行、裁判官に必要な資質は「わいろを受け取らぬこと」だけだー

とかいいつつ。ただ謹直公正ってだけでなく、かなり懐の深い人物だわね
541人間七七四年:2009/05/12(火) 14:30:11 ID:Xrn1g09Z
どういう見方をすれば板倉が2両得したことになるのかくわしく
542人間七七四年:2009/05/12(火) 14:34:39 ID:guhlsXzg
板倉さんは一両損
落とした人も一両損
拾った人だけニ両得

じゃね?
543人間七七四年:2009/05/12(火) 14:45:11 ID:soYMCRt1
板倉さんは、その前に3両だしたのは別の話としといて、とにかく2両もらった
落した人は、お金を落した上に自分でもいらないって突っぱねてるんだから一銭も
帰ってこないところが、面目立ててもらった状態で2両かえってきた。

てな話じゃね?
544人間七七四年:2009/05/12(火) 15:00:02 ID:NWa2RFc5
>>541
↓のサイトにその辺が詳しく書かれてるでよ。
ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~mbear/Jinken/Jinken-004.html
545人間七七四年:2009/05/12(火) 15:19:40 ID:Xrn1g09Z
かなり高度な道徳のお話なのなw
546人間七七四年:2009/05/12(火) 15:54:02 ID:6nBlsbYI
当時は給与と経費が曖昧なんで
板倉も「経費として3両出したら2両役得があった」くらいの気持ちになれたかも。
547人間七七四年:2009/05/12(火) 21:35:18 ID:jPagyO9i
法螺貝後日談。もしくは面倒くさい三河者のあつかい方。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1250.html
このお話の続き。本多正重が法螺貝をふけない蒲生氏郷に
「腰抜けには吹けませんよ」と言って自分で吹き、氏郷に恥をかかせた後のこと。

本多正重、当然のように蒲生家にい辛くなり、退転。
色々あって徳川家に帰参する事になった。

このとき家康の御前に出た正重、いきなり叱られた。家康も氏郷との法螺貝の件を
聞き知っていたのだ。
家康、お前は本当に分別が無い、と言う。
これに正重、殿の仰せですがそんな事はありません、あれは考えた上での事です!
と反論。

そこで家康
「では聞くが、お前が法螺貝を吹いて、もし鳴らなかったときはどうするつもりだったのだ?」

「あ」

本多正重、今気がついた。
「…どうしていたんでしょうね?」

「だからお前は無分別だというのだ。」

そう言って大笑いしたそうだ。

流石家康公、三河者がどんなものかお見通しなのであった、と言うお話。
548人間七七四年:2009/05/12(火) 22:40:44 ID:BtyqyHZD
>>522
3人とも三河人っぽいな
549人間七七四年:2009/05/12(火) 23:19:34 ID:sWOV2m2m
>>522
大岡裁きの三方一両損はこれが元ネタ?
550人間七七四年:2009/05/13(水) 00:03:49 ID:QIBGUmuX
元ネタは中国だって聞いたことがあるけど
551人間七七四年:2009/05/13(水) 00:23:49 ID:AqjDRpdW
おまえら
元ネタは包丞だっけ?
いやこれは日本オリジナルらしいよ
と言うのをさっぱり無視か
552人間七七四年:2009/05/13(水) 00:33:58 ID:MtFDR8dm
黒田長政が参勤交代の勤めから帰ってきた。そのお祝いの宴での話。

長政は江戸で観世宗雪に謡曲を習った。そこで「宗雪は私の謡を
褒めてくれた。お前達にも聞かせてやるとしよう」と言って謡って
みせた。

周りの者達は皆長政の謡を褒めたのだが、毛利但馬だけ涙をうかべて
黙っている。訳がわからない長政は「な、なぜ泣くのだ但馬?」と尋ねた。

すると但馬は「主君が暗く、家臣が媚びを売るようになれば御家は
滅亡するでありましょう。そうなれば私達は、鉢たたきや袖ごいを
して生きていくのだと思うと涙が出てきました。

だってそうでしょう?宗雪がお世辞でうまいと言ったのに、真に受ける
なんて阿呆じゃないですか。なのに家臣達まで謡を褒めるなんて軽薄に
なったもんです。自己のことしか考えず、上様のご機嫌取りをする有様
ですから涙が出るのですよ」と答えた。黙って聞いていた長政はふと
立ち上がって奥に行ってしまう。その場の空気はすっかり冷めてしまった。

やがて長政が戻ってきた。その手には刀が握られている。長政は但馬の
前に立った。「但馬が手討ちにされる!?」誰もがそう思って恐々としていた。

しかし今度は長政が涙を流した。長政は「お前の言うことは正しい。お前の
意見ではなく、亡き父上がご再生されての意見と思えばひときわ嬉しい」
と言って但馬に刀を授けたのだった。
553人間七七四年:2009/05/13(水) 00:37:16 ID:DI+9Yy1M
よっぽどヘタクソだったのだろうかw
554人間七七四年:2009/05/13(水) 00:39:26 ID:Ssv/Awt3
しかし相変わらず黒田家の人間はいちいち辛辣だな
555人間七七四年:2009/05/13(水) 01:13:06 ID:gKZO0lXK
何やってもダメ出しされる長政(´・ω・)カワイソス
556人間七七四年:2009/05/13(水) 01:13:09 ID:ErstMWws
剛田「ぼえ〜」


骨川「なかなかの美声でござるな、剛田氏」
557人間七七四年:2009/05/13(水) 01:21:12 ID:Ad4DQUag
このスレにいると長政がカワイソスって思えてくる
558人間七七四年:2009/05/13(水) 01:24:13 ID:jIoifHR2
普段は親父は親父はと言われ続けて、偶に褒められたと思ったらこれだからなwww
559人間七七四年:2009/05/13(水) 02:10:45 ID:m289qpd7
秀忠の鼓もそうだけど、なまじ社会的地位があると「下手の横好き」で済ませられなくなっちゃうんだな
560人間七七四年:2009/05/13(水) 03:54:11 ID:/AAH3SA6
DTの松本にまでボンクラ扱いされるのはいくらなんでも長政が可哀想だと思った。
如水の酔狂に黒田家の存亡を賭けるのはいくらなんでも無謀というもの。
でも、肖像画のチョイスと噴出しには笑った。
561人間七七四年:2009/05/13(水) 04:31:08 ID:iHrOmsg3
>>556
フイタw
562人間七七四年:2009/05/13(水) 05:05:54 ID:1Pya8qEd
>>560
あれだけ我慢強い人から制裁食らった又兵衛って一体……
563人間七七四年:2009/05/13(水) 07:33:51 ID:P+9kagAP
又兵衛以外のは長政ヘのダメだしという感じ。
黒田家を思えばこそ、長政には如水のような立派な君主であって欲しいと言う雰囲気。

対して又兵衛のは逸話を見る限り、
長政を馬鹿にしているようにしか見えないぜ。
564人間七七四年:2009/05/13(水) 08:43:07 ID:K1BClDVe
>>552
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-613.html
552のほうが情景がよくでてるけど
565人間七七四年:2009/05/13(水) 08:57:49 ID:XvSqyvAY
黒田長政で大河とか面白そうだ
事あるごとに親父と比較され諌言されからかわれ続ける主人公
それでもいつの日にか大器晩成ですよ
566人間七七四年:2009/05/13(水) 09:07:56 ID:bXv2PYjA
長政、晩年の頃の話だろうから、後藤基経といがみ合ってた30代からは
随分と人格が成熟していたのだろう。

太刀を持ってきて、周囲がヒャリとするのはその名残。
567人間七七四年:2009/05/13(水) 09:26:33 ID:vhX0lqcl
あえて刀を持ってきたのは意図してのことだろうな。
肝を潰してから一転して褒める高等戦術。
568人間七七四年:2009/05/13(水) 09:37:56 ID:E8F6HEB0
では長政公、親父様からも罵倒されるの巻き

関ヶ原の時の事。
黒田如水は豊前の中津城を守っていたが、9月には9千余りの兵を率いて
諸方の城を次々と攻め落とした。
これに九州各地の牢人、次々と集まりその勢いは止まる所を知らず、九州一円は
如水の覇権に収まるかと思われた。が、その時、嫡子長政からの使いが来た。

『関ヶ原にて西軍敗北。三成は行方知れず。秀秋が長政の謀にて裏切りいたしましたので、
戦は一日のうちに決着いたしました。』

これを読んで如水、躍り上がるほど怒り狂った!

「なんと言う、うつけ果てたる甲斐守かな!これほどの馬鹿だったとは思いもよらなかった!
天下分け目の戦とは、ゆるゆるとやってこそ良い物なのだ!
と言うか、集めた牢人どうするんだよ…、

日本一のうつけの名を、一人で背負っているのが長政だ!」

計画破綻で如水ガッカリ。
しかし勝ち戦で、これほどボロカスに言われるのも、長政くらいのものでしょうなw
569人間七七四年:2009/05/13(水) 09:38:39 ID:E8F6HEB0
って、書き込んでから思ったが、これは間違ってもいい話じゃ無いなw
570人間七七四年:2009/05/13(水) 09:43:47 ID:bXv2PYjA
博多、福岡では黒田家の影、激しく薄い。
途中で嗣子いなくて何回も養子が来たこともあるが、
博多商人の自治意識強烈、で300年経っても
根付けなかったイメージある。
家臣の子孫は沢山いるんだけどね。
571人間七七四年:2009/05/13(水) 14:04:34 ID:7qbuAgD8
>>548
というか後世に伝わる過程で全員江戸っ子ノリにかかれたんかな。>522

江戸っ子気質てのは要するに普段から徳川幕府の御家人・旗本衆をよく見ていて
神君以来の伝承も聞き知っているから、立派な武士≒めんどくさい→町人もめんどくさい気風

に染まっていったんだと言われるw

江戸は武家も町人も、短気で怒りっぽくてしかもめんどくさい連中の町だったのだ、うん、多分。
572人間七七四年:2009/05/13(水) 14:22:25 ID:DvwXdkZr
>>571
>>うん、多分。
クソワロタw
573人間七七四年:2009/05/13(水) 14:42:38 ID:NywnOukq
如水絡みでここではボロカスの評価がついてる前田利家について

朝鮮出兵の際、明の大軍と膠着状態に陥った日本軍は名護屋の本営で対策を協議した
この時、徳川家康・蒲生氏郷・上杉景勝・伊達政宗などの諸将がいた
如水は病気を理由にちょうど帰還しておりたまたま隣室にいた
壁を隔ててこっそり協議を聞いていたのだが在朝鮮軍のダメっぷりにイラついていたのか突然大声で
「私が在鮮軍のなすことをみるに、ただ威のみあって恩がともなっておらず領民はすぐ逃げ出すので徴兵もできないし軍役の人夫も集まらない
これではただ疲れるのみである。それに先鋒の諸将は血気にはやって、軍政が未熟でありしかも諸将同士の仲たがいもあって備前中納言(秀家)では統率できない
よく軍を規律し異国の民をなつける大任をはたせるものは、江戸大納言(家康)か加賀宰相(利家)しかおらず。その二人以外ならこの如水のほかにおりません!!」
と叫んだ

如水は自分が軍議に参加できないことが不満だったようで呼ばれもしていない軍議で言いたいことをぶちかましたが
これを秀吉は承認して浅野長政と一緒に再び朝鮮に派遣した

あまり良いイメージを持たれていない利家だが豪華メンバーの中で如水にここまで言われるというのは人望はあったんですなー



574人間七七四年:2009/05/13(水) 14:52:13 ID:QVnACket
>>395
道灌の振る舞いを驕慢と感じた父、道真が曰く、
「そなたは素直でない。屏風みたいに真っ直ぐな性格になれ」
これに道灌答えて曰く、
「お言葉を返すようですが、屏風はまっすぐだと倒れます。曲がってないとまともに立ちません。」

道真が重ねて曰く、
「そなたは本当に傲慢だな。古来、『驕れる者は久しからず』っていうではないか。料簡を改めよ。」
さらに道灌答えて曰く、
「お言葉を返すようですが、『驕らざる者もまた久しからず』です。」

言わば戦国時代の「ああ言えば上祐」だったわけで。
そのうち、面白くなかった主君の扇谷上杉定正が扇谷上杉の弱体化を狙った山内上杉側のデマに乗せられて上意討ちされちゃうわけです
が、この時も「当方滅亡!」とか言い出しちゃう自意識過剰っぷり。
これで扇谷上杉が滅亡せずに繁栄しちゃってたらただの恥ずかしい子で終わっちゃうわけですが、本当に滅びちゃうから道灌はスゴいって話に
なるわけだ。しかも扇谷最後の殿様は負けて逃げる最中に古井戸にころげ落ちて死んじゃったりする。
575人間七七四年:2009/05/13(水) 15:22:04 ID:77oUqDtr
>>574
道灌は下克上する可能性が濃厚だったとも言われてるんだっけか

それにしても古井戸にって難波田憲重のことじゃない?
576人間七七四年:2009/05/13(水) 15:45:40 ID:XEBqkByM
>>573
軍を規律するというか諸将を纏められるのは家康と利家だけだろうねー
立場石高経験そして秀吉との関係ってのを総合的に考えると
577人間七七四年:2009/05/13(水) 16:51:14 ID:CS5DPA9D
家康なら立場石高経験からして睨みが利いて適任
利家なら立場石高秀吉との関係で睨みが利いて適任
俺なら全員上手く使いこなしてやるぜええええええ

という心の声が聞こえてきそうだ
578人間七七四年:2009/05/13(水) 19:08:27 ID:aYkBDiS3
>>564
そのURLの書き込みをしたのは俺だが話の流れで出しただけなので
ひとつひとつの逸話をちゃんと書いてくれる人がいれば俺も読みたい
579人間七七四年:2009/05/13(水) 21:55:18 ID:Tpg9Wkyh
黒田父子な話題いまさら蒸し返すけど、たしか以前官兵衛が死ぬ前に
部下の悪口言いまくって長政のほうに部下の心が向くよう仕向ける話があったが、
あれ効果有ったのかね?これまで散々だめだしして泥縄過ぎwと思った記憶があるのだが。
580人間七七四年:2009/05/13(水) 22:37:27 ID:8mqI/ClK
>>579
秘密のはずが知れ渡ってる→息子が広めた→家臣の動揺がひどかったのでネタばらしした
この逸話が実際にあったことだとしたらそんな感じだったりしてな
思いついたことをノリで実行して周囲の空気読まないという如水らしさ満載の逸話だと思う
581人間七七四年:2009/05/13(水) 22:59:20 ID:BA2bWF61
本人は特に意識せずに、ちょろっと言ったセリフが
如水→相手を警戒させる
長政→相手を怒らせる
という違いがあるだけで、やっぱこの二人は親子ですよね。
582人間七七四年:2009/05/13(水) 23:41:44 ID:DI+9Yy1M
めでたき事、出で来るかな
583人間七七四年:2009/05/14(木) 00:52:56 ID:nVeAzhQX
文禄元年、毛利秀元は朝鮮に渡海するために航行していた。
航行中に船長が座礁している船を発見した。その船を見た秀元は
我が眼を疑った。

「な、なぜ太閤殿下の船がこんな所に!?」なんとそれは豊臣秀吉の船
だった。よく見ると、裸のまま手に刀をぶら下げた秀吉が岩に乗っていた。

「太閤殿下、毛利秀元です!」秀元は名を名乗って秀吉を自分の船に
招いた。そして船頭は厳しい追求のうえで誅殺した。

秀吉は危篤の母・大政所に会うために急いでいた道中で遭難したのである。
結局、大政所は亡くなったが、その後に秀元が正四位下となり、豊臣姓を
授けられたのはこの時のお礼なのかもしれない。
584人間七七四年:2009/05/14(木) 03:17:05 ID:tzx+31Zd
>>567
逆に手打ちにするつもりで殿様が刀を抜いたら
家老が機転を利かせて
「○×!殿が貴殿の答えを天晴れと刀を下される!受け取りなされよ!」

ってハナシは誰と誰のことだっけ?
585人間七七四年:2009/05/14(木) 06:34:45 ID:O6ZN2YIV
誰か知らんがウケタ
586人間七七四年:2009/05/14(木) 08:07:26 ID:pMMSnyEC
>>583
しかし秀吉が船で出るときなんて、ある程度船団組んで出港しそうなものだが、
そう言うわけでも無いのかね?
587人間七七四年:2009/05/14(木) 09:15:56 ID:Wi6V9mSJ
急いでたってこともあるんじゃないの?

瀬戸内海賊の捨て身の一矢だったら面白いんだけどね
単なる注意不足の座礁だっけか?
588人間七七四年:2009/05/14(木) 09:28:54 ID:F0TJS15U
>>584
松平定信と徳川家斉
家斉が父一橋治済を「大御所」にしようとしたが、当時は尊号事件もあり
定信がこれを拒否したときにあったという
589人間七七四年:2009/05/14(木) 10:09:22 ID:+Bf5T6Hh
>>583
秀吉が関門海峡で海難事故で危うかった、というのは
このことですか?
たまたま毛利家がここを通った折りのことなんでしょうか。
590人間七七四年:2009/05/14(木) 12:55:12 ID:pMMSnyEC
三河においての事

後に徳川秀忠の御旗奉行として、大阪の陣などでも活躍する安藤正次が若い頃、
彼と五、六人の仲間で、世に言う百物語をしよう、と言うこととなった。
野原の真ん中にある辻堂に集まり、暗夜に燈心百筋を燈し、物語が一つ終われば一つづつ消す。

百物語は淡々と進んで行き、燈心も残り僅か、という時である。
仲間の一人が、「すまない、急に気分が悪くなった。今日はここで帰らせてもらう。」と、
出て行ってしまった。

それでも百物語は進み、ついに百まで到達し、燈心も皆消え果た。

未だ夜も明けず、どこを見てもわからないほどの暗さの中、特に怪しい事も起こらない。
皆、半分ほっと、半分がっかりして
「では帰るか」
と、各々辻堂から出て行った。この時、である

安藤正次が突然、「よ、よんどころの無い理由が出来たので少し残る、各々は先に帰られよ」
と言い出した。
皆がその訳を聞いても、「た、たいしたことじゃ無い!とにかく先に行かれよ!」

しかしそんな事では聞き入れるわけには行かぬ。散々に聞き出すと、ついに正次

「先ほど堂より降りた時、何者とも知れないものが、後ろからわしの腰を抱えたのだ。
そこでわしはその手を離さないよう、今しっかりと抱えている!」

これを聞いて仲間の一人「それ頃化け物に違いない!ちょっと切ってみよう」
と刀を抜いたところ、正次を抱えている化け物がしゃべりだした

『おいおい、それは危ない!』

化け物かと思ったものは、実は人間、それも先ほど『気分が悪くなった』と出て行った男であった。
病を偽り外に出て、百物語を終わった後の仲間を驚かせてやろうと隠れ、出てきた正次にしがみついた、
と言うわけだ。

「なんだおぬしか!化け物ならこのまま組み打ちしてやっつけようと思っていたのに!」
「何を言うか、怖くて動けなくなったくせに。」

皆も大いに笑い、うち揃って帰って行ったとの事である。

そんな、今でも中学生あたりが100%同じ事をやっていそうな、戦国時代の百物語のお話。
591人間七七四年:2009/05/14(木) 13:12:28 ID:jgUaez4S
>>590
刀があるから少々物騒ではあるが、和む話だなw
592人間七七四年:2009/05/14(木) 14:12:26 ID:m4L+D7Be
皆仲良しで微笑ましいw
593人間七七四年:2009/05/14(木) 14:14:19 ID:sukLnq/A
「それ頃化け物に違いない!ちょっと切ってみよう」
と声かけたからよかったもののいきなり斬りかかられてたらたまらんな
594人間七七四年:2009/05/14(木) 14:15:59 ID:pMMSnyEC
うへ、書き間違い

×それ頃化け物に違いない!
●それこそ化け物に違いない!

まとめに乗せる時は直してやって下さいorz
595人間七七四年:2009/05/14(木) 16:00:41 ID:PKOBlR2r
>>593
たぶん声かけた仲間はその時点で「どうせあいつだろう」と見当が付いてたかと。
596人間七七四年:2009/05/14(木) 16:15:56 ID:iV5MB/GP
新ジャンル:めんどくさ微笑ましい
597人間七七四年:2009/05/14(木) 17:04:48 ID:mpd53cqv
>>596
そのジャンル名自体が既にめんどくさいわw
598経験者:2009/05/14(木) 17:29:03 ID:DHAXvM3w
北条氏綱が息子氏康に対して言ったこと。
あまり知られてない北条氏2代目。
実際はすごい人物
599人間七七四年:2009/05/14(木) 17:54:53 ID:It19W91Q
>>583
その話ほんまかいなw まあ母が危篤で急ぎすぎて座礁したとかありえそうだけど
600人間七七四年:2009/05/14(木) 18:15:54 ID:eJDXfg6q
>598
なにが起こったんだ
「怪談の後、みだりに同僚を脅かすようなたわいないことスンナ」って言ったん?
601人間七七四年:2009/05/14(木) 22:09:51 ID:x/p2tKfi
百物語ってこの頃にもあったんだな

当時って、子供の度胸づけのために肝試しさせたりしてたんでしょ?
602人間七七四年:2009/05/14(木) 23:24:24 ID:hOGHFlZM
>>583
その御座船の船頭が偶然秀吉に恨みを持つもので、
船を座礁させて秀吉もろとも海の藻屑になろうとした、なんて伝説があるあれですか?
603人間七七四年:2009/05/14(木) 23:33:22 ID:pMMSnyEC
>>601
そういえば薩摩には、度胸試しとして、死刑になった人間の体から肝を取ってくると言う、
文字通りの「肝試し」があったらしいですな。
604人間七七四年:2009/05/15(金) 00:31:36 ID:iWOWUvpB
・戦国ちょっといい話
・戦国ちょっと悪い話


本当はあと1スレ必要だな。


・戦国めんどくさい話
605人間七七四年:2009/05/15(金) 00:34:22 ID:D4HeMP3M
>>604
三河者専用になるからだめだろw
606人間七七四年:2009/05/15(金) 02:03:02 ID:gmZjhRRD
清水宗治、四句を遺し逝く

清水宗治と言えば

浮き世をば今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して

の辞世の句が有名であるが、これと共にもう三句遺している
その三句は次男である源三郎、景治に送ったものだ 

・恩を知り慈悲正直にねがいなく 辛労気尽し天に任せよ
・朝起きや上意算用武具普請 人を遣ひてことをつつしめ
・談合や公事と書状と意義法度 酒と女房に心みたすな

の三句を「身持ちの事」という書状に認め、翌日に自刃した。
この書状を景治は後生大事に肌身離さず持っていたという。
607人間七七四年:2009/05/15(金) 03:16:16 ID:1nxdQ3QX
>>606
なんと、毛利んとこなのに説教は短いんだなw
608人間七七四年:2009/05/15(金) 07:15:11 ID:8UHvWPqp
>>607
元就が特別くどいだけだよ
この三句ぐらいがちょうどいいね
つか清水宗治は厳密に言うと毛利家臣じゃないし
609人間七七四年:2009/05/15(金) 16:36:20 ID:PKI1fIbo
>606(切腹開城前に)鼓を打った兄ちゃんともども、見事なもののふだねえ。

>608
安芸の国人じゃなくて、備中備後へ毛利の拡大過程で増えた新参譜代扱いだよね。
それで前線の備中高松城を任されていたんだから、土地勘に加えて
義理堅さや防城戦の能力をかなり高く評価されていたんだろうなー
610人間七七四年:2009/05/15(金) 18:56:56 ID:sE4BdFF3
婆娑羅は幸村中途半端な性能で使いづらかったな。俺的には孫市か左近の方が強いと思うぞ

・・・きっと誰もVASARA違いだとつっこんではくれないだろうな
611人間七七四年:2009/05/15(金) 18:57:46 ID:sE4BdFF3
すげえ誤爆orz
612人間七七四年:2009/05/15(金) 19:00:48 ID:mM5WjkX0
うわあ
613人間七七四年:2009/05/15(金) 19:50:11 ID:ZA4zSfkI
蒲生氏郷の家臣に、西村左馬亮と言うものがあった。
この西村、かつて西国での合戦において軍令違反をし、一旦勘当されていたのだが、
細川忠興が間に入り、漸くにして帰参を許された。

さて、西村が帰参をはたした翌日、氏郷はこれを召しだし、唐突に
「久しぶりに、その方と相撲をとろう!」

そういって立ち上がり、おもむろに立会いを始めた。
西村はこれに驚いたものの、それならばと受けて立ち、氏郷を投げ飛ばした!

これに氏郷、もう一番と向かっていく。が、これも西村「笑止」とばかりに氏郷を
負かした。

この時氏郷、
「普通、世間一様の者ならば、勘当を許された翌日でもあり、追従と言う気持ちが無くても、
ついつい力を出さず相撲に負けるであろう。それなのに西村は、昔のまま硬骨として、
わしを倒して憚る色も無い。これこそ勇も有り、義もある振舞と言える。」

そう西村の態度を賞賛し、即座に加増を申し渡したと言うことである。


つーか、西村さんはそう言う空気を読まない人間だから軍令違反したんじゃないかな?
とおも思わないでも無いお話。
614人間七七四年:2009/05/15(金) 21:03:35 ID:uKm2pIbc
ホントは西村に勝って威厳を見せつけるついでに気さくな大将を演じるつもりだったが
西村がKYだった為に逆にそのKYさを誉めたような気がする
615人間七七四年:2009/05/15(金) 21:25:12 ID:BUiiyiqc
じゃあ南のほうで空気を読まない人を。



その年も薩摩は台風に見舞われた。
義弘の屋敷も無事では済まず、庭は荒れ放題、屋根も壁も惨憺たる有様だった。

そこへあいつがやってきた。
その名を中馬大蔵重方。
「船に乗り遅れたから走っていくばい!」と関ヶ原まで文字通りに駆けつけたり、
その途中、「スマン、後で返すから!」と叫んで他人の鎧をぶん取ってみたり、
退却戦では「おいどんが倒れたら殿の一大事ですたい!」と義弘の食事を横から頂戴したり、
挙句にニコニコ大百科では「愛すべき馬鹿」呼ばわりされている、言わば薩摩のHである。

その中馬が屋敷を訪れたとき、大工や庭師は岩のような庭石を元の場所に戻そうと奮闘しており、
義弘は庭の縁側で「頑張れ頑張れ」と督励している真っ最中だった。

実のところ義弘、屋根の雨漏りや垣根さえ直してもらえばよかったのだが
庭師や大工達が「いや、こうなったら隅々まで治させてください!」というので彼らに任せていた。
だがさすがに大きな庭石は数人掛りでも動かせず苦労する破目に。
その一方で義弘も「庭師達にも意地があるだろうし、ここで俺が手伝ったら面目丸つぶれだよなぁ」
と督励するにとどめていたのである。

だがそんな義弘の心遣いも天然の一言が木っ端微塵にする。
「おいおい、そんな石ころ一つに何を手間取っておるのだ。
 どれ、それがしが動かして進ぜよう」
言うが早いか庭師たちを押しのけ、庭石を軽々と元の位置に戻してまった。

呆然とする庭師たち、あちゃーと頭を抱える義弘を意に介さず天然は追い討ちをかける。
「ささ、殿もこれへ!こんなもの日が暮れる前に片付けてしまいましょうぞ!」

結局、大勢の庭師や大工でも片付けられなかった多くの庭石は
「鬼島津」島津義弘と「五人力」中馬大蔵の二人で全て片付けられてしまった。

義弘は中馬の昔と変わらぬ働き振りを褒めるとともに
「殿やご家中の方の手間で煩わせては…」と褒美を固辞する庭師たちを
存分にねぎらって帰らせた。

関ヶ原の後の話なので義弘も中馬も良いお年のはずなのだが、
三つ子の魂百までとか雀百まで踊り忘れずとか、そんな感じの話。
616人間七七四年:2009/05/15(金) 21:29:13 ID:aqoa0RVl
>>615
ニコニコ動画を見てること前提の用語と、東方Projectを知ってること前提の用語を使うのは流石にいかがなものか。
617人間七七四年:2009/05/15(金) 21:37:18 ID:8Sovk6zK
どこかで読んだ気もするが気のせいかな?
618人間七七四年:2009/05/15(金) 21:38:38 ID:8Sovk6zK
あ、>>617>>613ね。でも俺の勘違いかな
619人間七七四年:2009/05/15(金) 21:42:41 ID:ZA4zSfkI
> 言わば薩摩のH

ここがどうしてもわからん
620人間七七四年:2009/05/15(金) 21:55:37 ID:6DJeqqa6
>>617
俺もどこかで読んだ気がしたが
思い出せない、似てるだけかもしれないし
621人間七七四年:2009/05/15(金) 22:02:39 ID:dW2YIGu+
>>617,620
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1294.html
まあ、同じ話の別パターンという事で…

>>619
下を参照してくだされ
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-King/6260/cirno/cirno.htm

このネタがニコニコ動画なんかで良く出てくるというワケでして
しかしこれは>>616に賛成
2chだからってみんながニコ動見てるとは限らないんだぜ?
622人間七七四年:2009/05/15(金) 22:07:22 ID:BUiiyiqc
いやスマン、以後気をつけるわ。
623人間七七四年:2009/05/15(金) 22:11:20 ID:zK/CJuL9
でも空気読めない奴ってキライじゃないぜ
624人間七七四年:2009/05/15(金) 23:40:11 ID:PKI1fIbo
>623空気なんか読んで阿諛追従してたら

さくざがしかる

からな
625人間七七四年:2009/05/15(金) 23:42:50 ID:PKI1fIbo
>>614
氏郷もガチンコ力士で、駐車(八百屋ノ長兵衛)とか効きそうにない人だねえ。
626人間七七四年:2009/05/15(金) 23:50:24 ID:KwYwacG1
>>604
どうせ、現状でどっちがどっちかわからんのだから、
むしろ、全部一緒にしてくれw

627人間七七四年:2009/05/16(土) 01:22:18 ID:4MmEmY5j
将軍秀忠の時代のこと。都から勅使の公家達が江戸にやって来た。
彼らの接待を勤めたのが大名の山崎家治だった。

接待が終わると勘定方が支出の明細を帳簿にした。帳簿に接待役の
大名が捺印するのが先例であったので、勘定係が家治にそうするように
お願いした。

が、家治は怒りだして「接待役はお上の命によるものだから、幕府側の
支出が記録された帳簿に私の印は押せない。例えご老中の仰せでも
従うつもりはない!」と言った。家治は頑固者で、自分の主張を曲げず、
幕府の勘定係は困ってしまった。

怒りの収まらない家治は老中の土井利勝の屋敷に上がり込んできた。「先程
こういうことがあったが、例えご上意だとしても私は承服できません!」
と言って家治は利勝に食ってかかった。

周りの者達はどうなるのだろうとハラハラしていたが、利勝は冷静に
「確かにあなたのおっしゃる通りですね。ご上意だとしても印を押したく
ないというお気持ちはもっともです。でしたら、あなたのご家来に捺印
させてはいかがですか」と言った。

家治はこの答えに満足したようで「そうです、その通りです!どうして
私の印が押せましょうや!」と言った。すると利勝は「ご家来が捺印された
うえで、大事なご家来がなされたことに誤りがないことの証に、あなたが
捺印されるのが適当だと考えます」と続けた。この発言に家治怒るかと思えば、
「いやはや、全くあなたのおっしゃる通りです!帳簿の終わりに私が捺印
しましょう」とあっさり了解してしまった。

こうして頑固者の家治は丸め込まれたので、勘定方は胸を撫でおろしたという。
628人間七七四年:2009/05/16(土) 01:59:16 ID:JrnzXdSw
629人間七七四年:2009/05/16(土) 02:40:37 ID:ZY2dOJow
630人間七七四年:2009/05/16(土) 02:41:40 ID:vkBEPTzY
めんどくせえ・・・
631人間七七四年:2009/05/16(土) 07:45:39 ID:HhNdf4ps
三河だけじゃなくて近江武士もめんどくさかったという話ですな
632人間七七四年:2009/05/16(土) 07:59:49 ID:dmip8jb6
土井も慣れてる感じだなw
633人間七七四年:2009/05/16(土) 08:42:54 ID:RX/5OM5G
理想の上司だな。人の使い方を知っているという
アイツはおれの思う通りに動かないダメだ、で切ってしまわない
アイツはこういう奴だからこう使えばおk、ってのは能力ないと出来ないよな
634人間七七四年:2009/05/16(土) 09:11:18 ID:81Jum663
実社会でも一癖ある人間の方が能力高い場合が多いな。
戦国時代ならなおさらその傾向が強そう
635人間七七四年:2009/05/16(土) 11:37:49 ID:N7hk9jpK
上で島津義弘と中馬大蔵の話があったので、別の逸話を投下。

島津の中馬大蔵重方が家に帰ってみると、嫁や娘が泣いていた。
こりゃどうしたことだと尋ねてみると、年の暮れなのに今夜炊く米もないと。
この言葉に中馬大蔵が一言。

「そんな事で泣くやつがあるか。都合してくる」

と、言って、向った先は、百姓が藩の米蔵に米を納めに行く道。
何と中馬、その道に立ちふさがって、来る百姓に「これから後の米は自分が殿様から貰ったから、自分の家に運べ」
と、言ってのけた。無論、百姓衆は信じないのだが、断ったら切り捨てられる雰囲気だったので、言われた通りに。
中馬は、それらの米を、家の倉に入れさせ、縁に積み上げさせ、屋根裏にまで入れさせた後、焼酎を買って、百姓に充分に振舞った。

さて、収まらないのは藩の役人達。早速中馬の所に行って、米を返すよう抗議するのだが

「拙者は戦場においてはいつも一番槍、一番首を欠かさない代わりに、米は殿様に預けていると思って貧乏に甘んじている。
 飯米がなくなったので、今日は預けていた米を返してもらっただけ」

と、全く悪びれた様子も見せない。とうとう中馬に切腹をさせようと老臣達が評議した所、義弘が一言。

「中馬はしょうがない暴れ者だが、戦場では最も重要な所で活躍する剛の者で、巧妙手柄は数え切れない。
 それほどの者を貧乏にしているのは自分の罪だから、自分が謝るので許してほしい」

と、涙を零して詫び、結局不問になった。
家来思いの島津義弘の良い話とすべきか、中馬大蔵の悪い話とすべきか迷ってしまう逸話である。
636人間七七四年:2009/05/16(土) 12:19:03 ID:KzAaUYG/
>>634
扱い間違えると並程度でお茶濁しやがるが正しく扱うと抜群の働き見せてくれるのとか居るな

ん?俺の知人でもそういうタイプいるが岡崎の出だったよーな…
637人間七七四年:2009/05/16(土) 12:23:38 ID:LrzJ8vOo
>>635
こういう中馬のような人に対する、一方の見解


寺澤志摩守広高の客分に、堀江宗信と言う者がいたのだが、
この人は泉州堺の生まれで、上方の侍に知り合いが多かった。

ある時この堀江が寺澤に、大和の何某と言う侍が、関が原において
見事な討ち死にをした顛末を語った事があった。

この大和の侍、何某と言う者、自分が銭をどれほど所持しているかも、
米がどれだけあるかも知らないという男で、

「真の武士と言うべき男でござった」

と、堀江が言うと、これに寺澤

「そのような者を、真の武士と言うべきではない。
世をうかうかと過ごす、益体無しと呼ぶべきである。
そのような者は、十年も世が治まれば飢えと寒さに苦しめられ、武具ももてないほど
落ちぶれるに決まっている。

当節、人への観察眼や自分の家の経営のことも知らないような者を、よき侍だ、などと言うことが
流行っている。
そう言う人間が運よく戦に当たり、討ち死を遂げられれば幸せ者だと言っていいが、
そんなもの、めくら打ちをして、たまたま当たっただけの話だ。」

そう、批評した。

戦う事しか考えられぬ様な者が武士なのではない。いざと言う時の為にも、自分の家を
きちんと経営出来る者こそ真の武士なのだ。

そんな寺澤広高の武士論。
638人間七七四年:2009/05/16(土) 14:36:19 ID:YldkzTVV
>>637
苦労人の某お兄ちゃん思い出した・・・
639人間七七四年:2009/05/16(土) 16:33:32 ID:3kr+qTeA
寺澤広高に領国経営のなんたるかを説かれてもなぁ。
住民弾圧しすぎで天草一揆を引き起こして、息子の代には改易ってことは自分も同類。
640人間七七四年:2009/05/16(土) 17:24:15 ID:N7hk9jpK
>>639
唐津での寺沢は名君として有名だぞ。天草の場合は飛び地で実入りも低いので、唐津ほど熱心に民政しなかったとも言われているし。
ついでに言えば、寺沢の場合は島原の乱では減封処分だったはず。で、当主がそれを苦に自殺して嗣子がいなかったので断絶。
641人間七七四年:2009/05/16(土) 17:52:12 ID:BYkzEHse
>天草の場合は飛び地で実入りも低いので、
>唐津ほど熱心に民政しなかったとも言われているし。

全く駄目ジャン、地元の身贔屓で名君と呼んでるだけかよw
642人間七七四年:2009/05/16(土) 17:56:16 ID:fz3AcXpM
じゃあ次回作はランス8 〜オレ様、逝っちゃったんです〜 で、

選択によって「極楽行き」「地獄行き」の2つのストーリーに分岐する
643人間七七四年:2009/05/16(土) 18:35:13 ID:3kr+qTeA
>>640
天草を弾圧して搾り取ったおかげで唐津は繁栄したとも言われているらしいよ。
その結果があの一揆につながったとの見方もあるみたいだし。
少なくとも鈴木重成の切腹事件の内容を見る限り、寺澤氏はまともな政策を行っていないことは明白。
644人間七七四年:2009/05/16(土) 19:05:37 ID:bfgefsht
ただ、武士に経営の才覚が必須だと説かれる風潮はあったようですよ

大友家臣・元重鎮頼が子孫に遺した家訓によれば
「無筆の者は土地争いや裁判に負けるぞ!読み書きは必須!」
「当世に古い役職や名田にしがみついていても、没落するのがオチ」
「日頃から利殖に心がけろ」
「下作職(耕作地所有権)を買い集めるように、大いに努力せよ」
「領主に頼りきりだと、次々に負担を押し付けられるぞ。新たな負担にはとことん反対せよ」
と実に世知辛い言葉を連発

心がけのいい話、ということで
645人間七七四年:2009/05/16(土) 19:25:08 ID:vkBEPTzY
>>640
せいぜい二万石がいいとこの天草を四万二千石で徴税したのは広高じゃん
646人間七七四年:2009/05/16(土) 19:32:10 ID:LrzJ8vOo
関ヶ原の決戦が終わった後

徳川家康は自分に味方した諸大名と、大阪において対面したのだが、その中に一人、
三成の地元近江において、三成の誘いをはねつけ西軍と対立したにもかかわらず、
出仕をしてこない者がいた。

近江の名族の末、六角義郷である。

そこで家康は近江の義郷の元に使者を送り、急ぎ出仕するように言ったが、
義郷は、このような書状をもって返した。

『ご使者を派遣いただき、真に過分の至り。弓矢の面目、これに過ぎたものはありません。

ですが、内府の仰せに従い、義郷が只今まかり出ましたならば、世間は三つの事を
噂するでしょう。

一つは、三成達が秀頼公の頼みであるからと、北国表に軍勢を出せと言った事を了承せず、
これに軍を出さなかった事、これを世間は、我々が臆病者だからだと言う事でしょう。

次に、我々は今まで内府とは、殆ど関係を持ちませんでした。にも拘らずご恩に預かれば、
時の勢いに従う追従者と言われることでしょう。

三つ目に、我が家は(秀次事件に連座したため)浪々の身であります。それ故に世間は、
食料も乏しく難儀の余り内府にへつらったと、そう申すでしょう。

大海は防げても、人の口は防ぎがたしと、古人も言われたそうです。
そのようなわけですので、家の名を惜しむため内府の命に従わざること、どうかご理解いただきたい。』


この書を読んで家康は、
「六角家の人々は、今の世の聖人とも言うべき方々だ。」

と、深く感動したそうである。


欲得の世間において、家の名誉のみを考えた、ある名家のお話。
647人間七七四年:2009/05/16(土) 19:32:31 ID:2PR8y5RU
まぁ一揆に参加しなかったら焼き討ちされるんだから参加せざるを得なかったんだろうな
648人間七七四年:2009/05/16(土) 21:50:58 ID:emU9y0Lj
>>646
丁度勝った勝った恩賞恩賞と目の色変えてる連中に取り囲まれてるところだったから
余計心を打つものがあったんだろうな
649人間七七四年:2009/05/16(土) 23:15:09 ID:KSJibq/C
>635葉隠にもあったねえ。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-612.html

 そろばん勘定の才覚はないけど、強剛のもののふで主君から目を掛けられている武士のテンプレなのかもね。
650人間七七四年:2009/05/16(土) 23:22:18 ID:GrgVouV9
>>644
何故かは知らんが、熊谷直實という違う時代の武士の事が脳裏に浮かんだw
651人間七七四年:2009/05/17(日) 03:17:49 ID:HxfXEmst
熊谷直実もめんどくさい人柄だったようだが、出家してよかったような
652人間七七四年:2009/05/17(日) 12:55:47 ID:hHYjvdce
熊谷直実というか、もうあの時代の鎌倉武士がみんなそうだもんね・・・w
和田義盛とか、北条義時とか・・・

ちょっとスレチになったようだけど、家康さんとこの三河武士というのは、この鎌倉武士の性格を色濃く残していたのかもね
653人間七七四年:2009/05/17(日) 15:43:48 ID:i7XNibYG
三河と言えば一色だからね!
654人間七七四年:2009/05/17(日) 15:45:30 ID:idtIRMUM
承久の乱以来、足利氏の根拠地の一つでもあったしね>三河
655人間七七四年:2009/05/17(日) 16:20:33 ID:LA8cSQMg
キングオブめんどくさいというと、安藤直次なのか?
池田親子を討ち取りながら、「別に出世したくてぬっころしたんじゃないんだからね!」ってツンデレするくらいだから。
656人間七七四年:2009/05/17(日) 21:54:32 ID:idtIRMUM
徳川秀忠が死ぬ、前年のことである。
秀忠、既に病により、体調を著しく悪くしていた。

その日は十月朔日(ついたち)、玄猪の祝いの日であった。
夕刻より、御家人や諸大名が登城する。秀忠は病身を押して、これに出向こうとする。
しかしこの時秀忠はもはや、脇差を差すことも出来ず、ただ傍らに置くのみであった。

これに左右の者たちは秀忠を諫めた。
「そのようなお体では、もし出仕の者たちの中に、乱心者でも出た時、身を守るため脇差を抜くことも
出来ないではありませんか!どうかここでお休みください!」

これに秀忠は、言う
「わしが今夜病気を押して出向くのはな、ただ、御家人や諸大名に、わしの病気を
見せるためなのだ。
もはや回復もおぼつかなく、これが今生の別れにもなるであろう。そう考えてのことだ。

それに、何かあればわしの身は、おぬし達が守ってくれるさ。
わしにはお前達のほかに、身を守るすべなど持っていないのだからな。

天下は、天下の天下だよ。誰にも、天下を欲しい侭にすることはできない。
何事も、天命に任せるまでだ。」


秀忠の逸話は時々、必死に良き天下人であろうとしている所を切なく感じる事がある。
そんな、最後まで生真面目だった、秀忠のお話。
657人間七七四年:2009/05/17(日) 22:13:05 ID:aUJCX3eH
秀忠お疲れ様…
658人間七七四年:2009/05/17(日) 22:47:46 ID:GqRIHICT
日本史でも五指に入る偉大な初代の次ってのは大変だったんだろうなぁ。
秀忠は関が原でヘマしたからいろいろ言われただろうし。
659人間七七四年:2009/05/17(日) 22:51:02 ID:fdkplKwQ
今日朝起きたらテレビで小宮山友晴の件を5分番組でやってた。
※概要はまとめにあり
調べてみたら子供はそれのおかげであいつの子供ならばと登用されているんだな
土屋さんとこもそうだし
660人間七七四年:2009/05/17(日) 23:21:07 ID:6V7c7bdu
>>656>>658
まあ、「偉大な2代目」だよな・・・正直このスレを知らなかったら、
秀忠のイメージは家康と家光の間に挟まれた影が薄い人で終わってたよ。
661人間七七四年:2009/05/17(日) 23:28:35 ID:tDzksBE4
創業は難く
守成はさらに難し

ってことか
662人間七七四年:2009/05/17(日) 23:29:50 ID:fdkplKwQ
2代目は影が薄くなりやすい
3代目は良くも悪くも目立つ
663人間七七四年:2009/05/17(日) 23:31:35 ID:V/V9jIN3
>>662
8代目も目立つよね
664人間七七四年:2009/05/17(日) 23:46:05 ID:HxfXEmst
室町の8代めは言わずもがな
鎌倉の8代将軍はお飾りだが、執権8代目の時には元寇があったもんな
665人間七七四年:2009/05/18(月) 00:12:19 ID:y1IJkotz
>>659
小宮山氏にまつわる話をしよう。

ある日、徳川家康は武田の旧臣、小宮山昌親を重職の奉行に任じた。
昌親は内膳友晴の弟である。家康は昌親に

「お前はまだ若いが、重職である奉行に任じる。お前の兄の内膳は
武田勝頼の側近だったとき、同僚の讒言で蟄居した。しかし勝頼の
危機を知ると勝頼のもとに駆け付けて主君とともに討ち死にした。
まこと武士の鏡だ。故にお前を重職につけるのだ。

私は内膳のあとをつぐ子がいないことを残念に思っておった。
だが幸運にも、その弟であるお前がいたので一家を興した。

お前を奉行に任じるのは内膳の忠義に報いるためである。
そのことを絶対に忘れるな。決して傲慢になってはならない。
すべてお前の兄のおかげだと思ってよく奉公するのだぞ」

と言って友晴の偉大さを説いたという。
家康は武田の旧臣たちを多く抱えたが、昌親もその一人だった。
666人間七七四年:2009/05/18(月) 00:15:09 ID:jDhGqYBQ
家康もちょっといい話が好きなのだな。
667人間七七四年:2009/05/18(月) 01:11:33 ID:4OnXHcQn
>>652
ごめんなさい…
駅前の直実像にまたがったことがあります…

卒業アルバムはクラス全員で直実像を囲んで撮りました…
668人間七七四年:2009/05/18(月) 08:34:44 ID:VHcoh26E
>>667
アッーー!?
669人間七七四年:2009/05/18(月) 08:48:59 ID:bssJ+kyH
670人間七七四年:2009/05/18(月) 08:55:10 ID:YkRhnnoi
667は妻高生に間違いないお
671人間七七四年:2009/05/18(月) 15:56:08 ID:whfIk2N8
>>669
背景が「武富士」「ビデオ鑑賞」「テレクラリンリンハウス」なのもなんだかな…。

ビデオ鑑賞ですっきりして賢者モードで帰っていく人みたいに見える。
672人間七七四年:2009/05/18(月) 16:11:42 ID:zHRvXR+Q
扇が心なしか満足度をあらわしているようだ…
673人間七七四年:2009/05/18(月) 20:48:05 ID:U6N2rewj
細川忠興と軍神、不敗の秘密


戦闘を指揮すること数百回、自ら陣頭に立つこと七十余度と言われ、生涯不敗の伝説を残した上杉謙信公。
世は太平になり既に伝説となりつつある謙信についてあるとき細川忠興は玉虫対馬と言う者に謙信の人となりを尋ねた。
玉虫いわく、
「あるとき謙信方より斥候を出したところ、今日はよい斥候が出たと人々は口々にいい、あとになって聞いてみると、その斥候は謙信公自身でした」といった。
忠興が不思議に思い、良い斥候、悪い斥候とは何によって分かるかと尋ねると、玉虫は小姓をご覧になさいといふ。
「その立ち振る舞いがすっかり板につき身のこなしが出来ている者と、初心の者とはすぐにわかりましょう。斥候も同じです。巧者か巧者でないかふるまいで分かります」
つまり、忠興が神懸かり的な戦の天才と思っていた謙信は必ず自身の足を使い、目で見て戦術を立て必勝の策を練っていたのだ。
これには忠興、名将と言われる人はかくあるべしものか。と深く関心した。
674人間七七四年:2009/05/18(月) 21:00:58 ID:9knVbyNx
玉虫って、(少なくとも家臣相手には)人の出来てる家康にしては珍しく憎まれて
「逃げ虫」呼ばわりされたあの人?
675人間七七四年:2009/05/18(月) 21:40:10 ID:4y6VTh7L
上杉ってなぜかこういう「別れても好きな人」が多いよね

玉虫対馬は親の代に上杉を追放されてるのに謙信持ち上げてるわけだし
改姓カワイソスな杉原親憲の一族の杉原親清は上杉出奔したのに上杉マンセーな本書いた
関ヶ原前に裏切った藤田信吉まで川中島の戦いについて信玄マンセー的立場の
初鹿野伝右衛門に食ってかかった逸話がある

謙信の将としてのあり方自体に人を引きつけるものがあったのかもね
676人間七七四年:2009/05/18(月) 22:52:35 ID:bssJ+kyH
ある時堀秀政の陣において、荷駄奉行と荷を運ぶ者達との間に、荷が重すぎる、いやそうではないと、
荷の重さに付いての論争が起こった。

これを聞いた秀政、考えた。
その荷を持つと、そのまま一里の道を往来してきた。解った。
帰って来て荷駄奉行を呼ぶと

「人夫の者たちが、この荷物は重くて運べないと言うのは当然だろう。
わしは人夫の者達よりも体格も良く体力もあるはずだが、この荷を持って一里を歩く事が
出来なかった。これを人夫の物たちに持てと言うのは無理がある。
荷を軽いものに作り直すように。」


またある時の事

堀秀政、軍勢の移動の時に、自分の馬の後ろに、旗差の者たちがついてこれず、いつも遅れる事を
不審に思っていた。

そこで秀政、考えた。
自分で旗をさして馬の後ろを歩いてみた。解った。

「わしは足の速い馬に乗っているのに、人の進むのが遅いと勘違いしていたのだ!」

そこで、家中でももっとも遅いと言われる馬に乗り換えた所、旗差の者たち、今度は
少しも遅れることなく着いてきたそうである。

このように秀政は、何事も自分で、納得するまで確かめる事を専らとしていたので、
名人久太郎と呼ばれたのだそうである。
677人間七七四年:2009/05/18(月) 23:01:57 ID:xC//Nt1Q
>>675
しかし上杉には400年以上も景勝を憎んでて
あることないこと触れて回るとある神社の神主もいるわけで…
678人間七七四年:2009/05/18(月) 23:06:38 ID:cUpbYc2l
>>676
はじめのエピは既出だったおもうが後はよかったな
679人間七七四年:2009/05/18(月) 23:23:36 ID:k6tmBpzD
集団行動は駄目な奴を基準に考えろって事ですな
680人間七七四年:2009/05/18(月) 23:25:23 ID:9McaQG4J
>>678
うーん、はじめのエピも似て非なる物じゃないか?
いや、元の話は一緒なのかもしれないけど
681人間七七四年:2009/05/18(月) 23:38:49 ID:2QZDq7Xl
同じ逸話でもいいとおもうが
別の視点、別の切り口ならおれは大歓迎だ
682人間七七四年:2009/05/18(月) 23:42:09 ID:yhl/w5xc
蒲生さんとこといい堀さんとこといい長生きして欲しかった殿様だよなぁ
683人間七七四年:2009/05/18(月) 23:55:14 ID:xjcOnvKy
やっぱり早死にはラスボスかその眷属の仕業なんかのう・・・
684人間七七四年:2009/05/19(火) 00:30:53 ID:C9bGH9h4
大坂夏の陣の時、成瀬正成は徳川義直の付家老として従軍していた。

一方、徳川家康は茶臼山本陣から下を眺めて、敵勢がいたのを
確認した。家康は敵勢を討つべく息子の頼宣、義直を呼んだ。
しかし義直がなかなか到着しない。苛立った家康は伝令を差し向けた。

尾張勢のもとに来た伝令は家康の
「正成め臆病風に吹かれたか!なぜ早く義直と一緒に来ぬのか!
さっさと来いと伝えてこい!」
という言葉をそのまま、しかも大声で伝えたので周りにいた者にも
聞こえてしまった。

これを聞いた正成は間髪入れずに
「なんと、私が臆病だったことなど一度としてないわ!あなた様こそ
三方ヶ原で武田信玄を恐れて腰を抜かされたであろう!」
と怒鳴って反論した。

その後、正成は家康に
「義直様が遅れられたために、御前は伝令を通じて私をご批判
なさいましたが、私は心やすくお仕えしてきましたので、辛辣な
ご批判をしてくださって結構です。

ですが、御前のお言葉を家臣たちの前で、そのまま大声で伝える
ような考えの足りない人間に重要な伝令を任せるのは如何なもの
でしょうか。義直様はまだお若く、私を頼りになさっております。
ですから、私のご批判は慎重になさってください。多くの家臣たち
の前で臆病者と言われては、私の面目が潰れてしまいますので」
と申し上げた。

家康は
「お前がわしを臆病者と言ったことは全く気にしておらぬ。お前は
弓矢の道というものを少しはわかっているな」
と言ったという。

義直は自分を頼りにしてるから、義直を不安にするような批判は
やめてくれってことかな?
685人間七七四年:2009/05/19(火) 00:47:58 ID:G4FulQ1D
これはちょっと間が悪いなw
686人間七七四年:2009/05/19(火) 00:51:56 ID:ORTO/opD
>>684
既出じゃないっけか

それと別に、今まで何度か投下してます?
凄く読みやすくて好きです
687人間七七四年:2009/05/19(火) 00:54:01 ID:9/F4EZJL
なんだかんだといって、意外と影の薄いのが後北条家第2代の北条氏綱。
彼は戦でも確かに強かったし、オヤジの早雲以上に領地も増やした。
だが、この人は内政にも優れていた。
というより、北条家の場合はなぜか内政の方が有名だったりする。
さて、北条氏綱が行った戦国時代内政の大きな事績とは、
1検地の実施(但し相模国内のみ)
2豪族の治外法権の否定
だった。ちなみにこの頃は、戦国大名だって親戚一門衆の権力が強かった時代である。
領主の権力強化と財政基盤をはやいうちに確立しようとしたのだ。
さて、そんな氏綱には一つの頭痛の種、いや、北条家全体に関わる頭痛の種がいた。

コイツである→北条氏康

え?と思った人もいるだろう。北条氏康は英雄じゃねぇか!というのもわかる。
だが、どうも若い頃はよく言えばやんちゃ、悪く言えばヤンキーだったらしく、
一時期は、血のつながりはないが器量のある「地味黄八幡」北条綱成を婿養子にして
跡継がせようかと本気で思った事もあったらしい。
でもそうはいかないのが戦国の世。氏康がごく普通に家督を継ぐ後継者となったが、

お父さんはマジで心配だった。
(長くなりそうなので続く)
688人間七七四年:2009/05/19(火) 00:54:04 ID:IZuiZEt3
>>684
親しくて気安いからって安易な指揮官批判はするな。
もしくは、言われたからってそれをそのまま大声で呼ばわるようなボンクラ使者を使うなってことじゃないかな?
軍隊なんだから兵に指揮者の能力を疑わせるのは統制が取れなくなる基ってことで。
689人間七七四年:2009/05/19(火) 01:00:57 ID:G4FulQ1D
もう少しうがった見方をすると、
機嫌の悪さのゆえに出た罵声と軍事上の命令の区別を使い番ならつけるべき、という辺りかね。
690人間七七四年:2009/05/19(火) 01:13:56 ID:9/F4EZJL
>>687の続き
さて、氏康がなんで父親の氏綱の頭を抱えさせたのかは記録に残ってないのでわからないが、
まぁ、信玄とか大内義隆にあるような和歌や芸事や京都趣味に走ったのかも知れない。
でも、関東に大領をユウする北条家当主がそれじゃあまずい。いろんな意味で。
そこで、氏綱は息子宛にいろいろな訓戒状を書いて武将としての心構えやスローガン、
統治のあり方を く ど い くらいに説いた。
幸いにもこれは効果を発揮して氏康は戦国時代きっての立派な当主となったのだが、
今度は・・・・

お父さんが心配性になっていた。

でも、ついに爺様になってとどめの五箇条の訓戒状を書いて渡した。
これだ。

一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、
  後世の恥辱を受けるであろう。
一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。
一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。
一、倹約に勤めて重視すべし。
一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。

面白い事に、初代戦国謀略王の早雲の息子にしては第一に掲げたのが「義」である。
義理は大事にしなさいよって、あんたの父親はその義理を破って小田原に突撃したジャンといいたいが、
氏綱にとってはとても大事な事だったようだ。
他は見てもわかるように早雲が実行していた内政をそのまま受け継ぐような内容である。

これは「北条氏綱公御書置」として大事に残され、氏康の政治指針の根本となったという。
初代は暴れん坊でも後に続く者がどういう政治方針を持っていたか、それをどう次の世代に受け継がせるか、
それを怠るといつの世の中も混乱をしますな。ちなみに北条家は秀吉の小田原征伐を除き、
謀反を犯した事例はなかったという。
691人間七七四年:2009/05/19(火) 01:16:51 ID:C9bGH9h4
>>686
ええ、何度かしてますよ
あなたが言ってる逸話が俺の投下したものかはわかんないけど
692人間七七四年:2009/05/19(火) 01:17:44 ID:G4FulQ1D
寝る前に一席。

安藤直次と土井利勝 家康駿府時代のお話。

当時直次は既に紀州付家老として働いていたが、
ある時家康が利勝に「ちょっと直次の元で働き方と言うものを学んで参れ」と仰せになった。

で直次に近侍していると、ある時頼宣の小姓が
「若様の云々の時間をずらしたいのですが」と申すので、直次は
「よかろう」と簡単に許可した。

ところが数日後、また小姓が来て
「やはり都合が悪いので元に戻したいと存じます」といったところ、直次は
「それはよろしくあるまい」と却下した。

日を改めて、また同じ小姓が
「よく考えてみたのですがやはり元の方が都合がよろしいと存じます」と言ったが、今度も直次は
「いや、よろしくあるまい」と却下した。
利勝が近くのものにそれとなく聞いてみると万事こんな調子だと言う。

また日を改めて、またまた同じ小姓が
「同僚とも相談してみましたがやはり元の方がよろしいと存じます」と言った。しかし直次は、
「よろしくあるまい」と却下。

しかし小姓も諦めず、
「尚も相談してみましたがやはり今の遣りようでは都合が悪くございます」と言上してきた。
今度は直次、「ならばよろしかろう」と許可したと言う。

まあ例によって細かく指図しちゃうと部下が育たないと言う話なのですが、絡みが結構珍しいと思ったのでここに記す。
693667:2009/05/19(火) 01:25:37 ID:dk9C494B
>>669
それだw

>>670
残念、熊高だw
熊谷は戦国期の逸話があんまりないんだよなあ。隣の忍ばっかし有名で。
694人間七七四年:2009/05/19(火) 01:32:47 ID:9/F4EZJL
>>693
あるよ。吉川元春の奥さん。顔が・・・・

この奥さんの実家の熊谷家は熊谷直実の息子、直家(平家物語に出てますね。)が
地頭としてもらった安芸の国の領地に根付いた子孫ですよ。
695人間七七四年:2009/05/19(火) 01:47:20 ID:9/F4EZJL
俺も話しずきだから、熊谷つながりで吉川元春の嫁取りの話を。
既出だったらゴメン。

元春がまだ毛利元春を名乗っていた頃だったと思うが、年頃になったので嫁さんが欲しいと考えた。
元春「どこにしよ?俺の嫁さん、どこからもらおう?」
元春は考えた。毛利家の次男坊とは言え、家を支える大将になるのだから。
そういえば姉は宍戸家に嫁に行ったな。確か宍戸家は・・・・かつて敵対していたっけ。
でも、姉が嫁に行った後は毛利と仲良くなって、その上、宍戸の義兄さんはなんだかんだといって父上を助けて
ものすごく信頼されていたなぁ。(後に宍戸家は毛利家親族衆筆頭になる。)
じゃぁ、かつて敵だとしても強い人の娘をもらえばきっと助けてくれるぞ。って、そんな家どこにある?

あったのである、熊谷家が。ここの当主は豪傑で有名だった。確かに敵でもあった。
実は熊谷家の先代当主は安芸守護職武田家と共に毛利元就と戦って討ち死にしていた。
対立はしているが、この頃は何とか毛利近在は落ち着いているからうまく話せばまとまるかも知れないし、
確かに娘がいた。
でも、その娘に大問題があった。

(続く)
696人間七七四年:2009/05/19(火) 02:05:52 ID:9/F4EZJL
>>695続き
その頃、熊谷家でもその娘のことが大問題になっていた。
顔である。器量は戦国時代の夫人の基準はクリアーしていたようだが
なんと言っても顔に問題があった、醜女すなわちブス。婿のなり手無し。
これには熊谷家も困っていた。結婚相手がいない=同盟先無しである。
ヘタすれば熊谷家の浮沈にも関わる。

という事に元春が気付いた。そう、彼は脳内筋肉野郎ではない。
後年は戦陣においても戦の傍ら源氏物語の研究にいそしんだ男である。
彼はこう考えた。

熊谷家の問題の娘と結婚する→熊谷家恩義に感じる→熊谷強い→毛利と俺を助けてくれる。

こんな後ろ盾と同盟相手はいない!早速申し込んだ。それもオヤジの元就に無断で。
熊谷「君のところの父ちゃんが喧嘩した事と内の当主を討ち取った事は知っているよね?」
元春「がっつりと。でも、結婚したいんです。だからすっ飛んで申し込みにきました。」
熊谷「・・・・・ウチの娘・・・・しっているよね?」
元春「知っていますよ。知った上で申し込んでます。」
熊谷「・・・・・ありがとう、おじさんはうれしいよ。でも、一応、お父さんには言ってね。」

こうして、事後の手続きがどうなったかは別として結婚が成立したが、よっぽど失礼な事があったのか、
オヤジの元就は詫び状をしたためた。そこには「犬のような元春」を頼みますと入れて。

後年、元春の考え通りに熊谷家は毛利家とともに戦国動乱を戦った。一度も裏切ることなく、元春と共にあった。
元春は元春で件の奥さんとは仲良く暮らした。側室を一人も持たずに。
戦国時代が終わった後、吉川家も熊谷家も家を残した勝ち組となったのである。

独身諸君(俺も含む)。嫁探しには場合によっては顔以外に後ろ盾も重要かも知れませんぞ。

なお、元春の奥さんがブスというのは現代でも研究の余地があるとか。
697人間七七四年:2009/05/19(火) 02:26:35 ID:1O5AicRQ
>>696
三兄弟そろって正室と仲睦まじかったんだよな毛利一統。

家の内のことを切り盛りして問題なく元春を支える器量があったんだから、
あとはもうアバタモエクボというか蓼食う武士は贅沢だ!というのか
698人間七七四年:2009/05/19(火) 04:07:31 ID:2nkDbav4
>>695-696
くさくさすることがあったんで、ちょっとどころかものすごくいい話に聞こえる。

打算があったとしても、目的を成した後でもお飾りにせず、その後も仲良く暮らす元春の度量に惚れた。
一緒に過ごすうちに奥方の気立てや裁量、それこそどんな顔でも強く頑張る生き様とかに惹かれたとか、
顔もなかなか味があってこれはこれでかわいらしいわい愛い奴め、と情が移って幾星霜とかなのかな。
まぁなんだよ、後ろ盾の無い顔がアレな人はどうしたら良いんだろう(´・ω・`)

ところで、器量には人の器と女性の容姿、二つの意味があると思ってたんだが、
器量はクリアしていて顔は…とあって、ちょっと考えてしまった。
一般的なのは器の方なのかな。文の流れで判断しろってことだよね、ごめん。
699人間七七四年:2009/05/19(火) 07:56:45 ID:vJHRUAYU
>>696
元就の詫び状は一種のフォローじゃね?多分

遺恨のある相手でもあるし(というか元就が当事者)そんな相手に
「お前の娘ブサイクで相手いないんだろ?困ってるみたいだし嫁にもらってやるよ」
としか解釈出来ない、お世辞にも上手いとは言い難い元春の行動

そりゃ下手に出るわな元就も
700667:2009/05/19(火) 10:04:06 ID:dk9C494B
>>694
子孫が安芸熊谷氏になっていることは地元だから有名。
熊谷市に戦国期の逸話が少ない、と言いたかったのだw


>>695
俺の記憶が確かなら、元春は吉川継いだと同時に元服したから毛利元春とは名乗ってないんじゃなかったかな?
それとも隆景の方だったかな?
701人間七七四年:2009/05/19(火) 11:37:06 ID:6wvu4YG+
>>695
すまん、行田の方の忍(おし)か。俺思いっきりこう読んだんだ

>隣の忍(しのび)ばっかし有名で。→毛利か?(俺の理解)

702人間七七四年:2009/05/19(火) 12:58:46 ID:CyPbVDTK
美人は三日で飽きるという事はブスも三日で慣れるという事ですかね
703人間七七四年:2009/05/19(火) 14:26:53 ID:agNH7Z8m
ブス専だった可能性もある 
錦帯橋で吉川元春の像を見たけど なんかお似合いな気はする
704人間七七四年:2009/05/19(火) 15:03:50 ID:01mmRi2V
小西行長は釜山に上陸、明に行くから道を貸せと朝鮮側に伝えた
釜山城を守っていた武官鄭撥はこれを拒否、交渉は決裂した
これにより戦闘となり鄭撥は初め打って出て迎撃しようとしたが銃声にビビって城に戻り守りを固めた
しかし兵力差はいかんともし難い上に
日本軍は鉄砲を撃ってくるのに対して朝鮮軍は弓で応戦するほど軍備に差があった
次第に劣勢となり部下が「一旦逃れて援軍がくるのを待ちましょう」と進言するも鄭撥はこれを拒否
南門の上で「最後まで闘え!」と鼓舞している最中に鉄砲に撃たれて戦死、釜山城は半日で落城した

釜山城を落とした行長はそのまま進軍、もう一つの要所である東来城に進軍する
東来城を守るのは文官出身の宋象賢
彼は着任して1年にも満たなかった
近隣の蔚山の将が共に闘おうと駆けつけるも敵が大軍である事を聞くと逃走
慶尚道の巡察使も晋州から援軍に駆けつけようとするもやはり大軍である事を聞くと到着する前に晋州に戻った
援軍の望めない絶望的な状況で東来城に日本軍が到着
行長は「戦則戦矣不戦則仮我道」(抵抗するか道を開けるか)と朝鮮側に伝えるが
宋象賢は「戦死易仮道難」(戦死は簡単だけど道を空けるのは難しい)と返答しこれを拒否
日本軍は戦いと進軍で疲労していたが行長は配下に
「お前らを休ませたいが敵の準備が出来ていない今の内に攻めれば勝てる
 逆に敵の準備が出来てしまってからでは援軍を呼ばないと無理だろうね
 援軍呼んだら俺たちの手柄が減っちゃうぜ」
と鼓舞して東莱城を攻め立てた
たちまち朝鮮側は劣勢となり日本軍に城壁を崩されて城内に侵入してきた
宋象賢はもはやこれまでと礼服に着替え漢城に向かって敬礼、辞世を残して討ち取られた
宋象賢の忠義に行長は感服し丁重に埋葬、既知であった宗氏の家臣が碑を建てた
後に宋象賢の棺は移され釜山城で戦死した鄭撥と共に祀られているという

情けない面が目立つ朝鮮軍だが気骨のある人物もいたのだ
705人間七七四年:2009/05/19(火) 15:32:16 ID:z/jHTRo+
>>704
殆ど居なかったのがあの国の悲劇だな
706人間七七四年:2009/05/19(火) 16:25:01 ID:yx2lhena
>>695-703
父親のおれは領地も武勲もないからな
人並みの器量に育って欲しい<娘
707人間七七四年:2009/05/19(火) 16:36:36 ID:8CQzy6d3
多少いても無理
カンコウが
「たとえ張、韓、劉、岳を再び蘇らせたとしても、この状態では逃げ出す以外ない」
と言ってる
日本と朝鮮じゃ地力が違いすぎたのと社会が纏まって無さ過ぎた
末端が気張っても上がグダグダだと勝ちようがない
708人間七七四年:2009/05/19(火) 16:56:49 ID:iUFjJjsM
ただせさえ、影の薄いさえない長男坊こと毛利隆元の意外に偉大なお話

毛利元就には、ご存知の3兄弟がいる。オヤジの戦国謀略大王毛利元就の子は
次男:負け知らずの吉川元春、三男:調略王子の小早川隆景、そして・・・・・

影の薄さは日の本一の長男、毛利隆元

である。とにかくこの男は影が薄い。手柄は立てるもオヤジが偉大すぎる。
軍を指揮するにも元春の方が有名だ。調略やれば隆景の口には絶対に負ける。
さて、毛利の尼子攻めもついに佳境に入り、増援が必要になったので隆元が援兵を
率いて向かった途中で和智誠春の饗応を受けた後に

ぽっくり死んでしまった。(食中毒らしいが死因が未だはっきりとはわかっていない。)

本当に日の本一影の薄い男の最後はあっけなく「ぽっくり」である。
その死後に毛利家に大事が起きてしまった。
元就「尼子攻めを続行する。ついては、元春は徴兵を、隆景は調略を担当しろ。国人からの援軍
  は宍戸の婿殿に交渉を頼もう。謀略と兵糧と金子はワシが担当しよう。隆元が死んだからワシが行うよ。
  保証人の名義は全部ワシの名前で良い。隆元より信用はあると思う。隆元でも出来たんじゃ。
  お前達でも大丈夫だろう。」
元春「わかりました。」(今まで兄者がやっていたから簡単じゃろう。)
隆景「わかりました。」(調略の金子は兄者がやっていたがオヤジでも出来るだろう。)
宍戸の婿殿「わかりました。」(国人の交渉は隆元義兄上がやっていたが、私でも大丈夫だろう。)

その見込みが甘かった事を思い知るのはすぐであった。

続く
709人間七七四年:2009/05/19(火) 17:31:11 ID:iUFjJjsM
>>708続き
数日後
元就「あの頼んだ件はどうなった?うまくいったろう?」
元春「兵が思うように集まっていません。(大汗)」
隆景「調略は何とか進めておりますが、『保証交渉』で困難しています。(大汗)」
宍戸「国人の交渉が困難を極めております。出兵の出し惜しみが・・・(大汗)」
元就「なぜ?ワシの名を使ったろう?うまくいくはず・・・何じゃ?」
家臣「兵糧及び予算調達に関して商人から返答が来ました。」
つ『融資はご希望額の6割が限度です。兵糧は掛け売りではなく現金決済をお願いします。商人某より』
        元_就
       /⌒  ⌒\         ━━┓┃┃
      /(  ̄)  (_)\         ┃   ━━━━━━━━
    /::::::⌒(__人__)⌒:::: \         ┃               ┃┃┃
   |    ゝ'゚     ≦ 三 ゚。 ゚                       ┛
   \   。≧       三 ==-     
      ゙ヽ, ,__    ,. -ー"ヽヽ
元就「な!?何じゃこりゃー!ワシの名前はダメなのか?あそこは隆元の生きていた時はすぐに貸してくれたぞ!」
一同「実は・・・皆が言うのです。『隆元様が生きていたら何とかするのに。』と・・・・」
元就「ワシの方がネームバリューが上のはずではないか!?」
一同「あんたが三度のメシより謀略好きだから、一番信用無いっちゅうねん!」

『毛利隆元が死んだ』

たったこれだけの事なのに元就も生きているのに、世間では、思いも寄らない事が起こっていたのである

「毛利家に対する信用不安」 

財政を得意としている人ならわかるかも知れないが、『信用』が重要である。
財政基盤がしっかりしているから税金が入り、投資(戦国期は軍事)、公共事業(石見銀山開発や中国との交易)
が出来るのである。そこに必要なのは財政を理解するトップとその信用である。
一気にそれが無くなった。そして毛利家には財政困難(信用崩壊)が来ていた。
金がなければ国人との交渉も戦費調達も調略も元就の老後の楽しみの謀略も何にも出来ない。
今までオヤジと他の兄弟が戦争を安心して出来たのも隆元のくれる「お金(予算)」の上でやっていたのである。
武士の価値観では絶対にはかれなかった隆元の価値だが、世間一般の商人や国人は隆元をこう見ていたのだ。

歩く信用手形(それもプラチナカード級の信用)=毛利隆元

その後毛利家は財政難に陥ったが、何とか立て直した。無理矢理でも何とかした。
よほど大変だったのだろう隆元死後に書かれた元就の手紙にはこう書いてあった。

「隆元が生きていた頃は心強かった(隆元候ツル時ハ世上ノオソレモスクナク候テ罷リ居リ候)」

ちなみにオヤジの元就は隆元が死んだとき三日三晩泣いたとか。
そりゃ泣くわな。
元就「隆元ぉぉぉぉぉぉ!誰がワシの隆元を殺したぁぁぁ!打ち出の小槌がいなくなったぁぁぁぁぁ!」
710人間七七四年:2009/05/19(火) 18:03:14 ID:cIJ7CrBB
それにしてもなんで隆元にそれほどの力があったのか

と思ってしまうのもさえない地味キャラと言うイメージに毒されてるからなのかな
711人間七七四年:2009/05/19(火) 18:04:00 ID:cYzJX6yU
ガチホモだったんじゃないか
712人間七七四年:2009/05/19(火) 18:47:44 ID:bCvD5d99
俺は隆元を過小評価していたようです
713人間七七四年:2009/05/19(火) 18:51:14 ID:ORR5l38L
いつも親父から説教されてるせいでイジケちゃって、
「早く死んで楽になりたい」とか言ってたらしいけどな、降元さん。
714人間七七四年:2009/05/19(火) 19:01:36 ID:JUT0ojx1
あの人たちにはついていけねーよとか我が身可愛い一般人達を影でフォローしてたんじゃないだろうか
ゴーイングマイウェイな人々と一般人の調整役として疲れ果てて楽になりたいと・・・
715人間七七四年:2009/05/19(火) 19:06:37 ID:f6Fit6pX
隆元は書状と実際が、かなり別人格。
716人間七七四年:2009/05/19(火) 19:09:58 ID:AHbW0ZFy
身内に宛てた手紙には普段他人には見せられない聞かせられない弱みやぼやきや
愚痴などが出てくるもんだ
717人間七七四年:2009/05/19(火) 19:19:07 ID:03EWVm0U
>708-709うぃ、dクス

お兄ちゃんシリーズも、まとめスレかなりログが増えたなあ。
真田信之と(総領息子なのに地味な)お兄ちゃんシリーズ、
織田信忠や徳川秀忠と(先代が偉大すぎる)二代目シリーズで被ったり混ざって「雑談」カテゴリーに入ってるのが多いが)
……あと長生きネタなw

>715
早々と陶晴賢との対決を覚悟完了して元就までその気にさせたり、
毛利大友の紛争で幕府の調停を突っぱねたりね。

いい話/悪い話スレに来るようになって、よく知らんかった隆元ネタたくさん読んだわ
718人間七七四年:2009/05/19(火) 19:52:05 ID:pz6SPym7
隆元は平清盛の長男(こちらも結構な苦労人)に自分の姿を重ねていたらしいね。
偉大な親父を持った二代目ってのはいつの時代も…
719人間七七四年:2009/05/19(火) 20:00:15 ID:YP56sxRS
南蛮人にすげぇと言われた小早川隆景の治政も、隆景は「いや私など兄には(ry」だもんな。
毛利家真のラスボスだったのだろう。
720人間七七四年:2009/05/19(火) 20:15:51 ID:01mmRi2V
>南蛮人にすげぇと言われた小早川隆景の治政
kwsk
721人間七七四年:2009/05/19(火) 20:51:55 ID:Po6rlctq
>>720
フロイスの評では
722人間七七四年:2009/05/19(火) 21:02:03 ID:zkjG07/j
なんだフロイスか
723人間七七四年:2009/05/19(火) 21:07:33 ID:vVPeLODU
隆元が死んだ時に「毛利はもうおしまいだ」
とうろたえまくったのは隆景だっけ
724人間七七四年:2009/05/19(火) 21:23:16 ID:f6Fit6pX
>>723
そう。あの隆景が半狂乱になったらしい。
725人間七七四年:2009/05/19(火) 21:29:03 ID:1H+Vvhio
>>695->>696
イワナガヒメだっけか、神話にもあるけど、昔の日本はブス=生命力、というような
呪術的な意味もあるから、武家にとっちゃブスはあげまんっちゅう考え方もあったらしい。
726人間七七四年:2009/05/19(火) 21:33:45 ID:JUT0ojx1
地味に王者の風格が漂ってそうだな
727人間七七四年:2009/05/19(火) 21:35:27 ID:11yUT6Te
元就の種のハズレ無し度はスゴイよな
728人間七七四年:2009/05/19(火) 21:44:36 ID:Po6rlctq
>>722
がっかりすんなw

隆元つーか毛利家がらみで一つ
間接的に陶晴賢の謀反に手を貸していた毛利家だが、
謀叛で死んだ大内義隆の扱いは非常に心配りが利いていた

まず隆元が義隆の死を悼み、義隆と義隆に殉じた者を神と崇めるため
竜福寺を建て義隆の絵を描かせてその地に飾らせた
次に輝元が天正三年(1575年)に義隆の二十五回忌法要、
天正十一年には三十三回忌法要、
慶長五年(1600年・関ヶ原の戦いのあった年だ)に五十回忌の法要を行っている
そしてその後も律儀に律儀に法要を行った
元禄十三年(1700年)に百五十回忌、寛延三年(1750年)に二百回忌、
寛政十二年(1800年)に二百五十回忌、嘉永三年(1850年)に三百回忌…
明治時代になってからも毛利家による大内義隆追悼の念は変わらず、
明治二十二年(1889年)には古くなった寺を整備し新たに墓標を建て直した

最初は人気取りの意や周りに毛利こそが大内の後継者である事を知らしめるために始めたかもしれないが
ここまで来るとなかなかである
729人間七七四年:2009/05/19(火) 21:53:05 ID:FM4EK1Ux
毛利隆元が死んだときに一時期、毛利家の財政が悪化したのは事実で、
他の国人達との交渉も一気に難しくなったそうだ。
特に財政難はかなりひどかったようで、毛利元就が

「天下を狙わず家を残す事を第一にしろ」

という遺言を書いたのは、隆元が死んで財政が悪化した事で戦費調達が難しくなったため
何が何でも家を残す事を優先させざるを得なかったからとも言われている。
730人間七七四年:2009/05/19(火) 21:57:19 ID:01mmRi2V
三百回忌wwww
そんなもんやってもらえる人どれだけ居るんだろうw
731人間七七四年:2009/05/19(火) 22:05:11 ID:f6Fit6pX
>>730
「三百回忌」でググってみたら結構あった。伊達政宗は1985年に三百五十回忌してるのね。
2035年に四百回忌か。

しかしこういうのを見ると、日本はまさしく歴史と伝統の国ですな。
732人間七七四年:2009/05/19(火) 22:20:01 ID:zEeYhQW9
>>309
遅レスだけど地元なのにその話知らなかった。
書いてくれてdクス。
ついでに初めて公式ページを見て、拝観料がここ20年で
倍くらいに跳ね上がってたのに驚いたw
733人間七七四年:2009/05/19(火) 22:39:09 ID:XhFsRNMl
羽柴秀長も二百五十回忌が江戸時代にされているな。
734人間七七四年:2009/05/19(火) 23:23:24 ID:nOJ96KhQ
>>692
家康が何を学んで欲しかったのか、よく分かる逸話でいいね
小さいことでも、真剣に考えるって難しい・・
735人間七七四年:2009/05/19(火) 23:40:08 ID:FM4EK1Ux
徳川秀忠が、とある隠居した有名人に問うた。
秀忠「よき人を用いるにあたり、よき人とはいかなる人をさすのであろうか?」
隠居した有名人「明石の海の牡蠣のような人を用いるがよろしいでしょう。」
明石の海の牡蠣の人とは、長い間の人生経験で得た苦労や行いや人付き合いで、
若い牡蠣のように貝殻がツンツンしておらず波に洗われて丸くなったような人をさす。
簡単に言えば、人格見識が高く、たくさんの人生経験を積んだ円い性格の人と言う事。
なかなか似うまい事をいった隠居の有名人こと、細川三斎(忠興)でありました。

36人もお手討ちにしただけの事はある。
736人間七七四年:2009/05/20(水) 00:11:38 ID:NO3PsWdR
忠興「牡蠣ならば中の真珠は見れないからな」
737人間七七四年:2009/05/20(水) 00:25:06 ID:0JgEhav0
>>690
> 義理は大事にしなさいよって、あんたの父親はその義理を破って小田原に突撃したジャンといいたいが、

これって最近の研究だと、小田原城の大森氏が扇谷上杉を裏切って、敵対していた
山内上杉に付いたため、扇谷上杉朝良からの依頼で、伊勢宗瑞が攻め落とした、
って言うのがホントだそうで。
738人間七七四年:2009/05/20(水) 01:16:14 ID:gJux2ZuE
飛ぶ鳥跡を濁さずのお話

守銭奴のヒーロー前田利家。ついに彼にも最後の時が来た。
女房の松からも「ケチ」といわれ、蓄財するあまりいざというときに兵が少なくて
松からも「何の為の銭じゃ!」と銭箱諸共放り出された男である。
彼は常々こういっていた。

「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ。」

まんまですなw。どうやら例の笄斬り事件での浪人中に身に沁みていたらしい。
そんな彼も死の床にあり、いつ何時、「お迎え」が来るかわからない状態であった。
その時、彼はいきなり正気に戻って言い切った。

利家「決済する。書類を全部もってこい!」
松「へ?こんな時に何いってんの、ちょwwwwwテラワロス。」
利家「御家騒動はいつも先代の不始末が原因だ、自分の死後、
   奉行らにあらぬ疑いをかけられては気の毒だ。勘定を持ってこい!」

こうして、勘定の書類は利家の面前に持ち込まれた。元々、会計が大好きな守銭奴である。
元気なときも自分で勘定の決済をしていたのだ。さすが守銭奴である。

利家「この勘定は決済する。ここの計算は違うぞ。こっちはこの勘定を少なくしろ。
   この勘定はすぐに支払え。これは(ry」
松「ちょ。ちゃんと決済しているよこの人。死にそうなのに。」
利家「俺の遺産は、こうしろ、ああしろ、アーダコーダ(ry」
利長「父上・・・・遺言書ではなく、自分で遺産分割先を指示するなよ。」

前田家の連中がどう思ったかわからないが、利家は全部の決済、遺産分割を指示し、
全部の書類を見て、全部の書類に花押を入れて、有効な書類にしてしまった。
遺産や勘定でお家騒動が起こらないように自分の勘定を全部してしまったのである。

利家「これで俺の勘定は全部終わった。利長よ。ウチから銭を貸した奴はたくさんいるが、
   こちらから借金の催促はしてやるな、返せない奴の借金はなかった事にしてやれ。
   これがワシの遺言ぞ。」
利長「わかりました。そのようにいたします。」
利家「遺品としてな、これを置いていく。大事に使えよ。」
バタン!
利長「父上ー!本当に全部やりきってからお迎えがキター!」

利長達前田家に利家の形見として残された物、それは当時は輸入品で珍しかった

「そろばん」

であった。
739人間七七四年:2009/05/20(水) 01:41:39 ID:Sq0G4U5D
すげえよ利家…そこまで徹底してりゃもう達人だ
ちょっと尊敬しちまいそうだよ
740人間七七四年:2009/05/20(水) 02:16:12 ID:koBF323X
こちらから借金の催促はしてやるな、返せない奴の借金はなかった事にしてやれ。
↑まじで?
741人間七七四年:2009/05/20(水) 02:23:50 ID:J6cX2sUE
>738-739実際、大封を残して家を保ったんだからとっしーの終わり方は決してわかったろうね
徳川家に対抗しようにも、閲歴長い大老格の利家が芯でしまったらどうしようもないもん。

ソロバン自体もいわば当時のハイテクで、それを操って帳簿をみるなんてけっこう才知ある武将だよな

 ・・・惜しむらくは前慶の人と拳と拳で語り合うくだりが抜けているが(それは隆慶の小説w
>>740
利長?相手が借金を返さない? それは無理矢理回収しようとするからだよ、
逆に考えるんだ、「あげちゃってもいいさ」と考えるんだ・・・・・・

借金棒引きしてあげれば、借り主から余計な恨みを買わず、逆に恩を着せることができるでしょ。
太閤がしんで近い将来、徳川と豊臣(家臣団の一部)が揉めることは予想できていたろうし
少しでも西軍の味方を増やしたい利家渾身の戦略だったかもしれんが
743人間七七四年:2009/05/20(水) 02:39:28 ID:0JgEhav0
どういう連中に貸し付けていたんだろうか?
744人間七七四年:2009/05/20(水) 05:12:44 ID:VeHnr0fH
>>738
前田家に勘定方はいらないなw
745人間七七四年:2009/05/20(水) 12:41:31 ID:0JgEhav0
忠興に酒というのは、余りイメージとして繋がらないのだが、
細川忠興作と伝わる、「酒の歌」と言う物がある。

一切の 其の味をわけぬれば 酒をば不死の薬ぞといふ
二くさ(憎さ)をも 忘れて人に近づけば 酒にましたる仲人は無し
三宝の 慈悲よりおこる酒ならば 猶も貴く思い飲むべし
四らずして 上戸を笑う下戸はただ 酒酔いよりもをかしかりけり
五戒とも 酒をきらふもいはれあり 酔狂するによりてなりけり
六根の 罪をもとがも忘るるは 酒にましたる極楽は無し
七(質)などを 置きて飲むこそ無用なれ 人のくれたる酒無いとひぞ
八相の 慈悲より起こる酒ならば 酒にましたる徳方は無し
九れずして 上戸を笑う下戸はただ 酒を惜しむか卑怯なりけり
十善の 王位も我も諸共に 思うも酒のいとくなりけり
百までも ながらふ我が身いつもただ 酒飲みてこそ楽をする人
千秋や 万歳などと祝えども 酒無きときはさびしかしけり

酒に対する気の利いたフレーズが並んでいる、酒好きの人にはちょっといい歌。
746人間七七四年:2009/05/20(水) 13:03:11 ID:NO3PsWdR
誰とは言わんが2ch語とか顔文字とか狭い範囲でしか解らない特定言語を
使用するのはもうちょっと考えてから書いてくれよ頼むから

スレの流れや空気嫁とか自重しろとかじゃなくてさ、単純にいい文章や逸話が
台無しになってることあるんだよ。勿体無いお化けが出るぞ
747人間七七四年:2009/05/20(水) 13:05:08 ID:wUPrdFJp
>>745
なんかもうこういうのを見るにつけて、忠興もやっぱり普通の人には測れない一種の奇人なんだと思うw
748人間七七四年:2009/05/20(水) 13:09:18 ID:mD59PaA0
>>744
…いらない子だったの私たち?
ttp://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E3%81%AE%E5%AE%B6%E8%A8%88%E7%B0%BF
-%E2%80%95%E3%80%8C%E5%8A%A0%E8%B3%80%E8%97%A9%E5%BE%A1%E7%AE%97%E7%94%A8%E8
%80%85%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%B9%95%E6%9C%AB%E7%B6%AD%E6%96%B0-%E6%96%B0%E6%B
D%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%A3%AF%E7%94%B0-%E9%81%93%E5%8F%B2/dp/4106100053/ref
=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1242789686&sr=8-1
749人間七七四年:2009/05/20(水) 13:15:33 ID:X+jhZXej
>>746
面白おかしく書こうとしたつもりが色を付けすぎて駄文になっちゃてるよな。
良い逸話はそれだけで面白いんだから、普通に書いて欲しかった。

俺の好きな隆元の逸話もあんなになっちゃって、凄く悲しい。
750人間七七四年:2009/05/20(水) 13:58:00 ID:NQMoq7F0
>>731
秦の始皇帝やアレクサンダー大王あたりでもやって欲しい気がする
751人間七七四年:2009/05/20(水) 14:00:52 ID:L9IaXTxY
原典読めばいいじゃない
ここは2chだぞ
そりゃ無意味にAA使われたりもするさ
対価出してるわけでもないんだから要求出来る権利もない
752人間七七四年:2009/05/20(水) 14:03:54 ID:BUAa1v95
書くのも自由だけど叩くのも自由だと思うの
753人間七七四年:2009/05/20(水) 14:08:30 ID:ptYHOWZN
何だか最近、雰囲気変わってきたね。
センゴク板全体がそんな感じで残念。
754人間七七四年:2009/05/20(水) 14:12:37 ID:L9IaXTxY
不特定多数が書き込んでるからな
雰囲気も変わってしまうさ
755人間七七四年:2009/05/20(水) 15:29:54 ID:+umTB/ka
>>743
北条征伐の頃や、朝鮮征伐の頃の戦費調達の件で
利家から借りた大名が多かったみたい。
どんなに大きな領土を持っていても、収入がすぐ必要なときにあったとも限らないしね。
756人間七七四年:2009/05/20(水) 17:18:35 ID:d6j0e3NJ
>>743
伊達政宗が借りてた
政宗は借金しても「返す気ねーけどな!」と公言してたんだっけ?
757人間七七四年:2009/05/20(水) 17:19:59 ID:08VjT8M0
>>749
あくまでここは入り口だから
原典にあたれる人は原典にあたるということでそれでいい気もするんだけどな
758人間七七四年:2009/05/20(水) 17:22:31 ID:0JgEhav0
>>755
>>756
なるほど。利家が死後、借金返還を強いないようにしろってのも、色々と政治的なのですな。
759人間七七四年:2009/05/20(水) 18:17:03 ID:bNnECXU0
前「借金返して」
伊「俺徳川につくんだけど返して欲しかったらお前も」
見たいな事になるかも
貸した方が勝てば返してもらえるけど
負ければ借金どころの話じゃなくなるからなあ
返して欲しいがために相手の顔色伺って行動が縛られるよりはいっそ
チャラにして良い子ぶって貸した金の回収を考えずに
好きに行動したほうが良かろうと言う判断が
760人間七七四年:2009/05/20(水) 18:29:20 ID:hPtFliDR
江戸時代末期、将軍徳川家定は台所で料理するのが好きだった。
これを見て松平春獄はこう言った。
春獄「男が台所にはいるとは、まったく芋将軍が。」
もしこの人が聞いたらこう言っただろう

( ●Д゚)「武将こそ台所に入りやがれ!バカ野郎!」

ご存知、仙台の不良老人、日本一のへそ曲がり、伊達政宗である。
この人は本当に多彩だった。武芸から芸事まで趣味のクラスター爆弾とも言うくらい
たくさんの趣味を持っていた。
この政宗が大好きだったのが、
「料理」
である。
なんでまた、と思わないように。
ちなみに細川幽斎も料理が得意だったが政宗の料理好きの原因はこれ。
→「兵糧研究」
簡単に言うと補給の問題を解決する為である。大きな軍隊を動かす政宗にとっては
若い頃から補給の問題に目を向けていたのである。
ところがこれにはまってしまった。
太平の世が来たときの目的はこれ。→「美食を極める。」
今度は今度でいろんな食材をどうするかという研究だったのである。
当然台所に入って自ら料理をした。
この結果、仙台は「美食の街」になってしまったのである。
政宗は常々こう言っていたそうである。

( ●Д゚)「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」

ちなみに兵糧研究から「凍り豆腐」が美食研究から「ずんだ餅」が生まれたと言われている。
761人間七七四年:2009/05/20(水) 18:37:37 ID:0JgEhav0
ずんだ餅ほど賛否の分かれる餅を知らないw
762人間七七四年:2009/05/20(水) 19:00:06 ID:ICfmij3j
兵糧というと、あまり旨そうでもないし、これが旨くなれば士気が上がるかもしれないしな。重要なのだろう。
世界一旨いレーションはイタリア軍のものらしいが、これはネタ。

ttp://blog-imgs-12.fc2.com/n/e/w/news2plus/20071217_43_1.jpg
763人間七七四年:2009/05/20(水) 19:28:12 ID:BUAa1v95
1行目と2行目が矛盾してると思います。
話がそれっぱなしで悪いがスウェーデンって白米を食うんだな
764人間七七四年:2009/05/20(水) 20:08:02 ID:L9IaXTxY
ってか昔は仏教の影響で味の評価はしないらしいよ
もてなしを評価するんだとか
765人間七七四年:2009/05/20(水) 20:27:56 ID:NQMoq7F0
我おなごにもてなし・・・
766人間七七四年:2009/05/20(水) 20:36:42 ID:DhOxPHzw
何故か、本当に何故か知らないけど
学研の科学の付録に"伊達政宗の兵糧丸"が付いてきた事があったなぁ…
結局作らなかったけど。
767人間七七四年:2009/05/20(水) 21:56:50 ID:V5S9N1xx
一粒食うと三日は腹が膨れっぱなしと言うアレか。
俺のときは忍者食という触れ込みだったな。
768人間七七四年:2009/05/20(水) 21:58:49 ID:l3IBl84H
忍者食で海外に売り込んだらバカ売れしそうじゃね
769人間七七四年:2009/05/20(水) 21:59:07 ID:TaMelKRX
後北条家五代目・氏直の妻は家康の娘・督姫であったが、小田原落城にあたって
氏直は高野山に追放となり、離縁させられることになった。
最後の夫婦別離のとき、氏直は胸元からお守りを取り出して督姫に渡し、言った。

「これは『高祖の御守』といって、当家代々の宝だ。
わが先祖・宗瑞様が明応のころ、伊豆から出て相模を手に入れんと大森氏を攻めた時
出陣の習いの勝ち栗を半分だけ食べ、残りは懐に入れて出陣したところ、大勝利となった。
この吉例の栗を錦の袋に納め、氏綱・氏康・氏政と相伝して来たのが、これだ。
私はもはや世を捨てる身、おまえがしかるべき分家の者に渡し、『北条』を継がせてくれ。」

督姫は別れた夫の復帰を信じ、お守りを肌身離さず持ち続け、数々の縁談を断った。
その後、氏直は高野からの下山を認められ、大阪であちこちに働きかけた結果、
天正19年8月、「伯耆一国にてお家再興を許す」というお墨付を秀吉から授かった。

氏直から届いた朗報に喜ぶ督姫のもとに、11月になって再び手紙が届いた。
『 北条氏直 死す 』 享年30。疱瘡であったという。

3年後、秀吉の命により池田輝政と再婚することになった督姫は、あのお守りを持って
氏直の叔父の狭山城主・北条氏規に会った。
「このお守りは氏直様に授かった、北条家嫡流が持つべき物です。今や本来の嫡流は
絶えましたが、小なりと言えど一城の主たるあなた様にこれを託します。
・・・お守りを、『北条』を、お願いします・・・・・・」

そう言い残し、深く涙に沈んで去ったという。


・・・で、こういう女性と7人も子供作った輝政は、すごい包容力があったかイチモツが(ry
770人間七七四年:2009/05/20(水) 22:06:59 ID:QlZQiYaJ
>>769
イチモツ言うなー!wwwwwww
771人間七七四年:2009/05/20(水) 22:09:11 ID:POA9CKgF
美食を極める前にゲテモノ食って死にそうになったこともあったな政宗は…
772人間七七四年:2009/05/20(水) 22:10:03 ID:zs1B0hUr
>>760
学会でいま仙台に来てるんだが、まさに仙台は美食の街だな。そのものズバリ仙台藩というトコで食べてきた。旨かったワ。
石巻や気仙沼が近いのがいいんたうな。石巻港を開いたのも政宗期だというし。
その恩恵にあずかる現代人としてはありがたやありがたや的な感じ。


因みにはらこ飯も政宗考案、という説があるらしいな。(ホントは違うんだろうけど)
773人間七七四年:2009/05/20(水) 22:13:25 ID:8i19CV8I
北条家の人間はホント夫婦仲いいな。
774人間七七四年:2009/05/20(水) 22:13:51 ID:zs1B0hUr
×いいんたうな
○いいんだろうな




いい感じに酔ってるな。すまんかった。
775人間七七四年:2009/05/20(水) 22:18:05 ID:yCIMfpcW
>>760
ついでに自分の面子から『両面の平目』も産み出したんだよな
776人間七七四年:2009/05/20(水) 22:35:34 ID:o5fuWs/e
つかなんか夫婦仲って遺伝的な意味ではないが
なんだかんだ親の影響に一番左右されんじゃないかと思う
例外はあるが
777人間七七四年:2009/05/20(水) 23:25:54 ID:QlZQiYaJ
細川式開城の仕方
開城。武士にとってはある意味最大の恥辱である。普通は城主切腹である。
だが、細川幽斎は開城の仕方もかっこよかった。
上杉征伐が始まったとき、幽斎は宮津城にいた。といってもご隠居様である。気楽に守っていようとしていた。
忠興は本軍を率いて上杉征伐に向かっていたし、大阪にはガラシャ達がいた。ろくな兵力なんかいなかったのである。
と、そこへ家臣からいつもつき合いのある三刀谷孝和が田辺に完全武装してとんでもない情報と共にやってきた
との知らせが来た。
『大阪にて石田三成が挙兵。細川大阪屋敷を攻撃し、奥方及び家臣は自害。三成方本隊を大垣へ向かわせるも
別働隊1万5000が細川領へ向け前進中。我(孝和)は旧主毛利家の安国寺より味方の誘いを断って御味方いたす。』
関ヶ原の戦いの前哨戦が始まってしまったのである。といってもこっちは数が少ないし、これでは宮津は守れない。
そう判断した幽斎は、宮津を放棄し田辺城で迎撃する事を決定した。
さて、田辺城へ入城し、西軍の迎撃準備が始まったものの絶対的に足りなかったのは兵力である。なんと言っても本隊は
遠く会津へ出張っていたのである。とにかく根こそぎ動員した。幽斎始めの隠居侍、町人・農民、僧侶に弟子達そして
三刀谷勢で総数は・・・・・

500人。(女性陣は除く)

すくない。でも仕方がない。この兵力で一日でも一時でも一分でも長く籠城して忠興を待つしかない。
でも相手は15000人もいる。
そうこうしている内に7月20日、恐れている知らせが来た。
『小野木重勝を総大将とする15000人が、丹後国内へ侵入。田辺に向け前進中。小野木重勝傘下に
藤掛永勝・赤松(斎村)広秀・谷衛友・川勝秀氏・小出吉政・竹中重利・中川秀成・早川長敏・毛利高政を
確認せり。』
幽斎「来たか、って、総大将は別にしてワシの弟子がたくさんいるじゃないか。もしかしたら・・・」

続く
778人間七七四年:2009/05/20(水) 23:47:03 ID:QlZQiYaJ
>>777つづき
言うまでもなく、幽斎は三条西家で伝えられていた古今和歌集の古今伝授の「中継ぎ」継承者である。
和歌の師匠としてたくさんの大名を教えていたが、敵の中に谷衛友たち弟子がたくさんいたのだ。
その頃攻撃軍はというと・・・・
谷衛友「う・・・撃ちたくない。師匠を攻めたくない。」
という状況だったからどーしても「士気」があがらない。そりゃそうだ、昨日までの先生なんだから。
幽斎が鉄砲をうってみても・・・・・・
三成方「撃ち返せ!・・・・但し空砲でな。」
と万事が万事この調子なものだったのだ。そこで包囲はしたが、まったくやる気無し!でも、
三成方15000人>>(越えられない壁)>>細川ご隠居軍500人
である。落城確実。そこで幽斎は使者を出した。古今伝授をするから使者を送ってください。
で、それを聞いた都の八条宮智仁親王は驚いて開城勧告の使者を出した。
幽斎「開城NO!絶対に開城なんかしません。」
その場で古今伝授や、皇室から公卿などへの他の伝授を全部行った。歌を一首つけて。

「古へも今もかはらぬ世の中に 心のたねをのこすことの葉」

これは後陽成天皇のお耳に達し、とうとう天皇が言い切った。
天皇「勅使を派遣せよ。開城の命令だ!」
こうして、勅使を派遣した結果、前代未聞の「勅命開城」という事になった。
幽斎は、城を出て亀山城へ向かうときは胸を張って向かったのだ。まるで勝者のように。
で、そうこうしている内に小野木に届いた知らせは、
『関ヶ原にて三成軍敗戦。』
だった。せっかくの一万5000人はよくわからないウチに「ムダ」になってしまった。
後日、忠興軍が田辺に到着したとき、幽斎と開城の件で不和になったが、和解した。こう言ったという。

幽斎「開城した例は数多あれども、勅使を持って開城したのは古今東西我一人である。」
779人間七七四年:2009/05/20(水) 23:54:52 ID:b/LIagwz
処世の達人なんだよな。
それ以外でも色々達人だが。
780人間七七四年:2009/05/20(水) 23:56:36 ID:0JgEhav0
幽斎は、煮ても焼いても食えない京都人、と言うイメージがある。
781人間七七四年:2009/05/21(木) 00:11:47 ID:L8SqxNHh
でもそれが結果的に忠興のDQN虫を刺激して
小野木の謀殺というか騙し討ちにつながっちゃうのは、悪い話だな。
しかも小野木の正室が、関ヶ原で討ち死にした(?)島左近の娘で哀しい辞世の句を残してたりする。
782人間七七四年:2009/05/21(木) 00:15:19 ID:EuriR+XA
>>781
関ヶ原戦の前に、「ガラシャ自害」(もちろんやり方は違うが)の知らせが来たときは、
まわりの大名まで慰めるくらいの大泣きをしたからな。→忠興
田辺に到着したときはもう、西軍大名=全部殺す!くらいに怒り狂っていたんじゃないか。
783人間七七四年:2009/05/21(木) 00:34:52 ID:6DQfA4L5
幽斎のアクや三斎のDQN分が良い具合に抜けたのが忠隆かな
京の都の代表的な文化人として能三昧の日々だ
784人間七七四年:2009/05/21(木) 00:39:57 ID:9RaxPg8x
徳川頼宣はいつも家臣たちと親しめるように心掛けていた。
頼宣は家臣たちが出仕すると、上座から末座までそれぞれに
相応しい言葉で語りかけた。

ある日、家臣たちが出仕したときに、女中が「上様、侍どもが
出仕いたしました」と頼宣に報告した。すると、頼宣は女中に
「『ども』とはなんだ。我が家臣は名だたる歴戦の勇士であるぞ。
ただ運の善し悪しで、大身と小身に分かれたにすぎぬのだから、
『ども』などと言っては失礼だ。今後は侍衆と呼ぶのだ」と注意した。

また別のときだが、頼宣が若い侍たちに、身体を鍛える目的で
水泳をさせたことがあった。

その侍の中に佐渡与助という者がいたが、彼は泳ぎが不得手で
今にも川の中に沈みそうだった。頼宣と側近の水野十太夫は
船に乗っていたのだが、見かねた水野が「おい与助、無理なら
船に掴まれ」と声をかけてやった。

すると、近くにいた頼宣が「馬鹿者、武士がそんなことを言われ
たら、例え死んでも掴んだりしないぞ。くだらないことで惜しい
家臣を失うことになってまうではないか。この場合は『船に掴まって
少し休め』と言うようにしろ」と言って水野をたしなめたという。

武士に「お前には無理」と言ってはいけないのだ。
でも、もしかしたら与助の本音は
「なんでもいいから早く掴ませて(T-T)」
だったかもしれない。
785人間七七四年:2009/05/21(木) 04:17:17 ID:IZT3rzuV
>>760
公家武家ともに包丁の流派が室町の頃に現出してるくらいで、
格式の高いところでは武士が包丁を持つのは当たり前なのかもしれない
786人間七七四年:2009/05/21(木) 08:19:01 ID:1vP280s8
四条流の庖丁式見たことあるけどあれは見るとポカンとしますよ
やる事為す事動きが大仰でこの人なにやってるンwwwwて感じですよ
787人間七七四年:2009/05/21(木) 12:24:06 ID:4On3XU4A
>>772みたいなのが所属する学会って、むちゃ頭悪そうだな
788人間七七四年:2009/05/21(木) 13:07:09 ID:wKmESmiE
>>777
細かい話だけど、三刀谷ではなく三刀屋じゃないかな
元尼子家臣の。
789人間七七四年:2009/05/21(木) 15:00:27 ID:tr4b8bNg
>>788
横レスだけど、合ってる。
出雲国人の三刀屋氏。
ただ文書には三刀谷、とも記載されてるから、どっちでも良いんだと思う。
あるいは、先祖伝来の土地を失ったことで、三刀屋を名乗っていなかったのか。
790人間七七四年:2009/05/21(木) 15:04:47 ID:+oTf02Se
まあ、音さえあってれば適当だからなあ。昔の文章って。
宇喜多なんてホントにいろんなところで浮田って書かれてるし、
791人間七七四年:2009/05/21(木) 16:43:48 ID:68BhNIrQ
>>790
主張は大体あってるんと思うが浮田は例がよくないとおもう
地名から取ったもともとの苗字が浮田であれは嫡流だけ縁起のいい文字に変えただけじゃないっけか
792人間七七四年:2009/05/21(木) 17:00:18 ID:upSTm/+9
確か宇喜多さんちは直家さんだかの時に
縁起がいい文字にしたいっていって変えてたキガス

これだけじゃ難なので
慶長17年3月
駿府の徳川家康は林羅山と湯武放伐論について論議を交わしていた
そんな中で家康が羅山に中庸の徳についての質問をした
「周の武王は殷の紂王を討ち、天下を得た。
主君を弑すのは悪い行いだが、その動機は主君の不義を憎む善い心から来ている。
こういう善でも悪でもない行為を中庸というのではないか」
それに対して羅山はこう答えた
「武王が忠義を捨てて紂王を討ったのは、決して己の欲のためではなく、
ただ天下万民のため、悪逆を除き、世を安んじたいと願ったゆえのこと
これは少しも悪いことではありません」
家康はこの答えに感心したという。

なんとなく家康の中の善悪の定義や倫理観が見えてくるお話
793人間七七四年:2009/05/21(木) 17:16:56 ID:+oTf02Se
>>791
なるほどそうだったのですか。不勉強でした。ハズカシー。

>>792
慶長17年と言うと、まだ豊臣家との関係も安定してるし、豊臣家討伐を考えた発言とは違うと
解釈すべきでしょうね。

むしろ家康の松平家自体も、下克上の中でのし上がってきた家だし、
後の「秀忠がダメだと思ったら遠慮なく反乱しろ」の遺言から考えても、
元々そう言った思想を持っていたと、そう考えた方が自然でしょうね。
794人間七七四年:2009/05/21(木) 19:11:27 ID:qZZrE15B
わが命旦夕に迫るといえども
将軍斯くおわしませば天下のこと心安し
されども将軍の政道その理にかなわず
億兆の民艱難することもあらんには
たれにても其の任代らるべし
天下は一人の天下に非ず
天下は天下の天下なり
たとえ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして
万人その仁恵を蒙らばもとより
家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし
795人間七七四年:2009/05/21(木) 20:22:57 ID:EaQkEsto
前田慶次郎の息子
前田慶次郎には息子がいた。その名を前田正虎という。
ちなみに慶次郎の奥さんは、前田安勝という前田家一門の人の娘。
ちゃんと利家の義理の甥→一門衆加入と出世していたのである。
ちなみにマンガ等ではわからないが、前田家を出奔したときの慶次郎の年齢は、

大体40歳代くらい

であったと言われている。つまり子供といっても、いい年こいているのである。
ちなみに出奔時の知行は、慶次郎5000石で正虎2000石(元は利久の領地)
この正虎は父と一緒に出奔せず、特に連座でとがめられたわけでもなく
ちゃんと前田家藩士として勤務していた。
この人も父親と同じく文才があって、

前田家之記(安太夫筆記)

という本を著して後世に残した。
この本はどんな内容か?というと・・・・・・・

前田家の故事を記した記録=このスレのみんながやっている事

だったのだ。
796人間七七四年:2009/05/21(木) 20:27:20 ID:+oTf02Se
>>795
いやいや、このスレの記事の元ネタを残してくれた、大変ありがたい人じゃありませんかw
797人間七七四年:2009/05/21(木) 20:34:56 ID:cRiI4CXg
>>795
いい年した父親が主を水風呂に入れたうえ
家族捨てて単身出奔したと知った息子はどういう胸中だったろうなw
798人間七七四年:2009/05/21(木) 21:04:18 ID:FH0syF+5
堀尾吉晴の国持ち大名の心構え。

豊臣三中老の一人にして、「仏の茂助」として評判の良かった堀尾吉晴は、浪人の再就職の斡旋
を図る事が多かったのだが、彼は国持ち大名の心得として次の言葉を残している。

「諸大名家において優れた勇士が浪人したと聞いた時は、直に扶持を与え、所領が減る事を惜しんではいけない。
 何故ならば、良将を得なければ戦に勝つ事はできず、大きな武功も立てられないからだ。
 国持ち大名が、所領が減るからと言って良将を取り立てるのに消極的なのは、与えられている碌を盗むに等しい」

加藤光泰のように、抱えすぎて破産と言う例もあるけど、織豊期の大名って、多かれ少なかれこういうような論理が根底にあったのかねぇ?
799人間七七四年:2009/05/21(木) 21:04:38 ID:EaQkEsto
>>797
シャレになっちゃいないくらい戦々恐々しただろうなぁ。
鬼武蔵が主だったら無事には済まなかったんじゃないか。w
800人間七七四年:2009/05/21(木) 21:17:57 ID:pik8aVDN
>>795
これはこれで気苦労の耐えない二代目だな。
秀忠や隆元とは違った意味でw
801人間七七四年:2009/05/21(木) 21:19:33 ID:HHH/HQTt
>>795
親族とはいえやらかした奴の息子を一門衆として取り立ててるんだから
利家の器量もなかなかのものではないか
802人間七七四年:2009/05/21(木) 21:21:34 ID:IMiyXuQN
立花宗茂が11歳の頃の話
宗茂が郊外に鷹狩りをしにに遠出している時の事
一匹の狂犬が宗茂に襲いかかり足に噛み付いた
これ対し宗茂は刀を抜いて犬に振り下ろした
哀れ狂犬は一刀両断に…
と、思いきや刀の峰で狂犬を打ち付けた為狂犬は斬られず
打たれただけで済みこれにビビって逃げて行った

後日、実父高橋紹運がこの事を人づてに聞き、宗茂を呼び出して問うた

「何故刀を抜きながら狂犬を斬ってしまわなかったのか?」

この問いに対して宗茂は笑って

「刀は人を斬るもの、犬を斬るなんて聞いたこともない」

と答えた
高橋紹運は宗茂の分別を弁えたこの答えに感じ入り褒め称えたと言う
高橋紹運は褒め称えただけで済まさずこの後

「お前が成長しても決して自分の才気に驕ってはいけないぞ」

とちゃんと釘も刺してる
宗茂を褒め称えながらも驕ってはいけないと戒める教育者紹運
その後宗茂がどういう人間に成っていったはご存じの通り
宗茂、紹運共にいい話
803人間七七四年:2009/05/21(木) 21:32:27 ID:Q3Axj2L9
>>764
うろ覚えだけど平安貴族は食の味を評価するのは、はしたないとしていたみたいだけど
室町期あたりの寺で「寺の生活全部修行なら飯の味を追求するのも修行の内じゃね?」
ということで「出汁」が開発されたとか
足利義政なんか寺の飯が食いたいためにちょくちょく寺に行ったために
有力大名との宴席すっぽかしたりしたのが応仁の乱の遠因になったとも聞いた
804人間七七四年:2009/05/21(木) 21:37:16 ID:EaQkEsto
細川流子供に苦手科目を勉強させる方法
ある時、芸事の多連装ロケットランチャーこと細川藤孝(後の幽斎)が庭を見ていた。
庭には二羽鶏が・・・ではなくて息子の忠興(この頃10代)が武術の稽古をしていた。
この頃、既に和歌で大成し大変な有名人となっていた藤孝は言った。
藤孝「忠興・・・武将の子だから武術は良いとしても、武術ばかりではなく和歌の勉強もしてみたらどうだ?
   お前も細川家の人間。大将となれば宮中を始めとする公卿や足利家中とのつき合いもあろう。
   年取って老人になったらいい手慰み(暇つぶし)になるぞ。先生も紹介してやるぞ。」
忠興「しかし、私は武術ばかりを稽古しておりましたし、和歌に自信がありません、父上の名を汚しませんか?」
藤孝「はっはっは・・・古今伝授者を舐めるなゴルァ!!(# ゚皿゚)。
   まぁ、いい。お前くらいの戯れ歌で汚されるワシの名ではないぞ。はっはっは。」

こうして、忠興は京の公卿を先生に和歌を学ぶ事になった。がんばって、父の名を汚さなかったばかりか
さすが藤孝の子と感心もされた。その頃には既に芸事、特に茶の湯にはまり「利休の七哲」となった。
さらに、オヤジと同じくたくさんの芸事を修めた。
後年、忠興は父から和歌を学べと言われた事を喜んだ。
老年となり三斎と号したとき、父の教えが正しかった事を知ったのである。

つまりこれ、藤孝が「俺の名を汚せるものならやって見ろ。」と暗に言ってやる気を起こさせたんですな。
それに和歌は単なるきっかけで、何でも出来る武将に育てたのです。
勉強しろと言っても、どうやってやる気を起こさせるかという方法の一つでした。
805人間七七四年:2009/05/21(木) 22:07:23 ID:68BhNIrQ
>>801
前田安勝の外孫と思えば別に不思議ではw
806人間七七四年:2009/05/21(木) 22:08:41 ID:2rg/CNKM
「人には相口(あいくち)、不相口がある。
相口とは他人の思いを知りそれに合わせること。不相口とは逆らって異見を言うこと。
大切なのは不相口であり、相口の部下ばかり重用し周りに置くのは心地よいが、
その者にとって決して良いことではない。
不相口の者の異見にこそ耳を傾けるのが将として肝要である」

将たるものは広く情報を集め物事を判断をせねばならないので、
自分と異なる意見「不相口」を聞き入れ、より多くの判断材料を取り入れるべきだという事。

家臣間の友好関係を調べ、メモまで作り、家臣同士の相性を見た上で役目に配置していたが
上下関係に関してはまた一味違う考えを持っていた黒田官兵衛さんの話。
807人間七七四年:2009/05/21(木) 22:12:43 ID:0GZFJUL8
>>802
自分に食らいついた畜生にも慈悲深いとは流石宗茂
女にモテそう
808人間七七四年:2009/05/21(木) 22:16:48 ID:0GZFJUL8
>>806
ボケたフリしてまで自分の死んだ後の人間関係まで気配りする官兵衛らしい逸話だな
女にモテそう
809人間七七四年:2009/05/21(木) 23:09:48 ID:LDLDYDFH
>>806
そうやって不相口ばかりを息子に付けたわけですねw
810人間七七四年:2009/05/22(金) 00:03:32 ID:0EJpZN8N
織田信長と家臣の話となると、追放とか粛清とか物騒な話が
多いが、家臣を気付かったことがないわけではない。

例えば信長の信頼厚い松井友閑に腫れ物ができたことがあった。
腫れ物といえば、徳川家康が死を覚悟したほどの病気である。
心配した信長は観音寺に

「宣教師の医者をよこしてくれ。くれぐれも怠りのないように!」

と切実に要請した。しかし、なかなか医者が来ないので、
信長は側近の武井夕庵に催促させた。

「上様が直に書状を遣わされたのに、返答も医者も来ないのは
一体どういうことですか。とにかく早く医者をよこしてください!
人夫や馬がないなら佐久間信栄に頼むか、そちらで調達して、
とにかく早くしてください!今か今かと待っております」

とまあ、夕庵を介しているとはいえ、かなりうろたえている。
信長にとって友閑が大事な家臣だったことが窺える。
811人間七七四年:2009/05/22(金) 00:15:42 ID:GfOrhxEC
>>810
信長って、ねねへの手紙とか、お気に入りの人に対してはすごい細かく気を遣うよね
かと思えば、圧し切り長谷部の逸話みたいなのも挙げられる人でもあるし
つまりは繊細な人だったんだろうなあと予想してみる

複雑な人だよなあ、そこが魅力なんだけどね

812人間七七四年:2009/05/22(金) 00:32:11 ID:7DOo/6pW
むしろ信長は家康や秀吉と比べると感情的な分人間臭いようにも思える
たまに感情の起伏激しすぎるけどさ
家康みたいに徹底して感情を抑えられる人間はある意味信長みたいなタイプより怖いよ
ラスボスはまた別種の怖さだが
813人間七七四年:2009/05/22(金) 00:46:50 ID:qUIPSG73
家康みたいな人はナニを考えているかわからないし
814人間七七四年:2009/05/22(金) 00:51:34 ID:9DX1qNOZ
>>810
続きはないの?
医者は来たの?来なかったの?来たけど遅くて頭にきた信長に切られちゃったの?
815人間七七四年:2009/05/22(金) 01:09:50 ID:0EJpZN8N
>>814
残念ながら俺が知っているのはここまでなんだ・・・
ただ、このあとも友閑はせっせと仕事しているから来たのかもしれない
816人間七七四年:2009/05/22(金) 01:11:36 ID:BxRL7kgU
よかった・・病気の友閑はいなかったんだ・・
817人間七七四年:2009/05/22(金) 01:35:13 ID:UHyRQc1G
>>769
輝政嫡男の毒殺疑惑もある御夫人だが、こういう逸話をしるとまた違ったイメージが出てくるなぁ…
818772:2009/05/22(金) 08:36:59 ID:xluXj1TD
>>787
酔っ払ってたからな、あんなもんだ。

頭悪そうな文章ですまんね。職業は神経内科医だす。
819人間七七四年:2009/05/22(金) 09:22:32 ID:0tP9DA4V
2chでIDすら変わっちゃってるのにわざわざ弁解しちゃうあたりが…
820人間七七四年:2009/05/22(金) 09:24:45 ID:1M/qbpsf
>>818
煽りたいだけの人だろうから、あんまり反応しない方がいいよ?


賛否両論

北の関ヶ原において、上杉軍と伊達軍が戦った、松川の戦い。

この合戦にのぞむ上杉軍の中に、北川図書と言う者がいた。
彼は元は蒲生家に仕え、その後上杉家へと仕えたのだが、蒲生家の時代より同僚であり、
今も同じく上杉に仕える岡左内とは、親友の間柄であった。

合戦の前、北川は岡に、
「俺に何があったら、これを息子に渡して欲しい。」
そう言って、自分の陣羽織を渡した。左内は、「わかった」と言って、それを受け取った。
はたして北川は討ち死。後でその陣羽織は、岡の手から北川の嫡子、久兵衛に
渡された。

さて、後にこの事、人々に賛否を呼んだ。

ある人は言う
「同じ戦場にのぞみ、我も人も必死の働きをする事こそ第一とすべきなのに、
合戦の前に自分だけは必ず生き残ると考え、人の形見を受け取るとは。
このような事、やって良い物だろうか?」

それを聞いたある人は
「そう言う事では無いだろう。親友から形見を託され、受け取らないと言う事があるだろうか?
自分が必ず生き残るから、受け取って遺族に渡す、と言う事ではあるまい。
合戦の前に彼の形見を我が預かり、我の形見を彼に預けると言う事は、
これは勇者の今生の思い出と言うべきであろう。」

このように議論になったのも、岡が世に名だたる勇者であったからこそだ、との、
世間の評である。
821人間七七四年:2009/05/22(金) 09:36:56 ID:OGRs895a
頼朝とか家康とか大久保利通が人気ないのは実際は結構感情的なのに
政治的にはまるで影響出さずに行動出来ちゃうようになったのも一因だよな。
822人間七七四年:2009/05/22(金) 09:45:52 ID:1M/qbpsf
信長が誰かを粛清する時は、とにかくそれまで我慢して我慢して、粛清しても大きな影響は無いと
判断した瞬間に、殺したり追放したりする。ってイメージがあるな。
そう言う意味ではものすごく冷徹で政治的。

信長を感情的というが、彼はむしろ、政治的に感情を表現することに長けていた人ではなかったかと
想像する。
823人間七七四年:2009/05/22(金) 09:54:41 ID:rpyNjFCF
信長ほど死んだ家臣やその家族を想い涙を流した話が多い大名も少ないかと
824人間七七四年:2009/05/22(金) 10:54:12 ID:+bFtIIH+
>>820
形見の陣羽織に無数の銭を結わえつけて鈴鳴りにした……ワケじゃないのね。

岡佐内ってぇと、アレ(裸で銭祭り)なイメージがあるがw
貯め込んだ銭も戦の時は惜しげもなく献上するし、
北川との友誼に応えたり、やっぱりひとかどの武士だね。
825人間七七四年:2009/05/22(金) 13:07:23 ID:R5EuIDbE
家康公に向かって秀吉公がこう問われた。

「ワシは粟田口吉光をはじめ、天下の宝という宝を集めた。
家康殿はどんな秘蔵の宝物を持っている?」

家康公が答えて言う。
「これといった秘蔵の品はありません。
しかし、自分を大切に思い、火の中水の中にも飛び入り、
命を何とも思わない三河武士が五百騎いれば、日本中に恐れる敵などいないのですから、
この侍たちを何にもかえがたい宝と思って、いつも秘蔵しています。」

この答えにさすがの秀吉公も二の句がつげなかったという。
826人間七七四年:2009/05/22(金) 14:11:38 ID:fRzl1wO6
秀吉最大の弱点だしな
子飼いで一番出来いい筈の福島や加藤でも、秀吉死後ではあのザマだし
827人間七七四年:2009/05/22(金) 15:45:03 ID:lkNBvcbR
めんどくさい人たちが一杯いるのはいいよね
めんどくさいけど
828人間七七四年:2009/05/22(金) 16:30:02 ID:Qxzq8X9K
本多正信のポリシーの話
本多正信。ご存知家康の参謀にして佐渡の腰抜けといわれ、権勢を得て辣腕をふるった人である。
この人、家康の関東移封でもらった領地はというと

相模玉縄1万石(移封時)

だった。そうこうする内にいろんな検索をして最後は徳川家の権勢を高めた。
そこで・・・・
家康「というわけで、正信よ。お前を加増することにした。玉縄2万2000石だ。」
正信「ありがとうございます」
ともらった。ここで2万石大名になる。
しばらくして
家康「またまた正信を加増する事に決めた。よかったな。」
正信「やだ!これ以上増やさないでください。」
あれ?そうこうしている内にまた打診が来た。
家康「もういいだろう?正信、加増するぞ。」
正信「いいんです。私は相模玉縄2万石で十分!これ以上いりません!」
又断った。またまたそうこうしている内に打診が来た。
家康「お前、もう政治の中心にいるのだ。今度こそ加増だ!」
正信「今度も又いりません!2万石で十分です。それ以上はいらないです!」
家康「いーかげんにしろ!」
絶対に加増を受けなかったという。なぜならば、

正信「大身代になろうと欲を出してはいけない。現在の地位で満足するのが、永く幸福を保つ道である」

と言ういつも正純に説いていたのだ。つまり、あまり欲張りな人間ではなかったのである。
一説には石田三成が恨まれた一因として15万石大名と成った事だと思ってもいたようだが、
結果的に正信の「無欲」のおかげで武功派から「腰抜け」といわれて、内部抗争せずに
済んだとも言えるだろう。
829人間七七四年:2009/05/22(金) 16:59:41 ID:uTudig1M
>>826
まあ家康も三河一向一揆のときにはかなり裏切られてるけどな
830人間七七四年:2009/05/22(金) 17:14:42 ID:1M/qbpsf
>>829
逆に秀吉は、まあ本当に若い頃は不明だけど、少なくとも名のある武将になってからは、
配下から裏切られた経験は殆ど無いよね。

まあそれが逆説的に、強烈な君臣関係の構築を阻んだとも言えるのだろうけど。
831人間七七四年:2009/05/22(金) 18:05:17 ID:2I1lR0CJ
>825
斉の威王の逸話にも似たのがあったなぁ。
832人間七七四年:2009/05/22(金) 18:23:46 ID:/DeBIBqb
>>829
あの経験があったからこそ、政治と宗教の匙加減を心得ることができた
と考えれば物語的には辻褄が合おう
833人間七七四年:2009/05/22(金) 18:27:01 ID:f6unE9Yz
>>829
一向一揆側についた三河武士も宗教上の理由で反抗しているだけで、
殿に矢を向ける気はさらさらなかったというエピソードがあるよ。
家康公が来たら一向一揆に参加していた武士は戦わず逃げ出していたらしい。
834人間七七四年:2009/05/22(金) 20:00:30 ID:zJppHavH
>>828

本多正信がネットで検索かけて献策をする絵が浮かんだw

全然関係ないケド甥っ子が見てるアニメ見たら
忠勝がなんかロボになって戦ってた!バサラ?だっけ。なんだあれw
835人間七七四年:2009/05/22(金) 20:11:29 ID:pXhwwDUi
本当に全然関係ないな
836人間七七四年:2009/05/22(金) 20:16:14 ID:gzofOHv6
うっかり歴史に名を残すと恐ろしいニャー
837人間七七四年:2009/05/22(金) 20:57:16 ID:lkNBvcbR
>>828
正純たんが仲間に入れてほしそうにこっちを見ています
838人間七七四年:2009/05/22(金) 21:03:27 ID:1M/qbpsf
関係ないついでに、台湾のゲームサイトの掲示板で、川中島の戦いの話してたので
見てみたら

http://forum.gamer.com.tw/C.php?bsn=00064&snA=5360&tnum=3

…まとめサイトが紹介されてた。台湾の人も見ているのか!
839人間七七四年:2009/05/22(金) 22:43:32 ID:UHyRQc1G
>>825
子供を生んでくれる側室達です

とかいってもよさそうw
840人間七七四年:2009/05/22(金) 22:59:50 ID:BFZmajrk
>>838
台湾にも戦国ゲームファン多いしねえ。
でも書いてあることわかるのか?
まさか自分で翻訳してるとか?
841人間七七四年:2009/05/22(金) 23:08:06 ID:R5EuIDbE
>>839
それは鋭い返しじゃなくて普通に宣戦布告だよ
842人間七七四年:2009/05/22(金) 23:28:08 ID:1M/qbpsf
永禄11年(1568)、蒲生忠三郎氏郷12歳の時、織田軍による今徳山城攻めが行われた。
これが、彼の初陣であった。

父親の蒲生賢秀は、この初陣を非常に心配した。まあ12歳だし、そりゃそうであろう。
そのため、結解十郎兵衛、種村伝左衛門と言う、蒲生家中でも名だたる剛の者を氏郷につけた。

さて城攻めが始まり、賢秀は兵の下知に忙しくしていると、結解、種村の二人が
大慌てでやってきた

「忠三郎様を見失いました!」

         _賢_
        /⌒  ⌒\         ━━┓┃┃
       /(  ̄)  (_)\         ┃   ━━━━━━━━
     /::::::⌒(__人__)⌒:::: \         ┃               ┃┃┃
    |    ゝ'゚     ≦ 三 ゚。 ゚                        ┛
    \   。≧       三 ==-
        -ァ,        ≧=- 。
          イレ,、       >三  。゚ ・ ゚
        ≦`Vヾ       ヾ ≧
        。゚ /。・イハ 、、    `ミ 。 ゚ 。

「ばばばばば馬鹿者ーーーーー!!一体何のためにお前達を忠三郎につけたと思っているのか!?」

半狂乱の態で賢秀うろたえる。そこに

「ただいまー。あれ?どうしたの?」

氏郷、なんでもないような顔をして帰って来た。「はい、これ取ってきた。」首まで抱えて。

これに賢秀、喜ぶやら泣くやら怒るやら大騒ぎ。この初陣の戦果に、合戦の後で信長から直接
お褒めの言葉をもらったり、それはそれで良かったのだが、賢秀、やはり御付の役割を
果たせなかった結解、種村に、ひとこと言わずには居られなかった

「お前達は幾度の合戦で手柄を立てた家中の剛の者だ。だからこそ頼もしく思い、忠三郎に
付けたのに、よりによって見失うとは何事か?もし忠三郎が討ち死にでもすれば、その場で共に
戦死する事がお前達の役割だろう?」

この叱責の言葉に、二人はしばらく黙り込んでいたが、ややあって結解十兵衛が口を開いた、

「私は若年の頃より多くの合戦に出て、一度たりとも他人に、先を越されたことはありませんでした。
所が今回、全く面目もありませんが、初陣の若武者である忠三郎様に、先を越されてしまったのです。
…言い訳のように聞こえるかもしれませんが、この度の働きを見るに、忠三郎様は将来、
英傑と呼ぶべき勇将になられると思います。」

「…え?おいおい何を言い出す?あ、あんまりおだてるな。」
賢秀、そう言われて、まんざらでも無い様子で、ついつい喜んでしまったそうだ。

麒麟児の初陣と、ちょっとした親バカなお話
843人間七七四年:2009/05/22(金) 23:32:21 ID:hqe4aA7N
>>833
三河一向一揆は宗教の対立でなく、武家組織と宗教組織による現世利益の
分捕りあいつまり政治的な戦い。三河武士たちは、利益を見て寺側につき、
勝敗を見て徳川についた、それだけ。
まあ三河に限った話でもないのだが。

>>828
ただし、家康が加増しようとし、正純が受けたのも、徳川政権の構造上
やむをえないというか仕方ないというか当然な面もある。
というのも、この時代、公務にかかる費用も基本自分持ちになる。
つまり、役職が上がり権限が大きくなり仕事の規模が拡大すればするほど、
必要経費も膨れ上がっていくことになる。家康としては、正信に重要な
仕事を任せようとすれば、領地も大きくさせるしかないのだ。
844人間七七四年:2009/05/22(金) 23:36:59 ID:AU7w9j1G
氏郷も結構、戦で護衛を置き去りにして前線に飛び込んでいく奴なんだなとこれまでの逸話見てると思うわ。
845人間七七四年:2009/05/23(土) 00:08:27 ID:C/dVI1vW
>>840
ドイツやロシアにも戦国ファンはいるしなぁ
年齢層高めっぽいけど

ttp://www.samurai.de/
ttp://www.sengoku.ru/index.htm
846人間七七四年:2009/05/23(土) 00:11:28 ID:GDkQZNB+
>>843
昔も今も利益に走る奴はいる。
だけどそんな中にも主君には矢を向けない忠義の侍も実在する。
そういう話に感動しているんだよ。
847人間七七四年:2009/05/23(土) 00:27:07 ID:i7WkyjAb
>>843
つーか一揆の動機を一つに決めつけてないか?
848人間七七四年:2009/05/23(土) 00:38:25 ID:cu6+7vrb
>>841
いくらでも子作りできる、己の一物です
これならどうだw
849人間七七四年:2009/05/23(土) 00:54:44 ID:bijJTv+9
織田信長は上洛を狙っていたが、まったく不安がないわけでは
なかった。ある日、信長は酒宴の席で「俺は上洛しようと考え
ているが、お前たちはどう思う?」と家臣たちに意見を求めた。
だが、家臣たちは賛成とも反対とも言わずに、ただ黙っている
だけだった。しかし、一人だけ言葉を発した者がいた。織田家の
重鎮、佐久間信盛である。

「上洛は素晴らしいお考えと思います。天下に上り、逆族を
平定なさることに差し障りなどありえません。天下を纏め、
学問と知識を発揮し、真儒を盛んにして、衰退した文化を
復興すること。また、苦しむ民衆を救い、邪を退けて正道を
掲げなされば、全ての民が殿のお導きに従い、織田家の家運は
恒久のものとなりましょう」

信盛の言葉こそ信長の聞きたいものだった。信長はいたく喜んで
「では、国土安全の寿を始めるとしよう」と言った。その日の
宴は身分に関わらず、皆おおいに楽しんだという。

この頃の信盛には確かに栄光があった。いったい誰があんな
最期を遂げると予想しえただろうか。
850人間七七四年:2009/05/23(土) 00:59:38 ID:GDkQZNB+
>>849
最後の平家物語を彷彿とさせる語り口がいいねw
まさに諸行無常
851人間七七四年:2009/05/23(土) 02:06:23 ID:3+bAos3c
珍説奇説の類を一つ。

元和元年、浪人の親子が薩摩のとある村を訪れた。
聞けばこの親子、上方での戦に破れ、主君を守って落ち延びてきたらしい。
幸い、島津の殿様が主君を匿ってくれると確約してくれたので一安心。
自分達も落ち着き先を探しているのだとか。

平氏然り、南朝然り、権力争いや戦に破れて都落ちする人が珍しくないように
辺境とされる土地に落人の村があるのも珍しくはない。
浪人親子が訪れたのも、そうした村の一つであった。

浪人親子の姿にかつての自分自身を思い出した者も居ただろうし、
あるいは先祖の苦労を偲んだ者も居たかもしれない。
ともあれ浪人親子はこの村に迎え入れてもらう事が出来た。

村の者達はこの親子の素性に興味が無いわけではなかったが
野暮な詮索は控えることにした。
お互いに過去を捨てた身として、最低限の礼節は守ろうとしたのである。

ところが、

ある日、例の親子の家から互いを罵りあう声が聞こえてくる。お説教が転じて口論になったらしい。
やれやれ、厄介なことにならねば良いが…と村の者が心配そうに外から様子を伺っていると
畑に出ている者にまで聞こえるような大音声で

『大介!あれほど秀頼公にご出馬頂くよう、お前にはしっかりと申し付けたではないか!
 それをn』
 
村人達はそこで耳を塞いだ。過去には触れないようにするのが礼儀と言うものである。

結局のところ、浪人親子は折角見つけたこの安住の地を去ることにした。
余人には解からぬことであるが、自分達の正体に関わることを思わず口走ってしまったらしい。
行く宛てがあるのか心配する村人達に、親の方がにっこり笑って答えた。
「心配ご無用。」
娘の嫁ぎ先である秋田を目指すらしい。

薩摩の夏は厳しいが秋田の冬も厳しいと聞く。
同情を禁じえない村人達は可能な限りの餞別を持たせて親子の旅立ちを見送った。
皆の思いはただ一つ。

― 秋田でも同じような失態をやらかさねば良いが… ―

それにしてもこの親子、一体何者だったのであろうか。
まあ礼節を守った村人に倣い、野暮な詮索は控えるとしておこう。

以上、今も鹿児島の真江田に残る落人の伝説。
852人間七七四年:2009/05/23(土) 03:07:38 ID:MqDoTjhp
>秋田でも同じような失態をやらかさねば良いが

優しいな、村人たちw
853人間七七四年:2009/05/23(土) 04:35:47 ID:eC6KPz7i
秋田でも同じ失敗をするに違いないw

これが本当だったら嬉しいなあ。
まあ正体が誰かなんてわからないんですけどね。
854人間七七四年:2009/05/23(土) 05:44:00 ID:cOmSVRJr
秋田ってまたえらく遠いな
855人間七七四年:2009/05/23(土) 10:25:39 ID:aBNQnHGX
>>828
結果的に正信の「無欲」のおかげで武功派から「腰抜け」といわれて、内部抗争せずに
済んだとも言えるだろう。


大久保と内部抗争しまくりじゃん。
息子が悪くて、正信はうまく生き残ったみたいな結果だけど、この親子はまったくやってることは同じ。
856人間七七四年:2009/05/23(土) 12:58:16 ID:wLxNgbsl
>854
後のおもしろペットを探す旅である。
857人間七七四年:2009/05/23(土) 13:33:59 ID:ObMPUxG9
上田宗箇は常々こう自慢していたという。

上田「ワシは今まで金銀は見た事がない!」

ゲヒ殿、なんかいってやってくださいよ。といいたいがこれを聞けばこの人達はこう言っただろう。

前田利家「銭があれば世の中怖い物はないんじゃ!」
黒田如水「銭で兵を雇うんじゃ!」
徳川家康「銭があれば何でも出来るんじゃ!」

徳川家康は「ケチ」だと、フロイスにも書かれるほど有名だったが、もちろん趣味だってあった。
なんだか文章があってないと思うかも知れないが、実はその趣味が何と「へそくり」。
しかも鎧櫃の中にへそくりをため込んでいたのだ。
ある日、どこかの大名家(名誉の為、伏せる)の家臣が使いとしてやってきた。

使者「申し訳ありません。のっぴきならない理由がありまして、つまりその・・・・」
家康「何?」

使者「お金貸してください!」

家康は家臣に言って奥から鎧櫃を持ってこさせ、開けさせた。
使者はこれを見てビックリした。そりゃそうだ。中にはぎっしりと詰まったお金の山。
それもきちんといつここに入れたものかも書いてあった。つまり「へそくりの記録付き」。
そしてその使者はもう一つ驚いたものを見つけた。銭に書かれた記録の中には、

家康がまだ三河の小領主時代のものがあったのだ!

恐るべき「へそくり歴」である。
ちなみに、某大名家の使者はちゃんと家康からお金を借りる事が出来たそうである。
858人間七七四年:2009/05/23(土) 13:50:36 ID:08/xewWk
ああ、細川さんとこのやんちゃ坊主かその大名は
859人間七七四年:2009/05/23(土) 13:55:54 ID:VgAOAPU2
秀次さんが偉い事になったときのお話ですな。
860人間七七四年:2009/05/23(土) 13:57:07 ID:cu6+7vrb
>>857
神君がへそくり好きなのは鳥居忠吉の影響だろうなw
861人間七七四年:2009/05/23(土) 14:01:59 ID:GPmoNzqG
・代々続く名家・社交家としての体裁
・趣味の茶道具買いあさり
・カミさんが新興宗教にハマッて高額寄付連発

てな感じで貯蓄する要素がないよね>某大名家
862人間七七四年:2009/05/23(土) 14:03:50 ID:VgAOAPU2
西洋史だとハプスブルク家なんてすごいな。惚れ惚れするようなケチっぷりw
あまりに金払いが悪いので、傭兵隊長のヴァレンシュタインが、
泣く泣く自分の懐から傭兵の給料払ったりw

まあこれは悪い方のケチだと思うが。
863人間七七四年:2009/05/23(土) 14:28:38 ID:ObMPUxG9
徳川家康の「ザ・へそくり術」
さて、>>857の続編とも言うべき、「家康のへそくり」の話。
家康はへそくりが好きだったのだが、どうやってへそくりをしたのかというと・・・・

勘定方「殿。今年度の収入はこのようになりました。お言いつけ通り兵糧用の米と換金の米を分け、
    銭の収入はこのようになりました。」
家康「決済する!」

そう、コイツも又、前田利家と同じく自分の勘定は自分で決済していたのである。
但し、利家の場合は例の「そろばん」まで用いて、本当に自分で計算までしていたが。

家康「この数字のキリがいいところまでは銭蔵に収めておけ、半端な銭はもってこい。」
勘定方「はっ!いつも通りにいたします。」
家康「それから奥向きで仕事をしている女房衆も呼んできてくれよ。」

こうして、奥から女性陣がやって来る。そうこうする内に、勘定の結果、「貫」の単位までは
銭蔵へ収められ、「匁」以下の端数の銭が持ち込まれた。

家康「これは、ワシの私的に使う銭(お小遣い)じゃ、数えておくれ。」
侍女「は〜い。」

こうして私的な銭が数えられた。そして・・・・・

家康「終わったか。では、鎧櫃へ入れよう。」
侍女「は〜い。」

こうしてへそくられた。
こうして貯められたへそくりでアッチコッチの大名にお金を貸した。
そして、味方を増やしてしまい、天下人になったのだ。
ちなみにこの鎧櫃、へそくりの重さに耐えかねて伏見城の床をぶち抜いたという。
864人間七七四年:2009/05/23(土) 14:31:16 ID:f76dTArB
細川家は幽斎もそうだが借金して自転車操業するのが当たり前みたいなとこあるよな
公家から武家からあちこち借金して回ってるし、親子で
忠興の弟だっけ?
分厚い質札の塊を宝物にしてたの
865人間七七四年:2009/05/23(土) 15:03:49 ID:cu6+7vrb
>>863
家康の側室達にもその気質があって諸武将達に金貸しをしてたとか、
側室衆のへそくりが城ごと萌えて金塊・銀塊になったときにもあとで鋳造しなおすとか言って再利用したんだっけな
866人間七七四年:2009/05/23(土) 15:20:14 ID:08/xewWk
ワレンシュタインは皇帝が払えないなら
自分の支配地から傭兵隊を編成するための軍税を取り立てる権利をよこせ、と言ったんだよ
結果普通の傭兵隊長なら編成できないような大規模な軍勢を作り上げることに成功したのさね
独自の軍に加えて地位どころか外交を行う権利まで要求して危険視されて紆余曲折の末暗殺ですよん
スレチなのでここでさよなら
867人間七七四年:2009/05/23(土) 15:24:49 ID:Ted+crNF
>>863
秀吉の場合、大勢の侍女衆との乱痴気騒ぎで伏見城の床がぶち抜かれそうだw
868人間七七四年:2009/05/23(土) 15:27:50 ID:qjD0jcn0
>>865
家康の側室たちが金貸しやってたのは、家康がしわくて化粧代もなかなか
出してもらえないからという話を聞いた事があるのだが、家康らしいっちゃ
らしい逸話。
869人間七七四年:2009/05/23(土) 15:32:41 ID:qeVZbqVr
>>867
普請奉行殺されちゃう
870人間七七四年:2009/05/23(土) 15:36:26 ID:MYRp3dle
信長の凄味

信長が根来(現在の和歌山県)を通った時、根来寺の法師たちは信長の大器量を噂に聞いていたので、
立派な贈り物を進呈しようと相談して、豪華な箱に餅を入れたものを三つ作り差し出した。
信長は馬上でこれを見て、奇特の進物であると言うと、
箱を開いて、髪かきを使い、その餅を二つ三つ食べてから、
供をつとめる家臣に食べよと言って庭に餅をうちあけた。
餅は馬糞の上に散らばったのだが、家臣たちはそれを何も言わず食べている。
法師たちはそれをみて信長の大将としての器量に驚愕したことは言うまでもない。
後に信長が根来を攻めるのだが、その時彼らは皆が恐怖して、たちまち降伏したとのこと。

戦わずして勝つ信長の凄味が感じられる話である。
871人間七七四年:2009/05/23(土) 15:45:41 ID:f76dTArB
>>870
確か既出
872人間七七四年:2009/05/23(土) 15:55:16 ID:aBNQnHGX
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/55/Hikone_castle04s3200.jpg
彦根城の堀だけど、この橋は篭城する時は撤去するのかな?
873人間七七四年:2009/05/23(土) 15:59:05 ID:aBNQnHGX
>>865
家康がケチだから、側室もコツコツ稼いでたんだね。
874人間七七四年:2009/05/23(土) 16:58:56 ID:KMOO8BXN
ひでーな信長はw そりゃ家臣に背かれるわけだわ
甘利昌忠の爪の垢でも飲め 
875人間七七四年:2009/05/23(土) 17:23:39 ID:nSloEHVP
>>874
道糞さん乙
876人間七七四年:2009/05/23(土) 19:55:20 ID:7eprxKGU
>>863
>ちなみにこの鎧櫃、へそくりの重さに耐えかねて伏見城の床をぶち抜いたという。
不覚にも吹いたwどんだけの量だったんだよww
877人間七七四年:2009/05/23(土) 21:12:51 ID:vO74wumm
>>876
当時の金一両が約16gだから…
小判だけだと一万両くらいはいるな

つうかヘソクリ用鎧櫃って1つじゃなかったろ絶対
878人間七七四年:2009/05/23(土) 21:25:45 ID:zDUUw+63
佐竹義重との布団をめぐるやり取りが残る義宣
彼もまた、普通の寝方ではなかった

まず、眠る時は必ず義宣一人
寝室には内側から掛け金をかけ、朝になるまで側近も入れない
義重と同じく、寝る場所を毎日変えたなんて話もあったりする
しかし、家臣としては夜中でも用事はできるものだ
「殿、火事です!」「殿、早馬です!」
部屋の外で家臣が叫んでも、義宣は慌てて戸を開けたりしない
長刀の刃先で掛け金を外し、戸を引っ掛けてそろそろと開け、
その格好で用件を確認すると、ようやく外へ出てきたという

義宣の手先の器用n…じゃなく、用心のいい話
879人間七七四年:2009/05/23(土) 21:27:56 ID:mICwUBuZ
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| ̄ ̄| ̄ ̄|/ | ̄ ̄| ̄ ̄|/ミシミシミシ     
 ̄ ̄ ̄~^ ̄   ̄ ̄ ̄ ̄^^       
880人間七七四年:2009/05/23(土) 21:29:39 ID:VgAOAPU2
>>878
単純に動くのがめんどくさかっただけじゃ無いかとも思えるなw

それにしても、そこまで警戒しないといけない生活だったのだねえ。
あれだけ各方面と戦いまくりだと、そうなるんだろうな。
881人間七七四年:2009/05/23(土) 21:37:20 ID:Hk6PwGyT
>>878
そーっと覗くと部屋一杯に・・・
882人間七七四年:2009/05/23(土) 22:00:36 ID:UjGFwdrW
銭が山積に!
883人間七七四年:2009/05/23(土) 22:12:43 ID:8AG7iaSg
夜這い対策という可能性も・・・
884人間七七四年:2009/05/23(土) 22:25:12 ID:LGvd0yaL
まあ権力確立するために重臣何人も殺してるからな
寝首を掻かれる心当たりはあったんでしょうなあ
885人間七七四年:2009/05/23(土) 22:30:10 ID:GDkQZNB+
>>863
まぁ、ヘソクリと言っても個人的趣味で茶器や贅沢に使ったわけじゃなさそうだね〜
諸大名との外交に使ったのなら機密外交費とも言えるしね。
上に立つ者が金銭に困ると臨時徴収で民に負担もかかるわけだし、
一概に私的なヘソクリとは言えないんじゃないかな。
886人間七七四年:2009/05/23(土) 23:11:07 ID:C/dVI1vW
スターリンも似たような逸話があるな
専制君主のプレッシャーは半端ないんだろう
887人間七七四年:2009/05/23(土) 23:49:24 ID:97hOxa4Z
自覚あるだけ名君だろうな
どっかの戦勝にうかれて無防備に寺に宿泊して宴会三昧してたら家臣に寺囲まれて
親子ともども討ち死にでござるよりマシ
888人間七七四年:2009/05/24(日) 00:16:48 ID:E16PjwW3
>>887
自重せいや道糞
889人間七七四年:2009/05/24(日) 00:18:34 ID:J5JKEtl/
織田信長はいつの頃からか相撲好き(見る専門だが)になって
いた。どれくらい好きかというと、暇さえあれば一年に二、三回
相撲大会を開くほどだった。

信長は優勝した者、健闘した者、気に入った者たちに褒美を与え、
時には家臣にしてくれたので参加者が千人を越えることもあった。
取り立てられた者の中には素姓の怪しい、侍ではないであろう者
もいて、秀吉のようにとはいかないが立身出世のチャンスだった。

宮居眼左衛門も相撲大会で活躍した男であった。信長は彼を賞して
重藤の弓を授けた。しかし彼はそれ以来、相撲をぱったり辞めて
しまう。「なぜ相撲をとらないのか」と信長は宮居に疑問をぶつけた。

彼の答えは「相撲は強いから勝つというものではないのです。
あの時は勝ちましたが、今度は負けて弓を取られるかもしれません。
もし私を負かした者があなた様の敵になったとしたら、せっかくの
名誉が虚しくなることでしょう」というものだった。道理にかなう
と思った信長は、それ以来、弓を与えなくなったそうだ。

安土城跡の近くに眼左衛門という地名があるらしいが、その由来は
そこに信長に召し抱えられた宮居の屋敷があったからだという。
890人間七七四年:2009/05/24(日) 00:24:21 ID:cv8S2gap
ただ、信長の相撲大会で勝っても、取り立てられて家臣になれるのは、最初から侍身分の者だけで、
それ以外は褒美の品が下される程度だったそうな。

やはり厳然とした身分の壁があったんですな。
891人間七七四年:2009/05/24(日) 00:25:33 ID:J5JKEtl/
>>889
ああ、虚しいというのは、戴いた弓が信長に向けられるってことね
892人間七七四年:2009/05/24(日) 00:33:26 ID:hl8qOef7
>>888
よう 寝首かかれる間抜け
893人間七七四年:2009/05/24(日) 00:36:42 ID:cv8S2gap
出来れば他所で戦って。
894人間七七四年:2009/05/24(日) 01:01:38 ID:ey87axoL
>>890
侍身分でなくとも仕官した例はありますよ。ただし、もとからの侍身分と
比べれば、付けられる地位仕事には差があった。
これはある意味当然で、それまで戦場で戦った経験もなく、事務仕事を
したわけでもないものをいきなりそういった仕事を任せられる訳がない。

あと、この故事が、後の大相撲の弓取りの由来になったとされているが、
真実はどうなんだろうね?

逆に言えば能力があれば取り立てられたわけでもある。例えば埴原植安
という人物は清洲城代として尾張の政務を委ねられたほどだが、前身は
巡礼つまり侍ですらない諸国流浪のものだった。
相撲取りも、相撲の能力(≠戦場の能力)で取り立てられたのだから、
仕事(地位)に元からの侍身分と差をつけられるのは当然。
895人間七七四年:2009/05/24(日) 01:24:10 ID:uQjEZW5C
この時代の身分制度の研究は過剰な同和教育と過激な人権団体の強かった時代の影響もあってか、
いまいちハッキリしないんだよな…実際にはどうなんだったんだろうね。
896人間七七四年:2009/05/24(日) 01:54:07 ID:pLvmWKOt
一方一豊は相撲大会に出た人を(ry
897人間七七四年:2009/05/24(日) 02:05:28 ID:nsvXlfP8
>>896
ありゃ酷いハナシだが

大河ドラマではそこんとこも映像化したの?
898人間七七四年:2009/05/24(日) 02:49:29 ID:w5BjPQcv
>>895
大半の戦国大名の氏素性がはっきりしないってことで大体推し量れるんじゃないか
899人間七七四年:2009/05/24(日) 04:05:50 ID:lUfTvGr8
Q.「君の先祖にはどんな人がいたの?」
A.「今、林羅山に家系図作ってもらってるところだから、できたら教えるね♪」
900人間七七四年:2009/05/24(日) 09:15:31 ID:cv8S2gap
しかし戦国大名の氏素性って、過去下克上史観が盛んだった頃にはそう言う、
素性がはっきりしないって捉えられ方が多かったけど、研究が進むにつれて、
例えば北条早雲こと伊勢新九郎が素浪人ではなく幕府の高級官僚だとわかったり、
それこそ秀吉の実家が、代々織田家に足軽を出している歴とした素性のある家だったりと、
戦国大名の氏素性に関してはむしろ、高く見られるようになっていると思うぞ。
901人間七七四年:2009/05/24(日) 09:35:31 ID:GBYCI+Xx
秀吉のほうもそんな確定的な話になってたっけ?
902人間七七四年:2009/05/24(日) 10:54:39 ID:pWasBlNY
>>900
名門今川家だから、幕府の官僚から嫁貰ったわけで、浪人はないよね。
信玄の正室も公家だったかな。
903人間七七四年:2009/05/24(日) 11:26:07 ID:4v6QMGYf
>902
本願寺顕如と嫁さんが姉妹、つまり義兄弟なんだよね


……べつにウホッな意味ではないが
904人間七七四年:2009/05/24(日) 12:15:14 ID:ChODSm4g
>>899
池田輝政明朗すぎワロス
905人間七七四年:2009/05/24(日) 13:28:41 ID:qrZfPH/i
島津も大友も、初代は頼朝の妾の子だって主張してるだけで
明確な根拠が無いんだよなぁ…
906人間七七四年:2009/05/24(日) 13:42:58 ID:AP/hIv4g
結城もそうじゃなかったっけ?
907人間七七四年:2009/05/24(日) 13:47:00 ID:qrZfPH/i
あっちこっちで隠し子をでっち上げられて、
頼朝さんも難儀だなぁ…
908人間七七四年:2009/05/24(日) 13:49:38 ID:Nmr+vcWV
あの時代なら鎌倉以来の武家ってだけでも価値ありそうだけどなぁ
909人間七七四年:2009/05/24(日) 14:21:49 ID:Te9c4zA+
>>907
弟を大事にしとけば隠し子の数も分担できたのに。
910人間七七四年:2009/05/24(日) 14:23:32 ID:48sMojcN
>>903
本願寺顕如は親鸞から女系で源義家に繋がるよ
顕如が武家の名門ってなぜか違和感あるがw
911奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/05/24(日) 15:33:07 ID:M/0hyp+i
>>910
そういえば顕如から親鸞までが父系でつながらない雑系なのが残念だな。
912人間七七四年:2009/05/24(日) 15:58:20 ID:yRZll4XE
>>911
昔もowdやms子みたいなのがおったんか
913人間七七四年:2009/05/24(日) 16:15:32 ID:jb9CH1zO
こんなのも
Q「先祖は藤原氏だけどどこの藤原なの?」
A「北南それとも知らずこの糸のゆかりばかりの末の藤原」
914人間七七四年:2009/05/24(日) 16:21:20 ID:GBYCI+Xx
でも、時代人口差考えたらどっかでなんか混じってそうだし
あながち間違ってないかも知らんw
915人間七七四年:2009/05/24(日) 16:33:20 ID:4Kn4d1tN
>>895
実は緩かった、ならば人権団体的には困るんだよねw
916人間七七四年:2009/05/24(日) 16:37:06 ID:uQjEZW5C
>>911
別に残念ではないだろw
本願寺はたしか、元々が親鸞の娘さんからの系統なんだよな
917人間七七四年:2009/05/24(日) 16:57:49 ID:Nmr+vcWV
阿波の国人である七条兼仲は怪力無双の勇将として知られた
兼仲が怪力を得たのは生まれつきではなく
合戦に備えて大山寺に深夜、二十一日間に渡って参拝した結果だという
参拝後、試しに寺の大石を担いで町まで持って行けた事に満足し、
鏡餅と石塔を担ぎ上げ寺に奉納、
これに感動した大山寺住職が後世にこの話を残そうと奉納力餅運びを始めた
これは大山寺の力餅として現代でも続けられている
ttp://puchitabi.jp/09/01/post-447.html

大山寺は四国別格二十霊場の一角としても知られる
徳島に寄られた際には参拝してみてはいかがだろうか?
もしかしたら怪力を得られるかもしれない


まとめみると四国がやけにハブられてる気がしたので支援
918人間七七四年:2009/05/24(日) 17:47:50 ID:aAKoGt5n
えっ!と思ってみてみたら四国だけ二桁しかないのな
北陸も二桁だけど越後抜きだからまだ救いがあるしそれでも四国より多い…
武将の数も四国が群を抜いて少ないしもっと紹介するんだ四国民
半分以上が元親の逸話になってるぞ
919人間七七四年:2009/05/24(日) 18:06:46 ID:I18eYFc6
ヲタがどんどん書き込むんだよ!
俺なんて大内の話ばっかり投下しているぞ
920人間七七四年:2009/05/24(日) 18:13:57 ID:qrZfPH/i
う〜ん、そこは地元に人にも頑張って欲しいな。
俺は鹿児島出身なので島津にまつわる話が多くなってしまう。
地元の戦国大名に由来する行事とか名物とか民謡って無いのかね。
921人間七七四年:2009/05/24(日) 18:21:35 ID:KhYs8aKc
力持ちといえば 熊本市内に北岡神社ってあるが
そこに細川の殿様が鍛錬していた卵形の石が 無造作に2つ置いてある
試しに小さい方を抱えてみたが ピクリとも動かんかった
なんか要領もあるのかな
重さも何貫とか書いてあったが忘れた
おれ 腕相撲とか弱い方ではないのだが・・・
922人間七七四年:2009/05/24(日) 18:27:25 ID:KhYs8aKc
力持ちといえば 熊本市内に北岡神社ってあるが
そこに細川の殿様が鍛錬していた卵形の石が 無造作に2つ置いてある
試しに小さい方を抱えてみたが ピクリとも動かんかった
なんか要領もあるのかな
重さも何貫とか書いてあったが忘れた
おれ 腕相撲とか弱い方ではないのだが・・・
へたすると 加藤清正より細川の殿様が力強かったんかなともおもた・・
923人間七七四年:2009/05/24(日) 19:14:18 ID:OTqaE52Y
>>918
あんまり地元の話するのもなあ…と思ってしまう
924人間七七四年:2009/05/24(日) 19:31:55 ID:AKiQxLMA
四国ってインパクトのある武将少ないし仕方ないな。
925人間七七四年:2009/05/24(日) 19:36:17 ID:16iej/ka
山内夫妻の逸話なら結構あるだろうけど、ここで紹介するにはいまさらかな
926人間七七四年:2009/05/24(日) 19:50:36 ID:2oNrUQy7
長宗我部氏は誰かさんのおかげで悪い話の方が多いからなぁ。
927人間七七四年:2009/05/24(日) 19:56:04 ID:Nmr+vcWV
>>925
被ってなけりゃ誰も責めねぇよ
俺の逸話も今更っちゃあ今更だけど誰も責めてないし
928人間七七四年:2009/05/24(日) 19:57:44 ID:GBYCI+Xx
長曾我部との絡みですら伊予の影の薄さは異常
929人間七七四年:2009/05/24(日) 20:24:59 ID:pWasBlNY
930人間七七四年:2009/05/24(日) 21:28:29 ID:SEV/1dAF
いやいや今更な逸話でも知らない人も居るんだし。俺だけど。
是非
931人間七七四年:2009/05/24(日) 21:55:17 ID:m6vukPbE
伊予のいい話って三宅氏の猪くらいしかでてないような・・・
932人間七七四年:2009/05/24(日) 22:07:24 ID:9jVsZLrC
DQN四天王の細川忠興であるが、関ヶ原の戦いが終わって田辺を奪還に向かう途中、大坂に寄ってみた。
もちろん
大坂細川屋敷全焼 orz←忠興
である。とそこへ、バテレンの神父さんがやって来て曰く

神父さん「オクガタサマノホネモッテキマシタ。アナタハカミヲシンジマスカー?」
忠興以下細川の軍勢「なっ!ナンダッテー!(AAry」

で、全てが終わった後に問題が出てきた。そう!葬式どうするんだ?である。
細川家は仏教であるが、カミさんのガラシャはご存知キリスト教。
亭主とカミさんで宗教が違ったのだ。
そこで、

忠興「ウチで行う葬式は仏教で行うが、玉(ガラシャ)の為にバテレンでも行う。という事で葬式ヨロ!」
神父さん「ワカリマシター。アナタハカミヲ・・・」
忠興「お宅の神は信じていません!」
神父さん「orz」

というわけで、ある意味前代未聞の奥さんだけキリスト教式の葬式という事になった。
ちなみに、何でこんな事が出来たかというと、まだキリスト教が本格的に弾圧されていなかった為。
他には、徳川家ではガラシャのおかげで関ヶ原の士気が上がったという事情もあって、何も言えなかった為。
で、神父さんはというと、葬式の後、手討ちに成らずに細川家で保護されたという。
ちなみに、江戸時代の細川家ではガラシャの葬式は仏教で行ったという。

あーそうそう。忠興とガラシャの子孫で政治評論家の細川隆一郎の娘はキリスト教徒で洗礼名はガラシャだそうです。
ずいぶんと面倒くさい性格の子孫ではある。
933人間七七四年:2009/05/24(日) 22:20:09 ID:WMERnG2/
>>876
そういや上杉も景勝の息子の代に何かあった時に使いなさいと
こっそり貯めてたヘソクリが重みで金倉の床ブチ抜いた話が合ったはず。
(例の吉良の爺さんのせいで溜め込んでた金全部消えたらしいが)
鉄筋コンクリートの無い時代よくある話なんでは?
934人間七七四年:2009/05/24(日) 22:22:18 ID:CZFQLMyq
娘さんは先祖にあやかったのかね。
俺あんま現代のクリスチャンのことはしらんのだが、
ガラシャって洗礼名はポピュラーなん?
935人間七七四年:2009/05/24(日) 22:25:07 ID:9jVsZLrC
×ちなみに、江戸時代の細川家ではガラシャの葬式は仏教で行ったという。

○ちなみに、江戸時代の細川家ではガラシャのお弔いは仏教で行ったという。

すいませんでした。テウチハカンベンデス。orz
936人間七七四年:2009/05/24(日) 22:27:10 ID:Ubzx1nhu
昔から日本は多様性があると言う良い話だなー
八百万の神万歳。
937人間七七四年:2009/05/24(日) 22:43:03 ID:pugQkOdi
>>936
神父さんてのは突発的に何か危険な目にあったら
咄嗟に十字を切るってのがグローバルスタンダード
だけど、日本人の神父さんは咄嗟に「ナンマンダブツ!」
と唱えるって言うからなぁ。
938人間七七四年:2009/05/24(日) 22:59:39 ID:Nmr+vcWV
神父さんで知ってる人いるけど普段は凛々しいのに笑い上戸なのか
ちょっとしたことで「フフン♪」とか笑ってるw
聞いた話じゃ近所の住職とも仲がいいらしい
逆に創価学会でそれなりの立場にいるらしい人は尊大だなぁ
見栄の為に車乗ってるみたいだし
俺が思うに徳ってのは宗教や宗派云々よりもその人個人次第なんだと思うよ
939人間七七四年:2009/05/24(日) 23:14:09 ID:4v6QMGYf
>>917アガトウ

まさに力餅
940人間七七四年:2009/05/24(日) 23:15:44 ID:4v6QMGYf
>>909
足利尊氏のことかァーッッ!? ん、間違ったかな……
941人間七七四年:2009/05/24(日) 23:28:05 ID:9jVsZLrC
>>934
キッチリ、ご先祖様にあやかったんだそうだ。
942人間七七四年:2009/05/24(日) 23:30:48 ID:WMERnG2/
グレース、グレーシア、ガラテア…よくあるかはしらんが無い名前ではないよな。
943人間七七四年:2009/05/25(月) 00:08:39 ID:m20GZzZv
そういえば大友宗麟はザビエルにあやかってフランシスコの洗礼名をカブラルから貰ったけど
実はカブラルの名前もフランシスコなんだよな

カブラル「俺の名を貰おうとは傲慢だが良い心がけだ。くれてやる」
宗麟「(゚Д゚)ハァ?お前の名じゃなくてザビエルさんにあやかってんだよ。お前の名なんていらんわ」
カブラル「(#^ω^)ピキピキ」

宗麟はカブラルをあまり良く思ってなかったしこんなやりとりがあったんじゃないかと想像してしまうw
944人間七七四年:2009/05/25(月) 02:43:29 ID:Fb4K9tb2
>>907
奥様が薙刀振り回して愛人宅を訪問しますw
945人間七七四年:2009/05/25(月) 07:39:35 ID:1NeKjCA8
>>940
まあ餅付いて和菓子でも食べろよ
946人間七七四年:2009/05/25(月) 10:24:40 ID:ku6ZUHeo
>>932
嫁の為にワザワザキリスト教式にもやるって中々出来ない事だよな
費用も掛かるし幕府には目を付けられるかもしれんし偏執的でもやっぱり愛してたんだろう
所で墓はどうしたんだ?
947人間七七四年:2009/05/25(月) 10:45:13 ID:yrON5TAM
>>946
三斎様の菩提寺とか三つぐらいだったか?に墓所がある。
948人間七七四年:2009/05/25(月) 10:48:06 ID:yrON5TAM
連投失礼、書いてる途中で誤って書き込みボタン押してしまった。
三斎様の寺に埋葬って事はつまり、キリスト教式じゃなく仏式で埋葬されたって事。
949人間七七四年:2009/05/25(月) 10:49:46 ID:ku6ZUHeo
あー、そこは自重したのね
トン
950人間七七四年:2009/05/25(月) 10:49:51 ID:Dx721VtV
>>946
幕府はまだ出来て無いw
徳川政権がキリスト教に厳しくなるのは、1611年の岡本大八事件あたりからだね。
951人間七七四年:2009/05/25(月) 12:13:29 ID:SdOCmy/R
微妙な話というかオチで悪く見える感じがするが

愛媛には和田霊神と言われる社があり、今でも吉山城主だった和田吉盛を祭っている。
この和田吉盛は病で没する直前に「われを神に祀れば疫病に苦しむ者を救わん」と言い残している。
その為、長らく神として祭られ毎年華やかに盆踊りが行われている。

ただ、没する前に河野家の忠臣として知られる平岡房実と交戦し撃退したばかりでの病没であり
すぐさま吉山城は攻撃をうけ陥落。
子供は落ち延びることができたが、武家としての和田家は滅んでしまった。

そもそもこの戦の発端は和田吉盛の父である和田通興が河野家家臣で縁繋がりでありながら不遜な態度をとり
反旗を翻す様子を見せたため討伐を受けたものであったり複雑な事情がある。
時代が時代とは言え忠義を貫いた平岡房実にしてみれば何神として祭れとか言っているんだという話かもしれなくはある。
952人間七七四年:2009/05/25(月) 12:47:53 ID:ok8gIq/G
四国ね
来島とか河野とか村上とか探せば結構ありそうだけどな
953人間七七四年:2009/05/25(月) 13:36:26 ID:RrPKHPtZ
歴史戦略ゲーム界の重鎮一条さんならどうだろう
954人間七七四年:2009/05/25(月) 14:00:02 ID:IJizfZ+7
土居さん絡みの逸話とか…
955人間七七四年:2009/05/25(月) 16:46:51 ID:m20GZzZv
>>951
どんな形であっても後世に名を残したかったんじゃないかなぁ
実際未だに祀られてるんだし
956人間七七四年:2009/05/25(月) 17:06:54 ID:Dx721VtV
島原の乱で戦死した板倉重昌。彼の長男で、父とともに従軍もした板倉重矩と言う人が居るが、
彼にこんな話がある。

重矩の邸宅の居間には、祖父、板倉勝重より伝来の弓を飾っていた。
ところがある時、近習の者の一人がふとこれを素引きしてみると、過って折ってしまった。
この者大いに驚き慌て、嘆きながら老臣に事の次第を告げた。

老臣「なんということを!その御弓は当家代々の御重宝の一つではないか!
殿の御気色はいかばかりか…」
そう叱責し、この近習を一室に閉じ込め、重矩の帰邸を待った

さて、重矩帰ってこの事を聞くと、その近習を呼んでくるようにと命じた。
近習、これを聞いて、きっと手討ちにされると大いに恐れながら御前に出ると、重矩、

「居間の弓を折ったのはお前か?」

「ははっ」

「お前がいつも奉公のことを考えている事、わしはいつも喜んでいる。
さて、あの弓だが、あれは万一何事かあった時、護身の為置いていた物だ。
しかし、お前が素引きをしたくらいで折れるような物であれば、わしが引いても必ず折れただろう。
もし万一の時にこれを用いれば、酷く恥をかいたことであろうな。

何事も無いときに折れたのは、これはわしにとって吉事と言うべき事である。
お前は何も、わしに迷惑となるような事はしていないぞ。」

この言葉に、弓を折った本人は言うに及ばず、近習の仲間の者たちも皆涙を流し、この人の為ならば
命を落としても惜しくは無いと、思い定めたとのことである。


そんなちょっといい話。
957人間七七四年:2009/05/25(月) 19:55:16 ID:zH6i+5z9
>>956
むちゃくちゃいい話ではないか!感動した!
958人間七七四年:2009/05/25(月) 20:02:18 ID:enAEvYM5
そうだな四国は清良さんだな この人が本気だったら天下とれたかも
959人間七七四年:2009/05/25(月) 20:21:17 ID:Fb4K9tb2
>>956
めちゃくちゃいい話だ!!


おや、小田原の方で鈴木さんと大久保たんが何か言いたげにこちらを見ているw
960人間七七四年:2009/05/25(月) 20:24:36 ID:j/LFI6dL
>>944

義久「うちの初代のご生母は頼朝公側室の丹後の局様だったんだよ」
宗麟「それならうちの先祖だって頼朝公の寵愛を受けた利根局様が…」

− あの世では −

政子「…あなた、下界であんな会話がなされていますが、
   説明してくださるかしら?(#^ω^)」
頼朝「誤解、誤解じゃ!ヒィィ (lll゚Д゚)」
961人間七七四年:2009/05/25(月) 20:52:52 ID:uVq1zUaw
>>960
恐妻家兼愛妻家のお宅はどこも大変だなw
どこぞの二代目将軍のご落胤は武家に養子に行けて良かったなあw後で三代目の側近になれたし
962人間七七四年:2009/05/25(月) 21:17:05 ID:h6bLH/ia
近く合戦を控えた甲斐武田家でのこと。

「おいそこのオマエ!!何回言えばわかるんだ!!
合戦でそんな動きをしてみろ!!オマエが死ぬだけならいいが味方の足を引っ張ることになるんだぞ!!
この大うつけがっ!!」

バイト先にこんな店長がいたら1日でバックれたくなるような怒声を部下にぶつけるのは、
人格者、まことの武士として名高い武田信繁である。
普段は部下どころか領民たちにもその人柄を慕われていた信繁だが、
なぜか合戦が近づくと横暴な態度で部下に接するのだ。
ある時、不思議に思った者がその理由を信繁に問うと、

「合戦が近い時には部下に横暴な態度を取って、その不満を敵にぶつけさせているんだよ。」

相手の大将を恐れるより、仲間である自分の大将を恐れるような軍隊は強いという話もあるが、
信繁もそんなことを考えていたのかもしれない。

君主の弟という立場を利用すれば最前線に立たないように身を処することも出来ただろう。
だが精鋭ぞろいの武田家臣団にあっても信繁隊の勇猛さは他の勇将率いる隊にも引けをとることはなかった。
信繁自身も部下を口先で叱咤激励していただけではない。
武田信玄が一番苦戦したとされる四回目の川中島、
劣勢に立たされた武田軍の士気は落ちるばかり。
これではいけないと信繁は手勢八百の先頭をきって上杉三千の軍勢に突っ込んでいった。
この信繁の奮闘を見て武田軍の士気は上がり態勢を立て直すことが出来たのだ。
しかし信繁が敵方から生きて帰ることもなかったのである。
963人間七七四年:2009/05/25(月) 21:43:55 ID:UnXzhqNX
>>956
重矩といえば、板倉家の菩提寺・長圓寺には
歴代の肖像画が所蔵されているんだが、
重昌の肖像画には脇絵として鷹と馬の絵がついてる。
重矩が父親の追善供養に寄進したらしいんだが、
武家の肖像画としてはあまりない形式の上に、
絵の作者が肖像画・狩野探幽、鷹と馬は探幽の弟・尚信、安信と、
狩野三兄弟合作の豪華版。
よっぽど、父親の死に様に思うところがあったんだろうなあ。
964人間七七四年:2009/05/25(月) 22:11:31 ID:Cs3fmix4
>>956
こういう事をサラッと言えるのが人間の器ってもんだわな
俺じゃ頭で思い描いても感情が出てしまうよ・・・
965人間七七四年:2009/05/25(月) 23:38:16 ID:l8Ncpbnj
>>943
なぜかカブラルがカブレラに見えて、現オリックスのカブレラみたいな巨漢が、宗麟を見下ろしてるとこを想像してしまったw
966人間七七四年:2009/05/26(火) 02:19:02 ID:4HHGDU0P
悪いスレでやらかしたのでいい話を。

信長が酒宴の時に朝倉義景、浅井父子の髑髏を出して盃にした
という話はよく知られている。この時の信長はすこぶる機嫌がよく、

「お前達の尽力に報いるため、このような肴(髑髏)を用意した。
わしはこの上ない喜びを感じておる」

と言って家臣達に褒美を与えたという。その席には佐々成政がいた。
酒宴が終わると彼は信長に言った。

「後漢書に『王者四海をもって家とし、万民をもって子とす。
天万民を生じ、君を立ててこれを養う。君道を得るすなわち、
人これをいただくこと父母の如く、これを仰ぐこと日月の如し』
とあります。

上様に従わない国があるのは、上様の不徳ゆえとお考え下さい。
ご自身の良くないところは省みなくてはなりません」

これを聞いた信長は成政の手を引いた。まさか手討ちに!?
いやいや、そうではない。成政の換言に感じいった信長は
別の部屋で政治について語り合ったのである。この事について
信長の側近・武井夕庵は成政の教養はたいしたものだと感銘を
受けたという。
967人間七七四年:2009/05/26(火) 02:26:18 ID:un3IS8W2
>>966
平手政秀の切腹が引っかかっていたのかな?
968人間七七四年:2009/05/26(火) 03:00:21 ID:J9KaWTCE
脳筋キャラだとばかり思ってたのに
969人間七七四年:2009/05/26(火) 03:07:14 ID:mTmKivwd
>>966
結局、そういう家臣の命懸けの諫言を全う出来なかったから本能寺で桔梗が狂い咲いたんだよ
970人間七七四年:2009/05/26(火) 07:56:05 ID:B4/WzbHo
>>966
この諫言は大河の秀吉では秀吉、利まつでは利家のエピにされてたなあ
秀吉は仕方ないかもしれんが、利まつは成政も準主役だったのに
おいしいところ持っていかれて泣けた
971人間七七四年:2009/05/26(火) 09:13:09 ID:kIA74w1K
そろそろ新スレですね。次でこのスレもとうとう2桁か。
980踏んだあたりで、宣言してから、スレ立てお願いします。


↓スレタイ

戦国ちょっといい話10

↓テンプレ

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話9
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240492546/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話9
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240753114/

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
972人間七七四年:2009/05/26(火) 10:58:00 ID:Dj9sM5pJ
>>971
毎回思うけどお前が立てちゃってもいいんじゃね?
973人間七七四年:2009/05/26(火) 11:31:10 ID:axS3fpcZ
>>966
手を引かれて別室に連れていかれたら手打ちよりアッチの方が心配
974人間七七四年:2009/05/26(火) 12:45:51 ID:15PhcM/s
そもそも杯にしたってのが戦後の小説から出てきたうそだし。
975人間七七四年:2009/05/26(火) 13:29:12 ID:A+tZUrol
勃ててもた

戦国ちょっといい話10
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1243312108/
976人間七七四年:2009/05/26(火) 13:56:22 ID:bpsp6up7
wikiだけど

>一級史料と評される信長公記には天正2年(1574年)の正月の宴席において箔濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)
>にした義景、久政・長政父子の三ツ首を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を楽しんだとある。
>なお、これを杯にして酒を飲んだという俗説もあるが史料には見当たらない

>>966が盃と勘違いして書いた可能性もありそうだからなんとも言えない気がする
977人間七七四年:2009/05/26(火) 17:18:14 ID:ipkzc0XA
>975こりゃ、勃てんナw

スレ立て乙
978人間七七四年:2009/05/26(火) 17:55:52 ID:kIA74w1K
おお、たってるw
>>975

埋め代わりに


前田利常が能見物をしていたときのことである。

この能、事の外面白く、利常、家臣たちにも見せてやろうと皆を呼び寄せた。
ところが、この能桟敷が狭かったのか、人数が多かったのか、舞台の周りは人で溢れ、
利常の面前にさえ家臣がひしめく始末。しかし家臣としては主君の見物の邪魔をする事は許されない。
そこで視線を塞がない為、利常の面前の方向にいる家臣たちは皆、手を付き平伏した姿になり、
頭だけをもたげて見物するという、非常につらい姿勢での観能となった。

これを憐れんだ利常、近習に命じ、畳を大量に持ってこさせた。
そしてそれを高く重ね、自分はその上に座る。
このおかげで皆手を付く事無く頭を上げ、楽な姿勢で見物することが出来た、とのこと。

最初の時点でボタンの掛け違えがあったような気もしないでも無いが、ともかくも
家臣思いの利常公のお話。
979人間七七四年:2009/05/26(火) 18:24:24 ID:UDURTk5M
道糞さんしつこいっす。
980人間七七四年:2009/05/26(火) 18:37:47 ID:P1MXU7jk
趙の襄子はいじめっ子の智伯を斃した後に頭蓋骨を杯にしたとか、便器にしたとかいう逸話があるけれど、信長がそういう教養があったとも思えないのでこれは独創なのだろうか。
981人間七七四年:2009/05/26(火) 18:52:41 ID:JmtoLtdZ
左伝とか史記とか日本でも学識層の基本学問だし
耳学問で入ってるんじゃね

岐山にちなんだ地名とか教えてもらってつけてんじゃん
982人間七七四年:2009/05/26(火) 19:43:42 ID:4HHGDU0P
>>974>>976
ごめんなさい。そこは俺のミスです。でも箔濃とか成政が故事を例にだして
学識豊かに諌言したとかは信長記にあって捏造じゃないんでご容赦。

ところで髑髏をそういうふうにすると、神通力を得るという信仰が当時あったそうで。
もし本当なら信長は決して無信仰ではなかったんでしょうな。
983人間七七四年:2009/05/26(火) 21:18:34 ID:ECg8PFlJ
叡山には箔濃職人もいたしな
偉い坊さんの頭骸骨を箔濃にするそうな
立川流とはちと違うのかな
984人間七七四年:2009/05/26(火) 21:24:54 ID:1/Mul+nM
立川流って奈良の大仏の前で乱交したあれか?
985人間七七四年:2009/05/26(火) 22:50:32 ID:xpb8z1PH
>>982
箔濃の記事は確かに太田牛一の信長記にある。というか、これにしかないが。
(厳密には、信長記から引用された江戸時代の書があと一つある)
しかし佐々成政の諫言はないぞ。

甫安信長記か?
986人間七七四年:2009/05/26(火) 22:55:14 ID:4HHGDU0P
うん。七巻元日酒宴の事。
987人間七七四年:2009/05/27(水) 00:18:59 ID:+liEFnnL
ある時、徳川家康と福島正則が歓談していたが、正則、この中で
家康の将、本多忠勝、井伊直政、榊原正康の事を賞賛した。

「あの三氏の武勇は真に素晴らしい。まさに御当家の干城と言うべきでしょう。」

この言葉に家康、首を左右に振りつつ

「いやいや、そう言うものではない。わしの下に居る勇士は、その三人のほかにも
後七人ほど居る。都合十人であるな。」

「ほう?では残りの七人とは、どなたですかな?」

「ふふふ。秘密じゃ。」

家康、これに笑うばかりで何も答えなかった。

さて、これを聞いて奮起したのは、本多、井伊、榊原以外の徳川の将達である。
「我こそは十人の中に加わる者なり」と、競う合うように切磋したとの事。

こうなる事を最初から予想して発言したのか、それともただ単に正則に大げさに言ってみただけなのか。
徳川家、謎の十人衆のお話。
988人間七七四年:2009/05/27(水) 00:46:25 ID:VeEYlJh9
信長に褒められたときは「あんなもの山盛り居るわ!」とか言って本人にへそ曲げられてたのに……
権現様ったら成長しちゃって……
989人間七七四年:2009/05/27(水) 00:52:24 ID:mzDGW0iT
衝撃の忠隣とか華麗なる守綱とか白昼の勝重とか暮れなずむ康景とかか
990人間七七四年:2009/05/27(水) 01:09:54 ID:RPVswfJy
>>986
その信長公記七巻元日酒宴の事の記事に、成政の諫言が無いんだが?
この記事には、箔濃が出て「場は大いに盛り上がった」としか。
991人間七七四年:2009/05/27(水) 01:40:30 ID:bo5vhdme
>>985
信長記の著者は牛一さんではなく小瀬さんですよー
992966:2009/05/27(水) 01:56:49 ID:OS/js5zz
ちゃんと書いときゃよかったね。牛一の信長記じゃなくて甫庵の信長記です。

さつさくらのすけ、末座に候ひけるが、みな、たいしゆつの後、すすみいてて
申けるは(中略)方々御手に属せたる国々ありしは、徳のいまたいたらざるゆへとおほしめし・・・

こんなかんじ。
993人間七七四年:2009/05/27(水) 11:24:13 ID:h66OkbIN
>>978
牢名主みたいやね。
994人間七七四年:2009/05/27(水) 11:58:10 ID:cr0A8KCB
>>962
怒らせたり励ましたり部下を鼓舞するにもいろんな方法があるよな
城捨てて逃げてきた部下を励ましてリベンジさせたり
居残りさせて自暴自棄にさせて敵に突入させたりw
995人間七七四年:2009/05/27(水) 13:16:23 ID:8XeKI4va
あんなものなど幾らでも居るでござる!とやって発奮するどころか辞められたりな
996人間七七四年:2009/05/27(水) 13:20:53 ID:h66OkbIN
>>995
明・朝鮮軍についちゃって大変だったねー
997人間七七四年:2009/05/27(水) 13:24:46 ID:GH9g8CLs
>>993
そういや畳を重ねて上座(?)にするって習慣は牢屋の中しかないよなw
日本人の生活に密着してきた割には使い方に幅がないな >畳
998人間七七四年:2009/05/27(水) 13:29:13 ID:+ZTIVyBp
>>989
槍ぱっちんするのか
999人間七七四年:2009/05/27(水) 13:37:29 ID:v4PbjVfr
999
1000人間七七四年:2009/05/27(水) 13:39:26 ID:PHI0u9sS
殿、殿中にござる!!
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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