戦国大名の経済力 2

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1人間七七四年
田舎大名の大内なんかが1番経済力を持っていたなんてうそ臭い
戦国大名の経済力について資料を持っている人は詳しく教えてくれ

前スレ
戦国大名の経済力
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154686672/
2人間七七四年:2009/02/22(日) 17:41:58 ID:HuqEjFMQ
( ´゚ω゚` )
3人間七七四年:2009/02/22(日) 19:01:17 ID:YMNZ5DPi
1、2、

さんっ(´Д`)ゲッツ
4人間七七四年:2009/02/22(日) 19:23:14 ID:Zz+GLdvq
この時代の経済力ってのは
どれだけの農地を抱え込めるかということ
またその農地がどれだけ地味豊かで生産性が高いかということ
それがすべて
濃尾平野は気候に恵まれ地味も豊かで広かった
だから名古屋人が天下を取ったんだみゃ
5人間七七四年:2009/02/22(日) 19:25:13 ID:UpH7Nnys
>>4
石高調べてみ
6人間七七四年:2009/02/22(日) 20:57:51 ID:FabsHRQ+
>>1
乙!

>>4
当時、まだ名古屋なんてありませんがなにか?
7人間七七四年:2009/02/23(月) 20:07:29 ID:JQZnJyLV
>>4
職人や商人に課す物資調達や建築・製造役
鉱物資源や材木や海産物や藍やアオソに代表される特産物
人頭税、商業に掛かる税とか他にもある、とはいえ土地が基本だけど
8人間七七四年:2009/02/24(火) 19:14:02 ID:UyESbY9z
…では、織田信長が直轄地にした
堺や大津、草津等の豪商等?からの上納金は、

織田家の財政収入の割合から見れば、
微々たる物だったのでしょうか?
9人間七七四年:2009/02/24(火) 22:16:17 ID:lp3pWNkM
人口で考えりゃいいのよ
堺市の人口が10万人だったとするならそれはつまり農地10万石の経済力にに匹敵するわけだ
美濃尾張100万石と比べると税収源としては10分の1の規模だな
それだけで見るなら「おまけ」程度の収入に過ぎないとも言える

ただしもっと重要なのは都市には情報と先進技術が集まるということだ
先進技術てのは鉄砲だな
信長は鉄砲で天下を取った
鉄砲持った1万の兵と持たない1万の兵じゃアタマ数はいっしょでも攻撃力が何倍も違ってくる

たとえばホントかウソか知らんが戦国時代の陸奥は150万石あったという
税収源としてなら堺の15倍だな
しかし東北の僻地には情報も先進技術もまったく集まらない
そういう意味では堺10万石>>>>>陸奥150万石という関係になる

つまり都市の価値とはカネに換算出来ないインテリジェンスが多くを占めるということだ
10人間七七四年:2009/02/24(火) 22:38:12 ID:J005JqPH
>>9
陸奥に大して、無知であることは分かった。

陸奥・出羽は、確かに統治体制や社会構造は中世そのままが続いたが、
日本海海運を通じて技術も、情報もたっぷりと入ってきている。
11人間七七四年:2009/02/24(火) 22:55:02 ID:lp3pWNkM
>>10
少なくとも最前線じゃないわな
東北に堺や博多に匹敵する国際都市は無い
イエズス会は近畿に本拠地を置いていた
つか東北どころか関東地方だって当時は片田舎に近い

日本海海運って北前船のことか?江戸時代はともかく戦国時代はそこまで繁栄してないだろ
12人間七七四年:2009/02/24(火) 23:06:12 ID:v+xCGVxx
つーか陸奥は(まあ陸奥に限らないが)、それこそ統治体制や社会構造のせいで、
人口の集中が起こらず「都市」の成立が大変遅れた。
13人間七七四年:2009/02/24(火) 23:35:56 ID:J005JqPH
>>11
むしろ大陸との交易は江戸期よりそれ以前の方が盛んだよ。
安東氏はそれで栄えた家だからな。

まさか、三津七湊を知らないとか言わないだろうな?
14人間七七四年:2009/02/24(火) 23:39:53 ID:J005JqPH
>>11
ちなみに、十三湊は博多に匹敵すると言われた港湾都市だ。
遺構も発掘されている。

都市の成立が大変遅れた、とか>>12は言ってるが、14世紀にはここに
都市が成立している(文献資料も考古学的遺構もある)。
15人間七七四年:2009/02/24(火) 23:42:43 ID:8Kgw3bad
戦国の頃にはもぅ…ねぇ
16人間七七四年:2009/02/25(水) 00:32:53 ID:hP1oaepa
むしろその港湾都市が衰退したことの重要性を考えるべき。
17人間七七四年:2009/02/25(水) 02:46:30 ID:g5JS7g/I
津波でやられたんじゃなかった?
18たられば君:2009/02/25(水) 14:38:18 ID:GJVMtfor
港があっても街が栄えていても、それを下支えするはずの
人口と人口密度が低いんだろうね
19人間七七四年:2009/02/25(水) 16:48:24 ID:IFOt/ic3
国内的は評価はともかく安東氏はヨーロッパの文献にも名前が出てくるほどで
世界的には有力諸侯というのが共通認識。かなり経済的に潤ってたことは海外文献からも明らか。
20人間七七四年:2009/02/25(水) 17:54:08 ID:hP1oaepa
実体が伴わなきゃ意味無いしね。
21人間七七四年:2009/02/25(水) 18:09:22 ID:WKJXPmwM
>>16>>20
君が知らないだけで伝承ではなく実体があったんだよ。
環日本海経済圏って考え方をする学者もいる。
人口や人口密度も、東北は言うほど少なくはない。

ただ、室町幕府の権威の外に近かったのは確かだが。
22人間七七四年:2009/02/25(水) 18:22:21 ID:OHZZSCM0
もともと俵物の集積中継地だし、
蝦夷錦って物があるくらい東北は海外との交易歴は長いよね

しかし論の始まりが「農業(土地)だけじゃなく商業(運上金)で云々」なのに、
交易都市があった地の人口なぞの内需農業生産に関わる話は見当違いじゃねぇかなぁ
23人間七七四年:2009/02/25(水) 18:36:03 ID:GQJOZSxD
>>11
弱体明朝の前の大元朝時代は博多以下堺以上に栄えてたんだけどね、十三湊

戦国時代の陸奥は南部、津軽藩で15万石、仙台藩60万、150万は届かないでしょ
24人間七七四年:2009/02/25(水) 23:47:04 ID:ZRiz3dv3
福島県忘れんなよ
奥州仕置時点で相馬岩城蒲生で60万石はある
それ足しても130〜140万石くらいだな
25人間七七四年:2009/02/25(水) 23:53:04 ID:4Dg22/iR
>>23
福島県を丸々お忘れですよ、というか葛西大崎を出さない時点で戦国時代じゃないし。
26人間七七四年:2009/02/26(木) 00:00:11 ID:mQqIueNj
十三港関係は『東日流外三郡誌』というトンデモ偽書が関わると煩いんだよな。

>国内的は評価はともかく安東氏はヨーロッパの文献にも名前が出てくるほどで
>世界的には有力諸侯というのが共通認識。かなり経済的に潤ってたことは海外文献からも明らか。

そのような事実はない。安東氏がヨーロッパの文献に登場するというのは、
1562年のベーリョの世界地図に"Bandoy"と書かれていると宣伝している奴がいるだけで、他にはない。

実際のベーリョの地図は日本北部に"Bandovmia"と書かれ、日本の中央部にはCooと書かれており、両者に国境など引かれていない(経線は引かれているが)。
明らかにBandov「坂東」とMiacoo「都」を混同して書いたと考えるのが妥当。
27人間七七四年:2009/02/26(木) 00:09:46 ID:2MlL96Wo
>>26
あれはなあ・・・
あんなとんでも偽書が無ければ、もっと早く、十三湊はまともに評価
されていただろうに。

そう思うと、あの腐れ爺の罪は万死に値する(もう死んでるけど)。
28人間七七四年:2009/02/26(木) 00:18:05 ID:KP0xEaoq
ま、ま
話をもっと本州の真ん中側に寄せると、戦国期の直江津には
3万人だかの人口があったらしいね
越後兵が毎年関東や信濃に出陣して、たいした領土も得られずに
それでも体制を保てたということは、謙信って結構商売人としての
才覚に恵まれてたんじゃなかろうか
それをどこで得たかは知らんけど
29慶長3年(1598年) 国別石高数:2009/02/26(木) 00:32:29 ID:mQqIueNj
別スレにも貼られていただろうけど、一応

山城  225,262
大和  448,945
河内  242,105
和泉  141,512
摂津  356,069
伊賀  100,000
伊勢  567,105
志摩  17,854
尾張  571,737
三河  290,715
遠江  255,160
駿河  150,000
甲斐  227,616
伊豆  69,832
相模  194,304
武蔵  667,126
安房  45,045
上総  378,892
下総  393,255
常陸  530,008
近江  775,379
美濃  540,000
飛騨  38,000
信濃  408,358
上野  496,377
下野  374,083
陸奥  1,672,806
出羽  318,095
若狭  85,000
越前  499,411
加賀  355,570
能登  210,000
越中  380,298
越後  390,770
佐渡  17,030
30慶長3年(1598年) 国別石高数:2009/02/26(木) 00:34:14 ID:mQqIueNj
丹波  263,887
丹後  110,784
但馬  114,235
因幡  88,500
伯耆  100,947
出雲  186,650
石見  111,770
隠岐  4,980
播磨  358,534
美作  186,018
備前  223,762
備中  176,929
備後  186,150
安芸  194,150
周防  167,820
長門  130,660
紀伊  243,550
淡路  62,104
阿波  183,500
讃岐  126,200
伊予  366,200
土佐  98,200
筑前  335,695
筑後  265,998
豊前  140,000
豊後  418,313
肥前  309,935
肥後  341,220
日向  120,088
大隅  175,057
薩摩  283,482
対馬  0
壱岐  0
合計 18,509,037
311600年頃 国別推定人口:2009/02/26(木) 00:52:10 ID:mQqIueNj
速水らによるもの(1974年)。1721年の幕府調査人口からの逆算を重視していており、
鬼頭も採用している。但し最近の鬼頭は総人口を1500万人程度と上方修正しているが、
国別推定人口までは示されていない。

山城 558,000
大和 399,400
河内 247,000
和泉 222,100
摂津 858,100
伊賀 51,600
伊勢 295,000
志摩 13,600
尾張 312,000
三河 167,700
遠江 133,500
駿河 125,500
甲斐 124,500
伊豆 42,000
相模 124,300
武蔵 708,500
安房 63,400
上総 181,400
下総 227,000
常陸 262,200
近江 324,400
美濃 300,600
飛騨 28,900
信濃 274,700
上野 230,400
下野 221,700
陸奥 734,400
出羽 338,500
蝦夷地 7,100
若狭 31,200
越前 139,200
加賀 81,000
能登 63,100
越中 125,400
越後 388,100
佐渡 36,200
321600年頃 国別推定人口:2009/02/26(木) 00:54:34 ID:mQqIueNj
丹波 155,800
丹後 53,800
但馬 62,600
因幡 50,000
伯耆 56,300
出雲 94,000
石見 87,800
隠岐 7,600
播磨 311,000
美作 70,100
備前 129,200
備中 127,800
備後 122,700
安芸 158,800
周防 115,800
長門 90,800
紀伊 203,300
淡路 42,800
阿波 134,800
讃岐 142,900
伊予 200,000
土佐 147,300
筑前 122,800
筑後 104,400
豊前 97,100
豊後 204,800
肥前 253,200
肥後 248,100
日向 90,200
大隅 52,600
薩摩 77,700
対馬 9,300
壱岐 5,900
合計 12,273,000
33人間七七四年:2009/02/26(木) 00:57:28 ID:Vgz5RbyF
なんか上杉謙信の財政手腕よかったように言う人多いけど光栄の謙信の
政治の数値の中途半端さはどういうこと?
34人間七七四年:2009/02/26(木) 01:10:58 ID:2MlL96Wo
>>33
関東・北信のgdgd見てれば、あんまり評価できないだろうよ・・・
結局関東は北条におさえられてるしな。
35国別面積:2009/02/26(木) 01:11:22 ID:mQqIueNj
意外と盲点かも

国名 方里 km2
山城 73.08 1,127
大和 201.42 3,107
河内 43.99 678
和泉 33.47 516
摂津 93.63 1,444
伊賀 47.34 730
伊勢 231.15 3,565
志摩 19.74 304
尾張 104.18 1,607
三河 208.62 3,218
遠江 196.44 3,030
駿河 219.77 3,390
甲斐 289.85 4,470
伊豆 106.11 1,637
相模 128.87 1,988
武蔵 391.63 6,040
安房 34.86 538
上総 140.69 2,170
下総 206.50 3,185
常陸 334.88 5,165
近江 257.15 3,966
美濃 402.87 6,214
飛騨 268.58 4,142
信濃 853.76 13,168
上野 407.25 6,281
下野 411.77 6,351
陸奥 2,956.76 45,604
出羽 1,289.36 19,886
蝦夷地 6,093.93 93,990
若狭 54.75 844
越前 217.67 3,357
加賀 147.83 2,280
能登 122.72 1,893
越中 266.41 4,109
越後 767.29 11,834
佐渡 56.34 869
36国別面積:2009/02/26(木) 01:15:31 ID:mQqIueNj
国名 方里 km2
丹波 206.67 3,188
丹後 77.10 1,189
但馬 165.92 2,559
因幡 98.59 1,521
伯耆 125.57 1,937
出雲 181.61 2,801
石見 232.32 3,583
隠岐 22.05 340
播磨 238.58 3,680
美作 170.56 2,631
備前 94.25 1,454
備中 156.50 2,414
備後 234.03 3,610
安芸 286.72 4,422
周防 189.20 2,918
長門 201.51 3,108
紀伊 381.17 5,879
淡路 36.73 567
阿波 271.13 4,182
讃岐 113.74 1,754
伊予 341.56 5,268
土佐 454.99 7,018
筑前 158.63 2,447
筑後 80.87 1,247
豊前 136.63 2,107
豊後 344.11 5,307
肥前 319.80 4,932
肥後 489.29 7,547
日向 511.40 7,888
大隅 247.36 3,815
薩摩 332.68 5,131
対馬 44.33 684
壱岐 8.81 136
琉球 156.91 2,420
小笠原 4.65 72
合計 24,796.63 382,450
37国別推定人口密度:2009/02/26(木) 01:24:39 ID:mQqIueNj
1600年頃の推定人口(>31-32)を面積(>35-36)で割った
人口密度順(人/km2)に旧国を並べた場合は以下の通り。
(蝦夷地・琉球等は除く)

摂津 594
山城 495
和泉 430
河内 364
尾張 194
大和 129
安房 118
武蔵 117
備前 89
播磨 85
筑後 84
上総 84
伊勢 83
近江 82
讃岐 81
淡路 76
下総 71
伊賀 71
相模 63
備中 53
三河 52
肥前 51
常陸 51
筑前 50
丹波 49
美濃 48
豊前 46
丹後 45
志摩 45
遠江 44
壱岐 43
全国平均 43
38国別推定人口密度:2009/02/26(木) 01:26:11 ID:mQqIueNj
佐渡 42
越前 41
周防 40
豊後 39
伊予 38
駿河 37
若狭 37
上野 37
安芸 36
加賀 36
下野 35
紀伊 35
備後 34
出雲 34
能登 33
因幡 33
肥後 33
越後 33
阿波 32
越中 31
長門 29
伯耆 29
甲斐 28
美作 27
伊豆 26
石見 25
但馬 24
隠岐 22
土佐 21
信濃 21
出羽 17
陸奥 16
薩摩 15
大隅 14
対馬 14
日向 11
飛騨 7
39人間七七四年:2009/02/26(木) 11:15:28 ID:UTKNzLxf
>mQqIueNj
なかなか面白いデータをありがとう
40人間七七四年:2009/02/26(木) 16:52:30 ID:SyKHg/qp
古過ぎるし、今となってはあちこち疑問の多いデータ貼られても邪魔
41人間七七四年:2009/02/26(木) 21:00:39 ID:M8/9wkU4
…織田信長が、桶狭間の合戦後に、取り得の?今川領には目もくれずに、
遮二無二、美濃・伊勢方面から畿内に進出する戦略を推進した訳だな。

濃尾勢に加えて、畿内を制圧出来れば、

当時は、圧倒的な?経済基盤だった地域を手中にする事になり、

傑出した経済力=軍事力で、天下を掌中にしたも同然だからな(^-^)。

今川領に拘わり合って、武田や北条等が絡んで来たら、
天下統一事業どころの話じゃ無くなるからなぁ〜。
42人間七七四年:2009/02/26(木) 22:04:51 ID:ax4V2a1u
三河には何の取っ掛かりも無い、美濃は先代から色々とある
今川統治の進んでいた駿遠三と領主交代してまだ約10年の美濃、それだけの違い
43人間七七四年:2009/02/26(木) 23:45:27 ID:ZX8NoX7r
>>42
西三河には織田の勢力圏がありました
44人間七七四年:2009/02/27(金) 02:33:49 ID:oNrgw/Dr
ないない、よくある両属なら分かるけど
45人間七七四年:2009/02/27(金) 07:34:46 ID:vQL/GmJc
謙信の青苧貿易からの利益が、石高概算すると約10〜15万石だっけ
こっちは天候に左右される米と違って、安定した銭が得られるのがデカイ
46人間七七四年:2009/02/27(金) 11:11:32 ID:mHNPpkNb
>>45
やっぱり生育に左右されるわけだが
47人間七七四年:2009/02/27(金) 12:51:46 ID:/FYNMU43
>>45
小氷河期をなめてはいけない。
夏霜や夏雪の記録があるくらいだからな。

また青苧の地上部分は霜が降りるとダメになるらしいから、
不作もあったと思われる。
48人間七七四年:2009/02/27(金) 13:53:06 ID:/ucwRore
カラムシ(青苧)は地下茎が発達してて
年6回の収穫もできるほど、すぐ地上部は生えてくるよ。ま、今じゃ雑草……

つか冷害は、他の作物では開花期での不稔や
累積温度不足で成熟成長期にならないことで年一回の収穫が皆無になるけど、
カラムシのように、多年草で単に地上部を利用する作物では、
冷害で一回の収穫はなくても、通年ではある程度の収穫は見込めると思われる。

つまり小氷河期向きな作物ですな。
49人間七七四年:2009/02/27(金) 14:50:02 ID:W7kBznE6
阿波も藍と材木併せて30万石の収入があったらしいが
これも天候の影響はあまりなさそう。消費地近いのも好条件だし
50人間七七四年:2009/02/27(金) 17:33:38 ID:rpkF52r7
この人口データはやっぱり可笑しい。
上方以西の西国が全体的に見て低すぎる。
当時の西国は可也の経済圏で有ったことは物流の総量を考えれば解ると思う。
戦国前期の動員数の故事は膨張が多かったと思うが、資料的に整理された後期の合戦(〜出兵)にしたって城普請にしたって東国から動員された総量は西国より圧倒的に少ない。
東国が西国を凌駕していくのはやはり江戸時代からと見る方が正しいと思うね。
51人間七七四年:2009/02/27(金) 17:52:48 ID:/FYNMU43
お言葉だが、小田原征伐の主力は誰だったかわかってるかい。
唐入りにしたって同じで、
近いものが多くを負担して遠いものはそこそこってのは豊臣政権に見られる共通項。
52人間七七四年:2009/02/27(金) 18:35:43 ID:oNrgw/Dr
それはその通り、が、コピペされた人口データも
全く当てにならないゴミデータ
53人間七七四年:2009/02/27(金) 20:00:52 ID:jkCVyEWM
戦場に近いものから順に負担を大きくするのは豊臣政権だけじゃなく、それ以前からのものだが
54人間七七四年:2009/02/27(金) 23:47:44 ID:23un1VeP
>>40
そうは言うが、この研究以降戦国時代の日本の人口分布について具体的な推定値を出した論文・本が出ていない。
鬼頭氏の『人口から読む日本の歴史』も、この時の推定値をそのまま用いている。

そもそも戦国時代は戸籍も田積も検地も記録がほとんど残っておらず、
鎌倉時代の田籍と太閤検地、江戸時代以降の人別帳の集計値などから
推定人口を求めるしかない。

ハワイ大学のFarrisが2006年に出版した"Japan's Medieval Population: Famine,
Fertility, And Warfare in a Transformative Age"の中で、
守護大名が抱えている武家人口から総人口の推定というのを行い(1450年頃に960万人)、
それを受けて鬼頭も『[図説]人口で見る日本史』の中で
1600年頃の日本の人口を1500万人に上方修正しているけど、
日本国内の人口分布までは試算していない。
55人間七七四年:2009/02/27(金) 23:56:49 ID:23un1VeP
江戸時代に入るとキリシタン取締りの関係で宗門人別改帳が成立し、
よくまとまった人口史料が手に入る。吉宗の時代以降各藩に人口を報告させた結果が残っているが、武家人口を除外した「領民人口」として集計されており、
実際の人口はこれよりも少し多い。

以下1721年の国別人口(領民のみ)と、明治6年の本籍人口(全身分対象)をまとめると以下の通り。


  1721年    1873年
山城 564,994 431,453
大和 413,331 423,004
河内 243,820 239,191
和泉 218,405 212,251
摂津 809,242 730,943
伊賀 95,978 97,190
伊勢 543,737 581,669
志摩 31,856 46,943
尾張 554,561 731,974
三河 416,204 485,470
遠江 342,663 416,543
駿河 245,834 369,731
甲斐 291,168 362,973
伊豆 96,650 150,549
相模 312,638 359,598
武蔵1,903,316 1,968,753
安房 115,579 155,331
上総 407,552 423,596
下総 542,661 648,394
常陸 712,387 652,955
近江 602,367 578,099
美濃 545,919 668,148
飛騨 67,032 98,822
信濃 693,947 924,867
上野 569,550 509,941
下野 560,020 501,849
陸奥1,962,839 2,305,961
出羽 877,650 1,197,936
蝦夷 15,615 123,668
若狭 86,598 85,813
越前 367,652 454,229
加賀 206,933 405,268
能登 152,113 264,379
越中 314,158 623,977
越後 932,461 1,372,116
佐渡 95,748 103,553
56人間七七四年:2009/02/27(金) 23:58:10 ID:23un1VeP
ついでに『日本地誌提要』には明治6年1月1日の人口が記載されている。

595,905 東京
271,992 大坂
238,663 京都
125,193 名古屋
109,685 金沢
74,305 広島
64,602 横浜
61,124 和歌山
51,991 仙台
48,861 徳島
45,318 萩
44,984 首里
44,682 冨山
44,620 熊本
41,635 福岡 (博多20,985+福岡20,650)
40,900 神戸 (兵庫+神戸)
39,784 福井
39,757 高知
38,838 堺
38,118 秋田
37,808 松江
33,152 新潟

ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/meta-bin/mt-pmtlist.cgi?smode=1&pagecnt=
10&tlang=0&isr1=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E8%AA%8C%E6%8F%90%E8%A6%81

57人間七七四年:2009/02/27(金) 23:59:13 ID:23un1VeP
>>56はコピペ間違い orz

丹波 284,893 295,681
丹後 125,276 162,084
但馬 149,732 187,980
因幡 122,030 162,920
伯耆 132,981 194,525
出雲 222,330 340,222
石見 207,965 262,035
隠岐 18,133 28,741
播磨 633,725 639,576
美作 194,226 215,676
備前 338,523 333,714
備中 333,731 399,218
備後 321,008 459,109
安芸 361,431 673,301
周防 262,927 498,732
長門 212,124 331,328
紀伊 519,022 620,241
淡路 105,226 165,485
阿波 342,386 590,048
讃岐 334,153 564,351
伊予 504,045 778,556
土佐 351,547 526,285
筑前 302,160 445,278
筑後 266,426 393,656
豊前 248,187 307,535
豊後 524,394 565,460
肥前 609,926 1,082,488
肥後 614,007 950,389
日向 211,614 382,564
大隅 112,616 220,578
薩摩 149,039 586,324
壱岐 19,993 32,929
対馬 16,467 29,740
琉球 -------- 166,789
合計 26,065,421 33,300,675
58人間七七四年:2009/02/28(土) 00:22:23 ID:NLEW9Jiq
>この研究以降戦国時代の日本の人口分布について
>具体的な推定値を出した論文・本が出ていない。
要するにそういう事でしょ
戸籍やそれに代わる記録を残してない国の人口推計じゃ
どう頑張っても憶測の域を出ない。

速水なんとかさんの本は面白いしそれなりに説得力あるけど
鬼頭って人の意見は、そこからの類推に過ぎないわけだし
59人間七七四年:2009/02/28(土) 01:05:14 ID:Gok3TWyN
以下がWilliam Wayne Farris(2006年)の推定人口など(琉球・蝦夷を除く)

1150年 550〜630万人 (耕地は95万6000町)
1280年 570〜620万人 (耕地は97万7000町、1奈良反当たりの米収穫量は1.88奈良石, 0.85徳川石)
1450年 960〜1050万人 (耕地は124万1379町、1奈良反当たりの米収穫量は2.28奈良石, 1.23徳川石)
1600年 1500〜1700万人 (耕地は158万8462町、1奈良反当たりの米収穫量は2.33奈良石, 1徳川反当たりの米収穫量は3.10奈良石, 0.955徳川石)
1721年 3130万人 (耕地は225万1539町、1徳川反当たりの米収穫量は3.55奈良石, 1.094徳川石)

※太閤検地以前・以降の石、反を便宜上「奈良石」・「徳川石」、「奈良反」・「徳川反」と区別している。
奈良石≒2.5徳川石、1徳川反≒1.3奈良反
耕地の単位「町」は太閤検地以前のものを基準とする。
60人間七七四年:2009/02/28(土) 01:27:19 ID:NLEW9Jiq
人口推計は記録の遺りやすい大都市でさえ
学者によって数字が倍違う事もざらにあるんだが
61人間七七四年:2009/02/28(土) 01:40:52 ID:dydYZe/Y
生産量からの推測は必ず間違える
62人間七七四年:2009/03/07(土) 15:23:15 ID:9+UbqAd0
推量にはいろいろな方法があるんだ
63人間七七四年:2009/03/12(木) 15:04:09 ID:ZYDFCigV
>太閤検地以前・以降の石、反を便宜上「奈良石」・「徳川石」、「奈良反」・「徳川反」と区別している……
凄いね
64人間七七四年:2009/03/13(金) 19:00:51 ID:bha5tj4h
凄いな、高校生でも教員にチェックで弾かれるレベル
65人間七七四年:2009/03/18(水) 16:30:40 ID:BbY/u8My
戦国期って結構人口増えてるんだね。
66人間七七四年:2009/03/21(土) 04:48:32 ID:j3wsbkIP
17世紀頃までの日本全体の国力は大体フランス王国と同じぐらいだった
って話どっかで見たことあるんだが実際にはどうやったん?
67人間七七四年:2009/03/21(土) 19:40:01 ID:SdsjShYh
国力っていうと普通、人口、食糧自給率、経済力、軍事力など総合的なことだと思うがそれでいいのか?

だったら蛙野郎と一緒にするな。
68人間七七四年:2009/03/28(土) 02:13:50 ID:IBhlNi2d
寛永元年(1624年)改全国兵数
(『日本帝国形勢総覧』より徳川昭武所蔵修史館写本による)

     兵数      馬上     鑓     旗     鉄砲    弓
大名 25万2219人 1万1770騎 4万2036本 2522本 1万6814挺   8407張
一門 15万2997人    7149騎 2万5495本 1530本 1万0199挺   5099張
旗本 14万1300人    6609騎 2万3464本 1395本    9300挺   4650張
合計 54万6516人 2万5519騎 9万0995本 5447本 3万6313挺 1万8156張
69人間七七四年:2009/04/02(木) 16:38:49 ID:N8M2JqS3
一門とは誰の一門ですか?
70人間七七四年:2009/04/05(日) 23:16:43 ID:HSFp1G+n
>>68
これって徳川家での数字?
71人間七七四年:2009/04/11(土) 16:30:39 ID:CBsj9cHn
浅井長政(贈・従二位中納言)は石高25〜30万石
72人間七七四年:2009/04/17(金) 14:36:13 ID:g8cfS9r0
スレ盛り上げ用のネタとしてレスっとくので、参考レベル程度に
 
 
結構前に何かの本に載ってたんだが、
江戸幕が開かれるまでの戦国時代の中で、国力・軍事力・人材能力など
すべての総合で、戦国大名家のランキングをつけられてたんだが、
このランキングでは単純に経済力のランクとは比例しない??
 
1 江戸幕府を開く直前ごろの徳川家

2 朝鮮へ出兵する直前ごろの豊臣家

3 本能寺の変直前ごろの織田家

4 元就が死去する直線ごろの毛利家

5 小田原征伐がおこなわれる直前の北条家
 
まあ単純に大勢力ばかりだが...
73人間七七四年:2009/04/17(金) 23:05:42 ID:+EsuTcHa
>>72
4と5が逆じゃね?
74人間七七四年:2009/04/17(金) 23:19:19 ID:Ja/pzz56
そもそも何の意味も無いランクだなw
75人間七七四年:2009/04/17(金) 23:38:39 ID:EHNThEr6
その頃の毛利は5位ですらないだろ・・・
76人間七七四年:2009/04/18(土) 00:36:22 ID:KbqltAoI
元就死ぬ頃は100万石越えたぐらいか?
77人間七七四年:2009/04/18(土) 01:03:27 ID:wm3Xc7ST
石見銀山と中国山地の製鉄が合わせて約100万石換算だから
都合240万石くらいだよ
78人間七七四年:2009/04/18(土) 11:07:15 ID:RgsyvT+m
>>73たぶん、そうなってたと...

>>74すまそ...

>>75総合ランキングなので、元就補正もふくむ??

>>76
>>77石見銀山はすごいと聞いてたが、中国山地の製鉄って
結構すごいんやね  200万石越えるとすると4位も納得かも
79人間七七四年:2009/04/18(土) 12:57:25 ID:YkP+9XnD
100万石換算のソースだせよ。
80人間七七四年:2009/04/18(土) 13:15:52 ID:EflVdIiL
あるわけ無いナリ
81人間七七四年:2009/04/18(土) 17:52:49 ID:wm3Xc7ST
鉄1貫の売買レートが解らんが、まあ鉄1貫≒0.9貫換算として

元和六年の備後4郡の鉄生産量が年13,500貫
同時期の備中国奉行の年間鉄調達量が約18万貫
元文元年の大阪での中国地方9ヶ国産の鉄扱い量が101万貫

石見銀山の慶長12・13年銅生産量が約4,800貫
慶長5年の銀割当高が23,000枚、まあ100万石は固いな
82人間七七四年:2009/04/18(土) 18:41:48 ID:KdqcXBtq
鉱山の凄い(というのも大げさだが)点は、毎年収益予測をたてやすいってことでしょ
特に石見銀山クラスになればなおさら(仮に100万石換算の話半分でも50万石)

水害をはじめとした天変地異からほぼ影響を受けない
50万石を生産しうる田畑を統治し敵対勢力から守る為に必要な役人&兵数と
鉱山を管理するのに必要な役人&兵数の比較
83人間七七四年:2009/04/18(土) 22:02:43 ID:3gl9DjB0
いや、採掘や精製だっていろいろと技術も手間も費用もかかるもんなんだが。

毎年必ずその量が山から生産される保障なんてどこにもない、という点では
自然まかせの農業とかわらん。
84人間七七四年:2009/04/18(土) 22:08:35 ID:y7NKLrXb
鉱業なんて、不安程度では農業と変わらんよ
85人間七七四年:2009/04/18(土) 22:20:09 ID:wm3Xc7ST
>>79-80>>83-84
農業よりは安程してるよw
ところで、反論無いなら>>75のような妄言は撤回して貰おうかw
86人間七七四年:2009/04/18(土) 22:56:32 ID:y7NKLrXb
>>85
特に東北以外の米作と鉱業とではさほど差はない。

鉱業に夢見すぎ。
これが工業なら話は別だがな。
87人間七七四年:2009/04/19(日) 00:13:02 ID:pNCerRc4
>>85-86
工業にも夢見すぎ
産業革命が勃興したのは、食糧生産の増大によって食糧供給が安定したからこそ。
鉱工業製品を食べて人が生きていくことが出来ない以上、鉱工業製品<農産物は永遠に変わらない。
現在の先進国は自国内で低コストで大量の食糧を確保できるか外国から食糧を安値で輸入することで食糧を生産しない大多数の非農業従事者の食糧を確保して、鉱工業生産や商業・行政などに振り向けることが可能になっている。
88人間七七四年:2009/04/19(日) 00:27:19 ID:OtmCv2b1
>>86-87
戦国期は食糧の調整、分配機能が崩壊していたため
干、水、冷害を引き金に村落民の逃散や都市の飢餓が毎年のように発生していた時期
況して、田畑の刈り取りや薙ぎ払いをされたら収穫の大半はご破算
技術と人数掛ければ採掘が確保できる鉱山掘りとは大違い。
89人間七七四年:2009/04/19(日) 01:27:31 ID:48wpC/Oq
だから戦国末期、織田が最盛期を向かえる前まで、毛利が最大と言われてたのだよ。
経済力だけではね。人口とかその他もろもろで、
総合力では大分前から織田が最大だけどね。
90人間七七四年:2009/04/19(日) 03:20:40 ID:OtmCv2b1
なんだ信長厨か、相手して損した
91人間七七四年:2009/04/19(日) 03:59:41 ID:X1MUWeFN
>>88
戦国時代って田畑の収穫が債券として取引されてた時代だぞ??
しかも同じ土地で二毛作三毛作と年に何回も収穫してた。

当時の災害もよく確認すると通年で収穫ゼロってのはすくないし。
たとえば春旱魃といえば、裏作の小麦が全滅すること。表の米は別。

92人間七七四年:2009/04/19(日) 04:05:35 ID:AU3TS5xe
>>91
> 戦国時代って田畑の収穫が債券として取引されてた時代だぞ??

それはむしろ室町時代だな。戦国期はその状況が修正される過程。
93人間七七四年:2009/04/19(日) 04:08:36 ID:48wpC/Oq
>88
狩り働きで御破算なんて
どこのファンタジーだよ
94人間七七四年:2009/04/19(日) 08:08:16 ID:ljA70zDE
鉱山は金堀衆と収入を折半するほど手間と費用が掛かるという事を忘れてはいけない
95人間七七四年:2009/04/19(日) 10:48:12 ID:z+ip3/zG
折半できるほど収入が多かったとも言えるな
96人間七七四年:2009/04/19(日) 12:05:10 ID:S9+urNlB
72を書き込んだ者だけど、
いろいろ貴重な意見聞くことができたので、感謝レス!!
 
自分は詳しくないから、あんま偉そうなこと言えないんやけど、
鉱山が有力な財源だとしたら、
一番領土が広かった時期の、上杉や武田のほうが5位内に入りそうやけど、
ちょっと素人判断すぎるかいな??
97人間七七四年:2009/04/19(日) 12:16:00 ID:0i/zXMlL
>>96
鉱山で言うなら北条にも伊豆や相模の製鉄・金山があるからね。
最盛期の領土で言うなら天下人(事実上)の三者+北条には上杉・武田
は敵わん。

あと、鉱山のみに着目するなら、確かに山陰をおさえた毛利は他を隔絶し
てる。
98人間七七四年:2009/04/19(日) 21:40:49 ID:OtmCv2b1
相模の鉄山や金山って聞いたことないな、無くはないだろうが
基本的に木材や鉄はわざわざ伊豆から調達してるし
隣国の今川・武田・上杉領と比べると木材・鉱物資源は少ない。

>>91
それは室町・江戸時代、戦国期は気候の変動で収穫が不安定になり
借り入れが困難になるなど、農民にとっては色々大変な時代。
99人間七七四年:2009/04/19(日) 22:30:36 ID:0i/zXMlL
>>98
相模の製鉄は歴史的な物だぞ?
あと、当時は鉄は鉄山ではなく砂鉄な。
100人間七七四年:2009/04/19(日) 23:30:46 ID:OtmCv2b1
>>99
砂鉄は山を崩したものを川へ流して採取な。

鉄の供給は戦国時代(の何時かは知らない)に
採算性の関係で中国・東北地方の他、一部の地域に集約されてるが
相模は聞いたことない。
10172&96:2009/04/20(月) 00:54:28 ID:QFREtFmK
>>97相模にも金山や製鉄があったのは意外...
やっぱり上杉や武田でも、関八州おさえていた頃の北条には敵わないかぁ
確かに実際、2勢力に隣接してて交戦もした上で、北条家は潰されなかったもんなぁ
 
>>98武田・上杉・今川に比べると、鉱物物資は少なそう
 
>>99>>100知らなかった...汗
102人間七七四年:2009/04/20(月) 02:23:41 ID:q7kuwc1V
>100
相模伊豆と書かれてるだろ?
それと知らないのは貴方個人の問題。
実際には結構知られてる。
103人間七七四年:2009/04/20(月) 02:45:15 ID:A+1PNTwV
そういやあ、後北条家といえば、秩父にも金山があったな。
武田からの侵入も激しかったようだが。
104人間七七四年:2009/04/20(月) 03:36:53 ID:TOXF0ojn
>>98
まぁ農民が大変だったのは確かだけど……
戦国時代の人口増加は止まってないし、激しい気候変動で食料生産に問題があったようには見えないけど。
本当に収穫無かったら西欧の100年戦争みたいに人口が激減すると思うけどな

室町の土地債券というのは、実際は一つの田を多様な運用することで収穫を増やした部分
米だけでなく裏の小麦や大豆の分が”債権”と化してたわけでしょ
それを戦国時代に”検地”で課税し始めたわけで、そうして生まれた余剰で秀吉は外征できたわけだし
そういう見方をすれば、かなりな経済的価値を見いだせると思うけどなぁ……


105人間七七四年:2009/04/20(月) 04:16:49 ID:50lo1lfa
>>102
伊豆や相模、と書いてるでしょ。伊豆相模ならそもそも突っ込まない。
>実際には結構知られてる。
知られてるわけない、鉱物関係の史料はあまり現存してないし
北条領で鉱物出るのは主に伊豆と武蔵、上野だからね。

>>104
寺社などに遺ってる記録では、収穫期前数ヶ月の死者が
室町時代と比べ増えてるし、各地の大名が再三逃散禁止令出してるから
人口増加したとは考えにくいと思う。
その手の資料見たことないから、自信ないけど

外征に関しては、室町幕府までと違い
大名に対して強制的な命令権を確立させた事が大きいと思う。
106人間七七四年:2009/04/20(月) 09:04:55 ID:xO3+k+Ug
人口増加は戦国時代で2・3割増説が主流かな
余り人死が出ない戦争形態で、略奪行為も余りせず、大名が富国強兵に勤しんだ結果
107人間七七四年:2009/04/20(月) 11:19:50 ID:24nvF0AT
>>101
むかしの製鉄は
鉱脈のある山を崩して水を樋に延々流して沈殿させる鉄穴流し

大量の森林を伐採して炭にして燃やす

のでダントツの大規模自然破壊
108人間七七四年:2009/04/20(月) 16:19:32 ID:6JeWF/+b
>>106
略奪しない戦は皆無、人攫いも日常の光景、知ったかぶりしない方がいいよ。
109人間七七四年:2009/04/20(月) 18:47:22 ID:QWVFtcAM
へえ、じゃあ信長も京都で略奪したんだ
110人間七七四年:2009/04/20(月) 19:34:23 ID:xO3+k+Ug
>>108
人口基盤にダメージがあるほどの略奪はなかったという事を言いたい
わかり辛かったかね。すまんね。
111人間七七四年:2009/04/20(月) 19:47:09 ID:50lo1lfa
略奪はあるに決まってる、何を言ってるんだオマエはw
112人間七七四年:2009/04/20(月) 19:50:39 ID:50lo1lfa
>>111>>109宛てね

>>110
確かに中国の王朝崩壊期みたいな、大規模流賊は発生してないか
113人間七七四年:2009/04/20(月) 21:56:18 ID:gUZBNEpD
はあ。さいですか。
11472&101:2009/04/20(月) 23:47:41 ID:3rEFrR0Q
>>107そこまでしても、やっぱり鉄は手に入れたい貴重な物だったんやぁ
争いの世は、食料と鉄がものを言うんですね
 
>>109イメージ的にはやってても不自然な感じ受けないよね
人を首から下生き埋めにして、錆びたノコギリで処刑するぐらいだから、
悪行は極めてそ〜な予感
115人間七七四年:2009/04/21(火) 00:07:11 ID:1JpZXoMD
>>114
その処刑方、家康もやっているんだけど?
116人間七七四年:2009/04/21(火) 00:20:25 ID:tt2UvA/Z
>>114
見せしめの処刑と略奪は別だろう
キミの予感は別として信長が京都を略奪したソースがあれば見せてほしい
117人間七七四年:2009/04/21(火) 00:38:55 ID:wAud06IW
略奪は基本的にはどの大名も禁止していて、
稀に解禁していたに過ぎないのは長宗我部氏の記録に明らかなんだが。
118人間七七四年:2009/04/21(火) 00:53:02 ID:1W5B/ZXF
>>116
>>114ではないが、信長が上京するとき山城に入ってから、大略奪が始まって、
略奪品の分配をめぐって、織田軍と徳川からの援軍が対立して、合戦になりかけたって事が
三河物語に出てくるな。
119人間七七四年:2009/04/21(火) 03:11:24 ID:b0phBT/k
>>116
松平記にも、京で略奪中に三河衆と織田信包衆が喧嘩し
尾張兵が鉄砲撃ち立てた、とある。

それ以外にも、あちこちの寺社宛で放火・略奪を禁止する禁制出してるが
裏を返せば、禁制を得ていない寺社や村は織田兵の略奪し放題って事。
120人間七七四年:2009/04/22(水) 16:51:08 ID:Pg79NWog
相模の製鉄は鎌倉時代より日本刀生産とあいまって非常に有名だと思うが・・・
121人間七七四年:2009/04/22(水) 19:29:56 ID:Pw5W1R/R
軍記主体では何ともなあ。

少し前からいわれる禁制がなければ略奪し放題って説も現実味を感じないんだよね。

市民は戦争がおこればアジールとしての寺社や山城に非難するんだが、
その避難先の安全をより堅固に保障するため禁制があるのであって、
禁制がなければすべて略奪の対象とされたわけじゃない。
地震の避難先案内みたいに非難誘導の役割を果たしたんだろう。
「そっちの寺院に逃げ込むと敵側の兵が籠もっているから、敵対行動と見なしますよ。
 こちらの寺院に入れば安全ですよ」と。
122人間七七四年:2009/04/22(水) 20:46:15 ID:YQ+KUbgj
禁制がなければすべて略奪の対象とされた、これは自明の理
統一権力が存在してない以上、敵対する武装集団の禁制を得ていない
=自己の属する集団の力以外に保護されないのは、確定的に明らか。

禁制は代償(金銭、糧秣、労役なりの提供)の見返りとして発給されるもので
基本的に武装集団の側が発行するものじゃないよ
それと禁制貰っていても略奪された事例は普通にある。
123人間七七四年:2009/04/22(水) 21:01:25 ID:YQ+KUbgj
あと、なぜ軍記物を否定したがるのか解らないが
公家の日記にも、上洛時、浅井・朝倉との戦、義昭と敵対した時
信長軍が京の諸所で放火(放火=略奪含め全破壊)した、との記事はあるよ。
124人間七七四年:2009/04/22(水) 23:14:25 ID:Pw5W1R/R
そうして軍記以外の記述を示してくれたら理解できる。
けれども禁制の見解はどーにも納得できないね。
そういう議論が主流なのは知ってるけれど、
もう少し別の見方で近づいて実態調査を深化させたいところだよ。
もちろん無償で発給されるわけじゃなく、
敵方につかない彼らを保護する意味があるのだが、
中立的な立場を取るアジールがただちに雑兵の狩場となるわけじゃないでしょ。
そうする例もあるだろうけど白か黒かの二択で簡単に片付けられないと思うんだよね。
125人間七七四年:2009/04/22(水) 23:37:32 ID:73P1lmMp
「略奪」って語感がヒャッハー!! ぽいけど、基本”戦争資材の現地調達”名目だから、
まぁどんな戦でも起こっていたと思われ。
京都だと都会だから、篝火とか陣地構築で民家寺神社は垂涎の資材元かと。
それに対し禁制は、現金貢いで現物を取られるのを防ぐ、意味合いが強いかと。
…でも実力で抵抗しないと高札あっても物資取られてるけどね……

放火は、陣周りの視界遮るものを除いてるだけ、なので、コレも普通じゃない??
調子づいて大仏殿燃やしちゃったのはヒャッハー!!かもしれないけど……
126人間七七四年:2009/04/22(水) 23:55:28 ID:YQ+KUbgj
はいはいワロスワロスw
放火は徹底して打撃を与える為に根刮ぎ破壊する行為な
略奪は略奪、現地調達とは全くの別物
127人間七七四年:2009/04/23(木) 00:01:00 ID:X1FF4Mxv
略奪に関しては、軍事行動の一環としての放火・破壊行為と、足軽らによる
命令によらない個人の略奪は分けて考えるべき。
128人間七七四年:2009/04/23(木) 00:33:48 ID:ZrxZ6NKs
押買=普通にあった。略奪とは異なるが物資調達のためしばしば行われた
強盗=殺傷を含む略奪行為。基本的には禁止されている
放火=軍事行動の一環として行われる
禁制=一般には以上全てを禁止する

こういう認識でOK?
129人間七七四年:2009/04/23(木) 00:35:41 ID:w9SLek5m
>>126
むむ? その区別おかしくない??
”高札が効果がある”のって、どう見ても”組織的な略奪”だとおもうのだけど??
当時の戦では付近の民家や寺院ぶちこわして、その資材使って陣地を作る、
が普通だったけど、それを防ぐための高札もらうんだ、と思ってたけどねぇ

放火して更地にするのも、敵方にその資材を使わせないため、
”押買い”つーのも、名目は”軍事物資調達”だし、実際どーだかわからないけど、
当時記録されている略奪のほとんどが名目は”戦争のため”の活動だったかと。

それに寺院規模を”個人レベルで略奪放火”なんて無理でしょに。
130人間七七四年:2009/04/23(木) 00:59:20 ID:4aoGyZqF
禁札を保有してない場合、略奪に来た足軽や雑兵を排除するのは
敵対行為と見なされ、検断により財産没収される可能性が高いから
自力で略奪を排除するにも保有していないのは危険かと。
131人間七七四年:2009/04/23(木) 01:12:06 ID:4aoGyZqF
>>128
個人的には↓と思ってるけど、実際どうなんだろ。
押買=物資調達のため
乱暴狼藉=拉致を含む略奪行為、自国では禁止
放火=軍事行動の一環として行う強度の略奪と破壊
禁制=押買以外を禁止する
132人間七七四年:2009/04/23(木) 01:19:06 ID:Z/KNEkgD
まあ戦国時代は村や町自体が防衛機能を持っているので、
戦国大名が略奪や放火に来ても、追い返される事も珍しくない。
133人間七七四年:2009/04/23(木) 12:45:37 ID:ZrxZ6NKs
物資調達のための破壊は軍事行動であって、略奪とは異なるだろう。
134人間七七四年:2009/04/23(木) 13:41:31 ID:w9SLek5m
>>133
当時の記録された”略奪”の実態について話してるんだよね
今の国語辞書的な意味についてじゃなくて??

軍事物資調達で適価が代償として払われないものを押買、略奪、乱暴狼藉って言ってんじゃないかな。
そうでなければ神社仏閣公家屋敷などが”乱暴狼藉”されて泣き寝入りする、
って結果になってる説明がつかないと思うのだけれど。
135人間七七四年:2009/04/23(木) 15:00:37 ID:Z/KNEkgD
関ヶ原の時石田三成の部隊が、醍醐寺に材木調達のためやってきて一方的に徴発しようとしたら、
醍醐寺の領民に反撃食らって追い返されたって話があったな。
136人間七七四年:2009/04/23(木) 15:43:23 ID:BmIs3fZU
武田信玄の場合。
手出ししないと正式に保護を受けたはずの寺社に
武田の兵が乱入してきて、勝手に材木・竹等を持ち去
ったりしてる。
怒った寺社が、信玄に抗議したが、取り合ってもらえず
うやむやにされたという例もある。
137人間七七四年:2009/04/23(木) 19:12:15 ID:4aoGyZqF
>>135
まず大前提として、家康から所領安堵と守護不入の権利を貰ってるだろ。
138人間七七四年:2009/04/23(木) 19:38:23 ID:w9SLek5m
>>137
それって慶長三年のなら、宇喜多秀家、毛利輝元、徳川家康の三大老連名だろ
自説にあわすために情報の一部しか出さないのは良くない

醍醐寺は他に小早川秀秋のと三奉行連名の制札ももらってるね
139人間七七四年:2009/04/23(木) 20:24:47 ID:4aoGyZqF
>>138
意味不明、むしろ宇喜多秀家・毛利輝元との連判の方が
石田三成に対しての抑制効果は強い。

自説にあわすために云々の件は程度の低い難癖でしかない
140人間七七四年:2009/04/23(木) 20:27:47 ID:Dxtj8CZY
>>123
軍記物が創作であるという事実を忘れていないか?
軍記物に書かれた事が全て誤りだと主張する奴もアレだが、
日記とか古文書とかの他の記録との照合なくして無批判に軍記物の内容を信じることは少なくても現在の歴史学じゃ歓迎されていない。
141人間七七四年:2009/04/23(木) 20:30:00 ID:Z/KNEkgD
>>139
だからその略奪のあった慶長五年に、すでに「西軍」の小早川秀秋と三奉行連名の、守護不入の
制札を醍醐寺はもらっているんだって。
それにもかかわらす三成軍は略奪に来たんだよ。
142人間七七四年:2009/04/23(木) 20:36:38 ID:QmfHCh35
このように略奪が日常的にされていたのなら、
大名が敵の侵攻に対して部隊を派遣して、
例え絶望的な兵力比であってもそれを
迎撃にむかわせねばならなかったか、
よくわかるな。
143人間七七四年:2009/04/23(木) 21:46:30 ID:4aoGyZqF
>>141
だから、家康単独よりも輝元・秀家との連判の方が
それよりも直前に西軍方の連中から貰った権利の方が
石田軍に対しての抑制効果は強いだろ。

いくら武力保持していても、何の権利も無しに防衛するのは無謀
144人間七七四年:2009/04/23(木) 21:52:57 ID:Z/KNEkgD
>>143
悪いけど印象論で地に足の着いてない文句言う前に、義演准后日記読んでくれ。
145人間七七四年:2009/04/23(木) 22:00:22 ID:4aoGyZqF
>>144
はいはい、義演准后日記じゃなく洋泉社から出てる新書がソースだろw

武力保持していても、何の権利も無しに防衛するのは無謀
これに反論があるなら指摘してくれ
146人間七七四年:2009/04/24(金) 06:24:57 ID:FYKYFqpc
>>145
当時、戦が起きたときに制札をもらわなかった事例ってあるのかな?
たぶんこのスレで制札の有無について問題視してるのは、あなただけだと思うけど。
(他は”制札の効力”について注目してる)

慶長三年の制札については秀吉が死ぬ前に申請されて没後発行されたから
三大老の署名があるわけで、ただ単に豊臣政権が守護不入を認めた、と判断した方が。
関ヶ原の合戦を見越して醍醐寺が家康に働きかけたわけじゃないでしょ?
147人間七七四年:2009/04/24(金) 17:15:13 ID:fE9+mY+7
>>146
寺社が貰い受けた禁制は数多く記録に残っていて
寺社より絶対数の多い村のそれは極めて少ない、そういう事じゃないのかな?
効力に関しては、あくまで権利の認可で確保するのは自らの力でしょうね。

下段は俺の書き方が悪かった。
家康から制札を発給されていたので、石田方から略奪された、という意味じゃなく
制札を保持していたので、石田方の略奪に対し防衛のため実力行使できた、という意味
誤解される書き方して申し訳ない。
148人間七七四年:2009/04/24(金) 17:41:43 ID:gx1OGd2y
>>147
> 制札を保持していたので、石田方の略奪に対し防衛のため実力行使できた

それは間違ってる。村落や都市が制札なくても防衛のために実力行使した事例なんていくらでもあよ。
149人間七七四年:2009/04/24(金) 18:23:42 ID:Nhc1SsQj
>>148
いつ、どこの、何に属する村であったか多数の事例を出そうか自演君

少なくとも関ヶ原の段階では100%不可能
どこにも属さず戦国大名と敵対するのはキチガイ沙汰
同様にそれをいくらでもあよと主張するのもキチガイ
150人間七七四年:2009/04/25(土) 13:09:25 ID:Uk5Qv9Kx
いつの間に関ヶ原の段階なんて制限がw 弱気だなあ。
だいたいその関ヶ原の段階で、醍醐寺は「実力」で三成の軍を追い返しているわけだし。

つーか、領民、農民が「山上がり」「小屋上がり」をして領主や侵入者と対立した事例は
当時の記録に何ぼでも出てくるだろ。
本当に知らないのか?

天正七年の立花と龍造寺の戦いの時、早良郡の人々が鳥飼村と言う所に立て籠もって
攻めかかった立花軍を跳ね返した事例。
天正十四年、豊後野津の住民が亀甲山の要塞に立て籠もって島津軍と対峙した例、
近江では村々が六角氏の課役を拒否し、連携して要害を作り反抗した例、

その中で成功した事例も何ぼでもあるぞ。
15172:2009/04/25(土) 15:00:04 ID:66FBjAYm
今NHK大河が、武田家滅亡手前ぐらいの年代になってるけど、
もし勝頼が、信玄の頃からの旧臣たちの助言を聞き入れて、国の守りを固める事に専念し、
長篠のような戦いを起こさなければ、武田家は滅亡しなかった??
 
それとも織田・徳川の勢力を考えると、国の守り固めに力を入れても、侵略されて滅亡してたかなぁ
本能寺の変まで持ちこたえるという考えとは別で
152人間七七四年:2009/04/25(土) 15:08:08 ID:Hqcx8Q0l
守りを固める方向じゃ無理だろ。どこかで打ち破らないと。
本能寺も武田滅亡が無ければ起こりえないし
つかスレ違いじゃね?その手のスレいっぱいあるんだしそっちでやったら?
153151:2009/04/25(土) 15:11:24 ID:66FBjAYm
>>152
ほんとやね
よそでやるので、>>151はスルーの方向でよろ
154人間七七四年:2009/04/25(土) 15:23:58 ID:zHr2myyb
>>151
長篠以降西へこそ向かわなかったが関東方面への出兵がかなり頻繁だよ

上杉から貰った分を合わせると上野一国をほぼ支配下に入れてたし
関東方面の小勢力が武田に靡き始めた
そのせいで財政がかなりヤバい状態になって崩壊したけど
155人間七七四年:2009/04/25(土) 15:59:36 ID:L1C3QyoH
>>150
あーなるほど。わざわざ

>制札を保持していたので、石田方の略奪に対し防衛のため実力行使できた
関ヶ原前後に起きた醍醐寺での出来事への言及に対して

>村落が制札なくても防衛のために実力行使した事例なんていくらでもあよ。
惣村が独立的立場をとれた大名権力の弱い時期まで含めて言及したとw

恣意的にも程があるな
156人間七七四年:2009/04/25(土) 16:04:12 ID:L1C3QyoH
>>150
>天正七年の立花と龍造寺の戦いの時、早良郡の人々が鳥飼村と言う所に立て籠もって
>攻めかかった立花軍を跳ね返した事例。

>天正十四年、豊後野津の住民が亀甲山の要塞に立て籠もって島津軍と対峙した例
あと、この2つが何に書かれていたか史料名か書籍を挙げてくれる?
>>144を反省して捏造に走られてたら、話すだけ無駄だし
157人間七七四年:2009/04/25(土) 16:13:00 ID:L1C3QyoH
>>156
島津と大友の戦は見つかったからいいや
というか、野津院だから村じゃないし大友統治下じゃん
しかも島津家久の軍勢に制圧されてるし
158人間七七四年:2009/04/25(土) 16:18:09 ID:Uk5Qv9Kx
ID:L1C3QyoHはそんなに自分が捏造と印象論と適当な知識で騙っている事にコンプレックスを持ってるのかw
この程度の事も知らないで議論していたとは、やれやれw

>天正七年の立花と龍造寺の戦いの時、早良郡の人々が鳥飼村と言う所に立て籠もって
>攻めかかった立花軍を跳ね返した事例。

豊前覚書

>天正十四年、豊後野津の住民が亀甲山の要塞に立て籠もって島津軍と対峙した例

イエズス会日本年報
159人間七七四年:2009/04/25(土) 19:06:15 ID:L1C3QyoH
>天正七年の立花と龍造寺の戦いの時、早良郡の人々が
>鳥飼村と言う所に立て籠もって立花軍を跳ね返した事例。
立花軍といっても数十人で死者0、しかもすぐ打ち破られて略奪されてるし

>天正十四年、豊後野津の住民が亀甲山の要塞に立て籠もって島津軍と対峙した例、
野津院は大友の支配に属する寺社、独立でも何でもない。
しかもふつうに打ち負かされ、家久は野津に陣を敷いてる

>近江では村々が六角氏の課役を拒否し、連携して要害を作り反抗した例、
一向宗徒なら頻繁にあるね、それをどこにも属さない村扱いする気か?w

>豊前覚書 イエズス会日本年報
どちらも藤木久志の本(176ページ)に載ってたよ
わざわざ格好つける事ないのにw
160人間七七四年:2009/04/25(土) 19:12:49 ID:L1C3QyoH
話反れまくってるが‥

要するに、寺社のような特権を持つ勢力でも
代償を払って禁制を得ることで自己防衛しているのに
どの勢力にも属さず、両属もせず、禁制も貰わず
村が存続できたなどという主張は論外ってこと。
161人間七七四年:2009/04/25(土) 22:06:20 ID:bI61XIRR
>>160
むむむ、軍事物資の調達という”略奪”なら、された側の存続には無関係じゃ?

当時の”戦争”は基本的に一般民(つまり農民商人)とは別社会の行事なわけで、
大陸のように、その土地のコミュニティまでを焦土化する”略奪”なんて記録はないような。


戦争は経済活動を伴うし、”略奪”も当時の経済活動の一つだから、
あんまりスレ違いの話題でもないと思うけどなぁ……
162人間七七四年:2009/04/26(日) 00:02:30 ID:vLg/lqab
別世界なわけないじゃん。武士も農民もさほど変わらん事してる時代だぜ
163人間七七四年:2009/04/26(日) 00:19:38 ID:M4KclK74
年に何度も物資の略奪や人的な損害(捕虜・戦死)を被るなら
年貢払って労役負担する方がマシじゃね
164人間七七四年:2009/04/26(日) 00:20:04 ID:izwvY4aM
>>161
> 基本的に一般民(つまり農民商人)とは別社会の行事なわけで
どんなファンタジー世界に生きてるんだ君は
165人間七七四年:2009/04/26(日) 02:17:52 ID:v1w3VIkG
"別社会の行事"という言葉のニュアンスをくみ取っていただけないとは……

大陸の戦争に付随する”略奪”というは基本的に地域の住民社会ごと対象になります。
例えば、モンゴル民族は国を丸ごと消していますし、十字軍ではエルサレム占領時に戦闘員でないイスラム教徒住人を磔にしています。
でも日本における”略奪”はその地のコミュニティを破壊するものはありませんでした。

また村が山籠もりするのは共同体の財産を戦争資源として使われることから守る、が主目的で、
その地の領主の防衛に参加するためではありません。
制札についても合戦する両陣営からもらうのが普通でした。
つまり合戦において”中立”であることが重要なわけで、それ故"別社会の行事"と表現したわけです。

まぁ 大きな合戦を地元農民が見物した、って話はけっこう残ってますよね??
166人間七七四年:2009/04/26(日) 04:02:56 ID:M4KclK74
戦国時代早期は日和見・中立も容認されていたけど
大名領国の拡張が進むと西国の惣村や海賊、有力寺院も服属させられているし
侵略される側の場合、総動員とはいかないまでも
軍役衆以外の農民を戦へ駆り出す事もあったから、時期によるかと。

略奪の質についてはほぼ同意見
ただ、モンゴルの略奪が激しかったというのは完全なデマで
十字軍やキリスト教徒同士の戦いと比較して遙かに穏健だったらしい。
167人間七七四年:2009/04/26(日) 06:08:03 ID:gJ44A6sQ
>>166
むしろモンゴルが恐怖戦略の一環として「略奪の激しさ」を宣伝していたようね。
168人間七七四年:2009/04/26(日) 11:50:25 ID:w3Bc5/XD
>>166
> モンゴルの略奪が激しかったというのは完全なデマで
それも時期による。
ホラズムや金を攻撃していた頃と、欧州に勢力を拡大していた頃では
モンゴル軍の性質もかなり異なっている。
サマルカンドは、その略奪と破壊により都市の位置を変えているほど。

>>165
ちなみに、欧州やイスラムでも街の外で行われている戦を城壁の上や
丘の上から見物する市民や農民ってのは文献に残ってる。
169人間七七四年:2009/04/27(月) 17:46:56 ID:0MRmitXS
ホラムズシャーや金攻略のときも破壊の程度は他勢力のそれと差はないが
170人間七七四年:2009/04/27(月) 21:13:25 ID:LhcYXg3S
>>169
「大差ない」と「遥かに穏健」とでは全く違うだろ。
171人間七七四年:2009/04/27(月) 22:37:01 ID:HQy+aPkh
サマルカンドの再興や大略奪、大破壊もデマだな
ティムール時代も栄えてるし、主要都市は内部崩壊であっけなく開城してる
破壊、虐殺が起きたのはホラーサーン。

対金戦にしても十字軍やキリスト教諸国の蛮行よりは遙かに穏健
172人間七七四年:2009/04/27(月) 22:50:16 ID:g1rIpQoV
つーか、モンゴルが政策として穏健にやったというより、人口の少ないモンゴルでは、
大規模略奪は「やりたかったが出来なかった」と捉えた方がいい。
173人間七七四年:2009/04/28(火) 07:17:10 ID:nNClbzU1
>>171
ホラズム・シャー朝のサマルカンドとティムール朝のサマルカンドでは
場所自体が移っている件。
174人間七七四年:2009/04/28(火) 17:17:40 ID:zqN4xI0U
>>173
ホラズム時代の建築物は発掘されてないじゃん
175人間七七四年:2009/05/02(土) 11:55:15 ID:GbHIzcLr
日本に戻そう
176人間七七四年:2009/05/02(土) 13:09:22 ID:Vw8eBRNb
結局

新田開発
特産品の専売
鉱山開発
市を作り商人を集めて税金を取る

の4パターンの内どれに重点を置くかってことだよな
177人間七七四年:2009/05/02(土) 15:05:47 ID:hNRPYYnj
新田開発はないんじゃね?
むしろ耕作してない荒地が増えて税の減免しまくってるのに
178人間七七四年:2009/05/02(土) 15:55:53 ID:SCHixyT7
まあ戦国期に新田開発がなかったとは言わないが、やはり産業として本格化するのは
江戸期に入ってからだな。

江戸の最初の100年は、文字通り地形が変わるほど開発された。
179人間七七四年:2009/05/02(土) 17:30:36 ID:ZSHc817/
各種利権・権利関係の整理と管理の一本化
これだけで相当、収入が増える
180人間七七四年:2009/05/12(火) 14:24:50 ID:RZX3FFD4
関東なんか荒れてる湿地ばっか。
181人間七七四年:2009/05/12(火) 22:02:17 ID:ZNxgabYp
>>180 その荒れた湿地ばっかりの関東に転封させられた徳川家康も、
さぞかし、関東の領国経営に苦労したろうて。

…それにしても、関東に転封させられてから十年程で
実収三百万石と言われる程までに
国力を充実させたんだから、
徳川家康の領国経営の手腕はたいしたもんだな。
182人間七七四年:2009/05/13(水) 01:48:21 ID:HnC+VFel
いや、もともと関東は豊かだっただろ。

武蔵も、現在の埼玉県のあたりは平安時代から
郡が細分されていたし。
183人間七七四年:2009/05/13(水) 02:19:52 ID:u01d4Pa0
武蔵は多摩丘陵とかだし、相模は北条が整備してたし
家康の領地ってけっこう普通に良い土地だった気がする。

湿地帯ってどこらじゃろ??
184人間七七四年:2009/05/13(水) 03:59:18 ID:UoXIpP0e
東京の下町
185人間七七四年:2009/05/13(水) 07:54:22 ID:E8F6HEB0
下町といえば、戦国期、今の東京の浅草あたりは鉄砲などの軍需工業地域だったようね。
たしか第二次国府台合戦で使われた鉄砲は、みんな浅草製だったとか。
186人間七七四年:2009/05/13(水) 08:17:25 ID:vhX0lqcl
謙信の関東侵攻が失敗したのは
沼沢地で兵站がままならなかったからと聞いたけど
187人間七七四年:2009/05/13(水) 08:43:14 ID:vhX0lqcl
というか、中世温暖期が終わり近世小氷期に寒冷化した際に
水位が低下して沼地が陸化したんじゃなかったっけか。
霞ヶ浦は手賀沼・印旛沼と一緒の巨大な湖だったし。
188人間七七四年:2009/05/13(水) 20:12:32 ID:hoGlNu+R
>>183
東京のあたりは本当に湿地帯だった。

ただし、江戸は室町時代には東国有数の貿易港として栄えていてもいた。
189人間七七四年:2009/05/13(水) 21:30:24 ID:E8F6HEB0
>>188
享徳の乱以降の江戸は貿易港と言うより、荒川水系を利用した、川越、鉢形支配の要だな。
190人間七七四年:2009/05/13(水) 21:32:56 ID:7qx6VPcV
貿易港として栄えていたのは江戸というより品川だね。
ちなみに霞ヶ浦は、湖ではなく広大な湾だった。(だから「浦」)

>>186
越後勢がそんな近代的な兵站線を持っていたとでも?
越後の関東遠征の主たる兵力提供元は反北条の関東勢力だし、
最終的に失敗したのは、景虎がそれらの支持を失ったから。
191人間七七四年:2009/05/13(水) 22:40:43 ID:u01d4Pa0
>>183
二百万石ってのうち湿地帯の代表が江戸ちゅうのも農業生産にあんま関係なさそうな。

印旛沼あたりは湿地帯だけど家康の領土の数%じゃないかな。
しかも平将門が根拠地にしてた(厩があったのかな)し、それほど”不毛”でもなかった気がするけど
192人間七七四年:2009/05/14(木) 01:09:43 ID:7PuZZXcp
>>191
厩があったからな
貞盛がうっかり厩を焼いて一時期将門に貞盛追討令が下った筈。
193人間七七四年:2009/05/14(木) 01:59:32 ID:6mWrUf3H
為になるスレ
194人間七七四年:2009/05/14(木) 07:41:32 ID:EQ2VH9s2
越後国内で徳政令出してるほど疲弊してるのに兵站も何もあったものじゃないだろ
195人間七七四年:2009/05/14(木) 22:37:15 ID:aABSPCJc
>>191
平安時代の天仁の浅間山噴火の火山灰で、だいぶ沼地が埋まったんでないの。
印旛沼の縮小も天明の噴火の時だったし。
196人間七七四年:2009/05/14(木) 22:50:11 ID:0UFjOCdI
武蔵の主な生産地は、武蔵野台地を流れる川の周辺と荒川および多摩川
流域、秩父・奥多摩山塊の周縁部だから、江戸周辺が沼沢地であったとし
てもあまり生産力に影響はない罠。
197人間七七四年:2009/05/14(木) 23:03:35 ID:pMMSnyEC
関東征伐で相当荒廃したらしいけどな>関八州
198人間七七四年:2009/05/14(木) 23:43:54 ID:VINaUu+u
>>195
火山灰の堆積では農地には適さない土になるだろう
199国士焼肉ぷらす ◆JUU/.JUU/. :2009/05/15(金) 02:35:57 ID:c9E0qx5s
芋植えとけ。
200人間七七四年:2009/05/15(金) 02:42:37 ID:+qwG1z2c
>>198
関東ローム層が広がる大地じゃ農業できないとでも??
201人間七七四年:2009/05/15(金) 08:48:30 ID:ZA4zSfkI
>>200
生産性は低い
202人間七七四年:2009/05/15(金) 23:02:01 ID:0aBdavEU
ローム層はいわゆる火山灰とは少し違うみたいだよ

http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/how/surface.html
203人間七七四年:2009/05/15(金) 23:17:39 ID:pDPoT8S1
関東移封からしばらくの新田開発は河川の治水によってできた旧氾濫地を
水田化したものや湖沼の干拓によるものじゃないの?
204人間七七四年:2009/05/20(水) 17:57:06 ID:9sj7AlBO
>>196
当時の荒川流域はモロ湿地帯、というか低地は越後と並んで全面的に湿地帯じゃん
205人間七七四年:2009/05/20(水) 18:55:31 ID:Hok99R6o
>>204
荒川流域でどこを想像しているのかは知らんが、>>196の荒川流域ってのは
秩父〜熊谷〜川越の辺りのことだぞ?
206人間七七四年:2009/05/21(木) 16:20:42 ID:sDgnSe/1
秩父〜熊谷辺りはともかく、熊谷(鴻巣)〜河越辺りは当時びっちゃびちゃの氾濫地帯
207人間七七四年:2009/05/21(木) 16:58:16 ID:BYlYOhpp
…”氾濫原”と”湿地”は別物じゃぁ……
208人間七七四年:2009/05/21(木) 17:03:56 ID:sDgnSe/1
当然湿地帯でもある
209人間七七四年:2009/05/21(木) 18:13:38 ID:rdU9zceg
北条氏の時は防備面でそのままにしたんでしょうな
で、家康は「そんなもんより田んぼ増えた方が良いわい」というノリで
新田開発
210人間七七四年:2009/05/21(木) 19:40:33 ID:BYlYOhpp
>>208
…とりあえず”氾濫原”と”湿地”をぐぐるんだ……
211人間七七四年:2009/05/21(木) 21:06:49 ID:/PpQx8BK
>206
忍城や川越城の周囲が湿地帯だったのは同意するが、鴻巣は台地の上。
また、全く稲作に適さなかったのは荒川の左右2,3kmとか
それくらいの狭い地域なのではないかと思う。

古代の川越の中心は今の市街地より西の入間川の西岸の台地だし、
古代の熊谷の中心も今の市街地の北西の台地の上。
熊谷市では弥生時代の稲作の遺跡が見つかっている。

川越城は水を防御に利用するために武蔵野台地の端に作られたので、
城の東側が湿地帯だったのは当たり前。
現在の市街地が発展したのは道灌の築城以降。

忍城からもほんの10km西にいけば周囲が湿地帯だらけにはなりえない。
http://upload.jpn.ph/upload/upload.php?id=40580
上は荒川の大芦橋から利根川の武蔵大橋までの断面図(ほぼ中央で忍城の上を通る)、
下はそれより約10km上流にある熊谷大橋から刀水橋までの断面図。

関東平野の標高はこんな感じ。
http://upload.jpn.ph/upload/upload.php?id=40581
ピンを打ってあるのはそれぞれ江戸城、川越城、忍城の位置。
東京下町や見沼、印旛沼など明らかに水がたまりやすそうな
平らな低地も多いが、結構標高差があって適度な水はけが
確保できる土地が多いのがわかると思う。
逆に東京の多摩地方から埼玉南西部にかけての武蔵野台地では
江戸時代に用水を掘るまで水が足りないのもなんとなくわかるかと。
熊谷から川越あたりの拡大図はこちら。
http://upload.jpn.ph/upload/upload.php?id=40582

ちなみに同一縮尺の濃尾平野と越後平野。
こちらのほうがよりまっ平らなのがわかると思う。
http://upload.jpn.ph/upload/upload.php?id=40583
http://upload.jpn.ph/upload/upload.php?id=40584
212人間七七四年:2009/05/22(金) 07:55:17 ID:HyZG8MEx
木曽三川下流域はバングラディシュのような氾濫地帯だったわな。
東海道もわざわざ海上を廻っていたし。
越後は戦後に至るまで深田地帯。
213人間七七四年:2009/05/25(月) 05:22:04 ID:bR4SepM4
>>212
”氾濫原”と”湿地”は、農業の立場から見たら、えらい生産性が違うよ。

日本の米作りだと田に水を入れたり干したりする必要がある
越後でも濃尾平野でも深田地帯であっても”水を抜く”施設があるのよ

で、湿地は水を抜くことができない、から、日本式農業では不毛の地だった。
逆に氾濫原は上流から栄養が流されてたまっているので豊かな地味がある。

つか川越って”栗よりうまい十三里”ってとこよね?
名産品が芋な湿地帯、というのはちょっと……
214人間七七四年:2009/05/25(月) 14:10:36 ID:Dx721VtV
>>213
> つか川越って”栗よりうまい十三里”ってとこよね?
> 名産品が芋な湿地帯、というのはちょっと……

川越で芋の生産が始まったのが徳川吉宗の時代だから、気候の変化や
土地改良の成果を頭に入れないといけない、とも思う。
215人間七七四年:2009/05/25(月) 20:14:31 ID:mTE6334r
それでも、元湿地で芋はないだろう
216人間七七四年:2009/05/26(火) 17:14:24 ID:vzg06puN
>>211
当時の関東平野は大小の河川が無数に走る水郷地帯じゃん
古荒川-利根川間は古い村落跡ほとんどないし

>>213
関東平野一円の低地は湿地だった土地が多いよ
常時氾濫の恐れがあるし乾く季節がないから耕作は困難
現に関東で耕作されていた土地の多くは台地だし。

南宋の江南や江戸時代の治水・新田開発を見ても解る通り、湿地の多くも地味自体は肥沃
217人間七七四年:2009/05/26(火) 17:44:37 ID:KuoikORE
>>216
おいらも当時の農地の多くが河岸段丘だったと思う。
近世での干拓事業による生産力増加の余地を考えると。

たぶん元々(>>204とか)が農地(生産力)と一般の地形の話とを混同してる
からgdgdになってる気はするなぁ
218人間七七四年:2009/05/27(水) 15:39:11 ID:HEhC9cih
>>215
「川越いも」でぐぐったら、産地は武蔵野台地ってアピールしてるけど
219人間七七四年:2009/05/27(水) 22:11:28 ID:6S47S5xj
http://www.kubota.co.jp/urban/pdf/19/
このP10-17に古代から近世以前の利根川、荒川水系の
水田利用について書かれている。
低湿地は全く水田化されていないわけではなく、
深田で摘田と呼ばれる農法を行っていたり、
古くから灌漑されていたりするところもあると。

>215
川越城が武蔵野台地の端にあるから、
それより東側は荒川低地だし、南側は武蔵野台地。
川越周辺が湿地だったっていうのも間違ってないし、
芋が川越周辺の台地で取れたのも間違ってない。

甘藷は江戸中期からなので、それまでは武蔵野台地、大宮台地の
水の少ないところでは麦、桑の栽培が一般的だったのではないかと。
大根栽培が盛んになるのも江戸時代になってから?
220人間七七四年:2009/05/28(木) 05:54:59 ID:cQDmAWyH
空白の帯じゃないんだから全く手つかずのわけはないけど
利根川・荒川・入間川が南流してた治水事業・新田開発以前は悪水に対処できず
無民家の荒野や湿地・荒蕪地だった地域も数多かったらしいよ
江戸中期までに河替藩だけでも数百村誕生してるし。
221人間七七四年:2009/05/28(木) 09:51:53 ID:lrYBDX8b
江戸期って言うのは物凄い時代だからなあ。
開発で文字通りの意味で、日本の地形が変わった。
おかげで、江戸期以前の日本の風景をイメージするのは大変難しい。
222人間七七四年:2009/05/28(木) 23:55:06 ID:iSIY0/Ui
>220
河替藩は川越藩の誤字?
だとすると野火止用水や三富新田はいずれも水の足りなかった台地を耕作できるようにしたもので、
湿地の排水より台地の用水、井戸開発による新村のほうが多いのでは。
223人間七七四年:2009/05/29(金) 04:32:41 ID:iR395dAR
江戸初期は入間川の東せんで入間・比企郡にある元低湿地の新田開発が進んでるし
荒川の瀬替え、分流開削による川越含めた両岸各領の大囲堤(鴻巣・忍・笹目・吉見・石戸)による新田開発や。

利根川改修による各領(幸手・騎西・羽生・菖蒲・島中川辺?)の後背湿地の新田開発
広戸・安戸・蓮・黒・笠間・高・平須賀・見沼等の干拓による新田開発もあった。
と、ものの本には書いてある。 まだ半分だけど面倒くさいからこの辺で‥

2段目は川越藩じゃないけど‥まあ、元荒川〜古利根川間の湿地話の続きって事で1つ
あと、18世紀に入ってからは排水による新田開発より用水開削のが多いね
224人間七七四年:2009/05/30(土) 18:05:28 ID:7quKzZO9
米の話をしてると石高キチガイが湧くから、交易・商業や工業品・産物・鉱山の話に戻さない?
225人間七七四年:2009/05/30(土) 19:00:48 ID:rEqSiNFW
「戦国の地域国家」に収録されている、阿部浩一氏の論文、「伝馬と水運」の、
戦国期東国の有徳人層の活動の図は興味深かったな。戦国大名とはまた別の「勢力圏」が見えてくる。
226人間七七四年:2009/06/02(火) 07:21:26 ID:9uhGOGjy
信長が家督継いだ直後、商人との繋がりを持つため
敵国の間者等もいる、半治外法権的な熱田神社を保障してたっけ。
227人間七七四年:2009/06/02(火) 10:17:47 ID:QKjZcQc9
尾張の統一目指そうって人間が熱田神宮の保護をやらないのなら、
それだけで統治者としてもう終わっておる。
228人間七七四年:2009/06/02(火) 15:09:47 ID:xo8PRLAc
保護じゃなく、保障。 織田家の検断権が及ばない領域
229人間七七四年:2009/06/02(火) 15:42:47 ID:QKjZcQc9
>>228
信長って、味方して傘下に入ったものには、軍役を果たす限りは、
それまで持っていた既得権丸呑みが基本だよ?
230人間七七四年:2009/06/02(火) 16:22:29 ID:xo8PRLAc
>>229
当時の熱田神社は軍役なんて当然負担しないし
味方とも言い切れないかなり中立に近い立場
231人間七七四年:2009/06/02(火) 16:28:54 ID:y3PjJ6kY
>>230
熱田の宮家って、確か織田信長の軍に従軍してたけど、信長が
「お前ら従軍しなくて良いから神社を守ってくれ、頼むから」
といった事跡が残ってなかったか?
232人間七七四年:2009/06/02(火) 17:03:14 ID:xo8PRLAc
>>231
新興仏教を除けば、当時の学僧や神職は寺院や神社のお飾り
つーか、従軍してる時点で元が宮家の出というだけの普通の武士

それと、弘治3年に守護不入の権利を熱田神社へ与えてるし
それ以前の天文18年にも織田家の人間が関与しないよう禁制出してる。
233人間七七四年:2009/06/02(火) 17:38:26 ID:QKjZcQc9
>>232
何を言いたいのかわからなくなってきた。
否定の為の否定になって無いかい?
234人間七七四年:2009/06/02(火) 22:38:33 ID:n84ES/BL
どっちにしても周辺の尾張民の信仰の対象なんだから敵にしない方が無難だろう
235人間七七四年:2009/06/03(水) 00:11:49 ID:VU4fMp+1
>>233
言ってることが意味不明なのは233
熱田神社として軍役を負担してないし、宮家とやらの動向は熱田神社の意向と何の関係もない
だいたい守護不入権を貰ってる寺社が軍役負うはずないだろ。
236人間七七四年:2009/06/03(水) 01:29:09 ID:+SUpghU4
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/middle/s_owari.html
熱田大宮司家の説明

荘園領主だった寺院神社にとっては、戦国時代は既得権益を
次々と押領されて経済的に縮小していく時代なので、
熱田大宮司家の場合は在地勢力である織田信秀と結びついて
生き残りを図ったということでは。
237人間七七四年:2009/06/03(水) 02:42:04 ID:knLUBWoa
>>235
いや普通に負うだろ。
興福寺とか軍役を負担してたりするぞ。
238人間七七四年:2009/06/03(水) 04:28:38 ID:VU4fMp+1
>>236
全く違う、熱田神社は商工業や雑事で栄えていたが
それは宮司のような神職とは無関係なより下層の神人や流入した人々が主体
それに、そのHPの解説にもある通りそいつらは熱田神社と無関係なただの国人領主。
>>237
信長直々に軍役、年貢、境内に産出する物資の供与、労役を免除してるのに
負担するわけ無いだろ、あほか
239人間七七四年:2009/06/03(水) 10:03:23 ID:Jg9J5hmi
>>238
当時の宗教団体は、学問宗教としての側面の他、金融とか土地とか経済的な活動の主役なのに、
なぜ熱田神宮の場合だけ、それを分けて考えるの??

高野山で、学侶は高野山だが行人は違う、って言ってるような違和感があるんだけど……
240人間七七四年:2009/06/03(水) 16:56:21 ID:8M1N1ZHt
>>239
>>238に書かれてる内容だと
行人は高野山だが学侶は違う、という風にしか読めないが
241人間七七四年:2009/06/03(水) 17:38:53 ID:Jg9J5hmi
>>240
いや構成員の活動を分けて考える点が気になって……
リンク先の
>熱田宮の「大宮司」としての特殊性を認められていて
という記述を認めるなら千秋氏は熱田宮の神人(実務担当)なわけで
その活動が神社と別物、と言い切れないんじゃないかと

”守護不入”って言うのは、守護による徳政令の恣意的適用から身を守る部分もあって、
そういうのが曖昧になった戦国時代に(特に戦時に)それが完全に守られた例って、
自前の武力持ってる場合が多いのですが、千秋氏がそういう軍事を担ってるなら、
桶狭間で信長軍に参陣したのは、なんらかの意味合いもあるんじゃないかと思うのですが
242人間七七四年:2009/06/04(木) 05:53:53 ID:TeVulRY3
リンク先にも大宮司家なだけで熱田神社と関係ない一国人領主とあるけど。
それに宮司は神人みたいな下級職どころか超お偉いさんw

熱田神社も当然武力保持してただろうけど
九州地方のいくつかの大宮司家と違い、熱田神社内部じゃ件の大宮司に世俗的な権限ないでしょ
ここも他の伝統寺社と同じく実務担当の合議制だったと思う
権限あるなら軍役勤めをやめるはずないし。
243人間七七四年:2009/06/04(木) 06:43:18 ID:+gsT7kq/
>>242
>大宮司家なだけで熱田神社と関係ない一国人領主
熱田神宮の”超お偉いさん”なのに”無関係”???

当時の合議制ならば、その重要メンバーの参陣は宮としての意思統一が前提での活動になりますよね
しかも後に信長から”軍役を免除”されてるわけですよね

熱田宮としての活動とそれ以外の基準をどこで判断してるのでしょう?
244人間七七四年:2009/06/04(木) 11:10:09 ID:hTMgA4cq
>大宮司家なだけで熱田神社と関係ない一国人領主
もうむちゃくちゃだな。
これが通るなら本願寺と大谷家も無関係だ。
245人間七七四年:2009/06/04(木) 18:09:19 ID:NC0Xm6i3
>>243-244
何の影響力も無くなった、追放された創業家一族みたいなもんだよ

のちにではなく熱田社は一度も軍役を負担してない
熱田神社と係わりを持ちたい信長が現状追認で禁制や守護不入を与えただけ。
それと大宮司一族は合議の一面子ですらない

熱田社には織田家の検断権が一切及ばないと認められ、諸役も免除
(一 宮中任先例 他国・当国敵味方并奉公人 足弱 預ケ物等 不可改之事)
例の一族は信秀の代から従う、羽豆崎城へ拠を構える普通の一領主
大体、判断も何も熱田社の立ち振る舞いと大宮司一族の活動が全く別個な事くらい判断付くだろ
敢えて分からない振りしてんだろうけどw
246人間七七四年:2009/06/04(木) 18:52:50 ID:+gsT7kq/
>>245
つまり桶狭間の時点では”熱田宮の大宮司”というのは自称であって熱田宮とは無関係、ってことですか?

それなら信長の「軍役は良いから熱田宮の仕事に専念しろ」ってのは、かなりな嫌みですね……
247人間七七四年:2009/06/04(木) 22:07:13 ID:Hei7WGAP
諏訪や阿蘇と同じ、宮司兼戦国領主だったんだろ?
で、当主が次々戦死したので、地元尾張の名門神社だったので信長が季信に
武士業はやめて宮司業に専念させたんでしょう。
248人間七七四年:2009/06/05(金) 00:02:12 ID:TeVulRY3
>>246-247
昔は偉い人でも戦国時代には寺社内部で拠り所がないのは、稀じゃなくよくあること
阿蘇や諏訪なんかが例外でしょ、件の千秋氏は熱田社で権限振るった形跡なさそうだし
何かある?
249人間七七四年:2009/06/05(金) 02:44:23 ID:UMXXE4po
>>248
”熱田宮の神官”称してる人が片方の陣営に存在する、ってことが政治的な意味をなさないのか?
…ってことを注目してるので、千秋氏の権力とか支配とかはあんまりどうでも……

「アレは神主が個人でやってることだからうちは関係ないよ」って言い訳が通用したんでしょうかね?
250人間七七四年:2009/06/05(金) 03:56:14 ID:tyA3NKRr
>>249
当然通用する、当時の大宮司は熱田社と何の権限も関わりもない
ただの国人なんだから。

学侶や実務に関わらない神官が、祭祀の為だけに権限なしの
お飾り役として寄食してる事はよくあったよ、嫌みとかそーゆー事じゃなくw
251人間七七四年:2009/06/05(金) 08:11:20 ID:juqeb5GJ
>248
永禄2年(1559)の熱田神宮の神事に関する文書に大宮司の署名がある。
http://books.google.co.jp/books?id=53BdTcWK1soC&pg=RA1-PA132&lpg=PP5&as_brr=3

千秋氏については日本史板で相当書き込みがある。
暴れてる人がいて読みにくいけど。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1182171203/


ちなみに津島神社の場合は、社家の堀田氏から
武士団としての堀田氏が分化していて、
そこから春日局とかにつながるんだな。
252人間七七四年:2009/06/05(金) 17:18:57 ID:OGsGUsV7
>>251
その本にもある通り、大宮司が署名してる書状は祭事に関するその1件だけで
15世紀初頭以降、実務に関して大宮司が署名してる書状は発給されてないじゃん
前後の世俗の実務的な書状には署名ないし。
253人間七七四年:2009/06/05(金) 20:52:32 ID:BOmyUVMV
世俗の実務は下っ端がやるものだろ常識的に。
254人間七七四年:2009/06/06(土) 00:23:39 ID:DxhpNy4A
>>248
戦国千秋が熱田社と無関係だった、とうのなら、なぜ信長の代で大宮司に戻れたのかな?
255人間七七四年:2009/06/06(土) 04:58:39 ID:RzcYR5CQ
>>253
それが続いて段々と旧来支配層の実権が無くなり、下位層の合議制へ移行したのが
戦国時代に多く見られる寺社の一般的姿なんだけど。
>>254
旧仏教でも本来の役割?儀式なんかは、運営・管理に参加しない学侶が務めてる
256人間七七四年:2009/06/07(日) 05:49:30 ID:lGaLlaEq
このスレ、信長関連の話題だとヒートアップするね
257人間七七四年:2009/06/07(日) 10:52:16 ID:zVpVj5wa
>>256
一人が変な持論を押し通そうとして暴れているだけじゃん。
258人間七七四年:2009/06/07(日) 23:15:57 ID:lGaLlaEq
思い込みというか誤った知識を否定された信長ヲタが
俺に対して反論しようと躍起になるも悉く返り討ちにされている
ようにしか、周りからは見えないと思うぞw
259人間七七四年:2009/06/09(火) 19:08:47 ID:FqJP8NyR
>>258
「千秋氏は神職の仕事はしたけれども、熱田宮の実組織とは無関係なので中立性は維持されていた」
…ってな話が出てるのよね??
この考えは政教分離な前提ありそだけど、当時ってそういう概念一般的だったのかな

服部党が熱田宮領を狙ったり、千秋氏が海賊懐柔?した話とか、
中立説の人はどう解釈しているのか、そこらを詳しく聞きたいなぁ……
260人間七七四年:2009/06/10(水) 04:51:57 ID:QpYsqyPq
流れをぶったぎってすみません。
大学の卒業論文で戦国時代の経営戦略について研究したいと思います。
このスレの全レス見て詳しい人が多いと思ったので質問なんですが、どこのどの時代の大名を研究対象にしたらおもしろそうですか?
個人的な意見でかまいませんので教えていただきたいです。
ちなみに期間は半年。短いですが城廻りを趣味にしているのでそれくらいの行動力はあると思います。
あと代表的で大前提としてわかりやすいからこれだけは読んどけという参考文献があれば教えていただきたいと思います。

261人間七七四年:2009/06/10(水) 06:15:12 ID:djFj1PAV
無茶言うなー
卒論で戦国時代扱う人に提供するだけの知識持ってる人なんて、そうそういないw

でもまあ、面白いのはやっぱ資料が手軽で豊富に手に入る大名じゃね
徳川、、、毛利、北条、上杉とか。大内も色々絡みがあって面白そうだけど
262人間七七四年:2009/06/10(水) 11:32:19 ID:BjrBxrYA
経営戦略なら一番研究が進んで資料も多いのが北條。
263人間七七四年:2009/06/10(水) 11:42:23 ID:poBFGlHu
できればもうちょっとマイナーな大名に光を当てて欲しいよ。
蘆名氏とかね。
264人間七七四年:2009/06/10(水) 12:48:17 ID:quBS8h8d
資料のない大名の論文書いても、それは作文だからな
265人間七七四年:2009/06/10(水) 12:48:28 ID:BjrBxrYA
つーか、半年しか時間が無いのなら、資料の集めやすさなども含めて、
そう言う論文がまともに書けるのは北條か今川くらいしかないんじゃないか?
266人間七七四年:2009/06/10(水) 12:58:20 ID:poBFGlHu
有名大名だと研究の余地がないのが欠点。
史料がないと言うが、マイナーな大名でも完全にないことはなく、
少ない史料で新たな発掘をすることは可能。
一番楽なのは北条や今川で既出の方法論をマイナー大名に当てはめることじゃない?
どのみち半年しか時間がないんじゃ難しいけど。
267260:2009/06/10(水) 19:59:34 ID:MwoKPJy2
北条家の現存資料の量を専門家が評価してるというのは聞いたことがありましたが、みなさんも北条家を推すんですね。
私は関西の大学に通っているのでちょっと東京や神奈川の図書館まで行くのは簡単ではないですね、情けないかもですが。
候補としては・上杉(謙信〜直江〜鷹山)・徳川(三河〜江戸初期もしくは広く浅く各改革)・豊臣(本能寺〜滅亡)・織田(岐阜〜本能寺)・島津(琉球経営)・毛利、武田(鉱山経営)
もし本気でやる気になったらもらった内定蹴ってでも院で勉強したいと考えてます。
くどいですがこのスレの住民に比べかなりの無知だと思いますので、これだけは読めという有名な(たいていの図書館にはありそうな)参考文献があれば教えていただきたいなと思います。携帯で簡単に書きましたがどうぞよろしくお願いします。
268人間七七四年:2009/06/10(水) 20:10:36 ID:BjrBxrYA
関西なら、京兆政権や三好政権などの、畿内政権を調べると面白いんじゃないかな?
269人間七七四年:2009/06/10(水) 20:18:38 ID:8w8WsRpU
日本の戦国時代に関しちゃ、史書ないからコレって本は無いと思う
書籍は出版の新しい方が良質、古いのは10円の価値すらない本とかザラにある
軍記物は古いので十分だけど。

史料あたるなら↓とか
ttp://www.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/
ttp://www.archives.go.jp/
ttp://www.ndl.go.jp/
270人間七七四年:2009/06/10(水) 20:22:53 ID:8w8WsRpU
>>268
三好は書籍も史料も少ないから大変だと思うよ
271260:2009/06/10(水) 21:01:31 ID:MwoKPJy2
ありがとうございます。

>>268
正直、三好家についてはほぼ知らなかったので思い切って調べてみようかなと思いましたが、>>270資料が少ないんですか。

>>269
帰ってからパソコンで見ます。わざわざありがとうございます。

そうなるとやっぱり北条家になりそうですね。>>267で私があげた中でおすすめややめとけというのはありますか?
272人間七七四年:2009/06/10(水) 21:08:31 ID:BjrBxrYA
>>271
江戸初期の徳川は比較的資料が良く集まると思う。
上杉は謙信〜兼続の時代は研究者でもワケワカラン状況になっているので、
あまりオススメできない。
273人間七七四年:2009/06/10(水) 21:17:42 ID:quBS8h8d
徳川なら「徳川家康辞典」(コンパクト版も可)に徳川家康関連史料や関係文献目録というものがあって、
これを参考にするのが良いかと

先ず中村孝也、北島正元、煎本増夫、和泉清司、本多隆成の著作を読むことをお勧めします
ただ読めばわかると思うけど、それなりに先行研究はされています
274人間七七四年:2009/06/10(水) 21:39:32 ID:MwoKPJy2
ありがとうございます。すみません、補足として書かせていただきますが、ゼミの教授は経営と多少かけ離れてもよいと比較的柔軟に研究テーマを決めてもよいとおっしゃるんですが、一応一経営学部生として各戦国大名の経営について携わりたいと思っています。
275人間七七四年:2009/06/10(水) 21:40:28 ID:AOLQ7i2L
上杉は家が残った割には相次ぐ内乱の2度の移封で資料が散逸してる
織田も有名で研究する人も多かったが意外に資料が残ってない
って感じかなぁ
276260:2009/06/10(水) 22:04:44 ID:MwoKPJy2
ありがとうございます。すみません、補足として書かせていただきますが、ゼミの教授は経営と多少かけ離れてもよいと比較的柔軟に研究テーマを決めてもよいとおっしゃるんですが、一応一経営学部生として各戦国大名の経営について携わりたいと思っています。
研究の目的としては当時の経営学もしくは広く経済学から現代に生かせる手法を探る事だと思っています。

>>272
徳川は資料がたくさん残ってそうですね!今川や北条の記録も幕府が保存していたと考えてよいでしょうか。
直江兼続の経営手腕は大河もあって流行に沿うこともできそうで上杉鷹山の経営を調べる事もおもしろいかと思ってましたが…


>>273
徳川であれば読んでみたいと思います。詳しくありがとうございます。ある程度先行研究されていないときっと資料だけでも膨大すぎて自分の研究ができそうにないんでありがたいです。
277人間七七四年:2009/06/10(水) 22:30:56 ID:BaCnZ2Lh
戦国時代についての基礎知識も学ばないとね。
兵農分離などの空説を信じたまま研究を進めると
ボタンの掛け違った論文になってしまうよ。


>直江兼続
直江は大河になった割に研究が進んでおらず、
天地人コーナなどに並んでる本で参考になるものは一つとしてないですからね。
上杉は前途多難ですよ。
それだけやり甲斐はありますが。
278人間七七四年:2009/06/10(水) 23:00:33 ID:BaCnZ2Lh
>>277
ごめんね、訂正します。
>兵農分離
>織田信長が先駆的に実施した兵農分離
279人間七七四年:2009/06/10(水) 23:34:10 ID:vk7DJXP1
>>278
先駆者ではないが、大々的にやったのは信長だろ。中二病か?
280260:2009/06/11(木) 00:00:02 ID:3fP//KpI
>>269
パソコンで少し見ました。これはすごいですねw
原文のままの文章がパソコンで見れるんですねー!
びっくりしましたがこれはありがたいです。でもちょっと度肝を抜かれてどうしたらいいのか・・・


>>277-279
信長のしたことがどれだけ真実かを調べるのもおもしろそうですね。
ある程度はわかってたつもりでしたが、やっぱり調べてみて覆される事も多そうです。
しかし織田家についての経営学を研究するのは本当に根気がいりそうですね。
実家が名古屋なんですが特に信長の資料が多いってわけでもなかったので考えてみたいと思います。
281人間七七四年:2009/06/11(木) 01:53:41 ID:vHUDeOqg
>>279
信長は兵農分離なんてやって無いぞ?
それこそが陳腐な空説。

兵農分離は武士ではなく農民の生活の向上により、農民の側の都合で進展していったもので、
完成するのも徳川家光の寛永期だ。

信長が兵農分離やったなんて今時言ったら、鼻で笑われるぞ?
282人間七七四年:2009/06/11(木) 02:28:41 ID:0qEjjQWa
>>280
経営学的な観点からだと、畿内政権は難しいと思います。
まず第一に、残っている史料が少ない上に、細川氏・三好氏の所謂「政権」に
関する評価も未だに流動的で、はっきりとした見解が定まっているとは言い
難い状況です。そしてさらに、畿内をやる場合、権門や幕府などといった
存在も、他の地域以上に必然的に考えなければならないでしょう。

三好氏について興味をお持ちでしたら、今谷明氏の著書(『戦国三好一族』
『室町幕府解体過程の研究』)あたりから読まれては如何でしょうか。しかし、
今谷氏が70〜80年代にかけて積み重ねた成果も、現在は批判的な継承が
行われている段階にあり、上記の通りの印象を受けます。


確かに直江兼続(上杉氏)はイメージや知名度が一人歩きしている印象があり、
統治の実像となると、案外研究は進んでいないといって良いでしょう。
ただ、史料は『上杉家文書』『越佐史料』などまとめられたものが多く、
県立図書館・大学図書館などでも比較的入手しやすいはずです。
283人間七七四年:2009/06/11(木) 11:35:39 ID:MgzRH4wn
経営的な観点なら兵農分離幻想を扱うのも良いかもな。
兵農分離がいかに乱世において経済的でないか経営的におかしいか。
まともな金勘定ができる人間ならまず疑うべきことだし。

でも資料があまり無いようだが。
284人間七七四年:2009/06/11(木) 19:28:04 ID:zk1a70mv
室町時代の実態経済の記録(例えば主流だった”座”の取引の実態)が全くないから
近畿圏の戦国時代の経済なんて、後半年で仕上げるには、
沼にはまってどうしようも無くなるんじゃないかなぁ……
比較的研究が進んで物流の動きの基礎資料が整理されてる北条が無難なような。

…卒論取材目的(名目?)で偉い先生に突撃訪問してみたら、おもしろそうだな……
285人間七七四年:2009/06/11(木) 23:28:36 ID:LpZm+EUH
信長の兵農分離説って、足軽大量雇用から錯覚されたのか?
286人間七七四年:2009/06/11(木) 23:50:47 ID:l+qDNwVr
足軽大量雇用の事実なんかあったか?
拠点移動の時に旗本の屋敷を焼き払ったのが
根拠じゃなかったかい?
287人間七七四年:2009/06/12(金) 00:02:40 ID:CWNU5gZ4
>>286
ありゃあ周辺大名はみんなやってた旗本の城下への集中を、
周回遅れでようやく、しかも抵抗を受けながらやったという、
信長の織田宗家に権力が集中していなかった事を表す恥ずかしいエピソードなのにね。
288人間七七四年:2009/06/12(金) 01:46:22 ID:SOv9qSM+
>>287
それを以て「恥ずかしい」などと評する気は知れないが、
戦国大名とはいえど、権力を行使する上で様々な形で掣肘を受けていた
という好例のひとつではないかとは思う。
斎藤義竜後家の持ってた壺の所望を断念したエピソードなどもあるし、武田
勝頼も湯治に出た先まで百姓がやってきて、裁許を求められたりしているし、
こういう面から大名権力を検討するというのも面白そうではある。
289人間七七四年:2009/06/12(金) 06:32:46 ID:LjdkILYR
時期によって変化はあるだろうが、
織田信長が支配していた都市からの収入って、どのくらいあったん?

また、それは織田家の財政収入の内で、どのくらいの割合を占めてたんかな?
290人間七七四年:2009/06/12(金) 11:30:57 ID:Q/AMLfxG
>>286
兵農分離って言葉が2つ出てくるから困るんだよな
本来の兵農分離は、刀狩など治世上の問題だったのに

信長が常備軍という独創的な発想で農繁期問わず…
とか言い出して
本来の兵農分離とは違う意味を作り出してしまった
常備軍なんて明らかに軍縮で不経済でしかないのに
291人間七七四年:2009/06/12(金) 11:38:00 ID:CWNU5gZ4
戦国期に軍隊、軍人だけで合戦と言う物が完結できると思っている奴がいるのが困る。
292人間七七四年:2009/06/16(火) 01:49:23 ID:hpTGhY0p
人類史上最大規模最大強度で遂行された戦争の全当事国が
戦闘員の大半を非職業軍人で賄ったしな。
293人間七七四年:2009/06/16(火) 02:03:18 ID:RGwtTNf7
そういえば秀吉の刀狩も、九州や東北などの大規模一揆があった地域への
対処政策でしかなかったらしいな。
そう言う不穏地帯以外では全く行われなかったそうな。
294人間七七四年:2009/06/16(火) 20:26:06 ID:MS23xjIS
>>141
の32レスに載ってる>人口
295人間七七四年:2009/06/18(木) 00:58:14 ID:5tOIitUf
戦国期の奥州が鎌倉室町以前と比べてぱっとしないのは、何が原因なんだろ
十三湊も衰退してるし、やっぱ寒冷化か?
296人間七七四年:2009/06/18(木) 01:30:05 ID:M7XWHW+T
>>295
鎌倉以後完全に関東に従属する地域になった事が原因だろうな
297人間七七四年:2009/06/18(木) 16:27:52 ID:uiQvmaii
十三湊はむしろ鎌倉から室町前半にかけて栄えたんだと思うけど。

東日流外三郡誌がらみの誇大妄想は置いといて。
298人間七七四年:2009/06/18(木) 18:28:03 ID:jKH3nJ/U
下国安東って鎌倉〜鎌倉公方と対立する足利方じゃなかったっけ
299人間七七四年:2009/06/23(火) 16:17:07 ID:6+cKgGVB
鎌倉公方の威光が届いていたかどうか
どちらか言うと海運の関係で京の方が近そう
300人間七七四年:2009/06/23(火) 19:34:05 ID:7L2Mo3m7
東北は斯波氏の影響力も強い
301人間七七四年:2009/06/27(土) 15:38:59 ID:MqFglreQ
落ちぶれるのも早かったけどね。
302人間七七四年:2009/07/03(金) 15:26:46 ID:aRyI/uzz
安東は日本海の交易抱えてるから。
303人間七七四年:2009/07/07(火) 15:10:29 ID:lG0+vQXu
相当の力があったんだろうな
304人間七七四年:2009/07/13(月) 09:33:26 ID:BngaMzK/
以前卒論の書き込みをしたものです。お礼を言い忘れていたので。
どうもありがとうございました。残念ながらだいぶ割愛するか先行研究から参考になる経営戦略を模索するという簡素なものになりそうです。
305人間七七四年:2009/07/13(月) 13:50:25 ID:4EELexPC
>>304
まぁ大仰なことは時間的に無理だから、ある程度の物を完成させることですよ

個人的には、日本の戦国時代だけだだと普通の人にインパクトないと思うから、
discassで中国のケ小平路線の重商主義と比較したりすると、良いんじゃないかな
(今の中国経済を見れば見るほど、戦国江戸時代とものすごく似てる気がする……)
306人間七七四年:2009/07/13(月) 15:48:33 ID:tO1fi1it
戦国時代の特色は重層・多重構造と権限丸投げに近い大掴みな封建制だから
なかなか経営戦略には活かし辛いようなw
307人間七七四年:2009/07/16(木) 15:34:14 ID:p2CTi6nE
難しい話題ですね
308人間七七四年:2009/07/17(金) 00:11:04 ID:veFt6Xdq
discussな
309人間七七四年:2009/07/23(木) 16:14:50 ID:EKmActq3
詳しくて面白いスレだヨネ
310人間七七四年:2009/07/24(金) 03:05:56 ID:L9e2dSMB
>>301
室町幕府の東国統治って、関東管領上杉と斯波の両輪だけど、
関東に騒乱を引き起こしたのは、明らかにその両輪の片側である斯波氏を弱体化させたせいだわな。
その間等の騒乱が、めぐりめぐって応仁の乱も引き起こした。
311人間七七四年:2009/07/24(金) 10:41:23 ID:IvrlFVU9
>>306
それについてまとめたおすすめの研究本とかありませんか?
312人間七七四年:2009/07/24(金) 11:43:32 ID:L9e2dSMB
313人間七七四年:2009/07/24(金) 14:05:09 ID:IvrlFVU9
さんくす!
314人間七七四年:2009/07/29(水) 16:38:45 ID:cKd0zfnI
勉強してるね。
315人間七七四年:2009/08/03(月) 15:39:49 ID:LzReHQnJ
斯波は東北のイメージだね
316人間七七四年:2009/08/07(金) 14:37:03 ID:7FZ1hEtG
関東じゃなく東国という話。
317人間七七四年:2009/08/11(火) 09:37:36 ID:zhPItbTE
秀吉の天下統一以前
伊達政宗(米沢・仙台・会津の最高150万石)
後北条氏(関東全土で最高250万石)
上杉謙信(越後、関東・上野東半分、越中・能登・加賀、最高200万石)
武田氏(甲斐・信濃・駿河・上野の全域、遠江の半分、三河・美濃・飛騨・越中の一部、最高200万石)
今川義元(駿河・遠江・三河の全域、100万石)
徳川家康(駿河・遠江・三河・甲斐・信濃、150万石)
織田信長(日本のほぼ半分)
三好長慶(四国東部と摂津・大和など、100万石)
尼子晴久(山陰8ヶ国で100万石)
毛利氏(中国全域で200万石)
大内氏・陶氏(中国・北九州で100万石)
長宗我部氏(四国全域で100万石)
大友氏(北九州で100万石)
龍造寺氏(北九州西部で100万石)
島津氏(九州大半で200万石)

豊臣政権下
豊臣直轄領(200万石。鉱山など経済利権は除く)
豊臣秀長(大和郡山100万石。跡継ぎがなく死後改易)
徳川家康(関東250万石)
毛利輝元(中国西部120万石。一族あわせて200万石)
上杉景勝(米沢・会津120万石。佐渡・会津の金山支配を許され実質200万石)
丹羽長秀(越前・加賀120万石。息子の代に10万石台に減封)
織田信雄(伊勢・伊賀・尾張・美濃にまたがり100万石。小牧・長久手の戦役で降伏し減封)
蒲生氏郷(会津92万石を与えられ都合100万石。息子の代に宇都宮12万石に減封)
318海系の人:2009/08/17(月) 14:02:35 ID:VHV5GTIg
重農主義と農本主義 他方で商業の活発化
319コロくりいむ@幹事長補佐 ◆LcWo0af1rc :2009/08/17(月) 14:05:51 ID:pPnUFh8e
その見立てだと
関ヶ原で家康独走の理由がわからなくなる
大差ないじゃん
家康と景勝や輝元
320人間七七四年:2009/08/17(月) 14:07:28 ID:VHV5GTIg
状況を作出するのが戦略
321人間七七四年:2009/08/17(月) 14:12:18 ID:vAxVDjDC
家康と上杉毛利では「仕組み」が違いすぎる。
上杉毛利はまだ国人集団の段階からさほど進歩していない。
322人間七七四年:2009/08/17(月) 16:36:10 ID:ATj1QLV3
俺と>>321では脳の「仕組み」が違いすぎる。
>>321はまだ猿人集団の段階からさほど進歩していない。
323人間七七四年:2009/08/17(月) 16:58:23 ID:vAxVDjDC
なんだか知らんが>>322を傷つけたらしい。ゴメンな。
324人間七七四年:2009/08/17(月) 17:38:18 ID:ATj1QLV3
なんだ、素で脳の進歩が中途半端なのか

上杉毛利の統治は国人集団からは程遠い
国人集団の段階だと言い張るなら根拠の1つでも挙げてみようか
論破(笑)してあげるから
325人間七七四年:2009/08/17(月) 19:30:46 ID:V4u/vsgJ
謙信の時代とちがって慶長年間の上杉は
御館の乱と信長の侵攻を経験したおかげで近世大名へと飛躍的に進化していただろ。
しかも会津移転で家臣の給人化も果たしている。
326人間七七四年:2009/08/17(月) 19:36:06 ID:jExL3ll/
>>324
あなたももう少し相手の事を考えた発言をしませう
知識だけあってもね…
327人間七七四年:2009/08/18(火) 00:17:34 ID:GGPV6G5z
>>319
なんだかんだいって最大勢力というのがでかいかと。
最大勢力だから必然的に一方の盟主になる。
あとの大名はそいつに着くか敵対するかの二者択一になる。
「みんなで北条一党つぶそーぜ」
となった鎌倉幕府末期みたいにでもならない限り無理。
328人間七七四年:2009/08/18(火) 00:20:09 ID:IjFDuPnb
大番に代表されるように軍制という点では、徳川家は他家より優れている
329人間七七四年:2009/08/18(火) 05:53:32 ID:gEk6EUSF
当時の諸大名がどういう軍制をもってていたのか未解明な事が多いのに、
どうしてその一事だけをもって徳川が他より優れていたといえるのかねえ。
330人間七七四年:2009/08/18(火) 07:48:17 ID:rczTMb9I
桃山期らいになるとかなり資料も残ってる。
331人間七七四年:2009/08/18(火) 08:39:05 ID:QzvtfeQ4
上杉と毛利を一緒くたに語ってる時点で駄目だろ
332人間七七四年:2009/08/18(火) 08:54:21 ID:rczTMb9I
それぞれに詳しい人間には重大な差があるんだろうけど、
傍からみれば50歩100歩だろ。
333人間七七四年:2009/08/18(火) 09:40:42 ID:QclRpTyl
ID:rczTMb9I=ID:vAxVDjDC

>傍からみれば50歩100歩だろ。
お前が徳川の偉大さを宣伝したいだけなのはよくわかった。
334人間七七四年:2009/08/18(火) 09:45:25 ID:rczTMb9I
>>333
ぜんぜん別人だけどな。

それにしてもキミ、なにか強迫観念みたいなの持ってるのか?
335人間七七四年:2009/08/18(火) 11:16:15 ID:IjFDuPnb
>>329
現状では大番の様な組織としての部隊編成は他家では確認されていない
336人間七七四年:2009/08/18(火) 14:56:19 ID:r28iYt1S
大番?
337人間七七四年:2009/08/18(火) 17:02:45 ID:IjFDuPnb
江戸幕府の番方(軍事関係)の内、最古の物
徳川家が軍制を甲州流に変更した際に創設される

大番はこれまでの個人に寄騎を配する形で無く、大番という組織に番頭や番士が
配属される形に特徴がある
これは徳川家の中央集権化を推し進める一環とされる
338人間七七四年:2009/08/19(水) 03:46:33 ID:NxXrBA+9
先進の軍制と経済的な優位って関係あるの??

つか大阪の役のドタバタみると徳川の軍制あまりうまくいってない気もするが……
339人間七七四年:2009/08/19(水) 08:49:44 ID:q5uy5ZHI
組織化、機能化されているほうが経済的にも優位に決まってる。
大阪の陣は動因、展開ともに非常にスムーズに行われた。
ドタバタしているように見えるのは軍談講談の世界の話。
340人間七七四年:2009/08/19(水) 10:14:48 ID:eUELUMS5
名古屋城、連日歴女で超満員だ
341人間七七四年:2009/08/19(水) 12:02:17 ID:NxXrBA+9
>>339
関ヶ原の将軍とか大阪の城昌茂とか、改革後の徳川軍は展開が遅い(戦況にあった進軍ができない)機構だったような

つか、評価は別にして軍の組織化具合と経済とは無関係でしょ
商業帝国といわれる国が最強の軍隊を持ってた例はないんじゃない?
342人間七七四年:2009/08/19(水) 12:10:08 ID:5dPIcMR0
経済も軍隊も最強なら超大国って言われるだけだし。現在のアメリカとか過去のシナやローマ。
343人間七七四年:2009/08/19(水) 12:26:14 ID:0htHas2n
>>341
関ヶ原の将軍て誰?
家康の東進や秀忠の真田攻めには特に問題は無い

大坂陣の城昌茂や藤田信吉は個人の資質に影響されている気がする

経済的にいうなら寄騎制はそのまま寄子が寄親の被官化する事が多いが
大番はそういった事態が回避でき、また蔵米による統制も進む
344人間七七四年:2009/08/19(水) 15:11:26 ID:Uw4UW2A+
個人の資質の影響に左右されてるようじゃ機能してないじゃん。
345人間七七四年:2009/08/19(水) 15:48:26 ID:5dPIcMR0
城や藤田は軍監とか検視役だろ。大番制度の機能性とは関係無い話じゃねーの。
346人間七七四年:2009/08/19(水) 16:43:54 ID:4pJbEAt/
あの時期徳川よりスムーズに軍隊を展開の出来る家は存在しないだろ。
豊臣の七手組も、秀吉在世中に既に組頭は、各組頭家の家の世襲の地位になり、
機能よりも利権の色の濃い組織になった。
347人間七七四年:2009/08/19(水) 18:10:58 ID:xkxPmNf6
主観で語って同意を求められてもな。
具体的に説明してくれよ。
348人間七七四年:2009/08/19(水) 20:00:44 ID:0htHas2n
大番は平時から伏見城の交替警備を行っている
これには細かな軍令が定められており、彼らの平時よりの即応性や
統制の高さが伺える
349人間七七四年:2009/08/19(水) 22:47:00 ID:NxXrBA+9
>>342
”商業”帝国ってカルタゴとかフェニキアとかでしょ、ローマとか中華帝国をそう呼ぶ例はないとおもうけど

毛利も大内から引き継いだ海外(銀)貿易の歴史は長いよね、
でも↑の話じゃあんまり軍制改革すすんでなかった話になってるし、
九州なら最終的覇者は大友や龍造寺じゃなくて島津だったし、
戦国時代でも、経済(交易)の発展と軍の強弱(や軍制)に直接関係してるとは思いにくいなぁ

>>343
>家康の東進や秀忠の真田攻めには特に問題は無い
…分散進撃に失敗したなんて、へぼへぼじゃぁ……
350人間七七四年:2009/08/19(水) 22:52:08 ID:0htHas2n
>>349
あれは長雨で使者が利根川を越えられなかったのが原因
どうしようもない
351人間七七四年:2009/08/19(水) 22:57:02 ID:LmLC9XuL
そもそも信濃平定が秀忠軍の主任務だったって説もあるくらいだしな。
で、命令変更が350の言うように間に合わなかった、と。
352人間七七四年:2009/08/20(木) 00:43:45 ID:w0CcCBd6
>>342
近代以降は兵器の質が産業の進化と一致するからね
それ以前は相関関係無いとは言わないけど薄いでしょ

カルタゴ、フェニキアやギリシャ地方がローマに滅ぼされ
商業の発達した中原諸国も秦に滅ぼされ
南宋やイスラム諸王朝がモンゴルの支配下に置かれたし
353人間七七四年:2009/08/20(木) 16:04:05 ID:mZMrNIsD
信長の野望天道
1546年のシナリオの中国地方の一部大名の扱いが酷い

丹波は波多野で1つ
一色は丹後で1つ
浦上は備前で1つ
山名は但馬&因幡で1つ
赤松は播磨で1つ
毛利は備後&安芸で1つ
尼子は出雲&但馬&伯耆&隠岐&美作&備中でたった1つ
大内は筑前・豊前・長門&周防&石見で3つ

ちなみに
南部は西陸奥・東陸奥で2つ
長尾は北越後・南越後で2つ
武田は信濃・甲斐で2つ
今川は駿河・遠江で2つ
細川は讃岐・淡路&阿波・河内&和泉で3つ
大友は豊後・筑後で2つ
354人間七七四年:2009/08/20(木) 16:10:35 ID:pedWssPb
歴ゲ板でやれ
355人間七七四年:2009/08/20(木) 17:05:02 ID:Fg2acAnj
相変わらず品質に見合わないボッタくり価格だなw
1,000円切ったら買う
356人間七七四年:2009/08/21(金) 10:29:33 ID:EJrM2a60
>>81
相場にも左右されますが
だいたい2〜5石で1貫って聞いたことがあります
1万貫の豪族なら2〜5万石の豪族って読みかえられますね。

しかし石見の産出量が最大でもたった24000石かとおもい少ないなあと思ったら
通貨単位の方を貫文と質量単位の方を貫目を混同していたことに気がつきました。
昔の人って紛らわしい単位を使いすぎです。
357人間七七四年:2009/08/21(金) 11:12:09 ID:g/3JFsqI
しかも通貨単位のほうも時期どころか地域によって異なるからなあ。
こういう混乱が収拾されるのは江戸期になってようやくだし。

戦国は経済的には、ものすごい面倒くさい時代だ
358人間七七四年:2009/08/21(金) 13:58:46 ID:FaUlO5N0
まあ根幹は混乱というより、各地「有り物」で済ませたことで自律・自立してた時代だって事でしょうけど
地方自治というより、正に小国乱立の時代ですな
359人間七七四年:2009/08/21(金) 14:32:17 ID:Mts82qMg
>>350
江戸出発時点で戦略的指針が立ってたんだから、それは理由にはならないような……
連絡無くても間に合うことが可能性も大きかったわけですし

大阪の陣の松平忠直(前夜酒飲んで寝坊した)とか徳川軍の失敗は指揮官の個人的責任が問われることが多いけど、
指揮官個人より参謀?の能力がより重視されてる機構で「馬鹿殿様だから」って理由がまかりとおってるのには
なんか違和感あるんですよね、組織で責任取るの避けてるようで

>>358
今のインド経済が似てるような気がするなぁ……
階層(都市部と農村部とか)によって経済活動が完全に別物で
つい最近まで統一した消費者物価指数(分野別に4つぐらい出てた)でてなかったんですよ
360人間七七四年:2009/08/21(金) 15:28:28 ID:ObHl9u+t
>>359
近代みたいに頻繁に連絡の取れる体制じゃないんだから。
361人間七七四年:2009/08/21(金) 16:34:49 ID:e6pymyyd
>>359
家康が関ヶ原へ向けて江戸を出発する直前に合流を命じる使者を送り、この使者が川止めに遭っている
間に秀忠は当初の目的である上田城を攻めていました
家康の東進決断は岐阜城が陥落したからであり、それ以前に秀忠の信州平定の命は下されたいます
(因みにそれ以前は対上杉の警戒)
362人間七七四年:2009/08/21(金) 18:35:49 ID:FaUlO5N0
そろそろ……スレ・記事への誘導でなんとか
363人間七七四年:2009/08/21(金) 19:06:27 ID:ObHl9u+t
そういえば堺が貿易港として繁栄しだしたのは、応仁の乱以降なんだね。
大内の拠点とされた兵庫港が細川に潰されて、それでかわりにそれまで漁村に過ぎなかった
堺が発展するようになった。
364人間七七四年:2009/08/21(金) 19:11:10 ID:8XVu06YJ
俺の読んだ本だと、明貿易の瀬戸内〜対馬ルートが大内に押さえられた代わりの
南海ルートの拠点として発展したとか書いてあったよ
365人間七七四年:2009/08/21(金) 19:30:59 ID:ObHl9u+t
>>364
それだと兵庫で十分だし
366人間七七四年:2009/08/21(金) 19:36:10 ID:8XVu06YJ
>>365
反論じゃなく、追記ね
堺が栄えた理由の1つとして
367人間七七四年:2009/08/21(金) 22:36:10 ID:6fhjrncE
ぐぐったらこんなの見つけた。
http://www.usc.edu/dept/LAS/history/historylab/LA_Osaka/ja/reports/Transnational%20Symposium/Niki%20Summary%20jpn.htm

応仁の乱以前も堺はただの漁村ってことはない。
1399年の応永の乱では和泉守護だった大内義弘が
守護所の堺に篭城して、そのまま敗死したりしている。

その後、1408年に和泉守護は上守護と下守護に分かれ、
共に細川氏の庶家が世襲するようになる。
上守護家には藤孝が養子に入ったりするけど、とりあえずここでは関係ない。

というわけで、応仁の乱当時には堺は既に和泉支配の政治行政的中心地として
それなりの歴史を持っていて、細川氏の勢力基盤だった。
山名、大内の勢力が及びにくい港町ということで
細川氏の対外貿易港として選ばれたのでは。

琉球が三山時代から対外貿易を活発化させて、
日本から南にいく航路の需要が高まったのも
堺隆盛とタイミングがあってたんだろうね。
368人間七七四年:2009/08/22(土) 11:38:49 ID:VXy9jSOb
>>363
へぇ〜知らなかった
369人間七七四年:2009/08/25(火) 14:46:16 ID:adUsJ/+G
発展したのが応仁の乱以降なんだ
370人間七七四年:2009/08/25(火) 15:30:41 ID:HxtKg3T3
戦国が始まるとともに隆盛し、近世の幕が開くと衰退した。
堺は戦国の申し子みたいなもんだな。
371人間七七四年:2009/09/01(火) 15:51:34 ID:MfJtJwMn
自立心が強いところも戦国的だし
372人間七七四年:2009/09/01(火) 17:52:11 ID:Rb3Rt2Kn
自立心が強いと言うより、細川、三好に忠実だっただけ、って気もするが。
373人間七七四年:2009/09/08(火) 16:13:54 ID:AmjIy5NQ
三好はなくなったがね。
374人間七七四年:2009/09/09(水) 23:21:04 ID:G00LmCc0
それをいうと織田もだし
まあ、細川・三好政権が実力で畿内に実際の安定をもたらす政権に至らなかったのも要因だと思う
375人間七七四年:2009/09/10(木) 00:15:13 ID:pSy/1tDp
織田の覇権は9年、三好の覇権は11年
その間はどちらも安定してたし差はないな
376人間七七四年:2009/09/10(木) 01:04:03 ID:LO09bGQr
三好時代の摂津・和泉・河内は、主戦場の時期も長かったから
織田政権が固まると本願寺戦争外縁の位置になるけど、取ったり取られたりではない、
一種、ほとんど動かない地方になった
それが良いこととはいえないにしろ、三好時代よりはずっと「安定した」地方だったんじゃないかね
377人間七七四年:2009/09/15(火) 15:24:41 ID:lUpYolLl
そうなのかも知れないね
378人間七七四年:2009/09/17(木) 21:57:54 ID:xbW0EzNa
織田信長が、堺から矢銭として巻き上げた二万貫って、
戦国大名の税収からみて、
どのくらいの威力があったんかな?
379人間七七四年:2009/09/17(木) 22:11:50 ID:CwVk/EyV
武田とかの棟別銭が年間50文〜200文 平均100文として
戸別にかけられる税だから2万貫だと一貫約1000文なので20万戸分
一戸に約10人住んでいるとして200万人分
石高≒人口なので
だいたい当時の武田の全領土数年分の棟別銭にあたることになる

のかな〜?
380人間七七四年:2009/09/17(木) 22:20:43 ID:uKsQqLtD
1貫が1石、という説をみたことがるので、
1石は1人を1年養うことができるコメの量だというから、
現代に例えると、1人年収300万として(パート含む)、
二万貫は、600,0000万円=600億円。
軍隊の海外遠征は無理でも、国体開催ぐらいはできるだろう。
381人間七七四年:2009/09/17(木) 22:21:16 ID:rqRo20h1
>>378
永禄二年(1559)の、北条氏政が家督を継いだときに作られた「小田原衆所領役帳」を見ると、
当時の北条氏家中の所領を合計した貫高が、約7万2千貫。
ここから実際に年貢として入ってくるのが約半分として3万6千貫。

つまり2万貫というのは、当時の北条家全体を、半年以上にわたって運営できるほどの額。
382人間七七四年:2009/09/17(木) 22:38:18 ID:0nEv9ifA
なんで御家人領から年貢取れるんだよww
383人間七七四年:2009/09/17(木) 22:56:45 ID:uKsQqLtD
3万人の軍勢を、1年以上にわたって自由に行使できる金額、

ということじゃねえか。
384人間七七四年:2009/09/17(木) 23:22:24 ID:0nEv9ifA
百貫あたり7人動員としても五千人
385人間七七四年:2009/09/18(金) 00:33:41 ID:0qq3aZcd
1貫たって時期と地域で価値がぜんぜん違うものだろ
無理やり当てはめていいもんかね
386人間七七四年:2009/09/18(金) 01:23:07 ID:84Ao2nCG
北条領の一貫あたり動員はこれより緩いよ、かなり甘く見積もった。
3,600人の武士を1年間動かせるくらいの銭
387人間七七四年:2009/09/18(金) 09:07:19 ID:zeA0pHNq
天文年間の伊達氏の収入が、
棟別銭1642貫500文、反銭6826貫720文(賦課範囲は、伊達・信夫・置賜等の本領域から刈田・柴田・名取・伊具・宇多等の諸郡域)やよってに、

織田信長が、堺からせしめた矢銭二万貫は、
相当な威力を持っていたのでは…。
388人間七七四年:2009/09/18(金) 16:09:59 ID:czf0Ag2m
結構な臨時収入なのは間違いないけど
段銭以外にも直轄領の年貢や時代が進むめば小物成の一円課税もあるから
領国全体からするとそれなりな額の域は出ないと思う
手持ち資金としては相当大きい臨時収入だろうけど
389人間七七四年:2009/09/18(金) 16:30:34 ID:mgpFmahx
享禄2(1529)年の長尾家年間収入546貫(借銭含む)。
出費は730貫で184貫の赤字。
390人間七七四年:2009/09/18(金) 19:57:32 ID:84Ao2nCG
同時期に色部氏が自領限定で寺社・商人・職人から徴収した段銭が33貫
阿賀北衆や上田長尾家、上条家を合わせれば
百姓を除く段銭のみで800貫前後いくから
長尾家の年間収入全部ではないでしょ
391人間七七四年:2009/09/19(土) 18:09:21 ID:6t5y7/3+
織田信長の親父である織田信秀が、
朝廷に銭四千貫を献金した時に、
軍備に使えば、兵を一万人は雇えただろうという噂があったそうな。

この例で当て嵌めると、
堺からせしめた矢銭二万貫は、兵を五万人雇える計算になるな。

…それにしても、当時の兵(足軽)の人件費って、
そんなに安価だったのかなぁ?
392人間七七四年:2009/09/19(土) 18:19:39 ID:9YHcOYaZ
>>391
安い。足軽の賃金なんてめちゃくちゃ安い。
だから略奪に走りがちだったんだが。

足軽の一番の魅力は米の支給。1日1合ほどあったそうな。
逆に言えばそれさえ果たしていれば、あまり文句は言われなかったらしい。
393人間七七四年:2009/09/19(土) 20:02:54 ID:hbUISile
1日1合でなく、1日一升だろう。
1日1kgといってもいい。

コメでそれだけ支給してくれたら、農閑期だったら喜んで参加するだろ。
394人間七七四年:2009/09/19(土) 20:18:07 ID:9YHcOYaZ
>>393
> 1日1合でなく、1日一升だろう。

その通りでございます。
395人間七七四年:2009/09/20(日) 01:59:21 ID:B9n6NvKO
秀吉が高松城を水攻めした時の費用が十数万貫っていわれてなかった?
事実なら織田家どんだけチートなんだよ。
396人間七七四年:2009/09/20(日) 02:07:30 ID:pABZkpRs
>>395
まあ織田軍はどんなものでも数字を大げさに言う癖があるので、正直信用できないけどなw
397人間七七四年:2009/09/20(日) 20:59:34 ID:AGBAoPNJ
>>391
京と尾張じゃあ物価が大分違うと思うよ。
以前見たサイトでは、京と大和の当時の物価が、比較してあったが
大和は、京の8掛けぐらいだった。
398人間七七四年:2009/09/22(火) 06:12:10 ID:NGZFJYQI
織田軍というか、当時はどんな所でもそう
得たものは誇大に言うのが策であり常識であり当然で、馬鹿正直な実数を明かすのが正しい、
なんて、どの勢力も感覚として持ってないだろうから

まあ正直な数字の共有なんて、現代でもどうかって話だが…
399人間七七四年:2009/09/23(水) 09:19:43 ID:2aIJ5oQy
>380
>1石は1人を1年養うことができるコメの量だというから、

1石ではたとえエンゲル係数100%でも1人が1年食っていくには足りない。
玄米1石150kgを全部食べたとして、1日あたり417g、1500kcalくらいしか摂取できない。

年収としては、江戸時代だと最下級の侍が三両一人扶持。(いわゆるサンピン。)
扶持米は1日あたり玄米5合で計算するので、360日では1石8斗。
1両=1石とすると、総年収は3+1.8で、4.8両(=4.8石)。
1石を300万円とするのは過大すぎる。

商人の島井宗室の遺訓にも米の消費量は1人あたり1年で1石8斗という記述が
あるそうなので、男性は1日5合食べるというのが当時の常識らしい。

>392
戦時だと雑兵物語に配給は1日6合とか、
明智光秀の軍法に陣夫には1日8合とかいう記述がある。
陣夫は1人あたり3斗(45kg)の荷駄を運ぶ重労働なので、
おそらく8合は駄賃とかは含まず全て食用。

1日1升で人を集める場合は臨時雇用の給料込みみたいな感じか。
400人間七七四年:2009/09/23(水) 09:22:09 ID:2aIJ5oQy
>381
所領役帳の貫高は、税率や諸控除を計算した上での定納高、
つまり税の徴収額が記載されている。石高制のように約半分にする必要はない。

また、役帳は名前のとおり家臣の所領役の負担量を決定するための基本台帳なので、
直轄領、蔵入地は記載されていない。
(例えば幻庵や綱成の所領は記載があるが、氏康や氏政の所領はわからない。)
なので、7万貫はいわば家臣の総収入であって、北条家全体の総収入ではない。

あと、定納高を決定する際には夫役、普請役などにかかる費用が控除されるかわりに、
民衆からは安価(無料)な労働力が提供された。
北条氏の場合は、郷ごとに高20貫文につき普請役が年1人10日、
陣夫役が戦争のたびに40貫文につき1人10-20日とか。
このように金額に現れず労働で払われる税もあることに注意。

>387
段銭、棟別銭はもともと臨時課税からスタートしたので、本年貢とは別のもの。
室町幕府が弱体化し統制が弱まることで、
税の徴収をしていた守護自身の権益へと変化したものなので、
戦国時代には、年貢は各国人の収入になる地方税で、
段銭、棟別銭は大名に入る中央税みたいな認識なんだけど。
当然伊達氏にも直轄領からの年貢収入があるので、
段銭帳に書かれた金額が総収入というわけではない。

本年貢とその他の税の規模の比較をすると、
北条氏の場合は懸銭と段銭を合計して役帳に記載される貫高(年貢)の10%-13%、
棟別銭は北条氏が1戸あたり55文、伊達氏が100文、武田氏が200文だとか。
細かい税を全部合計して本年貢の10%-20%くらいが相場なのではないかなぁ。

ただ、これら中央税の一部や全部を免除する代わりに
被官、家臣として軍役を務めるという契約が広く行われていたり、
家臣への知行の一部が棟別銭の徴収権という形で与えられたりするので、
実際に大名の懐に入る税の額は目減りする。
401人間七七四年:2009/09/23(水) 09:24:44 ID:2aIJ5oQy
で、やっと本題の矢銭2万貫の評価について。

軍役負担を基準にすると、北条氏の場合は知行7-8貫文につき1人の動員が
義務づけられているので、石高制で40石につき1人として比較すると、
貫高制で2万貫の所領は、石高制で10-11万石の所領と同等ということになる。

米価を基準にすると、北条氏だと年貢の物納の際の公定レートは
100文が米1斗2升らしいので、米1石は833文に相当する。
これだと4公6民で2万貫の年貢を得るには6万石の所領が必要ということに。
上の軍役負担で計った場合と2倍弱の差があるので、何か見落としがあるんだろうけど。

上述したように所領からは税の減免の代償として
軍役や夫役といったサービスが得られるので、
キャッシュ2万貫だけだと、2万貫の所領にはやや劣る。
大雑把に見積もって5-10万石の所領のあがり1年分くらいなのかな。
402人間七七四年:2009/09/23(水) 09:25:12 ID:Dqowpcek
1石=1貫=1両?
戦国時代の1貫って15万円ぐらいかと思っていたが。
403人間七七四年:2009/09/23(水) 11:38:15 ID:tihpTES0
16世紀後半、職人に渡す日当が100文
小田原北条氏の領内だと職人の日当50文

100文1万円換算なら、1貫文10万円相当になる

米一石の卸値は500〜1500文の間。
戦乱や飢饉でさらに高騰することもあるけど、大体このラインに収まる

銭と金の換算比率は、織田信長が定めたも(1569)のが
金一両=銭1500文
404人間七七四年:2009/09/23(水) 12:07:53 ID:W9I/UDMD
戦国時代は地域格差も大きいからそれも配慮しないと
京大坂で1貫=1石の時に南部領だと1貫=5石だったりしたはず
405人間七七四年:2009/09/23(水) 12:30:47 ID:tihpTES0
>>404
米一石の卸値は500〜1500文の間にだいたい収まるってだけで
必ずこのラインに収まっているわけじゃないよ

そうさね、1石100文てのもあるし、1石4000〜4500文てのもある
だけどこれは例外とみなしていい価格だよ
406人間七七四年:2009/09/23(水) 15:13:11 ID:dBR9xyWK
>>403
> 銭と金の換算比率は、織田信長が定めたも(1569)のが
> 金一両=銭1500文

信長のこれは実体経済から乖離しすぎていて、畿内の貨幣経済が一時期衰退した原因になったような。
407人間七七四年:2009/09/24(木) 02:25:17 ID:77OG+6Dh
石見銀山の破壊力に比べると単年でも1/10以下なんだな
石見銀山凄すぎ
408人間七七四年:2009/09/24(木) 07:59:16 ID:9oX2/Vm3
徳川家康が、武田勝頼に高天神城を攻略された時に、
織田信長から兵糧代?として、金(砂金か?)80貫を贈られたようだが、

金80貫ならどのくらいの力になるんかな?
409人間七七四年:2009/09/24(木) 08:51:51 ID:ZuX1sm1n
1000万円ぐらいか。
410人間七七四年:2009/09/24(木) 08:55:04 ID:K2pSn0ts
軍隊維持にはスズメの涙みたいな金額だな
411人間七七四年:2009/09/24(木) 09:31:32 ID:iBczYolY
>>408
金80貫は金8万匁
・金1貫=金1000匁

場所にも寄るけど金44匁で金一枚、金一枚は金10両
・1匁=3.75g 1両=16.5g
・10両=金一枚=165g
・165÷3.75=44

金80貫は大判にして約1818枚、金1万8千両相当
412人間七七四年:2009/09/24(木) 13:34:44 ID:jgi/LKqd
>>407
世界の銀産出量の1/3だからな
話半分としても15%はかたい
413人間七七四年:2009/09/26(土) 20:36:07 ID:nxhRfyiP
>>411 米にしたら、どれくらいの量になるんかな?
414人間七七四年:2009/09/26(土) 21:38:07 ID:lzY0tmcg
>>413
多聞院日記に準拠した1574年当時の相場だと
金1匁=銀10匁、銀8匁=米一石とあるんで約10万石相当。
勿論地域によっておおいにぶれはあるだろうけど
415人間七七四年:2009/09/26(土) 22:00:21 ID:rp7fARz+
>>414
そいつは卸値だ
商人から買うとなると、値段は倍近くになる
手に入れられるのは5万石相当じゃないかな?

高天神城の戦いでは、徳川勢1万
一人当たり1升(戦時は1人扶持の倍支給)だとすると
500日分の兵糧になる
416人間七七四年:2009/10/02(金) 11:26:06 ID:zEpqbPr2
落ちていたので国力スレに書きましたが
官位の価値ってどうなんでしょ?

以下wiki
天文2年(1534年)9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、
大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように
後奈良天皇に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就を
その祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に
倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000疋を
朝廷に献上する事で叙任が実現の運びとなった。
これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、
官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを
示す効果があったと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1

100疋=1貫とすると
毛利元就の右馬頭=40貫
伊達稙宗の左京大夫=255貫
大内義隆の左京大夫=2000貫

はたして献金に見合う効果があるのだろうか?
417人間七七四年:2009/10/02(金) 12:27:41 ID:d+eYVH7j
少なくともその大名達は、あると考えたから金出したんだろ。
418人間七七四年:2009/10/02(金) 12:35:04 ID:9fP3CFK/
現在でも肩書きは大切だよっ。昔なら尚更だね
そして左京大夫値下がりしすぎだよっ
419人間七七四年:2009/10/02(金) 21:35:23 ID:Go7Ih0AX
徳川家康が、従五位下三河守に叙位任官した時には、
朝廷等にどのくらいの金をばらまいたんかな?

三河守は、織田信秀や今川義元等も任官しているようだが…。
420人間七七四年:2009/10/02(金) 21:50:04 ID:hdGIp7Y8
相当大変だったらしいぞ。しかも新田氏が三河守になった先例は無いって事で
すったもんだした挙句、家康が近衛前久の被官として藤原氏となることで、ようやく
任官を許された。
421人間七七四年:2009/10/04(日) 12:17:43 ID:XbcisNfT
そこですったもんだしたから嫌気さして、ずっと朝廷には疎遠になってしまい、
素朴な朝廷崇拝のあった秀吉贔屓の後陽成天皇との不仲までつながったんだという話はあるね
系譜捏造もその三河守に就くためじゃなかったっけ
422人間七七四年:2009/10/04(日) 14:24:29 ID:EyOoYpMF
捏造も何も松平宗家が新田源氏の「得川」を名乗ったのは家康の祖父の清康から。
家康が系譜を捏造したことは無い。
423人間七七四年:2009/10/05(月) 14:29:40 ID:5XV1Cs6D
>>419
織田信秀は、4000貫文相当(現代価値で6億円)を2回献上した。
守護の部下のさらに部下の支流の分際だったが、
今の名古屋港を押さえていたため当時突出した経済武将だった。

424人間七七四年:2009/10/06(火) 21:52:04 ID:wokti0uJ
ほう
425人間七七四年:2009/10/11(日) 11:46:59 ID:8NyG2c31
信秀は勤王家とも。
426人間七七四年:2009/10/15(木) 15:42:55 ID:D6Mf0K41
大内の次ぐらいに献金多いもんね。
427人間七七四年:2009/10/18(日) 11:45:19 ID:6Og6Okjl
財力の比較がしたいね
428人間七七四年:2009/10/18(日) 16:49:21 ID:0Ufe+kaF
石高=経済力とはいいきれないからね
港や鉱山の存在は大きい
429人間七七四年:2009/10/20(火) 16:20:35 ID:S8KDp7U6
各種のデータは揃わないだろうね
430人間七七四年:2009/10/21(水) 08:47:51 ID:56Hh3GQw
太閤検地以降の石高というのは
石見銀山などの産出も石高換算されて加味されているのでしょうか?
>>30では石見 111,770となっていますが
石見銀山だけでも11万石以上の収益があったような気がしてなりません。
431人間七七四年:2009/10/21(水) 13:10:53 ID:16+ulZD6
太閤検地ってのは軍役のための基準であって生産性調査じゃな一つーの。
432人間七七四年:2009/10/26(月) 16:08:26 ID:lsrkTz4X
交易額などはわからないね
433人間七七四年:2009/10/27(火) 16:09:44 ID:wOwtTPpx
太閤検地は自称もけっこうある
有力どころだと毛利や上杉だな
羽柴家の同盟大名>豊臣家の傘下大名という実績?によりここらへんは自称で
過少申告してなあなあで済ませてる

これが後に毛利に幸いする
防・長・芸・備・石・雲で120万石っすよと自称過小申告していた
関ヶ原後に徳川幕府は防長36万石に押し込めたつもりが減封時点で実質50万石クラス
後に開拓殖産に励み100万石へ

逆に上杉は損をみた
越後1国80万石くらいっすよと申告していたものだから会津120万石へ転封
表向きは5割増しの加増なのに実質的にはほぼ等価交換
移転に伴うあれやこれやを考えると実質的にマイナス
434人間七七四年:2009/10/27(火) 18:38:47 ID:SBimVlby
>>433
わかりやすいです。
しかしなんで上杉は会津転封を了解したのよ?
素人目に考えても日本海貿易、地形もそうだし
代々の土地の越後の方がいいと思うんだけど。
会津が奥州の要衝といっても・・・。

会津になにかメリットがあるのか、もしくは
上杉が経済オンチだった?とか。
435人間七七四年:2009/10/27(火) 18:52:30 ID:V/6Se9RQ
>>434
断れる立場じゃないでしょうからね。
それに東国や奥州を鎮護する必要もあった。
上杉一国の都合を超えた判断をしたのでしょう。
436人間七七四年:2009/10/27(火) 19:41:30 ID:khcWuOvo
まあ上杉は越後が惜しくて惜しくてたまらなくて、その後に入ってきた堀家に
嫌がらせの限りをつくすんだけどな。
437人間七七四年:2009/10/27(火) 20:56:44 ID:PdcbVQQ9
>>433
太閤検地の越後は40万石しかない。
上杉は出羽、信濃、越中に領有していた土地、佐渡を加えて70万〜80万石程度。

まだ越後も当時は米所というほどの土地ではなく、
信濃の方が米の収穫量が多いくらいで、
当時の感覚だと会津の方が土地が豊かだった。

実際に越後が米所になるのは江戸時代中期以降。
438人間七七四年:2009/10/27(火) 21:20:09 ID:joUomuPg
掘に嫌がらせはしてないね。年貢の持ち運びはそれほど不当なことではないし。
上杉としては先の指摘のほかに在地の国衆を土地から切り離す狙いがあった。
これにより彼らは先祖代々の土地を支配する領主から、
上杉への忠誠から給恩を与えられる家臣へと生まれ変わった。
439人間七七四年:2009/10/27(火) 21:34:17 ID:khcWuOvo
一揆の扇動って嫌がらせじゃないのかw
堀氏は入国直後から上杉遺民のサボタージュに直面しているのだが。
440人間七七四年:2009/10/27(火) 22:06:40 ID:joUomuPg
あー、遺臣一揆か。
あれは嫌がらせじゃなくて敵対行動だろw
441人間七七四年:2009/10/27(火) 22:48:21 ID:wOwtTPpx
>>437
すまん
そこらへん合わせて80万石だったね
442人間七七四年:2009/10/29(木) 01:16:48 ID:EuFDCc7C
佐渡金山も江戸期だし・・ひょっとして戦国期上杉は
そんなに経済的には強国ではなかったの?意外。
443人間七七四年:2009/10/29(木) 01:24:19 ID:NiBRZ/AB
>>442
直江津を中心とした交易では潤っていたよ

単純に生産力なら、そりゃ関東を抑える北条の方が強い罠
444人間七七四年:2009/10/31(土) 15:44:00 ID:P5a1oAuf
だが関東平野は結構な湿地帯。
445人間七七四年:2009/10/31(土) 23:08:51 ID:oJv3dInu
それを言ったら越後も随分な湿地帯
446人間七七四年:2009/11/01(日) 00:47:33 ID:VNbcsgH2
>>444
関東は濃尾平野や新潟平野とは違い、低湿地と台地が入り交じった地形なんだ。
江戸周辺や利根川・荒川中流〜下流の周辺を除けば、当時から生産可能な地域
は広かったんだよ(だから、検地でも、毛野国や武蔵、常陸、下総などの国々の
石高はとても高かった。)。
447人間七七四年:2009/11/01(日) 07:57:21 ID:3PPJYFfq
>>446
おお、興味深いです。
戦国時代はそんな感じだったんだ。
詳述している本などありましょうか?!
448人間七七四年:2009/11/02(月) 09:50:42 ID:UaqSJ1nA
室町期の記録だと、関東は畿内についで有徳人(富裕層)の多い地域だったらしい。
449人間七七四年:2009/11/02(月) 12:08:39 ID:hx/LE/1N
慶長期石高上位

陸奥 1,672,806
近江 775,379
武蔵 667,126
尾張 571,737
伊勢 567,105
美濃 540,000
常陸 530,008
越前 499,411
上野 496,377
大和 448,945
豊後 418,313
信濃 408,358
下総 393,255
越後 390,770
越中 380,298

濃尾平野も何だかんだで十分穀倉地帯。
そして当時は琵琶湖の畔が最大の穀倉地帯だった。
450人間七七四年:2009/11/02(月) 18:29:47 ID:UaqSJ1nA
畿内以西で上位に居るのは豊後だけか。
451人間七七四年:2009/11/04(水) 12:19:43 ID:7RK44l66
単位面積当たりの慶長石高で言うと、圧倒的に畿内と尾張が上位で、
近江、伊賀・伊勢、加賀・能登・越前、備前や筑前・筑後、上総・下総
などが武蔵よりも上に来ている。最下位は石高のない壱岐・対馬。

河内 5,504 (石/方里)
尾張 5,488
和泉 4,228
摂津 3,803
筑後 3,289
山城 3,082
近江 3,015
上総 2,693
伊勢 2,453
加賀 2,405
備前 2,374
越前 2,294
大和 2,229
伊豆 2,145
筑前 2,116
伊賀 2,112
下総 1,904
能登 1,711
武蔵 1,703
淡路 1,691
---------------
信濃 478
佐渡 302
出羽 247
甲斐 241
日向 235
隠岐 226
土佐 216
飛騨 141
対馬 0
壱岐 0
452人間七七四年:2009/11/04(水) 12:26:52 ID:7RK44l66
失礼
>>451の伊豆は計算間違い

河内 5,504 (石/方里)
尾張 5,488
和泉 4,228
摂津 3,803
筑後 3,289
山城 3,082
近江 3,015
上総 2,693
伊勢 2,453
加賀 2,405
備前 2,374
越前 2,294
大和 2,229
筑前 2,116
伊賀 2,112
下総 1,904
能登 1,711
武蔵 1,703
淡路 1,691
常陸 1,583
若狭 1,553
相模 1,508
播磨 1,503
丹後 1,437
越中 1,427
三河 1,394
美濃 1,340
遠江 1,299
安房 1,292
丹波 1,277
上野 1,219
豊後 1,216
備中 1,131
讃岐 1,110
美作 1,091
伊予 1,072
出雲 1,028
豊前 1,025
453人間七七四年:2009/11/04(水) 12:29:13 ID:7RK44l66
全国平均 998 (蝦夷と琉球を除く)
肥前 969
下野 908
志摩 904
因幡 898
周防 887
薩摩 852
伯耆 804
備後 795
甲斐 785
大隅 708
肥後 697
但馬 688
駿河 683
安芸 677
阿波 677
伊豆 658
長門 648
紀伊 639
陸奥 566
越後 509
石見 481
信濃 478
佐渡 302
出羽 247
日向 235
隠岐 226
土佐 216
飛騨 141
対馬 0
壱岐 0

単位面積当たり石高だと、この頃はまだ陸奥・出羽・越後は
下から数えた方が早い。
454人間七七四年:2009/11/05(木) 01:16:55 ID:njvE26nL
>>452
大阪府と愛知県に人口が集中しているのは当然といえば当然だな。
455人間七七四年:2009/11/05(木) 18:04:15 ID:XGRc37PK
参考までに『倭名和名類聚抄』『拾芥抄』記載の田積(単位:町;段歩は切り捨て)
『倭名和名類聚抄』の尾張の田積は『掌中歴』の数字で代用
『拾芥抄』の信濃の田積は前田本の校訂を採用、出羽の田積は前田本の校訂を採用せず、美濃の田積は『色葉字類抄』の数字を採用。
なお『倭名和名類聚抄』の田積数は、平安時代初期(9世紀前半)〜中期(10世紀前半)の田積数を、
『拾芥抄』は平安時代後半(11世紀〜12世紀)の田積を反映していると考えられている。
昔は『拾芥抄』の数字は鎌倉時代末期(14世紀)の田積を反映していると考えられていた。
旧国 倭名抄 拾芥抄
山城 8,961 8,961 (町)
大和 17,905 17,005
河内 11,338 10,977
和泉 4,569 4,126
摂津 12,525 11,314
伊賀 4,051 4,055
伊勢 18,130 19,024
志摩 124 4,917
尾張 11,940 11,930
三河 6,820 7,054
遠江 13,611 12,967
駿河 9,063 9,797
伊豆 2,110 2,814
甲斐 12,249 10,043
相模 11,236 11,486
武蔵 35,574 51,540
安房 4,335 4,362
上総 22,846 22,666
下総 26,432 33,000
常陸 40,092 42,038
近江 33,402 33,450
美濃 14,823 15,304
飛騨 6,615 4,356
信濃 30,908 30,520
上野 30,937 28,453
下野 30,155 27,460
陸奥 51,440 45,077
出羽 26,109 38,628
若狭 3,077 3,139
越前 12,066 23,576
加賀 13,766 12,536
能登 8,205 8,479
越中 17,909 21,399
越後 14,997 23,738
佐渡 3,960 4,870
456人間七七四年:2009/11/05(木) 18:07:06 ID:XGRc37PK
旧国 倭名抄 拾芥抄
丹波 10,666 10,855 (町)
丹後 4,756 5,537
但馬 7,555 7,743
因幡 7,914 8,016
伯耆 8,161 8,842
出雲 9,435 9,968
石見 4,884 4,872
隠岐 585 624
播磨 21,414 21,236
美作 11,021 11,616
備前 13,185 13,206
備中 10,227 10,883
備後 9,301 9,298
安芸 7,357 7,484
周防 7,834 7,657
長門 4,603 4,769
紀伊 7,198 7,119
淡路 2,650 2,870
阿波 3,414 5,245
讃岐 18,647 17,943
伊予 13,501 14,825
土佐 6,451 6,173
筑前 18,500 19,765
筑後 12,800 11,377
肥前 13,900 13,462
肥後 23,500 23,462
豊前 13,200 13,221
豊後 7,500 7,570
日向 4,800 8,298
大隅 4,800 4,707
薩摩 4,800 5,521
壱岐 620 620
対馬 428 620
合計 867,887 926,465
457人間七七四年:2009/11/05(木) 18:08:20 ID:XGRc37PK
『倭名和名類聚抄』と『拾芥抄』内で田積上位の国

旧国 倭名抄 旧国 拾芥抄
陸奥 51,440 武蔵 51,540 (町/方里)
常陸 40,092 陸奥 45,077
武蔵 35,574 常陸 42,038
近江 33,402 出羽 38,628
上野 30,937 近江 33,450
信濃 30,908 下総 33,000
下野 30,155 信濃 30,520
下総 26,432 上野 28,453
出羽 26,109 下野 27,460
肥後 23,500 越後 23,738
上総 22,846 越前 23,576
播磨 21,414 肥後 23,462
讃岐 18,647 上総 22,666
筑前 18,500 越中 21,399
伊勢 18,130 播磨 21,236
越中 17,909 筑前 19,765
大和 17,905 伊勢 19,024
越後 14,997 讃岐 17,943
美濃 14,823 大和 17,005
肥前 13,900 美濃 15,304

平安時代、意外にも関東地方の田積が軒並み高く、まとまった米所を形成している。
特に武蔵は平安時代後半に田畑を増やし、田積でトップになっている。
慶長期の石高と比べると、武蔵、陸奥、常陸、近江、下総、信濃、上野などはすでに
上位に顔を出しているが、美濃、尾張、伊勢がそれほどではない。
458人間七七四年:2009/11/05(木) 18:11:53 ID:XGRc37PK
まあ単位面積当たりの田積(町/方里)で計算すると、
昔から明治に至るまで河内の生産性がトップで、
近江、摂津、山城、和泉などの畿内勢がかなり上位にいる。
(大和は『拾芥抄』では24位に後退)

備前、讃岐、筑後、筑前などの西日本の国々も結構豊かなことがわかる。
関東地方では上総、下総が武蔵、常陸を上回る。
総田積数で1位、2位の陸奥は単位面積当たりでは下の方に入る。
讃岐は平安時代中期と後期で田積が減少し、慶長石高ではもっと順位が落ち込んでいるが、
貯水池による灌漑に限界があったのだろうか。

なお志摩の田積数は、『倭名和名類聚抄』と『拾芥抄』ともにおかしい。
(124町ではなく1124町、4971町ではなく、491町7段の誤記?)

旧国 倭名抄 旧国 拾芥抄
河内 257.7 河内 249.5 (町/方里)
讃岐 163.9 志摩 249.1?
上総 162.4 上総 161.1
筑後 158.3 下総 159.8
備前 139.9 讃岐 157.8
和泉 136.5 筑後 140.7
摂津 133.8 備前 140.1
近江 129.9 武蔵 131.6
下総 128.0 近江 130.1
安房 124.4 常陸 125.5
山城 122.6 安房 125.1
常陸 119.7 筑前 124.6
筑前 116.6 和泉 123.3
尾張 114.6 山城 122.6
肥前 101.7 摂津 120.8
加賀 93.1 尾張 114.5
武蔵 90.8 越前 108.3
播磨 89.8 豊前 98.5
大和 88.9 相模 89.1
相模 87.2 播磨 89.0
--------------------------
大隅 19.4 阿波 19.3
紀伊 18.9 大隅 19.0
陸奥 17.4 紀伊 18.7
豊後 15.3 薩摩 16.6
薩摩 14.4 日向 16.2
土佐 14.2 飛騨 16.2
壱岐 14.0 肥後 15.5
阿波 12.6 陸奥 15.2
日向 9.4 対馬 14.0
志摩 6.3 土佐 13.6
459人間七七四年:2009/11/07(土) 15:06:56 ID:JUWqyZG3
460人間七七四年:2009/11/08(日) 10:03:21 ID:YQaOk6bN
8公2民と奄美超搾取の鬼島津
461人間七七四年:2009/11/08(日) 11:41:27 ID:N+PRVeue
>>13
三津七湊って、それぞれにかなり開きがありそう。
伊勢安濃津なんて戦国時代じゃあんまり聞かないし。

筑前博多津>>>>和泉堺津>>>>伊勢安濃津
462人間七七四年:2009/11/08(日) 11:49:17 ID:Nol271Bg
>>461
安濃津は中世前期から太平洋海運の拠点として、また京から関東圏への窓口として
栄えた港湾都市だよ。中世中期までは記録も、遺構も相当数残っている。

が、1498年の明応地震津波で壊滅し、戦国時代の中期以降は廃墟と化している。
その後、安濃津が復活するのは近世に復興してから。
463:2009/11/09(月) 23:30:10 ID:kYvCflli
464人間七七四年:2009/11/11(水) 03:56:21 ID:Ltf1mSfY
今川・北条・武田・上杉の一帯は戦国一の激戦区というイメージがありましたが
このスレをみて越後が意外に金山が機能していないことや米所でないと知りました。
単純に石高の低い西国の国力は東国よりも劣っている認識でしたが
少弐・大友・尼子によって形成された大内包囲網は
当時の今川・北条・長尾に挟まれるよりきつい状況ではないでしょうか?
また、尼子と大内の激突は小競り合いと籠城戦ばかりでしたが
もし野戦で繰り広げられていたら川中島当時の武田・上杉よりも両家の規模が大きいので
歴史に残る大規模な合戦になっていたかも
465人間七七四年:2009/11/11(水) 05:01:45 ID:CAXFcm4A
しかしその野戦をしなかったのが事実なんだよな。だから面白い
466人間七七四年:2009/11/11(水) 22:21:18 ID:VrqGXROJ
>少弐・大友・尼子によって形成された大内包囲網は

これはちと違う。
少弐は、既に弱体化。
大友とは、適当に仲良くしている。
467人間七七四年:2009/11/12(木) 02:02:34 ID:nqD75g/W
そりゃ戦国時代中盤以降やで
信長の野望のシナリオある間だけが戦国時代とちゃう
468人間七七四年:2009/11/12(木) 02:10:41 ID:XhVsm/0n
てす
469人間七七四年:2009/11/12(木) 02:22:53 ID:vGat89+r
謙信期の越後は米なんかより青苧・布・蝋・塩田と交易が主だろ。
金とか言ってる奴は今更。
金山からの収入が大きくなり始めるのは景勝時代から。
470人間七七四年:2009/11/12(木) 11:34:52 ID:9VU2Lfb9
日本海航路の収益は幕末にいたるまで巨大なものだからな。
山形県酒田市の本間様は各地の大名家に多大な金貸してて
庄内藩が逆賊指定で潰れてなきゃ日本有数の財閥になったことは間違いない。
IFは無用のことなんだが。

逆に新潟や東北が米どころになるなんざまあ最近の話といってよく
元来南方の植物である稲は寒いとこではまともに育たぬ。
品種改良進むまでは気候の良いとこには勝てない道理。
471人間七七四年:2009/11/12(木) 12:03:06 ID:O+3dj5nH
新潟市なんて埋め立てるまでは…
まあ越後が戦前まで人口がやたら多かったのは事実だが。
472人間七七四年:2009/11/12(木) 14:47:58 ID:fV9FlOWw
良民の人口調査が開始された江戸時代半ばの1721年の段階で、すでに越後は3位につけている。

1位 陸奥 1,962,839人
2位 武蔵 1,903,316人
3位 越後 932,461人
4位 出羽 877,650人
5位 摂津 809,242人
6位 常陸 712,387人
7位 信濃 693,947人
8位 播磨 633,725人
9位 肥後 614,007人
10位 肥前 609,926人

まあ人口密度だと、この段階でも越後は平均以下。
人口密度では摂津が昔から断トツでトップ。

1846年でも越後が3位なのは変わらないが、陸奥、関東地方、近畿地方は人口減少。
西日本と日本海側は人口増加。

1位 武蔵 1,777,371人 (1721年の1,903,316人から大幅減少)
2位 陸奥 1,603,881人 (1721年の1,962,839人から大幅減少)
3位 越後 1,172,973人 (1721年の932,461人から大幅増加)
4位 出羽 912,452人 (1721年の877,659人から増加)
5位 信濃 794,698人 (1721年の693,947人から大幅増加)
6位 摂津 763,728人 (1721年の809,242人から減少)
7位 肥後 755,781人 (1721年の614,007人から大幅増加)
8位 肥前 713,593人 (1721年の609,926人から大幅増加)
9位 尾張 653,678人 (1721年の554,561人から大幅増加)
10位 伊予 599,948人 (1721年の504,045人から増加)
473人間七七四年:2009/11/12(木) 15:00:34 ID:fV9FlOWw
伊達藩陸奥領の天明の大飢饉の前後の人口変動

1781年:502,124人
1783年:493,245人
1784年:478,894人
1785年:413,191人
1786年:411,496人
1788年:410,196人
1789年:409,632人
1790年:410,401人
----------------
1800年:437,204人
1825年:481,190人
1863年:540,176人

稲作推進で陸奥は江戸時代前期に人口が大幅増加したが、
稲以外の作物が軽んじられたため、稲が駄目になるとこんなことになる。
474人間七七四年:2009/11/15(日) 13:24:26 ID:q9Mvd8Wq
勘合貿易で幕府は大きな利益を得ていた
細川と大内が海外で喧嘩するくらいだからかなりの規模だと思いますが
どのくらいの利益がでていたのでしょうか?
475人間七七四年:2009/11/15(日) 13:34:59 ID:VlaMpLET
>>474
寧波の乱は貿易利権のために争ったと言うのとはちょっと違うかと。

あと、勘合貿易がどれほどの利益を上げていたのかを、具体的に証明する
資料は残ってないはず。
大内も京兆家も実質的に滅びたしね。

後世の話になるが、関ヶ原の後黒田長政が福岡52万石を領したが、海外貿易港である
博多を有している事で、実質100万石と言われた。貿易港だけでこうなんだから、勘合貿易の利権は
それこそ100万石単位のものがあったのかもしれん。
476人間七七四年:2009/11/15(日) 13:54:10 ID:4ZKuCLU5
>>474
持って言った額の10倍と言われている
日本で1000貫文相当の物を持って行くと1万貫文相当が返ってきた。

勘合貿易は貿易とは言っても、明に貢ぎ物を持って行き、
皇帝が「おお、よく来たな」と10倍の価値のお土産をくれたという形。
滞在費も全部明国持ち。これじゃ儲かるわな。
477人間七七四年:2009/11/15(日) 14:18:19 ID:q9Mvd8Wq
>>475
>>476
サンクス
ってことは石見銀山とか博多港とか関門港とか勘合貿易を有していた大内氏は
石高以上に大きな収入源を持っていたわけですね。
478人間七七四年:2009/11/15(日) 16:58:08 ID:FUOvlLPe
http://www.city.kitakyushu.jp/file/51051000/rekisibunka/mojinorekisi/08_muromachi.pdf

ぐぐってみたら、遣明船1隻の利益が2万4千貫文とか出てきた。

とは言え、日明貿易は十年一貢と定められていて、大内氏主催による勘合貿易は
1511、1523、1540、1549年の4回だけ。
また1回につき3隻しか渡海できないので、これだと利益を独占できたとしても、
10年で7万2千貫文、1年あたりでは7千2百貫文の儲けにしかならない計算。

実際は博多などの商人が商品を集めて勘合船に乗り込んで商売をして、
その儲けのうちいくらかを大内氏に支払うというような形だったと思われるので、
大内氏が明との公式な貿易だけで大儲けしていたと考えるのは間違っている。

勘合貿易の主催者になることによって、各地の商人との結びつきが出来て、
赤間関が栄えることがより大きいのではないかな。
朝鮮との貿易や中国との密貿易も盛んだったはずだし。

石見銀山も大内氏の時代(というか戦国時代を通じて)は商人による民間経営で、
大内氏は毎年そこから運上銀を受け取るだけ。
銀山の規模もまだそれほど大きくなかったのか、
商人の力が大きかったのか、運上も1533年に100枚(16kg)とか、
1539年に500枚(80kg)とかたいした量じゃない。
479人間七七四年:2009/11/15(日) 22:00:59 ID:UqhXsaAl
このスレ的には謙信時代の越後はそれほど豊かじゃなかったみたいですね
となると上洛資金や度重なる関東遠征費はどこから出せたのでしょうか
死後大量の資金が残ってたとも聞きますが、実は財政火の車だったとか?
480人間七七四年:2009/11/15(日) 22:09:04 ID:J2AIQ+cz
>>479
以前のスレに出てきているが、関東への出兵自体が越後国内での口減らしの
効果があったというんじゃないか。

そもそも謙信が、義(大義名分)を大事にしたというのは、依頼主からの兵糧の
提供を受けられるメリットがあったという。
481人間七七四年:2009/11/15(日) 22:25:23 ID:K8FC/pcl
上杉家は金持ちで有名だろうが。
日本海貿易で莫大な富を持っていた。
482人間七七四年:2009/11/15(日) 22:35:10 ID:q9Mvd8Wq
>>479
米沢の財政難は大減封されたり
吉良義央に借金押しつけられたりしたのが原因で
戦国当時は貧乏というわけでもなかったはず。
戦国時代に金山が開発されたり米所だったら歴史が変わっていたろうね
483人間七七四年:2009/11/15(日) 22:42:04 ID:0QxfYipE
>>482
> 戦国時代に金山が開発されたり米所だったら歴史が変わっていたろうね
現実的にはどちらも無理だけどな。
新潟平野を中心とする低湿地の新田開発は、安定した時代に長期的な取り組みを
行わなければ無理だし、佐渡金山はそもそも長尾氏の領国では無かったことは置く
としても、スペインから導入した工法を用いなければ大量に金・銀を採掘することは
不可能だったし。

長尾家が大をなしたのは、やはり直江津を中心とした交易だろう。
>>481が言うほど、他家と比較して裕福だったとも言えないが、少なくとも貧しくはない。
484人間七七四年:2009/11/15(日) 22:59:20 ID:NgVyA3Ra
上田長尾家は独自の金堀衆を抱えていたんじゃなかったっけ。
謙信の財政には関係ないけど。
越後は米作に従事する人間より
塩田で働いてる人間の方が多かったという噂は聞いたことがある。
485人間七七四年:2009/11/15(日) 23:17:07 ID:UqhXsaAl
塩も交易目的だろうか
越後は今でこそ農業国っぽいけど当時は商業国ですな
486人間七七四年:2009/11/15(日) 23:33:40 ID:IxoYWnw+
>>476
それの逆バージョンが日本と渤海。
渤海がへりくだって貢物持ってくるから、日本は面子上お返しを持たせる。
最盛期は2年ごとに使者が来たので、さすがに日本も音を上げて
「今後は9年ごとに来るように」
と言い渡した。
487人間七七四年:2009/11/16(月) 00:53:54 ID:ZWyahUzb
>>478
正式(中国本土に入港)な勘合貿易だけじゃなく、例えば台湾とか中継地に煩雑に船出してたみたいよ
(実際台湾とかで現地の銭飢渇とか何回も引き起こしてる)
正式との違いは、”銭”が手に入らないかどうか、くらいの違いじゃないかな

室町時代は大名幕府の財政は御用商人が管理する形(明国朱印状も幕府じゃなく商人の家に置いてた)なので
大名の財政と御用商人の銭儲けを分けて考えるのは難しいのでは??
488人間七七四年:2009/11/17(火) 16:30:46 ID:S1i+Z46c
大内が儲かるのは本州と九州の出入り口をがっちり押さえて
大内領通らないと商売できませんということなんじゃねえの

四国なんか未開すぎて俺が商人でも通りたくないしな
なんか赤銅色で毛深いいごっそう系の男達に
酷い目にあわされそうな気がしてならない
489人間七七四年:2009/11/17(火) 16:56:28 ID:o6UNynmh
…明交易で大儲けしてた土佐一条家のことも思い出してやってください……
490人間七七四年:2009/11/17(火) 17:45:40 ID:BHERF0xE
>>489
そうなの!?意外・・。
一条といえば公家中の公家なのにそんな商人まがいな
事をしてたんだ・・。勉強になるな。
491人間七七四年:2009/11/17(火) 18:50:00 ID:zpu+RNTv
下関って土地は天然の関所だからな
本州から九州に移動する場合は一部の四国を経由を除けば必ず通らざるを得ない。
なんでこんな要所を江戸幕府は天領にしなかったんだろうね?
ここを抑えて外国船砲撃さえ起きなければ長州も暴走しなかったろうに。
492人間七七四年:2009/11/17(火) 19:12:44 ID:tTWcym/1
>>491
防長二国より、安芸一国だよな……
と現代人なら思ってしまうところだよね。
493人間七七四年:2009/11/17(火) 19:52:08 ID:GaOIFhIr
>>491
>なんでこんな要所を江戸幕府は天領にしなかったんだろうね?
小倉を押さえたからいいんじゃねーの?
494人間七七四年:2009/11/17(火) 23:58:23 ID:t0x4+w5o
>>490
土佐から大隈、琉球、華南への海路は、昔からの重要な海路。
北条義時が、一時、大隈の守護になったのもこの海路を抑えるためだった。
495人間七七四年:2009/11/21(土) 15:29:24 ID:t6oZsyvU
黒潮に乗ってるんだ
496人間七七四年:2009/11/21(土) 16:11:55 ID:rOtgPGF2
南海ルートは室町期の細川氏も重要視していたね
大内氏が押さえていた関門海峡を敬遠しての策らしいけど
497人間七七四年:2009/11/21(土) 16:14:13 ID:rOtgPGF2
付け加えですが種子島─堺の鉄炮の輸送もこのルートが考えられる
498人間七七四年:2009/11/21(土) 16:38:53 ID:rFIXb9Ju
関門海峡ってものすごく狭いんだな。
天然の運河というかでかい川というか隔てている距離があんなに少ないとは。
本州と九州って1キロくらいしか離れてないんだな。
知らなかったよ。
499人間七七四年:2009/11/21(土) 18:21:37 ID:rOtgPGF2
本州の人から見たら九州は淡路島より大きい瀬戸内海の島のひとつだ
500人間七七四年:2009/11/21(土) 18:47:46 ID:jidrLEnJ
南海道ルートはいったん海が荒れ始めると避難港が少ないんだよな
なので渡航可能日が限られる
あと下手うって黒潮に乗ってしまうとマジでハワイ行きかねない勢いで流される
501人間七七四年:2009/11/22(日) 04:57:59 ID:PnJ/MjUM
>>491
関ヶ原のときなど
九州の軍勢はみんな瀬戸内海を船で移動していたから
それほど要地でもなかったんだろ
それと他の人が書いているように小倉を抑えてあるしね
502人間七七四年:2009/11/25(水) 17:12:14 ID:vwj9sMxu
>>500
時代は幕末の方になるが土佐沖から漂流して亜米利加に救われている日本人は結構いる
黒潮マジすげー!
503人間七七四年:2009/12/04(金) 07:56:44 ID:RrN/anOg
南米から縄文土器出るくらいですから。
504人間七七四年:2009/12/29(火) 14:04:10 ID:1N56/n7/
wikiの大内文化の項目だが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%96%87%E5%8C%96
大内が公家や文化人に援助していたのは打算あってのことだったのか
505人間七七四年:2009/12/29(火) 17:23:29 ID:TBhoOUUx
大内の場合は打算とかじゃなく本気で官位とか都の文化が好きだったんだと思うよ。
管領家でも従三位までが常識だった時代に義隆は従二位まで登っているし、
幕府に対しても献金を惜しまず、〇〇守とか勝手に自称しちゃうのが普通の時代に、
自分だけじゃなく家臣の分まできちんとお金を払って猟官運動している。

少弐氏に対抗するために太宰大弐になるとか、ちゃんと実も取っているので、
単なる権威好きって感じでも無いけど。
506人間七七四年:2009/12/29(火) 17:35:07 ID:vSjj8t1P
wikiをまともに信じるな
507人間七七四年:2009/12/29(火) 23:56:07 ID:XIBc7gCu
>>505
そんな大金使って、メリットあるのか?
大内の太宰大弐とか、伊達が陸奥守得たのは地域支配の
名目としてわかるんだが、従三位がどうだの右京太夫とか
もらって、どういうメリットがあったんだろう。
従三位なら近隣の豪族がかしこまるってわけでもあるまいに。
508人間七七四年:2009/12/30(水) 00:28:56 ID:dCbbVcTS
権威ってのを過小評価してるな。
509人間七七四年:2009/12/30(水) 05:56:12 ID:6KgjKYwY
実力だけで「偉く」なることは出来いない。
例えば同じ学者や小説家でも、ノーベル賞や芥川・直木賞、あるいは文化勲章を
受けた前と後では、世間の対応はまるで違う。
実力は変わらないのに。

戦国大名も一緒で、実力だけではせいぜい地域の一揆結合の頭目に過ぎない。
官位と言う、実力を裏打ちする権威を身に纏って初めて、身内からも世間からも、
実力に相応する(あるいは実力以上の)、尊敬と尊重を受けられるようになるわけだ。
510人間七七四年:2009/12/30(水) 06:35:48 ID:vFPTqgFY
大内の場合
尼子経久が死んで戦国時代は終わったと捉えたんでしょうね

京より東は鬼畜しかすまない野蛮地域だと当時は捉えられていた
関東は負け組の国だったわけ
亀井の天皇は京都に帰りたいのでは発言は、ここら辺から来ている

守護は領土拡大より
地域の国人などを従わせるだけで十分だと考えていたと思う
官位はそのための物で天下統一の概念は無い
周りを従わせるだけのネットワークを確立して家と職の維持を保つだけが目的

領土拡大に走った守護は武田と島津ぐらいだろう
511人間七七四年:2009/12/30(水) 07:22:17 ID:bcfhXU3o
せめて縦読みくらい仕込めよ
512人間七七四年:2009/12/30(水) 09:02:00 ID:bGkC7hLd
西日本は権威が通用していたからな
少弐の時に味をしめたのかもな
513人間七七四年:2009/12/30(水) 10:25:40 ID:1q+FebRM
>>512
東日本も通用していたぞ、と。
そうでなければ、山内上杉や今川、武田といった既存権威が小勢力を糾合
することなど出来はしなかった。

が、関東の場合はその権威同士(関東公方と関東管領)が、戦国時代以前
から争っており、相対的に旧来の権威の影響力が小さくなっていたという
ことはあるかもしれない。
514人間七七四年:2009/12/30(水) 10:54:32 ID:cLnME3sB
>510
さすが尼子の家老の子孫・亀井氏の発言
515人間七七四年:2009/12/30(水) 11:06:18 ID:QpDer7Yz
>>507
ある。

たとえば大友氏の場合も結構な額を献金しているがおかげで
朝廷・幕府の権威を都合よく使えるようになった。
(戦線が膠着したときは、すかさず和議の斡旋に使う)

さらに京周辺の確度の高い情報を入手できるようになった。
(信長と三好の抗争、伊勢侵攻に関して現代人かと思うほどの
情勢分析をしている)
516人間七七四年:2009/12/30(水) 12:45:04 ID:p3UQsu5Y
京都との結びつきを強化しないと、勝手に家臣が中央に接近する危険もある。
守護が国人同士の争論を調定出来ず、彼らが幕府に直接裁定を求めた例もある。
517人間七七四年:2009/12/30(水) 14:27:38 ID:HfbStJDm
織田信秀もせっせと献金したもんだ。
518人間七七四年:2009/12/30(水) 16:03:19 ID:bGkC7hLd
織田信秀は大内よりも献金額がおおいんだよな
熱田港の運上益のおかげかな?
519人間七七四年:2009/12/30(水) 16:55:07 ID:HfbStJDm
熱田港というのか津島港だろう。
520人間七七四年:2009/12/30(水) 18:10:22 ID:zVpUqPNH
権威を買って公家とコネクションが出来れば、中央の情報やら商人とのコネクションが
手に入りやすくなるな。
応仁の乱直後は兎も角、戦国時代は皇族や殿上人クラスの上級公家はそれほど
悲惨な生活ではなかったと思う。
521人間七七四年:2009/12/30(水) 18:12:48 ID:Sn9mauPn
金欠のため即位の礼を三年間延期した正親町天皇の事を、忘れないで
522人間七七四年:2009/12/30(水) 18:25:37 ID:HfbStJDm
公家の方はいろいろと金を貰っていたが天皇家までは回らなかったんじゃないの。
523人間七七四年:2009/12/30(水) 22:51:40 ID:aSc8Whh/
天皇も文章とか書いて小遣い稼ぎしてなかったっけ?

>>521
金欠で法要をなかなか出せなかった天皇がおったよね
どなただったかしらん?
524人間七七四年:2009/12/31(木) 00:34:55 ID:EMNSdVnY
公家はあちこち行って金貰っていたが天皇はあちこち行っていないだろう。
その差じゃないのかな。
525人間七七四年:2009/12/31(木) 01:01:33 ID:NajUKlJc
じゃ、書画を書いて、それを下々の者に売って貰うくらいしかないか。
足利の将軍なら名前を売る(輝元とか輝宗とか)ことも出来るけど
天皇は権威が高すぎてそれも出来ない。
526人間七七四年:2009/12/31(木) 01:53:05 ID:0qFsxP+G
即位礼とかは恐ろしく金がかかるので出来なかっただけで、普段の生活まで
困ってたわけじゃないぞ?
527人間七七四年:2009/12/31(木) 02:46:08 ID:mN0Ys74k
>>525
一応内蔵寮領の率分(ざっくり言うと朝廷の蔵のようなもの)だとか、丹波山国荘など、
朝廷の料所は一応あった。ただし、これらつねに武士なんかの押領に晒されていて、
朝廷は時々の権力相手にそういったものの保全を求めているんだよね。
あとは、叙任のお礼のための献上もあった。
(三好義興が四位になったときに、300疋を献上してる)このへんが主な収入源じゃないかな。
大名による猟官運動とか、中央へのコネづくりにも礼金が動くわけだし
528人間七七四年:2009/12/31(木) 03:38:27 ID:5BZMFuo+
数万疋の献金を何度もして従二位、兵部卿・大宰大弐・侍従如元まで上がった大内義隆とか
529人間七七四年:2009/12/31(木) 03:50:00 ID:0qFsxP+G
即位礼がどれほどカネがかかるかといえば、後柏原天皇の時、
明応の政変で幕府の実権を握り半将軍とまで呼ばれた細川政元が、献金を求められて

「即位礼なんて上げなくても俺が天皇と認めてるんだからそれでいいだろ!」

って泣き言を言ったくらい。
530人間七七四年:2009/12/31(木) 09:20:17 ID:UuJ3Puz7
もう幕府がろくに金を出せなくなってたもんなぁ
531人間七七四年:2009/12/31(木) 13:49:05 ID:7XELvjRJ
大内は種子島伝来前から鳥銃を輸入していたのに
なんで鉄砲を量産せずに他のものを量産していたんだろう?
それほど明との貿易は儲かったのか?
532人間七七四年:2009/12/31(木) 13:52:26 ID:Y7b6/QdD
>>531
ぼろ儲けに決まってるだろ
正規に明と貿易できるのは細川と大内だけなんだし
533人間七七四年:2009/12/31(木) 13:57:45 ID:7XELvjRJ
ってことは薩摩の人間も明と交易できていたら鉄砲の普及が遅れたかもしれないね
534人間七七四年:2009/12/31(木) 15:07:54 ID:EzwlsEGz
鉄砲を量産しても
肝心の火薬輸入の確保をしない意味ないのです
信長が上洛してまずしたことは
堺へのお布施
535人間七七四年:2009/12/31(木) 15:07:56 ID:EzwlsEGz
鉄砲を量産しても
肝心の火薬輸入の確保をしない意味ないのです
信長が上洛してまずしたことは
堺へのお布施
536人間七七四年:2010/01/08(金) 11:42:53 ID:Q+Yo5cgr
室町時代まで私鋳銭が横行していたようですが
戦国大名たちも勝手に通貨を作っていたのでしょうか?
537人間七七四年:2010/01/09(土) 18:34:58 ID:tuRtat9V
加治木銭でぐぐると吉
538人間七七四年:2010/01/23(土) 00:02:41 ID:cskcF/80
戦国時代の一般的な貨幣といえば
永楽銭や洪武銭・宣徳銭あたりを輸入して使っていた。
つまり日本国内では悪銭しか鋳造できないので銅銭を輸入していた

大内政弘、大内義興が応仁の乱に介入したり、将軍を上洛させたりしているわりに天下統一を目指さず、
貿易権を手に入れたら満足してそれ以上を望んでいない
対外侵略へのリスクよりも貿易による確実な利益を重視したのかね?
そうだとするとある意味、統一しても拡大を狙って国内を疲弊させた羽柴秀吉よりも賢いな

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_040925.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041002.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041009.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041016.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041023.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041030.htm
539人間七七四年:2010/01/23(土) 04:27:15 ID:PBnMnfqz
>>538
…今日で管領代となった時点で”天下の主”になってないか?
540人間七七四年:2010/01/24(日) 00:46:07 ID:tjqdAsix
貨幣といえば甲州金。
これは武田領国内でのみ使用できる領国貨幣です。
銅ではなく、わざわざコストのかかる金を用いていたのはなぜでしょう?
541人間七七四年:2010/01/24(日) 00:47:53 ID:4J7G4zWK
>>540
金はどこに行っても金ですが
542人間七七四年:2010/01/24(日) 00:55:27 ID:tjqdAsix
領国貨幣として用いるのならコストが安い貨幣を発行したほうがいいのでは?
543人間七七四年:2010/01/24(日) 00:55:39 ID:kUD1wACR
>>540
貨幣???
544人間七七四年:2010/01/24(日) 01:00:24 ID:4J7G4zWK
当時の「貨幣」は中国から輸入した宋銭、明銭なんだがな。
545人間七七四年:2010/01/24(日) 01:05:42 ID:kUD1wACR
>>544
あと、通貨として扱われていたのは銀だわな。
貨幣ではなく重量換算だけれども。
546人間七七四年:2010/01/24(日) 01:07:13 ID:jVz6q19n
コストがかかるから価値があるんだろ。負荷価値を加えた場合も増え幅が広いし。
コストのかからない簡単に作れるものは悪貨も作られやすい。
547人間七七四年:2010/01/24(日) 01:08:09 ID:4J7G4zWK
金もそう。目方。
甲州金と言うのは携帯し運びやすい形に加工したもの、に過ぎない。
548人間七七四年:2010/01/24(日) 01:11:16 ID:4J7G4zWK
あと銭のような「廉価で大量の貨幣の発行」のためには、強大かつ安定した広域権力の存在が不可欠。
政府の力が弱ければ貨幣としての信頼が得られないから。

日本の中央政権の力がそこまで行くのは徳川家光の時代。
549人間七七四年:2010/01/24(日) 02:25:53 ID:S6f+zZv7
>>515
信長と三好の抗争、伊勢侵攻に関して現代人かと思うほどの
情勢分析をしている

例えばどんな分析なの
550人間七七四年:2010/01/24(日) 06:06:08 ID:X69rLYXR
たしか銅も不足気味で、全国に流通させられるだけのモノを確保するのが難しかったはず
551人間七七四年:2010/01/24(日) 12:39:47 ID:LMj3Lb4M
>>547
銀と違って、金はそもそも流通量が少なく、通貨として扱われていた訳では
無いと思うが。
金の目方としての価値ってのは、貴金属としてのそれだろう。
552人間七七四年:2010/01/24(日) 17:20:47 ID:Zo/9CdXf
>>550
1450年李氏朝鮮との間で同輸出条約(葵亥約条)結んでたり室町時代以降にはもう国内産の銅地金量は回復してる
…それでも渡来銭使ってたんだよね、当時は……

>>551
目方で量ったそのままの金属塊を「計量貨幣」と呼ぶので、ちょっと文意がわからない……

でも海外交易の決算には通常金が通貨として使われてたよ
553人間七七四年:2010/01/24(日) 17:33:16 ID:buxkYrnH
>>552
たとえば、価格革命以前の欧州なんかでは、通常の決済では銀を用い、金は
ほとんど用いられていなかった、とかそういう話。
日本でも、通常決済には銀を用い、金を用いることはそう多くなかったと思うん
だけど。

あと、勘合貿易の決済は主に銀じゃね?(中国は銀本位制だし)
南蛮貿易だと、銀は輸出品扱いだから金で決済していたようだけど。
554人間七七四年:2010/01/24(日) 17:36:11 ID:pHsE7qjO
>>553
東では金、西では銀と良く聞くが
555人間七七四年:2010/01/25(月) 00:13:37 ID:5BA0/NZX
>>553
日本からの銀塊は、明国内で計量刻印されるまでは輸出品(素材)なんじゃないですかね?
同時期のペソ銀貨と同一視して良いものかどうか……
平安時代は金は通貨であり、それが廃止されたわけではない戦国時代に金を通貨として認めない、つーのも難しい話のような

もともと明発行の通貨は紙幣だったけど誰も信用しなくて銀になった同時代に、日本では信用貨幣的”銭”経済だったわけで
対外的に貴金属が決済に使われたのを別にして、国内での扱いは、金も銀も同じような気はしますが……
556人間七七四年:2010/01/25(月) 10:37:17 ID:xCyv8gid
織田信長は、金貨や銀貨の鋳造は手掛けなかったのかな?

あれだけ経済政策を重視していた信長ほどの人物が、
貨幣の流通については、そのままにしていたとは思えんのだが…。
557人間七七四年:2010/01/25(月) 11:32:44 ID:A6gZyYJG
信長は全くしていない、秀吉は褒賞・贈答用のみ
流通用の通貨を始めたのは武田の甲州金を嚆矢とし、それを引き継いだ
家康による小判が全国的に広まるようになる
計数貨幣は東国の方が進んでいる
558人間七七四年:2010/01/25(月) 11:50:51 ID:fRlupSp/
従来だと小判を貰ったらすぐに銭に換金していたんだよな
559人間七七四年:2010/01/25(月) 13:25:26 ID:bLnMorph
だいたい信長が経済政策を重視していたなんて事自体が大間違い
560人間七七四年:2010/01/25(月) 13:52:14 ID:OxQ/q5E3
重視はしてただろ。ただ制度的には武田今川北条等の東国大名以下ちゅうだけで
561人間七七四年:2010/01/25(月) 16:32:50 ID:EAgljqsE
そら鉱山持って無いし
562人間七七四年:2010/01/25(月) 17:06:21 ID:bLnMorph
信長は都市や商人からの、税や矢銭、農村からの軍役の徴収には熱心だったが、
その元になる経済活動のを発展、円滑化させるための「政策」には殆ど見るべきものがない。

まあ、ただでさえ繁栄している、経済の中心である畿内を掌握した以上、これを苦労して
構造改革させる意欲は湧かなかったのかも知れないが。
563人間七七四年:2010/01/25(月) 17:15:15 ID:cE0e3KUY
>>562
急激に膨張したせいで、内部の組織密度が薄かった可能性も高い。
東国の大大名は、多かれ少なかれ領国を長期にわたって安定的に
運営している事実がある。

結局、全国的な経済政策を総合的に行うには、強大な中央政府の
存在が必要だったのではなかろうか。

欧州でも、たとえばフランスの通貨政策が安定したのはリシュリュー
による政府の刷新以降な訳で。
564人間七七四年:2010/01/25(月) 17:23:25 ID:OxQ/q5E3
家督を譲った所でやっと内政関係に手を付け始めたという感
それまでは戦争しかしていないというか、だからこそ急速に領土を広げれたと言うべきか
そして3年ほどで本能寺。
565人間七七四年:2010/01/25(月) 20:35:17 ID:5BA0/NZX
もともと勘合貿易も朱印すら町人管理、座も存在するけどその取引の内容の記録はほぼ無いし
土地切手など残ってるから経済活動の盛んさはうかがえるけど、実態はまったくわからない

そんな時代を近代の視点で評価しても「(だれも)なんにもしてない」としか言いようがなさそうな……
566人間七七四年:2010/01/25(月) 21:32:48 ID:B1Tah1Hq
>>565
んなわけあるか

後北条や武田や今川は、商人などに対する法令やらなんやらを積極的に
発布しているし、貨幣の安定などにも手を入れた文書が残ってる。

が、織田にはそういう文書はほとんどない、ってことなのさ。
567人間七七四年:2010/01/25(月) 22:47:14 ID:S7qA63f5
>>562
都市把握の方法も三好氏がやってたのを踏襲しているんだよね。
三好長慶が寺内の形成を通じて、惣中の掌握を図ったのを、信長の
時代になって荒木村重も同様の手段を用いている
568人間七七四年:2010/01/25(月) 22:47:40 ID:WIf8nWaY
>>566
具体的には何?
569人間七七四年:2010/01/25(月) 23:44:44 ID:bLnMorph
>>567
信長は「前例主義」「現状維持」というのが、徹頭徹尾基本路線ですな。
京の七口の関所なんて、有名無実になっていたのをわざわざ復活させたりもしたけどw
570人間七七四年:2010/01/27(水) 21:47:37 ID:sWhYbGoQ
石高についてまとめてみようとおもいます
俺は知識ないんでよそから拾ってくるくらいしかできませんが
詳しい人はいろいろ意見ください。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2539556.htmlより

最大版図は学研歴史群像シリーズ「図説・戦国地図帳」から採りました。
石高は太閤検地と吉宗の検地の双方を使いました。概算です。
           太閤検地   吉宗検地
毛利輝元     196万石  278万石   11国他
武田信玄     129     173
上杉謙信     100     179
北条氏直     205     287   
長曽我部元親   61      91

       参考
大友宗麟     156
織田信長     812            24国他

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212401357だと

●秀吉の天下統一以前の戦国時代(メンドいのでテキトーに)

伊達政宗(奥州。米沢・仙台・会津の最高150万石程度)
後北条氏(ほぼ関東全土。250万石程度)
上杉謙信(本拠の越後の他、関東・上野東半分、越中・能登・加賀、最高200万石程度)
武田氏(甲斐・信濃・駿河・上野の全域、遠江の半分、三河・美濃・飛騨・越中の一部、最高時200万石程度)
今川義元(駿河・遠江・三河の全域、100万石程度)
徳川家康(駿河・遠江・三河・甲斐・信濃150万石程度)
織田信長(日本のほぼ半分)
三好長慶(四国東部と摂津・大和など畿内に100万石程度?)
尼子晴久(山陰8ヶ国100万石程度?)
毛利氏(最大時は中国全域200万石程度)
大内氏・陶氏(毛利登場以前は中国・北九州に100万石程度)
長宗我部氏(ほぼ四国全域100万石程度)
大友氏(北九州に100万石程度)
竜造寺氏(北九州西部に100万石程度)
島津氏(最大時は九州大半200万石程度)



●豊臣政権下

豊臣直轄領(200万石程度、ただし鉱山など経済利権は除く)
豊臣秀長(大和郡山100万石、跡継ぎがなく死後改易)
徳川家康(関東250万石)
毛利輝元(中国西部120万石、ただし一族あわせて200万石)
上杉景勝(米沢・会津120万石、ただし佐渡・会津の金山支配を許され実質200万石)
蒲生氏郷(会津92万石を与えられ100万石級になるが、息子の代に宇都宮12万石に減封)

丹羽長秀(信長の重臣。清洲会議で秀吉に味方し越前・加賀120万石に。息子の代に10万石台まで減らされる。)
織田信雄(信長の次男(三男?)小牧・長久手の戦役で降伏し領地を減らされる前は、伊勢・伊賀・尾張・美濃にまたがり
100万石程度を持っていたらしい。)
571人間七七四年:2010/01/27(水) 21:48:55 ID:sWhYbGoQ
大内や尼子って国数多い割には石高少ないですね
572人間七七四年:2010/01/27(水) 22:16:30 ID:7shRcYSD
そういうのってここじゃあんまり意味ないんだぜ。別のスレでやったほうがいいと思うよ
573人間七七四年:2010/01/27(水) 22:23:06 ID:slIeeVFk
>>572
というか、これ嘘八百のコピペじゃないか?
574人間七七四年:2010/01/28(木) 21:36:16 ID:UJXcAyTY
徳川家康が、関ヶ原の戦いで費やした軍事費って、
どのくらい掛かったんだろうか?

関ヶ原程の大規模な合戦ならば、
とても、自国の国力だけでは追い付かない程の費用を費やしたと思うが…。

徳川家を支持する豪商達からも、
相当、援助?して貰っていたのかな?
575人間七七四年:2010/01/29(金) 11:33:50 ID:1e9sKHc0
ヒント:東軍は豊臣家の正規軍
576人間七七四年:2010/01/29(金) 11:51:24 ID:fIrKEFnt
そう言えば西軍は、東軍の内正規軍である部隊が帰ってくると、手も無く粉砕されたな。
577人間七七四年:2010/01/29(金) 23:16:31 ID:yvS0uT3U
ヒント2:大名達の戦争費用は全て手弁当。
578人間七七四年:2010/01/29(金) 23:26:16 ID:fIrKEFnt
福島正則は関ヶ原の後大加増されたが、戦場での働き以上に、
東海道における兵糧の提供が非常に評価されたらしい。
579人間七七四年:2010/01/30(土) 09:50:13 ID:fzzQDVSN
そりゃ東国からの兵乱(あえて対象は書かないけどw)に備えて備蓄していた
豊臣家の兵糧金殻を物資だけではなく城ごとご提供したわけで
仮に関ヶ原で宇喜多相手に速効で大崩れに崩れて伊勢街道を壊走していようが
全く問題にならないくらいの価値がある
580人間七七四年:2010/01/30(土) 11:58:30 ID:OhIcHEdj
>>574 そういえば、家康が会津征伐に出陣した時に、
豊臣家から餞別?として、米二万石と金二万両を贈られていたな。
581人間七七四年:2010/01/30(土) 14:38:15 ID:U3g5c2T+
>>579
その頃、秀忠は兵糧の苦労していた。
鍋島の功績って・・・。

>>580
ただし、兵貸し出しには失敗した。
綸旨貰うのは色々ドタバタしているし。

家康自身が豊臣の政治機構の停止をしちゃったわけ
なのでそれはしょうがないわけだが。
582人間七七四年:2010/02/10(水) 16:20:11 ID:WjaN1cMQ
>>557
西国(北部九州、中国の海沿い)と畿内(山城、摂津、河内、和泉)
などの西日本に比べて
当時の東国は遅れた後進地域ちゃうの?
583人間七七四年:2010/02/10(水) 17:15:05 ID:id5Pu3LV
>遅れた後進地域
危険が危ない
一番最強
頭痛が痛い
584人間七七四年:2010/02/10(水) 17:38:14 ID:IB7FnLqh
>>582
物資の西国、制度の東国
585人間七七四年:2010/02/10(水) 18:04:46 ID:1z+pZgEC
戦国期の生産性で言えば

畿内>>>関東>>中国九州>四国>>>東北

こんな感じ
586人間七七四年:2010/02/10(水) 18:18:06 ID:id5Pu3LV
石高低いだろ>畿内
587人間七七四年:2010/02/10(水) 18:25:52 ID:PyrATsDx
生産力と生産性は違う
588人間七七四年:2010/02/10(水) 19:29:57 ID:Vi/+1AFA
>>582
各種制度に関しては東国が大きく進んでる。
まぁ他より長く戦国時代やってるからねぇ
589人間七七四年:2010/02/10(水) 19:50:38 ID:WjaN1cMQ
>>585
九州の南蛮貿易や大内の日明貿易などで
関東より経済発展してたんちゃうの
生産性って石高(米)のことか?
590人間七七四年:2010/02/10(水) 20:01:41 ID:C4fwat8/
北部九州なんか戦国時代前から大内が近隣に侵攻して戦国時代みたいなものだったような
591人間七七四年:2010/02/10(水) 20:03:25 ID:OM+yhM0N
>>582
必ずしも西国が進んでいるというわけではない、学者間での一般論で例示するが
例えば伝馬制とかは基本的に東国が進んでいる、がこれは西国の方は河川海上交通が発達していてそのため
伝馬制が発達する必要性が少なかったからとされている

貨幣制度貨幣対策は計数貨幣という一点のみでは東国が進んでいるが
それ以外は基本的に西国の方が進んでいるとされている
これは貨幣制度崩壊の原因が明にあるため西国の方が先に影響を受けたためとされている

検地など惣村支配に関しては織豊期までは東国の方が進んでいるが
西国は寺社公家の勢力が強く武士の力が一概に及ばない上農村都市も経済力が強く
ある程度武士と対抗できるだけの力があり
特に畿内及びその近国である近江伊賀紀伊丹波などは寺社公家武家の勢力が入り混じっていて
農村都市の経済力も特に強く、開発が進んで狭い範囲に惣村が複数あるせいか惣村同士で結びついて領主に抵抗
その上応仁の乱をはじめとする戦乱の影響もあり
結果として非常に土地支配を貫徹しにくい地域となっていたとされている
代わりに惣村の制度、村掟や都市制度に関しては発達している

と基本的に経済に関する制度は大名個人の能力というより
地域によって制度が左右されていると考えた方がいい

信長によって各種制度土地支配などは一気に進展するがこれも
信長個人の能力というより織田家が畿内を制圧したことによって、それまでの大名が妥協せざるを得なかった部分を
ある程度無視できるようになった
秀吉がその政策を更に進められたのもそれを行いうるだけの権力を得たからって部分が非常に大きい
と自分は考える
592人間七七四年:2010/02/10(水) 20:14:11 ID:WjaN1cMQ
>>590
早くから戦国時代になり戦争の経験値が多いのは
北九州>畿内>関東>その他ってことか
593人間七七四年:2010/02/10(水) 20:21:08 ID:1z+pZgEC
>>592
北九州>関東>畿内>その他、だろ。
で、足軽を大量に投入する大規模合戦(いわゆる戦国合戦)になると

関東>畿内>その他
594人間七七四年:2010/02/10(水) 20:50:14 ID:IB7FnLqh
東国・西国双方の影響を受けた中部が天下を収めたのはある意味必然ということか
595人間七七四年:2010/02/10(水) 22:02:54 ID:VK1SffbX
>>591
>特に畿内及びその近国である近江伊賀紀伊丹波などは寺社公家武家の勢力が入り混じっていて
>農村都市の経済力も特に強く、開発が進んで狭い範囲に惣村が複数あるせいか惣村同士で結びついて領主に抵抗
そのせいで戦国期畿内からは戦国大名は出なかったとか言われたりもしているな。

北条の検地にしても単に畿内じゃ検地出来なくなったけど後進地域の関東は検地できたってだけかもな、
検注がいつまで行われていたか次第だろうが。
596人間七七四年:2010/02/10(水) 22:11:16 ID:W4BQ1Azi
>>595
後進地域とかそういうことではなく、関東と関西の村落共同体の関係や社会全体
に対する立場、構成員との関係が違ったというのはある。

元々北方的な家父長制で「家」と「氏族」的なピラミッドが強かった関東、それに対
して、南方的で村落共同体の力が強く、個々人の立場が対等に近かった畿内以西。
その差が、東国における早期の集権化に寄与した、ということ。
597人間七七四年:2010/02/10(水) 22:19:20 ID:WjaN1cMQ
>>595
やはり東国は後進地のイメージだな
それに比べて畿内は明るい近代の匂いがする
598人間七七四年:2010/02/10(水) 22:34:51 ID:6TFQFIR/
>>597
中世から近世・近代に至る流れというのは、政治・社会制度的には集権化の
整備と洗練ということだから、実際のところは正反対だけどな。
599人間七七四年:2010/02/10(水) 22:43:43 ID:1z+pZgEC
>>597
多分キミは「近代」と言うものを相当勘違いしている。
畿内は古代、中世の要素をとにかく抱えすぎた。
600人間七七四年:2010/02/10(水) 23:22:01 ID:Vi/+1AFA
>>597
わかってやってるだろw
601人間七七四年:2010/02/11(木) 01:17:58 ID:kikkA7VT
>>595
…畿内は検地しなくても、土地切手という民間生産力評価で取引される市場が……

住民自治というか、徳政令とか畿内だと土一揆で要求されるものだけど、地方だと領主の自己権力強化の手段だし
中央集権という物差しを使わなければ、畿内って世界的にも革新的すぎる気がする
602人間七七四年:2010/02/11(木) 01:23:59 ID:KVnMoVqw
>>595
畿内については三好氏をどう評価するかにもよるんだよね。
三好長慶は都市や農村の共同体を直接把握したり、流通や水運を押さえている豪族を
被官・一門化して掌握を図っており、その方法の一部は信長なんかも踏襲している。だけど
一方で三好氏は畿内では検地をしたり分国法を出したりというような、土地支配については
最後まで出来ていない。
603人間七七四年:2010/02/11(木) 01:39:23 ID:lynrTNLq
東国の方が農村都市の発展が未成熟であり
東国の方が寺社公家の力が及びにくく中世的しがらみも少ない。
そのため東国の方が支配しやすく戦国時代前期中期においては
武士による農村都市への影響力という点では東国の方が上と。
織豊期に入るとその点でも畿内が上となるが。
604人間七七四年:2010/02/11(木) 01:45:48 ID:Kuo/4dRt
近畿勢力はまだまだ幕府権力に乗っかる形だからね
土地支配は幕府権力を完全に否定するものだからできんわな
605人間七七四年:2010/02/11(木) 03:21:45 ID:RtTV3MQU
>>603
畿内が東国並になるのは豊臣期になってようやくだよ。
信長は国人までしか把握出来ていない。ある意味三好政権より後退している。
606人間七七四年:2010/02/11(木) 11:01:49 ID:0+loOthT
>>605
さすがにそれはないw
一体どの学者がそんなことを
2chのアンチ信長が好んで恣意的に引用する一昔前の信長秀吉間での断絶論者であってもそんなこと言ってる学者はみたことねー
607人間七七四年:2010/02/11(木) 12:13:59 ID:02M5dREx
>>606
え・・・
三好が行った寺社勢力や惣に対する直接的影響力の強化を、一時的にせよ
放棄して自らの味方につけ、既存権威であるそれらの地位保全したのが信長
の政策で、結局自らの生存中はそれらの整理には手をつけられなかったって
のが、今の学会の流れじゃないか?

だから、その意味で織田政権は三好期よりも後退しているってのは、間違いじゃ
ないだろう。
豊臣期に入って、安定したおかげでようやく手をつけられた。
608人間七七四年:2010/02/11(木) 12:40:38 ID:B4E3TnlO
なんて学者?
609人間七七四年:2010/02/11(木) 13:08:27 ID:KFftgm88
>>601
関西限定でその先進度合いは世界より上だよな
610人間七七四年:2010/02/11(木) 13:53:02 ID:fsgzKkii
>>606
元亀年間のことだと思う、それなら見た記憶ある。

>>607
>三好が行った寺社勢力や惣に対する直接的影響力の強化を、一時的にせよ
>放棄して自らの味方につけ、既存権威であるそれらの地位保全したのが信長
それは元亀年間、畿内西部では石山戦争頃までの話。

>結局自らの生存中はそれらの整理には手をつけられなかったって
それは>>606の言うように一昔前の一部の学者。
更に昔の信長によって改革が進められ一気に近世へと移行したということはないが、
既存権威と一部妥協しつつもそれらの整理に手をつけていっている、
今現在は信長時代から江戸時代前期にかけて一部は変化し、
一部は同質性を保ちながら徐々に中世から近世へと変化していったが主流のはず。
611人間七七四年:2010/02/12(金) 00:14:23 ID:P93MqWZ5
一昔前は秀吉時代に中世近世断絶があったとかいう学者もいたけど今は徐々に変化していっただよな
まあ普通に考えてゼロか百かで語る方がおかしいわな
612人間七七四年:2010/02/12(金) 03:35:33 ID:atwj6awi
しかし織豊期は制度的には停滞期だな
613人間七七四年:2010/02/12(金) 11:30:39 ID:UwtHbgwK
それはねー
むしろ織豊期は変革期だろ
一部の学者ではなくすべての学者と意見を異にする発言だ
この時期を停滞期と呼ぶならそれこそ明治維新ぐらいまで制度的に停滞期だ
614人間七七四年:2010/02/12(金) 12:53:56 ID:Qnfriz5x
>>613
どこが変革したのか詳しく
615人間七七四年:2010/02/12(金) 14:06:01 ID:GpDwxGkV
金本位と銀本位の並立制って中途半端だとおもうのですがどうでしょ?
616人間七七四年:2010/02/12(金) 14:33:40 ID:ETSZZHsh
>>613
え・・・
江戸初期ってのは、織豊期と比較してかなり急進的な制度改変期だぞ?
617人間七七四年:2010/02/12(金) 16:04:36 ID:EmoM3Vqg
>>615
無理に統一して、市場を大混乱に陥れるよりはマシという考えでしょう
618人間七七四年:2010/02/12(金) 16:05:26 ID:HknyjXnZ
織田は別にして豊臣→徳川の流れは、すべての個人(法人)収入を完全にお上が把握する、って体制への変化
畿内経済にとっては変革期じゃないかなぁ

秀吉ってヒトラーそっくりな統制経済策(ファシズム)だし、
その課程でそれ以前の土地に対する複数の所有権(土地金融商品)の撤廃(つまり検地)とか
個人財産の把握と新たな課税をすすめたり、畿内経済の規模を縮小する結果を招いたようにしか見えないし
徳川になってもその統制経済方式を引き継いだわけで、三好時代の自由?経済政策とは一線を画してると思う……
619人間七七四年:2010/02/12(金) 16:28:38 ID:CcMH/n6G
>>618
ファシズムの定義を勉強し直すことを進める。

それと、西欧も含めて経済史を勉強しろ。
税制の整理とそれに伴う私有財産の把握、管理は近世・近代への序章。
620人間七七四年:2010/02/12(金) 16:51:45 ID:GpDwxGkV
>>617
なるほど
621人間七七四年:2010/02/12(金) 18:33:45 ID:HknyjXnZ
>>619
>税制の整理とそれに伴う私有財産の把握、管理は近世・近代への序章
それは”政治”の発展で、経済自体のソレとは微妙に違うんじゃない?

…つか言いたいことは、それまで成立していた金融市場を崩壊させた、経済の規模(と発展性)は縮小した
ってことなんだけど、ここは間違った認識じゃないよね?
622人間七七四年:2010/02/12(金) 18:54:51 ID:e7C5t1aK
>>621
平たく言うと
豊臣・徳川(初期段階)政権のときに
前の時代より畿内の経済規模が縮小したってこと?
それは何をどう比較した結論?
623人間七七四年:2010/02/12(金) 18:57:17 ID:MU/z4jz/
>>613
同意。つかこのスレ著しくレベルが低いな。びっくりした
624人間七七四年:2010/02/12(金) 18:59:28 ID:GmMkE7GE
>>623
どこが変革されたのかを詳しくお願い
豊臣はともかく、織田を特に
625人間七七四年:2010/02/12(金) 19:04:20 ID:Qnfriz5x
どうせ楽市楽座とか言い出すんだろ
626人間七七四年:2010/02/12(金) 19:05:34 ID:atwj6awi
少なくとも徳川政権になってから、経済は急拡大している。
当時の下京の、店舗の賃貸料の記録が残っているが、関ヶ原直後からその料金が
急上昇しはじめ、大坂の陣のあとは10年で10倍とか、加熱と言っていい経済ブームに湧いている。
627人間七七四年:2010/02/12(金) 19:08:08 ID:MU/z4jz/
よく織田の事を聞く気になるな。史料とかあたった事無いんだろ?
織田を含めるのは刀狩など豊臣の政策に継続性がみられるからだろ。
628人間七七四年:2010/02/12(金) 19:11:07 ID:atwj6awi
>>627
いいからあなたへの質問について具体的に答えてください
織田のやった変革とは?
それはどのような資料にどう言った形で見られるものですか?
629人間七七四年:2010/02/12(金) 19:11:46 ID:GmMkE7GE
>>627
刀狩りとか織田はほとんどやってなかったはず
しかもやったのは越前の柴田が一向一揆相手にやったものじゃ
これで変革とか継続性とかいわれても
630人間七七四年:2010/02/12(金) 19:31:32 ID:HknyjXnZ
>>622
室町後期から土地の生産物に対し複数の権利者(その収穫の4割とか)が認められて取引されてたわけですよね
三好時代にはその土地切手にも土地の広さの記述すら略されるくらい完全に”収入の額”を取引する市場?が存在した
これって今の金融商品とかとかわらないわけで……

でも豊臣の時代以降、検地とか「実が伴わないものはダメ」という政策が行われ
そういう”民間の金融市場”分がつぶされたんじゃないかと

江戸初期の好況は豊臣の大規模公共事業(外征含む)による重税が無くなったから
っていう面が大きい気がしますが
631人間七七四年:2010/02/12(金) 19:45:48 ID:f+NwiFPO
江戸の開発もかなり大きいような。
ついでに、戦争が絶無になって投資が活発化したのも大きいかと。
632人間七七四年:2010/02/12(金) 20:30:09 ID:e7C5t1aK
>>630
つまり金融商品がどうなったという話なんでしょう?
石高本位制になったとか?
面白そうなので聞きたいんですが
633人間七七四年:2010/02/12(金) 21:20:19 ID:Oobd1C5c
江戸時代では米相場を早く手に入れて相場で儲けていた商人もいたらしいね
634人間七七四年:2010/02/12(金) 22:47:10 ID:f+NwiFPO
話聞いていると、民間経済と戦時経済の違いな気がしてきた。
織豊期の戦争経済から江戸時代の民間経済のソフトランディングとか。
アイゼンハウアーの名言思い出すわ。
635人間七七四年:2010/02/12(金) 23:13:20 ID:e7C5t1aK
>>630
自分でも調べてみました
どうやら明王朝が動揺して通貨不足から石高経済への変遷を余儀なくされたという説があるようです
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-kaheitoshihon-02.htm
636人間七七四年:2010/02/12(金) 23:44:35 ID:7zzB4kG/
>>629
つーか
刀狩しないと兵農分離とかありえないのにね
この辺、信長は突っ込みどころ満載
637人間七七四年:2010/02/13(土) 02:15:40 ID:H9g4Kupn
織豊期に、一応荘園制ってのが息の根を止められるわけで、これが一番でかいんじゃないか?
所謂「職の体系」がここで終わるわけだし
638人間七七四年:2010/02/13(土) 02:57:51 ID:bAA2y0dA
>>637
荘園の織豊政権期というより、豊臣政権の実績ではなかろうか。
もっと言えば、戦国大名による領国支配によって実体的には解体されていった
のではなかろうかと。
639人間七七四年:2010/02/13(土) 03:01:13 ID:Ngoz0i5i
どうも寺社が独占していた資本が世俗化する端境期でもあるみたいですね
中世が解体され近世が始まる時期ってことなんでしょう
640人間七七四年:2010/02/13(土) 03:09:50 ID:qANzSnZs
>>635
…まぁ話半分で……

明では政府の権威が信頼されないで銀(秤量貨幣)に移行したのに、日本ではそのまま”銭”つまり計数貨幣経済が続いたわけで、
そのものの質以上の価値を持つ貨幣が流通するてのは、使う側にその計数貨幣に対する経済的信頼が存在してた証でもある
とすれば、その貨幣(経済的信用)てのが何だったか? つー話になります
それが、畿内の有力金融団体による土地切手や米為替などによってできた金融市場の金余りが背景にあるんじゃないかと

実際、室町や戦国時代前期には徳政令など経済の信用度が傷つく政策が煩雑に行われたのですが、
明のようにならなかったのは、影響を受けないかより勢力が伸びる経済存在、宗教団体だったり天皇家御用だったり将軍家御用商人だったり
そういう畿内の経済勢力が銭の信用を支えていたとしか思えないわけで

もちろん戦国時代にあったと思われる金融市場というのは記録も規模もわからない(為替や土地切手のような証券はのこってるけど)
わけで、数字でどれくらいの損失なんだよ、といわれても、自分わからないですが……
信長の矢銭、堺にかけた二万貫(現在にして30億円?)石山本願寺の五千貫でも一度期に払えるくらいとしたら、
当時の畿内経済はかなりの余剰資本を内在していたとは思います 

で、織田豊臣期にあわせて計数貨幣である”銭”の信頼性が失われたのは、経済的信頼を支えてきた存在が無くなった事件が起きているはず
とすると叡山焼き討ちとか太閤検地とかが、大規模な金融団体への締め付けや土地生産力総量規制による金融市場の縮小とかの意味合いもとれるわけで
そこに溜まっていたはずの資本は受け皿もなく消えちゃったんじゃないかと
(秀吉時代の茶器の暴騰ぶりなんて、そういう行き場の無くなった資本の流入先かも?)

なので石高経済への変遷というのは、経済統制(に伴う縮小)が進行する過程で起こったことであり、これは経済の面からすると幾分にも後退といえるかも知れない
江戸時代になって通貨も秤量貨幣が主になったのも、国民?が自国の経済を信頼できなくなった結果
…てな見方もできるよね、という……まぁ 思いつきです
641人間七七四年:2010/02/13(土) 03:22:30 ID:Ngoz0i5i
>明では政府の権威が信頼されないで銀(秤量貨幣)に移行したのに、日本ではそのまま”銭”つまり計数貨幣経済が続いたわけで、
網野善彦 「貨幣と資本」によれば
日本でも明朝の動揺と連動して貨幣価値が低下
結果として西日本でのもうひとつの通貨であった米による経済体制に移行した
っつーことみたいですけどね
寺社の社会的な価値が低下する中でニーズを満たせなくなった結果として金融が
世俗化したって読むこともできますね
要するに豊家政権の時にそれ以前に比べて経済活動が縮小したと言うには
ちょっと難しいかなという話なわけですが
642人間七七四年:2010/02/13(土) 03:24:54 ID:H9g4Kupn
>>637
織豊期って書いちゃったけど、豊臣政権といったほうがより適切だよね。
戦国期ころにはほぼ瓦解してたといっていいんだろうけど、これについても地域差が
あるから難しい。九条稙通は実際に直務支配を試みて下向しているし、二条晴良も
加賀の荘園へ下向する意向を示すなどしているし、山科言継が駿河へ下向したのも、
駿河に自分の所領があったからだったはず。
直務支配で辛うじて維持を図るという状態とはいえ(違乱なんて頻繁だし)、この段階でも
まだ荘園制ってのは残存はしているんだよね。
643人間七七四年:2010/02/13(土) 03:55:44 ID:etlVRzT2
一応秀吉の商人の記録で最近は取引が無くなって大変だったが今度大遠征するということで
急に注文が増えて嬉しいとかいう記録があったはず
むしろそれまでが戦時経済でバブル状態だったのがある程度平和になったため不況になった可能性もありそう
644人間七七四年:2010/02/13(土) 06:06:23 ID:yqI3GYU+
>>640
貫高制の衰退は明銭の供給不足が原因で
不足した理由は倭寇の制圧により銅銭の密輸ができなくなったことが原因という説があるようです
ttp://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/quiz/n03-3.htm#3
この時期の経済が発展したのか衰退したのかはわかりませんが
16世紀後半までに輸入していた銅銭では通貨不足であったという結果が
石高制が主流化した背景であることを考えると
経済は衰退したのではなく発展した結果としての石高制への変化だったのかもしれません
645人間七七四年:2010/02/13(土) 06:26:54 ID:4XVu3pcZ
銅銭の輸入をほぼ独占的に行っていた大内氏が大寧寺の変以降は「簒奪者」として明から相手にされなくなり
日明貿易ができなくなったことは影響しているのかも?
それまでは日明貿易で大内が貿易黒字を稼いで散財することで国内の経済を潤わせていたのに
これが急に無くなってしまうと外貨が獲得の術がわずかな私貿易に限定されてしまい
経済制裁のような急激な貨幣・物資不足になってしまうのではないでしょうか?
日本国内で鋳造技術はあまり高くなく撰銭が行われていたのはこの時代ですよね?
国内で十分な銅銭を賄うことができないのならその経済ダメージはかなり大きいと思います。
646人間七七四年:2010/02/13(土) 16:12:14 ID:Ngoz0i5i
>>645
そのダメージを吸収するための代替貨幣として石高制への移行が必要となり
そのために統一政権が求められたことも織豊政権成立の一因なのかもしれませんね
いずれにせよ豊家政権によって経済システムが逆行したというのは
影響を過大に見積もり過ぎているってことになりますかね
647人間七七四年:2010/02/14(日) 01:38:23 ID:GsbSlBI+
さすがに大内が内紛になっただけで国内の経済が悪くなるわけはないよ
たとえトヨタが経営難になっても日本が大不況になるわけではないのとおなじ
通貨が不足したのは諸侯が合戦の為に物資を必要とした為だろう
つまり国内が継続的特需で沸いて急激な経済成長をしたので
市場に必要な通貨の量が飛躍的に増した
648人間七七四年:2010/02/14(日) 01:54:40 ID:rnNhg1nl
撰銭などの経緯をみると
銅銭の不足には、明における倭寇の制圧や海禁政策との関連が大きいようですね
その結果日本独自の通貨を発行できる全国政権が希求された可能性はありますね
649人間七七四年:2010/02/14(日) 07:05:46 ID:UTkGK60I
>>641
明が銀に移行しても日本向けに銭を鋳造していた時期がかなりあります
つまり明では無価値な銭が日本では通用していたわけで、明の影響を打ち消す経済的なにか、が日本にあった、としか

>>646
豊臣政権の統制経済では”公共事業による好況”てのが基本になるわけで、
必然江戸初期まで、日本の好況は”公共事業”が主になってます

でも室町時代というのは、公共工事なんて無くても好況(しかも徳政令何回もやって足引っ張られてるのに)
だったわけで、ぼくは豊臣が把握できなかった(しなかった?)部分がかなりありそうな気はしますねぇ……
650人間七七四年:2010/02/14(日) 07:39:54 ID:SXmD7L0g
中国の銭はアジアで広く使用されていたんで
諸外国との取引用に作ってたらしい>明銭

宋銭なんかは中東やアフリカからも出土してるって話しだし
651人間七七四年:2010/02/14(日) 21:09:37 ID:rnNhg1nl
>>649
>つまり明では無価値な銭が日本では通用していたわけで、明の影響を打ち消す経済的なにか、が日本にあった、としか
日本にあったとしか考えられない理由はなんですか?
倭寇の制圧と海禁令の解除という中国側の理由はわかっていますが
豊臣政権によって不況が作られたという根拠はなんでしょう?
銅銭という貨幣の代わりに米が通貨として機能したことは
経済的後退を意味するものではありませんし
ましてや豊臣政権がそれをコントロールできていたという根拠はなんですか?


652人間七七四年:2010/02/14(日) 23:55:48 ID:DYPPJzsP
>>651
米が通貨になったと言うより、例えば金本位制は金が貨幣の価値を裏打ちし、
戦前のドイツのライヒマルクは土地がその貨幣価値の裏打ちをしたように、
戦国末期から米が銭の信用を裏打ちする存在となった、って言う方が正しいかと。
653人間七七四年:2010/02/15(月) 00:25:45 ID:z+j5Ihgr
>>652
どうも戦国末期からというより
西日本は宋銭と米の二重通貨体制だったみたいですね
654人間七七四年:2010/02/15(月) 04:24:23 ID:WBDveEPp
>>653
「銭の流通」自体は別に無くなったわけでも何でも無いですしね。
商品の売買は相変わらず銭でなされていた。
655人間七七四年:2010/02/15(月) 08:24:15 ID:/d6v3TLq
日本銀行金融研究所貨幣博物館というサイトによれば
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_16.htm
>撰銭令では、八木(はちもく、米は当時こう呼ばれた)の利用が禁止されていたが
とあり、大陸からの銅銭が通貨としては供給不足であること
その代替品として米が用いられたとあります
ここに書かれていることを鵜呑みにするのは問題だと思いますが
銅銭の供給不足と米が通貨として用いられたのは
豊臣政権成立以前だということは読み取れます
よって>>618の説を証明するためには1582年の太閤検地以前に
輸入銭の不足がなかったことと
米を通貨とする取引が実際には行われていなかったこと
そして1582年以降寛永通宝が鋳造される1636年までの間日本の経済が
不活発になった証拠を挙げればよいことになります

656人間七七四年:2010/02/15(月) 09:07:34 ID:uONNRbgT
このサイトにもなかなか面白いことが書いてある
http://www5a.biglobe.ne.jp/~otukai/toraisen02.htm

宋銭が多く、明銭が少なかったのは中国では王朝が変わると銭が利用できなくなって
単純な銅としての価値しかなかったんだな。んで明は紙幣を多く用いたから銅銭が少ないわけだな。
室町の鉱山技術革新としては石見大森銀山の灰吹法が有名だが、長登銅山に硫化銀の精製法が
伝来して再開発が起きてそれが銅供給に働いて私鋳銭の横行にも関連したというのも興味深い。
657人間七七四年:2010/02/15(月) 18:52:51 ID:zFPcfrWd
>>655
>輸入銭の不足がなかったことと
それって鎌倉時代以来銭飢渇とか私鋳銭とか戦国時代に限定される条件ではない、かと

>米を通貨とする取引が実際には行われていなかったこと
金銀や米、これそのものには価値があるわけで、基本的に本位制の通貨ですよね?
ですが銭は含有する銅以上の価値で取引されて、「じゃ信用貨幣(銭)が必要な経済状況って??」
って疑問がおこったときに、自分は「経済規模の急激な拡大で”実物”じゃ足りないから」と考え、
そんな銭変動相場制から本位制に移行した豊臣時代に経済規模の縮小があったかも?
…と妄想してるわけで、↑の二つの条件はあんまり関係ないかと思いますよ

近代以前は財産てのは基本農業生産で、収穫物=財産=金、だったわけで、この公式?が通用するなら、米=金、ってのはいつの時代でも言えること
でも、それじゃ”金”が足りない、って時代が室町から戦国なんですよ、じゃ どっから”金”が沸いてきたのか??

その原因の一つが”海外交易”なんじゃないかと考えると、豊臣時代は”私”貿易を禁止する政策を次々に出してます
直轄や石高制の導入などによる貴金属(海外貿易の通貨)の豊臣家集中、九州における人身売買禁止(当時の奴隷は海外貿易の主力商品)、
武家ではない有力”商人”の取りつぶし等々……
倭寇(つまり私貿易の一種)の減少も(武力討伐の結果ではなく)船を出す元(資金)の存在を豊臣政権下でつぶされたため、とも見れないでしょうか?

…まぁ、ちょとぼやけたので、自分の妄想をまとめます
「”銭”が信用貨幣として存在できたのは、海外貿易による利益が蓄積された層が買い支えたため」
「石高制は経済的ではなく政治的理由(銭の信用を支えていた富裕層をつぶすため)で導入された」
「石高制導入後は、日本の経済は国内農業生産量で通貨が十分足りるだけの経済規模(縮小)になった」


…なんとかリポートみたいになった、、、、orz
658人間七七四年:2010/02/15(月) 19:45:15 ID:z+j5Ihgr
>>657
>…と妄想してるわけで、↑の二つの条件はあんまり関係ないかと思いますよ
豊臣政権が経済統制した結果が貫高制から石高制への逆行だ
という主張への反証なわけですから、関係ないどころかそれが証明できない場合は
主張に説得力を持たせられないってことだと思いますよ

>米=金、ってのはいつの時代でも言えること
現代日本でお金で米は買えますし、米を売ってお金に換えることはできます
しかし、通貨代わりに米を利用することはできません
ですからいつの時代でも言えるということはないですね

>でも、それじゃ”金”が足りない、って時代が室町から戦国なんですよ、じゃ どっから”金”が沸いてきたのか??
その場合の「金」というのは通貨のことですか?
通貨不足の原因は主にふたつ考えられます
ひとつは流通が発達して必要な通貨が増える場合
もうひとつは通貨の流入量が減る場合
原因がどちらかというのはさておき、それが豊臣政権以前から始まっているのだとしたら
豊臣政権のせいで貫高制から石高制に移行したという主張には無理があるってことです

>「”銭”が信用貨幣として存在できたのは、海外貿易による利益が蓄積された層が買い支えたため」
一定の品質で一定の価値を持った貨幣を宋代の中国が輸出していたことが
銭を通貨として使用できた根本的な理由です
日本以外だとベトナムでも中国(宋・明)の銅貨を使っていました
16世紀末から17世紀初頭になると、日本から明に輸出された銅が加工されて
通貨として利用されていたそうですが

>「石高制は経済的ではなく政治的理由(銭の信用を支えていた富裕層をつぶすため)で導入された」
少なくとも豊臣政権成立以前から米は通貨として利用されていたのであり
豊臣政権はその現状を追認しただけの可能性は残ります
もし特定の社会階層を潰すために無理矢理石高制に移行したのであれば
それに反対する何かの証拠が残っているはずなので、それを明らかにすると良いのではないでしょうか

>「石高制導入後は、日本の経済は国内農業生産量で通貨が十分足りるだけの経済規模(縮小)になった」
これも経済規模が縮小したというなにがしかのデータを明らかにすることをお勧めします

なお、決済通貨として豊臣政権は金貨の鋳造を行っており、それだけをもっても
農業生産だけで足りる規模の経済に縮小したことへの反証になるかと思います
659人間七七四年:2010/02/15(月) 19:49:53 ID:WBDveEPp
秀吉はむしろ富裕層を保護してるよなあ。

つーか秀吉に限らず、金の卵を産んでくれる富裕層を潰そうなんて政権は存在しない。
そんなアホな事をやったのは近代以降の共産主義者達くらいだ。
660人間七七四年:2010/02/15(月) 20:00:50 ID:z+j5Ihgr
>>659
富裕層への弾圧自体は必ずしも珍しくはないかと思います
洪武帝なんかもやっています
逆に言えばやれば記録に残るわけです
それと当時の貿易は日民貿易にしても、朱印船貿易にしても
基本は統制貿易なので、私貿易を禁止する政策を次々と打ち出したのは
当時の感覚としてはあまり特殊なことではないのではないかと思ったりします
661人間七七四年:2010/02/15(月) 22:38:37 ID:LHLMcXOW
>>643
バブル経済対策としての朝鮮出兵ってのは昔からけっこう言われ続けている説だしな
662人間七七四年:2010/02/16(火) 01:03:31 ID:Y+94BjQI
>>643
> むしろそれまでが戦時経済でバブル状態だったのがある程度平和になったため不況になった可能性

意味不明だわな。戦国が終わって各大名の抱えていた兵卒が余剰になったのは間違いないが、
一般の経済の問題としてバブルになったとかはじけたとか、そういう事は起こっていない。

だいたい秀吉に、少しでも経済を気にかけたりするセンスがあれば、極端な重税や
度重なる太閤検地による実質的な増税なんて政策をやるものか。
弾圧と言う意味では豊臣政権下では、庶民こそ弾圧されておる。

それに秀吉は天下統一したからと言って国内の民生インフラの整備を殆どしていない。
秀吉には軍政意外のことはよく解っていなかったし、興味も無かったんだと思う。
663人間七七四年:2010/02/16(火) 01:37:27 ID:7XBM1nrl
太閤検地がセンス無しとか近世を否定する斬新な意見だ。
駄文過ぎて良く理解できないが
664人間七七四年:2010/02/16(火) 02:09:11 ID:Da7hm/5i
大坂や伏見の町を整備してるじゃん>秀吉
665人間七七四年:2010/02/16(火) 02:19:22 ID:JupJtSMK
撰銭の項目に戦国大名の動向が少しふれてあるね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%B0%E9%8A%AD

16世紀になると幕府や守護大名、戦国大名たちは撰銭を制限し、あるいは禁ずる撰銭令を発令して、
円滑な貨幣流通を実現しようとした。貿易を掌握し、みずからが多くの渡来銭を抱える有力者は、
その価値の低下を恐れたのである。しかし、民衆の間では鐚銭を忌避して撰銭をしようとする意識が
根強く残存した。更に明の海禁政策や銀と貨幣による通貨体系の確立は銅銭鋳造の必要性を減らし、
当然日本への流入も減少した。

撰銭を巡る問題は、16世紀の日本に強力な中央政権が存在しなかったことにも起因しており、
織田政権・豊臣政権・江戸幕府などの統一政権の誕生とともに解消に向かった。しかしながら、
長い間蔓延した習慣であったこともあり、撰銭の完全なる解決は、江戸時代に江戸幕府が安定した
品質の寛永通宝を発行し、私鋳銭を厳しく禁ずるようになるまでの長い時間を要した。織田信長は、
まず厳罰を課して撰銭の阻止を目論んだ。しかし、領地内に大きな鉱山をもたなかったことから、
根本的な解決方法である良質の銅銭発行が行われず、その結果、銅銭使用を忌避させることとなり、
一時的ながら畿内での貨幣流通そのものを衰退させた。その後、信長は悪銭と良銭の交換レートを設定し、
流通を滞らせないように改めた。また、生野銀山が領地に組み込まれてからは、貨幣流通量を増加させる
政策を採った。[要出典]なお、その後の政権である豊臣政権や江戸幕府が石高制を導入した背景には
こうした経済情勢を背景にしたとも言われている。
666人間七七四年:2010/02/16(火) 02:34:34 ID:FObHwrAt
>それに秀吉は天下統一したからと言って国内の民生インフラの整備を殆どしていない。
>秀吉には軍政意外のことはよく解っていなかったし、興味も無かったんだと思う。
個人的にその結論には賛成です
秀吉を弁護するなら近代的な経済学が当時あったわけでなく
朱子学的な農本制的常識の範囲で振る舞えなかったのだと思います

しかし、だからこそ秀吉があるいは豊臣政権が特定の社会階層を狙い撃ちにして
没落させるために統制経済を採ったという論には賛成できないのですね
一周して過大評価になっていると思います
667人間七七四年:2010/02/16(火) 13:25:10 ID:9Bj/S1Yv
撰銭令も昔は私鋳銭対策なのかと思っていたけど、商人や大名が自分たちが大量に
持っている粗悪な輸入銭を市場に出してしまいたいから交換レート決めましょうぜって
実態があったのね。
668人間七七四年:2010/02/16(火) 15:05:52 ID:cmgCOngH
>>667
少なくとも信長の撰銭令は通貨供給量の拡大が目的ですね
デフレ対策の一環です
669人間七七四年:2010/02/16(火) 15:14:22 ID:cmgCOngH
少なくともデフレ下で量的緩和をしないどころか
通貨供給量を増やすのが悪いことのように考えている
今の日銀の連中よりは経済をわかっているともいえますかね

連投申し訳ない
670人間七七四年:2010/02/16(火) 15:34:08 ID:1RgcuTpl
>>669
財政的な裏打ちなく、マネーサプライを増やしたところで意図した効果が出るとは
正直思えないけどね。
671人間七七四年:2010/02/16(火) 16:32:03 ID:6+Ehgw+j
めんどくさいな

>>670
だが乙
672人間七七四年:2010/02/16(火) 16:43:07 ID:S2zMFCXP
室町中期からの全般的な生産力向上と
それに伴う手工業や商品作物増加による商業の拡大に
明の銅銭流出防止策強化と日本の通貨供給力の無さが重なって
貨幣が全然足りなくなり、仕方ないから米を通貨代わりに用いただけ
デフレではないよ
673人間七七四年:2010/02/16(火) 17:13:18 ID:JupJtSMK
当時は日銀のような銭の価値を保証してくれる機関がないので
自分の持っているビタ銭の価値が0になるとその銭は銅としての価値しかなくなる。
ビタ銭は状態が悪く経年劣化で価値が下がるので下がる前になんとか他人に押し付けようとするババ抜きをしていた。
んで良貨はいつでも使えるんで自分で貯め込んでいた。だから益々ビタ銭ばかりが出回ってしまった。

今だったら偽金つくっても、使っても没収された上に逮捕されてしまうけど
当時はみんなビタ銭をもっていたので禁止する側もダメージが大きく禁止できなかったんだな。
あとビタ銭は偽金(私鋳銭)だけでなく、正式な宋や明が発行したものでも
品質が悪いものがあったからビタ銭=偽金とは一概に言えないんだな。

高校生には難しい内容ですが政治経済の授業より遥かに面白いです
674人間七七四年:2010/02/16(火) 17:26:06 ID:S2zMFCXP
鐚銭は単に質の悪い銭って意味で、別に偽造云々は関係無いよ
むしろ質のいい私鋳銭なら歓迎だろうし
というか鎌倉、室町幕府って、通貨の発行してたっけ?
675人間七七四年:2010/02/17(水) 02:56:39 ID:O1csXbC6
>>658
>豊臣政権が経済統制した結果が貫高制から石高制への逆行だ
「石高制は経済的ではなく政治的理由で導入された」という主張なので結果じゃないですね
経済の移行で通貨が変わったとしたら、なぜ当時の世界の主要通貨”銀”にはならず、日本だけは”米”なんでしょうか?

>その場合の「金」というのは通貨のことですか?
収穫物=財産=金、つまり資本のことですね
繰り返しますが、銭不足は経済規模が大きくなり必要な通貨が増えたため、と考えています
(流通が発達して…はちょっとよくわからないのですが、経済規模の拡大と認識して良いのでしょうか?)

>一定の品質で一定の価値を持った貨幣を宋代の中国が輸出していたことが銭を通貨として使用できた根本的な理由です
それって、自国で信用されなかった貨幣が他所の国で通用する理由、にはならないのでは?

とりあえず「”銭”は信用通貨の一面がある」という話には同意していただいているのでしょうか??
「その信用の経済的裏付けは?」がキモな話なので、経済全体ではなく通貨に限定されてしまうと返答に困ります……

自分の妄想のポイントは「室町戦国時代に闇経済があって、それが信用貨幣”銭”の経済的裏付けの一部」という仮説があって、
つぎの「豊臣政権は闇経済をつぶした(その政策の一つが石高制)」があるわけで、一緒にしないで分けていただいた方がなにかと……
 
>それに反対する何かの証拠が残っているはず(略)経済規模が縮小した(略)
最近だと北朝鮮がデフレ政策で自国の闇経済層をつぶしましたよね? あんなことを豊臣政権がやった、てな話で
現在ですら、その闇経済の規模がわからないのに、当時なんて座の取引記録すらほとんど残ってないんで、さっぱり……

まぁ少なくとも豊臣以前にはあった土地切手取引や倭寇(私貿易)は無くなりましたね、
豊臣以後この分がどこに移ったのか、そっちを指摘していただいた方が、自分早く目が覚めるかと、たぶん……
676人間七七四年:2010/02/17(水) 03:06:02 ID:O1csXbC6
おまけ
>なお、決済通貨として豊臣政権は金貨の鋳造を行っており、それだけをもっても
>農業生産だけで足りる規模の経済に縮小したことへの反証になるかと思います

なんというか、「銭は信用貨幣」を否定されちゃってる気がするんですが……

「なぜ室町戦国時代は信用貨幣が通用したのか? 豊臣以後は本位制なったのか?」
の説明の一つとしての仮説なので、そこらが違ってると、たぶん自分の話、わけわからないかと……
677人間七七四年:2010/02/17(水) 03:17:05 ID:uwTFsonw
>>675
確かになぜ銀や紙幣にならなかったのかはわかりませんね
紙幣は価値を補償する政権がないから無理だとして
ただ米を通貨として用いるのは豊臣政権以前から行われていた以上
豊臣政権が現状を追認したのではなないでしょうかね

闇経済というか寺社を中心に行っていた銭を用いた金融が崩壊したのは
大陸からの銅銭が供給されなくなったからじゃないんですかね?
その辺何か資料が残っていたりしないんでしょうか?
678人間七七四年:2010/02/17(水) 03:20:47 ID:uwTFsonw
この場合の資料は豊臣政権が闇経済を潰すために貨幣として米を選択した
という資料です
679人間七七四年:2010/02/17(水) 05:00:28 ID:XSwuTaQT
>>677
銀本位制にならなかったのは明からハブられたから。
紙幣や独自通貨にできなかったのは政権の実力が足りなかったから。
逆に言えば秀吉が米を通貨にしたわけじゃなく当時の現状を追認しただけという傍証だな。
何で米かといえば元々米も通貨として使われていて、
銅貨が不足した当時の状態で一番信用があったから。
680人間七七四年:2010/02/17(水) 05:12:53 ID:TNswmUn2
>>671
どう見ても別人でしょ
勝手に認定するのはおかしい
681人間七七四年:2010/02/17(水) 09:22:32 ID:NymvKmF1
質問。戦国時代からやや外れるけど
小判に含まれる金の含有量は徳川政権の財政悪化に伴い徐々に減少しています。
しかしそれに連動して米などの物価の値段が高騰しています。
つまりこれは相対的に新しい小判の価値が以前と比較して低下したってことになります。
政権の財政悪化のせいで信用低下したのか
それとも元々政権が信用されていないので地金の金としての価値で流通していたので
金含有量が減った分、地金としての価値が低下した
どちらが原因なのでしょうか?
682人間七七四年:2010/02/17(水) 09:43:43 ID:dScIIhZT
>>681
必ずしも一方的に減少しているわけではありません
新井白石は金の含有量を増やしてデフレを起こしています
683人間七七四年:2010/02/17(水) 11:50:02 ID:sItnJRCp
明銭は金属としての価値以上の信用通貨なわけで、日本国内で鋳造されないからこそ
偽造性がないから信用性が出てくるわけで。
私鋳銭が氾濫した時点で、鐚銭が溢れて通貨流通が混乱する。

信用の欠片も無い室町幕府や中央に覇を唱えたばかりのにわか天下人などが
信用通貨を発行したって混乱するだけで。

私鋳銭が歓迎されるなんてことはまず無いと思うんだが。
684人間七七四年:2010/02/17(水) 12:16:53 ID:SoHml/Na
銭の良し悪しで各自勝手に価値決めてたからな
ぶっちゃけ銭も変動相場だったからね
685人間七七四年:2010/02/17(水) 15:14:03 ID:zcRoxLKJ
むしろ米の方が価値が安定して通貨として機能するってことか
他の国でも同じような例はあるのかね?
686人間七七四年:2010/02/17(水) 16:40:03 ID:NymvKmF1
お米だと豊作で価値がさがり、凶作で価値が上がるから博打要素もあるよね
あと虫が食ったり米が腐ったりして商品価値がなくなったり
687人間七七四年:2010/02/17(水) 16:43:23 ID:NymvKmF1
>>682
常に財政悪化していた財政に連動して下がっていたわけではないということは信用による下落ではなく
含有量が小判の価値に直結していたってことですね
金の含有量が多いほど万一、幕府がつぶれても金としての価値があるので安心できますし
688人間七七四年:2010/02/17(水) 18:14:38 ID:uwTFsonw
>>686
それでも量が不足していた中国銭よりは安定してたってことなんでしょうかね
689人間七七四年:2010/02/18(木) 01:50:22 ID:Cm4fuTBO
>>686
多くの戦国大名たちは年貢米の管理を商人たちに任せていた

村で集めた年貢米は商人たちが回収、蔵に保存して
大名には年貢の回収輸送費用、預かり代を差し引いた分を手形として渡した
手形には「預かり石高、水害や火災によって消失しても保障はしないこと」の但し書きがある
大名は必要になると手形を出して米を引き出すなり、現金化するなりしていた

戦国期に米で決済って言うのはこの手形のやり取りになる。
米をあちこちに動かすと海路でないと費用で凄まじい目減りの仕方をするので
普通のお金のようなやり取りはしなかった
鎌倉期にも東国から京や鎌倉に年貢を運ぶのも手形を運んだ。実際には運ばなかったんだな。
690月孔雀:2010/02/18(木) 01:59:54 ID:FS6rgjQd
鎌倉時代は、やばい時代だよ。義経追放するから、おかしくなる。
しょうがないので、親鸞やってましたけど。。。俺。
691人間七七四年:2010/02/18(木) 05:07:08 ID:OKpC1z0g
>>678
それはたぶん”見方”の違いなので、証拠と言われても……

なんというか、自分のイメージに「室町(戦国)時代の経済はバブルな感じ」ってのがありまして……
当時の経済がかなりの金余りだったんじゃないか、と思うのは、芸術市場の規模が大きくなったり、詩画軸とか闘茶のような趣味の良さを競う賭け事も一般化したり、
お遍路のように庶民も趣味?で旅行するようになり、小京都が各地に乱立するし、灯火用の油の生産も急増し日本人が一日二食から三食にかわったのも、この頃

この源が世界生産量の1/3を占めるに至った国内銀の生産量増加による海外交易で日本に入ってきた富ならば、
どう見ても日本国内の米生産量だけではカバーしきれない、代わりに国内に豊富にある”銀”が通貨になっても全くおかしくないわけで

それを御用商人制度の排除し経済官僚による管理と石高制に豊臣政権が”改革”したのは「政治的理由」があったのでは?
…てな”見方”をしているわけですね
で、自分は、豊臣が海外交易の独占を狙って「米は海外交易に使えないから基本にした」と邪推してます
他に、九州征伐後の人身売買禁止令(当時は人間も主交易品でした)なんかも、同様の意味があるんじゃないかと
692人間七七四年:2010/02/18(木) 05:33:05 ID:VPsUPCcK
>>691
>どう見ても日本国内の米生産量だけではカバーしきれない、代わりに国内に豊富にある”銀”が通貨になっても全くおかしくないわけで
そこで銀本位制にできるだけの政権の安定性が豊臣政権になかったってことでしょ
それこそ米経済に強制できるくらいなら自前の通貨を発行していると思う
693人間七七四年:2010/02/18(木) 07:46:19 ID:5r5x8TRJ
>>688
明の銅銭持ち出し禁止令が強化されて流入が大きく減少したのと
室町時代中後期の商業規模拡大によって、銅銭が決定的に足りなくなった為の善後策って事でしょう
通貨発行出来ればよかったが、そこまで完成された統治組織が無かった。
694人間七七四年:2010/02/18(木) 11:51:22 ID:VTzAUr8f
後醍醐天皇は建武の新政で独自の銅銭と紙幣の発行を目指していたが、建武政権の崩壊で
それは実行されることは無かった。

この後独自通貨の発行が出来るだけの政権が日本に成立するのは、300年待たねばならなかった。
695人間七七四年:2010/02/19(金) 00:59:35 ID:w/JbKJmP
「明世宗実録」嘉靖三十六年の項目に「山口都督源義長、且咨送回被虜人口、咨乃用国王印、豊後太守源義鎮、
遣僧徳陽等、具方物、奉表謝罪、請頒勘合修貢」とある。大内義長は倭寇に囚われた明人を明に送り届け、
その際に朝貢したため日本国王に封じられた。皇帝から「日本国王之印」を贈られ、勘合貿易の許可を得た。
大友宗麟も僧侶徳陽らを明に派遣し、倭寇が行った非礼を詫び、朝貢して勘合貿易に参加した。

http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/oouti.html

あれ?大寧寺の後で貿易再開を申し出た際に
簒奪者と看破されて再開できなかったと聞いたことがあるがこれはいったい?
696人間七七四年:2010/02/19(金) 02:17:50 ID:2b3oc0W7
>>692
>そこで銀本位制にできるだけの政権の安定性が豊臣政権になかった
本位制(つまり銀)とるなら、政権の安定どころか有無すら関係ないですよ
(アウレウス金貨なんてローマ滅んでも一千年以上も使われた)
豊臣政権自身、貨幣は鋳造してるわけですし

>>694
>独自通貨の発行が出来るだけの政権
そうじゃなくて「独自通貨の必要性を政権が認めなかっただけ」じゃないですかね?

つか”銭”だって他所の国では付加価値がない通貨だったわけで
ある意味”日本独自の国内通貨”なわけで……
697人間七七四年:2010/02/19(金) 02:27:05 ID:95BydWD5
>>696
>つか”銭”だって他所の国では付加価値がない通貨だったわけで
>ある意味”日本独自の国内通貨”なわけで……
これは中国の銅銭が他の国では通貨として使われなかったという意味?
同じ時期のヴェトナムでも中国の銅貨が通貨として使われていたよ
しかも、日本が石高制に移行した後も日本産の銅を輸入する形で
銅貨が使われていた
698人間七七四年:2010/02/19(金) 02:28:50 ID:z+nnVFol
>>696
だがに説明しても無意味だよ
699人間七七四年:2010/02/19(金) 02:39:24 ID:9ooX34cN
>695
単なる誤訳だろ。
引用部分は両者が使者を送って勘合貿易を求めたと書いてあるだけ。
実録には続きがあって
「豊後雖有進貢使物、而実無印信勘合、山口雖有金印回文、而又非国王名称」
豊後は勘合がない、山口は国王の名称がない、と理由を述べ
よって貿易は認めない、でおしまい。

そもそも嘉靖三十六年(1557)って大内義長が死んで大内氏が滅びる年なので、
たとえ勘合貿易が認められたところでなにもできないというか。
700人間七七四年:2010/02/19(金) 08:16:15 ID:GKTS2iqy
>>696
本位制にしても流れに沿っていない政策は無理だよ
だからこそ、金、銀、銅、絹、本位制にも色々あったわけだし

銭も本位制的、価値は銅と等価だったし、それ故に中国の影響が及ぶ国で中国銭が使われた
701人間七七四年:2010/02/19(金) 11:02:42 ID:w/JbKJmP
>>699
ありがとうございます。
やっぱり勘合貿易は途絶えたのであってたようですね。
702人間七七四年:2010/02/19(金) 11:04:04 ID:w/JbKJmP
>>700
絹ってあのシルクの絹ですか?絹にもそれほどの価値があったとは!
703人間七七四年:2010/02/19(金) 13:26:53 ID:OjtOrZ+A
>>694
発行したとこで早晩紙屑、銅屑になってただろうけどな>建武貨幣
704人間七七四年:2010/02/19(金) 16:43:48 ID:wPyXqMg3
>>702
シルクロード(絹の道)とか知らないの?
705人間七七四年:2010/02/19(金) 16:48:25 ID:2b3oc0W7
>>700
>>676

…ここの解釈が合わなければ、まぁ見方も変わりますね……
706人間七七四年:2010/02/19(金) 16:55:51 ID:w/JbKJmP
>>704
なるほど。言われてみれば
707人間七七四年:2010/02/19(金) 23:51:19 ID:w/JbKJmP
ナイロンがでてくるほんの80年ちょっと前までは絹はすごく貴重で儲かっていたっぽいな。
生糸や絹織物は明治以降の日本の主力輸出品にもなっている。
明治以降に欧米から技術を吸収して殖産興業を行っているけど
大内があのタイミングで大陸から高品質な絹の製法を教えてもらわなかったら
下地がないので少なからず出遅れていただろうし歴史が変わっていたかもしれないね。
708人間七七四年:2010/02/20(土) 04:51:22 ID:OetGwTzK
絹の製法伝来ってそんなに遅いの?
てっきり大和朝廷の時代から生産してると思ってたわ
709人間七七四年:2010/02/20(土) 06:01:29 ID:ZNu5D/IR
>>708
大和朝廷どころか弥生時代には絹の製法は伝わっている
飛鳥時代には税として絹織物が納められている
ただし、品質は中国絹には適わなかった
戦乱によって生産力が低下したりして室町前期には21カ国でしか生産されていなかったという記録がある
よって貴族階級は日中貿易で中国絹を手に入れていた

江戸前期においても長年の衰退で品質が劣悪な繭しか作れず、綿以外に使えなかったので
西陣織や博多織の原料となる生糸は中国絹を使っていた
絹の改良は実は江戸期からで、江戸中期にようやく中国絹と遜色ないものが生産できるようになった

大内氏の勘合貿易の輸入品には銭以外にも生糸、絹織物が多かった
上流階級者の衣服には中国絹が使われていた
で、絹製品の国産化に力を入れてたんだな
西陣織や博多織に大きな影響を与えている

710人間七七四年:2010/02/20(土) 08:38:40 ID:YLM7jZvg
大内錦なるものがあるようだね。その頃の名残りかな?
711人間七七四年:2010/02/20(土) 08:54:21 ID:kzP9w4iS
蝦夷錦なんてのもあったそうですね
712人間七七四年:2010/02/20(土) 09:28:07 ID:5I1L1ugI
源姓足利氏の財源は絹だったようですね
713人間七七四年:2010/02/20(土) 09:32:21 ID:YLM7jZvg
しかし中国は長年絹の製法を外に漏らさず絹で大儲けしていたというのに
日本の一地方領主にすぎない大内なんぞに大切な製法を流出させたのだろう?
前の方には銅の技術関係も大内にあげているみたいだし。
しかも大内が日明貿易を行っているのはわずか3回、しかも寧波で迷惑かけているのに
なぜここまで贔屓されていたんだ?
714人間七七四年:2010/02/20(土) 10:11:13 ID:bbKuigbE
中国の帰化民が入ってきていて、彼らは絹織物の技術を持ってたんだ
繭から良質の生糸を生産するのは江戸中期まで待たなきゃならん
それまで、生糸や絹織物は輸入が主力。
まぁ、生糸改良は鎖国が遠因だったりするんだが

日本に中国の技術が流入するのは帰化民経由が多いね
715人間七七四年:2010/02/20(土) 10:52:53 ID:ivN6YRov
日本に限らず技術者連れてくるのが一番手っ取り早いからな
現代じゃ日本の技術者を中韓が金で釣ってるよ
716人間七七四年:2010/02/20(土) 13:10:07 ID:YLM7jZvg
渡来人はアホな東芝社員みたいな金だけの売国野郎とは違うと思いたいな
717人間七七四年:2010/02/20(土) 13:24:08 ID:4AAgjWLN
>>713
中国という国家と中国人の行動は別のものってことでしょう
ましてこの頃の明は相当腐っていたんだから、日本に希望を見出すような人がいても不思議じゃないし
718人間七七四年:2010/02/20(土) 13:29:47 ID:YLM7jZvg
たしかに明に直接技術を求めても許されがたいなら
役人や技術者に賄賂を積んで連れてくるのが速いですな
719人間七七四年:2010/02/20(土) 13:36:41 ID:YLM7jZvg
山口の唐本屋事業は当主自身が大陸文化にあこがれていただけかと思っていたけど
渡来人や日本国内の職人や学者を遠い山口まで呼び寄せやすくする効果もあるね。
2000人か2000戸か忘れたけど領内に渡来人が結構いたというし
外人でも住みやすい環境だったんだろうね。
720人間七七四年:2010/02/20(土) 14:01:06 ID:JgfK9EZ7
ID:YLM7jZvgは意図的なのか本気なのか知らんが、当時の国家と民族を
近代以降のものと混合して考えていて非常に気持ち悪い。
歴史をナショナリズムに絡めるなど、ミスリードの典型だ。
721人間七七四年:2010/02/20(土) 16:19:18 ID:OetGwTzK
別に古代、中世からナショナリズムくらいあったしなぁ
ゲルマン蛮族やローマ帝国には無かっただけであって
722人間七七四年:2010/02/20(土) 16:31:08 ID:JgfK9EZ7
>>721
しかしそれは「国家」と結びついた近代的なナショナリズムとは明確に区別されるべきだ。
723人間七七四年:2010/02/20(土) 17:34:14 ID:GtbxxRwF
>>721
近代ナショナリズム前提に見ると、欧州中世の封建制やら、中華帝国における
華夷の峻別とか、その辺が理解できなくなるぞ、と。
724人間七七四年:2010/02/20(土) 18:34:41 ID:OetGwTzK
>>722
だから、国家と結びついたナショナリズムくらい古代、中世にもあったつってんの
例えばシナの戦国時代や中世のタングートには、近代に於いて内向きに軍国化の為に利用された
国民の国家への帰属する意識に基づくナショナリズム=徴兵制は既にあった。
唐代の府兵制も似たような意識、制度だろう

外向きに分離独立工作の為に利用される事も、夷を以て夷を制すの思想はそれに当たるだろうし
唐の対突厥、宋の対女真政策なんかに、傘下の民族や部族を煽る分断工作は屡々見られる。
725人間七七四年:2010/02/20(土) 18:39:19 ID:JgfK9EZ7
>>724
利害を超えた国家への求心力を希求する近代ナショナリズムと、それら中世、古代の、
集団ごとの利益、利害に基づく集団主義を一緒にするな。

あと

> 国民の国家への帰属する意識に基づくナショナリズム=徴兵制

意味が分からん。どこでどんな勉強をしたんだキミは?
726人間七七四年:2010/02/20(土) 19:15:33 ID:OetGwTzK
>>725
>利害を超えた国家への求心力を希求するナショナリズム
戦国期のそれも、タングートのそれも、まさに(自称)近代ナショナリズムそのものだよ
利害に基づく集団主義とは異質なもの。

ナショナリズムとは、徴兵された兵士の質、国内の強固な統合、この2つの要素に於いて
必要とされる意識、後付けの解釈などどうでもいいお飾りに過ぎない。
727人間七七四年:2010/02/20(土) 19:24:52 ID:GtbxxRwF
>>726
徴兵制がナショナリズムの涵養に決定的な役割を果たしたのは事実だが……

> ナショナリズムとは、徴兵された兵士の質、国内の強固な統合、この2つの要素に於いて
> 必要とされる意識、後付けの解釈などどうでもいいお飾りに過ぎない。
これ、誰の説?
728人間七七四年:2010/02/20(土) 19:50:44 ID:OetGwTzK
説も何もムスタファ・ケマルが述べ、実行した事。
729人間七七四年:2010/02/20(土) 20:00:34 ID:JgfK9EZ7
>>728
頼むからトルコの歴史以外、そして近代史以外も勉強してくれ。
特殊例を普遍的にカバー出来るように言われても困る。
730人間七七四年:2010/02/20(土) 20:31:52 ID:OetGwTzK
一切具体例を挙げない無知な馬鹿からその様な教えを蒙るとは心外の極みw
731人間七七四年:2010/02/20(土) 20:34:32 ID:GtbxxRwF
>>728
おいおい
政治家が特定のバイアスを持って発言したものを、無批判にアカデミズムの
土俵に上げないでくれ……

当時のトルコの外的・内的問題と、それらへの処方箋的な意味が入っている
ってことを意識しないとね。

歴史学ってのは、とかく政治に利用されがちなだけに注意しないと。
732人間七七四年:2010/02/20(土) 22:51:04 ID:hC4EGb+W
>>713
最大の理由は絹布の大増産をした北宋が南に追い込まれていって
技術者ごと流出したからではないかと
北宋ではそれまでの銭による納税を止めて直接絹を納めさせたとか
いわば絹高制ですな
733人間七七四年:2010/02/20(土) 23:17:39 ID:OetGwTzK
>>731
アカデミズム(笑)
それこそ滅多にバイアスの掛からない事が無いけどね、この手の話題だと。

そして、むしろ危機的状況への処方箋であるからこそ
ナショナリズムの本質がストレートに現れてるし、本来の用途に利用してる。

西欧の学者が、ストレートに「分離工作の為に利用した」とは解説出来ないしね
734人間七七四年:2010/02/20(土) 23:24:42 ID:KIAJVgoY
パトリオティズム
735人間七七四年:2010/02/20(土) 23:37:29 ID:YLM7jZvg
>>732
中国から流出した技術者を囲った大内もまた大寧寺の変で技術者が流出した
なんとも皮肉な結果だなあ
736人間七七四年:2010/02/20(土) 23:45:05 ID:GtbxxRwF
>>733
そうでなくて……
誰しも何らかのバイアスがかかっているわけだが、政治家の発言・演説等ってのは
なんらかの政策実現のためのバイアスをわざとかけているので、そこを分析するべ
きだって話で

> ナショナリズムの本質がストレートに現れてるし、本来の用途に利用してる。

これこそ、まさに為政者が目指す認識な訳だよ。「危機的状況だからこそ本質」とか
盲目以外の何者でもない。

たとえば、欧州のナショナリズムが今日的な意味で明確化されてきたのは、英仏で
は100年戦争の泥沼にきっかけがあり、また、三十年戦争という欧州全土を何らかの
形で巻き込む戦争が、ナショナリズムを形成した訳で、むしろ人工的に作られた物
と言っても良い。

それらを経て形成された「国民国家」に対抗すべく、トルコが「イスラム普遍主義」を
棄て、国民国家として西欧諸国に対抗しなればならない、という危機意識から、ケマ
ルが意図的に誘導したのが、君の言う「(トルコ・)ナショナリズム」なんだよ。
だから、ムスタファ・ケマルの生きていた時代背景を無視して、彼の発言を「真理」と
するのは危険すぎるし、意味がない。

アカデミズムの論調にも当然バイアスはかかっているし、それはどんな物にでもある。
ただ、ナショナリズムが「普遍的」で「自発的」であると主張する人はそう多くない。
だから「誰の説?」と聞いたわけ。
737人間七七四年:2010/02/21(日) 00:23:40 ID:P62P3aiP
>>733
だが乙
738人間七七四年:2010/02/21(日) 00:50:04 ID:B3EQGtni
>>736
ナショナリズムが条件の整った上で人工的に創られるものだと認めたなら
もうわざわざ、戦国の秦+六国やタングートのそれを否定する必要は無くなったね
どちらも近隣諸国と総力戦を戦い、もしくは強大な大国と対峙
帰属意識が生まれていたし、政治技術は欧州より遙かに進んでいて、条件や環境も揃っていた。

ムスタファ・ケマルの後の回想も、同じく状況に応じてナショナリズムを利用しただけの事
その洞察が真理でないなら結果は出なかっただろうよ。お解り?
739人間七七四年:2010/02/21(日) 00:54:34 ID:QW+xIW9h
>>738
キミのその近代と古代、中世の状況や条件の差をまるで気にしない、
キーワードですべてを説明した気になっている短絡的な思考がどこから来るのか興味がある。
740人間七七四年:2010/02/21(日) 01:59:38 ID:lOXsxtDg
>>735
文化の伝播の有力な一パターンだからね
中華料理が世界に広まったのも同じような時期だし
741人間七七四年:2010/02/21(日) 02:00:18 ID:LxYqNDyk
>>739
その手は思考の結果といよりフィーリングだと思うよ
742人間七七四年:2010/02/21(日) 03:01:31 ID:mJAwteyC
>>741
自分が信じているものは、一般的に誰でも(時代や地域に関わらず)信じている、
って手合いだな。
743人間七七四年:2010/02/21(日) 04:02:09 ID:AAwIPPQb
…とりあえずB3EQGtniは「ネイションとエスニシティ―歴史社会学的考察」を読んでみるんだ……

744人間七七四年:2010/02/21(日) 04:10:46 ID:P62P3aiP
>>739
だがの相手をするだけ無駄だよ^^
745人間七七四年:2010/02/21(日) 05:02:43 ID:pAVzGNYU
話を経済に戻す。
上国一国持ちを20万石の領地と仮定して、実際の租税は四公六民だと8万石まで下がる。
これから家臣の俸禄を払わなければならないので
実際に戦費や領内整備のために使える予算は半分の4万石程度か?
もしも領内に港も鉱山も無く収穫以外の収入源に乏しい内陸国なら上国の国持ち大名でも
一年に何度も他国に侵攻をできるほど財政に余裕はなさそうだな。
746人間七七四年:2010/02/21(日) 05:56:18 ID:jR2ElelR
たしか熊本城の築城費用は、
現代の価格で2億程度らしい
当時としても人件費が激安
747人間七七四年:2010/02/21(日) 05:58:25 ID:QW+xIW9h
つまり人夫のほとんどは惣村から軍役、使役で提供させた連中だったってことか。
748人間七七四年:2010/02/21(日) 14:50:41 ID:B3EQGtni
>>745
それ完全に江戸時代の話、戦国時代は家臣の所領が多くを占めていて御料地はあって一割。
俸禄制の家臣はあまり居ない、封建制で軍役負担させてたのだから当然だけどw

侵攻時に負担するのは現地調達で賄えない分の食料だけ、武具も小者も自弁だしね。

>>747
当時としても、と書かれてるだろw
定期以外の負担や一定分の労役を越える労働は当然手当が支給されていたので
建築を急げば余計に費用も嵩んだ。
749人間七七四年:2010/02/21(日) 15:56:18 ID:P62P3aiP
>>748
だが乙
750人間七七四年:2010/02/21(日) 16:24:24 ID:B3EQGtni
バレバレの自演してる低能は大人しく寝てろよw
751人間七七四年:2010/02/21(日) 17:03:20 ID:pAVzGNYU
まあ落ち着こうぜ
752人間七七四年:2010/02/21(日) 18:36:00 ID:P62P3aiP
>>750
だが乙w

封建制の勉強してきた結果がそれかw

753人間七七四年:2010/02/21(日) 21:57:56 ID:xol0o/s7
>>752
封建制とやらについて詳しく説明どうぞ
どう見てもID:B3EQGtniは別人
くどくいってるのは鬱陶しい
754人間七七四年:2010/02/22(月) 02:51:35 ID:k3zorS6E
…OetGwTzKはちょっと恥ずかしかったんじゃないかなぁ……

nationalismちょとでもかじったら
>だから、国家と結びついたナショナリズムくらい古代、中世にもあったつってんの
てのは、削除したいレスなんじゃないかねぇ……
755人間七七四年:2010/02/22(月) 08:08:28 ID:Tfwv5NV0
ID:P62P3aiPから封建制とやらについての詳しい説明が聞きたい
756人間七七四年:2010/02/22(月) 20:28:47 ID:VmOfFChT
徳川家康は、軍資金調達等の時に、
米相場を利用して稼いでいたそうだが、

この当時に、大規模な米市場とかはあったんかな?
757人間七七四年:2010/02/22(月) 20:35:25 ID:LJDbe54h
豊臣家臣にはよくそういう話しあるな
758人間七七四年:2010/02/22(月) 20:39:44 ID:dWBE/XKT
室町時代は京都に大規模な米の取引場があった。
秀吉がその機能を大阪に移し、その後徳川幕府による堂島米相場会所設立へと至る。
759人間七七四年:2010/02/22(月) 21:15:02 ID:oPKCYjpK
>>756
国がインサイダーしちゃったのか
760人間七七四年:2010/02/22(月) 22:41:20 ID:SRKWkDWH
>>759
江戸時代でも豪商と幕府のお偉いさんが組んで・・・
というのは時代劇のネタの定番にされるようなよくある話だったし
大塩平八郎の乱なんかそれが原因だもん
761人間七七四年:2010/02/22(月) 23:37:11 ID:OhGBV5D1
家康で米相場っていうと、小田原征伐の時に、意外と関東の米が安いので、
わざわざ地元から輸送するより安くあがる、とかそんな話じゃなかったっけ。
もともと長束正家の兵糧集めの手際の良さを褒める逸話だったのが、
江戸時代に家康の知恵を褒める逸話に変化したものだと思う。


あたりまえだけど、米ってのは基本的に食べる人の数に応じて需要が決まるので、
江戸みたいな巨大都市ができる前は巨大な米市場ってのもありえない。

豊臣秀吉が各地の大名を京と大坂に在城させるようになると、
それらの大名が米を大量に売るので、
供給が先行する形で1580年代から京と大坂は急激に膨張することになる。
江戸時代の参勤交代と江戸の巨大化の関係も同じこと。

だからそれまでは基本的に各地に非農業人口の規模に応じて米の取引需要があり、
京、奈良、堺、博多のような都市には規模に応じた米市場があったと思われる。
あとは石見大森のような鉱山、中国地方の鉄生産地、米の生産ができない松前も
まとまった米需要があったのかな。
762人間七七四年:2010/02/23(火) 00:08:57 ID:915VbUMk
京都は室町時代からずっと米市場があるし、巨大な消費都市だった
と主張してる学者も多いよ。
763人間七七四年:2010/02/23(火) 00:18:14 ID:XIWLlOaY
”なんとか米”というご当地ブランドが成立したのも室町時代
つか室町は荘園の年貢が銭だったから、都と地方の価格差を利用して儲けるのは普通だったらしいよ
(この富が地方の守護大名を没落させた原因の一つ、ともいわれてる)

家康の時代なんて大阪の陣なんて兵糧を銀で払ってたりしてるよね
764人間七七四年:2010/02/23(火) 00:21:13 ID:oFurlG1W
なるほど
荘園主である寺社が大陸からの銅銭を輸入していたのは
そういう需要があったってことなのか
765人間七七四年:2010/02/23(火) 07:31:43 ID:SWtCtub7
              __ __
              ,ィミ川彡三ヾ三\
              {三{※}三}三ll三 }
            _ヽ彡川ミノ三レ勿/__
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         {三{※}三{三{※}三}三ll 三}
       __ヽ彡川ミノヽ彡川ミノ三レ勿/__
      ,ィミ川彡ヾィミ川彡ヾ,ィミ川彡三ヾ三\        っ
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       ヽ彡川ミノ/ /\ | /ヘ ヽll.ミノ三レ勿/    (´・ω・`)
    I二二二二二| |―‐((_))―| |二二二二二二I二○==○
           ヘヽ/ | \,/ /         〈_ノ=レ'
  ( (        \二二二/          (_vノ (_y)

大八車で集められた年貢は升で計量されて代官所に納められた後に
どのように移動していたのでしょう?
現物自体は商人の蔵みたいなところで保管されていてあまり動かず、
米の証券みたいなものが米相場とか取引や、俸禄支給時の金券として流通していた印象があるのですが。
766人間七七四年:2010/02/23(火) 08:27:47 ID:pwLWZB70
>大八車で集められた年貢は升で計量されて代官所に納められた後に
>どのように移動していたのでしょう?

>>689
767人間七七四年:2010/02/23(火) 11:43:03 ID:SWtCtub7
既出だったか。サンクス
768人間七七四年:2010/02/23(火) 11:45:18 ID:SWtCtub7
>手形には「預かり石高、水害や火災によって消失しても保障はしないこと」の但し書きがある

打ち壊しで被害を受けるのは蔵を壊された商人じゃなくて
その米の権利者である大名の方だったのか。
769人間七七四年:2010/02/23(火) 12:02:16 ID:XIWLlOaY
>>765
米は当時の重要な消費財(そのまま喰うだけでなく酒の材料とか)でもあるわけで、
地方から京への米輸送は海(川)運じゃないかな、淀川の運送記録なんかに備後米とか残ってるよ
770人間七七四年:2010/02/23(火) 12:31:59 ID:SWtCtub7
鎌倉の頃にはすでに海運→京への物資輸送が確立していたようですね
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/michi/index.html

内陸なのに「大津」って地名に違和感があったけど
北陸方面からの物資を琵琶湖で輸送していたせいなのか
771人間七七四年:2010/02/23(火) 12:47:28 ID:pwLWZB70
>770
鎌倉時代の話じゃが……
そのルートで運んでいる米がどれくらい目減りするかというと……
敦賀〜近江琵琶湖北岸までの山越え駄賃が1石につき米2斗
琵琶湖を舟で渡って大津に陸揚げし、大津〜京都までの車賃が1石につき米1斗
琵琶湖北岸〜大津間の舟賃は、距離がかなりあるのにもかかわらず、1石につき米4升8合

1石運ぶと到着時には七斗弱に。3割強が輸送費として消えます

ttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/5469/real06.html
772人間七七四年:2010/02/23(火) 13:55:47 ID:SWtCtub7
>>771
なるほど。運輸コストは今とは比較にならないほど高いのか。
馬借も武装化して山賊に備えないといけないし大変だったろうなあ。
773人間七七四年:2010/02/23(火) 15:46:09 ID:hKf+40Hk
運んでる米を切り崩して経費にするのか?
荷物には手を付けないで、経費は別払いかと思ってた。
774人間七七四年:2010/02/23(火) 17:01:32 ID:tUOa0X94
>>765
そのAAカワイイw 掘りたい。
775人間七七四年:2010/02/23(火) 20:07:48 ID:wRc+Ql7+
>>773
考えようによっては終盤の輸送コストも初期の7掛けになるし
悪い事ばかりじゃないな
776人間七七四年:2010/02/23(火) 20:13:45 ID:Un97G5yw
その理屈はおかしくないかw
777人間七七四年:2010/02/23(火) 20:22:18 ID:BbNZO/9x
荷物が軽くなったお!
778人間七七四年:2010/02/23(火) 21:10:11 ID:915VbUMk
運ばずに食べちゃえば輸送費丸儲けじゃね?
779人間七七四年:2010/02/23(火) 23:37:16 ID:SWtCtub7
その発想はなかったw
780人間七七四年:2010/02/24(水) 04:28:24 ID:HipAkfKx
そんな訳で年貢を長距離輸送(陸路)するときは反物や銭、手形にして運んだわけ
これだと嵩張らないんで輸送費が低く抑えられる
781人間七七四年:2010/02/24(水) 14:58:41 ID:QXr/vO8w
富士川、天竜川を利用した水運を想像するとわくわくする
782人間七七四年:2010/02/24(水) 15:09:21 ID:drpOKt5v
実際のところ陸運、海運,河川水運とも戦国期は、江戸期は当然だが、室町,鎌倉期に比べても
かなり貧弱な状態だったんだけどな。
783人間七七四年:2010/02/24(水) 17:24:04 ID:vMc/9KJK
安全とは程遠い時代だしね
784人間七七四年:2010/02/24(水) 17:59:19 ID:kArD4W5X
鎌倉期は何の行政記録も残ってないから一切正体不明だけどな
山陰沿岸の大陸との交易は室町後期から爆発的に活発化してるし
785人間七七四年:2010/02/24(水) 20:04:13 ID:hzZDYQCv
伊勢での大量の兵糧の買い付けや、そこから小田原への移送なんかは
記録にも残ってて、しかもそこまで珍しいことじゃなかった様だから、輸送
リスクの高まりとともに、海運の集団化・企業化ってのも並行して進んで
いたんじゃないのかな?

江戸時代に入っての急速な海運の発達から考えても、その萌芽はこの時
代にあったのでは無かろうか。
786人間七七四年:2010/02/24(水) 20:15:16 ID:TLBBP1fI
>その萌芽はこの時代にあったのでは無かろうか

江戸期になって海運が急激に発達した、ってのは、どこらから??
787人間七七四年:2010/02/24(水) 20:22:35 ID:drpOKt5v
>>786
どこらからもなにも常識だろうに。江戸期は日本の海運の大発展期だ。
学校で習わなかったのか?
788人間七七四年:2010/02/24(水) 21:05:48 ID:TLBBP1fI
…このスレで理由聞いたら「学校で習っただろ」といわれるとは思わなかったな……
789人間七七四年:2010/02/24(水) 21:06:21 ID:vOaFN4Z7
当時の運送屋は特定の大名家と密接な業者もいただろう。
敵大名と親密な運送屋の部隊が領内を通過しようとしていたら
積荷を没収したりしていたのだろうか?
790人間七七四年:2010/02/24(水) 21:13:13 ID:drpOKt5v
>>788
こっちとしては、天正10年に本能寺の変があったとか、慶長5年に関ヶ原があったとかと
同じレベルの質問がこのスレであったことにビックリだ。
791人間七七四年:2010/02/24(水) 21:22:34 ID:TLBBP1fI
>>790
いえ、なにを持って「急激な発達」とよんでるのか、それを確認したくて

航路に関して言えば、江戸になって新規開拓されたのものはありませんよね?
物流量に関しては、室町期の西国(海外)→京の海運の規模と江戸期のそれとどう比較してるのか
…そこらが聞きたいわけで、「常識だ」なんて返答、「ふーん(かわいそうなひとか…)」としか……
792人間七七四年:2010/02/24(水) 21:26:39 ID:FYCYUq/c
今に残る地方の「お国柄」というのは戦国時代にルーツがあると聞いた
物、人の流動の障壁はそういうものを作り出すから面白いね
793人間七七四年:2010/02/24(水) 21:27:31 ID:drpOKt5v
>>791
> 航路に関して言えば、江戸になって新規開拓されたのものはありませんよね?

はあ?「西廻り航路」「東廻り航路」って知らんのか?
まさか河村瑞軒とかもわかってないんじゃないだろうな?
794人間七七四年:2010/02/24(水) 21:31:15 ID:hzZDYQCv
>>789
当時の有徳人などと同様に、各地の海賊衆は周辺の有力大名とは両属に
近い形で独立していたようだ。だから、通常時は問題視されることは無かった
模様。

でも、そのバランスが崩れていたり、交戦中だったりした場合には、襲撃した
り妨害したり、といったこともあったらしい。
顕著な例で言うと、大なる例として毛利と大友の間で動いていた能島村上氏、
比較的小規模な例で、北条と里見に両属していた神奈川野中氏、金沢山口
氏など。

>>788
江戸時代の内航海運については、入門書から論文まで多種多様にそろってる
から、それ読んでみろとしか……
少なくとも、大阪の米市場、商品市場や、江戸時代の下り物なんかについては、
内航海運の隆盛を無視しては語れない。
795人間七七四年:2010/02/24(水) 21:38:20 ID:hzZDYQCv
>>791
航路ってのは「船が通れれば良い」って話ではなくて、港湾の基地化・規格化、
海図の充実、のろし等を利用した灯台的な道しるべなんかも必要で、これらは
江戸時代になって集中的に行われているんだよ。
>>793のいう河村瑞軒なんかが典型例なんだけど。

江戸時代以前とそれ以降では残ってる史料の数が段違いなので、正確な比較
ってのは難しいわけだけど、内航海運に必要なインフラ整備が集中的に整った
のは江戸時代に入ってからだね(それまでは、地方ごとの分断が激しすぎた)。
796人間七七四年:2010/02/24(水) 22:46:26 ID:drpOKt5v
北海道、沖縄を含めた日本列島全体が、システマチックな海運でリンクしたのが
江戸時代だな。
そういう意味で海上における天下統一は江戸期だと言える。

ちなみに青森や小樽、室蘭、苫小牧といった所は、この西廻り、東廻り航路の完成により、
寒村から都市へと発展した。
大阪が物資の集積地となり天下の台所と呼ばれたのも、江戸期の航路と港湾の整備による。
797人間七七四年:2010/02/24(水) 23:02:14 ID:kArD4W5X
いや、元から物資の集積地だし、天下の台所と呼ばれた事実も無いですから
主要航路以外の整備が進んだのは事実だけど、主要航路周辺は戦国初期から発展してる。

青森、小樽、室蘭、苫小牧なんかは、明治初期に至っても都市らしい都市は形成されてないよ
東北は農業生産性の低さから人口が希薄で、消費地が形成されなかった
道南を除く北海道に至ってはそれ以前の問題。
798人間七七四年:2010/02/24(水) 23:10:54 ID:drpOKt5v
>>797
「諸国之台所」「日本の賄い所」ならよろしいですかね?
そして物資の集積と言っても、航路開拓以前の大阪はせいぜい西日本、瀬戸内からの物資の
集積に過ぎなかった。
北海道、東日本まで含めた物資が集まるようになったのは江戸期から。

あと、キミが都市というものの規模をどう考えているのか知らんが、
それらは村、街の規模を超えた「港湾都市」と呼んでいいだけの規模には発展している。
799人間七七四年:2010/02/24(水) 23:18:50 ID:hzZDYQCv
>>798
陸奥湾だと、江戸時代は野辺地や田名部(大湊)辺りの方が栄えていた様な
印象があるなあ。津軽より南部のイメージが強いせいかもしれない。
800人間七七四年:2010/02/24(水) 23:46:09 ID:DfX7A+/s
>>797
主要航路とそれ以外って具体的にどういう区分なんですか?
801人間七七四年:2010/02/24(水) 23:48:39 ID:kArD4W5X
>>798
それは航路云々より、日本全体の生産性大幅向上と人口増大で
中心地が京都から後背地の大きい大阪へ移ったから、京都への物資集積は
日本海(山陰、大陸、東北)、伊勢湾(東海、関東)、瀬戸内(九州、大陸、山陽)と全国からあった。

してないから。江戸時代の青森は港湾都市としては発展していない、都市というほどの人口もなし
北海道の3都市に至っては論外、松前藩の支配地でもないし一般的な村程度の規模しかない。

人口も設備も貧弱な村を都市と呼んでも実態が無いよ
個人的に港湾都市と言い張るのは勝手だけどね
802人間七七四年:2010/02/24(水) 23:55:49 ID:hzZDYQCv
>>801
青森は江戸中期以降は津軽家中第二の町だったのではなかろうかと。
藩の出先機関もあったし……

まあ、都市という言葉で想定するスケールの差があるようだけど、寒村では
無かったはずだよ。
803人間七七四年:2010/02/25(木) 01:03:25 ID:6Syx9S5D
人口の増大、社会の安定
江戸時代に急撃とも言える海運が発達したとは言えると思う
ただ、萌芽といえるのは戦国期以前からあったのではなかろうか
804人間七七四年:2010/02/25(木) 01:17:52 ID:Q9fNAjel
船が発達したり、航路の安全性が良くなったとか
関係あるかも
805人間七七四年:2010/02/25(木) 01:19:30 ID:XtQBLR92
比較対象が悪すぎる。
江戸初期の天下泰平・農地倍増・経済振興は恐ろしいものがある。
それ以前と以後ではもはや別の世界。
806人間七七四年:2010/02/25(木) 02:55:06 ID:0FlKRyL2
こういうのがありがたいです、”常識”って人によって違いますし(討論スレでは特に)
あと「本を読め」だけ、つーのは逃げ口上ともとれるので、なるべく引用か自分で説明した方が……

>>793
>「西廻り航路」「東廻り航路」
日本海側海運自体は室町時代には成立してましたよね、秀吉の鳥取での兵糧買い占めも海運業によるものですし
「横浜→ロスアンジェルス直行便ができました!」というのを持って、それ以前に太平洋横断航路がなかった、
…とはいえないように、戦国時代に同じ海運路がなかった、とは言いきれないのでは?

まぁ基本的な国内交易網は室町時代には成立してる、さらに西国海運は海外貿易の一端になってたわけで
江戸期にはソレが禁止されたわけで規模縮小は当たり前、それと江戸時代の国内交易だけの航路を比較できるもんでしょうか?

あと明治には西洋式帆船が導入され、年一航海が複数回になりましたよね
本当に海運が発展したのなら、なぜ江戸時代は和船にこだわったのでしょう??
それってただ「和船で問題がない運輸量だった」だけだった、ともいえるのでは??

つか経済規模が大きくなって海運輸送量が増えた、ってなことを否定してるわけじゃないので
単に、戦国時代のソレとあんまかわらないんじゃ?…と思うだけで
戦国時代の海運は”有料道路”で、江戸期は”全国通行料無料”になった、ってことくらいじゃないかなぁ、と
807人間七七四年:2010/02/25(木) 03:21:57 ID:0VrVKGAk
和船の性能と保有数が上がったから
808人間七七四年:2010/02/25(木) 03:24:36 ID:i4MzDWyv
>>806
何を言いたいのか解らない。

「船が通っていた」のと「航路」を一緒にして、その上で自分の説を立てようとしているから
無理の上に無利が出ている。
江戸期に和船で事足りたと言うが、和船も江戸時代を通じて改良、進歩し、初期と後期では
輸送量も船の数も大きく違うと言う事を考えに入れていない。

端的に言ってキミの書き込みは否定したいための否定にしかなっていない。
論旨も状況認識も混乱だらけで、せめて基礎的な認識をきちんとして欲しいとしか言いようがない。
809人間七七四年:2010/02/25(木) 12:02:35 ID:Q9fNAjel
陸運の改善に関しては関所の撤廃・宿場町の整備・伝馬制度の確立こういった面があると思います。
こういった政策は織豊政権や家康のイメージが強いのですがこれらの政策は織田が始めた物なのでしょうか?
あと、楽市楽座も織田が先駆けたイメージが強いのですが最近の説では織田が最初ではないと聞きました。
詳しい方ございませんか?
810人間七七四年:2010/02/25(木) 12:10:26 ID:Q9fNAjel
>>794
有徳人・・金持ちのことですか。勉強になります。
諸大名は海賊とか商人とか寺社には手が出せなかったようですが
織豊政権のころには堺の自治が終焉してますし、徳川政権のころには
いつのまにかそういった勢力も政権の支配下に入っています。
諸勢力の自治を奪い、傘下に収めるということは合戦以上に相当苦心したことでしょう。
811人間七七四年:2010/02/25(木) 14:11:32 ID:6UcDCoUk
相変わらず馬鹿が一人まぎれているなw
812人間七七四年:2010/02/25(木) 19:48:39 ID:PVYJKHLr
>>809
そもそも楽市楽座の「楽」は「安全保障」って意味だ
揉め事が起きた時には俺らが対処してやんよって事
 
だからおまいら揉め事解決のために勝手な軍事行動とるなってわけになるが
市や座からしてみれば金も人的資源も消耗しなくてすむ利点もある
813人間七七四年:2010/02/25(木) 20:11:33 ID:XtQBLR92
>>809
楽市は六角氏が先駆けだって聞いたな。
ちなみに今川義元も信長に先駆けてやっていたはず。

楽市にしかり、伝馬制にしかり、宿の整備にしかりちょっと大きい大名家なら大抵やってる。
814人間七七四年:2010/02/25(木) 21:47:37 ID:gq2kryJk
>>813
今川でやったのは義元じゃなくて氏真
暗君と呼ばれる氏真だけどこの点に関しては信長よりずっと早い
815人間七七四年:2010/02/26(金) 00:41:23 ID:2LhlYkWX
>>812-814
織田信長があれもこれも改革したみたいに書かれていることが多いけど
実際は前例を踏襲しただけのものも含まれているようですな
816人間七七四年:2010/02/26(金) 00:43:34 ID:KS4CzbBl
つーか信長は現状維持の鬼みたいなもんなので、改革らしきことは殆ど行っていない。
むしろ権力の深化にいたっては後退させている。
817人間七七四年:2010/02/26(金) 00:49:57 ID:YZHlFTkt
その前に織田中枢の1次史料って、以外にほとんど残っていないから
何したかわかんねってのがある。
818人間七七四年:2010/02/26(金) 00:59:44 ID:2LhlYkWX
織田信長も幕末の坂本龍馬と同じで虚像が独り歩きしているなあ
819人間七七四年:2010/02/26(金) 01:03:20 ID:KS4CzbBl
信長の改革といえば、上洛早々、既に有名無実になっていた、公家の経済利権である
京の七口の関所の復活、なんてことをやっているな。
820人間七七四年:2010/02/26(金) 01:03:59 ID:2LhlYkWX
撤廃ではなく復活とは意外
821人間七七四年:2010/02/26(金) 01:04:28 ID:Py9/kRSb
逆に前例を踏襲しただけとか妙な過小評価をされてる気がする
822人間七七四年:2010/02/26(金) 01:32:39 ID:N3s63v7q
江戸時代の海運は”充実期”じゃないかと思うので、戦国期を”萌芽”と呼ぶことに違和感があるんですよ
室町戦国時代だって規模は負けてないと、戦国にはもう日本の海運は全国に確立していたんじゃないかと

>>807
戦国期には、和船より優秀な輸送船(キャラベルやらジャンクやら)目にしてるのに、わざわざ性能の劣る和船を改良増産した
…ってなことを”進歩”と呼ぶのに違和感はありませんか??

>>808
江戸時代に造られた航路はすべて”コスト削減”のためですよね、西廻り航路(加賀→大阪)東廻り航路(山形→大阪)等々
普通の産業では充実期にコスト削減が問題にされる傾向がありますが、江戸の海運状況もそれと同様なのかもしれませんよ??
ではなぜ江戸期に”充実したのか?
…それは戦国時代には確固たる海運が成立していたから、と考えるのはおかしいことですか?

>和船も江戸時代を通じて改良、進歩
和船が一年に一航海しかでき無いにもかかわらず、西洋式帆船(明治期)は数回行えました
戦国時代に西洋式帆船(もしくはジャンク船)の存在を知りながら、ソレを導入しなかった理由は??
わざわざ200年以上も和船を造り続けたのは、もう戦国期には国内海運の規模や十分な技術が確立していたからでは??
(つまり江戸期でも戦国時代までに確立した和船の性能で十分であった程度の輸送量増加だったんですよ)


>>811
光栄です
自分のは受験の歴史じゃなく「趣味の歴史」なんで、「教科書はそうだ!!」ってなひとに「本当??」って質問したくてたまらんのですよ
823人間七七四年:2010/02/26(金) 01:35:40 ID:U9sqE5rP
>>822
お前さん日本語とコミュニケーションが下手だな
824人間七七四年:2010/02/26(金) 01:39:49 ID:KS4CzbBl
>>822
質問するなら質問するだけの知識をつけてから、をお薦めする。
今のキミは自分の固定観念に反することに難癖を付けているだけだ。
825人間七七四年:2010/02/26(金) 01:40:15 ID:N3s63v7q
>>823
…煽り気味なのは反省します……ちょっとスルーされるのが怖かった……

826人間七七四年:2010/02/26(金) 01:41:00 ID:N3s63v7q
>>824
具体的に「私の固定観念」とは どの部分をさすのでしょうか??
827人間七七四年:2010/02/26(金) 01:46:53 ID:KS4CzbBl
>>821
信長の時代の資料が少ないのもあるが、織田信長から俗説と空想を洗い流すと、
旧態依然としたシステムを温存し、既得権者の利権を丸飲みすることで勢力を拡大した
武辺至上主義の武将って、上杉謙信に良く似た武将像が現れてくる。

実体もそんなもんだとも思う。
828人間七七四年:2010/02/26(金) 01:49:15 ID:X+6thOVZ
>>822
大型船建造が制限されている、外洋に出る必要が無い、製造や運用に必要な人員コストなどなど

そんなこんなで和船は和船なりに優秀だったから
829人間七七四年:2010/02/26(金) 01:54:28 ID:KS4CzbBl
>>826
煽りでないのならキミは、知識が無いから何が自分の固定観念かも理解してないんだよ。
せめて和船や江戸期の海運についての最近の本を読んで、何が「正しい疑問」かを
判断出来るようになってから質問をすべきだ。

今のキミは、1+1が5とか8とかだという思い込みの前提から数学の質問をしているようなものだ。
830人間七七四年:2010/02/26(金) 02:04:11 ID:YZHlFTkt
自分で調べず、ただ人に聞いて楽しようって人間に答えてくれる人は少ないわな
831人間七七四年:2010/02/26(金) 02:11:56 ID:/i5xGgoD
>>822
受験の歴史も趣味の歴史も無く、歴史は歴史。

で、戦国時代に西洋式帆船を導入しなかったのは、単に当時の西洋式帆船は
和船や中国船と比較して優位性が無かったから。
当時の西洋式帆船(カラベルや、キャラック(ナオ)と言った外洋帆船)の知識
も、根本的に足りてないとしか思えない。

あとね、戦国時代の海運は、主に海賊衆や海運都市の商人が担ったわけだが、
海賊衆は相互に対立していたし、海賊衆と都市の商人たちの利益相反も激しく、
陸路と同様に安定的に海運を出来る状況にはなかった。
もちろん、完全になかったわけではなく、それなりの規模の海運が発達していた
のは確かだが、江戸期と比較して「確固たる」とか口が裂けても言えない。
832人間七七四年:2010/02/26(金) 03:31:11 ID:QUxYgulf
>>809
信長は斉藤道三?が井ノ口で小規模な楽市をやっていたのを真似たのだろうと
どこかの本で読んだことがある。

>>827
私はそこまで武辺一辺倒とは思わないが。楽市楽座や堺との関係などを見ると
商業や流通に関して人並み以上の関心はあったとおもう。京の七口の復活は
単純に公家の歓心を買い見方につけるため、まだ自分の実力が足りないとの
判断でしょう。目的のためには手段を選ばず小沢一郎のイメージかな。
833人間七七四年:2010/02/26(金) 04:42:21 ID:KS4CzbBl
>>832
当時の武将が軍資金のため経済に強い関心をもつのは普通だと思うのですが、
信長の場合、例えば楽市は、既に楽市が行われているところを追認した、に
すぎないのですな。同じように座が置かれているところはそのまま座を追認している。
なにより信長は最大都市である京の座になにも手をつけていない。むしろ強化させている節もある。

流通に関しても、信長が撤廃した関所は軍事関連のものだけで、京の七口からも解るように
経済関連の関所は温存しているんだよね。ここからも流通の円滑化を志向したとは思えない。

これらから基本的に信長は、自分に従い軍役を提供する事を条件に、大小名や国人の
既得権をすべて認めたのと同じように、自分の軍の活動のための矢銭、役銭を
提供させるかわりに、それぞれの地域の経済制度、慣習を丸飲みしていたと考えるべきでしょう。
しかも介入したとしても、堺に見られるように制度的なものではなく軍事的圧力によってだし。

それ故に信長は「武辺至上主義」だと思うわけですよ。
834人間七七四年:2010/02/26(金) 06:15:17 ID:e6XCY71V
軍事至上主義なのは同意、組織の整備も客観性ある秩序の創出も全くしてないしね
何もかもが軍事強化と征服に向いてた感じ、横死したのは必然。
835人間七七四年:2010/02/26(金) 07:16:35 ID:rRvG1Kim
ちょっと気になったから教えてほしい
「客観性ある秩序の創出」とは具体的にどういうことなの?
836月孔雀:2010/02/26(金) 07:18:55 ID:SZdPwpfU
霞ゲ関に、聴いてみよう!
837月孔雀:2010/02/26(金) 07:19:44 ID:SZdPwpfU
霞ヶ関。
838人間七七四年:2010/02/26(金) 07:27:45 ID:NQva35gH
839人間七七四年:2010/02/26(金) 07:27:52 ID:MDENnAEl
>>833
安土では新規で楽市楽座を開設してませんでしたっけ?
また上手くいっている場合の現状追認というのは最も上手くいく経済政策でもありますよね
そう考えると単純に「武辺至上主義」と言ってしまっていいのかどうか
840人間七七四年:2010/02/26(金) 10:13:35 ID:rRvG1Kim
>>838
聞き方変えようか
織田信長がどういうことをしていれば、客観性ある秩序を創出していたといえるのか、具体的に教えてくれないか
841人間七七四年:2010/02/26(金) 11:17:48 ID:gXCcLTNi
戦時中に最優先でやることは軍事関連だと思うがw
軍資金や兵糧に困らなければ優先的にやることではないよ
842人間七七四年:2010/02/26(金) 11:43:56 ID:M8I0jndS
>>839
安土城は廃城にした観音寺城の城下機能をそのまま吸収してると思うが。
観音寺城は現状では楽市の発祥の地なわけで、そのまま追認してるに過ぎないかと。
843人間七七四年:2010/02/26(金) 12:38:16 ID:R6fz5wj2
>>840
横から悪いが
信長のどこに客観性ある秩序を創出していたと言える要素があるんかね?
あるというならそれを説明せんと
無いという側にだけ答えさせようとするのはいかがなもんか
844人間七七四年:2010/02/26(金) 13:28:23 ID:N3s63v7q
>>831
真面目に相手していただいてありがとうございます

>単に当時の西洋式帆船は和船や中国船と比較して優位性が無かったから
指摘してるのは、国内路線が一年に一航海程度の性能の船で十分だった事実です(明治の西洋式帆船導入時には数回可能でした)

「優位性がない」というのは戦国→江戸にはそういう性能が要求されなかった、でも幕末→明治には必要(メリットがあった)
なわけで、そういう戦国→江戸期の具体的変化を一つも指摘されず「もっと調べろ」だけではちょっと……
(個々の車種の性能を調べる努力より、時代による技術変化を見た方が、経済史的観点として適当なのでは??)

>陸路と同様に安定的に海運を出来る状況にはなかった

瀬戸内の海軍(海賊?)では基本的に契約(通行料)を払うことで安全が保証されています
当時(室町戦国)では、自分の領域を通るものに通行料を取る権利(つまり関)は、陸も海も同様だったわけで
商人が通行量について対立するのは普通な気が、海賊同士の争いも、ヤクザが争ってもみかじめ料払う層には無関係ですよね??

もともと室町戦国期の海運は、中央荘園領主が地方の荘園から都にものを送るために成立した(例えば日本海側海運等)わけで、
「銭で税を納める」「米を為替で送る」商習慣は”地方の物資が都に安全に届く”前提があってのこと、
…てのが、私の間違った”固定観念”なのでしょうか?? 
安全に物資が届かない流通で”銭(信用貨幣)”が成立できるのでしょうか??
845人間七七四年:2010/02/26(金) 13:31:09 ID:Yq+YH2+7
逆だろ
安全で無いから小さくて持ち運びが楽な銭や為替が必要になったんじゃね
846人間七七四年:2010/02/26(金) 14:07:16 ID:IIQWYgNh
スクーナーだから航海数が増えたというのは疑問
847人間七七四年:2010/02/26(金) 15:01:16 ID:zQHPffZU
キャラベルとスクーナは用途は似通ってるけど別の船だしな

あと、ジャンクは使用しているぞ。
朱印船に使用してたのは初期はジャンク、後にジャンクとガレオンのデザインを融合させた帆船が作られている
鎖国政策で消滅したが
日本近海で使う船には外洋航行能力は必要なかった(禁じられた)って事

海運の発達→和船の改良と保有数の増加
→洋船より劣った和船を改良しても進歩とはいえない
(海運の発達が、船舶技術の進歩に切り替わってる)
なんで発達が進歩に切り替わってるの?

海運の発達と船舶技術の進歩とをごっちゃにしてどうするの?

>あと「本を読め」だけ、つーのは逃げ口上ともとれるので、なるべく引用か自分で説明した方が……

知識の乏しい人間、もしくは誤った知識の持ち主にある事を説明しようとしたら、凄まじい時間とコストがかかるの
だからそういった基礎知識は自分で入手してねって事で「本を読め」って話になるの
逃げ口上ではなく、「こちらの言ってる事が正しいかどうか自分で調べてから書き込め」って事なの
>838のやっている事そうだわな。
"ググレカス"って言われてるのと同じ。人に聞く前に先ず自分でちゃんと調べろって事。

「教えて君」が激しく嫌われるのはこういった点でね
ネット上での議論では相手のリソース(主に時間)を費やさせたほうが勝つというパターンが多くて
それのもっとも簡単な手段が「相手に多大な説明をさせ、その重箱をつついたり、無視して自分の主張を延々と繰り返す」
ことなの。
これやられると、面倒になったり飽きたりするのよ。暇人はそんなに多くないし。

君の書き込みはこのパターンなのよ
”逃げ口上”されてしまうような書き込みなの。議論以前というか
「本読め」って言ってくれる方がまだ幸せなんだぜ?
848人間七七四年:2010/02/26(金) 15:23:08 ID:2LhlYkWX
飛脚
江戸 - 京坂の所要日数は料金によって何種類かあったそうで。
「並便り」・・概ね30日 「十日限」・・10日 「六日限」・・6日

荷物が割と少なく身軽で、江戸時代の宿場が整備された東海道の飛脚ですら上記より2〜3日の延着があることを考慮すると
戦国時代の馬借に依頼して陸路で関東と関西まで物資を輸送しようとしたら何日かかる事やら。
海運はむしろ必然的に発達したのかも。
849人間七七四年:2010/02/26(金) 16:15:12 ID:5e2sVyRx
>>840
他の大名家だと分国法に基づく統治とか家中法度の制定
850月孔雀:2010/02/26(金) 16:58:39 ID:SZdPwpfU
越後一国だけで、国力すご過ぎ!
851人間七七四年:2010/02/26(金) 19:48:44 ID:rRvG1Kim
>>843
主張してるんだから、そりゃ説明せねばならんだろう
まず、秩序ひとつとっても、法秩序、身分秩序、統治秩序と、いろいろに分かれてしまう
そのあたりを明確にせずに、片方は法秩序を創出していない、片方は身分秩序を創出していないなぞと話して意味があるのか?
だから、具体的に答えてほしかったんだが
「創出していない」とするからには、当然「創出している」状態も指摘できるだろう?

>>849
つまり、法秩序ということかな?
852人間七七四年:2010/02/26(金) 20:00:28 ID:noN/hqcy
安土城跡のあたりを園芸用のスコップで少し掘れば
その時代の価値があるものって出てくるかな?
853人間七七四年:2010/02/26(金) 20:02:30 ID:KS4CzbBl
>>852
何かがあったとしても、それが出てくる前に不法発掘でお縄になるけどな。
あそこは私有地だ。
854人間七七四年:2010/02/26(金) 20:09:52 ID:ysVtElox
>>842
それはどちらとも言えますな
855人間七七四年:2010/02/26(金) 20:52:25 ID:fqMRWVgw
「追認しただけ」、「秩序を創設してない」でえらく凡将にされてますなあ
856人間七七四年:2010/02/26(金) 21:13:40 ID:R6fz5wj2
>>851
ならあるという側もどういう観点からそう思うのかを当然説明をすべきだろう
ただ質問だけをするのはフェアとは言えない
857人間七七四年:2010/02/26(金) 21:20:29 ID:KS4CzbBl
>>855
何故それが凡将と言う評価になるのか解らない。
既存の理研と秩序の追認と言う、最も摩擦の少ない方法によって初めて、あの急拡大が
可能になったのだから、それを選択した信長は間違いなく優れた将だぞ。
構成に制度的な意味での影響を与えなかっただけの話で。
858人間七七四年:2010/02/26(金) 21:21:16 ID:KS4CzbBl
最後

×構成に
○後世に
859人間七七四年:2010/02/26(金) 21:34:49 ID:4X5XXN1N
学者向けの評価だな
資料が多く残ってる→研究し易い→こんな事をしてたんだ凄い
という具合にね
相対的に信長大した事してないみたいになってしまってるな
860人間七七四年:2010/02/26(金) 21:46:26 ID:2CXhcxZu
test
861人間七七四年:2010/02/26(金) 22:12:55 ID:2CXhcxZu
安土は一応六角氏のとは別物の都市
だからこそ街道かえたり安土に立ち寄れなど法令出したりしている
またこの時の城下町の創設手段や都市法がその後のモデルとなっているとされている

座に関しては信長秀吉と更に範囲が広がっていて規制緩和とは基本逆
新規の商人職人層をより広い範囲で権力に組み込もうとしている

関所に関しては信長は国衆の私的な関所に関しては基本撤廃
秀吉もその路線を継ぎ、関白後は公家が関銭課料を課すことなども禁止したが
関銭の代わりに手数料を徴収するなどしている
秀吉による検地刀狩りも基本的には信長時代と同質性を保っている

信長時代のは不徹底とか言い出すとそれじゃ秀吉はということになる
一般的には同じ基準で全国をということになっているが現実は異なる

とはいえ信長秀吉家康の時代でいろいろと変革があったことには変わらない
862人間七七四年:2010/02/26(金) 22:30:38 ID:R6fz5wj2
>>861
信長時代の刀狩りは越前くらいでは?
検知も太閤検地の方がよりダイナミックで規模も大きく、精密であったのでは
もちろん慶長検地より精度が低い事は言われているが
太閤検地程のものは信長は行ってない
863人間七七四年:2010/02/26(金) 22:37:23 ID:KS4CzbBl
信長の勢力圏で竿入れ検地が行われたのは柴田勝家と秀吉の占領地においてのみだよ。
後は旧態依然とした指出検地。
864人間七七四年:2010/02/26(金) 22:37:43 ID:R6fz5wj2
>>861
あとついでに
>とはいえ信長秀吉家康の時代でいろいろと変革があったことには変わらない
勢力範囲も政策指示ができる範囲も権力も秀吉・家康より圧倒的に劣る信長を
一列にするのは違和感を感じる
当時は有力な地方大名達がそれぞれの範囲で秩序や領国を構成し、さまざまな政策を行っていきました
そして秀吉政権はそれら各地の地方有力大名達が作り上げていった秩序に乗っかり
それを中央からの指令で時には改造することによって全国的な政権を作り上げています
この流れから見ると信長の勢力範囲も政策指示もきわめて限定的で
他の有力大名領国に手をつけられてもおらず
信長の影響とやらはせいぜい言って畿内一帯程度でしょう
良く言って有力戦国大名領国にとどまっているとしか見えませんが、どうですか?
865人間七七四年:2010/02/26(金) 22:39:52 ID:YZHlFTkt
1577年まで戦いしかしてない感じ、だからこそあの急激な領地拡大が可能だったのだろう
つか制度改革を同様にやってたら超人過ぎる
戦場に出なくなった1577年以降は、一部で見える僧や農民の武装解除、関所の廃止
楽市や街道などのインフラ整備等々、内政改革に手を付けた様子は在る
しかし当主の信忠の生母も確定できないほど、信長周辺の史料は乏しい
一地域で行われていた政策が、単に一部だけ若しくは配下が勝手にやってたかは
確かなことはいえない。が、後の豊臣政権につながる政策はいくつか垣間見える。
866人間七七四年:2010/02/26(金) 22:46:16 ID:YZHlFTkt
織田家は分裂し縮小し、大身家臣、側近官僚はことごとく没落
残ったのは小身から成り上がりの池田や前田や外様のみ
おかげで史料は散逸で、なかなか難しいねぇ
867人間七七四年:2010/02/26(金) 22:49:51 ID:R6fz5wj2
>>865
>戦場に出なくなった1577年以降は、一部で見える僧や農民の武装解除、関所の廃止
>楽市や街道などのインフラ整備等々、内政改革に手を付けた様子は在る
>後の豊臣政権につながる政策はいくつか垣間見える
ここら辺に違和感を感じてしまうのですね
上であげられているような事は他の有力大名も行っています
それこそ信長の影響など受ける事一切なしに自分達の裁量で行っています
これを見ると他の大名達も豊臣政権とつながりがあったのか?と言えてしまいそうです
868人間七七四年:2010/02/26(金) 22:51:46 ID:R6fz5wj2
>>866
没落したからといって
本当に行っていたなら史料は残るはずなのですが
滅亡したはずの北条家や武田家に多くの史料が残っている事からもそれは明らかでしょう
869人間七七四年:2010/02/26(金) 22:52:29 ID:KS4CzbBl
秀吉の政策はむしろ、毛利の影響が強いと思う。
870人間七七四年:2010/02/26(金) 22:58:29 ID:YZHlFTkt
織田政権を乗っ取った政権が同質の政策を行ってたとすれば
つながりがあったと言えるのではないでしょうか。
逆に断絶があったとするほうが難しいと思いますが

他大名との比較なら戦国大名として同ベクトルの進化に乗っているので
そういう意味ならつながっているとなるでしょう。
豊臣政権も政策を大規模にかつ強力に推し進めたと言う特徴を抜かせば、
時代から逸脱した存在ではないと思います。
871人間七七四年:2010/02/26(金) 23:04:28 ID:YZHlFTkt
>>868
北条武田は比較的混乱がなく短期に滅亡したので
史料の散逸が少なかったのではと言われてます。
逆に明治まで続いた上杉家は相次いだ内戦と2度の転封で史料が散逸し
謙信時代の史料はその2家に比べて少なく北条武田の史料によって補完することで
研究が進んできたという面があります
滅亡が直接史料の散逸に関係してると言うのは短絡的過ぎです。
872人間七七四年:2010/02/26(金) 23:07:49 ID:YZHlFTkt
>>869
それはまず無いですね。今川や武田と言うならあり得るかもですが
873人間七七四年:2010/02/26(金) 23:10:46 ID:R6fz5wj2
>>870
私は少なくとも豊臣政権を時代から逸脱した存在とは言いません
織田政権、というより織田領国と比して別の趣がある存在だと感じています
その政策のやり方、惣無事に代表される国家統合の論理、政権としての在り方、
いずれも織田領国とは別の存在に思えます
むしろ豊臣政権は織田領国の発展やつながりというより、日本全国の有力大名によって構成されていた秩序を統合し、総和し、さらには介入して改造する事によって
文字通り日本全体の社会統合を果たした存在であったと見るべきだと思います
それは織田とのつながり云々だけで説明ができる存在では決してないと思います
明らかに異質な事もやっているのですから
874人間七七四年:2010/02/26(金) 23:13:02 ID:2CXhcxZu
>>862
秀吉の刀狩りも当初はごく一部の地域
その後の勢力の伸張にともなって一応全国に広がってはいったが

太閤検地にしても統一的な基準で検地したわけではないので北陸などは信長時代の検地をそのまま使っていたりもするが
検地に関しては基本的に検地の制度も精度もほとんど変わらないと言われている
石高で村ごとに賦課、竿打縄打して村の代表と確認しあって誓詞を取り交わしてと基本的な流れでは一緒
確か屋敷や荒地などの扱いも同じだったはず
検地に関する論文では異なる点として360歩と300歩や斗代の違い、畑を3等級で分けるか田を3等級で分けるかなど
がよく挙げられてはいる
でもそれは税率が若干異なるというだけでは
江戸時代の検地も太閤検地と比べるなら斗代の違いや使用する竿の違い税の対象となる範囲が異なるが
基本的には変わらない

信長時代の検地と太閤検地の大きな差は検地時に村切を行って村の領域を確定させているか
名請け人を確定させているかという点
信長の検地では村ごとに賦課徴収してはいるものの耕作者を一人一人限定させるまではしていない
村の自治に任せている

もっとも年貢の徴収は基本的に明治まで村の有力者任せではあるが

>>863
あと丹後
また旧態依然とした指出検地という表現もおかしい
大和での騒動を見る限りかなり徹底した指出検地であったと考える方が自然では
もっとも畿内及びその近国においては惣村の力が強力だったため、
それ以前において形式的な差出徴収にさえ苦労していたという可能性もあるが

>>864
いろいろな論文を読む限り基本的に信長秀吉家康と一列にする学者がほとんど
一列にしたうえで異なる点同質性を保つ点などについて述べる学者が多い
おそらく基本的な政策が同じだからであろう
と自分は考える

後半は特に反論する部分はなし
信長にしても秀吉にしても妥協する部分は妥協し前例に従ったり現地適応主義が多い
秀吉の検地にしても差出で済ませている部分もあれば独自の検地を行ったり
信長も東国経済圏に属する尾張美濃伊勢などは貫高制を使用している

下二段は有力戦国大名をどのように定義するか人によると思うので答えにくい
学者間では有力戦国大名という範囲を超えて天下人かそれに準ずる存在として扱っている例が多いと感じる
875人間七七四年:2010/02/26(金) 23:16:26 ID:R6fz5wj2
>>871
>逆に明治まで続いた上杉家は相次いだ内戦と2度の転封で史料が散逸し
>謙信時代の史料はその2家に比べて少なく北条武田の史料によって補完することで
>研究が進んできたという面があります
本当でしょうか?
上越市史別編上杉家史料集として膨大な謙信関連の史料がまとめられているのですが
中々のものだと思いますよ、上杉家の史料も
織田も本当に行っていたというなら戦後60年もたっている事ですし
それこそ戦後間もないころから織田に関する研究がおこなわれ
様々な奇説新説が乱れ飛び史料の関係から形跡なしとされ、それこそ学者達がさまざまに探してきたのですから
散逸していたというなら見つかっていいと思うのですが
876人間七七四年:2010/02/26(金) 23:24:03 ID:2CXhcxZu
>>865
1573年の義昭追放時
1575年の上洛時
1577年以降
のどれかで分ける学者が多いと思う
特に1575年の公家領の再編成や1577年の越前統治を持って近世の始まりとする例が多い

秀吉の政策の方は
関白前後で分ける例と更に一段階進んだ朝鮮出兵前後でその政策を分ける学者が多い
関白前は基本的に信長と変わらないなどと言われることが多く
関白後から中世の終わりと近世の始まりとする学者が多い

>>866
畿内の直轄領統治の史料に関しては秀吉時代より信長時代の史料の方が多いと言われている
ので一概にそうとは言えない

>>867
基本的な政策というより進む方向性は似たようなものになるのでは
ただ織田家は他の大名よりも力が強いのでよりはっきりと見える形で業績の残せたが
その織田家も豊臣家に比べれば弱いので豊臣家に比べれば不十分

>>868
織田関係で言えば北条家や武田家よりは多いと思う
確か両家はすべてを集めた上で5000〜6000程度だったはず
ただ領土の広さと比べてとなると織田家は少ない
877人間七七四年:2010/02/26(金) 23:28:16 ID:R6fz5wj2
>>874
そこです
信長の場合は領国が広がった後も、刀狩りが広がった形跡がないではありませんか
秀吉の刀狩り令は喧嘩停止令とセットになっており、いわば地域秩序の全国的な確立が目途になっています
柴田が越前でやったのは敵対していた宗教勢力に対する武装解除であり、
趣を別にしていると思われますが

太閤検地も同じく中央において石田を始めとする奉行達が管轄して全国規模で
大名達に指示を出し、あるいは指導を行って行われたもので
それは全国の大名にたいする軍役、序列の設定とセットになっており
全国統合策の一環として行われました
信長の検地とはやはり意味合いも趣も規模も異なるものと思えますが
878人間七七四年:2010/02/26(金) 23:34:07 ID:R6fz5wj2
>>874の後段ですが
基本的な政策が同じと言われましても
明らかに信長の領国と秀吉の政権は異質に思えます
豊臣政権の行ってきた政策やその性質からみても
明らかに信長の領国は自分の領国だけにしか介入が進んでおらず
全国統合のやり方も政策も進んでおらず
これを豊臣政権と同じ全国政権とはとても思えません
その手の届く範囲を動かし、それのみで完結しているというなら
それは明確に全国政権というよりも有力戦国大名領国でしょう
879人間七七四年:2010/02/26(金) 23:34:34 ID:2CXhcxZu
>>869
秀吉の政策で毛利の影響となると
南京銭への扱いや銀の扱いなどになるかと思うがそれらは西国に共通するので毛利からの直接的な影響というのは少ないかと思う

>>870
つながりがなく断絶しているという学者は少し昔までにはいたが
最近の学者は一部は大きく変化し一部は同質性を保っているとする学者が多いと思う

>>873
惣無事はそれこそ室町幕府でさえ平和を希求していたと思うが


自分としては秀吉政権は刀狩令海上賊船禁止令喧嘩停止令などの武士以外の身分層への平和令の方がという気が
自分は兵農分離は農村安定政策派なのでそこに兵農分離身分固定も入れたいが
ただ農村の安定や治安維持はどの大名も求めていたであろうことだろうけど
880人間七七四年:2010/02/26(金) 23:40:22 ID:R6fz5wj2
>>876
はっきりと見える形で残しているのはむしろ織田よりも北条だと思いますが
>>879
どこら辺に同質性を保っているのかがきわめて疑問です

そういう事ではありません
豊臣政権の場合は全国的に介入し、その為の政策を全国規模に展開して統合する事で惣無事につなげたもので
室町幕府とはまるで違うものでしょう

武士以外も含めて全国的政策を行い、
統合を目指す事で平和令を達成した事は
明らかに信長政権とは異質でしょう
881人間七七四年:2010/02/26(金) 23:47:30 ID:e6XCY71V
>>878
そりゃあ曲がりなりにも統一政権だった豊臣家と
ただの大大名に過ぎない織田家じゃ性質が異なるのは当然。
しかも、信長の政策は他家も行ってるものと同程度か、より旧時代的なものばかりで
豊臣、徳川の様な体系だった施策は何一つ実行してない。
882人間七七四年:2010/02/26(金) 23:53:13 ID:2CXhcxZu
>>877
>>878
秀吉の刀狩りも当初は敵対していた武装勢力に対する武装解除であり
一揆の鎮圧とセット、柴田が越前でやったのと全く同じ
山城の時は妥協することになりましたが
全国的となるのは後年の話

検地にしても光秀の軍法にあるように軍役とセットとなっている

また織田と豊臣とで規模が異なるのは当然影響及ぼせる範囲が異なるのだから
信長が全国政権かどうかなら当然それは否定されるだろ

>>880
基本的な社会構造があまり変化していないこと
秀吉の政策というのが信長の政策の延長上にあるものが多いことから同質性を保っていると言われている

室町幕府とはまるで異なるというのはそれは中身が異なるのであって政策基本姿勢が異なることとイコールではない
信長政権との比較も天下を統一した秀吉の政策が全国に及んだことと比較して信長は全国に及んでいないと
それは信長秀吉の政策が同質かどうかの問題とはまた別次元の話だと思うが

>>881
具体的には?
883人間七七四年:2010/02/26(金) 23:57:12 ID:2CXhcxZu
もう寝るが
経済スレなのだからもう少し個々の政策の中身についてレスして欲しいのだが
信長秀吉個人の話ならそれぞれの別のスレでやって欲しい
884人間七七四年:2010/02/26(金) 23:58:34 ID:e6XCY71V
>>882
具体的には?じゃなくて、他家と違う政策が何かしらあるのか?

信長のやった検地程度は、どんな有力大名も大抵実施してる
安土の様な城下町政策は小田原や岡山、春日山でも行われてる。
885人間七七四年:2010/02/27(土) 00:02:16 ID:vkh9T/UC
>>883
じゃ個々の中身について。大和での検地は権利関係が錯綜(権利譲渡されてない実力での上書き
&奉行衆等のお墨付き)していたため混乱した、徹底した検地を行ったからでは決してない。
886人間七七四年:2010/02/27(土) 00:05:31 ID:A9L1IXK6
>>882
何か話がかみ合っていないといいますか…

豊臣政権における刀狩り令の意味合いとセットになる喧嘩停止令と共に出されているのは
1588年ですね
まだ北条領土以東を屈服させておらず
全国支配してない豊臣政権ですが、明確に全国統合への道を歩んでいます
これは信長とは明確に異なるでしょう

そういう事ではないのですが
検地をして部下に軍役を科すというだけなら武田も北条もやっています
問題はですね
従属大名達までもその軍役を科して序列まで定め、明確な全国統合へ進んでいるかと言う事です
信長は徳川や北条と共同作戦する時も軍役を科してはいません
本能寺前の島津とのやり取りからみても信長の権力には他の大名を服属させ
統合する要素がないようにしか見えないのですが
887人間七七四年:2010/02/27(土) 00:10:58 ID:pVWypuJB
やっと武田を倒した織田と中期以降の豊臣政権を比べて何をしたいのかがわからないな
888人間七七四年:2010/02/27(土) 00:12:53 ID:TFx9Qfgn
もうここまで来ると個人のオナニーにしか見えない
889人間七七四年:2010/02/27(土) 00:17:21 ID:A9L1IXK6
>>882の後段ですが
基本的な社会構造が変化していない、とはこれまた奇妙に思います
信長の領国がそれまでの個々のブロック経済的なものであったのに対し
豊臣政権は全国的に物や金、人が流通しあって循環する一つの巨大な経済統合が行われ
さらには身分や秩序の確立などにおいても、全国的な社会統合においても
豊臣政権と信長領国は明らかに変化しているようですが
さらにいうと信長領国は畿内とその周辺にとどまった一つの大名権力であったのに対し
豊臣政権は全国を包括する一つの統合体です
それこそ豊臣政権はそれまでに存在していた有力大名達が作り上げた秩序を元にし
それらを整理統合し、政策を加える事で一つに包括していきました
いわば信長の領国、という「個」である織田領国と
全国の様々な有力大名達の秩序の総和である豊臣政権では明確に異なるでしょう
豊臣政権は織田領国の発展というよりも
それまでに存在した有力大名領国の総和であり、統合された形であるとみたほうがいいと思うのですが
890人間七七四年:2010/02/27(土) 00:20:12 ID:A9L1IXK6
>>887
そういう事ではなく、明らかに別趣の事であると思うのですが
>>888
どうもこの議論に参加されている方は複数いらっしゃるようですよ
891人間七七四年:2010/02/27(土) 00:21:19 ID:vkh9T/UC
>>887-888
寝ると言いつつ下らない自演するくらいなら自説を引っ込めて大人しく寝ろよw
892人間七七四年:2010/02/27(土) 00:22:37 ID:pVWypuJB
はぁ?
893人間七七四年:2010/02/27(土) 02:43:56 ID:wHinKBLb
>>891
そんなに自演であって欲しいのか。哀れな。
894人間七七四年:2010/02/27(土) 03:20:50 ID:spFb7NU7
>>848
時間もあるけど輸送料がな
100石の米を運ぶのに陸路なら150頭前後の馬と、馬の面倒見る人足が馬と同数
江戸時代、駄賃馬の費用は一里で米一升
江戸から京まで約126里、150頭の馬なら189石の米が必要になる。足がでるよね

船なら千石積みで20人前後で運行したので、どれだけコストが安くなるか
時間的には江戸初期には大阪〜江戸間を大体30日で航行だから、陸路とそれほど変わらなかったり
(これは海岸線に沿って航行し、頻繁に港に止まる(風待ち)するため)
後になると新酒を積んだ樽廻船が西宮から江戸まで10〜20日前後、
レースになると58時間で到着するという、航海技術の格段の進歩が見られたりする
895人間七七四年:2010/02/27(土) 07:58:19 ID:AMJ9/Fpn
信長が革新的かどうかを判断するなら比較対象は細川や三好の政権にすべきなんじゃあ
896人間七七四年:2010/02/27(土) 08:27:50 ID:vkh9T/UC
三好はまだしも、細川家なんて管領を務めたばりばりの室町幕府本流じゃん
897人間七七四年:2010/02/27(土) 08:37:06 ID:VaQLDpiY
三好と織田との違いは単純に掌握している権力の差もあるだろうけど、東国大名と西国大名の差もあるのでは?
西国に属する三好は東国のような支配を貫徹するような発想が無かったのでは。
898人間七七四年:2010/02/27(土) 09:06:23 ID:iz6ql8VN
>>894
>100石の米を運ぶのに陸路なら150頭前後の馬と、馬の面倒見る人足が馬と同数
>江戸時代、駄賃馬の費用は一里で米一升
>江戸から京まで約126里、150頭の馬なら189石の米が必要になる

陸路の輸送コストすごいですね。マイナスになるとは。
899人間七七四年:2010/02/27(土) 09:08:47 ID:AMJ9/Fpn
>>896
畿内政権には変わらん
信長は家臣とか国人とかの動向ですぐ政権がひっくり返される畿内を掌握できたんだから
何かしら特別な政策はとったんじゃないの
900人間七七四年:2010/02/27(土) 09:14:54 ID:Ev9iF1o4
>>899
むしろ、旧権威を復活させて利用した。
旧権威に自分の武力を組み合わせて急速に権力を浸透させたその手腕は
特筆に値する。

が、何かしら特別な政策、とか言われてもちょっと困る。
むしろ、特別な政策なんてものは、社会が安定している時期に行ってさえ
混乱が生じる物だったりするわけで。
混乱している時期なら、新たな政策で安定するはず!ってのは思い込み。
現代の「改革信仰」に通ずるものがあるけど。
901人間七七四年:2010/02/27(土) 11:34:59 ID:RyaYUi6o
>>899
国人衆への依存度が低かった
だから国人衆の発言権も低かった
902人間七七四年:2010/02/27(土) 12:36:16 ID:Kfgni2MA
元が20万石くらいの地方大名から一代で急成長したから
家臣にたいする支配力は高かったんじゃないかな
直轄領も相対的に大きかったろうし
彼が「家臣に与えてやった」領地も多いだろうし
903人間七七四年:2010/02/27(土) 14:05:36 ID:KKwCapTs
畿内統治はむしろ細川・三好と同じ事をしてたよ
904人間七七四年:2010/02/27(土) 15:01:21 ID:f8s5VXwr
信長は存在自体が革新的なんだよ
必死に否定しようとする奴がいるが
905人間七七四年:2010/02/27(土) 15:15:06 ID:6ZqH8EW2
検索エンジンなんかグーグル以前にもあったし、オンラインストアなんかアマゾン以前にもあったから
経営者は全然革新的なことなんかしてないと言い出しそうな勢いだなw
906人間七七四年:2010/02/27(土) 16:19:15 ID:HDWaStkD
信長がなぜ畿内を掌握できたか
畿内近くに大量の基盤を持っていたから
尾張美濃100万石をかなりしっかり固められていたから

細川や三好なんて
ちゃんと直轄的に保持できてた領地なんてほとんど無いからな
907人間七七四年:2010/02/27(土) 16:25:27 ID:Ev9iF1o4
>>906
阿波も讃岐も間接支配みたいなものだしね。

ただ、信長だけがあそこまで急拡大出来たのは、旧権威の使い方と軍事力の使い方
とを巧みに使い分け、拡大の速度を鈍らせなかったことだろうね。
908人間七七四年:2010/02/27(土) 16:29:52 ID:wHinKBLb
尾張美濃において信長の支配がしっかりしていたとはとても言えない。
細切れの複雑な中世的土地支配の有り方は変わっていなかったし。
そのため本能寺の後、織田家の勢力圏はあっという間に内部から解体された。
909人間七七四年:2010/02/27(土) 16:36:48 ID:KbqnuUeF
強い理由の第一は農閑期にしか使えない武士を軍事専門の武士にしたからじゃないのか。
910人間七七四年:2010/02/27(土) 16:57:42 ID:wHinKBLb
>>909
何その今は完全に否定されてるでっかい釣り針。

ちなみに信長の「兵農分離」は、その最末期にどうにか城下に旗本を集合させた程度。
他大名にくらべても遅い。
911人間七七四年:2010/02/27(土) 17:07:33 ID:iz6ql8VN
>>910
知らなかったわ。大規模な常備兵は本当にいたのかと思ってた
912人間七七四年:2010/02/27(土) 17:18:15 ID:JBA/YECJ
常備軍という言葉自体も誤解を招きやすい
西洋軍事学のそれとは全く別だし
913人間七七四年:2010/02/27(土) 17:47:56 ID:Ev9iF1o4
>>912
そうね。
ルイ14世統治下のフランス常備軍やら、オランダ独立戦争時のオランダ市民軍やら、
30年戦争のスウェーデン正規軍と、あの当時の日本軍とが同じように聞こえてしまう
ね。
914月孔雀:2010/02/27(土) 18:19:40 ID:zIuDmYy0
うーん、半農半兵が、いいのかな?
915月孔雀:2010/02/27(土) 18:22:16 ID:zIuDmYy0
日本の武士は、江戸時代、外様だけ生き残ったような・・・
明治維新で、加賀武士、参加させてもらえず・・・
補給だけ・・・

長岡で、討幕軍負けちゃった。米沢藩の技術力の勝ち!
916人間七七四年:2010/02/27(土) 18:30:07 ID:vkh9T/UC
>>913
ルイ14世統治下のフランス常備軍やら、オランダ独立戦争時のオランダ市民軍やら
30年戦争のスウェーデン正規軍は、脆弱かつ高コストなおもちゃだけどな
戦国時代の兵団とは士気が違うし何より動員力が圧倒的に違う。
>>907
三好の阿波が間接支配なら織田家の尾張も間接支配になるね、畿内は委任統治か
917月孔雀:2010/02/27(土) 18:31:59 ID:zIuDmYy0
humuhumu
918人間七七四年:2010/02/27(土) 18:35:22 ID:oJahLFcj
常備兵って金がやたらかかるから、封建制では維持出来ないだろ。
よほど収入的に恵まれてる何かが領内に無いと。

>半農半兵
この言葉って勘違いを生みやすいよね。
農民を徴用するというよりは、
予備役を招集するって方がイメージ的に近いと思う。
919人間七七四年:2010/02/27(土) 18:41:01 ID:Ev9iF1o4
>>916
おまえさん……オランダ独立戦争や三十年戦争知っていて、その発言なのか?
だとしたら………う〜〜ん。戦史がひっくり返るね。
920人間七七四年:2010/02/27(土) 18:45:34 ID:wHinKBLb
今は兵農分離の完成を徳川家光の寛永期だとして、
その前段階としての「兵農一致」と言う概念も提唱されている。
921人間七七四年:2010/02/27(土) 18:50:02 ID:KKwCapTs
信長が伸張したのは意外と面倒見がよかったという点もあるんじゃないかなと
922人間七七四年:2010/02/27(土) 19:11:01 ID:vkh9T/UC
>>919
そっちが実態をよく知らないからこそ、んな書き込み出来るんだよw
三十年戦争も断続的にだらだらやり合ってたのは
当時の欧州の軍隊が小手先だけの組織で貧弱かつ脆弱だったから。

破壊力も統制も高度に発達した近代戦は、国家を挙げての総力戦でさえ数年で終わる
オランダ独立紛争なんて、スペイン側はあちこち足引っ張られて当時の保有兵力すら満足に動員出来てない。
923人間七七四年:2010/02/27(土) 19:21:12 ID:Ev9iF1o4
>>922
やっぱり、よく知らないんじゃないか。
三十年戦争の頃の「スウェーデン正規軍」とは、スウェーデン戦争のリッツェン会戦
の頃までのスウェーデン中枢を占めた部隊のこと。それ以前の補助部隊やそれ以
降の主力部隊は、ドイツ諸侯の寄せ集めや傭兵部隊といって、それ以外の国々の
部隊と大して変わらない。

また、「オランダ市民軍」とは、マウリッツ・オラニエの軍機構改革によって生まれた
近代史上初の常備軍的市民軍。別名「軍事革命」。ちなみにグスタフ・アドルフによ
るスウェーデンの軍事機構整備は、この軍事革命による影響が極めて大。

で、ここで何で近代戦がいきなり出てくるのか意味不明なんだが。
そもそも、マウリッツ・オラニエ、グスタフ・アドルフ、ルイ14世ってのは、近代的軍
隊の直接的な祖先だぞ?
924人間七七四年:2010/02/27(土) 19:34:35 ID:xTe6L1hR
ROM専だけど
>>922>>923
どっちが正しいんでしょう。
欧州のことは門外漢なんだけど気になる。
925人間七七四年:2010/02/27(土) 19:40:28 ID:vkh9T/UC
>>923
何も知らないのはオマエ、オランダ市民軍とは近代史上初の常備軍的市民軍などでは到底なく
戦国後期に行われた、農民を百姓衆身分のまま一時的に補助的な雑兵として投入した事例と同じ。

スウェーデン軍の軍事組織改良も、それまで遅れていたものが漸くオスマン朝に追いついただけ。

欧州近代軍隊の礎はナポレオン、それ以前の欧州に近代的な軍隊など存在してない
926人間七七四年:2010/02/27(土) 19:41:27 ID:JBA/YECJ
常駐軍というのが適当かなと思っている
927人間七七四年:2010/02/27(土) 19:44:23 ID:Ev9iF1o4
>>924
本読んで自分で調べて。

これ(>>925)とか、史学上の常識とか思われても困る。
(ナポレオンが軍人として栄達していった軍隊は、>>925の様だったと主張したい
らしいから………たまらん)
そもそも、ナポレオン個人、もしくはその時代だけで、いきなり近代的国民軍が
できあがるとか思ってるのが度し難い。
928人間七七四年:2010/02/27(土) 19:51:36 ID:Tn85xrCC
頼むから戦国時代の話をしてくれ。
929人間七七四年:2010/02/27(土) 19:53:07 ID:vkh9T/UC
条件の醸成が徐々に進んでいたにしろ
近代的な国民軍が姿を現したのはフランス革命政権下
ナポレオンが創り出したわけじゃ無いけど、新生フランス軍を率いて猛威を振るったのは確かだしね。
930人間七七四年:2010/02/27(土) 19:53:29 ID:RyaYUi6o
>>910
城下に住もうが住まわんどこうが旗本自体が軍事専門の武士だろ?
味方の兵の損害をきにせずに城攻めするにはこれがないと話にならん
たとえ旗本が1000も本隊に有ればそれで十二分に強力な軍となるが
931人間七七四年:2010/02/27(土) 20:18:55 ID:wHinKBLb
>>930
えーっと、
旗本ってのは主君直属の親衛隊ってだけで、軍事専門とかそういう話じゃないんだが。

城下に居住していないって事は、それぞれの領地で領主としての仕事もさせられてるってわけで
(代官による領地経営が不十分だという事)
国人領主達と大差無いことになる。
932人間七七四年:2010/02/27(土) 20:51:32 ID:pVWypuJB
親衛隊は馬廻りだろ。旗本はそれらを含む直参。
933人間七七四年:2010/02/27(土) 20:58:56 ID:wHinKBLb
>>932
親衛隊的な組織には馬廻、旗本、番衆といった様々な文字が当てられ
同じ家中の中ですら統一されていない。
この時代の組織名称にあまり精緻さを求めると間違うぞ?
934人間七七四年:2010/02/27(土) 21:45:34 ID:KbqnuUeF
ところで結論は兵農分離は肯定なの否定なの?
秀吉なんて農をしていなそうだし、その他の人も農業を
しているようには思えないのだが・・・・
935人間七七四年:2010/02/27(土) 21:48:38 ID:oJahLFcj
武将だけで戦争が出来る訳ないだろう。
936人間七七四年:2010/02/27(土) 21:53:06 ID:vkh9T/UC
>>932
武田だと親衛隊的なものは旗本衆と呼んでいて
織田では馬廻り衆と呼んでいた、ってだけでしょ。
軍鑑を見ると、本隊廻りに付く部隊は旗本衆だし
937人間七七四年:2010/02/27(土) 21:53:21 ID:wHinKBLb
>>934
厳密に言えば織豊政権は兵農分離どころか、その軍事活動は農村からの人材提供に
大きく頼っており、むしろ兵農一致状態だったと言われる。

兵農分離は江戸期になって平和が長く続き、農村の生産性の向上、都市の浮遊人口の増加による
軍役、使役の銭納化によって初めて成立したと考えて良いかと。
938人間七七四年:2010/02/27(土) 22:01:38 ID:JBA/YECJ
農村からの人材提供は夫役としての陣夫・小荷駄としてものであり、これは戦国期も江戸期も基本的に変わらない
銭で夫役を免除しようとするのは戦国期も変わらない
939人間七七四年:2010/02/27(土) 22:17:52 ID:RyaYUi6o
>>937
士農工商してなきゃ兵農分離ではないという立場か?
940人間七七四年:2010/02/27(土) 22:46:52 ID:wHinKBLb
>>939
そういう意味じゃない。
本来農村から提供される軍役、使役の人数が、都市の浮遊人口の増加と
それらを取りまとめる人材派遣業の成立、そして農村の生産性の向上により
銭納と都市(城下町)からの軍夫、人夫の提供のシステム化が成立した。

これがだいたい寛永のころであり、これをもって兵農分離が完成したとされる。
941人間七七四年:2010/02/27(土) 22:48:18 ID:vkh9T/UC
>>939-938
軍役衆は武士じゃないし、小身の御家人衆も微妙なところ
時代の経つほど代官制が進んでいったから早い時期は特に。
942人間七七四年:2010/02/27(土) 23:38:06 ID:zhvu/qcP
943人間七七四年:2010/02/27(土) 23:47:09 ID:JBA/YECJ
>>941
そういうのは農村の名主層で、自主的に軍役奉仕をした連中だったかと
どちらかというと義務的なものではなかったと思いましたが
944人間七七四年:2010/02/27(土) 23:56:52 ID:CBbUCFu7
20世紀でもいざとなりゃ国家総動員で軍も民間もあったもんじゃない
945人間七七四年:2010/02/27(土) 23:59:40 ID:iz6ql8VN
農村から集める時のコストって馬鹿にならないと思う。
攻める→集めさせる→撤退→攻める→集めさせる
を繰り返して狼がキターように信じなくなって、相手がコストを惜しんで兵を集めなくなったら攻める
とかやると相手の裏をかけるかも。
946人間七七四年:2010/02/28(日) 00:02:06 ID:OYXCLJ8a
>>945
攻める側も集めにゃならんのですけど
947人間七七四年:2010/02/28(日) 00:20:06 ID:PKi4YTnt
> 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。」
948人間七七四年:2010/02/28(日) 00:24:49 ID:vsu+1x/F
>>946
しまった
949人間七七四年:2010/02/28(日) 00:30:28 ID:dkI4tTWS
>>943
領主側から直接強制されて軍役に奉仕した人間は
普遍的には存在していないか限られた存在だったと思う
あと、軍役衆は別に名主層に限らず百姓層にも普通に存在していた。
御家人衆や領主から第一義的に軍役を請けていたのは、もちろん名主層だろうけど。
950人間七七四年:2010/02/28(日) 00:40:50 ID:vsu+1x/F
戦国時代の情報網・兵站網について
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267284849/

こんなスレが
951人間七七四年:2010/02/28(日) 05:33:53 ID:h2leBYat
まさか兵農分離論になるとは…

わかりやすいのは、近代の徴兵制(太平洋戦争)と志願制(自衛隊)の差。
どちらがより兵力を得られるかは言うまでも無い。

>秀吉なんて農をしていなそうだし、
>その他の人も農業をしているようには思えないのだが
秀吉とかの位置は、農業の経営者の方。
今は自作農ばかりだからイメージしづらいだろうけど、
トヨタの社長が現場で車を作ってないのと同じ話。
社長が何人か社員をお供させて連れてくるのが、いわゆる農兵の動員。
952人間七七四年:2010/02/28(日) 08:35:47 ID:sCSDBbYv
幕末も動員兵力戦国時代に比べると1/8ぐらいに減ってるけど農民が混じってないからなの?
薩摩でさえ1500とかだったよね。
長州も100万石あったといわれるわりに3000と少ない。
953人間七七四年:2010/02/28(日) 08:44:43 ID:gx74Ow3d
たしか秀吉は
村で農作業しない奴(戦働きだけで稼ぐ人)タイーホね!って法令だしたんじゃあ
954人間七七四年:2010/02/28(日) 12:12:17 ID:PKi4YTnt
>>952
長州征伐での幕府軍は軍役通りの数を出してる。
薩長の数が少ないのは、端的に新式の武器がその程度しか揃わなかったため。
幕末では既に、数だけいても意味がなくなっていた。
955人間七七四年:2010/02/28(日) 12:31:40 ID:y4MQpIM3
最精鋭である赤備えが代々受け継いできた戦法で挑んで
新式の武器の前にまさかの惨敗を喫してますし
300年という時の流れの差は無情を感じさせる
956人間七七四年:2010/02/28(日) 14:54:36 ID:wGytZOZJ
>>953
雑兵の足軽化という奴だな
957人間七七四年:2010/02/28(日) 15:03:39 ID:ceoZUbIS
【一領具足】戦国時代の兵農分離【郷士】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267337010/
958人間七七四年:2010/02/28(日) 21:22:01 ID:T3EeA+Ty
> 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。」
959人間七七四年:2010/03/01(月) 01:44:58 ID:MK6O4638
池上ちゃんはいつも良い事書くね、的外れな事ばかり書く研究者連中とは大違い
960人間七七四年:2010/03/01(月) 02:45:35 ID:XR0AHnZA
>>958
それで北条・武田の動員兵力は単独で織田以上出すことが出来るのかw
そんなきちきちに決めなければならないほど織田家は兵に困っていたわけではないw
961人間七七四年:2010/03/01(月) 02:52:29 ID:2HCiqq8y
光秀は、丹波貰ってからは石高で軍役定めてたよな
他の織田武将にはどの程度浸透してたんだろうか
962人間七七四年:2010/03/01(月) 03:01:18 ID:TDlTgSGP
>>960
畿内とその他の人口の差を考えろよ
963人間七七四年:2010/03/01(月) 03:04:21 ID:MK6O4638
>>960
結局その緩さと不透明さ故に頓死した、って話だよ。
964人間七七四年:2010/03/01(月) 03:20:42 ID:XR0AHnZA
>>962
だからそこまで細かくする必要が無かったってことだろ
統一すれば無駄を省いて効率化をしたかもしれなかったが

>>963
武田が滅んで中央の人材が薄くなったということも有るが
概ねそのとうりだなw
965人間七七四年:2010/03/01(月) 03:31:53 ID:9C3v3CGr
北条・武田の涙ぐましい努力も無駄だったようだ
966人間七七四年:2010/03/01(月) 04:14:20 ID:MK6O4638
>>964
客観的な基準による統治を行わなかった事と
方面軍の将帥にフリーハンドを与え過ぎた事が横死に結びついたわけだから
必要は有ったでしょ、何度か離反される前例があったのだし。
967人間七七四年:2010/03/01(月) 06:54:10 ID:6C1QrHfp
>>965
無駄じゃなかったろう
そのおかげで北条・武田は領国に比して大きな兵力を持ち
統制された行動と領国統治を行えた
織田政権の崩壊とそれまでの流れを見ればさすがに織田は手が行き届いて無かったんだろう
968人間七七四年:2010/03/01(月) 08:09:06 ID:MB4lJWqZ
織田厨ファビョんなって
969人間七七四年:2010/03/01(月) 09:21:19 ID:4m893MwR
ちょっと上みたけど三好は偉い過小評価されてるなぁ
細川と三好も似たような者で信長が畿内を掌握したとか…
信長の野望やりすぎなんじゃねえの?
970人間七七四年:2010/03/01(月) 10:18:36 ID:+u54xfQ/
で、経済の話は何処にいったんだ
971人間七七四年:2010/03/01(月) 11:53:33 ID:XR0AHnZA
>>966
戦争は恐ろしく忙しいからな
君の言う通り必要だが後まわしになった

>>967
無駄ではなかっただろうがどちらも滅んで無駄に終わったな
その点は織田も変わらんがwww

>>969
三好は一存義賢義興が死んでからさっぱりだったのが理由じゃね?

>>970
経済だけが独立してあるわけではないのでw
この話を振った奴に文句いいな
972人間七七四年:2010/03/01(月) 16:08:46 ID:RoOSqVEE
>>969
三好一派も一枚岩ではないからな
973人間七七四年:2010/03/01(月) 18:11:21 ID:6C1QrHfp
>>971
北条も武田もその制度や政治、軍制は徳川が参考にしてその手本となって
後世に引き継がれたんだから無駄じゃなかったろ
いいものを残せばやっぱり後に残る
974人間七七四年:2010/03/03(水) 18:36:57 ID:+T6GsQhI
塩ってどのくらい価値があったんだ?
塩どめで武田が窮するくらいだから相当生活にかかせないと思うんだが
975人間七七四年:2010/03/03(水) 18:44:38 ID:xOjIMe/A
塩1合10文前後
976人間七七四年:2010/03/03(水) 19:35:40 ID:GrCl5m6W
>>973
言葉か足りなかったな
制度が無駄じゃなくて努力が無駄になったってことね
家が滅んだら本末転倒だからなw
977人間七七四年:2010/03/03(水) 19:56:36 ID:+T6GsQhI
塩は専売されていたくらいだから儲かると思ったんだけど微妙ですね
978人間七七四年:2010/03/03(水) 20:10:05 ID:k7bCmXJo
今川からすれば武田宛の塩を止めてもそれほどの損害では無かったのか
別の場所に売ることでその分の損害を補填したのか
979人間七七四年:2010/03/03(水) 20:27:41 ID:Kipfnxqb
>>977
生命維持に絶対に必要な成分だから、独占出来れば1粒いくらみたいな阿漕な商売になり得るから専売してただけ

競合相手がいれば価格競争になるのは当然
980人間七七四年:2010/03/03(水) 21:12:24 ID:lVx6QJKu
秀吉が集めた黄金って現在の価値で60億円ぐらいなんだってね
当時の経済規模を考えたら単純比較はできないんだろうけど
意外な少なさだ
981人間七七四年:2010/03/03(水) 21:24:53 ID:BGbgRGag
塩分を摂らないと、人間は死ぬ。
国主が塩を調達できない=領民がみんな死ぬor逃散するor反乱を起こされる、ということ。
武田家は今川家からの調達ルートを失ったことで、新たなルートを
探さなければならなくなった。今川は同盟国だから安く売ってもらってた
かもしれないけど、他のルートでは高く売りつけられる可能性が大きい。
武田家にとっては大損害。
982人間七七四年:2010/03/03(水) 21:33:07 ID:R243qhT6
実際問題、逃散や反乱は起きてないのだから
駿河商人が売らなくなれば、その隙を埋めるように別の商人が多少プレミアム付けて売り捌いたんだろ
983人間七七四年:2010/03/03(水) 22:10:18 ID:h/mMslLB
いざとなったらお互いの体をペロペロし合えば塩分補給できる
984人間七七四年:2010/03/03(水) 22:14:16 ID:ZpDzpZmw
>>969
経済面についても、三好氏のものを信長が踏襲しているって部分はあるんだけどね。
畿内は権門勢力の膝下であり、彼らの権益を保全するということは土地掌握が困難ってことだし。
985人間七七四年:2010/03/04(木) 02:47:56 ID:9fyYvAkn
>>978-983
サンクス
上杉にとっては美談でもあるし
ふっかけられるおいしい話でもあったわけだな
986人間七七四年:2010/03/04(木) 03:13:15 ID:hvFBJbcP
>>916
三十年戦争はドイツの人口のほうが圧倒的だからすぐに傭兵に頼るようになっただけでは?
農民の徴兵より傭兵隊長と契約結ぶほうが金はかかるんじゃないの
987人間七七四年:2010/03/04(木) 03:26:42 ID:TfTqKG/Z
徴兵したりや軍役を負担させる基盤や組織を持たない
農民が戦争から遊離した簡素で粗雑な体制だったから
傭兵しか軍事力を補強する手段が無かった、それだけ。
988人間七七四年:2010/03/04(木) 03:27:16 ID:xIWFpWTY
>>986
三十年戦争について語ろう
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1024025515/
989人間七七四年:2010/03/04(木) 03:27:50 ID:c138Mn6S
農民を徴兵すると収入が減るじゃない。
だったら戦時を言い訳に重税を課して、その金で傭兵を雇った方が良い。

北条氏の賦役が同じ経過を辿ってる。
年二十日は労役として納めさせるとして、
武田氏との全面抗争などでそれ以上の労働力が必要になった時がある。
しかたなく税の控除を理由にこき使っていたんだが、控除しすぎて収入が減る減る。
こりゃまずいってんで、一日二十文の支給に切り替えた。
990人間七七四年:2010/03/04(木) 05:41:46 ID:TfTqKG/Z
意味不明、見事なまでに本と末が引っ繰り返ってるw
北条が平時以上の負担を要請したのは、北条家に属する給人、職人や
村ごとに割り当てていた賦役じゃ足りなくなったから。

傭兵と置き換わるのは給人部分で、主力ではあるけど人数は少ない
しかも、傭兵は決して富みを産まず集団の富みを費消するだけ
農民を軍役に就かせる場合、広く見られた歩者なら富みも産む。

それから、税の控除が費用の支給へ切り替えられたのは
村の側がそれを望んだからであって、収入の減りが理由じゃあない
事が終わった後に為される御憐憫より、その場での支給がありがたいのは自明の理。

そもそも控除が対価支給より多額になる理由が無い、色々意味不明過ぎるw
991人間七七四年:2010/03/04(木) 10:25:39 ID:PrHjosDb
>>981
当時は織田徳川とも同盟国だったからそっちから買えばいいだけ
実際経済的な影響はまるで出ておらず、これが原因で逃散も反乱も起きてない
武田にとって大損害どころかろくに損害があったかさえ微妙なところ
992人間七七四年:2010/03/04(木) 12:27:58 ID:qEEtOzeZ
>>990
>農民を軍役に就かせる場合、広く見られた歩者なら富みも産む
…意味がわからん……
993人間七七四年:2010/03/04(木) 13:39:15 ID:c138Mn6S
>>990
労役と軍役の違いもわからないと
994人間七七四年:2010/03/04(木) 14:07:46 ID:KwlEP3lM
北条・武田の軍役制を高評価する人がよく出没するんだが
極端すぎて珍説になってしまってる
995人間七七四年:2010/03/04(木) 14:12:31 ID:xIWFpWTY
近世に引き継がれた制度なんだから評価が高くて当然だろ。
むしろ頑迷に評価しない人間こそ極端な珍説になっていることに気がついた方がいい。
996975:2010/03/04(木) 14:38:40 ID:MVLKCw/i
すまん間違えた(;´Д`)
1合ではなくて一升
997人間七七四年:2010/03/04(木) 15:09:37 ID:c138Mn6S
>>994
じゃあ、伊達や島津の諸制度について語ってくれて良いよ。
998人間七七四年:2010/03/04(木) 15:19:00 ID:B9p+lBIp
【一領具足】戦国時代の兵農分離【郷士】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267337010/
999人間七七四年:2010/03/04(木) 15:37:24 ID:1heNAgN+
九州の大名は知行面積に付き何人という基準
給地の方法が耕作地の面積なのでそれに準じている

得られる作物の価値を基準としている東国に比べて
劣っているのは確か
1000人間七七四年:2010/03/04(木) 15:46:04 ID:B9p+lBIp
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
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