1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 18:47:41 ID:C3j+HY3G
3 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 23:31:58 ID:EDV+xdCZ
早速、お聞きしたいんですが、
荒木村重夫人はキリシタンで”ダシ”という名は
洗礼名だというのは本当でしょうか?
ダシって、ヨーロッパの女性名には、思えないんですが。
たとえば、ガラシャはイタリア語だと、ガラツィアかな、とか
想像付くのに。
4 :
人間七七四年:2009/02/10(火) 16:37:25 ID:nWjMH6U6
現在、名古屋城や安土城などのいかにも戦国!といった感じの
城を建てるとするとどれくらいの費用がかかるのでしょうか?
土地代を除いた大体の数字を教えてください。
5 :
人間七七四年:2009/02/10(火) 16:45:08 ID:Bb5WfVOg
安土城も名古屋城もいかにも戦国!って感じの城ではないと思うぞ
6 :
人間七七四年:2009/02/10(火) 17:31:05 ID:MrgImfhU
一般人が思う戦国風の城:石垣・水掘・瓦葺の白亜の天守
戦国オタが思う戦国風の城:土塁・空堀・よくて板葺きの櫓
7 :
人間七七四年:2009/02/10(火) 18:13:17 ID:wKaVtbla
かなり若いのに長可が大領を与えられたのはなぜですか?
8 :
人間七七四年:2009/02/10(火) 18:24:37 ID:dKMA1cGO
まぁ、いつ頃までが戦国なのかにもよるから、江戸初期を含めてイイかな?
伊予松山城(加藤嘉明・20万石)の場合、約3年で
築城しているけれども、定免法で年貢を7割徴収
しないと追っつかなかったくらいだから、相当な
金が掛かったでしょう…ン万両で効いたかどうか
寛永年間まで(20年以上)影響が続いたらしいです
から…
9 :
人間七七四年:2009/02/10(火) 19:32:37 ID:nduaxAoT
側役って、具体的にどんなの?
今やってる大河の、(景勝に対する)カネツグ&上田衆みたいなもの?
10 :
中山幸盛 p1069-ipbfp203tokusinwcc.tokushima.ocn.ne.jp:2009/02/11(水) 00:11:21 ID:aSvhWiFd
11 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 00:47:38 ID:8YpnfnsS
秀吉や家康が功労として全国の土地を分けた時に
ミスをして同じ土地を間違えて二人に
与えてしまって大いに揉めたなんて事は
なかったのでしょうか?
12 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 01:06:39 ID:RVIaLl8y
>>9 側役とは主君の身辺世話役のことです。
主君が幼い場合は、重臣の子弟が小姓として仕える場合が多かったと思われます。
大河で放送している景勝の側役は直江兼続&上田衆は小姓と云われた方々です。
主君が成人の場合は同年代から小姓まで千差万別だったと思います。
大河の上杉家のことは詳しく知りませんが
龍造寺家の場合には隆信に51名、子政家に73名の側役がいたことが分っています。
13 :
9:2009/02/11(水) 01:52:30 ID:kgyvBOOp
>12
ありがと、参考になった
14 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 01:55:52 ID:mjEltPpG
>>7 贔屓・・・というのも芸が無いな。
親子二代での功績が評価されてって所じゃ無かろうか。
15 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 16:51:29 ID:MIWSdu0P
突飛な発想ですが政宗は実は、義光と義姫の子ではないか?
輝宗・弟殺害は伊達家乗っ取りとか有り得ないでしょうか?
戦国時代に兄妹による近親相姦はあったか?
16 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 17:02:37 ID:oO/viI3D
証拠を提示できないのならば、貴方の妄想にすぎません。
17 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 18:24:37 ID:F1XB+OWF
>>15 信長とお市の話を鵜呑みにし過ぎ
まぁ…NHKすら上記の説を大河に持ち込みそうになったから、田舎の大名で…と考えるのもムリはないけど
18 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 18:28:13 ID:F1XB+OWF
戦国じゃないけど、明治の頃の長野で、島崎藤村の父親が近親相姦してるけどね。藤村自身も姪を妊娠させてるし…
山奥や田舎の名家なら、近親婚なども有り得ない事はないけど…如何せん物証がなさ過ぎて…
19 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 21:40:23 ID:QS+f2N8j
>>14 ありがとうございます
可成が死んでも森一族は活躍していたんですね
20 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 07:06:14 ID:AWTYxNzM
大河ドラマ 葵 徳川三代 第13回 「三成最期」の後半で、西田敏行扮する徳川秀忠の
「御前に侍りまするは、豊臣が“あそん”、徳川秀忠に御座りまする」というセリフがあるのですが
この“あそん”とはどういう字でしょうか?また意味も教えてください。
21 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 09:20:59 ID:bi79eYmU
>>20 朝臣(あそん)
読んで字の如く、朝廷の臣の意味。
○○藤原朝臣△△みたいな風に使う。
血統の主張だね、要は。
私は藤原家の末裔で、元は朝廷の臣だった○○△△ですよって言ってる。
源朝臣なら、源家の末裔で元は朝廷の臣ですって言ってるわけです。
22 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 09:37:47 ID:bi79eYmU
追記
徳川秀忠の言ってるのはちょっと意味合いが違う。
豊臣政権を通じての朝廷の臣ですよ、私って言う感じかな。
正直、少々セリフとしておかしいと思うけどね。
朝臣って基本的に姓(カバネ)に用いられる言葉なんで。
秀忠なら本来、「豊臣が家臣、源が朝臣」とかって風に名乗るべきだと個人的には思う。
23 :
20:2009/02/12(木) 10:22:47 ID:o2mt03+L
>>21,22
どうもありがとうございました。勉強になりました。
24 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 10:51:21 ID:NIBvYeAh
>>22 いや、この場合は豊臣姓を貰っている徳川秀忠という意味合いかと
家康は不明だが、秀忠は間違いなく豊臣姓を貰っている
25 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 11:09:02 ID:bi79eYmU
>>24 それは知らなかった。申し訳ない。
確かに豊臣の氏を貰うのは当時の流れとしてありますよね。
頭の中で徳川は源氏系譜を名乗って別氏を貰ってたって流れが完全に無くなってました。
26 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 11:29:04 ID:HOltdU3c
徳川秀忠が誰に対して申しているかだな。
亡き太閤秀吉に対して申しているんだったら、
「私は豊臣の子孫で御座りまする」って云ってるかも。
27 :
20:2009/02/13(金) 17:15:26 ID:85fPAdQS
そのシーンですが、関ヶ原の合戦での徳川方の勝利を、大阪城にて
豊臣秀頼・淀君に報告しています。
また、秀忠の前に家康が「(勝利したのは)ひとえに太閤殿下の御威光あってのこと・・」と言っております。
28 :
人間七七四年:2009/02/15(日) 23:58:10 ID:66Q+Ga9H
>>15にも出てますが、兄妹・姉弟について質問させてください。
当時、大名が叔母を側室にした例があったようなので、
平安時代でよくあった異母間の結婚も、戦国時代にもまだ残っているのかと
検索してみましたが、よくわかりませんでした。
戦国時代の基準では、すでに異母間もタブー視されていたんでしょうか。
29 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 00:35:47 ID:zpJqZpjd
武士の挨拶で、刀を一寸ばかりちょっと抜いてカチンといわせる…
ていうのがあるんでしょうか?
あるとしたら、どんな意味なんでしょうか?
「独眼竜政宗」で、政宗の重臣が死を覚悟して出兵する際、
政宗に対してやっていました。
30 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 02:38:32 ID:ExyZul4H
>>29 「金打(きんちょう)」の事ですね。
昔、誓約の印しとして、または覚悟を示すものとして、金(属)同士を打ち合わせて音を立てる事です。ちなみに…
◎武士→刀の刃・鍔
◎僧侶→鉦(かね)
◎女性→鏡
…同士を打ち合わせたそうです。
31 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 07:01:32 ID:TaFa00OH
>>28 長宗我部や日向伊東の話が知られているが、
当時異母兄弟どころか叔母と甥の婚姻もおかしいと言われている。
近親姦が無かったとはいわんが、タブー視する人間がいたのは間違いないんじゃないか?
現代でも内縁関係に限れば叔父・姪、叔母・甥の夫婦関係は認められる。
もちろん親子(実・義理問わず)・兄弟(実のみ。義理は除く)は内縁関係であろうと不可。
32 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 11:11:09 ID:0VnGflly
小説や本で越後の虎と記してありますが、龍でないのですか?
虎は武田信玄では?
33 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 12:04:58 ID:YxegUCd2
越後の虎とも言われているよ
詳しくは知らないけど諱の景虎の「虎」の文字をとっての事だろうね
越後の龍ってのは「龍」と書かれた旗印を使っていたのでそう呼ばれているらしい
ちなみに晴信も甲斐の龍と呼ばれてもいる
こっちは用いられた龍の朱印からきているとのこと
34 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 14:07:28 ID:zpJqZpjd
>>30 レスありがとうございます!
さすが戦国板ですね!
謎がとけてスッキリしました。
35 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 18:10:05 ID:Ay/aj5fl
>>31 仲哀帝崩御に際しての大祓えで祓われた罪の1つに「上通下通婚」がある。
信長公記には信長による近親姦の可能性を示唆する記述が存在する。
36 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 18:42:48 ID:UflV0aCP
37 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 19:51:58 ID:Ay/aj5fl
>>36 若かりし信長が「うつけ」「たわけ」と呼ばれたのは知ってるだろ。
信長公記全篇を通じて「うつけ」が2回、「たわけ」が6回出てくるのだが、
「たわけ」と言うのは決まって斎藤氏側で、織田家中はうつけとしか言わない。
そしてたわけという言葉の意味として最初に出るのは近親姦だ。
おやこたわけ、うまたわけ、などという古い言葉もある。
38 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 19:55:01 ID:zkAuLpd7
・・・
39 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 21:57:26 ID:TaFa00OH
>>37 タブー視された近親姦は親子姦だろ? 兄弟姦は入ってないはずだが?
もし兄弟姦も「たわけ」に入るというなら、
兄弟姦同様に戦国時代にはタブー視されていた叔父と姪、叔母と甥の関係も入るはず。
この叔父姪・叔母甥の相姦関係の存在する長宗我部や伊東関係で「たわけ」と出てる史料はあるのかね?
テレビ番組で確かにこの話は紹介されていたが、考証なんかしてなかっただろ。
現代では「たわけ」の意味するところは「アホ」や「バカ」と同じであり、
江戸時代の「たわけ」も同じだったはず(鸚鵡籠中記か何かにあったような無かったような)。
示唆しているとするには、傍証を欠くべきではない。
個人的には面白いと思うけどねw
40 :
28:2009/02/16(月) 22:55:27 ID:A6dztVR5
いろんな意見ありがとうございます。
41 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 23:12:12 ID:Ay/aj5fl
>>39 兄弟姦のタブー視は古事記にすでに記載があるよ。
言葉の意味するところについては広辞苑を見ると良い。
無論、37で書いた内容以上のものはなく、傍証も何もない。
まぁ今日一般に流布してる信長像とは異なる認識を持った変わり者の
とっぴな空想と思ってくれて構わないw
42 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 00:21:57 ID:Zdly8AIo
37はすごいな。あまり触れないほうがよさそうだ。
43 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 02:42:56 ID:9rr/ub9H
叔(伯)父×姪、または…甥×叔(伯)母による婚姻
は認められていたらしいね…天武帝×持統帝とか。
戦国時代の場合は、島津義久の夫人が同年の叔母
(父・貴久の妹)だったそうだけど…確か子供はい
なかったと思う。ちなみに、二人目の夫人は従妹。
(つまり最初の夫人の姪)
中央から離れた、しかも南方系の名家だからこその事情なのかも…
44 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 10:46:23 ID:RE73HAZa
>>37>>41 なんというか、英訳ソフトにぶち込んで無理やり機械的に翻訳させた文章みたいだな。
「たわけ」に近親姦の意味はあっても、言葉の意味はそれだけではないのだから、きちんと
前後の文章から意味を汲み取らなければ間違えるに決まっている。
>39は傍証と言っているが、まず信長公記の記述を確認したのか?
一例を挙げると、道三との会見のくだり
「此の子細は此の比上総介偏執候て婿殿は大だわけにて候と道三前にて口々に申し候ひき
左様に人々申し候時はたわけにてはなく候よと山城連々申し候ひき」
「たわけ」を「近親姦」と訳した場合、道三の返答が
「みなが近親姦しているという場合は、近親姦はやっていないものだ」
と、わけのわからない文章になる。
さらに道三は信長の行列を覗き見し、その後に正装で現われたのを見て
「さては此の比たわけを態と御作り候よと肝を消し」
と言っている。これも「近親姦」の意味で訳せば
「さては近親姦をよそおっていたのかと驚いた」
となってしまう。なんですかこの文章。
45 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 14:23:54 ID:Lm/KmmOv
浅井氏の史書には茶々の生まれた記述だけがなぜかなく
信長が浅井家にお市に会いにきた時に、部屋に2人だけでいちゃついてたと書かれており
明らかに茶々が信長とお市の子だと思われる。
46 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 14:29:38 ID:6aXEUasm
>>44 ワロタ。
その例の大だわけは、「ものすごい近親相姦」とか意味わからんことに成るしなw
言葉を厳密に使うのは結構なことだが、全ての人が厳密に使っているわけではない。
重要なのは言葉じゃなくて文意。
47 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 17:17:26 ID:xuWXTbHN
足利義輝と共に鉄砲による武装を推進した柳沢元政ですが…。
それは具体的にどのような活動をしたのでしょうか?
48 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 22:26:14 ID:ppHzqCmq
>>44 中学生か高校生ぐらいかな?
勝手に『「たわけ」の訳が「近親姦」である』と断定しないように。
37は35において「近親姦を示唆する記述(=「たわけ」)が存在する」と述べているのだから、
「たわけ」=「近親姦を示唆する言葉」であって、「たわけ」=「近親姦」ではない。
示唆することと同じ意味を持つことは違うのだから、置換すべきではない。
置換するのであれば「近親姦をするようなふしだらな愚か者」のような言葉になるべき。
あと、「傍証」の意味を取り違えてるみたいだから気をつけよう。
傍証を行う場合、この例でいうと「信長公記」以外で検証しなければならないため、
「信長公記」の該当部分を改めて確認する必要は無い。
37の説がおかしいのはわかるしそれにツッコミを入れる気持ちもわかるが、
変な文章でレスするのはやめよう。
あと、トンデモ説ではあるがTV番組で扱われているので、知ってる人はわりといるぞ。
もちろん誰も本気にしちゃいないがなw
49 :
人間七七四年:2009/02/18(水) 20:11:27 ID:dgmJahBg
小説から得た知識なので、前提自体が
間違っているかもしれませんが
直江兼続は石田三成と義兄弟、
前田慶次郎とも義兄弟と聞きました
ということは三成と慶次郎も
義兄弟ということになるのでしょうか?
50 :
人間七七四年:2009/02/18(水) 20:20:51 ID:JMhlIvn7
51 :
人間七七四年:2009/02/18(水) 20:40:12 ID:K14iV/jk
例えばあるヤクザが別の二人と盃交わしたからって、その三人が親子や兄弟になるわけじゃないだろ。
そのヤクザとは個別に関係があっても、別の二人は面識があるかどうかさえあやふやなんだから。
例がヤクザってのは、あくまでも盃事が最近ヤクザくらいしかしてないから挙げただけです。
52 :
49:2009/02/18(水) 21:15:52 ID:lWmagLaQ
なるほど、血縁や婚姻で一族になるわけではないから無関係なんですね
ありがとうございました
53 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 17:25:35 ID:cy8mDp0i
秀家が八丈島より泳い参った話は、いつごろにどのスレで発祥したのですか?
54 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 17:37:00 ID:yHHiEwIa
たしか、どうやったら豊臣家は徳川家に勝てるかどうかのスレだった気がする。
大坂の陣の時点で大坂方はただでさえ不利な上、
譜代と浪人衆が内輪もめしてまとめ役不在なのがよりいっそう痛い
↓
まとめ役がいればどうよ?
↓
秀家あたりはどう?
↓
泳いで参った
だと思った。
55 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 20:24:51 ID:bWNZC1Bl
織田秀信の家臣に「岐阜四天王」なる四将がいたそうですが、
調べても米野合戦で活躍した飯沼長資(小勘平)しか
名前が分からなかったのですが残る三人は誰ですか?
家老の木造長政や百々綱家らがそうなのですか?
56 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 10:12:07 ID:nO3euNh8
仙台藩百姓って昔から変わらない方がレスしてるんですか?
昔は些か毒を含んだムッとさせる語り口ながらも、独特の鋭い切り口のレスが多かったと思うんですが。
最近のレスは毒は含んでいるものの、凡庸なレスが多すぎる気がするのですけど。
なるほどと思わせる事が減ったと言うか。
57 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 10:35:55 ID:ogIw1KBV
直江景綱って川中島のときに小荷駄隊で武田義信を破ったそうですが
兵1万の小荷駄ってどのくらいの量なの?
58 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 11:32:38 ID:o7McV/pd
>>57 質問の趣旨とは別に、永禄4年のいわゆる第四回合戦のことについては
確たる史料がなぜかまったくと言ってよいほど存在していないため、
そもそも景綱が小荷駄を率いていたという事実すら確認できていません。
義信隊を攻撃したというのも江戸期の創作によるものでは、と
とりあえずの念押しから。
中国の流賊は、組織全体が1万人だった戦闘部隊はせいぜいその一割で、
あとの9000人は運搬・保管・設営・調理・補修・買い付けなどを行う
雑役夫と女子供だったというし、女子供は置いていく日本の合戦の場合も、
長期の行軍になると軍勢の過半数は非戦闘員だったというから、軍全体が
1万ならへたすりゃ2〜3000が「小荷駄」に分類される可能性もあるんじゃ。
59 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 13:40:03 ID:Dnl7xRBM
なんで中国と比べてんの??
60 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 15:10:56 ID:Ek+bP9Xs
中国がいやなら、欧州の傭兵部隊でもいいね
あそこも同じくらいの割合だったから
重要なのは補給ってのはそれだけ手間のかかる物だってことで、
趣旨から外れる突込みなんていちいちするなよ
61 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 15:16:36 ID:ogIw1KBV
上杉軍は本国と隣接していて補給路は確保できていたんでしょ?
長期戦になるとはいえ半数以上が非戦闘員の部隊を連れて出陣する意味あるのかな
62 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 16:33:30 ID:fmWvjfFB
峠越えの辛さを知らんな
63 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 17:16:22 ID:Ek+bP9Xs
一人当たり一日に支給される米は十合。
よって越後衆八千人だと一日八万合、一石=千合なので一日に八十石。
俵-石レートは時代と地域差があるので一概に言えないが、
大体1石(150kg)=2.5俵(60kg)、つまり八十石だと一日200俵、一月の遠征で米6000俵が必要になる。
で、これは米だけの話ね。
塩(味噌)、飼料、燃料、資材、矢種や火薬鉛玉などなど持っていく物は山とある。
補給路が確立されているといっても、これだけの物資を担いで三国峠を越えるのは無理。
消耗品は現地調達するとしても、
現代の感覚と違って欲しいときに欲しいものが手に入るわけでもないし、
手に入るときに手に入れたものを持って行軍する必要がある。
だからどうしてもある程度以上の小荷駄を確保しなければ軍として機能しなくなるわけさ。
64 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 17:27:50 ID:N3RU2+A4
西洋に比べて日本は食い物は米と味噌があればなんとかなる
西洋は穀物、副食に加えて、同量のワインか倍量のビールがいる
更に、西洋はパンでなく麦粥だと兵卒が暴れる
もっとも西洋は馬車があるので、大体トントン
65 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 17:55:11 ID:o7McV/pd
ワインを運ぶために弾薬を置いてきてしまうイタリア兵の凄さを知らんな
66 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 18:01:53 ID:o7McV/pd
いや失礼w
イタリア軍が補給してくれる弾薬を待って必死に前線を維持していた
ドイツ兵のところにやっと到着したイタリア兵が「早く弾薬をくれ」と
言われて「そんなものはない。見ろ、最高のワインとパスタだ。まずは
パッとやろう」と答えたという逸話の衝撃が幾星霜を超えたいまだに
頭から離れなくてw
67 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 18:47:59 ID:GfP0lQe1
食料は基本的に持ち込みと、ご当地での買い上げじゃないかね?
商人は敵味方なく取引を求めて戦場にまで出向くし。
68 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 19:04:10 ID:pfsHPp7f
300騎の部隊とは馬に乗れる士分が300人いる部隊ですよね
この部隊の場合全体でおおよそ何人になるのでしょうか?
1騎につき数人の歩兵がつくと聞いたので
多くて2000人ってとこなのですかね?
69 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 19:15:04 ID:nV6Relk+
天正十三年(1585)に北条氏直の近習・田村千代丸をはじめとする四人の若侍が
連続的に切腹自害して果てたという事件があったと聞きました。
おそらく『北条五代記』あたりに記載されているのでしょうが、
その詳しい理由や経緯、また自刃した他の三名の氏名などを教えて頂けませんか。
お願いします。
70 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 19:18:53 ID:GfP0lQe1
ナッちゃん、ネットで質問してないで、
北条五代記ぐらい購入すれば?
リアル負け組じゃなければ高い買い物じゃないんだからさ。
71 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 19:58:47 ID:N3RU2+A4
>>68 いや、騎といっても実は人という場合があるので
率いる奴の国力と照らし合わせる必要はある
72 :
68:2009/02/20(金) 20:11:13 ID:pfsHPp7f
>>71 そうなんですか
自分が見たのは武田信玄家臣の山県昌景、跡部勝資が300騎持ちであった
というものなんですが
大国の武田なら重臣の山県昌景が300人の部隊ってことはないですよね
この場合は部隊の人数についてどう考えられるのでしょうか?
73 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 20:51:32 ID:N3RU2+A4
>>72 それは騎になるが、この場合(甲陽軍鑑)は武田家から同じ武田家に仕える武士を
三百騎付属させられたという例
彼らの他に重臣自身の家臣もいるだろうし、彼らが全員同じ全員同じ戦場に出る事もない
74 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 20:52:05 ID:ogIw1KBV
>>63 >>一人当たり一日に支給される米は十合。
>>よって越後衆八千人だと一日八万合、一石=千合なので一日に八十石。
一人1食当たり1合で1日で3合、1年で約1000合(1石)らしいけど、
なんで一人一日に十合も必要なの?
75 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 20:57:10 ID:GfP0lQe1
76 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 20:59:18 ID:ogIw1KBV
それを戦場で渡されても困るんじゃないかな。
77 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 20:59:33 ID:N3RU2+A4
78 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 21:02:05 ID:Ek+bP9Xs
>>74 俺も多いとは思う。
だがそういう話。
まあ戦場働きは肉体労働な上、精神的にも疲労する仕事なので
栄養摂取は普段とは比べ物にならないだろうとは推測する。
79 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 21:06:01 ID:ogIw1KBV
1合の米を炊けば約330gになるから、3合て約1kgのごはんだよ。
飽食の現代とは違うし、ちょっと計算おかしくないですか?
80 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 21:23:06 ID:N3RU2+A4
>>79 だって米しかないんだもん
それくらい食べんといかんよ、歩くんだし
81 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 21:25:42 ID:ogIw1KBV
当時の平均身長が150〜160cm程度らしいから、一食1合が妥当じゃないかな。
あと詳しく知らないけど、給金が米だとしても戦場で渡されて腰に米をぶら下げて
戦っていたとは思えないし、戦場の途中離脱は許されないだろうから
結局、余剰の米は本国に帰ってから渡していたんじゃないかな??
82 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 21:32:06 ID:Ek+bP9Xs
>>81 日本人が最も小型化した江戸時代の江戸で、一日五合。
現代と比べて体格に劣る帝国陸軍は一日六合。
現代っこの運動量を基準にしないほうがいいぜ。
83 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 21:33:12 ID:nO3euNh8
昔の人は米を異常に食ってたのは確か。
江戸時代でも、平時で平均一人当たり一日米五合と言われていた。
歩く量も現代とは桁違いだし、一回で米のみ約三合くらいならイケたのかもしれん。
個人的にはキツいとは思うが。
まあ、副食物が基本的に味噌や梅干しのみだからいけるのかもしれんし、干し飯なら嵩張らないから食えるのかもしれん。
84 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 21:39:16 ID:ogIw1KBV
300年続いた江戸期と戦国じゃ米生産量にしても基盤が違うと思うよ。
江戸期を下回る事はあっても、同列 or 上回るのはちょっとおかしいな。
85 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 21:51:08 ID:3fqBHkv0
生産量が少ないから食うのはおかしいってww
現代より生産量が少ないから帝国陸軍は食わなかったはずだとでも?
現代人の与太は要らないから現実のデータを調べろよ。
86 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 21:56:38 ID:ogIw1KBV
普段の生活から考えて、戦場だけ2倍も3倍も食べないかなと。
一日五合って話も、どうやら裕福層の話らしいし。そんなにおかしいですか??
87 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:13:59 ID:N3RU2+A4
88 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:16:49 ID:Ek+bP9Xs
>>86 はい、根拠。
軍陣の節の通毎日一升宛下さる(見聞雑録)
米は一人六合(雑兵物語)
一人に付き黒米八合ずつ(軍侍用集)
人数十人につき米一斗(訓蒙士業抄)
であなたの根拠は?
89 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:20:18 ID:s7NaiLEP
自分基準で語りすぎると恥かくよ
90 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:31:29 ID:ogIw1KBV
なるほど。米5合6合は普通にありそうだね。
あなたの根拠と言われても自分のレスを見てもらえれば、自分は自分の考えを書いたつもり。
根拠として文献なり上げなきゃいけないレスあったかな?
91 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:35:30 ID:ogIw1KBV
1日3合というのは自分基準じゃありませんよ。
人間一人が消費する米の量が1日3合=1年役1000合=1石らしいので
それを基準にしただけ。
92 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:50:39 ID:TniItlYh
>>90 自分の考えというのなら、その考えの元になった根拠、史料なりソースなりを
もって語ってください。でなけりゃ他人を納得させる説得力を有しません。
根拠のない自分の考えってのは、単なる妄想であって、説得力は皆無です。
93 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:51:51 ID:ogIw1KBV
あなたを説得させるのが目的じゃないですよ。ソースが必要なレスはありません。
小荷駄について無知なので状況を知りたいだけです。
94 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:54:00 ID:N3RU2+A4
>>91 それよく言われているけど、根拠不明なんですよね
95 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:56:53 ID:ogIw1KBV
根拠不明って米を炊いたことないですか?
1合で茶碗山盛りのごはんになります。それが朝昼夕3食です。
上にも書いたけど、約330グラムのごはんです。何が問題なんですか?
96 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 23:03:06 ID:Ek+bP9Xs
他人が何を言ってもそうは思えない、おかしいのくりかえしの人が、
知りたいだけとかは無いだろう。
悪いが人に物を聞く態度じゃない。
その答えに対して自分の考えを書いて反論するって時点でね。
あなたはあなたの考え以外に納得しないよ。
97 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 23:05:55 ID:ogIw1KBV
態度が勘に触ったなら謝るよ。。
ただ10合を1日で消費することに疑問を持つ人間が自分だけ
なら不思議なことだね。
98 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 23:20:18 ID:Ek+bP9Xs
悪いとか思ってないだろw
99 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 23:21:17 ID:ogIw1KBV
そういうレスは不毛だな。。もうこの件は良いよ。ありがとう。
100 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 23:22:45 ID:s7NaiLEP
だれかそうだねって言ってあげれば?
101 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 23:31:49 ID:nO3euNh8
そもそも一石=大人一年分としたのは中国から輸入された考え。
日本でも普通に適応したけど、実態にあってたか微妙。
運動しない現代で、男性が一日平均約二千五百キロカロリー必要。
炊いた米一合が約三百三十グラム。炊いた米百グラムで約百五十キロカロリー。
つまりは一合=約四百九十五キロカロリーゆえに五百とする。
単純に一日平均で現代の成人男性なら米のみなら五合は必要。
もちろん味噌や塩で多少は変化するだろうが。
副食物が少なく、更には平時で運動量が桁違いな戦国時代に、更に運動量が増える戦闘時には当然更に必要になるだろう。
ちなみに全て大きめに四捨五入してある。
102 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 23:35:42 ID:Ek+bP9Xs
お前のレスが不毛なんだよ。
例えば
>腰に米をぶら下げて 戦っていたとは思えないし
だが、加藤清正の腰兵糧をつけていない小姓を不覚悟って事で首にしてる。
逆に言えば加藤家では腰に米をぶら下げて戦っていたわけだよ。
雑兵物語でも陣中は飢餓と紙一重、食えるものは見つけたらなんでも拾っておけとあるしね。
自分のレスにソースが必要なレスはないというが、
ソースを調べないからこんなレスをしてるんだろうに。
103 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 23:42:54 ID:ogIw1KBV
>>102 それは自分のレスの意味が伝わっていないだけ・・
米10合という話に対して、全部食用にしていたとは信じられず、
>>余剰は通貨になるから。
このレスに対して、仮に1日5合ずつ余剰米が増えて行ったとして、
一ヶ月後には150合、つまり1合=150g、150合=22.5kgの袋を
腰にぶら下げて戦ったのか?ってことに疑問を感じたわけさ。。
わかってもらえるだろうか・・
104 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 23:52:03 ID:nO3euNh8
>>103 実態は分からないが、少なくとも余った米はどぶろくにしたりという例もある。
しかも長期に渡る完全出兵状態はあまり考えにくい。
また全ての戦という訳ではないが、長期の戦には遊女などがついていくなどがあるため消費する機会もあったと思われる。
それに余った米を全て腰に下げるのも考えにくい。
一日〜二日分くらいは腰に干し飯や餅の形で下げてても、戦闘行為に支障が出ないように何らかの対応はされてただろうし。
105 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 23:59:43 ID:nO3euNh8
>>103 あと、米が毎日五合も余るというのも考えにくい。
半分も余るなら、当然減らして銭などの形にした方がよほど効率的。
戦国時代の人間は馬鹿じゃない。
それなりに実態に即した適当な配布量だったろう。
ちなみに、上記の現代人の一日米五合はあくまでも運動しない現代人の平時の話。
当時の運動量は想像しかできないが、当然米五合では多少副食物が出ても足りないと思われる。
106 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 00:11:37 ID:VAdB49rq
戦国時代は通常一日二食だったらしいけど、戦の時は日に四回以上は食事してたらしいしねぇ。
107 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 00:38:58 ID:AjG7Cpty
鎧着込んで戦場を走り回るだけでどんだけの運動量になるんだろう?
その分のエネルギーは米を中心に補ってたから、現代人よりたくさん米を食うってことでしょ。
108 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 00:56:54 ID:Wf6AwulO
東郷隆「足軽雑兵たちの戦い」より
足軽は通常一日五合程度の支給を受けるが、合戦に出るとそれが倍になる。
それだけの量を口にしなければやっていけぬほどの重労働なのである。
相対的に一人あたま2合5勺ほどを朝と夕に支給し、夜中の合戦に備えて
同じく2合5勺ほどを臨時に加えるのが普通であったと思われる。
江戸期に成立した『訓蒙士業抄』に「人数十人につき一日米1斗、
みそ2合、塩1合」とあるからだ。
この用法は、朝5合炊いて朝餉に2合5勺、昼は同じく2合5勺
炊いて、朝に炊いて残した2合5勺を食す。昼の2合5勺は夕に食し、
夜も2合5勺炊いて夜半の合戦に備える、とされている。
ヨーロッパの兵士に比べて米食の兵士は一回の食事の準備に手間取る。
そこでこういう面倒くさい手順を経ることになったのだろう。
「どうせ冷飯ばかりなら、朝一時に炊いて夜食にまで回せばよい」と
誰でも思うのだが、それは許されない。夏場、ただでさえ衛生環境が
劣悪な戦場では、炊き置きした飯はたちまち腐敗して食中毒の元となる。
この分量は、明治に入り近代軍隊が成立しても同じだった。1日に
3食6合、夜食別である。
109 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 01:10:32 ID:Wf6AwulO
ああすまん、4行目の頭は「相対的」じゃなくて「総体的に」ね。
大戦中の陸軍の記録を見るとどこでも「3食分で米6合」とあるね。
これに加えて乾パンだのミルクだとのが付くと。
まあ今の人間だって、身体を作ってる奴らは半端じゃなく食うからな。
合宿所が機能していた頃の新日本プロレスじゃ、朝食を食べたレスラーの
体重は食事前より5キロ跳ね上がり、トレーニングを終えると同じだけ
消える。5キロ分の食料が半日の肉体労働で消費されてしまうわけで、
まして肉も魚もないような食事じゃ、電車に乗って本読んでる現代人と
同じ量ならそりゃインパール作戦やガダルカナルになっちゃうわな。
110 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 01:26:23 ID:Wf6AwulO
ある力士が高校生の時、親が作ってくれていた弁当が5段積みの重箱。
一辺25センチくらいあるおせち料理並みの重箱で、それを昼飯として
平らげていたという。
とてもじゃないが一日三食・一食につき「茶碗山盛り」程度、しかも
副食物なし、じゃあ餓えちゃうよw
どう考えてもすぐ分かる次元のことであって、少なくとも
「ちょっと計算おかしくないですか?」
「一食1合が妥当じゃないかな」
「江戸期を下回る事はあっても上回るのはちょっとおかしいな」
「あなたを説得させるのが目的じゃないですよ」
「米を炊いたことないですか?」
「何が問題なんですか?」
「疑問を持つ人間が自分だけなら不思議なことだね」
「自分のレスの意味が伝わっていないだけ」
「わかってもらえるだろうか」
と一人で不思議がるような問題じゃないよな。
まあ中高生とかにそういうのは良くいるけどね。
「納得できない、理解できない」って言えば周りの大人が考え直して
くれると本気で思いこんでるバカとかが本当にいる。お前がバカだから
必然的に湧いてくる考えもバカな考えになるっていうだけのことだよ、って
言っても、現実世界で痛い目を見ないといつまでも理解できないんだな。
111 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 01:32:35 ID:VAdB49rq
>>109 ああ、高校時代に何故か名門のキツいで有名な柔道部に間違って入った時の事を思い出した。
実際、夏場の合宿時なんか下手したら一日で十キロ近く体重が推移した時もあったな。四〜五キロは当たり前。
一日で二リットルペット四本くらい消費するし、飯は練習が後は無い夕飯とかだと、ご飯だけで五合くらい食わされるし。
食うのも練習って言ってね。
激しい運動すると飯って食えないけど、食わないと体重激減して朝全く動けなくなるんだよね。。
まさにエネルギーが足りないって状態に陥る。動けなくなるんだよ。
初めてだったよ。朝腹が減りすぎてゆっくりとしか動けないって状態になるのは。目が眩むし。
同じとまでは言わないけど、戦時は食わないと下手したら素早く動けなくなるかも。
112 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 03:07:07 ID:tm71YxjA
現代のアジア某国国軍の規定では1日3700カロリー強の栄養摂取だ。
それでさえ実際の戦闘時にはカロリー不足であるという。
つまり戦時には十合(約5000カロリー)くらい食っても不思議では無いんだよ。
113 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 03:59:31 ID:558xN7yV
カロリーっても、食べた分を余さず吸収できるワケではないが…ただ、
現実には1日4合がイイとこだろう…宮沢賢治も農作業しながらでソレが限度だったと思われ…
スポーツ選手たちは文字通り喉首まで詰め込んでるケド、ウェイトトレーニングを積んでない当時の人々があまりたくさんの量はムリ…
だから、昔は早死にだったのでは?
114 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 05:41:08 ID:8a3XNCSi
>>110 馬鹿にされるのは構わないけど、せめて意味を取り違えないで。
自分のレスは、戦国時代の平均身長が現代よりも低い事を前提にしています。
中にはあなたの言うように力士もいたでしょうね。
115 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 05:58:57 ID:d1wn6UNM
>>70 どこのネットで「北条五代記」を購入出来るんだ?
無知無学で返答も出来ぬくせして、一人前の口を叩くなヨッ!!!!
ウチの若い衆に輪姦されテエのかヨッ!!!!!
生意気な言を吐くナッ!!!!!!!
分かったかーッ!!!!!!!!!
116 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 06:59:43 ID:9B1ZYY/z
言わんとする事は分からんでも無いがまずレスの付け方がいちいち不愉快なのがいる。
117 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 08:15:43 ID:dJ+6EE1i
平均身長は良くてもガタイで負けてると思うんだがな。
あと運動部に在籍したことが無かったり、
肉体労働の経験が無いやつは、わからないだろうよ。
幾ら食っても体重が減っていくんだぜ、驚くよ。
118 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 08:31:11 ID:Wf6AwulO
>>114 まあ良い機会だから、「99の常識を知らない人間でも、1つだけ
もっともらしいことを言い続けていれば、周りはきっと認めてくれる」
なんていう夢物語は現実には通用しないっていう現実を勉強しなさい。
これも中学生によくいるんだよな。
自分がどんな大バカをしでかしても、相手に落ち度が一つあれば、
それをギャンギャンでかい声で言いたてているだけで相手が頭を
下げてくれると信じてるみたいなバカがいて、当然のことで自分が
処分されると、納得行かないと言うより現実が理解出来なくて
ポカーンとしてる奴が。養老言う所の「バカ」だよね。お客様の
クレームには何でも頭を下げてたバブル時代が産んだ遺物だw
「盗人にも三分の理」っていうことわざは、縛り首になる盗っ人だって
三分くらいはもっともなことを言える、でもやっぱり盗人は盗人でしか
なくて、別に誰も感心なんかしない、っていう意味合いもあるんだよ。
やっぱりこの半日の君は、周りの人に比べて圧倒的に常識も知識もない、
そしてなにより自分が置かれた状況の中で正しい方向に努力することも
取るべき態度を選ぶことも出来ずに、ガキとしか言いようがないバカを
過剰に晒しまくっていた、という現実をとっとと認識しなさいね。
いいわけはもう過剰に聞かされたから一言も喋りなさんな、ボクちゃん。
119 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 08:33:48 ID:5kL6gG10
帰雲城発掘したいので具体的な場所をグーグルで教えてください。
地震で消えたとの話ですが、周辺大名の日記や記録等は現存してないので
しょうか?そもそも内子島氏は金山経営で巨額の富を築きえたのでしょうか?
そんなに採れるなら進攻受けると思いますけど・・・?
120 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 08:54:33 ID:dJ+6EE1i
121 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 09:19:45 ID:7fMsiRna
122 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 09:21:11 ID:7fMsiRna
やべ、これ絵本だwwww
でも、品切れじゃない古本屋さんもちゃんとあるから、調べてみなよ。
123 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 09:23:02 ID:9B1ZYY/z
勝手に掘ると叱られるんじゃないか。どこまで本気なのか分からんが。
124 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 11:04:48 ID:tLjPB/en
>117
疑問なんだが兵士って高校生くらいの年齢層がメインなの?
125 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 11:19:49 ID:KvsHQxTk
実際のところ米ばっか大量に食ってたんなら運動エネルギーは補えても
蛋白質なんかはろくに補給されないから身長は関係ないんじゃねーの?
126 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 12:36:18 ID:dJ+6EE1i
127 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 14:51:20 ID:tLjPB/en
そんな感じだろうね。
なんか成長期にご飯どんだけ食べたとか言ってる人がいるけど
128 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 15:01:52 ID:Wf6AwulO
やれやれ、今度は「高校生なら食べるだろうが大人は食べないはず」か。
ホント「現代人は食べるが戦国期の人は食べないはず」とおんなじレベルの
糞思考だな。昔は「○○一点バカ」と言われたものだが、なんか自分に有利な
点と思えるものが見つかったと思いこむとそれ以外何も見えなくなるみたいね。
もう一度上を見ろ。
・相対的に一人あたま2合5勺ほどを朝と夕に支給し、夜中の合戦に備えて
同じく2合5勺ほどを臨時に加えるのが普通であったと思われる。
江戸期に成立した『訓蒙士業抄』に「人数十人につき一日米1斗、
みそ2合、塩1合」とあるからだ。
・朝5合炊いて朝餉に2合5勺、昼は同じく2合5勺炊いて、朝に炊いて
残した2合5勺を食す。昼の2合5勺は夕に食し、夜も2合5勺炊いて
夜半の合戦に備える、とされている。
・この分量は、明治に入り近代軍隊が成立しても同じだった。1日に
3食6合、夜食別である。
これって高校生の話なの?
一日6合プラス夜食を食う帝国軍人って高校生だったの?
プロレスラーって高校生の年代の人しかいないの?
マジで高校入試レベルの文章読解の勉強からやり直した方がいいんじゃない?
129 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 15:09:02 ID:AjG7Cpty
高校生を読めても、肉体労働を読み落としてる時点で、もう話が通じる相手じゃないとおも。
「戦国期の人がそんなに食うはずがない」と思い込んでいて、
それを否定する意見は頭ごなしに否定したいお年頃なんだよ、きっと。
130 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 15:23:21 ID:Wf6AwulO
まあ底辺校レベルの手合いはさておき、借り物でもデータを置いて行きますか。
貧乏領主が規定された糧抹を満足に支給できない現実があるということを
東郷隆が配給の量がバラバラの文献を集めて示してる。
「常は野扶持とて、軍陣の節の通り、一人一升宛下さる」
(『見聞雑録』これだと一人一日10合になる。)
「3396人に宛、27石1斗6升。ただし一人につき黒米8合ずつ」
(『軍侍用集』 蓄えた量に関係なく一日8合。)
「米は一人に6合、塩は10人に1合。味噌は10人に2合と申す」
(『雑兵物語』 一日6合。)
支給される食糧を目当てに、軍人として役に立たない奴が形だけ
参陣することがよくあり、武田や北条が怒りの禁例を出して、こういう
「食うだけで役に立たない兵糧泥棒」を陣に来させないための努力を
していたことも挙げられてるw
131 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 15:27:34 ID:r9u1USPT
当時の資料見るとすごいよね。
朝から夜まで平気で戦ってる事とかあるし。
14条で敗北した信長が軽海まで敗走した所を
斎藤勢に襲撃されてそこから夜更けまで戦って痛み分けしたりしてるし。
全身に鎧着けて重たい武器を持ってこれだけ戦うんじゃ
そりゃ食事たくさんとらないと死んじゃうよ。
132 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 15:30:20 ID:Wf6AwulO
133 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 16:28:51 ID:Wf6AwulO
>>131 プロレスラーの武藤はすでに46歳で膝が曲がらないほど体が弱っている。
それでも医者によると1日の基礎代謝量が約3000キロカロリーだとか。この
医者によると小川直也は2800キロカロリー、曙は3800キロカロリーだったと。
炊いた米1合で約500キロカロリーなんだから、単純計算でいい歳したオッサン
たちでさえ、1日に米6合は必要だということらしい。
テレビでやってたシンクロの女子選手は練習1時間につき1000キロカロリー
消費すると報じられたから、単純計算では5時間練習するだけで米10合が
必要ということになる。
競輪のローラーは激しくもがくだけで1時間800キロカロリーを消費できるし、
剣道のかかり稽古は15分で500キロカロリー消費する。
人間って凄いんだよね。
それにしてもこいつらは、ストレスのかかる中で数10キロのユニフォーム着て
数キロ走らされるなんてことはなかなかしないだろう。試合地までの毎日の
移動を徒歩で行うなんてこともないだろうし。
インパール作戦に参加した兵士は、武器弾薬食料を全部人力で運ばなきゃ
ならなかったから、約50キロの荷物を背負って道のない日本アルプス級の
山岳地帯を1000キロ踏破しなきゃいけなかったからなあ…
134 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 17:22:19 ID:tLjPB/en
武藤って180越えの巨漢だけど、基準にするには不適切だと思わないのか?
135 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 17:27:38 ID:RQPiQagN
別に武藤と比べてるわけじゃないだろ
まあスレ違いにはなってきたが人間が動くことによりどれだけカロリーが消費されるかというお話
136 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 17:45:56 ID:r9u1USPT
>>134 その武藤でさえ、重たい鎧や武器を身につけて戦ったり走ったり山道歩いたり
しないのにこんだけ消費するんだから
戦国時代の人間のカロリー消費恐るべしって事でしょ。
137 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 18:18:31 ID:kK7nio13
有名武将は、戦場での白兵戦や敵・味方入り混じった乱戦でどのくらい
強かったのでしょうかか?名家出身であればある程、初陣から周囲のつわ
もの達から守られ、あまり危険な思いをしてこなかったのでは?という
イメージがあります。むしろ身分は低くとも、常に戦場のど真ん中で敵を
斬りまくってきた名も無き雑兵の方が実戦的な剣術では上だったのでは
ないか?とも思います。もちろん名門武家の生まれであれば、幼少期から一流の指導者に剣術を
叩き込まれるのでしょうが…
138 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 19:16:02 ID:RQPiQagN
いや、有名武将自信も普通の人間だからねえ
そりゃあ常に最前線で戦ってる雑兵のほうが直接槍を交える時は慣れてる分有利だろう
まあ個人の武勇がすぐれていたと言われる将から馬に乗れなかった将まで色々有名武将にもいる
大将は軍の采配を振るうのが役目であって自信が直接戦うようなことはあってはならない
大将が死んだらそれで軍は総崩れだからね
大将の一番槍は家康とかも軍規で禁じてたはず
139 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 20:43:48 ID:ODhn1F5l
>>137 ドラマやら映画と違って、「名も無き雑兵」が白兵戦で使うのはほぼ槍であると考えたほうがよい。
(まあ鉄砲足軽ってのもいたんだけど)
いわゆる「兵法」が戦場では役に立たないことは常識。だいいち刀なんてすぐ刃こぼれして使い
ものにならなくなる。
ただ武家の子が剣術(兵法)を習うのはごく普通のたしなみ。
140 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 20:47:25 ID:9B1ZYY/z
戦場で太刀を抜くのは槍が折れた時ぐらいだろうな。
141 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 21:47:14 ID:kK7nio13
>>138-140 >>137ですがレスありがとうございました。なるほど、当時の戦は
槍が中心なんですか。刀の扱い方は足軽より地位の高い者の方が上
なのかも知れませんね。確かに大将自ら敵と斬り合うような事態に
なってしまったらその戦は負けなのかも知れませんね。
142 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 09:38:10 ID:sRh/SEiX
将軍足利義輝とか今川氏真が剣豪としては有名だな。
…つまり戦争における剣術ってのはそういうこと。
武蔵だって小説のキャラじゃなく現実の方は、剣術家になんか
なりたかったわけじゃなく指揮官になりたかったんだし。
刀が役に立つのは首とり以外では丸腰の際(弓矢槍がない時)、部屋の
中にいた時なんか急襲された時。いってみればありあわせのカッター
ナイフをつかんで振り回してるみたいなもの。戦場で役に立つはずがない。
だいいち馬の上にいる指揮官クラスは、馬上で刀を振り回しても足元で
槍を振るう足軽の距離にさえ刃が届かない。
143 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 09:42:49 ID:TzRga0z/
野太刀と長柄を合体させた長巻もあるぞ!
144 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 10:25:05 ID:6l4HMXlr
>>142 合戦屏風だと騎馬武者は徒歩には槍、同じ馬上には刀を用いている
145 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 11:05:54 ID:fHrfv1sb
まあ、武器ってのはより遠方から自分がいかに安全に相手を倒せるかって方向で進化してるしね。
特に戦場の武器は。
昨今で言うと、ミサイル・ロケット兵器なんかが現在のその系統での最たるものかな。
そういう意味じゃ刀は常に相手と近い間合いでのやり取りだから、暗殺への対抗手段など以外じゃ戦場の武器としてはキツかったかもねぇ。
146 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 11:48:21 ID:l4dwKE8a
能力という意味では飛び道具が良いと戦国時代既に言われているが
飛び道具で名のある武将仕留めても手柄にならない時代でもある
147 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 13:29:29 ID:XmISaQvX
>>146 そんなことはない、弓鉄砲で撃ち取っても手柄は認められている。
148 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 14:50:00 ID:VWrD3ZBp
伝来した初期はならなかっただろうな
無用の長物と見なす武将もいただろうし
149 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 16:43:16 ID:vDkyOOOz
武者のたしなみといえばまず弓な時代すよ
鉄砲が初期に無用と言われたのは硬貨だったのと
運用法が確立されてなかったからだし
150 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 17:12:40 ID:fHrfv1sb
初期は狙いが甘過ぎたり、火縄の火花で集中運用がしにくかったり、連発できないし弾込めに時間掛かるし、火薬は高いし、弓のが良いんじゃね?となっても仕方無くはある。
151 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 17:27:12 ID:kla1yeoV
以前読んだ本に、戦国期の文書から合戦のときの死因が明らかなケースをそれぞれの武器ごとに
集計したところ、1位は弓だった、てなことがかいてあったな。(とくに鉄砲が組織的に使われる以前
は顕著)
152 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 17:40:27 ID:tXWFHr2H
死因じゃなくて負傷の理由じゃない、それ
153 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 18:11:28 ID:2Zdy93Kx
一日ニ玄米4合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ
154 :
151:2009/02/22(日) 19:12:04 ID:kla1yeoV
>>152 そうだたかもしれない・・・・・今度もう一回調べてみる、スマソ。。ヘ(;^^)ノ
155 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 20:19:40 ID:vNNSxhYS
>>154 医者が切り傷が原因で死ぬ人より、刺し傷で死ぬ人のほうが多いと言ってた。
切り傷だと動脈や頚動脈みたいなところ切って出血多量でないと死なないけど、刺し傷
だとちょっとしたことでも致命傷になりやすいとか
156 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 21:08:10 ID:kHmx8HvD
俺も死因というより負傷だとおも
最終的には兵士の突撃で勝負が決まるからね
157 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 21:28:27 ID:XmISaQvX
>>156 戦場では必ず殺す必要性はありません。精々大将などの兜首と獲るときくらいです。
ただ殺すよりも、怪我や傷で負傷者をいっぱい出す方が戦力減になるんだよ。
死ねばそれまでだが、生きているのなら飯は食う。さらに負傷者は戦力に
ならない。無理に戦わせても部隊の弱点になるだけ。そして負傷者の治療
のためにはさらに人手も割かれる。いいことなし。
だったら、自分は敵の手に届かない遠くから、安全に敵を怪我させられる
弓鉄砲や槍が多用されるに決まっている。
刀ってのは、そういう負傷した敵にとどめをさすのに使われる。
その意味では、刀が死因のナンバーワンにはなるがな。
158 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 21:51:03 ID:tXWFHr2H
>>157 日本の場合、首を取ることが戦功の証明となるので、バッサリ首を取られた
基本的に遠戦で片方が崩れる→突撃→戦果拡大となるが(無論、逆襲に成功してそうならないこともある)
傭兵が主体の西洋ではこの後に略奪に走るので、あまり戦果拡大はできない
一方、日本では突撃兵は封建制下の武士なのでそのまま戦果を拡大できる
この当時は決戦主義だし、ある程度怪我した奴は慈悲の一撃や置き捨てに
されるので、死人の数が多い方が良い
159 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 23:49:12 ID:sRh/SEiX
それもんのすごく有名な話題だから自力で調べてもらえばいいけど、
だいたい戦国期で敵軍に死傷を与える武器の比率は大雑把に言って
弓・鉄砲6割、槍2割、投石1割、刀1割弱。
投石を除く飛び道具6割の内訳が、弓だけ→弓4・鉄砲2→弓2・鉄砲4
などと変遷しているだけ。
遠距離の飛び道具で陣場の奪い合い →だいたいこれで戦場の勝敗は決まる
距離が縮まってきたら集団同士の槍合わせ →これで押された側は戦線離脱
一方の軍が総退却 →勝っている側は反撃される心配がなくなると総攻撃
武器もときには鎧も捨てて身一つで逃げている奴を追っかけて行く時や、
追撃戦の際に、道に転がっている半死半生の敵に襲いかかって首を取る時に
刀だけで襲いかかることもある、くらいに考えておくと分かり易いんじゃないか。
160 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 10:43:23 ID:O2g+hVnl
前田慶次の漫画読みましたが、当時の医療。
戦場での応急救護で切り傷に酒や尿で消毒してから縫合してました。
あれが一般的なのですか?
161 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 10:47:02 ID:lQjAXxtL
小便は消毒じゃなく傷に詰まった泥を流す水が無かったからでしょ。
その後のアルコールは消毒
162 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 13:02:04 ID:1BLVs1dF
あまり高等医術は無かったんで、馬糞を溶かして沸かしたものなんかを使ったり飲んだりしてたみたいだね。
包帯だってそれ用があるわけじゃないから、使い回しだし。
ただ、打ち身なら馬肉当てたりしたんで、治りやすかったと思うよ。熱取るし。
当時は洋の東西を問わず、医術は酷いものだったから大変だよね。
あと、小便は出したては雑菌もほとんどおらず、清潔なんで傷口洗うだけならなんとかなったんじゃないかな?
その後焼酎なんかで洗わないと、あっという間に雑菌沸いて破傷風だが。
163 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 13:29:37 ID:d0qStcn3
包帯なんてヨーロッパでも使いまわしだったぞ。看護婦も日本でいえば
産婆並みの賤業とされていたから、衛生環境も最悪。
それを綺麗にして包帯なんかも使い捨てにするのを覚悟で新しい物に
変えていったらナイチンゲールは「天使」と呼ばれたわけで。
164 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 14:49:48 ID:kaZRdci4
月代はいつから定番となったんですか?
総髪と月代が混在する時代はあったのですか?
165 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 15:52:52 ID:1BLVs1dF
>>163 いや、俺に対して言っているならそれは承知です。
洋の東西を問わずってのはそういうのも含めてのことで。
西洋の焼灼方で傷口に熱した油ぶちまけられるよりかは、まだ当時なら東洋医学の方が幾分かマシだったと思う。
166 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 16:28:37 ID:d0qStcn3
>>165 すいません。でかい声の独り言一般論だったんですが失礼しました。
とりあえず現場レベルで苦しんでる人を救おうと、ありあわせの材料で
できることは何でもやろうとしたんでしょうからねえ…
馬糞や小便とかも、植物性の薬質が馬の体の中で何らかの神秘的作用を
生んで…なんていう奇跡に期待してのことだったんでしょうね。結果的に
酷い事になっていく例が大半だったそうだけど、気持ちは想像できるという。
薬草と温泉の方がそりゃ幸福だったでしょうねえ。
167 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 19:33:43 ID:vlIyyjPB
168 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 22:39:55 ID:3nSdyDu3
>>160 止血術に関しては世界最高水準だったらしい>当時の日本の医学
>>166 ある程度、効果はあったらしい。馬のションベンは増血剤の効用がったとか。馬糞を飲ませるというのも其の関連かもな。
あと薬草使って止血は実際に行われてる。
169 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 00:36:44 ID:pebZ77Xp
戦国時代、双子に関する話しをまったく聞かないんですけど、なんででしょうか?
また双子の武将や大名とかいたんでしょうか?
170 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 00:39:04 ID:T47txlsh
双子は忌むべきことと考えられていたため、
記録には残さなかったようですよ。
171 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 00:54:04 ID:uhFMVumx
相続順とかも面倒そうだし・・・
172 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 01:05:36 ID:pebZ77Xp
てっ事は双子が生まれたら、どっちかを殺したり、はたまたどっちも殺したり、落胤にしたり、どっかに養子に出したり、捨てたりして
もしくは生まれても、倉とかに閉じ込めて幽閉したりして、
最初から存在していませんでしたよ、にしていたって事ですかね。
双子が忌むべき存在だったのは、江戸時代ぐらいまでなのかな?
173 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 01:54:33 ID:EIIuhmW8
>>167 しかしヨーロッパ医学もどんなもんだったのかね?
カトリックはギリシャ・ローマ以来の医術を否定して何でもかんでも瀉血
しとけばokみたいにやらかしていたし、ジョン・ハンターが出てくるまでは
解剖学もロクに進んでいなかったし。
174 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 05:52:35 ID:LGTYHClN
>>173 167じゃないけど。
上記にもあったように、宗教改革で宗教の権威が低下するまでは切り傷や銃創なんかには焼灼方がメイン。
これは銃創や切り傷を熱く熱した焼きごてや油なんかで焼いたりする方法。
ただ、熱によって組織が崩壊するため、血は止まるものの壊死を起こして切断に至る事が多かった。
また、術後のケアを怠るとすぐに別の病気も併発して合併症で死ぬってことも多かった。
ついでに、よく使用された油は炎症を起こしやすい油だったりしたんで、かなりヤバかったのもある。
止血に関してはローマ以来のワインで患部を洗うって方が随分良かったんじゃないだろうか?
175 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 09:29:28 ID:lhgVT7gC
欧州に関して言えば魔女狩りのせいで民間伝承による
医療知識、技術の伝播や継承が絶たれたのがなぁ。
176 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 11:46:02 ID:+bgPVl6Y
>>175 教会が恐れてぶっ潰すぐらいだから「魔女」の薬はかなりの効果があったんだろうね
177 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 11:58:31 ID:PijdE3jA
大久保長安は息子全員処刑されて、縁戚のある大名家も改易されて、
墓から死体を引っぱり出して首を河原に曝されたらしいけど、
なぜ長安の生前じゃなく死後の処罰になったんですか?
178 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 13:18:35 ID:deIu/e3w
死んだ後発覚したから
179 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 21:24:54 ID:VbVSPtIT
やっぱり生きている間は何らかの勢力が動くのを恐れていたのかな
手をもぎ足をもぎ、抵抗する体力がないと見たところでイッキ、という
感じだったのか、例の本多派と大久保派の勢力争いがその頃になって
のっぴきならなくなって急遽口実に使われたのか
180 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 23:12:31 ID:8Kgw3bad
くさっても鯛
毒はあくまでも毒
長安はそれ程恐れられたという事やね
(徳川方が、自分の影を見て脅えていただけかもしれないけど…)
本多正純の吊り天井事件も、根っこは同じだし…
181 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 23:45:40 ID:+i6tTG5K
不正し易い奉行に対する威嚇なんじゃないの
この際、長安が実際に不正したかは問題ではない
182 :
人間七七四年:2009/02/25(水) 00:05:36 ID:oZA2Z726
まあ、長安の金もかなり魅力的だったろうね。
相当洒落にならないほど溜め込んでたみたいだし、それを背景にある程度の勢力が動いたらかなり厄介だったろうし。
外様と繋がりすぎでちょっと危なげだったのも災いしたか。
183 :
人間七七四年:2009/02/25(水) 01:32:31 ID:1O1U7XVq
大久保長安が通説とおり幕府転覆を目論んでいたとするなら、
豊臣健在の不安定な時期にとんでもない爆弾を抱えていたことに
なるぞ
184 :
人間七七四年:2009/02/25(水) 08:03:04 ID:m2/M3xih
伊達やキリシタンと大久保って本当に絡んでたの?
185 :
人間七七四年:2009/02/25(水) 10:25:29 ID:oZA2Z726
>>184 アマルガム法を知っていたなら、西洋人とは関係持ってそうだが。
186 :
人間七七四年:2009/02/25(水) 20:57:00 ID:vn4oXrQQ
たまに食客や客将という立場の人がいますが
これってどう言う事なんですか?
家臣ではなくあくまでお客さんってことですよね?
彼らは仕官せず一生食客として過ごしたのでしょうか?
また食客として過ごしていた家を出て(または追い出されて)
他家でまた食客になると言うこともあったのでしょうか?
187 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 01:11:32 ID:O0IH+nM4
>>186 客扱いだけど、立場や関係は個々で様々。基本的には、主君と対等にまではならない。
>彼らは仕官せず一生食客として過ごしたのでしょうか?
これも個々それぞれ。改めて仕官することもあるし、客のまま死ぬまでいたり。
>また食客として過ごしていた家を出て(または追い出されて)
>他家でまた食客になると言うこともあったのでしょうか?
これも同じく。一例を挙げると、太田三楽斎の次男梶原政景は居城を追放されて後、
佐竹の客分となって北条と戦い続け、関が原後佐竹家が秋田へ転封されると付いて
行き、後不和になって(理由は不明)退転。越前結城秀康に仕官した。
188 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 02:06:06 ID:+QTUAJ08
派遣社員みたいなもんだな
189 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 02:08:11 ID:niJWb53V
ちょっと気になったんですが、島津さんところの
義久、歳久、家久さんには『久』という字が入っているのに、
義弘さんには何故入っていないんでしょうか?
190 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 09:40:07 ID:Zvun8KLb
確か忠平→義珍→義弘だっけか。
豊州島津家に養子いって帰ってきた後に義弘に改名だから、
義父の忠親とは関係なさそうだけど。
191 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 17:31:34 ID:T7bMtw8m
秀吉の朝鮮出兵はなぜタブー視されているの?
192 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 17:42:44 ID:UTKNzLxf
察してください
193 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 17:57:01 ID:xkiwSlef
倫理的な問題じゃないの?
例えば耳塚なんて現代の我々にも簡単には理解しにくいモン…半島の方々や世界の人々に理解しろって言う方がムリがあるし…
攻め込まれた方は忘れられないって…
194 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 20:35:43 ID:/C3Zk0n9
195 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 20:56:21 ID:0lWHKlkm
倫理もだが。
あそこはまともに攻められた経験が少ないのも面倒だし、歴史認識があまりにも偏ってるのも面倒だし。
かつ、事大主義だし、小中華主義だしと色々ある。
自国に都合の悪いものは記すべきものにも欠片も記さず、攻められる点を見つければ反論は聞かずにそれを叫ぶばかり。
正直、似たような話は世界中ごろごろしてるが、ここまで攻める国はあまり無い。
近隣にこんな国が三箇国もあったのが、日本の最大の不幸。
196 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 21:14:47 ID:0lWHKlkm
>>164 月代自体は平安時代からありました。
兜などで頭頂部に籠る熱を軽減するためなどとも言われてます。
当時は月代は戦の時のみし、普段は総髪だったそうです。
しかし戦の多かった戦国時代に徐々に常態化し、江戸には普段から定着したようです。
しかし総髪が完全に衰退化したことは無く、常に混在していたと言っても良いでしょう。
>>194 こんな説明で良かったかい?
197 :
人間七七四年:2009/02/27(金) 01:07:40 ID:29PNB7nk
>>191 同和とかと同じで、下手に手を出すとクレーム団体がうるさい、うざったい、
やかましい。だったら扱うのやめとこ面倒が増えるだけだし。
こうして誰も触れたがらなくなり、タブー扱いされるようになりましたとさ。
そしてクレーム団体はますます増長し、周囲はますます内心嫌って遠ざかる。
198 :
人間七七四年:2009/02/27(金) 02:34:06 ID:SRguBWX7
クレーム団体なるものが居ても、文句を言うべき相手は豊臣秀吉であって
徳川幕府、明治〜昭和天皇、そして現日本に謝罪も何もないよな。
豊臣秀吉を英雄視する人がいても、文禄・慶長の役については秀吉の
暴走という認識の人が多いし。それでも問題なんだろか
199 :
人間七七四年:2009/02/27(金) 03:25:37 ID:7KqZd8x/
どうしたって、「武勇伝」みたいなのになってしまう部分はあるだろうから、
侵略された側が快く思わないのは仕方がないと考えるしかないんでないかな。
というか日本人にとっても歴史の恥部に触れたくない気持ちがあるはずだ。
200 :
人間七七四年:2009/02/27(金) 04:21:36 ID:y9FAJfe9
朝鮮征伐を肯定的に評価すると在日を敵にまわすからな。
日本は在日の植民地(比喩じゃないよ)だからそれはやばい。
このあたりはぐぐれば詳しく出てくる。
201 :
人間七七四年:2009/02/27(金) 14:19:39 ID:r7F2V/W4
国が指定した教科書を使う韓国などでは歪曲捏造させた本や映像が氾濫しており、民間で議論して完成させた日本史とのギャップが激しい。
その為に韓国人たちは自国のマンセー史観と日本のまともな歴史観を比較し
日本が歪曲捏造した間違った歴史を教えてると決めつけて批判してくる。
しかもパチンコや消費者金融から調達した資金で、放送やメディアや政党に人材を扶植し、それを背景に圧力をかけてくるのでめんどくさいのでタブー化した。
まぁ他に反権力組織や左翼的弁護士、総連や被害者の顔をした恐喝組織など横の連携もウザい。
これらはかなり日本を狂わしてきてる。
202 :
人間七七四年:2009/02/27(金) 14:49:27 ID:s4MxmxVF
昔同和
今派遣
派遣者にはうちの娘はやれん!怒!
203 :
人間七七四年:2009/02/27(金) 19:36:30 ID:0B44IEq2
すみません質問です。
昔の歴史を扱った番組に「お市の方は信長の愛人だった!?」という検証があったのですが
それにはお市の方が22才と遅い初婚?を迎えていて、それまでは信長の相手をしていたとかナントカ……
それから、「浅井三代記」には淀の出生が記されてなかったとか、淀殿の死から逆算して、淀殿誕生の頃にはお市の方と長政は結婚していなかった、などの解説でした。
下世話な与太話とも思いましたが、浅井三代記に記されていない、というのが気になったので…
戦国板のみなさんはどう考たでしょうか?
204 :
人間七七四年:2009/02/27(金) 19:41:38 ID:BZI7lzUU
>>203 このスレの最初の方でかなり盛り上がっているので
まずそれを読んでみてください
205 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 00:16:35 ID:QlLgwxdQ
友人に彼らの出身地にちなんだデザインを施したカードをプレゼントするのですが、
ひとりは石川出身なので前田家中心でいくとして
もうひとりの京都出身の友人には誰がいいでしょうか?
206 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 00:50:39 ID:MYH1tRDF
>>205 誰、というより、お公家さんとかで良いんじゃないかと。
京が天下の象徴で奪取の争点だったために、確固とした勢力や人物をと言われると少々厳しいので。
足利、三好、織田、豊臣その他の京を取った勢力もしっくりとは来にくいのでは?と、思います。
まあ、敢えて誰と言うなら山科言継卿なんかいかがでしょう?
207 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 10:06:38 ID:lmKWvG4u
>>196 ありがとうございます
大河ドラマでは戦国の終わり頃から月代が多いイメージがあります
208 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 13:00:54 ID:LBTWdwzN
山岡荘八の伊達政宗で異人の側室居たと記述ありますが、どうなんでしょうか?
女好きの秀吉にも居てもおかしくありませんが・・・
209 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 13:35:51 ID:5gaZ/SiV
秀吉は上淫好みなので、異人でも身分の低いのは対象外っぽそうだぜ。
210 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 16:17:51 ID:MGiQ3fBD
211 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 16:45:07 ID:EROGImDj
210が正解。小説上の演出に過ぎず、史料の裏付けはない。
212 :
208:2009/02/28(土) 18:53:11 ID:zRbvGmh6
dクスです
小説で史実に基づいて書いてる定評のある作家は誰か居ますか?
213 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 19:11:42 ID:ZAaSBeio
天皇が武力行使しないのは何で?
214 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 19:13:07 ID:RSqpQ9Q9
そこまでやる力が無い
215 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 19:14:30 ID:YkdZAbwH
216 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 22:02:45 ID:MGiQ3fBD
>>213 オロチや素戔嗚尊を封印するのに全力をあげてるから。
217 :
人間七七四年:2009/02/28(土) 22:17:09 ID:uE60hobH
218 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 01:35:58 ID:RfRuOuuh
219 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 06:42:34 ID:BpkLGhzT
>>212 どんな歴史書も小説も鵜呑みにしてはならない。
220 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 06:51:13 ID:ceAfue6M
山プーは、明治物が
面白いよ。
221 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 13:37:37 ID:0MjXaft0
>>213 身分が違うから
(天皇→皇族・公家→武家)
間を端折ると秩序の乱れになる…てか公家が困る
→今の官僚組織と同じ事
222 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 15:08:51 ID:FMk4UUHj
平将門の乱の時も公家たちは武士に頼んでたな
自前の戦力はほとんどなかったらしく
一方天皇が直接やったことと言えば仏にお祈り
貴族がやったことは全国の寺社に命じて祈祷
223 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 18:01:37 ID:xl7MKwHk
sage
224 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 21:32:32 ID:RfRuOuuh
疑問に思っていたんですが、何故織田の兵は弱兵だったのでしょうか?
通常、急ごしらえの農民足軽よりも、常備兵の方が調練などの機会も多く、練度が高い兵になるような気がするのですが。
土地毎の士気の違いは、兵の練度で変えられると思います。
225 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 21:40:02 ID:SRGySRpY
織田信長が常備兵を備えていたとする兵農分離説は誤解だった
というのが新たな定説となっています。
今日では織田家で兵農分離は徹底されていたとは思われす、
他家も織田家より農兵率が高かったというのは何ら根拠がないことが明らかです。
織田が弱かったというのも俗説に過ぎません。
226 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 22:54:04 ID:RfRuOuuh
>>225 早いお答えありがとうございました。
よく、織田の弱兵や常備兵云々で気になっていたので、とても勉強になりました。
ありがとうございます。
227 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 23:21:43 ID:7QWvnepE
現代の日本語を喋る人が戦国時代に言って喋ってもちゃんと通じますか?
どなたか教えてください
228 :
人間七七四年:2009/03/02(月) 00:14:49 ID:RxBM6Yd2
>>224 従来は、織田家の兵は金で雇われている者が多いから「死んだらそれまで」(領地を守ったりしてるの
でもないし、功績が一族に引き継がれる訳でもない)で、モチベーションが低く、ゆえに弱い、てな風に
捉えられてもいた。
229 :
人間七七四年:2009/03/02(月) 02:27:25 ID:q/WIJfX/
>>227 今の標準語は明治時代に造られたモノだからな…少なくとも、津軽の武士と薩摩の武士がペラペラと語り合う場面は想像しにくい…
230 :
人間七七四年:2009/03/02(月) 02:30:27 ID:q/WIJfX/
>>224 少なくとも強兵とは言えなかったカモ…他国軍に比べれば重宝はしただろうけどね…
231 :
人間七七四年:2009/03/02(月) 10:44:44 ID:NRAC63uO
まったく会話できない。
いまでも例えば茨城県筑波の老人の会話を聞いても、まったく何を言ってるのか理解不能なくらい。
関ヶ原から400年も経ってる現代人とは文筆でも略字のせいで難しいだろう。
232 :
人間七七四年:2009/03/02(月) 12:13:03 ID:wZip1orU
>>227 方言丸出しの人が多いだろうからどうでしょうね。
233 :
人間七七四年:2009/03/03(火) 15:44:13 ID:GHKKbsqz
234 :
人間七七四年:2009/03/03(火) 17:23:28 ID:Ij9XgJnP
内輪で他人に目立たないように雑談するために
需要なさそうな過疎スレを乗っ取ってるんだろう
235 :
人間七七四年:2009/03/03(火) 17:51:46 ID:GHKKbsqz
236 :
人間七七四年:2009/03/04(水) 00:15:18 ID:gdiexWqj
>>235 あれは1月1日なんかの特別な日に名前欄に「!omikuji」って入れると
おみくじを引けるからやってるんだよ。
237 :
人間七七四年:2009/03/04(水) 07:10:24 ID:vZqvsRmE
すいません、おみくじの質問じゃないです
ピッピだのポッポだのの雑談の質問です
スレの80台じゃないくて42から乗っ取られてましたね
238 :
人間七七四年:2009/03/04(水) 19:56:12 ID:2TSfJB75
>>237 したら場とかに避難所作るのも面倒臭がったか、どっかのサイトの常連かウォッチャーが内々に話すのに利用したのか。
本能寺の恋で遊びたかったか、別に利用せずともムカついたとかなら削除人に依頼するか、住人に注意したら良いんじゃないか?
昔ほど鯖も脆弱じゃないし、次スレ建てたり、別スレも乗っ取りするとかじゃないなら、気にする必要無いんじゃない?
239 :
人間七七四年:2009/03/04(水) 22:20:56 ID:NlibjxuG
戦国時代も昼まで寝てるようなひきこもりやプー太郎はいたんですか?
240 :
人間七七四年:2009/03/05(木) 09:29:23 ID:5Pemmj7j
毛利元就が自分の息子の素質を見抜けず
吉川へ隆景を
小早川へ元春を養子に出していたら
どうなりますか
241 :
人間七七四年:2009/03/05(木) 10:17:26 ID:qh5Dw8Z3
242 :
人間七七四年:2009/03/05(木) 10:24:52 ID:dJhHr/1P
陣頭指揮って文字通りの意味なの?
「我こそは〜なり」って名乗って斬り込む将って講談とかでは見るけど
実際はどうなんだ
243 :
人間七七四年:2009/03/05(木) 10:40:20 ID:5Pemmj7j
244 :
人間七七四年:2009/03/05(木) 16:27:01 ID:r8evrEZM
>>240 小早川隆景が吉川隆景になり、吉川元春が小早川元春になります。
245 :
人間七七四年:2009/03/05(木) 16:28:16 ID:r8evrEZM
246 :
人間七七四年:2009/03/05(木) 17:53:41 ID:C3V+OhYc
>>240 答えようが無い。
とりあえず、小早川水軍を率いるのが元春になるだろう。
吉川は元々謀に強い家だし、隆景がやっても違和感あんまり無いかもしらんね。
247 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 01:26:10 ID:B0aqEaAN
最強の農民「茂吉」ってこの板での創作なの?
あたかもマジであるかのように張られてたりするんだが、
たまに「それネタだろ」ってツッこまれてたりする。
マジだとしたらどんな資料に載ってる?
創作だとしたら、初出はどこ?
248 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 02:42:55 ID:l8EzoAp6
梅毒にかかったとされる戦国武将は多いですが、性病なので
伝染するとしたら保菌者とのセックス以外は無いはず。
加藤清正、浅野長政、結城秀康、前田利長、浅野幸長、
大谷行部、本多正信、松平忠吉・・
といった面々は相当乱れた生活を送っていたって事?
249 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 04:04:34 ID:EVCfAeU4
>>248 そもそも梅毒は日本に症例が16世紀初頭まで存在してなかった性病だから、日本人の抵抗力が弱かったのもあるだろね。
で、その性病をもたらしたのは南蛮貿易で日本に到来した西洋人とされてる。
彼らは基本的に極東まで貿易で来れるぐらいなので、金があるわけだ。
で、海で溜まった性欲を発散するのに日本で娼婦を買ったりしたわけなんだが。。。
彼らは金があるから、娼婦も高級娼婦を買ったりしたわけだ。
それこそ、大名なんかを相手にするような。
そして、武士階級ってのは相続の関係なんかで簡単に女性を抱いて子供孕ます可能性持つのは、あまり宜しくないわけで。
というか、女性と親しくすら下手に噂なんかになるのが面倒だから、出来なかった時代だし。
そこで後腐れ無い遊女なんかはちょうど良い遊び相手だったから、武士は彼女らの良い客だったわけ。
そういうわけで、遊女以外は普通に恋愛もしにくい訳だからそういうところで遊ぶ他なく、それを指して乱れた性活ってのはちょっと違うだろうね。
で、梅毒にかかった武将は沢山いるわけなんだが、大名クラスの武将を相手に出来る高級娼婦はそんなにいないのも数を増やした原因だったろうね。
250 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 11:44:59 ID:qDfJmzFY
>>248 というかその半分が狸に暗さt
おや、誰か来たようだ
251 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 13:13:54 ID:P03DhLlh
豊臣恩顧系は梅毒なのか毒殺なのかビミョー
いくらなんでも名護屋で娼婦と遊びまくってたとかウソだろ。
大名当主となれば、性病検査済み女とやるだろと。
超女好き秀吉こそ性病で死んだんだろ!
252 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 14:04:16 ID:MhEo4LBH
ある程度被害が広がるまでは日本人にとっては未知の病気なんだから検査しようがない
感染と発症は別だしな
253 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 14:08:33 ID:P03DhLlh
南蛮人や漢人が病状とか知ってんだろ。
254 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 14:16:30 ID:MhEo4LBH
知ってた人間がいたとしても感染者を完全に見分けるのは無理だよ
梅毒は
255 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 15:49:32 ID:RX+12CJM
てゆうか、大谷刑部が梅毒だったなんて絶対承服できん!
って誰も言ってくれないのね・・・
256 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 17:54:42 ID:DfDCyvGg
誰も彼もが、本当に梅毒だったのかは微妙だな…
>>248 徳川幕府(家康、秀忠etc)
にとってあまり生きててほしくない面々ばっかしだもん…まして、宇喜多直家(やはり梅毒で死んだとされる)の妻と関係を持ってたとされる秀吉に梅毒の話が無いのも…
257 :
人間七七四年:2009/03/09(月) 00:07:57 ID:OIrl5kCn
大谷やりチン行部
258 :
人間七七四年:2009/03/09(月) 10:59:38 ID:wWnGaXoO
>>256 秀吉は脳梅毒じゃないかと言う話はあるな
259 :
人間七七四年:2009/03/09(月) 21:00:02 ID:o4W0StVT
「兜」についてなんですが、内側ってどうなってるんですかね?
あれをそのまま被るとかなり痛いと思うんですが・・・
260 :
人間七七四年:2009/03/09(月) 21:04:11 ID:9SbOZTPh
>>259 無論、クッションや中空構造になっていて、斬撃のショックを吸収できる
261 :
人間七七四年:2009/03/09(月) 22:16:19 ID:/YeEJE9j
花倉の乱と御舘の乱、どちらがドラマチックですかね?
で、我々が学ぶべきなのはどちらですかね?
262 :
人間七七四年:2009/03/09(月) 22:59:37 ID:0GEuVUKS
お前、いつも「学ぶべき」とか「教訓にすべき」とかうるさいよw
実用書を求めるならビジネス本か政治本でも買って読めよ。
ドラマチックかどうかは人の主観によるけれど、
旬の話題は二年前なら花倉、今は御館だろうな。
どちらも肝心なところの実態がよくわからないけれど。
263 :
人間七七四年:2009/03/10(火) 00:44:31 ID:dZv4x2we
梅毒はアメリカ(新大陸)発の性病らしいし、西洋人も詳しい事分からなかったんじゃね?
264 :
人間七七四年:2009/03/10(火) 02:27:10 ID:mL0Sul9U
確か専ら南米の方の風土病で、スペイン人が媒介する形になったんだっけ…オーこわ、おーコワ…
265 :
人間七七四年:2009/03/10(火) 02:47:43 ID:33P1pbuH
脇坂安治は明智家の家臣からどうやって秀吉に鞍替えできたのか教えて
266 :
人間七七四年:2009/03/10(火) 14:15:50 ID:rs8X2c5H
脇坂は光秀の家臣っていうより与力じゃなかったっけ?
267 :
人間七七四年:2009/03/10(火) 22:15:34 ID:q6bllyNa
大坂の陣で豊臣方として籠城していた内藤忠豊について、
どういう出自の人物なのか教えて頂けないでしょうか。
268 :
人間七七四年:2009/03/10(火) 23:26:44 ID:OeMBM8d0
秀吉は出世して木下から羽柴に改姓してますけど
当時は改姓って自由に出来たのですか?
家康が松平から徳川に改姓した時は朝廷が絡んでいた気がするのですが
やはり朝廷に改姓の申請して許可を貰う必要があったのでしょうか?
269 :
人間七七四年:2009/03/10(火) 23:59:44 ID:8SVFQVoH
>>268 家康の場合、徳川改姓は手段で、目的は三河守任官だった。
苗字に関しては別に朝廷の許可なんて必要ない。てか苗字どころか
姓ですら信長や家康の例のように勝手に変えている。
ただ、苗字をほいほいと勝手気ままになんの関係もなく変える事は
あまり例はない。
270 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 00:12:52 ID:whivQdwj
名字は発音があってればいいというのもあるね。
水原→杉原みたいに。
271 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 01:10:39 ID:TEzyIlll
大坂の陣で活躍した毛利勝永
もともとの苗字は森だったが
秀吉から九州の大名にしてもらった時に、毛利に改名したほうが地侍が従いやすいだろうといわれて毛利になった
272 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 01:43:03 ID:0lPXli+H
出羽の白鳥なんて城取って書かれている場合がある。
273 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 01:46:11 ID:bkZ8ObkF
木造具政は「小作り」でOKなの?
274 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 02:09:49 ID:hEYaqmLl
質問です。
尼子は月山富田城で滅亡しましたが、本家は存続出来たんですか?
滅亡したのは分家だけ?
275 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 02:15:12 ID:wpH4YB5f
276 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 04:03:38 ID:hEYaqmLl
277 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 13:14:56 ID:xSgpyLtb
秀吉の改姓の話が出たんでで気になったんだが、「木下」や「羽柴」は
名字であって、「豊臣」は源平藤橘のような姓のほうなのかな?
278 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 14:15:01 ID:3xw2H4ET
>>277 Exactly そのとおりでございます
羽柴秀頼って表記はほとんど見たことないけどね
279 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 14:54:31 ID:8zL6ZEti
>>277 そう
豊臣もげんぺいとうきつと同様に天皇からたまわった氏
280 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 17:55:46 ID:3xw2H4ET
281 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 18:16:19 ID:wWIBejCT
定番の話ではあるが、木下家の皆さんは豊臣姓を捨ててないので
(まあ秀吉が昔自称してた平氏に戻すのもアレだしな)、
豊臣朝臣として残って明治には華族となった。
ちなみに、片桐さんちは血縁もないので即捨てた。
ちなみに橘姓は江戸時代には堂上家どころか、
自称で名乗る大名すら無かったので、華族には橘姓はいない。
(橘氏長者は藤原道隆を経由して九条家が継承)
282 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 07:52:08 ID:Y9l7DtGs
源平藤橘豊臣以外のマイナーな姓を名乗っていた戦国武将っている?
283 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 09:11:15 ID:M+WymjFy
284 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 10:29:25 ID:3LwwMZlv
>>282 いくらでもいる。
関東は大江広元の子孫を名乗る家が多いので、これはすべて大江朝臣になる。
一番有名なのは、関東から安芸に移った毛利。
さらに関東には坂上田村麻呂の子孫自称系も少なくない。
前田は菅原朝臣を自称。
あとは阿蘇氏。神武の子供の時代に分かれたことになってるので一応最強。
285 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 13:27:30 ID:eojYLXyS
長宗我部なんかは秦氏だったか。
286 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 13:42:40 ID:pjTztI/t
織田は最初は忌部氏だったっけ?
287 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 15:04:02 ID:pDEJ597V
長野業正は在原業平の子孫を自称しているから、
在原氏ってことになるな。
288 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 18:52:07 ID:66RNbhIQ
○○守護と○○守の違いが分かりません。
とりあえず、公家がなるものだった国司は守護より上の立場であった、
というところまでは勉強しました。
289 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 19:00:38 ID:iM1Vs51c
守護職は幕府が任命
官位は朝廷が任命
290 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 19:32:14 ID:9RRWWhMC
○○守は官職ね
どっちにしろ朝廷から任命されるものだけど
291 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 20:03:57 ID:66RNbhIQ
質としてはどうだったんでしょうか?
例えば
守護 その地域に赴任するもの(実態支配が出来ていないともらえない?)
守 全く別の地域にいる場合もある(秀吉の筑前守等)
と認識しているのですが。
292 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 20:39:34 ID:PobOnPvg
>>291 守護…
実効支配そのものが守護本人や守護を主君とする家臣団、守護の一門によってなされていることが多い。
また全域を実効支配していなくても幕府への貢献(要するに献金)次第では守護に任じられることもある。
守…
ほぼ名目上のみの地位なので、実効支配とはほとんど関係が無いことが多い。
また守護と違い自称(朝廷から正式に与えられたものではない)も多い。
但し名実ともに当該国の支配者であることを他者に明示するために守の補任を求めた守護もいる。
また守には厳密には「上国・中国・下国」などの区分があるので、
朝廷から正式に補任された場合はどこの国の守(又は介)であるかで地位が顕されることもある。
戦国時代から離れるならば、守護地頭制の創立前である平安時代以前は守が当該国の実効支配者に相当した。
大体は291の認識で合っているが、例外があることも知っていればいいかと。
293 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 20:44:02 ID:66RNbhIQ
>>292 詳細ありがとうございます。よく分かりました。
294 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 20:58:53 ID:mRMJx4+Y
家康は節制してたはずなのになんで太ったんでしょうか
295 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 22:55:52 ID:nCXT8KR1
河東の乱と加藤の乱、どちらがドラマチックですかね?
で、我々が学ぶべきなのはどちらですかね?
296 :
人間七七四年:2009/03/13(金) 00:24:41 ID:ZO/Jl1WH
>>294 元々はガタイが良かった、いわゆる筋肉達磨。
で、肥満になったのは豊臣秀吉に臣従して以降。
戦が減って運動不足になったのもあるだろうし、
上方での接待攻勢とか、いろいろ要因はありそう。
>>295 自分がどう感じるかくらい、自分で考えろ。
自分が学ぶ物くらい、自分で考えろ。
297 :
人間七七四年:2009/03/13(金) 02:25:14 ID:phGnOa+3
>>294 若い頃は今川義元、青年時は織田信長など、何とも気苦労と肉体疲労のかかる怪物が上にいたけど、
豊臣秀吉と対峙した頃にはある程度の余裕が出来始めてたし、戦も減って、
駆けずり回る必要がなくなるから運動量も落ちる。
ウェイトトレーニングなどなかった時代だから、ダイエットなんて発想もないし…いくら粗食でも太る時は太るわな。
298 :
人間七七四年:2009/03/13(金) 02:56:52 ID:UPDd2y1q
六角義鎮(承偵)を武将として総合的に判断すると100点満点中何点だと思いますか?
299 :
人間七七四年:2009/03/13(金) 06:07:48 ID:CuU/nS8c
武将に点数をつけて比較することほど馬鹿げたことはないが、
試みたい気持ちはわかる。
数値をつけるより評価すべきところとそうでないところを三つずつあげるのがいい。
300 :
人間七七四年:2009/03/13(金) 19:56:11 ID:0wcHSyNN
国人家臣というものがよくわからないんですが
関東の大名を語るときにはよく話題に上がるのに他地方ではあまり聞かないのは何故ですか?
301 :
人間七七四年:2009/03/13(金) 22:58:08 ID:tuZxhOeh
>>300 簡単に言うと国人の家臣です。
国人というのは、現代で例えると地方の旧家や古い中小企業なんかをイメージしてください。
大名ほど力はないけど、各地域に確固とした力があるから、傘下にあっても半分独立勢力みたいなめんどくさいヤツラが国人です。
豊臣家における五大老などの外様の大名家臣をそのまま縮小して、各大名クラスに当てはめると国人家臣に近くなると思います。
彼らは基本的にどこにでもいます。
関東系のスレで語られるのが多いのは、関東の国人には特に名門の血統書付きや自称名門が多く、めんどくさい問題を起こしがちだったからだと思います。
ただ、別の地方の国人もめんどくさい問題や裏切りなんかをしていたので、語られやすいのはスレ住民の嗜好にも多少影響されてるのでは?
302 :
人間七七四年:2009/03/13(金) 23:24:49 ID:0wcHSyNN
>>301 丁寧にありがとうございます。わかりやすい説明で納得がいきました。
関東だけかと思ったりしたのですが、こちらの知識が偏っていただけのようですね。
303 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 00:09:46 ID:mEjTsHul
有名どころとしては安芸の毛利氏とかね
304 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 00:16:34 ID:QRqNUd76
あとは徳川なんかも思いっきり国人領主上がり。
自称名家の代表格ですね。
毛利は正真正銘の名家の分家だけども。
305 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 01:13:03 ID:UfO/R3YI
毛利の本家は越後上杉家に従属しているのであった。
もっとも毛利の名にたがわず一国を預かるほどの大身になった後、
主家を裏切るんだけれどw、
306 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 02:05:43 ID:Gqo6uIzr
信濃とかもまさに国人の国だったよね
信玄がまとめるまでは
307 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 10:47:55 ID:BFbEjzio
横入りだけど
そんなに面倒くさいなら
国人潰して直轄地にしちゃだめなの?
308 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 10:57:36 ID:wXc1E6jv
まぁ関東は上杉が越山してくると
国人が北条に付くか上杉に付くか問題になったから議論の本質に関わりやすい。
尼子と大内に挟まれた毛利や吉川や高橋や宍戸なども国人論議になりやすい。
他に大友なんかも国人連合みたいなもんで、島津に大友が撃破されると国人達の離反が激しくなり瓦解しやすい。
毛利が織田との決戦を避けていたのも、大敗すると国人崩壊が始まり解体してしまう恐れがあるから。
簡単な話、大名との縦ラインでの被官化が完全でない曖昧さがあり、
横ラインでは国人一揆連合の要素を持ち上の地位の者に、下の地位の者達が連合の上、合意して交渉を持つのが国人。
国人の離反は大名家の屋台骨を揺るがす為、ムリな動員はできないし、大名家が率先して血を流し戦わないと、彼らは戦わない。
309 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 11:00:13 ID:EamDoOA8
310 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 11:11:28 ID:wXc1E6jv
>>307 国人の一族は現地に土着化して数百年が経ち、地域の名門盟主になってるから排除しようとすると山城に籠城し通商の邪魔して徹底抗戦する国人一揆を広範囲に渡って起こし厄介。
しかも一向衆など宗教を背景にした門徒などもいて、相当厄介な上に隣国の大名側について介入をうける恐れもある。
例えば、六角氏が弱体化した原因も国人の離反。近江の国人とも言われる浅井を盟主としてその連合などの勢力の増大によるもの。
中華皇帝みたいに九族皆殺しの族滅で地域をクリーンにする残虐なやり方は本朝では馴染まない。
小手森城での政宗の女子供まで生きてる者皆殺しも大内氏の地盤を崩壊させた手法だろう。
義光の家督継承時に反抗した村山郡各地に土着化し国人化していた最上一族をことごとく虐殺し滅亡させたのも同様か。
潰そうとするより、国人を抑える為に佐竹や毛利や龍造寺や長宗我部などがやった養子を送り込むやり方のほうが無難。
311 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 11:19:12 ID:BFbEjzio
>>309,310
レスサンクス。潰すほうが難しいのね
>>養子を送り込むやり方のほうが無難
血筋より家や地盤の存続重視なんですね
312 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 11:49:12 ID:0Gv6NXt3
戦国大名の成立ってのは、国人の権限を吸収し、被官化させることが全てと言っていいからな。
313 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 12:13:15 ID:wXc1E6jv
謙信が子作り大好きで
関東諸家に養子を送り込みまくってたら
かなり勢力拡大できただろう。
314 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 12:21:00 ID:0Gv6NXt3
養子にガンガン子供作ってもらって、そうしたかったんだろうな。
315 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 12:33:24 ID:BFbEjzio
>>313 尾為景の孫が大量生産されるということか
316 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 12:47:55 ID:wXc1E6jv
長尾能景→戦闘100知力95義理85
長尾為景→戦闘95知力85義理50
長尾景虎→戦闘95知力85義理98
長尾景仲→戦闘90知力95義理99
長尾景信→戦闘95知力88義理95
長尾景春→戦闘100知力100義理75
317 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 13:19:31 ID:2xiQsheL
為景の義理・・・が・・・50…?
318 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 13:27:48 ID:TDJHnZfQ
ですよねー義の武将上杉謙信の実父が義理50なんて低すぎです
319 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 13:29:41 ID:Gqo6uIzr
為景の辞書に義理なんて言葉はないだろw
320 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 14:25:50 ID:08d2VoMy
321 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 15:57:16 ID:FCZxWl5/
最後まで上杉を保護し、崇め奉る義理堅い武将ですよ!
322 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 16:54:34 ID:Njx1whC1
323 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 16:56:48 ID:Njx1whC1
>>311 前に誰かが書いていたけど、
武家のいう家とは企業と思ったほうがいい。
一族で経営できればいいけど、
それよりは企業を存続させて従業員(家臣)に飯を食わせるほうが大事。
324 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 19:41:01 ID:08d2VoMy
>>323 どもども
そもそも武士は鎌倉以来「ご恩と奉公」「一所懸命」でそういうところは
はっきりしてましたよね。
そういうことになると家臣団の方が
益があるとみれば主筋を放り出して養子を歓迎しかねませんね
325 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 22:45:52 ID:rQ7m7d1y
源義経とチンギス・ハーンが同一人物なんのは本当ですか?
明智光秀と南光坊天海は同一人物なんですか?
326 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 23:08:31 ID:a748vOZo
>>325 基本的にどちらもNOとしか言いようがありません。
あくまでも伝承や講談レベルの話でしかなく、よほど何らかの明確な証拠が(本人直筆の日記など)見つからない限り、どちらもあり得ません。
ですが、そういう伝説や逸話が戦前から流布しているのも事実なので、小説やマンガなどの元ネタなどには使われやすいです。
突飛なファンタジー色の強い話ですしね。
まあ、これを事実として声高に叫べば失笑をかうかもしれませんが、個人的に楽しんだりネタとして使うのは自由だと思います。
327 :
人間七七四年:2009/03/15(日) 11:58:07 ID:9mEsfG11
>>311 戦国大名の権力というのは、後世にイメージされるほど強くないんですよ。
ある意味戦国時代というのは、大名と国人の権力の綱引きの過程とも言えます。
だいたい大名に権力が集中されていく傾向にはありますが、当然それぞれに
差はあります。観音寺騒動後の六角氏などは、失敗した例ですかね。
武家を会社に例えてますがその通りで、戦国大名は基本的に会社の連合体なんです。
その中で相対的に大名家会社が一番強いので、盟主となりある程度の命令権も
もてますが、傘下の中小企業にとって都合の悪い経営方針を取ろうとすると、
傘下企業は会社利益を守るために上の会社に反対します。
基本的には、利益を守るための共同体、それが戦国大名の実態ですね。
大名家としてはそうやって参加企業の顔色ばかり窺っていてはやれることは
限られます。ので、傘下企業への支配権を強める為にいろいろ画策するわけで、
最終的には吸収合併して本社の会社員化を目指します。これが被官化、家臣化
するってことですね。
328 :
人間七七四年:2009/03/15(日) 23:07:49 ID:vuL9aamt
北条家の家訓
家臣や民を慈しみ、人心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように
原文ご存じの方御教授下さい
329 :
人間七七四年:2009/03/16(月) 08:38:35 ID:+xgYxDVf
いま中国で家康が大人気とフジで放送してた。
理由は松下幸之助が家康を絶賛してたので万博を控えた上海や青島のビジネスマンが本を買うかららしい。
購買層は20代から35歳までの戦国ゲームを昔プレイしていた中国人が多いとか。
330 :
人間七七四年:2009/03/16(月) 11:38:37 ID:+xgYxDVf
>>328 それ捏造美談だろ。
北条ってのは、高利貸が優遇保護政策をやってる超怖い支配をしてるんだぜ。
北条が在地の農民らから税を徴収するのも高利貸。
公方銭や蔵銭の管理運用も高利貸なんで、北条の経済政策から政治まで高利貸がやってたに等しい。
一見すると高利貸は北条の下請的存在に見え事実誤認し易いが、ハッキリ言うと北条を支配してる真の支配者は高利貸なんだよ。
なんせ有力家臣まで高利貸から金を借りてるからね。
だから上杉や武田に北条領が攻められ在地の者達が困窮するのを高利貸サイドは歓迎する。
でもあまりに搾取し過ぎてヤバくなると永禄三年に代表される徳政を出さざる負えなくなる。
そういう意味では北条と高利貸は一体化していたと言えるし、高利貸による支配体制こそが北条なのである。
そしてその富の蓄積を狙うのが、略奪王の武田であり、
高利貸王北条の超高金利恐怖支配からの解放の義が上杉の大義名分だったのである。
331 :
人間七七四年:2009/03/16(月) 12:51:58 ID:OiKLpKGC
>>330 氏康が死んだ時は領内の大勢のファンたちが涙したって聞くけど、それも創作なのか?
332 :
人間七七四年:2009/03/16(月) 13:16:20 ID:+xgYxDVf
百姓役をしてる者への徳政とは名ばかりの恐ろしい北条高利貸し制度
安い金を貸して質に取った物は、三島の秋の収穫たる酉祭が返済と質流れ期日にするが、
伊豆三島暦や武蔵氷川暦や甲斐暦の違いをうまく利用して質品を勝手に流してシカトする高利貸有利なシステム。
天正17年に借金で困窮していた武士で足軽衆の統率者根岸が
高利貸をしていた関宿城番の恒岡越後守と太田下野守に借金の質に鎧や馬を預けた。
取り戻そうと氏政に訴えたが、太田や恒岡ら高利貸の肩を持つ氏政に、質品はもう流れてねーから知らんわと却下される。
それ以前だが天正11年に、古河公方の奉公人が運ぶ荷物や馬を北条側の足軽達が山賊行為で強奪。足利家が氏政に訴える。
氏政はちゃんと返させるからと言って根岸に通達。しかし何度も請求しても返してくれない。
交渉して栗橋城奉行の布施美作守から文書発給してもらったら、偽馬や運び手は返すが荷物は返さない。
偽物はいらないちゃんと返せと言ったら、お前らに返すものはねーぞゴラ!交渉打ち切り何も返さねぇと逆ギレされる。
武士階級が困窮し盗賊と化した北条領の現実。
永禄4年の景虎の小田原侵攻時に、すでに引退した氏康が「氏政がまだ若輩なので再度国家之意見」を吐いたが農民らは死ね銭狂い高利貸野郎と呪ったろう。
333 :
人間七七四年:2009/03/16(月) 13:36:56 ID:+xgYxDVf
永禄3年に893北条消費者金融の高金利搾取のやりすぎで、ついに農民生活が完全崩壊し徳政を発布。
永禄4年に徳政の名の悪政に困窮した多くの豪族国人達の要求に応じて上杉が悪徳金融業者からの解放の大義で小田原包囲。
北条は破綻した農民を一切守らずに、人命より大切な…搾取し溜め込んだ多額の銭や膨大な貸借契約書と共に小田原に籠城する鬼畜ぶりを天下に示した。
上杉が帰った後に生活が困窮している農民に援助の名の元に高利貸を再度開始する893北条。
信玄が泥臭い犯罪集団なら北条はワイシャツを着た金融893
334 :
人間七七四年:2009/03/16(月) 14:22:32 ID:V9WecpQN
その上杉も、あなたの言うところの高利貸しをしてるんだけどね。
徳政するところまで一緒。
335 :
人間七七四年:2009/03/16(月) 14:28:20 ID:tD7Qla7L
>>334 上杉の高利貸を明らかにした論文があればお教えください。
336 :
人間七七四年:2009/03/16(月) 15:03:46 ID:V9WecpQN
+xgYxDVfの論調でいけば、って話。
まあ当時、高利じゃない借金なんて想定できない、
そして謙信は越後の豪族を始め金を貸していた訳で。
また天災にあって徳政を出している。
+xgYxDVfは北条の高利貸しが破綻して特性を出さざるを得ないような論調だけれど、
永禄三年・四年は天災に人災が重なった時期なのをまったく触れてない。
また自分だけが安穏と城にこもっていたように書いているけど、
北条が城の管理を民に委ねる代わりに有事には城に篭れと言っている。
そこらへん全部無視してああいう風に書くのはアンフェアだろうって話。
337 :
人間七七四年:2009/03/16(月) 16:46:07 ID:YA3SO9/7
>>333 北条の経済事情について参考になるものがありましたら
教えてください、
>>336 上杉が家臣に貸付けした根拠があれば
教えてください、
338 :
人間七七四年:2009/03/16(月) 22:54:23 ID:nT0q15Va
上杉家中だと段銭方の大熊政秀に竹俣清綱や毛利広春の妻が借金したぐらいしか知らんなぁ。
金利が高かったかどうかは原文を見てないのでわからん。
上杉家の公金なのか政秀の私金なのかもわからんし。
339 :
人間七七四年:2009/03/17(火) 21:11:00 ID:XrmUn61d
信長の野望〜革新の島津家の固有戦法は「捨がまり」だけど、
俺は島津の固有戦法なら「釣野伏せ」のほうがしっくりくると思うんだが、どうよ?
捨がまりって、あくまで撤退戦の際の計略だし。
340 :
人間七七四年:2009/03/17(火) 21:48:12 ID:Ojnzi/q7
信長の野望スレいけよ
341 :
人間七七四年:2009/03/18(水) 06:19:59 ID:Kri4BSeS
>>338 そもそも大熊氏は府内長尾氏家臣ではなく、越後上杉氏家臣。
最終的には府内長尾政権に反乱した形になって亡命し、
武田家臣になって箕輪長野氏攻略や長篠合戦に参加してる。
謙信が質をとっての高利貸しをした記録はないし、大熊が質をとっての高利貸しをした記録もない。
342 :
人間七七四年:2009/03/18(水) 18:33:37 ID:Kri4BSeS
諸階層を巻き込み困窮をもたらす高利貸の活動は、北条氏の権力基盤を崩しかねないほどだった。
また彼らが管理運用していた北条氏の公方銭や蔵銭の存在は、北条氏の検地の限界を現すもの。
北条氏の徳政も高利貸を優遇保護が前提なので場当たり的になった。
謙信が関東から帰ると再び北条氏に在地国人や豪族が北条側に戻るのはヤミ金レベルの高利貸による書面と質による貸借関係からくるものだろう。
越相同盟破綻も北関東衆に対して融資した金の回収トラブルによる北条ヤミ金融の意向だろう。
343 :
人間七七四年:2009/03/18(水) 19:59:34 ID:8ZS7vPVn
>>341 何を噛み付いてるのか知らんが、大熊氏を一括りにするのはやめろ。
亡命したのは息子の朝秀であって、政秀じゃないだろ。
政秀は越後上杉氏家臣だが房能と為景の対立では為景に付いたし、
為景と定実の対立でも為景側なんだから長尾家臣といっても差し支えはない。
大熊は段銭方なんだから公金を取り扱う事が可能だ。
高利であったという記録はないが、そもそも利子がわかっていない。
前述の通り貸した金自体公金か私金なのかも不明だしな。
大熊の賃借が公金を用いているのか否か、利子はいくらなのかが判明すれば、
上杉家を引き継いだ謙信も従前の通り踏襲したと考えられる。
大熊の場合しか知らんが、政秀の賃借の仕組みはどうだったんだろうな、と上げたのが
>>338。
それぐらいの意思は汲み取ってくれ。
北条を高利貸しだと叩きたいなら適切なスレに行くか作るかして語れ。
ここは語りスレではない、質問スレだ。
344 :
人間七七四年:2009/03/18(水) 22:12:35 ID:ltJBdwIY
上総酒井氏の一門・家臣などで
・1582年に存命である事
・諱や多少の事績がわかる事
・酒井政辰(東金)、酒井康治(土気)以外である事
以上の条件を満たす人物がいたら教えて下さい。
もしくは同じ質問をするのに適したスレがあれば教えて下さい
345 :
人間七七四年:2009/03/18(水) 22:27:10 ID:Kri4BSeS
大熊氏は為景の家臣ではないよ。
大熊政秀は上杉定美が守護になった際に、
「上様御定まりにつき、御公銭方より所々御料所へ御年貢催促候」と書状を出して守護政権の復活を報せてるし、
事実、守護が決まる前は守護不在で守護組織が停止していた。
為景は守護権力を利用するつもりが、上杉定美を守護につけた途端に再び守護の政治機構が復活した。
為景は文書発給に対して定美御屋形様から御判を貰わなければ裏付け保証にはならなかった。
為景が将軍から白傘袋などの認可を受けて徐々に家格を上げて守護権力の権限を侵食しようとするのに対して
1530年に守護公銭方大熊政秀が反乱したのも守護代長尾家に対する守護上杉系領主の対立の系図。
結局、為景は守護上杉系や国人の反乱圧力で隠居に追い込まれ、まもなく失意のうちに死去し守護政権権力の奪取に失敗した。
のち1556年に景虎の隠居事件中に大熊朝秀が反乱亡命。
346 :
人間七七四年:2009/03/18(水) 23:02:17 ID:0Fc2OtHR
北条への悪態は度を過ぎているが、大熊の認識は正しい。
利息は確か借用書に明記していたはず。
他と比較せねば高利かどうかはわからんね。
段銭を扱う大熊だから、扱っている借銭は公金の流用だろう。
これは役得というより、窮乏する領主救済として職務の一環と見るのが妥当。
347 :
人間七七四年:2009/03/18(水) 23:05:19 ID:Kri4BSeS
悪態じゃなくて事実だから。
348 :
人間七七四年:2009/03/19(木) 00:08:00 ID:JlDwzszq
北条の徳政の対象は、北条政権が民に貸し付けた(とかくと悪い感じだが)金銭の破棄だからな。
で、これは何かというと今までに貸し出していた天災に対する貸付金。
借金全破棄の徳政は経済が萎縮して混乱するだけだから、そこまでしないのが普通だろ。
それを高利貸し保護ってのはちょっとな。
確かに言っていることは間違ってないが、悪く解釈しすぎ。
それを悪態をつくって言う。
349 :
人間七七四年:2009/03/19(木) 00:40:49 ID:3oOYSbXK
そういや後北条氏の徳政の再検討の観点からの高利貸し保護政策については、
阿部浩一氏や久保健一郎氏など多数の方が指摘してるね。
大昔は北条の徳政を単純に善政と決めつけていたが、
今から10年ちょい前から、なぜ徳政を出さざる負えないほどに民衆は困窮に追い詰められたか?の理由研究から後北条政権内の高利貸しの存在が脚光を浴びて研究が進んだね。
350 :
人間七七四年:2009/03/19(木) 07:10:08 ID:EhafOgRG
最上義光の弟の中野義時と伊達家宿老の中野宗時はなんか関係あるの?
351 :
人間七七四年:2009/03/19(木) 09:29:46 ID:64yDpqew
>>350 不明。というか、中野義時の存在自体が、義光に家族殺しのレッテルを
貼って貶めようとする、創作・架空のキャラクターという説がある。
根拠として、弟・中野義時の名前が出てくるのは江戸時代後期以降の
史料で、当時からずっとその存在を匂わせるような記録も皆無だった。
352 :
人間七七四年:2009/03/19(木) 19:41:57 ID:vxfd7Tfa
>>344 他スレで聞くことにしたので取り消します。
申し訳ありません。
353 :
人間七七四年:2009/03/20(金) 02:55:22 ID:HzcecRpI
親族殺しが公になる事の方が珍しいのでは
354 :
人間七七四年:2009/03/20(金) 08:42:47 ID:q4LA8nNZ
伊達政宗って具体的にはどのへんまで版図を拡大したんだ?
よく、政宗の台頭で奥州はまとめられた…みたいに語られるけど、
個人的には他の東北大名と比べても、それほど広大な領土をもってたイメージが無いんだが…
355 :
人間七七四年:2009/03/20(金) 10:23:35 ID:4mBA0srJ
宮城から福島にかけての南奥州一帯。
ただし会津はすぐに秀吉に取り上げられたので、確保したといえるのはもう少し狭い範囲だが。
信長で言えば、美濃を押さえて周囲から頭一つ抜けたけど、
周囲にはまだまだ六角も浅井も朝倉も武田もいますよ、みたいな状況。
まあ本人も奥州をまとめる気なんてなかっただろう。葦名の次は佐竹が相手だし。
あと、江戸時代に入ってからは、仙台藩62万石は文句なしの大藩なわけで、
「政宗が奥州をまとめた」とかいうのは、そこからのイメージも入っているんだと思う。
356 :
人間七七四年:2009/03/21(土) 19:53:10 ID:iTvlYY8g
奥州はバカでかいのに政宗が奥州の覇者なんてよばれるのはちょっとなと思う
357 :
人間七七四年:2009/03/21(土) 21:53:44 ID:LorWmYQL
まだ南部騎馬軍団とか北の経済大国秋田とか残ってたしな
358 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 07:13:08 ID:QYM4Num9
もがみん…
359 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 08:49:25 ID:WXRmVJm5
そっちは羽州だから
360 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 10:30:21 ID:wVkbEyCk
>>249 中国に行った海賊が現地感染して帰ってきたのが梅毒の日本での始まりだったような。だから「唐がさ」というのだろうし。
>>258 となると淀殿とかは梅毒感染してたのか?
361 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 10:34:44 ID:wVkbEyCk
ちなみに、戦国時代に東北や九州で4〜5万等の万単位の戦いが多かった理由は?
武田信玄と上杉謙信とかが1〜2万の軍勢で合戦してるときに、九州だと3万5万はあたり
前な戦いが多かったような。
理由は人口多かったり、鉱山や南蛮貿易でそれなりに経済力(動員力)があるから?
362 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 11:30:24 ID:LZTFGr3t
遠心力の関係で京を中心に離れるほど実際の数より多く感じるようになります
363 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 12:10:29 ID:WXRmVJm5
経済力があったら硝石欲しさに南蛮人に人を売ったりしないわけで・・・
兵数は吹いてる可能性が高いね
敵を威圧するために数を実際より多くひろめたり
逆に敵を倒したら多めに報告して(当然周りの人とも口裏を合わせる)褒賞もらったり
少数で巨大な敵を倒した!俺たち強いぞ!的なアピールとか
洋の東西を問わず兵数の記録なんてあまりあてにならないからな
364 :
人間七七四年:2009/03/23(月) 12:33:22 ID:tOnnencN
江戸以前の人口については、歴史学上も未解明な部分が多いんだけれども、
江戸時代を通じて人口増加率は西国の方が遥かに高い。
まあ、暖かいところのほうが生産力が高いというわかりやすい結果。
なので九州については、今の日本人が考えるスケールよりは、
(東国より)人口が多かった可能性はある。
だから逆に人が売るほど余ってたのかもしれないが。
365 :
人間七七四年:2009/03/24(火) 01:58:29 ID:UkazaE26
室町時代後半の人口ベスト3
京
越後
尾張
366 :
人間七七四年:2009/03/24(火) 19:52:52 ID:L8/t9lXe
西の京と言われた山口とかも人口多そうだな
367 :
人間七七四年:2009/03/24(火) 22:38:28 ID:yRoKzE5D
この板って、「史実では〜」とか「史学的には〜」とか「一次資料だと〜」
みたいに、かなり専門的な視点からのレスが多く見受けられるけど、素人でそこまで調べてるのか?
それとも、史学専攻してる人とか、院生とかプロの人とかもけっこう書き込んでるのかな?
368 :
人間七七四年:2009/03/24(火) 23:04:10 ID:L8/t9lXe
大学の図書館って専門的な本とかあるし
結構調べられたりする
ちなみに自分は単なる理系の大学生だけど
ちょくちょく興味で本借りて読んだりする
正直いって史学専攻すれば良かった
369 :
人間七七四年:2009/03/24(火) 23:14:33 ID:pFxG3udb
>>367 >「史実では〜」とか「史学的には〜」とか「一次資料だと〜」
これをハッタリで使ってるのも結構いる
勿論真面目に調べてる人や史学専攻の学生や教授みたいなのもいるはずだ
370 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 00:24:37 ID:HzF1TVlq
本気で歴史勉強しても得な事なんて無いからな。
同僚は元より上司と話す時でさえ話のネタにもならん。
371 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 00:30:00 ID:WxrmOsvM
大半は趣味だな。
372 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 00:36:43 ID:9wclYuL/
373 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 00:47:37 ID:ynJsYbgj
>>367 かなり幅広いけど、歴史に興味持ち始めた人から、研究者クラスの人
までいるんじゃないかな。
ともあれ、かなり専門的な話題もあって参考になるし、論文の紹介や
最近出た専門書の書評、歴史系の展示やイベントの話もあったりするのは
けっこう嬉しい。正直mixiとかの歴史コミュなどよりもずっと見てて楽しい。
>>368 俺は史学やってる学生。
理系の学生さんで、べつに専攻分野があるのに、大学で別の分野の学問の
専門書を読みこなすって結構すごいな。
>>370 いわゆる世間でいう「歴史好き」って「歴史小説良く読みます」とかと
ほぼ同義だもんね。歴史街道、読本の読者ならば、かなりコアな歴オタだと
思われるだろうし。
374 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 01:57:53 ID:E+y+bhQV
>>373 >正直mixiとかの歴史コミュなどよりもずっと見てて楽しい。
mixiの戦国コミュなんて、マイナー武将トピで徳川四天王とか武田四名臣とかが挙げられるくらいだしな。
375 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 03:38:19 ID:nT/UlnVi
歴史読本の新人物往来社って、角川グループ入りしてんだよね
376 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 09:21:56 ID:EqwLhY0s
377 :
368:2009/03/25(水) 11:13:34 ID:muSQ5JW2
>>373 いや、正直自分の専門は完全におろそかになってるw
何も考えずに理系来たのは間違いだったかもw
378 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 16:30:09 ID:ICm4u94v
>>374 それ以前に話の中身がないような。
一部の痛い連中がどうしようもないトピたてて
それが伸びてる印象がある
379 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 17:03:42 ID:9wclYuL/
mixiで「一次史料では****です!(手の絵文字)」と書かれても困るだろw
380 :
人間七七四年:2009/03/26(木) 18:11:26 ID:EaLwxIJD
戦国時代の密書の使者って、途中で捕まって手紙獲られて殺され、
無事届けることができても相手に気にくわない内容だと見せしめで殺されで、
SATSUGAIされる可能性はヘタに戦場で戦うよりも高そうな気がするわけです。
かといって、そこいらの素人に任せられる仕事でも無し。
使者ってどういう身分や役割の人がその任務について、
その危険な任務に対して、どういう報酬が平均的に得られたものなのでしょう?
381 :
人間七七四年:2009/03/26(木) 19:01:34 ID:VQU2ADP1
使者というのは送る側の本人又は直臣が行くもの
陪臣やそれ以下の者が行くなんて聞いた事が無い
だから捕らえた時点で顔が割れある程度本物か偽か判断出来る
斥候とは根本的に違う
見せしめに殺すのだって 名も無き兵を殺しても何の意味もないです
また身分の高い相手に低い者が手紙を出すなど基本的に無礼極まりない行い
報酬は全くわかりません
382 :
人間七七四年:2009/03/26(木) 19:46:52 ID:pOGF1d3y
>>379 まあそうなんだけどね。mixiはなあ・・・単純な話として話題が幼稚。
「イメージのわるい武将」トピとか見ると如実にわかる。
>>380 案件や状況などにもよるんだよねえ。
本多政重を迎えに行った使者(大国但馬守に殺されるが)は与板衆のなかで、
もと巻館の主・西山庄左衛門(会津時代は300石)らが選ばれている。
383 :
人間七七四年:2009/03/26(木) 21:43:27 ID:CCAeDnDp
>>382 今みたけど、
「おいおい何言ってんだコイツ・・・・・・」
みたいな書き込みがある一方、戦国板名物の煽りや荒らしが無く、
みんな真面目に議論を進めようとしているのが伝わるので読みやすいのは読みやすい。
384 :
人間七七四年:2009/03/26(木) 21:50:38 ID:zRTvGw6a
>>380 横山漫画みたいだw
重臣や軍師が敵国に間者を送り込み、密書を送るor届けさせるって奴か?
385 :
人間七七四年:2009/03/28(土) 09:56:52 ID:Jh/eNr9Q
上杉謙信や北条氏康の侵攻を退け続けたという
多功長朝って何者ですか?
386 :
人間七七四年:2009/03/28(土) 10:02:59 ID:13jWGq1K
>>380 陣僧や使者を提案した武将や直臣などです。
大名クラスの武将の提案の場合、別の直臣などが担当することもありました。
陣僧から大名になった安国寺恵瓊などは毛利の使者や軍使を行っていました。
387 :
人間七七四年:2009/03/28(土) 10:19:35 ID:13jWGq1K
>>385 下野の宇都宮氏重臣で、多功城城主だった戦国時代中〜後期の武将です。
多功氏は同地の宇都宮氏没落まで1248年〜1597年まで約350年ほど続いた国人小名です。
388 :
人間七七四年:2009/03/30(月) 13:26:59 ID:yimXVsre
戦国期の装束・衣装の図説などでお手ごろ価格の出版物があれば教えていただけないでしょうか。
この他当時の生活についても知りたいです。
389 :
人間七七四年:2009/03/31(火) 00:01:18 ID:oYs88IhO
390 :
人間七七四年:2009/03/31(火) 00:25:19 ID:eO2HZfqR
>>389 迫力ある落ち武者虐殺映像に大興奮しました。ありがとうございます。
八嘉村の落ち武者狩り話は完全な創作でこれに似た伝承も聞いたことはありません。
しかしとてもよくできたお話だと思います。
391 :
人間七七四年:2009/03/31(火) 09:35:42 ID:BU2xxeiD
女性で切腹した人はいますか?
392 :
人間七七四年:2009/03/31(火) 13:46:10 ID:0NejxZXt
>>388 図解の無い書籍だと「雑兵伝」がお勧めだけど、
図説入りだと、歴史群像とかに有った様な気がする
393 :
人間七七四年:2009/03/31(火) 16:47:14 ID:FNB1eEWy
女性は基本的に磔か斬首というイメージがあるな
実際のところは知らないけど
394 :
人間七七四年:2009/03/31(火) 17:23:53 ID:gLdg0gD9
八墓村などの落ち武者狩りの逸話って、六部殺しのバリエーションなんじゃないかなあ
395 :
人間七七四年:2009/03/31(火) 23:29:45 ID:1RWbV/IN
>>391 切腹は武士の自殺方法だから、女性は切腹しないのでは?
女性が刀剣を用いて自刃する場合、匕首で喉を突く場合が多いような気がする。
別所吉親の妻の自刃もこれだったような(違ったらスマン)。
396 :
人間七七四年:2009/04/01(水) 15:07:44 ID:SxH3FKW4
切腹ということは、腹を出すわけだろ。
着物の場合、腹を出せば胸も出る。
オッパイ丸出しで切腹、とか無いんじゃないかな。
想像ですけど。
397 :
人間七七四年:2009/04/01(水) 21:33:16 ID:hqIcbZxn
時代劇や大河で武家屋敷の門がよく出てきますけど、あの門の脇にある小さな個人用出入り口はなんて言うんですか?
勝手口?
398 :
人間七七四年:2009/04/01(水) 22:03:08 ID:Tzat0wk8
>>397 通用門のことでしょうか?
勝手口は通常裏口の事を言いますが。
399 :
人間七七四年:2009/04/01(水) 23:43:35 ID:hqIcbZxn
>>398 恥ずかしながら知りませんでした。ありがとうございます
400 :
人間七七四年:2009/04/02(木) 05:22:20 ID:cm3w9fT7
401 :
人間七七四年:2009/04/02(木) 07:49:20 ID:pVMWUljn
402 :
人間七七四年:2009/04/02(木) 11:52:02 ID:C708TD/z
父の信虎
403 :
人間七七四年:2009/04/02(木) 16:50:48 ID:1FvYD5fy
左の絵だろう?
404 :
人間七七四年:2009/04/02(木) 18:52:55 ID:SgV3PmTp
ずっと気になってたんだけど、戦国〜江戸の不動産事情ってどうなってんだろ。主に市井の
405 :
人間七七四年:2009/04/02(木) 21:46:56 ID:bgjDz9Dh
>>404 江戸時代は豪商が長屋みたいな店持ちは多かったな。
地方の豪商も江戸の店持ち多かったみたいだし。
ペイはしなかったらしいのに、皆こぞって持ちたがったのはなんだろね。
406 :
人間七七四年:2009/04/03(金) 10:39:00 ID:ku6/UXF+
江戸時代だけど、庶民の住んでた長屋は、大名や豪商などの金持ちがオーナー。
奥女中がボーナス的に土地を貰う事も有ったので、奥女中の長屋オーナーも結構居た。
大家は、雇われ大家で年収は約200万円程だけど、長屋の共同厠の糞尿を農家に販売して年間約200万円程に成るから、大家の年収は合計約400万円
蛇足だけど、糞尿の買い取り価格は、長屋<商家<大名屋敷と、イイ物を食べてる順に、またイイ紙を使ってて除去し易い順に、価格が変動してた。
店舗物件は、前の賃貸人が夜逃げとかした後の、居抜き(家具付)なんかも、普通に有った。
何れにせよ、江戸は大火が周期的に発生してたから、ドラマに出てくる様な、今にも崩れそうなオンボロ長屋なんて、殆ど無かったであろう事は、容易に想像出来るけどモナーw
407 :
人間七七四年:2009/04/03(金) 10:47:14 ID:Zk0A/CbP
いい紙ってケツ拭く紙?
何時頃から紙でケツ拭く様になたのでしょうか?
縄のイメージがつよす
408 :
人間七七四年:2009/04/03(金) 10:51:59 ID:gytxLqyQ
高貴な人と下々の差はあるからなあ。
石田三成は関ヶ原後の潜伏中、ケツを拭いた紙から身元がばれたみたいな話もあったような。
409 :
人間七七四年:2009/04/04(土) 16:12:56 ID:JOBbTQO+
戦国時代に武器製造専業の職人はいましたか?
武器製造工場のようなものがあったのですか?
武器を流通させるために商社みたいなものはありましたか?
410 :
人間七七四年:2009/04/04(土) 21:57:58 ID:phZcSaPj
剣とか弓とかは消耗品だから、常に供給が必要となる
だからどの大名も職人が配下にいたと聞いたことがあるな
411 :
人間七七四年:2009/04/05(日) 02:06:17 ID:c8938v0w
座というのはピンキリありますが、大きいのになると、単に商人の集まりというだけでなく、
原料生産から加工製造、流通、販売までも掌った総合商社みたいなもんです。
412 :
人間七七四年:2009/04/05(日) 12:18:59 ID:SWgXG70b
東京都千代田区鍛冶町を筆頭に、日本全国の城下町には今も、鍛冶町・鍛冶屋町と言う地名が沢山残ってるが、
これらの地名は勿論、鍛冶職人(刀鍛冶や鉄砲鍛冶)が住んでいた名残。
だから、戦国武将や大名お抱えの鍛冶職人が多数居た事は間違いないだろう。
同じく、日本橋馬喰町を筆頭に、日本全国の城下町には今も、馬喰町と言う地名が沢山残ってるが、
これらの地名は勿論、馬喰(主に馬(牛)を扱う家畜商人、馬で飯を喰ってる人の略)が住んでいた名残。
だから、戦国武将や大名お抱えの馬喰が多数居た事も、間違いないだろう。
413 :
412:2009/04/05(日) 12:31:12 ID:SWgXG70b
蛇足だけど、思い出したんで追補ナw
漏れは道産子なんだが、北海道の方言に「ばくろう」と言うのが有る。
コレはモノを交換したい時に、「コレとソレを"ばくろう"」と言う言い方で使う。
語源は勿論、馬喰から来ているんだが、北海道開拓民(屯田兵)が入植した当時、牛馬は重要な労働力で、大変貴重な物であり、誰もが欲しがったが、貧しさ&設立間もない明治政府の脆弱な貨幣制度が故に、金銭売買よりも、物々交換が一般的だった。
この牛馬と物々交換していた名残が、今現在もモノを交換する際の北海道弁「ばくろう」として残っている。
414 :
人間七七四年:2009/04/05(日) 15:11:10 ID:f1AloUYj
よく、昔の平均寿命が短いのは乳幼児死亡率が高いせいだ、
って話を聞くけど、これってどうなの?
ちゃんとした統計調査を行うような時代じゃないだろうし、
それで乳児死亡率が高いから平均寿命も押し下げられる、ってことになるのかな?
そんな時代の平均寿命ってのは、文献や伝承でだいたいこのくらいまで生きるのが一般的!
っていうだけの話じゃないのかね?
415 :
人間七七四年:2009/04/05(日) 16:09:31 ID:5sXqC/KY
平均寿命は江戸時代に檀家制度が確立したので寺の過去帳から出してる
死んでから書かれるものだが現代の戸籍に匹敵し、データとしてはかなり信頼できる
飢饉や疫病発生時の死者数なんかもわかる
416 :
人間七七四年:2009/04/05(日) 16:31:39 ID:ih+nIMPN
日本人の平均寿命が飛躍的に伸びた要因は上水道の普及であると読んだ事がある。
つまりほんの半世紀ほど前まで「人生50年」が通用していた、ってこと。
平均寿命が伸びていく過程が判っているのだから、そこから過去の事情もある程度推測
できるんでないかな?
417 :
人間七七四年:2009/04/05(日) 17:50:01 ID:HSFp1G+n
>>404 いい悪い話のまとめにこんなのが>不動産事情
> 78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 14:56:27 ID:qQPQ0vhn
> 戦国終わって平和になって
>
> 戦国の終結、特に徳川政権の成立とその安定は、日本の経済を急拡大させました。
> これを京の冷泉町東面の町屋敷の売買金額から見てみましょう。
>
> 天正末から慶長初年の豊臣政権期、ここの売買価格は銀2〜7貫目でした。
> これが、関ヶ原が終わり家康の政権が確立する慶長七年(1602)以降になると、
> 銀20〜70貫目に急上昇!なんと十倍の地価上昇です。
> さらに豊臣家が滅び、徳川体制が完全に固まった元和以降では、120貫を越えるものまで
> 現れました。
> まさに土地ブーム。バブルです。
>
> この経済拡大は元禄期くらいまでの、約100年間は続いたものと思われます。
> 徳川期初期の書物や日記に、家康や徳川の治世を称える記述が非常に多いのは、
> 政権へのおもねりだけでなく、実際に発展を実感できた世の中だったから、と言う
> 事があるのでしょう。
>
> 経済発展と平和は密接に関連する。と言うお話。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1422.html
418 :
人間七七四年:2009/04/05(日) 23:59:29 ID:YT2rRBTu
明智光秀ってどういう所属形態をとってたのでしょうか?
織田家から家禄をもらいつつ、幕府からも給与もらってた感じ?
幕臣なら官位ももらってたのでしょうか?
419 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 00:15:27 ID:b9RFn7f8
一時期ではあるが両属の状態にはなっていたので
その時期は両方からもらっていたんじゃないだろうか
官位は義昭追放後に徐五位下を賜ってるけど
幕臣時代にはもらっていない
420 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 00:19:35 ID:mZo7OgO8
戦国時代に複数の主君に属するのは特に珍しい事ではない。
戦国末期から織豊期にかけてそう言うのが整理されたから今の目から見て奇異に見えるだけで。
421 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 11:21:57 ID:hNuhjUXV
上洛目指した大名って、織田、今川、武田の他にいたのでしょうか?
422 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 13:08:10 ID:icPa5i+C
>>421 織田信長と長尾景虎は上洛してるが。
今時、今川義元や武田信玄が上洛を目指してたなんて、根拠の無い話しを真に受けてるヤツ居るんだナw
大河スイーツドラマに洗脳され杉w
423 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 13:10:26 ID:38/5Sy4a
>>421 織田信長も足利義昭に頼られたから上洛しただけ。
これがなければ片田舎で領土争いをして終了しただろう。
424 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 13:36:49 ID:icPa5i+C
>>423 織田信長は、足利義昭を第15代将軍として擁護して上洛する以前に、永禄2年(桶狭間・田楽狭間の戦いの前年)に上洛し、第13代将軍の足利義輝に拝謁してる。
これは、山科言継卿の「言継卿記」に『永禄二年二月二日、尾州織田上総介上洛』に記述が有る。
425 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 13:44:51 ID:38/5Sy4a
>>424 いや、そんな誰でも知ってる話をされても。
>>421の人は軍事力をともなった上洛を語っているでしょうに。
426 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 15:23:23 ID:3y1KwYAO
>>422が煽りたいだけの子供にしかみえない
まともな歳なら幼稚過ぎるが
427 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 17:49:24 ID:AfjI5LYj
>>421 山口の片田舎から実際上洛を果たした大内…
あ、名前挙げても知らないか
428 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 19:11:42 ID:+FOxVSfq
さすがに大内家知らないってことはないだろう
429 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 19:12:37 ID:n9/eMsix
上洛にも様々な種類があるね。
幕政参加。江戸時代の参勤交代のように在京して政治に参加するもの。
これが崩れて戦国時代がはじまった。
将軍への馳走。献金や軍事力で貢献して見返を得るもの。
軍隊を連れての上洛にもいろいろあるね。畿内と国元の支配力を求めるものから、
信長みたいにこれを利用して侵略の大義名分にするもの。
430 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 21:52:11 ID:ojCFfPZz
質問スレなのに、戦国時代の冷酷さが漂う板ですね・・・
431 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 21:56:38 ID:uR5VJ32O
>>430 まるで人を見下すために知識をつけてきたようですね。
432 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 22:10:33 ID:wX6WChJE
>>427 当時の山口が片田舎…?
…よくまぁそんな事を。
433 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 22:18:51 ID:wX6WChJE
さて、では本題に…
豊臣政権期、尾張閥と近江閥の悪縁は有名ですが、
正則や清正らが敵対していたのは三成や増田など。
では…大谷吉継はどうだったんでしょうか?
小説や歴史雑誌などでは、
むしろ清正らが吉継の事
(病など)を本気で心配し、
気遣っている事が多いのですが、実際のところはどんなもんだったのか…よければお願いします。
434 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 00:23:21 ID:TvyEWM7A
秀吉が「吉継に百万の軍を預けて指揮させたい」とか言ったら全員が納得したという話は聞いた事あるが、よく知らねー
435 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 00:27:49 ID:PqGHohK+
つーか、尾張閥近江閥って言うもの自体、存在しなかったと考えて良い。
三成たちと清正たちの対立は、完全に朝鮮征伐の戦後処理についての軋轢から。
その戦後処理にほとんどかかわっていない大谷吉次は、恨まれるわけがない。
436 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 00:39:05 ID:gOw22VgG
対立はもともと戦時中からあったろう
表面化したのが秀吉の死後というだけで
437 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 00:44:46 ID:PqGHohK+
>>436 それまでに対立があったにせよ、それが表面化するほど悪化したのは、
三成たち奉行衆が主導した戦争処理、特に褒賞を停止したことに
従軍した武将達が激しく反発したことが一番の原因。
438 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 01:16:54 ID:H0jLLCTT
>>433 所謂「文治派vs武功派」「尾張系vs近江系」の対決という構図自体が
>>435の指摘のように疑問視されている。そもそもが、三成襲撃の頃まで
三成と近いポジションで行動してた寺沢正成なども蓋を開けてみれば東軍だし、
前田利家と徳川家康の屋敷に諸将が集結した際も、清正は三成などもいる前田邸へ
行くし、大谷刑部は家康邸に出向いている。
関ヶ原合戦にしても、両派閥の対立と言うよりも、それぞれがそれぞれの思惑で
動いたという色が強いと思う。
439 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 10:26:54 ID:4oBfz9dn
伊勢神宮に参拝した大名や武将を教えて
440 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 13:04:06 ID:iKgmCOe1
>>434 100万ってどこにそんだけいんだよ
10万じゃないの?
441 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 16:08:11 ID:bnQYAlfl
>>440 発言(逸話)自体は、百万であってる。
つか、秀吉の戯言を真に受けんな。
442 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 19:57:35 ID:tP0D0yUE
443 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 20:36:08 ID:GhoYW1tC
肖像画などは政宗の指示によるものと云われてるけど、失明云々も俗説の域を出ないしなぁ。
抉ったなんて逸話も信じがたいし、何とも言えないね。
444 :
人間七七四年:2009/04/08(水) 00:06:55 ID:r0w4V2oy
445 :
人間七七四年:2009/04/08(水) 03:05:49 ID:M8QV63Q2
>>442 政宗室が作らせたと言われている鎧姿の木像は、右目が若干形が違うというか、
小さくなっているようなので、政宗の骨を見るかぎりだと、えぐったと言う話は
ないにしても、右目を病んでいたこと自体は否定しきれんとは思う
446 :
人間七七四年:2009/04/08(水) 21:58:45 ID:Lr9Uq5wj
>>439 記録が残っているという意味では島津家久(貴久子の方、旅の記録が残ってる)とか
何人か挙げられるけど記録が残ってなくても少なからぬ人数が行ってると思うよ。
伊勢参りだけでなく高野山に登ったりとか。
447 :
人間七七四年:2009/04/09(木) 09:19:04 ID:GzrB5qou
高野山には大名の墓がたくさんある氏ね
448 :
人間七七四年:2009/04/10(金) 17:06:16 ID:orbOJMXQ
>>447 おまいさんが普段どういう書き込みしてるのかはわかったw
449 :
人間七七四年:2009/04/10(金) 18:21:12 ID:YmcQBSUb
>>447 死んで墓に入ってる人達に向かって死ねとは何事だよ…?
450 :
人間七七四年:2009/04/10(金) 21:12:45 ID:IwXFhnfa
信長が岐阜に帰ったあと、三好の残党が京都に攻め込み信長は雪の中を
驚異的なスピード(2日くらい)で京都に単身駆けつけたという話がありますが本隊が
信長追っかけて京都につくのに何日かかったのでしょうか?
451 :
人間七七四年:2009/04/11(土) 20:15:18 ID:/T9bdHnW
あるしね
って同意文だろ。
最近は2ちゃん素人厨房が多いな。
452 :
人間七七四年:2009/04/11(土) 21:05:36 ID:MOUER1X9
あらあら、うふふ
453 :
人間七七四年:2009/04/12(日) 06:00:55 ID:IoWcTw4I
「知る人ぞ知る」が入ってる何か有名な格言なかったっけ?
この言葉思い出したときに武将の誰かが言ってたような記憶があるんだ
454 :
人間七七四年:2009/04/12(日) 22:10:31 ID:5Q6h98Ef
_,,,,,,,,
, - ' ゙ `` ‐ 、_,,,,,
,r' /=ミ
/ 彡ll',''´
. / 彡lll
!-- .、 ,、、、、,,, 彡lノ
l,,,,,__ / ___ 'r''゙ヽ
. |`゙'' ./ `'゙'''" .〉,l |
|. ,' //
. ',. ,' , r'
. ゙, ゙'ー ‐` l |
゙、''゙ ,,、二''‐ ノ l、
''''''''7'ヽ ''' / /`〉`゙T''''''''''
l ` 、,,,,、- ' " / /.| |
. | | .l i / ./ | |
| | | l / ./ .| |
. | | | l / / | |
| | | ', / / l .l
455 :
人間七七四年:2009/04/12(日) 23:26:50 ID:E3idWjcC
AA見て思いついたけど、「信長の声はカン高い」って記述を何回か読んだ気がするけど、実際
はどうだったんでしょう?史実でないとしたらどうしてそういう記述が散見されるんでしょうか。
吉川晃司も悩んでいるかと思うと気になって仕方ありません。
456 :
人間七七四年:2009/04/13(月) 02:56:09 ID:4FJu997x
>>455 信長と面識のあったフロイスの記録に声が甲高いとあったはず。
457 :
人間七七四年:2009/04/13(月) 18:20:06 ID:NfHp26AO
ゼルダの伝説のトライフォースのマークは北条の家紋をモチーフにしたというのは本当ですか?
458 :
人間七七四年:2009/04/13(月) 18:31:11 ID:qoP+6X7q
459 :
人間七七四年:2009/04/13(月) 18:41:53 ID:BtJE68zi
信長が宣教師か何かに描かせたといわれている写実的な肖像画がありますが
月代に髪をかぶせている?ようなあまり見かけない髷の結い方をしていますよね?
あれは一体どのように結う何という髷なんでしょうか?
460 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 02:27:09 ID:W+qSWYm4
時代劇の戦を見ていると、あまり弓を上手く使っていないような気がするのですが・・・
日本の戦は首の取り合いだから、弓は道具としては卑怯なのですか?
それとも、地理が起伏に富んでいるから海外の戦のように弓隊は発達しなかったのですか?
単に私の知識不足で日本にも有効に弓隊を使っている戦国武将は居たのでしょうか?
ちょうど織田の鉄砲隊のように
461 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 04:09:33 ID:drNOKD2o
>>460 日本の武士は古来より「弓馬の家」呼ばれて、馬と弓が主要兵器です。
462 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 07:02:37 ID:oTdi+4iM
いえ主要兵器は石を投げ合うことです。
463 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 07:19:02 ID:yQAfK+ln
いやいや主要兵器は大声だして威嚇することです。
464 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 08:08:54 ID:ev9wp4w+
鉄砲や弓矢で雑兵に大将が殺されるのは不名誉という考えが
あったようで武将の名誉のためにも名のある武士に
討ち取らせ首を獲るのがよいと考えていたっぽい
465 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 09:51:34 ID:zfufgbX0
そもそも時代劇の戦が出発点の時点で話がgdgdになる気はするが。
466 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 10:18:20 ID:9eKiOlxU
弓矢を射掛け合い良い汗掻いたらお家へ帰ります
467 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 11:17:42 ID:yjr7vkz4
熟練した火縄銃兵より熟練した弓兵の方が使い手があったんでないの。
火縄銃は素人に持たせられるという点以外にメリットは無かったような。
ただ、弓のシーンは撮影が面倒な割に、銃撃のシーンよりインパクトないからな。
どうしたって時代劇でははしょられがちになるだろう。
468 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 16:15:54 ID:G2OYLIqQ
太田牛一なんかは大抵、「弓術の名人であったが、鉄砲の台頭により前線から追いやられ、
祐筆のような職務をこなすようになった」みたいな書き方をされている。
469 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 17:17:58 ID:FXPMxcYL
戦争は数だからねえ。
弓の名手が一人より、そこそこの技量の鉄砲隊のほうが強い。
金一万疋の名刀を買うより、金百疋の槍を百人にも足せたほうが強いってじーさんも言ってた。
470 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 19:41:30 ID:IAIQmeKz
平貞盛は父を殺した相手を討つ事に成功したとそうですが、
戦国時代にも、父を殺した相手を討った武将の有名な例とか有るでしょうか?教えてください。
471 :
470:2009/04/14(火) 19:43:00 ID:IAIQmeKz
訂正
平貞盛は父を殺した相手を討つ事に成功したとそうですが、
↓
平貞盛は父を殺した相手を討つ事に成功したと本で読んだのですが、
472 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 20:29:47 ID:yjr7vkz4
明智光秀←織田信孝
斎藤道三←斎藤義龍
・・・どっちも微妙かなあ
473 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 20:41:21 ID:FXPMxcYL
伊達政宗とかは
474 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 20:42:12 ID:9/MgKL1H
なぜイタチマサムネじゃないんだ
475 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 20:45:15 ID:yApGp2/1
祖父の仇だったら宇喜多直家とか
476 :
470:2009/04/15(水) 00:57:06 ID:QqNnAngz
>>472 信孝は間接的には親の仇を討てましたが、確かに微妙ですね。
>>473-474 wikiや伊達輝宗を紹介してあるページを読んだだけなので、それ以上の詳細はわからないのですが、
父を殺した相手を討ったというより、敵と一緒に父も討死したという感じですね。
(誘拐された)親の仇を討つ事には成功しましたが、父を殺した敵を討つという意味においては、これは微妙ですね。
>>475 父親と祖父とで形は違いますが、年月を経て仇を討ったというのが、平貞盛のそれと近いと思いました。
>>472-475 参考になりました。ありがとうございました。
477 :
人間七七四年:2009/04/15(水) 01:29:08 ID:N7PIbVCe
つーか、敵討ちなどの武士間の紛争を、直接的な闘争を否定し自己の裁判権の中に
取り込んでいったのが戦国大名なわけで。
478 :
人間七七四年:2009/04/15(水) 09:36:25 ID:oqoqs54Z
一番趣旨に合うのは赤松晴政>浦上村宗と三好長慶>三好政長あたりじゃないの?
479 :
人間七七四年:2009/04/15(水) 23:04:40 ID:+HSEjNpb
長宗我部や竜造寺とか仇討ちしてなかった?
480 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 08:56:15 ID:SAxUd3D/
マジでスレたてるまでもない事を疑問に思ってしまった
戦国時代って爪をどうやって処理してたんだろうな
481 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 09:49:07 ID:FOt7tlOD
482 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 11:27:29 ID:SAxUd3D/
>>481 そうなのか
手先が狂ったら剥がれちゃったり、
指先傷つけたりしちゃいそうなのに
すげえ器用だったんだな
つかハサミあったのかw
483 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 11:29:04 ID:fWn9F6cO
鼻毛の処理をしない殿様が馬鹿にされているぐらいだから
爪切りくらいあったろ。
484 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 11:29:47 ID:+Vk/YPXd
某幕末漫画では糸切りバサミみたいなので切ってたな。真似はしたくない
485 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 13:12:56 ID:kEZ645Qc
中世の戦争で徴用されるのは、農民だけでしたか?
職人、商人、漁師、賎民が徴用されることもありましたか
486 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 13:38:39 ID:/GxCoSMz
漁師は戦時に船とともに手伝うことはあったみたい。
職人は大名が積極的に囲い込んで、逆に扶持を与えている場合すらある。
賎民に対して直接徴用された例は知らないけれど、
農民が自分達村人の代わりに賎民を賦役や兵役に出した例は結構ある。
その為に賎民をわざわざ村で養っていたケースもある。
大名側はこうした動きは嫌がっていたけどね。
487 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 11:34:16 ID:JA23V8K+
質問3つ
1、豊臣政権、江戸時代の時の織田家は豊臣秀吉に対してどういう評価を下していたの?
本来われらの政権だったのを、奪った決して許せない悪人?
2、幕府って今から幕府を開きますって宣言したり
滅亡の際は、幕府をやめますって宣言したりしたの?
ただ将軍がいる政権を指しているって言う話なら
たとえば足利義昭は1588年まで将軍だったけど
幕府は1573年に滅亡って事で固まってるけど、あくまでも事実上崩壊であって
お飾りなものとはいえ京都にいないだけで足利将軍としてはまだいるわけだから
一応1588年に滅亡じゃダメなの?
3、幕府を開くためには源氏じゃないと征夷大将軍にはなれないって話だったっていうけど
そもそも頼朝以前は坂上田村麻呂や以降でも鎌倉時代には親王がなったりしてるので
どうしてもなれなかったとは思えないんだけど
その辺をついて秀吉は強引になれなかったの?
488 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 11:50:58 ID:94a+JoaV
あんまり詳しくないが答えられるだけ
2.
幕府は武家政権そのものを指している
幕府という言葉自体江戸時代に生まれたものらしい
足利義昭は死ぬ直前まで一応征夷大将軍は名乗っているのだから
そこを室町幕府の滅亡とする見方もあるあらしいよ
ただ実質的に滅亡したのはやっぱり京から追放された時だから
そこを滅亡と見る見方が多いんじゃないかな
3.
そのあたりは公家の養子になろうとしてなんやかんやあったみたい
関白になったのも公家の養子になれたおかげだったはず
詳しくはわからないから他の人に聞いてくれw
489 :
488:2009/04/19(日) 11:56:54 ID:94a+JoaV
失礼
公家の養子ではなく足利義昭の養子になろうとしてたんだった
それで征夷大将軍になろうとしてたのか?って話だ
あやふやな記憶でごめん
490 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 11:59:43 ID:zcnp2Qr2
>>487 1、内心でどうだったかは分かりませんが、信包、信雄、信秀らは秀吉の
天下、政権を認めていました。織田一族にとっては、なんだかんだで淀殿の
存在も大きかったと思います。
2、将軍であることと幕府の存在はイコールではないので。
義昭は将軍として健在ですが、73年に信長に追放されて以後、変わって信長が
政権担当者と認められたことが、結果的に「室町幕府という政権組織の滅亡」と
扱われてます。特に、織田政権は京機内に残された室町幕府の組織を吸収して
いますしね。
3、具体的には
何故秀吉は将軍にならずに関白になったのか? 2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1160617713/ こちらをどうぞ。
結論としては、将軍就任に源氏たる必要性はありません。江戸以降の創作です。
491 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 12:22:25 ID:JA23V8K+
>>489 なんで足利義昭の養子になるような裏工作をする必要があるのかよくわからない
豊臣は源平藤橘と同格なんだし
豊臣氏の始祖として将軍を強要すればいいじゃん
492 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 13:04:14 ID:94a+JoaV
>>491 なんでかはおれもわからん
将軍の養子になったほうが手っとりばやいと思ったのかな?
でもたしかになろうと思えば強引になれたんだろうなあ
493 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 13:19:29 ID:hCH30QEB
単純に権威としては関白の方が将軍位より上だからじゃね?
494 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 13:43:39 ID:aAylZIp4
いや義昭の養子になろうとした話自体がウソ話だから…
495 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 13:52:55 ID:4Ac9utfj
豊臣秀吉は忍者だったらしい。墨俣城も一夜で建てたらしい
織田信長は家康を暗殺しようとしていたらしい。
その暗殺を身体をはって止めたのが明智光秀らしい。
そして明智光秀と徳川家康が同盟を結んで本能寺の変を起こしたらしい。
新説日本ミステリーより
496 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 14:01:51 ID:JA23V8K+
>>493 しかし1595年以降は
秀吉がすでに関白を辞めていて
秀次がもういないとなると
秀頼が成人するまで関白不在となると豊臣家の安泰を考えるととかなり危ない気がするが
そしたら事実上の世襲制である将軍のほうが手出しできない気がするが
497 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 14:33:49 ID:BeISJE5M
>>495 秀吉の出自には山窩説があり、この山窩が所謂「忍者」のように語られる事がある。
本能寺の変の際、目的地が山崎から京へ変更になったのを家康を討つ為だと
思ったと本城惣右衛門覚書に書かれている。
そういう事を面白おかしく書いたんだろ。
498 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 14:34:02 ID:QWyceQ9x
>>496 元関白が将軍になったら左遷。権威が失墜する。
>>487 鎌倉幕府:頼朝が右近衛大将になった時に幕府様と呼ばれたのが「幕府」名称の起こり。
室町幕府:尊氏が中先代の乱を討伐する際に「将軍」を勝手に名乗る。
これをもって幕府体制を継承する意図を示したものと思われる。
江戸幕府:家康の将軍任官の時点ではまだはっきりしない。
秀忠が継承し秀頼に臣従を求めたあたりが画期では。
499 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 17:40:17 ID:noFVmiND
>>496 将軍だって別に世襲じゃないぞ。江戸の徳川家の組織が強すぎたので、
他の誰にも異論が挟めなかったというだけ。
事実上の世襲とかいったら、摂関だって藤原氏が事実上の世襲を繰り
返していたよ。制度でなく実力で。
500 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 18:25:55 ID:QWyceQ9x
九条頼経以来、元服さえしていれば子供でも将軍にはなれたけど
秀吉の権力をもってしても子供を関白にすることはできなかった。
501 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 19:36:48 ID:AU3TS5xe
つーか、源氏である事が将軍の資格であると言い出したのは徳川幕府じゃ無いぞ。
足利幕府だ。
足利義満の頃成立した「源威記」に「、「将軍家」としての源氏という考えを
既にあらわしている。
征夷大将軍=源氏という意識は、室町時代に成立したと考えるべき。
502 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 23:59:08 ID:uG5l0F1r
>>500 鎌倉の政権が強かったから、子供でも認めたんだよ朝廷は。
>>501 それは武士や幕府側の主張で、朝廷の認識でも作法でもない。
503 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 00:23:56 ID:19wRXfir
>>502 朝廷側の認識とは別の問題として、当時の社会通念として「将軍=源氏」と言うものがあったのは確か。
504 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 00:53:18 ID:QcJzuVf/
承久の乱があったとはいえ、まだまだ国衙や荘園を擁する鎌倉期の朝廷と
実効支配地域がゼロに等しい桃山期の朝廷じゃあ、どう考えても後者の方が強いとは言えん。
505 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 01:18:48 ID:UBj29nM8
>>503 ないよそんなの。将軍=武家の棟梁(今は足利家)が就任するものというのはあったけど。
だからこそ、三職推任で源氏ではない信長に将軍が提示されても、朝廷も武家も誰も
おかしいとは思わなかった。
506 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 02:19:49 ID:JJnQ/Iyc
実権に、いかに正当性を持たせるかにそれぞれ腐心したということだよ。
足利は源氏嫡流を主張し、秀吉は豊臣の姓による補任。
徳川は新田氏の末裔を称して足利に勝る源氏嫡流と主張した。
これらの主張に見られるのは
剥き出しの暴力による前の体制の転覆と、その体制の否定ではなく
より「正統なる」者への帰属という価値観だ。
507 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 02:36:45 ID:19wRXfir
>>505 何で「将軍就任」ではなく、「三職推任」だったのか、っていうのを考えてみるといいよ。
508 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 02:56:40 ID:XHdFFzYB
>>490以降の将軍論争で具体的な史料名を提示したのは
>>501のみ。
できれば史料名か論文名を出して
>>490に説明してやってくれないかね?
具体的な根拠を明示してこその回答だと思うが、いかに。
特に
>当時の社会通念として「将軍=源氏」と言うものがあったのは確か。
とかは根拠なしで話すとかありえんだろ。
確かと言い切るならまず典拠や傍証を提示して然るべき。
509 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 03:42:25 ID:QcJzuVf/
摂家将軍・宮将軍は頼朝の後継者たる鎌倉殿として将軍に任ぜられている。
建武体制の護良・成良将軍は武家棟梁としての将軍ではない。
と考えると、源氏将軍という慣例は成立していたとみなせる。
反例として三職推任が挙げられることが多いが、その論法なら
関白が藤原家のものとする慣例も幻だったと言わざるを得なくなる。
510 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 21:30:45 ID:OnBF5rgM
他板から誘導してもらいました。
どなたかよろしくお願いします。
関東以北で冬に進軍しなければならない場合、宿泊はどうしていたのでしょうか。
511 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 21:33:27 ID:KnWPCS1E
人家があれば分宿します
512 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 01:05:22 ID:b3hfNqms
人家があれば分宿、無ければ野営。
尋ねるまでも無いと思うけどw
基本的に冬季の軍事行動は避けねばならん。
兵の損耗が大きくなるから。
これは洋の東西、時代を問わずしての経験則だよ。
513 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 01:48:14 ID:zUZOVFPZ
>>511>>512 とある漫画のスレで、そこで聞いたらネタバレにつながるということで誘導してもらいました。
為になりました。どうもありがとうございました。
514 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 08:25:57 ID:xVBpBEdt
御館の乱でも北条が孤立を恐れて冬期は越後から撤退してる。
謙信の南下の時はだいたい群馬の沼田城まで出向いてから雪が少なくなり進軍可能になるまでじっとしてる。
515 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 09:12:58 ID:gCYJmf9U
名乗りに関する質問です。
名のある武将なんかはその通りに名乗ればよいのでしょうが、その家臣はどのように名乗ったのでしょうか。
佐竹家家老、戸村十大夫義宗……?
また、この十大夫ってなんでしょうか。長男だけしか名乗っちゃだめですか?
簡単過ぎる質問で申し訳ない。
516 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 09:24:30 ID:7xBQMDXP
大夫には家老って意味もあるらしいが。
517 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 11:57:14 ID:Vj6s9riR
>>513 軒猿か。関東進攻の先を知らないなら
結論は
>>514のとおりだが「冬はどうすんだ??」って
ハラハラしてたほうが漫画は面白く読めるぞw
518 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 12:15:15 ID:EPA1SaJ1
島津家の凄さは分かるのですが、南部家の凄さについて誰か解説してもらえませんか?
御家争いのイメージしかないので・・・
519 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 14:50:59 ID:QXgfDDQ5
>>515 現代人にはぴんと来ないけど、名(仮名や官職名など)と諱(本名)の使い分けが行われていた。
同様に、現代人にとって氏=姓=苗字だけど本来は全て別物。
その場合の十大夫は義宗と同様、パーソナルネーム。
次男以下にはそれぞれの仮名がちゃんとある。
名乗り方に関しては、
諱は公式の場でしか用いられず、西郷隆盛のように親しい友人ですら知らなかったって事もある。
つまりTPOによって名乗り方が変わるので一概にどうとは言えません。
大雑把に朝廷など公式の場では氏(+姓)+諱で、そうでないときは苗字+名。
520 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 18:47:49 ID:gCYJmf9U
>>519 詳しい解説、ありがとうございます。
十大夫もパーソナルネーム、ということは元服したときにつける名前でしょうか。とすると、一族の内に父と子の二人の十大夫が存在することになりますね。
それとも、当主のみ名乗ることを許されるのでしょうか?
521 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 19:07:23 ID:ZQIp9cTH
そんなたいそうなものじゃないと思う
通称が同じでも官職名とかで区別できるしね
522 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 19:19:12 ID:jbJSyh9P
当主のみかどうかはわかりませんが、
竹中半兵衛重治の半兵衛、黒田官兵衛孝高の官兵衛にあたるものじゃないでしょうか?
官兵衛は官職が変わってから一応名乗りも変えたそうだけど(何かはど忘れ)、
周りからの呼び方は馴染みのある官兵衛のままだったとか。
ついでにその官兵衛、半兵衛、十兵衛、権兵衛とかもよく考えてみると
わけのわからん官職名(権の兵衛…?)だけど通じてる、って感じなので
結構ゆるくていい加減なものなのでは。
523 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 20:15:20 ID:QXgfDDQ5
>官兵衛、半兵衛、十兵衛、権兵衛
そこらへんは官職名じゃない、普通の名前。
庄屋クラスなら百姓でも○衛門とか○兵衛とか普通にいるよ。
524 :
人間七七四年:2009/04/22(水) 00:58:42 ID:RmbyPRj/
衛門とか兵衛って、衛門府とか兵衛府とかあるから
官職らしきものが徐々に名前にシフトしてったものかなと思ってた。
女だが平安時代に赤染衛門とかいるだろ。
525 :
人間七七四年:2009/04/22(水) 13:18:51 ID:dN/DTNxK
>>515です。
様々な回答、ありがとうございました。昔の人の呼び名って難しいですね。でもおもしろいです。
そこで再び質問があります。直江兼続の幼名は与六だったようですが、何故長男なのにこんな六子みたいな名前がついてるのでしょうか。長男なのに、三郎とか四郎とかでもよいのでしょうか?
526 :
人間七七四年:2009/04/22(水) 14:54:59 ID:AH2n0FDl
>>525 与六は六子/六男じゃなく十六子/十六男な。
1〜10は太郎/一郎/市郎〜十郎/拾郎/重郎、11以降は「弥/余/与」が数詞の前に付く。
あと幼名というより仮名(けみょう)。
幼名は〇千代とか〇〇丸。
もっとも戦国時代には厳密な区分はされないので参考程度だが。
鎌倉時代頃までは長男を太郎/一郎、次男を次郎などとしていたが、
戦国時代になってくると長男=太郎という歴史的な仮名を用いることもあれば、
長男なのに三郎という仮名を用いることも多くなる。
これは先祖(初代とか中興の祖とか)にあやかって同じ仮名をつけたり、
あるいはいつ頃からか家督相続者が代々同じ仮名を称するようになったため。
戦国時代では長男なのに三郎や四郎と称しても何の問題もない。
また代々同じ仮名を用いる場合は次男や三男、また庶子が家督を継いだ場合にも、
世襲の仮名が「四郎」なら四郎と称したりすることも珍しくない。
茶屋四郎次郎(商人)や岡崎二郎三郎信康(家康長男)のように二つも重なる例もある。
二つ重なる場合は本家の仮名・分家の仮名・父の仮名などに関わるとされている。
確かに昔の名前って面白いね。
ただ頻繁に名前を変えられると調べるときに困ること多いけどw
527 :
人間七七四年:2009/04/22(水) 15:15:46 ID:iAOND67d
与六は六男や十六男だからじゃなくて、
殿様の政景が新六郎だから、
家老樋口家の長男につけられたわけです。
528 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 01:35:58 ID:xEM3dfus
現代でもイチローなんかは次男だったりするんだよね
まあどーでもいい話だけど
529 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 01:47:55 ID:Z/KNEkgD
昔ギャグ漫画で、日米開戦前にアメリカ軍が日本海軍の分析をしてて、
「日本では男の子が生まれた順に、太郎(ファースト)、次郎(セカンド)と名付けていくそうだ。」
「ほう、で、ではアドミラルイソロクは…!」
「!!…、げ、元気なお父さんだったんだな」
ってのがあったのを思い出したw
530 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 07:29:07 ID:QQ9p1K9k
大友も長男の義鎮が五郎で二男の晴英が八郎ですな
だから昔の資料なんかだと義鎮は五男で晴英は八男だったなんていう、
トンデモな事が書かれていたりする
531 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 21:04:24 ID:y5YX18NY
>>527 526の初めの説明は「与六」の元々の意味は十六男だよっていう意味な。
525が与六が六子という誤解をしているのでね。
まぁあくまで元々の意味に過ぎないけど。
532 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 21:57:51 ID:/3VYjpCi
つまり、明日の天気は?
と聞かれて、明日はそもそも金曜日であると、
丁寧に教えてくれたのか。
優しいな。
533 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 23:51:39 ID:lsP/aaRs
>>529 そのマンガかどうか忘れたが何かで見た続きのようなもの
「調査を進めた結果、イソロクのネームは彼が生まれたときの父親の年齢からとっているらしい。」
「ふむ、イソロクを数字で読んで英語に訳すと……フィフティーシックス!?」
「パワフルなファーザーだ!」
スレ違い失礼
534 :
人間七七四年:2009/04/24(金) 15:02:57 ID:oTFBHnKM
>>525です。
皆様、沢山の貴重なお話をありがとうございました。大変おもしろかったです。戦国板は優しいのですね。
しかし、戦国武将の名前を見てると「丹波守」って妙に人気ですね。全然兵庫県と関係ない人が名乗ってたり……
昔は丹波がそこらじゅうにあったのか、丹波が人気だったのか。
535 :
人間七七四年:2009/04/24(金) 20:43:35 ID:uM/DExEP
戦国時代の合戦について
両軍の兵数、死者などがそれぞれまとまったサイトとかってないものでしょうか?
ググってもみつからなかったので
536 :
人間七七四年:2009/04/24(金) 20:58:12 ID:gx1OGd2y
537 :
人間七七四年:2009/04/24(金) 21:37:07 ID:5a7Q1Ly9
>>532 全然違うので自分の言語世界に篭ってなさい。
「与六」の名付け理由と「与六」自体の意味を同列で語るなんてお花畑ですかあんたのおつむは。
538 :
人間七七四年:2009/04/24(金) 21:37:51 ID:vaVfqdDL
しつこい宣伝くんだなあ、
はその本そんなにいいとは思わなかったよ
539 :
人間七七四年:2009/04/24(金) 23:51:25 ID:gx1OGd2y
>>538 読んだくせにこれが質問に対する答えだと言う事もわからないのだねキミは。
540 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 08:39:11 ID:NxctJt33
google booksで中見れねえじゃねえか。
いきなり買えとだけ言われて買う奴なんかいるのか?
541 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 10:39:38 ID:IjL6Fu/z
じゃあ、読める本屋探して行けば良いじゃない。
暗い、暗いと不平不満を言う前に進んで自ら明かりを灯せよ
542 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 11:15:20 ID:iuSNw2Kk
南部の研究本でいま手に入るのない?
543 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 15:04:55 ID:NxctJt33
お前は匿名の書き込みを信じて本屋まで足を運ぶのかと。
544 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 15:47:28 ID:Uk5Qv9Kx
>>543 じゃあここで物を聞くこと自体意味はないな
545 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 00:35:42 ID:HZ9dZqPV
もし、秀次が健在、あるいは秀頼が関白に任じられたとして
豊臣氏だけで関白を世襲し続けることは可能だったのでしょうか
546 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 01:00:30 ID:G7Q+js8V
豊臣の権力が存在している限り可能だろうね
547 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 03:09:12 ID:4GRJjS7I
疑問?丁髷してる武士って本当に頭の前の部分髪剃ってたの?TVの俳優が演じてる武士は剃った部分が青々としてるけど肖像画は青々としてない! 実は剃るんじゃなくて単にハゲたんじゃない?
548 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 03:34:11 ID:gJ44A6sQ
正直秀吉は太政大臣の権威で関白秀次を滅ぼした時に、武士政権の至高の地位としての
関白制度をぶっ壊しちゃったからな。
秀頼が関白に就任したとしても、武家の太政大臣が出てくればそれに屈服せざるを得ない前例を作った。
549 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 03:37:10 ID:9jfIDI/I
月代が常態化したのは江戸時代らしいぜ
あと月代のために毛を剃ったり抜いたりの記録はゴロゴロしてる。
たとえばフロイスんなんかが日本の風俗として紹介してる。
550 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 04:21:17 ID:KpElvWfH
戦国時代の食文化の資料てありますかね?茶会の時に振る舞われた料理などの…<(_ _)>
551 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 04:26:07 ID:gJ44A6sQ
552 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 05:14:47 ID:PrnJG/71
太田牛一は公記で多くの合戦を見てきたように記述しているように思いますが、
実際はどの合戦に参加したのでしょう?
また、元亀年間に丹羽長秀の右筆だったという説もありますが、
その説はどのような評価をうけているのでしょうか?
信長の直臣が長秀の右筆であるということはあり得るのでしょうか?
553 :
人間七七四年:2009/04/27(月) 08:36:21 ID:gb2i1Vp9
弓の整備に関する質問です。
日本の戦国時代には珍しいことなのかもしれませんが、弓を船に積んだとして、その弓は長期の航海に耐え得るのでしょうか?
554 :
人間七七四年:2009/04/28(火) 18:07:22 ID:MuBUG/EA
湿気で弓が馴染むといいたいのかに?
555 :
人間七七四年:2009/04/28(火) 22:34:11 ID:JPr/shJn
>>553 塩害って意味かな?
もしそうなら材質によると思うよ。
現在の軍隊でさえ塩害は深刻な問題だから、当時はもっと大変だったとは思う
ただ、「塩害」という概念があったかもわからんけどな
ちなみに米軍なんかが空母で超精密マシン搭載のヘリなんかを運ぶときは
バラして、パーツごとに布でくるんでくるんでくるんでくるんで、箱にしまう
という原始的な方法が最も効率がいいとして実践されている
556 :
人間七七四年:2009/04/29(水) 13:08:02 ID:1j2FDi52
>>552 天文22年に柴田配下で清洲織田攻め参加
永禄7か8年の9/28に堂洞砦攻め参加
元亀元年の撤退戦で佐々が殿した際に救援
天正3年には戦の一線から引いたのか丹羽の命令で京の吏僚仕事やってる
天正4年には緊急事態で本願寺攻めに駆り出される
天正9年くらいから丹羽の与力になっており、長秀の右筆だったと言われている
天正10年?6/22にも長秀の元で働いている
557 :
人間七七四年:2009/04/30(木) 16:50:50 ID:QwCBwww7
>>555 海洋国家の日本で、塩害の概念がないって事自体有り得ないって。少なくとも、交易商と海賊(水軍)にとっては日常茶飯事だもの…
558 :
人間七七四年:2009/05/02(土) 00:13:55 ID:B/7GWJt+
武将の利き腕がわかる資料ってあります?。箸持つのは左だったとか。
腰に刀をさすのが左側だから、強制的にみんな右利きだったのかなと思って。
だとしたら生来左利きだったら不利だよね。
559 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 03:30:39 ID:2FvYv1Sn
>>558 >腰に刀をさすのが左側だから
左側側とは限らない。
右手差しや天神差しといって普通とは違う差し方もある。
560 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 08:44:19 ID:vf1dPAAf
明石全登ってなんて読むんですか?
はじめは「たけのり」かと思ってたんだが、
「てるずみ」、「ぜんとう」って読み方も聞く…
561 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 09:09:34 ID:NGAVX0Iz
>>560 こんな話も
38 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/11/11(日) 11:12:42 ID:gdATUuGv
以前見た本では
たけのり
って書いてあった気がして、でもどうやら正しくは
てるずみ
のようだし、
ぜんとう
とそのまんまふりがながあったのも目にした記憶
普通は「てるずみ」なんて読めないよね
澄←なら分かるけど
39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/11(日) 12:24:08 ID:QT/VJrIF
>>38 もしかして「澄」の字を間違えて「登」と書いた文書のものが、そのまま後世に広まったのかもね。
昔の人の名前はたまにそう言うこと有るからな。
42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/12(月) 01:34:15 ID:Cy8SH2vN
>>39 その説、納得。
誤伝って広まると、正しい読みとか駆逐しちゃうからね。
43 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/11/12(月) 08:32:00 ID:q1Txown7
>>38 ありうるな( ・ω・)
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194434104/
562 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 10:44:10 ID:3oG9Dffu
>>558-559 ただし、日本語の特徴、漢字ひらがなかたかなと縦書きで右から左に流れて
いく文章の書式は、根本的に右利きで書かれることが前提になっている。
特に、漢字を筆と墨で左手で書くという行為は困難極まりない。
生来の左利きは、無理やり矯正したか両手利きに特訓だろうね、。
563 :
人間七七四年:2009/05/07(木) 20:42:02 ID:1vSLFS+I
毛利家の新年恒例行事の倒幕の挨拶をプロパガンダ、プロパガンダと否定したがる方がいるのはどうしてなんですか?
結局、真相は定かではないだろうし歴史的に興味深い逸話だと思うのですが・・・
564 :
人間七七四年:2009/05/07(木) 20:56:02 ID:VBJRA7kH
掲載されてる資料がなんだか知らないけど、
否定したいんじゃなくて否定せざるを得ない資料が出所だから否定されてるだけなんじゃない?
565 :
人間七七四年:2009/05/08(金) 19:16:36 ID:8TtRBJC6
武器の長巻ですが、(右利きの人が)持って構えた場合、どのように持っていたのでしょうか?
(刀を持つように) 右手は鍔の方、左手は後端なのか、
(槍を持つように) 左手を鍔の方、右手は後端なのか
武器の分類としては刀の仲間ですが、その長さは槍・薙刀に近いものがあり、
疑問に思いました。
566 :
人間七七四年:2009/05/08(金) 19:24:37 ID:O+EPmnA0
>>565 戦国期は江戸期以降みたいに、マニュアル化された決まった型は特にない。
長巻に限らずどんな武器も、みんな自分が持ちやすいように持ってた。
567 :
565:2009/05/08(金) 20:39:37 ID:8TtRBJC6
ありがとうございました。好きに持ってよしと。疑問解決です。
568 :
人間七七四年:2009/05/08(金) 21:49:30 ID:TVS9X7yD
甲斐武田家が滅亡したとき、若狭武田家は愕然としたのでしょうか?信玄公が天下を取ったらおこぼれ頂戴を考えてなかったんですかね。
569 :
人間七七四年:2009/05/08(金) 22:58:07 ID:FTWxxMf/
確か飼い殺しされてた朝倉から織田に寝返って、領地貰えるのかと思ったら、
やっぱり飼い殺しされてショボーンだったんじゃなかったっけ。
でもまあ美人嫁(京極高次の妹、つまり後に秀吉の側室)がいたからOKと。
調子に乗って、本能寺の変で息巻いたのは失敗だった。
それに武田の本家により近いのは安芸のほうでしょ。
同じ質問は安国寺恵瓊にしたほうがいいんでないの。
570 :
人間七七四年:2009/05/09(土) 02:57:04 ID:piPxL32n
>>569 >それに武田の本家により近いのは安芸のほうでしょ。
戦国時代の安芸武田氏は若狭武田氏の分家な。
武田氏の家柄である安芸守護家という見方を重視するなら若狭守護家が本家となる。
この場合の安芸守護家とは鎌倉時代に安芸守護となったことに由来する系統の家のこと。
細かくいうと信時から信武までの人物を指す。
571 :
人間七七四年:2009/05/09(土) 10:26:25 ID:yrxl3tld
森長可の鬼武蔵とかデ・ニーロ忠元の大指(親指)武蔵のように
勇猛な武者につけられる「武蔵」の仇名は、武蔵坊弁慶が由来
なんでしょうか?
何故か漠然と宮本武蔵由来と思ってたけど、よく考えたら宮本さんの方が
長可らより時代が後でした。
572 :
人間七七四年:2009/05/09(土) 10:44:38 ID:IthSHsP/
官位の武蔵守だろ…
名前由来って…
573 :
人間七七四年:2009/05/09(土) 10:57:24 ID:yrxl3tld
あーそうか
官位の武蔵守をすっかり失念してました
ありがとう
574 :
人間七七四年:2009/05/09(土) 11:47:41 ID:8KGfg2kI
むしろそいつらに付いてる異名は「鬼」の方だ。
武蔵のほかに「鬼兵庫」とか「鬼備前」とか色々いる。
575 :
人間七七四年:2009/05/09(土) 13:34:58 ID:CdbvhfrN
バテレンは日本語を話せましたか?
日本に布教する際、東北弁や九州弁を使いこなしたのですか?
576 :
人間七七四年:2009/05/09(土) 14:06:16 ID:8KGfg2kI
日葡辞典は当時の九州方言の影響が強いとされている
577 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 04:26:28 ID:0GO+oSGL
>>336 越後で天災があったのは知ってるが北条領で天災なんて初耳だ。
北条領で天災が起きたソースくれ。
だいたい氏康の高利貸し行政で民衆が破綻したから、その反発で永禄前期に氏康はいったん隠居に追い込まれたんだぞ。
まー氏康の悪政を人災と言ってるんだろうが。
578 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 04:46:04 ID:toNk3qN9
>>577 この年関東が飢饉だったのは、藤木や黒田などの研究家が指摘する通りだろ。
小田原市史でもあたってくれ。
579 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 04:58:23 ID:0GO+oSGL
山がちな越後甲斐は天災なのは知ってる。
しかし相模や武蔵が天災だとするソースは見たことない。
誤魔化してないでソース書けや
580 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 05:13:49 ID:tls8lhbm
藤木がデータまとめてるからそれをみればいい。
引用元も書いているから、あとは自分で調べられるだろ。
581 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 05:55:46 ID:lYSOD7PK
調べもしないで、ソース出せやと、
威張られても困るよな。
582 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 08:32:00 ID:0GO+oSGL
プw
甲斐や越後で天災があったから相模や武蔵でも同じようにあったに違いないって言う北条ひいき基地外の妄想話に付き合えんなw
むしろ山間部の甲斐や越後が天災で困ってる中で北条領には天災は無かったが、
北条の高利貸し政策で民衆が破綻し氏康は民衆の非難により隠居に追い込まれた。
謙信が小田原出兵したのも関東の国人民衆の北条高利貸し政策の打破要請によるもので、
謙信の南下を理由に隠居してた氏康は復帰するが、氏康は民衆に裏切られ隠居させられた経験から
税を搾取してた民衆を一切守ろうとせず見放して、小田原に籠城する(ちゃんと貸付債権文書はすべて小田原に集める)
北条行政とはすなわち高利貸し政策による末端までの恐怖支配。
583 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 08:54:44 ID:igZgStHs
なんたこいつは。北条がカスなのは認めるが、関東で災害があるのが何でいけないんだか。
584 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 08:56:50 ID:ja7ZKO4s
質問が無いなら他所に行け
585 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 09:28:17 ID:lozu6vxF
>>583 謙信の略奪プレイを何とか正当化しようと必死なんだろ
どこの大名もやってることなのに
586 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 09:57:26 ID:0GO+oSGL
587 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 09:59:35 ID:ja7ZKO4s
588 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 10:05:43 ID:0GO+oSGL
589 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 10:05:49 ID:igZgStHs
>>585 謙信が命令して略奪した証拠があればよろしく。
590 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 10:10:11 ID:v+cydzfH
591 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 10:15:04 ID:0GO+oSGL
592 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 10:18:10 ID:v+cydzfH
593 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 10:47:01 ID:IDVgEDcl
北条ってさんざん税や使役で領民を搾取しながら
領民には自分らで城を整備管理して
敵が攻めてきたら、北条さまがその城に籠城して敵に抵抗するのを許可してやろう。
ちゃんと兵糧とか用意しろよ!自己責任だからなとかヒドくね。
594 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 11:23:28 ID:i+8UkPpU
595 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 18:20:50 ID:9LipcbKS
>>575 もちろん日本語を話した。宣教師にとって語学能力の高さは必須要素
布教の中心となった近世以降の男子修道会はエリート中のエリート集団
たとえばイエズス会の会員は400年前も今も会員数は2万人くらいしかいない
10年くらいかけて本物のエリートに磨き上げた上で世界に送り出す
今のイエズス会のトップは上智出身なので、日本語は読み書き自由。
英語、スペイン語、フランス語、イタリア語、ラテン語も当然のようにできると思われる。
596 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 19:04:20 ID:QcQZ+1Tw
繰り返しソースソースと五月蝿きも
己は妄想 あれども2ch
正されて過ち知るも叩く蚤
虫さへ要らぬ冬ぞ恋しき
597 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 19:04:59 ID:DDUrF/Nd
当時の方言は今よりもわかり難かったのでしょうか?
江戸時代に薩摩藩が工夫して幕府の密偵にはわかり難くしたと聞いたことがあるのですが。
598 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 19:22:19 ID:i+8UkPpU
>>597 そりゃあ今よりもわかりにくい。
ただ、基本藩主は江戸で育っているので江戸弁でしゃべり、自然重臣クラスも
江戸弁を用いる。
薩摩藩はちょっと特殊だが、わかりにくくしたとしても、幕府は現地の人間を雇えば
良いだけの話で、特に意味が無い。
明治後に創作された薩摩伝説の一つだと考えた方が良いと思う。
599 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 22:19:09 ID:IDVgEDcl
津軽は南部者がすぐわかるように言語を変えた
600 :
人間七七四年:2009/05/12(火) 02:38:25 ID:ANwrvcG3
ありがとうございました。
今でも東北弁は殆ど分かりませんね、
関西弁や九州弁はTVのお陰で少しは分かります。
地方の地侍は、中央から来た領主やその家臣の言葉はわかりにくいし、結局よそ者で忠誠心?は欠けることになるのでしょうね。
三河から江戸に移った後のコ川家の軍隊があまり強くない理由はそこにもあるのでしょうか?
601 :
人間七七四年:2009/05/12(火) 07:44:27 ID:jPagyO9i
>>600 ん?徳川の軍隊は江戸に移った後も、東北征伐などに従軍しているが、充分に強いぞ?
関ヶ原の秀忠遅陣は強弱とは別の問題だし、大阪陣のでももし弱ければ戦後、
もっと諸侯の発言力が増すことになったはずだが、事実は徳川家の絶対性が確立するわけだし。
大阪の陣などでは、創作物で徳川軍は大阪方の「敵役」とされるあまり、その損害を過剰に
書き立てられすぎている。赤壁の曹操軍みたいなもんだ。
602 :
人間七七四年:2009/05/12(火) 12:45:27 ID:ANwrvcG3
誤解させてすみませんが、
あくまで三河時代と関東に移った後の比較として結束力が弱くなったのかなと。
姉川や長久手の寡兵でも大軍と互角以上に闘ったのと比べ、
判官贔屓があるにせよ旗本まで崩されたとされる夏の陣、
大分変わってしまったのは過ぎた時間か、
それとも土地のせいでしょうか。
朝鮮においての西国大名らの戦歴と比べると、
渡海しなかった東国の侍たちは平和呆けしているような気もします。
戦争の勝敗の決め手は兵の数かもしれませんが、
合戦の経験の有る無しも重要ですよね?
三方ヶ原や長篠を戦った三河の兵は、流石に関ヶ原には参加してないでしょう?
603 :
人間七七四年:2009/05/12(火) 12:57:14 ID:jPagyO9i
>>602 > 三方ヶ原や長篠を戦った三河の兵は、流石に関ヶ原には参加してないでしょう?
なんぼでもしておりますがな
604 :
人間七七四年:2009/05/12(火) 13:07:24 ID:B0ct0FKE
>>602 小田原合戦でも各支城の攻城戦を行っているので、朝鮮で戦った連中とそれ程に差はないかと
関ヶ原でも戦う機会は少なかったですが、伏見城の鳥居らや井伊・本多・松平忠吉は勇戦しています
大坂役は東西双方に時間経過による技量の低下は見られます
ただし、逃げ出すではなく突撃バカの増大として見られます
八尾・若江の井伊などは良い例でしょう
大坂方が強そうに見えるのは完全に命を捨てた、バンザイ突撃的な常道でない精神状態故のものです
個人的には家康本陣は逃げる事が正しい戦術と言えるでしょう
後が続かないああいう突撃はむしろ後退して、孤立・包囲殲滅が最良と思います(事実そうなりましたし)
ただ、その後退時に混乱があった様なのは確かなようで、旗を乱した旗奉行が閉門・禄高没収されています
因みに家康も戦争のないことによる技量の低下は懸念していたようで大規模な狩りを行い、軍事演習
させたり、兵書を刊行しています
605 :
600:2009/05/12(火) 19:45:18 ID:ANwrvcG3
>603
ありがとうございます。
大分年寄りになっても参加しているんですね!
>604
バンザイ突撃は、やはり経験不足も原因なのでしょうか?
私の疑問は、いわゆる国によって強兵か弱兵かを決めつけている部分は、
実は後世の人間の勘違いなのではないのか?と。
関ヶ原の伏見城で散った鳥居の家臣たちのほとんどは、
三河以来の武将だとは思いますが、
彼らの兵卒(言葉は妥当ではないかもしれませんが)は、
関東出身の地侍ではないのでしょうか。
兵農分離と言う言葉は一人歩きしている気もしますが、
もし常備軍に就職出来るなら、雇い入れる方も弱そうな兵は雇わないと思うのです。
そうすると浪人?が多くあつまる都市ならば、
より選別された軍をつくれる可能性がありますよね。
ご恩と奉公は、つまり契約ですよね。
普段の生活を守るから、緊急時には協力しろ。という。
では領主と地侍の関係が親密で無けれは、
結局、どこの大名も兵の強弱は変わらないのではないでしょうか?
伊勢から会津飛ばされた蒲生家は、
陸奥のイッキや地元の伊達に引けをとっていませんよね。
兵の強弱ではなくて、彼らを監督する人間の経験が重要だと思うのは間違いでしょうか?
606 :
人間七七四年:2009/05/12(火) 20:28:36 ID:B0ct0FKE
>>605 兵の強弱については色々ありますが
先ず、指揮官としての上級武士、戦闘も行う下級武士、それに雑兵となります
上に行くほど元々の領地からの出身層が多くなります
強さも侍が強いのか雑兵が強いのかに分かれると思いますが、自然環境的な
理由で評価されるのは後者の方で、前者にもそれはありますがどちらかと言うと
家中の統率力・組織力等の人的環境により左右されると思います
強い兵というのは個人の才能や力よりも、上の指示をしっかり遂行することと
いえます
これが厳しい自然環境で基からそういう気質になるか、それとも上手な統治法や
個人の魅力でつき従がおうと思うようになるといったいくつかの要因があります
北陸や東北の大名は自然環境に大きな要因があるでしょう、蒲生や加藤清正は
個人の魅力といえます
徳川家の場合は今川家の風下にあったこと、一向宗の強い組織力(これは越前兵
にもいえます)を流用できたことに加えて、更にそれが薄れたり領土が拡張すると
当時もっとも整備された軍法とされる武田軍法を導入しています
その土地の強い弱いは様々な環境によって左右されるものであり、それは自然環境
のを除けば一過性のものに過ぎないと言えるでしょう
607 :
600:2009/05/12(火) 20:54:13 ID:ANwrvcG3
>606
ありがとうごさいます。
>武田流軍法の導入
石川家が秀吉側に寝返った後の話ですね。
これも疑問なのですが織田家と二十年間一緒に戦ってきた徳川家の軍法は、
石川さんが伝えるまでもなく、秀吉側はよく知っていたのではないのでしょうか?
608 :
人間七七四年:2009/05/12(火) 23:38:28 ID:B0ct0FKE
>>607 一緒に戦ってるといえども機密の取り扱いとかはやはり解らないでしょうし
それにこれまでの三河の戦法は整ったものはなく、その場その場で決めていたようです
しかし甲信駿が新たな領土になり、これからもそれでは統一行動に問題が出る恐れがあります
そこでそれらを統一させるのに新たな領国が既に承知している武田軍法を採用したのでしょう
609 :
人間七七四年:2009/05/13(水) 00:44:38 ID:9menGpgS
架空戦記もので名作やオススメ教えてください。っていうかもう架空じゃなくてもいいです
610 :
人間七七四年:2009/05/13(水) 01:22:23 ID:8Rozwnvw
611 :
人間七七四年:2009/05/13(水) 09:48:32 ID:QBRoJ8k6
>>593 戦国一苛烈な統治をして恐喝略奪もやっていたのが北条氏康です。
因果応報で氏康はボケ老人になった挙げ句に氏政に暗殺され、氏政は秀吉に殺された。
612 :
人間七七四年:2009/05/13(水) 10:05:31 ID:E8F6HEB0
>>611 ねえ、なんでここに住み着いてるの?他に行く場所無いの?
613 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 13:30:10 ID:OXIIwaQg
614 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 13:48:34 ID:daaKmafa
一国一城の主っていろんなタイプがいると思いますが、その中には
一生戦に出なかった人間もいたんでしょうか?
もし戦が起きても、親族などの代わりを戦に行かせて、自分は絶対に城から出なかったとか。
615 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 13:52:46 ID:pMMSnyEC
>>614 それは戦国に入ってから、一国単位の大名限定で、ってこと?
豊臣秀頼くらいものんだろ。
616 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 16:00:53 ID:OXIIwaQg
名城を持ってた七尾城や二本松城の名門畠山氏のガキ達は籠城してたけど出陣はしてないね。
617 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 18:36:00 ID:02Jg+831
618 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 21:15:24 ID:OXIIwaQg
619 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 00:15:59 ID:UZj0YzbE
横文字抜かせば書いてあることはだいたいあってる
620 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 00:29:52 ID:a2ZZ5L+2
あんまり戦国に詳しくないし、とりあえず三河物語からと思って読んでるんだが
読んで疑問に思ったことがあるんで教えてください
1信憑性はいかほどか?信長公記を嘘半分と批判して、三河こそ真実だといっているが…
2羽柴秀長が家康と間違って毒殺されたと書かれている。
嘘だとは思うが、これの書かれた意図は?
3大久保ageや主君sageもあったりと内容が凄いが、書いた当時怒られたり、批判されたりしなかったのか?
見当違いな質問かもしれませんがそれを含めて教えてくださると有り難いです
621 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 09:01:25 ID:ZA4zSfkI
>>620 1、信長公記はあくまで織田家から見た「見解」、三河物語もあくまで徳川家の、さらに
大久保一族から見た「見解」。
それぞれ「信憑性」には立場と言う限界がある。どちらも客観的な意味で真実を書いているわけではない。
2、少なくとも当時徳川家中でそう言う噂が流れたんだろ。徳川家中は豊臣家と言うものを
そう言うふうに見て警戒していた、と考えるといい。
3、三河物語は大久保忠教の私的な記録で、子孫にも言っているが門外不出であった。
つまり世間に向けて書かれたものではない。
まあそのわりに、江戸中期くらいには既にその存在は知られているし、軍記物などに三河物語から
引用したと思われる著述も見られたりするが、その頃になれば、既に100年以上も昔の話であり、
大久保忠教も死んだ後でもあり、そんなに問題にはならなかったのだろう。
622 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 09:08:29 ID:pDPoT8S1
623 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 10:36:11 ID:cdcAAU9l
信憑性が高いとされる「信長公記」より、創作の色合いが強い
「信長記」の記述のほうが世間一般に広まっているのはなぜ?
624 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 10:53:57 ID:pDPoT8S1
>>623 「話」として纏まっているから
日記読むのと伝記読むのとでは後者のほうが読みやすいし、面白い
625 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 11:32:14 ID:ZA4zSfkI
>>622 ああ、そうだったか。スマン
>>623 たとえばフィクション似すぎない司馬の「竜馬がゆく」と、
司馬がその元ネタにしたマリウス・バーサス・ジャンセンの研究書
『坂本龍馬と明治維新』の、どっちが売れて影響力があるか、って話ですわ。
626 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 17:00:46 ID:nbXVtXke
拝察人て云う職に先祖が着いてたらしい。
任命状みたいのが残っている
627 :
人間七七四年:2009/05/16(土) 00:55:07 ID:I3VU2bdD
須屋隆正という人物について知りたいのですが
「菊池氏一族で須屋城主。合志親為らと共に、島津氏の侵攻に抵抗した。」という事以外で何かわかりますか?
生没年とか、いつどんな理由で死亡したのかとか、どの合戦に出たのかとか・・・
もしくは、この手の肥後のマイナー武将について質問するスレってありますか?
628 :
人間七七四年:2009/05/16(土) 01:33:15 ID:DcFgkOO/
「右翼の正体」
右翼団体の街宣活動は、愛国者をイメージダウンさせ
日本人の愛国心(国家意識)を低下させるために行われます。
右翼の構成員たちは、日の丸を掲げながら事件を起こしたり、
故意にキチガイじみた行動を取ることによって、
「日本の文化、人、郷土を好きになる人」=「日本を愛する人」の
イメージを落とし、暴力による治安悪化や、日本人の正常なナショナリズム
の育成を妨害しています。
http://www.geocities.jp/uyoku33/
629 :
人間七七四年:2009/05/16(土) 01:42:15 ID:K4mMgC3y
スレ違いじゃ?
看板は建てないのですか?
631 :
人間七七四年:2009/05/16(土) 14:38:49 ID:2vk2Fib/
>>629 だろうね。
三点リーダーの使い所もおかしいし。
高校でレポートとか小論文ぐらい書かされなかったのかな。
学校で習わなくてもビジネス文書の書き方は入社時に叩き込まれるはずなんだが。
632 :
人間七七四年:2009/05/16(土) 21:12:03 ID:rH2P2UoB
>>621 丁寧にお答えありがとうございます
大久保視点から見た語ということがこんなにも話に影響するんですね
現代の書物ばっかり読んでいて昔の書物の読み方をしりませんでした、主観がこんなにも入り込んでるなんて思ってなかったです
これからに大変参考になりました
本当にありがとうございます
633 :
人間七七四年:2009/05/29(金) 14:58:35 ID:ZTM13CqM
某参考書で当世具足一式を纏った重装備の足軽が描かれいるのだが
このような重兵は何処で配置、活用されたのでしょうか?
634 :
人間七七四年:2009/05/29(金) 16:31:03 ID:V4pOp8CY
>>633 武田の足軽は軍役書より足軽にも甲・立物・具足・手蓋・喉輪・指物の装着を命じられており
各大名によって装備は異なる
635 :
人間七七四年:2009/05/29(金) 17:47:05 ID:/0kGyErP
足軽の扱いは大名毎に違うからね。
江戸時代ですら藩によってまちまち。
まあ具足一式は珍しいにしても、戦闘用の足軽は徒歩武者並の武装。
636 :
人間七七四年:2009/05/29(金) 18:31:00 ID:qbKm5S+l
斯波とか畠山とか武田、宇都宮などはかなり離れた位置に割拠してますが
どのような経緯でこのようになったんですか?
637 :
人間七七四年:2009/05/29(金) 19:17:32 ID:lK84txWP
>>636 南北朝の時の論功行賞とその後のあれやこれや
638 :
人間七七四年:2009/05/29(金) 22:08:42 ID:IRsz9UBN
畠山は義教下痢事件でとばされた
宇都宮は頼朝が嫁を奪ってとばした
武田は大地震の影響で大移動した
斯波は義持時代に台風で作物全壊で親戚を頼ったから
639 :
人間七七四年:2009/05/29(金) 23:52:15 ID:qbKm5S+l
ありがとうございます
640 :
人間七七四年:2009/05/30(土) 01:20:30 ID:/4pbEfu9
641 :
人間七七四年:2009/05/31(日) 15:48:49 ID:ILWoEOtO
竹中半兵衛って、史実と創作の境目がよく分からないんだけど…
例えば、稲葉山城の奪取なんかは確かな資料に記述があったりするのかね?
642 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 01:19:27 ID:FN2EXaCN
一応そのことに関しての本人の書状と言われるものが残ってるみたい
ただ信長公記には乗ってないし、どうなんだろうね
643 :
人間七七四年:2009/06/03(水) 01:18:01 ID:f9Gar/FW
>>641 一級史料には見えず、傍証も無いので創作とも言われる。
時期的には織田・六角・浅井・朝倉・遠藤・三木など隣接諸家にとって重大事件でありながら、
各家・各家臣の書状や美濃の寺社の記録にも見られないのは不自然と言えなくも無い。
傍証のあるもののみを事実・史実とするならば、稲葉山城乗っ取りは事実とは言えない。
まぁ事件として面白いし否定することもないかな、ってのが個人的意見。
644 :
人間七七四年:2009/06/03(水) 20:05:07 ID:gDRrsJwi
関ヶ原で島津義弘って何がしたかったの?
大した兵力も連れてきてないし、全然動かないし、勝負が決した途端に撤退するし
出陣した意味がよく分からないのですが
645 :
人間七七四年:2009/06/03(水) 20:19:43 ID:drxwjabX
>>644 本人もわかってない。
最大目標は「どうにか国に帰る事」
646 :
人間七七四年:2009/06/03(水) 20:37:29 ID:gDRrsJwi
>>645 どういうことですか?
できれば詳しく説明してもらえませんか?
戦わずに本国帰還という訳にはいかなかったものなのでしょうか?
647 :
人間七七四年:2009/06/03(水) 20:49:53 ID:drxwjabX
>>646 最初は東軍に参加するはずだったけど伏見入城断られたりそうこうしているうちに
西軍が続々集結して西軍として旗幟鮮明にしないと潰されるだけなので西軍に参加。
それでも東軍が西進してくると様子見モードにチェンジ。んで、関ヶ原じゃその様子見を
続けていたらいつのまにやら西軍が崩壊していて東軍の真っ只中に取り残され、
敵の真ん中を逃げ惑うハメに。
本国の忠恒は最初から東軍に付く予定でいたので勝手に西軍に付いた義弘を本気で見捨てた。
ちなみに、決戦以前に勝手に離脱なんて出来るわけが無い。西軍からフルボッコに潰されるだけ。
だいたいこんな感じ。
648 :
人間七七四年:2009/06/03(水) 20:59:08 ID:gDRrsJwi
>>647 分かりやすい回答ありがとうございました
649 :
人間七七四年:2009/06/03(水) 21:11:37 ID:D/FxvCNp
補足
これは島津だけに限らず長曾我部なども同じことが言える
650 :
人間七七四年:2009/06/04(木) 01:57:31 ID:Z5LTwhZY
流れには誰も抗えないのね。
まぁ中央突破は流れに思いっきり逆らってるけど。
651 :
人間七七四年:2009/06/04(木) 02:07:01 ID:hTMgA4cq
ありゃ中央突破と言うより、東軍の軍勢がなるべくいないところを通ってたら
たまたま中央突破っぽく見えただけの話。
652 :
人間七七四年:2009/06/04(木) 23:11:03 ID:9Sr0nzwp
大内って「百済の王子の子孫」って名乗ってたらしいけど(真実かは不明)、
朝廷が出す文書ではどういう姓を使ってたの?
他は大抵「源」「平」「藤原」だし。
653 :
人間七七四年:2009/06/04(木) 23:12:05 ID:E2I5V1Lk
多々良
654 :
人間七七四年:2009/06/05(金) 01:35:51 ID:HyK4k4Dw
>>651 追撃戦でどんどん前に出た結果、大部分がいなくなって家康の周囲にエアーポケットが出来てしまったと…
655 :
人間七七四年:2009/06/05(金) 02:30:55 ID:BOmyUVMV
家康の周囲ってのも怪しい。
この時期の薩摩の自称武勇は、4,5割くらい引いて考えた方がいい。
656 :
人間七七四年:2009/06/05(金) 09:14:47 ID:a6FEavWb
3割ぐらい引くのが妥当だろうな
朝鮮半島での戦果も退却戦だけは華々しいし
657 :
人間七七四年:2009/06/07(日) 10:20:56 ID:uCKqtqUL
城が攻められるときの質問なのですが、兵糧切れを待たずに
寄せ手が攻め込んできた場合。籠城側は完全に城に引きこもって
一番外側の門の前で門を中から抑えれば絶対に守りきれると思うんですが
なぜそうしないのでしょうか?
658 :
人間七七四年:2009/06/07(日) 14:50:43 ID:9mOSBDx1
それでは守りきれないからです
659 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 01:36:36 ID:XRb9VB4P
>>657 何をもって守りきれると判断しているのか逆に尋ねたい。
あまりにも馬鹿げた質問すぎて答える気にならん。
660 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 09:36:08 ID:0DQEIOPE
>657
これがゲーム脳か
661 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 11:24:53 ID:KL0xxXjL
室町時代から戦国にかけて、惣村の払う本年貢の額はほぼ固定されてて、
年貢量に対する余剰生産である「加地子」は平均でも本年貢の2〜3倍、大きい所では
10倍あったそうで、この余剰生産分を取得する権利も、所領に近い感覚で売買や贈与が
行われたらしいのですが、
この「加地子」って、検地が行われれば一旦リセットされますよね?
この場合、既存の加地子権はどういう扱いになったのでしょうか?調べても良くわからないので、
ご存知の方ご教授お願いします。
662 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 17:33:54 ID:CgT56NBv
663 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 19:19:17 ID:SbXUo8a3
>>662 寛政譜の坪内利定の項を見ると、
「小牧の役の際利定は秀吉と不和であったので(秀吉直属ではなく)森武蔵に属したが、
森の戦死により混乱し後退するさなか追手の徳川勢に鉄砲を撃ち掛けて敵一人を倒し、
その隙に自分及び森の残兵は撤退することができた。
天正18年に召し出されて家康に仕えた」(意訳)
とある。
wikiのほうは出典が無いのでわからんが(武功夜話か?)、
新人物往来社のほうの出典は寛政譜だろう。
664 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 19:39:05 ID:CgT56NBv
>>663 なるほど、どうもありがとうございます。
どっちの方が信憑性高いんでしょうか?
665 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 19:46:04 ID:KL0xxXjL
666 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 22:21:30 ID:07x1ZTbu
戦で両軍入り乱れて・・って時ありますよね?
その際の目印なんかはどうやってたんでしょうか。
また、わかりやすい物を目印にすれば敵方に利用される事もあり得ると思うのですが。
667 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 22:29:39 ID:4X7VJtFH
まず目立つ&強そうな味方を見つけておきます、
後はそいつに向かって来るのが敵です
相手も同じような状況なのでどっちかに不利ってわけでもないので気にしないでください
668 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 22:38:22 ID:MgUtiwXW
>>666 指物や合印というものがありました
前者は背中に付ける旗で、後者は袖につける布状のものですが
なくなったら味方にも殺されるので兎に角、あちこちに何個も付けておくべきと
当時の人は言ってます(鼻に糸を通して、下げても良いくらいとあります)
敵に利用されると言っても、相手の合印を付ければ今度は味方に殺されかねません
669 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 00:15:36 ID:Lpe/wx5v
質問です。
正室との男子が生まれる前に側室との男子がいた場合、
通常、後に生まれた正室の男子が嫡子とされるようですが、
北条氏政の場合、ウィキでは兄の新九郎(氏康の結婚時期からして側室の子の可能性が高い)
が夭折したので世子となったとあります。
これは、間違いで、氏政はたとえ、新九郎が夭折しなくても、はじめから
嫡子として扱われていた、という認識でいいのでしょうか?
670 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 00:21:19 ID:K5jK9DSF
秀吉が織田の家臣でなくなった瞬間、
家康が豊臣の家臣でなくなった瞬間はそれぞれどの時点ですか。
織田や豊臣が滅ぶまで形式は家臣であったと考えるべきですか。
671 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 00:27:21 ID:K5jK9DSF
670の続きですが、
秀吉の場合は関白に、家康の場合は征夷大将軍に任ぜられた
時点で、家臣でなくなったことを公に認められたと
考えるべきですか。
672 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 00:32:11 ID:PttN1fTh
まあ豊臣家秩序からは離れた存在になったな>征夷大将軍
673 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 19:38:10 ID:bF1/a0VE
>>669 >氏政はたとえ、新九郎が夭折しなくても、はじめから
>嫡子として扱われていた、という認識でいいのでしょうか?
兄とされる新九郎が嫡子なら「よくない」、庶子なら「よい」。
現時点で新九郎が嫡子か庶子か断定できない以上、
初めから嫡子として扱われていたかどうかは不明とするべき。
確定的でない情報について恣意的に一つの回答をもって正となす事は歴史を学ぶ人間のすべき行為ではない。
わからないのであればわからないとするのが当然でありまたそうであるべきだ。
674 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 21:26:58 ID:Lpe/wx5v
>>673 たしかに、正室が兄の母親だったという可能性もありますね
ちょっと考慮がたりませんでした。
回答ありがとうございます。
675 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 22:17:50 ID:YJB7ebLt
最近、というかここ数年?
「宣教師は日本人を多数奴隷として売り飛ばしていた」
っていうフレーズをネットで非常〜によく聞きます。
これは、何か最近発見された(もしくは隠蔽されていた)資料があるのでしょうか。
個人的には、奴隷売買やってないことはないと思いますが、
大規模にやっていたのなら逸話やらが残ってそうですが、あまり聞きません。
ネットで過剰に流されている噂なのか、事実が隠ぺいされていたのか、知りたいのでお願いします。
676 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 22:24:33 ID:PttN1fTh
677 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 22:40:57 ID:YJB7ebLt
>>676 ありがとうございます。
確かに一般ではほとんど知られず、宣教師を誉めそやす風潮ばかりですよね。
ただ、やっぱり規模の大きいものではなかったような・・。
あまりにもネットでは奴隷売買奴隷売買言われてるもんで、実際どの程度かと思いまして。
678 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 23:06:44 ID:PttN1fTh
>>677 つーか、天正遣欧使節団が、インドやアフリカでまで日本人奴隷を目撃してたりするんだが。
それに男は戦闘奴隷として主に東南アジアに送られた。相当大規模だったのは間違いない。
679 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 23:10:47 ID:YJB7ebLt
>>678 具体的に知りたいんですよね。
当時の人口で10万とか本当に売られてたのなら、いくら隠そうとしても伝わってると思うのですが。
当時の宣教師が侵略の第一陣であることは理解してます。
ただ、なんとなくですけど、ネットの論調がこの件に関して過剰に思えた部分もあったもんで。
できるだけ正確なことが知りたいだけっス。
680 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 23:13:02 ID:S1uu6tZc
隠せなかったから秀吉に追放されたんじゃん
現代一般的に知られてないのは歴史の授業で教えてないからでしょ
681 :
人間七七四年:2009/06/09(火) 23:19:05 ID:PttN1fTh
682 :
人間七七四年:2009/06/10(水) 00:30:31 ID:poBFGlHu
>>681 その本も史料の曲解や恣意的な解釈が多くて必ずしも良質なものとは言えないが、
他にこの件についてまとめていて読みやすい本がないのは残念の極みだ。
683 :
人間七七四年:2009/06/10(水) 00:37:47 ID:BjrBxrYA
>>661 自己解決。検地で出てきた「石高」は、本年貢+加地子の数値なのね。
加地子の権利はそのまま保護されるわけなのだな。
684 :
人間七七四年:2009/06/10(水) 01:07:05 ID:ulk3+EHh
685 :
人間七七四年:2009/06/11(木) 16:29:54 ID:akG380dl
NHK大河『功名が辻』のDVDを見ていてわからない事が。
山内一豊が信長から400石を与えられ、その後堀尾吉晴や中村一氏と
身分の差で揉めるシーンがあるのですが、400石持ちとはどのような
身分なのでしょうか?
・400石とは現代の行政的区割りで言うと村ひとつ位の土地はあるのでしょうか?
・400石身分だと、どの程度の屋敷に住めたのでしょうか?
・家臣や家の手伝い人など、それぞれ何名ほど抱えているのでしょうか?
・400石持ちに課せられる役職や地位的な義務・責任はどの程度でしょうか?
→(金銭的また役務的に)
・400石持ちでも戦場では最前線で槍を振るう立場なのでしょうか?
・400石持ち程度でも、自分の土地の治水(灌漑)や街の発展に掛かる費用は
自腹なのでしょうか?それとも、今の公共事業のように半分は領主(守護)が
出してくれたのでしょうか?
どなたか詳しい方いらっしゃいましたら教えていただけると嬉しいです。
686 :
人間七七四年:2009/06/11(木) 17:11:44 ID:vHUDeOqg
>>685 400石ぐらいでは、本人が領主として直接に統治すると言う事は無いと思います。
織田家から与えられる給与が、400石格、だということでしょう。
仮に名目上の領地があったとしても、織田家の代官により統治されていると思われます。
ちなみに大阪の陣の当時は、500石で鉄砲1丁、鑓3本の軍役だったので、
まあ、主人が騎乗して最低限のユニットが組めるくらいの数字ですね。
当然前線戦闘員です。
まあ、これはドラマなので余りまともに考えても意味が無いのですが。
ちなみに一豊が取り立てられた当時は、石高で計る事はなかったはずです。貫高で言っていました。
石高と貫高の関係性は時期によって色々変わるので、単純にはいえないのですが、
大雑把に計算して、約40貫ほどだと思います。
687 :
人間七七四年:2009/06/11(木) 20:31:45 ID:+pbe08Of
>>687 ありがとうございます!
直接統治してないんですねえ。ドラマの中では信長が「“からくに”400石を与える」と
言ってたので、“からくに地域”の領土統治の権限全てを与えていると思ってました。
代官ですか・・・よくよく考えればそこらの一兵卒に、いきなり地域統治なんてできる
わけないですもんね。
>大阪の陣の当時は、500石で鉄砲1丁、鑓3本の軍役
少ない・・・本当に辛うじて1個小隊ぐらいですね。
こうして見てみると400石は凄いなと思ってたんですが、案外そうでもないん
ですね。胸のつかえが取れました!
688 :
685:2009/06/11(木) 20:41:11 ID:+pbe08Of
685と687に書いたものですが、他にも685の質問がお分かりになる方がいましたら、
引き続きお答えいただけるとありがたいです。
>>686 あらためてありがとうございました!
689 :
人間七七四年:2009/06/11(木) 21:13:34 ID:5SBtuD29
参考までに村単位の石高がどの程度か「旧高旧領取調帳」から虎姫町の例で。
江戸末期の石高なので戦国期とは大分違いますが…
五村__ *350石 留目村_ **20石
今村__ *523石 郡上村_ *492石
別所村_ *235石 川毛村_ 1012石
中野村_ 1345石 上山田村 *603石
三河村_ 1519石 宮部村_ *846石
月ヶ瀬村_ *752石 唐国村_ *629石
大寺村_ *888石 大井村_ *910石
田村__ *556石 酢村__ *645石
----------------------------------
虎姫町計13,325石 面積 9.45km2 現在の人口5,499人
一豊の400石はちょうど唐国村一村分と思われます。
もちろん名目上のものでしょうけど。
当時の千石未満に相当する町村も明治から殆ど合併していない所ならあり得るでしょう。
690 :
人間七七四年:2009/06/11(木) 21:36:09 ID:5SBtuD29
一つ目の質問への答えとしては
現代の村は平地のある村なら大抵数千石相当はあります。
山奥の村などでは少ない所もあります。(例 東京都西多摩郡檜原村 795石)
691 :
人間七七四年:2009/06/11(木) 21:42:10 ID:w5svb8NW
その前に現代の行政区分である村と、
当時の村を比べること自体無意味。
村という語句は同じでも指し示す意味が違いすぎる。
692 :
685:2009/06/11(木) 21:54:45 ID:+pbe08Of
>>689-690 とりあえず村一つ分ほどの領地が名目上与えられていたんですね。
統治はしていないにしても、ただの兵隊がいきなり、名目上とはいえ
村長レベルに格上げされるんですから、凄いといえば凄いんですね。
>>691 そうかもしれませんね。
今の村と当時の村では、行政上でもその存在としても意味合いがまるで
違うんですもんね。
そもそも現代のように地方自治体としての体もなかったでしょうから。
そういった意味では比べること自体無理ですかね・・・。
693 :
人間七七四年:2009/06/11(木) 22:43:51 ID:5SBtuD29
>>691 集落を指す村と行政上の村は言葉の指すものの種類からして違いますが、
土地だけを考えれば、江戸初期の村と村に属する田畑等を合わせた土地が
後の行政区分された村の基礎になっているともみれます。
694 :
人間七七四年:2009/06/11(木) 22:47:59 ID:5nBOSUHE
>>693 まぁ、1889年以前の村と以後の村は全く別物とはいえ、1889年の再編成の母体はそれ以前の村の組み合わせだからね。
695 :
人間七七四年:2009/06/12(金) 02:14:55 ID:PXgje8r9
>>693 >行政区分された村の基礎になっているともみれます
それは村に限らず市町も、二十三区ですらそう。
渋谷のあたりは田園地帯だったわけだしね。
要するに、行政村だけが中世の村の後継ではないと。
なので行政村だけを中世の村と比較する意味は無い、と。
おっしゃるとおり、山間部と平野部での差もあるわけで。
仮に土地面積で考えるとするならば、
一石=一反として、400石は40ha、屋敷などもろもろが+7haとすると、
400石の村は東京ドーム10個分ほどの広さと仮定できます。
696 :
人間七七四年:2009/06/12(金) 04:18:41 ID:kkoufK3Z
>>7父は早くから信長に仕えてる、兄弟蘭丸・力丸・坊丸は信長お気にの小性。
武田信玄五男・仁科盛信が守る高遠城を陥落、甲斐攻めの最大評価。
超絶亀レス
698 :
人間七七四年:2009/06/13(土) 02:08:57 ID:4VZbexH2
小説などの架空フィクションでなく
一次資料を元に作られた伝記本で
信長・家康・秀吉・信玄・謙信あたりのメジャーどこじゃない
戦国大名の本で面白いお勧めの本を教えて下さい。
最近は島津、里見、伊達、北条、長宗我部、毛利、佐々、内ヶ島辺りを読みました。
希望としては南部家を含む東北の中小名(伊達・蘆名より北の方)や
信濃国(真田以外)の中小名、紀伊・大和辺りの中小名などで。
699 :
人間七七四年:2009/06/13(土) 02:26:15 ID:o784Fl9E
700 :
人間七七四年:2009/06/13(土) 13:44:21 ID:MrtwEHIG
戦国時代の逸話、後世の記録の嘘本当の真実の特集をされている本でオススメはありますでしょうか?
歴史読本でも嘘と史実がごちゃまぜで
最初から読み通す身には鵜呑みにして分かりにくいので
有名どころの作家や著名人で作り話を嫌い、史実通りに書く方を教えて頂けないでしょうか?
本は学校に置かれている歴史漫画シリーズ、火の鳥文庫の伝記シリーズ、PHP文庫系の戦国武将のまとめ本、Truth Historyシリーズの相川司のを読んだぐらいです。
701 :
人間七七四年:2009/06/13(土) 17:05:36 ID:wl4n6I6s
何を持って史実というのか
702 :
人間七七四年:2009/06/13(土) 18:28:25 ID:o784Fl9E
史実どおりに書いたらそれは小説ではない。
学校においてあるようなその手の本じゃなくて、大きい図書館でちゃんとした歴史書借りてきなされ。
703 :
人間七七四年:2009/06/13(土) 21:45:31 ID:4RNmmqpB
嘘と史実がごちゃまぜってそんなことわかるのかよ
704 :
人間七七四年:2009/06/14(日) 03:07:32 ID:GYViqaS/
>>700 それならば小説よりも、概説書の類いを読んだ方が良いと思う。
『日本の時代史』あたりは内容も濃く良いと思うが、初めての人には若干難しいと思うので、
小学館の『全集 日本の歴史 戦国の活力』あたりが読みやすいんじゃないかな。
小説は、あくまでも読んでて楽しいか否かで選んだ方が絶対よい。史料を多用しようと
する作家もいることはいるけど、やはり面白さという点では、今ひとつだしね。
705 :
人間七七四年:2009/06/14(日) 09:40:11 ID:llN3o+4q
>>704に同意。
人物叢書やミネルヴァで個別の武将を見るのもいい。
706 :
698:2009/06/14(日) 10:39:56 ID:KPoVo1FK
>>699 検索サイトで捜せ、ってのは数が膨大過ぎて困るので、
できれば個人的観点で構わないので、あれは面白いかったよ、とか
そういう『オススメ』をできれば教えて欲しいです。
707 :
人間七七四年:2009/06/14(日) 13:25:03 ID:llN3o+4q
あなたの質問が「これを」と特定したくなるようなもんじゃないから
回答もそれに応じたものになっているんじゃないかな?
708 :
人間七七四年:2009/06/15(月) 10:05:35 ID:q7kzKwoo
>>707 では、東北で伊達・蘆名・佐竹以外の勢力
もしくは紀伊国の豪族について
詳しい本を教えて下さい。
小説など架空要素の多いものでなく
できるだけ一次資料を参考にした伝記本のようなもので。
709 :
人間七七四年:2009/06/15(月) 10:06:37 ID:q7kzKwoo
すみません、紀伊国の場合は「雑賀衆・根来衆」を除いた勢力でお願いします。
710 :
人間七七四年:2009/06/15(月) 12:42:33 ID:y6QSr46u
そこまで絞れているなら自分で探せよといいたくなる。
711 :
人間七七四年:2009/06/15(月) 14:46:54 ID:iPcLneum
マイナーな地方史を1次史料に近いところで、何ていうのがお手軽にあるわけないと思うけど。
大きい図書館に行って県史だの市町村史でも見ておけば?
玉石混交だし、古いのは特に軍記物や伝承そのまま検証もなく載っけたようなのも多いけど。
712 :
人間七七四年:2009/06/15(月) 15:01:53 ID:wXrPOaj5
伊達家って政宗が版図拡大に乗り出すって
感じだけど実際は輝宗が、活発に動いてるし織田に誼通じたのも輝宗だよね。
713 :
人間七七四年:2009/06/15(月) 21:02:44 ID:KOrKNZqk
ちょっとお聞きしたいのですが
司馬遼太郎の“新史太閤記”を読みました
非常に楽しく読みすすめることが出来たのですが、
権大納言に任官されるとこで終わってしまい、物足りなく思いました
出来れば天下統一後を描いた作品を読みたいのですが
オススメがあれば教えてください
714 :
人間七七四年:2009/06/15(月) 21:55:43 ID:2rPvkJPz
美濃斎藤家の家紋は波と撫子がありますよね。
道三は主に波を使って、義龍は撫子を使ったようですが、龍興はどっちを使ったんですか?
715 :
人間七七四年:2009/06/15(月) 21:57:33 ID:zXBQ1aEh
司馬遼太郎の天下統一後の豊臣秀吉を扱った作品は皆無といっても過言ではありません
どうにか「梟の城」や「功名が辻」などで断片的に語られている程度です
司馬は一番好きな人物として「天下を統一するまでの豊臣秀吉」と言っており、「新史太閤記」
はそういう意味で彼の好みに沿った作品と言え、彼の大阪人としての秀吉に対する憧れと、
後世の司馬史観から見れば昭和の軍人に匹敵する無能たる秀吉の落差より後者を無視する
という屈折した感情をみる事が出来ます
余談ですが、そういう意味で主人公が完璧人である本作を私はそれ程、好きではありません
寧ろ、司馬が最も嫌った徳川家康を主人公・若しくは主人公級にした作品の中にある欠点の
多い人間として書かれる家康の方により面白味を覚えます
(同じ理由で山岡荘八の「徳川家康」も私は好きではありません)
勿論、作品の良し悪しは個人によって異なりますが
716 :
人間七七四年:2009/06/15(月) 22:51:38 ID:pyJ+St0i
>>713 津本陽の「夢のまた夢」かなあ?
おすすめかどうかと言われると、個人的には微妙なんだが。
717 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 07:10:24 ID:77E20l03
>>715>>716 ありがとうございます
“城塞”を先日読んだんですが、確かに家康はイヤな奴として書かれてましたねw
津本は久秀を描いた“乱世夢幻の如し”を読んだんですが、
あまりにもつまらんので途中で頓挫
以来、津本には手が伸びんのです
718 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 20:11:26 ID:eRkUHYrH
津本陽と言えば島津奔
719 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 21:09:39 ID:a0caYIYT
ググル先生にお尋ねしたけど池宮某しかヒットせんやったよ
720 :
人間七七四年:2009/06/17(水) 19:24:02 ID:LYu+vuo3
松永久秀と言えば、早乙女貢の“悪霊 松永弾正久秀”を読んだけど
セックス、レイプ、セックス、レイプ、セックス、逆レイプ、セックス・・・
の繰り返しだったわ。あれは戦国武将の名を借りたポルノ小説です。興味のある方は是非!
721 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 15:21:58 ID:Q+hQN6AY
黒澤明の「影武者」にあるような、武田騎馬軍団の騎馬武者がドドドー!
ってのは、誤った騎馬武者に対するイメージだとはよく言われるけど、
逆に騎馬武者は全員が戦うときは馬から降りたっていうのも違和感がある気がする。
馬上槍とかは実際にけっこうあったと考えてもいいのかね?
722 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 15:26:22 ID:Klc/kYM1
>>721 「馬から下りて戦う」ってのは、九州でのローカルな戦い方と考えた方がいい。
実際は馬上戦闘はいくらでもあった。
723 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 15:54:04 ID:Q8In3R1Y
無いと思うよ
馬刺されて落馬したら即 死に繋がるし
馬に乗ってるからって有利になるわけじゃないし
むしろ目立つし360度から槍が襲ってくるようになるだけだし
指揮官は戦線から少し離れたとこから騎乗で視界を確保して采配をふるってたと思うけど
騎馬隊ドドドドドみたいなのは…
精鋭が騎馬でドドドドドと敵の喉元に乱入して、馬から降りて乱戦ならあったかもしれないけど
昔は当然電気なんてなくて夜は月明かり(天気によってはそれさえも望めない)と松明(場合によっては使用不可)が頼りだったわけで、それが地の利の無い敵地ならなおさらで、そんな時に夜目の効く馬がいれば当然行軍速度が上がるわけで、馬の最大利点はそこだと思う
724 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 16:37:33 ID:Klc/kYM1
725 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 16:55:50 ID:Q8In3R1Y
>>724 そりゃ戦国時代を通じて何万戦もあれば例外的なものは何百だかあるかでしょ、敵陣が崩れてから威圧的な騎馬突撃が
敵陣が崩れてなければ槍襖で足を止められて、馬刺されて落馬して組み伏せられて首チョンパなんだし
でも基本的には馬は降りるでしょ
726 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 17:12:52 ID:Klc/kYM1
何のために馬鎧があるんだよ
727 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 17:18:28 ID:h9xTquRU
卑怯にも馬狙いで刺す輩ってそんなにいたのか?
なんか馬刺すエピソードでもあったかね?
728 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 17:21:43 ID:Klc/kYM1
つーが馬上突撃したら馬狙われて殺されるだけとか、世界中の騎馬民族や騎馬戦術を
全否定しないと出来ない話なのだがw
729 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 17:36:25 ID:Q8In3R1Y
だからヨーロッパでは馬も鎧で堅めるし、モンゴルは短弓での一撃離脱が基本だし
だいたい将を射んとすればまず馬を射よなんて諺まであるのに騎馬槍戦なんて危なっかしいだろ
馬だって高価なんだし
基本的には降りて戦う
730 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 17:52:12 ID:Klc/kYM1
危なっかしい云々言われても、あったんだから仕方が無い。
731 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 17:58:19 ID:Q8In3R1Y
>>730 例外的にね
局地的にそういう事になってしまった時はあるだろうけどね
ただ基本戦術として騎乗での槍働きを前提とする事はまず無い
732 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 18:10:20 ID:Klc/kYM1
>>731 例外ではなく普通に存在している。
当時馬上槍術、体術、剣術が何のためにあったのかよーく考えろ。
733 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 18:34:47 ID:Q8In3R1Y
>>732 そりゃ最低限の訓練はするでしょ
しかし主流はあくまで剣術であり槍術
一方ヨーロッパはガチガチに人も馬も鎧で身を包んで騎馬突撃が基本戦術にあるから騎馬武術が主流ただ
734 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 18:40:55 ID:Klc/kYM1
>>733 > 761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 18:17:41 ID:6h8Mmk00
> 古流の伝書からも馬上の刀槍について。
>
> 『新陰流外乃物百拾九ヶ条』馬上の事
> ・馬上にて、やりの持やう、おびにはさむやうすもあり。たづなをかけ候て、持やうもあり。
> たづなをわいかけて持心持あり。色々あるべし。しかれども、この三つを用なり。
> ・馬上にてつく心持の事、てきのやり、馬のつらより三尺さきにて先をしかけ、うつといふ心持あり。
> ・のりかけてわがやりつよくもち、馬につかせる心持肝要也。
> ・下なるものをおいかけてつくも、せなかおびの上下やりさきあてがい、馬にてつかせたるよし。
> ・同、馬上にての心持、たがひにかたなにてかかつて来るものは、かかるものの左のかたへわり、
> 馬のつらをのりかくるやうに、心持専一なり。右の方へなる時は、あわする心持一つなり。
> ・下に刀にてゐるものきる心持、まづわをのりかけてまはしたるよし。右にゐるものをきらんとおもはば、
> みぎのあぶみをふみはり、くらをすかしてきりたるよし。左にある時は、左をふみはり、是もくらを
> すかし、すみのくらにてきりたるよし。
>
> 馬上の槍は「わがやりつよくもち」、つまり乗り手は保持することに専念し、「馬につかせる心持」
> 「馬にてつかせたる」とあるように馬を走らせる勢いで突くことが大事。槍を片手で振り回すのは無理だとかの
> 書き込みを見たが、想定が初めから間違っている。漫画的な想定を自分で勝手に出した挙句にそれは現実的ではない、
> なんてバカか?
>
> 新陰流のものを長々と書き出してみたが(ただしこれですべてではない)、馬上での槍・刀使いの事細かなセオリーが
> 存在していたことはわかってもらえると思う。新陰流の槍術以外にも、大島流や神道流系槍術の伝書にも
> 馬上の槍はある。『一刀流兵法目録』にも「馬上切合之事」がある。鈴木の説に従うなら、これらは必要とされていない技術を
> 頭で考えて作った机上の空論となるがねw
735 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 18:57:17 ID:Q8In3R1Y
>>734 いや、だから訓練方法があるから、それが実戦においての基本戦術で期待できるのか、って事
一騎打ちの源平の頃ならいざしらず、戦術対戦術、部隊対部隊、槍対槍、多数対少数の戦国時代にあっては高価な馬を失うだけで、そんな事を基本戦術に組み込まないって事
736 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 18:58:11 ID:vPUzvLXm
いわゆる「騎馬隊は存在しなかった!騎馬突撃は無かった!」というのは、
西洋や中国なんかの、馬上だけで構成された部隊が存在しなかったってだけの
話じゃないの?
これは個人的な疑問なんだけど、江戸初期の軍学の影響をもろに受けているはずの
屏風絵なんかを見ても普通に馬上で槍を併せている絵があること。
大坂の夏の陣屏風を見ても、本多忠朝は馬上のまま敵勢に包囲されているし、
接近してから降りるなんてちょっと不自然な印象を受ける。
737 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 19:08:48 ID:Q8In3R1Y
>>736 > 大坂の夏の陣屏風を見ても、本多忠朝は馬上のまま敵勢に包囲されているし、
だから討ち取られてるでしょが
738 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 19:14:02 ID:Klc/kYM1
>>735 実戦に使わないものを訓練するかよ。昔の人は馬鹿でも暇でも無いんだぞ。
君は馬鹿だと思っているのだろうけどな。
739 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 19:21:28 ID:h9xTquRU
そもそも家人や側近が馬上の将を守るようにして1隊のユニットを形成してるのに、
槍で簡単に馬を潰せるからとか言い出すのはおかしくないか?
馬上の将は単独で行動してるわけじゃないし。
740 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 19:28:47 ID:Q8In3R1Y
>>739 それと基本戦術における騎馬突撃と何か関係が?
741 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 19:39:06 ID:Klc/kYM1
742 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 19:48:33 ID:Q8In3R1Y
>>741 どこの国の軍隊の後方支援部隊員でも射撃の訓練はする
先にも書いたけど、敵陣が崩れてからの威圧的突撃はあっても、敵陣が機能してる内に騎馬突撃なんてしたら槍襖で止められるだけ
いくら馬上の者が訓練したからといって馬本人が何本も突き出された槍に向かって突入しようなんて思わない
これは本能なんだからしょうがない
一騎打ちの源平の頃ならいざしらず、部隊対部隊の戦国時代では基本戦術に期待できない
743 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 20:02:01 ID:H2lWurYe
>>742 そんなバンザイ突撃みたいなマネはしない
先ず足軽同士で競り合った後で、その戦列が薄くなった点を突撃で突破する
それが徒歩か騎馬かは時代や場所によって異なるけど
744 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 21:07:19 ID:FqnOuK/D
『島左近のすべて』という本を読んだのですが
質問が二つ。
1、姓は自身の書状などから『島』ではなく『嶋』であるが、一般には『島』で普及しているので
本署でも『島』で統一する、
とあったのですが、これは事実ですか?
2、左近に肖像画は存在しない、と書かれているのですが
ウィキペディアには、それらしき画像が貼られています。あれは何が出典なのでしょうか?
お願いします
745 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 21:38:26 ID:Klc/kYM1
746 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 21:53:27 ID:zf3nwCdn
>>737 その理屈だと徒歩の武士も討ち取られてるから
徒歩で戦う武士なんかいないってことになるなw
747 :
721:2009/06/21(日) 22:06:58 ID:Q+hQN6AY
なにやら盛り上がってますね。
さまざまな意見を拝聴できて嬉しい限りです。
ありがとうございます、ひじょうに参考になります。
748 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 22:45:18 ID:sj+doQDy
馬上突撃は普通か異常かって話ならソースもってきたほうが早いだろ。
馬上での刀剣の扱い方があるから馬上突撃や騎馬戦術があったというのは穿ちすぎ。
戦時では馬から下りるってのは甲陽軍鑑を初め史料にあるのは周知の通り。
騎馬戦術があったという側の史料を示してくれ。
749 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 22:48:12 ID:zf3nwCdn
750 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 22:50:05 ID:Klc/kYM1
まず戦時に馬から降りるのが状態だなどというソースを出せ。
甲陽軍鑑にそんな事はひとつも書いて無いが。
そして甲陽軍鑑以外のソースも提示しろ。
751 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 22:54:21 ID:H2lWurYe
雑兵物語に騎乗突撃の話がある
これは大坂陣辺りを懐古したものであるが、ここに
この当時、騎馬突撃は珍しいものとある
つまり、それ以前の戦国時代は騎馬突撃が良くあった
という事であろう
752 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 23:16:44 ID:Q8In3R1Y
>>751 > 雑兵物語に騎乗突撃の話がある
> これは大坂陣辺りを懐古したものであるが、ここに
> この当時、騎馬突撃は珍しいものとある
>
> つまり、それ以前の戦国時代は騎馬突撃が良くあった
> という事であろう
言ってる事がさっぱり解らん
矛盾してるし
同じく雑兵物語に、戦をするのは主人である侍の仕事であり、従者である雑兵は、主人の身の回りのもの(旗ざおや余分な武器など)を抱えたり、馬の口取りを引いて、戦場を走り回っている様が描かれていてる
また鎌倉時代には武士は「名こそ惜しけれ」というように、名誉のために戦っており、非戦闘員を攻撃することは恥としていたが、敵の馬を射ることには、例えば平家物語に
「昔様には馬を射ることはせざりけれども中比よりはまづしや馬の太腹を射つれば跳ね落とされて歩立になり候」
とあるように、鎌倉時代後期には普通におこなわれていた
当然時代の下った戦国期でも騎乗していれば馬を攻撃することは行われていた
753 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 23:29:28 ID:Klc/kYM1
>>752 キミが何を矛盾として考えているのかがわからん。
大阪の陣は基本攻城戦だから馬上突撃が殆ど意味がなかっただけだし。
もう一つ例を挙げよう、信長公記によれば、長篠のとき信長は将兵に「馬から下りて戦うように」と、
わざわざ命令を出している。
これはつまり、常態では馬に乗ったまま戦う事が、織田軍においても常識だったと言う事だ。
754 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 23:37:52 ID:H2lWurYe
>>752 別に突撃した後から、追随すれば問題無し
突撃距離は敵陣に駆け込むまでの長くても100m(火縄銃の射程)
755 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 23:42:13 ID:h9xTquRU
騎馬部隊を率いた秋山好古が騎馬隊のメンツを捨てロシア軍に対して、下馬してマシンガン使ってたね。
鉄砲の組織的運用時代になると、鉄砲の命中精度が微妙なんで馬を撃ってしまうケースが多発し、騎馬突撃が激減したんでは?
もちろん敵味方の士気の状況を読んでいた当時に効果的に使う騎馬突撃はあっても、
戦国期に騎馬だけの部隊は存在してないと思うが。
そもそもだいたいの合戦が肉弾戦ではなく、遠くからの矢戦や石投で怯んだ敵の部隊に騎馬の大将が槍隊を率いて突撃だと思うが。
756 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 23:44:22 ID:Klc/kYM1
騎馬突撃の時の、巨大な獣が襲い掛かってくると言う恐怖をわかってないな。
757 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 23:44:50 ID:7mUXAshb
>>753 主観は同意するが長篠は
大量の鉄砲を使うので陣内に暴れる可能性のある馬の持ち込みを禁止しただけでしょ
常識とするのは強引過ぎる
まあ「馬上の不利」「将を討たんとするならばまずその馬を射れ」なんて言葉があるから
馬上で戦う事はあったのだろうけど基本的に愚将のする行いなんじゃね
758 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 23:49:54 ID:Klc/kYM1
>>757 > 「馬上の不利」
それ「北斗の拳」の台詞…
あと「将を討たんとするならば〜」ってのは、先ず馬を倒せって意味じゃ無いぞ?
敵将を倒すには、その周りの防御している部隊を引き剥がせって事をあらわした言葉だぞ?
言葉の実際の意味をすこしは知ろうや?
759 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 23:50:56 ID:Q8In3R1Y
>>753 >この当時、騎馬突撃は珍しいものとある
>つまり、それ以前の戦国時代は騎馬突撃が良くあったという事であろう
なんで?
よくあったならいくつか史料だしてくれ
「わざわざ」馬から降りるように指示したって、不利だから降りろよと言ってるわけじゃないか
>>754 >別に突撃した後から、追随すれば問題無し
>突撃距離は敵陣に駆け込むまでの長くても100m(火縄銃の射程)
これも矛盾
突撃なんだからすでに敵陣に切り込んでるわけなんだけど
まぁ騎馬隊に夢を持っていてくれたまえ
おやすみ
760 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 23:52:30 ID:zf3nwCdn
761 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 00:23:22 ID:NjCJmT+u
>>759 敵陣に入った後は敵の騎馬隊と乱戦になるのでその時には槍脇が必要になるのです
762 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 00:23:50 ID:z9VOiktW
763 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 00:31:13 ID:6IPFP75E
>>762 ことわざの成り立ちと後世の解釈をごっちゃにしてるんだよお前は
764 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 01:44:56 ID:akKLdEEx
765 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 03:26:35 ID:Acj/ibOl
766 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 03:28:57 ID:z9VOiktW
767 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 03:47:58 ID:N6hNtm22
馬に乗ったまま戦うことがあったのなら
日本にも馬鎧(バード)の類が普通にあったはず
馬が無防備だったら馬から狙うだろ
768 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 04:09:30 ID:z9VOiktW
日本にも馬鎧の類は普通にあったわけだが。
戦国あたりなら「成氏年中行事」「関東兵乱記」「柴田退治記」
「家忠日記」「当代記」「北条五代記」「甲陽軍鑑」「大阪軍記」等々の文献にも
普通に出てくる。
島津家久が信長の軍勢を目撃した時の記録にも、馬鎧をした馬に付いて書いている。
769 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 04:33:13 ID:z9VOiktW
770 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 11:06:21 ID:7Fy58JZv
質問スレなんだから議論はよそでやれ
771 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 14:51:56 ID:Oe9vbYL0
騎馬戦してたならその馬は全てが鎧持ってたろって話だろ
772 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 14:59:35 ID:5Fi6WHM1
>>766 フロイスは高山右近を介して信長や足利義昭と会見してるし
しばらく三好・松永・信長と戦乱にあけくれる近畿にも滞在してるよ。
773 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 15:03:17 ID:5Fi6WHM1
あ、ごめん
まとめて書けばよかった。
俺は騎馬論争どうでもいいんだけど
>>771 騎馬自体が高級品で指揮官クラスしか乗ってなかったんだろうし
その上に馬鎧となると、本当に大将クラスの人間しか持って無かったかもね。
だから三国志みたいに全員が馬鎧つけて騎馬突撃〜ってのは無かっただろう。
相手を畏怖する為にはやったかもしれないけど。
>>768にあるように確かに島津の兵は中央の兵の装備見て
こりゃ大変だ!ってびびった記録はたくさんある。
774 :
721:2009/06/22(月) 23:09:34 ID:IdWi7LWd
こりゃスレ立てたほうが良いかも分からんね。
775 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 23:40:04 ID:6IPFP75E
776 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 23:58:48 ID:vqVreR19
議論というか反論に反論しないからどんどんgdgdになってるな
777 :
人間七七四年:2009/06/23(火) 22:17:00 ID:jyFTRHod
騎馬突撃があったかなかったか
戦国時代のいつの話かにも拠るんでは?
戦国時代も長かったんだからその間に騎馬戦術について変化もあった筈
初期には行われていたが後期にはほぼ絶えた、とかはありえそうな気がする
778 :
人間七七四年:2009/06/23(火) 23:02:45 ID:7L2Mo3m7
>>777 地域にもよるだろうしな。
北條なんて部隊構成における騎馬武者の割合から考えて、
騎馬突撃がなければ不自然だし。
779 :
人間七七四年:2009/06/25(木) 23:07:38 ID:QY1Gu7+9
ある本に
「室町時代の大名の家臣は”被官”で、戦国時代になってから”家中”という家臣団組織ができた」
って書いてあったけど、戦国以前には「家中」という言葉自体がなかったの? あと語源は何?
780 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 09:16:05 ID:+Zn471Ki
それは言葉のことを言ってるんじゃなくて、概念のことを言ってるんじゃないのか?
781 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 18:34:12 ID:dMcfxStj
基本的に京都に在住していた室町の守護大名は、領地の国人や地侍層などを
直接把握していたわけではなく、在地の守護代や内衆などを通じて間接的に把握しているに過ぎなかった。
これに対して戦国大名はこのような国人、地侍まで「家中」として体制内に取り込み、
一元的な支配を志向した。
まあこの事を、概念として語っているのでしょうな。
782 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 19:56:00 ID:RNeBGDk+
なんか勘違いしてるようだが、古来からの日本の馬は、現代の競馬馬と違って小型馬なんだぜ。
重装備の騎馬武者の両足が地面に着いたから、長槍などを振るう時も地に足をつけて踏ん張れた。
槍衾をされても、その前で馬を止めて、長槍で反撃することが可能。
783 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 19:58:43 ID:dMcfxStj
>>782 そんなに自分が馬鹿だと言うことを見せびらかさなくてもいいよ。
784 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 20:30:03 ID:LWuBiqiK
いくら小型馬とは言っても、背中に乗って両足がつくとかすげぇな。
平均的なポニーですら、体高は130〜140センチはあるのに。
戦国武将ってみんな超がつくほどの足長巨漢だったのか。
げに恐ろしき時代だ。
785 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 22:13:07 ID:aL/1vGh+
股下130pってことは戦国の武士は2mはあったようですな…
786 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 22:17:37 ID:N+YgY8QA
マキバオー思い出した
787 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 22:21:54 ID:sE/73RV7
あいつは厳密に言えば馬じゃないし
788 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 22:36:35 ID:9HfEyHPD
789 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 23:24:02 ID:dMcfxStj
790 :
人間七七四年:2009/06/27(土) 09:48:53 ID:Axf80jBi
791 :
人間七七四年:2009/06/27(土) 10:08:44 ID:HpxbRT2G
チンギスハン時代のモンゴル馬も小型で両足が着いたって聞いたことあるよ。
小型の方がスタミナがあって、山や谷を長時間に渡り重い重量を載せて走れる体力があるとか。
792 :
人間七七四年:2009/06/28(日) 04:09:02 ID:QxkMvHZD
793 :
人間七七四年:2009/06/28(日) 07:35:33 ID:HMxxXtpj
諸先輩方に質問です。
・伊達政宗
・上杉謙信
上記武将を題材にしたおすすめの小説を教えて下さい。
突然で大変申し訳ありませんが、宜しくお願い致します。
794 :
人間七七四年:2009/06/28(日) 09:20:23 ID:Xme6ERv2
795 :
人間七七四年:2009/06/28(日) 09:56:39 ID:JN809eD1
796 :
人間七七四年:2009/06/28(日) 12:39:20 ID:HMxxXtpj
>>795 ありがとうございます。
そちらのスレで質問してみます。
797 :
人間七七四年:2009/06/28(日) 13:04:36 ID:hxMVzIl2
伊達政宗の長男伊達秀宗の宇和島10万石についての質問です。
この10万石は父と共に大阪に参陣した秀宗に直接与えられたのでしょうか?
それとも一旦政宗に与えられたのを政宗が秀宗に与えたのでしょうか?
後者の場合、最初から秀宗に与えるのを前提とした上で政宗に与えられたのでしょうか?
伊達家は大藩ですがそれでも外様大名の庶子の取立てに10万石というのは破格の扱いと思うのですが
やはりこれは幕府が伊達家の存在を重視していた証なのでしょうか?
798 :
人間七七四年:2009/06/28(日) 14:24:53 ID:vQyYSBn6
799 :
人間七七四年:2009/07/01(水) 09:18:47 ID:KOv9L9RC
伊達政宗が幕府に謀反する御内試?計画の詳細教えてください。
徳川軍迎撃のためで最後は松島で自害するまであったらしいのですが・・・
800 :
人間七七四年:2009/07/01(水) 17:57:36 ID:P8I4tEYZ
尾張守護斯波義銀が織田信長に追放されたのは何年ですか?
801 :
人間七七四年:2009/07/01(水) 23:09:21 ID:HvkWjBXZ
秀吉は織田家を乗っ取ったけど
秀吉以外の信長家臣は乗っ取ろうと考えていた人はいたの?いなかったの?
802 :
人間七七四年:2009/07/02(木) 08:28:28 ID:1t+2XVMv
政宗の正室愛姫の親父田村氏のお墓がどういう訳か白石にある。
客死したはずですよね?実際見てきたのですが、なんと片倉家のお墓の
後方にひっそり在りました。さらに正面には田村とありますが
後ろに真田って刻んであったので、真田信繋供養のダミーなんですかね?
803 :
人間七七四年:2009/07/04(土) 01:54:02 ID:hLkPEjpU
陣形について質問です
偃月の陣は
く の形で↑に行くんですか?
∧ の形で↑に行くんですか?
あと実際に使われたのでしょうか?
804 :
人間七七四年:2009/07/04(土) 03:12:07 ID:Hlz/7xI5
← くくくく 別名魚燐の陣
805 :
人間七七四年:2009/07/04(土) 03:17:32 ID:Hlz/7xI5
途中で送ってしまった
偃月の陣は ← へ
806 :
人間七七四年:2009/07/04(土) 16:29:05 ID:o8hcy2BA
摂津池田氏について。
池田長正の子で「池田知正」という人がいます。
この人について質問。
1・ウィキペディアでは「池田勝正」とは血縁でないように書いてあるのですが
手持ちの書籍には実の弟である、と書いてあります。
どちらが事実なのでしょうか?
2・諱についてなのですが、「知正」は初名で「重成」の方が正しい、ともあります。
たぶん「重成」は1570年に池田勝正が荒木村重らによって追放された後、
池田家当主として擁立され、後に村重の家臣化した際に名乗った名前かと推測するのですが
実際に名乗っていた期間は「知正」「重成」のどちらが長かったのでしょうか?
807 :
人間七七四年:2009/07/05(日) 00:14:33 ID:V3picbay
>>805 ありがとうございます。ではwikipediaの記述は間違っていますね。
後もうひとつ、陣形を構成するものについて質問させてください。
例えば、姉川の戦いは信長を最後尾に複数部隊が1列に並んでいますが
それらの部隊の各々が様々な陣形を組んでいたのか、
それともそれら部隊で1つの陣形だったのか、ということです。
808 :
人間七七四年:2009/07/05(日) 00:33:46 ID:Y0JQsDV8
史料に記述が無いだろうから判らないとしか言いようがないが
軍記物みたいに複雑な陣形はやってないとおもうよ
まともな合同軍事演習をしているわけでなし
大体どの合戦でも何段か前後に並べているだけ
809 :
人間七七四年:2009/07/05(日) 05:44:15 ID:z8MZvRqU
状況に応じて変化する陣形をやってたのは武田と上杉くらい。
あとの大名は縦に陣を並べるか、横に陣を並べるくらいのことをしたくらい。
810 :
人間七七四年:2009/07/05(日) 15:12:00 ID:WbC+wOWC
三方ヶ原で家康が鶴翼の陣をとったのは?
811 :
人間七七四年:2009/07/05(日) 22:01:21 ID:iGVASbiZ
>>809 それも怪しいもんだよ。
武田・上杉が、あたかも敵の腹を読むように陣形を自在に変えて・・・なんてのは
まったくの講談、あるいはファンタジーに近い。
江戸期に、両者の流れを汲む(と僭称する)軍学者が多かったがゆえに、実相を無視した
観念的で勝手な解釈が先行し、武田・上杉の行った戦はほとんど神話の域にまで
美化されてしまった、という事情による。
812 :
人間七七四年:2009/07/05(日) 23:57:00 ID:KahORMIO
ファンタジーは言いすぎだよ、上杉武田のみというのも変だけど
そんなの日本だけじゃなく世界でも当たり前の事だし
そんなことすら出来ず野戦で勝とうなんて逆に甘すぎる
ただ陣形の変化というのは複雑ではない
最近の話では昭和の学生運動の際 少数の警察部隊で多数の暴徒を
鎮圧する為に織田の佐々成政が書き残した陣立てを使ったところ見事にはまったとか・・・
練習もしてないのに打ち合わせだけできっちり動いてくれたと元警視庁関係者も語っている
あくまで陣形は自在だが動きは前後のみと単純に理解できる事が基本
これはアジアだけではなく古代欧州でも同じ
813 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 00:11:45 ID:2ezkT8oX
814 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 02:01:33 ID:Isw52/lt
>>812 その話は詳しく知らないけど、佐々成政なんて出てくる位だから
同姓で末裔称しててよくマスコミに出てくるオッサンが言ってるんでしょ?
村上水軍の戦法をヒントに日本海海戦で勝ったなんていうのと似たような話か。
実際ヒント位にはなったのかもしれないけれど、先祖顕彰の意味合いの方が強そうな話だw
そもそも成政が書いたというのも「高坂昌信が書いた」『甲陽軍鑑』と似たような話だったりして
815 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 02:30:07 ID:/r6p0Dzp
関係しているが生きてる佐々さんが語った本じゃないんだが・・・
まあ徳川と関係が深い佐々だから都内では受け入れられやすいのは確かだろうけども
専用博物館親切でそういった資料寄付公開の話もあったらしいが今はなくなったっぽい
相続税からむから個人の持ち物公開は限界あるよな
816 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 09:08:51 ID:ZvbW8pSw
学生側は一方、「雑兵物語」を参考にしている
つまり、常時訓練されているのなら江戸軍学は使えるが、素人の場合は使えないという事であろう
で、戦国時代は後者だから陣形の維持は効率的ではないかと
練度と士気の双方が高い武士も突撃が基本だし
817 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 09:12:07 ID:+BmNpolM
偽の虎徹もよく斬れたように、インチキの軍学も案外役立ったのかもね。
818 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 09:19:41 ID:fzrLVZ6J
武田側のよいしょは、家康が脱糞させたから戦国最強にしておかないと
江戸幕府の体面が保てないからでしょ?
819 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 09:30:50 ID:ZvbW8pSw
武田軍法は一応、かなり初期に体系化されていたかららしい
因みに備単位だと陣形は一列横隊を兵科毎に縦に並べた単純なもの
魚鱗とか鶴翼はそれより上の配置に影響される
820 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 09:36:22 ID:hidWMams
意味不明なところに名前がでてくる佐々に萌える
>>819 大江流兵法と言うんだよ
821 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 12:53:19 ID:P6PG8oJf
某小説ネタなんだが
家康が自分の隣人付き合いをお断りしたい、つまり領地を隣り合わせにしたくない相手として
真田昌幸と立花宗茂、それに田中吉政をあげていたんだが
前者二人はなんとなくわかるが、田兵を家康が敬遠するような理由って何か考えられますか?
822 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 18:50:11 ID:V1/B6qPf
三成への恩がありながら三成を捕らえた恩知らずだからか?
823 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 19:19:38 ID:f64YCn8L
その小説家がその三人を大好きか大嫌いかなんだろう。
824 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 20:16:03 ID:qKGKVG1E
南蛮人が来たときに、日本人は彼らの容姿について何か言っていたって記録ないですか?
オレ白人の顔大好きでかっこいいなーと思って見てしまうんだが、これが現代のTV映画のせいなのか、それとも普遍的なものなのか知りたくて。
825 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 20:43:21 ID:P6PG8oJf
説明不足でしたが、
家康が述懐したのは氏郷死後の蒲生家が会津から転封された時なので、
関ヶ原のエピソードを知っている筈はないんです
あとこの本(群雲、関ヶ原へ)の作者の岳宏一郎さんは話の本筋に関係ない贔屓をするかといえばかなり疑問です
とりあえず自分の中では
真田昌幸→徳川の天敵、忠勝の嫁をやったら文句を言われたことへの恨み
立花宗茂→朝鮮征伐で大活躍、地生えの武闘派大名、加藤や福島と違い家康の思い通りにならない、何より若い
田中吉政→宮部長煕をそそのかす、世話になった三成を家康に差し出す、岐阜城攻めの際の浅瀬詐欺(どれも未来のことですが)
→このようなことをするような人間性を家康は気にいらなかった
と考えていますがどうでしょうか?
あといまさらですが、この話は史実ではないですよね?
826 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 20:47:45 ID:f64YCn8L
史実なわけが無い
827 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 22:17:09 ID:92ptsmg7
とりあえずその小説を読まないことにはコメントのしようがないというか
828 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 23:16:38 ID:+BmNpolM
>>824 戦国時代に南蛮人については文書ではなく絵画史料を見たら、
当時の日本人が彼らをどうみていたかが推量できる。
幕末の絵画でも南蛮人は気持ち悪い顔をしている。
君がかっこいいと思うのは映画の効果で君の視点が既に欧米化しているだけ。
不細工なタレントもテレビで繰り返し見れば魅力的に見えてくるのと同じ。
詳しいことは心理学板で尋ねてはどうでしょう?
昭和の話で例を出すと黒澤明の『羅生門』をはじめて見た西洋人は
「世界一美しい民族は日本人だ」と驚愕したそうだ。
829 :
人間七七四年:2009/07/07(火) 02:17:00 ID:/D2CetlP
幕末の外人は侵略者として描かれてるからな
新聞の風刺マンガでサダムフセインや金正日が酷く描かれるのと同じ
当時の美意識がそのまま描かれていると鵜呑みにしてはいけない
830 :
人間七七四年:2009/07/07(火) 03:24:12 ID:FwZnTptV
>>829 そうだな。もっと悪い印象を持っていたと考えるべきだね。
831 :
人間七七四年:2009/07/07(火) 03:44:32 ID:/D2CetlP
832 :
人間七七四年:2009/07/07(火) 16:35:50 ID:1Fdoc6Ux
美濃守などの、〜守という官職なんですが、
名前からして複数人が就くものとは思えません。
例えば陸奥守だと、毛利元就や島津貴久などの
同時代の大名が貰ってるようですが、当時では形だけの
職ということもあり、複数に与えてもよかったのでしょうか?
また、当時正式なものではなく勝手に名のる武将も
居たみたいですが、この場合もどちらかが名のってた
だけですか?
833 :
人間七七四年:2009/07/07(火) 17:20:21 ID:FwZnTptV
>>832 官位には正式なものとは別に、「受領名」と言って、非公式に名乗ることだけ許す、と言うものがあります。
陸奥守は「従五位上」の官位ですが、島津貴久の生前の位階は、「従五位下」までなので、
これは「受領名」だと言っていいでしょう。
ちなみに元就の陸奥守正式なものです。
834 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 00:42:02 ID:bi036x09
そういや、有名武将で弾正を名乗る人ってけっこういるけど、基本的には弾正のなんなの?
弾正尹?弼?ちゅう?
松永さん、織田さん、高坂さん、あと原さんもだった気がする。
やっぱり人気官位とかあったのかしら?
835 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 00:52:15 ID:XmK4lGux
>>834 弾正忠(だんじょうのちゅう)
信長の家は代々弾正忠を名乗っていたので、弾正忠家と呼ばれた。
836 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 01:06:59 ID:e4T8YggB
>>833 ありがとうございました。
やはり何人も任命されるわけじゃないのですね。
毛利は献金した時に任命されたのは知っていましたが、
島津は鎌倉からの名門ですし、何名か陸奥守を名のってる当主も
居たみたいなのでこちらも正式なものと思ってました。
837 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 02:28:06 ID:/fExqlr0
正式なのは朝廷へお礼行ったり贈ったりしているからわかるでしょ
838 :
>>834:2009/07/08(水) 15:10:41 ID:39N90Djn
弾正台 と呼ばれる朝廷の官職があるんだが、この職業
法律を無視して犯罪を犯した者を糾弾するというのがお仕事で、
言ってみれば法と秩序の守護者みたいな職業だった。
弾正台に罪を告発されても拒絶できるのは左大臣だけ(太政大臣の一個下、
事実上の朝廷での最高官位)らしいので大変な箔がつく官職だった。
ただし、なぜか逮捕する権限がない(罪人を逮捕するのは刑部省)なので
早くから有名無実化が進んだ。けど、正義の味方というイメージだけが
武士の間に残り、武士に好かれる官職になった。
偉い順に弾正尹・弾正大弼・少弼、弾正大忠・少忠。
織田信長>>正義の味方です。悪・即・斬。
上杉謙信>>正義の味方です。オンベイシラマンダヤソワカ
松永久秀>>セイギの味方です。
信長・謙信>>m9っ;・`ω・´) 半分ダウト。
839 :
803:2009/07/08(水) 22:27:26 ID:poI2GYA/
貴重なご意見ありがとうございます。
確かに戦国時代の兵士の大半は農民なのですから
細やかな陣形はっとていないのかもしれませんね。
備は兵科ごとに一列にならべたものと聞いてふと思ったんですが、
光栄さんの信長の野望で、1兵科=1部隊 になってますが
あれは間違いのようですね。もっとリアルなSLGをやってみたいものです。
840 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 22:53:49 ID:Nb0CjdQ6
>>838 大膳も結構いるとおもうがこれは武士的になにがカコイイんだ?
本来は給食のおばちゃんじゃねえの?
841 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 23:33:57 ID:A+hTmudV
>>839 リアルにする=面白い
ではないのがゲームの難しいところ。
しかし、戦国無双なんかのような編成とかはある意味リアルな気がしないでもない。
842 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 23:39:59 ID:8zYLQO42
>>840 普通に戦場での兵糧担当か場内の食事管理してたんだろ
カコイイとかって問題じゃない
843 :
人間七七四年:2009/07/09(木) 00:43:30 ID:MyLptjk+
>>842 信玄が配給する兵糧なんかなにが入ってるかわからんな
844 :
人間七七四年:2009/07/09(木) 14:21:36 ID:tiBZBae/
>>843 信玄が自らの刀で具材を刻んだのが「ほうとう」
て言うのは山梨県のデッチアゲなw
845 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 06:00:20 ID:WVyJPouc
846 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 17:02:23 ID:O46+H/GR
>>845 真実を聞かれても誰も答えられるわけないだろ。
池田系図も直正(勝正の息子)と光重(知正の弟)に伝わるもので違うだろうし、
どっちが「真実」なんて子孫でも答えられないんじゃないか?
一応通説としては兄弟とされ、池田市立城山勤労者センターも兄弟説を採っている。
知正と重成にしてもいつからいつまで称したのかは判明していない。
重を村重の一字拝領と見なしているようだが、偏諱を通字とすることは原則としてない。
にも関わらず三九郎の弟重長も用いているため、元々重を通字とする血統だったと思われる。
wikiにしても統一されておらず、勝正・知正の項は兄弟説を異説としているが、
光重は兄弟説を踏襲している。
出典もないため、wikiの記述そのものをまず疑ってかかるのがいいぞ。
847 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 23:05:27 ID:WVyJPouc
まあ、歴史関係に関してはズバッとした正解が
ほとんど無いってのは知ってるんですが
何かとっかかりになる情報はないかと思いまして。
wikiは当てにならないし、池田氏の専門書とかも
なかなか見つからないもので。
>通説では・・・
貴重な参考意見ありがとうございました。
もうちょっと調べてみます。
848 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 22:05:06 ID:Z7+4twKN
>>847 確か「わが町いけだ」というおらが郷土なHPがあったと思う。
そこは池田氏についてかなりいろんな情報を載せていたと思うから(出典明記なはず)、
メールで質問してみてはどうかな?
849 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 02:34:42 ID:TSirCULJ
携帯からスマン。
源平合戦のスレってどこの板にあるのかな
850 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 02:46:57 ID:W4X9pr/Q
851 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 11:29:12 ID:rEK+/RNm
豊臣家臣の十人衆って具体的に何してる、どんな立場の人達だったの?
852 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 13:26:12 ID:/cPC+29Y
>>851 1595年8月3日の、秀吉の遺言、「御掟追加」第六条に記された、
訴状を受理する担当官だね
毛利吉成、富田知信、寺西正勝、堀田一継、佐々行政、
石田正澄、片桐貞隆、石川光元、山中長俊、木下延重
この十人。
だけど正直な所、これが機能していたとは思えない。ある種の名目職でしかなかったんじゃないかな?
853 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 15:15:41 ID:KWIKSQjn
雑兵物語の現代語訳を置いてあるサイトご存知の方おられますか?
以前どこかで見た覚えがあるのですが・・・
854 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 16:21:17 ID:QXprgOb2
原文でも存外読めるもんだぜ。
最初はとっつきにくいけど、漢和辞典と古語辞典を手元においておけばなんとかなる。
歴史を趣味以上にするならば、このくらい読めたほうが後々役に立つから頑張れ。
855 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 22:01:29 ID:og1lEEXk
隈部親永の最後について。
いろいろ調べたところ彼の最後について諸説あるようなので、
どれが信憑性高いのかな?というのを窺いたいです。
1・立花宗茂預かりとなり、柳川城で「切腹」
2・立花宗茂預かりとなり、武勇の誉れ高かった立花家臣の十時氏と「果し合い」という形で死んだ。
(切腹ではなく、戦いの末に死んだという形を宗茂がお情けで取らせたという説)
3・立花宗茂預かりとなったが、降伏した兵をまだ大勢保有したままだったので(なので子・親安は小倉に隔離されていた)
その影響力を恐れた立花勢に柳川城へ召喚された際の道中で「襲撃」され、親永一党は討たれた。
どれが信憑性高いでしょうか?
856 :
人間七七四年:2009/07/16(木) 00:10:35 ID:8TImvEnJ
2は流石にないんじゃないか?
いかにも創作って感じがする
死場を談合ぽく済ませられるのは武士としてかなりつらいな。
858 :
人間七七四年:2009/07/16(木) 19:41:41 ID:/WbJe9y7
>>855 どこで読んだかうろ覚えだけど2の処刑方は
処刑される側は一週間飯抜きとかの勝ち目なしな体調で
体調万全な者と決闘させるってたぐいの
結果がわかりきってるものだった気がする
859 :
人間七七四年:2009/07/16(木) 19:49:41 ID:ExR3sjDW
首を取られた時に食い物が噴出したりすると武士としては最悪の
無様な死に様とされていたので水だけで戦うこともあったのだよ
860 :
人間七七四年:2009/07/24(金) 20:49:53 ID:0VOCapLo
先祖について調べてるんだけど、三千石ってどれぐらいのランクなんだろう?
主君は伊賀伊勢の藤堂高虎で…。
861 :
860:2009/07/24(金) 21:34:41 ID:0VOCapLo
あと、跡目が千五百石しかつげなかったみたいなんだけど、理由はなんだろう?
862 :
人間七七四年:2009/07/24(金) 23:00:40 ID:a63cj0hz
>>860 千石以上なら上級の家臣
家老とか侍大将、城代は行くかと
減封の理由は様々、役高(役職に就く事によって知行がアップされる)が無くなったとか、
跡目相続の際に不手際があったとか(当主が急死して、事後相続とか)
政争に負けて、懲罰的な可能性もある
863 :
人間七七四年:2009/07/24(金) 23:05:46 ID:R7R3Gs/R
>>861 >>862以外にも単に兄弟に分知しただけとというケースとか
藤堂家であったかどうかは知らないけど集権化を進めるために一律に石高の召し上げがあったりとか
とりあえず藤堂家中でそれだけの石高があるのなら
「藤堂藩(津・久居)功臣年表 : 分限録」
「藤堂藩・諸士軍功録」
を見れば詳しくわかるんじゃないの?
864 :
人間七七四年:2009/07/24(金) 23:57:26 ID:0VOCapLo
>>862-863 おお、なかなか…。
総奉行?だったけど病没したみたいだから、多分役高かと。詳しい解答ありがとうございます!
865 :
人間七七四年:2009/07/25(土) 00:00:59 ID:E1q/1DDs
>>864 補足:現職+急死+養子だったみたいです。
866 :
人間七七四年:2009/07/25(土) 09:44:52 ID:0j5mKzY6
>>865 じゃあ、跡目相続の不手際だね。
当主が急死して、跡目が幼かったり、養嗣子だったりすると
それを理由に減封ってのはよくある
親の知行をほとんどそのまま相続するには
親がそれなりの功績があり、死ぬ前に跡目を立てて、子が元服してないと
867 :
人間七七四年:2009/07/25(土) 09:49:15 ID:nOF0DHD6
>>865 上杉米沢三十万石が
十五万石に減封されたのと
同じパターンですね
868 :
人間七七四年:2009/07/25(土) 23:34:48 ID:4PadFD6L
急死+養子だと減封も仕方ないな
つか家が存続しただけでもいいかもしれん
江戸時代中期以降藩の財政が悪化すると家臣の断絶による知行収公はよくあったし
869 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 11:27:11 ID:ChipUSkp
ところで景勝が越後から会津に転封になった元凶についてだけど・・・
家康の陰謀説があるけど本当?
870 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 13:38:54 ID:aAYlGSNX
講談からみた兼続ならないだろうけど、
いろんな逸話から見た兼続だとありそうだよなw
ま、義とかはともかく、上杉への忠節だけは本当だと思うからさすがにそれは無いかと。
871 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 14:26:49 ID:OwwJkGrj
家康の陰謀ってどの時点に付いて?
玉突き転封の元になった蒲生に付いてなら、蒲生秀行は家康の娘・振姫を
正室にしているほど関係が深いんだから、家康にとっては会津蒲生家が無事な事こそ
利益なんだが。
872 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 20:11:30 ID:Rs5em3uK
質問です
戦国末期には武田に仕えた真田兄弟とか徳川に仕えた大久保兄弟とか兄弟で武将として活躍している例が
ままあるとおもいますが、
この場合家督を継いでいない弟の方はどこから兵を率いてきているんでしょうか?
兄と半分ずつ?
一般論ではなかなか語れないと思いますが、この兄弟の場合はこうだ、とか
例をだしていただけると幸いです
873 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 21:15:59 ID:agjWPGp1
家督をついでいなくても自分の知行地は当然あるわけで
その分の兵役を担当したのでは?
詳しくは他の人がちゃんと調べてくれるだろうw
874 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 21:21:44 ID:Rs5em3uK
手柄を立てて新しい知行地を貰った後ならまあわかるんですが
最初に出仕するときは
その知行地は代々のものの一部を兄から分けて貰ったのか
いきなり大抜擢で手柄もなく新しい知行地を貰えることあるのかなとか
気になりまして
875 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 22:14:08 ID:OwwJkGrj
父が生きている間は父の寄騎として、兄が家督を継いだ場合は兄の寄騎として、
もしくは主君から、兄とは別に家を立てることを認められた場合はその当主として。
だいたいこういうことだな。
876 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 14:03:30 ID:VBDsPjdl
>>872 真田はわからんけど、大久保家は三河一向一揆の時点で、二百騎用意できるだけの
自家勢力があったから、家康からの寄騎はほとんど無かったと記憶。
一家で独自勢力できあがっちゃってるので、この家はイレギュラーな気もする。
877 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 10:33:01 ID:HfGlKHpn
関ヶ原以前の乱世で武装中立した国や勢力は有りますか?
878 :
人間七七四年:2009/07/30(木) 12:30:48 ID:VIQJFOj2
>>877 なにをもって「武装中立」とするのか、その定義がわからんが、
局外中立を決め込んだ勢力って意味ならいくらでもあるでしょ。
それこそ源平合戦の時の奥州藤原氏とか、戦国でも山崎の合戦〜賤ヶ岳までの
織田家内の騒乱における徳川や毛利とか。
879 :
人間七七四年:2009/07/31(金) 15:28:12 ID:Ee0Roj/v
前田利家って何がすごかったの?
家康は利家が死ぬまでは豊臣家に手を出せなかった。
蒲生氏郷とかは、秀吉亡き後に天下を担える逸材は利家だけといった。
ここまでの評価を得るほど、利家ってすごいことしたの?
880 :
人間七七四年:2009/07/31(金) 15:53:57 ID:o4kE+Iy0
>>879少し間違いがある
別に家康は利家が死ぬのを待っていたわけじゃない。
氏郷が次に天下を狙えると言ったのは息子利長の方だが
この二人は親友と言ってよい
利家の凄いところは恩人や主家も自身の出世の為なら平気で裏切ったりできるし
捕らえた兵を色々な趣向をもって殺す事の出来る残虐性
881 :
人間七七四年:2009/07/31(金) 15:57:32 ID:L1m3uXcY
>>879 > 家康は利家が死ぬまでは豊臣家に手を出せなかった。
家康が豊臣家に手を出せるようになったのは関ヶ原後です。
ぶっちゃけ利家の生死とはあまり関係ありません。
> 蒲生氏郷とかは、秀吉亡き後に天下を担える逸材は利家だけといった。
氏郷がこれを言ったのは、この利家の息子の前田利長のいる場であったので、
本音というよりも、息子の顔を立てたちょっとしたヨイショの可能性が高い。
利家が一定の影響力を持ったのは、丹羽やら堀やらの死で、いつの間にやら
旧織田系諸侯の長老の地位に上ったことが大きい。
氏郷の発言も、彼も旧織田系武将だったことを理解したうえで解釈したほうがいい。
つまり「秀吉死んだら織田系で天下仕切ろうぜ」って意味ですな。
882 :
人間七七四年:2009/08/01(土) 03:20:11 ID:lNptsus0
要するに自分の所属している派閥の長だって事か。
883 :
人間七七四年:2009/08/01(土) 09:59:44 ID:BlycDLOq
派閥ってのはそれだけ大きいというのもあるけどね。
利家が死んだ後、旧織田系は代わりに党首を張れる人材がいなくなった。
前田家の跡継ぎはは真っ先に徳川に服従するし。
884 :
人間七七四年:2009/08/01(土) 10:10:07 ID:g9fnneno
三成は当初は、家康に対抗するため前田を中心とした、秀吉とともに天下統一戦を戦ったという意味で
豊臣家にとって準譜代といってもいい旧織田系諸侯の力を期待していたが、前田が家康に屈服すると、
上杉、毛利といった外様諸侯にその重心を移した。
885 :
人間七七四年:2009/08/02(日) 01:20:09 ID:TIxB6gqP
>>883 本来蒲生か堀の役割なんだろうが、両者とも利家が没した段階で
存命でないからな。
886 :
人間七七四年:2009/08/02(日) 06:15:36 ID:wl0jaoAg
ここ10年で戦国時代の古文書が発見(もちろん本物)された件数ってどのくらいあったでしょうか?
887 :
人間七七四年:2009/08/02(日) 12:49:13 ID:VQv0E4Z5
出てきただけならそれこそ無数にあるでしょ。
888 :
人間七七四年:2009/08/02(日) 13:48:16 ID:KqW0+BGm
>>886 大学の史学研とかが発刊してる研究雑誌を定期購読しとけ。
研究者によって真偽が論議されてるものもあるんだから、
我々一般人にとって本物と判断できるかどうかなんて個人の考えによるしかないぞ。
889 :
人間七七四年:2009/08/03(月) 14:58:14 ID:Zue11bLh
大名と豪族、国人
のちがいをおしえてくだしあ
よく○○は大名じゃなくてただの国人だ〜
とかいっててよくわかりません。
え?ぐぐれks?
890 :
人間七七四年:2009/08/03(月) 15:40:37 ID:jabTt11T
それは実はけっこう難しい問題だ。
由良氏とか曖昧なやついるからなぁ。
891 :
人間七七四年:2009/08/03(月) 17:55:12 ID:i2U/oklG
国人に関して大雑把に言ってしまえば、数代以上に及ぶ在地の小勢力。
大名は守護大名と戦国大名、或いは織豊系大名で性格が違いすぎて一括りにはちょっと。
豪族は古代はともかくこのくらいの時代では形容以上の意味はない。
892 :
889:2009/08/03(月) 18:24:22 ID:Zue11bLh
893 :
人間七七四年:2009/08/03(月) 22:58:42 ID:NBcOcrWW
守護大名に関して言えば、「守護」という裁断権・徴税権その他の権利を認められた
幕府から与えられる役職を持つ家、というあたりかなあ。
認められる範囲は必ずしも一国に限らないが(例・近江)
これが戦国大名となると、そもそも戦国大名って何よ?定義からしていろいろとある
有様なので、なんとも。
武田や今川のように、守護大名からそのまま移行した例は簡単なんだが、たとえば
大内家は滅んだときは戦国大名に脱皮を果たしていたのか?とか。
国人から伸し上がって、守護職を得ないまま戦国大名扱いされている家もあるし。
ただこういった家も、力を失った守護家を保護することで、守護の権限を行使する
という形式で領国支配を行っている場合が多い。尾張織田家は斯波家を、美濃
斉藤家では土岐家、越後長尾家では上杉家を。近江浅井家も、北近江半国守護
京極家を保護することで、他の国人たちを支配する理由付けにしていた。
894 :
人間七七四年:2009/08/04(火) 11:55:54 ID:nFl0GhSY
正室と側室について質問します。
ねねのような大物は例外として、戦国時代では正室が世継ぎを産まず
側室が世継ぎを産んだ場合、側室が正室に格上げされるのが当時として普通だったのでしょうか?
895 :
人間七七四年:2009/08/04(火) 12:20:45 ID:Y8OCoR5h
正室が亡くなったりすれば別だが、基本側室が子を生んでも、正室がその子の母として
後見し、正室の地位は揺るがない。
ただ、何らかの理由で正室が夫から疎まれたり憎まれたりした場合は、その限りにあらず。
896 :
人間七七四年:2009/08/04(火) 13:08:20 ID:+JIMEWDt
大名の正室ってのは基本的に政略結婚であるわけで、
つまり実家(他大名家や公家)とのパイプ役も担う要職なので、
実子がいるかいないかに関わらずその地位は揺るがない。
また秀吉や光秀、利家、一豊のように出世した奴でも、
出世するまでの間ずっと支え続けた正妻は実家の影響力とは別に、
共同経営者としての地位は揺るがない。
どちらにせよ政治的に無視できる存在ではない。
ま、政略結婚の場合、実家が没落したとかは政治力は相当翳ってしまうけど。
897 :
人間七七四年:2009/08/04(火) 15:34:08 ID:Y8OCoR5h
つーか、死別以外で正妻の座を側室に奪われた例自体が、ほとんど存在しないだろ。
あの亀寿ですら、家久はありとあらゆる嫌がらせをしたけど、正妻の地位だけは最後まで
奪う事ができなかった。
898 :
人間七七四年:2009/08/04(火) 16:00:12 ID:u/acKBYS
日本においては、正室は正室として、側室は側室として「正式に嫁ぐ」ので、
正室が側室に格下げされたり、逆に側室が正室に格上げされるようなことはありません。
離縁なり死別なりで正室の座が空いたとしても、そこに座るのは新しく正室として
結婚した女性であって、側室が正室になることはない。
これは江戸時代までずっと変わりません。
ただ、側室だけど当主の生母として力を握る・振るうということはあるけど、
これは地位とは関係ない政治力学の話。
899 :
人間七七四年:2009/08/04(火) 20:22:53 ID:6l2w9DHV
大内義隆は子のいない正室・貞子と別れて
子を産んだ側室おさいの方を継室に格上げしてる
900 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 01:38:58 ID:kFXsQAV3
901 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 03:08:19 ID:sCAs2lIw
>>900 物事は一面からだけや、俗説を鵜呑みにしちゃ見えてこないんだぜ。
902 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 18:50:53 ID:0h9AGnkS
バテレンは生活費をどうやって稼いでいたのですか?
903 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 07:03:51 ID:afG0P3z6
>>902 秀吉のキリシタン禁制の頃には、キリシタン大名から寄付された教会領の上がりも
けっこう有ったようだが、基本的にはスペインやポルトガル商人の、貿易の利益からの分配が
主な収入。
904 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 20:43:32 ID:dTkyg2AZ
905 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 20:45:35 ID:wkDmx2eN
巣にもどれ
906 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 20:50:05 ID:dTkyg2AZ
ここで聞くべきではなかったようだな
すまん
907 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 22:08:32 ID:dF3T6Xnb
羽柴筑前守とかの官職名ってなにか意味でもあるんですか?
京(山城)にちかければ偉いんだぞ!みたいなかんじなんでしょうか?
908 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 01:40:03 ID:ssKh4b2w
>>907 一概には語れない。
羽柴の場合は、惟任日向守光秀や惟住長秀と並んで
信長が九州地方侵略の野心がその任官に作用したとの見方がある。
909 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 12:05:34 ID:9XpgdGWU
910 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 19:23:48 ID:r5ueY5WC
官位もらった回数の最多はやっぱり秀吉なんでしょうか
911 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 01:35:21 ID:S64ivuT4
戦国3国司と言えば
一条、北畠、姉小路ですが
他に下向土着化した公家はまったくいなかったんですか?
また真に小京都と呼ばれる価値がある公家が逃げてきた地は山口や一乗谷くらいでしょうか?
近江や豊後や駿河、越後、上野あたりもかなりの公家が逃げてきたんでしょうか?
912 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 08:36:30 ID:gG2Otv9R
黒田官兵衛は荒木村重に捕まって劣悪な環境ゆえに足が不自由になったそうですが、
Wikipediaやその他の文献だと「右足が不自由になった」、「左足が不自由になった」と食い違いがあります。
どっちが悪くなったんでしょうか。
あと、いくつかの歴史小説で有岡城以後の官兵衛が馬にまたがってる描写があったんですが、
片足が悪くなった状態で馬を操れるものなのでしょうか。
913 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 08:57:22 ID:u+H7oBi0
>>911 駿河にもそのまま住み着いた貴族がいたはず。
あと近江や奈良の近国には貴族の荘園が結構あったので、そこに下向していた連中もいた。
914 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 09:37:51 ID:1JSzZct1
>>912 乗馬スレで片足の不自由な障害者が乗馬をしていることはよく語られる。
充分可能。
謙信も片足が不自由なのに乗馬上手。
915 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 14:32:30 ID:VDJuB1Gw
戦国時代の大名の妻や妾等が日記を書く事などありましたか?
それかその当時に日記とかは残ってるのでしょうか?
916 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 16:56:56 ID:kj31QM/e
大名の妻や妾などの日記ではないが、宮中の女官の日誌として「御湯殿上日記」がある。
日記ではないが老女の語り(体験談)を文章化したものとして「おあむ物語」がある。
917 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 02:59:36 ID:DXmtGd93
信長の野望に土河基景ってのが政88戦100で登場すんだけど一体何者?
918 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 09:20:37 ID:6QmTGjuH
戦国時代の政略結婚で嫁いで来た女性が、実家へ手紙を送るといったような事は
よくやってたのでしょうか?
それとそのような手紙が現存してる例があるのでしょうか?
919 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 12:31:19 ID:ei+Zdz1r
>>917 その手のはまず歴ゲ板で聞いた方がいいよ
群雄伝あたりのなら、ランダムで創られた架空武将
920 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 13:12:27 ID:Ve0WGNdk
>>917 道灌の曾孫で太田祐資が結城氏庶流の土河氏に養子に入った。
出家して土河道寸と称し、その知略による三支一纏の謀で土河城を襲った北条綱成を3度にわたり撃退。
盲目となった最晩年には伊達成実6000を御輿で担がれながら指揮しわずか300で粉砕し、今鑑真と家康から呼ばれたエピソードがある。
鬼怒川畔の河戦において、着陣するやいきなり謙信の眼前で渡河する大胆さで勇名を馳せた。
名も丞資とも祐雪とも言う。
921 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 20:39:15 ID:5A9f4fll
今鑑真に吹いた
922 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 03:33:59 ID:bu677tJY
923 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 08:44:03 ID:/pFTULAP
釣られんなw
924 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 09:18:04 ID:6kTTmNuk
>>922 道寸の息子の祐頼は朝鮮では小早川隊では立花宗茂と明軍撃破で一緒だったし、
関ヶ原では黒田隊を一度は撃退してるんだよな。
大坂夏の陣では毛利勝永隊の横に布陣してたらしい。真田隊があそこまで突貫できたのは祐頼が三支一纏の軍法で敵正面で4倍の戦力差の圧力を跳ね返していたから。
しかし関ヶ原まで父の道寸が生きてたらなあ。
道寸と真田昌幸と立花道雪の爺軍団強すぎ。
コーエーは祐頼も早く登場させるべきだよな。
925 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 13:39:25 ID:5h09ERZ/
いい加減にしておけw
926 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 13:53:43 ID:imiEBevB
元ネタがわからん
927 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 16:07:35 ID:bu677tJY
なんだ釣りか。やはり架空の武将なのね。
928 :
人間七七四年:2009/08/12(水) 07:57:41 ID:oJP11ie7
929 :
人間七七四年:2009/08/12(水) 14:43:48 ID:OAD4o+5v
今鑑真がツボすぎるw
930 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 03:27:39 ID:kNt7kDCN
田村顕盛について。
三春田村氏の当主・田村清顕の叔父。
清顕の死後、清顕夫人と共に相馬義胤を支持し、伊達政宗を支持する田村月斎(顕頼)と対立。
結果、その内紛を突かれて田村氏は伊達氏の従属下に。
さて、この顕盛なのですが
田村氏が伊達氏に従属した後、どうなったのでしょうか?
一説によると政宗に抵抗して籠城したものの、降伏したともありますが・・・
没年等もわからないので、その後どうなったのかが気になります。
政宗の気性からして命を助けるとも思えないのですが
931 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 21:30:09 ID:POmnngFf
932 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 21:48:54 ID:8EUgV5rv
つーか政宗もああ見えてキチガイじゃないからな。
殺すときは計算づくの、冷徹な戦国武将。
933 :
人間七七四年:2009/08/14(金) 16:54:29 ID:IInyrhJO
934 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 15:56:43 ID:ta9IHs33
>>932 殺したくて伊達の大軍をいくら動員しても捕まえられないからね弱政宗は。
殺す宣言した大内には田村侵攻の妨害をされまくって土下座同然の条件で領地をあげるから味方になってって哀願したしね。
しかも大内は無礼にも政宗の約束なんて信じられねぇからお前が神仏に誓った自筆の証拠くれやって言ってるしなw
石川弾正も政宗が殺したくてしかたがなかったが、伊達相馬連合軍が上杉侵攻した月夜畑の戦いで地形を熟知してる石川弾正に補足され伊達軍壊滅してるし。
935 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 16:48:25 ID:ta9IHs33
政宗が一番殺したくて仕方がなかったのは秀吉の宇都宮から会津行きの時に秀吉に先導役と街道整備を命じられた伊達に反旗を翻して進路妨害して大里城で籠城した矢田野氏だろうね。
兄の義正が佐竹陣に駆け込むや弟が籠城開始。
政宗は小田原参陣していない口実で相馬攻めしようとしてたのまで中止して、
伊達全軍で毎日攻め立てたが、ついに落城せずに諦めて全国に恥を晒したからね。
おかげで小田原参陣してなかった政宗が憎くて仕方がなかった相馬も時間稼ぎのおかげで豊臣大名認定されて助かっちゃったし。
936 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 16:59:07 ID:hjUxRvFl
他所でやれ。
937 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 20:03:09 ID:j2yhg99v
合戦はどれくらいの時間がかかりますか?
合戦は草原で行われるものですか?
合戦が終わった後は放置ですか?
亡くなった人は弔ってもらえますか?
金目の物を取得する人はいますか?
938 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 20:51:39 ID:7pBrOn2K
支城や砦の戦争における役割ってなんでしょう?
各個撃破されてしまうようでは戦力の分散としか思えないんですが。
挟撃する為?でもそれなら1つ1つ潰されたら意味ないですよね?
939 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 22:59:02 ID:UnkIRpGz
>>938 支城にも色々あるけど、戦争時は防衛用ではなく活動拠点と思った方がいい
各個撃破されそうなら放棄して他の支城に移るか、本城(本隊)に合流します
役割は敵への牽制や妨害、見張りなど
940 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 23:08:40 ID:7pBrOn2K
>>939 ありがとうございました
放棄した砦は逆に利用されそうで怖いですね
941 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 23:18:33 ID:yGmRJvKz
最近どこかで城を包囲されてる守備側が
包囲側の後陣にいる寝返った武将を討つために城門を開いて打って出て
それを聞いた包囲側の前線にいる武将が
武士の情けとか言って感心しながら通してやる話をどこかで見た記憶があるんだけど
具体的にどこの戦いで誰の話だったのか思い出せずモヤモヤしてます
フィクションの話かもしれないけど
思い当たる人がいたらご教授いただけないでしょうか
942 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 23:41:38 ID:IjFDuPnb
>>937 状況によって異なる
田の中や川をはさんだり、湿地帯などはざらにある
勝った方が死体処理をします
首塚を築いて近くの坊主に供養を頼みます
雑兵や落ち武者狩りの近隣住民が主に行います
943 :
人間七七四年:2009/08/20(木) 04:56:02 ID:mJxvsAQw
戦闘の終わった戦場は宝の山みたいなもんだからなあ
944 :
人間七七四年:2009/08/20(木) 11:44:31 ID:wmHE739K
まあ大名のほうもそういう落ち武者狩りを容認して、変わりに戦場の清掃をさせたって面もある。
945 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 08:02:42 ID:kl90EcKC
質問です。
最近になって海音寺潮五郎の悪人列伝を読みはじめた程度の戦国にわかなのですが、
氏の宇喜多直家の頁に書いてある直家が浦上家に反旗を翻し、滅亡させた年が永禄四年とあったり(文春文庫 三巻 142〜144P)、
三村家親暗殺が永禄六年であり浦上家滅亡のあととしている(同152P)ところが
Wiki等に書かれている直家の略歴(前者は天正二年、後者は永禄九年)などと異なり戸惑っています。
これは氏の著作の中では宇喜多直家に限った食い違いなのか、それとも各武将など著作全体にも及ぶものなのでしょうか?
なにしろにわかのため、歴史的前後関係の前提知識がないので、氏の作品に触れる上で
戦国時代を理解するための知識の参考(別に資料にする訳ではなく話のタネとしてですが)にしてよいのか、
それとも『読物』として単に楽しむ程度に留めておいた方が良いのかわからず困っています。
本当ならば他の文献にも当たって同時代を多角的に見たりして年号等を検証することが理想なのですが、
なにしろにわかであり、年齢的に多量の本を読むことが出来ないので皆さんの知識をお貸しください。
946 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 08:16:25 ID:ObHl9u+t
>>945 悪人列伝は1961年の著作です。
海音寺氏に限らず、過去の作品、特に戦国氏研究があまり進展していない1980年代以前の作品では
現代の研究結果との齟齬が多く存在します。それが時代的な限界です。
まあ、悪人列伝が小説なので、資料的な価値を求めずあくまで「小説」として楽しむのが
一番良いと思いますよ。
947 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 09:36:50 ID:5ZYck9Bb
宇喜多に限らず、戦国武将に関わる事件には年未詳のものが多い。
当時の書状は日付を明記しているものの、年代まで書いてあるものは少なく、
そのため織田信秀の没年や越後黒田の乱などは年代が確定しておらず、
有名な事件なのに年代の比定が諸書によってバラバラな例は枚挙に暇がない。
948 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 10:13:01 ID:F8MsQNLW
東中国の史料が極めて少ないってのもあるしなー
949 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 11:21:38 ID:5YlIxPRn
信長死んだあと徳川が織田家の領地切り取りしていますが同盟はなくなってしまったのですか?
他の織田家臣団からフルボッコにされそうなきがするんですが・・・
950 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 11:32:58 ID:g/3JFsqI
甲州入りは正確に言えば、本能寺の後の甲州での蜂起により、織田家の代官
河尻秀隆が討ち取られる→家康は治安維持のため出兵、という流れ。
家康はあくまで、織田家の協力者として行動している。
また、この措置は清洲会議などでも特に問題にはなっていない。
(まあ夫だけにそれらの領土を維持する力がなくなったのだから、当然だが)
家康の行動は意図はどうあれ、当時の意識としてはほぼ合法的に行われている。
951 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 12:19:29 ID:0/GzjN3v
領地を治める力が無くなればそれを治める力のあるものが治めるのが戦国時代ってものだからな。
滝川を関東からたたき出した北条にしたって、
どさくさにまぎれて北信濃を切り取った上杉にしたって、
その件については織田-豊臣政権から何も言われておらず、むしろその状況を追認されているからね。
952 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 12:53:13 ID:vkY0FvcL
にわかの質問で恐縮ですが
浅井長政に関する読み物で何か面白いものはないでしょうか?
Wikiで調べて覇者の系譜と流星と言うのを見つけたんですが
前者はifもの、後者は永井路子ということで
できれば違うのを読んでみたいのですが…
953 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 14:32:02 ID:F8MsQNLW
>>950-951 合法とかってんじゃなくて、単純に抗議する余裕がないから仕方なく不問・追認にしたってだけ。
通常なら敵対行為で同盟決裂だけど、織田家の側に力がないから、力ずくの侵略が罷り通った。
954 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 14:38:01 ID:ObHl9u+t
織田も中央政府になってたわけじゃないし。切り取り上等のでかい戦国大名のひとつに過ぎない。
955 :
945:2009/08/21(金) 16:04:15 ID:kl90EcKC
皆さんお答えいただきありがとうございました。
>>946 戦国史の研究の進展とは思い至りませんでした。
1980年代以前と以降では研究成果等の資料土壌が異なるのですね。
氏の略歴を見ても武将列伝のスタートが1959年と、戦後から15年も経っていないことから、
戦火により散逸した資料の再収集等もままならなかったのやもしれませんね。
そんなことも考えつつ史伝文学の再興者たる氏の作品に触れてみたいと思います。
>>947 そうなんですか…
学生の頃に学んだ古文書解読も年月が明記されている江戸時代が中心だったので、戦乱期や識字率等の条件をついぞ忘れていました。
やはり歴史を紐解くことの難しさを感じますね。
>>948 それも初耳です。
そもそも自分が関東の出身なので中国地方についても詳しくないのですが、
やはり覇者たりえず江戸等の王都から外れた所の文献を探すのも難しいのでしょうね。
そういえば学者である友人も四国現地での民俗調査に苦労したと言っていた気がします。
956 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 17:19:50 ID:5ZYck9Bb
>>951 北条については清洲会議後、柴田が憤怒している書状がある
957 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 17:31:33 ID:0/GzjN3v
>>953 合法とは言ってないよ。
あなたが言うように、織田に力がないから追認せざるをえなかったって事。
>>956 個人で怒るのと、政権が動くのでは違うよ。
この件で、織田系の武将から北条が嫌われたのは確かだけど、それはそれ。
これを織田政権がこのあと公式に動いたわけでも、秀吉が小田原攻めの口実にしたわけでもない。
958 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 11:58:40 ID:9C2qyDck
下らない質問で申し訳ないんですが、
戦国時代に限らず日本には相当数の馬がいたと思われるのに、
移動手段に、馬車が用いられる事は、ほとんど無かったのはなぜでしょう。
平安時代に貴族の移動手段として、牛車というのはあったみたいですが。
959 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 12:39:05 ID:2gZGxQoE
大名子女の侍女はどのように選別されたのでしょうか。
有力家臣の妻などが当てられたと考えていいんでしょうか?
960 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 13:38:59 ID:ivhtttXh
>>958 道が悪いから。
ヨーロッパだとローマ時代に石畳の街道が脇道を含めて整備されている。
961 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 14:27:06 ID:3ENhtGBk
>>958 ほとんど
>>960の言うとおりだが、あと海と河川を利用した流通がかなり内陸まで発達していて、
馬車のような内陸用の輸送力に頼る必要があまりなかった。
962 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 14:34:45 ID:HrVmvzs/
>>959 基本的には家臣の中の信頼の置ける家の子女が侍女として仕える。
有力家臣の娘、ならともかく、「妻」が君主の正妻の侍女になる、ってのは殆どないんじゃないかな?
妻にはその家臣の家での役割がある。
正妻の侍女から有力家臣に嫁ぐ、というパターンは多そうだが。
963 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 16:38:02 ID:PwPjVxFV
>>958 ついでに言うと気候も関係している。
日本は温帯湿潤で雨量が多く、地震も多い上台風も多数来襲した。
また山地が多くため街道の道中では非常に狭い場所も珍しくなかった。
平野部では川が頻繁に氾濫し、川筋の変更による道の変更も少なくなかった。
このような気候・風土では道に石畳を敷いても数年で舗装しなおすことになる。
馬車が普及するには技術もさることながら、普及に適した環境でなければ難しい。
日本に住んでいるとわかりにくいが、日本ってかなり特殊な地域だぞ。
近代以前ならなおさらにね。
964 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 00:01:41 ID:9C2qyDck
>>960 >>961 >>963 的確なご回答有難うございました。
確かに、悪路を車輪で走るのは、些か乗り心地が悪いもの。
それにしても、中国では、チャリオットのような戦車が出現してる時代もあったようなので
日本に渡来する余地がなかったのか、とちょっとだけ不思議な気もします。
965 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 00:29:39 ID:fZnST0vR
日本に馬が到来したのが、大陸で戦車が消えて随分と経ってからだからなあ
966 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 03:30:09 ID:gC7rr66y
「戦車」と「馬車」ってのも、ずいぶん運用の違うものだしな。
967 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 10:34:23 ID:duEaOrdj
旅客機と戦闘機くらい違うからな
968 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 12:56:46 ID:a+gwqw8z
江戸時代の人が描いた未来予想図に
馬に大八車引かせて、それに何人も乗る
乗合馬車みたいなのが出来るってあったな
969 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 21:39:26 ID:XMZ49K+R
・本能寺の変前後から元和偃武頃の間に生存していた公家
・様々な大名と親交がある。大名以外の人物ともあればベター。
・家格が羽林家以上
・山科言継、菊亭晴季、近衛前久ではない
以上に当てはまる公家を探しています。
970 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 22:07:23 ID:fZnST0vR
ちょっと思いつかないなあ。
武家との接触が多いのは他には観修寺だけど、こちらは名家。
戦国期の武家伝奏は近衛家と日野家だけど、日野も名家。
971 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 23:59:29 ID:boa2MjAd
972 :
人間七七四年:2009/08/24(月) 00:12:56 ID:/M+6By59
二条昭実
973 :
人間七七四年:2009/08/28(金) 22:25:58 ID:GUfjDRqY
足利将軍家側の大名の上洛が持つ意味合いって何?
974 :
人間七七四年:2009/08/29(土) 01:25:18 ID:dRqFptAZ
>>973 室町時代の場合、大名は将軍に奉仕するため、都に常在するのが本来のあり方。
それが応仁の乱で崩れ、殆どの大名が在地に帰ってしまった。
そのため、応仁の乱以降の足利将軍家としては、大名の上洛は本来の幕府秩序の
復興を意味し、それはまた将軍権威を上昇させるわけだ。
当然そのほかにも、軍事的や経済的なメリットがあるが、基本的にはこんな感じ。
975 :
人間七七四年:2009/08/29(土) 06:49:56 ID:MWHBjipA
室町幕府初期は足利直轄領はあったの?
それがなかったから簡単に形骸化したのだと思うけど
976 :
人間七七四年:2009/08/29(土) 08:33:05 ID:fr4VqViR
直轄領とはちょっと違うけど、奉公衆っていう直属の親衛隊ならいた。
規模は数千っていうから規模としては大きい。
応仁の乱も存続して、戦後に義尚や義材が六角氏を逃亡に追い込むなど
幕府の権威を一時的とはいえ復古させる原動力になっている。
しかし明応の政変でこれが瓦解して室町幕府の政権基盤が崩壊した。
977 :
人間七七四年:2009/08/29(土) 09:46:53 ID:dRqFptAZ
>>975 直轄領はもちろんあった。本領もあるが、各地の寺社領も基本幕府が管理していたので、
実質的には足利家のものだった。
畿内は一部を除いて守護家がころころ変わるのだが、京のある山城は、基本的には
幕府直領だったと言っていい。
足利義尚による鈎の陣は、近江の直轄領化を目指していたとも言われる。
978 :
人間七七四年:2009/08/29(土) 13:15:05 ID:MWHBjipA
なるほどね
そうすると山城が幕府領でなくなるのは
応仁の乱以降ですかね
979 :
人間七七四年:2009/08/30(日) 00:46:32 ID:hdCJkxwf
>>976 それにしてもせいぜい20万石がいいところだろ?
有力大名とガチでタイマンしたら負けるかものレベル。
戦国時代と言うか、応仁の乱前は、権威っての言うプラスがあったからなぁ。
例えば、源氏宗家の所領は?と聞かれてすぐ出てくる?
足利、新田、武田や佐竹など、源氏と言う一族の所領は出てきても、意外と
直轄地の名前は出てこないよね。。
>>978 > 山城が幕府領でなくなるのは
> 応仁の乱以降ですかね
いや、応仁の乱以降は幕府政所執事の伊勢氏が山城守護を勤めたりして、むしろ幕府による山城支配は
強化される。
幕府による支配が弱体化(あくまで弱体化)するのはやはり、明応の政変以降、
騒乱のたびに徐々に、と言う感じ。
>>981 義昭が挙兵した末期ですら、京都の町衆を軍事動員できたようだしね。
奉公衆も明応の政変以降は骨抜きになって、山城や近江などの土豪(和田氏などが
いい例)が中心の編成に変質していくとのこと。
983 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 13:27:42 ID:lyx4gL6Q
義昭の場合は松永と三好三人衆に占領されてたのを
信長が奪い返して与えたからだろ
>>983 違う。足利将軍には色々な権限があるが、その中に京の町衆を動員する権限もあった。
>>984 その権限が、義昭以前には失われていたんじゃないかと言っているのでは?
義晴や義輝が細川や三好と敵対していたとき、京の町衆が動員されてましたっけ?