戦国ちょっといい話6

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話5
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1231498134/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話5
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1231113276/

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2|ω・`):2009/01/29(木) 02:56:11 ID:keH9zDxA
>>1
乙です
3人間七七四年:2009/01/29(木) 10:01:49 ID:kpgae7e1
大儀でございましたな、>>1殿
4人間七七四年:2009/01/29(木) 10:11:22 ID:Wg4WhbPK
元就「>>1乙じゃ」
隆元「>>1乙なり」
元春「>>1乙である」
隆景「>>1乙です」
輝元「>>1乙だお」

5人間七七四年:2009/01/29(木) 10:12:35 ID:L1AqXVMt
>>4
脈絡もなく出てくるから思わず笑ってしまった
6人間七七四年:2009/01/29(木) 11:54:03 ID:AiUUxZJI
>>5
ほとんどテンプレになってしまったなwww
おそらく悪い話6では例の四天王が(ry
7人間七七四年:2009/01/29(木) 13:58:19 ID:PRiJz33Z
>>1乙です〜!
8人間七七四年:2009/01/29(木) 21:36:53 ID:CMXWp/dB
>>1乙。
ところで鮭おにぎりこっちにはないのか?
9人間七七四年:2009/01/29(木) 21:43:31 ID:2phogxqO
鮭あふるる約束の地であるちょっといい話スレでは
望めば好きなだけ鮭おにぎりを手に入れられます
10人間七七四年:2009/01/29(木) 21:43:57 ID:osXfBhaz
          ∩___∩
            /  ノ   \  ヽ
            | ●    ● |   
          彡   (_●_)    ミ   >>8
           /、   |∪|    ,\   これで我慢しろ。
          /.|     ヽノ    | ヽ
       ,,/-―ー-、, --、   .|_,|
    r-、,'''";;:;;:;::;;;;:;;::;:;:;;::;:;`'- /_,l,,__ )
   |,,ノ;;:;r'" ̄ ゙̄^"`Y'-、;;;::;:;::;:;:;:;::;:|
    .ヽ,′       ;   `"";;;;;⌒゙')
     ´`゙'''''''''''‐-‐'"`‐-‐'"゛  `゙´
              |  .‖ /
            ("___|_`つ
11人間七七四年:2009/01/29(木) 21:52:43 ID:CMXWp/dB
>>10
トンクス!
鮭ウマー!
12姉妹スレも6が立ちますた:2009/01/29(木) 22:20:20 ID:r1cGgupl
戦国ちょっと悪い話6
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233221056/

>1-10に入れられたら良かったんだけどね、見落としてますた。。
13人間七七四年:2009/01/30(金) 09:22:25 ID:ffqXLDQI
まとめになかったので…
毛利隆元は天文6年に大内さんところに人質に出されました
すっかり大内さん色に染まった長男が実家に帰ってきたのが
天文9年のこと
人質に行く前はまだ小さかった弟たちもすっかり大きくなっていました
久々の実家なのになぜかよそよそしく疎遠な雰囲気に隆元は

パパへ
    〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( `Д´) < 弟たちにのけものにされるなんてヤダヤダ
       `ヽ_つ__つ
              ジタバタ
      _, ,_
     (`Д´ ∩ < 弟たちが懐かないなんてヤダヤダ
     ⊂   (
       ヽ∩ つ  ジタバタ
         〃〃

    〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( つД´) < 長男なのに、総領息子なのに
       `ヽ_ ノ ⊂ノ
              ジタバタ

     ⊂⌒(  _, ,_) < 本当は仲良くしたいのに……
       `ヽ_つ ⊂ノ
              ヒック...ヒック...

     ⊂⌒(  _, ,_) 
       `ヽ_つ ⊂ノ  zzz……

何事も隆元を別にのけられ候て、両人ばかりちこちこと候こと
さやうに候時は、何と此方よりなつなつと仕度候、成らず候事


と送っている

それに対して元就
以前申し候ひつる元春隆景にたいして候ての事、
此のままにて置かれ候へば然るべからず候

とお返事を出し、元春と隆景が隆元と仲良くするように
話をする機会を何度も設けようとしたとか

ちょっとかわいい隆元のお話

既出ならごめんね


14人間七七四年:2009/01/30(金) 09:30:29 ID:T5TcWlLs
でもあの時代の兄弟としちゃ結構うまくやってたほうだよね>毛利三兄弟
15人間七七四年:2009/01/30(金) 09:30:58 ID:Y5ltAS3J
>>13
いや、この逸話は単体ではまだ出てなかったはず。
しかし隆元、書状だけ見ると一生、このてのネガティブシンキングで生きているんだよなー。

でも実際には、陶との決戦を危ぶむ元就に、「ここで戦わないでどうするんだ!」って
決戦を迫ったり、大友との九州での戦いで将軍が和平に介入してきたら「毛利の得にならないのなら
何言われたってそんなもの無視するべき」なんて言ったり、えらい肝が据わってる。

えらく複雑な人物だった感じがする。
16人間七七四年:2009/01/30(金) 10:00:19 ID:lMxlU/aA
なんか、家のためなら恐ろしいほど肝の据わったいい男なのに
ひとたび自分のことになると常に自身の価値に疑問を抱きながら気を遣って生きている小物になるのな
難儀な性格だ

弟たちは弟たちで付き合いづらかったんじゃなかろうか
17人間七七四年:2009/01/30(金) 10:26:06 ID:QOYIg214
990 人間七七四年 2009/01/30(金) 08:01:33 ID:Y5ltAS3J
>>989
あの解釈は至極まともと言うか、「家康」の名前も「豊臣」と言う文字も、
豊臣家の側で「隠し題」として、意図的に入れたものだぞ。
しかも「家康」という「諱」を、家康に無許可で使っている。しかも対になる豊臣家のほうは姓なのに。

これははっきりと、豊臣家が家康を低く見ているという意思表示。
もはや限りなく、豊臣家の側からの家康への、徴発に等しい。

今だって、社会的地位のある立場の人が公の場で呼び捨てされたら、それは善意のものとは
絶対に受け取らないだろ?そして当時は「諱」に関しては、ぞんざいな扱いはタブーそのものといっていい。

あの事件でまともじゃないのは、豊臣家のほうだよ。

997 人間七七四年 sage New! 2009/01/30(金) 09:59:59 ID:sXzaTzWV
>>990
それこそ無茶な解釈だ。
豊臣があえて判っていてわざと入れたという根拠は?ソースは?

ソース
撰文者の清韓が幕府に提出した弁明書より「摂津実録」
この辺については笠谷氏の「戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣」参照し
以後、http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233143817/に議論の項を移して
終了と言う事で
18856:2009/01/30(金) 10:38:36 ID:vLSGTj+v
前スレ999へ
元春と隆景が幼い時、それぞれ4人ずつの仲間を率いて、雪合戦をしました。元就は、ひそかに物陰から見ていました。
子供たちは5人ずつ左右に別れ、戦います。
元春組ははまず、しきりに雪玉を投げ、打ちかかっていったので、隆景組は、負けてしまいました。
しばらくして隆景は、もう一度やろうと言って、再び戦いましたが、今度は、隆景組は、3人しか攻めて来ません。
元春組は、勢いに乗って5人で攻めかかり、隆景組は少しずつ後退していきます。
ところが、隆景は、あらかじめ2人を伏せて置いて、横合いから打ちかかりましたので、度は元春組の負けとなりました。
元就はこれを見て、「両方ともが勝ったのだ、これ以上の戦いは無用だ」と言ったといいます。
元就は、「この子たちが成人したら、嫡子の隆元を旗本として、元春・隆景を先鋒としよう。
聞くところによると、北国は、人気はあまりなく、ただ屈強であることのみをよしとして計略は少なく、
南国は、人や船の行き来が多く、うまく立ち回ることも必要だ。
雪合戦のことを考えると、北国は元春、南国は隆景に任せるのがよいだろう
19人間七七四年:2009/01/30(金) 10:40:23 ID:vLSGTj+v
しかしながらこれは結果論らしい
◆◇◆幻の戦国大名 出雲尼子氏(其ノ五)◆◇◆
70 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2007/08/11(土) 20:06:13 ID:hrWafg3T
>>67
結果論。
元々、吉川氏が芸北、小早川氏が備南を本拠とする豪族だから、
版図を拡大させるに当たって、地勢上山陰方面を元春、山陽方面を隆景が担当するのが自然。
猛将が多いとされる山陰だが、武田高信や南条・小鴨兄弟、山名四天王らは皆謀略大好きっ子だw
20人間七七四年:2009/01/30(金) 10:43:00 ID:vLSGTj+v
さらに雪合戦ネタ

高齢になってからのこと、 ある年の冬、雪が降っているのを見て、毛利元就は
「雪だ、雪が降った。とても心地よい。わしは年老いて歩くのにも不自由だから、せめて座敷で雪合戦をしよう。急いでゆきをとってこい。」
といった。近臣の者は、さては殿が耄碌したかと思ったが、従わないわけにも行かず、
大きな容器に雪を盛ってくると、毛利元就自ら雪をとって、玩び、若い侍たちに「雪合戦せよ。」といった。
彼は雪合戦をすることによって、若い者に、寒さを身になれさせ、体を丈夫にすることを教えたかったらしい。
これこそ、この毛利元就の考えていた健康法で、戦国時代生まれにして、75歳の長寿をまっとうできたのも、このためであろう。
21人間七七四年:2009/01/30(金) 10:44:49 ID:Y5ltAS3J
山陰なんてほんと山の合間合間にちょっぴり平地があるところばかりだから、
謀略と言うか、調略無しで攻略するなんてとても無理だからねw
22人間七七四年:2009/01/30(金) 10:45:12 ID:W/WYX2wI
つか雪合戦の話は島津兄弟の逸話のパクり?
23人間七七四年:2009/01/30(金) 10:48:16 ID:Y5ltAS3J
毛利3兄弟の方が生まれは先ですがな。
24人間七七四年:2009/01/30(金) 10:59:08 ID:1WG9Enm1
>>22
その島津の話教えて
25人間七七四年:2009/01/30(金) 11:06:43 ID:W/WYX2wI
いや以前、
島津義久のPHP小説に
年老いた島津日新斎を訪ねた孫の島津兄弟が雪合戦するシーンがあって、
まんまソックリな話があったもんで聞いてみた。
末っ子負けず嫌い家久が隆景ポジションだったような…
単に毛利兄弟ネタを作者が流用しただけかも知れんので…
26人間七七四年:2009/01/30(金) 11:29:00 ID:EML0uLfA
>>16
なんかマルクス・アウレリウスを連想させる人だな、隆元は。
27人間七七四年:2009/01/30(金) 11:35:48 ID:1WG9Enm1
>>25
ああ、小説か
28人間七七四年:2009/01/30(金) 11:42:33 ID:VbwQ5yrx
日頃と違っていざ合戦はじまると隆景の方が元春より前へ前へ行っちゃうという話もあるから
あの兄弟皆一筋縄でいかないとこあんのかも
29人間七七四年:2009/01/30(金) 11:53:55 ID:WNPffDGg
島津兄弟にも雪合戦の話は確かに伝わってるよ
でも毛利兄弟ほど詳細な話じゃなかったと思うし
貴 久 パ パ が 全 く 出 て こ な い w
(元就のポジションにいざってるのは日新斎爺)
30人間七七四年:2009/01/30(金) 12:39:08 ID:XWEm/V8B
薩摩って、灰は降っても雪は降らないんじゃ……?
31人間七七四年:2009/01/30(金) 12:40:16 ID:Y5ltAS3J
>>30
戦国期は小氷河期だから、沖縄にも雪が積もったらしいぞ。
32人間七七四年:2009/01/30(金) 13:05:43 ID:qzOY+os9
北国はマジで豪雪地帯w
日本海側は特に涙目
33人間七七四年:2009/01/30(金) 13:09:47 ID:yilZgL/1
島津は雪じゃなくて臓物(ry
34人間七七四年:2009/01/30(金) 13:10:27 ID:kW5qY7Tn
佐々さん賛美の流れですね。
35人間七七四年:2009/01/30(金) 13:37:35 ID:WNPffDGg
>>30
暖冬の今でも年に1回程度だが積もるよ。
このまま温暖化が進めば後30年程度で雪はおろか暑さのために桜も咲かなくなると予想されてはいるが。

>>32
鬼柴田さん登場の流れですね_

>>34
さあ、ここで誰か日本初の厳冬のアルプス登山を書いてk(ry
あ!アレは悪い話か・・・orz
36人間七七四年:2009/01/30(金) 13:57:11 ID:BdQsR4+d
>17
右撲射源朝臣ってちゃんと(源氏長者)家康のことも書いてあったと思うが……

ま、こっちゃ検証スレでないし漏れも全文見て理解できなかったから解説者の意見に引きずられてるかもしんね。
37人間七七四年:2009/01/30(金) 14:12:28 ID:AmOkKgir
>>36 だから、ここでやんなって言ってんだろうが、お前の解釈なんぞどうでもいいんだよ
38人間七七四年:2009/01/30(金) 14:19:15 ID:ffqXLDQI
元就「み、皆仲良く…」
39人間七七四年:2009/01/30(金) 14:27:21 ID:AmOkKgir
>>38 流れ的にくどかったもので、つい筆が走ってしまい申し訳ございません。
ちょっと浴室の華厳の滝に打たれて来ます・・・
40人間七七四年:2009/01/30(金) 16:55:42 ID:KVF1Laj9
確か雪合戦の起源は謙信の親父だったような。

上条の乱で長尾為景軍と上条定憲軍(うろ覚えなので違う名前かも)が戦い
ついに両軍刀も折れ矢も打ち尽くしてもなお戦いを止めず
雪の固まりを投げ付けあったのが雪合戦の始まりだとか。

越後なら死ぬほど雪はあるわな。
41人間七七四年:2009/01/30(金) 16:58:21 ID:A6/NZnGz
本当に雪の合戦だったのか
42人間七七四年:2009/01/30(金) 17:07:23 ID:Ww7mfOne
ではきれいな話を
某ゲヒヒ漫画に出てたらごめん

千利休と秀吉の朝顔問答は有名だが、他にも花に関するやりとりがある
早春で、まだ花が少ない季節のこと
秀吉はなんとか利休を困らせてみたくなった
そこで、床の間にどでかい鉢をしつらえ、水をそそぎ、紅梅を一枝だけ添えた
「おい利休、これで花をしつらえてみい」
どう活けても不恰好になるのが見えているお題だ
秀吉の近習達も「これ無茶すぎww」とニヤニヤして見ている
利休は「では…」と紅梅をとると、逆さに持って鉢の中をかき回した
鉢の水には、梅の花やつぼみがぱっと浮かび、爽やかな香りが匂いたってくる
この見事さには秀吉も
「こやつめハハハ」(こまらぬやつじゃ)と上機嫌となったいう
43人間七七四年:2009/01/30(金) 17:20:54 ID:fmelAKnF
>13-16難儀な性格ではあったんだろうが、それでも尼子攻めの頃に大友から防長を守りきってるし
厳島合戦の経緯は>15に限らず、えらくオットコマエだったりするんよね。

現場でも風雨の中、オラオラ言って船に乗り込んで、真っ先に厳島の決戦場へ向かったとか。


たぶん偉大すぎる親父殿へのコンプレックスで自己卑下が激しい、ギャップもちの性格に成っちゃったんだろうけど
武将としての勇猛さと山口の大内文化で雅びたところもギャップなんだよなあ。なんていうか、面白い
44人間七七四年:2009/01/30(金) 19:45:19 ID:rIFT9jy1
隆元が当主時代の毛利は国人連合的な体質を色濃く残したままで急成長したから
いろいろ苦労も多かっただろうし弟や妹もいろいろ注文が多くてそっちにも気苦労が耐えなかった
りして親やなんかには愚痴りたくなったりするんじゃないのかなあ
45人間七七四年:2009/01/30(金) 20:50:21 ID:uLVUDnxG
>44
大内の内藤さんトコから隆元に輿入れした尾崎局なんか、めっさ貴重な同志だったかもね。

…テる元は、ちとやんちゃに育ってしまったが
46人間七七四年:2009/01/30(金) 21:41:48 ID:+T20rLri
むしろ爺さんや叔父のスパルタ教育を受けてよく真っ直ぐに育ったと感心する。
親父みたいに自分を無闇に卑下する性格にならなくてよかった。
47人間七七四年:2009/01/30(金) 22:22:19 ID:W/WYX2wI
輝元は父と違い
難しい時代に生まれたけど
よくやったよな。
祖父や父と違い
愚痴る相手もいなくなったし。
48人間七七四年:2009/01/30(金) 22:35:59 ID:BDekAYaA
相手がいないから家臣の妻を略奪したんだろ
49人間七七四年:2009/01/30(金) 22:36:26 ID:nNCv4U1Q
はいはい
50人間七七四年:2009/01/30(金) 22:52:37 ID:C+qOQxgg
輝元、関が原以降に返り咲いた立花宗茂から、江戸城で顔合わせても
ずっとシカとされてた。
カゲデ卑怯者の声が・・・
51人間七七四年:2009/01/30(金) 23:01:24 ID:Y5ltAS3J
>>50
そんな逸話あったっけ?
52人間七七四年:2009/01/30(金) 23:04:00 ID:AKR1feAS
ソースがなくても信じてしまうのは日頃のTERUの行いが悪いからなのである。
53人間七七四年:2009/01/30(金) 23:08:13 ID:FhQGK4bL
真田昌幸の長女に村松殿(小山田茂誠室)と言う人がいる
一回目の大阪の陣が終わって束の間の平和の中にあった信繁(幸村)は
信濃へ向かう小山田家への使者に姉宛てに手紙を渡す

「お伝えしたいことがあったのでお手紙を送りました、一筆申し上げます。
 
 さてさてこの度、思わぬことで合戦となり、私たち親子共々大阪城に入ることになりました
 
 おかしなことと思われたことでしょうが、とりあえず大事もなく私たちも生きております

 ぜひお会いしたいところですが、明日はどうなるか分からないものです。とりあえず
 
 今は何事もございません。之知君(茂誠の息子)とは度々顔を合わせますが、なにより

 こちらが忙しいのでゆっくり話すこともできませんでした。こちらは変わったこともありませんので

 ご安心ください。詳しく書きたいのですが、何よりも使者の奴が急いでおりますので

 あわてて書きました。またお手紙出したいと思っています。」

なおこの手紙の返事と一緒に村松殿は信繁を気遣い、鮭を二匹送ったりしています。
また信之にも慕われていたようで松代に移封した際に届いた手紙の返事に

「こちらから連絡をしようと思っていたところをお手紙いただき、誠に失礼しました。
 
 松代を拝領し、あたふたしながら移転してきた次第です。

 とてもいいところなので安心してください。またお会いしたいです。」

というものが残っています。
このように弟たちに非常に慕われ、敬愛されていたようです。
ヤマもオチも無いですがこんなやさしいお姉さまの話
54人間七七四年:2009/01/30(金) 23:12:44 ID:BDekAYaA
上杉謙信が毘沙門天を信仰してたのは武神として信仰してたのではなく
財宝神としてであり拝金主義者であったとか言ってもだれも信用しないだろうしな
日ごろの行いって大事ね
55人間七七四年:2009/01/30(金) 23:14:53 ID:AKR1feAS
>なおこの手紙の返事と一緒に村松殿は信繁を気遣い、鮭を二匹送ったりしています。

また鮭ですか・・・。
56人間七七四年:2009/01/30(金) 23:17:38 ID:Y5ltAS3J
嫌いな大名の悪口を言いたいだけならよそでやってほしいものだ。
57人間七七四年:2009/01/30(金) 23:19:15 ID:C+qOQxgg
51>

今でも地元、福岡、柳川では人気のある立花宗茂、
くせのない朴訥、正直、誠実な性格は地元でも語り草。

が、関ヶ原の時の毛利輝元だけは許せなかった、と。
絶対に口をきかなかったそうである。何かの本、小説で読みました。

それと奥州から柳川藩復帰時に、前任者田中家ゆかりの者は一切雇用しなかった。
田中吉政と石田三成がらみの因縁があったとか。
吉政自身のの菩提寺は丁重に扱ってますが。
58人間七七四年:2009/01/30(金) 23:30:32 ID:Y5ltAS3J
>>55
当時、なんか知らんが大阪城では鮭が大量に余ってたらしいから、
送られて信繁も困っちゃったかもねw


>>57
流石にそれは小説の創作の類だと思うよ。
59人間七七四年:2009/01/30(金) 23:53:59 ID:C+qOQxgg
>58
今手元にその本ないから、探してみます。

60人間七七四年:2009/01/31(土) 00:01:27 ID:7FnduXH6
     ⊂ニニ⊃
     ∩___∩        
    | ノ\     ヽ    >>58    
    /  ●゛  ● |    大坂城には鮭が大量にあるクマか・・・   
   | ∪  ( _●_) ミ     ゴクリ・・・ 
   彡、    |∪|   |       
γ⌒⌒/     ∩ノ ⊃  ヽ⌒⌒ヽ
(_ノノノ (  \ / _ノ |  | ししし_)
. \ “  /__|  |
    \ /___ /                
61人間七七四年:2009/01/31(土) 00:01:53 ID:7FnduXH6
ズレタorz
62人間七七四年:2009/01/31(土) 00:06:14 ID:RdePFh2m
∩___∩
            /  ノ   \  ヽ
            | ●    ● |   
          彡   (_●_)    ミ   >>61
           /、   |∪|    ,\   これで我慢して成仏しろ。
          /.|     ヽノ    | ヽ
       ,,/-―ー-、, --、   .|_,|
    r-、,'''";;:;;:;::;;;;:;;::;:;:;;::;:;`'- /_,l,,__ )
   |,,ノ;;:;r'" ̄ ゙̄^"`Y'-、;;;::;:;::;:;:;:;::;:|
    .ヽ,′       ;   `"";;;;;⌒゙')
     ´`゙'''''''''''‐-‐'"`‐-‐'"゛  `゙´
              |  .‖ /
            ("___|_`つ
63人間七七四年:2009/01/31(土) 01:21:13 ID:oY9JT+h0
>>57
それって小説で読んだこと事がある
たしか童門の書いたやつだと思うけど
なんかそのエピソードは宗茂が卑怯者は
許さない男だと印象づけたいから創作したのだと思うけど
正直器の小さい男にしか見えなかった
終わったことを未だにうらみに思ってるのは宗茂らしくないし
評価をあげるどころか下げてるとしか見えん
64人間七七四年:2009/01/31(土) 01:41:09 ID:DFBBJwJK
天文15年(1546)4月夜、武蔵国河越。
河越城を包囲した両上杉軍は、ここまで弱腰の北条を侮り、酒宴を開く者までいた。
北条氏康はそのスキを見逃さず、これに夜襲をかけた。 世に言う『河越夜戦』である。

不意を突かれ浮き足立ち、我れ先に逃げる両上杉軍に比べ、白い紙羽織で軍装をそろえ、
合言葉を使い万全を期して戦う北条軍に乱れはなく、勝負は一方的な展開になった。

いや、上杉の侍にも全く動ぜず、踏みとどまって戦わんとする者がいた。
体躯人に優れたその男は、九つの提灯を竹竿に掛け、あかあかと灯すと名乗った。

「我は本間近江守!真の闇を照らす者なり!闇に隠れて動く卑怯者め、恐れぬのなら
この灯りの下に出て闘えい!!」

北条軍から、一人の若武者がこれに答えた。

二人は全ての灯火が消え果てるまで打ち合ったが、ついに勝負の着く時が来た。

「クッ、このわしが若造相手に不覚を取るとは!見事だ、北条の若侍よ、名を名乗れ!」
「・・・大道寺孫九郎・・・・・・」
「『御由緒家』の大道寺か!道理で・・・大道寺殿よ、頼みがある。」
「・・・言ってみよ。」

「この九つの提灯な。わしはもうこの通りじゃ、使うことが出来ん。せめてお主が持って行き、
『本間ほどの者を討ち取った』と標にして、よく氏康殿に仕えて伝えてくれい。」

「・・・承知いたした。」
「よし、もう思い残すことは無い。・・・・・・やれい!!」
「・・・・・・御免!!」

本間の首を挙げた孫九郎は、のちに名を大道寺政繁と改め、さらに武名を轟かせた。

本間との約束により造られたその馬印、『九つ提灯』は関八州に知られ、北条家では
彼の武勇にあやからんと、勇士は旗指物に提灯を指すようになったという。
65人間七七四年:2009/01/31(土) 01:44:58 ID:cLj65MRj
伊達政宗の家臣といえば・・・

片倉景綱・伊達成実・鬼庭綱元の伊達三傑や

白石宗実・後藤信康・原田宗時の勇将3人なんかが有名だけど

伊達家中の中に彼らに劣らない勇将がいた。


山岡(志摩)重長

彼は戦国時代に国際結婚した人物である。



文禄元年(1592)、豊臣秀吉による大陸遠征「文禄の役」

伊達政宗は他の武将を救援のため梁山、蔚山(うるさん)、金海、晋州まで転戦していた。
伊達軍野営の中、黒武者が一騎で切り込んできた。
伊達の猛将、山岡重長(当時、小成田総右衛門)が騎馬武者を組み伏し兜をはずすと
色白の頬に血を上らせた若き美しい女性であった為困惑してしまった。

この女性、名をチューマといい釜山浦の部族の皇女だった。

伊達軍は高麗姫(チューマ姫)を丁重に扱った事により現地より
糧食の差し入れで将兵を喜ばせ交流を深めた。
又伊達軍は逃げ遅れた童子を保護し育て、宮城県北部の開拓に功した。
チューマ姫をはじめ高麗の主従は政宗に従い奥州に移り住んだ。
66人間七七四年:2009/01/31(土) 01:46:37 ID:cLj65MRj
65つづき

重長は最愛の妻を亡くしてから妻を迎えず、奉行(家老)として外交など公務多忙の日々を送る。
慶長六年(1601)仙台に青葉城が完成した折、チューマ姫との再会を果たした。
この時、チューマ姫は20代中頃、重長は白髪が目立つ五十路

周りからは「チューマを妻に迎えてはどうか?」と勧められることがあったが
重長は自身の年齢に加え、亡き妻への想いもあり妻を新たに迎えることは考えていなかった。

重長のことを心配していた政宗・愛姫夫婦から
「チューマはそちを慕っておる。残りの人生面倒を見てもらうのもよいのではないか?」
と再婚を勧められる。

新築間もない仙台城大広間にて政宗・愛姫夫婦自ら媒酌を努め、
伊達家の重々一門をはじめ重臣達が喜びの縁を祝した。
後に重長夫婦は政宗の四男宗泰の傳役として岩出山城代となる。

重長・チューマの夫婦仲は睦まじく、
政宗のみならず徳川家康からも事あるごとに賛美され「白鷺の陣羽織」を下賜された。

二人の間に子供は無かったが、重長は愛妻チューマの入れてくれる茶をすするを楽しむ日々。
朝夕、杖をついて寄り添って領内を廻る姿は家士や領民達の間で評判になっていた。
これを伝え聞いた政宗は「夫婦とはかくありたいものよ・・・・」側近につぶやいたと言う。
67人間七七四年:2009/01/31(土) 01:48:28 ID:cLj65MRj
65つづき

時は経ち・・・

寛永3(1626)年
長年の奉公に対して政宗から謝意を表され
「下戸のそこもとでも飲めるであろう・・・チューマと一緒に飲むがよい」と
南蛮渡来のワインを渡された。これが重長・政宗主従今生の別れと成った・・・


愛妻チューマとワインを交す重長の顔は幸福で満面の笑みであった。
下戸でもある重長は珍しく深酒をし縁先で寝姿のまま・・・
生真面目で武骨な人生を終焉していた。
チューマは身動きしない夫を不審に思い、事を知り嗚咽が漏れた。


その最愛成る夫・重長が全てのしがらみから解き離れたのを知り、
綺麗に着飾り、自らの意思で夫の後を付き添った・・・
夫・重長の側に綺麗に着飾ったチューマ姫が横たわっていたと伝えられている。

元高麗の皇女チューマ姫は日本に付き従ってきた高麗人の心の支えとなり、
高麗人達は仙台藩の興業の発展、領地の開発に尽力した。


チューマ姫は遠く離れた異国の地に唯一頼れるのは優しさに満ちた夫・重長だけであった。
又、山岡重長も異国の女性のストレートな感情に憂いを感じていたかもしれない。


後世の句に
「現(うつ)し世の まことのちぎりは 
 天(あま)の郷(くに)の 夢のまた丘に咲く」

翻訳
(何時の世においても、お互いを信頼、助けあって生き抜いた男女は
 天国へ行っても仲慎ましく皆に幸せと分かち合う)  


山岡重長・・・
一夫多妻が当然の様に行われていた戦国時代。
戦乱を生き抜いた武骨で実直な男は側室を娶らず、
終生二人(前妻とチューマ)の女性のみを愛し続けた男

天国で重長は前妻・チューマ姫と仲睦まじく談笑していることだろう・・・
68人間七七四年:2009/01/31(土) 03:48:40 ID:GxA8QN5d
いい話だ(つД`)

なのに「死因は政宗のワインか」と思ってしまってぶち壊しにorz
69人間七七四年:2009/01/31(土) 04:01:20 ID:Xm6HlQsu
>>68
政宗が毒殺したみたいに見えるよなww

重長の前妻は名前残ってないの?
70人間七七四年:2009/01/31(土) 04:44:35 ID:K3uU2JHc
ちょっと前に張られてたあの画像を思い出したw
71人間七七四年:2009/01/31(土) 07:38:03 ID:rAsKaV9E
よりによって童門小説をソースに叩かれる輝元可哀想です
輝元なんて小説では特に叩き台になりやすい人物なんだから、
そいつを許せないとしたところで>>63の言う通り宗茂の男振りを下げるだけだ

>>68
つくづくタイミングが悪い男だww
72人間七七四年:2009/01/31(土) 09:14:41 ID:nH94JIwv
>>48
ウソ書くなよ。家臣の妻を奪う悪逆非道な真似はしねーよ
73人間七七四年:2009/01/31(土) 09:21:16 ID:J7iLpkXJ
またボクが話題になってるおw 

        ____
        / _ノ  ヽ_ \   
     /。(⌒) (⌒)o\
   / :::⌒(__人__) ⌒::: \  \関ヶ原の時の毛利輝元だけは許せなかった、と。/
    |     ヽr┬-ノ      |    ____________     <流石にそれは小説の創作の類だと思うよ。
   \    `ー'′    ,/ ._i~~| | |             |
__/          \  |__| | |             |   <よりによって童門小説をソースに叩かれる輝元可哀想です
| | /   ,              \n||  | |             | 
| | /   /         r.  ( こ) | |             | <ウソ書くなよ。家臣の妻を奪う悪逆非道な真似はしねーよ
| | | ⌒ ーnnn        |\ (⊆ソ .|_|___________|
 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二  _|_|__|_


74人間七七四年:2009/01/31(土) 11:20:50 ID:40yFsSUj
スレの流れを変えるには食い物ネタに限るな
ラスボスとふぐの話をとあるサイトよりコピペ

豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際に
下関から海を渡っていった、しかし兵士が下関で獲れた
ふぐを内蔵ごと食べまくったせいで集団による食中毒死者を
大量に出してしまいました。
烈火の如く怒った秀吉により出されたのが「河豚食用禁止令」であり、
日本最初のふぐ食用取り締まり令だと言われている。
江戸期になるとあちこちの藩で禁令が出されるようになり、黒田藩や長州藩では河豚を食べ中毒死した場合はお家断絶と、
武士にとって最高の厳罰が設けられた。
しかし「河豚は食いたし命は惜しし」、「真に一死に値する」といわれる河豚の味。
江戸時代の俳人・一茶や芭蕉も河豚をよんだ句がいくつかあり、そのうまさに魅かれて、さかんに河豚を食べている。
禁令をくぐって広く食用され、落語のネタや浮世絵の画材にされるなど愛されていた。
明治になってからも「河豚を食う物は拘留科料に処する」という禁令があった。


75人間七七四年:2009/01/31(土) 11:22:14 ID:40yFsSUj
明治21、22年の頃、すでに伯爵になっていた伊藤博文が
下関の料亭「春帆桜」(明治28年日清講和条約の舞台)を訪問した際に、
あいにくその日はしけで魚がない、女将がその旨を申し上げると
「俺はよいが馬関(下関)に来て、魚がないとは…。」とやんわりと皮肉った。
女傑として名高い女将が、それではと意を決して禁令の河豚を出したところ、
「一身よく百味も相をととのえ」と絶賛し、「調理法さえ間違えなければこんなに美味い
ものを禁じるのは勿体ないことだ。」早速、時の山口県令・原保太郎に命じ、
「違警罪即決例」のふぐの条項を削除させるように働きかけたのが「ふぐ解禁令」である。
全国で最初にふぐ食が解禁されたのが山口県であったということも、
下関でふぐが盛んになっていった要因の一つであると言えよう。
しかし河豚食が解禁されたのは山口県だけで、合法的に全国で河豚を食すには、戦後を待たねばならなかった。
(東京都は、明治25年、兵庫県は大正7年、大阪府は昭和16年に解禁)河豚といえば山口といわれるようになったのは、
このような事情からと推察される。
76人間七七四年:2009/01/31(土) 11:31:18 ID:l1Bj6vp6
>53
信之兄ちゃんは嫁さんがハッスル小松様だしなあ・・

ふつうの奥さんやってる姉者がうらやましげfnげふt
77人間七七四年:2009/01/31(土) 11:32:57 ID:l1Bj6vp6
>>64
おおー提灯本間だー かっけぇなあ・・・
78人間七七四年:2009/01/31(土) 11:44:35 ID:ZgYQGYq9
>54
面白い逸話を書くならいざしらず、その文章ではな
79人間七七四年:2009/01/31(土) 12:15:00 ID:Q9dgTaYP
>>74
河豚食を史上初めて禁止した者、それを解禁した者。
どちらも出が良くないが才能を見せることによって上位者に引き上げられ、後には国のトップまで登りつめた者同士なんだな。
80人間七七四年:2009/01/31(土) 12:57:39 ID:DeIWjM8U
>>65-67
うちの娘が韓国人留学生と結婚したいと言い出したんだが…許してやろうかな、うっ
81人間七七四年:2009/01/31(土) 12:59:01 ID:Q+e6Lbx7
>>79
しかもどっちも女好きw
82人間七七四年:2009/01/31(土) 13:14:10 ID:aPJJfey5
63、71、73>
すまんすまん、本箱の隅からメッケテキタ。御博識恐れ入る。
確かに竜門冬二が著者。
ただし、著者は漏れのような乱暴な記載はしていなかった。

「立花宗茂が、『江戸城中でもあいつだけには会いたくない』と
考えていたのが毛利輝元である。ところが関ヶ原の敗戦直後輝元
は隠居し、秀就に家督を譲っていた。(中略)
したがって、宗茂が毛利輝元に対して『肝腎な時に出馬しなかった卑怯者だ』
と宿意を抱いたとしても、会う機会は全くなかったのである。」
と、作家のあくまで主観、想像として区別できるように記述してある。
もっときちんと読んどくべきだった。
著者のためにも、謝っとく。
田中家との絡みも、遺恨ではなく財政上雇い入れできなかった、とある。
また、久々の柳川に戻ってみたら田中吉政の街の整備が驚くほど見事であり、感心した、との
旨の記載もあった。
83人間七七四年:2009/01/31(土) 13:41:10 ID:O3zD6zj0
堀江卓の漫画でしか輝元のこと知らなかったんで、このスレに来るまでは輝元には良い印象を抱いてたよ。
84人間七七四年:2009/01/31(土) 13:44:41 ID:RdePFh2m
>>82
スマンけどアンカーは正しく使ってくれ…
数字>ではアンカーとして機能しないのよ。
次からはできれば>>数字と入力頼むよ。
85人間七七四年:2009/01/31(土) 13:56:48 ID:Yl/9I1D8
>>83
いい悪いスレはいろいろとブッ壊してくれる
特に鬼武蔵は人物像が覆されたし、隆元兄ちゃんは想像している人物像に完全な補強が出来た
86人間七七四年:2009/01/31(土) 13:56:58 ID:l1Bj6vp6
>84 あと数字は半角のがいいね>>82
87人間七七四年:2009/01/31(土) 14:59:47 ID:BdJ1MtSj
三河武士はどんな逸話でもやっぱりめんどくさいあたりぶれねーなw
88人間七七四年:2009/01/31(土) 16:51:41 ID:VwaV0Vua
>>64
なるほど、
これが後に三好孫九郎から山下民部へと連なっていくのか・・・。
坂東武者はめんどくさいけどカッコいい。
89人間七七四年:2009/01/31(土) 17:45:01 ID:5Hyn5l+g
そろそろ議論は余所でやってくれ
90人間七七四年:2009/01/31(土) 17:56:15 ID:pBbCQK/6
利休ネタばっかりで悪いが…

とある田舎者の侘数寄が、千利休に金1両(=良銭1貫文)を送り届けて依頼をした
「茶道具ならなんでもいいんで、買って送ってください」
この田舎者、利休が選んだなら、きっと素晴らしいものに違いない、という考えだったらしい
侘というものをまったく理解しない無粋者だった
利休は1両を使ってたっぷりと白布を買い、それを送った
「侘というものは、茶巾さえ清潔であれば楽しめます。どうぞよいお茶を」
91人間七七四年:2009/01/31(土) 18:01:48 ID:TWgXU7a5
でかい鉢の件といい利休ってとんちが利くよな
さすが高僧になれるだけある
92人間七七四年:2009/01/31(土) 18:21:25 ID:IoC9IFvQ
>>91
利休って在家だから、正確には僧ではない様な。
93人間七七四年:2009/01/31(土) 18:42:03 ID:+mMhfbz9
>>87
テンプレ

内藤信成(一説に家康の異母弟)が怪我をしていたので、浜松城の留守居をしていた
ある日出陣した徳川勢、二俣城を攻めたりして帰る頃にはトップリ夜も暮れてしまった

しかし面倒くさい三河武士の信成は敵と怪しみ開門しない
そこで敵味方に有名な本多忠勝が出てきて
「ワシじゃ、門を開けい」
しかし信成は面倒くさい三河(ry昨今、流行りの振りこめ詐欺を警戒し(嘘)、鉄砲を向ける有様(これは本当)

自身も面倒くさい(ryの忠勝も、相手が同じ面倒(ryでは流石に困ったのか家康に相談
ついに出てきた(後の)将軍様、門の前まで出て
「余の顔、見(ry」

信成は悪役人ではないのでチャンバラにはならないが、やっぱり面(ry松明でしっかり家康の顔を確認し、
ようやく門を開けたのであった

この後の家康の言葉
「信成に城を任せておけば、安心だな」
…家康の忍耐は人質生活でなく(ryによって培ったのかもしれない
94人間七七四年:2009/01/31(土) 18:54:03 ID:D3V+kteZ
>>75
一方少し送れて昭和後期、下関に立ち寄られた時の天皇(昭和天皇)は
万が一を警戒した近習によって河豚を食べさせてもらえなかった。

しょんぼりと膳(河豚抜き)のものをつつく天皇陛下をよそに、同行の
政治家や役人は河豚の美味をかみ締めていた。

陛下、そんな一同を見渡して曰く。

「河豚には、毒があるのだぞ…」

滅多に我侭を言わず、美食家ではあられたが食事への不満を言わぬ事
で有名であった陛下ですら負け惜しみを言ってしまうほどに世の人を
魅了した魅惑の食材なのでした。
95人間七七四年:2009/01/31(土) 19:03:27 ID:IoC9IFvQ
フグは江戸期でも良く食べられていたらしい。ただ、江戸前のフグは、
品川フグと呼ばれていたんだけど、これが形は大きいんだけど味が悪くて、
江戸では下魚として、あまり人気はなかったそうな。
96人間七七四年:2009/01/31(土) 19:51:42 ID:WK5DDm31
かつて薩摩では「飲む・打つ・買う」に加えて「河豚食って当たって痺れる」まで経験して初めて一人前だったとか
半端ないな薩摩隼人
97人間七七四年:2009/01/31(土) 20:38:16 ID:aSouydsy
河豚禁止は理解できるな。先日も河豚中毒で7人亡くなってるし、
現代でもこんなんだから、あの時代では情報不足で相当な人数が無くなってそう。
98人間七七四年:2009/01/31(土) 20:41:08 ID:7DCT0BHO
戦国はずれるけど、ここ鮭好きが多いし、大河の舞台越後の話なので

〜越後村上鮭物語〜
http://murakamisake.com/sake/story.html

江戸後期、越後村上藩に秋鮭の不漁が続いた。生態系の概念のなかった時代、
長年鮭のことを観察し続けてきた藩士青砥武平次。鮭が、川で生まれ海で育ち
またその川に産卵のために戻る「回帰性」を見抜き、獲れるだけ獲る乱獲の
禁止を藩主に進言。更に三面川の湧水を探し、川底が砂砂利の産卵環境を
作るという驚くべき提案をした。産卵環境の保全という画期的な概念、産卵用の
人口分流を掘削するという前例のない大構想。藩の命運をかけた、30年に及ぶ
大事業となった。
(BGMヘッドライトテールライト)
数年後、鮭漁は復活、北国の厳しい食料不足を救った。その後も鮭は藩によって
保護され、明治以降も村上市民により大切に受け継がれています。

日本において天候が厳しい冬期に、内水面で安全に捕獲できる最大の魚が鮭。
冷凍冷蔵設備がない時代、日干し、塩漬け、乳酸発酵、あらゆる保存技術を伝承し
産地から大消費地に輸送可能となった。
頭から内蔵、骨、エラに至るあらゆる部位を利用し尽くす百種類を越えるレシピ、
鮭の食文化が生まれました。
99人間七七四年:2009/01/31(土) 20:41:11 ID:moZIJKND
この前山形で無免許でフグさばいて人が死んだってニュースがあったな
今の時代でさえこうなんだから、昔は戦々恐々だったろうな
100人間七七四年:2009/01/31(土) 20:47:12 ID:uvyYVAag
>>98
一仕事終わって腹減らして帰宅途中の俺の前に何というレスを…
101人間七七四年:2009/01/31(土) 20:56:11 ID:pBbCQK/6
北方鮭文化の南限が越後村上あたりなんじゃなかったかな
先人が守り、蓄積してきた食文化は偉大だね
102人間七七四年:2009/01/31(土) 21:05:24 ID:2BkgI8gs
森忠政、津山城をごまかす・悪い話 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-859.html
の後日談。


幕府の役人を上手いこと騙したのはいいものの五層の天守を四層目の天井をぶち壊して無理やり四層にしたため、
四層目だけやけに縦長の不細工な作りになってしまった津山城。

忠政「うーん・・・どうしたもんかねぇ、これ。」

そんなある日、津山にあるものが届く。

『津山城完成おめでとう!図面は役に立ったかな?新築祝いとして長崎から仕入れた南蛮製の珍しい鐘を送らせていただきます。 by細川忠興』
(森忠政と細川忠興、小倉城図面事件・いい話http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-395.htmlも参照)

忠政「流石、親友。気が利くぜ!」

早速、やけにだだっ広い天守の四層目に鐘をぶら下げてみる忠政。これがまたなかなか収まりがいい。

忠政「これは最初から鐘をぶら下げる為に四層目を広くしたのですよ(棒)。」

こう言ったがどうかは定かでは無いが九曜巴の入ったこの鐘は明治の廃藩まで天守閣の最上階に吊るされおり(現在は無い)
また、長年屋内で保存されていたので保存状態もかねがね良好で現在も南蛮文化館でその姿を拝む事が出来る。


何ともタイミングのいい話
103人間七七四年:2009/01/31(土) 21:12:03 ID:6O7op2Xw
基本タイミングいい人が三斎で基本タイミング悪い人が梵天かなぁ
104人間七七四年:2009/01/31(土) 21:15:47 ID:RdePFh2m
>>102
後日談があったのかwしかも図面事件とも連動してるとはww
105人間七七四年:2009/01/31(土) 21:17:06 ID:Rl384/XB
>>98
ごくり…

>>99
山形県民はおとなしく鮭を食っていればいいのにな。
106人間七七四年:2009/01/31(土) 21:21:50 ID:INnpDWLY
>>80
それはやめた方がいい。
107人間七七四年:2009/01/31(土) 21:22:16 ID:7NkrayrZ
>>105
その言い方は誤解を招くぞ
108人間七七四年:2009/01/31(土) 21:23:32 ID:05xGLkaS
>>98
うわ、知らなかったが滅っ茶偉人やん>青砥武平次
しかし長年鮭の事を観察していたって・・・多分変わり者だと思われてたんだろうな
109人間七七四年:2009/01/31(土) 21:23:53 ID:Rl384/XB
>>107
スマン…ただ、東日本はふぐにはちょっと免疫なさすぎるね。
西日本はてっちりなしじゃ冬はこせない! ってかんじだけども。
気をつけて楽しい食文化を味わって欲しいものです。

芋煮もうまいけどw
110人間七七四年:2009/01/31(土) 22:13:23 ID:l1Bj6vp6
>98
新巻鮭って美味しいよねー しょっぱいけど、茶漬けとか握り飯、なんにでも応用利いてさ
あのすげえカロリーとタンパク質は無茶苦茶貴重だったのも理解できる

とはいえさすがに一週間も食い続けると飽きてくるが、鮭様や真田信繁には怒られてしまうな
111人間七七四年:2009/01/31(土) 22:31:07 ID:oAu8GGxH
>>110
一昨年初めから去年の夏までほぼ毎日鮭を食ってた俺に謝れ!!

去年秋から現在まではほとんど焼きそばだけどな。
俺、偏食家なんだよなー。
112人間七七四年:2009/01/31(土) 23:12:02 ID:77U++6Ei
>>111

 (;`●ω・)  。・゚・⌒)  不楽是如何!!
 /   o━ヽニニフ))
 しー-J
113人間七七四年:2009/01/31(土) 23:21:55 ID:XHpCGm3r
>>93
すごい文が読みにくいよ
そんな面倒臭い事するお前は三河武士かそうなんだろ
114人間七七四年:2009/01/31(土) 23:23:58 ID:+mMhfbz9
>>113
親は江戸、私は三河の岡崎出身の
逆輸入で候
115人間七七四年:2009/01/31(土) 23:42:43 ID:AEudRIKo
>>94
こういう言い方は不謹慎かもしれんが
陛下かわいいなw
116人間七七四年:2009/02/01(日) 00:05:40 ID:MUtiDSPd
>>102-104
(和)鐘なのに、つい


〜ジャーン、ジャーンジャーン!!

「げえー、百段!?」


 という中華風の鐘の音を想像してまうわ
117人間七七四年:2009/02/01(日) 01:18:11 ID:IwDaqUV9
家康の家臣で槍の名人である蜂屋半之丞なる男がいた
半之丞は三河一向一揆に参加して徳川軍と戦っていたのだが
ふと視界に家康が入ったところ半之丞は逃げ出した

敵「おい、なんで逃げんだよ!」

半之丞「うるせぇ!殿と戦うわけにはいかないだろうが!
     お前だったら問題ねぇよ!」

再び戦いだした半之丞、しかしまた家康が視界に入ると逃げだした

敵「おい、な(ry」

*ちょっと間違ってるかもしんない
118人間七七四年:2009/02/01(日) 02:10:05 ID:RIvzjvE9
>>115
こういう言い方はry
棺おけに両足突っ込み始めてたんだからふぐぐらい食わせてやれよw
119人間七七四年:2009/02/01(日) 02:24:34 ID:6JuHVBsA
>>67
若い身空で夫に準じた伊達家チューマ
一方、薩摩チューマは殿が死のうが嫁が死のうが生き続けた関ヶ原サバイバー
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-158.html

「そもそもせっつがはらともうすは、、、、、せっつがはらともうすは。。。(´Д⊂゜・ウワァ--ン」
120人間七七四年:2009/02/01(日) 03:21:38 ID:V7IIPtta
>>117
えんがちょ家康
121人間七七四年:2009/02/01(日) 04:03:33 ID:0nMLTMAD

柳生宗矩が屋敷の道場で剣術の稽古に励んでいると、托鉢に出ていた沢庵和尚が屋敷の門前を通りかかった

しばらく稽古の音を聞いていた沢庵和尚が一言

「この程度で御師範とは・・・(○′з`,);ププッ」

それを聞き咎めた宗矩、和尚を強引に屋敷に引き入れ今の言葉を撤回し詫びを入れるよう要求したが
「思った事を言ったまでの事、何故詫びる必要があるのか」と言い放ち平然としている
これにぶちギレた宗矩、和尚に立ち合いを要求
さすがにこれにはびびって詫びるだろうと思ったが和尚あっさり了承
和尚に木刀を渡そうとしたが「そんなもんいらん」と言われ無刀の和尚と立ち合う事に

しかし

宗矩、丸腰でつっ立っている和尚に全く打ち込むことができない。

油汗をたらし必死になっている宗矩とは裏腹に和尚はあくまで涼しい顔だ。

ついに宗矩は木刀をしたに起き降参、その場で沢庵の弟子となったそうな。
122人間七七四年:2009/02/01(日) 05:36:16 ID:w/4FvC3O
音だけでわかるのか・・・
というかいい話?
123人間七七四年:2009/02/01(日) 09:36:26 ID:0iAghrK2
>>98
この鮭の話ってなにげにメチャメチャ凄い話なんじゃねぇか・・?
124人間七七四年:2009/02/01(日) 09:46:43 ID:GBCzcqgE
>108
>123
青砥武平次、槍働きの功名はなくとも(平和な時代だったし)大勢の人を救った

北盾大学さん話みたいなね・・
125人間七七四年:2009/02/01(日) 09:55:13 ID:gOCZtkxX
>>118
棺桶に(rだからこそだろ
河豚と関係なくとも食った後で何かあったら店潰れるくらいじゃすまんぞ
126人間七七四年:2009/02/01(日) 10:00:02 ID:x0Y2Qijl
食べたくても食べられない人がいる横で平気でパクパク食べちゃうのはそもそもどうなのと言う感じだな
127人間七七四年:2009/02/01(日) 10:38:00 ID:Jvh/zw4P
7人の侍

太田道灌の家臣7人が罪を犯して逃走し、ある屋敷に立て籠った。

追っ手がその屋敷を囲んだが、7人の侍の戦意はきわめて高く、現場は膠着状態と
なった。

しばらくして現場にやって来た道灌は、屋敷に向かってこう言った。
「そなたたち7名の罪は絶対に許せないと思ったが、よくよく考えると1人だけ助
けたい者がいる。
今からその1人を迎えに行くから待っておれ!」

その道灌の言葉を聞いた7人の侍は、
(殿様に助けられるのは俺じゃね?)
(あいつはニヤニヤしているが、道灌の回し者か?)
(こいつの首取れば、殿様は許してくれるかも?)
と互いに顔を見合せ、たちまちに疑心暗鬼に陥った。

頃合いと見た道灌は、
「突入せよ!」
と追っ手を屋敷に突入させ、ギシアンのまま戦意を失ったの7人をたちまちに討ち
取った。

『こういう絶体絶命の状態でも、ひょっとして助かるかもと思うのが人間の心だ
』という古歌を活用した作戦であった。
128人間七七四年:2009/02/01(日) 10:44:46 ID:qiPNkYHo
囚人のパラドックスみたいなもんか
129人間七七四年:2009/02/01(日) 10:48:12 ID:NNxwvMM8
>>127
屋敷に立て籠もった七人の侍がギシギシアンアンとな!?
130人間七七四年:2009/02/01(日) 10:58:20 ID:Jvh/zw4P
ギシアン=疑心暗鬼。すまん
131人間七七四年:2009/02/01(日) 12:10:08 ID:yUd29gyl
ギシアンとか略語おかしいだろw
132人間七七四年:2009/02/01(日) 12:17:27 ID:Bhx2ULuj
>>127ちゃんは(わざとギシギシアンアンと紛らわしくしたのを)隠してるけど、わかるわ
133人間七七四年:2009/02/01(日) 12:47:21 ID:rbDWONKk
>>117
なんかの本で三河物語に「うち(大久保一族)が城で持ちこたえてる間に
殿が走ってきてそれを見たら一揆勢(元家臣)が殿さんキタ━━(゚∀゚;)━━━!!
と一時撤退する、その繰り返しだった」みたいなこと書いてあるって読んだ
やっぱ自分が直接やるのはいやだったのかな
134人間七七四年:2009/02/01(日) 13:33:11 ID:MUtiDSPd
>>133
陶晴賢の大寧寺噺もアレだったしな。
旧主に直接、弓引くのは躊躇うものらしい
(信仰から一揆に同心すんのと謀反の違いもあるだろうが)
135人間七七四年:2009/02/01(日) 13:36:32 ID:MUtiDSPd
>>132
七人の(褌と、所々兜アリ)侍がギシアンか…

後年、太田道灌も湯殿で襲われて誅されたんだっけな……
136人間七七四年:2009/02/01(日) 13:53:19 ID:R7mFvXav
当方滅亡ってことは俺が山内上杉家支えてんだって意識があったのかねぇ
137人間七七四年:2009/02/01(日) 14:25:32 ID:Xsbt0oel
>>136
扇谷

それに道灌のおかげで急成長したのは間違いないしね。
138127:2009/02/01(日) 14:29:29 ID:Jvh/zw4P
もうギシアン忘れてよw
ついでに道灌の逸話をもう一つ

反抗期

太田道灌が幼いころはこまっしゃくれたガキで、父の太田道真に屁理屈をこねて
反抗していた。

道真「貴様って奴は本当に素直でないな。屏風みたいに真っ直ぐな性格になれんのかね。」
道灌「お言葉を返すようですが、屏風はまっすぐだと倒れます。曲がってないとまともに立ちませんよ。」

道真「貴様って奴は本当に傲慢なやつだな。『驕れる者は久しからず』っていうではないか。料簡を改めろ。」
道灌「お言葉を返すようですが、私も場合は『驕らざる者久しからず』ですよ父上。」

139人間七七四年:2009/02/01(日) 14:34:42 ID:Xsbt0oel
将軍の所のサルをこっそり虐待したりw
なんかの本にあったが、大田道灌と言う人は、傲慢を教養でどうにか制御していたタイプだとか。
140人間七七四年:2009/02/01(日) 14:36:39 ID:bN09dZxI
政宗「猿を虐めるなんて可哀想じゃないか!」
141人間七七四年:2009/02/01(日) 14:38:07 ID:fJU47UVu
なんかどっかのラスボスの近くにもそんな人間いたな
142人間七七四年:2009/02/01(日) 16:06:13 ID:IwDaqUV9
>>138
道真の顔が赤くなっていく様が目に浮かぶな
143人間七七四年:2009/02/01(日) 16:40:29 ID:MUtiDSPd
>>138-139
一休さんとか直江山城ご幼少のみぎり…かと w
144人間七七四年:2009/02/01(日) 17:59:22 ID:DH08/yRQ
>>138
ここから教養を積んで矯正していくのが道灌
このまま才覚だけ伸ばしたのが三成
と考えてよろしいか
145人間七七四年:2009/02/01(日) 18:16:33 ID:PDwOkXOF
>>140
政宗の猿折檻逸話は道灌のパクりだよん
146人間七七四年:2009/02/01(日) 18:28:55 ID:L1TtvaO6
>>144
矯正なんかしてない。こういういけ好かない性格のまま
成長したから定正に嫌われて粛清されたんだろう。
道真も内心ざまあみろと思っていたんじゃないかな。
147人間七七四年:2009/02/01(日) 18:30:55 ID:/YjJ6Xst
前スレ>>994

畠山義続「ツルツル桃マムマム…」
148人間七七四年:2009/02/01(日) 19:19:44 ID:Zt8iPNlz
戦国時代にもやっぱりいたのか
おれみたいなの
149人間七七四年:2009/02/01(日) 20:03:15 ID:/c50wawY
HENTAIは文化
150人間七七四年:2009/02/01(日) 20:37:56 ID:CAJokcUR
織田の信州侵攻軍の逸話が鬼武蔵一色なんで他の人の話

信長が本能寺で横死した
鬼武蔵は人質を楯になんとか本拠地に帰還、河尻秀隆は土豪に討たれた
滝川一益は…北条の動きを押さえる為に残留した
この際、一益は信濃の諸将を集めて正直に信長の死を伝え北条・上杉へ付く者は留めぬと宣言した
大半の者はこの一益の誠意ある対応に感激し一益と共に蠢動する北条と戦い…、そして敗れ、血を流した
戦線を維持出来なくなった一益は敗残の兵を率いて領国伊勢へ帰国の途についた
帰国途上の滝川軍は手負いであり士気も低かった
今後、空白地となり混乱するであろう信濃勢にとっては北条や上杉への格好の手土産となり得る羊の群となり果てていた
しかし…
真田以下大半の信濃勢は何もしなかった、真田は護衛すら請け負った
真田には真田の考えはあっただろう、しかし一益はただただ感激に涙したという
後年関ヶ原の後
東軍にいた滝川一益孫の滝川一積は石田方宇多氏に嫁ぎ敗戦により離縁された真田昌幸の五女於菊と再婚した
一積は大坂の役後信繁の娘を養女として引き取り嫁ぎ先を見つけている

武士は恩義を忘れないというお話

まあ、後に真田信繁娘の養育を理由に滝川一積は幕府旗本を改易されているだが…
於菊との子滝川一明が再度召し出されて幕臣となったのが救いかな
151人間七七四年:2009/02/01(日) 20:41:49 ID:eLVBLhEP
本多正信の三男本多政重
彼は倉橋長右衛門の養子となり家康、秀忠に仕えた。
慶長二年八月に岡部庄八というものと衝突、これを切って出奔し伊勢に逃れる。
正木左兵衛となを変え宇喜多秀家に仕えた…がこの後が不可思議なのである。

関ヶ原の後宇喜多家を浪人し福島正則、前田利長に仕え慶長九年には前田家の仲介のもと上杉家に仕える。
わずか七年間で四家を渡り歩くというのはあまり例がない。
一介の葉武者ならばまだしも前田家では三万石を食んだ大身である。
父正信に命じられてのスパイ活動だったという説も。

さて政重が上杉家に仕える際には二つの条件があったという。
一つは直江兼継の娘婿になること、もう一つは生まれた子は上杉景勝の嗣子とすることである。
関ヶ原で睨まれた上杉家の保身のための条件とも考えられるが結局男児は生まれることがなかった。

さらに下って慶長十六年政重はまたしても浪人する。
すると藤堂高虎が前田利長に召し抱えることを書で勧めた。
利長が応じたため古巣である前田家に再び使えることになる。
知行は三万石、三年後には五万石に加増されている。
利常の代となってからは家老として腕を振るった。

後年家光によって子の一人を五千石の旗本として差し出すように命じられた際
周囲の反対を押し切って長男を出仕させた。
政重曰く「長男は少々抜けておる故百万石の家老には向かぬ。だが将軍家は八百万石、多少の馬鹿を召し抱えても差し支えあるまい。」
152人間七七四年:2009/02/01(日) 21:28:50 ID:Xsbt0oel
確かにいそういわれるといい話だなと思ったので転載


どの武将の辞世の句が好きですか? 2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1183227238/

94 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/26(月) 11:19:45 ID:cnhsKBtE
秀吉と家康の辞世の対比がおもしろくて、どちらも好きだ

露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢

嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空

無謀とも思える夢を追い求めて叶えた秀吉と、現実の中に夢を見出して叶えた家康
家康の句は秀吉の辞世への返歌じゃないかとすら思える

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/26(月) 11:38:02 ID:cEFyWTAh
>>94
気付かなかったよ
そうかもしれんね
そう思うととても良い歌に感じる
153人間七七四年:2009/02/01(日) 21:31:13 ID:gknpoH7E
前スレのレスにご丁寧にアンカーつける意図が分からない
154人間七七四年:2009/02/01(日) 21:32:26 ID:gknpoH7E
>>147に対してね
155人間七七四年:2009/02/01(日) 23:01:09 ID:NXR6/tB9
今日は道灌が多いな。自分もひとつ投下。

太田道灌の自若

太田道灌は文武両道の武将で、泰然自若であった。ある日炉を囲んで
火を焚いていたところ、灰の中にキノコに似たものがニョッキと生えてきた。
その場にいた家臣たちは、なんと不思議なことかと驚いた。
その時道灌は笑って言った。
「怪しむことは少しもない。もしこのキノコが逆さまに生えたならば或いは
不思議とすべきであるが、このように真っ直ぐ生えたのは当たり前のことではないか。」
道灌は悠然としたままだった。
156人間七七四年:2009/02/01(日) 23:03:17 ID:NXR6/tB9
ところが後日キノコが逆さまに生えてきた。家臣たちは顔色を変え、
あまりの不思議さに眉をひそめた。
またも道灌は笑って言った。
「皆の者動揺することはない。予が逆さまに生えれば珍であると言ったのを聞き、
直ちに逆さまに生えるというのはこれまた珍ではない。
また少しも不思議ではないぞ。」
家臣たちはこれを聞いて主人の豪胆さに驚き、皆安心した。
道灌の自若さに驚いたのか、その後は不思議なことは起こらなかったという。
157人間七七四年:2009/02/01(日) 23:27:42 ID:jdc/Mec0
いやいやいや、キノコが人の言う言葉を聴いて生え方変えたら珍だろw
と思ってしまうのは俺が凡夫だからか。
ていうかキノコでなくキノコに似たものって妖怪の類だったのかね。
158人間七七四年:2009/02/01(日) 23:29:55 ID:4lssGIWE
俺のキノコをくらえ
159人間七七四年:2009/02/01(日) 23:59:28 ID:1x0P79qh
きのこじゃなくて床下に潜んだへのこ(ち○こ)だったのかもね。
160人間七七四年:2009/02/02(月) 00:04:56 ID:XCyc5ome
床下に潜んだ奴が次に逆に生やしたのは忍術かw
161人間七七四年:2009/02/02(月) 00:23:12 ID:jHcr0HH1
戦国時代の合戦において、最も重要だと考えられていた職種は、物見であった。

武田信玄も「軍において物見が無いと言うのは、石を抱えて淵の中に入るようなものだ」と
語っている。
どこの軍でも物見は敵の様子を探り、味方の軍略の方針を決める重大な情報を収集する
役割であるため、戦場の場数を得た、巧者武勇の者が特別に選抜された。
そのような「戦場の華」、物見の活躍を見てみよう。


北条氏直と佐竹義宣が、下野にて対陣したおりの事である。
氏直は山上三衛門、波賀彦十郎の二人を、佐竹の動静を探るため両軍の境目へと物見に派遣した。

二人がその境目から一町ほど中に入った時、地に臥せっていた敵の軍兵が一斉に立ち上がった。
待ち伏せだ。
二人は敵にたちまち取り囲まれた。

先ず
三衛門、彼は逃げ道を塞がれた。そこで逆に、北の方の敵陣に向かって馬を駆けた。
駆けつつ群がる敵を押し倒し弾き飛ばし、ついでに首を一つ獲って山に乗り上げ、
そのまま峰をつたって味方の陣に帰還した。

次に彦十郎、かれは敵に完全に包囲された。だが、敵の本営近くでどうにかこれを突破すると、
かねてから堤伝いに道があるのを知っていたので、そこを南方に駆け抜けた。
だが、敵陣から騎馬の猛者達が出撃、彼に追いすがる。
二間、三間と熾烈な逃走劇が続く。しかしいよいよ敵に追いつかれる、その時である。
彦十郎は堤から河に、馬と共にダイブ!
そのまま泳ぎきり敵の追跡から逃れ、味方の陣に帰還した。
彼はかねてより、馬の水練も怠り無かったのだ。

この両人、武勇類なしと高くたたえられ、氏直より名馬を拝領したと言う。
162人間七七四年:2009/02/02(月) 11:33:55 ID:CBZu3P5m
>>161
織田家中の森さん家では、(物見に出た)家老が高遠城の塀からに転落したのを奇禍として城乗っ取りますた

ぁ、あれ?
163人間七七四年:2009/02/02(月) 12:03:40 ID:CQbVZWBk
ちょこっと小話

毛利元就の七男の元政くんは大好きなお父様の抜け落ちた歯で
毛利元就公歯廟を作りましたとさ

この抜け落ちた歯という表現が
「生きている間に抜けちゃった歯」なのか
「死んでから抜けちゃった歯」なのか
「死んでから無理やり抜いた歯」なのか
お詳しい方いらっしゃいませんか


元政くんは62歳の時の子なんだね…
164人間七七四年:2009/02/02(月) 12:12:26 ID:X1vpBGEe
うっかり鬼各務が奮戦

三の丸陥落

二の丸、本丸に殺到する諸軍を尻目に鬼武蔵は三の丸の屋根に鉄砲隊を上げる

目立った敵を釣瓶撃ち、仁科盛信自刃までの時間を稼ごうと決死の働きをする勇士たち。
その首取って手柄にせんと押し寄せる織田軍諸士
その目の前で銃弾の雨あられで蜂の巣にされる高遠城の勇士たち。
織田軍諸士( ゚д゚ )

そりゃ前に出てた屋根葺衆とかの悪名もたてられるってもんよw
皆見てるからそこで首とっても自分の手柄に出来ないし
必死こいて突撃してきたのに三の丸の屋根から撃ってるだけの連中に手柄かすめとられるんだもん。

まぁ鬼武蔵の目の付け所がよかったんだけどさ
165人間七七四年:2009/02/02(月) 13:39:50 ID:svDv+0+K
鬼武蔵、後ろから撃たれるタイプだな。
166人間七七四年:2009/02/02(月) 14:03:48 ID:iLtFsOR/
実際には真正面から撃たれました
167人間七七四年:2009/02/02(月) 14:38:01 ID:+UtbkUZd
>165
味方に後ろから撃たれたのはヒャッハー!!仲間の富田長繁(長秀)ですた。・
168人間七七四年:2009/02/02(月) 14:40:56 ID:+UtbkUZd
>159-160
シェイプアップ乱破乙
169人間七七四年:2009/02/02(月) 14:50:09 ID:+UtbkUZd
>162 >164これかー各務兵庫スゴス

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-940.html
170人間七七四年:2009/02/02(月) 17:08:00 ID:svDv+0+K
鬼武蔵、小牧長久手では、どこか戦場の感が鈍ってたんだろうな。
まんまと家康につり出されてしまったし。
前夜の野営中にうけた屈辱的襲撃も、不寝番を立ててなかったとか。
171人間七七四年:2009/02/02(月) 17:26:41 ID:CBZu3P5m
>164
城の死命を制すような三の丸を“うっかり”で落としちゃった各務兵庫助と森家中……

織田信忠もさぞポ(゜Д゜)カーン だったろうな
172人間七七四年:2009/02/02(月) 17:36:05 ID:myaK4oSe
>>171
織田信忠軍団の制覇スピードが速いのもその辺だろうな。
戦争では信忠軍団かなり強力っすな。
173人間七七四年:2009/02/02(月) 17:51:40 ID:jHcr0HH1
武田信玄の家臣に、原昌俊という武将がいた。
この昌俊は、辺見某と言う家の娘を、嫁とした。

この辺見某は合戦に追われ、家にいることがまれで、また、その妻も早くに死別し、
娘は屋敷で一人、さびしく留守をすることが多かった。
その家は上条の地蔵堂のほとりにあった。

結婚をして、この娘は昌俊に、深く愛された。娘もまた妻として夫を深く愛し、
新たな、あたたかい家庭を得た事を喜んだ。

が、妻は間もなく病に倒れ、必死の看病も空しく、はかなくも世を去った。
昌俊の嘆きは例えようも無いほどであった。

妻は死ぬ前に、法成地の地蔵堂の方に向かって手を合わせ、どうか願いをかなえてください、と、
地蔵の寳号を唱えながら死んだ。
そこで昌俊は妻を法成寺の後ろに墓をつくって葬り、自身もまた、妻が後世に導いてもらえるようにと
地蔵菩薩に帰依し、祈った。

妻の死から、100日を経た夜半の事である。
杖をつき、水晶の数珠を身につけた80歳ほどの老僧が、昌俊の家の戸をたたいた。
何事かと尋ねると、老僧は言う、「おぬしの妻が生き返ったので、連れてきた。」

昌俊は大いに驚き見ると、僧に、ぐったりとしているが確かに生きている妻が抱えられていた。
僧は言う。「自分は法成寺の内に住む者だが、今宵、堂より出でてみれば、塚が崩れ、この人が
倒れておった。何者かと尋ねれば、原昌俊の妻だと言う。よってここに連れて来たのだ。
良く、養生させるように。」
そしてかき消すようにいなくなった。
後で確認をしてみると、確かに妻を埋めた塚は崩れていたと言う。

さて、蘇った妻は、最初は呆然として、記憶なども欠落していたようだが、昌俊が粥などあたえ
看病しているうち、七日ほどたつと元のように戻った。
ただ、明るい場所を嫌うようになった。
ともかくも、元の幸せな生活が戻ってきた。翌年には子が生まれた。そして3年がたった。

妻は涙を流しながら、昌俊に言った。
「私は、この世の者ではありません。

あなたともう一度だけでも過ごしたくて、上条の地蔵菩薩にお願いをし、3年の間だけ、この世に
戻ってくる事を許されました。
その時間はもう、尽きようとしています。

子を残していくのはつらいですが、私の塚は壊さないで、良く弔ってください。どうか、
私のことを、忘れないでください。」

そして、消えた。

後で彼女の塚を見ると、崩れていたというのは幻で、草が茫々として生い茂っていた。
人々は不思議な事と囁きあい、この事を聞いた信玄は、法成寺の地蔵堂を改修し、
昌俊の妻の菩提を弔った。
そして昌俊はこれ以後、新たに妻を持つ事はなかった。

彼女の残した子は、成長した後、原隼人を名乗り、武田にその人ありと天下に名を響かせることになる。
174人間七七四年:2009/02/02(月) 17:58:57 ID:DRv82boq
>>173
不思議だけどいい話だね…
175人間七七四年:2009/02/02(月) 18:13:41 ID:7vH3iFz1
>>173
さすが人馬の見立ては隼人祐
晴明ばりの異能の者であったか
176人間七七四年:2009/02/02(月) 18:32:46 ID:ayLw29dF
PHPの小説の森長可も面白いよ。
177人間七七四年:2009/02/02(月) 18:36:51 ID:db0dNjZo
>>170
まず歴戦の勇者である各務さんを留守番にして置いてきたのが失敗。
178人間七七四年:2009/02/02(月) 18:40:51 ID:jHcr0HH1
森長可は戦術レベルではえらい強いんだけど、家康みたいに戦略の出来る人間には
弱いと言うイメージ。
179人間七七四年:2009/02/02(月) 18:54:49 ID:db0dNjZo
羽黒で負けるまで野戦では負けたこと無かったんだよな、実は。
180人間七七四年:2009/02/02(月) 21:16:19 ID:2TECrTwm
あの三河武士相手に鬼武蔵ほど怖くないだろ?という説諭が通るくらいだからな
181人間七七四年:2009/02/02(月) 21:21:33 ID:HQ1nLizy
>>180
それについてkwsk
182人間七七四年:2009/02/02(月) 21:30:22 ID:leE+Z3Gz
183人間七七四年:2009/02/02(月) 21:32:46 ID:db0dNjZo
無粋かもしれんが出典なんなんだろうな、それ。
184人間七七四年:2009/02/02(月) 22:45:56 ID:db0dNjZo
いや、スレが止まるようなら気にしないでくれ。
185人間七七四年:2009/02/02(月) 23:18:04 ID:7kBlNjgG
>>184
そう言ってくれるとオレの60分が報われる
ちなみに
「家康 森長可 評」でググッた2番目ぐらいしかソースは見つからんかったスマソ
186人間七七四年:2009/02/02(月) 23:23:48 ID:pR715luD
信長死んで秀吉では・・・釈然としないものが鬼武蔵の中で・・・
なにか戦場のカンが鈍ったんだよ、きっと。

ホントは用心深い人だったのに・・・
187人間七七四年:2009/02/02(月) 23:57:59 ID:TW5fjdtw
信長の近習を斬り、出奔していた若き前田利家は、美濃攻めのころに帰参を許された。

利家「というわけで、妻のためにも功名を上げ、さっさと汚名を返上したい。
   そのために最近手柄の多いという三左殿、あなたに付いてそのやり方を見習いたい。
   よろしくお願い致す。」

森可成「心得た。ちょうど近く、ある砦攻めに参加する。良ければ、一緒に来なされ。」
利家「うむ、ありがたき申し出!」

こうして二人は、斎藤軍のこもる砦攻めに加わった。
砦は山上にあり、みな馬を下りて、競うように駆け出した。利家も、可成の手を引いた。
「なにをしておられる?!急がねば、手柄を他の者に奪われてしまいますぞ!!」

しかし可成、少しもあわてず、
「まあ、落ち着かれよ。こんな山道を走って行けば、肝心の敵近くに迫ったころには、
疲れて手柄どころではないわ。今は味方と争うようなマネはせず、歩いて力を貯め、
敵に全力を振るえば良い。 あせらない、あせらない♪」

はたして、先に行った味方は、砦の前の部隊に足止めされている。
「それ、見たか。今が力を出し切る時ぞ!!」

二人は互いに励まし合って突き進み、砦の目前までやって来た。可成の槍が、止まった。

利家「 (´・ω・`) ? 」
可成「 ( ̄ー ̄) ・・・・・・行けよ。」
利家「!! ( ;ω; ) さ・・・三左殿・・・・・・」

砦への一番乗りは、前田又左衛門利家となった。
可成は信長に報告する時も、その後に同輩と話した時も
「いや又左めに、してやられたわい。ガッハッハッハッ!」と笑うばかりだったという。

これを機に利家は汚名を返上し、のちに信長の赤母衣衆筆頭に選ばれた。
利家は大大名となってからも、
「森三左衛門ほどの巧者は、稀であった。」と褒め称えた。 (利家夜話より)
188人間七七四年:2009/02/02(月) 23:59:43 ID:+XBkUS7Y
>可成「 ( ̄ー ̄) ・・・・・・行けよ。」
そんなバカな!
189人間七七四年:2009/02/03(火) 00:04:20 ID:ZY1ndZ9l
>>187
親父殿が漢すぎるw
190人間七七四年:2009/02/03(火) 00:07:05 ID:OtTxRDYm
なんでそんな可成が坂井政尚とは仲が悪かったのか・・・
191人間七七四年:2009/02/03(火) 00:08:51 ID:IbvamW9g
森パパは普通の人じゃなかったけか?
192人間七七四年:2009/02/03(火) 00:23:21 ID:Ldftuzdd
>>190
いや、むしろ…
何でそんな漢な男から、武蔵のようなのが生まれたんだw
193人間七七四年:2009/02/03(火) 00:26:30 ID:ZY1ndZ9l
>>192
嫌なことがあったら影でコソコソしないで正々堂々正面から相手を切り伏せる、
漢の中の漢じゃないかw
194人間七七四年:2009/02/03(火) 00:32:20 ID:mZcr0ZUp
可成は有能だけどごく常識人だよね。

こんな父親から、歩く死刑宣告鬼武蔵や、
人間としてどうかと思われるくらいこ才気ばしっている乱丸やら、
なんのかんので次代の幹部候補生坊丸、力丸、
さらに幹部候補生の面接試験に落ちた忠政と、

こんな複雑なキャラクターがどうして育つのだろう?w
つーか本能寺無かったら、森家は室町幕府で言うところの幕府政所伊勢家、
徳川幕府で言うところの老中家みたいな感じになったんだろうな。
195人間七七四年:2009/02/03(火) 00:38:58 ID:jTmDSBDf
こんな友情のお話もありますよ「命を賭して友情とお家を守り通した相良義陽のお話」 

南肥後の戦国大名相良義陽と阿蘇家の宿老甲斐宗運は大友方として父の代から親交を深めた盟友であり、阿蘇神社(阿蘇領)と
白木妙神社(相良領)にそれぞれ誓紙を収め不可侵の誓いあった親友であった。しかし耳川で島津が大友を破ったことで事態は
変化する。島津氏の猛攻で相良氏の水俣城は降伏。こんどは逆に島津方はとして相良氏は甲斐宗運と戦うことになったのである。

島津義久からの阿蘇領への出陣命令が下りついに決断を迫られる義陽。宗運と戦えば誓紙の誓いを破り信義・友誼に反する。
一方、義久に逆らえば相良氏の滅亡は避けられない。苦悩する義陽だが戦国大名としてまた、相良家当主として彼が選んだ
道は宗運に戦って彼に討たれることであった。

義陽は出陣にあたり白木妙神社に収めてあった宗運との不可侵の誓紙を焼き捨て詫びこう神官にこのような祝詞をあげさせている。
「今度の出陣は拠所なき儀にて、子孫長久の為に討ち死にをしにいくものである、どうか我が子孫が後世栄えるますように・・・」
そして阿蘇方の堅志田城、甲佐城を攻略し宗運との決戦におよぶのだった。

一方の甲斐宗運だが始めのうちは義陽出撃の報を信じなかった。しかし堅志田城よりの報告でこれが真実であることを知る。
「これまでは義陽が島津を防いでいたので阿蘇家は安泰だったが、もはや誓紙を破ること是非もない。
神罰により両家とも滅亡し、九州はやがて島津のものになるだろう。」と言って阿蘇神社の誓紙を神池に沈めさせて出陣する。

決戦の地、肥後響野へ着陣した義陽。この響野は四方が開けた守りにくい土地であり、はじめ宗運は義陽が響野に着陣したとの
報告を「それは義陽の陣法とは思えぬ」と言って信じなかった。やがてそれが真実と知り「さては相良の命運も尽きた。自ら」
死地を選んだとしか思われぬ」と義陽の心中を察し天を仰いだという。

戦いは事前の予想通り、宗運の圧勝に終わる。義陽は床几に腰掛け団扇を握りしめたまま、刀を抜くこと無く討ち死にしている。
また義陽に従い出陣した相良勢は1000名のうち400名が討ち死にするというありさまであった。しかしこの相良勢の壮絶な戦いは
島津義久の心を打ち、義陽の子忠房に家督を認め、人吉城を返し義陽戦死に対する感状をも与えている。

こうして鎌倉以来の名家相良家は幕末まで存続。一方、宗運は義陽戦死にあたり「相良を失い阿蘇家も3年うちに滅亡するだろう」
と言い義陽の命運を祈る。その後、宗運の言通り阿蘇家は島津氏の猛攻に合い、3年の後に滅亡するのであった。 
196人間七七四年:2009/02/03(火) 03:21:53 ID:nzTiYOE5
>>195
この話か…
どっちもカッコヨス

義陽って意外と周囲からの高評価の逸話多いよな
197人間七七四年:2009/02/03(火) 06:54:39 ID:cBiJ3DG8
確か、甲斐宗運が亡くなった後に阿蘇氏は滅亡してるんだよな。
198人間七七四年:2009/02/03(火) 08:52:18 ID:GSxGzsY3
相良家と言えば深水長智の奔走は欠かせん

義陽の戦死で家中取り潰しの危機→島津家と交渉し幼少の忠房を立て存続を認めさせる
数年後忠房病死、再び取り潰し危機→島津と交渉し弟の頼房を立てる
秀吉の九州征伐→いち早く島津から離れる事を進軍し、秀吉と交渉。所領安堵
肥後国人一揆→直ぐさま上京して秀吉に弁明、お咎め無し

この人がいなかったら相良はとっくに潰れていたはず
他にも連歌の才に優れた教養人で、秀吉からの信頼も厚く
相良家とは別に秀吉の直轄領の代官を任せられる程だった
それでも長智の相良への忠誠は終生変わらなかったけど

相良家って義陽や犬藤頼安、丸目蔵人とか、結構教養人が多いような
199人間七七四年:2009/02/03(火) 09:41:32 ID:8jvuv7pw
ど田舎のマイナー大名なのに結構人材がいるもんだ
200人間七七四年:2009/02/03(火) 09:55:28 ID:c6jleVFL
>>198
武将としては赤池長任もいるしな。
結構、多士済々。
201人間七七四年:2009/02/03(火) 09:56:07 ID:M/u4ay0v
幕末まで家が残ったから家臣の逸話も多いんだろう。

宗運の義陽に対する態度は実の息子以上の愛情を感じる。
つか実の息子たちに対する態度が酷すぎるんだよな、宗運は。
202人間七七四年:2009/02/03(火) 10:01:48 ID:c6jleVFL
>>201
主家>>>>>越えられない壁>>>>>>自家
だからなw
203人間七七四年:2009/02/03(火) 10:05:33 ID:uGP59T+u
実の息子だからこそより厳しくしなくては示しが、と考えるタイプの真面目な人に
揃いも揃って状況の読みが甘い息子達だからねぇ
204人間七七四年:2009/02/03(火) 10:35:29 ID:375pydaS
宗運は主家のために息子達を犠牲にし過ぎw
おかげで息子の嫁に毒殺され
阿蘇氏滅亡フラグたてちまった。
205人間七七四年:2009/02/03(火) 10:50:54 ID:qJhSlWU7
でも優秀で個性的な家臣が多いせいか
内紛も多いんだよねぇ>相良
江戸時代にはそのせいで直系断絶の憂き目にあってるし

ああっ、これは悪い話しかも戦国時代じゃない sagesage
206人間七七四年:2009/02/03(火) 11:10:21 ID:oiqC7E1I
>>187
あと、別の戦場だったか突出しようとする利家を見とがめて

「前がかりになって万一、流れ弾にでも当たったらどうするよ、
ここぞという場面まで備えを崩さないのも武将に必要な我慢だぞ?」って諭した話とか。

イケメソで槍働きで知られた“槍三左”なんだけど以外と美濃衆の調略でも動き回っているし
単なる豪傑じゃない視野の広さがあるんだよね。つくづく息子どものDqんwfそ;?@
207人間七七四年:2009/02/03(火) 11:12:21 ID:QiAuzTkN
>>178
最強最大の織田軍団に乗っかっていたから負け戦の経験が無い

負けてつらい経験のないまま強敵と戦って死んでしまった
208人間七七四年:2009/02/03(火) 11:40:49 ID:oiqC7E1I
>207
戦術指揮官クラス、侍大将としてなら天下無双なのに、
父祖以来の勲功でなまじ大禄を与えられちゃったから・・・てタイプかしらね。

本能寺後の帰還とか時々野獣の嗅覚みたいな何かキュピーン!と
敵の策を看破したりしてるからよくわかっらんのだけど。
209人間七七四年:2009/02/03(火) 12:39:17 ID:ty4BnE4a
>>208
帰還というと聞こえがよすぎるな。逃げ帰っただけでそ。
忠政は川中島に配されたとき、兄の復讐をしたわけだし。

もちろん、逃げていなかったら河尻秀隆のように逆さ埋めに
されただろうけど。
210人間七七四年:2009/02/03(火) 12:41:25 ID:8T8VPisE
快心老人は見かけこそ愚鈍に見えましたが、かつては実直さで勇猛さを
評された武将でした。、主君と隣国の大将が戦した際、要の城を任され、
わずか五百の手勢で一万五千の大軍から城を死守しました。援軍に駆け
つけた主君はその時つけていた甲冑を下されました。その武功は老人に
とって今でも誇りです。

ある日、老人のもとを三男が訪れました。三男は言います。もは
や藩にはいられないと。三男は家督を継いだ若殿の信頼厚く、政
敵であった先代の右腕の追放に成功して藩の実権を握りました。
しかし、先年の大坂御陣で失態を犯して面目を失い、先日の若殿
の鷹狩りにも随行を許されませんでした。さらに、追放した政敵
が復帰し、居場所を失ったのでした。

暇乞いを若殿があっさり認めると、さらに長男と次男、三男と「大
の知音」という新参の本多までが藩を立ち退くと憤ります。快心老
人は叱りました。「人として子を愛さぬ者はいない。しかし、一人
の子や兄弟、友のために家臣としての節を曲げるべきではない。し
かもお前たちは万 石もの大封をいただいておるではないか」と。

この藩は家臣同士の権力争いが深刻で、快心老人もそのことを気に
かけていました。「三男はすでに君命もあり、速やかに立ち退きな
さい。その他の者は残りなさい。あとのことはわしに任せ、安心せ
よ」と説きました。

長男と次男、本多の三人は出奔を思いとどまりました。この三人の
家系は藩の家老を出す「八家」となります。快心老人が家中の深刻
な分裂を防いだのです。

快心老人はそれから九年後、静かに亡くなりました。かつては奥村
助右衛門永福と名乗り、主君・前田利家にとっての天下分け目・末
森合戦で奮戦した武将でした。
211人間七七四年:2009/02/03(火) 13:16:55 ID:ZI1GSEGe
前田利家は、気前よく優秀な武将を新規に雇用していたから
アメリカ的合理的経営手腕を持ってたぽい希ガス。

家康はケチだったから、トヨタかな。
212人間七七四年:2009/02/03(火) 13:45:28 ID:gCR2xyZq
>>211
前田家は利家以前も一国の主で多くの譜代家臣がいたのかな?
213人間七七四年:2009/02/03(火) 14:12:38 ID:QiAuzTkN
>>212
前田家は小城の城主でそんなに譜代はいないはず。
利家は浪人生活で貧乏してたから、人件費ケチって蓄財ばかりする。
ソロバンも得意w
214人間七七四年:2009/02/03(火) 14:16:16 ID:mZcr0ZUp
つーか利家の頃って、そんな新規に有名武将を雇用してたっけ?
領地が拡大するたびに、地元対策も含めての現地採用は多かったと思うけど。
215人間七七四年:2009/02/03(火) 14:27:45 ID:qJhSlWU7
>>210
最後まで主人公の名前をあかさない
構成がうまいな

>>214
雇用かどうかアレだが高山右近つーのもいるよね
ただし高山自身が
 宗教>>>>>>>(越えがたい壁)>>>>>>>宮仕え
だったのでキリシタン禁止令が厳しくなるとあっさり逃げてしまいましたが。
216人間七七四年:2009/02/03(火) 14:51:46 ID:QvAWnLxv
>>211
徳川家康は人材オタだろうがjk…。
武田、北条の遺臣団吸収や高家の保存にどんだけ手を砕いたと…。

家臣に裂く領地自体は秀吉と比較したらそりゃ少ないが、普通に勲功
相応の領土与えてるし、井伊や本多(正信)みたいに若手や出戻りでも
大封、権限を与えてる。
217人間七七四年:2009/02/03(火) 15:06:08 ID:m6+xL5at
ちなみに加賀八家は
本多家5万石
長家3万3千石
横山家3万石
前田対馬守家1万8千石
奥村本家1万7千石
村井家1万6千五百石
奥村分家1万2千石
前田土佐守家1万1千石

横山長知派と太田長知派の対立は関ヶ原後、太田が殺害されてからも頭を
変えて続き、奥村の逸話につながったとみられる。出奔した三男の奥村栄
頼は利常の政治についてや大坂の陣での問題などを幕府に告発しようとし
たので、この逸話は前田家中としては悪い話ともいえる。
218人間七七四年:2009/02/03(火) 15:25:56 ID:GT9+WpgI
>210
奥村さんは忠臣だよね。尾張でもアラコ城に立てこもって主君前田利久から弟・利家への家督継承を伝える書状貰うまで頑張ってみたり。
219人間七七四年:2009/02/03(火) 15:34:58 ID:LnXkp467
>>216
今川遺臣も忘れてもらっちゃ困るぜ。
家康は人材だけに飽き足らず、システムも取り入れまくってるよね。
武田からは軍制をを、北条からは統治機構をって具合に。
220人間七七四年:2009/02/03(火) 16:10:58 ID:GT9+WpgI
>219
「織豊政権は参考にするけど、半分反面教師」

本多弥八郎正信です。若い頃一向一揆に走って、後から帰参しますた。
槍先の功名はありませんが、殿様とタメはれるくらい頭回るっス。
百姓は武装解除して土地に貼り付けるっスよ。自分は土一揆も門徒一揆も、もう沢山っスから…

自分、殿のお側に侍って徳川四天王や武功の士に嫌われてますが、これでいいっス。

殿が家臣を叱ったり説教する時は、横から自分が更になじるっス。
「殿はお前が憎いから叱ってるんじゃねっス。目をかけてるからこそなのに、その体たらくは何っスか?」
「これだから脳筋の体育会系は…フフン♪(自分とは違うっスね)」

こうして小才な自分(の演技)に武闘派連中はいきり立つっス。
いつの間にか殿に叱られた不平不満が、全部自分への憎しみにすり替わってる寸法っスよ


倅の教育だけは、うまく行かなかったっス……
221人間七七四年:2009/02/03(火) 16:13:35 ID:FkrfuGDc
>>210
今日は節分だからな
永福は内に入り鬼武蔵は外にdグゲハッ
222人間七七四年:2009/02/03(火) 16:47:33 ID:m6+xL5at
細川幽斎の連歌が巧みさは、犬と遊んでるような子供でも知っている。
句をひねり出すのに時間をかけることなく、ほかの者が前句を考える
前に句を考えてしまっているほどだ。

ある日、伏見で連歌会があった。似生と号した歌人が煮詰まって二度
ばかり句をつけられずにいた。弱った似生は幽斎にこう言った。「自
分の発した句にどう句をつけるべきか」。似生は、前句が発せられる
前に自分の句を考えてしまっているという幽斎にいたずら心で聞いた
のだ。

すると、幽斎は「能のわき名のるよりはや打ち忘れ」と詠んだ。能の
ワキは冒頭に状況設定の役割を担うが、お囃子がなければ登場もでき
ないーと、今の状況をユーモアたっぷりに詠んだのだった。
                          『鷹筑波』

似生と幽斎はたびたび連歌会で顔を合わせている。似生こと前田慶次
郎はいたずらをうまく切り返した幽斎に感心し、幽斎も「このいたず
ら者め」と思ったに違いない。
223人間七七四年:2009/02/03(火) 17:11:53 ID:ZVcbMoua
>>222
「似生」でググったらひどいことになった。
224人間七七四年:2009/02/03(火) 17:12:22 ID:mZcr0ZUp
>>222
幽斎さんは、おっそろしく頭が良かったんだねえ。
こういう人が身近に居たら、すごいコンプレックス抱きそうだわw
225人間七七四年:2009/02/03(火) 17:19:09 ID:nzTiYOE5
息子も頭はきれるしなぁ

人格はさておき
226人間七七四年:2009/02/03(火) 17:25:54 ID:AUT9rowe
息子だってよくキレますよ!
227人間七七四年:2009/02/03(火) 17:39:54 ID:ngI58uUP
>>223
似生 連歌
で検索しないとたしかにひどいことに笑
228人間七七四年:2009/02/03(火) 18:44:16 ID:gHF9x0Yj
恵方巻の発祥が堀尾さんと言う話を聞いたので誰かkwsk
229人間七七四年:2009/02/03(火) 18:55:11 ID:kIziAUmr
堀尾吉晴、たまたま節分の前日に巻き寿司のような物を食う

出陣

大勝利

あれ、縁起良くね?
230人間七七四年:2009/02/03(火) 19:28:32 ID:1JYyWxDp
mjd?
231人間七七四年:2009/02/03(火) 19:29:40 ID:sH1pCkGL
>>198
>>200
深水や赤水、甲斐姓は今でも多いなあ<熊本南部
維新の子孫が栄えて目出たいということか

少ないけど犬童姓も耳にする

詩人犬童球渓(本名信蔵)
人吉、農家の次男で明治38年に音楽学校(東京芸大)進学ということは
よほど分限の農家。帰農武家かも。

幾年ふるさと来てみれば〜故郷の廃家
更 け行く秋の夜旅の空の、 わびしき思いにひとりなやむ。
恋しやふるさとなつかし父母〜旅愁
232人間七七四年:2009/02/03(火) 20:05:40 ID:kIziAUmr
誰が呼んだかDQN四天王。
偶然だとは思うが将軍家主催の茶会で伊達、細川、島津、森の名前が揃った事が何度かある。

忠政だけが場違いなまでに石高が低いのに何故、揃えたし。
233人間七七四年:2009/02/03(火) 20:58:30 ID:IZz/aiUG
戦場での昼食
立花鑑載討伐の時高橋紹運は味方を一ヶ所にまとめた。
紹運の手勢は士卒四十七名、雑兵一〇九人が残っているばかりであった。
「さあ、みんな弁当にしよう」と携帯していた握り飯を取り出した。その握り飯を食べられたのはたったの八名だけだった。
その八名の中に紹運も入っていた。だがいざ握り飯を食べるとたちまちゲロったり喉に詰まらしたりした。
ここで紹運は
「数千の味方も、あるいは手負い、あるいは討死し、ここに集っているのは身分の高下を問うまでもなく、一騎当千のつわもの揃いである。
人が死ぬことほど大なることはない。
男たる者がこれから死ぬかもしれないという時に、飯ぐらい食えないでどうするか。
わしをよく見ていよ」
と言って握り飯を三、四個食べた。
他の者もゲロして場合じゃないと思ったのか急いで食べたと言う。
234人間七七四年:2009/02/03(火) 20:58:39 ID:hzqgmkr4
文化人気取りのDQN四天王一角の話を投入

平安時代の前九年の役、奥州の豪族安倍宗任が捕縛され京に連行されたときのこと
奥州の蛮人は花の名など知らぬだろうと、ある貴族が梅の花を見せて何という花かと問うたところ
「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」
と歌を返した
宗任の教養を侮ったその貴族は逆に恥をかくことになったのである


時は流れて豊臣政権時代、上洛した伊達政宗に公家が桜の枝を手折って「一詠を」と言ったところ
「大宮人 梅にも懲りず 桜かな」
と狂歌で返した
無論、前述の安倍宗任を引き合いにした皮肉であった

田舎者よと馬鹿にした京の人間こそが実は物知らずであった、というオチである
235人間七七四年:2009/02/03(火) 21:16:02 ID:PJzg/1b1
立花鑑載の討伐は、秋月家、宗像大宮司も絡んで散々難航したけど、もとはといえば
女たらし大友宗麟の手癖の悪さが原因というのは俗説ですか?


最後は謀殺でしたよね。。
236人間七七四年:2009/02/03(火) 21:41:32 ID:DnG+9G7X
>>233
ちょっと異なるけど似たような話、宗茂にもない?
小説で知ったから創作かな
237人間七七四年:2009/02/03(火) 21:48:23 ID:IZz/aiUG
あと宗茂にも似たような話がある。

朝鮮出兵の時、紹運の息子の立花宗茂は朝鮮・明連合軍の前で握り飯を黙々と食べていたという。家老小野和泉がそれを見て、自分もにぎり飯を口にしたがゲロってしまった。だが宗茂は家臣が自分の目の前でゲロされても悠然と握り飯を食べていたと言う。
238人間七七四年:2009/02/03(火) 21:58:22 ID:DnG+9G7X
>>237
あーそれそれ!
紹運の方は初めて知ったけど、似たような話があるんてさすが親子と言ったところかねえ
239人間七七四年:2009/02/03(火) 22:05:06 ID:X3TiisdV
石高は低いが、従四位下左近衛中将に任官されているので、他三名とほぼ互角だから。
240人間七七四年:2009/02/03(火) 23:06:13 ID:GT9+WpgI
>213
佐々内蔵助さんは浪人を臨時雇い入れして一万数千で寄せてきたのに、
前田の殿様は「しまった!末森後詰めに出す軍勢足りねー」と泡くったという

信長に喧嘩売ったりの歌舞き振り、豪放な槍働きと表裏で銭カネに細かかった利家さん…
241人間七七四年:2009/02/04(水) 00:07:14 ID:Jf28KF0+
>>231
犬童さんと詩で、オレの好きな話が出てないの思い出したわ、ありがとう

天正9年(1581)、島津軍は相良家の家老・犬童頼安のこもる水俣城を攻めた。

攻め手の大将は、島津家で武辺者の名を挙げるとき、「まずは、武蔵守どの・・・」
と、必ず最初に指折り数えられることから、『親指武蔵』と呼ばれる猛将・新納忠元。

後年、細川幽斎から古今伝授を受けた教養人でもある忠元は、水俣城の西側、
月の浦に陣を構えると、城内に矢文を放った。

『 秋風に 皆また(水俣)落つる 木の葉かな 』
(吹きすさぶ秋風のごとき島津の猛攻に、水俣の兵は木の葉のように吹き飛ぶでしょう。
そうなる前に、降伏されては?)

城内から、矢文が返って来た。城主・頼安みずからの手紙を読んだ忠元は、
苦笑せざるを得なかった。 「やりおる・・・・・・!」

『 寄せては沈む 月の浦波 』
(何を言われる?そちらこそ、月の浦に寄せる波のごとく、我が城にぶつかっては砕け、
沈むだけでありましょうよ。)

忠元にも負けぬ教養と意気を持つ将に率いられた水俣城の士気は高く、さすがの
親指武蔵も苦戦を強いられた。
しかし、そこに届くは主君・相良義陽の討ち死にの報。城は涙を呑み、開城となった。

のちに頼安は主君戦死の地・響野を訪れ、無念の歌を詠んだ。

おもいきや 倶に消ゆべき 露の身の 世に在りし顔に 見えむものとは
242人間七七四年:2009/02/04(水) 00:26:57 ID:R5zou3cK
>>237

あの小野和泉がゲロを吐くほどの状況下なのに、ケロッとしている宗茂。
やっぱり、カエルの子はカエルか。
243人間七七四年:2009/02/04(水) 00:34:12 ID:3xTsuC7i
>>241水俣開城時は義陽健在でしょう。義陽からの和睦せよとの使者が来たんじゃないか?
244人間七七四年:2009/02/04(水) 01:08:28 ID:7sIkRnwf
>>234
>文化人気取り
いや、それは政宗を侮りすぎ。
DQNでは在るけど間違いなく、文化人なんだよ。
つーかDQN四天王は、みんなただのDQNじゃない!

政宗:文化人
忠興:文化人
鬼:鬼
家久:島津に暗君・・・あれ?
245人間七七四年:2009/02/04(水) 01:09:24 ID:dinGHCZU
松代の話

慶長5年(1600年)、森忠政は徳川に金山7万石から川中島13万7500石の国替えを命じられる。

川中島・・・それは18年前に無き兄が領していたが仕方なく手放した土地。
再びこの地に舞い戻る事が出来た忠政は「この日を待っていた」という思いをこめて
この地に築かれていた海津城を「待城(まつしろ)」と改名した。

やがて松城と名を変え、そして現在の松代という地名の原点になったというお話。
246人間七七四年:2009/02/04(水) 01:13:26 ID:IilsDL8b
>>210
>>222
図らずも花慶の主要メンバーが並ぶとは
今日は良い日だ
247人間七七四年:2009/02/04(水) 01:39:23 ID:xtWWqxCN
>222
うーむ慶次郎が幽斎にねえ。

(俺って今日プチスランプで発句できねんだけど、どうすりゃいいかねえ?)
ほな発句しまー

ってやりとりなのか。
248人間七七四年:2009/02/04(水) 01:56:24 ID:Ec40QUel
>>247
「今日は調子わりい。句が出てこんなぁ。あんた、前句ができる前に自
 分の句作れるんでしょ?やってみてよww」
「誰がそんな噂してんだよ。できるわけねーじゃんww」
ってのをおしゃれにやりとりしたってことだろうな。

少なくとも1582年2月18日、87年2月26日の二回は
慶次と幽斎は同席してることが記録からはっきりしてる。
249人間七七四年:2009/02/04(水) 01:59:15 ID:xtWWqxCN
>>241
犬童さんと、島津の鬼武蔵こと新納さんね、そういや未出だったか。アガトウ
相良ってほんと多士済々だなあ。鎌倉以来の地頭さん家はダテじゃない。


茶人に歌人、坊さんに限らず漢籍につえーのもいるし戦国武将っても殺伐してるばっかじゃないんだよなぁ
250人間七七四年:2009/02/04(水) 02:02:03 ID:xtWWqxCN
>>248
天正十年(1582)春に京洛で、てのが後から考えたらチョトすげーよなw

前田家中に戻って能登へ行って、また出奔したり。
妙に人脈の広い傾奇御免の人
251人間七七四年:2009/02/04(水) 02:23:56 ID:0Opokslb
>>248
幽斎がいるから当然っちゃ当然なんだけど、結構錚々たるメンツなんだよね。
しかも源氏物語か何かの講義(長期間)後の歌会だから、どうやら慶次も常連っぽい。

「おまいホントに発句できなかったのか?」って思う。
実はちゃんと出来てたんだけど、幽斎の評判にのっかって悪戯したようなw
252人間七七四年:2009/02/04(水) 02:26:11 ID:Ec40QUel
>>250
このときの出席者は九条種通(源氏物語の研究家公家)、細川幽斎、松永貞徳、松井友閑、大村由己、
松永永種(貞徳の父)、溝江長澄(朝倉旧臣)、妙蓮寺上人。幽斎は慶次主催の連歌会にも出席して
るようなので親しかったんだろうな。
253人間七七四年:2009/02/04(水) 04:47:13 ID:b+6LN+oP
短命と言われる毛利家当主だけど実際どれだけ短命なのかwiki調べてみた
豊元 33歳
弘元 40歳
興元 25歳
幸松丸 8歳
元就 74歳←
隆元 40歳 
輝元 72歳←
秀就 56歳
綱広 50歳
吉就 25歳
吉広 35歳
吉元 54歳
宗広 36歳
重就 64歳
治親 38歳
斉房 28歳

実は元就の遺言を一番ちゃんと守ってたのはTELUなんじゃないかと思ったり
254人間七七四年:2009/02/04(水) 04:55:14 ID:w8ks3QGg
>>253
おおw
長生きくらいは高評価にする
255人間七七四年:2009/02/04(水) 05:00:37 ID:b+6LN+oP
>253の寿命の偏差値も書いておく
豊元 44.8
弘元 48.7
興元 40.4
幸松丸 31
元就 67.4←
隆元 48.7 
輝元 66.3←
秀就 57.5
綱広 54.2
吉就 40.4
吉広 45.9
吉元 56.4
宗広 46.4
重就 61.9
治親 47.6
斉房 42.1
256人間七七四年:2009/02/04(水) 05:35:48 ID:xtWWqxCN
>253
・酒は飲んでも飲まれるな

・飲んだら(馬に?)乗るな

 ですね。輝元がんばってんなー
257人間七七四年:2009/02/04(水) 05:48:45 ID:jsbka8gd
>>253
秀元は72歳、輝元の次男就隆は77歳、元春の次男元氏は75歳
当主は短命の人多いけど分家の人たちは結構長生きな人が多い
258人間七七四年:2009/02/04(水) 06:50:55 ID:2gYCIPW/
元就ももともとは分家(?)の当主だったしなw
259人間七七四年:2009/02/04(水) 07:08:29 ID:+Fj4nXHI
>>253
輝元は若いころから相当な酒飲みで元就から注意されてる。
にもかかわらず長生きなのは神経が図太いからだな。
260人間七七四年:2009/02/04(水) 07:15:01 ID:TukT8IsQ
>>259
いいスレでまで悪い方に捉えるなよ
他武将の関係ない逸話にも無理やり嫁寝取りの話ねじこむ奴といい
輝元にも悪いスレの某アンチのような粘着が付いているのか

ちなみにそれ悪い話の方に出てたけど
叱られた後は反省して以後酒は慎んだってあったよ
261人間七七四年:2009/02/04(水) 08:22:15 ID:NOb8KX4X
神経が図太いとかは別に悪いことでもないだろ…
お前は神経が細すぎるよ
262人間七七四年:2009/02/04(水) 09:17:33 ID:6rMu5Qrp
まあTERUの話題が出る度に一々嫁NTRのネタで茶茶いれられるのは気にはなってた
そーりんみたいに常習犯ならともかく
263人間七七四年:2009/02/04(水) 09:23:28 ID:pCHBt667
でも毛利家の家臣団は長寿が多い。
志道広良(1467-1557) 91歳
国司元相(1492-1591) 100歳
平賀元相(1547-1645) 99歳
264人間七七四年:2009/02/04(水) 09:33:25 ID:zfhpoU0U
武田信繁は言う

武士として戦場にのぞんだならば、少しの卑怯未練の振る舞いがあってはならぬ。
呉子という書物にも、
「命を惜しむ者はかえって死ぬ羽目に至り、死をいとわぬ者はかえって生を全うするもの」
という教えがある。

いつも決して嘘を言ってはならぬ。
神託の言葉に、
「正直で少しの不公平のない者でなくとも、日月の憐れみをこうむる場合がある。
それは武略を用いる時のはかりごとであって、正直も時と場合によるものだ。」
というのがあり、また孫子にも、「備えあるを避け、備えなきを攻める」とある。
武士にあっては、敵の虚を突くことは許されていることである。
265人間七七四年:2009/02/04(水) 09:35:50 ID:okzNQleR
毛利家の当主が短命なのは国人の中心的役割から来るストレスにあったのでは。
それで酒びたりになって・・・結局酒かw
266人間七七四年:2009/02/04(水) 10:20:05 ID:1cbOx7ZA
ttp://fukubara.web.infoseek.co.jp/personality/fukubarahirotoshi.htm

毛利本家権限弱いな。
自分とこの庶流にチクられて所領没収とか。
庶流に吉田郡山城を包囲されるとか。
ストレス多すぎだ。
267人間七七四年:2009/02/04(水) 10:26:46 ID:tfWp4tOk
>>266
まあ、毛利に限らず、国人連合的な戦国大名に、君主権が本当に確立するのは、
ほとんどが江戸期になってからだよ。
268人間七七四年:2009/02/04(水) 11:38:15 ID:ZUFtvQcl
>>267
逆説的に言うと関東入国前後に既に領主の絶対権(しかも家臣の反感を食わない形で)を
確立した徳川家が天下取ったのは、組織論的には当然ともいえるね
269人間七七四年:2009/02/04(水) 12:14:29 ID:ILWmq4l8
ストレスで短命と言えば真田信之さん(ry
270人間七七四年:2009/02/04(水) 12:25:48 ID:tfWp4tOk
>>268
家康は若い頃から、不思議なくらい君主権の確立に熱心だよね。
徳川姓を創設して松平宗家の独占にしたり、いち早く馬廻先手組って家康直属の常備軍作って
軍事的にも国人家臣に過度に依存しない体制を整備したり。

多分今川家で色々学んだ結果なんだろうな。
271人間七七四年:2009/02/04(水) 12:25:53 ID:VOIB97G6
あと3代くらいは長生きしてほしかったよね
272人間七七四年:2009/02/04(水) 13:00:07 ID:rMGeeRPj
信之は木幡高清ぐらい生きられたはずだよな。
273人間七七四年:2009/02/04(水) 14:23:49 ID:hzOJbHTZ
>>263
毛利家は家臣団の平均寿命も長いよな
派手に戦死した人があんまりいないっていうのもあるけど
早起き、節酒、雪の日も元気に体を動かす元就に従って
家臣も健康に過ごさざるを得なかったのかもしれない
274人間七七四年:2009/02/04(水) 14:27:32 ID:b+6LN+oP
きっと当主の寿命を吸収してたんだよ
275人間七七四年:2009/02/04(水) 15:01:27 ID:DlHpHPGT
>>274
信之「わしが長生きできなかったのは毛利家みたいに家臣に寿命を吸収されたからなのかorz」
276人間七七四年:2009/02/04(水) 15:42:24 ID:mRFgrIcr
真田信之 享年160歳
277人間七七四年:2009/02/04(水) 15:43:38 ID:cMbJ3OhK
信政「じゃあ親父に60まで家督継げない俺の気持ちが分かるのかよ…」
278人間七七四年:2009/02/04(水) 16:04:15 ID:tfWp4tOk
武田信玄の家臣に、小幡山城守という者がいた。
この人、合戦となればいつも一番に駆け出し、必ず手柄を立てた。
まあ、それは良いのだが、問題が一つ。

この小幡さん、陣に帰ってくるときは、自分も必ず大怪我をしているのだ。

体からだらだらと流れる血で、彼の乗る月毛(クリーム色)の馬までいつも、
真っ赤に染まって帰ってきた。

このため、この頃の流行り歌にまで、
『武辺を心がけてると、月毛の馬が栗毛になったよ〜♪』
と、歌われたそうである。
279人間七七四年:2009/02/04(水) 16:35:04 ID:32yvOUwX
>>278
うーむ、徳川さん家の本多・井伊の比較とかあるし、武田家中で何て言われてたか気になる
280人間七七四年:2009/02/04(水) 16:59:19 ID:xtWWqxCN
>278
小幡さん、たぶん「止まると死ぬんじゃー」
 「血ィ吸うてるか〜」 と叫びながら突撃していくんだな・・・
281人間七七四年:2009/02/04(水) 18:17:17 ID:u306mFpo
>>237
他人が体力や精神力の限界で飯がのどを通らないのに、宗茂の胆力はすげぇーぜ!
って話なのは分かるんだが、それと貰いゲロしないのはまた別の話な気がするんだが・・・
282人間七七四年:2009/02/04(水) 18:55:46 ID:M7tLJolk
どこかズレてるのが宗茂の魅力だろ
283人間七七四年:2009/02/04(水) 20:30:59 ID:age64yMB
魁!!道雪塾

                    ,r'"´丿ヽ ̄`ヽ、
                 / ,r;:;:、 ⌒   ,ィ;:!
               /  ,イ;:;:;;:;::ゞ、 i ,r;:;:;:,、j
               _」 ,′'´r ェェ-、  j;:イェェ、l、        ΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛ
             / ゝ,イ j `ヽ`"´.::;;  ト、"´ ヾi     /                      ヽ
             ! ,イl〈〈    ,ィjハノ。 。,j、、,,.  l   < わしが立花宗茂を育てた
                |  Y」 i; ,r'´r-、ニニニ = i! ,/    ヽ                     /
             !  ,'  / ,イ,ゞ-j!ーi!ーl-{ i! |      V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V´
               ,>,イ  ,!  i/       ,! il,!
            /.:.:/ i .,'  / -‐' "´ ̄ ̄``、ハヽ
           /.:.:/  | ,' /  ‐'´ ̄ ̄``ヽ `j ,!
         _/.:.:.:.:i  l  ゝ、_      ,:;' ヽ ー' /ヽ
    _,,,/.:i|.:.:.:.:.:.:|  ゙、        ,:'    /.:.:.:\_
_,ィ´.:.:.:.:.:.:.:.:i|.:.:.:.:.:.:|   `ゝ、. : . : . : . : . : . : ./.:.:.:.:.:.:.:.:.:.`ヽ___
.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:i|.:.:.:.:.:.:|    i  ``ー 、.:.:.:.,、-‐,イ.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:..:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.
.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:i|.:.:.:.:.:.:|    l      ̄  //.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:
284人間七七四年:2009/02/04(水) 21:02:28 ID:KplrV2oh
足に刺さった小さい棘を気にしてたら御守役が近づいてきて…アッー!
ってのも宗茂の逸話だっけか?w
285人間七七四年:2009/02/04(水) 21:05:08 ID:QT0Aa8uw
栗の毬の話か。相手は由井雪下だったかな
286人間七七四年:2009/02/04(水) 21:14:55 ID:hoT8/GRz
>>284
この板以外でそんな書き方したら、まず間違いなく衆道ネタだと思われるぞw
287人間七七四年:2009/02/04(水) 21:22:21 ID:qHZN3Db1
>>285
由布雪下ね。もともと1城の城主だったが、道雪が立花城に赴任する際に、
家督を息子に譲って道雪に仕え、更に自分の俸禄を削って道雪に小野和泉
を召抱えさせたりした人。最後は浪人になった宗茂に付き従って棚倉に行き
86歳で没した。
288人間七七四年:2009/02/04(水) 21:40:20 ID:a+fQ+d5z
細川忠興が立花宗茂の屋敷に遊びに行った際のこと。

出された茶などすすっていた時、ある話を思い出した忠興は、宗茂に尋ねた。

「この間アンタは、『家臣を治めるのに、苦労した事がない』と言ったそうだが、ホントかね?
家臣の教育が行き届いてると評判のウチでさえ、三振アウトとか苦労してるんだよな。

アンタの家臣に優秀なのが多いのは充分知ってるが、家、ましてや大名の家を治めるのは
本来難しいもんだ。何か秘訣があるなら、ぜひ教えてくれないか?」

宗茂、これに答えていわく、

「別に何の秘訣もないよ。ただ一つ、なんにも隠し事をしないこと。
ウチは、夜にカミさんと話した内容でさえ、家臣たちに知ってもらってるからね。

そうやってウラオモテが無いからこそ家臣はオレを信じて、どんな言いつけにも逆らわず
働いてくれる。だから、オレは家臣のことで苦労したことなんてないのさ。

だからこそ、オレ自身もそんな家臣を、信じきることが出来る。
オレは未だかつて、目付だの家臣を見張る職なんて、家中に置いたためしが無いよ。」

さすがの忠興も宗茂の公明正大さに驚き、いよいよ尊敬の念を深めたという。
289人間七七四年:2009/02/04(水) 21:44:04 ID:FI/XmgE4
細川さんがかみさんに話すことって「浮気したらぶっ殺す」とか
そういうイメージなので、家臣に言えなさそう。
おや、誰か来たようだ。
290人間七七四年:2009/02/04(水) 22:02:51 ID:vfeneMD5
まあ、宗茂の実父の紹運の逸話にも同じ話があるよ。

鑑連(道雪)と紹運は共に筑前の豪族、立花鑑載を
攻めていた。だが鑑載の抵抗も激しく、紹運の手勢
も多数の負傷者を出した。
紹運の陣はたちまち死者、負傷者であふれかえった。
だが紹運は言った。
「飯時だ、仕度をいたせ。」
しばらくして、諸将の前に握り飯が出された。
周りは阿鼻叫喚の死体の山である、皆が食べるのを
ためらっていると、紹運は言った。
「ここに居るのはいずれも一騎当千の兵(つわもの)達
であろう!ここで飯を食わず、戦働きができるものか!」
と握り飯をほうばり始めた。それを見て、諸将も食べ始め
たが、飲み下せたのは紹運と数名のみであった…

紹運の豪胆さに、士気を持ち直した軍は、立花鑑載を攻め
落とした。
この気迫が実子、宗茂に受け継がれたのであろう…
291人間七七四年:2009/02/04(水) 22:02:54 ID:rN4PKLMf
>>288
他所様には三振アウトって言ってるけど、下手したらベンチ見ただけでアウトだよね
細川さんち
292人間七七四年:2009/02/04(水) 22:06:22 ID:kahTCy+r
信長「うむ、公明正大こそが名将の条件。蘭丸と話したことをちゃんと皆に教えておる」
293人間七七四年:2009/02/04(水) 22:09:44 ID:32yvOUwX
ピロートークまで話しちゃうとかむしろ天然さを感じるなあ宗茂
その辺りも魅力だって>>282も言ってたけど

>>289
三斎様の夜の会話とか濃すぎてむしろ引きそうだw
294人間七七四年:2009/02/04(水) 22:10:46 ID:Zyr3oGY1
>>292
明智光秀「蘭丸が近江坂本が欲しいだって・・・!?まさか・・・!?」
295人間七七四年:2009/02/04(水) 22:15:49 ID:Yg0FYu+S
非常に仲が悪かったとされる本多忠勝と本多正信
しかしこの二人が一致団結したのが真田信之の問題
忠勝にとっては娘婿である
では正信は?
実は信之・小松の婚姻の輿渡し役が正信
また、沼田の地は信濃や越後から関東平野に抜ける際の街道筋で正信はその地を治める信之を戦略上重視したとも言われている
忠勝没後、大坂の役での論功行賞において駿府にいた正信が呼ばれもしないのに二条城の家康のもとを訪ねた
真田家への対応を訪ねるためである
しかし、既に街道筋としての沼田・上田の戦略的価値は半減し正信が拘る理由は無くなっていた
家康は正信に問うた「なぜ未だにそうまで真田を気にする?」と
正信はただ、
「それがしは信之殿を気に掛けておりまする。平八郎との約束で御座いますれば」

これもある意味での‘子は鎹’

信之からの‘昌幸の葬儀’の相談に対する正信の返書が現存しているがかなり同情的
冷徹官僚とは違う一面が見れます
296人間七七四年:2009/02/04(水) 22:21:17 ID:7sIkRnwf
信之も忠勝や正信みたいな理解者があと一人でも居たら、
心痛が減って十年は長生きできたのにね。
297人間七七四年:2009/02/04(水) 22:24:09 ID:ds6TTSq1
イイハナシダナー
嫌われてはいたのだろうが、死ぬまで政権に必要とされた人物だもんな
情がまったくない人なんて長続きしない
298人間七七四年:2009/02/04(水) 22:25:01 ID:ZUFtvQcl
>>295
いや、正信は良くできた人ですよ
家忠日記に家忠が江戸に出てきたときはしっかりもてなすし、
江戸普請時は夜も明けきらない内から普請場に出るとか
299人間七七四年:2009/02/04(水) 22:31:35 ID:GoIoaImc
>>290
高橋紹運 散り際だけでなくいい話ばかりで人間離れしてます。
300人間七七四年:2009/02/04(水) 22:47:09 ID:mRFgrIcr
>>296
徳本先生と張り合えと?
301人間七七四年:2009/02/04(水) 22:51:32 ID:NlKibTQc
正信は家康と似た価値観を持っていたそうだね
短気じゃない分、個人レベルでの付き合いができたなら主君よりも良かったかもしれない
302人間七七四年:2009/02/04(水) 22:57:22 ID:rN4PKLMf
政宗は小姓を倅と呼び、不公平のないようローテーションで食事を共にするなど大層大事にしていた
(アッー!な理由ではない、多分)

あるとき、政宗が留守の間に小姓たちが暇をもてあまして畳の上で相撲をとり始めた
勝負は白熱し、みんな熱中しすぎて周りのことなど気にもしなかった
一人の小姓がうっちゃられた先には、秀吉が政宗に下賜した利休作の竹の花入があったのである
哀れにも花入は修復不可能なほどひしゃげてしまった
政宗はさぞかし立腹したのかと思いきや、「次は周りに気をつけて相撲をとるように」の一言で済ませてしまった

後日、秀吉から「あの花入はどうした?」と聞かれたが、
政宗は意外にも正直に顛末を話して花入を壊してしまったことを詫びた
秀吉は「さても人の命には代えられぬものかな」と大笑いし、以後その花入を『大投げ』と名付けて大事に使えと命じた

政宗が正直に話したことも意外なら、秀吉が寛大に許したことも意外である
303人間七七四年:2009/02/04(水) 23:18:22 ID:qi3cyEe5
>>302
富田長繁「人間、素直に正直に心の赴くまま過ごすべきだよな」
304人間七七四年:2009/02/04(水) 23:29:52 ID:bX+lImmO
いい逸話も政宗や秀吉だと無理して寛大ぶってるように聞こえるのは色眼鏡か。
305人間七七四年:2009/02/04(水) 23:32:59 ID:h9qGrgMU
政宗も秀吉も侘びを理解してたから・・・と好意的に理解してあげようよ
306人間七七四年:2009/02/04(水) 23:37:57 ID:CezZRKf1
秀吉は基本物に関しては気前よく見せたがる人だし
307人間七七四年:2009/02/04(水) 23:55:43 ID:1Sk9LQDk
政宗さんが手にした宝物とその末路

・王義之の書(写し)→切断
・天目茶碗     →叩き割る
・正宗の刀     →切断(未遂)
・千利休の茶杓   →持ち主の前で折る
・千利休の花入   →家来が相撲とってて破壊 ←new!
308人間七七四年:2009/02/05(木) 00:03:54 ID:MVh/CQjh
さすが文化財クラッシャーw
309人間七七四年:2009/02/05(木) 00:12:58 ID:+x6w4wNR
>「別に何の秘訣もないよ。ただ一つ、なんにも隠し事をしないこと。
>ウチは、夜にカミさんと話した内容でさえ、家臣たちに知ってもらってるからね。

宗茂とァ千代の仲が悪いのはこれのせいか
ァ千代のことを家臣がニヤニヤしながら見てるとか細川家では考えられない話だ
310人間七七四年:2009/02/05(木) 00:15:01 ID:IXWe6DfV
遊佐続光・長続連etc「主君がそういう人だとこっちも信頼出来ますよねー」
畠山義綱「お前達はどちらにしろ裏切るだろjk」
311人間七七四年:2009/02/05(木) 00:16:43 ID:nTMNTehD
>>309
ああ、ガラシャが眉一つ動かさずに見てる中ニヤニヤした連中全員血煙の元に倒れるだろうな
312人間七七四年:2009/02/05(木) 00:21:20 ID:zLiQIwWi
細川さんは、アラビアンナイトの王様とかと話があうんじゃないかな。
お玉さんが浮気なんかしたら…
313人間七七四年:2009/02/05(木) 00:43:56 ID:gi/OfVkU
朝鮮の役で旦那不在中の家臣の嫁くいまくってた秀吉に
ガラシャも食われてたら謀反したのかな忠興。
ちょっと見てみたい対戦だった……
314人間七七四年:2009/02/05(木) 00:48:31 ID:zLiQIwWi
豊臣秀次事件に連座しそこねた連中は、朝鮮出兵長引いたら前線にぶちこまれ、
死ぬような位置にやられる予定だったともいう。
細川、伊達、最上あたりな。マークされてたね、細川さん。
だからその前にガラシャなしに謀叛しそうだったかもだ。
315人間七七四年:2009/02/05(木) 00:51:48 ID:uU3HzoIf
秀吉が死んだその年に家康に臣下の挨拶しにいった忠興。

・・・森忠政もついでに家康の屋敷に連行しました。
316人間七七四年:2009/02/05(木) 00:52:06 ID:Nwomja3W
>>313
> 朝鮮の役で旦那不在中の家臣の嫁くいまくってた秀吉に
> ガラシャも食われてたら

実は食おうとした>秀吉
んで、大阪城でガラシァの体触ろうと近づいてきたら、ガラシァがわざと懐剣落として
それを見た秀吉が(危険なので)あきらめた、って逸話が残ってる。
317人間七七四年:2009/02/05(木) 01:00:57 ID:WXsi9tXz
秀吉に食われたリストとか作ったらものすごいことになりそうだな
318人間七七四年:2009/02/05(木) 01:07:13 ID:pFbB8R3w
>>317
大内義隆が食ったリストと良い勝負するかも。
319人間七七四年:2009/02/05(木) 01:09:51 ID:zLiQIwWi
でも秀吉ってインポっぽいから、実はあんまり喰えなかったんじゃまいか?
インポだから虎の肉をバイアグラにしようとした云々。

しかも秀吉、こんなんでも明国の姫君をめとろうとしていたんだよな。
320人間七七四年:2009/02/05(木) 01:13:54 ID:9qSo04fz
性欲は人一倍強いのにインポとか、秀吉のラスボス化と関係あるんじゃないか?
欲求不満的な意味で
321人間七七四年:2009/02/05(木) 01:15:51 ID:vKdqlRKK
>>316
ほかにも、某蒲生再生工場工場長の未亡人(信長公御息女)も喰おうとしたら、
出家されたので腹いせに減封したりなw

腐れはげ鼠のためには、某光栄の
ジンギスカンの猿もといさるシステムが信長の野望にも導入されてたらよかったんだがなw

…って同じメーカーだしw
322人間七七四年:2009/02/05(木) 01:25:31 ID:UQ/xF4FC
>>316

旦那は旦那で、「秀吉には気を付けろ!」という手紙を送ってたりしてたんだよな
323人間七七四年:2009/02/05(木) 02:14:53 ID:33x2bLgY
※予備知識
 矢種には数矢(大量生産の矢)が主に使われるが、名のある武士に対しては名前入りの高級な矢で射殺すのが礼儀。
 なお誰の手柄かをハッキリさせるために矢には印が刻まれており、射手がわかる。

武田勝頼が北条氏直と駿河で対陣したときの話。
あくる日、お互いの先手同士で小競り合いが起きた。
弓手を物陰に伏せさせては撹乱させ、また功名に逸る若侍が馬を繰り出し、
味方が無勢となれば徒歩のものも騎乗のものも救援に出て、まさに乱戦となった。
そんな中、華麗な技量で次々と敵兵を射殺す相州侍がいた。
武田方の弓の名手、青木角蔵は良敵とばかりに弓矢を番えただの一騎で躍り出て
「甲州が住人、青木角蔵、参る」と大音声で名乗りを上げる。
次の瞬間、二人は同時に矢を弦にさしはさみ、だが角蔵が射る前に敵はひょうと矢を放った。
その矢は角蔵の鎧を射とおし、弓手に深々と突き刺さる。
これでは矢戦はできなぬと馬を返そうとするも、二射目が、角蔵の愛馬の脇腹に突き立った。
角蔵の馬は跳ね回り、振り落とされてしまったが、同輩達が飛び出てきて深手の彼を守りながら陣へ引き返した。
相州勢もその有様を見て今日はこれまでと陣へ戻り、勝鬨をあげた。

と、その時である。
一人の侍が北条の陣へ歩み寄って来るではないか。
その手には弓矢が握られていた。
彼が足を止め、北条の陣へ向かって声を上げた。
「ここへまかりでたる者は先ほど馬上から射落とされちゃった青木角蔵の使者。
 角蔵にささった矢の印から、先ほど角蔵と射落としたものは北条きっての弓の名手、鈴木大学殿と推察いたす。
 戦場に出ては討つも討たれるも武人の本懐、また勝敗は兵家の常なれば負けたとて恥辱にはならぬ。
 ところが、先ほど大学殿が角蔵に放った矢は素焼きの数矢であった。
 目前で名乗りを上げた武士に対して雑兵へ放つような矢を向けるとは勝負を軽んじる行為、甚だ許しがたし。
 しかし本日は朝から戦続きであったため、大学殿の矢は数矢しか残っていなかったに違いない。
 あえて青木角蔵が鈴木大学殿と相見えた証としてこれを贈り進ずる」
青木の名字を書き付けた鏑矢を二筋、射送った。
鈴木大学はこの二筋の矢を手に取ると、
「先駆けの乱戦の中にあって、数矢を使うことは軽賎と言えるでしょうか。
 そもそも遠くの敵に狙いをつけていたらに不意に馳せ来て、いきなり矢を向けられたら矢なんて選んでる間などありません。
 お互いに何時でも矢を射れる状態での突然の勝負だったので、悪く思わないでいただきたい。
 これは私のです」
と、自分の靫(ゆげ、矢入れ)から節を漆で黒く塗った印入りの大雁又の矢を二筋、射送った。
324人間七七四年:2009/02/05(木) 02:53:40 ID:ToxGc8s6
あーもう、格好良いなぁ。隙が無いよまったく。
325人間七七四年:2009/02/05(木) 02:56:28 ID:uU3HzoIf
死後に家康に弓を折られる鈴木大学ktkr
326人間七七四年:2009/02/05(木) 03:04:36 ID:/evSTSPf
まとめサイトになさそうだったので・・・

伊達政宗が治めた領国は62万石

しかし、一説には江戸中期の実高は少なく見ても100万石
多く見ると150〜200万石程あった模様

ここまで実高を伸ばした背景には政宗の100万石への野望が
あったのかもしれない・・・

軍事ではなく内政で100万石に達した仙台藩
この大事業の陰に一人の浪人の存在が大きく関係している。

川村(孫兵衛)重吉(※しげよしorじゅうきちが一般的な読み方)

彼は関ヶ原の戦いで人生を大きく変えた人物である。



関ヶ原の戦い前夜

伊達政宗は会津の上杉景勝を抑える為に東北戦線に参加していた。
政宗は徳川家康から上杉景勝を抑えた見返りとして、葛西・大崎一揆時に
領地替えで没収された、米沢等を含めた50万石を与えられる約束を
されていた。

世に言う”100万石のお墨付き”である。

しかし当時、政宗30代中ごろの油の乗り切った時期・・・
未だ天下への夢は諦めていなかった。
また、世間から”狸”と評されている家康の話を鵜呑みにはしなかった。


( ●_ ̄)「家康殿はああは言っていたが、早々と石田方と決着が着くとは思えん」
     「所詮は紙切れでしかない約束事などに如何程の効力があろうか・・・」

( ●ー ̄)「ここは騒ぎに乗じて領国を拡大する好機と捉えるが吉!」
     「上杉を攻める準備の裏で南部領で一揆を扇動するかのう・・・」


政宗は上杉景勝をけん制する動きをしながら裏で南部領内に一揆を扇動したのであった。
また徳川方、石田方どちらに転んでもいい様に上杉にも和睦の使者を使わす動きを見せた。
327人間七七四年:2009/02/05(木) 03:06:14 ID:/evSTSPf
326つづき

しかし、政宗の読みとは裏腹に関ヶ原の戦いは1日で徳川方の勝利となる。
徳川方勝利の報を聞いた政宗はその場で落胆したという。

( ●_ ̄;)「わ、僅か1日で勝敗が決するとは・・・」
     「やはり天の時は政宗ではなく家康殿を選ばれたか・・・」

止む無く兵を岩出山へ引いた政宗であったが
この時、戦後の論功行賞に対しての策が浮んでいた。

( ●ー ̄)「このままで終わる政宗ではないわ!!」

その後、家康から会津の上杉を抑えた件に関して感状が届いた。
その感状の返答として政宗は以下の要求を家康に強請った。

「徳川家康 様へ
 この度の戦勝おめでとうございます。
 さて、これから論功行賞に移られると思いますが、
 私からこの度の上杉攻めに関しての恩賞をいくつか
 リクエストしたく思います。

 1.葛西・大崎一揆時に没収された米沢等の領地 50万石
 (これは既に確実ですが、念のために書きましたw)
 2.奥羽仕置時に太閤から没収された会津領   50万石
 3.関東or京近辺に領国が欲しいです。 20〜30万石
 
 あの強豪上杉を抑えたんですからこれくらい当然ですよね!!
 上杉を私が抑えていなければ今回の東軍の勝利はなかったと
 思いますよ!!
 政宗あっての徳川家だということをお忘れなく・・・
 家康様 期待してますNE!!

                        伊達政宗」

この書状を見た家康は怒りを通り越して政宗に呆れた。

家康「政宗という男は・・・こんな要求受け入れられるわけないだろ・・・」
  「政宗が此度の上杉攻めの裏で南部領内の一揆を扇動したという
   疑惑が南部利直から書状できておるし・・・」
  「素直にしておれば米沢領50万石を拝領出来たものを・・・」

こうして政宗は米沢周辺50万石を家康から反故にされ代わりに
白石攻めで支配下に置いていた刈田領2万石のみの拝領となった。
この時点で仙台藩60万石・・・

その後、家康から申し訳ない程度で近江国(現:滋賀県)に1万石を拝領するに
留まった。
 
それからしばらくして・・・
政宗は京に向かう途中に家康から拝領した近江国の所領に立ち寄ることにした。
328人間七七四年:2009/02/05(木) 03:08:29 ID:/evSTSPf
326つづき

( ●_ ̄;)「確かに京周辺の所領だが・・・これ本当に1万石もあるのか?」
     「ワシにはどう見ても3千石しかないように思えるが・・・」

田畑を訝しげに見ていた政宗の目に一人の男が映った。
ないやら田畑を見て「あーでもない、こーでもない」と言わんばかりである。

( ●_ ̄)「その方、何をしておる?」
( ・∀・)「いえ、この土地やりようによっては石高を倍に出来るかな
      なんて考えてたんですよ」

( ●_ ̄)「何?この土地を倍にか?」
( ・∀・)「はい、そうです」

この男、早速政宗に土地改良の方法を説明し始めた。
あまりに斬新なやり方に政宗以下近習が驚きを隠せなかった。

( ●_ ̄;)「(これほどまでの男が何故浪人のような形を・・・)」
( ●_ ̄) 「お主、何故それほどの能力がありながら浪人のような形を
      しておるのだ?」
( ・∀・;)「いや〜、元々私は毛利家に御仕えしていたんですが
       関ヶ原の戦いで毛利家が120万石から36万石に減俸
       されまして・・・」

( ●_ ̄) 「それで浪人となったと・・・」
( ・∀・;)「はい・・・」

この時、政宗の脳裏に家康から”100万石のお墨付き”を反故にされた事が思い出された。

( ●_ ̄) 「(身から出た錆とはいえ、100万石を不意にしたのは痛かった)」
     「(これから大きな戦はないであろうし、軍事的に領土を増やすのは
      もう出来ない。しかし、内政的には増やすことは出来よう)」
     「(幸か不幸か、わが領国には未開拓の土地が山のようにある。それを
      開発できれば・・・)」

( ●ー ̄)「(100万石、いや200万石も夢ではない!!)」
( ●_ ̄)「お主、ワシに仕えぬか」
( ・∀・;)「え?伊達様にですか?」

( ●_ ̄)「ワシの領内には未開発の土地が山のようにある。これからは戦で領土を拡大する
      時代ではなく内政で領土を拡大する時代になろう。」
     「そちのように治水・土木に精通する人間が必要になる」
( ●ー ̄)「どうじゃ?ワシとともに100万石、いや200万石を自らの手で開拓してみぬか!」

男はしばらく考えた
( ・∀・;)「(毛利家ではそんなに重用されなかった私を
        必要としてくれる方がいたとは・・・)」
       「(これも何かの縁だ、この方の御仕えしよう)」

( ・∀・)「伊達様!若輩の身でありますが、宜しくお願い致します!」
( ●ー ̄)「うむ、宜しく頼むぞ」
( ●_ ̄)「ところで、そちの名を聞いていなかったな」
( ・∀・)「川村重吉(かわむらしげよし)と申します」

( ●ー ̄)「重吉、宜しく頼むぞ」

こうして川村重吉は伊達家に仕官することとなった。
その後の重吉の仕事振りに伊達家中は驚きを隠せなかった。
329人間七七四年:2009/02/05(木) 03:09:57 ID:/evSTSPf
326つづき

当時の仙台城下は湿地帯でおまけに広瀬川は谷川という状態だった為、
井戸水の確保に頭を悩ませていた政宗は重吉に・・・


( ●_ ̄;)「城下に井戸が掘れるようにならんかね?」

と相談した。これに対して重吉は・・・

( ・∀・)「簡単です。広瀬川の上流から支流を人工的に作って
       緩やかに水を流して町中を潤し、地中に水を浸透させればいいんです。」

と答える。
しかし、現在ほど治水・土木技術が発達していない当時この難事業は無理ではないか
と思われていたが、重吉はいとも簡単にこなしてしまう。
これが、現在の四ツ谷用水の基となった。
(この事業事態は伊達吉村まで引き継がれることになります。)

しかし、重吉とってもっとも難事業となったことがある。
北上川の治水工事です。

元和2年(1616年)から寛永3年(1626年)の10年を費やす難事業となった。

重吉自身、工事費ねん出のため自ら借財、工事現場に泊り込み、
従事者達と汗を流し、筆舌に尽くせぬ労苦を重ねる。

その結果、迫川と江合川を北上川に合流させ、
北上川本流を石巻湾に南下させる河川改修事業が成功。
この結果、三川が合流していた仙北平野の開発が進みました。
また仙台藩米のほかに盛岡・八戸藩米の川下しが開始され、
内陸水路が整備されて河口港石巻が成立された。


葛西家滅亡後寒村に過ぎなかった石巻に一躍米の集散地となり、
河口周辺には仙台、盛岡、一関、八戸各藩の米倉が立ち並び、
江戸へ米を運ぶ千石船が往来繁栄を極めた。
治水に伴って流域では三十三万石余の新田開発も行われ、
地域の発展に計り知れない恩恵をもたらした。
330人間七七四年:2009/02/05(木) 03:11:20 ID:/evSTSPf
326つづき

その後、重吉の活躍に対して政宗は1500石の領地を与えた。
しかし、重吉の家臣たちはこの政宗の褒美に憤慨した。

家臣1「殿はあれだけの大事業をなされたのに、
    政宗様はたった1500石程度の褒美とは・・・」
家臣2「殿があまりに不憫過ぎます・・・」

そうぼやく家臣に重吉は笑いながらこう言った。

( ・∀・)「この1500石と書かれている領地はまだ未開拓の土地。
      政宗様はこの土地好きなように開拓しろと書いている。
      我らの力を持ってすれば10倍いや、
      20倍にだって出来るではないか!!」

差し詰め、政宗は重吉に小切手を渡したといった感じであろうか。

重吉は貰った土地を開拓しながらも、さらに領内の治水・土木工事を
積極的に進めて行った。
北上川の工事完成後は石巻に住み、
慶安元年(1648年)、74歳で世を去る。
死の直前まで開拓現場に足を運んでいたようである。

それから335年後の昭和58年(1983年)8月1日・・・

宮城県の地元紙・河北新報社は、石巻市制施行50周年に当たり
港町石巻の基礎を築いた大恩人としての業績を後世に伝えるため
宮城県石巻市の日和山公園内に川村孫兵衛重吉の銅像を建立、
石巻市民に寄贈した。

関ヶ原の戦いで浪人となった川村重吉・・・
歴史に”もしも”を持ち込んでは行けないが毛利家が重吉の才能を
分かっていたら、幕末の長州藩はどうなっていたのだろうか
等と考えてしまう。


長々と失礼しました。
331人間七七四年:2009/02/05(木) 03:12:48 ID:Zwnpadb8
別の意味で鈴木大学も有名になってしまったな・・・
332人間七七四年:2009/02/05(木) 03:14:58 ID:Nwomja3W
長かったけど面白かったよー。
それにしても

> ( ・∀・)「この1500石と書かれている領地はまだ未開拓の土地。
>       政宗様はこの土地好きなように開拓しろと書いている。

政宗流へそ曲がりだなと、ほほえましく思ってしまったw
333人間七七四年:2009/02/05(木) 03:20:09 ID:9qSo04fz
泣いた
334人間七七四年:2009/02/05(木) 03:33:24 ID:+Q1oqt3G
>>330
>歴史に”もしも”を持ち込んでは行けないが毛利家が重吉の才能を
>分かっていたら、幕末の長州藩はどうなっていたのだろうか


どうにも変わらなかったんでは?
Teruさんも激減した石高を埋め合わせるため必死に開田をして
死んだ1625年には実高65万8299石,幕末には実高100万石といわれるにまでなってる

当時の文化的先進地域だった西国には重吉みたいなのがごろごろいたけど,
遅れていた東北地方にはあまりいなかったってのが真相なんじゃないか
335人間七七四年:2009/02/05(木) 03:40:34 ID:Nwomja3W
むしろTERUさんのところはもう少し進んでて、米だけじゃなく塩・紙・蝋などを、
「長州三白」として、生産、品質管理、宣伝、流通まで藩で一元管理して販売し利益を得るなど、
藩の企業体化を進めてたりする。
336人間七七四年:2009/02/05(木) 04:18:28 ID:WXsi9tXz
                       ( ̄ ̄<     / ̄>
                        \  ヽ   / /ソ
              プ ロ ジ ェ ク ト\  ヽ P r o j e c t X
         ─────────────────────
               挑戦者たち /|_/ /\Challengers
                       |   /   \   丶
                       \/       \__ノ
337人間七七四年:2009/02/05(木) 04:25:07 ID:9qSo04fz
>>336
あ、それだよそれ
338人間七七四年:2009/02/05(木) 05:07:10 ID:2bdDxh5s
江戸時代になると外なる戦いから内なる戦いに
変貌したのか
おつおつ
339人間七七四年:2009/02/05(木) 06:21:55 ID:qBzR1BJ1
>335
小学校で習うよね郷土史とかで
 江戸時代ったら塩、綿、紙、蝋とか「白いもん」で国興し <ゲンミツには当時の木蝋ってあんま白くないけど

 東も西も、殿様も家臣も百姓もがんばったんだよな、ちっとでもいい生活できるように・・・
340人間七七四年:2009/02/05(木) 08:02:48 ID:yEnIembj
苦しくなったら普通は一致団結するよな
現代の政治状況は訳わからん
341人間七七四年:2009/02/05(木) 09:18:27 ID:qU9nmEjI
>>257
由布雪下が出てきたので雪下のいい話を。

由布雪下は大友家から目付けとして来た小野和泉を御屋形様から乞うてもらてどうかと道雪に進言した。
だが道雪は小野和泉にやる所領が無いと言ってきた。
すると雪下は自分が殿から戴いた1500石のうち500石を小野和泉に与えて欲しいと言った。
こうして道雪は小野和泉を家臣にすることができたと言う。
342人間七七四年:2009/02/05(木) 09:21:49 ID:qU9nmEjI
>>341
間違えた>>287だった。
343人間七七四年:2009/02/05(木) 09:59:37 ID:B0RvJJaz
>>340
本当に苦しいってのは餓死者が大量に出たり
各地で反乱がおきたりする状況なんじゃ?
先人からすりゃ現状って全然ヌルイかもしれん。
344人間七七四年:2009/02/05(木) 11:52:49 ID:q6bQ1/4Q
家康が浜松城にいたころの話。
家臣の一人が

「常々思っていたことをお諌めしたいと思い、書き連ねました。」

と言って家康に書を渡した。これを読んだ家康は大変喜んで

家康「その志、感心である。これからも諌めたいと思ったら
    遠慮なく申すがよい。」

と言ってその者を下がらせた。すると近くにいた本多正信が

正信「私もその諫言を見ましたが、取るに足らないことしか書かれておりません。
    殿が気にするようなことではないのではありませんか?」

と言ったところ家康は次のように述べた。

家康「それは違うぞ正信。過ちとは自分の知らぬ間に生じるものだ。
    私のような国主には諌める者が少なく、媚びへつらう者ばかりで過ちを正してはくれない。
    用いるかはともかく、私はあ奴の忠心が嬉しいのだ。」

その後、正信は嬉し涙を流しながら息子の正純にこの出来事を話したという。
345人間七七四年:2009/02/05(木) 12:20:46 ID:YcBBU3ph
正純がどんな顔してその話聞いたのか気になるな
自分の横柄さに気づかずに改易された人物なだけに。
346人間七七四年:2009/02/05(木) 12:51:58 ID:2bdDxh5s
失脚してる人というフィルターがかかった状態で
みてしまうのはどうでしょうか?
本多政純は政争に負けて失脚したわけで
能力は高く評価されてたと(政敵からは恐れられてた)
思いますよ
すいません余計でしたね
347人間七七四年:2009/02/05(木) 13:08:16 ID:G/2doOL7
>>323イイハナシデスター
そして鈴木大学の指物は「槍」なんだよなー

双方のやりとりに坂東武者の侠気ってか“義理”や“意地”の感覚がなんとなく伝わるね。
348人間七七四年:2009/02/05(木) 13:12:53 ID:Nwomja3W
でも今でも、社員の言う事馬鹿にする、やり手の会社社長とか、いくらでもいるんだよね。
それで諫言のできる人間がまわりからどんどん居なくなって、神棚に祭り上げられて、気がついたら
裸の王様になっちゃうタイプ、
昔のダイエーの中内社長とかそんなだったそうで。

人間、なかなか進歩しませんな。
349人間七七四年:2009/02/05(木) 13:18:44 ID:G/2doOL7
>326-330乙
郷土の偉人やね!よそモンの漏れには新鮮なエピソードで、とっても読み応えあったよー
名前も残ってなかったり全国的には無名の偉人が、他にも各地で眠ってるんだろうな…


以下他事だけど、
漏れは例えば「ビジネスの局面に当てはめる戦国武将や古人の逸話」とかは正味どうでもよくて、
こういう風に何気なく現代まで脈々と連なっているエピが好きで歴史モノにはまったのよ。
いい悪いスレとかちょくちょく覗きにくるけど、時々じーんとくるわぁ〜
350人間七七四年:2009/02/05(木) 13:33:30 ID:Nwomja3W
現代まで続いていると言えば、東京の基盤づくりなんてまさにそうだね。

家康が関東に入った時、江戸は湿地帯と言っていい場所で、巨大な
徳川家臣団を居住させるには甚だ無理があった。

それでとにかく、城下町を形成するため、山を削り水地を埋める、土地改良の大工事が行われた。
もちろんそれは簡単なものではなく、この工事の最中、干拓のために作った堤防が大雨で
決壊しそうになり、その時は足軽も大身のものも身分にかかわり無く、みな水につかりながら、
必死になって堤防の決壊を食い止めた。

そういう徳川家中の汗と涙を基に、大江戸発展への基礎は築かれた、と言う事だそうな。
351人間七七四年:2009/02/05(木) 13:39:04 ID:Uw7dUaNh
本多正純って趙括みたいなヤツなんだろうなってイメージがあるなー。
352人間七七四年:2009/02/05(木) 13:55:58 ID:wUPe6X9V
>>340
>>343
革命や暴動についての話ではあるが、重信房子の娘(パレスチナ人とのハーフ)も
現代日本は命に関わらない程度には満たされてるから暴動も革命も起こらないし、
起こせないという趣旨のことを言っていた。
パレスチナの現状と比較してかも知れんが、そう見えるようだ。
だから全体に危機感が生まれないんでしょ。
353人間七七四年:2009/02/05(木) 14:04:44 ID:5aNh3mVt
>>331宇和島も開拓してくれたら良かったのに・・・と愛媛吉田出身者の独り言
354人間七七四年:2009/02/05(木) 14:13:21 ID:G/2doOL7
>>350
渋谷世田谷四谷って山や谷や池の地名ぞろぞろ残ってるもんな。
355人間七七四年:2009/02/05(木) 14:16:34 ID:K3Bys+eU
家康が来る前は
渋谷城と言う城があってだな・・・
356人間七七四年:2009/02/05(木) 15:03:25 ID:DenDLaB6
渋谷氏だっけ
薩摩に移住しちゃってるけど
357人間七七四年:2009/02/05(木) 15:42:55 ID:Uw7dUaNh
道灌に滅ぼされた豊嶋氏なんてのもいたな。
358人間七七四年:2009/02/05(木) 15:53:22 ID:QB1NUDGU
蒲田発祥の池田氏は凄いな。
359人間七七四年:2009/02/05(木) 20:58:42 ID:tPXIIxmK
毛利輝元も広島城を築くために
元々大きな川の三角州であった場所を大干拓していた頃は
今までに類を見ない作業だったから地元の人たちも馬鹿にしてたらしい
それが今の広島市中心部だと思うとちょっと感慨深い
360人間七七四年:2009/02/05(木) 21:00:50 ID:9Uabn3xW
>>323
関東ってか…漢の宝庫だったんだな・・

しかし、数矢と名前入りの矢って別物だったのか、なるほど
361人間七七四年:2009/02/05(木) 22:00:34 ID:asTfpnp5
>>335
その「三白政策」って息子の就隆がやったんじゃなかったけ
父の政策を真似たのかもしれないけど
362人間七七四年:2009/02/05(木) 22:23:08 ID:CNFs9dI8
>>359
叔父の元清や二宮成辰が苦労してるんだよな。
元清が商人に金を借りるのに苦労した話とか広島城建築を邪魔しに来た尼子の残党を許したというようなこともあったらしい。
363人間七七四年:2009/02/05(木) 22:27:53 ID:NhEYQIW1
尼子の残党まだいたんか
むしろその頃まで尼子家の恩を忘れず律儀に邪魔しに来る彼らの方が良い話だ
364人間七七四年:2009/02/06(金) 00:00:19 ID:7f6Uc/wK
>>362
その二宮就辰は元就の隠し子ということぐらいしか一般的に知られていないけど
とても真面目な人で築城に一役買ったそうです。

資性謹言、寡黙でいやしくも他人を陥れるようなことはせず
部下の失態を厳しく叱責しても、後にまた釈然としてこれを用いたとか。
また総じて無欲で人の饗応を受けず、自身もあまり他人に余り振る舞いをせず
朝は常に人より先に出仕するという奉公一徹の士でもあったそうな。
しかも厳正公平であって、彼の元で情実によって出世したものは
多年の間に一人もいなかったといわれるそうです。

以上「一斉留書」より
なんだか公務員の鑑のような人だなあ二宮さん。
365人間七七四年:2009/02/06(金) 00:05:45 ID:c2FPXL4N
三兄弟ばかり注目されるけど元就の息子って皆優秀だよな
366人間七七四年:2009/02/06(金) 01:35:47 ID:3UCu27uR
>>345
正信「…という話でな。」
正純「それで父上、その『ある家臣』というのはどなたの事なのですか?
    その諫言はどのような内容だったので?」
正信「そのような瑣末な事はどうでもよいであろうが!下らぬ事を知りたがるな!!」
という感じだったらしい。
人生経験の差というか才を包む人間性の違いを感じる。


これだけではなんなので正信の弟本多正重の話
彼は謀才に優れた兄、甥と違い剛勇な荒武者であった。

兄と同じく三河一向一揆の際に出奔して以来諸家を渡り歩き様々な武功を立てたが
どうにも一箇所に落ち着かない。
なぜなら彼は権貴をはのばからない直言でも知られた男であったから。

秀吉の九州征伐の時正重は蒲生家にいた。
この時主君氏郷は豊前巌石城攻略を秀吉に願い出て許されている。
巌石城攻めの真っ最中、氏郷は味方を鼓舞すべく法螺貝を高らかに吹き鳴ら…せなかった。
音が出なかったのだ。
この時偶然本陣に居合わせた正重が言った。
「総じて腰抜けの鳴らす法螺貝は鳴らぬものじゃ。」
この言葉にむっとした氏郷、法螺貝をぐいと突き出して
「我らが腰抜けと申すか!ならばお主が吹いてみよ。鳴らねば生かしておかぬぞ!!」
すると法螺貝を受け取った正重は
「吹きますとも!!」
高らかに三度吹き鳴らし「剛の者の吹き鳴らす法螺貝の音!しかとお聞きか!!」
そう言い捨てると槍を引っつかんで突進、みごと一番乗りを果たしたという。
367人間七七四年:2009/02/06(金) 01:38:33 ID:HGdrTgMN
>>366
かっこいいけど、やっぱり三河武士だなあ、とも思うわw>正重
368人間七七四年:2009/02/06(金) 01:39:10 ID:6vIdf/Qd
なんという三河武士・・・
ただの嫌がらせだよな
369人間七七四年:2009/02/06(金) 01:43:14 ID:O3Q8H/F7
>>366
正重と政重(正信の次男)は名前も経歴も似てるからイメージがかぶる。
370人間七七四年:2009/02/06(金) 01:45:33 ID:cLiewl7L
>>366
正純、この調子じゃあ、正信も歯痒かったろうなあ
伝えたいことがまったく伝わってないという・・
371人間七七四年:2009/02/06(金) 01:54:44 ID:HGdrTgMN
正信の所の本多家は、どいつもこいつも一筋縄で行かない連中ばかりなのが面白いw
恐ろしく濃い一族だ。
372人間七七四年:2009/02/06(金) 02:43:34 ID:OAylLsMJ
正信・正純親子が本多氏、三河武士のなかでいかに異端だったかがよくわかるw
373人間七七四年:2009/02/06(金) 07:39:10 ID:AdfOnqlW
そもそも本多正信は元来武士じゃないだろ
374人間七七四年:2009/02/06(金) 10:15:59 ID:qkBXnkng
>>366
逸話だから続きがあるんだろうなと思ってたら
ヤパーリ続きがあったんだ d楠

正信のイイ話の落ちは必ず正純が担当なんだなw 
375人間七七四年:2009/02/06(金) 10:58:09 ID:4+HYzei4
IQサプリ

小早川隆景の家臣に「漢字にやたら詳しい」某という家臣がいた。

或るとき、隆景は縁側から庭に下りて木の下に腰掛け、頭の上に葉っぱを
かざして、家来たちにこう言った。
「コレを持って来いよ。」
『コレ』と言われてもなんの事だかさっぱり分からない家来たちはおろ
おろするばかりであったが、漢字博士の某は即座にそのなぞかけを解き、
「茶」を隆景に差し出した。
その姿を見ても、家来たちはまだピンと来ない様子であった。

隆景はその某の機智を褒めた後、
「私がすばらしいと思うのが、こういう人物だ。誰でも何かひとつぐらい
は取り柄があるものだ。その取り柄を適材適所に使いこなすのが名将の器
なんだなぁ。」
そう言って家臣の取り柄をうまく使ってゲットした茶をうまそうに飲んだ
という。
(続武者物語)

このなぞかけに君も挑戦してみよう!
376人間七七四年:2009/02/06(金) 10:59:57 ID:XVBZnsHQ
「私がすばらしいと思うのが、こういう人物だ。誰でも何かひとつぐらい
は取り柄があるものだ。その取り柄を適材適所に使いこなすのが名将の器
なんだなぁ。」

褒めてるようで微妙に褒めてないなw
377人間七七四年:2009/02/06(金) 11:08:35 ID:YnIOuTO5
鶏鳴狗盗ってね。でも、この才能を生かすのは難しそうw
378人間七七四年:2009/02/06(金) 11:50:54 ID:4+HYzei4
大木を切る

土井大膳は元は北条氏の被官であったが、北条氏に背き長野業正の客将となった。
長野氏と武田氏は長年の抗争状態にあったが、ある戦で長野氏が武田氏に負けて
退却することになった。
殿軍は、土井大膳と赤石豊前の2人が務めることとなった。

ところが、運のないことに赤石の旗指物がさいかちの木にひっかかって取れなく
なった。馬上から手を伸ばしても取ることはできない。
「お〜い大膳。旗指物が取れなくなった。旗指物を捨てて帰るのは末代までの恥。
何としても取り返したいので助けてくれ。」
大膳は「よっしゃ、心得た。とにかく貴様も馬から降りろ。その木を切って旗指物
を取り戻そう。」と言って馬から飛び降り、先に退却した殿軍のいる箕輪城の方向に
2頭の裸馬を走らせた。
二人は刀を抜いて「えっさほいさ」とさいかちの大木を切り始めた。
そして、やっとこささいかちの木を伐り、大木は道をふさぐ形で「どうっ」と倒れた。

豊前が倒れた木から旗指物を取り戻している間に、武田軍の追っ手がやってきた。
「武田の侍は多勢。こちらはたった2人じゃ。存分に働いて討ち死にせん!」
と死を覚悟したころに、先ほど引き揚げた殿軍の一部の10名が2人の元に引き返してきた。
聞けば、大膳と豊前の裸馬だけが追い付いてきたので、「さては大膳と豊前は討ち死にした
か。心配だから様子を見に行こう。」ということで引き返してきた、とのことである。
そして、「われも俺も」ということで、続々引き返してきて総勢100人余りになった。

武田軍は大膳らを打ち取ろうとするも、さいかちの大木が道をふさいでおりしてなかなか先には
進めない。さりとて、さいかちにはびっしりとトゲが生えており乗り越えていくこともできない。
大膳と豊前はさいかちを盾にして、「ござんなれ!」陣を組み両軍はこう着状態となりやがて日が
暮れ始めた。
とうとう武田軍の追っ手は追跡をあきらめて引き上げ、大膳と豊前は無事に箕輪城に帰還した。

業正は二人に対して、
「敵を我が城に寄せ付けず、途中で踏みとどまった大膳と豊前の働きは莫大な功である。」
として大いに褒めたという。
(続武者物語)
379人間七七四年:2009/02/06(金) 11:52:13 ID:7WUn0wxF
頭の上に葉っぱで何でお茶になるのかよく分からないんですが。
自分がバカなのはしょうちしてるので教えてください。
380379:2009/02/06(金) 11:55:26 ID:7WUn0wxF
理解できたので上の書き込みは無視してください。
381人間七七四年:2009/02/06(金) 12:11:42 ID:V8xwkZCS
>>370
本多正純、世代が少し近ければ石田治部や直江山城と友達になりそうだよね。
頭の回転は早いし明敏だったんだろうけど、言葉の裏にある意味とか細かい人情を汲み取るのは苦手だったんじゃ…
382人間七七四年:2009/02/06(金) 13:53:41 ID:rT8bv8y/
>366
それでなんだかんだあって、結局蒲生家も退転したんだよな本多正重・・・
(一時は乱発蒲生姓を賜る程度には家中で尊重されていたそうなんだが)

剛直にもほどがあるw
383人間七七四年:2009/02/06(金) 14:15:29 ID:V9Aprjoo
>>381
5歳差だから、かなり近い世代だと思うが。

んで、wikipediaの本田正純の項には
石田三成の身柄を預かったとき、三成に対して、「貴殿も忠臣なら、なぜ潔く腹を切られなんだ」
と質問すると、三成は「大望ある者は、最後まであきらめず己の信念を貫くものだ。
お主にはそれがわかるまい」と言い返されたとされる。
なんていうエピソードが載ってた。
384人間七七四年:2009/02/06(金) 15:40:55 ID:g3E0S8ji
人情の機微と言うものが理解できない奴同士が語り合ってもやっぱり理解しあえないですよという落ち?
385人間七七四年:2009/02/06(金) 15:53:29 ID:4r1inkBc
森長可・富田長繁「言葉じゃなくて拳で語り合おうぜ!」
386人間七七四年:2009/02/06(金) 16:05:07 ID:PnBJylOO
>>383ふつうに主家・主君へ忠義を持つトコまでは共通しても

いい悪いは別にして一個の武将として覚悟があった三成と、
そうじゃなく徳川家の能吏って枠内に収まってしまった正純の差、かな。


……別の話(ていうか後世の評)があって、

なまじ佐和山19万国の所領を持っていたために西軍の首謀者として斬られた石田三成。
謀略家に徹するなら、毛利や宇喜多にもっとへつらって(自分は)矢面に立つのを避けるべきだった
大禄ではないけどそこそこ所領があり、自分が豊家を支えるんだって自負心も強すぎたんだろう
石田家は寡兵なのに決戦場に赴いて華々しく戦って、結局負けるハメになってしまった。

正純の父ちゃんは自分が一向一揆に与して徳川家から一時逐電していた過去を忘れなかったらしく
大御所家康、秀忠に信任されていたにも関わらず相州玉縄に2万国ちょっとの禄しか受けなかった。
自分が謀臣・黒幕であることをむしろ強調して家中の憎まれ役を引き受けて、家康の後を追うようにひっそり死んでしまった
(息子にも「俺の死後、3万国までは加増を受けてもいいけど、それ以上は貰うなよ?
 将軍家の寵臣が大禄をはんでいたら世人の疑い嫉みを招くだけだ」と言ったとか)
正純は父・正信ほど透徹した考えを持てなかったんだろうか。

387人間七七四年:2009/02/06(金) 16:28:21 ID:m2O5ASE7
一瞬、正信がオーベルシュタインと被った。
主君の影としてきっちり制御された清廉潔白な腹黒さを持つ奴は魅力があるよね。
388人間七七四年:2009/02/06(金) 17:09:25 ID:6IGRjI0Z
きも
389人間七七四年:2009/02/06(金) 17:25:37 ID:ER1pOmgT
>>378
逆に、指物がサイカチに引っかからなかったら、追っ手に捕捉されて討死してたかもしれんのだよな
こういうのを、昔の人は武運と言ったのかね
390人間七七四年:2009/02/06(金) 18:11:47 ID:LsZka2/9
>>377
間諜なんかが入り込んでるかもしれない時に隆景が全てゼスチャーで指令を下したりする時役に立つだろ
391人間七七四年:2009/02/06(金) 18:23:42 ID:swoRDXsP
>>385
お前らは拳で済まないだろw
392人間七七四年:2009/02/06(金) 18:39:21 ID:V8xwkZCS
>390
人情手旗信号〜♪

「たのしい!こばやかわけ」はじまるよ〜
393人間七七四年:2009/02/06(金) 18:48:41 ID:ER1pOmgT
>>390
想像して吹いたw
394人間七七四年:2009/02/06(金) 19:07:07 ID:4+HYzei4
秀を討ち取りし者

明智光秀が京都山科(或いは小栗栖)で土民の竹槍にかかって討ち死したのは有名な話であるが、
件の土民については諸説あり定かではない。そんな無名の土民の逸話である。

明智光秀を打ち取ったのは、小栗栖村に住む百姓の「作左衛門」と言うものであったが、本人は
自分が竹槍を突き刺した人物がそんな有名人とは知らず、後から知ってビックリしたそうな。
まわりの百姓から、
「おめぇ、光秀をやったそうじゃないか。裏山杉。」と口ぐちに褒められている間に、この男の
野心が目を覚ました。
「おらも侍みたいに強くなりてえ!!」
作左衛門は独学で日々武芸に励み、「西の村に暴れん坊が居る」と聞くやその者を打ち負かし、
「東の村に悪党がいる」と聞けばその者を打ち取るといった具合に近隣の悪者を次々と退治して、
作左衛門はいつしか「小栗栖作左衛門」とその名を聞いただけで近隣の村々の悪党が逃げ出すよう
な武名を轟かせるようになった。

やがて、作左衛門は死に息子の喜兵衛が跡を継いだ。この喜兵衛も父に劣らぬ武勇でならした百姓で
あった。

そんなある時、「小栗栖界隈で白狼が出る」という噂があり、旅人はオオカミを恐れて日暮れにはだれ
も道を通ることはできなくなった。
オオカミは巨大で人を襲うことも頻発したのでこのままでは放っておけないと、小来栖の村の若者らが
オオカミ退治の相談を始めた。
そんな若者の相談を聞いた喜兵衛は、
「おいおい、そういう問題だったらうってつけの人を忘れてやしないか。おらがちょっくらオオカミを
退治してやろう。」と言ったが
「いや〜喜兵衛どんがもうちょっと若ければ頼んだところだけど、あんたはもう60歳のじい様じゃないか。
じい様には荷が重いよ。」とつれない返事。
「おらを馬鹿にするのか。60だろうが、オオカミなんてちょろいもんさ。」と若者が止めるのも聞かず狼退治
にいった。

喜兵衛は雨降る中蓑を着こみ、手には鎌を持ってオオカミが出没する場所にあたかも死人のごとく寝た。自らを
オオカミのえさにしたのである。
しばらくして、今日の獲物を狙いに来たオオカミが近づいてきた。
用心深いオオカミはわざと2度は喜兵衛の上を飛び越え、3度目に喜兵衛の喉首に食いついた。
「いまだっ!」
喜兵衛はオオカミの攻撃を寸前でかわし、鎌を持ってオオカミのノドを引き裂き、首を切り落
とした。喜兵衛の武勇は老いてもいまだ健在であった。
(続武者物語・醍醐随筆)

光秀を無名の百姓が討ち取ったことがきっかけで、小栗栖村の安全が守られたということである。
395人間七七四年:2009/02/06(金) 19:38:16 ID:qkBXnkng
>>394
思わず
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1229041733/l50
このスレからのコピペかと思ったじゃん
396人間七七四年:2009/02/06(金) 19:48:57 ID:Jlpjmd8F
農民のくせに、左衛門とか兵衛とかOKなのか?
397人間七七四年:2009/02/06(金) 20:21:22 ID:CyN8qVws
助六とはガチしたことあるの?
398人間七七四年:2009/02/06(金) 20:28:26 ID:HuxCIZNu
>>386
謀反人の息子としてスタートした正純にとって家康は父以上のほとんど神のような存在だったろうし
その主が眠る日光東照宮のお膝元をあげるといわれたら、絶対断らないと思うんだよな。
もちろん神君のお膝元として恥ずかしくない城下町にするためにそれなりの石高も欲しいだろう。

なんというか、こいつの晩年は「生き残った場合の三成」だとおもう。
399人間七七四年:2009/02/06(金) 20:34:36 ID:m2O5ASE7
>>396
ヒント:下級武士と上級農民の境界は曖昧。
400人間七七四年:2009/02/06(金) 21:26:17 ID:MUr0xBJv
>>398
あーそう言われると確かに生き残った場合の三成かもね
良い形容だ
401人間七七四年:2009/02/06(金) 22:25:30 ID:1nrzIpgU
>>383
つまり吉継は大望がないから腹を切ったんだな
亡き友を愚弄するような事を言っておいて
己の信念を貫くと言われても説得力がない
402人間七七四年:2009/02/06(金) 22:52:10 ID:94Ujct6V
まあ吉継は大望どころかおもいっきり三成に巻き込まれた人だからな
403人間七七四年:2009/02/06(金) 23:12:47 ID:CyN8qVws
えっ石田アンチ?
404人間七七四年:2009/02/06(金) 23:32:37 ID:uMVXjB1+
あくまで三成を助けるため、であって
吉継自身の大望じゃないしな
405人間七七四年:2009/02/06(金) 23:39:59 ID:FAWPuHs1
果たしてそれだけだったのかね
406人間七七四年:2009/02/06(金) 23:41:12 ID:Li5CG892
この時代は石田アンチ大杉です。
407人間七七四年:2009/02/06(金) 23:43:55 ID:HGdrTgMN
つーか吉継の場合、病気のせいでこの先長くは無いと自覚していただろうし、
三成のでっかい企画に乗って成功しても失敗しても最後の一花、って感覚の方が強そうだ。
408人間七七四年:2009/02/06(金) 23:52:23 ID:LnHCHi0A
どうせ生き延びても遠からず死ぬと本人も回りも思ってただろうしなぁ
409人間七七四年:2009/02/06(金) 23:59:58 ID:ydRmGhfE
小早川秀秋「じゃあ呪うなよ」
410人間七七四年:2009/02/07(土) 00:41:16 ID:u7OAXJdm
石田に従ったのは義継の意志だ。
411人間七七四年:2009/02/07(土) 01:05:09 ID:SmYJJ1p9
三成に従ったのは確かに本人の意志だが、それは「大望」ではないだろ
それに関ヶ原で負けた時点で吉継生きても死んでも大勢変わらないし
412人間七七四年:2009/02/07(土) 01:08:27 ID:fxhjWZJw
>>410
何故三好家最後の当主が、とかとっさに突っ込みたくなったオレはかなり末期だなw
413人間七七四年:2009/02/07(土) 01:14:45 ID:rJuss7Mc
>>412
輝宗パパ殺害犯逃げてたのかよwとか思ったオレよりマシだ
414人間七七四年:2009/02/07(土) 01:41:55 ID:SmYJJ1p9
お前らは俺かw
415人間七七四年:2009/02/07(土) 01:45:14 ID:Nw7L60dD
すまん俺もだw
416人間七七四年:2009/02/07(土) 04:25:26 ID:4U3NUXTK
一存『何と我が息子が歴史に残る戦で大活躍したと申すか』
417人間七七四年:2009/02/07(土) 08:50:15 ID:elYZ6Ot6
「石山軍記」の前田慶次と信長の旗の逸話が出てたのでもう少し詳細に

奇襲で信長の旗を奪った石山勢は「信長は降伏したぞ」と叫びながら
石山へ帰って行った。その途中、道の脇から男が現れて兵をなぎ倒し、
旗を奪ってどこかへ去って行った。怒って追いかけようとする兵たち
を、大将粟津右近は制した。「甲冑を着たこの軍勢の中に、平服でた
だ一人駆け入り、旗を奪うなどよもや人間ではあるまい」

佐久間信盛の軍が信長を探していると、道端に一人の男がおり、
奪われた旗を持っていた。
「そなたは何者じゃ、なぜその旗を持っておる」
「俺は敵でも味方でもない、ただの三界流転の浪人だ。信長が降参したな
どと嘲笑するのを見るに堪えず、奪い返し、織田方へ返そうと思ったまで」
男は旗を返した。
「かたじけない。わしは織田家の将・佐久間信盛じゃ」
「おお佐久間殿か、俺だ、前田慶次郎だ」
佐久間は驚いて月明かりを頼りによく見るとたしかに慶次郎であった。
「お主は理由もなく出奔したではないか。になぜここへ?しかし今回の
働き見事じゃ。殿も喜ぶだろう。帰参するならわしがとりなそう」
慶次郎は「理由なくとは佐久間殿の言葉とも思えぬ。前田の家は嫡男
の俺ではなく利家に渡った。何の面目があって国にとどまるのか。俺
は意地を守って浪人となっただけ。今帰参するのは、すでに治まった
叔父の家を奪うようなものじゃ。望みはござらぬ。旗は佐久間殿の手
柄とせよ」と笑い、姿を消した。

佐久間は信長に出会うと、慶次郎の件を話した。信長も慶次郎のこと
は武勇の士として聞いていたので、姿を消したことを残念がった。
418人間七七四年:2009/02/07(土) 10:10:36 ID:2g+shhip
さすが花の慶次
419人間七七四年:2009/02/07(土) 10:29:42 ID:hCDWTz9u
>417
武士の意地で浪人して尾張からは出てるけど、利家叔父貴を騒がせたくもない…か。
傾奇者なんだけど奥ゆかしいというか。普通なんだな

屈折した所が前田家に帰参してから「我こそは前田利家の影武者なり!」なんて形に w
420人間七七四年:2009/02/07(土) 10:39:17 ID:hCDWTz9u
>>398あーその喩えはよく分かるわ、あんがと。自分じゃうまく言葉にまとめられなっかたよ...


しかも家康は大事を成して先に亡くなって、次代の秀忠や幕閣からは
『何かと神君神君って先代の巨人(や親父の正信)を引き合いに出す、うっとうしい古株』て思われかねないし。

正純は一々“主家を残し自分も生き残ってしまった石田治部”だったのかもね。
421人間七七四年:2009/02/07(土) 10:42:39 ID:7gmjx7Dw
信長も本願寺相手に、苦戦に苦戦を続けていた日々だったから
パッと明かりが差すように嬉しかっただろうね。
422人間七七四年:2009/02/07(土) 10:54:13 ID:cF6Iwpwv
慶次の逸話は逸話であってもこれが本当であってほしいというのが男のロマン
423人間七七四年:2009/02/07(土) 15:20:47 ID:zAl7TWgY
なに!?鮭児(けいじ)とな!!?
(´□`) ゴクリ
424人間七七四年:2009/02/07(土) 15:46:25 ID:MPuv4lMp
>>417
さりげなく粟津右近の英断だなw
425人間七七四年:2009/02/07(土) 18:13:45 ID:EpeiF5fs
伝説の名君・伊達宗高

政宗の七男・宗高は7歳にして柴田刈田両郡三万石(現:宮城県柴田郡村田町)を領する村田城主となった
1623年に蔵王の刈田岳が噴火し、翌年になっても噴火はおさまらず、領地に多大な被害を及ぼした

思案した政宗は宗高に中国から渡ってきた易者・王翼とともに祈祷を行うよう命じた
宗高は王翼とふたり刈田岳に登って火口近くに祭壇を設け、青竹に自分の息を吹き込んで埋めた
この行為は、宗高自身の命を天に捧げるという意味である

すると不思議なことに噴煙活動が次第に鎮まり、夜に入ると噴火活動が完全に止まったのである
奇跡を起こした名君として宗高は領民から一層慕われることとなった

しかし1626年、政宗と連れ立って京都に上って官位を受領後、疱瘡にかかって20歳の若さで亡くなった
大願成就したために天が宗高を連れて行ったのだと噂された

領地ではこの若き君主を惜しみ、今も命日に「宗高公まつり花火大会」が開催されている
426人間七七四年:2009/02/07(土) 19:09:38 ID:u6BLoWN8
>>278
クリーム色を月毛と呼ぶのか。
月の色が由来なら、なんとも雅な呼び方だな。

427人間七七四年:2009/02/07(土) 20:29:42 ID:7Ow4giSZ
桝を継ぐもの

真田信之の次女はまさといい小松殿との子とされている
彼女は22歳で夫佐久間勝宗と死別し実家に戻った
父信之の死後、落飾し見樹院と号し化粧領で隠遁生活をしていた
彼女の化粧領の年貢は五升桝で計測されていたのだがこれが実質四升七合の桝
百姓は彼女の慈愛に感謝したと言われる
が、どこにも面倒な奴達はいるもので…
まけてもらった三合分がどうしても素直に受け取れない
彼等は見樹院が毎朝庭に一抓みの米を蒔いて雀の餌にしているのを思い出し
「雀の餌にしてくれ!」
と次々に見樹院に渡して帰ってしまった
見樹院は深々と頭を下げ素直に受け取ったとされる
後日、松代藩の江戸普請に赴く村の若者に見樹院から餞別が送られた
村人は畏れ多いと困り果てたのだが
「これは私からではありません。庭の雀からの品です」
との見樹院からの言葉が伝えらた
普請に赴く若者達はその気遣いに感謝し士気も大いに上がったそうな

実はこの五升桝
元々は真田信綱が作ったものである
彼の死後、娘が信之に嫁いだ際に信之が受け取り藩政にも使用したとされる
これが信之から娘の手に渡っていたのだ
他に実質九升五合の一斗桝もあったそうだがこれは信之の代で失われている
真田三代記では松代転封の信之一行を領民が別れを惜しんで涙する場面があるがあながち誇張ではないかもしれない
428人間七七四年:2009/02/07(土) 20:35:34 ID:0BKMuQu1
森忠政「俺が松代から出てく時は喜んでたくせに領民どもめ・・・」
429人間七七四年:2009/02/07(土) 21:00:37 ID://IEkAn9
なのに、信之の孫の信利ときたら…
沼田は昌幸が徳川・北条を敵に回し、上田合戦をしてまでも確保した
土地だというのに。
430人間七七四年:2009/02/07(土) 21:10:21 ID:Uuatf7Yr
大内義隆、母を想う

義隆の母は夫の義興よりも長生きし、陶隆房の乱の際も存命していた
乱から逃れるため義隆とは別れ真如寺に避難していたが
義隆の無事を思い煩い、気を失って倒れてしまう
この報は陶軍からの逃亡中、法泉寺に立ち寄っていた義隆にも知らせられる
兵は迫ってるわ今後の事で揉めてるわで大混乱の義隆だったが
母の一大事を聞き、すぐに医師を真如寺に派遣するように命じた
…それから数日後、義隆は自刃することとなるが
この母は一命を取り留め陶隆房の乱から八年、そして大内氏滅亡から二年の
永禄二年(1559年)六月十一日まで生きることとなる
431人間七七四年:2009/02/07(土) 21:30:14 ID:cF6Iwpwv
親父は信頼できない人は多かったけど袋さんは大事にした人は多かったのかな
432人間七七四年:2009/02/07(土) 21:40:52 ID:RcDskKFN
最上義「子を思う母の気持ちはちゃんと通じるものです」
433人間七七四年:2009/02/07(土) 21:46:55 ID:BReZVLaT
父の気持ちの方は伝わらなかったみたいだけどね
434人間七七四年:2009/02/07(土) 21:54:14 ID:GfgTogOG
>>430
自分の家が滅ぶ様を見るのは辛いだろうな
まあ、義隆が死んだ時点で母親にとっては別の家だったのかもしれないが
435人間七七四年:2009/02/07(土) 23:17:57 ID:Jnq+06Me
>>431
秀吉「お袋さまは大事にせなかん」
436人間七七四年:2009/02/07(土) 23:19:13 ID:0BKMuQu1
>>435
作佐「ごめんちゃい」
437人間七七四年:2009/02/07(土) 23:21:11 ID:YFmiyqgh
政宗「母を尊重しないとか子として間違ってるよね」
438人間七七四年:2009/02/08(日) 00:33:00 ID:FEWbUksu
安房の国里見義弘の家臣に、正木時茂と言う、剛勇無双と呼ばれた侍が居た。

時茂が12歳ほどの時である、乗馬の訓練を受けた時、彼は手綱を片手で持って
乗る事を好んだ。これに馬の師匠は怒りだし

「片手綱とは馬をよくよく乗り覚え、巧者と呼ばれてからはじめてやる様な乗り方です。
あなたは未だ、初歩の訓練すら終わっていないのに、そのような乗り方をすればそれは
馬上の姿勢も悪くなります。とにかく先ずは両手できちんと手綱を取って乗りなさい!」

それを聞いた時茂少年、
「わたしは将来、一軍を任されるほどの侍大将となることを目指しています。
大将であれば、馬から下りて敵に向かっていき、槍をあわす機会はほとんどありません。
大将として馬上において下知をし、また敵と戦うためには、片手綱の達者に
なっておくべきではないでしょうか?」

そう言って、ついに師匠の言う事を聞くことは無かった。

さて、時は流れ、里見義弘と北条氏康の戦った、鵠台の合戦が起こる。
この合戦において里見は敗北したが、正木時茂はしんがりの軍の大将として、
北条方の名のあるものを、片手綱で馬上より21人斬りおとし、その猛威をみせつけ、
静かに撤退した。


正木時茂は太膳亮を称していた。この時両軍の侍大将に、大膳と名乗るものが三人居た。
そこでこの頃の歌に

『依田の大膳、銭大ぜん。矢田の大膳、逃げ大ぜん、正木大膳、槍大ぜん。』

と、歌われたそうだ。

関東の勇者として名高い、槍大膳のお話。
439人間七七四年:2009/02/08(日) 00:53:27 ID:i6m0WJec
21人て凄まじいな
440人間七七四年:2009/02/08(日) 00:56:47 ID:LFN6M6c7
安田国継と寺沢広高は親友同士で、若い頃に
「どちらかが鑓働きで国持ちになったら、一方を十分の一の禄で召抱えよう」
と誓い合った仲であった

さてこの国継は明智光秀に仕えて本能寺の変で信長に手傷を負わせ、
森蘭丸を討つという大功を立てた
(ちなみにこのとき、蘭丸に股間を刺されている)
しかし御存知の通り光秀は秀吉に敗れ、悲運にもこの功は消滅してしまう
国継は謀反人の家臣という過去を隠すために天野源右衛門と名を変えて
羽柴秀勝、秀長、蒲生氏郷、立花宗茂と主君を変え続け転々とした

そんな彼を拾ったのが広高だった
広高は秀吉に仕え、関ヶ原では東軍に加担して大名となっていた
広高はかつての約束通り、石高の十分の一の禄で源右衛門を召抱えたのである
まもなく源右衛門は死去するが、その日は奇しくも信長の死んだ日であった
441人間七七四年:2009/02/08(日) 01:35:27 ID:gZCXANk7
>438
うむ「いくさ人の真の頼もしさが発揮されるのはむしろ負け戦、撤退戦」というヤツだな

普通に忠勇の士ってことだけど殿軍で大ハッスルした槍大膳カコイイ
442人間七七四年:2009/02/08(日) 02:22:06 ID:24IaX46/
>>438
この前後に正木時茂は3人居るからなぁ
どの正木時茂なのやら
謙信に救援要請して、その越軍南下によって里見の窮地を救った初代正木時茂
彼は鵠台の合戦以前に病死したというのが近年有力
初代が一番有名な「槍太膳」
その嫡男・信茂も正木時茂と呼ばれてるけど鵠台で戦死
初代時茂の養子、正木憲時(悪い話前スレ「越山して下さいヨー」の人)まで正木時茂
鵠台の合戦時は14歳
その年頃で「槍太膳」なんて呼ばれてるもんかな
443人間七七四年:2009/02/08(日) 07:23:18 ID:9sMsv83s
>>438
戦国のオレ流だな。
444人間七七四年:2009/02/08(日) 09:44:58 ID:OjWwYhRC
>>443
森武蔵を育成足軽で年俸400石で採用
445人間七七四年:2009/02/08(日) 10:00:54 ID:blLshG7I
>>441
殿で活躍できる武将って凄いよなー
退佐久間や逃げ弾正、金ヶ崎で殿軍務めた秀吉・家康とか
まー、活躍できなかった武将って名前も残らんのだろうけど

って事で退き佐久間や逃げ弾正の逸話ってなんか無いかな?
異名の割にはあんま逸話が有名じゃない気がする
446人間七七四年:2009/02/08(日) 11:52:31 ID:CN1l/RZK
>>444
俺達のモリさんが“きれいなモリさん”に!?
447人間七七四年:2009/02/08(日) 12:26:25 ID:6yb5N9sc
万石無いとゴネそうw
448人間七七四年:2009/02/08(日) 12:50:34 ID:Fv8HOdC0
>>440
ガイシュツ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/category46-1.html


うろ覚えの上にソースがブコウだからアレだが、作兵衛にはこんな話がある。

秀次事件の発端

作兵衛は立花家退転後に豊臣秀次に仕官していた。
しして、女狂いの秀次は作兵衛の娘を気に入り召しだそうとした。
しかし、作兵衛は頑として断った。
なぜならば、その「娘」は養女で、実は明智光秀の娘の貞子(織田信澄の妻)だったから
である。作兵衛は旧主の娘を保護してたのである。
秀次はその話を知ってもあきらめず、とうとうその騒ぎは秀吉の知るところとなった。
これが、秀次事件の発端とされる。
449人間七七四年:2009/02/08(日) 13:00:15 ID:6yb5N9sc
作兵衛というのも面白い男だよね。


安田作兵衛といえば本能寺で森蘭丸を討ち取った事で有名だが明智家滅亡後、次はどこに仕えたか?

なんと森家である。

森長可「武功は武功だろ、jk」となどと言って作兵衛の力を見込んでわざわざ召抱えたという。

小牧・長久手で長可が死ぬと「なんで各務や林や小僧(忠政)に頭下げんといかんのか」と言い放って
森家から出て行ったという。
450人間七七四年:2009/02/08(日) 13:11:20 ID:6yb5N9sc
ってまとめよく見てきたら既出だな、うん。

すまんかった。
451人間七七四年:2009/02/08(日) 14:47:56 ID:gZCXANk7
>447
複数年契約と代理人交渉、甲斐入りの出来高で信濃川中島を要求するのか

 ・・・お乱の「近江坂本をどうのこうの」噂話が笑えなくなってきたじゃねーかw
452人間七七四年:2009/02/08(日) 14:48:59 ID:gZCXANk7
>449
最後の二行が武辺らしく格好いいのか、恩知らずというべきか;('A`)
453人間七七四年:2009/02/08(日) 15:14:46 ID:Fv8HOdC0
ついでに、作兵衛の友達の寺沢広高の逸話をWikiより引用


虹の松原

唐津藩の藩主となった寺沢広高は、新田開発の一環として、防風林・防砂林として植樹を行った。
藩の庇護の下、禁伐の掟(伐採は死罪)はもちろんのこと、燃料としての落葉の採取も厳しい制限が課せられていたという。
後年、藩主の改易や移封により主家が変わっても手厚く管理され、「日本三大松原」の一つとして現存している。

ちなみに、寺沢広高は「この中に自分が愛してやまない松が7本だけある。」と言ったというが、どの松とわざと指定しなかった。
これは住民に「もし自分が粗末にした松が、殿様の愛したその7本のどれかだったら。」と思わせることで、全ての松を大事にせざるを得ない
ように、心理的に圧力をかけたものといわれている。
454人間七七四年:2009/02/08(日) 15:25:30 ID:fUP5sfcl
>>427
信之スレでは翠星石のAAでおなじみの人ですね
455人間七七四年:2009/02/08(日) 15:27:37 ID:r9h8yQXb
>>445
武田信玄が34〜35歳のころ、彼は酒色にふけり、歯も合わせられぬほど、泥酔した。
近習の春日源助がこれを憂い、みずから医薬の法を学び、薬を調合して信玄に
勧めたところ、ようやく回復した。

数日後、やっと政務の場に姿を見せた信玄に、源助は詩の書かれた紙を見せて言った。

「それがし、近ごろ漢詩を習っておりますが無学にて、この詩が読めませぬ。
申し訳ございませぬが、この詩の意味をお教え下さいませぬか?」

狂楽不佳味  (酒狂いの頭で美食の味など分かりましょうか?(無駄なことです))
嬌容是禍殃  (その上、美女を抱えるなど、災いどころか滅びの元では?)

達人知有節  (名人・達人は節度を持つことを知っているがゆえに
頻無中厥傷  (みだりに傷つき病むことが無いと言います。(どうかお考え下さい))

群臣の前で主君に言い立てることを避け、詩に託して諫言する・・・

「うむ、なかなかできる事ではない。」信玄は長光の刀を与えてこれを賞し、生活を改めた。


この話だけ見ると、前に「本多正純は生き残った三成」ってレスがあったけど
春日弾正は「生き残った蘭丸」って気がする
456人間七七四年:2009/02/08(日) 15:40:31 ID:WjQS/zka
それは逆だろう。蘭丸のが事跡が少ないんだし、早死にした春日弾正というべき
457人間七七四年:2009/02/08(日) 17:33:53 ID:0cnUKqD3
>>448
光秀のところにあったのか。すまん、気づかなかったよ・・・
458人間七七四年:2009/02/08(日) 19:06:08 ID:FEWbUksu
戦国時代の動物愛。

殺伐たる世の中であった戦国時代にあっても、日本人は身近な動物を大変、大切にしたようだ。
宣教師もこれがよほど珍しい現象だったのか、特に記録している。

ロドリーゲスは、
「日本人は、飼いならされた動物や家畜など、この種のものに対して、非常に慈悲と憐憫の
心を注ぐ」

またフロイスも
「日本では馬を使う馬子ですら、動物を哀れんで、その荷物の3分の1を肩に担いでいくような
事すらある」

と、驚きをもって描写している。


まあ、この両人とも「そのくせ人間は簡単に殺す」とか言っているのはご愛嬌w
459人間七七四年:2009/02/08(日) 19:25:17 ID:SJ5DmSJu
簡単に人を殺すのは、西洋でも似たようなもの。

ただ日本の大名は、領民に対して裁判権、というよりも生殺与奪権まで
持っていて、絶対的であった。
微罪でも厳罰であり、すぐに死刑であったから
戦乱のない時期であれば、スペイン、ポルトガルよりも
きわめて犯罪は少なく治安が良かった。
460人間七七四年:2009/02/08(日) 19:29:09 ID:BySo423K
中世の領主権と大名による統治の認識が逆のような。
461人間七七四年:2009/02/08(日) 19:31:14 ID:i6m0WJec
確かに
462人間七七四年:2009/02/08(日) 19:32:17 ID:FEWbUksu
>>459
> ただ日本の大名は、領民に対して裁判権、というよりも生殺与奪権まで
> 持っていて、絶対的であった。

それは秀吉の政権の、一時期だけの限られた現象だと思うぞ?
戦国大名はそんな絶対的な権力は持っていないよ。
都市や村落において犯罪者に対する罰が重くて犯罪が少なかった、と言うのは同意。
463人間七七四年:2009/02/08(日) 19:50:26 ID:DsOhniYX
まあ自主的に処罰してるんであれば大名の介入する必要が無いよな
464人間七七四年:2009/02/08(日) 19:52:46 ID:SJ5DmSJu
あ〜そうなんですね。

戦国大名の裁判権を含め租税徴収等の統治権は、寺社、国人、その他の
在来の勢力が根強く、極めて限定的でしかなかった、と
理解せなばならないということでしょうか?
465人間七七四年:2009/02/08(日) 20:00:19 ID:Vyaucl+K
村同士のいさかいで、近江半国が戦争状態になったこともあるくらいで、
調停に公家や幕府を介入させたり、村の政治力って侮れないんだぜ。


ある程度、統治能力を持った大名だと、そういったいさかいは全て自分達が裁判で片をつける。
このとき、大名個人の決定を覆すこともある。
466人間七七四年:2009/02/08(日) 20:40:38 ID:/cbt+fIP
うまく自治体間の調整をしてくれる者が公儀って感覚だったろうからなあ

北条氏の治める武蔵国関戸郷
重臣の松田氏の下、在地領主の森岡という者が代官となって、治めていたのだが…
天正14年、松田氏は関戸に布告を発した
「森岡は最近非分があったらしく、百姓の書付に驚いて逃げ出してしまった
森岡は成敗(死罪)したので、郷中のことは百姓六人に預ける
当年分の租税をつつがなく速やかに納めれば、代官をやめ、後々まで六人に預けることにする」

村方が強訴で領主を追い出せてしまったお話
467人間七七四年:2009/02/08(日) 21:38:00 ID:SJ5DmSJu
黒澤明の「7人の侍」、戦国時代なら普通の百姓が、野武士、野盗に
すかさず武装、反撃するから、ありえな〜い話、というのは聞きました。

映画のモデルとなった因幡国の何処かの村で、80石の50%を
傭兵に渡して防衛したのも、戦国ではなく鎌倉時代だったとか。

してみると秀吉の統一というのは、絶対王制みたいなもんだったのでしょうか。
468人間七七四年:2009/02/08(日) 21:58:06 ID:XcyQM7Jp
『喧嘩両成敗の誕生』って本で、中世から近世への移行の法の例で秀吉の法をあげてたな。
ある集団が自分達のルールで自分達を守っていく法から、政府が作る法へ。
中世の幕府がいかに国を統制しようと四苦八苦していたかがわかって面白い本だった。
469人間七七四年:2009/02/08(日) 22:24:49 ID:yzmKcN0q
日本だと地主は農民だけど、西洋だと地主は貴族になる(日本の平安時代と
同じ)なので、土地の利用や領民の生活は完全にその領主の自由裁量、って
なんかの本で読んだ気がする。
470人間七七四年:2009/02/08(日) 22:57:02 ID:Kc2mALPG
ハイランドクリアランス
471人間七七四年:2009/02/08(日) 22:58:47 ID:BySo423K
それも違うかなぁ。
日本の貴族ってのは官僚だしね。
むしろ、日本は農民というか村という自治組織(一揆)を統治したのが大名で
西洋は貴族の私有地に農奴が働かせてもらっているって感じかなぁ。
472人間七七四年:2009/02/08(日) 23:01:03 ID:/6Qnjmqa
みんなのアイドル伊達政宗さんは金をどう使うべきか知ってるよという話

すっかり徳川の世の中になった元和七年の事
江戸の伊達屋敷でぼや騒ぎがあって
まあ物置程度のほんの一部が焼けたらしい

普通だったらそこだけ直しそうなものだが、やはり政宗
「せっかくだから全面改装しちまおうぜ。どーんと派手にさ」とかいいだした。

真面目な老臣達は当然
「殿、そんな無駄遣いは駄目ですぞ。そもそも武士たるものは戦に備えて質実剛健に……」とやり始めるのだが、政宗は笑いながら
「お前ら今は天下太平だぞ?戦備えなんか古い古い。なんかあったら将軍様から借りりゃいいのよ」
そんなわけで伊達屋敷は新たに立て直しということになった
昔のケチケチしていた政宗とはえらい違いである

しかし平和になって武士も腑抜けたと見るようでは考えが浅い
伊達屋敷ともなれば将軍だって遊びにくるだろうし
こっそり蓄財して幕府に勘ぐられたらかえって面倒になる

金の意味は時代で変わる。ぱぁーっと使ってみせるのも立派な戦術なのだ
473人間七七四年:2009/02/08(日) 23:21:40 ID:Kdq2FMiV
貯蓄も必要だけど、金は流通させてそこで価値がでるってのも
わからんでもない。
バランスが肝要ですかね…
474人間七七四年:2009/02/08(日) 23:26:39 ID:U7KDEXku
政宗さんは治世でも乱世でもエンジョイしてんなあ
475人間七七四年:2009/02/09(月) 00:20:22 ID:/pqMiJ3i
支倉常長訪欧団、鉦太鼓でスペインまで送るなんてずいぶん金かかっただろう。
西洋船までこさえちゃったし。

帰ってからは、知らん顔だったが・・・
476人間七七四年:2009/02/09(月) 02:07:05 ID:pHZv0KxL
北条一族の長老・幻庵さんが書いた『幻庵覚書』は
吉良氏朝に嫁ぐ氏康の娘に宛てて書かれたもの。
これは婚礼のしきたりや結婚後の生活について書かれてる。

式当日のことについては
「親類の呼び方についてだが、自家は吉良殿屋形、実家は小田原屋形などと呼べ。
 夫は上様、母は大かた殿とか大上様と呼べ。」
「礼法は吉良家のしたてに従え。
 当日の出し物は式三献(酒宴の礼法)だろうから順序を間違えるな。
「宿老や近習にお礼をしなければいけない。幸左衛門にお礼まわりをさせなさい。
 小袖を持参するときは左手でかかえて右手でおさえて持参せよ。」
などなど、鬱陶しいわと思うほど細かく注意している。

生活については
「鏡開きやお祝いごとは母方に従うといいだろう。
 幻庵がそのことを心配していたと母方に伝えなさい。
 子孫繁栄を祝う『亥の子餅』は小田原では廃れてしまったけれども、
 内裏ではかくかくしかじかだから覚えておくように。」
など、こちらも細かい。

また窮屈な生活には娯楽も必要ということで
「座頭衆が来たら杯をやって琵琶を語らせるといい。
 諸国を旅している者ならなら特に丁重に扱うことだ。
 だが相手も男だから馴れ馴れしくしてはいけないぞ。
 ただし、みん一が来たら気安く呼んでもよい。
 彼のことはあなたも幼いころよりご存知だろう。
 彼も歳をとったがふつつか者だ、丁重にもてなしてやるといい。
 さ一も同様にしてよい。それ以外の者には馴れ馴れしくしてはいけないよ。」
などと幻庵の甥の娘に対する心づかいが見える。

長々と細かく書いているのは甥の娘への思いからだろう。
いや〜、家族っていいもんですね。
477人間七七四年:2009/02/09(月) 06:07:36 ID:h4p2Fvrv
>>472
江戸にいればどんどん仙台米が入ってくるし開墾して実高が上がってるのはわかるだろうからな。
迂闊に溜め込んでると『ナニたくらんでんだ?!』と思われかねないから

ときどき文化財もクラッシュしては余分な出費を増やしてたり(
478人間七七四年:2009/02/09(月) 06:10:35 ID:h4p2Fvrv
>>458
そもそも日本じゃ「家畜は(神が下された)人間が使役したり食うべきもの」なんて宗教の理屈なかったろうし。
牛馬なんかしっかり働いて、元気な子を産んでくれれば文句ないワケで
479人間七七四年:2009/02/09(月) 10:21:23 ID:FJI+tSWe
スペイン人貿易商人で、後に「日本王国記」を著したアビラ・ヒロン。
彼が有馬晴信(例の岡本大八事件の人)の居城を訪れた時の事である。

彼は驚いた。その清潔さに、である。
室内はもちろん、裏方の台所の竈や焜炉も清潔に保たれ、鍋釜にいたっては
銀器のように磨き上げられていた。
さらに彼を驚愕されたのは、その厩である。
臭くて当たり前の厩であるのに、悪臭は一切なく、馬の足元にも小便の痕すらなかった。


日本人の清潔好きというのは、よほど骨髄にしみこんだ伝統のようですな。
480人間七七四年:2009/02/09(月) 12:52:13 ID:LEcoNIPN
>>479
究極の循環エコサイクル社会だもんね
水も草木も食べ物糞尿も、
世の中に無駄なものってないって仕組み
481人間七七四年:2009/02/09(月) 13:08:16 ID:h4p2Fvrv
>480
資源が限られた中で、中世以前とくらべて豊かな近世生活を送ろうとしたら・・・

ごく大ざっぱに、欧州各国は海外に植民地を作ってモノや人を奪ってくる形で本国の力を蓄えた
日本は幕府が国を閉ざして地方分権・地域循環型の社会でやりくりした。 だぬ
482人間七七四年:2009/02/09(月) 13:24:00 ID:dBEQqXzb
小田原征伐後、徳川家康が関東に移封された
真田信幸は大名家たる本家とは別に沼田城主として徳川の与力となった
ある時、信幸は舅にあたる本多忠勝と閑談していた
「婿殿にとっての軍略とは何かを聞かせてくれまいか」
「私にとって軍略とは家臣を哀れむ事に御座います」
「?」
「私の命令で家臣が血を流します。彼等が血を流さずに済むよう苦心するのが私の軍略です」
忠勝はただ感心するばかりであったという
後年、第二次上田合戦のおり真田信繁の籠もる戸石城を真田信幸が攻めんとしていた
「説得して開城させれぬものか」
「やはり弟君と戦いたくはありませぬか」
「父と信繁の決意は知っている。もはや戦は避けられぬ」
「では何故?」
「どちらも真田の大切な兵よ。無為に失いとうはない」
「殿…」
「それに戸石城を奪えば武勲あげた我らを上田城攻めには使えん。武勲をあげたい他の諸将が黙ってはおらぬだろうからな」
「それでは…」
「戸石城が開城すれば真田の兵同士が戦わずに済む。それが解らぬ信繁でもあるまい」
結果、信繁は戸石城を開城して上田城に入った
これに真田昌幸は激怒した
「兄弟同士、真田勢同士で戦えば沼田衆の士気は上がらず日数を稼げたではないか!」

信幸ならばこう答えたであろう
「それでも家臣達の血は流れます。私はそれが嫌なのです」

後世の書物では戸石城の件は兄弟で争う事を嫌った信繁が秀忠の指揮を罵って兵を引いた事になっている
しかし降伏勧告ではなく開城請求であった事、使者が信幸の家臣であった事、退去する信繁に対する襲撃が一切無かった事が明らかとなっている
この事からもこの開城は真田信幸によって主導され、真田信繁が同じ考えに至って同調したと考えるのが自然なのである
483人間七七四年:2009/02/09(月) 13:32:07 ID:6CZ8G+Ws
この二人はすごくいい兄弟だったと思ってる
親父さんはやんちゃだけど
484人間七七四年:2009/02/09(月) 15:02:12 ID:IQFkgHQh
>>427
信之の死後まで生きてた次女ってのも凄いはなしだな(笑)
485人間七七四年:2009/02/09(月) 16:50:38 ID:b03ht6HH
>>482
昌幸さんとしたら「大局を見よ!」って感じだったのかな。

信幸と信繁が高い橋の上から
「下の川に飛び降りたら死ぬ?」
「死ぬんじゃね?」
とか話してて、やる気満々な部下が実際に飛び降りちゃって
親父さんに怒られる話とかも好きだ。
486人間七七四年:2009/02/09(月) 18:54:09 ID:j2grD6Lm
>>485
その話kwsk
やる気満々な部下ってのは何がしたかったんだ?w
飛び降りても俺なら死なないとアピールでもしたかったのかな?
487人間七七四年:2009/02/09(月) 18:58:31 ID:4NQU/NUx
>>484
ぐぐってみたら、見樹院は寛文13年(1673年)に79歳で没とのこと。
となると、64歳まで出家しなかったってことなのかな? 未亡人なんだし、
実家に戻ってきてからすぐに出家していそうな気がするんだけど…
488人間七七四年:2009/02/09(月) 19:40:25 ID:dBEQqXzb
>>487
見樹院の名は佐久間勝宗の戒名桃雲宗見廣岳院から取られたとされているので死別後すぐに出家はしていたんじゃないかな
ただ、現在で言う在宅出家の様なもので上田城・松代城(当時は松城)の城内に住み台殿・三の丸殿と呼ばれていたらしい
信之の隠居に付き従って柴村で柴殿と呼ばれていたりもしますな
92歳の父と暮らす64歳の娘…、何という老々介護
489人間七七四年:2009/02/09(月) 20:11:09 ID:67WPTgib
後の坊っちゃんの冒頭である。
490人間七七四年:2009/02/09(月) 20:52:41 ID:IQFkgHQh
ちょいあげ
491人間七七四年:2009/02/09(月) 21:10:28 ID:aJ/8pSFV
>>486
武田家滅亡の際、人質として甲斐にいた真田家の人々は、昌幸のいる岩櫃へと脱出した。
ようやく上野まで逃げ延びたヤング真田兄弟、辺りの景色に目をやる余裕が出てきた。

途中、雁ヶ沢という、断崖に橋を渡した地まで来た兄弟、戯れに
「この橋から、飛び降りる度胸のある者はおるか?」と供の者たちに尋ねた。

「では、拙者が。」赤沢嘉兵衛という侍が進み出た。
「翼を持つ雁でさえ、降りたら上がれぬというので、雁ヶ沢と言うのだぞ?人が上がるとか
ムリムリ 「 御 免 。 」

兄弟が言い終わるより早く、赤沢は落ちて行った。
信之も信繁も、血の気が引くほど驚いたが、もはやどうする事もできなかった。

騒ぎを聞いた昌幸は「赤沢ほどの者を、一時の戯れで死なせるとは何事ぞ!!」
と、繰り返し繰り返し、兄弟を叱りつけた。

ところが当の赤沢、涼しい顔で戻って来た。「ははは、これしきで死ぬ俺ではないわァ!」
皆、赤沢の度胸と運の強さを賞賛した。

しかし、今度は赤沢に昌幸の怒りの矛先が向けられた。
「そんなもの、たまたま助かっただけのことよ。この大事な時に命を粗末にするような男は、
わしの家臣にはいらぬ。顔も見とうない、消え失せよ!!」

勘当を申し付けられた赤沢は、3年後の神川合戦で手柄を上げ、ようやく帰参が
許された。 その後は沈毅な武士として家中に知られ、生涯に25の首を獲ったという。
492人間七七四年:2009/02/09(月) 21:21:02 ID:uVfshTIh
>>491
先にやられたww今文章打ってたのにww
ちなみに、昌幸36歳、信幸17歳、信繁16歳の時のエピソードだそうだ
493人間七七四年:2009/02/09(月) 21:24:46 ID:uVfshTIh
>>491
先にやられたww今文章打ってたのにww
ちなみに、昌幸36歳、信幸17歳、信繁16歳の時のエピソードだそうだ
494485:2009/02/09(月) 21:32:42 ID:sj2XR6yh
>>491
うろ覚えだったもんで、どこで見たんだっけと詳しく調べてたとこでした。
書いて下さってありがとうございます。

>>492さんもありがとうございます!
495人間七七四年:2009/02/09(月) 21:42:30 ID:uVfshTIh
492-493です
スレ主すまん、2度も打ってしまった…猛省してくる
496人間七七四年:2009/02/09(月) 22:16:17 ID:HVnsJrHM
>>495
二度書きとは恥を知れ!
497人間七七四年:2009/02/09(月) 22:16:32 ID:HVnsJrHM
>>495
二度書きとは恥を知れ!
498人間七七四年:2009/02/09(月) 22:41:38 ID:YlGnIldU
忠興「ツーストライク!」
499人間七七四年:2009/02/09(月) 22:41:51 ID:j2grD6Lm
>>491
サンクス。
赤沢は頭のネジが緩んでるとしか思えないなw
つーかどうやって生き延びたんだ?w
500人間七七四年:2009/02/09(月) 22:43:05 ID:loL22xSw
>>495
二度書きとは恥を知れ!


( ゚д゚)
( ゚д゚ )ハッ・・・!!





    ●
   .∵  ○ ノ
   ':.  | ̄
_| ̄|  / >
501人間七七四年:2009/02/09(月) 22:54:04 ID:6CZ8G+Ws
三度目は無いぞ
502人間七七四年:2009/02/09(月) 23:06:04 ID:5ndbuqkP
汁を2回かけたんですね。わかります。
503人間七七四年:2009/02/09(月) 23:31:45 ID:/pqMiJ3i
「当家では2度目までは注意のみ、3度目で切腹です。」
加藤清正
504人間七七四年:2009/02/09(月) 23:55:39 ID:zqlytV8T
忠興「仏の顔を三度までって名セリフを知らないのかよ」
505人間七七四年:2009/02/10(火) 00:02:16 ID:QjkCiY3R
を?
506人間七七四年:2009/02/10(火) 00:39:48 ID:+8J9yxmh
嫁の顔は3回分なのか
507人間七七四年:2009/02/10(火) 00:44:11 ID:cogAP3nq
さすがに細川は格が違うな
508人間七七四年:2009/02/10(火) 01:04:25 ID:GxKT8Htu
>>495
長可はまだ気づいてないようだ
よかったな
509人間七七四年:2009/02/10(火) 01:05:35 ID:a4PZMvZb
フロイスは参っていた
何にといえば、日本人と会見するたびに味わう違和感と失望感である

「欧州では言葉の明瞭さを求め、曖昧にすることを避ける。
しかるに、日本では曖昧さこそもっとも優れた言語であり、もっとも重視される」
「我々の場合、礼儀は落ち着いた厳粛な顔で行われる。
日本人は間違いなく、常に偽りの微笑を浮かべて行う」

とらえどころのない話と愛想笑いは、戦国武将もしていた日本の伝統のようです
さあ、堂々とLet's AISOWARAI!
510人間七七四年:2009/02/10(火) 01:12:37 ID:3AkbPo7O
蒲生氏郷の家臣・西村右馬允は合戦で抜け駆けした
ことで氏郷を怒らせて追放されていたのだが、氏郷の友達の
細川忠興がとりなしてくれたので帰参することができた。

その翌日、氏郷が
氏郷「相撲をやらないか?」と誘ってきた。

右馬允(ど、どうしよう・・・。戻ってきたばかりの私を試しているのか?
     私が勝ったらきっと機嫌が悪くなるだろうな。
     でも負けたら負けたでおべっかだと思われるかもしれない。う〜ん・・・。)

悩む右馬充だったが
右馬允(決めた。おべっか野郎と思われるくらいなら、嫌われたほうがいいや。)

と腹を決めて勝負し、氏郷に勝った。すると・・・
氏郷「むう、もう一度勝負だ!」
氏郷はまだ相撲をとる気だった。

これを見て(まずい、殿の機嫌が悪い。)と焦った家臣たちは
(おい右馬允、わざと負けろ。)と目配せをした。しかし右馬允は

右馬允(ここで負けて、わざと負けたと思われたくない。なるようになれだ!)
と本気で勝負してまた勝ってしまった。すると氏郷は怒るどころか笑って

氏郷「ハハハ、お前はわしの倍は力があるようだな。」
と右馬允を褒め、加増したのだった。
511人間七七四年:2009/02/10(火) 01:25:59 ID:esH+wXpP
>>509
フロイスに限らず、当時の宣教師の一致した見方だったようね>日本人のわからなさ

イエズス会日本布教長フランチェスコ・カブラル
「日本人は自分の心中をさらけ出したり、他人に悟らせない事を、名誉で思慮深いことだと考えている。」


ジョアン・ロドリゲス
「日本人は誰にも理解されない、極めて表裏ある心の持ち主である。
したがって日本人は三つの心を持っていると言われ、
一つは口先のもの、これは偽りであることが誰にでも分かる。
もう一つは、ただ友人にだけ示す胸中の心。
最後の一つは心の奥底にあって、誰にも見せない自分のためだけのものである。」


ヴァリアーノ
「彼らは感情を表すことに甚だ慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を
抑制しているので、怒りを発することはまれである。

互いに甚だ残忍な敵であっても、相互に明るい表情を以って、慣習となっている儀礼を
絶対に放棄しない。

胸中を深く隠蔽して、表面上は儀礼的な鄭重な態度を示すが、時節が到来して
自分の勝利となる日を待ちながら耐え忍ぶのである。
我々はそのあらゆる点で彼らとは正反対である。」
512人間七七四年:2009/02/10(火) 01:33:28 ID:gcWzWXBt
森長可・富田長繁「俺達も心に押し隠している事があってだな……」
513人間七七四年:2009/02/10(火) 01:52:08 ID:X/SRaotu
>>512
SATSUGAIですか、SATSUGAIですよね、SATSUGAぐぎゃtp
514人間七七四年:2009/02/10(火) 01:59:29 ID:Qogc35KK
>>512
わかります。首百万欲しい気持ちを隠してるんですね。
515人間七七四年:2009/02/10(火) 02:04:33 ID:DGBAzAJJ
三つの心
「ござる」「だよな」「ヒャッハー」
516人間七七四年:2009/02/10(火) 02:49:40 ID:8epmY5XY
そうは言うが森さんだって富田さんだって一軍?を率いていた訳なんだ
ただの暴れん坊に出来る事とは思えない
それ相応の力量があってのものだと思うんだがなあ・・・そういう良い逸話はあまり残ってないのかな
517人間七七四年:2009/02/10(火) 03:12:08 ID:esH+wXpP
松平清康がある時、家臣たちを前に、こう語った。


「オレは未だ小身だ。

だからオレはお前たちに、はかばかしい所領を与えることが出来ない。
それなのに、譜代だからって理由で、お前たちはオレのために懸命に、命を捨てて働いてくれる。
だからな、オレは本気で信じてるんだ。日本中が敵になって、十万、二十万の軍勢が
俺たちの所に押し寄せてきても、お前たちが五百、三百もいれば、それと戦える。

…お前たちを頼りにしている。いいか?オレは、天下を狙うぞ。」


この時の三河衆の高揚感はきっと、ものすごいものだったと思う。
間もなく訪れた残酷な現実の中でも、松平宗家を中心に結束できたのは、この時の「夢」が
あったからでは。そんなことを空想してみた。
518人間七七四年:2009/02/10(火) 07:07:25 ID:5xRlcrXO
>>517
何その死亡フラグともとれた。
519人間七七四年:2009/02/10(火) 07:20:40 ID:ZIoBbDpt
今まで御奉公ありがとうございました
清康様の御子孫に御期待下さい
520人間七七四年:2009/02/10(火) 09:01:42 ID:QRBnXbc9
>>517
で、調子に乗って尾張へ攻め込んでしまったのですね・・・
521人間七七四年:2009/02/10(火) 09:33:52 ID:5s4IB228
何という第一部完
522人間七七四年:2009/02/10(火) 10:46:19 ID:/lEnlsZZ
>>516
今までの鬼武蔵の逸話みてても武将としての力量は感じ取れるけどな

もちろんそんなもののカケラも感じられない逸話もたくsグゲッ
523人間七七四年:2009/02/10(火) 11:01:01 ID:NiwxS0z7
清康ってどんぐらい優れた将だったんだろうな
補正がかかってそうでイマイチ実像がつかめん
524人間七七四年:2009/02/10(火) 11:06:02 ID:esH+wXpP
>>523
天下を狙えたかどうかはともかく、尾張の信秀に対してはめっぽう強かったから、
あのまま生きてれば織田弾正忠家はやばかったかもしれない。
つまり信長の出現が無かった可能性はあるな。
525人間七七四年:2009/02/10(火) 11:09:35 ID:jw26k3ap
そういうの含めて信長の運は最強だと思う
526人間七七四年:2009/02/10(火) 11:48:34 ID:4WLDHrQh
これはしたり!
527人間七七四年:2009/02/10(火) 11:48:36 ID:37xIYn4Y
天正十年豊臣秀吉が中国地方は毛利軍と相対していたときのこと。
主君織田信長の進攻により勢力が衰退していた武田勝頼が天目山で自決した報を受け、
「あたら有能な男を殺す結果になったのは残念だ。
この秀吉が長篠以降も対武田戦に従っていたならば、
強いて諌めて、勝頼には甲信二国を与えていた。
そして勝頼を関東の先陣とすれば東国を平定する事ができたはずだ。」
と何度も繰り返して嘆いたという。
528人間七七四年:2009/02/10(火) 12:11:37 ID:Mqvd9emk
いい話にミソつけることになるので申し訳ないが
・・・
思いっきり 天 下 人 補 正 がかかってます本当に(ry
529人間七七四年:2009/02/10(火) 12:35:38 ID:QQGd9vsu
相手は勝頼だからなあ…
織田の嫡男相手に降伏しなかったのに、出自が百姓の成り上がりに降伏するとはとても思えない
530人間七七四年:2009/02/10(火) 12:55:10 ID:37xIYn4Y
>>529
そこは逆に因縁のある織田の主家筋ではなくて、
成り上がりの秀吉だからこそ気を許しやすいと考える人もいるかもよ。
日本には絶対的なカースト感はないわけだから、
成り上がりの後には多少の不満を抱えた者はあれど、
全国が秀吉に臣従したわけだし。
逆に勝頼は成り上がり者ということから従わなかったかもしれない。
531人間七七四年:2009/02/10(火) 13:27:50 ID:agqjADdh
>>510
忠興って友達多いね。

逸話読んでると、大丈夫か?って思うんだけど、普段は普通なんだろうな。
普通とそうじゃない時の差が極端過ぎるのかな
色々魅力的だよね
532人間七七四年:2009/02/10(火) 13:29:54 ID:E+jcsKNZ
>>530
内乱で国力落としたとはいえ、上杉謙信の次代が秀吉に臣従しているからねぇ…

秀吉のバヤイ、美人と評判の信玄娘(勝頼姉妹ら)を狙ったんかなーとか余計なこと考えてまうけど
>>515
三つの心が一つになればー
一つの正義は(首)百万パワー?
534人間七七四年:2009/02/10(火) 13:53:13 ID:xgm6/TP6
>>531
なんせ、父が幽斎、自身も利休七哲の一人だからなぁ。かなりの社交家なのは
間違いない。その上、家柄もよければ武功もすごいときたら…
535人間七七四年:2009/02/10(火) 13:53:42 ID:Mqvd9emk
>>531
DVの人は対外的にはおとなしめで人当たりのいい人が多いらしいっす。
家に帰れば豹変。

ま、忠興の場合は幼少期が結構親の愛情薄く翻弄されているので
現代と一概には比較できないけど、DV人間に成長する要素は満載だったと思います。
・・・親の愛情薄いとは思えないのに、DQN四天王の一角に成長しちゃった
森鬼武蔵と蹴鞠忠恒はどうなのよ!・・・と言うつっこみはなしでw
536人間七七四年:2009/02/10(火) 14:09:49 ID:fH30zXih
>>531
忠興は家臣や一族には厳しいけど、同僚とはうまくやってたみたい。
>>510だけでなく、加藤清正の家来の仲介もしていて世話好き。
537人間七七四年:2009/02/10(火) 14:14:32 ID:fH30zXih
>>530
名門のプライドがある勝頼が織田の家来になるのかという疑問があるし
長篠の戦いで再起不能状態の時に、勝頼は織田に和議の提案したけど信長が無視したと言う説もある。
538人間七七四年:2009/02/10(火) 14:42:35 ID:4ovmP0fG
まあ長篠で一気に再起不能になったわけではないからね
相変わらず徳川は武田に脅かされてたわけだし
539人間七七四年:2009/02/10(火) 15:06:55 ID:jDPWncDv
>>532
そういや景勝の嫁は秀吉に狙われんかったのか?
540人間七七四年:2009/02/10(火) 15:31:58 ID:2R9ssy10
>539伏見ではマッチョでガッツィーなお船さんが菊姫を護衛しとりますた。

なんか逸話がありそうな気もするね
541人間七七四年:2009/02/10(火) 15:51:41 ID:4WLDHrQh
>>536
>同僚とはうまくやってたみたい。

まわりに振り回されてるイメージがあるなww
反動で内弁慶モード?
542人間七七四年:2009/02/10(火) 15:55:36 ID:IMEyUORw
wikiによると景勝は1595年まで菊姫を伏見に出してないらしいから
いくら名門の娘とはいえ
さすがに子も側室もいない五大老のたった一人の妻相手に
秀頼も生まれてる秀吉が手を出すほどの元気は無いんじゃないか?
543人間七七四年:2009/02/10(火) 16:42:58 ID:MrgImfhU
それでも秀吉なら・・・
秀吉ならきっとやってくれる!
544人間七七四年:2009/02/10(火) 17:29:45 ID:4ng3w7gw
>>543
側室の甲斐姫(1595年で23歳)、真田信幸正室の小松殿(同年22歳)、立花宗茂正室のギン千代(同年26歳)が武器を片手にアップを始めました

つか、ギン千代には秀吉は手を出そうとしたらしい
朝鮮出兵中に名護屋城に呼び出されたとされている
察知したギン千代が完全武装で秀吉の前に現れたからビビって手は出せなかったそうだが
これを根拠にギン千代美人説があったりもする
545人間七七四年:2009/02/10(火) 20:15:05 ID:0ZUMpstl
弘前藩を築いた津軽信枚と、久保田藩を築いた佐竹義宣の話

領域のはっきりしないまま秋田へ入った義宣、早速問題にぶち当たった
北で津軽家との国境争いが勃発したのだ
お家が不安定だった新米当主信枚、家中への手前、強気にならざるをえない
佐竹側も納得せず、結局は幕府の裁定に持ち込まれる
この間、津軽では「あの」福島正則が弘前移封と決定しかかったり、
まとめサイトにもあるアッー!騒動が起きたりと信枚には頭の痛い日々が続く
一方の秋田でも、一揆鎮圧やら重臣粛清やらで、義宣は悪戦苦闘していた

結果としては、義宣がほぼ信枚案を丸呑みする形で藩境が決着した
信枚は、祝意を示すべく義宣や重臣らに上等の鷹を進呈する

が、その直後、なんと信枚は義宣に借金の申し入れをした
大々的に弘前城普請をしていたのだが、それで上洛費用が工面できなくなったらしい
プライドを捨てて頼んできた信枚に、義宣はぽんと判金100枚を貸した

苦労人同士、なんか通じ合うところでもあったのかなあという話
546人間七七四年:2009/02/10(火) 20:27:18 ID:GxKT8Htu
>>545
信之おにいにもそんな人が居れば……
547人間七七四年:2009/02/10(火) 20:55:09 ID:B1as/xXx
>>544
>真田信幸正室の小松殿(同年22歳)、立花宗茂正室のギン千代(同年26歳)

背後に忠勝と宗茂…
548人間七七四年:2009/02/10(火) 22:38:30 ID:GqFcBTWV
鬼武蔵の首の行方

本多八蔵に鼻を削がれて放置されていた森長可の遺体であったがその後にある武者が一人現れた。
その武者は自分の指物を捨てると長可の白装束を引き剥がしてそれで首を包むと自分の鑓にそれを括りつけて、
長可が乗り捨てた馬に飛び乗って井伊軍の前へ駆けて行った。

「鬼武蔵は俺が一人で討ち取ったぞー!!!」と大声をあげる武者。「これを見ろやー!」自慢しながら突っ切っていく。
だが進む方向がおかしい。「おーい!徳川の首実験はあっちry「これを見ろやー!」

全然聞く耳持たない。そのままその武者はあらぬ方向へと消えていった。
実はこの武者。森長可の家臣の田中某という人物だったのである。

田中某は素性の割れぬように自分の指物を捨てると長可の首を討った武将の演技をしながらまんまと敵中を突破して
長可の首を金山へと持ち帰っていったのである。


あちらのスレに書いた続き。
549人間七七四年:2009/02/10(火) 22:39:23 ID:SRS4QMqp
>>535
鬼武蔵も忠恒も次男坊だからな。兄貴と比較されて屈折したんじゃなかろうか。
550人間七七四年:2009/02/10(火) 22:48:00 ID:GxKT8Htu
>>549
ていうか蹴鞠は親父と比較されまくって屈折したんじゃないのか
政宗もその方向で

>>548
鬼武蔵が色々無茶できたのもこういう素敵な家臣が居たおかげなんだなあ
551人間七七四年:2009/02/10(火) 22:52:25 ID:Mqvd9emk
>>548
あの鬼武蔵によくこんな出来た家臣が・・・w
続きd楠でした。
552人間七七四年:2009/02/10(火) 23:07:16 ID:GqFcBTWV
鬼武蔵の体の行方

首が無くなった鬼武蔵の体はどうなったか?

実は3日程後、こっそりと森家の家臣が回収を試みて探していた。
だが現地は死体の山であり、とんと見当も付かない。しかも首も太刀も既に無くなっており捜索は無理かと思われた。

しかし厩別当の野呂又助は長可が馬に乗っていた時に常々側にいたので、日ごろ長可が大鼓を素手で打っていて
手の指がボロボロに破れているのを知っていたのでそれを手がかりになんとか死体の山から長可の体を探し当てたのである。

後日、長可の体も金山に送られたという。

553人間七七四年:2009/02/10(火) 23:09:53 ID:gcWzWXBt
そして葬儀を終えてみると、死体は忽然と消えていたのである。
554人間七七四年:2009/02/10(火) 23:10:24 ID:E+jcsKNZ
>>550-551
各務兵庫助とか、一寸うっかりだけど凄まじい胆力武勇の持ち主が重きを占めている家だもんね

家臣は鬼武蔵の無茶ぶりに付き合っていたから当意即妙のリアクション芸達者が多かったみたい
555人間七七四年:2009/02/10(火) 23:17:06 ID:E+jcsKNZ
>>545
リア充なのに魔法使い(ハタハタテイマー)と呼ばれた佐竹義宣

七将襲撃で五奉行辞退した(させられた)時の石田三成を佐和山まで送っていったり、
なんだかんだ義理堅くて親切な人だったのかねぇ……
556信之兄ちゃんの晩年 1/2:2009/02/10(火) 23:58:49 ID:bBoTB2jw
腹黒パパ、KYな弟、鬼嫁と日々付き合い、子供たちには先立たれ…と家庭は不幸だった
真田信之だが、苦難を乗り越えてきた生きざまからか、譜代大名にファンが多かった。

のちの『下馬将軍』酒井忠勝がある日、信之を呼んで言った。
「あなたの家には、信玄以来の兵法が伝わると聞きます。どうか私にご伝授して下され。
これは私一人のワガママではありません、幕府のためにもなることです。」

信之「幕府のためとあらば、イヤとは申しません。 私が伝え聞いた信玄の兵法とは・・・
   『 譜代の臣を大切にすること 』 これだけを教えられました。」

酒井「ほう、なるほど!では、それと別にお家に伝わる用兵の心得などありませぬか?
   真田家ほどの武功の家ならば、まだ他にもありそうですが・・・」

信之「これも、隠しだて致しませぬ。 わが真田家に伝わる用兵の心得とは・・・
   『 威儀を乱さぬことが、軍法の要領 』 これのみ伝えられました。」

単純かつ明快な回答に、酒井はその後も長く感嘆したという。


老中・堀田正盛がある日、信之を自邸に招待して、所有の馬を見せた。
立派な毛並みの駿馬も多かったが、信之は「アー見事デスネー(棒読み)」とあまり興味を
持たなかった。

そこへ毛並みは悪いが足が太く、しっかりとヒヅメを鳴らす三歳馬が現れた。
「おお!なかなか良い『道具』を整えておられる。」 信之が始めて、感情を込めて褒めた。

これを聞いた堀田は、
「ご老人の辛労をも顧みず、当家にお運びいただいたのは、そのような価値ある一言を
頂戴するためです。上様へのご奉公にもつながること、なお我らに一言二言ご教授あれ。」

深夜に至るまで、熱心に信之の話に聞き入った。
557信之兄ちゃんの晩年 2/2:2009/02/10(火) 23:59:42 ID:bBoTB2jw
しかし、もっとも熱心な信之信者は、この人だろう。

徳川頼宣「あなたは権現様に直接仕え、生前のご行跡を良く覚えているだろう。
       ぜひ、余に教えてくれぬか。」

信之「紀州殿におかれては、諸事取り回しの手腕、もはや権現様にも劣らぬと存じます。
   さりながら、侍の使い方においては、とうていあのお方に及びませぬ。

   かく申す拙者は、紀州家の二割ほどの分限しかございませぬが、明日にも事あれば
   拙者の馬の先で心良く討ち死にしてくれる侍が、200騎おります。
   紀州殿のお家はいかがでござるかな?」

言葉に詰まった頼宣だが、これ以降なにかにつけ、信之を師と仰ぐようになった。


信之「紀州殿は近ごろ、新規に有能の士を、多く召し抱えておられるとか。」
頼宣「うむ、色々なものがおる。信之殿の教え通り、命知らずの者も多く取っておるぞ。」
信之「あまり良いことでは、ありませぬな。」

頼宣「!? 家のために有能の士を採用することが、なぜ悪いのだ?」
信之「有能の士といえども、その者一代は良く働いても、子が覚えある者とは限りませぬ。
   だからと言って、子の代で知行を減らせば、喜ばず余計に働きませぬ。

   ここは家士の子を若いうちから取り立て、徐々に高き知行・役儀を与えてやるのです。
   そうすればいくらでも成長する者はおりますし、その一族までも希望を持ち、
   喜び勇んで働くことでしょう。」

頼宣「あい分かった。その話、必ずや当家の心得とするとしよう。」

こうして紀州家では『使役』と呼ばれる制度が始まった。これは家士の子・身分の低い者を
取り立て、実践の中で教育を施し、将来の重臣を育てる制度で、紀州家の善政として
全国のさきがけとなった。 (名将言行録より)
558人間七七四年:2009/02/11(水) 00:02:56 ID:I6APs1yX
>>557
兄やんかっこよすぎるだろ……
弟と父親がもっとしっかりしていれば以下略
559人間七七四年:2009/02/11(水) 00:03:45 ID:gQaF7kgd
>>555
家康のところに送り込んだのも佐竹義宣だったよね。

夜も更けて家康の屋敷に前触れなく訪れた佐竹義宣。

突然で悪いけどこれをお頼み申しますぞ、と言い残しそそくさと去る。
彼が置いて行った女物仕立ての駕籠から、石田三成がひょこりと出てくる、
というお話でしたね。

さすがの家康もびっくりしただろうね。
560人間七七四年:2009/02/11(水) 00:04:00 ID:ljr9A0oA
しかし親父と弟と嫁ばかりはどうにもならなかった
561人間七七四年:2009/02/11(水) 00:33:15 ID:16GBUpps
逆に、親父と弟と嫁がああだったおかげでここまで鍛え上げられたとも言えるw
562人間七七四年:2009/02/11(水) 00:39:49 ID:i2ZrLl9v
>>559
まあ、最新の研究では、三成が逃げ込んだのはあくまで伏見の「三成の」屋敷で、
家康の屋敷に逃げ込んだわけではないそうな。
563人間七七四年:2009/02/11(水) 00:49:34 ID:pAWrP2tT
>>557
奇人変人大好きな頼宣に好かれたっていうのはどうなんだろうw
564人間七七四年:2009/02/11(水) 01:11:02 ID:U96lKoAB
>>516
富田のいい逸話ねー
伊達に内通した親父に見せ付けるように奮戦、主君の命をってこれは違う富田だ

そうだなー、義景の命令で軍勢を率いてた時は、全然やる気なかった富田さん!
しかし織田軍に裏切った途端、超ノリノリで浅井朝倉の背後を突いて活躍しまくり、信長公にも褒められたよ!

更に彼の配下には長島戦で四方の敵を撃退しまくり大活躍した毛屋猪介、忠義者の増井甚内などがいたんだよ!
・・・実はそいつらがいない時のほうが強かったりするんだけどね!

えーっと富田がぶち切れたのは前波が、彼の与力の所領を削減するべし、と信長に進言した為という話を聞いたことがあるよ!
やたらめったら上昇志向の強い彼だけど、この話が本当なら意外と自分の部下のことは思いやってたのかもね!
なんか昔のヤンキーみたいな奴だね!
最後はその部下の一人に撃ち殺されるんだけどね!
565人間七七四年:2009/02/11(水) 01:20:41 ID:i2ZrLl9v
紀州頼宣と言えば、その生母は有名なお万の方だが、そのお万の方は、
北条氏綱の四男、北条氏尭の娘と正木時長の間に生まれた子で、しかも彼女は
北条家で養育されているから、そう言う意味で、紀州家には後北条氏の血が濃く流れているともいえる。

北条の血がめぐりめぐって、吉宗の時ついに関東に戻ってきたのもむべなるかな。
などとこじつけてみる。
566人間七七四年:2009/02/11(水) 01:58:31 ID:sWTH8XvS
大阪の陣で先陣に間に合わなかったことを頼宣が悔しがっていると
松平信綱が「未だ御年若き故、今後の機会もあるべし」と慰めた。
それに対し頼宣は「頼宣の十四歳が二度とあると思うか。」と返したという。

秀康も人材マニアっぽいところがあったよね。
血筋だろうか。
567お万の方つながり:2009/02/11(水) 03:00:19 ID:isOYNOEF
お題:なんみょーほーれんげきょー

徳川家康が天下を統一したころ。
日遠という坊さんがいた。名前から推測が付くがバリバリの武闘派日蓮宗僧侶である。
ところで、徳川家の宗旨は浄土宗、家康お付きの坊主といえば天台宗の天海、臨済宗の崇伝である。
当然、日遠はこんな事態が気に食わず、江戸のあちこちの寺に宗論を持ちかけては
相手の僧侶をコテンパテンにするのを生き甲斐としていた。

これでは家康が日遠を嫌うのも当然である。
そして家康はあるミッションを決行したのであった。

ある日、「そこまでするなら、江戸城の将軍の御前で浄土宗と宗論をやってみてはどうか」との家康の命。
晴れの舞台で、遂に他の宗派をぼこぼこみっくみくにしてやる機会がやってきたと喜び勇む日遠。
・・・しかし、日遠が選び抜いた宗論スナイパー要員は江戸城にたどり着く直前、謎の集団に襲われ、
何とか江戸城宗論への刻限には間に合った物の、さすがに傷だらけで意識ももうろうとしている状態では
おはなしにならず、あっさり浄土宗側に負けてしまい、日遠の面目は丸つぶれになってしまう。

・・・そう、この「江戸城での宗論」自体が家康がしくんだ罠であったのだ。
傷だらけの弟子達が嘆くのを聞き、激高した日遠は家康に抗議に出た。
当 然 家 康 の 怒 り を 買 っ た 。

日遠は不埒千万身をわきまえない糞ボーズとして安倍川の河原で斬首されることになった。
しかし、その家康の前に白装束を来た女性が現れた。
・・・そのころ家康の寵愛を一番得ていたお万の方である。
「私は日蓮宗の信者、師匠が大御所様に着られるなら私も生きているかいがありません。
師匠に着せる死に装束も一緒に縫いました。私も師匠と一緒に安倍川で斬首して下さい!」
家康が一番めろめろになっている側室の一声に、一気に家康も萎えて日遠はあっさり助命された。

1616年に家康が死んだ後は、ますます日蓮宗にのめり込んだお万の方、
家康の法要もしっかり自分の愛する(そして家康が煙たく思っていた)日蓮宗で行ったという。
ちなみに、お万の方は実家が熱心な日蓮宗徒であったため、
家康の側室になった時点で、既に彼女自身コアな日蓮宗徒だったらしい。
------------------------------
お坊さんの命を救ったお万の方のいい話
しかし家康にとってはロリ側室のためになえなえになったバツの悪い話でした。
見た目に引っかからず側室の身辺はちゃんと調べてから採用しましょう。

568人間七七四年:2009/02/11(水) 03:14:21 ID:Ey7gkZ4r
>>542
さすがに菊姫に手を出したら景勝の逆鱗に触れそうな気がする。

子供が出来なくて、しかも実家がすでに滅びている正室のみの景勝は
当時の人からはどう思われてたんだろう。
律儀な愛妻家?それともアッーな人?
569人間七七四年:2009/02/11(水) 09:23:39 ID:x8Q+5ucK
義父に比べればはるかに常識的家庭人だろと
570人間七七四年:2009/02/11(水) 09:28:58 ID:YZ9a97kB
>>567
でも日遠はそれ以後、受布施派として権力に擦り寄ってなかったっけ
で、日奥などの不受不布施派は追放、日経は耳・鼻そがれた上に追放

全員、敵に回す気がないから懐柔し易い方をたらし込んだんじゃないの
逆に家康が
因みに家康はこの後、四箇格言の「念仏無間」の文証はないという念書を
書かせている、これによって日蓮宗はその強い攻撃色を抑制される

つまり、家康大勝利である、これを認めたくなかったんだろうね、
若さゆえに(日蓮宗は新しい方だし)
571人間七七四年:2009/02/11(水) 09:34:55 ID:mjEltPpG
日蓮宗というと安土宗論でも浄土に負けてフルボッコにされてるなw
572人間七七四年:2009/02/11(水) 09:47:49 ID:5rz7oJ50
>>564

ヒャッハー富田様の両腕と頼んだ増井毛屋、富田長秀が呼び込んだ一揆衆に攻め頃されてるんだよな
でも数万に膨れ上がって制御不能な一揆勢に、残る自分の本隊だけ数百人で突撃して蹴散らしたんだっけ
一揆つってもまともな武士や、当たり前に武装し軍役に就いていた当時の民百姓が加わってんだから……


<余談>越前朝倉系には剣人冨田(戸田、外田?)の一族もいるけど、これはヒャッハー富田様とは別の家系
>>567
おお!? 閨のことで(表向きだけでも)へこまされる家康とはいいネタだね
あんまし大御所大御所して練れているばっかしでもかわいくないからなw
574人間七七四年:2009/02/11(水) 10:01:57 ID:i2ZrLl9v
家康の時の浄土宗と日蓮宗の宗論の話だと、おそらく浄土宗側に伝わった話だろうが、
宗論の前に家康が、「この宗論に負けたほうには、どういう処分を与えるべきだと考えるか?」
ってそれぞれに尋ねたら、

浄土宗側は
「いえ、宗論の勝敗が付いたと言う結果さえあればそれ以外には特に…
どうしても何らかの処分が必要と言うのであれば、袈裟をはがすというものでどうでしょう?
それは僧にとって最大の侮辱ですから。」

日蓮宗側は
「負けたほうは皆殺しですよ勿論!」

家康
「普通に考えて宗論やるまでもなく浄土宗の勝ちだろこれは…。」

ってのがあるな。
575人間七七四年:2009/02/11(水) 10:46:56 ID:wKg39nwC
日蓮宗ww
576人間七七四年:2009/02/11(水) 11:13:57 ID:IbzHnsV2
後の創●学会である
577人間七七四年:2009/02/11(水) 11:26:20 ID:TH0uhQaN
秀吉が女に手を出そうとして何かあって諦める、手を引くってテンプレ化してるよな

ここまでくると、本当にあった話というより、秀吉への漁色狂いのレッテルと、うちの
奥方はそれほど美人で、かつ機転や胆略を持った賢妻なんですよという宣伝になってる。
578人間七七四年:2009/02/11(水) 11:38:32 ID:5rz7oJ50
>>577
かもしれんね。太閤さんの成り上がりぶり、晩節の壊れっぷりがひどいから豊臣は美談も悪名も派手だわ。寝所でヨグ・ソ●スばりに巨大化する話とか;
579人間七七四年:2009/02/11(水) 11:45:44 ID:5rz7oJ50
ただ直系男子がいなくて、あまりに急成長しすぎで譜代の家臣も少ない豊臣家は
秀吉や関白秀次がばんばん子作りして男子(後継者)、娘なら将来婚姻させて有力大名を姻族に取り込むのも必要不可欠だったんよな。

体制を固める前に秀次を粛清して自分も死んで家を破ってしまった、結果論だけいえば秀吉の失策なんだけどさ
580人間七七四年:2009/02/11(水) 11:49:15 ID:5rz7oJ50
>574-575
大阿闍梨に“仏教が人を殺すかー!(このパカちんがぁ〜)”とその場で一喝されそうだな日蓮宗;
581人間七七四年:2009/02/11(水) 11:57:17 ID:hiqrbVyt
>>579
秀長もそっちの面では役に立たんかったからなぁ
582人間七七四年:2009/02/11(水) 13:05:26 ID:Zb/J+do3
戦国時代の宗論で弱かった日蓮宗、
そのカルト化した傍流は今日の政治では勝ってます。
583人間七七四年:2009/02/11(水) 13:39:11 ID:TH0uhQaN
>>582
逆、逆。
日蓮宗というのは日蓮の頃から非常に他派に対して攻撃的だった。
その為宗論や説法などの攻撃手段は実践で研ぎ澄まされ洗練されていった。

だからこそ敵を作りまくり、結果騒動の火種の元として為政者から危険視された。
(そして自己を守るために余計に排他的攻撃的になるという悪循環)

信長が安土宗論で強引にでも負けにして、「以後、他派へ宗論はふっかけない」と
誓約を書かさせたのも、その活動(他派攻撃)を抑えるためだった。
584人間七七四年:2009/02/11(水) 13:56:30 ID:i2ZrLl9v
江戸期に入るともう、一般庶民の意識のレベルで、
「宗派、教義の違いで争うのはばかばかしい事だ」って言う
意識が明確に出てくるね。

中世から近世というのは、想像以上に日本人の意識が変化してる。
585人間七七四年:2009/02/11(水) 14:11:30 ID:YZ9a97kB
>>583
ちなみにその誓約を秀吉が返したので、徳川家康の頃に
また他派攻撃を始め、家康の手入れが入ることになる
586人間七七四年:2009/02/11(水) 15:13:19 ID:i2ZrLl9v
戦い終わって


大阪の陣の時のことである。
長宗我部盛親の部隊に、廿牧勘解由という者がおり、八尾の戦いで奮戦したが、側面より
井伊軍の攻撃を受けた長宗我部隊は敗退、勘解由も槍を引きずりながら退却した。

その時、藤堂隊の名村石見が退却する勘解由に「逃げるな!我と勝負せよ!」と罵って来た。
勘解由は、ここで戦っても犬死にするだけだと思い

「おのれは糞でも食らえ!」

と、叫んで相手にせず、そのまま退却した。だが石見はそれを卑怯と、さらに罵ったので、
勘解由の娘婿であった伊尾木権兵衛は我慢できず、勘解由の槍を奪って引き返していった。

ところが今度は、罵っていた石見のほうが権兵衛を相手にせず、別の長宗我部の兵の所に
勝負を挑みに行き、それを討ち取った。勘解由と権兵衛は助けようとしたのだが、敵の後詰の大軍が
姿を現したので、仕方なく退却した。


さて、大阪の陣も終わる。


ある時藤堂家の家臣、掘信家が客人と、付き合いのある牢人について話をしていた。
客人が廿牧勘解由の名を出し、八尾の合戦での出来事を話すと、信家は手をたたいて

「その人だ!わが家中の名村石見が『俺に糞を食わせて退却した奴がいる』といつも言っていたのは!
いやはや、本当の事だったのか。
もしよければ、その人を呼んではいただけないだろうか。」

客人はお安い事とこれを請け合い、信家も石見を呼んだ。
そして集まった四人で、酒を飲みながらその当時の事を話し合い、大笑いした。
これ以降この四人は、生涯親しく交わったとのことである。
587人間七七四年:2009/02/11(水) 15:22:04 ID:sE3pEbtl
「宗教」という言葉が、現代人にとって極端なアレルギー反応の素となっている。
聖書教や創価学会、オウム真理教らのカルト宗教の異様さやきな臭さから
なるべく遠くに置いておきたい、蓋をしておきたい臭いもの扱いとなる。

そうではない、東洋でいう本来の宗教ってのは「教訓」とか「教科」とかいったぐらいの意味。
人間をなるべく犯罪や犯罪性に走らせず、道徳や道徳性に
繋ぎ止めておく上での要領のいい教えという程度のもの。
だから不当利得含む犯罪や犯罪性への積極を目論むカルトのほうがむしろ
東洋でいう所の宗教の条件を満たしていない。宗教の仮面を被ったただのヤクザやギャング。

オウムのように無力化させられてたらまだいいんだが、
未だに摘発も受けずに敬虔な信仰者であるかの如く思われ(実際、末端の信者は
カルト性に気付かずに本気で信仰していたりもする)、金融や権力の乗っ取りによって
社会全体を自分勝手にひっかきまわしてすらいるから、
そういうカルトの横暴を許さないための自己防衛策として、
非カルト・反犯罪な日本の伝統的な思想(武士道など)や宗教を一人一人の人間が携えておく必要がある。
一銭も払わなくたっていいから、最初は神仏を敬う所からでも始めてみること。
588人間七七四年:2009/02/11(水) 15:25:52 ID:y0veHGTE
唐突に何を言い出すんだ
589人間七七四年:2009/02/11(水) 15:30:39 ID:bt2M9GHD
スイッチが入ってしまったんですね、わかります
590人間七七四年:2009/02/11(水) 15:32:29 ID:oAKI9Xgj
言ってる事はごもっともだがスレ違いだな
591人間七七四年:2009/02/11(水) 15:45:52 ID:kEOmuEe/
 パチン __ノ\
   on |  ノ\| off
      ̄ ̄ ̄
    ●
   .∵  ○ ノ
   ':.  | ̄
_| ̄|  / >
592sage:2009/02/11(水) 16:01:04 ID:Gk401V71
天下人もそれぞれ

あるとき豊臣秀吉が徳川家康に、
「応仁の乱より荒れ果てた世を大体従えたが、
まだ諸大名は心を異にして、一致しないときておる。
どうしたらよいものか。」と尋ねると徳川家康は、
「およそ様々な事柄は、みな相違しているのを善とします。
されど義理のあるところには、すべて人は従うものです。」
と答えた。
593人間七七四年:2009/02/11(水) 17:03:43 ID:ttwNbsgL
>>586
良い話なんだろうけど、勘解由さん仕官できたのだろうか・・・
594人間七七四年:2009/02/11(水) 17:20:25 ID:KXaoQzAb
>>587
受け売りじゃないから説得力


唐突スレチだけど
595人間七七四年:2009/02/11(水) 18:11:26 ID:c1Jo+p8l
蒲生氏郷が会津に入ったあとの話。伊達政宗は
「どうすれば憎っくき蒲生氏郷を亡き者にできるだろうか。」
と考えていた。そして家臣の息子に清十郎なる16才の美少年がいたのだが、
彼を氏郷の姻戚である田丸中務少輔のもとに児小姓として送り込むことにした。
氏郷が田村のもとを訪れたときに暗殺しようと考えたのである。

だがこの計画は失敗した。
清十郎が父に宛てた手紙が検閲されてしまったのだ。
哀れ、少年清十郎は投獄されてしまう。

清十郎の命もこれまでかと思われたが、氏郷は
「主命のために命を顧みないとは、なんと勇気ある少年だろう。」
と感動したらしい。

氏郷は清十郎を呼び出すと
「私は罪のない義士を投獄して辱めてしまった。主君のために命を捨てて
忠義を尽くすことは賞賛に値する。伊達家に帰るがいい。」
と清十郎を丁重にもてなして帰してやるのだった。
596人間七七四年:2009/02/11(水) 18:11:50 ID:8Vew21OX
>>589-591
つ >>515三賢?人だね。
597人間七七四年:2009/02/11(水) 18:13:29 ID:c1Jo+p8l
>>595
>氏郷が田村のもとを訪れたときに暗殺しようと考えたのである。
田村じゃなくて田丸だったorz
598人間七七四年:2009/02/11(水) 18:15:46 ID:i2ZrLl9v
>>595
> と清十郎を丁重にもてなして帰してやるのだった。

何故かここで、「※ただしイケメンに限る」 と言う言葉を思い出してしまったw
599老将の上手な諫言:2009/02/11(水) 18:24:54 ID:8xJx/Qsl
大阪冬の陣のときの事

前田利常は小高い丘の上に陣を敷き真田信繁(幸村)に攻めかかった。
しかし相手は合戦上手の信繁、様々な方向から鉄砲を的確に撃ちかけてきてニッチもサッチも行かない。
終いには利常の近くまで弾が飛んでくる始末、中には兜を掠める物まであった。
この状況に慌てた重臣達は後退を進言するも、利常は怯えるどころか傲然と立ったままであった。

利常が死のうものなら御家の一大事だが重臣達は大弱りで見てる事しかできなかった。
そんな時、今まで目立たず座っていただけだった山崎閑斎という老臣が進言した。
山崎「殿。今日は北から冷たい風が吹いてきております。風邪など召されたら、明日の合戦のとき、我らはどうしてよいやら・・・」

これを聞いた利常は、大きく頷き丘の陰へと陣を後退させた。


相手のプライドを傷つけない上手い諫言
600人間七七四年:2009/02/11(水) 18:41:26 ID:plGR5RwQ
>>598
分からんでもないが再生工場長に限ってそれはないw
601人間七七四年:2009/02/11(水) 18:54:21 ID:bwIiGsrg
なんだその楽天の監督みたいな仇名はw
602人間七七四年:2009/02/11(水) 19:14:42 ID:5rz7oJ50
>>601
まとめスレの氏郷カテゴリー嫁
“蒲生再生工場シリーズ”ってあんだよー
603人間七七四年:2009/02/11(水) 19:27:44 ID:I6APs1yX
>>595
政宗もそんな回りくどいことなんてしないで戦ふっかけりゃいいのに
604人間七七四年:2009/02/11(水) 19:38:37 ID:AKQwGBPL
周り中を敵だらけにして袋叩きになりながらも
なんとか切り従えた会津なら、政宗も未練たっぷりだったろうな
605人間七七四年:2009/02/11(水) 20:12:01 ID:mjEltPpG
摺上原含めた蘆名との死闘でようやく得た土地だからそりゃ未練も有るはずw
606人間七七四年:2009/02/11(水) 20:31:44 ID:ruG7CgDO
清十郎「という訳で帰参いたしました。」
政宗 「そうか。それは良かった。
    ところでそのときお前の右手は何をしていたのだ。」
607人間七七四年:2009/02/11(水) 20:45:37 ID:DHYOGiDK
如水「そんなこと言っては清十郎君がかわいそうではないか」
608人間七七四年:2009/02/11(水) 21:58:01 ID:mjEltPpG
武士の美学

或る時、森忠政が市橋という男に「森家の者はみんな討死にしてばかりだなw」と皮肉られた。

すると忠政は「なるほど、先祖は代々死に場所がよい。私も死ぬところを案じている。」と返事した。

そんな忠政は乗っている籠に刺客が襲い掛かってきたり屋敷を足軽に襲撃されたりされながらもしぶとく生き延び
忠興に「忠政は!?忠政は大丈夫なの!?」などと心配されたりしながら桃に当たって食中毒で死んだ。享年は65歳。


オマケ 
忠政の家族たち

高祖父  森可房 討死
曽祖父  森可秀 討死
祖父    森可行 77歳で病死
父親    森可成 討死
兄     森可隆 討死
兄     森長可 討死
兄     森蘭丸 討死
兄     森力丸 討死
兄     森坊丸 討死
609人間七七四年:2009/02/11(水) 22:07:17 ID:pAWrP2tT
>>608
忠政さんったら桃に当たった時に

「痛ってえ!これ、ぜってー切腹より痛てえぞ!」

と至高の一言を残して死んだってホントでつか?w
610人間七七四年:2009/02/11(水) 22:08:40 ID:OuNfwbAd
「俺は桃太郎に討ち取られたんだ!   って事にしてくれ」
611立花さん、大津攻めを語る:2009/02/11(水) 22:11:42 ID:pjjYoA1U
秀忠か家光の御代、よりによって江戸城でのこと。

立花宗茂「大津城を軽くひねり潰して東国大名どもを討ち取るつもりでしたが何か?」
京極某「…………(ぴきぴき)」
井伊直孝「よく俺らの前でそんな話有り体に話せるよね……」

某「でもそれって謀反だよね?(徳川家的な意味では)」
宗茂「謀反って君主に背くことだよね? 大津のときは主君は豊臣家だから、
  豊臣家へお届けの上で戦をしたまでのこと。今となっては主君は徳川家
  だから、そのご恩に背く真似は終生しませんよ」

御伽衆になった宗茂さん、ちょっと(調子の)いい話
(ただしソースは名将言行録)
612人間七七四年:2009/02/11(水) 22:25:01 ID:JgNAmNlj
そういえばDQN眼竜応援団長で有名な鈴木元信の話がないな

この人は元々京都の茶人だったのだが、茶の講師として伊達家に招かれた
で、そのまま
「政宗公超カッコヨス!」
という事ですっかりDQN中毒になって伊達軍団に入団してしまったw

政宗が時々無茶苦茶な金の使い方しても平気だったのは
元信の財務能力が優秀だったからってのが結構ある

元信の政宗へのハマりっぷりは半端なく
「伊達幕府ができたらこうするぜ!」と
伊達憲法まで用意していた

さすがに死の間際に「もうさすがにあかん」と思ったのか焼き捨ててるのだが
それがなんと1620年
お前どんだけ政宗好きなんだよw

伊達家中はこういうロックな奴が多い
613人間七七四年:2009/02/11(水) 22:41:38 ID:er/ERH9q
政宗と政宗に惚れた家臣にとっては あばれるのも
土下座するのも ハラハラドキドキノリノリで
楽しい一生だっただろうね
614人間七七四年:2009/02/11(水) 22:44:42 ID:eO5jYUhK
> 伊達憲法まで用意していた

すごく……見たいです
615人間七七四年:2009/02/11(水) 22:49:26 ID:mG1ljoFE
>>612

>>この人は元々京都の茶人だったのだが、茶の講師として伊達家に招かれた

鈴木元信に関しては諸説あって雑賀衆の1人だったっていう説もある。
(鈴木氏の出身って話も異説ではあるらしい)

一時期、鈴木重朝が伊達政宗に仕えていたのも元信が何らか関係していた
可能性もあるし、鈴木重朝が政宗に仕えていなければ
「騎馬鉄砲隊」も結成されることはなかったなんて話もある。
(重朝が政宗にアイデアを出したみたい)

鈴木元信にしても川村重吉にしても
政宗が見出した家臣って以外に多いな

親父の輝宗も片倉景綱なんかを見出しているし
親子揃って人を見る目はあるのかねぇ・・・
616人間七七四年:2009/02/11(水) 22:53:04 ID:Ek/IxoRx
>>614
一、おまえのものはおれのもの
二、おれのものもおれのもの
617人間七七四年:2009/02/11(水) 23:02:49 ID:99t4KeXz
ていうか憲法作るなんて進んだ人間だな随分。
618人間七七四年:2009/02/11(水) 23:09:30 ID:fynrGRzR
>>614
兄弟仲良く
母親孝行しましょう
文化財は大切に
619人間七七四年:2009/02/11(水) 23:21:17 ID:1RRZK7UK
それじゃ諫言じゃねーかww
620人間七七四年:2009/02/11(水) 23:31:16 ID:mG1ljoFE
仮に伊達幕府が出来て首都が仙台だったら・・・

東京ラブストーリー → 仙台ラブストーリー

江戸を斬る → 仙台を斬る

東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜 

仙台タワー 〜オカンとDQNと、時々、オトン〜

東京ヤクルトスワローズ → 仙台ヤクルトスワローズ

等など・・・

てなことになっていたわけか
621人間七七四年:2009/02/11(水) 23:39:30 ID:8Vew21OX
>>620
ええい、だまらっしゃいw
622人間七七四年:2009/02/11(水) 23:52:42 ID:GLO6OqWI
>>620
幕府を開くぐらいの勢力があるのなら、あんなド辺境に引っ込んでいるはずがないでそ
623人間七七四年:2009/02/12(木) 00:29:23 ID:0zrKi7/N
>>612
黒歴史ノートみたいだなw
624人間七七四年:2009/02/12(木) 00:41:24 ID:dYi8x/w5
>>620
ならんだろw

伊達幕府ができても、あっという間につぶれたかもしれんしなw
そもそもヤクルトという製品ができるかどうかすら不明w
625人間七七四年:2009/02/12(木) 00:50:09 ID:vYv1EV5c
将軍 
伊達家

大老
細川家
島津家
森家


凄い時代が来るぞ・・・ゴクリ
626人間七七四年:2009/02/12(木) 00:59:22 ID:EOYIOUgp
>>625
まず幕府内で無礼打ち頻発の悪寒
627人間七七四年:2009/02/12(木) 01:03:07 ID:w5CVIY8L
浅野内匠頭の松の廊下事件は日常だなw
628人間七七四年:2009/02/12(木) 01:14:51 ID:aHz/0n6T
刃傷沙汰は殺れればOK
殺れなかったら死罪
629人間七七四年:2009/02/12(木) 01:41:13 ID:hcBeW7mq
>>624
ネタにマジになってて恥ずかしい人だなw
630人間七七四年:2009/02/12(木) 01:44:45 ID:ycNfVKWF
>>608
>市橋
もしかして日本史の某スレで
「史上 最 弱 の大名」として隠れた人気者の
近江仁正寺藩藩主様?
631人間七七四年:2009/02/12(木) 01:56:58 ID:vYv1EV5c
軽くいなされる小物っぽさとかあのスレで密かに親しまれている市橋さんの匂いがするが
632人間七七四年:2009/02/12(木) 03:15:26 ID:1M/17LZK
鈴木元信の話書こうと思っていたら先にでちゃたのでこちらを・・・
(前に川村重吉書いた人間ですw)


伊達政宗を色んな意味で戦国の世にデビューさせた男

大内定綱

この人物ほど政宗にとっては重要な人物は他にいないだろう。
二人の出会いは天正12年(1584年)冬の米沢・・・

18歳で伊達家17代当主となった政宗に近隣の豪族達は
挨拶にやってきた。
※その中には数年後に父輝宗を拉致する二本松(畠山)義継もいた。

大内定綱も新当主政宗に挨拶にやってきた。


( ´_ゝ`) 「大内定綱です。政宗様、宜しくお願いします。」

神妙な定綱に対して政宗はいきなり烈火の如く問いただし始めた。


 ( ●_ ̄#) 「定綱!お前うちの嫁(愛姫)の実家である田村家
       の旗下にも関わらず田村家に逆らっているのは
       どういうことだ!!」
      「おまけに、伊達家と抗争している蘆名と繋がっている
       二本松義継と懇意にしている状態でノコノコと挨拶に
       来るとはいい度胸だな!!」

これに対して定綱は

( ´_ゝ`)「政宗様、それには訳がございます。我が大内家は弱小勢力故
      近隣の豪族と懇意にしておかなければなりません。」
     「確かに田村様に対しては申し訳なく思います。
      しかし、蘆名家の力は強大です。蘆名家と友好関係にある
      二本松殿と懇意にしなければ大内家は潰れてしまいます・・・」

定綱が弁明をしても政宗は聞く耳を持たず、怒りは増す一方であった。
若さに任せ、近隣諸国を我が物顔で侵略していた政宗には誰も手を付けられなかった。
633人間七七四年:2009/02/12(木) 03:16:50 ID:Lc0sAhgK
市橋の名前に反応する奴が結構いるとはwww
634人間七七四年:2009/02/12(木) 03:17:09 ID:1M/17LZK
>>632続き

( ;´_ゝ`)「(このままではマズイ・・・ここは一旦こう言って収めよう)」


( ´_ゝ`)「分かりました。では、本日より伊達家の旗下となりまする」
( ●_ ̄#) 「ふん!にわかには信用できぬわ!!」
( ´_ゝ`)「年明け早々に家族を伴って米沢に参ります。
      二本松殿とも縁を切りまする。」
( ●_ ̄) 「その言葉に偽りないな?」
( ´_ゝ`)「ございませぬ!!」
( ●_ ̄)「よし分かった。そちの為に米沢に屋敷を用意しよう」
( ´_ゝ`)「痛み入りまする・・・」


こうして、定綱は領地である小浜城へ戻っていった。
それから年が明けて、天正13年(1585年)・・・
定綱は一向に米沢を訪れる気配はなかった。

定綱に対して政宗、父輝宗は再三書状を使わすが定綱は米沢に来ることは
なかった。挙句の果てに定綱は政宗に対して

(# ´_ゝ`)「あんなバカ息子が継いだ伊達家に未来なんてあるわけねーよ!
       若さに任せて我が物顔の政宗には器量がない!!
       器量がある人間ってのは弱き者に慈悲の心で接するものだ。
       輝宗様には恩義はあるが、バカ息子には恩義なんかねーよ!!」

と、書状に書いてよこす始末。
懇意にしていた二本松義継の息子と定綱の娘を結婚させ田村氏から独立し伊達家
に敵対し始めた。
635人間七七四年:2009/02/12(木) 03:18:23 ID:1M/17LZK
>>632続き

さすがに面目を潰された政宗は激怒。
早速兵をまとめて大内攻めを行うかと思われたが、
 
( ●_ ̄)「定綱へは蘆名の力が及んでいる。よって敵は定綱ではなく蘆名だ。」

といきなり奥州の実力者である蘆名へ戦いを挑んだ。
が、結局伊達軍は敗戦という結果に終わった。(発想そのものはよかったようですw)

しかし政宗も若いながらしたたかさをもっていた。
すぐに照準を定綱へ移し、政宗は大内領へ攻め込んだ。
そのときの戦の方法がすさまじかった。
大内氏は小浜城を居城としていたが、その支城である小手森城へ攻め込むと、
なんと信長の比叡山の焼討ちのように政宗は敵の武将はもちろん、
女性、子供、果ては家畜に至るまで情け容赦なく皆殺しをおこなった。

これが後に「小手森城の撫で切り」といわれるようになる。

この知らせを聞いた定綱は


( ;´_ゝ`)「ひ、人をゴミのように虐殺するとは!!
       政宗は悪鬼羅刹か・・・は、ははは・・・」

自信喪失した定綱は婚姻関係にある二本松義継の元へ落ちていった。
これがきっかけとなり義継の輝宗拉致事件へと発展していくのであった。


二本松氏が滅亡する前後に定綱は蘆名氏を頼って落ち延びていった。
しかし、二本松攻略後の政宗は飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を拡大し、
着々と蘆名・佐竹・相馬・最上を含めた周辺勢力を圧迫していった。
636人間七七四年:2009/02/12(木) 03:19:49 ID:1M/17LZK
>>632続き

さすがに、時勢の流れを読めない定綱ではなく
天正16年(1588年)年の郡山合戦頃に弟の片平親綱と共に伊達氏に降伏する。

降伏したものの政宗に殺されると思っていた定綱であったが、
意外な事に政宗は定綱を不問とし、家臣へと加えている。

政宗自身が行った撫で斬りが結果的に輝宗を殺すことになったことを恥じて
定綱を不問にした可能性と、これから戦うであろう蘆名家への内部工作を定綱
に依頼する腹積もりだったのかもしれない。


その後、定綱は政宗に従い天正17年(1589年)の
摺上原の戦いでは蘆名家中の内応工作、調略などに腕を振るい、
自らも十文字槍を手に大功を上げている。
(定綱は十文字槍の名手であった)

また、政宗の小田原征伐にも従軍し摺上原の戦いに関しては
政宗と共に詰問に立ち会っている。

天正17年(1590年)の葛西氏、大崎氏の旧臣による反乱鎮圧にも功績を立て、
胆沢郡前沢に所領を与えられ、前沢城を与えられ城主となった。
その後も文禄の役、慶長の役に参陣し戦功を挙げる。

これだけだと定綱は戦いのみで生きる人間のように見られるが、
伊達家の外交官としても活躍している。

政宗が京から領国の岩出山に帰国する折、京に留守居役を置く人材を
考えていた。
637人間七七四年:2009/02/12(木) 03:22:42 ID:1M/17LZK
>>632続き

( ●_ ̄;)「景綱には岩出山に来てもらわなければならんし、
      綱元はワシの短慮で追放してしまったし、
      成実も出奔してしまった・・・」
     「信康も宗実も鈴木元信と共に領国経営で動かせん。
      いかがしたものか・・・」

( ●_ ̄;)「武勇に優れ、機知に富み京の情報を事細かに逐一
      伝えられる人間・・・」
( ●口 ̄;)「あ!定綱が追ったでわないか!!」

( ●_ ̄)「定綱、危険な任務になると思う愛姫や
     兵五郎(後の秀宗)を宜しく頼むぞ」
( ´_ゝ`)「殿、私のような人間にこのようなお役目・・・
      定綱感激にございます!!」
     「奥方様、兵五郎様の警護ならびに上方の政情、
      逐一ご報告申し上げます」
( ●ー ̄)「頼んだぞ!!」

数年前まで敵だったのかと思ってしまうほど、政宗は定綱を信頼した。

豊臣秀吉の死去〜関ヶ原の戦い前夜という難しい政局にありながら
定綱は的確な情報を国許の政宗に逐一伝え、京都伊達屋敷の留守居役
の務めを全うした。

関ヶ原以降も定綱は京都・江戸伊達屋敷の留守居役
を歴任し、 慶長15年(1610年)
65歳の生涯を閉じた。

子の重綱の時代には、
定綱の功績を賞されて、伊達氏の一門衆として厚遇された。

一度は敵対関係になりながらも最後には伊達家に
なくてならない人物となった大内定綱。
人の人生は分からないものです・・・

長々と失礼しました。
(いい話、悪い話で悩みましたがこちら側に書きました、間違っていたら
 ごめんなさい)
638人間七七四年:2009/02/12(木) 03:34:20 ID:EJKm/B6l
>>637
独眼流政宗で、寺田農が演じた大内定綱は良かったな〜。
政宗を翻弄する煮ても焼いても食えない武将としての存在感が抜群で、この人が出てくると
渡辺謙が完全に食われちゃってたなあw
639人間七七四年:2009/02/12(木) 03:37:36 ID:N4wTn0R1
定綱は何気に名門・石橋氏から下剋上した人物だったよな
そこそこ優秀な人物だっただろうな
640人間七七四年:2009/02/12(木) 04:07:02 ID:u1XI8TT6
名門っつーてもなあ、東北に逝った足利一門は軒並みgdgdだからなあ。鮭様除いて。
641人間七七四年:2009/02/12(木) 05:46:52 ID:KoKZF9RW
曹操における賈クみたい。
>大内定綱
642人間七七四年:2009/02/12(木) 06:51:09 ID:sSN2mxzv
政宗って「小手森城の撫で切り」以外で根切りにするようなことしてたっけ?
これ以外だとけっこう寛大な処置をしてるイメージがあるんだが。
643人間七七四年:2009/02/12(木) 07:06:17 ID:tr64Xx56
>>642
大崎葛西一揆、証拠隠滅のためか元味方を徹底的にジェノサイド。
あと神保さん…
644人間七七四年:2009/02/12(木) 07:51:51 ID:D2lcpvPh
>>632-637
いい話だけど長いし、いちいち名乗らなくていい
645人間七七四年:2009/02/12(木) 09:18:27 ID:9SJS1LvZ
>( ;´_ゝ`)「ひ、人をゴミのように虐殺するとは!!
これって中の人繋がり?独眼流政宗じゃあムスカだったし
646人間七七四年:2009/02/12(木) 10:12:33 ID:QAHcKhww
伊達の嫁が凄いブスで嫉妬深く、仙台の城下町から美人を一層、人買いなどに
売られ、以降仙台の女はブスばかりになり、今現在も3大ブス都市のひとつに
なっている、と仙台の知人がいってました。
647これも独眼竜政宗ネタ:2009/02/12(木) 10:30:19 ID:jfVEWLpV
> 646
桜田淳子がどうした

あんまり言うと五島(黒)たんが噛みにいくよ?
648人間七七四年:2009/02/12(木) 10:37:22 ID:db7T+5Jl

                      _ /- イ、_
           __        /: : : : : : : : : : : (
          〈〈〈〈 ヽ     /: : : : ::;:;: ;: ;:;: ; : : : ::ゝ
          〈⊃  }     {:: : : :ノ --‐' 、_\: : ::}
   ∩___∩  |   |      {:: : :ノ ,_;:;:;ノ、 ェェ ヾ: :::}  
   | ノ      ヽ !   !   、  l: :ノ /二―-、 |: ::ノ
  /  ●   ● |  /   ,,・_  | //   ̄7/ /::ノ
  |    ( _●_)  ミ/ , ’,∴ ・ ¨  〉(_二─-┘{/
 彡、   |∪|  /  、・∵ ’  /、//|  ̄ ̄ヽ
/ __  ヽノ /         /   // |//\ 〉
(___)   /         /    //   /\ / >>646
649人間七七四年:2009/02/12(木) 10:55:19 ID:OWC5tuOE
三大ブスの一つ、水戸は秋田に持っていかれたせいだっけ。
ぢゃあ、名古屋はどうしてなんだろ?

三大ブスが俗説なのは確かだけど、でも名古屋の女の子がかわいくないのは
うわなにをするくぁwせdrftgyふじこ
650人間七七四年:2009/02/12(木) 11:07:50 ID:F2167cfv
まず信長が岐阜と安土に連れて行って、
次に秀吉が大阪に持っていって、
最後に家康が江戸に持っていったからだな。
651人間七七四年:2009/02/12(木) 11:53:26 ID:db7T+5Jl
元春「おなごは夜目、遠目、笠の下じゃ」
652人間七七四年:2009/02/12(木) 12:01:58 ID:XSPPWjW5
伝右衛門の無礼

武田氏が天目山で滅亡し本能寺で信長が倒れるや、徳川家康は甲信支配に乗り出し、
武田旧臣を多数召し抱えた。
家康は、「武田家での俸禄を安堵するから、それぞれ俸禄を申告せよ。」といったが、
初鹿野伝右衛門は俸禄を申告したにも拘わらず家康への仕官を断った。

伝右衛門はもともと加藤駿河守の六男で、川中島の合戦で戦死した初鹿野氏の養子となり、
かつ実兄の源五郎は天目山で戦死していたので、
申告書に「養父の禄400貫(初鹿野家の相続分)と、実家の禄250貫(加藤家の相続分)を
合わせた650貫を頂戴したい。」と記載したが、
実家・加藤家の縁者が「養子に出た伝右衛門が実家の禄を相続するのは許せない。」と家康
に抗議して、家康が「伝右衛門には初鹿野家の400貫のみを与える。」と裁定したからである。
伝右衛門は、
「他人は皆親兄弟の禄を申告して認められているのに、オレだけ認めないのは不公平だ!」
と激怒して家康の朱印状を墨で塗りつぶし、
さらに「こんな朱印状はくそ食らえじゃ。オレは殿にへつらってまで仕官したいと思わねぇ!!」
と暴言を吐いた。
それを聞いた家康も「伝右衛門の無礼は許さぬ!!」と激怒して俸禄を没収して伝右衛門を追放した。

浪人となった伝右衛門は、翌年の小牧長久手の合戦に徳川家の友人の陣借りとして参加し、一番に敵
の首をとって手柄を挙げた。
目ざとく伝右衛門を見つけた家康は「伝右衛門を連れて参れ。」と言い、伝右衛門は家康の元に跪いた。

「貴様の無礼は許せなかったが、今日の一番首の手柄に免じて仕官を許してやろう。今後もあのようなめざ
ましい働きをするならば、貴様の申告通りの俸禄を与えてやろう。どうじゃ伝右衛門。」
それを聞いた伝右衛門は涙をながして喜んだという。
(常山紀談)
653人間七七四年:2009/02/12(木) 12:15:23 ID:db7T+5Jl
>>652
初鹿野←なんて読むのか教えてください

はつしかの?
654人間七七四年:2009/02/12(木) 12:18:45 ID:XSPPWjW5
「はじかの」
655人間七七四年:2009/02/12(木) 12:23:54 ID:db7T+5Jl
>>654
ありがとうございます
656人間七七四年:2009/02/12(木) 12:24:44 ID:lzFKr8Gc
>>651
立花「おなごは顔ではなく心の優しい娘がよい」
657人間七七四年:2009/02/12(木) 12:37:20 ID:yCfC2gMO
>>652
行動はめんどくさい三河武士と一緒だが、武田の旧臣には強気だな家康w
658人間七七四年:2009/02/12(木) 12:55:00 ID:rc4pYzl2
>>657
今川の人質時代からの旧臣には頭が上がらんかと
子供のころ自分を世話したり叱ったりした爺さん達に、今さら強く出られんだろうなw
659人間七七四年:2009/02/12(木) 14:36:16 ID:fYsyQ5M7
真田信之「>>656まったくもって!まったくもって!まったくもって!」
660人間七七四年:2009/02/12(木) 15:01:24 ID:EbN8CUil
            _,;-"      ゛'‐-;,
           /            ヽ
           ./     ◎ ◎ ◎   ヽ
    __    ./     ◎ ◎ ◎    .ヽ   / ̄\
  ./ ○ ヽ、 /                 ヽ/  ○  \
/      \,,,--―――''''''''''''''''''''――-/         ヽ
..⌒‐-,,,,_  /:/ヽー―――-、,,__,,,,-―――:||  _,,;-‐''"⌒~~~
     .ヽ/::||::::::::::   (●)    (●)   ||/ヽ
      く ::||:::::::::::::::::   \___/    ||:::::::::ヽ  >>659
       ヽヽ:::::::::::::::::::.  \/     ノ_/  帰ろうか…
661人間七七四年:2009/02/12(木) 15:15:11 ID:KQaKQIpc
伝右衛門と堪忍

ある時、伝右衛門は誤ってお茶坊主の腰の物を踏んでしまい、怒ったお茶坊主に扇子で額を「ぱしっ」と叩かれた。
武辺で鳴る伝右衛門はなぜか茶坊主風情に畳にひれ伏し「ゴメンナサイ。」と謝り、何事もなく済んだ。
これを見た朋輩らは、「初鹿野は武勇の者というのは偽りよ。」と笑い合った。

これを聞いた伝右衛門は、
「我が命は、主君のご用に立てるが命。茶坊主と差し違えても手柄にならず、切り捨てても誉れにならない。
もし油断して討たれた時は損恥よ。
戦場での敵には堪忍できぬが、普段のでき事はできるだけ堪忍なることが肝要よ」と笑ったという。
(甲越信戦録)
662人間七七四年:2009/02/12(木) 15:29:04 ID:A1VEoGiS
 ̄ `丶.  
      \ 
    ,人,ノヽ    、′     、 ’、  ′     ’      ;  、
  人ノ  ,.   !        . ’      ’、   ′ ’   . ・ 
,ノ'   / |  (|        ’、′・  ’、.・”;  ”  ’、
  ,/,/l ! ム|      ’、′  ’、  (;;ノ;; (′‘ ・. ’、′”;
/,/ / | (_,|    ’、′・  ( (´;^`⌒)∴⌒`.・   ” ;  ’、′・
/゚ / / /|     、 ’、 ’・ 、´⌒,;y'⌒((´;;;;;ノ、"'人      ヽ
´三:"/  フ|          、(⌒ ;;;:;´'从 ;'   ;:;;) ;⌒ ;; :) )、   ヽ
 ̄ ̄  <, |          ( ´;`ヾ,;⌒)´  从⌒ ;) `⌒ )⌒:`.・ ヽ    ,(_人_)
へ(⌒ヽ厂 |   ′‘: ;゜+° ′、:::::. ::: ´⌒(,ゞ、⌒) ;;:::)::ノ    ヽ/´
         /          `:::、 ノ  ...;:;_)  ...::ノ  ソ ...::ノ
:::.       /|                   ↑
:::::    / |                  >>659
  .//   |    他のスレに乗り込んでまで嫁の愚痴を言うな!
_/ /    |\  
663人間七七四年:2009/02/12(木) 16:12:29 ID:30R2Ri0Z
>>659
伊達輝宗「お前何贅沢言ってんの?」
664人間七七四年:2009/02/12(木) 16:16:57 ID:db7T+5Jl
>>661
偉いなあ
大抵逆切れして茶坊主を切り捨てるんだろうな
665人間七七四年:2009/02/12(木) 16:22:49 ID:4xXosNMZ
>>661
>>664
前田利家「まったくもってそのとおりじゃ」

666人間七七四年:2009/02/12(木) 16:29:02 ID:BEN8niTj
>>630
すいません、どこのスレでしょうか?教えてください。興味あります。
667人間七七四年:2009/02/12(木) 17:01:15 ID:ILZz/GaT
>>664-665
織田信長「茶坊主ごときにムキになるとかないわー」
668人間七七四年:2009/02/12(木) 17:16:01 ID:8s9Ick+6
信長さん、スイカたべた後の後片付けしなかった茶坊主さんをぶった切ったのは、
ムキを通り越した不埒なことなんですね。
669人間七七四年:2009/02/12(木) 17:20:06 ID:ObyhzRZa
信長「右手が勝手にやった」
670人間七七四年:2009/02/12(木) 17:21:12 ID:ycNfVKWF
>>666
【大名】江戸三百諸侯について語ろう4【藩主】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1231975300/l50

ただし、盛り上がっていたのは前々スレぐらい
今は別の話題にムーブメントがうつってしまってる(つд`)
671人間七七四年:2009/02/12(木) 20:02:23 ID:BEN8niTj
>>670
ありがとうございます。さっそくのぞいてみます。
672人間七七四年:2009/02/12(木) 22:02:19 ID:n6PHj+0i
ん〜?初鹿根伝右衛門って村上義清に討たれたんじゃなかったっけ?別人?
673人間七七四年:2009/02/12(木) 22:06:15 ID:w0+IRdAh
上田原で死んだのも伝右衛門だが
川中島で直系絶えた後養子に来たのも伝右衛門名乗ったから
674人間七七四年:2009/02/12(木) 22:41:17 ID:3Vn38+wU
他家が見捨てたチキン野郎も、狂人扱いの草履取りも、
海の向こうのイタリア人さえもひとかどの武士にする、それが工場長クオリティ

だが、どんな事にも例外はある。


再生工場長、リストラする(一)

蒲生氏郷は、橋本惣兵衛という侍を1万石の約束で迎え入れた。

この橋本が歓迎の宴席で、
「それがし、子が多いゆえ、10万石も賜れば一人ぐらい川に放り込んでみせまする!」
と豪語した。


翌日、橋本は氏郷の書斎に呼ばれた。待っていたのは、厳しい顔をした主君だった。

「おまえは昨夜、『高禄とわが子を引き代えても良い』と言ったそうだな。」
「はい、確かに憶えはありますが・・・」

「つまり、高禄さえもらえれば、人質を取っても犠牲にして簡単に裏切る、という事だな。 
当家では、そんな義理の薄い者に、1万石も与えるわけには行かぬ。
千石なら出してやろう。」

当初の1割で雇われた橋本だが、面目を失い、やがて退転したという。
675人間七七四年:2009/02/12(木) 22:41:53 ID:3Vn38+wU
再生工場長、リストラする(二)

玉川左右馬は弁舌さわやかで、才覚ある者として世に評判が高かった。
氏郷の家臣が彼と会い、その学識に驚き、主君に彼を推薦した。

喜んだ氏郷は礼を厚くして玉川を迎え、10日間に及んで彼の話を熱心に聞いた。
ところが、礼金をはずんだものの、氏郷は玉川を正式採用することなく帰してしまった。

玉川を推薦した家臣は、氏郷に聞いた。
「玉川ほどの才知ある者、登用の上、ゆくゆくは謀臣にもなる器と見ましたが、殿は
10日分の禄を与えただけで帰してしまいました。どんなお考えがあっての事でしょう?」

氏郷は答えた。
「世に知恵者と呼ばれる者は、見かけは立派だが口先だけの者が多い。ヤツもそうだった。
今の乱世ではみな文字に暗いゆえ、あんなヤツを知恵者と言ってしまうのだ。

アレの話は、まず始めにペラペラとオレにお世辞を言い、次にクドクドと諸大名を批判した。
さらに自分の交友関係の広さを自慢して、自分を大きく見せようとした。

こういう男は人の和を乱すので、どんなに才能があっても遠ざけるべきものだ。
だから、暇を取らせたのさ。」

のちに玉川が某家に仕え、主君に取り入り忠臣を退け、己の意のままにふるまったので
その家中が荒れ、結局追い出されたという話が伝わってきた。


蒲生氏郷が家臣に求めるもの、それはただ一つ “信頼” である。
676人間七七四年:2009/02/12(木) 23:17:08 ID:nuTcGQEm
蒲生氏郷、キリシタンでしたがイタリア本国と実際に交流があったんですね。
ググってみると、かの地で彼の鎧が出てきたりとか。

さすが先進的知識人です。
677人間七七四年:2009/02/12(木) 23:50:29 ID:D2lcpvPh
>>675
む、この人でもダメな人間ているんだな
678人間七七四年:2009/02/13(金) 00:38:15 ID:r6uxphzX
一条兼定「彼の所に行けば麿も!」
679人間七七四年:2009/02/13(金) 01:15:21 ID:4nDIjph6
土居宗珊「…ねーよ」
小島政章「流石にそれは…」
680人間七七四年:2009/02/13(金) 01:32:09 ID:s15Dqw53
関が原の戦いにおいて徳川秀忠は上田城の攻略に手間取ったため戦場に遅参した。
家康は非常に憤り秀忠との会見を拒否するほどであったという。

この時秀忠の為に家康に陳弁したのが本多正純であった。
曰く「秀忠公が遅れられたのは参謀たるわが父正信が謀を誤った為であります。
  どうか父正信を処罰し、秀忠公の咎でないことを天下に明らかにして頂きとうございます。」
家康の機嫌はこの言葉によって多少よくなった。
秀忠は感謝し「よくぞ言ってくれた。そのほうの言葉、一生忘れぬぞ。」と言ったという。

さて大いに面目を施し得々として退出してくる正純を見た安藤直次はある人にこう言った。
「上野介も先は長くないな。己が父を傷つけて得意がっているようでは危ない危ない。」

この後本多正純は家康、秀忠父子の覚えめでたく、ますます出世してゆく。
その人が「一向に危なくないではありませんか。」と皮肉混じりに言うと
直次は「いや、危ないのはこれからだ。」

その後正純が宇都宮15万石を賜った時その人がまた言った。
「どうです?見込み違いでしょう。」
直次は「いや、今度こそ危ないのだ。」

正純が宇都宮に居る事3年
宇都宮騒動によって領国没収されるに及んでその人は直次の明察に服したという。


安藤直次のいい話…かな。
681人間七七四年:2009/02/13(金) 01:43:56 ID:oW7NAH2C
何事も根気良く、という話か
どうにかなるまで危ない危ない言い続ければ言いわけで
682人間七七四年:2009/02/13(金) 01:44:06 ID:g1+LHYwp
そういえば一条の逸話ってでてなくね?
683人間七七四年:2009/02/13(金) 01:54:26 ID:45hm8Hg6
>>680
「ある人」が気になったんだけど、誰か分からないのかな?
684人間七七四年:2009/02/13(金) 02:06:51 ID:joEd+MZm
>>683
正純乙w
685人間七七四年:2009/02/13(金) 02:28:27 ID:mj7SYu05
大阪の陣の折の事である

尾張家初代、徳川義直の家臣に、曽根某という者がいた。
彼の十六歳の長男が初陣をすることになったので、代々曽根家に仕えている老練の家人を呼び

「今度の戦では、私に変わって息子の面倒を見てくれ。戦場でそれなりに働けるよう、
よろしく頼む。」

と、頭を下げた。家人は「お気遣いなさらないでください、承知いたしました。」と、
長男に付き従い出陣した。


さて、戦闘が始まる。
家人は目ざとく。これはと言う敵を見つけ「あの敵と槍を合わせましょう」と申し上げ、
曽根某の長男も見事その首を取った。
すると家人、何を思ったかその首の切り口を、長男の顔に押し付けた。

「な、何をする!」

と言う間にも、家人、今度は敵の血を、鎧にペタペタと塗りつけ、
最後に、まだ血の流れる首を馬の鞍にくくりつけた。

長男の鎧も馬も白色であった。そのため血の朱の色が映え、その姿はすさまじく、
それを見た者は『あの武者はどれほど立派な働きをしたのだろう』と、皆、長男を
誉めそやした。

そのため長男も気持ちが高揚し、さらに手柄を立てることが出来た。


戦後、曽根某はこの家人の働きを賞賛し、自分の家禄600石のうち、100石を
この家人に与えたと言う。
686人間七七四年:2009/02/13(金) 02:33:52 ID:vkgZRgq8
>>683
弥八郎「そんな細かいことを気にしとる場合かー!」

ウチノセガレハ...('A`)


ほんまは家康も、才気走って危なっかしいし、弁が立ちすぎ何気ない一言で敵を増やしそな正純の将来を危ぶんだと思うぞ?(…まさに東の石田治部)

同じエピで秀忠が
『こやつ、俺を庇うためとはいえ、あっさり親を切り捨てようとした…
もし徳川家にとって必要なくなれば、次は世子たる俺をも簡単に切り捨てるのではないか?!』
と疑った説もあんだヨ
687人間七七四年:2009/02/13(金) 02:35:34 ID:wyCZQc57
いいなこれ
血を塗った爺さんも凄いし、そのあとにも手柄を立てた長男もまたしかり
688人間七七四年:2009/02/13(金) 02:37:36 ID:rKmHezB9
>>685
自分の俸禄の1/6も与えるとか凄い太っ腹だな。
689人間七七四年:2009/02/13(金) 02:49:37 ID:vkgZRgq8
>>674
大言壮語して言葉の軽い輩、いつ不忠不孝者になるかわからんものな。

>>675
久武親信「殿へは我が弟、彦七を用いませんよう遺言代わりにお願い申し上げたのだがなあ…(嘆息)」
690人間七七四年:2009/02/13(金) 04:12:43 ID:97z7v/w2
敵を討ち取るチャンス14ヶ条
1.敵が集結する前。
2.人馬が食事前の時。
3.敵が方角を間違っている時。
4.敵の陣取り前。
5.敵の備えが乱れた時。
6.敵の作戦が未決定の時。
7.敵が疲れている時。
8.大将が備えから離れた時。
9.敵が長途の半ば。
10.川を渡っている最中。
11.難所を越える時。
12.敵が油断している時。
13.敵が手段を失っている時。
14.敵が恐れている時。
by兵書「当流軍法功者書」
691人間七七四年:2009/02/13(金) 04:22:30 ID:TBxFbSJp
一条兼定ではないが…

いわゆる長宗我部元親は第21代の当主だが、15代目にも長宗我部元親がいた
そのご先祖元親が上洛することがあった
京の人士と交流せねばならないが、何せ土佐から出たことがなく、礼儀作法に疎い
一条経嗣邸を訪ねたのだが、そのあまりの田舎者っぷりに同情されたらしい
「あのまま他の人と会ったら、えらく恥をかくな…これ、誰ぞあの者を助けてあげなさい」
ということで、一条の御家人が作法全般をレクチャーしてくれた
元親、素直に感激した
「一条様のご高恩を忘れてはならんぞ。子々孫々まで伝えよ。
報謝の志に背くようなことをすれば、たちどころに武運は衰えてしまうぞ」
常々、家中に言って聞かせたらしい

経嗣卿、土佐一条家初代・教房の祖父にあたる人物であった
692人間七七四年:2009/02/13(金) 05:07:21 ID:4nDIjph6
まあ21代目が一条家潰したわけじゃないからおkか

確か兼定追放後の話だし
693人間七七四年:2009/02/13(金) 05:58:08 ID:iN91iqwd
でも確か、帰ってきた一条さんをフルボッコにしたひとですよね、21代目。
694人間七七四年:2009/02/13(金) 06:05:24 ID:8Ft4WXT0
ご高恩を忘れて追放とかするから発狂したり廃人になったり、四男が御家を滅ぼしたりするんだよw
695人間七七四年:2009/02/13(金) 06:05:30 ID:cfS4czXh
国親も一条氏に助けて貰った恩を仇で返してるんだよね。
696人間七七四年:2009/02/13(金) 08:07:29 ID:ead2H1iI
>>689
そういや、秀吉から新しい領地をやろうと告げられて嬉しさのあまりつい「まるで夢のようです」と言ったら
その言い方がなんか秀吉のカンに触ったらしく「なら本当に夢にしてやろうか!」と恩賞の件をオジャンにされた武将もいたとか

そのうっかりな一言が身の破滅ってよくあるよね
697人間七七四年:2009/02/13(金) 09:19:34 ID:32LfTckP
太閤殿下wwwww
698人間七七四年:2009/02/13(金) 11:04:09 ID:7HsQuTEc
まだ出てないみたいなんで、関ヶ原の後の佐和山落城の話を。


関ヶ原で三成が負けたと知らされた佐和山では、
正継らの命と引き換えに城内の人間は助けるという条件で降伏することになった。


しかしその降伏の日の早朝、
伝達ミスで家康の命令が届かず、田中吉政の軍が城内に攻め入ってしまったのである。

更にそれをきっかけに金吾など他の軍も攻め入り、城内は降伏の予定が一転して凄惨な光景となった。


正継や正澄らはもはやこれまでと天守で自刃。
三成の奥方も、土田桃雲という家臣に自分を切らせて死んでいった。


一族がみな自刃した後。

桃雲は正継らの遺体に火薬を仕掛けた。


「たとえ城は落ちても、主の首は渡さぬ!」


そして天守に火を放つと、自身は見事、十文字で切腹して果てた。


ただ、佐和山の天守は実はあまり焼けてないんじゃないかという説もあるらしい。

その一方で、桃雲は三成の奥方や子供を守って城から脱出、
高野山にいったん逃げた後、名を変えて諸国を漫遊した、という噂も生まれた。

当時の人達も忠義の士を死なせたくなかったのかもしれんね。


699人間七七四年:2009/02/13(金) 11:08:20 ID:vkgZRgq8
>>698また田中吉政か;

なんでピンポイントに後世の印象悪くするよな場面ばっか…
700人間七七四年:2009/02/13(金) 11:11:47 ID:mj7SYu05
佐和山城はその建築物が多く彦根城に移築されたらしいからね。
実際はそんなに被害はなかったとは思われる。
701人間七七四年:2009/02/13(金) 11:13:30 ID:xOmlGBEU
田中吉政が悪いんじゃないんだよ!
伝達ミスしたやつが悪いんだよ!
吉政は悪くない!
702人間七七四年:2009/02/13(金) 11:35:06 ID:f6Kit4s1
「伝達ミス」って
「秀頼・淀親子を助けようとしたんだけど…」の話でも出てくるなw
極悪人は必ず末端のせいにするといういい見本だ。
703人間七七四年:2009/02/13(金) 12:13:18 ID:9jvllEGh
何か最上厨と似てる擁護だなw
704人間七七四年:2009/02/13(金) 12:27:09 ID:mj7SYu05
>>702
つーか、大阪城はともかく、佐和山で無駄に戦われても家康には迷惑なんだが。
705人間七七四年:2009/02/13(金) 12:49:36 ID:EY/IRzP6
三成と敵対したアホだからな
悪く書かれてもしょうがない
706人間七七四年:2009/02/13(金) 12:51:24 ID:lLqLWc89
みんな殺気立っている時に、携帯の無い時代、細かい連絡無理ジャマイカ。
707人間七七四年:2009/02/13(金) 13:52:47 ID:F5Jfv8EM
>>696
で、秀吉は辞世に自分の人生は夢のようだったと歌って家康に本当に夢にされるというわけですね。
708人間七七四年:2009/02/13(金) 14:11:37 ID:vkgZRgq8
>706
そこで小早川家の「鶏鳴狗盗」家臣団が人情手旗信号を……

秀秋じゃ解読ムリかな。その前に家臣が退転してそうだが
709人間七七四年:2009/02/13(金) 14:58:45 ID:uZ9Y4qTP
何故か叩かれる金吾
710人間七七四年:2009/02/13(金) 16:11:30 ID:mj7SYu05
利休さんからお手紙着いた


小田原征伐真っ最中。武蔵で交戦中の古田織部に。

「キミからの手紙も途絶え途絶えで、武蔵鐙って言うけど、流石に遠いねえ。

煩いが全快したので、昨日19日に箱根湯本の宿に移ったよ。

しかし、隅田川、筑波山、武蔵野、日暮里、亀戸と、古来から歌に聞こえた
風景を堪能できて、本当にうらやましい(※北条軍と転戦中です)

こっちは寝てもさめても富士山だけ。まあ何とか我慢してるよ(※小田原城包囲中です)
それにここは、そっちも同じだそうだけどハエが多くてねえ。まったく閉口だよ。

あ、花筒がもうすぐ届くそうで、すごく楽しみにしてるよ。
こっちはね、すごく変わった筒を切り出した。もうこれでここには用はない。

敵の城は大体攻略したらしいね。めでたい事だ。
こっちでは太閤様が作ってた城が今月中にようやく完成するそうだよ。
それが出来れば、小田原ももう長くないだろうね。

あ、旅館でも茶を楽しんでるよ〜。こんなこともあろうかと摘み茶を持ってきていたのだ。
じゃ、また!

天正十八年(1590)六月二十日 宗易」


戦争中でも妙に伸びやかな宗易師匠だったのでした。
711人間七七四年:2009/02/13(金) 16:18:16 ID:r6uxphzX
>>710
これ織部じゃなかったらブチ切れてもおかしくないぞww
712人間七七四年:2009/02/13(金) 16:19:47 ID:F5Jfv8EM
利休と織部のコンビはどうしてもへうげものの絵で再生されてしまう
713人間七七四年:2009/02/13(金) 16:23:36 ID:dxSScKLW
へうげものの1シーンでもあったくらいだから仕方ないかと
けど利休は町人だからこういうふざけた口調じゃなかったんじゃないの
714人間七七四年:2009/02/13(金) 17:22:13 ID:SEWg8sDt
>>713
武士、町人関係なくないか?
町人は武士に敬語を使わなければならない決まりがあるわけでもないのに
715人間七七四年:2009/02/13(金) 17:23:49 ID:WGOE8qwC
>>710
『武蔵で交戦中』が『鬼武蔵と交戦中』に脳内変換されてwktkしてしまった。
716人間七七四年:2009/02/13(金) 17:26:26 ID:mj7SYu05
>>713
まあ、敬語に関しては、師弟という立場と、20歳の歳の差を表現するための
脚色だと思ってくださいな。
717人間七七四年:2009/02/13(金) 17:46:56 ID:dzPu4pUy
既出?有名な逸話ですが...
白鹿城矢文合戦「雲陽軍実記」より

毛利氏の尼子攻めの際の話、月山富田城攻めの前哨戦として毛利が大軍で白鹿城に攻め寄せた。大軍であった毛利だが、白鹿城は富田城の支城中屈指の堅城として知られた城であり尚且つ城将は猛将松田誠保である。そのため毛利は糧道と水の手を切って包囲した。
あるとき、よほど暇だったのか毛利側から疲労困憊する白鹿城側に矢文が飛んできた。その矢文は

『年経れば白髪(白鹿城)の糸も破れ果て 森(毛利)の木陰の露と朽ちなん』毛利より尼子へ
と毛利側の煽り文句の和歌であった。だが尼子も黙っては居ない。

RE:『安芸の森(毛利)朽葉も落ちて(←隆元死んで)木枯の 中に松田(俺様)ぞ色を増しける』尼子より毛利へ
さらにつづけざまに尼子よりの矢文が届いた。それがこちら

RE:『元就は白髪(白鹿城)の糸につながれて 引くも引かれず射るも射られず』尼子より毛利へ
そうすると毛利から矢文がとどいた。

RE:RE:『尼の子の命と頼む白髪糸 今ぞ引切る安芸の元就』毛利より尼子へ
このような矢文合戦があったとされる。

だんだんと歌のクオリティーが下がってただの煽り合いになっている感もあるが、なんとも風流な合戦で(雰囲気の)いい話。
718人間七七四年:2009/02/13(金) 17:51:04 ID:vkgZRgq8
>>717ちょ、おま...
クオリティーとか言葉づかいでえらく印象がアレになるが
煽り合戦は納得だなー w
719人間七七四年:2009/02/13(金) 17:56:28 ID:vkgZRgq8
>>709すまん
金吾が勇猛だったのは疑いないし、巷間伝わるよな能足りんの子じゃあないとはおもうが
一芸一能の奇特な家臣を統御するにはまだ若すぎるかな〜と……
720人間七七四年:2009/02/13(金) 17:58:47 ID:4nDIjph6
>>717
最後掛詞も何もあったもんじゃないなw
721人間七七四年:2009/02/13(金) 18:11:18 ID:jkQpTaU+
>>717
そんなことのために矢を放ち射手はご苦労なことでw
722人間七七四年:2009/02/13(金) 18:22:07 ID:3qf/VH4+
>>717
最後の方2chの煽り合いみたいだなw
723人間七七四年:2009/02/13(金) 18:48:25 ID:MnFmQr6J
語尾に必死にwwwwwつけて草生やしてそう
724人間七七四年:2009/02/13(金) 18:56:36 ID:7dlWgRoF
そうなると「ちょっと悪い話」スレ行きだなw
725人間七七四年:2009/02/13(金) 19:10:40 ID:vkgZRgq8
>>724両軍、長閑だけど(一寸あたまの)わるい話

726人間七七四年:2009/02/13(金) 19:40:10 ID:NDrS3Odq
既出?有名な逸話ですが便乗


松山城風流歌合戦

天文6年、上杉朝定が家督を継ぐと、北条氏綱は河越城へ向け進軍を開始した。
上杉勢は総崩れとなり、7月15日には河越城が陥落したため松山城へ敗走した。
松山城の難波田憲重は朝定を迎え入れ、7月20日に北条勢と戦闘となったが難波田勢
の活躍で辛くも撃退した。

このとき、追撃する北条方の山中主膳が、敗走する憲重に和歌問答を仕掛けた。

「あしからじ よかれとこそ たゝかはめ など難波田の くずれ行らん」
(主君のために良かれと思い闘ったのではないか、なぜそれなのに難波田憲重ほどの名のある者
が逃げるのか)と詠むと

憲重は馬を止めて踵を返し、

「君をゝきて あだし心を 我もたば すえの松山 波もこえなん」
(幼い主君を置いて自分が討死にせば、しまいには松山は荒波の中に呑まれてしまうであろう。
そういう訳にはいかないのだよ)と歌を返したという。
727人間七七四年:2009/02/13(金) 19:58:05 ID:pxsA8WFg
短パン
728人間七七四年:2009/02/13(金) 20:42:03 ID:g1+LHYwp
>>717
尼子方のつづけざまに放った二つ目の和歌なんか
「レスまだ?www」
みたいなもんだしなw
729人間七七四年:2009/02/13(金) 21:06:50 ID:jAJk6Tr1
毛利の最後の歌なんて
「悔しいのうwwww悔しいのうwwww」ぐらいのノリだしw

>>726みたいに綺麗にまとまるなんて実際は少なかったろうな
口合戦の延長だったんだろうから
730人間七七四年:2009/02/13(金) 21:47:23 ID:NBnu/OEm
にしても最後の句はあんまりだ。掛詞も季語もねえw
このやり取りで毛利方の大将は吉川だっけか?
731人間七七四年:2009/02/13(金) 22:10:50 ID:uZ9Y4qTP
>>717
逸話そのものも面白いけど、こういう風に書くとまた違った面白さがあるなw

>>719
上っ面だけ読んで適当にレスしてた
こっちこそごめん
732人間七七四年:2009/02/13(金) 22:16:34 ID:45GsOnrE
和歌に季語はいらないよ。俳句だけ。
元就って直截的に人名を出してるのがちょっと品がないよね。
そこに掛詞があるだけで随分と印象がやわらぐものだけど。
733人間七七四年:2009/02/13(金) 22:24:12 ID:Od8vob2w
織田信孝でさえ、ちゃんと秀吉じゃなくて「羽柴筑前」と書いてるのにな。
734人間七七四年:2009/02/13(金) 23:02:17 ID:mj7SYu05
伊達政宗、フィ−バー


寛永十二年正月二十八日。
伊達政宗は江戸城二の丸において、将軍家光に献茶をした。
献茶と言っても、これは当時のもてなしのフルコースのようなもので、
先ず懐石料理のコースが出され、その後茶をたてる。そのあと書院にて
脇差、刀を献上し、そこからは主演が始まる。

このとき余興として能が行われたが、能の上手である家光自ら進み出て

「わしが敦盛を舞おう。政宗、鼓を打ってくれまいか?」

将軍の舞に鼓を打つ。これはまことに名誉の役である。座に集うご相伴の旗本、大名、
伊達家の面々もやんやの大喝采となった。
そこで政宗、一旦下がり準備をし、舞台に現れる。
この時の政宗の姿がすごい。

表は浅黄の地に金の紋を浮かせた緞子。裏は赤。
その上金砂五色の糸の五所紋。前後に大きな唐団扇をさし、蔦唐文様の箔押しの肩衣。
さらに金で色々に縫箔し、少し長めに着た袴。

鼓打ちのくせに演者を圧倒するキンキンキラキラ。伊達政宗、このとき69歳。
派手にもほどがある爺様である。

さて、政宗のパーティはこれだけでは終わらない。
能が終わると踊りが始まる。なんと政宗はその踊りのため、選り抜きの美少年を集めた
20数人ほどのダンスグループを用意していたのだ!ジャニーズかお前は。

これにはその趣味のある家光も大喜び。彼らの最新の若衆歌舞伎レイブを堪能し、
政宗の献茶は大成功に終わったのであった。
無論、このパーティを一番楽しんでいたのが政宗自身であったことは、言うまでもないであろう。
735人間七七四年:2009/02/13(金) 23:10:13 ID:WjjY3/2y
若衆歌舞伎レイプに見えた
家光ならやりかねないと思った
736人間七七四年:2009/02/13(金) 23:11:26 ID:QtMOqc/U
>734
家光「お持ち帰り…いいかな?」
政宗「イエ〜、オフコース!!」
こうして、今夜も江戸城にてぱんぱん節が響き渡るのであった…。
737人間七七四年:2009/02/13(金) 23:16:51 ID:u9+eaiQr
>>734
政宗はおじいちゃんになっても政宗なんだなあと思うとなごむ
738人間七七四年:2009/02/13(金) 23:40:15 ID:cVFzezSk
>>735
あなたはわたしですかw
739人間七七四年:2009/02/13(金) 23:47:07 ID:8RgveAXQ
秀吉も能の優れた舞手だったが。

この場合、酒池肉林はどうすんのかな。
740人間七七四年:2009/02/13(金) 23:48:18 ID:7CJunjD2
なんか家光が政宗のこと好きな理由がわかった気がする
741人間七七四年:2009/02/14(土) 00:04:32 ID:T3V4tBg+
頭が良くて多趣味だから人を楽しませる能力は高いわなww
742人間七七四年:2009/02/14(土) 00:08:52 ID:zFU2rsCz
一方幕府に愛されない隣の家。

最上家親
「最上家親は、五十七万石の太守であることと父親の偉業を自慢し、
派手を好み着飾って軽薄だった」

最上義俊
「彼は暗愚で好色であり、遊女を舟にのせて河遊びを楽しみなどした。
実にけしからん」

こんな軽薄な家に奥羽の大事な役目を任せられまい。

改易。でも当主が三十歳になったら六万石は返してあげようかな?

当主、心労のためもあってか若死に

六万石もなしってことで。あ、跡継ぎ子供だから一万石を削って五千石にしちゃおうか


こういうのを見ると、政宗は何か愛されモテオーラがあったんだろうな…
と思う。宴会部長つかさ。
743人間七七四年:2009/02/14(土) 00:15:09 ID:RrtIGQHu
>>734
流石政宗、いくつになっても少年の心を忘れない男
744人間七七四年:2009/02/14(土) 01:04:22 ID:7zQVPTqN
>>734
親戚のおもろいおっさんって感じだw
745人間七七四年:2009/02/14(土) 03:17:42 ID:K9543vKb
有名な話だけどまだ出ていないので

長宗我部元親は分国法で大酒を戒めた
しかもかなり厳しく、細かい内容だった
「重臣達はもちろんだが、上下ともに大酒を禁ずる。
酒乱の者が事件を起こしたら、軽くても罰金三貫、重い者は死刑だ。
人を傷つけたり、乱暴したりするなら、首を刎ねる」

ところがある日、重臣の福留隼人が城下を歩いていると、酒樽を担ぐ男達がいる
誰のものだと問うと、お城へ運ぶという
硬骨漢の隼人、いきなり樽を奪うと、全部打ち砕いてしまった
「人の主たる者、諸人の鑑とならねばなるまいに…
自ら定めた法を自らが守らぬとはいかなることじゃ!
殿のことを思えばこそ、一命をもってお諌めする!」
と、城中に怒鳴り込んだ
家老以下、家中一の猛将が激昂したとあり、「隼人狂乱」とほうほうの態で元親に報告する
しかし、さすがに元親も隼人の諫言に感じ入った
「このたびの禁酒の触れ、あれは誤りだったので、改めて許すことにする。
ただし、乱酒はいかんからな」

元親の苦笑が見えるようなお話
746人間七七四年:2009/02/14(土) 07:15:11 ID:A+PeRWSb
>>734
どぎつい色の虫には「俺に毒あるから食わないほうがいいよー」
って意味があるって聞いた。
747人間七七四年:2009/02/14(土) 07:33:59 ID:wbzT0SrD
高知に行ったときには「いやあ俺あんまり飲めなくてねえ」って爺様が毎日一升飲んでたりでカルチャーショックだったから
当時においても酒無しなんてこと言いだしたら禁酒法どころの騒ぎじゃなかったんじゃなかろうか
748人間七七四年:2009/02/14(土) 08:40:09 ID:ph3XuqJm
>>746
政宗虫、すげえ!
749人間七七四年:2009/02/14(土) 09:17:25 ID:3s2K25MT
>>744
まさしく、まさしく
750人間七七四年:2009/02/14(土) 09:19:14 ID:3s2K25MT
>>747
あそこはまじしゃれにならんからなあ・・・

戦国時代の薩隅もヤバい国だったろう(酒好きな意味で)
751人間七七四年:2009/02/14(土) 10:03:43 ID:qlLK09P0
>>734-735今日の「その時」です!

マサムネ・レイブ・ファクトリー「MRF」結成の瞬間であった…
752人間七七四年:2009/02/14(土) 10:05:46 ID:qlLK09P0
>>745
橋本大二朗(前)知事の苦労がしのばれまふ
753人間七七四年:2009/02/14(土) 10:37:21 ID:2Bv0b7du
たまたま見かけたブログで見つけた、まとめサイトの感想があまりにパターン通りで面白かったので
張ってみるw



> 10:00〜11:30 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ にはまる。家久DQNはじめて知ったw
>
> 島津=名君≠人格者


> 20:00〜1:30 眠さで頭痛がするけど戦国ちょっといい話・悪い話まとめ 面白すぎる。
>
> 延々と読んでる。にしても、膨大すぎるわ。明日一日がかりでよもっかなw
>
> 秀吉が信長にも猿と呼ばれていたことを知る。


> 真田信之、毛利隆元、最上義光らが評価されている辺りがすげーうれしい。
>
> やっぱあの辺好きになっちゃうよね。




> 森長可のエピソードが衝撃的すぎるw個人的には忠興とか比じゃないw
754人間七七四年:2009/02/14(土) 10:42:07 ID:4lIGB4mp
晒しとかやめてやれよ
もっとやれ
755人間七七四年:2009/02/14(土) 11:36:15 ID:/VWzDkWu
>>745
ほのぼのしてていいな
政宗達に比べるとなんて常識人なんだ
756人間七七四年:2009/02/14(土) 12:25:22 ID:X+wJd1C5
あとは信忠の評価をもっとあげたいと思う
実際の戦歴はほぼ完封で義理人格もなかなかよかったみたいだし
757人間七七四年:2009/02/14(土) 12:34:36 ID:jQWLHEL1
信忠は信康とならいい勝負しそうだった
758人間七七四年:2009/02/14(土) 12:41:20 ID:bQXM6kFl
>>745
うーん、いまいち納得いかんなあ。
元親が禁じたのは「飲み過ぎたり酔って暴れちゃだめだよ」ってことで、
晩酌に2合くらいはおkって風に理解した。
でもそれだと城に酒樽運んでるだけで切れるのはいき過ぎじゃないか?
分国法は細かい内容だったとあるから「樽で買うとつい飲み過ぎちゃうからダメ!」
なんて条文もあったのかな?
759人間七七四年:2009/02/14(土) 12:42:32 ID:qlLK09P0
>>756
鬼武蔵や各務兵庫を生暖かく見守る器量……で一つ
760人間七七四年:2009/02/14(土) 12:57:16 ID:9dEXyxDV
三河牛久保城に花藻と忍という二人の女房がいた。
二人は美人で品行もよく、優美であった。
特に花藻は城主の牧野貞成が目をかけるほどだったが、なびくことはなかった。
また貞成の家臣に真木定安と岩瀬親氏という、これまた品のある優れた侍がいた。
真木は花藻と、岩瀬は忍と恋仲になるが、どちらもお互いの気持ちを言い出せずにいた。

永正十四年(1517)、貞成は大和長谷寺の観音を牛久保に勧請し、縁日を開いた。
そこで花藻は
「長谷の観音様は願い事を必ず叶えてくれるそうだから、一緒に願をかけましょう。」
と忍を誘って参詣した。
するとどうしたことだろうか、二人は真木と岩瀬にばったり会ったのである。
こうして四人は一緒に店に入り、泣いたり笑ったりして楽しみ、
『行く末かけて変わらじ』と誓い合った。
その後、真木は花藻と、岩瀬は忍と結婚して偕老同穴を契るのだった。

そして数十年の時が過ぎ、牧野氏が従っていた今川義元が討ち死した。
やがて牧野貞成は家康に寝返り、死んだ。真木と岩瀬は各地で戦ったが、
真木が重傷を負い、岩瀬は親友を助けて帰ってきた。

花藻と忍は懸命に真木を看病するが、真木の傷は深かった。
「思えば岩瀬とは子どものころから友達で、
恋愛についても関わりが深く、不思議な縁だったなぁ。」
と過去を振り返りながら、真木は死んだ。
真木の妻・花藻は亡き夫を思い、周囲の諌めを振り切って自殺してしまう。
親友夫婦の不幸を嘆いた岩瀬夫婦は二人の霊を手厚く弔い、仏門に入ったという。
761人間七七四年:2009/02/14(土) 13:10:58 ID:L8y77fai
毛利家も酒飲みで早死に多かったし、この時代
刹那的な酒乱のDVとか多かったような希ガス。

うちも日本有数のアルコール消費県。
皆さんナマポばかりです。
762人間七七四年:2009/02/14(土) 13:53:27 ID:0bPipY7j
>>760
うちの知合と殆ど同じカップルがいてびっくりだわ

おちがちょっと違うけど

真木→仕事にいかずパチンコ借金漬け→花藻離婚
岩瀬→離婚した花藻と3日とあけず浮気→忍錯乱中
763人間七七四年:2009/02/14(土) 14:03:02 ID:Zws+4swz
真田信幸の命を懸けた助命嘆願の話は当時の町人にも広まった
人々は「保元の義朝とは、かくも違いし伊豆守殿」と誉め讃えた
ちなみにこの義朝とは源義朝の事
保元の乱で平清盛を総大将とする天皇側に付き勝利、上皇側の総大将であった父為義や弟達の助命を天皇に嘆願したが叶わなかった人物である
まあ、続く平治の乱で平清盛と争って敗死したんだが
この話が家臣達の口から信幸の耳にも入った
源頼朝の父で誉れ高き河内源氏の頭領並び賞されたのだから喜ぶと思ったのだろうが…
「冗談じゃない!」
キレられた
家臣達は困惑したが以後真田家中ではその話はしなくなった
これは義朝と並び賞された事を喜ぶ事から悪い噂生じるのを恐れたからと言われる
〜良い子の讒言講座〜
「義朝公に並び賞されたは誉れ高き事なれど我は将軍の臣下なれば畏れ多き事なり」
↓讒言フィルター
「伊豆守殿は義朝公に例えられた事を喜び‘されば我が将軍臣下に甘んじるのも今暫くの辛抱よ’と申しておりました」
当時の讒言は君主をブチ切れさせたら勝ち
君主がブチ切れて切腹を命じれば腹を切るか反乱するかしか道はないからである
釈明が成功した例が伝わっているのは、それが‘記録にする価値のある希有な事例’だったからである
信幸は怒った、そうせざるを得なかった
真田の家名を守っる為には僅かなスキも晒す訳にはいかなかった

実はこの源義朝、家族絡みだと実に縁起が悪い人物でもある
父為義→義朝の手で処刑
次弟義賢→義朝と交戦し敗死
四弟頼賢→義朝の手で処刑
八弟為朝→保元の乱の後、伊豆大島に逃げ延び上方に反抗し続けて討伐
長男義平→平清盛の暗殺を謀って失敗し処刑
次男朝平→平治の乱で負傷し義朝の手で介錯
一応の寿命を満たしたのは三男源頼朝だけだったりする(早生した者はいる)
家族思いだったとされる信幸にすれば余り嬉しくはなかったのかもしれない
764人間七七四年:2009/02/14(土) 14:30:38 ID:MMpgRwbu
>>763

四男義門→源平合戦で戦死?
五男希義→兄の頼朝が挙兵するとこいつも挙兵するんでね?と平家に疑われて暗殺
六男範頼→謀反の疑い(濡れ衣?)で頼朝によって誅殺
七男全成→頼家と対立したため誅殺
八男義円→墨俣川の戦いで討死
九男義経→頼朝によって討伐
坊門姫→難産で死亡

大姫(頼朝長女)→20歳で早死(大姫入内に反対する反幕府派による毒殺?)
頼家(頼朝長男)→家臣の北条氏によって殺害
貞暁(頼朝次男、庶子)→政子に野心を疑われて釈明のために片目を抉り取る。最後は自殺説あり
実朝(頼朝三男)→甥である公暁により暗殺
曾孫
一幡(頼家長男)→比企能員の変により北条によって殺害
公暁(頼家次男)→実朝暗殺後に証拠隠滅のために暗殺
栄実(頼家三男)→六波羅襲撃計画が幕府にばれて自害
禅暁(頼家長女)→実朝暗殺に加担した疑いで北条により誅殺
竹御所(頼家次女)→難産で死亡
765人間七七四年:2009/02/14(土) 14:33:46 ID:ZJbHpVex
今と昔とではアルコール含有量が違うんじゃないか?
醸造技術が発展するのはもっと後の時代だし
766人間七七四年:2009/02/14(土) 14:54:23 ID:g/Fa4gkL
「あいつら、酔いつぶれるまで飲む上、人に無理矢理勧めてくるからマジ質悪い」
ってフロイスの証言があるぜw
767人間七七四年:2009/02/14(土) 15:02:07 ID:2Bv0b7du
宣教師の記録で「日本人は酔っ払うまで飲む事は無い」ってのもあったよ、たしかw
768人間七七四年:2009/02/14(土) 15:35:02 ID:JYln206X
四国と酒で思い出した。
藤堂高虎が宇和島にいた頃の話。
高虎自身は体格の割にはあまり酒を飲まなかったが、
他人に振る舞うのを好み、家臣を招いて夜な夜な宴会を催していた。
ある雨の夜、その日も藤堂家中は宴会で盛り上がっていた。
そんな中、やにわに高虎立ち上がり、庭先に下りて行った。
ざわめく家臣を片手で制すると、
高虎は雨中の暗闇に向けて白刃を一閃した。
家臣の1人が灯りを持って駆けつけると、
そこには黒装束の男が倒れていた。

「酒の肴を作ったぞ!」

家臣たちにそう言いながら、高虎は黒装束の男にとどめを刺した。
769人間七七四年:2009/02/14(土) 15:38:54 ID:2Bv0b7du
高虎は個人的な武勇もものすごいのに、それに頼らない武将になった事がすごいな。
人間なかなか、あんなふうに生まれ変われない。
770人間七七四年:2009/02/14(土) 15:45:05 ID:iLKMT5mw
>>763
義朝の祖父義親も逆賊として討伐されてるし、そもそも義朝は
平家との争いに敗れて殺されてるんだから嬉しい訳がないわな。
信之の息子信政は60歳まで家督を譲られなかったくらいだから
頼朝の器じゃないだろうし。
771人間七七四年:2009/02/14(土) 15:46:05 ID:y9NE6dAN
>>758
この逸話のあとゆるくなったんじゃなかったか?

土佐の酒飲みたちはおかしいからなあ
772人間七七四年:2009/02/14(土) 15:57:03 ID:2Bv0b7du
酒と言えば毛利元就の逸話に、元就の屋敷には常に酒と餅が用意してあって、
上戸の好きな客が来ると、酒を出して

「酒と言うものは飲むと体を温め心を強くし、また万薬の長ともいいますな。
私は残念ながら嗜みませんが酒とは実に良いものだと思います。」

と褒め、また下戸の客が着たときには餅を出し

「酒は命を縮めるだけの害毒ですよ。酒を嗜まないあなたは実に偉い。」

と褒め上げ、双方それぞれをいい気分いさせた、ってのがあったな。
773人間七七四年:2009/02/14(土) 16:03:20 ID:Rj9L4KUD
細かいが、家臣に振る舞ったんじゃなかったかな
774人間七七四年:2009/02/14(土) 16:09:00 ID:2Bv0b7du
>>773
ああそうだった。うろ覚えで書き込むもんじゃないねw
775人間七七四年:2009/02/14(土) 16:35:46 ID:5w3gDqmz
>>758
隼人が言いたかったのは、
「大々的に大酒を厳罰に処する法度を出しておきながら、
触れた国主本人が、白昼堂々酒を運び込ませてたら世間はどう思うか」
ということだったんだと思う
軽々しいことをやっていると、人心は離れるぞと
樽を叩き割ったのは、世間向けのパフォーマンスだったんジャマイカ

で、察した元親は厳罰方針から、努力義務に緩和したと
776人間七七四年:2009/02/14(土) 17:01:33 ID:4qw4VJ1r
天正二年、織田信長が長島で一揆勢と戦ったときの出来事。
この戦に参加していた当時十九歳の蒲生氏郷。
一揆勢の中でひときわ目立つ大剛の者を組み討ちにしてその首をとった。
若い氏郷、自らに新たな武勇伝が出来たことと、
回りの者たちの羨望の眼差しを受けたこととで誇らしい気持ちになったのだろう。
信長様からもお誉めを頂けるはずだと本陣に帰り、その首を信長に差し出したのだが、
なぜか信長は冷ややかに笑うだけで、一言も氏郷に声をかけることはなかった。
なぜ信長がそのような態度をとるのかと、不思議に思う氏郷。
命懸けで大剛の者を討ち取ったというのに・・・・不満が表情に出ていたのだろう。
その様子を見て、これは言葉で説明するべきだと思った信長が言う。
信長「一騎打ちのような勝負事はおよそ時の運によるもので、計画して勝てるものではない。
たしかに功名は武士の本意だが、そのあり方が大事なのだ。
今回のその方の功名は軽率な働きである。
大将になろうとする者は、今回のような功名を願ってはならぬ。
身の危険を省みないのは、立場によっては、手柄にはならないのだ。
今後はこの心を忘れるな。」
と戒めたという。
後に森長可から売られた喧嘩を悠然とかわしたのも、この信長の教訓を自らのものにしていたからなのかもしれない。
777人間七七四年:2009/02/14(土) 17:03:29 ID:MMpgRwbu
>>776
鬼武蔵にもその教訓を述べてやったのか気になるw
778人間七七四年:2009/02/14(土) 17:08:58 ID:YdwnbgAK
鬼武藏は時の運じゃないからおk
779人間七七四年:2009/02/14(土) 17:10:27 ID:POmHZEGU
相手の器を見て助言してるってことかね
780人間七七四年:2009/02/14(土) 17:34:25 ID:g/Fa4gkL
鬼は勇士であっても大将ではなかったという判断なんだろうね
781人間七七四年:2009/02/14(土) 17:54:10 ID:jQWLHEL1
秀吉が氏郷一万人信長5000人で戦ったらどっちが勝つと思う?
って諸侯に聞いた話思い出した
782人間七七四年:2009/02/14(土) 17:57:43 ID:2Bv0b7du
>>781
つまり信長の戒めにも拘らず氏郷の癖は直らなかったわけだw

あと、鬼武蔵は初陣はともかく、基本的には一騎がけをするような大将じゃないと思うぞ。
783人間七七四年:2009/02/14(土) 18:00:44 ID:Q0rO7FPA
鬼の初陣はガチ
784人間七七四年:2009/02/14(土) 18:08:02 ID:X+wJd1C5
信忠「あの敵邪魔だな・・・」ボソッ
長可(ピキーン!)
つまり信忠がコントロールすれば・・・
785人間七七四年:2009/02/14(土) 18:27:12 ID:EDzK6lxv
>>782
槙島城攻めでも勝手に渡川して城に一番乗りで乱入してだな・・・

もぬけの空だったので功名にはならなかったけども。
786人間七七四年:2009/02/14(土) 18:53:59 ID:HB8PzZiM
信忠「敵に渡すな大事なリモコン♪」
長可「ガオーッ!」
787人間七七四年:2009/02/14(土) 18:57:47 ID:EDzK6lxv
>>780
ところがどっこい氏郷より2歳年下なのに出世が早い・・・

やはり贔k
788人間七七四年:2009/02/14(土) 20:01:58 ID:Rj9L4KUD
一体何が信長を森家シンパに変えたのか

弱味でも握られ(ry
789人間七七四年:2009/02/14(土) 20:03:29 ID:jwStjYVu
チ○コなら握られ(ry
790人間七七四年:2009/02/14(土) 20:05:42 ID:EDzK6lxv
小姓じゃないからチン○は握れなry
791人間七七四年:2009/02/14(土) 20:06:24 ID:bQXM6kFl
>>775
そう読むべきなんだろうね。
下戸な高知県民の俺としてはこの法の復活希望だけど。

>>786
チッ、先に書かれたか・・・
792人間七七四年:2009/02/14(土) 20:07:14 ID:2Bv0b7du
長可は信忠の親衛隊長格だし、弟たちは軒並み、信長が形成しつつあった政府機能の
幹部候補生。

あのまま織田政権が成立したら、森家は文武双方でものすごい権勢を誇ったと思われる。
793人間七七四年:2009/02/14(土) 20:11:57 ID:EDzK6lxv
それはまずい
794人間七七四年:2009/02/14(土) 20:15:04 ID:AjsSjroY
こうなるのか
      __       __
     / 、〉〉〉〉      〈〈〈〈ィ ヽ
     |_,イ_⊆》 __   《⊃_ヒ_|  ガオーッ!!
    [・_・_・_] /, --||-、  [_・_・_・]            |\___/| ヤンノカゴルァ!!
    /   // r'∠二二> |   |            |/∨ \|_
    〈__ノ\/ 0、 ゚ (>゚l/ ̄ヽ_|          i^r| ▼  ▼ .| r─、
    \   i | ヽ_ニニニフ、   /          /Y \_皿__/ f r⌒ヽ
    i'^|ヽ__ノノ      | |/           / |         i l   \
    | ト---"ヽ___ノ|"       ズシーン (〉、|   北条   ヽ\__ノ(~)
    |ニ|==()     ()|          ___円|  ヽ        .:::Y |   | 
    ∧_∧   wWピピピピピ      _| |田:| _ }三三三三三:{ |   |
   | *’ω’|¶ ¶  <行け 長可!
┳┳(  つロ二二l┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳
    信忠
795人間七七四年:2009/02/14(土) 20:16:21 ID:bqtvfIgu
森兄弟の父の可成が、文武ともに相当、信長のツボにはまる能臣だったんじゃね
討ち死にした時は、なんか信長が号泣したとかいうエピなかったか?
尾張統一前、あの苦悩に満ちた時代を共にした功臣でもあるしな
796人間七七四年:2009/02/14(土) 20:18:39 ID:2Bv0b7du
>>795
平手さん所の息子とか、信長は「忠臣の子弟」って存在には、むちゃくちゃ甘いよね。
797人間七七四年:2009/02/14(土) 20:31:40 ID:EDzK6lxv
佐久間ですら息子は後年、織田家に帰参が許されてたり
798人間七七四年:2009/02/14(土) 20:46:45 ID:Zws+4swz
東軍の忍に渥美源吾と言う人物が居た
関ヶ原の合戦の折、先手の斥候だった彼は西軍の陣容を確認して戻った
報告した後、彼は同僚と歓談
「今日の戦は勝利するだろう」
「これはしたり、西軍の陣容侮り難し。霧も深く進軍も困難よ。何をもって必勝と言うのだ?」
「ハッハッハ。これだけの大戦、敗れれば先手の我らは死んでおる。間違ったとて咎める者も死んでおるわ。だが、勝つ事を予言しておけば戦の後は才ある者と見られる、不思議な事にな。ハッハッハ」

実際、彼はこの逸話のみで名を残した
調子のいい話
799人間七七四年:2009/02/14(土) 20:53:20 ID:GempPWYg
>>798
かなり頭良い
800人間七七四年:2009/02/14(土) 20:55:06 ID:GZgReSWo
父ちゃんが尾張統一戦で槍働きしてくれて
美濃攻略戦で出身活かして調略してくれた
上洛後、自身の朝倉攻めの失敗から
孤立無援の最前線で嫡男ともども
討ち死にさせたとなりゃ
厚遇しないわけにはいかないよ
801人間七七四年:2009/02/14(土) 21:11:45 ID:UurUj+KB
昔は信長って極悪非道の革新者みたいなイメージだったけど
今は気難しいけど面倒見のいいマフィアのドンって感じだ。あってるかわからんけどね
802人間七七四年:2009/02/14(土) 21:16:24 ID:gapDdkrf
森さんは肝の据わった上司からしたら、可愛げのあるやつなんだろうな。
弟が細かくフォロー入れてただろうし。
803人間七七四年:2009/02/14(土) 21:21:16 ID:2QVjtrYE
撤退から東美濃制圧のあたりまでのやり口見てると長可結構鮮やかでしたたかだからなぁ
色々とえぐいけどw

信孝にしてみりゃ災厄そのものだし秀吉から見るとかなり貴重な働きしてる
804人間七七四年:2009/02/14(土) 21:21:53 ID:RrtIGQHu
>>798
実際予言なんてこんなもんなんだろうなw
805人間七七四年:2009/02/14(土) 21:55:36 ID:PO4LWYKG
贔屓したっていいじゃない

 鬼武蔵だもの

         みつを
806人間七七四年:2009/02/14(土) 21:58:54 ID:T3V4tBg+
>>798
感心した
807人間七七四年:2009/02/14(土) 22:01:00 ID:eFp4Vrut
>>751これが間違って「政宗・メイクス・レボリューション」だと……

MMRという暗号が隠さr(   ナ、ナンダッテー!?
808人間七七四年:2009/02/14(土) 22:19:50 ID:EDzK6lxv
>>803
その東美濃制圧戦で思い出した。


祖父の仇討ち

本能寺の変が起こり信濃から脱出した長可だったが辿り着いた美濃金山で待っていたのは周辺諸将の反逆の嵐であった。
久々利城主、土岐三河守悪五郎もその内の一人であった。

当然、悪五郎をSATUGAIする気満々の長可であるが兵も信濃からの強行軍の上に東美濃の戦いでヘトヘトである。
長可「ならば、策を以って悪五郎を始末しよう!」

長可は早速、弟の仙千代(後の忠政)を悪五郎に人質に出すとひとまず和解し、そして数日後に書状を出した。
「私は飛騨を攻めようと思っているのですが悪五郎殿もこれに加わりませんか?戦の評定をしたいと考えておりますので
了承頂けるなら金山までお越しください。」

すると悪五郎も実の弟を人質に出した長可の事を一応、信用し金山へと現れたのである。
809人間七七四年:2009/02/14(土) 22:23:20 ID:EDzK6lxv
長可「ようこそ悪五郎殿。今日は正月という事で盛大にやりましょう^^」

長可は悪五郎をもてなすと夕方近くまで滞在させて帰らせた。上機嫌で帰る悪五郎であったがその帰り道で一人の男が現れる。
「待っていたぞ悪五郎!我こそは貴様に殺された斎藤大納言が嫡孫、加木屋宇右衛門正則!」

そういえばここ金山は昔は「鳥峰城」という名前であった。そしてその鳥峰城の主は斎藤大納言・・・
かつて25年前に悪五郎が花見の席と偽って殺した男であった。

そうこうする内に加木屋は悪五郎を討ち果たした。まさに宿願叶った瞬間である。
長可「( ;∀;)イイハナシダナー。」

もちろん加木屋を招き入れていたのはこいつ。祖父の敵を討ちたいと現れた加木屋の為にお膳立てすると同時に
悪五郎を始末したのである。ついでに・・・

仙千代「( ;∀;)イイハナシダナー。」

送った仙千代も偽物であった。
こうして城主が死んだ久々利城は間髪置かずに攻め込んで来た長可の軍勢にたちまち制圧されるのである。


いい話?かどうか微妙かもしれない話。
810人間七七四年:2009/02/14(土) 22:35:46 ID:49mFT3Eu
偽物しぼんぬ
811人間七七四年:2009/02/14(土) 23:05:05 ID:EDzK6lxv
ついでにこの後、蔵を調べたら久々利城に金銀財宝がいっぱいあったけどそれは鬼武蔵がすべて頂いたそうな。

ついでに金山城下の町人も「オラオラ今日からここは武蔵さんの領土だ!」みたいな事言いながら
久々利城下の町で略奪、強盗を働いたそうな。
812人間七七四年:2009/02/14(土) 23:07:29 ID:2Bv0b7du
細川忠興、武士の茶の湯の大事


細川忠興と言えば、利休七哲としても有名な、茶の達人であった。
そのため、彼に弟子入りを望むものも多かった。

ある大名が忠興に茶の湯の指南を頼んだ。
すると忠興は

「師弟の約束の前に、武士の茶の湯の大事を、今から伝えるので聞いていただきたい。」

と言う。

「昨今の茶の湯を見ると、おのおのの家職を忘れ隠遁者を気取っている。
特に武士の癖に茶の湯に熱中するあまり武道をおろそかにしているものすらいるが、
これはまことに怪しからぬ。

不肖、この三斎が考える武士の茶の湯とはかようなものでござる。

先ず、第一に自分自身の武道を日夜怠らず、たった今、どんな事が起きようが
他人に遅れず一番に出陣し、敵が幾万あろうが自分ひとりで突き崩すほどの
気概を持ち、家中下々にまで武芸を訓練させ、人馬は勿論、武具、馬具を普段から
不足のないように心がける。

その上で、あくまでその上で余暇があれば、その時に茶道の閑静幽雅を楽しむ。
これこそが武家の茶の湯でござる。よくよく心得るように。」

忠興さんの茶の湯は、並大抵ではないのだ。
813人間七七四年:2009/02/14(土) 23:12:52 ID:b5LYPHa8
>>807
外すことのない故意の魔弾を〜 はやく神保に撃ちこんで〜よ〜
814人間七七四年:2009/02/14(土) 23:28:00 ID:eFp4Vrut
>>813
(流血の)ぬくもりだけがききわけなく〜

って、魔男の射手やめぃw
815人間七七四年:2009/02/14(土) 23:34:04 ID:iXOmkuaL
そういや西川は歌詞の中にラスボスの辞世の句潜ませてたりしたな
816人間七七四年:2009/02/14(土) 23:35:43 ID:RrtIGQHu
>>808
武勇だけでなく頭も切れるとかタチ悪すぎる鬼だなw
817人間七七四年:2009/02/14(土) 23:40:52 ID:0OYkY5FV
>>816
信濃から引き上げる時もこんなんだからなw

鬼武蔵が信濃を引き上げ美濃に撤退すると言う話を聞いた苗木城主遠山友忠は親交のある木曽義昌と謀って
義昌が木曽福島城で暗殺をしかけ、失敗したら美濃衆が襲撃して2段構えで鬼武蔵を討ち取るという計画を立てた。

これに東美濃の諸豪が次々と賛同したので決行が決まった。

翌日に鬼武蔵一行が木曽福島城にやってくると思われる日の夜、木曽義昌の元に注進が入る。
「森武蔵殿が来られました!」

そう、暗殺計画を察知した鬼武蔵に先手を打たれ門を打ち破られて強引に押し入られたのだ。
常にない愛想のよさで義昌の元へ挨拶に来る鬼武蔵。
木曽義昌が混乱しつつ慌てて応対していると館の中がなにやら騒がしい。

主君が義昌に挨拶して足止めしてる間に鬼武蔵の家臣が義昌の子を探し出して無理やり連れ出してきたのだ。そして…

鬼武蔵「なんと利発そうな子だ、今日からこの子を養子とさせていただこう!」
あっという間に連れ去った。

武田を裏切った際に長子を失っている木曽義昌は真っ青になり慌てて遠山友忠に連絡、
暗殺計画はご破算となり鬼武蔵は無事に帰還した。
なお、人質の岩松丸は鬼武蔵が無事に美濃に入った際にちゃんと丁重に送り返されたw

木曽への遺恨は残らなかった模様。
無論直後の東美濃で起きた鬼武蔵無双の伏線であるw
818人間七七四年:2009/02/14(土) 23:42:36 ID:1Aj2yB9G
元同僚に嫌われまくりの武蔵さんじゃねえか
819人間七七四年:2009/02/14(土) 23:49:05 ID:eFp4Vrut
>817戦場で風情のいい竹を物色していたら愉快な数寄者(まとめスレのエピ#1297)だが

(潜在)敵城に押しかけて館を物色し跡取りまで拉致して去ってゆく
鬼武蔵の騎馬民族ぶりは最早、喩えようもないわ。

 というかぜんぜんいい話じゃないような気がすれう
820人間七七四年:2009/02/15(日) 00:44:10 ID:mkIq+V1U
それもそうだな
821人間七七四年:2009/02/15(日) 01:34:59 ID:C99j22v6
>>781-782
信長公なら最後の一人になるまで逃げて本人は生き延びてるけど、
氏郷なら前衛の500か1000を全力で打ち倒した中に大将首が混じってんよ、てヤツか;


後藤又兵衛の黒田長政評も似たようなモンだったなー
「俺の前の殿さんは勇猛ッスから、黒田隊の前衛を矢玉で射すくめて
騎馬武者の数百も討ち取れば、そん中に長政がいるはずだぜHAHAHAHAHA!!」
 微妙にほめてない。てかあんた最前線で槍ブン回してる豪傑じゃねーかという
822人間七七四年:2009/02/15(日) 01:40:43 ID:Yt2+3YeM
>>812
ゲヒ殿の立場は…
823人間七七四年:2009/02/15(日) 10:08:42 ID:w0fppN6/
>>817
本能寺の変後に、真っ先に味方に暗殺されかけるて処世術のかけらもないね
26歳で死んでるのにエピソードが多すぎる
824人間七七四年:2009/02/15(日) 10:12:58 ID:Eu0Q92Dn
>>823
いや、本能寺の後の東国は織田系武将の地獄だぞ。軒並み殺されかけてる。
825人間七七四年:2009/02/15(日) 10:25:12 ID:RLWJS/If
中国方面は秀吉は和睦を取り付けてるけど
東国は武田旧臣からも北条からも織田は盛大に恨み買ってるんだっけ。
上杉は交戦真っ最中で普通に敵だし。
826人間七七四年:2009/02/15(日) 10:28:58 ID:Eu0Q92Dn
本能寺の後は本国の岐阜や尾張ですら、暴動が起こったらしい。
827人間七七四年:2009/02/15(日) 10:40:56 ID:GmM0bh85
北条は恭順姿勢だったのを翻してきたからな
信忠がなんとか残った場合はどうしただろうか
828人間七七四年:2009/02/15(日) 10:50:04 ID:mkIq+V1U
美濃の竹中重矩も所領で起こった土一揆の餌食になったな。
稲葉一鉄も引き取ってやってた安藤守就に城を乗っ取られて大変だった。
829人間七七四年:2009/02/15(日) 11:09:42 ID:1kVOlkSH
>>824-828
ああ、越前一向一揆や国衆の撫で斬りを乗り越え円熟した富田長繁が近江か濃尾あたりにいれば……

ていうか二条城か本能寺に越前の狂犬がいれば……




   どうもせんか
830人間七七四年:2009/02/15(日) 11:45:18 ID:Yu3QSBED
>>829
蘭丸あたりに後ろから切られるだけデス
831人間七七四年:2009/02/15(日) 12:02:06 ID:l/367d41
>>821
騎馬武者数百ってそれだけで部隊壊滅してないか?
確か5人だか10人ぐらいだったかと
832人間七七四年:2009/02/15(日) 12:30:44 ID:ibhPEGG/
>>808-809
>「待っていたぞ悪五郎!我こそは貴様に殺された斎藤大納言が嫡孫、加木屋宇右衛門正則!」
斎藤大納言正義は関白・近衛前久の庶兄で、斎藤道三の養子といわれる人だね。
かなり武勇のある武将だったらしく、一説には大納言の力をおそれた道三が久々利悪四郎を教唆
して、大納言を殺させたって言われている。
戦国武将で「大納言」って仮名は珍しいけど、摂関家出身だったら許されるのか?

>>826
>本能寺の後は本国の岐阜や尾張ですら、暴動が起こったらしい。
岐阜城は斎藤利堯に占拠されて、三法師は身の危険を感じて尾張に逃げたという。
この武将はあの斎藤道三の孫(あるいは子)とされる人物。
明智があっさり滅亡したせいで、父祖の地の回復の夢は果たせなかったが。
833人間七七四年:2009/02/15(日) 13:09:47 ID:W2rOXycU
>>827
織田家は当主は信忠だけど、織田家=信長というイメージが特に外部には強いだろうから、
信忠は生き残ってたら内部崩壊は史実よりもだいぶマシになるだろうけど、北条とかは史実通りに動いてくるかも。
信忠が生き残ったという情報をキャッチしたら織田家が内部崩壊するかどうかひとまず静観して、
もしも混乱とか内部崩壊が起きたら史実の様に恭順姿勢を翻してくるというのが現実的かな。
834人間七七四年:2009/02/15(日) 13:14:35 ID:Eu0Q92Dn
信忠も本能寺の時、信長が襲撃されたことが知れると、付いていた兵の大半が逃げ出したらしいからな。
最近再評価されがちな信忠だけど、やっぱり「信長あっての信忠」って捉えられていた事は間違いないかと。
835人間七七四年:2009/02/15(日) 13:19:04 ID:Eb5ZPD0K
秀忠 < 何か呼びましたか?
836人間七七四年:2009/02/15(日) 13:22:14 ID:1i8IwWaJ
信忠生存したときの羽柴と柴田の動きは気になる
>>834
あんな状況で信長が殺されたって知れたら信忠がどんな優れてても崩れるんじゃないの
837人間七七四年:2009/02/15(日) 13:26:11 ID:mkIq+V1U
そろそろスレ違いでないの
838人間七七四年:2009/02/15(日) 13:30:58 ID:1i8IwWaJ
ごめn
839人間七七四年:2009/02/15(日) 13:31:05 ID:Eu0Q92Dn
佐川田昌俊という武士がいた。
彼は関ヶ原における大津城攻めにおいて、西軍の一員として真っ先に城壁を駆け上り、
城兵と槍を数度合わせたことで有名となり、戦後、徳川家の重臣永野直勝に招かれ、
その家臣となった。

彼の生活はかなり変わっていた。
彼は500石の扶持を得ていたが、それをそのまま町の富商に運用を任せ、
自分はと言えば、茶道具と硯の他、何も持たなかった。
身に着けるものも、冬であれば白羽織二重があるだけ。5,6日ごとに富商から、新しい
白羽織二重が届けられていた。
また食事も、朝夕に富商の方から献立が届けられ、食べたいものに印をつけると、それが
膳に乗せられ運ばれてくる、と言った按配であり、金銀の類は一切持たなかった。

こんな昌俊であったが、武人であるとともに家人としても高名であった。

ある時、直勝の後を継いだ永井尚政に、将軍、徳川家光がその白扇に一首書いて与えた事があった。
尚政はありがたく押し頂き、屋敷に帰ってから大喜びで昌俊に自慢をした。

「お前は日ごろから歌道に熱心だから、特別に見せてやろう。将軍様がお書きになった
この和歌は、近頃都でも評判のもの出そうだぞ!」

それを拝見した昌俊は驚き、これは身に余る光栄ですと言い出した。

「お前が光栄に思うこともあるまい」

と尚政が怪訝な顔をすると、昌俊は

「実はこの歌、拙者が作って中院通村卿に差し上げたものでござる」

これには尚政も、大いに驚いたと言うことである。
840人間七七四年:2009/02/15(日) 13:33:01 ID:Eu0Q92Dn
>>839
うは、変換ミス(;´Д`)

12行目
×家人→○歌人
841人間七七四年:2009/02/15(日) 13:35:56 ID:W2rOXycU
>>839
あの時代に俸禄全ての運用を富商に任せてたってのは物凄く時代を先取りした革新的な事に見えるなw
運用は上手くいってたのかが気になるな。
842人間七七四年:2009/02/15(日) 13:46:03 ID:TYgNzcQb
>>841
毎日のご飯と季節の節目のお召し替えの付け届けが運用利益として届いていたということだから
ビックリするような赤字にはなってなかったんだろうと思われ
最も大黒字でもそのことは昌俊には報告されずに、上記の付け届けのみだったとも受け取れるけどw

万が一大赤字だったら
先日話題になった「大阪一の女相場師」みたいに突然夜逃げされる罠w
843人間七七四年:2009/02/15(日) 14:02:55 ID:fsSQFCrk
運用とかできたのか?まだ米相場とかないし。
ま、500石って言えば江戸初期ならかなり贅沢な生活できるぐらいな余裕あるし
金使わない生活しているっぽいから
その生活の余りもらえれば十分なんだろうけどさ。
・・・てか、奥さんとか子供とかいなかったのかな?この人
844人間七七四年:2009/02/15(日) 14:06:02 ID:+B2e2B89
秀吉の頃から大規模戦、築城、街造りでバブル景気が発生し、
秀長や秀次、家康なんかが貸付という形で投資に励んでいた
845人間七七四年:2009/02/15(日) 14:07:59 ID:EnIXeBPT
まあ役人が自分達で運用したり経営したりする何とか基金とかよりマシでしょ
846人間七七四年:2009/02/15(日) 14:16:35 ID:UOXeRu/r
秀長と家康は何でもやるなホントに
847人間七七四年:2009/02/15(日) 14:32:36 ID:Eu0Q92Dn
個人で貿易もやってるね>家康

ちなみに家康の貿易担当機関の名称は、「お買い物係」。マジでw
848821:2009/02/15(日) 14:47:43 ID:1kVOlkSH
>>831
うは、そうだわな雑兵込みで500か1000も討ち取れば…ってスケールか
騎馬武者ならその十数分の一くらいしかいないもんね

うろ覚えでデタラメ書いてしまったー BANZAI!
849人間七七四年:2009/02/15(日) 15:00:06 ID:w0fppN6/
何かと話題の森長可だけど、信忠と義兄弟なので織田政権が続けば出世しただろうね。
血縁の関係があるから生意気な性格なんだろうけど。
850人間七七四年:2009/02/15(日) 15:23:36 ID:tS9EwVd0
森家のうっかりさんなんか信長からも信忠からも直接賞せられてたりするな
851人間七七四年:2009/02/15(日) 15:28:26 ID:mkIq+V1U
秀吉からも直接絵を貰った事が有る各務さん。
852人間七七四年:2009/02/15(日) 16:34:15 ID:C99j22v6
>847側室のために朱印船出したりね。

ま、まだお説教がクドくさえならなければ大丈夫っっ…、大丈夫だ……
853人間七七四年:2009/02/15(日) 20:25:35 ID:Srtl9Svm
>849
信忠とは1歳しか違わなくて、お互い長男じゃないのに家督継いだとか実践デビュー戦が一緒とか
似た所が多くて気が合ったのかも知れん

まあ鬼武蔵は13歳で家督継いだときに既に織田家臣最年少城主だったから最初から特別扱いみたいなもんだったけど
854人間七七四年:2009/02/15(日) 20:34:41 ID:WeUqqy0j
可成討死後に動揺を鎮めて宇佐山城を浅井朝倉から守りきれるほどの家臣団がいたからね、森家。

その上初陣から無双かます若き当主だしw
855人間七七四年:2009/02/15(日) 20:37:07 ID:1kVOlkSH
>>854
その頃からブリバリ活躍していたかがみんとかなー
856人間七七四年:2009/02/15(日) 20:37:52 ID:mkIq+V1U
織田信正って幻の長男じゃないの?

極端な話信長の息子は全員庶子なんだから信忠と相続順をチェンジされる謂れは何も無いのに全然実績が無いし。
857人間七七四年:2009/02/16(月) 00:19:47 ID:dmGh0JBT
江戸時代初期のお話。徳川秀忠は上洛の途上、尾張熱田に立ち寄った。
秀忠公がいるということで尾張藩士たちが挨拶に来たのだが、その中に
信長から足半を貰ったことで有名な兼松正吉がいた。
(参照http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-426.html

織田家の勇者正吉がいるということで、秀忠は正吉の武勇伝を尋ねた。
「お前は桶狭間の戦いで武功を立てたそうだな。」

すると正吉は
「ああ、その時のことですか。実はその日、私は馬にうまく乗れず、
妙だなと思ったら鐙(足を踏みかけるもの)が逆にかかっていたのです。
これは不吉だと思った私は戦いに臆病になってしまいまして、
たいして手柄を立てられませんでしたが、手柄を立てた者が私を見て、
『首を持っていないのでは見栄えが悪いな。』と言いました。
それで私の同僚たちが取った首の血を兜に塗ったり、草摺(股を守るもの)
に泥を塗ったりして、さも奮闘したかのように偽装してくれました。
そして信長様の前に出たのですが、今川義元の首を見て喜んでおられたので
まったくお気づきにはなりませんでした。」
と包み隠さずに話したという。
858人間七七四年:2009/02/16(月) 01:08:02 ID:0OZoBYwH
>>817の後日談

鬼武蔵とその一味によって居城である苗木城を追い出された遠山友忠は流浪の旅に出る羽目に
その後家康の厄介になってる最中に友忠は死んでしまうが、子の友政の代になってチャンスが巡ってきた

関ヶ原の戦いの際に友政は苗木城を攻撃。
城主河尻秀長が出陣している隙を見計らって僅かな手勢で城を奪取。約20年ぶりに居城を取り戻すことに成功した
(河尻秀長は当時鬼武蔵の傘下にあって、遠山父子を苗木城から追い出した張本人)

この功により友政は苗木城を賜り、遠山家は1万石の少禄ながら大名として明治まで家名を存続したのでした。めでたしめでたし

※ちなみに、1万石という大名の中では最も少ない石高で城持ち大名だったのはこの美濃苗木藩だけ
859人間七七四年:2009/02/16(月) 01:29:34 ID:v5j93ZlO
>>858
待ちに待った時が来たのだ!
多くの英霊が無駄死にでなかったことの証のために!
再び遠山家の理想を掲げる為に!
星の屑成就のために!
苗木城よ!私は帰ってきた!
860人間七七四年:2009/02/16(月) 01:32:47 ID:lRpNXDk2
>>859
ガトーかよw
861人間七七四年:2009/02/16(月) 02:12:12 ID:NFeyfWrK
>859
大量破壊兵器は使っちゃらめえぇぇぇ

ていうか遠山家の理想てなんやねんw
862人間七七四年:2009/02/16(月) 02:20:58 ID:FhdNJntN
ゲーッ!!ソロモンの悪夢!
863人間七七四年:2009/02/16(月) 02:25:15 ID:NFeyfWrK
>857
朝倉攻めより前の話かー
まぁ偽首持って行ったわけじゃないし、泥や血糊を付けるのは割とポピュラーだったのかしらね
864人間七七四年:2009/02/16(月) 02:27:16 ID:79yECi7a
>>861
鬼武蔵のいない平和な世界が理想だろうなw
865人間七七四年:2009/02/16(月) 07:34:19 ID:NFeyfWrK
>>864
それは…たしかに平和……だな
866人間七七四年:2009/02/16(月) 07:50:01 ID:6ATR2qsf
鬼武蔵「汚物は消毒だ〜!!」
867人間七七四年:2009/02/16(月) 10:25:40 ID:bqczMiEX

苦労人、毛利元就のいい話

元就が松寿丸と名乗っていた頃のお話
子守が松寿丸を抱いて川を渡ったときつまずいてしまい
松寿丸を川に落っことしてしまった!
子守はそのことを謝罪すると
松寿丸「道を歩いていては良くあることだ。気にすることは無い」
と平然に言ってのけた

両親が死に、兄が死に
城を追い出され横領され
子守に川に落とされ
散々な子ども時代ながら腐らない(人間不信にはなったけど)
そんな元就公の寛容さがキラリと光るいい話

ところで元就の狐の話はもう出た?
868人間七七四年:2009/02/16(月) 10:53:33 ID:S4xMyPnE
>>867
なんというか、子守との関係性も、田舎の小さな国人の子供、しかも次男坊らしい感じで
ちょっとほほえましいw

> ところで元就の狐の話はもう出た?
多分まだ。
869人間七七四年:2009/02/16(月) 10:58:40 ID:G8R9u1Mi
まとめブログを見ればわかる
面倒臭いからといって人にやらせていてはそのうち寝首をかかれますよ
870人間七七四年:2009/02/16(月) 11:08:38 ID:bqczMiEX
>>868
ありがとうございます
じゃあ元就と狐のお話↓

松寿丸7歳の頃
飼ってた白鶏が狐に殺されてしまった
松寿丸は狐のあなぐらを発見し、火をつけて燻べ殺そうとした
杉の方「生き物をみだりに殺してはいけません」
松寿丸「家臣が喧嘩をして、罪も無いのに殺された時に
    その人を殺した罪人を罰しないことがありますでしょうか?
    白鶏も狐もそれと同じ家来同様ですから
    罪人を捨て置くことはできません」
と言ったそうな

あんまり賢いと井上一族に狙われちゃうぞ松寿丸
871人間七七四年:2009/02/16(月) 11:10:58 ID:KtfjdY1z
>>608
可行「俺を馬鹿にしてるのか?一応俺は鬼武蔵の祖父なんだぞ」
872人間七七四年:2009/02/16(月) 11:57:33 ID:W+BvMcY6
イノシシの恩返し

金子備後守を始め家臣一同が山上で花見をしていた。 そして宴もたけなわになった頃、数人の若い者が山の中からイノシシの子を生け捕りにして、備後守の所へ持ってきて、
「殿、イノシシの子を捕らえてきました。子供ですから肉も柔らこうございます。さっそく調理いたします」
というと、居並ぶ家臣たちは、それはよいご馳走だと喜んだ。ところが備後守は顔を曇らせて
「そのような可哀想なことはしないでくれ、どうかそのイノシシの子を助けてやってくれ、しかも余は亥年の生まれである。」
といった。
 そしてイノシシの子をもとの所へ逃してやりに行った。ちょうどその時四、五歳であった備後守の長女カネ姫も家来に連れられて一緒について行った。
 命を助けてくれたイノシシの子は、木立の中に走って行った。すると数匹の親、兄弟のイノシシが出迎えに来ており、一緒になり、十歩行っては後をふり向き、二〇歩行ってはふり返りながら木立の中に帰って行った。
873人間七七四年:2009/02/16(月) 11:59:20 ID:W+BvMcY6
 時は流れて天正十三年(1585)7月14日、秀吉の四国攻略に対して、土佐の長曽我部と同盟の義理のため、十倍に余る秀吉軍を相手に戦った金子城もついに落城、当時十六歳になった美しいカネ姫は、家来の守谷一族に守られて、金子山伝いに土佐へ落ちようとした。
しかし敵が追いかけて来て、守谷一族も次から次へと斃れていった。とうとうカネ姫一人になった。
「あれは金子の姫だ、早く捕まえろ」
といいながら敵が追いかけて来た。もうだめかと思ったその時、木立の中から数匹のイノシシが牙をむいて、敵におそいかかった。
思いもよらぬ出来事に敵がとまどっている間に姫は危機を脱し、無事土佐へ逃げることができた。しかしイノシシ達は殺されてしまった。
土佐に逃れたカネ姫は、長曽我部氏に優遇され、また山之内氏の時代になって、奥女中の取締り役となり、八〇歳の高齢を保った。
またカネ姫が逃げる時、身に着けていた衣装や被っている笠が、木立に引っ掛かって取れなくなったことから、
後世の人は衣笠山と呼ぶようになったという。
874人間七七四年:2009/02/16(月) 12:01:18 ID:bqczMiEX
>>872
癒されましたw
875人間七七四年:2009/02/16(月) 12:34:35 ID:6ATR2qsf
敵に襲いかかるのも良いが一頭くらい土佐まで背中に乗せていってくれれば…
876人間七七四年:2009/02/16(月) 12:43:26 ID:NFeyfWrK
>>875
あー、のけもの姫?
877人間七七四年:2009/02/16(月) 14:39:49 ID:V3nie5T6
ここでそのボケかよ・・・
折角の良い話が(笑)
878人間七七四年:2009/02/16(月) 15:46:46 ID:ryGp4kds
こういう逸話ができるってことは、金子さんは優しい人だったのかね
879人間七七四年:2009/02/16(月) 17:20:31 ID:S4xMyPnE
本多平八郎忠勝と言えば、槍を取っては天下無双と言われた人だが、
実は槍術は甚だ下手であったそうだ。
しかし、教練などでは下手なのに、戦場に出て敵と戦う時は、その槍の働き、
古今無双であった。

これを戦場での忠勝を知らぬ人が見ると、意外と思うより他はなかったということである。
(甲子夜話)
880人間七七四年:2009/02/16(月) 17:25:12 ID:wOlWFUYE
稲富さんの逆パターンかw
881人間七七四年:2009/02/16(月) 17:35:44 ID:G8R9u1Mi
>>881
戦場では技術よりも、気迫が重要とも聞くしそういうことはあるかもしれないな。
あと乱戦になると、普段おとなしい人間が一番よく戦うというのも聞いたことがある。
882人間七七四年:2009/02/16(月) 17:37:00 ID:G8R9u1Mi
ゴメン、アンカー>>879だった。
883人間七七四年:2009/02/16(月) 17:46:11 ID:lkWi+UNS
>>881
富田長繁「さもあらん」
884人間七七四年:2009/02/16(月) 18:34:59 ID:zkAuLpd7
>>879
これは意外w
885人間七七四年:2009/02/16(月) 18:39:41 ID:PQcPB65s
>>879
フェルナンド・トーレスみたいだなw
886人間七七四年:2009/02/16(月) 18:39:43 ID:0grfXnTM
ある時、千宗易と津田宗及が不和になった
後の展開からすると、ちょっとした喧嘩というレベルではなかったらしい
そんな時に、織田信長が肩衝を欲しがり、宗易に相談した
「それならば、津田宗及がよい肩衝を持っております」
宗易がそう推薦したので、信長は宗及から肩衝を買い取り、法外な金額を支払った
「これはこれは…宗易殿に礼をせねばなるまいて」
宗及はほくほく顔で、宗易に酒や肴、金銭などを贈った
が、宗易、これを突っ返してしまった
「私が推薦したのは、茶入に依怙があってはならぬと思ったからです。
あなたとの日頃の不和が、変わったわけではありません。
こんなものは受け取れませんな」

いい話か…?とも思ったが、「時の人、その私なき志を称しき」とあるので
887人間七七四年:2009/02/16(月) 19:20:16 ID:mjMHwqR3
茶坊主にはろくなのがおらんな
888人間七七四年:2009/02/16(月) 19:21:52 ID:dmGh0JBT
>>879
忠勝以外でも似た話がまとめにあったような。誰だっけ?
889人間七七四年:2009/02/16(月) 20:23:32 ID:P7jjp42Z
>>886
本心は自分のがいい名物持ってるといいたかったが、
そういったら信長公にそれを売らないといけなくなるから、津田を推薦したに一票
890人間七七四年:2009/02/16(月) 20:30:56 ID:O8tPj0+K
ある意味崇伝、天海よりも黒が似合うお方かもw
891人間七七四年:2009/02/16(月) 20:37:16 ID:hzQHNO7K
892人間七七四年:2009/02/16(月) 21:06:11 ID:ryGp4kds
クッキング城代

今川家臣にして尾張大高城代の鵜殿長照は困っていた。
大高城は織田軍の包囲を受けており、落城こそ免れていたものの深刻な兵糧不足に陥っていたのである。

( `・ω・)「大殿は必ず援軍を送ってくれるはずじゃ。もう暫くの辛抱じゃ」
(ヽ’ω')「しかし殿、このままでは援軍が来る前に我ら皆飢え死にしてしまいます・・・兵もあの通り」

  ゴハンマダー?     オナカヘッター!
  ハ_ハ チンチン       ∧,,∧
  ( ゚∀゚)/    ☆チンチン(゚∀゚ )
  /  つ 、-, ―☆\、-,⊂  )
 (_ ,)|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| (_ ,)


( ;・ω・)「ううむ・・・しかし兵糧は残り少ない・・・合戦の前には兵士に振舞ってやらねばならん・・・」
(ヽ’ω')「しかしこのままではその合戦をすることも出来ませぬ・・・」
( ;・ω・)「どうすれば・・・一体どうすれば・・・」
(ヽ’ω')「いっそのこと打って出て華々しく・・・」
( `・ω・)「・・・そうだ!」

長照は家臣に命じて城の近くの山から野草や木の実、
木の皮などを運び込み、それらを磨り潰し粉にし始めた。

(ヽ’ω')「殿、これは一体・・・」
( `・ω・)「ふふふ、普段はそれらの粉を水で練って団子にして主食とするのじゃ!」
(ヽ’ω')「な、なんと・・・さような方法が!」
( `・ω・)「色んな種類のものをとってきたから飽きもこないぞ」

  ハ_ハ コレイガイトイケルナ!  ∧,,∧
  ( ゚∀゚)     ナカナカダナ!(゚∀゚ )
  /  つ○        ○⊂  )
 (_ ,)|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||(_ ,)


( `・ω・)「後は援軍を待つのみ! 皆の者、後もう少しの辛抱じゃぞ!」

こうして長照は大高城を守り抜き、兵糧を運んできた松平元康と無事任務を交替することが出来たのだった。
893人間七七四年:2009/02/16(月) 21:29:43 ID:NS24UCZO
>>892
かっこいいな
894人間七七四年:2009/02/16(月) 21:30:11 ID:fKMTprgP
食料が無いのはそれなりに粘れるんだな。鳥取の餓殺しがいい例か
逆に水の手を断たれるとどうしようもないから各地に白米伝説が残って居るんだろうな
895人間七七四年:2009/02/16(月) 22:44:24 ID:W+BvMcY6
大友氏は毛利氏に奪われた門司城を奪還すべく出陣した。
戸次鑑連は八百人の弓衆を揃え、毛利方の陣地に撃ち込ませた。
矢には「参らせ候戸次伯耆守鑑連」と書いた紙をくくりつけ撃ち込んでいたという。
鑑連は自らの武名で毛利方を恐れさせたのであった。

矢に一本一本紙をくくりつけるベッキーを想像して和んだ。
896人間七七四年:2009/02/16(月) 23:02:55 ID:WV7Tn5E+
>>895
長可「敵をビビらせたいなら、敵陣で暴れりゃいいだろ、jk」
897人間七七四年:2009/02/16(月) 23:08:46 ID:dmGh0JBT
>>891
そう、その話だわ。名人と呼ばれる人の中には少なからずそういう人がいたんだろうな。
898人間七七四年:2009/02/16(月) 23:09:25 ID:zkAuLpd7
富田長繁「味方の陣を攻めてみようよ」
899人間七七四年:2009/02/16(月) 23:59:49 ID:6oAmDjtB
>>895
内職のように紙に文言を書いてる姿を想像して微笑ましくなったw
900人間七七四年:2009/02/17(火) 00:06:35 ID:a0qPeNVS
>>897
戦場で生き延びて功名なすには、技巧より胆力だからな。
猛る心も大事だが、冷静に周りを見るのが一番て言われたのは“姫若子”長宗我部元親だっけ


反面教師は稲富一夢理斎……
901人間七七四年:2009/02/17(火) 00:18:30 ID:/HpmSHjC
>>895
そのベッキーが仕えたのが禅も凝ればキリスト教にも傾倒し
臣を善く使う変わりに嫁も奪う違う意味でのオールマイティー大名・大友宗麟

その宗麟が奢侈に耽り、政務を怠り酒宴を催していた時の話
そんな宗麟に心ある重臣、老臣が諫言するも馬耳東風のごとくのご主君
だが、当の宗麟にも苦手な人物がいた。戸次鑑連ことベッキー、またの名を立花道雪である
重臣らが最後の砦とも言えるベッキーに諫言をお願いし、
ベッキーも大友家の一大事で一も二も無く諫言に登城したのだが、このとき宗麟は奥の手を使った

  会わない である。

腹が痛いのか、お父さんが危篤なのか、バブルスくんが危篤なのか、はたまた方角が悪いと言ったのか知らないがベッキーには会わないという作戦に出た宗麟
これにはベッキーもさすがになすすべもなく引き下がるしかなかった

が しばらくすると宗麟の耳に信じられない噂が伝わってきた

ベッキーがコンパニオンを多数呼んでの毎夜の宴会を催しているという噂
これには宗麟ならずとも興味津々の噂で大友家中がベッキーの話で持ち切りになった
もともとベッキーはこういった遊興のことは大の嫌いで、家臣が自分に仕える侍女に手を出しても笑って許すが
ベッキー本人が色事に耽るのは皆無なのがベッキークオリチィ

宗麟がこれに飛びつかないはずは無い
「最近おもしろい遊びを見つけたそうじゃん?ちょっと俺も混ぜてくれよ」
といって召し出すと、その求めに応じて美女を多数引き連れて登城し歌舞に興じるベッキー
宗麟(うは!!マジだ!ベッキーもくだけたなあ)
と上機嫌でベッキーに盃を傾ける宗麟
おー心の友よ!とばかりに自分に気を許し始めた宗麟に頃合を見計らい
ベッキーは急に美女らを下がらせて居住まいを正すと、切々と現状を訴え身を改めるように諫言し始めたのである

そう、ベッキーは一計を案じ、宗麟に会うために美女を招き遊舞に興じたのである
これにはさすがに大友宗麟はその身を律し、領国経営にその才を発揮し始めるのである
902人間七七四年:2009/02/17(火) 05:57:50 ID:Vnjn53ZT
>>901
その話って確か
鑑連が女遊びしている噂を聞いた宗麟が鑑連の居城に行ったら、それは鑑連の罠で
こっ酷く諫言された宗麟、しかしその後も態度を改めることは無かったっていう
宗麟の悪い話じゃなかった?
903人間七七四年:2009/02/17(火) 07:20:47 ID:C+SytRr7
つまり既出という事か
904人間七七四年:2009/02/17(火) 07:36:03 ID:WSjoQAfU
これか
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-185.html
宗麟の悪い話として出てたんだな。
でも>>901のがわかり易くていい。
905人間七七四年:2009/02/17(火) 08:56:18 ID:a0qPeNVS
>>883
普段はおとなしい…?
906人間七七四年:2009/02/17(火) 09:07:51 ID:a0qPeNVS
>>878
今の西条、東予あたりの領主で
(伊予へ侵攻してきた)長宗我部と早くに結んでいたが
地元じゃ名将といわれたそうだ


このエピはウリ坊をパパンと一緒に見送った(だけ)が、
姫も慈悲深い人と思われていたんだろねぇ
907人間七七四年:2009/02/17(火) 09:36:37 ID:wmjzkkFU
金子さんの恩に報いるために(娘である)姫を助けたんだと解釈した
908人間七七四年:2009/02/17(火) 09:45:18 ID:HZEj7cyK
ま、逆の意味ながら「親の因果が子に報い」って奴だ。
909人間七七四年:2009/02/17(火) 10:19:35 ID:vjs0PTdm
九州の女傑吉岡妙林尼の逸話がTV放映されましたが、関東の女傑由良妙印尼の逸話

上野国金山城主・由良国繁は成繁の息子で、妙印尼は成繁の妻であった。
成繁の死後、由良家の家督を北条一族の者に継がせようと北条氏政が画策した。
天正12年に北条氏から同盟の話を持ちかけられ、尼の息子である国繁・顕長の兄弟は厩橋城で行われる
茶会に揃って出かけたが、そのまま兄弟を監禁し家を譲るように強要した。

息子の監禁を知った生母妙印尼は、城主不在の金山城に赴き、城兵の指揮をとった。
北条氏は息子2人の返還と引き換えに由良氏の支配する4つの城を明け渡すことを要求して金山城を包囲
したが、妙印尼はそれに屈することなく、自ら具足を身につけ長刀を持ち、場内の兵たちを激励し、食器
に酒肴を詰めてくりだし、由良方を督戦しがら籠城を続けた。
金山城を攻めあぐねた北条軍は、「人質となった息子を磔にする」と脅したが、妙印尼は逆に北条軍に向かって
大筒を撃ち、ひるむ北条軍に向かって兵を出して反撃したという。

結局は北条氏から和睦を申し出、息子の命と引きかえに金山城・館林城を明け渡すも、桐生城・足利城と2人
の息子の命を救うことに成功した。
当時妙印尼は71歳だという。

さらに時は移って、小田原の陣。
由良国繁は北条方に同心して小田原城に籠城した。
しかし、北条氏を憎む妙印尼は国許に残り、貞繁(国繁の嫡男)と繁詮(国繁の弟)以下300騎を連れて豊臣軍
に合流、「孫の後見人」として松井田城攻めに参加するなど各地を転戦して、北条方を攻撃した。

小田原の陣の後、豊臣秀吉は2度も北条氏に抵抗した妙印尼の功績を称え、繁詮に三万石を与えた。
一方で尼の助命嘆願を認め、北条方に与した国繁は領地没収に止めたという。翌年、その国繁も許され、常陸国
牛久に5400石余りを与えられた。
この時、妙印尼は77歳。知行朱印状は「妙印尼宛て」だったという。
910人間七七四年:2009/02/17(火) 10:43:25 ID:X3jsr7qd
>>909
すげえ婆さんだなw
婆さんがすごいのか氏政がへたれなのか
911人間七七四年:2009/02/17(火) 12:40:10 ID:HZEj7cyK
醜い事は恥ではない


結城秀康が病気のため久しく引き込んで養生していたが、回復したため
登城する事となった。

家康もこれを大変喜び、自らもてなしの用意を仰せ付けるなど大いに張り切っていた。
ところが、

登城当日当日、事態は急変する。秀康の傍衆に、病後の秀康の様子を尋ねた家康は、
たちまち機嫌を悪くし、対面を中止、秀康には退出するよう命じた。

秀康の家臣は勿論、家康の側近まで色々と詫び言をしてどうにか対面のあるようにと
頼み込んだが、家康の不機嫌は一向に収まらず、報告を受けた秀康も大いに困惑したが、
とにかく、その日は退出した。

混乱の元は、この件に関して、家康が機嫌を損ねた理由が誰も分からなかった事だった。

「秀康様は大変気にしておられます。どうかご対面を。」

家康の近習たちも皆、そのように頼み込んだが、家康は「一刻も早く会いたいのはわしとてその通りだ。
だが、先ほどのように勿体をつけて登城するのであれば、会う事などできようか。」
と、言うばかりであった。

そこで皆は、それはどう言う事なのでしょうか?もう少し詳しくおっしゃっていただければ、
秀康様にご意見する事もできます。と、言うと、家康はようやく説明を始めた

「わしは、秀康が今度の病気で、鼻が変形し見苦しい姿になった、と既に聞いていた。
だが先日の登城の際、秀康は貼付薬をつかって鼻の変形を隠していたと言う。

美男を好むなどと言うのは、町人か公家のやる事である。本来、病気で顔の形が醜くなった事を
気にする必要など全くない。

人間にはさまざまな病気がある。目玉の抜けること。口のゆがむ事。手足が萎縮するものもある。
だがこれらはすべて病気である。どんなに見苦しくとも、恥ではない。
家康の子であり、一軍を束ねる立場にある秀康が、鼻の形を気にして貼付薬をつけ、見栄えを
良くするなどもっての外の汚い心である。

一般に人の上に立つものは、少しのことでも気をつけなければならない。
もし対面すれば、その鼻を隠した秀康を、家康は見てみぬ振りをしたと取られよう。それは
秀康の弱さと取られ、逆に鼻の事をあげつらわれる事になり、秀康は旗本や家臣たちに
侮りを受けるであろう。そうあってはいけないと思い、体面を止めたのだ。」


その後しばらくして、秀康は貼付薬を付けずに登城した。
この時家康は大変に機嫌が良く、前の支度以上にもてなし、秘蔵の道具なども
多く与えたと言うことである。
912人間七七四年:2009/02/17(火) 12:50:55 ID:usulDqTK
秀康にしてみれば今更何綺麗事言ってやがると言う気分だろうね
913人間七七四年:2009/02/17(火) 13:08:36 ID:qRpCzdDL
家康が逆の立場ならどうするかね・・・・
914人間七七四年:2009/02/17(火) 13:17:10 ID:X3jsr7qd
これが秀忠だったらどうするかね?
915人間七七四年:2009/02/17(火) 13:41:24 ID:io8x/e2n
秀康「だったら於義丸なんて名前付けんなよ」
916人間七七四年:2009/02/17(火) 13:43:14 ID:VSh2O5Ek
全然いい話じゃないな。顔が醜いって理由で
3歳まで面会もしなかったくせに何言ってんだか。
917人間七七四年:2009/02/17(火) 13:49:03 ID:HZEj7cyK
うーん、やっぱ説明が必要か?

これは「大将としての心得」であることを把握すべき話なのね。
一軍を任されている以上、その配下には戦争で体を欠損する人間が必ず出てくるわけだ。
それなのに、大将が自分の体の欠損を隠せば、兵たちも顔や体を攻撃される事を
恐れるでしょ?

そうならないようにと戒めている訳。


あと、「秀康の顔が醜くて三歳まで〜」って言うのは、江戸時代になって初めて出てきた話で、
秀康と面会しなかったのは、生母の身持ちを疑っていたと言う事の方が大きいと思われる。
918人間七七四年:2009/02/17(火) 13:55:34 ID:K2EfIuT3
いやそういうのも全部含めて家康が秀康に言っても「お前が言うな」で終わる話でしょ
919人間七七四年:2009/02/17(火) 13:57:27 ID:iubjBXOj
怪我で損じた傷ならともかく梅毒だからなー。
920人間七七四年:2009/02/17(火) 13:58:43 ID:HZEj7cyK
なんで?
家康は戦争の中で生きてきた軍人らしく、体の欠損した人間を笑う事を叱る逸話がいくつもあるよ?
その部分では一貫していると思うが。
921人間七七四年:2009/02/17(火) 14:18:29 ID:V2J+J4m0
産まれもった面相が醜いからって結城秀康と松平忠輝は父である家康に嫌われたんだよね
こんなの戦で受けた傷以上にどうしようも無い気がするんだけど・・・
922人間七七四年:2009/02/17(火) 14:26:28 ID:kBM2Ed9w
戦場での傷=笑ってはいけない
生まれながら不細工=遠ざける
梅毒で鼻が取れる=隠してはいけない
家康ルールは難しいな。
923人間七七四年:2009/02/17(火) 14:28:28 ID:HZEj7cyK
まあ、あまりこういうのを書くのもスレ違いになるのでこれで最後にするけど

秀康も忠輝も、「顔が酷いから嫌われた」って言うのは、新井白石の時代になって初めて出てくる話だよ?
同時代に両人の面相が酷いと言う話は一切残ってない。
それに忠輝に関しては、嫌われたどころかむしろ甘やかされていたと言っていい位だ?

秀康も忠輝も、家が結果的に取り潰されたので、後世創作が入りやすかったって部分を
加味した方がいいと思う。
924人間七七四年:2009/02/17(火) 14:34:12 ID:KzFUYzCm
>>922
某家家臣「他家にはもっと厳しい掟があるでござるよ。それにしてもああ眠いzZZ・・・・」
925人間七七四年:2009/02/17(火) 14:37:29 ID:d4P6dqai
山本勘助「醜けりゃ醜いなりの生き方があるものさ」
山県正景「その通りですなあ」
926人間七七四年:2009/02/17(火) 14:45:22 ID:JPmo0WpH
眼光鋭い男

豊臣秀吉に謁見するために小早川隆景と吉川元長が上洛したときのこと。
元長の父元春は秀吉に屈するのを潔しとせず、
引退して元長に家督を譲っていた。
そういうこともあったから上洛した元長に殺気が漂っていたのか、
それとも元長が生まれ持つ気性なのかわからないが、
元長の印象を後日、秀吉が語るには、
「元長は父元春にも劣らない武将だと聞いていたが、
まさに百聞は一見に如かずであった。
とにもかくにも恐ろしい眼光の持ち主だったな。
この秀吉、鬼神さえ恐ろしいとは思わないが、
どうも元長の眼差しを見ていると、
なにかあればこの秀吉さえも斬りつけそうな風であった。
話していても、気が気でなく落ち着かなかったわ。」
と言ったという。
927人間七七四年:2009/02/17(火) 14:46:36 ID:b/d44QKP
吉川家ととことん相性悪かったんだろうな
928人間七七四年:2009/02/17(火) 14:49:51 ID:+mawBY54
>>923
こういうスレチなマンセーに対して家康ならなんて言うのかなぁ
929人間七七四年:2009/02/17(火) 15:00:15 ID:e/bOhjXf
>>926-927
そしてくわんぴょうえを使って傷んだ鮭料理ショーにつながるわけですね分かります_
930人間七七四年:2009/02/17(火) 15:07:18 ID:X3jsr7qd
>>926
太閤殿下は元春に対して先入観と劣等感がありすぎる

元春と隆景どっちが恐ろしいかって言ったら
隆景のが怖いだろう・・・
元春は温厚で優しい・・・気がする
931人間七七四年:2009/02/17(火) 15:11:28 ID:KzFUYzCm

         ____
       /      \
      /  u   ノ  \  >>930
    /      u (●)  \ 叔父上からの折檻・・・痛くて恐ろしかったですお・・・・・・
    |       ー (__人__)|
     \    u   .` ⌒/
    ノ          ▼\
  /´               ヽ
932人間七七四年:2009/02/17(火) 15:22:32 ID:5jG7zBIR
一五七〇年、浅井長政に裏切られた織田信長は秀吉や光秀を殿軍に
残して大急ぎで京都に向かっていた。
すると道中に近辺の領主・朽木元綱が現れた。何やら物々しい様子である。

信長「む、あれは朽木元綱か?よもやわしを敵に売るつもりでは
   あるまいな……。」

信長は元綱を疑った。すると一緒にいた松永久秀が進言した。

久秀「私が元綱を説得して人質を出させましょう。もし元綱が応じない
   ようであれば刺し違えてきます。その隙に信長様はお逃げ下され!」
信長「その意気や良し!久秀に任せる。」

早速、久秀は元綱をあれこれ説得した。

久秀「信長様、ご安心下さい。元綱は人質を出しました。
   元綱の屋敷で休みましょう。」
信長「であるか、さすがは松永久秀。大義である。」


    /llllllr''";;:::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;`::.、
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 !.l"`,, |llllll!' :.:.:::;,,,___`ヾ、;;;;;;;;::;、rィ゙
 ', ',>、|lll''   .:.::`'''゙メ`';;;:::::;;イェュ┤
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r'゙|::ゝ-┐  .:./:.:.:.::::::::;;..:.:.:. l;.  ,'
;;l l::::. :.'.  .:' :.:.:.:.:,;;∠;;;ゝ=‐'゙;.:.. /
;;゙、゙、:::. .:.;. ..:.:.:.'''''''''ニ,,,,,,,,__ヾツ
;;;;ヽヽ:. :.:\:.:.:.::::.:.:...、,,,,,,,,,, .. /  ニヤリ
;;;;;;;ヽヽ:.:.::.:.:.:\:.:.:.:.:.:.::::.:.. .,.'
;;;;;;;;;;ヽヽ:.:::.:.:.:.:::` :、,:.:.;;;;;;;;;/;;;`;-,、
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こうして信長は元綱の屋敷で休んだのだった。
久秀にもいい話はあるよ、というお話。
933人間七七四年:2009/02/17(火) 15:24:09 ID:X3jsr7qd
元春の子作り

長男:元長1548年生まれ(前年に元春が妻を娶っている)結婚記念
次男:元氏1556年生まれ(前年に厳島合戦)厳島記念
三男:広家1561年12月生まれ(同じ年の1,2月頃に長男の元服)元服記念

娘の誕生年が分からんけど出来すぎじゃね?
934人間七七四年:2009/02/17(火) 15:28:45 ID:X3jsr7qd
>>932
いつもいい事をしない人がたまにいい事をすると
物凄くいい人に見える現象ですか
935人間七七四年:2009/02/17(火) 16:07:47 ID:0V5zmopL
>>932
この話にも実は裏があって…とどうしても考えてしまう
936人間七七四年:2009/02/17(火) 16:25:19 ID:2BbHwybx
>>935
裏と言うか、単にここはまだ信長についていた方が良いと計算しただけだと思うけども。
937人間七七四年:2009/02/17(火) 16:33:03 ID:xLUI+aEr
新井白石云々は藩翰譜の事だと思うけどあれは伝聞が主体なわけで、既にそういう話があった可能性が濃厚
実際はそうでなくとも家康の指示で実質上の長子にも関わらず廃嫡された謎に対する理由付けだろうから、
当時からそんな噂があったんじゃないかね。同じ出典元に菅沼氏による武田信玄暗殺なんてのも乗ってるくらいだからさ

これだけじゃ何なので、吉川元春公の逸話をば


・今新田(元春さんの格好いい話。出:名将言行録)

1569年の事
豊前立花山城主立花鑑載が高橋鑑種と共に毛利方に寝返り、これを好機と毛利氏は北九州へ兵を進めた
ところが戸次鑑連(後の道雪)の猛攻により毛利の後詰めが到着する前に落城してしまい、折角の足がかりを失ってしまう
援軍を組織していた吉川元春と小早川隆景は目的を変更し落城した立花山を攻撃。これを再奪取する事に成功する
・・・が、時をほぼ同じくして山陰の最前線、出雲で尼子氏が挙兵。元就は出征中の元春に尼子残党の鎮圧を命じた
これに対して元春は「この状況では帰る事はできません。尼子の事は父上にお任せします」と断りを入れ、豊前に腰を据えた

ところが事態は悪化する
周防を追われた大内氏が大友氏の援助によって挙兵、元春と隆景は腹背に敵を抱えることになってしまった
挟撃されてはひとたまりもない。元就の指示を断り立花山に拘った元春も仕方なく退却する事になった
元春は殿を勤め夜陰に乗じて陣を払おうとするも大友方はこれを察知。諸将は追撃に掛かる・・・はずだった
ところが大友勢は動かなかった
旗指物を乱すこともなく整然と退却する吉川軍を見た戸次鑑連が制止したのだった
これによって元春は悠々と退却し、無事に帰還することに成功した

後にこの顛末を聞いた元就は
「そのように整えて退却するとはなんと見事な。世に知られた新田義貞の矢矧の橋を彷彿とさせるようだのう」
と褒めたそうだ
938人間七七四年:2009/02/17(火) 16:42:52 ID:xLUI+aEr
あ。注釈入れるの忘れてた
多分「矢矧の橋」は梅松論の天竜川撤退の話と何かが混同してると思われる
意味自体は単に新田義貞のような立派な大将になったもんだなーってな具合だと思う
太平記が手元にないんで詳しい人居たら注釈入れてくれるとありがたいです
939人間七七四年:2009/02/17(火) 17:45:11 ID:FqmpF4K2
>>910
この婆さんの孫が「のぼうの城」でお馴染みの甲斐姫だったりする。
940人間七七四年:2009/02/17(火) 19:19:55 ID:Y5rSdwle
>>923
参考になったよ
という事は信康が家康と秀康を対面させた逸話も江戸時代以降のもの?
941人間七七四年:2009/02/17(火) 19:40:54 ID:HZEj7cyK
>>940
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

こっちに書いておきました。
昼間は変に荒れさせちゃってすいませんでしたorz
942人間七七四年:2009/02/17(火) 19:44:53 ID:tacZ7Rol
>>933
毛利三兄弟ほどじゃないにせよ吉川三兄弟もなかなか優秀だったようだな。
元長が早死にしたのが悔やまれる・・・。

結局三男の広家が継いだけどなぜ次男の元氏に継がせなかったの?
943人間七七四年:2009/02/17(火) 19:50:46 ID:HZEj7cyK
>>942
元長が死んだとき、元氏は既に他家に養子に入っていたからじゃないかな?
944人間七七四年:2009/02/17(火) 20:51:19 ID:SI4j/Evw
秀吉「まんじゅう怖い・・・吉川怖い・・・」
      :
      :
元長「ってな具合でさw」
毛利家臣団「元長さんGJ、あの猿に一泡吹かせてやりましたね」

その頃
秀吉「あ〜まんじゅう怖い、怖いから食べちゃおw
   黒ちゃん、お茶とまんじゅう取ってきて」
黒田官「お茶と・・・饅「頭」取ってくるんですね・・・」
諸侯「毛利も馬鹿だなw」
945人間七七四年:2009/02/17(火) 21:33:20 ID:lNfH8370
宇喜田家軍制

宇喜田家の軍制として、直家は家中の人数はもちろん、
弓鉄砲や軍資金、兵糧にいたるまでそれらを四つに分かち、
戸川、岡、長船、花房の四人の組頭にそれぞれを預けおいて、
領内のすみずみまで必要に応じて一時に集まるように工夫をほどこしていた。
東に事態があれば東組を派遣し、小事ならば一組で対処を追え、
中くらいのことであればこれに北組を加える、
大事ならばさらに南組をも加える、しかし指揮は東の組頭がとる。
この場合、西組のみは残して、直家自らの用に備える。
各組頭の下には二人の副将を置き、
もし組頭不在の折にはこの副将二人の協議によって処置する。
この軍制の機能性は、あたかも下り坂の車、順風の舟のごとしであったという。

名将言行録
946人間七七四年:2009/02/17(火) 22:04:21 ID:udPZiipD
>>926
この話だけ見ると元長が恐ろしいやつのように見えるけど
本人の手紙とか見るとダジャレ好きで謙虚ないい兄ちゃんなんだよね
ついでに絵を描くのも好きみたい

やっぱり父の元春の件や仲の良かった経家が渇殺しにされた事とかで
秀吉にはあんまりいい印象を持ってなかったのかもしれない
947人間七七四年:2009/02/17(火) 22:10:45 ID:9flXuPVi
>>937

この時の大内輝弘は、大友宗麟から300名ほどの兵をつけられ
豊後から船で毛利方後方に送り込まれたコマンドだったんだよね。
これが意外と善戦したというか、毛利に反感を持っていた大内家残党が
加勢したため、毛利元就は大ピンチ。
が、毛利勢反転後は船で脱出もならず、最後は防府で玉砕しちゃった。


毛利勢の博多から長路門司までの間70kmは、大友方についた
道途中の国人からの襲撃で数千人の死者を出したとおもう。

戸次鑑連は、一旦撃退したものの南の秋月、更には佐賀の竜造寺から背後を突かれる
可能性が強かったから、毛利勢を追撃したくてもその余裕はなかったのだと。
948人間七七四年:2009/02/17(火) 22:21:07 ID:WxYzpXSm
輝弘はいい捨て駒だな
949人間七七四年:2009/02/17(火) 22:33:16 ID:ZKK2LWio
時勢を読めず夢を見るからああなる
大内義長がどんな目にあったかよく知っているだろうに
950人間七七四年:2009/02/17(火) 22:44:39 ID:7AWmxVWo
>>911
小早川隆景「そうだね、人間は顔じゃないよ。」
951人間七七四年:2009/02/17(火) 22:54:09 ID:R5jxE0dE
>>945
>この軍制の機能性は、あたかも下り坂の車、順風の舟のごとしであったという。
付け足しておこう

泳ぎのうまい人の代になり、この軍制が破綻した後、家運はあたかも下り坂の車、順風の舟の如く…w
952人間七七四年:2009/02/17(火) 22:57:02 ID:i4ddhjst
ひげエモン

伊達政宗の下士に丹野善右衛門という身の丈六尺を超える剛の者がいた
大坂の役にて秋保刑部の与力として働いたが、秋保刑部は討ち死にしてしまった
善右衛門はそのままにしておけぬと、秋保の甲冑を着けたままの肥満体を背負って帰陣した

政宗はその勇気と義心を賞し、感状をしたためて三百石を与えた
しかし、その感状の宛名がなんと「丹野髭右衛門」
善右衛門はたいそう長い髭をたくわえ、普段から髭右衛門と呼ばれていたからである
本人もまんざらでもなかったらしい

主君にまで髭右衛門と渾名されたことを大変名誉に思った彼は
以来ずっと髭右衛門で通したと言われる
953人間七七四年:2009/02/17(火) 23:04:45 ID:7AWmxVWo
>>952
政宗「秋保の亡骸を担いで帰ってきた奴なんつったっけなー・・・」
家臣「ああ、髭右衛門ですか、彼の本名は丹野「「髭右衛門っと」」衛門です」
政宗「じゃ、これ渡しといてくれ」

こんな事があったのではないか
954人間七七四年:2009/02/17(火) 23:38:51 ID:hCPirgbz
主君に渾名つけられるのはやっぱ名誉でしょ
織田家はともかくとして
955人間七七四年:2009/02/18(水) 00:25:34 ID:0T0pihtp
>>936
金ヶ崎で信長が死んじゃうと最悪三好、浅井、朝倉、筒井、足利を相手にする羽目になる恐れがありそうだな。
956人間七七四年:2009/02/18(水) 00:42:42 ID:BXQecEqu
>>951重臣真っ二つに割れちゃったもんな……関ヶ原の前に宇喜多、弱体化し過ぎだろ_| ̄|○

泳ぎの達者な秀家より長船ジュニアが悪い、て話は方々あんだけど
君側のカンを除く、ってのもテンプレだからどこまで君臣それぞれに責任あんのか評価しづらいね
957人間七七四年:2009/02/18(水) 00:48:33 ID:BXQecEqu
>>933家運が開けると益々ハッスルしてしまう、ホットな夫婦だったのだろうねw

あ、確か向井兵庫正綱もおんなじような感じでぽこぽこ子作りしてたな
嫁さんは“鬼平”長谷川平蔵の先祖の家から来ていたがあんまり怖くなかったらしい
958人間七七四年:2009/02/18(水) 01:30:31 ID:j3gX5XN7
シャケ弁

誰だったか忘れたけど、大阪城で諸大名が集まって弁当を喰っていたら、
とある大名の弁当にシャケの切り身が入っているのを他の大名が見つけて大騒ぎに。
「おースゲー!!」と口々に大名達は感嘆の声を上げてお祭り状態。
んだもんで、切り身を持ってきた大名は、「一口どうですか?」と声をかけ、
「おお、わしにも」と大名達は黒山のごとく群がったとか。

これって、誰の逸話だったっけか?
959人間七七四年:2009/02/18(水) 01:39:38 ID:BXQecEqu
>>958
毛利輝元かな。

羽州や越後あたりと日本海交易してて、西日本にも塩鮭があったみたい
960人間七七四年:2009/02/18(水) 01:57:53 ID:II4SXVZ5
毛利秀就の鮭の切り身・いい話
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-86.html
961人間七七四年:2009/02/18(水) 02:32:45 ID:GfWK+zZE
鮭と言えば

「皮厚さ一寸の鮭を持ってきたら、35石と取り替える」と水戸黄門が言ったという伝説があるが
実はコレ、政宗の逸話らしい
ソースはwikipedia

鮭様、甥御さんも鮭大好きだったみたいですぜ
962人間七七四年:2009/02/18(水) 06:00:55 ID:1wRciNKC
人材マニアとして有名な、紀州家初代徳川頼宣。彼が集めるのは人間に限らなかった。

ある時頼宣に、逸物の猛犬を献上した人がいた。しかしこれはかねて聞こえた荒犬であったので、
二人の男が犬に付き添って庭に連れて行った。そこで頼宣が「これに連れて参れ」と言ったので
縁まで連れて行った。

付き添いの者は頼宣の小姓に向かい「この犬はとても気が荒いので…」と言ったのだが
頼宣は頓着せず

「ふむ、いい犬だ、さだめし猟で活躍するだろう。面構えも悪くない。」

と、何故か足で犬の頬をなでた。
これに犬は猛然と怒りだし、頼宣の足に噛み付いた!

が、頼宣、ここであわてず、かまれた足を犬の喉に突っ込んだ。
すると犬は驚き、足を離して逃げ出した。
以降この犬は、頼宣を見ると尾を垂れ首を伏して従順になったと言う。

この時もし頼宣が足を引いていたら、そのため却って大怪我をしたであろう。
頼宣の咄嗟の判断は日ごろの武芸の鍛錬の賜物である。そのように噂されたそうだ。
963人間七七四年:2009/02/18(水) 07:34:08 ID:LIcSdwvQ
>>959
しゃけは中国地方日本海側や北九州でも獲れるよ
964人間七七四年:2009/02/18(水) 09:23:01 ID:dYUt+Sfa
>>958
三河武士の話で似たようなの無かったっけ?
家康が家臣にも倹約を徹底させたもんだから、
上級家臣にも関わらず鮭の切身に殺到…みたいな?
965人間七七四年:2009/02/18(水) 09:33:36 ID:u7vMZ1Tb
三河武士で食事といえば、めんどうくさい芋鍋パーティーを思い出した。
まとめスレにあったから省くけど。
966人間七七四年:2009/02/18(水) 09:38:20 ID:mPY8AKIR
>>962
>何故か足で犬の頬をなでた

犬「ちょwwwwwwwww
  足とかwwwww手で撫でろよwwwww」
967人間七七四年:2009/02/18(水) 10:27:22 ID:s8/FtnEs
大久保彦左衛門だったか闇鍋の話がなかったっけ?
968人間七七四年:2009/02/18(水) 13:04:16 ID:IZFbOLsA
>>962
犬「なんか気持ちよくなってきた…
そのまま足で踏んでくださいハァハァ」
969人間七七四年:2009/02/18(水) 13:48:40 ID:/mSCbZSh
>>962
なんで足でなでるんだよw
970人間七七四年:2009/02/18(水) 13:59:00 ID:PSjhYXfO
動物に噛まれたら喉に押し込むのって常識だと思ってた
手だともしもの事があったらアレだからかな
971人間七七四年:2009/02/18(水) 15:23:11 ID:qXyOCC0d
家康「なに、頼宣、犬が足をくわえて離さない? 逆に考え(ry」
972人間七七四年:2009/02/18(水) 15:36:59 ID:/mSCbZSh
>>971
家康「忍耐忍耐!」
973人間七七四年:2009/02/18(水) 15:55:26 ID:BXQecEqu
>>971
葵御紋の波紋疾走! ズキュウウウウ~ン
974人間七七四年:2009/02/18(水) 15:59:06 ID:1wRciNKC
そろそろ新スレの季節だね。980踏んだ方、宣言してからスレ立てよろしく


↓スレタイ

戦国ちょっといい話7


↓テンプレ

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話6
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233164778/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話7
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234621761/

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
975人間七七四年:2009/02/18(水) 16:30:35 ID:s8/FtnEs
素朴な疑問だが犬って臭い足でも躊躇無くくわえちゃうものなん?
976人間七七四年:2009/02/18(水) 16:38:51 ID:mPY8AKIR
>>975
父の足の臭いには躊躇なく噛み付くが
姉の口臭には顔を背ける我が家の愛犬

ていうか犬に噛み付かれたら相当痛いよ
977人間七七四年:2009/02/18(水) 16:41:19 ID:1wRciNKC
978人間七七四年:2009/02/18(水) 16:46:36 ID:tWfEE0Ud
>>962
猫の頭を足でなでてたらザックリやられた記憶あるw
979人間七七四年:2009/02/18(水) 16:56:36 ID:T99WGFGK
>>977
ちょ、それヨハネスブルグのハイエナw
980人間七七四年:2009/02/18(水) 17:15:50 ID:bSVmsidq
>>977
猛犬ってレベルじゃねえぞw
でも土佐犬なら勝てる気がしてならん
981人間七七四年:2009/02/18(水) 17:30:31 ID:MSw7TfTO
一方、鬼武蔵は猛犬と飼い主もろとも首を刎ねた
982人間七七四年:2009/02/18(水) 17:37:19 ID:155olgun
>980次スレよろしく頼もー
983人間七七四年:2009/02/18(水) 17:45:42 ID:bSVmsidq
おk初陣だが行ってくる
984人間七七四年:2009/02/18(水) 17:49:03 ID:bSVmsidq
985人間七七四年:2009/02/18(水) 17:50:20 ID:1wRciNKC
>>984
乙!
986人間七七四年:2009/02/18(水) 18:40:04 ID:fJNJc31e
九州の武将、島津義久が戦で竜造寺隆信を討ち取った。隆信は部下の赤星を討った男なので
義久は赤星の未亡人にその首を送り届けた。赤星未亡人は隆信を首を見ると、大いにののしって
その首を踏みつけた。義久はそれを聞いて、
「敵の首実検にも礼儀はある。いかに女とはいえ武将の首を足蹴にするとは……礼儀も義理も
わきまえぬ女だな」
 といい、それからは赤星未亡人との音信を絶ってしまった。そもそもこの戦いは赤星家の要請に
より、やむなく起こした戦いであった。
987人間七七四年:2009/02/18(水) 18:57:50 ID:U+Q0NIKS
>>986
マルチやめろ
988人間七七四年:2009/02/18(水) 19:01:51 ID:+xYLxEh4
悪い話じゃないか
989人間七七四年:2009/02/18(水) 19:06:05 ID:YIGv5o14
マルチは駄目よん。

------------------
同じ島津家関連で
島津義弘の た ぶ ん いい話。

島津家の家臣で種子島久時という人物がいた。
名前を見たら分かるが種子島の島主で、もちろん「種子島」こと火縄銃の扱いでは達人といわれた人物である。
その砲術で、朝鮮出兵でも幾度も義弘の窮地を救ってきた。

日本に帰国後、久時の室(正室か側室かははっきりしない)が身ごもり、まもなく産み月を迎えようとしていた。
義弘は自分の子供か孫が出来るかと思うぐらい心配したらしく、久時に次々に手紙を送った。
「臨月の婦人はな、うつぶせに寝かせたら絶対駄目だぞ!」
「お腹の形がこういう風になってるときは、逆子の可能性があるからな!」
「逆子の対処方法は(以下ry」
・・・種子島家にも医師や産婆は一杯いただろうに、これらの手紙を受け取った久時はどう思ったのやら。
というかこの詳しさは子供を取り上げたことでもあるのか義弘。

これらの義弘のはずか・・・いや素晴らしい_医学知識を披露した手紙は「種子島文書」として後世に残り
今では『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家分け6』に所収され図書館に逝けば誰でも読むことが出来る。
990人間七七四年:2009/02/18(水) 19:54:12 ID:I9KL8OVK
義弘、かねて欠点のない男だとは思っていたが、まさかお産の経験まであったとは・・
991人間七七四年:2009/02/18(水) 19:57:19 ID:NCS7cCo3
>>990
息子の育成に欠点が
992人間七七四年:2009/02/18(水) 20:09:32 ID:/mSCbZSh
>>989
さすが義弘さんや!
993人間七七四年:2009/02/18(水) 20:13:16 ID:BXQecEqu
>>990
戦国猛将伝はカーチャン列伝だな。謙信といい……
994人間七七四年:2009/02/18(水) 20:22:34 ID:BXQecEqu
>>984
オイッス甥っス
995人間七七四年:2009/02/18(水) 20:55:06 ID:1CxsyZQ0
義弘オカン説は新しいなwww
996人間七七四年:2009/02/18(水) 21:11:00 ID:UX3g+kOE
>>996なら毛利輝元が天下を執る。
997人間七七四年:2009/02/18(水) 21:16:22 ID:mN205VIA
>>997なら島津忠恒がチグハグな答弁の責任を取って辞任
998人間七七四年:2009/02/18(水) 21:18:05 ID:NCS7cCo3
>>998なら日根野弘就が3日がかりで切腹
999人間七七四年:2009/02/18(水) 21:23:46 ID:MSw7TfTO
>>999なら次期首相は鬼武蔵
1000人間七七四年:2009/02/18(水) 21:23:56 ID:I7/tI91w
>>999なら鬼武蔵が現代に再臨
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
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   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         戦国時代(仮)@2ch掲示板
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l        http://hobby9.2ch.net/sengoku/