1 :
人間七七四年:
1600年に誰にも邪魔されずにガチで戦争したらどっちが勝ってた?
2 :
人間七七四年:2009/01/23(金) 20:25:54 ID:RmR7m97M
それより二郎と中本どちらが美味いかを語ろうYO
3 :
人間七七四年:2009/01/23(金) 20:30:22 ID:7liaP6hs
江戸期は二人は仲良し
4 :
人間七七四年:2009/01/23(金) 21:32:12 ID:Jr7+GvH2
これにて終わります
5 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/01/23(金) 23:09:48 ID:LwTSO6Pg
乗っ取られて終了、で終わってくれ。
6 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 02:42:21 ID:X9JS2z5A
なんだかんだで友好。
終了
7 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 05:23:31 ID:LIj9kSXe
普通に上杉が勝ちそう
8 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 05:29:11 ID:Jf/yfy0I
9 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 06:41:05 ID:H/Ul46rf
手を組んで家康追撃の予定だったのにな。
どうせなら豪快な追撃で再び戦乱とかのが面白いのにな。
10 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 06:58:57 ID:zcupf0H4
伊達に負けた大名なんて自滅した葦名以外にいないだろ。
そういや大坂の陣で神保隊が伊達に負けたか…
11 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 11:17:09 ID:2PNI30fp
12 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 11:28:47 ID:5Wh0MDT7
神保気の毒すぎるwwwwwwww
13 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 23:53:57 ID:q/6MmqGT
>>10 じゃあ、残念ながら日本最弱の称号は神保のものだな。
14 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 03:31:25 ID:lYUu2DMt
なにこの荒らし御用達みたいなスレw
15 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 11:12:54 ID:ueai/fem
伊達と真田に密約があったのは間違いないね。
16 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 11:38:48 ID:46nsP8wt
>>10 すげーよなぁ
活躍してるの気に入らないからって味方なのに背後から攻撃するんだもんなぁ。
和賀一揆も自分でやらせておいてバレたら殺すし
成実の家族自分が殺すよう命じたくせに全部屋代のせいにしてるしとんでもない外道だよな。
17 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 12:26:51 ID:rzgygF0H
>>13 神保だって正々堂々と正面から戦えば…卑劣なり伊達(涙)
つか政宗はいつものように大坂方にも内通して両天秤にかけてたりして。
18 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 12:34:32 ID:ueai/fem
神保殲滅とかすげーわ。
普通なら改易もん。
19 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 14:20:39 ID:kf2D1d13
>>18 娘婿が旗本斬り殺して改易なのにな。
被害者が同じ万石以下の旗本なのにこれだけ処分が違うのは、徳川家が三河譜代と大和衆を差別したからに違いない。
20 :
仙台藩百姓:2009/01/25(日) 15:01:48 ID:axzbZJSm
まあ、神保が後藤らに蹴散らされて逃げ込んだ先が伊達軍であったのは幸いだおね( ^ω^)
一部の弱兵が逃亡し始めて、それが本隊を巻き込んで総崩れになるパターンは極めて多いお
というか殆どがそのパターン
こうなるといかに名将であっても止める事は至難だお┐ (´ω`) ┌
しかし政宗公は瞬時にこれを殲滅し勢いを殺さずに攻め続けたお
さすがと言うほかあるまいお( ^ω^)
元より果断に富んだ人物ではあったが、このころになると老練さも加わり
いよいよ別段の風格があるお( ^ω^)
21 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 15:26:15 ID:l8KJA2dZ
それ本気でいってんのか\(^o^)/
22 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 16:08:10 ID:ueai/fem
ってか神保全滅したのいつの戦い?
23 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 18:06:59 ID:TLTb9IQV
大坂夏の陣。
24 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 18:28:33 ID:xr8Tv3VU
そんな事も知らんのか このバカチンが!
25 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 19:30:33 ID:lYUu2DMt
公式記録の徳川実紀じゃ政宗がからむ記述はねーのな。
26 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 19:32:58 ID:lYUu2DMt
あ、この神保関連についてね。
つかここ景勝政宗スレ?この二人意外に仲良く
ならなかった?
27 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 21:00:49 ID:zXs1WGBS
逸話と関ヶ原の頃敵対したイメージのせいか仲悪いイメージらしいけど
割りと仲良いよ。
28 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 21:27:24 ID:46nsP8wt
29 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 21:31:54 ID:lYUu2DMt
あるある!
30 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 21:54:04 ID:xr8Tv3VU
そうそう!あるある
31 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 22:14:01 ID:POow1pI6
32 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 22:19:31 ID:rzgygF0H
実際、景勝と政宗は関ヶ原後はお手紙交換する仲だしな。
2ちゃんでは伊達厨が上杉を貶したいようだけど…
33 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 12:20:35 ID:VE8dcVTy
神保全滅は大阪の陣のどこの戦いか聞いた。
34 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 12:25:36 ID:PaEUz11T
>>1 余裕で政宗だろ。
景勝って負けたことしか無いじゃんw
35 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 12:46:51 ID:Pwn7uvD/
愚かしい
36 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 15:27:34 ID:BLD08KLT
37 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 15:39:46 ID:o/pJBRa/
>36
こういうのは釣りなので耐性をつけましょう
38 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 08:24:45 ID:3b5GyH5V
(´●ω ・`)
39 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 08:51:10 ID:bRwpcev+
農民の逃散対策である人返し制度は景勝がやっていたものを政宗が
真似て導入したみたいだな。
40 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 18:38:47 ID:wRBGdTKp
で、結局どっちが勝つの?
41 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 18:44:53 ID:0+fAI8iV
関ヶ原時はまだ上杉のが全然でかいから上杉。単純だけど
イフだしそれでいんじゃね。
というか糞スレ。
42 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 18:52:46 ID:xEPrjHUF
上杉景勝は負け戦ばかりだから勝つイメージが沸かない。
43 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 19:04:50 ID:cylGhBFX
勝つも負けるも何も・・
伊達が和賀・稗貫一揆を煽ったから南部が上杉攻めから手を引いた訳で。
伊達が対上杉に本気だったら
伊達・最上・南部・結城連合軍 対 上杉
って構図になるから、前者の勝利。
単純に伊達 対 上杉 なら上杉だろうけどな
44 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 19:39:39 ID:LaLmPYyM
関ヶ原前後上杉と伊達は影で組んだ~(>_<。)
45 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 21:09:18 ID:0+fAI8iV
何だかんだいって景勝と伊達のみの戦ってのが想像できんかも。
上杉伊達の交流が二人以前からあったのと景勝政宗が普通に仲良い所為もあるしなぁ。
46 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 21:13:07 ID:xEPrjHUF
仲いいのか? 兼次とは仲悪そうだけど。
47 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 21:27:09 ID:gGgMiats
兼続と仲悪いからって景勝とも仲悪いとは限るまい。
兼続と政宗が本当に仲悪かったかも疑問だが。
景勝は北条は臆病者だの嘲笑してる書状書いてるからキライだったっぽいな。
48 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 21:30:23 ID:+Mub7Ud4
>>32 手紙のやりとりしたから仲がいいだってw
胡錦濤が来日したときめちゃくちゃ歓迎したけど日本と中国仲いいか?悪いだろ?
ほんと2ちゃんって馬鹿しかいないんだな。
49 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 21:57:14 ID:0+fAI8iV
仲悪くは無いだろ。家同士それなりの関係を築いている。
友情とかの類で無いにしろ、二人が険悪なんてのは
聞いたことがない。
50 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 22:35:33 ID:b3XuvJMR
幕府からは、伊達、上杉、佐竹はワンセットで扱われていたからね。
秀忠の茶会も、政宗、景勝、義宣と一緒だし。
江戸に上がるときも、お互い情報交換してた書状があったと思う。
51 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 22:44:04 ID:xEPrjHUF
義宣と政宗の関係は最悪な気が・・・
52 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 22:57:52 ID:0+fAI8iV
佐竹の「上杉と伊達お友達認定」って(いい話スレ引用w)
「俺は仲良くないけどねっ!」っていうツンが入ってるのだろうか。
53 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 22:58:06 ID:wtTHUqfx
>>1 その二人の戦歴を踏まえると、いい勝負をするが中盤で政宗が搦め手を使いリードを取り
その後一気に差を広げ圧勝するか、と思った所で何かが起きてまさかの景勝勝利と予想。
政宗は最後の最後で何か起きて上手くいかないのがパターン。
景勝は最後の最後で何か起きて生き残ってしまうのがパターン。
54 :
人間七七四年:2009/02/02(月) 20:42:42 ID:NA1mMvXi
伊達政宗って強くて凄い武将だと思ってた
家康も恐れたとか書いてあったし
でも2ちゃんやるようになってからは政宗は過大評価されてるだとかたいした事ないとかそういう書き込みをよく見るようになった
実際はどっちなの?
凄いの?
たいしたことないの?
55 :
人間七七四年:2009/02/02(月) 20:55:37 ID:VaGbpKVD
輝宗はすごいね。
56 :
人間七七四年:2009/02/02(月) 20:57:57 ID:LHiPMH79
>>54 自分で資料読んでみたら自分の価値判断が出てくる。
57 :
人間七七四年:2009/02/02(月) 22:25:38 ID:qCdG1qm+
>>54 なんで凄いか大したことないかの二択なんだよw
世の中そんなわかりやすい答えがあるわけないだろ。
自分で考えろ。
58 :
人間七七四年:2009/02/03(火) 09:57:20 ID:xds69aWB
>>54 現在、広く出回っているイメージは山岡荘八の小説やそれを原作にした大河ドラマのそれである。
(一部、無双やBASARAのイメージも出回っているが・・)
後世の創作(小説等)でも作者がどのような人物だと思っているかによって描かれ方は様々である。
近年の大河ドラマだけ見ても、「お惚け(葵)」「ヘタレ(利家と松)」「暴虐(MUSASHI)」・・天地人ではおそらく「不義」(直江兼続のアンチテーゼ)として描かれると予想されます。
ドラマ、小説、ゲームのイメージってのは一般には広く浸透してしまいます。
また、史料を調べても伊達側史料や周辺勢力の史料でもかなりイメージが違って見えるはずです。
後世の創作家(小説家等)のみならず、研究者(史学博士等)ですら様々な評価をしている人物なんだから、どの様な人物像が正しいかなんて自分で調べるしかないよ。
まあ、厨が言うほど凄くはなく、アンチが言うほど酷くはない・・ってのが実像なのではないかと。
59 :
人間七七四年:2009/02/03(火) 10:09:58 ID:r6Dfve7Z
>>58 最後の一行はすべての戦国武将に言えるねw
徳川家康、織田信長、武田信玄、上杉謙信、北条氏康、石田三成・・・
60 :
人間七七四年:2009/02/03(火) 10:42:52 ID:375pydaS
最狂DQNなのは間違いない。
61 :
人間七七四年:2009/02/04(水) 16:56:22 ID:5s8poPkB
>>54 2chの情報を世間の通説よりも信憑性があると思ってる時点でアホ
2chのレスなんて99%が脳内妄想、虚言、戯言、便所の落書き、誹謗、中傷
まぁ、あれだ、2chは俺も含めて世間で全く発言権のないカスのガス抜きの場だからwww
62 :
人間七七四年:2009/02/04(水) 18:58:22 ID:OVEWlVi/
まあ普通の武将では無いな
個人的に一番近いと思ったのは無双
63 :
人間七七四年:2009/02/04(水) 20:26:51 ID:DtrZK7pt
父親をさらわれるマヌケぶりは
群を抜いてる。
64 :
人間七七四年:2009/02/06(金) 05:18:34 ID:2ukgTZw9
65 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 15:22:15 ID:R9OByOj6
>>63 逆に息子をさらわれた方で双璧なのは息子を二千貫で売買された松平広忠か?w
66 :
人間七七四年:2009/03/20(金) 05:25:16 ID:K7An1ukS
>>42 国中が二分し武田北条葦名伊達が敵方で越後侵攻してきた御館の乱
信長死後の信濃で83,84年二回とも小笠原、青柳、仁科衆ら4000を撃破した麻績・青柳の戦い
真田とともに信濃で徳川、上野で北条(ともに大軍)を撃退した戦い
新発田との八幡表の戦い
新発田を援助してた葦名との赤谷近辺の戦い
佐渡平定戦、本庄に援軍送り出羽庄内を奪った十五里が原の戦い
大阪の陣で豊臣方の大軍を破った今福・鴨野の戦い
ぱっと考えただけでこんだけ浮かんだが。
負け戦って放生橋の事?あれは鮎川の裏切りがあったし本庄、色部もなかなか腰をあげずにいた事が大きい
それでも本庄、色部が腰を上げると繁長軍が篠岡まで進出して所々放火し一戦し主だった十余人を討ち取り
重家をかなり追い詰めてた。しかし81年以来越中信州と長陣が続き休まず新発田攻めに来てて
兵の疲労が酷く軍律も乱れている有様。新発田城からの退路は深田に囲まれ一本のあぜ道しかなく
放生橋の両側が沼の広がる細道という地形では殿戦もまともにならないだろう。
『仕方のない敗北』だと思う。
67 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 08:55:27 ID:oTsbJqyq
小田原征伐でも上杉軍に失敗はないよ。
68 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 20:33:46 ID:udC/xMib
地味な景勝
派手な政宗
69 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 21:10:51 ID:ai9ZOigT
終始泥仕合な気がする
70 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 21:23:42 ID:j3c59Nfm
それなりに良い関係だったようだね
71 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 21:59:49 ID:AcG1LtWc
戦が野戦だけなら上杉に若干軍配があがるのでは
兵力が多い方が有利であるし、率いる将だってさほど力量の差はないだろうし………
72 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 22:37:52 ID:RzbHc5Iz
>>64 なんで真田がそんな人気なの…?信長、秀吉が低すぎる…
73 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 22:42:31 ID:UURDdCYa
ゲーム脳の逝かれた連中がごろごろしてるからだろ
74 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 22:56:08 ID:RzbHc5Iz
ゲーマーが決めたランキングですか(笑)
どおりで片倉が天下人2人より上なわけだ
75 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 09:08:09 ID:/H8b/2A8
バサラの片倉はヤクザだし
政宗はチンピラ
こんなのが腐女子に人気な描かれ方なのか…片倉なんて龍が如くに出てきそうだぞw
76 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 10:22:36 ID:TEEXb+CA
>>71 言っておくが景勝−直江のホモ主従は、天下人の後ろ盾がある合戦でしか勝った事が無い
政宗にとって豊臣政権から帰参を促されている時の取次ぎが景勝だったから
コミュニケーションは頻繁だっただろうな
でも結局政宗は、ホモ主従頼むに足らずと、徳川、前田、浅野と人脈を開拓して行ってるね
77 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 13:07:36 ID:XUZhe7EE
天下人の後ろ盾といっても大局レベルの話であって別に援軍が来たわけでもない。
むしろ東国内では佐々、徳川、真田(85年7月には帰属するが)、北条、葦名、最上など強敵に囲まれ孤立した状態と言っていい
御館の乱では伊達も敵方。
78 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 13:10:39 ID:VP6nRYHF
いや戦績やら経歴から見て普通に伊達の方が戦は強いだろ..
なんかおかしいんかな俺
79 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 13:31:30 ID:Ez0IBzdM
景勝も
>>66の勝ち戦や越後一国の6000〜8000程度の兵員でよく戦ってると思うぞ。
結局80年までの内戦で大幅に疲弊しその頃には本願寺と織田が和睦し能登や越中の衆が次々帰参してきて
翌年には新発田も蜂起するなど危機的状態だが結局魚津落城まで82年6月までもかかってる。
雪による行軍遅延や馬揃えで佐々が留守にしていた時期があるとはいえ、自他の兵力差、国力差や内乱で疲弊し
また国内で反乱が起き葦名が介入するなど苦しい状況鑑みればよく戦ってると思うが。
伊達とは交戦が少ないからわからんね。ただ一般向けの書籍では過大に持ち上げられてる気がしないでもない。
80 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 13:31:42 ID:/H8b/2A8
>>76 須賀川を封鎖され
上杉に会津南半分を封鎖され
小田原へ行けずに
困りまくってクーデター騒ぎに発展し
最後は上杉に頼み込んで越後路から上洛したくせに…
徳川には関ヶ原で東西両天秤にかけて、東軍南部領の反乱煽り、家康勝ったら東軍顔するは…
恩ある浅野にはすべてを浅野のせいになすりつけた絶交状まで送るし…
恩を仇で返してるだけだろ政宗は。
>>78 政宗は弱すぎだろ…仙台藩のマンセー記録を鵜呑みにするなよ。
81 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 14:57:06 ID:WiVefK99
スレチだが、政宗に怒った浅野長政は
「子々孫々の代まで伊達家と交流するな」という家訓を残してるな。
将軍家が仲直りの仲立ちしようとしても、浅野家は応じなかったとか。
最近ご子孫同士が和解したらしね。
82 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 15:12:47 ID:scMQOhWD
>>79 それら合戦で勝利したのは、秀吉の傘下に入ってから
秀吉の権威で勝った様なもの
それまでは独力では国内の掌握すら出来てなかったことになる
83 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 15:37:39 ID:voI9S5EW
景勝ってよく言われるがホントはどうなの
ちなみに景勝町に住んでて愛着はあります
84 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 16:16:39 ID:/H8b/2A8
>>82 権威で勝ったようなものねw
新発田は秀吉の上杉との和睦提案まで蹴ってるわけだがw
85 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 16:18:56 ID:GSQKiUYH
秀吉の和睦斡旋のせいで景勝側は秀吉を無下に出来ず
新発田を攻められなくなったんだろ。
86 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 16:54:46 ID:1bmM/2mA
>>82 だから何回も同じ事言わせるな
秀吉から援軍来た事なんてないって。ちゃんと歴史知ってんの?
つうか新発田攻めも葦名の支援や越中、信濃、上野方面での対応に追われたことや
>>66が言うように下越の外様家臣がなかなか一致団結して討伐に向かわなかった事が大きい
本能寺前は80年まで内戦が続きその後は織田との対戦で忙しすぎたし
麻績の戦い時点でも徳川方の信濃諸将は小笠原真田松平康国柴田康忠菅沼定利など
全て上杉対策のため残されたまま。
上杉貶めたいのは勝手だがもっとちゃんと勉強して書きこめ
87 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 16:58:37 ID:3IQhC171
ID:scMQOhWDは馬鹿だろ
具体的にどんな利益があったのかも言わず秀吉の傘下に入ったから戦いに勝てた(笑)
こういう低知識見てると可哀相になってくるわ
88 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 17:18:22 ID:0XgwQoB7
またはじまったのか。戦国レース乗り切ったならその時点で
景勝も政宗も一定以上評価されるべきなのに。
無能だ弱いだ意味ないこと言っても自分が偉くなるわけでも何でもないね。
89 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 17:33:42 ID:NdWw53Q5
普通その武将が好きなら相手を貶めるより自分の推す武将の良い点を書き込もうとするわな
90 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 17:53:13 ID:VP6nRYHF
>>80 へー伊達って弱すぎなんだ
ってお前がただの伊達アンチなだけだろw
弱くて数年であそこまで領土広げられるわけないだろ
伊達が弱すぎとなると戦国大名で弱すぎより強い大名ってどんだけいるんだよ
91 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 18:25:28 ID:0XgwQoB7
反応すな。
伊達がやたら強いとは思わないが、弱いというのも全く思わないな。
バランス悪いよ。
そして御館の乱とか内乱乗り切った景勝が弱いとも思わん。
しかし景勝は無口で意見を前に出さないというイメージが一人歩きしてて…
語りにくい。しかも小説だとかだとどうしても直江の辣腕ぶりのが目に行くし。
まぁあくまで小説とかだけどな。
景勝個人の本だと、上杉博物館の「上杉景勝」が一番良い気がする。突っ込んだものではないけど。
92 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 23:54:23 ID:Dkbx+L+3
人取橋で佐竹に追い詰められる→二本松城を落とせず大苦戦→惣無事令の通達に驚いた田村が相馬に斡旋を頼み
秀吉の意を無視したら畠山滅亡を恐れて開城に応じる
その後、惣無事令を守るフリして伊達軍が奇襲して敗北→惣無事令を持ち出し和睦
→惣無事令を無視して奇襲するもまたも伊達の進撃を止められる→惣無事令を持ち出し和睦
→惣無事令の圧力が強まり、佐竹に対して秀吉が
「伊達と和睦しなかったら富士を見に行った時どうなるかわかってんだろうな!」
と恫喝され完全に動けず→葦名が佐竹に援軍出してくれなかったら義広を佐竹に返す!とまで言い出し葦名内が内紛自壊滅亡。
→上杉と佐竹に小田原への道を封鎖され伊達内紛を招き、上杉に土下座して小田原への道を斡旋してもらう。
どう考えても政宗はへっぽこ大名だろ。戦で勝った経験すらない。
93 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 00:27:11 ID:H14ivhUj
普通に上杉の圧勝だろ
上杉が伊達にマウントポジション与えても勝てる
先日のマッハVS青木戦みたいなもんだ
94 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 00:30:54 ID:0Hfnwa0w
上杉ファンが伊達コンプレックスを発散するバカスレはここでつか?
95 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 00:45:43 ID:yVvVzev3
ただ荒らしが武将を貶してファンを対立させたいだけのスレ
96 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 01:01:02 ID:d2Tfxvo3
政宗は負け戦ばかりなのは事実
しかもガキ当主ばかりを相手にしてるのにも関わらず
97 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 07:19:07 ID:m7nqNKSr
そもそも政宗の軍師と世間でもてはやされる片倉からして、いつも敗走してばっかだからなw
98 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 12:45:23 ID:Q8uJml3/
小十郎さんは引きつける役
成実たんは叩く役
よく出来てますね
99 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 13:15:54 ID:28pAUHCt
叩きにいって返り討ち?
100 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 13:25:01 ID:yVvVzev3
そんなこんなで領土拡張、マジックですか。さすが2ちゃん。
というかこのスレの趣旨って何…。何の意味が…。
101 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 05:55:32 ID:i5C6Oq6c
アンチを装った荒らしにしか見えないのによくやるはw
102 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 07:55:35 ID:vlMvBtkd
他を圧倒する奥羽でずば抜けた大勢力を引き継ぎながら情けない政宗
103 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 12:32:58 ID:vlMvBtkd
>>66 国境を守る松井田城を撃破後に
北条氏邦自らが籠もる絶対死守の鉢形城で血で血を洗う激戦を制して
北条が小田原侵入を許すため最終絶対防衛とした八王子城をわずか1日で落城させるなど景勝は充分に善戦してるな。
104 :
人間七七四年:2009/04/24(金) 00:14:45 ID:YWYlewiV
皆単純だな、こんな魂胆見え見えなスレで。そら荒らしも標的にするわ
105 :
人間七七四年:2009/04/24(金) 01:18:08 ID:Fm//uK38
そもそもここまで全て俺の自演なんだがな
106 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 18:49:57 ID:xCc1wDQF
景勝は意外と安定した指揮ぶりをしてるよ
107 :
仙台藩百姓:2009/05/03(日) 22:36:40 ID:JgjM0VpH
景勝時代になるとたいした敵と戦ってないしね( ^ω^)
108 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 23:07:52 ID:AUNplvj/
景勝が信濃で交戦し二年続け勝利した徳川方の小笠原貞慶は笠系大成や岩岡家記などで
その能力や器量を絶賛されるほどの人物で、家康の支援をうけて信濃に送り込まれた後
西牧氏の始末、日岐の攻略、会田の征服、古厩・塔原の成敗、麻績・青柳の攻略、青柳の成敗を経て
上杉と交戦する頃には安曇・筑摩は北部を除きほぼ平定し、諏訪の一部や小県の領主も多く連れ
83年の麻績の戦い時点で4000もの軍が集まってる
109 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 23:26:03 ID:Non8IRMt
つうか景勝の交戦相手は強敵ぞろいだろ。
北条、葦名、新発田、柴田や佐々、徳川、最上。
これらが大した敵じゃないと言うなら強敵って誰の事を言うのかわからん
110 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 23:42:08 ID:Ac10k/Bs
御館の乱では伊達も敵方で交戦してきてるしな
111 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 23:48:07 ID:wikHNsbK
何でいちいち煽りに反応しちゃうのさ(気持ちはわかるが…)
112 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 23:50:08 ID:1ETS3CZ6
つうか本当に伊達が好きなら交戦相手を貶すわけないだろ。
結局馬鹿荒らしは雑魚同士の戦いにしたいだけ
113 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 23:54:15 ID:wikHNsbK
相手貶しても一方の評価が上がるわけではないからな。
政宗や景勝に限らず他スレでも言える。
で、今日の大河は景勝がやっとでかく描かれたと聞いたがほんと?
114 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 00:10:19 ID:XvYZrhJC
当主になってからは段々と立派というか器のある感じに描かれてきた気がするぜ
115 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 00:52:38 ID:+hLfnim5
伊達って別に政宗じゃないとダメだって訳じゃないでしょ。
探題の家柄だし長い年月かけて財力も無茶苦茶に貯めこんでたし。
たまたま政宗の代になって爆発しただけだろ。
116 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 01:59:06 ID:YTlQP324
政宗は一般向け書籍とか小説やドラマ、漫画とかで異常に持ち上げられてるしアンチのいう事もわからんでもない。
雑魚とは思わんし結構強いとは思うが葦名が弱体化してたことや苦戦した事無視の本が多いのは
ちょっとなんだかなぁ…と思う
117 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 05:47:20 ID:UsAzUb6e
>>115 探題じゃないよ、守護職だよ。
探題は大崎(足利氏族)。
景勝VS政宗 = 義VS不義 のほうがしっくりくる。
118 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 07:45:48 ID:+hLfnim5
>>117 d。
そうなんだ。いたる所で奥州探題って扱われてるよね。大学教授が著者の本格的な本やいたって真面目な本でもかなり多い。
いかに政宗びいきや過大評価が多いか分かるw
政宗全然嫌いでも弱いとも思わないんだけどね。
119 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 07:52:19 ID:b7qC+TE2
物語の伊達政宗と歴史上の伊達政宗は別物。
それを見分けて見れる奴が訓練された伊達厨。見分けれない無い奴はただの厨房。
120 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 08:15:28 ID:nuQkF9bz
>>118 伊達の守護就任も最近の研究だと分郡守護だと言われてる。
そもそも当時の幕府を仕切ってた細川高国は、伊達の守護就任の斡旋に力添えしたのに、就任しても自分だけでなく幕府高官にすら礼ひとつしないって怒ってるから取り上げられた可能性もある。
探題就任に関しては、だいたいの本が自信がないのか歯切れが悪い。
守護就任はちゃんとページを割いて書かれていても、晴宗探題就任は完全スルーしてる本、もしくは1行程度で軽く触れる本などがけっこうある。
そもそも伊達が守護と探題を混同して使ってるのが怪しいと指摘されてるし、
輝宗は無位無冠らしいのに、政宗が秀吉に父の時代から探題とわけわからん事を言ってるとされている。
あと伊達研究本では二本松城攻防あたりからの惣無事令とその通達のために来た使者を完全スルーもしくは過小評価しようとするな。
また政宗の会津・須賀川平定が失敗したのは、景勝の先鋒が会津南部へ侵攻したから明らかなのに(景勝本隊は三条あたりまで来ていたし、三成から鉄砲も越後に送られてきてた)
こんな状態だから小田原への道が無く、改易を恐れ切羽詰まった伊達家ではお家騒動が勃発した。
この辺は伊達本では完全スルーしまくる。
121 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 08:38:33 ID:SdJfaZLt
関東公方−関東管領も最初は
関東公方=関東管領
関東管領=執事 だったはず
関東管領が公方へ格上されたので執事が管領となった
同じように足利奥州探題→どっかアボン
守護→奥州探題への格上が起こったのでは?
122 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 10:10:45 ID:L4XlWr0L
>>120 そこら辺の資料ってどこで見れる?
ちと興味湧いてきた
123 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 10:45:00 ID:GVSKgCd1
>>92 まだあるだろ。
八百長試合のはずの葛西大崎一揆ではホームグラウンドのはずなのに蒲生にしてやられる。
朝鮮ではあまりの弱さに加藤清正からヘボは下がってろと言われ、中川昭一並みに外国にまで恥を晒し恩人の浅野長政に八つ当たり。
関ヶ原では上杉に木っ端微塵にやられるだけならまだしも、和賀郡では南部にすら負ける。
大坂夏の陣では道明寺で真田に惨敗。天王寺で味方の神保に八つ当たりして全滅させる。
娘婿の松平忠輝を見殺しにして、自分は土下座して取り潰しを免れる。
結局政宗の人生最高の快勝は神保相手。しかし、頭数が同じくらいだったら勝てたかどうか怪しいけどね。
124 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 11:05:33 ID:+hLfnim5
>>120 なるほど。
確かにいろんな本読み返してみるとほとんどの本があいまいだった。
奥州探題を自称した。
みたいな記述が多いね。
125 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 13:08:53 ID:DIfrmenF
晴宗の時は探題じゃなかった?
126 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 18:32:09 ID:c3ID5xIk
そうみたいだね。
でも、既に有名無実な称号。
127 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 18:34:58 ID:DIfrmenF
それはそうだね。
128 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 21:50:18 ID:lTzFuZpC
室町幕府は最後の方で守護や探題を
閉店売り尽くし的にバーゲンセールにしたみたいね。
伊達はそれで守護も探題もゲットしたみたい
でもそのバーゲン期ですら長尾には守護はダメーだったそうな
129 :
仙台藩百姓:2009/05/04(月) 22:35:26 ID:t0DZC8mp
そりゃ将軍でさえ有名無実な状態だから幕府の役職など実務的な意味からすればゴミ同然だお( ^ω^)
しかし、大義名分を得る事に関しては有名でさえあればよかったのだおね
だから既に形骸化した役職でさえ野心のある者は大金貢いででも得ようと躍起になっていたのだお( ^ω^)
遥か昔に形骸化しながら生き続けた官職などは更に極端なものだお( ^ω^)
130 :
人間七七四年:2009/05/05(火) 00:04:50 ID:R8kXBdEI
131 :
人間七七四年:2009/05/05(火) 00:35:13 ID:uDm5J0lY
こいつ伊達厨のフリした荒らしだから相手にするな
132 :
人間七七四年:2009/05/05(火) 13:44:05 ID:R8kXBdEI
>>131 じゃ、やっぱり仙台藩百姓=伊達遠江守家中だったのか。
133 :
人間七七四年:2009/05/05(火) 15:16:35 ID:pvtQqNHM
そうだったのか。
じゃ、完全スルーで。
別に正面切って叩く気もないが、最近の百姓はボロ出しすぎだからなあ。
135 :
人間七七四年:2009/05/08(金) 02:26:22 ID:v2VnvxrS
136 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 11:15:08 ID:0GO+oSGL
探題なんかになってねえだろw
辺境の陸奥国の分郡守護なんざ蘆名や相馬がずっと前から就任してるわ。
関東管領の家宰職の家柄の長尾家より分郡守護なぞ数段劣るわ。
137 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 14:50:56 ID:K59NeVX4
脈絡も無くいきなりなんだねチミは
138 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 16:59:06 ID:YuD4Yrna
景春なみの基地外っぷりですなw
139 :
仙台藩百姓 ◆jOwUDH2Y5M :2009/05/10(日) 19:22:18 ID:yUUZYZ6E
官位と言えば政宗はホラ吹き回って好勝手に有名無実の官位を名乗ってたけど上杉謙信公が天下の副将軍、正一位大関白、関東大将軍の位を朝廷から宣下されたのは一部では有名な話しだお( ^ω^)
140 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 22:13:13 ID:gSQ2V8pq
一部では有名って?
初めて聞いたけど。
141 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 07:13:48 ID:7LqKhojY
釣りかパチモンのどっちかだからほっときなさい。
百姓がトリ付けたの初めて見たし。
143 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 10:22:20 ID:IDVgEDcl
百姓はクソ低脳広島マンセー白馬青牛よりは遥かにマシ
144 :
仙台藩百姓 ◆jOwUDH2Y5M :2009/05/11(月) 14:15:06 ID:BqcXjCe/
自分で調べろよこのカスがぁ( ^ω^)
俺と喧嘩すっか!?
アァ゛?( ^ω^)
145 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 15:30:53 ID:dRuyv4CN
コテは全部NG入れとけ
146 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 15:42:34 ID:BpfC1aij
汚くなきゃいけない戦国時代だけど、生き残ったのに汚い話が多すぎるよね、
政宗は。好き嫌いが分かれる武将としては信長並み。
景勝は論外。
147 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 16:14:10 ID:YUa6gHkC
148 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 19:58:57 ID:H5CdwqpV
149 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 21:15:18 ID:7LqKhojY
>>148 景勝は一応やることはやってるんだよな
直江ばかりがクローズアップされてて影が薄いだけで
150 :
人間七七四年:2009/05/13(水) 09:53:26 ID:QBRoJ8k6
それが理想的な主従関係じゃないかね。
君主は何もせずに南面して座ってりゃあいいんだよ。
何かあったら宰相が責任を取り主君に責をとらせない。
151 :
人間七七四年:2009/05/13(水) 14:07:12 ID:ujJaGTX8
>>150 それは江戸時代の主従関係だろ。
戦国時代は、主君に力がないと見れば平気で主君を代えたり、
あるいは主君を倒したりできる下剋上の時代だったんじゃね?
江戸時代になると儒教の影響か、主従愛が強調されて殉死なんて
風習も生まれたけどな。
戦国時代の君主で何もせずなんて君主はいないんじゃない?
152 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 09:54:48 ID:OXIIwaQg
史記時代からの儒学の理想だろ。
江戸時代に入って初めて儒学が入ってきたわけじゃねーぞ。
鎌倉幕府末期には朱子学が後醍醐天皇時代に最新学説として公家達が研究してるし。
153 :
仙台藩百姓:2009/05/14(木) 10:03:54 ID:/oCcROZm
一般には普及しなかったけどね、特に武家には( ^ω^)
中世に於いては一所懸命という自己利益を最もとする思想が主流だったお( ^ω^)
154 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 10:09:53 ID:Qu5qqJXF
親が命捨てて子供の地位を上げるというのは戦国にも多かった。
戦争がなくなると殉死くらいしかやることが残ってなかった。
155 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 10:18:08 ID:OXIIwaQg
いや地域の住職や京の五山から招いた僧に大名とその家臣の子弟は直接教育してもらってる。
政宗の学問のための輝宗の政宗への愛は異常。
その政宗に輝宗は暗殺されてしまったわけだが。
まー伊達の血は親子相剋こそ花。
156 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 10:54:35 ID:RUtLYF9f
儒学は入ってるが江戸時代ほど浸透してないな。
主君かえたり下克上だったりと、こう、流動的。
157 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 19:58:34 ID:quoNw98l
>>155 100%暗殺って判明したわけじゃないだろ
極端な言い方しかしない奴だなお前も
158 :
人間七七四年:2009/05/14(木) 20:07:47 ID:+kH6tyC2
そもそも儒・仏は相容れないという思想が
朝鮮から入って来たのが日明戦争時だし
江戸時代全般からすれば対立は薄れたけど
まあ朝鮮式で凝り固まった水戸学みたいなのも有るが
159 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 03:02:08 ID:NUZZRq7H
政宗の母が政宗が輝宗を暗殺したと言っているわけだが。
しかも大河でも暗殺シーンはやむを得ずな感じに描き主人公政宗を美化させつつも、史実を多少は反映させたい制作陣側の意地があったのか義姫に政宗が父を殺したと言わせてる。
160 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 04:05:11 ID:m9qej5Xn
義姫はそう思ったという話ですね
161 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 07:13:38 ID:A7utKAss
>>159 で、その「政宗の母が政宗が輝宗を暗殺したと言っている」事を示す資料は?
どこぞの南朝鮮みたいに適当なことばかり書くなよと
162 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 20:32:50 ID:QWwc/LIQ
伊達ファンにしてみれば景勝なんて同じ土俵で比べられること自体迷惑だろう。レスやめてスレ落とそうぜ
163 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 21:40:10 ID:m9qej5Xn
そんなことはない。景勝は政宗とまったくタイプの違う主君で魅力ある。
ただこのスレは別に落としてもよいと思う。
164 :
人間七七四年:2009/05/16(土) 11:00:58 ID:urNogBMm
>>148に書かれた景勝の采配を見れば奥羽一の金持ちボンボンDQN政宗なんかより余程優れてるよ。
165 :
人間七七四年:2009/05/16(土) 11:09:03 ID:9W5W04IM
>164
166 :
人間七七四年:2009/05/16(土) 13:48:07 ID:O1Rbk6lv
>164
まただよ(笑)
167 :
長尾喜平次:2009/05/20(水) 14:40:50 ID:WKCXDv6s
織田軍の前に逃げ出した長尾喜平次(上杉景勝)を知っていますか?
以下、訳を載せます。原文とは多少違います。信長公記巻十四天正九年
馬揃の後の3月6日、神保長住・佐々成政及び越中国衆が上国の途についた。
これにより加賀・越前・越中三ヶ国の大名衆が馬揃のために在京することと
なったが、ここで変事が起こった。敵方の河田豊前がこの隙に兵を催し、
郷の刀を作ることで知られる松倉Oという地に籠り、さらに才略をもって
越後より長尾喜平次(上杉景勝)を大将に招いて一軍を形成したのである。
そして3月9日に佐々成政が人数を入れ置いていた小出城Pを包囲したの
だった。
3月15日の朝、信長公は安土城下松原町の馬場で馬を責めた。このとき
越中衆が顔をそろえて御礼に訪れたが、信長公はその者たちへかたじけなく
も一々言葉をかけてやった。しかし上杉景勝が越中へ侵入して小出城を
取り巻いたとの報がもたらされると、信長公はただちに「越前衆の不破・
前田・原・金森・柴田勝家の人数は、先手として時日を移さず出陣すべし」
と命じ、彼らに暇を出したのだった。軍勢はこののち夜を日に接いで行軍し、
越中に入って着陣した。
そして3月24日になり、佐々成政は神通川・六道寺川を越えて越中中郡Rの
うちの中田という地へ入った。すると上方の軍勢が参着したと知った
敵勢の長尾喜平次(上杉景勝)・河田豊前は同日卯刻に陣払いをはじめ、
小出表から兵を引き上げていった。その退陣の火の手を三里ほど先に見た
佐々勢はただちに常願寺川・小出川を越えて追撃にかかったが、すでに
敵勢は全軍撤退を終えており戦果は挙がらなかった。しかしこれにより
小出籠城の兵は運を開いたのだった。
168 :
人間七七四年:2009/05/20(水) 14:54:31 ID:TA5GIBXI
小出表で決戦するには兵が足りなさ過ぎるだろ。81年時点では加賀はおろか能登や越中の国人も次々織田方に帰属してんのに。
どうせ戦うならもっと陣地を築いて防戦側として戦った方が良じゃん
169 :
人間七七四年:2009/05/20(水) 21:14:31 ID:qZJSUY1V
非情さ加減からいうと伊達政宗が一番
上杉景勝二番。
170 :
人間七七四年:2009/05/20(水) 21:20:35 ID:Hm4pm9Ut
>>169 政宗の場合はDQNさ加減と土下座力が戦国一
171 :
人間七七四年:2009/05/20(水) 23:27:59 ID:p4C7023l
伊達の土下座は現代に通じる物がある。
営業マンは彼の土下座っぷりをしっかり学ぶべき。
172 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 00:41:03 ID:clB/FLe8
何をもって土下座と言ってるのか知らんが、
天下人に頭下げてるって意味なら景勝どころか信長から家康に至るまで全員やってるだろ
173 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 01:06:23 ID:Ym5w3KNi
マジレスはしないほうが良い
174 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 03:27:26 ID:J7t9i8C+
百六十七番殿
なんか良くわかったが、くどい。
175 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 09:32:24 ID:gY/dyx26
>>172 まあ相手にしない。スレ落とそうぜ
政宗は土下座でなく、殺すなら殺せ(白装束)の広き直りなんだけどね
176 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 10:35:10 ID:j/l3j9Nl
弱者や良民、家臣には滅法強いDQNだが、
強者には諂い土下座3回&イジメ折檻を喜んで受ける他を圧倒する素晴らしい記録の持ち主が政宗公。
弱者には居丈高に威張るS、強者には媚びおもねるMを使い分ける天才大名。
177 :
仙台藩百姓:2009/05/21(木) 11:10:23 ID:FvuK3ahc
確かに、関ヶ原の当事者でありながら命惜しさに土下座して
自分だけ生き残ろうとする上杉の身も蓋も無い土下座とは一線を画するおね( ^ω^)
政宗公は政治的譲歩でしかないけど、上杉の場合はただの平謝り
土下座という観点では上杉の形の方が正しいとは言えるけど( ^ω^)プ
178 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 11:27:10 ID:PAXVNAwi
↑それ本気で言ってるのか
179 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 12:07:36 ID:dYJHGg+m
政宗は家康が動くなと言っていたのにチョコチョコと動いてた。それで家康から百万石の約束を履行してもらえなかった。
180 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 12:19:05 ID:/TxyVqxA
養父の謙信を戦国武将として尊敬していたといわれる景勝は、それゆえに
自分は謙信に及ばないとの想いが強く、常に謙信のようにありたいと考えて
行動していたため、感情を表に出すことがほとんどなかったといわれる。
ある時、飼っていた猿が景勝の座に座って、もっともらしくうなずいたり、
部下に指図したりといった自分の物まねをしていたのを目にした景勝は、
そのあまりの可笑しさに思わず笑みをこぼしたが、これが彼が生涯でただ
一度家臣たちの目前で見せた笑顔であったという。
景勝の影響により、上杉の軍兵は戦場でも無駄口一つ聞かず静まりかえって
いたという。大坂冬の陣の際、家康の使者が景勝の陣を訪れたが、景勝を
はじめ誰一人として口を利かず、ただ大坂城を睨み付けていた。報告を
受けた家康は「それこそ不識庵(謙信)以来の軍法よ」と賞賛したという。
景勝おもしろすぎw
181 :
長尾喜平次:2009/05/21(木) 12:36:54 ID:U+P5twuw
織田軍の前に逃げ出した長尾喜平次(上杉景勝)を知っていますか?
以下、訳を載せます。原文とは多少違います。信長公記巻十四天正九年
馬揃の後の3月6日、神保長住・佐々成政及び越中国衆が上国の途についた。
これにより加賀・越前・越中三ヶ国の大名衆が馬揃のために在京することと
なったが、ここで変事が起こった。敵方の河田豊前がこの隙に兵を催し、
郷の刀を作ることで知られる松倉Oという地に籠り、さらに才略をもって
越後より長尾喜平次(上杉景勝)を大将に招いて一軍を形成したのである。
そして3月9日に佐々成政が人数を入れ置いていた小出城Pを包囲したの
だった。
3月15日の朝、信長公は安土城下松原町の馬場で馬を責めた。このとき
越中衆が顔をそろえて御礼に訪れたが、信長公はその者たちへかたじけなく
も一々言葉をかけてやった。しかし上杉景勝が越中へ侵入して小出城を
取り巻いたとの報がもたらされると、信長公はただちに「越前衆の不破・
前田・原・金森・柴田勝家の人数は、先手として時日を移さず出陣すべし」
と命じ、彼らに暇を出したのだった。軍勢はこののち夜を日に接いで行軍し、
越中に入って着陣した。
そして3月24日になり、佐々成政は神通川・六道寺川を越えて越中中郡Rの
うちの中田という地へ入った。すると上方の軍勢が参着したと知った
敵勢の長尾喜平次(上杉景勝)・河田豊前は同日卯刻に陣払いをはじめ、
小出表から兵を引き上げていった。その退陣の火の手を三里ほど先に見た
佐々勢はただちに常願寺川・小出川を越えて追撃にかかったが、すでに
敵勢は全軍撤退を終えており戦果は挙がらなかった。しかしこれにより
小出籠城の兵は運を開いたのだった。
182 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 12:44:34 ID:7kCF9ER2
決戦するには兵が足りなさ過ぎただけだろ
183 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 13:09:18 ID:j/l3j9Nl
織田だけが敵じゃないしな
184 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 13:15:08 ID:AOwpRdxg
1600年の段階なら、そりゃ上杉だろう
120万石くらいあるし
185 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 13:18:48 ID:rCuZdtZp
>>181 マルチさんに反応するのもどうかと思うけど...
(信長公記持ち出すあたり、Wikiで有名な方ですか?)
その退却には、河田の病気(病死)も関係してるという説もなかったっけ?
186 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 14:11:05 ID:Adk4L00E
仙台人は腹黒くて有名。
187 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 14:55:53 ID:Ym5w3KNi
何という釣り堀
188 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 15:35:01 ID:Ym5w3KNi
できれば百姓には反応しないでほしい
織田軍の前に逃げ出した長尾喜平次(上杉景勝)を知っていますか?
以下、訳を載せます。原文とは多少違います。信長公記巻十四天正九年
馬揃の後の3月6日、神保長住・佐々成政及び越中国衆が上国の途についた。
これにより加賀・越前・越中三ヶ国の大名衆が馬揃のために在京することと
なったが、ここで変事が起こった。敵方の河田豊前がこの隙に兵を催し、
郷の刀を作ることで知られる松倉Oという地に籠り、さらに才略をもって
越後より長尾喜平次(上杉景勝)を大将に招いて一軍を形成したのである。
そして3月9日に佐々成政が人数を入れ置いていた小出城Pを包囲したの
だった。
3月15日の朝、信長公は安土城下松原町の馬場で馬を責めた。このとき
越中衆が顔をそろえて御礼に訪れたが、信長公はその者たちへかたじけなく
も一々言葉をかけてやった。しかし上杉景勝が越中へ侵入して小出城を
取り巻いたとの報がもたらされると、信長公はただちに「越前衆の不破・
前田・原・金森・柴田勝家の人数は、先手として時日を移さず出陣すべし」
と命じ、彼らに暇を出したのだった。軍勢はこののち夜を日に接いで行軍し、
越中に入って着陣した。
そして3月24日になり、佐々成政は神通川・六道寺川を越えて越中中郡Rの
うちの中田という地へ入った。すると上方の軍勢が参着したと知った
敵勢の長尾喜平次(上杉景勝)・河田豊前は同日卯刻に陣払いをはじめ、
小出表から兵を引き上げていった。その退陣の火の手を三里ほど先に見た
佐々勢はただちに常願寺川・小出川を越えて追撃にかかったが、すでに
敵勢は全軍撤退を終えており戦果は挙がらなかった。しかしこれにより
小出籠城の兵は運を開いたのだった。
河田豊前=官位の豊前守で呼ばれている。
無位無官の長尾喜平次
朝廷の官位官職上は、河田豊前より下の無位無官の長尾喜平次
3月9日〜3月24日
小出城を落とせなかった無位無官の長尾喜平次
織田軍の到着を聞き、逃げ出す。。。。。。。。。。
192 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 21:13:39 ID:wQa4EEbV
決戦するには兵が足りなさ過ぎただけだろ。
半月で城攻め落とせない例なんていくらでもあるわ。
193 :
人間七七四年:2009/05/21(木) 21:44:44 ID:/zcMHQEE
96:無名武将@お腹せっぷく :2009/05/21(木) 10:12:29
伊達家正室
伊達成宗室:大崎教兼の娘
伊達尚宗室:上杉房定の娘
伊達稙宗室:蘆名盛高の娘
伊達晴宗室:岩城重隆の娘
伊達輝宗室:最上義守の娘
伊達政宗室:田村清顕の娘
長尾家正室
長尾頼景室:山吉行盛の娘
長尾重景室:長尾景良の娘
長尾能景室:高梨政高の娘
長尾為景室:高梨政盛の娘
長尾晴景室:上杉定実の娘
上杉景勝室:武田晴信の娘
194 :
人間七七四年:2009/05/24(日) 00:19:41 ID:EoJQRDoI
政宗は23歳で南奥州を制覇した。
30歳までに相馬と佐竹を制圧し、40歳までに
南部や北奥州を含めた全東北を掌握しただろうな
その頃に秀吉と北条の戦いが起れば、10万の
東北軍で秀吉といい勝負をしたかもな
北条5万、政宗10万で箱根や上州で激戦だな
195 :
人間七七四年:2009/05/24(日) 01:02:00 ID:EoJQRDoI
関が原の前哨戦、白石城攻めの後、一端停戦した際に
政宗が上杉と密約を結び、寝返ったら家康の天下もないだろうな
伊達が南部、最上を切り取り自由、上杉、佐竹、相馬は家康の後を追い
江戸に攻め込む
西では三成が着々と軍を進める
九州では黒田が暴れまくる
こうなると、関が原が無理で全国的に局地戦となるな
戦乱は10年は続き家康も老いて死ぬ
196 :
人間七七四年:2009/05/24(日) 02:56:55 ID:J3VoSK2P
伊達政宗と上杉景勝を比べても意味ないよ。政宗の方がずば抜けている。能力もそうだけど血統も良いし官位も上。
景勝は天地人でかなりバカ殿ぶりを発揮しているしね。
197 :
人間七七四年:2009/05/24(日) 03:07:17 ID:1ReTFNXS
天地人をソースにするなよ
景勝は名将だろ
198 :
人間七七四年:2009/05/24(日) 03:24:22 ID:5VfI+Qdt
ま、
>>148の言うように軍事的采配はかなり評価できるだろうな。
小田原攻めでは前田や真田、依田などと共同とはいえ上野松井田1500、武蔵鉢方5000
八王子4500と北条が配置した兵の中でも多くが集まったとこを陥落させてるし
199 :
人間七七四年:2009/05/24(日) 04:15:04 ID:zn57LE0K
タイプは違えど両者それなりに良い殿だな
200 :
人間七七四年:2009/05/24(日) 04:41:42 ID:tvEfMFdI
wiki見たら上杉関連がめちゃくちゃに捏造されてるなw
あまりに酷いからびっくりしたわ。
いろいろ連動してるみたいでアレだなあ。
202 :
人間七七四年:2009/05/27(水) 20:01:20 ID:f4qnnS5A
この二人に共通しているのは、直江信仰の被害者だということだ
景勝はテレビでバカ殿あつかいされ
政宗もおそらくそうなるのかも
203 :
人間七七四年:2009/05/28(木) 18:04:12 ID:qR7cvcOU
いや、最大のライバルとして扱われるようだよ
松田のキャステイングも重要人物としてだよ
204 :
人間七七四年:2009/05/28(木) 19:31:59 ID:Eb/mfT14
>>196 同時代において景勝は政宗より官位は上だよ。
景勝死後ずいぶん経って、老いた政宗の官位がやっと追いついたほど。
205 :
人間七七四年:2009/05/28(木) 20:56:17 ID:wMRG3m4H
豊臣政権下では景勝は五大老だしな。官位や立場は上。
徳川政権下に入って伊達は最終的に中納言?だったな。
206 :
人間七七四年:2009/05/31(日) 22:06:54 ID:pbFfCxPp
なんつうか。みなさんすごいね。知識が半端ないわ。
仙台市の人間なんでやはり政宗の多少の知識があったんだけど、恥ずかしくて書けないです(笑
あえて言わせてもらうと、政宗は気の毒な目に結構あっているなと。史実かどうかとかハッキリとわからんけど、
片目を失ったり、母親に毒殺されそうになったり、弟を殺したり。
…これだけあったら、そりゃへそ曲がりにもなるわとか思ったりしてました。
「○○って大名のほうが辛い目にあってる」とか当たり前なんだろうけどね。
身の丈以上の野心をぎらつかせた人物だったんだろうな。
関ヶ原での扇動だっけ?とか三代将軍とのエピソードとか「へぇ〜すごいなぁ」なんて普通に思ってました。(史実かどうかはさておき。)
強さとかはわかりませんが、仙台の礎を作り上げたすごい人物だったのは間違いないと思います。
正直このスレ読んでて結構アンチ政宗多いんだなと凹んでたりもします(笑
官位も…片目の人物じゃねぇ。。なんて思ったり。。。
書いてて泣けてきたわ。ちょっとは褒めてやって下さいよ政宗を。
207 :
人間七七四年:2009/05/31(日) 22:52:37 ID:fSjIw769
普通に誉めとる人間もいるわ。VSスレは2CHじゃ罵倒スレになるし。バカ
げているけど。
景勝も政宗も藩祖だし一般的には評価されてんでしょうが。
景勝は謙信に比べると研究が進んでないとか言うけど
これからだ。
208 :
人間七七四年:2009/06/01(月) 00:37:18 ID:SoUoCX5Q
たった一人でも、
スレに粘着して意味不明な(でもそれらしく聞こえる)論理を振りかざせば、
何人かの純真な人を騙せるという好例だな。
209 :
人間七七四年:2009/06/01(月) 00:44:48 ID:EcfftkdE
>>206 あなたのその評価で別にかまわないかと。2ちゃん≠一般的評価ですから。
藩祖ってどこも敬愛するよね。米沢も仙台も行ったけど羨ましい。
210 :
人間七七四年:2009/06/01(月) 11:49:14 ID:b9Wm9ech
下手くそな工作でキモい自演すんなよ…
211 :
人間七七四年:2009/06/01(月) 20:08:55 ID:6xPv3jPu
政宗って偉いよ
常に権力者に擦り寄る態度。
武士というより、商人かな。
212 :
人間七七四年:2009/06/01(月) 21:34:47 ID:EcfftkdE
偏り杉
213 :
人間七七四年:2009/06/01(月) 22:06:21 ID:8911EJcN
政宗ってもっとまともな奴かと思ってたけどとんでもない屑野郎だったんだな
214 :
人間七七四年:2009/06/01(月) 22:39:23 ID:8oBxj+ga
>>213には負けるよ^^
とでも言わせたいのかね
215 :
人間七七四年:2009/06/01(月) 22:45:30 ID:6xPv3jPu
政宗は時勢に敏感なやつだな。
秀吉に頭を下げにいったり、家康にこびたりして
長生きして
ようやく中納言にしてもらった。
あとは、眼帯してるとかで有名なんだろうな。
216 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 01:42:32 ID:KDEcN//2
時勢もそうかもしれんが家康への接近は大分早かった。
217 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 01:44:34 ID:KDEcN//2
このスレの意味って何だろう…。
218 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 12:06:55 ID:ZQU7aZW1
政宗は豊臣政権ではのけ者にされていたからな。
家康とか関白秀次とかに胡麻スリをしてたのは、政宗らしいといえばらしいな。
219 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 12:20:30 ID:KDEcN//2
というか、自分仕置きをした大名は皆家康寄りなんだよな。
220 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 12:21:35 ID:KDEcN//2
あ、検地のこと
221 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 15:27:35 ID:ZQU7aZW1
もし政宗と景勝だったら、政宗のほうが能力は高いだろう。
222 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 17:33:26 ID:iS7kbzSw
戦は差ないだろ。御館の乱とか対柴田、徳川、小田原征伐とか大阪の陣とか普通に強いし。
政略とか戦略眼とか大名としての総合力じゃ政宗だろうけど。
223 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 17:43:02 ID:tuMtoJbJ
1580年までの内戦の間に神保長住や佐々長縄、長連龍、斉藤ら尾濃の兵による別働隊の活躍により
内戦が終わる頃には能登や越中中部くらいまで離反(両属的なとこもあるが)してしまい、81年に新発田、
82年には森、滝川とガチガチな四面楚歌状態で戦ってたわりに
国衆の離反とは関係なく自力で攻め落とされて進撃許した部分はそれほど多くないしな
本能寺までに魚津も3ヶ月近く持ち堪え松倉も結局落とされなかったし
224 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 17:46:52 ID:KDEcN//2
単独スレでやった方が余程話ができるよ。
VSスレは反発しあいたくなるもんだから。
225 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 19:47:44 ID:EKU6bqwD
お互い誉めあう流れではなく貶めあう流れになるからな
226 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 20:17:32 ID:JWTE73Ea
>>221>>222 お前政宗マンセー本ばっか読みすぎw
政宗の方が能力高いとか奥羽の田舎大名の政宗が政略戦略眼が上とかバカ過ぎ夢見過ぎ。
227 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 20:46:59 ID:i1+cd5F3
228 :
人間七七四年:2009/06/04(木) 14:36:08 ID:5z9HpFSz
政宗は父を殺して
母から糾弾されるは、葦名未亡人からも兄を殺したって言われるし、佐竹義重も奥さん関係で父殺し政宗を懲らしめる介入をされるし可哀想
229 :
人間七七四年:2009/06/04(木) 15:33:00 ID:10617e2P
気の毒でも戦国時代だから仕方ない。
230 :
人間七七四年:2009/06/04(木) 19:39:22 ID:THASZU5b
政宗に限った事じゃないしな
景勝だって義祖父にあたる上杉憲政をその子供ごと皆殺しにしてるし
他にも信長、秀吉、家康とかも親族を殺してる
231 :
人間七七四年:2009/06/05(金) 09:30:46 ID:4LcFJcC3
そういえば、政宗は奥州の金を自慢してたら、
直江に軽くあしらわれたらしいな
232 :
人間七七四年:2009/06/05(金) 13:30:27 ID:/SLCoNeF
信憑性ないがね。
景勝と伊達は仲悪くないな。
233 :
人間七七四年:2009/06/05(金) 16:47:47 ID:kWvIRHj+
>>230 は?景勝が憲政を殺してる?ソース出して。
234 :
人間七七四年:2009/06/05(金) 17:03:14 ID:sBWFnUsv
235 :
人間七七四年:2009/06/05(金) 17:13:10 ID:tCrqTNfy
御館の乱を研究すればするほど
憲政が景虎派とか景勝が憲政殺害を命じた信憑性が無くなるからな。
236 :
人間七七四年:2009/06/05(金) 17:56:34 ID:sBWFnUsv
237 :
人間七七四年:2009/06/05(金) 22:52:02 ID:kWvIRHj+
238 :
人間七七四年:2009/06/05(金) 23:50:21 ID:yP5t/PWs
>>231 政宗が持ってきた天正大判をみんなで眺めたり触ったりしてたら
いきなり兼続が「んな汚いもの触りたくねーよw」とか言い出して
場の空気が凍りついたという話だな
239 :
人間七七四年:2009/06/06(土) 00:08:37 ID:zHo/jnbD
二人特有のコミュニケーションだったに違いないw
何気にその兼続に対する政宗の反応とか、政宗から絡む
逸話はねーのな。
240 :
人間七七四年:2009/06/06(土) 06:10:34 ID:nOgItWjm
結局上杉憲政はどっち側についてどっち側の奴に殺されたor攻められて自刃したんだ?
>>237 知ってるなら詳しく教えてくれよ
241 :
人間七七四年:2009/06/06(土) 15:54:23 ID:gxQmvJJD
上杉憲政は景勝方に殺されたんではないのですか?詳しい方教えてください。
242 :
人間七七四年:2009/06/06(土) 16:54:50 ID:r4V3E+oj
内戦状態で敵味方の区別がよくわからん状態の街中でどっちかのテロリストに勘違いかよくわからん状態
の中勘違いでテロされて死亡したってだけの話でしょ。
243 :
人間七七四年:2009/06/06(土) 21:27:26 ID:juMJDnfK
憲政が殺されたとする一次資料を出してみろよw
244 :
人間七七四年:2009/06/07(日) 00:10:10 ID:TlDRF242
なんでも一次史料出せというのは無理がある。
一次史料だけで歴史を組み立てるのは無理。
いろんな史料で殺されたとしてるのを覆すだけの矛盾点がなければ。
245 :
人間七七四年:2009/06/07(日) 08:49:37 ID:lBHzut8O
アンチ低脳は、とことん自分に都合が良い脳内してるなw
246 :
人間七七四年:2009/06/07(日) 12:50:15 ID:pXzhSzbE
現在とは事情が違うんだ、親兄弟を殺そうがそれが御家の為ならばやむなしって時代だからな
景虎側についた憲政が邪魔だから消したとしても何ら恥じにはならん
247 :
人間七七四年:2009/06/07(日) 12:53:39 ID:HmY56HzR
憲政が景虎に協力した形跡が一切無いからな。
248 :
人間七七四年:2009/06/07(日) 13:25:22 ID:pXzhSzbE
249 :
人間七七四年:2009/06/07(日) 16:57:38 ID:5+PoaUaM
政宗関係なくなってきてるじゃねーかw
御館は專スレあるからそっちでやった方がいいんでね?
250 :
人間七七四年:2009/06/07(日) 19:07:04 ID:dtrhzb8w
御館は専用スレ立つくらい上杉内では盛り上がるからなー。
当然だけどね。
251 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 07:32:24 ID:oGpdDMKO
形跡が無いことの一次史料を出せとかいう馬鹿がいますね。
憲政が協力していた事が分かる一次史料を出せというならわかるが。
252 :
人間七七四年:2009/06/08(月) 14:36:35 ID:fIHTNX/f
253 :
人間七七四年:2009/06/15(月) 23:21:32 ID:zMJd7QUq
関が原で西軍勝利のあかつきにはどうなったんだろうな?
政宗はどうも西軍にも通じていたみたい。
上杉は越後に戻りさらに越中、出羽半国
伊達は会津が戻り、南部領、出羽半国あたりか。
254 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 20:18:33 ID:eRkUHYrH
政宗は秀頼に土下座して命乞いをし許され津軽に転封。
政宗土下座王伝説は神話になるだろう。
255 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 20:41:04 ID:+Tlqs5AK
政宗が土下座したなんて話何処にもないよ
秀吉に対してでさえ、殺すなら殺せ、と白装束で開き直ってるし
とりあえず、他のスレに良いレスあったから張っとくね
名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/16(火) 12:58:39 ID:3cIy8IiW
直江と景勝の主従、こいつら自力で合戦に勝利したことが無い
御館の乱は負けっぱなしだったのを、武田に臣下の礼を取って勝たしてもらい
新発田の乱も負けっぱなしだったのを、秀吉の傘下になって勝たしてもらってる
少なくても幾つかの合戦に勝ち、国を富ませた義光や政宗と同列に語るなっての
256 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 20:43:34 ID:5NI8+VX9
wikiに新発田の乱の件でめちゃくちゃ書かれてるけどこれって北越軍記とかがソースだろ。
上越市史とか新発田市史とかみたけど上杉が新発田に負けたのは2年の放生橋のみ。
乱が長引いたのも本庄や色部など下越の外様家臣が新発田攻め渋ったり鮎川が寝返ったり葦名が支援してたり本能寺前は対織田、
本能寺後は信濃で徳川方の小笠原や越中の佐々との戦いで忙しかったのが
大きいし逆に秀吉から対北条、徳川陣営に備え、新発田と上杉を和睦させる話が持ち上がり新発田攻めを止められてた時期もあった。
放生橋の時も色部の配下や鮎川の裏切りがあり本庄、色部もなかなか腰をあげずにいた事が大きい。
本庄、色部は結局対新発田戦に最後まであまり積極的でなかったが
腰を上げると繁長軍が篠岡まで進出して所々放火し一戦し主だった十余人を討ち取り重家をかなり追い詰めてた。
しかし81年以来越中信州と長陣が続き休まず新発田攻めに来てて兵の疲労が酷く軍律も乱れている有様。新発田城からの退路は
深田に囲まれ一本のあぜ道しかなく放生橋の両側が沼の広がる細道という地形では殿戦もまともにならない。
しかしその状況から景勝は自ら采配を振るって奮闘し新発田勢を追い返してるし十分奮戦してる
しかも八幡表の戦いとか普通に勝ちまくってるんだが。
737 :人間七七四年:2009/06/16(火) 20:40:06 ID:DaB0SOBs
・御館の乱で国中が二分し武田北条葦名伊達が敵方で越後侵攻してきた状態で見事勝利・80年までの内乱や平定戦で国はボロボロ。その頃には本願寺と織田の和議がなり
越中や能登の衆も次々織田方に従い下越で新発田が乱を起こす等絶望的な状況で圧倒的兵力で迫り来る織田相手に越中中部〜魚津・松倉間で2年も食い止めた
・信長死後の信濃で家康の誘いに乗って寝返った屋代氏や塩崎氏ら信濃衆を瞬殺。
・83,84年二回とも麻績・青柳の戦い小笠原、青柳、仁科衆ら4000に大勝し徳川の北信方面への進出を完全に頭打ちにさせる
(小笠原貞慶は笠系大成や岩岡家記でその能力や器量を賞賛される程の武将で1582年に家康の支援を得て府中に入って以来安曇・筑摩を北部を残し統一し
小県の領主も多く従え諏訪の一部も領有出来た程有能な武将)
・真田とともに信濃で徳川、上野で北条(ともに大軍)を撃退した
・新発田との八幡表の戦いに見事勝利
・赤谷・津川の戦いで新発田を援助してた葦名に勝ち輸送物資を大量に強奪
・佐渡平定戦
・本庄に援軍送り出羽庄内を奪った十五里が原の戦いで大勝
・小田原合戦で国境を守る松井田城を撃破
・北条氏邦が籠もる絶対死守の5000の鉢形城で血で血を洗う激戦を制する
・北条が小田原侵入を許すため最終絶対防衛とした八王子城をわずか1日で落城させる
・大阪の陣の今福・鴨野の戦いで豊臣方の大軍を破る
どうみても上杉は強いです。本当にありがとうございました。
257 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 20:45:16 ID:qbYstxW4
乱発生当初は景虎が春日山を包囲する形で城を押さえる
武田軍が迫る中景勝は春日山包囲を崩して諸城との連絡を復旧
景虎逆に包囲される
この頃すでに葦名は越後に攻め入ってきており景勝方の揚北衆と戦闘中
勝頼は越後に入るも北条の行動に不信感を持って景勝と和睦して撤退
景勝は武田対策に回していた分の兵を北条対策に増派して持ちこたえ
結局北条は雪が降りだしたため撤退
その間景虎は景勝方に兵糧攻め食らっていてあちこちに救援依頼
雪のおかげで外国勢の相手から解放された景勝方が集まってきて
景勝からの総攻撃食らって景虎逃げる途中にアボン。
御館の乱が長引いたのは北条武田葦名伊達の介入のせい
258 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 20:50:57 ID:igyrI+O6
信長と秀吉の主従や輝元と吉川小早川の主従、こいつら自力で合戦に勝ったことが無い。
対斉藤戦は戦闘では負けまくり道三からのつきあいでコネがあったから金品贈りまくって寝返らせて勝てただけだし
対伊勢攻略も単純戦闘では負けまくりただ滝川が頑張って寝返らせたから勝てただけ。
あげくのはてには武田との主力決戦6回とも大敗して命からがら逃げ延びた所を信玄の死と勝頼の発狂で救われただけ
259 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 20:54:22 ID:bTmMwKcG
信長や秀吉が自力で戦に一つも勝てなかったのは圧倒的大軍持ちながら天下を家康に奪われた負け犬だった事実が証明してる
今までのは全て相手のコネや自分が仕掛けたわけでもない罠にはまったり内輪喧嘩が原因で
圧倒的大軍持ちながら武田や徳川やその他諸大名に一つも勝てなかった戦下手w
260 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 21:02:59 ID:xHXaNtOo
どうみても同一人物のレスだな
261 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 21:03:15 ID:MZ5CGeEl
景勝にしろ伊達にしろ寡兵で大軍破ったり不利な状況でも打ち勝ってきた実績があるから
圧倒的大軍で寡兵の敵に負けたことしかない信長や雑魚吉や元就みたいなゴミ武将よりは遥かに上だろうな
彼らが奥州にいたら葦名はおろか田村か相馬あたりに瞬殺されてただろう
262 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 21:04:53 ID:MZ5CGeEl
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
長篠で大ダメージ負って序盤では対織田上杉徳川、後半は対徳川北条の多方面戦略や
新府築城や無理な中央集権化といった猪武者勝頼の自爆があったのに
家康の本拠地高天神城落とされるまで81年までもかかり5〜6万の大軍や徳川・北条の大軍があって
やっと離反の連鎖起きて滅んだ武田(その戦いですら50〜60倍の兵力ありながら織田方の被害の方が多く一門の一人戦死)
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍を動員できるのに秀吉が5000で送り込まれて以来
一方的に侵略されまくり別所や播磨諸将の離反やらのチャンスがあったのに結局むざむざ無駄にし
播磨や鳥取救援に送った援軍や補給隊蹴散らされ南条3.5万石を城外戦で大損害出して攻略できず
宇喜多30万石とも美作で一進一退で結局播磨但馬因幡備中高松と侵略されまくり
戦後も備中やほうき、石見銀山など多くの利権奪われ、関が原時も圧倒的大軍動員できたのに
何もできずに大減報喰らったゴミ大名毛利
よって謙信>>信玄>>>>家康>>>信長、柴田、景勝>仁科、北条氏直、氏政、氏規>>信忠、光秀、滝川>>>>織田信雄>>>>>秀吉>>>>>>>>>島津≒長宗我部>>>毛利両川
ここまでは確定
263 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 22:19:19 ID:xHXaNtOo
IDかえてご苦労様とでもいいましょうか
264 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 23:57:31 ID:QsUC4Scd
ちゃっかり徳川を好評価してるのが一番笑える
265 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 23:59:09 ID:d0sqJRiX
家康は最強だろ。
対武田以外は今川北条秀吉豊臣方西軍と圧倒的強さ
266 :
人間七七四年:2009/06/17(水) 01:05:51 ID:zIBgG4c8
家康というより徳川は強い。
しかし、家康は信長、秀吉の下だったことも間違いない。
二人が死んでようやく天下がとれた。
忍耐強い狸だ。
267 :
人間七七四年:2009/06/17(水) 01:10:49 ID:vJYD8VaI
長生きだけが取り柄だった元就同様に、媚び諂ってた有力な英傑達が死んだ後に、豹変し火事場泥棒しただけの陰湿なブタだけどな。
268 :
人間七七四年:2009/06/17(水) 01:49:23 ID:Fh1gDxdU
何言ってんの。長期政権礎築いた徳川はすげぇよ。
269 :
人間七七四年:2009/06/17(水) 04:09:31 ID:F2G7Biwp
その徳川を幕末でボコボコにしてやったけどな
毛利はw
よって毛利が最強
270 :
人間七七四年:2009/06/17(水) 05:03:25 ID:1wsIVt1/
関ヶ原時の島津、前田、毛利、上杉の「負け組」の中で一番のヘタレと
嘲笑されているのが、輝元を総大将とする毛利軍だった。
徳富蘇峰は、毛利輝元は「痴人の殿堂」であると、「近世日本国民史」の中で
批評している。
271 :
人間七七四年:2009/06/17(水) 05:57:06 ID:Qu5f3Jd9
>>266 まあそういう考え方だと信長なんて斉藤道三や龍おきや三好長慶
が死んだから天下取れただけだから彼らより下だし秀吉は信長の遺産ついだだけだから論外
そもそもその二人は天下自体取れなかったけどな
秀吉が形式的に従えることしかできず本当の意味で天下とれなかったのは秀吉死後の惨状でわかる
いわば実力のない公家とか幕府とかの朝廷権威に大名が形の上で従ってるのと同じようなもので
徳川が信長や秀吉より下というなら信長や秀吉が足利将軍家とか公家より実力が下といってるのと同じようなもん
>>267 信長なんてほとんど相手がガタガタに弱ってたり動乱で疲弊してたりだし相手
を騙まし討ちしまくってるからまさにそれに当てはまるな
>>269 幕末持ち出すなら幕末スレでやれ。ここは戦国版
272 :
人間七七四年:2009/06/17(水) 05:59:58 ID:Qu5f3Jd9
天下をとれたのが家康
実質的に一時の勢力を誇ってただけで全て家康に奪われた負け犬が信長や秀吉
どうみても家康>>>>>>>>>>信長>>>>>>秀吉
273 :
人間七七四年:2009/06/17(水) 06:18:20 ID:mvPyMi8Y
>>266 それまでの状況推移考慮せずに家康が二人に従ったから二人より下なら
つまり毛利元就は大内義隆より格下
関東管領に従ってる謙信は関東管領より格下
宇喜多直家は浦上より格下
信長や秀吉は朝廷や幕府に従ってたからそれらより格下ということね
秀吉は天下なんぞとっとらん
諸大名が信服してないのは秀吉死後の惨状でわかる
秀吉が天下とってたら家康の時代にはならんし
豊臣の天下になる 豊臣が天下取ったといえるなら幕府や朝廷が天下持ってたといってるのと変わらん
皆幕府や朝廷の権力に頭下げてただけなんだから
戦国の最終勝者が家康なのは覆らない よって家康最強でFA
生きている間の実績でいっても家康>>>>>>>信長、秀吉です
本当の意味での天下取ったのは家康一人
274 :
人間七七四年:2009/06/17(水) 06:24:05 ID:mvPyMi8Y
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最大勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
小笠原貞慶 1582年 0万石 13万石 ∞
徳川秀忠 1602年 0万石 日本全土 ∞
4徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
5結城晴朝 1558年 1万石 23万石 23倍
6佐竹義重 1570年 8万石 150万石 17倍
7上杉景勝 1578年 8万石 120万石 15倍
8菅沼定利 1562年 1万石 13万石 13倍
9武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
10上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
275 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 21:33:16 ID:/mTzU29k
276 :
人間七七四年:2009/07/09(木) 15:33:59 ID:1Uy5idym
「殺さば殺せ」と口で毒づきながら、身体は平身低頭平蜘蛛のように土下座する独眼竜政宗。
竜は竜でも土竜なんだろうな。毒眼土竜政宗w
277 :
人間七七四年:2009/07/10(金) 02:59:10 ID:F9uGZJTa
んな時間に死人を中傷する以外にやること無いのかこいつは?
278 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 18:04:13 ID:cZapBv/X
政宗は戦の前の軍略が信玄並みに
ずば抜けていると思うとこがある
政治的な手腕もな景勝は、直江を信頼しすぎだろう
直江は豊家で言えば三成、景勝は
秀頼だが幼かった秀頼よりも始末が
悪い。結果的に家を没落させたのは景勝なんで名君とは思えない
279 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 18:13:37 ID:cZapBv/X
ちなみに仙台では地元民の意識も仙台=伊達政宗だけど、
米沢に行くと地元民は景勝の名前なんて出ねーよwww
米沢=「上杉ヨウザン」になる
280 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 18:24:46 ID:7+BwYM0T
281 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 21:49:04 ID:cZapBv/X
282 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 22:07:41 ID:7+BwYM0T
>>281 具体例を出し、信玄の軍略との比較をして説明してください。
いまのところまったく意味不明です。
283 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 23:36:18 ID:h7LN8sx7
>>278 それはまた随分信玄を貶める書き込みだな。
284 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 02:33:57 ID:TU9HJgbe
戦略は政宗、軍才は景勝
トータルなら五分
285 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 07:45:35 ID:Y+mpDluz
信玄並の軍略って、褒めてるつもりで貶してる気がする。
真田幸隆の調略によって戦わずして信州の大半を掌握できたものの、
それまでは中小豪族を相手に破綻した戦略を展開して一進一退繰り返してたからな。
欺瞞と機動力を重視した政宗の軍事的才能は、信玄・景勝よりずっと上。
でも政治的な凡ミスでチャラになったけどね。
286 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 08:25:25 ID:4sO46OMD
>>285 > 欺瞞と機動力を重視した政宗の軍事的才能は、信玄・景勝よりずっと上。
正気か?
287 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 09:02:57 ID:CVJr0Tom
戦に負け続けでも領土を拡大していく手腕は信長を思わせる。
288 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 14:56:14 ID:mDsGPEz5
くだらん釣りだろ…
289 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 15:22:01 ID:eP7T7RVS
290 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 15:22:05 ID:qi/YwkUs
>>270 徳富蘇峰…。
大東亜戦争の政治責任を免れた人がよく言うわw
291 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 20:49:29 ID:4sO46OMD
>>290 輝元が痴人の殿堂なら、政宗は狂人の殿堂だな。
292 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 20:52:06 ID:qFJOV4UR
政宗とか過大評価もいいとこ
勝頼公の足元にも及ばない屁たれ
293 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 21:05:15 ID:4O+8jBzB
>>292 勝頼とじゃ逆パターン過ぎて比べられんわwww
まぁ勝つって言うより負けないことが得意だな政宗は。あーみえて合理主義なのかもね。
294 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 21:11:26 ID:qFJOV4UR
>>293 政宗が同じ立場ならば信玄死去後に速攻信長に降伏だろ
295 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 22:50:35 ID:4sO46OMD
>>293 何しろほれ、勝頼は孫子の言うところの「強過ぎる大将」の典型ですから。
296 :
人間七七四年:2009/07/13(月) 04:00:21 ID:PEJY3EK6
負けないも何も
政宗は圧倒的石高を引き継いだ
金持ちボンボンDQNだから
いくら敗退しても伊達が衰退することはなかっただけ。
ただ戦に次ぐ戦で休養ゼロだったから、あのまま行けばいつか破綻してたろうね。
また政宗がヤバくなると秀吉の使者が惣無事令で戦闘停止の通達をしに来てくれるから助かったってのもある。
あと母が異常な外交力をもってて助けてくれた。
297 :
人間七七四年:2009/07/13(月) 11:15:48 ID:RR+myK2K
(°Д°)ハァ?
298 :
人間七七四年:2009/07/13(月) 13:27:50 ID:yTYNljbV
伊達の通った後は草木の一片も残らんらしいぞ。
クソワロタ
299 :
人間七七四年:2009/07/13(月) 14:48:55 ID:ZuR1miVG
>>296 妄想でここまで書けるのもある種の才能かもしれぬ
300 :
人間七七四年:2009/07/14(火) 01:49:59 ID:dgatWAgS
>>285 >>真田幸隆の調略によって戦わずして信州の大半を掌握できたものの
信濃の大半って具体的にどこよ。戸石以外にあげてみそ。
どう見ても普通に武田が勝って勢力拡大してる。
>>それまでは中小豪族を相手に破綻した戦略を展開して一進一退繰り返してたからな。
破綻した戦略って何のこと。
普通に毎年のように領土拡大してるんだけど。真田の調略なんて戸石くらいなもの。
ウソをここまで書けるのもある意味才能かもしれないな。
301 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 19:40:46 ID:JiDoFyYU
信玄>勝頼>氏政>氏真>政宗
302 :
人間七七四年:2009/07/16(木) 11:35:15 ID:KhJXwQAI
>>274 信長の最大勢力圏がゼロってのはどういうことなん?
最期が頓死だとゼロカウントになるという一個人の妄想らしいな。
304 :
人間七七四年:2009/07/18(土) 13:58:31 ID:xy3hAwb6
会社の人がもう閉鎖されている掲示板に社内から書き込んだ写しです。
下の方には男の人の名前や住所などの履歴書のような個人情報と画像までありました。
非常に嫌悪感をいだきました。醜い内容です。私一人でこの秘密を抱え込むのは
心苦しいのでこの写しをのせることにしました。
写し
職場に何か気に入らない男がいました。
私と不倫相手と仲間で社内いじめを徹底的にしてやりました。
偶然その男に社内での不倫現場を見られてしまいました。
その後不倫相手は退職してしまいました。きっとこの男のせいです。
仲間と相談して、私がこの男からセクハラを受けていると嘘の申告をしました。
私が泣いて演技しただけで皆信じてくれました。
上司も協力してくれて、知り合いの医師に、この男を統合失調症の診断をしてくれるようにしてくれました。
上司と医者がこの男に脅迫までしてくれて、ようやく冤罪をかぶせることに成功することができました。
念のため、この男の中傷を広めました。この男は泣き寝入りで退職してくれました。
自殺させられなかったのが、残念ですが、私たちのしたことは、もう時効ですよね。
ばれなければいいんでしょ。
写し
まだ死んでなかったの?
こっちには仲間がいっぱいいるのよ あんたは一人
警察に逮捕させちゃうよ
あんたの言うことなんか誰も信じないよ〜ぅぅぅぅぅ
また病院送りにしてやるわよ!
統合失調症とお〜ぉぉぉぉっ みんなが 認めちゃってるう〜ぅぅぅぅぅ
死ぬまで続けるからね!死ね死ね死ねぇぇぇぇぇ
305 :
人間七七四年:2009/07/24(金) 07:39:33 ID:CsJq2+Lx
政宗百万石の約束って
上杉との密約が本庄の上洛でバレて
ご破算になったんだよな。
その後、政宗と景勝は仲良い関係になってるんだが、
上杉に都合悪い部分は伏せられた密約が伊達にも致命的だから、政宗も景勝に遜ってるんだろうし
直江が政宗をバカにしてるんだろうな。
306 :
人間七七四年:2009/07/31(金) 00:04:21 ID:R2uEfEK8
政宗と直江の逸話は嘘だと思うがなぁ。
いくらなんでも失礼すぎる。常識的に考えてあり得ない。
307 :
人間七七四年:2009/07/31(金) 00:36:37 ID:eX5PChSr
逸話なんてそんなもんだ過剰に反応するのが可笑しいレベル
308 :
人間七七四年:2009/08/02(日) 23:41:44 ID:TXnVHvGj
飛ぶ正則と相乗りでの大陸出陣の動かぬ絵は悲しかったど
309 :
人間七七四年:2009/08/03(月) 20:29:47 ID:+wl/VnWi
まさか政宗くんも、お涼の例の市松投げで
玄界灘を渡った、、、のではないのかと?
310 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 19:20:59 ID:yf5UUq9R
伊達の家紋て、上杉からの下賜だろw
恥ずかしくないのかなあ?
織田の家紋も朝倉からの下賜らしいけど
311 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 19:51:16 ID:dsQkdZnx
当事者たちは納得して下賜して下賜されたんだから
そういう卑屈な考えは無いだろうよ。
つか、そういやって煽って景勝ファンと政宗ファン対立させんなよw
312 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 22:51:47 ID:AFAxNHH4
九曜紋は細川家からだと思う
細川の九曜紋は信長からだっけ?
べつにはずかしいとか そういうものではないみたいね
313 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 04:05:33 ID:mtRMXfJN
そうですね
314 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 08:31:10 ID:6kTTmNuk
家紋と引き出物貰っておきながら養子もらってないんだから納得してないだろ
315 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 08:31:51 ID:6kTTmNuk
越後で臨時に税までとって家紋と引き出物贈りまくったのに養子もらってないんだから納得してないだろ
316 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 12:10:52 ID:0qIWkKtn
納得してないなら使用差し止め、抗議くらいする
317 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 12:48:59 ID:Cc0pCobH
納得していないと断言するのなら、
不満の表明、抗議等を行ったとする資料くらいは提示できるんだろうね?
318 :
人間七七四年:2009/08/12(水) 19:24:18 ID:KOrpgKRf
>>310 下賜では無い
入婿時の婿引き出物として対等な立場でプレゼントされている
そもそも奥州探題は将軍直属で将軍家にも外戚となりうる家柄
実際伊達家から将軍家に入嫁があった
その意味では形式上鎌倉公方の下になる関東管領よりも立場が上
319 :
人間七七四年:2009/08/12(水) 20:22:01 ID:eckwesDM
プッ
伊達は単なる分郡守護じゃねぇか。
しかも田舎者ゆえ探題と守護の違いも理解できず混同して使用してた無知なタワケが伊達。
分郡守護なんざ蘆名も相馬もとっくり拝命してるし。
伊豆や奥羽も支配してた鎌倉公方さえ滅ぼして、公方なしで存続してた時すらある関東管領より伊達の方が上とか笑わせるなよw
尊氏の母の家系の上杉一門はさらに越後や北信濃すら影響下においてるわけだしな。
320 :
人間七七四年:2009/08/12(水) 21:09:07 ID:65+yNo2l
ガチで1対1なら上杉だろ。
321 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 00:22:43 ID:1BRTP9/5
>>319 伊達家は種宗の代に守護に、晴宗の代に探題になってるよ
成宗の代に既に探題になっていた説もあるけど
その分郡〜っての他のスレでも吹聴してる奴みたが
根拠が薄い
根拠を文章を示してみ?
322 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 01:16:08 ID:lzV496GS
分郡の話は小林清治の本に書かれてるだろ
323 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 01:22:41 ID:frpEhtqY
609 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/13(木) 00:20:58 ID:lzV496GS
おのれも何も義光自身が佐竹や相馬や葦名を裏切り、大崎支援をいきなり打ち切ったから、大崎が伊達に屈服したわけだが。
おいsub、妄想垂れ流す暇あったら確たる証拠を提示しろよw
324 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 05:04:22 ID:0RLpt6hT
自民のマニフェスト見たが、何だありぁ?
年金記録とか安倍の時に『1年以内』とか言ってたくせに『来年の年末』だとよ
ら い ね ん だよ、
ら い ね ん !
しかも年末!
そして今までも、これからも誰一人として責任を取らない。
自公って本当に責任感無
325 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 10:28:18 ID:OZE8mnwL
>>315 長尾晴景の妨害とかもあったからねぇ。
>>319 上杉家は足利の外戚だけど、長尾家は違う。
伊達家当主は上杉家当主の婿になったけど
長尾家当主はなっていない。
非御家人の家だと扱いも軽い。
326 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 13:03:18 ID:lzV496GS
327 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 14:29:46 ID:frpEhtqY
>609 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/13(木) 00:20:58 ID:lzV496GS
>おのれも何も義光自身が佐竹や相馬や葦名を裏切り、大崎支援をいきなり打ち切ったから、大崎が伊達に屈服したわけだが。
で、ソースまだ?また妄想垂れ流して逃走ですか
328 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 16:15:07 ID:lzV496GS
違うならなぜ伊達に大勝した大崎が結局は屈服したんだね?
最上葦名佐竹らが共同して伊達を圧迫していたはずだが。
窪田の戦いでも佐竹が伊達に優勢だったし。
それとも何か?大崎を後援していた最上が伊達に大敗でもしたから大崎は屈服したのかねwww
329 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 19:25:39 ID:ZPYyqtIX
■民主党政権になっちゃったら、この国は覚醒剤天国■
麻生政権下で、はっきりと麻薬・覚醒剤乱用者の検挙が増えている。
公安や警察が本気になってるからだ。
民主党政権になっちゃったら、この国はシャブ漬けになる。
検挙数も一気に減り、中高生の間でもファッション的に流行る。
なんてったって覚せい剤の名産地は北朝鮮。
民主党は北朝鮮に文句は言えないし、船舶検査だって審議拒否で廃案だ。
もう一度言う。
民主党政権になっちゃったら、この国は覚醒剤天国だ。
民主党政権下で、覚醒剤の入手経路をゲロしたやつの供述をニュースに流すと思うか?
330 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 20:27:53 ID:frpEhtqY
>>328 結局何も資料を提示できないのか
どれだけ言葉で取り繕ったところで、確たる資料を提示できない時点で
良く言って「推測」悪く言えば「妄想の産物」でしかない
331 :
人間七七四年:2009/08/14(金) 11:41:29 ID:kg9AWev0
義光は夫人の実家の大崎から手を引いたろ。
惣無事下の中で上杉に奪われた庄内欲しさに佐竹蘆名を裏切り大崎支援を止めて秀吉の使者の金山に良い子を演じる一方で、
金山が帰国した後に周辺諸将に俺は出羽短大に任じられたと嘘を吹聴してまわる→誰も信じず従わずw
さらに政宗が煽る大崎家臣氏家氏の暴れっぷりに、義光は義姫に氏家何とかしてくれと悲惨なまでに哀願。
結局、最上が支援してくれない大崎は葛西の侵犯すら耐えられず伊達に降伏し、
伊達に圧迫された義光は上洛できずに庄内が上杉に認定される。
さらに葦名が滅亡し義光完全に行き詰まる。
332 :
人間七七四年:2009/08/14(金) 13:20:20 ID:rGDYePs8
333 :
人間七七四年:2009/08/26(水) 17:58:52 ID:XeKCqtgH
生き残った者が勝ち
つまり天下が安定した時に実質150万石持ってた伊達政宗が最強
334 :
人間七七四年:2009/10/08(木) 18:34:25 ID:CX7XTklC
毛利・島津・小早川が本気で家康軍強襲!
徳川軍壊滅!内府家康は明に逃亡!
豊臣秀頼石高462万石太政大臣!関白秀秋 左大臣輝元 内大臣秀家
征夷大将軍上杉景勝! 豊臣摂関の下に
上杉・毛利・宇喜多の将軍御三家体制の幕府
石田・直江・真田・大谷・小西の五管領・五参議体制
島津・長曾我部は大納言 織田信雄は右大臣
上杉家越後を増加
後に上杉親藩に足利武田徳川の御三家と長尾北条ができる。
上杉定勝は帝の皇女を正室に迎えその間に生まれた姫を
足利徳川武田に嫁がせ
その間に生まれた男子を一度定勝の養子にして源氏の三名家を相続
上杉御三家は左右近衛の大将を武田と徳川 足利は中納言指定席を
兼継の孫は管領筆頭を勤めた後に中納言に
老後は日本各地を周り義と愛を説く「米沢黄門」
豊臣は秀頼系統と秀秋系統と織田系統が交互に
関白太政大臣に就任「筆頭は秀頼系統」
三家摂関 三家将軍 五管領・三位制度でバランスを保つ。
やっぱ一つの一族の将軍独占はダメでしょう。
あと大大名は嫡男を帝の皇女との間に生まれた男子にした方がいい
豊臣も上杉も毛利も対等。 皆皇族との血縁あり。
なお足利上杉家は上杉親藩の筆頭で上杉本家の婿養子になる習慣が
「第2次足利幕府」上杉尊信 源氏長者 征夷大将軍
直江師兼 筆頭管領 征夷副将軍
石田義成 管領 兵部卿
そこには謙信公依頼の夢が
尊信 「尊氏公、謙信公、それがしは武士と民の理想国家をつくります。」
尊信 「我が姫と帝の間に皇子が産まれたか」
尊信 「南蛮が豊臣殿を攻撃しただと?今こそ侍魂を彼奴らにみせるぞ!」
尊信 「向かうところ敵なし!尊氏公と謙信公の名の下に」
335 :
人間七七四年:2009/10/09(金) 04:23:05 ID:Yuk7KFg3
何この妄想気色悪い
336 :
人間七七四年:2009/10/09(金) 20:43:31 ID:/vOngYjo
武将単体で比べるなら圧倒的に伊達
337 :
人間七七四年:2009/11/06(金) 22:21:38 ID:5el9Iaz2
伊達政宗は過大評価されてるの?
338 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 00:25:43 ID:W5djEZLH
政宗は景勝と比べたら将器は大きくない。
気宇壮大、詩才無尽、ファッションセンス、話題性はバツグンだが、武将としての力量には隔絶の差がある。
もし景勝と同じ立場になったら御館の乱を生き残れたかも怪しい。
でも政宗に武将の力量なんてなくてもいいのさ、政宗様には花がある。
339 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 01:21:53 ID:r2MysGub
伊達は無能なのに人気な小泉みたいなもんだろ
340 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 01:31:26 ID:YPqJxQzh
無能だったら大名として生き残ってないだろ
341 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 01:33:25 ID:j79pON4B
age
342 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 09:25:30 ID:ucRm6jPp
数度に渡る圧倒的な土下座力とおべっかと脅威に思われない戦下手が政宗を生き残らせた。
でも家康のイジメ折檻で財政は破綻させられたが。
改易大好き秀忠も伊達征伐しよっかな♪って政宗をチビらせたが、政宗は松島で自刃の末路を嫌がり土下座。
343 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 10:43:16 ID:XG3+0Fs1
政宗が土下座したなんて記録あんの?
なんか上杉の伊達コンプレックス凄いな
家格・戦跡どれをとっても伊達に適わないからな
劣等感には同情するけどさ
344 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 15:40:41 ID:15tygOPh
スレタイ通りに邪魔されずに戦ったら普通に上杉が勝つ可能性が大だろ。
それが分かってるから政宗も和睦を求めてるんだし。
345 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 21:17:53 ID:y2SoiDwa
>>344 和睦ってそれ火坂の駄作品の読み過ぎ
火坂が吹聴してるデマみたいだよ
史実は和睦のわの字も無かったとさ
346 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 21:59:36 ID:15tygOPh
>>345 普通に和睦成立の傍証となる一次史料がある。
直江も「手切れしてきても繰り返し和睦の使者を送れ」と政宗を
疑ってるくらいだから、政宗が本気かどうかはわからないが、状況
次第でどっちに転んでもいいようにしておくのが主体的に動けない
大名達の生き方。
347 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 00:03:17 ID:YQaOk6bN
白石返却を提案して上杉と和睦
背後を固めて南部領内へ侵攻すべく
最上を上杉に差し出したのが政宗公。
348 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 00:22:47 ID:i1ErI3/n
和睦だの白石返却だのあり得ない
全部火坂の本の内容
火坂本読んで恍惚してバイブルにしてるだな
バカだぜこいつ等上杉厨どもww
349 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 00:56:00 ID:RzOTZF7+
白石返還はソース知らないが、ふざけてるんじゃなく本気で和睦の話が
なかったと思ってるなら、一から勉強し直すべき。
火坂の小説って天地人?火坂のはそれと羊羹合戦しか読んでないが、
関連する書状があるのに、小説がどうのというのはピントがずれている。
350 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 08:17:15 ID:H1Wo9EZ9
伊達と長尾じゃ家格はあんまかわらんね。
伊達と上杉なら大違いだけど。
351 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 09:58:38 ID:YQaOk6bN
火坂の本しか読んだことない伊達厨アホすぎ
352 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 12:35:28 ID:r8ltjc3x
353 :
人間七七四年:2009/11/12(木) 21:45:41 ID:db0ngxrA
まあ白石城攻防でこの二人の力量差は明らか
わずか半日の攻撃で速攻瞬殺
甘粕などというその名の通り甘〜いカス武将を
大事な戦略拠点においておく景勝はやはり同類のカスだよ
354 :
人間七七四年:2009/11/12(木) 21:48:38 ID:h1eu+Ytp
パパイヤ甘糟は軍議で白石にはいなかったわけだがな。
355 :
人間七七四年:2009/11/12(木) 22:12:50 ID:9YgN5y1V
奥さんの葬儀じゃなかった?
356 :
人間七七四年:2009/11/12(木) 23:06:40 ID:xSEbPEdz
笠谷とか関ヶ原研究家は、甘糟は白河守備のため白河に向かってたとしてるよ。
ただ当時の兼続書状から、もともと甘糟は白石には常駐してなかったのかもしれん。
357 :
人間七七四年:2009/11/12(木) 23:07:35 ID:O+3dj5nH
マジレスすると軍議や葬儀は会津陣物語などの講談話
実際は白石城兵の大半を率いて家康を迎え討つために白河城へ合流しようと向かっていた。
そんくらいも知らねーのかバァカ上杉厨は。
358 :
人間七七四年:2009/11/13(金) 01:06:12 ID:0I1wBTsV
和睦の話なんてなかったと言ってる伊達厨にも言ってやれよ。
359 :
人間七七四年:2009/11/13(金) 08:49:29 ID:22ET4w6D
伊達厨に言っても無駄だろ。
越前結城や神保や島津や南部や上杉や最上や佐竹の残したものは全部捏造史料で信用できない。
史料なら伊達家治家があるとか言って全否定してるし。
もっとも最上厨も最上記や伊達や成実や南部や安東や上杉や小野寺の史料は信用できないとか言って全否定やってきてるから、思考がそっくりなんだよね。
両者は同一人物の自演なんだろう。
360 :
人間七七四年:2009/11/14(土) 00:45:25 ID:wH4vI4+E
つまり白石城はがら空きの城を乗っ取っただけじゃん。
361 :
人間七七四年:2009/11/14(土) 11:50:23 ID:hbB5EWS8
だから密約ではないかとする説がある。
そもそも白石は実高16000石しかないから上杉120万石からしたら譲渡する代わりに福島以南への侵攻をしない確約ができれば良いわけで。
だいたい甘粕らが背後の伊達を気にせずに白河へ向かってるし、
白石が伊達に攻められても甘粕は急ぎ白石もしくは福島防衛へ戻ろうともしてないし、刈田郡西部への兵力派遣もしてない。
伊達もさらに福島へ乱入しようともしてないし、上杉も家康迎撃のみを考えてる。
この後の推移をみても、越後からの侵攻軍は地元の反乱鎮圧に必死になっちゃうし、
佐竹は態度を曖昧なまま、
最上領山形に集結した米沢侵攻軍を政宗は南部侵攻で瓦解させて、上杉の山形侵攻と小野寺の西軍化が起こるわけだ。
政宗も上杉が背後を襲ってこないことに確信を持って北上してるし
あろうことか山深い刈田郡西部の湯原城は上杉兵ゼロで伊達は受け取ってる。
関ヶ原前の政宗は明らかに西軍寄りなんだよね。
安東や津軽も怪しい行動をとってるし、奥羽は裏外交と密約がかなりあったろうね。
362 :
人間七七四年:2009/11/14(土) 16:54:03 ID:6UZHbtji
政宗信じて白石渡したとしたら真正のバカだろ景勝ってw
363 :
人間七七四年:2009/11/14(土) 17:14:40 ID:2l1V5TjJ
密約ではないかという説って誰が言ってるの?
城を空にしたわけではなく甘糟弟が残っているし、その後の直江の
書状を見ていっても伊達への警戒は解いてない。八月下旬には白石
ヘの攻撃も指示してる。そのあとは本庄に「白石のことは忘れて伊達
と和睦しよう」と告げている。家康反転前から密約があったなんて説
の否定材料しかない。
また、南部の去就も怪しくて「上杉中納言のことを粗略に思わない」
と最上に絶縁を申し込んでいる。南部を攻めたからといって密約が
あったことにはならない。
364 :
人間七七四年:2009/11/15(日) 15:48:28 ID:JEcyz6bV
甘粕弟なんていなかったわけだが。
365 :
人間七七四年:2009/11/15(日) 17:06:12 ID:1Jczazyg
甥だったとしても密約があったことにはならないわけだが。
366 :
人間七七四年:2009/11/15(日) 19:36:28 ID:JEcyz6bV
甥すらもいなかったわけだがw無知乙
367 :
人間七七四年:2009/11/15(日) 20:56:50 ID:8VmJMcbK
つうことは
政宗「白石くれたらそれ以上は攻めないから、頑張って徳川にケンカ売りなよ」
これを真に受けて、諸侯に袋叩きにされかかって
政宗にも約束守られるはずも無くさらに攻められて
やむなく土下座降伏して領土を四分の一に減らしたバカが景勝ってことですね
景勝くらいバカだと、白石密約説、信憑性ありますねー
368 :
人間七七四年:2009/11/15(日) 22:29:17 ID:NgVyA3Ra
そして馬鹿上杉相手に日和見して
家康に加増してもらえず
白石くらいしか認められなかったのが政宗ですね。
369 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 01:52:37 ID:/OM6aaXL
甘粕は葬儀&甘粕の甥で婿→会津陣物語
甘粕は軍議&甘粕舎弟→奥羽永慶
どっちも完全なデタラメなのにバカ無知低脳伊達厨必死乙www
370 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 12:06:07 ID:/OM6aaXL
しかし伊達厨はwikiしか見てないから無知過ぎて話にならないな
371 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 13:29:34 ID:LDqBd6LG
>>369 軍記物ソースとして、いなかったという根拠は?
まさか密約のために上杉方は兵を配置していなかったというような
トンデモ説を唱えるのか?
七月十四日にも直江は政宗の進攻に備えて白石の防備を固めるように
指示しているのに。
372 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 14:35:14 ID:M42e+0px
今度はこっちかぁ
373 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 16:04:18 ID:68oHUVRl
「伊達政宗記」「録事蹟考記」に引用されてる、政宗が家康に白石落城を報じた書状の追って書きには、
登坂式部、同新左衛門は甘糟備後弟にて候書かれてるよ。
当時書かれたものなのか、後から書かれたものなのかわからんけれど。
374 :
人間七七四年:2009/11/17(火) 09:31:09 ID:C7oliXZF
伊達の資料は基本的にいろんな書を熟読した後に書いてるんだな。
会津陣物語を手本として明らかに熟読してから書いてるのが、奥羽永慶と伊達家資料。
375 :
人間七七四年:2009/11/17(火) 12:39:38 ID:C7oliXZF
関ヶ原後の4月に南部に大敗した話も、1月に月夜畑での上杉騎下の石川弾正による敗戦も隠蔽してるしな。
政宗は10月に家康から戦闘停止命令を受けたからこの後は戦わず仙台城築城をするようになるってストーリーでw
わざわざ石川弾正は伊達が田村を相馬から助けてあげた際に伊達によって討ち死にしたと記して
さらに関ヶ原後に相馬改易から救ってくれたのは弁護した政宗と書いて
必死に月夜畑を抹消しようと歪曲するのが捏造だらけの伊達資料。
そもそも田村を侵略したのが伊達なのに助けた事にしてる時点でwww
376 :
人間七七四年:2009/11/17(火) 13:48:32 ID:RXFXBDHu
で、登坂式部が存在せず、上杉が白石を捨てる密約があったとする根拠は?
伊達側が、登坂式部らにあてた降伏に関する書状も伊達側にはある。
伊達側がわざわざ登坂式部を創作したりする必要性もない。
377 :
人間七七四年:2009/11/17(火) 17:01:43 ID:C7oliXZF
ププまた間違いを素直に認めず伊達厨得意の言い換えが始まったw
登坂が存在しないなんて一言も言ってないわけだがw
誰が登坂を創作したなんて書いた?
ほんと伊達厨って基地害だな。
白石城攻防は講談話準拠で一次史料には存在しない。
伊達と上杉の自作自演を演出するために作られた講談話。
378 :
人間七七四年:2009/11/17(火) 19:13:13 ID:ypx4mKJ+
所構わず妄想垂れ流す常習犯のお前が言うな
379 :
人間七七四年:2009/11/17(火) 19:43:13 ID:U2I2uomb
講談話って・・・
白石を奪還しようとした直江書状が残ってるじゃん。
結局それをしなかったのは、家康反転後、上杉と伊達の間でなんらかの和解があった可能性はあるが。
380 :
人間七七四年:2009/11/17(火) 22:37:51 ID:RXFXBDHu
>>377 何言ってるの?Sub
上杉方にも白石を奪われた証拠となる文書は複数のこってるけど。
ちなみに伊達ではなく上杉好きなんだが。
381 :
人間七七四年:2009/11/18(水) 11:10:49 ID:a+9B+5Cm
382 :
人間七七四年:2009/11/18(水) 13:10:07 ID:7QOk+j+N
いじなり「第三者」が登場してソースを求める、飽きたよこのパターン
>>381はID:C7oliXZFのいいっぱなしレスにもソース求めなよw
383 :
382:2009/11/18(水) 18:49:37 ID:7QOk+j+N
訂正
誤)いじなり
正)いきなり
384 :
人間七七四年:2009/11/19(木) 09:49:13 ID:7Hs5XqKF
>>381 とくに本庄文書の九月三日付本庄越州あて直江書状は当時の
伊達・上杉関係がよく分かるし有名だろ。
具体的に伊達との和睦が進んでることが分かるが、それでも梁川に砦を
築くよう指示して警戒もしている。その中で「不満もあるだろうけど、
天下へ御奉公と思い、白石などのことは忘れて、公儀さえよければ伊達
との和睦を調えろ」と言っている。
385 :
人間七七四年:2009/11/19(木) 18:20:37 ID:zV97Qx+p
上杉厨の言う通りだとすると
密約したのに大量の白石城兵ぶっ殺された上に
和睦をしたのに攻め込まれて蹂躙されたわけかww
386 :
人間七七四年:2009/11/19(木) 18:42:44 ID:7Hs5XqKF
蹂躙とか妄想戦記か
387 :
人間七七四年:2009/11/20(金) 00:55:43 ID:HMX+2DTa
>>384 白石城の無償譲渡で西軍内通
しかし政宗は欲をかいて違約し
桜田元親を川俣城へ派遣して奪い取ります。
違約に怒った寡兵の上杉軍は直ちに出陣して川俣城を奪い返して桜田を瞬殺し密約による国境まで押し戻す。
これに恐れた政宗は福島への野望も消え去り、さっさと北目へ逃げ帰った。
兼続は白石より南下した場合は自ら政宗を討つとたびたび表明し政宗を挑発していたが、政宗はビビってやってこなかったどころか、
家康がいなくなった後は、いよいよ恐怖し最上に上杉が攻めることを望み、白石返還と南部侵攻で上杉に敵意がないことを表明。
直江は白石を奪回する行動は一切してないのは密約国境線を容認してた証拠。
また上杉一次史料に白石攻防に関わる書状はない。
伊達→村越直吉への書状でも
将が降伏→数百人討取りと書かれている
つまり戦わずに白石城将らがさっさと降伏している記述なのだ。
しかも落城させて自らが支配してるのに具体的数字もなく数百人などといい加減で抽象的な表現をしてるのは架空数字だから。
これは伊達のいい加減な報告を受けただけで、未確認の秀忠の返文でも同じように将が降伏→数百人討ち取りと書かれている(子細は書状を届けた使者が語っているはずなのに同じ数百人w)
388 :
人間七七四年:2009/11/20(金) 10:26:45 ID:pGzC7Ury
密約とかまだ阿呆なこと言ってるのか。。。
密約国境に戻すため戦うなんて馬鹿げてる。戦ってしまった時点で
密約は破棄だろ。
上杉の川俣攻略は白石落城より前なので時間軸もおかしい。
直江が白石攻めをたびたび検討していることも無視している。
家康がいなくなると一気に上杉に擦り寄る態度を見せ始め、最上より
具体的な行動は見せただろうけど、直江が我慢するように言っている
ように白石返還なんてのもなかった。しかも直江は和睦しながらも、
最上が形を示して従属したら、伊達を攻めると言ってるので互いに
化かし合い。
伊達厨を敵視するから上杉厨かと思いきや、上杉の史料はあまり知らず、
伊達の史料には詳しいんだな。Subは。その辺がなりすましといわれる
所以か。
389 :
人間七七四年:2009/11/20(金) 12:41:50 ID:HMX+2DTa
川俣城の存在も知らなかったくせに何言ってんだか。
川俣城は白石より前に落ちた?そんなことねーよ。落城は同日だわ。
上杉側は白石が落城して無念とかそういう発言もないし。
直江は公儀(秀頼)優先で白石は忘れろ(譲渡したんだから)って書いてるだけ。
もし騙され奇襲された挙げ句に力攻めで死傷者続出の上、落城し数百人撫で斬りされてたら「忘れろ」はないわw
390 :
人間七七四年:2009/11/20(金) 13:48:25 ID:1CTmFGWQ
肝心な部分が全部想像なのに何で自信満々で言えるのか謎だ
391 :
人間七七四年:2009/11/20(金) 14:14:29 ID:pGzC7Ury
>>389 川俣の存在を知らなかったっていつ言った?
川俣奪回が同日なら、桜田が川俣を奪ったのはさらに前。密約を否定
するものでしかない。
騙されて奇襲受けたというのは、密約があった場合で妄想にすぎない。
譲渡なんてしてないからこそ「不満もあるだろうが白石のことは忘れろ」
なんだよ。
白石に関するほかの上杉方の書状を知らないところを見ると、やはり
なりすましなんだな。
392 :
人間七七四年:2009/11/21(土) 10:56:58 ID:ANAlD6pW
おまいら上杉厨の密約説・和睦説だけど
これ以上捏造するのはもう止めた方がいいよ
景勝がますますバカに見えて伊達ファンからみても可愛そうになるからさw
393 :
人間七七四年:2009/11/21(土) 12:28:33 ID:O/SV1j42
Subが今度はアンチ上杉を演じ始めました。
394 :
人間七七四年:2009/11/21(土) 13:37:32 ID:qgs4vnVr
というか自演ばっかだろここ。きもいよ。
395 :
人間七七四年:2009/11/21(土) 14:44:21 ID:Kb6ULU4w
自演までして頑張ってるのは約一人だけだと思うけどな。
形勢が不利になると、アンチになって攻撃して去るのもワンパターン化してきたな。
396 :
人間七七四年:2009/11/21(土) 14:49:53 ID:RdvZHNq2
397 :
人間七七四年:2009/11/21(土) 17:14:11 ID:/eZCR66M
24日に刈田郡の白石に続いて、さらに奥の伊達郡の川俣に伊達がやってきたから
24日のうちに本村らは近隣の福島城より、石栗らは二本松城から川俣へ出陣したわけだが。
奪回報告を直江は27日に受けて早速に書をしたためてるわけだが。
伊達郡から伊達を敗走させて譲渡ラインを明確に線引きしている。
村越宛には「二三の丸迄取破申候、本丸迄ニ仕候処、城中より頻降参」と無抵抗なまま進撃してるだけで、血が出るような戦をした形跡がまるでない。
また降参した将を「我等手前抱置候」とおよそ、敵将として扱ってるような描写もない。
白石城攻防の様子は完全に会津陣物語のデタラメを間にうけて拡大解釈されたものでしかない。
398 :
人間七七四年:2009/11/21(土) 20:06:17 ID:O/SV1j42
Subはもう何が言いたいのか…
399 :
人間七七四年:2009/11/22(日) 16:25:09 ID:wrFiNKma
>>397 >伊達郡から伊達を敗走させて譲渡ラインを明確に線引きしている。
なんで戦いながら密約とやらの線引きをするんだよw
400 :
人間七七四年:2009/11/22(日) 20:52:30 ID:6mDjsv5i
>>399 上杉120万石のうち、わすが実高16000石しかねー刈田郡なくせに
白石城は上杉領から突出しすぎていて守りにくく、迎撃包囲がかけずらいので
白石城は最初から捨てる予定だった。
釣り込まれて福島城へノコノコと政宗がやってきた時に、各地から兵力が集結し福島城を基点に伊達軍を包囲するための餌でしかない。
こんなのは軍事教練のマニュアルに載っているような軍事的常識レベルの模範的な話で、直江も再三にわたり、政宗がやってきたら討つと書をしたためている。
家康に対しても白河へ釣り込み自領を主戦場に包囲をやろうとするなど共通点も多い。
401 :
人間七七四年:2009/11/23(月) 01:10:12 ID:NIKV9K93
どこに密約などと書いてるの?
軍事教本だのは関係ない。
直江は白石へ出兵する計画をたびたび対伊達の武将達に伝えてるし、
奪還を考えていたのは確かだよ。でも最上、伊達が強力なまま残って
は関東攻めもままならないから、どちらかには大打撃を与えておきたい。
結果、最上領に侵攻。一次史料から読めるのはそのへんで、状況を見ても
家康西上前の密約なんてのは妄想大河以外の何物でもない。
402 :
人間七七四年:2009/11/23(月) 06:13:26 ID:wWrSm0ML
白河大決戦も石田明夫氏はしきりに唱えてるけど、文献史学の研究家は否定的じゃん。
7月22日の大国宛て兼続書状から、南会津の戦線は直接景勝指揮となり、
兼続は若松を離れ北に向かったようだ。
これも皆が固唾を呑んで家康の進軍を待ってるなかで、
伊達だけが活発な動きをしてることを受けてのことじゃないのか?
7月18日の兼続書状(14日としてる本も見たことあるけど、福島県立博物館の高橋氏や新潟大の矢田グループは18日にしてる)でも
伊達の脅威にさらされてる白石の仕置について命じてるし。
甘糟のことだけど、7月18日の兼続書状から、高橋氏はもともと白石には常駐してなかったとしてるよ。
白石落城しても甘糟が動こうとしてないって書いてるけど、
7月22日の書状から、甘糟は安田上総とともに、南会津の戦線での現地と景勝との取次を命じられていたみたいだ。
検使とともに白石城に行ったけど、若松にトンボ帰りしたのではと研究者はしてたよ。
403 :
人間七七四年:2009/11/23(月) 10:52:21 ID:U1g+7SGw
蒲生氏郷は白石城を重視して補強要塞化したけど
景勝・直江のホモ主従は白石を軽視したとしたら
合戦が無能というだけでなく、戦略眼も無かった、というわけですね
404 :
人間七七四年:2009/11/23(月) 12:02:37 ID:wWrSm0ML
兼続書状からは、決して軽視はしてなかったとは思うけどな。
白石までの道順をよく覚えておくようにって書いてるから、
いずれ白石攻略があることは予想してたかもしれん。
あの時点で一番緊張が高まってたのは、
なんといっても家康が近付きつつある南会津方面だったから。
ものはとりようだけど、むしろあの四面楚歌の状態で、よく白石だけで抑えられたなとも思うけどな。
405 :
人間七七四年:2009/11/24(火) 16:26:23 ID:zer7vI3g
白石を軽視してなくて予想してて
でも攻め取られた
やっぱり無能ってことですね
406 :
人間七七四年:2009/11/24(火) 17:02:14 ID:RPML7NLq
そんな短絡的な話をすると、家康がいなくなったら政宗は無能に媚びを
売ったことになるよ。
407 :
人間七七四年:2009/11/25(水) 10:31:51 ID:hvjn8d5T
>>402 会津陣物語に書かれてるような迎撃作戦など主張してないようだが。
家康に白河で降伏するつもりだったと主張したいのかい?
家康を白河で迎撃しようとした事まで否定するつもりか?
白石の仕置きを命じてるとか甘粕が常駐してないとか言ってる書状は佐竹のスパイの車氏ら複数人に宛てた書状のことだろう。
そこからわかるのは上杉と伊達の密約が家康にバレないように細心の注意を払って、わざと車氏らにも披露してる点だけ。
後世の目からみれば直江らのアリバイ作りで、いかにもわざとらしく見えてしまい、初めて読んだ時は笑ってしまったものだわ。
408 :
人間七七四年:2009/11/25(水) 19:02:44 ID:uDcbr2Zm
subは相変わらずですな。
>白石の仕置きを命じてるとか甘粕が常駐してないとか言ってる書状は佐竹のスパイの車氏ら複数人に宛てた書状のことだろう。
>そこからわかるのは上杉と伊達の密約が家康にバレないように細心の注意を払って、わざと車氏らにも披露してる点だけ。
どこをどう読めばそうなるのか。上杉は別に密約がばれようが関係ないだろ。
車丹波は蒲生家にいたようだから、佐竹のスパイという話も怪しいと思うけど。
409 :
人間七七四年:2009/11/26(木) 10:57:21 ID:6xDQyVQp
そもそも車氏に教える必要性がまっくないのに
わざわざ車氏に読ませること自体に違和感を覚えないなら君はかなりの勉強不足。
まぁ中途半端な歴史ヲタは書状の内容は読んでも、宛先などは読み飛ばしてしまう素人レベルも多いからやむを得ないかもな。
410 :
人間七七四年:2009/11/26(木) 12:30:48 ID:j5qiIP6m
408じゃないし、レスするのも馬鹿らしいと思うんだが・・・
車氏って、確か、関ヶ原時は上杉景勝に仕えて福島城将(後には梁川)とか勤めてたと思うけど、
あんたがいう書状の宛先は車の他に、榎並、本村、上泉で
ともに当時福島に詰めていた人物じゃないのか。
福島の城将たちに、甘糟を警護して白石までおくりなさいという文書の
どこに不明な点があるのか??
宛名のメンバー構成もおかしくないと思うけど???
411 :
人間七七四年:2009/11/26(木) 15:34:49 ID:eBs891n9
「何時ニよらす彼地江正宗打出候者、可乗出候条、不可有油断候」以前の文章内容は状況と行動指令だから
そのままに受け取っていいだろうね。
問題は上記文章が車らへのポーズってことだと言いたいんじゃね。
たしかになんどとなく兼続は
政宗が来たら俺も乗り出すよ〜だから油断しないでね♪ってお約束文章で、出る出る詐欺をやってるね。
まったくそちら方面に出てくる気がないのに。
なんらかの合意ができていたからかもね。
それに彼地なんてあいまいな表現でお茶を濁して特定しないように気をつかっておられる。
川俣城を攻めた伊達の桜田も血気逸って勢いで攻めただけで、
上杉側の車や上泉らも、真実を知らされてないだけかもね。
だから川俣を上杉に奪回された後は、なんらかの合意にしたがって
前線の武将をなだめて伊達も再攻撃しないで引いてるわけだろうね。
412 :
人間七七四年:2009/11/26(木) 18:16:08 ID:usMKTrk5
>>411subも上杉方の史料を集め始めたようだね。
でも出された疑問には一切答えずに「密約」があったという妄想を垂れ流しているね。
車丹波ら福島城にいるメンバーにしたら白石は「彼地」。最初からちゃんと読めばなんの
不思議もないよ。
413 :
人間七七四年:2009/11/27(金) 11:45:32 ID:0QLqEHU0
>>411 なんらかの合意
その通り、なんらかの合意=密約ですね。
状況証拠からみても兼続も政宗も
取り決められて国境線引きが暗黙の了解で存在してる。
もし違うというなら川俣で大規模な軍事決戦が存在し
伊達軍が大敗したためにその野望が潰えたと解釈するしかなくなる。
「彼地」を白石と断定するなら、もっとはっきり書けばよいが
そこは機密を握る者、車らにちゃんと明示しないわけだ。
414 :
人間七七四年:2009/11/27(金) 17:43:25 ID:w+fxNl+a
密約を破った伊達を川俣で大破して
刈田郡の密約ラインまで押し戻した。
しかし直江は刈田郡西部は譲渡は暫くお預けにして政宗の忠勤をみることにした。
汚名挽回を期し密約の刈田郡全土を早く受け取りたい政宗は、
直江への謝罪のために山形に集結していた米沢討伐軍を瓦解させるために南部へ侵攻した。
政宗が南部へ北上したのも対徳川に神経を集中して密約ラインを直江が堅持していたので、
後方を伊達は攻めませんよ心配する必要はありませんよと直江へアピールする目的である。
しかし一度はあわよくばと密約を反故にして川俣まで南下した政宗は後ろめたさと
直江の大挙北上を恐れて、密約の白石の一時返還を申し出たと言う。
伊達は上杉の忠犬として、最上を売り、南部、安東、戸沢らを撤退させ山形の戦力を低下させ、伊達、小野寺、上杉の同盟ラインが完成。
これらの功績により密約に従い刈田郡西部の湯原城の譲渡を上杉から政宗は受けることを許されたのである。
415 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 10:30:11 ID:GpIhkWv1
そもそもちゃんと白石で防衛していればそんな戦闘無いはずなのに
白石城を譲渡したためにそんな戦闘があったとすれば
やっぱり景勝はバカってことを声を大にして言いたいわけですね
分かりますw
>>414って
この板全体に張り付いて伊達を貶めてるけど
それが生き甲斐なのかな
伊達に人生を狂わされるような何かがあったの?w
416 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 11:34:20 ID:4J0xbV0p
伊達領へ突出し上杉領から孤立する白石は守るに不適な場所だから放棄したであろうことは想像に難くない。
その戦略は正しく、隘路の福島に侵攻した伊達軍は上杉領に深く突出した形になり、
逆に上杉からの会津、米沢、二本松などからの急派による包囲の恐怖に常に怯え、
事実、正面では政宗陪臣2人が討ち取られ、さらに背後を制せられた政宗は伊達の聖地が炎上する阿鼻叫喚の中を必死になって、出陣からわずか2日のうちに北目城まで壊滅敗走した。
まさに直江軍事ドクトリンに従った戦術的後退と機動包囲であり、家康を白河へ迎える戦略も似たようなものだったであろう。
軍事教本における模範的成功例と言えるだろう。
417 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 12:54:43 ID:4EM4pCMg
>>415 馬鹿の一つ覚えのように、景勝はバカとしか書かないおまえも414と大して変わらんよ。
ID変えてsubが自演してんのかと思ってた。
418 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 23:25:19 ID:BNfenkoR
>>414 「汚名挽回を期し」って、皮肉で書いてるのか、素で書いてるのか…
419 :
人間七七四年:2009/12/01(火) 01:40:12 ID:cHKMO4IT
伊達政宗のライバルは、上杉景勝か?
個人的には佐竹義重だとおもうけどな。
420 :
人間七七四年:2009/12/01(火) 07:29:54 ID:Q9Fcp4n5
419に同感
421 :
人間七七四年:2009/12/01(火) 08:27:32 ID:h935m282
>>413 白石の防備について語っている書状なので「彼地」はあやふやでも
なんでもない。
書状の最初のほうに「白石」と出ているし。
422 :
人間七七四年:2009/12/01(火) 08:52:07 ID:lr6gRnU+
>>419 政宗のライバルは相馬義胤では?
佐竹義重とは一回しか戦った事ないし
423 :
人間七七四年:2009/12/01(火) 13:09:58 ID:cHKMO4IT
>>422 実際の合戦はともかく、会津の覇権をめぐる伊達と佐竹との戦いだからな。
424 :
人間七七四年:2009/12/01(火) 13:22:11 ID:eKBiL9hb
いやあれは単に葦名三代早世のための葦名内紛をめぐる地域紛争なだけだろ。
中間人による和睦社会という陸奥独特の仕置き。
佐竹は単に中間人の和睦調停に応じてるだけでルールの範疇にいたに過ぎないし。
425 :
人間七七四年:2009/12/02(水) 07:49:28 ID:HYxtVYAS
再度おさらいしておこうか。松川スレの以下の重要な5つの要点について。
@「松川合戦」なるものが上杉の軍記作者の妄想垂れ流しによる捏造だったこと。
A実は慶長5年10月に伊達軍に大敗鎧袖一触され、福島城下まで攻め込まれて、
本庄が討ち死にする危機に置かれていたこと。
B徳川家康は上杉景勝を滅ぼすつもりだったこと。
C伊達政宗は仙台城に居を構えて、福島を差配する計画でいたこと
(その方が、福島県民及び一部山形県民にとっては有り難かったかもw)
D伊達軍に虚を突かれて攻め込まれた福島県に少なからぬトラウマを
残して「松川合戦の古老咄」が伝承されたこと。
最上に手酷い敗北を喫して米沢に逃げ帰った上杉の隙をついて、伊達軍が信夫郡を蹂躙。
上杉軍を宮代で打ち破り(実に300余名、騎馬武者100騎を討ち取り、信夫山で首級実検
まで行っている)、本庄繁長を自決寸前まで追い込む。これが慶長5年10月6日の戦い。
伊達にとっては掃討戦の一環にすぎなかったわけだねw 本庄はすんでの所で討ち死にを逃れている。
この伊達の「掃討戦」を根にもった国枝清軒のルサンチマンの敗者の文学。それが『会津陣物語』の哀しい本質だね。
国枝は慶長6年4月下旬に伊達が松川に攻めてきてそれを打ち破ったとする与太話を幕末まで流布させたが、それは真っ赤な嘘
だったことは、『日本戦史』から完全に黙殺されていることでも明らかだろう。 w
426 :
人間七七四年:2009/12/02(水) 10:33:05 ID:Nremu0V6
>>425 松川スレでsubとやりあってろよ。他スレにコピペするなど見苦しい。
427 :
人間七七四年:2009/12/26(土) 23:13:43 ID:52BujpzU
文盲?彼地が白石なわけがないだろうが。恣意的解釈すんなよ。
428 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 21:57:35 ID:/C3Rnplg
景勝の代でも当時戦国最強軍と思われてたのだから伊達なんて問題外
一度たりとも最強なんて言われたことナス。
429 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 12:42:08 ID:a+vnrasE
ダテ マサムネ この名前がカッコイイ
ウエスギカゲカツ なにそれ?って感じ
これだけで圧倒的に 伊達>上杉
何やった人だか知らないし、どうでもいいw
430 :
月孔雀:2010/02/20(土) 14:28:44 ID:88kOxkdN
上杉謙信の人生、勉強しろ。一人も人、殺してないから。
431 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 16:17:41 ID:coTT7D4S
>>428 秀吉に攻められてきりきり舞いになってた上杉が戦国最強とはこれ如何に
432 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 17:45:09 ID:+QukfOhf
秀吉に攻められた?伊達厨無知すぎ
433 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 23:01:39 ID:KQFJ+Iqr
京都のお寺の記録に残ってるよね
上杉と武田の軍が最強って
両雄存命中から言われてるよな
で、それを引き継いだ越軍、甲斐軍も最強って言われてた
景勝個人の采配は最強とまでは言わないが壮烈な戦いぶりから一目も二目もおかれてるだろ
政宗は謀略の人戦は中の上ぐらいだろ
434 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 23:08:46 ID:KQFJ+Iqr
謙信時代の伝説なのか,実際の戦いブリも相まって世界大戦中での越後の部隊は最強って言われてた
まぁ元々、伊達郡部将達は米沢、福島の人間ですから。元はw宮城のブス産地はよわいと思う
435 :
人間七七四年:2010/02/21(日) 01:21:31 ID:ApAe2ZpT
あうぅ
おらいんの 戦国キチのじっさまも 今の時代みたいにパソコンあったら ボケっこどもながったのにぃ
436 :
人間七七四年:2010/02/21(日) 06:57:30 ID:onipO5yG
大したことしてない伊達vs慢性補給難上杉
目糞vs鼻糞
437 :
人間七七四年:2010/02/22(月) 01:22:14 ID:96v2b4Ls
>>434 戊辰戦争時から仙台兵はドン5里だったもんなぁ…
438 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 02:10:26 ID:sv0LSn12
保守
439 :
す@死:2010/04/10(土) 04:40:31 ID:t7OUv74k
長谷道場の最上相手にてこずるくらいだからなぁ
上杉圧勝、にはならないと思う
野戦で勝負してたらどっちが勝つかな
440 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 07:26:50 ID:iDOHC/bn
包囲しながら庄内軍待ちだっただけで
ぜんぜん苦戦してないわけだが。
441 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 16:33:49 ID:mqbABQmn
なんかさ
名前に「勝」が付く奴って勝たないで負けるよな
上杉景勝、武田勝頼、柴田勝家
どいつも負けて、殺されて滅亡するか大衰退喰らってやんのww
442 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 17:17:55 ID:36R7be5F
家康にすぎたるものと言われた
本多平八郎忠勝殿もおられますが・・・
443 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 19:39:31 ID:iDOHC/bn
鍋島勝茂とか知らない無知ワロタ
444 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 19:53:44 ID:WMDbevfH
水野・・・
446 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 02:32:08 ID:bboWJICI
伊達政宗が草葉の陰から除いてたら片倉くんが
こずぅろぉ「山形城、もうつっとで おずんべな、そすたら、けっつ(尻)さがさまにして せっめっと、かずんでないがい?」
まちゃくん「なんだど、ほだなごどしたら、おらの かぁちゃん、ぺっぺひんむげらって種子つけられったらなんじょする?
そすたら、こっこ、おまえさやっがらな」
どう見ても最上はオワタ状態だったことを端的に証明してる
庄内から入った上杉軍は東根が天童あたりまで進出残るおもな城は長谷堂城と山形城を残す程度
戦には勝ったが運に負けた。
447 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 23:58:01 ID:bc6TzoF9
政宗は捏造の賜物
448 :
人間七七四年:2010/04/14(水) 19:50:04 ID:7iiMhh1I
俺も小学生の頃は横山光輝の政宗みて、もの凄い名将だと思ってたけど
摺上原は物量で勝っただけだし敵総大将は子供。
葛西大崎領で一揆起こさせたらバレて疑われないよう皆殺し。
関ヶ原でも和賀に武装蜂起させといて、これまたバレて取り潰しか減封されるとまずいからこれも殺す。
大坂の陣でも味方の神保勢が活躍してるの気に入らず背後から襲って皆殺し。
伊達の兵力が重要だったのを知ってて徳川の弱みをみすこすかのように強気の態度とって
お咎めなしに持ち込むなどどうしょうもない外道だとわかって大嫌いになった。
449 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 03:02:42 ID:SmJVc/jj
いわゆる、「伊達の味方討ち」って何の史料に載ってるのか教えてくれないか?
作り話の『難波戦記』じゃお話にならないよww
450 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 09:47:13 ID:gVpulmBL
>>449 で、それ否定する根拠となる史料はまだなの?ずっと待ってるんだけど。
以前も島津の一次史料も伝聞だから信用できないとか言い出して逃げてたよな。
史料には史料をもって否定しろよ。
お前の恣意的なマンセー理論はいらないからな。
451 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 18:28:01 ID:fvmCl66s
伊達に配慮して徳川がもみ消したんだろ。神保かわいそ。
452 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 00:17:35 ID:hagYLPmm
たかだか300の小大名と1万の伊達なら伊達の肩もつなんて当然だと思うよな。
伊達厨はそんなことも頭にまわらないのか。
ましてや外様の力なきゃ勝てないほど大苦戦してる戦なら当然。
まっ、政宗が一枚上手だったと。
部隊が押されて旗色が悪くなっても全滅に近い死者なんて普通は出ない。
味方からだまし討ちにあったとか無い限り。
453 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 09:02:08 ID:g9FJy9MI
伊達勢強しとみてもたれかかってくるちんぽうは大迷惑
撃たれて当然
伊達としては後藤や真田に当たる前のウオーミングアップに丁度よかったんだろ
454 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 14:57:28 ID:ut2gAiRf
過疎なれど一人がんばる糞スレかな
455 :
人間七七四年:2010/09/28(火) 21:38:33 ID:z6E4N0wL
偏狭政宗に関わった家族家臣みんな不幸になりました。
456 :
人間七七四年:2010/09/29(水) 11:05:57 ID:M2Kz8ez9
真田に蹴散らされてクソの役にも立たなかった奥州王政宗(笑)
457 :
人間七七四年:2010/10/19(火) 01:39:02 ID:tOX9rOrq
たかが岩松氏の陪臣の由良泰繁でさえ、
1535年6月2日に足利義晴から御内書が下され、大鷹献上のお礼に上龍下龍の太刀一腰を下賜し、白傘袋の免許くれたし
由良側からお礼に太刀一腰、刀一、唐織物、黄金三十両がきた事に義晴が謝意を伝えてる。
その際に岩松新野伊予入道が段取りしたから義晴が伊予入道にも謝意を伝えてるし(御内書案)
岩松氏純も同日に治部大輔に任官が許され、太刀一腰、黄金五両を献上。
こんなに詳しくわかるのに捏造伊達はほとんど詳細不明ってwww
為景は古河公方高基の息子亀王が元服するので、忠義を尽くせよと関東管領上杉憲寛に命じられたので、
将軍義晴に仲介し亀王を元服させ多額の献金し元服費用一切を出した。
その功績で1528年12月12日に義晴から白傘袋を許可され息子道一には弥六郎の号や太刀を与えられた。
1529年7月から8月の間には、為景は感謝として越後上布と蝋燭を大量に献上し仲介役の幕府政所執事伊勢貞忠にも太刀と鳥目をおくってる。
伊達があまりにも不明過ぎて信憑性ゼロ
伊達が探題なら裏書き御免の書状や朱の采配や屋形号の使用実績が何でまったくないの?なんで探題が家臣を守護代にするの?守護と探題を混同するアホって伊達だけだよね。
守護ならなんで白傘袋を使用してないの?やっぱり分郡守護だからでしょ。
分郡守護なら葦名だって会津分郡守護だよダサイけど。もちろん相馬も岩城もとっくの昔に分郡守護になってるよ。
もちろん葦名とかも白傘袋は使用してないよ。
名門ならとっくに分郡守護くらいにはなってるもんだけど、名門伊達氏は南朝に殉じて滅亡しちゃったからなぁ。
伊達家ってみんな母がちゃんとわかってる人ばっかなのに晴宗だけなんで不明なの?隠蔽してるんじゃないのかね。
そういや晴宗は賤しい出の者らしく、下賤の者の手法で自分の正室を山賊のように略奪して手込めにしたよね。
この山賊行為は名門顔してた父(略奪され側室にされた農母の連れ子で実際は養父?)に対する当てつけだな。
たしか賤しい出の晴宗ゆえ、伊達正嫡に認められずに父を監禁した為に大乱に発展したんだよね。
相馬家は伊達正嫡側に立って頑張ったのを根に持って伊達を纂奪した賊臣の晴宗・輝宗・政宗と三代に渡り執拗に正義を掲げる相馬を怨みに思ってたもんね。
信虎だってクーデターされたし
為景だって引退に追い込まれた。
お隣の葛西や大崎も家臣団が暴れてたし
最上も土着化した一族が自立し崩壊
伊達だけはクーデターじゃないとかどんだけ脳内お花畑の基地外伊達厨なんだよw
458 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 12:38:17 ID:wKxhqduD
>>457 伊達史は捏造ばかりで
いろいろと疑惑が多いね…
伊達のおかげで葛西とかも家系図がグチャグチャにされてて代々の当主がロクに解らない状態にされてるしな。
459 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 16:46:08 ID:cgNi3zhZ
>>457 政宗は祖父をマンセーして曾祖父の悪口を言って非難してる。
伊達の血統が変化した証拠は明らかだね。
460 :
人間七七四年:2011/03/01(火) 05:19:24.63 ID:4CjX0u2R
伊達は戦闘状態にない者を襲うことに関しては最強クラス
461 :
人間七七四年:2011/03/10(木) 12:58:56.94 ID:/D2nYCA7
>>460 相馬方面からの通行人を捕まえて鉄砲の的にして
お遊びになられたのは読んだことがあります。>>政宗家臣書状
462 :
人間七七四年:2011/03/21(月) 06:40:02.99 ID:z3IdkX2J
かつより
463 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 08:58:26.73 ID:i24vuuG0
松川スレはsabが反論されないよう最後に連投を続けて終了しました。
464 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 17:43:38.43 ID:URGs0qkI
伊達に喫した敗戦と心の痛みは、上杉には今なおPTSDだからな。
465 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 19:22:28.00 ID:qTIv1ypn
まあ、野戦で一度勝って、あとは半年間撃退され続けたけど
466 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 21:47:42.90 ID:WZhnR46R
ただ単に伊達が10倍もの巨大戦力差でゴリ押ししただけだろ…しかも結局撃退されたわけで自慢にもならない。
467 :
人間七七四年:2011/04/13(水) 08:40:02.43 ID:WVAtGYye
政宗はなあ、神保事件があるから好きになれない
景勝は直江のせいで本人の影が薄い
直江は上杉一族の山本寺かってに処刑したのが
468 :
人間七七四年:2011/04/13(水) 12:04:52.83 ID:TZOudsDE
影が薄いと捉えるか無口でダンディーで威厳があったと捉えるかの違いだな
船が沈みそうになって景勝の雰囲気をみて乗り合わせていた家臣達がいっせいに飛び降りたとかセンセーショナルすぐるw
469 :
人間七七四年:2011/04/13(水) 12:25:53.24 ID:wId19GP9
>>467 閻魔大王への手紙の逸話で処刑したのは三宝寺家中のものの
家族な。あくまで逸話だが
470 :
人間七七四年:2011/04/13(水) 18:58:37.04 ID:WVAtGYye
>>467 かつ山本寺の裁定に納得できないから藩に上訴したって感じで
山本寺勝長は処分を直江に丸投げしたって方が正しい
471 :
人間七七四年:2011/04/16(土) 20:19:09.33 ID:Pn9dwW7x
百姓無事か?
472 :
人間七七四年:2011/04/17(日) 15:28:01.28 ID:tpNMbrio
政宗は福島藩主本庄繁長に手もなく撃退され、間道伝いに逃げ戻った
473 :
人間七七四年:2011/04/19(火) 04:35:21.01 ID:nfgqszp7
政宗が幕末の仙台藩主だったら維新前後にどういう行動を取ったか予想してYO
474 :
人間七七四年:2011/04/19(火) 14:53:29.80 ID:dtFrKI38
福島藩ってあったっけ。
475 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 05:19:51.57 ID:eSxPAcP2
476 :
人間七七四年:2011/04/23(土) 23:31:18.11 ID:Bi+oVtIz
福島からの避難児童に対して鬼畜のような新潟県民=新潟・長岡
時事通信 [4/23 20:27]
東日本大震災で、福島県から新潟県長岡市に避難している小学6年の男子児童(11)が転入先の小学校で同級生に蹴られ、入院していることが23日、同市教育委員会への取材で分かった。学校側はいじめがあったことを認め、保護者に謝罪した。
市教委によると、男子児童は父親の実家がある長岡市に避難し、今月7日の始業式から新しい学校に通学。19日午前の休み時間、同級生の女子児童に腹を蹴られた。20日に腹部打撲と診断され、様子を見るために入院しているという。
男子児童は15日にも「女子から悪口を言われている」と担任教諭に相談。学校側は21日、PTA総会で事実関係を説明し、同級生の児童からも話を聞いている。
市教委の山田修管理指導主事は「福島県への差別的な発言があった。つらい思いをさせて申し訳ない」と話している
477 :
人間七七四年:2011/04/23(土) 23:35:25.32 ID:eyb8goQY
マスゴミが健康に影響を全く及ぼさないレベルの大したこと無い放射能漏れを針小棒大に報道した結果じゃないか。
原因はアホな視聴者じゃなくマスゴミだな。
478 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 09:33:48.88 ID:x+Hhp5+p
戊辰戦争の時の仙台藩のしょぼさは絶対に忘れてはいけない
479 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 10:52:31.07 ID:0F0WwNN+
>>477 放射能が漏れている事を話題にださないマスコミなどない。
セシウムが放出されているというのに、マスコミの報道なんて
まだ扱いが小さい。あまいと言わざるを得ない。
差別は差別した人間が悪いのであってマスコミが悪いわけじゃない
480 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 11:01:07.88 ID:0F0WwNN+
>>477 のような人間はもしも数十年後、
がん患者が急増したとしても
「何でマスゴミはもっと放射能のことをもっと放送しなかったんだよ」
なんてほざくんだろうね。マスコミがどう報道しても文句垂れるんだ。
481 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 20:12:42.10 ID:uGMfQ6m+
>>476 このスレとは関係ない異様な
コピペ連投は日本人差別に日本分断工作なんだろ
何かあると他でもこのような変質な行動に
はしっているんだろうな。
482 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 20:27:39.40 ID:RMBhPoKh
>>481 新潟県民を陥れようとしてる仙台人だろ。
483 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 05:38:47.78 ID:nd508VXS
戊辰戦争の時の仙台藩のしょぼさは絶対に忘れてはいけない
484 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 13:10:54.04 ID:maDwvG/q
若干23歳で衝撃隊を率いて官軍相手に連戦連勝した細谷十太夫や
仙台藩の洋式部隊を編成し箱館まで戦った27歳の星恂太郎
26歳にして藩の代表として降伏調印を行った後、蝦夷地開拓に赴き
賊軍の身から男爵の勲位を賜った伊達邦成等々
明治期まで活躍した若くて魅力的な人物も居るよ〜
だから戦国板で戊辰戦争を持ち出してしょぼいとか言わないで・゜・(ノД`)・゜・。
485 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 13:22:41.09 ID:IU1mXNPy
まあ、庄内藩・長岡藩が一番なんですけどね
486 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 14:58:43.47 ID:WyI9qM9o
子孫はどうなんだろうな
泰宗さんは最近利権丸出しで評判悪いが邦憲さん科学者退役後は長尾や吉良っと言った養子元の供養ばっかしてる
487 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 17:59:46.97 ID:kO/xbo7n
488 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 18:15:52.73 ID:ysn41aXG
というか…伊達と大友の全盛期だったら、どっちが強いか気になる!
489 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 01:23:45.16 ID:d2p49k6K
>>482 いや、482と同じで日本を陥れようとしてるチン長9cmの人間だろ。
490 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 08:58:41.17 ID:7h0Loe++
>>397 >伊達郡から伊達を敗走させて譲渡ラインを明確に線引きしている。
伊達と上杉にこの時点の密約があったとしても(あるわけがないが)、伊達が裏切って川俣城攻撃した時点
で「(川俣を奪い返して)譲渡ラインを線引き」なんてことはありえないでしょう。どんだけ上杉は伊達を
信じてるのさ。
掛田で一揆起こされても許し、密書奪い合いしても許し、白石城をプレゼント。なのに伊達は裏切って川俣
奪う。それでも川俣を奪い返しただけで許す。家康西上後は8月下旬から9月上旬に両者は「御無事」を図
っている。でも結局、伊達は最上を救援し、福島方面へも侵攻。
本当にそうなら、上杉は相当伊達に気をつかっていた上に、結局は騙されていただけだったというひどく上杉
を貶める説だ。
491 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 09:18:20.24 ID:x42Wrcti
家康の会津征伐を前に背後の伊達口を安定させる為に伊達を買収するのは悪い策ではないんでないか。
家康の小山撤退を知らない政宗が和賀一揆を引き起こし8/13に山形の南部に「南部に謀反起きたんだってw」って政宗がレターして最上口を瓦解させて義光を狼狽させたんだろ。
越後黒川口も越後遺民一揆蜂起に困った堀が三成らに味方するってレターしてたようだし
佐竹口は義宣が上杉につるんで家康迎撃予定だったし
家康が期待してた伊達が白河決戦予定日に向けて和賀一揆を引き起こして北上。
家康の5路同時侵攻は完全に失敗じゃん。
伊達の最上救援?あれは長谷堂へ最上が援軍出したら伊達が山形城を奪い取ろうとしていたが
関ヶ原の結果を知って東軍顔をし始めて豹変しただけじゃん。
492 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 11:04:02.33 ID:xXQKsGsn
悪い策ではないし声をかけた可能性もあるけど、
史料上は確認できず。
伊達が乗るとも思えず、九月に和睦している事実と
矛盾する。白河決戦は信憑性なし。
伊達は上方の東軍有利を知って兵を出したので
山形をとろうとしたのではない。
493 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 11:20:23.39 ID:x42Wrcti
8/12の直江書状ですでに南部の撤退が予言されていて
伊達による和賀一揆を直江が事前に知っていたとしか思えないし。
そのためか直江は最上口に対してそれ以前からあまり興味を示してない。
494 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 11:26:22.00 ID:x42Wrcti
だいたい上杉領刈田郡西部の湯原城の伊達への無償譲渡と伊達による山形出兵はセット。
以前それを指摘したらwikiの湯原城の記事まで速攻で削除したのが工作大好き伊達厨。
495 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 12:50:52.64 ID:xXQKsGsn
>>493 直江は最上表の混乱について情報を得ているのであり、
予言と主張するのはサブだけ。
政宗の報が南部への第一報とは思えず、この時点での
蜂起への関与も不明。また、一緒に最上表にいた諸侯
は南部領内の一揆を知らなかった形跡がある(六郷書状)。
南部の史料では一揆は九月の蜂起。
湯原の無償譲渡か。妄想が過ぎるな。
496 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 13:42:42.91 ID:x42Wrcti
南部撤兵の時期に家康が会津征伐を中止した事実を知るのは最上だけであり
義光は極秘情報として最上口に集結した諸大名に知らせず最上領情報統制を敷いていた。
各地で関所の警備が厳しくなる一方でそのために上方や下野口からの書状の往来が極端に遅延していた。
安東や六郷が三成の激文を手に入れたのは家康の撤兵指令の後であり
この時期に最上口の混乱も何もそもそも混乱自体が起きてないどころかこの後には最上と諸大名は起承文の交換までやる。
政宗が和賀一揆に荷担していたのは疑いようないものであり、実際に書状の日付に間違いはなく動かしがたい事実。
湯原城から上杉軍が撤兵していたのも事実。
497 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 14:03:37.63 ID:xXQKsGsn
白石合戦前も福島方面で戦闘があったことなどの
説明がつかない。
サブ論では流れがぐちゃぐちゃになるんだよ。
498 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 19:27:21.03 ID:vqVqZ/HX
>>497 絶対に認めたくないと厨精神丸出しで聞き分けの無い
我侭な気持ちからくるケチをつけたいだけの荒らし伊達厨は消えていいよ。
499 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 20:31:46.10 ID:xXQKsGsn
そういう言葉は苦しいときにサブが吐くものだな。
周囲が絶対に認めたくないのてはなく、認めてもらえ
ないのでは。
君の言う密約とやらは君独自の説で、そのある意味の独
創性は素晴らしいが、無理な史料の解釈や通説を覆すだ
けの説得力に欠ける。だから誰にも賛同されない。
同じ見方をする研究者が居ないのが何よりもの証拠。
君は伊達嫌いらしい。俺も好きじゃない。だけどその感
情を歴史の解釈に持ち込んでいたら正しい理解はできない。
伊達厨呼ばわりも結構だが、その前にいろんな上杉関係の研
究者の本や論文に目を通してはいかがか。
伊達厨呼ばわりしている相手に教わるまでもなく。
だから独りよがりの思考におちいってるんじゃないかな。
最新の研究でも、自分の意に沿わない見解は読んでいないのに
全否定するような姿勢が変わらなければいつまでも妄想戦記
作家のサブ呼ばわりされたままだよ。
500 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 20:46:52.07 ID:x42Wrcti
学会なんて大本営発表でしかないな。
学会を支配する老害先輩どもの常識や
出資元の意向に従うだけだから意味ないな。
異論を唱えると村八分にされ排除されるから事実を指摘できない。
政宗を擁護しないと売れないから出版社の意向に沿ったもんにならざる負えないし
501 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 21:18:17.28 ID:xXQKsGsn
上杉関連の本でなぜ政宗を擁護する必要があるのかな?
また、どの辺が擁護になっているのか。
読んでもいないのになぜわかるのか。
大河の影響で、サブの知らない間に景勝期の研究は大き
く前進してるんだよ。
502 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 21:37:47.75 ID:x42Wrcti
反論できなくなると学会の権威を持ち出すジャイアン伊達厨www
503 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 21:49:37.43 ID:xXQKsGsn
学会の権威とは?
学会なんて一言もいってないが、先行研究に学ぼう
という姿勢すらないのではますますただの妄想だよ
504 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 22:09:17.75 ID:x42Wrcti
>>503 はいはい能書きはいらないから。
お前に都合がいい研究だけを取捨選択して読んでずっと自慰してればいいと思うよ。
505 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 22:15:14.05 ID:xXQKsGsn
サブと同じ主張してる本が出たら教えてくれ
506 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 23:43:25.83 ID:x42Wrcti
507 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 23:59:13.40 ID:xXQKsGsn
発言がそのままサブなので誤解したよ。
本当に違うならサブに悪いことをした。
研究者の成果を大本営発表だとか、老害
の常識や出版社の意向に支配されている
だなどとよくわからないことを言うので、
サブは先行研究に学ぶことを否定し、自
分のからに閉じ籠る程度だったかと失望
したところだった。
508 :
人間七七四年:2011/06/09(木) 09:07:30.03 ID:ln5GsNhN
>>507 お前もかなり気持ち悪いから消えろ伊達厨
509 :
人間七七四年:2011/06/09(木) 12:16:08.23 ID:k6KKRitB
伊達厨の定義は?
510 :
人間七七四年:2011/06/10(金) 15:32:50.66 ID:I1lCXYDa
どちらも優秀だったと思うよ。でなきゃ、死んでるだろw景勝は直江ばかり目立って地味な印象だが、本人が
無能で、どうやって優秀な人間を使いこなすんだよw
ただ二人とも天下を取れる程の器ではなかったのかもね。家康に対抗しようとしたところは二人とも立派だが、
景勝は結局上手くいかず、正宗は肝心なところで余計なことをして、自らの首を絞めた。野心にあふれ過ぎて
いたんだろうが。
511 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 08:14:44.07 ID:AzqrH8NT
景勝は信長に包囲されたときや会津征伐前の書状を見ても剛毅な人柄がうかがえる。
あんまり笑わなかったとか、家来が敵より景勝を恐れたというエピソードが本当でも
おかしくないくらいに。中世領主的な謙信時代の殻を破ったのは景勝だし、全国の大
名の中でもスムーズに行っている。一門ではない直江に全権を委ねたのも度量の大き
さを感じさせる。
政宗も、サブが言うようなカスではなく、上杉も警戒している中での電撃的な白石侵
攻、福島侵攻を見ても戦術的に優れた将だと思う。中世的な支配体制からの脱却とい
う点から見ると、家康の百万石のお墨付きが伊達家重臣たちへの加増を約束している
ように依然として政宗自身の権力が絶対的でなく、重臣層の発言力が大きい様子がう
かがえる。すでに会津移封で近世大名への脱却をほぼ完了させた上杉に比べると遅れ
ている感がある。
512 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 09:04:25.16 ID:FIKGJKLJ
513 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 09:43:41.34 ID:AzqrH8NT
>>512 伊達厨の定義は?
sub論
312 名前:無名武将@お腹せっぷく :2011/06/11(土) 09:16:04.07
家康が小山、秀忠が大田原着陣した当時(慶長5年7月22日現在)の各種書状から判断する上杉諸隊の状況。
1. 若松=景勝本隊(五十騎組)や岩井・安田達。
2. 須賀川⇒白河=直江隊(与板組:含水原親憲・前田慶次等寄騎)。
3. 会津南山城⇒白河口=大国隊
4. 福島(須賀川?)本庄隊(佐竹:車丹波等)
極秘作戦ではあっただろうが米沢の直江隊が最上を無視して須賀川にいるということや佐竹の動きからみて白河口(革籠原湿地)迎撃の可能性が非常に高いと判断される。
313 名前:無名武将@お腹せっぷく :2011/06/11(土) 09:30:34.57
政宗の働きで最上口が瓦解するのを直江は事前に知ってたからね。
7月22日時点では直江は若松にいる。
313の書き込みには史料的根拠がない。
514 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 12:05:32.46 ID:Z72CEwPp
>>513 慶長5年7月に直江が若松にいたと断言する根拠は?
岩井信能宛て書状(現況報告)を参考にすると、少なくとも直江は当時若松にはいなかったという結論になると思うのだが。
515 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 12:19:50.98 ID:AzqrH8NT
>1. 若松=景勝本隊(五十騎組)や岩井・安田達。
景勝、安田、甘糟が若松にいて、岩井は白河方面にいる。
景勝が若松にいるというのには同意だ。
直江は書状で「此方より仰せ付けらるべく候」としている。
つまり直江はこの時点では「仰せ付ける」目上の人、景勝と同じ
場所にいる。研究書の受け売りだがね。
516 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 12:34:44.38 ID:Z72CEwPp
各種書状からは慶長5年7月から8月頃の直江は郡山(安子島)や須賀川(長沼)から指示を出していたとするのが現在の通説なんだが。
悪いけど「此方より仰せ付ける」という表現だけを以て若松にいたと断言するのは納得できないな。
当時、直江が福島県中通りをうろついている以上やはり白河口で何らかの迎撃作戦があったと見るべきだと思う。
517 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 12:51:21.70 ID:AzqrH8NT
7月22日付大国宛書状の最後に、こちらへの用は「安田、甘糟まで」と
あるように、このあと直江は移動する。行き先は安子島や福島方面。
越後の一揆から最上表、福島表、白河方面と各地から情報を集め、指示を
出す総司令官。長沼には岩井信能が入ったとみられる。
ちなみに「佐竹の動きからみて白河口(革籠原湿地)迎撃の可能性が非常
に高いと判断される」と書いているが、直江のもとに8月4日に佐竹の使
者がやってきて、家康への人質を拒否したことを告げた上で、上杉に味方
したい旨を申し入れている。
佐竹と三成がどんなやりとりをしていたのかは不明だが、少なくとも上杉
とはこの時点まで連動した動きはしていない。
518 :
人間七七四年:2011/06/12(日) 17:07:56.85 ID:1qd4hPc+
317 :無名武将@お腹せっぷく:2011/06/11(土) 17:59:51.76
慶長5年3月13日謙信の二十三回忌の法要にむけて会津へ向かう甘粕は
背後の安定のために伊達の重臣と人質交換などの密約を結んだ。
会津で伊達との人質交換による同盟が発表され3/11藤田信吉が追放され
法要は対徳川決起大会のようなものだった。
小山へやってくる家康との白河決戦に向け、甘粕は白石城兵を率いて出発。
密約があるので福島城から後詰めはでないので籠城して粘るわけもなく
登坂式部は伊達との密約に従い抱え置いてもらうため白石城の譲渡をしようとするが
それを知り反対する鹿子田右衛門の部下171人が謀反し仲間討ちで死したと言う。
一説に七ケ宿街道を白石城から米沢への連絡係りとして往来していた鹿子田を
密約を知らない地元民が伊達に呼応しようとして襲撃し
殺してしまったので、それを白石城攻防での討死に偽装したとも。
>慶長5年3月13日謙信の二十三回忌の法要にむけて会津へ向かう甘粕は
>背後の安定のために伊達の重臣と人質交換などの密約を結んだ。
城代が城を明ける際に人質交換するのかどうか知らないが、そもそも甘糟は
白石にはいないで若松に詰めているのがほとんど。米沢城代の直江があまり
米沢にはいないのと同じ。
>会津で伊達との人質交換による同盟が発表され3/11藤田信吉が追放され
>法要は対徳川決起大会のようなものだった。
追放か出奔かは不明だが、直江状を見る限りでは出奔くさい。上杉が、家康
の牛耳る豊臣政権との決別を決意するのは6月。直江状も出しておらず、こ
の時点で伊達との同盟もなにもない。
>小山へやってくる家康との白河決戦に向け、甘粕は白石城兵を率いて出発。
甘糟は白石の防備確認のため一度行くが、そのほかずっと若松にいたとみられる。
白河方面に向かったことを確認できる史料はない。
>登坂式部は伊達との密約に従い抱え置いてもらうため
密約があったら城の譲渡後、若松に戻ればいい
>一説に〜偽装したとも。
ソースとなる史料はあるのかな。
519 :
人間七七四年:2011/06/12(日) 20:01:47.76 ID:ALhkhaTN
伊達の石川と甘粕は人質交換してから双方一切返却してないじゃん。
福島市史に甘粕は白河へ軍議に行ったって書いてあるじゃん。
ずっと若松にいたとする主張こそ意味不明。
前田討伐に続く、上杉謀反の通報に対して藤田は徳川寄りで謝罪するように言ってたと言われ
景勝らはそれに対して弁明拒否してる状況下で意志統一を図り始めていた。
宇喜多騒動や関ヶ原での毛利軍内対立を避ける意味でね。
空気が読めるなら出奔する以外に道はないし逃げ遅れたら内応者と誤解され殺されかねない情勢。
密約があったら若松に…実際、ほとぼりがさめたら若松に戻っていただろうね。
伊達家臣として仕えていた記録が無いこと自体がその証明となるだろう。
520 :
人間七七四年:2011/06/12(日) 21:43:26.13 ID:1qd4hPc+
そもそも人質交換のソースは。その書物では密約があったから人質を
返さなかったとしているのか。
福島市史に書いていた?学会云々と言って先行研究を無視していたので
はなかったかな。それは強がりだったとして、福島市史の編纂からはも
う相当年月が経っている。ソースがなければ市史にあっても信用はでき
ない。直江兼続伝なども白河にいたとしているが、軍記物をソースに昔
から通説になっていた。それが天地人をきっかけにした福島や米沢の研
究者による再検討で見直された。7月14日、22日の直江書状で少な
くともこのころは甘糟も基本は若松にいたのが分かる。
>景勝らはそれに対して弁明拒否してる状況下で意志統一を図り始めていた。
必ずしも弁明拒否しているわけではない。景勝は4月の直江状のあとも一度は上
洛を決意し、延期や讒言人の糾明を求めている。6月の会津征伐の決定まで戦用
ではない神指城の築城を続けていることからもわかる。
万が一、すでに謀反を考えていたとして、家中の意思統一しなくてはいけないな
ら他家の信用できない伊達政宗と密約を結ぶのはもってのほか。
登坂氏は謙信の甲冑を伊達家に寄贈したと伝わる。謙信の甲冑かはともかく、上
杉家旧臣の登坂氏はいたということだろう。
521 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 00:53:27.28 ID:p5O1+z7F
すでに徳川が引かない限り闘う決意をしてたのは藤田同様に出奔し捕縛され殺された
栗田国時をみればあきらか。すでに板坂卜斎の書によれば2月には上杉討伐の話がでていた。
7/14で甘粕は城将だった白石城へ派遣され明け渡しの準備のための仕置きをして
一両日のうちに去るように言われており、ここで白石城には甘粕の代わりに詰めていたのが
榎並・本村・上泉・車らだとわかるのである。
(この4名はすぐ福島城へ移転して甘粕縁者の登坂式部が白石守将になる)
7/19までにたびたび白河口を堅固にするよう譜請や方針を伝えてるし
家康の江戸出陣に呼応して景勝や直江が会津を出発してるとするのが
常識的判断であり7/22書状を見れば白石から甘粕景継がやってきて
直江と合流し長沼方面まで出張ってきていたのがわかる「此方の御用は甘粕・・・」
甘粕らが会津にいると誤判断しているのは7/28の景勝から甘粕への書状だろう。
ここに出てくる会津にいる甘粕は長重の方であり、景勝が会津にも白河にもいないのがわかる。
522 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 01:55:49.27 ID:nlAlItfX
>>521 >捕縛され殺された 栗田国時をみればあきらか。
栗田刑部が殺されたのは軍記物だけ。実際には死んでいないし、この年の8月には
二本松方面を守備している。上方で噂になっていようが、上杉方にその気はない。
>明け渡しの準備のための仕置きをして
何度も繰り返しになるが、明け渡しのためとする根拠は。
仕置きの検使として甘糟を派遣したとあるが、後段では政宗が攻撃して来たら出馬する
と直江は言っている。普通に読めば仕置きは防御の体制を視察に行った。
ちなみに白石を「彼地」と呼んでいるので、本村らがいるのは白石ではない。ほかの書
状などから見て福島を守備していたとみられる。
景勝は7月19日に白河の諸将に活躍した人いたら書きとめて送ってと、自分が向かう
そぶりは見せない。7月22日には同日の直江書状からは直江は景勝、安田、甘糟と一
緒、つまり若松にいたとみられる。長沼には岩井が入り、島津下々斎らと一緒にいる。
7月28日の書状を見ると、この時の景勝の居場所はたしかに不明だ。「会津」が若松
だとすると景勝は本拠にいないことになるが、普通は文書内でも「若松」と表現してい
るケースが多いので不思議。景勝が白河方面にいるなら若松にいる?長重に情報をもら
うのもおかしいので、景勝も甘糟長重も居場所がよくわからない。
木村徳衛氏も景勝や直江の居場所については特定に相当悩んでいたようだ。
523 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 13:49:35.17 ID:6G/WB1b9
>>522 栗田国時って死んでないの?
良かったらソース教えて!
524 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 22:52:32.94 ID:nlAlItfX
福島城の後詰として水原と栗田が直江の書状に出てくる。
525 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 23:27:16.07 ID:6G/WB1b9
>>524 それ初耳なんで書状内容を教えてちょうだい!
526 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 00:00:09.96 ID:2CoGfHev
いつもと態度が違うね。
教えるのは構わないんだが、君が馬鹿にしていた本にも載っているよ。
527 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 03:00:30.85 ID:NuILCs5I
また伊達厨が結果ありきで捏造してんか。しようがねぇな。
528 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 06:36:39.86 ID:VslCjhfF
ひどい手のひら返しだな。
知らないなら知らないで構わないが、自分が
知らないことは捏造呼ばわりでは恥をかくよ。
529 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 08:25:48.36 ID:NuILCs5I
はいはいデタラメ乙w
530 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 08:39:00.80 ID:VslCjhfF
サブってこんなキャラだったかな。
523からの流れがひどすぎる。
栗田は死んでなかったなんて二年前の関ヶ原関係の
研究本にも書いてあるよ。
531 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 08:48:07.30 ID:NuILCs5I
またまたウソの塗り固めwww俺はこういうキャラだおw
532 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 11:12:04.63 ID:ePDfxncS
邪魔されずも何も、ガチンコやる機会があったくせに
最上義光に損な役回り押し付けてトンズラこいただろw
533 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 22:05:06.58 ID:WxZ2r4xP
いや私ふつうに聞いただけだけど?
534 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 00:34:14.68 ID:mbYlshyL
>>531 >またまたウソの塗り固めwww俺はこういうキャラだおw
だおとか気持ち悪いけど、サブはわざと栗田が死んでいないことを知らない
ふりをしているのかな。
普段から偉そうに語っているのに、本を読んでいないと言うことなのか。
535 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 14:07:06.95 ID:CGSEpr5j
536 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 22:01:25.59 ID:mbYlshyL
光成氏『関ヶ原前夜』読めばOK
537 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 10:38:54.89 ID:WjnExlJJ
>>535 超ウソだよ。
詳しく書けと要求しても絶対に書けないから。
栗刑少と栗刑が同一人物なんてネタ話でしかないから。
そもそも殺されて、跡を継いだ一族の可能性もある。
藤田信吉が出奔したのと一緒に書かれている話で、
実際に藤田信吉の出奔が事実なのだから栗田が殺されたのも事実と考えるのが常識。
これは正しいがこっちは間違いとか歪曲捏造の代表例だから。
538 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 11:14:26.12 ID:OyGX//Rb
書状にある
水常→水原常陸
栗刑→栗田刑部
上杉家中で探せばこう解釈するのが普通。
>ネタ話
では栗刑をだれと解釈するのか
> あとをついだ一族
軍記物に従えばみんな殺されたし、生き延
びて仕えた人間がいてもそのまま裏切り者
の名前を継承し、しかも水原と同列の地位
にあると考えることはできない。
一次史料を示せるなら別だが。
539 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 12:35:01.99 ID:Xmra62Si
栗田当主の寛安の嫡子の永寿が謀反で逃亡した記述は一切ない。
水内郡誌のみが家康に通じたのを親類関係を無視して永寿としてるだけ。
永寿後見役の叔父栗田寛秀もしくは寛久が国時だとするのが常識的判断。
寛秀が藤田に同調して妻子らと一緒に逃亡するも
その末子がのちに栗田刑部を名乗り宇佐美造酒介勝興と水戸中納言頼房に仕えてる。
つまり刑部ってのは叔父が名乗っており、逃亡後に永寿も逃亡した叔父の遺児も刑部を名乗っている。
よって永寿が国時であることを一次史料で証明してもらわないと話にならないと思う。
しかもその該当書状って原文の書状自体が存在してない怪しげな写しでしょ。
だから偽書状の可能性が大きいと言われてるやつでしょ。そんなの取り上げる研究者って誰だよ・・・
伊達厨ってどこまで我田引水して歪曲捏造してんだよ。
はやく一次史料で証明してくれよ。
540 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 13:19:55.07 ID:OyGX//Rb
>偽文書の可能性が大きいと言われている
ソースは?
栗田毛の
内容などはほかの書状と照らし合わせても問題なし。
541 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 13:30:59.59 ID:OyGX//Rb
栗田家の歴史はよく知らないが、武家家伝というホームページにsubがいうのと
おなじことが書いてあるな。それをもって何を説明したいのかよくわからはないが。
542 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 20:07:04.80 ID:9HJSdNiJ
栗田永寿は天正年間から上杉の史料には登場するし、
慶長2年の信州侍定納員数目録には栗田永寿丸三千六百七十石とあり、
翌年会津国替では、大森城代八千五百石栗田刑部少の記録がある。
素直に考えれば、永寿丸→刑部少だと思うんだが。
ところが栗田永寿は正保3年(1646)73歳で死亡したという一次史料が残ってるんだよ。
そのため小林計一郎は叔父の国時も永寿を名乗ったという二人永寿説を展開し、
片桐昭彦は一族は討ち取らたが永寿は生き残ったとしていた。
永寿の父の官途も刑部だし、栗田刑部出奔はないとするほうが矛盾がないんじゃないの。
永寿は関ヶ原後、上杉を見限って離れたと思われる。
慶長8年家康に上申して、善光寺の別当職を返還して貰おうとした書状も残ってるよ。
それには一族が景勝に討たれたとかなにも書いてない。
543 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 21:31:29.39 ID:OyGX//Rb
ということは、大森城代の栗田は出奔せず、逃げようと
した人間がいたとしてもその一族の人間だったというこ
とかな。それなら納得できる。
544 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 05:18:42.51 ID:Qm9wVRUw
藤田信吉に同調して逃げた栗田刑部一族とその後上杉家で後を継いで福島方面を守備した嫡子栗田国時を混同しているだけ。
だから話がグチャグチャになってる。
545 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 06:46:51.75 ID:5ZsuX1ab
おいおい、勝手に俺が書いてる判定しまくってんじゃねーよ。
ひさしぶりにやってきたら俺のせいかよwwwんで、今回は栗田の話か?よく飽きないな。
高橋明が主張するには紹襲録に慶長5年3月栗田刑部と藤田が出奔って書いてあり
関が原敗戦からしばらく経った慶長7年8月に二本松温泉行くと暇を貰って栗田刑部少輔が
藤田と示し合わせ出奔し殺されたと書いてあるとのことで前者と後者で藤田の申し出を受け
出奔した人物として栗田刑部と栗田刑部少輔の2人がいるとわかる。
叔父栗田刑部出奔で殺され→景勝家康和睦し米沢減転封→大幅石高減少し一族の刑部内通の一件もあり
上杉家中に居づらくなった甥の刑部少輔も藤田を頼って出奔せざるおえなくなり殺されたと解釈すべき。
慶長5年8/14「水常・栗刑が二本松在陣」(読史堂上杉家記)9/3「栗刑も招くべき」(本庄文書上杉家記)
この書状における栗刑は後世の捏造書状か、もしくは栗刑少を指してるかどちらか。
光成準治は文禄3年10月に永寿丸と名乗ってるが、のち会津御在城分限帳で刑部少と名乗ってるとする。
8/14書状には本文は一切触れてないが9/3の書状を原本がなく確認できないと上杉家記を
批判気味に書いてこの写し史料からは断定を保留し可能性として書くに留めている。
殺された甥の栗田刑部少輔(永寿)の遺児は寛喜と名乗り善光寺別当になろうと動いていたと言う。
殺された叔父栗田刑部末子が栗田刑部を名乗り宇佐美勝興を通じて水戸頼房に仕えてると言う。
栗田の叔父も甥も双方とも出奔の罪で関が原を挟み前後して殺されているとみるべき。
家名を残すために一族を東西に分ける生き残り策をしようとして栗田一族は失敗したにすぎん。
だから
>>537が正しい。慶長5年3月栗田が藤田に同調して出奔してないし殺されてないとか史料の曲解で大ウソ。
546 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 07:27:08.58 ID:YqrLLvAa
高橋明は「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾」で「紹襲録」の栗田刑部あるいは栗田刑部少の出奔は、
直江兼続8/14書状、9/3書状から否定されるとしていたが、その後見解を変更したのか?
547 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 07:51:27.33 ID:5ZsuX1ab
>>546 高橋は藤田出奔の際の栗田刑部と栗田刑部少を
無理矢理同一視した挙句に
さらに怪しい上杉家記を盲信することで結論を出していて、
そこに説明が一切ないから
それを是とすると今度は
直江状が後世に一部改変されていた説を採ると
藤田の出奔すら無かったと否定する話になり
完全に辻褄が合わなくなっている。
548 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 08:17:16.70 ID:el+qOiu5
>慶長5年8/14「水常・栗刑が二本松在陣」(読史堂上杉家記)9/3「栗刑も招くべき」(本庄文書上杉家記)
>この書状における栗刑は後世の捏造書状か、もしくは栗刑少を指してるかどちらか。
都合が悪い書状は全部捏造か。
>批判気味に書いてこの写し史料からは断定を保留し可能性として書くに留めている。
それは嘘。批判気味には書いていない。「断定はできないが」としながらも「出奔した
事実はなかったものと考えられる」
>栗田刑部と栗田刑部少を無理矢理同一視
>栗田刑部一族とその後上杉家で後を継いで福島方面を守備した嫡子栗田国時を混同
同じ名前の人間が二人上杉家にいたという根拠はあるのかな。
549 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 09:37:48.49 ID:5ZsuX1ab
また根拠ない同一人物認定を盲信してバカだねこの自演伊達厨。
光成氏は史料の信憑性に疑問を提示し可能性として発言したに過ぎない。
光成氏はいまいち頼りない判断してんだよね。まぁいろいろと誤認してるよ。
例えば毛利の阿波侵攻も大坂方は関与しておらず、毛利のみで進めたみたいなことを書いて間違えてる。
実際は家康が上杉征伐の際に御陣場御見習いと称して
小笠原秀政の娘と婚姻してるこの時わずか15歳の至鎮を強引に連れ出して人質となして出征。
やむなく至鎮を守るために益田一正ら18騎も随行。
三成挙兵→至鎮の婚約者の小笠原秀政の娘を救うべく高木法斎が徳島にいた家政の許可なく
北陸軍として加賀大聖寺城に入ったために三成による弾圧を免れることに成功。
大坂方から木俣半之丞が徳島にきたが人質を取られた家政は家康追討の名分がないと反対。
これを受けて大坂から家政に親しい前田玄以が徳島へ出仕要求にきた。
家政は仕方がなく大坂へ出てきて「患いの最中でなおかつ年寄りでもあるから従軍は勘弁して欲しい。
その代わりに国兵を差し出すから自由に使って差し支えない」
と大阪に味方すると約して、諸将の了解を得て下城しのちに高野山へ行く。
そこで大坂方から小川越前&小早川豊前が徳島へ来て家政の意として大谷・木下勝俊に属して北陸へ向かうように指令って流れなのに。
なんでも与えられた情報を盲信・鵜呑みにして思考停止するのはよくないよ。
特定の思惑の元に誘導されbrainwashingされるだけだ。
550 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 09:52:53.46 ID:el+qOiu5
なんでいきなり毛利の話をしだすのか
551 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 13:27:39.24 ID:H+c0J8fq
>>548 明らかに2人いただろ。
むしろ藤田の権威を頼んで叔父が実権を押さえ返却しないため
この期に藤田共々追放して実権を奪回したのでは?
しかし関ヶ原後に上杉内での立場が悪くなり結局、藤田を頼ったと。
552 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 13:39:59.54 ID:JFPa3Yzq
>明らかに
どこに根拠が
553 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 07:28:04.67 ID:6bOGfog3
栗田刑部国時と嫡子永寿丸は別。
藤田と逃亡したのは国時。
上杉に残って二本松で直江と白河決戦に向け同行動していたのは嫡子永寿丸。
当時親子に別れて家を存続しようとする政策は真田の例を引くまでもなく一般的。
>>522は一見尤もらしいけど、国時と永寿丸を混同してるだけ。
よって栗田は逃亡していないなんて錯誤が生まれてしまう訳。
554 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 07:43:06.94 ID:6bOGfog3
たしか国時の孫(永寿丸の子)は上杉米沢転封の折に信濃に帰ってるよね。
555 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 09:26:54.38 ID:1CBXRb0F
近世大名化した上杉家についていけなかったのかね。国時と呼ばれる
人物は。上杉家家臣と真田家を一緒にするのはどうかと思うけど、サブ
論にしても大森城代の栗田刑部(=永寿丸)は逃亡していないというの
は確実なので、もし栗田なる人物の逃亡があったとしたら、一族の一部
の人間が逃げたということかな。逃亡したのが父親なら、永寿もそのま
ま軍権を持って福島の後詰(白河ではなく)に行くとも思えないけど。
この数日でよく調べてくれました。
556 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 14:45:10.17 ID:seMvuT1y
自分が現時点で知ってる知識では(長野出身の小林計一郎氏や片桐昭彦氏による)
長篠の戦いで戦死した栗田鶴寿(官途名は刑部)の嫡子栗田永寿は正保3年73歳で病死。
慶長8年、善光寺別当職返還のため家康に上申しようした書状によると、
景勝について行ったため善光寺を3年留守にしていたとある。
誰かが寛喜を永寿の子と書いてたけど、研究者は寛喜は永寿本人としているよ。
永寿の子伝右衛門は永寿の母の再婚先である庄内酒井家に仕え、
信玄や勝頼書状を含む栗田家文書を伝えてる。
小林氏は上杉で活躍した永寿(刑部国時)を永寿の叔父とし、永寿は二人いたとしているが、
片桐氏は永寿(刑部国時)は一人で、本人は殺されていないとしていた。
小林氏は国時が殺された後、永寿が上杉に行ったとしてたけど、
謀反を起こした人物の後に、わざわざ会津に行くなんてちょっと考えられないんじゃないのかな。
会津分限帳を見る限り、栗田刑部は一人しかいない。ただ長篠で父が戦死した時永寿は8歳で、叔父が後見していた可能性はある。
自分は分限帳にいる栗田大膳がそうなんじゃないかなあと思ってるんだけど。
永寿が生存中に書かれた書状には、なぜか上杉に謀反を起こして、一族が討たれたとか書かれないんだよね。
家康にたのんで善光寺に復帰しようとしてたので、上杉の部将として活躍してたことは書きづらいと思うけど、
だったら返って上杉に反抗して討たれたと書いたほうがいい(本当ならね)と思う。
栗田家の文書で永寿の叔父が関ヶ原前に謀反で討たれたと書かれてるのは、
永寿の孫にあたる人物が信濃の古老に聞いた話として書きとめたものが最初で、
後世の軍記の影響も否定出来ないと思う。
557 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 15:12:59.96 ID:1CBXRb0F
伊佐早謙も息子は庄内酒田家に仕官したとしていたな
558 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 15:31:27.99 ID:C0YbIN8x
主家を裏切り殺戮された一族の不名誉を自慢気に記す方がどうかと思うが。
永寿の孫が影響された軍記って1680年以降の東国太平記のことだろ?
しかしこれの元ネタになった水原の口述筆記録は1620年以降とされてるから
まだ関係者が普通に生存している以上は大きな錯誤はバレるだろうし
特に水原に悪意を持たれてない限り、
もし殺されてないのであれば栗田一族が殺されたなんてわざわざ大規模捏造をしてまで口述される理由はないだろう。
それに武田時代に詳しい長野県系の研究者の善光寺ネタを元に栗田を語るだけで
上杉時代をいまいち理解してないで書いてる感が激しいし
当然だが信濃に戻ってきた栗田を贔屓目し、
水戸に行った栗田を黙殺してるに等しい扱い。
559 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 17:19:49.41 ID:1CBXRb0F
栗田刑部が普通にいる時点で、一族が殺されたなんてことはないと思うがね。
560 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 17:20:05.28 ID:seMvuT1y
小林氏はちゃんと水戸の栗田家について言及してるよ。
両氏ともきちんと上杉氏時代の栗田氏(永寿)について史料にあたられてると思う。
栗田の一族が謀反した可能性は否定できないけど、自分は刑部じゃないと思うんだけどな。
しかし今回水戸の栗田の仕官に宇佐美勝興が絡んでたのは初めて知ったよ。
あの偽宇佐美の勝興がこんなところで登場するとは。
561 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 17:37:26.37 ID:U+0dZEmV
米沢藩が編集した紹襲録に栗田刑部が殺されたと書いてあるなら
これはもう否定しようがないだろ。
水原の仕官した大老の若狭酒井と栗田子孫の仕官した庄内酒井と上杉軍学の宇佐美と一緒の水戸徳川か。
そういや例のサイトに栗田の子孫が水戸光圀と一緒に大日本史を編纂したとか書いてるね。
562 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 18:13:39.26 ID:seMvuT1y
紹襲録は近世になって米沢藩で編集されたものだから、
研究者は、同時代史料と比較したり、扱いには慎重さが必要としてる。
しかし、伊達の話からズレさせてしまってすみません。もう消えます。
563 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 18:39:34.81 ID:AB46rauQ
直後の、さして偽書とも思われぬ書状に栗田刑部の
名がある以上、江戸時代の編纂ものにあるからとい
うのは理由にならないな。
栗田刑部は対伊達の後詰めになってるので、生きて
たかどうかは重要。二つの書状、特に本庄への書状
を偽書としてしまうと大変なことになる。この時の
上杉の方針がかかれたものとして諸書で用いられて
いるからだ。
564 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 18:46:29.73 ID:U+0dZEmV
上杉家記は上杉への全面土下座の最上義光文書とか
原文書無しの怪しげなものがいろいろ多いから・・・
565 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 22:46:47.35 ID:1CBXRb0F
サブって最上の書状を偽文書視してただろうか・・・。
566 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 23:35:55.70 ID:seMvuT1y
消えるよといいながら、気になったんで・・
>永寿の孫が影響された軍記って1680年以降の東国太平記のことだろ?
>しかしこれの元ネタになった水原の口述筆記録は1620年以降とされてるから
高橋修氏の「異説 もうひとつの川中島合戦」によれば、
「東国太平記」は、寛永元年(1624)杉原親清が筆記したのを 国枝清軒が延宝8年(1680)訂正したものとなっているが、
実は宇佐美勝興の子定祐が名前を伏せて作ったものらしい。
偽文書の白眉ともいうべき「宇佐美家文書」を作った勝興といい、
この宇佐美親子の名前が出てくるとちょっと胡散臭いんだよなあ。
567 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 01:13:39.68 ID:xWaC5SL9
異説 もう一つの川中島合戦ってたかが800円風情で大衆迎合本でしょ…単に奇をてらっただけだろ。
568 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 02:02:01.35 ID:kIYzP2wx
そういうのは反論にならない。
569 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 02:42:53.33 ID:xWaC5SL9
はっ?なるだろ。論文でも学術書でもない。なんら責任がない本じゃん。
そもそも幕府大老の酒井忠勝を相手にわざわざ捏造する理由はなんなの?
紀州藩や水戸藩で宇佐美がやったって主張するならまだ理解できるが
若狭酒井でやる動機がまったく意味不明で単なるこじつけレベルなんだけど。
570 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 03:18:12.58 ID:MG4Thx/1
本や論文の評価は先行研究としてどれだけ引用されるかだと思うけど、
高橋氏の「異説〜」は丸島和洋氏の新刊「戦国大名武田氏の権力構造」でも
甲陽軍鑑の刊行と流布の事情を明らかにした研究として引用されてたから、
研究者には、それなりに評価されてるんじゃないの。
571 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 03:51:03.39 ID:MG4Thx/1
本や論文の評価は先行研究としてどれだけ引用されるかだと思うけど、
高橋氏の「異説〜」は丸島和洋氏の新刊「戦国大名武田氏の権力構造」でも
甲陽軍鑑の刊行と流布の事情を明らかにした研究として引用されてたから、
研究者には、それなりに評価されてるんじゃないの。
572 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 05:21:29.04 ID:IMdCvtou
栗田について書かれてるわけでもないのに、なんでそんなに自信満々に
まったく関係ない話を栗田に結びつけようと必死になってんの?
「実は〜らしい」ってなにそれw
そもそも杉原親清=宇佐美定祐とデッチあげないと成立しない話じゃん。
だいたい1000円以下の本ですごい証明力あるなら論文や学術書とかもう必要ないじゃんw
573 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 08:13:21.68 ID:kIYzP2wx
いつものサブだけど、読んでから批判しようや。
値段が高くても自分の考えと違うと「読む価値なし」と言い切ってしまうし。
この本に限らず、宇佐美が怪しげなのは上杉好きの間では一般的だと思うがね。
574 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 02:00:08.19 ID:mgnweUsw
25日付政宗書状
昨日24日 白石表相働き候。かねて御意の如く その表直に相通る覚悟候ところに
かの城堅固に相抱え候 然れば夫丸以下通路不自由たる躰見届け候間 即昨日申し付け〜
上方から相馬領経由で北上した政宗はひそかに白石を通過して伊達領へ帰り
北目城に伊達軍を集結させ、白河口の徳川軍の北上に呼応南下予定だったが
白石の防備が堅固でとても通過できそうにないから伊達領へ行くのを諦め白石城を単身攻め取った。
すると強い抵抗も受けずに降伏し、そのまま伊達軍に加わる城主登坂氏。
このことは家康の作戦に背いた抜け駆け行為だったので政宗は家康へひたすら弁解した。
575 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 21:04:11.37 ID:rNL7T5rE
ようやくsubが白石密約というトンデモから抜け出したか。
めでたい。
576 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 15:10:38.11 ID:T7cyHbB5
>>548 光成氏は文書を丹念にあたっており
10/2広家宛長政書状や10/3広家宛長政書状や10/3長政・正則宛広家書状も
原本が吉川家にも黒田家にも存在しないから広家もしくは岩国藩の捏造偽書状と断定するなど素晴らしい指摘をしてるよ。
>>574 光成氏はその文書から「強い抵抗を見せずに降伏した登坂がそのまま伊達軍に加わった点から内通していた」可能性を指摘して暗に密約を匂わせているね。
さすがにこれ以上踏み込むには旧態然の学会の目から時期が早すぎると判断したんだろうね。
また家康の白河侵攻を前に計画に背いた政宗が家康へ弁解してたと言い訳して誤魔化してることを指摘している。
直江としても白河侵攻前に政宗との間を安定させておきたい以上は白石城譲渡はこのタイミングがベストだろう。
577 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 00:50:59.68 ID:HyTxSKJm
>>548 >光成氏は文書を丹念にあたっており
そして、栗田刑部は死んでいないという見解を示しているね。
>そのまま伊達軍に加わった点から内通していた可能性を指摘
登坂を事前に調略していたのではないかという指摘であって、密約
なんてアホな話はしていない。
578 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 00:53:53.95 ID:0usZulqt
吉川家は自らが大名となることを拒絶してまで
毛利本家の危機を救ったとする内容を偽作する動機は十分あるからね。
対して、光成氏はここで話題になってる本庄文書に関しては、偽作かどうかを問題にしてない。
関ヶ原前夜の上杉氏の動向について考察している中で、
会津討伐のきっかけを作ったとされる藤田出奔事件に着目し、
藤田の経歴、藤田が唯一兼続に対抗しうる存在だったが、
会津では辺境の地に配置されたと、出奔の理由を考察してる。
そして栗田刑部に関しては、会津では信州侍の中で栗田より大身の芋川氏を逆転しており、
冷遇されていたとは言えず、原本が確認出来ないため断定できないが例の本庄宛て文書から、
栗田刑部は白石城の後詰として在陣している可能性が高く、
光成氏は出奔した事実はなかったと考えられるとしてる。
白石城に関しても事前に調略により内通させていた可能性もあるとされていたけど、
その後兼続は白石口へ出陣し、政宗と雌雄を決する覚悟を示したと書かれてたし、
自分は密約を匂わせるような感じは受けなかった。
本の解釈はひとそれぞれなのかも知れないが、
時間があれば「関ヶ原前夜」読んでみて。
579 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 12:41:27.32 ID:985muy5S
>>577>>578 >>564 原本も無い上杉家記の写しは偽造の可能性が高く
>>561で米沢藩自らが殺したと書いてる。
家康に味方しようとした栗田を殺したことに不都合が生じないように捏造した。
そもそも
>>521の栗田が殺されたとの部分の論点において
>>522は栗田の叔父や甥のについての関係を知らずに書いてる為に墓穴を掘っただけの話でしかない。
その後に
>>522などで詳細を追及されるとひたすら逃げ腰になり自演で説明を拒絶しまくり。
>537などでウソを指摘されまくり
>>539や
>>545でついに説明されると必死に曲解弁護を開始。
白石に関しても帰国途中の政宗が白石が固い防備で通過できないから落城させたと言う不自然な記述で
しかも家康から上杉との内通を疑われない為の言い訳をしてるわけだ。
そもそも相馬領から伊達領に直接出ればいいだけなのに
なんで遠回りして白石を通過したんだよ。
上杉側と政宗の会談があるから上杉領に足を踏み入れたんだろ。
内応にしろ調略にしろ、結局は上杉側との折衝を表しているだけじゃないか。
580 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 14:22:02.84 ID:HyTxSKJm
>>579 『紹襲録』を全否定するつもりはないが、軍記物の影響を受けている可能性がある。
また、『上杉家記』による捏造の可能性が高いとする根拠が不明。研究者たちは普通に
用いている書状。木村徳衛氏は『栗林』と誤訳しているけど。「紹襲録に書いてあるじ
ゃないか。でも不都合が生じないように文書を捏造した」は矛盾している。
>上杉側と政宗の会談があるから上杉領に足を踏み入れたんだろ。
>内応にしろ調略にしろ、結局は上杉側との折衝を表しているだけじゃないか。
脳内ソースではなく、史料を示してはどうかな。上杉はずっと伊達に警戒しているし、
密約なんてものが存在したことを示す史料を見たことがない。
せっかくおかしな話をしなくなったのかと感心したが、結局変わらずか。
581 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 14:41:02.14 ID:aD+pCRVw
あの文書は上杉編年文書にあるものかな
新潟大学のグループがまとめた関連文書の目録にも入ってたし、
偽造の可能性が高いというのは初めて聞いた。
そのように指摘している論考が本当にあるのなら提示して欲しい
曲解といえば
>>576だろう
582 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 15:14:04.47 ID:985muy5S
まっぶっちゃけ佐竹と相馬と上杉と伊達がつるんでいたから相馬領を政宗は通過できていたのは明白だけどね。
しかし
>>580>>581自演してまで必死になることかよ…論者の語ることをすべて鵜呑みにせず取捨選択することは大切だし
研究費の金の出どころへの配慮や
権威ある古い頭の先輩方に真っ向から否定できない学会で光成氏が白石において調略と内応を指摘したのは大きな勇気ある一歩だろう。
そして政宗が南部領で和賀一揆をさっそく蜂起させて家康の会津征伐計画を崩壊させようとしてたのがわかる。
583 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 15:23:46.08 ID:HyTxSKJm
>>582 >>574、
>>576がサブの自演なのは関ヶ原スレと比較すれば明らかだけど、
>>581は
>>580の俺がいちいちID変えて発言する内容でなく、連投でもいい
内容でしょ。
>権威ある古い頭の先輩方に真っ向から否定できない学会で光成氏が白石において調略と内応を指摘したのは大きな勇気ある一歩だろう。
学会についてどうとらえているか知らないが、白石合戦のような局地戦について新説唱えようが、大方は「あっそう」くらいのものだよ。
とりあえず史料を示しては?密約の根拠を。
最上表の混乱は「内府ちがいの条々」だし、仮に一揆が理由で南部が帰っても会津征伐計画自体は崩壊しないよね。
584 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 17:24:30.93 ID:aD+pCRVw
すいません
自分はただ
>慶長5年8/14「水常・栗刑が二本松在陣」(読史堂上杉家記)9/3「栗刑も招くべき」(本庄文書上杉家記)
>原本も無い上杉家記の写しは偽造の可能性が高く
9/3の文書は出典は「上杉家記」じゃなく、「編年文書」ですということを言いたかっただけです
585 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 18:01:17.44 ID:985muy5S
安東氏に内府たがい条とする前田・長束・増田連署の激文が届いたのは
8/21付けの家康帰陣命令以降だよ。
そのため帰国中の実季らは激文を読み六郷や由利衆と百三段と言う地で起承文を交わしてる。
だから諸将が色めき立て見え候したのは
早くても9月以降の話で
直江が岩井に宛てた南部に関する話は完全な予言であり
予言で無いなら直江は政宗が南部で和賀一揆を起こすことを知っていたことになる。
586 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 18:25:51.62 ID:985muy5S
直江の岩井宛8/12の書状において南部撤退を予言し、
8/13に政宗は最上に在陣している南部に一揆勃発したんだって?などと書状出してる。
完全に両者はリンクしてる。
587 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 20:35:02.47 ID:HyTxSKJm
>>585 直江は「上方の情報を聞いて仙北・南部が帰国したため、最上が正体なく
取り乱していると(誰かが)伝えてきた」と書いていて、予言でもなんで
もない。8月4日の書状では、「昨日奉行衆の連署状が到来」とあり、さら
に「諸国へ奉行衆からの書状の写しを送った」と書いている。7月中旬に
発せられていることを考えても、一カ月以上経過してから最上表に届くな
どということは普通ではありえない。
588 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 20:55:30.48 ID:985muy5S
>>587 有り得ないも何もない
実際に届いてないんだから。
最上は家康の江戸への撤退を極秘情報としており
最上表に集結した者達への情報統制をして各関を封鎖してたからだろ。
軍記でも関を守る最上家臣が最上表から撤退する大名の通過を許さずトラブルを起こしている記述があるくらいだ。
589 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 21:03:17.26 ID:HyTxSKJm
>>587 届いていない根拠は。
最上自体、上方の様子を聞いたら上杉に屈服する書状を送っているのに。
590 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 21:03:37.21 ID:HyTxSKJm
591 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 09:06:16.56 ID:3AF7SKOw
8月4日 小田切安芸ら宛て直江書状で、3日に奉行衆の連署状が届いたことが分かる。
さらにそれは諸国に送られていたことが分かる。
8月8日 秋田が「先以」帰陣することを江戸に報告する。
(江戸の許可を待っていたとすれば9月10日までいたことになるがその後を見ると
有り得ないと思われる)
秋田はのちに「直江の添え状付きで内府ちがいの条々が回ってきた」と回想する。
「対決之次第」は江戸との書状のやりとりは日付が具体的だが、その他は日付がない。
これを以て内府ちがいの条々が家康の帰陣許可より後と考えるには根拠が薄い。
同時期に南部も帰陣を江戸に報告している。
和賀一揆発生なら南部だけが帰ればいい話で、諸将が帰陣を始める必要はない。
8月12日岩井宛直江書状「南部・仙北が帰陣し、最上が正体なく取り乱している」
8月13日最上と南部が「上杉中納言様」に対して疎意のないことを起請文で交わす。
上杉は家康とともに豊臣政権の東国のまとめ役であり、「内府ちがいの条々」で
会津征伐が中止になったこともあり、この文言は違和感がない。
対して別説では「上様・中納言様」とするが、時期に家康を「上様」と呼ぶ史料
はない。江戸時代に捏造するとしてもわざわざ「上杉中納言」に変える必要性は
なく、むしろ一部で「上様・中納言様」に改変されたととらえたほうが自然。
この後、諸将と最上は起請文を交わし、お互いに裏切らないことを約束する。
8月18日最上は直江にへりくだった書状を送る。諸将が帰陣し、孤立する中で書いたと考
えることができる。
9月3、4日に安田や本庄に宛てた直江書状を見ると、最上が兵を出すなり、人質を出すな
りの条件について期限の延期を懇望してきていることが分かる。
すでに最上表に集まった諸将の話はしていない。
10月18日秋田宛て六郷書状 南部で一揆が発生し、利直が出陣していることを知らせる。
最上表にいたときには、彼らは南部の一揆を知らなかったことになる。
592 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 10:17:47.66 ID:TUmWfydk
8月内に連署状が最上口に集結中の出羽諸将らに届いた証拠は全くない。
直江は伊達の和賀一揆で瓦解すると思っていたが小野寺や由利衆は上杉側に立たなかった。
安東が言うには小野寺が上杉側に立つのは内府たがい条が届いた時にそのまま色を立ててとある。
事実、安東が9/27に榊原に送った書状になって初めて小野寺が上杉に味方したと通報されている。
8/8の安東書状には撤退について書かれてないのを8/22榊原書状に撤退について書かれてるからと捏造するのは
そろそろ止めてくれないか。
その書状は8/21の家康の帰陣命令書状の添状であり、家康の帰陣命令について触れた部分を無理やり8日書状への返書に捏造解釈すんなと何度か指摘しただろ。
安東は蔵入地からの兵糧使用について8月いっぱい請求しており少なくとも8/28までは安東兵の一部は最上領内にいた。
ちなみに8/12付直江予言書状に沿う8/19付の六郷氏・小野寺氏・南部氏宛家康帰陣書状は六郷が8/21帰陣書状と重複するなど直江の偽造ではないかと指摘されている。
8/13の南部最上起承文は18日戸沢19日本堂と同じ文面の雛型で日付と署名のみ違うだけ。
戸沢と交わした8/20義光血判起承文は実際に新庄ふるさと歴史センターで見ることができる。
義光の上杉へのへりくだった書状は上杉家記の偽文なのは片桐氏も指摘している。
593 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 10:39:01.87 ID:TUmWfydk
急度申入候 御当洞中 一揆少々蜂起之由
伝説無御心元候 無申迄候へ共 早々御退治尤に候 若当方境目遊来者 候者則成敗仕 其検可進候由 堅申付候間 可御心安候 先度者御懇之御使忝候 自是も必以使者可申入候 今度者右之仕合無御心元候間 先以飛札申入候 非疎意候恐皇謹言
八月十三日 羽柴越前守政宗
南部信濃守殿御宿所
元南部伯爵家文書
594 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 12:17:15.23 ID:3AF7SKOw
>>592 君はさんざん片桐氏を馬鹿にしていたのに、栗田刑部の話から急に持ち出すようになったな。
もともと弱気な書状についても偽文書だとは言っていなかったと思う。
見解が変わることもあるのでそれは構わないが、そうであれば研究者を軽々しく馬鹿にする
ものではないよ。
>直江は伊達の和賀一揆で瓦解すると思っていたが小野寺や由利衆は上杉側に立たなかった。
直江は上方の情報と最上表の崩壊を関連付けており、和賀一揆は関係がない。
>直江の偽造ではないかと指摘されている。
誰が指摘しているのか不明。
>8/22榊原書状に撤退について書かれてるからと捏造するのはそろそろ止めてくれないか。
「最上まで御出陣候へ共、先ず以て御帰陣の由尤もの儀に御座候」
ちなみに兵糧の使用の話をするなら8月いっぱいまで最上領にいたというより、28日には帰国
したということでしょう。これは出陣したうち1500人の話で、2千人は15日には帰国を終
えている。また、この史料でも、家康の許可が届いた9月9日または10日まで帰陣を待ってい
ないことが分かる。
>8/13の南部最上起承文は18日戸沢19日本堂と同じ文面の雛型で日付と署名のみ違うだけ。
これは上様も上杉も書いていない、お互いに裏切りませんというほうの話だね。
白石合戦前は上杉方も伊達の動きを警戒しており、白石を奪われたあとも反撃の機をうかがって
いることが複数の書状で裏付けられる。密約説はこれらの書状を全て否定していかなくてはなら
ず、トンデモ以外の何物でもない。
595 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 03:03:38.55 ID:HhwRnb72
>>594 義光が最上領の情報統制を布いていたので最上表の諸将に上杉からの情報は届いてない。
(最上の番所の丹野与惣右衛門が南部らの撤退を止めたと言う軍記の話もある)
もし届いていたとするなら最上口との書状往来が可能な
政宗が米沢表攻撃軍瓦解を策して8/13和賀一揆情報ともども情報を流した以外に考えられない。
>>19日付直江の偽造指摘
>>8/22榊原書状は8/21付家康の帰陣命令の福状>>同じ文面の雛形
これは金子拓氏。詳細はすでに長谷堂スレで説明を書いてるからそっち読め。
そもそも8/22付で政宗にも100万石加増書状を出すなどこの辺りから家康も必死になってきてる。
>>許可が届いた9月9日または10日まで帰陣を待っていないことが分かる。
いや俺はそんな主張した記憶ないし。8/21付家康帰陣命令書が届いた後に
内府たがい状が届いたのが百三段(秋田市)という場所で六郷氏と一緒だったと書き
そしてそれを読んで色をなして挙兵した小野寺を証明するのは9/27安東書状だと書いただけ。
小野寺も天童までやってきていたが内府たがい条が届くや湯沢城攻め開始。
政宗も9/29付で近日仙北からも最上が攻められていると書いてるので
小野寺挙兵についての日付にそう誤差はないだろう。
>>白石を奪われたあとも反撃の機
そりゃあ直江も機密情報に関して謀略的フェイクもするだろう。
596 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 07:48:33.74 ID:BxiB8wLX
>>595 >金子氏の関が原合戦『慶長五年奥羽合戦』
『』は普通書名に使うのでそんな本があるのかと驚いたが、『横手市史』に
原稿を書いているということかな?何度も言うけど、南部の一揆で諸将がみ
んな帰るのは不自然。
>内府たがい状が届いたのが百三段(秋田市)という場所で
対決の次第で言いたいことは「家康の書状が届いてから帰りましたよ。内府
違いの条々は帰国途中に届いたんですよ」ということだと思うけどね。
許可を得て帰国したことを強調し、9月9日または10日に家康や榊原の書
状が届いたのに、9月上旬に榊原へ直江の書状を送ったと言っている。
秋田は榊原の書状が10日に届いて11日に返信しようと思ったけど、南部
が人止めしていて送れなかったと言い訳をしている。最上にも同じことを言
っているけど、上方の情報が届くまで態度を明確化しなかったものと考える。
>そりゃあ直江も機密情報に関して謀略的フェイクもするだろう。
直江の書状の数々を全部直江のフェイクにしなくてはいけないのが密約説の最大の障害。
全く根拠がなく、強引な史料の解釈に基づかなくてはいけない。
直江が家臣に情報を隠す必要性がない。むしろ堂々と伊達が上杉の味方だと宣言し、追
討軍を混乱させればいい。ちなみに直江は白石合戦の前に相馬方面に使者を送ったが、
伊達方金山城の草に書状を奪われ、さらにこれを奪い返している。
597 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 11:21:54.82 ID:cGFVMJ0c
上杉軍には佐竹や相馬や宇都宮から参加しての最前線幹部が多かったら
味方になったと言っても転封後や慶長5年からの人物も多いし
政宗から家康には秘匿してもらいたいと佐竹のような水面下同盟条件なら当然に秘する必要が出てくるんじゃないかな。
しかも偽書状の存在もかなり指摘されてるからね。
安東の主張する内府たがいの条の到着と小野寺挙兵時期を考えれば
直江の出した書状は最上に止められていたと考えるのが自然だろうね。
政宗の一揆情報で帰ったのは南部のみで
内府たがい条が最上表に届かなかった為に小野寺・由利らが撤退せず
直江の次の手として今度は最上領の書状通過のために19日付けで家康からの帰陣を偽る書状を出したと。
これは江戸から出す21付け帰陣命令と違ってかなり早く最上表に届いたはずだ。
これを受けて最上口の動揺が始まったことで一部兵の引き上げが開始された。
よって直江が9/4に2〜3日中に最上の返答次第で山形侵攻決定すると言い始め
9/8の山形侵攻開始は安東の最上領からの撤退完了情報を得て発動されたとみるべき。
そして直江の山形侵攻が円滑に進み
最上の領内の支配力が落ちたことで内府たがい条が安東や小野寺に届くようになった。
598 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 11:50:28.99 ID:cGFVMJ0c
少なくとも史料からわかる部分だと
山形駐留は最低でも
13日までは最上領にいたのが南部
(政宗の一揆情報が届き次第帰る)
19日までいたのが起承文を出した日付から本堂
20日までいたのが起承文の義光返書を貰った日付から戸沢
安東は蔵入地請求より月内までいたが上杉領庄内攻めによる転進を口実に21日付家康帰陣命令書状到着以前に帰る。
おそらく安東・六郷・戸沢・本堂・小野寺の最上からの撤退開始時期も
共同歩調で8月末〜9月頭だったのではないか。
そして家康の状況が不透明なために
いつでも最上表に戻れるように様子見しながらゆっくり帰陣して情報統制下の最上領から出るや情報精度を高めるための情報収集開始。
撤退した彼らにとって騙されてしまった言い訳ができる書状があれば直江の偽書状でも構わないのだから。
599 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 12:20:26.72 ID:ahxUykvo
伊達が景勝を長尾と侮辱したことはないの?
世代は変わるが武田や北条はそう侮辱したことあるらしいけど
600 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 12:21:39.90 ID:cGFVMJ0c
直江が政宗に家老人質を出せと交渉してるのも
佐竹や相馬らが車丹波や泉胤政を上杉軍に参加させたように
伊達から上杉に将を出させれば
ハッキリと伊達は上杉に着いたと世間に公表できるからだろうと思うね。
上杉と密約している政宗に対して
白河攻めを断念した家康は伊達家臣に百万石加増約束して引き留め工作に必死になった。
601 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 12:29:42.62 ID:cGFVMJ0c
>>599 互いが名分を認めずに争っていた時代はとっくに終わってて、
慶長4年閏3/13満願寺→厳島神社の書状で
家康+七将クーデターに対抗して「殿様(毛利)と長尾殿御あつかいにて相調い候」と書いて毛利と上杉が共同で対処して解決したのを吉事と喜んでるから
別に長尾と書くのは悪口じゃないよ。
602 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 14:01:04.21 ID:2zHNFpI+
>>600 上杉は白石の防備しっかりやるよう命じており、
九月まで和睦の話は出ない。自分一人で考えるの
は自由だが、密約なんて話を定説のように語ってはいけない。
603 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 14:11:14.51 ID:cGFVMJ0c
だって甘粕は白石城兵を率いて白河へ行ったし
その間に丸腰の政宗と上杉側との調略の結果、
登坂が上杉側の人質として政宗に明け渡したんでしょ。
ただその合意は伏せられていたから
それを知らなかった白石城にいた上杉側の大崎や葛西の残党が伊達に降るの嫌だって反対して三の丸とかに籠もったからそいつらを討ちとっただけの話でしょ。
604 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 14:21:23.57 ID:2zHNFpI+
全く根拠はないよ。
甘糟が防備の監督に向かったのを密約の話をしにいった
などと誤訳してはいけない
605 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 14:39:39.00 ID:cGFVMJ0c
>>604 少しは妥協して歩み寄る態度を示そうよ。
そろそろ話をまとめて決着をつけた方がいいよ。
606 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 15:04:23.82 ID:KqRlPC6j
subの癖に歩み寄りとか言ってやんの
607 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 15:12:16.03 ID:2zHNFpI+
歩み寄りって…。上杉の史料では家康反転後まで
ずっと臨戦態勢なのに、伊達にうまく翻弄されて
ただで白石を渡したなんていう伊達厨大喜びの珍
説に賛同はできないでしょう。
608 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 15:44:00.55 ID:cGFVMJ0c
>>607 厨とかそういう立場に根差した態度では心の目が曇ってしまい史実は見えてこないよ。
みんな右か左のどちらかだけにハッキリ決めた立場ではなかったんだよ
609 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 17:01:02.76 ID:2zHNFpI+
厨呼ばわりはよくないよね。
subにはその自分の言葉を胸に刻んでほしい。
ただ、俺が言ってるのは上杉を騙して結局味方にもならないのに
白石城を奪ったなんて伊達を誉めすぎだということ。
上杉はそこまで伊達を信用してない。
610 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 17:17:25.83 ID:HhwRnb72
論破されると誰でも彼でも自分の意見に沿わない人間を
みんなsubなどとレッテル貼って自己正当化する汚いやり口をするのは良くないね。
その言葉を胸に刻み込んでほしい。
三成らも7/29の時点で伊達も味方だと言ってる。
611 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 17:38:10.12 ID:2zHNFpI+
明らかにsubでしょ。
subだから反論が必要ないとは思わないが。
三成は帰国時に秀頼に忠節を誓うと政宗が
言っていったし、人質もいるから仲間にな
るだろうといっているだけ。
612 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 17:51:58.20 ID:HhwRnb72
三成たちの味方であると「相い〆め申し候」と確約しているのがわかる。
613 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 23:25:50.59 ID:HmjcfB9/
そもそも政宗は大坂城で人質になってる愛姫と0才忠宗
豊臣秀頼のお側小姓で秀家邸にいた8才の秀宗のことが心配で
ずっと西軍だしなぁ。
家康に買収された家臣団が東軍派だったから
減封されずに済んだだけだし。
結局、関が原の伊達は佐竹と変わらないんだよ実際。
614 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 23:26:38.99 ID:BxiB8wLX
残念ながら相〆申し候は他の書状にもあるように、仲間だと言う誓約を交わした
ということではなく、人質を取ったと言う意味。
615 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 00:18:38.43 ID:Ajsumpdp
いやいや「誓う」とか「示し合う」って意味だから。
616 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 02:45:52.46 ID:rpV1tbKF
>>615 毛利、宇喜多の書状も見ればよくわかる。
「上方の事一篇に申し合わせ、妻子悉く相〆め候」
奉行衆連署状も
「美濃伊勢手先の城々には加勢を入れ、自身のことは申すに及ばず、家老まで
人質を相〆申候」
「伊達・最上事も大坂に自分の妻子は申すに及ばず、家老まで悉く妻子これ有
るに付きて、相〆め申し候」
617 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 03:29:11.01 ID:pptktEE3
妻子をことごとくとった。
家老まで人質をとった。
妻子もこちらにある事もあり(伊達と)示しあった。
618 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 07:36:05.60 ID:rpV1tbKF
>>617 最後だけ意味を変えるのか。斬新だな。
そういえば別のスレでこの奉行衆の書状の読み下しと意味を求めても
subから回答がなかった。君は
>7/29付書状の伊達や最上については景勝談じ申し候者と書いてあり、
>景勝から直接確約を得た話で
>人質の件は追加情報でありさらにそれを保証する話。
と書いていたが、
「貴殿のこと、太閤様が格別に目を掛けていたのを忘れていないのなら、
此の節は秀頼様に忠節を尽くすことです。其の上、景勝も味方なので
(または真田と景勝が相談して関東を攻撃すると)関東はすぐに破滅
させられるでしょう。伊達・最上のことも、大坂に自分の妻子は言う
に及ばず、家老まで悉く妻子がいるので、人質にとっています」という
意味で、景勝が確約を得た話ではない。
619 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 08:42:53.72 ID:pptktEE3
意味変えるも何も元文が上2つと違うんだから用法は自ずと変化するだろ。
620 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 11:45:50.60 ID:gShnXyES
同じ文書、または同日に出された同内容の文書で
同じ文言を一つだけ意味をかえるというのは不自
然だし、人質にしたとの意味で通じるので、仮に
政宗たちと盟約を結んだという内容だとしたら誤
解を生じさせる。
621 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 12:42:22.99 ID:pptktEE3
だって伊達が味方になるってのは
「妻子だけでなく家臣の人質も大坂にいる事もあり(伊達らと)申し合わせたから関東なんてすぐ破滅だよ」って
それ景勝が相談した話の内容を聞いた奉行らが味方に列挙した理由として真田に伝えただけだよ。
秀家と輝元は上記内容をはしょった短文に過ぎない。
622 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 16:51:25.36 ID:gShnXyES
前にも指摘したが、どう読み下せばそう読めるのかな。
景勝云々は「貴殿」の話にかかわる部分で、「伊達最上」
のことに関わるとは読めないと思うけど。
623 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 17:46:06.75 ID:ZqNFj5Sj
政宗は東西内通してたんだし
そう読んでもおかしくなくね。
だから家康側は伊達家臣買収するようになるでしょ。
8/13に和賀一揆の通報してるってことは
少なくとも5、6日前には和賀に指令を出してないと大きな騒ぎにならんのだから
家康の撤退を政宗が知る以前に導火線に火をつけた可能性は高い。
あきらかに白河での家康と上杉の戦いを支援して米沢口を守る動きだろうね。
なかなか家中の考えが一つだけだったとか考えずらいよ。
多くのルートを伊達が持ってたのは確かだね。
政宗には野望があったが、家臣は保身に走ったというのが実態だろう。
624 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 22:38:36.81 ID:rpV1tbKF
史料上、伊達が東西に通じる動きを見せるのは9月以降で、伊達に限らず
多くの大名が西軍の上方制圧でどう動くべきか迷い始めるのは御存じの通り。
実際に密書の奪い合いや福島方面への兵の増強などをしているのに、密約説
はないでしょう。
和賀一揆の書状だが、青森県史は慶長6年のものとしている。
「白石に出陣している」と政宗が書いているので、おかしいとも思ったが、
ちょうど上杉家の米沢移封直前にあたり、騒乱に備えて白石に兵を出して
いる可能性もある。何かあれば福島をかすめ取ろうと。時期としては若干
早いのだが、南部の諸史料では一揆を9月下旬の発生としていることもあ
り、検討は必要ではないかということ。本当に和賀一揆の話なのか、また
最初から伊達が噛んでいたのかも含め。
慶長5年だとしてもそれが上杉との密約につながるとは思えないがね。
南部だけ引き揚げさせてどの程度の効果があるのか不明だし。
むしろ和賀一揆は政宗が周囲を混乱させてあちこち領土を切り取ろうと野
心を出したということだと思うけどね。上杉を助けようなどという優しさ
ではなく。
625 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 23:18:37.62 ID:pptktEE3
>>624 急度申入候 御当洞中 一揆少々蜂起之由
伝説無御心元候 無申迄候へ共 早々御退治尤に候 若当方境目(外/遊)来者 候者則成敗仕 其検可進候由 堅申付候間 可御心安候 先度者御懇之御使忝候 自是も必以使者可申入候 今度者右之仕合無御心元候間 先以飛札申入候 非疎意候恐皇謹言
八月十三日 羽柴越前守政宗
南部信濃守殿御宿所
元南部伯爵家文書
御宿所宛てとなっているのは山形に滞在しているからに他ならず、
慶長6年と言うのは有り得ない。
626 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 23:29:34.76 ID:pptktEE3
内々御床敷存 先達従是も 為使者申入候処
御使札忝候 即御報可申入処 他行仕昨夜中帰宅之故 令延引候
其元一揆之者共 無異儀被仰付之由 肝要に候
此度之一揆に此方之百姓も 少々相加之由 言語道断沙汰之限に候
併稗貫其外 以下之者共 互根本好味之有筋目少々まかり越候哉
努々於此方不存事に候 境目之者共も 何も家中以下召連 白石表在陣仕之間 是又曾不存候
今度以注文承通 則此方相払可申候 具に書中に不被申候条 委細口上に申渡候間 不能一二候 恐々謹言
九月四日 羽柴越前政宗
南部信濃守殿 御報
この続報により和賀一揆であったのが確定する。
さらに伊達関係者も絡んでいる言い訳を始め
そのアリバイとして白石に出陣してると書いている以上は慶長6年と主張するのはあなたも自覚しているように無理やり過ぎる。
むしろ白石城譲渡と和賀一揆がリンクしている交換条件であったとする証拠としての一級の一次史料と言える。
また御宿所と書かれていないので
この時点で南部軍は自領に帰っていたのも判明する。
そもそも青森県史の制作時期はあまりにも古すぎて役に立たない。
627 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 23:29:49.48 ID:rpV1tbKF
御宿所が山形だとは断定できないでしょう。
9月4日南部宛、9月20日本多正信宛でも一揆の話をしているが、
本多宛は確実に慶長6年だから青森県史はそっちにしているのだろう
と思う。南部家は和賀一揆が9月に発生したとしているしね。
628 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 23:36:00.73 ID:rpV1tbKF
>むしろ白石城譲渡と和賀一揆がリンクしている交換条件であったとする証拠としての一級の一次史料と言える。
どさくさにまぎれて何を言っているんだ。
どっちみちこの書状と譲渡とは関係ないからどうでもいいが、青森県史はかなり新しそうだったぞ。
629 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 23:40:42.59 ID:pptktEE3
また政宗8/13書状は直江8/12の南部撤退予言にリンクする話であり
明らかに政宗と直江が示し合わせているのが発覚する。
政宗が南部へ和賀一揆通報を報ずるタイミングを思案するば
>>623の発言は充分に可能性があると言えるだろう。
よって三成ら奉行が伊達が味方だと書くのは無理のない自然な発言だろう。
そもそも三成らが書いた諸国の大名たちの情勢記述にはそれ程の間違いはないのだから。
630 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 23:46:46.71 ID:rpV1tbKF
>また政宗8/13書状は直江8/12の南部撤退予言にリンクする話であり
何度も言わせるな。日付が近いだけでリンクしない。直江は上方の情報が届いた
から混乱しているといっていて、一揆には触れていない。
ちなみに9月4日の政宗書状が慶長5年のものであれば、密約がなかった証拠になる。
直江の9月3日付本庄宛覚と内容が一致するからだ。直江は本庄に伊達との和睦が整った
ことを伝えている。政宗書状は白石の軍勢を引き払うと言っている。
逆にそれまでは和睦、ひいては密約などなかったことになる。
>よって三成ら奉行が伊達が味方だと書くのは無理のない自然な発言だろう
そう主張したいのなら読み下してくれ。
631 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 23:49:06.38 ID:pptktEE3
和賀一揆を扇動した政宗が嫌疑にかけられているのだから本多宛で慶長6年9月20日書状に和賀の件が登場するのは当たり前。
しかし9/4に白石城に家臣たちを連れて出てる話が登場する以上は
これを慶長5年としないと辻褄があわないし
8/13付けが御宿所と書かれていれば当然に会津征伐で最上表に集結している時期に当たるのは明白で論を待たない。
632 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 23:59:33.59 ID:rpV1tbKF
>>631 それでいいんじゃないか。慶長6年に比定しているのもあるよということだから。
なぜ南部の史料は9月下旬の蜂起としているのかという疑問は残るが。
南部の対応も8月に分かっていたにしては遅いし。
633 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 23:59:35.72 ID:pptktEE3
9/3の本庄宛の直江書状は三成ら奉行が書いていた記述が事実であったことが判明する裏をとれた一級一次資料だよ。
そして白石城なんて気にすんなと言ってる理由も公儀のためだと書いており三成らと直江と政宗の関係が白石城譲渡が公儀だとすることで証明してる。
そして秘密裏に行ってきた密約を公然と語れるようになってきたことを表す。
634 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 00:02:12.31 ID:j++DnQyc
>>632 和賀一揆の件で家康の許可なく帰った話を隠蔽するために和賀一揆発生時期を遅らせて
家康による帰陣命令で帰ったとする藩史の捏造ストーリーだよ。
635 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 00:02:41.65 ID:F7K9mxI6
>>633 栗田刑部が生きていたことも確認でき、当時の上杉の方針がよく分かる一級史料だ。
読み下して訳してみて。どうすればそんなぶっ飛んだ解釈ができるのか聞いてみたい。
636 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 00:06:29.28 ID:j++DnQyc
>>635 どう考えてもそうとしか読めない。
あなたは結果ありきの変なフィルターに影響されすぎ。
栗田には甥と叔父がいることも知らずに書いていたのもあなただったか。
637 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 00:13:56.13 ID:F7K9mxI6
君は栗田の話をしている時は上杉家記の捏造だと話していたね。
今の話題に関係ないからどうでもいいけど、栗田刑部が2人いるだ
なんて今でも思っていないよ。
ちなみに訳すと
「奥口(伊達方面)和睦の儀は、両使が相談して成立しそうだ。何度も言っているように
不満なところはあるだろうが、天下へ奉公と思い、白石などのことには構うことなく、
公儀さえよければ伊達との和睦をまとめるのがいい」
まだ和睦が完全には成立していない様子で、とても何カ月も前から密約を結んでいたようには見えないが。
しかも最後の条文では、最上の態度次第では(恐らく最上がすぐに屈服したら)伊達方面を攻撃するとも
言っている。伊達を怪しんでいる様子も見えるが、直江も狸だよ。
638 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 00:16:53.55 ID:j++DnQyc
>>637 あなたの脳内妄想の都合上そう解釈しないとならないんだろ。
そろそろ妥協して歩み寄りしたらどうだ?
こちらは初期に比べたらだいぶ君に妥協したはずだが。
639 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 00:21:33.41 ID:F7K9mxI6
君の豊富な知識は買うが、新史料でも出てこない限り、今ある史料からは
明らかに間違いだと言える白石城密約譲渡なんてSUB以外唱えていないのに
妥協なんてできないよ。
別に意味が何通りもある文ではないし、これが一般的な解釈だと思うよ。
脳内妄想の都合上そうしないといけない解釈と指摘するなら、自分も訳して
みてはどうかな。
640 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 00:26:56.41 ID:j++DnQyc
立場の違いからくる解釈の違いなんて論じても仕方がない。
俺は妥協しようと言ってるわけ。別に俺の意見が絶対なんて言ってないから譲渡してきたじゃないか。
君ももっと物分かりよくなった方がいい。
議論とは対立を先鋭化さするのではなく
妥協と歩み寄りによる生産性ある結果への道程だ。
641 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 00:33:46.83 ID:j++DnQyc
そもそも刈田郡譲渡されたからこそ
家康の目が届かない西部の湯原城では伊達軍が接収にきた際に
上杉軍自体が滞在してなかったじゃないか。
なんで上杉軍がいないんだよ?おかしいじゃないか。
642 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 00:34:51.64 ID:F7K9mxI6
立場の違いも何も関係のない、シンプルな文章だと思うが。
もはや密約譲渡説は捨てたほうがいい。
トンデモ説を抱えていると結局は他の議論をする上でも足手まといになる。
643 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 01:09:38.68 ID:j++DnQyc
いやいや
>>576の指摘にもあるようだが光成氏も密約の存在をにおわせて旧態然な学会の反応を見ている。
そしてそれに関して批判を受けているようには見えない。
やはり白石城に関してはホンネとタテマエでは認識が違うのが露呈した。
彼らも組織に所属し金を拠出してもらい喰っていかないとならんから
私のようにはっきり言うわけにはいかない忸怩たる思いを感じるよ。
644 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 01:38:12.78 ID:F7K9mxI6
>>643みたいなのはどん引きするからやめてくれ。subなのは明らかだから。
自説に自信があれば他人を装う必要などない。
光成氏は上杉と伊達の密約など論じていない。「兼続は白石城攻略の件を赦免して
でも、西軍勝利のために同盟締結を優先するとしている」と
>>637で述べたのと同じ
解釈をしている。
湯原に上杉の兵がいなかったとは何を根拠に語っているのかな。
645 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 09:07:08.57 ID:F7K9mxI6
伊達の書状を見ると湯原を守備していたのがこの近辺の土豪のように見えるが、守備していた
「譜代」が伊達の威光にあっさり降伏したことを強調することで、本来自分のものだというア
ピールの意図もあるのでは。接収と言っているが、この時期すでに政宗は上杉との戦いを決意
しており、接収というよりは隙を突いての攻撃ととらえるべき。米沢周辺の兵が少なくなって
いたのは確かだが、それは軍勢の多くが最上攻めに向かったため。伊達と和睦して甘く見てい
た部分はあるだろうが、それは9月にまとまった和睦によるものであり、白石城密約譲渡説の
根拠にはならない。この時は湯原舘だけでなく新宿舘も落ちており、米沢のすぐ近くまで迫っ
ている。こんなところまで「接収」させるほど上杉は伊達に譲歩しないだろう。
直江は9月21日の安田能元宛て書状で大国を米沢に入れて政宗に備えさせるように指示。
9月22日の清野宛て書状でも大国の軍勢を米沢に入れるよう指示。
景勝は24日に安田筑前ら3人に対し、「米沢の兵が悉く最上へ出陣したので
用心のために米沢へ入るように」と命じた。25日には樋口兼豊に「政宗が境
目に出陣したとのことだが、きっとたいしたことはないだろう」という見通し
を示し、「こちらから軍勢を送っている」と述べている。
つまり米沢周辺の兵が少ないことを危惧して対応しようとしたが、伊達はこれ
に先んじて25日に湯原を攻略してしまった。密約による接収などとは考えられない。
646 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 14:38:17.53 ID:o1FJTZCl
>>直江の7月14日書状、「白石などの事」
これこそ白石譲渡案の根拠でしょ。
わざわざ14日に甘粕を白石へ派遣して、譲渡の仕方を打ち合わせさせてから
さっさと白石から甘粕は兵を連れて白河へ去っていき、
甘粕が去ると政宗が21日には直ちに白石へ出馬するという都合がよい連携行動w
いったいそれ以上に甘粕派遣の意味なんてないだろw
>>9月3日の書状
これだって、白石のことは気にすんな。それより政宗を御同陣させるように交渉してくれ。
もしそれが無理そうでも家老と兵5000でもよいから同陣させるよう交渉継続してね。
あと梁川城は福島城と白石城のつなぎにもなる場所だからって書いてあって
そもそも白石城が伊達との交渉用としての便宜上、譲渡されたことがわかる。
同じ刈田郡でも西部の山深い僻地の湯原城は兵すらいない中で譲渡だ。
だいたい白石落城させておきながら家臣への恩賞に関わる大切な討ち取り人数が数百人とか曖昧過ぎだろw
奥羽永慶ですら白石城での討ち取り人数はまったく明記されてすらいないわけだが
まぁ捏造報告だから曖昧なんだろうが。
商人や鷹匠らによる家康の監視があるから、
最初から密約に基づいて登坂が降伏するわけにはいかないから1日だけちょっと抵抗してみせた自演だろうが。
我等手前抱置候←降将に対する扱いではないな。やはり示し合わせた談合の証拠。
そして誰も見てない刈田郡奥地の湯原城では家康の監視もないので、白石城のような戦うフリもせずに安心して無血開城して伊達にプレゼントしました。
三光録にある白石軍記(白石城攻略)と山中記(白石城攻略後日談で石川義宗の手柄話)と言う軍記を元ネタ種本にした片倉代々記に書いてある内容そのものだ。700人討ち取りのガセもこれ。
もちろん史実にはまったく認定されない妄想話で石川義宗などはとっくに死んだはずの中野常陸介を討伐して政宗から褒められたりする笑える話が書かれている。
それどころか鹿子田右衛門が二本松畠山義継を唆して輝宗を拉致させた張本人の息子だと書くムリヤリ感ある基準が実に講談風だ。
鹿子田日向が畠山家老の子などと言うのは上杉側資料にはないな。
北越軍記では甘粕が会津の妻の訃報で留守、また白石落城では鹿子田日向守171人討ち死にと記すね。もちろんこれも信用性ゼロの軍記だ。
ちなみに福島県史では甘粕が白河の軍議に参加していて留守と断定してる。
647 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 14:47:52.63 ID:o1FJTZCl
さて白石軍記では米沢から白石までの七ケ宿街道を伊達側の野伏達が支配し白石城から
米沢へ向かおうとする鹿子田を襲撃したりしたと書く。
さらに茂庭の足軽隊200にその野伏ら(九代政宗時代からの恩を感じていたとやたら強調)と
湯原城守備を担った住民達(これまた政宗時代からの恩が大きいと強調w)が味方を申し入れ新宿攻略に活躍とのこと。
(新宿城主大畠吉兵衛に人質を取られていた湯原の18人も人質を犠牲にしてまで・・・つか話盛り過ぎw)
さて北越軍談→湯原城で政宗は甘粕備後や岩井備中の前に敗れ渡瀬へ逃走。
政宗→政景9/26「急度申遣候。昨日二十五日湯原へ足軽動申付、彼城即手に入候、内々撫切に可申付候処、
普代の筋を以、頻に詫言候条、身命ばかり相助け引出候、新宿峠まで打かけ、悉く郷村放火仕り」
この政宗の文書でわかるのは、湯原城で撫で切りしようとしたが、住人達が詫びをいれたから助けたのち、新宿城攻めに失敗し村に火を付け帰ったと言うこと。
さらに置賜郡史「米沢地名選」には遠藤盛利の守る新宿城攻撃で大敗した片倉が湯原まで敗走したと言う。
白石軍記などは七ケ宿村の者達が口伝を書いて藩に提出したそうな。 明らかに七ケ村の者達が自分を擁護して伊達の恩とか主張してるし
片倉代々記が新宿城で大敗した話を黙殺してるのがわかる。
和賀一揆を支援した政宗に対して反撃した南部側に花巻で敗れた伊達軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
南部軍は4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破し26日には岩崎城を陥落させ、伊達軍は岩崎が火の海になる中を逃げ惑い伊達領へ壊走した。
その時たまたま家康の鷹匠が現地にいたので南部利直はさっそく井伊直政宛に書状を書いてる。
政宗は家康に対しては、すべて和賀のせいにして無理やり自刃させ、その首を利直へ贈り、あなたの賊は政宗が成敗したから今回の事は水に流して欲しいと哀願。
さらに今井宗薫へ宛て百万石はムリでもせめて堪忍分として十万石でも二十万石でもどっちでもいいから加増させてもらいたいと哀願したと書かれている
岩崎城攻撃は3月から約一ヶ月間。南部の花巻城でのゴタゴタは政宗が山形に兵を送った頃で、
花巻城防衛に南部が成功した後は、関ヶ原終了で南部側も様子見していた。
下手に伊達と大規模紛争したらまかり間違って上杉側と思われるような誤解が怖かったからだ。
政宗から山形へ兵をもらい助けてもらったはずの最上側もさっそく家康に政宗の南部侵攻の暴挙を報告してる。
そのうち雪が降ってきたので岩崎城を放置。 すると政宗が岩崎城の兵力と物資を増強。
3月には南部は伊達攻撃について家康から許可をもらったのだろう。
つまり家康は伊達を東軍とは到底認識しておらず見捨てたにも等しい。
政宗の南部領花巻城攻撃では家康のスパイの鷹商にいち早く知られたと言う。
白石城では狂言の城攻めでうまく誤魔化したと言うことだろう。
648 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 15:00:07.69 ID:o1FJTZCl
この白石城攻めは白石軍記と北越軍記に記されており双方ともに信憑性ゼロだ。
ここではっきりわかるのは、甘粕が伊達の軍事的圧迫を気にせず白河決戦に向け白石城兵を連れて出撃してること。
七ケ宿街道で悠長に野伏が街道をふさいだりなんてことは伊達に対して貢献したとする嘘だろう。
口伝ゆえ信憑性に疑問だが七ケ宿側がいう新宿城主大畠吉兵衛は会津に帰ったのか?
そこには遠藤盛利がいることになってるが遠藤は地元住人なのだろうか。
それとも七ケ村の住人達が大畠の元にいる人質を犠牲にしてまで伊達に尽くしたと主張するのは仙台に対する嘘か?
ただ政宗書状には湯原城に上杉兵がいなかったのがわかる。よって地元住人達が降伏し円滑に受け渡しが可能だった。
つまり刈田郡は伊達との密約で上杉が譲渡する予定だった。 白石城で1日抵抗してみせたのも家康の監視を誤魔化すため。
より奥域の湯原城では家康の目を気にする必要はなく上杉兵は伊達に渡すために撤退した。
新宿城にいた住人遠藤盛利は湯原の住人とは対立してきてたのか?降伏を潔しとせず抵抗したので
片倉が攻め立てたが大敗した。もちろん上杉の援軍は来ない。
北越軍記もデタラメならもちろん片倉代々記も片倉マンセーのデタラメ書。
双方ともに徳川に対する密約の存在を隠蔽する為にもっともらしく捏造軍記を作ったわけだ。
つまり白石城攻めは密約であり、佐竹との密約と同様に表に出てないレベルである。
8/22付で政宗に100万石加増書状を出すなど家康も必死になる中で
ついに直江9月3日付本庄宛覚書の時期になると、もはや伊達と上杉の同盟を隠し続ける必要がなくなり
公然と語られるレベルに昇格したので湯原城の譲渡が行われるようになる。そして政宗は山形城を奪うために策動するのである。
この時期、最上側も伊達の動きに不安を覚えてさかんに流言や噂を流し、伊達と上杉の仲を裂こうとしているのがわかる。
上山城攻防戦に一次史料はなく捏造戦記なのと同様に白石城攻防もその戦闘状況は軍記によってしか証明できない虚構話。
649 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 15:06:30.10 ID:1VmL2r84
てか、subは本気で密約なんて信じてるの?
あとに引けないだけじゃないのか。
軍記物を多用しているが、それすら密約の根拠に
なっていないよ。
650 :
人間七七四年:2011/07/01(金) 08:03:11.43 ID:JepaZnzn
>>直江の7月14日書状、「白石などの事」
>これこそ白石譲渡案の根拠でしょ。
甘粕は白石に一両日いて軍備を督励し、道々の防備をよく監督して帰ってきたと
書いていある。「何時によらず、彼地(白石)へ政宗が出陣して来たら、こちら
も乗り出します。油断しないようにしてください」
>あと梁川城は福島城と白石城のつなぎにもなる場所
これは「景勝の御意にあったように」梁川城に代わる城の普請を行うよう命じたもの。
政宗との和睦が成立したら、停戦中に普請するようにと言っている。
「公儀さえよければ整えるのがいい」と言っているように和睦はまだ成立していない。
こんな中途半端な状態で簡単に対伊達最前線の白石城やだいぶ奥に入り込んだ湯原舘を渡してしまう
なら、上杉は相当な馬鹿だろう。
>我等手前抱置候←降将に対する扱いではないな。やはり示し合わせた談合の証拠。
「こちらで抱え置いています」は密談の証拠にはならない。第一、徳川に報告した書状にある文言。
>さて北越軍談→湯原城で政宗は甘粕備後や岩井備中の前に敗れ渡瀬へ逃走。
甘粕は不明だが、岩井が米沢方面にいたとは思えない。記述を用いる一方で「北越軍記(の白石合戦
の部分)もデタラメ」とも言う。
>つまり白石城攻めは密約であり、佐竹との密約と同様に表に出てないレベルである
佐竹との同盟も家康反転後であることが直江書状で明らか。
subの論は、直江が伊達と白石を渡す代わりに味方になるようお願いしたが、結局は裏切られて
城だけ奪われた。家臣たちには対政宗の防備を堅固にするよう命じたが、全部ウソだった。前
線の諸将をだまし続けていた(そう解釈しないとこの説は成り立たない)というもので、強引だ
し、伊達政宗の謀略を褒めるばかりで直江を貶めるもの。
651 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 14:43:42.55 ID:Wx2sJ4+P
まあ学会の伊達に関するの捏造はタブーで、
いまだに訂正が許されない暗黙の了解があるからねぇ。
米沢の輝宗はできる限り過小評価とか
中間人制度を無視し惣無事令は政宗の邪魔をしただけ
みたいな論調は無批判に是認され続けてるし。
とにかく政宗マンセー捏造書ばかり。
ついに天地人を利用して上杉について書くと称して捏造史観を書いて
米沢にまで影響を及ぼそうとしてるもんな。
652 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 21:22:48.79 ID:teC6Zn2o
>>651 >まあ学会の伊達に関するの捏造はタブーで、
>ついに天地人を利用して上杉について書くと称して捏造史観を書いて
>米沢にまで影響を及ぼそうとしてるもんな
根拠よろしく。
653 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 21:29:31.38 ID:3qMWDjg4
>>まあ学会の伊達に関するの捏造はタブーで、
>>ついに天地人を利用して上杉について書くと称して捏造史観を書いて
>>米沢にまで影響を及ぼそうとしてるもんな
これを否定し得る根拠を、一次史料で示すのが先だとさ
654 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 21:45:39.48 ID:jJAkjbLN
subの論が一番の政宗マンセーになるんだがな。
655 :
人間七七四年:2011/07/03(日) 04:38:29.82 ID:gflPJ8Ym
仙台観光史観を前提に歴史を語るからどうしようもない。
656 :
人間七七四年:2011/07/03(日) 10:24:13.45 ID:paGj8IWh
仙台観光史観などというものが本当に存在するのか。
どこの地域でも、郷土史家による顕彰と歴史学者の研究は一線を画している。
657 :
人間七七四年:2011/07/12(火) 19:26:49.73 ID:UYldFE/L
景勝って駄目な奴だったのかな?
658 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 05:38:36.27 ID:soDZIp6f
>>656 会津観光史観が存在するのだから仙台観光史観があってもおかしくない。
ただ、これは東北地方にしか見られない特色だと言うことができよう。
659 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 07:04:43.52 ID:vUcM0weO
地元の殿さまはこういう凄い人ですよ的な顕彰と歴史研究を一緒にしてるやつがいるな
660 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 10:42:23.85 ID:39kboqp6
政宗に不利になる材料は一切記述しないで、
むちゃな解釈で政宗をどうやってでも評価しようとするのが政宗研究の目的であり、
「〜と思われる」と何でも政宗の功にしたり
「一説には」と捏造の説を作り出すのが仙台。
ついでに米沢や山形のことは貶す習性を持つ。
仙台は史実無視で天才政宗像を造りだし喧伝することが生きる道で、
その観光集客力に頼りまくって喰ってるからね。
661 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 18:27:37.21 ID:n4N5uRIg
subが一人で騒いでるけど実例はあるのかね?
662 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 09:00:01.95 ID:zyXk1zlP
関ヶ原が膠着して最上が降伏したら政宗は景勝と同盟して佐竹・直江・真田らと南下してたでしょうよ。
忠輝との政略結婚で当初徳川に付いただけ。伊達は基本日和見だったから。百万石も反故にされたし。
663 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 10:12:26.07 ID:247PXhTP
嫡男や正室を大坂に人質にされている政宗は西軍寄り。
だから伊達家老達への調略として家康は伊達家中指定で百万石加増約束してる。
そして直江も伊達家老を人質に取りたがった。
和賀一揆を煽るなど相変わらず手癖の悪さを発揮したため
むしろ忠輝との婚姻があったから政宗は首の皮一枚ギリギリつながった。
664 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 19:22:10.11 ID:EXqP0RxP
関ヶ原のときの伊達成実なんてモロ上杉寄りで動き始めてたからね。
三成があっという間に負けたから成実の動きも即封印されちゃったけど。
家康寄りだった南部・津軽の抑えのための和賀一揆といい成実の動きなんかも実際は政宗の意向だろう。
伊達の上杉との南下計画は中央の情勢によっては十分あり得た話。
665 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 19:35:54.71 ID:B0XW34T6
財政破綻してロクに褒美も与えられなかった政宗は
家臣達の領土欲を抑えることができずに
その状況打開のため政宗主導で南部切り取り戦を開始したからね。
家康から家臣への調略介入が毛利や宇喜多や上杉などで行われており
伊達家でもかなり行われていたんだろう。
家康に通じた家臣の意のままに操られることを嫌がった政宗は
上杉と結ぶ必要があった。
666 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 20:21:21.19 ID:uaCPbNAD
家康反転後にね。
667 :
人間七七四年:2011/07/19(火) 00:33:12.07 ID:lot6Vr+h
668 :
人間七七四年:2011/07/19(火) 06:12:26.60 ID:gcctOXs+
>>667 subは家康が反転する前から上杉と伊達が密約を結んでいた
という独自の説を展開しているんだが。
669 :
人間七七四年:2011/07/19(火) 11:22:10.53 ID:aBggM2ID
急度申入候 御当洞中 一揆少々蜂起之由
伝説無御心元候 無申迄候へ共 早々御退治尤に候
若当方境目遊来者 候者則成敗仕 其検可進候由
堅申付候間 可御心安候 先度者御懇之御使忝候
自是も必以使者可申入候 今度者右之仕合無御心元候間 先以飛札申入候 非疎意候恐
八月十三日 羽柴越前守政宗
南部信濃守殿御宿所←最上口にいる南部へ。
政宗は白河口での徳川と上杉の開戦を見計らい
家康の小山からの撤退を知らないうちに明らかに南部領で一揆を引き起こしており
最上口に集結している米沢侵攻軍を瓦解させようとした。
670 :
人間七七四年:2011/07/19(火) 23:56:21.13 ID:gcctOXs+
すでに南部はいないんだがな
671 :
人間七七四年:2011/07/20(水) 09:03:40.71 ID:/MFzUVyT
672 :
人間七七四年:2011/07/20(水) 12:06:53.05 ID:DySY15Kb
八月四日の直江が「将又昨日京都より御奉行中之連状到来候」
こんなこと書いてるので大坂城が輝元や三成側について決起した情報が8/3に届いてるのがわかる。
とうぜん激文は政宗にも同時期に届いているはずなので八月三日の政宗の井伊宛の書状で
「大坂に諸将の人質がいるから三成や大谷もなんとしても大坂城を取りたいだろうが
三奉行が大坂で家康公に一途の御奉公をするのが念願なので大丈夫。会津攻めを優先するべき。
妻子ことごとく大坂に置いてますが内府へ筋目のため打ち捨てます。この書状を披露しても構いません」
などと政宗はすでに大坂の人質がすでに三成側に落ちているのを知りつつ
家康を会津に引き付けて三成が畿内で有利に戦えるように
以前からの計画通り上杉・佐竹とともに家康を白河の罠へ誘き寄せようとたくらんでいる。
とっくに三成に内通している政宗にとって細川ガラシャのように自決したり、
清正の家族が逃亡したような切迫な事実はなく、大坂の妻子は安全な状況であり、
また三成と内通してるから書状を披露されたところで安心なのである。
八月五日直江書状において「内府いまだ小山在陣の由申候条」と書いており
5日の時点でも最前線の上杉側でも家康がまだ小山にいると判断している。
一揆指示→一揆勃発→推移をみる→南部へ通報を余りに速やかにやると政宗が怪しまれるゆえ
白河決戦に向け背後の米沢が安定するように最上口集結軍を瓦解すべく
政宗もこれ以前にすでに和賀一揆を引き起こす策謀をしていたはずである。
この8/13通報の和賀一揆勃発が直江8/12書状における南部撤退予言とリンクする話であり
明らかに政宗と直江が示し合わせているのがわかる。
八月十二日に政宗宛に家康が書いた書状には
政宗が言う「一途の御奉公をするのが念願」な三奉行が
実は敵であった事実を認識できず大坂情勢を見誤って伏見城まで落城してしまった家康が
もはや味方が誰であるのかわからず疑心暗鬼なまま西上もできず江戸に留まる事を伝えている。
虎狼政宗は家康を疑心暗鬼に突き落とすことに成功しているのである。
673 :
人間七七四年:2011/07/20(水) 16:19:29.20 ID:/MFzUVyT
そういや池田輝政の妻子も
輝政妹を正室に持つ山崎家盛が
輝政室は重病だから回復するまで引き渡すのを待ってくれと
長束正家を説得して助けられてるね。
黒田親子の妻達も大坂天満屋敷から夜逃げしているしな。
674 :
人間七七四年:2011/07/20(水) 18:31:24.49 ID:66dZNWA/
>八月四日の直江が「将又昨日京都より御奉行中之連状到来候」
>こんなこと書いてるので大坂城が輝元や三成側について決起した情報が8/3に届いてるのがわかる。
>とうぜん激文は政宗にも同時期に届いているはずなので
政宗に届いていると言う根拠はないが、subは一方で「同時期に届いて」いいはずの最上表には届いていないと主張している。
>南部撤退予言
根拠なし。
sub論の裏を読むと、上杉は白石城を政宗に騙されてただで奪われた馬鹿。政宗は
上杉に加担せずに城を奪った謀略の天才。直江は書状で伊達攻撃に触れているが、
家臣に嘘を突いているだけ。松川の戦いは一次史料で明らかに大損害がなかった日
に軍記物にあるような挟撃が起こったことにすることで、伊達の被害が軽微だった
と主張する。実は伊達びいき。
675 :
人間七七四年:2011/07/20(水) 21:58:27.10 ID:/MFzUVyT
最上が情報統制してるんだから奉行の激文が最上口の諸将に届くわけないだろ。
伊達だって佐竹同様に極秘に西軍内通してるんなら
最上口の諸将に「おいおいさっき奉行からこんな書状届いたから見てみろよ!最上には内緒にしろよな!」なんて暴挙ができるわけもないな。
だから直江の予言は一部外れている部分が生じてるわけだ。
676 :
人間七七四年:2011/07/20(水) 22:40:55.27 ID:66dZNWA/
厳しく情報統制しているから上方からの檄文は最上表の諸将に届かないが、政宗の情報は届く
というのは矛盾している。あと、佐竹が上杉と同盟を結ぶのは政宗と同様に家康反転後。
直江は予言などしていない。
677 :
人間七七四年:2011/07/20(水) 22:52:00.06 ID:Joa4yiDC
まあ政宗が何故南部領(それも伊達領に近い)和賀でリスクを冒してまで一揆を起こす必要があったのか。
南部・津軽が親家康だったと考えれば、政宗の心内は見えてくるけどね。
片倉はそれ(上杉との同盟)には反対だったろうけど。成美は積極的に上杉と結ぼうとしていたね。
故に関ヶ原後の伊達家での成美の扱いは酷いもんだった。一方片倉は執政の地位を手に入れた。
678 :
人間七七四年:2011/07/20(水) 23:27:10.48 ID:66dZNWA/
南部・津軽が本当に親徳川なのか、片倉は上杉との同盟に反対で成実は賛成だったのか
は分からないが、政宗は最上に援軍を送るかどうかを留守政景に相談している。
679 :
人間七七四年:2011/07/20(水) 23:54:11.00 ID:/MFzUVyT
>>676 矛盾?
なに言ってんだ。
政宗による和賀一揆の情報は南部に渡る前に
家康により米沢攻略の責任者に任じられている最上によって検閲され開封されたとしても政宗にとって無問題だから届けられるだろうが。
680 :
人間七七四年:2011/07/21(木) 00:04:36.32 ID:BGkgbtWo
>>674 政宗に届いていると言う根拠なんて必要ないだろ。
上杉領と伊達領は隣接して邪魔するものなんて無いんだから手渡しして終わり。
681 :
人間七七四年:2011/07/21(木) 02:37:30.31 ID:Qz8PsMVg
>>674 ことごとく伊達有利解釈のミスジャッジを繰り返す
君も上杉厨を装う重度伊達厨のくせにw
直江兼続と関が原の内容をパクって書いてるしw
682 :
人間七七四年:2011/07/21(木) 06:48:23.36 ID:NgM3GqxX
で、結局どっちが勝つの?
683 :
人間七七四年:2011/07/21(木) 06:56:50.08 ID:xxwdERf6
>>679 >最上によって検閲され開封されたとしても政宗にとって無問題だから届けられるだろうが
意味不明。政宗の書状は最上表の上杉征伐軍を瓦解させるものだと主張したいんでしょう?
>>681 >君も上杉厨を装う重度伊達厨のくせにw
俺は伊達好きではないし、伊達有利に史料を曲解したことはない。例を挙げてみて。
>直江兼続と関が原の内容をパクって書いてるしw
最新の研究成果を参考にして何か問題でも?
subが数々の上杉関係の研究本を読んでいないのは明らかだけど、先行研究に一切頼らずに
書き込んでいるなら、本も読まない井の中の蛙が自分だけの脳内の妄想を垂れ流しているだ
けにすぎないのでは。
684 :
人間七七四年:2011/07/21(木) 07:12:00.04 ID:xxwdERf6
>>682 上杉。伊達は家康の会津征伐中に白石城を落とし、直江が最上出兵中には隙を突き、和睦を破って上杉領を侵したが、
これは「誰にも邪魔されず」という状態ではない。
直江帰陣後(この時点でさえ上杉は周囲が全て敵なので
>>1の条件ではないが)は伊達がたびたび福島表に侵攻しても
たいした戦果を挙げられずに半年間撃退され続けた。
685 :
人間七七四年:2011/07/21(木) 11:33:28.78 ID:BGkgbtWo
最新研究www
ただの個人研究伊達厨著者による発行部数極少自費出版物じゃねぇかw
686 :
人間七七四年:2011/07/21(木) 14:16:32.19 ID:YLHZ3NEi
>>685 伊達厨著者のソースを何度も求めてるけど
出してないよね。読んでないのに判断でき
るのはすごいな。そういう根拠なく妄想で
決めつける当たりが、subの主張にも出て
いる。
687 :
人間七七四年:2011/07/21(木) 16:54:16.61 ID:ngXTPLzw
>>684 >半年間撃退され続けた。
ソースは上杉の捏造軍記だからお話にならんよ w
688 :
人間七七四年:2011/07/22(金) 08:20:20.91 ID:QbGPKPf+
軍記物じゃなくても撃退されている。
689 :
人間七七四年:2011/07/22(金) 10:35:27.04 ID:42kW20pu
まあ伊達は公式藩史がすでに軍記物並みの脚色だけどな。
690 :
人間七七四年:2011/07/22(金) 11:30:45.02 ID:rVZh3cU9
とsubはいつも言ってるな
691 :
人間七七四年:2011/07/22(金) 12:15:03.58 ID:9PiLNETg
相変わらず上杉厨のフリをしてる伊達厨が巣食っているんだな・・・
大河の天地人の時は最上厨のフリを装い直江を貶しまくり工作してたし
本当に気持ち悪い捏造洗脳工作を続けているよな。
もう十年くらいやってんじゃねぇか・・・
伊達が絡むスレはこうやって荒れるから勘弁して欲しいわ。
692 :
人間七七四年:2011/07/22(金) 14:57:56.98 ID:rVZh3cU9
明らかにsubなのに久しぶりにのぞいたふりをしなくていいよ。
693 :
人間七七四年:2011/07/22(金) 17:33:37.85 ID:iGYrraAV
上杉は白石城は1日で陥落、福島の戦いでは300余名の死者を出し、
信夫山で首級実検までされる惨敗を伊達に喫してるわけで。
戦力は最上以下だから無理もないかw
694 :
人間七七四年:2011/07/22(金) 18:15:12.11 ID:Or0gM0Oq
伊達って田舎の弱小としか戦ってないでしょ 過大評価にもほどがあるよ?
695 :
人間七七四年:2011/07/22(金) 20:53:39.67 ID:rVZh3cU9
696 :
葦名家家中B:2011/07/23(土) 00:52:38.78 ID:PAXU9pTM
両方迷惑だべ
697 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 10:44:45.83 ID:+iJqN1tj
690と692は同一人物。
乙。
698 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 10:49:05.51 ID:+iJqN1tj
以前、松川スレで冶家記録を論拠にした伊達勝利説を完全論破された人。
乙。
今は乱立した松川スレすらないのにね。
699 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 13:45:30.39 ID:FKlHuBJU
どう完全論破したのか教えてくれ。sub
700 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 14:42:48.20 ID:UnSQkI1s
701 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 15:15:23.37 ID:FKlHuBJU
3月に伊達が福島、梁川勢に敗北しているのは一次史料で確認できる。
702 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 16:11:27.84 ID:7WOLK9+1
上杉厨を装う伊達厨が本性を露にしててワロタw
703 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 16:35:05.55 ID:FKlHuBJU
どこに笑えるところがあるの?
704 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 19:54:05.16 ID:nN3LquzL
政宗の戦歴は葦名自壊を除けば
全敗だから伊達厨としては顔を真っ赤にして必死になる気持ちは理解できる。
人取橋や郡山(久保田)でもバカみたいに佐竹に勝った勝ったと喚いて論破された過去を持ってるし
大崎との戦いは政宗が参加してないから負けじゃないと枕を涙を濡らしてたからな。
義光に領土分捕られたら最上は卑怯だからと
とにかく伊達厨はアホ過ぎ
705 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 20:12:07.96 ID:FKlHuBJU
いつもの700もsubも極端なんだよ
706 :
人間七七四年:2011/07/24(日) 00:59:05.29 ID:Xd8Y+4g3
>>700 あと何十回ループさせれば気が済むんだ気持ち悪いよ伊達アル厨くん。
707 :
人間七七四年:2011/07/30(土) 05:22:49.01 ID:C9is1OoA
伊達厨って何でそんなに松川に拘るんだろう?
伊達家先祖伝来の地で取り返したかった気持は解るけど。
伊達信夫郡一mmの領土も奪回できずに逆に梁川城から挟撃されて撤退してるだけの戦いなのに、
一部の小競り合いで伊達が勝利したことを誇大して書いてる「冶家記録」だけを頼りに伊達が勝利したとか掃討したなんてね。
結果からは伊達の完敗。
負けは負けでしょうがないと思うんだけど。
何度論破されても色々な所に出没し全く不毛な永遠ループを繰り返す。伊達厨。
不思議だ。
708 :
人間七七四年:2011/07/30(土) 07:53:48.93 ID:XGMbJShQ
伊達厨は捏造癖がついちゃってるんだよ。
709 :
人間七七四年:2011/07/30(土) 14:43:00.01 ID:hFz1hpX8
福島の戦いは伊達にとっては掃討戦。
上杉は野戦で大敗したが、福島城の陥落までは逃れたのが幸いといえる。
松川=上杉捏造軍記で大いに尾ひれがついたというのが実態。
710 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 07:57:35.27 ID:Mg8pnD5I
711 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 09:10:15.19 ID:g57O67gD
事実
@伊達政宗は10月6日に福島城を攻撃したのち、7日に梁川城を攻撃する予定だった
A梁川城の上杉軍の中に内応者がいた
B福島表で伊達と上杉が野戦を展開し、伊達が勝利した
C伊達は福島城西部の集落を占拠。政宗は「残すところ無き手際」と自画自賛
D「残すところ無き手際」の時点で、すでに政宗は反転し、国見に陣を構えている
E伊達軍は梁川城を攻撃せずに撤退
→伊達側「内応が露見したためだろうか」
→上杉側(一次史料)梁川城にいた横田大学らを召還。内応発覚への対応か?
→上杉側(軍記物)「福島勢と梁川勢が挟撃した」
F戦後の政宗書状「(戦果について)少し心残りがあるが、時節柄これでよし」
H上杉には伊達軍からの分捕り品があるとの覚えなどが残るが、8月の戦闘時か10月の戦闘時
か時期については諸書で異なる。
I伊達はその後もたびたび侵攻。家康に嘘の報告をしてまで上杉領を攻撃しようとした。慶長6
年3月の戦闘では梁川・福島両城の諸将に伊達軍撃退の感状が複数出されている。
712 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 11:08:34.60 ID:aK2eVJjf
713 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 08:10:08.82 ID:3FoND+26
710 :人間七七四年:2011/07/31(日) 07:57:35.27 ID:Mg8pnD5I
>>709 永遠にリピートする壊れたラジカセ乙
712 :人間七七四年:2011/08/02(火) 11:08:34.60 ID:aK2eVJjf
>>711 永遠にリピートする壊れたラジカセ乙
自虐的だな。
714 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 02:32:40.90 ID:0p9I2isd
>>704 しょうがないよ
伊達のホームの仙台はチョンが多いんだから
政宗公に引き寄せられてきたんだろ
715 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 03:07:37.03 ID:wb9PgS+j
邪魔なくガチンコなら政宗の方が分が有りそうだがな。
長期戦にもつれ込んだら判らないけどな。
謙信だったら…、謙信が勝つだろうけど
716 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 08:20:07.26 ID:zbIj6/fz
政宗なんて自殺点で負けた葦名を除けば全敗じゃん。
しかも友軍の神保や水野を攻撃するほど敵味方の区別ができない素人集団
717 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 12:40:04.51 ID:zH9Mbro3
よく飽きないなそのネタ
718 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 13:55:56.56 ID:YULa7vJ9
政宗の方が統率力ってか指揮が優れてると思うが。
武力ってか鉄砲とかの腕も政宗の方が良いかと。
後は知らん
719 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 23:44:31.22 ID:h84WsV+5
720 :
人間七七四年:2011/08/25(木) 07:43:00.62 ID:kpuIIMgo
邪魔なくガチンコで戦えば百二十万石の上杉が勝つよ。
最上攻めで兵力を山形方面に割いたのを知った政宗は
一気に福島を急襲し、野戦で上杉を破ったけど、結局
は城を落とせず、直江帰還後は撃退され続けた。
721 :
人間七七四年:2011/08/25(木) 11:06:35.24 ID:QLC6EpDq
北条のデタラメ討ち取り数を史実認定するなら
臼井城の戦い 上杉方の戦死者は5千人以上ともいわれ
近衛前久が永禄4年10/5付謙信宛書状で
「信濃表で晴信と一戦して大勝利し8000余討ち取りしたとの事
珍重之大慶」と書いてるのも事実になっちゃうんだがw
まぁ北条厨はバカバカしいデタラメを盲信する池沼なんだろうが
上杉厨でさえ8000討ち取ったから信玄ボロ負けwwwなんて主張するヤツいないよな。
ただ信玄の弟の討ち取りを始めとした戦果を提示するだけでさ。
ほんと北条厨の低すぎる知性には感服するわw
松川の戦いでの政宗の出した家康への戦果報告に対する
家康返書における「数多被討捕」だってまったく信用できないシロモノだし
褒賞が関わる軍功状や感状における信憑性ある具体的数字を除いて
基本的には戦時の宣伝工作でありプロパガンダだよ。
三増峠の戦いの北条の大ウソ勝利宣言www
信玄が今川領を奪い取る陽動作戦を兼ねて関東縦断放火ツアーを開始
9/10氏邦→謙信側近山吉孫次郎
「信玄が上州から9日に児玉郡の御嶽へ攻めてきたから100人以上討ち取ったわ。今日は俺の鉢形城に来たから際限なく討ち取ったしw」
100人討たれたの北条じゃねえのwww籠城して早く去って欲しいと祈って震えていた氏邦の大勝利宣言www
10/24氏照→謙信側近山吉孫次郎
「信玄が滝山城にきたから2日連続大勝利で際限なく討ち取ったわ。その後、信玄は相模へ行ったようだが5日には津久井へ逃走。
ここら辺で小荷駄を襲って敵を排除w6日の朝は氏政来ないうちに突撃して敵の足軽を討ち崩してさんざん討ち取りw
その後に敵が当方に押し出してきたけどこちらに失敗は無く、ただね山なんでうまく兵が動かせなかったので信玄討ち漏らして残念」
小田原を放火されて涙目の事実を隠蔽しつつ三増峠の戦いで大勝利宣言する大ウソつき氏照www
10/25信玄→遠山駿河守
今回、関東へ出陣。敵城数箇所を経て小田原城へ突入。氏政の館をはじめことごとく焼き討ちし、それに類する城郭も撃破www
帰国する時に追ってきた氏照・氏邦・氏規が率いる6、7000の軍と戦い氏邦・氏規と2000人以上討ち取り存分に勝利w
おいおい大勝利の美酒に酔い過ぎて氏邦・氏規と2000人討ち取りは誇張し過ぎだろw
謙信にひたすら救援を頼んでいた氏康・・・しかし信玄が将軍義昭を説得して
武田と上杉の和睦を7月下旬に成立させており、
甲越和与によって愚かな氏康はすでに見捨てられていた事実www
そして氏康が氏直と氏真を養子縁組してまで
今川領確保に超執着していたのに
簡単に信玄が今川領を併呑したのであったw
そしてショックで死亡する氏康www
722 :
人間七七四年:2011/08/25(木) 15:47:18.80 ID:T6BtEc7Q
180度正反対の人物なんだよな
景勝は、自力では合戦に勝てないけど、
天下人には好かれて優遇される
政宗は、合戦に勝ちまくりだけど
天下人には煙たがられる
723 :
人間七七四年:2011/08/25(木) 18:04:52.28 ID:QLC6EpDq
>>722 は?何言ってんだお前。漫画かアニメの話はスレ違いだぞ。
そもそも織田軍相手に死ぬ覚悟まで景勝がしていたのは佐竹への書状でわかるし
対柴田・佐々での秀吉との同盟以来の付き合いが上杉にはあった。
さらに政宗の小田原参陣を支援して越後路を貸してやったのも上杉だぞ。
政宗なんて秀吉との戦いで死ぬ覚悟もなく土下座しただけじゃん。
上杉は伊達を排除しまくって武威の面目を立てた末に和睦を提案してきたのは家康の方だしな。
724 :
人間七七四年:2011/08/25(木) 21:05:11.29 ID:Oqs5og4q
>>720 あくまで自称で野戦で勝ったと捏造主張するも
その日のうちに北目城へ高速の速さで敗走してる誤魔化しようがない歴然とした事実は隠蔽出来なかった伊達軍www
725 :
人間七七四年:2011/08/26(金) 13:03:24.81 ID:oc1yXK0x
>>724 一次史料を示さずによく言うな。
政宗→片倉書状「今日の合戦(福島)は明日の合戦(梁川)のため」
政宗→中島書状「福島周辺の村落を押さえるなど残すところ無き手際」
政宗は残すところ無き手際のまま引き上げている。
七日の時点で大敗などないよ。
726 :
人間七七四年:2011/08/26(金) 13:12:26.26 ID:BIZV8G5E
明日の合戦(梁川)のため←その合戦もやれずに当日のうちに敗走してんだろがw
福島周辺の村落を押さえるなど残すところ無き手際←あくまで当日の昼間限定で周辺のごく一部だけしか押さえてない。
727 :
人間七七四年:2011/08/26(金) 20:39:26.90 ID:oc1yXK0x
>>726 だから梁川城内の内応失敗かと伊達側の史料は推測してる。
「残すところ無き手際」で中島に村押しさせた状態で引き上げる余裕があったのは
動かしようのない事実なんだよ。
sub君は、一次史料を提示せずに、伊達の史料に書いていることがでたらめだと言う指摘しかしていない。
十月七日に上杉が伊達を挟撃して勝利したと言う史料を提示すべきだよ。
ちなみに十月七日の挟撃大勝利を記述しているかのように思われる『会津陣物語』には、十月
七日に上杉が大勝したという記述はない。当然、挟撃した話もない。
会津陣物語では激しい戦闘は翌年二、三、四月。
十月も含め同じような戦闘経過の記述が繰り返されており、戦闘時期に混同がある可能性はある。
三月の戦闘では上杉方の守将たちに感状が出されているけど、会津陣物語でも三、四月の戦闘で
福島に侵攻した伊達軍を挟撃して打ち破ったと書いている。戦闘経過はどちらも似ているが、四
月に戦闘があったというのは信憑性のある史料で確認できない。
戦闘の日付、戦闘経過を考えると、挟撃による勝利は三月と見るべきだと思うがね。
728 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 00:49:44.87 ID:C6GbRzni
>>727 まーた同じネタの繰り返しでよく飽きないな。つか洗脳が目的なんだろうなw
>>一次史料を提示せずに、伊達の史料に書いていることがでたらめだと
伊達側の史料が願望妄想で推測してることが一次史料扱いになるとは恐れ入った。
また上杉側史料をムリヤリ歪曲解釈して横大学の内応をデッチあげるのかね?
羽黒山が炎上し寂光寺の慶印も伊達軍と共に逃亡した事実を一切認めない糞伊達厨くんw
会津陣物語の4月の戦いは一次史料には見えず、
同じ会津陣物語においてかなり簡略して書かれている10月の戦いの描写と推移が
そっくりなので、物語形式にするに当たり10月の戦いを物語のクライマックスとして
4月に移動させたのは明白だと何度指摘すれば理解してもらえるんだw
会津陣物語の3月の戦いは一次史料の3月の史料が証左になるだろうが。
だいたい伊達側の史料では家康から戦うなと言われて1月以降は戦ってないことにされてるのは
どう言い訳するわけ?
しかも1月には相馬と伊達が月夜畑で大敗してるのも捏造だと主張してるが
ならなんで相馬が改易されないわけ?相馬が改易されない論理的説明として
月夜畑での戦死者リストの存在が論拠とされてるのに。
そもそも一寸の土地も奪えず逃亡した伊達軍をどう解釈したら勝ったことになるんだwww
729 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 01:27:18.36 ID:OVVXke6M
書状の内容がはっきりしてるのに願望もなにもない。
伊達側の史料になくても上杉側の史料で三月の戦闘が
あったことは立証できる。
仙台市史も慶長六年の上杉攻撃計画に関わる書状を収
録している。
会津陣物語の十月と四月の戦闘の記述は似ていない。
似ているのは景勝の旗を見て逃げたということ。
しかし、十月の政宗の侵攻を景勝や直江は信じず、出馬はなかっ
たことは直江の書状からわかる。
730 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 01:29:35.63 ID:OVVXke6M
あと、城を落としていないのに勝
731 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 01:42:33.00 ID:OVVXke6M
城を落としてないのに勝ちとは言えないというのは同意。
野戦で上杉を一度破ったが、戦略の一部であり、全体としては
内応の失敗、直江のほぼ無傷帰還など想定外のことがあり、
結局たいした戦果はなかった。
俺はいわゆる松川の戦いが伊達の勝ちとは言ってない。十月の
戦闘では挟撃で伊達を撃退した可能性は低い。逆に三月に軍記
のようなことがあったのではないかといっている。
subは政宗が0勝100敗で局地戦で勝つことすら認めたくないよ
うだが。
732 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 01:50:50.31 ID:VX4K8JTQ
>>731 >直江のほぼ無傷帰還
出羽合戦で直江軍は、副将格の上泉が討ち取られ、
局地戦の畑谷城攻防だけでも千人以上の犠牲者を出している
だから対伊達戦に出てこれなかった
733 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 07:04:55.12 ID:6xjEHXUf
自分に反する者は全てsub呼ばわりして
アホみたいに同じ主張を飽きもせずに繰り返し
ひたすらループさせるキチガイ伊達厨ってまだ常駐してんだキメぇな。
734 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 12:03:33.28 ID:OVVXke6M
735 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 12:14:40.04 ID:OVVXke6M
政宗は直江が撤退することを想定して福島に兵だしてるが、
撤退戦で直江に痛撃を与えられなかった。
撤退戦の話であり、畑谷がどうのは関係ない。
そこで飛び出す政宗の名言が「最上が弱いせいで直江を逃がした」
>>733 君は明らかにsubだし、伊達厨呼ばわりする君が人のことは言えないだろ。
第一、伊達厨なら野戦で勝ったから大勝利と主張するし、三月にも攻略失敗
していたなんて認めないだろう。
736 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 20:50:31.09 ID:6xjEHXUf
相変わらず松川の戦いだけは政宗が勝ったと
負けばかりの政宗の数少ない貴重な勝利として絶対に引かない態度は伊達厨そのものじゃねぇか。
佐竹との人取橋や郡山(久保田)などの戦いでも政宗の勝利を連呼して論破された以上は、
伊達厨にとって松川が最後の聖域だもんな(笑)
でも松川で伊達が勝ったと公然と主張し始めたのは明治以降の話で、
賊軍仙台藩もすでに潰れて仙台藩士達が大挙として北海道へ渡っていったのちの話で300年も経ってから。
チョン並みの捏造主張だよな。
江戸幕府は諸家の書状や書付を提出させて歴史編纂してた時には伊達が勝ったなんて話は一回も出てない。
もうね、伊達厨のキチガイ捏造主張は基本的な部分でお話にならないんだよ。
737 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 01:19:00.35 ID:vGpiS2lI
史料を出して語ろう。
厨だのなんだの言ってる時点で歴史を見る目が曇ってるよ。
俺も好きではないが、伊達はカスだというのを前提で語っていては
真相は見えないよ。
他の話は知らんが、福島の戦いを見る限り、十月の戦闘では
伊達側がさんざんに破られたという信憑性の高い証拠はない。
738 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 21:35:07.30 ID:370f/qo4
>>737 伊達氏以外の資料で伊達が勝利したと記している書を読んで勉強したいので教えて下さい。
739 :
人間七七四年:2011/08/29(月) 01:05:57.20 ID:8aztT9Y0
上杉方には十月に挟撃で大勝利したという一次史料もないよ。
話をそらしてもしょうがないよ。
740 :
人間七七四年:2011/08/29(月) 22:31:01.09 ID:aIno1YNk
景勝衆三百余討捕申候、内名志れ申候者、安田勘介、桑折図書、布施二郎右衛門、
北川傳右衛門、武田彌之介、右之衆組頭之由申候(此衆蒲生氏郷譜代之由及承候)
741 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 08:00:37.80 ID:BQS8NFxC
>>738 無いです。
関ヶ原から300年後の明治になってから
突然、韓国人並みの捏造で伊達が勝ったと言い始めただけ。
742 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 08:12:22.39 ID:0wdvVBjD
743 :
人間七七四年:2011/08/31(水) 22:02:39.49 ID:vLEsfS0u
>>742 たかが旧蒲生騎下だけしか討ってないの?
純粋な上杉軍である本庄軍は無傷どころか梁川城兵も無傷ってことだよね。
だから結局、本庄や梁川城兵が無傷なままに伊達が敗走したって話なんじゃないの?
政宗自らが指揮して大軍を動員しておきながら当日夜には北目城へ敗走し一寸の地すら得られないのは負けたからでしょ。
伊達の故地への政宗の執着ぶりは小田原陣後や大崎葛西の乱の時などにもたびたび政宗の書状に心情が現れてるし
伊達成実なども二本松維持に執着し、
秀吉の勘気から没収確定してたのに政宗は嘘までついて「たぶん大丈夫」とその場しのぎの書状を出してるほど。
ちなみに勝ったと称するには伊達の被害が上杉の被害を下回る必要が生じるわけだけど
それを明らかにするソースを教えて欲しい。
744 :
人間七七四年:2011/08/31(水) 23:30:02.31 ID:2Oy+k4CS
蒲生旧臣だけでもそれだけ多く討った
だから全体ではもっと沢山討った
ってことでしょ
745 :
人間七七四年:2011/08/31(水) 23:35:52.82 ID:H82XWoWs
>>743 上杉家には蒲生旧臣が多く召し抱えられているのは知っているよね。
蒲生旧臣も上杉軍で福島を守備していたと考えていいと思うよ。
梁川の兵は福島に駆けつけていないので関係なし。
蒲生家支配帳によると、戦死した郡(桑折)図書は天正19年に5千石、
布施の名はないが、「布」で切れているのが、恐らく九戸陣に出陣した記録も
ある二郎右衛門で同じく5千石。安田や竹田は小姓や馬廻でそれぞれ7百石、8百石。
北川伝右衛門の名はないが、北川平左衛門7千石、北川新右衛門千石、北川民部5百石
で、平左衛門以外の2人に該当するか、その一族と考えられる。
伊達側が名の知れた者に名を挙げるのはもっともで、「たかが」と言える武将たちではないよ。
>ちなみに勝ったと称するには伊達の被害が上杉の被害を下回る必要が生じるわけだけど
伊達の書状で景勝軍300を討ち取り、福島城下を占拠。残すところ無き手際だと戦勝を自慢している。
疑問を持つことはいいことだと思うが、これを否定する史料がない以上、福島城下の野戦における伊達の勝利
と「残すところ無き手際」のまま福島を離れたというのを信じるしかない。それが史料に基づく歴史ですよ。
梁川を攻撃せずに終わったのは、内応の失敗や直江の兵を損なわないままの帰還が理由ではないかと言うのは
すでに指摘した。
これを覆して本庄が大勝利し、伊達が這う這うの体で逃げたと言う史料が出ているなら上杉好きの俺もうれしいし、
政宗の性格からいつもの誇張なのかなと考えることもできるが、現時点ではそれはできない。
好き嫌いで歴史を曲げることはできないからね。
746 :
人間七七四年:2011/08/31(水) 23:38:23.64 ID:H82XWoWs
>>740読めばわかるように、
景勝衆300を討ち取り、そのうち名の知れているのが安田・・・(彼らは蒲生譜代の衆と聞いた)と続くんだよ。
747 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 00:02:23.86 ID:G6S1oyG1
それが事実なら蒲生衆はどこを守備してどこで敗退したのですか?
それと
>>721にも指摘されているように伊達の一方的主張のみを事実と主張するのは恣意的だと思われますが。
勝敗判定は実際に加増に関わる感状の内容から推察すべきで、
情報操作や劣勢の自軍への士気の鼓舞、
前線での過大戦果報告などは他家でも散見されます。
ちなみにその伊達の討ち取りに報いた報奨とも言うべき加増の詳細を教えてください。
蒲生衆を討ち取ったほどならかなり加増されているはずですよね?
またなぜ政宗は人取橋は伊達の勝利と家光や義宣の面前で偽ったりしながら
松川については訂正せずに結局、
江戸時代を通じて伊達は松川の勝敗について全く訂正を求めなかったのはなぜですか?
748 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 00:31:58.70 ID:tdNThlbR
>>747 ほとんどがこれまでにした質問の繰り返しだね。
加増されていない=土地を得ていないのだから当然。
何度も言っているけど、野戦で勝利したが戦略的には伊達は勝ちでも
何でもない。直江が撤退戦で大打撃を受けることや梁川の内応を考慮
した上で侵攻したが、そのもくろみが崩れた。
誇張は当然あるだろうが、話半分と見ても、伊達が大敗したようには
見えない。繰り返すが、覆す史料がなければ否定しようがない。
なぜ訂正を求めなかったのか。もともと会津陣物語に10月の挟撃大敗
などという記述はない。
翌年3月の戦闘では、感状を見れば、よく言われる「松川の戦い」のよ
うに挟撃で敗れている可能性がある。
749 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 01:28:59.92 ID:G6S1oyG1
何で回答から逃げて話をすり替えるんだい?
そもそも勝とうが負けようが領地が手に入ろうが、入らなくても感状や加増は与えないといけないし
梁川の内応の話は当日朝に初めて登場した話であり
伊達軍出撃前にその目論見があって出撃したとか
直江の撤退戦で大打撃を受けてないのは日付を考慮すれば
伊達軍出撃前にすでに知っていたはずなのに
出撃時の目論見と違い大打撃を受けてないと知り撤退したと主張するのはあまりの大嘘過ぎてビックリした。
伊達が訂正を求めなかった理由も完全にワザとピンボケした回答ではぐらしているよね。
こうやって見てみると伊達が野戦で勝利したと言う絶対譲れない結果ありきで恣意的解釈を繰り返しているだけだね。
なんで伊達厨なのにウソついて上杉厨アピールしてんのかねぇ。
750 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 01:47:10.52 ID:tdNThlbR
戦があれば必ず感状が残っている訳ではないよ。
戦があれば必ず加増になる訳ではないでしょ。
君は屁理屈ばかりこねずに、史料を提示してはどうかな。
伊達厨が三月に挟撃されて敗れたしたというのかな。
悪いけど、君より上杉関係の本を読んでいるし、君より伊達には
詳しくないよ。
751 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 08:12:55.12 ID:G6S1oyG1
一次資料一次資料と言うくせに
感状が残ってるわけじゃないとか言い出すわけ?
勝利したのに加増や褒美をもらえないなんて有り得ないな。
1人討ち取りどころか、忠節や武勇だけでも領地加増されるのが当たり前なのに
合計300も討ち取って勝利したことになってるのになんら証拠が無いのではとてもじゃないが勝利なんて認定できないのは当たり前。
300討ち取りが書かれているのは感状じゃないから後から褒美をもらう質になるもんじゃないから
いくらでも景気の良い言葉が書かれてもなんら不思議じゃない。
752 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 09:04:38.46 ID:tdNThlbR
>>751 全ての戦に関する感状が現代まで残っているかい?ということを言っているんだよ。
君が言っているのは全部屁理屈で、なんら史料を元に語る訳でもなく、伊達側に残る
史料から読みとれる事実を批判するには弱い。俺が「勝利した」と言っているのは伊
達が福島に侵攻した合戦の一部の野戦のこと。繰り返すけど、合戦自体は徳川への駆
け込み「東軍ですアピール」になったことと、野戦での勝利で上杉に一定の打撃を与
えたことくらいで、城も落とせずに政宗の目的は果たされなかった。
情報が途絶して直江や景勝が「伊達の侵攻はうわさに過ぎない」と判断していた。最
上表への出撃で兵力も少なく、援軍もない中で防衛に成功した福島方面の上杉軍の事
実上勝利ともいえる。政宗に勝機があったのは、景勝らの裏をかけたこの時だけだろ
う。事実、上杉は対政宗の態勢が整ったその後は危なげなく伊達を撃退し続ける。
君はあの証拠もこの証拠も出せと言っているけど、そもそも覆すだけの根拠を以て語
っていないのだから、いちゃもんをつけているだけにしか見えないよ。
753 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 17:14:10.84 ID:T1KpVQrm
信夫山で首級実検までされた上杉にとってはトラウマになったんだろうな。
上杉の軍記を読む、作者の憤懣と哀しみがよく分かるし。w
754 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 19:46:49.33 ID:AcITU3Zi
一次史料の感状が無いなら伊達の勝利なんて認定できないだろ…
伊達のプロパガンダ一次史料なんてなんら証明にならないわな。
そんなの信じたら北条や伊達なんて連戦連勝じゃねぇかw
755 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 22:40:06.77 ID:kPpoWx5Z
手紙に主観が入るのは今も昔も変わらず、戦功を自慢するなら誇張が
入るのも自然なことだろう。しかし、家臣への書状がプロパガンダだ
という証拠はあるのかな?負けたのを記憶から消し去るためとか?
SUB君の主張はどんどん苦しくなっていくな。
756 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 09:02:47.55 ID:v/eGILy6
>>721を見るまでもなく
戦いにおけるプロパガンダは景気づけと共に自軍や家臣に対しても行われる。
また前線からの過大報告に対して当主が頭ごなしに非難するような野暮な真似もしないが
実際に褒美を出す言質たる感状では極めて正確な記述になる。
矢田俊文も感状についての説明で
勝ち戦であろうが負け戦であろうが合戦に参加した領主にとって、
のちの所領獲得の保証になる感状を手に入れれば、それでよかったと書いている。
これらは江戸時代になっても家の名誉とも言うべき家宝として大切に保存されてきているものだ。
ちなみに会津陣物語において
上杉・伊達の矢合わせの事として
6/22に片倉や成実ら伊達軍が梁川で大敗してる記述があり
これは伊達厨が偽書状だと主張する政宗→井伊宛の書状とリンクしてる記述だ。
また伊達政宗、福島城出撃の事として
政宗が10/6に福島城へ出撃し瀬の上から攻撃開始するも本庄に迎撃され一溜もなき城下を引き揚げたと記述されているが非常に簡潔に書かれていて
2月に政宗がまた福島へ南下したが大敗した際に
政宗は家康から上杉と戦うなと言われていたと再度、書かれていて伊達捏造資料が言うように翌年以降は戦ってないと主張している理由と符合する。
3/27に政宗は白石城を取ったと言っても登坂式部の内通によるもので、伊達の手柄ではない。
その後、数度の戦いにも負け家康公もこのような次第に思われて当家と上杉の合戦を差し止めている情けないと発言して出撃し大敗。
この3月の合戦は多くの一次史料でも確認される戦いだ。
なんとか一戦に勝って家康の前で申し開きしたい政宗は4/17に伊達軍をまた南下させた戦いを松川合戦として詳細記述しているが、
これは一次史料に存在が確認されない。
なぜなら10/6の簡潔に書かれた戦いを詳細に記しただけで物語のクライマックスとして移動させてきたに過ぎないからだ。
757 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 09:17:38.03 ID:v/eGILy6
相馬側史料には伊達と相馬連合軍が正月に上杉に大敗した月夜畑の戦いが記されており
上杉側の石川弾正が伊達軍を大敗させているが
伊達の捏造資料では石川弾正は田村を巡る戦いで死んだと主張し、
その存在まで否定する周到かつ念の入れようで伊達大敗の数々を隠蔽しまくりだ。
1601年に入っても複数史料により伊達軍が明らかにたびたび南下しているのが確認されており
会津陣物語の記述が大きく史実からかけ離れたものでは無いのは明らか。
しかも会津陣物語の成立年は伊達の捏造資料と違って関ヶ原からわずか20年前後であり
まだまだ当事者が生き残っている時期の記録を元ネタにして徳川幕府大老にもなった酒井忠勝の命令で編纂したもので、
神君家康に刃向かった上杉よりも伊達を悪く書く理由が無い。
758 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 09:37:32.25 ID:kv+Fuiwv
史料云々以前に
関ヶ原勝ち組陣営決定の伊達側には、負け組決定の上杉と
リスクを冒してまでマジで戦う理由が無い
家康方で〜す、っていうポーズの合戦してればいいだけ
759 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 10:19:56.08 ID:Kmg1P4dm
760 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 11:24:24.69 ID:hv/zsldf
>>756 だから福島の合戦の感状も残ってないとおかしいというのは屁理屈だよ。
実際に多くの合戦で多くの感状が発せられたんだろうけど、ほとんどが残っていないんだから。
sub君の理屈だと上杉方に10月の感状がないのもおかしい。
感状を重視するなら、翌年3月には福島方面の城将に発せられた感状が複数残っているんだから、
10月より3月のほうが快勝だったと考えられる。
>>757 会津陣物語の松川合戦の部分はそれなりに事実を踏まえたものだろうというのは同意するよ。
10月に挟撃で伊達を打ち破ったなどと書いていないしね。
何度も似たような合戦が起きているのは日付を混同したものをそのまま書いているのかも。
ただ、全体的、または細部については、直江と石田の密約を筆頭に怪しい部分も多い。
一次史料をプロパガンダだと見るくらいだから、後世に作られた軍記物にもそういう目を向けようね。
あと、伊達治家記録は会津陣物語よりははるかに歴史研究に用いられているよ。
色眼鏡で伊達は全て捏造と考え、それを前提にしてしまっているから、君の思考の視野は狭くなっている。
761 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 11:30:33.39 ID:APsTrRyG
前田慶次がいるから勝つんじゃね〜か?
762 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 11:44:09.04 ID:hv/zsldf
>759
分限帳って「直江支配」のことを指すのかな?
あれは文字通り直江支配下の武将のみ載っているんだよ。
名前がないから上杉家にいなかったというのは誤った見方だよ。
戦死した面々は会津陣物語にも登場するのだが、君はこの軍記を信用しているのか
疑っているのかスタンスがあいまいだよね。都合のいい時にだけ用いる。
日付や細かい内容、恣意的に捏造された部分(直江が悪くて景勝は悪くない、宇佐
美マンセー)とは異なり、登場人物自体の存在を否定してるんだからね。
その言い分だと、政宗に斬りつけた岡左内も蒲生旧臣だが上杉家にいなかったのかね?
763 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 12:07:20.19 ID:v/eGILy6
俺はSUBじゃねーし。
自分に反する者はみんなSUB呼ばわりするから気持ち悪いわ。
そんでわざわざSAB認定スレまで建てる狂いっぷり。
10月の戦いは伊達側史料にあるし会津陣物語でも近い日付で存在が確認されてるんだから否定しようが無いだろ。
会津陣物語での10月記述はわずか数行で端折って終わらせてるが
4月はかなりの分量を割いて詳細説明をしている以上は物語のクライマックスとして移動させたのは間違いない。
伊達側被害はわからない、さらに伊達に感状が無い以上は戦術面での勝敗判定など不可能な以上は結果から導き出す戦略的な判定しか出来ないとこちらは主張してるわけだ。
直江と三成の密約などは上杉を改易しなかった理由が直江がすべて悪いとする物語の趣旨から混入されただけの話。
会津陣物語を伊達研究をしてる人間にとって都合が悪いものだから意図的に否定してきただけだろ。
元禄時代成立の伊達治家記録だって捏造入りまくっているし、
一次史料に無いどこから持って来て説明してるかわからん出典不明記述が連投される伊達側よりも
当事者が生きていて成立年代が早い分を考慮すれば会津陣物語の信憑性を伊達側資料如きが否定出来ないわけで
松川の記述に関しての信憑性なんて伊達治家記録と大して変わらんわ。
岡左内は松川後にもたびたび登場してるし岡左内を否定しる方が難しいわ。
しかしザコ武将の記述なんてどこから持ってきて書かれたのか不明な名前が大量に出てくるのが同種の物語の特徴だわな。
764 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 12:43:55.83 ID:Kmg1P4dm
蒲生氏郷が文禄4年に死んでいるので
蒲生騒動が始まった頃からの離反も含めて調べて
慶長二年越後分限帳/上杉侯家士分限簿内の慶長3年会津御在城分限帳
など閲覧したが似た姓名の人物が出てこない。
寛永分限帳において子孫などを通字・避諱・偏諱授与を気にしながら調べても出てこない。
九戸陣に至っては一次史料がほとんどないため参考にならない。
765 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 12:58:55.09 ID:v/eGILy6
つうか会津陣物語で宇佐美マンセーなんてしてないぞ。
本当は読んでないで想像で書いてるだろ?
それに会津陣物語に記述される個々人単位の戦闘内容や戦果なんて軍記特有の武勇伝になってるから信用してないし
それを戦果カウントしようとする気持ちもないし
そこで登場する人名なんて一次史料で証明されない場合は本当にいた人物かも怪しいと思っているわけだが。
766 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 13:20:44.95 ID:hv/zsldf
>>763 いらないよ、毎度の「俺はsubじゃない」宣言は。
10月の戦闘は当然あったが、会津陣物語の記述では伊達治家の前に、伊達側の一
次史料を否定できない。
ただ、
>伊達側被害はわからない、さらに伊達に感状が無い以上は戦術面での勝敗判定など不可能な以上は結果から
>導き出す戦略的な判定しか出来ないとこちらは主張してるわけだ。
ここは面白いことを言っているな。戦略的には伊達の侵攻は失敗に終わったわけだ。
しかし、史料の信憑性からいけば「野戦で伊達が勝利した可能性が高い」という指摘はできる。
>>764 移封は慶長3年だから、その前のものを見てもしょうがない。
御在城分限帳は本当の重臣層ばかりじゃないのか?
小姓などのクラスまで載ってるんならそれでも分かるんだろうけど。
蒲生家に戦死した武将らがいたことは九戸陣の軍記物だけでなく、天正
19年の蒲生家支配帳で判明している。
>>765 マンセーは言いすぎかもしれんが、だいぶageてる。
767 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 13:54:27.27 ID:v/eGILy6
>>766 そもそも1日に大量書き込みするSABなんて最近ぜんぜん現れてないじゃないか。
客観性が無い当事者の伊達が勝った宣言してるだけの話じゃないか
そもそも負けた発言する書状なんて謙信が和田城攻撃で書いてるくらいで激超レアで
どの大名も勝った宣言がデフォじゃないか。
だから客観性を維持する為に当事者以外の他家や他文献で伊達が勝利したと記述するものを出してくれと頼んだら黙殺したのが君でしょ。
幕府は編纂事業で各藩に史料や藩史や家譜の提出を義務づけた結果、
江戸時代を通じて上杉勝利とされており
伊達は訂正する動きをしてないのに
明治になって伊達治家記録を出して勝った宣言を繰り返し始めて捏造を開始するのは卑怯な振る舞いだよ。
768 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 14:08:47.99 ID:v/eGILy6
そこまで主張するなら宇佐美をageてるとする場所を教えてくれ。
伊達厨だからあなたは中立性がなくあくまでも伊達擁護の姿勢から一歩たりとも譲歩も妥協もせずに固執してるだけ
主張がSUBに似てるならそれは一般常識による中立性ある万人がそう考えるからそう見えるのでしょう。
>>721でも指摘されているように過大戦果を文字通りに受け止めるバカはいないでしょうよ。
文字通り受け止めるのは贔屓目マンセー厨房が恣意的解釈目的の時だけ。
769 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 15:02:03.95 ID:hv/zsldf
>>767 だから、いいよ。必死に否定するのはいつものことだが、subだから史料を挙げて反論
しないと言ってる訳じゃないんだから。
家康に勝ちました報告しているならともかく、現存する書状で家臣が福島周辺の村落を
占拠したのを褒めているよ。客観性もなにも、上杉が10月の戦闘で大勝利した史料が
ない。だから一次史料をもとに伊達が野戦で上杉を打ち破った可能性が高いと言っている。
伊達治家記録が会津陣物語より信憑性が乏しいと指摘しているのはsubだけ。
訂正する動きをしていないという主張は意味が分からない。
>>768 なんでそんなにムキになるのか知らないが、正体不明の宇佐美親子がやたらと
登場して戦場で大暴れしているでしょう。
主張も根拠も自分のレスをソースに引っ張って来るところも驚くほどsubに似て
いるけどね。
信憑性が高い史料が伊達側には残っていて、否定するだけの信憑性のある材料がない。
根拠もなく伊達の捏造だと繰り返すのに中立だと言いきる傲慢ぶりは素晴らしいな。
何度も言うけど俺が上杉派。10月の戦闘で、上杉は戦略的には伊達の誤算が続いた
ことによる受け身的勝利。ただ、伊達が野戦で勝利し、蒲生旧臣ら多くの上杉軍を討
ち取ったことを否定することは難しい。
770 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 19:53:49.59 ID:L3oXUOez
庄内は上杉から最上へ、そして伊達信夫は上杉。
その事実が、今となっては全てを物語っている。
伊達ファンの私にとっては残念だが。
771 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 01:23:24.15 ID:IlkmeVMD
自称上杉厨の伊達厨さんは意地でも伊達の敗北を認めないのな。
まあ政宗が1/10の兵力差がありながら
たった1日で北目城まで敗走したなんて事実は目もあてられないからね。
そもそも討ち取られたとする旧蒲生家臣の名前は一次史料から上杉の藩史までまったく登場しないし
成実は会津勢を越兵(堀や溝口や村上)と書くなど、伊達軍はいったい誰と戦っていたとする設定だったんだろうねぇ?笑っちゃうよ。
772 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 06:14:30.48 ID:bZf0I8m4
慶長5年10月6日は伊達の勝ちだろう。戦略的にも戦術的にも。
伊達としては掃討戦で、福島表から上杉勢を一掃して、本庄繁長を
福島城虎口まで追い込むことに成功したわけで。
白石城戦としては違い、戦後の伊達としては、この「掃討」ってことが重要。
無論上杉の表だった反撃もなかった。(実際できなかったといえる)
あと一日もあれば葛西大崎研究家の紫桃正隆氏の指摘通り、落城一歩手前
までいった福島城も陥落していたことは間違いない。
(1)東軍配下の1武将として上杉攻略と封じ込めに成功し、それを家康に報告。
(2)この戦いの結果、仙台城築城の許可を得て、翌春の徳川による武力征伐の言質
を引き出したこと。
野戦で三百余名の死者を出した上杉にとっては、全くいいところなしの戦いだったわけだ。
この慶長5年10月6日の『会津陣物語』の記述では双方で矢合戦wをしたなどと書いているが
作者自体、上杉は反撃することもできなかったと認めているわけだ。
無論慶長6年4月26日の戦いなど、存在すらしないガセネタだしw
773 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 09:46:19.09 ID:1AJ6ymHo
>>771 結局、subは史料がないから「残っている史料にあることは嘘だ」としか主張できていないよね。
戦死した蒲生旧臣の名は、蒲生家の支配帳で実在が確認でき、伊達側の史料、上杉側の軍記物
にも出てくる。
>>772 伊達が福島の将兵を抑え込んだのは、梁川攻撃のため。ところが梁川攻撃は内応の不調などを理由に
実行には移せなかった。個別の戦いとして見た場合には伊達は絶好機に攻略を失敗した。だから戦後
に「心残りが多い」と振り返る。ただ、上杉と盟約を結んでいたのに「俺は東軍ですよ」PRになっ
たことは「時節柄これでいいだろう」につながる。
実際には上杉征伐は実行されず、白石しか切り取れていない政宗は焦って独自に軍事行動を起こし、
敗戦を重ねる。
774 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 11:07:05.99 ID:IlkmeVMD
一次史料一次史料喚くくせに
蒲生旧臣が上杉に仕えていたと証明できないと知るや信憑性がないと主張する会津陣物語の記述を持ち出す基地外ぶり。
どこに配置されていたかまったく不明な蒲生旧臣300討ち取り
純粋な上杉軍は完全に無傷で伊達は北目城へ敗走ってことかね。
すると成実は村上や溝口や堀の越兵を攻撃し
政宗は下野の蒲生を攻撃したってことだよな。
しかも梁川の内応話が入ってくるのはすでに伊達軍が進軍を開始した後であり
当初からの計画には梁川攻撃は入ってなかったのに
福島の将兵を抑えたのは梁川攻撃の為であり
梁川の内応が不調だから政宗の計画通りにならずに撤退したと大嘘を持ち出して伊達の撤退理由にするわけだね。
梁川内応の話が入ってきた時点で、
政宗はすでに進軍を始めてるから今日は梁川攻撃無理だから明日にでもって言ってる話は都合が悪いから黙殺か。
あくまでも梁川内応が不調だから福島攻撃を中止して撤退したってのは伊達厨のお前の脳内設定だろうが。
775 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 12:31:57.57 ID:1AJ6ymHo
>>774 会津陣物語に全く信憑性ないとは一度も言っていない。
同じ内容の合戦が繰り返されたりと日付の混同や恣意的に捏造された
部分などもある。細部の戦闘描写も当然物語性があるものと考えなく
てはいけない。何度も言うけど、部分部分で一次史料と突き合わせな
くてはいけないんだよ。討ち取られた蒲生旧臣がいたことは伊達の史
料や岡左内らほかの蒲生旧臣が上杉家に仕えていることからも信憑性
は高いものと考えられる。
>政宗はすでに進軍を始めてるから今日は
>梁川攻撃無理だから明日に
いつもは捏造だなんだと騒ぐのに、珍しく政宗の書状を引用している
ね。その通り。軍記物の前に書状を元に語らなくてはいけない。
その書状と、中島宛て書状を合わせればよく分かるでしょう。
内応の話を聞いて、政宗は「今日はまず桑折筋を抑える」て「明日
は梁川に打ち寄せよう」と言っている。そして福島でのひと合戦後
は中島の村押しを褒める。会津への連絡も断った。そして政宗も残
すところ無き手際のまま国見へ打ち返した。そして福島の抑えのた
めに軍勢を出すとしている。なんら矛盾はないよ。
sub君は全否定のようだが、梁川の内応が上杉方に露見したというの
は伊達治家記録も記述しているところだし、それが横田大学だという
見解は上杉家側の研究者も同じだよ。
776 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 13:16:43.78 ID:rtFOOP2w
>>771 まぁ伊達2万対本庄2000で負けたんだから認めないだろうね。
そもそも本当に300討ち取りなら、さらに兵力の1割以上を失ったことになっていて
いよいよ福島から伊達が逃亡した理由が伊達の損害の方が
はるかに上で大敗した以外に考えられない。
蒲生旧臣を討った記述自体がなぜか最上陣覚書の中にあるのにのちに勝手に宮代のことに改変。
そもそも覚書の時点で一次史料でもなんでもない。
二番手の片倉がわき道にいて本戦はまったく見てないとも書かれ
完全に誇張されたいい加減な伝聞内容であり、誰が何人討ったと言う後の褒美に関わる部分が不明なウソ戦果。
いったいいつ誰から聞き取って覚書を作成したのか?
それをそのまま伊達治家記録に収録してるだけの話で元ネタの出所先は不明。
と言うか明らかに会津陣物語を熟読し参考にして伊達治家記録の松川戦闘記述を書いてるだけ。
伊達治家記録は齋道二、岡左内の件も理由も書かずに「偽リナリ」となんら反論ソースも提示せず。
本庄が切腹を決意したとする記述も雑賀小平太壽悦から聞いたと
謎の人物が登場し本庄が負けたことを証明する始末。
その一方で片倉側近は2人も討死(側近レベルの討死ということはその配下も当然壊滅的打撃のはず)
しかも成実記では首十三取申しか具体的数字は登場しないのになぜか首100を政宗公御覧と書いていてバラバラ。
十月六日中島左衛門宗勝宛政宗書状で300討ち取りと書いているが
その直前の文章は意図的に黙殺してるようだが、会津への書状運びの郵便屋さん2、3人討ち取りのみ。
この2、3人討ち取りの具体的数字が中島左衛門宗勝への事実上の感状であり、
のちに続く300は明日は簗川を攻めようと考える戦場の景気の良い士気を挙げるための過大数字。
その証拠に家康の返書では300ではなく数多被討捕となっており、政宗は300と報告してない。
福島城兵は簗川城兵を引けばロクに残ってないわけで伊達2万でありながら
政宗は「味方の手負いも多く、一端引き揚げる」意見を入れて羽黒山麗から国見山へ移動と書いてるが
背後を簗川城兵に襲われ補給が寸断され羽黒山が炎上したために慶印とともに国見山へ逃げる必要性に迫られたからだろうが。
公ノ御陣幕ヲ奪取と竹ニ雀ノ紋付タル幕アリシヲ奪取も伊達治家記録はなんら根拠も挙げずに両説不決と書くでたらめぶり。
直江山城守鉄砲頭極楽寺内匠が伊達成実に内応を打診と言うがそもそも成実はこの戦いに出陣したのかも怪しい。
伊達治家記録ではその後家康の命令がなき間は出陣せずと書き、一連の上杉や南部侵攻大敗をすべて隠蔽。
1月は二本松や塩松へ侵攻(正月の月夜畑と関係あるのだろう)・2月は川股へ侵攻し石栗将監らの前に伊達軍は敗走(石栗文書等)
伊達治家記録においては3月に政宗がヘタレ越後勢と一戦できないのは遺憾だと豪語したそうだが
実際は複数史料から伊達軍が侵攻して敗走してるマヌケさが露呈。
5月には相次ぐ敗戦でもはや完全弱体化した伊達軍は長井で放火魔やるのがやっとw
ちゃんと上杉方の史料と会津陣物語の記述は裏付けられる。裏付けられないのが10月と4月であり、
10月は伊達側の史料で裏づけが取れる。よって10月の戦闘を4月に移動させてきて物語の完結としたと言うのが一番自然。
それなのに4月の会津陣物語の記述は3月の記述だと歪曲し固執するのも不可解だわ。
777 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 13:18:29.82 ID:rtFOOP2w
>>772 紫桃正隆なんて三次史料以下の葛西や大崎の自称本家や
諸家の怪しいネタを拾ってきてる郷土研究家だろ。
それに政宗は南部攻撃をしてて純粋な東軍じゃねーし
仙台築城の件はすでに申請していてこの戦いと仙台築城はまったく関係ない。
さらに捏造戦果報告がバレて翌年の武力征伐が立ち消えになり
家康は上杉に和睦を提案しているのすら政宗には知らされずに放置。
そもそも家康は政宗が山形が落ちなかったのは伊達のおかげとかいろいろデタラメ言ったため
最上陣の戦果を以って来春の会津征伐を宣言したようだけどな。
ひょっとしたら本当に最上陣で蒲生旧臣でも討ったのかもねw
会津陣物語で上杉・伊達の矢合わせの事は10/6ではなく
伊達厨が必死に偽書状だと主張する政宗→井伊宛の書状にリンクしている
6/22に片倉や成実ら伊達軍が梁川で大敗してるところだ。
お前ぜんぜん読んでないで書いてるだろw
>>会津陣物語の松川合戦の部分はそれなりに事実を踏まえたものだろうというのは同意するよ。
ちゃんと考えを改めろよw
それと宇佐美親子が大活躍してるとよく意味のわからないことを書いてるようだが
そんな記述は外の人も指摘するように存在しない。本当に読んでないのな
>>772=
>>775の自演キチガイ君w
>>775 横田大学が内応なんて若松へ引越しの記述を逮捕移送だとムリヤリこじつけてるだけじゃねーかwまったく根拠なし。
北目城出陣の目的を捏造してまで、伊達が敗走ではなく撤退だと歪曲しててお前は悪びれもしないんだなw
778 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 14:09:04.35 ID:1AJ6ymHo
>>776 発狂しすぎだよ。冷静になりな。悪いけど君と違って自分のレスに回答などしない。
自演なら君のように自分に対して賛同意見を書くだろう。
4月の記述は10月でなく3月の戦闘だとするのは多くの感状が残っていることと、
日付が月の下旬であること。10月の戦闘では政宗が「残すところなき手際」で国見
に帰っていることから、挟撃で大打撃を与えたようには見えない。
ちなみに陣幕を奪ったというのは8月の戦闘とする史料もある。
諸書、諸研究者が指摘している以上、横田大学の内応があり、若松への移送は「ただ
の引っ越し」(sub説)ではなく、送還だと考えるのが妥当。
君が言っているのは全部、「そうじゃない可能性もあるじゃないか」という話でしかない。
残っている史料から一番可能性が高いものを史実として認定していかなくてはいけない。
それが歴史です。「俺は伊達が嫌いだ」というのは同感だが、「だから伊達の史料は全部捏
造だ」というのは全く違う話だよ。
779 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 14:17:58.04 ID:rtFOOP2w
伊達治家記録が間に一次史料を挿入しつつ、
伊達敗走の弁解に出典不明の謎証言を混ぜて
伊達が勝ったように歪曲してるだけの話で
実際は会津陣物語のストーリーを参考に組み立ててるだけ。
こういうのが一番タチが悪い。
そもそも戦力が隔絶していながら一日にして北目城へ敗走し
伊達家にとって父祖の地を一寸も奪回できず、
伊達累代の信仰を受けてきた羽黒山別当寂光寺が炎上する中を敗走し
やむなく寂光寺を仙台に作るハメになった情けない大敗。
この大敗のダメージが原因で年内の侵攻が不可能なだけでなく
年が明けてからも錬度の高い精鋭を失い弱体化した伊達軍では
もはや一利も得られず敗走を繰り返すことになる
決定的な大敗が10月の戦いだろう。
そうでなければ年明け後になってもブザマな敗走を繰り返す理由がない。
そして家康はすでに上杉に和睦を打診してるのも知らずに
必死に自軍だけではまったく太刀打ちできない政宗が家康や結城秀康に
挟撃提案を哀願してる理由もわからなくなる。
最上が庄内を切り取っていく中で松川で決定的な勝利を挙げたのなら
庄内同様に伊達が地域の戦力バランスを破壊し、
下義忠の降伏や志駄義秀の休戦申し出のように自然と伊達郡・信夫郡は納まるはず。
しかし現実は一寸の地も得られてないのは主張と現実が乖離していて矛盾に満ちている。
それとね、伊達の戦果報告が毎回デタラメなのは下記でもわかる。
最上陣での書状において
10/2の政景宛の政宗書状では104討ち取りと記し
10/3の桑折宛の政宗書状では上記の報告において80討ち取りと記す
わずかたった一日で24の首はいったいどこへ消えたんだろうね。
ひょっとしたらこれが蒲生旧臣を討ちとった一次史料かねぇw
最上陣において上杉側には伊達軍と交戦したとする記録がないねぇ。
780 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 14:33:21.29 ID:1AJ6ymHo
史料を提示せずに脳内で語るのはsubの自由だ。
781 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 14:41:24.27 ID:rtFOOP2w
「残すところなき手際」と書くしかねーよね。
「いやぁたった1日で大敗して逃げ帰ってきて気持ちいいわ」
なんて書状に書くわけねーもんな。
実際に負けを素直に認め「負けたわ」って書いてる(特に自己批判的な性格な謙信以外の)他大名の書状を出してみろよw
勝って帰ったなら「心残りがある」なんて悔しさを滲ませないよな。
引越を送還にムリヤリ変換してるのは伊達治家記録による無自覚の洗脳だろうが。
伊達治家記録が恐ろしいのはたまに一次史料を挿入し恣意的解釈をして
捏造してるのに気づかずに疑問を持たないまま無意識に読み進めていくことだ。
このあたりの捏造ぶりのウマさは他藩史には無い凄さだ。
しかし出典不明の記述が多く誤判断へ知らず知らずに導かれている。
だから伊達治家記録は江戸時代を通じて世に出せないシロモノで
他家史料との相互批判もなされてこなかった。
その結果が下記のように矛盾だらけの捏造戦史になっているわけだ。
神保味方撃ちの薩摩側史料も
月夜畑の戦いの相馬側史料も
最上も佐竹も南部も安東も上杉も結城も対立する史料は全部否定して歩くアホ伊達厨。
伊達に都合が悪い史料はぜんぶ怪しいと却下しまくる基地害脳伊達厨w
蘆名に勝ってた(失笑)
佐竹に勝ってた(失笑)
最上に勝ってた(失笑)
蒲生に勝ってた(失笑)
上杉に勝ってた(失笑)
南部に勝ってた(失笑)
真田に勝ってた(失笑)
神保に勝った(事実www)
782 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 15:57:45.83 ID:1AJ6ymHo
>>781 逆に大敗していたら「時節柄これでよし」とは言わない訳で。
伊達治家記録が信憑性の低いものだと誰か研究者が言ってるの?
おかしい記述があるという程度では、上杉御年譜を見ても同じだし、
少なくとも福島の戦闘に関しては、敗北したとみられる慶長6年3月の
戦闘を無視しているが、10月の戦闘でほかの史料と矛盾する内容では
ないと思われるが。
783 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 16:13:59.50 ID:rtFOOP2w
「時節柄これでよし」と書いてるのは自分で自分を慰めてるだけの話で、悔しさを滲ませてるだけの話。
そもそも蒲生旧臣の討ち取り名も会津陣物語からの盗用を覚書と自称してるに過ぎない。
しかもそれは最上陣における記述であり10/2の政景宛・10/3の桑折宛の最上陣での謎の捏造戦果がそのまんま該当する罠www
それを根拠に300討ち取りの証明をしようと飛ばし記事を書くのが伊達クオリティw
300討ち取りなのに内訳はと問われたら郵便局員2、3人討ったのが具体的数字の謎への回答が最上陣での捏造戦果で実際は上杉と伊達は最上陣で戦ってませんwww
784 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 16:27:47.65 ID:rtFOOP2w
しかも松川に出陣してないとしか思えない成実が捏造戦果を書き
片倉はその合戦を見てないというのに300も討ち取ったとする大会戦があったと主張する始末。
実際は、上杉軍の囮が福島へ向けて撤退していくのを追いかけただけなので
戦果は会津への郵便局員2、3人討ち取りのみしか証明できない罠www
そして福島城を軸に挟撃されて手負い多数になり炎上した羽黒山本陣も維持不可能になり
2000を相手に2万の伊達軍が国見山まで敗走せざるおえなくなるが
簗川城兵の攻勢でそれすらも支えきれずに結局、深夜を通して一睡もせず安全圏である北目城まで高速の速さで敗走。
この事実を隠蔽するために何度と無く政宗が首級実検したとか摺上河原に諸将を召集とかデタラメを書きまくる始末w
しまいには簗川の須田の武功に対して奪われたとする竹に雀は上杉の紋だから捏造とか笑える言い訳まで開始www
785 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 16:50:09.91 ID:IlkmeVMD
いくら伊達厨が岡左内の武功を否定しようが結城家の秀康の記録にも政宗が失礼なヤツとする根拠に岡左内の松川での武功が引き合いに出てくるから否定できないよね。
しかし岡左内が上杉軍にいたから他の蒲生旧臣もいたに違いないって論法は伊達厨の願望でしかないよね。
786 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 17:26:54.04 ID:IlkmeVMD
それと3月下旬の戦闘を証明する一次史料に該当する話は会津陣物語にも3月下旬の戦いとして詳述しているにも関わらず
3月下旬の戦闘を証明する一次史料は会津陣物語の4月の戦いのことだと主張するのは暴論以外の何物でも無いよね。
それでは会津陣物語が10月の戦いを数行で簡潔に記しておいて
一次史料には存在しない4月の戦いをやたら詳細説明している理由が説明できない。
明らかに10月の決戦を4月にスライドさせて話のクライマックスにしている。
確実に10月の戦いが決定的な戦いだったからこそ会津陣物語でもクライマックスに持ってきたし、
それ以後の伊達軍が弱体化して、伊達治家記録でも家康から命令されたから以後は戦闘してないと言い訳して
隠蔽しないとならない程にボロボロな戦いしか
もはやできなかった証左になるだろうね。
暴論を主張しておいてあくまでも上杉厨を自称しつつも
あからさまに伊達厨丸出しなんだよね。
787 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 17:37:54.66 ID:IlkmeVMD
最上陣での政景の位置から考えて上杉軍と戦闘があったとは考えられないね。
伊達軍は出陣しただけ=首百討取扱いにでもなるのかね!?
伊達にとって不利な資料はすべて10月の戦いではなく
3月の戦いのものに違いないから
10月は伊達の勝利だ。これは上杉厨として絶対譲れないと執拗に同じ主張を繰り返して
このスレに常駐して監視してるから気持ち悪い伊達厨だなぁと思ってたよ。
788 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 17:56:40.72 ID:1AJ6ymHo
たしかに、蒲生旧臣が4月の戦闘の箇所に登場してくるので、10月の戦闘
の話が混じっている可能性はあるね。一方、10月の戦闘では、伊達の侵攻
を噂だとして景勝は出馬を見合わせたのに軍記では着陣したことになってい
る。大河ドラマ天地人の長谷堂合戦を思い出すな。ほかにも10月の戦闘で
は梁川の城兵が、福島を攻撃中の伊達軍の背後を突いた形跡がないなど疑問
点が多い。
10月にそんな致命的な大敗したら何度も攻撃してこない。政宗も書状の中
で景勝の出馬を臨むなど戦闘意欲が高い。
sub君はしつこく伊達厨呼ばわりしているけど、俺は一度も伊達びいきな発言
をしたことがないよね。俺は10月ではなく3月に挟撃で打ち破ったのだろう
と指摘しているのだし、10月の戦闘も一次史料にある以上、伊達は野戦には
勝利したが、戦果がなく撤退したと主張している。sub君と違い、嫌いな伊達の
いい部分は全部捏造だという考え方は持てないのでね。
789 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 01:41:14.83 ID:FO5VBRUS
伊達厨贔屓の連発ぶりすら自覚してないとしたらもう病気だな・・・
大敗したけど伊達代々の尊崇を得てきた寂光寺の復興と伊達累代の父祖の地の奪回と
汚名返上のために
最上が庄内を奪う姿に焦りを覚え伊達郡と信夫郡に政宗が執着しまくって無理を重ねて案の定、連敗続きだっただけだろ。
790 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 01:49:37.05 ID:FO5VBRUS
791 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 02:40:23.41 ID:mcQRUJj/
上杉は、軍の最弱部隊である小荷駄隊を後ろから襲って、やっと陣幕その他を奪っただけなんだろ?
伊達は、白石城を奪って刈田郡を領土化してんだよ
戦利品を見れば、一連の合戦の勝敗は明らか
792 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 06:50:32.50 ID:NVvH4kTa
上杉120万石のうち刈田郡なんてたかが1万6000石しかねーじゃんw
793 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 08:57:44.18 ID:saTN62yG
>>789 具体性がないな。どう贔屓したの?
病的な贔屓というのは、通説に反して根拠もなく「白石城は上杉が密約で伊達に
譲渡しただけ(結局、無駄に白石を割譲した上杉は騙された馬鹿)」と、直江の
まで嘘つき呼ばわりしたうえで、伊達は戦で勝っいないことにしたり、軍記物
によって一次史料を否定し、「伊達の史料は全部捏造。全戦全敗」っていう主張
を繰り返すようなことじゃないのかな。
794 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 14:14:54.66 ID:0jr9EPzK
>>791 景勝と直江は、伊達から陣幕を奪ったことがよっぽど嬉しかったらしく、
後年、将軍家光を饗応したときにその陣幕を張ったらしい。
反伊達をアピールするのは抜け目無いけど、他に何か無いのかよと、
この主従のバカさ加減にドン引きしたw
795 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 17:07:48.82 ID:pECP3tfd
上杉の軍記では、伊達を何度も撃退したと宣伝する割には、結局慶長6年3月〜4月
の時点でも、上杉は伊達に占領された白石城すら奪還できてないからな。
実際は伊達の小荷駄隊を襲ったくらいしか戦果はないんだろうし。
実際奪ったんだか拾ったんだか分からない伊達の陣幕ってのも掃討眉唾もんだしなw
796 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 17:59:51.85 ID:ykafhMw1
上杉軍は、城も土地も奪われ、野戦で散々ボコられた。
堂々と帰っていく伊達軍を見て悔しくて、
せいぜい腹いせに出来ることが小荷駄泥棒だったんだね。
797 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 19:55:23.55 ID:LFcn4W1S
>>794 景勝と直江が家光を饗応だと?…
小荷駄隊は襲われるとひとたまりもないから、
どの軍勢も動かすのに慎重になるでしょう。
それを襲われるのは大きな失態。
subも会津へ急報を届けようとした伝令を討ち
取ったのをたいした手柄じゃないようにいって
るが、それと同じく過小評価だよ。
798 :
人間七七四年:2011/09/06(火) 00:17:01.75 ID:VZnpxc+q
もう結論出てるだろ
伊達勢が野戦で圧勝し、上杉勢は城に籠り何も出来ず
伊達もそれ以上は戦線を拡大せず、撤退
上杉勢は、腹いせに伊達勢の脆弱部の小荷駄隊を襲った
799 :
人間七七四年:2011/09/06(火) 08:20:35.41 ID:g7PY6DVG
また得意の単発ID自演で多数派を装う工作か…
ほんと伊達厨は気持ち悪いな。
800 :
人間七七四年:2011/09/06(火) 13:54:39.32 ID:cd69fPEC
野戦で負けた腹いせに、
背後から脆弱部を襲って荷駄泥棒するのが
上杉の「義」、直江の「愛」ってことですね
801 :
人間七七四年:2011/09/06(火) 23:58:21.48 ID:PyrIalf7
マジレスすると直江の愛は愛宕の愛です
802 :
人間七七四年:2011/09/07(水) 07:14:45.04 ID:5BzTATaf
803 :
人間七七四年:2011/09/07(水) 10:16:34.40 ID:9+8RATcJ
自演とはまさにこのこと。
804 :
人間七七四年:2011/09/11(日) 03:30:42.72 ID:7C4iNWQL
あげ
805 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 02:42:55.99 ID:j3bi6vuF
またアンチ長尾上杉の基地害荒らしが暴れてんのか…懲りないやつだ。
806 :
人間七七四年:2011/09/13(火) 12:42:21.80 ID:gOIWpyR9
なんでsubは定期的に久しぶり感を出したがるのか
807 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 12:14:00.31 ID:gzpLBcjA
関ヶ原後の上杉掃討戦で伊達が野戦で勝ったとする史料は1670年頃から編纂作成された「伊達冶家記録」。
伊達家の領土欲の深さからしても野戦で勝って福島城を攻略しないで帰るなんてことは有り得ない。
その他の史料を要訳すると伊達政宗・片倉小十郎連合軍は本庄繁長隊・須田長義隊の釣り野伏せ→挟撃にて散々に打たれた見るしかない。
結果、伊達は白石2万石のみの加増。自力で庄内を奪回した最上は23万石の大幅加増となった。
808 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 13:00:12.11 ID:B76gPcVB
関ヶ原で身分不相応に大幅加増された大名軒並み改易されてるよな〜
809 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 14:49:43.48 ID:sCEO+ab2
釣り野伏せ(笑)
810 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 17:34:43.43 ID:tFOuTEns
釣り野伏せでぶちのめせ
811 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 19:52:58.41 ID:lg77ucWY
長尾上杉も器量・家格不相応に大きくなってたから
家康その他に袋叩きにあうところだったね
812 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 21:00:44.39 ID:gzpLBcjA
釣り野伏せ、か。
そういえば「革籠原」作戦でも本庄隊は秀忠軍を「釣る」役目だったような。
813 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 23:22:16.20 ID:UXAlIMqZ
>>812 ぷっww
そりゃ小説だよ。小説の読みすぎww
814 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 23:42:27.48 ID:CsYc3uge
上杉vs伊達&最上全面戦争だったら上杉の勝ちだろ
815 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 01:26:04.46 ID:CVJgPqNQ
そういや奥州に上杉一族いないな
篠川公方らと共に下向していてもおかしくない気がするが
816 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 17:48:27.24 ID:q/z4KD1l
上杉と伊達・佐竹が共謀して江戸城へ攻め入ったりしたら面白かったのになぁ
817 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 10:50:11.28 ID:NKDKzYdU
上杉景勝vs伊達政宗
直江兼続 片倉景綱
大国実頼 伊達成実
甘糟景継 茂庭綱元
須田長義 石川昭光
本庄繁長 留守政景
安田能元 白石宗直
泉沢久秀 亘理定宗
818 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 17:10:15.39 ID:ikTj9v/t
819 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 17:16:04.31 ID:ikTj9v/t
家康は政宗が一度、領国に帰ってから動員し
家康の会津征伐軍の白河攻めに呼応して政宗の白石攻めが
行われることを望んでいたけど
家康が上杉と戦端を開く前に政宗が白石を受領したので
家康の計画が崩れてしまった。
無断で白石を受領した政宗は家康への言い訳として
「しかるべく、御取り合いを頼み奉ります」と弁解してる。
白石の布陣図は悪名高い日本戦史が妄想軍記の伊達治家や
片倉記のデタラメを盲信した結果から作られたんでしょうね。
そもそも伊達政宗記や録事蹟考記に収録された
白石城将登坂の降伏起請文書自体が前書であり原本は存在しないし
政宗が帰国する時に片倉や石川は随伴してないのに
その文書には署名している不可解な文書であることに起因してる。
>>白石城将登坂の降伏起請文
これの存在は一次史料との矛盾が大きいよね。
家康は政宗が一度、領国に帰ってから動員し
家康の会津征伐軍の白河攻めに呼応して政宗の白石攻めが行われることを望んでいた
→伊達治家では一度、領国に帰ってから伊達軍を動員したので
片倉や石川も白石攻めに参戦し激しく攻城したし、家康の指示通りに行動したと捏造してる。
しかし一次史料だけで読むと家康の指示を無視して暴発した政宗は
京から帰る途中で政宗単独で白石城を軽く手に入れたってことになる。
このことを光成氏は事前の交渉によって話がついていたから
簡単に政宗が白石城を手にいれたのだろうと指摘してる。
その布陣図についてですが、亘理源五郎と伊達安芸が書いてあるのですが
これは同一人物ではないのですか?亘理定宗が後の伊達安芸でしょう?
源五郎のほうは重宗かとも思いましたが白石城の戦いには参加してないですし
同一人物だと思われ
820 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 00:30:48.10 ID:nj3BMl7a
政宗は直江に呼応して
山形城を奪おうとしたぐらいだしな。
821 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 09:37:25.75 ID:RoKb08WA
あわよくば東軍の南部や東軍の最上も奪おうとする虎狼ぶりが
政宗の魅力だからな。
しかし西軍に内通していた佐竹や相馬や小野寺は攻撃しなかったな。
822 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 18:14:26.77 ID:N9xN1IG1
まぁ大坂城には正室と息子2人がいるんだから
政宗が東軍に付くわけがない。
衆道に熱中し嫉妬するくらいの政宗が
やっと跡継ぎに対して考えて
不仲な愛姫をやむなく抱いて
生まれた男子の世継ぎを失ってしまったらまずいから。
823 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 20:19:49.02 ID:d5YNpjsP
だからこそ危機感を持った家康が、
伊達家臣団に対して
百万石の約束を出して
政宗を売れと買収を持ちかけたんだろ。
その結果が松川の戦い。
大坂の息子を気にする政宗の意思など関係なかった。
愛姫などは殺されても政宗は気にしないだろうが。
824 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 20:36:10.04 ID:+j2nxBnm
小十郎に上杉最上の共倒れを狙うべきと言われたけど
母の実家を見捨てられないからと却下したんじゃなかったっけ?
でも長谷堂城のときは救援してないんだよな。直江の撤退戦になってやっと戦いに加わった
825 :
人間七七四年:2011/11/03(木) 08:38:54.47 ID:Azm10TuO
>>824 母の実家云々は一次史料にない作り話。
仙台藩は家臣団が強過ぎて藩主の力が弱いのは
松川の敗退で褒美の加増ができず、
政宗に家臣団が貸しを作ったからだろね。
おかげで藩主直轄領が少な過ぎて
藩主に反対する家臣すら
武力屈伏させる手段が取れなかったどころか、
片倉などの傀儡政権にされた。
そして仙台藩準一家に家格が上がった松前藩主の子である安広の子の片倉景長により片倉も乗っ取られ、
津軽片倉氏が伊達藩主を操るようになった。
実際、安広が松前慶広の実子だったか怪しいらしいが。
826 :
人間七七四年:2011/11/03(木) 20:56:28.81 ID:uyauSAPo
伊達政宗同志は福島城を攻めましたが本庄越前に手もなく撃退され、逃げ戻りました
827 :
人間七七四年:2011/11/03(木) 23:49:23.42 ID:n1KKIXUF
関東管領だぞ。お前ら関東府傘下だろ〜
828 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 00:41:03.42 ID:dTcZzDBn
>>819 光成氏が言うのは、登坂を事前に内通させていたのではないか
という話であり、上杉から受領したという話ではないね。
同時に川俣を攻略し、さらに南下を企てていることからも、帰国途中の
兵だけとは思えない。光成氏も言うように本国からも兵が送られた、政
宗としては予定通りの白石攻撃だろう。
829 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 01:31:27.94 ID:vGiWniPG
帰国途中の手勢以外に、
本国からも兵が送られたとする一次史料をお願いします。
合流場所と日付の一次史料もお願いします。
830 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 01:49:16.37 ID:dTcZzDBn
六月から上杉領で一揆を扇動し、白石と同時に川俣を攻撃。
通りかかったら堅固で通過できませんでしたというような突発的
な攻撃とは考えにくいでしょう。
政宗の言い訳状の言い分を真に受けすぎでは。
831 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 09:13:12.07 ID:IaXzc8cK
白石は甘糟や御検使まできて御仕置をして防備強化がなされていた。
それを政宗が領国に帰ってから白石を攻めろと言う家康の命を無視して、
帰りがけの政宗が伴の者だけで落としたわけで、
不可能なことをやってるのは明らかにおかしい。
また村越宛書状によると即日、白石を手に入れているため
(軍記類だと政宗は帰国後に攻めてきて、翌日朝に降伏を受け入れたと改変されてる)
そのため北目の伊達軍が合流した証拠はまったくない。
川俣城奪回に24日には上杉軍が各地から出撃しているので、
政宗のお供だけで白石と川俣は同日に落とされたとするのは不審。
しかも上杉軍は川俣には兵を出しても、
白石奪回には一切兵を出さないのも不審。
白石を政宗に渡すのは上杉が了解済みだが、
川俣については受け入れてないと思われる。
つまりこの機会に旧伊達領だった川俣や大館では郷村指導者が一揆を起こし川俣古城に立てこもった。
その一揆指導者が桜田某であり27日以前に川俣は上杉に制圧され桜田某も討たれた。
伊達の主張だと桜田某を駒嶺城主の桜田元親だとしているが、
この人物は1615年に秀宗に仕えていて生存してるのがバレている。
つまり川俣古城で桜田某が蜂起したのは政宗の預かり知らない、
政宗にとっては上杉の不審を買っただけの迷惑行動だったので見捨てられて死んだ。
832 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 10:06:01.38 ID:xl7Yikwg
なるへそ。
捏造された起請文前書なるものの日付に
軍記類はキチンと合わせているのか…
こりゃあ酷い。
833 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 11:43:05.63 ID:9UYIwsTi
>>831、
>>832は同一人物だろうけど、白石城が上杉から渡されたなんて言う
上杉を馬鹿にした説を持ちだすから、話の整合性が取れなくなる。
>帰りがけの政宗が伴の者だけで落としたわけで、
政宗は共の者だけで落としたとは言っていない。
>また村越宛書状によると即日、白石を手に入れているため
即日落としたとは書いていない。分かることは24日に二の丸三の丸まで
破壊することを命じたということ
>白石奪回には一切兵を出さないのも不審。
7月27日付直江書状「白石に政宗がいるので後詰を申し付けられた」
>白石を政宗に渡すのは上杉が了解済みだが、
>川俣については受け入れてないと思われる。
10日前には上杉は白石の防備を固めているのに、突然明け渡すことになった
なんて不自然。22日の時点でも直江は使者が伊達の伏兵に遭ったと言ってい
るのに譲渡などありえない。
>その一揆指導者が桜田某であり
誰?直江がわざわざ名前を挙げるほど?
>伊達の主張だと桜田某を駒嶺城主の桜田元親だとしているが、
わざわざ負けた人間を「うちの武将です」という意味はあるのかい。
元親とは別の人間なのか、直江が把握した情報に誤りがあったのかは
分からないが。
834 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 14:11:45.40 ID:cC6YX5C4
兼続に詳しい人に質問です。
長谷堂で討死にしたとされる溝口左馬之助こと溝口勝路は実在の人物でしょうか?
実在したとして兼続の片腕くらい重要な武将だったのでしょうか?
どうも殿軍を務めたのが水原、溝口というのは軍記のみで
書状など一次史料では水原、櫛田だと指摘しているサイトを読みました。
溝口左馬之助(溝口勝路)でググってみましたが
どこも軍記と同じ内容しか書かれてません。
実際の溝口左馬之助なる人物の詳細を知りたいです。宜しくお願いします。
835 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 15:01:57.70 ID:dTcZzDBn
一次史料っても長谷堂の撤退戦について書いてるの少ないからなあ。
上杉方では水原が櫛田に宛てたのくらいしか残ってないから、名前がない
から架空とはいえないし。
侍大将クラスだと一次史料には出てこない人もいるだろうから。
836 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 15:44:12.44 ID:rJIjBwzU
会津陣物語だと長谷堂に到着していた伊達軍が
直江の撤退戦で追撃してきたので溝口が橋で踏みとどまる。
それで伊達が阻止されている間に直江が迂回して伊達を撃破。
しかし溝口に攻撃が集中していたので夜になってから死去。
最上記だと殿として溝口の名はあるが死んだとかは書いてない。
伊達軍は最上と一緒の追撃には参加してない。
最上と合流してない政景が一緒に直江を追撃しているわけがないので
どう考えても伊達軍によって溝口が討たれたというのはウソでしょうが
ここまで登場してるとなるといたかもしれませんね。
837 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 17:19:07.44 ID:rJIjBwzU
伊達治家では政景が山形城に入ったとしてるがウソでしょう。
上杉側に伊達との交戦記録はないですし
最上にも一緒に追撃した記録はありません。
政宗は追撃において最上が弱すぎて上杉を取り逃がしたと書いているのもいい加減な話でしょう。
838 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 17:51:04.15 ID:cC6YX5C4
皆さんありがとうございます。
居たかもしれないけど片腕という程でもない、正体不明な人物なんですね。
溝口氏で調べても出てくるのは新発田藩の歴史ばかりで・・・
出自・前歴さえも分からないし事績は撤退戦のみ、しかも根拠が軍記ですから。
もしかして山勘のように殆ど創作された武将なのかな?と思いました。
>上杉側に伊達との交戦記録はないですし
>最上にも一緒に追撃した記録はありません。
政宗自ら出兵を依頼してる湯目守重は伊達勢に属してたんじゃないでしょうか?
この守重も追撃戦で討死した事になっています。
これが実話なら伊達勢も追撃戦に加わってたように見えます。(山形城は怪しいですけど)
839 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 21:24:57.32 ID:bP+0mcRO
湯目守重って一応、戦死場所に墓があるんだよね。
でも墓って後世の一つが
伝承を盲信して作っちゃうから信用できないし。
ぶっちゃけ湯目守重も怪しいもんだよ。
840 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 21:26:11.38 ID:bP+0mcRO
後世の人が
の間違いね。
841 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 00:02:06.12 ID:Br//+HTX
>>833 どう考えても京からやってきて佐竹・相馬領などを通過してきた政宗が
実は大軍で押し通ったとは思えないし、供の者しかいなかっただろう。
また村越書状を読めば翌日までかかったとは、どう考えても解釈できない。
7/27書状って直江→石栗宛て?
それって米沢の者どもが川俣で働き討ち取りしたのを賞したあとに
白石表のこと聞いた。自然案内者候 城中堅固相抱候様可申遣候と書いてるやつ?
自然案内者ってのが直江と伊達の両方を結び付ける隠蔽してる人物を指してるんでしょ。
城中堅固相抱候というのは、村越宛書状において政宗が城中堅固相抱候と
同じ単語を使用してるように伊達と直江が言葉についても示し合わせておいてから
村越に報告している証拠じゃないかな(普通は普請堅固申付と書くのが常識)
しかも案内者を通じて政宗に白石城を城中堅固相抱ように直江が申し遣わしているわけで、
注目したいのは村越への書状で登坂式部らを抱え置き候と言っていて、
執拗に同単語がまた使用されてるように登坂式部らの遇し方まで打ち合わせ通り。
やはり直江と政宗の間で抱えておく話がデキているのがわかる。
白石の防備で甘粕らが来たと言うのも実は政宗へ譲渡する準備と調整で来ただけ。
直江が白石を御仕置をして防備強化したと言うのは本音ではなく外聞上の指示。
実際には直江が白石の御仕置きをやらせたのは政宗に申し遣わしたことで達成してる。
842 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 01:03:58.79 ID:gYRfS98C
強引な解釈ですね。
843 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 09:55:12.50 ID:YHkdrc2n
>>841 >京からやってきて佐竹・相馬領などを通過してきた政宗が
>実は大軍で押し通ったとは思えないし
だから本国からも兵が出陣している可能性が高い。
>7/27書状って直江→石栗宛て?
本村造酒らに宛てたほうだが、石栗宛ての書状も解釈が君とは異なる。
「堅固に相抱え候」というのは珍しい表現ではなく、政宗と直江の申し合わせ
の証拠ではない。政宗に「堅固に相抱え候様」命じているのでもなく、川俣を含めた白石周辺
の上杉方城将に対するもの。
>執拗に同単語がまた使用されてるように
城を守備する「堅固に抱える」と留め置いている「抱え置く」は同じではない。
>白石の防備で甘粕らが来たと言うのも実は政宗へ譲渡する準備と調整で来ただけ。
>直江が白石を御仕置をして防備強化したと言うのは本音ではなく外聞上の指示。
根拠が全くない。
844 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 09:00:58.42 ID:IkqC3kJO
案内者を上杉方の城将達とするのは
さすがに苦しいだろ。
845 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 09:04:36.48 ID:z49GyJaN
溝口とやらは上杉家の分限帳見たら大体どの程度の地位の人物か分かるんじゃね?
会津時代に上杉家にいたなら載ってるだろ
846 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 18:01:08.30 ID:iZWg8ZHN
>>844 直江書状のこの部分は
「白石表のことを詳しく聞き届けました。案内者がいる
ので城中を堅固に守るよう申し付けました」
普通に読めば案内者は白石表の情報を知らせた人間。
直江が留意事項を細かく指示して白石周辺の守将に伝えさせた
ものと考える。
伊達と白石譲渡の密約などなく、案内者が調停者などではない
ことは、同日に福島へ伊達への警戒を呼び掛け、「私自ら後詰
めとなり、政宗を討ち果たす」と述べていることからも分かる。
847 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 03:20:30.48 ID:CVrfvPAa
どう考えても案内者=白石表の情報を知らせた人間
には解釈できないだろ。
だから苦しいから
>>843では案内者について黙殺して触れなかったんだろう?
それに村越書状を読めば翌日までかかったとは絶対に言えないはず。
848 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 08:33:40.26 ID:lcz55zvB
>>847 >どう考えても案内者=白石表の情報を知らせた人間
>には解釈できないだろ。
その根拠は。逆にどう考えても伊達と上杉の調停者などにはならないよ。
言ってる内容は
>>843と同じだよ。白石表の事を知らせた者に「城中堅固相抱」ことを
白石周辺の将へ伝えさせたと解釈した。
同日に同じような相手(=今回の場合は福島方面の守将)に対して送る書状は似通った
内容であることが多い。福島にも川俣にも伊達に注意しろという内容だと考えるのが普
通なんだよ。君は「苦しいから」自分が文書をどう解釈したのか示さないのかな。君は
文書をどう訳し、他の文書と整合性を取った結果、伊達と上杉の密約があるとの新説に
たどりついたという部分がない。
君は「伊達が戦で勝ってはいけないという絶対的な事実」を前提に全ての史料を解釈し
ようとしている。
だから
>>819では、光成氏が「城主登坂式部らが強い抵抗を見せずに投降し(中略)ことから
推測すると、事前に調略により内通させていた可能性もある」と書いている部分を、あたかも
上杉と伊達の密約があったと光成氏も指摘していると誤解させるような書き方をする。光成氏
はあくまで白石城への内応調略があった可能性を指摘しているのであり、上杉との密約を指摘
しているのではない。そのあとも上杉と伊達が戦闘態勢にあっことにも触れているしね。
また
>>841では、「(城を)堅固相抱」と「(登坂らを)抱置」を「執拗に同単語がまた使用さ
れてるように」と強引な解釈をしてしまっている。そう見えてしまっているのかもしれないが。
村越宛政宗書状は「昨日命じて町を始め二、三の丸まで打ち破った。本丸攻撃に取りか
かったところで、城中よりしきりに降参するから助命してくれと言ってきたので、本丸
を受け取りました」。この内容では「絶対に言えない」とは言えないし、7月25日付
の降伏起請文が偽文書だとする根拠にはならないよ。
849 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 11:32:34.61 ID:rqKXEJuN
学会自体が本が売れるように政宗贔屓で書かれてる現状だからなぁ。
いまだに惣無事令のせいで政宗の南奥領地拡大が邪魔されたなどと捏造文を書いてるしな。
上杉と伊達の同盟を否定したいが為に
伊達厨は「政宗が白石を力攻めで落とした」ありきで語ってまったく譲歩しないだけでしょ。
結局、その頑な態度はSABが嫌いだから意固地になって何でも反対を主張してるだけの話で
ぶっちゃけ自分の発言が正しいか、正しくないかはまったく関係ないんでしょ。
850 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 12:22:26.09 ID:/oUnZXfO
>>849 研究者が誰も指摘していない
→(何学会か知らないが)学会が本を売るために政宗びいきと主張
根拠がないことをいい続けるsubを批判
→subに粘着、subが嫌いだからなんでも反対しているだけと主張
subとは呼んでいないのに自ら名乗るか。
851 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 16:21:47.29 ID:VLdUU1vn
白石城を譲るのは上杉に得な取引なのか?
852 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 18:40:10.06 ID:E4HhrZzT
上杉120万石のうち、
たった1万6000石譲渡で
背後が安定して
白河口で家康を待ち受けられるから
ものすごく得だね。
直江は白石方面に出陣するよ詐欺でポーズだけしてるが、
全く出陣する気がなかったよね。
それどころか上杉と伊達の連携は公儀のためだから白石は諦めよう運動してるし。
まさに直江の表裏の一策と言えるね。
上杉5路同時侵攻を掲げて
ドヤ顔してた家康も政宗と佐竹と上杉の連携を察知して疑心暗鬼になっていた。
853 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 18:46:58.91 ID:E4HhrZzT
政宗は南部で一揆を引き起こし最上口の上杉侵攻軍を崩壊させ、
越後遺民一揆に困った堀も大坂に内通するから勘弁してくれと申し出てるから
家康の大戦略は見事に崩壊し江戸に帰った。
854 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 19:52:09.49 ID:/oUnZXfO
sub説は
上杉は白石を譲ることで会津征伐時の不戦同盟を結んだ。
ところが伊達は協定ラインを越えて川俣にも侵略してきた。
騙された上杉はすぐに反撃して川俣奪還。
でも渡すことを約束していた白石は取り返さない。
白石の防備を固めに甘糟を派遣と書状にあるのは嘘で、譲渡の
交渉だった。直江が諸将に、政宗を討つとか注意しろといった
のも嘘。直江は仲間に嘘をつきながら白石をくれてやったのに
騙されて城を奪われただけで味方にできなかった無能といいた
いらしい。
トンデモ説で上杉をおとしめるなと言われて
「上杉が貶められようが関係ない」
伊達を貶められればなんでもいいようだ。
855 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 20:11:13.64 ID:5g2GUUMf
>>854 >>831を読む限り川俣は一揆指導者が勝手に占拠しただけだから、
迷惑だった政宗も見放したと書いてるけど?
それに案内者なんて普段見ない単語を使っているのは、
やはり特殊性を感じる。
やはり直江と政宗の間を案内してる人物を指してるとする方が自然だろう。
856 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 21:12:42.81 ID:/oUnZXfO
>>855 自分のレスを引用しなくていいよ。
第一根拠を書いてないし。
案内は別に珍しくないでしょう
857 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 21:39:18.66 ID:UJfmBJnA
珍しくないとのことなので、
案内者の単語を使っている書状を4,5通ほど実例として提示してみてください。
858 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 22:14:56.26 ID:/oUnZXfO
君は珍しいのを調停者の証拠としている。
逆に言えば例があれば違っていたと認めるのかな。
それなら出すが、君のことだ。前言撤回するだろう。
859 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 23:42:30.53 ID:gl6HPxDs
伊達政宗は日和見的姿勢と和賀一揆そそのかしがバレて、刈田郡のみの加増で終わったが、最上義光は、長谷堂城攻防戦後に攻め取った荘内地方を加えられ、33万石加増、併せて57万石の大封を得た。
860 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 00:10:02.16 ID:QlVzQ6k7
>>859 器量にそぐわない大領を貰ったからダメだったんだろうな
861 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 00:21:31.81 ID:w5xIix+D
最上は山形5万石と近江矢嶋5000石で充分。
近世大名への脱皮に失敗した最上は、重臣らの取り分が多すぎて最上本体の取り分はせいぜいそんなもん
862 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 12:03:05.15 ID:k23nD5tY
>>859 直江は九月に入ってから「公儀がよければ伊達と和睦する」と
書いてるんだから、会津征伐時と家康反転後は分けて考えるべきだよ。
863 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 13:43:26.84 ID:qY8V7Cmy
伊達の歪曲言い訳が各所に見られる政宗の小姓を勤めた木村宇右衛門覚書によると
南部が普通に考えて落ちるわけが無い白石城が伊達の手に入ったのは
政宗と景勝が内談していたからだと主張している。
白石城譲渡がなんら根拠のないものではなく、当時からすでに指摘されていることだ。
家康が南部の自作自演に騙される愚かな老人として描かれ
鷹商人高木小右衛門への扱いが悪かったバカな屋代勘解由に全ての責任を負わせている捏造ぶり。
岩城通りを通過し相馬領を経て北目城へなんなく下着したと書く。
(北目城へ戻ったので家康の命令に従ったとする捏造がすでに行われている)
白石城を攻める前日に南部の使者がやってきて
伊達が景勝を攻めるなら北目城へ我らも援軍を出すと申し出てきた。
一方で和賀が「南部と秋田と酒田と津軽と由利と松前が上杉と同心している。
しかし私は小身ながら同意せず。よって南部により
景勝への土産にされてしまうので援軍が欲しい」とのこと。
和賀への返答に政宗は「難儀あらば加勢する。南部を追い払い白石へ攻めかからん」
関が原後に南部が景勝との同心がバレるのを恐れ、
鷹商人の真似させて最上から会津経由で家康に鷹を献上し政宗が
「内々ハ景勝へ申合らるる事うたがいなく候 白石の城などさように落つる城にて
御座なく候へとも 両人内談四方へ聞こえのためなるへし
其の言われハ南部之内に和賀と申す城主小身にハ候へとも 景勝廻文に一身の者に御座候」
和賀如きは軽く首を刎ねて家康への忠義を示そうとしたが政宗が手を貸してるので
それもできず逆臣が目の前で我侭に振舞ってます。御検使を派遣して貰ってから
和賀を攻めれば政宗の虚実を見せて御覧にいれますと伝えさせた。
家康がその検使に御前にいた鷹商人高木小右衛門に急ぎ鷹を買いに奥州へ下れと申した。
小右衛門が南部に内通し北目に乗り回し屋代勘解由に玄関にて案内を乞うたが
ちょうど碁で殊の外負けていた屋代が「どうせ物が欲しいとかだろw留守って言っとけ」と命じた。
勘解由が驕った態度が、結局は他国へ浪人するハメになった。奢る者久しからずや。
小右衛門が到着するや南部が急ぎ和賀を攻めると、和賀の加勢に白石相模の旗と人数が際限なく見えた。
南部は「あれ御覧候へ言上申たるに偽り無之段よく見給え」これにより政宗は冤罪になった。
864 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 11:16:33.31 ID:hQC8qHbm
>>863の直前の部分では、最上表にいる南部が白石攻めの後詰をすると言っ
てきたり、まだ家康の反転を上杉が知らないのに「景勝が家康公を追撃して
関ヶ原に上ろうとしているとのうわさがある」から白石を攻撃するなど、時
系列や内容がおかしい部分がある。
南部から見た場合には政宗が上杉に通じていたという見方をした可能性は全
否定はできないけど、一次史料上はむしろ臨戦態勢で、これを否定するには
木村覚書は弱すぎる。上杉と伊達は家康反転後に接近しており(南部ら東国
の諸大名も)、こうした事実と混同している可能性もある。
865 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 11:42:03.59 ID:DqbNRCs/
おかしい部分があるのは、
伊達を無理矢理擁護するために曲解した文章内容だからに過ぎないだろ。
そもそも伊達の主張は最初から崩壊していて
家康が南部側の主張が正しいと
認定した事実すらも
家康が南部に騙されただけと主張する一方で、
屋代がアホだから失敗したと言い訳を重ねる始末。
子供が思い付くレベルの反論しか出来ず、
伊達がちゃんとした反論材料をなに一つ持ちあわせてないのが露呈してるだけ。
866 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 11:48:45.39 ID:hQC8qHbm
だから、それを使って一次史料を批判はできないでしょうということだよ。
867 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 13:21:46.86 ID:DqbNRCs/
えっ?だって大坂三奉行も
家康が小山から帰る以前の7/28の時点で
政宗は味方だと書いてる一次史料あるし。
868 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 13:58:19.35 ID:gHvIKBx7
>>867 味方だと書いてある?
「最上・伊達についても大坂に自分の妻子は言うに及ばず、家老までことごとく
妻子を置いているので、人質に取っています」
外へ外へ逃げようとしているけど、当事者である直江と政宗の書状だけで臨戦態勢に
あったのは明らかなんだよ。
869 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 18:44:50.68 ID:6tzbLzI0
>>868 景勝と申し談じ候者として伊達の名前が挙がってるじゃん。
これなら関東滅亡間違いないって。
870 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 19:34:37.30 ID:myTuFPFC
>>629 内談してたのは間違いないなあ。
戦はなにが起きるかわからんし、
家康は高齢者だからいつ死ぬかわからないし、
政宗だって家康が絶対に勝つなんてわからないしね。
871 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 19:40:21.55 ID:gHvIKBx7
>>869 「あなた(真田)の事については、太閤様が格別に懇ろにしたことを忘れていなければ、
このたびは秀折様に忠節を尽くすことが肝要です。其の上景勝と打ち合わせれば、関東
はすぐに破滅するでしょう。最上や伊達についても〜」という意味だよ。
「其の上景勝申し談じ候はば」関東はすぐに破滅するでしょう―と読むのであって、
「申し談じ候者(もの)」とは読まないと思うよ。関東が破滅という話に続くのだし。
「其の上」とあるから「貴殿事」の続き。「伊達最上事」は別の文だと思う。
872 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 19:56:39.17 ID:gHvIKBx7
>>870 それも繰り返しの話。
直江は「最上表の儀も南部、仙北衆、上説を聞き候て引き払い候故、最上正体なく取り乱し候」
という情報を得たのであって予言ではない。
同じ書状に「白石表の儀、郡近辺りへ討ち出で候人数、一昨日何れも引き除き候につきて、百姓
ら先ず以て往還申し候、上方の様子、正宗も聞き届け候故と存じ候」とあり、政宗が白石周辺に
兵を出していたが、引き上げたことを上方の情報を得たためと分析している。
どこにも盟約を結んでいる様子は書かれていない。
873 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 13:32:36.73 ID:XRiCTi7Q
>>623 8/5には佐竹も家康から人質出せと言われて拒絶し
直江が佐竹と家康も手切れと書いてるから
政宗が一揆の導火線を付けた時期と一致する。
>>871 秀頼様に忠節を尽くすことが肝要
その上、景勝と申し合わせている者として
関東即時破滅させるべくして伊達や最上らです。
大坂に人質がいることはあえて言うことでもないですが
家老の妻子もいますので。
このように伊達や最上らが同意してるのがはっきりわかる。
人質はあくまで保険として言及してるだけ。
>>872 >>白石表の儀、郡近辺りへ討ち出で候人数、
その文章はその前に出てくる「宮中より」に関係がある。
宮中とは宇都宮(結城)朝勝であり、政宗と直江の「案内者」がこいつだと判明する。
そして詰めの打ち合わせも完全に終わった為「珍敷儀到来」として白石での交通往来も正常になったとしてる。
上説が内府たがいの条だとすると最上口の撤兵の辻褄が合わない。あとは
>>585>>595参照。
874 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 15:38:22.08 ID:lbV0Pw4x
>>873 落ちつけ。全部めちゃくちゃな文書解釈してるぞ。
subならもう少し普通に文書を読めるだろう。
8月5日の書状はむしろ佐竹と上杉は西軍挙兵の前は同盟してい
なかったという証拠。「今度上方の儀につきて、内府より証人こわれ
候えども。『不通』と申し切り候条、左様に候はば、(上杉に)御加
勢申したくとのことに候条〜」。伊達は全く出てこない。
むしろ8月4日の書状でも直江は「何としても政宗を逃がさないよう
にしたい」と言い、白石方面の防備に付いて指示している。
奉行衆の書状は、何度も尋ねているが読み下してみて。
そんな意味の文章にならないから。
都合よく勝手に文章を区切ったりしたらだめだよ。
白石表の話と「宮中より」とは関係ないよ。
白河方面にいると考えられる結城朝勝は政宗と上杉の間の案内者にはなりえないでしょう。
「(前略)宮中より珍しき儀到来次第御状願うべく候、将にまた此の方相換わる儀無く、白
石表の儀〜」と書いていある。「白石表の儀」は此の方の状況であり、「宮中」から知ら
された話じゃない。
875 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 17:41:26.44 ID:XRiCTi7Q
>>874 君また屁理屈を弄するのか?曲解しちゃいけないよ。
もう同じことを何度も過去レスしてるから
めんどくさいから再度は書かないよ。
876 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 19:32:25.55 ID:IjQtto7O
将って
手をとる まさに これからしようとする
って意味だから、
まさにまたこちらも今までどおりに変わらない関係として伊達と手をとっていく
と直江が述べてるんじゃね。
877 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 22:20:01.30 ID:l1ip+K2d
>>875>>876 屁理屈というのなら、まずは文書を読み下し、訳してみたらどうかな。
>まさにまたこちらも今までどおりに変わらない関係として伊達と手をとっていく
なんてのはどこをどう読めばそうなるのかさえ疑問。
君は論に窮した末、
>>605で譲歩してくれと言い、さらには学会は伊達を擁護しない
と本が売れないから研究者が白石密約説に触れていないだけだなどと主張する。
「研究者が本を売るために云々」なんてのを屁理屈というんだよ。
878 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 22:34:40.65 ID:IjQtto7O
>>877 和製漢文的な知識だけで読んでるから
深い文意がわからないんですよ。
漢文漢詩の勉強もした方がいいよ。
879 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 23:13:45.00 ID:lbV0Pw4x
>>878 あきれてため息しか出ないが、自分でよく分かっているだろうから
これ以上追い込むことはやめるよ。
880 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 00:01:11.44 ID:H+KIwiZz
881 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 00:19:06.95 ID:Pt2iiND5
882 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 10:03:14.17 ID:E7btXw0E
そんな開き直り発言って。
するとID変え常習犯なのか。
883 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 10:26:13.45 ID:sNouuEKw
>>882 わざわざそんな面倒なことはしないよ。自演ってのはSUBがいつもやるように
他人を装って自分のレスに相槌打ったりすることであって、
>>877>>879は同じ
人間の発言にしか見えないだろ。ほぼ2人しか書き込んでない訳だし。
史料的な批判ができなくなると無意味な突っ込みしかしないのか、君は。
884 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 10:53:44.03 ID:E7btXw0E
>>883 君、自由にID変えることができたんだね。
酷い話だな。
ID変えたの忘れてたか、
失敗しちゃったんだね。
885 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 13:12:58.37 ID:sNouuEKw
>>884 多分この書き込みもID変わってるはず。
なぜ変わってしまうのかはだいたい分かったけど、わざとやっているわけではないよ。
悪いけど、SUBと違って自演に頼った議論はしていないんだ。
根拠に挙げた史料の読み下しはできたかな。
886 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 13:20:32.26 ID:sNouuEKw
変わらなかったか。特別なことはしていないのでプロバイダーの関係としか
言えないな。
SUB君に読み下して、訳してほしいのは奉行衆が真田に宛てた「伊達が味方だと言う証拠」
の書状と、直江が岩井に宛てた「結城朝勝が上杉・伊達の調停者だという証拠」の書状。
887 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 13:41:12.08 ID:E7btXw0E
ムキになって必死に否定して連レスしてるから図星だなあ。
888 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 14:02:43.79 ID:sNouuEKw
>>887 読み下しの話をそらしたいから挑発しているんだろうけど、仮に自演でも
それで白石城の密約があったことにはならないんだから、しっかり根拠を
示してもらうよ。
889 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 15:38:44.09 ID:k2aSwqL9
現代人の一個人のデッチ上げではなく当時から指摘されていた根拠→
>>863 ところで
>>857から充分すぎる調査時間猶予を与えたので
そろそろ解答してください。
また
>>871における「者(もの)」を「者(はば)」と読む根拠を提示してください。
890 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 18:34:51.73 ID:sNouuEKw
当時から南部にそう思われていたにしても、当事者同士の書状を覆すものではない。
「案内」が珍しくない言葉であることを示せば君は素直に間違いを認めるの?
と聞いたはずだが。それならいくらでも出すよ。
出してもどうせ屁理屈をこねるのであれば意味がない話なので出さない。
根拠も何も「候者」は「そうろはば」と読むのは一般的なのだがまさか知らないのか。
文脈によって「そうろうもの」とも読むけど、この文章をそう読むと意味が通じない。
だからちゃんと読みくだしてごらんと言っている。
891 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 15:50:33.31 ID:BAOmLVTx
別に「者」と言う字が存在してなくても
文脈で「候」を「そうろはば」と読むじゃねぇか。
892 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 18:42:50.33 ID:BAOmLVTx
ちなみに非常に珍しい中で必死に探すと
下記のようなのが出てきた。
陶晴賢書状と思われる某齋宛て書状では
大野方へ「よく被相調候 奇特候〜通心靜披見候」として
文書の返却したので、大野方が持ち帰る際に
「案内者」として椋飛騨守に申し付けた。
そして坪井に「可引合之由申付候」と
引き合わせることを仰せになっている。
これ内通交渉の引き合わせに椋飛騨守が登場してるし
毛利と山名が同盟した時も
高木越中守が双方を結びつける「自是爲案内者」となっている。
内通案内や同盟を結びつける使用例が散見された。
893 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 22:43:01.70 ID:Re3d4Rur
>>891 「候ハゞ」などとあることが多いね。「候者」を「そうらはば」と読むのは慣用だよ
>>892 「案内」には同盟を仲介するというような意味はないよ。
多くの場合は地理や事情に詳しいとか、知らせをもたらす人という意味で使う。
894 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 23:52:56.62 ID:OGsuGShY
895 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 11:16:38.92 ID:HyUpIPRY
sabの文書読み下し&訳待ちage
896 :
人間七七四年:2011/11/27(日) 11:33:19.12 ID:UuD3/1Pu
関東管領家か何だか知らんが奥州に口出すんじゃない
ここは奥州探題である俺のモノだ
探題だぞ。管領ごとき執事とは違うトップだ
何しに会津来たんだよ
越後か上州に帰れ
897 :
人間七七四年:2011/11/27(日) 12:00:37.71 ID:2tx+n3+P
関東管領は義満時代からは奥羽も配下に加えてるわけだがwww
大崎とかも鎌倉出仕してるしwww
898 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 11:51:58.82 ID:R2pxv2Y6
奥州探題と関東管領どっちの方が格上なんだ?
899 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 12:23:10.19 ID:te8xV9No
関東管領は尊氏の母の家系の上杉氏
奥州管領が稲村御所、篠川御所が鎌倉府により設置された時点で廃止。
奥州探題なんて、そもそもそんな職自体が存在しなかった。
その後に大崎詮持を奥州探題に任命してみたが
伊達稙宗が陸奥国守護職になった時点で
ワロタ状態の屑職に成り下がった。
900 :
人間七七四年:2011/12/07(水) 08:57:14.05 ID:HMtwlFlO
age
901 :
人間七七四年:2011/12/19(月) 00:05:18.12 ID:Lw+f2TKz
奥州探題>関東管領
探題は元来足利一門でないとなれなかった
伊達氏は足利将軍家の外戚だからなれた
902 :
人間七七四年:2011/12/23(金) 21:22:43.91 ID:0+plca0e
>>901 デタラメ吐くなよ。
関東は鎌倉に公方様までいた
京に次ぐ最重要拠点なんだが。
903 :
人間七七四年:2011/12/24(土) 19:21:22.58 ID:9JdYGZfY
>>902 何がデタラメだ?
鎌倉公方が居るから、関東管領はその下の役職
奥州探題は将軍直属
だから 奥州探題>関東管領 だろ?
904 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 11:06:56.41 ID:74C7ZRnm
奥州探題は、幕府に反抗的になった鎌倉公方や関東管領に対抗させるために出来た要職だよ。
鎌倉公方や関東管領上杉氏が衰退後は、
台頭してきた長尾氏を牽制するために要職であり続けた。
大崎氏が衰退後は、それを臣属させた伊達氏が引き継ぐのは自然だったろうね。
905 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 17:23:41.85 ID:vLLn60ih
政宗が帰国途中に白石城を攻めたと光成氏は書いていて、SUBが踏襲しているけど、根拠はなんなんだろうか。
「白石表はそのまま通過するようにという命令の通りにしようとしたが〜」というのは「白石城は無視して早
く帰国しろ」という命令なのだろうか。普通こんな命令はしないと思う。
普通にこの書状だけ見たら、白石城を捨てて南下しろって言われてたということのように思えるけど。
906 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 18:01:02.12 ID:364qaM1a
>>904 デタラメ書くなよ。
そんな妄想はお前の頭の中でやれ。
907 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 10:14:01.84 ID:ofLBo38i
>>906 おまいもう少し穏やかに言えないのか
彼は関東が重要でないなどと言っていない
まあ、長尾厨の伊達コンプレックスには同情するしかない
908 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 18:35:46.27 ID:3aT+1I0+
こいつら長尾ファンは
速攻で瞬殺された白石城の話になると、劣等感で発狂するんだよw
909 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 19:37:03.08 ID:1oF+lmuP
>>908 会津征伐中に白石を掠め取ったが、十月以降は大きな戦果なく伊達は
撃退され続ける。
910 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 20:00:28.82 ID:jYMEbGYi
sabがいなくなった途端に伊達厨が元気になってて激ワロス
911 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 18:57:22.68 ID:5BPs0VS5
上杉は福島表でも大敗してるね。伊達に怯えて徳川との講和につながったのも無理はない。
912 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 19:38:13.39 ID:u9Dok7gS
つうかこんなバカスレ立ってるこのが問題なんじゃね?
確かに伊達政宗も最近過剰に持ち上げられている気がしないでも無いが
何ぼ何でも合戦に自力で勝った事も無い景勝ごときとは対等には比べられないだろ
謙信と比べるならまだ分かるが
景勝ファンだってコンプレックスの傷口に辛子を塗られるだけだろっての
こんなスレもう終了して、謙信対政宗ででも語ろうぜ
913 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 21:01:21.00 ID:9nRlWNny
伊達厨コンプレックス丸出し…
914 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 22:59:11.11 ID:j25ovoDj
景勝が自力で戦に勝った事がない(笑)
なら79年くらいで死んでるっつの(笑)
915 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 08:21:32.34 ID:EVfDbDnC
景勝は
景虎に、自力では負けっぱなしだったが、武田に支援してもらって勝ち
新発田に、自力では負けっぱなしだったのが、秀吉の支持で勝ち
天下人の支援のない状況下では、圧倒的な国力差があるにもかかわらず
最上に負け、伊達に負け
916 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 09:43:45.14 ID:23VN7y6d
景虎に自力では連戦連勝討ち取りまくり状態だったのに北条武田の介入で相手してる暇が無くなり
新発田をいつでも滅ぼせる状態だったのに秀吉の介入で動けなくなり
伊達を叩き出し続けてたのに徳川の相手に忙しかったってのが正しいな
917 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 13:22:42.19 ID:BUHtOg+X
>>916が正解。
>>911 上杉は福島の野戦で敗れたが、伊達も福島城攻めきれず撤退。
伊達はその後翌年春まで攻め続けるも敗退を繰り返す。
918 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 15:41:07.61 ID:RFsONX4M
・御館の乱で国中が二分し武田北条葦名伊達が敵方で越後侵攻してきた状態で見事勝利
・80年までの内乱や平定戦で国はボロボロ。その頃には本願寺と織田の和議がなり
越中や能登の衆も次々織田方に従い下越で新発田が乱を起こす等絶望的な状況で圧倒的兵力で迫り来る織田相手に
越中中部〜魚津・松倉間で2年も食い止めた
・信長死後の信濃で家康の誘いに乗って寝返った屋代氏や塩崎氏ら信濃衆を瞬殺。
・83,84年二回とも麻績・青柳の戦い小笠原、青柳、仁科衆ら4000に大勝し、
徳川の北信方面への進出を完全に頭打ちにさせる
(小笠原貞慶は笠系大成や岩岡家記でその能力や器量を賞賛される程の武将で1582年に家康の支援を得て府中に入って以来安曇・筑摩を北部を残し統一し
小県の領主も多く従え諏訪の一部も領有出来た程有能な武将)
・真田とともに信濃で徳川、上野で北条(ともに大軍)を撃退した
・新発田との八幡表の戦いに見事勝利
・赤谷・津川の戦いで新発田を援助してた葦名に勝ち輸送物資を大量に強奪
・佐渡平定戦
・本庄に援軍送り出羽庄内を奪った十五里が原の戦いで大勝
・小田原合戦で国境を守る松井田城を撃破
・北条氏邦が籠もる絶対死守の5000の鉢形城で血で血を洗う激戦を制する
・北条が小田原侵入を許すため最終絶対防衛とした八王子城をわずか1日で落城させる
・大阪の陣の今福・鴨野の戦いで豊臣方の大軍を破る
どうみても景勝は強いです。本当にありがとうございました。
919 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 15:44:16.50 ID:RFsONX4M
織田信忠って雑魚すぎだろ。
仁科1000以下と戦って50倍もの兵力差で大損害受けて一門の1人殺され
岩村合戦でもやはり秋山に半年以上持ち堪えられる始末
有力大名の2代目じゃ最も戦下手だと思う
政宗>景勝>勝頼>氏政>>>>輝元>>>>>>>>>>信忠
920 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 15:54:12.62 ID:RFsONX4M
信忠厨死ね
921 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 15:57:43.04 ID:nkFVoj9i
大兵力で武田一捻り信忠カコイイ
922 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 15:59:33.64 ID:RFsONX4M
唯一抗戦した仁科1000以下に50倍〜60倍の兵力差で挑みかかって大損害&織田信家戦死w
信忠より戦下手な奴はそうそういまい
923 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 16:00:24.26 ID:RFsONX4M
政宗はガチで戦上手だからな。
北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
924 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 19:11:07.33 ID:d9xVFOzT
925 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 19:19:11.01 ID:RFsONX4M
残念ながら全て事実です。
926 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 19:23:37.37 ID:RFsONX4M
織田厨死ね
927 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 19:25:15.86 ID:Kq6tDZwq
本当信長厨による信忠過大評価が本当にうざいよね
928 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 19:28:02.25 ID:RFsONX4M
信忠厨死ね
929 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 19:29:44.88 ID:d9xVFOzT
だが常駐自演キモ過ぎるwww
本能寺の変が無かったら
景勝なんて信忠が出るまでもなく、
無能柴田如きに瞬殺されてたw
930 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 19:31:33.65 ID:RFsONX4M
80年までの内乱や平定戦で国はボロボロ。その頃には本願寺と織田の和議がなり
越中や能登の衆も次々織田方に従い下越で新発田が乱を起こす等絶望的な状況で圧倒的兵力で迫り来る状況
こんな状況で越中中部〜魚津・松倉間で2年も食い止められる柴田は雑魚すぎる
新発田が蜂起せず、森や滝川が入ってこなきゃ景勝軍に完敗してたと思う
931 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 19:32:13.63 ID:RFsONX4M
織田信忠って雑魚すぎだろ。
仁科1000以下と戦って50倍もの兵力差で大損害受けて一門の1人殺され
岩村合戦でもやはり秋山に半年以上持ち堪えられる始末
有力大名の2代目じゃ最も戦下手だと思う
政宗>景勝>勝頼>氏政>>>>輝元>>>>>>>>>>信忠
932 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 21:17:20.63 ID:BUHtOg+X
このスレに織田は関係ないぞ。
933 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 23:37:20.53 ID:roxxIzXk
相変わらず伊達厨が監視常駐スレだなワロタw
934 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 22:45:16.94 ID:XNSIq4vk
935 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 23:22:27.97 ID:L61j7u6J
景勝は政宗には及ばないだろうけど名将だろう。
御館の乱の危機的状況やその後内乱につけこまれた後の
新発田&織田軍相手に82年6月まで2年ほどの間越中中部から魚津・松倉間で奮戦してるし
本能寺後も信濃方面や上野方面や会津方面で北条や徳川、葦名軍を蹴散らしている。
越後の動員力なんてたかだか6000そこそこなんだから十分強いな
大阪の陣や小田原合戦でも強かったし。
政宗>景勝>勝頼>氏政>>>輝元>>>>>>信忠
936 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 23:23:35.85 ID:L61j7u6J
伊達政宗は葦名120万石を短期間で倒した神武将だからな。
輝宗が散々苦戦した相馬を滅亡寸前においやり奥州で髄一の勢力を誇った南奥連合を壊滅させた。
大崎、葛西、葦名、最上、相馬、猪苗代、二階堂、佐竹、白河、石川、岩城、大内。
これだけ敵対して圧倒的勢いで勢力拡張した。
先代に恥じない奮戦をした名将上杉景勝や武田勝頼も流石に政宗には敵うまい。
937 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 00:07:11.36 ID:ggMVWDgR
伊達政宗はわずか20歳そこそこで20万石で葦名120万石を短期間で倒した神武将だからな。
輝宗が散々苦戦した相馬を滅亡寸前においやり奥州で髄一の勢力を誇った南奥連合を壊滅させた。
大崎、葛西、葦名、最上、相馬、猪苗代、二階堂、佐竹、白河、石川、岩城、大内。
これだけ敵対して圧倒的勢いで勢力拡張した。
先代に恥じない奮戦をした名将上杉景勝や武田勝頼も流石に政宗には敵うまい。
景勝も、家康も、秀吉も、最上も、義重も、みんな伊達を恐れていた。
938 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 13:19:02.10 ID:LZYNGXHO
政宗の偉大さに比べれば
信長が小者に見えるな…
939 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 16:16:15.07 ID:bRPxBG/9
>>1の設定なら伊達は上杉に負けているとしか言えない。
940 :
人間七七四年:2012/01/10(火) 00:42:32.44 ID:MhCfIfs9
>>909 白石は掠め取ってないんじゃね。
そもそも某スレによると、
対家康で、政宗と景勝は血盟していたとのことだ。
看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして
同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したと書いている。
その後に忠興には、
家康が金を貸したり、
豊後杵築を加増して買収して
自陣営に引っ張ることに成功したそうだ。
941 :
人間七七四年:2012/01/10(火) 01:57:47.65 ID:cTVY9WpQ
それsubだろ。
942 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 02:13:37.75 ID:Aah2r3Xd
政宗はもうちょっとで佐竹も逝かせてたな。
北条と挟み撃ちで佐竹壊滅
943 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 18:20:38.95 ID:2EGYakmM
>>940 >そもそも某スレによると、
って何だよw
そもそも某スレによるなよw
少しはまともな本を読め
944 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 01:38:56.51 ID:DO6rRLv8
自分でかいて自分で引用しているだけです
945 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 19:28:39.67 ID:WHREEUpB
佐竹をいかせるって・・・伊達は超絶テクニシャンか!
946 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 01:10:56.50 ID:Nl+agqG6
大内とかいかせて味方にしてる。
自分の城をなで斬りされといて味方になる定綱がただのMだっただけかもわからんが
947 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 11:14:36.37 ID:16A3NGtD
撫で斬りされたのは大内にそそのかされた畠山じゃなかったか
大内は政宗に心服したのか、その後二度と裏切らなくなった
騙された畠山がいい面の皮っつうか
948 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 19:05:34.22 ID:6rWpMMfy
>>943 おいおい、リアルに日本にいて、
日本情勢を調査して
朝鮮王に詳細報告した一次史料なのも知らんのかよ…
>>946 田村侵略の邪魔をして、成実の城を落とすなど
蘆名の後援を得た戦上手の大内がさんざんに暴れた為、
政宗の田村侵略は失敗。
政宗は止む無く、殺す宣言してた大内に領地やるから仲間になるように土下座するも、
大内は信用出来ないと拒否。
どうしてもというなら
政宗の直筆の書状出せと要求。
さらに直筆なだけじゃお前なんか信じられるかと、
神仏に誓った書面に誓えと
超上から目線で政宗を屈服させてから味方になってやってる。
>>947 畠山は頑強に抵抗し政宗は苦戦しまくり、
そこに秀吉の惣無事令がやってきて、
伊達と田村がビビり、相馬が伊達の為に畠山との和睦仲介をしてやったので、
畠山は開城し蘆名に向かっただけ。
949 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 01:34:59.18 ID:WQrSEa9R
矛盾してるな。勝ったやつが城捨てるはずない
950 :
人間七七四年:2012/01/26(木) 07:49:53.21 ID:EIInXl50
950
951 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 20:13:41.48 ID:hYgV0iVj
単に蘆名が畠山氏を受け入れたからだろ。
惣無事違反は両成敗だから、
キチガイ政宗が妥協しないと、
畠山氏までキチガイの巻き添えになり、
伊達ともども秀吉に断絶させられるからな。
952 :
人間七七四年:2012/01/31(火) 01:26:32.32 ID:fOtDCusa
苦しいいいわけだなw
大名が引き取られるってことは詰みを意味する
953 :
人間七七四年:2012/01/31(火) 19:11:50.79 ID:QyrjWwi9
そもそも惣無事にビビり和睦斡旋をしてくださるように、
相馬に土下座したのは伊達の方だから。
しかも蘆名が支援してたから二本松城は全く落ちそうになかったし。
それどころか蘆名が佐竹に出兵依頼を開始し、
伊達は佐竹の再北上を怖れてた。
954 :
人間七七四年:2012/02/08(水) 08:20:42.32 ID:2V7ecK4t
>>834 上杉家の分限帳を見ると溝口は御馬廻衆で知行は五百石
955 :
人間七七四年:2012/02/09(木) 00:08:49.21 ID:V+t3xyDY
956 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 19:23:35.20 ID:2tU4c4RY
佐竹一軍の真壁氏幹や太田、梶原ら諸将は対北条用だしな。
伊達相手は佐竹二軍で充分に対応できた。
957 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 23:26:41.87 ID:hRJfjkLm
いい加減スレ違い。
958 :
人間七七四年:2012/02/14(火) 20:52:22.71 ID:9MFKuE/A
旧関が原での敵である伊達政宗、上杉景勝、佐竹義宣に
10/15将軍徳川秀忠は大坂攻撃の先発を命じるわけよw 上杉と佐竹と同列視されてるのよ伊達ってw
959 :
人間七七四年:2012/02/16(木) 08:14:37.85 ID:ztKgAGpa
外様だからな
960 :
人間七七四年:2012/02/16(木) 21:35:47.15 ID:hjAt5Y3i
政宗は西軍だったのは間違いないな。
961 :
人間七七四年:2012/02/22(水) 08:38:12.70 ID:oujoDb96
962 :
人間七七四年:2012/02/27(月) 08:51:12.04 ID:jdpumnAH
(´●ω・`)鷹、借りっぱなしでごめんね 政景へ
963 :
人間七七四年:2012/02/28(火) 23:31:08.28 ID:H5IW6Tej
いいよ
964 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 08:59:34.29 ID:dgBt79GY
返す気無いけどな
965 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 08:45:22.40 ID:PMfOxBC5
>>759 分限帳に戦死した郡や布施は載ってる。ニ千石。
>>960 subが南部を最上表から撤退させるために送った書状というのはやはり、慶長5
年ではなく、6年に比定した方がいいようだ。
一揆発生の時期や政宗が白石にいることを考えると。
966 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 09:45:55.56 ID:9/O6o+5A
967 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 09:59:16.84 ID:PMfOxBC5
968 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 10:50:16.93 ID:PMfOxBC5
>慶長二年越後分限帳/上杉侯家士分限簿内の慶長3年会津御在城分限帳
>など閲覧したが似た姓名の人物が出てこない。
>寛永分限帳において子孫などを通字・避諱・偏諱授与を気にしながら調べても出てこない。
>九戸陣に至っては一次史料がほとんどないため参考にならない。
時間がなかったのでちらっと見ただけだが、郡と布施の名は見つけた。
「似た姓名の人物が出てこない」といいながら、指摘されると今度は「別流」
本当に閲覧したのかと疑いたくなるんだが。
969 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 12:42:26.52 ID:fTrXgp58
970 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 16:32:56.78 ID:PMfOxBC5
971 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 16:43:13.56 ID:zDjDSYcj
>>970 何年成立の分限帳?
と聞いてるんでないかいのか?
972 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 17:10:58.76 ID:PMfOxBC5
手元にないのですぐには分からないが、慶長3年か5年のものだよ
矢田俊文氏らがまとめた『上杉氏分限帳』には人名索引もあって便利。
973 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 18:59:35.34 ID:U60yyYD4
会津御在城分限帳に載ってなくね
974 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 19:12:29.91 ID:S94sp5xA
会津御在城分限帳にも
一、同(弐千百石) 布施次郎左衛門
一、同(弐千百石) 郡図書助
と載ってるよ
直江支配長井郡分限帳でも
一、同(弐千百石) 先方 布施二郎右衛門
一、同(弐千百石) 同(先方) 郡図書助
と載ってるよ
975 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 19:56:02.00 ID:U60yyYD4
976 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 20:02:25.22 ID:U60yyYD4
ただ桑折図書を郡図書と解釈するのはどうかと思うよ・・・
977 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 22:38:25.07 ID:qVLUcSY0
伊達郡桑折の国人だろうから、
近江や伊勢からの移住組じゃないだろね。
978 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 22:39:01.93 ID:S94sp5xA
>>976 >ただ桑折図書を郡図書と解釈するのはどうかと思うよ・・・
そう考える理由は?
「松川の合戦」で討ち取られたらしい「桑折図書」というのは伊達側の記録で、
上杉方では「郡図書助」でないかい?
上杉家御年譜 三 景勝公
「同〔慶長五〕年同〔六月〕中旬 〔略〕福島城ニハ本庄越前守鎮将タリ
是ニ於テ越前守ニ命シ 瀬ノ上ト云処ニ七将ヲ差置 帳番ヲ出サシム
所謂七士 岡越後守 才道二 安田勘介 郡図書助 志賀与三左衛門
深尾市右衛門 金子美濃守等ナリ」
979 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 00:36:21.57 ID:rEYdOKkQ
上杉家御年譜は後世の編纂資料だから役に立たないと思うよ。
980 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 01:52:07.98 ID:kVIz6B+z
>>979 それをいうなら
「桑折図書というのは、敵側のしかも後世の記録だから役に立たないと思うよ」
とでもいえると思うが。
確認したいから、議論したい「桑折図書」について、史料名を明らかにしながら引用して。
「会津四家合考」巻之七
「其後、政宗、小坂山に陣を張りて、時々瀬の上へ勢を出し、敵油断せば、
福島を一攻攻めて揉落とさんと、常に隙を窺はれければ、内々福島よりも、
岡野越後守(其時名左内)・才野道二・深尾市右衛門尉・安田勘助・郡図書
・志賀与三右衛門尉等六七人を張番に出し、瀬の上に置きけり。或時、政宗、
僅の勢を卒して打出でられ、両方入乱れて、散々に攻戦ひ、深尾市右衛門尉
・安田勘助・郡図書助等は、大勢に取籠められて、所々にて討たれぬ。」
ちなみに宇佐美系軍記では、「高力図書」だったりする。
根拠もなく
>それ別流だろ…
やら
>伊達郡桑折の国人だろうから、
と言い放っている
>>966や
>>977も、ちゃんと史料を出してね。
981 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 10:08:09.39 ID:egsnv6Pu
「会津四家合考」も後世の編纂だよ。
だから誤った内容をそのまま
踏襲していたりするから役に立たない。
982 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 10:50:26.07 ID:FBAxoE6z
つまり郡図書は討ち取られていない。
桑折図書は架空人物だから
名前だけ美味なラインで似せてきて伊達が捏造したわけか。
伊達は宛て字アピってワザと曖昧にしてるんだろーが
名ある武者なら名前を間違えるわけが無いしw
983 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 10:51:18.58 ID:FBAxoE6z
訂正
微妙なラインね。
984 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 12:04:31.53 ID:Pn7ioTYK
こおりは冷たいねぇ
985 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 13:00:08.41 ID:kVIz6B+z
>>981 トンチンカンなこといってないで、まずあなたのいう「桑折図書」について、
資料名を明らかにしながら記録を引用してみなよ。
それは後世の記録じゃないのかい?
986 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 13:04:08.69 ID:kVIz6B+z
>>982 >桑折図書は架空人物だから
>名前だけ美味なラインで似せてきて伊達が捏造したわけか。
↑コレ独自研究だよね?
こんなこといってる研究者いる?
「郡」は「コオリ」と読めるのは理解してる?
音は一緒なら、同一人物と比定して問題ないんじゃない?
>名ある武者なら名前を間違えるわけが無いしw
史料における漢字違いは一切認めないということね。
それはいくらなんでも無茶苦茶すぎるw
あなたもまず「桑折図書」の記録について、
資料名を明らかにしながら引用を出してよ。
987 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 13:12:58.02 ID:kVIz6B+z
>>981も
>>982もレス返すなら、流れがわかりやすいようにID変えないで欲しいなあ
と要望してみる
988 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 20:55:40.16 ID:8MZzSPFc
>>982 「微妙なラインで似せた」ってことは桑折を「くわおり」と読んだということか。
直江も島津の家臣にかかれば「尚井」になるし、当て字はさほど珍しくないよ。
989 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 21:26:14.86 ID:RymqxTX0
さすがに宛て字とするには苦し過ぎるな。
990 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 21:33:46.79 ID:8MZzSPFc
桑折を「こおり」と読むことを知らないのかな
991 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 23:38:06.81 ID:kVIz6B+z
>>989 ぜんぜん苦しくないと思うけど?
話が通じないと思ったら、もしかして「桑折」を「クワオリ」とでも読んでのかな?
ちなみに「蒲生氏郷配下分限帳(蒲生氏郷奥州会津若松城天正十九辛卯年家中分限)」
によると「小姓頭」として「五千石 郡図書」とある。
992 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 23:48:25.52 ID:22EC3h05
名ある武者なのに正式な名前書けないとか矛盾し過ぎワロタw
同時期の伊達や直江の書状に宛て字な名前なんて使われてないのに
無理やり歪曲解釈w
むしろ政宗得意のいかがわしいバッタモン臭しかしないわw
993 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 23:56:00.22 ID:8MZzSPFc
史料を提示できないSUB君が発狂した
994 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 00:03:12.08 ID:w/7IPhZF
桑折なんて明らかに伊達郡出身で蒲生配下な分け無いし…
995 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 00:14:49.96 ID:IYSfgIVy
ちなみに蘆名氏の家臣にも郡氏はいる
996 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 00:54:45.16 ID:INP6++TN
>>992 「同時期の伊達や直江の書状に宛て字な名前なんて使われてない」とまで
いってるが、結局のとこ「桑折図書」とある記録はいつのどの史料よ?
いい加減早く史料から引用して。
政宗書状に「宮代で氏郷譜代衆の桑折図書を討ち取った」のようなことが書いてあるわけ?
(1)口頭で「こおりずしょ」といったのを書き手が誤った漢字をあてた
(2)原史料が「かうり」と仮名書きだったのを、後世の編纂者が誤った漢字をあてた
(3)そもそも郡図書(桑折図書)は、漢字を間違えるのが有り得ない程「名ある武者」ではなかった
等などいくらでも可能性を挙げられるのでは?
まずは「桑折図書」とある史料を出してもらわんとね。
議論のベースになる史料も出せてないのに「宛て字はありえない」とか喚くのって、恥ずかしくならない?
997 :
人間七七四年: