織田信秀

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1人間七七四年
織田信長の父、織田信秀について語るスレ。
以下>>2以降に貼ります。
2人間七七四年:2008/11/14(金) 07:01:04 ID:Mf6gSetA
「織田信秀について詳しく書いてあるサイト」
ttp://www2.ocn.ne.jp/~nobunaga/b_nobuhide.html#hidenaga01
3人間七七四年:2008/11/14(金) 07:02:40 ID:Mf6gSetA
織田信秀(おだ・のぶひで) 1510〜1551
織田信定の子。通称は三郎。織田信長の父。弾正忠を称し、のち備後守を名乗った。
織田宗家は足利三管領の一つの斯波氏に属し、尾張国下4郡(尾張半国)の守護代・織田大和守家の分家筋にあたる信秀は、
湊町・津島を支配下に置き、そこからもたらされる恵まれた経済力を後ろ楯に、主家に匹敵するまでに勢力を伸張させた。
天文元年(1532)には主家である織田大和守達勝と戦い、翌年には和睦している。
また同年、京都から公家の山科言継と飛鳥井雅綱を招いて饗応している。
天文7年(1538)頃、今川氏豊の尾張国那古野城を奪い、ここに移った。
国外への勢力拡大にも意欲を燃やし、天文9年(1540)に三河国安祥城を攻略(安祥城の戦い)、
天文11年(1542)には三河国小豆坂に今川義元勢を破り(小豆坂の合戦)、三河国西部を制圧した。
その一方で美濃国方面にも目を向け、数度の出兵を行って斎藤道三と干戈を交えている。
天文16年(1547)には美濃国稲葉山城下まで迫ったが、激戦の末に斎藤勢に敗れた(加納口の合戦)。
斎藤道三とはこの翌年、道三の娘・帰蝶(濃姫)を信長に娶わせることで和睦を結んだ。
また天文18年(1549)、三河国安祥城を今川氏の庇護を受けた松平勢や太源雪斎に奪い返されている(安祥城の戦い:その2)。
尾張国統一を目指したが天文20年(1551)3月3日、尾張国末森城で没した。42歳。法名は万松院桃巌道見。
生年に永正5年(1508)や永正8年(1511)、没年に天文18年(1549)や天文21年(1552)
などの異説があり、判然としていないが、享年42というのは定説のようである。
4人間七七四年:2008/11/15(土) 03:36:03 ID:27/odBQs
詳しいな。信長は次男説が強いが真偽は?
5人間七七四年:2008/11/15(土) 04:45:07 ID:tO8SYYxK
三男説は武功夜話出典じゃなかったっけ
武功出典という時点で胡散臭く感じる
6人間七七四年:2008/11/15(土) 11:03:11 ID:Gqa9IoNQ
生後間もなく夭逝した兄2人+信広だから4男かな
7人間七七四年:2008/11/15(土) 11:16:35 ID:LbgkQwEG
天下餅のためのもち米を集めたのは信秀
8病弱名無しさん:2008/11/19(水) 04:24:40 ID:3sSANrA4
心筋酸素消費量の増加によって
脈拍上昇

9人間七七四年:2008/11/19(水) 04:28:55 ID:5SwTNtPs
この人今川の被官だったと見られていたきらいがある。
10人間七七四年:2008/11/20(木) 00:13:05 ID:4arixkOz
■斉藤道三との戦い

信秀は北の美濃の斉藤道三と再三争いを繰り返している。
美濃と尾張は隣国同士であり二人の間で国境紛争が起こるのはむしろ当然と言えるだろう。
この二人はたぶん一時的な休戦協定の証としてお互いの息子・娘の婚姻を決めており、信秀は嫡子を、
道三は庶子腹の(決して愛していないという意味ではない)濃姫である。

時代は既に「人の交流が富裕を決する。」という新しい時代に突入していた。
勝幡城(しょばたじょう)近くの「津島」が織田家を豊かにした。
津島神社(愛知県津島市神明町一番地)は今でこそ内陸部に深く入り込んでいるが、
実は当時、木曽川の河口に近く、津島が港町として大いに繁栄していた。
人の交易により財政的に潤い、結果織田家が潤っていった。
この事は幼い吉法師(信長)にとって民が潤わなければ自分が潤わないという事を身にしみて感じさせたに違いない。
この津島の財政的な潤いをバックに、信秀が天下を狙い始めた事は間違いない。
そうでなければ前述の意味のない寄進を行うはずが無いからである。

時は戦国時代である。財政的な余裕があれば自身の軍備拡張を最優先に考えるはずである。
事実彼は周辺地域の武将達に手痛い敗戦も食らっている。
彼の側近は敗戦のたびに、「寄進」などという「お遊び(側近からはそう見えたであろう)」
を辞めるような進言が信秀に対し何度もあったであろう。

11人間七七四年:2008/11/20(木) 00:23:40 ID:pevJNkcx
信秀が天下に望みとな
12人間七七四年:2008/11/20(木) 00:39:10 ID:vd8miL4/
岩井三四二の作品によく出てくるね。織田弾正忠といえば信秀が多いね。
禁裏修理費用として朝廷に多額の献金をしたことでも有名だね。
連歌にかこつけて美濃への内通者を殺すという非情さも息子に引き継がれたのかな。
13人間七七四年
信秀には文化人、教養人の側面があるが、信長にはそう言う面が殆ど無いな。
信長は文化の面では、最新のムーブメントばっかり追ってる。
弟や息子になるとまた教養人が出てくるし。そう言う意味で信長は、織田家の中でも特異点ではあるな。