【上杉】松川の戦いの捏造を糾弾するスレ その5

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1人間七七四年
上杉家によってでっちあげられた「松川合戦」によって伊達家が不当に貶められています。
このスレは上杉家の悪質な捏造を糾弾し、真実を伝えるスレッドです。

【上杉vs伊達】松川の戦いは本当にあったのか?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1139032165/
【上杉vs伊達】松川の戦いは本当にあったのか?2
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1145729168/
【上杉vs伊達】松川の戦いは本当にあったのか?3
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152119766/
松川の戦いは本当にあったのか? その4
http://ex24.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1198253856/
2人間七七四年:2008/10/20(月) 22:49:18 ID:24fu+9fE
SOHOホイホイ
3人間七七四年:2008/10/20(月) 22:58:19 ID:Pr6RVizE
上杉の捏造は酷すぎる。
それを盲目的に信じる上杉ファンも酷すぎる。
4人間七七四年:2008/10/21(火) 00:13:17 ID:LjSE02Nb
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/honjo_k.html
この報に勢いをえた福島勢は、一層、奮い立って伊達勢を突きまくった。
一方、すでに浮き足立っていた伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱に陥った。
これをみてとった繁長が中央本陣に向かって集中攻撃をかけたことで、ついに伊達軍は総崩れとなり、無数の屍体を遺して退去した。
一方、福島勢は追い討ちをかけ、一齋道二は政宗の本陣深く斬り込み、政宗に二太刀まで斬り付けたが、馬上の政宗は辛うじて難を逃れたといわれる。
こうして、繁長は二十倍もの戦力の開きを克服して、伊達軍に完勝したのであった。
この戦いにおける両軍の戦死者の数は詳らかではないが、それは莫大なもので、とくに伊達勢の死傷者は甚大であったことは間違いないだろう。

http://www.iwafune.ne.jp/~osyagiri/tenjihin/honjosigenaga.htm
福島城を攻めた伊達勢は、繁長の戦略にかかり、幔幕を奪われるほどの敗軍であった。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sn-dos/sengoku/l_ho.htm
上杉氏の会津移封後帰参、米沢移封後は信夫郡福島城代となり、攻め寄せる伊達政宗の大軍を奇策にて散々に討ち破った。

http://www8.ocn.ne.jp/~sanngoku/siromeguri2/siro-hukusima.html
関が原合戦の20日後の慶長5年(1600)10月6日、伊達政宗は父祖の地奪回のため、信達盆地に2万の大軍で侵攻する。
上杉軍は本庄繁長をはじめ4000の兵で迎撃した。
世に奥州の関ヶ原合戦と言われる松川合戦である。
主戦場は、当時信夫山南麓を流れ、福島城の北への防りとしても機能した松川の河原で、福島城からは目と鼻の先であった。
本庄繁長は敗北を装い城に退却、伊達勢をひき付けて梁川城の須田長義と挟撃した。この時長義の軍は信夫山の伊達軍の背後を襲い、小荷駄隊を全滅させて武具・食料をすべて奪ったという。
思わぬ大敗に伊達軍は浮き足立ち、7日、政宗は命からがら仙台北目城に逃げ帰った。
5人間七七四年:2008/10/21(火) 01:13:02 ID:gOpBSipO
せっかく三戦板に隔離したのに余計なことを
6人間七七四年:2008/10/21(火) 01:21:33 ID:Gi0F00Xt
家康の勝ち
7人間七七四年:2008/10/21(火) 02:04:11 ID:jndORneC
>>4 のテンプレはネットでよく引っかかる定番だが、『北越軍記』『東国太平記』
『常山紀談』らの軍記物が巧みにブレンドされてるね。
一番最後のやつなどは、何故か「慶長5年(1600)10月6日」の日付けだけを、
伊達政宗書状のものを拝借している。
8人間七七四年:2008/10/21(火) 02:40:57 ID:7g0ofrGM
まだやってんのかよw
上杉研究してる先生方だって話しないくらいだろうに。
9人間七七四年:2008/10/21(火) 12:17:53 ID:O+3dj5nH
伊達圧勝
長谷堂でバァカ低脳直江は伊達軍の追撃に切腹を考えたのになw
伊達が功績を最上に譲り、のちの追撃を任せたから直江や慶次が生き延びただけ。
政宗も「伊達は強いが最上があまりに弱すぎたから直江を取り逃がした」って家康に報告しているし。
10人間七七四年:2008/10/21(火) 13:13:06 ID:JhqA/bG9
>>9
いろんなとこで煽ってて気持ち悪いなお前
11人間七七四年:2008/10/21(火) 15:43:42 ID:Ec9LxOGq
>>4のテンプレみたいなのも散々矛盾点を突かれているのに、
肝心の彼は、自論の間違いを一切認めない狭量ぶりだからなぁ
伊達を叩くためなら何でもする彼は頭おかしすぎる
12人間七七四年:2008/10/21(火) 16:41:54 ID:JoAs4zzH
まあ、相続以来戦術的には連戦連敗なんだからここでまたもや政宗が敗れた、としても何の不思議もないからな。
何しろ人取橋で負け、摺上原で負け、葛西大崎一揆では蒲生に遅れを取り、朝鮮ではあまりの弱さに加藤清正から邪魔だからすっこん
でろと言われて浅野長政に八つ当たりして絶交される。
さらに和賀一揆を扇動しては南部に負け、大坂では真田に負けて神保に八つ当たりと敗戦の連続だ。
政宗にしてやられたことを認めたくない直江儲も必死だし、またひとつ黒星を積み重ねたくない政宗儲もまた必死。
ここでにわかに、松川が戦国の最下位決定戦の様相を呈してきたわけだ。
13人間七七四年:2008/10/21(火) 17:12:05 ID:Ex+A/SoH
143:人間七七四年 10/21(火) 12:07 O+3dj5nH
謙信と直江と景勝と景虎はホモ
上杉家は家臣もホモばかり
145:人間七七四年 10/21(火) 12:51 O+3dj5nH
>>144
なんでだよ
重要だろ
SOHO直江厨必死乙www

922:人間七七四年 10/21(火) 12:06 O+3dj5nH
謙信は異常性欲者ホモ武将

179:人間七七四年 10/21(火) 12:13 O+3dj5nH
朝鮮の勝利は間違いないだろ
単身で詰問のため訪問してきた朝鮮の王子の威厳に畏れをなした清正は平伏しておべっかしてたし。
王子も後日、臣下になった清正に感謝のため臣下の礼の手紙を送り忠義礼儀の道を示してやったし。
熊本城も朝鮮人が作ってやったしなぁ。

9:人間七七四年 10/21(火) 12:17 O+3dj5nH
伊達圧勝
長谷堂でバァカ低脳直江は伊達軍の追撃に切腹を考えたのになw
伊達が功績を最上に譲り、のちの追撃を任せたから直江や慶次が生き延びただけ。
政宗も「伊達は強いが最上があまりに弱すぎたから直江を取り逃がした」って家康に報告しているし。

700:人間七七四年 10/21(火) 12:21 O+3dj5nH
捏造大河クソ作品
謙信が景勝の父をぶち壊し湖に棄てたり
景勝が菊姫をいたぶり自殺に追い込んだり
景虎を騙して殺す卑怯者ぶりもなかったことに。

849:人間七七四年 10/21(火) 12:24 O+3dj5nH [sage]
上杉ファンはホモばっかりでキモイよね。
武田ファンはわさびの臭いが臭いし。わさびじゃ士気下がるわなバァカ過ぎ。
武田がバカなのは夏バテ防止にキムチ開発できなかった低脳さだな。
14人間七七四年:2008/10/21(火) 17:14:39 ID:Ex+A/SoH
334:人間七七四年 10/21(火) 12:28 O+3dj5nH
直江好きがパチンカスでパチ業界にお布施ワロタ
勝ち組→パチ業界と消費者金融とコミックバンチ(北条司やバンチは韓国中国資本が出資してるからなぁ)

289:人間七七四年 10/21(火) 12:30 O+3dj5nH
史実の勝者は英傑の信長&伊達>>>>>ガチホモ上杉捏造史観

467:人間七七四年 10/21(火) 12:32 O+3dj5nH
略奪大好き北方蛮族上杉

394:人間七七四年 10/21(火) 12:33 O+3dj5nH [sage]
破壊は正義を東アジア世界に示したろ

72:人間七七四年 10/21(火) 12:35 O+3dj5nH [sage]
秀吉は基地外
卑劣な詐術だけで天下が取れる戦国日本て現代と同じだなw

45:人間七七四年 10/21(火) 12:39 O+3dj5nH [sage]
ハゲ
チビ
ウソつき
ブサイク
虚言
金基地外
虐殺大好き
他人のガキを自分の子と盲信

自分もそうだが
日本人の悪いトコばかりが出てるから
鏡で自分を見てるようで
嫌悪感がでて反発するんじゃないかなぁ。
15人間七七四年:2008/10/21(火) 17:46:15 ID:7g0ofrGM
さすがに釣りだろうがな。
相手しないでスルーしとけよ。
ちなみにあれだな。彼の人にそっくりな煽り方でびびった。
真似してんのか本人か知らんが。
16人間七七四年:2008/10/21(火) 17:48:41 ID:7g0ofrGM
>>12
お前も釣りか…


この釣り堀スレ隔離されてたんじゃねーの?
17人間七七四年:2008/10/21(火) 18:18:37 ID:PV/V5Ab4
上杉家が伊達にボロ負けしたという事実が悔しいんだろうな。
18人間七七四年:2008/10/21(火) 21:48:32 ID:tOOEtC5s
>>17

「伊達がボロ負け」だと思う。

大軍で油断し、囮挟撃作戦にまんまと嵌って大混乱。政宗も戦場から何とか脱出。
政宗が戦死しなかっただけ良かったと思わないと。

伊達が勝ったなんて主張してるのは、伊達治家記録(伊達の宣伝本)のみ。

先祖伝来の地奪回を目指した割には、本庄・須田軍の挟み撃ちによる大敗の後、再侵攻すらできない状況に陥った。

結果、家康は伊達・信夫郡を西軍の上杉景勝に安堵。緒戦で伊達は上杉家の白石城主甘糟清長の留守中に掠め取った白石城のみの加増となった。

この結果から、残念ながら、「松川の戦い」と称される戦で伊達は大敗を喫したのは間違いない。
19人間七七四年:2008/10/22(水) 00:23:30 ID:Fhm87HlC
慶長5年10月6日 宮代の野戦で上杉軍完敗w
福島城へ総員退去するほどの惨敗を喫している。

その怨念は捏造軍記書「東国太平記」へと結実する。
同書は、直江の政宗への深いコンプレックスが見て取れる。
一読後、上杉ファンでも穴へ入りたくなる怪書である。w
20人間七七四年:2008/10/22(水) 00:30:22 ID:tGZibrFQ
三大厨大名のうち二つが絡むとこうなるんだな
21人間七七四年:2008/10/22(水) 01:28:51 ID:/5HQimcF
1:人間七七四年 10/20(月) 22:48 2JHBnsK9
上杉家によってでっちあげられた「松川合戦」によって伊達家が不当に貶められています。
このスレは上杉家の悪質な捏造を糾弾し、真実を伝えるスレッドです。
【上杉vs伊達】松川の戦いは本当にあったのか?
2chカコ
【上杉vs伊達】松川の戦いは本当にあったのか?2
2chカコ
【上杉vs伊達】松川の戦いは本当にあったのか?3
2chカコ
松川の戦いは本当にあったのか? その4
2chスレ

2:人間七七四年 10/20(月) 22:49 24fu+9fE [sage]
SOHOホイホイ

3:人間七七四年 10/20(月) 22:58 Pr6RVizE
上杉の捏造は酷すぎる。
それを盲目的に信じる上杉ファンも酷すぎる。

750:10/20(月) 23:00 [sage]
捏造と結論が出たみたいなので
スレタイ変えさせてもらいました♪
【上杉】松川の戦いの捏造を糾弾するスレ その5
2chスレ

>>9>>13>>14

上記のレスはすべてSOHOと連呼する同一人物だろw
22人間七七四年:2008/10/22(水) 01:37:22 ID:Fhm87HlC
おやおや、随分興奮しているようだね(w
23人間七七四年:2008/10/22(水) 02:02:18 ID:EoxT6LwH
このスレの愉しさは、慶長6年4月も後半になって(最上の庄内鎮圧も終了)、
上杉軍は、どこの誰と激戦を展開をしていたのか? ってことなんだよねw

24人間七七四年:2008/10/22(水) 02:03:53 ID:YmDh80RC
たしかに三戦板の前スレがまだ750しか消化してないのに戦国板の伊達厨に救いを求めて新スレを移転して立てるなんて、
論破されて興奮し過ぎだろオイw
しかももともと、人取橋は伊達の勝ちスレともども論破されてしまい伊達側が戦国板での不利から三戦板に逃走して立てたスレなのに超涙目じゃんかwww
25人間七七四年:2008/10/22(水) 02:24:30 ID:Fhm87HlC
上杉の捏造もすっかり有名になって評判ガタ落ちだな。
26人間七七四年:2008/10/22(水) 03:22:37 ID:/YsOY7UE
三戦だとID出ないから上杉厨の自演が酷すぎたからな
27人間七七四年:2008/10/22(水) 07:55:04 ID:BlLaNyEU
五大厨て、武田上杉伊達織田毛利と
どっかでみたな
28人間七七四年:2008/10/22(水) 11:28:40 ID:YmDh80RC
伊達厨の書き込みは相変わらず低脳な悪口中傷ばかりで読む価値すらないな。
むしろ戦国板の方が三戦板より基地外ぶりが遥かにパワーアップしてやがる…キモ過ぎ
29人間七七四年:2008/10/22(水) 12:18:11 ID:1qjV9hF5
おまえらの戦場は三戦板だぞ
さあ帰る作業を始めるんだ
30人間七七四年:2008/10/22(水) 14:06:06 ID:YmDh80RC
たしか伊達捏造史だと成実が越後と戦うんだよね。
福島表で成実が勝った相手は堀かな?溝口かな?
31人間七七四年:2008/10/22(水) 17:57:03 ID:BlLaNyEU
さぁみなさん三戦に帰りましょう!
32人間七七四年:2008/10/23(木) 02:28:39 ID:htC/9/Yp
結局捏造だったんだな
33人間七七四年:2008/10/23(木) 21:17:24 ID:AzsDmM6R
上杉家の伊達コンプレックスを如実に表しているなあ
悔しかったんだろうなあ
34人間七七四年:2008/10/25(土) 03:12:20 ID:YZNgtiPd
隔離スレだろう、三戦に帰ろうな
35人間七七四年:2008/10/29(水) 18:49:13 ID:Hw2GiSiL
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=60003737&VOL_NUM=00002&KOMA=489&ITYPE=0

成島の改正三河後風土記の詳細な記述では、政宗敗走とある。
36人間七七四年:2008/10/29(水) 20:00:58 ID:GwfnS19r
苦笑
37人間七七四年:2008/10/29(水) 20:15:14 ID:yhxvPkXV
どう考えても伊達の負け。
伊達編纂史料以外で伊達の勝ちと主張する史料を
見たことがない。
幕府の編纂史料も当然、上杉勝利とされてるし。
38人間七七四年:2008/10/29(水) 21:34:49 ID:J4McFZ3Y
まともに勝戦を経験した事がない土下座王政宗が勝てるわけないやん。
39人間七七四年:2008/10/30(木) 04:48:11 ID:WR0F/2lC
>>35
単なる軍記書の焼き直しじゃんw 上杉の与太話の寄せ集めがてんこ盛り。
伊達家へのトラウマが生んだ本だね

40人間七七四年:2008/10/30(木) 09:43:13 ID:v9DC4iAA
さすが捏造に定評のある伊達。江戸時代から信用されてないw
葦名が自滅してくれたことくらいしか戦績無いからって
上杉にコンプレックス持ちすぎだろw
本陣動かしておいて上杉の一家臣すら倒せなかったのにトラウマw
41人間七七四年:2008/10/30(木) 13:57:52 ID:L1YN0665
>>40
> さすが捏造に定評のある伊達。江戸時代から信用されてないw

失礼な。伊達の捏造は南北朝からの伝統的お家芸だ。それを江戸時代からしかやってないとは伊達の捏造を軽んじ過ぎ。
42人間七七四年:2008/10/30(木) 16:03:35 ID:bMKTif/w
伊達資料だと全戦全勝だからウケるw
しかもすべて相手が悪いから仕方なく攻めた事になってるwww
自分で惣無事令を破って奇襲して敗退→これからは惣無事令を守ります叔父さん→秀吉使者が奥羽巡回から帰る→惣無事令を破って奇襲してまた敗退
→惣無事令を守って和睦しないとダメだろ叔父さん!秀吉にチクるぞ→秀吉使者が再度巡回→惣無事令を破って自壊中の葦名攻め→秀吉激怒し上杉と佐竹と最上に政宗ぶっ殺して良いから!
→上杉が会津南西に侵攻&三成が大量の鉄砲を会津国人に送る&佐竹が須賀川で反乱を煽る→秀吉が北条を先に討つからザコ宗はほっとけ→ビビった政宗が北条から手を引く
→佐竹と上杉の街道封鎖で小田原参陣できず伊達家の危機に家臣達が弟を擁立→弟を殺し母に罪をでっち上げ、
上杉に安全通行を頼んで道を借りる→秀吉に政宗土下座&伊達の背反を怒りながら北条が滅亡
この間、何回土下座してんだw
43人間七七四年:2008/10/30(木) 18:44:21 ID:Uloag4Kl
あらあら
ここは三戦板じゃありませんよ
44人間七七四年:2008/10/30(木) 18:49:00 ID:tD4tCP0e
伊達史観でも人取橋は引き分けじゃないのか?
どうでもいいけど
45人間七七四年:2008/10/31(金) 07:56:40 ID:0XlaZsku
慶長5年4月26日仙台城大広間にて

片倉「殿、身体の具合はいかが?」

政宗「仙台城の普請もあり、ちと疲れたかの。まあ、和賀の件もあり、
 床に臥せってばかりもいれないが…」

片倉「南部の件、家康にばれましたからな。ところで、本庄繁長と須田が
 福島城で兵を集め、戦闘態勢に入ってるとか」

政宗(苦笑しながら)「上杉も大変じゃのう。ちと煽ってやるか」
政宗、片倉の耳元に何事か囁く。


慶長6年5月8日。石川義宗、景勝領の置賜郡長井荘板屋へ侵入し、悉く焼打を行う。
(「伊達治家記録」より)
46人間七七四年:2008/10/31(金) 07:58:23 ID:0XlaZsku
慶長5年4月26日→ 慶長6年4月26日

成島さんによれば「6年」だったねW
47人間七七四年:2008/10/31(金) 11:21:23 ID:FZlPStqg
また日付の誤記ですかw
そんなの信長公記ですらたくさんありますが。
たまたま伊達側に日付が明記された書状が残されてたから断定できたに過ぎない。
そもそも家治記録は徳川秀忠付きの老中(関ヶ原の上田城攻めにも参加)が編纂した上杉勝利の記録を意識して、
後世(徳川綱吉の元禄期後半)にその反論を狙って書かれた書と言う一面があるし、
家治記録にはどこから持ってきた内容かまったく不明なソースなし記述がたんまりあるし成実の書いた書との矛盾すらある。
伊達勝利を記すのは伊達側が書いた書以外で他にあるのかね?
48人間七七四年:2008/10/31(金) 12:17:13 ID:oIXgodTA
君たちここから出てこないでくださいね。
49人間七七四年:2008/10/31(金) 15:40:46 ID:eqI1sidZ
>>47
> そもそも家治記録は

またまた新しい資料を捏造ですか?w それとも姓不明の家治さんが書いた日記ですか?
50人間七七四年:2008/10/31(金) 16:46:30 ID:SHlRm39I
奥羽永慶軍記
(奥羽に良質な史料が残っていないため事実上の東北戦国史のバイブル)

改正三河後風土記
(徳川家斉の命で編纂した江戸幕府謹製の史書)

会津陣物語
幕臣の酒井忠勝が編纂指示
(上田城の戦いに参加。徳川家光は酒井忠勝を特に信任し「我が右手は酒井讃岐忠勝、我が左手は松平伊豆信綱」と述べた)

常山紀談
東国太平記
夏目記
安民記
武張荒談
日本外史
武辺聞咄
歴代公案
でも上杉勝利を記録している。
51人間七七四年:2008/11/01(土) 02:41:04 ID:E7Q2P94o
伊達軍が動いた。「世に言う松川合戦である」ではじまる、
「天地人」の火坂先生のネタ本は『会津陣物語』と『改正三河後風土記』
のコラボレシーョン。伊達軍がいつ攻めてきたのか、何度読んでも分からない。

小説の中では、あまりの上杉軍の強さに、伊達政宗と徳川家康が、「さすが上杉軍!」と
感嘆の台詞までこしらえて、上杉軍を賛美している。
52人間七七四年:2008/11/01(土) 03:54:54 ID:3aLBlFS1
藩譜(藩幹譜)でも、上杉勝利。
53人間七七四年:2008/11/01(土) 05:29:11 ID:FadrFieE
それぞれの家臣の息がかかってない資料というのも少なそうだね
54人間七七四年:2008/11/01(土) 05:42:27 ID:E7Q2P94o
ちなみに、伊達政宗は関ヶ原後の、会津に籠もってばかりいる上杉景勝を
「手負いの猪武者」としてこきおろしている。最上と伊達に大敗した上杉家。
実直で馬鹿正直だけだがとりえの、時勢を読めない武将として認識していたの
だろう。

「天地人」でも、上杉景勝は直江の引き立て役の冴えない人物として
造形されている。
55人間七七四年:2008/11/01(土) 07:16:27 ID:jVrC3q2F
関ケ原後会津に籠もってばかりいるって天下の趨勢はすでに決まったのに
わざわざ動くわけないじゃん。立場が悪くなるだけだろ。
ああ確かに政宗は奥州出羽合戦で動かず関ケ原が終わったあとに
慌てて上杉に進攻して家康に呆れられてたね。
政宗ってバカなんだね。
56人間七七四年:2008/11/01(土) 07:41:00 ID:pNcZu5x0
上杉は大減封に合ってるんだから幕末くらい薩長と組んでも良かったと思うけど
実際は幕府側に付いたんだよね
伊達が幕府側というのは分かるんだけど、上杉までそうしてるのは
保守的な土地柄なんだろうか
57人間七七四年:2008/11/01(土) 08:01:18 ID:Ox8pP0x7
幕末の上杉家は新政府軍に付こうとしたのに
何の手違いか新政府側に上杉家からの手紙が無視され
仕方なく奥羽列藩同盟に参加→家格はあるので盟主の一人に
→戦ったけど案の定次第に旗色が悪くなり新政府軍に降伏→
列藩同盟からは「裏切り者ー」新政府からは「列藩同盟の盟主だったから減封」
というオチらしいが。
保守的というより貧乏くじ引く体質なんでは。
58人間七七四年:2008/11/01(土) 11:04:48 ID:Rs2MAK8Y
米沢から新潟港まで進出して一度は新政府軍を撃破してなかったっけ?
59人間七七四年:2008/11/01(土) 12:07:19 ID:Nec1PR7E
>>58
上杉はどさくさにまぎれて越後を狙ってたフシもあるしね。
60人間七七四年:2008/11/01(土) 12:08:51 ID:rOYgsZQD
上杉→「手負いの猪武者」
最上→「最上弱すぎwww」

そんな発言をしてた政宗だが信夫郡・伊達郡に侵攻して見事に撃退され一寸の土地も奪えませんですたw
61人間七七四年:2008/11/01(土) 12:18:41 ID:1ulodhGc
不勉強でよく知らんのだが、政宗が敵と真正面からぶつかってぶち破った戦いってあるの?
62人間七七四年:2008/11/01(土) 12:47:46 ID:rOYgsZQD
>>61
ない。
63人間七七四年:2008/11/01(土) 13:15:10 ID:pNcZu5x0
勝ったとか負けたとかそんなことばかりにこだわるから厨呼ばわりされるんだろ。
時流に乗ったのか逆らったのか、それは妥当だったのか、そういう観点の
方が重要だと思うぜ。もちろん会津のように徹底抗戦も1つの有り方だし。
64人間七七四年:2008/11/01(土) 13:21:19 ID:Rs2MAK8Y
>>61
東北で、ずば抜けた圧倒的石高と影響力を父から引き継いでたけど連戦連敗。
65人間七七四年:2008/11/01(土) 16:05:15 ID:jVrC3q2F
>>59
二百年も越後に固執してたのかよと思うが
上杉は国を挙げて謙信信者だし毛利や島津が打倒幕府の気持ちを持ち続けたくらい
上杉は秀吉に越後から引き剥がされたの恨んでたんだろうか。
やっぱ米沢上杉は謙信より初代景勝の影響でかいよなあ。
66人間七七四年:2008/11/02(日) 00:43:50 ID:Q0b7QtDg
>>61
まともに戦ったら本多忠勝1人で伊達軍なんて撃破できるくらい弱いよ。
勝った経験がないから何でも捏造する体質なんだよ。
67人間七七四年:2008/11/02(日) 00:54:39 ID:1tUa/2HN
>>63
ここの人じゃ無理でつ
68人間七七四年:2008/11/02(日) 09:28:39 ID:q4DZfTgl
>>61
伊達の弱さはもう神レベル
69人間七七四年:2008/11/02(日) 10:56:48 ID:fMBRy3n7
上杉厨自演しすぎw
70人間七七四年:2008/11/02(日) 18:38:32 ID:1tUa/2HN
伊達も上杉も好きな方からすれば本当に最っ低なスレだわ
71人間七七四年:2008/11/03(月) 01:29:23 ID:WH+NYHWi
自演もなにも実際、残念ながら史実の政宗の連敗ぶりは事実なわけだが。
72人間七七四年:2008/11/03(月) 05:10:57 ID:M3/ugU1k
独眼の義光じゃ 配下が謀反しまくり 最後は敗死しそうなキャラなんだがw
しかも最後に義光が 「政宗に完全に負けた」とか言ってるし。
義光が当主になったころ
伊達隷属下5万石→最終57万石
必敗土下座王の政宗が輝宗から家督を譲られたころ
奥羽一の実力で75万石→最終62万石
これのどこが政宗に負けたのかと。
1577年輝宗が宇多黒木城(中村城すぐ北)の藤田兄弟を寝返らせて進出し
杉目に伊達の陣を布陣させ金山・丸森城(稙宗隠居城)を攻めた。
1581年の相馬進攻での伊達軍(亘理・名取・宮城・二本松畠山・大内・須賀川二階堂・石川)との小深田の激戦
(相馬側300騎だったが狭い谷という地の利で防戦し、血気の逸った初陣の政宗が片倉を身代わりにして敗走)
1582年の相馬の小斎城の佐藤宮内が援軍の将を斬って伊達に降伏。
小斎城には伊達軍が、城の周囲には伊達騎下の二本松畠山・大内備前親子が布陣し急遽、相馬が冥加山に砦を築く。
1583年3月に氏照から輝宗へ「奥州の伊達と関東の北条はさらに入魂すべき」と東日本を二分して統治しようとの手紙。
6月輝宗から義重へ「奥羽両州諸家のほとんどが私に申し合わせてご挨拶し織田と入魂するから奥羽にちょっかい出すな」
輝宗から岩城へ「相馬攻め出馬よろしく。織田軍がもし関東へ乱入するようなことあらば、葦名ら奥州諸家は伊達に属して戦う」
1584年5月、田村清顕(母が稙宗の娘・妻が相馬盛胤・政宗正室の愛姫は一人娘)が
金山・丸森城を伊達に譲渡しての和睦斡旋。これを機に10月輝宗は政宗に家督を譲渡(葦名盛隆が家臣に暗殺される)
このようにほとんどの諸将は輝宗の指示で動くまでになっており
そのほかに黒川氏や最上氏なども傘下におさめている。
大崎氏も伊達に頭を下げて兵を借りる始末だし、葛西も隷属。
上杉との新発田を巡る争いに敗れ失意のまま死んだ葦名盛氏死後のこれが所謂、輝宗75万石、支配圏150万石と号される云われである。
寒河江氏とか毛利系も伊達に従属してたろ。義守も義光との争いで輝宗が上山城主と一緒に干渉されたろ
義姫が輝宗に詰問したおかげなくせに。
最上の乱において里見氏の流れを汲むと言う
最上八楯の旗頭である天童氏なんかも武藤義氏らと伊達の後ろ盾を得て
最上を圧迫してるな。そこでスーパーヒーロー白鳥長久が大活躍。
73人間七七四年:2008/11/03(月) 13:28:24 ID:bp6E4TPa
>>68
同じ兵力だったら姉小路や深谷上杉や小田よりも弱いんじゃなかろうか。
74人間七七四年:2008/11/03(月) 14:08:21 ID:WH+NYHWi
>>66
忠勝で楽勝なら赤備え井伊直政の場合は、
ジャーン!ジャーン!
ビビる政宗「げぇ!赤鬼は死んでなかったのかぁ?引けー!引くんじゃー」
このようにレッドカラーを見た瞬間に伊達軍は潰走を始めて追撃戦でリアル戦国無双も可能w
75人間七七四年:2008/11/03(月) 15:04:39 ID:wyHwiFuz
同じ兵力だったらとか仮定してなんか意味あるのか?
30万石に減封された僻みか
76人間七七四年:2008/11/03(月) 19:57:48 ID:oL7AsGeT
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013312&VOL_NUM=00000&KOMA=62&ITYPE=0

成実記の正宗マンセーは、あきれるしかない。24歳で奥州の大領をえて凄いとか。

77人間七七四年:2008/11/03(月) 23:22:30 ID:ROPGczqg
24歳でそれだけ成功した人間もそうはいないけどな
78人間七七四年:2008/11/03(月) 23:24:24 ID:ahKedeOw
成実の政宗マンセーはまだいいけど、
駒姫死んでざまあとか、義光は弟殺したとか、そういう記述がいただけない
79人間七七四年:2008/11/04(火) 01:23:55 ID:brqo5sLM
上杉厨は おおごえ で たすけ を もとめた!
そのこえは やまびことなってむなしく あたりに ひびきわたった。...
80人間七七四年:2008/11/04(火) 01:30:39 ID:icTUJVmv
政宗ほどの財産を相続して、恵まれた人間はなかなかいない。
負けまくっても伊達の巨大な国力。
さらに強豪田村氏が伊達の楯であり鉾だったからね。
ほとんど田村氏が1人娘を伊達に人質に取られて佐竹らの攻撃を耐えまくってた。
81人間七七四年:2008/11/04(火) 01:32:05 ID:G8wxzSYT
いいんだよ田村はマゾなんだからw
82人間七七四年:2008/11/04(火) 02:25:45 ID:sBlczQtI
幼稚なレスで伊達を貶してるバカがいるな
上杉ファンなのかね?
だとしたら相当な上杉ファンの面汚しだな
まあ結局は他人なんだけどね
83人間七七四年:2008/11/04(火) 02:59:46 ID:fToxz73+
>>82
お互い様だろそれは。というか、ここには伊達にせよ上杉にせよ、
まともに勉強してる人や本当にそれが好きというひとはいないだろ。
死に体の三戦板から一部の阿呆が流れてきただけで。

では
84人間七七四年:2008/11/04(火) 09:27:56 ID:jAw+ZUhH
歴史ゲー板がいいんじゃね?
どっちが強いとか良いたいらしいから
85人間七七四年:2008/11/05(水) 00:16:29 ID:pqprWB6K
ここにほんとに上杉伊達好きがいるのかなぁと思うよ。
市ねばいいのに。
86人間七七四年:2008/11/05(水) 19:49:23 ID:FBffetOE
そもそもこのスレは論破されて号泣している伊達厨が
戦国板にいるであろう(願望w)
同志に救いを求めて
三戦板の本スレが750レスにも満たないのに
わざわざ三戦板からこっちに敗走してスレを立てた・・・
伊達信者の基地害な暴挙から成立した糞スレなのである。
87人間七七四年:2008/11/05(水) 22:32:20 ID:pqprWB6K
沈めとけよ
88人間七七四年:2008/11/05(水) 23:52:12 ID:U2FBkY26
>>78
弟を殺したのは義光じゃなくて政宗の方だろwww
義光の弟の中野義時はそもそも架空人物だろwww
89人間七七四年:2008/11/07(金) 01:08:11 ID:ZoB6GnEf
ケンカするな!
90人間七七四年:2008/11/07(金) 01:09:04 ID:ZoB6GnEf
>>89
そうだそうだ!
91人間七七四年:2008/11/07(金) 02:08:17 ID:IpWX6EDR
ID!ID!

いやそういうの好きだけどw
9292:2008/11/07(金) 04:36:32 ID:WwhisMJX
上杉家臣が編纂した奇書『会津物語』を読みながら、「松川合戦」の捏造と矛盾点を暴いていこうか。
IDも出るので論者が特定しやすい。ボリューム的、時系列的に『会津陣物語』ほど、松川合戦を記載
したものは他にない。大河ドラマ「天地人」の火坂雅志の底本にもなっている。
全4巻のうち、ほぼ半分が伊達と最上との戦いの記述で占められている。上杉軍は神のように強大で、
何度も押し寄せる伊達政宗を撃退する。物語の最後のシメの言葉は、こう終わる。

「このたび(慶長6年4月26日の松川合戦)で政宗を討ち取ること、その首の数は1290余りとなり、
上杉軍の手柄は、天下の美談となったのだった。」

のこの会津陣のトーン(基調)は常にこんな感じだ。


「上杉家は代々軍法に精通し、兵を用いることは神の如く、士卒の合戦に十分に訓練されて慣れ、

上も下も和らぎ服して景勝を尊ぶことは日月に対する如くである。家中の軍法は厳重で、士卒は

心を寄せ皆同心である。献身以来、武道に関しては慣れている兵たちである。武具、馬具に至る

まで整い優れていることは抜群である。また、現在上杉に駆け付けている諸浪人は、皆奥州の

野蛮人で、その心の猛々しいことは喩えようもない。けれども直江山城守は智勇があって、

それらの武士を手懐けて、代々の臣下と同様である。」
(「会津陣物語」巻2)
9392:2008/11/07(金) 04:46:31 ID:WwhisMJX
献身以来、→謙信以来。

政宗の敗北シーンも詳細である。

「政宗は、僅か十騎ばかりで、本道は避け、得飯坂の北側、昔の佐藤
庄司の屋敷を跡を抜け、摺神川を遡って茂庭山を通り、湯厚へ出てか
ら関を経、渡瀬から白石城へ逃げ帰った。」

(「会津陣物語」4巻)

この「観光地によくある看板記事」のような文章は様々なバリエーションを持つが、
有名なものとして幕末の頼山陽の「日本外史」への転用である。それは後述する。
これは、福島県で書かれた「松川合戦」関係のブログで容易に引っかかるので、
検索して欲しい。

松川合戦とはどんな戦いだったのか、探っていこう。
9492:2008/11/07(金) 05:07:50 ID:WwhisMJX
「伊達治家記録」は後世の捏造、隠蔽記事で全く信用ならないという論もある。
その言でいけば、伊達家の主張=「慶長6年10月6日」は全くの出鱈目という
ことになる。現に、「大坂陣絵巻の管理人tikugo氏」は、慶長6年4月の史的事実
として自身の「1601年の歴史年表」へ掲載している。


http://tikugo.cool.ne.jp/
>1601年4月26日 上杉家の家臣・本庄繁長、伊達政宗軍を破る

これは1601年の情勢を考えるよい機会ともなるので、以下「松川
慶長6年4月説」のベースで考察してみたい。
9592:2008/11/07(金) 05:09:11 ID:WwhisMJX
慶長6年10月6日→慶長「5」年10月6日
96人間七七四年:2008/11/07(金) 07:03:53 ID:NG2jlMU4
伊達家治はウソの中に事実を混ぜるからタチが悪い。
残った書状のうち、都合が悪いものは隠匿し、都合がよいものだけを採用してる。
7/6の日付書状は公開するも翌年以降の上杉侵略は隠蔽しまくっている。
それに兵力差15000の数に頼り強引に渡河した為に伊達の怪しげな誇張戦果以上に犠牲の数が多く発生したとの指摘もある。
また伊達戦略目標は伊達聖地にして政宗が強く固執した伊達郡・信夫郡の占領であるが見事に失敗し、
上杉側戦略目標である伊達郡・信夫郡の防衛は成功し、上杉自力防衛分として家康から安堵されているので勝敗は自ずから明白である。
政宗の関ヶ原での戦功評価は百万石の約束破棄と実高16000石のみ加増と言う情けないものであり、
捏造戦果報告でなく本当に武功をあげていれば、政宗とて強気かつ有利な交渉が家康とできたはずだが泣き寝入りである。
一方で景勝・直江は家康や最上義光から戦いぶりを激賞されている。
97人間七七四年:2008/11/07(金) 11:20:28 ID:Ob4ZHyqk
・松川の戦い
関が原の合戦直後に福島表で開かれた上杉家と伊達家の合戦。
良質な史料がなく内実に関しては不明な点が多いが、関が原の合戦における東軍勝利の方に乗じて福島表に攻め入った伊達政宗が、結局寸土も得ることなく撤退した戦いであることはほぼ確実であろう。
98人間七七四年:2008/11/07(金) 11:57:53 ID:+D+CTVPu
>>96
> 伊達家治はウソの中に事実を混ぜるからタチが悪い。

そんな資料はそもそも存在しませんが何か?
99人間七七四年:2008/11/07(金) 13:15:55 ID:BktY6myN
>>98
だいたいどの史料のことか言いたいのはわかるんだから
そういちいち指摘なさんな
中身を見ようよ
100人間七七四年:2008/11/07(金) 14:27:22 ID:+D+CTVPu
>>99
だって家治は伊達じゃなくて徳川10代将軍だぜ?常考
10192:2008/11/08(土) 07:15:41 ID:69b4Id5H
>>96 捏造戦果報告でなく
 何かやっかみにしか思えないね。伊達家文書をみる限り、誇張もなく淡々と事後報告している。
 大体、鷹匠などに姿を変えて伊達の動向を密偵が監視するような家康のこと、戦果の捏造などした
 ところで、シビアな徳川家康には通じるわけもない。

>本当に武功をあげていれば、政宗とて強気かつ有利な交渉が家康とできたはずだが泣き寝入りである。

おまえが知らないだけだろ。慶長5年10月6日の直後、政宗は宗薫を通じて家康と「超強気かつ有利な交渉」をしている。

>泣き寝入りである。

刈田郡のみの加増は、和賀の一件が原因で、上杉とは何の関係もないよ。一切。
慶長5年10月の上杉掃討戦後の翌11月には家康から戦果の賞賛の言葉と、仙台城築城の許可及び上杉へ
の武力征伐に翌年春早々に家康が乗り出す言質を引き出している。(家康からの書状は2通在る)
その時点で政宗としては上出来、「満足に候」だよ。

102人間七七四年:2008/11/08(土) 07:16:18 ID:69b4Id5H
伊達家では長谷堂を含めた一連の戦いを最上陣と記す。 この角度から『会津陣物語』を見ると、
妙な記述と嘘がぼろぼろ出てくる。最初のつっこみ行こうか。

(長谷堂城の戦いについて、政宗自身が長谷堂に出兵していた!?)


(伊達政景につづき)政宗も、1万5千を率いて出発し、(慶長5年)9月15日には、
最上の長谷堂口に着き、文田村に陣を構えた。(巻3)



はあ?(笑) 作者の杉原親清さん、政宗は北目城にいたんじゃねーの?w 
103人間七七四年:2008/11/08(土) 08:54:50 ID:n2v6ESQY
>>101
6日の政宗捏造戦果を持って強気の交渉をしただけ。
関ヶ原事後処理で家康は奥羽での戦果確認どころではないので適当におだてた手紙書いてる。
和賀一揆の件は政宗が自刃させて証拠隠滅を図ってるので証拠不十分であり、
政宗が強気で語った戦果が事実であれば百万石の「御墨付き」が実高1万6000石のみの加増になる事は有り得ない。
なんせ上杉に隣接して牽制などの武功に関わった彼らの関ヶ原戦勝による家康の盤振る舞い…最上の大加増どころか実質なにもやっていない蒲生や結城の大幅加増に比べれば戦果がほとんどなかったと思うのは常識的判断だろう。
家康に誇張した詐欺的戦果をもって強気に関ヶ原前夜の家康から領土を騙し盗ろうと策した報復である。
論功行賞の結果が事実を語っている。
104人間七七四年:2008/11/08(土) 09:33:59 ID:kdhB3dpA
別冊歴史読本「直江兼続の生涯」で河合秀郎さんっ
ていう 歴史作家は、政宗は関ヶ原の東軍勝利の情報
を得て福島城に出陣したが、直江勢がほとんど無傷
で最上表から撤退したことを知り、後詰を心配して
引き揚げた―と分析してる。

撤退する直江軍にあまりダメージを与えられなかっ
たことを政宗が重く見たってのは結構おもしろい。
直江の大軍が撤退すること自体は最初からわかって
いたことだから、政宗の中では追撃戦でもっとボコ
ボコにしてくれると思ったんだろう。

長谷堂攻めのように政宗も想像以上に福島城に手を
焼き、その間に傷少なく直江が帰ってきちゃったか
ら福島城攻めを断念ってのは意外にありだと思うん
だけど。最上が直江にすぐに出陣できないほどの痛
撃を与えていれば…という思いが「最上は弱い」発
言につながったのかも。
105人間七七四年:2008/11/08(土) 12:50:20 ID:Ui1XglGL
>>104
彼は歴史作家じゃなくてゲームデザイナー上がりだし。エロゲデブと似たようなものだから内容を鵜呑みにはできんよ。
106人間七七四年:2008/11/08(土) 13:20:09 ID:n2v6ESQY
伊達擁護のアンチ直江は
このように発言の内容や議論は回避し
代わりに相手の容姿や趣味などをあげて人格攻撃してる基地害である。
107人間七七四年:2008/11/08(土) 15:50:48 ID:kdhB3dpA
>>104
今残っている史料からは矛盾点はないと思うがね。
経歴で判断せず中身を読むといい。
彼の指摘はなかなか面白いよ。

景勝・直江主従が会津征伐軍との交戦に慎重すぎた
などに厳しい評価を下している。上杉領だけでなく
上方も含めた大局で見るなら対応がまずかったって
ね。
108107:2008/11/08(土) 15:53:36 ID:kdhB3dpA
>>105だった
109人間七七四年:2008/11/09(日) 01:31:21 ID:9HxVXgbc
こいつ、長文連レスが好きな初代スレの数字固定基地外伊達厨だろ?
まだやってたのか
110人間七七四年:2008/11/09(日) 08:46:52 ID:cBw/ASjE
思いっきり上杉びいきです。
初代スレとかは見てません。
上杉びいきは、上杉に不都合な指摘は無視しなければ
いけなんでしょうか。
関ケ原の戦い後の上杉対伊達はあえて勝敗をつけるなら
上杉の勝ちだと考えています。何人討ち取ったって言っ
ても結局、伊達は城を落していないのだから。
111人間七七四年:2008/11/12(水) 13:18:29 ID:T6auk0Qr
さて伊達勝利の資料がまったくないのが笑えるが、
では隣接した相馬家資料ではどうだろうか?
伊達は戦いもなく福島城下まで来たが福島城は頑強で諦めて、梁川城を攻めようとするも、須田に奇襲され94人が討取られ竹に雀の幕まで取られる惨敗。
さらに岡野左内鉄砲隊300が巧みに打ち出ては引くを繰り返し伊達軍を誘引して、再度福島城下に引き出す。
福島城際に寄せる中で命知らず田村衆の小田部大学の勇武を褒める政宗。
しかし福島城下の町の西より鉄砲を撃つが包囲はできず。
小荷駄を討たれる報告が来た政宗は白石城からわざわざ人を出させて梁川城の押さえに退く。
福島城後詰めに春日右衛門が八丁の目まで到着。
白川衆も本宮まで来着。
米沢衆も庭坂まで進出し、まさに伊達包囲寸前になっていたのである。
政宗は相馬に対して、「家康公の天下が定まった。今更、伊達と協調しても相馬は家康公よりお咎めあるからw」
(つまるところ政宗の下知に従い相馬が伊達の下風に立ち臣下になるしかねーよと言いたいらしい)
そこで相馬の水谷式部が景勝を攻めようと提案。
正月4日に夜討ちのために相馬伊達連合軍700が出陣。月夜畑を奇襲するも大敗し相馬150人伊達250人が討ち死に。
112人間七七四年:2008/11/12(水) 14:11:32 ID:ZCWnIWr0
なんにせよ毛利よりはマシだな
113人間七七四年:2008/11/12(水) 16:54:50 ID:T6auk0Qr
さて、論功行賞で伊達と最上との差が激しいことは指摘されている。
蒲生や結城は「上杉牽制」とは言え実質、何もやらずにとんでもない加増である。
最上は安東や由利や六郷らの協力のもと1/21に小野寺義道が横手城を退き、3月中には小野寺氏領接収の実務を鮭延愛綱・志村光安らが行い横手仕置きを完了させ、
4月には彼らも庄内へ増援に送られた。
庄内ではすでに安東が4000を4/28まで派遣している。他に由利衆も参加し4/24には由利石沢氏が武功をあげている。
最上はいまだ戦い続けている以上は伊達とて、この時期はまだ上杉領へ侵入をはかっていたと思って間違いないだろう。
その後、家康は上杉国替えに当たり、義光は南部・戸沢・本堂・六郷・秋田・赤尾津・仁賀保・瀧澤・内越・堀秀治ら陸奥・出羽・越後の総勢2万6050人を率いるように朱印状をもって命じている。
まさに伊達を小馬鹿にして、最上を奥羽越探題のような権勢を持たせるあたり、家康の強烈なる百万石政宗への皮肉だろう。
関ヶ原の時期に上杉に敗北を繰り返した伊達は家康に完全に白眼視されていたのである。
かくて伊達家隷属3万石最上家は伊達を遥かに上回る地位を獲得し、日本広しと言えども家康に次ぐ威勢を誇るに至るのである。
114人間七七四年:2008/11/13(木) 01:37:45 ID:+QJg4lOf
>>111
まさに本庄の福島城への誘引策の裏付け資料だな。
伊達は包囲全滅の恐怖に怯えて逃げ出したわけだ。
115人間七七四年:2008/11/13(木) 05:50:43 ID:tdT29RAt
>>111
長文の割には、何故か年月日が記載されてないな。無理もない。松川合戦は
上杉の「幕末期の」捏造軍記と火坂先生の小説「天地人」「のみ」に存在す
ることが既に暴露されたわけだし。w

>では隣接した相馬家資料ではどうだろうか?

月夜畑って……。上杉家資料はどうなのだろうか?

>福島城への誘引策の裏付け資料だな。

上杉は松川の野戦でぼこられて、福島へ敗退。この点に関しては上杉の軍記も認めてるね。
しかも城主の本庄は、城に籠もっていただけという哀しい結末で終戦を迎えている。

116人間七七四年:2008/11/13(木) 09:00:56 ID:+QJg4lOf
>>115
あぁ三戦板最大の基地害さんですねw
再三論破されまくられては必ず、何事も無かったかのように話の経緯も過程も黙殺して日付と小説を持ち出して逃げまくり、同じ話をひたすら繰り返す壊れたカセットテープ人間。
論破され繰り返し同様に指摘されてもことごとく無視して会話も論議も成立しないアホ。
よって前スレ後半はシカト対象にされた三戦板最大の偏執狂にして恥部。
117人間七七四年:2008/11/13(木) 17:20:07 ID:i03vSpAV
>>115
そいつの狂ったガイキチぶりは
三戦板への隔離扱いのままにしておけば
良かったものをw

ヤツにコミュニケーションは通用しないwww

論破されても関係なく強靭(ほんとは狂人)な精神で同じ事を永久に繰り返す精神異常者www
118人間七七四年:2008/11/13(木) 20:44:56 ID:BhHVc3Q6
伊達家の加増が抑えられたのは大国を作りたくないという政治的思惑もあったんじゃねえの?
もっとも実力で版図を広げられなかったのも事実だけど。
119人間七七四年:2008/11/13(木) 22:02:43 ID:+QJg4lOf
>>118
えっ?最上や蒲生が大国にしてもらってるけど。
つうか西国まで含めれば池田とか黒田とか大国たくさん作ってますが?
そもそも伊達が上杉を滅亡させてたら家康は百万石の約束通り上杉領をぜんぶプレゼントしてたよ。
上杉に見事に叩き出されたけどねwww
120人間七七四年:2008/11/14(金) 01:02:08 ID:utKrH12v
>>111の件ですが
「此秋石田治部少輔濃州関ヶ原へ出張と風聞せし」
おそらくこの時期あたりと同時期でしょう。
121人間七七四年:2008/11/17(月) 08:52:28 ID:kn1yTTMS
>>113
慶長5年10月24日に家康から戦功を賞する書状が届いていますが何か?
最上を大幅に加増した理由は、伊達に対する抑えという政治的思惑だろうに。
122人間七七四年:2008/11/17(月) 10:07:55 ID:75DYeG3D
>>121
家康が戦功を賞しているのは、政宗からの報告を
受けてのことだから、家康書状を伊達が積極的に
動いたという証拠にはできないと思うよ。
123人間七七四年:2008/11/17(月) 12:07:55 ID:rQyODLRJ
だから松川の戦いで政宗が得たものは具体的になんだったんだ?
上杉を牽制できればそれで良かったのか?
124人間七七四年:2008/11/17(月) 12:14:03 ID:kn1yTTMS
ところで、上杉が主張する松川の戦いって慶長6年4月26日だったよな?
その時点の上杉は既に家康に降伏する気マンマンで、伊達が積極的に行動を起こす必要はないんだがな。
攻めるとしても、慶長5年11月に家康から届いた書状で挟撃する手筈だった訳だし、
伊達が単独で戦っているのがまずおかしいだろう。
それはそうだ、慶長6年4月26日の松川の戦いってのが嘘っぱちだからな。
「そんな馬鹿な、色々な史料にこの戦いが載っている」と言われたら、
当たり前です、上杉の捏造軍記をタネに書かれている訳ですからね、と言うほかはない。
まず、岡左内が政宗と斬り結び、青木新五兵衛が鑓でもって政宗の兜を突き立て、
齋野道二が政宗の陣羽織を切り裂いた、という真におもしろおかしい内容の軍記物だからなw
125人間七七四年:2008/11/17(月) 12:59:22 ID:75DYeG3D
何度も出てるけど、伊達側の史料でも慶長六年五月まで
上杉領に侵入してるんだよね。
126人間七七四年:2008/11/17(月) 13:49:28 ID:kn1yTTMS
>>125
単なる小競り合いを松川の戦いにまで膨らませちゃいかんだろ。
慶長5年10月6日の合戦だと、お互いに名のある武者が討ち死にしているが、
慶長6年4月26日にあったらしい戦いでは、お互いに名のある武者が討ち死にしていない。
特に、政宗自身が斬りつけられるwほどの激戦にも関わらずだ。
127人間七七四年:2008/11/17(月) 15:29:11 ID:g4y5VTIW
慶長六年五月の話を出したのは、そこまで断続的に伊達が出兵し
てるってことを示すため。最上だって庄内平定に兵を出している
し、伊達が単独でも軍事行動を起こす可能性はあると思う。上杉
は和睦の交渉してて攻めてはこないだろうし。

個人的にはいわゆる松川合戦というのは慶長五年十月のことだと
思うし、その後は小競り合いだと思うが、そのたびに伊達は撃退
されている。軍記物の性質上、慶長六年春まで戦っていたという
事実から、十月の戦いを意図的に最後のほうに持ってきた可能性
もある。内容はともかく。

ところで、東国太平記とかには、横田大学の内通疑惑の話は出て
いるのかな。直江の書状などから判断して、内通疑惑は慶長五年
十月で決まりなんだが。
128人間七七四年:2008/11/17(月) 15:51:37 ID:8SH3jot1
上杉側も別に慶長6年4月26日と断定してないだろ
「一説に慶長5年10月5日」「慶長5年か6年は無覚束」と断ってるくらいだし
129人間七七四年:2008/11/17(月) 17:50:59 ID:pOmAKt6v
>>124
また日付か
もう既に何度も言われてるのに・・・
面倒なので三戦板から転載

『年月日の不正確さは信長公記も指摘されてるよね 
特に天正3年以前は誤りが見受けられると 
だからといって内容が全て否定される訳じゃない 
甲陽軍鑑も年代を糺しながら読む物だそうで 
明らかに変な記載が有る物の、他の史料と符合する箇所が幾つもあると 
一次史料の『写し』ですら年月日が杜撰な物は多い 
他の史料と照らし合わせつつ、その年月日を訂正していく作業 
これは歴史家と呼ばれる方達は殆ど行ってる事 』

『年月日が違う!=別の出来事だ! 
なんて即決を、彼らは誰一人しない 
まず「年月日が違う」と思っても 
〜「しかし他史料と内容が符合している箇所が有る」 
〜「年月日は「覚束なし」って事はよくある」 
〜「同じ出来事だと思われる」 
こんな感じで行われてる考察は多いし、上に挙げた例にも止まらない』

実際政宗自ら出陣した、この松川合戦も
上杉と伊達、互いの史料には
合戦の出来事などで(伊達の荷駄隊が須田に襲われるなど)一致する部分が多い
130人間七七四年:2008/11/18(火) 02:46:03 ID:9tEYI8Pu
これ、『上杉家御年譜』ではどう記録されてるの?
上杉に詳しい人、誰かその箇所をupしてくれないか。
131人間七七四年:2008/11/18(火) 03:04:10 ID:nX43y0EX
詳しくなくても買ってくるか、図書館行けば解決
怠惰の言い訳してんな
132人間七七四年:2008/11/18(火) 04:01:27 ID:9tEYI8Pu
実は何も記録がなかったりしてなw
133人間七七四年:2008/11/18(火) 08:28:09 ID:d2u7jjeZ
伊達側は戦略的視点で絶対に見ないで回避しまくるよなw
結果が明らかだからな。
134人間七七四年:2008/11/18(火) 09:06:09 ID:aqyeG3iO
上杉家御年譜では八月ですね。
この時期、伊達は動いてないので
違うと思うけど。
135人間七七四年:2008/11/20(木) 09:46:24 ID:nXlK3sVw
天地人デタラメスレから移動

「百万石のお墨付き」
家康が政宗と最上にけん制役を期待したのはたしかだろうが、
家老に政宗を監視させようとするなど政宗のことを疑っている。
実際、家康が帰ると伊達は上杉と和睦し、上杉は最上を攻める
ことになる。

仙台市博物館の人は、そもそも関ヶ原の決着がついた後も政宗
が南方進出にこだわったことについて論じでいて、「抜いた刀
を振るう場を失った」のは上杉が家康に謝罪したから。「失っ
た」時期を明記してないが、関ケ原の決着が早くつきすぎて
「焦って」戦功をあげようとしたと言われても仕方ない。焦
ったのははもちろん上杉にもあてはまるけど。

「何度も」については日付も以前示しており、繰り返しになるので、
過去スレなどで見つけてください。見つけられなければまた書きます。
136人間七七四年:2008/11/20(木) 09:47:44 ID:nXlK3sVw
つづき

慶長六年五月の上杉領侵攻はたしかに大規模な侵攻でないにしろ、
この時期までこういうことを繰り返していた傍証にはなるのでは。
前年十一月に家康から、上杉征伐まで侵攻は待てと言われたのを
忠実に守っていたのなら、小さい攻撃もやらないと思うのだが。

三百人討ちとって家康が喜んだ→それで城は落ちたのでしょか。
それに家康がほめたのは政宗の自己申告。最上の庄内平定も伊達
のおかげとか主張してる書状もあるし、いかに政宗が東軍として
働いた実績をアピールしようと焦っているかが読み取れる。

上杉の軍記物はほぼねつ造→軍記物は一般的に、誇張や詳細不
明な部分を作者の想像で書いてる部分はあるだろうけど、家の
伝承などをふまえて作られてもいるだろうから、一次史料を補
完するところも多いと思うがね。場面場面で一次史料と矛盾す
る点を検証すべきじゃないのかな。
137人間七七四年:2008/11/20(木) 16:05:30 ID:G8fXSzBf
そもそも伊達も上杉も信頼できる資料があるのか?
138人間七七四年:2008/11/23(日) 12:18:41 ID:Dd+QNNud
>>137
上杉・・・・いくらでもある
伊達・・・・一つもない
139人間七七四年:2008/12/02(火) 02:42:12 ID:toRQfoID
少数だからこそなのか、必死だよね、アンチ伊達って
140人間七七四年:2008/12/02(火) 04:31:25 ID:aWlZZa9O
>>139
それは、全てあなたの思い込みです。
141人間七七四年:2008/12/10(水) 07:47:23 ID:XHO9MQBv
合戦の結果、伊達政宗本軍は数で劣る上杉家の一家臣軍に戦略的大敗北。

こうして伊達が父祖の地を回復することは二度と無かった・・・。
142人間七七四年:2008/12/10(水) 15:52:20 ID:FWiaQsTQ
>>141
大敗北ww
その割には主だった家臣が誰一人死んでいないのは何故でしょう?
143人間七七四年:2008/12/10(水) 18:56:27 ID:ZhBqQed4
>>142
141は戦略的にと言ってる。結局得るものがなかったんだから、
関ヶ原以後の戦いでは戦略的に敗北と言われても仕方ないだろうな。
144人間七七四年:2008/12/10(水) 19:08:55 ID:b7G3EWOC
成る程。戦術的に上杉側は野戦で大敗を喫し、総員大挙の挙げ句、福島城へ押し込まれてるからね。
戦略的には、既にこの時点で仙台城の許可を受けている政宗の勝ちだろう。
本庄などは、直江兼続の伊達との和睦という言葉を信じていたため、無駄に被害を拡大。
最大の被害者といえるだろう。
145人間七七四年:2008/12/10(水) 20:07:20 ID:2SuxjF57
あぁガセ戦果を家康に報告してた結果、加増たった1万6000石w
つか仙台築城許可がなんで勝ちになるんだ意味不明w
146人間七七四年:2008/12/11(木) 00:47:24 ID:w0Tr6IP8
>>142
国見山御本陣を取り仕切った武将 宮崎旨元が討ち取られてるじゃないか
二万を超える荷駄隊を任せるだけの武将は充分、「主だった家臣」

武田信玄は三増峠で内藤昌豊
上杉謙信は川中島で直江実綱など
重臣に任せるほど重要なポジション

この任務にどうでもいい家臣を配したのなら、政宗が犯した大きなミス
城攻めなら尚のこと
隊長を討ち取られたばかりか、輜重まで奪われたら話にならない

福島城下の戦いでは
片倉景綱にとっての重要な家臣が幾人も討ち取られてるしな
147人間七七四年:2008/12/11(木) 03:55:57 ID:Cyh8v0bS
伊達に攻められて、徳川の再上杉征伐の危険が迫ったことで
上杉はもはやこれまでと白旗を揚げたんだろう。
伊達が手のひらを返したように完全な敵対者としての素顔を見せたため、
上杉は引導を渡された結果になった。

直江の徳川との講和交渉がこの直後なのも頷ける。

148人間七七四年:2008/12/11(木) 06:51:53 ID:uBTHvlRZ
まぁそうとでも思わなきゃやりきれんだろうな・・・
城攻めで死者の山を築いたばかりか、兵糧を奪われるマヌケぶり
オマケに伊達家累代の尊信を集めた黒沼神社まで焼き払われ
政宗は焼け出された山伏を伴って北目へ遁走
149人間七七四年:2008/12/11(木) 07:24:03 ID:Cyh8v0bS
>まぁそうとでも思わなきゃやりきれんだろうな・・・

そりゃ軍記作家の国枝清軒の心情だろうね。
瀬上町で三百余の損害を出して遁走した上杉軍は、福島城と羽黒山へ逃げ込んだでいるが、その際に葉武者のたぐいまで
討ち取られた。まさに信夫山は上杉の「死者の山」で溢れかえっている。その深い傷は伊達コンクレックスとして福島の
地元に伝承として残っている。

上杉の戦果は正面の茂庭、屋代部隊には全く歯が立たず、小荷駄隊(苦笑)を襲っただけの戦果のみしかない。
『会津陣物語』はその敗者の哀しみが生み出した文学なわけだ。
150人間七七四年:2008/12/11(木) 08:00:59 ID:knSFVoNh
何人討ち取ったとか言っても結局城は落とせてないわ
けだからな。戦略上、伊達にとっては意味がない戦い
になった。伊達の敵対で上杉が講話を考えたんならそ
もそも会津征伐軍が近づいた時点で戦うのやめてるだ
ろ。上杉にはとっては得るものもなかっただろうから
どっちが勝ちということはないだろうけど、後世に上杉は関ヶ原後もねばった、
伊達は狡猾というイメージを植え付ける材料になってしまった。
151人間七七四年:2008/12/11(木) 08:04:41 ID:aNMhVNzj
兵力差が隔絶してるのになぜか福島城でボロ負けして逃げ惑う伊達w
11月に直江自らが二本松城へ出陣してくると完全にビビって活動停止する政宗w
152人間七七四年:2008/12/11(木) 09:10:34 ID:d7/yJO0u
>>150
この戦いの後、
本庄と須田が守りきった梁川郡〜伊達郡〜信夫郡(桑折郡もか?)、福島城あたりは全て
上杉の領地として幕府が認めてるから
上杉が得たものは大きかったと思う
しかも政宗は梁川城へ二万五千人分もの兵糧弾薬を届けてくれたし

あと何気に大きいのは、伊達と縁の深い山伏共を北に追い払ったことだね
この手の異物が領地に残っていると、後々混乱の元になる
ついでに温床も焼き払えたことで一石二鳥、三鳥にも値する戦だったかと
焼き討ちする口実を与えてくれた政宗って、マジ親切
153人間七七四年:2008/12/11(木) 11:10:55 ID:peazs2wU
つまり政宗公は、本来家来筋である長尾が生意気にも上杉氏を継いだことを苦々しく思っていたが、その長尾がおろかにも神君家康公に逆らい上杉家お取り潰しの危機を迎えたので、やむをえずその窮地を救うべくいろいろ画策したのですね。わかります。
ほんま、政宗公の優しさと深謀遠慮ぶりは仙台一やで。
154人間七七四年:2008/12/11(木) 14:40:17 ID:61mfy1lP
無理にでもそう解釈しないとな
要所要所で牟田口並の無能さを露にした政宗が惨め過ぎる


物資補給=荷駄隊が須田に襲われ壊滅、食料など全てを奪われる

本陣=放火を受け本陣周辺の社寺悉く炎上、宝物を回収する間もなく政宗撤退

福島城下=重臣まで討死、片倉が撤退を進言する切っ掛けとなった大苦戦

戦後処理=政宗に約束されていたお墨付きは反故、改めて仙道は上杉に与えられる


ほんま、政宗公の優しさと深謀遠慮ぶりは仙台一やで。
あくまでも仙台一
福島から叩き出されたからw
155人間七七四年:2008/12/12(金) 02:29:50 ID:Kxudd5AL
>>149
>まさに信夫山は上杉の「死者の山」で溢れかえっている。
>その深い傷は伊達コンクレックスとして福島の地元に伝承として残っている。

どんな伝承?
156人間七七四年:2008/12/12(金) 03:13:06 ID:zjn6YP+f
>>155
本陣を襲われた政宗は逃げ場がなくなり、窮していた所を
信夫山伏の党首、羽黒山別当慶陰らが助け、本陣近くの寂光院にかくまった。
政宗は寂光院に有った臼の中へ身を潜めた。
隙を見て、裏手から帰ったという地元の伝承。

さすがに本庄や須田が政宗を撃退したと主張している歴史家も
これは民間の伝承であり作り話、と指摘してるけどね。

ちなみに寂光院も羽黒山〜信夫山に点在した他の神社仏閣同様、
この戦いで焼失。
寺を失った別当慶陰らは政宗に従って北目へ逃げている。

上杉氏によって黒沼神社などが再建されると、
別当慶陰の子孫らは、仙台から福島へ戻って再び羽黒山に移り住んだ。
157人間七七四年:2008/12/12(金) 05:06:51 ID:n++YfA05
福島城に籠城を余儀なくされた本庄繁長にとっては、すんでの所で命拾いした戦いだった。
第2波の攻撃を受ければ、慶長5年10月6日で子息とともに討死にするほどの窮地に追い込まれていた。

そもそも「伊達は上杉の味方(同心)」などと、直江が誤った情報を与えて福島方面の上杉勢を
油断させた結果なのだが。

この戦いで引き揚げる際、必死の形相で上杉勢が食らいついてきたが、津田景安(後の佐沼城主)らが
軽くあしらいながら北目城へ引き揚げている。

上杉勢は涙目で地団駄を踏んでいる。
158人間七七四年:2008/12/12(金) 08:58:42 ID:L5b/lDTQ
>>157
政宗陪臣が2人も討ち死にして片倉が先行きが暗くて撤退を進言したのに、第2波の攻撃を受けたら本庄は討ち死に?
伊達勢が第2波攻撃したら全滅の間違いじゃないかねw
初耳だからソース出してね。
直江が誤った情報?これもソース出してね。
つうか本庄は伊達郡信夫郡わずか15万石で守ってたし、
直江は米沢15万石で山形へ侵攻開始してるからかなり手腕あると思うよ。
159人間七七四年:2008/12/12(金) 09:30:54 ID:Ajatg+nE
>>157
油断はしてないだろ。
直江は政宗を疑いながらも、「使者を送り続けて停戦を続けるように」と
本庄に指示している。
160155:2008/12/12(金) 10:50:19 ID:Kxudd5AL
>>156
臼の伝承は信夫山じゃなくて茂庭でない?
信夫山の柚や茂庭の臼など政宗の敗走にまつわる伝説が地元にあるけど、作り話でしょ
で、政宗の敗走伝説が>>149でいう「伊達コンクレックス」の一例なの?
なにがコンクレックスなのか意味わかんない

>>149
>まさに信夫山は上杉の「死者の山」で溢れかえっている
と上杉方の敗戦を強調してるけど、信夫山に残っていた戦死者塚は上杉伊達両軍のものと伝わっているかと
161人間七七四年:2008/12/12(金) 11:42:21 ID:pWU8NaFs
裏庭には二羽荷駄取りがいるニダ
162人間七七四年:2008/12/12(金) 16:29:09 ID:x/54tDQO
>>152
家康に土下座して120万石から30万石まで大減封されてるのに、
上杉が得たものは大きかったって正気か??
小荷駄の一つを奪ったくらいで伊達側の補給が完全に途切れたわけでもないのにw
ところで、伊達軍が二万五千人というのは何ていう史料に書かれているのかな?
163人間七七四年:2008/12/12(金) 17:24:11 ID:wwlErHoV
>>162
政宗の大敗敗走のおかげで
信夫郡・伊達郡を自力確保分として安堵されたのは大きい。
伊達に圧勝してなければ米沢15万石安堵と言われても文句は言えない立場になってた。
11月には二本松城へ直江自らが出陣してきて
ビビッた政宗が蛇に睨まれた蛙のように硬直し年内の軍事行動を抑止させ、本庄は福島城を離れて家康との会談に臨めるまでになった。

しかし小荷駄を軽視するあたり、戦略思想皆無の無能揃いなのが露呈した伊達軍には笑わせてもらったw
牟田口のジンギスカン作戦の方がまだマシw
164長尾景虎 20才:2008/12/13(土) 01:01:55 ID:bV/l1F89
>>162
>>153といい、主張が無茶苦茶になってきたなぁ
これだけ政宗が醜態を晒した凡戦を擁護し続けるのは、流石に辛いよな
 
>家康に土下座して120万石から30万石まで大減封されてる
このスレでは松川合戦で得たものを語り合ってるんだろうよ
大減封されたのは松川合戦の結果だってか?
 ア ホ
関ヶ原で西軍が敗れた時点で大減封は決定的
その状況下で仮に伊達を撃退できず、梁川城や福島城を奪われていた場合
徳川に仙道を上杉の領地として認めさせられないだろJK

>伊達軍が二万五千人というのは何ていう史料に書かれているのかな?
伊達治家記録を元に書かれてる日本戦史には
北目を発した政宗本隊二万と書かれてますが?
それに加え、大小合わせた遊軍三十隊が付き従ってると

>小荷駄の一つを奪ったくらいで
小荷駄の一つ?荷駄隊そのものが全滅してるだろうが・・・隊長まで殺されてるし
しかもその隊長=宮崎旨元は、伊達軍国見山御本陣を取り仕切ったと治家記録にも書かれてる
どう見ても政宗本隊の荷駄隊です。本当にありがとうございました。
165157:2008/12/13(土) 06:00:59 ID:EEpT6TKe
この「松川合戦」を上杉贔屓の郷土作家が、脚色・捏造した一番の出来色の書籍が、
渡邊三省の『正伝直江兼続・関ヶ原縦横』だろう。一読爆笑ものの連続。

巻頭で、米沢商工会議所の推薦を受けているので、内容は推して知るべしだが、
「福島城下」の戦いの部分は前スレでも揶揄の対象として取り上げられていた。

妄想もここまでくるとどうなるかという見本の書なので、これについて改めて
紹介する必要があるだろう。
166人間七七四年:2008/12/13(土) 06:50:53 ID:fzOnFggY
>>165
『正伝直江兼続・関ヶ原縦横』
これに関しては、あんた自身が三戦板で突っ込まれ
そのツッコミから逃げまくってるようだが
同書に無い記述をでっち上げてまで貶めようとしたものの、失敗

↓のような爆笑物の訂正をされてるよね?
『>(本庄は)伊達の鉄砲の激しい銃声が聞こえ、その退却を知った。
>渡邊氏の本ではこの直後に「福島城の城門が一斉に開かれ、繁長の命令一下全軍が突撃し、〜
>壊滅的な打撃を与えたと書いているわけだが? 

この直後?撤退し始めた直後なんて書き方はしてないぞ 
渡邊氏は治家記録同様、伊達軍が大挙して城に迫ったとき 
「福島城の城門が一斉に開かれ、繁長の命令一下(中略)〜突き込んできたと書いてる 』

自分が批判し易いように、本の内容まで変えるのは勝手だけどさ
その行為自体「妄想もここまでくるとどうなるかという見本」でしかない
167人間七七四年:2008/12/13(土) 07:05:11 ID:fzOnFggY
>>165
他にも
『>つまり慶長5年10月6日の戦闘に関しては、参謀本部では伊達の勝ちと 判 定 し て い る。』
この爆笑物のレスも『正伝直江兼続・関ヶ原縦横』に一人拘っている人物が書き込んでるので
EEpT6TKe=157が書き込んだと思われる

が、直後に↓こう否定されている

『おまえ頭おかしいだろ? 
参謀本部は自分勝手に 勝 敗 の 判 定 な ん か し て な い から 
二十四日に家康は政宗に福島の働きを賞し、岩手山に帰らせた 
とあるだけで 
参謀本部が主観で「伊達の勝ちと判定してる」なんて何処にも書いてない 
まして二十二日には桑折で伊達軍が再び卿民を侵略するも 
上杉の士、貝原解由らに撃退され、直江兼続が彼らを賞している内容も併記して 
高橋家文書同様、度々信達地方を攻略しようとしては 
その都度、撃退される伊達軍が書かれてる 』

つまり157は何か書き込むたびに「一読爆笑ものの連続」なんだよね

168人間七七四年:2008/12/13(土) 08:46:47 ID:t3jHC2T8
>>165
出た〜基地害伊達厨親分w
三戦板最大の恥部人間。
自分への反論をすべてシカトして
毎回不利になると、東国太平記を執拗に持ち出し逃走する基地害w
降臨する事に論破された話を無かった事にして、上から目線で偉そうに講釈する変態w
会話議論不可能で一方的な主張しかしない最強偏執狂基地害。
相手を新参の素人の書き込みだと判定すると嘘妄想捏造や恣意的解釈を繰り返し墓穴を掘る典型的自爆人間。
お前は三戦板から出てくるなよw
169人間七七四年:2008/12/13(土) 11:44:29 ID:3VZnYgj6
都合が悪くなると奇策、奇策と
すぐに歴史小説を持ち出してきた奴と同じ臭い
170人間七七四年:2008/12/13(土) 16:55:16 ID:DoFbS9bC
>>165
あんたは三戦板に封印されてろ。
つか会話のキャッチボールできないし日本人じゃないだろ?
171人間七七四年:2008/12/14(日) 05:45:49 ID:KmaSlqnO
結論が出たようだね。

宮代合戦(慶長5年10月6日)で上杉軍は惨敗。徳川家康に成敗されそうになって慌てて講和。
松川合戦(慶長6年4月26日)は上杉の軍記作者の意趣返しによる捏造とね。

上杉ファンは二度赤恥をかかされたわけだ。w
172人間七七四年:2008/12/14(日) 09:53:08 ID:54zPey6J
だってさ、伊達軍は10月5日に2万で北目城から南下開始だぜ。本庄は6000程度で援軍が望めず孤立してる。
だが6日夜には早くも石川昭光&片倉が悲観論を口にして政宗に撤退進言。
翌7日には北目城に高速の速さで逃亡してる伊達軍だぜ。
伊達が大勝してるならわずか2日で超長距離往復で撤退なんて絶対にしないだろwww
2万を養う食料すらなかった餓軍が追撃を受けながらボロボロになって必死に逃走してるのは歴然。
173人間七七四年:2008/12/14(日) 10:10:33 ID:54zPey6J
詳細はこれに詳しいかと↓
http://www7.plala.or.jp/oygd/atagoyama.html

歴戦の勇者である本庄の偽計に引っかかり梁川城を放置し
喜び勇んで盲進したあげく
ものの見事に退却路を失い補給も絶え、福島城を挟撃するつもりが
逆に挟撃される危機から逃れるために
背後の梁川城の横田大学(元蒲生家浪人)の内通調略を必死にやるがバレて失敗(戦後に横田は罰せられてないので美人局の謀略w上杉減転封後は最上家へ)
米沢からの援軍を足止めできると踏んでいた旧伊達領での一揆蜂起を水原が軽く粉砕して爆進してきたので包囲される恐怖に怯えた政宗。
福島城に着陣してわずか1日で大敗し命辛々逃走した伊達ということでしょう。
福島城で片倉景綱の家臣の国分外記と須田弥平左右衛門が討ち死にまでしてんのに負けじゃねーの?
数百人も犠牲が出たのに上杉側で名のある人間が誰も死んでないのはおかしくないか?
174人間七七四年:2008/12/14(日) 10:34:53 ID:54zPey6J
☆慶長3年、国替責任者直江・石田に続き景勝は3/3に秀吉から暇を賜り6日に伏見を立ち
3/19に会津に入り3/29に直江を介して国替え作業中に会津に侵入した伊達軍を撃退した軍功に対して感状を与える(上杉氏年譜3-150〜152)
☆7月に小手村内大館古城で上泉主水に大敗(覚上公御書集・大河原文書・鶴岡1)
2万石の刈田郡譲渡約束で西軍に内通した政宗
(家康の上杉征伐中止の手紙を聞いて上杉にバレないうちに急いで接収に向かう)
白石城代の甘粕は白石城兵を引き抜いて宇都宮へ着いた秀忠を迎撃する為に白河城へ
小山にいる家康の目を誤魔化す為に甘粕は軍議や妻の葬式で会津へ向かったと誤報を流し
白石城はロクに抵抗せずに翌日早朝に明け渡し。
政宗は刈田郡西部の空き家の湯原城を接取する約束を反故にして
突如、福島表に侵攻するも撃破され伊達軍106が犠牲に。結果、湯原城を諦め白石城返還和睦交渉を申し出る。
ついでに最上を中傷&南部領を狙い反乱を起こさせ、家康の撤退を安東や戸沢らにチクり
上杉征伐の米沢口軍を瓦解させ最上を丸裸にして西軍ですよと上杉の忠犬アピール。
その一方で早くも西へ向かい出した東軍に「三成なんてどうでもいいから上杉討伐を先にやってくれと哀願」
この後は福島へ一切侵攻せずひたすら結城に上杉攻めてくれと懇願しつつ
上杉とは戦わずに最上の援助もせず傍観し西軍内通の褒美に空城の湯原城を9/25に譲り受けつつ山形城を奪う悪巧みをする。
☆10月に福島城で大敗
関が原西軍は敗報を聞きチャンスとばかり攻める伊達軍。今までロクに東軍に貢献をせずに突如として東軍顔をする狼。
しかし寡兵の本庄軍は国境で薄い防御線を張りつつ偽り敗れて福島城下へ誘引する策を実行。
調子になって背後を扼する梁川城を放置して進軍した政宗は陪臣2人を討ち取られ背後を襲われ
この間わずか2日のうちに敗れ去り伊達の聖地を焼き払われ北目城へ高速の速さで敗走。
☆11月ついに直江が二本松城へ出陣
政宗は怯えて引き篭もってしまったので、福島の守備を留守にしても大丈夫になる。
175人間七七四年:2008/12/14(日) 10:40:13 ID:54zPey6J
伊達の主張では12月に家康が政宗に和睦するから戦闘するなと命じたのでこれ以来戦ってないと主張w
実際は福島表で武勲をあげた本庄を家康の元に派遣し上杉の立場と福島での上杉の圧勝を伝えたもの。
これで正確な情報を知った家康は来春に上杉征伐をするのを再考し始めた。
☆1月に月夜畑で大敗(奥相茶話記・相馬が西軍として改易になるところを救った証明になった戦い)
福島表で敵わぬと悟った為、相馬と一緒に厳寒期に夜間に迂回奇襲しようと謀るもド田舎の山中で補足され伊達250相馬150の犠牲者を出す大敗。
☆3月に福島表で瞬殺大敗(覚上公御書集)
家康に南部での謀反の首謀者の和賀忠親を引き渡せと恫喝された政宗は
軍功をあげて、なんとか家康の心証をよくしようと焦り大敗。
ちなみに南部の知将である花巻城代の北信愛の前に伊達の和賀支援軍は大敗。
☆5月長井荘で火をかけるのがやっとw(石川義宗→家康への手紙)
心証が悪化の一途を辿る家康の機嫌をよくするべく必死に戦功を欲する政宗は必死に軍事行動を起こすが
失敗の連続で国境紛争レベルにしか見えず。政宗が書状で置賜郡長井荘でなんとか放火程度はできましたと
必死に報告したが「早く和賀を上洛さ・せ・ろ!と言われ和賀を切腹させて証拠隠滅を図る。
☆7月に徳川・上杉和睦。
上杉が伊達に対して奮闘し撃破したから伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も
自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵。
会談で家康も兼続の武功をすばらしいと褒め称える。
最上義光も兼続を褒め称える。
政宗は武功ゼロ&オマエ本当は西軍だろ!100万石はなし白石(1万6000石)しかやらん。
最上13万石→五十七万石
蒲生秀行宇都宮12万石→会津帰還して60万石
下総結城家の関ヶ原は何もやってないのに10万石→75万石
政宗ショック涙目w
176人間七七四年:2008/12/14(日) 10:50:10 ID:Y3x9dIRH
>>175
2月に伊達が大規模動員してるね。
その後が不明だから、どうせまた負けたんだろうけどw
毎月なんらかの抗争が起きている状況なので、会津陣物語の言う4月にも国境紛争が起きたとしてもなんら不思議ではない。
177人間七七四年:2008/12/14(日) 10:50:13 ID:54zPey6J
>信夫山が焼き払われたのってどのタイミング?
「寂光寺羽黒山因縁記」「富田文書」「第一次寂光寺事件文書」などを研究した
梅宮茂
(梅宮氏は政宗が本陣を置いた黒沼神社、その神主の末裔)は
信夫山の社寺、山伏村、民家が全て上杉により一字も残さず焼き払われ、
山上の 宮人、六供坊らすべての山伏が政宗に付き従い、北目へ向かった
と明らかにしている

上杉側の記録にも「政宗陣所(黒沼神社)を襲い、悉く焼き払」ったいう記述もあるので、
政宗が敗走を開始する混乱の最中に、上杉による焼き討ちが行われてる

>どういう意図と効果があったの?
松川合戦において、伊達軍と共に、北目へ遁走した信夫山(別名・青葉山)の山伏達
彼らは11代持宗以前から代々伊達家に尽くし、血の繋がりが深い者達も多かった
伊達氏も米沢、三春、伊達の総鎮守として、代々厚い信仰を捧げてきた関係
これら伊達氏が築き上げた影響力が松川合戦で焼き払われ、
北目へ叩き出された事実
上杉家が梁川〜伊達〜桑折〜信夫そして福島まで跨る信達地方への支配を浸透させる上で
絶好の機会を政宗が与えてくれた
178人間七七四年:2008/12/14(日) 10:58:34 ID:54zPey6J
>伊達治家記録と佐藤次兵衛巧妙覚を参考にした結果の伊達軍被害状況は?
>その荷駄隊襲撃での死者数とか載ってたんか?

『伊達治家記録』
国見山の本陣を取り仕切った宮崎旨元は政宗公の後に従って、
福島表にやって来た
これを見た梁川城主の須田大炊は「追い駆けて討ち取れ」と下知して
車丹波などの武者を繰り出した
この梁川勢は大隈川を渡って斬りかかり、宮崎旨元らは討ち死に
他の者達も或いは討ち取られ、前後へと逃げ去った

『佐藤次兵衛巧妙覚』
梁川城は岩井行衛を大将にして赤貝へ進撃。
西根砦からも新右衛門井次兵衛と次郎右衛門が出撃し、伊達勢を多数討ち取った。
このとき、山田堪解由が政宗の陣幕を奪った。
伊達勢の林十郎左衛門という者が名乗りをあげて突撃してきたが、
(西根の)次郎右衛門がこれを討ち取った。次郎右衛門は18歳。
総大将の須田大炊頭が梁川城に引き上げ、
二の丸で首実検をしたところ、数は800あまりでした。
179人間七七四年:2008/12/14(日) 11:09:47 ID:54zPey6J
むしろ政宗が愛宕神社前に本陣を据えていた最中、
羽黒山全体に火の手が回ったと考えるのが自然。
というのは、全焼してしまった黒沼神社に属していた神主の末裔である
梅宮茂氏によると
それまで伊達氏の尊信を集め、且つ
伊達氏によって総鎮守と定められ、繁栄を極めた羽黒山一帯の社寺には
累代の伊達氏が捧げた願文、宝剣、鎧といった宝の数々が納められていた。
しかし松川合戦の折、これら貴重な史料の数々が灰になってしまった〜
と、歴史家兼考古学者でもある梅宮氏は述べられている。

本来なら、父祖伝来の宝物を放置する筈はない。
陣払いする際に、仙台へ持ち帰る筈。
しかし政宗は、この伊達氏にとってかけがえの無い社寺を焼かれたばかりか
歴代の当主が納めた、宝物を回収する事すら叶わなかった。
領主にとって、敵に氏神を焼かれるのは屈辱以外の何物でもなく、恥。
羽黒山から立ち昇る黒煙は、伊達、信夫、梁川、福島における伊達氏支配の終焉を意味していた。
そして黒沼神社は上杉氏によって再建される。
180人間七七四年:2008/12/14(日) 11:11:53 ID:Y3x9dIRH
つかさ、伊達が勝ったと主張してるのは伊達家の資料だけだからw
伊達以外の資料で伊達が勝ったと主張してるものを紹介してみろよプププw w w
181人間七七四年:2008/12/14(日) 16:22:30 ID:q6BJV/yC
>>174-175
はいはい、捏造軍記で歴史を語らないでな。
何度も大敗しているはずなのに、伊達側の枢要な人物がまったく討ち死にしていない事実w
小競り合いを過大に喧伝するのが長尾の伝統。
手取川もろくに史料が無いのに大勝したとほざく捏造っぷりw
182人間七七四年:2008/12/14(日) 16:43:11 ID:q6BJV/yC
>>178
宮崎旨元って誰?
宮崎内蔵助の事なら、何の史料にその諱が載っているんだい?
佐藤次兵衛功名覚も東国太平記も成立時期がほぼ同じ時期の上杉捏造話だからまったく信用ならないな。

そうそう、上杉家御年譜だと松川の戦いは八月に起きたらしいなw
とことんろくな史料が無いな上杉は。
183人間七七四年:2008/12/14(日) 18:07:08 ID:Y3x9dIRH
伊達治家記録なんて成立時期がもっともっと後世だし、会津陣物語を熟読して、それに反論まで書いて政宗をマンセーしてるw
しかも成実記とも矛盾してるw
伊達資料はさらにアテにならないな。
184人間七七四年:2008/12/14(日) 20:27:59 ID:GEORpR9v
どう考えても、伊達さん、勝つつもりは無かったとしか思えない無様な戦。

関ヶ原の結果出て、伊達軍の士気は最高潮。一方の上杉軍は逃亡者が出てもおかしくない状況。

それで、伊達軍、本庄隊と須田隊の罠に嵌り、政宗、寸でのところで命拾い。

小荷駄隊から物資も奪われ、大敗から2日後には、名取の北目城へ逃げ帰り、その後翌年春まで、組織的な軍事行動すら出来ない状況に陥ったのは明らか。

結果、家康は伊達家先祖伝来の地、伊達・信夫郡は、伊達家にお墨付きを与えていたものの、上杉家に安堵した。

政宗も自分で切り取れなかった以上、その決定に異は唱えられなかったのだろう。
185人間七七四年:2008/12/15(月) 05:08:03 ID:4qJGUoC4
この松川スレでは、以下のことが明らかになっている。同時に火坂先生の嘘もばらされている。
要点をまとめる。

@「松川合戦」なるものが上杉の軍記作者の妄想垂れ流しによる捏造だったこと。
A実は慶長5年10月に伊達軍に大敗鎧袖一触され、福島城下まで攻め込まれて、
本庄が討ち死にする危機に置かれていたこと。
B徳川家康は上杉景勝を滅ぼすつもりだったこと。
C伊達政宗は仙台城に居を構えて、福島を差配する計画でいたこと
(その方が、福島県民及び一部山形県民にとっては有り難かったかもw)
D伊達軍に虚を突かれて攻め込まれた福島県に少なからぬトラウマを
残して「松川合戦の古老咄」が伝承されたこと。

@〜Dまでばらされ、顔を真っ赤にしている新潟県人の妄想小説家の顔が浮かぶがw
痛いところを突かれ、逆上する見本といえるねw
186人間七七四年:2008/12/15(月) 08:50:00 ID:HFsE5PKs
たいした戦いしてないでしょ。そもそも関ヶ原があんな早期決着になるなんて誰も思ってないんだから。伊達も上杉もこりゃ参ったなぁみたいな感じちゃうかな。

だいたい上杉がそんな一方的に大勝してる形勢なら伊達領まで侵入するのが自然。北目まで一目散に逃走するほど伊達が負けたんなら、白石奪回、平野の続く仙南地域の攻略は難しいことじゃないよ。
187人間七七四年:2008/12/15(月) 09:08:46 ID:v6UgQoL1
>>186
あのさあ、兵力はこの方面では圧倒的に伊達の方が多かったんだよ?
本庄ら上杉軍は伊達軍を撃退するだけで手一杯。
むしろ圧勝だったはずの伊達軍はなぜ一日で撤退したのか?
その辺を詳しく語ってくれ。
188人間七七四年:2008/12/15(月) 11:50:58 ID:sQ3/H8ct
>>186
このスレで松川合戦の推移が明らかになった
その要点をまとめる

10月5日に政宗北目より出陣。白石に到着。

翌6日に政宗は白石を発し、国見山へ本陣を置く。  
 伊達軍の先鋒が宮代で勝利→福島城まで攻め寄せる。
 政宗も南下し、本陣も国見山から福島城前の信夫山へ移す。
 伊達軍後方の荷駄隊が梁川勢(上杉方)に襲われる。→荷駄隊全滅。
 国見山御本陣を取り仕切った宮崎旨元含め、荷駄隊800名が討死、兵糧弾薬など全て奪われる。
 福島城を攻めた片倉隊が城下で反撃を受ける。→国分外記など隊長以下、伊達軍の戦死者多数。
 政宗に荷駄隊全滅の一報が届く。
 政宗が本陣を置いた信夫山全社寺が炎上。 (伊達氏が築いた米沢〜三春〜伊達の総鎮守) 
 兵を多く失った片倉による進言を受け、政宗は信夫山から国見山へ撤退。
  
伊達軍を撃退した梁川勢らは、須田&直江が発給した黒印状、感状(現存)で賞され、 
其々100石から250石前後あてがわれた。

家康は政宗に約束していた加増を反故にし、
改めて上杉による仙道支配(梁川〜伊達〜桑折〜信夫〜福島)を認める。
189人間七七四年:2008/12/15(月) 13:33:46 ID:RAPWpojo
>>185=>>165
隔離された三戦板最強の基地害に餌レスしないように。

今までの過程を全て黙殺して身勝手な結論を出す。
すぐ郷土作家や小説や東国太平記などの話を持ってきて話を逸らす。
何度も論破されてるのに不利になると必ず日付を蒸し返す。
論破されまくってるのに反論すらせずに、同じ主張を永遠と繰り返しループを続ける。
素人新参者と認識するとやたら偉そうに反論して墓穴を掘る。
曲解歪曲捏造が酷いのを指摘されても無視して郷土作家や日付を蒸し返したり、いきなり結論を書く。
余裕あり偉そうに発言しつつ、反論は華麗に黙殺スルーw
190人間七七四年:2008/12/15(月) 14:37:29 ID:OLMdHD34
宮崎旨元って今ならまいうーって呼ばれてるな絶対
191人間七七四年:2008/12/16(火) 12:15:21 ID:N4E9bkGV
客観的に見ても
戦略レベルの常識に照らして
伊達が釣り込まれたようにしか
見えんけどな。
本庄が策もなく1万4000の兵力差の中で寡兵の全軍を国境に
薄く張り出す戦術的必然性の理由が見つからない。

もし伊達が国境で圧勝してるなら
士気が下がった寡兵の本庄に抵抗力はなく
楽勝で福島城を落城させられるはず。

しかもものすごい速さで伊達が撤退するのは追い討ちの危機だと
認識してるから。
どう贔屓目に見ても伊達は負け。

罠にはまったヤベェと気づいて梁川城を内通で落城させようと必死に謀略かけたが大失敗し逆に背後を襲われ
政宗陪臣が相次いで討ち死にし、飢えながら休む暇もなく必死に追撃されながら逃亡したんだろ伊達が亡軍過ぎてワロタw
軍事教練の基本中の基本に引っかかった最高の見本ですね。

伊達が福島表で大敗してなかったら
おそらく家康も戦況有利と感じて妥協せずに上杉改易もしくは
米沢15万石安堵くらいにはされていたろうね。
上杉が伊達に対して奮闘し撃破したから
伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵なわけだろう。
伊達が言ってる事がおかしいとしか思えないだろw
家康が戦果をチェックできない状況下で出した書状なんて何の証明にもならんわ。家康の実際の政宗評価は政宗陪臣2人も福島で犠牲になったのにたった2万石プっw
実態を検視したら福島と宮城の県境の伊達の聖地を燃やされ福島の地を一寸たりとも手に入らなかったくせに伊達厨ほんと必死だなw
192人間七七四年:2008/12/16(火) 12:24:23 ID:N4E9bkGV
>>185
ガイキチさん下記の件のコメントも黙殺されたままですが?

359 :無名武将@お腹せっぷく:2008/06/29(日) 07:55:15
>>340
>同書の中で、渡邊氏は陸軍参謀本部編纂の『日本戦史』の価値を高らかに謳っているが
すぐばれるような無茶苦茶なデタラメを書くなっつーの
渡邊氏は
『(日本戦史を)再三引用してきたが(中略)が、その全部が信頼できるというわけにはいかない。』
『参謀本部の同書編纂当時(明治二十六年)は、まだ史料の発掘が不充分で、
この戦いなどは殆ど「伊達氏四代治家記録」によったもので、このような一方的な記録になった。』
これのどこをどう読めば
>渡邊氏は〜『日本戦史』の価値を高らかに謳っている
こんな馬鹿げた話が出てくる??
ここで渡邊氏が書いてる通り、明治二十六年時点では
慶長5〜6年に活躍した小手六十三騎(梁川勢)の働きと
梁川城主・須田長義からの感状をまとめた高橋家文書も発掘されてない
梅宮氏による信夫山の惨状も明らかになってない
高橋家文書を精査した鈴木俊夫氏による懸田、行人担、鶴田小、城野倉の戦すら
治家記録には書かれてない
だから渡邊氏に限らず、福島市史はじめ梁川町史も治家記録だけでなく
上杉側の記録を採用してるんだろうが

193人間七七四年:2008/12/16(火) 12:39:06 ID:N4E9bkGV
家臣や今井宗薫、家康宛の書状や、家康や直政からの返書
更にその書状を編纂した『伊達治家記録』。
その書状を編纂した所で治家記録内の松川合戦のような描写にはならんだろ
明らかに編纂時、加筆されてる部分も多いし
とは成実記だが同書内の一体どの部分が治家記録内の松川合戦に相当するのか?
昔から社交辞令、付き合いってのが有るだろうに
政宗が都合のいい部分だけ書き送り、無様な戦況を覆い隠したとしても
それを家康が根掘り葉掘り問い質す事なんて、普通するだろうかと
これくらい誰でも思うよ

『成実記』には、確かに関ヶ原戦での松川合戦を示唆する箇所があるな。あげとく。
一 慶長五年七月、白石城御責取北目へ御入馬候処。
(中略)
十月朔日の一戦以後、越後勢福島表出張の由、政宗公聞召十月三日御出馬に候、
先手片倉備中被仰付候処、道遠不参會、茂庭了庵先陳に候。屋代は笹屋より直に被参候。
敵勢瀬上の町を横川端へ備出候処。石見勘解由切崩候。
敵復川向に備を直し待懸候。勘解由手黒澤豊前先を懸敗北仕候て。
福島町へ進入候。備中此処にかけ付け鉄砲を放懸首十三取申候。勘解由石見討取候。
首百余、政宗公御覧成候。
其夜は窪田相場、翌日梁川へ御働候。

なんだ越後勢って?堀の軍が空間ワープでもしたのか。
成実記もあからさまにスポーツ新聞捏造ゴシップ記事レベルだな。

成実記の松川合戦ってこれだけなの?
194人間七七四年:2008/12/16(火) 12:41:08 ID:N4E9bkGV
『其夜は窪田相場、翌日梁川へ御働候』?
治家記録だと
政宗は福島城を攻めた六日の内に、桑折の街道から梁川城を遠く見つつ国見山へ帰陣
その夜は軍議を開いただけ
翌日は梁川城は攻めてない
誰に対して「御働」なんて敬語を使ってるのか意味不明
もっとも六日朝、国見山を出発する時には
張り巡らされていた伊達の陣幕、積み上げられた兵糧、弾薬などなど
政宗が再び国見山へ帰陣した時には敵の城(梁川城)に移ってる訳だ
代わりに寺社仏閣&住居を焼き払われ、呆然自失した山伏達が政宗に付き従ってる

政宗が逃げ帰ってくる間に、国見山から食料・弾薬さまが上杉に奪われ梁川城へ御働候したんだろw

治家記録内の松川合戦物語は一ページ40字前後
それが13ページも有る
成実記がこの程度の記載しかなく、しかも治家記録と違う記述が多い
そうなると、やはり治家記録内における松川合戦物語は、何を元にして書かれたのか不明
誰が、いつ、書いた物かすら分からない史料というのが一番怪しい

家康からの返書をもって、勝利宣言する方が説得力ない
せっかく政宗が、都合の悪い部分を隠して報告してるのに
家康が「でも伊達家累代の尊信を受けた信夫山を焼き払われたよね?」
「しかも城攻めに用意した兵糧、弾薬、陣幕を奪われるとかアホですか?」
「福島の町内で死人の山を築いたと聞いてますが、何か?」
なんて書き送る訳がない
心の中では思ったとしても、それは書かない
それ以前に、松川合戦における伊達の無様な実態を知らされてない可能性も高い
195人間七七四年:2008/12/16(火) 12:43:28 ID:N4E9bkGV
後陣を襲われ、重要な荷駄隊を壊滅させられただけでなく、
荷駄隊の隊長含む護衛、800もの首を討ち取られ、
福島城下では多大な犠牲者を出し、それが敗退開始の判断に直結し、
あろうことか伊達家代々によって築き上げられた、寺社仏閣をも焼き払われたと、
その後も諦めきれず、度々侵攻するも、全て撃退された伊達軍
これら一連の防衛戦の後、
梁川勢は須田や直江が発給した黒印状、感状によって其々100石前後あてがわれてる

このザマで勝利宣言する方がどうかしてるよな
伊達が国を挙げて攻めてきた大軍と、須田・本庄の兵力差を考えれば上杉側の完勝と言っていい

『佐藤次兵衛功名覚
慶長三年(1598)上杉景勝就封以来の軍功について、
随従した甥の佐藤次兵衛が明暦三年(1657)に書き上げたものである。』

関ヶ原から間もない1657年成立なら、十分史料的価値は高いよ
伊達治家記録だって政宗あたりの記述は元禄16年、1703年の物だし
治家記録の場合、元は誰が書いたのか、どう編纂されたのかも不明だけど
家康の事を「大神君」と表現してるし(関ヶ原当時は「大神君」な訳ない)
しかも上杉の記録にも言及してるから、
1703年なりの視点が編纂時に、かなり混入されてる

それを考えれば佐藤次兵衛が1657年の表現「仙台」を使うのは
別に変な事じゃない

成実記と治家記録が見事に食い違い、しかも
伊達治家記録だって政宗あたりの記述は元禄16年、1703年の物・・・すでに江戸中期かよwww
治家記録の場合、松川合戦物語は、何を元にして書かれたのか不明
元は誰が書いたのか、どう編纂されたのかも不明って・・・
そんでもって成実の書いた日記に越後勢って書かれてるって・・・捏造日記デスカwww

ダメじゃんか・・・もう伊達を100%弁護できないじゃんwww
196人間七七四年:2008/12/16(火) 12:46:53 ID:N4E9bkGV
まぁ伊達は家康に評価してもらいたいから、過剰に戦果を捏造報告するのは仕方がないよ
上杉は別に誇張する必要もなければ、評価してもらう相手も存在してないからね。
あくまで上杉征伐と称して侵略してくるウザいヤツらを追い払うだけで。

まぁ、マジに上杉が前哨戦で負けたなら
出鼻をくじかれ士気が低下し、兵少なしで福島城も落城してたろうね。
だが伊達は大軍でありながら捕捉殲滅できなかったので
ほぼ無傷で・・・と言うか計画的撤退で伊達弱しと見た福島城兵の激烈な反攻をうけたんだろう。
6000の籠もる兵糧も充分にあった点から見て、最初から福島城へ釣り込む予定だったんだろう。
逆に伊達は全軍を挙げて福島城まで盲進し見事に釣られて、背後に兵を拘置してなかったとしか思えないな。

軍事常識に当てはめて思考したら当然の結果として
導きだされる客観的事実だから、
多くの作家も十中八九は異口同音に似てくる結果を導き出してるし
彼らの図上模擬演習で周知の思考だと証明してるだろ。
むしろ伊達厨の考えが不自然なんだって。。。

成実
立花宗茂や本多忠勝のように、一軍を率いて活躍した実績なし。
だいたい、成実のことを世間は知らない。
東藩史稿は、作並清亮により編集され、大正四年に刊行されました
伊達成実を英傑と紹介するある史書は、こいつ歴史書ではない。
伊達治家記録が、一般公開されたのは、明治以降です。
成実記なども、幕末の昌平坂学問所所蔵のようで、一般に流布していたものではない。
仙台藩人物一覧表でも、成実は下のほう。支倉、片倉、茂庭、鈴木、留守などのほうが上に書いてある。
おそらく、猛将不在の伊達家で、猛将と捏造されたんだろ。
出奔したさいに、上杉景勝や徳川家康が招こうとしたが断るとか逸話を捏造。
常山紀談、名将言行録に、成実名前なし。
伊達の出典が、ぜんぶ仙台藩で。一般の著名な史書に、ほとんど出てこない太閤記で政宗が悪態ついたくらい。
政宗を全国の人が、20年前に知らないのもムリない。
奥羽の覇王とか、独眼竜とかいう本も、明治以降の話し江戸時代にそんなこと書いてある史書なし。
仙台藩が、日記と称しているものも、江戸時代中期〜末期・明治初頭に作成・加筆したもの。
197人間七七四年:2008/12/16(火) 16:11:26 ID:whKVp2qB
上杉戦略目標→伊達郡・信夫郡の防衛
伊達戦略目標→聖地伊達郡信夫郡の自領化

実質6日だけの戦闘行為で瞬殺された伊達の戦略的大敗は明らか。
198人間七七四年:2008/12/16(火) 18:52:45 ID:oxU5tJ70
全く同じ文章を前にも読んだ気がするのだが
>>191-195はコピペなのかな?
199人間七七四年:2008/12/16(火) 22:28:46 ID:HQPuE9KV
過去スレからのコピペだよね?

まぁ、それ以前に伊達側のレスもコピペというか、問題点を指摘されても、黙殺して、いいっばなしレスを繰り返すからそうなるんだろうけど…
議論ができない人を相手にするとそうなりがちだよね
正直お互い得るものがない…
200人間七七四年:2008/12/17(水) 01:07:53 ID:Jqg+DP1b
>>199
ここ自体議論も出来なければ、する気もない手合いの掃き溜め
だからなあ。
慶長出羽合戦の時の、三者(最上・上杉・伊達)の動きは興味深い
とはいえ、このスレがこの有様では、まともな話など期待できんし。
201人間七七四年:2008/12/17(水) 16:58:20 ID:qKWFWBRL
伊達が勝ったなんて主張を急に始めたのが明治になってからだしw
伊達の自分とこの資料以外はすべて上杉勝利だし。
2万も大動員したのに6日朝に戦闘が始まり6日夜には早くも逃走してんのに「勝った」とかアホ過ぎる小学生かw
202人間七七四年:2008/12/17(水) 17:15:26 ID:qKWFWBRL
書状の日付については暦が地域によって大きく違う。
会津に移ったとて上杉の支配階級が習慣として使っていたであろう越後の農作物の田植えや稲刈り時期と陸奥の農事の時期は違うだろう。
上杉も伊達も徳川も京大坂もまったく違う暦を使用してるはずで著しいズレが存在してるはずだ。
旧北条領では三島暦が使われてた
秀忠が上洛する際に日付が大幅にズレまくって困り家康が使っていた三島暦を参考にして上洛した
信長が尾張と京の暦がまったく違うので、どちらが正しいか調べろと命じたが本能寺で死んでしまった
と三島大社の歴史館に書いてある。

信長は元号を変えさせることで時の支配を狙ったと言う考え方もあるそうだが、暦は天皇が実りの祭りなどの行事に使うもの。
これはやはり天皇をも凌ぐ新たな権威を作ろうとしていたのかも。
暦問題の結果が出る前に光秀に殺されたのは興味深い。
203人間七七四年:2008/12/17(水) 17:33:22 ID:6vr1YrQe
>>201
少なくとも、上杉には負けていませんよw
明治の何て史料で勝ったという主張をし始めたんですか?
他の史料は上杉縁者が書いた捏造軍記をタネにしているんだから、似通っていて当然。
岡左内の武勇伝wとかアホ過ぎて笑えてくる。
10月6日の戦いでは、名のある上杉方の安田勘助・北川伝右衛門・桑折図書らがあっけなく討ち取られていますねw
204人間七七四年:2008/12/17(水) 18:00:49 ID:aO6gmbTO
>>203
名のある武将を討ち取ったらそれで勝ちなの?
205人間七七四年:2008/12/17(水) 19:09:03 ID:9IxAV47h
>上杉景勝会津に被籠て不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。
 政宗幕を上杉家へ奪ひ取たるは、関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。

 上杉の国枝清軒さんも、上杉によかれと思って捏造軍記を書いたものの、
 「松川合戦」が真っ赤な嘘だったことがばれて、草場の陰で反省してるんじゃね? w
206人間七七四年:2008/12/17(水) 20:44:15 ID:s5jBK6gJ
>>205は意味わかってて『武辺咄聞書』参照してるのかね?w
207人間七七四年:2008/12/17(水) 20:53:59 ID:dBebZZaO
伊達は、人取橋も、成実の武勇と、黒ハバキ組の流言飛語で、勝った話しに

すりかえられているらしい。

伊達以外の奥羽永慶軍記とかには、記載されてないけどね。

成実の初登場が逐電だもんな、永慶軍記。

伊達秘鑑とかいう江戸末期のマンセー本に、初登場の自称忍者の黒ハバキ組。

208人間七七四年:2008/12/17(水) 21:31:34 ID:XdML/O4q
>>207
『伊達秘鑑』は明和7(1770)年だから江戸後期でない?

ちなみに『伊達秘鑑』の松川合戦のくだりには、梁川勢に食料を奪われた伊達勢が
「食物無之 何レモ迷惑シ 福島在陣ナラスシテ 夜ニ入リ白石迄皈陣」とあったりする
209人間七七四年:2008/12/17(水) 23:53:18 ID:ZkneCaIx
>>209
伊達治家記録も会津陣物語に書かれている内容に言及するなど
タネ本につかってますがwww

成実記では
越後勢が空間ワープしてきたのか
堀軍?と伊達軍が戦う不思議な記述ありw

210人間七七四年:2008/12/17(水) 23:55:41 ID:ZkneCaIx
訂正
>>209>>203
211人間七七四年:2008/12/18(木) 05:44:52 ID:7WXY9jTJ
上杉ファンも余りの荒唐無稽さに「なかったことにしている」会津陣物語の愉快なエピソード

  松川合戦は慶長6年4月26日也

  岡左内の太刀打ち話「自分が斬り付けたのが政宗だったとは。そうと知っていれば必ず討ち取ったのに」(本人談)

             苦笑
212人間七七四年:2008/12/18(木) 08:28:40 ID:dMzF5ifP
>>209
伊達氏四代治家記録でも、政宗が「越後勢と合戦できず遺憾」と言っている。
明らかに上杉を指してるんだし、旧領を奪われた形の伊達が悔し紛れにそう
呼ぶのもおかしくはないと思うぞ。

>>211
軍記物の武勇譚を持ち出して苦笑しても、政宗が勝って福島城を陥落させたことにはならないよ。
213人間七七四年:2008/12/18(木) 10:35:30 ID:ajN8Q1xf
後世の視点から書いてるので
岩出山→仙台
家康→神君
上記のように書くのは不思議じゃない。

成実記
会津勢→越後勢
過去に戻る不思議な記述なのは有り得ない、成実本人の口述筆記なら上杉軍を越後などと間違いないはず。後世の偽作なのは明らか。
それとも伊達軍は関ヶ原当時に、上杉軍を越後勢・蒲生軍を会津勢・堀軍を越前勢と呼んでいたのかね?
もっとも戦国大名伊達氏の研究では小林大先生が苦笑しつつ成実晩年の記録はアテにならないと、ボケ老人成実記録を切って捨ててるわけだがw
遠回しな表現にせずハッキリ偽作と書いてやればいいものを…
その書には片倉は糖尿病でデブ過ぎて鎧も着れず、仕方なく息子に家督を譲って大坂の陣に出陣させたらしいが。
小早川秀秋が片倉重長と一晩エロしたいと言うので、政宗が手紙で「主君のためなら父をも殺すのが臣下の道。父のお前からも息子に小早川殿と一晩共をしてやるよう命令しろ」と強要してるのも笑える。
214人間七七四年:2008/12/18(木) 19:07:32 ID:ZnKnK78b
>>213
文脈を見れば「越後勢」が上杉軍をさしていることは明白でしょ
単なる誤述・言い間違えだと思うけど?

>成実本人の口述筆記なら上杉軍を越後などと間違いないはず

「はず」などといわれても、成実が誤述することはあり得ないと断定できる理由がわからない
しかも、(成実以外の)後生の著者者なら誤述はあり得ると?
論理が飛躍してんじゃない?


>もっとも戦国大名伊達氏の研究では小林大先生が苦笑しつつ成実晩年の記録はアテにならないと、ボケ老人成実記録を切って捨ててるわけだがw
>遠回しな表現にせずハッキリ偽作と書いてやればいいものを…

「小林大先生」が小林清治のことなら、別に彼は成実記を偽作などと断定してないと思うけど?

○『政宗記』の著者は、『成実日記』と同じく伊達成実とされ、それは記述の内容や奥諸からもひとまず確かめられる。
○寛永15年(1638)江戸城に「軍中戦伐之事」を談じ、将軍秀忠が障子を隔ててこれを聞き、歎賞したということは『成実日記』および『政宗記』の著者としての彼〔伊達成実〕の真骨頂を示すものであろう。
(小林清治による解題より,『伊達史料集』 上 戦国史料叢書10)

成実記の記述に錯誤があることすなわち偽作の証左なんて、何の資料で小林大先生は指摘してんの?
215人間七七四年:2008/12/18(木) 20:25:53 ID:L4CnMfRF
ここのみんなは、どんな気持ちで馬鹿とか無能とか書き込むんですか?
上杉と伊達どちらが凄くても、あなた達が凄いわけではありません。
そんな人生悲しくありませんか?
216人間七七四年:2008/12/19(金) 03:53:11 ID:kjud2yWa
実際、上杉の一次資料は皆無だからね。w 慶長5年の伊達家の一次史料(伊達政宗書状)に対して、上杉のは軍記の与太咄と古老咄の域をでない。
政治的、軍事的に伊達家に敗北した上杉のコンプレックスが生み出した書物が「会津陣物語」に他ならない。

火坂雅志の『天地人』の「世に言う松川合戦」がその好例で、上杉御年譜の引用すら誤っているw

217人間七七四年:2008/12/19(金) 04:13:09 ID:bh2Rug/Z
>>216
「今日其表、村押之様體、一段可然候、殊会津江之状使其他【二三人】討捕、験越候、満足ニ候、
今日此表ニ而者三百餘人、此内馬上百騎計討捕、福嶋之虎口江追入、無残所手際ニ而、
國見江打返陣取候、明日モシ福嶋筋ヨリノオサエニ、可然人衆七手モ八手モ保原筋ヘ可遣候間、
其衆可申合候、恐々謹言、返々、自之人衆不遣前ニ、聊爾之扱無用候、尚一平可申遣候、
以上、十月六日、中島左衛門殿 政宗 御書判)」(十月六日中島左衛門宗勝宛政宗書状)


伊達厨がよく、最初の一行目を削除して転記して
今日此表ニ而者三百餘人←ここから2ちゃんに書く手紙のことですねwww

【二三人】討捕←ここ注目w

戦に負けても戦働きをした家臣には恩賞を与えなければならないので
勝ち負けに関わらず上記のようなものは出す(事実、伊達軍は一寸の土地も得ていない)
しかも、この手紙には伊達側の被害甚大なことには一切、触れられていない。
300百人討ち取りってのは政宗の大ウソ宣伝。
この手の捏造戦果のウソは家康に対しても行なっている。
ここではっきりしてるのは23人のザコ兵を討ったということのみ(馬上の将は討たれていない)

しかも誇大広告のような一次資料の手紙を集めても治家記録のような内容にはならないw
むしろ会津陣物語を参考にしつつ伊達が勝ったように歪曲してるのが治家記録。
218人間七七四年:2008/12/19(金) 04:26:04 ID:bh2Rug/Z
>>214
「成実記」「伊達成実日記」「政宗記」は
同じ元ネタの異本でしかない。

成実記と政宗記をあたかも別物の作品のように
書く時点で君は単なる素人です。


しかも政宗記前半と後半は明らかに別人が書き足したと思われている。
成実記には豊臣秀次の関白時代までしか書かれていない謎がある。
成実が自ら口述してるなら抜け落ちるわけがない。

成実のその後の活躍は明らかに捏造。
219人間七七四年:2008/12/19(金) 05:06:55 ID:kjud2yWa
>300百人討ち取りってのは政宗の大ウソ宣伝。

 状況から見て本当だろうねえ。宮代で打ち破られた上杉勢は福島城まで退去して、本庄は落城寸前まで追い込まれてるし。w

一 景勝衆三百余討捕申候、内名志れ申候者、安田勘介、桑折図書、布施二郎右衛門、北川傳右衛門、武田彌之介、右之衆組頭之由申候
(此衆蒲生氏郷譜代之由及承候)

 既に物頭衆レベルが5名あがってるし。300余、内騎馬武者100騎、信夫山で討ち取られた雑兵、葉武者などを入れれば、上杉側が壊滅的な
 打撃を受けたことが伺える。


この戦いが福島の地元に深いトラウマ(PTSD)になったのも、実際無理もない w


220人間七七四年:2008/12/19(金) 10:17:20 ID:hw8zNL4H
たかが最下層の組頭レベルの名を挙げてもなぁw
その程度の地位の者は掃いて棄てるくらいいるからな。
福島城で政宗陪臣2人が討ち死にしてるのに落城寸前とか何の冗談だよw
政宗の今後の見通しの問いに片倉も石川もムチャクチャ後ろ向きな意見しか言ってないのに。
6日攻撃開始で6日のうちに瞬殺され伊達の聖地も炎上し政宗はブザマに敗れ去り、高速の速さで北目に逃走w
これを伊達の「勝ち」なんてどう考えても無理過ぎだろ。
伊達捏造史観まじウケるwww
221人間七七四年:2008/12/19(金) 11:25:49 ID:fcBi8iuC
はい聖地厨お一人様参りましたー
222人間七七四年:2008/12/19(金) 14:08:34 ID:xcfLoSoi
壊滅的打撃を与えて、結局福島城は落とせたの?
223人間七七四年:2008/12/19(金) 15:18:59 ID:bh2Rug/Z
>>219
備中二番ニ候へ共、為御意、脇道参候ニ付、宮代御合戦ニ逢不申、福島虎口へ懸著、鐵炮掛申候砌、物頭二名討死、

一 景勝衆三百余討捕申候、内名志れ申候者、安田勘介、桑折図書、布施二郎右衛門、北川傳右衛門、武田彌之介、右之衆組頭之由申候(此衆蒲生氏郷譜代之由及承候)」

さてなんで最初の一行目を削除して転記するのか不思議なところだw

なんと片倉は脇道にそれた所に布陣してたので本合戦に遭遇せずと書かれているのであるwww
まったく笑える話である。

>>217における
殊会津江之状使其他【二三人】討捕
であるが、福島から会津への書状を持った非武装の伝令の使者ら23人を討ったに過ぎないwww

まったく伊達の戦果の疑わしいことは明らかw
224人間七七四年:2008/12/19(金) 18:18:45 ID:/k1eZTlH
>>218
>成実記と政宗記をあたかも別物の作品のように
>書く時点で君は単なる素人です。

小林清治の一文をまんま抜き出してるだけなんだけど…w
めんどくさいからロダにあげとく
小林清治による解説 『伊達史料集』 上 戦国史料叢書10
http://uproda.2ch-library.com/src/lib081778.jpg
http://uproda.2ch-library.com/src/lib081779.jpg
>>214で引用したのは、p.145の6行からとp.146の15行から
「小林大先生」が成実記を偽作と断定したという資料を出せば?

それから>>214で指摘しているにも関わらず
>成実本人の口述筆記なら上杉軍を越後などと間違いないはず
の論拠が相変わらず示されていない
成実ならば誤述することはありえないとする根拠は?
素人と罵倒したところで反駁できてないよ

そのうえ>>218
>成実記には豊臣秀次の関白時代までしか書かれていない謎がある。
>成実が自ら口述してるなら抜け落ちるわけがない。

自分から松川合戦の記述を持ち出しておきながら、わけわからないことになってる
いつの松川合戦の話をしてた?
再び論拠なしで「わけがない」と断定してるし
「ボケ老人」といいながら、一方で誤述・錯誤・健忘?は「ありえない」「わけがない」
まったくもって意味不明

別に成実記が成実以外の者によって加筆も編集も一切されていないなんていうつもりは毛頭ない
ただ、松川合戦のくだりの「越後勢」の記述が、成実記偽作の証拠というから、そりゃいくらなんでも
論理が飛躍してるだろうと指摘してるだけ
なんで松川合戦のスレで成実記について論じなきゃならないんだか
225人間七七四年:2008/12/19(金) 18:29:08 ID:/k1eZTlH
「コンプレックス」や「トラウマ」が好物の伊達派が常駐してるよね
煽るしかできないんだろうけど、伊達親派が多い福島が松川合戦でなんのトラウマを受けたといいたいのか不思議
聞いても答えてくれないんだよな

伊達派は相も変わらず10月6日の瀬上・宮代方面での戦いを強調するだけw
強調すればするほど、結局のところ福島城を落とせずに撤退したことが目立ってくる
何の理由で早々と撤退したことにしたいのか???

とりあえず『仙台市史』を引用
---
東軍側が優勢になったことをみた政宗は、旧領である伊達・信夫郡を奪回すべく、帰還した最上への援軍の一部も
含めた大軍をもって、10月6日に上杉領へ攻め入った。国分衆・北目衆もそのなかに含まれていた。各所で伊達軍と
上杉軍が衝突するなか、伊達軍の主力は、信夫郡の要衝である福島城(福島市)にまで進撃し、これを囲んだ。
しかし、上杉側の反撃は厳しく、伊達軍はすぐに撤退を余儀なくされた。
(仙台市史編さん委員会 『仙台市史』 通史編3 近世1)
226人間七七四年:2008/12/19(金) 20:05:04 ID:U31KvffA
で どうして落城寸前の福島城を落とさなかったの?
227225:2008/12/19(金) 21:33:59 ID:PY9HVV1U
>>226
俺に聞いてんの?
聞く相手間違えてるよw

>>226の言葉を借りて>>225を換言すると
「どうして落城寸前のはずの福島城を落とせなかったのか?」
を伊達派に聞いてるんだけど

上杉派の言い分はとっくにいいつくされてるでしょうに
228人間七七四年:2008/12/19(金) 22:55:37 ID:hw8zNL4H
大敗伊達厨必死過ぎw
229人間七七四年:2008/12/20(土) 05:00:17 ID:Xuq9fXGs
再度おさらいしておこうか。松川スレの以下の重要な5つの要点について。

@「松川合戦」なるものが上杉の軍記作者の妄想垂れ流しによる捏造だったこと。
A実は慶長5年10月に伊達軍に大敗鎧袖一触され、福島城下まで攻め込まれて、
本庄が討ち死にする危機に置かれていたこと。
B徳川家康は上杉景勝を滅ぼすつもりだったこと。
C伊達政宗は仙台城に居を構えて、福島を差配する計画でいたこと
(その方が、福島県民及び一部山形県民にとっては有り難かったかもw)
D伊達軍に虚を突かれて攻め込まれた福島県に少なからぬトラウマを
残して「松川合戦の古老咄」が伝承されたこと。

最上に手酷い敗北を喫して米沢に逃げ帰った上杉の隙をついて、伊達軍が信夫郡を蹂躙。
上杉軍を宮代で打ち破り(実に300余名、騎馬武者100騎を討ち取り、信夫山で首級実検
まで行っている)、本庄繁長を自決寸前まで追い込む。これが慶長5年10月6日の戦い。
伊達にとっては掃討戦の一環にすぎなかったわけだねw 本庄はすんでの所で討ち死にを逃れている。

この伊達の「掃討戦」を根にもった国枝清軒のルサンチマンの敗者の文学。それが『会津陣物語』の哀しい本質だね。

国枝は慶長6年4月下旬に伊達が松川に攻めてきてそれを打ち破ったとする与太話を幕末まで流布させたが、それは真っ赤な嘘
だったことは、『日本戦史』から完全に黙殺されていることでも明らかだろう。 w
230人間七七四年:2008/12/20(土) 10:08:52 ID:vvQ+mV3x
>>229
2万も動員しておきながら6000の敵に
たった1日の戦いで見事に敗走し
一寸の土地すら得られず
おまけに伊達の聖地まで燃やされ
悔し涙を浮かべながら逃げた超弱伊達軍w
231人間七七四年:2008/12/20(土) 11:08:30 ID:qJleKOQk
はいはい
どう見ても自演です
232人間七七四年:2008/12/21(日) 00:42:33 ID:JpzLXY4a
>>229
また意味不明なコピペを繰り返す
説明もできないのに「再度おさらいしておこうか」もなにもないだろうw
議論するつもりある?

このスレの伊達派の主張が正しいとして、
「なぜ落城寸前だったはずの福島城を落とせなかった(落とさなかった)のか」
の問いに
>伊達にとっては掃討戦の一環にすぎなかったわけだねw 
が返答のつもり?答えになってないよw
どういう意味で「掃討戦」といってんの?

掃討:敵などを、すっかり払い除くこと。討ち滅ぼすこと。「─作戦」
(『広辞苑』 第六版)

上杉勢は掃討されてませんが???
レスの真意がよくわからないが、よくとって
「上杉勢の勢力を減退させることが目的だった(城を落とすかどうかは関係なかった)」
「城は落とせたけれど、わざと落とさなかった」
とでもいいたい?
そういうのは「掃討戦」とはいわないだろうw

『伊達治家記録』の記述を引用すると
---
公、御本陣羽黒山ノ麓ヘ。片倉備中ヲ召寄セラレ、城中ノ様子ニ依テ、御人数ヲ引キ揚ゲラルヘキ哉ト
仰セラル。既ニ町曲輪マテ乗崩ス間、強テ攻入ラハ、城ヲ落トス事、頃時ナルベシ、シカレドモ、
御人数多費ユベシ。先ズ引揚ゲラレ、然ルヘシト言ス。因テ諸手ニ命セラレ、一同ニツルヘ鉄砲ヲ放テ、
総人数ヲ引キ揚ケラル。
(『伊達治家記録』)
---
一端退いてから城を攻撃しようしてますが?
しかし、その後、福島城再攻撃もせず、翌7日には「公、国見山より北目城へ御帰陣(『伊達治家記録』)」してしまう。
さて、なんでか?

上杉派の主張は出尽くされているように思うが、勝手にまとめると「上杉側の反撃は厳しく、伊達軍は
すぐに撤退を余儀なくされた」
仙台市史もびっくりの新説を披露したいなら、せめて論理的に議論をすすめてはどうよ?
233人間七七四年:2008/12/21(日) 02:49:10 ID:daQ1Z4rD
掃討されたのは

伊達の荷駄隊と

伊達氏の神社(氏神)・・・w

これだけははっきりしている
234人間七七四年:2008/12/24(水) 23:39:10 ID:LsTGKNp4
黒脛巾組の捏造必死だな、キチガイ信者ども。
235人間七七四年:2009/01/14(水) 06:04:53 ID:D3GH00o6
なんで伊達信者って馬鹿ばっかなの?
やっぱ大河で数字よかったからドラマの嘘を真に受けてるの?
236人間七七四年:2009/01/18(日) 22:57:02 ID:Y2ZFJDfT
松川
237人間七七四年:2009/01/19(月) 04:02:53 ID:A0rUTX8s
青葉山寂光寺は福島にあったが松川合戦で、政宗を匿い後に仙台に移ってる
と聞いた事ある仙台民でした〜
電話して住職に聴けばいいじゃん。
238人間七七四年:2009/01/20(火) 15:58:41 ID:HzrZsXIs
上杉以外の記録には、手取り川合戦はないんだな。

上杉の捏造だろ、これ。。。。。。。。。。。。。。
239人間七七四年:2009/01/21(水) 14:43:40 ID:55AjjzAn
>>235
理由はともかく、伊達信者が馬鹿ばっかりなのは疑う余地のない真実だ。

>>238
伊達厨乙。伊達側資料が一から十まで捏造だからって、他も同じだと思うなよ。やっぱり伊達信者は例外なく馬鹿なんだな。
240人間七七四年:2009/02/07(土) 19:46:11 ID:TTnMOrLK
241人間七七四年:2009/02/08(日) 12:38:32 ID:thjSJmAV
上杉に信頼できる史料なんて無いからなw
上杉家御年譜あたりは、松川の戦いの時期を間違えてるし。
242人間七七四年:2009/02/09(月) 01:50:12 ID:ZqPvvf+7
>>241
論破された話を忘れた頃に再び執拗に蒸し返すw
指摘通り過ぎてワロタ…あぁ釣られたのかなw
243人間七七四年:2009/02/09(月) 04:26:59 ID:Bmepq9P0
>>242
いつどこで論破されたんですか?
上杉の信頼できる史料なんて聞いたこと無いんだが。
244人間七七四年:2009/02/09(月) 05:52:38 ID:Nu0e2o7S
基本的に上杉の家臣・国枝清軒の脳内物語だからなあ。
「松川合戦」の与太話はw

『会津陣物語』『東国太平記』『武辺聞咄』すべて国枝が自作自演している。

これを真に受けたのが新潟県の郷土作家火坂雅志の『天地人』の記述なことは言うまでもない。
245人間七七四年:2009/02/09(月) 11:14:45 ID:ZqPvvf+7
>>213
ウソかと思ってたら
戦国大名伊達氏の研究に
ほんとにボケ老人成実の話はアテになんないとか書いてあってテラワロタw
246人間七七四年:2009/02/17(火) 17:02:46 ID:CMFCqyuW
松川、手取川、直江状、愛の兜

捏造だらけの上杉。
247人間七七四年:2009/02/17(火) 18:46:17 ID:BswtFVSp
・愛の兜のどこがねつ造?小説の話するとこじゃないだろここは。
・直江状も偽作とか言ってたのはもう遠い昔。後世中身の改ざんがあった
 可能性はあるけど、直江が家康を激怒させる書状を書いたのは確か。
・手取川と松川に関しても誇張なんてどこでもやってることだし、今どき
 合戦自体がなかったって主張してる研究者っているのかな。

ともかく福島城落としてないのに、上杉方には伊達へのトラウマもなにも
ないよな。あるとすれば、関ヶ原の勝報が届くまで中途半端な立場を貫い
て旧領を切り取りできなかった伊達側だと思うけど。
248人間七七四年:2009/02/18(水) 03:03:15 ID:gmMVYy7Z
ねつ造だトラウマだなんだと君らここで何したいの…?
あんたら本当はここのスレつまらんだろ
249人間七七四年:2009/02/20(金) 12:57:15 ID:QKSRN6Jd
松川、手取川、直江状、愛の兜

捏造だらけの上杉。

250人間七七四年:2009/02/20(金) 20:05:04 ID:QKSRN6Jd
上杉120万石の2万の大軍が、最上24万石の5千程度に大敗!敗走!

って、まるで桶狭間だな。

アホすぎる。さすが戦国最強の上杉。
251人間七七四年:2009/02/20(金) 21:50:12 ID:vw56zTcL
それは講談軍記
史実での戦力はまったく不明。
わかることは、米沢15万石と山形13万石が激突したに過ぎないと言うこと。
252人間七七四年:2009/02/21(土) 09:06:04 ID:CwdkU5+o
>>250
この子は根拠なくデタラメしか言えない逆オオカミ少年なんだな。
253人間七七四年:2009/02/25(水) 03:05:39 ID:6nrKOzSA
上杉家御年譜って、偽書だろ。

名前が紛らわしい。米沢藩が編纂したものじゃなくて、
1971年発行の本だぜ。こんなものが、手取川の参考文献にしているNHK。
254人間七七四年:2009/02/25(水) 08:27:39 ID:+/ADePOE
>>253
おいおい・・・
それは活字化して刊行した年だよ。
綱憲の時代から編纂は始ってる。
255人間七七四年:2009/02/25(水) 12:11:20 ID:6e6bZV74
>>254
前に、他の藩の記録についても似たような事言って「捏造だ!」と
喚き散らしてたやつがいたけど、それと同じだから相手にしないが吉
256人間七七四年:2009/03/01(日) 15:05:22 ID:F8Pd8fiw
上杉家御年譜って、偽書だろ。

名前が紛らわしい。米沢藩が編纂したものじゃなくて、
1971年発行の本だぜ。こんなものが、手取川の参考文献にしているNHK。

257人間七七四年:2009/03/01(日) 15:13:18 ID:F8Pd8fiw
上杉家御年譜って、偽書だろ。

名前が紛らわしい。米沢藩が編纂したものじゃなくて、
1971年発行の本だぜ。こんなものが、手取川の参考文献にしているNHK。



258人間七七四年:2009/04/01(水) 22:40:04 ID:/neYP2Nx
(`ρ´)ノ<アウア
259人間七七四年:2009/04/01(水) 23:03:53 ID:5QaQkxTT
サブさんどうしたんですか?
260人間七七四年:2009/05/05(火) 15:52:08 ID:t4d41hlI
福島城の戦い(松川の戦い)とは、関ヶ原の勝利で意気上がる伊達政宗軍2万の大軍に対し、本庄軍3千が打ち勝った戦い。

本庄軍は一計を案じた。松川を超え先鋒がわざと敗走する。

伊達軍が勢いに乗じて、松川を越えたらしめたもの。城内から打って出る。

松川を渡る途中の伊達軍部隊は混乱し浮き足立つ。伊達軍背後から梁川城の須田長義隊2千が小荷駄隊を急襲する。

政宗を目指し一直線に突撃し、岡左内や斎道二は政宗を討ち取る寸前まで行った。

作戦は見事に嵌り、伊達政宗は命からがら北目城へ逃げ帰った。伊達軍の傷は深く、以降、上杉は伊達の侵攻が無いと見るや、本庄繁長を上洛させ徳川との交渉に専念させることすら出来た。

直江山城守兼続は後年、政宗から挨拶をしないことを咎められた折、政宗殿の逃げる後姿しか知らないと江戸城中で言い、城中ま失笑に包まれ、政宗は赤面したと伝わる
261人間七七四年:2009/05/05(火) 17:14:18 ID:2LyI8PYu
以上「東国太平記」でしたw
262人間七七四年:2009/05/05(火) 22:17:21 ID:h+70Z8/0
>>260

政宗がのどから手が出るほど欲しがっていた伊達・信夫郡をこの期に手にしない訳(福島城を攻略せずに帰る)訳無い。

上杉軍が完勝したことは、その後の事実(家康が上杉領として安堵)によっても明らか。
263人間七七四年:2009/05/05(火) 22:20:49 ID:Ixz/tPQ3
>>260
大敗したと言う割に、伊達軍の名のある武将がまったく討ち死にしていない事実w
264人間七七四年:2009/05/05(火) 23:01:44 ID:h+70Z8/0
>>260
名のある武将とは、例えば片倉小十郎とか留守政景とかでしょうか?

伊達は元々「名の有る武将」自体が少ないよね。芦名との一戦も勝ったのは結局猪苗代寝返りのお陰だし。
265人間七七四年:2009/05/06(水) 03:35:04 ID:tYpxCXQH
白石城に引き続き福島表であっけなく粉砕された上杉軍。徳川家への和睦は、長期的な抵抗が絶望的とみた結果だろう。
266人間七七四年:2009/05/06(水) 05:06:18 ID:P2V0pRCp
この戦役全体を俯瞰するに、本来は東軍主力が
白河口から現われて攻めあげ、他は支作戦だったところ
西軍の挙兵があり、東軍主力は西に反転。
この方面の東軍は防勢に追い込まれたわけだ。

ここで上杉が何をとち狂ったか最上への侵攻
を始める。庄内が気になるとはいえ、関ケ原戦役全体
に何の寄与もない、エテ公並の条件反射としかいいようがない。
しかも、大敗。

要は「松川の戦い」なるものが無ければ、
エテ公並の所行と大敗した事実しか残らんわけだろ。
とくれば上杉関係しか資料が無い「松川の戦い」
なるものの本質は見え見えだろ。
267人間七七四年:2009/05/06(水) 05:50:56 ID:P2V0pRCp
幕藩体制になると、各藩の位置付は藩祖の
関ケ原や大阪の陣の戦功が基準になる。

その中で上杉はと言えば、関ケ原では真っ先に
神君に弓引いた割には領土欲丸出しの最上侵攻、
しかも完敗、大敗、惨敗のあげく、御情けで
三十万石への減封で勘弁してもらう。
大阪の陣でもやる気もなく戦果もない。

これで徳川三百年を生きて逝くには、何か事跡を
クリエイトしないと自我が崩壊してしまうんだろ。
そこでターゲットになったのが東北最大の伊達で
あり、クリエイトされたのが「松川の戦い」。
こんなとこだろ。
268人間七七四年:2009/05/06(水) 18:54:21 ID:LEXos+W8
>>266
上杉の基本的な戦略は関東への侵攻。
景勝の本隊を残してることや各書状からも明らか。その前提
として最上と伊達の従属があるので、伊達と和議を結びなが
ら、なかなか約束を履行しない最上を先に攻めただけ。

東軍も防勢にまわったとは言え当初は秀忠、次いで結城秀康
が宇都宮に在陣してるので、そう簡単に抜けるものではない。
それこそ後ろを固めてからでないと南下できない。景勝も書
状でそう言ってる。

松川合戦をクリエイトする必要はないのでは?いわゆる松川
合戦がなかったとしたら、福島に出陣しながらなぜ速攻で兵
を引いたのかの理由が不明になる。
269人間七七四年:2009/05/06(水) 20:28:23 ID:EVXbZ8iI
>>260
結局政宗なんて、結局田舎大名の域を出なかったってこと。
東北のサルばかり相手にして領土を広げたからって、結局は甲信越や信長軍との戦いで磨かれた上杉軍には手も足も出なかったってことじゃない。
伊達政宗本軍すら本庄軍なんて上杉一武将の作戦にまんまと引っ掛かって、その後の軍事行動すらできない程打ちのめされたんだから。
家康が政宗に伊達・信夫郡を加増せず上杉の領土としたのも頷ける。ましてや政宗が直江からバカにされるのも頷ける。

東北の方が伊達贔屓で負けた戦をなんとか勝ち戦にしたいのは解るけど、結果が全てですから政宗の完敗ということでしょう。討ち死にしななかっただけ良かったと思わないと。
270人間七七四年:2009/05/06(水) 21:05:41 ID:r9V7LvXH
>>269
佐竹は常陸じゃないのかい?
271人間七七四年:2009/05/06(水) 21:28:04 ID:DVx19Wsv
だから、本当の激戦だったら、人取橋のように鬼庭左月クラスの武将が死ぬはずだろ。
政宗が斬り付けられるwほどの状況で、誰も討ち死にしないのかよ。
272人間七七四年:2009/05/06(水) 22:31:37 ID:BFlw7MB3
激戦だと毎回確実に幹部クラスが討ち死にするとかアホな前提を持ち出すなよw
そしたら毎回敗走ばっかしてる片倉は10回は討ち死にしてるだろw
273人間七七四年:2009/05/06(水) 22:44:49 ID:q46mgr0W
おいおい本庄繁長公を上杉の一武将呼ばわりとかw
274人間七七四年:2009/05/07(木) 05:07:10 ID:tvklNNGh
伊達の福島侵攻で上杉が惨敗したのは1次史料見ても明らか。
この結果を知った家康が、翌春雪解けを待ってから武力征伐に乗り出すことになった。
これに慌てた上杉幹部が、暮れに本庄を謝罪の使いに出している。
この戦いで本庄は、いいところがなく野戦で大敗している。

その原因は直江の楽観的な見通しと連絡不足が原因だ。
275人間七七四年:2009/05/07(木) 06:40:15 ID:Zh2OQ1AQ
戦の捏造なんて別に珍しくないが、その後も続いた大大名の伊達家をネタにするあたりは特殊だよな。
甲陽軍鑑の信玄初陣の華麗な勝利の捏造、みたいに相手がまったく架空ならともかく。
276人間七七四年:2009/05/07(木) 08:30:06 ID:uXIeOhH4
>>274
大勝利したのに福島城を落とさず撤退した伊達軍
277人間七七四年:2009/05/07(木) 08:44:30 ID:bo2wB1m9
野戦で勝ちはしたが、福島城が堅固だったというだけの話だ。
278人間七七四年:2009/05/07(木) 09:02:51 ID:VoQq6Hu3
のちの褒美に関わる事になる書状…政宗が部下の戦功を実際に褒めてる書状に書かれてる戦果の数字がものすごいショボイわけだがw
明らかに負けたのに戦果には恩賞をやらなければならない可哀想な政宗。
279人間七七四年:2009/05/07(木) 09:57:51 ID:G/1l3C85
>>276
それは姉川で勝ったのに小谷城落とせなかった織田徳川軍とか珍しくないべさ。
280人間七七四年:2009/05/07(木) 10:26:34 ID:h/yJus+k
>>279
姉川は別に小谷城が目的じゃない。
小谷城が固そうなんで引き返して横山城攻略に変更した後に起こったのが姉川の戦い。
姉川の合戦のあとに横山城を落として対浅井の橋頭堡とすることに成功している。
281人間七七四年:2009/05/07(木) 14:02:18 ID:VoQq6Hu3
姉川は実際は双方互角だったってのが最近の学説だな。
家康が奮戦した話は捏造
282人間七七四年:2009/05/07(木) 14:26:06 ID:VAvrbTmO
>>280
実際に小谷まで攻め寄せてますが。
落とせたら当然落としているだろ、それでけりがつくんだから。
野戦撃破と城攻めは別物。
283人間七七四年:2009/05/07(木) 14:30:20 ID:VAvrbTmO
んじゃあ武田と徳川の吉田城攻防戦。
二連木で徳川軍を撃破し勝利した武田軍は、吉田城を囲んで攻めたがほどなく退却。
284人間七七四年:2009/05/07(木) 14:35:22 ID:NcHee+iZ
姉川で酷いのは織田の捏造だろ。
大した戦果もない姉川や長篠を頭おかしいんじゃないかというほど誇張するのが織田クオリティ
徳川は捏造なんてしとらん。
戦後の信長の書状より布陣の仕方は定説とほぼ同じ事がわかる
285人間七七四年:2009/05/07(木) 14:49:29 ID:p5n8lYjK
織田厨は馬鹿
286人間七七四年:2009/05/07(木) 14:50:59 ID:h/yJus+k
>>282
だから途中で目的が変わってるんだってば。

堀氏の来降を受け小谷城のすぐ南の虎御前山に着陣したものの、信長は小谷城の堅固さを見ていったん兵を引くことを決意する。
浅井勢はこれを追撃したが殿をつとめた梁田や佐々らの活躍もあり信長は無事に兵を引くことに成功。
翌々日、横山城を包囲した信長は竜が鼻に家康とともに陣取る。そこへ朝倉の後ろ巻きの軍を伴って浅井勢が南下。
姉川をはさんで合戦が起こる。これが姉川合戦。

小谷城まで攻め寄せた時とわづか数日とはいえ目的も場所も違うものになっている。

> 野戦撃破と城攻めは別物。

この一文はまったくもって正しいが、姉川の合戦と小谷城の場合は例としてふさわしくない。
287人間七七四年:2009/05/07(木) 14:54:45 ID:h/yJus+k
一応合戦後、浅井軍を追撃して小谷の麓まで来てるから例にふさわしくないとまで言えなくもないかな?
288人間七七四年:2009/05/08(金) 02:17:56 ID:v2VnvxrS
>>271
もう伊達には死にたくてもそのレベルの武将がいないんだよ。人材不足で。いない武将は死にたくても死ねないな。
289人間七七四年:2009/05/08(金) 02:43:06 ID:3SgNXAh5
日中の福島の戦いで上杉の最前線と激突して打ち破ったのは、主に屋代景頼と茂庭綱元の部隊。
こいつらはかすり傷一つ負っていない。多勢に無勢で、恐怖にかられた上杉の牢人衆が、屋代の家臣
の誰かを「政宗本人と戦った」って勘違いして誇大に報告したんだろう。

事実、10月7日、戦い済んで北目城へ帰る伊達軍の殿をつとめたのが津田景康(佐沼城主)だが、上杉の
反撃は津田らにかすりもしていない。

どう見ても、上杉の完敗で終わった戦いだ。
290人間七七四年:2009/05/08(金) 08:11:22 ID:HH6G14Zs
「戦い済んで北目城へ帰る」攻めて来ておいて帰陣の理由が
あいまいだから松川合戦というのが生まれるのでは?
291人間七七四年:2009/05/08(金) 14:36:19 ID:1uGD0FGv
>>223
馬鹿伊達の捏造にワロタ
292人間七七四年:2009/05/08(金) 21:12:21 ID:Z8behg/Z

   _,,....,,_  _人人人人人人人人人人人人人人人_
-''":::::::::::::`''>   ゆっくりでていってね!!!   <
ヽ::::::::::::::::::::: ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
 |::::::;ノ´ ̄\:::::::::::\_,. -‐ァ     __   _____   ______
 |::::ノ   ヽ、ヽr-r'"´  (.__    ,´ _,, '-´ ̄ ̄`-ゝ 、_ イ、
_,.!イ_  _,.ヘーァ'二ハ二ヽ、へ,_7   'r ´          ヽ、ン、
::::::rー''7コ-‐'"´    ;  ', `ヽ/`7 ,'==─-      -─==', i
r-'ァ'"´/  /! ハ  ハ  !  iヾ_ノ i イ iゝ、イ人レ/_ルヽイ i |
!イ´ ,' | /__,.!/ V 、!__ハ  ,' ,ゝ レリイi (ヒ_]     ヒ_ン ).| .|、i .||
`!  !/レi' (ヒ_]     ヒ_ン レ'i ノ   !Y!""  ,___,   "" 「 !ノ i |
,'  ノ   !'"    ,___,  "' i .レ'    L.',.   ヽ _ン    L」 ノ| .|
 (  ,ハ    ヽ _ン   人!      | ||ヽ、       ,イ| ||イ| /
,.ヘ,)、  )>,、 _____, ,.イ  ハ    レ ル` ー--─ ´ルレ レ´

ここはれいむたちのゆっくりぷれいすだよ
なんでいるの?ばかなの?しぬの?
おじさんたちはゆっくりでていってね
293人間七七四年:2009/05/08(金) 21:20:32 ID:WvIy6Hhm
史料が捏造軍記しかない上杉は哀れだねえw
何かと伊達に突っ掛かってきて、迷惑な事この上ない。
294人間七七四年:2009/05/10(日) 10:25:21 ID:0GO+oSGL
>>291
それガチ笑えるな。
伊達は明らかに負けてんだろwww
295人間七七四年:2009/05/10(日) 10:32:37 ID:0GO+oSGL
>>223
二三人討捕←これも怪しいな。
実際たかが2、3人の伝令を討っただけだろ。
20人なら廿って漢字使うからな。
296人間七七四年:2009/05/10(日) 11:09:33 ID:j5p4vFVh
普通は20は廿って漢字使うよな当時は。
297人間七七四年:2009/05/10(日) 11:13:31 ID:+DnWY4+S
当時は当て字を普通に使っていたんだが?
この件が該当するかは知らないが。
298人間七七四年:2009/05/10(日) 23:15:26 ID:Op6i7/e8
>>260

軍記とか別にして、その後に伊達・信夫郡を上杉が安堵された事実や、福島城主の本庄が10月の戦いの後、上洛しているという結果で見ると260が一番納得できるね。
299人間七七四年:2009/05/11(月) 00:16:10 ID:E5TSqVpJ
うんそうだね間違いないね
300人間七七四年:2009/05/11(月) 07:42:32 ID:4/b2M6Ze
http://tikugo.cool.ne.jp/osaka/sonota-os/nenpyo/1601.html

>慶長6年4月26日本庄繁長伊達政宗軍を破る

何度見ても苦笑だわ。上杉ファン涙目w

301人間七七四年:2009/05/11(月) 09:57:26 ID:IDVgEDcl
>>300
何度となく論破されたのに、忘れた頃に何度となく蒸し返して
それを持ち出すお前こそお笑いだわw
三戦板以来の伝統のバカのひとつ覚えパターンで低脳過ぎ。
302人間七七四年:2009/05/11(月) 20:29:06 ID:MRlH8txQ
>>301
論破なんかされてないよw
上杉の捏造軍記をネタに書かれた書物は、4月26日とか言ってるけど、
家康とのやり取りなどで、その時期に戦うのはありえないからな。
303人間七七四年:2009/05/12(火) 08:29:13 ID:FcyTQqXZ
四月どころか五月になっても伊達が上杉領に侵攻して
放火したりしてるだろ
304人間七七四年:2009/05/13(水) 09:56:19 ID:QBRoJ8k6
>>174>>175
政宗がボロ負けしまくっててワロタw
305人間七七四年:2009/05/13(水) 11:38:53 ID:dFsXWrUT
伊達の史料だとちゃんと討ち死にした将士の名前が出てくるのに、
上杉の史料だとまったく出てこないのが笑えるw
伊達軍は大敗したはずなのに、誰も死んでないんですか?
兵站の一部の、小荷駄の宮崎を討っただけで大喜びしているのが更に笑えるww
306人間七七四年:2009/05/13(水) 17:22:53 ID:fwbvmQHs
東軍の勝利の報を受けてから留守部隊を残しただけの上杉領に侵攻してたった一日で撤退する政宗も政宗だけどな。
軽い気持ちで侵攻したけど思ったより抵抗があったので被害が大きくならないうちに引き下がっとこうという程度だったんだろうけどな。
結果論的には「何がしたかんったんだ?政宗は」と言われてもしょうがないけど。
307人間七七四年:2009/05/14(木) 09:40:42 ID:OXIIwaQg
陪臣2人もぶっ殺され、政宗の相談に対して片倉も先行き暗い発言してんじゃん。
政宗大敗してパネェ速さで逃げ帰ってるのをなぜ認めないんだワロタw
308人間七七四年:2009/05/14(木) 12:33:53 ID:fMlXWNqD
そういう事でいいよもう
309人間七七四年:2009/05/14(木) 18:57:14 ID:2BjfHS8Y
この戦いは、「とりあえず上杉の敗残兵を福島表で三百名ほど掃討してきました。」
って、政宗が抜け目なく家康にアピールしたものだからなあ。w

三百余名を討ち取られた挙げ句、信夫山で首級実検までされた上杉の屈辱ときたら気の毒なほどだ。
これに根にもった国枝清軒が後年自作したのが「松川合戦」なわけだ。
310人間七七四年:2009/05/14(木) 19:30:06 ID:6rMDWquk
そんなアピールしたのなら戦後 福島よこせ と声高らかに要求すればいいのに。政宗なら小田原参陣等のようなエピソードを残してるんじゃない? 勝っていれば
311人間七七四年:2009/05/14(木) 20:04:48 ID:OXIIwaQg
>>309
>>291
リアルに部下の恩賞に関わる戦果の書状にはセコい戦果しかないわけだが。
300も打ち取ったと書いてある部分にはまったく裏付けがなく大本営発表並みの大ウソなのは明らかw
脇道にそれて陣を構えていた片倉も実際にその場を見てないから伝聞話で書いてるしな。
伊達の捏造はこれだけじゃなく、佐竹や葦名相手にもさんざん捏造してるしな。
312人間七七四年:2009/05/14(木) 22:46:46 ID:AULbxrpl
伊達は敗残兵を掃討するためにわざわざ出陣してきたのかww
関ヶ原の勝敗が決まってから三百討ったなんて、そんなのアピール
にならないだろ。
313人間七七四年:2009/05/14(木) 23:20:55 ID:xKPbEsMB
直江と政宗の江戸城でのエピソード(直江挨拶せず、政宗咎めると、「政宗殿の逃げる後姿しか見たこと無いので、正面からは知りませんでした。」)と言い、政宗が赤面した。


そのエピソードが松川の合戦の結果を如実に物語る。
314人間七七四年:2009/05/15(金) 00:34:23 ID:6B9IpNJk
そんな捏造エピソードを信じてる馬鹿がいるとはなw
そもそも、政宗と直江は対陣した事もないし、慶長出羽合戦で留守に追撃されたのは直江自身だろ。
宿将の水原のおかげで命拾いしてるが。
315人間七七四年:2009/05/15(金) 04:08:28 ID:amu6RFDk
再度おさらいしておこうか。松川スレの以下の重要な5つの要点について。

@「松川合戦」なるものが上杉の軍記作者(国枝清軒)の妄想垂れ流しによる捏造だったこと。
A実は慶長5年10月に伊達軍に大敗鎧袖一触され、福島城下まで攻め込まれて、本庄繁長が討ち死にする危機に置かれていたこと。
B徳川家康は、宮代の戦いの報を得て、翌春雪解けを待って上杉景勝を滅ぼすつもりだったこと。
Cこの伊達と徳川の動きに怯えた上杉幹部は和睦を決意、12月に本庄繁長を謝罪のため上洛させたこと。
C伊達政宗は仙台城築城の許可を得た後、伊達・信夫地方を差配する計画でいたこと
(その方が、福島県民及び一部山形県民にとっては有り難かったかもw)
D伊達軍に虚を突かれて攻め込まれた福島県に少なからぬトラウマを
残して「松川合戦の古老咄」が現在も伝承されていること。

結局、慶長6年4月下旬に伊達が松川に攻めてきてそれを打ち破ったとする与太話を幕末まで流布させたが、
それは真っ赤な嘘だったことは、かの陸軍参謀本部『日本戦史』から完全に黙殺されていることでも明らか。w
316人間七七四年:2009/05/15(金) 04:50:03 ID:SnITExdo
>>315
Aで討ち死にしたはずの本庄さんがCで上洛ってどうゆうこと?
317人間七七四年:2009/05/15(金) 06:28:20 ID:NUZZRq7H
>>314
留守の部隊なんて何ひとつ役にたってねぇだろアホかw
直江が二本松まで出向いて挑発したら仙台に引きこもって背中を見せて怯え切っていた政宗くんw

>>315
>>232
上杉側の反論には毎回答えられず一切黙殺して、くだらねぇコピペを繰り返す事しかできない伊達厨の低脳ぶり。
318人間七七四年:2009/05/15(金) 09:01:32 ID:Q91f4XHa
>>317
はいはい、最上と伊達の軍勢に追い立てられて、
水原に庇ってもらい泣きながら逃げて行った与六君を恐れる必要なんてどこにもないよw
庄内戦線もあっけなく崩壊して、最上に切り取られる始末だしな。
その後、徳川や最上に褒めてもらったと自慢しているのが情けない。
319人間七七四年:2009/05/15(金) 09:05:45 ID:Q91f4XHa
>>232
よしよし、4月26日説は捏造だと認めた上で、
伊達治家記録を持ち出している訳だな。
320人間七七四年:2009/05/15(金) 09:17:08 ID:JutKhi1Z
>>319
>よしよし、4月26日説は捏造だと認めた上で、
>伊達治家記録を持ち出している訳だな

意味不明すぎw
321人間七七四年:2009/05/15(金) 09:20:35 ID:6B9IpNJk
反論もできずに意味不明なら黙ってたら?
322人間七七四年:2009/05/15(金) 09:26:40 ID:NUZZRq7H
伊達初代が伊達一族の繁栄を祈り勧請して以来、
代々の伊達一門が手分けして整備して信仰が扱った天神社や亀岡八幡宮のあった伊達郡が喉から手が出るほど欲しがった政宗は大敗して逃げ帰り二度と手に入りませんでしたw
323人間七七四年:2009/05/15(金) 09:27:18 ID:JutKhi1Z
あららら、説明できなくて切れてるよw
324人間七七四年:2009/05/15(金) 09:46:11 ID:NUZZRq7H
>>319
>>128>>129
伊達の資料以外で伊達が勝ったとする資料を挙げてみろよw
そういや政宗の輝宗暗殺の部分でも伊達資料のみは政宗はその場にいなかったと書いて捏造してるよなwww
政宗による輝宗暗殺に関しては断定は保留すると言いながらも小林清治先生もおそらく政宗が輝宗暗殺を演出しただろうとしてるしな。
ちなみに相馬の資料>>111でさえ伊達は負けたとしているぞw
他は>>50>>52

バカ伊達厨はもう一度下記を勉強しなさい。
>>174>>175>>176>>177>>178>>179
325人間七七四年:2009/05/15(金) 09:52:30 ID:Q91f4XHa
>>322
大敗したというのは、何の史料を基に語っているのかな?
第一、上杉は会津や信達の地に転封されただけで、自力で切り取った訳でもないし、
最終的にはやっぱり負け組になって大減封されるんだけどねw
326人間七七四年:2009/05/15(金) 10:10:18 ID:Q91f4XHa
>>324
上杉とずぶずぶの国枝清軒の捏造をタネに書かれた軍記が信用できるのかねえw
別の視点と言えなくもない、偽書の疑いがある『三河後風土記』に1770年成立の『常山紀談』に、
国枝が関わった上杉史観の『東国太平記』や『会津陣物語』と言った軍記物なんざ史料と言えるのやら。

そしてまた、まったく関係のない「輝宗暗殺説(笑)」なんて持ちだすあたり、
伊達を叩く目的ありきで歴史を語ってるんだからなあ。
327人間七七四年:2009/05/16(土) 09:41:16 ID:/DIirnCh
>>325

福島城の本庄繁長隊他2千、梁川城須田長義隊2千の軍勢が挟撃により松川渡河中の伊達政宗本軍二万二千を打ち破り、政宗命からがら名取の北目城へ敗走。

伊達軍は、目標とした米沢・福島間の分断作戦と二本松への進軍に大失敗。

その結果、


家康は、直江の長谷堂からの撤退戦を評価し米沢他二十万石を、福島表での本庄軍の伊達軍との戦いを評価し伊達・信夫郡十万石を上杉領として安堵した。

が正確な史実だけどね。
328人間七七四年:2009/05/16(土) 09:43:34 ID:FrPdM2Vm
>>327
何の史料を基に語っているんだい?

徳川が上杉を残したのは、伊達に対する抑えという意味もあるだろうな。
329人間七七四年:2009/05/16(土) 10:16:03 ID:urNogBMm
じゃあ毛利は誰に対する抑えで残したんだよwww
330人間七七四年:2009/05/16(土) 10:42:47 ID:eipAHhIf
>>327 梁川城須田長義隊2千の軍勢が

ソースは大方『会津陣物語』だろ。2千人も出てきたら梁川城は守備力ゼロ。石川昭光あたりに
速攻落城させられてる。実際は車丹波らが小勢で梁川から出撃。伊達の最後尾の小荷駄隊を襲った
だけ。しかも奪ったんだか拾ったんだかした「伊達の陣幕」?とやらの「戦果」のみ。

伊達が上杉を野戦で粉砕して福島城に押し込めてきた福島の戦いに関して、家康は非常に高く評価
している。戦いの結果として、政宗には仙台城の築城許可と上杉征伐の意向が告げられている。

331人間七七四年:2009/05/16(土) 10:49:38 ID:urNogBMm
伊達が負けたから家康自ら上杉征伐しようとしたんだろ。
332人間七七四年:2009/05/16(土) 10:58:58 ID:FrPdM2Vm
>>331
は?挟撃するという戦略的な意味合いだけだろ。
伊達は別に負けてないし。
333人間七七四年:2009/05/16(土) 11:06:36 ID:urNogBMm
兼続が二本松に出陣したら政宗ビビッて出てこなかったからねwww
334人間七七四年:2009/05/16(土) 11:47:21 ID:z+wcsbw2
伊達家の「大本営発表!!」である伊達治記録や、各種の軍記物なんて参考にするも信用するに値せず。
各種資料やその後の事実を総合的に判断するに、やはり
>>327

あたりが妥当と思われる。
335人間七七四年:2009/05/16(土) 11:54:37 ID:z+wcsbw2
>>330

ちなみに伊達は梁川城へ攻撃した事実はありません。
てか、梁川城は堅固なので伊達軍本隊は素通りし攻撃せず。福島表まで進出したため本庄軍と須田軍に松川で挟み撃ち。

囮敗走による反撃戦法、いわば織田軍を撃退した手取川と同じ戦法で松川にて伊達軍を壊走させてしまった訳ですね。
336人間七七四年:2009/05/16(土) 15:02:52 ID:urNogBMm
伊達をフルボッコしておいたから、
本庄が家康に会いに福島城を空っぽにしても大丈夫なぐらい余裕だったしw
337人間七七四年:2009/05/17(日) 00:56:14 ID:fB3Vp+t+
大前提として捏造軍記をソースにするのはやめような。
大敗したら衰退するはずなのに、逆に上杉が衰退してるしw
338人間七七四年:2009/05/17(日) 02:28:18 ID:1RGJu1En
明確な事実は、白石は伊達が取ったわけだろ。
全体として、明らかに伊達優勢じゃん。
339人間七七四年:2009/05/17(日) 07:14:42 ID:K+0YdCBV
白石城なんて守将が白石の兵を率いて家康や秀忠の大軍と戦う為に白河城へ行った後の空城だったし。
その後に伊達が帰っちゃったり東軍の南部領で一揆を引き起こし最上からの侵攻軍を瓦解させて最上を窮地に追い込む動きは、思いっきり上杉伊達の密約譲渡って話の裏付けになってるしな。
なんせ政宗は東西を天秤にかけ続け双方から甘い汁を吸おうとしてただけだし。
そもそもたかが1万5000石なんて120万石時代の上杉にとって鼻糞みたいな土地だし。
政宗が喉から手が出るほど欲しがったのは先祖代々を祀った寺社のある旧領の米沢・伊達・信夫だろがw
関ヶ原後に攻め込んでたった2日で北目〜福島を往復させられたほどミジメに撃退されたけどな。
340人間七七四年:2009/05/17(日) 07:37:08 ID:/XZxcrMW
伊達から白石城を1日で陥落させられた上杉の負け惜しみ乙w

あと>>327は100%軍記の記載。以下のサイトも軍記から転用している。
www2.harimaya.com/sengoku/html/honjo_k.html

>長義はただちに出動を命じ、阿武隈川を渡って伊達勢の跡を追った。そして、前田・桑折で
伊達軍の小荷駄隊に追い付き、これをたちまち蹴散らし、摺上川を渡って急追し、松川北岸
に至って渡河を終えていない伊達軍を捕捉し伊達軍に襲い掛かった。渡河の途中で背後から
追撃を受けた伊達勢はたちまち大損害を受けて川中に追い込まれ、ほとんど壊滅した。
…すでに浮き足立っていた伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱に陥った。これをみてとっ
た繁長が中央本陣に向かって集中攻撃をかけたことで、ついに伊達軍は総崩れとなり、無数の
屍体を遺して退去した。一方、福島勢は追い討ちをかけ、一齋道二は政宗の本陣深く斬り込み、
政宗に二太刀まで斬り付けたが、馬上の政宗は辛うじて難を逃れたといわれる。

齋道二の政宗との「立ち会い」(本人の自己申告)は「天地人」にも書かれているが、
逆に上杉にとって、名誉どころか恥の上塗りになっているのが哀しい。

341人間七七四年:2009/05/17(日) 10:02:11 ID:K+0YdCBV
その軍記を通読して捏造伊達治家記録を書いたわけだがw
わざわざ軍記の内容に触れてそんな事はないとか書いてるしw
だから政宗記とも見事に食い違うわけですw
342人間七七四年:2009/05/17(日) 13:42:42 ID:zKENuspE
上杉は義より川が好き♥
343人間七七四年:2009/05/17(日) 15:45:39 ID:BWJ/bIWR
伊達が勝ったと吹聴してるのは伊達が書いた「伊達冶記録」のみ。

「伊達冶記録」は1670年頃伊達家で編纂されたもので伝承等を基にしており、信憑性は薄い。
344人間七七四年:2009/05/17(日) 18:29:25 ID:BWJ/bIWR
>>339
確かに白石城主甘糟景継ほかの主力は白石城から家康・秀忠を迎え撃つため出陣。

主力を全軍革籠原の一戦に向け、白石は落ちても仕様が無いと考えていた模様。

そこをコソ泥のように奪い取ったのが政宗公、さすが。
345人間七七四年:2009/05/21(木) 21:47:08 ID:/zcMHQEE
324:無名武将@お腹せっぷく :2009/05/21(木) 10:32:40
伊達家正室
伊達成宗室:大崎教兼の娘
伊達尚宗室:上杉房定の娘
伊達稙宗室:蘆名盛高の娘
伊達晴宗室:岩城重隆の娘
伊達輝宗室:最上義守の娘
伊達政宗室:田村清顕の娘

長尾家正室
長尾頼景室:山吉行盛の娘
長尾重景室:長尾景良の娘
長尾能景室:高梨政高の娘
長尾為景室:高梨政盛の娘
長尾晴景室:上杉定実の娘
上杉景勝室:四辻公遠の娘
346人間七七四年:2009/05/31(日) 18:21:23 ID:qgYsI1hK
伊達が大軍を用いて福島城攻略・占領を狙ったのは至極正解。
まず、福島を中心にして繋がる米沢、二本松および梁川の分断を図ろうとした訳。

只、伊達が領土を占領できなかったのは、伊達軍が上杉軍(本庄隊と須田隊)の挟撃作戦に嵌ってしまい、伊達の大軍が総崩れになってしまったということ。

政宗の部下を見捨ててのあまりの逃げ足の速さ(名取北目城逃げ帰った)に、二本松から伊達軍を追撃しようとした直江は、後年、江戸城で政宗に正面から挨拶せず咎められた折「政宗公の後姿(逃げる姿)しか知らず、失礼しました。」
と言い、政宗を赤面させたという。
347人間七七四年:2009/05/31(日) 18:45:17 ID:kNSGg3TD
>>346
伊達軍が上杉軍(本庄隊と須田隊)の挟撃作戦に嵌ってしまい

上杉の軍記(東国太平記)じゃねw 上杉は野戦でも惨敗してるし。

>政宗公の後姿(逃げる姿)しか知らず、失礼しました

直江は政宗と対陣していない。実際は、直江が長谷堂で伊達政景から
逃げる後ろ姿を見られているw
348人間七七四年:2009/05/31(日) 19:17:35 ID:rDGxB6oM
伊達政景なんて怯えて遠くにいたくせにw
そんで最上が弱いから直江を取り逃がしたと言い訳する恥知らず
349人間七七四年:2009/06/14(日) 15:07:45 ID:MbfgE7ZH
>>346
>>347
このエピは、直江は福島城での大敗北から僅か1日で名取北目城へ逃げ帰った政宗の「逃げ足の速さ」を賞賛したんでない?
350人間七七四年:2009/06/14(日) 15:19:05 ID:D0szIZIq
直江というか、伊達に散々ぼこられて勝ち逃げされた上杉の軍記作者
が無念の余りに、後世捏造したエピソードなのは間違いないなw
351人間七七四年:2009/07/05(日) 14:24:12 ID:z8MZvRqU
>>341
1703年元禄16年に編纂された伊達治家記録はマジ笑えるよな。
いろんな書や文書を流用盗用して伊達に都合よく解釈する捏造記録だからね。
例えば、白河義親が政宗と小田原へ同道した時に結城宗広重代相伝の家宝の太刀を秀吉に献上しようと考えていたら
政宗がそれを止めて、太刀は政宗が白河からの献上物として披露しよき様に申し上げると言って預かったが、
秀吉の前で太刀は政宗自身のものとして進上したので義親は重代の太刀を無駄に他家の宝として相伝の所領をも失う結果になった。
この史実に対して、浅野長継→政宗の書状
白河七郎殿進上物は御馬のみと明記。
刀守家は白河からの言付けとは書いてないのに、
この書状を証拠として馬と刀はちゃんと白河から秀吉へ渡されたので政宗に私曲はなかったのは明白とふざけた事を書いて捏造してるしw
だいたい政宗はこの時期に義親が政宗に頼んだ海松黒と言う名馬と逸物の鷹を添えて小田原へ行く政宗に託したが
馬鷹すべて政宗が自身の土産として披露したと白河古事考や東太平記や会津四家合考にハッキリ明記されてる。
義親は大の鷹が好きでかつて佐竹三郎宛てに小型の鷹はいたかを所望して早速贈られて「真実以、快然之至候」と喜び感謝してるほどなのに可哀想。
352人間七七四年:2009/07/07(火) 15:01:17 ID:k960LZDN
治家記録自体が妄想軍記物と思って間違いない。
しかも軍記物のくせに、もっともらしく捏造資料を付記してウソじゃないよとダブル歪曲をする悪質な資料。
353人間七七四年:2009/07/08(水) 14:40:13 ID:/mTzU29k
http://kobe.cool.ne.jp/guwappa/summer04.htm

最上13万石、上杉91万石の真実。。。。。。。。。。。。。。。。


キチガイ上杉。。。。。。。。。。。。
354人間七七四年:2009/07/08(水) 15:35:01 ID:5YopciW6
>>353
それは秋田氏の史料から盗用してるもので、米沢直江山城守30万石がなぜか欠如してるから採用されなかったやつだろ。
355人間七七四年:2009/07/08(水) 15:49:16 ID:5YopciW6
ついでに言うと続群書類従には慶長3年と書いてるが、実際に秋田氏が史料を作ったのは関ヶ原後。
続群書の前の群書が編纂されたのが1819年。
関ヶ原で家康に対抗した直江の存在が消されてるんだな。
356人間七七四年:2009/07/08(水) 16:06:28 ID:g03YCSHD
直江って会津時代で所領6万石じゃ
357人間七七四年:2009/07/08(水) 23:05:59 ID:+r5Q/d7e
直江が大名じゃないから載ってないのでは?
直江意外にも高禄陪臣たちの名前もないが。
慶長三年でもいつを基準にしてるかによるからな
名前は会津中納言になってるけど
358人間七七四年:2009/07/09(木) 08:45:51 ID:x3+9YRn6
つうかこいついろんなとこに貼りまくってるな
どっちがきちがいだよ
359人間七七四年:2009/07/09(木) 09:01:42 ID:G8p+30WI
>>356
それは直江家臣団の所領を含めない数字だろよ…
360人間七七四年:2009/07/09(木) 16:45:25 ID:uJLeZmXJ
直江の家臣団であれば直江の所領から分配されてるんじゃねーの。
361人間七七四年:2009/07/14(火) 08:36:56 ID:tciOQkIX
「上杉景勝家臣知行高控」
筆頭は直江山城守で「六万石 羽州米沢松崎城」

慶長16年幕府へ提出した諸大夫書上
一、三万石者 直江山城守
米沢移封で家臣はほぼ知行三分の一。
直江は二万石で、直江勝吉の一万石を合わせると計三万石
で合致する。
362人間七七四年:2009/07/15(水) 15:44:38 ID:egVCrCIt
伊達でも、上杉でもなく、
戦国最後にわらったのは数字的に言っても、経済的に言っても
最上でしょ
やっぱり

最強最上です

すぐに改易になるけどさ〜
363人間七七四年:2009/07/15(水) 22:32:56 ID:oxHyShdE
>>359
会津転封の時に、直江は米沢で寄騎合わせて30万石で間違いないよ。
364人間七七四年:2009/07/16(木) 10:30:08 ID:lJbRKXvM
30万石説は有名で一般書にもよく引用されてるけど、
『藩政成立史の研究』や『新潟県史』の6万石説が研究者レベルでは定説じゃないの?
365人間七七四年:2009/07/16(木) 12:24:10 ID:s1A+rktx
>>362
義光いなくなって衰退し改易され山形にいれなくなった腐れが何をいっても無駄だ
どんな小大名でも江戸初期から幕末まで改易されず所領を代々継いだ大名の方が最上より上。
366人間七七四年:2009/07/16(木) 14:57:20 ID:MPxaCoDl
>>365
つーことは、最上は市橋だの西尾だのよりも下ということですなw
367人間七七四年:2009/07/17(金) 08:40:05 ID:uH/yOUDc
>>365
義光がいなくなって衰退したんではなく
義光が暗殺による強引な跡継ぎや
万石家臣団に依存する支配体制による欠陥など滅亡の原因を完璧に作っていた。
>>362
最上改易で山形城へ収納に上杉主従がやってきたのだから、最上が最後に笑われたと言う方が正しい。
368人間七七四年:2009/07/19(日) 10:17:32 ID:IEhdYyVV
>>367
山形城景勝受け取りの件は、家康は関ヶ原の責任を取らせて一旦上杉を米沢30万石に減封したけど、やっぱ東国の大名として伊達家より信頼してたってことだろ。
369人間七七四年:2009/07/19(日) 11:14:15 ID:jcuyG6dt
いや山形城接収は伊達成実も一緒にやってるから
370人間七七四年:2009/07/19(日) 17:46:11 ID:l7Dsy6rA
>>369
伊達成実って伊達政宗から一旦追放された家臣じゃん。
関ヶ原では伊達家から上杉方に付くのではないか、と疑われていた存在。
371人間七七四年:2009/07/19(日) 17:57:53 ID:bdteOQcS
成実の実績自体が本人自らが行ったデマ捏造話ばかり。
他家史料にはほぼ登場しない薄い存在。
名将言行録にすら除外された蜃気楼以下の空気でレアキャラ
372人間七七四年:2009/07/20(月) 03:09:39 ID:WE3MOgMZ
>>371
名将言行録自体、史料としてかなり怪しいものなんだけど、
その点については理解してるよね?w
成実の活躍は、伊達家世臣家譜・亘理訴状・仙台志料・信達一統志・東藩史稿・蟻坂文書などに載ってるが、
それがどうかしたか?
373人間七七四年:2009/07/20(月) 09:48:44 ID:nM/EnS8+
>>372
あなたは、名将言行録より「伊達家世臣家譜・亘理訴状・仙台志料・信達一統志・東藩史稿・蟻坂文書」とやらの方が信頼できるとするその根拠は?

又、その資料は何処で一般閲覧できるのでしょうか?

もっともらしく書いてる事が一番胡散臭く感じるね。
374人間七七四年:2009/07/20(月) 12:15:28 ID:WGndC/Do
正宗の戦下手は異常
375人間七七四年:2009/07/20(月) 12:58:55 ID:naHDG+iH
ざっとぐぐってみた。

伊達家世臣家譜……田邊希績編。仙台の儒者。18cの人。

亘理訴状……天和二年(1682)、亘理伊達家当主が幼くして急死。藩は亘理伊達家の禄を半減しようとしたが、家中のものがそれを阻止しようと家祖実元の活躍などを挙げ思いとどまるよう嘆願した訴状。

東藩史稿……作並清亮編集。大正四年刊行。治家記録、世臣家譜などが底本。

信達一統志……志田正徳。天保十二年(1841)発行。鎌田村(現福島市鎌田)の人で農作業に従事する傍ら信夫郡、伊達郡の歴史をまとめたもの。

仙台志料……岡千刃。明治二十五年一月撰。

亘理訴状……天和二年(1682)、亘理伊達家当主が幼くして急死。藩は亘理伊達家の禄を半減しようとしたが、家中のものがそれを阻止しようと家祖実元の活躍などを挙げ思いとどまるよう嘆願した訴状。

東藩史稿……作並清亮編集。大正四年刊行。治家記録、世臣家譜などが底本。

蟻坂文書……よくわからんかった。「河北の臣―蟻坂文書とその背景」(蟻坂花子著、1979年)という著作があるのでそれを読めばわかりそう。

それぞれの信憑性の有無についてはともかく、少なくとも他家の記録とは言えない物ばかりのような気がする。
376人間七七四年:2009/07/20(月) 15:41:57 ID:WE3MOgMZ
>>373
それではまず、名将言行録が史料たりえるか証明をしてもらおうか?
こっちの史料の信憑性を問う前にな。

>>375
>成実の実績自体が本人自らが行ったデマ捏造話ばかり
そうそう、この発言の証明もしてもらいたいな。

成実の事績は、
安達郡誌・相生集・奥羽永慶軍記・会津四家合考・新編会津風土記・新編東国記・木村宇衛門覚書あたりにも載ってるけど。
他家の記録って、周辺の二本松畠山や蘆名や二階堂や大崎や葛西や最上は滅んでるから、
まとまった史料なんてそんなに残っちゃいない。
ただ、郷土史や会津松平氏の史料には、ちゃんと成実が載っている。
377人間七七四年:2009/07/20(月) 22:08:35 ID:Q8kc28E5
成実の活躍の真偽のほどはわからんが、「名将言行録」は明治時代の
逸話集だからなぁ・・・。
なんか比較の対象が違う気がするぞ。
378人間七七四年:2009/07/21(火) 20:22:08 ID:LJswWXqE
つまり明治期でも成実は相変わらず無名だったわけだ。
379人間七七四年:2009/07/21(火) 21:18:42 ID:QUdRZjWQ
昭和期には十分過ぎる有名人になっとりますな。
380人間七七四年:2009/07/22(水) 03:28:02 ID:6qeTcQAk
>>378
基地外涙ふけよw
381人間七七四年:2009/07/22(水) 05:15:58 ID:2vj6wPBT
>>376
書籍の名だけをテキトーにあげるくらい誰でもできる。
各書籍ごとに成実のことがどう書かれているのか転載しろよ。
382人間七七四年:2009/07/22(水) 05:29:12 ID:bMwrkNXE
史料の名前まで出してもらって、今度は転載しろとはどれだけ甘えるつもりだ?
成実を批判したいのなら、まず史料批判をしたうえで語れよ。
名将言行録に出てこないから実績は捏造だ、とかほざいてる時点で、議論のテーブルに着く資格すら無い。
383人間七七四年:2009/07/22(水) 08:29:51 ID:2vj6wPBT
だってお前、史実ではなく、そもそも軍記や故老のお茶話ネタ本じゃんかよw
384人間七七四年:2009/07/22(水) 10:49:17 ID:osQho4NT
名将言行録なんて持ち出してる時点で何を言う資格もないだろ。
385人間七七四年:2009/07/22(水) 14:37:31 ID:9sq7FE0T
ID:2vj6wPBT

卑しいレスだなぁw
例のおっさん?
386人間七七四年:2009/07/22(水) 19:11:45 ID:RH/aEnSr
軍事上の要衝白石城の陥落に、伊達成実と石川昭光がからんでるから、甘粕はじめ、さぞ上杉は悔しかったことだろう。
遂に伊達から奪還することができなかった白石城。一度奪った城を、狡猾な政宗が返すわけもないしw
387人間七七四年:2009/07/22(水) 19:35:50 ID:2vj6wPBT
白石含む刈田郡なんてたかが1万6000石じゃんかw
しかも白石から兵の大半を引き抜き甘粕は白河へ出張してたし。
そんなカスな寸土ごときで自慢してるなんて伊達はセコいな。
しかし奥羽永慶や会津四家合考は単なる軍記だろ。しかも特別、成実がすごいなんて記述はまったくない。
安達郡誌は明治44年に作られた安達郡編纂の地誌だし
新編会津風土記は会津藩の地誌
相生集も二本松藩の地誌
地誌なんて城主になりゃあ名前くらいは出るわな。
新編東国記は会津陣物語の原本で軍記。
木村宇衛門は政宗が小姓に語った内容で仙台発信。
まったく成実が猛将みたいな記述は見当たらない。
他家の書状などにもまったく登場しない。
伊達家の執事だった作並清亮が大正4年に東藩史稿で
「成実人トナリ英毅大略ナリ。一時勇武無双ト号ス」と捏造を発信し始めたから明治の名将言行録に成実が収録されるはずがないわけだ。
388人間七七四年:2009/07/22(水) 19:59:20 ID:osQho4NT
>新編会津風土記は会津藩の地誌
>相生集も二本松藩の地誌
>地誌なんて城主になりゃあ名前くらいは出るわな。

成実は会津の領主になってないよ。


>安達郡誌は明治44年に作られた安達郡編纂の地誌だし

伊達家の執事だった作並清亮が大正4年に東藩史稿で
「成実人トナリ英毅大略ナリ。一時勇武無双ト号ス」と捏造を発信し初めて有名になったのなら
明治44年に作られた地誌に載る道理はないですね。
389人間七七四年:2009/07/22(水) 20:07:01 ID:2vj6wPBT
お前ほんとにバカだな。
成実は二本松を領有したり、会津黒川城留守居役になってんだから地誌を編纂したらその点に触れるくらいするだろが。
390人間七七四年:2009/07/22(水) 20:30:08 ID:9sq7FE0T
>>ID:2vj6wPBT
あんた何してんの?w


【義光】出羽最上氏総合スレッド2【山形】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234255530/377

377 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/22(水) 12:26:03 ID:2vj6wPBT
伊達成実も賤しい行為と嘲笑している。


【義光】出羽最上氏総合スレッド2【山形】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234255530/379

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/22(水) 12:53:17 ID:2vj6wPBT
成実が卑しいと嘲笑した駒姫は正室ではなく、何十人もいる側室程度だし
家親は家康の衆道で手籠めにされただろうし
義親も秀吉にコキ使われただろうね。
義康も上杉に提供しようとして拒否られたよね。
そしてこれら義光の歓心を買おうとする過度なおもねりの媚びが原因で兄弟争い最上改易へつながる失策になっちゃうわけだ。
なんせ卑しく姑息な乱臣の最上は逆に警戒され、大坂冬夏の陣では江戸留守居にさせられるほど家康に信用されていなかったほどだし。
この待遇は福島正則をも下回る扱いだよな。
流石は神君家康だ見る目がある。
391人間七七四年:2009/07/22(水) 20:31:37 ID:2vj6wPBT
だからなに?
392人間七七四年:2009/07/22(水) 20:35:09 ID:9sq7FE0T
悲惨w
393人間七七四年:2009/07/22(水) 23:53:01 ID:D+yhZqql
>>387
なんかよく分からんが他家の記録がありましたよって結論か。
394人間七七四年:2009/07/23(木) 10:14:09 ID:+2lFMcaM
他家に伊達成実の記録がないとか言っていたのから随分主張が後退したな。
395人間七七四年:2009/07/23(木) 13:45:38 ID:gF6gVacd
>>394
成実記は他家資料じゃなくて
成実本人がしゃべた話の口述記録だろ。
違うのか?
396人間七七四年:2009/07/23(木) 15:01:15 ID:g1Z8F9yc
>>395
その程度の知識しかないなら出てくんな。
397人間七七四年:2009/07/23(木) 15:16:23 ID:g1Z8F9yc
>>387
仙台藩の記述を捏造と決めてかかっているところからして、
何らかのバイアスがかかり、貶める目的で歴史を語っている事は明白だな。

別に猛将じゃなくても、有能な将である事は間違いない。
無能なら、例え血縁でも政宗がそんなに重用しないだろうよ。
朝鮮の役にも大坂の陣にも出陣しているし、
大身の成実が猛将じみた戦いをする必要もないわけだが。
398人間七七四年:2009/07/23(木) 17:02:25 ID:gF6gVacd
>>396
なんでそんなに敵対的なの?
だいたい間違ってないだろ。
>>397
でもさ大身の本多忠勝や井伊直政は諸国に名を轟かせたよな。
他にも柴田や明智や山県や立花とかさ。
伊達にもそういう功臣がいればなぁ。
399人間七七四年:2009/07/23(木) 17:37:18 ID:+2lFMcaM
誰が成実記の話をしている?
400人間七七四年:2009/07/23(木) 18:43:02 ID:g1Z8F9yc
>>398
成実記は成実が著したものであって、口述して誰かに書き取らせたものではない。
全然意味が違う。

ところで、本多忠勝や井伊直政の活躍が書いてある、他家の記録を挙げてみてくれないか?
401人間七七四年:2009/07/23(木) 18:53:07 ID:+2lFMcaM
というかそもそも、主張が後退する過程では
すでに誰も成実記のことなんか気にしちゃいない。
成実記は既に過去の話題です。
402人間七七四年:2009/07/23(木) 19:01:44 ID:uPF0vHL/
「成実記」の描写は生々しい。成実が実際に見聞した葛西大崎一揆
の際の佐沼城の鎮圧戦など、立て籠もった2千人を皆殺しにした後の
凄惨な情景が冷静に記録されている。
403人間七七四年:2009/07/23(木) 20:25:19 ID:gF6gVacd
ここの住人ってやたら攻撃的で怖い…
404人間七七四年:2009/07/23(木) 23:40:49 ID:3tsHjPwS
>>403
>ここの住人ってやたら攻撃的で怖い…


>371 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/19(日) 17:57:53 ID:bdteOQcS
>成実の実績自体が本人自らが行ったデマ捏造話ばかり。
>他家史料にはほぼ登場しない薄い存在。
>名将言行録にすら除外された蜃気楼以下の空気でレアキャラ

>383 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/22(水) 08:29:51 ID:2vj6wPBT
>だってお前、史実ではなく、そもそも軍記や故老のお茶話ネタ本じゃんかよw

405人間七七四年:2009/07/24(金) 07:06:51 ID:CsJq2+Lx
ん?成実記は晩年に失明した成実の口述を記した覚書を元に編纂したもんだろ。
編纂した人が違うのか異本が政宗記など3種類くらいあるやつ。
406人間七七四年:2009/07/26(日) 11:10:21 ID:JjUxIvuA
>>368

伊達成実なんて2流の武将がどうこうと言うより、最上改易の際の山形城受け取り役が何故上杉景勝だったのか、ということで無かったっけ?
407人間七七四年:2009/07/26(日) 11:20:52 ID:6XuuTWIn
山形城受け取りには伊達成実も行ってるよ。
408人間七七四年:2009/07/26(日) 12:16:10 ID:cviKSl9/
つまり上杉景勝は伊達の陪臣と同格扱いされていたということか。
かつて五大老の一角を担っていた上杉には辛い現実だろうな。
409人間七七四年:2009/07/26(日) 12:23:53 ID:JjUxIvuA
>>408
上杉家(景勝)が幕府から山形城受け取りを命じられた記録は上杉博物館に現存してるけど、伊達成実が幕府から直接受け取りを命じられるっておかしくないか?

単に上杉(景勝)の与力として行ったに過ぎないんじゃない?伊達成実が受け取りに行ったって記録を見たことないから何とも言えないけど。
410人間七七四年:2009/07/26(日) 12:59:13 ID:6XuuTWIn
普通に考えたら陪臣の行動は藩主の命令だろうな。
藩主は将軍家からの指示で。

成実が山形に派遣された経緯はよく分からん。
俺のは>>369のコピペなので。
411人間七七四年:2009/07/26(日) 14:54:02 ID:ETholY4Y
じゃあ伊達厨には成実が山形へ行ったと言うソースを出して貰おう。
まぁ成実記の話までデマかせ言って逃走してるから期待できないが。
412人間七七四年:2009/07/26(日) 15:21:20 ID:6XuuTWIn
ていうか、藩政期に改易になった城の接収なんていう名誉にも不名誉にもならないことを捏造して
一体誰にとって何の利益になると思うのだ?
413人間七七四年:2009/07/26(日) 15:37:15 ID:cviKSl9/
ちょっと調べてみたが、政宗から成実宛ての書簡があるな。
気になるなら伊達市教育委員会に問い合わせてみたらどうか?
ttp://shigezane.fc2web.com/majime/shokan/2336.html
414人間七七四年:2009/07/26(日) 15:40:46 ID:JKJP84xE
ID:ETholY4Yはいつもの荒し。相手にしないほうがいい
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1247488347/35
415人間七七四年:2009/07/26(日) 16:26:15 ID:Y/WsKH8Y
山形城の受け取りは、本多と永井だよ。伊達と上杉らはその他の支城の受け取りを担当したはず。
ただ上杉の担当には、因縁の城長谷堂城が入っていた。
景勝はなぜかこの時、兼続配下の与板衆中心に軍勢の派遣を命令してる。
兼続はすでに黄泉の下だったが、かつて長谷堂城を囲んだ配下のものたちは感無量だったかも。
416人間七七四年:2009/07/26(日) 16:31:08 ID:6XuuTWIn
成実は野辺沢城とか担当しているな。
417人間七七四年:2009/07/28(火) 11:11:45 ID:w/JuIX80
本多永井は上使って言っても官僚肌だし目付けや軍監だから兵は連れてないな。
実際の実務を担った上杉の指揮下の組下に入ったのだろうな成実は。
そして成実は野辺沢と言う銀山温泉の近くの寂れたどうでもいい山形から遠く離れた城へ。
ついでに最上改易も本多正更迭のネタに使うために用済み最上を切り捨てただけなんだな。
しかも福島改易に義俊を使ってるからすごい皮肉って言うか嫌みなことするよね秀忠公はさw
そういやさんざん金を使わせて借金体質になったところで伊達征伐の噂も流れてたよな秀忠公の時代に。
418人間七七四年:2009/07/28(火) 11:20:01 ID:w/JuIX80
しかもその上使の本多正純に百万石のお墨付きの件をさんざん頼み込んだ政宗も涙目www
さらに義姫からもなぜ最上を庇わなかったとキレられる。
まぁ義光時代からして万石家臣だらけで、
家臣の家格や序列の明確化すらできなかったから崩壊するのは時間の問題だったけどな。
419人間七七四年:2009/07/28(火) 11:22:23 ID:Lc6rZbpQ
ソースはどこだソースはw
ソースがまるで出せない荒らしさん乙

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/28(火) 06:54:08 ID:w/JuIX80
>>969
アンチ長尾=アンチ直江=鮭厨(アンチ最上)=偽織田厨=偽上杉厨=長尾貶しが目的だが無知なので仲間を増やそうとする工作をしているソースがまるで出せない伊達厨

主戦場
松川スレ
長谷堂スレ
手取川スレ

420人間七七四年:2009/07/28(火) 19:43:56 ID:rTWpDes1
しかし上杉は相変わらず捏造しかしませんな。
421人間七七四年:2009/07/28(火) 22:36:35 ID:ICFxRmlH
>>417>>418は上杉厨のふりして、他家を誹謗する有名な人だよ。
嵐スレで確認すればすぐわかる。

最上の城の受け取りは、上杉も伊達も支城のはずだったと思うけど。
上杉は1500強の軍勢に対して伊達は3000の軍勢を出してる。
佐竹や蒲生も支城受け取りに軍勢を出してる。
俺は一応上杉ファンだけど、上杉が山形城を受け取ったなんて聞いたことないよ。
今福さんの直江本にもはっきり支城の受け取りって書いてあった。
422人間七七四年:2009/07/29(水) 09:12:30 ID:e4vdWX22
しかし捏造はいけませんな。
上杉は捏造ばっかり。
423人間七七四年:2009/07/31(金) 22:09:01 ID:3cbgwtDy
上杉の捏造って、上杉以外の記録で、一切確認できないんだよな。

どうなってるんだ??????????

手取川→架空。前田慶次郎→将士書上の捏造が流布膨張。

直江の愛の兜、前田慶次郎の甲冑、前田慶次道中日記。ぜんぶ捏造。

謙信の2度上洛→捏造。言継卿家に記述なし。

謙信の北陸出兵→捏造。上杉景勝の北陸出兵を謙信時代の出来事にすりかえ。

最上陣での前田慶次郎の大活躍→最上記、伊達の記録になし。奥羽軍記にも当然ない。

424人間七七四年:2009/07/31(金) 22:23:55 ID:iHjp854b
?や。をバカみたいにうつから、荒らしはすぐわかる
425人間七七四年:2009/07/31(金) 22:27:35 ID:yh+Gfm2n
>>423
前田慶次まで架空とかあほすぎだろw

加賀藩の史料でも「前田慶次殿伝」「乙酉集録」「末森記」「能登志徴」など
真田家の史料の「加沢紀」
上方の連歌会の史料「源氏竟宴之記」
細川幽斎の連歌集「玄旨公御連歌」
山鹿素行の言行集「山鹿語類」
松永貞徳の連歌記録「鷹筑波」

米沢藩以外のものでも最低これだけあるのにw
426人間七七四年:2009/07/31(金) 22:43:53 ID:3cbgwtDy
加沢平次左衛門って、前田慶次の死後に生まれたんだよね。

伝聞創作ですよね??????????

玄旨公御連歌にいるのは、前田慶次良似生で、前田慶次じゃない。
諸本では、前田景次郎、あるいは、前田景三郎となってるらしい。

上杉将士書上での、里村じょうは褒美の句の署名のひっと斎という名乗りと矛盾。

玄旨法印の妙成句共は犬うつわらんべ迄知たる事なれば中中爰にしるさすこれら皆前句を云はてぬにはや付給たる句也(中略)
中にも諸人おどろくばかり早あそばされしは伏見にて前田慶次良似生と云人再々篇の比までしをくれ給て抑是は何と云べきと前句にとりあはず申されければ・・・


さて、天正10年の連句会であるが、「[句上]有」(原本の句の上に記された注のことか)として、「句上に・・・(中略)・・・似生は前田景次郎・・・」とある。(ただし、同項の「諸本」には「前田景三郎」とある。)


427人間七七四年:2009/07/31(金) 23:26:58 ID:eX5PChSr
ID:3cbgwtDy
今度はアンチ上杉のフリですか荒らしさん
428人間七七四年:2009/07/31(金) 23:30:49 ID:yh+Gfm2n
>>426はあとにひけなくなってるなw
当て字とかも別人ってw
429人間七七四年:2009/07/31(金) 23:33:58 ID:yh+Gfm2n
>>426
慌てて「鷹筑波」「前田慶次」などとぐぐったのがばればれだな。
http://shungansho.fc2web.com/meguruhito/keiji-ten10.htm
430人間七七四年:2009/08/01(土) 12:43:27 ID:0ZS6hKew
>>426
「良」は「郎」に相当。
「景次郎」は当て字。
「玄旨公御連歌」では「前田慶次が誠心院で連歌会を興行した」
とあり幽斎も出席。連歌を通じた交流がうかがえるので、「鷹筑
波」の逸話に出てくる似生は慶次とみるのが妥当。
似生は里村と連歌会で同席することが多く、似生が出席した「源
氏〜」は松永貞徳が九条たねみちから源氏物語の講釈を受け、修
了した打ち上げの歌会。源氏物語の奥義を伝授された幽斎も参加
しており、よく馬鹿にされる軍記物「東国太平記」における「前
田慶次は詩歌に巧みで、里村紹巴に師事して連歌も得意。上杉家
では『源氏物語』の講釈をしてなかなか評判だった」という記述
はそれなりに信ぴょう性があると思われる。
431人間七七四年:2009/08/01(土) 12:51:44 ID:3AXfC2mg
上杉将士書上の前田慶次郎の人物像を膨らませただけで、

他に何やったのか具体的な新事実が何ひとつ出てこない。

出てくるわけないわな。捏造してあまり活躍させると、1次史料と矛盾する。

よって、軍記や家譜や伝説みたいなもんしかない。

道中日記なんか一発で偽書ってわかるのに、アレを本物と宣伝している
米沢市役所はキチガイ。

出羽米沢を、奥州米沢って、書いている時点で偽書確定。
432人間七七四年:2009/08/01(土) 13:22:50 ID:0ZS6hKew
>>431
実在したことはついに認めたんだな。

偽書確定とする根拠が笑えるんだが。
そんなこと言ったら書き間違い、記憶違いのものは
全部偽書になるぞ。
433人間七七四年:2009/08/01(土) 20:35:38 ID:Du4HDWa0
ID:3AXfC2mg

偽書の根拠が薄すぎですよ荒らしさんw
434人間七七四年:2009/08/08(土) 12:24:42 ID:S64ivuT4
のちに加賀藩へ行く本多正信からもらった兼続の養子と前田刑事は接点があったのかな?
435人間七七四年:2009/08/08(土) 22:16:46 ID:xT2qJEc2
慶次とは米沢であったかもしれないが、加賀では一緒になってないはず。
むしろ、漫画では美形武将(肖像画では豆)の奥村助右衛門のほうが政重
と接点がある。
前田家での派閥が一緒で、奥村の三男が政争に敗れて出奔する際に、「大
の知音」だった政重ら多くの同志も一緒に出奔しようとする。それを助右
衛門が説得し、三男だけが出奔することで収まった。
436人間七七四年:2009/08/09(日) 11:32:56 ID:+4Ib08JZ
>>431

1602年の亀岡文殊堂に奉納されている、直江と慶次、その他諸将(岩井、宇津江、安田等)やの詩歌についてはどう説明されるのかな?

まさか偽物とでも。
437人間七七四年:2009/08/09(日) 18:49:06 ID:35Zqy0AH
>>436
その人論破されたから今度は違うスレに「上杉将士書上の創作した人物」
と書いてるよ。真面目に相手してはいけない人のようだ
438人間七七四年:2009/08/09(日) 21:40:22 ID:32OKdisq
1602年の亀岡文殊堂に奉納されている、直江と慶次
>>>>>>>>>
明らかな偽書。

http://shungansho.fc2web.com/bunjin-kanetugu/monju100shu-jo.htm

今茲=今年の意味だが。

「―東巡の際路其墓下に出ずるを以て」〈金井之恭・東巡録〉

東巡録は、明治8年の本。

それと同じ言葉使いが登場している。

当時の史料に、今茲という言い方はない。

439人間七七四年:2009/08/09(日) 22:19:20 ID:32OKdisq
亀岡文殊堂(大聖寺)なぜ、加賀大聖寺と同じ名前なのか?
>>>>>>>>
和漢三才図会 巻第65 奥州,出羽 当国神社仏閣名所 記載なし。

奥の西、羽の南、山有り、名に曰く亀岡と>>これも記載なし。

440人間七七四年:2009/08/09(日) 23:22:57 ID:6EGzQ2/I
>>436
そのまさかでしたw
441人間七七四年:2009/08/09(日) 23:36:18 ID:32OKdisq
於本朝安文殊室利像者五所
>>>>>>>>
唐太宗言,“五台山者,文殊閟室,萬聖幽棲,境系太原,實我祖宗植コ之所,切宜祗畏。”(《山西通志

そっくりの文章。文殊室という言い方は、まったく同じ。

山西通志, 184巻 (存5巻) /
(清)曾國荃 [ほか] 修 ; (清)王軒 [ほか] 纂
著者等: 曾, 國荃 | 王, 軒(清)
言語: Chinese
出版事項: [出版地不明] : [出版者不明], 光緒18 [1892]

1892年以降に偽作されたのが、亀岡文殊堂奉納詩歌です。

442人間七七四年:2009/08/10(月) 00:02:47 ID:CMxMtN1b
>>438
よく調べろ。
今茲は江戸時代の漢文日記によく使われてる。
Yahooの辞書の例文は最古の使用例じゃない。
443人間七七四年:2009/08/10(月) 00:26:40 ID:eKYTtJD0
よりにもよってYahoo辞書かよ
焦ってgoogle検索したのがバレバレだな
444人間七七四年:2009/08/10(月) 02:42:56 ID:C2Z4byz6
444get!
445人間七七四年:2009/08/10(月) 14:38:45 ID:AtgKBuN6
同時代の一次資料より、幕末に館林藩の儒者が纏めた本の方が信用できるって、どんなゆとり脳だよw
「伊達発の資料は全て捏造」と頭から信じ込んでるからそういう寝言が出てくるのか?
446人間七七四年:2009/08/10(月) 18:53:34 ID:QR4zS8L0
それでいて信長公記には絶対の信頼を寄せる
447人間七七四年:2009/08/11(火) 15:33:36 ID:ipNs931n
>>446
幕末にできた名将言行録よりは信頼できるだろ。一応太田牛一は同時代人だから生信長や生秀吉と会ったことがある。。
448人間七七四年:2009/08/13(木) 09:20:27 ID:iAJidph5
信長公記に名前がない人物は架空とかもうどうしようもないな
449人間七七四年:2009/08/13(木) 18:23:40 ID:lzV496GS
つうか信長公記を盲信する織田厨に対する強烈な嫌みを言って嘲笑ってるんだろ。
少しは日本語の勉強しろよ。
450人間七七四年:2009/08/13(木) 18:58:59 ID:mYIbrWbA
出羽の石高の件で完璧にやられた人間が言うのでなければ
その台詞は説得力あるかもね。
451人間七七四年:2009/08/13(木) 19:53:23 ID:lzV496GS
ネットにおいては
負けた側が
頻繁に
勝利宣言を繰り返すよなw
厨房は実にわかりやすい。
452人間七七四年:2009/08/13(木) 20:30:46 ID:frpEhtqY
自己紹介乙
453人間七七四年:2009/08/13(木) 22:17:46 ID:mYIbrWbA
そういや例の石高の件では頻繁に勝利宣言を繰り返していた奴がいたな。
454人間七七四年:2009/08/13(木) 23:58:01 ID:UlvCqs1e
信長公記に出ない前田慶次は架空とか言ってるやつよりはいいんじゃね
455人間七七四年:2009/08/14(金) 01:19:47 ID:Z+o3ST9h
>>453>>454
それ同じ奴だし。
456人間七七四年:2009/08/16(日) 17:37:00 ID:rD59aDyD
>>438
>>439亀岡文殊堂大聖寺は文殊堂としては山形県、いや東北でも随一。大宰府天満宮に並ぶとまでは言わないが、東北では超有名なお寺。当然、伊達家統治時点からあった名刹。

この直江騒ぎ前から、皆がそこに奉納されているって知ってた詩歌を偽物だなんて言うと亀岡文殊堂のバチがあたるかもよ。

大聖寺で短冊紙の現物写真を見てきたけど、直江の筆跡に間違いは無い。慶次の筆跡はよく知らないけど奉納されてたのはたしか5首あったと思う。又、見るところ兼続のほかの手紙など同時代の紙であることもまず間違いは無い(味噌紙)。

亀岡文殊堂への奉納百首まで有ること無いこと自分なりに創作し、ケチを付け偽物とする直江・慶次アンチの貶め振りは、形振り構わずって感じで凄いね。
457人間七七四年:2009/08/16(日) 17:42:47 ID:rD59aDyD
>>441
誰がどういう目的で百選を偽作したのか言ってみろよ。

答えられなければ、君は亀岡文殊堂大聖寺から名誉棄損で訴えられてもおかしくないぞ。
458人間七七四年:2009/08/23(日) 19:20:05 ID:BdGnBagJ
片倉ほか有力武将を全て投入し二万とも言われる軍勢たけど伊達政宗本隊って結構弱いよね。

須田長義隊から国見山の本陣を奪われて、福島城眼前の信夫山に取り残された所を福島城から出撃した本庄隊に衝かれて本陣総崩れで大敗走。

白石城へ一旦戻るぐらいでは本庄・須田軍の追撃が恐くてヤバいと思ったんだろう。名取の北目城まで約一日で逃げ帰ってる。

信夫山で伊達本軍が如何にコテンパンに本庄・須田隊にやられたかが解る。
459人間七七四年:2009/08/23(日) 20:40:05 ID:dFRy5SAl
おいサブ、下らない妄言書いてないで↓答えろよ
>誰がどういう目的で百選を偽作したのか

てめーの発言に責任もてないなら何を言おうが糞に集る蠅程の価値も無いぞ

460人間七七四年:2009/09/11(金) 11:20:48 ID:BYG0sKs3
>>458
で、松川の戦いで大敗北したはずの伊達軍の、名のある将がまったく討ち死にしていないのは何故?ww
人取橋とかだと鬼庭クラスが討ち死にしているのに、記録されているのは福島城攻城戦の時の討ち死にぐらいだからなあ。

手取川もほとんど捏造だし、どうしようもないなwww
461人間七七四年:2009/10/08(木) 20:18:32 ID:5bZ6k2NV
手取川もほとんど捏造だし、どうしようもないなwww
>>>>>>>>>
謙信書状を、上杉景勝自身が偽作しているのが、筆跡鑑定でばれているから。

花押とか、文章とか、偽作は容易。

しかも、原本不明だから、ばれない。写し、しかないから。
462人間七七四年:2009/10/09(金) 09:56:03 ID:hL5bMa0H
>>461
ソースは?写ししかないのはみんな偽文書なのか。
463人間七七四年:2009/10/10(土) 09:29:52 ID:UmJzAv4Y
上杉文書は国宝だろが。
464人間七七四年:2009/10/12(月) 10:09:18 ID:ECvDxllN
なんか勘違いしてると思われ。
謙信の書状が景勝の偽造という話は
謙信が景勝に「弾正少弼を譲ります。それと景勝と名乗りなさい」という
書状が後年の景勝書状と筆跡が同じという話だが。

実際上杉家で謙信生前から景勝が弾正少弼であったことは
この書状以外にも複数の史料にある話なんで
「偽造」ではなくなんらかの理由で写しを作っただけだと思われる。
大体景虎が葦名に出した書状ですら景勝を「少弼」と呼んでるし。
465人間七七四年:2009/10/15(木) 21:24:25 ID:XzchNwj3
上越市公文書館の福原氏が最近書いたのを見ても、
弾正少弼を譲られたのは間違いないみたいな感じだよねぇ。
確かあれ、景勝晩年の筆跡と同じとされてたよね。
俺の想像だけど、嫡男定勝の元服を控えた頃だから、
「弾正少弼」は謙信から譲られた由緒あるものであり、
代々の上杉当主はこれを引き継ぐよう、願いを込めて書かれたものなんじゃないの?
466人間七七四年:2009/10/27(火) 01:49:37 ID:zLLrud4W
伊達政宗は、関ヶ原の折、福島の合戦で、岡佐内と戦って軽い怪我をした。

戦後間もない頃、政宗が馬に乗って移動していると、結城秀康にばったりと出合った。
すると政宗、馬に乗ったまま秀康に

「ほら、見て見て!こないだの戦でこんな怪我しちゃってさ!
いや〜、おかげで下馬するのも難しいの。なので馬の上から無礼してごめんね!
じゃ!」

と言って、下馬して挨拶せずすれ違って行った。

秀康、笑いながら
「あいつ、なんでもない怪我を、さも大怪我のように言って、俺の前で下馬しないで済ませやがった。
今にはじまったことじゃ無いけど、ホントに根性曲がってるなあ。」
>出典「徳川諸家系譜」に収録されている、「浄光公(秀康)年譜」
467人間七七四年:2009/10/27(火) 08:19:40 ID:4ILml1Qp
やはり政宗は岡左内の攻撃を受けて敗走してんじゃんワロタw
468人間七七四年:2009/10/28(水) 13:29:48 ID:+1//xfbw
仙台の必死な隠蔽工作は常に全力。
469人間七七四年:2009/10/29(木) 18:53:42 ID:0BuT0Cia
>>466の反論マダー!
470人間七七四年:2009/10/29(木) 20:50:33 ID:CZzPzmes
>>466
どうせなら豊臣家の馬丁の時みたいに「無礼者!」って首をはねてくれればよかったのに>秀康
471人間七七四年:2009/10/30(金) 01:02:14 ID:C8YEWrL1
反論?
岡左内との戦いで怪我したって、本当に書いてあるのか?
この前の戦いで怪我した=岡にやられた、という図式がおかしい。
そして、その記述は政宗がいつ秀康に会った時のエピソード?
原文もどこかのサイトで参照できるなら見てみたい。
人によって解釈のしかたも違うから。
472人間七七四年:2009/11/01(日) 02:05:28 ID:RmsgJdA0
>>471
ちょっとネットで調べただけだが、
検索で「元くらのすけ屋敷敷地」のサイトを見つけて
越前家二代御記録→逸話集→秀康→関ヶ原後の秀康「秀康年譜」その二に原文ではないが、かなり詳しく書かれてるぜ。
473人間七七四年:2009/11/02(月) 09:20:27 ID:zXqtRJPC
岡左内との戦いで怪我をしたというのは、政宗自身が言った事なのか、
『浄光公年譜』の推測なのかがよく分からないな。
あるいは、その推測の底本が上杉の史料である可能性もある。

まあそもそもが、松川の戦いで上杉が史料だとしている『東国太平記』は後世、
上杉の縁者とされる杉原親清と国枝清軒がまとめた上杉マンセー本で、
『会津陣物語』も二人がまとめており、信用のおける史料とは言い難い。
そして、1680年成立の『東国太平記』のさらに後になってまとめられた、
湯浅常山の『常山紀談』は1739年成立で、恐らくは上杉の史料が底本だろう。
最後に『改正三河後風土記』だけど、この史料の前身は著者不明で偽書として名高い『三河後風土記』であり、
これを手直ししてできたのが、1837年成立の先述した『改正三河後風土記』。

こうして時系列で見ると、結局は上杉の軍記物が底本になっており、
この史料にもあの史料にも載っているから、松川の戦いは真実だ、というのは適切ではないな。
手取川もろくに史料も無いのに、後世軍記物で脚色されたからね。
474人間七七四年:2009/11/02(月) 09:31:43 ID:wuGakYOJ
これで政宗が岡風情にやられて敗走確定w
後日、政宗が岡にこの時の岡を激賞してる逸話もあるくらいだしな。
後世に伊達家治記録でわざわざ、それはないと言及して必死に捏造否定してるのが笑えるw
結城秀康に記されてるとは露知らずにバカ丸出し乙www
475人間七七四年:2009/11/02(月) 09:45:42 ID:zXqtRJPC
>>474
それは初耳だな、何の史料に政宗が岡を激賞した逸話がのっているんだい?
476人間七七四年:2009/11/02(月) 12:07:45 ID:wuGakYOJ
>>473>>475
論破されると毎回、東国太平記を壊れたカセットテープのように持ち出してた三戦板の松川スレの基地害さんまだいたんだワロタw
477人間七七四年:2009/11/02(月) 12:53:34 ID:ICZ6P7jv
論破されているのは毎度妄想を垂れ流している↑な罠
478人間七七四年:2009/11/02(月) 13:39:30 ID:wuGakYOJ
>>477
得意の自演乙
479人間七七四年:2009/11/05(木) 11:12:55 ID:pQHqt1+3
ぼくのまさむねがまけるわけないよ!
えちぜんゆうきひでやすはしんようできないうそつきだよ。
480人間七七四年:2009/11/19(木) 14:15:34 ID:nlkeNbzi
481人間七七四年:2009/11/22(日) 18:34:13 ID:tN9iWa1z
上杉討伐の折、北目から甘糟留守の間全軍で白石を襲って陥落させた政宗が、関ヶ原で東軍大勝の報告後も、先祖伝来の地伊達.信夫郡の梁川城や福島城を陥せなかったのは事実。

まさか家康の「百万石のお墨付き」とやらを真に受ける政宗でもなかろうに。


勇将「銭侍」岡左内も蒲生秀行の家臣(猪苗代1万石)になった後に政宗と会った時、脛を切り付けたことを会話したって記録があるぐらいだし。

政宗自身かなり危機的状況になったんだろうね。
482人間七七四年:2009/11/24(火) 19:38:11 ID:/9LWKb4/
>>481
>岡左内も蒲生秀行の家臣(猪苗代1万石)になった後に政宗と会った時、脛を切り付けたことを
 会話したって記録があるぐらいだし。

その記録って「東国太平記」じゃねえかw
大体岡佐内って、政宗の正面に突入する以前に、屋代景頼の部隊に散々蹴散らされて
旗や槍を投げ捨てて福島城へ遁走しただけだしw
483人間七七四年:2009/11/24(火) 19:47:10 ID:fA27CWJe
サブおっさんのひとり劇場
484人間七七四年:2009/11/24(火) 20:38:51 ID:noLGiUYX
485人間七七四年:2009/11/25(水) 06:29:00 ID:TWtTmkFq
岡佐内が戦っていたのは屋代の足軽か雑兵だろな。客観的にみて。
実際「太刀打ち」の与太話は岡本人の自己申告(笑)だし。

特に『常山奇談』での岡の逸話は爆笑ものだ。
486人間七七四年:2009/11/25(水) 06:36:56 ID:TWtTmkFq
『常山紀談』(巻之16:伊達上杉陸奥国松川合戦の事 附永井善左衛門

     岡左内が事)

これが幕末まで流用されているトンデモ説としてあまりにも有名だ。
487人間七七四年:2009/11/25(水) 06:56:33 ID:hvjn8d5T
結城はデタラメを書いてる
島津はデタラメを書いてる
最上はデタラメを書いてる
上杉はデタラメを書いてる
佐竹はデタラメを書いてる
相馬はデタラメを書いてる
南部はデタラメを書いてる


他家の史料と真っ向から正反対の記述を連発して書いている伊達史料だけが正しい事を記述している

もう基地外すぎてワロタwww
伊達史料ほど怪しいものはねぇよ。
488人間七七四年:2009/11/25(水) 09:31:27 ID:hvjn8d5T
鮭厨の場合

南部はデタラメを書いてる
安東はデタラメを書いてる
小野寺はデタラメを書いてる
上杉はデタラメを書いてる
戸沢はデタラメを書いてる
伊達はデタラメを書いてる
成実はデタラメを書いてる


同じチョン思考だから鮭厨=伊達厨なのは間違いないなw
489人間七七四年:2009/11/26(木) 07:04:46 ID:+LQDVrVp
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/honjo_k.html

>この報に勢いをえた福島勢は、一層、奮い立って伊達勢を突きまくった。
一方、すでに浮き足立っていた伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱
に陥った。これをみてとった繁長が中央本陣に向かって集中攻撃をかけ
たことで、ついに伊達軍は総崩れとなり、無数の屍体を遺して退去した。
一方、福島勢は追い討ちをかけ、齋道二は政宗の本陣深く斬り込み、
政宗に二太刀まで斬り付けたが、馬上の政宗は辛うじて難を逃れたとい
われる。


軍記作者国枝清軒さんの誇大幻想の一例。
笑いどころはなんといっても「政宗に二太刀まで斬り付けた」のセンテンス。
490人間七七四年:2009/11/26(木) 07:19:39 ID:VADC/ecJ
伊達側以外の全ての史料は捏造史料です
491第三者:2009/11/26(木) 08:27:05 ID:yeqxAQys
いろんな主張や煽りの応酬があるけれど、応酬の外に身を置いて
ROMに徹するなど冷静にスレの流れを眺める人にはだいたいの真実が見えてくるな

史料の使い方の勉強になる、見方によってはとても有益なスレだな。
492人間七七四年:2009/11/26(木) 10:24:08 ID:6xDQyVQp
>>489
論破されて何も書けなくなると壊れたカセットテープのように必ず東国太平記のコピペを毎回書き込む池沼伊達厨www
そもそも上杉氏が正式に記述した公式のものですらないから誰1人として東国太平記が正しい記述をしているなんて、
過去に一度たりとも主張していないにも関わらず、懲りずに超絶的外れな書き込み乙www
東国太平記のコピペを泣きながら繰り返してる時点で敗北宣言も同じなわけだが(笑)
493人間七七四年:2009/11/26(木) 15:00:00 ID:eBs891n9
>>351
この辺りも伊達史料は180度反対の記述だしね。
494人間七七四年:2009/11/27(金) 04:35:30 ID:sgChKvJi
http://1st.geocities.jp/tsubakihyougo/set029/sekigahara/zenkoku/matukawa.htm

>政宗の大軍が福島に侵攻すると知った梁川城代須田長義は、
全軍をもって政宗の背後を急襲。伊達軍は大混乱し、須田は
殿軍をことごとく切り崩し、政宗の本陣深く斬り込み、
政宗の本陣深く斬り込み伊達家の定紋のある帷幕を奪い
取ったという。浮き足立った伊達軍は、総崩れとなり小
荷駄、雑具にいたるまで打ち捨てたという


爆笑。
山形県人の間では、2009年時点でも『東国太平記』が「史実」として
語られ、信じられているらしい。
495人間七七四年:2009/11/27(金) 07:30:37 ID:ibW94hu0
すなわち伊達側史料こそ真実の歴史です
496人間七七四年:2009/11/27(金) 08:10:31 ID:l6BYmls+
subはたしかにあほだけど、ここのスレではどこから捏造という話をしてるの?
伊達が本庄を打ち破るまでは実際にあって、逆襲されるところはうそだということなのかな。
それとも、そもそも侵攻がなかったとか?
497人間七七四年:2009/11/27(金) 12:02:15 ID:w+fxNl+a
会津陣物語の全てが作り話とは考えられないと言われている。
数度に渡る国境紛争や局地戦を無理やり一つにまとめてしまったのはほぼ間違いない。
さらに神君家康に逆らった直江を三成とともに悪人として描く脚色をして景勝を庇っている。
498人間七七四年:2009/11/28(土) 01:04:12 ID:YHS7Z5ss
499人間七七四年:2009/11/28(土) 01:21:27 ID:TP0QZeQ9
114 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/11/27(金) 18:52:39
☆慶長3年、国替責任者直江・石田に続き景勝は3/3に秀吉から暇を賜り6日に伏見を立ち
3/19に会津に入り3/29に直江を介して国替え作業中に会津に侵入した伊達軍を撃退した軍功に対して感状を与える(上杉氏年譜3-150〜152)
☆7月に小手村内大館古城で上泉主水に大敗(覚上公御書集・大河原文書・鶴岡1)
上杉120万石のうち2万石(実高1万6000石)の刈田郡譲渡約束で西軍に内通した政宗
(家康の上杉征伐中止の手紙を聞いて上杉にバレないうちに急いで接収に向かう)
白石城代の甘粕は白石城兵を引き抜いて宇都宮へ着いた秀忠を迎撃する為に白河城へ
白石城はロクに抵抗せずに翌日早朝に明け渡し。
政宗は刈田郡西部の空き家の湯原城を接取する約束を反故にして
突如、福島表の小手村内大館古城に侵攻するも大破され伊達軍106が犠牲に。
また伊達郡の川俣城攻防でも伊達は大敗敗走し刈田郡へ逃走。
結果、湯原城を諦め白石城返還和睦交渉を申し出る。
ついでに最上を中傷&南部領を狙い反乱を起こさせ、家康の撤退を安東や戸沢らにチクり
上杉征伐の米沢口軍を瓦解させ最上を丸裸にして西軍ですよと上杉の忠犬アピール。
その一方で早くも西へ向かい出した東軍に「三成なんてどうでもいいから上杉討伐を先にやってくれと哀願」
この後の政宗は直江の出陣するぞwするぞw詐欺の恫喝に怯え
福島へ一切侵攻せず(8月には政宗は和議を直江に頼む)ひたすら結城に上杉攻めてくれと懇願しつつ
上杉とは戦わずに最上の援助もせず傍観し西軍内通の褒美に空城の湯原城を9/25に譲り受けつつ山形城を奪う悪巧みをする。
☆9月花巻城攻防戦で南部軍の援軍に21日に伊達和賀連合軍が大敗
☆10月に福島城で大敗
関が原西軍は敗報を聞きチャンスとばかり攻める伊達軍。今までロクに東軍に貢献をせずに突如として東軍顔をする狼。
しかし寡兵の本庄軍は国境で薄い防御線を張りつつ偽り敗れて福島城下へ誘引する策を実行。
調子になって背後を扼する梁川城を放置して進軍した政宗は陪臣2人を討ち取られ背後を襲われ
この間わずか2日のうちに敗れ去り伊達の聖地を焼き払われ北目城へ高速の速さで敗走。
☆11月ついに直江が二本松城へ出陣
政宗は怯えて引き篭もってしまったので、本庄が福島の守備を留守にしても大丈夫になる。
500人間七七四年:2009/11/28(土) 01:22:59 ID:TP0QZeQ9
115 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/11/27(金) 18:59:04
伊達の主張では12月に家康が政宗に和睦するから戦闘するなと命じたのでこれ守り、この月を境に仙台築城準備に忙しく戦ってないと主張w

本庄が徳川首脳と会談。福島表で武勲をあげた本庄を家康の元に派遣し上杉の立場と福島での上杉の圧勝を伝えた。
これで正確な情報を知った家康は来春に上杉征伐をするのを再考し始めた。
☆1月に月夜畑で大敗(奥相茶話記・相馬が西軍として改易になるところを救った証明になった戦い)
福島表で敵わぬと悟った為、相馬と一緒に厳寒期に夜間に迂回奇襲しようと謀るもド田舎の山中で補足され伊達250相馬150の犠牲者を出す大敗。
☆3月に福島表で瞬殺大敗(覚上公御書集)
家康に東軍である南部での謀反の首謀者の和賀忠親を引き渡せと恫喝された政宗は
軍功をあげて、なんとか家康の心証をよくしようと焦り大敗。
☆4月 反撃した南部側の北信愛に花巻城で大敗した伊達和賀連合軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに伊達の増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
積雪のため停止していた東軍南部軍は岩崎城奪回のため3月下旬に攻撃開始。
4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破敗走させ26日には孤立無援の岩崎城を陥落させ、
岩崎が火の海になる中を伊達軍は逃げ惑い伊達領へ壊走した。
☆5月 上杉領長井荘で火をかけるのがやっとw(石川義宗→家康への手紙)
心証が悪化の一途を辿る家康の機嫌をよくするべく必死に戦功を欲する政宗は必死に軍事行動を起こすが
失敗の連続で国境紛争レベルにしか見えず。連敗で戦力ズタボロの政宗が書状で置賜郡長井荘でなんとか放火程度はできましたと
必死に報告したが「早く和賀を上洛さ・せ・ろ!と言われ和賀を切腹させて証拠隠滅を図り南部信直に「水に流してくれ」と哀願。
☆ 7月に徳川・上杉和睦。
上杉が伊達に対して奮闘し撃破したので伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も
自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵。
会談で家康も兼続の武功をすばらしいと褒め称える&最上義光も兼続を褒め称える。
最上13万石→57万石・蒲生秀行宇都宮12万石→会津帰還して60万石・下総結城家の関ヶ原は何もやってないのに10万石→75万石
政宗は武功ゼロ&オマエ本当は西軍だろ!100万石はなし白石(1万6000石)しかやらん・・・政宗ショック涙目w
501人間七七四年:2009/11/28(土) 02:51:57 ID:KJ1/kPn/
>>496
このスレで結論が出ていることは、

(1)上杉の主張する慶長6年4月26日の戦いは「なかった」こと。
(2)伊達家文書と伊達知家記録が記す慶長5年10月6日の戦いは実在し、
上杉が惨敗し、福島城の「虎口」まで押し込まれて手も足もでなかった
こと。
(3)この戦いの結果(上杉軍敗北)、伊達と徳川が上杉征伐の動きを見せた
ため、上杉が講和を余儀なくされたこと。

の3点にまとめることができる。無論所謂「松川合戦」は軍記。作者は国枝清軒。

すべては伊達家文書と徳川家文書の書状が、この戦いの流れ(上杉勢が伊達軍
に敗退し、信夫山と宮代で大量の死傷者を出したこと)を示唆している。

伊達が主張する「慶長5年10月6日」の戦闘を上杉が否定できないのは、れっき
とした1次資料が伊達側に「徳川家康の返書」として存在しているため。

慶長6年4月26日の戦いが、今では上杉側でも「なかった」ことにされているのが
笑えるところだ。
502人間七七四年:2009/11/28(土) 05:53:16 ID:4J0xbV0p
>>501
また東国太平記を持ち出してやんのwww
論破されて困ると必ず壊れたカセットテープのように繰り返すバカぶりを何回繰り返すの?
だいたいそのレス内容は何度も見たことあるから、過去にたびたび登場しては論破されたコピペかなんかだろ過去レス読めよw
503人間七七四年:2009/11/28(土) 06:07:22 ID:Y89ZUxob
どう見ても論破されて逃げてるのはsubだな
日付またいで自演で食い下がるのも含めてテンプレになってる罠
504人間七七四年:2009/11/28(土) 09:37:18 ID:Rtp43bkp
>>501
それは偏りすぎな気がするけどね。

1のいわゆる松川の戦いが慶長六年四月ではなかっただろうというのは
同意だけど、戦自体がなかったとする根拠はない。
時期を後ろにもっていくことで物語の山場を後ろに作り、「上杉はこんな
時期まで粘っていた」ということも表現できる。

2の野戦で上杉を打ち破った都合のいいところで終わったなら、攻めて
来た伊達側が一日で引き上げる理由がわからない。規模はともかく軍記物
のような上杉方の反撃か、最上表から帰陣した直江を警戒してかがなければ
引き上げは不自然。

3は上杉が伊達方面へ攻め込む考えはこの時期はないのだから、伊達に
敗れたにしてもそれが徳川との和議の直接的な原因にはなり得ないと思う。
505人間七七四年:2009/11/28(土) 12:14:11 ID:4J0xbV0p
さんざん指摘を受けながら「東国太平記」を「松川合戦」と卑屈にも言い換えて、執拗に持ち出してるのが負け犬な証拠w
必敗最弱大名政宗くん擁護は大変だね!
506人間七七四年:2009/11/28(土) 13:25:40 ID:Rtp43bkp
subももっと論理的になろうよ
507人間七七四年:2009/11/29(日) 10:54:32 ID:pAAMc2DQ
 政宗の伊達郡への侵攻は関ヶ原後も続き、
十月六日に福島市信夫山の黒沼神社中腹に陣取った政宗は、上杉家臣の横田旨俊と大崎義隆を内応させ、本庄繁長の守る福島城を攻めたが、
梁川城の須田長義家臣岡野左内に攻められ、政宗は信夫山の修験慶印に守られて、わずかな兵で戻った『松川合戦』もあった(「伊達治家記録」より)。
508人間七七四年:2009/11/29(日) 11:39:38 ID:I0iZF+dC
で、不透明な戦況はどうでもよいが
>>499>>500
をみる限り、政宗は全戦域で大敗しまくり負け犬だったのは理解できる。
大きな視点で見ちゃうと伊達超絶ブザマなので
絶対にその視点で語らないアホ伊達厨w
政宗は秀吉相手に「伊達、信夫だけはどうしても残して欲しい」とやたら執着しまくり哀願してたくらいに喉から手が欲しかった地域。
しかし上杉に大敗して、北目から往復わずか2日と言う見事な計画により瞬殺される破られ方で、
その伊達信夫の伊達の聖地を炎上させられる中を、悔し涙に濡れながら逃走した。
509人間七七四年:2009/11/29(日) 13:00:28 ID:QRtOXTGb
秀吉の中国大返しより早いな
510人間七七四年:2009/11/29(日) 13:41:04 ID:klOZH3fM
>>508
舌の根が乾かない内に早速自演とか流石すぎる
511人間七七四年:2009/11/29(日) 14:43:03 ID:jz9a4wCo
>>508
>政宗は信夫山の修験慶印に守られて、わずかな兵で戻った

 ここまでくると、もはや「福島の民話」の話だなw。
 「伊達治家記録」を見る限り、宮代表で粉砕された上杉軍は福島城と信夫山
 へ逃げ込んだが、信夫山では伊達軍によって葉武者にいたるまで皆殺しにされたらしい。
 政宗らは黒沼神社で、上杉の主だった武者の100余にのぼる首級事件を行っている。
 ちなみに、信夫山は上杉兵の慟哭に充ち、現在でもオカルト話が残っているらしい。
 上杉の怨念といってもよい。

 ただし、慶長5年10月6日の伊達の大勝はあくまでも伊達側の記録であり、
 伊達との戦闘を記録した上杉の文書では、慶長5年10月22日のことなって
 いる(上杉家御年譜)ので調べてみるといい。

 このとき故地の奪還を狙って攻め込んできた伊達軍を撃退した車丹波等は、伊達の小荷駄隊を襲って、
 伊達軍の陣幕を奪うという、どこかで聞いたような、ささやかな「戦果」をあげたという。

 国枝清軒が、伊達に逆襲し、岡左内や斉道二が「政宗に太刀を浴びせた」と話を膨らませて後年捏造した
 くなったのも、ある意味無理もない。
512人間七七四年:2009/11/29(日) 16:56:06 ID:2qvth/5q
福島の博物館の特別展では伊達と上杉の翌年にまで及ぶ戦いのいくつかが
複合されているのではないかと指摘していたな。
subの自演はひどいが、subへの反発で全くの捏造だという流れになる
のもどうかと思うな。
513人間七七四年:2009/11/29(日) 19:16:53 ID:+KGEJWRt
subもsubだけど、伊達厨にもsubみたいなのがいるんだな。
というか、そいつもsubなのか。すべてが自演なのか
514人間七七四年:2009/11/29(日) 20:19:40 ID:gYK4gq5r
>511
>507をよく見るように。
その伊達家の資料に書いてある。
515人間七七四年:2009/11/29(日) 20:46:52 ID:jz9a4wCo
>>514
>その伊達家の資料に書いてある。

 では「その伊達家の資料」のどこに記載されているか、教えてほしい。大変興味がある。
 その部分を数行でもよいから抜書きしてご覧。無理だと思うが。
 ちなみに『貞山公治知家記録』には

 >梁川城の須田長義家臣岡野左内に攻められ、政宗は信夫山の修験慶印に守られて、
  わずかな兵で戻った『松川合戦』もあった

などとは1行も書いてないし、後世の上杉の軍記本でいう『松川合戦』の呼称もない。
よって、その「伊達家の資料」は、治家記録以外のものということになるが、ID:pAAMc2DQの
場合、大方ネットで誤ってら拾った、何かの記事を早合点して誤読してしまったのだろう。
516人間七七四年:2009/11/29(日) 20:52:52 ID:ifrCe+4t
サブまだ一人劇場やってんだw
517人間七七四年:2009/11/30(月) 09:59:35 ID:aASfe2Ef
>>487>>488>>493>>499>>500
伊達厨は政宗陪臣が2人も撃たれて、片倉や石川が戦況について、むちゃくちゃ否定的意見を政宗に言って高速の早さで逃げ帰ったのにアホだねぇ。
陪臣レベルが討たれたと言うことは、その取り巻きから兵まで大量の血が流れて大敗し陣を維持することが不可能になり、
さらに敵地奥深く釣りこまれ背後の城は落ちないと言う、上杉の大包囲下に陥る心理的圧力に恐怖して逃走したヘタレ
政宗が秀吉に対して伊達信夫への未練をかなり哀願して顕していたように、是が非でも略取するつもりで侵攻しながら
伊達家累代の宝とともに伊達家ゆかりの寺社群まで炎上する中を逃走。
さらにこの関ヶ原伊達キャンペーンでは各地で大敗を繰り返すも伊達資料では大規模隠蔽工作が行われているのであった。
518人間七七四年:2009/11/30(月) 17:48:07 ID:CR5L21IU
>>517
片倉景綱の陪臣が福島城攻めで討ち死にした事はあったけど、
何都合よく解釈しているんだい?w
519人間七七四年:2009/11/30(月) 19:25:14 ID:5SPew7Jn
>>517
>政宗陪臣が2人も撃たれて、

 そもそも、この記載は「伊達治家記録」と「伊達家文書」の記載。捏造だの何だの
 いいながら、その伊達の記録を引用するとは片腹痛い。無知とは怖いものだ。
 ちなみにこの記載の後には(知らないだろうから書いておく)、この2名の他に
 主だった「死者は見当たらず」と続く。このことから、伊達家の損害は後から
 駆けつけた片倉の家臣が2名死んだだけ+小荷駄隊が襲われただけということになる。
 一方上杉は、宮代と松川で一方的に300余名が殲滅され、福島城へ押し込まれた挙句、
 黒沼神社で首級実検の屈辱まで受けて、戦いが終了しているわけだ。

で、>>514は遁走したかw
520人間七七四年:2009/11/30(月) 20:28:42 ID:1bL8Q9aH
「小荷駄隊が襲われただけ」という表現はどうなのかね?
ゲームじゃないんだから、敵をいっぱい討てば勝ちという話じゃない。
岡左内と斎道二が本当に政宗に斬りつけたかは知らないけど、
小荷駄が壊滅したら戦を続けるわけにはいかない。
で、結局福島城攻めを続けるわけにはいかなくなった。
致命的なことじゃないのか。
521人間七七四年:2009/11/30(月) 20:42:18 ID:CR5L21IU
>>520
補給部隊の一つが襲われたから、兵站が断たれたとでも言いたいのかな?
その一部隊しかないわけじゃないだろう。
522人間七七四年:2009/11/30(月) 22:46:20 ID:1bL8Q9aH
そうかはわからないけど、戦闘継続を困難にしたのは確かでは?
いずれにしても「荷駄隊がやられただけ」という表現はどうかと思う。
523人間七七四年:2009/11/30(月) 23:39:25 ID:2HnyA6EN
致命的って訳でもないけどな
小荷田部隊一つで軍事行動が立ち行かなくなると思ってるなら
それこそゲームの話じゃないぞとしか
524人間七七四年:2009/12/01(火) 00:25:19 ID:pCQboUPY
>>523
・本陣が潰走し、大将が斬りつけられた
・荷駄隊が崩壊した
もし実際にはなかったとしても、そうした捏造のスキを与える戦闘結果だし、
なんで伊達軍が引き揚げたのか合理的な説明を与えてくれる捏造でもある。
525人間七七四年:2009/12/01(火) 00:40:01 ID:Hip/+OO+
致命的かそうでないかって話から論点ずらし過ぎ
そもそも合理的な捏造って何だよw
526人間七七四年:2009/12/01(火) 01:20:54 ID:a3l4THDy
しかし伊達好きは、伊達が2万〜2万5000を率いており
福島の本庄がわずか1000ばかりの手兵しか持ってなかったのに
真正面からまともに決戦を挑むなんてマジに思ってるなら真性バカだなぁ。


伊左早謙編景勝卿記中
「関が捷報到るや、政宗急に約に背き、兵を率いて福島城に迫る、
本庄繁長・梁川城将須田長義とこれを松川に挟撃し、
政宗大敗、輜重を委棄し、白石に走る、器機・旗幕、多く我が将士に獲得せらる、
伝へて今に存するもの多し」


10/22政宗が再度桑折に進出してぎ郷民を侵掠するも
貝原勘解由以下9名が撃退し景勝感状を与える 上杉御年譜

正月 二本松・塩松境、
2月 川俣方面で郡宰石栗将監等に政宗撃退される
直江古案 石栗文書 上杉家記

3月及び4月 伊達信夫を侵し、また福島城へ来襲するも
築地修理、車丹波、小島豊後、蓬田寒松斎等が撃退
御書集并御年譜略

5月 石川義宗が角田城より長井荘板屋に放火

東国太平記がまったくの創作ではなく
これらの大小局地戦を混同して纏めたものが東国太平記と言われる。
527人間七七四年:2009/12/01(火) 02:18:30 ID:Uap3p/4N
>515
だから「伊達治家記録」だって。(仙台博物館に所蔵)
>207がその部分を全部書いたの。
528人間七七四年:2009/12/01(火) 02:26:34 ID:oolCdwRj
>527

訂正↑
×207間違い
>507だった
529人間七七四年:2009/12/01(火) 02:56:13 ID:Hip/+OO+
伊達治家記録には「松川合戦」は載ってないんだが
仙台博物館が暫く休みだからって適当な事書くなよ
530人間七七四年:2009/12/01(火) 04:16:56 ID:eKBiL9hb
戦略目標
伊達→福島城を落とし伊達郡信夫郡の奪取。あわよくば米沢や二本松までも領有。
上杉→福島城の防衛と伊達軍の撃退により上杉侮るべからずの印象を背景に家康との交渉。
531人間七七四年:2009/12/01(火) 07:31:38 ID:Qaxx6g5M
じゃあ休館日が開けたら見に行きなよ
532人間七七四年:2009/12/01(火) 07:50:19 ID:yWtYdveI
>529
そっちの文章で松川合戦の熟語を使ってなければ、慶長五年十月六日付けの所を見てみなよ
533人間七七四年:2009/12/01(火) 12:19:17 ID:eKBiL9hb
秀吉による転封が行われようとする際に、二本松に関しては成実がかなり固執して政宗に突き上げをしており、
政宗も成実に今頑張って嘆願してるから、最低でも伊達や信夫とともに二本松もたぶん大丈夫なんて言ってる。
二本松も奪いたかったのは間違いないし、その為に成実が伊達に帰参したのだろう。
534人間七七四年:2009/12/01(火) 12:24:53 ID:eKBiL9hb
伊達撃退の戦果が来春の家康による上杉征伐の再考を引き出した戦いなのだから
上杉側にとって大いにアピールし意味ある戦いだったのは間違いない。
毛利や島津のような遠方ではなく江戸に近いだけに征伐の可能性は高かった。
家康との講和では上杉の名誉が守られたものであったのも伊達大破を物語る。
535人間七七四年:2009/12/01(火) 18:54:13 ID:fn31B6hV
再度おさらいしておこうか。松川スレの以下の重要な5つの要点について。

@「松川合戦」なるものが上杉の軍記作者の妄想垂れ流しによる捏造だったこと。
A実は慶長5年10月に伊達軍に大敗鎧袖一触され、福島城下まで攻め込まれて、
本庄が討ち死にする危機に置かれていたこと。
B徳川家康は上杉景勝を滅ぼすつもりだったこと。
C伊達政宗は仙台城に居を構えて、福島を差配する計画でいたこと
(その方が、福島県民及び一部山形県民にとっては有り難かったかもw)
D伊達軍に虚を突かれて攻め込まれた福島県に少なからぬトラウマを
残して「松川合戦の古老咄」が伝承されたこと。

最上に手酷い敗北を喫して米沢に逃げ帰った上杉の隙をついて、伊達軍が信夫郡を蹂躙。
上杉軍を宮代で打ち破り(実に300余名、騎馬武者100騎を討ち取り、信夫山で首級実検
まで行っている)、本庄繁長を自決寸前まで追い込む。これが慶長5年10月6日の戦い。
伊達にとっては掃討戦の一環にすぎなかったわけだねw 本庄はすんでの所で討ち死にを逃れている。

この伊達の「掃討戦」を根にもった国枝清軒のルサンチマンの敗者の文学。それが『会津陣物語』の哀しい本質だね。

国枝は慶長6年4月下旬に伊達が松川に攻めてきてそれを打ち破ったとする与太話を幕末まで流布させたが、それは真っ赤な嘘
だったことは、『日本戦史』から完全に黙殺されていることでも明らかだろう。 w

536人間七七四年:2009/12/01(火) 19:19:53 ID:04lxhjOd
>>525
subもどきさんのおさらいでは、なぜ「本庄が討ち死にする危機」ぐらい
伊達が圧倒していたのに、すぐさま引き上げてしまったのかが疑問として
残るね。
537人間七七四年:2009/12/01(火) 22:32:23 ID:eKBiL9hb
本庄自害を決意の話自体が伊達の伝聞形式で信用性ゼロだろバァカが。
538人間七七四年:2009/12/02(水) 01:23:39 ID:dhQHvHJV
本庄の討ち死に話になんらの証拠があるわけじゃない。
さらに岡左内、齋道二の話も元禄時代以降に編纂した伊達治家記録は、
なんらかの証明もせずにただ「偽リナリ」と必死に否定してるだけだし。
そんなに伊達が圧勝言うなら、こいつら何で討ち死にしてねーの?
須田が竹に雀の家紋を奪取した話も「両説不決」と証明もせずに必死に否定。
結局、伊達治家記録の編纂までは、それらをまったく否定してないわけで、
後世に政宗伝説を作り上げる必要性に駆られて伊達治家記録でマンセーしまくってるだけ。
539人間七七四年:2009/12/02(水) 01:33:42 ID:dhQHvHJV
>>223
伊達が実際に家臣などへの褒美の質にもなる書状では
とても大勝なんて証拠は見当たらない。

>>229
こいつ三戦板の松川スレからずっと論破されると毎回同じコピペや東国太平記を持ち出す基地外。
>>232
でも同じようにコピペ繰り返しをウザがられてる。
540人間七七四年:2009/12/02(水) 01:51:17 ID:Vq5wZ1+Y
なんつーか、感状レベルになると途端に戦果がショボくなるのが伊達。
家康相手に妄想打ち取り数報告はデタラメで伊達の宣伝に過ぎない。
この辺は白石城でも数百人打ち取りなどとテキトーに考えたとしか思えない。
あと上杉兵ではなく蒲生に所属してるやつらを討ってるだけで勝った勝った喚いてバカ丸出しだし。
それと二三人討ち取りを23人と誤読みしてるね。廿三なら23人だが、二三は2、3人討ち取りと解釈するのが正当。
まー伊達の書状には自軍の被害がまったく書かれてない以上、それを根拠に一方的に勝った勝った宣言してもアホな子にしか見えないわな。
541人間七七四年:2009/12/02(水) 07:00:20 ID:Vq5wZ1+Y
蒲生氏郷普代衆を討ち取りと記し、さらに成実は越後兵(堀衆?溝口衆?村上衆?)を討つと記すなど、
当時の人が間違うはずがない簡単なミスが続出し認識が間違いまくりのデタラメばっかりが伊達の捏造を表している。
いったい関ヶ原の伊達軍は誰と戦ってるの?見えない敵と必死に戦う迷走ぶりだなw
無理やり「蒲生が減転封した時に上杉に仕えた」「もともと上杉は越後にいたから、いつもの癖で書いた」と解釈しないといけないかね?
なら蒲生氏にそいつらがいた証拠は?蒲生って書けば嘘でもどうせわからねーと思って書いたの?それとも後世の捏造かね?
542人間七七四年:2009/12/03(木) 20:26:27 ID:uQp2pEDF
関ヶ原東軍勝利を知った伊達家(政宗)が、先祖伝来の地である伊達・信夫郡を戦いで奪回できなかったという事実は大きい。

関ヶ原から約70年後に伊達厨がよく使う言葉「伊達家の上杉家に対する掃討戦」とは一体何?あれ程領地拡大意欲が旺盛な政宗が、「掃討」とやらで満足するでしょうか?

伊達軍2万は本庄軍2千に対して、伊達・信夫郡の一体何を「掃討」したことになるんでしょうか?
543人間七七四年:2009/12/03(木) 21:20:17 ID:oSb15YNp
「政宗は、僅か十騎ばかりで、本道は避け、得飯坂の北側、昔の佐藤
庄司の屋敷を跡を抜け、摺神川を遡って茂庭山を通り、湯厚へ出てか
ら関を経、渡瀬から白石城へ逃げ帰った。」

(国枝清軒作「会津陣物語」4巻)


 伊達に惨敗した上杉軍の哀しい妄想に微苦笑   w
544人間七七四年:2009/12/03(木) 21:21:33 ID:PRc81xDw
こりゃおもしろい!
「掃討」も相当ご冗談がお好きなようで!はーっはっはっはっはっ‥
‥‥
545人間七七四年:2009/12/03(木) 22:35:39 ID:BagW00t0
反論できないので、仙台御用講談伊達治家記録の元ネタの東国太平記の原作の会津陣物語を持ちだしましたw
毎回毎回低脳猿並みに同じパターンでバカ過ぎですねw
546人間七七四年:2009/12/04(金) 00:54:27 ID:ayJ6dnDp
で、上杉厨はなんの史料を基に語っているのかな?w

『東国太平記』や『会津陣物語』といった捏造軍記じゃなくてさww
547人間七七四年:2009/12/04(金) 04:37:45 ID:9OKYPZ2q
>>546
 そもそも上杉には「慶長5年10月6日」の1次資料自体が存在していないから、
 それは無理な相談というもの。本庄等の福島で追い込まれ篭城に窮した実態すら、
 伊達家文書に頼るしかない。この戦いの結果(上杉の惨敗)をみてとった徳川家康
 は上杉への武力征伐を示唆している。

「四日之御状到来、令被見候、仍最上相詰候敵、去朔日敗北之處、悉被討果之由候、
又同八日之御状参着、至福島表、被及行刻、敵出入数候処、即追崩、数多被討捕、
福島虎口迄被押詰之由、無比類仕合共候、於其表数度被竭粉骨、被入精之段、難申謝候、
来春者早速、景勝成敗可申付候、其内御行無聊爾様肝要候、此表之儀、仕置等彌丈夫申付候、
可御心安候、猶宗薫、村越茂介 可申候、恐々謹言 十月廿四日 大崎少将殿 家康」
(慶長五年十月二十四日 政宗宛徳川家康書状)

 これにて上杉の屈辱の和睦交渉が開始される。伊達と徳川の圧迫に耐え切れないと観念した
 わけだね。格好だけの「義」の仮面をかなぐりすててまでもw
548人間七七四年:2009/12/04(金) 06:08:51 ID:VIA/jFbj
Subの一人芝居か…
549人間七七四年:2009/12/04(金) 08:56:04 ID:gq16K9Q6
伊達側は論議を避けまくり、また過去に論破されたコピペの執拗な繰り返しか。
ひたすら質問や意見に対する答えを黙殺して逃げまくり、
過去のコピペを繰り返し、会話や議論が成立しないのが伊達厨の苦境を表しているな。
壊れたカセットテープみたいにひたすら同じことをコピペしやがって、つまんねーんだよアホが。
550人間七七四年:2009/12/04(金) 16:07:00 ID:qn5T4MyS
>>549
議論を避けてなどいませんよ、論破もされていませんし、コピペもしていませんw
捏造軍記が基礎史料wになっている上杉厨とは、話ができないだけ。
551人間七七四年:2009/12/04(金) 16:35:59 ID:Xe8jFT3H
田舎のちんまい小競り合いで熱くなるなよ。雑魚同士がよ。
552人間七七四年:2009/12/04(金) 18:49:25 ID:VGbwSR2o
>>550
軍記物の捏造うんぬんはともかく、このいわゆる「松川合戦」では「虎口」まで
上杉勢を押し込めたはずなのに、その後なぜか伊達軍が目的を達成できないまま
に戦が終わったのは事実だからね。
伊達の軍功自己申告をそのまま信用することもできないとは思うし。
553人間七七四年:2009/12/05(土) 09:57:47 ID:ff4qwI1a
そもそも百歩譲って、伊達の話がすべて事実だとしても伊達本隊2万で本庄1000に野戦で一時的に勝ったとしても
福島城で結局、撃退されて戦略目標が達成できなかったのだから自慢するべきものではなく20倍の戦力比から考えて逆に恥ずかしくはないのかとw
しかも三成敗北の関ヶ原後から上杉と徳川の和睦までの一連の伊達の各戦域での敗退ぶりから目を逸らすどころか完全黙殺して、
小山に駐屯する徳川部隊に常に背後を牽制してもらっていながら、戦略目標をまったく達成できずに終わりながら、
政宗は勝った勝ったと喚くのはもう道化を演じて笑いをとってるのかとw
上杉は伊達の侵略から戦略目標を完全に達成してるのが最終的な結果判定だし。
もう本当に伊達厨はアホなんじゃないかと。
そりゃあ伊達に勝ち戦なんてないから必死になって全力で勝ち戦を捏造したくて切実なんだとは思うけどね。
554人間七七四年:2009/12/05(土) 10:52:59 ID:ZzW7oWTM
白石失ってるくせによく言うよw
さりげに上杉1000とか過少に捏造してるし
>勝った勝ったと喚くのは
どうみてもsub自身です。本当にありがとうございました。
555人間七七四年:2009/12/05(土) 11:37:53 ID:QfX9an/4
Subのいう人数千人というのはあやしい(Subによると密約あったらしい
から彼の中ではいいのだろうけど)が、今は会津征伐中の話ではなく、
関ヶ原後の両家の動きを語ってるんだから、白石の話を持ち出すのは
ちょっと違うと思うよ。
556人間七七四年:2009/12/05(土) 11:53:46 ID:cWji67Z9
うぬ
557人間七七四年:2009/12/05(土) 12:29:39 ID:lfOitLhr
えっ1000で間違えてなくね?
白石にしたって上杉120万石のわずか東刈田郡8000石の地でしょ。
白石城将の甘粕すら城兵もって白河へ家康戦のため出張中の留守だったし。
そんなちっぽけな勝ちを必死に強調するって、これだから政宗厨はバカにされる。
そもそも直江が主力決戦を嗜好して二本松に進出してきてからの
政宗は決戦回避して逃げてたのはお忘れかねぇ?
558人間七七四年:2009/12/05(土) 12:40:35 ID:lfOitLhr
政宗は伊達、信夫がものすごく欲していたどころか
米沢や二本松にも執着してたのは秀吉への哀願でも明白。
徳川が下野国で牽制してる中ですら何であんなにブザマな結果して出せないの?
米沢、信夫、伊達は上杉自力防衛分として安堵してもらってるわけだよ。
毛利と違って上杉の場合は家康を侮辱する挑戦状を送りつけ豊臣の財政支援で家康が出陣してるわけだ。
今回の大乱の引き金を引いた首謀者扱いと言っても過言じゃないわけで、
結果、上杉領は伊達の切り取り自由で滅亡もありうる重い処分だったわけなのに伊達を撃退し続けて
武門の意地を示して家康による春の上杉討伐の再考を促すことに成功し延命に成功。
これのどこに伊達の勝利が存在してるわけ?まったく理解しがたい。
559人間七七四年:2009/12/05(土) 13:10:40 ID:Z4+QhfL+
■慶長5年10月、伊達が上杉軍に大勝し、本庄繁長が自決の危機に追い込まれた
「福島の戦い」についての史家の見解

「慶長5年10月6日、(伊達軍は)本庄繁長の守る福島城へ攻めにかかった。
この日の戦いで福島城の城兵のうち、馬上武者が百騎ほど討り捕られ、残る
兵も虎口(こぐち)に追い入れ、落城は時間の問題であった。」
(静岡大学教授 小和田哲男)

「伊達軍は福島城攻撃を行っただけで、7日には矛先を収め、北ノ目城に引き上げている。
伊達軍総力戦であるので徹底的に攻めれば、攻略は朝飯前であったろう」
(葛西大崎家に関する史家 桃紫正隆)

■上杉軍を宮代表で粉砕し福島虎口まで追い込んだ後、伊達軍が7日には撤退した理由について。

「福島城を攻めて落城寸前まで追い込んでおきながら1日で兵を引いたのは、おそらく、家康の命に
よることなく、勝手に上杉領に攻め込んだことに対する後ろめたさがあったものであろう」(小和田哲男)

「(政宗が福島攻撃への陣触れを行った9月30日に徳川家康から戦争終結の書状が到着したこと
もあり)やはり江戸への思惑から、急いで矛先を収めたと解釈すべきであろう(時節柄之事ニ條條)」
(桃紫正隆)

あくまで伊達の都合であり、本庄軍は福島表で叩かれろくな反撃もできずに福島城に篭城したままで終了している。
なおこの10月の戦いの結果、伊達政宗は11月には仙台城の築城許可と翌春雪解けをまっての徳川の上杉の武力
征伐の言質をとっている。(残念ながら後者は上杉が降伏したために実現しなかったがw)

上杉としては対最上戦につづく屈辱的な敗北ではあっただろう。
560人間七七四年:2009/12/05(土) 13:36:33 ID:lfOitLhr
これでわかった。
お前、成実三昧のHPの奴だろ?
そもそもかなり偏った伊達の太鼓持ち意見の持ち主だけを転載したなw

講談大好き小和田センセイ→落城は時間の問題・後ろめたさ←後ろめたいなら、そもそも進撃しねーだろw
宮城生まれの郷土歴史家桃紫→攻略は朝飯前・急いで矛先を収めた←9/30の書状が原因なら10/6の福島城攻防より前に撤退してるはずだろw
561人間七七四年:2009/12/05(土) 14:04:07 ID:ff4qwI1a
山形城への援軍に小勢を出して傍観しておきながら
9/30書状を読んだ政宗が火事場泥棒しようと急遽、東軍顔して上杉領に攻め行ったくせに
まさか福島城を陥落寸止めして帰った際の原因にするとは思わなかったわw
明らかに文章がおかしいわけで文章内容を改変してるだろ。
政宗陪臣2人討ち死にし、片倉石川はめちゃくちゃ後ろ向き発言して福島から逃げ帰ったくせにw
そもそも伊達の戦略目標って戦費を無駄に浪費しまくり伊達に味方した寺社を炎上させて福島から逃げ帰ることだったのかね?
562人間七七四年:2009/12/05(土) 18:41:32 ID:AYCsLCgE
百万石のお墨付きがあるのになぜ徳川に後ろめたさをかんじなければならんのか?
それとも百万石のなかに含まれてなかったのかね〜
563人間七七四年:2009/12/06(日) 07:34:27 ID:ZG9eRtHq
この戦いでわかるのは、先祖代々伊達に恩を感じている伊達郡信夫郡の土着勢力を一気に掃討した上杉が安定支配を達成した事実であって、
伊達が彼らを見捨てて敗走した事実しかない。
564人間七七四年:2009/12/07(月) 12:50:50 ID:8tKDCOaa
政宗自らが率いる伊達精鋭の20倍の戦力差を跳ね返し撃退した本庄の勝ちだな。
565人間七七四年:2009/12/08(火) 09:15:59 ID:uUa8o/x3
まあ確かに
上杉対伊達と言うより
本庄対伊達と言う方が
正しい気もするね。
566人間七七四年:2009/12/09(水) 00:57:55 ID:NHngfiy9
上杉VS伊達
>>526
>>499
>>500
になっちゃうから
伊達厨としては
あくまでも本庄戦のみに目を向けたいんだろw
567人間七七四年:2009/12/09(水) 08:22:30 ID:t/R9rAv+
伊達が主張するように本庄が負けていたなら、福島城将の地位を更迭して違う将に守らせるだろうし、
もっとおかしいのは、負けた本庄を家康の元に交渉の使いに出すわけねーよ。
568人間七七四年:2009/12/09(水) 09:53:08 ID:MHkdyUH1
繁長って死後に
生前の功績を讃えられて
景勝から八幡の称号を与えられてるはず

確か神として祀られてるよ

伊達に負けてたならここまでの待遇受けるのかなぁ?
米沢減封後も鮎貝城代として幕末まで代々世襲してるよね本庄氏って
569人間七七四年:2009/12/09(水) 21:45:28 ID:YQxMLfiF
>>568
普通なら謀反しまくりの忠臣とは程遠い人物を、そんなには持ち上げないわな。
570人間七七四年:2009/12/10(木) 01:42:39 ID:elAk4Wq/
本庄繁長は謙信に対してはともかく
景勝に対しては忠臣ですよ?
571人間七七四年:2009/12/10(木) 06:57:53 ID:FFd+pTUV
>>570
そういう見方もできるが、さすがに神様にまで祭り上げられるとなると、
よっぽどの何かがないとなぁー。
572人間七七四年:2009/12/10(木) 08:00:48 ID:73Z5sUML
まあ国人時代はワガママだったけど謙信に降伏してからは人質出してるし、
秀吉時代に一揆扇動の疑いアリで本庄は改易されて地盤も失ってるからね。
秀吉が大名の支配確立に協力してたっぽいよね。会津移封もそうだけど代々の領地から切り離された以上は忠臣にならざるおえないし。
573人間七七四年:2009/12/12(土) 12:09:34 ID:E1jnKLLl
当時の大名は領内の支配を一元化=近世大名化するために豊臣政権のような
巨大なバックを必要としたからね。ほとんどの大名は天下をとるというより
は領内支配を強固にするのが第一だったんだろう。
本庄は裏切り者みたいに言われてるけど、謙信時代は家臣ではないからなぁ。
あっちついたりこっちついたりは本庄に限らず小豪族にはよくあることだ。
574人間七七四年:2009/12/12(土) 13:27:29 ID:tILHTJXp
>>572
>>573を聞くと尚更思うのは、
何でこんな経歴の人物が当主から神様に祭られ、家は藩に代々続く名家になる、
やっぱり何にも無かったとしたら違和感あるよ。
575人間七七四年:2009/12/12(土) 13:55:22 ID:g6wFdw1w
本庄氏の米沢藩時代の家臣団での席次は堂々の第一位

かつて謙信時代に謀反により春日山城での席次は
同族色部氏より格下にされてしまったこともあるのに

一位は恐らく直江家が残っていればまた違うのだろうけど
直江家が断絶後は
米沢藩での本庄氏は家臣団で一番の有力家だったと言えるでしょうね
576人間七七四年:2009/12/12(土) 14:38:32 ID:g6wFdw1w
>>574
普通に考えておかしいですよね

伊達擁護派の方々はこれでも
上杉側の捏造と言い張るのでしょうけど・・

捏造でここまでのことができるでしょうかね
ちゃんと考えてもらいたいところですね
577人間七七四年:2009/12/13(日) 00:56:42 ID:/wkizLMY
景勝代での繁長の働きを考えれば
直江に次ぐ席次でおかしくないと思うけどな。
大活躍じゃん。
578人間七七四年:2009/12/15(火) 14:16:28 ID:4GRtx5mh
幕府から求められて諸大夫を書きあげた時は直江と本庄。
彼らは自身の力量で発言力を伴った家中トップだったんだろうけど、
繁長死後はそうでもないようだ。定勝の御成がなく、藩主との間に距離がある。
寛永年間には石高で安田のほうが上。
八幡神社というのが本庄を祀ったものらしいけど、景勝から八幡の名をもらったという逸話と、
藩が神として祀ったというのは別の話では?子孫が武神として祀ったことのほうが先で、八幡の
名を〜というのは後付けの逸話な気はするが。
579人間七七四年:2009/12/15(火) 17:01:10 ID:qh6pFyDO
>>578
568は藩が祀ったとは書いてないと思う・・・

八幡神社自体は本庄氏菩提寺内にあるね
ただ八幡の名を後付けでというのなら
藩の許可なく祀ることは可能なのだろうか?
少なくても現在でも残ってるくらいだし
本庄氏は毎年祭礼を行っていたようだが・・・

確かに石高では安田氏のほうが上位だけど
席次は格段に本庄氏のほうが上位にされています
寛永年間については本庄充長の後継がなかなか決まらず
一時芋川元親が代行してる
ただ寛永二年に本庄重長が家督相続、福島城代就任
寛永五年に侍頭一位の地位も芋川元親より譲られてる

時代が戻ってしまって申し訳ないけど
大坂冬の陣の上杉軍の軍役でも
数十人の侍大将のうち筆頭は本庄充長

要はこういった本庄氏の地位が松川以前に確立してたか?ってこと

上杉氏側では松川で伊達を撃退し上杉を守ったとされるので
優遇される理由はわかる

ただ伊達氏側の主張のように
自決寸前で特になにもしなかったというのなら
子孫にも代々受け継がれるような待遇を受ける要素があるのかってこと

疑問符つかない?
580人間七七四年:2009/12/16(水) 00:23:16 ID:nVLqZAHl
関ヶ原以前から御館の乱や葦名との抗争や
最上との庄内争奪戦でも本庄繁長は
大活躍してるんで。
581人間七七四年:2009/12/16(水) 00:46:48 ID:8lw7EEnc
もういいんじゃないの?
伊達厨脂肪みたいだし
どっちの言い分も決定力には欠けるけど
上杉有利ってとこだな
582人間七七四年:2009/12/16(水) 01:02:41 ID:llzFtjeM
死亡伊達厨悔し紛れに他の板のあちこちのスレに屑コピペを貼りまくってんだな。
583人間七七四年:2009/12/16(水) 04:19:13 ID:aAdVUoc5
コピペは伊達厨というか糞荒らしでしょ
584人間七七四年:2009/12/16(水) 07:14:38 ID:m2IvcGPA
その糞荒らしが伊達厨。
伊達厨が最上厨のフリをして
長尾スレや直江スレを荒らしたりしてたし。
最上スレが荒れてもぜんぜん平気だったし、事実その間は伊達スレが荒れなくて済んでたし。
工作スレを立てたりしてる無職自宅警備員。
585人間七七四年:2009/12/16(水) 07:46:26 ID:edN1iTaM
福島表で惨敗し、福島城虎口まで押し込まれ、信夫山で首級実検までされた上杉軍。
いまだに伊達を恨み、傷の舐めあいをしてるなw
586人間七七四年:2009/12/16(水) 08:28:32 ID:aAdVUoc5
つうか荒らしはsubだろ…。くだらないしどうでもいいけど。
このスレももういいんじゃないの。疲れるだけだろ。
587人間七七四年:2009/12/16(水) 10:50:24 ID:a224crN4
>>579
>>578はその前の会話へのレス。
藩の許可の有無はわからないけど、本庄氏が先祖を祀ってるだけで
松川で伊達を撃退したからとか負けたから許可が出た出ないの話でも
ないと思うが。

あと格で言えば番外の武田、清野、黒金のほうが上と見られる。
本庄は一番衆の筆頭。ただ、御年寄衆には名を連ねていない。
本庄は松川以前から対伊達の要の福島城を守備していて石高も上位。
本庄と同格か上の直江家、大国家、藤田家、泉沢家などは次々
消えてるし、相対的に本庄の格が上がっただけだと思う。
伊達の自己申告を真に受けて「1日で引き揚げたけど伊達が大勝利」
なんて言ってるのはどうかと思うけど、いずれにしても松川の勝ち負
けが本庄の家格向上や神格化とは関係はないと思うよ。
588人間七七四年:2009/12/16(水) 11:23:41 ID:1O1Lke1L
>>587
なるほど
勉強になります

そうですね
それ以前の功績から評価されているのかもしれませんね

本庄氏は一時改易されていたり、その他色々波乱が多い家なので
松川時点の上杉家での地位はそれほど高いものではないと考えてました

難しいですね松川の戦いについては・・・
上杉にしろ伊達にしろその主張はやはりどちらも決定力に欠けますね

個人的には上杉氏側の主張のほうがどちらかというと
事実に近いとは思うものの
全てがそれで正しいとは思えないし
正直わからなくなってきました・・・orz
589人間七七四年:2009/12/16(水) 13:35:38 ID:m2IvcGPA
松川以前から福島城の守備を本庄はやってないよ。
590人間七七四年:2009/12/16(水) 15:37:30 ID:8lw7EEnc
>>589
意味がわからん

松川の戦い当時
福島城主が本庄じゃなかったってことか?

会津転封当時
最初は守山城だけど
その後松川前に
福島城主になってるはずだが
591人間七七四年:2009/12/16(水) 16:37:57 ID:j09iRB5t
>>589
松川以前以後というのは、そういう意味じゃないよ。
南の脅威が和らいで、戦の可能性が北の最上、伊達方面に移ると
対最上出兵した直江、伊達に備える本庄という形ができたんだから
「松川以前」にすでに要を任される将だったということ。
592人間七七四年:2009/12/16(水) 16:52:27 ID:8lw7EEnc
>>591
あーそう言う意味ね
了解

福島城守備は本庄ではなかった!
ってことかと思ってビビったわ
すみませんm(_ _)m
593人間七七四年:2009/12/17(木) 01:07:39 ID:j1vh2hrv
自演?
594人間七七四年:2009/12/17(木) 01:13:20 ID:pFD4ht/S
ただ単に勘違いしたんじゃないのか
595人間七七四年:2009/12/17(木) 10:52:57 ID:F40H2ejw
>>587
幕府からの諸大夫尋ねでは直江3万、本庄2万になってるけど本当かな。
慶長15年の将軍桜田御なりの時も、本庄は将軍から下賜品や献上を行ってる。
直江一族や江戸留守居の千坂はともかく、本庄は対外的にも直江家に次ぐNo.2とみなされてた。
会津時代の分限帳からみると、出奔した藤田や大国を除いても、
須田、甘糟の下、安田、泉澤、清野、中条、色部と同等に扱われてるから、
やはり関ヶ原後地位が上がってるような気がするけどな。
松川の戦いというより、関ヶ原後の徳川との交渉の功績を買われてたと書いてた人もいたけど。
596人間七七四年:2009/12/17(木) 11:10:34 ID:jj1tUEPe
伊達に大敗してたら、本庄を家康との和睦で辱めを受ける可能性もあるし、和睦がうまくいかない可能性も出てくるから派遣したりしないだろうね。
そもそも福島を空けて交渉に行くくらい福島表の戦線は安定してたと言うことは伊達の脅威の排除に成功してるわけだし。
伊達に勝ったからこそ、戦功を背景に有利な交渉ができ本庄を派遣した意義が生きてくるわけだし、伊達の家康への嘘報告の審議をするために、家康の指名で本庄が呼ばれた可能性もある。
戦後の伊達への家康の冷遇ぶりから有り得る話だろうね。
597人間七七四年:2009/12/17(木) 11:22:20 ID:FqQunhTb
>>595
本庄の2万石というのは
本庄旗下の石高でしょうね

直江の米沢30万石が与板衆分含んでいる(実際は6万石)のと同様かと
実際の本庄の知行はその時点では3333石のはず

立場が上がってるのには私も同意見ですね
ただ松川を除いたとしも謙信時代から一線で活躍している人物ですので
それらを含めた労いの評価とも十分考えられます

これをもって松川の勝ち負け等を論ずるのはちと難しいかも
598人間七七四年:2009/12/17(木) 11:48:10 ID:FqQunhTb
>>595
ごめん自分587じゃないのに答えてしまいました
横レスですんません

>>596
言いたいことはわかるし
大体同意見なんだけれでも
かといって上杉側の主張通りの大勝かというと疑問が残るんだよね
一方伊達側の主張もおかしい


とりあえずスレタイのような上杉の捏造ってのはおかしいとは思うね
599人間七七四年:2009/12/17(木) 16:41:41 ID:Ififgx4A
>>595
直江は会津時代六万石の三分の一で二万石。本多政重分をプラスして三万石。

本庄も一万石の三分の一で三三三三石。なぜ二万石なのかは不明だけど、
上杉家の普請負担を減らす措置とする見方もある。

本庄出羽=充長は大宝寺を継いでた時に諸大夫成したと思うので、
関ヶ原後に地位が向上したというのは疑問だなぁ。
600人間七七四年:2009/12/18(金) 18:13:44 ID:N9JSWa7J
本庄が上杉復帰したのは会津移封の条件に、
本庄の復帰があったので秀吉から赦されたからですよね。
601人間七七四年:2009/12/20(日) 01:33:55 ID:QB8M30Oz
伊達の本陣だった国見山を取り仕切ったという宮崎旨元が討たれてるしね
伊達の史料にはそう書かれてるし
上杉の史料にも似た内容がある
本陣を仕切った人物が指揮していた荷駄隊はある程度の大部隊だったと考えるのが自然
でもなければ荷駄隊なんてわざわざ編成する必要が無いんだし

実際須田の記録では兵糧、弾薬、首級(荷駄隊隊長以下警備の者、下人)が梁川城へ運ばれてる
これが一番大きな決め手になったようにしか見えないけどね
602人間七七四年:2009/12/20(日) 03:11:00 ID:uWSId75F
>>601
その宮崎旨元って誰だよ?
小荷駄奉行の宮崎内蔵助の事か?
>荷駄隊はある程度の大部隊だったと考えるのが自然
>でもなければ荷駄隊なんてわざわざ編成する必要が無いんだし
>これが一番大きな決め手になったようにしか見えないけどね
”小”荷駄隊だから。
あと、手前勝手な憶測で決めつけるな。
603人間七七四年:2009/12/20(日) 06:11:44 ID:QB8M30Oz
>>602
貞山公治家記録から抜粋すると

巻乃二十下479ページ
(政宗)公、白石城御出陣、伊達郡国見山二御本人ヲ備ラル。

同上487ページ
宮崎内蔵助旨元 ハ国見山御陣場ヲ取リ仕廻テ、御幕等ヲ人夫持セ、
御跡ヨリ福島表へ来ル。

で、宮崎旨元が梁川勢によって討取られるという内容へと繋がっていく訳だけど
この際奪われた陣幕は亘理伊達家、定宗の荷物に入っていた物かもしれない
とも書かれてる

あと俺は面倒だから小荷駄を荷駄と略して書いたけど
小荷駄だから小規模だとか、荷駄だから大規模って区別の仕方はされてないと思うよ
小荷駄=大軍勢を賄う重要な部隊〜
という位置付けで書かれてる話も実際あるし(信玄×内藤の逸話など)
604人間七七四年:2009/12/20(日) 06:21:04 ID:QB8M30Oz
wikiに書かれた「小荷駄」

兵粮などは兵士達の自己携帯が原則であったが、
実戦においては期間が不明でかつ長期分の携帯は軍事行動の妨げになるだけであったため、
数日分だけを携帯させてそれ以上の分は小荷駄に輸送させた。

『期間が不明でかつ長期分の携帯は軍事行動の妨げになる』
つまり城攻めが該当すると
ここで語られている福島城攻めを含む、所謂松川合戦においては
やはり小荷駄は重要だし、それが本陣の小荷駄であれば更に重要
先述したように伊達家一門の荷物が含まれていた可能性も高い

この部隊を壊滅させられたのは、どう考えても大きいよ
605人間七七四年:2009/12/20(日) 06:22:37 ID:QB8M30Oz
>>603
誤字
× 伊達郡国見山二御本人ヲ備ラル。 
○ 伊達郡国見山二御本陣ヲ備ラル。 
606人間七七四年:2009/12/20(日) 07:07:07 ID:dy8nUTOd
伊達の小荷駄隊が上杉に「壊滅」(苦笑)させられたといっても、
日中の戦闘(宮代の野戦・福島城の攻囲戦)がすべて終わって、
伊達軍が国見山へ引き上げていく途中の話だし。
その時点で、もはや戦闘は終わってるわけで。

実際は伊達軍の尻尾の足軽、雑兵の類の荷駄隊へ追いついての「戦果」しかない。

これを、「本庄繁長が伊達軍の中央本陣に突撃をして、本陣の陣幕を奪った」などと、
笑止千万の尾ひれを膨らませて伝承されたのが福島エリア限定の「松川合戦」という与太話になる。
607人間七七四年:2009/12/20(日) 07:47:51 ID:oWcdLz+U
論破されて困ると東国太平記を持ち出すパターンがまたまた登場ワロタw
つまり背後連絡補給路を脅かし絶つと言う戦略の基本に見事にハマったロスケ伊達軍が本庄らの手の内で踊らされていたと言うわけでございますな。
日露戦争でもよく行われた日本軍の作戦の基本は、この戦史から得た要諦も参考の1つにされてるのかも知れませんね。
608人間七七四年:2009/12/20(日) 09:32:16 ID:QB8M30Oz
>>606
>日中の戦闘(宮代の野戦・福島城の攻囲戦)がすべて終わって、 
>伊達軍が国見山へ引き上げていく途中の話だし。 

違うよ
宮崎旨元率いる小荷駄隊が公(政宗)の御跡を追って、
国見山から福島表へ来る途中の話
伊達による福島城攻囲とほぼ同時間帯に行われてる話
ちなみに日本戦史も同じ解釈(つーかそうとしか読めん)

伊達軍本隊の荷駄を悉く奪って、梁川城へ運び込んだという「戦果」は大きいし
一方伊達の立場から見ると、せっかく攻城用に準備してきた兵糧&弾薬がそっくり敵の城に移ってしまった
福島城どころか途中にある支城=梁川城が強化されたという結果に

>これを、「本庄繁長が伊達軍の中央本陣に突撃をして、本陣の陣幕を奪った」などと
これも違う
会津陣物語でも陣幕を奪ったのは須田の梁川勢
こっちは誇張が大きいので確かにどうかと思うけどね

しかし・・・ここまで読んできたけど、簡単な読解を勘違いしてたり
「小」荷駄と荷駄の違いを主張する人なんて初めてだし
自分で勝手に話を作ってしまったり、その作った話を与太話と指摘したり・・・おかしいよ
609人間七七四年:2009/12/20(日) 10:40:52 ID:uWSId75F
>>603-604
当時の伊達の大戦略は、東軍の勝利と伊達家の安泰。
つまり、徳川の勝利に寄与して少しでも恩賞を得ようという話。
対上杉というのは戦略の一つであり、伊達と最上が上杉の目を北に釘付けにして、
徳川にちょっかいを出さないようにしている。
伊達としては、上杉攻めで少しでも領土を切り取れたらそれはそれでいいが、
無理に攻める必要もない訳だ。
兵力の差から当然なんだけど、上杉側は野戦で鎧袖一触されたから、
口惜しくて小荷駄襲撃を大戦果だとしているんだなw
故に、小荷駄は凄く重要だ、少数の輸送部隊であったはずがない、と言いたいのだねww
確かに兵站は大事だが、小荷駄を奪われたから撤退したのではなく、
死兵となった福島城攻めを無理に続行して損害を出す必要も無いから、敢えて撤退しただけ。
島津も岩屋城を無理に攻めて結構な損害を出したからな。
610人間七七四年:2009/12/20(日) 10:54:48 ID:uWSId75F
>>607
ほう、つまり君も東国太平記や会津陣物語の記述は信用ならない、
と言いたい訳だね。
分かりますww

補給部隊の一つが奪われたら伊達の敗北かい?w
戦術的には伊達の進撃を一時的に食い止められただけだろう。
戦略的には東軍と敵対した上杉が、最終的には敗北者となり、
120万石から30万石にまで減封されたな。
611人間七七四年:2009/12/20(日) 11:03:25 ID:oWcdLz+U
伊達が上杉を北に釘付けになんてしてない。
むしろ西軍に内通して東軍の南部を攻めて北上し上杉に敵意のないことを行動で示した。
関ヶ原で家康の勝利を聞いて豹変して南下しただけ。
補給線の確保は信玄がいうように最も重要な任務であり優秀な大将に任せる。
政宗は補給線を軽視してたなら相当なアホだし、ナポレオンがロシアに敗れたのも、日露戦争で日本軍が早期和睦に持っていったのも補給能力に問題があったわけで
大東亜戦争の日本初期目的も補給能力を手に入れ自存自衛することであり、日本が敗北したのも通商破壊で日本への船舶輸送が破綻したから。
ゆえに伊達厨は荷駄による補給を出来る限り大したものじゃない重大じゃないと過小に印象づけたいわけだw
結局、政宗も牟田口や辻のような無能だったわけだ。
福島城で政宗陪臣2人が戦死し、補給も不可能どころか退路を断たれ、上杉の増援による包囲に恐怖し石川も片倉も政宗の諮問に戦局が伊達に圧倒的に不利だと発言。
戦略戦術的に王手をかけられ伊達は高速の速さで伊達領まで炎上する中を大敗走したのに福島城で損害を出す前に撤退?
充分に損害出してるじゃないか。
島津は損害出した代わりに岩屋を落城させてるだけマシだわな。
612人間七七四年:2009/12/20(日) 11:32:08 ID:uWSId75F
>>611
妄想で語らないでもらえるかなw
伊達が西軍と内通していたとされる史料は何だい?
関ヶ原で家康が勝利して、孤立無援となった上杉を攻めるのは当然だろう。
朝鮮出兵時に伊達家の兵站が巧く機能していたように、
別に補給を軽視していた訳ではなく、一つの補給部隊が奪われたから撤退した訳でもない。
福島城攻めを無理に続ける必要は無かったという話だ。

しかし、言ってる事が滅茶苦茶だな。
政宗を牟田口や辻となぞらえて無能とかいうのも意味不明だし、
退路が断たれていなかったから撤退できた訳だし、戦略的に敗北したのは上杉だしな。
福島城で陪臣が二人討ち死にしても、主だった家臣は誰一人討ち死にしていないのに、
十分な損害て。
まあ、上杉は国力で圧倒的に勝っているくせに、最上にも苦戦していたなw
これは最上勢を誉めるべきだが。
613人間七七四年:2009/12/20(日) 11:44:43 ID:oWcdLz+U
へぇ〜小田原以来さんざん世話してくれた浅野相手に朝鮮での補給がうまく行かない八つ当たりをして、
秀次と浅野失脚ついでに絶縁状を出した恩知らず政宗さんトコが何を妄言垂れてんだかw
とりあえず鬼庭が能臣だったから朝鮮での補給がうまくいったとする捏造エピが登場する予定デスカ?
相変わらず辻褄が合わない言い訳エピソードが伊達にはたくさんありますねw
614人間七七四年:2009/12/20(日) 12:48:22 ID:nSg7aqFf
>>612
「福島攻めを無理に続ける必要がなかった」根拠はあるの?
スキがあれば掠め取ろうというつもりで攻めて来たなら、「野戦で大勝利。
虎口に追い詰めた」という状況なのにいきなり引くのは不自然だろう。
捏造だといえるだけの真っ当な理由もないということだよ。

伊達が上杉に通じてたのは間違いないよ。積極的に動いたのは岐阜陥落を知ってから。
615人間七七四年:2009/12/21(月) 02:37:58 ID:6YLexXSX
松川、手取川、直江状、愛の兜

捏造だらけの上杉。
616山形藩百姓( ^ω^):2009/12/21(月) 05:29:12 ID:l5FkLky5

他家の史料は捏造だ!だけど自前の史料は軍記物

おぉ、それなのに・・・Wikiの記述は、大河ドラマのような重厚さ

歴史オタ 「最上義光についてきちんと調べてみたいのですが?」
最上信者 「まずは歴史館に行け!HPを見ろ!伊達や上杉は捏造だらけだからな!」

あぁ、義光公が・・・義光公が、草葉の陰で泣いている
617人間七七四年:2009/12/21(月) 12:06:12 ID:dWWB9DyP
>>615
松川と手取川は議論の余地があるとして、直江状と愛の兜の捏造とは
どういう意味?
まさか「仁愛」とか言われる小説などの″設定″まで「上杉の捏造」と?
618人間七七四年:2009/12/21(月) 12:15:29 ID:5EDeVZvQ
東洋のチトー義光
619人間七七四年:2009/12/21(月) 15:58:39 ID:cV/rLg9z
ポル・ポト派義光
620人間七七四年:2009/12/22(火) 01:32:34 ID:ZZ6yxcCv
人取橋といい、窪田(郡山)の戦いといい
伊達は連戦連敗の必敗ぶりを勝ったと捏造だらけなのに
よく言うw
621人間七七四年:2009/12/22(火) 06:55:25 ID:JKvafS+1
蘆名に勝ってた(失笑)
佐竹に勝ってた(失笑)
最上に勝ってた(失笑)
蒲生に勝ってた(失笑)
上杉に勝ってた(失笑)
南部に勝ってた(失笑)
真田に勝ってた(失笑)
神保に勝った(事実www)
622人間七七四年:2009/12/22(火) 15:11:57 ID:ohx+Euqw
センゴクで今まさに手取川やってるけどすごいね
あの状況で上杉家の記録そのまま信じるなら
長篠の武田ばりの被害、柴田勝家も討ち取るって嘘ついても知らない人なら信じるぞ
どう辻褄合わせるんだろう。
623人間七七四年:2010/01/02(土) 18:02:02 ID:Wv0YWjjy
伊達と上杉が戦って、決着つかなくて
伊達がひきあげただけでしょ?
上杉にも追撃の余力もなかったし
624人間七七四年:2010/01/03(日) 07:52:10 ID:akcFZDvh
しかしこの戦いの直後、伊達側の最前線にあった懸田砦が上杉の逆襲に遭い、落城。
懸田を奪った上杉方の梁田城兵が感状を貰ってる。
625人間七七四年:2010/01/03(日) 12:04:13 ID:nc1PotIv
多分簗川城兵といいたかったのかな。
ま、決着がつかなくてというか、たった一日かそこらで
なぜか伊達が引き上げてるわけだ。
626人間七七四年:2010/01/11(月) 14:28:58 ID:b7HgzRNt
>>620
連戦連敗で領土を拡げる伊達はさすがだなw
常勝上杉軍は、どんどん領土を狭くしていったがww
627人間七七四年:2010/01/21(木) 23:23:18 ID:ySGH6S7u
領土的野心の強さの差だろうな。
そもそも、上杉に領土的野心があるなら前田利長みたいに土下座外交をしていれば(家康に挑戦状なんて出さなければ)百万石は確保していだろうし(まあ、それが上杉の魅力でもある訳だが)。

伊達(政宗)は何がなんでも(どんな汚い手を使っても)領土を広くするって強い意志を感じる。
628人間七七四年:2010/01/22(金) 16:38:50 ID:tTYnZg22
叩き出されても大敗しても
通年に渡り出兵を継続し
執拗に南下し続けられる広大で豊かな伊達領のおかげ
また危なくなったら惣無事令を持ち出して和睦し
また約束を破り奇襲のくりかえし。
奥州の流儀たる中間人制度を悪用してるのが政宗。
629人間七七四年:2010/01/23(土) 07:22:51 ID:kE3QQULY
政宗は奇襲が大好きだからね。
なかなか落ちないと見るや、盆踊りの日の夜に皆酔っ払っている所をいきなり襲って芦名方の集落を落としたり(女子供まで皆殺しだったらしい)。
630人間七七四年:2010/02/04(木) 10:21:50 ID:zaMpMxCP
結局は悪質な捏造とかいうより、秋から翌春にかけての戦いがごっちゃに
なったのが「松川合戦」ってことになりそうだな。
631人間七七四年:2010/02/06(土) 17:54:43 ID:s0KGK69J
>>630
北条と上杉の河越合戦や北条と里見の国府台合戦などもいろいろと混ぜてるから
時系列がデタラメだし、その可能性はかなり高いと思う。
あと伊達側が東西両方に内通してたのは
家康が上杉に組したい政宗の暴発を警戒して
伊達家臣団に政宗を無視して直接に領地の加増約束をしたりして
政宗を監視牽制に利用していたため。
百万石の約束もその延長の話らしい。
戦好きの政宗も南部を切り取り、隙あらば山形も奪い
一大勢力を築いて上杉と関東攻めしたかったんだろうね。
632人間七七四年:2010/02/11(木) 08:03:53 ID:6Cf7rHDL
上方が長期化したら、政宗の胸中には上杉・佐竹と連携しての関東侵入もあったろう。
633人間七七四年:2010/03/12(金) 11:27:15 ID:IvhUQzr0
アホ宗にそんな度胸ないわ
634人間七七四年:2010/03/13(土) 01:11:22 ID:CK32UFiN
花巻城攻防から敗走への一連の敗北による南部からの報復を恐れた政宗は
上杉との戦闘状態を早く解消して
戦争状況から徳川による安定を望んでいたくらい危機的状況だったとか。
百万石の約束どころじゃないってことだね。
635人間七七四年:2010/04/11(日) 08:27:57 ID:vuObHSnj
>>631

単独(もしくは最上や仙北諸将との連合)では上杉に勝つ度胸がないからこそ、政宗はそういう2面外交をしたんだろう。
636人間七七四年:2010/04/11(日) 09:05:48 ID:3LIz5U8f
手取川の戦いも捏造だしな
637人間七七四年:2010/04/11(日) 09:31:24 ID:VAWKbscj
むむう?
638人間七七四年:2010/04/11(日) 09:42:58 ID:aGL4d1L0
結局、毛利家内同様に伊達家内も家康の離間策によって
西東の2派にわかれて分裂対立してガタガタだったと言うことさ。
だからこそ兼続も伊達からしかるべく人質を取るまで警戒を怠るなって言ってたんだろう。
そして南下せずに最上を屈服させることで、政宗を支援して伊達家中の意志統一を図ろうとした。
政宗も東軍の南部を攻めて、山形に集結してた東軍を瓦解させて上杉伊達小野寺による奥羽統一勢力を考えていたが南部に大敗。
さらに伊達同様に家中が分裂していた毛利のせいで早く関ヶ原で決着がついてしまった。
結局、家康の謀略の前に崩壊した伊達や毛利のせいで計画がぶち壊し。
639人間七七四年:2010/04/12(月) 07:55:42 ID:bZK+TmjE
長谷堂を落としたら政宗がハイエナのように山形城を横取りして奪うつもりだったから、
その阻止のため直江は庄内軍待ちしたと言われてる。
もちろん白河で結城秀康が戦端を開いた場合に急行できる位置にいて軍道の整備を同時にしていたが。
640人間七七四年:2010/07/04(日) 11:41:02 ID:/MyLQVLO
松川の戦いの内容をでっち上げ伊達冶家記録(1670年頃の伊達家内での編纂)。
実際は福島城の本庄繁長が「釣り野伏せ」で伊達が松川を渡りきった所で籠城⇒梁川隊の国見山強襲と挟撃により伊達が名取北目へ逃げ帰ったという戦い。

伊達は負けたことを隠蔽するため福島掃討戦なんて都合のよい説明をする訳。

家康が伊達信夫郡を敵である上杉に安堵していることが何よりの証明(一方で最上は自分で攻略した庄内を自分の領地にしている)。
641人間七七四年:2010/07/04(日) 14:24:51 ID:PC3WUeH6
まぁ江戸期を通してどの史料も上杉勝利の記述だからなあ
伊達勝利なんて書いてるのは伊達の捏造家譜くらいだもんな。
642人間七七四年:2010/07/04(日) 14:51:14 ID:Xi3gho3T
上杉の捏造宣伝が成功したんだな。

【上杉関連の愉快な講談文書】

武辺咄聞書…
著者は「会津陣物語」も編纂してる上杉ヲタの国枝清軒。1680(延宝8)年に纏められた。
武辺咄とは、主に老人たちによって語り継がれてる、武功談・合戦談など、
武士の生活にまつわる 逸話・小話の事で、これを集めたのが武辺咄集。
こちらも年月経て講談ちっくになってしまった話ばかりなので、
この種の書物は歴史学者・国文学者の両方から軽視されている。

会津陣物語…
上杉の老大将杉原常陸介親憲の一族、杉原親清が、慶長庚子・辛丑の
会津合戦の古い伝承を集めて、筆記させたものを、上記の国枝清軒が
リライトしたもの。
「関が原戦記文献だけでなく会津合戦文献もメジャーにしたい!」という
筆者たちの郷土愛というか無茶な欲望が渦巻く上杉ヲタのドリーム満載
の伝承に溢れた奇書になってしまっている。
ただし、エキセントリックであるが故に、読み物としては結構面白い。
(いきなり冒頭から、石田三成と直江兼継が二人で天下を山分けにする
密談シーンから始まります(笑))
643人間七七四年:2010/07/04(日) 15:40:30 ID:/+KCwdap
「松川の合戦は慶長5年10月〜翌年4月の戦いがまとめられたものとみられる」でFA。
全体的には10月に福島方面を急襲した伊達方が優勢。直江が帰ってからさまざま
手当したり、福島方面での内応工作がばれたりして徐々に上杉を崩せなくなっていった。
644人間七七四年:2010/07/04(日) 17:42:31 ID:PC3WUeH6
>>642
捏造も何も、伊達家内でしか
伊達が勝ったなんてトンデモ話は語られてねーじゃんw
どっちが捏造してるかははっきりしてんだろw
もし違うなら何で幕府に「それ間違ってます」ってはっきり申告しねーんだよw
まぁそんなこと言ったら「また伊達のデタラメ始まったw」って思われるから怖くて言えなかったんだろw
645人間七七四年:2010/07/04(日) 17:47:25 ID:PC3WUeH6
>>631
これと同じだよね。

なぜ有田中井手の戦いの戦いが怪しいのか教えてやろう。

そもそも下記の2点からしてまったく180度前提が変化している。
>>毛利興元が死去したため、わずか2歳の幸松丸が当主となっていた
>>兄の興元が京都におられる時期を利用して

これは有田中井手の戦いが2回以上の戦役をごちゃ混ぜにしてる可能性が高いからだ。
つまり北条の河越野戦の信憑性が非常に怪しいのと同じ。
考えられるのは、兄が大内の命で武田信繁を一度、大敗させており
その後、懲りない武田が兄の死をチャンスと感じて再度侵攻したと言う可能性がある。
だが、もっと根源的な問題は、
秋山伸隆氏が研究過程で毛利は偽造文書のチェックもせずに
安西軍策などの軍記内容を踏襲して歴史編纂した毛利マンセー記録という事実だ。
646人間七七四年:2010/07/04(日) 21:37:05 ID:WiTrrPZ5
伊達厨さんが伊達家が上杉家より強いんだ!!としたいために、江戸時代の各種資料にケチつけるのは仕方無いとしても、事実・結果は受け止めなきゃね。

最上は最上義康・志村光安が谷地城に進軍していた下吉忠を味方にして尾浦城を奪回し、酒田亀ヶ崎城も志多義秀の開城を成功させ庄内を自らの領地として家康に認めさせた。

一方、伊達は先祖伝来の地であり、最上の庄内と同様一番に奪回したかった筈だった伊達・信夫郡が上杉に安堵されたという事実。そして福島城や梁川城すら落とせなかったという事実を。

家康の「百万石のお墨付き」を信用する政宗公でもあるまいに、
647人間七七四年:2010/07/04(日) 23:03:42 ID:KD5Mm9DE
信用というか自分を買ったと勘違いして思い上がっただけじゃね
おかげで二万石に
648人間七七四年:2010/07/05(月) 01:01:22 ID:R/m+KfyY
>>621
テラワロタw
649人間七七四年:2010/07/05(月) 10:36:18 ID:Mi5hLMQF
このスレを読んだ結果

松川の戦いというのは上杉と伊達とあなたがたの想像上のものではないでしょうか?
つまり上杉と伊達とあなたがたは統合失調症という事になります
650人間七七四年:2010/07/07(水) 19:21:05 ID:pTXidNIa

結論が出たようだねw

>この戦いは、一般に「松川合戦」とか「宮代合戦」などと呼ばれていますが、
 残念なことに、市町村史も含め、そこで語られている中身はデタラメだらけと
 言っても過言ではありません。一般に語り継がれている「松川合戦」のエピソ
 ードと、小説に描かれている怪しい話を以下に列挙します。

・伊達軍は信夫山に陣取り、当時は信夫山の南を流れていた松川を挟んで福島城の本庄繁長
 と対峙した。
・伊達政宗は、梁川城の須田長義と福島城の本庄繁長に挟み撃ちされる形となった。
・米沢から水原親憲が駆け付け、農民の蜂起を鎮圧した。
・急を聞いた景勝がみずから出馬し、景勝の軍旗を見た政宗は恐れおののき退却した。
・政宗は、山伏に変装して信夫山を下り、間道を伝って逃げ落ちた。

 結論から言うと、以上の5つの話は、すべてウソだろうと思います。
 合戦の日付がネット上でいろいろと議論されているようですが、慶長5年10月6日に大合戦が
 あったことは間違いありません。

http://blogs.yahoo.co.jp/tenchijinstage/23642356.html


 前スレ通り、慶長5年は伊達の圧勝。一方の上杉軍は慶長6年4月下旬に伊達軍と勘違いした
 「河童」でも見ていたことになる。
 
  w
651人間七七四年:2010/07/07(水) 20:31:58 ID:4rNGerTy
最初の侵攻以外は伊達は攻め倦ねているからな。
652人間七七四年:2010/07/08(木) 01:16:18 ID:JGui4AO5
伊達厨の特徴

いままでの論争議論の経緯をまったく「無かったこと」あるいは「無視」して
唐突に自分の主張を繰り返すキチガイであり議論ができないアホ。
653人間七七四年:2010/07/08(木) 12:48:54 ID:GpQWMk/7
よほどの大河なら大洪水で流れが変わったなんてよくある話だが
人が渡れるほどの川がたかだか数百年で移動するなんてありえんわな
654人間七七四年:2010/07/08(木) 16:11:12 ID:JGui4AO5
>>173
なるほど。これはよく調べてる。
655人間七七四年:2010/07/09(金) 14:12:37 ID:dG1wLkm8




  織田信成が織田信長の子孫って本当?【3代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1277120346/

  織田信成が織田信長の子孫って本当?【3代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1277120346/

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http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1277120346/




656名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 12:32:29 ID:kqQ4vsWI
まぁ本当に本庄相手に掃討戦をやったのなら
圧倒的大軍の伊達軍による
寡兵の本庄軍の包囲殲滅が行われ
伊達前衛が本庄軍と接触した隙に、
騎馬による本庄軍背後への回りこみによる退路遮断が
戦術の基本として行われているはずで
その伊達の大戦力の前に本庄軍の福島城への逃走が不可能となるわけだ。

しかし実際は最初から釣り込む予定であったために
包囲される前に撤退を完了させ
充分な戦力をもって本庄は福島城で
待ち構えてたという経緯になるわけだ。
657名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 13:55:04 ID:his1YjtZ
>>650の教授のブログはいわゆる「松川の戦い」がなかったと
言ってるだけで、内容が全くの捏造だとは言ってないんだけどな。
658人間七七四年:2010/07/15(木) 22:36:26 ID:P51VVFGx
革籠原の作戦でも本庄繁長隊は秀忠を「釣る」役だったし、実際釣りが得意だったんだろう。
政宗はまんまと懸かった訳だ。
659人間七七四年:2010/07/15(木) 23:13:22 ID:Z6P5RZel
大敗、大敗と上杉が喧伝するだけで、大敗したのに伊達側の名のある将の負傷や討死には無しww
手取川も捏造だし、どうしようもないな。
660人間七七四年:2010/07/16(金) 03:06:25 ID:4usazrxz
ソースが、所詮国枝の「軍記物」>>658のような風野真知男の伝奇小説『北の関が原・福島城松川の合戦』
のレベルから一歩も出ていない「ネタ噺」しか出せないのだから、無理もないだろうね。
661人間七七四年:2010/07/16(金) 15:35:48 ID:gMt2VAG+
>>659
政宗陪臣が二人も戦死してるじゃんw
可哀想に伊達への忠誠から討ち死にしたのに
名のある将として名前を残ると伊達が負けた論拠になるので
伊達勝利の捏造史には非常に困るので名前が記録されないなんてw

>>660
何度も壊れたカセットテープみたいに
同じ趣旨を執拗に繰り返してみたところで
真実には聞こえてきませんよ?
662人間七七四年:2010/07/17(土) 06:14:50 ID:4Y8swVBj
松川、手取川、直江状、愛の兜

捏造だらけの上杉。

663人間七七四年:2010/07/17(土) 09:24:09 ID:ggCN3Qr4
伊達は福島方面に何度も攻めてるけど、攻略できそうだったのは
最初だけ。大勝したのにそこで突然謎の退却があり、その後は守
りが堅くなった上杉軍をどうにもできなくなっている。流れを見
れば、松川合戦が全くの捏造とは思えない。
手取川は織田方の後詰が成功せず、七尾城を落とされているので、
結局織田方の敗北と言える。大規模な追撃戦があったとも思えない
けど、戦闘がなかったとも言い切れないでしょう。
直江状偽書説は最近怪しくなっている。原型に近いものが存在した
という説の方が有力。
兜の愛は愛宕権現の愛。大河で仁愛とかやってるのは時代小説の創
作のレベルの話で、捏造とは違う。片倉は政宗の軍師と言ってるの
と同じ。
664人間七七四年:2010/07/17(土) 12:13:29 ID:ul9DSzAq
>>661
片倉景綱の家臣が福島城攻めで討死にしただけで、
本庄や須田に挟撃w、されて討死にした訳ではないよww
665人間七七四年:2010/07/17(土) 13:32:28 ID:/bfN2Er8
>>659のように伊達が本庄に追い返されたのがわかれば
すぐさま捏造と言い出すのが伊達厨の特徴
何一つソース出せないで捏造とか言っちゃうんだからタチ悪いわー
666人間七七四年:2010/07/17(土) 16:35:30 ID:ul9DSzAq
それじゃあ、明確に答えてくれよ。
上杉厨は何をソースにしてるんだい?
捏造軍記じゃなくてね。
667人間七七四年:2010/07/17(土) 16:40:39 ID:CdR29Mrw
三戦板の松川スレからここへ移動してくるまで
長い議論仮定の中で多くの史料を突き合わせ整合性のある部分と
矛盾する部分を検討考慮して書き込んでるだろ。
伊達厨は伊達家自身が作った史料のみの偏った意見しかソースにしてないじゃん。
そんで韓国や中国みたいにこれが国定教科書だから正しいって主張してるから嘲笑されてきてるんだお。
668人間七七四年:2010/07/18(日) 07:26:35 ID:cGtDaH+m
【慶長6年4月26日の松川合戦の記録】

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/honjo_k.html

>この報に勢いをえた福島勢は、一層、奮い立って伊達勢を突きまくった。
一方、すでに浮き足立っていた伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱
に陥った。これをみてとった繁長が中央本陣に向かって集中攻撃をかけ
たことで、ついに伊達軍は総崩れとなり、無数の屍体を遺して退去した。
一方、福島勢は追い討ちをかけ、齋道二は政宗の本陣深く斬り込み、
政宗に二太刀まで斬り付けたが、馬上の政宗は辛うじて難を逃れたとい
われる。


軍記作者国枝清軒さんの誇大幻想の一例。(合戦の日時に一抹の疑念を抱いたのか、このHPの管理者は、何故か
伊達家の合戦の日付を採用しているw)
しかし、笑いどころはなんといっても「政宗に二太刀まで斬り付けた」のセンテンスである。
669人間七七四年:2010/07/18(日) 09:00:09 ID:lVEIITVm
 猶々態飛脚入念候儀、祝着ニ存候、以上
今度不慮之働候処ニ於福島堅固之防戦、殊更其地より半途乗切、何も勝手ニ被申付候故、
敵引除候由申来候、昨日如申、各堅固備と存候、猶其元之用心不可有油断候、恐々謹言
       直江
 三月廿九日 兼続(花押)
   築地修理殿
   御報

政宗が斬りつけられたかは別として、10月6日に福島勢
を追いつめた政宗は突然撤退し、その後、春まで再三攻撃
するも、福島、梁川勢の前に切り崩せずに終わったーって
流れは間違いない。
670人間七七四年:2010/07/18(日) 23:22:12 ID:SMPgmbui
初陣では政宗の身代わりを片倉が勤め
人取橋では佐竹の銃弾が政宗を襲い
郡山では討ち死にしそうな政宗の身代わりになり郡山城主伊東肥前が死亡

当時の戦況を見るに福島城下では
政宗の補佐をしてる片倉の危機に片倉をかばって陪臣2人が討ち死に。

秀康年譜には下記の記述もある。
福島の戦で上杉家の岡野左内に政宗は斬られ怪我を負った。
後日、秀康公に会い下馬をせず傷を指さして
「散々な目にあい下馬することが難しい状態なので無礼はお許し下さい」
そして馬に乗ったまま去った。
秀康公は笑い周りに向かい
「あいつたいした怪我でも無さそうだが?大けがのようにもっともらしく申して下馬しなかった。
昔からの態度だがほんと傲慢なヤツだ」と仰せになった。

いままた政宗が敵将に切りかかられても別にそれがウソだとも思えない。
671人間七七四年:2010/07/19(月) 02:02:08 ID:2Z9xNuph
>>670
>福島城下では政宗の補佐をしてる片倉の危機に片倉をかばって陪臣2人が討ち死に。

これ「治家家記録」の記述だね。伊達の被害は片倉の家臣2名討ち死に対して、上杉勢は三百名ほど
殲滅されたとあるので、やはり戦術面でも伊達側の圧勝だったことは間違いない。

>秀康年譜には下記の記述もある。
 福島の戦で上杉家の岡野左内に政宗は斬られ怪我を負った。

 この与太話の信憑性は皆無だね。笑止なり。よく調べてご覧。
 (岡左内=福島の戦い=慶長6年4月26日の「松川合戦」の構図になる)

それに、実際、岡が相手に戦っていたのは政宗の本隊ではなく、屋代景頼の部隊で、上杉勢は
殲滅的な打撃を受けて壊滅。岡ともども、信夫山と福島城へと逃げ帰っている。

やはり上杉方の当時の1次資料のなさは決定的だね。
672人間七七四年:2010/07/19(月) 09:23:18 ID:TC9U9vku
「伊達治家記録」も綱村時代の編纂だけど、文書とか記載されてるの?
673人間七七四年:2010/07/19(月) 09:53:21 ID:z6u0wqtL
松川合戦を一度の戦闘の話ととらえるからどちらかが一方を
フルボッコにしたなんていう極端な話になるんだよ。

政宗は10月に横田大学や大崎義隆らに寝返り工作を仕掛け、
福島方面を攻めた。まずは福島に打撃を与えた上で、梁川を攻
略するのが政宗の作戦。6日未明の書状で片倉が、内応者のい
る梁川を攻めるよう提案したのを「梁川攻めは7日」と退け、
「明日の梁川攻めのため」福島方面に進出することを告げてい
る。そして、政宗は梁川攻撃の前段として福島の上杉勢を撃破
して動きを封じることに成功する(6日)。
そして国見山に戻り、梁川をうかがう。ここまでは伊達の圧勝。

ところが、直江は4日までには梁川の内応工作に気づき、内応
工作が不調に終わる。政宗は本来の目的である梁川攻略が叶わ
ないまま撤退した。直江は横田らの更迭と共に、重臣の須田か
らも人質をとり、町人、地下人でも不審者は若松へ送るように
命じて、引き締めを徹底した。
政宗の目的は中途半端におわったため、10月9日、家臣に「今
回の合戦まずは満足だが、いま少し残念な部分が多い。でも時節
柄これでよしとするか」と書状を書き送っている。

いわゆる松川合戦=宮代合戦=10月6日の合戦ととらえると、
流れはこれで確定。須田の急襲がこのときにあったとは思えない。
ただ、その後の政宗はゲリラ的な攻撃しかできず、その都度撃退
されているので、政宗が斬られたかはともかく、不意を突かれた
場面がなかったとも言い切れない。
674人間七七四年:2010/07/19(月) 10:32:31 ID:FRGcOoS2
領土的野心の塊のような伊達政宗はそれまでなんのために戦をしてきたのか。

それは一重に領土拡張のため。上杉家とは根本的に思想が違う。

天下相手での乾坤一擲、革籠原決戦準備中の上杉に対して、伊達がやったことと言えばなんと!!そんな上杉の白石城を掠め取ること。

東軍勝利の後は福島に攻め込むものの伊達は一寸の領土も獲得できなかった。

10月6日の戦いの後、本庄は京都に行き戦後和平の交渉に当たっている。
それが可能に成る程伊達は壊滅的な状況に陥ったと思われる。

一方の最上は上杉家下吉忠の内応工作に成功し庄内を攻略。57万石の太守となったこととは対照的。
675人間七七四年:2010/07/19(月) 14:52:30 ID:XDwDYyOW
革籠原決戦は軍記物の創作。上杉家御年譜にもない。
むしろ直江が伊達の動きに注意していた中で、白石城を
奪ったのはむしろ野心旺盛な政宗らしい。
676人間七七四年:2010/07/19(月) 17:58:46 ID:gSoHQo/d
>>671
>>上杉勢は三百名ほど殲滅された
「治家家記録」には伊達軍の被害を隠蔽してるのが笑えるよね。
政宗陪臣が二人も死んでる以上はもっと被害があったんだろうね。
なんせこれ片倉小十郎が死にそうになって
かばって2人が討ち死にしたのを暗示してるじゃん。

秀康年譜にしても大坂での薩摩の記録にしても
伊達に都合が悪いものはすべて
おかしいおかしいと主張する方がおかしいのでは?
と言うかあなたは伊達の史料以外はみんなおかしいと毎回主張してるよね。
>>慶長6年4月26日の「松川合戦」
論破されると時間を置いてから
毎回アホみたいに日付を繰り返し持ち出すやり方もうウンザリだよ。
>>672>>673
一次史料を読んでも伊達治家記録の記述のようにはならない。
そう専門家も伊達治家記録の白石や松川の記述を軍紀だと断じてるからね。
いったい仙台も一次史料に存在しない記述の多くをどっからたくさんひっぱってきたのかねぇ。
特に白石城の件って明らかに完全な妄想軍紀である片倉代々記を元にしてるよね。
一次史料から白石の内容を考えるとマトモな戦闘があったかどうかも怪しい。
なんせ白石城将の大半を政宗は召しだしたと記していて、降伏を許したとか書いてない。
しかもこのちょっと前に、白石城主の甘粕は伊達を無視して白河へ移動してるわけ。
これから徳川を迎撃する上杉佐竹と伊達でなんらかの取り決めがあってもおかしくない。
ただ伊達の先遣隊は暴発して川俣を奪ったが速攻で上杉に奪回されてる。
そんで政宗は川俣を再奪回しようとしない。
どちらも伊達郡と白石の国境を守って双方が軍事行動しないのが取り決めの傍証になるね。
景綱が横田大学の内通をもって即日梁川攻略すべしと進言したのを
政宗自身が桑折口まですでに進軍してるから、この策を用いないことにしてるのに
何を妄言垂れてるのかねぇ。最初から梁川が目的なら支城だけ取って帰ることにしてたの?
そもそも本庄の軍と伊達軍の兵力差はねずみとライオンほど。
伊達が例え勝っても自慢にならないのに、しかもこれほどあやふやで判定に苦しい
戦闘になってること自体が恥ずかしい話だ。
それにマトモに本庄が策もなく戦うかね?本庄は謙信ともガチで戦った歴戦の剛の者だし。
さらに内応工作が失敗したから撤退したと言うのは
11月8日の井伊への手紙の中での言い訳だったような。
なんせ10月16日にはすでに内応発覚してるんだから。
片倉陪臣2人を討たれ、梁川に兵糧を奪われ挟撃を恐れ、
しかも本庄が政宗が近くにやってくると決戦準備をして討ってでようとしてたのを受けて
片倉は後ろ向き発言を繰り返し、その意見を入れて恐ろしさのあまり早く帰ろうと思い
撤退寸前の深夜には新たに斉藤兵部の内応が政宗にもたらされてたけど
石川も周囲は敵だらけかも知れない恐怖に怯えて政宗に一刻も早く帰ろう発言が出てるじゃん。
明らかに本庄の福島釣りこみと後方遮断策の前に福島攻略初日の夕方には、伊達主従は早くも
恐怖感でいっぱいになっててマトモに戦略を考えるゆとりもない心理状態に陥ってる。

革籠原のことについては参謀本部の日本戦史に詳細記述されてる。
(佐竹配下の多賀谷重経が家康の小山撤退を夜襲しようとして露見した話や
追撃を東政義が提案したなどの記述もある)
また断片的ながら福島系図や芋川文書や村越志摩覚書にも書かれてるので
徳川軍を前にして革籠原で何らかの戦闘を考慮してたのは間違いない。
677人間七七四年:2010/07/19(月) 18:35:31 ID:gSoHQo/d
メモ帳で文書書いてる時に削除し忘れた・・・以下削除
>>11月8日の井伊への手紙の中での言い訳だったような。
なんせ10月16日にはすでに内応発覚してるんだから<<



政宗→井伊へ
三月廿二日
南部からも攻撃されてまして伊達軍が討たれてるが
家康公から指示がないので南部への対応を控えてます←自分が悪いのに南部が悪いと言ってるw
佐竹から景勝へいろいろと話があったそうで
どうやら景勝の上洛は取りやめですぜ←上杉徳川の和睦をぶち壊そうと必死w
2.3日中に白石口を攻めますの、家康公も攻めてください←哀願w家康「だが断るw和賀同伴指名しますw」

そしてその後まもなく上杉側の文書に下記の者達へ福島での戦闘で
伊達軍を追い出した軍功は比類無いとの文書が発給されてます。
蓬田寒松斎
小島豊後守殿
築地修理青柳隼人佐
小田切安藝守

ここまでを以って松川合戦といえるでしょう。
678人間七七四年:2010/07/19(月) 23:07:38 ID:9G09gQJ+
>>676
>一次史料を読んでも伊達治家記録の記述のようにはならない。
>そう専門家も伊達治家記録の白石や松川の記述を軍紀だと断じてるからね。
それは初耳。誰がそう言ってるの?

>どちらも伊達郡と白石の国境を守って双方が軍事行動しないのが取り決めの傍証になるね。
直江はむしろ「家康は本当に攻めてくるのか」と疑って、伊達方面の防備を堅くしようと
していたし、のちに本庄に「公儀のため、白石城の奪還は諦めよう」と言ってるので、伊
達と上杉の「取り決め」なんてありえない。

>それにマトモに本庄が策もなく戦うかね?本庄は謙信ともガチで戦った歴戦の剛の者だし。
歴戦の剛の者だから裏をかかれないというのは根拠のない話。
そのあとの文章も自分の想像が混じってる。

>革籠原のことについては参謀本部の日本戦史に詳細記述されてる。
江戸時代に作られた白河口戦闘配備之図が米沢にあり、『東国太平記』
の記述と一致する。ただ、同盟以前の佐竹の配置があったり、地名に誤
りがあるなど、絵図に問題がある。
また、直江はこの時期下野方面に行っておらず、郡山にいたとされる。
「この絵図に示された作戦を史実とみるのは早計です」(上杉博物館)
という見方が最近の研究による結果。上杉御年譜にも、白河で迎撃態勢
を整えたなんて記述はない。

>>677の内容には同意だが。三月の政宗書状からは、十月のように好きに
上杉領を侵せない政宗のいらだちが見える。
679人間七七四年:2010/07/20(火) 00:36:33 ID:bL+XmhDc
だいたい小田原参陣のため一旦南会津口へ向かったが刺客を恐れ一旦引き返した。
その後、直江からの誘い(書状現存)を受けて
政宗は小国から上杉領内(越後、信濃)を通らせて貰ってやっと小田原に辿り着いている。
あと1日でも参陣が遅れれば、会津征伐は必ず実行されていただろう。政宗にとって直江は命の恩人。

岡左内、齋道二の話も元禄時代以降に編纂した伊達治家記録は、
なんらかの証明もせずにただ「偽リナリ」と必死に否定してるだけだし。
そんなに伊達が圧勝言うなら、こいつら何で討ち死にしてねーの?
須田が竹に雀の家紋を奪取した話も「両説不決」と証明もせずに必死に否定。
結局、伊達治家記録の編纂までは、それらをまったく否定してないわけで、
後世に政宗伝説を作り上げる必要性に駆られて伊達治家記録でマンセーしまくってるだけ。

蒲生氏郷普代衆を討ち取りと記し、さらに成実は越後兵(堀衆?溝口衆?村上衆?)を討つと記すなど、
当時の人が間違うはずがない簡単なミスが続出し認識が間違いまくりのデタラメばっかりが伊達の捏造を表している。
いったい関ヶ原の伊達軍は誰と戦ってるの?見えない敵と必死に戦う迷走ぶりだなw
無理やり「蒲生が減転封した時に上杉に仕えた」「もともと上杉は越後にいたから、いつもの癖で書いた」と解釈しないといけないかね?
なら蒲生氏にそいつらがいた証拠は?蒲生って書けば嘘でもどうせわからねーと思って書いたの?それとも後世の捏造かね?
白石にしたって上杉120万石のわずか東刈田郡8000石の地でしょ。
補給線の確保は信玄がいうように最も重要な任務であり優秀な大将に任せる。
政宗は補給線を軽視してたなら相当なアホだし、ナポレオンがロシアに敗れたのも、日露戦争で日本軍が早期和睦に持っていったのも補給能力に問題があったわけで
大東亜戦争の日本初期目的も補給能力を手に入れ自存自衛することであり、日本が敗北したのも通商破壊で日本への船舶輸送が破綻したから。
ゆえに伊達厨は荷駄による補給を出来る限り大したものじゃない重大じゃないと過小に印象づけたいわけだw
結局、政宗も牟田口や辻のような無能だったわけだ。

結城はデタラメを書いてる
島津はデタラメを書いてる
最上はデタラメを書いてる
上杉はデタラメを書いてる
佐竹はデタラメを書いてる
相馬はデタラメを書いてる
南部はデタラメを書いてる
蘆名に勝ってた(失笑)
佐竹に勝ってた(失笑)
最上に勝ってた(失笑)
蒲生に勝ってた(失笑)
上杉に勝ってた(失笑)
南部に勝ってた(失笑)
真田に勝ってた(失笑)
神保に勝った(事実www)


他家の史料と真っ向から正反対の記述を連発して書いている伊達史料だけが正しい事を記述している

もう基地外すぎてワロタwww
伊達史料ほど怪しいものはねぇよ。
680人間七七四年:2010/07/20(火) 05:53:59 ID:kDqQh92H
>>672
>「伊達治家記録」も綱村時代の編纂だけど、文書とか記載されてるの?

 書状の一部が載っている。この合戦の詳細は東大史料編纂室「家分け古文書 伊達家」の一次書状の中に載っている。
 そこには「政宗福島に大勝す」と脚注つきで、伊達家が上杉勢を宮代で敗北させた旨の書状、徳川家康からの
 戦功を賞する書状などが載っているわけだ。
 その中で見逃すことができない有名な一次資料が『伊達政宗最上陣覚書』。山形への最上への支援、武器、陣立てなどが
 詳細につづられている。宮代で上杉勢300余名を討ち取ったこと、片倉の家臣2名のみ討ち死にした、いわゆる福島の戦い
 の記載もある。

 
 早期に和睦を図った上杉の困窮した背景が、この大敗にあったことは当時の伊達の書状と、徳川家康の返書
 (具体的には、翌春春の雪解けを待って上杉を武力征伐に乗り出す)からみて間違いない。

 伊達と徳川の圧力に、上杉が本庄を家康に頭を下げさせに行ったのも無理もないわけだ。 
681人間七七四年:2010/07/20(火) 07:33:15 ID:wZHjshvW
>>680
詳しく説明して下さりありがとうございます。

勝利しながら、撤退したことが、後世いろいろな憶測を呼び、
話が作られていったということですかね。
結局は政宗の信達地方への野望は成就しなかったので、
結論からいうと本庄(上杉)は交渉力で守り抜いたということでしょうか?
まあ家康の考えもあったと思うけど。
最上ほど信頼されてなかったということかなあ。
言い訳してるけど、家康には「まるっとお見とうし」されてたのか。
682人間七七四年:2010/07/20(火) 08:59:31 ID:zzZ7SsI2
>>680
>早期に和睦を図った上杉の困窮した背景が、この大敗にあったことは当時の伊達の書状と、徳川家康の返書
>(具体的には、翌春春の雪解けを待って上杉を武力征伐に乗り出す)からみて間違いない。

足軽頭クラスの将が上杉で5人、伊達で2人戦死してるわけだから、伊達が勝利したことは
間違いないけど、上杉方の書状を見ても、宮代での敗北が急に徳川との和睦させる契機にな
ったとはとても思えない。その後、伊達単独では手詰まりになったから、政宗は公儀の上杉
征伐を望んだわけだし。
683人間七七四年:2010/07/21(水) 01:49:44 ID:15Md71oG
まー白石城に関しては、明らかに密約があったね。
当時は家康の鷹匠が陸奥各地で諜報活動してるから、
うまく演技しつつ頃合を見て
白石首脳陣が密約どおりに城を明け渡すことにした時に
それを知らされていない葛西大崎の旧臣が
城内で暴動を起こして反対して鎮圧されてるくらいだからね。
さらに白河から家康らが去るや、直江が福島へ着陣し情報分析。
小野寺の西軍化をみて、政宗はビビって白石城返還和睦を申し出る始末。
さらに東軍の南部を攻撃して直江に尻尾を振り、裏で必死に結城秀康に上杉攻撃を哀願w
呆れた直江も政宗の家老2人くらい同陣させるように交渉だけ続けとけと言って米沢へ帰る。

>>680
家康への政宗の一方的な自軍マンセー捏造報告の返答であって
政宗の報告は言わば「大本営発表本日米英空母を沖縄にて30隻撃沈の大勝利」みたいなもん。
のちに本庄が家康との和睦交渉に行くと家康も真実を知り、来春の上杉討伐を中止し
>>677の政宗→井伊への書状のような状況に政宗は置かれる。

>>682
足軽頭と政宗陪臣2人じゃ率いる軍勢には大きな差があるわけだがw
しかも力押しの伊達軍2万と策を弄した本庄軍3000の戦いなのであってwww

684人間七七四年:2010/07/21(水) 08:21:42 ID:J+ZH0EX3
>>683
白石城の密約とか妄言やめろよ。

伊達側の史料が全部捏造だとしても、白石の守りを堅固にし、政宗の
動きを警戒するよう述べた直江の7月14日書状、「白石などの事」
にかまうことなく政宗と和睦するよう命じた9月3日の書状だけでも
そんな密約がなかったことが分かる。
685人間七七四年:2010/07/21(水) 11:37:10 ID:UG3DJN9E
福島県公式の歴史サイトでも、
http://www.history-archives.fks.ed.jp/con7/shiryo-27.html
上杉の史料は怪しいと研究員に指摘されてるのにねえ。

捏造軍記じゃない、上杉の史料って何?
具体名挙げてくれよ。
686人間七七四年:2010/07/21(水) 16:37:14 ID:0pE4vEs5
東国太平記、会津陣物語は別に上杉の史料ってわけじゃないでしょう。
上杉博物館だってそんな軍記物の記述採用してませんが?

江戸時代には当然軍記物を読む人はいても、庶民が「治家記録」なんて読むはずないだろ。
だからそっちの方が人口に膾炙されて一般に流布してんだよ。
687人間七七四年:2010/07/21(水) 17:38:29 ID:Z43U+ihA
結局領土を取れなかった伊達厨が悔しまぎれに騒いでるスレはここですか?
蝙蝠みたいな事やって100万石になれず悔しいのうwww
688人間七七四年:2010/07/22(木) 02:39:05 ID:Z2GocdxE
つうかさ、伊達厨が論破されてもう何も言えない状態がずっと続いてて
ここに書かれてるのは全部、過去の松川関連のスレのコピペ転載と
松川関連の検索を必死にかけて伊達贔屓の他人のHPからのパクりコピペばっかだから可哀想だよな。
689人間七七四年:2010/07/22(木) 04:40:52 ID:E+00tMbQ
>>685福島県公式の歴史サイト
 http://www.history-archives.fks.ed.jp/con7/shiryo-27.html

そこにも記載されているように、伊達家の福島攻撃の目的は、当初は梁川城にあったわけだ。
政宗は、梁川城を内奥工作で揺さぶりながら、慶長5年10月6日に福島城も攻める。それで梁川城は
翌朝7日に実施すると明確に伝えている(片倉宛返書)。

慶長5年10月6日の未明から戦闘が行われたが、この日は非常に霧が深く、霧の中から突然出現して襲撃してきた
伊達の大軍(主部隊は茂庭石見、屋代勘解由等)に、桑折方面を守備していた上杉勢は、瀬上町方面へと
潰走していく。ここでほとんどの上杉勢が討たれ、福島城と信夫山へ逃げ込んでいった。

この上杉の様を、伊達家では俗に「瀬上町崩れ」とも呼んでいる。

政宗が本陣を羽黒山嶺の黒沼神社に置いて、討ち取った上杉の首級実検を行ったのはこの後のことだ。

690人間七七四年:2010/07/22(木) 06:32:46 ID:BaZpOQ4Z
2万も大動員しながら目的がたかが支城だけとかありえねーwww
同時期の義光の実績と比べてみても政宗が雀の涙程度の目的しかないとか有り得ないの明白だわ。
691人間七七四年:2010/07/22(木) 09:08:57 ID:M8MJFURD
>>689
東国太平記などの「松川合戦」に信憑性がない
と言ってるだけで、上杉方の史料はふんだんに
使ってるよ。しかも伊達の圧勝で終わったとは
主張していない。
692人間七七四年:2010/07/22(木) 16:12:51 ID:EpWNSgY9
>>688
負けた奴に限って、論破したとか言うんだよなw
何も言えないんじゃなくて、上杉の捏造軍記につき合ってられないだけww

いい加減、上杉が何の史料を基に歴史を語ってるのか教えてくれよ?
693人間七七四年:2010/07/22(木) 17:21:46 ID:Z2GocdxE
>>684
>>直江の7月14日書状、「白石などの事」
これこそ白石譲渡案の根拠でしょ。
わざわざ14日に甘粕を白石へ派遣して、譲渡の仕方を打ち合わせさせてから
さっさと白石から甘粕は兵を連れて白河へ去っていき、
甘粕が去ると政宗が21日には直ちに白石へ出馬するという都合がよい連携行動w
いったいそれ以上に甘粕派遣の意味なんてないだろw
>>9月3日の書状
これだって、白石のことは気にすんな。それより政宗を御同陣させるように交渉してくれ。
もしそれが無理そうでも家老と兵5000でもよいから同陣させるよう交渉継続してね。
あと梁川城は福島城と白石城のつなぎにもなる場所だからって書いてあって
そもそも白石城が伊達との交渉用としての便宜上、譲渡されたことがわかる。
同じ刈田郡でも西部の山深い僻地の湯原城は兵すらいない中で譲渡だ。
だいたい白石落城させておきながら家臣への恩賞に関わる大切な討ち取り人数が数百人とか曖昧過ぎだろw
奥羽永慶ですら白石城での討ち取り人数はまったく明記されてすらいないわけだが
まぁ捏造報告だから曖昧なんだろうが。
商人や鷹匠らによる家康の監視があるから、
最初から密約に基づいて登坂が降伏するわけにはいかないから1日だけちょっと抵抗してみせた自演だろうが。
我等手前抱置候←降将に対する扱いではないな。やはり示し合わせた談合の証拠。
そして誰も見てない刈田郡奥地の湯原城では家康の監視もないので、白石城のような戦うフリもせずに安心して無血開城して伊達にプレゼントしました。
三光録にある白石軍記(白石城攻略)と山中記(白石城攻略後日談で石川義宗の手柄話)と言う軍記を元ネタ種本にした片倉代々記に書いてある内容そのものだ。700人討ち取りのガセもこれ。
もちろん史実にはまったく認定されない妄想話で石川義宗などはとっくに死んだはずの中野常陸介を討伐して政宗から褒められたりする笑える話が書かれている。
それどころか鹿子田右衛門が二本松畠山義継を唆して輝宗を拉致させた張本人の息子だと書くムリヤリ感ある基準が実に講談風だ。
鹿子田日向が畠山家老の子などと言うのは上杉側資料にはないな。
北越軍記では甘粕が会津の妻の訃報で留守、また白石落城では鹿子田日向守171人討ち死にと記すね。もちろんこれも信用性ゼロの軍記だ。
ちなみに福島県史では甘粕が白河の軍議に参加していて留守と断定してる。
694人間七七四年:2010/07/22(木) 17:22:58 ID:Z2GocdxE
さて白石軍記では米沢から白石までの七ケ宿街道を伊達側の野伏達が支配し白石城から米沢へ向かおうとする鹿子田を襲撃したりしたと書く。
さらに茂庭の足軽隊200にその野伏ら(九代政宗時代からの恩を感じていたらしい)と湯原城守備を担った住民達(これまた政宗時代からの恩〜)が味方を申し入れ新宿攻略に活躍とのこと。
(新宿城主大畠吉兵衛に人質を取られていた湯原の18人も人質を犠牲にしてまで)
さて北越軍談→湯原城で政宗は甘粕備後や岩井備中の前に敗れ渡瀬へ逃走。
政宗→政景9/26「急度申遣候。昨日二十五日湯原へ足軽動申付、彼城即手に入候、内々撫切に可申付候処、普代の筋を以、頻に詫言候条、身命ばかり相助け引出候、新宿峠まで打かけ、悉く郷村放火仕り」
この政宗の文書でわかるのは、湯原城で撫で切りしようとしたが、住人達が詫びをいれたから助けたのち、新宿城攻めに失敗し村に火を付け帰ったと言うこと。
さらに置賜郡史「米沢地名選」には遠藤盛利の守る新宿城攻撃で大敗した片倉が湯原まで敗走したと言う。
白石軍記などは七ケ宿村の者達が口伝を書いて藩に提出したそうな。 明らかに七ケ村の者達が自分を擁護して伊達の恩とか主張してるし
片倉代々記が新宿城で大敗した話を黙殺してるのがわかる。
和賀一揆を支援した政宗に対して反撃した南部側に花巻で敗れた伊達軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
南部軍は4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破し26日には岩崎城を陥落させ、伊達軍は岩崎が火の海になる中を逃げ惑い伊達領へ壊走した。
その時たまたま家康の鷹匠が現地にいたので南部利直はさっそく井伊直政宛に書状を書いてる。
政宗は家康に対しては、すべて和賀のせいにして無理やり自刃させ、その首を利直へ贈り、あなたの賊は政宗が成敗したから今回の事は水に流して欲しいと哀願。
さらに今井宗薫へ宛て百万石はムリでもせめて堪忍分として十万石でも二十万石でもどっちでもいいから加増させてもらいたいと哀願したと書かれている
岩崎城攻撃は3月から約一ヶ月間。南部の花巻城でのゴタゴタは政宗が山形に兵を送った頃で、花巻城防衛に南部が成功した後は、関ヶ原終了で南部側も様子見していた。
下手に伊達と大規模紛争したらまかり間違って上杉側と思われるような誤解が怖かったからだ。
政宗から山形へ兵をもらい助けてもらったはずの最上側もさっそく家康に政宗の南部侵攻の暴挙を報告してる。
そのうち雪が降ってきたので岩崎城を放置。 すると政宗が岩崎城の兵力と物資を増強。
3月には南部は伊達攻撃について家康から許可をもらったのだろう。
つまり家康は伊達を東軍とは到底認識しておらず見捨てたにも等しい。
政宗の南部領花巻城攻撃では家康のスパイの鷹商にいち早く知られたと言う。
白石城では狂言の城攻めでうまく誤魔化したと言うことだろう。
695人間七七四年:2010/07/22(木) 17:29:25 ID:Z2GocdxE
おっと途中で文章が抜けてしまってたぜ。

この白石城攻めは白石軍記と北越軍記に記されており双方ともに信憑性ゼロだ。
ここではっきりわかるのは、甘粕が伊達の軍事的圧迫を気にせず白河決戦に向け白石城兵を連れて出撃してること。
七ケ宿街道で悠長に野伏が街道をふさいだりなんてことは伊達に対して貢献したとする嘘だろう。
七ケ宿側がいう新宿城主大畠吉兵衛は会津に帰ったのか?そこには遠藤盛利がいることになってるが遠藤は地元住人なのだろうか。
それとも七ケ村の住人達が大畠の元にいる人質を犠牲にしてまで伊達に尽くしたと主張するのは仙台に対する嘘か?
ただ政宗書状には湯原城に上杉兵がいなかったのがわかる。よって地元住人達が降伏し円滑に受け渡しが可能だった。
つまり刈田郡は伊達との密約で上杉が譲渡する予定だった。
白石城で1日抵抗してみせたのも家康の監視を誤魔化すため。
より奥域の湯原城では家康の目を気にする必要はなく上杉兵は伊達に渡すために撤退した。
新宿城にいた住人遠藤盛利は湯原の住人とは対立してきてたのか?降伏を潔しとせず抵抗したので片倉が攻め立てたが大敗した。もちろん上杉の援軍は来ない。
北越軍記もデタラメならもちろん片倉代々記も片倉マンセーのデタラメ書。
双方ともに徳川に対する密約の存在を隠蔽する為にもっともらしく捏造軍記を作ったわけだ。
696人間七七四年:2010/07/23(金) 00:42:17 ID:Pyxe1zxF
>>693
九月三日の本庄宛て直江書状の一条目
「奥口御無事之儀、両使御相談にて相済まらるべく候、連々御申す如く、
御不足の儀候とも、天下へ御奉公と思し召し、白石などのことに御構いな
く、公儀さえ能く候はば、御調尤もに候」
「奥口和睦(伊達との和睦)のこと、両使(黒金、竹俣)に相談しながら
進めるべきだ。続けて言っているように、不満であろうと思うが、天下
(豊臣家)への奉公と考えて、白石などのことは構わず、公儀さえ認めれ
ば(和睦を)整えるのがよい」
どこが密約の根拠になるのでしょう。
八月中旬には直江は白石を攻める計画も立てたり、梁川が危ない時の対策
を指示したりしている。
697人間七七四年:2010/07/23(金) 05:16:13 ID:n0lCjV9h
上杉研究者の中で白石の密約説なんか主張してる人は皆無だと思うけどねえ。
698人間七七四年:2010/07/23(金) 05:51:58 ID:AYdhj16m
『伊達政宗 野望に彩られた独眼龍の生涯』(新紀元社 相川 司 著)
などは「東国太平記」を史実だとして、政宗伝を書いてるからな。

「東国太平記」の影響の強さと思いこみの激しさはある意味すごい。
この著書で可笑しいのは慶長6年になっても伊達が攻めてきたとを
書きながら、大激戦のあった松川合戦(「東国太平記の白眉の箇所」)
については詳細を逃げていることで、

      慶長6年4月

とだけしか、書いていないことだ。ここは笑いどころだね。
699人間七七四年:2010/07/23(金) 14:45:56 ID:c1bJhr+s
なるほど
密約だったのを隠すために
白石城の譲渡に反対した大崎葛西の旧臣たちの暴動による死人を
伊達の戦果に捏造したのがもはや明白だな。
そして白石城譲渡した城主代行達を政宗は敵の降将として遇してはいないのもわかるね。
700人間七七四年:2010/07/23(金) 16:13:35 ID:zOysC+vu
歴代古案1538
日付については検討の余地がある書状ではあるが
政宗が白石攻めに失敗して上杉の武威に再考を余儀なくされたのは事実であろう)

6/27政宗→井伊
6/14に令があり、夜を日についで23日に大崎に着き
1日休息して6/24の片倉を先手に白石城を攻めたが
甘粕の指揮の前に破れた。

これに懲りた政宗は到底、伊達軍の力量では白石城を落とせないと
心底痛感し、かつまた上杉の実力と佐竹の内通を知り
家康に隠れて西軍に内通することで7月に、
甘粕が取り決めどおり去った後に白石城を政宗は受け取ったのであろう。
701人間七七四年:2010/07/24(土) 07:03:22 ID:lREOEb/i
>>700
普通にありえないよ。
7月中旬〜下旬の直江書状を読め。
伊達が単独で白石を落とせないと思ったとして、
上方軍がこれから攻めてくるのに、無駄に上杉と
盟約を結ぶわけがない。佐竹も同じ。
家康が反転してからだよ。政宗ら周辺諸国が上杉に
しっぽを振るのは。
702人間七七四年:2010/07/24(土) 10:43:32 ID:/E4HZmVL
>>700
上杉の武威って、徳川に頭下げて米沢30万石になる事かな?w

伊達の戦略は上杉を北から牽制して、南の徳川に対する防備を撹乱する事だ。
それで、領土も切り取れれば儲けものというだけ。
無理攻めをする必要は無いんだよ。
まあ、白石城譲渡説を主張しているまともな研究者などいないだろうけど。
703人間七七四年:2010/07/24(土) 12:11:49 ID:m4hqgZZB
白石城は七百余名を討ち取られてわずか1日で陥落。白石城内では降伏を巡って同士討ちをす
るなどの醜態を演じている。徳川家康から派遣された今井宗薫は白石城陥落後の状況を見聞して
いる。7月晦日の政宗宛徳川秀忠の書状を見ると、伊達が完膚なきまで上杉を叩き、開城させた
様子がうかがえる。
704人間七七四年:2010/07/24(土) 14:27:16 ID:9IISXHoQ
ヘタレ弱伊達涙目なのがわかりました
705人間七七四年:2010/07/24(土) 14:37:27 ID:aoDAhW+a
>>703
家康に派遣された今井宗薫?

宗薫って、秀吉の遺命に逆らって、五郎八姫と忠輝の婚約を周旋したかどで、
五奉行に詰問されて高野山に蟄居してたんじゃないの?
慶長5年9月29日、政宗が家康に出羽の状況を伝えた書状の宛名が、
村越と宗薫なんで、関ヶ原時は家康の側にいたと思うけど。
706人間七七四年:2010/08/05(木) 22:46:33 ID:zfDtrstb
白石なんて秀忠軍を破れば自然と戻ってくる土地。

当時、上杉は伊達なんか屁程もかまってないっしょ。

一方、卑怯者の伊達は当然、白石城に全軍総攻撃、だよね。

なんてケツの穴に小さい、伊達ってやっぱ弱体化した蘆名あたりじゃないと勝てない訳だ。
707人間七七四年:2010/08/06(金) 01:32:56 ID:RiudyQqB
>>703
それは認識が違うな。
それなら東軍勝利のあとは上杉領に
侵入する必要がない。
伊達はあくまで公儀によって隣の上杉が
叩かれるというチャンスにいかに功績を
挙げるかという領土的な野心に燃えてい
たんだよ。
708人間七七四年:2010/08/07(土) 21:37:04 ID:qPZZ/78l
その通り。伊達は上杉に福島・梁川の挟撃で叩き出され一寸の領土も奪えなかったばかりか、その後は戦闘不能の状態まで陥った。

その結果、福島城主本庄繁長は京都に赴くことが出来る様になり、徳川との和平交渉に当たる事が出来るまでになった。
709人間七七四年:2010/08/08(日) 01:55:23 ID:my79ocZy
本庄がいない間は須田が守ってる。
知行の空発給しながらギリギリで戦ってる
ので、すくなくとも伊達が戦闘不能に陥った
りはしていない。本庄がいなくなってからも
たびたび上杉領に攻め込んでるしね。
710人間七七四年:2010/08/08(日) 02:03:35 ID:KrbsUiL3
景勝・直江主従はなんで隠居扱いにならずに済んだんだろう。
毛利輝元と島津義弘の両当主は剃髪強制隠居の実質領地召し上げの改易。
その後、家康が毛利秀就と島津忠恒を宛名に領地の再交付による安堵で存続が許されたわけだし。
上杉主従が関が原後に初めて家康と会談した時、
薩摩の記録によると上杉主従はなんら悪びれず堂々と会談に臨んだって言うし、
家康は直江の武功を褒め称えて喜んだとも言うし。
この主従と家康の関係ってよくわからねぇよな。
なんで後世のためにもっとたくさん記録を残してくれねーんだよとw
711人間七七四年:2010/08/08(日) 03:51:08 ID:mlBSR/3c
戦術的には上杉兵三百余を殲滅し、立ち上がれないほどの打撃を与えてるし、
戦略的にも仙台城の築城許可と家康の上杉征伐を引き出している。
よって伊達の勝利と断定しては間違いないだろう。
慶長6年になっても、上杉は伊達にぼこられ、国境を放火されて泣き寝入り
するだけで終了している。
712人間七七四年:2010/08/08(日) 12:29:51 ID:my79ocZy
そこまで打撃を与えたなら福島と本来の目的である梁川
を落としてもいいんじゃないのか。
713人間七七四年:2010/08/10(火) 18:19:10 ID:b7tUxl8C
伊達はやさしいんだよ。きっと
714人間七七四年:2010/08/14(土) 21:38:49 ID:31LBw0NL
そうだね、伊達はやさしいんだよ。
上杉には小田原参陣で直江から参陣手引きの書状を貰ったり、上杉領土を通らせて貰ったりして命の恩義があるしね。
715人間七七四年:2010/08/14(土) 21:55:27 ID:J2G0scDe
そもそもなんで上杉景勝は愛着ある越後から伊達政宗の旧領、米沢・会津に移封されちゃったの?
716人間七七四年:2010/08/15(日) 07:21:18 ID:RddgI3is
越後が余りに経済的に発展しているので豊臣から危険視されたんだろう。
もともと上杉謙信の強さも越後の経済力に依存していた部分もある。

会津転封では確かに米の石高は92万石から120万石に増加されたけど、直江が商業港として開発した直江津や新潟、各種鉱山を全て失うことになったんだから。

それに比べて会津は米しかとれない。蘆名の時代から経済はほとんど発展していなかった。

上杉は越後と比較して経済があまりに遅れているため公共事業(神指城の城下町整備や道路建設)を連発。
結果として、その公共事業が「謀反の兆しあり」とされてしまったんだから上杉にとっては皮肉。

上杉としては転封を絶対受け入れるべきではなかった(受け入れたく無かった)んだろうけど、景勝・直江とも豊臣(石田)に対して人が良すぎるからね。
伊達や最上、徳川とかのど真ん中に入れられて、結果としては貧乏籤を引いたんでしょう。
717人間七七四年:2010/08/15(日) 12:11:58 ID:8cZc3aOR
しかし庄内や佐渡を引き続き支配できるように交渉して許可をもらい蒲生会津時代より領地を拡大させてる手腕は見事だし
この交渉の中で謀反人本庄を許してもらう許可
さらに大坂城、広島城に続く巨城新築許可を得た奥羽鎮護の神指城。
この辺りの交渉術はすごいと思う。
謙信の強さは越山を繰り返した体力を持つ越後兵の精強さだね。しかも祖父や父以来、争乱を繰り返した強者の国だからね。
秀吉が死ぬタイミングが悪く準備完了できなかったんだな。
718人間七七四年:2010/08/15(日) 12:49:27 ID:II1/xILQ
会津移封に関しては、最近の研究では、景勝による支配体制強化
の総仕上げと指摘されてるね。
家臣たちを領地から切り離して、改めて景勝から知行を与える
ことで近世大名への脱皮が完了する。

越後に愛着がないわけではないのだろうけど、それより政治判
断を重視したんでしょう。
719人間七七四年:2010/08/15(日) 20:34:35 ID:KO+ruH6q
まあ秀吉がもうちょい長生きしてれば新しい体制に脱却出来たかもしれんが・・・
いかんせん家康が関東統治すんの早過ぎるし喧嘩ふっかけんの早過ぎ

まあ松川は・・・↑で言ったように政宗が優しかったか100万石貰えると信じてたからわざわざ奪わなかったか、
もしくは上杉が勝ってたか、そんな戦い無かったかだな
720人間七七四年:2010/08/16(月) 10:36:49 ID:GjiVy42w
上杉家は内乱を通じて国人領主の力を削いでいるので、
近世大名化は早い。

百万石のお墨付きは政宗本人でなく、家老衆への加増で、
家康はそれだけ政宗を信用していないし、伊達家での家老
衆の発言力が強いことを示している。

10月7日、政宗は梁川城攻略の前に福島城の兵を破って
城に封じたけど、肝心な梁川での内応工作が直江にばれて
退却。
その後春までたびたび攻め込むが上杉の防備が固く、
ゲリラ的な攻撃に終始。「上杉は佐竹に説得されて徳川と
和睦しないことが濃厚になった」と虚言を用いるなどして
家康の会津再征を引き出そうとするが失敗し、加増はわず
かにとどまる。
一次史料見ればこの流れでどっちも大勝利なんてしていない。
721人間七七四年:2010/08/21(土) 16:55:42 ID:NOJVgyek
要するに、直江隊が最上・米沢から福島へ入る前に、福島城・梁川城を落としてしまおうという伊達本隊の作戦が本庄・須田隊の反撃により結局失敗したってことが一次資料上では読み解ける訳ですね?
722人間七七四年:2010/08/21(土) 17:52:47 ID:uAweRhpE
>>721
>伊達本隊の作戦が本庄・須田隊の反撃

上杉勢はほぼ壊滅して福島城で籠城してただけなので「反撃」すらできていない。
伊達政宗はこれを家康へのアピール材料にして、翌年の上杉包囲殲滅戦への足かがりもつけて
優位に立っている。

伊達側の被害はほとんどなく、戦略的にも戦術的にも伊達の勝利と考えて間違いはない。
723人間七七四年:2010/08/21(土) 19:33:59 ID:q7KXDYA3
伊達側に被害が全くないとする一次史料をまず出してもらおうか?
つか伊達と本庄の戦力差から考えれば伊達の大敗北にしか見えんな。
724人間七七四年:2010/08/21(土) 21:27:24 ID:Snbglqur
>>722
領土増えてないよね
そこらへんはどうすんの
725人間七七四年:2010/08/23(月) 00:27:19 ID:7hcHTPGy
>>723
そもそも政宗は手薄で内応工作もばっちりだからと福島方面に
出陣した。隙を突くのは当然で、兵が少ないからとか多いから
というのは関係ない。
一次史料では本庄がやったのは最上攻め前の伊達との停戦継続
で、政宗との戦いでどうしたというのは不明。
政宗は10月上旬の梁川攻略が中途半端に終わり、のちに「景勝
が籠もってばかりじゃなく攻撃してくればいいのに」みたいに愚
痴ってるけど、それは上杉が積極的な軍事行動すれば家康の会津
再征が現実的になるから。これは三月の書状なのでまだまだ上杉
領の切り取りに野心を燃やしているということ。
政宗は家康に「上杉は佐竹に説得されて上洛しない」と伝えたり
何としても会津再征を実現しようとしている。裏を返せば、福島
方面の上杉勢が手薄な10月初めのチャンスが失敗に終わり、あ
とは独力で上杉を切り崩すことはできなくなっていたということ。
726人間七七四年:2010/08/23(月) 06:08:02 ID:IbnNK97A
>>723
>伊達側に被害が全くないとする一次史料をまず出してもらおうか?
 
 「被害はほとんどなく」→「被害が全くない」と何を自分に都合よく脳内変換してるんだか。
 既出の通り伊達側の一次資料は『大日本古文書 家わけ第三 伊達家文書之二』伊達政宗最上陣覚書
 他書状類。

>つか伊達と本庄の戦力差から考えれば伊達の大敗北にしか見えんな

 「見えんな」とはおまえの単なる印象批評だろ。他人を説得するにはもう少し論理的になってご覧。
 まあ、とりあえず、上杉の勝利に「見える」上杉側の一次資料を出してもらおうか。

 遁走などみっともないことはしないで。気長に待たせてもらうよ。

727人間七七四年:2010/08/25(水) 07:33:14 ID:tHYrmOwR
test
728人間七七四年:2010/08/25(水) 21:32:29 ID:5spnOARO
>>726
>>723じゃないけど慶長六年三月の戦いでは上杉が伊達を撃退して
終わり、複数の感状が出されている。
感状の一部は現存しており、実際に戦闘があったことは確かだが、
伊達の史料では戦の存在自体が記されていない。
729人間七七四年:2010/08/26(木) 04:11:39 ID:SaeTp8fE
>>728
>慶長六年三月の戦いでは上杉が伊達を撃退して終わり、複数の感状が出されている。

 その「三月の戦い」を詳しく紹介してくれないかな。@具体的にどんな戦闘が行われたのか。
 A史料の出典元は何か。B感状が複数あるのであれば、一通でもいいので引用してみて。
 とりあえずこの3点をお願いしたい。

 『伊達政宗文書』では概ね>>726の主張の通り、伊達政宗は慶長6年2月17日に上杉領侵攻のための
 「御家臣等軍役の人数改めの内示」をして戦闘準備を進めていたが、実際には家康の上杉征伐の件が
 宙に浮き、結果的に中止。また3月20日に伊達政景へ宛てた「上杉景勝との御戦御心懸の条々の御返
 書」の中で、上杉は籠城の用意ばかりして会津に立てこもっているので、戦いにすらならないと述べて
 おり、この時点で大規模な軍事衝突は発生していない。1次史料を見る限り。
 だからこそ、>>728は「慶長六年三月の戦いでは上杉が伊達を撃退して終わり」のソースを明示して欲しい。

 それと同時に、本筋である慶長5年10月6日の上杉の勝利に「見える」上杉側の一次資料。
 「ないなら」ないと潔く自白したほうが楽になるだろう。
730人間七七四年:2010/08/26(木) 09:09:37 ID:WQNBLfbt
本筋が10月6日だというのは君と>>723の間の話だろ。
政宗は翌年に上杉と徳川の和睦が成るまでどうにかして
上杉領の切り取りを図って策を巡らしていた。
政宗は10月6日に福島勢を野戦で破ったが、内応工作
が露見するなどして目的を果たせずに撤退。伊達の侵攻
はその後も続き、軍記物でいう松川の戦いは慶長5年1
0月から上杉・徳川までの指すべきだ。

慶長6年3月の戦いは『上杉御年譜』だと慶長3年3月
に史料が掲載されているが、それだと惣無事違反なので
慶長6年に比定するのが自然。築地修理宛ては>>669に掲
載されている。

今度政宗其地罷出候処、堅固之防戦就之者、
別而走廻候由尤珍重候、猶水常可有傳達候、恐々謹言、
        直江
 卯月二日    兼続
 蓬田寒松斎

今度向信夫、政宗罷出候処ニ、其地より見届、半途乗切、
就之其方走廻高名之由、車所より申來候、度々神妙ニ候、
重而 御書可有之条、先申届候、恐々謹言、
            直江
     三月廿九日  兼續
      小島豊後守殿
            まいる

3月9日の家康宛て書状で政宗は景勝上洛の噂を聞いて
上杉攻めを「遠慮している」と言っているが、その政景
宛て3月20日の書状では「兎に角一度戦いたい」、さ
らに3月22日井伊宛て書状では勝手に上杉が上洛を中
止したと判断し、「2、3日中に白石から攻撃する」と
述べている。それが上記の感状につながる。
731人間七七四年:2010/08/26(木) 10:34:27 ID:7Xbp7CTP
Sub臭ぷんぷん
732人間七七四年:2010/08/26(木) 23:47:32 ID:WQNBLfbt
さぶなら、
政宗の陣を急襲して上杉が大勝利というだろ。
733人間七七四年:2010/08/27(金) 02:52:40 ID:qdpXtI9b
>>730が書いた文章からは怪しさと支離滅裂さがぷんぷん臭ってくるな。
 結局、慶長5年10月6日の戦闘を示す一次史料は、上杉には一切ないことが証明されたね。

>慶長6年3月の戦いは『上杉御年譜』だと慶長3年3月に史料が掲載されているが、
 それだと惣無事違反なので慶長6年に比定するのが自然。

 史料は『上杉御年譜』?それも慶長3年3月?そもそも『上杉御年譜』には慶長5年10月22日
に伊達と上杉が交戦したと記載されてるので、辻褄が全く合わなくなるぞ。
(22日政宗再び桑折に出て郷民を侵掠す。上杉の士貝原勘解由等奮戦し之を叩く。兼続書を与え、
26日之を賞する…といった内容)この件はどうなのか>>730は改めて申し開きを要するね。


>政宗は10月6日に福島勢を野戦で破ったが、内応工作が露見するなどして目的を果たせずに撤退。
 伊達の侵攻はその後も続き、軍記物でいう松川の戦いは慶長5年10月から上杉・徳川までの指す
 べきだ。

 この文章は、おそらく「松川の戦い」は慶長5年10月6日〜翌年6年3月〜4頃までの戦い全体を
呼称すべきだという「珍説」を>>730は主張しているように見えるが、こんな「珍説」を唱える人間は
日本広しといえど1人しかいない。
>>730は『武功夜話』でアク禁を食らった、一説には名古屋在住のReonareona じゃね?
(これが有名なsubと同一人物なのかは不明だが)

>松川の戦い(まつかわのたたかい)は慶長5年(1600年)5月6日〜慶長6年4月26日まで、現在の福島県福島市の中心部で
 伊達政宗と上杉景勝麾下の本庄繁長・須田長義が戦った合戦。関ヶ原合戦と前後して全国各地で起きた徳川家康方(東軍)
 と石田三成方(西軍)の戦いの一つ。松川での激戦は慶長6年4月26日のことと改正三河後風土記に記載されている。
 Reonareona (会話 | 投稿記録) によるwikiの書き換え記録:2008年10月14日 (火) 00:04


734人間七七四年:2010/08/27(金) 09:40:54 ID:scJBmj6r
>>733
無駄なことなので一度しか言わないけど、意見が違う相手を
根拠もないままにサブだのアク禁だの言って批判するのはど
うなのだろうか。サブでもなければアク禁もされてないけど、
サブだと指摘すれば反論しなければいいわけではないから、
無意味な発言だろう。

感状を掲載しているのは『上杉御年譜』など。

>辻褄が全く合わなくなるぞ。
なぜ?伊達と上杉の戦闘が一度しかなかったと考えるほう
が不自然では。

>日本広しといえど1人しかいない。
このスレにもほかに同様のことを主張している人がいた
けど。福島の学芸員の方もブログに書いているし。
10月6日の戦いを「松川の戦い」と呼ぶなら、本庄や
須田が政宗を遁走させるような反撃して終わった可能性
はほとんどない。
ただ、いわゆる松川の戦いの「政宗は福島方面の切り取
りを図ったが、大利を得ることはできなかった」という
歴史的な意義を日付より重視して考えると、徳川と上杉
の和睦までを含めて考えるべきではということだよ。
当然、政宗の背中に切りつけたなどというのは創作の可
能性が高いが。

言っておくけど、松川の戦いに関しては『上杉御年譜』な
どの上杉より伊達の方が史料は充実し、信憑性が高いと思
うので伊達の史料をベースにすべきだと思うよ。
735人間七七四年:2010/08/28(土) 02:01:04 ID:Li3Gwu/u
横レスですが、いわゆる「松川の戦い」は、慶長5年から6年にかけての複数の合戦が入り交じって
伝わったいる可能性が高いという前提をお持ちなんですよね?
そうであるならば、福島の学芸員の方のブログ同様「松川合戦」と「慶長六年の戦い」の
ように合戦を明確に分けてレスされるべきだと思います。
一連の合戦を総称して「松川の戦い」と呼称すべきだというのは、あなたの考えですよね。
736人間七七四年:2010/08/28(土) 02:31:00 ID:/bdpQIX9
呼称すべきというのは少し違うかな。
いわゆる「松川の戦い」が何を指すのかというなら慶長6年春
までひっくるめて考えないといけないという話。スレの目的か
らいっても。純粋な捏造なのか、軍記物のストーリー上、事実
をつなげただけなのか。
軍記物ではあたかも一度しか戦闘がないように見えるが、実際
には複数回あった。その複数回を含めて考えなければ本当の
「松川の戦い」は見えてこないと思うけど。
ブログをちゃんと読めばわかるけど、学芸員の方も慶長6年の
戦いにいわゆる「松川の戦い」に絡めて話しているよ。
737人間七七四年:2010/08/28(土) 03:40:18 ID:Aqp6VLOS
>>735
>福島の学芸員の方のブログ同様「松川合戦」と「慶長六年の戦い」の
 ように合戦を明確に分けてレスされるべきだと思います

 誠に同意だね。伊達・上杉の一連の対立行為の中で、そもそもの問題の出発点は、
 上杉の軍記が「松川合戦」とは慶長6年4月26日に行われた戦闘だと主張している
 わけでね。ちなみに伊達家文書を調べてみると、伊達家と上杉家の戦闘行為は
 「慶長5年10月6日」(政宗自ら福島表へ出陣)と「慶長6年5月8日」(石川義
 宗が景勝領板屋を悉く焼き払った)の2回しか記録がない。むろん『上杉御年譜』が
 記載する慶長6年3月29日の戦闘なども一切行っていない。慶長6年は仙台城築城や
 ら和賀一揆の収束の思案、家康への政治的、政略的な配慮で2月の出兵も沙汰止みと
 なったことからも、『上杉御年譜』の記録は相当怪しい話しと考えざるを得ない。

>>736
 軍記物ではあたかもはあたかも一度しか戦闘がないように見えるが、実際
 には複数回あった。

 軍記物では、つまり『東国太平記』の記載ではそもそも複数説を採っている。
 一度どころの話しではないよ。合戦の名前も具体的に記名されているし、抗争全
 体を「松川合戦」と呼称することもない。それによれば、

  慶長6年2月7日 「宮代の合戦」
  慶長6年3月29日 「梁川の合戦(阿武隈川の合戦)」
  慶長6年4月26日 「松川の合戦」

 とある。慶長6年に入っても伊達軍は立て続けに攻めてきたが、いずれも伊達軍が敗北。「これらの合戦
では上杉軍の華々しい活躍が伝えられ、梁川城代須田長義が伊達家の陣幕を奪った話しなどは後生の語りぐさ
になっている」(桑折町の歴史)という逸話つきでね。

で、そもそも慶長6年4月26日 「松川の合戦」はあったのか? がこのスレの検証点。
(ところが、何故かこの戦闘に関してはあまりにも荒唐無稽に見えるためか、上杉研究者
ですら口をつぐんでいる。)幕末までは庶民の間では「実在した戦い」だったろうにね。
738人間七七四年:2010/08/28(土) 10:26:44 ID:/bdpQIX9
>>735
>福島の学芸員の方のブログ同様〜
「慶長五年十月六日の戦いを『東国太平記』の「松川合戦」である
 とするのは早計である。慶長五年から六年の伊達・上杉の戦闘は、
 小規模なものを含めれば、少なくとも八回以上にのぼると推定で
 きるからである」

>>737
東国太平記はそうなのか。それぞれどういう戦いなの?
4月26日の「松川の合戦」があったのか、だけがこのスレ
の目的であれば「一次史料でその存在を確認することは極め
て困難だが、小規模ならば存在しなかったとも言い切れない」
で終わりそうだね。上杉の武装解除は六月で、伊達の記録に
は五月の話が載ってるわけだから。伊達方に記録がある2回の
戦闘しかなかったというのも考えにくいし。
739人間七七四年:2010/08/29(日) 01:37:52 ID:b3F/NGwL
>>736
>ブログをちゃんと読めばわかるけど、学芸員の方も慶長6年の
>戦いにいわゆる「松川の戦い」に絡めて話しているよ。

>>738
>慶長五年十月六日の戦いを『東国太平記』の「松川合戦」であるとするのは早計である

話が通じていないようですね。
軍記物語等によってこれまで伝えられてきた「松川の戦い」は、実は慶長5年から6年に
かけての複数の戦いが入り交じっている可能性が高いということは、あなたも同意される
んですよね?
史料の混乱がみられる「松川の戦い」を考察するためには、慶長5年から6年にかけての
緒戦に触れざるを得ないのは当然のことです。

>軍記物でいう松川の戦いは慶長5年10月から上杉・徳川までの指すべきだ。
というあなたの>>730のレスは「松川の戦い」で「上杉が伊達を撃退して終わり」と言いたいが
ための言い逃れにしか見えなかったので、「松川の戦い」という名称を曖昧に使うのはどうかと
指摘したつもりです。

「東国太平記」のなかの「松川の戦い」について語られたいのか、それとも慶長5年から
6年にかけての伊達氏と上杉氏の緒戦を史料から検証することで「松川の戦い」の実情を
探られたいのか、考えを整理されるべきだと思いますよ。

>>737の「東国太平記」の記載のまとめは、慶長6年分の戦いのみを挙げられていますが、
慶長5年分を含めると以下の通りです。

「東国太平記」に記されている福島方面の戦い
慶長5年10月7日 巻第13:伊達政宗福島ノ城ヲ攻ムル事
慶長6年2月7日 巻第14:本庄出羽ノ守宮代合戦之事
慶長6年3月28日 巻第14:政宗信夫郡焼キ働キ並木幡四郎右衛門討死ノ事附須田大炊助長義政宗ト逢隈川合戦ノ事
慶長6年4月26日 巻第15:松川合戦政宗福島城ヲ攻ムル事

「東国太平記」の内容に触れられたいのなら、当然ながらまず「東国太平記」を読まれ
てからレスされるべきでしょうし、それ以前に軍記物語を基礎史料にしようとすることが
問題だと思います。
740人間七七四年:2010/08/29(日) 02:39:12 ID:LO7S0pYw
>>739
>軍記物語等によってこれまで伝えられてきた「松川の戦い」は、
 実は慶長5年から6年にかけての複数の戦いが入り交じっている可
 能性が高い
全く同意です。だから「軍記物でいう松川の戦い」「いわゆる松川
の戦い」と表現してきたつもりですが。

@伊達が上杉を反撃できないほどに殲滅した。
A上杉軍が政宗の背を斬りつけて遁走させた。
10月6日の戦いだけを議論するならAは明らかな誤りです。
いわゆる松川の戦いがただの捏造なのか、その後の一連の戦い
の結果が入り混じった結果なのか、それを明らかにするには慶
長6年の戦闘も含めて考えるべきです。@は野戦で大打撃を与
えたのは事実ですが、ではなぜ撤退したのかという疑問が解決
されていません。長期の出陣でもないのに「家康の許可を得て
いなかったから」は理由になるでしょうか。

>「上杉が伊達を撃退して終わり」
慶長5年10月から6年春にかけての戦闘の結果は「上杉が
伊達の侵攻を食い止めた」と考えていますが、違うのでしょうか。
10月6日の合戦に限定してもそう言えると思います。
だからといって徳川との和睦までの消化試合状態なので、上杉の勝ち
などと話ではないし、「撃退」という表現が適当かというのはありま
すが。

そもそも東国太平記を基礎史料にするつもりはないので、大筋
の流れだけ知っていればいいと思うのですが。
以前目を通したことはありますが、さほど松川の戦いには関心が
なかったので詳細については記憶していません。研究者ではない
ので手元にいつでも見れる状態にはありませんが、あなたが見れ
るのならば参考までに教えてほしいということです。
741人間七七四年:2010/08/29(日) 04:55:25 ID:DVHz3bw7
>>740
>見れるのならば参考までに教えてほしいということです
 >>739 ではないが『東国太平記』は同名の『会津陣物語』で検索すれば一般書籍の形
で取得できる。ネットだと慶長6年の「松川合戦」の詳細は『武辺咄聞書』の第百九話
「酒井讃岐守忠勝家来杉原彦左衛門物語に」で閲覧してみてもいい。編纂にはいずれも
上杉の軍記作者国枝精軒がかかわっているので概要は同じだ。
    http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/buhen/buha106.htm

>@は野戦で大打撃を与えたのは事実ですが、ではなぜ撤退したのかという疑問が
 解決されていません。
この10月6日の「福島の戦い」の戦略目標は旧領伊達・信夫郡の簒奪だが、当初
の主眼は梁川城(片倉景綱がかつて家臣須田光頼を置いていた)の攻略にあった。
政宗は梁川城に調略をかけながら、桑折方面へと敢えて出ていった。梁川城の攻
略は翌7日にする予定だったが、福島城攻めの後国見山の本陣で、梁川の内応工
作が失敗したことを知り、翌日には撤退したという――流れだ。別に軍記物のよ
うに、「須田と本庄の計略にかかり、陣幕を奪われるほどの大敗を喫した挙げ句、
十騎ばかりのと供回りで茂庭街道から白石城へ逃げ帰った」わけでもない。
そもそも、この戦いについての上杉の一次史料は一切なし。妙な話だとは思わない?


>慶長5年10月から6年春にかけての戦闘の結果は「上杉が伊達の侵攻を食い止めた」
と考えていますが、違うのでしょうか。
 『伊達家文書』では、そもそも慶長6年1月〜4月までの期間、伊達は上杉領に侵攻
していない。『東国太平記』だと毎月のように伊達が侵略を繰り返し侵攻してきたとい
う咄になるが。例えば君は『上杉御年譜』の記述を持ち出して慶長6年3月29日頃に
伊達が上杉領に進入した証拠とした。が、実際には政宗は兵を出していない。仙台城の
築城、それに伴う岩出山から仙台城下への領民の移動などで多忙をきわめてる時期で。
 大体慶長6年に複数回に渡って伊達が上杉領を侵略したとする史料は『上杉御年譜』
だけしかないの? 一次史料は? 出してくれないと議論にすらならないよ。
742人間七七四年:2010/08/29(日) 09:53:53 ID:LO7S0pYw
>>741
>この戦いについての上杉の一次史料は一切なし。
いわゆる松川の戦いに関する史料がないのではなく、
須田が急襲したなどという史料はないということだよね?
その通りだよ。上杉にも合戦前後の史料はそれなりにある。
梁川からゲリラ活動的な攻撃はあった可能性はあるけど、政
宗の撤退の要因は内応工作が不調に終わったこと。内応工作
がなければ梁川攻略は難しいと判断したと考えるのが自然で、
上杉軍を殲滅して圧倒的な優位に立っていたわけではない。
ちなみによく出てくる上杉の分捕り品については陣幕かはと
もかく「今に伝う」と書いている史料もあるので、存在した
可能性はある。

慶長6年には上杉に侵攻していないとするのはどうだろうか。
上に感状と、3月の合戦に至るまでの政宗の書状を挙げたけど、
それは根拠にならないんだろうか。伊達側の史料には直接的な
戦闘の記述がないだけで、上杉方と突き合わせれば十分3月に
は合戦があった可能性が高いことが分かると思うけど。
ちなみに感状は上杉御年譜にあるだけではなく覚上公御書集所
収のものや原本が実在するものもある。それでも政宗が背中を
斬りつけられたなんてことはないと思うが。
743人間七七四年:2010/08/29(日) 10:40:37 ID:DvhA1/m9
結局、伊達は福島・梁川を落とせなかった。
それだけの戦い。
744人間七七四年:2010/08/30(月) 05:19:11 ID:w+RFHhpU
>>742
>伊達側の史料には直接的な戦闘の記述がないだけで、上杉方と突き合
 わせれば十分3月には合戦があった可能性が高いことが分かると思うけど。

『上杉御年譜』の記載だけで可能性が高いと「思うけど」と言われてもなあ。
1次史料でもないし。この件は、伊達側が上杉の「籠城のみにて戦意なし」という
状況を見て、事態を静観していたというのが実情。政宗は家康との共同戦線でない限り、
自ら兵を率いて上杉攻略などしないことは、2月の出兵中止の判断を下したことでも明瞭だし。

上杉は、何度も伊達が侵略したと言いながら、結局3月の1回きり?
史料は『上杉御年譜』のみ? しかもその「あった」可能性は限りなく低い。
745人間七七四年:2010/08/30(月) 09:29:02 ID:Sqi5j5Om
>>744
>『上杉御年譜』の記載だけ
『覚上公御書集』は御年譜とは別物だよ。現存する
感状もあるけど、全部偽書なのかな。伊達の史料に
記載がないから可能性は低いというのはどうなのか。
3月22日の井伊宛て書状(土井文書)は読んだのかな。
2月の書状にある古い情報にこだわっているようだけど、
政宗は自身で出陣するかはともかく「二三日中、白石口可罷出と
存候、縦 中納言様御下向少延候共、御老衆成共、先江戸迄も被
相下候様ニ仕度候、」と書いている。2,3日中ということは、
井伊の返信は待たずに出陣するということ。
それと、3月28日前後に出された複数の感状は時期が一致する。
それでも「あった可能性は低い」と言えるんだろうか。
746人間七七四年:2010/08/31(火) 00:04:10 ID:C2fLOI6g
覚上公御書集の1月22日須田・車連署状には小手に敵が攻めてきたと
書かれている。
2月には鶴田小屋(川俣表)に敵が現れ、それを多数討ち取ったことが
覚上公御書集の2月14日付と2月17日付の直江書状から分かる。
747人間七七四年:2010/08/31(火) 00:10:05 ID:sI/RJd+3
>>740
>全く同意です。
支離滅裂ですよ。史料が混乱していることを認めながら、慶長5年から6年にかけての緒戦を
ひとまとめにして、慶長5年10月の戦いで伊達勢が撤退した理由を、慶長6年の戦いに触れる
史料から導きだそうとされていますよね?
「松川の戦い」を考察されたいのであれば、それぞれの戦いを個別に検証する必要があると
説いているのですが。

慶長6年3月の戦いについては、他の方とは異なるようですが、私はなんらかの戦いはあったと考えています。
ただ上杉方の一次史料からは、この時どこでどのような戦いがあったかうかがい知ることはできません。
慶長6年3月の戦いこそが「松川の戦い」と説かれたいのであれば、この時伊達勢が松川を
越えて福島城下まで攻め入ったことを示す史料を出されるべきです。
そうなると今度は慶長5年10月の戦いは何だったのかという話になるのですが。

>長期の出陣でもないのに「家康の許可を得ていなかったから」は理由になるでしょうか。
高橋明氏は「家康の事後承認を得るにたる名分を見出し得なかったため」と推測されていますが、
蓋然性は高いと思います。戦いの名分に長期か短期かは関係ないでしょう。
http://www.culture-center.fks.ed.jp/tenchijin/school/con03.html
また>>741もレスされていますが、当初から梁川城奪取が目的だったため、内応の失敗によって
撤退したという推測もあります。

>慶長5年10月から6年春にかけての戦闘の結果は「上杉が
>伊達の侵攻を食い止めた」と考えていますが、違うのでしょうか。
「消化試合状態」とどういう意味で使われているのか私にはわかりませんが、少なくとも
「撃退」という言葉には違和感を覚えます。特に慶長5年10月の戦いにいたっては上杉勢が
伊達勢を撃退したことを示す史料は皆無だと思います。

結果的に政宗が福島城や梁川城を奪取できなかったのは事実ですが、このスレでも引き合いに
出されているブログでも言及されているように「関ケ原」に関わる戦いと、領地を奪い合う
戦国期との戦いとでは根本的に違います。
「松川の戦い」も家康の顔色をうかがいながら、あわよくば旧領を奪回しようという戦いで
あって、どちらが勝った負けたと煽り合うようなものではないと思いますよ。
748人間七七四年:2010/08/31(火) 00:12:25 ID:sI/RJd+3
>>740
>以前目を通したことはありますが、
本当に「東国太平記」を読まれました?>>736のレスはなんだったのでしょう?
>軍記物ではあたかも一度しか戦闘がないように見えるが、実際
>には複数回あった。

「東国太平記」は手元にありますが、基礎資料にされないものをわざわざまとめる程暇は
持ち合わせていませんのでこの場での提示は遠慮させてもらいます。
読まれたいとうのであれば国立国会図書館に所蔵されていますのでどうぞ。
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000000976332/jpn
上記の蔵書(早稲田大学編輯部編大正2年版)から>>739で紹介した部分を郵送複写申請のされるので
あれば136-160頁になります。
749人間七七四年:2010/08/31(火) 01:18:20 ID:C2fLOI6g
>>747
10月の戦闘で伊達が撤退した理由が、翌年3月の戦闘から分
かるはずはありません。10月の撤退理由は梁川での内応工作
が失敗したからでしょう。高橋先生の説は知っていますが、家
康の9月29日付書状が、撤退までに政宗のもとに届いたかど
うかは微妙だと思います。それ以前にも上杉との戦闘を諌める
書状があったとすれば、政宗はそれを無視して出陣したので、
「家康の許可を得ていないから」は理由になりません。

伝説化した「松川の戦い」が慶長6年の戦いまでの内容が
混同している可能性は否定しきれないでしょう。だから慶
長6年の戦闘まで含めて考えるべきだと主張しているのですが。

「消化試合状態」=政宗も述べているように、上杉には積極的に
伊達とことを構える理由はありません。慶長5年冬には徳川との
和睦交渉に入っているからです。

>どちらが勝った負けたと煽り合うようなものではないと思いますよ
同感です。政宗が福島勢を野戦で破ろうが、福島や梁川を手に入れな
ければ何も意味がありません。上杉にとっても和睦交渉の中、伊達を
撃退しようが反攻に打って出る訳にもいかず、益はありません。

「東国太平記」に関しては本当に持っているなら「いじわるですね」
としか言いようがありませんが、特になくても問題はありません。
750人間七七四年:2010/08/31(火) 03:31:27 ID:/dx1Z5Cn
ここまでの伊達上杉の抗争について議論にあがったスレを整理してみる。
@慶長5年10月6日の戦闘
【伊達側一次史料】
『大日本古文書 家わけ第三 伊達家文書之二』伊達政宗最上陣覚書、他家臣宛書状類、
この戦闘を裏付ける徳川家康からの返書、今井宋薫宛書状
10月6日政宗自ら出陣し、宮代で上杉の守備勢を大敗させ(「一 景勝衆三百余討捕
申候、内名志れ申候者、安田勘介、桑折図書、布施二郎右衛門、北川傳右衛門、武田
彌之介、右之衆組頭之由申候」)福島城下まで攻め入ったが、当初攻略目的としていた
梁川城の調略工作には失敗。翌日北目城へ撤退した。
【上杉側一次史料】
一切なし。

@慶長5年4月26日(「松川合戦」)の戦闘
【伊達側一次史料】一切なし。
【上杉側一次史料】 一切なし。
上杉の軍記書『東国太平記』に松川で行われた詳細な戦闘の様子が描写されている。
この戦いは、慶長6年2月3月と立て続けに上杉領へ侵攻してきた伊達軍をこと
ごとく撃退。伊達軍は4月26日にも福島城下へ攻め入ってきたが「須田と本庄の計
略にかかった伊達政宗が、陣幕を奪われるほどの大敗を喫した挙げ句、十騎ばかりの
供回りで茂庭街道から白石城へ逃げ帰った」と上杉の大勝利を喧伝している。

さて慶長6年3月の戦いの可能性について議論していこうか。
>>730
慶長6年3月の戦いは『上杉御年譜』だと慶長3年3月に史料が掲載されているが、
それだと惣無事違反なので慶長6年に比定するのが自然。

まずは「慶長3年3月に史料が掲載されている」の件。詳しく説明してくれ。
751人間七七四年:2010/08/31(火) 03:37:51 ID:/dx1Z5Cn
(訂正)
 @慶長5年4月26日(「松川合戦」)の戦闘
→A慶長6年4月26日(「松川合戦」)の戦闘
752人間七七四年:2010/08/31(火) 07:08:18 ID:C2fLOI6g
>>750
3月29日 会津移封で上杉が落ちつかない隙を突いて、政宗が福島に
侵攻。小島豊後らが奮戦して撃退した。
福島方面での政宗との戦いで奮戦したとして諸将に感状が出されている
が、慶長3年〜6年しかありえない。秀吉存命中の慶長3年、会津征伐
前の4、5年は可能性が低く慶長6年と考えるのが自然。

ちなみに10月6日の件で、梁川の調略に失敗したという部分は、片倉宛
政宗書状だけでなく、上杉方の史料をプラスすることで横田大学や大崎義
隆らがその対象だったことなど具体性が出てくる。
10月6〜7日には政宗の侵攻に対して景勝の出陣を議論する書状もある
し(直江が止めている)、「一切なし」とすることには疑問を感じる。
753人間七七四年:2010/08/31(火) 07:54:05 ID:/dx1Z5Cn
>>752
つまり君個人の推測による「慶長6年と考えるのが自然。」と考えただけの理屈ね。

 年譜の実際の記述は、結局慶長3年3月29日(←史実)。

「会津移封で上杉が落ちつかない」時期であり、実質その時期だったと納得できる。

>慶長3年〜6年しかありえない。

このIFを前提とすれば関ヶ原の決着がつき、諸大名が家康の恩賞の沙汰待ちをしていたて
慶長6年ではなく、関ヶ原の前哨戦の「慶長5年と考えるのが自然」なのは自明なこと。
いやはや「慶長3年」を「慶長6年」と個人的な史実のねじ曲げ・曲解で論を展開していた
とは…呆れるしかないね。

>10月6〜7日には政宗の侵攻に対して景勝の出陣を議論する書状もある

この件の詳細は?
754人間七七四年:2010/08/31(火) 08:06:54 ID:C2fLOI6g
サントリー美術館の『天地人展』の図録でも築地宛ての感状を慶長6年に
比定しているよ。ブログの人もそうだけど。
秀吉存命中に政宗が福島へ侵攻する理由がないでしょう。

十月六日岩井信能宛て景勝書状「梁川表へ政宗が侵攻したとのことだ。事実なら自分も出馬する」
十月七日清野長範宛て直江書状「政宗の狙いがよくわからないので援軍はやめた。出馬も延期すべきだ」
755人間七七四年:2010/09/01(水) 03:05:17 ID:z2OCzqaL
>>754
>『天地人展』の図録

苦笑だね。いかに『上杉御年譜』が資料的な価値に疑問符がつく、杜撰な編纂で信憑性に
欠ける「編纂物」であるにせよ、解釈者によってどうとでも取れる、ご都合主義
的な「比定」(=牽強付会とも言う)で勝手に史料を曲解して言い訳がない。
君は伊達の侵攻は「慶長3年〜6年しかありえない」と「比定」する。「慶長6年」なら秀吉も死去しており、政宗が福島へ侵攻する理由になる「でしょう」と。
しかし秀吉の死は慶長3年8月中旬のことであり、何も時空を3年もスライドせずとも
慶長「4年」でも「5年」でも十分成立する。しかも政宗の場合、秀吉の権力が絶頂期
に達していた天正19年(1591年)に、葛西大崎一揆を煽動、蒲生氏郷を名生城へ籠城
させる遠因をつくるなど、相当挑発的なことを、ある意味真っ向から秀吉に対して行っ
ている。死に瀕した晩年の秀吉とその取り巻き、特に移封後間もない上杉を揺さぶって
おくには慶長3年が最も適していると「比定」することもできる。元々は『上杉御年譜』
が慶長3年3月と記述しているように。
「比定」(推測・思いこみ・牽強付会・屁理屈)で伊達の一次史料と「慶長6年3月29頃にあった」(かもしれない)戦闘について比較しましょうと言われても茶番でしかない。

>十月六日岩井信能宛て景勝書状「梁川表へ政宗が侵攻したとのことだ。事実なら自分も出馬する」
十月七日清野長範宛て直江書状「政宗の狙いがよくわからないので援軍はやめた。出馬も延期すべきだ」

慶長5年10月6日の伊達の侵略で本庄や須田が徹底的に痛めつけられたというのに、
景勝も直江の見解も、出馬を延期するだの、狙いがわからないだの、事実なら出兵する
だの何やら「他人事」のような見解だね。伊達に恐れをなしていたのか。
756人間七七四年:2010/09/01(水) 09:16:57 ID:crDaES6W
政宗だって豊臣政権の枠組みの中にいる。
ゲームじゃないんだから、秀吉が死のうが慶長4年で
も5年でも勝手に攻撃は不可能。奥州の不安定さに付
け込んだ大崎・葛西一揆の扇動とは一緒にできない。
関ヶ原の前哨戦といっても、慶長五年三月末の時点ですで
に上杉に謀反の疑いがあったとはいえ、会津征伐が決定し
たのは六月ごろ。なぜ政宗の勝手な行動は他の史料に記述
されていないのか。慶長4年でも5年でも上杉が豊臣政権
に訴えれば惣無事違反で処罰の対象になる。

分かっていないのかもしれないが、書状は年号が書いてある
ことは少なくて全部後世の学者が比定していくもの。それで
最新の成果をふまえた図録や研究者が感状は「慶長6年」の
ものと考えているんだよ。天地人を笑うのは構わないが、そ
れと図録は別。むしろ天地人のおかげで、上杉景勝・直江兼
続時代の研究は進んだと言える。

伊達がいきなり撤退したから「狙いが分からない」なんだろ。
だからこそ、須田や本庄の急襲が撤退の原因でないと分かるが。
757人間七七四年:2010/09/02(木) 00:32:51 ID:V3gL2eL6
>>749
>10月の撤退理由は梁川での内応工作が失敗したからでしょう。
さらに支離滅裂になっていますよ。>>740の前言を撤回されたということなのでしょうか?
>@は野戦で大打撃を与えたのは事実ですが、ではなぜ撤退したのかという疑問が解決されていません。

>「家康の許可を得ていないから」は理由になりません。
高橋氏の説を否定されるのは勝手ですが、内容を理解されていないのでは?
あなたのいう「家康の9月29日付書状」とは何ですか?
高橋氏が触れているのは家康の10月15日付け書状(政宗の9月29日付け書状への返書)です。
高橋氏の説を俗っぽく言い換えれば、思い切って上杉領に攻め入ってみたものの、家康に
言い訳できそうもないと諦めて撤退したのだろうということだと思います。

>だから慶長6年の戦闘まで含めて考えるべきだと主張しているのですが。
私は慶長6年の戦いについてこの場で触れるべきではないなどとは主張していません。
ただあなたが、いわゆる「松川の戦い」(「東国太平記」で描かれているところの「松川合戦」?)が
複数の戦いを混同している可能性を認めながら、その一方で「歴史的な意義」を考えると慶長5年から
6年の緒戦をひとくくりにするべきと主張されていたので、論法が矛盾していることを示したまでです。
「松川の戦い」がただの捏造なのかどうかを考察するのに、緒戦の「歴史的な意義」は関係ありません。
>>734レスはなんだったのでしょう?
>ただ、いわゆる松川の戦いの「政宗は福島方面の切り取
>りを図ったが、大利を得ることはできなかった」という
>歴史的な意義を日付より重視して考えると、徳川と上杉
>の和睦までを含めて考えるべきではということだよ。
758人間七七四年:2010/09/02(木) 00:42:18 ID:V3gL2eL6
>>749
>「消化試合状態」=〔略〕慶長5年冬には徳川との和睦交渉に入っているからです。
>>740では慶長5年10月の戦いを含めて「消化試合状態」ということでしたよね?
当時はまだ和睦交渉には入っていないと思うので、やはり「消化試合状態」の意味がわかりません。
確認ですが>>747の以下の点は同意されているんですよね?
>特に慶長5年10月の戦いにいたっては上杉勢が伊達勢を撃退したことを示す史料は皆無だと思います。

>同感です。政宗が福島勢を野戦で破ろうが、福島や梁川を手に入れなければ何も意味がありません。
政宗が福島城や梁川城を手に入れていという結果を強調したいようにしか見えませんが、
私のレスのどこに同感されているんでしょうか?

>「東国太平記」に関しては本当に持っているなら「いじわるですね」としか言いようがありませんが
持ってますよ。手元にある「東国太平記」の各節の書き出しは以下の通りです。
○伊達政宗福島ノ城ヲ攻ムル事 「上杉勢最上より引き取りしが、」
○本庄出羽ノ守宮代合戦之事 「騒がしかりける慶長五年も暮れ、」
○政宗信夫郡焼キ働キ並木幡四郎右衛門討死ノ事附須田大炊助長義政宗ト逢隈川合戦ノ事
「政宗は度々の敗軍にも恐れず、」
○松川合戦政宗福島城ヲ攻ムル事 「政宗は度々の合戦に打負け、」
未読のまま(もしくは読解力不足で)「東国太平記」を論じられておきながら、
「いじわるですね」とは呆れています。
759人間七七四年:2010/09/02(木) 00:45:56 ID:V3gL2eL6
>>758の訂正

>同感です。政宗が福島勢を野戦で破ろうが、福島や梁川を手に入れなければ何も意味がありません。
政宗が福島城や梁川城を手に入れていないという結果を強調したいようにしか見えませんが、
私のレスのどこに同感されているんでしょうか?
760人間七七四年:2010/09/02(木) 01:45:50 ID:pAFU2+ey
>>758
喧嘩の場なのでしょうか。
いわゆる松川の戦いについて検証する場と考えれば、
「手元にあるけど教えません」については「いじわるですね」と
言っても別に差し支えないと思いますが。お互いに史料を出し合えば
いいと思っているので。

10月6日の戦闘に関しては内応工作がばれるなどしてうまくいかなかった
ことによる撤退だと考えています。強調もなにも伊達は梁川も福島も手に入
れていないので、「大利を得ることができなかった」という表現は間違いで
はないと思いますが。
761人間七七四年:2010/09/02(木) 01:50:02 ID:pAFU2+ey
政宗の撤退理由について、家康の10月15日書状を持ち出すなら、
10月6日に撤退した理由が分からなくなりますね。
762人間七七四年:2010/09/02(木) 02:57:52 ID:wvqUFNyF
>>756
>最新の成果をふまえた図録や研究者が感状は「慶長6年」のものと考えているんだよ。
 …天地人のおかげで、上杉景勝・直江兼続時代の研究は進んだと言える。

慶長3年3月29日と記載された『上杉御年譜』の伊達の侵攻を、慶長6年3月29日と
恣意的に「読み替える」ことがねえ。

文脈からすると、この「研究」はごくごく最近になって発表されたようだけど?もう少し具体的に説明
してくれないとね。梁川町史、桑折町史、川俣町史、伊達町史、仙台市史など見ても、その説は全く反映
されていないし。もとより小和田、紫桃、小林等といった研究者が唱えるわけもなし。
唯一、慶長6年4月26日の松川合戦を、慶長5年10月6日の戦いにすり替えた主張をしている新潟県の郷土史
研究家の渡辺三省の他は見たこともないので。(渡辺史の論理の破綻は追って説明していくが)

(1)この説が出されたのはいつ頃?
(2)研究者、発表者は誰?
(3)学会での受け止められ方は?

はどうなのかID:pAFU2+eyはまずは提示してくれないと。
当初の論調ではID:pAFU2+ey自身が「比定」したとも受け取れるレスだったから。
誤解を説く意味でもきちんと説明しなければね。
763人間七七四年:2010/09/02(木) 12:12:14 ID:pAFU2+ey
>>762
表現が悪くて誤解させたなら申し訳ないが、図録制作やブログ掲載に
あたって検討し直した結果、慶長6年が妥当だと考えてそう記述して
いるということだよ。
ちなみに覚上公御書集では慶長6年3月に感状を載せているので、3
月に戦闘があったというのが新しい話なわけではない。伊達と上杉の
戦闘を羅列している『直江兼続伝』では慶長3年3月も6年3月も戦
闘があったことになっている。
もし慶長3年なら、惣無事を無視して福島方面へ侵攻し、(感状の内
容をそのまま信じるなら)撃退されている政宗はみっともないことこ
の上ないと思うんだが。

「南部から伊達領に軍勢が攻めてきて、こちらの兵が度々討たれているが、
 内府様の命令がないので何をしていいかわからず対応を控えている。今井
 宗くんには詳しく述べた。会津征伐は近々には行われないだろうと、佐竹
 や会津は考えている。二、三日中には白石口から攻め込もうと考えている。
 たとえ中納言様の下向が延期になっても、家老衆でもいいので、まず江戸
 まででも下向させてほしい。かえすがえす油断せず早く命令してほしい。
 飛脚で急いで申し入れます。景勝が上洛をやめることが決定的になった。
 佐竹から何かと言われてやめたのだ。佐竹と磐城は城の普請に熱心なのは
 先の書状でも伝えた。軍勢を早々に下向してくれれば、景勝も謝罪のため
 に出てくるだろう。それでも上洛を延期するなら、周辺の大名も城などを
 丈夫に普請しているので、少しも手間はいらないだろう。今少し力を入れ
 てくれれば、即時に残すところなく上杉を破れるだろう。ぜひとも内府様
 に申し上げてください。恐惶謹言
    羽越前
 三月二十二日 政宗
 井伊兵少様
    人々御中                          」

適当に訳したけど、2、3日中に攻撃するというこの書状はどう考えても
慶長6年のもの。
764人間七七四年:2010/09/03(金) 05:19:55 ID:nKypz1Ns
>>763
ここは議論の場なので、>>763の文書が、実際に慶長6年3月22日の政宗のものだ
った仮定してみよう。この文書を注意深く読んでみた印象を、松川スレと並行しながら
主に3点にまとめておくね。
@慶長5年10月6日の戦い→10月6日政宗自ら出陣し、宮代で上杉の守備勢を大敗
させ(「一 景勝衆三百余討捕申候、内名志れ申候者、安田勘介、桑折図書、布施二郎
右衛門、北川傳右衛門、武田彌之介、右之衆組頭之由申候」)福島城下まで攻め入ったが、
当初攻略目的としていた梁川城の調略工作には失敗。翌日北目城へ撤退した。
A慶長6年4月6日の所謂「松川の戦い」→慶長6年2月3月と立て続けに上杉領へ
侵攻してきた伊達軍をことごとく上杉軍が撃退。伊達軍は4月26日にも福島城下
へ攻め入ってきたが「須田と本庄の計略にかかった伊達政宗が、陣幕を奪われるほ
どの大敗を喫した挙げ句、十騎ばかりの供回りで茂庭街道から白石城へ逃げ帰った」。
→以上の話は上杉の軍記作者国枝精軒による完璧な捏造だったことが暴露された。

B今回話題に上った慶長6年3年29日(?)の戦い→そもそも「政宗自ら出陣した」
ような大戦闘は一切なかったと考えて間違いはない。同時期の、上杉の切羽詰まった
退嬰的な状況を内偵を入れて探っていた政宗による3月20日付け伊達政景宛文書が
重要な裏付けとなる(伊達家文書)。
765人間七七四年:2010/09/03(金) 05:21:08 ID:nKypz1Ns
>>763の文書について(慶長6年3月22日の政宗のものだったと仮定)
政宗は、「内府様の命令がないので」「対応を控えている。」こと。「二、三日中には白石
口から攻め込もう」と「考えている」こと。「家老衆でもいいので、まず江戸まででも
下向させてほしい。」と依願していること。とにかく「早く」「命令してほしい。」こと。
「ぜひとも内府様に申し上げてください。」と再三に渡って依願していること。

つまり、三月二十二日の時点で、徳川家康に対して「命令」と「許可」を強く要請して
いることが伺える。一見激しい上杉への侵略意欲を見せつつも(手練手管に長けた政宗
一流の徳川家康への意味見え透いた“歓心”とも受け取れる。むしろ、政宗の真意はこの
辺にあったことも考えられる。上杉の動向を監視し、不穏な動きがあれば、征伐してみ
せますよと)。
ただし基本基調は「内府様の命令がないので…対応を控えている。」「早く命令してほし
い。」と、一貫して判断を家康に委ね、事態を静観し、家康の命がない限り、伊達家独
断での「軍事的な対応を控えて」いた慎重な戦略と姿勢が伺える(事後承認の文書でな
いことに特に注目)。
766人間七七四年:2010/09/03(金) 05:21:56 ID:nKypz1Ns
さて当然ながら、ここで、>>763は以下のことを説明する責任がある。
(1)この3月22日付けの書状は、上方の家康にいつの時点で届いたのか。
(2)家康は政宗に対して軍事行動の動きへの「許可」(命令)を与えたのか。
(3)「許可」の決裁を与えたとして、その返書はいつ政宗の許へ届いたのか。
これを証明し、裏付けとなる史料を提示できない限り、状況的にも物理的にも、
3月29日付けの兼続の感状に「こじつけた」論も成立しない。
(参考までに。伊達が上杉に圧勝した慶長5年10月6日の戦いは、10月8日に注進、
10月15日の家康の返書が届いたのは翌11月のこと)
無理でしょうね。折角の引用もご足労様。

政宗の文章から明らかになるのは、既に慶長5年10月の福島の戦いで大いに上杉
を破った政宗に対して、10月15日の時点で家康が、これ以後の伊達家単独での軍事行動
を牽制し、警告を与えたこと(来春雪解けを待ってから家康も出陣するから、勝手な動き
はしないように)が、翌慶長6年に入っても徹底して守られていたことだ。伊達は家康の
了解なしでは独自の軍事行動は決してとらなかったわけだ。
その辺は仙台市史の記述の通り(「家康は政宗と義光に書状を送り、来春に景勝を成敗す
るので勝手な行動をしないように命じた。ここで奥羽勢が余勢をかって上杉軍攻めを行う
ようなことになれば、家康は上方にいて主導権を発揮できず、現状維持を必要としたので
ある。とくに家康は、百万石の御墨付きを与えた政宗の行動に注意を払っていた」)
767人間七七四年:2010/09/03(金) 05:22:47 ID:nKypz1Ns
て、兼続と>>763の立場もあるので、その名誉のために述べておくと−。
慶長6年3月下旬に大戦闘はなかったにせよ、「同年5月に政宗の家臣が国境で
「放火・略奪」をしたような小競り合いがあった可能性」まで完全に否定するつもり
はない。以下、渡辺三省氏も熱心に伊達の侵略=「民家放火」の件を紹介しているように。

>政宗の侵冦癖は、あたかも盗癖者が獲物を見つけると手を出さずにはいられないよう
なもので、翌慶長6年にいたってもしばしば上杉領内を侵した。…三月になると福島城
近辺に進入して、民家などに放火した。小島豊後守、逢田寒松斎、青柳隼人佐、小田切
安芸守らが出動して撃退した。これにたいし3月29日付けをもって感状が兼続より発
せられている。(この後に、例の慶長3年3月29日の『上杉御年譜』の文章を渡辺氏はパ
ズルのように嵌め込んで引用する。つまり→「今度向信夫、政宗罷出候処ニ、其地より
見届、半途乗切、就之其方走廻高名之由、車所より申來候、度々神妙ニ候、重而 御書
可有之条、先申届候、恐々謹言、直江 三月廿九日  兼續 小島豊後守殿まいる、と)。
                     ――渡辺三省(「正伝 直江兼続」より)

どことなく鼠(上杉)が猫(伊達)にいたぶられている様が浮かんでくるけれど。
伊達の侵略は「民家放火」程度のものだったが、上杉は奮戦の上「撃退」し「感状」
まで与えたと云う。
無論、政宗は出陣などしていないし、伊達方には討ち取られた武将もない。そもそも
伊達側の出陣記録、前提となる家康の「許可」に関する証拠資料等、一次史料がないこと
からも。渡辺氏の論調は講談としては面白いが、説得力もなく、破綻している。
元々天明年間編纂の『覚上公御書集』、また日付も不明瞭な『歴代古案』『上杉御年譜』
を基礎資料として論じること自体無理があるし、胡散臭さを倍増させている。

壮大な松川合戦が、@Aと伊達側に指摘・論破され、遂にB慶長6年3月の戦い(実際
にはないのだが、議論上あった余地も残しておく)の段階へ入った。
スレ当初から比較すると、大分ミニマムな対決スレになってしまったが。
768人間七七四年:2010/09/03(金) 07:07:14 ID:76Ytlu8/
そもそも「松川の戦い」自体がミニマムな話だと思うけど。
上で学会の反応が云々という話があったけど、社会的な影響
のないものは学会では取り上げられようもない。

3月22日の政宗書状読めばわかるけど、「2、3日中に白石
から攻撃する」というのは、2、3日で井伊のもとへ書状が
届くわけがないので、許可なく攻撃するということ。いつ返
書が出されたというのは関係ない。
「南部が攻撃してきた」「佐竹や磐城が守りを固めている」
「上杉が上洛を取りやめた」と、おそらく嘘だと思われるこ
とを書き連ねて、上方の軍勢出陣を求めている。上杉と徳川
の和睦は前年秋にはスタートしており、交渉は詰めの作業に
入っていたと思われる時期。旧領回復に燃え、「来春」の家
康出陣に期待していた政宗にとっては思わしくない展開にな
っていることに注意する必要がある。何も命令がないままに
「来春」が終わろうとしているのだから。

3月20日の政宗書状はむしろ22日の書状を補強するもの
でしょう。
「景勝は籠城の用意ばかりで、仙道口などへ軍勢を出す様子は
 なさそうだということだ。もしも景勝が出陣してきた時は、
 その日のうちに備えを手当てするから大丈夫。とにかく一度
 は景勝と戦い、その上で上方からの軍勢出陣が延期するよう
 なら、一切やめて自城の普請だけに専念したい」
景勝は籠城の用意ばかりというのは、城に籠って戦わないとい
うよりは、続く文章にあるように反撃して伊達領へ攻めてこな
いと解釈すべきでしょう。景勝が伊達領に攻めてくれば、上方
に対する上杉攻撃の口実になるし、家康の出陣を引き出す材料
になる。「兎角一調義仕候而、其上ニ上方より御人衆遣延候者、
一切打入」とあるように、一度は攻撃してみて、それでも上方
の出陣がなければ一切やめると言っているのも重要。

「景勝は籠城の用意ばかり」の部分ばかりが取り上げられるけど、
実際には「上杉と戦いたい」という趣旨の内容。
二本松や若松で諜報活動をしていることを述べて「越後衆と少し
だけでも合戦しないと、なんとなく心地悪い。花を散らすような
合戦をするにもよき相手だ」と思いを吐露している。
軍勢については「農民は忙しい時期だからそろわないだろう」と
しながらも、「槍を振る者は集まってくるだろう」とも述べている。
769人間七七四年:2010/09/04(土) 09:32:49 ID:j/YUP8yn
慶長6年3月20日付けの伊達政景宛書状は、明らかに慶長6年3月29に伊達が
上杉に侵攻しなかった理由になるのだが、>>768は何としてでも「侵攻した理由」
付けにしようと躍起(ムキ)になっているとしか見えないのだが…?

この時期の伊達の状況を見れば、3月17日南部軍が岩崎城攻撃するなど、和賀一揆
への煽動工作が容易ならない事態に発展して、相当旗色が悪くなってきている。
そんな時、22日に徳川家康への事前承諾もなしに、単独で上杉と和解工作をぶちこわ
す形で福島方面へ出馬することを決定し、挙げ句の果てに福島で29日に大敗を喫したと
する。…その場合、「百万石のお墨付き」の履行反古だけではすむまい。
刈田郡白石城没収、仙台城の築城許可の撤回と廃棄、直接和賀一揆に合力した白石宗直
の連座切腹などの可能性も考えられる。
実際、「民家放火」程度の規模の小競り合いの可能性を除いて、伊達政宗自ら福島へ
出陣した「慶長6年3月29日の戦い」など一切ないことは間違いない。

ただ面白いことに、この慶長6年3月22日の(?)政宗の書状に関して、小和田氏か
誰だかが、政宗一流の徳川家康への偽装工作説、カムフラージュ説を示唆した文章を
目にしたことがある。つまり北方で火のついた和賀一揆の騒動の状況から何とかして
家康の目を南へ(福島方面)向けさせるために、「白石方面からすぐにでも上杉を攻め
たい」と一種の宣伝工作をしたとする説ね。
事実慶長6年4月4日、南部軍と白石宗直の軍が戦闘状態に入り、伊達側の鈴木将監が
戦死するなどして敗北した推移を見ると、この工作説にも妙に合点がいく。

770人間七七四年:2010/09/04(土) 09:33:38 ID:j/YUP8yn
>>768には「水掛論」に終止符を打つ意味でも、慶長6年3月29日の戦いについて論を
進めたいのであれば、『覚上公御書集』『歴代古案』『上杉御年譜』の類のいくらでも
「比定」可能な日付不明瞭な資料ではない、誰もが納得できる1次史料を改めて提示
することをお勧めしたい。

ところで、「2、3日中に攻撃するというこの書状はどう考えても慶長6年のもの」と>>768
が主張した3月22日付政宗の書状と、同月3月29日付直江の感状を上手く説明して
くれるとともに、おそらく>>768>自身が時系列的にも納得していただける資料の要約を
以下に引用してみたい。(出陣と戦闘日に注目)

 慶長6年3月24日、伊達政宗は、再度(伊達郡方面へ)出馬した。
政宗は慶長6年3月25日白石城へ着き、27日信夫郡を放火し、28日に福島城を
襲撃した。しかし福島城の攻略に失敗したため、阿武隈川を越えて梁川城へ矛
先を転じた。
慶長6年3月29日、伊達と梁川城の須田軍との間で激しい戦闘が行われたが、
伊達軍は敗北し、福島からの撤退を余儀なくされた。
                        『改正三河後風土記』

さて、この記述は本当なのか嘘なのか? >>768からの回答を求めたい。
771人間七七四年:2010/09/04(土) 09:42:09 ID:j/YUP8yn
なお成島司直『改正三河後風土記』は非常に夢とロマンに溢れた一種の文学書だけどね。
面白いので、一読を勧めたい。
772人間七七四年:2010/09/04(土) 11:33:13 ID:Y11EEIlX
>>769
そういえばどうして毎回ageるの?
それは置いといて、
>慶長6年3月20日付けの伊達政景宛書状は、明らかに慶長6年3月29に伊達が
 上杉に侵攻しなかった理由になる
理由が不明。政宗は逆に「当春中にちょっとでも、思い切りでも戦わなくては、
上方への申し分がない」と述べ、徴兵の話まで出している。
この書状の中で、上方の許可がないと戦えないとは一言も言っていないよ。

>家康の目を南へ(福島方面)向けさせるために
家康の目を南へ向けようとはしていないと思う。「南部から軍勢が出てきて
兵が度々討たれている」とちゃんと書いているし、「詳しく宗薫にも申し伝
えたけど」と言っているように、しつこく報告している。むしろ政宗は東北
がいまだ安定しないことを強調して、上方からの軍勢派遣を求めているんだよ。

>伊達政宗自ら福島へ出陣した「慶長6年3月29日の戦い」など一切ないことは間違いない。
3月29日に感状が出されているので、おそらく29日よりは前だろう。
諸感状では「政宗が攻撃してきた」とあるけど、本人なのか家臣なのかは分からない。
ただ、「一切ない」と言い切れる史料はないでしょう。
感状が複数であることも考えれば「放火程度」とも思えないけど。
773人間七七四年:2010/09/04(土) 11:34:21 ID:Y11EEIlX
>>770
>のいくらでも 「比定」可能な日付不明瞭な資料
まず上杉が福島方面を支配しているので慶長3年から慶長6年の間でしかない。
会津征伐から最上攻め、政宗の侵攻で武将の配置がめまぐるしく変わっている。
景勝から感状を与えられた青柳と小田切は、直江書状の宛先人の推移から考え
ると、慶長5年7月中旬から下旬ごろに福島に配置されたとみられる。
慶長3年や慶長5年の3月にいなかったとは断言できないが、慶長5年7月以
降には確実に福島にいる。
梁川にいて、直江から褒められている小島と築地も同様。
ちなみに、築地は「今度突然の合戦で福島勢が堅固に防戦したことについて、特
にその地(梁川)から駆けつけて戦った」、小島は「政宗が信夫に出陣したの
をその地(梁川)から見届け、駆けつけて攻撃した」ことを称えられている。
『改正三河後風土記』にあるような福島を攻めて失敗したから梁川を攻撃したと
いうような話ではなく、ワンチャンスにかけて出陣した伊達軍は福島方面で上杉軍に
敗れ、撤退して終わっている。
ちなみに、この時期には和平交渉の使者である本庄はいないと思われ、一次史料では
須田の活躍も見られない。
774人間七七四年:2010/09/05(日) 05:20:21 ID:wjVhQje3
【慶長6年3月20日伊達政景宛伊達政宗文書について】
>>769 君自身はそう「比定」(解釈・推定)してればいいんじゃない?
とりあえず「君の思い」の吐露ということで。

『上杉御年譜』『伊達治家記録』『伊達家文書』を比較しながら判断を下せば、
やはり、「伊達治家記録」の研究・解説者の平重道氏の見方に従った方が自然。
上杉も景勝も今(慶長6年3月)となっては籠城の用意のみで、完全に戦意
を失っていた状況が鮮明に見えてくる。

「会津ノ唱モ能々承候、籠城之用意迄ニ而、中々仙道口ナトヘ人衆可被出武
    體無之由申候、縦景勝被打出候共、サヨウノ時者、又當手ノ備、日之内ニ
    モ其構可仕候條、不苦候」

政宗はこの後で、そのような消極的に籠城ばかりしている上杉に対して、武人
としては「花を散らすほどの合戦」をしてみたいのだが…と残念な(ある意味
余裕の高見の見物的な)心境を吐露している。上杉に対する政宗の静観の態度
と、一方で防備にも十分な態度を払っていることも見て取れる。
>>769は3月29日の感状の根拠となる戦いへの心理的根拠と「考える」)

「今度向信夫、政宗罷出候処ニ、其地より見届、半途乗切、就之其方走廻高名之由、
車所より申來候、度々神妙ニ候、重而 御書 可有之条、先申届候、恐々謹言、
直江 三月廿九日  兼續 小島豊後守殿まいる」

ところで、この書状は元々は慶長3年3月29日付けの『上杉御年譜』の記載だ
と言うこと。渡辺三省氏や>>769は、この戦いは「慶長6年3月29日」であると
「比定」という理屈で慶長6年3月に「リンク付け」「史実化」を行っている。
慶長3年でも4年でも5年でもいいが(5年説が最も妥当か)、6年ではない。
775人間七七四年:2010/09/05(日) 05:22:55 ID:wjVhQje3
この渡辺氏は、
 「慶長5年10月6日に政宗自ら出陣し上杉軍を宮代で大敗させて
  福島城下まで攻め込んだ戦い(福島の戦い)」

の解説についても「日本戦史」と「伊達治家記録」の記述を勝手に改変作業
を行っている。慶長6年4月26日の「東国太平記」にある

 「→須田と本庄の計略にかかった伊達政宗が、陣幕を奪われるほどの大敗を
 喫した挙げ句、十騎ばかりの供回りで茂庭街道から白石城へ逃げ帰った」
 という怪しげな記述(誰が考えても嘘なのだが)を、慶長5年10月6日の戦
いに勝手にリンクさせて、史実だと主張している。
(長くなるのでこの話題は後で検証する)

結局、伊達政景宛の文書は、上杉への静観の態度を示した書状と見るのが自然。
注目すべきは、この政宗の述懐および前段「越後衆ト少々ニテモ手アワセ無之候
得者、以来迄モ何トヤラン心地悪候ヘク候」から、

   慶長5年10月6日に政宗自ら出陣し上杉軍を宮代で大敗させて
   福島城下まで攻め込んだ戦い(福島の戦い)

以後、伊達政宗は上杉勢とは大規模な戦闘を行っていない様子すら伺えることだ。

『東国太平記』や渡辺三省氏が、「政宗の侵冦癖は、あたかも盗癖者が獲物を見
つけると手を出さずにはいられないようなもので、翌慶長6年にいたっても
しばしば上杉領内を侵した」という言説が、相当怪しいことも見えてくる。

慶長6年の3月の件については、ひきつづき検証する。
上杉が垂れ流してきた「松川合戦の嘘」を明確にするためにも。
776人間七七四年:2010/09/05(日) 05:26:56 ID:wjVhQje3
自分のレスに質問してしまった(苦笑)。

(訂正)
>>769 →>>772ね。
777人間七七四年:2010/09/05(日) 09:18:46 ID:o5wgFdeF
>>774
つまり、政宗の3月20日付書状はただ「戦いたい」という思いを
述べただけ、22日の「2、3日中に出陣する」は政宗の嘘と解釈
しているということでいいの?

20日付の書状の引用している景勝の部分の前後をどう解釈して
いるのかな。「人衆之義、唯今者土民無隙時分にて候間、可為
不調由存候、やりをもふり候者ハ、兎角可参候間、心安存候」と
兎角一調義仕候而、其上ニ上方より御人衆遣延候者、一切打入、
手前之普請構計を専一可仕候」の部分。兵の集まりについて心配
し、兎に角一度戦うと述べているんだけど。

「当春中〜」を見ても22日付書状を見ても、政宗は高見の見物など
ではなく、むしろろくに軍功を挙げないまま徳川と上杉の和睦が成立し
てしまうことを恐れている。だから「当春中に戦わなければならない」
のだし、なんとしても東北がまだ混乱していることを徳川にアピールし
なければならなかった。結局、自力で切り取った白石あたりの加増しか
認められていないのもそのへんと関係あるのでしょう。

>慶長3年でも4年でも5年でもいいが(5年説が最も妥当か)、6年ではない。
根拠に乏しいと思うけど。上杉方は会津征伐の時も長谷堂合戦中も
そのあとも、政宗の動きについて警戒する書状が数多く残っている。
それなのに会津征伐以前にはその様子はない。当然、上杉は謀反人
になっていないし、同じ豊臣政権の一員なので隙を突いて攻撃など
あろうはずがない。慶長5年3月では会津征伐も決定していない。
というか詰問状すら届いていない段階で、なぜ政宗が上杉を攻撃で
きるのか。上杉は道路整備すら周辺への攻撃の用意だと謀反の疑い
をかけられているのに、直接攻めてきてしまっている政宗は何も咎
めを受けていないよね。
778人間七七四年:2010/09/05(日) 11:02:18 ID:o5wgFdeF
ついでに言うと、伊達が白石を占拠する慶長5年7月以前に
福島で戦闘があるというのも考えにくいんだよね。
779人間七七四年:2010/09/05(日) 16:12:52 ID:3kK51xU8
秀吉政権下、しかも朝鮮出兵中にも関わらず最上と小野寺が惣無事違反してる以上は
上杉の会津移封をチャンスとして伊達が攻めてきて上杉に撃退されたとしても不思議ではないな。
そもそも大崎葛西の乱や南部での和賀の乱にしたって伊達が絡んでいるんだから。
それと伊達側は南部が攻めてきたけど家康の指示もないから何もせずにいると大嘘を吐いてるが、実際は伊達軍を投入して南部に大敗してるし
正月には月夜畑で相馬と一緒に上杉に大敗してるが
都合が悪い記録は一切残してないのが伊達のクソ史料。
780人間七七四年:2010/09/05(日) 16:31:50 ID:91iOwRi3
福島の学芸員さんのブログでも、確か今まで慶長5年とされていた3月3日政宗書状が、
慶長6年に改められたとされてたなあ。
同じような白石城から出陣云々といった書状だったけど。
一次史料で年号が書いてある書状はほとんどなく、研究者が内容から年代比定しているんだが、
新しい知見が出るたび、変更されるのはめずらしいことじゃないよ。
実際攻めたかどうかはわからんが、松川合戦(と呼んでいいのか?)については、
福島の研究者が中心になって、もうすぐなんか研究本が出るんでないの。
781人間七七四年:2010/09/05(日) 17:29:50 ID:SIHW+011
どうだろう・・・上杉厨は嘘つきだからなぁ
782人間七七四年:2010/09/05(日) 23:03:12 ID:o5wgFdeF
>>779
惣無事違反して、お咎めも史料もないということはないと思うけど。
最上は本庄との戦い以外にあるの?
本庄の時は惣無事違反を公儀に訴えられているけど。
上杉御年譜はソースを感状に求めているけど、その感状の内容が
慶長3年に比定するのに根拠が薄い以上、そこに比定はできない
でしょう。
783人間七七四年:2010/09/07(火) 16:46:08 ID:4Kug8WvJ
>>782
お前が無知なだけ。
もっと言うと安東と浅利も文禄3年秋からあちこちの部落に放火しまくり争いを開始し
文禄4〜5年の間に4回も交戦して見事に惣無事令違反してる。
伊達厨は基本的史料が理解できてないから、まずちゃんと奥羽史について勉強してから出直せ。
不利になると誰も正史と認めてない東国太平記を持ち出すアホな妄言を毎回持ち出してループさせるのガチでウザいから。
784人間七七四年:2010/09/08(水) 00:01:56 ID:RZeL4cxv
そいつらは違反で罰せられなかったのか。
すげえな。
785人間七七四年:2010/09/08(水) 01:27:53 ID:wj8jVjm3
>>783
だからさ、惣無事令無視したら通報されて、中央政権のほうで問題に
なるでしょう。浅利と安東もなってるし。
伊達は慶長3年に攻めても何もない。惣無事違反をして豊臣政権から
お咎めも受けていない。浅利と安東でさえ問題にされているわけだから。
そこがおかしいんだよ。だから慶長3〜5年に比定するのは難しいという話。
786人間七七四年:2010/09/08(水) 05:28:41 ID:oNhLPhQ5
そりゃ当たり前だ。
浅利は安東配下なのに家臣扱いを拒否してんだから問題になるに決まってる。
そんくらいもわからんのかよ。
しかも浅利側には津軽前田浅野徳川がバックについての対三成長束らとの権力闘争なんだから。
ネットで必死に調べたようだが、それでも何も知らないにもほどがある。
787人間七七四年:2010/09/08(水) 07:45:07 ID:kfw/mSOj
>>777
>むしろろくに軍功を挙げないまま徳川と上杉の和睦が成立し
 てしまうことを恐れている。だから「当春中に戦わなければならない」
 のだし、なんとしても東北がまだ混乱していることを徳川にアピールし
 なければならなかった。

 この動機、腐るほど聞き飽きた『東国太平記』のネタの写しだろw
788人間七七四年:2010/09/08(水) 08:31:07 ID:wj8jVjm3
>>786
分かってないみたいだけど、結局処分されてるわけだから、
政宗が惣無事違反を犯しても咎められない、つまり慶長三年に
勝手に上杉を攻撃できる理由にはなっていないよ。

>>787
わざわざ東国太平記を持ち出さなくても、一次史料だけで上杉徳川の
政宗が和睦を気にしている様子が分かる。
789人間七七四年:2010/09/08(水) 08:31:58 ID:wj8jVjm3
→「上杉徳川の和睦を政宗が」

790人間七七四年:2010/09/08(水) 09:12:03 ID:jBMPtJCq
このスレの一部の住民

アスペルガー障害の特徴

 (01) こだわりが強い
 (02) 規則や理屈を重んじる
 (03) 頑固
 (04) 変化を嫌う
 (05) 冗談,比喩,ほのめかし,皮肉などの理解が弱い(マジで受け取るなど)
 (06) 暗黙のルールがわからない
 (07) 自分の好きな話題(いつも同じ話題)に戻っていく
 (08) 雑念にとらわれやすく、嫌なことや今不要な思考を排除できない
 (09) 記憶力の異常
 (10) 音に過敏
 (11) 感情表現がへた
 (12) ストレスを受けやすく怒りっぽい
 (13) 狭い範囲での優れた知識
 (14) とても論理的で理数系に強いことが多い
 (15) 科目で得意不得意の差が激しい
 (16) 宇宙人,変人,ボケのどれか言われたことがある
(17)癇癪持ちで思い通りにならないとすぐキレる

791人間七七四年:2010/09/08(水) 13:10:30 ID:oNhLPhQ5
>>788
わかってないのにシッタカしてるね。
処分なんて何もされてないわ。
ただ単に浅利は安東の家臣だと再確認がなされただけだ。
そもそも蛎崎氏が安東氏から独立を秀吉に認められたことを知った浅利側が蛎崎氏が独立を認められた手法を真似て有力大名に近づいたから起きた混乱だっただけ。
それで文禄2年に発覚したんだが、朝鮮出兵の浅利負担を誤魔化して安東氏の負担にしようとしてトラブった。
そこで豊臣政権から木村常陸介がやってきてとりあえず安東負担にした。
が、結局最後には数字に明るい長束が帳簿を照らして浅利側に未納があるのが確定し浅利は安東の家臣と再確認がなされただけ。
792人間七七四年:2010/09/08(水) 13:18:15 ID:RZeL4cxv
無法地帯の豊臣政権時代は戦国時代と変わらず好き勝手に戦争できた。
伊達は慶長三年も六年も上杉に撃退された。
793人間七七四年:2010/09/08(水) 13:36:30 ID:oNhLPhQ5
政宗厨は事実を曲げて平気だからな。
政宗愛が有りすぎて政宗に不利なものはことごとく否定しまくるキチガイ
不利になるとすぐ誰も持ち出して来てないのに東国太平記を持ち出して否定してくるアホ基地。
794人間七七四年:2010/09/08(水) 15:28:37 ID:RZeL4cxv
キチガイとか無知を連発するsubも微妙だけどな
795人間七七四年:2010/09/08(水) 18:12:19 ID:3KTuFpc2
不利になったら他人を罵る捏造マンセー大好き伊達厨
796人間七七四年:2010/09/08(水) 23:13:31 ID:wj8jVjm3
>>791
いや、少なからず中央政権のほうで問題になっているわけだから。
慶長3年に政宗が上杉領に侵攻した証拠は一次史料にはない。
ちなみに伊達厨ではないのはすぐにわかると思うが。
797人間七七四年:2010/09/09(木) 07:38:16 ID:LgruSbtW
慶長6年に政宗が上杉領に侵攻した証拠も一次史料にはない。
798人間七七四年:2010/09/09(木) 09:10:47 ID:7BglPMKP
一次史料による感状の比定材料
慶長3年


慶長6年
・政宗は2月19日の書状で、片倉に「南口出馬」について、石川昭光とともに
 相談したいので、28日までにこちらへ来るよう命じている。
・政宗は3月3日の佐竹宛ての書状で「3月10日に白石へ出馬」する計画があった
 が、最上が上洛するとの話を聞いて景勝が上洛するのかもしれないと判断、延期した。
 上杉が上洛すると決定することは「取乱義」らしい。
・政宗は3月20日の書状で「兎に角一度戦いたい」「槍を振るう者は集まるだろう」と述べている。
・政宗は3月22日の書状で「白石から2、3日中に攻撃する」と言っている。
・青柳隼人、小田切安芸が福島城にいることが別の史料で確認できる。
・築地修理、小島豊後、車丹波が梁川城にいることが別の史料で確認できる。
・「信夫」「福島」が戦場であり、白石城が伊達のものとなった慶長5年7月以降と考えられる。
799人間七七四年:2010/09/09(木) 12:40:25 ID:tItGgBX1
一次史料だけがすべてじゃない。
一次史料だけじゃわからんことが多いし実際二次史料だって重視されてる。
伊達にとってはどうしても欲しい地なので3年も6年も伊達は攻めてきたんだろ。
会津方面の国人を政宗が煽ってる可能性は高い。
国人が下手打って失敗したら、和賀や大崎&葛西旧臣みたいに見捨てるだけだし。
なんせ政宗は刺客で蒲生氏郷暗殺も謀ったりしてるわけだし。
800人間七七四年:2010/09/09(木) 14:03:08 ID:4kiWgV6n
慶長三年の上杉氏の会津移封後も国人領主がいるのかしら
801人間七七四年:2010/09/09(木) 14:34:12 ID:dJ46QE41
一次資料って言っても、伊達側の資料自体、
「負け戦は記録されない事が証明されている資料」
なんだよなあ、
だからこれだけを根拠にされても、はっきり言って意味が無い。
802人間七七四年:2010/09/09(木) 23:21:08 ID:7BglPMKP
>>799
一次史料だけがすべてではないが、二次、三次史料でも上杉御年譜
以外に慶長3年説を採っているものを知らない。しかも御年譜は6
年に比定するのが妥当と思われる感状を慶長3年のところに掲載し
ているだけ。
>>801
上杉方の一次史料にも慶長三年説を補強するようなものはないよ。
慶長6年の戦闘が記述されていないので負け戦は記録しない傾向に
あったのは同意。
803人間七七四年:2010/09/10(金) 07:53:39 ID:QdSd+5qQ
スレの流れを見る限り、戦略的にも戦術的にも伊達側に分がある戦い。

慶長5年10月6日に、福島に攻め込まれた伊達に野戦で三百余名を討ち取られて
大敗。これを宣伝材料にした伊達は、仙台城の築城許可と徳川の会津進駐の言質
をとる。一方歩上杉は、慶長6年3月下旬には「籠城ばかりで戦意喪失」状態を
伊達に暴露され、同情すらされる始末。むろん伊達が出兵するわけもない。

この時点で上杉は詰んでおり、後は家康様の裁定を待つだけの話。
関ヶ原後の伊達の上杉観は「手負いの猪」(結城秀康への書簡)の一言に尽きている。

伊達に対して、上杉は戦略的にも戦術的にも大敗をした流れだったことは間違いない。
804人間七七四年:2010/09/10(金) 09:10:27 ID:ov9284QP
いつまでも10月6日にしがみつくしかないのか…
その日すら寝返りが上杉にばれて何も得るものなく政宗は撤退しているんだが
家康の命令待ちと口では言いつつ、次の年も何度も攻撃する政宗
さすが
805人間七七四年:2010/09/10(金) 14:30:21 ID:48WJIkHS
つかお前、伊達全軍でやる気満々で攻めてきて1/10近くの兵力差がありながら
本庄から高速の速さで逃げ帰る大将ってミジメじゃないのか?
これを勝ったと捏造して開き直るって三国一の卑怯者より倫理的に劣るよね。
806人間七七四年:2010/09/11(土) 12:00:34 ID:eD+LNz1H
>>803
慶長6年3月の時点の上杉は戦意喪失というより、徳川と和睦交渉中なので
政宗の挑発に乗って反撃に出るようなことがなかっただけだろう。政宗がそ
う書状に書いているんだから。結城秀康宛て書状がいつのものか知らないが、
「手負猪」は傷ついても必死の反撃をしようとする者で、戦意喪失とは矛盾
する喩えだよ。

>むろん伊達が出兵するわけもない。
政宗の書状を断片的に切り取らずに読めばそうは判断できない。
出兵について片倉らと計画を練り、徴兵の話をし、上方にも2、3日
中の出兵を報告している。「命令があるまで動かない」政宗の姿は書
状にはない。
807人間七七四年:2010/09/11(土) 18:28:48 ID:xpoUJeyF
結局政宗は戦闘で勝とうが負けようが、
ただの徒労、
何も得られなかった、
意味が無かった、
時間の無駄、
骨おり損のくたびれ儲け、
まあ、何を言われても仕方ないかな。
808人間七七四年:2010/09/11(土) 23:43:16 ID:UJEaNKU0
>>805>>807
結局そこが論議の帰結だよね。
多くの準備期間をかけての軍事行動に伴う利益がまったくない伊達の敗北でしょ。
>>806
伊達がたびたび南下してその都度撃退されてるのは疑いようがないのに、
そこを無理やり否定するために
執拗に繰り返し東国太平記を持ち出してきた基地外理論をまた持ち出してくるぜw
809人間七七四年:2010/09/12(日) 00:20:14 ID:OHcKU0Rq
「伊達の敗北」と煽りたいだけのいつものSubでした
810人間七七四年:2010/09/12(日) 04:45:33 ID:RfOSmoLs
『伊達政宗 (Truth In History) [単行本] 』相川 司 (著)

には爆笑した。

>執拗に繰り返し東国太平記を持ち出してきた○○理論

伊達上杉の戦闘の記述がまさにそれ。一読を勧めたい。
811人間七七四年:2010/09/12(日) 10:50:27 ID:lAgSb3tC
上杉謙信の小田原城攻めも負けだし負けでいいじゃん
812人間七七四年:2010/09/12(日) 13:03:33 ID:Iles2dR3
戦略目標が達成できず失敗した伊達
戦略目標が達成できた上杉
813人間七七四年:2010/09/12(日) 20:26:04 ID:fi44izK4
>>812
10対1の戦力差でね。
814人間七七四年:2010/09/21(火) 17:00:50 ID:HuzloqMY
伊達厨って伊達が東軍だと固く信じたいみたいだけど
実際は単なる蝙蝠で東西両陣営に通じてたから
両者から不信感を買ってただけなんだよね。
おまけに東軍最上を窮地に追いやり
東軍南部侵攻までする馬鹿ぶり。
その南部侵攻を最上から家康にチクられるほど
関が原後の伊達の最上救援の豹変ぶりに叔父さん怒ってた。
家康も和賀を連れて来いって政宗を恫喝してるしな。
さらに大坂冬の陣が起きると
踏み絵とばかりに徳川にとっていまだ信用できない
旧関が原での敵である
伊達政宗、上杉景勝、佐竹義宣に
10/15将軍徳川秀忠は大坂攻撃の先発を命じるわけよw
上杉と佐竹と同列視されてるのよ伊達ってw
簡単な話、伊達も関が原負け組仲間なんだよ。
よーくその点から理解しなさいw
815人間七七四年:2010/09/22(水) 01:32:36 ID:r6pmCXfh
>>814
そうだね。
だから政宗を蔑視してた家康は
政宗を苛め抜いて
多くの労役や大金浪費させて
伊達財政を破綻させて苦しませてた。
また伊達の洞と言う古い統治システムが
仙台藩の要害制度で
有力家臣によるミニ城下町の散在
言ってみれば地方内地域分権という独自家臣勢力が成立し
権力分散、徴税力分散など
仙台藩主中央集権の挫折につながり
伊達騒動につながる。
晴宗や輝宗までの改革を無駄にし
旧体制への回帰固定化を進めて
死去した政宗は政治外交戦争法治財政
すべてにおいて劣等だったのは歴史の事実。
816人間七七四年:2010/10/08(金) 13:48:36 ID:s0l9ybHe
【上野武蔵】上杉氏総合スレ【越後丹波】
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286513095/
817人間七七四年:2010/10/10(日) 06:44:26 ID:IwkHvWko
『東国太平記』は杉原親清が寛永元年に著した物を国枝清軒が延宝年間に校訂したってことになってるけど、
実際は国枝清軒が著者で杉原親清の著した物を校訂した事にしたんでしょ?
818人間七七四年:2010/10/10(日) 13:37:17 ID:4WlncJiv
>>817
伊達チョンさん懲りずにまた東国太平記を持ち出して一つ覚えのバカですか?
相変わらずのそれしか手法がないからバレバレですよw
この後また単発ID自演で会話を始めるんだよねプププ
819人間七七四年:2010/10/22(金) 01:31:32 ID:GjaKm/jE
上杉のまともな史料って何ですか?
『上杉将士書上』とか言わないでくれよww
820人間七七四年:2010/10/22(金) 08:59:06 ID:chnumG+4
上杉将士書上とか東国太平記しか史料がないと思ってるのか・・・。
821人間七七四年:2010/10/23(土) 03:36:27 ID:eA1z4w1a
「今日其表、村押之様體、一段可然候、殊会津江之状使其他【二三人】討捕、験越候、満足ニ候、
今日此表ニ而者三百餘人、此内馬上百騎計討捕、福嶋之虎口江追入、無残所手際ニ而、
國見江打返陣取候、明日モシ福嶋筋ヨリノオサエニ、可然人衆七手モ八手モ保原筋ヘ可遣候間、
其衆可申合候、恐々謹言、返々、自之人衆不遣前ニ、聊爾之扱無用候、尚一平可申遣候、
以上、十月六日、中島左衛門殿 政宗 御書判)」(十月六日中島左衛門宗勝宛政宗書状)
伊達厨がよく、最初の一行目を削除して転記して
今日此表ニ而者三百餘人←ここから2ちゃんに書く手紙のことですねwww
【二三人】討捕←ここ注目w
戦に負けても戦働きをした家臣には恩賞を与えなければならないので
勝ち負けに関わらず上記のようなものは出す(事実、伊達軍は一寸の土地も得ていない)
しかも、この手紙には伊達側の被害甚大なことには一切、触れられていない。
300百人討ち取りってのは政宗の大ウソ宣伝。
この手の捏造戦果のウソは家康に対しても行なっている。
ここではっきりしてるのは 殊会津江之状使其他【二三人】討捕
であるが、福島から会津への書状を持った非武装の伝令の使者ら2、3人を討ったに過ぎないwww
(23人なら廿三人と表記される)
しかも誇大広告のような一次資料の手紙を集めても治家記録のような内容にはならないw
むしろ会津陣物語を参考にしつつ伊達が勝ったように歪曲してるのが治家記録。

さて伊達厨がなんで最初の一行目を削除して転記するのか不思議なところだw
書状を下記に正確に転記してみることにした。
備中二番ニ候へ共、為御意、脇道参候ニ付、宮代御合戦ニ逢不申、福島虎口へ懸著、鐵炮掛申候砌、物頭二名討死、
一 景勝衆三百余討捕申候、内名志れ申候者、安田勘介、桑折図書、布施二郎右衛門、北川傳右衛門、
武田彌之介、右之衆組頭之由申候(此衆蒲生氏郷譜代之由及承候)」
なんと片倉は脇道にそれた所に布陣してたので本合戦に遭遇せずと書かれているのであるwww
完全な伝言ゲームである。しかも相手は蒲生衆であり景勝衆の軍事行動ではなく、単なる独自行動していた友軍である。
まったく笑える話である。
蒲生氏郷普代衆を討ち取りと記し、さらに成実は越後兵(堀衆?溝口衆?村上衆?)を討つと記すなど、
当時の人が間違うはずがない簡単なミスが続出し認識が間違いまくりのデタラメばっかりが伊達の捏造を表している。
いったい関ヶ原の伊達軍は誰と戦ってるの?見えない敵と必死に戦う迷走ぶりだなw
無理やり「蒲生が減転封した時に上杉に仕えた」「もともと上杉は越後にいたから、いつもの癖で書いた」と解釈しないといけないかね?
なら蒲生氏にそいつらがいた証拠は?蒲生って書けば嘘でもどうせわからねーと思って書いたの?それとも後世の捏造かね?
822人間七七四年:2010/10/23(土) 03:39:14 ID:eA1z4w1a
伊達の本陣だった国見山を取り仕切ったという宮崎旨元が討たれてるしね。伊達の史料にはそう書かれてるし
上杉の史料にも似た内容がある。本陣を仕切った人物が指揮していた荷駄隊はある程度の大部隊だったと考えるのが自然
でもなければ荷駄隊なんてわざわざ編成する必要が無いんだし実際須田の記録では兵糧、弾薬、
首級(荷駄隊隊長以下警備の者、下人)が梁川城へ運ばれてるこれが一番大きな決め手になったようにしか見えないけどね
巻乃二十下479ページ (政宗)公、白石城御出陣、伊達郡国見山二御本人ヲ備ラル。
同上487ページ 宮崎内蔵助旨元 ハ国見山御陣場ヲ取リ仕廻テ、御幕等ヲ人夫持セ、御跡ヨリ福島表へ来ル。
で、宮崎旨元が梁川勢によって討取られるという内容へと繋がっていく訳だけど
この際奪われた陣幕は亘理伊達家、定宗の荷物に入っていた物かもしれないとも書かれてる
あと俺は面倒だから小荷駄を荷駄と略して書いたけど小荷駄だから小規模だとか、
荷駄だから大規模って区別の仕方はされてないと思うよ。小荷駄=大軍勢を賄う重要な部隊〜という位置付けで
書かれてる話も実際あるし(信玄×内藤の逸話など)宮崎旨元率いる小荷駄隊が公(政宗)の御跡を追って、
国見山から福島表へ来る途中の話。伊達による福島城攻囲とほぼ同時間帯に行われてる話
ちなみに日本戦史も同じ解釈(つーかそうとしか読めん)
伊達軍本隊の荷駄を悉く奪って、梁川城へ運び込んだという「戦果」は大きいし
一方伊達の立場から見ると、せっかく攻城用に準備してきた兵糧&弾薬がそっくり敵の城に移ってしまった
福島城どころか途中にある支城=梁川城が強化されたという結果に
この戦いの直後、伊達側の最前線にあった懸田砦が上杉の逆襲に遭い落城。懸田を奪った上杉方の簗田城兵が感状を貰ってる。
景勝・直江主従はなんで隠居扱いにならずに済んだんだろう。毛利輝元と島津義弘の両当主は剃髪強制隠居の実質領地召し上げの改易。
その後、家康が毛利秀就と島津忠恒を宛名に領地の再交付による安堵で存続が許されたわけだし。
上杉主従が関が原後に初めて家康と会談した時、薩摩の記録によると上杉主従はなんら悪びれず堂々と会談に臨んだって言うし、
家康は直江の武功を褒め称えて喜んだとも言うし。この主従と家康の関係ってよくわからねぇよな。
本庄氏の米沢藩時代の家臣団での席次は堂々の第一位
かつて謙信時代に謀反により春日山城での席次は 同族色部氏より格下にされてしまったこともあるのに
確かに石高では安田氏のほうが上位だけど席次は格段に本庄氏のほうが上位にされています
上杉氏側では松川で伊達を撃退し上杉を守ったとされるので優遇される理由はわかる
幕府からの諸大夫尋ねでは直江3万、本庄2万になってるけど本当かな。
慶長15年の将軍桜田御なりの時も、本庄は将軍から下賜品や献上を行ってる。
直江一族や江戸留守居の千坂はともかく、本庄は対外的にも直江家に次ぐNo.2とみなされてた。
会津時代の分限帳からみると、出奔した藤田や大国を除いても、須田、甘糟の下、安田、泉澤、清野、中条、色部と
同等に扱われてるから、やはり関ヶ原後地位が上がってるような気がするけどな。
伊達に大敗してたら、本庄を家康との和睦で辱めを受ける可能性もあるし、和睦がうまくいかない
可能性も出てくるから派遣したりしないだろうね。そもそも福島を空けて交渉に行くくらい福島表の戦線は
安定してたと言うことは伊達の脅威の排除に成功してるわけだし。 伊達に勝ったからこそ、
戦功を背景に有利な交渉ができ本庄を派遣した意義が生きてくるわけだし、伊達の家康への嘘報告の審議をするために、
家康の指名で本庄が呼ばれた可能性もある。戦後の伊達への家康の冷遇ぶりから有り得る話だろうね。
823人間七七四年:2010/10/23(土) 03:55:49 ID:eA1z4w1a
歴代古案1538 日付については検討の余地がある書状ではあるが
政宗が白石攻めに失敗して上杉の武威に再考を余儀なくされたのは事実であろう)
6/27政宗→井伊
6/14に令があり、夜を日についで23日に大崎に着き
1日休息して6/24の片倉を先手に白石城を攻めたが甘粕の指揮の前に破れた。

これに懲りた政宗は到底、伊達軍の力量では白石城を落とせないと
心底痛感し、かつまた上杉の実力と佐竹の内通を知り
家康に隠れて西軍に内通することで7月に、
甘粕が取り決めどおり去った後に白石城を政宗は受け取ったのであろう。
>>111>>113>>177>>195>>201>>466>>526>>538
政宗→井伊へ
三月廿二日
南部からも攻撃されてまして伊達軍が討たれてるが
家康公から指示がないので南部への対応を控えてます←自分が悪いのに南部が悪いと言ってるw
佐竹から景勝へいろいろと話があったそうで
どうやら景勝の上洛は取りやめですぜ←上杉徳川の和睦をぶち壊そうと必死w
2.3日中に白石口を攻めますの、家康公も攻めてください←哀願w家康「だが断るw和賀同伴指名しますw」
そしてその後まもなく上杉側の文書に下記の者達へ福島での戦闘で
伊達軍を追い出した軍功は比類無いとの文書が発給されてます。
蓬田寒松斎
小島豊後守殿
築地修理青柳隼人佐
小田切安藝守


猶々態飛脚入念候儀、祝着ニ存候、以上
今度不慮之働候処ニ於福島堅固之防戦、殊更其地より半途乗切、何も勝手ニ被申付候故、
敵引除候由申来候、昨日如申、各堅固備と存候、猶其元之用心不可有油断候、恐々謹言
       直江
 三月廿九日 兼続(花押)
   築地修理殿
   御報
824人間七七四年:2010/10/23(土) 03:57:52 ID:eA1z4w1a
三月の書状なのでまだまだ上杉領の切り取りに野心を燃やしているということ。
政宗は家康に「上杉は佐竹に説得されて上洛しない」と伝えたり何としても会津再征を実現しようとしている。裏を返せば、福島
方面の上杉勢が手薄な10月初めのチャンスが失敗に終わり、あとは独力で上杉を切り崩すことはできなくなっていたということ。
慶長6年3月の戦いは『上杉御年譜』だと慶長3年3月に史料が掲載されているが、それだと惣無事違反なので
慶長6年に比定するのが自然。築地修理宛ては>>669に掲載されている。
今度政宗其地罷出候処、堅固之防戦就之者、
別而走廻候由尤珍重候、猶水常可有傳達候、恐々謹言、
        直江
 卯月二日    兼続
 蓬田寒松斎
今度向信夫、政宗罷出候処ニ、其地より見届、半途乗切、
就之其方走廻高名之由、車所より申來候、度々神妙ニ候、
重而 御書可有之条、先申届候、恐々謹言、
            直江
     三月廿九日  兼續
      小島豊後守殿
            まいる
3月9日の家康宛て書状で政宗は景勝上洛の噂を聞いて上杉攻めを「遠慮している」と言っているが、その政景宛て
3月20日の書状では「兎に角一度戦いたい」、さらに3月22日井伊宛て書状では勝手に上杉が上洛を中止したと判断し、
「2、3日中に白石から攻撃する」と述べている。それが上記の感状につながる。


825人間七七四年:2010/10/23(土) 04:07:06 ID:eA1z4w1a
☆7月に小手村内大館古城で上泉主水に大敗(覚上公御書集・大河原文書・鶴岡1)
上杉120万石のうち2万石(実高1万6000石)の刈田郡譲渡約束で西軍に内通した政宗
(家康の上杉征伐中止の手紙を聞いて上杉にバレないうちに急いで接収に向かう)
白石城代の甘粕は白石城兵を引き抜いて宇都宮へ着いた秀忠を迎撃する為に白河城へ
白石城はロクに抵抗せずに翌日早朝に明け渡し。
政宗は刈田郡西部の空き家の湯原城を接取する約束を反故にして
突如、福島表の小手村内大館古城に侵攻するも大破され伊達軍106が犠牲に。
また伊達郡の川俣城攻防でも伊達は大敗敗走し刈田郡へ逃走。
結果、湯原城を諦め白石城返還和睦交渉を申し出る。
ついでに最上を中傷&南部領を狙い反乱を起こさせ、家康の撤退を安東や戸沢らにチクり
上杉征伐の米沢口軍を瓦解させ最上を丸裸にして西軍ですよと上杉の忠犬アピール。
その一方で早くも西へ向かい出した東軍に「三成なんてどうでもいいから上杉討伐を先にやってくれと哀願」
この後の政宗は直江の出陣するぞwするぞw詐欺の恫喝に怯え
福島へ一切侵攻せず(8月には政宗は和議を直江に頼む)ひたすら結城に上杉攻めてくれと懇願しつつ
上杉とは戦わずに最上の援助もせず傍観し西軍内通の褒美に空城の湯原城を9/25に譲り受けつつ山形城を奪う悪巧みをする。
☆9月花巻城攻防戦で南部軍の援軍に21日に伊達和賀連合軍が大敗
☆10月に福島城で大敗
関が原西軍は敗報を聞きチャンスとばかり攻める伊達軍。今までロクに東軍に貢献をせずに突如として東軍顔をする狼。
しかし寡兵の本庄軍は国境で薄い防御線を張りつつ偽り敗れて福島城下へ誘引する策を実行。
調子になって背後を扼する梁川城を放置して進軍した政宗は陪臣2人を討ち取られ背後を襲われ
この間わずか2日のうちに敗れ去り伊達の聖地を焼き払われ北目城へ高速の速さで敗走。
☆11月ついに直江が二本松城へ出陣
政宗は怯えて引き篭もってしまったので、本庄が福島の守備を留守にしても大丈夫になる。

伊達の主張では12月に家康が政宗に和睦するから戦闘するなと命じたのでこれ守り、この月を境に仙台築城準備に忙しく戦ってないと主張w
826人間七七四年:2010/10/23(土) 04:09:35 ID:eA1z4w1a

本庄が徳川首脳と会談。福島表で武勲をあげた本庄を家康の元に派遣し上杉の立場と福島での上杉の圧勝を伝えた。
これで正確な情報を知った家康は来春に上杉征伐をするのを再考し始めた。
☆1月に月夜畑で大敗(奥相茶話記・相馬が西軍として改易になるところを救った証明になった戦い)
福島表で敵わぬと悟った為、相馬と一緒に厳寒期に夜間に迂回奇襲しようと謀るもド田舎の山中で補足され伊達250相馬150の犠牲者を出す大敗。
☆3月に福島表で瞬殺大敗(覚上公御書集)
家康に東軍である南部での謀反の首謀者の和賀忠親を引き渡せと恫喝された政宗は
軍功をあげて、なんとか家康の心証をよくしようと焦り大敗。
☆3/29会津に侵入した伊達軍を撃退した軍功に対して感状を与える(上杉氏年譜3-150〜152) ←最新の研究結果で発給された年の変更
☆4月 反撃した南部側の北信愛に花巻城で大敗した伊達和賀連合軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに伊達の増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
積雪のため停止していた東軍南部軍は岩崎城奪回のため3月下旬に攻撃開始。
4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破敗走させ26日には孤立無援の岩崎城を陥落させ、
岩崎が火の海になる中を伊達軍は逃げ惑い伊達領へ壊走した。
☆5月 上杉領長井荘で火をかけるのがやっとw(石川義宗→家康への手紙)
心証が悪化の一途を辿る家康の機嫌をよくするべく必死に戦功を欲する政宗は必死に軍事行動を起こすが
失敗の連続で国境紛争レベルにしか見えず。連敗で戦力ズタボロの政宗が書状で置賜郡長井荘でなんとか放火程度はできましたと
必死に報告したが「早く和賀を上洛さ・せ・ろ!と言われ和賀を切腹させて証拠隠滅を図り南部信直に「水に流してくれ」と哀願。
☆ 7月に徳川・上杉和睦。
上杉が伊達に対して奮闘し撃破したので伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も
自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵。
会談で家康も兼続の武功をすばらしいと褒め称える&最上義光も兼続を褒め称える。
最上13万石→57万石・蒲生秀行宇都宮12万石→会津帰還して60万石・下総結城家の関ヶ原は何もやってないのに10万石→75万石
政宗は武功ゼロ&オマエ本当は西軍だろ!100万石はなし白石(1万6000石)しかやらん・・・政宗ショック涙目w
827人間七七四年:2010/10/23(土) 09:45:17 ID:tmo2EVaK
>上杉が伊達に対して奮闘し撃破したので伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も
>自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵。

上杉は大幅減封だな。
そして、上杉が伊達を撃破したから領土を安堵した訳ではなく、
伊達に対する抑えとして上杉が配置されただけ。
坂口安吾といい、突っかかってくるのはいつも上杉側。
828人間七七四年:2010/10/23(土) 11:58:46 ID:apl8U9m7
伊達に対する抑えなら
関ヶ原の発端を作り出した上杉を
改易して米沢・伊達・信夫に譜代を配置すればいいだろ。
そもそも徳川は伊達に抑えを配置しなければならない動機すらない
他家文献を含めすべて上杉勝利と書かれているのに、いきなり伊達勝利を言い出して突っかかってきてるのは常に伊達側。
>>683>>693>>694>>695>>699>>700
史料たくさん読んでますね。
まったく知らない事実ばかりでした。
829人間七七四年:2010/10/23(土) 20:13:01 ID:KhJPqfaK
松川、手取川、愛の兜。捏造だらけの上杉
830人間七七四年:2010/10/23(土) 20:21:24 ID:v9LtQOF9
坂口安吾といえば
上杉ファンで伊達アンチだったが
薬物乱用で狂って、裸で街中走り回ったりして
錯乱死したんじゃなかったか
上杉ファンってそういう連中だろ
831人間七七四年:2010/10/24(日) 00:28:23 ID:8oqe6gf5
>>825>>826

タイムスケジュールをみたら一方的に伊達がボロ負け連続でワロタw
832人間七七四年:2010/10/24(日) 09:59:40 ID:W0lKXnPX
>>825
白石城が上杉と伊達の密約で伊達にわたったとか
ちょいちょい嘘混ぜるなsub
833人間七七四年:2010/10/24(日) 13:03:28 ID:3mRtIlsr
>>832
そうは言っても>>828のリンク先のスレにたくさんの史料を読んでちゃんと調べあげて論証してる人がいるじゃん。
それにキッチリ反論してる人は見受けられないしね。
834人間七七四年:2010/10/24(日) 14:39:17 ID:I30G0cdJ
>>700以降で白石密約なんて普通に論破されてるぞ。
>>700も最後の段落は史料的根拠のないsubの個人的な妄想。
上杉は白石の戦い前は伊達に対して警戒を強めてるし、
戦後は奪還に向けた動きも見せている。
和睦に方針転換すると「公儀のためを思い、白石のことに
構わず停戦するように」と直江が本庄に書状を送っている。

subは史料にあることをそのまま述べているときはいいが
拡大解釈して勝手に新説を唱えてしまい、アンチの餌食になる
のがいつものパターン。論破されると黙り、忘れられたころ
にまた同じ主張をする。
835人間七七四年:2010/10/24(日) 14:50:36 ID:I30G0cdJ
700以降でなく前。

sub本人でないなら彼の主張を真に受けない方がいい。
836人間七七四年:2010/10/24(日) 19:03:53 ID:vldghlgj
客観的に見ると、伊達に野戦で大敗した屈辱がトラウマになってるんだろうな。
837人間七七四年:2010/10/24(日) 19:14:31 ID:HbRbjUDI
>>834
ぜんぜん論破してないどころか
リンク先に書かれてる内容のほぼすべての事柄に
まったく触れてない。と言うか触れられるだけの知識がまったくないだけなのが露呈。


>>上杉は白石の戦い前は伊達に対して警戒を強めてるし

6/27政宗→井伊
6/14に令があり、夜を日についで23日に大崎に着き
1日休息して6/24の片倉を先手に白石城を攻めたが
甘粕の指揮の前に破れた。

この後に甘粕が会津へ行き直江から今後の方針を聞いたと思われる。

直江の7月14日書状、「白石などの事」
これこそ白石譲渡案の根拠でしょ。
わざわざ14日に甘粕を白石へ派遣して、譲渡の仕方を打ち合わせさせてから
さっさと白石から甘粕は兵を連れて白河へ去っていき、
甘粕が去ると政宗が21日には直ちに白石へ出馬するという都合がよい連携行動w
いったいそれ以上に甘粕派遣の意味なんてないだろw

この時、景勝も家康迎撃のために白河へ軍の集結を始めており、
甘粕も白石城兵を引き抜き白河へ移動

>>戦後は奪還に向けた動きも見せている
8/23の書状のことを指してるのか?あれは単なる福島防衛と交渉の牽制のため
なぜなら8/25には本庄に「今度大口へ之動之行」と最上遠征を報せてる。
到底、白石を攻める気持ちなんてない。

9/3には直江は本庄に政宗に交渉して関東出陣の時は伊達の家老も同陣させろとか
最上の出方次第だとか言ってる。
838人間七七四年:2010/10/24(日) 19:16:46 ID:HbRbjUDI
修正
今度大口→今度奥口
839人間七七四年:2010/10/24(日) 21:30:39 ID:I30G0cdJ
まず推測じゃなく、密約の証拠になる史料を挙げたらいいのでは。
subしか指摘していない新説なわけだから。
ちなみにその奥口は最上側でなく伊達側。
840人間七七四年:2010/10/25(月) 00:48:31 ID:WSbg7nsN
>>837
直江の7月14日付書状を見る限り、甘糟が白石譲渡のために白石へ行った
などとは一言も書いていない。むしろ最後に「政宗が出馬して来たら、こ
ちらも討って出る。油断してはいけない」と述べている。
実際には白石だけではなく、川俣城も陥落しており、上杉軍は福島や二本松
から軍を出して奪還した。本村造酒丞らに宛てた7月27日付書状で直江は
即時奪還を称えた上で、「白石に政宗がいるとのことなので、後詰を申し付
けられたが、政宗はこちらの旗を見るとすぐに逃げ出す。白石表に働きかけ
て引きずり出し、討ち果たすべきだ。政宗の様子の注進を待つ」としている。
さらに8月4日の小田切安芸らへの書状では家康が小山から引いたことを伝え、
「何としても(家康反転を聞いて引き上げる)政宗を取り逃がさないようにし
たい」、8月12日付岩井信能宛て書状では「白石表の政宗軍が退いた。上方
の変事を聞いたからだろう」と述べている。8月13日には梁川の諸将に対し、
「政宗がその地へ攻め来たるとの話だ。幸いなことだ。私が後詰し、無二に討
ち果たしてやろう。事実なら追って注進してくれ」
8月23日には上泉主水らに「白石表の仕置きのため、軍勢を派遣する。我ら
も3〜5日中に白石表へ到着する」

8月25日の本庄繁長宛て景勝書状にある「今度奥口へ之動之行」は最上攻め
を知らせているのではなく、本庄を森山から福島へ移動させたこと。そのあと
に「大儀是非なく候、そちらの備えはその方老齢とはいえ任せ置くので、遠慮
なく万事異見してほしい」と述べていることから分かる。

全く密約の痕跡は見当たらない。
841人間七七四年:2010/10/25(月) 02:52:36 ID:Fw1RSXLW
>>837
君はなかなかのセンスの持ち主だね。もう少し学べばモノになる。>>828同様に以前に伊達厨を論破した公式を下記に転記しておこう。

甘粕は葬儀&甘粕の甥で婿→会津陣物語   甘粕は軍議&甘粕舎弟→奥羽永慶
どっちも完全なデタラメなのにバカ無知低脳伊達厨必死乙www
伊達の資料は基本的にいろんな書を熟読した後に書いてるんだな。
会津陣物語を手本として明らかに熟読してから書いてるのが、奥羽永慶と伊達家資料。
ププまた間違いを素直に認めず伊達厨得意の言い換えが始まったw
登坂が存在しないなんて一言も言ってないわけだがw
誰が登坂を創作したなんて書いた? ほんと伊達厨って基地害だな。
白石城攻防は講談話準拠で一次史料には存在しない。 伊達と上杉の自作自演を演出するために作られた講談話。
白石城の無償譲渡で西軍内通しかし政宗は欲をかいて違約し桜田元親を川俣城へ派遣して奪い取ります。
違約に怒った寡兵の上杉軍は直ちに出陣して川俣城を奪い返して桜田を瞬殺し密約による国境まで押し戻す。
これに恐れた政宗は福島への野望も消え去り、さっさと北目へ逃げ帰った。
兼続は白石より南下した場合は自ら政宗を討つとたびたび表明し政宗を挑発していたが、政宗はビビってやってこなかったどころか、
家康がいなくなった後は、いよいよ恐怖し最上に上杉が攻めることを望み、
白石返還と南部侵攻で上杉に敵意がないことを表明。直江は白石を奪回する行動は一切してないのは密約国境線を容認してた証拠。
また上杉一次史料に白石攻防に関わる書状はない。 伊達→村越直吉への書状でも 将が降伏→数百人討取りと書かれている
つまり戦わずに白石城将らがさっさと降伏している記述なのだ。
しかも落城させて自らが支配してるのに具体的数字もなく数百人などといい加減で抽象的な表現をしてるのは架空数字だから。
これは伊達のいい加減な報告を受けただけで、未確認の秀忠の返文でも同じように将が降伏→数百人討ち取りと書かれている
(子細は書状を届けた使者が語っているはずなのに同じ数百人w)
川俣城の存在も知らなかったくせに何言ってんだか。 川俣城は白石より前に落ちた?そんなことねーよ。落城は同日だわ。
上杉側は白石が落城して無念とかそういう発言もないし。
直江は公儀(秀頼)優先で白石は忘れろ(譲渡したんだから)って書いてるだけ。
もし騙され奇襲された挙げ句に力攻めで死傷者続出の上、落城し数百人撫で斬りされてたら「忘れろ」はないわw
24日に刈田郡の白石に続いて、さらに奥の伊達郡の川俣に伊達がやってきたから
24日のうちに本村らは近隣の福島城より、石栗らは二本松城から川俣へ出陣したわけだが。
奪回報告を直江は27日に受けて早速に書をしたためてるわけだが。 伊達郡から伊達を敗走させて譲渡ラインを明確に線引きしている。
村越宛には「二三の丸迄取破申候、本丸迄ニ仕候処、城中より頻降参」と無抵抗なまま進撃してるだけで、血が出るような戦をした形跡がまるでない。
また降参した将を「我等手前抱置候」とおよそ、敵将として扱ってるような描写もない。
白石城攻防の様子は完全に会津陣物語のデタラメを間にうけて拡大解釈されたものでしかない。
上杉120万石のうち、わすが実高16000石しかねー刈田郡なくせに 白石城は上杉領から突出しすぎていて守りにくく、迎撃包囲がかけずらいので
白石城は最初から捨てる予定だった。釣り込まれて福島城へノコノコと政宗がやってきた時に、
各地から兵力が集結し福島城を基点に伊達軍を包囲するための餌でしかない。
こんなのは軍事教練のマニュアルに載っているような軍事的常識レベルの模範的な話で、直江も再三にわたり、政宗がやってきたら討つと書をしたためている。
家康に対しても白河へ釣り込み自領を主戦場に包囲をやろうとするなど共通点も多い。
842人間七七四年:2010/10/25(月) 02:58:05 ID:Fw1RSXLW
会津陣物語に書かれてるような迎撃作戦など主張してないようだが。家康に白河で降伏するつもりだったと主張したいのかい?
家康を白河で迎撃しようとした事まで否定するつもりか?
白石の仕置きを命じてるとか甘粕が常駐してないとか言ってる書状は佐竹のスパイの車氏ら複数人に宛てた書状のことだろう。
そこからわかるのは上杉と伊達の密約が家康にバレないように細心の注意を払って、わざと車氏らにも披露してる点だけ。
後世の目からみれば直江らのアリバイ作りで、いかにもわざとらしく見えてしまい、初めて読んだ時は笑ってしまったものだわ。

そもそも車氏に教える必要性がまっくないのに わざわざ車氏に読ませること自体に違和感を覚えないなら君はかなりの勉強不足。
まぁ中途半端な歴史ヲタは書状の内容は読んでも、宛先などは読み飛ばしてしまう素人レベルも多いからやむを得ないかもな。

「何時ニよらす彼地江正宗打出候者、可乗出候条、不可有油断候」以前の文章内容は状況と行動指令だから
そのままに受け取っていいだろうね。 問題は上記文章が車らへのポーズってこと。
たしかになんどとなく兼続は 政宗が来たら俺も乗り出すよ〜だから油断しないでね♪ってお約束文章で、出る出る詐欺をやってるね。
まったくそちら方面に出てくる気がないのに。なんらかの合意ができていたからかもね。
それに彼地なんてあいまいな表現でお茶を濁して特定しないように気をつかっておられる。
川俣城を攻めた伊達の桜田も血気逸って勢いで攻めただけで、上杉側の車や上泉らも、真実を知らされてないだけかもね。
だから川俣を上杉に奪回された後は、なんらかの合意にしたがって 前線の武将をなだめて伊達も再攻撃しないで引いてるわけだろうね。

なんらかの合意=密約ですね。 状況証拠からみても兼続も政宗も取り決められて国境線引きが暗黙の了解で存在してる。
もし違うというなら川俣で大規模な軍事決戦が存在し伊達軍が大敗したためにその野望が潰えたと解釈するしかなくなる。
「彼地」を白石と断定するなら、もっとはっきり書けばよいが そこは機密を握る者、車らにちゃんと明示しないわけだ。

密約を破った伊達を川俣で大破して刈田郡の密約ラインまで押し戻した。しかし直江は刈田郡西部は譲渡は暫くお預けにして政宗の忠勤をみることにした。
汚名挽回を期し密約の刈田郡全土を早く受け取りたい政宗は、直江への謝罪のために山形に集結していた米沢討伐軍を瓦解させるために南部へ侵攻した。
政宗が南部へ北上したのも対徳川に神経を集中して密約ラインを直江が堅持していたので、
後方を伊達は攻めませんよ心配する必要はありませんよと直江へアピールする目的である。
しかし一度はあわよくばと密約を反故にして川俣まで南下した政宗は後ろめたさと直江の大挙北上を恐れて、密約の白石の一時返還を申し出たと言う。
伊達は上杉の忠犬として、最上を売り、南部、安東、戸沢らを撤退させ山形の戦力を低下させ、伊達、小野寺、上杉の同盟ラインが完成。
これらの功績により密約に従い刈田郡西部の湯原城の譲渡を上杉から政宗は受けることを許されたのである。

伊達領へ突出し上杉領から孤立する白石は守るに不適な場所だから放棄したであろうことは想像に難くない。
その戦略は正しく、隘路の福島に侵攻した伊達軍は上杉領に深く突出した形になり、逆に上杉からの会津、米沢、二本松などからの急派による
包囲の恐怖に常に怯え、事実、正面では政宗陪臣2人が討ち取られ、さらに背後を制せられた政宗は伊達の聖地が炎上する
阿鼻叫喚の中を必死になって、出陣からわずか2日のうちに北目城まで壊滅敗走した。
まさに直江軍事ドクトリンに従った戦術的後退と機動包囲であり、家康を白河へ迎える戦略も似たようなものだったであろう。
軍事教本における模範的成功例と言えるだろう。
文盲?彼地が白石なわけがないだろうが。恣意的解釈すんなよ。
843人間七七四年:2010/10/25(月) 05:21:44 ID:6eMl8ZrP
なるほど。
つまり伊達が主張する白石城攻め描写自体が
白石城攻め描写初出典の軍記会津陣物語からの盗用に過ぎないと言うことか。
実際は譲渡に反対した大崎葛西の旧臣を伊達が討った程度の話か。
844人間七七四年:2010/10/25(月) 08:57:48 ID:WSbg7nsN
subはやっぱりアンチ上杉だろ
白石城は終始上杉に返還されていない。
つまりsub説は「上杉はただ政宗に白石城をだまし取られた」と言っているようなもの。
白石城を奪還しなかったことを「密約があったから」「忠勤を見ることにした」などと
妄想を理由にしているけど、結局いいように密約を反故にされたという話になっている。
上杉を貶めているだけ。

政宗の書状のどこに敵が降伏してから数百人を殺したと書いてあるの?
「白石城は堅固で本丸以下通路が不自由なように見届けられたので、昨日命じて
街を始め二の丸三の丸まで奪い取った。本丸だけになったところ、城中より降参
してきたので助命した(中略)この4人を我らのところで抱え置いているので、
家康様の命令次第に扱います。このほか、歴々数百人を討ち取りました。明日は
桑折表へ出陣します」
どこに降伏後に撫で斬りしたと書いているのか。
なんでも都合よく解釈しようとするから本庄宛景勝書状のように誤訳してしまう。

>車氏に教える必要性がまっくないのに
根拠は?車氏は普通に福島方面の城将の一人なんだけど。

>家康を白河へ迎える戦略も似たようなものだったであろう
上杉研究者でもこんなのは否定しているよ。
上杉に関する研究書を読んでいない証拠。
この一件を知らないだけでも上杉厨だとは思えない。
845人間七七四年:2010/10/25(月) 10:14:32 ID:B+2QoeZX
結局領土増えてない政宗が負けたって話だな
846人間七七四年:2010/10/25(月) 11:48:09 ID:cyiX2XBr
まぁこんな過疎板で負けても痛くも痒くもないけどね
847人間七七四年:2010/10/25(月) 12:38:19 ID:HJx1W4av
>>845
大幅に領土を減らした上杉は?w
848人間七七四年:2010/10/25(月) 17:26:44 ID:B+2QoeZX
>>847
減ったのは政宗関係ないじゃんw
政宗が上杉打ち破ってたらもっと加増されてるだろwww
849人間七七四年:2010/10/25(月) 18:11:06 ID:Fw1RSXLW
>>本庄宛景勝書状のように誤訳
ん?俺が誤訳したわけじゃないぞ。日本語も理解できないのか?

私は白石城攻めに関する>>693>>694>>695等で出典を明記した
多くの書を読んで中立的立場で結果を出しているだけだ。

6/27政宗→井伊
6/14に令があり、夜を日についで23日に大崎に着き
1日休息して6/24の片倉を先手に白石城を攻めたが
甘粕の指揮の前に破れた。
政宗は到底、上杉に勝てるわけがないと悟り、上杉と交渉した。


甘粕はそれをもって会津で直江と会談し、これからの家康との決戦に向けて
伊達との国境を安定させるために上杉120万石の中から
たかが1万6000石程度の刈田郡の譲渡を決定。


7/14に甘粕を白石へ派遣を報せ、その後白石城代の甘粕は白石城兵を引き抜いて
宇都宮へ着いた秀忠を迎撃する為に白河城へ
7/21政宗は約束に従って北目城を出発
(奇襲するでもなく伊達のトロトロした進軍にも関わらず上杉側は緊急警報なし)
24日に譲渡に反対した大崎葛西の旧臣達を鎮圧
(戦闘行為と見せて家康の監視を誤魔化す)
25日の監視の目が届きにくい早朝に白石城の譲渡を受ける。


白石城攻め描写初出典の軍記会津陣物語の作者は
この2回の白石を巡る出来事を混同してしまい、まとめて記述してしまったので
誤解が生じてしまった。これは河越野戦や国府台合戦の記述でも
前後の出来事をごちゃ混ぜに記してしまった軍記のように類例のあるミスのパターンである。

850人間七七四年:2010/10/25(月) 18:53:33 ID:g8TiyIkv
実際には白石城では伊達に完敗。福島表では野戦で鎧袖一触。三百余の損害を出す。
その悔しさが軍記の松川合戦となる。描かれているのは敗者としての上杉の悲哀だ。


851人間七七四年:2010/10/25(月) 19:53:04 ID:rPzZ5vxO
>>849
甘糟が白河へ?
白河での決戦説を今だに主張してる上杉研究者っているのか?
852人間七七四年:2010/10/25(月) 20:20:03 ID:6eMl8ZrP
伊達厨が相変わらず無知過ぎてワロタ
甘粕が白川へ向かったのは史実だろw
宇都宮広綱と佐竹出の母から生まれた結城朝勝が白川城にいて
佐竹義宣との交渉窓口として働いてて
宇都宮氏再興を目指して下野で宇都宮旧臣を蜂起させる計画を立てていたのは事実だし。
これで徳川との戦闘準備をしてないなんて有り得ないわアホすぎ。
853人間七七四年:2010/10/25(月) 21:24:01 ID:ZoyLutZx
>>849
〉政宗は到底上杉に勝てるわけはないと悟り上杉と交渉した
根拠なし。交渉するのは家康反転後。

〉甘糟は刈田郡の譲渡を決定した
〉甘糟は白石城兵を引き抜いて白河へ。
根拠なし。甘糟は警護の兵に送り届けられただけで軍勢ではない。

〉25日早朝に白石を譲渡
〉政宗は約束に従って白石に入った
〉譲渡に反対した葛西大崎
根拠なし。


subでもそうでなくてもいいが、妄想でなく史料的根拠を示そう
854人間七七四年:2010/10/25(月) 21:52:18 ID:6eMl8ZrP
>>853
残念ながら君の主張に根拠なし
855人間七七四年:2010/10/25(月) 22:02:59 ID:ZoyLutZx
根拠なく主張しているものに対してそのまま「根拠なし」
といっているだけだが。
856人間七七四年:2010/10/25(月) 22:34:50 ID:6eMl8ZrP
多くの文献を当たって吟味して書かれた内容に対して
なんら根拠もないのに真っ赤になって必死に否定する馬鹿伊達厨w
857人間七七四年:2010/10/25(月) 22:52:35 ID:ZoyLutZx
だから、どの史料をどう吟味した結果、そういう新説に
至ったのか説明すればいいだけだよ。
858人間七七四年:2010/10/26(火) 00:14:30 ID:kcRGSATC
>甘粕の指揮の前に破れた。
>政宗は到底、上杉に勝てるわけがないと悟り、上杉と交渉した。

これから家康が攻め下って来るときにこれはない。
859人間七七四年:2010/10/26(火) 01:48:08 ID:T2oqD1tZ
一次史料だけでなく三光録/白石軍記/山中記/片倉代々記/北越軍記/福島県史/奥羽永慶/置賜郡史
これらを熟読して吟味した上での中立的な総合判断なら間違いないだろね。
伊達の史料は会津陣物語などを熟読してから
書いた後出しジャンケンの綱村時代編纂の伊達治家記録や片倉代々記など捏造が多いしなあ。
そもそも上杉厨が一度も東国太平記を出典に出したこと無いのに
キチガイ伊達厨が勝手に持ち出してきて、捏造本だと1人で喚いてるけど
その本の元ネタが会津陣物語なわけで、それを捏造だと言うなら当然、
それが初出典の伊達による白石城攻撃の話はすべて捏造じゃねぇかよ。
もし白石城を伊達の力で落としたって主張するなら東国太平記に書かれた話も全部認めろよ。
ここは伊達に都合がいいからあってる!ここは伊達に都合が悪いから捏造とか選り好みしてキチガイ過ぎだな!

860人間七七四年:2010/10/26(火) 08:35:34 ID:kxCFOXjC
伊達厨の話はどうでもいいから、君はどの文書や記述から白石
の密約があったという新説が間違いないと判断したのか
示せばいい。
861人間七七四年:2010/10/26(火) 10:39:58 ID:6BOtoBpv
>>859
何の一次史料ですか?具体的な名前を書いてくれないと。
862人間七七四年:2010/10/26(火) 11:39:22 ID:Ldwj/ghL
>>859
伊達厨は捏造歪曲だらけだからなー。
バカバカしいからまともに受け答えするだけ損だせ。
どうせ伊達厨はロクに文献も読まずに
無理やり自分に有利な我田引水解釈しかしてこないから。
863人間七七四年:2010/10/26(火) 12:23:01 ID:TQQml3if
sub白旗あげるの早すぎw
864人間七七四年:2010/10/26(火) 13:29:04 ID:Ldwj/ghL
↑伊達厨ついに東国太平記を認めざる負えない
自己矛盾を突かれて阿鼻叫喚涙目ワロタw
しかも挙げられた史料も一切読んでないので議論に踏み込めない無知まで晒すアホぶりで自爆。
865人間七七四年:2010/10/26(火) 18:25:13 ID:T2oqD1tZ
白石攻めで政宗が勝ったって言うなら
同様の記述がなされている
伊達がボロ負けする記述がなされている
北越軍記も認めないとフェアじゃないよな。
866人間七七四年:2010/10/26(火) 21:47:33 ID:l+SS02Zr
日本語でレスしてくださいw
867人間七七四年:2010/10/26(火) 22:36:06 ID:kcRGSATC
>>862
同意する部分がないわけではないが、
だから根拠を示さなくていいわけではないんじゃね
868人間七七四年:2010/10/27(水) 02:29:07 ID:nBCjQWSM
そうだよな。伊達厨は松川で大敗してるからって
必死に他家史料を全部まとめて捏造捏造って決め付けて馬鹿だよな。
伊達しか伊達が勝ったなんて主張してないし。
まず伊達以外の史料で伊達が松川で勝ったと証明してみろよw
あぁ伊達史だけは宮代表合戦とか呼んで
他家には通用しない独自造語を使ってるんだよねw
869人間七七四年:2010/10/27(水) 03:55:32 ID:4glsaRBv
松川は伊達が福島城下へ急襲したけど、直江の帰還後は攻めあぐね、
成果がないままに上杉と徳川の和睦がまとまった。
んで、白石城譲渡の密約の根拠は?
870人間七七四年:2010/10/27(水) 06:45:55 ID:Dxpy3EAr
>>869
はぁ?なに言ってんだ。
政宗は福島城から本庄が討って出ようとしたのを見かけて恐れて逃走したんだよ。
伊達累代の崇敬篤い寺社と宝物が
炎上する中をわずか1日の速さで
政宗は北目城まで逃走。
871人間七七四年:2010/10/27(水) 08:13:47 ID:4glsaRBv
松川の戦いでの本庄の大活躍は一次史料にはない。
ただ、翌年までの合戦で考えると伊達は梁川・福島の攻略も
できず、たいした戦果がないままに終わっている。

subはその前に白石城の件から逃げてはいけない。
872人間七七四年:2010/10/27(水) 13:27:31 ID:Dxpy3EAr
>>871
ところで、ロクに資料を読んでないくせに
歴史的経緯を無視して伊達厨が頑なに政宗が実力で白石城を落とした妄言をいまだに主張するつもりなら
それは会津陣物語や東国太平記や北越軍記の記述を肯定することになるわけだが
伊達厨として東国太平記の記述を認めて今までの荒らし行為への謝罪はまだなの?
それとも伊達厨の頭は自分に都合が良いものだけを史実認定する馬鹿なの?
この件について誤魔化して逃げ回るのは卑怯かつ卑劣である。
873人間七七四年:2010/10/27(水) 19:13:29 ID:BLbYI6G0
白石城が陥落後、石川昭光が2000人増強して上杉を牽制している。
これでは徳川を追撃どころの話しではない。
結局景勝は、終始伊達に怯えたまま、中途半端な対応を余儀なくされたわけだ。

しかも最上には上山で大敗というおまけつきで。
874人間七七四年:2010/10/27(水) 19:50:44 ID:Dxpy3EAr
>>873
あぁ上杉に土下座して
白石を貰った条件として
直江の北上支援のために
最上に集結中の会津征伐軍を
瓦解させる目的で
伊達軍を北部に終結を開始させ
南部を攻めてまたまた大敗する準備ですね。
875人間七七四年:2010/10/27(水) 20:06:57 ID:ujXgTihR
>>874
ねえ、伊達が上杉に土下座して白石を貰ったという一次史料は?w
876人間七七四年:2010/10/27(水) 22:45:08 ID:4glsaRBv
>>872
伊達厨なら10月7日の野戦で本庄を大敗させたから伊達の勝ちだと
言い張るだろ。>>873が多分そのたぐいだが、自分が正しいなら、伊達厨が
どうとかじゃなく自分の説の根拠を示しなよ。
877人間七七四年:2010/10/28(木) 04:50:09 ID:RR/PZsZw
>>859
よくそれだけの書籍を調べたなぁ。
もう完全に専門家レベルに到達してんな。
878人間七七四年:2010/10/28(木) 08:05:25 ID:OAKjhqcj
自演はいいよ。
根拠を示さない人間は歴史の専門家とは言わない。
「専門家レベル」ならわかると思うけど、史学の論文は
自分の記述についていちいち脚注を付けて、どの史料から
そう言えるのか示していくものだよ。
879人間七七四年:2010/10/28(木) 13:12:30 ID:nfM3qxPz
と、白石城攻略を自力攻略と会津陣物語を論拠にして主張する捏造大好き伊達厨
すると当然ながら松川で政宗大敗も会津陣物語から引用するのが当然なので>>1の解答はちゃんと出たことになります。

よって伊達厨は今まで無駄に絡んできた事を謝罪するべきです。
880人間七七四年:2010/10/28(木) 13:28:18 ID:7gSmYWMj
つうか伊達側の記録に本庄側に敗走させられたっていう記録が残ってるじゃん
881人間七七四年:2010/10/28(木) 18:46:45 ID:P3i6EuSH
再度おさらいしておこうか。松川スレの以下の重要な5つの要点について。

@「松川合戦」なるものが上杉の軍記作者の妄想垂れ流しによる捏造だったこと。
A実は慶長5年10月に伊達軍に大敗鎧袖一触され、福島城下まで攻め込まれて、
本庄が討ち死にする危機に置かれていたこと。
B徳川家康は上杉景勝を滅ぼすつもりだったこと。
C伊達政宗は仙台城に居を構えて、福島を差配する計画でいたこと
(その方が、福島県民及び一部山形県民にとっては有り難かったかもw)
D伊達軍に虚を突かれて攻め込まれた福島県に少なからぬトラウマを
残して「松川合戦の古老咄」が伝承されたこと。

最上に手酷い敗北を喫して米沢に逃げ帰った上杉の隙をついて、伊達軍が信夫郡を蹂躙。
上杉軍を宮代で打ち破り(実に300余名、騎馬武者100騎を討ち取り、信夫山で首級実検
まで行っている)、本庄繁長を自決寸前まで追い込む。これが慶長5年10月6日の戦い。
伊達にとっては掃討戦の一環にすぎなかったわけだねw 本庄はすんでの所で討ち死にを逃れている。

この伊達の「掃討戦」を根にもった国枝清軒のルサンチマンの敗者の文学。それが『会津陣物語』の哀しい本質だね。

国枝は慶長6年4月下旬に伊達が松川に攻めてきてそれを打ち破ったとする与太話を幕末まで流布させたが、それは真っ赤な嘘
だったことは、『日本戦史』から完全に黙殺されていることでも明らかだろう。 w

882人間七七四年:2010/10/29(金) 00:15:42 ID:9+HW+xyv
>>881
伊達厨って論破されて
追い詰められ手詰まりになると
必ずそのコピペするよね。
見飽きたからせめて微妙に変化させろよ。
883人間七七四年:2010/10/29(金) 00:31:03 ID:zhUNlnX8
>>879
真偽定かならぬ軍記物を持ち出さないで、一次史料で白石の密約の
話をしたんじゃないの?軍記物では伊達が白石を攻めとったことに
なっているんでしょう。
話のすり替えをしても無駄だよ。

>>881
本庄が討ち死にする危機に置かれていたとか、トラウマを残した
というのは根拠なし。subと同レベルの会話。
『日本戦史』に載っていないと真っ赤なウソであるという根拠もない。
884人間七七四年:2010/10/29(金) 02:54:56 ID:HVFkQXRy
「十月六日に福島市信夫山の黒沼神社中腹に陣取った政宗は、本庄繁長の守る福島城を攻めたが、梁川城の須田長義家臣岡野左内に攻められ、政宗は信夫山の修験慶印に守られて、わずかな兵で戻った」(『伊達治家記録』)
885人間七七四年:2010/10/29(金) 14:43:18 ID:MCEnAJpy
つまり政宗連敗記録は古今東西不敗だと言うこと。
886人間七七四年:2010/10/29(金) 18:47:46 ID:3XU+hc+f
伊達圧勝
887人間七七四年:2010/10/30(土) 04:30:02 ID:iq0WYfdc
他家史料のすべてが上杉勝利なのに
議論になること自体が
伊達は中国並みの悪質な
捏造体質を表している。
888人間七七四年:2010/10/30(土) 10:06:40 ID:bxKtAs2p
松川の戦いが伊達の圧勝だとは書いていないし、
白石城が密約により譲渡されたとも書いていない。
889人間七七四年:2010/10/30(土) 16:33:59 ID:JXAI96RG
それ以前に松川の合戦などという史実は無い
890人間七七四年:2010/10/30(土) 19:05:08 ID:Dh6rYx0p
下記へ誘導

【そうか】北条伊達vs毛利島津【維新】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1288247444/l50

きめぇ伊達厨&北条厨
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1287387181/l50
891人間七七四年:2010/10/31(日) 05:09:09 ID:3Q1m47m7
>>887
それが真実だな。
伊達は会津陣物語を
熟読して研究の上で
後だしジャンケンしてるだけ。
892人間七七四年:2010/10/31(日) 09:54:04 ID:if130b0i
>>891
他家史料って具体的に何?
上杉だけの史料の間違いでない?
893人間七七四年:2010/10/31(日) 10:15:11 ID:mSbEF+gk
結局さぶは白石城の密約を証明できずじまいか。。。

通称松川の戦いは徳川と和睦交渉中の上杉と、早々に
上方の決着がついてしまったため急いで軍功を挙げて
おかなければいけない伊達の半年以上の戦い。軍記物
ではその何度も行われた戦いが混じってしまっている。
最初以外はほとんどチャンスがなかった伊達と、領土
を防衛しても減封は避けられない上杉のどっちが勝っ
たとかくだらない話にもほどがある。
894人間七七四年:2010/10/31(日) 10:26:20 ID:if130b0i
密約で譲ったってことでいいんじゃね
政宗みたいなリアリスト相手に見返りを期待して城をプレゼントするようなバカは景勝&直江ぐらいのものだろう
895人間七七四年:2010/10/31(日) 10:35:49 ID:ncu+Y1vr
「十月六日に福島市信夫山の黒沼神社中腹に陣取った政宗は、本庄繁長の守る福島城を攻めたが、梁川城の須田長義家臣の岡野左内に攻められ、政宗は信夫山の修験慶印に守られて、わずかな兵で戻った」(『伊達治家記録』)
896人間七七四年:2010/10/31(日) 12:16:03 ID:cPdXOgh5
>>895
> 政宗は信夫山の修験慶印に守られて、わずかな兵で戻った」(『伊達治家記録』)

なにこれ
「伊達治家記録」にそんなこと書いてないのでは?
897人間七七四年:2010/11/01(月) 01:16:10 ID:b8I+Nx2w
>896
書いてあるよ
確かめてみなよ
898人間七七四年:2010/11/01(月) 01:31:48 ID:uGobVuWa
>>894
史実で密約があった証拠なんかないし、研究者の誰も指摘していないのに
いいわけないだろう
899人間七七四年:2010/11/01(月) 11:42:03 ID:b4CIJIuE
景勝と直江のバカが際立つからいいんじゃね
900人間七七四年:2010/11/01(月) 13:52:13 ID:vEHunIsQ
>>859
多くの書物を調査し事態の推移と経緯の説明や傍証を詳しく説明されてて納得できたわ。
白石城を力攻めした記述自体が軍記にしかない話か。
なるほど伊達の軍記パクり史書はやっぱり当てにならないな。
901人間七七四年:2010/11/01(月) 17:19:39 ID:d+ia4P+3
ここ最近他の上杉関連スレもそうだけど、
一人やたらガキっぽい上杉ファンがいるよな、
今までの上杉側の人は理知的に論理で発言してたのに、
この子には根拠もないのにギャーギャー喚くと逆効果だし、第三者には馬鹿にしか見えないって事を覚えてくれると嬉しいな。
902人間七七四年:2010/11/01(月) 18:51:07 ID:ADh/Ih/Z
伊達に野戦で惨敗した上杉。涙目w
903人間七七四年:2010/11/01(月) 20:56:14 ID:pyrpmDeW
地方の凡戦スレが延々続いてるのが不思議w
904人間七七四年:2010/11/01(月) 22:33:34 ID:pBM+4WnN
>>897

「長倉町ヲ過ル折節、福島羽黒山別当寂光寺法印慶印、其俗姓田村殿譜代ノ由緒アルヲ以テ、
当家ニ忠義ヲ致スノ志アリト称シ、勘解由兵衛陣前ヘ馳セ来テ、瀬上ノ敵ノ様子ヲ具サニ告報ス。」

松川合戦部分での慶印については↑しか書いてないてないと思うけど?
書いてあるというのならその部分を引用して頂戴
905人間七七四年:2010/11/02(火) 00:09:50 ID:2xdjdMYx
>>900
白石城が密約で譲られた話は軍記物にも一次史料にもないけどな。
>>901
>>902みたいな伊達厨もそうだと思うよ。
906人間七七四年:2010/11/02(火) 15:57:42 ID:M8uhJQZj
>>905
そうですね、>>902みたいな書き込みはいい見本ですね、
第三者がみたら「私は議論が出来ない壊れたスピーカーです」にしかみえないですからね。
907人間七七四年:2010/11/02(火) 19:12:12 ID:JH76Q33L
明らかに白石城は密約で譲渡されてるな。
でなければ両軍の暗黙の休戦ラインの説明がつかない。
家康を迎撃するために白河へ集結する上杉が
伊達を買収したということだろうな。
もし伊達と上杉が緊張状態なら白石から兵を抜いて白河へ甘粕が移動するわけがない。
908人間七七四年:2010/11/02(火) 21:02:28 ID:omTfhESD
白石城の戦いは上杉が同士討ちの醜態を晒して伊達に1日で降伏した戦いだね。
その辺は葛西大崎研究家の紫桃氏も指摘していた。
909人間七七四年:2010/11/02(火) 23:26:30 ID:TVH9K4uq
> >907
白石の戦い後も緊張関係は続いてる。
ともかく論証を示せ
妄想はいいから。
910人間七七四年:2010/11/03(水) 03:46:12 ID:aT2uW7ID
>>841>>842>>859

なるほど事態の推移や傍証の数々。説得力ありすぎるな。
しかも誰もそれらの内容を引用して論破しようとするヤツすらいないじゃないか。
結局、多くの文献のほとんどに目も通していないくせに
根拠もなく伊達厨が必死に否定してるに過ぎないのな。
911人間七七四年:2010/11/03(水) 09:16:03 ID:otP0EFoc
>>841
・軍記物デタラメ=白石城の攻防はなかった という話にはならない。
・白石返還と南部侵攻で上杉に敵意がないことを表明。
 →返還の事実なし。南部もはっきりと東軍色を鮮明にしていたわけではない。
  むしろ「上杉がよくしてくれる」と最上に絶交状を送りつけている。
・伊達→村越直吉への書状でも 将が降伏→数百人討取りと書かれている
 →降伏した後敵を殺したという意味ではない。
・上杉側は白石が落城して無念とかそういう発言もないし。
 →>>840
・「白石返還」「直江は公儀(秀頼)優先で白石は忘れろ
 (譲渡したんだから)って書いてるだけ」
 →矛盾した記述。直江は9月3日の書状で、奥口御無事つまり
  伊達との和睦が済んだので「不満はあるだろうが、天下への
  御奉公と考え、白石などのことは構わず」と言っているので
  あって、「無償譲渡したから忘れろ」と言っている訳ではない。
・「二三の丸迄取破申候、本丸迄ニ仕候処、城中より頻降参」と無抵抗なまま進撃
 →「二、三の丸まで打ち破り本丸だけになったら降参した」と書いている。二の丸
  三の丸は破却したという意味だとの主張?譲渡を受けるならその必要がないのでは。
912人間七七四年:2010/11/03(水) 10:12:44 ID:otP0EFoc
>>842
・白河で迎撃(842)。密約が成立したから甘糟は白河に向かった(849)。
 →景勝も若松に残っており、ほぼフィクション。甘糟は白石常駐ではなく、基本は
  若松にいたことが大国宛直江書状で分かる。その後も白河に向かった様子はない。
・佐竹のスパイの車氏
 車丹波は常陸浪人の元蒲生家臣。佐竹から送り込まれたのではなく、
 しばらくは蒲生に仕え、上杉の会津入部により主を替えたとみられる。
 上杉と徳川の対立前の慶長3年にはすでに仕官しているのが『知行写』
 などで分かるので「佐竹のスパイ」で家康に情報を漏らすということは
 考えにくい。
・そもそも車氏に教える必要性がまっくないのに
 →何を根拠にそんなことが言えるのか不明
・たしかになんどとなく兼続は 政宗が来たら俺も乗り出すよ〜だから油断しないでね♪ってお約束文章で、出る出る詐欺をやってるね。
 →実際に直江は福島城に入っている。本庄の前任者が直江。
・政宗は、直江への謝罪のために山形に集結していた米沢討伐軍を瓦解させるために南部へ侵攻
 →
・白石は守るに不適な場所だから放棄した
 →直江の複数の書状で白石攻めの考えが示されており、これを否定するのに軍事教本などを持
  ち出すのは滑稽。



さぶは軍記物と一次史料の知識が混在し、自分でも制御できなくなっている。
自演して自分のレスに感動していないで、ちゃんとした証拠を示せばいい。
913人間七七四年:2010/11/03(水) 11:46:48 ID:otP0EFoc
・政宗は、直江への謝罪のために山形に集結していた米沢討伐軍を瓦解させるために南部へ侵攻
 →「米沢討伐軍」は家康の反転を知って瓦解したのであり、伊達の南部出陣のせいではない。
914人間七七四年:2010/11/03(水) 11:51:14 ID:P2H/ZuZc
>>907

> もし伊達と上杉が緊張状態なら白石から兵を抜いて白河へ甘粕が移動するわけがない。

なにこれ?
白石落城のとき甘糟は白石に参陣していたと
915人間七七四年:2010/11/03(水) 11:53:01 ID:P2H/ZuZc
レスの途中で書き込んでしまった…失礼

>>907

> もし伊達と上杉が緊張状態なら白石から兵を抜いて白河へ甘粕が移動するわけがない。

白石落城のとき甘糟は白河に在陣していたと?
ソース頂戴
916人間七七四年:2010/11/03(水) 13:13:51 ID:+6N8t80s
必死な自演の恣意的解釈ばっかで気持ち悪い伊達厨発見ワロタw
917人間七七四年:2010/11/03(水) 15:31:42 ID:otP0EFoc
>>914
さぶが言いたいのは「密約があったから、甘糟は白石の兵を率いて白河に
行った」ってことだろう。

しかし、甘糟はもともと白石に常駐しているわけではなく、政宗に対する
白石の軍備を視察するために、7月10日ごろに白石に派遣され、15日
ぐらいに若松?に帰っていることが直江の書状で分かる。
その冒頭に「こちらまで甘糟を送ってくれるとのこと、もっともなことだ」
とあるのを、さぶは「兵を引きぬいて白河へ向かった」と強引に解釈している。

また、白石の戦い前の7月22日の直江書状では「(自分は移動するので)此の
方(若松)への用事は安田・甘糟へ連絡よこせ」と書いている。
甘糟は白石に常駐していないし、白河にも行っていない。
918人間七七四年:2010/11/03(水) 17:04:44 ID:SW7KHiV6
なるほど勉強になりました
919人間七七四年:2010/11/03(水) 17:15:29 ID:aT2uW7ID
俺は素人だけど伊達厨がウソばかり書いてるくらいはわかるぞ。騙されないぞ。
だいたい「さぶ」とか「ソース頂戴」って書いてるヤツって論破されるごとに
>>881の東国太平記のコピペを執拗に何十回も貼りつけてるいつもの基地害だろ。

だいたい甘粕に付いては福島県史ですら甘粕が白河の軍議に参加していて留守と断定してると書かれてたじゃないか。
いまさらになってそれをひっくり返すのはおかしいだろ。
6/27政宗→井伊
6/14に令があり、夜を日についで23日に大崎に着き
1日休息して6/24の片倉を先手に白石城を攻めたが
甘粕の指揮の前に破れた。
この文書からも甘粕がすでに白石城で伊達を打ち破ってるし。
伊達に勝った戦果を持って、一旦、会津で景勝らと今後の対家康の方針についての打ち合わせして
上杉120万石のうちたかが白石1万6000石くらい伊達に譲渡してもいいやって話になったから
甘粕は白石へ言って、家康との決戦用に白石から兵を引き抜いたんじゃないか。
まったく自然な流れでどこにも矛盾なんてないだろ。
しかも上杉には家康と白河で戦うつもりがなかったと?
馬入峠防塁 堂谷坂陣 母成峠防塁といった防備を固めてるのに?
白河には佐竹との連絡調整係りの結城朝勝(佐竹義重の姉妹と宇都宮との子)が宇都宮氏旧臣の蜂起計画を立ててたし。

だいたい3月18日佐竹は神指城築城の支援のために車丹波守ら家臣300人を派遣してるじゃん。
それなのに蒲生家臣だからおかしいってお前はアホなのか?ウソばっかりつくなよ。
車丹波守は佐竹義宣に従い肥前国名護屋城に在陣してるし、
上杉軍に参加したのも佐竹本家がまだ表立って
家康に敵対宣言してないから主家を慮って出奔した形式にしてるだけ。
佐竹が出羽国秋田へ転封することに反対し水戸城奪還を企てるものの敗北し捕らえられ磔刑。
あぁそういや伊達が討ち取った感状も>>821を見ると(此衆蒲生氏郷譜代之由及承候)とか言い出して
なぜが謎の名前の蒲生家臣を討ち取ったって書いてあるねw
いったい誰と伊達は戦ってたのかねぇ?なんでも蒲生とか書けば誤魔化せると思ってるんだろうね。
もう一枚の証拠書状は、>>821によると
福島から会津への書状を持った非武装の伝令の使者ら2、3人を討ったに過ぎないしwww

3月23日藤田信吉が家康方になり「景勝に逆心あり義宣は景勝に内通している」と徳川秀忠に報告
4月1日家康は兼続に上洛しろ&諸城の改修理由について詰問を送る
(当然、築城協力してる佐竹も意識しての威圧)
7月10日景勝は白河の城塁修築を急がせる。現在防塁跡や陣跡が
白河市の石阿弥陀地区、岩瀬郡長沼町の勢至堂峠・堂谷坂
岩瀬郡天栄村の馬入峠、栃木県日光市藤原町の横川
会津若松市の安藤峠
伊達郡桑折町の西山城に土塁や堀跡がある。
これに応じて佐竹も景勝援護のため棚倉町の赤館東に大規模な陣を築いてるし
領内や栃木県東部に築いた城があり明らかに対家康の進攻への備え。
よって白河や栃木県藤原町の一次防塁線&長沼城から郡山市湖南町に築かれた二次防塁線
同盟の佐竹方による側面攻撃により、景勝が勝利できる可能性は
防衛のために築かれた遺構調査の考古学の観点からも補強されてる。
>>683>>693>>694>>695>>699>>700この辺は多くの書物に目を通しての総合的解釈みたいで論理的で納得できる話だわ。
それに反してその場限りの上辺だけの言葉遊びによる伊達厨の捏造デタラメ大ウソには毎回笑わされるわ。
920人間七七四年:2010/11/03(水) 17:34:35 ID:hr/CpIy6
>683
なるほど
921人間七七四年:2010/11/03(水) 17:45:58 ID:aT2uW7ID
俺はあんまり詳しくないから下記HPから転用したが
かなりの備えをしていたのがわかるわ。
別に軍記物の書いてる川をせきとめたとか、
川底につぼを埋めたとか革籠原の話をすべて肯定するつもりはないが
これで家康と本気で戦う気がなかったとか言うのはおかしいわ。
http://www17.ocn.ne.jp/~aizua/page010.html

922人間七七四年:2010/11/03(水) 17:54:53 ID:otP0EFoc
>>919
伊達厨でないと何度も言ってるし、東国太平記なんか最初から持ち出
していないのに何を言ってるの?根拠を示せなくなるとすぐ東国太平
記がどうのというのはやめないか。
根拠があるならそれを最初から出せばいいだけ。

六月二十七日の政宗書状は知らないけど、どういう内容?
いずれにしても、譲渡するのは自然な流れというのは個人的な妄想にすぎないけど。
あと、神指城築城のために佐竹が車丹波を派遣とは何を根拠にしてるの?
慶長3年10月知行写にすでに車丹波の名前はあるのに。

白河決戦になると急に軍記物ソースに語りだすんだな。
白河にも当然防御態勢は敷いていたけど、景勝や直江は行かず、
岩井信能が指揮している。白河決戦はすでに否定された話だよ。
923人間七七四年:2010/11/03(水) 23:47:45 ID:P2H/ZuZc
>>919
ソース頂戴の人です。
ID:otP0EFocじゃないし、>>881のくだらないコピペも貼っていない。

> だいたい甘粕に付いては福島県史ですら甘粕が白河の軍議に参加していて留守と断定してると書かれてたじゃないか。

徳川勢を白河で迎えるために会津で行われていた軍議に参加していて留守というニュアンスじゃないの?
白石落城当時、甘糟が白石城から兵をひきつれて白河に在陣していたなんて説始めて聞いた。
妄想ばかり書いてないで、きちんとソース頂戴。
924人間七七四年:2010/11/04(木) 04:15:21 ID:QfmLq8IT
>>米沢討伐軍は家康の反転を知って瓦解したのであり伊達の南部出陣のせいではない。
政宗が和賀稗貫一揆を発生させ、それを口実に南部がまず撤兵を開始した。
撤兵時期は南部が最上と起請文を交わした8/13以降ではないかとされる。
8/19の家康の帰陣文書は偽文書とされていて、家康のその前後の文書と明らかに違い
副状発給者が明示されてないばかりか「小野寺遠江守殿」と書かれるはずの文書が「横手殿」と書かれていて不審。
唯一の解釈方法は信夫郡宮代で守備についていた岩井信能へ直江が
8/12時点で小野寺がこちらに寝返り南部や仙北衆が陣を引き払ったと予言?しており、
それと同様な事態が起きており上杉による家康を装う偽文書だろうする解釈され上杉・伊達・小野寺の共謀が見えてくる。

>>しばらくは蒲生に仕え、上杉の会津入部
>>慶長3年10月知行写
それは知らんけど蒲生家臣かどうかはっきりしなくね?
しかも佐竹騎下の岩城ナンバー1重臣だぞ。

車丹波は佐竹義重から寵愛されていて、ずっと佐竹家臣
軍記の蒲生氏郷戦記において九戸政実の乱の時に豊臣軍への出向社員のように
蒲生佐文(左衛門)郷可の客将として車丹波が登場し関東衆とケンカしたと書かれてるに過ぎない。
秀吉によって佐竹寄騎になる岩城貞隆(佐竹義重の3男)
文禄2年6月大和田重清日記において文禄の役のため車丹波が岩城の家臣として名護屋陣中にいて食事した話が出てる。
文禄4年 岩城領地高目録に車丹波が多賀郡車4千石と書かれてる。
慶長元年に領地替えで1万6000石に。車ら旧領は佐竹家臣の梶原政景へ。
慶長3年1月10日蒲生が宇都宮へ3月3日に上杉が会津入り
慶長3年8月18日豊臣秀吉が死去
(家康牽制の共通目的のため上杉の転封と同時に佐竹との間が緊密化していく)
慶長4年閏3月3日利家が死去すると七将が三成の大坂屋敷を襲撃。三成は佐竹義宣のもとへ逃れる。
慶長5年直江の長井郡の分限帖の組外衆の中に車丹波が出ている。
(外様の助太刀みたいな立ち位置だから組外衆扱い)
佐竹はさらに横田大学、大塔小太郎、墨屋太郎左衛門も上杉に出向させる。
>>指城築城のため車丹波
石田明夫先生がたしかそういう主張をしてるから興味あれば調べてみたら。
>>景勝や直江は行かず否定された話だよ
否定なんてされてないはずだが?
おそらく「白河表より日々注進」の文章から白河にいないと歪曲してるんだろうが。
今の研究本の解釈だと一般的に兼続は白河付近から
(上杉家記に書かれている長沼?)最前線に指示を出していて、
景勝は若松から戦線視察に出ていて視察先から5日に出立すると述べられており、
10日に若松に着いたはずだが。その景勝の視察先を日本戦史は白河だと断じてる。
925人間七七四年:2010/11/04(木) 09:12:47 ID:v59NR373
■車丹波
蒲生家家臣は上杉家に多く仕官しているけど、文禄年間にも佐竹家にいるなら
そうかもしれない。ただ、神指城建設の時にやってきたというのは疑問。
石田先生はいまだに白河迎撃策の主張者で、そのへんは軍記物通りに語っている
から。書状とかがないなら知行写の方が信憑性はあると思う。

・小野寺遠江守殿」と書かれるはずの文書が「横手殿」と書かれていて不審
 「米沢」とか地名で書かれることもあるので問題ない。
 むしろ安易に共謀が見えてくるだのと推測するのは危険。

■白河決戦
東国太平記の記述と合致する「白河口戦闘配備之図」は同じ場所を指す地名が
あったり、史学的にはこの時点では同盟が確認されていない佐竹の布陣が記さ
れたりと、信憑性が疑われ、2006年の上杉博物館特別展『上杉景勝』図録
でも「同時代史料あら裏付けられる実際の動向と対比した上で、理解する必要
がある」。さらに10年の「直江兼続人と時代」になると「絵図自体にも大い
に問題があるとされます」「この絵図に示された作戦を史実と見るのは早計で
す」。南山から那須を経て佐久山に布陣するとされた直江は実際には、郡山方
面(安子島か)で全方向への指示を出していたことも分かっている(白河で指
揮を執る岩井に伊達方面の状況などを伝えている)。
長大な防塁についても、戊辰戦争時などのものとの混同の可能性も指摘されて
いる。軍記物のように謀反疑惑が濡れ衣でなく事実であれば別だが、そうでな
いなら上杉にはそれだけの土木工事を進める時間はなかった。
926人間七七四年:2010/11/04(木) 10:36:42 ID:G/ahAUqx
>>925
上杉擁護してる人ですら白河口戦闘配備之図の内容を転載してる人間は誰もいないのになんで毎回いちいち持ち出して必死に歪曲してんだ?
遺構からそれだけの土木をやっていたのは明白なんだが。
石田先生も別に白河口戦闘配備之図をそのまま指示してるわけじゃない。
しかもこの人かなりの講演をしてメディアでも有名な人。
それとも家康がやってきてるのに上杉は白河で闘わずに降伏するつもりだったのか?と以前も逆質問されても無視してるのはなぜだ。
車丹波が上杉転封後に佐竹から出張さてきてる大使館付き武官と思えば別に矛盾しない。
彼は佐竹岩城内での内政面は苦手だが外交謀略を担っている好戦派で、
一般的に九戸の乱の時にも豊臣征伐軍蒲生指揮下に佐竹岩城を代表して出向してきて客将扱いされていたとされる。
偽書状疑惑の話は有名で、問題の偽書状と似た内容の文書が
のちにまた家康から六郷氏に届く二重命令の不思議な現象が起きている為に
間違いなく偽書状だとされているのも知らんのかい?
上杉や伊達による謀略戦の様相になっているのは間違いないの話なんだが。
927人間七七四年:2010/11/04(木) 10:37:29 ID:JRPhApSO
結局政宗の負けというわけか
928人間七七四年:2010/11/04(木) 11:01:52 ID:6zpM11ju
>>919がバレバレ過ぎて逆に清々しくなった
929人間七七四年:2010/11/04(木) 18:49:06 ID:8QrfPw7h
白石城攻防戦でも上杉完敗w
930人間七七四年:2010/11/04(木) 20:43:59 ID:8p3u9s80
>>926
車丹波は関ヶ原後に直江が「車は使えないから召し放つ」
と言ってるから客将だったとは考えにくい。
石田先生は本にかいてるのを見る限りでは、白河での決戦
を前提に 土塁などについてもそのときのものとしているよ
うに思う。年代測定だとかやってるんだろうか。白河決戦
を否定すれば、じゃあ降伏するのかというのは短絡的すぎ。
931人間七七四年:2010/11/04(木) 22:04:22 ID:G/ahAUqx
>>930
言ってることが無理やりすぎ。
ほとんど言いがかりレベルに過ぎんね。
932人間七七四年:2010/11/04(木) 22:30:21 ID:8p3u9s80
どこがどう無理矢理なのか。
白石の密約の方がよっぽど無理矢理
ここまでソース示せてないし
933人間七七四年:2010/11/04(木) 23:42:59 ID:a2cyMswW
>>924>>926

石田明夫氏の説を全否定するつもりはないけど、会津若松史市の公民館の主幹でしょ。

ところで石田先生は白石城譲渡密謀説を説いてるわけ?違うみたいだけど?
しかし石田氏を持ち出すとは…Subが一番嫌うタイプの郷土史家だと思うけどな…

石田明夫 2009年「『幻の白河決戦』と上杉の城」『直江兼継』 高志書院 p88
また『百万石御墨付』(1600年成立)が示すように家康の要請を受けた政宗は、慶長5年7月24日、白石城を守る甘糟備後の留守を狙い攻撃し、白石城を占拠している(政宗文書『仙台市資料編T』1055号)。

妄想ばかり書いてないで、白石城譲渡の密謀&甘糟備後が白石城の兵をひきつれて白河に在陣していたことを示すソース頂戴。
934人間七七四年:2010/11/04(木) 23:47:25 ID:a2cyMswW
訂正
>>933引用の書名は『直江兼続』ね
935人間七七四年:2010/11/05(金) 01:49:41 ID:+JVQalxE
結局、白石城譲渡が7/25の早朝
家康が密かに政宗にだけ知らせた江戸へ帰る書状が
8/12付だから政宗の元への到着までに数日必要だし、
直江が小野寺が寝返り南部が撤兵すると予言した文書も8/12付。
上杉のために東軍南部軍を山形から引き上げさせるべく実行した
和賀一揆発生が確認できるのは一次史料上では南部家文書の8/13付の政宗書状だから
それ以前に政宗は白石譲渡の見返りのために、すでに和賀を扇動してるわけだ。
政宗が家康が小山から撤退するのを知るより早く
すでに政宗は家康を裏切る行為を行っているわけだ。
やはり上杉と伊達の間に白石譲渡密約があったと断じることに間違いがないってことだな。

しかし家康に直談判できると政宗に騙された
和賀忠親と家来7人の一行は道中の国分尼寺で惨殺され、
仙台で吉報を待っていた家臣には一行全員がなぜか自害したと
言われて政宗に騙されたって憤ったらしいね。
和賀忠親も26歳で無念の死だったろうね。

936人間七七四年:2010/11/05(金) 01:52:52 ID:+JVQalxE
実は政宗の裏切りを知り、佐竹や上杉の兵に怯え
南部の動揺をみて
家康は奥羽において
すでに周囲が敵だらけと知って
恐れて敵前逃亡したのかも知れないな。
937人間七七四年:2010/11/05(金) 05:42:12 ID:uWehGHOi
政宗が白石を攻め落としたと主張してる方は
政宗が上杉に土下座したのは家康が小山から逃走したからだと主張してたが
実はすでに白石を攻めて敗北した後に買収された政宗は
家康が小山から逃げる前に白石を譲渡してもらった返礼に上杉のために和賀一揆を起こしていたわけか。
後世に会津陣物語で伊達の片倉を先鋒にした白石城での大敗と白石城譲渡に反対した大崎葛西の残党鎮圧し翌朝譲渡の2つの事件を混同し
国府台合戦や川越野戦のように前後の出来事をごっちゃに混ぜて1つにしてまったと。
そしてこれが元ネタとなり伊達の記録にパクられているってわけね。

伊達厨の今までの主張の根拠が完璧に崩されたねぇ。
これは伊達厨は完全に論破されたなあ。
白石譲渡は確定したなあ。
938人間七七四年:2010/11/05(金) 08:19:53 ID:hIYSWi7N
>>935
>直江が小野寺が寝返り南部が撤兵すると予言した文書も8/12付。
この書状こそ、白石の密約がなかった証拠。
直江は白石表から伊達が兵を引いた理由を「上方の様子を聞いたから
だろう」と推測している。密約があるからという話はしていない。

最上口の討伐軍瓦解も予言ではなく「最上口之儀も、南郡・仙北衆上説を
聞候て引払之故、最上無正躰取乱候」という情報が入った(〜由申来候)
と文中で説明している。南部らがそれ以前に引き上げていたことは否定で
きないし、その引き金を引いたのは直江本人。「内府ちがひの条々」を諸
大名に転送して討伐軍の瓦解を図った形跡がある(秋田実季の述懐)。南
部も「上杉中納言様御事、粗略あるまじき事」と最上に送りつけて引き揚
げたことを恨まないように強要しているのであって、引き上げと和賀一揆
とは関係がない。

ちなみに、サブが根本的に理解できていないのは、当時の諸大名は誰が
上杉方で誰が徳川方か判断しかねていたということだ。また、内府ちが
ひの条々や家康反転による東北諸大名の動揺を見逃している。そこの変
化を無視するから、あたかも最初から政宗らが豊臣政権への逆賊である
上杉の味方だったなどという珍説を主張してしまう。

上杉との密約があり、上杉与党であることを証明するために
行動したなら、なぜその標的が「上杉中納言様御事、粗略あ
るまじき事」としている南部なのか。密約があったならなぜ
直江は何度も白石への攻撃を示唆し(サブがスパイだと主張
する車丹波が入らない書状でも書いている。それもポーズだ
と主張するのか)、実際に福島城に入ったのか。
なぜ城の譲渡を受けながら政宗は同時に川俣城を攻撃したのか。
それをなぜ上杉は許したのか。川俣を奪還して密約ラインを戻
したからもういいというのは馬鹿げた話。
サブの妄想通りだと疑問点しか沸かない。

参考までに家康が江戸入りを政宗に報告したのは8月12日
ではなく7日の書状。
939人間七七四年:2010/11/05(金) 15:39:57 ID:ANu7oUZ7
>>938
8/7書状では家康が5日に江戸に着いたと書いている。
だがその話をまともに信じるとわずか1日で小山から江戸に着いたデタラメが成立する。
さて江戸を出立したのが21日で小山に着いたのが24日であり軍旅は4日かかるわけである。

白石城譲渡が7/25の早朝
8月朔日付に長束と増田が真田安房守に景勝と佐竹に伊達と最上も同意していると書かれている。
ここで最上が二股をかけているのが判明する。
8/4付に白河近辺にいる直江が福島城の本村へ家康が小山にいないのでは?と家康の謀略の虚報に接してる。
8/5付直江→岩井へ昨日は佐竹の使者が
「佐竹に家康が人質要求してきたが拒否して手切れした。家康はいまだに小山のいるから油断するな」
と書いている。そう!調査をかけたところまだ家康は小山にいるのだ。つまり8/7書状は完全な虚報。
8/3付で政宗は家康に使いを出しているので、政宗は家康がまだ小山にいるのは確認できてるはず。
そして家康はもう震え怯えて逃走するのである。戦わずして勝つという上策ですな。

上杉のために東軍南部軍を山形から引き上げさせるべく実行した
政宗が和賀稗貫一揆を発生させ、それを口実に南部がまず撤兵を開始した。
撤兵時期は南部が最上と起請文を交わした8/13以降ではないかとされる。
それ以前に政宗は白石譲渡の見返りのために、すでに和賀を扇動してるわけだ
和賀一揆発生が確認できるのは一次史料上では南部家文書の8/13付
8/12時点で小野寺がこちらに寝返り南部や仙北衆が陣を引き払ったと予言?しており、
それと同様な事態が起きており上杉・伊達・小野寺の共謀が見えてくる。

つまり佐竹の仙道口と伊達の信夫口を味方に付け
二股をかけている最上から南部を引き離して小野寺を南下させ最上をビビらせ米沢口を安定させる。
津川口の堀も越後遺民一揆に恐れ、大坂に内通を約束して二股化、白河口の家康は完全に孤立。
直江は兵法の上の上の策である「敵の謀を撃つ」最上手で
上杉領5路侵攻策が完全に壊滅して家康を逃走させている。

>>最上口之儀も、南郡・仙北衆上説
これを直江が書いているのは8/12であり、それ以前からすでに政宗は和賀一揆扇動で動いている。
その政宗の動きを知っていて直江はまるで予言のように書いてると言っているのであって
本気で予言したとは言ってない。文章をちゃんと読めがわかるが
上記のことを前提として上説として上方之様子と言う現在の状況を付け添えただけだ。
>>「内府ちがひの条々」
その文書が相手大名に届いた日付を教えてもらおうか?
>>形跡がある
いや形跡とか妄想を言われてもな。
あとはリンク先を熟読しとけ>>683>>693>>694>>695>>699>>700>>841>>842>>859
それにしても君は真実を見ることから目を逸らすし、本当に妄想歪曲が好きだな。。
だいたいタイムスケジュールが飛びまくって前後がごちゃ混ぜだし
ちゃんと日付を書いてくれないと何を言ってるのか理解できない。
まぁ不利になるから日付をあえて書かないで意図的に混ぜているのはわかっているがなw
940人間七七四年:2010/11/05(金) 16:50:01 ID:wuyCKyJ9
八月五日に家康がまだ小山にいるとか本気で
言ってるのか
941人間七七四年:2010/11/05(金) 17:24:03 ID:uWehGHOi
往路4日の道のりなのに
復路を1日で帰れるわけねーだろw
しかも栗橋は舟をつないで作った橋だったじゃねぇか。
家康はどんだけドラえもんだよw
さすがにこれは家康がデタラメを書いて情報操作して
追撃してくるかどうか上杉の動きを試してみたんだろう。
942人間七七四年:2010/11/05(金) 18:02:08 ID:wuyCKyJ9
さすがにないわ。
上杉伊達から離れて家康反転の時期
調べてみて。
兼続は確かな情報が得られなかった
だけだよ。
943人間七七四年:2010/11/05(金) 19:58:23 ID:uWehGHOi
>>942
じゃあ家康はバイクでも使って速攻で帰ったの?
944人間七七四年:2010/11/05(金) 20:38:18 ID:wuyCKyJ9
話が噛み合わないね。
関ヶ原スレで聞いてきなよ
兼続も政宗もリアルタイムで家康の
反転を把握できてないんだよ。
家康も政宗にすぐには伝えていない
945人間七七四年:2010/11/05(金) 20:56:07 ID:uWehGHOi
>>944
じゃあ家康は飛行機を使って江戸に帰ったから
舟を連ねて橋代わりにしてた大河の難路も苦労せずに帰れたってことかね?
946人間七七四年:2010/11/05(金) 22:57:23 ID:wuyCKyJ9
何で五日まで小山にいないと
そういう話になるんだ?
947人間七七四年:2010/11/05(金) 23:26:24 ID:hIYSWi7N
>>839
「秋田実季・最上義光対決之次第」で内府ちがひの条々に直江の副状が
あったとしている。8月5日の直江書状で「家康はまだいる」としてい
てもタイムラグがあるので、8月5日まで家康がいたことにはならない。

同じことを繰り返してばかりだが、結局白石城の密約説には根拠がない。
948人間七七四年:2010/11/06(土) 00:15:11 ID:2xA5RLeb
石田明夫先生によると、家康が小山を発ったのは8月2日だね。
http://www17.ocn.ne.jp/~aizua/aizunen1.htm

もっとも個人的には、会津陣物語の記述に拠るよりは、4日出立説の方が信憑性があると思うが。

高橋明 2009年「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾」『福大史学』第80号 p90
「慶長年中卜齋記」上之巻『改訂史籍集覧』26は、「四日、早朝に小山御立、古河より
舟に召江戸へ御帰(創業記に四日公小山を御立古河に御着、五日古河より御舟にて六日
江戸)」と述べる。二日在小山が確認できることから(森家先代実録五『徳川家康文書の
研究(中巻)』545頁)、信憑性は高い。

というか密約説を唱えるなら妄想ばかり書いてないで、白石城譲渡の密謀&甘糟備後が
白石城の兵をひきつれて白河に在陣していたことを示すソースを頂戴。
949人間七七四年:2010/11/06(土) 01:32:11 ID:GQerMq8v
さぶは一見上杉を擁護しているように見えるが、言っていることは上杉が
伊達に白石城をだまし取られたとか貶めるようなことだし、突っ込まれた
ほとんど切答えず、反論された過去のレスを繰り返すだけ。
ネット以外で上杉関連の本を読んでいる形跡もほとんどない。
>8月朔日付に長束と増田が真田安房守に景勝と佐竹に伊達と最上も同意していると書かれている。
この部分は直江兼続伝と同じ解釈をしているが、ただ、西軍が真田を誘う書状なので
味方を過大にとらえていると考えるほうが自然。佐竹だって内府ちがひの条々のあとになってから、
上杉との同盟に入っている訳だから。その報が上方に届くには早い気が。
950人間七七四年:2010/11/06(土) 04:07:45 ID:YpEDpHWp
>>947
小山〜白河は近いからタイムラグなど存在しない。
>>948
まだ2日にいて、しかも直江が調べてまだいると発覚している以上は4日に帰ったとするのは偽装フェイクと言うことを証明してるし
8/7の書状がありのままに事実を書いているのなら、
わざわざ8/12書状でほとんど同じ内容を書いて言い訳じみた弁解をする必要性は全くないのである。
私は考古学の権威でもある石田先生が遺構を調査した実績から白河での徳川迎撃の準備をしていたのを証明した事実を支持してるだけだが?
君は白河を無防備にして上杉は降伏するつもりだったとアホな話をしてたからね。
>>949
はあ?全部答えてるだろ。むしろお前が大局からみてどうでもよい些細なごく一部の点でくだらない揚げ足を取ろうとして失敗を繰り返してるだけだし
突っ込まれながら、いまだに日付すら明示せずに逃げてて
前後の話を混ぜて書いてるじゃねぇか。
8月朔日と言うことはタイムラグを考えれば当然、伊達は7月中には三成方になっていることを明示しており
明らかに白石譲渡密約の結果を踏まえているのは確定してるじゃないか。
南部や最上が二股状態だから伊達が決断を促すべく行動した結果、
米沢口の上杉征伐軍が瓦解したのも白石譲渡への返礼だと解釈するのが一番自然なのになぜ抵抗するんだ?
家康が小山から逃亡する必然性が証左されたろう。
951人間七七四年:2010/11/06(土) 04:36:21 ID:YpEDpHWp
上杉関連資料を読んでないだと?>>859をみれば
いかに私がいろいろと調べて上杉側資料も批判するなど
総合判断して中立的立場を堅持して書いてるかわかるんだろ。
むしろリンク先の本を傍証にした記述に対して一切の言及をしてこなかった君の態度から
ほとんどネットで調べただけで書いてるから偏った解釈しか君ができてないとしか思えないな。
952人間七七四年:2010/11/06(土) 10:40:13 ID:GQerMq8v
>>950
繰り返すが直江は白河にはいない。景勝も若松にいる。
迎撃の準備をするのと、白河で決戦しようとしていたというのは別。
短絡的に「じゃあ降伏するのか」という話にはならない。
一次史料では直江らが白河にいたことは証明できないし、石田先生は
直江らの位置も白河戦闘絵図をもとに推測して決戦説を支持している
が、その絵図=東国太平記の記述に信憑性がないことは上杉の研究の
中で否定されている。
『上杉家御年譜』では白河での迎撃ではなく、領内いくつもの難所
に防御態勢を敷いたとしている。実際に主だった武将全員が白河
にいたわけではないことを見れば、こちらのほうが現実的。

>東北がみんな敵だから家康が小山から逃亡。
根拠なし。家康が気にしているのは上方の情勢で、東北の諸大名が
敵になったことなど一次史料のどこにも書いていない。
真田より先に最上や伊達に挙兵を打ち明けてるとは思えないし、
どう連絡を取ったのかもわからない。奉行衆の真田宛て書状は味方
につけるための過大報告と考えるほうが自然。
佐竹と上杉の同盟は8月に入ってからなのは明らかだし、内容はその
まま信用できない。最上が8月中旬に卑屈な書状を直江に送る必要も
なくなる。
それを別にしても、直江が8月中ずっと伊達と戦闘態勢にあることから
伊達が7月には上杉与党を表明していたなどあり得ない話。

>>951
>吟味した上での中立的な総合判断
どう総合的なのか明らかにせず、挙げているのも軍記物や後世の編纂物
ばかり。『福島県史』のどこに密約の話が載っているのか。
953人間七七四年:2010/11/06(土) 13:32:43 ID:YpEDpHWp
直江は白河に近い場所にいると>>924に書いてるだろ。
そもそも話にならんな。遠慮気味に8月朔日の書状を書いてたのに理不尽な屁理屈をこねてくるか?
じゃあ書くがまず7/21に真田昌幸は三成へ書状を出していて27日にそれを受け取っている。
内容はなんで昌幸自身は無二の大坂方なのになんで挙兵の話をもっと早く教えてくれないんだよって話だ。
それに対してすぐさま返信した書状では
わざわざ利長は家康に老母を出しているからと不利なことまで言及してるし真田には会津へもこのまま使者を案内して連絡してくれって信用してる。
この27日に真田からの書状を三成が読んで伝えたことから
29日付で真田の申し出を大老の毛利輝元と宇喜多秀家が了承した内容の誓詞を出してるし
同じ日付でやはり奉行の長束、増田、前田が三成同様の内容で返信してる。
その内容の中にはやはり利長の老母の不利な話を出す一方で伊達と最上は味方だと書いてるわけだ。
だから8月朔日の書状が真田を勧誘するために最上が味方だとウソをつく必然性はまったくないのに捏造歪曲するなよ。
954人間七七四年:2010/11/06(土) 15:18:43 ID:X14fse5p
サブはまずは落ち着いて文献から引用しろよ
もっとも誇張と妄想だから無理かw

なんで馬鹿なくせに新説を主張するんだ?
955人間七七四年:2010/11/06(土) 17:45:20 ID:fybcWJxw
実際、>>952は都合がよいように歪曲し続けてるよね。
例えば>>佐竹と上杉の同盟は8月って書いて誤魔化してるけど
佐竹は武断派の襲撃を受けた際に三成をかばっているし
8月7日の三成書状には、佐竹から7月23日と26日に書状をもらっていて
明らかに佐竹を味方としての返書を出していて
そこにも最上や伊達が味方だと書いて知らせてる。
ついでに前田利長が曲者だからこの口にも御人数を差し向けると書いてる。

他にも家康が軍を率いて小山から江戸に帰るのと
白河表からの書状が近くの長沼にいた兼続に届くのとは
分けが違うのにタイムラグにおいて同列に論じようとしてたり。

いろいろと情勢を見てみると三成方はすでに
27日以前には伊達が味方だとしてるし
奥州から三成方までのタイムラグを考慮すれば
白石城譲渡が7/25の早朝である以上は
これはもう上杉・佐竹・伊達・小野寺の間では
秘密同盟が組まれていたと考えた方が理屈が通るよ。

>>925
>>軍記物通りに語っている
それに石田氏は革籠原決戦の内容を
考古学・探査学・埋蔵文化財写真研究での
遺構調査結果に照らして改変していて
下野へ進出して家康の背後を襲うなどの
活発な白河決戦軍事行動に言及していたりしない。
あくまで迎撃の上杉側備えに力点を置いている。
そして軍記物通りを主張してる人間は誰もいないのに
勝手に持ち出してきて相手の意見を封じようとしてる手法は
毎回執拗に持ち出す東国太平記ネタそのもので馬鹿の一つ覚えw
>>930
>>石田先生は本にかいてるのを見る限りでは
明らかに石田氏の本を読んだと大ウソを書いてるのモロばれている。

956人間七七四年:2010/11/06(土) 18:39:56 ID:GQerMq8v
>>953>>955
>直江は白河に近い場所にいると>>924に書いてるだろ。
>今の研究本の解釈だと一般的に兼続は白河付近から
(上杉家記に書かれている長沼?)最前線に指示を出していて
史料的根拠がない。今の研究本とは?


上方の西軍の東北に関する情報源は上杉。
8月7日付佐竹義宣宛て三成書状「会津から度々使者が到来
している。最上伊達相馬いずれも入魂だということだ」と述
べていることから分かる。その上杉が8月に入っても政宗と
の戦闘態勢を崩していない以上、味方の根拠にならない。

第一、7月29日、8月1日付真田昌幸宛て奉行衆書状を
最上と伊達が味方だと認識していると理解していいのだろうか。
景勝や佐竹は味方だと述べ、「その上妻子歴々(重臣)がこちら
にいる伊達最上も其分に候。下向する時も秀頼様次第に行動しろ
と申し上げておいたし」という希望的観測に過ぎないのでは?
おそらく君が解釈を借りた『直江兼続伝』ではこの文書について
「伊達・最上も同意すべき事」と解釈しているけど「同意するだ
ろう」という意味だよ。君の言う「同意している」ではない。

『直江兼続の新研究』石田明夫「神指城と幻の白河決戦」
「(道谷坂について)「白河口戦闘配備之図」によると景勝公陣所
八千人と書かれている」
「『白河風土記』や「白河口戦闘配備之図」によると(中略)敵の
 足を食い止めたら上流より水を率いれ長し、兼続の主力部隊が、
西側の那須山や甲子高原方面から革籠原を目指して下り(中略)景
勝本隊の旗本を主とする精鋭部隊が白河城の東側から(中略)同盟
を組んでいる佐竹義宣軍四万が(中略)このような作戦を考えてい
たようである」
957人間七七四年:2010/11/06(土) 19:03:05 ID:X14fse5p
>>955
腹イテー
どこまで必死なんだよサブwww
958人間七七四年:2010/11/06(土) 19:04:50 ID:GQerMq8v
家康の反転を知らない8月4日付で直江が若松にいる腹心の山田喜右衛門
に宛てた書状では「此方之儀、最上・正宗討果候事、輙候ヘ共、内府之手
成しられす候まゝ、手をミきりこらへ候指向候〜」と書いている。
「最上と政宗を討ちたいが、家康の動きが分からないから手をこまねいて
いる」という意味で、決して白河にだけ軍勢を集中しているわけではなく、
最上や政宗を明確に敵であると認識している。
959人間七七四年:2010/11/07(日) 01:10:43 ID:8BJwZ8ac
>>950
> 君は白河を無防備にして上杉は降伏するつもりだったとアホな話をしてたからね。

ソース頂戴という観点でレスしているのだが(>>896>>904>>914>>915>>923>>933>>948)、どのレスを指しているのだろう?
というか上杉勢が白河に防衛戦を張っていただろうことは誰も否定していないと思うが?

白石城譲渡の密謀説を主張したいんでしょ?
それならまず甘糟が白石城から兵を抜いて白河に在陣していたこと、そして譲渡の密謀が明らかにあったことを
示すソースを頂戴といってるまで。
史料読んだ読んだ詐欺と妄想だけのレスにはうんざり。

> まだ2日にいて、しかも直江が調べてまだいると発覚している以上は4日に帰ったとするのは偽装フェイクと言うことを証明してるし
> 8/7の書状がありのままに事実を書いているのなら、
> わざわざ8/12書状でほとんど同じ内容を書いて言い訳じみた弁解をする必要性は全くないのである。

ちょっといってる意味がわからない。
舟で帰った可能性は否定してない?
まあ家康がいつ小山を立ったのかは密謀説の本筋ではないだろうが。
960人間七七四年:2010/11/07(日) 03:14:40 ID:99K60e76
>>956
8月朔日の真田宛の長束・増田書状において
景勝・佐竹についても其上妻子歴々此方ニ候、伊達・最上も其分ニ候
と書いており、上杉と佐竹と伊達らは同格の扱いで書かれており
君が言う妻子や重臣の人質がいるから
伊達が味方というのは希望的観測じゃないかと言う意見や
同意するだろうと言う解釈は当たらない。

佐竹についても
8/7佐竹宛三成書状では佐竹からもらった
7/23の書状が無事に大坂に着いた
7/26の書状を佐和山で読んでから大坂に着いた
と書状の行方について説明している点から見ても
家康方に見られてはならない内容が書かれているのは明白で
すでに7/23書状の内容が三成や上杉との協調の内容なのがわかる。
それに佐竹相手に確たる証拠がないのに伊達は味方だなんて三成が書くんだ?
不確定情報なら佐竹の地理的位置からすぐバレる話をフカすわけないだろ。
三成書状を見ると前田利長のことや細川幽斎を朝廷の懇願で一命を免じたなど
誇張や宣伝工作的な話は無くほぼ正確な状況記述を書いているのがわかる。

>>白河口戦闘配備之図」によると(中略)敵の足を食い止めたら上流より水を率いれ長し
それは軍記における作戦内容の説明を書いただけで、
石田氏はその軍事行動自体を考古学から実証し肯定してるわけじゃない。
あくまで白河での迎撃の備えをしていたのを遺構から肯定してるだけ。

>>958
直江の意図は、本来は伊達らを討ちたいが秀頼様の公儀を優先してるから
我慢して味方にしてやってるということ。
兼続は他にも密約があるために有限不実行の常套句である
「政宗が来たら俺も乗り出すよ〜だから油断しないでね♪」
って言う本心からではないお約束文章で一切実行しない出陣出る出る詐欺をたびたびやってる。
もちろん伊達も協定ラインを守って南下しないし。
まぁ兼続としては下記の書状のように政宗などいつでも軽く葬れると思ってたからね。
6/27政宗→井伊
6/14に令があり、夜を日についで23日に大崎に着き
1日休息して6/24の片倉を先手に白石城を攻めたが甘粕の指揮の前に破れた。

この戦いで上杉が勝ったことで伊達が上杉の武威に服して
交渉のテーブルに着き、白石譲渡の和睦で西軍参加したのは間違いない。

>>959
三戦板から追放されたコピペ狂の東国太平記ヲタクのアホ頂戴君w
おまえまだ生きてんの?早く成仏しろよw
お前の文章なんてキモいからほとんど目を通してねーYO
基本的にお前のレスはずっと無視してきてるんだがw
早く嫌われてるのに気づけよ鈍感w
961人間七七四年:2010/11/07(日) 05:28:16 ID:yADPS1zy
伊達厨のやつ松川の戦いで完全論破されてるから
必死に白石の話に話題を変えて逃げててワロタw
政宗なんて連戦連敗で勝ったことが一度もないし…
962人間七七四年:2010/11/07(日) 09:35:32 ID:spsow/LY
>>960
佐竹は三成との個人的な関係から挙兵を7月下旬に知り、与力を申し出た
のかもしれないが、それが上杉と同盟していたかは別。佐竹は8月上旬以
降に若松にたびたび使者を送っているので、史料上では同盟交渉は三成の
挙兵を知ってからとしか言えない。

8月1日付書状でも上杉・佐竹と最上・伊達を同格には扱っていないが、
7月29日付書状を見ると分かりやすく理解できる。
「真田が景勝と連携して戦えば関東は滅亡する」と述べた上で、「伊達・
最上は自分の妻子、重臣の妻子が上方にいて人質にしている。下向すると
きにも秀頼様に忠勤を励むよう申し上げた」としていて、「味方になった」
とするにははなはだ根拠が薄い。
繰り返すが8月7日付書状は会津からの情報として、伊達らが入魂だと述
べている。しかし、上杉が臨戦態勢を崩していない以上、上杉か三成が希
望的観測で味方になるだろういう見方を示しただけにすぎないとしか言え
ない。
もし伊達・最上が味方であることが本当なら、なぜ直江は家臣に嘘をつい
て一カ月も「政宗を討つ」と言い続ける必要があるのか。上方ー関東の間
で交わされる書状で堂々と明らかにしているのにだ。直江の「出陣する」
詐欺はスパイに警戒していたからだと主張していなかったかな。6月27
日の書状は知らないのでどういう記述があるのか前も求めたが回答なし。

>>961
いわゆる松川の戦いは10月7日は福島城下まで攻め入った伊達が
調略の失敗などが理由で撤退。その後たびたび上杉領へ侵攻したが
いずれも撃退されるなどして失敗したという見解だが、須田が背後
を急襲したから引き揚げたというのは少なくとも10月7日にはな
かっただろうと思う。白石密約は根拠がないので信用しないだけ。
963人間七七四年:2010/11/07(日) 11:24:12 ID:8BJwZ8ac
>>960
自分がソース出せないからといって、逆ギレしないでくれる?
三戦板、コピペ狂の東国太平記ヲタク等など、全く身に覚えがないので残念。
また人を必死に罵倒したところで、君がソースを示せていないことに変わりはない。

例えば、本当かどうかは別として>>859で吟味した史料として揚げられている山中記、
奥羽永慶軍記には次のようにある。

備後僅かに十余人米沢へ盆の出土に罷越候の間、此折柄政宗公御御出馬有らハ(山名記)

扨も白石の城主甘糟備後守は、聊か軍評定の事有りて若松にぞ来りける。政宗是程迄に急に
寄まじきと思ひけるか、但し敵を侮りけるか、甘糟累代の家にして不覚なりし事どもなり。
政宗の兵ども早旦より白石に取りかけ、時を作り、鉄砲戦を始めたり。城中には甘糟が舎弟
登坂式部少輔ありけるが(奥羽永慶軍記)

甘糟は何処に何をしに行ったのか、そしてそのことがなぜ白石城譲渡の密謀があったことの
証左となるのか、それが全く説明できていない。
自慢の6/27政宗→井伊の書状(歴代古案1538)にいたっては、朱書で「偽書」とされている代物だろう?

言い訳はもういいので、甘糟が白石城から兵を抜いて白河に在陣していたこと、そして譲渡の密謀が
明らかにあったことを示すソースを頂戴。
964人間七七四年:2010/11/07(日) 11:32:30 ID:spsow/LY
6月27日付書状の真偽はともかく、そこに伊達が一度負けた
と書いてあったとしても、その後、伊達は上杉には勝てないと
悟った→上杉も白石くらい渡してもいいと考えた→密約成立
という流れは空想の域を出ないからな。
965人間七七四年:2010/11/07(日) 11:41:49 ID:8BJwZ8ac
>>964
そうだろうね。
結局「一回負けているから密約にのった」「一回負けているから今度は頑張って攻めた」
のどちらにも取れる妄想話なわけで。
966人間七七四年:2010/11/07(日) 13:52:30 ID:yADPS1zy
日曜朝から必死に自演きめぇw
同時代の井伊が伊達から受け取った書状となんら変わりがない書状だし。
よって偽書状と特に断ずる理由がまったくないのに偽書状と書いてるだけのシロモノw
後世に軍記にまったく書かれてない内容だから偽としてるだけ。
それに三成が伊達を味方とみてる事実を認めるわけにはいかないから
必死に歪曲解釈を繰り返して屁理屈たれてるの見てて痛いし醜いよw
書き手の人格から考慮した場合でも、
伊達の書状は誇大広告が多いが、
直江の書状は誇大広告みたいな内容は無く、
三成に誇大広告を出す必然性は全くない。
では聞くが、それまでに直江が誇大広告な情報操作書状を他家に出したことがあるのかね?
三成にしても確たる精度のないことは書いていないし
慎重な判断をしていて誇大広告な書状は書いていない。
それなのに三成書状の内容は全て間違ってないが、
伊達に関する場所だけはデタラメだ!とかバカじゃねえのw
伊達厨は頭が沸いてるわ。
967人間七七四年:2010/11/07(日) 13:59:20 ID:yADPS1zy
岩城佐竹から車氏が上杉に出向してたり
結城朝勝が旧宇都宮佐竹上杉の連絡係をやってたのに
佐竹と上杉は三成挙兵まで連絡を取って無かったとか
歪曲解釈の垂れ流しだし
この議論すでに終わってんな。
968人間七七四年:2010/11/07(日) 13:59:26 ID:2TxU1EOL
サブは追い詰められると論理的な議論ができなくなるんだな
969人間七七四年:2010/11/07(日) 14:04:10 ID:yADPS1zy
>>968
おれはさぶじゃねーし。
あからさまな自演を見てアホな議論だと言ってんだ。
プププ>>965みたいに同時間内に会話が成立するなんて自演以外ありえねぇしw
970人間七七四年:2010/11/07(日) 14:05:57 ID:JGWF9HLK
反応してる時点でSubじゃん
バカ丸出しすぎワロスw
971人間七七四年:2010/11/07(日) 14:43:01 ID:spsow/LY
>>966>>967
佐竹が車を出向させた根拠となるのは軍記物以外に知らないんだが。
何度もの述べているように慶長3年10月には「知行写」に名前がある。
結城朝勝が直江や景勝と書状のやり取りをしているのは8月以降。7月以前
に結城朝勝が佐竹などと交渉していることがうかがえる書状があれば教えてほしい。

政宗は誇大報告はなはだしいが、直江もなかなかだよ。
最上は2、3日でつぶせるとか書いてるし、体言止めを多用するなど
基本的に文書内の言葉づかいも荒い。直江状を偽書とする宮本氏は体
言止めとか無礼な表現があることを理由の一つに挙げてるけど、実際
には直江は結構そういうところがある。
ありのままを書いて情報操作しないという直江なのなら「出陣する詐
欺」もするわけないでしょう。矛盾する発言。

>>969
自演だろうが、反論できなきゃ意味ないんだよ。
感情的になった時点で負けだよ。
むしろ>>964は、もし>>963が6月27日付書状が偽書とされているから
判断材料にしないと断じてしまっていたらそれはどうなんだろう?と思
い、慎重さを求める意味で「真偽はともかく」と書いたんだが。
972人間七七四年:2010/11/07(日) 15:05:44 ID:yADPS1zy
好戦派の車氏は佐竹寄騎の岩城氏内で最大領地を持つ重臣に引き上げられてる(佐竹配下の梶原が旧車氏領をもらう代わりに)
こういう経緯がある以上は車氏は佐竹代表としての上杉への出向にしか思えないだろうが。
兼続が無礼?なに言ってんだ無礼なのは家康の方だろ。無礼をされて丁寧に返すわけあるか。
出陣詐欺は密約があるからだし、三成ら大名相手の外交で誇張してるわけでなく部下に対してだろ。
外交と大戦略を無視したり、知らない好戦派が功にはやって戦いがしたくてしかたがないのを
いなしなだめるためには古今東西よくやる話だろ。別に珍しくない。
実際に伊達も上杉も密約ラインを守ってる結果が全てを物語る。
973人間七七四年:2010/11/07(日) 15:15:47 ID:spsow/LY
>こういう経緯がある以上は車氏は佐竹代表としての上杉への出向にしか思えないだろうが。
上杉家に出向した根拠になってないのでは?上杉家では千石。直江は「使えないから召し放つ」

>兼続が無礼?なに言ってんだ無礼なのは家康の方だろ。
理解できていないようだけど、宮本氏は直江状の中の体言止めを偽書の理由にした。
ところが、直江はほかの書状でも体言止めを使うなどしているから問題はない。
直江状だけの話をしているわけじゃない。

>なだめるためには古今東西よくやる話
直江がよくある話をやったという証拠は?なぜ若松にいる腹心までなだめないと
いけないの?それを史料的に示せないから、妄想だと言われるんだよ。

史料から事実認定して行かず、結果から理由を後付けしていくから
妄想しか出てこないんだよ。
974人間七七四年:2010/11/08(月) 04:41:28 ID:m+RzIFYy
秀次の九戸征伐で佐竹から蒲生家の客将として出向してたり
岩城領地高目録に車丹波が慶長元年に領地替えで1万6000石となり
岩城家NO.1重臣に引き上げられてる(車ら旧領は佐竹家臣の梶原政景へ)
慶長5年直江の長井郡の分限帖には
(そもそもその知行写しって慶長5年の写し間違いなんじゃないの?)
千石で車丹波・300石で車三弥があくまで組外衆として名があり
佐竹はさらに横田大学、大塔小太郎、墨屋太郎左衛門も上杉に出向させてる。
その待遇である1万6000石を棄てて上杉家で千石もらって仕えるのか?
そうじゃないだろ。岩城1万6000石の立場で佐竹から出向し
上杉では組外員として1000石の扶持をもらって
佐竹上杉間の調整役をしてた両属状態だろう。
>>使えないから召し放つ
その書状を書いたのは直江と景勝が和議のため家康に会いに伏見へ出発した日だ。
和議が決まった以上は、すでに車のような好戦的な人間も要らないから
上杉領においておくわけにいかないだろ。佐竹の転封にも反対して付いて行かずに、
佐竹が水戸城を明け渡して一ヶ月も経たないうちに
水戸城奪取を企て処刑されたほどの危険人物だ。
>>直江はほかの書状でも体言止
体言止めは慶長五年の時期に集中してるだけで
わざわざ特記するほどに直江が無礼と言うわけじゃないわ。
それに無礼と思われる表現とともに丁寧な文面もあり
当時の個人的付き合いとか立場とかで何とでも解釈できるわな。
>>なぜ若松にいる腹心までなだめないと
なだめてるからこそ実際の軍事行動がないわけだ。
関が原敗報が届き事態が変化するまで伊達も上杉も密約ラインを守ってる結果が全てを物語る。
なだめていない本心であるなら当然に何度も出陣詐欺をやらずに攻めているわけだよ。
なんで攻めないわけ?南部を攻めてる伊達の背後を襲おうと思えばいつでもできるはずだが?
和賀氏を使って直江の最上攻めのお手伝いした伊達に密約がないと言い切れるわけ?
まぁ充分な傍証が揃ってるのにいまだに何を言ってんだかw
975人間七七四年:2010/11/08(月) 09:01:32 ID:cQVhLxeE
>佐竹上杉間の調整役をしてた両属状態だろう。
根拠なし。
車丹波の歴史を書いた個人のホームページにはそう
いうニュアンスで書いているが、そこを参考にしたのかな。
内容が丸かぶりだけど。それは構わないんだが、そこにも佐
竹から出向したと書いてある横田大学は蘆名旧臣で徳川に仕え、
徳川のあっせんで上杉に仕えた人間だと思うが、佐竹にもいたのかな?
ちなみに横田大学は組外衆でもないし、石高は2千石。
直江の書状を見ると「車は前線を勝手に引ったりするくせに
不平不満ばかりで、お家の役に立たない」のが理由。客将だ
とか佐竹に対する遠慮は一切なし。

>関が原敗報が届き事態が変化するまで伊達も上杉も密約ラインを守ってる
上杉と伊達は家康反転後に和睦している。福島城に入った直江が使者を送って
まとめたと本庄に宛てて書いている。それでも、信用はしていないから、最上
が降伏してきた場合は伊達を攻撃するとも言っている。政宗を攻撃するという
のが詐欺だという根拠も示せていない。サブの脳内解釈だけ。

都合のいい状況証拠だけ集めても駄目。
十分な「傍証」で好き勝手論じていいのは時代小説の世界だよ。
サブの論じてる内容は史料を示しながらも、「直江の言っていることは
出陣詐欺だ」などと脳内で勝手な解釈しているから議論にならない。
都合が悪くなると急に、車丹波の件みたいに軍記物の内容を混ぜて真実
のように語り始める。それがサブと言われる所以だろうけど。
976人間七七四年:2010/11/08(月) 14:32:27 ID:eXvsV0pc
横田大学が家康が武具まで揃えて送り出したってのも一次史料ではなくデタラメなんだが…
977人間七七四年:2010/11/08(月) 22:06:21 ID:cQVhLxeE
一次史料ではなくデタラメは言いすぎだが、だから佐竹から来た根拠を
教えてちょうだいと言ってるんだが。
978人間七七四年:2010/11/08(月) 22:26:15 ID:eXvsV0pc
デタラメだろう。根拠が一切ない。
どんだけ自信満々にデタラメを吐きまくって開き直ってんだよw
979人間七七四年:2010/11/08(月) 22:30:53 ID:cQVhLxeE
一次史料でないからデタラメ というのは違うのでは?
一次史料と矛盾しているから違うというならわかるが。車丹波のように。
白石密約は結局架空の話ということでいいのかな。一切根拠を示さないけど。
980人間七七四年:2010/11/08(月) 23:23:02 ID:eXvsV0pc
お前のデタラメは一次史料じゃなくても許されるのか?
すげー基地外を相手に話をしたようだ。
981人間七七四年:2010/11/09(火) 00:05:22 ID:14NssbfP
Subソース出せず発狂
982人間七七四年:2010/11/09(火) 00:33:32 ID:9HyZJPXp
>>966
自演などしていないので残念。

> 同時代の井伊が伊達から受け取った書状となんら変わりがない書状だし。

問題の書状はこれ。
http://ichigo-up.com/cgi/up/qqq/nm27382.jpg
『歴代古案』第5 2002年 群書類従完成会 p126

同時代の井伊が伊達から受け取った書状とはどの書状のことを指しているのか、書状を示して頂戴。
当時政宗は伊達左京大夫を称しているのか?
軍記に書かれていないどころが、伊達勢が6月24日に白石城攻略を失敗したことを示す史料は
この書状以外皆無なのでは?
上杉家すら偽書扱いしているものを採用したいのなら、説得力のある根拠を出すこと。
もっとも、この書状を信じたところで>>964-965の通り白石城譲渡密謀の証左にはまったくならないが…。

史料を熟読し吟味したはずが、まったくソースが出てこない。
> ちなみに福島県史では甘粕が白河の軍議に参加していて留守と断定してる。
このソースを出すつもりもまったくないのだろうか?

白石城譲渡の密約があったとして、何故それを上杉は他家へは勿論、自軍の諸将にまで秘す必要があったのか、
また後世まで秘す必要があったのか。主張が支離滅裂すぎる。

とにかく妄想と無意味な罵倒は要らないのでソース頂戴。
983人間七七四年:2010/11/09(火) 01:16:42 ID:vC2iz7QD
>>980
一次史料で横田大学の履歴を追えるならぜひ教えていただきたいね。
一次史料がないものはそのほかの史料で補完して考えることを普通に史学
の論文でやってるし、君もいろいろ読んでいるようだから(>>859)問題な
いのでは?
俺が指摘したのは一次史料に書いてあることを君が妄想解釈、または二次史
料その他を読んでの「綜合判断」(どの記述かは示さず)で否定しているこ
とがおかしいということ。
984人間七七四年:2010/11/09(火) 03:48:58 ID:8MHorIJb
>>975
横田は上杉の支援に助けられ政宗の侵略から守りきったが
秀吉に安堵の約束を反故にされ所領は蒲生に与えられ
上杉側もどうしようもない状態だったので
佐竹の招きに応じて佐竹の地へ行っている。
そして佐竹寄騎の相馬方面での
上杉との折衝をやり車などと共に両属に近い状態になっている。
そして相馬側が塩を仙道へ運ぶ登り道があまりに険しいので
耐え難いのを憂い宇多・伊達郡から人を集めて峠に村を新たに作った。
基本的に佐竹と上杉間は慶長3年の上杉移封と秀吉の死の前後から
三成の計らいで隣国同士かなり仲が良くなっている。
>>徳川のあっせんで上杉に仕えた人間だ
それこそそちらは一次史料が出せるのか?
>>「車は前線を勝手に引ったりするくせに不平不満ばかりで、お家の役に立たない
実際に前線を勝手に棄てて移動したりしてない。不平不満というのは和睦反対派で好戦的だから。
その書状を書いたのは直江と景勝が和議のため家康に会いに伏見へ出発した日だ。
和議が決まった以上は、すでに車のような好戦的な人間も要らないから
>>上杉と伊達は家康反転後に和睦している
結局、白石城譲渡が7/25の早朝
家康が密かに政宗にだけ知らせた江戸へ帰る書状が
8/12付だから政宗の元への到着までに数日必要だし、
直江が小野寺が寝返り南部が撤兵すると予言した文書も8/12付。
上杉のために東軍南部軍を山形から引き上げさせるべく実行した
和賀一揆発生が確認できるのは一次史料上では南部家文書の8/13付の政宗書状だから
それ以前に政宗は白石譲渡の見返りのために、すでに和賀を扇動してるわけだ。
政宗が家康が小山から撤退するのを知るより早く
すでに政宗は家康を裏切る行為を行っているわけだ。
やはり上杉と伊達の間に白石譲渡密約があったと断じることに間違いがないってことだな。
>>政宗を攻撃するというのが詐欺だという
関が原敗報が届き事態が変化するまで伊達も上杉も完璧に密約ラインを守ってる。
>>982
偽書とするのは該当する日付に軍記上に戦闘が見られないからと言う理由のみ
と以前に指摘したはずだ。それにそのリンク先にも不信点を「月日不合」と当時は朱書してるね。
そして現在は検討を要すると書かれてはいるが偽書とは書いてないよね。
つまり偽書から検討を要するまで格上げしてるわけ。
だって偽書とする証拠が日付と軍記の照らし合わせ上の問題だから。
当時、政宗は井伊との連絡がなかったから恐惶謹言とかやたら丁寧な文書なだけ。
そこを不信とする意見は聞いたことがない。
>>このソースを出すつもりもまったくないのだろうか?
福島県史を読めよ。いま手元にねーんだよ。
985人間七七四年:2010/11/09(火) 03:59:12 ID:8MHorIJb
>>書状を示して頂戴

ちっなんだよ。流し読みしてたから気づかなかったわ。
いつもの東国太平記マニア粘着基地害のお前か。シカトすりゃあ良かったわ。
986人間七七四年:2010/11/09(火) 06:44:39 ID:ah/YgLDQ
伊達厨は恣意的解釈の連続で
ついには車は岩城最重臣1万6000石の地位を捨てて
上杉1000石に仕え直したに違いないとか
すげー理屈に合わないトンデモ論理を
主張したりでもう話し合いすら成立しないよね。
車一族とその家臣団は上杉家で1/16財政に困窮して野垂れ死にじゃんw
車一族は好き好んでどんな罰ゲーム率先して受けてんだよ。
987人間七七四年:2010/11/09(火) 08:58:16 ID:vC2iz7QD
>>984
>実際に前線を勝手に棄てて移動したりしてない。不平不満というのは和睦反対派で好戦的だから。
>政宗は白石譲渡の見返りのために〜
>伊達も上杉も完璧に密約ラインを守ってる
こういうのを恣意的解釈というんだよ。直江は「前線を引き払ったり、不平不満を言う
使えない奴」と言っているわけだからそれを史料を用いずに自分の思い込みで否定して
はいけない。「奥口御無事」が成立したことは9月3日付本庄宛直江書状で報告されて
いる。和睦は直江が福島城に入る8月下旬になってからなんだよ。
車と横田の話は「車丹波はスパイだから直江は出陣詐欺をした」と
言ったサブに対するものだから、「前線をなだめるために出陣詐欺」
をしたと理由を変えた以上大勢に影響はないが、一応下に書いておく。
■横田大学
慶長6年10月の政宗の上杉稜領侵攻は横田の内応がきっかけ。
直江は彼と一族を若松に強制送還させるように車丹波らに命じている。
すでに伊達と佐竹が連携し始めている時期だろうけど、寝返りが主家から
の命令だとか、車と一緒に佐竹から来たとは考えにくい。
■車丹波
車丹波の知行が一万六千石とする自体根拠が分からないが、
関ヶ原直前まで大封を有していたかもはっきりしない。諸書
で「常陸牢人」とされているように、佐竹の家を出ていたと
考えないと、組外衆で一千石(これは知行)、直江兼続に「使
えないから召し放つ」と言われている―これらの説明ができない。
988人間七七四年:2010/11/09(火) 22:11:35 ID:ah/YgLDQ
なんかもう反論になってすらいないし
何が言いたいのかもよくわからんが日本語に不自由な在日ですか?
989人間七七四年:2010/11/09(火) 23:15:56 ID:vC2iz7QD
反論以前に、妄想以外にサブの白石城譲渡密約説の根拠が出ていないんだけどね。
990人間七七四年:2010/11/10(水) 00:04:55 ID:fxquA0DW
客観的に見て充分に説得力ある傍証の数々を揃えて論述しているのは事実だろう。
991人間七七四年:2010/11/10(水) 00:35:48 ID:++l37zbi
>>984
> 偽書とするのは該当する日付に軍記上に戦闘が見られないからと言う理由のみ
朱書きした人物が、軍記上に戦闘がみられないから偽書としたというのは君の勝手な推測。
朱書きからは、軍記に照らし合わせて偽書とされたことは読み取れないし、
そもそも何故軍記での記載の有無が検討される必要があったというのか?
○この書状以外に6月24日の戦闘を伝える書状・感状・伝承等がなかったので
○書状の内容自体に不自然な点があるので
等、偽書とされた理由はいくらでも推測できるわけで、意味不明な断定は止めるように。

> そして現在は検討を要すると書かれてはいるが偽書とは書いてないよね。
明らかな偽書ならば翻刻版の校訂者が、注釈に「偽書」と書いたはずだとでもいいたいのだろうか?
「本號は検討を要する」としっかりと疑義が呈されているので残念。

> 当時、政宗は井伊との連絡がなかったから恐惶謹言とかやたら丁寧な文書なだけ。
前言と矛盾している。
> 同時代の井伊が伊達から受け取った書状となんら変わりがない書状だし。
といっていたのは君だよ?

政宗が羽柴越前守に任ぜられたのが天正19年、右近衛権少将に任ぜられたのが慶長2年。
慶長5年当時は、大崎少将と羽越前の官途・受領名を用いている。
政宗−井伊直政間の書簡をざっと確認してみると
○(慶長5年)6月27日付伊達政宗書状 伊達左京大夫 正宗 → 井伊兵部少輔 (歴代古案1538)
○(慶長5年)8月3日付伊達政宗書状 羽越前 政宗 → 井伊兵少・村茂介 (大日本古文書772)
○(慶長5年)10月10日付井伊直政書状 井伊兵部少輔 直政 → 羽柴越前 (大日本古文書714)
○(慶長5年)10月24日付伊達政宗書状 大崎少将 政宗 → 井伊兵部少輔 (西村四郎氏所蔵文書)
○(慶長5年)10月24日付井伊直政書状 井伊兵部少輔 直政 → 大崎少将 (大日本古文書719)
○(慶長6年)3月22日付伊達政宗書状 羽越前 政宗 → 井伊兵部少 (土井文書)
○(慶長6年)9月17日付伊達政宗書状 羽越前 → 井伊兵部少 (中村達夫氏所蔵文書)
問題の6月27日付書状(歴代古案1538)のみ以前の官途名&「正宗」を用いている点だけ見ても不自然だと思うが?
992人間七七四年:2010/11/10(水) 00:37:43 ID:++l37zbi
>>984
> そこを不信とする意見は聞いたことがない。
「そこを不信とする」どころが、問題の書状を検討もしくは採用している研究者は皆無では?
いちいちレスがデタラメすぎる。

> 福島県史を読めよ。いま手元にねーんだよ。
確認済みだよ。そのような内容が見あたらないのでレスしている。

『福島県史』第3巻 1970年 p931
 家康は三成とのかけひきに、上杉氏討伐の意を明らかにして、慶長5年5月3日、各大名に
会津出兵の命を下し、6月16日には家康自ら大阪城を出発した。
 これにより伊達政宗は、同年7月ふたたび福島に向って兵を出し、甘糟備後守の守る白石城を
攻め落とした。

読み落としていなければ、白石城攻略の件は上の記述しかないと思うが?
> ちなみに福島県史では甘粕が白河の軍議に参加していて留守と断定してる。
こう主張していたのは君なのだから、ソースを出して頂戴。

>>985
>>982以下のレスも読み落とさないで欲しい。
> 白石城譲渡の密約があったとして、何故それを上杉は他家へは勿論、自軍の諸将にまで秘す必要があったのか、
> また後世まで秘す必要があったのか。主張が支離滅裂すぎる。

とにかく妄想と無意味な罵倒は要らないのでソースを頂戴。
993人間七七四年:2010/11/10(水) 00:47:39 ID:c8rX3I0H
>>990
>客観的に見て充分に説得力ある傍証の数々
そんなものがあるならすでに通説になってるはずなのになってないのは
自分が密約説ありきで史料を見てしまい、曲解しているからだというこ
とに気付いた方がいいよ。直江の伊達攻撃計画を偽りだと断じるだけの
根拠も脳内以外で示せていないでしょ。
994人間七七四年:2010/11/10(水) 10:56:42 ID:ZgyNAp2T
995人間七七四年:2010/11/10(水) 11:00:22 ID:ZgyNAp2T
996人間七七四年:2010/11/10(水) 12:22:20 ID:91M7V3c7
三途の川で
997人間七七四年:2010/11/10(水) 12:54:59 ID:fxquA0DW
当時の政宗の蝙蝠な腐心が見える良い書状じゃないかな。
家康に付いて行きますってポーズで羽柴を用いず便宜上幕職を使ってるが、
大崎葛西の一揆で失敗した教訓から三成に後から言い訳できるようにわざと正宗と書いた。
なんせ政宗は敗北と共に西軍に内通を開始してるから。
その後に周囲から来る書状を見て羽柴を使用してても大丈夫だとして戻したが
関ヶ原後に官職にしてまた様子を見てる。
そして家康が豊臣政権の破壊をしないらしいから羽柴に戻した。
998人間七七四年:2010/11/10(水) 19:52:07 ID:ALf3eeXZ
うわぁ・・・
999人間七七四年:2010/11/10(水) 22:35:41 ID:c8rX3I0H
>>997
恣意的解釈の極みだな・・・。
「正宗」っていうのは上杉方でよく使われる政宗の表記だけど、まぁ
真偽いずれにしてもこの書状は密約があった証拠にはならないんだよね。
1000人間七七四年:2010/11/10(水) 23:56:11 ID:NvJBkn8b
つかさ、その書状の宛名とか見れば上杉が所持してないのは明白んだけど?
しかもなんでそこで井伊家が偽書状を作って所持する必要あんの?
だいたい正宗の表記は歴代古案でのただの写し間違えでしょ。
普通そんなので偽書状とか決め付けないし。
それらの点で不信だと断じてる研究者の名前を教えて欲しいな。
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