【景勝】御館の乱を語る【景虎】

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301人間七七四年
>>298
確か繁長の奥さんは景信の妹
302人間七七四年:2008/12/23(火) 23:00:46 ID:CR0b1Kce
>>293
椎名って謙信に越中叩きだされた椎名?
それって景虎派じゃなくて単純に反上杉じゃ。
反上杉の対抗勢力がごっそり景虎に付いているという意味なら
景虎ではなく景勝が上杉の後継者である証拠に思えるがね。
303人間七七四年:2008/12/23(火) 23:28:16 ID:E7+Ed5GD
>>302
その椎名ついだ長尾小四郎
304人間七七四年:2008/12/24(水) 00:42:10 ID:SKkqbWdb
それこそ反景勝になる理由だらけでは。
305人間七七四年:2008/12/24(水) 00:47:13 ID:dA5cDPrE
まぁそうかもね
306人間七七四年:2008/12/24(水) 12:15:50 ID:1uu120ZT
>>295
長親が景勝の要求にすぐに応じなかったことを
景勝の実城占拠などの行動に対する抗議ではないかと書いてる本もあるけど
彼の立場の背景を考えるとむしろ景虎支持を表明しなかったことの方が
重用だと思うんだけどどうなんだろう。

307人間七七四年:2008/12/24(水) 15:46:59 ID:SKkqbWdb
単純に対織田戦線での主将的ポジションにいたために
すぐには動くに動けなかっただけじゃね。
景勝としては(特に乱初期は)とにかく一兵でも早く戻ってきて
加勢してほしかっただろうが、
上野や信濃と違って北陸方面は織田勢力と戦わなきゃいけなかったわけで
長親は古志長尾の後継でありながら景虎支持する様子は無かったと思うが。
308人間七七四年:2008/12/25(木) 00:25:42 ID:e0xQt6uz
>>302
椎名を抑えるために長尾一族から無理やり養子に入ったのが景直。
だから「反上杉」というのは意味不明

302は景勝の正当性を主張しようと恣意的になりすぎてる
309人間七七四年:2008/12/25(木) 00:35:09 ID:1ujKzyKQ
長尾景直は椎名の子が長尾家に養子に入って椎名に戻されたのか
もともと長尾の子が実家を絶えさせてまで椎名に入ったのか
はっきりしてないのでは?
藤景の子でも反景勝になる理由は揃ってると思うが。
310人間七七四年:2008/12/25(木) 00:58:17 ID:e0xQt6uz
「反景勝」になるという可能性はあるだろうね
俺が指摘したのは「反上杉」がおかしいということ
311人間七七四年:2008/12/25(木) 01:31:36 ID:1ujKzyKQ
謙信に叩きだされた椎名?と最初の文で聞いてるんだから
反上杉ではと指されてるのは椎名家であって長尾小四郎の事じゃないんだろ。
長尾景直は謙信に叩きだされた事があったか?
312人間七七四年:2008/12/25(木) 11:41:58 ID:SSCCRZ9U
>>293の「北陸の椎名は景虎方」に対して>>302が「反上杉」と
言ったからそれはおかしいと言った。
御館で景虎方につく「椎名」がいるとすれば年代的に景直しかいないので。
それとも御館の時点で康胤が存命中だと勘違いしただけかな?
313人間七七四年:2008/12/25(木) 15:36:46 ID:KazbUuM5
ん?俺は椎名は勢力としては反上杉だろうと思ってただけだ。
椎名家当主康胤は謙信に離反して追われ
景勝に謙信への助命嘆願のとりなしを頼むもスルーされてあぼん、
椎名本拠の松倉城は長親によって抑えられており、
上杉家に頭を押さえつけられた状態で長尾氏からの婿養子が当主となり、
椎名康胤の子は追われて出家。

というのが概歴だろ?
314人間七七四年:2008/12/25(木) 23:04:51 ID:1ujKzyKQ
ぶっちゃけ椎名景直が景勝の下に付くのを嫌がる理由はあるんだから
どっちでもいいと思うんだが。

で、長親から越中の主導権を奪い返すために
反長親で景虎派に付いたんだったりしてとふと思ったり。
315人間七七四年:2008/12/26(金) 21:29:33 ID:pD7Cjw+f
景直は小島職鎮とも対立関係にあったな
職鎮も景直に敵対して景勝派になったな
316人間七七四年:2008/12/27(土) 01:20:57 ID:7J7tPnQG
本庄繁長が景勝方になった理由がよくわからん……

妻は景虎派の古志長尾景信の姉妹だし、息子顕長も景虎派。
曽祖父房長以来の盟友である黒川氏も景虎派。
お隣りさんで本庄氏と関係の深い大宝寺氏も景虎派。
本庄氏をさておいて席次で上位に立った色部氏は景勝方。
黒川氏と一緒に長年に亙って対立してきた中条氏も景勝方。
閨閥関係でも景虎派、当時の本庄氏の知己や過去の因縁からしても景虎派のはずなんだが、
なぜか景勝に味方してるんだよな……。
本庄氏と不仲の鮎川氏が景虎派なのは繁長に対抗するためのような気もするし。

謙信存命中は不遇な状況にあったわけで、捲土重来を期すための選択がなぜ景勝だったのか。
よっぽどの好条件を提示されてのだろうか?
でも乱後の論功行賞でも分を越える恩賞があったようには思えんし。
不思議だ。
317人間七七四年:2008/12/27(土) 01:52:43 ID:fbtVXAsq
中央に深くかかわってない揚北衆だから
勝ち目が大きいと思った景勝側に主力が付いただけとかじゃないのかね
一族こぞって付いたとかなら何らかの理由はあるだろうけど、嫡男は景虎側だし
乱中も地域抗争ぐらいで景勝に強力に合力したわけでもないし
318人間七七四年:2008/12/27(土) 06:09:31 ID:Kipu66Xe
最初に優勢だったのは景虎方だべ?
景勝方に戦況引っ繰り返されただけで。
319人間七七四年:2008/12/27(土) 14:25:02 ID:FyQnTYoa
居多浜での山浦上杉景国の戦功が大きい
320人間七七四年:2008/12/29(月) 02:07:03 ID:xPFtgHG+
やっぱ監視下に置かれてたんだと思うぜw
上杉一門として裏切ることはないと信頼されてたなら
一軍率いて謙信の名代として出陣してるよ。
後継者だから軍役を科さずに大事に大事に温室育ちにしていたんなら
景虎の年齢と譜代家臣の不在、謙信の年齢、出家済であることから
家督移譲の準備を整えやっぱり軍事力を渡して
名目だけでも景虎を一軍の将とした活動させたりしてるよ。
でも景虎が晩年の謙信の軍で何かしていた形跡無いよな。

一門なのに大きな仕事も任されず越後に留まっていたなら
利用価値があるから監視の上で置かれてたんだろ。
監視してなかったなら何の役にも立たないし出来ない奴だけど
殺すのも返すのも妻にした姪が気の毒だから放置していたのかな?
やっぱ後継者の一人にするつもりだったなら活動形跡無さすぎて不自然だわ。
大概の家で20歳も過ぎてる嫡子だったら色々任務任されてるのに。
321人間七七四年:2008/12/29(月) 02:32:10 ID:Niar+FiQ
>>320
景勝信者痛いよw
322人間七七四年:2008/12/29(月) 08:57:33 ID:xPFtgHG+
痛いと感じるほど的外れと思うなら
どれだけ信頼されどういう活動行ってるか反論したらいいよw
景虎派の言うことはいつも景勝の捏造とか景勝は冷遇されてるからとかで
景虎側の積極的な後継活動の形跡出してこないから不思議だ。
戦国真っ只中に政治軍事において何もしないのが後継とは思えない。

お飾りとして関東管領の名前だけ与えて実権は全て越後国主にある状態にする気だったかな?
存在に利用価値があるなら逃げられても死なれても困るから
監視付けておくと思うよ。
定実だって為景の監視下に置かれていたし。
323人間七七四年:2008/12/29(月) 10:34:29 ID:M83GWo8/
その調子でこっちでやってくれな
324人間七七四年:2008/12/29(月) 10:37:01 ID:5Sf7beG4
>>316
元々越後中が「景勝方」だとしたら、繁長が景勝についているのも不思議ではない。
つまりは、当初謙信没後は景勝のみが当主として活動し、上田衆台頭によって野党と
なる事を危惧した某勢力が、春日の町に住む景虎を担ぎ、実家の小田原北条氏やその
同盟国の支持を得て、厩橋の北条や三条の神余も反景勝に転じ、中条に反発する黒川
や本庄に対する鮎川もこれに加勢。その他景虎についた諸氏も各々の権益拡大の為。

>>315
小島が景直に対抗する為に景勝派に加勢したというより、景直が種々の対抗上景虎に
加勢したといった方がいいかもしれない。
325人間七七四年:2008/12/29(月) 11:22:11 ID:eLj5J+cg
学会の三郎への過剰な配慮は一体なんなんだ?
謙信男色説と同様首を傾げたくなる。
326人間七七四年:2008/12/29(月) 15:50:36 ID:jBLP3U/v
>>322
だから監視されていたっていうなら、そういった記述のある史料を出せよ
景虎憎しの奴が想像で言ってるだけなんだろうけど

>>325
学会がズレているのではなく、2chの景勝擁護が異常なだけ。
学会より2chが正しいと思ってるのか?
327人間七七四年:2008/12/29(月) 15:56:01 ID:xarPlkG9
幼い頃より可愛がられているのが一次史料で分かる景勝より
景虎が寵愛されてる根拠にするのに必要だからでは?

自分は戦国関係の本で景虎後継者説が多かったので
景虎が何となく後継者だと思ってたけど
色々史料を読んでみて景勝後継者説寄りになった(まだ決定打には欠けるけど)
結構こういう人多いんじゃないかな
328人間七七四年:2008/12/29(月) 16:23:54 ID:43KrUiTI
>>327
自分も歴史読本とかああいったムック読んでた時は景虎が有力だったのかと思ってた。
でも高志書院の本読んだり、ネットで語り合ってるのロムってるうち、
景勝と考えるのが妥当だと思うようになってきている。

>>326
2chの景勝擁護は、かつての景虎厨の貶め方が酷かったからではないかと思う。
本当に異常なくらい、景勝に対する憎しみを感じてしまい、
噂になっている某ラノベオタと思われるのも無理ないと思う書き込みが多かった。
それに、上記のようなムックはともかく、本当に「学会は景虎擁護」なのか?
決してそんなことないのでは?
未だに二者分権説支持者も多いのではないの?
ミネルヴァから一昨年矢田氏が出した謙信本の参考文献冒頭にも、
片桐氏の例の論文が挙げられてるの見て、あの論が一定の評価を得ているのかと思っていた。

329人間七七四年:2008/12/29(月) 17:02:58 ID:xPFtgHG+
実際に家を継いだ景勝が元から後継者だったというより
実は負けた景虎の方が後継者だったという方が「発見」だから
景虎後継者説が後押しされるんじゃね。

景虎が普通の一門衆と違う扱いを受けているのは明らかだから
景虎が普通の一門と同じように扱われなかった理由を
「特別扱い」なのか「疎外」なのかを考えるのを
景虎に分が悪い論を出されて景虎憎しだからだ!で思考が止まっちゃってちゃなー。
景虎が権力を任されていた史料が無いから無かったんじゃないのと言ってるだけなのにw
330人間七七四年:2008/12/29(月) 17:05:49 ID:7L3HGD4B
>>326
君こそ景勝憎しで躍起になってるように見えるけどな。
331人間七七四年:2008/12/29(月) 17:05:50 ID:eLj5J+cg
>>326
逆に、学会が何でも正しいとでも思ってるのか?
権威ある教授なんかはプライドから滅多に自分の
考えを正す事がない人も多いだろうし、
保身の為に曖昧な立場にある人だっているだろう。
勿論正しい事の方が多いだろうけど(そうでないと困る)、
全て鵜呑みにせず、時には自説を持つ事も大切。

>>327-328
俺も昔は三郎が後継者だと思ってた。
でも、可愛がられた史料に加え、軍事経験や文書発給、
御館の乱での両派の構成などを考慮すると三郎を後継と
するには無理があると思って景勝寄りに転じた。
三郎後継説を押し通そうとすると必ず、史料は捏造とか
焼失したとかいう誤魔化しが必須になるしね。
しかも肉付けするのに二次史料が必要になってくるし。

>>328
>>325は三郎に実権を認めるような二者分権説も
含め、景虎への配慮と言ったつもり。
332人間七七四年:2008/12/29(月) 17:15:29 ID:5Sf7beG4
>>326
ちょうど326(サブロー)だな。

おめでとう。
333人間七七四年:2008/12/29(月) 17:58:44 ID:eHELnVeB
新潟県立歴史博物館(長岡)のある研究員の先生(名前失念してしまいました。)が
今年、謙信の後継者について片桐説の後継者移行説で説明されていました。
新潟の先生は三郎後継者説を推しておられるのだと思っていたので、ちょっと驚きでしたが。
学会がすべて三郎後継者説で固まっているわけではないと思います。
334人間七七四年:2008/12/29(月) 20:09:35 ID:B59vDZ6k
新潟の先生が三郎後継者説だと思ってた?越後バカにすんじゃねーよw
片桐氏だって新潟大学卒だし。まあ最終的に中央大学卒だけどなw

新潟歴史博物館の中世史担当といったら前嶋研究員か?それとも関係者らしい矢田氏か?
矢田氏にしろ前嶋氏にしろ、片桐氏とそれなりに親しいはずだからな。より影響し合ってるだろう。
前嶋氏は片桐氏と中央大学で一緒に勉強した仲。
矢田氏は片桐氏が教え子だし、本の出版に世話をしてやったり一緒に本を出したりする仲。
つうか前嶋氏も片桐氏も矢田メンバーだな。

つうか自分も本やネットの影響で、最初三郎の方が後継者なんだと思ってた。
むしろ最初、そんな逆境を乗り切ったはずの景勝に興味を持ったはずなんだが、
でも気付くよな。三郎後継者説の不自然さに。
335人間七七四年:2008/12/29(月) 21:55:08 ID:G0ZZF4FR
俺の場合、景虎後継説の根拠として挙げられる
1.景虎の方が景勝よりもはやく上杉姓を名乗った
2.居住地の位置
3.支持層の顔ぶれ(上杉氏の主要が景虎支持という話)
のうち、3.がとくに疑問だったんだよね。
吉江一族や、中条景泰などの動向から考えると、到底そうだとは言えないし。

336人間七七四年:2008/12/29(月) 23:57:10 ID:xPFtgHG+
1、なぜ既に上杉宗家に三郎景虎がいるのに
あとから景勝を上杉宗家に入れ官位を譲ったのか。
2、二の丸の伝景虎屋敷より新たに造成されたらしい中城郭の景勝屋敷の方が
標高も高ければ実城屋敷との位置も近い。
二の丸の方が中城廓より上位であるとする根拠がない。
果ては景虎は春日山城内に住んでいなかった可能性さえ指摘されている。
3、散々指摘されてるが謙信晩年に寵用された側近衆は景勝支持が多い。

ということになる訳で。
最低でも越後は景勝に譲る気だったと思うわけよ。
337人間七七四年:2008/12/29(月) 23:58:07 ID:/u59vip8
>>331
たしかに鵜呑みもよくないが
少なくとも学会では「景勝・景虎どちらか決めがたい」という感じで
強いていうなら、越後国主としては景勝の線が強く
関東管領として考えると景虎の線が強いというくらいか。

「景虎はお飾りだ」とか「景虎は監視されていた」
なんて言われているのは2chにおいてだけだ。
338人間七七四年:2008/12/30(火) 00:06:56 ID:tHDeeCg/
何故景虎関東管領就任説が強く支持されるのか知りたい所だな。

因みに自分も景虎後継者説から景勝後継者説に転向したクチだ。
339人間七七四年:2008/12/30(火) 00:11:12 ID:bGCnpoQG
>>337
>「景虎はお飾りだ」とか「景虎は監視されていた」

(おそらく)一人の書き込みだけを取り上げて
まるで2ch総意で景勝擁護しているかのように言われてもなぁ
景勝が後継だったんじゃないかとは思うが別に景虎がお飾りとは思ってないよ

あと、学界での傾向決めつけ?もどうかと
分権説、景虎後継説、景勝後継説、入り乱れてるのが現状でしょ
なんとなく分権説支持が多いのか?とは思うがそれだって確たるものではないでしょ
340人間七七四年:2008/12/30(火) 00:11:19 ID:cB4Na9D2
多分前嶋氏だと思います。(はっきりとは覚えていないのですが)
なるほど、前嶋氏と片桐氏はお親しいのですね。それでかー。納得しました。

弾正少弼任官の景勝書状への疑惑を指摘されたのが新潟県史編集委員の
先生方だったり、上越市史等の記述から新潟では三郎後継者説が主流なのかなと
自分で思い込んでいましたので。けっして新潟の方をばかにしているとか
そういうわけではありません。あしからず。
341人間七七四年:2008/12/30(火) 00:31:53 ID:BBXG28Ul
後継者は明確で無かったとするのが7割じゃないのかな
目立ちたいのが景虎後継や分権とか通説と違う事言ってるだけで

景虎後継は裏づけがほとんど無く、分権説は皆無
景勝後継説も決定打は無し、新資料でもない限り通説がもっとも説得力あると思うけどな
342人間七七四年:2008/12/30(火) 00:35:30 ID:FjXB7XKJ
>>338
憲政が景虎派に入れられてるから?
でも憲政は景虎支持していた割りには
先代管領として元家臣や諸公に景虎後継に働き掛けた様子は無いんだがね。
343人間七七四年:2008/12/30(火) 01:23:57 ID:L79GMmUg
>>340
『上越市史』は、たんなる想像だけど
御館の乱について論文を書いてるっていうだけか、
『定本上杉謙信』の分権説を読んで木村氏に頼んだんじゃないかと思う。

つか、よく覚えてないけど『上越市史』って、
上条が誰かの解釈が担当する人間によって違ったりしてたような気がするんだけど
あんまり内容に口挟んでないんじゃないかなぁ。
344人間七七四年:2008/12/30(火) 01:34:43 ID:6S1JyfPE
>>341
>後継者は明確で無かったとするのが7割じゃないのかな

7割っていうか、謙信が後継者を明確にしないまま急死してしまったことが
大前提での話なんじゃないの?
そのうえで、生前、誰を後継に考えていたか、ということで研究者間でも諸説があり、
ここでも話が進んでるんだと思ってた。

>>342
憲政が景虎派と言えるかどうかは本当に微妙だわな。
もし積極的にそういう立場なら取るべき行動はいくらでもあったと思う。
しかし一切ないからな。巻込まれた感が否めない。
345人間七七四年:2008/12/30(火) 15:39:54 ID:zDqJniaq
>>341
そう、白紙だったかろこそこんだけの内紛になった

>>339

たしかに「景虎はお飾りだ」とか「景虎は監視されていた」とか
いい出すのはごく一部の暴走なんだけどね
何回も書き込まれてるから印象に残るんだろうね

ミラオタもヒドかったが、それに対抗する三郎景虎叩きもヒドい
346人間七七四年:2008/12/30(火) 15:49:04 ID:6HWK+He7
とにかく景虎厨による景勝ネガキャンは凄まじかったよ
ウィキの履歴とか見るとゾッとするよ
ある意味トラウマ
今は少し落ち着いてるので蒸し返すのもなんだが、大河始まったらまた暴れ出すかもな

後継者については、謙信が全く考えていなかった、白紙だった、と
言っている研究者もさすがに居なかったような

347人間七七四年:2008/12/30(火) 16:53:02 ID:FjXB7XKJ
景勝後継説に立った場合に
じゃあ景虎は敵国の人間であるにも関わらず越後におり、
国主の養子という立場であるにも関わらず他の一門と同じような仕事をしている訳でもない、
だったらなにか一門として使えない制限下の立場にあったんじゃないか
というのも暴走という程の発想でもないと思うけど。
景勝だって景虎後継説の場合は上田衆はもともと謙信と敵対したことがあり
信頼されてなかったから先陣に出されてこき使われたって話も言われるよ。
348人間七七四年:2008/12/30(火) 17:36:46 ID:zDqJniaq
上田家もかつて敵だったことは事実だし
北条家が同盟決裂後再び敵国になったことも事実

そこからの拡大解釈合戦になってるんだよ
349人間七七四年:2008/12/30(火) 17:52:48 ID:qWj4eln1
しかし、片桐氏の、同盟期間中は景虎、同盟決裂後は景勝、
この移行説なら、ある程度納得できてしまうんだよな。

決裂後、景虎には後継を想定させるような史料皆無、
逆に景勝の方は着々と地位向上。

後継者には軍役など課さない、あくまで上田長尾当主に過ぎない、という論もあるが、
天正5年(謙信の死の前年)に作成された家臣団名簿の中に、景勝の名はない。

他の上杉一門衆たちは記載されているのに、
また、景虎と違って、家中第一の強大な直属軍団を抱えているにも関わらず、
家臣団名簿に景勝の名がない。

発給文書を見ても景勝が政権に関与していたことが把握できるし、
家臣として扱われず、ではどういう立場だったのか。
350人間七七四年:2009/01/01(木) 22:47:06 ID:pTKrOlJ1
その論だと景勝と入れ替わって景虎の軍役が発生しても良さそうだが
351人間七七四年:2009/01/02(金) 00:48:19 ID:UyrIxDPW
景勝の軍役は弾正少弼を受けた段階でも持ってるし
むしろ景勝の軍団は他の家臣の軍を取り込み拡大している。

っつーか軍役がないのが後継者としての優遇措置とする根拠が
そもそも出てないわけだが。
よその家の嫡子は普通に自分の軍を率いて戦ってるよな。
所領を持たずそのため直属の家臣団もない三郎景虎に
どっから家臣団とそれを支える収入を持ってくるのかも謎。
352人間七七四年:2009/01/02(金) 01:33:34 ID:tdFTYB9w
>>351
軍役っていうのは主君が家臣に課すものだから
謙信や憲政に軍役はないでしょ?
1575年の軍役は越後国内のみなので何とも言えないが
353人間七七四年:2009/01/02(金) 02:17:46 ID:UyrIxDPW
憲政は既に隠居済みで山内上杉家臣団は謙信の家臣になってんだから
軍を形成する家臣も無いのに軍持てるわけ無いじゃん。
なんで憲政?

で、実父から受け継いだ所領と家臣団を持つ景勝はともかく
所領を持たず奉行をしてる訳でもない景虎が持つ軍はどっからひねり出すんだ?
軍ってのはどっからともなく湧いてくるもんじゃないぞ。
散々言われてるが景勝のように明らかに大軍を率いている上で
軍役帳に記載が無いなら明らかに優遇措置だが
景虎のように軍を持ってた様子が見えない人間が軍役帳に載ってないのは
越後の軍事勢力として数えられてなかっただけとも言えるので根拠にならん。
354人間七七四年:2009/01/02(金) 07:40:38 ID:mCCUnCOG
1575年の軍役帳については、矢田氏や片桐氏がいうように、越後上杉家の分家よりも、
景勝が上位にきていることを重視した方がいいんじゃない。
355人間七七四年:2009/01/03(土) 02:46:03 ID:Ib27/0TL
軍役免除と軍を持ってないってのはえらい違いがあるよなあ。
武田義信も織田信忠も徳川秀忠も
よその嫡男は当主の父の元で
大軍を動員して軍の副将として戦ってるもんな。
356人間七七四年:2009/01/03(土) 03:30:23 ID:SG72Wbdu
昨年、新歴史群像の「上杉謙信」で謙信の後継者について、
景虎後継者説を支持されてた桐野作人氏が氏のブログで、
片桐氏の論文を見落としていたとして、前言を撤回されてる。
ムックとか歴史群像等で安易に景虎後継者説を書く人って、
桐野作人氏と同じように片桐氏の論文を読んでいないんじゃないかね。
357人間七七四年:2009/01/03(土) 14:46:14 ID:2lXmVo1R
景勝が後継扱いされてたかどうかは置いとくにしても
軍を持たせた様子がなく
同盟決裂後は、従軍した形跡すらない景虎を次の当主として考えてたなんて

いくらなんでも謙信がそこまでおめでたい人だったとは思えないよ
358人間七七四年:2009/01/03(土) 21:49:37 ID:SG72Wbdu
>>356
自分も前言撤回。
桐野作人氏は景虎後継者説を別に推されていたわけではなく、
景勝の謙信生前の弾正少弼就任を否定されていただけだった。
359人間七七四年:2009/01/03(土) 22:43:56 ID:8E2jMYfc
にちゃんねるにおける景勝人気はすごいな
360人間七七四年:2009/01/03(土) 23:32:14 ID:VW0To4VZ
人気っつーか、単に後継者については、色々と史料や傍証並べていくと
景虎よりは景勝寄りになっちまうだけだろう

むしろアンチの腐女子のが凄いと思えるが
361人間七七四年:2009/01/03(土) 23:41:29 ID:pCwaVxZQ
つーか、ぶっちゃけた話、「決まってなかった」が、正解だと思うがね。
いっそ足利義持みたいにくじ引きにすりゃよかったのに>謙信
362人間七七四年:2009/01/03(土) 23:50:35 ID:SG72Wbdu
くじ引きなんかにすりゃますます、研究者からたたかれるよ。
今でさえ、自分の趣味全開にして美少年を養子にしまくり、
お家騒動の原因をつくったって大先生方からいじめられているのに。

363人間七七四年:2009/01/04(日) 09:42:38 ID:TlkquE38
くじ引きについては研究者は意外と合理的な判断として見ているぜ
364人間七七四年:2009/01/04(日) 16:59:11 ID:+xI16PLc
くじ引きは当時の社会通念上悪い判断ではなかったらしいしな。
むしろ義教がアレだけの独裁権力を行使できたのは、政治力に加えて
「神意によって選ばれた将軍」と言う、人知を超えた権威をまとっていたことも
大きかったようだ。
365人間七七四年:2009/01/04(日) 18:20:50 ID:jRXFYSPw
くじ引きの評価がどうあれ、謙信がくじ引きで後継者を決めようと考えていたと?
そんなこと言ってる研究者いるの?誰?

氏康も信玄も死に織田の脅威が迫るなかで
自身の辞世の句かとも言われる句を読みながら
何も考えてなかった、何も決めてなかった、てのはさすがにないんじゃないの
急死によって水泡に帰してしまっただけで
366人間七七四年:2009/01/04(日) 21:35:22 ID:+xI16PLc
>>365
スレ読み返しなされ
367人間七七四年:2009/01/04(日) 23:36:09 ID:Ch3BE4SS
>>360
>単に後継者については、色々と史料や傍証並べていくと
>景虎よりは景勝寄りになっちまうだけだろう

それはあなたの勝手な決めつけだと思うがね

学会で、景勝派が必ずしも優勢ではないだろ?
368人間七七四年:2009/01/04(日) 23:43:47 ID:9TZ3Qx2L
景虎派の人はなんか最近反論が苦しくなってきたな。
前は色々考証してたのに。
369人間七七四年:2009/01/04(日) 23:53:08 ID:Ch3BE4SS
>>368
突如勝利宣言みたいなことされても・・・・
370人間七七四年:2009/01/05(月) 01:24:49 ID:VpgXjnd4
>>353
景虎が全く軍事に関していなかったというと嘘になってしまうよ。
景虎は北条高定、松木氏らに軍役を命じているし
おそらく親衛であった山本寺の兵も動かせただろうね
さらに関東での戦闘では何回か謙信に同道している。
北陸や信濃へ転戦した形跡は皆無だが
371人間七七四年:2009/01/05(月) 01:37:16 ID:wJMJY5hw
このスレッド単体を見る限りでは景勝後継者説が優位なのは事実だと思う。
学会などはまだ固まっていないけれどね。

>>370
軍役は謙信存命中のことかな?
372人間七七四年:2009/01/05(月) 01:48:50 ID:UtiO4STu
山本寺を景虎の意で動かせたって出典は何?
謙信に同行したってだけじゃ軍事にどれくらい関与してたんだか
全く不明なんだけど。
373人間七七四年:2009/01/05(月) 02:59:34 ID:VpgXjnd4

山本寺は当初、三郎の守役で御館でも景虎方に付いた
という事実を元にした推測。あと1575年の時点の山本寺家の軍役が
少なすぎるようにも感じる。何らかの理由で減免された可能性もあると思う。
山本寺は監視役だったとかいう人も居るみたいだけど現実的ではない。
室町中期ならともかく、戦国時代終盤にもなって
国の盛衰に関わる御家騒動で、お飾りを擁して
勝てるなんて思ってる武将は少ないだろう
374人間七七四年:2009/01/05(月) 03:01:31 ID:wJMJY5hw
山本寺が監視役というのも、山本寺が景虎の軍役を請け負っていたというのも根拠がない。
両論とも引き分けだなー。
375人間七七四年:2009/01/05(月) 03:14:49 ID:VpgXjnd4
>>372
1572年の関東出兵の際だが、どれぐらい関与してたか不明
不明なんだけど・・・つってるけど、不明な点が多いから学会でも
ココでも後継者について結論がでないわけで・・・・・
376人間七七四年:2009/01/05(月) 08:31:34 ID:UtiO4STu
戦国時代終盤にお飾りに家臣に擁されいいようにされた君主なんて
畠山だの織田だのぱっと周辺見ただけでもいるじゃん。
山本寺は御館の乱では兄弟で割れてるし
景虎に使われた根拠無しだな。
377人間七七四年:2009/01/05(月) 11:36:31 ID:0JMxWMQb
実際山本寺定長って景虎の傅役だったのか?
378人間七七四年:2009/01/05(月) 13:37:35 ID:C+2+G3Lw
>>375
同盟破綻後の景虎の動静は不明だが、景勝の軍事や政権への関与は明白。
片桐説を採れば、景虎の同盟期間中の軍事行動(同盟破綻前の出立も含む)は
別に問題ではない。この頃は景虎が後継者と考えられていた節があるから。

北条家と敵対しても尚その家出身の景虎を後継者と定める意味が分からない。
しかもしっかり仕事をこなす有能な男系血族でもある実の甥を差し置いてだ。
379人間七七四年:2009/01/05(月) 16:23:17 ID:UtiO4STu
謙信が北条とのよりを戻そうとしていたならともかく
死ぬ時まで北条との対決姿勢だったしな。
つーか山本寺は三郎の家臣でも与力でもねえ。って前も同じ話した気がするな。
380人間七七四年:2009/01/09(金) 21:51:07 ID:IjxoykTn
山本寺家自体が四条上杉男系の血筋なので、これが「与力」になる
ことはないであろうが、古志景信と並んで、景虎派の権力的・序列的な
基盤であったのだろう
381人間七七四年:2009/01/10(土) 09:07:42 ID:XXsvZVJu
まあ弟(息子?)家族は景勝に付いてるんですけどね。
382人間七七四年:2009/01/10(土) 14:50:03 ID:slgh4QmD
>>380
>古志景信と並んで、景虎派の権力的・序列的な基盤であったのだろう

山本寺が景虎にとって、それほど親しく大きな存在だったと言う根拠がわからない。

上杉一門衆のうち、一族が景虎派と景勝派に割れたのは山本寺だけ。
定長=景虎派
孝長=景勝派
373、380が言うように当主の定長が景虎の守役、もしくは与力的な役割をもち、
謙信の生前、ともに陣中で戦働きなどしていた間柄だったら、そんな事態になるもんだろうか?

確かに御館の乱では不動山城は景勝方の攻撃を受けているが、
定長自身は古志景信のように戦に討って出た記録もないし、
その後の消息も曖昧じゃなかった?

乱後、孝長は当主の座を継いで景勝に忠誠を尽くし、魚津で死んだが。
当時、孝長に宛てた景勝の手紙は胸に迫るものがある。
383人間七七四年:2009/01/10(土) 21:05:28 ID:7HzSufGS
>>382
>そんな事態になるもんだろうか?
382の疑問は、山本寺兄弟の仲が円満と仮定した場合のみの話だろ?

弟は、兄がついた景虎派が敗れれば、一門衆山本寺家当主の座
につけるから、景勝派になったと考えるのが普通では?
384人間七七四年:2009/01/10(土) 21:53:51 ID:crJ8zIGh
普通に考えたら両方に分けてどっちが勝っても家が存続するようにしたんじゃね。
戦国時代にはよくあることじゃん。
三本寺の兄弟(親子?)が相克してたなんて史料あったっけ。
385人間七七四年:2009/01/10(土) 22:14:05 ID:7HzSufGS
>>384
戦国時代、兄弟間の家督争いはほっといても起こる。
三郎と喜平次が相克してたなんて史料も無いんだから
山本寺家にそれを求めてもしょうがないだろ。

まあ384の言うとおり、自家の存続のため(真田信幸と幸村みたいに)
っていう可能性も無くはないが
386人間七七四年:2009/01/10(土) 22:19:30 ID:crJ8zIGh
景勝ははっきり「景虎が死んで欝憤が晴れた」とか言ってるし
全く仲良い兄弟じゃなかったんだろ。
家中で直接戦闘した訳でもなく仲悪かったとする二次史料さえ無いのに
御家纂奪狙った弟扱いかー。凄いなー。
387人間七七四年:2009/01/10(土) 22:45:19 ID:UfhmxkV0
景勝の書状は確か「去年以来の鬱憤」っていうから、元々の仲はわからんな。
山本寺家は孝長(景長)が魚津で戦死した時、若年だったっていわれているし、
「御家中諸士略系図」や吉川弘文館の「戦国人名辞典」もこの二人は親子としてる。
388人間七七四年:2009/01/10(土) 22:53:45 ID:7HzSufGS
>>386
景勝が言っている「鬱憤」というのは、家督争いより前の出来事を
含めているのかもわからない。謙信存命中に争った形跡もない。

それに、家中で直接戦闘する必要は無いだろ
平時でいきなり山本寺の家督争いをするわけか?
主家の家督争いの場で対立が表面化したとも考えられる

だいたい、戦国時代なんだから兄弟で家督争いになるのは珍しいことではない
>>386が「凄い」と言う理由がわからない
389人間七七四年:2009/01/10(土) 23:00:05 ID:gkPbwAp6
>>386は孝長信者w
390人間七七四年:2009/01/10(土) 23:06:20 ID:SZVEZJfd
その辺はどのみち憶測しか話せんからねぇ
391人間七七四年:2009/01/10(土) 23:30:03 ID:XXsvZVJu
普通に考えて同じ家同士のものが敵味方に分かれれば
同じ家同士の戦闘が起きるだろ。
柿崎家は同じように家中が景勝・景虎派に分裂したが
城内で家中同士討ちを行ってる。
それを行っていないなら、
自分たち自身の手で親兄弟と殺し合う状況を回避した、
それなりに普通の親子兄弟関係だったと取って良いと思うが。
392人間七七四年:2009/01/10(土) 23:33:12 ID:XXsvZVJu
まあ、柿崎家が親子兄弟仲が悪かった家とは思わないが、
普通は家中での戦いを回避するのが心情ではないか。
関ヶ原でも家中を東西に分けた家は戦うフリだけしていたというし。
393人間七七四年:2009/01/10(土) 23:33:33 ID:7HzSufGS
あえて回避したのか、陣営の戦略の都合上そうなったのか
というのもわからないが、一理あるな
394人間七七四年:2009/01/11(日) 02:41:58 ID:yZTOqLPZ
乱序盤は景虎方が優勢だったんだぞ?
わざわざ兄を倒すために負けそうな方に付くリスクを犯したよりは
兄が優勢側に、逆転した時の為に弟(息子?)が劣勢側に入って
保身を計った方がありえる。
勝った側についた方がもう片方の助命嘆願をすれば両方助かる確立も高い。
弟じゃなく息子だったらますます纂奪理由はないな。
395人間七七四年:2009/01/12(月) 11:53:16 ID:gF4PzUMv
山本寺上杉の系図は不詳な点が多い
396人間七七四年:2009/01/17(土) 00:31:39 ID:hGjSJNew
ざっとスレ読んでみたんだけど景虎後継者説として出てくる
景虎が受け継ぐはずの謙信の直轄の軍って具体的に誰のことなんだろ
あんまり詳しくないんだけど説として唱えられてるくらいだから
その家臣たちが御館の乱で景虎の指示で動いてたという史料はあるのかな
397人間七七四年:2009/01/17(土) 13:17:23 ID:ZybphcdS
( ^ω^)日本語でおk
398人間七七四年:2009/01/18(日) 00:27:46 ID:r1WoaTkw
分かりづらくてごめん。
景虎スレ読んできたら同じ話題出てましたね。
景虎スレにあった文の引用で申し訳ないけど

>だいたい、謙信が直轄部隊を家督継承時に景虎に譲るつもりだった筈、
>その直轄部隊に同行もさせていた筈、という459みたいな人は、
>その謙信の「直轄部隊」とやらを、具体的にどの辺の将たちだと想定してるわけ?

ということを質問したかった。
399人間七七四年:2009/01/23(金) 22:27:23 ID:qnrk5eBK
山本寺に長尾から養子が入っているとする系図もあるらしいな。
山本寺景定は長尾高景の息子で、定種の養子になったとか。
400人間七七四年:2009/01/23(金) 22:47:25 ID:RJW20LgA
それは不動山城日記?かなんかの記述でいろいろ矛盾点があって
信用できないよね
山本寺と長尾の養子縁組があったのは米沢藩時代でしょ