【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ11【東軍】

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1人間七七四年
130年あまり続いた戦国時代晩期の合戦である「関ヶ原の戦い」。
東西両軍合わせて20万人もの動員を繰り出した、想像を超える大規模なものだったにも関わらず
わずか数時間の戦闘で勝敗が決したという希有な戦い。
全国津々浦々から名立たる武将・智将が一同に会した、戦国屈指のドラマ「関ヶ原」を
あらゆる角度から検証するスレ第十弾です。

過去ログ
関ヶ原の戦い総合スレ
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1106458926/
関ヶ原の戦い総合スレ2
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1108139654/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ3【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1124859382/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ4【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1127129116/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ5【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1129471584/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ6【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1135858991/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ6【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1142346577/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ8【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1145149465/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ9【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1149346897/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ10【東軍】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152870727/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ11【東軍】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1176221394/
2人間七七四年:2007/11/07(水) 21:26:27 ID:RHN3ufu0
スレ番間違った
ここは12番目ね
3人間七七四年:2007/11/07(水) 21:30:17 ID:hOMulqTx
結局宇喜田が空気読まずにいきなり反乱の狼煙を上げて、石田たちはそれに引きずられて準備不足のまま
西軍として立つはめになった、ってことでいいのかな?
4人間七七四年:2007/11/09(金) 01:36:19 ID:REIPl8PK
どの時点? 
5人間七七四年:2007/11/09(金) 21:07:38 ID:ML5gjASq
東軍
日本中の空気読んだのが家康。
家康の空気読んではっちゃけたのが福島とか加藤。
空気なんざ関係ないよとはっちゃけたのが、黒田・藤堂。
空気読んだけど、西軍に寝返った田丸。

西軍
西軍の空気よまずに総大将になった輝元。
家康の空気読んではっちゃけたのが三成とか安国寺。
空気なんざ関係ないよとはっちゃけたのが、宇喜田・大谷。
空気読んだので、東軍に寝返ったのが京極。

番外
鍋島直茂。黒田如水。吉川広家。
6ロングだるまや ◆DIqMcJXPFQ :2007/11/09(金) 21:12:58 ID:afVeA/b0
>>5
今風に「空気読めない=KY」にした方がいいのでは?
7人間七七四年:2007/11/09(金) 21:14:06 ID:hhZv1co7
>>6
半年で消え去るような言葉使うなや。
8人間七七四年:2007/11/09(金) 22:58:59 ID:ND1NkRfi
>>5
カトキヨは出てってないよね
黒田と地味に地元で蠢いていたけどw
9人間七七四年:2007/11/10(土) 21:46:43 ID:IWYelHCT
 
10人間七七四年:2007/11/12(月) 18:15:54 ID:/3Hxw8P7
家康の空気読んではっちゃけたのが福島>以外は全部外れ
11人間七七四年:2007/11/12(月) 20:50:49 ID:F//z7dUO
>>10
興味ある。
詳しくいってみ。
12関連スレ:2007/11/14(水) 06:33:00 ID:WUX0FD78
海の司令官〜小西行長を語り継ぐ
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194989009/
13人間七七四年:2007/11/16(金) 18:17:23 ID:nocOthOK
竹中半兵衛が生きてて西軍選んだら
黒田如水とのしのぎ合いが面白そうだな
14人間七七四年:2007/11/17(土) 00:38:45 ID:TTazeYcy
15人間七七四年:2007/11/17(土) 21:02:57 ID:dA+Qju52
黒田が良く分からない。

島左近を破って小早川前には既に石田本陣を陥れてたとか
大谷の大砲にやられたとか
福島に続いて宇喜多に撃破されたとか
バラバラな情報を聞くんだが…
16人間七七四年:2007/11/18(日) 01:58:31 ID:5KaW10VC
大谷隊とは位置が違うし
宇喜多はほぼ福島に釘付けじゃない?中央は松平・井伊もいたし
そのうちにどっちも小早川秀秋と裏切り4に南側から崩されて・・・だから
特に黒田は一隊を島の横に迂回させるぐらいの位置だから
ほぼ石田隊とのみガチだったように思える
その石田を早く崩してたらもっと早くに西軍全体が崩れたんじゃない?

よく分からないのはああまでやったのに
大坂の陣で江戸に留め置かれたこと
黒田は孝高は置いといて長政は親徳川だったはずでは
17人間七七四年:2007/11/18(日) 08:03:35 ID:adnEJ4ES
>福島に続いて宇喜多に撃破されたとか
>宇喜多はほぼ福島に釘付けじゃない?中央は松平・井伊もいたし

宇喜田は加藤や筒井とも戦ったという記述があるんで、
福島隊に抑え切れたというのが嘘で何回か東軍の分断はかった
と見るべきじゃね?

福島は、緒戦で突撃開始線まで押し戻されたのに2倍以上の兵力もつ相手。
石田にしても、正面兵力だけで4倍近い差だぜ?抑えきれるわけなし。

大谷と小西隊は精一杯だし。そうなると宇喜田が前に出るところを
後退していた東軍が叩きにいったと考えるのが自然。
18人間七七四年:2007/11/18(日) 11:06:35 ID:H7HzDD8u
>>15
島左近を銃撃して後退させたというのは確かによく聞くけど、
他は聞いたことが全くない。よろしければ出典を教えていただきたい。
19人間七七四年:2007/11/18(日) 11:48:21 ID:5KaW10VC
地形が西高東低でこの点でも見下ろせて勢いを付けられる西軍有利でもあったとのこと
20人間七七四年:2007/11/18(日) 12:43:54 ID:7TC9MP+5
宇喜多に関しては先の騒動で、先手を率いる重臣が大挙して出奔してしまい、
戦力的には相当、減衰していると考えられている。
21人間七七四年:2007/11/18(日) 16:52:43 ID:cNFnzwun
>>19
とってつけたような有利さの説明だなw 典型的な卓上の理論ですよ、それは。
あの程度の高低差で、しかも大軍同士の合戦。有利不利は無いよ。
22人間七七四年:2007/11/18(日) 18:29:32 ID:adnEJ4ES
>>19、21
何メートルの高低差か調べて言ってね♪
23人間七七四年:2007/11/18(日) 20:50:44 ID:5r7b/vmo
つ「陣地戦」
24人間七七四年:2007/11/18(日) 21:42:27 ID:mFvQkPmV
島津はサボタージュというより自陣防衛に専念してたのが実際な訳だから
石田の側面でなく
大谷の右側面を守らせた方が良かったな

大谷予備500+島津精鋭1500で小早川と裏切4をどこまで凌げるだろう
25人間七七四年:2007/11/18(日) 21:43:21 ID:cNFnzwun
>>24
> 島津精鋭1500

せい…えい…?
26人間七七四年:2007/11/19(月) 13:10:30 ID:qW1mepmj
精鋭というか精兵だな
捨てがまりができるだけの統率と頑強さは認める
27人間七七四年:2007/11/19(月) 17:59:56 ID:XdqYk5zt
本当の意味での中核は義久と忠恒ががっちり抱え込んでたから
やっぱり精鋭とか言う言葉はイマイチしっくり来ないね
ただ一人一人精神は薩摩武士としてのものはもちろん持ってたはずではあるが
それと戦うつもりでやってきてた連中ばっかりだしね
28人間七七四年:2007/11/19(月) 23:33:59 ID:MNx0WysN
やっぱたった1000足らずで敵中突破を成功させて大将も生還したってのは余りにすごすぎるからなぁ

正直、島津vs黒田加藤、見たかった。
29人間七七四年:2007/11/20(火) 02:13:41 ID:kvJik9tY
もちろん強さもあったが、運もあったよね
話によれば、突撃を敢行しようとしたとき東軍は石田とか宇喜多などの
でかい部隊の追撃に気を取られて島津の前方が空いてたとか
徳川本体の前に飛び出ちゃったけどなぜかしばらく気付かれなかったとか
追いかけて来たのが大将自ら突撃する井伊だったから狙撃しやすかったとか

家康が追撃中止させたのは以前からの親交があったからなのかねえ
場の決着もついてたし、井伊・松平ともに大将が負傷もしてたし
徳川⇔島津は仲が悪いどころかどっちかというといい方だったから

30人間七七四年:2007/11/20(火) 02:17:32 ID:6DHPsrAW
つーか小部隊過ぎて獲物として魅力がw
31人間七七四年:2007/11/20(火) 02:23:39 ID:kvJik9tY
もしもシリーズ〜!

もしも島津が伏見に入っていたら〜
32人間七七四年:2007/11/20(火) 02:29:22 ID:6DHPsrAW
>>31
伏見落城が1月ほど遅れるくらいだろ。島津の裏切りであっという間に落城したかもしれないがw
33人間七七四年:2007/11/20(火) 02:43:15 ID:kvJik9tY
家康との約束だからあの義弘が翻意することはないでしょう
最低でも死ぬ覚悟の鳥居は残って島津は降伏かなあ
しかしなんであそこで話が行き違っちゃったのかね

それにしても鳥居の頑固さはどうにかならんのかww
34人間七七四年:2007/11/20(火) 02:52:07 ID:1NDNPQmv
何このリア厨の会話?
35人間七七四年:2007/11/20(火) 07:43:00 ID:bIoyyYRE
>>5
田丸は西軍ではない。
単に自分大事のために中立宣言しただけ。
結局は領地取り上げられたけどさ。
中立なのに家康も厳しいよね。
36人間七七四年:2007/11/20(火) 07:48:35 ID:bIoyyYRE
田丸が小山会議に出席して大言壮語を履いて西軍についたなんて話は
司馬の関ヶ原にしか出てこない。
ようするに司馬史観ね。

>>31-33
島津入城拒否の話しは捏造らしいが。
37人間七七四年:2007/11/20(火) 09:14:43 ID:jhcTSfIf
>>30
むしろ、美味しいだろ…
義弘の朝鮮での武巧が光ってたわけだし、絶好の機会じゃん
38人間七七四年:2007/11/20(火) 14:05:05 ID:gcnYrgre
だから関が原序盤は井伊が島津に襲い掛かって撃退されてるんだよな
39人間七七四年:2007/11/20(火) 18:49:19 ID:6DHPsrAW
>>38
> だから関が原序盤は井伊が島津に襲い掛かって撃退されてるんだよな

また妙な事を信じている奴が…。
40人間七七四年:2007/11/22(木) 15:25:41 ID:O6s3Zrab
確かに松平や井伊との小競り合いがあったって説も有るな
学研の関が原本とか
41人間七七四年:2007/11/23(金) 15:32:36 ID:A1ncDkRH
島津はなんで2000人程度しか出さなかったの?
2万ぐらいだせただろうに。んでそうしてれば西軍が勝ったんじゃないのか?

あと、毛利は全く何やってんだ・・
毛利秀元は関ヶ原まできて見てるだけだし、毛利輝元は大阪城まで来て
参戦できなかったし。

島津、毛利秀元、毛利輝元の3者のどれか1つでもしっかりと戦ってれば
西軍がかったと思うのだが?
てか、最初にもどるがなんで島津は2000人しか出さなかった?
42人間七七四年:2007/11/23(金) 16:04:57 ID:3S1IxANB
その前の重臣の伊集院氏の庄内の乱が激しく長引いて疲弊してたから。
朝鮮のも効いてるけど
43人間七七四年:2007/11/23(金) 17:17:26 ID:VG8lX5Dd
>>41
島津を過大評価しすぎ。痛い奴だなあ。
44人間七七四年:2007/11/23(金) 17:59:42 ID:A1ncDkRH
>>42
でも、島津が西軍の中で唯一マイナスの処置を受けなかったのは、徳川家に
言葉では従いつつも、脅しのため中国との貿易船をおそったり、島津征伐軍を
撃破したりで強気に対応したからだよね。
そんな行動がとれたんだし、77万石だし、一時は九州統一まであと一歩まで
いった大名だし、2,3万は余裕じゃない?
45人間七七四年:2007/11/23(金) 18:41:42 ID:VG8lX5Dd
>>44
九州の端っこだぞ。島津が助かった理由は中央政局に影響をあたうべくも無い辺境だから、と言うのが大きい。
つまり「ド田舎だから」だ。幕末は中央政局に影響を与えたがそれは船舶などの交通移動手段が整備された為。
この時代の島津領なんて島流し先に近いといったほうがいい。

島津征伐をやると地理的に言って、まだまだ信頼出来ない毛利、黒田、加藤といった大名を動員し、状況によっては
恩賞を与えざるをえない。それのプラスマイナスの判断で助かったんだよ。
46人間七七四年:2007/11/23(金) 19:28:30 ID:3S1IxANB
そんじょそこらの奴らじゃ、撃退された時、後がまずいし。
遠い、強い、特に反徳川ってわけでもない、離島や琉球も含め安定した統治できそう、井伊の取り計らい、
てとこじゃね
宇喜多も匿ったのに減封無ってのは相当な理由付きだろ
47人間七七四年:2007/11/23(金) 21:48:03 ID:Uu+F7yoH
>41の島津を過大評価って言ってるのは
島津は2万も動員して関が原に送る能力が無かったって事?

島津に限らずもう2万の兵力が本気で西軍側で戦ったら
けっこうイイせんいったんじゃないのかな?
48人間七七四年:2007/11/23(金) 22:12:35 ID:hHzSxBGd
結論
>>41は釣り師
4944:2007/11/23(金) 22:17:10 ID:A1ncDkRH
>>45,46
そうだよ。
遠い、強い、徳川が安定してない等の状況を見込んだ上で、言葉では従いながら
脅しをかけつつ島津征伐軍を撃破したから、そういうバランス判断をせざるを
得なくなって助かったんだよね。結局俺の言うとおり、徳川には合戦後に強気であたってんじゃん。
だから、内乱があったとはいえ、2万ぐらいかるく出せたんじゃないのかって話だよ。
50人間七七四年:2007/11/23(金) 23:21:58 ID:wHceFE4F
金がないのに、どうやって2万の軍隊を編成するの?
51人間七七四年:2007/11/23(金) 23:43:54 ID:VG8lX5Dd
島津が2万も将兵引き連れてくるなんて事、秀忠が関ヶ原に間に合う可能性の方がまだ現実的だ。
52人間七七四年:2007/11/24(土) 00:30:07 ID:B/oFxOXY
金が無い
地元が不安定
西軍になったのを当主義久がむかついてる
義久と義弘の仲がイマイチ
ついでに家臣団も分裂

島津に期待するのは無謀と言うもの
53人間七七四年:2007/11/24(土) 03:27:32 ID:3HdT22hU
九州征伐以降の島津に一枚岩だった時期なんて無いだろ‥。
54人間七七四年:2007/11/24(土) 13:56:56 ID:why+XBV/
関ヶ原直後は潰されないようそれだけに必死だったと思われ
55人間七七四年:2007/11/24(土) 13:58:55 ID:4Arp3JBt
いや、つぶされないようにってか、領土を減らされないように必死だったね。
毛利も120万石もあるなら徳川に島津みたいにうまく逆らえばよかったのにね。
56人間七七四年:2007/11/24(土) 15:33:44 ID:o9PKLMTj
>>55
> 毛利も120万石もあるなら徳川に島津みたいにうまく逆らえばよかったのにね。
上杉も120万石もあるのなら
佐竹も
宇喜田も
etc etc

アホか。
57人間七七四年:2007/11/24(土) 15:54:34 ID:rzjXQVds
豊臣恩顧の大名達は加増高は高かったけど皆地方に飛ばされたから後で
「徳川にやられたよー」って思っていたのかな?
58人間七七四年:2007/11/24(土) 17:59:39 ID:nhWVU9OA
家康は大の虫を殺して小の虫を殺すのが好きだよな。
59人間七七四年:2007/11/25(日) 11:18:14 ID:gup1f5F+
長宗我部も津野と香宗我部は東軍と割れている。盛親も東軍に使者を送って
シパーイしたのなら在国していればいいだけであって上坂した時点で西軍
に変わったと見ていいのでは・・・
清洲城内でも西軍に城を明け渡すかで議論していた
60人間七七四年:2007/12/01(土) 20:26:17 ID:ofwz78eZ
 
61人間七七四年:2007/12/09(日) 12:40:36 ID:AGrpc3XQ
>>59
上坂したのは、上杉攻めに参加するため。
その後西軍の決起があり、家康と連絡を取ろうとしたが失敗した。
という話。
その段階で地元に帰ろうとしても、周りの西軍がそんな事許すはずがない。

まあ、この話し自体の信憑性がどのくらいのものかは知らないけどね。
62人間七七四年:2007/12/12(水) 01:10:23 ID:IJAqSuNS
関ヶ原の話しで盛り上ってます

http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1187096411/
63人間七七四年:2007/12/16(日) 16:55:23 ID:hzV2RKm7
餅が丸いか四角いか分かれたのは関ケ原から・・・
てどういうこと?
64人間七七四年:2007/12/16(日) 17:59:38 ID:S3yEzfhv
関ヶ原という土地を境に西と東で形が違うってことじゃない?
65人間七七四年:2007/12/16(日) 18:08:01 ID:YnkABIQy
島津の上げ底石高は有名。太閤検地で出た40万石程度というところが薩摩大隅の実勢石高だよ。
その程度では動員軍勢一万が相場だ。

逆に唯一差出検地だけで許された毛利の120万石は過小申告と見るべき。それでもなお家康に対抗できなかったのは輝元の暗愚さだな。秀頼を擁して関ヶ原に出陣していたら大合戦にはならなかったし、敗戦後でもあくまで大坂城に居座っていたら家康も処置に苦慮しただろうに。
66人間七七四年:2007/12/16(日) 19:13:26 ID:hzV2RKm7
>>64
合戦のことじゃなく土地のことか
67人間七七四年:2007/12/16(日) 19:14:57 ID:pVxnUq6t
>>63
昔テレビでやってた事あったよ
関が原のある村、町?を境にモチが東西で○か□に分かれるって
何故か?忘れましたゴメン!源平だったかなぁ〜
68人間七七四年:2007/12/16(日) 19:24:25 ID:hzV2RKm7
>>67
オレのなかではその件は解決しました。
確かにTVで観た気がする、こんにゃくの色の分かれる地点とか、おでんだねとか。
69人間七七四年:2007/12/24(月) 18:05:16 ID:Q4cfQ81G
決戦後、「長宗我部、長束隊は伊勢方面に走り、毛利隊は近江に向かって退いた」
:「関ヶ原合戦と大坂の陣」笠谷和比古・吉川弘文館・戦争の日本史17巻

どの道を通ると毛利は近江に引けるのか?
しかも、東軍に出会わず
70人間七七四年:2007/12/24(月) 23:00:28 ID:+cGI3+v3
>>69
いや、吉川と話が出来ていたから、東軍は戦後毛利軍を攻撃していません。
だから別に東軍に出会っても問題ないし、普通に近江にいける。
71人間七七四年:2007/12/24(月) 23:03:45 ID:lWbbiQjd
>>65
通説では北政所たち女が、危ないやん出さんといてやって出し惜しみしたんだろ?
真田、後藤らも坊やを出せば必ず豊臣恩顧の大名たちは戦意を失うだろうと力説したのニダ。

ところで塙って武将は面白かったのか?
72人間七七四年:2007/12/24(月) 23:13:26 ID:lWbbiQjd
>>41
毛利秀元は戦いたかったんだが、吉川がその下に布陣して行かせなかったんだ。

島津義弘、秀元を語るなら小早川の大軍はどうなる?あれも毛利氏のはず。
73人間七七四年:2007/12/24(月) 23:19:28 ID:lWbbiQjd
>>25
島津の剣法は一刀による袈裟切り、攻撃のみ。つまり示現流。
ある意味、捨て身。
74人間七七四年:2007/12/25(火) 01:34:40 ID:caNN0Dgs
島津が1500しか出せなかった理由

・朝鮮出兵により金銭などの軍備で疲弊していた
・薩摩という場所は京や大坂から見て遠方であり、大軍を動かしづらい
・関ヶ原期は九州内でも様々な紛争があったり、島津内部でも混乱が生じていた

この状況下で万単位の兵を動かす事などまず無理である。
「2万ぐらい動かせるだろ」って思っている人は、もう一度この事実を踏まえて考えてください。
75人間七七四年:2007/12/25(火) 01:51:52 ID:v3QFeJnm
>>70
毛利秀元の陣中に黒田長政が訪れて・・・という逸話があったよな

>>74
島津氏内部での分裂が一番だろうな。
義弘と義久の対立もそうだし、伊集院氏粛清もその一環らしいし
76人間七七四年:2007/12/25(火) 01:57:13 ID:auHTruwC
隠居した兄、島津義久が家康と昵懇の間柄で義弘が当主でも家臣団は未だに義久派が多かった。
しかも、兄義久は家康と内通していた。事実、義弘は伏見城警護に義久に言われたが、鳥居元忠が
入城を拒んで発砲した為(鳥居に伝令が伝わって居なかった。)、やもえず大軍の西軍に従属しただけ。
ので、本戦はやる気はほとんど無い。生きて薩摩に帰ればOK。三成に義理立てするつもりなんて更々
だったし、夜襲の話も三成に退かれてて、完全に東軍が勝とうが西軍が負けようが関係ない状態だった。
それと、九州には黒田如水と云う戦基地外が居たから本国に軍勢を駐屯させておいて正解だった。と、義
久は後年言っている。
77人間七七四年:2007/12/25(火) 02:05:58 ID:auHTruwC
>>70
毛利秀元の陣中に黒田長政が訪れて・・・という逸話があったよな

黒田長政と福島正則ね。この二人が行ったんだが、毛利秀元って巨漢で
黒田長政が握手した際に豪腕に引き摺られて冷や汗をかいたって話がある。

てか、毛利秀元って朝鮮の役から活躍してるし22歳で西軍の毛利勢1万5千を
引き連れている。島津の退き口ばっか目立つがこいつの退き口も凄いものがあ
る。大阪城では、養父輝元に立花宗茂と徹底抗戦を主張している。毛利が、減封
されて国政が厳しくなったもののこの秀元が内政に励んで確か、圧迫した藩政を
回復させている。

一言、言っていいですか?輝元氏ね。
78人間七七四年:2007/12/25(火) 05:13:34 ID:3sP62fxk
>>77
ついでに言うと秀元は徳川幕府が大好きで、大阪の陣では毛利軍を率いて奮戦してるし、晩年は江戸藩邸に
詰めっぱなしで、将軍家の御伽衆みたいな事をしながら最終的に江戸で死んでる。
79人間七七四年:2007/12/25(火) 08:46:06 ID:7KagYAav
西軍について毛利が総大将となってる以上
降伏しても許されるわけないし、徹底抗戦しないと後が無いと思ったんだろうな
許された後は、気負いも無くなり東軍の為に頑張っちゃった
80人間七七四年:2007/12/25(火) 09:24:11 ID:dX9jASlV
>>76
島津義久と家康が昵懇の間柄とは初耳だ
義久は独立派、義弘は豊臣派、義久の息子が徳川派というのが定説だと
思っていたが。関ヶ原の後、義久は昵懇の間柄の家康の上洛要請をなんで
拒否してるんだろうか?
伏見城に入る予定だったことや夜襲案は最近疑問視する声があるが…。


>>78-79
毛利秀元は関ヶ原当時から親徳川派だったと言いたいのかな(読み違いだったらすまん)
その江戸期の行動なら上杉も佐竹も立花も同じようなもんじゃねーかw
81人間七七四年:2007/12/25(火) 09:45:19 ID:7KagYAav
許されるまでは親徳川ではなかったと思ってるよー
総大将の毛利は、他の西軍武将達と違って罪が大きいだけに
今更、降伏しても処刑&御家断絶は免れないという思いが
秀元にはあったんじゃないかな。だから一か八かで徹底抗戦を主張した。
大阪の陣で奮戦したのは、関ヶ原後の小早川たちが
家康への忠誠を示す為に佐和山攻めで奮戦したのと同じで
敵対した分、徳川家の為に頑張ってるのを見せる必要があったし
82人間七七四年:2007/12/25(火) 10:26:21 ID:4On7i3PQ
山岡荘八の小説にもあったように、
結局天下をとった後の政治まで考えられる武将は、
あまりいなかったと思うよ。
83人間七七四年:2007/12/25(火) 10:52:21 ID:8Hk+/bAo

小早川秀秋は本当にギリギリまで判断に迷っていたのだろうか?
84人間七七四年:2007/12/25(火) 11:19:11 ID:bLIE5pSQ
>>83
ある意味人間らしいといえば人間らしい
85人間七七四年:2007/12/25(火) 11:48:11 ID:/VlW3Y1+
>80
息子は関ヶ原以前から、親徳川だったと思う。
伏見城で伊集院をぶっ殺すという、とんでもないことをしても不問にされているし。
普通なら切腹もんだ。
たぶん、家康が圧力かけたんだと思う。
ある意味、奴は家康のスパイだったのかもしれん。
島津の所領安堵、忠長を養子にしようと画策したのも、これで説明がいく。
86人間七七四年:2007/12/25(火) 20:56:13 ID:p7SMk/Co
>>80
大阪の徳川と島津の屋敷はお隣同士です。
87人間七七四年:2007/12/26(水) 00:50:32 ID:b4XKV0Ll
またソース元も知らないのにさも事実みたいに語るのがいるな・・・

>>83
悩んだと思う
が、それは東西どちらにつくかではなく、東軍として合戦に参加するか否かだと思う
松尾山城占拠した時点で、もう西軍とは別の意思で行動してるのだからね
88人間七七四年:2007/12/26(水) 01:57:47 ID:O+1e4Ewf
ただ、わからないのが、忠恒(家久)がなぜ家康の犬になったかだな。
やっぱ、伯父や親父から実権を奪いたかったからか?
それとも、何か豊臣に対する恨みでもあったのか?
89人間七七四年:2007/12/26(水) 03:52:39 ID:GqBOEtTN
せめて立花隊を関ヶ原に持ってこれたらなあ
90人間七七四年:2007/12/26(水) 08:39:18 ID:xlnTXkpV
>>88
別に犬なってないだろ。関ヶ原後敵意丸出しだし。
豊臣には怨みはあれど、恩はなし、て感じかと。
91サイコメトリー:2007/12/26(水) 15:10:37 ID:wPULK4dc

小早川金吾の裏切りがなくても、家康軍が勝てたと思ってるのは自分だけだろうか?
92人間七七四年:2007/12/26(水) 18:03:48 ID:CQVdFZH/
>>91
石田隊が崩れるのは時間の問題。じゃないか?
島左近は早々に討ち死に。前面の敵は味方の数倍。
まともな防衛施設も無いのにそう何度も何度も
波状攻撃を耐えしのぐことはできないだろう
93人間七七四年:2007/12/26(水) 18:23:14 ID:cNicxWIh
まあ小早川の裏切りも実態は、東軍が優勢になったので「勝ち馬に乗らなきゃ!」って事で山を駆け下りたって事らしいしな。
94人間七七四年:2007/12/26(水) 18:37:49 ID:GDzGuH/R
秀頼が総大将で出陣してたら西軍が勝ってたな。
戦がわからんでもカリスマのみでよかった。
95人間七七四年:2007/12/26(水) 19:00:59 ID:/PXdIXo1
>>91
どっちかっていうと、金吾が西軍についたら2日目突入でそれ以降はカオスって感じ?
96人間七七四年:2007/12/27(木) 00:58:08 ID:CbIhn6eB
>>91
小早川が西軍についたということではなく、動かなかったということなら、
その条件では家康が勝つ可能性のほうが極めて大きいでしょう。
既に三成隊は既出のように不利な情勢だったし、
主力が全て戦っていた西軍に比べて、東軍は家康本隊が温存されていたから、
万が一三成隊より先に東軍のどれかの部隊が壊滅してもまだ後がある。
97人間七七四年:2007/12/27(木) 01:50:05 ID:TYFnaykB
あの日西軍が夜まで持ちこたえたとしたらどうなったんだろう?
98人間七七四年:2007/12/27(木) 02:33:22 ID:vxUVyQ3R
秀頼がでてきても
福島と浅野が躊躇するくらいで他は遠慮なくかかってきそう
99人間七七四年:2007/12/27(木) 03:30:27 ID:SHKtJcfj
>>98
確かにそうだなぁ。福島と浅野は中立をとりそう。加藤嘉明もその口かと。黒田、藤堂、細川、池田、田中、山内、有馬、、、
この辺りはそんなの関係ねぇ!って感じで突っ込みそうだな。ぐずぐず対陣してたら、秀忠の大軍とも合流出来る訳出し。
一日、兵馬を休ませて合流すれば、どのみち東軍の勝ちだと思う。統率力の無い三成。カリスマ?だけの秀頼、阿保の輝元
それにくらべ、統率、カリスマ、智謀全て兼ね備えた狸が勝利するのは必然な気がする。時代の流れってやつだね。
100人間七七四年:2007/12/27(木) 06:03:56 ID:eep3F+Vr
いやいや、秀頼出陣してたら戦いの意味が変わってくる。家康だって東軍諸将だって豊臣家のための戦いという大義名分を立てているんだし。

秀頼も総大将輝元も出陣しないままに関ヶ原決戦を選択したのは三成が戦後の主導権を握るために功を焦ったとしか思えない。

決戦の内容から見れば西軍は戦前から不協和音が起きていてとても戦える状況でなかったのは明らかで、瀬田辺りまで退いて防衛線を立て直すか、さもなければ大坂に引き上げる策が常道だろう。

そうなれば家康のことだから佐和山を狙うだろうけど、これではまた戦いの意味が変わってしまう。つまり軍事的決着に時間が掛かれば掛かるほど政治的には家康不利になったと思う。
東西両軍ともに錦の御旗はあくまでも豊臣家なんだから。
101人間七七四年:2007/12/27(木) 06:16:16 ID:gSNpiqwm
大阪になんぞ引き上げたら西軍は軍組織として崩壊してしまうがな。
ただでさえ指導力の無い三成や輝元が、家康見ただけで退いて決戦すら出来ないとなると、諸将に見限られるに来いまってるだろ。
それに大阪城内も全く一枚岩じゃ無い。西軍首脳の求心力が弱まれば、城内の中立派が東軍に呼応して反乱なりクーデターなり
おこす可能性も高くなる。

三成は自分の事だけじゃなく、西軍と言う組織を保つ為にもあそこで決戦せざるをえなかったんだよ。
102人間七七四年:2007/12/27(木) 08:03:46 ID:Z7CzxXtb
とはいえ、三成隊は史実でも午後も戦っていたし、
家康の本隊も一部投入されている。
小早川隊が中立だったら、組織的に撤退できたかもな。
103サイコメトリー:2007/12/27(木) 12:10:14 ID:dz/fU2Mp

やはり小早川金吾の挙動如何に関わらず、家康勝利変わらずの意見が多いですね、
ありがとうございます。

石田三成は人気薄ですが、自分としてはあの老獪な家康と決戦の場まで持ち込めた
事自体ですごいと思う。家康以外の5大老が成し得なかった事を奉行の身で行うわ
けですから、悲しいかな、もう少々周囲の武将達に人徳があれば、関ヶ原ももっと
別の形になっていた事でしょう。
104人間七七四年:2007/12/27(木) 12:44:18 ID:PFPM1V5N
石田個人の人徳で勝敗が決まったかのように言う奴ってなんなんだろうな…

西国大名が西軍として固まったのは石田の人徳じゃなくて豊臣と毛利と
宇喜多が(一応表面的には)組んでるっていう状態に直面してだろ常考
105人間七七四年:2007/12/27(木) 12:53:46 ID:gSNpiqwm
>>104
石田の人徳のせいにでもしないと、西軍、と言うか豊臣家が哀れ過ぎるからだろ。
106サイコメトリー:2007/12/27(木) 13:34:30 ID:dz/fU2Mp
>>104
個人の人徳で勝敗が・・って直訳し過ぎなり。
豊臣と宇喜多と毛利が表面的に組んでるって、その裏工作をしたのが三成でしょ。
三成の人徳は勝敗の一因のひとつ。>>104は西軍敗戦に何を思うの?
107人間七七四年:2007/12/27(木) 14:05:57 ID:CbIhn6eB
>>98-100
いや、東軍の大義名分は、不当に秀頼公を担ぎ出し反逆を狙った逆臣を討つというようなもの。
諸将がどこまでそれを信じていたかは知らないが、少なくとも福島正則等は、
関ヶ原の前から、秀頼様を救う為に一刻も早く大坂へ向かうことを主張していた。

そういう状況で秀頼が前線に出てきたなら、
西軍は戦場にまで秀頼様を無理やり連れ出すような大逆臣、
しかし、秀頼様をお救いするなら今こそがチャンス。ってことになるだけ。
福島とかは本気で、他の者もそれを大義名分に秀頼周辺の西軍にこそ攻撃を仕掛ける事でしょう。

まあ、仮に攻撃をやめないと秀頼を殺すぞとでも脅かせば、
東軍も攻撃をやめざるを得ないが、それでは名実ともに最悪の逆臣になってしまい、
西軍の大義名分のほうが崩壊してしまう。
108人間七七四年:2007/12/27(木) 16:37:43 ID:eep3F+Vr
いやいや、撤退は十分にありえる策だよ。
そもそも総大将輝元が動いてない時点で退くべきだった。大坂、京には東軍諸将の人質も居たし、福島をはじめとする豊臣恩顧の諸将が秀頼や大坂城を攻撃できるわけがない。

君側の奸を除くって言っても、戦場に故太閤の千なり瓢箪が翻った時点で家康は不利。そのあたりを家康は周到に見極め、充分に調略を仕掛けてから出陣したフシがあるわけでしょ。

小早川の裏切りとか三成の力量不足を言われるけど、西軍敗北の最大の戦犯は毛利だよ。
総大将のくせに輝元は大坂に残ってるし、名代として出陣した秀元は吉川に阻まれて指くわえて見てただけだし。そもそも大軍を引き連れて出陣した意味がわからない。
負けてもうまくやりつつ、勝ったら天下欲しいなんて都合良過ぎだよね。

大坂城に残るんだったら、もう少し中立の立場から和睦勧告を秀頼に出させるとか、政治的に主導権握るチャンスでもあったのに。輝元って結局何もしないで帰っただけ。
これで大減封されて徳川を幕末まで恨むなんて逆恨みの極致。自業自得もいいとこだよ。
109人間七七四年:2007/12/27(木) 17:11:36 ID:uiJKS62p
 ★★小泉純一郎と安倍晋三は朝鮮人★★
コピペして各板に貼り付けよう 知人にも話そう
小泉純一郎 
・戦前大臣を務めた祖父小泉又次郎は純粋な日本人とされる。だが、純一郎の帰化朝鮮人である父が鮫島姓を買い取り
 又次郎の娘をたぶらかして婿として小泉家に入る そこで小泉家は帰化朝鮮人である純一郎の父に乗っ取られた
 参照http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F% 上下くっけて
E6%B3%89%E7%B4%94%E4%B9%9F
・父親の純也は、鹿児島東加世田の朝鮮部落の出身者といわれる 日大卒業名簿には、純也の日本名はなく、
 見知らぬ朝鮮名が書かれているという  
 純也は朝鮮人の帰国事業、地上の楽園計画の初代会長であった
・結婚後、子供をもうけ即離婚した宮本佳代子は在日企業エスエス製薬創業者の孫
・小泉の元秘書官の名前は飯島勲←注目 帰化朝鮮人
・派閥のドン森喜朗も生粋の朝鮮人 ←森も帰化人がよく使う通名
・小泉は、横須賀のヤクザ、稲川会と関係が深い
安倍晋三
・岸家 毛利元就が陶晴賢と厳島沖で戦い大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の
 調達人が「ガン」と称する帰化人であったという 毛利はその功績によって「ガン」を
 田布施周辺の代官に召したてた このガンを岸家の先祖とする説がある
・祖父岸信介が文鮮明と共に 反共団体 国際勝共連合(統一教会)を設立
・官房長官時代統一教会「合同結婚式」に祝電を送り、話題に
・安倍のスポンサーは、下関の朝鮮人パチンコ業者である
・グリコ森永事件時、明らかになった帰化朝鮮人企業森永のご令嬢と結婚
・そのわが国のファーストレディーは電通(会長成田豊、半島生まれの帰化人)勤務という分かりやすい
 経歴の持ち主の朝鮮の血筋
・韓国、中国の留学生に日本の企業に入ってもらうために住居費分、学費免除分、生活費など月計20万〜30万円相当の支給
 日本人のワーキングプア層を全く省みない また帰化系在日系朝鮮人が日本の企業で技術を盗み、半島の現代などの企業に
 伝授していることが深刻な問題になっている 
・多くの朝鮮人が差別を主張し、警察、原発、自衛隊で職を得ている
110人間七七四年:2007/12/27(木) 18:26:17 ID:gSNpiqwm
>>108
君は西軍が何で、関ヶ原の一回の会戦だけで崩壊したのかを少し考えた方がいい。
111人間七七四年:2007/12/27(木) 19:34:43 ID:oQ4aLGDH
>>108
>大坂、京には東軍諸将の人質も居たし、福島をはじめとする豊臣恩顧の諸将が秀頼や大坂城を攻撃できるわけがない。
西軍は大坂に籠城出来ないのが理解出来てない
毛利の軍勢は二の丸にすら入れず、本丸にいる増田長盛と西の丸にいる輝元は人質交換している
肝心な豊臣家自体が西軍に味方していない

秀頼が関ヶ原に出陣したらとか書いてるのもいるが、豊臣家が西軍を支持していた事は一度もない
豊臣家はあくまで傍観、これで撤退してきたとなれば西軍は切り捨てられて終わり

というか豊臣家を人質にするという行為自体、西軍の大義名分を失わせ、自らの首を絞める行為なんだが

>総大将のくせに輝元は大坂に残ってる
12日の時点で三成は出陣の必要ないと書いてるのだが

>もう少し中立の立場から和睦勧告を秀頼に出させるとか、政治的に主導権握るチャンスでもあったのに。
秀頼の名前使えるんだったら、最初から東軍諸将に対して使ってるだろ
なぜやらなかったのか、やれなかったのか考えた事あんの?
112人間七七四年:2007/12/27(木) 19:56:08 ID:CbIhn6eB
>>108
だから、福島などは大坂城は攻められないどころか、
一刻も早く大坂に向かうべきだと主張しているわけだが。

確かに秀頼を人質にでもすれば、東軍派は攻めることが出来なくなるだろうが、
そんなことしたら、西軍の方がおしまい。
113人間七七四年:2007/12/27(木) 20:03:51 ID:gSNpiqwm
つーか東軍だっていざとなったら、豊臣家縁者を無理矢理にでも豊臣家世継ぎに仕立てて
秀頼ごと押しつぶす事だってできるわけだ。

源平の時や南北朝では天皇家に対してすらそれをやった。信長も足利将軍家にそれをやった。
出来星でしかない豊臣家ごときに対して適応出来ないわけが無い。
個人ではなく「家」の存在こそが大切な時代なワケだしね。
114人間七七四年:2007/12/27(木) 21:00:20 ID:pbVr3BM6
>>113
秀吉の血筋を引いているのは秀頼だけだから難しいと思うぞ
秀頼に過失があるわけでもないから

115人間七七四年:2007/12/27(木) 21:35:32 ID:Z7CzxXtb
>>110
テルモーがビビッタせいだろ?
勝ち目無いって・・・。

でも東軍も負けたら同じ状態だと思うな。
輝元の毛利本軍ほどの重みは秀忠軍にはないからな。
116人間七七四年:2007/12/27(木) 21:49:08 ID:bZ3UBwIp
>>115

秀忠軍には榊原とか家康の有力な本隊がいただろがさ
117人間七七四年:2007/12/27(木) 21:52:51 ID:Qhs3n3fn
それに関しては家康が生きているか、負けっぷりがどうかでガラリと変わる
家康死亡前提で書いてるようだが、三成だって一応生きて関が原離脱してるんだし

どっちにしろ東軍も西軍もどちらも豊臣を奉じていて、なおかつ豊臣に無視されてるので
負けはともかく引き分けのような状態で関が原が終わったとしても
家康という最も実力も肩書きもある人物がいる東軍有利で推移することになるんじゃないか
118人間七七四年:2007/12/27(木) 21:57:30 ID:oQ4aLGDH
そもそも畿内で負けて大坂籠城も出来ないのに、どうやって戦線維持するの?>西軍
岐阜陥落し関ヶ原でも負けて撤退したとして、どうやって軍を維持すんのだろうか?

それ以前に離反者続出でもうダメだと思うが
119人間七七四年:2007/12/27(木) 22:22:37 ID:Qhs3n3fn
仮に負けた西軍が立て直せるとして戦えるのは石田、宇喜田、毛利の一部、その他の小大名ぐらいかな
大谷吉継は病気がどうなるかわからんし、如水がどう動くかだが九州の大名は小西も含めて帰らざるをえない
島津は義久がいるから本国に帰るだろうし、鍋島も同様、小西は加藤が隣国だし
立花はかなり無理して残るかもしれないという気もするが
真田、上杉はすぐにあてにはできない
毛利にしたって内部分裂始めるだろうし、長宗我部あたりは義理を果たしたとかいって離脱しそう
そもそも豊臣の支持が徳川にまわる可能性が大きい
まあ戦線維持は無理だね
時間が経つほど離脱者や切り崩されて悲惨になっていく
120人間七七四年:2007/12/27(木) 22:34:15 ID:Qhs3n3fn
↑で大谷吉継を出してますが西軍が立て直せるとしたら史実と同じ大負けでなく
大谷吉継も戦死しない程度のそこそこの敗戦でしか無理と思ったからです
121人間七七四年:2007/12/28(金) 00:38:39 ID:XwHWSvIm
1600年当時、家康に対抗出来る人物って黒田如水くらいだけでしょ?しかも、如水は九州の12万石程度の小大名。
息子は家康をべた褒め。内心、呆れてたらしい。長政に。俺の方を尊敬しろ!と云いたかったらしい。が、長政は父
より徳川家康を選んだ。信長→秀吉→家康。これは、もうどうにもこうにも止められない因果みたいな感じがするんだが。
122人間七七四年:2007/12/28(金) 00:48:18 ID:MlgzJgrD
>>121
何で黒田如水だけなんて話になるのか理解不能ですが?
当時、権威・公的立場・国力・経験を総合するなら家康に対抗できる人物は皆無。
如水が対抗できるとすれば経験の面だけだろうが、
それだって総司令官としての経験があまりない如水より、島津あたりの方がよほど有力。
公的立場・国力の面でどうにか対抗できそうなのが、毛利と上杉といったところ。
123人間七七四年:2007/12/28(金) 01:10:21 ID:XwHWSvIm
>>122
えーと。。。。。九州征伐の時の如水の能力は島津の釣り野伏せもまったく意味が無いくらいだったんだよ?
高城の戦い(高城川の戦い・根白坂の戦い)って知ってる?あれ、黒田如水、長政親子4000人で勝利した戦い
なんですよ? それと、黒田如水が総司令官になった回数も島津義弘にも劣らないですよ?鹿児島の方ですか?
理解不能なら、レス返さないでね^^
124人間七七四年:2007/12/28(金) 01:21:16 ID:MlgzJgrD
所詮豊臣家の中の有力武将としての活躍に過ぎないよ。
125人間七七四年:2007/12/28(金) 01:47:50 ID:Fbgg2t2E
>>123が釣りなのか悩む
126人間七七四年:2007/12/28(金) 02:13:00 ID:XwHWSvIm
耳川の戦いの舞台となった高城を包囲すると、援軍として駆けつけた島津義弘が宮部継
潤の陣に夜襲する(根白坂の戦い)。宮部継潤が抗戦している間に、藤堂高虎・黒田孝高
と合流。夜襲は失敗に終わり、島津軍が薩摩国に撤退。その後、島津家久が講和に秀長
を訪ね、日向方面の進軍は終了する。

根白坂の戦いの文献少ないなぁ。。ネットだと。。本だと詳しく書いてあるんだが。。。ソース
出せなくてすまん。釣りじゃないよ。黒田如水スレで聞いて来るね。
127人間七七四年:2007/12/28(金) 02:34:09 ID:Fbgg2t2E
>>126
マジレスなんだ!!!!(驚愕

根白坂合戦はね、山田有信の篭る高城を包囲する豊臣秀長率いる毛利などの中国勢を主力とする軍勢(8〜20万と諸説あるが、20万はない罠w)に、
島津義弘等が夜襲かけた

その夜襲かけた箇所が宮部継潤1万5千率いる根白坂の陣地
そこに秀長の家老だった藤堂高虎や軍監の黒田孝高、小早川隆景らが援軍に来て島津惨敗
よって「黒田如水、長政親子4000人で勝利した戦い」ではありません

史料少ないんで軍記などに頼らざるを得ないが、『豊薩軍記』があるので一読すべし


>黒田如水が総司令官になった回数も島津義弘にも劣らないですよ
これkwsk
豊臣政権下では奉行衆の一人として朝鮮で軍監として派遣されたも知ってるが、総司令官になった戦いは知らない
なので詳細よろしく
128。゚(゚´Д`゚)゚。 涙目の馬鹿:2007/12/28(金) 03:02:20 ID:XwHWSvIm
ここでは、もしかしたら豊臣秀長のが黒田如水より上?他スレだと豊臣秀長がめちゃめちゃ叩かれるんだけど。
スレによって住人がまったく違うね。規模は、小さいけど小寺政職のに仕えてた時とか。総司令官と云うより豊臣
政権では、秀長の軍監や副将のイメージが強い為、小早川隆景と同じで過小評価なのかも。一族で軍を率いて
闘った島津義弘のが確かに俗に云う総司令官(総大将)のが多い。後日、当主にもなっているし。(なって無い説も
ありますが) 豊薩軍記読んで見ます。知識不足でお恥ずかしい。先程の大言をここで謝罪します。(*- -)(*_ _)ペコリ
今年の7月にの歴史街道買った方いますか?あれだと黒田如水親子4000が宮部継潤を援護して根白坂に夜襲して
来た島津軍を撃退したって書いてあるんですよね。。。財部城からの島津軍を撃退したり。出鱈目だったんですかね?
出版社に、明日、確認してみます。デマもいいとこですね。
129人間七七四年:2007/12/28(金) 03:07:16 ID:XwHWSvIm
http://www.rosenet.ne.jp/~wabi/j-10.htm
ここにちらっとありますね。うーん。これも出鱈目なのかな?

いい加減スレ違いなんで、この話題やめます。

スレ汚して申し訳無いです。
130人間七七四年:2007/12/28(金) 03:34:38 ID:Fbgg2t2E
>>128
あぁすまん、ごめん、言い過ぎたorz

歴史街道購入してないんで何とも言えないけど、撃退したのは間違いじゃないよ
でも黒田父子が撃退したのでなくて、あくまで根白坂周辺の陣城と宮部勢の奮戦と黒田等の増援、
さらに言えば島津の夜襲なりを想定し、用意周到に準備していた秀長勢そのものの勝利と言えるのではなかろうか?

あと>>129のサイトのネタ元わからないので何とも言えないが、ソースがはっきりしてるモノには黒田家譜など明記してあるから、
多くの記事は二次資料からの引用ではないのかと思う
131人間七七四年:2007/12/28(金) 12:07:17 ID:WjNakhOs
大体、大軍勢できてる豊臣がなんで4000程度で突っ込むんだよW
一度は豊後で大敗してるのに
132人間七七四年:2007/12/28(金) 16:16:14 ID:MmCg/0Kd
島津義弘を500人で追撃して傷一つおわず、島津豊久(井伊隊説が有力)、長寿院盛淳を討ち取り、鉄砲で落馬しても自ら蜻蛉切りを奮って薩摩兵を薙ぎ倒した本多忠勝のが凄いんぢゃないのか?豊久、盛淳の捨て身の時間稼ぎでやっとこさ戦線離脱した、へたれ(笑)

何が島津の退き口だょ(笑) 甥と家老まで失って(笑)福島正則が余りにも本多忠勝の戦いぶりが凄まじいかったので、褒めたら、「なぁーに、敵が弱すぎただけじゃよ」


あんたら、信長の野望のスペックを基準にしすぎ(笑)
133人間七七四年:2007/12/28(金) 16:30:30 ID:WjNakhOs
変なのきたな
最近戦国板も冬入った感じだWまぁあと10日ほど
134人間七七四年:2007/12/28(金) 16:45:30 ID:MmCg/0Kd
>>133
おまえ、さっきから偉そうだな。何か勘違いして無いか?ネット弁慶さんよ(笑)

豊後の大敗って仙石秀久だろ(笑) 馬鹿だろ。おまえ。まさに、仙石以下の雑魚だな(笑)


島津スレに帰れや(笑)薩摩の田舎もん(笑)
135人間七七四年:2007/12/28(金) 17:10:35 ID:MmCg/0Kd
>>126

おまえも、へたれやなぁ。ほんまな事言ってにわか島津厨に土下座して(笑)おまえは、織田有楽みたいだな。


まず、九州平定戦はスレ違い。後、歴史街道のは如水記を元に作ってあるから間違い無い。てか、それくらい分かれよな。島津厨の傲慢スレだろ。ここ(笑)


上から見たが島津の話しばっか(笑) いい加減スレ違いだから島津の話しばっかりすんな。サツマイモ(笑)
136人間七七四年:2007/12/28(金) 18:26:52 ID:aDAzwAfz
>>132
どんなに強い軍でも敵に尻をむけてるときは弱いもんだよ?
137人間七七四年:2007/12/28(金) 18:42:52 ID:uQzEldxs
>>136
キチガイに反応しない。
138人間七七四年:2007/12/29(土) 01:28:48 ID:nt4TjfXZ
(笑)やwの多さと知能指数は反比例
139人間七七四年:2007/12/29(土) 10:26:12 ID:Ld3mK4nk
そういや、毛利だけど関ヶ原で動かなかったの調略は元より、
池田とかと戦ってもかてないので動かないと毛利首脳が判断したとかってホント?

以前、スレで資料元に毛利に関してああだこうだいっていた椰子がいたんだが。
それに関しては資料を基にいわなかったんで。
140人間七七四年:2007/12/29(土) 10:28:21 ID:Ld3mK4nk
ガーデルマンって何機落としたんだろうか?
141人間七七四年:2007/12/29(土) 10:50:45 ID:qn2N115c
>>139
それを確認する史料は多分ないと思う。
池田らに勝てないというのはただの推論ではないでしょうか?
142人間七七四年:2007/12/29(土) 13:37:18 ID:Ld3mK4nk
>>140は誤爆すまそ。

>>141
推論で池田には勝てるだろうといったんだが(兵力差・地理の有利さ)

・東軍の後陣集めれば対抗できる。
・そもそも、高地にいるので移動に時間とられて、決着済む頃には戦闘開始するので無駄

と言われた。
長宗我部含め無ければ兵力差は確かにそれほどないが、それ
で会戦しないという理由になるのかとか言ったら毛利首脳の勝ち目が
ないと歴戦の武将の判断にケチつけるのかとか言われた。

資料に則って述べていたが、文章見直すとそこだけ、論拠がなかったんで。
143人間七七四年:2007/12/29(土) 19:03:03 ID:CVn7LsjC
>>139
まだお前いたのか
つか勝てる勝てないの判断云々の、>>142にある話は俺はしてないんだが
お前はあれか?お前の妄想話に対してレスしてるのは全部同一人物なのか?


毛利が攻めれば東軍が崩壊する、浅野裏切りとか言えばいいとか書き連ねてたから、
史実で出来なかった、しなかったのは理由がり、判断材料があるとは書いた
それに対して、そもそも後背を攻めれば云々というお前の妄想自体に何ら論拠がないのだが

これは関ヶ原後に大坂籠城出来ると主張する輩と同レベルと知れ
出来るならやってる、やらなかったのはやらなかっただけの理由が存在する
それを調べようともしない考えようともせずに論拠だ何だ言うなら、せめて後背を攻めた、攻めて崩せた論拠をお前が出せよ
んじゃなきゃ妄想の押し付けで話にならんぞ
144人間七七四年:2007/12/29(土) 22:28:58 ID:Ld3mK4nk
>>毛利が攻めれば東軍が崩壊する、浅野裏切りとか言えばいいとか書き連ねてたから

それ漏れじゃない。他の人とごっちゃになっているな。


単に、毛利はあの状態での戦術的判断においても否定的判断を下したと言ったのが疑問なだけだ。
そういった資料あるの?
145人間七七四年:2007/12/29(土) 23:33:19 ID:CVn7LsjC
>>144
他の人というが、突撃すれば云々を主張してたのは一人しかいない訳だが
フルボッコに叩かれてたしな、というかお前はどのレスしたの?

つかその突撃君、つか史料もロクに読まないで俺に必死に絡んできたフィルードワーク関ヶ原や
敗者から見た関ヶ原鵜呑み君にそっくりなんだがw

>単に、毛利はあの状態での戦術的判断においても否定的判断を下したと言ったのが疑問なだけだ。
>そういった資料あるの?
お前、史学知らんのか?
人物の思考なんて一級史料には殆ど描かれてない、あっても講談や軍記まがいのものだけ
だからまず実際にあった事象を元に、なぜこういう行動を取ったのか、なぜこう動かなかったのかを逆算的に推察する

つか過去ログみても、毛利が戦術的判断で否定的判断下したとは誰も書いてない
過去ログ読めば、毛利が後背つけば東軍は瞬時に総崩れすると、何の根拠もなしに前提付けてるのが、
一人で動かないと判断下した文献教えてだ騒いでるだけだしなw
146人間七七四年:2007/12/30(日) 02:02:58 ID:D2i6ohWm
>つか過去ログみても、毛利が戦術的判断で否定的判断下したとは誰も書いてない

前スレの674

>だいたい秀元が無理をせず出陣しなかったって判断をなんだと思っているんだ。それこそ秀元だけが
>判断したんじゃなく、毛利軍首脳部が「下山しない」と判断したからああなったんだ。
>後世の目から見ての批評はどうとでもできるが、これは実戦経験も豊富な指揮官達の現場判断だった訳だ。
>この重さを、どう考える?
147人間七七四年:2007/12/30(日) 02:14:49 ID:svuK7od/
>>146
それのどこに戦術的に否定的判断下したとあるのか説明してくれ
そのレスには現場判断とあるわけで、それには政治的な判断やそれまでの西軍内部における毛利勢の実情等も含まれる訳だが

そして下した判断が「下山せずに傍観」だったのであって、戦術的云々は一切書かれてないみたいだが?
どうやったら戦術に限定してると読めるのか、万人にわかりやすいように説明しろよ
148人間七七四年:2007/12/30(日) 02:22:43 ID:D2i6ohWm
>>147

674の前の俺の発言
基本的に戦術的展開についてだけ言ってるので、文書とかいわれても余りいみないんだけどな。
673:

>吉川は参謀格だけど、あくまで一武将で、主将の秀元に命令に逆らうの?
>まあいいや、
>
>そもそも、勝算が無いってどういう判定するの?
>
>殲滅するとか、圧倒的に、優勢に戦いを進めるとまで言わない。
>「午後はじめに山間の狭い場所の退却口で毛利が戦闘始めたら、東軍正面の武将は真面目に退却考えるだろう」
>ってそんなにおかしい事か?
>毛利の主な役目ってこれくらいだよ。
>
>東軍諸将が午後一杯使って、西軍正面をつぶせば良いやって考えるのは、都合よすぎるけど。
>まだこの時点では、西軍は脱落者いないし、失敗したら、西軍に囲まれて野営だよ

674はその直後の発言です。
もし、674があんたなら聞きたいけど、その毛利首脳の判断って具体的に何か言ってくれない?
149人間七七四年:2007/12/30(日) 02:35:01 ID:svuK7od/
>>148
お前、前スレの673なんだろ?だったら「他の人」のレスって嘘じゃねーか
お前一人だけで他人には根拠だ何だ聞く割に、自分の論拠が全く存在しなかったじゃねーかよw
ついでに674は俺じゃなぞ

つか毛利の判断とは「下山せずに傍観」だろ?他に何があるんだよ
それをお前が、自分が考えてる「午後はじめに山間の狭い場所の退却口で毛利が戦闘始めたら、東軍正面の武将は真面目に退却考えるだろう」
というのを毛利の役目(これも根拠なし)に勝手にして、それをこじつけてる

お前の都合か妄想かを歴史上の人物に押し付けるなと言うんだよ
毛利勢が動こう思った、勝算があったとか言うのなら、まず毛利がそうしていたと言えるだけの根拠なり史料だせばいいじゃねーかよ
だから俺は毛利の史料出して色々毛利側の内情書いたはずだが

つか、お前の場合は、お前の考え、思い込みであって、毛利がそう考えたとかというのと別なのを知れよ
150人間七七四年:2007/12/30(日) 02:46:15 ID:svuK7od/
あ、読んでて思い出した

「高麗物語」←こんな史料存在しなかったぞ
現代語訳の本まであるんだろ?東京大学史料編纂で検索かけても、大学図書で探しても、
大きい図書で史料調べても全く引っかからなかった

これってどうなん?
151人間七七四年:2007/12/30(日) 07:53:29 ID:VnFS1ihp
>>139
ああ、関が原で毛利軍が動けば西軍が勝てたはずといっていた人か。
それで>>139>>142の書込みだと、論点をずらしているようにしか見えないよ。

問題は毛利軍が池田や浅野隊に勝てるかどうかではなく、
毛利軍がそれらの部隊をくだし、さらに家康本陣まで崩す間、
石田隊が持ちこたえられるかどうかでしょう。
東軍は池田隊等が崩れても家康本隊が健在なら敗北ではないが、
西軍の場合は石田隊が崩れればその時点で敗北ほぼ確定だから。

そういう観点だと、毛利隊が動いてもそれだけでは、
やはり直東軍勝利の可能性のほうが高いと言えるでしょう。
152人間七七四年:2007/12/30(日) 10:02:20 ID:45xMUX/D
>>151
賤ヶ岳で柴田勢が崩れた理由を理解している?
153人間七七四年:2007/12/30(日) 10:31:16 ID:D2i6ohWm
>>151

東軍が”崩壊”じゃなくて”撤退”を考えると言っている。

>毛利軍がそれらの部隊をくだし、さらに家康本陣まで崩す間、

それは毛利に対して高評価すぎ。
とりあえずの戦闘正面に対している池田を撤退に追い込み。
次の浅野・蜂須賀あたりと戦っておしまい。

家康からの援軍すら、くるかどうか微妙なライン。

そんな所だろう。
正午すぎ位までに毛利との戦闘が発生するので、午後から苦しくなる
西軍として無理の前にでなくても済むね。
まあ、それでも戦闘停止の夕方まで持つか怪しいが。


154人間七七四年:2007/12/30(日) 10:35:04 ID:VnFS1ihp
>>152
前田隊の当然の退却(むしろ敵前逃亡)という予想外の事態が生じ、
前田隊が抑えておくはずだった羽柴軍がその地点に進出したからですね。

で、関ヶ原の場合は、南宮山に毛利隊がいることは周知の事実で、
わざわざそれを抑えるための部隊も配置している。賤ヶ岳の場合とは状況が全く違います。
池田隊とかが敵前逃亡すれば同じようになるだろうが、そうでない限りそこまで決定的な事態にはならない。

というか賤ヶ岳では、前田隊が踏ん張っていればもっともった可能性が高いわけで、
その意味でむしろ、毛利隊が動いただけでは決定的なことにならないだろうという反証になると思う。
155人間七七四年:2007/12/30(日) 10:44:44 ID:VnFS1ihp
>>153
撤退を考えると簡単に言うが、あの前後に挟まれた状況でどこに撤退すると?
上記のとおり、東軍は毛利軍の配置の承知の上で、それに対する抑えの部隊も置いていた。
その状況で実際に毛利軍が動いたなら、東軍の考えるべきことは、
抑えの部隊が踏ん張っているうちに、西軍の陣を崩すこと。
その際の東軍にとってのタイムリミットは、家康本陣が崩されるまで、
抑えの部隊が倒されても、それで東軍敗北とはならないから。

もし、毛利軍が動いた段階で撤退などすれば、後方は毛利軍がいるから迅速に退けないし、
その間に西軍本隊の追撃を受けるから壊滅必死。
その時点で撤退など考えるだけ無駄、全面的な大敗北につながるだけだからね。
156人間七七四年:2007/12/30(日) 10:55:48 ID:D2i6ohWm
>>155
>その際の東軍にとってのタイムリミットは、家康本陣が崩されるまで、

合戦って夕方位に終わりにならなかったっけ?
東軍は撤退するんなら進出開始位置に撤退しないといけないし。

157人間七七四年:2007/12/30(日) 10:59:39 ID:svuK7od/
で毛利が動くのを前提にしてるが動くと言う根拠は?
都合の悪い事は無視ですかそーですかw
158人間七七四年:2007/12/30(日) 11:14:15 ID:VnFS1ihp
>>156
そりゃあ、家康本隊壊滅前でも、夜が近づけば一時戦はとまるでしょう。
そうなれば東軍はかなり困ったことになっただろうが、
昼前の段階で石田隊は先鋒の島左近も撃たれ劣勢だったから、
そこまではもたない可能性の方がはるかに高いと思う。

だからまとめるなら、毛利隊が動いた場合でも、
家康本隊まで崩される前に石田隊が崩れれば東軍の勝ち、逆になれば西軍の勝ち。
どちらも起きる前に日が暮れれば、翌日に持ち越しってところでしょう。
159人間七七四年:2007/12/30(日) 12:07:05 ID:D2i6ohWm
>>158
漏れとしてもそれ位の意見。

>昼前の段階で石田隊は先鋒の島左近も撃たれ劣勢だったから、

昼頃に家康が陣場野の進出して(石田の手前1kmもないんだよな)
家康本隊が一部戦闘に加入している。

毛利が戦闘に加入すればそういった圧力もないし、
家康としては前に出れない。後ろの予備隊は家康本隊だからね。

西軍としても前に出る必要性もなくなるので、
夕方まで持つ可能性が出てくる。

つまり、実は毛利が出るであろうタイミングは
家康が判断に迷うタイミングでもある。

ちなみに、史実の関ヶ原の終わった時間を見てみると午後2時位。

>どちらも起きる前に日が暮れれば、翌日に持ち越しってところでしょう。
東軍が包囲された状況でね。
まあ、素直に東軍も撤退するだろうし、西軍も追撃戦する余裕は無い。

東軍から見れば大垣城から西軍を引っ剥がして野戦決戦強要できて作戦成功。
西軍から見れば関ヶ原での迎撃戦に成功して作戦成功。

そんな所でしょ。ちなみに戦略的には西軍が劣位。消耗は西軍の方が大きいからね。
160人間七七四年:2007/12/30(日) 12:41:18 ID:VnFS1ihp
>>159
他はともかく、東軍はそう簡単に撤退できる配置じゃあないと思うが。
日が暮れそうだから撤退といっても、後方には毛利隊がいる。
申し合わせたように毛利軍が南宮山に撤退し、西軍主力も追撃しなければいいが、
そうでないなら、凄惨な撤退戦を繰り広げることになる。
そうなるらないためには、包囲された不利な状況ででも、そのまま翌日に持ち越すほかない。

そうなっては困るからこそ、
東軍は必死で正面の西軍、特に石田隊に攻撃を繰りかえすだろうと思うが。
他は確かに、家康は簡単に本隊を動かせなくなるとかはその通りでしょうね。
161人間七七四年:2007/12/30(日) 18:09:09 ID:svuK7od/
>西軍から見れば関ヶ原での迎撃戦に成功して作戦成功。
はい、これ出鱈目

関ヶ原で迎撃成功なんて口が裂けてもありえない
現存する史料、遺構調査、どれから見ても関ヶ原で迎撃という構想がないというのが証明されている
南宮山付近の諸将は放置されて東軍の中に孤立、史実では南宮山を通過してくれたから、あの形になっただけ
本来、三成らの軍勢は南宮山を前衛とした後詰の配置に位置する状況になるはずだったんで、
「関ヶ原で迎撃成功」とは少なくとも三成ら大垣勢の意図するトコではなかった




つか『高麗物語』の答えまだ?
162人間七七四年:2007/12/31(月) 00:20:38 ID:4yZ6Rz8O
>>161
遺構調査、関ヶ原古戦場図から藤井尚夫氏が関ヶ原は西軍の予定戦場という説を唱えているけど。
もちろん南宮山勢は無関係。

あんた方の程度の低い論争に介入するつもりはないけど。
163人間七七四年:2007/12/31(月) 01:17:03 ID:MG+fvVXl
>>162
残念ながら藤井氏の書いた「フィールドワーク関ヶ原」を読んでの事だと思うが、残念ながらあれは藤井氏の間違い
書き方が巧妙で読み手が勘違いするような表現してるが、要点を纏めると

・藤井氏が土塁群の存在を強調しているが、西軍が構築したのではなく、以前から不破関とて存在していたもの
・土塁群は関ヶ原の東軍方面に向けて存在していない
・切岸や堀割も同様
・存在する土塁だが、実際に東西両軍が戦った場所より後方にある
・関ヶ原北西部に存在する未使用の陣城群があるが、書かれているような大掛かりな堀切が確認されてない

以上、藤井氏はかなり誇張して書いている

ちなみに織豊城郭研究会の中井均氏らは関ヶ原一体を調査し、西軍が構築したと確認出来るのは
・毛利秀元らがいる南宮山中腹に陣城
 堀切などが存在するが南東方向(大垣方面)に堅堀となっていたり、土塁も南東方面が他方面より分厚く作られてる
・伊藤盛正が普請し小早川秀秋が占拠した松尾山城
・その松尾山城に連動する形で大谷吉継が陣した山中
この三箇所だけ

宇喜多秀家や石田三成、小西行長らが陣した笹尾山・天満山・小関には陣所の存在を示す遺構は存在しないちょいう結果
藤井氏もフィールドワーク関ヶ原の中で、付け加えるようにだが、三成らの陣所は普請があまりなされてないと書いている
しかも南宮山や松尾山と違い、陣城といえる構造をしていない
これは藤井氏が主張する巨大な土塁群が存在し、完璧な陣所構築を行っていたと大きく矛盾する


以上、程度の低いお答えでした
164人間七七四年:2008/01/06(日) 16:17:44 ID:a4Kfts76
>>163
合戦配置図がいけないんだな
毛利の軍の向きは北ではなく東ということなんだろうね。
165人間七七四年:2008/01/07(月) 02:39:45 ID:YO2J7zy/
いま子孫は学校の先生やってるよ
51代目とかいってた
166サイコメトリー:2008/01/07(月) 10:15:17 ID:MW42B6oV

徳川家康は本当に事前調略を繰返し、関ヶ原には万全の態勢で臨んでいたのだろうか?
167人間七七四年:2008/01/07(月) 10:20:35 ID:j9SxgWE5
西軍に比べれば、な。
168人間七七四年:2008/01/08(火) 08:27:38 ID:DaZjC7WB
>>166
家康は間違いなく老獪な人海戦術を行った。よく話には裏切りをまだかまだか
と焦って待っていた所が書かれるが、反面、絶対的な自信もあったと思う。



169人間七七四年:2008/01/08(火) 09:19:36 ID:4xms4Z9d
かなりの確信で関ヶ原に進出。
小早川が動かず、猜疑心と毛利の動向も気になりだす、
てとこじゃない。
170人間七七四年:2008/01/08(火) 10:14:49 ID:xSuVwoMJ
やっぱ小早川の裏切りによる松尾山占拠が先にあっての西軍追撃なんじゃないの
171人間七七四年:2008/01/08(火) 11:36:44 ID:FbDPmQ8K
三成が居なかったら関ヶ原すら起こらず、徳川の天下になっていたんだろうな。
172人間七七四年:2008/01/08(火) 12:08:12 ID:4xms4Z9d
>>170
小早川は人質を出して目付けも受け入れてたからね
おまけに松尾山占拠で具体的なアクションを起こしたわけで、
それがなければあんな布陣はしないだろうね。
173サイコメトリー:2008/01/08(火) 14:48:17 ID:DaZjC7WB

やはり裏切り予備軍は、真っ先には動きたくなかったのが本音だよね。
『誰か動け、先に動けって』家康以上にやきもきしてたのが想像出来る。
174人間七七四年:2008/01/08(火) 17:44:09 ID:4xms4Z9d
裏切り軍同士の横の連絡はないんじゃないの、
大谷隊の4将は別にしてね。
175人間七七四年:2008/01/09(水) 03:13:39 ID:SCtFKaA/
>>161
野戦なんだから別に遺構がなくても良くなくない?
176人間七七四年:2008/01/09(水) 10:24:46 ID:a4xbzgej
>>175
近世の戦争における野戦が、ただ野っ原で激突するだけのものとでも思ってるのか?
177人間七七四年:2008/01/09(水) 16:17:46 ID:73UhPrPD
>>175
>>161のレスは「大垣に篭っていた石田などの西軍が関ヶ原で東軍を迎撃する構想を持っていた」に対するレス

で何故遺構を持ち出したかというと、藤井氏が遺構の存在をもって関ヶ原迎撃構想を持ち出したんだよ
史料では西軍が関ヶ原で迎撃する予定だったどころか、突発的なものであったのが証明されてるので、
それを否定する為に「遺構の存在」を強調し、関ヶ原関ヶ原古戦場図に、関ヶ原北西部の砦まで描かれているのを挙げ、
西軍の陣地構築の完璧さを強調し、西軍は関ヶ原で迎撃する構想だったと結論付けてるんだよ

で、実際はどうなのかと言うと、>>163に書いた通り、
笹尾山・天満山・小関には西軍が構築した威光の存在が確認されてない
が藤井氏は「防禦工事をしていた」と書き、それに付随して3メートルもの高さがある土塁の存在、
いくつかの関ヶ原合戦絵図に描かれてる柵を挙げて、その論拠としてる

しかし、ここに問題がある

土塁を西軍が構築したとは藤井氏は書いておらず、また、それだけ陣城の存在を主張しているのに、
「城跡概要図」を全く作成していないのである

それは何故かと言うと、藤井氏が作成出来ないのもあるが、それ以上に>>163に書いたように、土塁は関係なく、
南宮山や松尾山などに存在する陣城跡(松尾山に至っては陣城どころか、城砦と言ってよい)のように形づくられてない為
はっきり言って、藤井氏が西軍が迎撃構想を持っていたと結論付ける為の強引な理由付けに過ぎないんだよ

で、史料によっての「関ヶ原迎撃構想」は推論出来ず、遺構の存在による証明も出来ないので、>>161に書いたように
「西軍から見れば関ヶ原での迎撃戦に成功して作戦成功。」は出鱈目、
現存する史料、遺構調査、どれから見ても関ヶ原で迎撃という構想がないというのが証明されている
となる

遺構という言葉を出した理由がわかって貰えただろうか?
178人間七七四年:2008/01/09(水) 23:12:29 ID:SCtFKaA/
>>176
通説での関ヶ原の戦いのような遭遇戦なら基本的には大した構築物は作られないだろ。

>>177
藤井説の通りでなければ迎撃戦とは言えない、ワケではないだろ、と言うことが言いたかった。
本格的な野戦築城をしなければ「迎撃」ではないわけじゃない。
要は徳川軍の進路を混乱もなくまんまと塞いだのだから迎撃には成功していると言っていい。
179人間七七四年:2008/01/09(水) 23:39:16 ID:cpDBTv71
裏切り四将でも脇坂以外は流れに押されて寝返ったみたいだが
脇坂は藤堂と内通していたが
180人間七七四年:2008/01/09(水) 23:41:42 ID:73UhPrPD
>>178
それならば迎撃目的で関ヶ原に移動したのではないのは資料ですでに立証されている
西軍が関ヶ原で迎撃をする目的で移動したのならば、東軍が南宮山周辺の西軍を無視して、
関ヶ原に進出すると想定していなければならないから

大垣の三成らは毛利などが動かないのを前提にしていたのか?
となるのだよ

関ヶ原への進出は、あくまでも秀秋への牽制と、秀秋によって脅かされた京・大坂からの連絡網の確保に過ぎず、
関ヶ原で三成らが迎撃するなんてのは想定していないんだよ

ついでに普通ならば、遭遇するはずもなかったんだよ
石垣の西軍は、南宮山の毛利や長宗我部らを勝手に前衛として置き去りにして、彼らの後詰の位置に布陣しただけ

だから「西軍から見れば関ヶ原での迎撃戦に成功して作戦成功。」なんてのは、典型的な関ヶ原布陣図を傍から見ただけの
無知しか言えない戯言なんだよ


わかった?
181人間七七四年:2008/01/10(木) 00:01:11 ID:D+rcBDtY
>東軍が南宮山周辺の西軍を無視して、関ヶ原に進出すると想定していなければならないから
それは相手の出方によって対応することだろ。
なんでそんな硬直してなきゃいけないんだ。

>関ヶ原で三成らが迎撃するなんてのは想定していないんだよ
バカを言っちゃいけない。
目の前に東軍がいるのに、東軍は何もしないで見ているのが前提かよ?

>ついでに普通ならば、遭遇するはずもなかったんだよ
>石垣の西軍は、南宮山の毛利や長宗我部らを勝手に前衛として置き去りにして、彼らの後詰の位置に布陣しただけ
支離滅裂。
何が言いたいのかわからない。

182人間七七四年:2008/01/10(木) 00:10:21 ID:YVMyhvnU
結局、どうすれば勝てたんだ?
もしもタイムマシーンが開発されたときに備えて教えてくれ。
183人間七七四年:2008/01/10(木) 00:30:39 ID:cbDl2RD/
>それならば迎撃目的で関ヶ原に移動したのではないのは資料ですでに立証されている

当夜の西軍の軍議の資料でもあるの?
184人間七七四年:2008/01/10(木) 00:50:20 ID:Lu+I0XDF
>>181
>それは相手の出方によって対応することだろ。
相手の出方とは何ぞや?つかそれは、家康が南宮山を無視するのと、南宮山の軍勢が東軍を放置するのを、
前提にしなければならず、それを三成が前提とするならば、西軍は南宮山の毛利を戦力としてみていない、
東軍と内通しているとして行動しているとなるんだが?

「相手の出方によって対応する」なんてのは、>>181が勝手に思っての事でしかない

>目の前に東軍がいるのに、東軍は何もしないで見ているのが前提かよ?
日本語でおk

>支離滅裂。 何が言いたいのかわからない。
君には理解出来てないのだろうが、南宮山の位置は大垣の後詰、東軍は大垣を半包囲しつつ、南宮山の軍勢を牽制してる位置にいた
大垣勢はその南宮山の毛利らに何ら何も伝えずに勝手に関ヶ原に移動、南宮山の軍勢は大垣を囲む東軍と真っ向から対峙する形になる“はず”だった

それを東軍は南宮山の軍勢に後背を晒す危険を承知で移動し、史実の配置になった
理解できたかな?

それと、文体変えとけw

>>183
>当夜の西軍の軍議の資料でもあるの?
これこそ意味ワカラン
秀秋の謀反の風聞、毛利への伝達無視など、現存する関ヶ原関連の史料全て、大垣勢が突発的且つ場当たり的な移動だと書いてる
それこそ「迎撃目的で移動した」なんてのを証明するものは何もない
185人間七七四年:2008/01/10(木) 01:20:06 ID:24ONUjdu
スルー検定実施中
186人間七七四年:2008/01/10(木) 01:40:50 ID:D+rcBDtY
>>184
何その「南宮山を無視」って。
警戒を払いつつ、さらに進出したのが史実だろ。
兵力で優越しているのだから多少の無理は利く。
西軍としても予想の範囲内の行動。

>日本語でおk
アホかお前は

三成としては、必ず迎撃戦の形になると予測していたのではないかもしれないが、
もし誘い出せればむしろ好都合、と考えていたとしたら史実の展開は目論見通りだったと言える。
ただし、かねてから陣地を構築して準備していたような周到な迎撃戦ではなかったとは言えるのかも知れない。
187人間七七四年:2008/01/10(木) 01:53:10 ID:Lu+I0XDF
>>186
>警戒を払いつつ、さらに進出したのが史実だろ。
普通に南宮山周辺の軍勢の存在で、東軍は関ヶ原に進出できないだろ
それなのに進出してきたという事実を考えろ
それを予定の範囲内の行動とするなら、三成らは南宮山周辺の軍勢が動かないのを想定していたとなる
そう思うなら、それを証明する史料出せよ

つか毛利の不動が「予定の範囲内」なら、南宮山へ攻撃の狼煙上げたりしない
矛盾しまくりだな

>アホかお前は
アホはお前だ、説明も出来んしなw


>もし誘い出せればむしろ好都合、と考えていたとしたら史実の展開は目論見通りだったと言える。
全部タラレバだな、根拠もないタラレバを事実のように語るなよ

結果的に迎撃戦の形になっただけで、三成らが誘い出したなんてのは根拠不明もいいとこ
ほんと根拠がないよな
188人間七七四年:2008/01/10(木) 02:01:50 ID:D+rcBDtY
言ってることがもうメチャクチャw
現に家康が南宮山より奥に進出してて、誰もビックリしてないじゃん。
要するに大して不思議のない、普通の軍事行動だったんだよ。

「予定」の範囲内とは言っていない。
家康着陣や小早川の動きなどに影響された急な行動だったので
事前打ち合わせをした上で動くわけにはいかなかったが、
家康の行動を予測し、南宮山に味方がいるから上手い形になるな、と
計算をして動いたと考えるのは十分な蓋然性がある。
189人間七七四年:2008/01/10(木) 02:15:12 ID:Lu+I0XDF
>>188
>現に家康が南宮山より奥に進出してて、誰もビックリしてないじゃん。
>要するに大して不思議のない、普通の軍事行動だったんだよ。
ヲイヲイ、史料読んでないのがバレバレだぞ、福島勢と宇喜多勢の小競り合いを知らんのか?
東軍が追ってくると想定するなら、宇喜多勢は輜重隊を最後尾にしない

これは東軍が追ってこないのを前提に移動してる証明

>家康の行動を予測し、南宮山に味方がいるから上手い形になるな、と
>計算をして動いたと考えるのは十分な蓋然性がある。
根拠がないと何度(ry

南宮山の軍勢は味方と考えるなら、東軍は関ヶ原に出て来れないと考えるんだよ
東軍は南宮山の軍勢の危険性を承知で無理して関ヶ原に出てこなければいけない理由が、
西軍にわからない以上、そういう想定は出来ないんだよ

で、お前の考えを推論付ける根拠が今まで一切ないのだがw
190人間七七四年:2008/01/10(木) 02:42:42 ID:Lu+I0XDF
>家康着陣や小早川の動きなどに影響された急な行動だったので
>事前打ち合わせをした上で動くわけにはいかなかったが、

とまあぁ、こんな事書いてるので、ちょと史料出しておく

石治、大刑兼々相談相澄され候様子は、大垣、関ヶ原人数南宮山に相まろみ、一戦仕るべきに相極められ候処、
九月十三日内府様赤坂御着候刻、冶部大垣南宮をすて候て、山中え引取り候時は、
前日の儀定相違候て、さほ山え打入るべき調議露顕仕り候

ついでに
>現に家康が南宮山より奥に進出してて、誰もビックリしてないじゃん。
これはアホ過ぎて言葉もないが、家康が赤坂に到着した時に、どの史料にも三成らは驚愕したと書いてない
では、三成らは14日に家康が到着するのを想定していたと強弁するのだろうか?

結論ありきのこじつけに過ぎんな
191人間七七四年:2008/01/10(木) 04:57:43 ID:qzk+aIrl
ID:73UhPrPD = ID:Lu+I0XDF は完全スルー推奨
192人間七七四年:2008/01/10(木) 09:14:57 ID:1FBBqMFi
ん?筋はとおってると思うが
193人間七七四年:2008/01/10(木) 11:19:21 ID:Az4TZ6Jz
>>192
筋が通ってると困る人がいるんだよ。特に西軍厨には。
194人間七七四年:2008/01/10(木) 17:57:24 ID:vdv17WDr
>>182

タイムマシーンができたら…
いちおう西軍首脳が史実を知ったとするなら、
もう家康が来るまでに前進につぐ前進を繰り返すしかないんじゃないかな?
それで奇跡的に勝ち続けるぐらいしか…

後の時代に
「西軍には時の勢いが味方していた」
と説明になってないようなことを書かれるぐらいじゃないと…
195人間七七四年:2008/01/11(金) 01:21:11 ID:qdejj2QX
>>190
想定の範囲内に決まってる。
196人間七七四年:2008/01/11(金) 01:36:54 ID:SzKpcl1Y
>>195
何が?(笑)
197人間七七四年:2008/01/11(金) 01:52:08 ID:qdejj2QX
(笑)だって。うわー…

まあそれはどうでもいいか。
>>190を見てわからないようなら終わってるよ。
198人間七七四年:2008/01/11(金) 01:56:19 ID:SzKpcl1Y
>>197
もう煽りしか出来ないのかな?
言葉足らずだから、具体的に「何が想定の範囲内」なのか聞いたんだけどw
>>196を見てわからないようなら終わってるね
199人間七七四年:2008/01/11(金) 02:24:02 ID:qdejj2QX
なんでそういう絡み方をしてくるのか不思議なんだが。

このレスのやり取りで言えば当然、
195は「三成らは14日に家康が到着するのを想定していたと強弁するのだろうか?」
への答えになるだろう。

想定の範囲内に決まってる。
200人間七七四年:2008/01/11(金) 02:28:58 ID:SzKpcl1Y
>>199
あら、そんな初歩的な事なのか
だったら答えは簡単に出るけど、試しにID:qdejj2QXが「想定の範囲内に決まってる。」とする根拠提示してね
201人間七七四年:2008/01/11(金) 02:35:57 ID:qdejj2QX
既に戦いは始まってるんだからいつ現れてもおかしくないだろ。
勿論行軍速度と言うものはあるが。
それを想定の範囲内と言う。


>>187で「予想」を「予定」に勝手に言い換えたり、
どうも悪質だな。
あんたとはこれ以上話をしない方がいいのかもしれない。
202人間七七四年:2008/01/11(金) 02:41:02 ID:SzKpcl1Y
>>201
どっちが悪質なんだかw
結局、根拠はないんだねw

9月12日付の増田長盛宛の石田三成書状読めばいいと思うよ
超有名な史料だから、最低限これは目を通してると思ってたが違うみたいね
目を通しての否定なら、具体的に書いてねw
203人間七七四年:2008/01/11(金) 08:13:45 ID:tDcbdrCa
前から思ってたんだけど、東軍厨って話題ずらしだけは得意だね。
問題は小早川の牽制の為に西軍が動かした事なのに、何故か、
家康が現れた事になっている。
204人間七七四年:2008/01/11(金) 14:42:31 ID:M6X+tEOL
>>203
そうか?別にずらしてはいないだろ。
お互いの事態認識が大きく違うのでかみ合っていないだけで。
205人間七七四年:2008/01/11(金) 15:41:21 ID:SzKpcl1Y
わかりやすい事例を挙げて解説したのに、肝心な本題には触れず、その事例を根拠もなしに否定したから、
史料で証明されてるぞと書いたら、こっちが話題ずらした事になるのか

どっちが話題ずらしてるのだろうねw

こちらは史料や事象から持論を書いてるのに、相手は想定の範囲ないだと強弁し、その論拠は一切なく、
あまつさえ初歩的な史料にすら目を通していないしな
根拠聞いたらそのまま逃亡、日付変わってID変わったら、また絡んでくるの繰り返し
たまに史料名だしたと思ったら、存在しない史料とか、もう話にならんわホント

まともな相手なら三成書状の内容でも書いて説明してもいいが、どうせ書いても無意味だろうからなぁ
206人間七七四年:2008/01/11(金) 23:36:55 ID:tDcbdrCa
というか、関ヶ原前夜というよりも当日に長宗我部、毛利にも西軍は使者出しているし、
そもそも、小早川に播磨そのほかの恩賞についての誓紙だしていいるわけだけど・・・。

これって嘘なの?
207人間七七四年:2008/01/12(土) 00:50:04 ID:7NkyBKrl
>>206
何が「というか」なのか、それが何に対してなのか、何にどう繋がるのかが理解出来ないが、
まず毛利への使者の件、所謂「空弁当」の話は毛利側にも似た話があるのは確か
ただ、関ヶ原合戦中ではなく、関ヶ原後の京・瀬田においての話なので、話が誇張し関ヶ原中に摩り替わったのではないかと考える

長宗我部への使者の話は、手持ちの史料などでは確認出来ず、話の出所を知りたい

そもそも両者へ合戦中に使者が送れるのかかなり疑問なのだが

秀秋への誓紙について
「卜斎記」にあり、「軍記大成」に脚色されてあるので、まず事実と考えていいかと思う
ただ秀秋の関白就任は西軍が勝利しても実現出来る類のものではないので、単なる引止め工作に過ぎないかと
208人間七七四年:2008/01/12(土) 02:28:33 ID:MdjPXGQp
>206
基本的には207の答えで大きな間違いはないと思う。
あとは想像力の問題だが
三成が関ヶ原の決戦を決して想定して戦ったのではないと思うよ。
そもそも、岐阜城失陥で三成陣営に勝ちの目はなかった。
ただ、吉川広家や小早川秀秋の気が変わり、三成につけばどうなるかわからない程度の情勢だったと思う。

209人間七七四年:2008/01/12(土) 03:18:13 ID:MdjPXGQp
とりあえず「関ヶ原合戦史料集」(藤井治左衛門編=新人物往来社刊)を読むことをお勧めする。
中古で探せば1000円〜2000円程度で入手できるはず。
卜斎記は国立国会図書館のwebsiteでただで読める。

210人間七七四年:2008/01/12(土) 08:09:54 ID:8Teq3BKp
想定してなかったってどのレベルの話をしているの?
戦術レベルでは、しっかり陣を張ってある程度の時間耐えていたから、
想定してなかったとは言えないと思うけど。
211人間七七四年:2008/01/12(土) 08:59:51 ID:MdjPXGQp
>210
小早川の松尾山占拠という新事実に対して対応せざるをえなかった

ある程度の時間耐える云々の話は別問題だろう
212人間七七四年:2008/01/12(土) 10:28:43 ID:7NkyBKrl
>>210
えっと、俺の主張している「想定していなかった」は、史実の配置になる、15日に関ヶ原でああいう形で戦うのを想定していなかったという事
これ、史料から説明すると長くなるけどいいかいな?
213人間七七四年:2008/01/12(土) 10:54:51 ID:MdjPXGQp
>>212
別に長くなってもかまわんよ。
俺は他人の主張にいちいち否定するような小さな人間とはちがうから
ゆっくりと議論しましょう。
214人間七七四年:2008/01/12(土) 11:27:15 ID:MdjPXGQp
申し訳ないけど資料をフル引用した場合は
その出所だけは明示してくれ
こういうのは基本的なマナーなんだがそれを出来ない輩が最近は多い
自分の意見、その他加工した部分はべつにかまわない
必要だと判断すればこちらからソースを訊ねるから
215人間七七四年:2008/01/12(土) 12:17:13 ID:7NkyBKrl
>>213
あんがと
否定される事自体は結構なんだけど、今まで絡んでた人みたいな根拠もなく決め付けでしかないのは、
議論にならんので勘弁して欲しいんだけどね

まず三成の思考や大垣の西軍の状況、十二日付の書状では

1.敵至今日、赤坂何之行も無之、延々と居陣ものを待様に、しかと有之体に候 不審成と各申候事
2.兎角如此延々と候はゝ、味方中も心中離計、御分別之前に候事・・・
3.当表之儀は、何とそ諸侍之心揃候はゝ、敵陣は廿日之中ニ破り候はん儀は・・・
4.此分にては、結句味方中ニ不慮出来候はん体、眼前に候
5.輝元御出馬無之事、拙子体は尤と存候 家康不被上には、不入かと存候へ共、下々ハ、此儀も不審たて申事に候事
6.度々如申入、金銀米銭遣はさるへき儀も、此節に候 拙子なとも、似合に早、手の内有たけ、此中出し申候
 人をも求め候故、手前之逼迫、御推量可有候 然ハ此節に極り候と存候間、其元も可有其心得事
7.従江州被出候衆之手前、自然之不慮之儀も候へはと存、是のみ迷惑ニ候 輝元御出馬無之候ハヽ、
 佐和山下ヘ、中国衆五千計、入可被置候儀、肝要之御仕置ニ候 兎角勢州ヘ被出衆之帰りは、
 大垣佐和山の通路にも不構、自然之時分は、太田並に駒野へ取つき、畑道を江州へ御通用之積計と相見え申候間、長引可申と存候事

長いので全文は書かないが、要点だけ抜粋

・赤坂にいる東軍が動かず不気味
・味方は相互不信で崩壊寸前
・でも(赤坂の)敵は20日以内に破る
・問題は味方の裏切り(抜粋していないが、大津の件や「犬山加勢衆謀反」、書かれてる輝元不出馬、
 大坂の人質を処罰しなかった増田長盛が、兵士の中では不審がられてるとある)
・家康が(西に)出て来ないので輝元が出馬しないのはもっともだという事、ただ兵士は不審に思ってる
・軍資金が底をついてるので、なんとか援助を
・輝元が出陣したら佐和山へ、伊勢へ行った軍勢(南宮山周辺の毛利勢や長宗我部勢の事)は、なぜか北国街道を封鎖しなかった等々・・・

少なくとも12日までは家康が来るとは思ってもいなかったので、輝元への無理な出馬要請はしていない
(それとなく出て来い的なニュアンスは書いはいるがw)
しかし、家康は12日は尾張一宮、翌日には岐阜、14日朝には赤坂へ到着する

三成は大津攻略の軍勢と合わせて、家康がいない赤坂の東軍を叩く予定だったのが伺われる
20日以内と急戦する予定だったのは、軍資金の不足、味方の造反の危険、赤坂の東軍の動きの不審さなどの不安要素を、
大津に派遣された軍勢とを合わせて圧倒する事で、合戦での解決を目指したものと思われる
216人間七七四年:2008/01/12(土) 12:19:40 ID:7NkyBKrl
>>214
史料の場合は史料名だけでいいのかな?
それとも史料が記載されてる、または翻刻されてる出版物名を答えればいいのだろうか?

二次資料は引用してないので、書いてないけれど、どうなんだろうか?
217人間七七四年:2008/01/12(土) 12:27:33 ID:MdjPXGQp
史料名だけで十分です。215の出所はすぐ判ったので俺的には不要だが
このスレみている人は他に大勢いるので、あとでまとめて教えてくれればいいです。
218人間七七四年:2008/01/12(土) 13:13:48 ID:MdjPXGQp
暇だから史実分析の悪い例をおしえよう

以下引用↓
9月12日付の増田長盛宛の石田三成書状読めばいいと思うよ 
【超有名】な史料だから、最低限これは目を通してると思ってたが違うみたいね 
目を通しての否定なら、具体的に書いてねw
↑引用終わり

突っ込みどころは【超有名】の部分
超有名というからにはどの論文で何回引用されたか、その他具体的な資料を提示しなければダメ
ところがこの人は何も書いていない
どこが超有名なの?

ま、世の中にはこういう主張をする珍しい生き物もいるという好例
219人間七七四年:2008/01/12(土) 13:37:24 ID:7NkyBKrl
で、ここで西軍にとって事態が急変したのが家康の赤坂到着と秀秋の松尾山城占拠

これは>>215にある三成の想定する状況と大きく異なってるのがわかる
三成は、家康が来ない以上、輝元の出馬は不要としてるが、裏を返せば家康が来た以上、輝元出馬は必要立った訳である
そして大垣・佐和山間の街道を重要視している事から、秀秋の裏切り(伏見攻め以降、秀秋は西軍の軍事行動に一切参加しておらず、
家康着陣と同時の今回の行動を、西軍側は裏切り行為と捉えていたと考えられる)により、大垣籠城が危険になった為、
14日深夜の関ヶ原への移動となる

んで本題の「関ヶ原での迎撃を想定していなかった」となるのだが、
何度も書くが、基本的に南宮山周辺の軍勢の存在により、赤坂の東軍は史実の位置に出て来れないのが最大の要因

これを三成が史実のように関ヶ原まで東軍が出てくると想定していた、又は関ヶ原に東軍を誘ったとなると、
南宮山周辺の軍勢は動かないと想定していたとなり、誘ったとするなら、関ヶ原で決戦志向を持っていたとなる

まず南宮山周辺の軍勢をどう捉えていたのか?
12日付の書状の中に、毛利勢などに関してこう書いてある

如何程慥成遠国衆にて候共、今時分は国郡之心さし有之付て、人之心難計候

(不慣れな)遠方の衆(で心配だった)だが、今では地元みたいな心持ってる・・・と
何も問題視していないのが見て取れる
決戦志向だったかは、>>215にも書いた輝元出馬の件を参照

では何故、大垣勢はあの布陣をしたのかと言うと、大垣籠城で南宮山後詰の形から、南宮山前衛・関ヶ原の軍勢を後詰と言う形に仕切り直し、
秀秋を押さえ込みながら、大坂へ街道を確保し輝元の出馬・大津攻略の軍勢を待つという形を取りたかったのではないかと思う
220人間七七四年:2008/01/12(土) 13:46:44 ID:7NkyBKrl
>>218
お、いきなり喧嘩売ってくるとは面白いが、そんな事まで説明しなきゃならんとはねw

9月12日付の増田長盛宛石田三成書状は、歴史群像の「関ヶ原の戦い」にすら出てる、関ヶ原合戦を知る上で、必ず紹介される史料なんだがw
それを超有名と一言で済ませたのに、「どの論文で何回引用されたか、その他具体的な資料を提示」しなければわからないとか、どうなんだよw

それともあれか?関ヶ原関連の書籍を一切読んだ事がない人向けなのかいな?
そんなのが、さも自分のいう事が事実みたいに絡んでくるのかw

中々面白い事をいう生き物だな、ここは何の板で何のスレなんだろな?
221人間七七四年:2008/01/12(土) 13:48:03 ID:MdjPXGQp
>>219
何度も書くが、基本的に南宮山周辺の軍勢の存在により、
赤坂の東軍は史実の位置に出て来れないのが最大の要因 

以下さっぱりわからない

三成は毛利がどう動くと想定していたのか
自分はどう動こうとしたのか
この部分だけでいいから判りやすく説明してくれないか。
222人間七七四年:2008/01/12(土) 13:51:11 ID:MdjPXGQp
>>220
あんたこのスレにいらない存在
いい加減に空気読めよ
223人間七七四年:2008/01/12(土) 13:59:34 ID:MdjPXGQp
>南宮山前衛・関ヶ原の軍勢を後詰と言う形に仕切り直し
この部分が肝だね
ここを詳しく教えて下さい
224人間七七四年:2008/01/12(土) 14:02:24 ID:7NkyBKrl
>>221-222
何が「さっぱりわからない」のかがわからんなー

毛利が東軍に通じてると考えていないのがわかるのだが?
それとも毛利が東軍と内通してると考えてるのに、南宮山脇を通って関ヶ原に移動したとでも言うのかな?
それこそ思考が破綻してるんだが
>>215の書状の中でも、中国衆、毛利を佐和山に入れようとしたり、信頼しきってるんだけどな
三成はどう動こうというのも意味不明、西軍は史実の布陣をして、後は田辺・大津にいる軍勢待ちと書いてるのだが?

つかスレに要らないとか、大丈夫か?自分の過ごしやすい環境でやりたいなら、自分のサイトでやれよw
妙な絡み方したから、答えてやったらこれだw
225人間七七四年:2008/01/12(土) 14:03:32 ID:7NkyBKrl
>>223
教えて欲しければ>>222のレスの意図を明確に答えろ
人に要らないとかホザいて教えろとはアホか
226人間七七四年:2008/01/12(土) 14:04:08 ID:M16KIOSs
赤坂衛
227人間七七四年:2008/01/12(土) 14:05:24 ID:MdjPXGQp
ついでにオバカに一言
歴史群像ってのにはわらった
228人間七七四年:2008/01/12(土) 14:06:39 ID:7NkyBKrl
おいおい、興味あるなら厨でも読むような本にも出てると親切に書いてやったのに、これかよw
229人間七七四年:2008/01/12(土) 14:19:29 ID:MdjPXGQp
あのさーまともな人と議論できると思ったらこれかよー
普通の会話すらできねーのかといいたかったけどやめた

>つかスレに要らないとか、大丈夫か?自分の過ごしやすい環境でやりたいなら、自分のサイトでやれよw 
妙な絡み方したから、答えてやったらこれだw 
>教えて欲しければ>>222のレスの意図を明確に答えろ 

つうかあんた俺の知らないことひとつも書いていないだろう
もういいよ

あれがあんたをID:tDcbdrCaと勘違いしたのが間違いなんだよな
アンタは悪質なあらし、これでFA
230人間七七四年:2008/01/12(土) 14:19:38 ID:NqL59aH9
小早川が裏切りそうだから関ヶ原に主力を移した。関ヶ原での迎撃計画は元から無い。
南宮山を前衛とした防衛計画の変更に話が変わった気がするんだけど。

別の人?
まあ、東軍が関ヶ原に来るはずがないので西軍ビックリとか言いたいのかもしれないけど。

大体に置いてし、誘い込んだとか誘い困れたとか遭遇戦とか余計な事を除けば
一般的な関ヶ原の解説だね。
231人間七七四年:2008/01/12(土) 14:24:25 ID:MdjPXGQp
この意見に賛成
(あらしが突っ込むかもしれないけどw)
232人間七七四年:2008/01/12(土) 14:30:49 ID:7NkyBKrl
>>229
お前が普通の会話出来てないからだろうがw
お前に荒らし認定されても、痛くも痒くもないから構わんぞw

>つうかあんた俺の知らないことひとつも書いていないだろう
別にお前に知らない事書かなきゃならん義理もなし
知らない史料書かなきゃならん理由がどこにあるのか謎だなw

まぁいいや、二度と絡んでくるなよw


>>230
んー、どちらも同じなんだけど

大垣勢を主力とか南宮山勢が主力とかは置いておいて、
関ヶ原の迎撃計画なんてのはなく、家康到着と秀秋の行動により大垣での決戦を放棄して関ヶ原に移動
その意図する所は、南宮山を前衛としての増援来るまでの持久戦という形な訳ね

>一般的な関ヶ原の解説だね。
一般的な解説だよ、新説唱えた訳じゃないしね
ただ、発端は敗者から見た関ヶ原やフィールドワーク関ヶ原を鵜呑みにした見解に対してのレスだったから、
一般的な解説になるのはしょーがないかと
233人間七七四年:2008/01/12(土) 14:36:50 ID:8Ynf2dgK
関が原の布陣図は有名でwikiとかにも載ってるんだけど
大垣城や赤坂陣まで含めた配置図がいまいちわからんのだが大垣城に篭城してる福原以下の軍勢がおり、
南宮山の毛利以下が大垣を包囲している東軍をにらんでいる形で
関ヶ原の三成等が街道を閉鎖しかねない小早川を牽制しつつ
大津攻めの軍勢を待つ布陣ということかな

南宮山と大垣城の軍勢がいる限りは大垣城を攻めようとしている形の東軍は追撃を恐れて関が原に
進出できないと思っての関が原行きと布陣ということか

東軍が大垣城に拘束されている間に小早川をできれば蹴散らし(宇喜田までいるし)街道を確保し
大津の軍勢を待つ(大津攻めが順調だったとかの情報があったのかも)守りの布陣をしいたつもりだったんだろう

大津勢と合流してから大垣城で後詰決戦の予定が関が原まで追撃くらって合戦するはめになったと
夜と濃霧のせいで追撃されてるのはわかったけど相手の体制まではわからなかったから
簡単な陣をしくぐらいはできたけどろくな陣地もないうちに戦ったから一日で終わる戦になったんだろうな

逆に東軍は毛利が動かないのがわかっていたから追撃をかけたのか秀忠軍を待てないゆえの一か八かの賭けにでたのか
234人間七七四年:2008/01/12(土) 14:37:26 ID:MdjPXGQp
ただの負け惜しみだな
それと草はやすのはやめようよ
それがおまえのアイデンティティなら強制はしないが
負け犬君
235人間七七四年:2008/01/12(土) 14:44:12 ID:MdjPXGQp
>232しかし笑えるな
日本語の未熟さわ指摘されたら切れたやつ

236人間七七四年:2008/01/12(土) 14:45:36 ID:7NkyBKrl
>>233
>大津攻めの軍勢を待つ布陣ということかな
大津勢より田辺勢のが早いと思っていたかと
三成の書状には田辺城陥落したから美濃表に出るように書いてあるしね

それと秀秋を蹴散らしはないんじゃない?松尾山城はかなり大規模な普請を施され、小早川勢の軍勢の大きさと、
引き止め工作から考えてね

>逆に東軍は毛利が動かないのがわかっていたから
>追撃をかけたのか秀忠軍を待てないゆえの一か八かの賭けにでたのか
それと三成書状を入手したのが大きいのではないかな?
西軍の内情不安や田辺城が落ちた事、その軍勢が美濃に来る事があるし、大津の情勢も厳しい
秀忠がいつ到着するかもわからないから、追撃という博打に出たのかと思う




あ、煽りしか出来んアホは以後放置するからw
237人間七七四年:2008/01/12(土) 14:48:42 ID:MdjPXGQp
かわいそうに
なりすましまでして
この有様かよ。

つうか基本的な知識がないから
まともに返答できないよ。
238人間七七四年:2008/01/12(土) 14:54:34 ID:8Ynf2dgK
>>236
Wikiしか資料見れないんですまんが田辺城に勅使がきたのが9月12日、開城が9月18日と書いてあるが
>三成書状を入手したのが大きいのではないかな?
この書状っていつのどんなやつ?
239人間七七四年:2008/01/12(土) 14:56:36 ID:MdjPXGQp
>松尾山城はかなり大規模な普請を施され
全くの嘘、伊藤の大垣退去の日付参照

>それと三成書状を入手したのが大きいのではないかな
三成書状を入手したのは関ヶ原の戦の後だっただろう
それはスルーですか?

>あ、煽りしか出来んアホは以後放置するから

どうぞ、一人でおなっていなさい(爆笑)
240人間七七四年:2008/01/12(土) 15:06:57 ID:8Ynf2dgK
>>239
>>松尾山城はかなり大規模な普請を施され
>全くの嘘、伊藤の大垣退去の日付参照

これは>>163>>177あたりのことは出鱈目ということか?
241人間七七四年:2008/01/12(土) 15:16:41 ID:MdjPXGQp
>>240
基本的には無関係だ
大体、自分の城を追われた奴がそいつのために必死に城を構築して別の同僚(しかも敵)に
易々と手渡すとしたらそいつほアホだ。
そんな当たリ前のこと知らずにさもシッタカブリにしゃべるやつはもっとアホだ。
242人間七七四年:2008/01/12(土) 15:36:02 ID:7NkyBKrl
>>238
>>215にも書いてる三成書状には
一 丹後之儀、隙明之由ニ候 少にても外聞ニ候間、彼表之衆、当表被立候様ニ可然候

三成は田辺城は落ちて其の軍勢がこちらへ来ると書いてる

で、この書状が誰だっけ?名前ド忘れしたが徳永寿昌に奪われる
似たような書状が14日にも京極高次から届く(これは「京極高次大津籠城志」という史料なんで、信憑性は微妙)とある
二人の位置から少なくとも13〜14日までには家康へ届いたものと思われる

これで三成と家康は、田辺城は落ちて田辺攻略の軍勢が来ると思ってたって事ね
実際に落ちたとかじゃないよ

>>240
人のサイトなんで気が引けるけど
この中井均氏が作図した松尾山城の「城跡概要図」を見てみるといいよ
ttp://www.geocities.jp/jf2murasan/matuotizu7.gif
243人間七七四年:2008/01/12(土) 15:40:46 ID:NqL59aH9
>>232

>んー、どちらも同じなんだけど

まあ、西軍から見れば同じだな。
結局は、関ヶ原カモーン殴ってやるよ(でもまあ、そんなこないだろうな)
程度を迎撃計画とみるかいないかというレベルか。
244人間七七四年:2008/01/12(土) 15:46:00 ID:7NkyBKrl
>>243
うーん、その「関ヶ原カモーン殴ってやるよ」と誘ったか否かなんだよね
来る事はないけど、来たらボッコボコにしてやんよと言う状況下なのか、三成がそう考えてたかと言う事な訳で
245人間七七四年:2008/01/12(土) 16:04:09 ID:MdjPXGQp
ID:7NkyBKrl って>>232で前科のある有名なあらしじゃん。
おいNkyBKrl お前コテハン使え、以後スルーしてやるぞ

つうか、いい加減あらしは書き込むなよpw
246ID:7NkyBKrl:2008/01/12(土) 16:06:40 ID:MdjPXGQp
>>244
お前だお前
うざいからコテハン使え
247人間七七四年:2008/01/12(土) 18:07:08 ID:G8p+5qv/
ID:MdjPXGQp興奮しすぎ

とりあえず関ヶ原迎撃説は、徳川が毛利を無視して関ヶ原に踏み込むことを前提にしなければ成立しない
なぜそれを三成が予見できたかを証明できなければ何の説得力も無い
248人間七七四年:2008/01/12(土) 19:17:32 ID:NqL59aH9
>>247
>とりあえず関ヶ原迎撃説は、徳川が毛利を無視して関ヶ原に踏み込むことを前提にしなければ成立しない

池田や浅野の兵力で抑えられるとか、降りるのに数時間かかるとか以前東軍よりの人いってなかったっけ?
つまり、ある程度の兵力を貼り付けていれば無力化できるわけだ。

>なぜそれを三成が予見できたかを証明できなければ何の説得力も無い

城からのこのこ出た敵を攻撃側が補足しないというのは説得力はさらにないわけだが。
話の方向性を転回しよう。その西軍の行動に対して東軍が行える事って何?

・大垣城攻撃
・南宮山攻撃
・西軍主力攻撃

どれが妥当?
249人間七七四年:2008/01/12(土) 19:31:57 ID:MdjPXGQp
>>247
すまん ID:7NkyBKrlが普通の人間のフリしてきたのでマジレスした俺が馬鹿だった
あいつの正体みたとき何がなんだかわからなくなったw

>関ヶ原迎撃説は、徳川が毛利を無視して関ヶ原に踏み込むことを前提にしなければ成立しない 

この時点では吉川広家と徳川との間に密約が成立していたことを三成は知らなかったはず
三成は松尾山の小早川勢を牽制、つうか徳川勢に蓋をして街道を押さえるために関ヶ原に向かった
そこで徳川勢を迎撃云々は結果論に過ぎないのではないかな
あと、大谷勢が小勢ながらも奮戦したのは移動による体力の消耗が少なかったためと思われる
250人間七七四年:2008/01/12(土) 19:50:19 ID:G8p+5qv/
>>248
>ある程度の兵力を貼り付けていれば無力化できるわけだ。
これの根拠は何だ?そんな所に大兵力を置く西軍は無能集団ですか?
251人間七七四年:2008/01/12(土) 20:18:36 ID:8Ynf2dgK
買い物から帰ってきたらスレが進んでいる
>>248
その選択肢を見てみると西軍は戦力をおもいっきり3分割してるんだよな
戦力の集中ができてないわけだ
しかも横の連携もかなりあやしい。おそらく関が原移動組と南宮山とはろくに連絡はとれていない
これに対し東軍は大垣城と南宮山に背をさらしつつ(抑えはおくが)も関が原の一点に主力をおき戦力を集中している
形は問題あるかもしれんが各個撃破の体制をとってる
西軍の現場での要が三成もしくは宇喜田という情報が入ってるなら関が原追撃が自然
小早川は先に寝返って松尾山をとってるんだしどういった布陣になるかはわからないが数の上では絶対有利
西軍主力が関が原を素通りして佐和山にひいても(まず無いが)関が原を固めた上で大垣城と南宮山を攻めればいい
これで関が原迎撃なんぞ無理だ
あっても最後の最悪のシナリオであり、その最悪のことが起こってしまったんだろう
252人間七七四年:2008/01/12(土) 21:00:40 ID:NqL59aH9
>>251
>その選択肢を見てみると西軍は戦力をおもいっきり3分割してるんだよな
その代わり要害とか防御正面の制限とかできる。
防衛側は対応できる兵力があれば守れる。
攻撃側は好きな所を攻撃できる。
の好例だね。

東軍から見て一番安くて上がりも高いのは当然西軍主力なわけだけど、

関ヶ原への隘路というのがある。

つまり、関ヶ原に浸入する兵力と南宮山麓での押さえの兵力をどうするのかが鍵になる

簡単に言えば、家康は関ヶ原に進出しないと西軍首脳は常識的に考えたのではと思うわけよ。
そうすると、関ヶ原で迎撃するというのは兵力的に現実的になる。

史実はまあそういうこと。
防衛側は対応できる兵力ではなくて、
攻撃側は好きな場所を攻撃したわけだ。

関ヶ原っていうのは、東西両軍がお互い相手を痛めつける意図の元結果ああなったと思うよ。

蛇足だけど、家康が関ヶ原に進出した理由は、西軍主力を撃滅するとか毛利を信じたわけじゃなくて、
豊臣恩顧の武将を信用しなかった事と、大名を適当に消耗させた方が後々有利だったから出たと思うわけだけど、
それって、家康高評価すぎかな?(w
253人間七七四年:2008/01/12(土) 23:14:45 ID:WXc3Cjfm
なんか西軍見てると、ガリガリばっかだろ。
石田とか大谷←ハンセン病、安国寺、宇喜多、前田玄以、など
色白の詐欺師みたいなのばっか。こりゃ人がついてこねえな

東軍は家康や福島や伊達など槍働きのある歴戦の猛者ばかり。こっちのほうがたくましくて頼もしい。
254人間七七四年:2008/01/12(土) 23:18:13 ID:1+Y6BQVZ
そんなこといったら、東軍は恰幅のいい詐欺師だろ。
255人間七七四年:2008/01/12(土) 23:23:56 ID:8Teq3BKp
>>215
なんで
「少なくとも12日までは家康が来るとは思ってもいなかった」
と結論しているのか根拠を知りたい。

「いつ来るかわからないがまだ来てない」だけだろ?
256人間七七四年:2008/01/12(土) 23:36:27 ID:RHBuh0cJ
【社会】DQN高校生3人、国宝姫路城の鉄砲狭間から観光客をエアガンで狙撃→逮捕
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/jsdf/1171975586/

春だなぁ……
257人間七七四年:2008/01/12(土) 23:40:31 ID:+a9hbQ6v
>>255
でも、家康の進軍はかなり隠密裡に行われていたみたいだし、
にわかに家康の軍旗や馬印が出現した為に西軍は大いにたまげたと
いう内容の事が書かれている(「慶長年中卜斎記」)。
三成も浜松まで家康が来たら輝元出馬を
要請すると書状に書いてあるし。
258人間七七四年:2008/01/12(土) 23:52:45 ID:8Teq3BKp
>>219
「尤も」って「不要」って意味なのか?
大阪で仕事があるわけじゃなし、三成的には来てくれた方が有難いわけで、
少なくとも「来ない方が良い」と言う意味での「不要」ではない。
(自分としては来て欲しいけど)輝元が動かざるを得ない状況とまでは言えない、
と言う意味で「尤も」って言ってるのでは?

>何度も書くが、基本的に南宮山周辺の軍勢の存在により、赤坂の東軍は史実の位置に出て来れないのが最大の要因
南宮山の軍勢だけで東軍に襲い掛かったら各個撃破されるだけだろう。
まともに進路上にいたわけでもなく、あえて山に攻め上ってこないなら戦端が開かれるのを待つこともあり得る。

>>232
>その意図する所は、南宮山を前衛としての増援来るまでの持久戦という形な訳ね
家康が突っ込んでこなければその形になるし、
「あわよくば」突っ込んできたなら殲滅戦の形になる(裏切りがなければ)。
両構えの作戦でしょ。
259人間七七四年:2008/01/13(日) 00:26:55 ID:OzQZ48d4
両構えは見りゃわかる
争点は最初から関ヶ原に誘い込む目的で移動したのか
小早川を抑えるためと中仙道を塞ぐ為に移動してきた所に
東軍が進んできたので戦いになったのかじゃないのか?
260人間七七四年:2008/01/13(日) 00:56:52 ID:CzTdi7Rr
だから両方だろ。
261人間七七四年:2008/01/13(日) 01:08:14 ID:1F3mfIWa
一つ一つ答えていこうか

>>248
>つまり、ある程度の兵力を貼り付けていれば無力化できるわけだ。
誰も無力化出来ると主張してなかったが、俺の場合はある程度抑えがあれば、
即危険に晒されないと家康が踏んだのではないかと判断したと思うとは書いた

で「吉川家什書」によれば

南宮山へ之手あてハ、先手池田三左衛門・井伊兵部・本多中書・其外内府馬廻り、田中兵部・堀尾信濃、此の衆にて候

とあり、毛利からすれば南宮山への備えは十分にあったと感じ取られていたと思われる
まぁそれ以前に徳川と毛利の和議は成立してるんだけどね

>城からのこのこ出た敵を攻撃側が補足しないというのは説得力はさらにないわけだが。
「卜斎記」には大垣を出る時に囲んでいる福島勢を強硬突破し、その後小荷駄隊が追撃まで受けてる

>>255>>258
ここの「尤も」とは、「輝元御出馬無之事」についてであり、これは輝元が出馬しない理由を「尤も」と書いているに過ぎない
要は次の言葉で、「家康不被上には、不入かと存候へ共」で、これは同じ三成書状の一条の

一 何れの城之伝々にも、輝元御人数入被置候 御分別肝要に候 此段子細有之候間御分別あつて、勢州を初、
  太田駒野に今度城を構候而、能候はんと存候 江濃之境目松尾之城、何れの御番所にも、中国衆入可被置、御分別尤にて候・・・

と繋がっている文であり、家康が上って来なければ、輝元が入らなくてもよいと書いてるんだよ
ここで、先ほどの「輝元御出馬無之事、拙子体は尤と存候」と合わせ見て、輝元が出馬しない理由は「尤も」で、
家康が来なければ、輝元が(松尾山城などへ)入らずともいいとなる

これで12日の時点では、三成は家康が来るとは思っていない、所在を把握していないとなる
まぁ三成がこう考えた理由は、景勝の書状にあるのだが、それはまた別の話

それと三成が来て欲しいと言うのは間違いないと思う
それが「下々ハ、此儀も不審たて申事に候事」と書かせてるのではないかと思うのだが

>>252は次に廻して>>257
>にわかに家康の軍旗や馬印が出現した為に西軍は大いにたまげたという内容の事が書かれている(「慶長年中卜斎記」)。
今読んだけど、「十四日赤坂へ着御・・・」からにはそれらしき内容がないのだけれど、どこだろう?
262人間七七四年:2008/01/13(日) 01:22:41 ID:lKCZkq2l
東軍別働隊の主力徳川秀忠の軍勢3万が遅延なけりゃ烏合の衆の西軍なんぞ一撃で木っ端微塵だ
263人間七七四年:2008/01/13(日) 02:17:29 ID:CzTdi7Rr
>これで12日の時点では、三成は家康が来るとは思っていない、所在を把握していないとなる

これが飛躍だと思う。
三成は、家康はまだ来てはいないとは認識しているが(単なる現実)、
別に「来るとは思っていない」(予測)わけじゃないだろ。
「来たとは思っていない」だけで(単なる現状認識)。
264人間七七四年:2008/01/13(日) 02:30:41 ID:1F3mfIWa
>>263
来ると予測しているなら、輝元の出馬を促している
予測していない、近いうちに来ると認識していないから、あの文面なんだよ
これは飛躍でも何でもない

ちなみに、家康が尾張にいる時点での、この内容であるのも認識すべきだね

もう一度よく読みなおしたがいい


265人間七七四年:2008/01/13(日) 02:43:28 ID:CzTdi7Rr
いや、輝元の出陣はずっと頼んでるんじゃないの?
しかし本人の動く意志はあまりないみたいなので、
「来るかも」では動かせない。
「来ました」じゃないと。
でも三成が予測してなかったことにはならない。
「何月何日に到着予定」と明言できはなかったかもしれないが、
それをもって「"家康が来るのを"予想してなかった」とは言えない。

まあしかしあんたの言ってることは大体わかった。
こっちの言ってることは理解してもらえてないみたいだけど。
敢えて同意してもらう必要もないかな。
266人間七七四年:2008/01/13(日) 02:59:15 ID:1F3mfIWa
>>265
>いや、輝元の出陣はずっと頼んでるんじゃないの?
>しかし本人の動く意志はあまりないみたいなので、
>「来るかも」では動かせない。 「来ました」じゃないと。
ソース提示

>「何月何日に到着予定」と明言できはなかったかもしれないが、
>それをもって「"家康が来るのを"予想してなかった」とは言えない。
別に日付を明言なんて書いてない、要は9月14日に家康が赤坂に来るのを予測していたかが争点なんだが
>>190の「三成らは14日に家康が到着するのを想定していたと強弁するのだろうか?」 なんだよ

それに対して、「言えない」と否定する君は、言えないとする根拠がまるでない
三成書状からは、明らかに家康の状況を把握していないのが読み取れ、「家康不被上には、不入かと存候へ共」と書いてある
君のいう事は理解出来ないでなく、そう捉えるだけの根拠がないという事

来ると予想していたと言える事象なり史料なり示して、そういう判断に至る説明をすればいいだけ
否定する材料の提示皆無、解釈問題でもないのに、君が
>「"家康が来るのを"予想してなかった」とは言えない。
と強弁してるだけ

理解出来る訳がない
267人間七七四年:2008/01/13(日) 08:57:41 ID:CzTdi7Rr
別に書状に書いてなくたって状況から合理的に考えれば言える事。
書状にあるからこうである」
というのにこだわるは良い姿勢ではあるけれど、
「書状にないからこうではない」
は言えないでしょ。
単に書かれてないだけで。

戦争始まってるのに「来るわけがない」なんて考えは普通はしないと思う。
「家康不被上」は。「来ないのであれば」という仮定の話だと思った。
と言っても古語の読解は得意じゃない。
これが「家康は来ないに違いない。それ故〜」という意味にしかならないのであれば、
素直に勘違いだと認めるよ。

って言うか、
>要は9月14日に家康が赤坂に来るのを予測していたかが
日付を前もって正確に予測しないと対応が取れないわけじゃない。
それは争点じゃないよ。
家康が到着してから決断した(案くらいはあったかもしれないけど)作戦と考えれば、
野戦築城の明白な痕跡がなくても不思議じゃない。
268人間七七四年:2008/01/13(日) 09:49:12 ID:1F3mfIWa
>>267
>「書状にないからこうではない」 は言えないでしょ。 単に書かれてないだけで。
単に書かれていない?思いっきり家康の動向に関して言及している言葉なんだけど
これで書かれていないなんて言うのは、読めていないとしか思えない

というか屁理屈にもなってないんだが

>と言っても古語の読解は得意じゃない。
古語ってなんですか?
そもそも君は、この史料すら読んでなかったし、また>>258でも肝心な「家康不被上」には触れずに「尤」にだけ触れ、
不要と読むのかと、全く読めてないとしか思えないレスしかしてないんだが?

なので
>「家康不被上」は。「来ないのであれば」という仮定の話だと思った。
とはどう読み下したのか解説求む

>これが「家康は来ないに違いない。それ故〜」という意味にしかならないのであれば、
>素直に勘違いだと認めるよ。
「それ故〜」はどっから出てきたのか?普通に読み下すだけの捻りない文なんだけど

>日付を前もって正確に予測しないと対応が取れないわけじゃない。
正確にではない、近日中に家康が来るとは想定していなかったからこその文、君は「輝元御出馬無之事」の「尤」とは何か知っているのか?
というか、この三成書状に一度でも目を通した事はあるのか?

>家康が到着してから決断した(案くらいはあったかもしれないけど)作戦と考えれば、
その「考え」を出す上での根拠は?
君の考え≠三成らの考えであり、君の場合は家康が来たという事象を知っていて、家康が来たなら三成は予想していたに違いないというものでしかない
それを裏付ける、君の考えを裏付けるものが何一つない

だから何度も君の主張を裏付けるものを出してくれと書いてるんだが、今だに一切ない
>>266で要求したものですら無視、根拠もなく語るのを、こじ付けと言わず何と言うのか?
269人間七七四年:2008/01/13(日) 15:16:05 ID:GG8zVXgr
>>268
どうも議論をかみ合わせようという意志が感じられない。
こちらにも至らない点はあるだろうけど、
あんたの場合可能な限り相手の意図を読み取らないように努力しているように見える。

>とはどう読み下したのか解説求む
「読み下し」とは振り仮名の振り方とかのこと?
関係ないのでは。

>「それ故〜」はどっから出できたのか
単なる論理的なつながりを強調して書いただけだ。

>想定していなかったからこその文
そう考える根拠をもっと論理的に書いて欲しい。
結論ありきで理由付けがないように思う。

>その「考え」を出す上での根拠は?
その時点での戦力と配置。

>それを裏付ける、君の考えを裏付けるものが何一つない
家康が来ないと考える理由がない。
ところでこれを争点視するのはいい加減やめて欲しいんだけど。
自分の、大垣を出た時点で関ヶ原での迎撃戦の生起を予期していたと言う考えと
家康が赤坂に着陣するのを予期していたかは関係ない。
どうなんだと言うから想定外ってことはないんじゃないの、とは答えたが、
元々関係ない話だと思ってる。
関連してはいるが別々の二つの話を並行させられているようで閉口してる。
270人間七七四年:2008/01/13(日) 15:51:05 ID:1F3mfIWa
>>269
議論が噛み合う訳がないのは当たり前

至らない点があるというなら、他人に根拠を論理的と要求する前に、君の今までの主張の根拠の提示をすべきだろう
それを今まで一切無視してるのに、相手の意図を読み取らないと言うのは筋違いにも程が有る

意図があるなら、そっちこそ考えの根拠を、明確に提示すべきだろ?
結論ありきは君の方なんだが

>関係ないのでは。
>>267で君自身が
>>「家康不被上」は。「来ないのであれば」という仮定の話だと思った。
>これが「家康は来ないに違いない。それ故〜」という意味にしかならないのであれば、 素直に勘違いだと認めるよ。
と書いてるから、どう読み下したら仮定となるのか説明してくれと書いたんだが?
俺は君が読めてないとしか思えないが、君は「得意ではない」と書いてるからなんだが

これにすら全く返答がない、自分から否定したり絡んできたりしてるのに、それに対して問えば都合の悪い事は全てスルー
これでどう噛み合えと言うのか?

>その時点での戦力と配置。
で具体的に戦力と配置を述べてね、勿論、軍勢の数も陸軍参謀本部が算出した単なる数字ではなく、各史料からの算出等でだし、
当時の三成がその戦力や配置をどう捉えていたのか窺い知る史料を元にでの答えだよな

それでなければ、単に君の脳内理論でしかないんだが

>家康が来ないと考える理由がない。
君は基本的な史料にすら目を通しておらず、中身を知らないから、何故三成が家康が来ると思ってなかったのか知らないだけ
理由がないのではない、君が何も知らないのだよ
8月15日付の上杉景勝発給の、各奉行衆や秀家、輝元宛の書状を読めばわかるぞ
以前にもそれは書いたはずだがね

理由を「知らない」のと「ない」のでは雲泥の差なのだよ

>関ヶ原での迎撃戦の生起を予期していたと言う考えと家康が赤坂に着陣するのを予期していたかは関係ない。
関係あるんだが?
だから三成書状を挙げたりしたのだが、家康の存在如何でどうすべきか、どう対処すべきかと考えていたのかが書状から明確に読み取れる
付け加えて君の言う「理論的」に言うなら、東軍が不利な関ヶ原に無理してでも進行してくると思う根拠がない
というか「予期」という言葉を辞書で調べるといいぞ

で、君の主張を裏付けする補強する史料的解釈などがないのだが、たまには史料を使って、三成は項考えたのではないかとか、
こういう行動取るつもりだったのではないかとか、そういうのはないのかね?
俺は君の考えを聞きたいのではない、君が三成が「大垣を出た時点で関ヶ原での迎撃戦の生起を予期していた」と主張するからには、
それを裏付ける、証明する論拠を出してくれと書いてるんだが

いい?これが君には一切ない、君の合理的とかは、あくまで君がそう思ったに過ぎない
三成らがそう思ったという証明をしてくれと書いてるんだよ?理解できたかい?
271人間七七四年:2008/01/13(日) 16:03:33 ID:1F3mfIWa
訂正>>270の影勝書状の日付は8月20日の間違い
これ知らなかったのなら、挙げるけど今から出るので挙げれるとしても帰宅後だね

知らないなら知らないでいいから、はっきり答えてね
じゃないと三成書状みたいに、知ってるものとしての書き方になるから
272人間七七四年:2008/01/13(日) 16:04:16 ID:1F3mfIWa
再度訂正、8月25日だった、すまんね
273人間七七四年:2008/01/13(日) 23:31:38 ID:TWcz10n6
>>261
此度のご出陣いとしのびやかにおはしまして〜大垣に御着きありてのち
初めて旗幟などをしてたて、いとおごそかに見えければ上方勢初めて目を
驚かせじとぞ
274人間七七四年:2008/01/14(月) 01:41:57 ID:hzIh9D/o
>>273
ありがと

でも俺のは『改定史籍集覧』にある「慶長年中卜斎記」のコピーなんだけど、その一文を発見出来なかった
「板坂卜斎記」「慶長年中記」と違うのがあるので、それなのかも知れないし、俺の読み落としかも知れない
「卜斎記」のどの辺りにあるのか、日付で教えてくれるとありがたいのだが・・・

275人間七七四年:2008/01/17(木) 20:57:02 ID:dgHGCFaR
厨的発想なんだけど
関ヶ原各武将の武功ランキングって東西でどんな感じ?
やっぱ松平忠吉・井伊直政が抜けてんのかな
276人間七七四年:2008/01/18(金) 01:33:41 ID:+B+6TJau
>>275
福島正則が一番だろうというのが当時の認識だったらしい。
なんせ徳川が「安芸と備後だけでは少なすぎとか言い出したりしないだろうか」
とか言ってる位だし
277人間七七四年:2008/01/18(金) 13:47:42 ID:F+C1REuy
武功は上杉の抑えで下野に居た、結城秀康が一番恩賞(石高)を貰っている。
278人間七七四年:2008/01/18(金) 15:33:06 ID:YU9RwDqT
加増で言えば秀康忠吉蒲生なんかが凄いけど
親族関係とかあって良くわからないんですよ
本戦の戦功という意味では明石に押されたとか聞くけど
正面から戦った福島なんですかね?
279人間七七四年:2008/01/19(土) 12:47:33 ID:/277SmwB
>>275
西軍だと、島津義弘と立花宗茂が二強かな。
島津は兵少なすぎて単体では脅威ではないが指揮に参加したらね。
立花は十分な兵(一万余)いたけど、遅れた・・・
280人間七七四年:2008/01/19(土) 14:40:12 ID:7Drv2fQg
>>279
いや、関が原で上げた武功の話でしょう?松平忠吉の名前が出ているのだから。

その二人は関ヶ原より前の武功については見事なものだが、
おっしゃるとおりの理由で、関ヶ原では全く武功を上げていない。
281人間七七四年:2008/01/19(土) 15:09:45 ID:7gBUNBxC
東軍:金吾→脇坂→黒田・福島
西軍:三成→吉継&為広→宇喜田・小西

では?
282人間七七四年:2008/01/19(土) 15:52:20 ID:Aem/9H9S
小山からの関ヶ原の流れで言えば、福島が一番。2番は藤堂・黒田じゃね?
関ヶ原では金吾はガチ。福島は優勢な敵に倒されなくて、黒田・細川は優勢でも押し切れなかった。
金吾>>福島>黒田以下という感じ。

金吾カワイソス。
283人間七七四年:2008/01/21(月) 10:28:02 ID:qGyjgouF
小山で流れを作った福島、
裏工作での黒田、
本戦での小早川な訳だが、金吾は肝心なところで迷ったから
東軍や世評からも芳しい評判は得られなかったな。
284人間七七四年:2008/01/23(水) 10:13:31 ID:udPselcM
伏見城攻めて功績挙げてるしな
285人間七七四年:2008/01/29(火) 19:03:27 ID:fabu5s07
 
286_:2008/02/04(月) 00:14:02 ID:ty31wCE1
疑問です。家康の会津征伐の戦闘中に、三成が挙兵をしていたら
どうなっていたでしょうか?挟撃作戦は成功していたでしょうか?

史実は、家康が会津へ攻める前に引き返したとなっておりますが、
三成の挙兵のタイミングが、会津征伐の真っ最中であれば、家康も
相当打撃をこうむっていたのではないでしょうか?
287人間七七四年:2008/02/04(月) 00:16:08 ID:n8Zz2G4V
>>286
ヒント:家康も大阪の情勢をちゃんと見ながら進軍していた。
288人間七七四年:2008/02/04(月) 01:27:28 ID:mVfL27QV
タイミングとしてはちょっと早かったかもしれない。
とは言え、西軍は三成が挙兵するまで実体を持ってなかったわけで、不確定要因が多い。
ある程度早めに行動しないと手遅れになる可能性もあった。
289人間七七四年:2008/02/04(月) 01:39:55 ID:h100MflM
>>288
西軍もなんやかんやいいつつ、東軍に匹敵する数集めれたわけだし、かなり微妙だと思うね。
東軍武将は小山前で、領国心配だからとサッサと帰る可能性もあったわけだし。
290人間七七四年:2008/02/04(月) 03:30:19 ID:c4DGPfxq
>>286
そこまで引っ張ると、史実で西軍に参加した諸将の半数近くが会津征伐へ参加してしまい、
三成らが決起しても西軍を集めるのが難しくなる為
291人間七七四年:2008/02/04(月) 07:38:42 ID:Q5dyW2Ji
おれも286と同じように
上杉佐竹が徳川倒して西軍大楽勝!と
妄想してたが、みんな会津に行ってしまうのか
そうなると手遅れだな
やっぱ相対的にみないといけないね
292_:2008/02/04(月) 07:52:22 ID:smDtMVb8
>>286
面白い案。直江、上杉の会津を陥落させるには、2、3年は必要。
しかも9月時での会津の寒さは相当なもの。

会津征伐と称して、宇喜田、安国事、小西、大谷が関東を通過したときに
一気に反旗をひるがえし、江戸城を陥落させる。そすれば家康は孤立する。
そこで、上杉、佐竹と呼応し挟撃すれば、家康の首は取れてたと思う。
293人間七七四年:2008/02/04(月) 08:07:20 ID:n8Zz2G4V
>>292
ゲーム脳
294人間七七四年:2008/02/04(月) 08:49:58 ID:mVfL27QV
>>290
どの武将が行く予定だったんだっけ。
295_:2008/02/04(月) 21:10:56 ID:oyeNhccY
というか、そんな小手先のてよりも、利家や隆景の寿命が5年続いていたら
家康の天下はなかったという方がよっぽど説得力があるぞ。
296人間七七四年:2008/02/04(月) 21:32:25 ID:wYQQES3M
>>295
ギリギリのセンで豊臣家推戴が続いていく、と考えればそうだろう。
ただ5年延ばしても家康は存命だし、千姫輿入れもあり秀頼の養父格にまで権威は拡大する。
圧倒的な徳川閥形成は避けられないのでは?
297人間七七四年:2008/02/04(月) 21:47:40 ID:Jvt2dnkR
秀秋がちゃんと行動してれば、それで十分じゃないのか
それまでは互角な戦況だったんだろ?
298人間七七四年:2008/02/04(月) 22:05:25 ID:GzmYdtE0
一応、当時主戦場で戦っていたのは、西軍3万6千程度、東軍4万4千程度で防御体制だった西軍の地形効果
をかんがみれば特に別段西軍が奮闘したわけではない
299人間七七四年:2008/02/04(月) 22:18:00 ID:Jvt2dnkR
投入戦力は東軍が上で、攻める側だから兵の消耗も激しいだろう
そこに新手の一まんこえる部隊が投入されれば西軍に一気に傾くんじゃないのか
300人間七七四年:2008/02/04(月) 22:29:07 ID:GzmYdtE0
>>299
東軍も予備の家康本隊がいるので
301人間七七四年:2008/02/04(月) 22:31:55 ID:h100MflM
>>298
家康本隊も戦ってますが・・・。
302人間七七四年:2008/02/04(月) 22:34:52 ID:Jvt2dnkR
>>300
秀秋動けば周囲の警戒してた西軍も動けるようになるし、京極藤堂福島隊が順番に挟撃受ける
と、ここまで優勢でいくと毛利も動くんじゃね
秀秋動いた時点で、東軍は包囲される形になるし
303人間七七四年:2008/02/04(月) 22:36:48 ID:c4DGPfxq
秀秋が動けばと言い出したらキリがないだろ
松尾山に来た時点で西軍じゃないよ>秀秋
304人間七七四年:2008/02/04(月) 22:41:27 ID:GzmYdtE0
>>301
いや、陣場野に進出する前の状況。
305人間七七四年:2008/02/04(月) 22:46:48 ID:Jvt2dnkR
>>303
東軍でもないな
306人間七七四年:2008/02/04(月) 22:52:56 ID:n8Zz2G4V
そんなに西軍に勝たせたいのならもう家康の会津出陣前の政治状況からやり直せよw
そうしたほうがリアルだぞ。
307人間七七四年:2008/02/04(月) 23:00:29 ID:Jvt2dnkR
…西軍に勝たせるって流れじゃなかったのか?
というか秀秋一人の行動で多分に流れが変わるって事じゃん
308人間七七四年:2008/02/04(月) 23:20:27 ID:c4DGPfxq
>>305
いや東軍に近いと考えた方がいい
秀秋も毛利も動くとするなら西軍がよっぽど優勢にならなければ無理

>…西軍に勝たせるって流れじゃなかったのか?
ここはいつからIFスレに?

>秀秋一人の行動で多分に流れが変わるって事じゃん
東西両軍も史実どおり動くのに、秀秋だけタラレバ当てはめれば、そりゃ流れは変わる罠
309人間七七四年:2008/02/04(月) 23:30:30 ID:h100MflM
小早川に関ヶ原合戦直前に三成来て、恩賞ちら付かせなかったっけ?
家老の稲葉に10万石与えるとか言ってるので、やり方では西軍になっても
おかしかないと思うんだが。
310人間七七四年:2008/02/04(月) 23:35:56 ID:Jvt2dnkR
>>308
東軍に誓いとかは、結果知ってるから言えることじゃ?
スレとは言ってない、流れといってる
そんな屁理屈いってるんじゃなくてさ
それだけ秀秋の存在がでかいって事じゃん
秀秋の寝返りが実行されずに、逆に東軍に突っ込めばという過程なら、東西両軍はそれまでは史実(何が史実かわからんが)どおりに動くのは当たり前じゃないか
311人間七七四年:2008/02/05(火) 00:03:30 ID:o1fE/JnN
>>310
君の言っていることも結果を知った上での仮定でしか無いが。
312人間七七四年:2008/02/05(火) 00:37:23 ID:916sXxE1
>>310
小早川が東軍に近い存在だったってのは、結果的に裏切ったからってわけじゃなく
すでに伏見攻め以降の動きが明らかに西軍諸将を無視したものであり、東軍寄りであることから。

伏見では戦功を挙げたにもかかわらず、三成に冷遇されたとか諸説あるが、

伏見攻め後、伊勢路への参陣を三成に指示されるがこれを無視
不可解な軍移動をした上で西軍が確保していた拠点である松尾山を占拠
「松尾山の新城に入り、その城主伊藤長門守某を追い払う。 」

そもそもこの松尾山には、三成が増田長盛に出した書簡に、
「松尾の御城、いずれの御 番所(郭)にも中国衆入れおかれるべき」
と、毛利勢を入れる予定だった場所。
313人間七七四年:2008/02/05(火) 00:56:51 ID:NeoBXhoh
>>310
>秀秋の存在がでかい
確かに松尾山という位置に総勢八千近くの小早川勢は大きい
だからこそ家康は事前に十分な布石して関ヶ原まで進出してる

西軍は秀秋に対して、捕縛するはずだったとか色々やろうとしてるけど、結局何も出来ず松尾山占拠まで放置状態
占拠されて慌てて行動開始している、これだけでも十分に差がある

>秀秋の寝返りが実行されずに、逆に東軍に突っ込めばという過程なら、
>東西両軍はそれまでは史実(何が史実かわからんが)どおりに動くのは当たり前じゃないか
その仮定がおかしいと何度も書いてますが
東軍に突っ込むと思われるほど秀秋の態度が怪しいのなら、東軍は関ヶ原に出てこない
だから秀秋だけにタラレバ持ち込むのはナンセンスと書いてるでしょ?
314人間七七四年:2008/02/05(火) 00:57:39 ID:a55UeMJz
小早川の動きは、西軍として指揮下に入っていたと考えるには怪しい点が多く、
既に寝返るつもりでいた可能性は高い。
ただ、日和っていたのも否定できない事実で、
なにか一押し、小早川を東軍に突っ込ませる策はなかったのかと思わなくもない。
315人間七七四年:2008/02/05(火) 01:02:24 ID:9phxZSUz
家康は秀秋の密使をスルーしている事からわかるように、
100%信用していない。そりゃ、豊臣家の連枝なんだから。
木下家は西軍ついたり、中立だったり、逃げ出したりしているわけで、
だから、秀秋は東軍も当てにしていないし、西軍も当てにしていないと思うんだけど。
316人間七七四年:2008/02/05(火) 01:06:33 ID:916sXxE1
あてにしてないどころか警戒して布陣してるんだけどね
317人間七七四年:2008/02/05(火) 01:08:02 ID:NeoBXhoh
そりゃ家康も味方してくれると全面的に信用した訳ではないだろうが、
少なくとも毛利と同じく傍観するぐらいの確証があったと考えるのが妥当
318人間七七四年:2008/02/05(火) 01:09:11 ID:a55UeMJz
要は秀頼を引っ張り出せるかどうか、
秀頼が無理ならせめて輝元を引っ張り出せるかどうか、で
かなり勝負が決まっちゃってたのかもしれないな。
毛利の本隊が出てきたらさすがに裏切れないんじゃないかな。
319人間七七四年:2008/02/05(火) 01:21:17 ID:r4lEMN+q
金吾が傍観なら東軍が押し切っただろうな
史実ほどの大勝じゃないとしても
320人間七七四年:2008/02/05(火) 01:23:06 ID:o1fE/JnN
>>318
その輝元も家康と裏で通じていた訳だが。
321人間七七四年:2008/02/05(火) 01:27:52 ID:a55UeMJz
>>320
「裏で通じて」いたら減封とかないだろ。
もしくは、簡単に反故にできるような「通じ」方でしかなかった。
322人間七七四年:2008/02/05(火) 01:35:33 ID:o1fE/JnN
>>321
それでも「主将が戦場に出てこない」「戦場で動かない」程度の効果はあったわけだが?
323人間七七四年:2008/02/05(火) 01:40:42 ID:a55UeMJz
>>322
史実ではそうだった。
これを何とかできなかったのが敗因の一つであると。
324人間七七四年:2008/02/05(火) 01:45:11 ID:a55UeMJz
というか、輝元の思惑が、
家康を信じ、東軍に通じてのものだったのかどうかは定かじゃないな。
家康の工作の成果であると一般には信じられているけど。
325人間七七四年:2008/02/05(火) 01:46:01 ID:o1fE/JnN
>>323
何とかした所で、そこを何とかすれば東軍もまた別の戦略をとるだけの話だぞ。
東軍も馬鹿じゃ無いんだから。
326人間七七四年:2008/02/05(火) 02:17:15 ID:NeoBXhoh
ちょと誤解している節があろので解説すると
・輝元は直接ではないが家康と通じていたのは確か
・大坂から出れなかった直接の理由は、増田長盛の謀反の噂(長盛は確かに東軍に通じていた)のと、
 三成が出陣要請をほぼしていないのと、大坂の豊臣家が西軍に加担してくれなかったから
 勿論、東軍との交渉も要因の一つだろうけどね

で戦後に所領安堵が反故にされたのは、東軍の圧倒的勝利と伊予侵攻がある
だから>>321の主張も>>322の主張も間違っちゃいないと思われ

問題はこれが「何とか出来なかったのか?」というレベルか否かかと
327人間七七四年:2008/02/05(火) 07:31:36 ID:WtWjXhV4
東軍完勝の報に輝元はものすごく驚いた、という話もある。
元来輝元の戦下手、情勢知らずと解釈されてきた。
密約の破綻を見越しての、落胆だったかも知れないな。
328人間七七四年:2008/02/05(火) 08:34:38 ID:rZhNzi8z
>>311
東軍よりという見方も結果からの推測と認めてくれるのね、どうも

>>312
伏見ではしっかり西軍として動いてるわけで
なんでそこで伏見での動きを無視するのか、しっかり説明してよ
そりゃ都合よく期間区切れば東軍よりと見れるかもしれないけど、その区切ることの妥当性が必要でしょ?

>>313
東西両軍の差と、秀秋の動きは直結するのか?
ちょっと意地悪く見ると、そこまで決め細やかに対応してるのに、すぐに東軍に寝返らなかったのは、西軍にたいする思いも強かったって事じゃん

ここ数十レスしかみてないから、過去ログに書いてるならごめんね
でも俺に言ったのは初めてだと思うんだけどね
何度もと言われるのは心外だ
「東軍に願える動きをしている」のに「東軍が関が原に出てこない」というのはよくわかんないんだが
むしろ西軍を討つチャンスじゃ?
そもそも、それだけ秀秋の去就が不安定だから合戦中に東西どっちにいくかわからんと
それを織り込んで東西両軍は行動してるんだから、合戦以前にまで仮定を引き戻すのは妥当とは思えんが

>>314
可能性が高い、そう思う根拠を話さないと議論にならないじゃん

329人間七七四年:2008/02/05(火) 09:20:48 ID:NeoBXhoh
>>328
>「東軍に願える動きをしている」のに「東軍が関が原に出てこない」というのはよくわかんないんだが
動きだけではなく事前交渉もある
しかし君は秀秋が東軍に襲い掛かると、何の脈絡もなく仮定しているので、東軍に襲い掛かるような可能性あるなら、
東軍が関ヶ原に出てこないと書いたんだが

東西どっちに行くかわからんのではない、関ヶ原直前では明確に西軍ではない
はっきりしなかったのは、東軍として行動するか否かだけ
秀秋の去就も不安定だと君が思ってるだけで、>>312も書いてる伏見以降は西軍として動いてないし、
転封問題等も踏まえての事

東軍に寝返る動きをし、事前交渉で有る程度の確信もったので(毛利も含め)、大垣から出た西軍を追ったのであって、
東軍に襲い掛かると思える節があるなら、家康が追わないという事

というか
>合戦以前まで仮定を引き戻すのは妥当とは思えんが
これの意味が不可解
君の言葉を借りれば、秀秋が東軍に襲い掛かる可能性があったと思う根拠を話さないと議論にならないのだが
秀秋と家康らの付き合い上知りえた性格等、色んな要素で判断したのを、君はひっくり返した仮定してるのだからね
それに合戦で仮定するのが何故妥当なのか、詳しく説明を乞う
330人間七七四年:2008/02/05(火) 09:31:56 ID:J8l1KthQ
>>326
輝元は直接ではないが家康と通じていたのは確か>確かという程の証拠はない。
どこぞの文書に吉川が中納言様(輝元)もご存知云々・・・て書いてあった程度
と覚えているがどうか。
仮に輝元の指示で吉川が動いていたとしても、交渉相手は黒田な訳で直接でない。
輝元としては後々の収拾のための保険と考えての行動で西軍の敗北を望む訳無し。
また関ヶ原までは毛利一族は普通に戦ってるし、秀元が知らなかった点を考えると
関ヶ原の不戦は吉川の独断と見るのが自然、時間的に輝元の許可を受けるのは
ムリ。
正式な和睦が成立してないのに自分達の味方を敗北させて毛利を不利にした吉川が愚か。
輝元か大津攻めの毛利軍が到着していれば、どうなったかは興味深い。


331人間七七四年:2008/02/05(火) 10:10:29 ID:NeoBXhoh
>>330
>確かという程の証拠はない。
黒田長政発給書状など残ってるが????
直接ではないと書いてるし、関ヶ原の傍観に関して輝元の許可得たとも書いてないが????

正式な和睦が成立してないとか吉川が愚かと断言するのは史料を知らずに言う台詞
332人間七七四年:2008/02/05(火) 11:39:34 ID:J8l1KthQ
黒田長政発給書状など残ってるが>吉川と黒田の交渉があったのは確か。
輝元関与に関しての確かな証拠がないとの意味。
後段は私的な考え。
正式な和睦が成立してないとか吉川が愚かと断言するのは史料を知らずに言う台詞>
毛利と徳川の正式な和睦と断じるなら史料の提示を願う。

333人間七七四年:2008/02/05(火) 12:18:00 ID:NeoBXhoh
>>332
>輝元関与に関しての確かな証拠がないとの意味。
佐々部一斎留書には「私の儀は甲州累年懇切候間、一旦申遣はさず候段曲無く存じ、此儀中納言御存じ無く候・・・」
と確かにある

>毛利と徳川の正式な和睦と断じるなら史料の提示を願う。
関ヶ原を知ろうとする人なら必ず目にするはずの九月十四日付の吉川広家・福原広俊宛の井伊直政・本多忠勝連署の誓書
それと九月十九日付の福原広俊宛の毛利輝元発給書状

これを正式ではないと断じるなら、「正式の和議」の詳細を求む
334人間七七四年:2008/02/05(火) 12:20:20 ID:rZhNzi8z
>>329
もうちょっとまとめてくれると読みやすくてうれしいんだけど
とりあえず確認だけにとどめとくよ

家康は秀秋が寝返ると確信していたので、関が原に出てきた
ということね?

実際に秀秋は去就を決めかねてた
ここまでは異論ないよね?
ただし、ここで迷っていたのは「西軍に突っ込むべきか否か」というのがあんたで、「東軍か西軍か」というのが俺様
俺様の理解に立てば、合戦以前にまで仮定を引き戻すのが妥当とはいえないよな?
そんなに不可解かな?
理解しようとしてないだけじゃない?
335人間七七四年:2008/02/05(火) 12:31:25 ID:NeoBXhoh
>>334
君の理解の根幹が不明
秀秋の関ヶ原までの史実の行動から東軍に突っ込むという仮定は西軍が優勢で無ければ無理と書いた
秀秋は去就を決めかねていたというより、関ヶ原合戦で軍を動かすと言う直接介入を躊躇したと考えてる

というか「家康は秀秋が寝返ると確信していたので、関が原に出てきた」ではなく、
東軍として行動するか否か

結論言えば、君の思考の根拠が何らないのに、理解しろと言うのは無理
336人間七七四年:2008/02/05(火) 12:55:38 ID:rZhNzi8z
>>335
だから?
「というか「家康は秀秋が寝返ると確信していたので、関が原に出てきた」ではなく、
東軍として行動するか否か 」
をまとめると、どういうこと?
お前さ、人に自分の考えを理解してもらおうと思ってないでしょ?
ただただ反論したいだけに見えるけど
337人間七七四年:2008/02/05(火) 13:13:47 ID:NeoBXhoh
>>336
>お前さ、人に自分の考えを理解してもらおうと思ってないでしょ?
>ただただ反論したいだけに見えるけど
そっくり返す

繰り返すが根拠も無い妄言を他人に理解しろというのは無理
他人に理解して貰いたければ、論理的な思考表現である主張・根拠・説明の三角ロジックで解説ぐらいして欲しいもんだ

>どういうこと?
そのまま
東軍は秀秋が東軍として参戦するのを期待してた訳ではないが、
少なくとも秀秋が傍観するであろうという確信もって関ヶ原まで進出した
最初に書いてるけどな

で君は東軍に突っ込む突っ込むといい、俺様の理解に立てばと意味不可解な事しか書いてない
どう考えても「人に自分の考えを理解してもらおうと思ってない」ねw
338人間七七四年:2008/02/05(火) 13:27:06 ID:O+sZ6CAg
なんか色々書いてあるが最近では

・伏見城攻めには小早川は攻め手として参加
・その後家康に詫び状
・この時点で事実上西軍の指揮下から離脱、言い方変えれば東軍に内通
・ただし表面上は曖昧な態度であったため西軍首脳部も対応できず
・大垣城での対陣中に突如として松尾山占拠
・これに驚いた大垣に詰めていた西軍主力が退路確保のため関が原に転進
・これを追って東軍は関が原にむけ追撃
・関が原にて開戦

じゃなかったか
松尾山占拠した時点で自分たちの退路を断つ小早川を西軍は敵としてしか見ないし
小早川もあらためて西軍にはつけんだろ
339人間七七四年:2008/02/05(火) 13:27:53 ID:J8l1KthQ
吉川広家・福原広俊宛の井伊直政・本多忠勝連署の誓書は承知。
福原広俊宛の毛利輝元発給書状のどこをどう読んだか披露願う。
340人間七七四年:2008/02/05(火) 13:28:21 ID:916sXxE1
>>328
>伏見ではしっかり西軍として動いてるわけで
>なんでそこで伏見での動きを無視するのか、しっかり説明してよ
>そりゃ都合よく期間区切れば東軍よりと見れるかもしれないけど、その区切ることの妥当性が必要でしょ?

伏見での戦功を三成が認めなかった、褒賞を渋った等々の諸説あるが
伏見以降は完全に西軍の指揮下から外れてる事実と、西軍旗下の部隊を追い出して
西軍が重要視して毛利をいれようとしていた松尾山に入城した事実を無視するのはどうだろう。

秀秋自身は家康に内通する密書をだしてるし(家康には無視されてるが)
三成は松尾山に入った秀秋を警戒して吉継に松尾山麓に鉄砲隊を貸し出して布陣させてる。

西軍諸将ですら秀秋は西軍というより中立であるかの如く対応し、三成もギリギリまで使者を出し
参戦を促している。

秀秋が旗色を鮮明にしていないのはもちろん有利な方に肩入れするつもりだったろうし
西軍が東軍を押し始めれば、伏見での戦功を盾に西軍として加担しただろう。
341人間七七四年:2008/02/05(火) 13:46:58 ID:NeoBXhoh
>>338
西軍が秀秋を敵としか見ないと言うのは言いすぎと思う
東西両軍とも十四日の時点で秀秋への工作を行っているからね
これを秀秋がどう捉えたかなんだが、条件的には西軍のが破格であり、確かにいいが、
転封問題等から秀秋の西軍の三成らへの信用度と家康への信用度とどっちを取るかなんだよね、結局は

ここで家康の「律義者」とという風評が大きく影響したと考えられるけどね

>>339
>福原広俊宛の毛利輝元発給書状のどこをどう読んだか披露願う。
まず内容を知っているか否か
知らないのであれば書くが、知っているのであればどこをどう読むというのは、おかしな返答になるのだが

というか内容に一切触れずに「どこをどう読んだか御披露願う」とは返答としてはおかしい
君は>>330>>332で「確かな証拠は無い」と言いつつ、こちらが挙げた史料に対して答えてない
これでは知ってて否定しているのではなく、知識がないので知らないようにしか見えない
なので、少しは内容に触れて反論して欲しいのだが
342人間七七四年:2008/02/05(火) 14:22:49 ID:J8l1KthQ
言葉使いで誤解されているようなのでまず、謝っておこう。
当方は下手の横好きで関ヶ原関係の資料や本を濫読している。
当然趣旨や内容については理解したつもりでいるが史家ではないので
資料収集に専念もしていない、どこのどれに載っていたの議論は貴公
に及ばない。
だが貴公の様に正式な和議成立と断じた史家や資料を知らない。
輝元が裏交渉を指示していたことについては否定はしていない。
和議の成立というのは総大将の指示、了解の下に結ばれたものが
成立と理解している。
輝元の指示で和議を家康と関ヶ原前に結んだという資料があると
いうことならご教示賜りたいという意味で書いてる。




343人間七七四年:2008/02/05(火) 14:52:22 ID:NeoBXhoh
>>342
>どこのどれに載っていたの議論は貴公に及ばない。
>輝元が裏交渉を指示していたことについては否定はしていない。
そうではなくて、「輝元関与に関しての確かな証拠がない」と存在を否定していたので、こちらは存在の証明をしただけですよ
それについての返答がないと書いただけで

>和議の成立というのは総大将の指示、了解の下に結ばれたものが成立と理解している。
おk、それが君の解釈と言う訳ね
で肝心の福原宛の書状の内容を知っているか否かの返答がないのだけれど・・・
それによって説明の仕方が違うもので・・・

10ある内の5を知ってる人への説明、8を知ってる人、3を知ってる人、それぞれ説明が違ってくるのでね

それと
>輝元の指示で和議を家康と関ヶ原前に結んだという資料があるということならご教示賜りたい
予め書くけど、輝元が和議を指示したと明確に書いてる史料は無いよ
344人間七七四年:2008/02/05(火) 16:41:21 ID:rZhNzi8z
>>337
おまえも主張の根拠を俺に提示してないだろ
まるで既に俺にレスしたかのように言ってるけど
相手の見解に起って物事を見る力がないのに論理的ねえ
とてもお前には無理そうだが

俺が聞いてるのは、「秀秋の去就」と「家康が合戦場まで来たこと」の関連性
秀秋が参戦するのを期待してたかどうかは、このふたつには関係ないな
秀秋が西軍に見方することは無いと推測したから、家康は関が原に来たんだろ?
と、まあこういう風に「主張・根拠・説明の三角ロジックで解説」してもらいたかったもんだ
本当に人の文章読むきがあるとは思えないがね
お前が不可解だというから、解釈の仕方を説明したんだろう
だのに、その根拠が意味不明だの、ずれまくりの反論もどき
おまえとはまともに意志の疎通ができるとは思えんわ
ずっと独りよがりに妄言はいてろ
345人間七七四年:2008/02/05(火) 17:22:09 ID:O+sZ6CAg
>>344
横レスだが、東軍が関ヶ原に入ったのはある程度はギャンブルではあるが
・小早川がを奪い街道封鎖できる状況
・松尾山を奪うという行為をした小早川が再度短期間で西軍につくことは考えずらい
・本来主戦場となるはずだった大垣城を見捨てることは烏合の衆の西軍には難しい
・南宮山は吉川が内通(実質様子見ではあろうが)
・西軍主力は石田・宇喜田
・田辺城落城の報告を東西両軍がうけている
・戦場に近い伊勢大津城で戦闘中
・秀忠の軍勢を待つ時間がない
・関ヶ原に入った西軍より数では圧倒できている
ここらへんのトータルでの関ヶ原進軍だと思うが
スレの上のほうでも議論されてるから読み直してみたら
はっきりいってスゲエ読みづらいがw
346人間七七四年:2008/02/05(火) 17:26:19 ID:NeoBXhoh
>>344
何度も書きます、根拠も無い妄言を見解とは言いませんw
見解なら、どうしてそういう見解になったのか、その根拠があるから
しかし君にはありませんので、ただの妄言

>俺が聞いてるのは、「秀秋の去就」と「家康が合戦場まで来たこと」の関連性
>秀秋が参戦するのを期待してたかどうかは、このふたつには関係ないな
何が言いたいのか意味がわからん

秀秋が関ヶ原に来たのは14日、家康が美濃に到着したのは13日
こっちが話してたのは関ヶ原に進出するか否かの話
日本語が通じない相手は難しい・・・

>秀秋が西軍に見方することは無いと推測したから、家康は関が原に来たんだろ?
>まあこういう風に「主張・根拠・説明の三角ロジックで解説」してもらいたかったもんだ
>、解釈の仕方を説明したんだろう
?三角ロジックになってない、どこが三角ロジックなのか教えて欲しいもんだw
しかも解釈の仕方の説明って、何をどのように説明したのかね?w

まぁ毎度の輩なのはわかってたけど、ここまで腹筋ブレイカーだとは思わなかったw
あー、笑った
347人間七七四年:2008/02/05(火) 17:29:19 ID:O+sZ6CAg
なんだ?
ずっと上で議論してた人たちだったのか?
348人間七七四年:2008/02/05(火) 17:36:39 ID:NeoBXhoh
まぁID:rZhNzi8zは自分のレスを最初から読み直したがいいなw

ID:rZhNzi8zが関ヶ原で秀秋が東軍に襲い掛かると仮定
        ↓
そうなるなら東軍も関ヶ原まで追ってこない、秀秋だけタラレバ持ち込むのはナンセンス
        ↓
秀秋が去就を迷ってる
        ↓
色んな人が秀秋が東軍寄り、西軍ではないと説明
        ↓
それに対してID:rZhNzi8zは「東軍か西軍か」というのが俺様、俺様の理解に立てば、合戦以前にまで仮定を引き戻すのが妥当とはいえない

で結末が>>344
何が言いたいのかサパーリw

>>347
議論という高尚なものはしてないよ
349人間七七四年:2008/02/05(火) 22:19:18 ID:9phxZSUz
重臣が勝手にだした密書の返事が来たという報告書だけで、
輝元が寝返るった判断キツクないか・・・?
輝元は状況違うのに明確に指示していないし。
350人間七七四年:2008/02/05(火) 23:03:08 ID:NeoBXhoh
>>349
その通り
でも挙げた史料の件は、黒田との交渉を輝元承認の元で続けたのを証明する為に提示したのであって、
輝元が寝返った判断云々ではないよ
それと毛利は東軍か西軍かの二元論で捉えない方がいいかと
351人間七七四年:2008/02/05(火) 23:04:15 ID:o1fE/JnN
毛利家は当主の独裁権が弱いもの。重臣押さえればその行動が著しく制約されるのは誰だってわかる。
352人間七七四年:2008/02/06(水) 00:25:27 ID:T4ckswis
>>339
横槍だけれど、福原広俊宛の毛利輝元発給書状に興味あり。
内容を教えてください。
353人間七七四年:2008/02/06(水) 11:52:22 ID:jDbH8r3o
>輝元は直接ではないが家康と通じていたのは確か
>正式な和睦が成立してないとか吉川が愚かと断言するのは史料を知らずに言う台詞
>「輝元関与に関しての確かな証拠がない」と存在を否定していたので、こちらは存在の証明をしただけですよ
>予め書くけど、輝元が和議を指示したと明確に書いてる史料は無いよ
同じ人の書き込みだと思うけど、ちょっと良く解らない。
輝元は吉川に黒田を通じて家康との交渉を指示。
吉川は黒田等と正式な和睦を結ぶ。
→吉川広家・福原広俊宛の井伊直政・本多忠勝連署の誓書
 九月十九日付の福原広俊宛の毛利輝元発給書状
吉川は正式な和睦を結んだのであって愚かではない。
しかし、輝元が和議を指示したと明確に書いてる史料は無い。

て言うことでいいのかな???



354人間七七四年:2008/02/06(水) 12:57:12 ID:uOJXF9Xk
何がよくわからないかが>>353では全くわからない
同じかどうかはID見りゃわかる

そして毎度の事ながら日付変わってID替わると振り出しに戻る
355人間七七四年:2008/02/06(水) 13:28:46 ID:/wy6tCSq
敵方と交渉することは敵方の情報を入手する意味合いもあるからね
吉川が徳川と交渉したこと、吉川が輝元の了承をえたこと、輝元が和睦を考えていたこと
以上のことはイコールであるかもしれないがイコールではないかもしれない
最終的には本人にしかわからんよ
356人間七七四年:2008/02/06(水) 16:09:32 ID:0EJFp98N
思考停止
357人間七七四年:2008/02/06(水) 16:40:06 ID:QflsKnei
福原、宍戸、益田はじめ毛利家中としては反対だったみたいで、
「今回のことは輝元関係ないんで・・・」見たいな文書を送っている。

ただ、毛利輝元自身は鉢開き坊主主導のもと、けっこう乗り気だった可能性もある。
そして、宍戸については阿野津城で分部光嘉と一騎打ちをして重傷をおっているので
おそらく内応にはあまり関与していなかったと思う。内応を主導したのは福原と吉川広家の
両名だろう
358人間七七四年:2008/02/06(水) 18:23:11 ID:zC4hf57u
福原広俊宛の毛利輝元発給書状は非常に興味あり。できればご教示してもらいたいけど。

359人間七七四年:2008/02/06(水) 23:34:26 ID:T4ckswis
>>352
>>358
と、思うんだがなあ。
360人間七七四年:2008/02/07(木) 01:26:36 ID:z8EpVh5y
挙げてもいいけど、>>352 ID:J8l1KthQの返答次第
>福原広俊宛の毛利輝元発給書状のどこをどう読んだか披露願う。
とまで書かれてるので、彼は知ってるのだろうと俺は解釈してるので
でなければ、どこをどう読んだかなんて言えないしね

興味あり待てない人は『戦国史料叢書』「毛利史料集」の「関ヶ原陣輯録」にありますんでどうぞ
361人間七七四年:2008/02/07(木) 09:27:37 ID:drwaVRSt
戦国史料叢書 全21冊(1期・2期)揃セット 150000円
高杉、図書館だな。
362人間七七四年:2008/02/08(金) 13:00:12 ID:EhgzLBuJ
結論、輝元が和議を指示したと明確に書いてる史料は無い。
363人間七七四年:2008/02/08(金) 14:24:06 ID:xAkdxadf
そう書いてるけどw
まさか「和議の成立というのは総大将の指示、了解の下に結ばれたものが成立」と言いたいだけなのかいな?

そんな定義付けしたのを見た事も聞いた事もないけどね
双方がどう認識していたかが重要なんだけど、たぶんこんな事書いてもわからないんだろうけどね
史料を読み漁るという基本的な事も出来てないようだから
364人間七七四年:2008/02/08(金) 19:38:29 ID:8nVRWakn
成立という表現はあまり適当ではないとは思うが。
365人間七七四年:2008/02/08(金) 22:50:31 ID:xAkdxadf
>>364
>>342に言ってくれ
366人間七七四年:2008/02/09(土) 00:59:25 ID:xcvue4pK
史料を読み漁るという基本的な事も出来てないようだから 。
367人間七七四年:2008/02/09(土) 03:31:15 ID:C9qZDL/6
松野重元の漢ぶりには、泣けた。小早川秀秋って本当に馬鹿だな。
368人間七七四年:2008/02/09(土) 12:16:46 ID:uUwZeixc
>>367
彼の話を見ていると秀秋はタイミングを見計らって日和見してたのではなく
ただ単にあの時期に及んでも家中をまとめれず先端を開けなかったのではないかと思える
369人間七七四年:2008/02/09(土) 12:23:52 ID:PzxjYq/D
相手の総大将及び主力軍が内通ってそれは内通という表現をすべきなのか?



370人間七七四年:2008/02/09(土) 12:26:59 ID:lD+8fHqH
>>369
事実上の主導権者が別にいるんだから、内通と呼んでいいだろ。
371人間七七四年:2008/02/09(土) 12:31:54 ID:S9pLnWGC
>>369
毛利家と限定しないと西軍主将としての意見じゃね?
とりあえず、東軍と渡りつけとく考えあってもおかしくない。
それも和議の交渉だしね。

それを吉川その他重臣がかってに拡大解釈したとみるのが
矛盾のない見方だと思うけどね。

そもそも、密書だした内容が全然現状とかみ合っていないわけで。
372人間七七四年:2008/02/09(土) 13:02:31 ID:PzxjYq/D
家康対前田利家の時も和戦両方の勢力がいて、結局戦にはならなかったが
毛利も同じじゃないの? 
あそこまで一方的にならなければ応仁の乱みたくなってたりして。
373人間七七四年:2008/02/09(土) 14:13:22 ID:NqQ3b67v
>それを吉川その他重臣がかってに拡大解釈したとみるのが
>矛盾のない見方だと思うけどね。
現存する吉川と黒田の書状をよく確認する事だね
374人間七七四年:2008/02/09(土) 15:25:18 ID:zDEwe2z6
とりあえず今の史家なり研究者においてはどっちの解釈が大勢なんだろうか?
375人間七七四年:2008/02/09(土) 15:25:36 ID:S9pLnWGC
吉川:輝元関係ないよ。
黒田:合い分かった。くれぐれも戦に出ないように。
って内容の事?
376人間七七四年:2008/02/09(土) 15:45:36 ID:NqQ3b67v
>>375
“現存する”吉川と黒田の書状
7月から9月までの書状を調べればわかる
377人間七七四年:2008/02/10(日) 00:37:37 ID:vBSmJEj2
史料を読み漁るという基本的な事も出来てないやつは来るな。
378人間七七四年:2008/02/10(日) 01:54:09 ID:eDbVyi7n
毎度の粘着君が日付替わってID替わるたびに煽る事で鬱憤晴らしてるのを見ると心地いいなw
379人間七七四年:2008/02/10(日) 01:54:32 ID:fkzYtnAh
>>377
そういう無駄な言説でスレを埋めてもしょうがないと思うが。
380人間七七四年:2008/02/10(日) 02:12:04 ID:Cqjyn/Aj
別に輝元は輝元で光成とは違って戦を進めつつ落とし所を考えてただけじゃね?
それがこの時代では普通じゃないの?
輝元が内通していた、いやしてないの議論って意味がないのでは?


381人間七七四年:2008/02/10(日) 07:45:07 ID:bXuRTMoC
三成とは違ってってその三成の戦略をどういうものと
想定してるのか知りたい……横にそれるが
382人間七七四年:2008/02/10(日) 07:55:30 ID:3xrnDy5Y
三成がどうあれ、輝元は三成とは違う方針なのは間違いないだろうに。
383人間七七四年:2008/02/10(日) 08:05:40 ID:bXuRTMoC
そりゃ完全に一致してたらあんなぐだぐだになってないよ
自分が気になったのは>>380のレスが三成は落としどころとかの
考えを端からしてないみたいに読めたから、>>380は三成の
戦略はどんなものだったと考えているのかなと思っただけ
384人間七七四年:2008/02/10(日) 08:20:32 ID:3xrnDy5Y
>>383
「戦略」以前に「目標」が違うんじゃね?
三成は家康の追い落とし、排除を目指していたけど、
輝元は家康を滅ぼす事は考えていなかった。
385人間七七四年:2008/02/10(日) 08:27:22 ID:Cqjyn/Aj
>383

光成と違っての意味が誤解されたみたいだね。光成だって落とし所を考えない無能ではないでしょ。
多分わかっていると思うけど「光成とは別に」と書いておけばよかったね。

別に古今東西保守派と積極派や対話路線と圧力路線といった組織内の意見相違は
あるものだから、輝元が和議派か戦派かなんて議論しても両方とも考えていたで終わりでは?
386人間七七四年:2008/02/10(日) 09:02:30 ID:Cqjyn/Aj
ここは詳しい人が多そうだから聞きたいんだけど
もし、毛利が関ヶ原後も抗戦しようとしていた場合は小早川は毛利を攻めるのかな?
隆景が死んだとはいえ、家臣レベルではまだ毛利とは関係が深いと思っているのだが
隆景の死によって完全に毛利の意思決定から小早川は排除され独立している?
387人間七七四年:2008/02/10(日) 09:11:12 ID:3xrnDy5Y
>>386
「秀秋に毛利本家を継がせる」くらいのこと言えば嬉々として攻めに行くだろ。
388人間七七四年:2008/02/10(日) 10:07:28 ID:eDbVyi7n
>>380
内通していたしてないの議論が意味が無いという指摘は正しいと思う
けど、それが争点ではないんだけどね

>>383のいう三成や輝元の「目標」が明確にわかる訳ではないが、少なくとも
三成は家康の失脚、政権からの完全な排除をしなければ、三成らの今後がないのは確か

で問題なのは輝元
三成襲撃事件の際に三成の軍事行動要請を断って、上杉景勝との連携による仲裁を図り失敗し、
家康による裁定になってしまった経緯を考えると、軍事行動による家康排除を極力控えていたとも考えられるし、
逆にこの失敗から軍事行動を起こした上で、政権における輝元の政治的立場の強化、最低でも家康と対等な立場を目指したとも考えられる
というか、関ヶ原における輝元の意思が明確に示されていないので、はっきりどうとは言えないんだよね

これは黒田を通しての交渉において、早くから本領安堵の条件を出してたりして、和睦交渉しているのに、
その交渉役を任せている吉川広家に対して、伊勢攻略等攻撃を控えるような指示を出していない
勿論、毛利側がそういう証拠を処分している可能性もあるが、黒田から行動を自重するような書状書かせるほど、
毛利勢の動きは攻撃的に見えるんだよね
それを踏まえると和戦両方のスタンスを取るあまり、あまりに中途半端な態度しか示していないのでは?と思う
それが結局は関ヶ原における毛利勢の傍観という結果に現れたんじゃないかと

>>386
隆景隠居の際に、旧来の小早川家の家臣、所謂三原衆は隆景に付いて行き、秀包に従ったりで、
秀秋の小早川家は完全に毛利とは別家、毛利支族でなく毛利家と対等の豊臣連枝と考えた方がいいかと
389人間七七四年:2008/02/10(日) 14:51:02 ID:Cqjyn/Aj
>388

そうなんだ 隆景の隠居によって旧小早川の人間は秀秋のもとにはほとんどいなくなってしまったんだね。
じゃあ、秀秋の元にいる部下は旧秀次の部下とか潰された大名の部下たちがほとんどなのかな?
それなら家中の統制があまりとれないのも納得だね。


>秀秋の小早川家は完全に毛利とは別家、毛利支族でなく毛利家と対等の豊臣連枝と考えた方がいいかと

秀頼以外の豊臣一族で一番の大身で小早川の名家をついだって考えると、秀秋って思っている以上に
大物なの?じゃあ、輝元や光成ふぜいがこの私にえらそうな口をききおってみたいな
感じで思っていたのかね。
390人間七七四年:2008/02/10(日) 16:49:08 ID:3xrnDy5Y
>>389
> 大物なの?じゃあ、輝元や光成ふぜいがこの私にえらそうな口をききおってみたいな
> 感じで思っていたのかね。

輝元に対してはともかく、三成に対しては間違い無くそう思ってた。
391人間七七四年:2008/02/10(日) 18:03:20 ID:SNCBaptn
つーか、秀吉死去直前に所領の筑前が三成代官として
召し上げられそうになったわけ・・・。
392人間七七四年:2008/02/10(日) 18:11:58 ID:T1U8B0eJ
秀吉が朝鮮のことを理由に召し上げた秀秋旧領を
そのまま三成にやろうとして三成が断った、
結果三成と浅野長政の代官地
393人間七七四年:2008/02/10(日) 18:19:29 ID:Cqjyn/Aj
総大将が輝元の毛利(吉川や秀元)や豊臣連枝の小早川からすれば何で光成ごときがしきろうとしてるの?
お前がおれたちの言うことを聞け!といった感じかな。

東軍に例えると、もし家康が江戸にいて秀忠が徳川軍を率いていたら、福島や黒田等がしきっていただろうし
東軍も統率がない状態になりそうだね。
394人間七七四年:2008/02/10(日) 20:39:08 ID:eDbVyi7n
>>389>>393
秀秋は朝鮮役での失態から一時左遷されたとはいえ、武家清華家で豊臣連枝という立場から、
政権では大物でしょうね
そういう意味では西軍は輝元・秀家・秀秋とトップクラスが多すぎたとは思う
三成が主導的立場だったのは、勿論、首謀者の一人とも言えるのだけれど、輝元らの立場のバランスを考えると、
三成ら奉行らがそういう主導的役割を果たさざるを得なかったとも言えるのではないのかと思ってる

>>392の経緯を踏まえ、輝元や秀家と比べると、秀秋からすれば西軍の立場に不満があったのではないかと思う

>東軍に例えると、もし家康が江戸にいて秀忠が徳川軍を率いていたら、福島や黒田等がしきっていただろうし
>東軍も統率がない状態になりそうだね。
実際に、家康が江戸を立つ時に福島・池田に書状をだして、江戸を出発するから自分が来るまで待てと指示
(指示と言うか要請に近い)してる事から、家康不在時の東軍も統制が取れていたとは考え難いんじゃないのかな?
東西両軍とも協力者の集団なんだという事だと思うよ
395人間七七四年:2008/02/10(日) 21:14:57 ID:Cqjyn/Aj
朝鮮出兵のことを考えると、西軍に西国勢が多い以上やはり毛利が中心となる
のがしっくりくるし、石田がしきろうとしたのが混乱に拍車をかけた気がするな。

石田が大阪で輝元が前にでてきていたら面白いが、その場合は武断派が
和睦にむけて尽力し大規模衝突がなさそうな気もする。


396人間七七四年:2008/02/10(日) 21:16:40 ID:zj8nXyzU
総大将が軍師の作戦通りに行動するのは別におかしなことじゃない。
言うことを聞いているからと言って、別に軍師の方が位が上である必要はない。
三成は、要するに作戦立案の実務担当と言う役回りでしょ。
理論上は。

実際には総大将が非協力的で、それじゃあ作戦に齟齬をきたすのも無理ないけど。
397人間七七四年:2008/02/10(日) 21:20:02 ID:SNCBaptn
>>395
その可能性もあるけど恩賞の問題がある。
毛利ヌッコロス事が恩賞の大幅増加に繋がること明らか。
で、毛利に近いのは黒田だし、この人が素直に和睦すると思えない。
398人間七七四年:2008/02/10(日) 21:37:26 ID:Cqjyn/Aj
>396
小早川や毛利からすれば誰がお前(石田)を軍師にした?って気分では?

>397
黒田と毛利って仲悪かったっけ?黒田家って豊臣家では毛利に対する取次役(交渉役、窓口)のイメージが強い
それに、小早川隆景と黒田ってなんか逸話がなかった?

光成がいなければ室町幕府のような豪族連合のような感じに変質していったような気がするな〜。
399人間七七四年:2008/02/10(日) 21:52:16 ID:eDbVyi7n
>>397
恩賞問題は毛利潰すさなくとも、400万石以上ある豊臣領がある訳で・・・
実際に関ヶ原後は豊臣家に忠誠を尽くした名目で、形式上は豊臣家から各大名に所領与えた訳で・・・

史実では予想外の圧勝だったんで、ああいう大規模な減封や転封したけど、合戦の目的は恩賞ではなく、
三成らのクーデター打倒なので、三成らに勝てるならば、恩賞問題は二の次と考えてたと思うけどね
まず三成ら西軍を打倒するのが先決なので、その為なら敵方の懐柔なんて当たり前だと思うが


それと三成が軍師云々でなくて、少なくとも輝元・秀家・秀秋はそれぞれをどう見ていたかなどもあると思うんだよね
輝元は秀家や秀秋より格上だと、というか西国仕置を任されてる以上、家康と同格だと思っていたとも考えられるし、
秀家は豊臣家連枝で大老という立場で、他の二人をどう見ていたか、秀秋もね
その辺の関係のバランスがあるんじゃないかと思うんだが
それを考えると、三成の対応の苦慮は想像以上に難しいかったと思うんだが
400人間七七四年:2008/02/10(日) 22:04:54 ID:vSrmJRz8
400get!
401人間七七四年:2008/02/10(日) 22:22:51 ID:Cqjyn/Aj
当主秀頼が幼い以上は豊臣家家中や奉行を統率すべき人材が必要なのに皆無なのが原因だよね。
いや、それを外祖父たる家康が行っていたと考えるべきか。
そうすると、単に光成がクーデター起こしただけという見方もあるし
武断派からすればその考え方の方がしっくりくるかもね。
402人間七七四年:2008/02/10(日) 22:55:07 ID:bXuRTMoC
家康弾劾状に署名してたのは三成と浅野をのぞく三奉行、
檄文に署名してたのは大老のうちの輝元と秀家、
だと思うんだが、誰のクーデターだって?
403人間七七四年:2008/02/10(日) 23:02:43 ID:eDbVyi7n
三成らのクーデター
404人間七七四年:2008/02/10(日) 23:14:39 ID:SNCBaptn
>そうすると、単に光成がクーデター起こしただけという見方もあるし
>武断派からすればその考え方の方がしっくりくるかもね。

七将の件も奉行に対して兵で追い掛け回したわけで立派なクーデターなわけだが・・・。
405人間七七四年:2008/02/10(日) 23:41:10 ID:Cqjyn/Aj
そうだよな〜 クーデターという考えは適切じゃないな。



406人間七七四年:2008/02/10(日) 23:48:13 ID:eDbVyi7n
クーデター
既存の政治体制を構成する一部の勢力が、権力の全面的掌握または権力の拡大のために、
非合法的に武力を行使すること。

なので間違っちゃいないと思うけどね、弾劾状が秀頼な名で出てるなら違うだろうけどね
ま、間違ってようが合ってようがどちらでもいいんだけど
407人間七七四年:2008/02/11(月) 00:01:44 ID:/DKkmGWU
流れをぶったぎるが本多忠勝が落馬したタイミングって
秀秋の下山前に暴れまわってた時に流れ弾によってって説と
島津隊追撃の時に撃たれて落馬したって説
の2説を目にするんだがどっちが有力とかわかる?
408人間七七四年:2008/02/11(月) 00:08:45 ID:baS1feDk
例えれば、柴田・滝川・丹羽及び信雄、信孝が死んでいる状態で
本能寺の変を生きのびた森蘭丸が秀吉相手に挑むようなものか。

やはり光成よく頑張ったというべきだな。
409人間七七四年:2008/02/11(月) 00:24:59 ID:eiSdFWzV
三成は茶の温度管理なら世界一の名将だったろうに、
410人間七七四年:2008/02/11(月) 00:29:52 ID:di5dpxz3
>>407
正直、どちらが有力かは難しいし、どっちが正しいかを研究してる人がいないと思う
何故なら、どちらが正しいにしても歴史に然したる影響がないと思われるから
411人間七七四年:2008/02/11(月) 00:34:45 ID:/DKkmGWU
>>410
それは言わないお約束w
ただ確かなのは、島津好きは後者を採りたがるって事だな
仮にそっちが正しいとしても結局のところ義弘は本多隊等にズタボロにされてんだから
大した自慢にならん気もするが・・・
412人間七七四年:2008/02/11(月) 00:51:26 ID:baS1feDk
>409

コーヒー吹いたじゃないか!!
413人間七七四年:2008/02/11(月) 01:41:13 ID:9ZFxUI/e
クーデターには二段階あるんでないか?
まず第一段階として三成・大谷吉隆らが主導していた段階
続いて輝元を擁立し、三奉行が弾劾に参加した段階。

当初三成が決起した際に、増田・前田・長束は家康と輝元に事態の収拾を図るよう
書状を出している。その後、輝元が擁立され弾劾に三奉行も参加している
414人間七七四年:2008/02/11(月) 11:19:18 ID:/Pdd+cTn
上杉討伐の際も秀頼おさないし、筆頭大老が出るのはよろしくないと
出しているしね(三成もだしていなかったっけ?)
上杉討伐は奉行・朝廷が基本反対で出たんだよな。
前田の時はそんな声一つも上がらなかったのに・・・。
415人間七七四年:2008/02/11(月) 12:01:47 ID:ramajtpf
>>414
京大阪から近いからだろ。
416人間七七四年:2008/02/12(火) 15:31:03 ID:yx5cenN+
留守を狙って挙兵とか
叛乱軍以外のなにものでもないわw
417人間七七四年:2008/02/12(火) 19:11:06 ID:OdGZzIYd
>>416
その手の話すると、遺命破りは家康からになっちゃんだが。
418人間七七四年:2008/02/12(火) 19:20:48 ID:I428IPkV
>>417
それとこれとは話が別だろ。
だいたい「遺命破り」なんてのも挙兵の口実に過ぎないわけでさw

古今東西のあらゆる叛乱軍は「自分にこそ大義名分あり」って言っておりますわなw
419人間七七四年:2008/02/12(火) 20:04:47 ID:yx5cenN+
許可する者が死んじゃってるのに許可なく婚姻を結んだと難癖と付け
自分は勝手に小早川等に加増の約束をして(もし許可のない婚姻が遺命破りなら勝手な加増も遺命破り)叛乱に加担させようとした
420人間七七四年:2008/02/12(火) 20:35:44 ID:ldrStON7
許可する者って、秀吉のことじゃないよな?
良く知らんけど、五大老か五奉行が管轄していたのでは?
421人間七七四年:2008/02/12(火) 21:20:11 ID:cT/VYUBK
うん、で五大老の筆頭で最大の実力者である家康が許可してるんでからええんでないの
422人間七七四年:2008/02/12(火) 21:34:39 ID:I428IPkV
ID:yx5cenN+は三成の事が好きなのだろうけど、関ヶ原の事をイデオロギー的な正義と不正義の戦いのように
捉えるのは間違っているぞ。武家の世界で忠義不忠義が大きな問題になるのは江戸期からだ。
はっきり言うが、家康はもちろん三成のやったことも、あの時代のただの権力闘争に過ぎないよ。
ちょっと規模が大きかっただけのな。
423人間七七四年:2008/02/12(火) 21:43:00 ID:ldrStON7
>>421
いや、合議制だから一人で勝手に決めてしまうのはやっぱり糾弾され得る行動だと思う。
424人間七七四年:2008/02/12(火) 21:47:54 ID:I428IPkV
>>423
合議制と言っても、合議の範囲を決められていた訳ではないし、家康は行政の執行権を秀吉から
明確にまかされていたわけだから、解釈次第でどうとでもなるわな。
425人間七七四年:2008/02/12(火) 21:55:09 ID:ldrStON7
家康がどう解釈しようとも、少なくとも糾弾され得る隙はあったということ。
敵側にしてみれば「チャンス」を残していたということ。
これは客観的情勢と言って良い。
426人間七七四年:2008/02/12(火) 21:59:43 ID:e03olMG6
というか、大名同士の婚姻は秀頼が成人するまで禁止だったのでは?
427人間七七四年:2008/02/12(火) 22:05:34 ID:cT/VYUBK
前田は謀反疑惑以降犬化だし宇喜田は自分の家中も治められんし
上杉は居ないし毛利はやる気ないし

五奉行は豊臣家内の事でもやっとれって感じだしぃ

428人間七七四年:2008/02/13(水) 05:42:13 ID:4dEKWabl
>>425
「反家康」って集団がいる以上、糾弾される事なんて家康にとっては織り込み済みだろ?
そういうのを「隙」って言うのか?
429人間七七四年:2008/02/13(水) 10:44:35 ID:Fn5f80ha
熊本の英雄は未来のお義父様に歯向かいました。
結局婚姻は、義理の息子及び息子予定軍団が三成を追い掛け回すという自体に
なった後に、漕ぎ着けました。

個人的意見だが、西軍に人集まったのは三成に人望があったじゃなくて家康が敵味方わけすぎた
せいだと思う。そっちの方が家康にとって結果的に都合が良いしね。
430人間七七四年:2008/02/13(水) 18:29:11 ID:i7OGySF7
小山評定の逸話は史実なのかな。
1人2人家康に付くのを表明したからってほぼ全体がそっちへ流れるかな?
431人間七七四年:2008/02/13(水) 18:39:56 ID:Sb4uQUYa
どっちに付いたらいいのかわかんね、な輩がほとんどだったろうし
結論はもうちょっと待ってね、なことも許されない状況だったろうし
どっちにも付かず俺シラネ中立ね、てなことも通用しないだろうし

432人間七七四年:2008/02/13(水) 23:07:42 ID:4HFoKqEV
>>430
物凄くありがちな状況じゃあないか。
出典の信憑性とかはどうか知らないが、状況から疑わしいところは特にない。
433人間七七四年:2008/02/14(木) 01:48:18 ID:IO7M0z+S
確かにおいらみたいな凡人の集まりならあり得るだろうけど…。
仮にも一軍を率いる大名様だよ。前線で戦ってきた武断派連中など特に戦機を見る
目に優れてたはず。(←もちろん把握しきれない状況であった事を踏まえた上にしても)
それとも『西軍についてもかまわんよ』とあの状況で言える家康の器量に
絡め取られたかな。
ある意味本戦より興味深いです。
434人間七七四年:2008/02/14(木) 08:27:30 ID:pF9JCnfg
>>433
大名も人間やがな
435人間七七四年:2008/02/14(木) 09:20:27 ID:kS52QD3w
『西軍についてもかまわんよ』と言える家康の器量>威嚇じゃない。
436人間七七四年:2008/02/14(木) 10:06:45 ID:pF9JCnfg
つーか、目の前にいる人間が、秀吉以外では最も成功した戦国大名なんだから
誰について行きたいかって言えば、そう言う「成功した人間」についていきたいわな。
437人間七七四年:2008/02/14(木) 17:35:03 ID:0epHQASu
>>433
>仮にも一軍を率いる大名様だよ。前線で戦ってきた武断派連中など特に戦機を見る
>目に優れてたはず

だから家康じゃないの
438人間七七四年:2008/02/14(木) 18:05:04 ID:pF9JCnfg
関ヶ原は今で言えば、大統領−首相制の国で、大統領が急死して、実質的に国を動かしている
最大実力者であり、次期大統領最有力候補でもある現首相に対し、前の大統領の筆頭秘書官が
副首相を押し立ててクーデターを起こした、ってな構図だな。
439人間七七四年:2008/02/17(日) 07:13:37 ID:M4YPf434
いい加減ネタ切れだろう? 見てるほうも飽きてきた
440人間七七四年:2008/02/18(月) 10:17:38 ID:ZgeH1egQ
この時季関ヶ原探訪はどうですか?雪が心配なのですが。
441人間七七四年:2008/02/22(金) 07:39:05 ID:0n9nqizK
関ヶ原の意味を理解できていた武将って徳川家,石田家以外に誰がいた?
小西,大谷,大老衆ぐらいか?
442人間七七四年:2008/02/22(金) 08:50:54 ID:k925sO2M
大老集は理解できてないと思われ。
小西行長、大谷吉継も怪しい。
一方、黒田長政と藤堂高虎は明確に理解していたと思う。
443人間七七四年:2008/02/22(金) 09:53:55 ID:0n9nqizK
大老が分かってないだって!?

確かに黒田 藤堂はわかってる 賢いし
444人間七七四年:2008/02/22(金) 10:13:11 ID:j8WKQ/Lz
一国の総理大臣や大統領でも政治状況の読めないことがあるから、革命やクーデター、政変は
起こるわけで。
445人間七七四年:2008/02/22(金) 12:03:05 ID:9bVZxUnr
>>442
小西は微妙だが、大谷は一応三成挙兵の首謀者だし、認識はしていたんだではないか?
446人間七七四年:2008/02/22(金) 17:27:13 ID:0n9nqizK
宇喜多はわかってた?
447人間七七四年:2008/02/22(金) 18:16:20 ID:v5UYhcJC
立花宗茂が勝敗に拘らず西軍につくと言っていたという話から
中大名以上は理解していたと思う
そもそもそう言っていたというのが史実かは知らんが
448人間七七四年:2008/02/22(金) 21:50:28 ID:776tQjfF
というか、関ヶ原の意味ってのは具体的に何のことを指しているの?
449人間七七四年:2008/02/22(金) 23:02:36 ID:0n9nqizK
>>448 豊臣家の内戦とそれを利用し天下を狙う徳川と阻止しようとする三成
450人間七七四年:2008/02/22(金) 23:08:56 ID:j8WKQ/Lz
つーか、関ヶ原が「豊臣体制化の権力抗争(応仁の乱みたいなもの)」ではなく、家康の側にせよ、
三成の側にせよ、勝った側によって新体制が成立する、って事だろ>意味
451人間七七四年:2008/02/23(土) 07:01:38 ID:lvV2lEt3
そういう意味なら、理解していたのはかなり少ないでしょうね。
勝った方が豊臣政権内で実権を握るということなら多くの者が想定しただろうが、
新体制の成立まで予想した者がどれほどいたか。
452人間七七四年:2008/02/23(土) 07:43:26 ID:7BM3Rktr
家康,黒田,藤堂,三成,安国寺AK,宇喜多秀家 は分かってた

特に宇喜多は
453人間七七四年:2008/02/23(土) 09:22:09 ID:FtDocnjY
宇喜多は乱を起こし徳川を追い落とそうとした張本人だからな
ただし収拾能力はないし、政治認識も甘い

むしろ毛利輝元がどこまで考えてたか
勝てば毛利政権も夢ではないんだけど大阪城に対する処置を見るとな
454人間七七四年:2008/02/23(土) 09:44:18 ID:7BM3Rktr
関係ないけど、宇喜多秀家ってあの若さで準天下人で金持ちでイケメンな上に性格いいよな

なんか男として最強なんだよなあ
455人間七七四年:2008/02/23(土) 09:49:20 ID:A+MJIQjM
>>453
>大阪城に対する処置を見るとな
ここ詳しく
456人間七七四年:2008/02/23(土) 13:15:24 ID:ho1Qrx6D
徳川家重臣も分かっていたんじゃないの?
前田利長辺りもスルーっぷりから黒田・藤堂に近いと思う。
457人間七七四年:2008/02/23(土) 13:49:00 ID:4EKXQYXD
>>456
むしろ本多正信あたりはグランドデザインを描いた一人かと。
458人間七七四年:2008/02/23(土) 14:02:23 ID:FtDocnjY
>>455
大阪城を東軍の内通者に引っ掻き回されるのを恐れて大阪城から出陣できなかった
代役立てるなり怪しい奴を監禁するなり詭弁のひとつでも使えばいいのに有効な手立てを打ててない
大阪の陣の秀頼と一緒で名だけの大将

しかも関ヶ原敗戦後に徳川にのせられて大阪城退去
結局大阪城にいた意味がない

>>454
妻の豪姫とかには優しかったらしいけど家臣領国の統制をしっかりしないから重臣たちが退去するわけで
武勇もあったらしいけど楚の項羽の劣化版みたいで天下のことをどうこうする器ではないな
若いからしょうがない分もあるけど、ぶっちゃけDQNみたいなもの
あとイケメンの記述がどっかにあった?
459人間七七四年:2008/02/23(土) 14:14:47 ID:7BM3Rktr
>>458
イケメンって記述なんだけど・大阪城に秀家がくると女達が騒ぎ立てる
・母親似で美男子だった・それにより秀吉に愛された
みたいなの見たことある
それに肖像画見ても
460人間七七四年:2008/02/23(土) 14:15:45 ID:4EKXQYXD
>>458
つーか、輝元は当時、毛利家内部すら統制できていないのだから、大阪城をどうこう出来る訳もなく。


> あとイケメンの記述がどっかにあった?
親父の直家がイケメンだったらしいし、母親も美人だったそうなので、ブサイクではなかっただろうな。

↓伝 宇喜多秀家像(岡山城蔵)
ttp://www.city.okayama.okayama.jp/museum/rekidai/ukita/image/hideie.jpg

これだとまあ、目がぱっちりの、育ちのよさそうな雰囲気が伝わってくるな。
461人間七七四年:2008/02/23(土) 14:19:16 ID:4EKXQYXD
ちなみに父親の宇喜多直家像
ttp://www.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/ukita/ukitanouke.GIF

目元とか似ている気もするが、全体のかもし出す雰囲気が違いすぎるw
462人間七七四年:2008/02/23(土) 14:20:08 ID:EMhtbelk
描かれた年齢の違いもあるんだろうが
家康よりいい男
463人間七七四年:2008/02/23(土) 14:24:55 ID:4EKXQYXD
家康は別にイケメンが売りじゃ無いからなあw
464人間七七四年:2008/02/23(土) 14:44:49 ID:EMhtbelk
家康か秀家のどっちにつくかといわれたらウホッな連中は秀家だろが
465人間七七四年:2008/02/23(土) 16:40:42 ID:7BM3Rktr
秀家がもうすこし年くってたら
かなり優秀な大名になっただろうに
466人間七七四年:2008/02/23(土) 16:55:57 ID:A+MJIQjM
>>458
大阪城内には片桐始め家康派もいたし、毛利勢は三の丸までしか軍勢はいれず、輝元嫡男の秀就を人質に取られ、
増田長盛は実際に裏切ってた訳で、どうやって大坂動けと言うのか?
大坂は豊臣の城で、毛利の城ではないんだが

>しかも関ヶ原敗戦後に徳川にのせられて大阪城退去
のせられなくとも、大坂籠城出来る訳がない
ゲームじゃないんだが
467人間七七四年:2008/02/23(土) 19:53:57 ID:FtDocnjY
>>466
それらをなんとかしないで豊臣家筆頭の家康に対抗できるわけない
そういう状況になってる時点で勝ち目が薄い上にその状況で戦をしてる輝元というか毛利、さらには西軍はどうなんかと
家康も大阪城に万全の布石を打ってるわけでもないだろうが中立を保たせればいい分有利だし
468人間七七四年:2008/02/23(土) 19:55:43 ID:4EKXQYXD
>>467
そう言う状況だからこそ、名目上の総大将にもかかわらず家康と裏交渉進めてたわけで。
469人間七七四年:2008/02/23(土) 20:02:16 ID:ho1Qrx6D
それにしても、吉川が毛利の利益考えて交渉をしていたのか怪しい。
470人間七七四年:2008/02/23(土) 20:03:33 ID:FtDocnjY
>>468
まあそういうことですね
471人間七七四年:2008/02/23(土) 20:12:56 ID:EzTASneT
毛利家中の場合、輝元の意志と家臣団(吉川・福原など)との間で温度差があるのが痛いな。
472人間七七四年:2008/02/23(土) 20:23:48 ID:4EKXQYXD
輝元は生涯自分がリーダーシップを取ったことはなかったし、取る必要もなかった、ある意味
幸せな戦国大名だからね。吉川元春に小早川隆景という、当時の基準でも第一級の武将が、
本家の乗っ取りなんてカケラも考えずひたすら忠実に補佐したことが、結果そう言う家風を
作ってしまったと言うべきか。
473人間七七四年:2008/02/23(土) 23:27:14 ID:22/cKcDk
>>457
井伊直政あたりもわかってたっぽいね
474人間七七四年:2008/02/23(土) 23:47:34 ID:A+MJIQjM
>>467
>それらをなんとかしないで豊臣家筆頭の家康に対抗できるわけない
その通り、ぶっちゃけ輝元は家康に対抗出来る器でなかったと言えてしまうんだよね
景勝と連携して家康に対抗した三成の処遇問題も、結局のところ家康一人にやられてるんだし

>>469
西軍に参加すること自体、毛利の不利益になると考えてたのでは?
もちろん、吉川広家自身の不利益にもなるのもあるけどね

>>471
輝元の意思とは?
475人間七七四年:2008/02/24(日) 00:07:53 ID:QVJyi3WZ
>>467
豊臣家が中立ではむしろ西軍不利ですよ。
なにしろ家康は大老筆頭なのだから、豊臣家の支持なしでは西軍のほうが謀反人になってしまう。
完全に掌握は出来ずとも、輝元が大坂に入城しているという事実があったからこそ、
どうにか西軍は自身の正当性を主張できた。
476人間七七四年:2008/02/24(日) 00:26:43 ID:Qp2NJvnq
>>474
一応、輝元の意思で参加したのでで、結局は無定見だと思う。
家康のやり口からして毛利もろくでもない目にあうのは確かだからな、上杉やられたら対抗する手段がないわけだし。
でも積極的にやる気はなかったと思う。東軍に匹敵する勢力作った時点で安心しちゃったんじゃねーか?
477人間七七四年:2008/02/24(日) 00:54:37 ID:5mo2xsxY
>>476
輝元の意思で参加したかは定かではないし、家康のやり口と言うのは関ヶ原後を知ってるからこそ言える訳で、
当時からそれを予測出来た人間はいない

でも上杉やられたら、次は自分、もしくは対抗出来なくなると考えて西軍に参加したと言うのを、
輝元の参加理由にするのは納得出来る

で積極性に関して、東軍に匹敵する勢力作ったとかは関係ないかと
というか輝元は最初から軍事的決着を目指してはなく、あくまで騒乱を利用して毛利の立場向上、
家康に対しての政治的立場の確立を図っただけではないかと思われる
まぁ関ヶ原当時の輝元の意思が読み取れる史料がないので、あくまでそれ以前の書状や行動からの憶測でしかないけどね
478人間七七四年:2008/02/24(日) 00:58:45 ID:NO0DwcAm
まあ輝元の意思とは関係なく、当時の毛利家首脳部の多くが、安国寺の主導する反家康路線を
「危険な冒険主義」として嫌ったのは確かだろうな。
479人間七七四年:2008/02/24(日) 01:01:36 ID:SK3F5eCi
毛利は大老体制での主導権を狙ったぽいよね
480人間七七四年:2008/02/24(日) 01:05:02 ID:2IWcygSY
>>474
輝元は、当初三奉行からも上洛の要請を受けていたんだけど(三成決起の事態沈静を図るため)、
一方で安国寺からも西軍の大将となるべく工作が進められていたらしい。で、毛利輝元はすぐに
上洛して、そのまま西軍大将となり、三奉行も家康弾劾に加担しているので、輝元の主体性は
あったと思うんだが。
ただ、それが家康討伐に直結するかは微妙だが。
481人間七七四年:2008/02/24(日) 10:34:29 ID:Qp2NJvnq
>家康のやり口と言うのは関ヶ原後を知ってるからこそ言える訳で、

をいをい、前田、宇喜田、上杉のやり口は家康のやり口そのものだぜ?
大老を狙っているわけで、危機感抱いていないのはおかしいと思うわけだが。
482人間七七四年:2008/02/24(日) 11:56:22 ID:NO0DwcAm
>>481
言いたいことはわからんでもないが、お前の日本語は、変だ。

もう少し自分の考えがちゃんと人に伝わる文章を書け。
483人間七七四年:2008/03/01(土) 07:47:46 ID:bLgeKIMN
あげ
484人間七七四年:2008/03/02(日) 16:07:00 ID:43VNsocj
徳川家康
485人間七七四年:2008/03/05(水) 09:28:33 ID:tdEvixCU
毛利輝元
486人間七七四年:2008/03/06(木) 18:04:58 ID:k+rHNd3I
立花とかの1万5千が戦いに加わっていたら、戦局は変わっていたかも。
487人間七七四年:2008/03/06(木) 18:45:08 ID:aDT84B7V
宇喜多と石田が前線の手柄独占狙ってたからなぁ
488人間七七四年:2008/03/06(木) 20:03:52 ID:lqjGDOjb
1日であっけなく負けられたら
他の西軍にはどうしようもありません
○○がいたら・・ という話を全て台無しにしてくれたのが三成達です
489人間七七四年:2008/03/07(金) 08:43:34 ID:A4G2WGXL
毛利輝元って動員兵力どれくらいだったの?

大阪城に詰めてた毛利輝元の本隊の兵力:知らないから教えて。

南宮山の毛利秀元+吉川広家+安国寺恵瓊の兵力:15000人くらい?

松尾山の小早川秀秋の兵力:15000人

大津城攻略部隊の末次元康+立花宗茂の兵力:15000人

毛利一族だけでも物凄い動員数なんだが、、、。


石高120万石のくせに結構動員兵力多く無い?毛利って。
490人間七七四年:2008/03/07(金) 20:07:00 ID:p/R7j6Rd
小早川とか独立しちゃってるのも含めて毛利ぽい軍団となると200万石くらいになるんじゃね
491人間七七四年:2008/03/07(金) 23:04:13 ID:UDhIlSPS
>>489
毛利は石高を過少申告していたらしいので、表高以上の動員力はあったろうね。
それに、伊予や九州では河野や大友の旧臣たちを集めていた(毛利吉成の領内は毛利勢が占拠していた)。
毛利は意外なほど派手に軍事展開している。
492人間七七四年:2008/03/07(金) 23:09:47 ID:Gz2j8iIo
>>491
> 伊予や九州では河野や大友の旧臣たちを集めていた
毛利はこの期に応じて、博多の確保や、瀬戸内から大阪湾までの制海権の復活を
目論んでいた節があるよな。
493人間七七四年:2008/03/08(土) 00:54:58 ID:3AS810wq
勝ててたらですが毛利が家康になってますよね
結局秀頼の地位は低下するから
乱起きた時点で駄目なんじゃないんかな
三法師の頃の柴田VS羽柴と同じようにさ
494人間七七四年:2008/03/08(土) 01:00:09 ID:mdr0DvQs
>>493
> 勝ててたらですが毛利が家康になってますよね

んー、いいとこ室町幕府の細川氏や大内氏じゃ無いかなあ?
あの当時の毛利と言うのは最大限に考えても、中国地方+九州北部+瀬戸内、くらいの
勢力範囲を経営するのが精一杯だったように思う。
495人間七七四年:2008/03/08(土) 01:03:23 ID:3AS810wq
毛利領太閤検地じゃなくて
指出検地じゃなかったかな
120万石程度じゃないでしょ
496人間七七四年:2008/03/08(土) 01:10:12 ID:fIgQlr78
20%位大きい枡を使ってたとかいうから140万石以上かな。
吉川や安国寺等の領土は別との説もあったからかなりのものなんじゃない。
それに銀山と瀬戸内交易の利権を考えれば凄そう。
朝鮮へ6万の出兵も可能と秀吉に豪語したとかもいうからね。
497人間七七四年:2008/03/08(土) 01:19:09 ID:mdr0DvQs
>>496
石見銀山は豊臣家直轄になってたはず。
498人間七七四年:2008/03/08(土) 01:28:28 ID:Sgs8gipH
>>497
共同管理みたいな感じじゃなかった?

>>492
輝元の場合、家康との直接対決まで視野にあったかはわからないが、
結構積極的に関ヶ原合戦時には行動している。伊予の毛利軍は村上
元吉討ち死に後も行動を続け、結局引き上げたのは関ヶ原の敗報が
伝わってから。
また、去年の「日本歴史」4月号の、光成準治の論文にも毛利輝元の西国方面に
おける活発な軍事展開が指摘されている他、七将による三成襲撃時の輝元の動向
(三成らと組んでの軍事的な反撃を画策)にも触れられている。
輝元の関ヶ原時の動向は、もっと積極的な意味で捉えてもいいと思う。
499人間七七四年:2008/03/08(土) 01:32:48 ID:mdr0DvQs
>>498
輝元はとにかく、大阪城に入ってからとたんに消極的になって行っているな。
大阪城でよほど「このまま加担し続けたらまずい」って思わせる何かがあったんだろうな。
500人間七七四年:2008/03/08(土) 01:46:33 ID:aPkhQx1A
毛利家もかなりの動員数を関ヶ原に投入してる。6万以上。

けど、会津で挙兵した上杉軍のあの数はどうなの?浪人集め
まくって7万近くいたらしいじゃない。


そうなると、毛利、上杉は120万石じゃないだろな。200万石は
あるよな。太閤検地がもろ入った後に入国した家康は270万石
だっけか?

家康も、7万5千くらい動員出来たらしいな。上杉の備えが無ければ。

で、大阪城に居た輝元だが、、、段々と戦場から離れて静かな大阪城
に居座ってる内に、、、、何となく、家康の底力みたいなのをひしひしと
思い出して怖くなって来たんじゃないかな?
501人間七七四年:2008/03/08(土) 02:08:22 ID:Sgs8gipH
大勢が決した後は意外なほどあっさり広家の提案を飲んで、秀元や宗茂の抗戦論を退けるが、
九月に入っても少なくとも伊予方面では輝元もかなり積極的に侵攻を画しているほか、阿波も八月
下旬に蜂須賀家政を逼塞させて、毛利家臣が掌握している。
502人間七七四年:2008/03/08(土) 02:26:02 ID:3AS810wq
大坂城から離れられない何か不安要素が
輝元自身感じてた気がする
味方諸将に士気の低いのがごろごろ
もともと西国勢が二度の出兵で
国力落ちて回復してないのもあるけど
一番問題は豊臣家が中立という名の非協力な姿勢かな
503人間七七四年:2008/03/08(土) 02:39:16 ID:vPGtIQjV
>>501
>大勢が決した後は意外なほどあっさり広家の提案を飲んで、秀元や宗茂の抗戦論を退けるが、
ソース
504人間七七四年:2008/03/08(土) 02:47:04 ID:Sgs8gipH
広家がいろいろな形で「輝元の本領は大丈夫です」という内容の黒田や井伊・本多からの手紙を
もらっている。それを背景にしたんだな。
505人間七七四年:2008/03/08(土) 02:47:05 ID:mdr0DvQs
>>503
つ 史実
506人間七七四年:2008/03/08(土) 02:50:16 ID:vPGtIQjV
>>505
史実でもいいから、何に書かれてるのかいな?
507人間七七四年:2008/03/08(土) 02:54:39 ID:mdr0DvQs
>>506


気味をどう扱っていいのかちょっとわからない。
508人間七七四年:2008/03/08(土) 03:01:11 ID:vPGtIQjV
>>507
史実なんでしょ?
扱うもなにも、書かれてる史料名答えてくれたら終わるんだけど

>大勢が決した後は意外なほどあっさり広家の提案を飲んで、秀元や宗茂の抗戦論を退けるが、
大勢が決した後というから、関ヶ原後の事なんだろうけど、関ヶ原後に広家が輝元に提案したというの史料を見たことがないし、
秀元や宗茂が抗戦論を輝元に唱え、輝元がそれを退けたというのもね

だから書かれてる史料名答えてくれるだけでいいよ
何も否定する気ないしね、史実なんだろうから
509人間七七四年:2008/03/08(土) 03:14:28 ID:mdr0DvQs
>>508
じゃあ陰徳太平記でも読め。
510人間七七四年:2008/03/08(土) 03:22:36 ID:vPGtIQjV
>>509
陰徳太平記に秀元と宗茂の記述あるの???
見た事ないんだけど、どの項なんだろ?
もう一度探してみるわ
511人間七七四年:2008/03/08(土) 03:29:45 ID:vPGtIQjV
やっぱないわー、陰徳太平記だよね?
陰徳記は読んでないから知らないけどね、でも今日にでも調べられるから見てみるよ
書いた本人のID:Sgs8gipHも答えてくれないしなー

で他に書かれてる史料はないのかな?まさか陰徳太平記だけしかないのかな?
512人間七七四年:2008/03/08(土) 04:27:59 ID:Sgs8gipH
吉川広家の提案については、広家が何度も井伊直政や黒田長政などと、やり取りをしているほか、
福島正則から直接輝元へあてたの書状にも、「吉川が毛利のお家のために家康に味方してくれた」
という内容の書状が残っている。で、広家は輝元が挙兵して以来、この動きに批判的だった。
これらから考えても、外からは福島・黒田・井伊が、内からは吉川広家が輝元に大坂退去を
働きかけていたということを示しているだろ。

秀元と宗茂が抗戦論を主張した話については、今回は『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』(笠谷和比古)に
拠った。この話の出展については俺もくわしいことは知らんのだが、関ヶ原を扱った書籍ではたいていこの両者が
輝元にたいし主戦論を、吉川広家が大坂退去を主張したとしている。
「慶長記」「関ヶ原合戦始末記」「慶長年中卜斎記」など関ヶ原系の資料か、「萩藩閥閲録」あたりを見れば
のってると思う。

なお、関ヶ原合戦の後、毛利秀元が大坂へ引き上げるときの話で、黒田・福島が秀元の陣所へやってきた際に
東軍加担を進める両者に対し、秀元が拒絶して「ことここにいたっては大坂へ引き上げるのみだ」と拒絶している。
このときの話は天野元政の書上に残っているし、そもそも秀元は吉川らの工作を知らなかったらしい。
513人間七七四年:2008/03/08(土) 08:25:41 ID:vPGtIQjV
>>512
吉川広家の提案について
・九月十九日付の福島・黒田宛の輝元発給書状、
・九月二十二日付の井伊・本多宛の輝元発給書状
・同二十二日付の福島・黒田宛の輝元発給書状
・九月二十五日付の吉川宛の輝元発給書状
・九月二十五日付の吉川宛の黒田発給書状

これら読むと明け渡しの件は黒田が持ち出し(黒田宛の家康書状から、家家康の指示によるものだとはわかる)、
それを輝元が受け入れを前提に増田長盛や前田玄以と相談するわかる
この時はまだ吉川広家が大坂には帰っていない
広家宛の書状からも、広家が提案したと窺い知れるものはない、戦前からの輝元の意を汲んだ和睦交渉の件の労を謝すのがわかり、
また広家宛の黒田長政書状から、広家が大坂退去の件でかなり疑っていたのがわかる
なのに「、内からは吉川広家が輝元に大坂退去を働きかけていたということを示しているだろ」とは、
どの書状からわかるのか、具体的説明を乞う

>「慶長記」「関ヶ原合戦始末記」「慶長年中卜斎記」など関ヶ原系の資料か、「萩藩閥閲録」あたりを見ればのってると思う。
萩藩閥閲録は何度も読んだ事あるが、そのような記載無し、あるなら何巻か乞う
「関ヶ原合戦始末記」(関ヶ原始末記の事か?それなら記載無し)はよく知らないので調べてみる
「慶長年中卜斎記」は手持ちあるが記載無し
太田牛一の「慶長記」(卜斎本なら上記参照)は翻刻本を知らない為確認出来ず、今日明日にでも調べがつくのでお待ちを

なので「慶長記」「関ヶ原合戦始末記」以外にはない
というか「萩藩閥閲録」を出すなら、籠城を主張したのは島津義弘で輝元はそれに答えていないとなってる

>黒田・福島が秀元の陣所へやってきた際に東軍加担を進める両者に対し、
>秀元が拒絶して「ことここにいたっては大坂へ引き上げるのみだ」と拒絶している。
天野元政の書上の意味がわからないが、「関原陣輯録」にある譜録の天野元政の項によれば、秀元と元政が黒田・福島の陣所へやってきて、
秀元は答えず元政が返答している、内容は
「さは成る間敷く候 秀元は輝元代将として罷り下り候へば、片時もはやく大坂引取るべく候 人質の儀存じも寄らず」
と秀元に決着つくまで人質になれ(東軍に帯同するようにという黒田・福島の提案の事)というのに対して、こう答えてる

君のいう内容と違うのだが・・・、その天野元政の書上の件を詳しくお願いしたい
514人間七七四年:2008/03/08(土) 08:42:02 ID:V7g9sOC0
>>513
立花が抗戦を主張したという部分はどうなの?こちらのほうもネタ元がはっきりしない話なの?
515人間七七四年:2008/03/08(土) 09:06:24 ID:vPGtIQjV
>>514
立花宗茂が籠城主張したという話のネタ元を自分は知らない
でも ID:mdr0DvQsが史実で「陰徳太平記」と書いてる(と言っても「陰徳太平記」にはない)ので、
「陰徳記」を確認してみるよ

というか秀元と宗茂が関ヶ原後に大坂城内に同時期にいた可能性は低いと思うのだが、
なぜか一緒に籠城主張したみたいな事になってる謎・・・
516人間七七四年:2008/03/08(土) 13:25:25 ID:Sgs8gipH
>>513
吉川広家は輝元が大坂方の総大将に擁立されて以来、この輝元の行動には
批判的だったのは確かじゃないか?そして、9月14には黒田長政宛に書状をだしている。
さらに、合戦後に輝元にだした書状では「内約については、広家と広俊のみが存じている」と
ある。この内約に関するやり取りは基本的に広家を介して行っているし、広家の意図としては
「毛利の本領さえ全うされるならば大坂退去」であったわけだ。
輝元が主戦論を退けて大坂を引き払ったのも、黒田らの書状もさることながら、広家の
こうした働きも大きいだろうし、そのことだって輝元に知らされているはず。
提案という言い方は不味かったが、広家がその「本領安堵」を取り付けたことを背景に輝元に
働きかけたと見るのは妥当ではないか?


というか、あおるような文章ばっかり書いとらんと資料が手元にあるんなら自分で調べろよ
517人間七七四年:2008/03/08(土) 14:09:32 ID:vPGtIQjV
>>516
>この輝元の行動には批判的だったのは確かじゃないか?
ほぉほぉ、輝元の行動を広家が批判的だったと確かにする資料はどこに?

>さらに、合戦後に輝元にだした書状では「内約については、広家と広俊のみが存じている」とある。
日付教えて、天野元政の件といい、君の書く内容と実際の内容との食い違いが見られるから

>広家の意図としては「毛利の本領さえ全うされるならば大坂退去」であったわけだ。
広家の意図とわかる史料は?
少なくとも、毛利本領安堵を条件による徳川と毛利の和睦交渉は8月からあったのだけれど
これを輝元の意向を含んでるのは間違いないが、そこには「大坂退去」の条件なんてドコにも存在してないんだけれど
大坂退去の話が出てきたのは、少なくとも九月十八日付の黒田宛の家康書状から
大坂退去に関して、広家が「毛利の本領さえ全うされるならば大坂退去」と考えていた節はどこにもない
逆に九月二十五日付の吉川宛の黒田書状からは
「於御進退之儀、井兵少申談、我等請がひ申上は、一切不可有心疎事」と書かれてる

>広家がその「本領安堵」を取り付けたことを背景に輝元に働きかけたと見るのは妥当ではないか?
妥当とする根拠が無いのだけれど???
大坂退去の提案は黒田によるもの、それを輝元に伝え取次ぎしたのは九月十七日付の輝元宛の黒田・福島の連署による書状では福原

九月十四日の書状も勿論知ってる、広家が黒田と「取次」の関係上、太いパイプがあったのも承知
でも吉川広家が全てを抱えて取り仕切っていたのではないのだが
九月十四日の和睦成立の書状にしても、あくまで本領安堵しか出てないし、西の丸退去の件は関ヶ原後に出された条件であって、
「毛利の本領さえ全うされるならば大坂退去」なんて考えてたというのは、どこにもない
逆に上記のように、大坂退去の件を凄く不審に思ってる(それだけが要因ではないのだが)

というかどこが煽るような文章なのか?
君が書かれてる、あるという主張をこちらで確認しようにも、内容が違ったり、記述がなかったり、聞いた事ない史料名だったりなので、
確認すると書いてるのだが?
自分で調べた結果と、君の主張が大きく異なるから、ソースは?と聞いたのだけれど

で、君の言う内容の天野元政の書上はどこの何の史料に存在するのか?
宗茂と秀元の籠城の件で出された史料名も君が読んだ事ないのかと疑いたくなるしね
518人間七七四年:2008/03/08(土) 14:17:15 ID:vPGtIQjV
追加
九月十七日付の毛利輝元宛吉川広家書状には、大坂退去に関して一切触れられてないので念のため
合戦の状況説明と経緯、家康との和睦の件等、事細かに書かれてるけどね
519人間七七四年:2008/03/08(土) 15:43:14 ID:V7g9sOC0
立花らの抵抗論は関ヶ原についての書かれた通史研究文献の多く記されてるけど、それについて出典元を問いただすということは
それら文献の記述も過ちか真偽さだからぬ怪しい話を書いてるということをいいたいのかな?
でも上に名前の出ている笠谷氏にしても実績ある研究者として認められてるよなあ。

520人間七七四年:2008/03/08(土) 17:47:34 ID:G3WtBIS3
ふと質問なんだけど
吉川は同門の小早川が内応してることも家康経由で知ってたの?
毛利家の長老的存在だし、秀秋に広家が何か入れ知恵したと考えるのは自然なような
521人間七七四年:2008/03/08(土) 23:43:20 ID:vPGtIQjV
>>519
>立花らの抵抗論は関ヶ原についての書かれた通史研究文献の多く記されてるけど
そうでもないよ、学説論文集などには書かれてないよね
どちらかと言えば一般向けに市販されてるのに見受けられるけど、それでも多い訳じゃないかと

>それら文献の記述も過ちか真偽さだからぬ怪しい話を書いてるということをいいたいのかな?
これは別にこの件に限らず、史学全般に言えるかと
史学研究なんてこんなもんですよ

というかこっちは史実とかどーでもいいから、書かれてる史料名知りたいのね
そう推察出来るというなら、その推論の根拠と、それを基に結論導き出すまでの説明を知りたいんだけど、
返って来たレスは、根拠が曖昧だったり、無かったり、記述のない史料名だされたりで・・・
522人間七七四年:2008/03/09(日) 00:10:04 ID:nDgLC+PQ
>>521
なんかずーっと粘着してるけど、関ヶ原軍記とか関ヶ原軍記大全、関ヶ原軍記大成、関ヶ原記大全あたりみれば
そう言うものも出てくるんじゃね?
523人間七七四年:2008/03/09(日) 00:17:25 ID:TUQtOpco
出鱈目の史料名書いたり、記述の内容を改竄したりしてるのは咎めないで、こっちに粘着と言うのが笑えるなぁ

まぁ日付変わってID変わった直後のいつものレスだなw
もうちょっと史料を自分で読んで調べてから書いた方がいいよ、恥かくから
あぁID変われば誤魔化せるからなー
524人間七七四年:2008/03/09(日) 00:22:35 ID:nDgLC+PQ
>>523
…出鱈目じゃ無いですが。
525人間七七四年:2008/03/09(日) 00:25:26 ID:SF8RlggI
>>521
秀元・立花宗茂らの抵抗論については、よく聞くし、いわゆるちゃんとした筋の学者さんも
著書に書いてることなので一応事実だろうといういう前提で書いたけど、実際問題として
こっちだって話の出所を知りたいくらいだ。ただ、何の根拠もなしには書かないだろうけどね。
526人間七七四年:2008/03/09(日) 00:27:27 ID:/Jko0fFO
>>520
家臣の稲葉らの内通も吉川広家の取り成しだよ、意外に知られてないが。
文書も残ってる。
527人間七七四年:2008/03/09(日) 00:32:47 ID:TUQtOpco
>>524
何が出鱈目じゃないのかいな?
それと関原軍記や軍記大成は読めるからあるかどうか自分で見ればいいよ

>>525
話の出所を知らないで鵜呑みにするのが信じられんけど、まぁそんなトコでしょうね
それなら知らないと一言で終わるのに、どうして史料名出すのかがわからないなー
記述の無い史料名出すというのは、書いた本人が読んでませんと自己申告してるようなもんだよ
528人間七七四年:2008/03/09(日) 18:26:27 ID:aaFvksNX
広家が毛利が積極的に家康と敵対するのにあまり乗り気でないのは
関ヶ原前後の動向を見れば一目瞭然だと思うが。また、安国寺は無論、三成とも広家は関係はあまり良くないし。
529人間七七四年:2008/03/09(日) 18:46:29 ID:SM60OtVh
雰囲気悪。
530人間七七四年:2008/03/09(日) 18:52:55 ID:aaFvksNX
一人変なのが湧いてるからね。資料を読み込んでいるのは敬服に値するが、
態度といい資料の活用能力といい、あまり感心はできん。
というか歴史オタってどうしてこう攻撃的なんだろうね。
531人間七七四年:2008/03/09(日) 18:55:07 ID:Hk17hQbf
俺の考えと違うこと言う奴は基地外 とでも思ってるんだろう。
532人間七七四年:2008/03/09(日) 19:02:45 ID:NhsMXz6w
捏造や知ったかするヤツらに言われたかないなーw
つか>>528の意味わからんし、攻撃してきたのはどっちかねー

根拠も無く決めつけて語る連中には、そりゃウザかろうにね
533人間七七四年:2008/03/09(日) 19:04:53 ID:Hk17hQbf
いくら正しいことを言ってても、あおるような口調とか攻撃的、侮蔑的な書き方をして
相手の反感を買うような行為をしてれば第三者から支持されるわけないだろ。

相手を諭して自身の論を聞かせるような書き方以外は議論の席ではただの頭の悪いカス
534人間七七四年:2008/03/09(日) 19:10:47 ID:NhsMXz6w
煽ってきたのはどっちか読み返してみればいい>>533

つ【鏡】
535人間七七四年:2008/03/09(日) 19:14:15 ID:Hk17hQbf
というかお前は誰だよw
536人間七七四年:2008/03/09(日) 19:18:03 ID:SM60OtVh
俺も雰囲気悪くしてるのは博識氏のほうだと思う。あんま史料史料いわなくてもいいじゃん。
537人間七七四年:2008/03/09(日) 19:18:24 ID:aaFvksNX
煽るという言葉の意味を調べたらどうだね?
538人間七七四年:2008/03/09(日) 19:26:57 ID:NhsMXz6w
>>535
お前が誰だよw

>>536
史料提示求めてるのは、あくまで>>512みたいに書いてる場合のみだよ
その他の史料から色んな推測できるようなものなんかには史料提示聞いてないよ
というか、史料知らないなら「知らない、憶測」とでも書いてくれればそれで済むんだけど、
知らないと答えるのが嫌なのか、根拠出さずにさも事実みたいに書くんだよね・・・

知らないのが恥ずかしいのかいな?
こっちは知らない事は知らないと書くんだけどなー
539人間七七四年:2008/03/09(日) 19:29:42 ID:NhsMXz6w
>>537
あお・る あふる 【煽る】

他人を刺激して、ある行動に駆り立てたりする。たきつける。扇動する。
「憎しみを―・る」「群集を―・ってデモに駆り立てる」

何か?
540人間七七四年:2008/03/09(日) 20:54:38 ID:9CxhRF5E
黒田からお前和睦する気あるのって言われているだけど>広家。
541人間七七四年:2008/03/10(月) 01:18:54 ID:ijTtWIpp
>>538
すまんすまん、とりあえずいくつか資料名を出したのは「出展は知らんけどこの中
あるのかも?」という程度のニュアンスだ。全部の史料を読めているわけではないので
こういったご指摘はありがたく受けさせていただく。


「お前和睦する気あるの?」は伊勢で富田信高を降したことをさしてのこと?
このときは確か宍戸が分部左京亮と戦って双方が負傷している(『常山記談』
常山がもとにしたソースは知らん)など毛利が主力だったはずだけど。
542人間七七四年:2008/03/10(月) 19:29:39 ID:fH6El/CI
その後の福島弟の件も含めてだね。
毛利は伊勢の陣で張り切りすぎわけだし吉川はたしか、その時最大の被害と戦功を上げて、
一族の人間が死んで、ついでに密使も死んだ。
黒田も信用するの苦労しただろう。

最初の密書は輝元が総大将になる前のものなので、微妙に整合性があっていないし、
その辺の伊勢→美濃に移る時期の広家の苦労と、毛利家中のいい具合の割れ具合を説明しないと
納得しないんじゃないかと思うんだが。
543人間七七四年:2008/03/11(火) 00:25:49 ID:gqFi5lZ2
整合性とか毛利家中の割れ具合?というか誰の何に対してのレスかすらわからん

>>541
それはいいけど、君はどのレス書いた人?
544人間七七四年:2008/03/11(火) 02:38:15 ID:NiMI12C4
>>543
最初に秀元と宗茂の話をふった人ね。
秀元が知らなかったであろう話の出展は「吉川家文書」の広家書状の中で
「知ってるのは自分と広俊だけ」とあるそうです。
545人間七七四年:2008/03/11(火) 09:08:42 ID:gqFi5lZ2
>>544
最初に話を振ったのならID:Sgs8gipHかいな?
それならこちらが聞いた事に答えてくれてないんだけど・・・どーなんだろ?

秀元が知らなかったという話も別に否定していないし、それに対しては>>517で日付は?と聞いてるんだけど・・・
546人間七七四年:2008/03/11(火) 10:14:45 ID:FkEV75yr
話ぶった切って悪いけど、史料ってどこで手に入れるもんなの?
本屋行っても売ってないし、図書館だとたいてい貸出禁止だし…
547人間七七四年:2008/03/11(火) 11:45:42 ID:gqFi5lZ2
>>546
主に図書館
多くが貸し出し禁止だが館内閲覧可なので、図書館内でコピーを取るのが主な方法
あと最新論文等が読める『歴史研究』などの既刊誌などは、大学図書館にあったりする
でも学生にしか閲覧出来ないので、学生捕まえるかして頼むといいかも
頼み方はそれぞれに任せます

で1枚10円でコピー取るのだけれど、コピー代よりネットの古本屋の方が安くつく場合もあるので注意
それとコピー出来るのは本の半分以下まで、全部コピーしたい場合は日を分けてやる

お金の掛からないやり方言うなら、ノートPCなど持って行き、館内閲覧でひたすら打ち込むor手書き
これだと内容読みながらになるので、内容を覚えやすく一石二鳥の効果あり

自分は厨なんで、関ヶ原や信長関連の史料を掻き集めたけど、関ヶ原関連は案外簡単に集まるよ
地域性の問題もあるけどね
本能寺関連の史料は寺社や公家関係が多くて、集めるのに一苦労したけどね
548人間七七四年:2008/03/11(火) 12:46:33 ID:NiMI12C4
手元の資料によると『吉川家文書』3、913号の中で「この御和談のことは先ず両人ばかり」と
記されているとのことだ(両人というのは広家と福原広俊ね)。


「日本歴史」とか「地方史研究」とかなら普通の図書館でも置いてあると思う。
549人間七七四年:2008/03/11(火) 17:08:37 ID:gqFi5lZ2
何度も言うんだけど内容を尋ねてるのではなくて日付を聞いてるのだけど
それに対して答えられないのなら、「知らない」で終わると何度も(ry
なぜ質問に対して見当違いな返答するのかがわからない
550人間七七四年:2008/03/11(火) 18:43:23 ID:+3txuNVT
>>546
大阪役とか小牧役なら大日本史料にあって、ここから無料閲覧可
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
551人間七七四年:2008/03/11(火) 18:57:51 ID:+3txuNVT
>>550
後、吉川家文書も読める
913番文書は慶長五年九月十七日とある
552人間七七四年:2008/03/11(火) 23:06:39 ID:gqFi5lZ2
>>551
ありがとね、お陰で確認できたよ
553人間七七四年:2008/03/12(水) 23:57:36 ID:JuCWXzAv
西国ではかなり活発に活動していたのに、備中半分のみで済むと
輝元は本気で考えていたのかも気になる。
554人間七七四年:2008/03/14(金) 04:44:51 ID:c4PIAlGO
全ては家康を関ヶ原に誘い込むための広家の策略であった…
555人間七七四年:2008/03/14(金) 22:46:26 ID:U9JxlGY6
勝たせるためなのか負かすためなのか
556人間七七四年:2008/03/17(月) 15:14:26 ID:x5TCehvO
平塚為広って大谷家かと思ったら石島宇小大と並ぶ別大名なのな

他所の大名に自軍指揮を依頼するって珍しいな
557人間七七四年:2008/03/17(月) 20:42:22 ID:Chb7HfeN
寄騎大名
558人間七七四年:2008/03/18(火) 17:55:59 ID:RuyqJkTA
いや、寄騎大名だけど
格上の大谷が、平塚に全軍指揮を依頼した事が珍しいかと

宇喜多家における明石と同じか
559人間七七四年:2008/03/21(金) 22:20:01 ID:roJD346k
立花宗茂と毛利秀元が抗戦を主張した話ですが、図書館で調べたところ
宗茂については『立斎旧聞記』(続・群書類従3に収録)、毛利秀元については
徳富蘇峰の『近世日本国民史 関原役』が出所のようです(笠谷和比古「関ヶ原合戦」注釈)。
ただし、出典となった資料は図書館に無かったため見ることが出来ませんでした。

なお、この秀元が抗戦を主張した話は吉川弘文館の人物叢書「安国寺恵瓊」などでも
採用されているほか、秀元が内応について知らなかったことも踏まえると、まあ、あり得ない
話ではなさそうです。
560人間七七四年:2008/03/23(日) 08:17:26 ID:/n5CWPWw
>>559
おぉありがと、その筋で調べてみるよー
561人間七七四年:2008/03/23(日) 10:18:45 ID:/9M3T9ey
大正四年に東京新聞の関係者は
「関ヶ原の合戦は東軍の大勝利」という「号外」を配って罰せられたことがある
詐欺罪と見做されたため

詐欺なの?
562人間七七四年:2008/03/23(日) 15:56:36 ID:4nf6T1jP
号外だからじゃね?
563人間七七四年:2008/03/24(月) 07:50:37 ID:K65XPIi6
なんで大正四年にそんな内容の号外が配られてるの?
564人間七七四年:2008/03/24(月) 08:05:01 ID:BJWj3ewY
つーか、大正期に「東京新聞」は存在しないだろ。
565人間七七四年:2008/03/31(月) 12:24:47 ID:55orXSxP
【捏造】ホントは東軍につきたかったw【歪曲】
家康が勝つと思ってた…オマエ嘘だろw
566人間七七四年:2008/04/09(水) 04:23:35 ID:PrfClOR+
567人間七七四年:2008/04/13(日) 23:49:52 ID:tcX0Hb/9
ちょっとスレチかもしれないけど関ヶ原の古戦場を0歳の子供連れで回るのって大変かな?
行ってみたいんだけどベビーカーとか通れなかったら大変だし
行ったことある人教えて
568奇矯屋onぷらっと@FreeTibet ◆SRGKIKYOUM :2008/04/13(日) 23:58:28 ID:TneVOK7w
どこまで突っ込んでいくかにもよるわな実際。
569人間七七四年:2008/04/14(月) 00:01:26 ID:/1bUna5D
>>568
できる限り突っ込みたいけど無理なとこは諦める
ただ諸将の墓やら陣後はできるだけみたいかな
570奇矯屋onぷらっと@FreeTibet ◆SRGKIKYOUM :2008/04/14(月) 00:03:38 ID:28AAm3ii
ネットで調べてみればわかると思うけど、
ベビーカー押して歩くには距離的にキツいよ。
571人間七七四年:2008/04/14(月) 00:12:59 ID:/1bUna5D
そうなのかネットで調べたけど断片的な写真しかなくてわかりにくかった
参考にするわ
ありがとな
572人間七七四年:2008/04/23(水) 22:41:25 ID:N/rA+cWy
人望がないない言われとる三成だけど、
関ケ原での石田隊諸士の献身的な戦いぶり見る限り、やっぱり人間的魅力のある人だったのかね?
それとも、追い込まれた人間特有の投げやりな気持ちだったのかな。
「もうどうにもならんなら、戦って死んでやる!」みたいな。
最近興味持ったので、既出の話題だったらスマソ。
573人間七七四年:2008/04/23(水) 22:58:03 ID:4nYU46pX
魅力的なところもあるけれど器用さがなく
その上に豊臣家への忠誠心が強すぎたので
魅力的なところを殺してしまって融通がきかないと見られて逆に敵が多かったんだろう

三成に好意的なのは本当に身内と呼べる人だけで
世間的には窮屈な人間に思われていたんじゃないかな

もっと知恵と融通がきけば小早川隆景みたいにもなれたと思う
名奉行にはなれても名宰相にはなれないな
574人間七七四年:2008/04/23(水) 23:35:00 ID:QbnTQsOQ
日本の半分近くの大名を味方につけたわけで、
状況が状況だけど人望はないわけじゃない。
というか奉行としての人脈といった方がよいと思う。

見方を変えれば、三成の立場に強引に加藤や黒田を当てはめるとすると
にあれほど味方を作る事できるか?という疑問がある。
575572:2008/04/24(木) 00:14:52 ID:Y0dxh3ql
>>573
んー、なるほど。
「あいつもな、もう少し大人になってくれればな」みたいな感じか。

>>574
>見方を変えれば、三成の立場に強引に加藤や黒田を当てはめるとすると
にあれほど味方を作る事できるか?という疑問がある。

そう考えると結構頑張ったよな、三成。
相手は当時(おそらく)日本最高の軍事指揮官だったわけだし。
なんにせよ、面白い人物だなあ。
576人間七七四年:2008/04/24(木) 00:32:54 ID:s602nTmp
二十万石の大名が二百万石の大名に挑んだだけでも立派
577572:2008/04/24(木) 01:14:37 ID:Y0dxh3ql
>>576
なんつーかさ、勝ち負けとか判断の当否とかは別にして、
いろんな奴が居て、自分なりの想いで動いた結果がああなんだよな。
戦国時代を扱った小説が多いのもわかる気がしてきたよ。

みなさん、お相手してくれてどうもありがとう。
578人間七七四年:2008/04/24(木) 22:37:32 ID:iuAWbn0b
西軍が勝ってたら
数で勝ってたんだから当然と言われてたな
579全板トナメ戦国板の投票日は5/3!:2008/05/02(金) 22:47:41 ID:NFfon+AX
【第3回2ちゃんねる全板人気トーナメント】
明日5/3日は戦国板の投票日だよー

選対スレ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/
投票方法
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/477
580人間七七四年:2008/05/18(日) 20:15:20 ID:GgcsE/DT
大坂
581人間七七四年:2008/05/18(日) 21:40:51 ID:kno228yt
秀頼の意思を奉るという三成の立ち位置で判断した奴もいただろうし、真田の様に冒険をしようとした奴もいた。
大谷の様に負け戦と判断しながら友情に答えた奴、博打にてっせなかった毛利、島津、地理的に巻き込まれた奴とそれぞれだろ。
582人間七七四年:2008/05/18(日) 22:18:04 ID:aq9ZCJwZ
>>576
自分一人で家康に挑んだのなら立派だけど
他人を無理矢理参加させて戦っているのだから
立派だとは言えないんじゃないの
583人間七七四年:2008/05/19(月) 01:27:24 ID:tAZ6heZO
以前、立花宗茂が抗戦を主張した話のソースを求める声があったが、以前挙がっていた
ソースをこないだ調べてきた。
『続々群書類従』の3巻に収録された「立斎旧聞記」によると、
関ヶ原の合戦で敗北後、立花宗茂は大坂へ引き上げ、増田長盛と毛利輝元に使者を送って
篭城を進言したものの、両者は「協議する」みたいなことを言ったが煮え切らず、宗茂は「今更」と
呆れて自国へ引き上げることにした・・・・というような内容だった。

以前食って掛かっていたやつがいたけど、別に秀元、宗茂、義弘は同時にその場に居合わせた
わけではないようだし、出典資料も別々(秀元に関しては元々の史料は判らんが、上記レス参照)
584人間七七四年:2008/05/19(月) 15:59:57 ID:t/tLSedW
またコイツかw
585人間七七四年:2008/05/19(月) 18:12:32 ID:dOfDrikQ
>>582
自分一人で家康に挑んだのなら立派だけど>それじゃ単なる馬鹿、
どんな英雄でも有為な味方をいかに集めるかでしょ、
586人間七七四年:2008/05/19(月) 18:14:17 ID:ZV/yaWMP
>>585
> 有為な味方

この部分が、な。
587人間七七四年:2008/05/19(月) 21:03:17 ID:5cwrIiAf
>>582
無理やりにでも味方を作る手腕こそが、むしろ立派なものというべきでしょう。
単独で戦うなんてただの狂人なんだから、曲りなりにでも兵力を集めたことをこそ評価すべき。
ただし、無理やり集めたものだったから、結局無理がたたってしまったわけだが。
588人間七七四年:2008/05/20(火) 13:16:18 ID:JybthXRK
家康の力を削ぎたいというのは共通目標としてあったんだろうけど、
結果的に本当の総大将不在で目的の集約が出来なかった事じゃないかな。
推測で言えば家康の打倒もしくは排除を目指す宇喜多や奉行派と自分達の
権益を家康に認めさせたい毛利かな。
589人間七七四年:2008/05/20(火) 13:37:30 ID:Ze7enG9T
豊臣への忠義や三成たちへの友誼はあくまで建前の連中がほとんど(大谷や立花あたりは違うだろうけど)
これに乗じて領土や権益の拡大を目指した私利私欲が大きい
三成もそれは承知していただろうが、それでも纏め上げることができず小早川秀秋の寝返りで破錠したのは
結局は三成の力がそこまでだということだろう
家康側も同様の内情だけど運と実力が相手を上回った
590人間七七四年:2008/05/20(火) 22:38:03 ID:FW81qpIM
>>587
>無理やりにでも味方を作る手腕
それでなおかつその味方をうまく使える
手腕であれば立派なものといえるかもしれないけど

591人間七七四年:2008/05/21(水) 00:26:37 ID:jh7RQMlT
私は2000年9月15日前後に大垣・関が原界隈を徒歩中心に散策してみました。
それで感じたことがいくつかありまして
@当地の雨について
 ご存知のとおり、大垣は東軍が水攻めを検討しただけあって、降雨量の多い土地。初日も秋雨とはいえ夏の夕立のような雨でした。
 ビニール合羽も透けてずぶ濡れに…。
 当時の旧暦と1か月のズレがあるものの、夜間こんな条件で移動した西軍はいかに陣形有利といえど、士気・体力の低下著しく
 さらに着いたら休まず陣地構築と動き回っては、翌日の息切れも止むを得ないところだと痛感。
A南宮山
 雨の中登山。雨により沢のようになってしまったが、史実では三成が移動中単身現れたという説も
 あったので、同様の体験をしてみようと思い、断行。
 で秀元陣に到着。霧で大垣方面はよく見えず。関が原は距離があるうえ、木々が邪魔で全くみえない。
 こんなところにいる香具師をアテにする三成って…。が本音。


592人間七七四年:2008/05/21(水) 13:26:00 ID:dGptYi8i
@翌日の息切れも>東軍の方が急いで追いかけたので疲れていた可能性もどこかであったな。
Aこんなところにいる香具師>南宮山は大垣の後詰めじゃなかったっけ、しょうがない面はあり。
593人間七七四年:2008/05/21(水) 22:56:27 ID:MMYf+ma4
たしか三成たちが関ヶ原で戦う事を毛利一族に相談する
ことなく勝手に決めたと横山光輝の徳川家康で書いてあったけど
これって事実?
これが事実なら毛利一族が戦わなかったのもわかるんだけど
594人間七七四年:2008/05/21(水) 23:22:09 ID:aKqeXH44
>>593
ある意味事実で、ある意味違う
595人間七七四年:2008/05/21(水) 23:32:25 ID:fenGYx8v
>>593
東軍が先に動いたわけで、時間的に軍議をする時間がないだけ。
ちなみに西軍は裏道を8時間。東軍は整備された街道を4時間歩くだけ。
596人間七七四年:2008/05/21(水) 23:35:20 ID:aKqeXH44
知らされもしなかったけどね、放置されてた
597人間七七四年:2008/05/22(木) 01:31:13 ID:vzcue+Zq
>>596
前から思ってたんだが、全く毛利に連絡していないっていうのは、
単純に三成なり行長なりが、毛利の陣屋を訪れていないという意味合いなのから、
それとも、使い番も全く送ってないって意味合いなの?
598人間七七四年:2008/05/22(木) 09:20:06 ID:FtuZDUjH
595>>え、西軍が先でしょ、東軍が先ってのはネタだと聴いた覚えがあるよ。
599人間七七四年:2008/05/22(木) 14:25:17 ID:XS2dYUay
>>595はネタ
でないと本人がかわいそうだ
東軍が先に動いて大垣城の西方にある関が原の東側の桃配山を中心に4時間で着陣し
大垣城に篭っていた西軍が8時間かけて東軍陣地の奥になる関が原の西側に防御陣まで作って着陣するって
東軍は西軍が防御陣こさえてる間、ボケっとしてたんかい
どういう時空の歪みが生じたんだ
600人間七七四年:2008/05/22(木) 15:07:46 ID:XS2dYUay
西軍が関が原にいったのは俗説だと東軍が大阪を目指すだの佐和山を目指すだのという噂に三成たちがひっかかったといわれるが
本来であれば田辺城が陥落間近という報は両軍とも知っており、田辺城攻城軍をあてにできる西軍はあまりあわてる必要がない
大垣に踏みとどまって東軍を拘束し田辺城攻城軍及び南宮山の軍と挟撃するか西進する東軍に追撃戦をしかけて徐々に戦力を削げばよく
さらには大津城攻めの軍の一部を割くぐらいはできるはずなので、わざわざ関が原にあわてて布陣する必要まではない

ここからは推測だが三成の書状に見られるが大垣城での篭城のための兵糧がそれほどなかったのと
小早川秀秋が寝返って松尾山を占拠したため京・大坂からの道を絶たれるのを恐れたため、あわてて関が原に布陣したのだろう
ここらへんはスレの上の方でも語られてるな
>>161あたりからだけどちょっと読みにくいか

それと大垣城と南宮山は結構離れており大垣攻囲のほかにおそらく池田輝政あたりが南宮山を警戒していたと思われるので
連絡を遮断されていてもおかしくはない
大垣・赤坂の陣の配置の資料がほとんどないからなあ
601人間七七四年:2008/05/22(木) 15:09:58 ID:ygl2nvVt
岐阜城が持ちこたえてたらどうなってたかね
602人間七七四年:2008/05/22(木) 16:26:43 ID:0D23mpGA
田辺や大津の西軍が来るのを待っていたら、秀忠や前田が来てしまうわけで、
輝元・秀頼が出て来ない以上、西軍が不利になるだけだろ。
603人間七七四年:2008/05/22(木) 17:10:18 ID:OqdKnuzA
秀忠到着より田辺大津攻城部隊到着の方が早くないか?
前田はどうだろう。あまりやる気なさそうだが
604人間七七四年:2008/05/22(木) 17:57:13 ID:XS2dYUay
秀忠到着は予定通りだろ
真田の頑張りが予想外だったんだから
前田は大谷担当というべき分だからわからんけど
605人間七七四年:2008/05/22(木) 17:58:10 ID:XS2dYUay
まあ家康到着のほうが予想外かw
606人間七七四年:2008/05/22(木) 18:38:04 ID:s47J7zZl
>>597
使い番、いわゆる連絡さえされていなかった
朝になったら、あらびっくり
607591:2008/05/23(金) 00:57:31 ID:xG9l71U/
B大垣城
 さすがに南宮山から歩くのは断念。だって遠いんだもんw
 大垣に宿をとったのでしばらく城近辺を散歩。
 ちっこい城というのが正直な印象で、ここで決戦したくなかった西軍の気持ちは納得。
 でもさ、だからといって断りもなしに勝手に関が原に移ったら毛利や長曽我部も辛いわな。
 東軍主力を目の前に相手にしたら山に登ってじっとするほかないだろう。
 約7万対2万だろ?
 関が原に逝かず南宮山攻め立てられたら勝ち目はないもんね。
 ただし、麓の寺を焼き払うといった動きはみせていたらしい。
608人間七七四年:2008/05/23(金) 06:11:19 ID:btkGkuS3
もし夕方までに決着がつかなかったら両軍ともどうするつもりだったのだろう
609人間七七四年:2008/05/23(金) 09:16:10 ID:Eozyd9Va
前の方での話では、
大垣での孤立の回避と小早川の裏切り防止のためじゃなかったかな。
610人間七七四年:2008/05/23(金) 23:09:57 ID:/UskrBxW
>もし夕方までに決着がつかなかったら両軍ともどうするつもりだったのだろう

素直に引くだろう。

>ここからは推測だが三成の書状に見られるが大垣城での篭城のための兵糧がそれほどなかったのと
>小早川秀秋が寝返って松尾山を占拠したため京・大坂からの道を絶たれるのを恐れたため、あわてて関が原に布陣したのだろう

であれば、まず、小早川に舐められるないようにしないといけない。
そもそも夜間あれほど慌てて移動する必要性はないし、
先に大谷なり毛利なりに連絡を密にする必要があるわけだし、そうしないとおかしい。

611591:2008/05/24(土) 03:17:27 ID:58dtpuo5
C大垣から関が原へ
 翌日は秋晴れ。
 電車で大垣より移動。まずは石田陣の笹尾山から。
 小高い丘ではあるが、ほぼ徹夜で大垣から武装して移動したのだから、ココを上るのにも苦労したハズ。
 関が原や南宮山なども一望できる見晴らしのよさ。
 実質上の指揮官としては好位置確保といえる。誤算は集中攻撃を黒田・細川・田兵らに喰らったことだろうね。
D島津陣跡
 北国街道を扼す小池村。この要衝を守るために鉾矢の陣で臨んだと碑に書かれていた。
 小兵力ながら、決死の覚悟が窺えるではないか。
 通説では、敵を追い払うだけで柵に篭もるだけだったとされているが、通常なら千人強で東軍に突っ込むはずもなく。
 退き口の際には半数近くまで兵を減らしていたとされているので、いわゆる「やれることはやった」のではないか。
 三成の出撃依頼に応じなかったというよりも、不可能だったというべきであり評価の見直しが必要な部隊の一つであろう。

612人間七七四年:2008/05/24(土) 08:17:52 ID:O8xiZx3f
>>590
そこまで期待するのは、いくらなんでもハードル高すぎでしょう。
あの時期それに成功したのは、家康ただ一人だけなんだから。
613人間七七四年:2008/05/24(土) 13:03:15 ID:pq1T4hGs
>>612
まあ家康に限らず秀吉も信長も信玄も謙信も元就も、およそ戦国の雄と言われる人間は
みんなその「無理やりに集めた味方をうまく使って」覇業を成したわけだけどね。

まあ、今の言い方で言えば三成は「指導力不足」ではあったのでしょうな。
614人間七七四年:2008/05/24(土) 14:50:12 ID:hhQYZ9Gm
>>613
今風にいえばアカウンタビリティーを果たしてない希ガス。
615人間七七四年:2008/05/24(土) 16:20:01 ID:O8xiZx3f
>>613
高々20万石程度で辞めさせられた元奉行という地位しかない者が、
10万を超える兵を集めるのとは無理の度合い、というか性質が全く違うって。
信長・秀吉・元就らは何年もかけて実力をつけて味方を増やしたのだし、
信玄にいたっては実質的に国人領主に推戴されて国主になったのがスタートライン。

正直そこに挙げられた人物の中で、何人が三成と同じことが出来たか怪しいと思う。
秀吉あたりの立ち回りの上手さならどうにかなったかもしれないが、
信玄や元就なら、そもそも無理に歯向かおうとしなかったのでは?
616人間七七四年:2008/05/24(土) 17:05:29 ID:pPhAfWKe
良くやったとは思うが、なら始めからするなといいたい
太平洋戦争へ驀進する日本を髣髴とさせる
617人間七七四年:2008/05/24(土) 17:12:36 ID:utUm3I0t
>>616
>太平洋戦争へ驀進する日本
最後の最後までブレーキから足を離さなかったがな。

始めからするなって勝てる見込みの大きい(と思われた)賭けを行っただけじゃん。
負けたのは結果だろう。沖田畷の戦いは始めからやらない方がよかったのか?
618人間七七四年:2008/05/24(土) 17:55:55 ID:Tx8zMlbI
結果を知っている奴が最初からやるなって言いだすとは…何とアホな話だろう。
そんな奴が歴史云々を語るなよ。
619人間七七四年:2008/05/24(土) 18:24:44 ID:BqVCVw5o
三成が10万の軍勢を集めたのではなく、反家康と毛利と秀頼の名前を使って奉行側が糾合させたと言うべき
620人間七七四年:2008/05/24(土) 18:41:27 ID:hhQYZ9Gm
>>619
で、次第に三成主導なのがバレて綻ぶ…ということだろう。
621人間七七四年:2008/05/24(土) 19:12:48 ID:a0ZvSQmi
秀家のおもりと豊臣への忠義でやむなく挙兵したけど思った以上に大事になって収集がつかなくなって破錠したと思ってる
622人間七七四年:2008/05/24(土) 20:17:59 ID:O8xiZx3f
>>619
奉行側といっても増田と長束は及び腰だし前田はほとんど中立。
三成が主要な位置を占めて西軍が成立したのは間違いないでしょう。
安国寺と宇喜多の意思は同じくらいにきわめて重要だったとは思うけど。
623人間七七四年:2008/05/24(土) 20:53:59 ID:BqVCVw5o
>>622
三成が主導的立場だったのと、三成が集めたのでは意味が違う
624人間七七四年:2008/05/24(土) 23:15:16 ID:a0ZvSQmi
必死に集めてみたら、なぜかこちら側にいる理由が薄い小早川秀秋がいたり
総大将までまかせて絶対的な味方のはずの毛利まで内通したり
肝心の豊臣家は中立になったり大変だな
625人間七七四年:2008/05/24(土) 23:59:35 ID:hhQYZ9Gm
>>624
小西が主張したように大坂に篭ればよかったのではないかな。
626人間七七四年:2008/05/25(日) 00:02:26 ID:mR2bpXbH
>>625
全国の戦線があっという間に崩壊しそう
627人間七七四年:2008/05/25(日) 00:53:49 ID:p41yRVmU
>>626
大坂の陣よりマシだろ。
628人間七七四年:2008/05/25(日) 07:22:40 ID:qv8Nw76a
よく19万石の小大名の身分でよくやったよ。
629人間七七四年:2008/05/25(日) 08:23:26 ID:vFA+3CWD
>>623
西軍の結集に主導的立場であったことを、
兵を集めたと言っても特に支障はないと思うけど。
630人間七七四年:2008/05/25(日) 09:10:07 ID:mR2bpXbH
>>627
関係ないが南北朝真っ只中のときに、京都追い出された足利尊氏が、難攻不落の城に篭城しようとしたら
配下の武士に「総大将の癖に篭城はやめろ!局地戦ならともかくこんな全国に戦線の広がった戦争で
総大将が動きをとらなくなるとみんなやる気なくして負けるぞ!」

って言われたとか。
631人間七七四年:2008/05/25(日) 12:36:03 ID:YI5GwDLz
>>628
ただの19万石の小大名の身分ならすごいが
三成は日本の政治をつかさどる五人の奉行のうちの一人なんだよな
そのときに作った人脈などがあったから兵を集めることができたわけで
その人間がどれだけの権威や立場があるのか考えるべきではないのか
三成が100万石の大名であっても五奉行とかそういった立場でなく
政権に何の関わりのないいち外様大名であったら
あれだけの兵は集めることできないだろう
632人間七七四年:2008/05/25(日) 12:53:12 ID:VdRAaGiG
>>629
三成一人で、三成の名前で集めた訳ではないから
633人間七七四年:2008/05/25(日) 14:39:26 ID:CNynhcgu
>>631
そうだったら、そもそも家康とも対立しないだろうなぁー。
634人間七七四年:2008/05/25(日) 17:43:22 ID:Y75x42MA
小山の家康に合流しようと西国から東に向かってる途中の軍勢を
大阪でつかまえて嫌々引き込んだだけじゃないの
このまま家康のトコ行くなんていったら無事じゃ済まないだろうから
成り行き上仕方なく
とりあえずコイツラに付くフリをしなきゃ自分の身が危ないって感じで

呼びかけに応えて自発的に集まった軍勢だけであれだけの数を揃えたとかなら凄いけど
635人間七七四年:2008/05/25(日) 18:38:28 ID:n8nwiyAU
>>632
家康にも言えることだな
636人間七七四年:2008/05/25(日) 18:53:42 ID:LkU+myqU
>>635
でも家康は制御しきった
特に、曲者ぞろいの東海道先鋒隊を何とか仕切った
軍監井伊直政、本多忠勝の才は石田三成にはない
637人間七七四年:2008/05/25(日) 18:57:45 ID:mR2bpXbH
>>635
秀吉も織田家の名前で集めた。
信長も将軍家の名前で集めた。

武家が味方を糾合する時は、そういう上級権力の大義名分を持ってやるものですよ。
638人間七七四年:2008/05/25(日) 20:33:48 ID:SdbidsGu
>>636
井伊と忠勝の軍歴と武勇は石田や大谷には無い
それと特に石田の性格が調整役としてはどうかと
大谷もハンセン病だとしたら表立って動けないし
それに奉行としては有能なはずなのに兵糧を鍋島直茂に押さえられたのはチョットな
639人間七七四年:2008/05/25(日) 22:34:21 ID:CNynhcgu
>>636
え、突き上げ喰らった所に家康が制御したんじゃないの?
そもそも軍監が二人いることが異常なわけだが・・・。
640人間七七四年:2008/05/25(日) 23:08:18 ID:LkU+myqU
>>639
別に福島が池田と喧嘩しそうになっても押さえてるし
このままでは押さえれませんとはいってない(苦労はしてるが)
後、当初は井伊だけであったが、急病で代わりに本多が手勢を率いて同行し、病の癒えた
井伊がその後を追ったいう流れ
641人間七七四年:2008/05/26(月) 09:22:51 ID:mqwAb4RC
>>610
昼間に退き陣すれば追撃くらうよ、殿が大変だし下手すりゃ総崩れ。
>>611
レポトン!
実質上の指揮官>これは前の方で議論あったしグン着物以外にないいんじゃない。
敵を追い払うだけで柵に篭もる>どこぞの文書で石田隊に応援出したってあったンジャッマイか、
島図予備隊説もあるし。
642人間七七四年:2008/05/26(月) 16:09:52 ID:nTPrxXTP
E小西陣跡
 西軍主力で平地に陣を敷いたのは島津とこの小西。
 ただし、陣地を構築するにあたり、障害物として小川を利用しようとしたのがこの地を選んだ理由かと思われる。
 初めに崩れだしたともいわれるくらいで戦意が薄いとも評価されるが、ほぼ同規模の兵力だった石田陣が丘の上にあったことと
 と比較すれば、地の利があるともいえないために致し方ないだろう。
F宇喜多陣跡
 本陣跡は神社がある。お清めをして手を洗ったところで気がついたのだが、島津は池のそば、小西は小川の付近
 そして宇喜多は湧水のあるところというように、水を確保している点が意図的なのか、偶然なのか?
 詳しい方、教えてください。 漏れは長期戦を予測しての意図的なものと考えた。
 さて、位置関係からすると兵数が多いこともあるが、横からみると西軍のなかでは突出しているようにみえる。
 松尾山方面から関が原をみると、宇喜多陣は正面付近にみえる位置。宇喜多が健在でいる限りは、西軍が優勢に見えたことだろう。
(石田・小西陣は松尾山からはみえる位置にない)
 通説にあるように、西軍優勢とみて秀秋が攻撃を逡巡したとするならば、正面の宇喜多隊の存在が大きいと思われる。
 もし、集中攻撃されている石田・小西が見える位置からみていたなら、東軍優勢とみて異なる判断も(早々に攻撃)もありえたか。
643人間七七四年:2008/05/26(月) 17:34:01 ID:3X4dERvf
>>641
布陣の香草は石田&左近じゃに?
小西は大坂決戦、宇喜多島津は夜襲派。
となりゃ、実質指揮官でおKではないか。
確かに島津は亀井に援軍を送ったらしいが、討ってでた記録はない。
石田二番備え説はあるな。
644人間七七四年:2008/05/26(月) 17:55:01 ID:+mOSCsdB
>>643
> 宇喜多島津は夜襲派。

その夜襲の逸話は信憑性が怪しい。
645人間七七四年:2008/05/26(月) 18:16:26 ID:nTPrxXTP
>>644
 宇喜多や島津のような実戦経験がある香具師が関が原決戦を主張するだろうか?
646人間七七四年:2008/05/26(月) 18:22:08 ID:+mOSCsdB
>>645
実戦経験だけなら全員ありますわな。
大体関が原決戦になったのも成り行きの要素がものすごく強いわけで。

まあ少なくとも、関が原前夜の夜襲の件は、後世創作された物と見たほうがいいと思う。
647人間七七四年:2008/05/26(月) 19:44:35 ID:XHw8MKFh
>>636
そこは正しく、家康以外には出来ないことだったと思うよ。
しかし、だからこそ家康と同じことが出来なかったからといって、
三成を過小評価することは出来ない。
648人間七七四年:2008/05/26(月) 20:21:56 ID:YSATvWit
>>646
流動的状況とはいえ主導権は家康が持ち続けていたし
というより寧ろ家康は承知の上で短期決戦に持ち込んだかと
649人間七七四年:2008/05/26(月) 20:58:38 ID:+mOSCsdB
関が原の序盤戦、伏見城の戦いで、西軍の徴発隊140〜50人の部隊がが醍醐寺に木材徴発しに行ったところ、
寺侍と醍醐寺領の領民がそれに武器持ち出して反発して、徴発隊がほうほうの体で逃げて言った、というエピソードが
ちょっとおもしろい(義演准后日記)

どうも西軍はこの挙兵のためかなり無理のある徴発を行って、人々の反感を買っていた節がある。
650人間七七四年:2008/05/26(月) 22:39:31 ID:f/crxksy
>>649
そんなの、この時代の戦争では日常的な風景だよ。
651人間七七四年:2008/05/26(月) 23:32:00 ID:+mOSCsdB
>>650
いや、戦国末期には既に諸大名は、戦争のための徴収も一定の行政手続きと主君の認可を得て、許可状を
得て初めてやるようになっているのだが、この時の西軍は、この醍醐寺の例に限らず略奪同然に徴収している。
しかも機内地域は秀吉政権の成立から10数年年ほどは戦争は起こっておらず、よって大規模な戦時徴収も
行われていない。

西軍のやったこと、これは決して日常的な風景ではないよ。
652人間七七四年:2008/05/26(月) 23:34:55 ID:CeY3c2Sv
>>642
なるほど実際に見られると面白いですね。
松尾山城の整備や大谷が築陣を行っていたのを考えると、三成や秀家は関ヶ原を当初から防衛線に
する構想だったんじゃないかと思いますね、おまけに水の確保も考えていたとなればなお更ですね。
そう考えれば夜間にも関わらず手際よく布陣出来たのも頷けます。もっとも決戦する気ではなかった
と思いますが。
秀秋の件ですが福島隊の壊走やその後の宇喜多や大谷隊の善戦しか見えていなければ判断に迷った
のも理解できます、鉄砲の件も否定されてますから西軍攻撃に踏み切った理由はなんなんでしょう。
653人間七七四年:2008/05/27(火) 11:16:39 ID:4tR1sR6m
G大谷陣跡
 山中にあり、一種の山城であったと案内にある。東海道線が脇を通り、まさに要衝。
 ロケーションとしてはやや後方に位置していることや宇喜多の大軍が前方に位置していることから
 藤堂隊が攻めかかった程度で石田隊ほど集中攻撃を受けなかったのは地の利が大きいといえる。
 小早川の攻撃を暫く凌いだといわれるが、松尾山方面からココを攻めるのは急な崖を登らねばならない
 ので、やはり地の利が大きいのだろう。また、早めに着陣して準備怠りないことや兵の疲労度が少ない
 点も、西軍各隊のなかにおいては有利な条件があり、善戦できた一因といえそう。
H松尾山方面
 関が原方面から東海道線を挟み、かなりの距離がある。
 山を降りるのに1時間、大谷陣まで2時間かかる、といったところか。更に、前日の雨で足場が
 悪かったのだから、移動時間は通常よりもかかったことだろう。当時最新型のLLビーンのトレッキング
 を履いて軽装の私でもかなり歩きづらかった。
 だから、昼過ぎに西軍に攻めかかったのだとしたら、8時頃の開戦後に決断したのであり史実で言われているほど
 躊躇して攻撃しなかったというほどでもないのではないか。
 これが通説と異なる私の率直な感想であったが、後に「真説 関が原」に出会い、そのなかの記述で西軍善戦説に
 疑いがあり、小早川の裏切り?は早々に発覚していたという説が紹介されていたことで自らの説にある程度確信を
 もった次第です。
 それに、南宮山の毛利にしても松尾山の小早川も、連絡手段が狼煙しかない状況で果たして連携
 して攻撃するのは難しい距離にいた。
 しかも、その作戦が伝えられたのが前夜遅くとあれば、準備不足は明らかで自らの倍以上の規模
 である強豪・徳川本隊に攻撃するのを躊躇するのは当然であろう。
 西軍サイドから見れば恨まれるところだが、状況から判断して彼らの動静は当然の帰結ともいえよう。


654人間七七四年:2008/05/27(火) 19:46:53 ID:877n48Vf
第3回 2ちゃんねる全板人気トーナメント二次予選
<<戦国時代>>板は6/4日出陣
http://2ch.gepper.net/tour/t2/a9.html

詳しくは選対スレへ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211037643/
655人間七七四年:2008/05/27(火) 23:32:05 ID:HsqPslQt
>>653
松尾山の小早川が東軍に参加すると決めて粛々と2時間以上かけて下山、
西軍は小早川の裏切りを知っていたとすると、横槍入れられるまで何してたん?
大谷が殿になって撤退とかしてればあれほどの大敗はしないだろうふつう。
656人間七七四年:2008/05/27(火) 23:40:58 ID:b1JLCeyL
・美濃失う
・疑心暗鬼で内部崩壊の危機
・家康到着

こんな状態で主力による合戦に敗退となれば、あとは自壊してしまうだけだから。
657人間七七四年:2008/05/28(水) 06:11:34 ID:kS0DZjcz
小早川隊が松尾山の山頂から下山して突撃したという確証はないよ。
数からみても麓に多数配置していたと思われる。

そもそもどのようなルートで大谷隊に突進したのかすら不明。
658人間七七四年:2008/05/28(水) 09:15:32 ID:vDeeGKLw
南宮山の毛利も秀元は山にいたが部隊は山麓に布陣してたはずって誰か書いてたな。
篭城じゃないんだから進退もできずに山上に孤立だから当たり前なのかもしれないけど、
松尾山もそう考えるほうが素直かも。
とすると南宮山に登った毛利は参戦する気がないだの、山を下るのに何時間もかかるな
んて書くのは椰子ということ鴨。
659人間七七四年:2008/05/28(水) 11:10:12 ID:AsP6xB/G
南宮山の毛利陣跡は山麓にあるんだけどね
詳しく言うと、南宮山の東側中腹、大垣を見渡せる位置に堀とかある
頂上にある廃城を改修した松尾山とは存在意味も違うんだけどね

秀元は山にいて部隊は山麓って意味わからん
山下るのに何時間もイマイチ説得力に欠けるが
660653:2008/05/28(水) 11:23:38 ID:DX20xFif
>>658
南宮山の麓にいたのは安国寺や吉川ら。陣跡もある。
そもそも一万数千も麓に居て本陣だけぽつんと山頂にあるのはありえんだろ。
あと、松尾山は城だからね。もともと毛利本隊を入れるための。
麓には脇坂らがいるわけだから、松尾山城に小早川軍がいたのは確定的。
さらに、大谷隊に突入するには南か西からしかムリ。
なぜなら、東側には宇喜多がいるわけで大谷に突入となれば場所は限られてくる。
661人間七七四年:2008/05/28(水) 11:32:12 ID:vDeeGKLw
レスあんがと。
南宮山の秀元陣跡ってググルと結構高所にあってとても大軍が布陣できないよね、
とすると秀元の軍勢は山麓に布陣していたで良いのかな。
南宮山の毛利陣跡は山麓にあるんだけどね >この意味ね。
言いたかったのは時折見かける書きこ(どこでは無しね)で南宮山の毛利勢は
山に登ってしまって戦う気が端から見えなかったとか、参戦しようとしても下山
するのに何時間も懸かるから参戦出来ないなんて話はありえない、という理解で
いいのかなということなんだけど、ご意見ヨロシク。
662653:2008/05/28(水) 12:33:40 ID:DX20xFif
秀元陣跡自体は狭い。
一部首脳陣がいただけであろうと思われ。
麓をはじめ、山腹に何段にもわたって配置されていた、と考えるのがよいでしょう。
もし全軍が麓にいたとなると、土地の広さからいって東軍が通過する際に接触してしまいます。
現地に赴くまでは、私も通説どおり毛利や小早川が高地から突撃すれば西軍が勝ったのに…。
と思っていました。三成も宇喜多も小西も贔屓にしてたので。
でもね、自分で陣跡を巡るととても短時間で狼煙が上がった、ハイ突撃!って距離じゃないのね。
一人で軽装で何時間もかかる距離を大軍が即応するなんてありえないと考えるのが自然では?
それに、やる気十分なら、指揮官があんなところにいないでしょう。
さらに毛利の場合、吉川が麓で遮っていたら動くに動けないのは道理だし、
まともに移動しても数刻かかるのに吉川が通せんぼしてるなら何時間かかるかわからん。
毛利が参戦するのは当初よりムリって話は普通にありえると思うが。
あと「宰相の空弁当」はアイロニーであって、「漏れは逝きたいけど吉川が塞いで動けないんだよお」
とは自家の恥を晒すことになり、本当のこといえないから、そういったに過ぎないんじゃないかな。
663人間七七四年:2008/05/28(水) 12:50:45 ID:AsP6xB/G
>>661
ごめん、意味分かった
たぶん南宮山山頂に秀元陣跡あるから、それで勘違いしてしまってると思う
秀元は南宮山山頂には布陣しておらず、南宮山東1kmの山麓に陣砦を構えてるんだよね
三成側からすれば、大垣の後詰としての位置取りに不満があったみたいで、
なぜ街道を封鎖しないんだよみたいな事書かれてる(記憶曖昧)

なので、山に登って戦う気がなかったとか、下山に何時間もかかったというのは違うと思う
664653:2008/05/28(水) 14:03:02 ID:DX20xFif
>>663
その位置だと栗原山だぞ。長曽我部と間違えてないか?
出典はなに?
665人間七七四年:2008/05/28(水) 14:27:17 ID:lAFxi1ro
最初から陣地戦を目論んでいたということですかね。
清洲に対して西軍は大垣城を起点に展開して
南宮山方面勢で伊勢街道を封鎖し、松尾山勢が北国街道及び脇往還を抑える予定が
東軍の突破の動きによって、急遽、街道封鎖に大垣勢が当たり、
その攻防戦という局地戦に東西の勝敗が決してしまった。かな?
666人間七七四年:2008/05/28(水) 14:41:55 ID:AsP6xB/G
>>664
間違いではない、城郭研究家の中井均氏による南宮山陣城の城跡概要図が作成されている
逆に秀元の陣が南宮山山頂にあったとする物証が何一つない

出典と言われたら、中井氏の本や講演どうぞとしか言えないよなぁ
と言うか周知かと思っていたんだが、そーでもないのか

その場所とかのサイト見つけたんで参照にどうぞ
ttp://www.geocities.jp/pappakun12/aruku/minokoku/nangu/nangumemo.htm
667人間七七四年:2008/05/28(水) 21:16:04 ID:2zus0yZs
>>666
かなりの少数説じゃない?関ヶ原史料館などにもそういう説は紹介されてないし。
668人間七七四年:2008/05/28(水) 21:30:31 ID:ild+G5B3
>>664
いや、南宮山最高所ではなく直線で600mの東側尾根に秀元本陣はある
669人間七七四年:2008/05/28(水) 21:37:12 ID:2jhKaz8y
稜線沿いに兵を置いたんじゃねーの?
そーすると、南宮山取り囲んだ東軍の意味合いも明らか。

670人間七七四年:2008/05/28(水) 21:39:08 ID:2jhKaz8y
>>668
前、南宮山の断面図みたんだけど。
その場所以外は急峻でどーみても兵を置けそうになかった。
671人間七七四年:2008/05/28(水) 21:46:21 ID:AsP6xB/G
>>667
今現在ではガッチガチの鉄板の定説ですよ
672人間七七四年:2008/05/28(水) 22:20:11 ID:ild+G5B3
>>670
あの手の断面図は大抵、上下を引き伸ばしているもの
673653:2008/05/28(水) 22:46:36 ID:DX20xFif
>>672
実際逝ってみたけどとても大軍が居座れるような場所ではない。
ガッチガチの鉄板の定説に逆らっている現地の観光担当の方たちはなんざんしょ。
普通に山頂付近に秀元陣跡とかあるんだけど。
旗とかたてちゃってw
吉川や安国寺、あるいは長束との位置関係もどうなるのさw
674人間七七四年:2008/05/28(水) 23:10:34 ID:kS0DZjcz
中井均厨か。以前も登場して暴れてたよな。
定説だなんて笑っちゃう。

もしかして、本人なのか?
675人間七七四年:2008/05/29(木) 00:12:21 ID:vj8inESZ
>>673
ttp://www.geocities.jp/pappakun12/aruku/minokoku/nangu/nangu2.htm
ほい、ちゃんと秀元陣所の石柱も立ってるよ
それと安国寺や吉川の位置関係も書いてあるけどね

いつものは放置するけどw
676人間七七四年:2008/05/29(木) 01:12:34 ID:b1OzQJ32
やっとスルー技術をを身に付けたか
677653:2008/05/29(木) 05:44:45 ID:L5ZrW1z7
あのねえ、勝手に山頂ではないから→高地ではない
と結論付けてるけど、東の尾根で結構な高地なんだってw
地図の見方からやり直したほうがいいんじゃないか?
678人間七七四年:2008/05/29(木) 06:34:51 ID:72E56Dbr
大規模な山城は月山富田城や観音寺城、春日山城があり無数の帯郭で成り立ってる
それらに当てはめればそれ程、無理は感じないのだが
679653:2008/05/29(木) 07:46:23 ID:L5ZrW1z7
何年もかけて作られた城と急場しのぎの砦を比較してる時点で…って話だけどね。
680人間七七四年:2008/05/29(木) 11:01:33 ID:JZs0oXzk
小早川スレでも暴れているage厨は自己主張が強いな
681人間七七四年:2008/05/29(木) 11:02:10 ID:vj8inESZ
>>677
高地か否かに摩り替えられてもなぁ
682人間七七四年:2008/05/29(木) 11:12:54 ID:jd24CIua
どうでもいいけど問鉄砲は捏造だからな
683653:2008/05/29(木) 12:24:16 ID:L5ZrW1z7
>>681
どうでもいいけど漏れは「山頂付近」としか書いてないぞ、初めから。
663がミスリードして山頂がでてくるが。
南宮山は富士山みたいな形をしていると錯誤しているから勝手に山頂の東だから
麓にあると思ってるみたいだなw
実際は673で書いたとおりで、大垣が見渡せる場所にあって西側のほうが高い
ので関が原方面はみえないわけだが。
論点がズレてきているが、高地にいるために下山すればな時間がかかる場所
にいたことは間違いないということ。
684人間七七四年:2008/05/29(木) 13:32:34 ID:vj8inESZ
>>683
お前が俺に秀元の陣の位置が違うと絡んできたんだが、山頂の話もお前に向けた話ではなかったのを、
お前が横から口出してきたんだろ
しかも現地の観光担当は逆らってる、山頂付近にあると現地の写真付きのサイトまで紹介して証拠挙げたら、
今度は>>677ですり替え、んで>>683

何を言っているんだ、お前はw

秀元陣所は南宮山山麓で間違いないし、>>683が一人で暴走してただけだろ、よく言うわ
ttp://www.mtweb.jp/yamatabi/toukai/nangusan/nangusan.htm
↑南宮山山頂と秀元陣所の位置関係
これで山頂付近と言うのは無理あり過ぎ、つかお前の主張を証明するもんがないんだけどw

ちなみに高地にいるため下山すればなんてのは、南宮山城砦に毛利勢が閉じ篭っている前提になるが、
実際は安国寺や吉川の陣所見ればわかる通り、南宮山城砦を本陣とし、大垣に向けて軍勢を展開していた
まぁこれは南宮山城砦の規模などから当然な訳で、前衛の位置・南宮神社西側の位置に吉川広家が、
南宮神社から南西200〜300mの位置に安国寺恵瓊が布陣
ついでに恵瓊は独自の軍勢を持っていなかったので、益田や熊谷の「組」を与力につけられてる
これらから毛利勢の多くは(地形的にも存在する遺構から見ても)麓付近に布陣し、
大垣の後詰の役割を果たしていたのがよくわかる

というか毛利勢の目的は大垣の後詰がであり、南宮山の拠点を守ることではないのだから、
下山に何時間もかかるような布陣を取らないのは当然

これで「高地にいるために下山すればな時間がかかる場所」にいたとは、単に秀元陣所だけしか見えてないとしか言えない
そして、まともに移動して数刻もかかるようなこともない
んで空弁当の話は勢田に置いての話の脚色に過ぎない
685人間七七四年:2008/05/29(木) 13:35:07 ID:vj8inESZ
あ、訂正>>684

しかも現地の観光担当は逆らってる、山頂付近にあると現地の写真付きのサイトまで紹介して証拠挙げたら、
                        ↓
しかも現地の観光担当は逆らってる、山頂付近にあると言うので、現地の写真付きのサイトまで紹介して証拠挙げたら、
686653:2008/05/29(木) 13:55:24 ID:L5ZrW1z7
頑張っているが、単純な距離や等高線の読み方など、社会通念上の一般的な理解からして
なっていないから、イジって遊んでいるわけだがw
それともあなたは標高数百Mの山を一息で駆けおりる超人なのかな。

あんたの主張だと大将の秀元たちをぽつんと山に置いて部下だけ麓で戦う態勢だということになるねw
面白いねえw
687人間七七四年:2008/05/29(木) 14:07:02 ID:vj8inESZ
>>686
>あんたの主張だと大将の秀元たちをぽつんと山に置いて部下だけ麓で戦う態勢だということになるねw
秀元たち?部下だけで戦う?ここ詳しく

>単純な距離や等高線の読み方など、社会通念上の一般的な理解からして
>なっていないから、イジって遊んでいるわけだがw
お前の脳内社会通念上の一般的な理解はどーでもいいよw
こっちはちゃんと地図も出して、証拠の写真も出して証明はしてるしね

まぁイジって遊んでると言うことにしないと引っ込みつかんもんね、わかります
688653:2008/05/29(木) 15:04:57 ID:L5ZrW1z7
>>687
だから、秀元陣から吉川・安国寺がいる麓まで開きがあるわけよ。
結構な山道でもあり、馬なんぞ使えんよ。で、軽装で普通に歩いても数刻な。
鎧兜の人間たちが集団で移動したらどんだけ時間かかるかってこと。
漏れの説はコレを前提とした主張なわけなんだが、あんたの視点からは全くそれが抜けてるから
どこまでいってもカミあうわけがないんだけどねw

>あんたの主張だと大将の秀元たちをぽつんと山に置いて部下だけ麓で戦う態勢だということになるねw
秀元たち?部下だけで戦う?ここ詳しく

あなたの説だと兵の大半は麓にいたとされているが、これで出撃態勢と断じてしまえば
実質上の指揮官は吉川で秀元は山の尾根にある陣跡に引き篭もったまま何してたの?
何度も書いているように、秀元陣から麓の吉川らまで相当あるわけよ。
さらに、これも以前書いたが麓の南宮神社付近に1万数千人も人がいたら、夜間行軍中の
東軍と触接する怖れもでてくるわな。そんなリスクを負うと思うか?
他の人も書いた669・670などのように地形を利して配置されたと考えるのが自然だろ。
どうよ?


689人間七七四年:2008/05/29(木) 15:06:40 ID:ytQYRtMV
>>682
ないという言説は家康野戦の名手スレで否定されました。
690人間七七四年:2008/05/29(木) 15:17:45 ID:vj8inESZ
>>688
>軽装で普通に歩いても数刻な。
今現在のハイキングコースでさえ、“登りに”3〜40分程度、なのに下るのに数刻???
大辞林では数刻とは「2〜3時間から5〜6時間程度の時間」とあるぞ?
ちゃんと南宮山陣城の登り口も整備されてた遺構あるのに、数時間かかる意味わからん

>実質上の指揮官は吉川で秀元は山の尾根にある陣跡に引き篭もったまま何してたの?
何してたの?って動かなかったんだが?

>さらに、これも以前書いたが麓の南宮神社付近に1万数千人も人がいたら、夜間行軍中の
>東軍と触接する怖れもでてくるわな。そんなリスクを負うと思うか?
リスクも何も、毛利は東軍が夜間行軍すると思ってなかった訳だが

三成らが大垣から関ヶ原へ移動することさえ知らなかったのに、東軍が夜間行軍して三成らを追ってきて、
南宮山の毛利勢と接触する危険があるとどうやって考えるのか、是非ご説明願う
そもそも東軍も毛利勢他が布陣しているのを知っているので、避けて行軍する
接触の危険を考慮するのは移動する東軍であって、毛利が関与することではない

基本的な知識欠落してるのに、何がどうよなんだろ?
691653:2008/05/29(木) 16:05:39 ID:L5ZrW1z7
>軽装で普通に歩いても数刻な。
今現在のハイキングコースでさえ、“登りに”3〜40分程度、なのに下るのに数刻???
大辞林では数刻とは「2〜3時間から5〜6時間程度の時間」とあるぞ?
ちゃんと南宮山陣城の登り口も整備されてた遺構あるのに、数時間かかる意味わからん

不動産の案内に即だまされるタイプですなw
あなたは地図が読めない確定!w

>さらに、これも以前書いたが麓の南宮神社付近に1万数千人も人がいたら、夜間行軍中の
>東軍と触接する怖れもでてくるわな。そんなリスクを負うと思うか?
リスクも何も、毛利は東軍が夜間行軍すると思ってなかった訳だが

目の前を何倍もの大軍が通るのをボーッとみてたわけですかw

>三成らが大垣から関ヶ原へ移動することさえ知らなかったのに、東軍が夜間行軍して三成らを追ってきて、
南宮山の毛利勢と接触する危険があるとどうやって考えるのか、是非ご説明願う
そもそも東軍も毛利勢他が布陣しているのを知っているので、避けて行軍する
接触の危険を考慮するのは移動する東軍であって、毛利が関与することではない

三成が打ち合わせに来たのもわからんの?
じゃあさ、どうやって狼煙を合図に攻めかかるなんて話になったんだろw

あんたみたいなのを昼行灯っていうんだろうな…爆
692人間七七四年:2008/05/29(木) 16:18:20 ID:jd24CIua
>>689
あそこで家康持ち上げてるのはキチガイなのでヌルーでお願いします
693人間七七四年:2008/05/29(木) 16:20:35 ID:vj8inESZ
>>691
>不動産の案内に即だまされるタイプですなw あなたは地図が読めない確定!w
反論にもなってない

>目の前を何倍もの大軍が通るのをボーッとみてたわけですかw
夜だし、もう和睦してたしねw

>三成が打ち合わせに来たのもわからんの?
ソース提示

>じゃあさ、どうやって狼煙を合図に攻めかかるなんて話になったんだろw
狼煙を合図に攻めかかると取り決めしたと言う話自体信頼性なし
狼煙の合図によて毛利が攻めかかると言う取り決めしたと言うソース提示

んで>>690に対する反論はないので、ID:L5ZrW1z7の妄想でいいんだなw
694人間七七四年:2008/05/29(木) 16:37:05 ID:ytQYRtMV
>>692
そうか、俺はキチガイか
695人間七七四年:2008/05/29(木) 16:44:55 ID:jd24CIua
>>694
戦の達人の割には
武田にフルボッコ
真田にフルボッコ
領土拡大戦は武田崩れで穴山抱え込んでもやっとこさ駿河一国しか切り取れず
甲信地方は本能寺後の混乱時に掠め取っただけだし真田に土付けられてるのは
一体どういう事なのでしょうか
金ヶ崎とか姉川は捏造だし


下手ではないけど秀吉はおろか元就よりも劣ってたんじゃね
696人間七七四年:2008/05/29(木) 16:46:25 ID:NtixpH7v
>>695
君はアンチ家康のキチガイだな
697人間七七四年:2008/05/29(木) 16:49:24 ID:8VPqPTR3
>>693
こいつリアルにバカなんだな。
698人間七七四年:2008/05/29(木) 16:52:41 ID:jd24CIua
>>696
いや、家康は好きだけど戦の達人では無いだろと
外交やらでの自家勢力取り込みはすごいと思う

というか徳川家単独でおこなった戦争で有名なのってあるの?
699人間七七四年:2008/05/29(木) 16:55:47 ID:NtixpH7v
>>698
天正壬午の乱
700人間七七四年:2008/05/29(木) 16:57:02 ID:jd24CIua
他には?
701人間七七四年:2008/05/29(木) 16:58:19 ID:NtixpH7v
>>700
だから君はキチガイだというのだ
702人間七七四年:2008/05/29(木) 17:01:17 ID:jd24CIua
えーだってさ、家康は戦の達人だと主張するからにはもっと挙げられるだろ

駿河、遠江の大半を失陥してピンチにもなってるし
達人ではないが、歴戦の将ではあり、その能力は戦略、外交に長けているってのが俺の家康像

なんでもかんでも家康すごい!って主張するほうがキチガイだろ
703人間七七四年:2008/05/29(木) 17:21:20 ID:8VPqPTR3
>>702
小牧、長久手ってさ、普通に皆を黙らせる実績だと思うが。
704人間七七四年:2008/05/29(木) 17:24:41 ID:jd24CIua
局地戦だしなぁ

んで天正壬午の乱と小牧長久手以外になんかあるの?
徳川単独での戦でさ
705人間七七四年:2008/05/29(木) 18:34:26 ID:NtixpH7v
ID:jd24CIuaは「納得したくない人間は何を言っても納得しない」の典型だな。

スルーした方がよさそうだ。
706人間七七四年:2008/05/29(木) 19:03:46 ID:u5GewMBF
どっちでもいいから向こうのスレでやれよ。
向こうのスレで結論出たんならこっちに持ってくんな。
707人間七七四年:2008/05/29(木) 19:15:32 ID:jd24CIua
達人の定義がひいき武将だからって甘すぎだろ
708人間七七四年:2008/05/29(木) 20:08:05 ID:stDKAsUT
こちらへどうぞ
家康は本当に野戦の達人?2
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1176337389/l50
709人間七七四年:2008/05/29(木) 20:09:01 ID:TLaIBImd
家康の相手は今川、武田、北条、豊臣と自分より大きいのが多かったから外交や同盟などで味方を増やすのは当然
上杉謙信とも誼を通じてるし、自分よりでかい相手になんの裏打ちもなく向かっていくやつはただの馬鹿
三方が原は若さなのか先の政治を見据えてなのかはわかんないけど
でも自分のところより大きいのに負けるのはそれほど恥ではないよ
真田の場合は徳川軍の油断と、なにより真田昌幸をほめるしかない
信繁は一か八かの突撃なのであえて除外。真田丸はほめてもいいが
最終的な天下人になってるのは運と実力が同時代のほかの武将たちより優れてたから
他の時代の武将とは比べてもしょうがない。大前提が違うし
直接の戦に負けても勢力を拡大し続けてるのは武力と政治力の使い方がうまいからだと思う
戦争は政治の延長であるというのを体現してるのが家康じゃないかな
710人間七七四年:2008/05/29(木) 22:08:39 ID:72E56Dbr
>>679
蔚山和城は40日で完成したとの事
問題無し
711653:2008/05/29(木) 23:42:28 ID:L5ZrW1z7
>>693
693カイゼン法
@いくらぐったところで地図が読めないのでは仕方がない。中学地理の教科書から復習するとよいだろう。
Aまったく数量関係が理解できていないようなので、小学高学年あたりからの復習がおすすめだな。
B時系列順に系統だてて考えたり、事象の背景の理解に思いを巡らす能力が不足しているが、これに関して
 は身につくかどうかわからないから、そのままにしておこう。
Cたかが「数刻」を大辞林で調べなくてはならないのも痛いが、それを恥じずに書くのはある意味偉いと思う。
 これからも、頑張って生きてください。応援しています。
712人間七七四年:2008/05/30(金) 12:59:08 ID:nRna18JW
>>711
主張にソースなく、地図の距離もわからん、だから自らの説明の解説も出来ないと
そりゃ他スレでもイロイロ突っ込まれても答えられんわなw

あ、ちなみに南宮山登りの時間は実際に登った人の各サイトに書いてあるけどね
それと秀元陣所跡から南宮神社まで直線で約1kmだから
麓に布陣した毛利勢がお前の脳内だけで南宮山山頂付近にいて下山に数時間かけてくださいw
713人間七七四年:2008/05/30(金) 17:10:14 ID:+f7quKQ4
家康は戦の達人では無いだろと>そうだと思う。
同世代の連中はそんなに家康を恐れてないんじゃないかな、
ただ彼は信長や信玄がいた戦国時代の生き残りで250万石の大大名
おまけに故太閤に野戦で勝ったこと(直接対決でないが)なんかが
喧伝されて虚像が大きくなった部分もあるんじゃないかな。
同世代の利家や隆景、少し若いが氏郷なんかは生きていれば一戦
せずに軍門に降る事はないだろうしね。
714人間七七四年:2008/05/30(金) 17:15:36 ID:kGzk4vk1
>>713
「戦」を戦闘に限定して考えすぎてる。
利家も隆景も氏郷も、政治等の客観状況によって戦うかどうかは決める。
そう言う部分が重要なのが実際の「いくさ」だ。

そんな単純な強い弱い観じゃ、ゲーム脳といわれても仕方ないぞ?
715人間七七四年:2008/05/30(金) 18:26:45 ID:+f7quKQ4
うん、そういう意味ではそうだよね、だから天下を獲れたんだろう。
だけど上の議論は局地戦の強さの話じゃないかな、野戦の名人なんてそんな意味だとおもうけど、
信長や秀吉は総合力の勝負で他を圧倒したけど野戦の名人なんて言われたこと無いしね。

716人間七七四年:2008/05/30(金) 19:00:23 ID:kGzk4vk1
>>715
「東海一の弓取り」と言い、生前からそう呼ばれてたってことは、当時の人々にはそう呼ぶだけの
根拠があったと考えるべきだよ。
717人間七七四年:2008/05/30(金) 19:58:38 ID:G8auOF79
>>715
東国三大勢力の上杉、北条、武田。その中でも最強であった武田の圧力を
十年以上も抗してきたのは十分な実績
718人間七七四年:2008/05/30(金) 20:47:45 ID:xt40PZ6S
>>709
てか家康自身は昌幸と直接の交戦経験ないしな〜
徳川軍の戦だから家康の評価対象になるという主張もあるがそういう奴に限って他の事については局地的視点で物言うし。
家康が率いた戦で明確な失策といえるのは三方ヶ原くらいじゃないのか?
719人間七七四年:2008/05/30(金) 20:50:27 ID:BbeFc6tx
東海一の弓取り」と言い、生前からそう呼ばれてたってことは>生前からって意味不明
元は今川義元だろ
720人間七七四年:2008/05/30(金) 21:12:33 ID:kGzk4vk1
>>719
君はアホなのか?
721人間七七四年:2008/05/30(金) 21:47:04 ID:xZ5lS2KG
それが結構間違って堂々と使っている人が多いみたいだ
正解は『海道一の弓取り』今川義元

戦国武将の異名って面白いね
722653:2008/05/30(金) 23:35:55 ID:2RCEOnnN
>主張にソースなく、地図の距離もわからん、だから自らの説明の解説も出来ないと
そりゃ他スレでもイロイロ突っ込まれても答えられんわなw
>あ、ちなみに南宮山登りの時間は実際に登った人の各サイトに書いてあるけどね
それと秀元陣所跡から南宮神社まで直線で約1kmだから
麓に布陣した毛利勢がお前の脳内だけで南宮山山頂付近にいて下山に数時間かけてくださいw

あのー、登った話書いたの漏れなんだけどw
ソースっていっても喪前の誰でもわかるようなのじゃーなあw
わざわざ貼るようなシロモノでもないだろw
意味ないって直接表現されないとわからないんなんてカワイソス…w

キミ、北京にでてくれよ。山岳地帯の約1キロを一瞬で駆け下りるんだろwww
723人間七七四年:2008/05/31(土) 00:08:43 ID:Bqop3VG9
>>722
>あのー、登った話書いたの漏れなんだけどw
誰がお前のバカ話なんて書いてんだよ
「南宮山登りの時間は実際に登った人の“各サイト”に書いてあるけどね」と書いてんのにw

>ソースっていっても喪前の誰でもわかるようなのじゃーなあw
え?誰にでもわかるからソース足り得るんだけどw
お前の場合は、ソースすらないもんな

>山岳地帯の約1キロを一瞬で駆け下りるんだろwww
山岳地帯?どこが?
ちゃんと登り下りの道も整備された南宮山陣城から下るのに、何の根拠も無く何時間もかかると言い、
その証明すら出来てないお前に期待はしてないけどな

つか、突っ込まれたら中傷に摩り替えてはぐらかし
お前らしいわw
724人間七七四年:2008/05/31(土) 00:34:17 ID:Gb2JkLO1
それより佐竹の話しようぜ、あいつら何してたん?
725人間七七四年:2008/05/31(土) 00:55:46 ID:AVybFe4L
>>724

 内 部 対 立
726653:2008/05/31(土) 01:58:58 ID:kybX5E8s
>>723
すごいバカもいたもんだなw
さすがヒッキーw
727人間七七四年:2008/05/31(土) 04:46:33 ID:gthFh5vG
>>717
上杉、北条、武田で最強が武田っておかしくない?
728人間七七四年:2008/05/31(土) 06:20:51 ID:X7S2Zrqc
>>723
あのー城ってさ、当たり前だが障害物だろ。
そんなところ通りながら下りるのは普段より時間がかかるのではないかな?
729人間七七四年:2008/05/31(土) 07:59:25 ID:UDsIZF9N
>>723の人気に嫉妬。w
730人間七七四年:2008/05/31(土) 08:09:04 ID:+9ORLpUS
あのー、現在の整備された道と当時の山道比較してもしょうがないのですが、
前日雨降っていて、万の人数が山の上にいるという前提で話してくださいお願いします。

731人間七七四年:2008/05/31(土) 11:55:22 ID:Bqop3VG9
いつもの単発IDだから気にもならんな、本人は相変わらず証明出来てないけどw

>あのー城ってさ、当たり前だが障害物だろ。
>そんなところ通りながら下りるのは普段より時間がかかるのではないかな?
南宮山陣城の城跡概要図確認してね

>現在の整備された道と当時の山道比較してもしょうがないのですが、
当時の山道とは?当時の道の遺構は存在するが、どんあ

>万の人数が山の上にいるという前提で話してくださいお願いします。
万の人数が山の上にいる前提ならば、それを証明してください
南宮山陣城は万の人数が入れるほどの規模ではなく、途中に軍勢が駐屯していたような遺構の存在もありません
ちなみに存在が確認されてる吉川や安国寺の陣所は麓にあります
732人間七七四年:2008/05/31(土) 12:20:00 ID:Bqop3VG9
今まで証明されてない話

・(南宮山は)結構な山道でもあり、馬なんぞ使えんよ。で、軽装で普通に歩いても数刻な。
・他の人も書いた669・670などのように地形を利して配置されたと考えるのが自然だろ。
・三成が(南宮山の毛利に)打ち合わせに来た
・ どうやって狼煙を合図に攻めかかるなんて話になったんだろ

↑これらの証左なし

答えられないもんで>>711以降は中傷しか出来てない
あとボキャブラリが貧困なので文体がわかりやすいのも悲惨
733人間七七四年:2008/05/31(土) 16:55:54 ID:X7S2Zrqc
>>732

いい加減、複数の人間から模前の矛盾を指摘されてるのに気付けよ。
もはや妄想野郎は君確定だな。
数刻もわからないのに、相手にボキャ貧とかってどうだけー。
つーか、よっぽど悔しかったんだろうな。
734人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/05/31(土) 19:32:59 ID:Bqop3VG9
>>733
誰もお前が同一人物とは書いてないんだが、何言ってんだ?
数刻がわからないとか、はっきりとわかるように説明しただけなのを、わかってないと勘違いしてるしな

つか>>733も自身の書いた内容ではなく、中傷しか書けてない
南宮山陣城がとれほどの規模だったのか、それを通るとはどういう事なのか、全く説明なし

同一人物かは知らんが、程度は>>653と同類
735人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/05/31(土) 20:25:26 ID:X7S2Zrqc
>>734
凄い妄想…。
736653:2008/05/31(土) 22:58:03 ID:kybX5E8s
ぶんたいうんぬんいってるけれどいつも「653」ていれてるんだけど
すうじがわからないのかな。じんじろしじしゃくんは。
ひらがなでかいたから、これならよめるのかな?
まいにちあさからよるまでごくろうさま。
それにしても、いっしょうけんめいせつめいしているのにだーれもさんどう
してくれないのですね。
でもまだまだ、これからですよ。おうえんしています、みんなにさんせいしてもらえるよう
これからもがんばってくださいw
737人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 00:03:35 ID:0iShagMA
>・三成が(南宮山の毛利に)打ち合わせに来た

逆に、吉川なり安国寺なりの麓の陣地に人一人も走らせないというのも
おかしな話だよな。

特に、安国寺あたりに人走らせないのはおかしすぎる。
前日に長曾我部隊の子荷駄を退避させているとかなかったっけ?
738人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 00:20:39 ID:vgYpgNKq
吉川や安国寺隊って毛利の支隊じゃないの?
もしそうなら支隊と連携が取れない位置に本隊を置くって常識的に有り得ないと思うんだが
739人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 00:37:13 ID:ostaUp1P
博識君には粘着アンチがいるからな。
740人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 01:36:03 ID:fThkF1Cl
>>738
普通に陣形図とか見ればわかるけど、毛利本隊は南宮山の尾根にいるでしょ。
変なのが麓にいたとか言ってるだけで。
巷にでまわっているの見れば普通に毛利が山で吉川と安国寺らが麓にいる。
ぐぐってもでてくるし。
741人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 01:50:26 ID:ePche1zr
>>740
普通の陣形図てなんのことだか示してよ、
大体、山上に大軍をあげたら進退できんだろが、
秀元だって実戦経験はあるしそんな愚をする訳なし。
742人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 02:04:15 ID:fThkF1Cl
>>741
秀元は進退してないだろ、実際。関ヶ原でぐぐれば陣形もでてるよ。
メッケルにも見せたやつな。
あっ、まさか博識君?
だったら絡まないでね。
キモいから。
743人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 03:07:43 ID:OFxLdDdp
>>737
だったら長宗我部に使者伝えてるのとある史料提示すればいいんじゃね?
毛利に何にも伝えられなかったのは史料にもあるが

>>738
吉川と安国寺の与力(組)が毛利主力で、秀元が本隊とかではないよ
秀元はあくまで大将(輝元の代理、名代は秀元ではないのだけれどね)、それはしたがっていた部将見ればわかる

何度も書くが、南宮山に陣構えたのは大垣の後詰
秀元があの位置に陣所を構えたのは大垣方面を見渡す為


相変わらず煽りに必死なカスいるが、まぁしょうがない
無知曝して証明も何も出来んからなw
744人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 03:08:41 ID:0iShagMA
ハイキングコースなら40分とかって上で言ってるけど、
登山口までは含まれていないっぽい。
上った人のホムペみると2〜3時間位はかかるわけだけど・・・。
(まあワイワイいいながらゆっくり上ったり下ったりするんだろうけど)

これを、大多数の人数を整理して下山させないといけないわけだけど。
疲労も酷いだろうね。

というか、論議している両方共、人一人降りる時間で算定してなんで軍勢だと
時間がかかるって想像できないの?()
大体戦陣張っている場合は分散して配置するのも基本・・・。
745人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 03:55:07 ID:OFxLdDdp
>>744
ttp://www01.aimnet.ne.jp/user/pjbekh/syumi/hayashi/kinkou/nangu/nangu.htm
ttp://www.tarui-kanko.jp/haiking-map.html
ttp://www.mtweb.jp/yamatabi/toukai/nangusan/nangusan.htm
ttp://www.oumi-castle.net/takoku/gifu/mouri.htm
ttp://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/ab/09/kaientai1867/folder/998386/img_998386_23973239_4?1188570227

どう見ても登下山してのトータル時間は平均しても2時間で登山には約1時間とあります
本当にありがとうございました

つか、ちなみに秀元の軍勢はどれくらいいたと思ってんの?
万の軍勢とかトンデモ言うヤツもいたが・・・

>軍勢だと時間がかかるって想像できないの?()
時間かからないとは言わないが、主力も指揮する吉川広家も麓
なので「下山に何時間もかかるので、戦闘に参加できない」とは違うということね

時系列に沿って考えれば主力が麓にいるのは当然だし、麓に陣構えたら東軍と接触するからとか、
意味不可解な話にはならないのよ
746人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 08:41:50 ID:l8Bb2NQJ
兵の大部分は麓にいて、大将だけぽつーんと山の上ってなんなのその大将。
やる気あんの?

兵の大部分が麓にいるなら大将も麓。
兵の大部分が(麓から段階的に)山の上にいるなら大将も山の上。
本陣と部隊との間の移動距離が1時間もあるってありえんわ。
君の言うことが正しいなら、最初から作戦行動を無視した布陣だと言わざるをえないな。
747653:2008/06/01(日) 09:56:18 ID:fggmEXqG
>>744
あなたのように考えるのが自然だよね。
整備されたというハイキングコースも、一度強い雨が降ると道は沢のように流れ出して大変でしたよ。
足場が悪いと踏ん張りがきかないから下りにはさらに慎重をきたすしホント疲れたわ。
数刻近く下山に要してしまったよ。ひょっとしたら気軽にハイキングって場所じゃなかったのかも。
場所によってはロープを伝わって通る小さいガケなんかもなるし、当時軍装して集団で移動となれば
所定の時間どおりには下りれないだろう。
とか書くとまた喪前の妄想など関係ないwとかいう香具師がいるのかね。

ま、必死のカキコにも関わらず、依然として支持者はあらわれないわけだがw
748人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 11:21:42 ID:OFxLdDdp
>>746
やる気あんの?と言われたら微妙

その前に南宮山陣所の存在意味と布陣の意味を考えなくてはならない
南宮山の布陣は美濃に侵入してきた東軍の迎撃の為に、急遽伊勢から呼び寄せられ、
当初は大垣勢とで赤坂の東軍を挟み撃ちにする予定だった

その為、南宮山から大垣・赤坂方面の動静を見る為に南宮山陣所を構築し、尚且つ、
伊勢街道への牽制と即時の対応(それに南宮山自体に兵を置くような場所が少ない)主力が麓に布陣と思われる

>最初から作戦行動を無視した布陣だと言わざるをえないな。
作戦行動とは?


つか整備されたハイキングコース下るのにも“数刻”もかかるような足腰の弱さの虚弱児基準なら、
どんな軍勢も下山するのに数時間かかるわな
常人の二倍以上の時間かかってるからなw
749人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 11:54:13 ID:0iShagMA
>時間かからないとは言わないが、主力も指揮する吉川広家も麓
>なので「下山に何時間もかかるので、戦闘に参加できない」とは違うということね

有力な敵が前面にいる状態で主隊が山から降りてくるの援護しないというわけですか?
前面で味方が戦闘中にのんびり山から降りられると。

ゲームじゃあるまいし、兵士逃げますよ。

軍事的知識を求めるの酷でしょうか?

>時系列に沿って考えれば主力が麓にいるのは当然だし、麓に陣構えたら東軍と接触するからとか、

ついでに前日は雨降ってましたね。
早めに降ろさないといけないわけですが、

時系列的に言えば、秀元に出陣要請が山の様にくるのは昼少し前なわけですが・・・。

まあ、うまくいって夕方あたりじゃないですか、麓に整列できるのは。

前日の夜移動中に福島隊と宇喜田隊は接触していますが戦闘は起きていません。
雨の中・真夜中にはマトモに戦闘できません。

そもそも、雨・真夜中に10万近い大軍が戦闘機動を行う事事態が奇跡とか戦闘の芸術とか
言って良いレベルです(この時代だと)。

>兵の大部分は麓にいて、大将だけぽつーんと山の上ってなんなのその大将。

常識です。
眺めの良い場所で敵の状況を指揮官が判断して(当然斥候もだして)、
兵を押し出すように命令します。武将に。
劉邦じゃありませんが、大将が統率するのは武将ですので。
750人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 12:04:56 ID:13VGj1dJ
中井均が立派なのは判ったから、そろそろ退散してくれないかな?
751人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 12:12:17 ID:0iShagMA
>>750
私は意見を100%同じくしていませんよ。
麓でも、当時の軍事的常識から稜線沿いに秀元軍が配置されたのではと
言っただけです。根拠は全くありませんよ。

ただ、他の人が余りに的外れな事言ったので返しただけです。

戦国板なので軍事的常識も根拠に入れて考察する所に、
軍事的常識以前の浅い洞察言ってるのは同じくらい害悪なので正直勉強してほしいです。

全く正直言えば、軍事的常識を無視して
妄想やら、資料からの考察やらしているのも腹立ちますね。

関ヶ原が偶発的戦闘とか・・・。予備的な戦闘場所に双方とも明確に意図で戦った戦闘
とかしか見えないわけですが、もちろん軍事的に見ればですけど。
無論毛利も含まれます。

ああ、政治的意見も含めると話は変わりますが。
752653:2008/06/01(日) 12:17:29 ID:fggmEXqG
>>748

>つか整備されたハイキングコース下るのにも“数刻”もかかるような足腰の弱さの虚弱児基準なら、
どんな軍勢も下山するのに数時間かかるわな
常人の二倍以上の時間かかってるからなw

当時は取材記者をしていたので一般人よりも運動量はありましたかね、むしろ常人ならさらに時間がかかるだろうね。
天候によって状況が変わるとかいうの無視、下りだから登りよりもラクという程度の認識しかないのか。

書けば書くほどドキュンぶりが明らかになっていくね。
まあ、何度か書いているようにキミの走力ならかつてないほどのメダルを日本にもたらすよ。
ぜひ今から名乗りでて代表になってくれw

>>749

>ゲームじゃあるまいし、兵士逃げますよ。

軍事的知識を求めるの酷でしょうか?


そうですよね。同意です。断片的な資料をもとに考えうる状況を無視して
妄想してるとしかいいようがないのです。
だから、ここのところ彼をまともに相手にしていなかったわけですが。
753人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 12:21:34 ID:uCUaKW+J
>>ああ、政治的意見も含めると話は変わりますが。
関が原とその一連の戦自体が政治的なものでしょ
東西両軍とも烏合の衆に近いんだから
その取りまとめを家康がするのか三成がするのかの違い
754人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 12:22:37 ID:uCUaKW+J
む、俺が空気を読んでない書き込みをしてるっぽいな
755人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 12:25:43 ID:OFxLdDdp
>>749
>有力な敵が前面にいる状態で主隊が山から降りてくるの援護しないというわけですか?
>前面で味方が戦闘中にのんびり山から降りられると。
悪いがこれの意味がわからない、もう少し詳しく解説してくれないか?
というか、何度も書くが秀元勢は主隊ではない

>早めに降ろさないといけないわけですが、
>時系列的に言えば、秀元に出陣要請が山の様にくるのは昼少し前なわけですが・・・。
秀元に出陣要請の根拠提示よろしく

>前日の夜移動中に福島隊と宇喜田隊は接触していますが戦闘は起きていません。
卜斎記には宇喜多勢が福島の備えを強行突破し、福島勢が去る宇喜多勢を追い、小荷駄隊を攻撃したとありますが?
夜中に戦闘行為するというのは乱戦になり難しいのはわかるが、戦闘起きてないと言うのは言いすぎ

>関ヶ原が偶発的戦闘とか・・・。予備的な戦闘場所に双方とも明確に意図で戦った戦闘
>とかしか見えないわけですが、もちろん軍事的に見ればですけど。
それなら軍事的に解説してください
事前準備もなく、突発的な出来事の為、目まぐるしく状況変化した結果の戦闘だとこちらは認識してるから
756人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 12:33:31 ID:OFxLdDdp
>>752
南宮山のハイキングのブログあるから、天候が悪い状況のトコでも読んでみればいい
お前とお前の常人というのが如何に虚弱体質なのかよくわかるからw

前日に雨降ったとか、当日雨とかあるからさw
757人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 12:37:09 ID:fThkF1Cl
>>754
中井厨は755だな。誤爆してますね。
でも、まだ彼は頑張るみたいだね。
思想の偏る小政党が議会で暴れてるみたいなもんか。いい加減引っ込めとみんな迷惑。
758653:2008/06/01(日) 12:48:25 ID:fggmEXqG
>>756
そんなのまでみてるの?ひまな香具師だな。ま、今日は休みだから多少相手にしてやるけど。
秋の当該地方の降雨の状態についてとか調べたら。
なぜ梅雨時ではなく秋に大垣城の水攻めなんていうプランがでてきたのかな?

秀元に出陣要請とか三成との連絡なんぞ通説の理解で十分だろ。
いちいち人の手を煩わせる前に基本的なところおさえてから書けよ。
759人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 12:57:54 ID:OFxLdDdp
>>758
>そんなのまでみてるの?ひまな香具師だな
お前の虚弱っぷりがよくわかったからなw
ちなみに俺も7月辺りに登った事あるが、前日雨だったけど、足元に気をつければ普通に登下山出来たけどな
時間も休憩入れて2時間ぐらいだったしなw

>秋の当該地方の降雨の状態についてとか調べたら。
>なぜ梅雨時ではなく秋に大垣城の水攻めなんていうプランがでてきたのかな?
え?大垣城には杭瀬川と揖斐川とに挟まれてるので、川の水を塞き止めての水攻めにしてやると、
家康が書状に書いているのであって、実際に水攻めが可能かどうかの話ではないんだが?

>秀元に出陣要請とか三成との連絡なんぞ通説の理解で十分だろ。
へー、通説ねー、そんな通説ないんだけどw
出陣要請の空弁当なんて軍記大成にしか記載がないし、合戦中に三成との連絡なんてその軍記大成にもない
どこにあんの?w
760人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 13:18:14 ID:ePche1zr
>>742
秀元は進退してないだろ>実際に進退するしないじゃないの、
進退不能な場所は死地な訳、籠城じゃないんだから。
メッケルにも見せたやつ>参謀本部のは資料的価値無しなんだが。
当時の記録で教えてくれない。
761人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 13:54:51 ID:0iShagMA
>>755
>というか、何度も書くが秀元勢は主隊ではない
ああ、正真正銘秀元勢だけで、他の毛利の重臣の軍勢は頭にないのね。
762人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 14:16:27 ID:OFxLdDdp
>>761
>他の毛利の重臣の軍勢は頭にないのね。
関ヶ原の毛利勢には「組」と呼ばれる軍組織が5組参加してるが、その内4つの組は麓に布陣してるし、
秀元の指揮下にいない、残り一つは秀元自身の組

それを踏まえて、他の毛利の重臣の軍勢がどうしたの?
詳しく解説してね

で、関ヶ原が予備的戦場で両軍意図して移動した軍事的解説は?
有力な敵が前面云々は?
軍記大成にですら「逸話」として記載がある秀元の出陣要請が事実と言う証左は?
宇喜多と福島が戦闘起こしていないという根拠は?
763653:2008/06/01(日) 14:37:04 ID:fggmEXqG
ダービーみたらまたくるけど、昼からオナヌー炸裂だなw
「麓」って大辞林でしらべてまた書いておいてくれや。
そういうの好きだろ?いっつもヒマなんだしできるだろ。
じゃあな。
764人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 14:41:49 ID:OFxLdDdp
あぁ悪いな、ダービーなんざ見ないし、その時間帯にはいないしな
つかいつものごとく、関ヶ原関連の話書いて突っ込まれたら、それには触れずに煽るだけw
過去ログで似たのいたなーw
765653:2008/06/01(日) 16:47:41 ID:fggmEXqG
あら残念。
人が大勢いるとどうなるか想像するいい機会なのにね。
ま、10万人以上集まるイベントなんてヒッキーには無縁だろうから仕方ないな。

だいたいコイツは自らに都合のいい情報を妄想をもとに展開するだけ。
たとえば、山登りの時間なんて天候等でいくらでも変わる罠。
実際時間かかったっつー連中もいたね(見にいった自分が恥ずかしい)
とうとう過去ログと同じ人物にまで妄想し始めたかw

>秀元の指揮下にいない、残り一つは秀元自身の組

ソース提示

で、関ヶ原が予備的戦場で両軍意図して移動した軍事的解説は?
>有力な敵が前面云々は?
軍記大成にですら「逸話」として記載がある秀元の出陣要請が事実と言う証左は?
宇喜多と福島が戦闘起こしていないという根拠は?

反論になってない。

つかいつものごとく、関ヶ原関連の話書いて突っ込まれたら、それには触れずに煽るだけw


こんな感じでなんか主張しているつもり?
いつも呆れて誰にも相手にされず終了…w

766人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 18:12:49 ID:fThkF1Cl
>>764
えっ、君の話は関ヶ原のもの?
妄想南宮山、でしょ。
767人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 18:20:37 ID:0iShagMA
>>762
お前としらずにレスをしていた。反省している。
正直言えばお前の相手する気は全くないんで、勝手に喚いていてくれ。
さようなら。
768人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 22:18:42 ID:htNGsEfO
本当に博識君のアンチは酷いな。
まともなこと書いてるのに罵倒ばかりしか帰ってきてない。
>>653は博識君によく出典きけるね、彼に出典きかれてもこたえてないのに。
769人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 01:04:12 ID:i0DLejSc
>>765
ダービー見ないと書いたらヒッキーにまで飛躍する、似てると書いたら同じ人物にまで妄想と言い出す
まさに自らに都合のいい情報を妄想をもとに展開するんだなw
一事が万事これだから、関ヶ原に関するレスも全く同じだしなー

>ソース提示
ソース提示していいが、今までお前の根拠提示したらなw
それとソース聞くのは、「秀元の指揮下にいない、残り一つは秀元自身の組」に対して異論あるのか、
それとも知らないから聞きたいのか、どっちなんだ?

>反論になってない。
当たり前じゃん、反論じゃなく聞いてるんだからw


>>768
いつもの事、思い込み書き連ねてるから根拠聞いても答えられない
普通なら、そういう結論に行き着くまでの過程と根拠があるのだが、
自らに都合のいい情報を妄想をもとに展開してるので、答えられず中傷したり逃げるだけ
絡むなと言っておいて自ら絡んできたり、軍事的だ何だと書いてるのに解説できないから捨て台詞
出来る事は中傷しかないから荒らしと同じなんだよなー
770人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 02:17:23 ID:oxYtGcH/
しかし凄いバカもいるんだな。

771人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 02:21:58 ID:63sMnryR
引っ込みが付かないだけだろ
772人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 03:05:12 ID:oxYtGcH/
769は自分に都合悪けりゃ全部同一人物かっつーの。
  IDみりゃわかるだろうにw
773人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 06:46:21 ID:DUAnWUrP
周囲の人間から「こいつは真正の馬鹿だ」と思われることに、普通の人は耐えられない。
そう考えると、凄い人間なんだと思う。(ことにする)
774人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 16:11:49 ID:sS/FAz1d
>>769
推論誤っていますかね。

ヒッキー ならば ダービーを見ない

という主張に対して

ダービーをみない ならば ヒッキー

と読み違えていますよ。

対偶とってダービーをみる ならば ヒッキーではない、ならいいのですかね。

ミスリードしているため、以降のつながりが?になっています。
775人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 18:23:54 ID:TFb1oHsL
まあ正直どっちもどっちだわな。
お互い口の利き方を知らないというか。正論を吐いても言葉の使い方
気をつけんと理解は得られんわけで。
776人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 22:04:58 ID:mBk+Z0dR
でもまあ、中井厨は終わってるな。
777人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 23:05:52 ID:9179JRbM
基本的に頭弱いもん。
778人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 00:08:16 ID:WSfn5yYc
知識が有ろうと無かろうと、人としての成熟度には関係ないって事かなぁ
779人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 00:22:37 ID:/liSss8K
知識があっても馬鹿は馬鹿。
知識の量と、人として「頭が良いかどうか」はイコールにならない。
780人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 09:23:11 ID:q+W4w2Jw
知識があるのと知性があるのは別だからね。
781人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 09:26:41 ID:3N2G0Y4g
いくら書いてある内容が正しくても他人を不快にさせたりするような文章だと意味無いしな
782人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 11:51:20 ID:c27iM0bA
とにかく中井厨は退散してくれてよかった。
783人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 13:14:41 ID:IZ47AypO
>>780
知性のあると大体知識もあるが、知識があっても知性が付属するとは限らんわけで。
784人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 19:04:08 ID:zIczr6HP
ここまで単発IDなのもわかりやすい。
785人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 20:18:13 ID:bKD0UjSN
自分で調べたことつらつら書いて、ああ、すげーって行ってもらいたいだけだからな。
こういう前提で、っていっても基本聞く耳もたないし、一般論いっただけで、出典はだからなー。
786人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 22:44:38 ID:0c8mP9zV
しつこく噂してると戻ってくるかもしれんから、そろそろ止めましょ。
787人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 23:43:25 ID:WSfn5yYc
>>784
なに?
788人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 23:46:26 ID:/liSss8K
本能寺の陰謀説は各種あるが、関ヶ原の陰謀説ってあんまり存在しないな。
まあ、勝者の家康が普通に天下取ったってわかりやすさの聖だろうけど。
789人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/06(金) 00:49:04 ID:SvvfjrAO
陰謀説というか、
単純に、関ヶ原の時に西軍は毛利を認知せずに動いたし、
毛利も独自の判断で動いたっていう話だけどなー。
まあ、これ以上の召喚呪文は止めにしようや。
790人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/06(金) 01:04:17 ID:UHHfx96s
知識も出典もなくて罵倒しか出来ない輩より博識君のが出典も教えてくれるのでマシ。
791人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/06(金) 09:57:51 ID:Y2de2Dtu
自演乙
792人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/06(金) 17:52:26 ID:XMGqtZCv
>>790
似たり寄ったり。知識は知性・品性についてくる場合が多いが、
その逆はない(知識はあっても知性・品性にかける手合いは多い)

話は変わるが、関ヶ原ウォーランドに行ったことある人いる?
今度旅行へ行きたいと思っているんだが






793人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/06(金) 19:03:27 ID:qJOkTCEx
>>792
平和を訴える武田信玄が出迎えてくれるよ
794人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 10:48:38 ID:XCV6OcIP
>>793
関ヶ原なのに、武田信玄?
795奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/06/08(日) 10:54:04 ID:GTC5qjpu
>>792
昭和テイストを味わう覚悟でどうぞ。
796人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 11:26:38 ID:buPYXN73
探偵ナイトスクープで桂小枝がやってるパラダイスシリーズがあるだろ。
あれのつもりで行け。
797奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/06/08(日) 11:28:49 ID:GTC5qjpu
そっちのが的確だな。
798人間七七四年:2008/06/09(月) 16:10:21 ID:h1YinmG+
池上裕子氏の、秀吉の政権下において既に「徳川東国政権」と「毛利西国政権」が構想されていたのではないか、
って指摘は面白かったな。その東西二つの勢力のバランスの上に豊臣天下政権が立つ。
家康が源氏を名乗ったのも、むしろ秀吉がその構想を進めていたゆえではないか、とか。

そうなると関ヶ原の見方もかなり変わるな。
799人間七七四年:2008/06/09(月) 17:11:38 ID:cDzztCcN
>>798
毛利輝元が関ヶ原前後、西国に対しては非常に活発な動向を示している
からな。伊予だけじゃなくて、九州もそうだし、阿波についてもそう。
800人間七七四年:2008/06/09(月) 20:20:22 ID:aoPbBQjO
次スレ
【石田】 関ヶ原の戦い 十五 【三成】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1213010334/
801人間七七四年:2008/06/09(月) 20:24:01 ID:aoPbBQjO
↑誤爆
802人間七七四年:2008/06/10(火) 15:06:27 ID:eSCtX3LO
島左近は
803人間七七四年:2008/06/11(水) 21:11:41 ID:zWU0xlyC
開戦早々に戦死
804人間七七四年:2008/06/11(水) 21:31:24 ID:AcuLCiSQ
その頃高山右近は…
805人間七七四年:2008/06/12(木) 03:39:45 ID:+5XikEQG
つまり左近は期待外れだったってことでいいの?
三成は折半してまで雇ったというのに
肝心なところで役に立たん
蒲生は離脱したし舞はどうなったんだ?
3家老役立たず・・・
806人間七七四年:2008/06/12(木) 04:20:09 ID:gfi5mndj
舞は前哨戦の合渡の戦いで惨敗してるね。
807人間七七四年:2008/06/12(木) 09:20:13 ID:V6QVyobF
>>799
毛利輝元は東には大軍を向かわせて和睦工作で膠着状態を作り、その間に西国の派遣を狙うて感じかな。
>>805
横山喜内と蒲生郷舎を混同しているとの説がある、横山喜内は戦死。
舞兵庫も戦死。
三成を逃がすために最後まで奮戦してるよ。
808人間七七四年:2008/06/12(木) 10:11:24 ID:ogzvB5/t
左近は武勇ではなく政治・行政手腕で雇われた。
武勇だけならいくらこの時代でも、そんな厚遇で迎え入れない。
809人間七七四年:2008/06/12(木) 15:19:51 ID:6E+87kt3
政治・行政での評価は初耳や
810人間七七四年:2008/06/12(木) 15:40:55 ID:6E+87kt3
811人間七七四年:2008/06/12(木) 19:48:22 ID:01a4M9PH
>>807
というよりも、東軍と手打ち狙ったんじゃないか?
例の珍論は輝元の了解と重臣の賛同で行動していたという前提だとしたら、
それなりに納得は出来る。

西国は毛利で、東国は徳川でって考えはおかしかはない。

それで、了解しておきながら、関ヶ原後吉川の行動を責めたというのも(ああこれも資料ないだっけ?)
それなりに判る。仮にそうだとしたら輝元が狙っていたのは手打ちや和睦であり、降伏じゃないんだからな。
引き分け位が妥当なわけで。

まあ、仮にそうだとしてもそうじゃないとしても、吉川の手綱握ってなかった輝元が悪いわけだけど。
812人間七七四年:2008/06/12(木) 20:24:43 ID:tIVjI1q0
毛利が降伏?
813人間七七四年:2008/06/12(木) 21:26:34 ID:5DtpR2hW
葵徳川三代ってようつべでみれるんだな。放送当時は単に見てるってだけだったが。
OPの登場人物だけでワクワクしちゃうぜ
814807:2008/06/13(金) 09:24:33 ID:tkRj7KKf
>>811
東軍と手打ち狙ったんじゃないか>だろう、和睦工作で時間稼ぎして西国の支配を
固めて、それを家康に認めさせて和睦狙い。
吉川の手綱握ってなかった輝元>輝元は案外独断で変なことするからね。
815人間七七四年:2008/06/13(金) 14:00:14 ID:Z2Xx4Yxj
逆に言うと、もし毛利が和睦工作の最中おとなしくしていれば、多少の領地削減で許される、もしくは本領安堵の
可能性もあったのかね?
毛利のあの変の行動は例の伊達の一揆扇動と同じ種類のもののようなにおいがする。
816人間七七四年:2008/06/13(金) 14:48:45 ID:b05erwsu
大谷は本当によくがんばった
817人間七七四年:2008/06/13(金) 15:42:38 ID:3kkrAH0W
毛利と小早川が裏切らなかったら、カンナエのように包囲殲滅できたろう。
818人間七七四年:2008/06/13(金) 15:45:10 ID:Z2Xx4Yxj
したらば
819人間七七四年:2008/06/13(金) 16:54:52 ID:K7NoujGf
吉川広家は毛利家最大の裏切者
820人間七七四年:2008/06/13(金) 19:01:16 ID:db1bs/JM
>吉川の手綱握ってなかった輝元>輝元は案外独断で変なことするからね。

お互いに独断で動いていたって感じかな?
吉川は東しかみていなかったし、輝元は足元(大阪城)と西国しか目に言っていなかった。
問題は輝元は吉川が自分と同じ視点でいると思っていたと思う。

毛利・西軍の立場から見れば、戦うにせよ、交渉するにせよ、
伊勢・近江は固めるのは、セオリーっていって良い。
吉川はその期待に伊勢の陣で答えている様に見えるわけだからなー。

まあ、その後から吉川の動きが怪しくなるわけだけど(w、
821人間七七四年:2008/06/13(金) 23:36:01 ID:gqsgx9cX
>>819
織田や豊臣と違って毛利は当主独裁体制ではない
輝元が何の相談もなく西軍につく行為は現代で言うなら総理大臣が議会も通過させずに法律を公布するようなもの
吉川としてはそのような当主の独裁に従うわけには行かない
毛利家内の政治制度を無視した輝元が悪いのであって吉川が悪いわけではない
822人間七七四年:2008/06/13(金) 23:49:01 ID:Z2Xx4Yxj
毛利家文書などを見ると、輝元は上洛する時家臣に「上洛の資金が足りなくて困ってる、必ず返すから金貸してくれ」
って手紙出してたりするんだよなw そのくらい当主としての力がない。
同時期の北条家が秀吉への使者を出す時、その資金のため行政機構を動かして整然と徴収しているあたりと
比べても雲泥の差。

関ヶ原での輝元の行動は、好意的に見れば当主の独裁権を確立するためのものだったのだろうが、完全に
裏目に出た。この輝元以降幕末にいたるまでついに毛利家は、君主による独裁権力は確立できなかった。
823人間七七四年:2008/06/14(土) 00:31:08 ID:vqpzgqxv
>>821

>吉川としてはそのような当主の独裁に従うわけには行かない
>毛利家内の政治制度を無視した輝元が悪いのであって吉川が悪いわけではない

だからといって、基本的に軍事分野の人間が

他の人間の同意も怪しげな状態で(秀元の立場は?)
和睦を結んだとされる状態を作り出した(ここで輝元の同意なしかよー!)

吉川も悪い訳ないんだけど・・・。

言葉変えれば、意趣返しの如く、不同意というプロセスを下の立場から行って、
かつ、専門分野外の事をして失敗したというわけ。

まあ、忠臣だろうから裏切り者というよりも、無能といった方がよいかもな。

>>822
>毛利家文書などを見ると、輝元は上洛する時家臣に「上洛の資金が足りなくて困ってる、必ず返すから金貸してくれ」

秀次の時、金借りて(実はトップで)頸はねられそうになったんだっけ?
隆元が生きていれば・・・というところかな(つーかいくらんでも死んでる年頃か)
824人間七七四年:2008/06/14(土) 00:40:34 ID:xYR/8ti/
>>823
隆元は経済運営と、大内直伝の官僚機構作りの達人だからねえ。
少なくとも輝元が成人するくらいまで生きていれば、毛利の体制も相当違ったものになった事は想像できる。
825人間七七四年:2008/06/14(土) 01:51:46 ID:ZyOT2Csi
毛利家中もかなり割れたみたいだしね。
そもそも、毛利氏の体制自体が一揆の延長線上にあるようなもの
なので、強権発動などできない。だからこそ転封後に血腥い事件が
おきるわけで。
826人間七七四年:2008/06/14(土) 02:11:54 ID:xYR/8ti/
毛利輝元って田舎紳士って言う言葉がぴったりというか、文献とか見ると
気のいい地方の大家のボンボン以外の何者でもないんだよな。
ちょっとおだてられるとすぐに舞い上がっちゃうような性格も見て取れる。
どうも、両川に大切に育てられすぎた観があるな。
経済運営は結構上手いんだけどね。
827Chaos:2008/06/14(土) 02:40:40 ID:a1LKTF5k
もし、この頃に織田信長が生きてたとしたら、その後の歴史が大きく変わっていたに違いない。
いや、それ以前に関ヶ原の戦いは起きてないか?
828人間七七四年:2008/06/14(土) 02:45:36 ID:xYR/8ti/
>>827
信長が生きていれば、秀吉政権自体ありえないわけだが…。
829人間七七四年:2008/06/14(土) 10:01:31 ID:tq1HxiFf
>>826
鉄拳制裁も日常的にあったのですが。
(有名な話だ)
830人間七七四年:2008/06/14(土) 11:30:51 ID:4L6tNPit
輝元は一般的に馬鹿殿やお坊ちゃんのイメージが強いが
実際には恐ろしいまでの粛清魔でもある
吉川も冷遇されて自分が粛清されることを警戒して
徳川を後ろ盾にして生き残るしかないと判断したんだろう
831人間七七四年:2008/06/14(土) 12:42:22 ID:vqpzgqxv
>吉川も冷遇されて自分が粛清されることを警戒して

冷遇されたのは毛利というよりも豊臣政権からだけどなー。
多分細川を越えるガチNo1なアンチ豊臣政権かも。
たとえば太閤死んだときの形見分け出なかった(w。
正直、吉川は個人的恨みで動いたというの否定しきれないなー。

実際ほとんど武断派(黒田に近いし朝鮮の役出てるし)だしー西軍つく理由はない。


832人間七七四年:2008/06/14(土) 12:58:49 ID:xYR/8ti/
毛利家では秀吉への臣従初期は、政権との折衝はほとんど全部広家と小早川景隆の二人でやってる。
秀吉も毛利家家臣の中ではこの二人を特別扱いしていた。(無論毛利家の中でも特別扱いされていた2人だが)

個人的な恨みがあったとすれば想像するに、景隆の死の前後で、秀吉や豊臣家に対してよほど許せないことが
あったのではなかろうか?>広家
833人間七七四年:2008/06/14(土) 15:50:42 ID:IfPEZdes
たとえば?
834人間七七四年:2008/06/14(土) 18:23:16 ID:NeTHwEOb
ここまで史料的根拠もなく嘘と事実を混同させて語ってるのが凄いな
835人間七七四年:2008/06/14(土) 20:49:20 ID:ZyOT2Csi
>>832
広家が後年、自分の娘をお目見えさせなかっただの何だのといろいろ
恨みつらみを書き残しているという。内容は少し見たことがあるが、
正直これをみると自己中な感じは否めない
836人間七七四年:2008/06/14(土) 21:05:01 ID:Aoh3bOqd
>>835
 広家は幼少より手のつけられないワルと父元春も誰かへの
手紙に愚痴てたから、元春的には広家には吉川家を継がしてはいけないと
考えていたかもしれん。もし、があるなら長男元長が存命だったら
関が原の動向はまた違っていたのでは(より毛利有利な方向に)
837人間七七四年:2008/06/14(土) 21:16:07 ID:vqpzgqxv
>たとえば太閤死んだときの形見分け出なかった(w。

これも日記の記述だっけ?
形見分け後日貰えたけど、恨みつらみ書いている。

毛利関連の転封の話にも広家の名前が上がっても
結局、他の奴に話が回るし。

実は秀元も同じようなもんだけど・・・。
838人間七七四年:2008/06/14(土) 21:28:06 ID:vqpzgqxv
今気が付いたが、自家の盛隆というよりも個人的感情を優先させたっていう
イメージの3武将(小早川・福島・吉川)だけど、こいつらって東軍ついたら
ヤバイ立場なんだよね。

1:小早川・・・仮にも豊臣家の立場だろ?(まあ、関ヶ原の時点では家康に近づいた方がよいけど・・・)
2:福島  ・・・対家康西征の切り札だろ?
3:吉川  ・・・3大老がやられているのに家康味方するの?

実際、戦後ヤラレテイルシ。
839人間七七四年:2008/06/14(土) 23:27:40 ID:AGHthxuW
はぁ、またいつもの人の珍説披露ですか
840人間七七四年:2008/06/15(日) 02:28:45 ID:qilwmV27
自分が知らない=珍説
史料名も知らないうろ覚えのデタラメ=史実
史料内容の歪曲=当たり前

読んで笑えて楽しい
841人間七七四年:2008/06/15(日) 03:58:35 ID:4owhDeS9
毛利の話なのに、ここまで安国寺恵瓊なし。
842人間七七四年:2008/06/15(日) 05:03:47 ID:hPG6eces
いくら言っても、以後の毛利の縮退を考えれば吉川のスタンドプレーは
よくその後暗殺されなかったな、と。
843人間七七四年:2008/06/15(日) 08:39:44 ID:QIgWYxkA
>>842
暗殺されたら、幕府が介入する可能性あるからなー。
844人間七七四年:2008/06/15(日) 10:44:34 ID:Pg57t0XR
吉川は毛利の重臣連の意見を代表しているに過ぎないっつーの。
むしろスタンドプレーは輝元。
845人間七七四年:2008/06/15(日) 14:21:03 ID:Mf8ykyPU
大谷義継の北陸方面への調略を詳しく知りたい
846人間七七四年:2008/06/15(日) 18:03:56 ID:5lVNkayk
ところでさ、関ヶ原じゃ福島正則が豊臣家の武闘派筆頭の猛将みたいに扱われてるけど
コイツって現実的に武将としてなんか目立った戦功あったっけ?
唯一活躍が知られてる賤ヶ岳なんて武将としてというよりただの匹夫の勇の槍働きだし、
その槍働きにしてからが石田とか大谷の方が先駆けとして活躍したんだろ。
結局一軍の将として唯一の見せ場の関ヶ原じゃ戸川達が抜けて戦力が半減した宇喜多勢相手なのに
明石一人にボコられたて壊滅寸前になっただけ。
唯一の一軍の将としての見せ場が、失敗した最上攻めっていう直江兼続並みの過大評価だと思うんだが?
847人間七七四年:2008/06/15(日) 18:11:29 ID:Pg57t0XR
>>846
認識がゆがみすぎ
848人間七七四年:2008/06/15(日) 18:15:14 ID:mF2LFvVX
>>846
福島の話に関連性が見当たらない直江が不自然に出てくるあたり
頭がおかしいな。。
849人間七七四年:2008/06/15(日) 19:09:30 ID:mhvxLpJk
一応当代随一の猛将という評価だったんだけど・・・
850人間七七四年:2008/06/15(日) 22:54:12 ID:00GE5gzm
中井厨です
851人間七七四年:2008/06/15(日) 23:13:58 ID:Eb3c1DiR
>>846
宇喜多は17000という大軍なんだけどね
852人間七七四年:2008/06/15(日) 23:28:56 ID:dGvXXAjw
>>846
8000(明石)対6000(福島)だぞ。
明石と福島じゃ明石のほうが強いぞ。
853人間七七四年:2008/06/15(日) 23:39:19 ID:QIgWYxkA
明石も実は内政も出来る人なんだけどね。
854人間七七四年:2008/06/16(月) 00:22:46 ID:PN2cRuuU
福島正則の評価は微妙
後方任務が多く関が原が最初で最後の合戦指揮になってるのでボロが出ずに評価が猛将で固まってしまった印象

結果的には西軍最大の兵力を有する宇喜多1万7千を手勢8千で拘束し戦い抜いたということにはなるが
内容的には味方の絶妙の援護を受けながらも壊滅寸前になるまで突撃を続けた
一歩間違えれば戦下手の愚将とも呼ばれかねない采配を振るっている
壊滅前に戦が終わってるので武運は確実にあるんだろうけど采配が硬直化してる印象がある
そんな福島に付き合う宇喜多(明石)もどうかと思うけど宇喜多家中の問題があるからどうしようもなかったのかな
これも武運の強さということになってしまうのか

ただ大きな被害を受けながらも最後まで壊走せずに突撃を指示し軍を維持できていたのだから
それなりの指揮力というか統率力はあるのかもしれん
それだけ訓練が行き届いていたのか家臣団に慕われてたか

福島の猛将としての評価は個人の采配や武勇ではなく
家風や家臣団に与えられたものだと考えたほうがいいかも
855人間七七四年:2008/06/16(月) 00:30:58 ID:PN2cRuuU
手勢8千じゃなくて6千か
すまん
856人間七七四年:2008/06/16(月) 00:37:34 ID:OZXWbvMb
立花4000があれば福島ごとき木っ端微塵だったのに。
857人間七七四年:2008/06/16(月) 00:55:53 ID:Eui8JYSf
てか、明石って猛将だったの? 福島相手に善戦してるとこを見ると良将だったんかな?
この人、キリシタンだったよね?
858人間七七四年:2008/06/16(月) 01:52:22 ID:3GyzrGc/
大阪落ちた後にヨーロッパに逃げてあっちで死んだというのは本当なのかね
859人間七七四年:2008/06/16(月) 02:06:49 ID:6egX5DNI
明石全登は名将なのに知名度が低い
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194434104/
860人間七七四年:2008/06/16(月) 05:03:02 ID:Q6CSZCTg
立花が戦場にきたら島津と戦闘してそれどころじゃない
861人間七七四年:2008/06/16(月) 09:21:13 ID:QEMDo30V
立花も島津も遺恨なんかで大義を間違えるとは思えないが。
862人間七七四年:2008/06/16(月) 10:01:21 ID:rmoHfbJz
宇喜多の軍勢も家康の軍勢もそんなにいた確証は何も無い
863人間七七四年:2008/06/16(月) 11:49:29 ID:KovY1hMi
中井厨です
864人間七七四年:2008/06/16(月) 21:59:15 ID:djhSQQJR
いや、福島が当代随一の猛将って評価は確かにおかしいと思う。
関ヶ原でも明石の八千が相手とはいえ、直家以来の宇喜多家の猛将は皆去く、
しかも福島勢には他の諸将の援護もあったわけだし。

清正、小西はじめ浅野幸長、黒田、脇坂、嘉明らが武功を上げてた朝鮮においても
福島は兵站の担当。
豊臣政権では東海道筋の大名のまとめ役みたいな位置付けだが、
それって秀吉の準一門衆的なそんざいだったからじゃねえの。

更に言うなら、加藤家の飯田や森本等、黒田家の母里や後藤など
猛将としてしられた大名の家には、必ず武功で名を知られた武将がいたもんだが、
福島家の譜代でぱっと思いつく奴はなかなかいないと思う。

猛将ってよりは、武田家における穴山や内藤(の劣化バージョン)みたいな位置づけだったんじゃね?
865人間七七四年:2008/06/16(月) 22:00:00 ID:6egX5DNI
>>864
> いや、福島が当代随一の猛将って評価は確かにおかしいと思う。

気に入らないなら当時の人間に文句言って来い。
866人間七七四年:2008/06/16(月) 22:14:26 ID:ppvQFACj
>>864
可児才蔵は?
867人間七七四年:2008/06/17(火) 00:20:21 ID:lM7nffuC
>>866
武将じゃなくね?
すごい兵士って印象しか
868人間七七四年:2008/06/17(火) 02:09:41 ID:2Q4c3P43
あのほら小六のお友達がいたジャン
もう死んでるかもしれねぇけど
869えれぽん:2008/06/17(火) 02:31:59 ID:KJ0Tkw69
前野長康かなぁ・・・関白秀次事件の時、切腹

福島正則て、秀吉の天下統一に全く武功が無いよね
七本槍は秀吉の宣伝だし・・・
下手すると石田三成とか仙石秀久の方が、実際の武勲は多い
870人間七七四年:2008/06/17(火) 09:14:01 ID:lmYNausK
福島正則の場合は秀吉の贔屓だけじゃないの、加藤が僻んでたよな
それで三成に遺恨があるなんて理解不能。
871人間七七四年:2008/06/17(火) 14:29:42 ID:htQFnRGs
>>870
もしかして…腐女子か?
872人間七七四年:2008/06/17(火) 16:42:59 ID:KJ0Tkw69
秀吉×正則?それに清正が嫉妬
でも、秀吉の本命はツンデレ三成・・・
こんな感じで桶?
873人間七七四年:2008/06/17(火) 17:02:36 ID:3NthZ/Ue
関が原で島津の退き口を追撃してかすり傷一つ負わず島津兵をなぎ倒した本多忠勝を見て
福島がす、、、凄いでござりますな(;^ω^) って言ったら、なぁに敵が弱すぎただけぢゃよ。
って言った話があるが。福島って最初、島津が突撃して来た時に、びびって道を開けたんだよ
なw 単なるチキンでは?w
874人間七七四年:2008/06/17(火) 17:16:31 ID:lp0bNVMZ
かすり傷は負わなかったけど、落馬してお尻を打撲してしまいました><
875人間七七四年:2008/06/17(火) 17:35:07 ID:3NthZ/Ue
>>874

確か、秀忠から貰った馬が射られて落馬したんだよね。でも、尻餅ついて打撲したのは知らなかったwwwwwwwwwww
876人間七七四年:2008/06/17(火) 19:45:43 ID:MLTAqAKb
忠勝が落馬したのは午前中。島津の退却時じゃないよ。

877人間七七四年:2008/06/17(火) 20:27:31 ID:+fG5jT8K
福島正則は立場的には黒田や蜂須賀と同じ奉行だったのだから、三成らの五奉行と対立するのは当然でしょ
政権中枢から外された黒田や福島、中枢にいた三成や長束や増田
878人間七七四年:2008/06/17(火) 20:36:04 ID:SeH5/kRZ
>>874
生涯戦場で怪我しなかったんじゃないのかw
「いや今のなしなし」とか「だからーこれは怪我じゃないって事故だって」とかいってたのかな
879人間七七四年:2008/06/17(火) 20:39:34 ID:htQFnRGs
>>877
そう言う政治的な現実の部分を全く理解せずに、好き嫌いとか忠不忠とかそんな観念的な部分でのみ
関ヶ原に限らず戦国の構造を把握しようとする奴がこの板にも増えたよねー。

本当にゲーム脳ってものを信じたくなるよ。
880人間七七四年:2008/06/17(火) 20:55:13 ID:d3JbuVwM
しかし好き嫌いの壁って結構高いと感じるのだ
881人間七七四年:2008/06/17(火) 22:33:43 ID:B5yetDS3
中井厨
882人間七七四年:2008/06/17(火) 22:46:15 ID:fKBPZMJ0
>>874
まあ、その本多の無傷伝説にしたって福島の猛将伝説にしたって
後世の後付けや宣伝の成果だから、実際のその通りとは限らないんだろうな。
関ヶ原と関係ないけど、結局長篠で首を取られた馬場もいまだに不死身の鬼美濃で通ってるし。
あの時代ってやっぱり情報の伝達とか正確性に難があったから
言ったモン勝ちだったのかもね。

大体、徳川家の一番手の猛将として本多ばっかりとりあげられるが
本当は酒井、石川や榊原だろと。少し時代下っても井伊だろう。
昔の某歴ゲーシリーズでは酒井も石川もなぜか内政系キャラにされてたし。
883人間七七四年:2008/06/17(火) 23:25:01 ID:dt4rXOx3
ねずみ厨
884人間七七四年:2008/06/17(火) 23:39:06 ID:Nqii0goN
>>879

>そう言う政治的な現実の部分を全く理解せずに、好き嫌いとか忠不忠とかそんな観念的な部分でのみ

いや、政権基盤にダメージ与えている時点で福島は政治的な現実性がないと判断されるので、
意識化にせよ無意識にせよ、大勢は好き嫌いとか忠不忠とかそんな観念的な部分で語るのが適当だと思ってるだけだと思うんだが。

879は違う意見っぽいので中央復帰が可能だとか、関ヶ原後家康敵に回して政権切り回しするとか政治的な現実を語ってくれ。
俺は正直想像がつかないのでどんな意見でも歓迎する。
885人間七七四年:2008/06/17(火) 23:45:56 ID:4YQFRzIE
>>884
そもそも政権基盤に最もダメージ与えているのは秀吉、次いで三成なのだから
こいつらが政治的な現実なんて考えていない以上どうしようもないだろ
886人間七七四年:2008/06/17(火) 23:50:59 ID:htQFnRGs
>>884
逆に言えば三成たちが決起しなければ、家康は確かに巨大な権力を持っていたとはいえ
あくまで豊臣家筆頭大老の枠から出ることは(西国への基盤の無さから言って)ありえなかったわけだが。
徳川についた豊臣恩顧は、秀頼幼少ということもあり、「豊臣体制下における家康政権」でいい、って一定の
コンセンサスはあっただろう。それは朝廷における藤原摂関政治のようなものだ。

加藤や福島から言えば、隠居したはずの三成がでしゃばって決起したせいで、自己防衛のためにも
戦わざるを得なくなり、その三成の挙兵のせいでせいで家康の権力基盤が格段に強化された。彼らの方針が壊された。
豊臣の政権を壊したのは三成である。って事になるさ。

物事には両面がある。
887人間七七四年:2008/06/17(火) 23:57:24 ID:lp0bNVMZ
上杉潰したら、毛利に難癖つけてという可能性は無し?
888人間七七四年:2008/06/18(水) 00:10:45 ID:vPBNNe9/
>>887
その時は「豊臣恩顧」たちが牽制するだろ。彼らは関ヶ原以前は、家康の私兵化したわけではない。
関ヶ原前の徳川家の勢力であれば、豊臣体制の枠をはみ出せるものではなかった。
889人間七七四年:2008/06/18(水) 00:19:42 ID:6Kw3OuE+
>>887
上杉が滅亡したら家康に刃向かえるヤツはもはやゼロ。
さらに家康が婚姻政策を推し進めるしな。
諸大名も正月なども秀頼でなく先に家康に挨拶に行くようになるな。
890人間七七四年:2008/06/18(水) 00:25:35 ID:u7Wii9ln
前田を見捨てた時点ですでに詰んでるわけだ
891人間七七四年:2008/06/18(水) 00:43:23 ID:OWGDzA/x
なるほどね。
892人間七七四年:2008/06/18(水) 00:53:23 ID:vPBNNe9/
関ヶ原とは直接は関係ないが、家康が天下を取れるほどの勢力を築けたのは、後北条氏の
先進的で効率的な行政機構を受け継ぎ、さらにそれを関東一円に展開できたから、と言う話があるな。
北条氏は行政機構や民生などの分野では、秀吉政権と比べてもかなり進んでいた。
秀吉の末期から家康の存在感がさらに大きくなるのは、この後北条氏の残した機構が徳川の治世下で
上手く機能しはじめ徳川家がそれまで以上に富強化したため、とも。
893人間七七四年:2008/06/18(水) 01:00:47 ID:0116Axf5
秀吉政権内でも豊臣家より徳川家の方が領土でかかったんだっけ?
894人間七七四年:2008/06/18(水) 01:08:26 ID:vPBNNe9/
>>893
石高で言うと秀吉直轄領が200万石に対して関東の徳川領が250万石、とよく言われるが
実際家康が関東に入った直後に調べたら、生産高は150万石くらいしかなかったらしい。
三駿遠甲信の頃は合わせて200万石ほどだったわけで、実は実質減封だったわけだ。
895人間七七四年:2008/06/18(水) 01:09:26 ID:0116Axf5
へーありがとう
896人間七七四年:2008/06/18(水) 01:47:11 ID:ljtn9p3Q
>>885
>そもそも政権基盤に最もダメージ与えているのは秀吉、次いで三成なのだから

秀吉の失政は政権基盤にダメージ与えたの確かだが、
三成はが与えたダメージって朝鮮の役を止められなかった・早期に終結できなった事?
それとも、武断派の怨恨をかった事?
897人間七七四年:2008/06/18(水) 02:30:05 ID:E19kOMDY
>>886
しかし三成はあそこで決起しとかんと生き残れんぞ
もし上杉と一緒に決起しないでぐだぐだのまま豊臣秀頼体制下の徳川政権になったとして
(北条執権のような感じになるのだろうか?)
隠居した19万石の近江の中級大名として
石田家と一緒に生き残れたとは思えん
残ってたら笑えるんだけど
もっとも石高も100万石とかじゃないから
欲かいたり性格的な問題押さえたら
結構残れるんじゃね?って話も聞いたことあるけどね
898人間七七四年:2008/06/18(水) 02:32:33 ID:vPBNNe9/
>>897
それはあくまで三成の都合であって豊臣家の都合ではない。
そう言う意味で三成も、豊臣家より自分の都合を優先しているのよ。
899人間七七四年:2008/06/18(水) 02:44:47 ID:fu8mvJ6t
三成の都合だけで関が原にあんだけの大兵を動員できたのなら大したもんだが。。。
900人間七七四年:2008/06/18(水) 02:54:37 ID:vPBNNe9/
>>899
だから、三成の都合に輝元の都合をすり合わせた結果が西軍だろ?
関ヶ原でもし西軍が勝っても豊臣権力が強化されるわけじゃない。それどころか
まず間違いなく毛利政権樹立だよ。
901人間七七四年:2008/06/18(水) 03:07:38 ID:fu8mvJ6t
上杉と宇喜多もいるからそう単純じゃないな。。
家康を排除し新たな5大老制度が樹立される。
長宗我部や島津や織田も大幅加増だし
なにより石田・大谷・小西らの石高と発言力も強化され安定すると思うよ。
902人間七七四年:2008/06/18(水) 03:18:14 ID:vPBNNe9/
>>901
それだとそれこそ室町幕府の二の舞になるのだが。
903人間七七四年:2008/06/18(水) 07:14:45 ID:YTQFNA/Z
>>894
そりゃ、戦乱直後は生産量は減るわな
250万石は一応、文禄三年の当代記記事を基にしている
因みに家康の蔵入地(直轄領)は100万石、秀吉の200万石より少ない
もっとも、当時で所領の4割は十分特異ではある
904人間七七四年:2008/06/18(水) 11:27:45 ID:EqnrRIAw
>>901
安定だけは有り得んw
カリスマ的な権力中枢が存在しない以上、戦国時代にリセットとなるだろう
905人間七七四年:2008/06/18(水) 13:03:18 ID:6Kw3OuE+
>>904
徳川秀忠だってカリスマねーけど継承してんじゃん。
秀頼が成人すればだいぶ安定してくる。
上杉にしろ毛利にしろ天下への欲は低い方だしな。
武断派も消滅する東軍改易でかなり豊臣直轄領も増えるし。
906人間七七四年:2008/06/18(水) 13:09:30 ID:qWMO3saI
秀忠の治世が軌道に乗るまで家康がいただろ。
しかも秀忠自身も政治家としては十分優秀だ
907人間七七四年:2008/06/18(水) 13:35:42 ID:6Kw3OuE+
そんなら秀頼成人まで新体制の大老奉行制で上杉や毛利や石田や小西で支えりゃいいだろ。
取り巻きが補佐した上での秀忠だし。それで優秀とするなら上記メンバーも充分に優秀だ。
908人間七七四年:2008/06/18(水) 14:07:54 ID:dyIX1oQG
毛利がでかくなりすぎる可能性がある
宇喜多は暴走馬鹿だし上杉は遠国、
上杉を関東にでも転封させればいいんだろうが

大谷に表向きの仕事は期待できないし
石田、小西が融通性を体得するかどうかは不明
西軍は烏合の衆以上のものにはならなかったし

家康が負けるにしても首を獲れないか立ち直り不可能な負けでもない限り
関東に割拠する可能性もあるのでそうなったら戦国再開だな
909人間七七四年:2008/06/18(水) 14:12:29 ID:vPBNNe9/
>>907
秀忠は譜代家臣に補佐されている。譜代家臣は徳川家と利害を一体とした集団だ。
君の上げた秀頼の補佐役は譜代でもなんでもない。つまり豊臣家との一体性は皆無。
優秀なら良いってもんじゃない。むしろ君のいう補佐する連中が優秀なら優秀なだけ
豊臣家にとっては危険。
910人間七七四年:2008/06/18(水) 14:35:41 ID:6Kw3OuE+
毛利がデカくなっても別に構わないじゃん。島津や小西や宇喜多や長宗我部や立花ら他西国大名もデカくなるし。
小早川秀秋も毛利とはすでに独自行動だし。
そもそも分裂症の毛利なんて大して脅威じゃねーし。
逆に毛利の力をよってたかって皆で減少させるかもな。
反対派を排除した後の三成や小西が補佐するばそれなりにうまくいく。
そもそも秀頼が成人して家康が老死するだけで豊臣政権は盤石だった話で、それ以前に家康や武断派を排除できたなら安定するのが自然。
最悪でも義満や義教時代の室町政権と同程度で落ち着けばいい訳だし。
911人間七七四年:2008/06/18(水) 15:54:55 ID:dyIX1oQG
日本全体の所領は決まっていて増えようが無い
その中で支配下の大名の所領が増えるということは相対的に豊臣の所領が減るということ
それだけ支配力が低下するんだよ
家康がやったように東軍の大名を潰せばいいんだろうけど元が100万石を超える毛利と上杉をこれ以上
増やしたら200万石近い大々名ができることになるうえに宇喜多や島津あたりは100万石級になる
新しい徳川が二つできることになるうえに豊臣本家の所領がどこまで増えるかはあやしい

なにせ所領分配は天下人の特権であり誰の名前(秀頼の名前)でやるかではなく実際に所領分配するときに
力を振るった人間に権力が移ることになる
家康が前田征伐や会津征伐を強行しようとしたのもそのためだし
実際に関が原の勝利の後に政権を固めて幕府を開くところまでいっている

大体豊臣家筆頭家老の家康が会津征伐に動き石田たちが反家康で決起したときにあれほどの大規模に
全国規模で戦乱が起こったのは単に反家康というレベルだけではなく各大名が秀吉なきあとの
現在の豊臣政権に対しさほどの忠誠心や恐怖心がない証拠だろう
これが家康のあとを毛利や上杉が継いだとしても豊臣家筆頭家老から天下人になった家康に対して
毛利と上杉、あるいは宇喜多にどこまで従うか?
少なくとも石田や小西ではなく所領分配に力を振るったものに従うことになり
それが複数であればそれにより体制が分裂する可能性がでてくる
毛利が分裂症だろうが外から見れば強大だし利用する側からいえば関係ない、むしろ利用しやすくなることもある
なにせ豊臣本家には力がほとんど残っておらず石田や小西たちが戻れるかは判らないし
戻っても権威を回復させ諸大名を従わせることができるかもわからない
室町幕府の衰退の一因は各大名間の争いを幕府が治めきれなかったから

しかも毛利も上杉も関が原前後の動きは豊臣政権を無視した行動をすでにとっている

烏合の衆は烏合の衆のままで終わる可能性が高い

大名たちにとって豊臣政権は従うものではなくて如何に利用するかというレベルになっており
豊臣本家が鎌倉幕府がやったような得宗専制の確立や義満や義教時代の室町政権までもっていけるかは全くわからない

まあどっちにしろ西軍がどのような形で勝つかによって戦後体制がガラリと変わるけどね
912人間七七四年:2008/06/18(水) 17:01:45 ID:1gSAl2bx
関ヶ原の大乱が起きた時点で応仁の乱の室町幕府状態かもね
指導力のないトップと足腰の弱い政権
強大な力をもった大名
913人間七七四年:2008/06/18(水) 17:31:30 ID:vPBNNe9/
>>912
なので秀吉の死後、一時的に戦国時代が復活したと言う見方もある。家康がさっさと収拾させたので短い間だけど。
914人間七七四年:2008/06/18(水) 17:41:46 ID:5WkrulWK
秀吉死後において激化した豊臣政権の内部矛盾は大名たちが2派に分かれて軍事的に決着をつける方向に動いて行った。この帰結が関ヶ原合戦。
915人間七七四年:2008/06/18(水) 17:52:17 ID:OrEsVmio
1日で決着ついたのが奇跡に思えてきたよ
916人間七七四年:2008/06/18(水) 17:57:14 ID:ljtn9p3Q
>なので秀吉の死後、一時的に戦国時代が復活したと言う見方もある。家康がさっさと収拾させたので短い間だけど。

家康が煽った性でもあるけどな。ぶっちゃけ、前田利家が生きている間は4大老・5奉行が抑えようとしたわけだけど、
結局腰砕けに終わっている。
まあ、福島とか黒田とかがのかかったわけで、それが下克上の復帰とみるべきだろうね。
917人間七七四年:2008/06/18(水) 18:55:25 ID:fu8mvJ6t
>>911
室町幕府の将軍には守護任命権があり
これを使って庶流や分家や兄弟親戚をワザと争わせてるわけで
室町幕府が争乱が治められないのが滅亡の原因ではない。
守護を京へ出仕させ人質のようにしてたが逆に守護代とのつながりが希薄になっていった事と国人達が力を付けてきたから守護領国制が崩壊した。
また室町期にも大内や1/6殿と呼ばれた山名や関東公方(義満期以降は奥羽も管轄)など巨大勢力がたんまりいた。
別に巨大勢力が増えようが関係ない。簡単な話、牽制する監視役と力の均衡と任命権を謀略的にうまく使いこなせるかと言うこと。
毛利なんかは広家や暗黒寺やら暗闘してるようなもんで任命権を謀略的に行い家内闘争を激化させ改易もしくは大幅減封に追い込むことすら可能。

また島津がなぜ100万石級まで加増されるんだ?意味不明。
関が原で敵対した者どもを根こそぎ改易したら700万石前後になる。ここから秀頼の名で上杉や毛利や宇喜多や三成や小西に30万石程度加増すりゃいいだけ。
後は功績に応じて10〜20程度。充分に石高も確保できる。上杉あたりは旧領に戻りたいだろうから戻してやればいい。
東海地方が簡単に徳川になびいたのも、小勢力の豊臣恩顧大名を置いた為に家康の圧力に屈してしまった教訓から関東の半分でも豊臣直轄にすればいい(秀次が健在なら家康は暴挙できなかった)
関が原の結果、豊臣の威光が示され太閤の遺訓が遵守され婚姻などの制約が生きてきて逆に安定期に向かうのは明らか。
よって毛利が天下を狙ったところで関が原の二の舞になると思って呼応する勢力など少ないはず。
鎌倉幕府が承久の乱を経て安定期に向かうのと同じで関が原が最後の戦闘になるだろう。



918人間七七四年:2008/06/18(水) 19:18:49 ID:gR8Fq/yN
我こそは武田信玄の亡霊じゃ
もう争いはやめい!!
ノーモア関ヶ原合戦じゃ!!!!
919人間七七四年:2008/06/18(水) 19:19:27 ID:vPBNNe9/
>>917
守護大名と戦国時代を潜り抜けた豊臣時代の近世大名とでは、仕組みや存在理由が
まるで異なるのだが。
920人間七七四年:2008/06/18(水) 19:26:55 ID:fu8mvJ6t
>>919
なら具体例をあげて説明しろよ。
何も書かずに否定とはw
921人間七七四年:2008/06/18(水) 19:51:06 ID:YTQFNA/Z
>>917
関ヶ原で西軍が勝つという前提なのがチト気になるが
その点を除くなら、
>牽制する監視役と力の均衡と任命権を謀略的にうまく使いこなせるかと
これを使いこなす人材いないっしょ、当時の豊臣家に
更に巨大化した直轄領を捌く人材もいないし、武功派除いた後の人材もいない
張子の虎どころか、文化祭のベニヤ看板だぞ、豊臣家
922人間七七四年:2008/06/18(水) 19:55:57 ID:fu8mvJ6t
なんじゃそれ。
ただの石田叩きを開始かw
そんなこと言ったら室町政権だって義満幼少の頃だってロクなヤツらがいないわな。
反対派がいなくなった三成ならうまく運営していくことは充分に可能でしょ。そもそも佐竹義宣など好意をもってくれてるのもいる。
家康が内紛を引き起こし婚姻で味方作りしてただけでしょ。
その家康がいなければ内紛理由はきえる。
923人間七七四年:2008/06/18(水) 19:57:55 ID:YTQFNA/Z
>>922
あの、これまでの奉行職に加えて、秀吉自身の仕事まで加わったたら
絶対に過労死するよ、三成
924人間七七四年:2008/06/18(水) 20:00:24 ID:vPBNNe9/
>>920
つーか、守護大名と近世大名の違いも判らずに御託を言ってるのかよ。

守護大名って言うのは支配地を直接掌握しているわけではない。幕府権力の代行として
地元の国人、地侍層にある種の命令権を持っているだけだ。その領地の領民に対しても
国人地侍を通した間接支配でしかない。

しかし戦国から近世の大名はそうではない。領内の侍層を「家中」として完全に掌握し
領民に対してもまた「公儀」として直接相対する
既に大名権力は一家一族の私権の段階を離れ「公」の存在となっているのだ。

世界史にたとえて言えば貴族などの中間勢力が山ほどいた王政国家と、国家と国民が直接対する
国民国家ほどの違いがある。

秀吉や、幕府の成立した後の家康や秀忠は君の言うような形で大名をコントロールしたかい?違う。
もはや家中を分裂させて謀略でコントロールする、などというような室町幕府的な統制方法は
意味を成さなくなっていたからだ。
925人間七七四年:2008/06/18(水) 20:02:00 ID:Oo1ev5b6
>>917
誰が秀頼の名前を使うのかが大問題
家康は秀頼の名前を使い権力を握った
秀吉は三法師を使ってる
幼君がいる限りはいくらでも理由はでっちあげ可能
ましてや西軍がどう勝つかなんて予測不可能
926人間七七四年:2008/06/18(水) 20:04:44 ID:Oo1ev5b6
中央集権化が始まってるからね
豪族連合を指導するのとは違う
927人間七七四年:2008/06/18(水) 20:13:43 ID:6Kw3OuE+
戦国期を通して生きてきた家康に比べて
毛利など二世大名は野心家ではない。
野心家なら関ヶ原の輝元はもっとうまくやってたよ。
また関ヶ原でわかったのは一発改易の恐怖であり
もう家を残したいから安定を願う時代に入ったのよ。
だから三成が勝てば、それはそれで秀頼成長まで安定するでしょ。
むりやり三成を貶すのもどうかと思いますね。秀吉もその能力を買っていたわけだし無能ではないな。
928人間七七四年:2008/06/18(水) 20:16:04 ID:vPBNNe9/
例えば関ヶ原の時の毛利家を例に出せば、あれが守護大名の時代であれば
吉川もしくは安国寺は、あれだけの対立があれば自己防衛および自分の利益のために兵を挙げ
反対勢力、もしくは毛利本家を打ち倒し、毛利領国における主権を自分のものにしようとしただろう。

だが実際には吉川も安国寺も、毛利と言う「公儀」の中で、その公儀を壊さないことを前提に
方針についての主導権を争っているに過ぎない。それは毛利権力が既に私権ではないからだ。
929人間七七四年:2008/06/18(水) 20:21:06 ID:Oo1ev5b6
家康が勝った後にうまく治めたのは
・戦国大名の生き残りで単独では最大の実力がある
・豊臣家筆頭
・秀吉直々の遺嘱あり
・民草から見ても次は家康という空気があった
・勝者側に同等の実力者がいない(前田は家康の下)
・敗者側を謀略込みでうまく抑えた
こんなところか
西軍側だとここまで条件はそろわないね
930人間七七四年:2008/06/18(水) 20:24:47 ID:YTQFNA/Z
>>929
後、自分ひとりに集中しないような人材と組織の確保も大きい
大封与えられて、その後に病死(殆ど過労死)した奴の数の多さよ
931人間七七四年:2008/06/18(水) 20:25:32 ID:6Kw3OuE+
勝者が敗者(三成など)を悪く捏造してるからな。
932人間七七四年:2008/06/18(水) 20:25:51 ID:5WkrulWK
豊臣政権下の大名はすでに戦国時代の独立性をかなり失い、公儀として全国統治を行う豊臣政権の下部機構としての大名に変質させられつつあった
933人間七七四年:2008/06/18(水) 20:26:48 ID:YTQFNA/Z
>>932
その模範と思われていたのが家康
934人間七七四年:2008/06/18(水) 20:32:20 ID:vPBNNe9/
>>930
加藤清正が死んだ後、加藤家の政治が乱れ、どうなっているのかと幕府が藤堂高虎に監察させに行ったら
家老以下藩重臣の中で一人も、藩全体の財政を把握しているものがいなくて、今で言えば「予算が立てられず」
混乱しまくっていたそうな。隆虎が「何でこんなことになっているんだ?」って聞いたら、藩の予算に関することは
清正が全部一人でやっていたため、清正が死んだら何をどうすれば良いかが何も解らなかったから、なんだと。
935人間七七四年:2008/06/18(水) 20:47:54 ID:Oo1ev5b6
室町幕府は最初から体制自体が脆弱だったときが多く強固な体制をしいたといえるのは義満ぐらいで
義教が改めて体制強化に乗り出すがやりすぎて反発くらって暗殺されるはで
将軍家は畿内ぐらいしか勢力をもてないし関東は半独立状態になる
そしてそのほうが都合がいい守護大名が多かったから幕府はなんとかもったけど
無くてもいいやという織田信長が現れて滅亡

結局室町幕府自体は足利将軍家のものではなくて守護大名連合のものでしかなく
守護大名連合の力も衰えると権威の落ちっぷりが更に加速し
守護大名の枠を外れたものたちにとって名前だけは使えるなという程度の存在まで落ちてしまった
936人間七七四年:2008/06/18(水) 22:07:51 ID:MTd4t2YU
>>927
毛利の場合は家康と直接対決はしないまでも、西国の掌握を意識していたフシが
あり、東がごたついてる間に可能な限り勢力を伸ばそうとしているので、
一概に野心がないとは言えない。
937人間七七四年:2008/06/18(水) 22:17:31 ID:Oo1ev5b6
野心はあったと思うよ
一応判ってる範囲では家康のような全権掌握ではなくて豊臣臣従以前の毛利の方針の延長
とりあえず瀬戸内の交易権の掌握は確実
それ以上はなんともいえないね
938人間七七四年:2008/06/18(水) 22:57:26 ID:vPBNNe9/
>>936
秀吉は晩年に、「東国は家康の仕置きに、西国は輝元の仕置きに」って、公に言ったりしているね。
939人間七七四年:2008/06/18(水) 22:58:03 ID:5N7Ha4rD
関ヶ原でどうやって西軍が勝つかより後の話はこっちじゃないか

関ヶ原、西軍勝利
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150726266/l50
940人間七七四年:2008/06/18(水) 23:52:43 ID:I6+YEBCg
>>938
「東国は家康の仕置きに、西国は隆景の仕置きに」が正しい
それほど重宝された小早川も隆景が死んだらすぐに領地没収処分にされたことで
家康には死ぬ前に豊臣を倒す以外の選択肢がなくなってしまった
941人間七七四年:2008/06/19(木) 00:05:09 ID:xmMseLYo
>>940
すまん、うろ覚えで書いてた。
正確には

「坂東の法度、置目、公事篇、順路憲法の上をもって、家康申し付くべく候。
板西の儀は輝元、隆景申し付くべく候。」

だな。
942人間七七四年:2008/06/19(木) 18:45:48 ID:jl1pAiap
>>924
公儀たる室町幕府自身が守護任命権を使用して親戚親兄弟・重臣を謀略で争わせている。
公儀の支持を受けた方が正義になる。これは秀吉による支持を受けることとなんら変わらない。
守護を上京出仕させ半ば人質のようにして守護代に国人を纏めさせているのは
秀吉が大坂城や伏見に諸大名を呼び集めているのと変わらないし
佐竹義久や石川数正、直江、片倉などに秀吉が魔の誘いをしてるのは
重臣に対する謀略で家中を分裂させて謀略でコントロールであり石川は出奔している。
戸川達安・宇喜多詮家・藤田信吉・栗田国時などは主家を無視して出奔したが家康に篭絡されたとも言える。
大名が公儀になったのではなく、力を背景に公儀が認めた大名が正統であるにすぎない。
これは関が原の家康も駆使してる。統治技術の常套テクニックである。
これは土地と人が結びついている時代に有効であり、給料を国から貰う知事の時代には難しくなった方法。

豊臣時代は近世大名への萌芽といったところで、朝鮮対外戦争などは
領地拡大・与えるべき恩賞・諸大名の力の削減等を通じた室町後期の意識の現われ。まだ人の意識の変化に時間が必要だった。
明確な意味で近世大名に脱皮するのは徳川氏を頂点とする幕府体制下の大名
すなわち近世大名という枠組みの確立完成するのは・・・過渡期の充分な準備期間を経る必要がある。
すなわち徳川家光の武断政治の結果、その死後に由比正雪の乱・承応の変が起こるも
戦国の気風すでになく皆の意識が変化し大きな大乱にならず
これをキッカケに改易を少しでも減らす為に末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励。
徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換した安定期からである。

>>王政国家と国家と国民が直接対する国民国家ほどの違いがある

これ関が原前後ではなくて日本で言えば幕藩体制の崩壊後の話ね。

>>928関ヶ原の時の毛利家が守護大名の時代であれば吉川もしくは安国寺は
自己防衛および自分の利益のために兵を挙げ毛利本家を打ち倒し毛利領国における主権を自分のものに
毛利と言う「公儀」の中で、その公儀を壊さないことを前提

極論。主家との力関係で自らが凌駕すると思えて初めて主家打倒に動くものである。
それ以前は主家内で自らの発言力を伸ばそうと家内で争うものである。またそれを行なうには家中での支持が必要。
関が原での家康が好例である。あなたの意見では家康自身が豊臣と言う公儀を破壊していることになり矛盾している。
石川数正・戸川達安・宇喜多詮家・藤田信吉・栗田国時らは公儀を無視して逃げた事になりやはり矛盾してる。
室町幕府は義教が最大の不安要因の関東府を滅亡させるなど成功しつつあったが赤松満祐が疑心暗鬼に駆られ暗殺により挫折。
この後の室町将軍は幼い者が続き(義勝は9歳で将軍・義政8歳で将軍)将軍より日野などの家臣や守護に力の分散がなされた。
成長した義政も自らではもはやどうする事もできなかった。そう室町権力が変質し将軍に集中しなくなったのである。
それが悪化し露呈したのは細川政元時代である。将軍権力の衰退による統制力の低下と同時に生産力・経済力・流通などの拡大により
多くの者達が力をつけてきたことによる地域レベルでの割拠がおきた。秀吉はそれを力を背景に元に戻し公儀と朝廷より認められた存在。
943人間七七四年:2008/06/19(木) 19:02:05 ID:xmMseLYo
>>942
室町期の社会と近世の社会の違いを勉強したほうが良いよ?
944人間七七四年:2008/06/19(木) 23:53:55 ID:K6s4pjjH
秀吉が長生きして秀頼が成人してから譲る
もしくは秀次が跡を継いでれば家康の出る幕などなく安定化していた。
関ヶ原で三成らが勝てば不安材料が取り除かれやはり安定化していく。
家康は信長や信玄や謙信ら世代の生き残り。
その後継の2世大名とは経験や力量や野心が違う。
3世大名などの教育も文治儒学であり安定時代の教育。
国人一揆などが起きないように刀狩りしたり石高チェックしたりと豊臣政権の政策は充分に統一政権として成立しており幕府は開いてないものの幕藩体制に近い移行準備期間に入っている。
豊臣政権の失敗は単に有力大名を五大老などと政権に引き込んだから。
江戸幕府も幕政に外様有力大名を参加させる方向が瓦解への道だった。
945人間七七四年:2008/06/20(金) 00:10:32 ID:FuqR/SeQ
有力大名を政権から排除して、豊臣単独でやってける力が有ればよかったのにね
946人間七七四年:2008/06/20(金) 00:21:10 ID:vvet8z0R
朝廷の権威を背景にしてる限りどうやっても安定政権なんて無理だっての
947人間七七四年:2008/06/20(金) 00:24:02 ID:cA0x6aWy
>>944
> 国人一揆などが起きないように刀狩りしたり石高チェックしたりと豊臣政権の政策は充分に統一政権として成立しており幕府は開いてないものの幕藩体制に近い移行準備期間に入っている。

豊臣政権って急ごしらえだけあって相当いい加減なんだよね。

刀狩は恐ろしく不徹底だったことが今は証明されているし(畿内ですら関ヶ原前後で武装した(鉄砲すらある)
農民による西軍の徴用への反抗が記録されている)
石高に関しても、実際に測量してない土地がたいへん多い。例えば石田三成の薩摩への書状で「とにかく
薩摩大隈の村の数や年貢の量なんかを送って来い。石高はこっちで適当に決めるから」なんてのが残ってる。
これは織田政権時代の旧態依然とした「指出制」と大差ない。

秀吉の統一政権としての政策といわれるものは実は、その多くが卓上止まりのものだった。
948人間七七四年:2008/06/20(金) 01:08:45 ID:fwNULUfx
>>943
実際、室町期と江戸初期はそれほど社会的構造大変革はない。
室町期からの積み重ねていったノウハウを試行錯誤しながら一定の完成を見るのは家光以降。
>>945
江戸幕府だって有力外様大名がごっそりいましたね。特に西国に関しては死に臨んだ家康も気がかりだったようですが。
>>946
朝廷の権威と武力の双方が揃えば安定運営できるのが日本ですが・・・
>>947
だから移行準備期間なんだろ。初っ端から完璧なんて無理だろ
不徹底も何も税制に関しても義政将軍就任前の将軍大空位6年間の間に段別賦課方式を公田段銭賦課方式から一国百貫賦課方式にして
幕府が公田を管理するのを放棄し手放したことで守護の一元的な一国支配権の足がかりをつかみ地方割拠へつながったとき以来の全国レベルの大改革といっていい。
そんなもんを最初から完璧にできるわけがない。
949人間七七四年:2008/06/20(金) 01:53:58 ID:pCy/qTCv
薩摩もそんな三成の適当な検地で倍近く増えたっぽいし。
950人間七七四年:2008/06/20(金) 05:42:34 ID:oZ8AJ7nN
豊臣政権と江戸幕府では政権そのものの地力が全然違うからな。
有力外様大名はいてもいい。江戸幕府だって前田、島津、伊達、浅野など
大きな石高を持った外様はいた。
要は政権にそれらをコントロールするだけの力があるかどうか。
遠心分離機は回転数が高くなればなるほど遠心力が強くなり、
中心軸の強度が求められることになる。軸が弱いと、遠心分離機は壊れちまう。

あとはまあ・・・、55年体制の自民党政権と細川連立政権を見たら
どちらがより安定してるか明らかなのでは?
951人間七七四年:2008/06/20(金) 12:02:28 ID:2L0Xtorl
1600年代の話に遠心分離機や自民党の話はまったく同列にして語れないどころか関係ないし参考にならないと思うが…何が言いたいんだ?
952人間七七四年:2008/06/20(金) 12:21:06 ID:2L0Xtorl
単に関ヶ原で勝った方に大名統制力が付いてくるわけだから三成が勝てば豊臣政権は安定化するだけだろ。
五大老の制度は野心家がいるとかき回されるが戦国の意識が消え太閤の遺訓…婚姻規制などが遵守されれば建設的な政権になる可能性はある。
要は秀頼成人まで維持すりゃなんとかなる。まぁ三成がずっと佐和山に謹慎し挙兵しないで家康老死を待てばなんとかなっただろうしな。
953人間七七四年:2008/06/20(金) 12:41:08 ID:cA0x6aWy
>>952
君は豊臣家に都合のいい前提「だけ」で話をしているからおかしなことになっていることに、気付け。
954人間七七四年:2008/06/20(金) 12:47:36 ID:5QmmYjci
徳川が勝ったほうが豊臣政権は安定すると思ってたやつはいるし
羽柴が勝ったほうが織田政権は安定すると思ってたやつはいる
955人間七七四年:2008/06/20(金) 20:12:26 ID:jv93pJXY
>>952
いや、そしたら家康が次々に他の大老や奉行たちを潰していって
鎌倉幕府における北条家のような位置に収まっただけだと思うな。
実際利家死後の前田家に言いがかりを掛けて実質的に降服させてるし、
豊臣家一門で奉行の浅野長政も失脚させてる。石田は武断派が勝手に失脚させてくれた。
会津討伐は上杉が次の的になったってだけだろ。
毛利・宇喜多も次は自分の番だから決起したってのもあるんじゃないかな。
まぁ、ふたりとも坊ちゃん育ちだからわかってなかったかもしれないけど。
豊臣家としては、戦国時代が収まって間もないのに
赤ん坊残して秀吉・秀長・秀次がアボンした時点で詰みだったはず。
956人間七七四年:2008/06/20(金) 20:20:33 ID:2L0Xtorl
>>955
関ヶ原が無く三成がいなくなれば武断派は家康と距離を起き従わなくなるだろ。
957人間七七四年:2008/06/20(金) 20:31:35 ID:Ha3Etgil
詰みだな
秀頼なんてのはもうこの時点で
オヤジが昔ほんの数年間関白に就いたことがあるってだけの餓鬼にすぎないからな
958人間七七四年:2008/06/20(金) 20:39:07 ID:QykHfZk6
>>956
その場合は上杉征伐が成功したという仮定でいいんでしょうか?
それなら武断派の代わりに家康の旗下に上杉、最上、伊達などの東北、北陸諸大名と下手をすれば佐竹も加わることになりそう。
また武断派も全数が家康の下を去るとは思わないけど。黒田、池田、藤堂が残るだけでもかなりなものだし、浅野もあやしい。
毛利と宇喜多さえなんとかすれば関が原後と同様に朝廷から綸旨をとることは難しくはないと思うけど。
家康が豊臣のナンバー1であることにはかわりないし、秀頼は幼君で武家の棟梁としては心元ないですよと運動するだけだし。
秀頼成人まで待つなんてことしますかね、あの狸がw
959人間七七四年:2008/06/20(金) 20:44:43 ID:QykHfZk6
あと東海筋の旧秀次系の大名もつくかな。
福島正則は一応微妙か。
東国を治め源氏であることが征夷大将軍の資格だと当時も思われてたなら、上杉征伐だけでも充分と思います。
960人間七七四年:2008/06/20(金) 23:41:52 ID:fwNULUfx
>>958
君は徳川家に都合のいい前提「だけ」で話をしているからおかしなことになっていることに、気付け。
961人間七七四年:2008/06/20(金) 23:46:21 ID:FuqR/SeQ
仮に西軍が勝ったとして誰が豊臣政権の舵取りするんだろね
962人間七七四年:2008/06/21(土) 00:05:50 ID:pxL06+1w
金吾。
963人間七七四年:2008/06/21(土) 00:08:38 ID:NgLeRhcr
宇喜多だろ。
秀秋もそうだが基本的に悪く書かれ過ぎてるだけなんだよな。
964人間七七四年:2008/06/21(土) 00:10:19 ID:6RIsgW75
三成も あと安国寺
965人間七七四年:2008/06/21(土) 00:11:22 ID:NgLeRhcr
個人的には
高台院が前面に出てきて欲しいが。
966人間七七四年:2008/06/21(土) 00:12:25 ID:sBXYCoaO
とはいえ、現実派徳川家に都合の良い様にながれたわけだけどねー。
ただ、それは大名家が根性無しだったわけで、西軍が勝ったら似たような流れになると思うけどね。

>>961
輝元じゃない?
三成は優秀な官房長官であって、政治家じゃないからなー。
輝元・三成・宇喜田(or小早川)の3頭政治じゃねーか?
967人間七七四年:2008/06/21(土) 00:16:24 ID:6RIsgW75
>>966
小早川の政治力はほとんどない

輝元も自分が表で動くと言うよりは御輿に乗るんじゃないか
輝元の名代で吉川か安国寺
968人間七七四年:2008/06/21(土) 00:52:50 ID:NgLeRhcr
新5大老5奉行が選任されるだろ。バランス取るために島津とか長宗我部とかも入るんじゃね。
969人間七七四年:2008/06/21(土) 01:06:09 ID:umLd/UVg
西軍勝利の妄想はこっちでやってください

関ヶ原、西軍勝利
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150726266/
970人間七七四年:2008/06/21(土) 08:46:42 ID:HZqgZDsP
>>960
都合の悪い前提ないもん
971人間七七四年:2008/06/21(土) 09:31:29 ID:HzdZk/bH
関ヶ原の後でさえ二重公儀体制を許容せざるをえなかった史実をみると多少都合よくみすぎと思えるけど。
972人間七七四年:2008/06/21(土) 09:41:33 ID:HZqgZDsP
>>972
笠谷氏の一説を公論のように語るのはどうかと
973人間七七四年:2008/06/21(土) 10:44:52 ID:umLd/UVg
二重公儀体制説は未だ一個人の仮説に過ぎない上問題も多い。
974人間七七四年:2008/06/21(土) 11:50:28 ID:+706dtIW
自分にレスして批判するのもどうかとw
975人間七七四年:2008/06/21(土) 11:53:10 ID:umLd/UVg
>>974
小学生みたいな突込みして悦に入っているのも相当どうかと。
976人間七七四年:2008/06/21(土) 12:00:45 ID:YKSsi4BN
その問題点を語ってもらおうか
977人間七七四年:2008/06/21(土) 12:13:39 ID:umLd/UVg
>>976
問題点も何も、二重公儀論なんて「関ヶ原のあと西日本には徳川の譜代大名が配置されていない」って事だけを
論拠にした乱暴な議論じゃないか。実際問題として幕府権力は日本全国を網羅している上、豊臣家には
「公儀」としての実態も組織も権力も存在しない。二重公儀なんてものがちょっとでも実態があれば
大阪の陣のとき駆けつける大名ゼロ、なんて事にはならないっつーの。

後鳥羽院の承久の乱を見てみろ。あの時はちゃんと院の命令に従い挙兵した有力御家人があった。
ああいうのを二重公儀というのだ。
978人間七七四年:2008/06/21(土) 12:48:22 ID:YKSsi4BN
表面上、豊臣を立てざるおえなかったのだから二重公儀というのも当たらずとも遠からずでしょう。否定というのも違うんじゃないかな。
清正や浅野ら家康にとって都合がいい人間が死ぬまではそれなりに危ういバランスにいたでしょう。
家康が彼らより早く死去してれば徳川とて危うい立場になっていた事を思えば広義で言えば二重公儀でもさほど間違ってはいないと思いますが
979人間七七四年:2008/06/21(土) 14:12:55 ID:umLd/UVg
「配慮したから公儀」って、それは乱暴すぎるでしょ。議論が飛躍しすぎてる。
配慮しただけでそう言う言葉を使って良いのなら、秀吉の政権も小田原役のあとの信雄追放までは
豊臣織田二重公儀と呼ばねばならない。さらに秀吉は晩年に坂東、西国の仕置きを家康、輝元・景隆に
それぞれ任せると言っているところから「豊臣、徳川、毛利小早川三重公儀」になるのか?

それに笠谷氏もある種の問題提起としてこの仮説を唱えているだけで、本気でそうであったと言っているようには
正直、感じないのだが。
980人間七七四年:2008/06/21(土) 19:02:52 ID:pxL06+1w
>>977>>979
笠谷のどの書籍・論文を読んだ上での見解なのか、教えて。
981人間七七四年:2008/06/21(土) 19:46:20 ID:HZqgZDsP
>>980
別人だが、手っ取り早いのは吉川弘文館「戦争の日本史」でしょうな
982人間七七四年:2008/06/21(土) 20:10:16 ID:umLd/UVg
>>980
自分が読んだのは「関ヶ原合戦:家康の戦略と幕藩体制」。

「徳川と豊臣の二重公儀体制で天下は安定し平和でしたが家康が気が変わったので豊臣ぶっ潰しました。おしまい。」

って乱暴すぎるだろ。仮説としても思いつきレベル以上のものではなく隙が大きすぎる。
だいたい研究者でこの二重公儀論を支持している人なんて聞いたことも無い。
大体は「たしかに西日本に徳川譜代が配置されなかったことに何らかの意味はあったのかもしれないけど
それが一足飛びに二重公儀とまでには…」って人がほとんどじゃないかな?

あくまで個人的に、だけど、笠谷氏はこの時代の研究を盛り上げるために、あえて「二重公儀」という
強烈な言葉を使って煽った、と言う印象。
983人間七七四年:2008/06/21(土) 22:08:18 ID:pxL06+1w
>>982
どうもありがとう。

「戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大阪の陣」(笠谷和比古、吉川弘文館、2007年)の
「IV.徳川幕府の成立と二重公儀体制」(p.152-190)を一読してみては如何でしょうか?

笠谷氏の二重公儀説の根拠が記述されているので、これを読んだ上でないと
議論にならないかと思います。
984人間七七四年:2008/06/21(土) 22:12:10 ID:umLd/UVg
>>983
じゃあ逆に聞くけど、笠谷氏の二重公儀論を支持している研究家なり学者の人っているのか?
985人間七七四年:2008/06/21(土) 22:16:19 ID:HZqgZDsP
981として読んだものとしていえば、段階的に臣従させてゆく過程の
見方変えればああなるかなという程度
詰まる話が、それが当初からの施策か、ある段階での方針転換か
ということだが俺は後者を取るね

家康の政略・戦略には慎重な正確からして、段階的に事を踏むと
いうのが正しいかと
986人間七七四年:2008/06/21(土) 22:17:12 ID:HZqgZDsP
>>985
失礼、
×後者
○前者
987人間七七四年:2008/06/21(土) 22:51:14 ID:1055dfnQ
「徳川と豊臣の二重公儀体制」の最大の問題点は豊臣側に公儀としての活動が何もないことだろ
家康が征夷大将軍になった後も豊臣はこんな法律を公布したなんてのは皆無だし
外交も南蛮から朝鮮に至るまで交渉しているのは全て徳川だ
豊臣は単にゴネて引き篭っていただけ
988人間七七四年:2008/06/22(日) 03:21:07 ID:pghs8S+x
>>979
秀吉の政権も小田原役のあとの信雄追放までは
豊臣織田二重公儀と呼ばねばならない←いつ織田が全国統一政権を樹立したんだ?まったく同列に語れないだろ。
989人間七七四年:2008/06/22(日) 03:28:42 ID:v7LU5q+g
関ヶ原以前と以後の違いには家康の恩賞の多寡っつー点は?
990人間七七四年:2008/06/22(日) 03:39:18 ID:OIByu99T
二重公儀でないなら大阪城を攻める必要性がないし豊臣を滅亡させる必要すらない。
991人間七七四年:2008/06/22(日) 07:11:15 ID:WfezVWH9
>>990
別のスレでも書きましたが、
大阪は徳川の被官にもならず、幕府の意向を聞かない上、
豊臣という貴種なので武力討伐に踏み切りました。
二重公儀というのも理由の一つになるかもしれませんが
以前は豊臣家を通じて領地や朝廷の官位が与えられるはずが、
徳川幕府を通じて領地や朝廷の官位が与えられることになったときから
二重公儀は消滅したと考えていいのではないでしょうか。
具体的には幕府開府直後と考えていいかもしれません。
992人間七七四年:2008/06/22(日) 09:41:20 ID:grZHVCB5
>>990
単純に幕府の統制に従わないからだろ。二重公儀以前の問題だ。
993人間七七四年:2008/06/22(日) 11:33:48 ID:IL59jQMe
>>984
反対しなければ、同意していると見做すことがことが出来るのだが。

人文系の学問の世界では、これは常識。
994人間七七四年:2008/06/22(日) 11:44:54 ID:OIByu99T
淀殿とか勝者によってモロに悪く書かれてるだけなんだが…しかも秀頼に家康を父と思えって諭したりして家康に従ってましたが。
妥協してわざわざ大坂城から伏見城へ出向いてやってるし。
国家安康の件で無理やりケンカふっかけただけだろ。
清正や浅野らが豊臣に仕えて秀頼と家康の面会をさせたりしていた時点で二重公儀だろ。
995人間七七四年:2008/06/22(日) 12:08:01 ID:grZHVCB5
>>993
> 反対しなければ、同意していると見做すことがことが出来るのだが。
>
> 人文系の学問の世界では、これは常識。

どこの人文系の学問の世界?具体的に教えて?
俺そんな話聞いた事も無い。
さらにそんなに同意している人が多いのなら、この二重公儀論を「前提」に研究を発表している人も
たくさんいるはずだが、そう言う研究論文をいくつか挙げてくれませんか?
996人間七七四年:2008/06/22(日) 12:45:22 ID:DnYWShtc
>>994
豊臣と徳川に関してはどっちもどっちという感じだけどね

>清正や浅野らが豊臣に仕えて秀頼と家康の面会をさせたりしていた時点で二重公儀だろ。
旧主の遺児のために骨を折ってやっただけだろ
徳川には仕えていたといえるが、豊臣にも当時仕えていたといえるのか?
少なくとも加藤清正は徳川頼宣の舅として徳川方の人間として二条城の面会に立ち会ってる
997人間七七四年:2008/06/22(日) 13:09:37 ID:grZHVCB5
浅野幸長も家康の親戚としての立場だな。
998人間七七四年:2008/06/22(日) 13:17:27 ID:/21BosXo
次スレ

【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ13【東軍】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1214108230/
999人間七七四年:2008/06/22(日) 13:33:13 ID:OIByu99T
天下は持ち回り
次はオレと自負してた政宗みたいなヤツもいたし政宗は豊臣を潰しすなと言ってたらしいし。
1000人間七七四年:2008/06/22(日) 13:34:59 ID:OIByu99T
戦国期を通じて強者に挟まれた大名が二重に仕えるなんて事は普通にやってるんだが。
10011001
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   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
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