>>46 仙台藩百姓さんに代わり、卒辞ながら私が答えさせていただきます。
主な武田VS北條1(1578-79年)
出典元は主に手軽に読める
『北条記』『関八州古戦録』など軍記物、
『戦国 北条一族』など研究書、
『日本城郭体系4茨城・栃木・群馬』他『日本城郭体系』シリーズ、
『真説【戦国北条五代】』etc.歴群もの
天正七(1579)年
3月24日 上杉景虎自害し、御館の乱が景勝の勝利に終わり、勝頼と氏政の対立が決定的になる。
勝頼は、上野(沼田・厩橋etc.)と北信濃の旧上杉領を譲られる。
一方、上州沼田にいた北条氏邦は、上野の旧上杉領の実質的占領を目指す。
この頃から勝頼は、旧上杉家臣(景虎派)で後北条に従っていた厩橋城主北条高広・那波城主那波顕宗・八崎城主河田重親・白井長尾憲景らを次々と調略す
(私の疑問1…なぜ、彼らはあっさりと後北条→武田に乗り換えたのか? わからん!! 共に戦った仲だし、景勝の同盟国でしょ? というわけで意見のある人、レス求む)。
これにより、信頼できる上野の北条方は、御館の乱以前から従っていた金山城主由良国繁・その弟の館林城主足利長尾顕長・小泉城主富岡秀朝となる。
春 勝頼、厩橋城に入り、麾下の軍勢をその周辺に出す(沼田や鉢形方面に兵を出したのは確か)。
鉢形に向かっていた武田信豊勢3000は、武蔵に侵入して普請途中の広木城(埼玉県児玉郡美里村…場所未確認)を攻めるも、氏邦勢700〜800に撃退される
これについて詳しい人、レス求む!!
7月 勝頼、佐竹・結城と対北条同盟を結ぶ。
7月下旬 佐竹勢、北条方の下野小山・榎本・常陸土浦・守谷・下総古河を攻撃。
8月下旬 勝頼、駿河・浮島ヶ原(沼津市原)に出陣す。
9月4日 氏政、家康と盟約し、
1.共に勝頼を攻める事 2.信長との同盟を仲介する事が取り決められる。『家忠日記』
9月中旬 氏政、六万の兵を率いて伊豆に出陣すると同時に泉頭城(「いずみがしら」と読む(以下略)…静岡県駿東郡清水町玉川…荒川豊前守・大藤長門守・多目周防守・足軽大将の高橋氏・市南氏らが守る)の防備を固めた。
その後、氏政と勝頼は黄瀬川を挟んで対陣す。
11月下旬、駿河出陣中の氏政、帰陣す。勝頼、伊豆に侵入。
12月9日 勝頼、甲斐へ帰国す。続く