869 :
人間七七四年:2012/04/27(金) 16:05:59.69 ID:XxOE7ZV2
伊達成実の生涯唯一の武功が摺上原の戦いでの
金上盛備と佐瀬平八の討ち取りだと大々的に自慢してるが
そもそも金上盛備を成実は討ち取ってないから捏造なのは明白。
それで佐瀬平八とは何者か調べたんだが下記の人物なんだわ。
葦名が敗走中にこのレベルのを討ち取って自慢になるなんて伊達ってショボイね。
葦名修理太夫盛氏旗下之大名
佐原氏葦名五黨ト称ス者
葦名四天老中四人並ニ小頭附ケタリ老中同心八十人
若年寄四人並小頭四人附同心
用人五人並取次十人
側用人五人並取次五人
奉行四人並用人役祐筆兼諸役兼勤者八人
郡代十七人並小頭十七人附同心百七十人但同心十人宛
下郡代十七人但シ下郡共勘定頭共云フ
侍大将十二人 同組士外様三百六十人
旗頭八人並與力野士八十人小頭八人其組足軽八十人
弓大将四人並與力士四十人小頭四人足軽四十人
鑓大将四人並與力士四人小頭四人足軽四十人
使番十二人
奏者番十二人
大目付四人
寺社奉行四人並小頭4人附同心四十人但一組十人宛
寺社小役十二人
町奉行四人並小頭四人附同心四十人m一組十人宛
足軽大将三十人並小頭六十人m一組二人宛足軽九百人m一組三十人宛
大番組八人並組士七十二人
佐瀬平八組←やっと登場wwwwwwww
下妻市太輔 神原源左エ門 賀ガ見村右エ門 杉田平右エ門 笠尾藤右エ門
神尾利右エ門 関脇十郎兵衛 金山吉右エ門 岩永太左エ門
870 :
人間七七四年:2012/04/29(日) 22:37:47.05 ID:zJNlWeqM
今回の針生氏は芦名の末裔だろうか?
871 :
人間七七四年:2012/04/30(月) 02:16:40.26 ID:DM/T/f05
ワンマンはいずれ痛い目にあう
872 :
人間七七四年:2012/05/04(金) 00:05:58.40 ID:3hM+Aep5
>>869 葦名の名簿だね。
うちもすみっこに載ってる(´・ω・`)
佐瀬、満田、渋川、儀堂、三橋なんかは今でも会津にいる。
猪苗代、針生なんかは仙台に。
873 :
人間七七四年:2012/05/12(土) 23:17:14.78 ID:U3/WkhLs
盛氏はワンマンではない
874 :
人間七七四年:2012/05/13(日) 13:41:36.54 ID:mPEJkY0E
そもそも晴宗が父と大戦争してた隙に会津をなんとか統一できただけの盛氏を過大評価し過ぎなんだよ。
統一って言ったって葦名政権へ地方割拠豪族たちを何とか参加させたのに成功しただけの話で、
葦名執政や葦名四天に代表される巨大国人家臣団の合議連合政権に過ぎず、
後年になっても葦名と上杉や伊達との両属家臣がいて国境すら曖昧。
葦名宗家の力が無力なのか葦名盛興なんて家臣団の勢力争いが絡んで本城を家臣に奪われたり挙げ句に暗殺されてるし、
その頃の会津は貧困からか頻繁に徳政令や禁酒令(食用米を酒にするのは禁止)を出さざる負えないほどに逼迫していた。
こんなボロボロなのに葦名は大国だから娘婿の白河を全力応援してたに違いないって思い込みで捏造してるに過ぎない。
実際、盛氏は伊達探題家から嫁が貰いたくて仕方がなかったが
輝宗からなかなか許可されなかった弱小国葦名ってのが現実。
会津盆地の見た目の大きさで大国と誤解してるのか知らんが洪水で水浸しになる盆地なんてほとんど価値ないから。
永禄元年に葦名は晴宗との間で伊達家と盛隆の婚姻が取り決められていたが
伊達側がまったくそれを実行しようとしなかった。
そして盛氏の諸兄の氏方と結んで富田親子の謀反が永禄4年に起きた。
この政変のあとに富田氏・三橋氏・常世氏などが自害してる。
この時期に向羽黒山城が築城されてるから
そもそも軍事的な目的であり隠居のための城じゃない。
この政変の責任をとって家督を盛隆に譲って隠居しただけの話。
永禄3年はついに那須や田村を支援している佐竹と直接矛を交え始めたし
永禄4年は北条は古河公方義氏を認めず謙信が小田原包囲してるし
世の中がめまぐるしく動き始め葦名家中も外交方針を巡り混乱したから隠居せざるおえなかった。
ここら辺り以後の葦名は大規模外征が内政問題のために出来なくなり
佐竹に圧迫されていくなど急速に弱体化を開始してる。
それどころか永禄7年になると輝宗の葦名侵略が開始され、
永禄9年には輝宗に盛氏が誓詞を送って和睦してる。
佐竹でも同じことで、親公方義氏&北条武田方重臣が義重側で
反北条側が義昭側についていたに過ぎない。
義昭は親北条の水戸の江戸氏や宍戸氏らを攻め、
次男義尚の那須当主の約定の元に大関を後援して
北条・白河・大掾・小田が味方する那須を攻めてる。
しかし永禄6年に北条が松山城を落とし信玄が信濃飯山を攻め
義昭も従軍していた関東戦線から謙信が帰るなど
次第に北条武田側が優勢になってくる中で義昭は隠居してる。
義昭は大掾の家督を弟の義政に継がせて、なおも小田氏と争っているが死去するや
義重の元では反北条の謙信とは距離を置き、
関宿城で北条と和睦調停を進め北進重視に方針転換するようになってしまう。
輝宗が氏方に書状だしてるし
盛氏を廃すべく伊達を引き入れたい
蘆名家臣団との間で手打ちした妥協案が
盛氏隠居だろね。
黒川城奪取や盛隆暗殺など蘆名家臣団はその滅亡の時まで
バラバラだった。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185038268/714
875 :
人間七七四年:2012/05/13(日) 23:56:55.80 ID:BIgIDphF
>>873 古い大名は合議制だからね
ワンマンでやりたくてもやれない
ていうか佐竹はあの緩〜い統治システムでよく生き残ったな
他の大大名は多かれ少なかれ大名の権力集中化を果たしているんだがw
あるいみ義重個人の才能なんだろうな
877 :
人間七七四年:2012/05/15(火) 23:41:02.69 ID:PHHuWy7y
あの古臭い体制は当主の能力への依存度が高いからな
馬鹿殿なら一気に傾くし、名君なら一気に勢力拡大出来る
義重はそれなりに有能だったから、佐竹もそれなりに成長、維持出来た
878 :
人間七七四年:2012/05/23(水) 01:14:33.87 ID:eApMh5NG
盛氏は後継者不足だけが悩みだった
879 :
人間七七四年:2012/05/24(木) 13:26:56.08 ID:Plyx8GOC
盛興は一人っ子だし、盛氏自身も一人っ子だからな(庶兄はいたけど)
ほんと子供の数は重要だね
伊達なんかは代々子沢山だから、それがかなり有利に働いた
佐竹も義昭と義重は嫁と養子を周辺大名に次々に送り込んで飛躍したし
880 :
人間七七四年:2012/05/31(木) 23:27:34.92 ID:0Y4U3vBe
盛氏って兄いなかったっけ?
881 :
人間七七四年:2012/06/04(月) 23:50:30.59 ID:70Z6bqoF
蘆名盛方?
882 :
人間七七四年:2012/06/11(月) 01:12:28.48 ID:Pbg6qYV0
それ弟じゃないの?
883 :
人間七七四年:2012/06/11(月) 01:26:43.38 ID:rRBarGLH
庶兄だよ
884 :
人間七七四年:2012/06/14(木) 23:56:01.85 ID:BQ1uAtf3
氏方は蘆名氏の第15代当主・盛舜の庶子
盛氏が長沼実国を攻め黒川を留守にした際、義実父子らに奉じられ謀叛を企てるが、数
日で鎮圧され、東山にて家臣と共に自害し果てた。
885 :
人間七七四年:2012/06/24(日) 21:17:37.09 ID:SgelzeDw
(´;ω;`) ぶわっ
886 :
人間七七四年:2012/07/01(日) 22:22:35.13 ID:OhfeZDrR
蘆名盛盛
887 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 00:29:02.26 ID:GK4wdTiu
(#^ω^) ビキビキ
888 :
人間七七四年:2012/07/11(水) 23:36:52.17 ID:FY3vEhts
葦名家は平氏の名門
889 :
人間七七四年:2012/07/19(木) 23:46:14.12 ID:aAnvuPrq
課棒です
890 :
人間七七四年:2012/07/29(日) 00:28:04.47 ID:xMwxYaOw
宝賀乙
891 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 00:51:22.78 ID:cSUafMrF
葦名軍は打たれ弱い
892 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 00:52:56.97 ID:Io65Wwek
たしかに、刷り上げ原での瓦解は早かったね
893 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 12:03:24.05 ID:DptfMW88
12年で5人も当主が代わってるからな
その都度、反乱が起きたり家中がガタガタで崩壊寸前だった
摺上原でも結局、まともに戦ったのは富田将監の五百騎と義広の旗本ぐらいで
他の将達は勝手に退却を始めてしまった
まあ、どの国でも滅びる時は内から滅びるものだけど
武田の最後と同じだ
894 :
人間七七四年:2012/09/17(月) 22:47:29.43 ID:6uJ4Mztb
芦名盛氏が子供をたくさん作っていれば・・・・
895 :
人間七七四年:2012/09/18(火) 09:57:41.09 ID:uxeoTgKt
盛氏も一人っ子なのに(庶兄はいるが)、子供たくさん作って安定させようとはしなかったんだね
逆に兄に反乱起こされた事で御家争いを恐れていたのかもしれないが
896 :
人間七七四年:2012/09/29(土) 23:42:57.81 ID:K5auuS/z
御家争いを恐れるあまり御家断絶の危機を迎えたのなら、もうね…
戦乱の時代に嫡男一人はいくらなんでもリスキー過ぎ
せめてあと一人は男子をもうけるべきだった
897 :
人間七七四年:2012/09/30(日) 01:07:29.03 ID:4KqPKIyW
同腹の兄弟なら割りと仲良い場合が多いしね
898 :
人間七七四年:2012/09/30(日) 15:46:16.41 ID:vTMMevbN
伊達政宗「………」
最上義光「………」
899 :
人間七七四年:2012/09/30(日) 22:21:38.47 ID:gzYmCQ10
徳川家光「………」
900 :
人間七七四年:2012/09/30(日) 23:46:18.01 ID:I8JEzC32
織田信長「………」
大友義鎮「………」
901 :
人間七七四年:2012/10/11(木) 10:48:15.25 ID:mG3lucmy
俺ん家 「…」
902 :
人間七七四年:2012/10/22(月) 23:49:08.20 ID:wE2J/arr
wwwww
903 :
人間七七四年:2013/02/07(木) 23:47:10.43 ID:SU9DOD3C
蘆名止々斎「保守」
904 :
人間七七四年:2013/04/05(金) 11:47:54.57 ID:JcIrxH7z
905 :
人間七七四年:2013/04/26(金) 09:12:42.04 ID:Op5fJAUa
マジレスすると芦名滅亡の原因は転封後の独立運動だと思うんだ
客分の分際で母屋まで取るような真似をしたから徹底的に潰された
おとなしくしていれば岩城のように家名だけは存続できた可能性が高い
ひょっとすると今の知事は芦名知事になっていたかもしれない
906 :
人間七七四年:2013/04/26(金) 09:23:03.39 ID:UXZ1H25D
断絶したんじゃなかったっけ?
もっとも養子入れて家名存続させる事も出来た訳だから
確かに主家から良く思われてなかったんだろうな
907 :
人間七七四年:2013/09/26(木) 10:57:24.55 ID:Eqf35wtI
葦名といえば、滅亡寸前に猪苗代湖に軍資金放棄した話あるな
908 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 00:11:37.00 ID:4h8de+VE
ありがちな埋蔵金伝説だが、滅亡時の状況からすると有り得なくもないな
909 :
人間七七四年:2013/10/21(月) 00:37:40.83 ID:+riI+QNf
蘆名家の全盛期の石高ってどんぐらいだったのかな
910 :
人間七七四年:2013/11/13(水) 19:47:16.10 ID:RdZ3jC64
會津鑑によると何と160万石以上らしいw
まあ、それはホラ吹きすぎだけど
おおよそ葦名家の領地と被る會津藩が23万石+預り地の南會津5万石で28万石ほどだったので
葦名家もそれぐらいと考えて間違いないでしょう
それに支配下にあった二階堂家の5万石余を加えて33万石前後と言ったところか
911 :
人間七七四年:2014/01/20(月) 23:33:40.00 ID:O8O678Oe
912 :
人間七七四年:2014/01/26(日) 20:58:02.27 ID:mYLkADW8
30万石もあったら 優秀な大名じゃん! 大名家として残って欲しかった一族ですな
913 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 22:50:10.25 ID:Pi56qi2R
全盛期はもっとあっただろうな
914 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 21:08:58.85 ID:WbclvVOn
50万はあったんじゃないか?
915 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 13:52:32.66 ID:ve8w8q3p
蒲生が入部し水害灌漑対策を兼ねた開発が行われる以前の実高は20万石程度だった。
916 :
人間七七四年:2014/07/18(金) 22:47:00.01 ID:nh2X3lbz
917 :
人間七七四年:2014/07/19(土) 06:53:19.35 ID:LfplY0e8
何か問題あるか?摺上原の蘆名の動員考えたら妥当だが
文句あるならテメエで検証しろや、逃げんなよ糞野郎
918 :
人間七七四年:
その動員とやらは正確な数字が残ってるのでしょうか。軍記類ソースだったら論外ですけど