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人間七七四年:
1581年の相馬進攻での伊達軍(亘理・名取・宮城・二本松畠山・大内・須賀川二階堂・石川)との小深田の激戦
(相馬側300騎だったが狭い谷という地の利で防戦し、血気の逸った初陣の政宗が片倉を身代わりにして敗走)
1582年の相馬の小斎城の佐藤宮内が援軍の将を斬って伊達に降伏。
小斎城には伊達軍が、城の周囲には伊達騎下の二本松畠山・大内備前親子が布陣し急遽、相馬が冥加山に砦を築く。
1583年3月に氏照から輝宗へ「奥州の伊達と関東の北条はさらに入魂すべき」と東日本を二分して統治しようとの手紙。
6月輝宗から義重へ「奥羽両州諸家のほとんどが私に申し合わせてご挨拶し織田と入魂するから奥羽にちょっかい出すな」
輝宗から岩城へ「相馬攻め出馬よろしく。織田軍がもし関東へ乱入するようなことあらば、葦名ら奥州諸家は伊達に属して戦う」
1584年5月、田村清顕(母が稙宗の娘・妻が相馬盛胤・政宗正室の愛姫は一人娘)が
金山・丸森城を伊達に譲渡しての和睦斡旋。これを機に10月輝宗は政宗に家督を譲渡(葦名盛隆が家臣に暗殺される)
このようにほとんどの諸将は輝宗の指示で動くまでになっており
そのほかに黒川氏や最上氏なども傘下におさめている。
大崎氏も伊達に頭を下げて兵を借りる始末だし、葛西も隷属。
天正5年に家康の使者の鷹師が伊達の遠藤基信と会談した際に
伊達領内と最上領内を書状を添えて滞りなく往還させたとしており
明らかに最上領が伊達の自由にできた状況である。
この時に輝宗が鷹師を義光にも会わせてる。
明らかに外交において伊達を窓口にしている。
家康も最上からの書について伊達に感謝してる。
村山郡での戦いにおいての義光は
天童や東根攻めで、わざわざ政宗取次役の最上窓口である留守政景を通して断りをいれている。
政宗の大内攻めに最上軍を従わせている点や
天正14年7月〜8月に米沢へ帰った政宗が
大宝寺の嘆願により政宗が奥羽の無事の指導主催者として、
上位者位置から庄内最上の和睦の指示を出し停戦にこぎつける。