1 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:
南朝の名門!!
2 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 00:49:09 ID:/+45/QiB
( ’ω ’)
北畠って、「伊勢の名門」より、「南朝の忠臣」の方が
しっくり来るし、華があると思うけど、戦国じゃないから仕方ないか。
でも、北畠具教って、公家なのに大名で、しかも剣豪とは、
とても興味深い人物だと思う。
4.
( ´゚ω゚` )
勉強しましたね。合格です。
7 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 10:18:20 ID:O9vvauZ0
前に居城の霧山城跡に行きました。
本拠の南勢と大和南朝に行き来し易い中間地点に作ったんだって。
8 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 14:48:04 ID:m10Cbalw
>>8 将軍様と国司様ぐらいだろ
むしろ幽斎とか氏真みたいに天寿をまっとうしてるイメージ
正三位権中納言
北畠政郷と北畠晴具はなかなかしたたかだったらしいね
12 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 15:22:51 ID:oqEXeCu+
幕府に忠実に従うようになったきっかけは何だろう?
13 :
鳥屋尾 晴清:2007/01/01(月) 21:00:57 ID:wwUZ8GDV
わし、忠臣なんだけどマイナーなんだよな…
14 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 07:35:01 ID:YkRUf3Dp
>>12 後南朝の滅亡じゃね?
あれで、幕府に反抗する理由が消滅した。
それに北畠は国司として統治していただけで、守護にはなっていないから
盟友に近い関係だったと言えるかもしれない。
15 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 08:49:50 ID:9IVR8y2Q
ゲームでも晴具は凡将扱いだったのが最近は有能な評価になってきたな。
16 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 17:35:32 ID:PtZ9B0/g
17 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/24(水) 20:22:39 ID:u5oaf22n
家城主水や奥山常陸介の本名は未だに不詳のままか。
18 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/25(木) 22:12:43 ID:LElESHFa
北畠顕家カコイイ
19 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/27(土) 12:33:36 ID:LgBvCf4J
伊勢の関氏って、北畠の家臣とかじゃなくて六角の同盟者だよね?
北畠政成
21 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 19:09:50 ID:cjpK3C3s
しかしあっけなく、織田家に乗っ取られたね。
22 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/07(水) 22:24:18 ID:IQSwGMMw
57万石の領土を持ち(伊勢一国)、鎌倉からの歴史を持ち(正三位)、武勇に優れた盟主を持ち、
日本中から人の集まる伊勢神宮と町・港を領内に持ち、あっさりと家を明け渡すいさぎよさを持ち。
23 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/07(水) 23:37:26 ID:11eR7zvv
24 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 19:26:48 ID:apm1EAbd
伸びないな。伊勢方面の人で、思い入れがある人はいないのか?
25 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/17(土) 21:56:47 ID:tz9k1+kv
具教は剣術を好み、修行の旅をする剣客を保護、援助していた。自身も塚原卜伝に剣を学んだ剣豪である。奥義である一の太刀を伝授されたと言われる。
また、諸国修行の旅で具教の元を訪れた上泉信綱からも剣を学んだ。
具教は、領土が隣接する柳生宗厳とは剣を通じても親交があり、信綱に彼や宝蔵院胤栄を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたと言われる。
具教は、塚原卜伝の新当流に、上泉信綱の新陰流の長所を取り入れた「伊勢新刀流」と言う流派を創始したとされる。
この流派は北畠家の子孫である有馬家に伝わっていたが、現存していない。
織田氏の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺すという凄腕を見せている
長野氏とか藤野氏、関氏らが元気すぎて伊勢一国治めてる印象がないんだよな。
27 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 23:24:02 ID:OT1gwRse
57万石も実際に領土無かっただろ>伊勢北畠氏
「獅子身中の虫」というか権勢の有った同族に悩まされ、国内では一向宗が勢力を伸張、
守護大名から戦国大名になろうとしてなりきれなかった印象
28 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:14:03 ID:IApDIzVW
守護じゃねえ
国司だね。
伊勢南郡守護かと。
31 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 11:55:43 ID:SUBhOmFr
家臣の名前が判らないのが盛り上がらない一因かと
32 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 16:36:42 ID:EP2XKsOs
33 :
人間七七四年:2007/03/03(土) 22:46:24 ID:EEWKnG0t
伊勢神宮との関係は微妙だった。宇治と山田の間の紛争に介入したりして。
あまり触れられたくない歴史なのかも。
34 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 13:55:30 ID:obM8j+AX
足利将軍家との仲はどうだったんだろ? 没交渉?
35 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 21:19:11 ID:e3QPVuI9
政争に敗れた奴をかくまったりしたはずだか、誰なんだか、何時なんだか。
横山高治氏の本に詳しいと思ったが。(忘れちまったってわけさ)
36 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 22:03:29 ID:d346ik07
>>35 嘉吉の変の後、赤松満祐の子教康が北畠を頼ってきたというやつ?
北畠は受け入れ拒否したらしいが。
37 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 22:52:18 ID:e3QPVuI9
そうだっけ。
38 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 00:13:29 ID:1G61RGOk
北畠スレなかなか盛り上がりませんね!
自分は陸奥の浪岡北畠、顕則の子孫だそうです。
しかし、浪岡北畠は津軽為信に滅ぼされ、残った者はその後、
顕則含め、それぞれ各諸藩の家臣となり、
どんどん名門から遠ざかり、現在に至るわけなんですが、
当時、その北畠顕則も伊勢新刀流の剣術指南だったらしいんです。
新刀流の創始、伊勢の北畠とはこの流派を通じ、浪岡北畠と
それぞれ交流があったんでしょうか?
その辺、だれか詳しい方居ませんか?
39 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 02:22:02 ID:YAMQeF6U
北畠って苗字は今でもあるの?
地元(伊勢方面)に1軒あったような気がした
40 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 10:15:28 ID:1G61RGOk
青森と大阪に北畠姓が多いみたいですね。
全国では約1000世帯くらいあるはず。
世帯ですから、個人になると×3か、4くらいは居るんじゃないですか?
41 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 12:11:11 ID:m6yffJ2y
北畠さん1クラス46人の中に一人はいたよ@大阪市内
42 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 16:16:04 ID:bNnU7YgQ
43 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 20:54:35 ID:C1tWNa2g
水戸藩に伊勢北畠系の家臣が召し抱えられたから
茨城にも多いんじゃないかな
44 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 23:06:42 ID:UkU9B8lH
河内の方に北畠って地名あるよね。銀行強盗事件が昔あったとこ。
45 :
人間七七四年:2007/03/07(水) 00:41:38 ID:fonrx9t6
北畠顕家親子をお祀りしてる神社と公園もあるよ
地名はそこから来てると思う
銀行は厳密には北畠にはないんだよね。区も違うし
46 :
人間七七四年:2007/03/07(水) 00:44:02 ID:fonrx9t6
ああ、河内じゃなくて旧国名だと摂津だよ。今の大阪市阿倍野区
47 :
人間七七四年:2007/03/07(水) 01:03:48 ID:UkowXbjM
伊賀との関係は良好だったんだろうか?
北畠氏は南伊勢が本拠地で北部や中部はどうだったんだろ
48 :
人間七七四年:2007/03/07(水) 03:20:30 ID:g/eO3kXA
俺は鳥屋尾石見の子孫だお(´・ω・`)
49 :
人間七七四年:2007/03/07(水) 03:21:34 ID:kZPqBuSP
50 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 00:52:44 ID:NGLAju9A
>46
大阪市内なんですね。北畠氏は江戸時代に公家に戻ったということですが、
そのころできたのでしょうか?
51 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 16:53:42 ID:2LVcIiHi
>>50 >延元3年(1338年)、阿倍野合戦で戦死した北畠顕家の墓が当地にあり「大名塚」と呼ばれていた。
江戸時代になると本格的な墓所として整備され、それから当地を北畠と称するようになったという
というのが地名の由来のようなので、整備され呼称されるようになったのは江戸時代のようですね。
顕家のお墓は北畠公園の中にありますよ
52 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 00:15:50 ID:awdE4N7g
北畠氏については神皇正統記ほか、伊勢神宮外宮神宮との協調による著作も数々あり、武家としての実績以上に日本史に影響を
残しているとのことですね。
53 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 19:34:44 ID:0vk+zOCM
>>47 甲賀の棟梁山中家とは縁続きで関係は終始良好だったよ。
合戦ではいつも戦忍びを派遣してくれてた。
54 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 11:44:46 ID:p1QLnYeT
南大和、熊野、新宮、十津川流域まで支配してたのか。
紀伊半島の東半分を押さえてた事になるな。
55 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 18:11:52 ID:MTXp1ibD
56 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 23:18:09 ID:p1QLnYeT
>>55 晴具。
wikiだからあまり当てにならないか。
57 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 16:43:06 ID:uIo8PtII
58 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 03:06:40 ID:TFBTLoC+
南朝亡き後も、ずっと続いていたという事実がすごい。
後に南伊勢を引き継いだ蒲生氏郷が早々と転封になったのも、
秀吉が地勢的なアドバンテージに気付いたからでは。
59 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 10:20:55 ID:cbg5soKx
北畠が滅ぼされなかったのは、京からの距離がそこそこ離れていたからかな
それとも顕泰の政治力?南北朝合体を平和裏に行うための条件?
60 :
人間七七四年:2007/04/26(木) 15:04:45 ID:BtzlF0qJ
>>58 >南朝亡き後も、ずっと続いていたという事実がすごい
教具が傑物なんだと思う
義教に献上品贈ったり、満祐の子教康を自害させて首を幕府に送ったり、
常に親幕府で北畠を盛り立てた
61 :
人間七七四年:2007/05/16(水) 13:39:22 ID:/Won5qyq
応永の乱で活躍してるし、顕泰
62 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 21:21:57 ID:RwnPoEAz
南海一の弓取り
63 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 01:50:06 ID:WuaYeakg
私は北畠です。
親は津軽出身。関東在住。
私は数年前関東から大阪へ。
大阪来るまで先祖のこと知らなかった。
最近知った。情けない私。
偶然だがしばらく石津近辺に住んでた。
過去帖も調べた。
64 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 02:16:07 ID:0NL/1emW
まあ、がっこの日本史で習うのは神皇正統紀の北畠親房ぐらいだしな
織田信雄がでてくりゃよく知ってるほう
東北政権とか後南朝とかになるとヲタ知識だ
65 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 15:29:18 ID:9cQb6w1e
浪岡御所ですね
66 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 15:04:12 ID:rrumbMLp
キタバタケグッキョウ
67 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 15:04:34 ID:ngok1h9c
家城之清
68 :
宇喜多直家信者:2007/06/22(金) 16:12:38 ID:OVou5Jy+
19人を倒し100人に傷をつけたっていくら何でも誇張だろ
69 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 21:48:19 ID:zVufaajG
織田信雄が北畠家の末代って認識でおk?
70 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 11:12:07 ID:7F5EYwYK
一応、信雄の息子の秀雄、高雄は雪姫の血を引いているが
71 :
人間七七四年:2007/07/05(木) 22:22:57 ID:cKpgs+qE
転勤で津市に来た
藤方 分部 長野 木造 雲林院 戸木 とか
大字に残っていて興味が湧いてきたので
ちょっと自分の中で北畠ブームがはじまったところ
72 :
71:2007/07/05(木) 22:28:09 ID:cKpgs+qE
ググりはじめたけど
>安濃の長野家は雲林院、細野、分部、家所、草生などの豪族を配下とし
家所 草生 なんてのも現在の安濃町の大字に残っているよ
いやまあ全国的にこういうのはどこもそうなのかもしれんけど
73 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 22:58:01 ID:wxvKy7Gm
漏れの苗字北畠だが何か関連はあるのだろうか
74 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 07:00:45 ID:cGWEWXjo
>>73 家紋はどんな感じ? お墓の横とかに掘ってあると思うが。
75 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 21:35:56 ID:xwsBKq05
たしか笹竜胆と呼ばれるヤツですよ
青森出身なのだが
76 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 21:38:34 ID:ydmduG9g
笹竜胆と言えば源氏の家紋…
77 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 21:46:05 ID:WxJAz5CV
78 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 21:47:26 ID:WxJAz5CV
79 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 05:04:02 ID:TnqJ85Zx
関西だと北畠って苗字だらけだよ
80 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 05:13:34 ID:EAWl8rVS
在日がよく名乗るらしいな
81 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 12:59:48 ID:TnqJ85Zx
>>79 そんな話聞いたことない
ソース提示してくれ
82 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 13:01:00 ID:TnqJ85Zx
83 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 17:12:48 ID:WtXe0HbF
在日は華族の名前と左右対称の漢字を好むとはよく言う話。
北畠の子孫は今は有馬だけど。
84 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 23:15:08 ID:TnqJ85Zx
だから明確なソースを示してくれって
なんでも在日と言われちゃたまらないわ
85 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 00:10:43 ID:LUPcgUhm
在日かB民が火病ってるときいて飛んできました
家系図が無い華族の名字なんてB民か在日しか名乗らねーよw
86 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 02:30:11 ID:DnaeOFaW
地名があるからそこから取ったんだろう
87 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 02:37:54 ID:DnaeOFaW
ああ、奈良の男爵も北畠姓だね
このあたりの氏族もいるんじゃないかな
88 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 21:12:21 ID:V40DjPMX
元々公家なんだから類族は都のあった関西に多い
むろん伊勢にもね
89 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 11:41:06 ID:VaWe3IRL
通字は「具」でおk?
90 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 19:39:11 ID:bwLu26N/
具って割と最近じゃね
91 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 20:02:11 ID:glCg7bPA
北方が書いた顕家?とかいう人の話読んだ。
すごいね。惚れた。
未読の人必読。
92 :
人間七七四年:2007/08/30(木) 02:38:10 ID:0r4G7e3W
絶世の美少年顕家といえば、その昔大根ゴクミが演じた
若い人は知らないか
93 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 10:13:17 ID:0gKcqXkI
鶴姫しか知らん
94 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 21:11:07 ID:LzXeiGb+
母方の祖母が浪岡出身で旧姓北畠。
「本当は「こっち」が本家なのに錦の御旗をうばわれて「あっち」が本家になった」
と言っていた意味がわからなくてずっと考えていたのだが(祖母は故人)
河原御所の変で当主具運が殺害されて、その後弟顕範一統が本家になったことを言っているのか?
と思いついた。具運殺害時顕村以外にも子がいたのかも知れないし。
自分はその(顕村以外の子、あるいは女子の)子孫なのに傍系扱いになってしまったと。
しかしいずれにしてもさー、浪岡北畠を士族にする話があったらしいが
条件が整わずダメになったらしいじゃんか。
家系の正統性が証明できなかったということで、
顕村以後の北畠は「詐称」に近いんじゃないの?
地元の記録は地元に都合よく作られている可能性大有りだから信用ならないし。
まあ、在日の線はさすがにないとは思うがw
95 :
94:2007/09/08(土) 11:05:48 ID:Pa1e3ICf
子供時代いっしょに暮らしたが、ばーちゃんのことは大好きだったよ。
「北畠顕家の子孫」と口にするときはきりっとしたいい表情をしていた。
ばーちゃんの姉妹たちもみんな上品で凛とした人で、
「こんなド田舎にどうしてこんな皇族みたいな人たちが?」と
子供心に不思議だったものだ。
それが事実なのかどうかは別として、血の誇りを支えとして、
血に恥じないように生きようとする姿勢は悪いことではないと思うし、
親がそういう矜持をもって子を教育するのも大事なことだと思うよ。
学問的にはいろいろ言いたいことはあるが、
今現在「北畠」姓をもって生きている浪岡出身の方々を貶める意図はないので、
一言付言いたします。
「伊勢の名門北畠」スレなのにお邪魔してすみませんでした。
このスレ、シーンとしちゃってるので、反省しています。
96 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 15:07:47 ID:56u+gNcG
子孫乙。
元々シーンとしてたから安心汁。
>>91 南北朝あんまり知らないけど、北方謙三の『楠正成』読んだら、東北の管領かなんかになった北畠って人が
出てきたけどそれかな。
足利軍追って北畠軍が東北から一気に機内へ押し寄せる所はすごい。
これ読むまでは新田ってのは偉い奴だと思ってたけど、これ読んでからなんか間抜けなおやじって気がする。
ちょっと興味出てきたので、この辺りの何かいい本あったら誰か教えてプリーズ。
史料や小説ジャンルはこだわらないけど、史料は読み易い初心者向けおながいします。
それにしてもこの辺の争いの中で新田や楠木と比べると北畠顕家って一般に遥かに知名度低いよね。
根拠地が東北だったからなの?
あれだけの活躍して死んだ歳が21って、紛れもない傑物でしょ。
それなのに埋もれすぎ。
97 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 17:21:34 ID:xx7oKE4l
南北朝知らないのに北畠語るのは結構むちゃなコトだと思うんだが・・・
98 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 17:37:29 ID:kWn4lD85
>>91は惚れた武将の名前もうろ覚え…
>>97は管領とか偉いとか…それぐらいネットで検索できるレベルだろ
99 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 17:38:00 ID:kWn4lD85
100 :
人間七七四年:2007/09/12(水) 18:26:06 ID:BgR+krib
厨ってより知能低いだけ
101 :
人間七七四年:2007/10/03(水) 14:21:10 ID:o9wzxFyu
北畠で足利将軍の偏諱をもらったのは
満雅 教具 材親 晴具かな。
102 :
人間七七四年:2007/10/10(水) 00:35:41 ID:5/ydBLNL
>>101 南北朝の因縁があるから将軍家とはアレかと思ったが、
結構偏諱してもらってるのが多いな。
103 :
人間七七四年:2007/10/11(木) 01:21:55 ID:HzmBeWdw
名門の割りにあっさり消えてった印象あるよね。六角みたいに。
104 :
人間七七四年:2007/10/11(木) 17:20:34 ID:p0pLAWG4
73ですけど代々の墓には水木北畠・・・と彫ってありました
水木北畠っていったい・・・
105 :
人間七七四年:2007/10/19(金) 18:58:19 ID:LXV5MiNi
今日地図見てたら木造城ってすごいいい場所にあったんだな
雲出川沿いで南北が街道
モロ交通の要所なんだな
当たり前っちゃあ当たり前なんだけど
ああこんな場所だったんだってあらためて思った保全age
106 :
人間七七四年:2007/11/05(月) 16:48:43 ID:3GaUsVky
北畠の居城は興国三(1342)年以来多気城だね。
107 :
人間七七四年:2007/11/10(土) 21:11:33 ID:BqZSOeRj
108 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 22:57:14 ID:KZyATGat
北畠は名門だ ○○御所と呼ばれるのは足利氏か
足利一族でも吉良氏くらいしか呼ばれておらず、
北畠一族は支族でさえ伊勢の地元民から○○御所と呼ばれていた
たとえば田丸御所とか笠木御所など多数見られる
109 :
たられば君:2007/11/16(金) 09:28:31 ID:lNCTreVM
田舎に貴人が定住すると御所と呼ばれる例なら土佐国司一条氏があるよ。
貴人でないなら高清水斯波氏とかも。
110 :
人間七七四年:2007/11/20(火) 20:11:55 ID:wSP4Sk0g
>>95 浪岡氏って顕家の弟顕信の子孫っていうのが正しいらしい
111 :
人間七七四年:2007/11/27(火) 20:52:24 ID:1q7njomm BE:186830126-2BP(500)
野呂越前守實高の子孫だよ。
国司が神領に横暴をして合戦時に山田三保の兵に横撃されて討ち死にしました。
112 :
人間七七四年:2007/12/13(木) 10:52:44 ID:qBoSC1aY
113 :
人間七七四年:2007/12/13(木) 15:13:17 ID:VyXqnBLt
114 :
人間七七四年:2007/12/14(金) 12:32:24 ID:QzT4Crqt
115 :
たられば君:2007/12/14(金) 15:14:17 ID:S0iNzR3i
116 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 02:12:12 ID:irLr3LMv
南北朝、北畠神社くらいしか分からん
だれか詳しい人、教えてくれ
117 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 21:19:11 ID:umSSmEgF
海道龍一朗
『禁中御庭者綺譚 乱世疾走』(新潮文庫)
主人公ではないが、あんなに思い入れたっぷりに北畠を描いた戦国小説は始めてみた。
118 :
人間七七四年:2008/01/09(水) 14:13:30 ID:GAcyGrQ3
超亀だが、
>>191の言う小説って「破軍の星」じゃあないだろうか。
というか、北畠一族がメイン張ってる小説ってこれくらいしか思いつかん。
誰かオススメの本ありませんかね?
119 :
人間七七四年:2008/01/12(土) 08:16:39 ID:SpgJRFtk
超亀どころか超未来なんだが
120 :
人間七七四年:2008/01/19(土) 21:58:50 ID:G2tEf3AJ
北畠親房って源氏長者になったくらいだから
北畠って名門だよなぁ
121 :
人間七七四年:2008/02/04(月) 14:30:31 ID:PXC5HJwa
代々正二位・権大納言だね、親房以前の北畠
名門といえば名門だが、太政大臣もいる久我からみるとちと落ちる
122 :
人間七七四年:2008/02/08(金) 20:44:23 ID:UAgdpqkX
俺は兵法の達人、不智斎具教が好きだな
123 :
人間七七四年:2008/02/22(金) 15:13:08 ID:rhltEv02
具教の正親町帝即位時献金は二十貫。
毛利元就二千貫 三好長慶百貫 朝倉義景百貫に比べるとだいぶ少ない。
でも官位はその前年に正三位 権中納言。
124 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 23:18:34 ID:VSSOK8iR
晴具の頃は紀伊新宮あたりまで進出してたのに、信長の進行にはあっさりやられ過ぎだよなあ。
125 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 23:32:48 ID:+bptbaCc
戦自体は織田軍を跳ね返しているんだからあっさりじゃ無いだろ。
信長お得意の「講和と称して自分の息子と家臣団を送っておいて、騙まし討ちで暗殺」に
引っかかっただけで。
126 :
伊勢国民:2008/02/29(金) 20:02:35 ID:ElLbB6zz
大河内城で信長に講和入れられるまで耐えたもんなぁ‥…。
織田が攻め落とせ無かった大河内城マムシ谷、今も時々銃弾が見つかるらしい。急峻な崖は今も健在!
一度見に行かれては?
127 :
人間七七四年:2008/02/29(金) 22:34:48 ID:UFNJhRa9
128 :
人間七七四年:2008/02/29(金) 23:26:11 ID:ElLbB6zz
北畠は公卿 田舎侍の官位買いとは訳が違う
129 :
人間七七四年:2008/03/19(水) 15:22:55 ID:IzFBhXNa
まあ家祖の雅家以来権大納言を出す家だから。
130 :
人間七七四年:2008/03/19(水) 15:24:36 ID:IzFBhXNa
但馬の山名は目立たんよね。
131 :
人間七七四年:2008/03/19(水) 15:25:36 ID:IzFBhXNa
132 :
人間七七四年:2008/04/03(木) 15:56:48 ID:CqKpUeA4
浪岡御所の方が本来の宗家なの?
133 :
人間七七四年:2008/04/17(木) 15:34:21 ID:gGd03Ms2
顕家の直系は浪岡御所
134 :
人間七七四年:2008/05/01(木) 15:51:12 ID:6fk1FnDr
北畠の歴代が
満雅ー教具ー政郷ー材親ー晴具だもんな
親房や顕家はどう思うんだろう
135 :
人間七七四年:2008/05/02(金) 12:27:13 ID:XDvb/H9F
宇陀三将とか見向きもされないよね。
北畠の支配は大和南東の彼らにまで及んでたのに、名前が出てくるのが秋山直国ぐらいしか……
136 :
人間七七四年:2008/05/14(水) 01:09:52 ID:nBUz4McI
満雅は名前は後南朝の忠臣だから。
137 :
人間七七四年:2008/05/26(月) 08:40:14 ID:w9ga6aHd
本能寺直後に、一族の残党が伊勢で蜂起してるんだね。
138 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 02:43:43 ID:3qv1cdku
139 :
人間七七四年:2008/06/21(土) 15:13:55 ID:alzYqbJ5
>>136 そうだよね。
父顕泰は幕府から守護に任ぜられ応永の乱で活躍。
子の教具は幕府の忠誠を誓い 赤松教康を匿わなかった。
満雅は完全に南朝側だけどね。
140 :
人間七七四年:2008/07/08(火) 14:58:52 ID:272tmznN
幕府寄りというと何か北畠っぽくない。
141 :
人間七七四年:2008/07/13(日) 19:45:35 ID:gLivFDxR
晴具、具教なんか完全に幕臣で、時の将軍を助けて細川・三好と戦ってるじゃん
142 :
人間七七四年:2008/07/21(月) 23:05:29 ID:5vcWzvk4
>>141 将軍から偏諱まで受けてるからね、晴具とか。
143 :
土岐一族:2008/07/22(火) 16:50:36 ID:zeremvqw
皆様方にお聞きいたします。信長が伊勢志摩への侵略が遅れた理由を忘れてはおられませぬか。
伊勢長島城の伊藤氏、願證寺の一向勢、さらには北方諸家、等々。
関氏などは弱小勢力にすぎないのに、いかにも大勢に影響したかの如く
主張されておられる方がおられますが、もっと視野を拡げて議論される
ことを望みます。
だいたい、赤堀氏、濱田氏、稲生氏、星宮氏などの名前が挙がっていない
のは何故なのですか。もっと詳しく調べたのちに発言されるべきです。
144 :
土岐一族:2008/07/22(火) 17:25:39 ID:zeremvqw
追記 異流も多々ありまするが、星宮氏は星合氏(大河内)の傍流でござる。
145 :
関連スレ:2008/07/22(火) 19:36:13 ID:dJ1tSS/f
146 :
人間七七四年:2008/07/24(木) 20:52:11 ID:/D2zFFiT
北畠氏は,室町期においても公卿の官位を貰っているけど,伊勢に在国のまま
もらっていたのでしょうか?
それとも,北畠氏も守護のように,実際は京に屋敷を構えて住んでいたんでし
ょうか?
147 :
人間七七四年:2008/07/25(金) 07:31:04 ID:j6fwMsWe
浪岡家の場合は、具永が官職貰うために領地から搾り取りすぎて
孫の代で起きたのが川原御所の反乱
148 :
人間七七四年:2008/07/25(金) 10:28:56 ID:yOPJX69/
>>147 浪岡みたいな辺境だと自官でも良いのにねw
149 :
人間七七四年:2008/07/25(金) 17:53:31 ID:T75F28Tp
しかし北畠的に考えて伊勢より浪岡の方が縁があるよな
150 :
人間七七四年:2008/07/25(金) 23:54:21 ID:fydJSQvn
浪岡にすごく立派な資料館があってビックリした
151 :
人間七七四年:2008/07/26(土) 01:02:02 ID:0JUCs59C
北畠が,喜連川や岩松みたいになれなかったのは,関東にいなかったからかな?
それとも,江戸期が来る前に実質消滅してたからかな?
北畠は,交代寄合になれる程度の貴種性はあったと思うし,南北朝以降にはもう,征夷大将軍の権威に対抗する存在ではなかったし。
152 :
人間七七四年:2008/07/26(土) 01:45:04 ID:4ZRmVuGL
別に京に行けば他の村上源氏がごろごろいるからな。
本家である久我家も残ってるし。
153 :
人間七七四年:2008/07/26(土) 07:12:37 ID:/hhUj/ad
154 :
人間七七四年:2008/08/10(日) 21:36:15 ID:GYX0pmlv
具教は強いの?上泉信綱の弟子だったようだけど
155 :
人間七七四年:2008/08/11(月) 19:56:07 ID:QSgGVP5k
↑釣られまい……釣られまい。。
156 :
人間七七四年:2008/08/11(月) 22:53:21 ID:Y7J1aQwN
DIE
157 :
人間七七四年:2008/08/13(水) 07:44:43 ID:9nr7E4M3
つっ、塚原だよっ べ、別にアンタに教えてる訳じゃ、無いんだからね ただ間違えて覚えてしまって、人前で恥をかいても
158 :
人間七七四年:2008/08/28(木) 14:52:02 ID:z4oBdoTq
159 :
人間七七四年:2008/09/11(木) 14:30:03 ID:wfiWtsMD
久我建通は一条家からの養子です。
160 :
人間七七四年:2008/09/20(土) 00:32:22 ID:meXVq6sb
161 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 01:49:00 ID:Enyk8xGW
有馬家が末裔ってのはどんだけ信憑性があるんですかね…
162 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 03:52:34 ID:D68452Mw
結局、江戸時代まで家名を残せなかったのか。
血脈が残ってれば、旗本程度にはなれただろうに。
163 :
人間七七四年:2008/10/11(土) 14:05:20 ID:NGmbrce9
交代寄合になれたかも。
164 :
人間七七四年:2008/10/16(木) 23:42:56 ID:9yePsyQs
伊勢国司家としては信雄さんのとこが引き継いだってことでいいかな
165 :
人間七七四年:2008/11/01(土) 10:48:21 ID:Lh/kK0EJ
天童藩は織田家だけどね。
166 :
人間七七四年:2008/11/11(火) 22:42:23 ID:KCwyBqyJ
結城みたく祭祀は天童織田家でやってるみたいなことはないかな
それとも村上源氏にお返ししたのか
167 :
人間七七四年:2008/11/22(土) 14:17:13 ID:/HuUjrDj
聞かないけどどうなんだろ。
168 :
人間七七四年:2008/12/03(水) 05:55:17 ID:vbNB7PVZ
>>94 1年以上前の話に亀レスだが、浪岡から舘野越に落ち延びる途中、当然大混乱となった。
また、江戸時代に隠棲していた舘野越周辺に津軽藩が色々聞きまわったときに
素性が割れるのではとドタバタがあった。
浪岡城落城後はいつ素性が割れて手入れが入り根絶やしにされるかという恐怖が常に付きまとった。
証拠物である錦の旗を持ってる家は津軽藩に根絶やしにされる危険を蒙るため、
本家が根絶やしにならないように直接本家の手元に持たない方策を取ったとかなんとか。
家系図にしてもそうで、生存戦略のために本家を本家と絶対的に証明できる物は
消失しただけでなく意図的に残していないとか。
親は明言はしなかったが、そうした経緯で明治維新の復姓時に
たまたま旗を持っていたところがこれ幸いと宗家を称していると理解している。
いずれにせようちは明治以降に分家となってるため本家ではありえないが、
どこが本家かなんてもう分からんとさ。そのため「うちの本家筋」とかいう言い方をしてる。
北畠家は、南北朝時代まで公家として和漢の学を持って天皇に仕えた。
その公家の執務に堪える頭脳くらい受け継がれててもいいと思うんだが、
どう見ても名前負けしてる癖に虚しく家柄を誇る奴が多すぎる。
明治維新で復姓し、約270年に渡る滅亡の恐怖からやっと解放されて
世の中に出られたのだから、受け継いだ能力で社会的成功を収めるよう
精進したらいいと思うんだけどねー。
169 :
人間七七四年:2008/12/15(月) 16:04:35 ID:vAyVkits
随分難しい話だね。
170 :
人間七七四年:2008/12/26(金) 20:26:22 ID:yAp4xitJ
171 :
人間七七四年:2009/01/10(土) 15:01:33 ID:B1Fhp10Q
>>166 御先祖に当るんだから普通は祭るでしょうね。
172 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 15:58:07 ID:CnouMToV
具教の男系子孫っていないのかな?
あと織田家に遣えた事もあるっていう、江戸時代も武家として存続した庶流ってどこのことでしょうか?
173 :
人間七七四年:2009/01/27(火) 02:33:33 ID:ih0lk0QJ
>>172 武田並みの根絶やし政策くらってたような
落し胤とかも聞かないし
174 :
人間七七四年:2009/01/27(火) 02:34:15 ID:ih0lk0QJ
あ、木造氏系統は残ったんじゃないかな
175 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 01:39:56 ID:7pEEa5n5
田丸氏とかもじゃね?
176 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 16:52:06 ID:RVEsGffY
田丸直昌は剣の達人で北畠具教の甥っていわれているけど
北畠具教に田丸具忠という兄弟がいたという系図が見当たらない。実際のところどうなのか
177 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 22:07:28 ID:eSVhZIpO
具房の遺児が浪岡に逃れたとか
木造の子孫は肥後細川に仕えてたり
178 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 22:18:45 ID:fl/RaAWk
>>177 1行目はデムパサイトの受け売りwwwww
179 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 15:56:28 ID:4CLTw1eJ
面白い話ではあるんだけどね。
180 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 12:35:32 ID:hN+yQi4j
>168
小さい頃に盆に錦旗を見に行った事があるがもしや親戚か??
ウチでもあっちだのこっちだの親が話してた記憶があるがウチは館野越の系統ではないと言ってた希ガス。ウチのじーちゃんも94のばーちゃんの如く凛としていた記憶がある。
伊勢の人達ってどこにいるんだろ...
181 :
168:2009/02/11(水) 17:50:01 ID:gNpfDMvd
どうだろ?浪岡の一族なら遠い近いということはあれ、親戚かも。
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/meizoku/namioka.htm ↑どこまで本当かはよく分かりませんが、うちはとりあえず
館野越に落ち延びた一族でつ。その後親に聞いたら旗は
どうなっても痛くも痒くもないところに身代わりに預けたそうで、
館野越ではあそこがほんとの本家ではないというのは通説だ、とゆうてた。
スレ違いばかり続けるのも何なんで、ちなみに顕家との関係ってどう聞いてます?
(これでもスレ違いといえばスレ違いだけど)。ネット上の通説と伝承とがずいぶん違うのでおやっと思ってる。
うちは霊山落城かなんかのときに娘の姫君が浪岡に逃げてきたって聞いてるんだけど。
浪岡落城のときも男共は皆殺しにあって、かろうじて姫君と側近の女たちだけ
逃げてきたと聞いてて、家臣と結婚したとは聞いてるが、顕佐が本家を継いだとか言う話は聞いたこと茄子。
村上天皇から数えて書類上、対世間上はともかく計2回女系になってるという認識。
182 :
181:2009/02/11(水) 21:16:33 ID:hN+yQi4j
たぶん遠い親戚だろうw
ウチは恥ずかしながら具信の系統で明治時代に復姓した家系です。
具信があんなことしなかったら北畠家はもう少し良い終わり方をしてたような気がするのですが...。
旗についてはよくわかりませんが近代までの他の系統の名前がウチの家系図にのってる(謀反を起こした系統でありながら)ので交流はあったんだと思います。
霊山から顕成が浪岡に来た(家系図に記載)という話。
浪岡落城の時の話しは全く一緒なので本家筋(?)は一回女系になったという認識。
伝承どころかウチに代々ある家系図とネット上の家系図とも違う箇所があったりしてアレレな感じ。
ウチは津軽藩に身を寄せていたので助かったと聞いてます。(これもこれでおかしい話しだが)
弘前出身で東京在住で大鰐と札幌に一族がいます。
このスレはもう浪岡も伊勢もごっちゃでイイ希ガス。
ちなみにたまたまウチの山を管理してたオッちゃんが伝説の伊勢の昌教を秋田に連れてきた家臣の子孫だとか言ってました。
長レススマソ。
183 :
182:2009/02/11(水) 21:23:47 ID:hN+yQi4j
というかウチには家系図が残っているが本家筋には残っていないのか??
浪岡の資料館にも貸し出したことがある。
名字を変えていたから残せたのだろうか?
184 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 20:29:26 ID:gGAjd4Z1
レスどうもです。
じゃあ顕成の系が昔からの言い伝えで、うちで聞いた話はどこかで劣化したんですね。
しかし、よそで聞く顕成が吉野にずっといた説の1次資料は何なんでしょ。
> 系図
なぜか親が系図を持ってきていません。私自身マジで信じられません。
近い親戚間で仲悪くごたごたが絶えず、親が嫌がってるので系図とか北畠関係の由緒あるものは見たこと茄子。
ボケる前に近い親戚から系図の写しをもらってきて伝承の類も全部電子文書化してくれと言ってるところでつw
本家筋からはそれなりに離れてるようなので、情報が劣化してるかもしれませんが
浪岡落城のときには持ってこれなかったような。ただ、明治の復姓時には使ったはずなので、
全く無いはずも無く、いつ頃作ったものかはともかく、系図は本家筋にはあるはずです。
ちなみに前の循環器学会会長が新聞に載ったときに、館野越のうちの本家筋の人だと聞いたことはありまつ。
どのくらい離れてるのかというのはよう分かりませんが。
具信の末裔と交流が江戸時代にあったという話は初耳ですが、あの目と鼻の先で見逃されたこと、
京徳寺の禅林街移転とその後の処遇を考えると具信の末裔に匿われたのだろうなと納得がいきまつ。
すべてを失ったところから始まり、明治の復姓時に庄屋・地主としてそれなりの力を持ってたのは
やはり津軽の目の光ってる中で自力では無理ぽ。普通に考えると。
長文でスマソ
185 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 15:09:17 ID:yX4CIWwg
顕成〜顕邦って本当に権大納言なの?
186 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 23:05:26 ID:uFNJJWI7
>>176 田丸具忠というのは、北畠具教の祖父材親の弟、田丸顕晴の子。
だから、田丸直昌が具教の甥というのはまったくの誤り。
年齢は離れてると思うが世代的には同じ。
北畠政郷 − 北畠材親 − 北畠晴具 − 北畠具教
L 田丸顕晴 − 田丸具忠 − 田丸直昌
となる。直昌が剣の達人というのも初耳だが。。。
187 :
人間七七四年:2009/03/01(日) 23:41:53 ID:f6vWZvE/
家系自慢の自演もここまでやると・・・・・・・・・
188 :
人間七七四年:2009/03/03(火) 15:22:31 ID:2M3xVPLs
自分が入り込めないやつは全部自演かよ
もっとやってくれい
189 :
人間七七四年:2009/03/03(火) 16:08:12 ID:YSr3Ed6N
つか2ちゃんっていう匿名の板で自分の家系がどうのこうの言ったって真偽を確かめる術はない
だから本物であれ偽物であれ、家系自慢は嫌がられるってだけ
傍流さんで新しい事が聞けるわけでもないしな
どうせこのスレ過疎ってるから放っておこうとは思ってたけど
流石に正論吐いた
>>187に対してもっとやれって自演してまで自分の家系話しを続けたいのは目に余るわ
自分達で掲示板でも作って存分に語ればいいじゃない?
190 :
人間七七四年:2009/03/04(水) 09:37:32 ID:xuIcTAyb
191 :
人間七七四年:2009/03/04(水) 13:08:12 ID:PwM8fSXc
いきなりの上にマイナーだがウチの近所に伊勢北畠の重臣奥山信濃守の子孫が当時と全く同じ場所に住んでる。
城山って地名残ってて小森上野城って木造城の支城あとらしき場所もある。
忠臣奥山常陸介とは別系
ちなみに江戸時代は一郡に匹敵する土地をもつ豪農だったみたい
192 :
人間七七四年:2009/03/05(木) 09:51:26 ID:q0++1XLU
本田左京佐 清和源氏足利今川末枝 松阪市松江船江城主 侍所家老
だれこれ?
今川庶流に本田?わからん
193 :
人間七七四年:2009/03/05(木) 09:54:43 ID:eEEOeFol
194 :
人間七七四年:2009/03/08(日) 09:39:33 ID:CXn3SN0t
>>191 そういえば中学、高校の同級生に奥山君っていたけどその辺だった覚えが。
現代にもつながってることが実感できると、歴史は面白いね。
195 :
人間七七四年:2009/03/21(土) 15:22:04 ID:YVp+YPnj
奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ秋はかなしき。
196 :
人間七七四年:2009/04/02(木) 16:25:19 ID:RQyK0p8j
197 :
人間七七四年:2009/04/12(日) 19:22:50 ID:0BT83a+r
具藤の官位ってわかってないの?
兄の具房が左近衛中将、弟の親成が式部少輔とわかっているけど、
具藤の官位は調べてみてもわからない・・・。
198 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 17:33:25 ID:jLirlSUB
>>191 すまぬ、正にその小森上野の住人なのだが、
城のあった場所を教えてくれないか?
地元だけど全然知らんのだわ。
199 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 13:15:25 ID:aZLLYBul
城山から坂下ったところにあるバス停北側の細い坂の上やよ。相川見下ろす高台
200 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 13:35:01 ID:aZLLYBul
201 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 14:08:20 ID:8Cmnp9zm
>>199-200 おおお、サンクス!
あそこにあったのか〜!
全然知らんかったわ。
そういや石柱みたいなの建ってるけど、何か関係あるのかしらん?
202 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 01:38:09 ID:/YBhY+Tp
石柱みたいなのって戦没者慰霊碑じゃなかったかな?
よく覚えてない。
あと里の上に小森城っていうのもあったらしいけど、コッチは場所がわからない。
昭和18年に土塁跡破壊ってなってる。
今の小学校か中学校あたりにあったのかもしれん。
槍主水の家城城跡には、この間行ってきました。
203 :
人間七七四年:2009/04/22(水) 13:21:00 ID:XwJPM6Bj
現地確認してきた。
石柱は大正に立てられた氏子中だった。
で、宇氣比神社なるものが出来ていて驚いた。
ガキの頃はあんな神社の体裁なかったんだけどなあ。
で、坂上っていったけど、城跡はよく分からなかったw
民家になってるところ辺りなのかな?
204 :
人間七七四年:2009/05/05(火) 17:28:14 ID:WivtksbZ
どこの話?
205 :
人間七七四年:2009/05/06(水) 15:16:00 ID:HDm3hEZr
伊勢の北畠氏は、国司から戦国大名になったといいます。
守護から戦国大名になったとは、よく聞きます。例えば甲斐の武田氏、駿河の今川氏など。
北畠氏は、伊勢の国司でもあり、南伊勢半国守護だったとも聞きます。
国司から戦国大名とは珍しいです!
そこで素朴な疑問ですが、朝廷の律令制度の国司は南北朝期には、
幕府の任命した守護にその地位を奪われ形骸化したといわれています。
北畠氏の国司は、実権を伴った地位だったのでしょうか?
206 :
人間七七四年:2009/05/06(水) 21:49:38 ID:fs2/7v1I
そもそも後醍醐天皇の建武の新政において公家と武家をまず平等に扱おうという所から
天皇が打ち出した方針が国司・守護を並列させて任命するという方針だ
もちろん官位上では国司が守護を包括するけど、それぞれ独立し、各地に配置した
当然、その後の南北朝の混乱では国司側が南朝に、守護側が幕府にスライドした
北畠氏は南朝の大身であり、北朝に降伏した後もその位置を保った存在だからな
207 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 00:31:22 ID:nd0QtDNZ
>>205 >>206少し調べて見ました。
南朝の国司は、南伊勢に限っては、実権を伴った地位のようですね!
南北朝合一(1392)後は、その既得権が幕府にも認められ、
北畠顕泰が、先ず南伊勢半国守護に補任されています。
応仁の乱後の文明期には、北畠政郷が、北も含めた伊勢一国守護にも
補任され(1484)、その後戦国大名としての地位を固めた。
の時系列のようです。
208 :
人間七七四年:2009/05/25(月) 14:50:14 ID:6RAsVGil
幕府に従ったからね。
209 :
人間七七四年:2009/05/28(木) 07:56:27 ID:Mwxp2QvO
先日、長宗我部氏の本を読んでいたところ
「伊勢の北畠朝親」なる人物が登場し、小牧長久手の戦いの際に
家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された・・とあったのですが
この北畠朝親って誰なんでしょうか?
伊勢北畠氏の一門?信雄の一門?
検索すると六角承禎の娘が妻で・・・とかいう記述もあるんですが
同一人物だろうか?
情報お願いします。
210 :
人間七七四年:2009/05/28(木) 09:32:45 ID:ZUdFN/GV
「忍びの国」で北畠具教の格好良さが描かれてます。
ほんの少しだけど。
ああいう注目される本(ベストセラーの「のぼうの城」の著者の2作目)
にのって知名度かなりUP?
名門といっても戦国期での認知度ひくいからよかったね。
211 :
人間七七四年:2009/05/29(金) 19:35:21 ID:SmpNXIzL
>>209 >六角承禎の娘が妻
これが正しいなら北畠具教の弟の北畠具親だな。
但し具親は小牧の役において秀吉方の蒲生氏郷の客臣なので、
>家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された
とは矛盾する。
その長宗我部氏の本の末尾にあるだろう参考文献一覧にそれらしいものがないかね?
212 :
人間七七四年:2009/06/01(月) 02:12:30 ID:+USGwVNF
>>211 読んでいた長宗我部氏の本の参考文献欄には
長宗我部氏関連と、土佐関連の資料しか載っていませんでした。
213 :
人間七七四年:2009/06/03(水) 01:33:45 ID:f9Gar/FW
>>212 いや、その長宗我部氏関連の史料に記載されてるはず。
「香宗我部家文書」や「土佐国蠧簡集」の細かい内訳([-Bなどの文書記号や書状名)も無い?
小牧の役の際信雄や家康との交渉を担っていたのは親泰なんで、
香宗我部関係の史料を当たったほうが早い。
文献名しか書いてないのであれば、情報としては
>>211ぐらいしかわからんなぁ。
お役に立てずすまん。
214 :
バロン曽志崎:2009/06/03(水) 02:06:48 ID:GV0B97Dh
天正12年比定の朝親署名書状(植松文書)。
本多重次に宛てて、紀伊・四国方面の取りなしをしたので、
家康に伊勢国内の旧領回復を取りなしてほしいと依頼している。
「伊勢国内の旧領回復」から北畠氏を当てたんだと思う。
215 :
人間七七四年:2009/06/13(土) 14:29:45 ID:JGd6EvXn
朝親とは具親のことか。
216 :
人間七七四年:2009/06/13(土) 15:11:59 ID:H/n11ihB
>>215 確か文書上では「朝親」だったと思う。
まぁ当時は本人ですら字にはこだわらないって場合もあるしな。
217 :
209:2009/06/16(火) 19:47:01 ID:UbTi0Sq+
なるほど。ありがとうございました。
218 :
人間七七四年:2009/06/29(月) 14:26:37 ID:JyPLuHXL
具親はどこから?
219 :
人間七七四年:2009/07/01(水) 06:14:04 ID:4ppHyzpB
俺の嫁さんの旧姓は田丸です
220 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 14:56:14 ID:F/7kUZ/T
>>191 大正二年まで高茶屋村小森に住んでいたらしい奥山姓のものです。
家系図をわかりやすくまとめようと思い、いろいろ調べたりネットで検索していたらこのスレを発見しました。
そんな城があったなんて初めて知りました。一度城跡らしき所にも行ってみようと思います。
他になんか知ってることがあったら何でもいいので教えてください〜。
221 :
人間七七四年:2009/07/23(木) 16:08:09 ID:EKmActq3
子孫の方が多いですね
222 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 05:47:52 ID:sfrjALQQ
>>220 高茶屋小森は奥山姓だらけで分家や元小作の家とかも明治以降は奥山名乗ってる。
正直にいって、どの家出身か探るのは難しい。
ただ血縁関係入り組んでるので小森出身奥山家なら多少の血は入ってると思われる。
屋号など分れば今でも系統は分るかも
こんな地元民しか知り得ない情報ばらして良いのかw
223 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 21:17:07 ID:7M0zlH01
>>221 日本は武士の帰農が15世紀から17世紀にかけて盛んに行われたから、
自分たちが思っているよりも武士の血を引く家は多いぞ?
224 :
220:2009/07/31(金) 17:11:41 ID:VOOgp/AQ
>>222 おお!貴重な情報ありがとうございます〜。
商売しているので、文字を組み合わせたような屋号はあります。(マルダイとかヤマサみたいな)
家紋とかはどうなんでしょう。あまり当てにはならないですかね?
高茶屋の奥山姓に一人知り合いがいるので聞いてみようかな。
ところで、えらく詳しい
>>222さんは奥山さんですか?
原戸籍謄本やら除籍謄本で天保10年に亡くなった先祖まではたどれたのですが、
たしか明治維新までは武家公家以外に苗字は認めらていなかったんですよね?
農民or商人だったであろうウチの除籍謄本の
明治以前の人物に苗字が付いてるのは、たぶん後から加えられたということなんですかね。
225 :
人間七七四年:2009/08/12(水) 15:18:34 ID:MSMygVqX
過去帳でしょうな。
226 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 14:55:46 ID:5yrZEQOI
江戸期も伊勢にいたの?
227 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 16:14:43 ID:MV8VEBD1
その前に滅亡している・・・
おとしだねが逃亡したという説もあるが、同時代史料もなく眉唾の域を出ない
江戸時代以降で「北畠」を名乗っているのは公家久我家の分家
228 :
人間七七四年:2009/08/22(土) 19:46:38 ID:z6TYs1xw
二見に北畠っておったな
ブタみたいな顔の奴
229 :
人間七七四年:2009/08/23(日) 00:53:07 ID:0r9EzdIh
>>224 公的には使わなかっただけで、名字は持ってたよ。
家紋とセットみたいな部分もあるし。
230 :
人間七七四年:2009/09/02(水) 15:41:07 ID:VPS/InyX
京の公家にも北畠いたんだっけ?
231 :
人間七七四年:2009/09/02(水) 22:11:32 ID:VDA5H2X+
そもそも京の公家だったんじゃないの?
232 :
人間七七四年:2009/09/12(土) 14:48:29 ID:qCu4Admo
村上源氏だよね。
233 :
人間七七四年:2009/09/22(火) 17:15:19 ID:9zgYd1sp
源氏長者も出したよね。
234 :
人間七七四年:2009/10/02(金) 15:38:42 ID:9MeGXcbe
親房本人だけはね。
235 :
人間七七四年:2009/10/11(日) 11:40:22 ID:8NyG2c31
後醍醐天皇あってでしょ。
236 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 15:29:58 ID:AzXLi9Ec
元青森県住人だが、高校の時クラスメートに北畠家の坊ちゃまがいたよ。
当時小柄でメガネの理系男子、名前に顕の字が入ってた。
ウチの祖先は北畠家に従って陸奥まで下ったときいてたんで、殿!なんて言ってふざけた記憶がある。
今までピンときてなかったんだけど、このスレ読んで興味がでてきた。
ちなみにウチは苗字について聞かれたら「館野越の○○」と答えろといわれてたな。
本家にボロイ鎧兜と刀があったけど本物かね。
237 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 21:47:03 ID:KoeYMXor
同窓会とかやったときに偉くなってたりして
238 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 01:58:24 ID:uXI/5g0i
239 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 11:40:44 ID:X1e9hd/v
北畠が伊勢の支配権認められたの南朝の遺臣の世話押し付けられたからって本当?
240 :
人間七七四年:2009/10/29(木) 01:28:22 ID:Eej7Gw2G
「忍びの国」に出てきた日置大膳って
史実ではどんな人なんですかね?
241 :
人間七七四年:2009/10/29(木) 21:17:37 ID:UaWxKYjc
242 :
人間七七四年:2009/11/09(月) 16:26:27 ID:L4mHAZn7
よく生き延びた。
243 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 16:03:35 ID:PARhunip
幕府に日和ったから。
244 :
人間七七四年:2009/12/09(水) 13:46:14 ID:Oy+qE2wQ
日和ったわけではない。
245 :
人間七七四年:2009/12/17(木) 12:58:26 ID:jBgUXNEr
安濃津を居城とせずに山奥のほうに引きこもってたわけは何?
246 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 01:13:12 ID:0FPp7IdX
三重県民にとっての武将イメージ
服部半蔵→超有名(住んでないのに)
藤堂高虎→津市のみ有名
蒲生氏郷→松阪のみ有名
九鬼嘉隆→志摩のみ有名
北畠具教→誰一人知らない
247 :
中院:2009/12/28(月) 19:25:26 ID:/S6fsjrH
うちは中院家の子孫なんですけど、家系図に北畠へ子供を養子に出したと言う記述があったような。中院通勝という先祖の頃です。養子に出した子供に家督を継がせたが、滅亡したとか聞いたような気がします。歴史に詳しくないので、違うかもですけど…
248 :
人間七七四年:2009/12/28(月) 19:41:48 ID:pynQVbJl
249 :
人間七七四年:2009/12/29(火) 23:25:44 ID:GSDnDKH0
>>245 室町・戦国時代までは都市に居城構える例は無いよ。
土木技術が未発達で要塞が貧弱なのしかできないから、都市部に城造るのはリスキー。
郊外の防御しやすい山にこもった方が安全だ罠w
250 :
人間七七四年:2010/01/07(木) 00:27:38 ID:wGodgJFs
>>247 滅亡してないぞ
中院通勝の次男が継いだというか復興させて(江戸時代になってから)、
地下家として幕末まで存続したよ
確か男爵になったはず
その家系図の記述は史実に合致している
251 :
人間七七四年:2010/02/14(日) 10:47:58 ID:fDOudjlp
北畠はないって事?
252 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 22:33:29 ID:isTHG1p4
滝川雄利の子孫は本姓何?
253 :
月孔雀:2010/02/19(金) 00:35:48 ID:cnRvP6TV
室町の南北朝時代は、形式上は、北の勝ちだが、
実質は、南の勝ちかもしれない。男系は、わからんしね。
254 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 07:22:03 ID:SD22qkXJ
幕府の勝ち
以前と比べて朝廷の権威が著しく下がった
255 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 18:25:12 ID:ZePzzd/m
戊辰戦争の幕府軍司令官は北畠なんだよな
256 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 18:29:50 ID:ZBTuEA+S
浪岡北畠氏ってマイナーかと思ってたけど知ってる人多いんだな
257 :
人間七七四年:2010/06/13(日) 17:53:41 ID:p3igICo8
>>255 北畠って木造家庶流の滝川かよ。
反主流派の木造て時点で論外だな
258 :
人間七七四年:2010/06/15(火) 20:27:49 ID:dRGOx5S3
>>256 先祖の七光りでは?
北畠顕家といえば日本史に輝く悲劇のヒーロー(ただしイケメンに限る)じゃん
259 :
人間七七四年:2010/06/20(日) 08:55:55 ID:vsxXtTCw
260 :
人間七七四年:2010/09/27(月) 20:43:05 ID:XPsf/lMf
こづくり
261 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 17:29:40 ID:qdJPrqLT
262 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 23:40:31 ID:7c5nNQmK
ageんなクズ
263 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 19:59:18 ID:OjqHCVN4
あげ
264 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 18:51:21 ID:533qgprH
木造
田丸
星合
滝川
藤方
以外に旗本になれた一族ている?
265 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 19:07:27 ID:533qgprH
木造
田丸
星合
滝川
藤方
以外に生き残って旗本などになれた一族ている?
266 :
人間七七四年:2011/04/07(木) 21:19:52.39 ID:dwsIqdhk
名門
267 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 21:31:10.80 ID:I0AbNDK3
268 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 00:26:48.25 ID:S+l7X/Wp
具教の愛刀とかって伝承されてるんかね?
269 :
人間七七四年:2011/05/11(水) 03:03:48.71 ID:8QtAfriA
北畠といえば顕家様
270 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 03:51:43.45 ID:2vnKmAsa
顕家の直系は奥州じゃね。多分伊勢は弟の方の血筋だと思う
271 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 03:53:06.45 ID:2vnKmAsa
あと顕家が好きな人は是非とも破軍の星を読んで欲しい。
272 :
人間七七四年:2011/07/20(水) 19:53:57.26 ID:tnaTvlOP
はい、
273 :
人間七七四年:2011/08/14(日) 03:04:09.18 ID:M5RDWn+B
木造長政の長って信長の偏偉?
274 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 17:50:39.34 ID:b/P8JToh
北畠って江戸時代には既に滅亡してしまってたの?
275 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 17:53:45.41 ID:HVaK2yjG
大名家としての滅亡なら信長がやった暗殺事件の時滅亡した。
276 :
人間七七四年:2011/10/26(水) 01:08:42.46 ID:pnpZMyo1
家名としての北畠なら残ってる
親房や顕家の子孫という意味だといわくつきの子孫ぐらいしかいない
277 :
人間七七四年:2011/10/26(水) 12:01:23.90 ID:l8KVImoK
木造氏の系統は残ってないのかな?
278 :
人間七七四年:2011/10/26(水) 19:04:53.51 ID:YGNOz8N6
>>277 木造長政の子孫が清正→細川家って感じで残ってるっぽい。
地元が津で仕事上ゼンリンの地図とか良く見るんだが木造城周辺に木造って家は無いな。
ちなみに同級生に細野(ホソヤ)、分部(ワケベ)、家城、川北、奥山って苗字は結構いた。
279 :
人間七七四年:2011/10/29(土) 10:27:45.59 ID:l+VVgSuv
なるほど。田丸も似た感じなんでしょうね。
280 :
人間七七四年:2011/11/21(月) 02:29:13.01 ID:GtvTFvH9
>>277 具政次男の子孫が500石の旗本
具政入る前に親子喧嘩起こして廃嫡された本来の血筋の子孫がご存じ木造流滝川家
281 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 20:18:17.79 ID:d6WWGRD/
信長が神戸氏に大敗した永禄8年に市を六角氏の斡旋で浅井に嫁がせ協力を取り付けて
やっと近江浅井からの挟撃の軍事的圧力のおかげで翌9年に信長は西美濃の調略に成功し
10年近くかけてやっと永禄10年に美濃を奪うことができたくらい信長は戦の下手くそだからね。
そもそも信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)に滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが
仁木氏勢力圏の楠城の山路弾正の籠城&神戸氏への支援として
白子からの伊勢水軍・鳥羽からの志摩水軍&鈴鹿の関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反の噂が流れ。
さらに支流支援として北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも
協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝と信包を与えて縁戚化させるしかなかった。
(情勢的には10/18義昭征夷大将軍になったり10/28松永久秀が幕府に降伏するなど
続々と幕府に帰順降伏していて六角義秀や仁木義政らの影響も受けている神戸氏は義昭への協調姿勢に転じた)
織田軍は永禄12年春には安濃津城前面まで来ながら抵抗が激しく信長は逃走してる。
この頃、長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏らが家中で内紛を起しており、
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
それに乗じて織田軍はやっと進出し長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると滝川の子を信長養子にし
細野へ人質として渡し味方になってもらった。 関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡。
永禄12年5月北畠四御所木造氏が北畠内での序列に不満があり織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとする
織田も伊勢神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍派兵し滝川三郎兵衛が
九鬼を買収し一部の志摩水軍が北伊勢反北畠連合に寝返る。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)
282 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 20:19:45.30 ID:d6WWGRD/
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成籑堂古文書)
たった織田軍が1万だけなのは年代記抄節にキッチリ書いてあるし
丹波の実力者内藤如安は義昭に味方しないと信長は決めつけていたが、
その内藤(松永久秀の弟の子)が射撃手1000を含めた5000で参加
3/6付で兄の義輝殺しの三好義継と松永久秀を義昭はついに許していて
「京都に集結してくれるてはめでたい。足利家について奔走してくれ」(尋憲記)
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領したという3月下旬の報告がある。
朝倉の書状で既に小谷に先発隊が入って普請を行っている事があり義景自身も敦賀にまで出陣して5月まで在陣してる
武田軍が野田表から撤退を確認した信長が2/23に上洛して畿内平均宣言したが
2/26に御内書が出された武田に東美濃(加治田城・つぼ城)で暴れられてビビッて中止。
(ついでに二条城の魔改造完成&朝倉軍出撃のお知らせ付き小島氏所蔵文書2/26浅井書状)
この時期の摂津では荒木や高山重友が織田に謀反して和田惟長を殺し高津帰城攻撃開始。
(和田惟政が殺された後、信長から幽斎が惟長を御指南するよう言われていた)
岐阜城で震えていた信長は3/25と1ヶ月後にやっと上洛するため岐阜出発。
しかもこれも信玄死去を知らない義昭が3/6信長からもらった人質を突き返して
新たな堀を作り始め挑発したからで京に誘き出されたのは信長の方。
北条の武田軍への援軍2000・織田の徳川軍への援軍3000など義理で派兵した北条と大差なしの織田兵力に余裕無し。
近江横山城で朝倉・浅井にビビって家康の援軍待ちをしてたのは秀吉。
京都を火の海にして義昭と和睦したあとに来た家康の使いの小栗に
近江横山城への出陣は必要なくなったと4/6に伝えたように(小石暢太郎文書)
兵力不足から朝倉を押さえていた秀吉と信玄にフルボッコされて間もない家康を交代させようとするほど逼迫
家康に援軍いらないと信長が発言したのも4/4禁中不慮の時は避難と聞いた天皇が
4/5義昭と信長の講和を斡旋した翌日4/6の発言だし
(4/7義昭と呼応して信長の背後を閉鎖した近江百済寺一揆と六角の攻撃に急ぎ出発するほど追い詰められていた)
安国寺恵瓊 天正元年(1573年)12月12日付
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
公家や寺社との付き合いのある安国寺には信長のやり方ではどっちにしろ破滅する末路しか見えないのだった。
本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる
283 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 20:20:07.63 ID:d6WWGRD/
朝倉滅亡後の9/29には小瀬清長・織田信次・織田信直・織田信広・織田信成・織田信昌・織田秀成
佐々成政の長男・佐治信方・平手久秀・山田勝盛・和田定利が戦死してるなど
実際の織田軍は朝倉平定戦において大きく兵力が消耗していたと思われるね。
そもそも非常に珍しいことに織田親族の軍まで出さざるおえなかったくらい
兵力が足らずにかき集めていたのが見える。信玄死去後の
朝倉攻め時点でさえ織田軍が3万動員できていたなんてありえない。
河内上国+松永の軍勢に河内下国の畠山昭高はボコボコにされて
孤立無援のまま高屋城篭城して織田の援軍待ちじゃん。 しかも遊佐信教に6月に暗殺される始末。
三好義継の河内を本願寺の前衛と捉えて支援してますがwww
(河内が落ちると河川のない大坂南へ通ずる四天王寺方面へ織田軍が進出できる為)
近江すら平定できない信長・・・
4/7 六角義治の籠城する鯰江城を佐久間、蒲生、丹羽、柴田に攻撃させる。
4/19 鯰江城攻撃失敗。柴田に十河存保への援軍として義継の若江城攻めを行うように命じる。
6/25 高屋城で遊佐信教が畠山昭高を暗殺。
7/14 信長、内応するか悩んでいた畠山昭高を遊佐信教が暗殺した事に怒り
信教を必ず討つべし、指令については柴田に命じると言っているので
柴田は若江城攻めどころか高屋城まで敵方に落ち織田は河内国を見事に失陥。
河内国から柴田敗走か。なぜか近江にいて朝倉攻め参加する始末・・・
9/4 柴田へ鯰江城の攻撃を命じる。
浅井・朝倉滅亡後に佐久間の石部城包囲で
天正2年4月 六角承禎が4/13に石部城から信楽に向けて退城
山中山城らが敵を追い払ったから無事に信楽に着いたことを書いた感状だけど
出した日付は12/24だから天正3年前後も信楽でまだ織田に抵抗。
ちなみに伊賀国は六角氏綱の子が仁木氏を継承し仁木義政を名乗って以来、六角勢力圏。
天正4年以降になっても承禎は近江や伊賀でがんばって抵抗。
11/25北畠具教が信長によって謀殺された後に
北畠庶子家坂内氏が逃亡し、具教の弟の朝親も還俗し坂内へ書状出してるし坂内も勝頼に書状だしてる。
その時に沙弥承禎の名前で坂内氏に12/18付けで書状出してるが
国司御一類御生涯付〜北畠殿相続無き場合はあなたが家督を継ぎなさい。
そのこと大本所へ意見しますよって言ってる。ちなみに具教の正妻は承禎の妹。
年不詳12/7付け武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状では
佐々木源兵衛なる者が朝倉残党や加賀一向宗と連絡とってるし
これ吉川文書収録だから、鞆にいた義昭側近の若狭武田氏や大本所六角義堯に佐々木源兵衛は関わりある人物だね。
天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて境に上陸するから、それ以前の文書だと思う。
六角氏は朝倉と北畠再興運動やってひたすら信長に対抗してる。
義昭側近の一色昭辰も天正3年8/24に元春に修理大夫一色義辰(一色義道)の本国丹後の儀につき
輝元御出勢の刻は本意に任せるので頼みます。 (毛利を)御馳走することは本望です。
などと言っていて毛利は丹後も傘下に収めているんだよな。
284 :
人間七七四年:2011/12/09(金) 00:44:49.70 ID:iZwvPy1k
285 :
人間七七四年:2011/12/09(金) 17:29:49.37 ID:1HJHERue
286 :
人間七七四年:2011/12/10(土) 01:06:23.21 ID:UJZLNO7E
関係ないけど、安濃津武将隊も募集している。
287 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 14:47:55.60 ID:vazw4uAI
ん
288 :
人間七七四年:2012/03/22(木) 11:41:20.48 ID:OSew2Wlz
美杉町のゆるキャラ「ともふさくん」が必要だと思うの
289 :
人間七七四年:2012/03/22(木) 12:40:38.75 ID:H0xr62R8
うちの会社の偉い人の名前が親房だった件
290 :
人間七七四年:2012/03/22(木) 13:23:49.57 ID:nhA/61WL
>>289 その偉い人が戦前戦中生まれとかだったら神皇正統記の影響とかなんじゃね?
291 :
人間七七四年:2012/03/30(金) 07:43:26.63 ID:eaBnyEhL
織田厨マジでアホw
130 :人間七七四年:2012/03/21(水) 22:16:33.30 ID:rG6ktPb9
北畠家臣
北近江国人
甲賀衆
摂津国人
雑賀衆
大和国
伊賀衆
このへんは殺して何が悪いの?レベル
292 :
人間七七四年:2012/04/02(月) 18:37:09.23 ID:VcxRrJ4V
戦国時代でそんな事言ってたらキリがないレベル
293 :
人間七七四年:2012/04/23(月) 04:47:14.57 ID:r+3KLqMq
大納言。
294 :
人間七七四年:2013/01/09(水) 07:42:09.17 ID:qecsFFrm
伊勢奥津駅から北畠神社まで歩いたら1時間以上かかった
295 :
人間七七四年:2013/01/11(金) 19:11:25.37 ID:GvxtQ/y2
コミュニティバスみたいので行った思い出
296 :
人間七七四年:2013/01/19(土) 00:19:03.81 ID:kNyFH3Zf
今夜の信長のシェフで初めて実写の具教を見たw
無名な割には具教具房キャスト豪華すぎ
ちょっと具教老けてる気がするけどすごいな
297 :
人間七七四年:2013/01/19(土) 11:46:15.90 ID:y4Z45lcS
ドラマで信長の南伊勢侵攻見たのは初めてかも
298 :
人間七七四年:2013/01/19(土) 13:34:45.60 ID:1w3XPtVo
先祖が浪岡氏の家臣だったんだが、家格に比して結構高めの官職もらってたな
299 :
人間七七四年:2013/01/25(金) 07:39:26.51 ID:V9bRmBGv
NHKで塚原卜伝はじまったけど出るかな
300 :
人間七七四年:2013/01/31(木) 23:56:25.25 ID:/gTQuzsh
確か出番はなかったな・・・
まあ高国見れただけでも嬉しいよw
晴具は娘婿なんだっけ?
301 :
人間七七四年:2013/05/24(金) 12:43:58.51 ID:wQpQfsqP
三瀬御所って護衛はいなかったのか?
302 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 22:27:56.14 ID:cQ/bRmB+
浪岡家の人だけどこんなスレあったのか
驚いたわ
303 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 22:57:20.83 ID:aQBMYivL
304 :
人間七七四年:2013/10/14(月) 10:18:54.01 ID:WBUQFxt1
ん?そういえば違うね
305 :
人間七七四年:2013/10/22(火) 09:39:56.06 ID:gWg+MKOM
306 :
人間七七四年:2013/10/31(木) 16:50:55.10 ID:nVFlm2md
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
307 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 01:11:09.38 ID:tZ8Jw4L8
菅沼遼太は黙ってろ
308 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 10:40:23.65 ID:a64l2svl
>>306 その義昭に恩に報いるどころか八つ当たりした挙句に
ふてくされて岐阜へ帰る糞信長
309 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 14:50:36.67 ID:9q+W5Lqw
>>306 織田軍が圧倒的優位にもかかわらず大苦戦したのは、その通りだと思うが、
戦死した武将たちが戦況に影響が出るような身分だったとは思えないが。
将軍家はもっと早い段階で和睦の斡旋ができたはずなのに、
損害が大きくなってからしゃしゃり出てきて、信長にしてみれば面白いはずがない。
310 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 11:45:09.50 ID:Xg4EEtHn
死んで、その後がなかったから名が有名にならなかっただけだろ。
秀吉の配下にいた生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴なんかも
秀吉の成功がなければ埋もれていただけだし
311 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 18:02:32.44 ID:YypIgbyE
>>310 309への反論みたいな書き方だが、ただの補足にしかなっていない。
戦死した人々は、槍を持って城に突撃する身分で、
高級幹部とは言えないんじゃないかと言いたいんだが。
どれだけ優秀でも、今はまだ身分が低い人物が何人か戦死したぐらいで
動揺してたら軍なんて成り立たないだろうが。
そういう人物の死を惜しんで、軍記物には必ず戦死者が長々と書かれるから
>>306の戦死者の羅列も
軍記物から引いたんじゃないかと思っただけ。
312 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 18:08:27.61 ID:wVgUIAx+
なに言ってんだ・・・前田利家だって
まだ最前線で槍をふるったりしてた時期だぞ。
313 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 18:21:05.80 ID:YypIgbyE
>>312 それで、大河内城で前田利家が戦死してたら撤退してたとお前は思うのか?
314 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 00:05:57.35 ID:MgOOMmAn
城持ちの神戸伯耆を鉄砲玉よばわりするおとこの人って
ステキ!!抱いて!!
315 :
人間七七四年:2014/01/26(日) 22:49:17.69 ID:/nQrwyS4
軍師神戸
316 :
人間七七四年:2014/01/27(月) 06:20:24.87 ID:khf2iAda
>>314 スレタイからして『伊勢』の名門北畠なんだから
鈴鹿のカンベさんじゃ鉄砲玉だろ
317 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 16:26:29.94 ID:bgfXupAu
>>316 尾張一宮の光明寺城に、神戸伯耆って人がいたらしい。
伊勢の神戸氏との繋がりをはじめ、一切の経歴は不明。
一宮は岩倉織田家の領分だった所なので、
信長に仕える前は、岩倉織田家の家臣だったと思われる。
やっぱり鉄砲玉確定。
>>314 誰もいないスレで、そんなキチガイレスしてるのが不憫なので
釣られに来てあげましたよ?
318 :
人間七七四年:2014/03/28(金) 20:25:00.75 ID:YcW7mjRV
誰もいないから今日ボーっと地図見てて気づいたことをひとつ
藤方氏の小森上野城、奥山信濃守の小森城、星合氏の星合城、天花寺氏の曾原城が
木造氏の木造城から半径5km以内にあった。
しょーもないネタですまん!
319 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 10:47:51.28 ID:l6csX06l
畠山と北畠って名前が似てて紛らわしい
320 :
人間七七四年:2015/02/08(日) 09:44:18.13 ID:ZKqDbyhN
鳥屋尾満栄についてなんだけど、現在のwikiでは
北畠具親の挙兵(1577年)に従って戦死したって事になってんだが
これを裏付ける資料って何かあるの?
321 :
人間七七四年:2015/02/10(火) 22:44:21.46 ID:O8ZOGez0
>>320 川俣の戦いで討死したとあるけれど、川俣の戦いが書かれている史料って何だろう?
全く史料名が探し出せない。
怪しいのは、北畠具親の項で引用されている戦国人名事典コンパクト版だろうか。
そこに引用文献が書かれていればわかるだろうけど、持っていない。
戦国武将録のHPでも同じことが書かれているから、聞いてみるというのも手かも。
あとは、三重県史でもあたるか。
322 :
人間七七四年:2015/02/10(火) 22:59:51.46 ID:IpWCOD9R
北畠昌教の存在もだ
323 :
人間七七四年:2015/02/14(土) 15:07:11.27 ID:3K6qN0k9
北畠昌教は、おそらく専正寺の由来からだろうね。
324 :
人間七七四年:2015/02/14(土) 15:12:36.14 ID:3K6qN0k9
wikiの出典が全くない記事は検証が難しい。けれど削除されると
手がかりすらなくなったりして困るし。
せめて合戦の参加や仕官先の根拠くらいは示してほしよいね。
あと、時々、人名辞典の丸写しとかもあるけど、数年経ってばれたみたいで、
連鎖的に多くの武将記事が丸ごと消されてたりするから探してるとびっくりするw
325 :
人間七七四年:
>>324 そういうのは大概シェーラ=ドルチェットの仕業なんだなー
北畠昌教もそう