1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら、その後の歴史はどうなってたか?
逃げ延びた秀忠の逆襲?
宇喜多執権体制?
三成ら五奉行主導政治?
毛利幕府成立?
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 12:08:30 ID:buAV4pyy
うわ〜っ!
スレタイ間違えた!西軍が勝っていたら?やった
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 12:21:13 ID:iHlcYHCS
おまえが天下人
西軍が勝って、やっとミリタリーバランスが均衡するのでは?
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 12:31:44 ID:HjYeAXQN
1のバカタレ
よし、妄想するか。もし東軍が勝っていたら
首謀者の石田治部、小西行長、恵瓊は六条川原で斬首大谷刑部は討死、宇喜多は逃亡のち八丈島に流罪
西軍の所領はことごとく没収され、毛利は防長20万石に削封、長曾我部・立花らは改易、島津は安堵
豊臣の直轄領から東軍へ恩賞を与えてしまい、豊臣は河内65万石の大名に転落
そして徳川は征夷大将軍に任じられて幕府を開き、その12年後に方広寺の鐘に家康を呪う文字があると
言い掛かりをつけて豊臣方の大坂城を二度に渡って攻撃し滅亡させると思う。
ちょっと飛躍しすぎたかな?東軍が勝利するifならこんなもんでしょ
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 12:59:09 ID:2RS+plRh
>>6 どうだろう。そもそも東軍が勝つという前提が難しい。
西軍は上方と大阪城を抑えていたわけだし当初こそ東軍は岐阜城を落したり
勢いがあったが大垣城から西軍を誘い出すまでが限界で
関が原の布陣では西軍に先手を取られたじゃないか。
あの関が原では早期撤退すべきだったのを、何を血迷ったか
家康は本陣を繰り出し、あげくのはては静観していた小早川秀秋に
攻撃しかけて東軍壊滅のきっかけまでつくったではないか・・
これは目の付け所が斬新なスレですね
これは目の付け所が斬新なスレですね
東軍厨必死やなw
三成は家康以外の大老4人、浅野長政以外の奉行衆3人を味方に付けてたわけやで
更に京、大坂を押さえて豊臣家や朝廷もしっかり掌握してた
この時点で家康には大義名分も何もあらへん
そもそも家康みたいな石高だけがでかい関東の田舎大名が天下を狙えるわけあらへん
小田原征伐の北条家みたいに滅ぼされるのが落ちや
後ネットで関東弁使うのは止めろや
きちんと標準語くらい喋れんのかw
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 13:12:53 ID:hD6yyas4
まあ、島津隊の総突撃で戦況が一変したからな。
もしも大淀様が先陣を切って西軍を率いてなかったらどうなってたか。
近衛牛車隊のまさかの参戦もよかったよね。
まあ、賊康は哀れってことで。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 13:38:07 ID:2RS+plRh
>>10 しょうがないだろ。どうせ漏れは田舎者
やはり江戸夏の陣の開戦理由が悪辣なだけに徳川への同情をよんでるんだろうな。
こんなスレが立つって言うことは。
豊臣家が徳川に方広寺の造営工事させときながら
鐘の銘文「君臣豊楽」 「国家安康」
を豊臣の名を切って逆にして呪い、家康の世を齎そうとするものだって
いいがかりはひどすぎる。
あのせいで鐘の銘文でいいがかりつけた安国寺恵瓊と
大老・石田三成との人気は悪いからねー。
昔ドラマの『関が原』ってのがあったが
加藤剛が謀略で徳川を追い詰める三成を
森繁が徳川家康の悲惨な末路を熱演してたし
あれで徳川スキーになった香具師多いんでないの?
他にも司馬遼太郎が徹底した徳川贔屓の小説『関が原』『城塞』で
天下に野心無くただ太閤秀吉の遺命を守ろうとした家康を
三成が謀略で追い詰め戦争に追い込んでいく様が、これでもかってーくらいに
悪辣に書いてたしな。
まあわいも豊臣の言い掛かりに対して必死で抗議した本多正信は好きやけど・・・
けどあれはそもそも江戸城を立ち退かなかった秀忠が悪いんやで
豊臣家は徳川に仙台60万石を用意してたのにな
時勢が読めない江君の言うことを聞いたばっかりに
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 13:50:27 ID:6zRgO/FU
このスレは伸びる
上杉軍の判断が良かった。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 14:04:19 ID:2RS+plRh
仙台60万石
そういや伊達政宗の前の領地だったな、そこ。
直江が伊達の領地安堵を約束して西軍に協力させたのに
戦後処分で南部津軽に転封になっちまったという悲惨な結果だったんだよな。
約束どおり不戦をしたってのに石高4分の1の15万石まで減らされたという・・
いまごろ江戸が首都になってたんじゃないのwww
>>7 >あげくのはては静観していた小早川秀秋に
>攻撃しかけて東軍壊滅のきっかけまでつくったではないか・・
そうそうそこなんだよね。あの時家康は小早川に対して発砲したけど
実弾は込められてなかったという説がある。ここからは俺の妄想だが、小早川は家康との間に
寝返りの密約を交わしていたのではないだろうか?
>>10 あの時東軍が勝っていたら今ごろ標準語は江戸ことばだよちきしょうめwww
>>11 島津が突撃して本多忠勝隊が孤立して敵中突破したよな。
「本多の退き口」だっけ?
>>13 っていうか 江 君 (ゴウギミ)ってwwwwwww
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 14:26:58 ID:0ZGa0ZZE
>>18 僅か五百の手勢で敵中突破カコイイ
たしか義弘はその時の怪我が元で死んでるんだよな。
また本多厨かw
本多の敵中突破なんて講談やねんけどな
実際は旗を巻いて目立たないように宇喜多勢の脇をすり抜けようとした本多勢を義弘が目ざとく見つけ上げただけ
それに死んだのは義弘本人じゃなく影武者である甥の豊久やろ
結局関東まで逃げ帰って娘の嫁ぎ先の真田に命乞いしたへたれ武将に過ぎへん>忠勝
むしろ忠勝を処刑しようとした三成に「戦も辞さぬ」と啖呵を切った真田は男前やで
おまいら面白すぎwwwww
家康が捕らえられて六条川原に連行されるとき家康は「鯛を食べたい」と言ったらしいが
このエピソードの続きを知ってる人がいたら教えてくれないか?
俺にはここまでしか思い付かな(ゴホンゴホン)思い出せない
淀殿の政治手腕は見事の一言につきる
徳川や本多と対等に渡り合った日本が誇る女傑だよ
お江は最悪の悪女だったけど
織田がつき
羽柴がこねし天下餅
座りしままに食らうは・・・・・・?
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 16:57:05 ID:Uubxv76c
しかし、あれだな
結果負けはしたものの
江戸の陣で見せた、山ノ内一豊の勇姿は本物だよな
山ノ内一勇士しかり、山ノ内丸しかり・・やっぱ山ノ内一豊が最強だよな
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 18:16:29 ID:2RS+plRh
>>18 それはない。小早川秀秋といえば豊臣秀吉の養子で、その才覚から
小早川隆景に請われて小早川家の養子に入ったと(小早川家の公式書類には記載してる)
言われる才将だぞ。関が原の勝利は松尾山にありといわれ
戦後は秀頼を補佐して成人までの間は関白を務めた人物
何が哀しくて関白という頂天を放棄して狸親父の子分にならねばならんのか?
>>22 敗者への情けとして振舞われた鯛の天ぷらで腹を壊して
護送中に脱糞ではなかったか?
>>23 お江はたとえ徳川が天下をとったとしても評価低そうw
何かお家騒動起こしそうな匂いがプンプンするんだよな
誰だっけ?土井なんちゃらっていう若造といかがわしい噂が絶えなかったらしいし
織田有楽斎は巧く立ち回ったよな
江戸城にお江の叔父として入城してたけど大坂にも情報垂れ流してさ
いざ開戦って時に当たり前のように城を立ち退いてるからな。
まあ、あのくらいの数寄者になるとどっちが勝とうがどうでもいいんだろうな。
>>12 それにしても司馬の秀吉評は酷すぎるわ
「日本人の民族的性格が肥大化され、奇形化された」とか
「日本人が嘗て美徳として持っていた謙虚さを失い、傲慢になったのは豊臣家の責任が大きい」とか
「それらは秀吉自身の個人的性格から出ているところが濃い」とか滅茶苦茶
こんな電波作家が未だに人気あるなんてどうかしてるでホンマ
>>17 それはないだろうな。
確かに関東の市場はよく整備されてはいたが
やはり日本の首都は御所がある京以外からは離れられない、経済の要衝でもある。
歴史がそれを証明している。
>17
江戸が首都になっていたら、広大な関東平野がすべてが都市圏だから、
バブルのころの地上げはなかったかも。狭い大阪平野や京都を首都圏
にしたおかげで全部地上げ、もう昔からの住民は住んでいないでしょ。
何よりも大阪大学と東京大学の立場が逆になっていたかも。
あっ、関関同立、日東駒専の立場も逆か。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 11:22:48 ID:kDDiI2eO
やっぱり、早よ、終わったなぁ…。
このスレ…
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 14:31:10 ID:DGG54AOi
いくら自身があるからって3倍の大軍に突っ込むなんて
ま、案の定、宇喜多に袋叩きにされたけど
市松か・・・
>>30 おいおい。
現代ですら数十万規模の都市が点在してる程度の関東平野に首都だなんて、
よく妄想できるなwww
日本の首都は畿内しかありえないだろ。江戸なんかに幕府作っても仕方ねーって。
もし東軍が勝ってても畿内に乗り込んできてただろーな。
東軍オタがよく言う吉川広家公が不戦の約束を反古にしなければ勝てたっていう妄言だけど
本当に不戦の約束をしていたのか?
広家公がそんな口約束を簡単にするとは思えないんだが
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 22:40:59 ID:ot+p9Juf
東軍厨がいうには太閤秀吉の形見分けで石田三成が吉川を無視したとかいう
非常に根拠薄弱な点を誇大解釈して
石田三成と吉川広家は敵対していたと解釈してる。
それと実際に約束したが相手は黒田長政だったという説がある。
仲は良かったそうだし・・でも、これもどうだかなー
長政がそんな如水ほどの謀才があったとも思えん。
実際吉川広家公は関が原で退却する徳川軍はじめ東軍を殲滅させる
大功労者で、関東征伐の先陣も承ってるし・・そんな軽率な人物じゃないだろ。
実際のところ家康狸は西軍総大将となった毛利輝元の覚悟と
統率力を甘く見ていたんだろうな。
長政との口約束で不戦の約束をさせりゃ十分だとね。
だいたい何処にどのくらいが展開してるかなんて解らないだろ
東軍だか何だから知らんけど、あの位置まで入って来られてるんだから慎重になるよ
それだけ吉川広家の智謀が優れてたって事でしょ?偽りの不戦を信じ込ませるくらいに。
しかし返す返すも不思議なのは
なぜ豊臣家は20万石に減封した徳川家を
わざわざ方広寺の一件で故意に挑発して
潰したのかだ。
なんせあの江戸なんかに全国津々浦々の大名諸侯豪傑武将が勢ぞろい
数十万以上の大軍勢で、あの貧相な城を包囲して
しかも和睦して堀を埋め立てるというセコイ手で
ようやく陥落させたわけだが
大老・三成は本当に戦下手だよな。
実際関が原はよく勝てたといいたいな。
まあ実際に広家が不戦の約束をしてたとしてもそんなの信じる方がアホやろ>家康
毛利は西軍の総大将、戦わずに負けたら良くて改易、悪ければ一族全員六条河原で撫で斬りやぞ
そんな裏切り行為をまともな感覚を持った人間がするわけないわなw
>>40 でも黒田長政は本気で信じていたようだが?
逸話では顔を赤らめて「金吾(秀秋公の蔑称)と吉川は許すまじ」
と逆切れしてたというからな。
ちなみに長政は命は助かったが
どこにも奉公も仕官も出来ず、乞食にまで身を落としたそうだ。
黒田家に使えてた後藤又兵衛基次はが黒田家存続と長政助命を条件に
三成の臣となり、後に豊臣家の直参大名として12万石を拝領したそうな。
器量の違いはここまででるなW
あの親父の息子とは思えないよな。
戦国初心者ですが、質問です。
関ヶ原に勝った西軍は、総大将毛利派と首謀者石田派そして関白小早川派に別れて争わなかったんですか?
歴史まったくわからないのでよろしくです!
小早川秀秋は関ヶ原後数年して謎の急死を遂げるんだな
秀頼が成人して邪魔になったから三成に消されたとみる説が有力
徳川家の祟りだという噂もあるけどこっちはホンマかどうかわからん
忠勝の奮戦は今でも語り草になってるけどさ、
各地に残る家康や忠勝の生存伝説もあながち嘘だとは言えないだろ。
東軍オタでは無いが、
忠勝の首実検で本人かどうか判断が出来なかったとする人も多いわけだし。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 23:54:36 ID:3KC14gkz
おまえら真田昌幸の事忘れるなよ!真田が徳川秀忠捕虜にして江戸に迫ったからこそ
江戸の攻略が上手くいったんではないか。
真田は信玄の再来とまで言われて甲斐信濃に真田流軍学の活躍は楠木以上の物にだぞ
真田は豊臣に警戒されつつも甲斐信濃に100万石の礎を作ったんじゃないか。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 23:56:44 ID:3KC14gkz
真田が小兵で馬鹿殿秀忠の大軍を打ち破ったのは何度もドラマ化してるしな。
まさに日本一の兵だよな
市松(福島正則)は戦後八丈島に送られて関が原武将の中では
最も長生きしたそうだが
彼の逸話で有名なものがアル。
八丈島に酒好きの大老宇喜多秀家の酒を積んだ船が座礁し
その中の樽をひとつ正則が所望したそうだが、
後にこれを知った秀家は、その船乗りを呼んで
「酒好きに悪い奴はいない。よくやった褒めて取らす」と
言葉を賜ったそうな。
その後八丈島には宇喜多公から正則宛に酒樽が送られるようになったそうな。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 00:05:14 ID:usWpkhu+
にも関わらず。。鳥居は。。
大谷隊を壊滅寸前まで追い込んだが、最期は小早川の側面攻撃にあえなく
自害に追い込まれた虎様は無念。
その後小早川秀秋は謎の死を遂げたが、これは藤堂高虎の呪いによって殺されたのだ・・・
一方、大谷吉継は高虎を称えて、藤堂家の家臣を末代まで面倒見たという。
島左近と激闘の末に敗れた黒田長政。
長政は大津城の門前で晒されたところ、登城中だった宇喜多秀家は、
「自害もせぬとは!恥を知れ!」と罵倒し唾を吹いた。
しかし、石田三成は、長政に
「勝敗は時の運。黒田殿はよく戦いなさった・・・」
と健闘を称え、自身の陣羽織を被せてやった。
しかし、三成が豊臣家文治派を裏でまとめあげ、吉川・小早川を懐柔した張本人であることは
誰も知らない。
東西両軍に分かれて戦った真田親子
真田昌幸・幸村は長男・信幸の助命を嘆願する。
敗軍に属した者を容赦なく斬る石田三成だったが、
真田昌幸の「信濃40万石を返還してでも・・・」の言葉にこころ動かされついに助命を受け入れた。
それから数年後の「江戸冬の陣」で豊臣軍をおおいに苦戦させるのは、
紛れもなく、生かしてしまったこの男である。
>>52 ああ、劣勢だった西軍に身を投じて(諸説はあるが、俺はどうも当時の状況を考えたら西軍は劣勢だったと考えてる)
抜群の軍功があった大谷吉継が幸村公の岳父だったってだけで、真田信幸の助命を願い出て
「助命嘆願が聞き入れられなかったら豊臣勢と一戦つかまつる」って言って周囲を唖然とさせたんだったよな。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 01:15:33 ID:ehmV0N/G
>>53 真田昌幸と石田三成も親類だぞ。
>>劣勢だった西軍
ああなんとなく納得できるな。でもなきゃ病身でまともな戦働きが無理そうだった
大谷吉継が越前100万石なんて大封になるわきゃ無い罠。
いくら三成タソの心の友だったとはいえ
東軍厨に言わせれば、東軍が勝ってたら加賀百万石のはずだった
と騒ぐ某北陸県民が多いが・・これもどうだか
徳川も前田ごときに100万石もやらんやろ。
西軍に献身的な働きを見せた義将吉継と三成の信頼と友情あったればこそ
大谷100万石はあったと見る。
島家が最終的には岡崎5万国ってのは納得いかんな。
まあ倅の代の不祥事ではあるが
このスレ、なかなかスリリングなテーマだな。
>>55 左近のせがれって、冗談で「謀反するじょ〜」って言って、それで潰されたってやつ?
島家って、潰されていたと、勘違いしていた。
ん? 別人か? だれかフォロー頼む。
西軍が劣勢とか言っているやつもいるが、西軍圧倒的。
東海道沿いの諸将の寝返り・日和見続出で、東軍が関が原に着いただけでも立派だよ。
掛川城を早まって家康に渡した一豊は、呆然としたろうな。
ってか、そう発言させた堀尾の智略に恐れ入る。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 04:05:57 ID:ocILO2fA
す、すげえ… このスレは歴史に残るで
58 :
56:2006/10/22(日) 04:13:30 ID:GYnRVqdz
掛川城云々の補足。
山内が掛川城を徳川に提供しなかったら、慎重居士の家康は、
関東から出てこなかったのは明白。
おそらく小田原あたりに留まり続けただろう。
他人に城を提供させて家康を油断させ、本拠地から関が原までおびき出したのが
光成−堀尾ラインの成功。
謀臣梶尾の知略も見事だがやはり大老石田光秀だろ
日本の曹孟徳と呼ばれる知略こそが語られるべきだろう
上杉の陽動から始まる壮大な戦略に軍を分けた徳川別動隊を足止めさせ
各個撃破の軍を鶴翼の包囲下に置き繊滅
こんな壮大な戦略みたことない、人気ないのが疑問だわ
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 05:18:38 ID:ixu9b1zs
このタイトルを見てなんて間の抜けたタイトルなんだ?と思った。
このスレをクリックしたら、
「や〜い、騙されちゃったんですね!
歴史の知らないオタクは去ってください。ば〜か!」
ってAAを期待していた。
ごく普通のスレだったので、100倍がっかりした。実話。
61 :
ななしさん:2006/10/22(日) 05:24:13 ID:IbIxv6b0
西軍が勝っていたら毛利家が第2期室町幕府のような脆弱政権を
作ってたんじゃないかな
また世は乱れ戦争ばかり起きてたかもね
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 07:33:13 ID:iUsk0ycg
空気よめ
>>61 いや、実際そうなったから。
ただ、関が原合戦後も、秀頼の生きている間は
名目上は豊臣家の天下だったってことはお忘れなく。
でもまぁそうやって長く乱れてくれたからこそ今の俺たちが何百年分も
戦国を楽しめるって事だしな。同時代人じゃないから気楽なものさ。
関ヶ原で終わってたら政宗なんか「生まれるのが10年遅かった」とか
言われてたに違いない。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 11:28:35 ID:ehmV0N/G
>>61>>63 そうなって原因は豊臣政権の飽きない海外進出政策だろ。
秀吉の文禄慶長の役でやめときゃいいのに・・今度は
不足する恩賞の代わりに「異地切り取り自由」のお墨付きまで
三成が出した為だな。
大陸沿岸から東南アジアからインドまで進出していく状態が続いて
世界中に植民地が出来たはいいけど人材が流出しまくって
本国では豊臣家とか、ろくな人材いなくなって海外出遅れ組みの諸侯が覇権争いしだしたんだろ。
秀吉没後の豊臣政権も人材は独立大名にしていた性で家中にろくな人材がいなくて
家康につけ込まれが・・同じ失敗何度も繰り返すかねー。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 11:40:52 ID:8YcXwVtp
結局、日本人としてアイデンティティを確立する前に世界に散ったのがまずかった。
海外組も軍閥化や半独立、海外諸侯同士の宗教戦争など、もうぐちゃぐちゃ。
秀頼は秀頼でなにもしないから、五奉行派の独走を許しちゃうし。
ぶっちゃけ、家康が政権を取っていたら、と思うよ。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 11:54:02 ID:ehmV0N/G
秀頼の後半生では天下は乱れてたしね。
大老筆頭の毛利は、はなから日本の内輪は無視して輝元晩年には
「戦争は他の連中に任せておけ。幸運な毛利よ、汝は結婚せよ」
て言葉を残してるな。
で海外諸侯との婚姻で領土拡大、おまえはハプスブルグ家かと。
>>66 海外進出の結果、東アジアの揉め事には必ず巻き込まれてきたからね。
国内外で戦争が絶えなかったし、日本人意識が育たなかったのは悔やまれる。
インド人の謝罪と賠償要求にもいい加減うんざりだし。
ありえない話だけど、もし300年くらい引きこもり外交してたら、
今の日本も少しは豊かな国になってたりしてね。
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 11:58:47 ID:c62fGDxH
拡散も何も鎖国をすべきだったのは明白。あの時代貿易で
日本が輸出してたのは奴隷と銀だけで単に資本流出してただけ。
もうけたのは大商人と大名ぐらいで下々は悲惨だった。
毛利はそのうまい汁にしがみついて、国家戦略は皆無。
毛利の合議政権でなく、早く強力な中央政権ができるべきだった。
もしを語れば切りが無いが徳川政権ならば植民地の憂き目を見ずに
済んだ可能性が高いし、うまく行けば先進国になれたかもしれない。
でもまぁこうやってネットに繋いで昼間っから2ch出来てる時点で
さほど現代の日本を悲観する気にもならないんだよなぁ。
逆にあの時海外に拡散したお陰で華僑と日系は世界中どこにでも
居るって状況になったわけだし。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 12:06:34 ID:c62fGDxH
まだ金、銀がとれている間はみんなが言う通り東アジア進出も
できたが、取り尽くした後の悲惨な近代を忘れてるんじゃないか。
まだ鎖国をしようとした明の方がましだよ。今漸く成長してるからな。
それに引き替え日本はアフリカ並だぜ。どうするんだよ今から。
>>69 一応新大陸とか海外に日本が建国したり独立した国は発展して
先進国の仲間入りしたりしてるから
日本も先進国になれたかもしれない可能性はあるな。
でも日本は昔からろくな資源もないしねー徳川でも大差ないかもしれん。
狭い日本に閉じ込められてたぶん外交音痴になってた可能性も高い。
現実といえば九州や琉球あげくは蝦夷地まで北海道として独立してしまったし・・
琉球の“百万両の夜景とか”九州の魔都博多とかのメガロポリスを見てると
日本本国だけNIESにもなれない発展途上国なんていう
笑えない状況だしね。
必死な徳川ヲタが来てから急に糞スレになったな
>>72 九州は日本連邦構成地域。強い自治権が認められているだけ。
小学校からやり直せ。
しかし、Ifだけで近代以降の現象を論ずるのは無茶。
近世までの話しか議論対象にならんと思われ。
でも結局豊臣幕府は維新の時伊達と山内と最上の連合軍に滅ぼされちゃったからね・・・
関が原で取り潰しておけばよかったのに。
薩摩や長州の人間はまだ仙台の人を嫌ってるらしいからね・・・
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 12:42:00 ID:c62fGDxH
別に徳川はどうでもいいが、ifを語るにしても都合の悪いところは
全部無視はひど過ぎる。って思っただけだが。
毛利オタには都合の悪い指摘があれば糞スレと感じるのは
仕方の無いことだろうけどな。
>>76 いや、言いたいことはわかる。
ただ話を近現代までもってくると、スレの性格が変わってしまうかと。
また豊臣・毛利は朝敵だとひたすら叫び続けるやつが出てきかねない。
そんな荒らしがくる恐れがあるので、下げ進行が井伊と思う。
>>75 土壇場の土壇場で肥前が維新側についたのが笑える。
豊臣(ってか実権を握っていた毛利)のためには、肥前も潰すべきだった。
鍋島は、家康にも通じていたって話もあったみたいだし、口実にはなると思う。
いや、俺、本当に鍋島家来の末だから、残されてよかったんだが。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 13:03:25 ID:c62fGDxH
第一、毛利では合議政権になるのはその通りで、合議政権では
強力な全国的な政策は難しいし、毛利は貿易で利益を得ていた
事を考えれば鎖国の可能性は低い。
後はその当時の貿易がどんなものかってだけの話で徳川は
殆ど関係ない。
79 :
77:2006/10/22(日) 13:03:52 ID:84u8xr0j
誤:下げ進行が井伊と思う。
正:下げ進行が良いと思う。
俺のパソの変換、変なバイアスがかかっているな…。
>>79 ああ、井伊直政か。俺も好きだよ。
島津鉄砲隊に蜂の巣にされても家康のせがれを逃げさせたんだったよな。
そのせがれが樺太に渡ったったって伝説があるよな。
>>81 樺太に行ったのは、江戸の陣の後だがな。
実際には蝦夷地で病死したって噂。
家康が死に、徳川四天王も代替わりしたあとの徳川が、
豊臣とやって勝てるわけが無い。
どうしても生き延びたいんだったら、素直に秀忠は隠岐に転封されるべきだった。
事実上島流しだとお江に反対されようとも。
>>73 >>80 「もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら」だから、
徳川びいき気味になるのは仕方ないので、勘弁してほしい。
三成が伏見の徳川屋敷に逃げてきた時に殺しておかなかったのが家康の最大の失敗ですよね。
敵でも自分を頼ってきた人間は助けるというのは優しい家康らしい話で好きなんですけど。
ここで三成を殺さなかったことが本当に悔やまれますよね。
後の歴史を知っているから言える後知恵ですけど。
↓これで江戸の陣は乗り切れる?
慶長14年、関ヶ原の勝者秀頼は天下統一の仕上げとして徳川に戦を仕掛ける
故・右大臣家康が縄張りをするも完成の日はこなかった居城江戸城
そこにはかっての栄光を取り戻すため、秀忠のため多くの浪人、武将が集まっていた
かっては掛川6万石の主 山内一豊
西軍を田辺城に釘付けにした幽斎の子 細川忠興
秀忠の兄・結城秀康の息子 結城忠直
小早川家では1万6千石を拝領した男 稲葉正成
信義のため1千石の捨扶持をなげうち馳せ参じた 真田信之
徳川家臣筆頭井伊直勝の弟 井伊直孝
家光の乳母の義理の孫、弱冠17の美男子 堀田正盛
かれら七将の他、本多忠次、大久保忠教等の歴戦の強者達
しかし、江戸城の最高権力者は秀忠の妻・江とその取り巻き達であり、七将らの発言力は弱かった
又、この七将達も思惑はそれぞれ。真に徳川の為に戦うは、井伊、堀田、結城くらいか…
その時、浪人で溢れかえる江戸城の人だかりを掻き分けて本丸に向かう男が一人
全身に水を滴らせ、息も絶え絶えだが、眼光鋭く人々は気押され、彼のために自然と道が出来ていた
しかし、一介の城兵を城内に入れるわけにはいかぬと彼を遮る門番。しかし、そのずぶ濡れの男は一喝した
その頃、殿中では真田、後藤らの野戦出兵策は退けられ、籠城と戦いの方針は決まっていた
「真田殿、細川殿の策を取れば勝てようものを……」
歴戦の武将達はこの大坂城の首脳陣を嘆くと共に、彼等を押さえ、七将すら束ねる強い指導力と実績を持つ男が居れば…と思わずにはいられない
初めはそれを、家康の遺児、秀忠に期待したものだが、もはや望むべくもない…そんな時だった
――バタン!!
ふすまを開き、ずんずんと上座に進む男。それはさっき、大坂城に現れたずぶ濡れの男だった
「何者ぞ!!」
叫んだのは若き家光の忠臣、堀田正盛
しかし、彼の後ろの江や秀忠、いや、彼らだけでなく細川や真田ですらその顔に驚きを浮かべ、ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた
「父上……」
結城忠直がようやくといった感じで放った言葉に、正盛を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた
「結城宰相秀康、徳川家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!」
家康の外様の家来、いやそれ以上の疎外を受け育ち、一時は豊臣秀吉の猶子であった男が再び徳川の為に戦うため帰った来た…
85 :
84:2006/10/22(日) 18:43:44 ID:TTIpF5XJ
一箇所、関係無い奴の名前が混じっているな…。
井伊の赤備え、所詮は猿真似だな。
後に、真田が家康の本陣を粉砕した際に、
赤備えの真の実力を見せ付けてましたね。
>>84 いつか誰か書くと思ってたw
結城秀康かwwwwwww
適役wwwwwwwwwww
88 :
84:2006/10/22(日) 19:12:45 ID:TTIpF5XJ
>>87サンクス
実はこの文章(の配役)を、半日考えていた。
せっかくの休日が…。
>>84 それ、仮想戦記・関が原東軍勝利シリーズの『大坂の陣宇喜多秀家公大遠泳大坂御入城』の場面の改変だね
>>88 しかし史実(このスレ内の史実ではなくリアルの史実)では大阪冬の陣の前に死んでるからなあ
キチガイ忠直卿と猪武者秀康父子の奮戦が実現してれば面白かっただろうな・・・
ぜひ続きを書いてくれ!
>>83 マジレスすると、逃げ込んだのは伏見城内の自分の屋敷というのが現在優勢。
関ヶ原前に関しては史実通りで良いんだよな?
それとも徳川信者を装うネタレスだったのか……線引きが良く分からん。
(関ヶ原で桃配山の家康本陣から松尾山の金吾に鉄砲を撃ちかけるまでは史実と同じでいいと思うよ。)
徳川事変後の新五大老と封地ってどれくらいだったっけ?
関白が小早川改め豊臣秀秋
毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家が領地を増やし
前田利長は家康との関係があって減封の上に5大老から外され・・・
あれ?新しく増えた二人の大老って誰だっけ?
佐竹
筆頭大老の石田三成は当然解るんだけどもう一人がね
98 :
84:2006/10/22(日) 20:44:47 ID:TTIpF5XJ
>>90 だーかーらー、小説と史実の区別はしようね(笑)。
しかも架空戦記物でしょ。
私の知っている史実では、秀康はちょうどそのころ八丈島で行方不明になっているが、あくまで生死は不明。
そもそも死亡説のひとつは梅毒説で、もうひとつは暗殺説だけど、
八丈島で梅毒にかかる機会はあるのかな?と。(当然すでに流行している可能性もあるが)
もうひとつの暗殺説は、秀忠がすでに流罪となった結城家当主を暗殺する必要があるのか?と。
よって、両説を含む死亡説は不確実。
一緒に流された黒田長政ほどではないにしろ、
秀康もそれなりに生きていると思いたい。
それはともかく、励ましの言葉、ありがとう。
仕事があるし、資料も集めなきゃなんないので、書けるにしても一週間はかかるだろう。
ってか、あのクオリティーで書く自信ない…。
功名が辻、来週、一豊は掛川城の提供を宣言してしまうよ。
馬鹿だなあ、これで毛利や石田への言い訳ができなくなるのに。
梅毒は罹病してから十年以上生きる事もあるから梅毒説にも特に問題はないと思うのだが。
ああ、山内は大河のここ迄の流れで秀吉の時代から試されてきたのに
最後の最後で判断に過ったよね。
もっとも壮絶な最後で講壇師の影響か人気も高いし
もし東軍が勝ったらこの人は大河の主役は張れないだろう。
ある意味よかったのかね。
(あと言ってみたらネタスレだからガチガチでなくてもいいさ。面白かったんで続き待ってる)
いや、論としての合理性に問題がないだけで、逆に言えば
梅毒にかかりながら30年以上生きた例もあるし、
(それで如水の有岡城の一件も実は梅毒の初期症状説がある)
梅毒での死を装って島外に逃れた、て話があったんじゃなかったっけ?
>梅毒での死を装って島外に逃れた、て話
を採用しておきましょう。
で、関ヶ原で東西に分かれた九鬼親子の息子の方って、江戸の陣に参戦したっけ?
Wikiにはあまり詳しく書いていないから、よくわからん。
いくらIf小説だからって、あまり史実を無視するわけにもいかないから、
知っているがいたら、教えて。
>>104 ばっかお前
「鬼九鬼の海上封鎖」って言って
その後の海軍の教科書に載るくらい有名なエピソード作ったろ。
>>105 すまん、文意が伝わりにくかったかもしれん。
海上封鎖やったのは、豊臣方の、嘉隆四男・主殿助だよね。
俺が聞きたかったのは、関ヶ原では東軍についた守隆の方。
江戸湾をあっさり弟に良いようにされて、そのままで黙っていたのかと思って。
てか、そもそも生きているのかな。
こうゆう現実と妄想の境目に存在するスレが好き
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 03:12:00 ID:mq3MFKsR
>>106 幽閉先の下田から遁走して江戸城に入っている。
しかし、隠居所から親兄弟に宛てたあの情けないぼやき手紙からは考えられないような奮戦ぶりだったぞ。
圧倒的寡兵でありながら、結局海上決戦では関西方と互角に戦い、浦賀水道を死守し江戸湾に一隻たりとも立ち入らせなかった。
まあ短期戦を諦めた大坂方の海上封鎖を、結局は突破できなかったけどね。
>>94 五大老には徳川と前田を外し
毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の残留に加え石田三成、小西行長
奉行には浅野を外し安国寺恵瓊
三成はともかくなぜこの2名がこの役職についたかは不明
そのため東軍厨が妄想の東軍戦勝関が原では
必ず石田三成、小西行長、安国寺恵瓊を切腹処分にしている。
封地については
毛利輝元は大老の筆頭になるのは辞退し加増もなし
上杉景勝が越後一国と山形の一部を加増され150万石
石田三成は近江一国80万石ほど
ただ毛利の場合、実戦闘に参加した吉川広家、毛利元康、毛利秀元
と輝元が推薦した宍戸、熊谷といった家臣合わせて10名近くが
新たな封地を頂戴して独立大名になっているので
実質毛利一門で100万石以上の加増になっている。
逆に上杉は加増したが直江を独立大名にして米沢を失っている。
(↑こんなもんでいいでしょ。)
宇喜多秀家は漏れも詳しく知らない。
ところで
>>98 八丈島にいったのは結城秀康と福島正則だろう。
福島正則が漂着してきた宇喜多の酒樽を頂戴した逸話は有名
黒田長政は黒田家廃嫡の上追放処分だろ。
小西行長が大老になったのは堺陰謀?説に賛成かな。
配下の水軍、堺の経済力、キリシタンとしてのネットワークを背景に
当時本土における対外貿易関係を仕切ってたのは確かなんだし。
三成は例外として一人石高や地位に劣ってるからそれ以外に理由を
見つけないと苦しい。
後は個人的に五大老内のバランスとりの意味もあったかと思うけど。
元々宇喜多家に仕えてたんじゃないかと言われてるから、
毛利(+一門)、上杉(+直江)+三成?、宇喜多+小西て感じで。
宇喜多は加増されたといえ、前田が減封されて五大老外れた上に
歴史浅いから一門や類縁も少なくて発言力低くなってたから。
>>96 佐竹は関ヶ原の戦闘自体には参戦してないんで無かった?
当主の義宣と先代の義重が対立したせいで、一応西軍だけど結局動かなかったはず。
義宣自身は上杉景勝や石田三成と親交深かったし、石田三成襲撃事件のときの義理も
あったからか加増を受けたけど、文字通りの恩賞ってわけじゃなかったらしいぞ。
佐竹って関ヶ原後にかなり加増されて100万石(細かい数字は知らん)越えてたけど、
アレは常陸の大大名として、奥羽とか関東の勢力を牽制させる意味合いが強い。
特に奥羽は関ヶ原で消耗してないから、まだまだ不穏な勢力が残ってたし。
佐竹は奥羽の抑えと、関東の後背から睨みを効かす役割をまとめて押し付けられた形だ。
まぁ重要な役だけど負担はどえらいし、かなり貧乏くじだな。
江戸の陣の時なんて、奥羽から江戸城を目指す軍相手に孤軍奮闘する羽目になったし。
それなのに江戸の陣の後はまったく加増されてない。
結局、佐竹義宣は三成らに信用されてた一方で、体良く使い潰された感じだな。
実際、佐竹義和みたいな名君を輩出したりで1700年代には実高200万石(かなり誇張だが)
といわれたりもしたけど、莫大な借財のせいで内情はカツカツだったらしいし。
>>112訂正
×実際、佐竹義和みたいな名君を輩出したりで1700年代には実高200万石(かなり誇張だが)
といわれたりもしたけど、莫大な借財のせいで内情はカツカツだったらしいし。
○実際、1700年代には実高200万石(かなり誇張だが)といわれたり、佐竹義和みたいな名君を
輩出したりもしたけど、初期の莫大な借財のせいで内情はカツカツだったらしいし。
佐竹は関ヶ原の後に江戸駐留組にちょっかいだして小遣い稼ぎしてるよ
大大名になっても伸びしろがなかったのは、場所が関東だからとしか言いようがない
湊は無いし、経済文化の中心地は京畿だし、どうしようもない
>>110 すまん、まちがっていた。
>>48にもあるとおり、
八丈島に流されたのは、結城秀康と福島正則だね。
スマソ。
しかし宇喜田は情に厚いな。
もし東軍が勝って、宇喜田が遠流にでもなったら、
正則も同様に酒を送るような友誼をしめすかな。
>>115 しかも 宇喜田 でなく 宇喜多 だな。
シンデクル。
福島正則もどこかそういう所あったらしいからやってたかもな。ところで正則と秀康の八丈島での仲はどうだったんだろうな。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 21:42:05 ID:N0TVJKia
梅毒仲間で島中に梅毒を移した。
正則と秀康は仲良かったって聞いた記憶はあるのだが、
関ヶ原合戦より前のことなのか、東軍キチの言う関ヶ原合戦の東軍勝利後のIFの話なのか、
俺の頭の中ではっきりしない。
関ヶ原合戦前から仲がいいのなら、八丈島でも仲良しだったと予想されるが。
>>111 そうか、小西の存在も忘れていた。
商業と政治の両面に口出しできる小西家がいなくなったら、
戦火にあわずに発展した堺の経済も停滞していたかも。
ここはsage進行だぞ。
それはともかく・・
>>118 結城秀康といえば
梅毒で鼻が壊死して木で型を作ってたといったな。
江戸城に泳いで入城した際にはティンポコも木で型を作ってたのが
極端にでかすぎて、衆目を浴び、恥ずかしがった秀康が
自分の名を問われた際に「ウタマロだ」と偽称したから
その後極端にでかいティンポコを指してウタマロというようになった
という俗説があって、それが秀康の江戸入りが単なる
伝説に過ぎないといわれる理由だそうな。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 22:02:21 ID:DtFOu55W
ごめん、ちとマジレスだが、
>>1−5を見るにこのスレのタイトルは「もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら」
ではなく「もしも、関ヶ原で西軍が勝っていたら」だったようだな。
でもそのタイトルだと同じ内容のスレが大量にアルしな。
タイトルを間違った
>>1・・よりも、上手く誘導した
>>6−7の功績かな。
ここまで面白スレになっているのって
私も思うが、
>>6とそれをうまく受けた
>>7は偉大だな。
さすが、きちんと歴史を知っているって感じがする。
で、
>>84の続きではなく、その前を作ってみた。
五行目以降は、(実際のところ江戸城入城の伝説もあるようだが)完全にIFね。
仕事の最中、こんなことばかり考えていた…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
私も思うが、
>>6とそれをうまく受けた
>>7は偉大だな。
さすが、きちんと歴史を知っているって感じがする。
で、
>>84の続きではなく、その前を作ってみた。
五行目以降は、(実際のところ江戸城入城の伝説もあるようだが)完全にIFね。
仕事の最中、こんなことばかり考えていた…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
関ヶ原の合戦に破れた結城秀康と福島正則は、八丈島に流された。
八丈島へは時折、宇喜多家の船が立寄り、正則への酒と、心尽くしの品を置いていくこともあった。
猛将同士気が合ったのか、一掬の酒も一片の肴も、正則は秀康と分かち合った。
慶長19年・晩秋の船は、正則に酒だけでなく驚くべき情報をももたらした。
徳川家あやうし、と。
正則にこの事実を告げられた秀康はためらうことなく言い放った。
「江戸へ行く!」
正則はこの言葉を聞いた瞬間、己もまた江戸へ行くことを決めた。
豊臣家への忠誠も義なら、友を助けるのもまた義。
まして今の豊臣家の意志は、憎き三成の意思。
されば、命を捨てに行く友に殉じるべし。
その翌日、秀康は以前から患っていた梅毒で死に、遺骸は直ちに荼毘に付された。
己の葬儀を掘建て小屋の中から見つめる秀康と、正則は、八丈島からの脱出を話し合った。
島には見張りもいる。目立つ船はつかえない。泳ぐしかない。
二人のいくさ人は腰の大小すら外し、闇に隠れて海の中に飛び込んだ。
海流に逆らい二人は泳ぎ続けた。疲れ果てた秀康が眠ると正則がかかえ、正則が眠ると秀康がだいた。
島伝いに泳ぎ泳いで幾日経ったか、夕闇の浦賀に近づくと、かがり火を焚く多くの軍船が漂っていた。
ひらめく旗の印は、九曜、三つ巴、丸に上…。
そして安宅舟には、五七の桐!
豊臣の紋を懐かしんだ正則は、上ずった声で絞り出すように言った。
「夜の静けさには、我々の泳ぐ水音も聞きとめられよう。
かといって昼を待っても、明るい日の下ではたちまちに見つかるであろう。
さればそれがしが、注意を引く。その間に秀康殿は船の間を泳いで抜けられよ」
正則は船団から離れた一艘の小早に乗り込み、疲れきったはずの体で数人の兵士を瞬時にたたき伏せ、海に投げ込んだ。
「今の水の音で、敵共はこちらに気づいた。早く行かれよ。
それがしが江戸へ行っても将兵はまとまらぬが、秀康殿が行けばまとまる。」
秀康は何もいえぬまま泳ぐしかなかった。
正則は小早に残された銃を放ち、大音声を轟かせた。
「侍従羽柴正則朝臣ここにあり! わしを亡き太閤殿下のもとへ送るものはおらぬか」
捕縛ようと小早に乗り込む武者を、正則は奪った刀で薙ぎ、突き、切り裂いた。
多くの兵が倒れ、やがて挑む敵も現れなくなった。
遠巻きにする安宅船から鉄砲が掃射された。正則は掃射を三度までうけてようやく倒れた。
倒れ伏した正則の顔をあらためようと雑兵が小早に乗り込むと、小早の中にはくるぶしの深さまで血が溜まっていた……。
124 :
123:2006/10/23(月) 22:09:37 ID:fD5NuB0W
出だしが重複しているが、気にせんでくれ…。
それにしても高台院様も不憫だったよな
大淀様に亡き太閤殿下正室の座を追われ
宇喜多家預かりの身になるとは…
ああ、自分に子供ができなかったのを棚にあげて淀様に楯突いたあの裏切り者か
亡くなったとはいえこいつが豊臣を裏切ったから子飼いの将も流れた
最低の裏切りもの。
でも、その「子飼いの将」がもし残っていたら、三成と争って、
結局、漁夫の利を得た毛利が完全に政権を奪っちゃうって落ちになったんじゃないの?
逆に「子飼いの将」らが東軍についているおかげで、もし東軍勝利で家康が権力を握ることになっても、
福島、加藤が牽制して、家康も豊臣をつぶすわけには行かなかっただろう。
家中を分けたことで、どちらの結果でも豊臣の安泰につながる(可能性がある)ので、
そういう意味では功労者。
…ひょっとすると家康は、ねね様を正室にして、秀頼の義理の義理の父親になり
実権を掌握したかも。
高台院はむしろ三成と懇意だった説もあるから、豊臣内部での政権闘争って線もあると思うぞ。
>>128 いまいち言いたいことがわからんのだが、
三成と毛利の対立によって、三成に近い高台院が幽閉されたってこと?
>>128 うん、そう。
実はこれに関連して昔から一つ疑問があってさ、三成の三女、辰姫の事。
そもそもあの石田三成を父に持ち、秀吉正室高台院の養女になった女性が
北の果て津軽藩に嫁すのはちょっとおかしいと思わないか?
恐らく彼女は本来もっと上位の家へ嫁す予定だったんじゃないかと思うんだ。
当時権勢を誇った石田三成の実娘を、関白を複数人輩出した豊臣の姓を持ち
本人も従一位を授かった高台院の養女にして送り込む先といえば……
宮中に入れる準備だったとしてもおかしくはない。
それをさすがに豊臣の他派閥は黙過できなかったんじゃないかな、と。
ねねが近江人の三成と仲が良いというのはぴんと来なかったが(というか考えもしなかったが)、
確かに毛利なんかに比べれば、ずっと近い関係にあっておかしくないな。
ねねは成人後の加藤、福島らとは意外と疎遠だったって聞く
ところで三成の娘を養女にしたのは何でなんだ?
単に三成と懇意だったからなのか、大淀派の三成を取り込むための政略的なものなのか
三成淀殿のことめっさ嫌ってただろ・・・・・・
淀殿が妹の嫁ぎ先の徳川についたんだからさ
西軍が勝って、高台院さまが淀殿放逐したのに、皆何言ってんのさ
そこらへんちょっと曖昧なんだよね。
淀殿が一時大坂を追い出されたのも事実、高台院が最終的に宇喜多に行ったのも事実。
その理由に関して、戻った淀殿との権力闘争に負けたとか、秀吉と自分が可愛がってた
養女豪姫と猶子秀家の所へ自分から大坂に嫌気がさして出て行ったとか諸説あるわけで。
大淀派ってなんだ俺orz
そか。
秀頼が、石田三成か大野治長が淀殿と密通して生ませた子とかって俗説があったりするから
それなりに親しかったのかと思ってた。
言われてみれば三成は、淀殿が秀頼の母として政治に口出しするの嫌ってたって聞いた希ガス。
勘違いだったらしい。
>>134 追い出されたのか、自主的なのかというのは分からないが、
とにかく互いの顔を見たくなかったんだな。
秀家あたりは、近くに義ママがきてうれしかったりするのか?
皆! スレタイ見てみ!
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 21:08:11 ID:yu/XdRmX
東軍が勝っていたら高台院は長生きしただろう
そりゃ東軍が勝ってたら茶々は大坂城の主に納まったかも知れないけど
西軍が勝って毛利宇喜多上杉体制になっちゃんだから茶々なんて用なしさ
実際戦後の領地配分だって大老たちが決めてるだろ
だから家康ねねの、熟年夫婦が誕生するんだよ。
淀殿が大阪追放になったのは建前の上では、秀吉の遺言に従って
秀頼の御台所を家康の孫千姫にしようとしたせい。
あまりに政治音痴だったわけだな。空気読めよ淀
実は東軍に愛人の大野治長がいたので東軍に肩入れしたのがばれた為
とも、それを口実にして煩い淀を一時的に隔離したとも。
高台院が最終的に宇喜多にいった。それは多分宇喜多の京都屋敷でしょ。
寺と屋敷の往復生活だったと聞く。
なぜにこんなことをしたのか理由は不明だが、秀吉正室の彼女が宇喜多の
後ろ盾だと明確にしておくことで秀家の立場を応援したんだと思う。
重成は豊臣秀頼の小姓として大坂城にいたが、小姓仲間で津軽為信の嫡男であった津軽信建の案
↑ごめん・・最期の一行は間違いです。
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 23:11:54 ID:yu/XdRmX
徳川秀康は家康が生きていたらかえって冷遇されていたかもな
豊臣朝臣を名乗ることも、徳川氏を名乗ることも許されず
結城秀康のまま一生を終えていたかも
ところで豊臣一家についてだが
豊臣秀頼には
正室との間に嫡子、これが豊臣秀仁
身分の低い?侍女なにがしとの間に庶子が一人
この方が幼名国松 豊臣秀文
で最期に娘が一人 清子
彼女は晩年に天秀尼として女人救済の寺を建立したことで著名
で秀仁様は愛妻家か恐妻家かしらないが正室一人だけで
生まれたお子様も愛子という娘がひとり
このせいで女性関白容認論議というのが
当時の政権首脳部で激論となっている。
また、そのせいで秀仁は世に名高い悪法生類憐みの令を発布している。
で秀文のほうは奈良に所領を賜り、なぜか豊臣の姓を緩されず
豊篠家の姓を名乗っている。彼の正室は三成の孫娘
こちらも生まれたの娘ばかりでやっと男子を誕生したが
この男子に豊臣関白家を継がせるかで揉めたのは
結構有名な話。
秀吉−秀秋−秀頼−秀仁に続く五代関白をどう決めるかで
有栖川宮家から豊臣家に養子をして存続を図るように
主張する連中が揉めている。
最期の清子だが黒田・・・じゃなかったw前田利常に嫁いでいる。
前田清子ね。
こうしてざざっと見ると・・万が一徳川家が勝利していたら
あそこは子沢山なだけに、世継ぎの男子が生まれずに
五代目を有栖川宮家から養子にしようとか
男子出生祈願のために生類憐みの令なんて悪法もでなかったろうから
その点では西軍が勝ってよかったのやら・・
・・これでいいのかな(少々タイムリーすぎるか悪のりしすぎたか)?
豊臣一家の構図これでよかっったかな?
漏れも詳しくないので詳しい方の意見欲しい。
来年の大河ドラマは久々に小西行長だったな。楽しみ。ただ主役が気に入らん。
亀梨ってジャニタレかよ。関ジャニの関東訛りで主役が務まるとは思えん。
大河ドラマねえ・・・
今年は変に家康を律儀の人に仕立てて、変なことになっているからなあ
>>147 東軍が勝ってれば正しい評価として扱われてたかもしれないぞ?
家康の評価は後年の豊臣マンセーなゴマすり国学者や講談のせいで
イメージ定着しちゃってて、どこまで捏造かわけわからんところもあるからな。
まぁそれにしても今年の家康のキャラは無理やりだと思うが。
キャスティングのせいか?ヤツが脚本に注文つけた可能性もある。
大河といえば山岡荘八原作の大河ドラマ『石田三成』は
極端に言えば義に厚い忠義の三成像として褒めすぎのきらいがあったな。
>>148 秀吉死去のあと家康が大阪城西の丸にもう一つの天守閣つくったり
勝手な縁組して前田利家と喧嘩になったりしたのは事実のようだから
いくらなんでも、その辺のことを全部スルーして家康は律儀と評価するのもねー。
大河つながりで。
11月から葵・徳川三代、時代劇専門チャンネルにて。
あわれなる徳川家の行く末に、涙しましょう。
>>143 家康は、関ヶ原から数年でぽっくり逝ったからね。
家康が生きていたら、多分忠輝も冷遇されっぱなしのままに滅亡。
…って、秀康、徳川姓はどうか知らんが、豊臣姓までは名乗ってないだろ、まず間違いなく。
ネタ?
武家においては5姓の中で豊源平藤橘の序列順だから
うーん。あの状況で東軍が勝つなんて、中山道の秀忠隊が
開戦前に到着する意外に考えられんよ。
実際、真田親子がいたから無理なんだろうね。
本多正信ってあの時に捕らえられて、家康を扇動したって
嘘みたいな理由で斬首されるけど、さすがにあれは無いよな。
しかし負け組庶民には人気があるよな家康は。
判官贔屓ってやつかな。
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:24:36 ID:CTRC9tpW
忍耐、苦労の人のイメージで売ってたからな
関ケ原で勝っていたら家康の評価も一変したろう
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:28:33 ID:WHX/uPTy
処刑直前に、柿は痰の毒だからって断る話は、
健康マニアたる家康らしいエピソードだよな。
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:42:06 ID:fDywx5Nc
でも死因は天ぷらの食中毒ってのが、またご愛嬌だよな
それも斬首される河原でのバカ食いだからな・・
家康って斬首されそうになった?
封地は削られているけれど家は残っているし、軟禁状態でのストレス死な印象もっていたけど。
なんにしても食中毒がきっかけで死んだのは間違いないんだろうけれどね。
あれだろ? 有名な家康影武者説。
家康は斬首されてる・・・ただ存命説もあって
三成死没後の豊臣政権に出入りし暗躍した南光坊天海は家康であるという
説が強い。彼が豊国明神に祭った灯篭とかの碑文には
羽柴三河守と刻まれてるのは有名な話だ。
あと江戸の豊国明神を建立したが、ここには桐ではなく葵の紋が使用され
てるのも、その説を証明している。
最近は天海を出家した家康の名前にして普通に出してる時代小説とかもあるからな。
存命説が確定したって学説は知らんが、まぁそれで面白ければおkか。
義経=チンギスハン説よりはましだしw
しかし……首まで切られて、なんで徳川家はのこったんだ?
ノヴァ・イスパニアに逃れたって説もあるけどなぁ
ホントのとこどうなんだろ?
>>161 単純に「250万石いきなり潰したらどうなるか」考えれば良いんじゃないかと。
戦場で捕らえられたといわれているんだっけ?
でもなきゃ、首ちょんぱは無理っぽ。
そのはず。
あるいは関東へ逃れる所を真田信繁が捕らえて切ったという説もある。
捕らえて渡せば大功になる所を、表に出すと取引で生き残る可能性を考え
後の禍根を立つためにあえて曖昧なままその場で始末をつけた、て話。
少なくとも公の面では冷酷官吏だった石田三成が真田関連の始末(信幸や
その岳父本多忠勝の件)では奇妙なほど真田側の赦免願を通してるのは
上田城戦だけじゃなくこの件も絡んでるんじゃないかと言われてる。
そのせいか東軍勝利のifだと大坂の陣では今一歩の所で家康を逃してしまう
場面を用意する作者も多いよな。
>あるいは関東へ逃れる所を真田信繁が捕らえて切ったという説もある。
これが京へ送られてさらし首ってことか。
しかし家康処遇に関する史料は、なぜこんなにばらばらなんだろう。
小説では無いが、影武者説って言うのが真実味を帯びてくる?
しかし、幸村がやったとすると、秀忠は、はやばやと切り上げずに
むしろ上田城に張り付く、またはあえて関ヶ原にすすんでいれば、
家康は生き残ったという可能性もある。
が、とろとろしていたら、関東に帰る前に袋叩きか…。
歴史のすべてを知っている立場でも、振る舞いに迷うところだな。
ベストシナリオはどれだろう。
しかし、幸村がやったとすると
じゃなくて
しかし、信繁がやったとすると
の間違い
教科書では本能寺の変は明智と家康の共謀ってことになってるが真偽は分からん。
家康は意外といい奴だったかもな。でないと逃亡説が真実だったとしても、
協力者なしには逃げられないだろうし、そもそも東軍にあれだけの兵力を揃えられんだろ。
ちと判官びいきかな。
>>168 本能寺云々は、豊臣史観ってやつだな。
でだ。本題だ。
東軍がかったら、どうなったか。
大きく分けると、
1、毛利を中心とした西軍の巻き返し
2、豊臣秀頼のもと、家康による執権政治
3、家康による政権簒奪
だろうか。
勝ち方にもよるし、なんともいえないけれど。
謙信と並んで律義者の代名詞の家康だよ?3はねーよ
家康は関が原の敗北後逃走中に捕縛されて六条河原で処刑されている。
が、公式文書には徳川家康ではなく世良田二郎三郎元康なる名前で記載されており
これが影武者徳川家康であるといわれる理由だとか・・
>>169 漏れは1だと思う。徳川家康といえば蒲生氏郷に天下を見る器じゃない
ケチと酷評されてたからな・・恩賞出し渋って東軍諸侯にも離反され
追い落とされて戦国乱世というのが妥当かと。
歴史家は家康率いる東軍が勝っていたら戦国乱世が続き
天下泰平な豊臣の世は訪れなかったという見方で一致してる。
うーん、色々考えてみたけれど、家康の思い通りに行ったとして、家康による執権政治、なのかな?
律儀っていうのもそうだが、組織のナンバー1よりナンバー2の方が安全そうだし、家康の性格にあっていると思う。
豊臣の嫡流が絶えたら、鎌倉幕府を参考にして、摂関家の人物や親王を戴いて、完全に傀儡にしてもいいんだし。
そういや江戸夏の陣で自害した秀忠の生存説もあるよね。
確か忠勝が逃がして、島流しになる前に正則が逃げてた黒田領
にいたって話。
もっとも、後年はアル中になって煙たがられてたらしいがw
あと秀忠の息子は島原の代官だかで、善政敷いてた天草時貞
って人らしい。
花の様なる秀忠様を、鬼の様なる黒田が連れて、引きも引いたり筑前へ
ってやつね。
本当に生きていても、大勢に何の影響も無いだろうがな。
ごめん、ド忘れしたんだけど姫路宰相って誰だっけ?
たしか立花宗茂だったような
まあ、すぐに改易されるんだけどな
宗茂って、東軍についていたら(なおかつ勝ったら)、
秀康あたりと気が合って、五奉行クラスにはなっていたような気がする。
宇喜多大納言秀家様が
関白になられるそうな
宇喜多といえば現在でも宇喜多財閥で有名だけど石田公爵家ってどうなっちゃったの?
石田「侯」爵家な。
よくしらんけど、二次大戦後の財産税でほとんど傾いたんじゃない?
最大90パーセントの税率だってよ。
宇喜多財閥は解体されて宇喜多グループになったんじゃなかったっけ
そうか、財閥解体後は「財閥」と呼ばずに「グループ」と呼ぶのか。
マジで勉強になった。
>>178 それは当時の俗説だったような。
当時は「石田様には及びもせぬがせめてなりたや関白に」と歌われる
三成全盛の時代だったから。
関白になって秀頼に政治への関心が無かったせいか
関白秀頼に太閤三成ありといわれてる。
処刑直前に鯛の天ぷらを振舞った三成が用意したタイは目白鯛だったといわれ
三成は祝いの席には必ず目白鯛をだした。
あと三成の館の庭には大きな池が用意され高価な鯉が泳いで、これをよく
来客に自慢していたそうな。
ここから「目白の闇関白」といえば影の最高権力者やキングメーカーへの呼び名
となり、権力者は三成にならって屋敷には鯉を泳がせるのがステータスとなった。
三成は鯉の刺身の食いすぎで寄生虫にやられて死んだんだっけな
このスレの住人は、東軍が勝つ可能性なんて考えたくも無い、
豊臣派ばっかなのか?
俺は、東軍が勝ったら、家康は世界に先駆けて共産主義国家を設立したと思うぜ。
朝廷からは将軍に任命されて、
家来が家康を呼ぶときは、「われらの同士にして偉大なる家康大将軍さま」ってよぶの。
>>185 俺は根っからの東軍派だ。
律義者の家康だから東軍が勝っても豊臣家は残りそうな気がするんだよな。
秀吉子飼いの将も健在な訳だしな。
ただ統治者としての家康の能力は未知数。
>>186 関東入りを調べて貰えればわかるけど結構なものだよ。
前年まで敵国だった北条領を上手く切り盛りしつつ発展させてる。
ただ、家康の関東での功績は全部直江兼続の手柄になっちゃってるけどね。
西軍が勝ったおかげで、合議型政権だったけど、どうなんだろうね。
毛利は部下は優秀だけど、大将が優柔不断。
石田は頭が切れるけど、石高少ないし、敵が多いし。
上杉、前田は天下取りの野望がなかったし。
どこか一つでも真面目に天下取りを目指していたら面白かったかも。
東軍が負けたことで多くの武士が海外に逃亡。
いまだに東南アジアでは、武士のよろいと言えば、赤が標準だと思っているらしい。
>>186の言うように豊臣が残るとすれば、やはり京都が政治の中心地かな。
古来、京を守る軍勢は負ける、という例も多し、家康は京には定着しないと思う。
その代わり、岡崎・浜松あたりを取り上げて、そこに本拠を移すんじゃないかな。
地元だし、京に比較的近いし。
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 21:24:31 ID:t6IAag6d
家康は三河の時代から「三奉行」制を敷いたり、
関東入りのときには伊奈忠次のような能吏を登用したりしている。
家康の政治家としての能力は武将としての力量を上回ってるよ。
ただ、家族的結合の強い譜代の三河武士が家臣に多いのも事実。
その処断を誤れば秀吉政権とたいして変わらなかったかもしれない
家康を甘く見ないほうがいいのでは?
彼の模範としたのは鎌倉幕府だぞ?
鎌倉幕府の執権北条氏みたいに徳川が執権となって
豊臣家を謀殺してしまうのは目に見えてる気がする。
あの狸は結構したたか、実の息子殺すくらいだぞ。
ただあの家康は全国の仕置きは無理なのは自明だろ。
今でいう農本主義っていうのか
米とか田畑のことには精通していても、商業とか興味ないと思うので
西国とか到底治めきれないと思う。
家康の代は何とかなっても苦労知らずな秀忠か、その子の代には
毛利とか島津や小西とかの連中が商業資本や朝廷と結託して
時代錯誤な徳川を追い落とすようになると思うな。
秀康、代わりに頑張れ。反徳川はみんな打ち殺せ。
忠輝、おまえも頑張れ。反徳川はみんな叩き潰せ。
>>191 タヌキはしたたかですか。
どうもアンチ西軍という訳ではないですが豊臣家の実権支配を明確にする為に
立ち上がり破れ滅んだという鮮烈なイメージが頭にあって
どうしても家康は律義者って意識が脳内補完されがちでしてね。
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 04:00:40 ID:tnibKoJm
そろそろ豊臣史観から抜け出してもいい頃だな
東軍が勝ってたら、徳川氏の本拠地の江戸が発展しただろう。
今頃、100万人を超える大都市になってたかも。
>>195 江戸市もこのたび浜松市とともにめでたく政令指定都市になりましたが
江戸が大規模都市になってたかもって関東人は夢見すぎだろ
あんな京から遠い僻地に今以上の人が住み着くとは思えないんだけど
関ヶ原のIFネタは、関東人は夢見ちゃうからね。
いくら関東入り以後それなりに発展し始めていたとはいえ
当時政治の中枢を移すだけのキャパシティは江戸には無かったんじゃないか?
田中角栄が日本の首都を新潟に移すって言い出すようなもんだと思うぞ。
もし当時の関東に十分なキャパシティがあったなら、関ヶ原以後関東に入封した大名は
後々あんなに苦労しなかったと思う。
>>198 関東が首都圏になると、京洛から江戸にいたる旧徳川系の地域が
東海道メガロポリスとかになっていたかもね。
そのほうが太平洋に面していた分利便性はよかったかもしれない、
関東なら広いしね。
でも現実にはいまだに
会津越後から京洛にいたる旧上杉系と前田系の北陸道地域から
そのまま宇喜多 毛利系の地域である中国筋から北九州にわたる
北越―山陽メガロポリスになってるわけで
大きな影響を及ぼしたのかもな関が原ってのは。
確かに田んぼしかない静岡にも、大都市が形成されたかも。
関東平野の広大な農地のおかげで我が国は食物自給率100%を優に超える米輸出国だからな
あれが農地じゃなくて人口ぎっしりのメガロポリスだったら日本人は何を食えばいいのか
想像するだに恐ろしい
>>食料自給率100%
米と一部の農作物だけ。
オレ、山形生まれなんだけど、上杉が最上を追い出して越後と羽前
を治めてくれたからすげー良いよ。
京からは遠いが、今じゃ東北一の大都市だぜ。
もし東軍が勝ってても、最上は陰湿だからすぐ改易か取り潰し
だったろうな。
さらに北の横手に押し込められた最上ざまーみろw
横手は小野寺だろ
>>204 結局取り潰されて、後から小野寺入ったんだよ。
関ヶ原直後は最上。
で、子孫はお情けで大坂の旗本。確か五千石だったかな。
三男の山野辺家は上杉で一万石貰って山野辺城主させられてた。
元から横手の小野寺は何処に行った?
小野寺は最上憎しで西軍についたから
旧結城領に加増転封になったんだっけ
お前ら記憶が曖昧になってきてるぞw
上杉は旧徳川領に移封。
ま、関ヶ原直後ではなく、徳川滅亡後にだけどね。
で、会津には加藤清正が入ったと
体よく追い出したな、ホント
清正も関ヶ原後はどうなる事かと思ったが
一説には三成に土下座までして許しを請い、会津35万石に返り咲きだからすげえもんだ
江戸の陣での働きもかなりのもんだったけどな
関ヶ原で浪人になって唯一大名に返り咲いた武将なんだよな>加藤清正
意外に伊達政宗が天下取ったかも
江戸夏の陣では真田を叩きのめし、三成をけっ散らかして秀頼に自害覚悟させたほどだし。
まあ後藤と薄田に討たれてしまったが・・・
やっぱり野心がないから駄目か? 親父の輝宗は野心家だったんだけどな
>>212 似たような立場だった市松は改易後島流しだし
関ヶ原で東軍として出陣していなかったのも大きかったのかな
会津もうまく統治してたみたいだし、凄い人だよね
>>209 上杉は関東には移っていないぞ。
上杉は関東管領の職責の追認と関東の総取次になったんだ。
佐渡もあり越後羽前で実高200万石といわれ
日本海交易も盛んで旨みのある場所を
わざわざ移るわけ無いよ。
関東移封は当初は宇喜多が希望していた。が京洛の防備の観点から
宇喜多が加賀に移って120万石
当初関が原において東軍だった為、減封されていた前田を
江戸の陣の戦功と合わせて江戸120万石に据えた。
ただ関東の小大名は全て上杉の軍令下に入るので、その辺は
関が原の東軍参加の影響が後々まで残した禍根だな。
おまいら意外に憶え違いが多いですね・・・学校でちゃんと日本史履修したか?w
まあ、高校ではここまで細かくはやらないからな。
資料集なんかには微妙に載っているけれど。
>>213 関ヶ原以後、豊臣と徳川を除けば、伊達と前田が二巨頭。
伊達は米沢や他の領地を得て、いくらか関東に近づくだろう。
徳川はおそらく本拠を尾張〜駿河に移すだろうから、関東は手薄に。
ここまでは多分確実。
家康の死後、伊達が前田と結ぶか、徳川を君側の奸に仕立て上げるのに成功すれば、
関東領有→東海を上るのも可能になると思う。
>>217 どうだろうね。前田は関が原に参戦できないわけだし、母親人質にしてる段階で
徳川に対する巨頭なりえない。伊達に至っては上杉と和睦し南部を攻めてる。
これは関が原の勃発前からの行動だから東軍が勝っていても
伊達は潰されたんで無いの?
>>216 そもそも関が原がマニアックなんだから仕方ないわなw
学研の「異説関が原」でちょっと2ちゃんねらーの歴オタに
注目されただけだしなwww
本能寺の変でならイフの歴史も成り立つが
関が原は「西軍が勝つべくして勝った戦」東軍の勝つ要素が低すぎる。
万一東軍が勝っても、豊臣恩顧と家康はギクシャクしてたようだし
まして家康とその周辺は商業とか上方に疎い田舎侍ばっかだw
まず天下を治めること不可能
蒲生氏郷が家康はケチと看破したように恩賞ケチってブーイングの末に
失脚したのは確実だろう。
そして戦国が続いて西欧列強の植民地がオチだろうな。
大概関が原で歴史に詳しいものがイフを語れば
東軍が勝ったら日本は戦国で疲弊した末に西欧の植民地ってのが
お決まりのパターンだ。
学研の「異説関が原」のように
家康が三国志のトウタク、秀康がリョフの役どころとなったのと
同様の結末を辿ってってのはちょっと笑えるが・・
淀殿を二人を離反させるチョウセンにするのは無理ありすぎだろうww
関ヶ原で東軍が勝ってたら、東軍の逆転劇とかで大注目されたのかな?
確かに東軍が勝てば面白いことは面白いが、現実的に難しいんだよな
後世には「布陣の段階で勝負は付いていた面白みの無い戦」とか言われるし
戦国時代の幕切れとしてはちょっと物足りない感じはある
だからIFを考える人もいるんだろうが
戦国時代の幕切れは
ずばり江戸の陣でしょう。
徳川家に改修を命じた方広寺の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」
を豊臣の姓を切って逆にして呪い奸臣家康の名を祝うものと
安国寺恵瓊長老の難癖同然の横槍が入り
方広寺の鐘銘問題で、なぜか本多正純と秀忠嫡子竹千代の乳母お福を
別に大阪に下向させる。しかも本多を応対した片桐且元が
厳しい叱責を、お福を応対した大蔵卿局が甘い対応をしただけで
本多正純は内応した裏切り者扱いされ追い出され・・開戦。
江戸城では家康の正統と三成こそ君側の奸ゆえ討つという檄文を
かつての東軍諸侯に送ったが
前田、黒田、藤堂、浅野、最上、堀尾・・いずれもこれを拒絶
参加したのは関が原で国を失った浪人大名(有名どころで黒田長政)と
西軍に遺恨を持つ無数の浪人が集まった。
総勢10万弱
大老筆頭石田三成は、このとき大阪城で一人哄笑していたと
いわれる。
ただちに江戸征討の命がだされ東軍奥羽の諸侯が動員した
総勢18万続いて西国大名の10万が江戸城を包囲
その軍は、毛利、小早川、吉川、上杉、前田、佐竹、島津、浅野
石田、小西、増田、長束、九鬼、宇喜多、長宗我部、蜂須賀、堀尾・・
といった諸侯と片桐且元や大野といった秀頼直参の旗本譜代といった
全日本の兵力の精髄が結集、総兵力は30万をくだらないといわれてる。
しかも、この江戸の陣には徳川家からも参加してる。
大名からは家康の子徳川忠輝 豊臣家旗本として結城秀康の子忠直、あとひとり
宇喜多公の陪臣といえば明石全登と小笠原権之丞のキリシタンコンビ
この二人は陪臣ながら10万石の領地と官位を賜っているのだが
実は小笠原は家康の子供だったりする。
武将としても島左近、真田信繁(幸村)、明石全登・守重、毛利勝永
塙団右衛門、木村重成、薄田隼人、速水甲斐、黒田長政、島左近等
伊達政宗、最上義光など古今の名将猛者が一堂に会してる。
一説には結城秀康と、福島正則も泳いで江戸入城したという。
伊達家も成実が後見で秀宗が家督を相続して存続
最上も上杉家に臣下の礼を取った義康が相続
政宗と義光は黒田長政同様、御家と無関係の浪人として奉公
禁止の沙汰と追放処分を受けていたが、これも入城してる。
この戦こそ戦国の幕切れにふさわしいと思う。
>>219 ちょっと難しいような
豊臣譜代の西軍大名が根こそぎ寝返るか日和るかすれば別だろうけど
現実的じゃないと思う。
引き分けに持ち込むのが精々じゃないかな。
まーそうなったら伊達とか黒田とか島津とか悪巧みして戦国に逆戻りしそうだけど・・・
ところで武断派率いての負けっぷりとか先行して猪呼ばわりされてるけど家康って本当に猪だったのかな?
小牧で戦略的に負けたりしてるせいで戦しか脳がないみたいに言われてるけど
実際悪賢い古狸とも言われてたんだよね?
金吾が裏切ってたら東軍は勝ってた・・・ってありえんか。
数少ない豊臣一門であり、関ヶ原直後に関白になってる忠臣だもんな。
関ヶ原の後わずか2年後に心労で死んだが関白は激務だったんだろう
まさに豊臣のために働いた若武者だな。
>>222 江戸の陣でわざわざ兄信幸ではなく信繁を上げるのか……
武蔵戦記から始まる一連の流れが誇張含みとしてもやはり立役者の一人だと思うがな。
信繁も出来は良いんだが性格か生まれた時期かいかんせん父と兄に食われた感があるから。
しかし江戸の陣と言えば三成は場内に真田が入ったと聞いて昌幸の遺策ではないかと関ヶ原
同様腹を壊したという逸話があったよな?
既に三年前に亡くなっているにも関わらずこれだから、案外本当に上杉辺りと組んで何か画策
してたんじゃないぁ、妄想だけど。
>>225 しまつたーっ「真田日本一の兵ぞ」といわれた立役者の信幸忘れてターッ
一番肝心な将ではないか・・・欝だ_| ̄|○
このスレの人たちが、他の考察スレに比べてうっかりしすぎな件wwwww
>>220-222 解説お疲れ。
しかし文章が錯綜気味で、よくわからん。
特に
>>222のところで、篭城組と攻城組がごっちゃになっとるな。気をつけよう。
>>227 ちょいと範囲が広いからな。他スレはもう少し限定してるとこが多い
日本全国の多くの大名が関わってるからえらい複雑になるし、あんまり
メジャーじゃないとこも語ってるからねぇ
それぞれ詳しくない範囲も語ろうとすると間違いも混ざるのは致し方ない
みんな、間違いを見つけてもやさしく訂正してあげようwww
>>229 ○それぞれ詳しくない範囲も語ろうとすると間違いも混ざるのは致し方ない
×それぞれ詳しくない範囲も語ろうとすると勘違いも混ざるのは致し方ない
にしといて
そういう俺も随分前に大間違いして突っ込まれたさ〜orz
元々ifネタ妄想スレだし気楽に書き込める雰囲気作りにわざと間違えてる人とか
便乗してる愉快犯も居る気がする。
まぁどうせ2chなんてID変われば別な人なんだし、恥ずかしい事なんてないさ。
このあたりは黒船来航のときに資料とか全部焼かれちゃったからな
多少食い違いがあるのもしょうがねえ
そうだな。
まして負けた側の記録となると、全部、とはいかずとも本当に数少ない。
二次記録となってしまうが、このころの史料でお勧めなのは、「武功夜話拾遺」。
最近、民明文庫になったから、読んどくといい。
234 :
233:2006/10/31(火) 20:29:29 ID:Sro662/t
間違えた。「新武功夜話」だった。
「武功夜話拾遺」は別のもの。
ちなみに、今、俺の頭の中に
「でっち上げようとした割には、すんなり語句が頭に浮かぶのでおかしいと思った、と白状せよ」
という怪しげな電波が届いている。
大河ドラマ「嫌われ山内の一生」もいよいよクライマックスか
最近山内一豊とか伊達政宗とか負け組のドラマ化多いよね
秀家とか義弘とかドラマ化されたことないし
オマイら日本の標準語は大阪弁やなかったか?
関東お笑いブームとかで関東弁はかっこええみたいな風潮もあるし
ネットだと関東弁使いたがる厨はようおるよなwww
あとは単純に田舎者なんかもしれへん
俺は東軍オタが高じていっつも関東弁使ってる。
よくウザがられるけどね。
わざわざPCの変換を打ち直して関東弁を書いてるこの苦労が分かるかーっ
関東弁じゃ未だに、たまにヘンな変換されるんだぞwww
生粋の大阪弁と標準語の使い分けでけへんヤシ多いで
ちなみに標準語の場合「できひん」と京都ことばをつかうから
ま、ここは東軍が勝っていたらってスレなんだから、関東弁がデフォでいいんじゃね?
実際に東軍が勝ってても、関東弁が標準語になることは無いと思うが。
関が原で東軍が勝利できたと主張する輩は、どういう根拠で
勝てたといえるのか?と思うときがある。
徳川家康は五大老筆頭として天下の政務を太閤秀吉自らに委託されているのを
よいことに、勝手な縁組や難癖つけて征伐敢行とか
大阪城西の丸にはもう一つ天守閣造営
どうみても主家乗っ取りを企む君側の奸にしか見えない。
朝鮮出兵にも出ていないことから朝鮮出兵は家康が豊家消耗を
狙って秀吉公に吹き込んだという話は教科書にも載ってる有名な話だし
関白秀次に冤罪を、秀長や千利休の死も家康がやったというのは
豊家や諸侯の日記や資料に載っており普通の歴史ドラマの定番。
きっかけの上杉征伐は家康の思いつきによる急な行動なのは歴然だし
西軍決起後は東軍の背後を狙う立場になった上杉は、徳川に協力すべき
最上は腰砕けで屈服、伊達は勝手に和睦したりと到底役に立ってもいない。
しかも他の東軍諸侯を信用できず関東に篭ったまま清洲の東軍諸侯に
先端を開けというばかりの臆病ぶり。
しかも家康が実際に戦闘を指揮したのは関が原からだが
徳川は秀忠の率いる主力は遅刻で参加できずw
家康といえば小早川に発砲して西軍総攻撃と東軍壊滅のきっかけを
つくっただけという戦下手っぷりだ。
それでいて東軍で真っ先に逃亡したのは家康だしさ。
東軍が勝った世界から来た者だけど、
家康は江戸に幕府を開いて250年続いたよ
豊臣は滅亡した
西軍といえば19万石の身代で250万石の大老家康に挑む
義士・三成の義挙で立ち上がり豊臣政権の4大老4奉行が参加
大阪と京洛の上方をがっちり抑え、西国の錚々たる諸侯が
賛同、天下三兵法と謳われる直江兼続、島左近、真田昌幸がそろって
帷幕に加わり、東と西から家康を挟み撃ちという壮大な戦略を実現
兵站財務の天才の石田三成、増田、長束が名を連ね戦中戦後の政権運営にも
兵站他にも支障ない。
決戦の舞台となった関が原でも見事に布陣の段階で勝利は約束されていた。
西軍敗北の前提条件も名文も理由も皆無じゃないか。
西軍は打倒家康で結束してたのに比べて
東軍は勝手な天下取りを夢想した伊達や如水の無軌道ぶりや
豊臣忠義の福島と徳川に通じる裏切りの黒田長政、藤堂高虎
事態静観の中立的な堀尾、中村、山之内といった
ばらばらの寄り合い所帯だし
史料や残っている手紙からでは西軍諸侯で内応や裏切りが皆無だったのと
比較しても伊達や東軍からの内応や情報漏洩は山のようにあるわけだ。
>>244 うーん・・東軍が勝ってた場合
戦国乱世が再発してたというのが予想できるところ。
せいぜい家康一代の天下だろう。
250年も続くとも思えん。
後を継ぐのがアホの秀忠だもんな
関ヶ原で負けたのもこいつの援軍が間に合わなかったせいだし、
江戸の陣で惨めな最期を遂げたし、期待できないな
東軍が勝ったらどうなるか、というのは、勝ち形によってまったく変わると思うから難しいな。
たとえば
「西軍の将兵が平氏のような腰抜け、東軍の将兵が荒くれた坂東武者だからあの布陣、兵力でも勝てた」
というんだった、そのまま勢いで東軍(の誰か)が天下を取れると思う。
実際にはそんなことないけれど。
>>244 豊臣をつぶして長期間天下を取るなんて…。
親王を関白か征夷大将軍にでもして執権になったのかい?
あるいは天皇家の外戚にでもなったのかい?
外国の力を借りたのかい?
アメリカと戦争して勝ったりするのかい?
やはり近代科学よりも錬金術の方が発達しているのかい?
秀忠はそんなに出来悪くはないぞ、減封後の領国経営の手腕はなかなか見事だった。
軍事面でアホなのはもう上田と江戸の件だけで十二分に分かるけどな……。
ていうかむしろ関ヶ原と江戸の陣という戦国時代でも五指に入る華やかな戦場で二度も
醜態をさらすはめになったのが可哀想とすら思う…・・・世の中得手不得手があろうものを。
家康がもうちょっと我慢して秀忠に譲ってれば、案外しっかりきりもりして国力を蓄え、
二、三代後には豊臣の乗っ取りくらいできたかもしれないのに。
家康には頼りなく見えちゃったんだろうかなぁ。
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 21:16:44 ID:GTpNU2BC
二代目はボンクラなのが多い。親父の築いたものを食い潰す。
秀忠もだが、石田重成だって似たようなもの。
でも最終的には、家康にたいしたものを残してもらっていないからなあ、秀忠は。
そういう意味では、重家や重成と並べるのはかわいそう。
残されたものがおおければ、249の言うような別の顔を見せたかもしれない。
(よろしくない片鱗は見せていたけれど)
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 21:51:41 ID:h+WCh3TW
江戸の役敗北の最大の責任者は
於江与君だよな
同じ姉妹でも慎ましやかで聡明な淀の方とは対照的。
いくら亭主がボンクラとはいえ
女が戦の采配を揮っちゃ勝てないよ
江与君もだが、竹千代の乳母の斎藤氏の責任も大だろ。
この2人が主導権争いに明け暮れた所為で江戸方は大混乱。
むしろその状況で浪人衆はよく戦ったよ。
と、江戸方贔屓の俺が言ってみる。
おまいらスゴい詳しいね。
最近関ヶ原辺りの時代背景に興味を持ち始めたんだけど、オススメの文献や小説を教えてくれないか?
>>254 影武者徳川家康をオススメする。
これは東軍が勝利していたらと言う世界を斬新な切り口で
考察した小説。
まあ分かりやすく言えば、家康を暗殺して西軍勝利を確実にせんと
あせった三成が家康を暗殺した為に、戦下手な本人から
政戦両面に才のあった影武者が活躍してしまい東軍が勝利してしまった
という世界。
当時の俗説だった
小早川秀秋の裏切りや吉川毛利の不戦の密約疑惑ももっともらしく
描かれている。
がラストの家康が東照宮という神社で神として祭られているという段になると
ちょっと徳川贔屓が過ぎる気がしないでもない。
いくら神君秀吉の嫡子秀頼公に仇なした奸臣として墓の造営も禁止され
後に遺体を掘り起こして鞭打ちして曝したという扱いへの同情が
あったとはいえ・・・・・。
司馬遼太郎の関ヶ原もなかなかだぞ
まあ司馬の家康びいきがすぎるけどな
三成とか左近は大悪人みたいに書かれてる
史実のように毛利、上杉、宇喜多、前田、小西や石田の連立政権
合議型公儀だったからこそ、まがりなりにも天下は平和になったが
この本の言うように東軍が勝っていたら生き残るのは
大老徳川による独裁政権だから、逆に纏まりはなくなり天下は
麻の如くに乱れるだろう。
豊臣恩顧は健在、前田は手が出せない。伊達は長期戦の間に巨大化してるだろうし
上杉も越後最上は併呑してるだろうから容易に手が出せなくなってるのは確実。
毛利も本土が無傷しかも大阪城を抑えている。西軍が敗戦しても毛利が
すんなり大阪を出るはずも無い。せいぜい家康は伏見で政治を見るくらいだ。
西国諸侯も無事、黒田が巨大化してる・・
こんな状況で家康が勝っても、家康独裁ということは徳川への協力者も
皆無ということだから、なおさら孤立無援になって
徳川は失脚、天下は混乱であろう。
徳川の天下で世が治まったというラストは、やはり小説でしかないんだがね。
家康の孫で日本全国をぶらついてる爺さんの話しらない?
>>258 講談かなんかで人気の出た創作だよね。
今の子は知らないだろうな。いや、パチキのあいだでは大変な人気だそうだ。
さあ?
自分は聞いたことが無いな
江戸の陣の後秀忠の息子が長崎に落ち延びて天草某になったとか言う伝承は有名だが
>>258 260が知らんのも無理ない。
モデルらしいモデルすらいない、完全な架空の人物だからね。
その爺さんどころか、爺さんの父(つまり家康の息子)とされるやつも、存在しないから。
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 01:57:22 ID:o5ZajyRW
関が原西軍勝利後、豊臣政権の特別職『大目付」を秀頼公より拝命した石田三成は、名を『石田大成」
と改称。豊臣政権の検事総長になって、徳川征伐と徳川100万石に減封を画し
たが、いまだ、その願いは、加藤清正、福島正則らによってはばまれている。
が、加藤清正は、寝返りの遅すぎ、福島も見物に転換のため、それぞれ、9万石
となる。石田三成の処刑願いが、毛利輝元に一括され、助命減封となった。
そのかわり、石田三成は、『豊臣家」のため、豊臣が危ないときはいつでも、徳川
征伐に立ち上がることができるようになった。徳川家康は、引退させられ、
秀忠は『豊臣家の朝廷工作で失脚」『結城秀康が二代目の徳川を継ぐことに
なった、」秀康は豊臣秀吉が,一心に寵愛した人物で、秀吉公に信服。秀頼
とも近い。むここに豊臣傀儡の徳川が誕生。次第に、徳川の本来の土着性の
団結力、勢力は弱められ、あと、20年もたてば、今の半分の100万石に
なるであろう。秀康が徳川二代目である限り、豊臣は安泰。政権を維持できる。
石田は終生、豊臣の検事総長として、行く末は、大老職をも拝命するであろう。
よかったね。豊臣が勝って。これで、日本は欧米と肩を並べて、大陸進出、植民地
を得ることができ、『民族自決」の時代に大陸進出をするという、時代おくれをせず
いち早く、現地民族を日本に併合。西欧と仲良く、支那を分割でき、日本も自存自立
できた。よかった。よかった。豊臣勝って、本当によかったね。
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 05:09:38 ID:8hQr0Tmu
石田側の約束では
小早川秀秋が西軍勢につけば
小早川秀秋は関白になれていた。
金吾は実際に関白に就任してるじゃないですか。わずか二年間だけど。
よかった、よかった。
……検事総長って!?
小早川秀秋が死んでなければどうなってたんだろう?
三成が責任もって暗殺したって説もあるが
生きてれば豊臣にとっても結構面倒なことになってたんジャマイカ
しかし織田秀信も損だよなぁ。
戦後、三成に「もう少し岐阜で足止めしてたら濃尾二国の国持ち」
と皮肉られ、故地である福島正則旧領の尾張半国だもんなぁ。
しかも正室が徳川家光の伯母ということで相当警戒されてみたい。
江戸の陣でも大阪城留守居役だし。
その中で所領を守りきったことはやはり名君だと思う。
>>265 >>262が言っているのは学研の歴史群像新書でかたられているイフ物の
ひとつだ。史実じゃない。
改姓と改名したのは小早川秀秋のほうだ。
小早川は関白就任時に姓を豊臣と改め名前も2年後に秀詮としている。
歴史ゲームでもその段階になると秀秋の名前変わってるから知ってる香具師は
知っているw
このせいで2年後で死んだという説が出てるが実際は秀頼成人まで生きてる。
子供もいる。本願寺大谷派の大谷家は秀秋の血筋だしな。
これは東軍厨でも詳しい香具師は知っていてこっそり筋書きに入れてる。
大目付を秀頼公より拝命したのも真田昌幸だ。
徳川家は100万石も許されてない。30万石程度で江戸で秀忠が家督を継いでいる。
秀康は八丈島いきになっている(理由詳細は不明)。
彼の子供達は江戸の陣後も三河岡崎10万石で徳川の社稷を守った家康最期の子
忠輝のもとで細々と続いているのは
>>6-261までの経緯で推察つくだろう。
>>268 そうだったのか
俺はてっきり金吾は死んだものと・・・
豊臣秀詮と同一人物だったとは
>>267 まーうまくやってても、濃尾二国はもらえなかったんじゃないか?
位置的にあそこを二国まとめて与えるのは微妙な気がする
新しい設定が出来たの?
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 20:10:45 ID:oifAJYM9
>>271 マジレスすまんが・・秀秋が秀詮に改名したのと秀秋に隠し子がいて
現在まで家系が存続しているのだけはマジだったりする。
詳しくググれば、でてくるんでないか?
てわけでこのネタスレでも使用したの。
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 20:32:39 ID:e4dydHv6
石田大成は、家康を倒さねば豊臣家があぶない。といってただ、
一人立ち上がって、西国大名を説き伏せ、関が原にて家康を敗北
に追い込んだ「名将」である。彼が立ち上がらなければ、真田昌
幸も上杉を攻めていた。真田昌幸には、秀忠3万8000を
信州にて、釘づけ、ついに関が原に到着下のは、西軍勝利後の
家康逃亡後のこと。この釘付けの巧により、豊臣秀頼公より、
奉行職を拝命しておる。
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 20:44:21 ID:e4dydHv6
西軍は、やっとのことで、家康を敗北、逃亡
させたが、当面、豊臣政権を維持できるに精一杯。
江戸の陣は、結城秀康、徳川二代目就任ご、
10年経ってからじゃ。なにしろ、すでに豊臣政権
のカサのもと、徳川家康は大名の人事権を完全ににぎって
おった。それを排除、江戸に送り返し、引退させただけ
でも豊臣家としては大手柄。天下の人事権は、毛利輝元、
宇喜田秀家、上杉景勝、されに新たに、大谷形部のこ、
大谷大学、豊臣四大老が合議にて行う。石田大成は
一定の大名人事権に、干渉できる、『大目付」では
あるので。豊臣家を危うくする人材の登与は干渉権
が与えられた。後は石田の能力次第、石田はもっと
頭を低くして、諸侯に使えるとの「わび」にて
石田嫌いの諸侯も一時の落ち着きと安堵をえたのだった。
>>274 妄想劇場はいいよ。ここは「もし東軍が勝っていたら」スレだから、
東軍が勝っていた場合のおまいの予想を書けよ
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 00:28:40 ID:Rr/tTzwa
東軍が関が原でもし、勝っていたら、日本は、
世界から取り残され、後の侵略の災いとなっていたであろう。
徳阿羅の乞食坊主が神となり、日本は混乱に告ぐ混乱で、
世界の進歩に三百年はおくれたであろう。妄想はよしとして、
豊臣が勝ったおかげで、満州は今でも日本の傀儡国家だ。
大慶油田は、わが国の石油供給の長年の生命線になってきた。
豊臣勝ってほんとうによかった。よかった。よかった。
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 02:56:35 ID:1d4OdW/S
石田壱成は三成の何代目だっけ?
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 03:19:50 ID:9CF60yil
おじいちゃんだろ
石田家は十代で一成→二成→三成→(省略)→十成→一成と一周するから、
壱成は三成から数えて18代目の当主だな
もっとも一じゃなくて壱を使ってることから分かるとおり分家だが
分家じゃなくて妾腹だろ
純一の妾腹だな
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 23:55:11 ID:AX3wldIG
石田純一は三成の子孫なのか?
こりゃ、驚いた。
>>268 小早川は家康の悪霊に悩まされて狂い死にしたんじゃなかったっけ? 何でも関ヶ原の時に、東軍に裏切る密約を交わしていたのを破ったからだとか。
まあ、中年といわれる時期までは生きているからなあ。
悩んで死ぬんなら、もっと早く死んでいるだろうし、ただのデマだと思う。
殿中などで悩み苦しんでいる姿を見られているとかいう話があれば信じる気にもなるけど。
そういや宇喜多のお家騒動で出奔した奴らってどうなったんだ?
関ヶ原では東軍に加わってたらしいが
しかし家康も騒動煽ったりしたわりには詰めが甘かったよな
弱体化狙ったらしいけど不穏分子排除で秀家には思いっきり追い風になった
自爆したといわれても仕方ないよ
糞関西人ども乙www
結局維新で勝ったのは俺ら福島人www
いまだに総理大臣率ナンバー1だからwww
何か山口のジジイとかババアに恨まれてるみたいだけど気にしないwww
維新ってなにが対立したんだ?
豊臣は幕府開いてないからあくまで天皇の代理の立場で統治をしてたから
天皇をないがしろにしてたわけでもないし、開国はずっと続いてたし
契機は何だ
現代と比べて考えても、豊臣時代との間に国体に関わる重大な違いが思いつかないんだが
まさか自由民権運動のことじゃなかろう
すまん、日本史の授業で近代史のあたり寝てたから
維新って言われてもいまいち細かいところよく分からんのだ
維新っても豊臣秀喜が関白職を辞任しただけだからねぇ
ここは違う世界の話なのか?
俺の生きてる世界では、普通に東軍勝ってるし、徳川幕府は300年弱続いた。
江戸はすごく発展して、今は天皇陛下も住んでて、都になってる。
まあ、天皇陛下が移るにあたって、江戸から東京って名前に変わってるけど。
人口が1000万人を超える世界有数の都市だよ。
妄想じゃないよ。
事実だよ。
おいおい、小学校から歴史をやりなおせ、な?
大体、幕府なんて代物が300年続くか?
続いたとしても鎌倉や室町のように内戦が絶えない代物になることは簡単に予想がつくぞ。
あと、天皇が京都から動くなんてありえない。
それだけ家康の統治能力がすごいてことだよ。
だから会社の経営者とかに家康は人気がある。
あと、天皇陛下は平城京から平安京に移ったりしてるでしょ。
それと同じだよ。
畿内から出たことは無いだろ。
その妄想は、秀吉が「天子には明に移っていただく」って言ったのに近いぞ。
>>219>>294 ちょっとまて・東軍が勝利して天下が太平になるなんぞ
このスレで散々否定されているぞ。よくて家康一代の天下・・
というか東軍に勝ち目すらないわけで・・
ネーミングもな東京なんてwwまるで明かそこらの都市名のようじゃないかw
東の京都という意味合いで東京都とかネーミングするならなんとなく分かるがね。
そうなっても
おそらくは東西の経済人口格差の是正の為の二つの首都とかいうやつで
伊勢神宮の遷宮のように1年か何年かで京都と東京都を主上が
動座なされるという形式になるだろう。
江戸が単独首都になるなんぞありえんよwww
あと
>>296 >>それだけ家康の統治能力がすごいてことだよ
ちょっとまて確かに蒲生にケチ川とバカにされるだけのケチッぷりからして
節約面ではあれだが、逆にけち過ぎて人材が集まらず、ケチ特有の不信で味方の人望も
失って結局関が原の敗戦で大敗した
反面教師でしかないはずだが?
畿内から出たことあるじゃん。
大津京とか。
徳川幕府が治めてた時代(江戸時代と呼ばれている)は日本史上最も平和だった。
だから、文化的にすごく豊かになったし、江戸はすごく発展した。
やっぱり家康はすごい。
あと、2代目の秀忠もなかなかよかった。
とにかく家康はすごいから。
じゃあ俺は忙しいからこれで。
なんなんだ、この電波?
東軍厨もここまで来るとあれだな。
303 :
297:2006/11/07(火) 00:00:59 ID:tHBtLFu6
ここまで愉快なやつは珍しいな。
しかし大津京があったか…。
kityに普通に間違いを指摘されると悔しいな。
なんで幕府が治めて平和になって、文化的な発展やら都市の発展やらが起こるんだ?
幕府って、所詮基本は戦時体制だろうに
戦国時代の気風が残ったままってのも危険だし、なしくずしで家康が天下を簒奪したんじゃ
収まりがつかんだろう
日本中が富国強兵の嵐になりそうだが
つか文化的に豊かになったって、武士がまがりなりにも文化的な発展に
貢献したと言える時代なんて安土桃山ぐらいだぞ
幕府をおいたって言う江戸で文化が発展するなんて不可能だと思うが
西軍が勝ったとか妄想はやめろよw
畿内人のコンプレックスもそこまで行くと恥ずかしいよw
石田は斬首、宇喜多は島流し、上杉毛利は30万石に減封、豊臣は60万石に格下げ。
これが真実。どう足掻いても歴史は変わらんだろ。
まあ、あの後、どこでどうなったかは忘れたけど南部様が征夷大将軍に任命されて日本は一揆文化が花開いたよね。
さ、俺も週末は接待一揆だ!
>>305 >石田は斬首、宇喜多は島流し、上杉毛利は30万石に減封、豊臣は60万石に格下げ。
初めの3者はともかく、なんで豊臣が60万石になるんだ。
家康だって豊臣のために戦っていたのは間違いないだろ。
せめて理由ぐらい何か考えてみ。
ちなみに、徳川幕府ってのは、本当にあり得るかもしれない。
関ヶ原から十余年。大阪城にて。
秀頼「今度こそ朝鮮や明を攻めようぜ。」
秀忠(もし生きていたら家康)「無理っす、勘弁してください。」
秀頼「じゃあ、琉球やアイヌで我慢してやる。お前、大将になれ。」
主命により、徳川家が文字通りの征夷大将軍に就任。
外征後もそのまま警察機構を担当するとか。
だったら、武力が不要となった豊臣関白家を中心に、公家文化が復興。
……でも江戸が東の京なんてことはないな。
当然遷都もない、せいぜいが行幸するぐらいだろ。
>>307 はぁ?徳川幕府?いつ俺が徳川の狸が幕府を開くと言った?南部様が幕府を開いたんだよ。
舐めてんのか?土一揆起こすぞゴラァ!
豊臣が60万石に格下げは南部様が分捕ったからだお。
豊臣の大老として自分の家臣に豊臣の領土を分け与えたんだよ。
だから畿内はほとんど南部領。三日月の兎も呆れる一揆熱。これだよ。
>>308 確かにあんたは言って無いな。
「徳川の狸が幕府を開くと言った」のは
>>292。
まあ、タイミング遅れのレスで引用もせずに書き込んだから、勘違いされても仕方ない。すまねぇ。
で南部は、やっぱり津軽を滅ぼすの?
仙台の一つ目小僧に悪戦苦闘していた南部がどうやって幕府を・・?
それと
>>305>>308 このスレの主旨は「もしも関が原で東軍が勝っていたら?」だ。
>>西軍が勝ったとか妄想はやめろよw
この言動が、おもいっきり横道にそれている件について・・
東軍が勝った場合を想像しているうちに、自分で本気にしてしまったんだな…。
>>311 そうなんだよ…。
>>310さんスマソ。
だってよぉ、うちの岩手県いいことねぇからさ。もし関ヶ原で家康が勝ったらうちもその恩恵を賜ることが出来るかもしれないだろ?
関東が田舎だって言ってるけどよぉ、その関東にまで東北は馬鹿にされてるんだよぉ。
石田が何してくれたってんだよ!豊臣が何してくれたんだ?何もしてくれないだろ?
もし家康が勝ったら関東が日本の中心になって東北は関東の直近の地域になってただろうからさぁ・・・。
南部さまは伊達に馬鹿にされるは津軽にゃ裏切られるわ、いいとこねぇんだよぉ。
東北の主な産業は出稼ぎだからなぁ。これじゃあ植民地だよぉ。
同じ東北でも、山形と福島以外は酷い有様だからな…。
上手く立ち回った仙台と津軽はそこそこ発展してるが。
上手く立ち回ったのは秋田だろ
関ヶ原前の行動は灰色なのに、事後は見事に白と言い切ったからな
伊達と津軽は取りつぶしになるのを回避しただけで、発展なんてレベルじゃないぞ
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 16:16:25 ID:xXytZ913
もっと遊ぼうよ。せっかくのスレガ台無し。
豊臣が勝ったのは事実だから、徳川が
幕府を開いたら、どうなったか、なんて
妄想はやめようよ。
いや、スレタイは関ヶ原で東軍が勝っていたら、なんだが
徳川が幕府を開いたらって妄想も、あながちスレタイからは外れてないような
話は代わるけど
>>210-214の会津加藤家を継いだ保科正之って伝承だと秀忠の隠し子なんだよね
みなもと太郎の漫画で知ったんだけど
>>317 会津加藤家を継いだんじゃなくて家老かなんかだろ保科正之。
清正にはちゃんと子供がいたよ。
不肖の息子がね…。
>>316 仮に徳川が勝ったとして、将軍になんかなるか?
鎌倉・室町幕府の将軍家を見ろよ。
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 21:28:50 ID:NS+71aab
徳川がもし勝っていたら、おそらく三河が首都になってたかもしれんで。
関東からは出て行くやろ
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 21:37:49 ID:h1aU1Rc0
東軍が勝ったなら、家康は将軍になったかもしれない。
でも、秀頼が成人した時に政権を返したと思う。
律義だし、秀吉との約束を破るわけがないからな。
>>320 江戸に幕府を開いて江戸幕府(ちょっと笑えるネーミングだ)というのが
東軍厨の定番ですが?
東軍が勝ってたら豊臣家は関白にして、自分は室町での鎌倉公方とかのように
東国を預かる征夷大将軍になってだなー幕府ってーのもありかと思う。
>>321 それはないと思うよ。駿河のような気がする。
結構すごしやすく、東海の要衝であり、
家康が育ったのあそこだし、三河は逆に古い連中が多くて
やりにくいだろ?
>>323 ナンバー2が実権をもつというのが、日本史の常だしね。
家康なら、それを選ぶだろう。
律儀という名声も、権力も、両方手に入れることができる。
江戸に律儀に居を構える必要はないでしょ。
普通に考えたら守りが堅い小田原に移すんじゃないの?
仮想敵国がどこか、にもよるね。
もし敵が北にいるなら小田原、西にいるなら箱根以東と思う。
仮想敵国といっても、東軍が勝ったら家康と正面切って争えるのは居なくなるぞ
西軍大名の領地召し上げて徳川とその譜代の石高がかなり増加するだろうし
東軍についた伊達とかが百万石超えたりするかもしれんが
徳川と対等以上に争えるのは豊臣家だけになるんじゃないのか?
あとは不満を持つ大名の連合かな
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 23:31:17 ID:GcAvnp34
秀頼は、さすが、真田幸村が「りりしきお姿」
と言うだけあって大将の器成り。
約束を渋り、豊臣をつぶそうとした家康に
大阪の陣にて、伊達政宗の寝返りにて、
逆転勝利。江戸の陣にて、ついに徳川滅亡。
大坂の陣?
何を言ってるんだ?
関ヶ原で東軍が勝利した場合、家康は次に豊臣家を滅ぼすんじゃないかというifでしょ
まあ生涯律儀者で通してきて、太閤殿下に信頼された家康が
主君殺しをするなんてのはちょっと想像つかないが
そうなったら福島両加藤黒田みたいな豊臣恩顧の大名が黙っちゃ居ないよ
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 03:37:32 ID:NbKM3KXe
律儀だけで乱世を生き延びられたと思っている平和ボケが来た。
ソ連の傀儡だった社会主義体制が崩れて17年も経つのにまだ奴らの洗脳が残っているとは。
>>331 そんなIFを言っても仕方ない歴史を見て
生涯果てる迄に律儀にも忠臣であり続けた家康が
主家を滅ぼすとする方が難しいという事だ
歴史的裏付けもなく破天荒なifを認めるなら
例えば本能寺の秀吉黒幕説や
秀秋公内通説なども認めなければならなくなる
どうせ東軍勝利のスレにしてもせめて前後の史実には
合わせて考察したい。
本当に律儀ならば、秀頼が兵を挙げた時点で江戸に蟄居謹慎するだろ。
のこのこ関ヶ原まで上ってきて戦ってる時点で政権簒奪の意思有りと見るべきだよ。
まあ、石田も毛利も宇喜多も少し後ろめたい気持ちはあっただろうな。
家康も豊臣の大老として出陣したんだからさ。
家康の立場からすれば豊臣の大老として出征したのに何で自分が討たれなきゃならんのだ?って感じだろうし。
それに、賊だろうと朝敵だろうとやっぱり自力救済の観点から自分の身は自分で守らなきゃならんだろうし
家康が豊臣方と戦ったのも止むを得ないと見るべきかな?こんなこと言うと徳川厨と言われるのがオチだけど。
それにしても赤備えの井伊が真っ先に裏切ったのはうけたな。やっぱりアイツは外様だって話だよ。
あれは旧武田家臣団が造反したんじゃなかったっけ?
部下にあたりがきつくて人切り兵部とか呼ばれたほどだから
うべなるかなという気はするが。
仮に東軍が勝ったとしたら、当然正則や清正などは大加増だな。
まぁ、遠国だろうが。
その場合、こいつら危険だと思うんだよ。
難癖つけられて改易されるか、最悪の場合暗殺なども考えられる。
そうやって徐々に豊家の力を削いでいきそうだな。
律儀な家康と愚鈍な秀忠がそこまでやれるか分からんが。
>>335 それはないw
豊臣恩顧として政治的に太いパイプを持つ両名は加増・懐柔されて
重く扱われるんじゃないのか?それに稚拙な推測だけど
新生豊臣政権の五大老として同格にあがることも考えられる。
まあその場合は筆頭大老は家康だろうから同格ではないが。
>>336 うん。それが一番ありえそうな感じだね。
>>334 そうそう。
家康は親心で歴戦の猛者の赤備えを直政の配下につけたんだろうけど、
直政はそれに驕っちゃったんだよな。
本来なら敬うべき人生の先達たちをゴミのように扱うという愚挙に出た。
配下に不満が溜るのも当然だな。
井伊直政は家康の籠臣だから、下手に反抗できないし。
で、その不満が家康にとっては最悪なタイミングで爆発した訳だ。
家康もつくづく運がないな。
部下を大切に扱ったといわれる大久保忠世に赤備えを預けてれば
面白かったんじゃないかなと自分は思う。
でも忠隣だぞ。関ケ原時は。
神君である家康公が関ヶ原で負けるわけないだろw
お前ら妄想は程々にしておけよwWwWWWwwWWWww
無双のやりすぎ
>>340 可哀想に…
ほかの東軍ファンほど史料を知らないから
こんなことしか言えないんだな。
全く可哀想に…
344 :
341:2006/11/10(金) 22:54:11 ID:4HN5f7/I
345 :
342:2006/11/10(金) 22:57:44 ID:QtI1g01P
346 :
341:2006/11/10(金) 23:00:20 ID:4HN5f7/I
いえいえ。案外340も、突っ込み期待な気もする。
347 :
342:2006/11/10(金) 23:04:01 ID:QtI1g01P
それはともかく
>>340のいってる神君とはなんぞや?
家康のこといってるのかな?
あの律儀だけが売りの田舎大名が神として祭られるなど
ありえなさすぎなのだが。
>>339 たしか、忠憐が部下をてなづけているのは、謀反をたくらむ意思があったから、という小説をみたことがある。
例の東軍勝利話の派生ものだけどね。
>>347 無双ってゲームだと家康でプレーして関が原で勝つこともできる。
そうするとエンディングで家康が神君として300年の太平の世が・・・
となる。だから
>>341が無双のやりすぎと突っ込んだ。
そういうことです。
>342
無双の最新作やってないのか?
なんだか知らないが、東軍武将のシナリオがえらく強化されてる
最近東軍厨の社員増えたのかな
東軍武将キャラの何人かは、クリアすると家康が天下取るし
家康モードだとなんちゃら大権現とかって駿府のあたりに奉られる
厨全開のシナリオでかなりぶっ飛んでるんだが、
>>340はその辺りの突っ込み期待レスかと
お前ら家康公が東照大権現として祭られてることも知らないのかよw
小学校から歴史の勉強やりなおせよwwWWwwWw
ゲームの中の話じゃなくて、本当のことだよ。
家康公は関八州の守り神となってる。
やっぱり家康はすげー。
これが東軍厨か
下は、某ページからのコピペだけど、東軍厨って、この「勝ち組」と似たようなものかもな。
[1:ハワイの勝ち組]
昭和30年(1955年)の秋に私は海上保安大学の練習船でハワイに遠洋航海に行きましたが、
その当時ハワイに住む日系人の間には日本の敗戦を未だに信じない勝ち組と、
敗戦の事実を率直に認める負け組のグループがありました。
[2:ブラジルの勝ち組、負け組]
ハワイは日本に近いせいか勝ち組、負け組による大規模な抗争事件は起きませんでしたが、
日本から遠く離れ地球の裏側にあるブラジルの日本人社会では、
太平洋戦争に敗れ無条件降伏をしたのは、日本ではなくアメリカでした。
そしてこれを認めない者は、非国民とされました。
東照大権現って、ネーミングセンス無さ杉w
大体、関東には鶴ヶ丘八幡宮があるだろ?
待て待て、関東を守護する武将といったら板違いだが忘れちゃいけない方が居るだろう。
家康よりよほど霊験あらたかそうだぞ?
ああ、将門公。
関ヶ原で負けたのは、そのたたりかな。
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 01:20:02 ID:Bgnjpoup
平の将門は関が原では、徳川家康に勝たせたかったであろう。
なぜなら、源氏,兵士問わず、東国を首都にしようとしていた
徳川家康、平将門も、宮廷を裏切ってでも『東国」を首府にして
統治しようとしていた。平将門は、『逆賊」ではない。
いつも、相手にいくさを挑まれ、また、館を襲われ、また、
不意撃ちをされ、焼き討ちをされ、やむなく,立ち上がり、
正義の勝利を重ねる途中で、東国の、各郡司を攻略するしか
生きていく方法がなかったのだ。平将門ほど、民衆に慕われた
貴族はなかった。其の点、{田原淘汰」は一瞬のすき、将門が
兵を引いた瞬間を捉えて、宮廷より、{将門討伐}の命を受け、
挙兵した。最後まで、将門の勝利は動かなかったのだが、
平将門勝利今、一歩、田原の淘汰まで、あと50Mというとこで、
風向きが突然変わり、将門の馬が立ち往生、その瞬間に逆に
淘汰の矢で、将門は頭を射抜かれてしまった。
家康は、将門のうらみを「豊臣の公戦」として
西軍に勝利した。つまり、天皇にかったわけだ。
将門の恨みはなんと、500年近くの年月を得て
晴らされたのだ。そういう意味で、家康と将門は
源氏,平氏の違いはあるが、友達ということがいえる。
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 01:20:57 ID:Bgnjpoup
平の将門は関が原では、徳川家康に勝たせたかったであろう。
なぜなら、源氏,兵士問わず、東国を首都にしようとしていた
徳川家康、平将門も、宮廷を裏切ってでも『東国」を首府にして
統治しようとしていた。平将門は、『逆賊」ではない。
いつも、相手にいくさを挑まれ、また、館を襲われ、また、
不意撃ちをされ、焼き討ちをされ、やむなく,立ち上がり、
正義の勝利を重ねる途中で、東国の、各郡司を攻略するしか
生きていく方法がなかったのだ。平将門ほど、民衆に慕われた
貴族はなかった。其の点、{田原淘汰」は一瞬のすき、将門が
兵を引いた瞬間を捉えて、宮廷より、{将門討伐}の命を受け、
挙兵した。最後まで、将門の勝利は動かなかったのだが、
平将門勝利今、一歩、田原の淘汰まで、あと50Mというとこで、
風向きが突然変わり、将門の馬が立ち往生、その瞬間に逆に
淘汰の矢で、将門は頭を射抜かれてしまった。
家康は、将門のうらみを「豊臣の公戦」として
西軍に勝利した。つまり、天皇にかったわけだ。
将門の恨みはなんと、500年近くの年月を得て
晴らされたのだ。そういう意味で、家康と将門は
源氏,平氏の違いはあるが、友達ということがいえる。
そっか、どっちも関東勢で、無理難題をふっかける京都勢力と戦うという点では一致しているか。
将門公には、きっちり三成を呪って欲しかったな。
テレビで「暴れん坊関白」観る度、正直複雑な心境になる。
キノケン演じる豊田新之助(シンさん)のキャラクターがまたとても魅力的なだけに
・・余計に滅びた徳川の悲哀が引き立つというか・・単純に勧善懲悪を楽しめばいいんだけど
つい戦国ヲタの悲しい性でいろんな妄想をしちゃうよね。
マジレスすまん。
キノケンって最初なんの事かわからなかった。
木下健かw
>>362 常識だろ。
あまりテレビとか見ないの?
>>363 うんあまり見ない。
そういえば何年か前に流行ってた「キノケンタンゴ2」、役柄とかと全然違うんで思いもよらなかったが歌ってたのって木下健なの?
そう。
てか、役柄と違わなくね?
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 14:35:10 ID:popZVpWA
でも関ヶ原後に江戸に本拠を家康が置いていたら、
江戸も今は大きな町なんだろうな。
小田原ジャイアンツとか川越ライオンズじゃなくて、
江戸ジャイアンツだったりね。
平成の大合併で、豊島市と江戸市が合併で、
むさし市なんて間抜けな名前になったけど(笑)。
上記で、何が理由で維新が起きたのかの発言があったな。
あの時点の事情は難しく、又スレ違いなので詳細は避けるが
要約すると
鉄道敷設に関しての闘争だ。
欧州は英国で敷設されつつあった蒸気機関車の鉄道を
ノウハウのある英国が日本に敷設しようとしたのがきっかけ。
石田大老が強引に鉄道敷設を近江を中継地とすることで
利権を一手にしようとしたのも問題あったな。
安政の大欲とか弾圧事件もあって、結局維新となった。
清水 義範氏の著書「鎖国ニッポン」は関が原で東軍が勝っていたら
という設定で、こっちは家康が江戸幕府を開き豊臣を結局滅ぼし
300年近く太平を築くが交易を禁止し鎖国した為
時代の流れに取り残され蒸気船の黒船来航で一気に維新にいたる
という流れであった。
この前の大河見て気になったんだけど、何で東軍が勝ったんだ?
しかも、明日は石田大老の切腹だし・・・。
このスレすげぇよ、秀逸だ。
>>368 NHKが視聴率に走った結果。
大河ドラマ板でも叩かれていたよ。
>>367 「鎖国ニッポン」というか、東軍勝利→徳川将軍家 って流れの話は、
豊毛時代後期には成立していたらしいよ。
関ヶ原で東軍だった(元)大名家のいくつかに1820年ぐらいの写本があるから。
現在有名な明治期の小説・講談の下敷きはそれ。
いや、おまいら我らが政宗公のお陰で西軍が勝てたんだぞ。
直江が取り繕って豊臣家でいい位置とって、
江戸の陣で勝てたのも政宗のお陰。
てか、東軍勝ったら直江と伊達が黙ってなくね?
だって関ヶ原は直江の挙兵があってこそでしょ?
石田との共謀だったんだから。
そしたら直江は伊達と一緒に挙兵すると思う。
政宗厨ktkr
政宗は東軍の南部の一気扇動してたんですぅ、だから西軍何ですぅとか弁解状おくった奴だろ。
上杉の白石城を攻め落として、最上に援軍派遣しておいて良くいうぜw
もし東軍が勝っていたら・・・俺たち歴史好きをくすぐらずにはおかない、
もはや普遍のテーマと言っていいね。まあ一般人からは奇人扱いだけど(笑)。
自分が思うに、もし東軍勝利であったなら・・仮にも三国一の忠義者と謳われ
六条河原であの「家康死すとも豊家は死せず!」の名言を残した家康の事だ、
又違った形で豊臣政権の基盤を磐石なモノにしてくれた・・と敢えて信じたい。
家康は後世でこそ自分の器を勘違いした田舎大名という評価になっているが、
戦犯として監禁された折に薬草と擦りこぎ道具を所望し、悠然と薬を煎じて
いたという。爆笑しながらその姿を眺める門番に「人の一生とは重き荷物を
背負うて道を行くが如し。じゃが体が弱ってはその荷物も持てんじゃろうが!」
と言い放ち、さらなる爆笑を誘った下りなどはまさに尋常でない胆力というか
家康再評価の必要があるんじゃないのかな。
後年、西洋の軍人が関が原の布陣を見て「何故東軍が負けたのか?」と驚いた
というが、確かに紙一重の差で東軍にとって不運な出来事が多すぎたよね。
家康にしてもまさか松尾山に放った大砲を秀秋本人が喰らい爆死するなんて
想像もしてなかっただろうし、細川・藤堂の裏切りも同様だったはず。
(もっとも二人の変節はキャラからいって想像の範疇だったかもしれないけど)
いずれにせよ東軍が勝っていた可能性は充分あったわけだし
一度空想戦記みたいな形でそれを映画化してほしい(願)!
余談になるが再来年の大河がまた「忠臣蔵」に決まったらしい。
・・・がいい加減飽きたよ(同じ思いの人もいるんじゃないかな?)
関が原後に秀秋の兄を立て復興を図った小早川家が、三成の「実は家康と
通じていた寝転武士である!」という讒言のもと御家断絶を余儀なくされる。
がその百年後、密かに主君の名誉回復を伺っていた陪臣の子孫達が
大老石田六成を討ち果たす時を越えた仇討ち劇・・・確かにこういう
ストーリーが日本人好みなのはわかるんだが手垢が付きすぎ。
これやる位だったらもうそろそろ「大河ドラマ 義に生きた男徳川家康!」
・・・解禁してもいいんじゃないか?
2chで関ヶ原で東軍が勝つにはってスレがたったことある?
探したけど意外にも見つけられなかった
やっぱりあの布陣じゃ無理なのか・・・
>>373 おおお???
東軍の布陣、勝てる要素あったのか?
と思ったら、後の関白秀秋公が死んでいる・・・ネタかorz
秀忠の本隊を待って決戦に持ち込めば、野戦の得意な家康のことだし勝ちを拾える可能性はあるが
もたもたしてるうちに関東に上杉がなだれ込んできたりしたら目も当てられんし、
秀頼公ご出陣でもあろうもんなら戦う前から東軍総崩れみたいなもんだし
やっぱり負けるべくして負けたんだろ
上杉に釣られて上方をお留守にした時点でもうアウト
>>376 やっぱねぇ
本隊無しでの最終決戦ってのがまず頭オカシイしな
だから秀忠は親父殺しと陰口を叩かれる
しかしこのスレでも最初のほうで少し議論されてたし、東軍厨あれだけいるのに専スレ無いんだな
東軍厨の妄言はIFとかそんな次元じゃないからなあ
秀秋と広家が内通してたなんて真顔で言う連中だぞ?
負けたのは奴らのせいとか言い出してるからまともな議論ができるわけもない
>>378 え、ここってそういう困った君たちの隔離スレじゃなかったっけ?
>379
後ろ、後ろ〜
381 :
6:2006/11/13(月) 22:01:15 ID:2J8Csm3m
こんばんわ
>>6です
つかなんじゃこりゃwww√ ̄\∧√Уγ¬√Wwwwwwww
おまいらおもしろすぎなんじゃああああああwwwwwwwwwwwww
ということで戦国初心者の俺様に関ヶ原後の歴史の流れを教えてくださいw
>>381 貴殿と漏れとの掛け合いが、きっかけで、こういう展開になったんだよ。
まさかみんなが、ここまで乗ってくるとは思いもよらずってとこですね。
とマジレスしている漏れは、このスレの
>>7だったりする。
このスレの
>>1にも意見を聞いてみたいところだな。
>>関ヶ原後の歴史の流れを
はっきり、申して、いまだ未知の部分が多いんですわ。これが・・・
(というか、全部いっぺんに決めてしまっては逆に面白くないんでというのが本音)
>>378 まあ、仮にでも秀秋と広家が内通してたとしよう。
でも関が原の布陣を見たら、いっぺんで気持ちは変わるな。
恩賞も魅力的だし。
多少世話になったとはいえ田舎モノの家康の下につくより
自分が関白として豊臣の頂点に立てるチャンスを棒に振る
バカはいませんよ。
関が原で勝利の後
秀秋公は関白として天下を・・
広家公ははれて毛利の陪臣から直参大名に格上げ石高も倍増
だしね。
>>382 >>関ヶ原後の歴史の流れを
>はっきり、申して、いまだ未知の部分が多いんですわ。これが・・・
そろそろ地域別、または大名家別に判明している部分を整理したいね
関ヶ原後の資料はとても少ない
西軍
総大将 毛利輝元
首謀者の石田三成
輝元の従兄弟の吉川
秀吉の甥の小早川
三成の親友の大谷吉継
豊臣政権で優遇された上杉
義勇兵で集った島津義弘
その他、豊臣恩顧大名
東軍
総大将 徳川家康
馬鹿息子秀忠
好き勝手暴れて信用できない伊達・黒田父
変節漢藤堂
頭が足りない福島・加藤
甥に見捨てられた最上
なんかやる前から結果見えてたような面子だな
当時の人間はそんなこと思ってなかっただろうけど
とりあえず東北地方の纏め。但し記憶が曖昧なので補足よろ。
【青森】
津軽地方:津軽
下北地方:南部
(互いを牽制させる)
【秋田】
海沿い:秋田
横手:最上(後に改易)→小野寺
湯沢:片倉(加増移封と言う名の分断策)
【岩手】
全域:天領及び小藩多数
【山形】
内陸:上杉(直江)
庄内南部:大宝寺
庄内北部:小野寺(横手に移封後は大宝寺)
【宮城】
全域:伊達(但し白石一帯は分家が治める別藩とされる)
【福島】
会津:上杉
その他:東軍武将や日和見武将達による小藩多数
新潟は言わずもがな上杉。茨城も佐竹が安堵だったはず。
>>375 家康の陣をもう少し後方にしておけば、毛利に背後を付かれることは無かった。
この点さえ抑えておけば、
西軍大将格の石田や宇喜多の軍勢は最前線に露出していたんだから、
加藤や福島がもう少し気合入れていれば、勝てたと思うんだけどな。
>>388 あの布陣では多少の変更では勝ち目は薄いだろうね。
伊達に関が原の合戦は「勝つべくして勝った戦」などといわれていない。
>>384>>386 あの時分は
盆栽政策と称される大名鉢植えの時期だからちょっと総括が難しい。
徳川打倒の功労者といえる上杉にしてから直江は関東鎮撫に借り出され
景勝は奥羽平定に借り出され、
西軍総大将の毛利輝元は大阪詰、輝元代理の秀元は関東鎮撫に借り出され
吉川は秀秋とともに九州鎮撫に借り出され
といってみんな本土を留守にして全国支配体制の再構築と安定に尽力
していた。
又江戸の陣で大規模な転封と論功行賞が行なわれてるし・・
不勉強で申し訳ないんだが、関が原で敗北した家康は斬首されたんだっけ?
江戸の陣の大将は確か秀忠だったよな。
>>390 上のほうに出てるが家康は斬首(というか切腹という説もある)。
ただ生存伝説で家康は豊臣家で暗躍した南光坊天海だともいわれている。
人質として忠輝が大阪に行くことで徳川は存続した。
忠輝は秀頼と同年代で気があったらしく奉行ともなり岡崎10万石で大名として
徳川を再興している。家康の息子で大名として残ったのは忠輝だけ。
ゆえに東軍厨の妄想徳川勝利絵巻では忠輝は家康の息子でただひとり
改易される運命に描かれてる。
ただ秀康はあらぬ濡れ衣で八丈島行きになっている。
彼の息子が結城と松平として尾家存続している事を見るに
秀康を遠島にしたのは、江戸の陣で秀康が江戸城に入ることを
恐れた隔離であったという説が正しいだろう。
秀康は秀頼、三成とも懇意だったから、納得尽くで取引したって説もあるな。
本人父親とは折り合い悪かったみたいだし、秀忠じゃ不甲斐ないと思ってた
徳川の武闘派連中に担ぎ出されるのを嫌がったって話もあるし。
政権構成は
【豊臣氏長者】豊臣秀頼
【関白太政大臣】豊臣秀秋
【五大老】
石田三成
毛利輝元
上杉景勝
宇喜多秀家
小西行長
【五奉行】
増田長盛
長束正家
前田玄以
安国寺恵瓊
三成が抜けた穴には三成の推挙で親しい田中吉政がはいってる。
これまた東軍厨の妄想徳川勝利絵巻では敗走した三成を捕縛する
役回りになってる。
あと
【大目付】真田昌幸
【秦者番】
いわゆる豊家直轄軍として旗本八万騎を編成したが、その指揮官としての
秦者番に1万石として直参昇格した島左近をあてた。
とおもう。違っていたら訂正よろしく。
保守
家康が政権を握ったら農本主義的政治になるという人いるね。
俺もそう思う。
近世のころからある産業を考えると、有田焼、萩焼といった焼き物があるけれど、
家康が政治を握ったら、実用性より華麗さを追求した焼き物産業は、成立しなかったかもね。
>>393 五奉行までは合っていると思う。その下は知らん。
皆五大老の面子やら豊臣政権の基盤みたいな細かいことは学校で習っても忘れてるぞw
ここは「もし関ヶ原で東軍が勝ったら」という東軍厨隔離スレなんだからあまりマジになられても困る
>>395 家康なら伴天連どころか南蛮貿易自体を制限するだろうって人もいるよね
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/20(月) 10:14:15 ID:8g7fBWNY
まあそうだな。家康は、海外とか交易には興味薄そうだ品。
周囲を固めるのも視野の狭い田舎侍の家族主義経営
これでは南蛮貿易自体を制限するのもありかもな。
でもそれだとなおさら交易ヤ商業に精通した
西国諸侯や上方商人に出遅れて国力に差がついてくるだろう。
豊臣の代理に過ぎない家康が西国諸侯の交易を抑えるほどの権限をもてるとも
思えないし・・
関が原の状況からして、圧倒的勝利は難しいから和睦で勝利するのが関の山
であろうから
おそかれはやかれ関東徳川は時流に取り残されていってしまう結末に大差は
ないかと・・
399 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/20(月) 12:05:30 ID:OEgQQKF/
スペイン・ポルトガルといった南蛮諸国が没落し始めてたから、別の地域に貿易のターゲットを移すんじゃないか?
イギリスとかオランダとか…
漂着オランダ船の航海士を江戸に抑留した家康が?
ヨーステンいう南蛮人が関ヶ原後に漂着したらしいけど、
輝元の命令で積荷を奪って処刑したらしい
当時結構な問題になったそうだ
南蛮とは特別仲良くもなかったみたいね、家康。
アダムスを抑留したのは、大砲やその打ち手が欲しかったから、というのが第一の理由なんだろうけれど、
紅毛との通商の駒として使うつもりもあったのかな?
殺すよりマシとはいえ、抑留したら恨み買うだけなのにな。
……てことは、紅毛貿易に取り組むとしても、結局失敗。
いずれにせよ、西洋文明とは疎遠になるのは必至か。
>>401 処刑したっけ?捕虜として確保した後のことはよく知らんけど
存命してたという記憶がある。
揉めてたのは揉めてたよな、何が理由でヨーステンやアダムスいう色目人
で問題になったかは分からないけど。
>>399 そこまで積極的に貿易に手を出したかどうか・・
何せ、東海一の弓取りといえども保守的な風土で育った三河の百姓侍
家康の天下の場合だと、
土地や富が人口の数パーセントの富豪地主に集まり、人口の大半は
水飲み百姓として子供すら人減らしとして間引きされたり売られたりと、
結構貧しい暮らしを強いられてというパターンになりそうだな。
交易も積極的でない以上、そういった貧しい農業国に陥ってたはず。
さすがの東軍厨も家康が買って天下を取ったら、そんな具合になるという点では
ある程度一致してると思う。
どこぞの学者だかが、家康が天下を取った場合として
交易の制限と海外渡航の禁止、農業にしか視野のいかない政策
でシュミレートしたところ
300年経過しても人口3千万ほどのまま。秀吉の時分と大差ない状況になったそうな。
豊臣の場合農業以外の商業交易が盛んだったし、海外への移住もあったし
都市部や様々な産業が発達していったから
土地が地主に集中しても、余剰人口の働き口や生活場所はありあまってたしな。
たしか維新時の人口って、東南アジア居留邦人もいれると5千数百万人だったよね。
海外人口も考慮すると、徳川統治下での人口は、現実の二分の一強か…。
>>405 新大陸にも大勢渡っているから、その辺の統計を入れると
現実の5分の1弱くらいになる。
さらに日本語を商業用とか公用語として使用する連中を含めれば
10分の1くらい
しかし、豊臣政権下での徳川家の貶められ方は酷いな…
家康タネ無し説なんてのもあったし
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 22:17:47 ID:7zYgw4Ui
伊達厨の漏れが来ましたよ。
だから、江戸の陣で騎馬鉄砲隊を率いた伊達軍勢。
これがあったから、豊臣の天下はあるんだろ?
ああ、二万の兵で大損害を負いながら三千にも満たない井伊隊を壊滅させたんだっけw
江戸の陣を終結させたのは関ヶ原でも活躍した石田の砲兵隊だろう。
>>407 秀頼公は豊国明神(秀吉)の御胤ジャないという説のほうが・・・
江戸の陣で活躍したので名の知られているのといえば
毛利勝永関が原でほとんど働き無かったので挽回の為)
長宗我部盛親(関が原でほとんど働き無かったので挽回の為)
後藤又兵衛基次(旧主黒田長政の放免を願って)
塙団右衛門直之(江戸川に入城した加藤嘉明と因縁ある主従)
木村長門守重成(豊臣旗本代表として)
細川五郎興秋(細川忠興の次男で勘当された父に変わり細川家を相続した)
小笠原権之丞(家康の七男で豊臣譜代)
明石掃部頭全登(宇喜多秀家に代わり宇喜多軍を率いた)
といった名のある武将連中が思い浮かぶ。
江戸城では名のある武将はいても
女(お江与の方や竹千代乳母の斎藤氏)が口出しするは
戦争の内容を知らない文官(本多正純とか)が跋扈してるは
裏切り者(豊臣方に内通する細川幽斎や藤堂高虎)がいるわ
で、どうにもらならかったようだし
真田信幸が「日本一の兵」といわれているものの・・
めぼしい兵はいないな。
>410
確かに信幸は凄かったね。死して名を残すとはまさにこの事だよ。
最強の団結力と謳われた豊臣家臣団が若大御所放り出して逃げたって
言うくらいだからね。
東軍厨じゃないけどなんだか真田戦場跡に行ってみたくなったよ。
でもあそこ駐車場無かったよね。やっぱり佐助線で行った方が楽かな?
>>411 あと一押し。
あの瞬間に結城秀康が現れたら、秀頼の首は取れた!
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 18:30:23 ID:MjwKNH9J
惜しかったね。
それはさて置き、伊達厨の漏れだが、
伊達家って実際は徳川と仲良くしてたよね?
なんで、豊臣政権で偉くなっちゃったの?
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 18:33:52 ID:B0/kdvlu
土下座と胡麻擂りが得意だから
>>413 偉くなったといっても改易のあと許されて高家としてじゃん
官位だけww
そういえば、伊達邸に討ち入りしたのは何藩の浪士だっけ?
418 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 12:29:41 ID:B+wOVRgh
>417
トン
もう忠臣蔵の季節だな
東軍が勝つわけないんだから。IFスレツマンネ。
豊臣300年の平和を作った豊国大明神様こそが最強。
420 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 13:29:21 ID:Dyo4+1bg
で、倒幕の中心になった会津藩と奥羽列藩を残してしまったことについてはどーよ?
一応、結城朝勝も参陣してたんだけど
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 17:54:28 ID:ab2OiV8I
>>420 はっきりいえば潰して不穏な浪人を激増させるよりかは
減封して生き残らせてカツカツの暮らしをさせた方が
治安的にいい。
でも結果的には
どこぞの藩のように正月挨拶は「大阪征伐の儀はいかがいたしましょう」
と言わせてるような長ーい怨念も残したんだよね。
>>422 伊達の怨念も凄まじかったらしいぞ
生き残りのためとはいえ、あの正直者の政宗が家臣の元領地にすがって、秀頼にゴマをする屈辱を味わったからな
三成の奥羽コントロールは評価されてるが、あれでは恨みを買うのも当然
悪いけど、東軍が勝ってれば家康はもっと調和を大事にしたよ。家康の人格からしてね
というかそもそも「数百年後の政治状況を見越せなかった事」を遡って
数百年前の施政を批判するのはちょっと無理があると思うぞ。
大名に対する政策とその弊害の因果関係がはっきりしているから、つい批判しているけれど、たしかにそうだね。
あの時点では、あの方法が「最良」といわずとも、かなりの良策だったんだろう。
「豊臣百年の計」という表現もあるけれど、(小規模の地域紛争があるとはいえ)実際のところ政権は300年続いたわけだし。
426 :
425:2006/11/29(水) 18:44:32 ID:H5Fl5UrL
「計」をつかうなら「国家百年の計」という慣用表現か。
「豊臣の天下を百年とならしめるために云々」と言っていた。テレビで。
豊臣の天下っていっても東国の上杉、西国の毛利を抜きにしては
語れない安定だがな。
西の毛利は関が原の後、輝元が「六分の一殿」とか「安芸の山名殿」
という風評がたって、禍を恐れて大老筆頭を三成に譲ったが
毛利一族の力は、その後も豊臣や国政を動かし続けたし
奥羽の件についても上杉の存在がでかい。
景勝が「慶長元和の藤原秀衛」といわれるくらいに奥羽は上杉の
支配下におかれちゃった。
立花宗茂・・・
久留米の毛利秀包が秀秋が大阪に出て行った後、筑後博多52万石
を預かって・・その後小早川の家督とともに継承した。
ゆえに秀包の久留米領をどかして筑後一国24万石になっている。
豊臣政権で新たに鎮西探題を設けた際に
これに就任している。
ようは人材不足だった豊臣(ちゅうか三成)が外様でも信用できて
腕も立つ人材として白羽の矢が当たり九州の押さえになった。
なんせ肥前の鍋島も警戒必要だし
中国筋から豊後、伊予、筑前とくる毛利一門の背後を突く役割を担ってる。
奉行格というからご奉行と同列に政務を論じることも出来たという
重要な役割だ。
奉行格と言ったら、
織田信包も確か豊臣政権の最高顧問的立場で列席してるよな
「織田の老犬様」の異名で親しまれて、
淀殿・秀頼親子はもちろん三成からの信頼も厚かったとか?
詳しい事おせーて下さい
>>筑後博多52万石
ごめん筑前だったわww
中仙道の真田昌幸・信繁(幸村の異名があるな)も
大目付という役回りで同じく
毛利に対しても立花と同様の役回りを
上杉に対して担っている。
真田はなぜだか忍者の管轄を手広くやってる。
東軍にいた柳生を助けて召抱えたりだとか伊賀を飛び地で獲得したりとか
徳川のとこにいた服部半蔵とかを召抱えたりとかしてるしな。
裏真田とかいって剣術の得意な忍者を真田が扱ってるお話が
けっこうあるぞー
マンガだとカムイ外伝だとかあるし・・
映画だと深作欣二監督で中村錦之助とか松方弘樹とかでてた
「真田一族の陰謀」ってのがあった。
マンガで「子連れ狼」ってのがあるが、
もと公儀の高官だった拝なにがしとその幼い息子が
真田一族と争うというお話。
なお、現代版として週間マ●ガジンに“お●み松五郎”
てのがでている。
これは現代に続く拝一●の息子●五郎の末裔が
ヤンキーとして全国暴走族制覇とか学園支配を狙う真田十勇士と
激闘を繰り広げている。
バトルの後倒した相手を拝んでやるのが特徴。
>>430 伊勢の津に15万石で復帰(だったよな確か)してる。
が・・
長男の信重とは折り合いが悪くWW、信重は関が原で東軍に属するという
言い訳無用の親子喧嘩をやらかしてあと・・・
家督は3男信則そして彼に息子がいなかったので織田の名跡は
4男信当の子孫に・・・
長男の助命嘆願と人材不足の豊臣家で大阪城の勤めを
請われて信包は家督も譲り剃髪して老犬斎と号しながらも
丹波柏原3万6千石を与えられ奉行格という破格の待遇で
迎えられてる。
おがみ松五郎すごい好きだったけどそんな設定だったのか。
すっかり忘れてた。
何故秀頼は江戸の陣まで10年以上も徳川家を放置したのかって論議が
されてるようだけど、やっぱり淀君、千姫といった女衆の意向に
さしもの若関白も逆らえなかったというのがホントのトコらしいね。
実際江戸攻めの際、秀頼自身は秀忠・お江を城から救出し竹千代は
仏門に・・って前線の石田砲兵隊には指示を出してたらしいし。
・・・これはどうみても三成と左近の確信犯だな(笑)。
世間一般には秀頼って「非道関白」とか、ひどいのになると
「十五代関白将軍とならぶ凡庸人」みたいな言われ方をされてるけど
この事を考えると意外に秀頼って器量人だった気がする。
大体比較されてる十五代の豊臣秀喜にしたって大坂城を無血開場するなんて
「凡庸」どころか真の勇気が無いと出来ない英断だったろうし・・
とかく後世の評価というのは気まぐれなもんだと思うよ・・もっとも
秀喜の場合、長宗我部の所を脱藩した何とかっていう志士(名前忘れた・・
誰だっけ?)が実質的な立役者だったんだが・・それを差し引いてもね。
改めて秀頼や秀喜は再評価されてしかるべき武将だと思う。
ただし二人の評価と言っても「我亡き後、必ずイスパニア艦隊を持ってして
豊臣討伐を果たせ!」と遺言した伊達政宗と、300年後ホントにそれを実行
しちゃった伊達藩のスケールには到底及ばないが・・・
さすが「奥州(欧州)飛脚」の国だけの事はある(笑)。
>>434 維新の時に活躍した伊達と最上の実力は豊臣に隠しての
密貿易によるところが大きい。
伊達家正室愛姫の子でありながら家督を継げなかった頼宗が
江戸の陣の恩賞と(は名ばかりの)蝦夷地のうち10万石
に飛ばされ、そこからアラスカ領有して金山発掘に成功したあたりで
最上も北方入植によるシベリア開拓とロシアとの毛皮取引で
豊臣倒すくらいの力はできたろうね。
436 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/02(土) 21:20:36 ID:h1nZ5ek6
>>407 それはいくらなんでも電波。
関ヶ原以前に6人も息子がいたのに。
そうだな。
種無しは秀吉だよ。
秀頼は、秀吉の子ではないというのが通説だし。
438 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 00:58:36 ID:3gDlMxoD
いや、腹の中にもう一人子供がいて男子だったらしいぞ。
どっちにしてもそんな子作りしか能が無い男だよ家康は。
それで関ヶ原で張り合ったんだから、立派といえば立派?
あの段階で豊臣に対抗できるのは徳川しかいないし。
最上はずっと豊臣家をうらんでいたからね。
豊臣を倒したとき、千姫と義光の墓所に報告しに言った人も多いらしい。
北条家は1万石しかもってなかったくせに、ずっとうらんでいたのか市民まで動員して豊臣を襲撃する始末。
三成も頭はいいんだけど恨みを残さないことは考えなかったのかな?
441 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/04(月) 22:06:39 ID:bfOnubyB
日本史における三大忠臣として名高いのは
楠木正成
豊臣秀吉
石田三成
というのはまあ妥当ではあるし
日本史の三大美女として
淀殿がはいっているのはまいいとしても・・
日本史における三大逆賊として
源頼朝
明智光秀
徳川家康
なのは豊臣史観に偏った人選な気がする。
辛い幼少時代を送りながら天下人秀吉に見初められ幸せを手にした淀殿は今でも女性の憧れの的だしな
>>441 楠正成と石田三成はともかく、
豊臣秀吉は間違っても入らないだろ。
入れるなら(世間的に)大石内蔵助。
忠臣内蔵助ってくらいだからな。
三成公は神様だしな。
神さまは家康公だお
>>443 戦前に出来た呼称だから今の概念とはあわないよな。
当時は天下人となっても頼朝なんかと違って将軍にならず
関白や太閤で通した秀吉は一応忠臣だったろうけど。
449 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/05(火) 15:01:29 ID:VkGEmQrA
それにしても役の後に出た大量の浪人達を日本人町の増強に充てた政策は巧いと思う。おかげで山田長政が南蛮に一大王国を樹立した。政策実行者は誰だっけ?
アジアの各地に租界を創って有楽町の名前を残した織田信長の弟だっけ?
何この西軍厨の妄想スレ。
家康が三成ごときに負ける訳ないじゃん。
家康の方が圧倒的に統率の数値が上だし。
>>451 はいはい、東軍厨東軍厨
いい加減に現実を認めろよw
>>451 典型的東軍厨キター!
三成が家康ごときに負けるわけないじゃんw
>>452-453 お前ら、信長の野望とかやったことない戦国素人だろw
一度でもやったことのある奴なら、家康の方が圧倒的に統率の数値が高いことを理解してるはず。
統率の高い家康が負ける訳ない。
455 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/06(水) 19:30:59 ID:pGQqS3Mi
>>454 統率だけで戦に勝てるなら誰も苦労せん。大石田公の人望あればこそ、東西で挟み撃ちの戦略が活きたんじゃないか。
>>454信長の野望?あー、家康マンセーのPが作ってるやつだろ。
>>442 某ファッション誌でやっとエビちゃん特集が一段落・・と思いきや、
今度は「めざせ、淀ちゃん生活!」だってさ。
影響力有り過ぎるのも大概にしとけって感じだよ、ホント。
「京都に別荘建てて!」とかウチの嫁言い出すし・・
東軍厨になる気持ちわかるよ。
今更だけど東軍厨の妄想というか発想の豊かさには兜を脱ぐよw
もし東軍が勝ってたら後は家康のやりたい放題・・残った豊臣恩顧を暗殺・改易
しまくる(暗殺って・・漫画?)だとか、そのくせ負けても毛利・上杉は生き残り島津に至っては
所領安堵だとか(そんなわけねえだろ!)、挙句の果てには豊臣が建立した鐘の
文字が不吉だって因縁つけて全国の大名従えた家康が秀頼・淀惨殺・・って
(おいおい鐘に因縁って家康幼稚園児かよ・・しかも都合良く千姫は助かるらしい)・・ある意味凄いわw
まあ、こういうゲーム脳史観はさておき、東軍が勝っていたらどうなっていたか
を冷静に考えるとやはり要衝の地を恩賞で確保したであろう福島正則と加藤清正が
秀頼公を守り立てていった事は疑いの無いところだろうね。
正直内府だったら「こいつらは僻地に・・」って画策する可能性もあるが、
当時の力関係からしてそんなバカな申し出を2人が受けるわけがない。
バランス的には徳川(加増で300万石位か?)と福島・加藤・浅野(福島120万石・
加藤80万石・浅野80万石位か?)らの戦力均衡も保たれたと思われるので
豊臣家を揺るがす突出勢力も現れず、緩やかに豊臣世襲が進んだと考えるのが
自然。
しかし当時徳川内部に「結城秀康」という火種があった事を考慮すると
もしかしたら福島幕府成立という可能性も無かったとは言い切れない。
(まあ、正則の代ではあり得ないし息子の能力考えても可能性は低いが・・)
あと小早川だが東軍勝利の場合でもやはりこの男がキーになったと思われるので
毛利取り潰し後のフォロー的な意味合いで西国に大所領を戴いていた
可能性が高い。福島・加藤と並び重要な職責を担ったであろう事は
まず固いところだろうね。
ありきたりの予測で申し訳ないが。
460 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/07(木) 22:06:17 ID:L6R3G75Y
>>459 漏れ的には東軍が勝っても、大阪城の毛利輝元との間で
和睦って線だと思う。
東軍厨いわく関が原で勝った東軍は輝元の領地安堵を保証して
開城させたというご都合設定をもちだしているが・・
ありえねーっ
どこの世界に敵軍の総大将の領地を保証するから城明渡せで
信用する馬鹿がいるというんだよ。
仮にも輝元は五大老の一人で西軍の総大将だよ・・
何考えてんのかねーっ東軍厨
まあ普通に東軍が勝っても、やすやすと開城するはずがない
のはあたりまえなので・・普通に毛利や上杉は生き残ると思う。
だから加藤福島とかの恩賞もすずめの涙くらいだろうね。
よくても所領も50万石は超えないとおもう。
輝元は神君家康公の武威を恐れ城を明け渡した。
まあ、ヘタレってことだよ。
本来改易となるところ、吉川広家が関ヶ原で内応していたお陰で、
周防・長門2カ国の減封ですんだ。
どこのパラレルワールドだよww
>>461 むしろヘタレならばなおさらにやすやすと大阪城を明渡すはずが無いだろ
命の保証も無いのにさ。
それに中途半端に敵軍の総大将を周防・長門で生き残らせるか?普通
>>462 いい加減西軍厨は現実を直視した方がいい。
>>646お前wwだからお前はどこの平行世界の住人ですか?ww
>>463 そこら辺が神君家康公の慈悲深いところだお。
だ〜か〜ら〜、どこのパラレルワールドだよって聞いてるじゃないか。
>>468 まあまあ家康を神君と呼んでいる段階で
ノブヤボやりすぎなのは明らかだろう。
ノブヤボのセオリーだしな神君家康ってのは。
気違い乙
お前の方が気違いだろww
どっちも落ち着け。所詮IFスレだ。
俺の考えでは、東軍が勝っても、毛利は生き残る!
なぜなら、家康を暗殺され、替え玉を立てた徳川家には、もはやそんな力は無い!
と俺の読んだ小説に書いてあった気がする。
473 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 07:37:34 ID:XOQNg19r
お前が落ち着いて目欄見ろw
474 :
472:2006/12/08(金) 12:59:07 ID:f6KTxSsY
ちなみにその、替え玉「家康」は、自分の都合で豊臣家をつぶす気は無いらしいよん。
東軍厨が妄想するイフなんだが、徳川が東海道と中山道に分進しないで
東海道一本だったらどうなっていたかな?これならもしかしたら東軍勝ててたんじゃ?
或いは逆に家康も一緒に中仙道一本だったらどうなったんだろうね?
行軍速度が・・・
477 :
472:2006/12/08(金) 14:03:25 ID:f6KTxSsY
石田家というか豊臣家内部での権力闘争に敗れた島左近が、小説では格好良かったよ。
徳川政権下、豊臣家存続のため、奮闘努力。
宮廷政治力が低いってことから、清廉な武将という色付けがされたんだろうね。
478 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 16:04:43 ID:XOQNg19r
しかし狸マンセーの架空小説によくあそこまで本気になれるよな
リア厨だと信じたいんだがいい年こいたおっさんが
あれを書いてるとなると情けない
狸が軍を二分して進軍して主力3万は足止めを
食らいながら関ケ原に望み
重囲に陥りながら本陣を前進させ
豊臣恩顧の外様大名等も誰一人寝返らず
逆に関白の座を約束された秀秋が寝返り
西軍総大将の毛利家が動かないで
東軍の一方的な勝利で数時間で決した
ハリウッド映画かよw
すこし話を変えて、もし関ヶ原で家康が逃げ遂せたら…。
関東にこもり、秀忠の率いていた部隊を駒に、一合戦に及ぶ気概をしめし、毛利は関東に入らず。
減封をうけるとはいえ、二〜三国ぐらいは支配できるだろう。
敗戦の要因をつくった秀忠は廃嫡、高野山に入り、かわって秀康ないし忠吉が徳川家を継ぐ。
家康死後、やはり豊臣は徳川を攻めるだろうが、徳川にも国力が有る分、現実よりもうすこし抵抗できたと思う。
>>480 東軍が結束していたのは神君家康公の人望のお陰。
神君は当時既に伝説だった武田信玄とも戦ったこともあるし、
その時に海道一の弓取りという称号も得た。
三成ごときとは格が違う。
その家康から威嚇射撃を受ければ秀秋は寝返るだろ。ヘタレだからな。
毛利が動かなかったのは吉川広家が内応してたから。
要するに神君家康公はすげーてことだよ。
>>482 ほう、海道一の弓取りってのは馬上で焼き味噌を作ったらもらえる称号なんかね?
>>482 だから仮にも一軍が威嚇射撃を受けただけで寝返る訳ねーだろ。
秀秋にはちゃんと取り巻きの武将もいたんだぞ。
みんな豊臣恩顧なのだからしてまかりまちがっても
秀頼公に弓引くことになる東軍加勢なんぞ100%ありえん。
それに吉川広家は毛利を支える重鎮だぞおい。
自分の家の当主が総大将なのに内応して毛利が無事にすむと
考えるほどのアホがかの小早川隆景公や秀吉公に一目置かれる
わけねーだろ。
485 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 13:14:35 ID:N6gfab0X
あれ?
秀秋の西軍としての参戦は狸が銃撃して怒らせた事が原因じゃなかったっけ?
いや、あれは秀秋公が東軍の全面攻勢の限界点を見極めている時に
家康が威嚇射撃を松尾山に向けたんだが
さすが用兵者家康とは思うがやぶへびだな
苦し紛れと読まれ秀秋公を始めとする西軍の全面攻勢を誘ってしまったんだな
西軍があそこまで雑魚だとは思わなかった
たった数時間で完全敗北して三成らも捕縛されてしまうんとはね
家康もあまりに退屈だから小早川に鉄砲でも打ち込んで戦おうとしたら
逆に小早川の方が寝返っちまうんだからよほど家康が怖かったんだろう
でもそのおかげで江戸幕府ができて日本が安定したんだから
西軍連中も噛ませ犬としてはちょうど良かったな
東軍が勝利したら、と言う趣旨のスレだから東軍厨でも構わないが
兵力差に包囲下におかれ数時間で圧勝はまず無理だな
まぁ事実は小説より奇なり、というからありえなくはないと思うよ。
本能寺の変→中国大返しコンボ並の確率だと思うけどなw
西軍の圧勝だったというのが一般的な見解だが、
実際には勝敗は紙一重だったと思う。
もし、島津とかが積極的に戦わず、
家康との約束どおり吉川広家が毛利勢を戦わせず、
かつ小早川が寝返り、つられて脇坂・小川・赤座・朽木あたりまで寝返ってたら
東軍が勝ってたかもしれない。
なんかで処刑された家康は影武者で、
本物は中国に渡ってヌルハチになったって
聞いたけど本当か?
まあ家康厨の妄想って言われてるけどな
水戸黄門の印籠の紋所の扇に月丸を
日の丸と勘違いしてる奴って結構多いのな
おっと時代劇板のつもりが誤爆
>>491 だから
>>島津とかが積極的に戦わず、
>>家康との約束どおり吉川広家が毛利勢を戦わせず、
>>かつ小早川が寝返り、つられて脇坂・小川・赤座・朽木あたりまで寝返ってたら
この段階で宝くじ1等当選する以上の確率を必要とする
相当なご都合主義なんだがな・・
>>493 毎シリーズ、御側用人・木村長門守長成が悪役のアレか
江戸冬ノ陣での確執で、筆頭家老あぼーんの恨みが原因だよな
でも石田家って平安藤原氏みたいになったよね。東北にも奥州石田家あったし。
塙団右衛門と加藤嘉明の確執が好きだな。
関ヶ原で命令違反してまで突出した団右衛門を「大将の器に非ず」と嘉明が叱責するも、
結局東軍は負けて嘉明は没落、
戦場で最後まで踏みとどまった団右衛門は関白秀詮公の目に留まって取り立てられた。
秀詮公死後は遺領の一部を分けられて、小さいながらも独立大名に。
江戸の陣では江戸城に入場した浪々の嘉明に対し、一騎討ちを申し入れて
「やはり汝は大将たりえぬ」と断られたとか、「あやつが大名で儂が浪々の身とは」と慨嘆したとか。
嘉明父子は江戸城とともに運命を共にしたが、塙家も息子の代に家老と大喧嘩して取り潰されてしまうんだよな。
晩年の団右衛門は出家して、漢詩を詠んだり悪代官を懲らしめたりして風流と遊侠の日を過ごしたというのは、
講談の「鉄牛和尚漫遊録」のモデルとして有名だ。
大河の話になるが、今硫黄島の映画に出てる渡辺謙がやってた
大河ってなんだったっけ?すごい高視聴率だったそうだし、
今度借りようと思うんだけど。滝田栄のは「石田三成」、
津川雅彦のは「大一大万大吉」だよね。それはDVDで観た。
あぁ、独眼龍重家
501 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/13(水) 05:37:10 ID:91mQNrpm
豊臣家の治世としては、重商主義なんだけど。
農業資本を、国力としていた徳川が負けたのも、
この時代の穀物の量はほとんど少ないからで
経済力が軍事力となっていた時代だったからだ。
なんつーか徳川だけが農業に主体を置いていたというのが面白いところなんだけど
秀吉が作り出した商業的なシステムには対抗なんて出来るわけが無い・
>>501 農業資本中心の世の中だったらさ、こんな感じになると思うよ。
収入少ない
↓
異常なまでの新田開発
↓
稲の品種改良も行う
↓
逆に田んぼが多くなり過ぎる
↓
せっかく開墾した新田あぼーん
そんなこんなで結局金の無駄使いになんのさ。
>>495 一応、吉川の傍観って言うのは、無くはないよ。
勝気に逸る毛利本隊を、まだ早いとか、戦いの前には飯食っとけ、とか言って諌めただろ。
それが内応の約束の結果とは言いがたいけれど、兵力温存のために決戦に遅れ気味だったのは事実。
吉川の慎重さがもう少し過剰だったら、あのまま戦いに参加しなかったかもしれない。
あそこでしっかり弁当食って力つけたおかげで毛利軍は関ヶ原で大活躍したんだよな
世人は「宰相殿の力弁当」と呼んで持て囃したとか
安国寺の予言って2500年くらいまで予言してあるんだっけ。
あの死の間際に残した遺訓のような予言書。維新後に発見されたから偽者
だといわれてたけど、鑑定結果は桃山時代のもの。あれで豊臣が未来を予想しつつ政権を
運営していたらしいし。でも一巻に全五巻とあるのに、四巻と五巻が無いのが怪しい。
政府が恐れて封印したんだろうね。
五島勉の飯の種
507 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/18(月) 11:48:53 ID:EGEjxf9A
維新の時に活躍した最上義照って北海道横断してロシア傭兵隊通称正兵隊を率いて活躍し
更に維新後の豊臣家の残党が蜂起した東北戦争においても活躍してるけど最後には暗殺されてるんだよね。なんで?
これが第二次世界大戦まで続くしこりになって残ったんだけど。
>>507 すまん、維新以後の話は、詳しくないから、別の人のレスを待ってくれ。
で、関ヶ原での疑問。
東軍勝利に必要な吉川と小早川の離反。
総大将の親族らが離反するってのは、ただ事ではない。
事実上毛利一族ではなくなってしまった小早川ともかくとして、
吉川が毛利本家と不和だった、なんて事実はあるのか?
でもなきゃこんな仮定はあまりにも無意味。
>>508 吉川広家が傍観したままの場合、
西軍が勝てば当然毛利軍にとっても勝利、
万が一東軍が勝っても毛利軍が東軍へ肩入れしたことになり
悪くても取り潰しになることは無い、と目論んでいたという説もある。
広家公が東軍についたら毛利宗家は減封無し。って話が内府から
あったらしいね。
そうなったとしても、絶対に2国くらいに減封されたと思うがw
間違いなく安芸からは追い出されてたと思う。
そうだろうねぇ。「は?本領安堵?敵の総大将にそんな寛大な処置するわけねえよm9(^Д^)プギャーーー」ってやりそうだな。
もしくはせこさで有名な家康の事だ、「俺のサインなんかねえだろm9(^Д^)プギャーーー」で、ってこんな仮想戦記あったよな?んで雪辱を期した毛利がってやつ。
律義で通っていた家康公が約束を破るわけないじゃんw
東軍厨キタ━(゚∀゚)━!!
>>509 事実だとしたら、なんという自信の無さ。
分かりにくい例えで恐縮だが、手ほんびきで、4点張りするようなもんだな。
家康は律義者とかいうけどさ、太平の世に戦乱を起こして結果豊臣政権の弱体化を招いた事は事実じゃん。
関が原後は毛利・上杉なんて実質200万石超えてしまったし、秀吉政権下で均衡してた力関係を壊した罪は大きい。
天下一の奸臣だよ家康は。
奸臣てことはないだろ。
てか東軍が元々豊臣正規軍だし。
たまたま負けたから貶められてるに過ぎないだろ。
東軍が勝ってたら、家康公は今頃奸臣三成を除いた忠臣といわれてるだろう。
律義な家康公は秀吉との約束を違えることなどないだろうし、秀頼を一層盛り立てただろうな。
>>516 家康の場合は仕方あるまい。
あのコロは徳川だけが突出しすぎていた。
しかも周囲は朝鮮出兵での恩賞もでてないゴロツキがうじゃうじゃ・・
自分が天下を取らなくては徳川は早晩潰されると考えても不思議は無い罠。
毛利・上杉なんて徳川の起こした乱のおかげで
不満分子の整理、恩賞の元手もできて
そして豊臣恩顧の大半が徳川について失脚か改易になり
秀吉の定めた五大老五奉行は自然消滅してガタガタの時分に
天下第一等の大大名になってるから・・条件が違う。
むしろ力関係を壊したというより秀吉政権下で不安定だった
バランスを東の上杉と西の毛利で安定させた功労者だろう。
身を捨ててまでバランスを安定させた功労者、ってか。
まあ家康が勝っていたら、圧倒的な権力を握ったのは確実だろうね。
秀頼はお飾りというか神輿に過ぎなくなる可能性大。
つうか普通にスルーされてるけど猛将関白秀秋オタとしては
幾らなんでも関ケ原で裏切ったと可能性があると言われては釈然としないな
若くして亡くなったが稀代の名将が裏切るかよ
裏切る可能性を主張する人は、陣中にいた黒田側の人質を、内応のための連絡係とか目付と見てるんじゃない?
しかし名将というあたり、いくらかオタ臭を感じるなあ。
俺の場合、猛将という印象を超えないよ。
西軍が負けたら、信長の野望での猛関(てか関白になれない秀秋)の武力or統率は、70ぐらいまで落ちているんじゃない?
俺的には、池田輝政が凄いと思う。関が原の戦いで三河国吉田15万2000石を没収。その後、牢人。
他大名からの勧誘を断り続けたが、やがて石田三成の旗本になって、江戸冬の陣では、抜群の功績を
して、旧領三河国吉田15万2000石に復帰出来たのだから。あいつだけだよな。改易されて返り咲きしたの。
後、妻が家康の娘であったが、折り合いが悪く、関が原の戦いの後は離縁してるな。結局、1613年に死ぬん
だが、その際、輝政の死は世間では家康の呪いとも噂された。と言われているよな。
輝政が築いた吉田城って別名ポンポコ城だっけ。世界遺産じゃなかったか?
>>522 上のほうのレスにあるが加藤清正が牢人から会津の大名に復帰している。
どちらも江戸の陣で復活してるお。
追記すると黒田長政は廃嫡の上奉公禁止で追放処分
そのまま江戸の陣で死去
福島正則の場合は遠島だが、後に正則の子・正利は3000石
で旗本となってる。
八丈島に流された天海かわいそう。
三成が豊臣恩顧の大名に対しては厳しい処置を取れなかったってのもあるが
北政所が淀君に頭を下げ尾張出身者をかばったってのもあるらしいね
>>526 それは俗説だよ。
上のほうのレスにあるが淀殿も東軍への協力が理由で
大阪城から出され淀城に蟄居させられてる。
関ヶ原の後に淀が出産したという伝説は?
まあ西軍が勝ってくれたおかげで日本は世界最初の資本主義国家になったわけで
狸じゃそうはいかなかったな
なんだかややこしいね。
誰か浅学でパソコンが使えない私のためにこのスレをまとめてくれる方はいないだろうか・・・。
日本中サルだらけになったけどな
猿の列島
ここは、ここは日本だったんだ!
豊臣の奴ら、豊臣なんかくたばってしまえ〜〜〜!!!
砂漠のような砂浜には、くずれかけた大阪城が埋まっていたとさ。
何の話だ。
>>531 正月休みに期待してくれ。
俺ではない誰かが多分…。
「なんてことだ! 豊臣の奴ら、豊臣なんかくたばってしまえ〜〜〜!!!」
だな。
>>529 日本が世界最初の資本主義国家って自己評価高すぎだろ。
未だにOECDにすら加盟してないのに。
>>536 日本の定義が曖昧なせいだろ。
独立した海外植民地は先進国に名を連ねてるが
旧本国は蝦夷地や九州は独立するわ、四国は割譲されるわで
未だにOECDにすら加盟してない。
>>531 大雑把でよければ少々史実と東軍の勝利がいかに違うか
書いてみませう。
まず豊臣家最大の失敗といわれる朝鮮出兵の中途で豊太閤秀吉薨去
残されたのは幼い秀頼と生母淀君であり
政権運営のため
徳川家康、前田利家といった有力大名五名と
五人の奉行で合議していくことが決められた。
このとき朝鮮出兵せずに関東250万石の大封を抱え秀吉も一目置いた
家康が次の天下を狙うような動きを見せ
阻止しようとした前田利家も死んでしまい
家康は暴走
関東の腹背を撃つ位置になる会津太守にして五大老の一人
上杉景勝が家康に反発、ここに上杉征伐が起きるわけです。
で上方に残った毛利、宇喜多を味方にした石田三成が決起
上方に引き返した家康の軍勢と関が原で決戦する。
もちろん結果は三成らの西軍が圧倒的な大勝利を飾るわけですね。
ところが、東軍勝利を信じ込む厨は小早川秀秋と吉川の内応裏切りで
東軍が勝利できたといっている。たしかに戦史的には両者が
家康を関が原に誘い出す為演技していた事実は語られているけどね・・。
ともかくこの合戦で前田 徳川、浅野が五大老五奉行から失脚
代わって小西、石田、安国寺が任命されるんです。
このため東軍厨は関が原の東軍勝利において、この3名を
河原で処刑するという展開は、もはやお約束のセオリーです。
で三成と北政所はけっこう良好な関係であったものの
浅野や木下家定が東軍に組した事実から責任追及はまぬがれず
宇喜多家の京都屋敷に匿われるのです。
一方これで淀君の権限が強まるかと思いきや
家康の上杉征伐に軍資金を出していた件、家康に西軍決起の
情報を漏洩した件、大野治長の助命の為
あとは妹夫婦を救うため秀頼の嫁に秀忠の娘千姫をという秀吉の遺言を
主張しだした政治音痴などが理由で
淀城に幽閉蟄居させられてしまいます。
毛利は巨大になりすぎることを警戒され元康、秀元、秀包、広家、安国寺、
村上水軍など参戦武将に直に恩賞を与えられ独立大名となり、
上杉も越後と山形を与えられるものの米沢30万石の直江は独立大名に
それでも毛利一門の総石高と上杉は最盛期の徳川を凌ぐ大大名になってしまいます。
第二の徳川として警戒されることを恐れ毛利と上杉は
大老筆頭の座を石田三成に譲ってしまいます。
家康は処刑(実は生きていて南光坊天海として暗躍)
福島正則と(江戸の陣直前に松平秀康)が八丈島に流罪
黒田長政は廃嫡の上、武家奉公禁止の処分で追放
浅野は後に高家や旗本として豊臣家に仕えます。
高家筆頭の浅野上野介が赤穂の吉良47士に討たれる
有名な赤穂浪士で本家は断絶しますけど・・。
これも東軍厨では浅野の家臣47名が高家筆頭の吉良に討ち入るという
逆の話になってます。
で徳川は残りますが、後に警戒されれ方向寺の鐘銘を理由に
江戸の陣が起こります。
これまた東軍厨いわく家康の狸親父が大阪方を追い詰める為
寺の鐘銘を理由に大阪の陣を起こすとなってます。
江戸の陣では加藤清正と池田輝政が(一説には三成に土下座)
石田家の客将として参加、戦後は会津と三河吉田の大名に
なっている。
関が原での没落組には、ほかに江戸の陣で
後藤又兵衛基次(旧主黒田長政)
塙団右衛門直之(旧主加藤嘉明)
細川五郎興秋(細川忠興の次男で勘当された父に変わり細川家を相続した)
小笠原権之丞(家康の隠し子)
がそれぞれ大名としてかつての主君を撃つというエピソードもある。
おれも少しまとめてみるか。
徳川から小早川の陣へ射撃したのが、小早川軍が徳川本隊を強襲するきっかけになったよね。
東軍勝利物語では、そのとき小早川軍が東軍に寝返る、というのが結構一般的みたい。
もしも東軍が勝利したら…。
現在のような経済中心国家にはならなかったんじゃないか、というのは大体の人が認めてる。
ほかには江戸が首都になったんじゃないかと言う人もいる。
権力闘争の面では、豊臣はつぶされると言う人もいれば、家康は執権政治をするんじゃないかと言う人もいる。
んなところかな。
徳川から小早川の陣へ射撃したのが小早川軍が東軍に寝返るきっかけってのが東軍厨の痛いところだよね。
というかそこまで無理をしなきゃ東軍が勝つシチュエーションが浮かばないんだろう。
敵に攻撃されたら反撃せず味方を攻撃なんてどこの世界にそんな軍隊あるんだよ。
秀秋はさすが秀吉とねねに目をかけられただけあって見事な武者ぶりだったらしいね。
関白になってからもうまく戦後のごたごたを押さえたしな。
早死にしたのが悔やまれる。もし秀秋が長生きしていれば豊臣政権も磐石になって豊臣時代はもっと長かっただろう。
>>540 赤穂吉良家って、どういう経緯で出来たんだっけ?
確か、江戸の陣が終わった後だった気がするんだが、詳しいことが思いだせん。
>>543 ほんと、秀詮公は豊臣の世を守るために生まれてきたような感じだったな。
二人の養父に恥じぬ働きで「傑将関白」とはよく言ったもんだ。
その先鋒の松野重元もすごい。
家康本陣は愚か後方の中村・有馬勢を追い散らして
「松野主馬の勢はとどまるところなし」と賞賛された武功は関ヶ原随一と言ってもいいんじゃないかな。
石川氏が維新まで続いて名君を連発した事を考えると改めて
石川数正って天才的な時勢の読みを見せたんだなぁと思う。
織田信衡って東軍が勝ってたら歴史にその名が出てくる事も無かっただろうな
お前ら家康のこと馬鹿にしてるけど、
俺の地元の浜松では、民政に力を入れた名君として
今でも結構市民から慕われているぞ。
ところで東軍厨が大好きなIfモノって
なんでどれも家康が征夷大将軍に就任するの?
足利幕府の凋落を見ても
あの当時将軍職に権威があったとは思えないし
官位としても関白には到底かなわないよね?
「武家の棟梁うんぬん」っていう理由付けをよく聞くけど
ちょっと無理があるような。。。
>>549 家康が足利氏と同等の家格の源氏の名門新田氏の末裔を称したからじゃね?
田舎臭い家康が勝っても、上京して至尊の貴族になるとは思えないし、
それよりは関東で幕府を開く頼朝の二番煎じをするほうがキャラに合ってるし。
豊国大明神様が在世中の時から家康が吾妻鏡の講釈を知識人から受けていた
という逸話が元となって実は将軍になる大志を抱いていたというのも根拠の一つだろうな。
しかしやはり頼朝公の再来といえば秀吉というのが常識だしな。
天下友達ネタ(・∀・)キター
たしか秀吉が兄貴分で頼朝が弟分の天下友達だな。
東軍厨いわく豊臣が関白だから簒奪にならないように印象つける為
征夷大将軍を望んだという設定らしい。
ある意味家康らしいセコさだな。
征夷の元は敵があっての話なのに、秀吉様が安寧楽土とした時になにを敵だと言うのか。
朝廷だったりして……。
>>554 朝廷=豊臣家と考えるほうが自然だろう。仮想敵国として豊臣を考えてたんジャマイカ?
豊国大明神様いわゆる秀吉公は、母親が朝廷から故あって落ちぶれた萩中納言の娘
その御胤を身篭った父というのが正親町天皇であるというのは有名な史実。
ゆえに天皇家と摂関豊臣家は何代も姻戚なわけだし・・
朝廷を夷というのは天皇の御落胤である秀吉の家豊臣を夷とする考えなんでは?
朝廷から頂いた官職を根拠に朝廷を滅ぼすわけは無いだろうけれど、
征夷大将軍就任→豊臣攻め、というのは大体のお話でセットになって語られているので、
やはり夷=豊臣家なのかな。
最近では「秀吉=後胤」説は、「徳川=源氏」説と同等かそれ以上に胡散臭いと言われているみたいだし、
嘘つきを滅ぼすという大儀名分は成り立つかもしれない。
>>553 葵三代では、敵とは「天皇をあがめない異国の者共、イスパニア然り、イギリス然り、オランダ然り、」
だそうだ。
558 :
556:2007/01/06(土) 11:26:45 ID:ySdL0+kM
「秀吉=後胤」でなく「皇胤」の間違いだね。
>>557 家康も、秀吉のように海外に出兵する気かしら?
秀頼のように通商による勢力拡大にしときゃいいのに。
ドラマの話だから広げるつもりはないが、
前後の文脈から、
異国と折衝し、いざというときは武力で追い払うって意味使っている。
ま、言っていることは専守防衛だな。
実際、家康・秀忠はこの路線を行っているし。
>>558 仮想戦記で天下太平になって浪人対策で家光が明に出兵する話があったぞ。
561 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 18:40:23 ID:Bh1+4EyU
>>560 徳川家光かい?
家光といえば東軍厨いわく徳川幕府三代将軍になるのがお定まりの
人物ではあるが・・・
史実によれば江戸の陣において
「祖父(家康)や父(秀忠)は貴公らと同格の諸侯であり
太閤殿下のご恩顧への遠慮もあったが、
余が生まれたときには徳川は諸侯の座に無く不当に咎を受けていた。
余は生まれながらの謀反人である。
・・・・・・」
といふセリフを述べているのが、あまりに有名なあのお方?
セリフだけ聞けば
「さすがはかの天下の謀反人明智光秀縁の女を乳母に育った武士よ」
という光景ではある。
しかし実際のとこ戦場には一度も出ておらず馬にも乗れなかったそうですね。
敦賀六十八万石って西軍勝利の功労者の割りにその後ぱっとしないねやっぱ吉継が病を理由に三成大老の私的な相談役にとどまったのせいか
あと、息子の吉治と分家した木下頼継が不仲で、吉継死後一触即発になって。真田信繁と大老が直々に仲裁してなかったっけ?
563 :
sage:2007/01/09(火) 04:44:28 ID:qvWuUZ87
やっぱり当主が早死にしちゃうとだめだね
吉継にしろ、小早川秀秋にしろ、西軍の功労者には多いのだが、当主死後には決まって
必ずと言っていいほどお家騒動で勢力減退してるもんな。
その点、小西行長は当時としては長命な70代までいきたし、堺町衆の後ろ盾もあって
紀州大納言家創始して、八代の行宗の時には関白だもんね。
長生きも戦国武将の大事な使命だね。
564 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 20:20:18 ID:NpLY0Qhv
>>563 三成の息子を東軍に従軍させると言って安心させといて、実際はだまし討ちしたから、
その罰が当たって早死にしたんだよ。
ん?そんな事初めて聞いたな。
>>563 紀州大納言家と言えば、長曾我部盛親御落胤(自称)の丸橋忠弥との関連は見逃せないな
くそ〜 関が原で東軍が勝ってたら、あの時九州を一人で席捲していた如水公は
その後の政権内でもっと重きをなしたはず。
ひょっとしたら勢いに乗って天下人にすらなったかもしれないのに。
豊国大明神存命中の頃の活躍を考えれば、それぐらい朝飯前で成し遂げそうな武将だった。
家康〜 半日で負けてんじゃねえよ!
息子がヘマ打っちゃったのもきつかったねぇ。
父に似ず調略下手だったもんだからその助命嘆願や
家臣の行き先探しに駆け回った挙句ぽっくりって感じだし。
569 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 13:52:26 ID:Vau4s1kx
>>565 三成じゃなくて、吉継自身の子供のことだったかもしれないけれど、そんな話無かったっけ?
>>566 丸橋忠弥が色々怪しい動きをしたおかげで
長曾我部家は一時改易寸前までいったよね。
まぁ、なんとか持ち直してその後全盛期を築いたわけだけど。
ところで、四国イコール長曾我部のイメージのせいか
四国名物は長曾我部を冠したものが多いね。
でも正直「長曾我部うどん」とか
「長曾我部みかん」なんてのはどうかなと思うんだ。
この前別スレで「讃岐うどん」とかにした方がいいんじゃないのって
提案したら
「ばか、そんなんじゃ売れねぇだろ」って即レスされたよ。
571 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 23:30:52 ID:Vau4s1kx
>>570 わざわざ讃岐なんて呼ばなくていいよ。
「長曾我部」が嫌なら、高松うどんでいい。
一般には讃岐って旧国名より、現在も使われている高松市って名前の方が有名だろ。
それに長曾我部の本拠地なんだし。
スレ違い失礼。
坂 崎 直 盛 宇喜多秀家の従兄弟だが、東軍について改易された男。
浪人中に自ら坂崎って名前にしたらしいが、実際は秀家が同じ宇喜多姓を
名乗るなって事だったらしい。後の、大阪城の千姫略奪事件も凄いものがあったなw
東軍は痛い奴が多かった。よって、負けた。
他 ス レ で 誤 爆 し て 参 っ た 。
573 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 00:08:18 ID:W6uK1DO3
>>572 「豊臣秀頼の謎」スレかあ。
東軍厨に難癖つけられる前に気づいてよかったね。
ん?
「この」スレだと「泳いで参った」のは結城さんじゃね?
史実じゃ可児才蔵を討ち取って大名になった宮本武蔵だけど、東軍が勝ってたらただの名無し浪人で終わってたか?
武蔵には晩年の芸術家としての側面もあるから、むしろもっと
クリエイティブな才能を花開かせてた可能性もあるかもな。
宮本武蔵って念願の大名になったくせに
宮仕えのストレスからか
夜中に刀振り回したり
何日も自室にこもって絵を描きまっくったりしたらしいね。
大坂城殿中でも周りから浮きまくってたっていう記録もあるし
浪人のままの方が幸せだったかも。
あまりにも趣味に没頭しすぎて、領内の財政を傾けちゃったしね。
死ぬまでに70万両の借金をこさえるのはどうかと。
二万石の小大名の癖になw
しかし、あの時代の芸術の一翼を担った功績は大だけどな。
70万両も借金してたのか。
武蔵は紙や硯、絵の具なんかの開発・改良にも功績があって
後世の我々は大変お世話になってるからなあ。
あんまり悪口は言えぬわな。
ところで武蔵が大名になれたのは
秀家公強いの後押しがあったらしい。
宇喜多騒動に懲りた秀家公が性格に問題がある武蔵を
体よく追っ払うために独立させたんだそうな。
宮本武蔵に仕官して剣術奉行務めた佐々木小次郎だっけ?
道場の総取り締まりを兼ねて、武蔵の剣術上手をしる家臣たちも小次郎殿が上では
とささやかれて、晩年の武蔵の求心力の低下も如実に表してるけど、ついに
小次郎と武蔵は戦うことなかったな。やっぱ小次郎の方が強かったんだろうな。
まぁ二人とも脅威の出世だけど、東軍が勝ってたら100%他人のままだよ
武蔵や小次郎の兵法なんてお座敷剣術だろ。
典膳島(舟島)の決闘で名高い御子神典膳とそれに打ち勝った柳生但馬こそ真の武芸者だ。
但馬は一見姑息だけど勝つことに対する執着心はまさに実戦剣術の神髄だし、
剣術のみならず禅にも深い造詣があって、禅僧になっても一流だったろうという評価もあるくらいだ。
まあ、数年前の大河ドラマのTAJIMAは出来悪かったみたいだけど。
武蔵の代で70万両というとてつもない借金をしたが、二代目の宮本伊織がきちんと執政を行い
借金を全て返済、領内の治水などを行って、実質2万石の大名だったが、実高は10万石だったらしいな。
宮本伊織って そのご朝廷の剣術指南役までなったんじゃなかったけ?
まあ指南役って言っても、公家相手になんの指南してるやらだけど。
でも そのおかげで二天一流が全国の大名に広まったことは確かだし、
開祖の武蔵の名も、戦国オタなら一度は聞いた事ぐらいある名前になったわけだ。
もし もし東軍が勝ってたら、武蔵なんて、「タケゾウって誰?」て言われるぐらい無名だっただろうよ。
>>583 その後凡君が五代続いても潰れなかったのは伊織のおかげだよ。
まあしかし、借金は膨らんでしまったわけだがw
借金踏み倒しギネス記録保持者だからな >宮本家
宮本武蔵が大名まで出世できたのは、
山陰の忍を指揮していたからていうのは史実なの?
>>586 武蔵自身も忍者だったって説もあるけど、美作出身だから忍者ってのはあまりにも単純すぎるよな。
滝川一益と同じくらい怪しい。
忍者は宍戸美作守だろう。通称、梅軒。
武蔵が剣術奉行公募したときに決勝で小次郎に負けたけど、その豪気さを秀頼さまが
気に入られて、その鎖鎌とかいう曲芸のような武術を習ったという。でも秀頼さまが
鎖鎌振り回したら、大野治長に刺さって、血だらけで大野が武術はお控えくださいと
諫言した話しは有名。それでも辞めなかったから大野は宍戸を逆恨みして算盤奉行に
したら、案外頭が良くて宍戸家は代々兵糧奉行したり算術家を輩出した。まぁ伝説っぽいけどな。
梅軒はなんでも出来たから諸国放浪の元忍者となってる。
それより秀頼公が気に入った吉岡一門の栄華のほうが凄いけどな。普通に大名になってる。
>>588 大野治長は秀頼さまの側近で終わったが
小粒な逸話が多くて、全体の評価は悪くない。
(血まみれのまま諫言なんて普通できないもんな。)
東軍厨ご用達の仮想戦記において
彼が大坂の重要人物となっているのも
あながち無理な設定ではないと個人的には思ってる。
>>586 全国の大名に仕官していった門弟のネットワークを使って、大名の動静をさぐっていたらしいな。
朝廷内では専らそっちの仕事で重宝がられていたと。
ちなみに、裏宮本という影の軍団を指揮して、諜報活動していたというのは、講談や
千葉真一のドラマだけの話らしい。
>>590 影武者石田光成や漫画のTADAKATSU読んでると、
宮本=忍軍ってイメージが植えつけられてしまった罠。
特に後者は南斗の拳の作者の漫画演出が、歴史漫画じゃなくて格闘漫画レベルだったしな。
でも武蔵って青年期の才蔵と一騎討ちとか、乱心した家臣を討ちすえたとか
三成と喧嘩したとかいうハデな剣豪イメージより、秀頼公に媚びうったり借金の
イメージが強いよなぁ。たしかに「剣術のご指南を」とかいって弟子送ったり大名達と仲良く
なりつつ、それを大阪にチクるのは裏方として重要かもしれんが、格好良い姿ではないな。
晩年に処世術をまとめた五輪の書がサラリーマンの人付き合いのマニュアルみたいになってるし。
そもそも剣術奉行公募とかいって、秀頼公の前でわざわざ御前試合開いてお祭り騒ぎしたり、
秀頼公に気に入られるようにいろいろと計算してるんだよな。武蔵は大名達には白い目で
見られてたのに、秀頼公も空気読めず武蔵のこと気に入っちゃって。空気読めないといえば
優勝した佐々木より、準優勝の宍戸を気に入ったとかな。逆に佐々木は真面目だから黙々と剣術に
励んで、茶道の利休、剣道の小次郎というように近代剣術様式を完成させた訳だけど。
小次郎がいなかったら、今みたいに剣道が国民的スポーツにはならないよ。
武蔵も剣術奨励したとかいうけど、実際は佐々木小次郎にまかせっぱなしだし、佐々木の功績も見逃せない。
それより、宍戸は基本は武蔵の家臣なのに秀頼からも禄貰ってる時期あったよな。
それを大野が例の”流血の諫言”の後に正そうと、武蔵からの禄のみにして直臣とした。
この時だよな、大野が乱心したのか宍戸を米奉行にしたのは。1代目の梅軒は普通だったが、
2代目3代目が算術に長けてて数学者として功績残した。まぁ無理もないよなギネス級の
借金重ねるわけだから、その収支報告まとめるのもギネス級に難儀な事だろう、それを
こなすわけだから相当な能力を求められるよな当然。ある意味、大野の凄いよ。
大野も結構、思いきったことするしな。秀頼公が「10万の兵を与えてみたい」と
言ったのも分かる気がする。これが元で仮想戦記で豊臣方の司令官になったりするが。
でも、大野、武蔵、宍戸、佐々木のコンビは面白いよな。時代劇みててこいつらが
出てくると平和到来って感じ。この間、「ひょうたん 豊臣三代」見ててこの四人のコントが
あって、どっかで「こんなキャラいたなぁ」と思ったらルパン三世に当てはまるんだよ。
武蔵=ルパン、宍戸=次元、小次郎=五右衛門、大野=銭方のとっつぁん。すげぇよ実在するとは。
本当に大野は「待ぁて〜武蔵ぃぃい」って言ってたらしいし。名言だな。
でも名言第一はあれだよな、秀頼公のあれ。
明の使者が来て、返書に「倭」とあって秀頼公が我らは自国のことを倭とは呼ばないと
言って改めるように言ったときに、明の使者が「では改めて、国名は?」と聞いたら秀頼公が
「ひょっこりひょうたん島である!」と言ったという。最高だよな。大野が慌てて通訳の口塞いで
「に、日本国でよろしい、ひ、ひ、秀頼さまは日本国王である、そう記せ」と言ったという。
確かな記録にはあまり残ってなかったから伝説だったけど、去年あたり新しい記録が中国かどっかで
見つかったんだっけ?いろいろ日本側にない逸話があって、その中にあったとか。
つい長文になっちまったよ。大野厨なんでな、わりぃ。
日本史上稀にみる勤皇家であられた正一位関白太政大臣秀頼公が冗談でも日本国王なんて名乗るわけないだろ
逆賊足利義満とは違う
594 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/19(金) 09:58:23 ID:kKPvqHnJ
ひょっこりひょうたん島と言えば、反射的に結城秀康を思い浮かべるような頭になっちまった…。
繰り返しになるが「泳げよ、秀康!」
595 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/19(金) 10:49:53 ID:ETEHAet9
でも、関ヶ原で勝ったとはいえ、
豊家第三代の豊臣秀光がいなかったら、300年も持たなかったと思うよ。
現時の流れを汲む京極氏に養子に入り、
その後、順々に京極の人達を追い出し、羽柴に復姓、
豊臣の本姓もそのまま頂いてるから、
正一位源朝臣関白右大将秀光
史上初の右大将兼関白だからなぁ。
仇敵徳川氏の本拠の江戸に幕政の本拠を移した事などは、
よほど頭が良くないと出来ないよ。
豊家第四代・2代将軍羽柴秀綱は大したものだよ。
法制度を整えて、地方分権と中央集権のバランスを見事に確立したからなぁ。
豊家の代数って
秀吉−(秀次)−秀秋−秀頼で関白位なら殺生を数えて、歴代なら省かれるだよな
ところでみんな
大坂城の南側に存在する
いわゆる「真田丸」についてはどう思う?
あれは真田親子が発言力拡大を狙って
大坂城は南側に弱点があるとか言って、無理やり築かせたものだろ?
そもそも太平の世にあれが必要だったとは思えんし
あの、とってつけた感丸出しのデザインのせいで
激しく大坂城の外観を損ねているように思えるのは
自分だけじゃないはずだ。
真田親子じゃねえよ。
真田丸を築いたのは関ヶ原後ですでに父の昌幸は死去しており、大阪の陣に参加したのは息子の幸村だけ。
大阪の陣?
これだからゆとりは…
>>599 このスレは基本的に東軍勝利したらという仮定で成立するスレだから
>>598の発言は間違いともいえない。
しかし東軍厨は置いておいて
>>587真田丸ね。真田親子は関が原の西軍勝利に
大きく貢献し江戸の陣でも活躍し
大老石田三成と重鎮大谷吉継の家の縁戚でありながら
今一歩政権の中にはいっていけなかったからね。
いろいろと大変だったようだ。
さすがに表裏比興の家とは言われなくなったが
前田宇喜多小早川や佐竹にならぶ大大名になったせいで警戒もされたしねー。
なぁ、俺少し頭悪いから聞くけど今の皇居って江戸城だっけ?京都御所だっけ?大坂城だっけ?
>>601 おいおい。今上天皇が座すのは京の御所以外あると思うか?
大阪城へは時々行幸されるから、
>>601みたいな疑問も生まれるのかもね。
何で「江戸城」という言葉が出るのかは理解できないけれど。
>>600 >>598は史実と「お話」の区別がついていないと言う可能性も…。
>>600 真田家は信之助命の嘆願に一戦も辞さずと大阪に向け強行に出たからね
それに記憶あやふやだが確か信之は江戸の陣で徳川の客将とならなかったか?
講談だったかも
>>604 信之は江戸の陣で赤備の決死隊を率いて豊臣本陣に突入したんじゃないの?
伊達の騎馬鉄砲隊との戦いや、家光を連れて蝦夷まで逃げたっていうのは講談の話だったと思うけど。
>>605 あれ?それって山内一豊じゃなかった?
江戸の陣は意外と苦戦したらしく後年、大淀様が大規模な焚書をなさったからな
詳しい人頼む
あれ?徳川家光って秀頼を暗殺しようとしたけど、捕まったが、命は助けられて初代非人頭になったんぢゃないの?
代々、祖父や自分の幼名の竹千代を文字って代々、竹左衛門として非人頭を世襲したって歴史で学んだけど。
>>606 信之が桜田門から出て伊達と当たり、山内が半蔵門から出て小西を叩き潰して豊臣本陣を挟撃したんじゃなかったっけ?
本陣前に陣取ってたの蜂須賀至鎮を討ち取ったのはその成果だったと思うよ。
しかし蜂須賀家も至鎮戦死のせいで17万石なんて小藩にされたのが残念だな。
正勝以来の股肱だったのに……
>>607 それ家光の名を騙った偽物だよ、本物は江戸の陣で殺されてる
まあ関東では徳川人気はあったみたいだから当時から生存説は多数あったようだね
で、件の犯人はどこの馬の骨か解らないような人物だったらしい
610 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/21(日) 21:36:35 ID:37WqiBX0
もし東軍が勝っていたら、誰が家康の跡を継いだんだろう。
秀忠中心に考えると、やはり秀忠が関ヶ原に間に合わずに奇跡的に勝ったのだったら秀康で、
間に合って勝ったのなら史実どおり秀忠かな。
逆に秀康中心に考えると、上杉相手に持ちこたえれば、やはり秀康が後継者になれたのかな。
秀康が跡を継いでいれば、家光に変わって忠直が徳川当主か…。
江戸城攻略に関与したくせに。
七本槍筆頭各は大坂鎮将と言われた脇坂安治だよな。
時々、福島が筆頭各として出ている資料みるとはぁ?という気になるよな。
確かに関ヶ原まで出世コースにいたが、後代の評価から見ると脇坂だろ?
そもそも、関ヶ原での敗北は福島の後退から始まったわけだし、
側面から突っ込んだ脇坂の功績は大きい。
脇坂は常に小勢ながら朝鮮でも関ヶ原でも大事な場面で勝っているからな。
親友の藤堂高虎を大谷吉継と一緒に助命嘆願したしたことからも、
義理人情に厚いことがわかるけどねぁ。
結局三河30万石。江戸の陣では大坂の留守番役だったし。
江戸の陣脇坂いったら一方面軍の大将まかせられたんじゃね?
豊臣譜代で一番戦闘経験あるんだから。
加藤清正って時々三成以上に奸臣扱いされるよな〜。
でも、三成や直江の様に忠誠心が高い故に奸臣として見られる
のではなく、うまくゴマすりやったという印象しかないな。
自分の領土欲しい為に太閤の唐入りをそそのかしたとか。
七将の乱で三成追い落としたのも奉行職狙ったという話だし・・・。
特に奸臣の本領発揮したの関ヶ原で、東軍にいながら
自分が追い落とした三成となんやかんや言いながら連絡とっていたし。
で、大名復帰後も、太閤の血縁だって秀頼に近づいていたし。
得意の土木作業でせっせと豊臣家の金使ったし。
逸話でもあいつは裏切るんじゃないかって言われ
鳥羽・伏見の戦いで最初に裏切って『加藤の犬畜生』っていわれたんだっけ?
613 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/22(月) 16:09:54 ID:ofbXatOy
そもそも徳川家は家康が信康を殺した時点で終わってる。
自分の家の家督すら、個人的な好き嫌いで決めるような男が、
他家の家督相続に干渉しないわけがない。
長子相続を否定するような男が、武家社会を統括できるわけがないだろ。
それを言えば幾ら宮家のご落胤であったとはいえ
出時が農民であった太閤殿下が見事に平定なされた
現代的な統治ではなく中華思想的な力の統治であるから
関ケ原後に東軍が勝ち、その後の身の処し方次第では統領たりえたろ
ただ情に弱く短気な家康が長期政権を築けたかどうかは疑問だがな
615 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/22(月) 16:33:27 ID:ofbXatOy
ちょっと話がそれるけど、柳生又右衛門はやっぱり日本一の剣豪だったと思うぜ。
宮本武蔵守なんてしょせん大名の殿様剣法だし、絵師や文筆家としての名声ばかり高くて、
又右衛門みたいな実戦経験はほとんどない。
可児才蔵倒したってのは大きいだろうし世間で言われるほど
殿様芸ではなかったと思うが、やっぱり又右衛門にはかなわんだろうな
ところで又右衛門の甥で、島左近の娘婿、柳生兵庫助利厳について詳しく知ってる奴いないか?
617 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/22(月) 16:51:45 ID:ZjRkKLZI
スレタイ通りに進めつつ実は>1の趣旨に合う展開なスレ
618 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/22(月) 16:54:49 ID:ofbXatOy
>>615 すいません、同じネタがすぐ前にありました。
>>1 今気づいた。
実は俺たちは
>>1の手の上で踊らされていただけかもしれん。
620 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/23(火) 03:45:34 ID:NChwuRt0
本拠地が大坂城なのに何で鳥羽伏見?
徳川って東北に信頼去れてたよな。なんで?
623 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/25(木) 14:13:00 ID:MAiif7Xl
>>617のレスが神過ぎてレスが少なくなった件について
東軍が勝つ訳ないやん。アホちゃうか。ぷげらっちょ
>>623 ここは前からこんなかんじだよ。
神ネタが投入されたら一気に盛り上がるけど・・そうでないときは
大概この程度かと・・マジレスしてみる。
>>622 徳川の場合信頼されてたというよりも利用されてただけかと・・
関が原のときも徳川の没落と命運ともにしたのって皆無だぞ。
最上や堀は上杉と交戦したからだし
南部は伊達が西軍に寝返った際の生贄として潰されただけだし
江戸の陣のときなど奥羽諸侯で江戸側に味方した香具師など
皆無だ。関が原で潰れた堀や最上、南部ですら豊臣に
擦り寄って旗本や小大名としての復帰を果たしてるしなー。
626 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 19:26:37 ID:p87gOP6S
age
627 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 19:45:39 ID:O/L9dU7y
628 :
人間七七四年:2007/02/23(金) 11:36:10 ID:PfRERoem
ほしゅ
629 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 02:48:18 ID:Xl1LDDMr
24時間以内に異論が無ければ、
徳川家康が年齢を詐称し、秀頼の養子となって、
関白になるだろうと言うのが結論ということで。
630 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 02:58:08 ID:NNc5QX0i
それはないな…家康は秀頼の後見人となるも病死。その後秀頼率いる幕府軍が家康の息子秀康の守る江戸城を攻める。
秀康大勝。徳川家滅亡だな。
631 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 03:10:57 ID:kp/o/tea
てかそもそも秀吉は秀頼の正室に千姫を望んでたんだよな?
もうちょっと待ってそこから更に外戚として勢力伸ばせば良かったものを…
なんでもう少し辛抱強く待てなかったかな。
秀忠が不甲斐なかったのか一番の原因かね…軍事面はその通りとしても
政治分野ではそこまで見劣りするほどでもなかったと思うだがなぁ。
632 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 17:16:08 ID:Xl1LDDMr
>>630 秀康の大勝で徳川家滅亡…。
ってことは、結城家が天下を盗るってか。
633 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 03:14:17 ID:ZoSeRmsZ
保守
634 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 19:22:02 ID:eG5l4YiD
保守派の細川もりひろは、関ヶ原で殺された忠興の子孫だそうな。
関ヶ原で東軍が勝っていたら、やはり領地のある大分から立候補してたのかな?
635 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 07:53:26 ID:BNgrQJ1G
そういえば関が原後に伊達政宗はどうなったの?
636 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 11:58:01 ID:ots5X55t
いや〜今週の大河は良かったねぇ。
あ、見逃した人の為にあらすじ貼っとくね。
第五十話『友、散る』
関が原より三年。余命幾許も無い状態となった吉継は官を辞し、領地越前敦賀で日を送っていた。
先の戦で百万石もの大禄を得た吉継は領地に善政を敷き、「覆面宰相」「常人よりものの見える殿」と讃えられる。
しかし、吉継の心は浮かばぬのであった……。
翌年春、ついに吉継は倒れる。激務を放り出した三成は大坂を下り敦賀に駆け込むのだが、床に伏した吉継に既に意識は無かった。
周りが止めるのを振り切り看病を務める三成。それは幼い頃からの友へ向けた、最後の思いやりであった。
二日後の黎明、三成の耳へと友の言葉が聞こえる。
「佐吉、戸を開けてくれぬか」
幼名で呼ぶその声はまごう事無き吉継のものだった。驚きながらも、小さく頷いた三成は庭に面した戸を開ける。
するとそこには、夜明けの薄紫の空に満開の桜という見事なまでの光景が広がっていた。
吹き込んでくる花びらに微笑みながら、吉継は言う。
「まばゆい程の神々しさよ。 ……亡き太閤殿下を思い出すのう、佐吉」
「目が……見えるのか紀之助!」
「フッ……とうとう最期らしいわ……」
「何を弱気な! わしらはまだ」
「聞け、佐吉! お主は徳川討ちを躊躇っておろう」
「……」
「徳川はいずれまた牙を剥く。 後手に回ってはならぬ。
約束したであろう……。 豊臣の名のもと戦無き世…を……」
「紀之助!」
「さらばじゃ、佐吉。 ……楽しき日々であったわ」
事切れた吉継と泣き崩れる三成。風に舞った花びらは二人へと降り注ぎ続けるのだった。
637 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 13:07:43 ID:LUZE/Tmi
。・゚・(ノД`)・゚・。
638 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 13:13:00 ID:67Ev3JMR
>>636 今週って、お前のカレンダー狂っているぞ。
もう3ヶ月も前wwwwwww
639 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 13:15:37 ID:8Iiaofod
けど大谷吉継死後に越前敦賀藩は改易されちゃうんだよね・・・
640 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 13:18:35 ID:LUZE/Tmi
>>635 奥州仕置で潰された和賀の残党を煽動して南部領に侵攻したよ
でも上杉の出羽侵攻には非協力的であまつさえ
裏で最上攻めで疲弊した上杉を叩き潰そうと画策していたことが発覚
「母の実家を捨てるのは忍びなかった」って言い訳して特にとがめだては無かったけど
せっかく切り取った南部領は、豊家の天領になって大して加増はされなかったはず
あと江戸の陣の時、最上家親の御家再興の仲介なんかもしてる
641 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 13:35:13 ID:LUZE/Tmi
>>639 吉継死後、木下頼継が吉治から自立を図ろうとした御家騒動だろ
三成と真田信繁が必死に駆けずり回って改易までは行かなかったが
吉治は蟄居、頼継は遠島、北ノ庄城は召し上げられて
領地は旧領の敦賀周辺の五万石弱まで減らされたよな
替わりに北ノ庄に入ったのは藤堂高虎の養子になってた丹羽長重の弟の
藤堂高吉だっけ?家名としての藤堂家はここで復活するわけで、
長重、吉継と脇坂安治に助命されて丹羽家に寄食してた高虎もそれに従って越前入りして
関ヶ原直後に生まれてた高虎の実子、高次の家も筆頭家老として存続している。
関ヶ原で大谷隊が藤堂隊を打ち破った事考えるとになんとも皮肉な話だよな。
まあ高吉も中々の善政をしいたらしいからそれが救いか。
642 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 15:49:31 ID:CwChQsVt
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何でだよww
643 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 17:38:16 ID:0m7KY26G
644 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 03:38:08 ID:E5mShpS0
しかし上杉は大活躍だったな
645 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 13:27:49 ID:DkHxFwM+
といっても、退却する秀康を追撃しただけだからなあ。
もし秀康がやる気満々だったら、ああも簡単には打ち破れなかった。
646 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 18:51:18 ID:WUSeUK6S
>>645 本来あのときの上杉の関東攻めは戦後の論功行賞を有利に進めるための
ブラフだからなー
当時の上杉は主力を越後と出羽に向けてて、
背後の伊達も警戒していた。
まさに小手先のついでで攻めたようなもんなのに、
その程度の小兵力に
慌てて退却し、挙句に追撃されてしまうとは・・・
秀忠は小大名だった真田に翻弄されるしww
よく、こんなんで天下を狙おうとたいそれたことを考えたもんだな
徳川家
647 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 15:22:44 ID:cJnomvWG
島原の乱の時、秀頼ってまだ生きてたんだっけ?
648 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 17:37:57 ID:apLxvvWY
>>647 秀頼様はすでにおくたばりになっておられました
649 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 20:20:46 ID:OMWzwdVU
>>635 伊達政宗は関ヶ原後、蔵にしまってあった金箔貼りの十字架担いで大阪まで
謝りに行ったって逸話が残ってるよね。
さすがの三成も苦笑してこれを許したそうな。
きっと太閤殿下が生きていた時のことを思い出して、懐かしく思ったんだろうな。
650 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 21:50:00 ID:ZFFnd98r
その後伊達家代々の家宝になったんだよね>金箔の十字架
子孫に不手際が有ったときにこれを使えばいいとさ
準備がいいんだかそうでないんだか
651 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 23:14:38 ID:ym2MOyep
初めて見たが
ネタ板のネタスレは惨いのう
652 :
人間七七四年:2007/03/24(土) 02:48:55 ID:oA0IeNWX
>>650 仙台藩はその家宝の十字架を守るためだけに
わざわざ役職を作ったほどだからね。
そのあたりの事情を描いた
司馬遼太郎の「おお、十字架」は名作でつよ。
653 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 09:02:15 ID:PNZ/p433
>652
支倉常長が主人公の話だっけ?
654 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 16:18:52 ID:jXCd28uG
655 :
人間七七四年:2007/05/02(水) 20:23:34 ID:rk+9vE/q
前田利政と丹羽長重ってどうなったの?
656 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 23:48:08 ID:Zc/ne+TM
関ヶ原で西が勝った後、今川はどうなったんですかね?
今の静岡の発展を見ると、関ヶ原以降の今川の栄華があったことは間違いないと
思ってるんだけど。そこんとこどうなってるんでしょう?
教えてクンでスマソ。
657 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 00:07:00 ID:2TXnGR0s
静岡の発展は長束正家のおかげ
658 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 00:35:07 ID:cqvcyNiP
>>656 今川は武田と徳川に滅ぼされているからなあ・・・、
史実では寒河江一万石余に取り立てられているけど、
東軍が勝ったらまあ、家康が御伽衆位には取り立てるかもね。
多分、あのスレと勘違いしてるんだろうけど、
あくまでこのスレは関ヶ原までは史実、それ以後は東軍が勝っていたというIFスレ。
659 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 03:19:03 ID:OeoSTuNR
もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら・・・ん?
もしもって、東軍が勝ったんでしょ? 意味がわかんない。
西軍が勝っていたなら・・・なら解るんだけど。
660 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 05:57:26 ID:Rz9KLAQs
頭の弱い人だなあ
661 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 08:48:31 ID:OeoSTuNR
頭が弱くてゴメンね。
662 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 15:29:37 ID:bjECFEFA
>>656 関が原後の今川は清水港を整備して単独でブラジルとの人的交流を深めたじゃないか
お互いに移民を優遇した結果が今の静岡の結果だろ
663 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 00:25:30 ID:4JM9FQ2k
664 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 11:42:44 ID:BJeLJL+x
>>662 だからそれは長束正家だって
本当、某スレと勘違いしているみたいだな
665 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 07:48:41 ID:q7C3yZ4i
保守
666 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 13:16:33 ID:Dgt1r2i0
あげ
667 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 13:37:50 ID:HED2FVpy
渡辺了は小さな城で関ヶ原をおこしたな。
668 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 14:18:38 ID:30mvQJF5
もしも関ヶ原で南軍が勝っていたら・・・
669 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 14:54:09 ID:m2FTFXCb
天皇家は南朝が…
って違う。
670 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 17:40:29 ID:BLJrmzyn
もし東軍が勝っていたら、江戸が大都市になっていたと言うレスがあるけど、それはちょっと無理が多過ぎ。
確かに関東平野は広大だが、江戸は山あり谷ありで都市建設自体が無理だろう。
地元の人以外は地名は知らないだろうが、四谷、千駄ヶ谷、渋谷、市ヶ谷など、集落は谷底に点在している。
おまけに利根川の治水が困難。
これをすべて解消するには、山を削り、海を埋め立て、利根川をどこかに持っていくしかない。
そんなの、まず無理だろ。大自然には人間は勝てない。
671 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 14:02:37 ID:RxGjdu4O
家康が江戸に居を構えたのはすでに北条氏が
開発を進めてたからじゃないの?あのドケチが自前で城下町開発する
必要があるところに居城を構えるとは思えない
672 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 14:55:23 ID:Eeks9E3X
家康は、旧領の金堀人夫の殆どを関東に拉致したんだろ。
特に甲斐の国の金山をみすみすそのまま秀吉に渡したくない。
で、関東に来たは良いが、彼らに仕事をやらなきゃならない。
しかたねえべさ。
山を削り、海を埋め立てて、大規模な土建工事を始めた訳さ。
甲斐の旧武田系の人民は、治水工事に詳しい人も多い。信玄時代から。
で、利根川の治水もやってのけた。流路変更。
かくして江戸は大坂並み、いやそれ以上の大都市になりえる素地が出来たって訳さ。
673 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 23:00:32 ID:YsPnxl03
関ヶ原の戦い=参院議員選挙
石田三成=中川秀直
徳川家康=小沢一郎
大阪冬の陣・夏の陣
豊臣秀頼=安部晋三
徳川家康=小沢一郎
674 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 15:16:34 ID:3BedJvrm
保守し候
675 :
人間七七四年:2007/08/26(日) 15:25:26 ID:Us/G69hh
sageといて保守はないだろ。
関ヶ原で東軍が勝ったら、ありのままの歴史になったってことさ。
676 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 02:54:37 ID:QR7pBHfx
東軍が勝ってたら・・・
おいらの生まれ育った上田府が、100万都市になることはなかっただろう。
そういやお盆に女房の実家の江戸にいったけど、
いい感じに鄙びてて景色のいい場所だね。
江戸湾の入り江で、目黒っつうところのサンマがウマー。マジオヌヌメ
うちのかみさんも江戸の出やけど
関ヶ原の話題になると「家康は偉かった」て連呼すんねや。適わんわ。
んでな、目黒もやけど目白のサンマもうまいんやて。
どんな落語や、っちゅーねんな。
鮒寿司食えや!!!
あ、かみさん目ェ醒ましよったがあwせdrftgyふじこl
678 :
人間七七四年:2007/08/30(木) 10:42:10 ID:MWFRVfBC
そういえば九州方面はどうなってたんだっけ?
黒田如水と大友・立花・島津・伊東連合軍の顛末ちょっと知らないんで
>>567にあったわ済まん
俺江戸は旅行行った事無いなぁ
680 :
人間七七四年:2007/08/30(木) 15:13:13 ID:5OpH6YYS
多分兵庫にある大坂ディズニーランドが静岡あたりに建てたと思われ
681 :
人間七七四年:2007/08/30(木) 21:42:54 ID:yqpIMjj8
m河出身ですが田中吉政公が城下町開発で辣腕を振るった
ことから岡崎ですら家康が一番人気では無いんですよね
肥ゲだと初プレイは地元徳川で天下統一目指すのが定番w
>>678 こら、竜造寺を外すな。必死こいて守ってたんだから。
683 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 21:24:22 ID:lbOzT+g9
関が原で東軍が勝利できたと主張する輩は、どういう根拠で
勝てたといえるのか?と思うときがある。
徳川家康は五大老筆頭として天下の政務を太閤秀吉自らに委託されているのを
よいことに、勝手な縁組や難癖つけて征伐敢行とか
大阪城西の丸にはもう一つ天守閣造営
どうみても主家乗っ取りを企む君側の奸にしか見えない。
朝鮮出兵にも出ていないことから朝鮮出兵は家康が豊家消耗を
狙って秀吉公に吹き込んだという話は教科書にも載ってる有名な話だし
関白秀次に冤罪を、秀長や千利休の死も家康がやったというのは
豊家や諸侯の日記や資料に載っており普通の歴史ドラマの定番。
三成は義挙で立ち上がり豊臣政権の4大老4奉行が参加
大阪と京洛の上方をがっちり抑え、西国の錚々たる諸侯が
賛同、天下三兵法と謳われる直江兼続、島左近、真田昌幸がそろって
帷幕に加わり、東と西から家康を挟み撃ちという壮大な戦略を実現
兵站財務の天才の石田三成、増田、長束が名を連ね戦中戦後の政権運営にも
兵站他にも支障ない。
決戦の舞台となった関が原でも見事に布陣の段階で勝利は約束されていた。
西軍敗北の前提条件も名文も理由も皆無じゃないか。
684 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 22:33:33 ID:ZQNKzbhz
>>683は、このヌレを765回読み直して写経して斎戒沐浴の後、
腹を十文字にかっさばいて息絶える間際まで書き込むな。
ここは、そのように小学生でも知ってる史実を
大人ぶって書き込むスレッドではありません。
たわけうつけまぬけ
685 :
人間七七四年:2007/09/03(月) 01:03:39 ID:/4WgRs20
そこまで言ってやるなよw
うーん、東軍が勝ってたら、キリスト教を完全に禁止してそう
貿易の利益とか考えずにさw徳川っていかにもそんな感じw
元小西領や宇喜多領だった所では今でもとりあえずキリスト教って人多いよな
686 :
人間七七四年:2007/09/03(月) 09:11:50 ID:mcMwXi6j
関白秀秋公の活躍は周知のとおりだけどこの人
秀吉には冷遇されてたんだっけ?小早川隆景の死後
一度減封されてるよね。そのとき家康がとりなしてやや処分が軽くなったとか。
秀吉が長生きしてすんなり秀頼に政権が渡ってたら
この人関白にはなれなかっただろうし数奇な運命の人だよね
687 :
人間七七四年:2007/09/03(月) 23:44:30 ID:Dkh1aV7y
幕末の新撰組とかの”左幕”思想って
ずっと幕府を左けるって意味だと思ってたけど、
実は、佐和山界隈の昔の人が三成の幼名から「左吉の幕府」
って親しみをこめていってた。
という話を民俗学の教授から聞いたんだけど、ほんと?ガセ?
7割方ガセだと思ってるんだけど。
688 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 12:44:37 ID:x1zC2Ot7
>>686 関白秀秋公、吉川広家、脇坂とかは相当に強硬な徳川処分を要求したらしい。
秀秋公なんぞ徳川に恩があるだろ?と不思議に思うほどに。
逆に三成や秀家とかは秀康の家督相続や忠輝とかの大阪預かりを決めて
徳川存続に奔走している。
でも逆にいえば強硬な主張したやつは後ろめたい取引があったと
かんぐっても仕方ないかもな。当時から東軍への取引があったと
暗いうわさがあったそうだし。
689 :
人間七七四年:2007/09/09(日) 13:44:19 ID:GWjkXo1A
>>686 秀秋が減封されたのは、朝鮮での不甲斐なさだろう。
で、家康は、それは三成の讒言によるものだと吹き込んだらしい。
実は黒田長政もそうだ。このテで家康は武将を自派に取り込もうとした。
しかし、何で関ヶ原なんてマイナーな戦いを云々しているんだ、このスレ。
関ヶ原で勝てないと分かった段階で、家康は兵を引いている。これがうまくいってしまった。
退路を断つべきは吉川や毛利秀元だったはずだ。こいつらこそ、怪しいな。
その後の江戸の陣でも、吉川、小早川、毛利辺りは先陣を仰せつかったにも関わらず、半完成状態の江戸城を攻めあぐねている。
総大将の毛利輝元も優柔不断。毛利は実はみんな不甲斐ない。これが政局を揺るがした。
関ヶ原で決着がついていたら、九州の黒田如水の乱も、奥州の伊達政宗と上杉景勝の激闘もなかったはずで、ここで戦国時代は事実上終わっていたはずだった。
690 :
人間七七四年:2007/09/09(日) 15:50:07 ID:fdRWxY2q
半完成状態とはいえ、江戸城は太田道灌の築いた名城だぜ。
八ツ山、世田谷、牛込、石神井、奥沢、葛西、などの支城も万全の配地、
家臣団の団結力も強固、江戸攻めは手こずって当然。
だいたい毛利勢に城攻めさせるのなんか、判断ミスか、意図的な罠だろ。
691 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 02:34:32 ID:ciW+RbiH
江戸冬の陣の毛利の采配に関して言えば、
上田の真田昌幸が、徳川についた信幸づてで内応の誘いを受けた話を忘れてマイカ?
真田の万が一を想定して、2万余を河越・箱根を中心に割いていたのを忘れてマイカ?
その状態で、毛利の城攻めが遅々としたのは仕方なし。
まあ、昌幸があの状態で裏切るはずはないけど、それだけ警戒されてたわけだ。
692 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 04:02:40 ID:DGXIA4oa
だけど第二次関ケ原で東軍が勝って徳川幕府が成立したのと、結局同じような歴史になったんでは。
693 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 07:38:19 ID:jogy4BTm
なんだよ徳川幕府って、幕府名は「地名+幕府」だろ、
まったく素人は何言い出すんだかかわからん。
ただ、えど幕府じゃあ語感が悪いんだよな、
かまくら幕府・むろまち幕府みたいに、やっぱり四文字じゃないと・・・。
694 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 08:44:50 ID:/S4utV9O
695 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 10:13:22 ID:wlEGnbld
>>689 東西どっちが勝っても10年くらいの混乱はあったはず。
家康が勝利して徳川の天下になったとして
豊臣政権を謀反によって簒奪したわけだから
とてつもない不安定で短期政権になったはず。
毛利の場合は、むしろ短期間で不満分子をあぶりだして
処断するチャンスだったとみていいのでは?
その証拠に関が原から1年間の騒乱の後は
江戸の陣以外戦がなかった。
696 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 13:09:34 ID:9JcYOi4h
697 :
人間七七四年:2007/09/13(木) 02:16:32 ID:UEv3hGkb
妄想と言われるかもしれんが、家康厨から一言言わせてもらうと小早川秀秋が静観していた事を、東軍調略を一手に引き受けていた黒田長政に文句言っているという史料が少なからず在るわけだから、松尾山斉射はやっぱり空砲だと思うがな・・・
ただ西軍は1500の手勢しか持たない島津義弘を厚遇して、それに義を感じた島津義弘の関ヶ原を縦横無尽に駆け巡る逸話は好きだがな。
698 :
人間七七四年:2007/09/14(金) 22:14:09 ID:YRyQ+7N7
>>697 小早川秀秋が東軍に裏切るなどということを真に受けて命運をかけたほうが
アホウだろ。
家康に味方しても石高加増のみ、 西軍で戦えば石高加増プラス関白なんだぞ
まして家康は外様だし、外様の風下に立つわけないだろ豊臣一門なのに。
普通に考えても東軍に組して何が面白いのか?といいたいくらいだ。
そんなだから黒田長政と徳川家康は愚鈍だといわれるんだよ。
699 :
人間七七四年:2007/09/14(金) 22:19:42 ID:YRyQ+7N7
>>697 どうやら吉川広家と小早川秀秋は、相当に反三成を表立って
公言しており、黒田長政と徳川家康への内応自体は約束していたようだ。
小早川など黒田の部下を軍監として入れてたそうだし。
が・・・それ自体西軍の謀略だったんだよ。
だから不利な関が原での不利な布陣に誘い込めた。
それが証拠に、徳川の鉄砲を合図に
南宮山と松尾山が動いたわけだし。
700 :
人間七七四年:2007/09/15(土) 08:22:30 ID:n/N6px6R
関が原直前に起きた宇喜田家の内訌で出奔した人々の
その後ってここで語られてたっけ?
701 :
人間七七四年:2007/09/17(月) 11:49:56 ID:at/xIrBm
>>697 どう好意的に解釈しても、西軍は島津勢を厚遇してないと思うぞ。
それに島津義弘のアレは、甥・重臣を犠牲にしての逃走劇だから。
西軍に義を感じているのならば、関ヶ原以後のいっそ潔いまでの撤退行は説明つかん。
702 :
人間七七四年:2007/09/17(月) 22:36:05 ID:p17dO0Aw
>>700 いいえまだ語られてないです。
>>701 >>関ヶ原以後のいっそ潔いまでの撤退行
??島津は撤退なんぞしとらんぞ。
関が原で西軍が勝利を拾う際に、いっしょになって総攻撃に参加はしたけどな。
>>甥を犠牲
その甥は確か徳川本陣まで攻め込んで四天王の井伊を打ってるな。
その戦功で、独立大名として別個に領地をもらってる。
703 :
人間七七四年:2007/09/18(火) 10:00:17 ID:HyAyYhuN
>>700 宇喜多秀家もあの件では大人げない
かなり執拗に追い回していたからなあ・・・
704 :
人間七七四年:2007/09/19(水) 02:12:39 ID:EN1tf4oq
>>699 治部様の神算鬼謀っぷりには驚きだな。
てか最近司馬の関ヶ原を読み直したんだが、奸臣家康を倒したのに豊臣への忠義から朝廷からの官位を断り続け太閤殿下からいただいた治部少にあり続けた治部様をどうしてあそこまで悪辣に書けるかね?
確か参議、大納言、内府を蹴ったんだよね?
あとなんかあったっけ?
705 :
人間七七四年:2007/09/19(水) 21:15:55 ID:5dkpjcre
706 :
人間七七四年:2007/09/19(水) 23:43:44 ID:kRkrWUQ0
>>704 内府は無理だろww
かの西軍総大将であった毛利輝元すら
その官位は家康を思い起こさせると辞退したくらいだしな。
毛利輝元、上杉景勝、前田利政の三大老家による「御三家」
小早川秀秋、宇喜多秀家、徳川秀康の家門による「御三卿」
小西行長、佐竹義宣、織田秀信・信雄、真田昌幸・信繁(幸村)
島津義弘・豊久、徳川忠輝、伊達政宗・秀宗、長宗我部盛親といった
「武家精華成」の家柄
誰一人として内府の座は希望しなかった。
707 :
人間七七四年:2007/09/20(木) 01:06:21 ID:G/9fP9EV
しかし、真田もだけど蜂須賀家もうまいことやったよな、
徳川と豊臣両天秤にかけて、どっちが勝って生き延びる作戦で、
息子と栄誉は失ったけど、結局ちゃっかり生き残っているんだから、
まったくたいしたもんだ。
・・・あれ勝ったの西軍だっけ?
708 :
人間七七四年:2007/09/20(木) 20:47:06 ID:l3P1kmxg
関ヶ原後の官位ってどうなったっけ?
関白に秀秋で治部に三成で内府が空位で行長が権中納言位しか語られてないよね?
709 :
人間七七四年:2007/09/21(金) 20:17:43 ID:j1AlcyMe
蜂須賀は阿波の古狸
710 :
人間七七四年:2007/09/26(水) 00:21:09 ID:g6IoXSAg
家康の謀反を打ち破ったからこそ、秀吉の海外志向の精神はその後も貫かれ、
日本は政治、経済、文化面で西欧に遅れることなく繁栄し続けられたと思う。
江戸ジャイアンツを見ていると無性にそう思う。
「秀吉に対する家康」のごとく天下の阪神タイガースのライバルチームとされてはいるが・・
オーナーのツネナベは目先の恩賞金を積んでは、他チームの4番バッターとエースを
かき集めるが、彼らは、恩賞に目がくらんだだけで箔がついたと満足して適当にやってはやめていく。
生え抜きで育った選手はたまったものではないから。どんどんと大リーグに出ていってしまった。
徳川の世となっていたら、こんな具合に江戸ジャイアンツのごとき醜態をさらしたような気がする。
711 :
人間七七四年:2007/09/26(水) 02:46:29 ID:+FqXVGbZ
とりあえずスレタイ通り、東軍が勝利したと仮定して
その後300年くらいの間の政治・経済・文化・軍事を語らない?
西軍が負けるはずがないと力んでる人たち。
もうちょっと想像力働かせろよ。
712 :
人間七七四年:2007/09/26(水) 10:06:22 ID:c8nHwd5E
(豊臣政権継続で海外進出が盛んになるかは疑問だが)
みんなが言うように家康の保守的な面が色濃い政権になった場合
平安時代みたいに軍事的には弱体で独特の文化が発展するんじゃないか
きっと今みたいに高層ビルが味気なく並んだ都市じゃなくて
歴史ある町並みが文化遺産としてのこった感じになるだろうね
自分は今のビル街も好きなんだけど
713 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 11:30:57 ID:1Z68+kKp
>>711-712 東軍が勝利した場合、相当に不安定な天下になったと思う。
東軍が勝てば戦国の再来というのは関が原のイフでのセオリー
になってるぞ。
なんせ毛利一族は無傷で大阪城も抑えていた。
関が原で西軍が負けていても局地戦に過ぎないのだから
双方の和睦で妥協するしかないと思う。
つまり毛利家はそのまま残ってしまう。
しかも時間が過ぎていく間にも
前田は徳川の保障つきとかで北陸7カ国を抑えていったろうし
上杉は結局越後と最上は併合していたろうし・・
この大老家は政治的にも徳川と対等なのだから家康でも処置には困るだろう。
まして伊達と黒田も相当でかくなってたはずだし・・
なにより家康には主君にあたる豊臣勢力も残ってる。
室町幕府末期のような弱体な天下で家康一代で天下は乱れるという
結論は出てたはず。
714 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 11:35:47 ID:E6flp3BT
>毛利一族は無傷で大阪城も抑えていた。
これが最大の問題だよな。
よほどのご都合主義でもやらかさなきゃ毛利を削れないから
どうしても徳川による西国への支配力は低過ぎる。
そして日本の中枢は歴史に現れて以来基本近畿圏なわけで
そこを抑えずしての支配なんぞたかが知れてる。
715 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 14:55:59 ID:2wRtPiJ9
つ北条氏
よほどのご都合主義というとそれこそ輝元が家康より先に死んで
若年の実子と養子で家中が割れるくらいしかないな
お家騒動で弱体化してた宇喜多くらいはつぶせるだろうが…
宇喜多といえば小田原で太閤殿下を怒鳴りつけたことで有名な
剛直の勇士花房職之が関が原前に出奔して以降の活躍を描いた漫画
面白いんだけどSUKEBEEってタイトルはどうにかならないものかw
716 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 22:40:05 ID:IHu4d9s2
仮想戦記だと、将軍権力は安泰のまま
幕府は300年近く続くってことになってるけど
さすがにそれは難しいよな。
鎌倉の執権や室町の管領の例を鑑みるに
将軍家の形骸化は間違いないので
徳川譜代でどこが台頭するか予想しようぜ。
717 :
人間七七四年:2007/09/28(金) 12:37:42 ID:3JHnbRye
>>将軍権力は安泰のまま
>>幕府は300年近く続くってことになってるけど
どうやったらそんな状況になるんだよ。
どう考えても毛利との和睦で豊臣、毛利には手つかず
上方の戦のせいで上杉も討伐しそこね、結果的に九州の黒田と
奥羽の伊達をのさばらせただけの結果の戦のあとで
将軍になったところで
1)徳川将軍の上には、主君としての豊臣摂関家が健在。
2)もともと徳川と同格、同等国力の毛利、前田、上杉も健在で
各地で地方権力、小幕府になってる。
3)九州の黒田と奥羽の伊達が100万石級になってると考えても
一筋縄ではいかないよな。
4)和睦しだいでは(というか徳川への楔として確実に)真田も中堅大名へ
なって関東の栓になってるだろうし
5)小国真田にやられるような二代目秀忠への不安は大きい
家康の子沢山が逆にお家騒動の原因になるだろう。
足利幕府の関東公方よりよほどやばい連中ばかりだ。
6)日本の中心である近畿圏が放置されるしかない幕府だし
豊臣がいるのだから京都所司代なんぞ置けんわな
7)家康も三河武士も商業や海外貿易への対応が鈍いか理解できてない
田舎武士である。時代遅れといわざるを得ない。
たとえれば今の時代に全社員に、携帯電話もインターネットも禁止してる
企業とでもいえばいいか。
はっきりいって室町幕府以下だぞ徳川幕府の不安定さ。
>>716多分家康が死んで秀忠の代になればすぐであろう。
718 :
人間七七四年:2007/09/28(金) 13:16:22 ID:cg4rpddl
東軍厨としては3と7はなさそうだが……近畿の押さえで岐阜に
四天王の誰かが入ると予想。秀頼が成長した暁には鎌倉幕府における
承久の乱のようなものが起こってその勝者が最終的な覇権を握るだろう。
ところで毛利秀就と秀元の関係ってどうだったんだ?
719 :
人間七七四年:2007/09/28(金) 19:04:17 ID:3JHnbRye
>>718 その慶長の乱みたいなの>>秀頼が成長した暁には
の場合家康死んでるぞ。
秀忠の場合だととても勝ち目は・・家康では勝てるだろうが
謀反の烙印押されるだろうし・・
毛利秀就が家督相続して秀元は周防長門二州36万余石として
毛利宗家の後見していた。
が内輪では緊張もあったらしく防長の城は山口を希望していたのに
宗家の疑惑の目を気にして萩にしている。
萩藩はその後、新田開発はもとより、ありとあらゆる殖産興業に勉め、
内高は100万石を超える状態になっていたという。
720 :
人間七七四年:2007/09/30(日) 14:45:51 ID:sFwdHKxS
「東軍が勝っても、近代的な発展はなかった。群雄割拠に戻るだけ」がスレの結論?
俺はそうは思えないんだよ。
東軍が勝利していたらというIF、無知蒙昧といわれるかも知れないけど
江戸湾を中心とした大規模な町づくり・経済基盤づくりで、関東界隈が
相当発展する可能性はある。
毛利上杉の政治的な発言力は弱まるし、国替えだ何だで縮小せざるを得ないでしょ。
東北は伊達を中心に親徳川、東海はもともと家康の地盤だし好きに配置。
近畿は豊臣を中心に、周囲を小規模の大名群で構成。
それこそ加藤だ福島だって秀吉子飼いの武将は、
近畿から離れた広大な領国に移されるはず。
石田宇喜多島津毛利らが退去し、子飼いの武将が独立してしまった豊臣に、
残された人物はいないよな?
721 :
人間七七四年:2007/09/30(日) 22:33:42 ID:N04n9O7N
>>720 関が原での主力は豊臣大名で
徳川勢力は秀忠が真田ごときに(当時はそれだけの勢力差があった。)
時間をとられてる。
これだけで徳川が思うようにできないのは明白だよ。
大阪城を抑える毛利との妥協もあろうし毛利は上杉を残して徳川の
けん制を図るであろうし・・
なにより豊臣大名がメインで勝った戦で徳川が天下人ですと
将軍に厚顔無恥にも就任し思うように再拝できるとは思えない。
722 :
人間七七四年:2007/09/30(日) 22:49:58 ID:sFwdHKxS
じゃあ、東軍が勝っていたら
豊臣・徳川両頭を中心とした合議制で政治は決まっていくのかもな。
豊臣文治・豊臣武断、徳川文治・徳川武断・無派閥
みたく分かれて、浮動票の取り合いで京阪江戸を結ぶ政治宮廷劇が
以後300年くらい続くとみた。
武家による平安時代みたいなもんか。
723 :
人間七七四年:2007/10/01(月) 00:11:27 ID:sKOd+B2i
少なくとも二度と合戦は起こせなくなるであろう。
関が原の二の舞は避けるであろうし、
あの合戦は東軍が勝つという前提に立つと1年くらいの長期戦
になるのは確実なので
(だって、どう考えても大阪城も京の朝廷も豊臣家も抑えてない
家康に短期決着は無理なんだから)
その間にある程度大勢力への収束が起きているはずなので
徳川としても直接戦仕掛けるよりは駆け引きで相手するはず
豊臣家の動向が不明だがな・・
少なくとも戦後豊臣と毛利の一体化が相当に進むだろうから
西国は豊臣毛利枢軸で安定して運営されていく、そして
西国はフロンドの乱以降の王政フランスみたく集権的な一体の国家として
逆に東国は征夷大将軍として徳川が一任されつつも
前田、真田、上杉、伊達そして徳川譜代が入り乱れ
神聖ローマ帝国のようなありさまに
とかを予想しているが・・
東国は
724 :
人間七七四年:2007/10/10(水) 16:12:55 ID:oGz26LwK
朝廷の力が強くなりそう
725 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 21:30:39 ID:K6PIoyiL
最近、日本史を勉強しはじめようと思うんだけどさ
西軍が勝った後どうなったんだっけ?
毛利や石田、小西の合議政権になって外国に再び攻めたんだよな?
どこまで切り取ったんだっけ?
726 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 21:56:00 ID:nfcvGnMq
727 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 22:52:19 ID:YbmQOWX5
こんな妄想スレ立てる奴なんて、どうせ小学生だろ
そもそもあの布陣で東軍が勝てるわけがないんだよ
西軍内部から相次ぐ裏切りとか計算出来ない限り
あんな不利な布陣を布いた家康は合戦素人
最低でも松尾山に陣取った小早川隊が裏切るかしない限り、形勢の逆転は望めない
でもご存知の通り、小早川秀秋は極度の優柔不断。敵に裏切る度胸すらないよ
そうだな。俺だったら、思い切り発砲威嚇くらいするけどな
そんくらいして、初めてビビって動き出すんじゃないか?
ま、どっちにせよ 家康如き
天下取っても、すぐに油モンかなんかに当たって死ぬよ
728 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 23:24:29 ID:YSlQjJse
729 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 00:02:45 ID:TfpqePSy
>>717 豊臣史観乙。
家康は難破したリーフデ号の修理費に五万両やっている。
貿易への関心は決して小さくない。
最近では朱印船の許可は家康が行なっていたのではないかとさえ言われているらしい。
730 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 00:06:45 ID:qCGUTsx+
我慢して我慢して、秀吉死後にやっと天下取りに動き出したら
関が原であっという間に粉砕された家康タンカワイソス。
でも、光秀タンの三日天下よりはマシカ。
731 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 00:39:37 ID:eKBdagqa
勝っていたら秀忠の治世ってのはどんなもんになってたのかね。
江戸の陣では江君の言いなりだったらしいが。
732 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 16:36:15 ID:520FJfDR
>>731 つ「日野富子の時期の二の舞」
>>725 北伐に失敗した故事に懲りて南進してるだろ。
もっともこのせいで日系国家ができていったり
日系勢力が世界で活躍してる状態になってるが
本国は鳴かず飛ばずの状態になってしまった。
人材が流出しすぎたせいだな・・
733 :
人間七七四年:2007/10/20(土) 18:17:35 ID:HcdaAkuX
日野富子って言うほど悪女と思わんが
寧ろ無能な夫に代わり内政を立て直した有能な女政治家じゃね?
734 :
人間七七四年:2007/10/21(日) 04:51:26 ID:jKNX23uE
幕府の財政は立て直したが内政は立て直してない
735 :
人間七七四年:2007/10/21(日) 21:41:35 ID:i5QxQhQ7
吉宗みたいなもの?
736 :
人間七七四年:2007/10/22(月) 01:48:38 ID:qdS5Cxqw
吉宗って誰?
737 :
人間七七四年:2007/10/22(月) 03:54:29 ID:k5Xp3Cl5
「米関白」こと八代関白豊臣吉宗の事じゃないの?この場合。
738 :
人間七七四年:2007/10/24(水) 21:37:25 ID:ZYdxRcSw
なんだかんだ言って東北で一番うまくやったのは津軽か?
周りは東軍一色で、でも三成に対する恩もあるから、
(秀吉に大名と認めてもらえるよう、根回しして貰った)東西両方に兵送ってさ。
真田ほどの恩賞は貰えなかったけど、飛び地で少し加増してもらえたし。
逆に悲惨なのは南部か。
三成のせいで津軽の独立は認められ、
その腹いせか知らないけど関ケ原では東軍について減封。
なんかこの険悪な二藩の因縁がおもしろいとおもった。
739 :
人間七七四年:2007/10/24(水) 22:57:02 ID:sDnDy+Rt
改めて考えてみれば
東軍は結構家康を総大将に統率が取れていたような・・
逆に西軍は思惑がばらばらだった。こんなんでよく勝てたな
と改めて思う。
実際の戦で見れば、家康があまりに馬鹿な戦してしまったと言うべきか。
あの段階で徳川への関東征伐にいたらなかったのは
総大将の毛利が西国の敵対勢力掃討、西国制覇を優先させ
副大将の宇喜多が家康の追い落とし後の豊臣家の後見役ゲットと
豊臣政権首座の獲得を優先させ
戦端開いた上杉が越後最上併合と奥羽制圧を優先させ
前田が宇喜多に通じて西軍の顔して北陸制圧優先させ
とまあ徳川に並ぶ大老連中が自分の勢力拡大と足場固め優先させちまった
せいだしな・・
徳川が関東にこもるのならそれで大老罷免と蟄居でいいとかいう
毛利や宇喜多を叱責し
関東征伐を強行に主張したのが
かの関白になる小早川秀秋
日之本六分一殿といわれる毛利輝元や
豊家家門筆頭宇喜多秀家
北国の竜上杉景勝に臆することなく
談判し関東に攻め寄せたわけで・・
逆にこれが東軍内通の疑惑を隠滅するための
行為だったという学者もいるのだが・・
740 :
人間七七四年:2007/10/25(木) 01:04:51 ID:vpgV2uK0
津軽は本人が家康に引っ付いてたのによくやるよ
741 :
人間七七四年:2007/10/26(金) 20:29:19 ID:7NPkv98i
>>740 津軽は三成と縁が深かった。
あとは反西軍色の濃かった奥羽や大藩上杉の動向を監視する役目を負っていた
ともいわれてる。
そのため三成の娘が高台院の養女となり豊臣姓とセットで嫁がされてるという。
江戸の陣では奥羽の動向を逐一大阪に報告しているしな。
742 :
人間七七四年:2007/10/26(金) 21:16:41 ID:dHvnHY53
縁が深かったのは関ヶ原以後だけどな
743 :
人間七七四年:2007/11/12(月) 18:44:52 ID:8mweoLMr
744 :
人間七七四年:2007/12/01(土) 22:54:53 ID:hmHAnFDN
保守
745 :
人間七七四年:2007/12/18(火) 17:40:32 ID:xcuOsELz
保科筑前守
746 :
人間七七四年:2007/12/26(水) 02:56:17 ID:GAm/QNHx
無知な俺に教えてほしいんだけど、真田信幸って関ヶ原の合戦後どうなったの?
747 :
人間七七四年:2007/12/26(水) 03:02:43 ID:kJzgMN1y
結構、出世した
748 :
人間七七四年:2007/12/26(水) 11:05:51 ID:N6KL1rHL
>>747 出世より長生きの方が印象が強いけどな
「戦国生き残り」ってブランド品になりましたな
749 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 23:32:33 ID:D2i6ohWm
外様だけど、譜代格になり老中になった。
まあ養子なんだけどね。
750 :
人間七七四年:2008/01/12(土) 19:13:30 ID:y6ZBZ9C+
真田信幸は、戦後、昌幸・信繁の助命嘆願がかない、紀州九度山に流刑。
1606年、昌幸・信繁および大谷吉継からの信幸赦免申し入を、石田三成は受け入れて
めでたく赦免。以後、父昌幸のもとで信州統治に精をだす。
16010年、信繁が信州から岡山50万石へ加増移封された際に、
信幸は上田に13万石相当で封ぜられ、大名として復帰。
豊臣家中にあって徳川残党の慰撫にも奔走。
政治的交渉・調整においては信繁よりも評価が高く、後に豊臣の姓を賜り、
晩年は幕府老中に上ったよ。
もともと敵だったのにここまで出世するってことは、大した器量人。
関が原でロスした数年間がなければねえ・・・。
751 :
人間七七四年:2008/01/21(月) 15:22:09 ID:owsDiXtf
ただ東軍マニアの俺に言わせると、東軍にもなかなかの大名は多いと思うぞ。
関ヶ原で大奮戦した細川忠興公は幽斎から助命嘆願だされたにも関わらず、
「はようガラシャの所に行かせろ」と斬首させたし。
まああのエピは父と三人の息子の助命を条件に受け入れたというのが通説だけど。
生前は家臣の首ガンガン撥ねた困った人だったらしいけど、
長生きしてたらきっと子供思いのいいパパになってたハズ。
あと長谷堂で大軍の上杉相手に大活躍したけど、結局武運つたなく敗北した最上義光公にも涙。
上杉方からも称賛の声が出たらしいし、戦争前の手紙から
「上杉に勝てないかもしれないが、戦うしかない」と悲壮な覚悟があったらしいね。
戦後の沙太では西軍内でも最上に関しては秀次事件のせいで同情票が多かったらしいし。
今は娘さんと奥さんと一緒に三人仲良く丁重に葬られているらしいけど。
それにくらべて伊達のおぼっちゃまは…
752 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 19:52:04 ID:FJZQn9OJ
確か片倉が直江と勝手に不戦の約束…だったか?
んでその後南部に…か。
今でも正月には「いかがなさいますか」ってやってるのかな〜。
753 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 17:47:44 ID:AFcNmSiV
保守
そういえば西軍の子孫に総理になった人いなかった…?たしか何とか…川だっけ?
754 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 09:53:17 ID:7BM3Rktr
川と言えば 小早川
755 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 12:22:21 ID:AaCrzxIX
吉川もいるじゃん。
関ヶ原で南宮山の毛利軍の指揮をとった男。
よほど忙しかったのか、馬上で弁当食いながら戦ったらしいな。
756 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 12:30:41 ID:MXlExJ0l
>>755 そうだ吉川護広。
消費税はいらんって言って累進課税を強化した庶民の味方だ。
あと「その時歴史が変わった」の司会の木下信知って豊家の末裔だよね。
757 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 20:26:40 ID:QBxX9p5f
>>756 豊家と木下家は日本中にはびこってるから、あんまし自慢にもならんけどさ。
ところで徳川って現代も残ってたっけ?
758 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 20:45:04 ID:QBxX9p5f
豊家も維新の時はかなりヤバくてさ、
長曽我部の青年家老坂本竜馬が大政奉還てアイディアを出し、
島津の西郷隆盛が、豊臣秀喜の首をよこせと詰め寄る奥越列藩同盟の清河八郎を説き伏せてくれたからこそ生き延びれたんだよなぁ。
この二人がいなかったら、俺の住んでる大坂が焼け野原になってたかもしれん。高知と鹿児島には足を向けて眠れないよ。
759 :
人間七七四年:2008/03/13(木) 14:26:09 ID:WbTiIn0M
保守なのだ。
760 :
人間七七四年:2008/03/28(金) 20:56:46 ID:Hbk5W+81
保守
761 :
人間七七四年:2008/03/28(金) 21:43:32 ID:VVLiPbc9
>>741 でも津軽は徳川家康の姪で一度福島正則の養子に嫁いでいた姫を側室にしてもいるんだぜ…
762 :
人間七七四年:2008/03/29(土) 14:12:14 ID:8gpbmN2w
>>761 徳川家康の姪である満天姫は正室だよ。石田三成の娘の辰姫は満天姫が嫁いだ時に側室に降格(?)させられてる。
ただ跡を継いだのは辰姫が産んだ子供なんだよな。
763 :
人間七七四年:2008/03/29(土) 15:29:28 ID:qBc1fHeA
764 :
人間七七四年:2008/03/29(土) 16:28:52 ID:IbApAYXv
東軍が勝ってたら道州制
の議論も今日ないやろな
津軽の蝦夷開拓もないし
蠣崎は武田姓に復し転封だから
北海道も未開拓やろ
東軍勝利だと毛利上杉
の地域ブロック大大名が改易されるだろうし
何々地方という概念すら無いんちゃう?
765 :
人間七七四年:2008/03/29(土) 16:56:34 ID:IbApAYXv
東軍が勝ってけつかったら
大坂取引所でやっとる
全世界の株式・通貨や
商品の先物・デリバティブ取引もないし
北浜がアジアの金融センター
となることもなかったんちゃう?
江戸「いちば」で
「蕪上がれ」と言ってカブを持ち上げる
野菜仲買人が
大坂や京都でお笑いのネタ
になっとることも無いんやろな。
766 :
人間七七四年:2008/03/29(土) 17:12:03 ID:IbApAYXv
今日の朝ドラ
「江戸に漫才演芸場を」
なんてのも有り得んわな
徳川家康とお笑いほど
縁遠いもんもあらへん
以上、3件、地理・政治経済・芸能板
東軍勝利Ifでした
767 :
人間七七四年:2008/04/02(水) 13:35:05 ID:fpSOmTAV
徳川家康も人生の最後の最後でとちっちゃったよなあ。
我慢に我慢を重ねて、信長の死後やっと運が開けて小大名から250万石の大大名へとのしあがれたのに。
出世して過分な夢を見たばっかりに・・
後世「もし関ヶ原で家康が勝ってたら」などと妄想の余地が広がるのもわかる気がするよ。
768 :
人間七七四年:2008/04/05(土) 23:30:11 ID:ufxoRc3C
なんかさ、家康はうまくのせられちゃったんじゃないかな?
あの関ヶ原の乱さえ起こさなかったら「律義者の徳川殿」で、今日まで通ってたんだよ。たぶん。
それが、誰がみても大義名分も無い無茶な戦いを仕掛けて、あげく江戸の陣で一族もろともアボーンだよ。おかし過ぎない?
俺は家康はもちろん、結局五大老になれなかった羽柴三成も、淀様や北の政所様を初めとした女たちに踊らされてたんじゃないかと思う。
769 :
人間七七四年:2008/04/06(日) 22:00:38 ID:S/0yU8pq
770 :
人間七七四年:2008/04/26(土) 20:22:30 ID:iBT2guLz
大阪夏の陣を戦国最後の合戦ち言うで
771 :
人間七七四年:2008/05/05(月) 01:39:45 ID:RFWaYM8P
>>770は正論だけど削除人には分からず屋がいるからなあ
772 :
人間七七四年:2008/05/05(月) 22:49:01 ID:XTomwY77
東軍が勝つはすがない
古今東西
東が西に勝った例はない
秦・北周・アレクサンダーから東西ドイツまで
773 :
人間七七四年:2008/05/09(金) 13:40:58 ID:Unc9vkhP
>>772 モンゴル帝国
壬申の乱
普仏戦争
人民解放軍のチベット侵略
ザイール内戦
承久の乱
:
:
774 :
人間七七四年:2008/05/09(金) 18:46:07 ID:/SwwudoE
>773
なる程。
北は南に勝ってるだろ
775 :
人間七七四年:2008/05/09(金) 18:47:49 ID:/SwwudoE
御免、賤ヶ岳があった。
776 :
人間七七四年:2008/05/10(土) 18:43:45 ID:4YDuA1Gu
江戸市役人なんだけどさ、石原市長が会議の度『東京市』って名前変えたいってウルセェの。
なんかここ見てんかな…
777 :
人間七七四年:2008/05/10(土) 18:59:09 ID:4YDuA1Gu
ごめんよ変なこと書いて、ちと畑の様子見てくる
778 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 21:27:48 ID:QDPwCDFK
最近暦ゲやってないんだけど総合能力トップはやっぱ信長?
779 :
人間七七四年:2008/07/01(火) 12:17:35 ID:6TFaV1Tf
いや、石田三成の評価が凄い。
関ヶ原の大勝利を、三成一人の能力に還元するのは間違いじゃないかと思うんだが……
780 :
人間七七四年:2008/07/02(水) 18:30:47 ID:B05pHrmt
その石田光成のおかげで日本が近世に進み、太平洋に進出し後の日系国家の繁栄に進めただろが。
結局、結城秀康が豊臣秀康、宇喜多秀家が豊臣秀家、小早川秀秋が豊臣秀秋となって豊臣御三家となったみたいだが。
しかし豊臣政権、いや日本はあの秋津大陸(北米大陸)や北斗地方(シベリア)まで手を伸ばしたのが日本の過ちだった。
あの後にナポレオン戦争参加が白人達を怒らせて猛反撃でシベリア、北米西海岸、大和(豪州)マレーを失い。
それから明治革命で一旦巻き返したが、最後はアメリカに負けて、豊臣大君家はマッカーサーによって解体されて、大坂、江戸はアメリカ軍が駐留中だよ。
781 :
人間七七四年:2008/07/04(金) 20:04:03 ID:ChGzleqM
金沢を首都とする
大倭民主主義人民共和国ツアー行って
大倭百貨店で金書記バッチ買った
782 :
人間七七四年:2008/07/04(金) 20:25:30 ID:O+6bfqdf
783 :
人間七七四年:2008/07/04(金) 20:33:37 ID:ChGzleqM
江戸娘のあいだで
今年は長靴が流行っとるらしいで
三成老中の近江では
短いスカートがはやっとるが
784 :
人間七七四年:2008/07/04(金) 20:37:49 ID:ChGzleqM
東軍勝利の為には
信頼できる留守部隊を
関東に残すべきやった
秀康や蒲生が西軍に通じてるのを
見抜けんかった狸に勝ち目なし
785 :
人間七七四年:2008/07/05(土) 18:29:26 ID:KJUzoLOf
まあ東軍がかっていたら鎖国してたな
786 :
人間七七四年:2008/07/05(土) 21:03:40 ID:r77mGXt8
金沢の大和が
日本一の百貨店になる
787 :
人間七七四年:2008/07/07(月) 23:32:04 ID:RM2d+JNk
サミットは駿府だな
788 :
人間七七四年:2008/07/08(火) 02:53:51 ID:4BaWnrCu
>>779 総合トップは蒲生氏郷
どうもスタッフに信者がいるようだ
元々三成の配下の蒲生系が関ヶ原以降に自分達の旧主を讃えるために宣伝してたからなー
秀行もアホの子扱いされて可哀想だ
789 :
人間七七四年:2008/07/22(火) 22:42:17 ID:5gcExDAp
信長包囲網以前のシナリオも復活して欲しい!
以前のヒデヤボは美濃攻めシナリオも入ってたのに、創世も革新もS1は長浜スタートだからなぁ
・・・まぁ、どこまで遡っても秀吉が登場した時点で秀吉無双になるんだけど
ところで、チャレンジモードの「小田原」どうやっても攻略できないんだが、何かコツはないの?
関白秀吉の千成り一発で小田原城の耐久が10000減るんだが
統率132武勇120とか鬼だわ
知略もMAXだから計略全部弾くし
逆に、「朝鮮討伐」なんか名護屋から扇動してるだけで一揆頻発→自滅すっから渡海しなくても勝てるし、もうちょっとバランス取れよ肥
790 :
人間七七四年:2008/07/22(火) 23:00:22 ID:5gcExDAp
歴ゲー板の誤爆スマソ
何度やっても小田原城防衛できないんでイラついてた
ニコ動に攻略あがってた
家康に混乱仕掛けて秀吉を巻き込めば良いんだな
タヌキ知略低いから面白いように決まるw
791 :
人間七七四年:2008/07/23(水) 20:51:31 ID:VkUnp389
もし東軍が勝ってたらやっぱり敗因は直江が最上攻めにてこずった所為にされちゃうのかねえ?
関東に攻め込むのは初めから予定にはなかったというのが最近の説らしいけど。
792 :
人間七七四年:2008/07/24(木) 06:20:13 ID:9A2mkxYG
は……?
793 :
人間七七四年:2008/07/25(金) 18:42:34 ID:i5sDhy6U
すまん、日本語と思考がおかしかった。
東軍が負けた理由のひとつに秀頼が出馬するのを警戒して、
秀忠の部隊と合流が出来ず兵力が劣勢のまま短期決戦を挑まないといけなかったことが
よく上げられるので、西軍が負けた場合大津やら田辺やら攻めてた部隊か、
上杉勢が関が原にいなかった所為にされちゃうのかなーと……俺直江アンチだし。
794 :
人間七七四年:2008/09/17(水) 02:25:16 ID:PuGm7ybc
暴れん坊関白面白い
羽柴健が演じる豊臣秀宗が活躍する時代劇だ
795 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 00:00:38 ID:Sey1M7nZ
江戸の陣では
徳川譜代の大名たちは誰一人として江戸方に付かなかったよね。
796 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 09:33:20 ID:8SiywpS+
大名じゃなくて浪人だったけど井伊直孝はかなり頑張ったよ
大名も皆家来が居る以上無茶なことは出来ないんだな
797 :
人間七七四年:2008/10/05(日) 04:02:09 ID:Z2eQfabY
三河以来の家康配下はほとんど全滅で、江戸の陣での徳川軍主力は後北条と武田の遺臣だからな。
大久保一族なんか長安以外全員全員豊家に召し抱えられてたし。
798 :
人間七七四年:2008/10/07(火) 19:24:56 ID:Rnhgc4qD
真田正之ってたしか交戦した吉川隊に勇戦を誉め讃えられて
息子が岩国藩の家臣に取り上げられてたよな。
799 :
人間七七四年:2008/10/15(水) 03:51:39 ID:9YeDcsfq
真田はちょっとややこしい。
親父と弟が助命嘆願して高野山に追放、で監視の目を抜け出して江戸入り。
で、江戸の陣で秀頼公の本陣に迫る勢いを見せる大活躍をするんだが、
武運つたなく寺の境内で吉川公に討ち取られる。
だけど吉川公がその勇戦に感嘆して次男を引き取り後に岩国藩の藩士に引き立てられる。
後に家老にまで出世したらしい。
そういえば関ヶ原で捕えられ斬首された黒田長政の遺児も毛利で引き取られてたっけ。
黒田本家は如水が関ヶ原後、突如柳川攻め中の鍋島に襲いかかって武功をあげ
取り潰しのはずが摂津三田に懲罰的転封で済んでるよな。
鍋島にしてみりゃ立花攻めを言い出した張本人にいきなり裏切られて
攻め込まれたんだからたまったもんではないだろうが。
まあ鍋島の方は改役・浪人した後に関白家につかえその後、
佐賀藩に返り咲いてるから如水はガッカリしたらしいけど。
放浪中も勝茂の殿様育ちが抜けなくて家臣が苦労したとか逸話は多いな。
あとそれからというもの鍋島と黒田は大阪城で顔を合わせても口を聞かなかったとか。
800 :
人間七七四年:2008/10/15(水) 15:47:15 ID:k5yGHT5V
真田が秀忠軍を釘付けにしたことは西軍の勝因の一つだからこそ
助命はなったんだろう。
真田日本一の兵、と呼ばれた兄の影に隠れてるけど
弟の信繁も優秀だよね。優秀な兄と不出来な弟みたいに言われることもあるけどさ。
801 :
人間七七四年:2008/10/15(水) 16:02:47 ID:k1rslc8D
信繁は領国経営が余り上手じゃなかったから、そう言われるのも無理ない感じ
城作りは上手だから、後世の俺達は文化財産としての恩恵は預かっているけどさ
かといって兄が経営上手とも限らないのに、時々信之は治世も上手かったとかされるのはちょっとな
802 :
人間七七四年:2008/10/16(木) 03:04:27 ID:G0YwyalS
信繁のコンプレックスは尋常じゃなかったみたいで、後世「兄こそ国を治める真の武士、
我々はその槍持ち程度の物だ」と書き残してるよな。
当の信之は女人禁制の高野山に追放になったときに小松はじめ側室連れてこうとして
九度山に住んでみたり、弟と親父に金の無心してみたり、
真田紐を作って生活の足しにしたり、子供つくったりしてたみたいだけど。
江戸城入りした時は毛も歯も抜け落ちて、落ち武者同然だったらしいな。
「真田、江戸に入城!」の報が届いた時に三成は昌幸と信繁の謀反かと恐れたらしいが
信之だとわかって安心したという逸話もある。
まあその信之が神田の戦いで真田家とも縁のある武田旧臣を率いて突撃し、伊達軍を敗走させ、
舞兵庫と島左近の軍勢を抜け三成の旗本を一蹴し秀頼公の陣に迫るんだけども。
803 :
人間七七四年:2008/10/16(木) 03:59:38 ID:KRgMw3OP
>>801 >信繁は領国経営が余り上手じゃなかったから、そう言われるのも無理ない感じ
信繁が領国経営したことなんてあったっけ?
804 :
人間七七四年:2008/10/16(木) 06:33:02 ID:u1DWPk+3
負け組への判官贔屓が行き過ぎて過大評価になってしまうのは良くあることだからな
自分も家康がもし関ヶ原で勝ってたら江戸が
日本の首都になってたんじゃないかと妄想することもある
いや、人身掌握に長け関ヶ原で神がかり的な采配を見せた
稀代の名将三成には勝てっこないってのはわかってるんだけどねorz
805 :
人間七七四年:2008/10/16(木) 13:10:26 ID:DfKyCCss
前田家って結局東軍ついたはずだよな?何で減封処分受けなかったん?
誰かエロイ人教えて
806 :
人間七七四年:2008/10/16(木) 13:35:20 ID:hmTMkWI1
>>805 ヒント前田利政と宇喜多秀家
あと
>>804 稀代の名将三成に関して最大の疑問が江戸の陣なのだが
なにゆえ名将と呼ばれる三成が江戸の陣は二回もかける必要があったんだ?
江戸城といえば家康が入った際屋根が雨漏りしていても
家康が経費をケチって城はおんぼろのまま放置していたはず。
そんなとこに浪人連中しか加勢がない状態で立てこもったのにだ・・
三成はそれこそ全国諸大名の精鋭を結集して包囲したのに
一度講和して、だまし討ちで堀を埋めて講和を破って責め滅ぼしてる。
実は三成って戦が下手だったんではないか?という疑惑があるんだよ。
807 :
人間七七四年:2008/10/16(木) 18:37:14 ID:z2adRnf9
江戸の陣の頃にはおせおせガンガンの島左近がいないから
慎重さが際立ったんでない?よく知らんが。
808 :
人間七七四年:2008/10/16(木) 19:05:24 ID:nheqyPTx
>>806 太閤のせいにされることもあるけど
忍城の水攻めで失敗したのも事実だからね…
自身もそれを自覚していただけに
島左近を始めとした優秀な家臣を召し抱えたって説もある。
809 :
人間七七四年:2008/10/16(木) 19:12:23 ID:G0YwyalS
>>806 大一大万大吉の旗で知られ、近江一の弓取と言われるる三成公も小田原攻めでは
成田氏の篭る忍城を攻めあぐねたらしいから攻城戦は苦手という説もある。
戦力が拮抗していた関ヶ原では家康を城から誘き出し野戦に持ち込む策を使ったしな。
徳川軍を油断させて関ヶ原に誘き寄せるためにあえて配下の献策した夜襲を行わなかったのは有名だよな。
810 :
人間七七四年:2008/10/16(木) 20:26:59 ID:EXY8Tk/8
811 :
人間七七四年:2008/10/17(金) 01:59:23 ID:x6cHiT0j
>>806 家康の吝嗇っぷりの逸話は多いけどさすがにそれはないだろう>おんぼろのまま放置
関東入りの後に家臣を封じた時に見せた吝嗇はやりすぎ
今まで共に戦ってきた家臣たちをあんな風に扱う時点でもうね…
とはいえ加藤、福島のように不忠者に大領地を与えちゃうのも考え物だけどね。
812 :
人間七七四年:2008/10/17(金) 22:52:45 ID:z3cxpITm
813 :
人間七七四年:2008/10/18(土) 02:50:20 ID:LO2hhShg
長宗我部や島津は最初東軍につく予定だったという説があるらしいな。
戦後はもみ消し工作に走ったみたいだが。
814 :
人間七七四年:2008/10/19(日) 08:03:54 ID:EZk/c1We
そいや三法師こと織田秀信はどうなったか、誰か詳しい人居ない?
関ヶ原の前哨戦の米野の戦いで負けたあとが不明なんだが…
まああそこまでは東軍も順風満帆だったような気がする…
その後杭瀬川・関ヶ原と惨敗繰り返して、西軍の反抗で岐阜・岡崎・浜松・駿府と東海諸城が次々に落城・開城だが。
815 :
人間七七四年:2008/10/19(日) 19:28:15 ID:y1xn+Tjb
>>813 長宗我部はあのあと東軍への内応という名文で
中の悪い異母兄弟粛清してたな。
島津は二頭体制だったのだが
国許の義久以下の連中が東軍に義理立てして
西軍に参加した義弘へ応援を出さなかったとして
義久蟄居のほか粛清してるな。
どっちも東軍云々を口実にしてお家騒動の元を粛清しているのに
使っただけだろ。
京極高次って運が良いね。最初、西軍に味方しようとしたが突如東軍に味方して
挙句、立花宗茂達の軍勢に大津城を開城させられ、高野山に上ったけど、、、、、
嫁さんが、淀君の妹の常高院だったから特別許され、大名に復帰。明治まで至る。
代々、豊臣家の一門衆として重きをなしたね。この家柄って鎌倉時代から粘るねww
817 :
人間七七四年:2008/10/19(日) 23:47:44 ID:Kvqja7NM
通称ホタル大名だっけ?
それに比べて徳川秀忠は…二人の息子も気の毒にな…
818 :
人間七七四年:2008/10/20(月) 18:38:24 ID:DY05nx49
いや、実際京極に限らず東軍諸将は謝罪(場合により助命嘆願)に奔走してる。
例えば藤堂は秀長公時代の書状(偽臭い)と築城賦役を持って謝罪を願ってるし、
浅野家は三成と親しかったねねにとりなしを頼んでる。
竹中家なんかは半兵衛が秀吉から貰った書状を殆んど焼いちゃったからえらく困ったらしいけど。
伊達に至っては「最上が勝手にやった事で、うちは西軍」とか言い出したし。
お家を残すのが大事なのはわかるが…
ぶっちゃけ堂々と斬られた黒田長政は立派だと思うよ。(本家は残ったから命と引き替えに…という説も)
819 :
人間七七四年:2008/10/22(水) 03:00:39 ID:0cFIx3af
素晴らしいスレタイだ
820 :
人間七七四年:2008/10/22(水) 12:43:44 ID:bqJ08U78
こないだ佐和山でさわにゃんに会ってきたよ!
最近は地元商店街が悲運の名将を忍んで生んだ
いいなおにゃんも人気らしい。
821 :
人間七七四年:2008/10/23(木) 01:24:52 ID:xeoYnh0y
そいや前田利益も上杉の支藩的に独立大名にされたんだっけ?
本人は迷惑だったそうが…
あ、前田本家は改易で旗本だったっけ?
>>820 とくがわいえにゃんもな。
猫というより狸だが。
822 :
人間七七四年:2008/10/23(木) 01:31:26 ID:oaCjCbTn
井伊一族は東軍が買っていたらそうとうな大大名になっていたと思われ。
おそらくは50万石クラスの家柄になってただろうにな。
823 :
人間七七四年:2008/10/23(木) 02:09:30 ID:oX6y8JI6
「花のようなる秀忠様を鬼のようなる本多が連れて
退きも退きたり仙台へ」ってのが秀頼と、たぶん真田あたりになってたな
逃げるなら九州の方か
824 :
人間七七四年:2008/10/23(木) 11:24:22 ID:5UcalkG7
敗者初の大河「本多佐渡守」
は誰に変わってるんだろ
直江じゃあ当たり過ぎるし
825 :
人間七七四年:2008/10/23(木) 13:52:37 ID:R3SzqIVd
>>820 石田重家を落雷から救ったあの猫のエピソードか?
でもその話は江戸の陣のときだから、滋賀県とは直接関係ないよな。
826 :
人間七七四年:2008/10/23(木) 18:25:40 ID:y3SMgBL1
豊臣秀頼→豊臣宗家
結城秀康→豊臣紀州大和家
宇喜多秀家→豊臣尾張家
小早川秀秋→豊臣筑前家
かよ、あーあ豊臣秀次様と一家健在なら。
豊臣秀次→豊臣紀州大和家
結城秀康→豊臣関東家だったのに。
豊臣秀宗?まさか結城秀康の子孫の豊臣紀州大和家かよ。
豊臣秀次様の子孫が豊臣紀州大和家で子孫が豊臣秀宗なら良かったのに。
827 :
人間七七四年:2008/10/23(木) 18:45:51 ID:y3SMgBL1
確か元録時代に宗教規制が緩められてキリスト教が解禁された後日本本土各地にキリスト教教会が出来たな。
海外植民地から華橋が日本で中華街形成したり、上座仏教の金色のパゴダ(仏塔)、回教のモスク、ヒンズー教寺院、果てはユダヤ教会(シナゴーグ)も入ってきた。
大都市か関東の新都市江戸、大坂、京都、福岡(博多)が四大都市。
移民ならガレオン船→万石船で太平洋に貧しい農民達を無理矢理乗せて台湾、ルソン、大和島(豪州)に強制移民させなかった?
しかし欧州側は我々と違い自発的に移民して小さい共同体なんか造って無計画無秩序だな。
828 :
人間七七四年:2008/10/29(水) 02:19:26 ID:C8C1MqkJ
>>818 助命嘆願といえば自分の命と引き換えに息子を守った
九鬼嘉隆が好きだな。親子とも安堵されることになったのを知らずに
その知らせの使者が来る前に自害して果てたんだから。
もし東軍勝利なら守隆は許されただろうが、警戒心の強い家康のことだから
おおかた海のない山奥に飛ばされていたかも知れんな。
829 :
人間七七四年:2008/10/29(水) 02:45:20 ID:JpOpC2Zo
九鬼んとこはお家騒動が多いから守隆があとを継いでも大変かもしれん。
そういや九鬼の息子だか娘婿だかが結局家をついだんだよな。
まあ水軍大名はどうしても毛利傘下系のイメージが強いけどな。
830 :
人間七七四年:2008/10/29(水) 08:36:38 ID:FKtPN7jH
米沢神社でマスコット
「かねやん」は売ってるのか?
831 :
人間七七四年:2008/10/29(水) 11:08:08 ID:FKtPN7jH
石田重家公が早死した
なのは間違いない
宇喜多秀家公も島流しで
若くして野垂れ死んだろうね
832 :
人間七七四年:2008/10/30(木) 14:37:38 ID:r465V9Un
家康は過小評価されすぎや
もし逆に三成公が三河の田舎大名で
家康が太閤子飼いの側近やったとしたら
三成公は家康にペコペコするのが関の山や
833 :
人間七七四年:2008/10/31(金) 00:49:25 ID:HCx/jOQf
>>832 そうか??
過大評価されすぎな点が多いと思うが?
関東250万石に豊臣恩顧の諸大名の大半を見方にした東軍を率いながら
自滅的な戦で負けちまうし
秀吉から天下の政務を委任されたのをいいことに
勝手に諸侯と縁組して、利家の叱責に腰砕けになって
前田利家にはへこへこしておき
死んだとたんに豹変
大阪城に天守閣二つ目立てさせ、年賀の拝礼秀頼さまのあと
全速ダッシュで自分のとこに挨拶にこさせて悦にいたるわ
挙句の果ては豊臣家の所領を勝手に自分名義で諸侯に分配
とても大物のやることとは思えんセコさ
上杉景勝が決起すると、してやったりと伏見城で一人大笑い
上杉倒して返す刀で石田倒して徳川の天下を狙うたいそれた企てしたわりに
(関が原への経過からして沿うとしか見えん)
関が原での敗戦で一気に東軍はグダグダ
そもそも東軍の敗北のひとつは秀忠を待ちきれずに関が原で戦して
負けながら徳川の所領アンドを条件に自分だけ
西軍総大将の毛利輝元と勝手に和睦して
東軍諸侯に見限られ、最後には秀頼さまの名前が和睦に入っていないと
なんくせつけられ
関東包囲されて石高数十万石程度に減らされ
家康の小物ぶりは明々白々だと思うのだが?
834 :
人間七七四年:2008/10/31(金) 01:18:47 ID:7Awqqr1C
>>833 秀忠を待てなかったのは東軍諸侯を取りまとめられる限界だったからって説があるな。
米野での戦闘が8月22日、家康の西進が9月1日
それから二週間というのはかなり長かったのではなかろうか?
これ以上長びけば加藤ら豊臣系武将たちが不信感を抱くはず。
そうなっては東軍が切り崩される可能性もある。
というか上田なんて小城にこだわって遅れまくった秀忠が(ry
835 :
人間七七四年:2008/10/31(金) 01:35:48 ID:HCx/jOQf
というかさ、秀忠と別行動とる必要性が
戦力温存説もあるが、最初から家康と秀忠が東海道を進軍すれば
徳川主力をプラスして戦えたろうに。
まあ西軍も総大将が大阪城にいたままだったが・・
836 :
人間七七四年:2008/10/31(金) 14:56:33 ID:iANO/VjW
>>829 何だかんだで結局海の無いとこへ飛ばされたけどね
仕方が無いからお池でチャプチャプやってたらしいよ
837 :
人間七七四年:2008/11/01(土) 15:38:46 ID:SdI1tLSF
関ヶ原の時に西軍総大将の秀頼が大阪城に居たのは後詰めだよな。
秀頼公出陣がならなかったことを指して三成の独断だとか家中の意見を統一出来てなかったとかいうヤツはいまだにいるけどな。
豊臣家最強と名高い軍略家であり忠義の仁である三成が秀頼公に信頼されねえわけねえだろ。
そいや家康と秀忠は実は不仲で、秀忠が上田で手間取ったのは
わざと家康を見捨てたとか、西軍に内通してたって説もあるね。
まあ結局どちらも許されずに、親子仲良く六条河原で斬られたけど。
838 :
人間七七四年:2008/11/01(土) 21:19:29 ID:ut1OujX7
>>837 さすがに不仲説は信憑性に乏しいが
仲を裂こうと画策していた人物はいるよな。
だれあろう豊臣秀康…
839 :
人間七七四年:2008/11/01(土) 23:18:40 ID:BR5g+Xis
>>835 別行動だったからこそ木曽路で家康と合流し諏訪で追討軍を迎撃できたともいえる。
徳川主力が関ヶ原で壊滅していたらとてもではないが江戸までは戻れなかった。
840 :
人間七七四年:2008/11/02(日) 06:01:27 ID:3H5zQtp8
つっても秀忠の軍は上田城攻めに手間取った間に関ヶ原敗北の報が流れ脱走兵続出、
江戸に退却しようとした途端に背後から信繁に追撃され壊滅状態だったらしいが。
本隊と合流っても井伊・本多・榊原の残党ぐらいだしな。
実際は信州・甲州の反真田派国人衆が徳川に味方した意義の方がデカいよ。
あと西軍側の追討軍は功をあせった東軍から寝返った連中がメイン、
石田・宇喜田・大谷軍は東海諸城側を侵攻してるから参加せず、統率が取れてないのもあった。
諏訪で善戦してても大久保の小田原が落城した時点で戦略的にはボロ負けで講和になったはず。
ところで斬首された徳川家康の墓は三河にも江戸にもつくることを許されず
日光にひっそりと埋葬されたらしいな。
841 :
人間七七四年:2008/11/03(月) 14:43:24 ID:eHroiJLP
>>841 家康の墓(とされる場所)行ったことあるよ
秋だったから紅葉きれいだったけど遭難するかと思った!
842 :
人間七七四年:2008/11/03(月) 22:39:00 ID:9JKLVA0b
最近太閤立志伝やってるんだが、いくら三成公と真田勢他が落とせなかった名城だからって
忍城がゲーム中でもっとも攻略難度が高い上に成田一族全員築城技能劇高なのはどうかと思うw
843 :
人間七七四年:2008/11/04(火) 03:55:19 ID:6yoib+cM
>>342 信長の野望だと成田一族は統率激高で政治・智謀も悪くない。
関東諸将で始めるときはまず武蔵国を落として成田を捕まえてから始めるのがセオリーかな?
成田・太田・結城・佐竹あたりが揃うと全盛期の武田長尾北条に挟まれても怖くない。
真田は父と兄は桁外れに強いけど信繁は典型的な二世大名でイマイチだよな…
だいたいいつも城でお留守番の信繁カワイソス
844 :
人間七七四年:2008/11/04(火) 20:51:10 ID:XPLbSijM
>>843 koeiのシリーズは甲斐姫強すぎだわw
成田一族中最強の統率ってどうよww
845 :
人間七七四年:2008/11/05(水) 04:52:48 ID:bJpPQXiN
ぶっちゃけ関東だと統率+武勇で成田一族より強いのは綱成だけだし、
氏康より強いってのはどうかと思うなあ。
いくら三成公に唯一勝ったとはいえ過大評価過ぎるだろ。
三成といえば細川・加藤・福島らに襲撃された時に一計を案じて
彼ら反三成派の背後に居る家康の屋敷を逆に襲撃したエピは好きだな。
その後、家康を脅して徳川家臣をまるで配下のように使い、
悠々と佐和山に帰るところとかなあ。
結局あそこで三成に格の違いを見せ付けられて焦った家康が
無謀な関ヶ原に誘導されたようなもんだろ。
846 :
人間七七四年:2008/11/05(水) 13:42:18 ID:+TN50OM9
超時空内府家康
847 :
人間七七四年:2008/11/05(水) 21:56:17 ID:dCLc6WtT
子供のころにやってたアニメ「佐吉くん」が好きだった
地獄の内府が君を狙っている〜♪ってオープニングテーマのやつ
三成公の生まれ変わりである主人公が、召喚した十二将と協力しながら
魔王として現代に蘇った徳川家康と戦うストーリーは幼心にも熱かった
第一将のトヨトミ二世が佐吉くんに対してやたら横柄な口のきき方してて気になってたが
今にしてみれば、かっての上様だったんだから当然じゃねと思える
昔は歴史なんか興味なくて、単に面白いから観てたんだけど
佐吉くんがよく言う「ダイイチダイマンダイキチ」とか意味もわからずに連呼してたっけ
今、ようつべとかでオープニングテーマ観れるけど、懐かしすぎて涙出るわ
実は1番よりも2番の歌詞の方がお気に入りなのはここだけの秘密
848 :
人間七七四年:2008/11/06(木) 03:13:16 ID:QdL/zgLR
佐吉君か。テラナツカシス。
俺は横山光輝の漫画「山岡八荘石田三成」が好きだったな。
戦乱のおさまらない近江の少年時代から始まり、太閤殿下に出会い、
島左近や舞兵庫といった生涯つかえた名臣らを召し抱えながら
卑劣極まりない内府の野望を打ち砕くヤツ。
そいや、のぼうの城も漫画化されたな。
三成公が敵役ってのは珍しい作品だよね。
849 :
人間七七四年:2008/11/06(木) 20:18:23 ID:A6UsWCAK
>>848 最近は研究が進んでいろんな人物が再評価されてるからねえ
織田信長なんかも最近は秀吉の元主君ってだけじゃない面に光が当たってると思う
けっこう好きな武将だからうれしい
佐吉君くらい子供向けならしょうがないけど昔の石田三成のフィクションっていい子すぎてなあ
子供時代から関ヶ原辺りまでほぼおしんじゃんw一応権力者だったのにw
850 :
人間七七四年:2008/11/06(木) 23:48:31 ID:BbGN32Tx
豊臣のために奔走しつづけたからな…
最近では加藤清正も「家康に乗せられた愚将」扱いではなくなったね。
秀吉健在時からの軋轢がわかってきたから。
851 :
人間七七四年:2008/11/07(金) 01:19:48 ID:RgE/J8D/
忍従の人家康の評価低すぎだろ。
少年のころからひたすら耐えて、やっとつかんだ天下取りの最後のチャンスに
一か八かの勝負に出て戦場に散ったのは、男のロマンを感じる。
負けてなければ信長、秀吉とともに「三英傑」と賞賛されていただろう。
852 :
人間七七四年:2008/11/07(金) 02:52:28 ID:EyASyVEe
少年の佐吉が金ヶ崎や小谷城で奮戦みたいな捏造エピがいまだに信じられてるからな。
大谷と並ぶ賤ヶ岳九本槍筆頭だからってそれは無いわ。
家康の研究は近年かなり進んだと思うぞ。
人質として不遇な少年時代を送りつつも今川家で一門として厚遇されたとか、
織田軍の援軍として各地の戦に参加したとか、意外な経歴が分かってきたし。
今までは「今川を裏切った卑怯者」「織田の権威を傘に周辺大名に威張り散らす嫌な人」
「家康が織田を裏切ろうと武田と誼を通じたのがバレて、息子と嫁に責任を押し付けた」
「太閤殿下の母君と妹を焼き殺そうとした」みたいな最悪なイメージだったし。
853 :
人間七七四年:2008/11/07(金) 11:48:01 ID:2OWxuQRf
佐吉流 お茶の出し方
854 :
人間七七四年:2008/11/08(土) 01:37:31 ID:gEjAhlix
島津に関して情報が混乱してる。
島津家の資料では「西軍は島津を冷遇したが、島津は寡兵で奮戦」と書いてあるが、
豊臣、特に石田家の資料では一貫して「島津は全然動かなかったが、
大勢がきまった頃に突如東軍に襲いかかった」とあるんだよな。
毛利の資料だと「最初、毛利や吉川・島津・小早川が動かなかったのは東軍の横腹を突くため」とあるし、
東軍の資料では「島津は三成に冷遇されたためやる気が無かった」とある。
いったいどれが正しいんだ?
855 :
人間七七四年:2008/11/10(月) 15:05:43 ID:sspuPMvB
東軍をつかって西軍を倒すゲーム采配のゆくえが最近発売されたけど買った人いる?
家康が渋く貫禄のある大将に描かれてるのに対して三成は目付きも悪くかなり嫌な男のように描かれてる
856 :
人間七七四年:2008/11/10(月) 16:32:34 ID:RdohCKKx
やべえ最高につまらねえこのスレ
普段書き込みしない俺が書き込んじゃう位に
857 :
人間七七四年:2008/11/10(月) 16:38:03 ID:hUwv9NZI
光栄の治部少立志伝8続きでねぇの?開発チームが解散したとか
858 :
人間七七四年:2008/11/10(月) 21:18:49 ID:Np/c/Mm8
>>855 三成は「卑劣な策略で徳川を潰しにかかる」的な悪役描写も結構多いけどな。
采配の行方は決戦1を思い出すなあ。
859 :
人間七七四年:2008/11/10(月) 21:20:09 ID:wmoC1l6D
>>856 それは言わないでクレ。
間違いでたったスレをネタだけで消化するのを楽しんでるんだからw
860 :
人間七七四年:2008/11/10(月) 21:55:31 ID:dCY7rh1S
光栄ゲームのCMオモロー
「今日、家康は三成を倒すかもしれない」
だって
861 :
人間七七四年:2008/11/17(月) 14:39:18 ID:weLW3NvJ
こーえー社員はこのスレきっと見ているよ。
862 :
人間七七四年:2008/11/17(月) 15:48:14 ID:FRNBgZiQ
KOEIは神奈川の日吉?だっけあんな片田舎で頑張るゲーム会社だから応援してる。
関東のゲーム会社ってKOEI以外はエロゲの会社がいくつか常陸県の水戸にあるくらいでしょ。
863 :
人間七七四年:2008/11/18(火) 03:20:08 ID:vmoPbsZd
コーエーの原点はエロゲ。
864 :
人間七七四年:2008/11/18(火) 17:39:40 ID:yO7q7Wge
ひょっとしたら
直江兼次卿が女の子になってしまってる
ゲームとかが出てるかもな
865 :
人間七七四年:2008/11/18(火) 20:27:21 ID:yO7q7Wge
安房藩の家老の娘
りくが男遊びに呆ける
「安西りく・泥沼」とかも出る
866 :
人間七七四年:2008/11/20(木) 11:00:29 ID:2t5FlGSX
「アンジェリーク・トロワ」な
867 :
人間七七四年:2008/11/23(日) 00:54:22 ID:9Tsjqc0s
戦国板はゲーム厨ばかり
868 :
人間七七四年:2008/12/18(木) 16:42:48 ID:IR0OwnDH
保守?
869 :
人間七七四年:2008/12/29(月) 08:26:06 ID:1ALoJwbr
パラレルワールド もうひとつの日本史
関ヶ原の当日、親豊臣の毛利秀元は
この戦いで家康が勝てば毛利の本領
安堵するはずがないと確信、
キッカーを幽閉して家康の後方から
突撃、長宗我部、安国寺らも突撃
これに対して山内はあっさり西軍に
寝返り、家康は退却も考えたがここで
退却すれば状況が悪化すると考えて
関ヶ原中心に移動、小早川の裏切りを
期待するが小早川東軍に突撃、脇阪
などもやむをえず突撃、これに対して田中ら豊臣恩顧東軍もことごとく裏切り、
家康は戦死、黒田、井伊、福島処刑
徳川には降伏すれば100万石残す
と誘いあっさり降伏、、
尚、東北戦線に石田らが加わり嫌われ伊達を滅亡に追い込む、九州では黒田を自害に追い込み加藤取り潰し
この戦いで毛利180万、上杉180万
石田江戸100万、の大大名などなど対して東軍は
徳川は20万、前田10万、伊達滅亡、あとほとんどおとり潰し、
したがって豊臣将軍、石田、宇喜多、毛利、上杉永久四大老制確立
大阪が首都、江戸は三成によって開かれ
毛利の広島、宇喜多の岡山、上杉の仙台は大発展、日本の五大都市になる
尚石田は朝鮮、中国には絶対に関わ
なという遺言を残し死去
現在の日本は外国人にのさばらせない国家として発展、石田はhide以上の人気者として扱われる
尚彼の墓は遺言でこじんまりとした
墓しかない
870 :
人間七七四年:2008/12/29(月) 10:17:23 ID:SJvCSTI8
@肝心の豊臣直轄領は?
A毛利や上杉にそんな大領与えて良いのか?
B石田19万石→100万石
総大将の毛利も1.5倍の加増なのに5倍以上もの加増、どうやってやんの?
無理やりやったら関ヶ原で西軍についたやつらも反感持つよ?
871 :
人間七七四年:2008/12/29(月) 12:00:34 ID:1ALoJwbr
毛利や上杉がこれ以上領土が拡大すれば豊臣政権が成り立たないので無理いってこんだけにしてもらった
尚、金山、銀山はそのまま温存という条件、、、尚石田は関ヶ原以前から実質30万石以上もっていたし今回のプロデューサー見たいなもんだから
それと当時あれ放題の江戸を含めた関東100万くらいならOKという感じ
尚豊臣直轄領は関東東北九州からトータル100万プラス
因みに上杉、毛利には豊臣との血縁関係が強化されさらに中央政権にも色々口出せる権限が与えられる、、
いずれにしても豊臣独裁体制ではしていけない感じ
872 :
人間七七四年:2008/12/29(月) 12:14:10 ID:1ALoJwbr
まっ100万はないか
このうち秀頼が成人すれば30万返還するという条件
873 :
人間七七四年:2009/01/05(月) 23:21:24 ID:Fy7HLJUl
>>1大儀であった 好きなおにぎりをとっていくがよいぞ
∧ ∧
( ´・ω・) ○
( ∪ ∪ ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 .,.⊥、
と__)__) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■)
梅干 高菜 おかか こんぶ ごはんですよ わさび漬け オプーナ
,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、
(,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■)
鶏飯 明太子 ちりめんじゃこ ゆかり 柴漬 塩辛 牛肉しぐれ
,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、
(,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■)
鮭 鶏ごぼう 野沢菜 天むす ツナマヨ エビマヨ 鮭マヨ 具なし
874 :
人間七七四年:2009/01/05(月) 23:23:14 ID:Fy7HLJUl
875 :
人間七七四年:2009/01/06(火) 16:42:02 ID:WeB/Wf9E
876 :
人間七七四年:2009/01/06(火) 16:42:44 ID:WeB/Wf9E
877 :
人間七七四年:2009/01/06(火) 16:43:53 ID:WeB/Wf9E
878 :
人間七七四年:2009/01/11(日) 11:01:25 ID:o3gjKF0M
>>874 三田ゆう子さん。石田関連のアニメなら「くのいちハツメちゃん」で
ハツメちゃんの弟シンゾウ役で人間音波兵器を演じてらっしゃいます。
879 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 00:13:00 ID:L3wR0au3
佐和山東高校(佐和山県佐和山市)が21世紀枠で選抜出場決定したけど佐和山東って県内屈指の進学高なんだってね、藩祖石田三成が大の勉強好きでその流れを組んでるんだって、、、
もし関ヶ原で負けてたらどうなってたんだろう
880 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 02:29:27 ID:AgR9TRGg
881 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 13:48:38 ID:XrQwBG6d
そうだな、15万石はもらえるな
882 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 17:48:17 ID:1JRNjwgi
大老間違いないと目されていた小西行長が
あっさり失脚改易になった経緯を誰か詳しく
883 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 18:48:01 ID:L3wR0au3
三成様の少年時代を描いた(佐吉ちゃん)ってアニメみんな覚えてる?
かれの鋭いとんちで後の関白様hideをさんざんいてこました痛快アニメ忘れられないな、ただあのかわいい子が目つきの鋭い策謀家になるのは正直ショック
884 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 18:53:10 ID:L3wR0au3
八丈島って家康の銅像が立っているのしってる
関ヶ原でぼろ負けして淀殿の鶴の一声で命をとられずに済んだけど島流しされるくらいなら死を選ぶよね普通
しかも淀殿の妹の仕送りでかなり裕福な生活してたなんて腹立たしいよ
885 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 18:03:46 ID:hGlj9IPH
俺の実家の近所に石田三成閤出世の地があって
今でも盛大に祭ってあって観光スポットになってんのよ
まさに郷土の誇りだと思う
でももし関ヶ原で西軍が負けてたら
ただの棒切れに「石田三成出生の地」とか書いてあるだけの誰も見向きもしないトコになってたのかな
まあ、ありえないな、ちょっと考えすぎた
886 :
人間七七四年:2009/01/28(水) 18:26:21 ID:pgsRCz/8
維新は新撰組が戦地に立って豊臣軍を九州まで追いつめたんだっけ?
それで西郷隆盛が琉球の首里城にたてこもって戦ったんだよな
887 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 00:36:16 ID:rXf6+O5Y
>>885 長浜の方ですか?
俺も長浜です、
いくら敗者とはいえ地元長浜で石田は3姉妹(所詮他力本願)以下の扱い!これいかに、、、
敦賀の大谷、岡山のひでりん、宇土の小西、土佐のもりりんなど滅亡(又は改易)されたのに地元では英雄扱いされてんのに
何より豊臣神社(あえてこの名前にした)に石田がまつられてないのは腹ただしい、ましてや豊臣滅亡の張本人加藤がまつられているのに
888 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 17:05:58 ID:Ma7ZuYTF
負けたのは関が原だけの話じゃんw 関東で兵を募り伊達と共に上杉を
挟撃し、恭順させた家康。真田を釘付けにしつつ、西軍の追撃を箱根で
阻止した秀忠。そののち再び西上し、天下取ったんだからな。
石橋山のボロ負けから復活の頼朝、九州まで落ちて逆襲に転じた尊氏。
幕府おこすヤツってやっぱすげぇお。
889 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 18:34:25 ID:uOnq9d/R
奥羽列藩で一番活躍したのは伊達だよね?
騙まし討ちで城落としたり虐殺したり同盟を結ぶと伝えて油断させて
攻め込んで落城させてるけど、倫理考えずに功績だけ考えれば伊達でしょ?
890 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 18:45:42 ID:4jCIZJyV
ガトリング家老居る長岡藩じゃねーの?
891 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 18:54:44 ID:uOnq9d/R
あそこ兵と将強かったけど、戦力少なかったからそんな城落としたり野戦での功績も多くなかったりする。
戦力から見ればものすごいものがあるけど。
ガトリング家老は討ち死にしたけど、その1ヶ月後の戦いで長岡藩の兵がガトリング家老のガトリングを使って戦って
豊臣家を蹴散らす話は好きだな。まあガトリング使って処刑したり大阪城の戦のとき余計に大阪城をガトリングで破壊したのはよくなかったが。
892 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 19:13:20 ID:4jCIZJyV
893 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 03:36:00 ID:KY7jOyLd
ガトリング家老の活躍が後にA-10を生んだんだよね
894 :
人間七七四年:2009/02/10(火) 23:25:42 ID:AOmYBTrq
895 :
人間七七四年:2009/02/14(土) 21:29:52 ID:HL3oJwjL
徳川が幕府開いて、アズマびとの世界になるか…。
きゃつら、上方に劣等感持っていているせいか見栄っ張りで
商売なんかからきしダメだしな。
現在、世界に羽ばたいて、印度や華僑、ユダヤなどと
丁々発止やってる浪花アキンドの活動と
米国や欧州、イスラムと伍して外交を行っている
浪花&京出身の外交官の活躍を
見ることができないんだな、きっと。
896 :
人間七七四年:2009/02/15(日) 23:51:23 ID:rnjlpk6O
なんで関東に幕府開くんだ?
たまたま関東が所領してただけで、ソコで幕府を開く理由にはならないだろ?
実際、全国を支配するには関東は東すぎる。
ましてや、たかが一戦して勝っただけで、豊臣家は健在なわけだし、
西への睨みを利かすために、伏見で政務を執り行うんじゃね?
豊臣家の代理人として、上杉征伐を行うため関西を離れ、石田挙兵の流れだから、
関東に拠点おいたら、豊臣家への監視の目が緩くなるよ。
豊臣家がコントロール下から離れたばあい、リスクが大きすぎる。
史実では合戦後に処刑された、加藤、福島の両名も、
東軍が勝っていたら、年齢的には存命してるだろうから、
彼らをてなづけるためにも、あくまで豊臣の権威を利用し続けるんじゃね?
897 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 13:22:08 ID:I8tjZITk
秀忠を食い止めた真田は、どうなる?
898 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 14:07:51 ID:I8tjZITk
島津はどうなる?
899 :
人間七七四年:2009/02/16(月) 14:11:26 ID:I8tjZITk
>26
そうだね。
900 :
900:2009/02/16(月) 14:12:03 ID:I8tjZITk
900Get
901 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 00:10:16 ID:SwCpY9AV
関ヶ原で東軍が負けても、尾張か岐阜でもう一戦するだけの体力が東軍にはあるからな。
逆に西軍は勝っても一気にって訳にはいかない。
小田原攻めだって可也の物資を投入したからな、あの時より条件が悪い。
問題は伊達と上杉、佐竹がどうでるか?
上杉が伊達と和睦して佐竹が動くようだとがぜん面白いが、関ヶ原で家康の首でも取らない限りやっぱ伊達は上杉とやり合って佐竹は動かないんじゃない?
902 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 01:31:27 ID:uoQTIe4g
お前は何言ってるんだ?
東軍は負けていても?負けたじゃんか
903 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 16:01:02 ID:t8p84eYx
>>902 関ヶ原で東軍が負けたと知ると
三成の友人だった佐竹義宣が関東に乱入したからな
で、その間に伊勢や丹後攻めしていた軍勢を集結させて
西軍は富士まで一気に攻め入ったんだっけ?
904 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 18:29:09 ID:OGnLiut7
でも佐竹は貧乏籤だったよな
あのタイミングで攻め込んだけど上杉も伊達も静観して
徳川の守備隊に単独で突っ込む形になって、被害出しまくり
そのくせ戦後の恩賞がしょっぱい
905 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 20:12:53 ID:sPK+xIKl
三成の友人のくせして日和見してたんじゃしょうがない。
周り中敵だらけなのに西軍につき、西軍の勝利を決定づける働きをした
真田だって、嫡男の信之が東軍についたこともあって、上田と沼田の
合計約八万石から信濃一国と沼田の約四十万石に加増された程度なんだし、
欲張っちゃいけない。
906 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 23:01:55 ID:LAmfoJi4
>>873-905 且且~
且且~
∧__∧ 且且~
(´・ω・) 且且~
`/ヽO=O且且~
/ ‖_‖且且~
し ̄◎ ̄◎ ̄◎
皆さん、お茶が入りましたよ…
907 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 19:07:39 ID:uJJ+4nbB
「食事のあとの、お茶はうめぇなぁ!なぁバアサン」
「このお茶、静岡産です。」
908 :
人間七七四年:2009/02/25(水) 19:39:22 ID:51xWlG9J
>>906 ∧,,∧ ∧,,∧
∧,,(´-ω-)(-ω-`)∧,,∧
( ´-ω)旦o) (o旦o(ω-` )
(_ o[( ´-) (-` )]o _)
└'ー-(_ )][( _)ー'┘
'ー'^ー' 'ー'^ー'
909 :
人間七七四年:2009/03/06(金) 11:24:16 ID:/uapRBt6
戦後の三河武士に対する豊臣家の扱いは非道すぐる。
910 :
人間七七四年:2009/03/11(水) 17:34:54 ID:ZmQ0PZyF
東軍が勝ったら
ハケンという名の
渡り中間や臨時足軽のような
新たな階層の半武士が誕生します
911 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 01:20:18 ID:i7Y2psrD
でも、何だかんだで司馬遼太郎の関ヶ原って好きだな。
プギャーされようが、俄扱いされようが、関ヶ原で描かれた徳川は、
いくら努力しようとも、しょせんNo.2にしかなれない男の悲哀に満ちていた。
三成の良すぎる頭に翻弄されようが、最後には結城秀康の血が残って、
直系は存続したんだよね。
しかし、何回読んでも、徳川に肩入れしたくなる自分がいる。
だけど、仮想小説の徳川には加担できないんだよなぁ。。。
912 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 11:48:30 ID:cTsAazDh
東軍が勝ったとしても今度は福島とかへの恩賞とかなんとかで豊臣恩顧
大名の勢力がかえって強くなるわけだろ?
仮に家康が幕府開いたところで豊臣も健在だし外様大名の勢力が強すぎて
戦国時代に逆もどりしてたんじゃないの?
家康六条河原で首はねられたけど、そうじゃなくても関ヶ原後そんな長生き
せんだろ?
家康死んだとたんみんな幕府の言うこときかなくなって福島筆頭に江戸
攻め込まれて終わってたんじゃない?
913 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 18:19:38 ID:fhOEZFjQ
耶律晋次郎の城塞もオモロい
上杉の軍師と称する
宇佐美駿河守が
豊臣のスパイとして江戸城で暴れるんや
914 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 18:30:05 ID:UxQ/OFdX
加藤と福島はなあ…
戦後、太閤の恩を忘れて離反して狸についた不忠者として咎められ、
加藤は改役で東北の片田舎に幽閉(隠居料は多かったらしいが)、
福島は領地を大幅に減らされた上に城の無断改修で改役だし。
まあ福島は孫の代に1000石で豊臣旗本に復帰できたらしいが。
915 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 18:57:51 ID:cTsAazDh
だから史実はわざわざ書いてもらわなくたってみんな知ってるから・・・
どうしても書きたいんなら「もしも西軍が勝ってたら」ってネタスレでも立てて
史実じゃなくて、もちょっとヒネッて書くことだな
916 :
人間七七四年:2009/03/22(日) 21:02:35 ID:FKZtyfip
>>915 このスレの住人は歴史が苦手なようで
史実のはずのことをそれぞれ言ってることが違ってたり
あいまいだったりするんだよな。
917 :
人間七七四年:2009/03/24(火) 15:21:22 ID:J31kNWMr
918 :
人間七七四年:2009/03/24(火) 16:13:46 ID:naEEGgp4
耶律晋次郎は司馬遼太郎のパクリ
わいは完顔金五郎
名乗ろうかいの
919 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 12:57:12 ID:lUgKypl2
>>917 この人が天才的曲がり屋なのは、企業のリサーチがしっかりしていて
必要なデータはすべて分析しているのに、曲げてしまうことだと思う。
確信犯的曲がり屋だ。
920 :
人間七七四年:2009/03/31(火) 19:50:13 ID:yQvQVYmo
それにしても近江国佐和山城は天下一の名城だよな。
三成候は関ヶ原以降はここに父や兄を住ませて孝行を尽したとか。
921 :
人間七七四年:2009/04/12(日) 14:48:14 ID:AUC09i/a
悪ノリでここまで書けるオマエラがすげぇ!
922 :
人間七七四年:2009/04/12(日) 23:43:42 ID:Zjiy6Irt
>>921 このスレを1000まで埋めることが
>>1に対する供養になるってもんよ
923 :
人間七七四年:2009/05/15(金) 17:19:16 ID:a/RKmOoj
今年の大河は最悪だな
直江とかクソ妻らね
石田三成もホモっぽいしNHKは死ね
924 :
人間七七四年:2009/05/16(土) 16:15:31 ID:oTtajEMQ
そろそろ徳川家康を大河の主役にしてもいいのにね
925 :
人間七七四年:2009/05/18(月) 19:48:26 ID:dXZeVsLc
個人的に敗れてつかまった藤堂高虎が、三成に自分の戦ぶりでどこが気になったか尋ねて、
三成が鉄砲隊の指揮官の身分が低くはないか?と答えると
これで心置きなく閻魔と合戦ができるといって刑場に向かう話が好きだ。
926 :
人間七七四年:2009/05/25(月) 14:24:28 ID:NE88sXVJ
ドラマや小説だと三成の頼れるお兄さんみたいな感じの役だよな、藤堂。
関ヶ原後の処罰シーンは大抵お涙頂戴になってるし。
927 :
人間七七四年:2009/06/10(水) 01:21:49 ID:yQhRtGUp
>>914 あれほど仲の悪かった加藤と福島を殺さなかったところが石田三成のすごいところだよ。
合戦が逆の結果になっていたら石田三成はこの二人に罵倒されたりしたところだ
928 :
人間七七四年:2009/06/10(水) 13:24:58 ID:B5D/F0fz
関ヶ原の地では、今でも馬の骨、武士の骨、武器や甲冑が沢山見つかるんだろうな…すごい闘いだったんだからー。本当にあったんだったらだけどフフン。
929 :
人間七七四年:2009/06/11(木) 20:35:31 ID:o2YREQoN
たいして死んでないらしいけどな
930 :
人間七七四年:2009/06/12(金) 13:21:19 ID:fkeYQvti
家康が威張るんじゃない。 秀頼をいじめたりさ。 騙して大坂城の堀を全部埋めてから、秀頼を殺したり、八歳の国松を殺したりと。
931 :
人間七七四年:2009/06/12(金) 14:06:27 ID:EOKhP3jR
市松がなぁ、バカじゃなければなぁ…
徳川に踊らされて先陣にたち、敗戦後、血筋の近さから助命されるも、
度重なる不行跡で改易、なんて状態だから、東軍が勝っても
市松と虎之助には期待できないからなぁ。
徳川政権誕生、豊臣家の没落は確定っぽい。
932 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 21:03:57 ID:zIDdvk0d
age
933 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 12:48:48 ID:IuCuVpmY
面白いね
934 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 16:55:36 ID:dMK4pD6E
東軍が勝っていたらって おいww
935 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:13:50 ID:QK7s56jQ
東軍が勝っていたら
やっぱりマズイネ
936 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 18:24:27 ID:61Ui9Tf7
マズいだろうね
陰険引きこもりの家康のことだからきっと江戸に幕府なんか開いて超引きこもり超抑圧の世を作ったのは間違いない!((((゜д゜;))))
日本が世界から取り残されてしまうところだったよ
今でこそ世界の共通語は英語と日本語が双璧でアジアでは圧倒的に日本語だけど、きっとアジアまで欧米に席巻されてセコセコ英単語覚えなきゃなんない世の中になってたんじゃないかな?
政権の選択は慎重に
まだ行ってないやつ?
ちゃんと選挙行けよ!
937 :
人間七七四年:2009/08/31(月) 11:26:43 ID:tzH0xatv
938 :
人間七七四年:2009/09/02(水) 10:57:18 ID:c2GVMG0c
何だこの良スレ
939 :
人間七七四年:2009/09/07(月) 01:13:16 ID:KvAogDz6
ただでさえグダグダの大河なのに更にグダグダになってしまうよなw
俺は関ヶ原、勝利後の兼続と三成の再開シーンを一番の楽しみにしている。
940 :
人間七七四年:2009/09/07(月) 05:33:03 ID:Y8lGDjih
関ヶ原で西軍が勝っていたら、面白いことなってるわな
家康が存命であれ死んでようが、秀忠の軍勢が無傷だから、アレで国境固めて徳川は引きこもり。
伊達はチャンス到来と津軽あたりは南部残党に蜂起させて自勢力化にし最上と共に上杉と揉みあう
上杉は伊達と北で争いつつ、旧領の越後では残した家臣どもに蜂起させこれを併合
九州は如水が島津以外を併合
941 :
人間七七四年:2009/09/07(月) 10:12:33 ID:yw4m02Ae
↑
kY
942 :
人間七七四年:2009/09/07(月) 10:31:32 ID:v5RezlmC
あの家康のことだ
豊臣に反旗を翻えして滅ぼしてたと予想
943 :
人間七七四年:2009/09/08(火) 16:18:03 ID:j1tU9IV5
俺、四代関白秀朝公の対外拡張政策で「呂宋」に渡った九鬼家の末裔なんだけど、
東軍が勝ってたら、今頃本土のどこかに生まれ育ってたのかな。
まあ、親朝鮮の家康−秀忠政権なら、先祖は半島の釜山か尉山の辺に移ってたと考えるのが自然だけど。
でも半島重視政策を採ると、あそこは清王朝の影響が強い地域だから
大坂王朝みたいに170年も続くってことはなかったんだろうな。
944 :
人間七七四年:2009/09/09(水) 02:30:30 ID:MDWvesjN
東軍が勝つことなんて想像もできないが
家康は秀吉なんか比べ物にならんほどの切れ者だと思う
おそらく天下取るどころか天皇家すら親戚にして
幕府築いてそれが倒されても子爵公爵伯爵男爵、貴族界を独占して
世界大戦で負けても経済界や学界や不動産業にちょっかい出して
学習院付近に引くほどデカイ家おったてて
表から裏から円を動かして悠々自適だろうよ
945 :
人間七七四年:2009/09/14(月) 22:27:38 ID:x45c/R0u
信長の野望やってんだけどさあ、徳川の家臣って使えないやつばっかだよね。
あと、関ヶ原で東軍についたやつらも、能力低すぎ。
こんなやつらしかいないのに、オールスターのような豊臣軍に勝つなんてありえねーよ。
946 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 01:36:02 ID:KYmC6NJy
最近は太閤秀吉殿下の征伐を何とか一度防いだということで、
軍事面だけはそれなりに再評価されてるけどね>家康と徳川家臣団
結局1584年の徳川征伐でも殿下に息子差し出して屈服してるし、
関ヶ原で勝ち目のない乱を起こしたと言う点で知略や政治は最低ランクだけど
947 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 04:37:47 ID:EW8OW2uQ
おれ彦根副都心に住んでるんだけどさ
ただでさえ人口過密都市なのに、昨今の
しまさこにゃんブームで人がいっぱいなんだよね。
困ったもんだよ。
ライバルキャラのひこにゃんも人気なんだが、
モデルは井伊直政らしい。負け猫だからかゆるキャラで
弱々しいが、戦国オタ的には直政もっとかっこよくしてやれ
と思ってしまう。
948 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 04:43:01 ID:hXYVCgpM
東軍勝利?またこのスレかよ。関東のやつらって、この話題しかないから許して
やりたいけど、それにしてもしつこいよな。東軍が勝利したってifまではいいと
して、その後、徳川が天下をとって江戸に巨大都市ができるって、あきれて物も言え
ないよ。
仮に東軍が勝ったとしても250万石の徳川が、どうやって天下を制するっていうの?
東軍が勝ってしまっていたら戦国時代に逆戻りしてヨーロッパにも植民地化され、今の
日本はなかったと思うよ。
最後に東軍厨に一言だけ言いたいんだけどさ、この前の「その時歴史が動いた」
は見た?三成公のたぐいまれなる智謀によって、いかにして東軍が関ヶ原の包囲殲滅
まで追い詰められていったか描かれてたよね。
上杉の挙兵に釣られて小山まで行き、最終的には関ヶ原での包囲殲滅。家康の
は最後の最後まで自分の犯してきた失策に気づかなかったんだよ。そんな程度の
人間が天下をねらえると勘違いしたのが、そもそもの間違いなんだよ。
949 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 05:09:55 ID:hXYVCgpM
西軍でいただけないのが1つあるとしたら、直江帖だな。
直江兼次の才能は認めるんだけど、年上で身分も上の人間に対して、あそこまで
辛辣に書く必要はなかったんじゃないかな。
道徳心のない男の代表格のように言われ、小説の主人公になったことすらないけど、
あの性格じゃあ仕方がないよな。
950 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 09:03:53 ID:1+VmjJfm
何この天才ばっかなスレ
951 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 09:48:03 ID:0iypOcbc
>>947 佐和山区では「いしだみつにゃん」のキャラクターを考えてるらしいよ
952 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 09:54:56 ID:MIBo1RRq
>>949 脱糞爺が嫌いだから仕様がないでしょうよ
953 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 10:12:48 ID:hXYVCgpM
954 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 15:59:20 ID:1XiPxdeB
どう考えても東軍は勝てないんじゃないか?現実を見なよ
ところで秀頼公が関白になるまでの中継ぎの新五大老て誰だったっけ?宇喜多毛利上杉石田まではわかるけど最後なかなか覚えれないんだよなぁ
955 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 17:42:00 ID:hXYVCgpM
うーん、誰だったっけな?
歴史は苦手なんで、俺もよく覚えてないなんだけど、商業に明るく、
異国の宣教師とも仲がいいってことで、小西行長が抜擢されたんじゃ
なかったっけな?
孫に「おじいちゃんぼけちゃって」って言われることもよくあるんで、
俺の記憶が正しいかわからないけど、亜米利加が昔日本の植民地だった
ことは常識だよな。
956 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 18:38:02 ID:Q6wxc7qP
957 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 19:26:16 ID:sKsENWAK
958 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 23:02:36 ID:X5F9to8Q
>>954 三国一の豪胆者って言われ、薩摩の島津を平定した仙石じゃなかったけ?
江戸夏の陣で嫡男の久忠が江戸側に付いたおかげで
大阪方の真田信繁に画策され大老の座と小諸藩を追い出されちゃったよね
959 :
人間七七四年:2009/09/16(水) 11:37:24 ID:C9NLVkc9
小西は五大老になってすぐに亡くなったから、
在任期間で言えば、浅野>真田>小西だよ。
あれ、景勝が天ぷらの食べすぎで死んだ後釜は佐竹だっけ?長曽我部だっけ?
960 :
人間七七四年:2009/09/16(水) 12:02:54 ID:OqrkyolN
ネタスレもあとすこしかぁ
東軍がもしも勝っていたら、エド幕府なんて開かれたのかもなw
961 :
人間七七四年:2009/09/16(水) 22:39:24 ID:88YfBcmV
東軍は会津の上杉を攻めたが
数百年の後は逆に西軍が会津を拠点にする幕府側残党を攻めたりして
・・・歴史は逆転する
962 :
人間七七四年:2009/09/17(木) 11:30:04 ID:lC8U86qg
しかし徳川中心の幕府ができていたら、
東北に飛ばされた加藤、細川、黒田、福島、池田や、蝦夷地の伊達、最上など
北方雄藩による天明維新はどうなっていたんだろうねえ。
案外、島津や毛利、それに上杉や宇喜多などが九州か四国に飛ばされて維新を起したりしたのかな?
963 :
人間七七四年:2009/09/17(木) 22:24:11 ID:gk7hKNaz
多分毛利、島津は改易だろ。へたに勢力を存続させたら、機会を伺って
徳川政権を倒し天下取りに動く、火種になりかねないからね。
964 :
人間七七四年:2009/09/17(木) 22:51:26 ID:IxZtIYE1
東軍勝っても歴史の大まかなところは変わらんだろう。
家康の権威なんて豊臣あってのもの。
もし豊臣家をないがしろにしようものなら
福島を始め、豊臣恩顧の大名がこぞって
家康を排除するのは目に見えてるし。
東軍勝ったら徳川の政権ができるとか夢見すぎw
965 :
人間七七四年:2009/09/18(金) 10:17:53 ID:eVDZmmcE
東軍が勝ったら‥‥
そうだな家康はもっと違う死に方が出来たかもな
例えば天ぷら食べ(ry
966 :
人間七七四年:2009/09/18(金) 10:35:56 ID:ZIMW6MoW
家康は律儀だけが取り柄だからな。
関ヶ原に勝ったとしても、今までどおり大老として秀頼公を支えただろう。
967 :
人間七七四年:2009/09/18(金) 10:55:10 ID:wPCuGOTb
息子もあんまり出来良くなかったしな。
行き掛けの駄賃と真田に手を出したらまんまと足止めくらうとかお前w
968 :
人間七七四年:2009/09/18(金) 11:26:49 ID:4nZRHTAp
家康は勝ったことが信じられなくて、ほっぺをつねるんじゃないか?
969 :
人間七七四年:2009/09/18(金) 11:37:51 ID:SYJhtJGU
>>967 それは仕方がないよ。秀忠が無能というより相手が悪い。
真田昌幸、信繁といえば、後に豊臣傭兵軍を率い、
大越とシャムに親日政権を誕生させたり、
ムガル帝国を助けてサファビー朝に攻め入ったり、
英蘭の東インド会社を乗っ取ったり、チートな名将親子じゃん。
そういえば、信繁には兄がいたような気もするけど。
970 :
人間七七四年:2009/09/18(金) 14:14:26 ID:9gP3A0XW
>>969 >信繁には兄がいたような気もするけど。
ただの俗説。
その俗説だと真田家の安泰のためにあえて徳川についたことになってるけど,
いまのところその兄がいた事を証明する資料が見つかってない。
まあそのあと真田親子がチートな活躍をしてる割にあまり恩賞をもらってない所をみると
本当にそういう真田の足を引っ張った兄がいたのかもしれんw
971 :
人間七七四年:2009/09/18(金) 20:34:26 ID:es8c3Iy4
東軍が勝ってたら伊達は実質140万石の大大名になってたらしいよ。
そしたら東北最大の都市は、会津じゃなくて仙台!になってたかも。
972 :
人間七七四年:2009/09/18(金) 21:21:50 ID:dQIvgJVo
>>970 確かその兄の名前は幸村っていうらしいね。
まあ、信繁が真田家の「幸」の字を使ってないことから想像されたんじゃないかな。
973 :
人間七七四年:2009/09/20(日) 01:40:02 ID:fRjOsmH6
関ヶ原って徳川家康が起こした内乱だろ?
東軍が勝てるわけがないし、勝ったとしても何も変わらなかったよ
974 :
人間七七四年:2009/09/20(日) 20:16:00 ID:kfTAvPUx
東軍が勝っていたら史実と違って、
疲弊した上杉を叩きのめし、越後・陸奥・出羽を席巻した伊達や、
豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、日向を制圧した黒田等に、
どんだけの大封を渡さなきゃならんのだよ。
そんな政権長続きするわけないよwww
975 :
人間七七四年:2009/09/21(月) 01:21:59 ID:zxp7VV5y
東軍が勝っていたら
やはり福島、加藤、立花、前田、上杉が豊臣の柱になって
やっぱり徳川は北海道あたりに転封じゃないか
976 :
人間七七四年:2009/09/21(月) 02:36:07 ID:kbc0aaZb
たぶん三成は家康と政宗を惨首にすると思う。
977 :
人間七七四年:2009/09/21(月) 04:29:51 ID:I3MMsRUj
978 :
人間七七四年:2009/09/22(火) 11:09:41 ID:rE0DDACU
東軍厨は多部未華子マニア?
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979 :
人間七七四年:2009/09/22(火) 17:55:31 ID:Y8Y94tfs
多部未華子って誰かと思ったら、朝ドラでウミガメを追っかけ回す役をやる子か
あの子かわいいね
980 :
人間七七四年:2009/09/22(火) 22:07:37 ID:rE0DDACU
そうそう、舞台は遠州灘、中田島砂丘と浜松が舞台。
981 :
人間七七四年:2009/09/23(水) 18:56:35 ID:fXTpCigw
浜松ってあんな田舎なくせに、江戸時代は結構大きな街だったんだってね。
ところで、このスレそろそろ終わりだね。
放っておくと自動でDAT落ちするらしいよ。
982 :
人間七七四年:2009/09/23(水) 19:14:47 ID:vwUXhD4v
おじさんは、痴漢イメクラがいいな
983 :
人間七七四年:2009/09/23(水) 19:16:16 ID:vwUXhD4v
激しく誤爆したorz
984 :
人間七七四年:2009/09/23(水) 22:50:01 ID:Kl/dQSVc
江戸時代って?
985 :
人間七七四年:2009/09/23(水) 23:06:23 ID:EKLAM2TQ
>>984 お前知らなかったのか?
最近史学の分野で家康再評価の動きが盛んで
秀吉死去から関ヶ原までの家康の政治的位置をして
時代区分を「安土桃山江戸時代」と呼ぶらしいぞ
986 :
人間七七四年:2009/09/23(水) 23:13:41 ID:fXTpCigw
江戸時代は、江戸幕府の存在した時代、主に東国で用いられる用語だよ。
関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康の息子、結城秀康が征夷大将軍に任じられて
江戸で開いた幕府だよ。浜松は結城秀康の出生地であったこと、
又大坂と江戸の中間地点にあった事などから、結構栄えていたらしい。
987 :
人間七七四年:2009/09/23(水) 23:32:23 ID:Kl/dQSVc
988 :
人間七七四年:2009/09/24(木) 10:33:02 ID:qJGrqvfh
結局、秀康は家康には従わず、宇都宮に残って東軍を牽制したんだよな
実の父から捨てられて養父の秀吉から愛されていたから当然だが
で、その功績から東国監視のための名目で「征夷大将軍」になった
でも、官位では関白の豊臣家のほうが上だし、秀康もそのことを心得ていたから
この「名誉職」は秀康1代で終わったんだよな
堺幕府並みにマイナーだから忘れられているけどね
>>986と「敗北した家康」を書き間違えたんだよ
989 :
人間七七四年:2009/09/24(木) 14:36:40 ID:p99LCWLZ
その後、征夷大将軍職は、古河公方系の足利家に継がれて、
細々と伝えられているンじゃなかった?
将軍位は実権の伴わない名誉職だけど、
源氏の流れをくむ一族が将軍の為に紛争おこしたりしてたような・・・。
990 :
人間七七四年:2009/09/24(木) 15:09:35 ID:bWYHZQW6
このスレをよく見に来るようになってから、歴史のテストの成績が落ちましたとさ(泣)
991 :
人間七七四年:2009/09/24(木) 17:48:47 ID:zl/hg6HJ
そりゃまぁ新説や他では聞かない仮説の話をするのが
こういう場の醍醐味だからね。定説とは離れちゃうよw
992 :
人間七七四年:2009/09/24(木) 18:19:36 ID:yD0pC+EQ
>>989 歴史に翻弄され、改名を重ね、松平於義伊→羽柴秀康→結城秀康→松平秀朝→足利(古河)秀朝
だから
>>988の言ってることで間違ってはないんだよ。ややこしいけど。
この人、一度も徳川を名乗ってないのに、最後は村正で自刃して死んでるんだよね。
小田原の長束や江戸の佐竹に対しては、なぜか豊臣秀朝名で送った書が残ってるみたいだけど。
993 :
人間七七四年:2009/09/24(木) 18:50:58 ID:bWYHZQW6
いよいよ1000が近づいて来ちゃったね
歴史の真相が闇に葬られてしまう時が来たw
ドラマの電車男の最終回の時のネットの住人のような気分だ
994 :
人間七七四年:2009/09/24(木) 21:19:57 ID:mur4F0aO
多分、あわてものが次スレ立てようとして「もしも、関ヶ原で西軍が勝っていたら」とやりそうな希ガス
995 :
人間七七四年:
3年か。長かったなぁ。
こんなに東軍好きな連中、そうはいないと思うよ。