1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
戦国時代の日本の軍事力は、当時の世界の大国の軍事力
と比べると、どれほどの物だったのだろうか?
当時の世界最強国はスペインになるのかな?
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 01:46:55 ID:Qnug2diI
欧州のロングボウは非常に優秀な弓で、200メートルの距離からでも2.5センチのオーク材を貫通する貫通力があった。
これは初期の銃を凌ぎ、欧州で弓が銃にとって代わるのは16世紀の終わりになってからだった。
そして当たり前のことだが、防具と武具の発展は互いに影響しあうものでね。
欧州には優秀な弓隊が存在したことによって、防具はより強固なものが用いられるようになった。
しかもランスを用いた強力な騎馬隊が存在したことで兵は散開しては、叩き潰されるようになり、だからと言って密集していれば強力な弓の獲物にされる。
このジレンマに対応するためには、結局のところ装甲はより重装備になるしかなかったが、その結果、機動力は失われたわけだ。
一方、日本の場合は鎧などの装甲が重装備になるのは、鉄砲の伝来と普及まで待たねばならなかった。
実際のところ。日本の剣術は欧米のように突くことではなく斬ることを主としているだろう。
貫通力で言えば突くことの方が良いのに斬ることを主としているのは、機動力を重視した武器だからだ。
もっとも日本でも実戦でもっとも有効とされた武器は剣ではなく槍だったけどね。
こうした日本と欧州の流れの中で何が言いたいかと言いますと、戦術もやはりそれぞれの歴史や発明あるいは風土によって違いが現れてくる。
日本の風土や歴史の中で発展した装備が欧州の戦いには通用するとは限らないのではないだろうか?
そんなことです。
4 :
ななしさん:2006/10/20(金) 02:33:28 ID:6bxiktuG
火縄銃の保有量は世界一で兵士の数もおそらく欧州とは桁違いに
たくさんいたろう
でも小火器ばかりで大砲は少ないから戦争をするとヨーロッパ勢と
比べたらかなり効率が悪い軍隊じゃないかな
まあ勇敢さと数ではひけは取らないだろうけど同数の兵士で
戦争すれば大苦戦すると思う
それな士官クラスはともかく下士官・兵卒クラスの教育基準が欧州とは格段に下がるのが痛いな。
余談だがこのスレ見てイェニチェリと平原でまともにぶつかったら
野戦の天才家康がどう対処するかと
学生時代、痛い会話してたの思い出した。
明朝は制度上は200万人以上の兵力を有していたが、
日本の戦国期、16世紀は既に斜陽期で、兵制も内部崩壊が著しく、
万暦年間の兵力の実数は50万人程度と言われる。
文録・慶長の役で朝鮮に送ることができた兵力も10万人程度に過ぎなかった。
まあ、皇帝の絶対的な独裁権が確立していた明朝だから、
皇帝さえしっかりしていればわりと短期間で再建できたんだろうけど、
万暦帝は中国史上稀に見るほどのぐうたら皇帝だったから。
経済力に関して、長江流域を押さえている時点で、
世界一の超大国ではあっただろうけど、戦力となるとかなりおぼつかない。
兵の質 欧州>イスラム>日本>>>シナ
指揮官 日本・欧州>イスラム>>シナ
動員力 シナ>日本>イスラム>欧州 (兵糧維持なども含めて
魂 大和魂>騎士道精神>アラーの加護>>>阿片
武器 欧州>イスラム>日本>シナ
城 欧州>>イスラム>超えられない壁>日本
(シナの当時の城がどんなんだかよく知らん)
軍艦 欧州>>イスラム>>>>>シナ>日本
こんな感じ?
支那の城は小田原城みたいなのがデフォだろ。それより、魂の比較って何だよ。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 02:26:05 ID:xiQSZvL4
戦国期の鉄砲保持率は世界でも最多じゃなかったっけ?
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 03:03:56 ID:3KC14gkz
鉄砲の集団運用は日本が初めと聞いた、
当時ヨーロッパの戦いで使われた鉄砲は部隊と部隊との間にポツポツとある程度
まあ日本が欧州以上か対等の技術だった時代もあり、抜かされた時代もあるからな。
正直難しいね。
大航海時代以前はペストで欧州の3分の1が死んで、基礎国力が破綻し、それで海外に
て構図が有るし。
貴族はそれなりに教育も士気も高いだろうが、一般市民クラスだと学問も教養も無い。
15世紀の末期ならば日本の方が上だと思う、16世紀に入ると微妙かな
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 03:06:37 ID:XpQctme5
当時の日本の総戦力は30万くらい。
しかも、ほとんどが古参兵ばっかり。
装備も一部(海軍や大砲装備)を除けば、世界最高水準だった。
戦略がしっかりしていれば、明を落せる戦力だな。
当時としては、世界最強クラスの陸軍国といっていい。
まぁ、海軍は2流以下だけど。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 03:13:44 ID:3KC14gkz
後、オスマン・トルコ帝国が強ええし。
当時の日本には海戦は勝機が無いのが辛い
征服はされないが、こっちから手出しもできない
東南アジア全取りされた事からみて、戦略的には負けていると思う。
>>3 原始的な丸木弓のロングボウを「非常に優秀な弓」とか書いている時点でおかしい。
合板弓の日本の弓や合成弓のトルコ弓の方が性能は遥かに上。
>>12 実際に明に攻め込んだら、日清戦争になるか日中戦争になるか。
朝鮮でのグダグダっぷりを見るに、後者になった可能性が高い。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 12:36:37 ID:XzmjI+s/
>>15 戦争遂行者が秀吉なんだからしょうがない。
外交的な終結点も考えず、一番弱い海軍に対する対応もなく、
現地に総司令官すらおかず(しかも、後方の大本営からはろく
な命令がでないし)外征すれば、そりゃ負けるわな。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 13:48:01 ID:LauTzKIn
海軍力を整備できる大名って誰だろう?やはり信長?
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 14:02:00 ID:4dWCSQiW
当時の日本で名のある武将で海のエキスパートというと
小早川隆景、小西行長、九鬼嘉隆
来島通総、村上武吉ってところか
あと亀井茲矩も有望そう
兵士 日本=その他の国
武装 日本>その他の国
経験 日本>その他の国
総合 日本>その他の国
>>5 兵卒の教育水準が日本より上?
欧州では18世紀になっても読み書きが出来る割合が人口の6パーセント程度だぞ。
ちなみに日本は60パーセント。(戦国期は知らん)
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 00:35:50 ID:0aF7ciDX
>>10753 :世界@名無史さん :2006/05/16(火) 08:53:39 0
「戦国時代の日本の銃保有率は世界最大」というのは
もともと誰の主張なんですか?
当時の普及率について論文などがあるなら読んでみたい。
754 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/05/16(火) 20:29:56 0
『鉄砲を捨てた日本人』あたりからではありませんか。
元々、あの本は別に日本史の研究家ではない銃規制賛成派の著者が、「戦国
時代には銃大国であった日本は、江戸時代には鉄砲を放棄したが、それでも
発展は止まらなかった。銃無しでも国は繁栄する」と言いたいが為に書いた
もの。その為、必要以上に日本を持ち上げています。
要するに目的があって戦国時代の日本の強さを強調していた訳ですが、これ
が戦国好き(戦国史好きではない)と自称愛国者の心を捕えてしまった。
戦国〜江戸期の日本全国津々浦々に存在した鉄砲の数が相当なものであった
事自体は事実でしょうが、それよりも戦国日本最強厨を出した罪が重い。
なお、実際には『鉄砲を捨てた日本人』に書かれていた事とは異なり、江戸期
に入ってからも狩猟目的で全国に相当数の鉄砲が存在していたというのが近
年の鉄砲史研究の示しているところです。
具体的に、他国と日本の鉄砲の数を比較して日本の保有率が最高と主張した
研究があったのでしょうか。兵数で欧州より、全体に対しての割合で明より
多いという事であっても、おかしくはありませんが。
(しかし、だから世界で強いという事にはならないのは勿論の事です)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1120655663/
>>5ではないが実際、日本の兵卒の敷字率どうなん?
半農足軽のイメージ高いからどうしても悪いよね
23 :
ななしさん:2006/10/22(日) 05:22:03 ID:IbIxv6b0
戦国時代は戦術も夜襲と待ち伏せ突撃位だろう
一部の知将を除けば将校クラスでは猪突しかしらなかった
イメージがあるのだがまあ旧日本軍もそのクラスだからな
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 10:21:16 ID:DNBXcw3L
>>23 火力が充実する近代戦になるまでは、猪突は一番有効な戦術だった。
それだけのこと。
そもそも、下級将校の役割のかなり多くの部分は、昔も今も兵を逃げ
腰にさせないっていう点にある。そのために、ドイツ軍は将校が先頭
に立って戦うようにしたんだしな。戦国時代は火力が戦況を左右する
率が少ないだけもっとそう。
要するに、兵を猪突させることが出来る将校はそれだけで優秀なんだよ。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 13:19:25 ID:7szhBffk
>>21 戦国末期になれば主力は鉄砲隊だからな、集団運用された鉄砲隊の力は
長篠から始まって、朝鮮半島大陸でも立証されている。
そもそも当時明には大砲火器類はそれなりに多いが、鉄砲の集中運用は
していない。明が大砲を使って女真族撃退した記録はあるが、その他は三国志と大差無い。
日本の鉄砲隊当時世界一はそれなりに信憑性あるよ。
ヨーロッパでも16世紀から集団運用してるけど、15世紀末に限って言えば
鉄砲大国でよいと思う。
日本は当時から重工業国家だった。明への輸出で一回に刀3万本とか記録残ってる
まあ名刀の類では無いだろうけども
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 17:13:11 ID:m6/wj72f
東アジアでは明と並んでトップクラスだったんじゃない?
騎兵や砲兵も少なそうな日本はその分、銃兵が多そうだ
結局詳細な統計や研究はしてなさそうだが
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 07:31:57 ID:xzZ8JuFU
江戸時代以降、識字率は上がったが、戦国期は高くないよ。
教える状況じゃないし、読み書き出来ても利が無いから。
商業・宗教・武士階級くらいだよ。
指揮官の経験値、という意味で言えば、戦国末期はまさに最強だった。
また、世界の歴史を見ても、分裂状態であった国をひとつにまとめた後というのは、
戦争を経験してきた兵と将だらけになってしまうため、兵器だけでなくしっかりとしたノウハウもあるので、段違いに強くなりがち。
それゆえに、大陸では分裂していた国がまとまった後は、外国に侵攻し、さらには勝ってしまう国が多い。その極端な例がチンギスハンなどだろう。
さて、もうわかるとおり、日本が強大な軍事力をもちながら何故他国をとれなかったかと言うと、
やはり大陸のように地続きではなかったから、これにつきるだろう。(くわえるなら、トップが信長ではなくいい加減で漠然とした指示ばかりの秀吉だったせい)。
とはいっても、その海のおかげで大陸の侵攻(それも相手は世界最大・最強の帝国)防げた過去もあるので、
島国であることは決して不幸とはいえないだろう。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 01:06:43 ID:2hcRdHDx
戦国期の日本は世界一の鉄砲大国。
しかし、いわゆる南蛮貿易で硝石が輸入出来なければただの棒・・・。
対朝鮮・明はともかく、
欧州最強国スペインと戦う場合(東南アジアの分捕り合戦?)
硝石って手に入るの?
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 11:18:19 ID:iwcLDQ7a
敵の敵が売ってくれるんじゃないのか
近年では、硝石も輸入オンリーでなく国内生産がかなりあったのでは?という
説があるがね。
というか、輸入のみだととても需要を賄えないとか。
一応、欧州最強国スペインは実際に東南アジアで日本軍と戦ったことがあるけど。
1621年にスペイン艦隊5隻がメナム河を遡上して、現地で雇われていた日本人部隊と激突。
この結果はスペイン艦隊が全滅で、日本人部隊の損害は軽微。
その後、スペインは1624年にリベンジを試みたけど、結果はまたしても大敗。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 15:59:09 ID:dfMFTUFp
まあ南米だのインドだの東南アジアだのの植民地化される過程をみると
自己保身ばかりで纏まりが無く、西欧の凶悪な侵略主義に、されるがままの悲劇の歴史になっている
日本が特別は言えば特別なんだが。
島国だからとも言うが、逆に半島にでもいれば2千年のうちに1.2回くらい大陸制覇してたかも
勝手な妄想だが。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 16:02:30 ID:dfMFTUFp
硝石は便所の近所で採れる、「床下古土法」って物だ、後「干草法」とかもある
サバゲーやってた人の話だと、農大行ってる奴がなんかの方法で硝石を作ってて
火薬としてサバゲーに使って金を節約したとか言ってた。もろ犯罪な希ガス
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 18:48:06 ID:GSHrSO5r
>>30 秀吉は大陸での勝ち負けなんか実はどうでもよくて、
物騒な自国の軍隊を海の向こうに捨てようとしたんじゃないのかね?
>>30 この手の話で出てくる信長だったら、というのは信長天才論に基づいた、
あまり根拠のない希望的観測だと思う。
正直なところ、信長がやっても秀吉と大して結果が変わらなかった可能性が高いんじゃないかと思う。
>>34 山田長政は実在したのか?という説があるが、その戦い自体はあったの?
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 19:21:48 ID:N0B6E7Qv
>>37 職業軍人が増えすぎたので、対外戦争が必要だったんだろうね。
17世紀初頭、東南アジア各地に日本人傭兵が進出したことからみても
>>14 製造に手間がかかるから優秀と書いている時点でおかしい。
職人がちまちま手間と時間をかけないと作れないようなものでは費用対効果に劣る。
まして
>>3は飛距離と貫通力に優れていることを指摘しているわけだし。
使用目的が異なるのかもしれんがね。
>>39 山田長政が指揮したとは書かれていないが
日本人部隊の一連の戦いに関する資料はあるそうだ
秀吉はボケてただけだろ
まぁ江戸幕府の時も、明から救援要請が来た時に、
似たような理由(浪人対策と武士のリストラ)で出兵しようとしたからな。
ロングボウの性能は体格が変わるほどの無理の結果得られたものだから
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 14:59:47 ID:Guc72PCV
>>44 国内統一→国外出兵(海外出兵というのって、普遍性ないよな)と
いうのは、歴史のパターンだからな。
とはいえ、戦国期のあの軍事力で負けるというのは戦略的にかなり
まずいわな。国外に兵を捨てるにしても、勝って捨てないとダメ。
負けて捨てるっていうのは、同じ民族に対してやると、その政権は
崩壊する。(他民族なら元みたいに捨て殺しも可能だが)
>>41 ロングボウは飛距離と貫通力が日本の弓より劣ってるんだよ。
ロングボウのような単一資材の弓は強度が低いから、飛距離と貫通力をそれ程
高めることが出来ない。
日本の弓も大昔はロングボウのような丸木弓だったんだけど、飛距離と貫通力に
優れた合板弓が出現したら、それに取って代わられた。
イングランドの弓は単純に日本の弓より数百年遅れているだけ。
>>39 山田長政不在説ってのは、論文や書籍で発表された物ではなく、ただ朝日と毎日が
記事の中で書いただけの物だから。
一度大新聞がそういう適当なことを書いてしまうと、その後で研究者がいくら文献を
示して反論したところで、一般人の目に触れる機会が段違いだから後の祭りなんだよね。
現地には日本人ぽい苗字の人はいるのかね。たかだか400年だから、
面影くらいは残っていそうだが。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 20:41:20 ID:SRkiCNja
日本人ぽい顔立ちの人はけっこういるらしい。
20年くらい前の雑誌の特集で「日本町の足跡を辿る」みたいなのがあって現地の老人が載ってたんだが
確かに肌の色や鼻の形がタイ人ぽくなくて日本の百姓のような・・・
日本人部隊といえば、鄭成功も「倭銃部隊」を使ってたな
>>50 それ、移民した日本人の子孫じゃなくて華僑かも
>>54 タイにも文献はあるよ。
『コットマイ・ラブリー』という宮廷の古記録。
あと、『異国日記』は徳川幕府の外交記録の写しだから、そこに名前が載っている時点で、
存在しないということはありえないんだよね。
実際には、記事で指摘されている1621年以外に、1629年にも記録があって山田長政は
老中の酒井忠世と対等に近い立場で書簡をやり取りしている。
「山田長正」が二流の商人なら、そんなことできるはず無いし。
オランダの文献を書いたファン・フリートは当時のアユタヤのオランダ商館長。
その内容と『異国日記』の記事にも矛盾点は無い。
大体、毎日と朝日の記事の後、それに追従する研究者なんか誰もいないじゃん。
とんでも説として一蹴されたものが、きちんと訂正されないまま現在まで放置され
てるんだよ。
>>38 どうして「信長は天才だから」「いや違う」とか極端な結論に持ってくかな。
両者の戦略性や戦術、海外に関しての知識の量、部下に与える指示の仕方を知ってんのかって。
そういうこまごまとしたところを知らずに語ることは出来ないだろ。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 01:30:26 ID:Foh6z1aA
スペインとかオランダが世界一の大国だったことがあるって見方はやっぱり西欧中心な見方に染まってるのは否めないね
技術や社会構造の進行度などはともかくもはともかくも、
彼らの時代はまだ所詮ユーラシアの諸強国には未だ太刀打ちできず、間隙を縫って弱い所を征服してたに過ぎん
欧州の諸国が本当に「列強」というべき世界に比しても圧倒的な力を持ち出したのは18世紀の半ば辺りからじゃないかね
第二次100年戦争あたりの英仏はもう世界の強国といってもいいのだろうが
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 01:52:49 ID:gf1X2Sda
>>47 未だに具体的な比較が行なわれたのは見たこと無いんだよな。
弓の強さは張力で決まるんだけれども和弓の平均的な張力は
はっきりしない。
ロングボウのほうはまだ、若干揉めてる様だがおおよそはわかってるけどね
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 02:17:07 ID:8Jw2Oc1D
小麦が主食の欧米では、一国が一度に動員できる人数が数万人程度。
数十万も動員できるようになったのは19世紀に入ってから。
その点、日本は腹持ちがよく栄養価の高い米のおかげで何十万人も動員可能。
戦地がホームグラウンドの軍が勝つだろうが、どっちも遠征という状況なら
兵站の差で日本が有利かもね。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 07:57:58 ID:QheQ7420
>>58 それは戦争をタブー視して、中世の戦史の研究をほとんどしてこなかった戦後の
日本史研究者たちがアホだから。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 08:05:11 ID:whY/+/bL
●イギリス人ウィリアム・アダムス
この日本の島の国民は、性質として良好であり、あまりにも親切で、戦争では勇敢である。
彼らの法規は偏らず、すべての違反者に厳しく適用される。
彼らは人道にかなった方法で支配され、世界中で彼らよりも人道的な法律をもって
正しく支配されている国民はいないと思う。宗教面で、彼らは迷信が深い。
●スペイン人宣教師フランシスコ・ザビエル
「この国の人々は、私が遭遇した国民の中でもっとも傑出している。
どの非キリスト教徒も、日本人より優れている者はいないと考える。
日本人は相対的によい素質を持ち、悪意がなく、交際して気持ちがよい。
彼らの名誉心はことさら強烈で、彼らにとって名誉がすべてである。
日本人の生活には節度がある。ただ飲むことにおいては、いくらか過ぎる国民である。
彼らは盗みの悪を非常に憎んでいる。私は今日まで旅した国において、それがキリスト教徒たると異教徒たるとを
問わず 盗みにおいてこんなに信用すべき国民をみたことがない。 彼らは、皆、理性的な話を喜んで聞く。
●ポルトガル人宣教師ルイス・フロイス
彼らの風習の多くは、我らのそれとはいとも大いにかけはなれ、異風で隔たったものであり、
かくも高き文化、いきいきとした才幹、そして天賦の知性に恵まれた日本人と我々との間に
これほど極端な対照が存在し得うるとはほとんど信じる気持ちにはなれぬほどである。
ザビエルの言う通り、彼らの文化、風俗、習慣の多くの点で、スペイン人よりまさっている。
●イタリア人宣教師オルガンティーノ
日本人は全世界で最も賢明な国民に属しており、
彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同よりはるかに優っている。
我らの主デウスが人類に何を伝えたもうたかを見たいと思う者は日本へ来さえすればよい。
彼らは不必要なことを外面の表情に表すことはなく、甚だ忍耐強く、
大度ある国民で、悔悛は真摯にして信心深く、
儀礼に大いに気をつかい、交際においては丁重である。
我々ヨーロッパ人は、互いの間では賢く写るが、日本人に比べると
はなはだ、野蛮であると思う。
私は毎日、日本人から教えられることを告白しなければならない。
私は世界の中で、これほどまで天から才能を与えられた民族はないと思う。
京都は、ヨーロッパならローマにあたるが、
科学、見識、文明はローマよりはるかに高尚である。
信仰さえ別にすれば、我々は日本人よりもあきらかに劣っている。
私は日本語がわかるようになってからは、
世界にかくも聡明で明敏な人々はいないと考えるに至った
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 00:23:11 ID:+E1sJS1m
日本は鉄砲や軍人の質からすれば、物量戦力では世界でも結構な地位に
あったと思うけど、大陸出兵を見る限り、大規模軍隊の運営という点に
ついては褒められたものではない。経験してないから仕方ないが。
物量軍事力が上でも実効軍事力が低いと遠征には向かないだろうな。
短期決戦には強いが持久戦に持ち込まれるとぬるぽ
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 01:35:50 ID:j5Km9L9H
俺は朝鮮出兵の戦いぶりを調べて、戦国日本は同時代の欧州より遥かに上のレベルだと確信したけどな。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 17:21:03 ID:1L6+fg2I
物量や兵器普及率、実戦経験もさることながら、16世紀の段階であそこまでの
細かい軍隊編成が出来たのは日本だけ。足軽組や鉄砲組などの少人数単位のクラスター
での軍運用は、西洋ではナポレオン時代のプロシアのクリューパーシステムまで
待たなければならない。命令伝達の速度、軍展開の機敏さにおいて圧倒的と思われる。
朝鮮での陸戦での強さは単に兵器の違いだけではないと思うが。
当時の最強国はムガル帝国かオスマントルコ。
その次に斜陽の明。その次ぐらいかもしれない。
>>65 細かい編成と言うのは少し誤解だと思うぞ。
あれは、少人数の編成ができたというよりも
封建制の名残で君主が自由に出来なかったわけで
信長のように中央集権的な権力を持つ大名は鉄砲隊などを
集中運用してる。
単一の兵科を集中できないことは大きなデメリットだと思う。
>>68 昔、似たようなスレで似たようなことやったな・・・
ちなみに16世紀のヨーロッパでもカンパニーが編成されて
例えば1558年のイギリスのカンパニー編成は
装甲槍兵 150人
非装甲槍兵 150人
アルクビューズ 100人
よくテルシオのような歩兵密集隊が編成されたのは
錬度が低いからなんて言われるが
密集隊が好まれた最大の理由は対重騎兵対策。
歩兵密集隊が騎兵対策であることは中世からの戦史を見ていればわかる。
重騎兵の脅威が減るにつれて密集隊の厚さも薄くなっていく。
単一兵科でも特に騎兵は集中運用されなければ価値は大いに下がる。
スウェーデン軍騎兵隊は歩兵と協調して攻撃を行なったが
歩兵の速度に騎兵を合せることになり、後々問題になった。
>>66 本当にムガル帝国の軍事事情を調べた上で書いてるのか?
ムガル帝国は中央アジアでシャイバーン朝に敗れてインドに逃げ込んだ勢力だぞ。
ムガル帝国軍ってインドの外では、シャイバーン朝やサファヴィー朝にまったく
歯が立たなかった。
>>69 テルシオの敵はテルシオ。
重騎兵対策なんかじゃない。
そんなの欧州の合戦の配置図を見れば一目でわかることだろ。
ではなぜテルシオが生まれたのかな?
テルシオは元々、スイス等で編成されたパイク兵などの密集隊。
この密集隊はなぜ生まれたかと考えると重騎兵に対して歩兵が対抗する手段として編成された。
パイクの密集隊は重騎兵に優位に立ったが発達した火器の脅威に晒されたので
その対抗策として周辺に銃兵を配置することでテルシオが生まれた。
テルシオ同士が対決することになったのは双方の歩兵がテルシオを導入したためだよ
因みにパイクの密集隊と言ったけどこの中にはハルバート兵なども含まれていて
これはもちろん騎兵を馬から叩き落とすため。
つまり明らかに騎兵を意識してる。
>>69 はい、傭兵の練度が低いは撤回します。
ただし、騎兵突撃の評価は私は低く考えています。
つまり、騎兵だけの突撃に対し鉄砲・槍・騎馬武者(とその従者)の諸兵科連合が迎撃すればどうなるかは自明と私は考えます。
足軽隊は横隊隊形ですので一見して防御力は弱そうですが、備は鑓隊もいますし機動戦力としての騎馬武者隊もいます。
さらに、備を何段にも重ねる事で、突破の危険性も低下しているので、備に対しては騎兵突撃の効果は低いと考えます。
実際、日本の騎馬武者も戦国後期は突撃は下馬して行うのが主流でしたから、これは鉄砲火力の増大によるものでしょう。
果たして、数が多いとはいえこの様な「前例」を持つ備を騎兵隊が突破できるかは疑問と考えます。
>>72 パイク兵からテルシオに以降する時期には既に重騎兵なんか脅威では無くなってるだろ。
火器の発達で真っ先に戦場から駆逐されたのが重騎兵じゃん。
テルシオが欧州で流行したのは、それが質の悪い傭兵主体の軍隊でとれる戦法のベストだから。
マウリッツもグスタフも傭兵から常備軍へと兵の質を高めることで、テルシオの無駄な厚みを
取り除くことが可能になった。
錬度が低いという面も捨て切れませんが主な要因ではないでしょう。
士気、錬度の高い中世の装甲兵部隊からナポレオンの近衛兵も対騎兵戦では
密集隊形を組んでますから。
戦国日本と同時期の欧州軍を戦わせるわけではないですから
ヨーロッパ重騎兵と備を対決させるというのは難しいと思います。
今ここで言っている備というのは戦国時代通して大きく変わらないものなんですか?
こちらがイメージしていたのは16世紀中ごろなので時期がずれると様子も異なってくると思います。
>>75 重騎兵というのはなかなかしぶとい兵種でどこまでを重騎兵と定義するかによって違いますが
主流ではありませんがスリークォーターアーマーとランスを装備した騎兵は17世紀中ごろまで存在します。
重騎兵が駆逐された理由はいろいろ学説があってあまり強いことは言えませんが
火器が直接の原因ではなく、火器を操り、密集隊形を組んで戦える錬度の高い歩兵隊の出現でしょう。
錬度、士気の高い歩兵、たとえばスイス傭兵隊などは火器が本格的に導入される以前から重騎兵に優位に立ってます。
まぁ、錬度、士気の低い部隊が密集隊形を組むことが多いのは事実ですが
逆に密集隊形を組む部隊が錬度、士気が低いかと言わせるとそうではないでしょう。
77 :
訂正:2006/11/16(木) 22:44:49 ID:1Km6+QUB
×戦国日本と同時期の欧州軍を戦わせるわけではないですから
ヨーロッパ重騎兵と備を対決させるというのは難しいと思います。
○戦国日本軍と同時期の欧州軍がそれぞれを意識して編成していたわけでは
ないですから比較するのは難しいと思います。
すみません、見直したらあちこち日本語が変なところがあります・・・
>>77 いや、その異なる戦術思考を元に練り上げられた二つの軍隊が対峙したらという
IFを楽しもうという趣旨によるスレなので
後、備は段々と足軽(奉公人ではない)の比率が上がり、そして鉄砲足軽の比率が
上昇の流れで
編成はwiki参照で16世紀半ばだと鉄砲隊の数が半減その分、鑓隊と弓隊が増加
という所でしょうか?この辺、各地方・家ごとに異なるのでなんとも言えません。
制度的に大体統一されるのが17世紀前後、関ヶ原の合戦辺りですので。
テルシオは隊列組むのに半日近くかかるんだよ・・・。
毎日どこかで赤ん坊の産声が聞こえる女子供連れの欧州軍隊は行軍速度が冗談かと思うくらい遅い。
軍隊の機動性を最重視したプロイセンのフリードリヒU世(大王)の軍隊の行軍記録でも、最高のもので約二週間で270q。
これは騎馬砲兵という大砲を馬匹牽引させて機動力を上げた部隊のもので、自勢力圏内での行軍記録による。
(敵地内での進軍速度では無い。)
ナポレオン軍の1805年のアウステルリッツの戦いの際には、約三週間で約600qという進軍速度のものがあるが、これはかなり時代が違うので参考までに。
アウステルリッツの戦いの際には、ダヴーの72時間で150qという進軍記録もある。
これらは、青年男子だけの軍隊だったからこそ可能だったと言える。
無論、短期決戦が見込めたからこういった進軍ができたのだろう。
秀吉の行軍速度と比べるとどれくらい?
>>81 有名な賤ヶ岳の行軍が52キロを五時間を別格として、
桶狭間の今川軍が駿府〜岡崎間(自軍勢力下)140キロを4日が平均かな?
一日35キロか、案外早いね。
古代中国でよく出る単位で一舎=15キロだからな。
とぼとぼ歩いて行くわけだから、時速3キロ程度で12時間とか歩かせるのかな?
そう考えると徒歩だと、一日3,40キロが限界か。
春秋戦国時代だと一舎(三十里)はたしか約12qだったはず。
>>80で時代の違いを承知の上でナポレオンの軍隊の行軍速度を比較例として出したのは、他に戦国日本と同等以上と思われるものの例が無いかな、と。
時代が近い例だと、三十年戦争のブライテンフェルトの戦い(1631年)の時のグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍の行軍が四日で25マイル(約40q、つまり一日約10q)とかそんなのしか無くてねw
・・・一応当時のヨーロッパでは機動性を重視した名将というか猛将なんですけど、戦場での機動性だけなのかな・・・。
対するティリーもこいつからは逃げ切れないと判断、って・・・そういうレベル。
歩兵の練度や士気などのいわゆる質の面に関しては、行軍速度と正比例するとかそういう内容のが近代戦関連の本にあったんで比較しようかと。
85 :
名無しさん:2006/11/21(火) 00:49:32 ID:FdhA9qbL
>>61 戦国時代の日本人に平成日本人はぼろ負けしているな
民族の劣化は嘆かわしい限りだ
もし当時の日本人が今の日本人みたいな性格なら
ボロンチョンに書かれていたのは間違いなさそうだもんな
戦戦で殺人強盗強姦人身売買が横行しまくってた時代だぞ?
覇気も強さもはるかに及ばないにしても規範意識は現代の方がずっと高いはずだが
ヨーロッパって弱いイメージがある
88 :
65:2006/11/21(火) 09:11:13 ID:7410fvJO
亀ですまんが、みんなクリューパーシステムを誤解してるぞ。少人数編成というのは
4〜5人単位のクラスター編成で、大目標、中目標、などを設定し各クラスター
がそれを達成するための判断を状況に応じてできるというシステムの事。
それが中世的な集団軍運用に勝ることは、ナポレオンフランスにプロシアが
勝利したことや、現在各国の軍編成や企業運営の基本になってることからも
疑いの余地はない。
日本は特殊な封建制度のため言わば自然発生的にこういった形になったわけだが
それが図らずも最強の軍編成となったと思うのよ
>>88 GJ! だね。
>>68の記事は概ね理解できた。
日本が幕末〜明治維新の時期に短期間で軍の近代化が可能だったのは、元々そういう素地があったからなのか。
日本の軍には元々女子供の比率が、大陸と比較して極端に少なかったというそういった点にばかり目がいっていたよ。
あ、俺
>>65>>88だけど
>>68は俺じゃないよ。
あの記事はすごいね。何か人の手柄横取りみたいのやだから無駄レスだけど。
92 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 00:28:09 ID:/d8WKv1r
日本が戦に明け暮れていた戦国時代でも
日本の軍隊はヨーロッパや明や李氏朝鮮よりも弱く
世界最弱だったのは定説だよね♪
>>91 あんたのレスも世界史の知識に疎いオレには助かった。これからも頼む。
94 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 01:05:41 ID:c3yqb9+5
>>92 それはないだろ。
さすがに李氏朝鮮よりは強いはず。
95 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 01:11:22 ID:IKDLn2K7
島津義弘隊に殺された奴が英雄(笑)
>>87 モンゴルやオスマントルコに押し捲られているイメージがあるからな。
97 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 09:16:03 ID:N6gfab0X
>単一兵科の集中は機動力をドブに捨てるようなもの。
柔軟性がなく軍組織として脆くなるなら正しいが、機動力だけを考えるんだったら有り得ない暴論
>>97 騎兵と歩兵を分離→歩兵単独で騎兵に対処する必要が浮上→密集方陣→機動性低下
という流れ
騎兵と歩兵が混雑していては、騎兵の機動力がいかせないだろうに。
機動力生かしても突撃が不可能なら意味もないですし・・・
不可能って騎馬隊の突撃なんて古代から連綿と続いているわけですが、
どっかのパラレルワールドの話?
>>101 火器の増大で騎兵突撃はその価値を大幅に減じたと考えていますが?
>>102 だからこそ、騎兵のみで編成することによる機動力を活かして、
側面や背面へ回りこんでの攻撃が重要になってくるんでしょうが。
むしろ、歩兵と混雑して歩兵の移動速度でしか起動できない部隊の方が、
そういうことが出来ない点で圧倒的に不利。
>>103 日本の戦国期は備を何段にも重ねてます。
欧州は大抵、第一線に戦力を集中させますから、迂回には日本より弱いでしょうが
それに日本では迂回するには山河などの障害を踏破しなければならず、
そういう箇所では馬は役立たず。
>>104 戦略上の機動と戦術上の機動をごっちゃにしすぎ、
幾ら日本の平野部が狭いからって、
全ての戦場で部隊の側面を山河に接することなんて出来るわけがない。
>>105 そういう戦術レベルなら備中にいる騎馬隊の方が即応できるというものです。
>>106 100とどくかどうかという数で、指揮系統も一元化されていないのに?
全く机上の空論だよ。
正面の火力も同様、
弓にしろ鉄砲にしろ集中して使用したほうが効果は大きい、
だからこそ信長は長篠で各隊から鉄砲をよりぬき、側近たちに指揮させて運用した。
数十程度ごとの運用ではさほどの効果は見込めない。
>>107 うん、戦国の合戦は諸兵科連合小部隊同士の戦闘の連続ですから
ちなみに備は侍大将の一元指揮で進退しますが?
>>108 集中によって戦術機動性の著しい低下を招くにも拘らずですか?
そりゃあ額面の戦力は増加しますが、弾力的運用は不可能でしょうな
長篠の千挺を数人の奉行に指揮させたのは、動員しなかった武将から
引き抜いた鉄砲を指揮させるための臨時的なものと思いますが?
>>109 一元指揮って、せいぜい数百人で構成されて、中身は各兵科が混ざっていて、
総数は数十にもなる「備」の一つづつに指揮官がいるって事でしょう。
正にそういう状況が指揮系統が一元化されていないって言うんですよ。
それから、弾力的運用といっても、
騎馬隊の機動力は発揮できない、射撃の威力も中途半端、
重歩兵としての頑強さも足りない部隊が動きまわっても大して意味がありません。
弾力的な運用ってのは、
だいたい数百くらいの数で、騎馬なら騎馬のみ、銃兵なら銃兵、弓なら弓、
槍兵なら槍兵で固まってそれぞれの兵科の特性を十分発揮できるような体制をつくり、
それらを上手く組み合わせるて行うことで、
上記のようにどれもこれも中途半端な部隊ばかり作ることではありません。
>>110 その備の人数ではダメで一兵科につき数百でなければいけないというその
根拠をお聞かせ願いたい。
そしてダメなら何故、これらが大名領主制である江戸時代まで継続したかも
少なくとも、戦国時代を備で通した以上、そこには何らかの有効性・合理性
が存在すると考えるのはおかしな話ではないと私は思いますが?
後、いっておきますが十万石で編成される備は大体8〜9個、これらも総てを
前線に貼り付けず、何段かに分けられる。
その上、これより更に備の数が多くなると別に支隊を編成する事になります。
>>111 根拠は戦術の最小単位が各兵科のみで構成されているかどうかだよ。
あなたは根本的に誤解しているようだけど、
諸兵科連合軍っていうのは、それぞれの兵科がその特性を活かした上で連合して戦うもの。
そのためには最小の戦闘単位はそれそれの兵科のみで構成されなければならない、
騎兵の機動力を活かすには騎兵のみで編成された部隊が必要だし、
槍兵の正面への鉄壁の防御力を十分に活かすには間に騎兵や弓兵は混在していない方がいい、
そして射撃兵科も集中して運用した方がより効果的だ。
備のように数百人で構成された戦術の最小単位が各兵科の混合隊では、
それぞれがその特性を活かせない。
日本がそういう編成のみだったのは、一つの島国の中で、
互いに同じような編成でしか戦っていなかったから。
鉄砲の伝来以降,例えば信長のようにそれを変革する動きもあったが、
結局それは完成することなく、太平の時代に入りそのまま固定してしまった。
江戸時代までそのままだったのもそういうこと、
太平の時代に入り変える必要がなくなってしまっただけ。
信長以降の日本が編成を固定したのは、強力な騎兵部隊を擁する明軍との戦闘で、
戦国式の編成が効果的だったからだろ。
何か熱く語ってるが、ゲームレベルの話だなw
単一兵科の集中ってw近代の軍隊じゃないんだよ?鉄砲組の構成員全員が一人
一人銃武装してるとでも?騎馬隊って言ったって一頭につき3〜4人の編成に
なってることを知らないのか?当時の騎馬隊に馬の力による戦闘能力の増加は
あっても、機動力なんてないって。ゲームじゃねーんだよ。
逆にモンゴルなんかは、兵一人につき馬2〜3頭引き連れてたんだから、それと
一緒くたにして機動力云々なんて噴飯ものだ。
まさに机上の空論だな。ゲーム脳もいいとこだ。
当時の騎馬隊の移動能力は、馬周りの「徒歩の兵」と同等。そんなの定説だぞ?
長文の割りに中身がない
中身がないってw
じゃあ上の全然無駄な論議の応酬はなんなんだよ?
中身はただひとつ「おまえら根本的に間違ってるよ?」以上w
>>114 だから、戦国時代の日本の軍隊は正にそういうものだったと言っているのよ。
しかし同時期のヨーロッパでは既に兵科ごとの運用が始まっていた。
そういう事実を無視して日本最強なんていうのは現実逃避だって事。
>>113 ちなみに明軍は火縄銃を大規模に使用する軍隊と戦ったことがないので、
日本軍に苦戦するのも当然。
兵科毎の運用が始まっていても、西欧の軍隊が自転車操業レベルの補給能力しかなかったのは間違いの無い事実。
動かしたい時に動かせる軍隊など無かった。
動かせる時にしか動かせる軍隊しか無かったのだから、「戦術的にはちょっと良かった筈だ」程度では比較対象にすらならないよ。
まあ、ガチンコでは西欧に負けるとしても
日本国内での戦になったら西欧にはそう負けることはないんじゃない?
>>112 >備のように数百人で構成された戦術の最小単位が各兵科の混合隊では、
>それぞれがその特性を活かせない。
その数百人ではいけないという根拠が希薄だといわざる得ない。
集中すればよいというなら、なぜ欧州軍隊はその集中規模を減じたのか?
歩兵が鉄壁の防御(テルシオ)を得た結果、機動力を失ったからに他ならない。
その為、かれらは歩兵の集中規模を縮小させ、機動力の向上を行っている。
ならば、一隊の数を更に減らす代わりに、機動戦力たる日本の騎馬武者隊
を加える事で足軽をライン、騎馬武者隊を突破・火消し役とすることで前線
レベルで柔軟な運用を行えると思うのだが?
後、信長がそういう軍事的な革命を行おうとした根拠は何処にもないから
長篠の戦はあくまで臨時に供出した鉄砲を隊として扱っただけですから。
長篠から大坂の陣まで四十年もあったのに完成しなかったという事は
それを行うメリットがなかったからと断じざるえないかと?
>>119 イタリア戦争では、
フランスも神聖ローマ帝国も国外で何年も戦っていますよ。
朝鮮出兵で国外に攻め込んで、
1年と補給がもたなかった日本軍がそれほど誇れるものではないと思いますがね。
>>120 何より日本は兵力が多いから、少なくとも国内ではそうそう引けは取らないでしょう。
>>121 数百人だからいけないといっているのではないんだよ。
戦術の最小単位が混成軍では、
それぞれの兵科の特性が活かせないということ。
騎兵は騎兵だけで動かなくては、
その最大の特性である機動力を発揮できないの。
加えて言えば、確かに行き過ぎた密集陣は欧州でも次第に放棄されたが、
戦術の最小単位を混成部隊にする、特に機動力を損なう、
騎兵と歩兵を同じ戦術上の最小部隊に組み込むなんて事は、
どこでもやっていない。
槍兵と銃兵の混成は問題なくとも、
騎兵の存在意義を無にする歩兵と騎兵の混成部隊は全くナンセンス。
一軍がまるまる玉砕したりする国って、当時の日本以外に結構あったりする?
>イタリア戦争では、
>フランスも神聖ローマ帝国も国外で何年も戦っていますよ。
おいおいw
実態知っててわざとそんな事書いてるのか?w
そもそも桁が一つ違うぞw
「半島」は「半島」でもイタリアと朝鮮じゃ条件が全く違うよ。
整備された街道がひとつあるだけでもかなり違うのに、ゼロと100を並べてどーするw
>>126 別に100年戦争でも30年戦争でもいいんだが?
戦国日本と違って、当時のヨーロッパの軍隊には、補給などというものはない。
ヨーロッパの戦争で軍隊のたどった軌跡を調べてみろよ。
戦略や作戦なんか無関係で単に食料を求めて彷徨っているだけだとわかるから。
そんな感じだから、100年も30年もだらだらとした戦争が続くんだよ。
補給に関して、ヨーロッパが戦国に本のレベルに達したのは、やっとナポレオンの
時代になってから。
130 :
114:2006/12/12(火) 12:17:54 ID:Uf0+gMhS
俺は「当時の騎馬隊に」と言ったんだ。日本のなんて言ってないよ。
唯一モンゴルの騎馬戦術を除いて、ヨーロッパでも騎馬兵単一編成による騎馬
隊なんて存在してないよ。そもそもあんなゴテゴテと騎乗者が武装して、生物
である馬がもつ訳ないだろw「馬は消耗品」と割り切ったモンゴルだけがその
枠を越えた。だから最強だったんだよ。
これは戦費の関係から考えてもわかることだ。馬を持つことが一部の武士や
貴族や、軍将校に限られると言うことはすなわち、馬自体の希少性や高価値を
示している。そんな社会で馬乗り捨てなんて戦法取れるわけないだろw
モンゴルは馬が「一家に一台」どころか、一人に十頭っていう特殊な社会だから
可能だったんだ。つまり、日本でも半島でも中国でもそしてヨーロッパでも
単一兵科の集中によって機動力を向上させるような「騎馬隊」なんて存在してないよ
>>129 例えばどの戦争のどの軍の軌跡とかのこと?
>>128 じゃあ、三十年戦争のブライテンフェルトの戦いでティリーがグスタフ・アドルフと戦わなければならなかった理由を書いておくれw
最初に答えを書くが、「動きたい時に動かせる軍隊」じゃなくて「動かせる時にしか動かせない軍隊」でしか無かったから、だろ。
単に、副官のパッペンハイムが命令を無視して勝手な行動をとったからと云う、そういう理由だけでは無いよ。
そういうレベルの軍隊でしかなかったからだよ。
(両者とも、敬愛すべき「名将」なんだけどね。)
そして、敗れるべくしてグスタフ・アドルフのスウェーデン軍に敗れたと言う事。
(その勝ったスウェーデン軍も「動かしたい時に動かせる軍隊」では無かった事は、行軍の進路や行程、行軍速度からも容易に知る事ができる史実。)
>>133 当時のティリー軍の補給が極めて悪化していたのは、
ライバル関係にあったヴァレンシュタインの領地からの補給が受けられなかったからでは?
それから、ティリー軍はともかく、グスタフ・アドルフは、
スウェーデンから海を越えてやってきた軍隊、補給が最重要で難しい問題になるのは当然でしょう。
現に日本だって朝鮮に渡った秀吉軍は1年程度で主に補給の問題ゆえに、
大規模な撤退をしなければならなくなった。
>>123 いや、日本の騎馬武者は所謂欧州の騎兵的な運用ではない事を理解する必要があるかと。
戦国日本の戦闘は西洋の様な歩兵と騎兵を完全に分離するのではなく一人の将が縦横に指揮できる
限界である数百人単位に各兵科の部隊を配する事で柔軟な運用を可能にしているのです。
更にいかに機動力が高くても騎兵のみでは撃退されてしまう、それなら騎兵のみに比べ機動力が劣っても、
密集方陣より格段に高い機動力を持ち、バランスの取れた編成である備が迂回戦力となっても良いかと
>>135 だから、それが兵科の特性が活かせない編成なのよ。
例えば、騎兵と歩兵の混成軍が突撃をしても、
ある程度数をそろえた銃兵の前には結局は無力、このことは長篠で実証されている。
突撃を行いたかったなら陣形が乱れた隙か、相手が態勢を整える前に側面や背面を突くしかない、
しかし、隙を突くからこそ、それが成功すれば効果は大きい。
そしてそれを成功させるために最も重要なのは機動力であり、
機動力を発揮するためには、歩兵と一緒に行動するなんていうのは全くナンセンス。
ちょっと誤解を受けるのを覚悟で書き込むが16世紀頃の銃兵は装甲騎兵の前では無力だよ。
>>137 そりゃあ銃兵単体と比べればそうでしょうが、
密集し射撃兵科の支援を受けた歩兵陣に正面から突っ込めば、騎兵の方がやられます。
だから、確かに
>>136は銃兵と槍兵の陣形の前には無力というべきだった。
>>134 >当時のティリー軍の補給が極めて悪化していたのは、
>ライバル関係にあったヴァレンシュタインの領地からの補給が受けられなかったからでは?
バイエルンでもなくウィーンでもなく、ヴァレンシュタインの領地からって辺りが大きな問題だろう。
地理的条件云々を言い出せばキリが無いが、元々の策源が機能していない/存在していない/仮にあっても無いのと同じと言う事。
これこそが、当時のヨーロッパ諸軍隊の大きな問題点だと思うのだが?
また、戦術的な面でいくら議論しても、多分平行線を辿るだけ。
(そういうのが楽しいというのは分かる。)
この時代の戦は指揮官次第という面が大きい。
仮に日本最強の軍を率いても、今川氏真が総大将ならどこの誰とやっても微妙な結果にしかならないだろうw
少しくらいの兵力差なら、指揮官次第でどうにでもなったりしているからね。
直接対峙していない指揮官二人を並べて比較しても何も出やしない。
>>141 当時の日本の兵站がずい分優れていたと思っているようだけど、
では朝鮮に渡航した秀吉軍の補給は、なぜ1年程度で破綻してしまったの?
それから議論になっているのは戦術ではなく軍の編成について。
>>136 まぁ、ねぇ。そりゃ、正面から正々堂々の会戦なんかしたら負けrます罠。
備を有する戦国期軍隊が欧州式軍隊に勝つにはその機動力を生かした機動戦
に持ち込む必要はあります。
>>142 朝鮮出兵では秀吉軍は7年間も朝鮮半島に居座っている。
文永の役は、朝鮮南部の拠点を維持したまま、明との直接交渉に持ち込んだんだから
日本の勝利じゃん。
>>144 一時は中国東北地方まで攻め込んだのに、朝鮮南部まで撤退した。
つまりその程度がその当時の兵站能力の限界だったということ。
しかも最初の1年間以後慶長の役までの6年間は休戦状態。
>>147 それなら、当時の欧州もイタリア等ごく一部の地域を除き、
東アジアよりも整備された道などありませんでした。
だからこそ、補給も兵站もお瑣末なものにならざるを得ないわけで。
道が整備されていなかったから補給が出来ないなんて有様では、
国内ではともかく、国外では戦争なんて出来ません。
>>143 その機動戦というのは戦術的な意味で?それとも戦略的な意味ですか?
もし戦術的な意味でなら、歩騎混合の部隊は全く無意味。
仮に歩騎混合部隊が密集方陣よりは優勢な機動力を活かして、方陣の側面に回り込もうとしても、
方陣の側面には、敵の迂回を阻止し、また自らが迂回を狙う騎兵部隊が配置されます。
前に突撃を行うには相手の隙を突くしかないと言ったが、
迂回しようと急いでいるという状況は正に格好の隙に。
互いに騎兵のみの部隊なら条件は互角だが、一方が歩騎混合では機動力はそちらの方が不利、
実際にそんな迂回行動をしようものなら突撃されて壊滅するだけです。
もし戦略的な意味でなら、それは軍の編成には関係なく、むしろ兵站と補給の問題。
十分な兵站があるなら、歩騎混合でも各兵科のみの部隊でも変わりなく、
優れた戦略的機動が行えます。
つまり、歩騎混合の部隊であることは戦術的には不利なことであり、
戦略的には全く関係ないことです。
ちなみに兵站については、前述の通り日本国外でなら日本優勢でしょうが、
国外で戦うならはなはだ心もとないものと言わざるを得ません。
>>149 ×日本国外なら日本優勢でしょうが、
○日本国内なら日本優勢でしょうが、
>>149 騎兵部隊のみの突撃は備に撃退されると私は考えております。
騎兵だけで突撃してもあなたのいう「歩騎混合部隊」、私の言う「諸兵科連合部隊」
の各種足軽部隊・侍部隊の連携に負けると私は考えます。
三十年戦争を比較対象にしたのは時代が近いというのもあるけれど、日本の戦国時代と同じように「長期間の内戦」だからだよ。
(まあ事情や条件も色々と違うし、途中からデンマークやスウェーデン、フランスが攻め込んで来たけれど。)
ゲリラや野盗の類に苦しめられたのは、ナポレオン軍も同じ。
イベリア半島でのナポレオン・フランス軍だけでナポレオンを評価するべきか否か?
(まあ攻め込んだ先がそこだけならそれで評価するしか無いのかもね。)
戦術的な編成は知らんが、軍全体の編成を比較しようとはしないの?
ヨーロッパに限らず、大陸の軍隊は基本的に半数以上が女子供だったという史実。
(毎日たくさん産まれて毎日たくさん死んでいく乳幼児はカウント除外。)
>>151 槍を構えて銃も打てる状況ならね。
しかし一歩一歩前進していくならともかく、
迂回という速度とそれなりの複雑さを伴う移動中では無理。
もしその状況でも突撃が効かないなら、突撃という戦術自体消滅している。
しっかりした陣形を組まれては手が出せないが、相手が乱れていれば強力だからこそ、
騎兵による突撃はナポレオン時代まで実用的な戦術だった。
それから、あなたはあたかも歩兵と騎兵が一体になった部隊が突撃を仕掛けたほうが、
その威力が増すかのように考えている要だけど、
突撃を仕掛けた場合の、物理的エネルギーに心理的効果も加えた衝撃力は、
スピードが高いほうが大きい。
つまり、歩兵のスピードでしか動けない混合部隊では威力も下がってしまう。
>>152 三十年戦争は当初から皇帝軍はスペインと結んでいたし、
開始後5年程度でデンマークが直接的に介入している、むしろ当時屈指の多国間戦争で、
あれを長期間の内戦だと思っていたならあなたの見識を疑うしかない。
そして、多くのヨーロッパ諸国が国外で何年も継続して戦争をしているのに、
その優れていたはずの日本の軍隊が、いざ国外へ出兵するや、
僅か1年で戦争継続不能になってしまったのは一体どういうわけで?
>>153 いや、密集方陣組んでいるわけでないから出来ます。
備の特徴は戦闘隊形を直ぐ組めるのが特徴の一つと私は考えていますので。
鉄砲・槍足軽で敵騎兵を斬減したのち騎馬武者隊が乗り込むという形で騎馬突撃は
防げるでしょう。
突撃には歩兵は耐え切れないかもしれませんが、ならば突撃には突撃で抗すれば
よいかと
後、歩兵で迂回はダメだというのはあくまで欧州の密集方陣を組んだ歩兵が前提で
ある事をお忘れなく。
>>155 迂回行動は普通に歩いていては、さすがに敵方陣の正面火力に捕捉されるから、
最低でも小走り程度のスピードで行わなくてはならない。
何mもの槍や火縄銃を担いだ300人以上の集団が小走りで移動していて、
敵の騎馬隊が動いたからと、とっさに陣形を組めると?
しかもその間に怒涛のごとく敵騎兵が攻めてきているのに。
少々身贔屓が過ぎるのでは?
それから、未だに諸兵科連合という言い方に固執しているようですが、
戦史上典型的な諸兵科連合軍といわれる、
ナポレオン軍や古代マケドニア軍の編成を確認してみてください。
いずれも戦術の最小単位を騎兵歩兵の入り混じった部隊になどしていません。
いい加減その言い方は止めて置いた方がいいと思いますよ。
どなたか欧州の軍隊が歩騎混合部隊と衝突した戦いがあれば教えてください。
そこでどういう展開が生じたか説明して頂ければ多いに有意義かと思います。
この際、砲兵隊のことはおいといて火器のない時代でもかまいません。
予想では会戦になれば兵科を集中した軍隊は強いが
ゲリラ戦になれば案外脆いのではないかと思います。
結局ホーム有利という話になりますが。
>>154 日本軍が僅か1年で戦争継続不能になっていたら、朝鮮半島南部を日本軍が保持した
ままの状態で、明が直接交渉に応じる訳ないじゃん。
兵站を朝鮮に負担させている明軍に、日本軍が十分対抗可能なだけの余力を持って
いたから、明は秀吉との交渉に応じたんだろ。
その証拠に、日本軍が12万もの大軍を投入した晋州城攻略は、明との講和が成立した
後におこなわれている。
交渉期間中も、日本軍は常に朝鮮半島に4万以上の軍勢を駐屯させ続けていたし。
あと、三十年戦争時代の欧州の国家と、現在の国家とを同様に考えるべきではない。
当時の諸侯は複雑に血縁関係を結んでいたし、あちこちに飛び領を持っていたりした。
日本軍が何の基盤も持たない朝鮮半島に侵攻したのとは、根本的に違うだろ。
朝鮮出兵時の日本軍みたいに、何の基盤も無い北アフリカに侵攻した欧州の軍隊なんか、
悲惨極まりない状態だったぞ。
>>158 だからそれは結局半島南部までくらいしか、
補給が効かなかったということでしょうが。
>>159 半島南部に補給が効いたことだけでも、当時の欧州の軍隊には絶対不可能なことだろ。
欧州の軍隊は北アフリカでは、海岸線から離れて進軍することなんか不可能だったし、
海岸付近の都市をたまたま攻略しても1年と保持できなかった。
>>160 ごめん。
「1年と保持できなかった」は訂正。
現地の勢力の弱い小さな都市なら、中には何年か保持できた例もあるかも知れない。
1535年にカール5世がチュニスを落してハフス朝を屈服させたり、
当時の欧州勢は北アフリカでも互角に戦っているように思うけど?
>>157 >どなたか欧州の軍隊が歩騎混合部隊と衝突した戦いがあれば教えてください。
歩騎混合部隊とは?
歩兵と騎兵を持つ軍のこと?
>>163 多分、戦術上の最小単位となる部隊の中に、
騎兵と歩兵が混在しているような編成の部隊、って事でしょう。
最近のレスでは私がそういう部隊をさして、
「歩騎混合部隊」って言い方をしているから。
>>164 なるほど、戦術上の最小単位となる部隊でという意味ですね。
そんな軍隊ほとんど存在しないでしょう。
必要に応じてそういった編成になることはありますが
それが一般的な編成である軍隊というのはほとんど聞いたことがありません。
中世ヨーロッパの「ランス」や「Compagnies d'Ordonnance 」はあくまで動員上の単位であって
戦術上の単位ではありませんから。
ヨーロッパでは古代から現代(ヨーロッパに限らず)まで中央に歩兵、両翼に騎兵という陣形が基本になってます。
こういった陣形を組む上で歩兵は歩兵、騎兵は騎兵で集中させることは必然です。
これは現代の軍隊でも同じです。
>>154 「長期間の内戦」とカッコ付きで書いたのは、ドイツ諸侯軍の兵站に関しての事。
言葉足らずでスマンね。
>>156 私としては一戦場で完全に歩兵と騎兵を分離する方が運用しにくいと思ってますが。
機動力が高い分、防御がダメな騎兵ろ防御は無敵だが機動力は無きに等しい密集歩兵
では、余りにも両者の能力に差が有りすぎます。
これらの組み合わせは滅多に上手く行く事はなかったように思いますが?
一度出したら引っ込みの付かない騎兵を投入するタイミングを逃した挙句、無用の長物と
化す。
それよりも一部隊がある程度のオールマイティな能力を持ち、攻守双方に用いれる部隊を
複数有す方が使い勝手が良いと私は思います。
>>167 騎兵と歩兵を一体にすると両者の利点が相殺されて意味の無いものになりますよ。
16世紀以降の軍は騎兵連隊、歩兵連隊というように兵科ごとに部隊を作っています。
騎兵と歩兵がごっちゃになった大隊や連隊というものは存在しないでしょう。
>>164 そう、「どなたか」っていうのは君のことを指していた。
で。
>>165の言うように
>古代から現代(ヨーロッパに限らず)まで中央に歩兵、両翼に騎兵という陣形が基本に>なってます。
ヨーロッパは基本的にそんな感じだと思う。
戦国日本やたぶん東南アジア・中国は違ったと思うけど。
けどそれって別に欧州のそういう軍隊がそうじゃない軍隊より強いからって分けじゃないと思う。
実際に戦ってみてそれが強かったからそうしてるってわけじゃなく
昔からそういう軍隊同士で戦ってるから、それが普通だからそうしてるんじゃないかな。
集中的運用が必然とか有効とか言うのは机上の空論じゃない?
備が迂回して攻撃する場合の話とか読んでてそう感じた。
兵科の集中運用の有効性を否定するわけではないけど。
>>164 そう、「どなたか」ってのは君のことを指していたw
で。
>>165 >ヨーロッパでは古代から現代(ヨーロッパに限らず)まで中央に歩兵、両翼に騎兵という陣形が基本になってます。
欧州では昔からそうなんだよね。俺の知る限りでは。
実際に集中運用をした部隊がそうでない部隊に勝ったから、強かったから集中運用をしたってわけではなくて、
欧州ではみんなが集中運用がいいと考えたからそうしてるだけで。
実際にそれが効果的だったってことが戦争で証明されたことはたぶんほとんどない。
そういう意味で集中運用がどうの、っていうのは机上の空論の臭いがする。
特に、備が迂回攻撃をした場合についての両者のレスからそう感じた。
だから実際に戦った場合どうなったかが知りたかったんだ。
探せばありそうだけどね。
モンゴル対鎌倉日本とか、ある意味そうかな。
確かに鎌倉日本は、騎兵の集中運用によってモンゴルを圧倒したからな・・・
現代の軍隊も同じ様な編成だというのは理解している。
当時のヨーロッパの軍隊の一番の問題点は、女子供連れの軍隊だったと言う事。
行軍速度を比較すれば、行軍速度の速い側が常に自分が望む戦場、自分が望む地形を簡単に得る事ができる。
(孫子の兵法で言えば「後の先」。)
戦いたくない時は戦わない、戦いたい時に戦いたい地形で戦えるというイニシアチブを常に握っている。
>>170 西欧でも中世の初期は騎士に従者がついて部隊を作っていたが、
東ローマやイスラム圏との戦いを経て兵科ごとの運用になっていますよ。
中国も春秋時代には戦車が歩兵を引き連れる編成だったが、
戦国時代には騎兵と歩兵に別れる編成になった。
洋の東西を問わずにそのような変化をしている以上、
その方が効果的だったからと見て間違いあないでしょう。
>>168 現実運用では戦闘団が良く編成されますな。
兵站に関しては、当時の日本の戦が直接的な対外干渉を全く受けずに、
100年以上も内戦状態が続くという、
かなり特殊な条件で行われていたことを念頭に置くべきでしょう。
確かに互いに密接な外交関係を持っていたとはいえ、
国外で戦うことが多かった欧州の軍隊と同列に考えるわけにはいかない。
>>174 戦闘団は戦術上の最小単位ではなく最大単位です。
単独で戦闘を行なえるための諸兵科混合部隊であって、これらが多数集まって
さらに上の部隊を構成することはまずありません。
あと、戦闘団は全体の速度を合せるために機械化しています。
徒歩の歩兵と戦車では防御にしか使えませんよ。
>>170 >欧州ではみんなが集中運用がいいと考えたからそうしてるだけで。
実際にそれが効果的だったってことが戦争で証明されたことはたぶんほとんどない。
カンネーがなぜ現代でも最も理想的な包囲撃滅戦として研究されるか考えてみればわかるのではないでしょうか?
>>176 カンネーのローマ軍は歩騎混合だった故に包囲撃滅されたんですか?
>>175 戦国時代の日本は統一された国では無かったし、欧州の国の概念も現在とはまったく異なる。
欧州の軍隊が「国外で戦うことが多かった」というレベルでなら、日本の軍隊も同様に
「国外で戦うことが多かった」だよ。
当時の欧州の軍隊には、欧州の外で機能するような兵站システムは皆無だった。
モロッコに攻め込んだポルトガル軍は、上陸してからわずか1ヶ月程度で兵站不足に陥って壊滅し、
海岸から大して離れていないフェズに到達することすらできなかった。
一方の秀吉軍は、朝鮮上陸から約1ヶ月で漢城を攻略し、その1ヶ月後には平壌も征服だろ。
>>176 戦闘団隷下でも臨編的に中隊を各として各兵科小隊〜分隊を付ける事は行われてますが?
後、機械化の機動力といいますが、密集方陣よりも高い機動力を持てばその点は充足していると思いますが?
>>178 一国内に多くの勢力が割拠する内戦と、互いに深く関係するとはいえ、
多くの国があい争う多国間戦争を同じに語ることは出来ませんって。
欧州ではまず国々で言語からして違うし。
具体的なことを言えば例えば街道。
日本では奈良・平安・鎌倉と緩やかであってもほぼ全土を支配した政権の下、
全国的な街道が整備されたが、欧州ではローマ崩壊以後、
統一的な政権が出来なかった為、国境を越えた街道整備はほとんど出来なかった。
欧州の軍隊はそういう条件で他国へ遠征し、何年も戦わなくてはならなかった。
それから、オスマン帝国にも対抗し、
ソンガイ王国を滅ぼしてサハラ以南にまで勢力を伸ばした当時のモロッコと、
まともな軍隊すらない事実上の明の属国朝鮮を同じに語るのは全くナンセンスだと思いますが?
>>179 臨編的に、とか言い出したらきりがないと思うが。
どのみち、最小単位が各兵科ごとなら、その最小単位を複数組み合わせて、
その場に応じて必要な作戦単位を作ることが可能だけど、
最小単位そのものが騎馬と歩兵の混成では、
その部隊は騎兵の機動力もなく、歩兵の防御力もない部隊になるだけ。
>>180 例えばイタリア戦争やオランダ独立戦争の際のスペイン軍についてだが、イタリア南部の
ナポリ王国はハプスブルク領だし、ネーデルランドもハプスブルク領。
自国の君主の領土で戦う軍隊を、「他国へ遠征」というのはおかしいだろ。
それと、ネーデルランドやイタリアで戦ったスペイン軍は、スペインからの兵站の供給で
支えられていたわけではない。
兵站に関してスペイン軍は、その地その地で略奪を行い、自給自足をしていた。
こんな補給システムしか持たない軍隊が、欧州の外で万単位の部隊を何年も維持すること
なんか不可能だろ。
>>182 あの、イタリア戦争は別にナポリ王国領で起こった戦いではありませんが。
むしろ北イタリアの方が主戦場では?
それにイタリア戦争ではフランス軍も戦っていますよ。
>>181 そう断言できる根拠をお聞かせ願いたい。
備形式と欧州形式が戦った事がない以上、断言できる事ではない。
>その部隊は騎兵の機動力もなく、歩兵の防御力もない部隊になるだけ。
逆に言えば、騎兵以上の火力・防御力、密集歩兵以上の機動力という事にならないかな?
因みにいうと備はどちらかというと編制ではなく編成的な存在ですので
>>184 181ではありませんが・・・
>そう断言できる根拠をお聞かせ願いたい。
備形式と欧州形式が戦った事がない以上、断言できる事ではない。
これは181の発言のどの部分の根拠について言っているのですか?
>逆に言えば、騎兵以上の火力・防御力、密集歩兵以上の機動力という事にならないかな?
なりませんね。防御に回ったとき騎兵が、攻撃に回ったときに歩兵がそれぞれ足を引っ張ることになります。
少し話がずれるかもしれませんが、第二次大戦の後半にM4中戦車に変わって新型のM26重戦車が投入されました。
その際、M26を各小隊に一両ずつ配備した第3機甲師団ではあまり成果を挙げず、
M26単独で小隊を編成した第9機甲師団では成果を挙げました。
まぁ、この例だけをもって言うのもなんですが集中投入のほうがその兵科や兵器の長所を活かせると考えられます。
ところで気になったのですが歴史上、備のような編成をとった軍隊が他に存在しますか?
知っている限りは見当たらないのですが。
>>184 相手が密集方陣のみ、或いは騎兵部隊のみなら、
騎兵以上の火力・防御力、密集歩兵以上の機動力で勝てるかもしれないが、
相手は歩兵部隊と騎兵部隊を組み合わせ、互いにその長所を活かすように編成されている。
上でも少し話が出たように、
例えば密集方陣に対しては正面から戦っては全くかなわないので迂回しなければならないが、
迂回をする為には機動力が必要、しかしその機動力では騎兵部隊に及ばない。
>>185 聞いた事はない。というより、西洋以外の部隊編制研究はあまりなされていないか、していても殆ど知られていない。
>>186 問題は数千規模で分かれた各兵科部隊を有機的に運用できるかで、大抵の場合は投入のタイミングが難しい上
金のかかる騎兵を意味のない時期に投入して大損害か勝敗の決した時点で投入する事になっています。
備の規模が数百なのはそれが一人の将が自在に進退できる最大の数である為で、そのなかで汎用性が高く各兵科
部隊が有機的な行動をとれる部隊配置を行う事は合理的なのでは?
>>187 ああ、中国は文物が豊富だから多少は解る。
日本は戦士階級が存続したまま近世軍隊(火砲の充実・兵科の成立、部隊編成化)
へ脱皮した存在だから似たような例を探せばよいかと
>>187 16世紀から17世紀の欧州の騎兵連隊は、大体500から1000くらいで組織され、
一人の指揮官で十分に指揮出来る規模です。
当然複数の連隊があり、数千規模の騎兵部隊を一気に投入しなければならないわけでもありません。
つまり投入のタイミングに関しては特に優劣はなく、そして機動力に関しては騎馬のみの方が上。
ちなみに、迂回云々について備の側が迂回を試みる場合のみ検討していましたが、
騎兵のみの部隊も当然迂回を試みます。
確かに銃兵と槍兵を組み合わせた陣形なら、正面からの騎兵の攻撃を支えることは出来るでしょうが、
側面に迂回されては無力ですし、機動力に劣るがゆえに迂回されることを回避するのも非常に難しい。
仮に備の中の騎兵のみで迎撃しようとしても僅か数十騎では数百の騎兵を抑えることは出来ません。
数百の敵騎兵部隊の迂回を阻止したかったなら、
こちらも同様に数百規模の騎兵のみの部隊を運用するしかない。
それから、騎兵がいるのに歩兵と一緒に行動させてその機動力を殺してしまうのは、
有機的な運用ではありません。それは有機的な運用が出来ない部隊配置というものです。
>>189 備も複数ある事をお忘れなく。
また側面迂回する騎兵隊が備に対し更に側面迂回となると時間の浪費は確実ですし
その間に別の備が展開し更に迂回・・・などという展開すら想定されます。
そうなると迂回を続ける騎兵隊とそれに対抗し後続の備を展開させ、また迂回された備
がどう動くかも興味深いです。
更に欧州の会戦では先ず騎兵は側面にいる騎兵と交戦した後にそれを打ち破った後に
歩兵戦列の側面を突いていますから、この辺の騎兵の機動力と備の機動力の差はもう
少し慎重に考える必要があるかと。
>>190 タイミングに特に優劣がないことはご理解いただけたと思いますが、
そうであるなら、問題が迂回という機動力が重要な行動である以上、
その点で劣る備は基本的に不利、それに連隊は100名くらいの中隊複数で編成されていますので、
さらに柔軟な運用も可能です。
そしてより問題なのは、側面でそのような攻防が行われている間に、
相手の密集方陣も前進してくること。
それから「側面迂回する騎兵隊が備に対し更に側面迂回」って何のことを言っているんです?
>>191 なぜそれで、もう少し慎重に考える必要が生じるのですか?
騎馬隊の機動力に対抗できる相手方の騎馬隊が存在しないのだから、
話は単純になるだけです。
騎兵投入のタイミングなんていうのは指揮官の能力に拠る部分ですので
騎兵を集団で運用するというシステムの部分とはあまり関係無いですよね
備支持の方(おそらく同一の方だとは思いますが)はなぜ騎兵+歩兵の備システムのほうが
優れているのかを述べていただけませんか?
私は騎兵の長所は戦術面での機動力と敵陣の突破力であると思うので
騎兵に歩兵をつけたところでその長所が強化されることは無いと思います
>>192 その密集方陣が前進するまでの間までにどの位の時間が掛かるかが問題です。
戦術的機動戦を行うからにはかなりの戦力を翼に投入する事ですから数的には上になるでしょうし・・・
その場合、防御力のない騎兵のみで対抗できるかと
>それから「側面迂回する騎兵隊が備に対し更に側面迂回」って何のことを言っているんです?
翼面に迂回する騎兵隊が翼の備に当たった際にそれを迂回、その迂回までの間に後続の備が展開し
それを迂回するために更に迂回・・・という流れ
>騎馬隊の機動力に対抗できる相手方の騎馬隊が存在しないのだから、
>話は単純になるだけです。
備の防御力・火力に対抗できない騎馬隊が存在しないというのもそうではありませんか?
まぁ、逃げるのでしたら宜しいでしょうが
>>193 騎馬と歩兵が別の指揮官に率いられている事に起因する意思疎通の問題。
一人の指揮官に様々な兵科があれば、咄嗟の判断での投入時に迅速に対応できる。
騎兵投入は指揮官の判断に頼る比重が大きすぎる。
騎兵がどんなにスピードがあっても、それだけでは側面迂回なんかできないよ。
相手に向きを変える時間もあたえず、側面に回りこむことなんか不可能。
騎兵が側面迂回を成功させるためには、味方の歩兵が敵を拘束していることが絶対条件。
でも、テルシオでは動きが鈍すぎて戦国の軍隊を拘束することなんかできないから、
結局は騎兵も側面迂回なんかできないだろうな。
>>194 >翼面に迂回する騎兵隊が翼の備に当たった際にそれを迂回、その迂回までの間に後続の備が展開し
>それを迂回するために更に迂回・・・という流れ
そのような互いに機動力が必要な行為を行うからこそ、
より機動力が優れた騎兵部隊のほうが有利になるのです。
そして、備の火力・守備力といっても側面に回りこまれてしまえばお終い。
それから、最小単位の中の複数の兵科を一人の指揮官が率いるのは、
指揮が煩雑になるだけ、槍兵には槍兵、銃兵には銃兵、騎兵には騎兵の最適なタイミングがあり、
その全てを一人の指揮官が指揮するのでは咄嗟の判断なぞしにくくなるだけです。
>>195 数百人の部隊が向きを変えるのはそれほど簡単ではないと思いますが。
>>197 騎兵が機動力だけで敵の側面に回りこむなんてことが可能なのなら、それこそ騎兵は
戦場では絶対無敵な存在ということになってしまう。
でも実際の戦史ではそんなことはないし。
槍兵だけで構成されたスイス軍と対した時も騎兵は側面迂回なんかできなかったし、
機動力なんか皆無のボヘミアの戦車隊と戦ったときも無理だった。
現実に側面迂回を成功させるには、数多くの条件を充たしている必要があるんだよ。
>>198 それは多くの場合相手側にも、
騎兵部隊がいて同様の機動力で迂回を阻止しようとするからです。
それから、スイスのパイク兵との戦いも、戦車隊との戦いも、
いずれも騎兵の正面突撃が最強と信じられていた時代の話。
そのような戦法を取る相手との戦いを経て、真正面からの突撃を放棄して、
より機動力を重視する側面迂回という戦法取るようになったのが16世紀くらいの欧州騎兵。
歴史上の順番を無視して語られては困ります。
騎兵の側面迂回なんか大昔からある普通の戦法。
スイス軍に対してだってラウペンの戦いとかでは試みてる。
でも、それだけでは勝てなかった。
騎兵が側面迂回を成功させるためには、敵を拘束する必要があるなんてことは、
紀元前からの鉄則だろ。
結構忘れられていますが密集方陣の強みは側面や背後に対しても防御力をもつことですよ。
なぜ、19世紀になっても騎兵には密集方陣で対抗したか考えてみてください。
三兵戦術は騎兵、歩兵、砲兵で構成されますが(これはそれぞれ時代に合せて置き換えてみてください)
それぞれの特徴を最大限に生かすことが大事です。これらを生かすにはある程度それぞれが独立していなければなりません。
>>195 上三行は同意なのですが下三行はおかしいと思います。
テルシオにしろ何にしろ前進する歩兵隊にたいしてどういう対応を想定しているのですか?
下手にちょこまか動くと騎兵に襲われますよ。
移動中の部隊ほど騎兵に脆いものはありませんから。
>>200 そりゃあ、騎兵は翼側に置くなんて古代には普通でしたが、
中世では正面からの突撃が普通でしょう。
ラウペンの戦いも確かにスイス軍が包囲されかかったのは事実ですが、
16世紀の場合のように、予め騎兵隊が翼側に置かれ最初から迂回が狙われていた、
わけではないのでは?
それから忘れてもらっては困るのですが、
備の側はただ騎兵が来るのを待ち受けていればよいわけではありません。
敵方陣が迫る前に、自分たちの方が迂回を達成しなければ、
結局密集方陣に押しつぶされるだけ。
一方の軍にだけは、随分と都合の良い展開だねぇ。
欧州厨ボコボコだなww
>>205 煽りはいいので具体的な反論をお願いします。
207 :
170:2006/12/18(月) 00:12:05 ID:brFz5F3l
>>206 具体的って、なあ・・・・。
机上の空論なんだよ。どっちも。
お前らの頭の中で戦わせてるだけじゃん。
その前に具体的な戦いを挙げてくれよ。
軍隊経験も無く、戦争経験も無い人間が用兵とか戦術についてコマゴマと語ってもイタイだけだからな。
>>207 当時の日本のような編成の軍はほとんど見受けられないから、
具体的な戦例を出すのは難しいでしょう。
だから理屈で、机上の理論で考えることにってしまうわけだが、
だとしても、機動力で劣る備が、
迂回を試みるにしろ、相手のそれを阻もうとするにしろ、
不利だというのはかなり明白だと思いますが。
日本と欧州じゃ地形が違うよーな
>>210 機動力
騎兵>備>密集方陣
火力・守備力
密集方陣>備>騎兵
上記の関係にある備が
軽戦車、中戦車、重戦車の中戦車という他者よりも優位な存在なのか
戦闘機、双発戦闘機、爆撃機の双発戦闘機という中途半端な存在なのかという問題化と
戦略面のマイナスを戦術面のプラスで補えるのは、偶然や幸運があっても一度か二度だけ。
戦略的な機動力は日本側が遥かに上。
これを凌ぐのは、革命フランス軍の登場以降。
そもそも、布陣に何時間もかかるようなテルシオなどは最初から戦力外と言うべき。
それとも、日本の指揮官には宋の襄公しかいないとでも?
(逆に言えば、あの程度の密集陣の構築に何時間もかかるような頭の悪すぎる練度の低いノロマの集団。)
まあこんな事を言っても、自説に不利な部分は相変わらず完全スルーするんだろうけどね。
>>212 戦略機動でヨーロッパの方が上というレスはどこにありましたか?
>>196 備は一列に並んではおらず何段かに組まれています。
それらが相互に連携するのであっさり側面には迂回できなません
鉄砲組・槍組・騎馬隊にはそれぞれ組頭などの指揮官がいます。
それを統括するのが備の侍大将な訳で
敵と接触時に大体一列に並んでいればよいというのが備の厳密な操典
を持たないが故の利点でしょう
陣形的に言えばただ兵科ごとに並んでるだけですから
>>212 戦略的な機動については、
朝鮮出兵を唯一の例外として、全て国内戦しかない戦国時代の日本の例を、
そのまま国家間戦争に持ち込むのは問題だろうと既に述べております。
>>214 それがどうしてあっさり迂回できない理由になるんです?
仮に
>>195のように向きを変えて側面攻撃を防ぐなら、
むしろ一塊になっていたほうが有利なのですが。
>>215 先備を迂回しようとする騎兵に脇備が展開する。
>>215 なるほど、欧州の軍隊の戦略的機動力が何故に低かったのか理解できないと言うわけですね。
>>216 いや、普通迂回を試みるなら最初から脇備を迂回しようとするでしょう。
>>217 戦略的機動に何より重要なのは兵站と補給、
日本国内では見事だった当時の日本の軍隊のそれが、
朝鮮半島では著しく制限されてしまった事実に注目するべきでしょう。
>>218 朝鮮半島でも3週間で漢城まで進軍してるんだから、戦国日本の兵站と補給は、
かなり効果的に機能したというべきだと思う。
釜山→ソウル間、約450qを三週間か・・・。
バルバロッサ作戦開始後一ヶ月でドイツ軍が進軍したのは約350qだから、それを上回るな。
・・・まあ、面積とか軍の規模とかは比較にもならんが、時代が300年以上違うんだからそれは仕方ないか。
>>218 いや、先鋒にいくつかある備を幾つか纏めたもの(一手と仮称)の最翼部にいる一手を
の前備を迂回しようとして脇備に妨害されるとか
>>219 ところが兵站が続かず、ずるずると後退したでしょう。
自軍の兵站能力を超えて無理な進軍をし、戦線を維持できなくなるようでは、
まるで話しにならない。
>>221 よく分からないが、その妨害しようとする脇備は、
当初はどこに配置されているのを想定しているので?
>>222 普通に戦線を維持して明との講和に持ち込んでるじゃん
>>223 朝鮮半島の最南部でね、つまり、そのあたりが兵站の限界だったということ。
平壌から南下する明軍に対し、漢城から北進して大勝した挙句に講和。
しっかりと兵站が機能してるだろ。
>>225 全く逆、戦に勝ったにもかかわらず漢城を放棄しているでしょう、
それこそ正に兵站が行き詰っていた証拠。
そうでないなら、なぜ勝ったのに撤退しなければならないの?
>>226 講和が成立したから推移を見守るために朝鮮駐屯軍に規模を減らしたんだろ。
兵站が行き詰っていたら、明に対して朝鮮半島南半分の支配を認めるように要求するわけないじゃん。
>>227 漢城放棄の前に講和なんて成立していません。
そして、半島南部の支配しか条件に掲げなかったことこそ、
そのあたりまでしか兵站が続かないという現実を認識した証拠でしょう。
>>228 朝鮮半島の南半分って広大な土地だよ。
対馬海峡越しに兵站線を維持して、兵糧を朝鮮に負担させている明軍と戦い、
それだけの面積を実効支配下に収めたまま講和に持ち込んだんだから、日本の
兵站能力は当時の世界ではトップだろ。
>>226 漢城が譲ったのが他の政治的配慮からではなく
兵站が理由だったと言えるわけを説明してください。
>>229 広大な領域って、
あの、当時日本軍が確保していたのはほとんど海岸線沿いのみですよ。
せっかく苦労して攻略した、慶尚南道南部の海岸から僅か20km程度の晋州すら、
放棄している。
>>230 理由も何も、漢城が食糧不足だったのは事実な分けで。
というか、他にどんな政治的配慮がありえると思っているのです?
当時の日本の兵站の限界について語っても、それが当時のヨーロッパの軍隊の優位性を示す証拠にはなりませんよ。
むしろ、実態を知っていたならば、その逆の考えしか浮かばない。
>>231 申し訳ない。不勉強なことに私はその事実を知りません。
できればその事実を示す資料をお教えください。
明が日本側に講和使を送ったのは1593年4月8日。
日本軍の漢城撤退はそれを受けての4月18日。
明との講和交渉では、日本側は日明交易の再開を要求すると共に、日本側の譲歩する点として
漢城を含む朝鮮半島北半分の返還を提示だろ。
日本軍の漢城撤退なんて政治的配慮以外の何ものでも無いじゃん。
漢城撤退の理由が食糧不足なんて、どこから出てきた話だ?
>>232 日本国内でならね、ところがひとたび国外へ出るや、
まともに戦えたのは1年程度、その後は海岸線沿いにへばりついていだけ。
これでは到底当時のヨーロッパに優越していたとはいえません。
>>233-234 漢城の諸将が連署して秀吉に送った3月3日付けの書状で、食糧不足を訴えているでしょうが。
だいたい和平交渉の途中で、相手がその条件を飲むかどうかも分からないのに、
こちらだけ一方的に兵を引くのはあまりにも弱腰だし、
仮にそうだったとしても、領有を主張している南部4道すら放棄して海岸線まで引いた理由は?
さらにいうなら、もし兵站も大丈夫だったなら、
そもそもなぜその段階で和平交渉に応じる必要があったのか。
>>235 南部4道は放棄していない。
晋州城の朝鮮軍を壊滅させ、南部4道をほぼ制圧したという実績を作ったから、
それに満足して交渉期間中の駐屯軍の規模を縮小したんだろ。
日本があの段階で講和に応じたのは、明を交渉に引きずり込むことが成功したので、
朝鮮半島北部と引き換えに日明交易を復活させるため。
>>236 放棄していなかったなら、
なぜ日本軍は慶長の役でその4道に対して攻撃を仕掛けているの。
>>236 それから当初は明征服を掲げていたのに、
日明貿易復活で手を打つとは随分戦争目標を縮小したものですが、
戦が予定通りに進んでいたなら、そこまで縮小する必要はないでしょう。
大体、当時のヨーロッパには1年間、海岸線沿いにへばりつくことすら出来なかっただろ。
1573年10月9日、スペイン国王の弟ドン・フアンはイタリア兵1万3千、スペイン兵9千、ドイツ兵5千を率いてチュニスへ侵攻。
1573年10月11日、住民が逃げ去った後で老人しか残されていなかったチュニスの征服に成功。
この後、スペインがチュニスに駐屯させることが可能だった守備兵力はイタリア兵4千、スペイン兵4千の計8千。
1574年7月11日、シナン・パシャ率いるトルコ軍4万がチュニスに到着。
1574年9月13日、チュニス駐屯スペイン軍が降伏。
あきらかに全ての面で朝鮮出兵時の日本軍の方が、同時期のヨーロッパより優越しているじゃん。
>>239 チュニスはね。
しかしトリポリは1510年にスペインが占拠してから1551年に奪回されるまで西欧側が確保していたし、
アルジェにも1529年まで10年以上に渡って要塞を確保していた。
>>240 そんなの単に現地にまともな軍事力を持った勢力が存在しなかったから。
アルジェに駐屯していたスペイン軍は僅か200だし、トリポリの場合だってマルタ騎士30と傭兵630に過ぎない。
当時のヨーロッパが北アフリカで複数年に渡って維持可能な兵力なんてその程度。
ハイルッディンの攻撃を受けたアルジェのペニョン城は、16日間の砲撃の後に陸兵1500の突撃により陥落。
一方のトリポリは、ドラグト率いるトルコ軍6000の包囲によって陥落。
秀吉軍が朝鮮半島で戦った明軍とは規模が違いすぎるだろ。
桁が二つも三つも違うんだな
>>221 先鋒一手、前備後方、本陣備の側面
wikiの備を参照するなら、図3の旗本部隊の右備・左備が該当するかな?
>>241 そりゃあ、もともと当時の欧州は兵の動員自体、
同時期の日本より圧倒的に少ないうえに、本国で互いに争いつつ、
海を越えてイスラムとも向き合ってたのだから、
派兵兵力が少なくなるのは当然でしょう。
兵力的には日本のほうが非常に有利だというのはまぎれもない事実だし、
そのことを否定するつもりはありませんよ。
データ的には、当時の日本の人口はフランスやドイツと大差無い。
大き目のものを採っても、その約1,5倍程度。
だが、ドイツ+フランス(の人口)を超える事は無い。
しかし、動員可能な兵力は、その二国の合計を遥かに超える。
当時は「国家の軍隊」など存在しない。
「貴族の私兵」や「大名の私兵」(明では「軍閥の私兵」)しか無かった。
ある意味、システム的には似通った点が多かったが、日本だけが(人口との比率的には)より多くの兵員を動員する事ができた理由。
それこそが大きな問題点かも知れない。
>>245 戦国時代の日本の人口は約1200万人、
同時期のスペインは面積は1.5倍ほどにもなるのに人口は600万人程度。
フランスとドイツの人口も大して変わらなかったと思ったが?
つーか、あの李氏朝鮮ですら当時の人口が600〜700万人とか言ってるんだから、それ以下って事は無いようなw
(ちなみに韓国では1000万人になっているらしいが。)
もっとも、イングランドみたいに北過ぎて食い物がロクにとれないところは仕方ないかも知れんが。
>>248 その朝鮮の人口ってのも当てにならないのよ、
多いほうも少ないほうもどっちもね。
やっぱ、人口についての話は不毛なのか。
251 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 22:47:33 ID:hLJI2swy
じゃ、「軍事史学」に載っていた。近世の日本と欧州の兵站。
馬車を用いない分、積載能力は欧州が上だが人の消費量は食物は双方とも一日1kg程度だが、
欧州はそれに加え、同量のワインか倍量のビールを必要とする(日本の場合は兵が支給された
米で勝手に酒を作る)。その為、筆者は兵站能力はほぼ同じとしている。
ただ個人としては馬車を用いない分、不整地踏破能力は日本の方が上だし、調理器具も欧州では
麦を石臼で粉にし、かまどで焼くという皇帝を必要とする分、日本が上であろう。更に、大砲を用い
ない点も換算すると戦略機動力においても日本の方が上かと
但し、継戦能力には大きな差はない
欧州厨は逃げたかww
>>252 戦術面でも兵站面でも答えられていないのは、
日本最強さんのほうだが?
>>253 古代ギリシャの模倣から始まったというその時点で既に時代遅れという気が
>>251 三十年戦争時のヴァレンシュタインの軍隊の場合、軍勢約60000の中兵士は約15000程度。
残りの45000の大半が兵士の女房と子供達。
こういった現実を計算に入れていないのではないかと思われ。
16〜17世紀当時の欧州軍隊の兵站は、脅迫による供出と略奪による現地調達
以外に何かあったっけ?
あっても一般的な例では無く、一部の例外だよな。
>>256 それは敵地に入ってからであって、その点は日本もそれ程変わらないというのが「軍事史学」の記事の内容。
理由としては長大な兵站線を特に陸路において維持するには、例えば釜山〜漢城を陸路補給するためには
前線の兵に対し人夫のみでその約1.3倍の人員を必要とするとか・・・
現に小田原の陣においても北条領内の住民は乱暴狼藉の禁制を手に入れる為に豊臣軍に対し、食糧を供出
していた。これは「脅迫による供出と略奪による現地調達」の中間に位置するものではないかと
それが無ければ豊臣軍が軍を維持できなかったとでも?
>>258 うん、小田原の陣の特に内陸部は上記の他にも城を攻略してその備蓄米を接収していた様だし
朝鮮の役でも前者は上手くいかなかったから、後者の備蓄米がなくなると釜山から補給可能な
南部に日本軍は撤退してますわな
兵站が問題なのは、それが部隊の進軍速度を決定する要素だからだろ。
敵国の奥深くに侵攻した部隊を何年間も支えることが可能な兵站線なんか、当時の如何なる国も保有していないよ。
>>260 そーね、行軍速度に差はあるが継戦能力には大きな差はない
>>258 だからそこ、朝鮮では1年あまりで戦えなくなってしまったんじゃあないか。
>>260 もちろんそうでしょう、だから国外で何年も戦わなければならなかった、
当時の欧州の軍隊は略奪等に頼らざるを得なかった。
ドイツの軍隊はドイツ国内で補給もままならず略奪しまくりだったわけだがw
これを当時の国家の枠組みで「国内」じゃなくて「国外」だというのなら、日本のそれも「国外」の戦争が大半だったわけだが。
>>263 当時のドイツというより神聖ローマ帝国は当時の日本みたいなもんだから皇帝といえども直轄領と
同盟諸侯領以外は敵地ですわ
>>263 国外で戦うことが頻繁だったから、
国内戦に限定すれば維持可能な兵站線の構築も、
おろそかになっていたって事でしょう。
>>264 宗教上の対立、それも一切の異端を認めない一神教上の宗派対立が絡むから、
分裂の度合いははるかに高いけどね。
日本の場合、食糧の配給は半分が現物でもう半分が金銭での支給との事。
で、その半分を目当てに方々から商人が来て売り買いを行ったというから
後方からの輸送も商人がかなりかんでいるのではないかと
>>262 アルマダの海戦でスペインが用意できた兵站は半年分が精一杯だったけどな。
>>266 商人が軍隊の略奪品の買取とか後方輸送なんかに絡んでいるのはどこの国でも同じ。
人が集まる場所には商売のチャンスがあるからね。
もっとも、儲かったのは極少数になるんだろうけれど。
>>268 ただ、日本の大名と契約している商人が西欧の傭兵団における酒保商人の如く
補給の総てを仕切っていたとは考えられないんですよね。
少なくとも戦術レベルの補給は侍自身が行っていたのは確かなようですし
くっつくではなく後方地域の輸送を大名との関係が深い大商人。
前線で売り買いするのは地元の中小商人という具合に棲み分けでもしてるのかな?
小田原城の対陣じゃ、京からも商人が来たというけどこれは既に後方地域みたいな
もんですし・・・
>>267 それが多いか少ないかは戦略目的を確認しないとなんともいえないね。
兵糧を準備できる体制でも、それを前線まで行き届かせる様な大規模な補給部隊は
特にそれが内陸である限り、つい最近に至るまで存在し得ない
やれるとしたら生産設備すら追従させないと、モンゴルみたいに
272 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/06(土) 17:58:50 ID:ikAWBkZe
西洋の学者も7世紀から15世紀まではアジアに遅れてることを認めてる
俺が読んだのは、「〜18世紀まで」だったが
>>272-273 ところでその劣っていたと思っているであろう対象のオスマン朝あたりは議論の対象にしないのか?
>>274 正味良く解らんが常備軍を有し、鉄砲を早期より大量に用いてた点以外は同時代の欧州
と余り変わらんようだね
>>三十年戦争時のヴァレンシュタインの軍隊の場合、軍勢約60000の中兵士は約15000程度。
残りの45000の大半が兵士の女房と子供達。
こういった現実を計算に入れていないのではないかと思われ。
これのソースは何?
277 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 22:50:14 ID:J8Menbz+
>>276 「傭兵の二千年史」p101、102より
「(前略)〜輜重隊は酒保商人とその配下、女子供、旅芸人らの非戦闘員でむせ返っていた。
その数はべらぼうに多く、ランクツヒルネ一連隊六千人とすると、ほぼその同数の民間人が連隊の後をぞろぞろくっついていくのである。
(中略)もちろんこうした輜重隊〜十七世紀の三十年戦争の時には軍本体の一倍半にもなったのである。(後略)」
>>274 俺が読んだのは、「西洋の学者もアジアに遅れてることを認めてる」対象は、日本や中国といった東アジアだったが
280 :
コピペ:2007/01/09(火) 21:31:07 ID:63Y0gtSm
サファヴィー朝
16世紀末までサファヴィー朝の兵力の大部分はキジルバシとよばれる遊牧トゥルクメンの部族兵であり、トルコ式の合成弓や
騎槍、刀剣等で武装して、おそらくモンゴル帝国の時代とほとんど変わらない騎兵戦術で戦った。
アッバース大帝の国政改革以前、国土はシャー(大王)の直轄領のほかに50余州に分かれ、キジルバシの部族長たちが
各地のヴァキール(総督)として半独立的に統治し、500〜3,000の兵力を保持して有事に従軍する義務を負った。
シャーは直属の戦力として、キジルバシから選抜された親衛隊であるコルチ(箭筒士)を有していた。シャー・イスマーイールの
治世にはコルチの兵力は1,000〜3,000名で、キジルバシと合わせても野戦に動員できるのは2万人ほどであった。16世紀
半ばにコルチは5千名まで増員されていたが、王朝全体の兵力はたいして増加していなかったようだ。
戦闘隊形は右翼・左翼・中軍に分かれる伝統的なもので、通常はシャーの軍勢が中軍となり、両翼にキジルバシが配置された。
サファヴィー朝軍の圧倒的多数は中央アジアの伝統的な騎射兵であったが、シャー・イスマーイールの父・ハイダルの代から
すでに火器の使用された記録がある。イスマーイールは攻城戦にマスケット銃や大砲を使用しており、シャー・タフマースプは
1528年のウズベク族との会戦で、荷車を連ねた防御陣地の背後からカルヴァリン砲や旋回砲を発射している。火器の入手源は
ヴェネチア、ポルトガル、ロシアなどであった。またチャルディランの戦いの翌年に、オスマン・トルコの脱走兵の技術を利用して
2千挺の小銃を生産したこともある。
281 :
コピペ:2007/01/09(火) 21:32:18 ID:63Y0gtSm
サファヴィー朝は西のオスマン帝国、東の遊牧ウズベク族から攻撃を受けており、16世紀中はほとんど常に守勢に回っていた。
チャルディランの会戦で大敗北を喫してから、サファヴィー朝軍はオスマン・トルコの侵攻に焦土戦術で対抗するようになり、
ゲリラ的に輜重隊を襲うほかは戦わずにトルコ軍を消耗させた。東部ではウズベクの野戦軍と互角に戦っている。
16世紀末にアッバース大帝が即位すると、シャーの私兵的集団であったチェルケス人やグルジア人の「ゴラーム」が台頭し、
またイラン系定住民の兵士からなるトフェングチ(銃兵隊)とトプチ(砲兵隊)が設立された。Kenneth Chaseによると、当初
ゴラームは騎兵で銃兵隊は歩卒だったが、のちにゴラームも小銃を装備するようになり、銃兵隊に馬が支給されるに及んで
両者とも竜騎兵のような存在になったという。
17世紀初頭には10,000〜15,000のゴラーム、12,000の銃兵隊、12,000の砲兵隊が最大で4万近くの常備軍を形成し、
その他に10,000〜20,000のキジルバシと補助兵が召集可能だった。
ペルシャ語は詳しくないので表記が間違ってるかも
軍隊と言うよりはキャラバン。
キャラバンと言うよりは武装難民集団・・・か。
284 :
276 :2007/01/10(水) 02:05:42 ID:wxDBjErW
いや、多数の非戦闘員を含んでいたソースことではなく
ヴァレンシュタイン軍の6万のうち1万5千が戦闘員でそれ以外の4万5千が
非戦闘員だったという事に関してのソース。
この数字がどこから出てきたのか気になった。
285 :
276 :2007/01/10(水) 02:06:21 ID:wxDBjErW
訂正
ソースこと→ソースのこと
ド素人なんだが質問いいかな?
アレならするーしてくれ
15〜16世紀当初、軍事力で最強と呼ばれていたのはどの国になるの?
やっぱりオスマントルコ?
世界史の知識はほぼ皆無だが昔、三戦板の武田対イェニチェリスレで
やけに押されていたので気になってたのだが
空気よまんですまんね
287 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 11:20:28 ID:dUv9j4Gq
書き込んだのは俺ではないが、三十年戦争で誰もが三万より多くの兵を戦場に投入した事がないからでは?
>>286 明だろ。
中国の経済力や人口の多さは圧倒的。
オスマン帝国ですら比較にならない。
289 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 20:19:32 ID:KLZNkDW1
>>288 あまり詳しくないが、明代の中国の人口は数千万程度で、人口減少期だった
と読んだことがある。
同時期の日本の人口の倍程度じゃなかったかと思うが。
(飛躍的に増えたのは、清代に入ってから。)
290 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 22:38:46 ID:NWkoGM7a
巨大さでは明帝国に及ばないが、軍事技術ではオスマン帝国ではない
だろうか?コンスタンチノープル攻略時点で巨大砲を持っていたり、
指揮者の手足の如く動く軍隊であったりと、技術の高さは並みじゃな
い。
しかし、この時代(16世紀後半)は、イェニチェリの腐敗もはじまり、軍事
的にも(上でボロクソに書かれている)ヨーロッパ諸国の軍隊にさえ何度か
大ボケかましていたような・・・
もっとも、17世紀後半には失敗はしたけれども、ウィーン攻囲戦を行う等、
大国らしい軍事力は十分にあったはず
ちなみに、19世紀前半まで、ヨーロッパ諸国の国際通貨はオスマン朝のター
リーが使用されていた
292 :
290:2007/01/10(水) 23:48:02 ID:NWkoGM7a
>>291 あ、そうか…そうすると最強はやっぱり明帝国か。何せ数が多いし、火力も
強いし。団結さえ固まってれば負けないだろう。
話は変わるが、鄭和艦隊の規模と運用能力(同時代の他国を遥かに凌ぐ)を
見るに、明が海軍でも最大最強になる契機はあったと思われる。スペイン程
度の地力で無敵艦隊が造れる訳だし。
オスマン帝国では16世紀半ばのバヤジット皇子の反乱以来
民間に銃器が流出してその辺の野盗や農民まで鉄砲で武装していたらしい。
火縄銃一挺が「牛一頭の半分の値段」で買えたそうだ。
で、そうして銃の扱いに慣れた連中を「セクバン」や「レヴェンド」
と呼ばれる不正規兵として雇うようになった。
日本や西欧だけでなくトルコでもそうした雑兵的な連中が
出てくるというのが面白い。
実際火縄銃ってのはイェニチェリのようなエリート部隊でないと
使いこなせないというものでもないし。
オスマン帝国の最盛期っていわゆる日本の戦国期とほとんどかぶるでしょ
トルコがダントツとしか思えないんだけど。明とか傾きだして久しい時期じゃん
>>292 ジャンクの戦闘力は結構高いよ。
正規軍ではなく一地方の武装勢力に過ぎない鄭成功の海軍力でも、オランダの
東インド会社に勝利できたんだから。
現実にアヘン戦争までは東アジアの海を支配するのはジャンクだった。
296 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 18:33:27 ID:81sCq9Au
まあ普通に考えれば、西の横綱がオスマン帝国、東の横綱が明ってことだろうかね。
ただし、圧倒的に強いかと言うとそうでもなく、引退が近いんじゃないかって感じ。
>>926 まとめありがと
他の人もド素人の質問に丁寧にどうも
読み応えありました
ところでその両横綱どうしはぶつかったりはなかったの?
298 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 20:31:47 ID:kb1BXC49
>>289 ttp://ww1.m78.com/discussion/chinese%20population.html 明の永楽帝(在位1402〜1424)の時の人口は六千六百万人、
同時期、足利義満の時代の日本の人口は千五百万人
16世紀頃から内乱と外敵によって人口が減少しはじめ、
順治帝(在位1643〜61)の頃には二千百万人
同時期(江戸初期)の日本の人口は二千七百万人で、中国より多い
その後、領土拡大と水田技術の普及により
康熙帝 (在位1661〜1722) 二千四百万人
乾隆帝 (在位1735〜1795) 一億七千七百万人
道光帝 (在位1820〜1850) 四億千三百万人
・・・と、爆発的に増えていく。
してみると、秀吉の明国征服というのもあながち荒唐無稽でもなかったのかもね。
>>298 それあくまで統計上の事なのでホントにそんだけ減った訳ではない。
殆どは流民化したという意味
300 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 20:52:42 ID:kb1BXC49
>>299 流民化した分は国力に入らないから、ここでの国力議論にはさしつかえなし
そもそも秀吉の明征服が荒唐無稽とか言ってるのは家康厨と朝鮮人だけだろ
普通に荒唐無稽だけどな
文禄慶長役調べれば調べる程そう思う
当時、異文化圏への侵攻占拠が如何に難しかったかがね
しかも明や朝鮮の日本への認識・認知からして無謀だったと言わざるを得ない
303 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 21:23:25 ID:M2XggWLw
秀吉の気持ちも分からんでもない
日本を手中におさめ、なおかつ強大な軍事力を抱えてたわけで
それを利用して次は他国を攻めたいのは当たり前じゃない?
国土を広げたいと思いたくなるだろう
>>303 国内戦の延長としか考えてない点がどうも・・・
>>304 延長として考えていないってのも、短所でもあり長所でもあるんだよねえ。
避難民の定住や保護などを秀吉は命じてるし、実際、戻ってきてる。
ありえないかもしれんが、国力の疲弊を嫌がった明が朝鮮を切り捨て、
南四道の割譲を認めていたら、案外、うまくおさまったかもしれん。
>>305 南岸に張り付いてる状態でそれを求めるのは虫が良すぎるかと
あのさ、明が朝鮮を切り捨てる云々の前に、明は日本を辺境の異民族程度の認識しかなく、
秀吉は対等、もしくは自分の方が上と言う認識、そんな外交折衝が上手くまとまる訳がない。
しかも日本側は小西・宗等が改竄した外交文書と明側の特使に直接伝えたのとは、
内容が天と地程違ってるし(役前に行なわれた対朝鮮外交も同様)、
外交に関して信用度が全くなく、結果、明・朝鮮側から蛮族扱い
外交なんて無理
秀吉なんて朝鮮は琉球と同じで宗氏が(琉球は島津)支配してたと思ってたんだし
だから、ありえない話として、
朝鮮が領土割譲した場合、案外、その国内戦の延長の認識が戦後統治をうまく
はかどらせたかも、と書いただけで。
明が南四道を割譲する可能性を論じたわけではないよ。
朝鮮統治に失敗してたんだが?
有り得ない、可能性0の話をする意味がわからん
>>307 現場が外交文書を改竄したという点では明側も同様なんだが・・・
>>310 徐一貫に代表される「明の使節」の事なら、あれは宋応昌が明勅使に仕立てあげたので違う
実際彼らは何の権限も役職もない、加藤清正が小西行長らへの対抗意識の為、
朝鮮から「勅使」として連れ帰ってるだけ
南禅旧記でも読めばいい、文禄役後の名護屋における日明交渉が詳細に書かれてるから
歴史的に見れば、日本と支那の戦争は「共倒れ」という結末が多い。
朝鮮征伐で日本軍の補給が難航した原因の一つとして
朝鮮の道路事情の劣悪さをあげることができるね。
どれくらい劣悪かというと遠距離の輸送業務では
牛馬車の運用すら支障をきたすほど劣悪で経済担当者からは
国の発展の為には道路を整備するべきだという意見が度々出るほど。
しかし道路を整備すれば有事の時に敵の移動を助けることになるから
整備しなくていいという国防担当者の反対におされてそのまま放置という
結果に。
だから朝鮮では大規模な物資輸送は沿岸の海運に頼っていた。
事実、日本軍は劣悪な道路の為に補給に苦労することになる。
しかし反撃の為に各地から召集された朝鮮軍や救援に来た明軍も
日本軍以上に移動に苦労したりしてるから必ずしもいい選択だったとは
言えないね。
>>277 それは戦闘員の他に同数くらいの非戦闘員がいたということ。
つまりこの場合になら、6万の軍勢にはほぼ同数の非戦闘員がいただろう、
という推論の根拠にはなっても、
6万の内戦闘員が1万5千だけという話のソースにはならない。
>>279 それは、経済力や文化の成熟度に関してでしょう。
兵力はともかく軍事技術に関しては16世紀の段階で東アジアはイスラム圏や欧州に比べて、
明らかに立ち遅れていた。
急速に銃を装備した日本が追いつきつつあった程度。
>>292 銃器の組織的使用をほとんど知らない明の軍隊では、
オスマンはもちろん欧州にも日本にもほとんど対抗できないよ。
現に朝鮮の役では数が優勢な状況で戦術的に日本にボロ負けしている。
>銃器の組織的使用をほとんど知らない明の軍隊
戚継光が北方辺境で用いた陣立を見れば分かるけど
銃・砲の組織的な運用は行なわれていたんですよ。
だが敵軍に多数の銃器がある状況で戦ったことがまったくなかった。
この頃までにポルトガル人や倭寇を通じて伝来していた火縄銃も
銃身が鋳銅で数発撃つと加熱して暴発の危険があったり
「三眼銃」などの旧式火器が依然として多数配備されていたりと
かなり難があった様子(火器以外の装備は割と良質だったらしい)。
>>316 旧式の砲の運用はともかく銃の運用といえるほどのものでしたかね?
まあ、いずれにしても、
その状況では、オスマンにも欧州にも日本に対しても圧倒的に分が悪い。
せいぜい兵力でどこまで押し切れるか、といったところかと。
>>316 鉄砲対応の防具もなかった様ですし
明代の防具は鱗板を張り合わせたものと聞きます。
>>318 そうですね。綿甲が銃弾を防げたという話は何かでちらっと読んだけど
ソースがよく分からないし。
明軍の装甲について下瀬頼直は「矢も立たず刀にて少しも切れず」と書き残してるし
フロイスも似たようなことを書いてるので従来の武器に対しては
充分な防御効果はあったのだろうけど。
>鱗板を張り合わせたもの
綿甲のことですか?
321 :
拾い物:2007/01/14(日) 05:45:52 ID:Hn7TGtjO
885 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2006/06/29(木) 14:35:48 0
昨日の朝日新聞の夕刊に「倭乱と東アジア」短期連載の記事が載ってけど、
「壬辰倭乱」をテーマにした韓国でのシンポジウムが6月19日〜22日迄
やっていて、韓国・日本・欧米の学者30人の歴史学者が議論してて、その中で
目を引いたのは、ケネス・スオーブ米ポールステート大準教授は「日本と朝鮮の間
の戦争だとの見方はやめるべきだ」と言って戦争構図は明を中心にした東アジア
の支配体制・秩序への秀吉の挑戦。日本と明との戦争であり、明は当初は内乱の
為に兵を送れなかったが、朝鮮の要請ではなく自分の利益のために参戦した。
886 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2006/06/29(木) 14:47:15 0
上の続き
また、明軍は弱いと言うイメージがあるが、明を倒した清によって作られたもので、
当時は武器も優秀で精強だった。一方の秀吉軍は戦乱で鍛え上げられた世界
最強の軍団。両者の激突は16世紀最大の戦争だった、スオーブス準教授
(中国軍事史)位置付けた。あとはオランダ・ライデン大学のW・J
ポート教授(日本思想史)は「朝鮮征伐は、当時の日本の実力者の間で広く
共有されていた」正気を失った秀吉の暴走との見方に否定的な考えを示した。
後は読んでチョ。
>>321 他はともかく明が精強といっている人は現実を知らないとしか思えない。
或いは東アジア地域限定で、その中では精強だという意味なのか。
>他はともかく明が精強といっている人は現実を知らないとしか思えない。
朝鮮の役に出てきた連中は明軍の中では精鋭だから、それを基準にすると
そういう極端な結論になってしまう。
当時の明の状況ってのは、衛所制による百万の正規軍がまったく使い物に
ならなくなる一方で、李成梁や戚継光など国境防備を任された軍人が
「家丁」「健児」などと呼ばれる自ら訓練した私兵をコアにして
モンゴルや女真とまともに戦える軍団を作っていた。
要するに、明国内のどの部分に注目するかでまったく異なった評価になってしまう。
フロイスも書いてるけど、江南の官軍と戦った倭寇やポルトガル人の情報から
明軍恐れるに足らず、と思われていたので小西行長が和平を提議すると人々は
いたく失望したとか。
妥当な評価は「国境付近の軍団は強いがその他は全然だめ」ぐらいのところでしょう。
その朝鮮の役に出てきた精鋭ですら、
戦術的には日本軍に敗れたというのも事実だけどね。
>>324 華北の平原で騎馬民族と戦うのとは全く異質な戦争であるということを
理解していなかったゆえの失敗でしょうね。
水田の多い渓谷で騎兵軍を展開してかえって左右から側面攻撃されたり。
「鳥銃」に対しても大型砲で挑発し銃弾が尽きたところで前進するといった
消極的な方策しかなかったらしい。
(当初は大規模な倭寇程度の認識だったというから、戚継光が南方で
戦ったような刀槍・弓矢で武装した連中を想定していたのだろうか)
明の騎兵軍は右翼・左翼・中央という戦闘隊形で、フロイスによれば
「彼らは三日月型の戦列を敷いて敵を包囲し、中央で(敵)を捕捉する
という戦法を取る」とされている。これは東は中国から西はロシア、
トルコまで広く見られる軍事的伝統であり、この時代そうした諸国は
いずれも歩兵を中心とした圧倒的火力をもつ軍隊に対し苦戦している。
(皮肉なことに、モンゴルにとっての戚家軍が正にそういう存在だった)
とはいえ、朝鮮の役で戦った李家軍などは騎兵の装備や錬度も低くなく
オスマン朝にまで「圧倒的に分が悪い」とは思いませんね。
16世紀後半ならロシアやトルコ等オリエント型帝国の軍隊に引けは
とらないでしょう。
だね
明軍は弱くない秀吉軍団が強すぎるだけ
「明史」のシメが「無勝算」だもんな。
>>325 オスマン朝の軍隊こそ当時最も発達した
「歩兵を中心とした圧倒的火力をもつ軍隊」なわけだが。
それから火器がイスラムやヨーロッパに比べて未発展すぎ。
>>328 16〜17世紀のオスマン朝の登録された兵力は、従者共々騎兵として戦うティマール保持者
いわゆるシパーヒーが10万ちょっとで、スルタンの常備軍であるカプクル軍団は
イェニチェリの歩兵が約1〜5万、六連隊衆騎兵が5千〜2万、砲兵隊が2〜8千。
通常の戦役では歩兵と騎兵の比率が1:3程だったようです。
要するに当時のトルコは騎兵を中心とした軍隊であり、鑓や鉄砲で武装した歩兵が主力の
日本や西欧とは明らかに対照的です。
ロシアやサファヴィー朝などと同じく火力は限られた数のエリート部隊に担われていた。
>火器がイスラムやヨーロッパに比べて未発展すぎ
李氏朝鮮ほど悲惨な状況ではなかったと思いますけどね。
低品質でもマッチロック銃は生産されてるし、フランキ砲や
紅夷砲も輸入している。散弾を発射する野戦砲もあったらしい。
一応16世紀の水準には達してる軍備だと思いますが。
(朝鮮は指火式銃筒や巨大な矢を発射する大砲など14世紀レベル)
明がオスマンの銃(魯密銃)を輸入して使うようになったのっていつからだったっけ?
>>329>>330 当時のオスマン朝軍で騎兵の比重の方が大きかったというのは正直知らなかった、
イェニチェリ軍団の印象が強すぎたかも知れない。
しかし、当時の明軍にはイェニチェリ相当するような、
火縄銃を大量装備した精鋭軍団もなかった点で不利だし、
砲も最新式のものは輸入に頼っており配備は遅れていたという点で、
結論に変わりはないと思うがいかがか。
334 :
拾い物:2007/01/16(火) 22:06:42 ID:0OLbaGZG
296 :世界@名無史さん :2006/10/03(火) 09:06:44 0
フアン・ゴンザレス・デ・メンドーサ 『シナ大王国史』 第二部第一巻
ビレイ(巡撫)はこの日からエスパニャ人たちに何度か見物に出かけることを許可し、そして一行を
特別に歓待することを部下に命じた。そのひとつは、月の初めの何日かにわたって全国内でいっせいに
おこなわれる習慣になっている閲兵の儀式に一行を連れて行ったことで、これはまことにたいへんな
見ものであった。
この閲兵は市の城壁に接している広場で次のようにしておこなわれた。およそ二万名の槍兵(ピケーロ)
と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。まず合図と同時に
進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して
整然と射撃をおこない、ふたたびもとの位置にもどった。これが終了すると槍隊が散開してまことに巧妙に
目標に襲いかかった。その有様を見てエスパニャ人たちは、この軍隊が世界のどの軍隊よりも優秀であり、
もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵員数と同様に優っているならば、容易に全世界を征服する
ことができるであろう、とおもったほどである。
↑16世紀半ばの福州での記録だそうだが、ピケーロってパイク兵のことだろ?
何でいきなりパイク&ショットの編成になってるんだ?
ポルトガルの宣教師の見聞がどの程度かは知らんが、こういう証言もあるって事で。
福州(現在の福建省)なら、倭寇対策に精兵を配置していた時期かも知れんね。
>>333 精鋭かどうか不明ですが火器が大量配備される軍団はあったようです。
「練兵実記」という本に薊州を防衛していた軍の編成が載っていますが
歩兵の最小単位は12名の「隊」で、火縄銃を用いる「火器手隊」と
槍などの近接兵器で戦う「殺手隊」の二種類があった。
火器手隊・・・隊長1名、鳥銃手10名、火兵(炊事兵)1名
殺手隊・・・隊長1名、藤牌手(刀と大盾)、狼筅手、長槍手、?手、大棒手各2名、火兵1名
3隊が37名の「旗」、3旗が112名の「局」、4局が449名の「司」を構成する。
2司(火器手と殺手)が899名の「部」、3部が2699名の「営」となる。
こうして構成された歩兵旅団には1080挺の鳥銃と216張の弓が配される。
その他に騎兵旅団の「騎営」と、フス派の戦車に似た「偏箱車」で陣地をつくる「車営」があり
3109名の車営には145台の偏箱車、8門の大将軍砲、256門の佛狼機砲、512挺の鳥銃を配備。
黄仁宇『万暦十五年』より
「敵を迎え撃つ時は、騎兵が前方で敵軍を阻み、戦車が戦闘隊形をつくるに十分な時間を稼ぐ。
そして敵軍が接近してくると、騎兵は戦車隊の中へ退却する。敵の騎兵が百騎以下の場合、
この混成旅団はがんとして交戦しない。大軍の敵騎兵が襲撃してきて、火器の射程の中およそ
二百五十尺以内に入った時に初めて、仏朗機・鳥銃・「火箭」などの一斉射撃を加える」
「火器がその威力を発揮したあとは、歩兵が戦車の後ろから跳び出し、肉弾戦の波状攻撃を
加える。その際、ラッパの音で歩調が合うよう指揮をとる。敵の攻勢が挫かれ、その隊形が
乱れ始めると、騎兵も全員、戦車の後ろから出撃する。この騎兵は、事実上むしろ馬上の歩兵
とも言うべく、地上の歩兵と同様、鴛鴦陣の隊形をとり、さまざまな武器を手に戦う。隊伍を組んで
突撃し烈しく迅速に相手を圧倒するモンゴルの騎兵戦法を、戚継光は真似しなかった」
まあ軽騎兵部隊が相手で敵側に銃がなかったから有効だったんでしょうけど。
朝鮮の役で出てきた連中はほとんど騎兵でこんな感じじゃなかったようですし。
>>334 下のほうのコメント書いたの自分なんですけど
16世紀半ばの江南にそんな部隊があったってのは何か唐突な印象で・・・
パイクと銃の編成がスペイン本国の陸軍と似すぎているような気も・・・
よく分からないです。
>>337 可能性としては、
1)実際にそのような部隊だった。
2)実際には違うが、書いた人間がそのように脳内変換してしまった。
戚継光らの(倭寇対策の)部隊は、長槍と鳥銃だけじゃなくて何種類かの武器で編成されていたような。
江南で倭寇と戦った時の鴛鴦陣は
先頭二人が刀と盾(倭寇が長柄をもった兵の懐に入り込むのを防ぐ)
その後ろに狼筅二人(倭寇を押さえ込む)
その後ろに長槍四人(倭寇を刺す)
その後ろに三叉の槍二人(後方・側面を警戒)
みたいな感じでしたね。
日本では刀より槍や弓矢、鉄砲がメインウェポンだったとかいわれてるけど
大陸では日本刀を振り回す連中が脅威でこのような陣形が生まれたのは興味深いです。
>>339 朝鮮の役でも「恐ろしいのは鳥銃と刀剣」と言ってるし
近距離は手槍で至近距離は日本刀という具合じゃないの?
明でも清でも「倭刀」として正式軍刀に採用されているんだよな。
(後、苗刀に。)
この辺り考えると「日本刀は実戦ではあまり使われなかった」説はどうかと思うのだが。
倭寇の日本刀のインパクトもあったとは思うんだが、どうだろう?
於兵仗局戊字等庫發舊倭刀三、五千把、為馬上精兵之用。
(「爝火録」卷三(大清順治元年、明崇禎十七年五月朔) より抜粋)
と、こんな感じで。
南明の福王の下に付いた史可法が軍を整えているところの様子から。
時期的には、清が順から北京を奪った頃だけど、南明諸政権にその報が届いているかどうか。
・・・多分スレチガイです。スミマセン。
>>この後、清代になると鳥銃の配備率は全軍の6割に達するそうで。
そのソースは何?ちょっと見て見たいんだが。
>>345 学研の「戦略戦術兵器事典 中国中世・近代編」
火縄銃が明に伝わったのは1548年に倭寇から獲得したものが最初だが、10年後の
1558年には早くも年1万丁が生産され、清代には兵士の6割強が所持するまでに普及
したという。
清代といっても長いからな〜
倭寇と戦ってた頃の鳥銃はこんな感じだったらしいですね。
黄仁宇『万暦十五年』より
「部隊の装備や武器は各府県がそれぞれ別々に供給していた。
このような情況では、武器の質が保たれえないのも当然である。
戚継光は自著の中で各地で製造された鳥銃の銃身は暴発の危険性があり、
そのため兵士たちはびくびくして両手で銃を持とうとせず、精確に
照準を合わせられなかった、と明記している。弾丸と口径の合わない
大砲や、導火線の点火しない大砲もあった」
朝鮮の役を経て17世紀にはまともな鉄製の銃が配備されるようになった
ようですが。
17世紀にはもうダメポな明。
内部腐敗進行中のオスマン帝国。
引きこもり日本。
スペインとかもダメポ
海上覇権はオランダに獲られたもんな。
オスマンのイェニチェリが最強軍団の有力候補なのは判るんだけど、普通の歴史本読んでも将軍にこういうのがいたとかいまいち判りません。
いい本あったら紹介希望。
つうかやけに持ち上げられてるイェニツェリって何がそんなに強かったの?
ヨーロッパ諸国が束になってかかってきても勝てなかったオスマン軍の中で、
最精鋭とされているからね。そりゃあ強いでしょうよ。
345ではないんだが近衛兵みたいなものなのか?
>>354 厳しい軍律と高い錬度。
そして、いち早く銃器の組織的運用を取り入れたこと。
実績も十分にあるけれど、結局はスレイマン1世の軍事的、政治的な能力によ
るところが大きいのかも知れん。
そんなに強くて結構西欧と交流もあったのに先進国の
地位を逃すとは何をやっていたのか。>トルコ
なぜ西欧が独走状態になってしまったかは、
世界史上の重大な研究テーマの一つだからね。
興味があるなら本格的に研究してみる価値はあるだろうし、
世界史板あたりにはそれをテーマにしたスレとかも多分あるだろう。
世界史板「人大杉」でみれねーよ。
>>359 イェニチェリのコントロールが効かなくなった
近代化しようとする→イェニチェリ反乱→廃位のループ
363 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/02(金) 22:50:08 ID:IxeyrZJi
>>353 ランシマン『コンスタンチノープル陥落す』(みすず書房)なんかはどうでしょうか?
オスマンの戦の雰囲気を知るには最適の一冊かと思いますが。
しかし、巨砲も含む最強軍団二十万の包囲攻撃を、たった五千で一時は挫折させかけた
コンスタンティノープルの頑丈さも凄い。
364 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 00:43:07 ID:MrNSVBec
>>363 ありがとう。
でも、古い本で入手難なのね・・・。
365 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 14:12:36 ID:rHAfXlRJ
>>364 雰囲気だけで良いのならば、塩婆の「コンスタンティノプールの陥落」
ローマ人の物語のおかげで、ちょっと大きい本屋なら簡単に手に入るが強み
366 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 15:38:11 ID:p44Q1t28
ハンガリー包囲失敗がトルコ凋落の始まりだが、肝心のハンガリー城ってのが堅城なのか縄張りとかわからんのが痛い。
367 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 19:22:24 ID:m1Gf0bpB
368 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 20:01:51 ID:seNuOT8L
ナメクジ乙
あ、世界史板じゃなかったなここ…
>353 新紀元社の「オスマン・トルコの軍隊」じゃ駄目か?
>>366 それはウィーン攻囲では。
「ウィーン都市地図集成」って本にオスマン朝軍が掘った対壕や
防壁の位置まで載ってた気がします。
372 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 05:35:11 ID:ZBB3sbR0
自倭乱朝鮮七載, 喪師数十万, 餉数百万, 中朝与属国無勝算, 至関白 死而禍始息
373 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 06:10:11 ID:O/rLcUO1
前後七載、喪師數十萬、糜餉數百萬、中朝與朝鮮迄無勝算。至關白死、兵禍始休、諸倭亦皆退守島巣、東南稍有安枕之日矣。秀吉凡再傳而亡。
だろ?
374 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 19:04:38 ID:O/rLcUO1
自倭亂朝鮮七載、喪師數十萬、糜餉數百萬、中朝與屬國迄無勝算、至關白死而禍始息。
は、明史列伝の朝鮮の方か。
>>373は明史列伝の日本方ね。
しかし、微妙に字が違うだけなんだね。
375 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 23:10:13 ID:9sFoJmMM
火器が発達した時代である16世紀とはいえ、
モンゴル、オイラト、トゥルクメンといった騎馬民族が依然最強クラスだろう
明は、アルタン・ハーンに北京を包囲されて、手も足も出せなかったし
(李成梁も姑息なことやって体面を繕っていた)
モスクワ大公国も、クリム汗国にモスクワを攻略されて、貢納をおさめていたくらいだ
チャルディラーンの戦いで、オスマン朝がサファヴィー朝のキジルバシを破ったとはいえ、
まだまだ騎馬民族の力は衰えていないと思う
17世紀後半ですら、ジューンガルのガルダンが暴れまわっていたぐらいだしさ
やっぱ、チベットのチャンタン高原を突破するほどの騎馬民族の機動力は一大脅威だと言わねばなるまい
376 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 18:04:58 ID:8gfIiuQO
当時の日本の鉄砲の数は多いのですが、ヨーロッパは大砲が桁違い。
アルマダの海戦(1588年)のときの英西両国の軍備は、
スペイン イギリス
兵力 8050人(水兵) 15292人
約19000人(陸兵)
船 ガレオン艦20隻 ガレオン艦98隻
(内・大型6隻) (内・大型2隻)
武装ガレオン艦補助艦102隻 武装商船99隻
ガレアス艦4隻
ガレー船4隻
大砲 ペリエ砲326門 ペリエ砲 43門
キャノン砲163門 キャノン砲 55門
カルバリン砲635門 カルバリン砲1874門
大砲の射程距離は、ペリエ(短距離)・キャノン(中距離)・カルバリン(長距離)。
結果は長距離砲を多用したイギリスが勝ちました。
1隻あたりの大砲搭載数は船の型により違うので、詳しいことはわからないのですが、
だいたい少ないので5門、多いので40門前後のようです。ただし、搭載数が多いのは
船足が遅いそうです。
377 :
にゃんこ:2007/03/11(日) 22:43:05 ID:FPhwk49v
360>
マックスウェーバーは、「火力よりも規律」と言ってるね。
弾が鉛のマスケット銃は当たったら威力はすごいけれど、速射ができないしね。
隊を小隊・中隊・・・・と数学合理的に分け、数学合理的に戦術を駆使できる
ためには、兵士を機械のように動かす規律が必要なんだな。
(ここで言う規律とは、「略奪すんなゴルア」という意味よりも、「右向け右、命令通り
動けゴルア」という意味で。)
378 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 01:03:50 ID:zwAtSztu
ざっとスレ見せてもらったけど、かなり面白いね
しかしこの手の問題でいつも痛感するのが、軍事史の発展のいびつさ。
欧米で発達したから、欧州中心にならざる得ない。
日本や中国、あるいはトルコ、インドなどの軍事史の研究は進んでいないから(少なくとも日本では)
どうしても欧州の事柄が判断基準になってしまう。
日本での軍事に関する研究は近代以降が中心で、それ以前については、論文で取り上げらることもあるけど、総合的に纏めたのはほとんどない。
去年、「日本軍事史」って本が出版されたけど、これも何か纏まりがなかった。
誰か、欧州やイスラーム世界、印度、中央アジア、東アジアを纏めた軍事史の本でも出してくれないかな
379 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 01:20:51 ID:XrVOjAZQ
中世欧州の軍には兵站の概念が無かったとかかなり恥ずかしい事を書いていてしかも誰もそれに突っ込んでないのは何で?
380 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 01:48:45 ID:XrVOjAZQ
J.F. Verbruggen, The Art of Warfare in Western Europe During the Middle Ages: From the Eighth Century to 1340 - 必読・
P. Contamine, War in the Middle Ages - ドライで退屈だが、為になる。特に中世における歩兵の中心的役割と傭兵集団の重要さについての章は秀逸。
M. Prestwich, Armies and Warfare in the Middle Ages: The English Experience - 中世の軍隊の兵站、組織、編成、戦術について詳しく書かれている。
K. DeVries, Infantry Warfare in the Early Fourteenth Century: Discipline, Tactics, and Technology - 中世の歩兵?規律と戦術?イカれてるのかこいつは!(笑)
K. Fowler, Medieval Mercenaries: The Great Companies - 14世紀に集中しているが、著者の書く傭兵集団のプロフェッショナリズム、訓練と有用さは中世初期と後期にも当てはまる。
取り合えず中世の軍に兵站が存在しなかったと思ってる人はルイ9世や獅子心王の遠征を調べると宜しいかと。
強度の強い電波だと解るから。
381 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 02:33:12 ID:XrVOjAZQ
>>378 それも問題だけど欧州の研究成果が日本にちっとも伝わってこないのも問題。
30年前に破棄された説を信じてる人間が日本にはごろごろいる。
382 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 11:17:42 ID:cU9WCxfj
>>376 その海戦って、可燃物大量搭載して火を点けた船団をスペイン艦隊に向けて放った為、
スペイン艦隊は緊急回避すべく個々で離脱せざるを得ず、
バラバラになった艦を各個撃破(3隻沈没2隻大破)しただけでしょ。
スペイン艦隊が壊滅したのはその後神風が吹いたからだし。
383 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 17:19:59 ID:00ioDMZt
>>321 >ケネス・スオーブ米ポールステート大準教授は「日本と朝鮮の間
>の戦争だとの見方はやめるべきだ」
秀吉のスローガンが「仮道入明(道を仮(借)りて明に入る)」で、朝鮮は単なる
通り道にするつもりだったということは常識レベルだと思っていたのだが、他国の
歴史家の間ではそうでもなかったのかな?
384 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 19:49:07 ID:EgqrlaFj
韓国でのシンポジウム、だったからじゃないの?
385 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 21:06:15 ID:Q5wH1a7w
>>376 大砲は野戦ではまだまだ使えないと思うよ(攻城戦、海戦で威力を発揮したのは勿論だけど)。
戦国時代(16世紀〜17世紀初)、野戦では小銃火力の方が重要でしょ。
野戦での大砲の本格的活用は、グスタフ・アドルフのレザー・ガンの登場まで待たないと。
まっ、野戦での大砲の活用も、石田三成が関ヶ原で大砲を使用していることを考えると、戦国日本の方が進んでいただろうけど。
つーわけで、当時の陸戦世界最強は、充実した小銃火力(軽く十万挺以上)と卓越した白兵戦能力(鋭利無比な日本刀、人馬の区別なく切り伏せる腕前)、そして騎馬民族並の機動力(清正、小西の快進撃は伊達じゃない)をもつ戦国日本で間違いない。
386 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 21:54:45 ID:CF4Wgo0Q
属国が「宗主国をぶっつぶしにいくから道貸して」なんて言う他国の軍に通行許可なんか出すわけない
そんな可能性があるのは日本が明より強いと思われる場合だけ
当時の日本の明国感がどうなのかはわかんねけど現在の人間からすれば無謀としか
他国の人間ならなおさら理解できんだろう
387 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 00:52:02 ID:pl+jIo9/
日本勢の機動力の高さは足軽主体だから?
388 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 15:36:23 ID:JO8wUlpy
389 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 15:47:58 ID:JO8wUlpy
>>野戦での大砲の本格的活用は、グスタフ・アドルフのレザー・ガンの登場まで待たないと。
この時点で無知からくる妄想だが、
>>まっ、野戦での大砲の活用も、石田三成が関ヶ原で大砲を使用していることを考えると、戦国日本の方が進んでいただろうけど。
これは酷い。
たった一回、限定的に使用されただけで「日本の方が進んでいた」と言うのは知能が低すぎる。
>>充実した小銃火力(軽く十万挺以上)
数だけでは大した意味は無い。
兵の士気、指揮系統の確かさ、訓練と実践経験の多さ、資金と食料の確保。
そういう物が揃ってこそ、強いかどうか判断されるべき。
数比べで「最強」を判断するのは、短絡的。
>>白兵戦能力(鋭利無比な日本刀、人馬の区別なく切り伏せる腕前)、
これも酷い。
釣りか?とおもうほど。
>>そして騎馬民族並の機動力(清正、小西の快進撃は伊達じゃない
騎馬民族並みの機動力!つまり一日に100kmは進撃出来ると言いたいわけだ!
390 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 20:12:50 ID:bMWwjJXO
>>387 戦略機動力は大砲を装備しない事と糧秣が少なくてすむ事
(固形分は同量であるが西洋はそれに加え、同じ量が倍のワインとビールを必要とする
行動日数については人夫と駄載限定の日本に対し、馬車が使える西洋とは同程度である)
戦術機動力は日本は密集陣形を組まないからである。
391 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 20:50:20 ID:kH7b9Jey
>>389 騎馬民族並みの機動力が、一日に100kmってどこから出てきた数字だ?
1231年の金侵攻時のモンゴル軍が、漢中からケ州まで500kmを進軍するのに1ヶ月だから、
文永の役の小西軍の機動力とほぼ同等なんだが。。。
392 :
391:2007/03/13(火) 20:54:34 ID:kH7b9Jey
「文永の役」は「文禄の役」の間違い
393 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 13:48:36 ID:/zI/lYEe
>>391 漢中からケ州って険阻な山岳地帯と強固な関が無数にある地帯なので、
標準的なモンゴル騎兵の行軍速度の例としてはふさわしくないのでは?
394 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 14:59:26 ID:VlVrJHnr
モンゴル軍進軍速度
1220年ホラムズ侵攻 プハラ→サマルカンド 250kmを5日間
1221年ホラムズ侵攻 メルブ→ニーシャプール 350kmを12日間
1231年ウゲデイの金国遠征 漢中→ケ州 500kmを1ヶ月
1241年バトゥのポーランド侵攻 スィドロフ→ワールシュタット 450kmを20日間
秀吉軍の進軍速度
1582年中国大返し 高松→摂津富田 160kmを6日間
1583年大垣大返し 大垣→木之本 53kmを5時間
1592年小西行長の朝鮮侵攻 釜山→漢城 400kmを20日間
395 :
仙台藩百姓:2007/03/14(水) 15:13:10 ID:KQt5pn6C
53kmを5時間←恐ろしい速度だお(;^ω^)
396 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 15:28:32 ID:8G8s7mC8
秀吉軍凄いな・・・
397 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 16:39:07 ID:/zI/lYEe
>>394 敵地で戦闘を行いつつ進軍した例と、ほぼ自領内での純然たる行軍(中国大返しや
大垣大返し)などを同列に並べても意味が無いのでは?
398 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 16:50:38 ID:VlVrJHnr
>>397 敵地で戦闘を行いつつ進軍した小西行長の速度だって、モンゴル軍とほぼ同等じゃん
399 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 16:54:06 ID:/zI/lYEe
>>398 それについては別に文句はない。上の二つを入れるのが変だって言ってるだけ。
400 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 16:56:19 ID:/zI/lYEe
399補足。
二つの「大返し」だけじゃなくて、モンゴルの例も状況がまちまちすぎて
列挙する意味がほとんどない。
401 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 17:02:27 ID:/zI/lYEe
>>395 夕方〜夜間に一万五千人が移動した速度としては驚異的だな。
これは走りぬいた将兵が凄いというのもあるが、沿道で食糧や松明を周到に
手配した手腕の方が見事といえるだろう。なにしろ気が立った兵士に食糧を
渡す時の対応マニュアルみたいな物まで作って沿道の村人に指示してるぐらいだ。
当時ここまで気配りの効いたバックアップ体制を作れた秀吉や石田三成の手腕は
素晴らしい。
402 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 17:29:48 ID:rNuu0mor
>>400 んなこと言ったてなあ
そういう手がかりから考えるしかねーじゃん
それに、中国大返しは予想外の状況下での出来事だし、
大垣大返しにしたって自領内というほど安定した状況下でのことでもないじゃん、
むしろ一連の戦場というべきだろ、あの一帯は
403 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 17:43:43 ID:/zI/lYEe
>>402 戦場で沿道ずっとかがり火を焚いて握り飯配ったりできるもんか?
まあそれはいいとして、列挙するんならせめて同じような状況のやつを
抽出して対比させるとかすればいいじゃん。
といっても、戦国時代の日本とモンゴル帝国の戦いで「同じような状況」
なんてないから最初から比べる意味があんまりないんだけどね。
「騎兵中心の軍勢と歩兵中心の軍勢でどっちが機動力高いか」みたいに、
常識的なところから推理していく方がまだマシ。
404 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 17:54:25 ID:QlC8Y/yI
いずれにせよ、比較対象がモンゴルとかナポレオンとかローマくらいしかないんだけどw
405 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 18:01:56 ID:C6XW9YL5
戦国時代の標準的な行軍速度は一日に20〜25キロ程度。
モンゴル軍は、軍の多数を占める軽騎兵に限るなら、一日70キロ程度
だったと言われているな。
406 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 18:08:26 ID:/zI/lYEe
一日20キロ程度というのは、古代ローマ軍でも現代の自衛隊の訓練などでも
大体同じだな。歩兵が一日に移動できる常識的な速さってのはその程度なの
だろう。
407 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 18:20:25 ID:/zI/lYEe
ちなみに近代ヨーロッパ騎兵の標準的な行軍速度は1日60キロ前後。
モンゴル騎兵の70キロというのは、速いといっても常識外れに速い
というわけでもない。
結局単純な行軍速度なんてもんは騎兵か歩兵かによる部分が一番大きく、
あとは兵站の効率とか、道路整備の技術あたりで多少変わるかなってとこ
だろう。
そういう意味で歩兵主体の日本軍が
>>385が言うように「騎馬民族並の機動力」
を発揮できるというのはいささか荒唐無稽に過ぎると思うがどうか?
408 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 18:35:18 ID:rNuu0mor
状況は違えど
ウゲデイの金国遠征と小西行長の朝鮮侵攻は同じくらいじゃん
上のようなのは参考に出来ると考える者と考えない者の見解の相違だろ
モンゴル軍の一日に70キロっていうのも、
>>394のに一つも出てきてないし
推論より史実の方が重要じゃん、状況の差はあれどもさ
409 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 19:23:45 ID:qR2AduDy
馬も餌バカ喰いするから草原とそうじゃないかじゃ全然違うでしょ
410 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 19:31:13 ID:QlC8Y/yI
馬が草食ってりゃ生きられると思っているのはちとなんだな。
蒙古馬はかなり特殊で雪下の苔食っても生きられるが。
411 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 19:52:57 ID:8S8uoAYE
オスマントルコのイェニチェリ鉄砲隊や大砲の前では、豊臣秀吉&徳川家康の軍団も雑魚同然。
プギャー
412 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 19:56:22 ID:8S8uoAYE
オスマントルコ>>>ハプスブルク家>>フランス>>明>>日本
413 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 20:01:41 ID:8S8uoAYE
オスマントルコ軍に戦国日本がどうすれば勝てるか考えて見ろ、織田信長軍団でもオスマントルコ軍相手では分が悪過ぎる。
414 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 21:29:52 ID:O1qUfBIB
つーか… お ま い ら 詳 し す ぎwwwwww
415 :
にゃんこ:2007/03/14(水) 23:13:21 ID:InwmZIHu
一級史料「天正記」によると、中国大返しは、半分ガセらしい。
多くの兵が脱落して、秀吉本陣についていけなかった。だから、秀吉は、
摂津衆や四国遠征軍を主力として、山崎で戦った。
つまり、主力は連れて来たのではなくて、現地調達。もちろん、それで勝てる
と踏んだ秀吉はすごいが。
416 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 01:09:03 ID:iP8oQkE5
>1583年大垣大返し 大垣→木之本 53kmを5時間
こいつらは化け物か?
武装したままでフル+クォーターマラソンして5時間って
417 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 02:17:22 ID:hdmj5e9n
昔の人は偉かった
418 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 07:05:20 ID:GG5ZeW7S
>>418 武装は外して現地で用意してたか先に輸送させてたんじゃね?
マニュアル配布してまわってるくらいだし
419 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 11:23:20 ID:QL6TySho
>>416 まさか数万の大軍がいっせいに大垣、木之本間に到着したわけでもあるまい。
それこそキロ単位で長蛇の列を成していたはず。
先頭が大垣に到着した時点では後尾は大垣からかなり離れていた地点にいた→取って返すぞ!→後尾がそのまま先頭になる。大返し開始時点からかなりフライング
420 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 11:47:27 ID:k3eA8DHI
>>408 「機動力」の話をしてるときに、敵と交戦しつつ進軍した例で比較しても
仕方ないだろ。敵の抵抗度合いによって進軍の速さは全然変わる。
421 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 13:05:43 ID:RvcohfXj
>>419 それはないかと
美濃に3日ぐらい駐留してるし
しかし美濃周辺の問題はすぐに片付いたわけだから
兵の大半は翌日あたりに近江に引き返させ
秀吉と供廻りが高速で後を追ったんじゃないかな
いくらなんでも万単位が移動するには早過ぎる
ただの想像だけどさ
422 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 20:12:25 ID:HySOaEnP
>>420 機動力(これもどういう意味でのことなのか、いまいち曖昧だが)の話というよりも、
騎馬民族の一日に100kmってのが問題なんだろ
俺の持ってる世界史の図説に、一日に100km(一説には350km)、ってのが出てくるが、
どういう状況(どこからどこまで、とか)でのことなのか書いてないのでよくわからん
423 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 23:34:58 ID:7eheZqQ5
>>415 「一日に十里歩いて一人前」てな事も言われていた時代みたいだから、距離などに無理があったようには思えない。
兵士脱落の理由は、信長の死が伝え洩れたとかそういう事なのかな?
424 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 23:54:28 ID:3xoHaxQR
>>422 つーか一日100kmってのは大げさだろ。普通は70km程度と言われている。350kmなんてのは
馬の生物学的能力から見ても無理。東京〜名古屋間より長いじゃないか。
その世界史図説ってどの出版社が出してる何年度版のもの?
425 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 00:07:59 ID:Ig7deXuV
>>423 >「一日に十里歩いて一人前」
これって江戸時代の旅行者の話だろ。一人頭数十kgにもなる鎧&武器&荷物を持った
兵士と同列に語れるものでもない。
426 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 00:23:51 ID:Gagz9rDa
故・会田雄二先生はシナ戦線で毎日40`くらい行軍させられていたらしいが・・・。
文字通りフル装備で。
427 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 00:38:58 ID:o1z8i66k
人間一時間で4kmほど歩く
当時の普通の人で一日8時間程度が標準=32km
健脚の人で一日10時間程度=40km
休まず長時間歩く強行軍で一日14時間程度が限界=56km
428 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 00:46:28 ID:Gagz9rDa
名前間違えた。「会田雄次」先生だ。orz
429 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 02:47:19 ID:2vaX/jvv
>423
いつどこの時代も 逃亡兵や傷病兵 隊列に付いていけなくなったものは常に出る
増してひたすら前進前進歩け歩けの強行軍ならなおさら
一例を出すなら アウステルリッツ戦役におけるナポレオンのフランス軍は、
ドーバー沿岸から墺仏国境までの移動時に、全軍の30%以上を途中脱落で失っている
430 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 10:07:50 ID:nzsFoQpe
>>422 一日に350kmって駅伝制による通信速度の数字だろ
431 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 12:05:46 ID:AiSLcV8p
>>426 旧軍の標準行軍速度は一日20km。「強行軍」は40km。ただし強行軍は会敵が
予想される時は慎むことになっていた。戦争末期の常に無理を重ねざるを得ない
状況では、本来あまりやらない強行軍を頻繁に行ってたということもあるかも
しれないけどな。
432 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 22:08:00 ID:HO9CVTLj
>>424 東京書籍の15年前のやつ(古いねw)
一日100km(どこからどこまででのことなのか書いてないんだよな、推測なのかな)っていうのは、
15年位前の認識ってことになるのかも
その後、モンゴル馬、替え馬についてとか、モンゴル軍の装備についてとか、
なんらかの新しい知見が加わって50〜70km?位に修正されたのだろうか
350kmってのは、
>>430が書いてるとおり駅伝の特急便のことだと思うが、まあ、どうなんだろ
ところでモンゴル軍には、中央アジア産のアーカル・テッケ種(大宛の汗血馬はこの種なんじゃないかと言われている)なんかもいたのかも
なんでも1935年の記録で、アーカル・テッケは、アシュハバード→モスクワ、
途中にほとんど水のない砂漠が1000kmほどある4000km以上の道程を、84日で走破した馬
コサック騎兵の馬もこれだったとか
433 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 22:49:25 ID:o1z8i66k
434 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 00:11:34 ID:qdobPpDl
指揮官の質はどうだろうか
戦国期の日本なら
軍神上杉謙信、武田信玄、北条氏康、毛利元就、島津義弘など名指揮官に枚挙にいとまが画内が
欧州の軍勢はいわゆる名将の類いが居ない
ゆえに日本軍こそ世界最強であるといっても過言ではないと思う
435 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 00:14:16 ID:pT1nfYjR
ひどい餌だ・・・
436 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 00:20:25 ID:qdobPpDl
指揮官の質は考慮に入れるべきだと思うが
下克上の世界を生きた戦国大名と温室育ちの中国欧州貴族じゃあ
実力は違って当然だろう
437 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 00:25:44 ID:88srA1VZ
日本軍は歩兵主体の軍隊で、戦国期から何百年も前の
モンゴル帝国軍よりたいした事はないよ。
純粋に軍事的に考察すると機動力もない日本軍なんて評価にすら値しない。
同時代のスペイン・ポルトガルが外洋を横断できる海軍を保有していた事を考えると、
日本の海上勢力なんて日本の近隣しか動かせないから対したものですらない。
軍事力において必要なものはそれは機動力なのだが、
機動力の存在しない狭い日本でしか暴れられない日本の軍隊など、
軍事的に考えたらたいしたことないぜ。
438 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 00:29:44 ID:svJDV3pu
欧州において
100度の戦い負け無しという上杉謙信のような人材が居たか
居ないだろ
くやしかったらそういう欧州の名将をあげてみてほしい
当時の日本は英雄や名将が割拠していたわけなんだから
強いのは当たり前。
439 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 00:35:54 ID:88srA1VZ
上杉謙信なんて100度の戦いで何も得られないのだから、
その実名将でもなんでもないだろ。
ワーテルローの戦いで
活躍したアーサー・ウィーズリーは一度の戦いで全てを決めた。
無駄に100回も戦う奴より、
一度の戦いで全ての大事を成し遂げる奴の方が天才に決まっている。
440 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 00:38:05 ID:88srA1VZ
上杉謙信が戦術的天才である事は認めるにしても、
戦いって戦略的目的を達成させるのも大事じゃん?
謙信は何度も高いながら戦略的敗北を繰り返すのだから、
指揮官としてはあまり優れてない。
徳川家康の方が戦略家としては凄い。
441 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 00:47:33 ID:/iFqkDHz
>>438 メッキだらけの謙信と違ってルーデルはガチ
442 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 00:48:27 ID:svJDV3pu
トップが織田信長で
指揮官が謙信と仮定するなら問題は無いだろ
443 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 01:01:06 ID:88srA1VZ
信長ってトップに向いてないと思う。
人心を把握するのはお世辞にも上手いとはいえないし、
直ぐに敵を作るから何度も戦う必要性がでてきそうだ。
実際に謀反を起こされたからな。
トップに必要な能力って戦の上手さより部下の使い方だろ?
漢高祖劉邦も部下の使い方が巧みだから項羽に勝てた。
劉備も人使いに巧みだから、多くの英雄を得た。
孔明なんて魅力に乏しいから劉備みたいに多くの英雄を得る事は不可能に近かった。
444 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 01:05:06 ID:88srA1VZ
信長より秀吉の方が上だと思うな。
秀吉は多くの英雄を従わせる事ができたんだからな。
朝鮮戦役の際に多くの英雄を配下において動かす事はできたのは、
やはり秀吉個人が人を巧みに従わせられるからだと思う。
軍事の世界において上の立場になれば上の立場になるほど、
個人の武勇なんて必要はなくなるし、
作戦に関与する必要性はなくなる。
ほかの人に任せればいいから。
俺は他人を使うのも才能だと思っているし、
実際に天下をとった人間は多くの英雄を従わせる力をもつている。
445 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 01:13:17 ID:/iFqkDHz
なんか薄いな
446 :
仙台藩百姓:2007/03/17(土) 01:45:30 ID:275ig+1c
日本は世界最弱だお( ^ω^)
兵站の弱さと占領統治の下手さは日本の御家芸だお
局地的勝利はできようが戦争自体は勝てないお
戦うだけ無駄
447 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 02:04:28 ID:8PWC3qso
戦で100度勝っても寸土も得られず
精強日本軍こそ軍神謙信の生き写しよ
448 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 02:39:57 ID:VoAbZETQ
>>444 その秀吉が史実で負けている以上
信長がトップであるべきだといっているんだがね
449 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 03:01:55 ID:iqQuhZOH
秀吉の外征は、兵站の手抜きっぷりを見ると本気だったとは思えないな。
余剰兵力を処理するための棄民政策も兼ねていたのではなかろうか?
450 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 03:39:42 ID:e1HKkU27
西欧でもナポレオン時代だって食料は基本現地調達だったのに、
わざわざ食料まで渡海させてる秀吉軍が”兵站の手抜き”というのは理解しがたい。
451 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 04:43:01 ID:PAkCrZo3
>漢高祖劉邦も部下の使い方が巧みだから項羽に勝てた。
劉邦は何度も部下の献策を無視して失敗し、部下に尻拭いをさせてる。
特に晩年はひどいもんですがなにか?
>劉備も人使いに巧みだから、多くの英雄を得た。
劉備に出来たのは人材の確保のみ。
人材の適材適所には失敗してますがなにか?
452 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 04:43:36 ID:iqQuhZOH
>>450 戦力ならまだしも、兵站を直接比較することに意味があるとは思えない。
大事なのは結果的に充足しているか否かで、遠征軍の物資は明らかに欠乏をきたしていた。
にもかかわらず、秀吉の国内政策を見ると遠征軍を全面的に支援してたとは言い難い節がある。
状況を把握しきれてなかっただけの可能性も否定しないが。
453 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 12:58:20 ID:e1HKkU27
>>452 >遠征軍の物資は明らかに欠乏をきたしていた
当時でも食料武器自体が欠乏していた、わけじゃないよ。
撤退直前の文禄二年3月3日の時点で漢城には兵糧は5週間分あったよ。
ただ土民の蜂起が原因で釜山からの輸送が困難だから撤退しましょう、
…という軍情報告があって、飢える前に秀吉の撤退命令が出たのよ。
で、なにが現地で欠乏してたというの???
454 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 18:21:30 ID:S9L+Rlsf
少なくとも
同時代の欧州諸国と比較して 兵站能力は半世紀は先に行ってたのは確か>秀吉の唐入り
16世紀に10万以上の軍を渡海侵攻させて長期活動させる能力なんて欧州諸国のどこももっちゃいねぇ
455 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 22:59:41 ID:hvz7w51/
なんか急に荒れてない?
456 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 23:08:49 ID:OpnVPGqs
学問上の議論はおおいに結構。
ただ欧米人はいくら意見が違っても
その後も仲良くつきあえるのに比べ、
日本人は人間関係そのものまで険悪になってしまいがち
457 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 23:41:00 ID:oVxH+wiJ
458 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 01:59:08 ID:CPQWtw8X
この程度じゃ2ちゃんでは荒れたうちに入らんようなw
459 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 12:53:24 ID:Lqkfr2N5
>>398 弱体化著しい李氏朝鮮と比べてどうするつもりだ。
460 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 13:57:25 ID:t81pNhWf
欧米人だって学説違うだけで個人攻撃してることはよくあるような…
まだ互いにデータ提示しあってる間はリアルでも喧嘩とはいわないと思われ。
461 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 17:45:29 ID:yloskvsZ
462 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 18:44:15 ID:/sFs/YVn
>戦力ならまだしも、兵站を直接比較することに意味があるとは思えない。
こういう輩が先の大戦で兵站を軽んじたんだろうな
463 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 23:40:14 ID:n43ISOeV
>>454 ポルトガルがはるばる東南アジアまで来てマラッカを完璧に滅ぼしてたりとか知らないだろ。
後、あちこちに植民地を作ってたりとか
464 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 00:43:54 ID:E1cSPNRh
>>463 そこら辺の“兵站”の認識自体がすでに違う。
465 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 00:45:34 ID:5dgLoX7T
>>463 あのぅ、、、陸軍十数万を海峡を越えて送り込む補給と、
ポルトガル艦隊20数隻1000人程度のソレを同じレベルで考えろと??
つか兵站補給の話で、陸軍と海軍をまぜこぜにしてる人ははじめて見たよ…
466 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 00:49:38 ID:5dgLoX7T
げ!!20秒未来の人がいる!?
467 :
某研究者:2007/03/19(月) 02:07:49 ID:HejkaUFj
西欧軍
騎兵
3クオーターアーマー・ピストル・サーベル
歩兵
コルスレット(半身鎧)パイク ハルバード(少数士官のみ)
照門も無い精度の低い火縄銃
軽量砲・重砲(少数)
騎馬武者
当世具足 槍 十文字槍・大身槍・薙刀・管槍・馬上筒(此れは少数か)
足軽
貸し具足 パイクと同等の3.5mの槍 管槍(此れは普及率はどうなのかだが)
精度の高い火縄銃
大筒(西欧の軽量砲と同等)
銃や大筒は日本の砲が数も多く
精度も高いだろうが
騎兵のピストルは西欧の方が圧倒的に多いだろうが
グスタフの様に歩兵の銃撃で敵騎兵を混乱させてから
突撃すればだろうし
日本の場合はグスタフの軍同様に
歩兵は騎兵に随伴していた訳だろうか
468 :
某研究者:2007/03/19(月) 02:10:06 ID:HejkaUFj
城の性能差と言うのはどうなのかだろうし
日本側は塹壕を掘って攻略と言う事は
出来たのかだが
野戦陣地は信長の使った様な土塁や塹壕を
多用すると言う事に成るのかだが
此れは城同様に塹壕で攻略される危険も
有るのかどうかだが
艦艇に関してはコピー品は
何隻か作られているだろうし
スペイン船を撃沈したと言う記録も
有るだろうか
469 :
某研究者:2007/03/19(月) 02:11:51 ID:HejkaUFj
日本側は騎兵のホイルロックピストルと
此れを止められる程度の胸甲が
作れれば良いだろうが
バフコートの様な物迄
装備出来るのかだが
白兵武器は槍を使用し続けた方が
良いかも知れぬが
470 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 02:58:44 ID:rQhZOX4v
471 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 04:21:04 ID:m2JNCm6+
兵站能力云々はともかく、
20万にのぼる兵隊を短期間に渡海上陸させ、長期駐留、
概ね軍組織を堅持して7年間戦いつづけたという能力は
物心いずれの面からも、
外国はどうか知らないが、400年以上も昔にしては驚嘆に値する。
わずか数ヶ月で完成させたという臨時の拠点名護屋城址を見ると、
当時のエネルギーが伝わってくる。
472 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 08:12:27 ID:rH+K8y0/
>>453 5週間というのは、城の備蓄としてはかなりギリギリのラインに思える。
473 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 15:09:25 ID:2nvYwgPz
前近代で十数万の軍隊が海上補給だけで維持するのは不可能
朝鮮ではどの程度現地徴発していのだろう
474 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 15:26:19 ID:K/GUfUFQ
475 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 15:32:41 ID:D5jjPdSp
>>453 >ただ土民の蜂起が原因で釜山からの輸送が困難だから撤退しましょう
要するに補給が続かずに撤退ってことだべ?
無くなってから撤退するのと、無くなる前に撤退するという違いはあるけど。
476 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 15:57:52 ID:5dgLoX7T
>>473 文禄の役のときなんか平壌城占領時に10万石接収してるし、
黒田長政も2万石秀吉渡海のために集めてほめられてる。
文禄の役は急進撃で蓄積されていた税を各城ごとどんどん占領したし、
当初はほぼ食料は現地調達、と考えていいと思うな。
で、秋には占領地域に税をかけた。
国内と同じ四公六民で半分は現地部隊残り半分は集積が基本で。
まぁ足りなくなると各部隊独自で強制買い上げ徴収やらやってたみたいだけど。
ただ、壱岐対馬にいる部隊は国内からの補給だし、
釜山に国内米送れって秀吉の指示もあるし渡海輸送は行われていた。
問題はどの程度の量が?なんだけど、それはよくわからないっぽい。
まぁ少なくとも両役を通して釜山には物があふれていたからかなりの量だと思うけど。
477 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 16:20:07 ID:5dgLoX7T
>>475 いちお秀吉は「米は釜山に送ってあるから」って現地軍をなだめてるし、
すくなくとも渡海軍の物資が欠乏していた(飢えた部隊)事実はないね。
本当に物資が欠乏した侵略軍はロシア攻めナポレオン軍みたいになるはずだよ。
あと明と休戦交渉が行われる前提のひとつが撤退だったし、
各部隊しらべたら、兵の充足率が6割を切ってボロボロだったこととか、
(これは米主食にする軍の最大の問題、脚気でへってた)
補給というよりは、ほかの(政治とか)理由で撤退した、と考えるのが適当かと思うな。
つか嫌戦感情は当時でも日本国内外で広まってたしね(やる気があるのは秀吉だけ)
で、朝鮮国王の激が飛ぶと各地でレジスタンスが起こって占領地の補給が…
っていうのは、近代でもおこってる侵略軍に共通の問題だから、
軍としての兵站能力で考慮すべき点かどうか、はどうなんでしょ??
478 :
某研究者:2007/03/19(月) 20:08:04 ID:RUFx1GOB
朝鮮から挑発し尽くした後は
明に攻め込んで食料を調達すると言う
方向も有った訳だろうが
武将達が本土から離れて戦う事に
不安を覚えたと言う
可能性も有るだろうし
自分たちを見殺しにして本国の領土を秀吉が
奪うのではないかと言う不安も
有ったかも知れぬが
479 :
某研究者:2007/03/19(月) 20:10:02 ID:RUFx1GOB
>長柄隊の槍は5m弱〜6m強ありますよ
大概の足軽の槍は3.5m程度だっただろうし
6mの槍を装備した部隊等は何処迄有ったのか
どうかだが
480 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 22:50:59 ID:1whD5NRL
>>474 飢餓というのは個人の食料が欠乏した状態だが、
>452で述べたのは軍の備蓄が欠乏してるということだ。
五週間というのが具体的にどのくらいなのかはソースを持たないのでわからないが、
平時の五週間分だとすれば一二回まとまった軍事行動を行えば飛んでしまう量だ。
むろん撤退も軍事行動なので、余裕がある状態とは言い難いように思う。
備蓄量と消費量を定量的に示せといわれたら無理なのでごめんなさい。
481 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 00:12:47 ID:4twHopV3
>>480 遠征先の最前線で平時も何もない気がしますが…
”平時の量”がどれくらいをさすかわかりませんが、
まぁつい一月二六日には碧蹄の戦いが目前であった後なので、
常に戦闘を意識した話(報告)ではないでしょうか。
さらに一週間後に楊州から漢城用の兵糧集めてますので、
実際の撤退直前には兵糧はもっとあったと思われます。
(つまり撤退しない選択もありえたかと)
ただ漢城釜山間の街道の実情は数百人程度の護衛がないと
小荷駄が運べないほどパルチザン?が跋扈していたので、
それが撤退の主原因だったとは思われますが…
482 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 05:08:54 ID:tqpUortm
>>479 「長柄」と「持槍」は別物だと認識していますか?
武田家の備を見て貰えればわかるんだが、
最前線の槍部隊が「長柄隊」、その後ろに徒侍、さらにその後方に「持槍隊」が居る
なお武田家の長柄は、長柄としては標準的な5.4mほどの槍
まあ、持槍ですら3.5〜5m程あるんだが
483 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 11:07:03 ID:pO9t5ftj
>>476 >まぁ少なくとも両役を通して釜山には物があふれていたからかなりの量だと思うけど。
大戦末期の日本で空襲や徴兵による人手不足で物流が崩壊して、港には穀物が山積みで
芽が出てたりしたのに国民の多くが飢えていたのと似たようなもんかな。
484 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 11:22:56 ID:pO9t5ftj
>>477 >軍としての兵站能力で考慮すべき点かどうか、はどうなんでしょ??
それで作戦行動に支障を起こすわけだから当然考慮しなきゃだめだろ。
米ばっか食ってて脚気が蔓延というのも含めて。
485 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 13:51:10 ID:4twHopV3
>>483 秀吉政権は日本→釜山までの補給を担当し、釜山から先は現地部隊独自で担当していました。
先の現地部隊の批判は、兵士が足りないから小荷駄隊護衛に人が割けない事情が大きかったと思います。、
黒田如水が「秀吉本人か家康利家が渡海していればこんなことには…」という批判をした、
という話が残っているくらいなので、
当時から前線指揮官の(補給を含めた)戦略的判断に問題があったのは事実かもしれません。
でもまぁ、秀吉軍が内地からの補給を重視していた遠征であったに違いはないと思います。
>>484 レジスタンス対策なんて軍の兵站の評価に考慮しますかね…
少なくともスレタイの当時の軍の能力比較で考慮する必要はないかと。
あと脚気対策なんて英国海軍(それも秀吉時代の100年後)くらいに初めてとられたんで、
日本でビタミンが発見されるまで、どこの国も知らなかったことですよ。
逆にほかの伝染病、赤痢チフスが大流行しなかったのは、米偏食のおかげかも。
(朝鮮海軍ではチフスで全軍一割程度の死者を2回ほど出ています)
でもまぁこれは兵站というよりは保健衛生の問題で混ぜて考えるのは…
486 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 14:08:24 ID:pO9t5ftj
>>485 >あと脚気対策なんて英国海軍(それも秀吉時代の100年後)くらいに初めてとられたんで、
>日本でビタミンが発見されるまで、どこの国も知らなかったことですよ。
日本以外の国には脚気はほとんどなく、最初は細菌による風土病と思われていたぐらい。
対策も何も、西洋などのように肉や野菜中心の食生活ならそもそも発生しない。
つまり、「各国の軍隊が長期間戦ったとしてどっちが勝つか」という架空の話をする
場合は、他国の軍隊は少なくとも脚気にはならないのに対し日本の軍隊は常に脚気の
心配をしなくてはならない。
脚気で実際に兵が4割以上も損なわれる(
>>477の記述より)というのは到底無視できない
ファクターだろう。戦闘で3割も損耗したら全滅と判定されるぐらいなのに。
487 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 14:20:03 ID:pO9t5ftj
>>485 >レジスタンス対策なんて軍の兵站の評価に考慮しますかね…
ある目的を果たしたい時にそれを妨げる要素を効果的に排除できるか
どうかというのが目的達成の能力というものではないのか?
あるところに物資を送りたいが、十分な量が送れないとする。その原因が
道路が悪いのならば道路を整備し、人手が足りないなら十分な人数を手配し、
レジスタンスに邪魔されるんなら効果的な護衛手段を講じる。
こういう努力を全てひっくるめたのが兵站というものだ。
488 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 15:04:35 ID:LDh0glzi
>486
正味3割減ってもまだ日本軍のほうが多いがな
かの30年戦争の最盛期でも 西欧諸国の最大動員数はせいぜい10万ちょいってところ
1600年以前なら 欧州最強のスペインですら5万も揃えば良いトコ
関ヶ原で日本全国まとめりゃ30万動いてた当時の日本諸侯とは桁が違うわいな
489 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 15:23:07 ID:4twHopV3
>>486 ちょっと話の焦点があいまいなのですが、なにを批判されているのでしょう?
”秀吉渡海軍の物資が朝鮮前線で欠乏していなかった”もしくは
”秀吉渡海軍の兵站は当時としては最先端だった”という主張に対してですよね?
上の欠乏に関しては>485のとおり、現地部隊担当の補給線の問題
(現地軍の兵士数が足りないために運べない)
が大きく当時でも現地指揮官について批判が出ています。
ですが文禄の役では「物が全然ないよ」という記述はありません。
これは秀吉も嘆いているように「日本が小国」なために
出せる兵士の限界を超えていたのが実情ではないでしょうか??
で、細かいことですが…
当時の西欧では行軍するだけで1割は損耗していたのが実情でした。
そのような(保健衛生上も含めて)損耗と、戦闘での死傷者とを同じレベルで評価するのは…
>>487の”こういう努力を全てひっくるめたのが兵站というものだ”
というカッコイイ占めについては、
まったくもって「人力しかない16世紀の話でソレか!?」としか、返す言葉がないのですが…
490 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 18:24:56 ID:pO9t5ftj
>>489 >これは秀吉も嘆いているように「日本が小国」なために
>出せる兵士の限界を超えていたのが実情ではないでしょうか??
当時の日本の人口は世界でも有数、戦闘員の人数に至っては明を除けば
トップクラスですよ。
>まったくもって「人力しかない16世紀の話でソレか!?」
ローマ人が紀元前に実現していたことだし。
491 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 18:28:39 ID:pO9t5ftj
>>489 >当時の西欧では行軍するだけで1割は損耗していたのが実情でした
さて、1割の損耗と4割の損耗、どっちが多いですか?
戦闘での損耗も他の理由での損耗も軍隊の機能が喪失するという意味では同じこと
だし、むしろ何で区別する必要があるのかわからない。
492 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 18:44:27 ID:pO9t5ftj
>>488 なんで3割損耗で全滅と判定されるかというと、そのぐらい減ってしまうと
指揮系統やら役割分担がぐちゃぐちゃになってしまい、軍が機能しなくなって
しまうから。
社員1000人の会社で、いきなり300人が辞表を出したときのことを想像すると
なんとなくわかるんじゃないだろうか。
特に封建制の軍隊の場合、指揮官Aが死んだからといってAが率いていた家来
(総大将直属の部下ではなくA個人の家臣)を別の指揮官Bの部隊に簡単に
編入するわけにもいかないため、軍の建て直しには非常な困難が伴う。
最初から700人しかいない軍隊と、1000人いたのが300人減って700人になった
軍隊では同じ人数でも全然違うのよ。
493 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 18:55:12 ID:pO9t5ftj
>>489 >ちょっと話の焦点があいまいなのですが、なにを批判されているのでしょう?
↓これらの考え方。兵站というものを限定的に見過ぎ。
>>477 >軍としての兵站能力で考慮すべき点かどうか、はどうなんでしょ??
>>485 >レジスタンス対策なんて軍の兵站の評価に考慮しますかね…
494 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 19:54:41 ID:D2s3gLx5
オランダ駐留のスペイン軍とか病気&逃散でボロボロじゃね?
495 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 20:00:40 ID:xWjkljJo
オスマントルコ軍VS戦国日本は?、まあ明相手で朝鮮でてこずった戦国日本じゃオスマントルコ軍には勝ち目がないと思うけど。
496 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 20:06:02 ID:LDh0glzi
>492
全滅判定は4割じゃなかったけ?
まぁそれはいいとして
戦闘での損耗と行軍損耗では意味が全然ちゃうだろ
行軍時に損じるのは概ね下級の兵卒 栄養状態や装備の質・待遇が多少なりとも良好な各級指揮官・古参兵の消耗はさして多くはならんわけで
故に指揮系統まで逝かれるなんてことにはなかなかならん
戦闘時に指揮系統がどうこうなるのは 基幹要員も兵卒もおおむね平等に損耗していくからだ
強行軍で大いに兵を減じている部隊がそのまま再編されて会戦突入 なんて事例は 探せばままあること
っつーか 極端に単純化してみりゃ
行軍で3割前後消耗する15万の軍隊と
行軍で1割前後消耗する5万の軍隊
同じだけの距離と時間行軍したあと殴り合えばどっちが勝つかっつー話にならーな
497 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 20:59:45 ID:YlLlj+/S
いや、そもそも脚気は精米された白米を食べるようになった江戸時代になってからはやったんだけどなあ。
「江戸患い」て別名があるくらいだし。
戦国時代はまだまだ玄米が主力だから、脚気の罹患率が4割に達するというのはちと想定に無理がありすぎる。
それ言うなら、壊血病とか欧州側にも問題はあるよ。
498 :
某研究者:2007/03/20(火) 21:20:17 ID:AdzoAUug
歩兵槍は3.5m
騎兵槍は2.5m程度と言う
事だったかも知れぬし
6mの槍は少数の兵が使用して居たのでは
無いのかだが
499 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 21:33:16 ID:Uw6HHBEW
>>495 オスマントルコもマルタを陥せなかったね
500 :
某研究者:2007/03/20(火) 21:43:20 ID:AdzoAUug
>長柄槍・・・長さは3間(約5.4m)の物が主流だが、織田家では3間半(約6.3m)上杉家や北条家では2間半
> (約45.m)の長槍を使っている。
> 兵の弱い家ほど接近戦を嫌い、柄を長くした槍を使っているようだ。
6mの槍等を大量に使用して
何か問題は出ないのかだが
マケドニアファランクスの様に機動性の低下を招くと言う事は
無いのかだが
501 :
某研究者:2007/03/20(火) 21:50:11 ID:AdzoAUug
西欧軍とやったら6mの槍を用いても
ハルバードを持つ士官や
下馬騎兵に踏み込まれて
アウトと言う事は無いのかだが
502 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 21:54:51 ID:r+2GP1Jl
>>499 俺はイェニチェリと戦国日本の軍勢どちらが強いか根拠に出来る史料も知識もないが、
さすがにマルタ攻防戦をあげるのはちょっとダメだと思う
503 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 21:58:50 ID:Uw6HHBEW
504 :
502:2007/03/20(火) 22:19:55 ID:r+2GP1Jl
sageわすれスマン
>>502 そうでしたか、失礼しました
しかし日本でオスマン海軍の文献ってないかな?
一応。近代オスマン海軍と海運の研究書は読んだけど、軍事的記述は余りかかれてなかった。
505 :
502:2007/03/20(火) 22:20:39 ID:r+2GP1Jl
506 :
某研究者:2007/03/20(火) 22:23:54 ID:AdzoAUug
篭城戦では完全鎧を着た騎士に
オスマンの歩兵は不利だったと言う
事だっただろうし
レパントでもトルコは大砲に敗れたのでは無く
重装兵に近接戦闘に持ち込まれて
敗れたと言う事だっただろうか
507 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 01:34:58 ID:f8ityCeq
508 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 01:36:51 ID:f8ityCeq
509 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 03:25:37 ID:rML3u9je
510 :
仙台藩百姓:2007/03/21(水) 04:54:30 ID:/75uQhGK
つまり北条や上杉が最弱ということかお( ^ω^)
接近戦を嫌うあまり45mまで伸ばしたと
511 :
名無し三等兵:2007/03/21(水) 06:55:20 ID:FvzHRAcl
これで鉄砲隊とも戦えると
512 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 07:19:58 ID:ScFHHnca
>>498 馬鹿か?
長柄は備の最前線に陣取るつってるだろ、
それが少数でどうするよ
想像で話す前に、備の図絵でも見てこい
513 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 10:05:23 ID:nGLeVyZ9
>>496 戦闘時だって、装備がよく後方で指揮を取っていることの多い指揮官クラスの損耗は
一般兵より確率低いし、平等に損耗していくということにはならないだろ。
514 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 10:06:58 ID:nGLeVyZ9
>>477 脚気のせいで兵の充足率が6割を切ってたって、何の資料に書いてあるの?
515 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 10:20:58 ID:nGLeVyZ9
>>497 兵糧米としては、玄米と比べると炊くのに必要な時間が短く、食べやすくて腹を壊しにくい白米が
主流だったというのをどっかで読んだ記憶があるが定かではない。
516 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 11:11:08 ID:iYjvtt0f
ちなみに玄米を大量に食べる場合、各種ミネラルを含む野菜などの
副食物を十分にとらないとミネラル欠乏症になる。
517 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 17:17:01 ID:SM4zDnkB
>>514 書き方が悪かったかなぁ、、これだと脚気で4割減った、ともとれますね…
当時は兵員充足率が6割だったが、それは戦闘での損耗や脚気などで、
けっして物資が欠乏していたわけではない。
…ってつもりだったんですが。
当時の”腫気”は症状から脚気と見られています。
当時は水があわないため、と考えられていて、
伊達政宗によると「発症したら十人中八人は死ぬ」状況だったようです。
小西行長の部隊でも鳥目が多く発生していたようで、
遠征軍の食事内容はビタミン不足、新鮮な食物よりは貯蔵品ばかり主食だったかと。
>>493 >兵站というものを限定的に見過ぎ。
16世紀前提で今の兵站の定義からどうのこうの、というのは…
は、おいといて、つか「遠征軍で欠乏していたのは何なのか」、
ソレを具体的に挙げていただければ、話は簡単なんですよ。
「物がある」って記録より、「あれが足りない!!」ってほうが
記録には残りやすいですから簡単ですよね??
518 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 18:53:16 ID:nGLeVyZ9
>>517 脚気限定じゃなくていいけど兵の充足率が6割切ってたってのは何の資料に載ってるの?
反論とかじゃなくて、単純に読んでみたいから教えてくれるとうれしい。よく、「戦闘では連戦
連勝だったけど補給が続かなくて負けた」みたいなことを書いてある本を見るけど、4割も兵士
が減ってたってことは結構戦闘でも苦戦してたのかな?
519 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 19:03:40 ID:nGLeVyZ9
>>517 >「遠征軍で欠乏していたのは何なのか」、
>ソレを具体的に挙げていただければ、話は簡単なんですよ。
小荷駄の運用に支障が出れば(
>>481)、現地調達できない必需品が全部不足するような気がするが。
食料はまだしも現地で購入or略奪ができなくもないかもしれないけど、弾薬は無理っぽいし。
520 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 19:33:41 ID:nGLeVyZ9
ソレを具体的に挙げていただければ、話は簡単なんですよ。
文禄元年に漢城にいた石田三成が長束正家に送った手紙にはこうある。
***
大明国へ年内乱入事、先手へ申遣、跡々の衆可押詰之由令相談候之処ニ、小西(行長)都(漢城)へ
罷越、さきさき兵糧己下も之無、其上赴寒天如何之由申候、又跡之路次無人にて通路不輙候付而
(たやすからず)、先被仰付国都へ入渡所務申付静可申通、各致相談、得、御掟候事
***
小西行長が「さきさき兵糧己下も之無」と報告してるようだな。
521 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 20:38:49 ID:ESCriXee
522 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 21:05:27 ID:SM4zDnkB
>>518 文禄二年三月二十日に漢城の日本軍の調査してます。以下実数(定員)。
小西行長6626(18700)加藤清正5492(10000)鍋島直茂7644(12000)
大友吉統2052(6000)毛利吉成1425(2000)
>>520 なるほど。たしかに回戦初年度の進撃に兵站がついていかなかったのは否定できませんね。
ですが、当時どころか鉄道ができるまでは、あの進撃スピードを支えられないような気はします。
けっして「当時としては兵站が優秀だった」ことを否定できるものではないのでは?
そして2年目以降、たとえば漢城撤退一ヵ月後に普州城攻めをする状況は
”遠征軍は物資不足”だといえますかね?
国内からの物資輸送が順調に行われていたから、のような気がしますが。
523 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 21:17:08 ID:rML3u9je
>>514 >各部隊しらべたら、兵の充足率が6割を切ってボロボロだったこととか、
>(これは米主食にする軍の最大の問題、脚気でへってた)
・これは(充足率6割に対しての「これは」)〜で〜だった
お前の書いた文章を要約すると、「充足率が6割を下回ったのは、脚気で減ったからだ」
>これだと脚気で4割減った、ともとれますね…
「とも取れる」じゃなくて、「としか取れない」だボケ
「これは」で充足率6割云々を指定し、「〜で」って原因を限定しておいて何言ってんだお前
日本史なんてやんなくていいから、先ずは、日本語を勉強してからこい
524 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 21:50:45 ID:SM4zDnkB
>>523 む? 括弧のなかの文章は補足の意味合いで使っただけですが…
まさか「兵の消耗は補給の欠乏の結果ではない」という意図の書き込みが
「6割」とか「脚気」だけ焦点になるとは思いませんでしたので。
ご面倒でしょうが、発端のレスから呼んでいただけると、
おいらの意図もわかっていただけるかと。
525 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 22:11:00 ID:nGLeVyZ9
>>522 「兵站が追いつかないほどの進撃をしてしまう」ことそれ自体が兵站軽視を示していると思うのだがどうか。
そもそも
>>481 >ただ漢城釜山間の街道の実情は数百人程度の護衛がないと
>小荷駄が運べないほどパルチザン?が跋扈していたので、
>それが撤退の主原因だったとは思われますが…
撤退の主原因を「小荷駄が運べないこと」と書いてるのは君自身だよね(文体から見て。違ってたらごめん)
小荷駄が運べないのに物資が欠乏せず、物資が欠乏してもいないのにそれを撤退の主原因にするってのは
明らかに矛盾してるじゃないか。
526 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 22:12:55 ID:nGLeVyZ9
>>524 >まさか「兵の消耗は補給の欠乏の結果ではない」という意図の書き込みが
>「6割」とか「脚気」だけ焦点になるとは思いませんでしたので。
書き方が悪いってことだ。そもそもそういう意図を伝えたいんならなんで脚気の話なんて
書いたんだ?必要ないだろ。
527 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 22:26:40 ID:nGLeVyZ9
>>522 >文禄二年三月二十日に漢城の日本軍の調査してます。以下実数(定員)。
>小西行長6626(18700)加藤清正5492(10000)鍋島直茂7644(12000)
>大友吉統2052(6000)毛利吉成1425(2000)
その資料名を教えてくれ。読んでみたいから。
その年の二月に秀吉が出した朱印状で、「漢城の兵糧備蓄は一万四千石しかなく、
このままでは三月までしかもたない」という内容のものがあるので、漢城にいた実際の
人数がわかれば兵糧の「○日分」を、平時の消費量(一人一日三合)で計算しているのか、
戦時の消費量(一人一日六合)で計算してるのかがわかるんだ。
528 :
527:2007/03/21(水) 22:30:10 ID:nGLeVyZ9
529 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 00:27:54 ID:odL1WquK
>>523 >括弧のなかの文章は補足の意味合いで使っただけですが…
何を補足しようとした文章なんだよ?
直前の文章ではなく、遥か彼方の、ある文章に対する補足の文章だと言うなら、その文章を引用してみろ
括弧内の脚気云々で補足される様な文章なんてない、あるなら引用しろ
日本語が不自由なだけならまだしも、何でそんな小学生みたいな嘘つくわけ?
530 :
某研究者:2007/03/22(木) 00:35:34 ID:4zVnvEtR
>長柄は備の最前線に陣取るつってるだろ、
>それが少数でどうするよ
最低でも最前列は長槍なのかも知れぬが
マケドニアファランクスの様に
全部が長槍と言う事では
無い訳だろうか
(まあ長槍足軽も
精鋭の短槍兵や下馬した騎馬武者に踏み込まれて
やられている例も多かったのか
どうかだが)
531 :
某研究者:2007/03/22(木) 00:58:42 ID:4zVnvEtR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99 >備の戦闘隊形は西洋のテルシオやマウリッツなどの陣形と異なり厳密な操典はなく又、密集隊形を採らずに各部隊を一列横隊(場合によっては二列)ごとに並べるもので、その配置も戦況に伴い頻繁に変更を行った。
前列の槍隊の一部がやられた時は
後列が此れを素早く埋められたのかだが
騎馬武者が下馬して此れを埋めたと言う
可能性も有る訳だろうか
532 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 01:36:45 ID:AX/oBWF5
>>527 書いてあるとおりの期日に三奉行が監査して全軍が五万三千人とした結果の一部ですが…
抜粋数値は旧陸軍参謀部のをそのまま書き写しました。元文書は図書館でも探して…
533 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 01:39:00 ID:AX/oBWF5
>>526>>529 まぁそこはそれ、”痴者”の書くことですからご勘弁を。
脚気は蛇足はご指摘とおりですね。相手にわかりにくい文章だ、というのも同じく。
まぁ発端は、
「秀吉の外征は、兵站の手抜きっぷりを見ると本気だったとは思えないな(
>>449)」
から
>>450>>452>>453>>472>>
>>476>>477の流れなのですが、
脚気を出しちゃったのは(この話題と関係なく)同時代の大軍では必ず流行していた
チフス赤痢が渡海軍では大問題にならなかったのはなぜか気になっていたので思わず…
まぁ秀吉渡海軍は同世代の軍隊とはかなり異質だったと思いますね。
534 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 02:31:48 ID:sZ88jg7o
535 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 08:09:36 ID:odL1WquK
>脚気を出しちゃったのは(この話題と関係なく)
補足云々はやっぱり嘘か
息をするのと同じような感覚で、すぐバレる嘘をつくなよ
恥ずかしくないのか?
536 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 08:53:56 ID:IXIfJVzr
537 :
某研究者:2007/03/22(木) 09:50:58 ID:P5A/PaW+
槍は基本的に同じ長さで統一されて居るのか
どうかだが
10mの槍を使う足軽も居たと言うが
此れは3.5m程度の槍を持つパイク兵と戦ったら
無敵なのかどうかだが
ハルバード兵や下馬騎兵には対抗出来るのかだが
(此れは日本側の下馬騎兵や精鋭歩兵等が
対応すると言う可能性は有る訳だろうか)
信長の場合は騎馬武者も長い槍を使用して居たと言う事は
無いのかだろうし
本田忠勝等は6m等の槍を使用して居たと言うが
騎乗時は別の短槍を用いて居たと言う可能性も
有るのかどうかだが
(騎馬武者も下馬時は3−10mの槍を
使用して居たと言う事は無いのかだが
乗馬時は2m程度なのだろうか)
538 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 09:58:28 ID:LfIbQONm
元寇の時も朝鮮出兵の時も日本の武士達って完全に個人プレーに
走っちゃってて、統率って何でつか?状態。
それでもある程度戦果をあげちゃうとこが凄いがw
539 :
某研究者:2007/03/22(木) 12:16:01 ID:P5A/PaW+
10m等の十文字槍等が
使われたのかだが
6mの管槍なら有ったと言う情報も
有っただろうか
540 :
某研究者:2007/03/22(木) 12:17:45 ID:P5A/PaW+
石の方が弓より威力は有るかも知れぬし
石の射程に入れば弓兵は石を投げたと言う事かも知れぬが
槍兵も石を投げたのかどうかだが
或いは石を投げる専門の兵は
居たのかどうかだが
鉄砲足軽も石の射程では石を投げたのか
どうかだが
541 :
某研究者:2007/03/22(木) 12:38:10 ID:P5A/PaW+
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/ancients/arms.html >石が有用な武器であったのは、弓が貫通力をもって敵を殺傷するのと違って、弾丸の衝撃力によって敵を倒す武器であったからである。
>すなわち、弓(矢)は急所に貫通しなければあまり意味がなかったのに対して、石は、命中さえすれば致命傷を負わすことができたばかりか、腕や足に命中しても、その骨を砕いて戦闘不能に陥らせることができたからである。
>投石の威力を増す武器が「投石具(sphendone)」であった。長さ100〜150cm。重さ0.1kg程度。形状はあたかも眼帯のごときもので、
>中央の石受けに石ないしは鉛弾を包み、両端を握りしめて頭上でふりまわし、加速度をつけたところで片方の端をはなす。
>ロドスの投石兵は、ペルシアの弓兵の射程をも凌ぐほどだったとクセノポンは報告している(『アナバシス』第3巻 第4章 第16節)。
>たしかに、投石具による投石の射程は100〜150mと、弓の射程と変わらなかった。
日本の投石は此所迄は飛ばぬのかも知れぬが
銃は兎も角弓よりは威力は高いと言う
事なのだろうか
542 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 15:09:40 ID:IXIfJVzr
>>567 士卒はともかく、長柄は統一されているだろう
理由は考えればわかる
というか10mの長槍のソースをくれ
wiki以外でみたことないぞ、それ
できるならば史料でよろしく
543 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 17:32:48 ID:odL1WquK
ロングパス
544 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 17:47:32 ID:odL1WquK
545 :
某研究者:2007/03/23(金) 01:25:41 ID:0uF+fa2R
足軽の100mからの銃砲撃で
西欧歩兵は壊滅し
騎兵は足軽の6mの槍で阻止された後
近距離から銃撃され
壊滅すると言う事なのだろうか
546 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 03:08:51 ID:G7fRzwA4
547 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 03:38:18 ID:CisTua09
>>544 おすすめ2ちゃんねるで飛んできた。
うっわ某研懐かしい数年ぶりに見たわーとか微妙に感動してたが、
一気に有り難みが失せたww
なにこの某研群生地wwww
548 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 08:26:53 ID:/H4tjbdW
某研てスクリプトだろ?
549 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 09:51:48 ID:LX0fysZ4
>>544 某研レス数:243/328(レス数/総レス数)
某研発言率:74%
3/4を一人で埋めてるのかよwwwww
550 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 18:11:49 ID:QJh3UDUg
ちょwうぇw
551 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 19:59:10 ID:Cc06rr4Z
「戦国期日本と某研究者の戦力比較」スレになりますた。
552 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 23:20:33 ID:hoCvuiRH
朝鮮の役で鉄砲装備率が上がったっていう資料を見た覚えあるんだけど、
6割から8割だとか。
槍部隊は朝鮮ではあまり活躍していないとか。
553 :
人間七七四年:2007/03/24(土) 00:02:58 ID:xLtQu16u
>>551 そりゃ某研の勝ちだろ。人間は自然現象には勝てない。
554 :
人間七七四年:2007/03/24(土) 01:54:26 ID:0jJGR+Hv
とりあえず、「日本軍が欧州に攻め込んだ場合」と「欧州が日本に攻め込んだ場合」はホーム側の圧勝で異論はあるまいが……
どういう条件で、くらい決めて話さないと意味無いんじゃね?
100平方キロの土地に同人数集めて戦った場合とか、数は揃えられるだけ揃えていいとか、
気候は温帯か寒帯か、地形は平原か山岳か森林かジャングルか、とか。
あるいは、ヨーイドンで中東に侵略した場合どっちが大戦果を挙げるかとか(このへんで政治の話が入りそうだが)。
……日本VS海外諸国だと、イロコイ族からモンゴル騎兵まで含めて相手にせにゃならんのか。
100平方キロの平原で、欧州1万対日本1万とかで話せばいいんじゃねと思うが。
既にどっかでやってそうだな。
555 :
某研究者:2007/03/24(土) 03:20:48 ID:bJI1m5Vj
朝鮮侵攻軍16万の内
銃兵は4万だっただろうから
1/4程度は銃を装備していたと言うが
射手は1万程度だったと言う事かも知れぬが
残りは槍が大半であり
騎馬武者は1割程度と言う事かも知れぬが
他には大阪冬の陣で使用されたと言う
300程度の大筒は有ったのかどうかだが
556 :
人間七七四年:2007/03/24(土) 04:57:28 ID:qbZuX9Gn
>>554 「戦力を比較するスレ」なのに、
何で「どっちが強いだの勝つだの」どうでもいいことを決めたがってんの?
すれたいのかんじがむずかしくてよめなかったの?
557 :
某研究者:2007/03/25(日) 06:44:14 ID:0hOOClYW
マラトンの戦いの様に
西欧歩兵が火縄銃の射程に入った瞬間に
全速で突入して来たら
此れを阻止出来るのかだが
槍の長さの差で阻止は可能なのかだが
騎兵が直前で下馬して突入して来たら
此れを長槍兵では阻止出来るのかだが
この様な運用は実際には行われて居らぬ訳だろうし
日本側の銃砲撃で西欧軍が壊滅すると言う
事だろうか
558 :
某研究者:2007/03/25(日) 06:57:56 ID:0hOOClYW
559 :
某研究者:2007/03/25(日) 07:02:18 ID:0hOOClYW
西欧の歩兵が近接する前に
(此れはマラトンの様に高速移動は
しないかも知れぬが)
高精度の火縄銃で打撃を出来るだけ与え
西欧軍の近距離での銃撃時のダメージを
出来る限り抑え
パイクより長い槍兵で撃退すると言う
方向だろうか
(敵騎兵は銃撃と槍で
抑える訳だろうか)
560 :
某研究者:2007/03/25(日) 07:14:19 ID:0hOOClYW
http://mltr.e-city.tv/faq09b03.html >パイク+銃に対して剣をメインとした歩兵が勝利した事例としてはスコットランド高地人の「ハイランドチャージ」がある.
>これは剣と盾を装備した歩兵がパイクの密集陣に正面から突撃,パイクを盾で受け止めてから穂先を剣で切り落として無力化するという豪快な戦術だ.
>これも銃剣の普及で有効性が低下した.
この様な戦術を使われると
火縄銃の精度の優位や
長槍の優位が
損なわれる可能性も有るだろうが
ハイランダーしか使わなかった
戦術なのだろうか
561 :
某研究者:2007/03/25(日) 07:19:41 ID:0hOOClYW
ローマ兵も似た様な戦術だろうが
長槍兵に対して全力で突進はしたのだろうか
(まあローマ兵も全身を防護出来る盾は持たないので
相手の投げ槍や弓を避ける為に
高速で移動したと言う可能性は有るだろうが
ギリシャ兵はマラトン以外では高速移動したのかだが
マケドニア歩兵はマラトンの様な高速移動は無理なら
射撃を長時間受け続けた可能性は有る訳だろうか)
562 :
某研究者:2007/03/25(日) 07:21:55 ID:0hOOClYW
攻城戦や塹壕戦では
日本側は城・陣地に対して塹壕は掘ったのかどうかだが
トンネルは掘っていた訳だろうが
何れが有効な戦術なのだろうか
563 :
某研究者:2007/03/25(日) 07:24:02 ID:0hOOClYW
城の耐久性は西欧・日本何れが上なのかだが
日本側の城壁も傾斜しているから
大砲に対する防御力は有るのかも知れぬが
日本側も兵力の割りに
大筒の門数は少ない(18万で300門)と言う意見も有るが
関ヶ原で大筒1000門が使われたと言う意見も
有る訳だろうか
564 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 08:02:45 ID:BApwTAp2
信玄なら楽勝
565 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 17:26:02 ID:aFEk7wkG
オスマン軍と秀吉軍の兵站を比較すれば、あきらかに秀吉軍の方が上。
オスマン軍がペルシアへ遠征した時なんか、かなりの高官まで餓死している。
ヨーロッパ方面でもペルシア方面でも、逃げ回るカール5世やサファヴィー朝軍を補足できず、
大した戦果も無いまま、補給が切れて撤退というパターンを繰り返していた。
566 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 18:10:07 ID:GJyGDxPM
兵站に難があって対した戦果もないまま引き上げたのは、
朝鮮出兵も大して変わらないと思うが。
567 :
某研究者:2007/03/25(日) 23:01:20 ID:dlOGsjil
明軍に兵糧を焼かれたから撤退と有るが
何処の兵糧なのかだが
補給の続くルートから海上に抜けて
北京急襲と言うのは
無理だったのかどうかだが
半島南部の城砦群迄には兵糧は
十分供給されていた訳だろうか
568 :
某研究者:2007/03/25(日) 23:52:04 ID:dlOGsjil
ナポレオンの縦隊突撃と言うのも
銃砲劇を避ける為に
可也高速で敵に対して
突入していたと言う事は無いのかだが
569 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 23:56:31 ID:n9MGwj6I
「だろうか」でレス抽出すると凄いんだがw
570 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 01:34:48 ID:gXDczbTx
571 :
某研究者:2007/03/26(月) 01:44:16 ID:20148173
トルコが野戦を申し込んだが
断ったと言うが
この段階ではピストル騎兵も余り居ないので
トルコ騎兵に勝てなかったと言う
事かも知れぬし
ニコポリスの二の舞に成る事を
恐れたと言う事かも知れぬが
572 :
某研究者:2007/03/26(月) 01:47:29 ID:20148173
トルコ弓騎兵に重騎兵・カラビニエやリッターで
勝てるとは思えぬし
アドルフやリチャードの騎兵の様に
歩兵の銃撃の援護下で戦うと言う方向しか
無いのかも知れぬが
ニコポリスの様な騎士の勝手な独走を
恐れたと言う可能性も有るだろうか
573 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 11:35:45 ID:h91v0JA6
>>554 >100平方キロの平原で、欧州1万対日本1万とかで話せばいいんじゃねと思うが。
現実にありえない想定で話しても不毛だと思う。そんなことを言い出したらこのスレの
意義が無くなると言われそうだが、元々不毛なテーマだと思うし。
574 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 05:30:57 ID:wRAg0doh
>>566 「戦局は明と朝鮮の敗勢だったが、秀吉が死んだお陰で戦争が終わった」
というのが、朝鮮出兵についての明史の見解。
575 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 07:05:03 ID:PjYYpgnB
>>574 事実として戦闘には勝っているからそれはそうでしょう。
ところが、戦闘に勝っているにもかかわらず、
海岸線にへばりつく程度にしか進軍できなかったことこそが、
いかに兵站が乏しい状況だったかを如実に表している。
576 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 09:14:22 ID:/9gU4pp1
実質明・朝鮮を倒したようなもんだしな
577 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 13:00:43 ID:mDCadCdM
>>576 どっちの国も既に崩壊寸前の状態だったけどな。
朽ちかけた家に相撲取りがやってきて壁や柱をぶっ壊したようなもんか。
578 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 15:19:02 ID:SD66D9//
>>575 占領地だけで兵站語るなら、清が当時一番兵站がいかしてた軍隊になるな。
579 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 16:36:33 ID:ZsIfr/M+
秀吉が死ななかったら勝てたとはいえないまでも朝鮮ぐらいとれたかもしれん
580 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 17:23:10 ID:mDCadCdM
>>578 最盛期の清は、軍事的にも政治的にも当時の世界最高峰国家の一つと言っても
別に間違いじゃない。末路は悲惨だったが。
581 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 18:52:08 ID:ZQRuZfUN
戦時にあっては兵站、平時なら流通・通信のシステム。
これがダメだと巨大版図の獲得も維持も不可能。
582 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 18:55:47 ID:+Jrkvv5U
TVドラマの話しですまないが、「康熙王朝」や「雍正王朝」だと、遠征遠征連戦連戦の清の苦しい台所事情が描かれていて泣けるw
583 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 20:46:33 ID:PjYYpgnB
>>578 一番かどうかはともかく優れていたとはいえるでしょう。
兵站だけで敵地を占領できるわけではないが、
兵站がなければ敵地深部までの侵攻は不可能。
特に朝鮮の役の場合は戦闘そのものでは日本軍のほうが勝っているのだから、
にもかかわらず、づるづると退いて最終的に海岸線近くの拠点しか守れなくなっていたのは、
正に兵站に問題があったからとしかいえないでしょう。
584 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 22:46:57 ID:SR6cdimP
つーか
「15万以上の大軍を」
「完全な敵地に」
「完全渡海侵攻」
なんて事例 それ以前の世界戦史上全て見渡しても精々元寇くらいしか見当たらんわけで
そういうことが可能だと思った秀吉の判断を云々言うのはともかく
世界初ともいえる事例に果敢に挑戦し ある程度戦わせ得た当時の日本の能力は間違いなく史上に特筆されるべきものだろ
ノウハウの蓄積ゼロ そもそも当時の技術的限界とも思われることを実行し
>戦闘そのものでは日本軍のほうが勝って
>最終局面でも海岸線近くの拠点を確保しえた
ってことは充分以上に評価に値すると思うがなー
585 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 23:00:50 ID:sfkMMXQP
康熙帝即位から乾隆帝の治世終盤までの間に中国の人口は約3倍に増えてる(9000万→3億)。
これは、治安が向上して、戸籍から逃れていた人々を国がきちんと把握できるようになったというのも
大きいが、実際に食糧生産が急激に伸び、多くの人々がとにもかくにも食っていける状態になったと
いうこともあらわしている。兵站とはイコールではないが、まあ参考までに。
(もっとも、この極端な人口増加により、十八世紀終盤からは慢性的な食糧不足に悩まされていくことに
なるんだけど)
どの国も多かれ少なかれそうだが、特に中国の歴史は、多くの人間を食わせることができたやつが天下を
取り、王朝が衰退して食わせられなくなると滅亡するという繰り返し。その分、王朝を樹立するような勢力は
民や兵を食わせることには相当な神経を使っている。
586 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 23:02:24 ID:sfkMMXQP
>>584 戦略目標を達成できなかった戦争は全て「負け」ですよ。能力に見合った目標を立てられ
なかった時点で。
587 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 23:20:20 ID:ZQRuZfUN
諜報能力と情報分析力が足りなかったね。
588 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 23:41:58 ID:SR6cdimP
>586
いや勝ち負けとはまた別の問題でだな……
そもそも どこまでが可能でどこからが限界なのかというコトそれ自体がノウハウ皆無で分からんわけで
それを事前に予知して作戦を立てるなんてことは神様の所業だろ……
果敢に挑戦して敗れたとはいえ その挑戦自体の価値が下がるわけじゃねーだろうと
つーか このスレの意義に則って海外の国と比較するなら
そもそも十万を集めることすらできなかった同時期のスペインとかと比べてどんだけ上に行ってるのか っつー話にもなるわいな
589 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 00:05:06 ID:A97ZrotZ
>>586 「中華帝国をのっとる」なんて勝利条件立てた秀吉が悪いって事?
それいっちゃ”軍”の能力比較なんてできないんじゃぁ…
それに
>>574だと、明から見ると「遠征軍自体は負けてなかった」ってことになるね。
「勝手にやってきて勝手に暴れて勝手に帰った」
…っていうのは、なんというか政治的に評価に困るね。
590 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 00:10:42 ID:lVUsFf+K
なんかえらく兵站の問題ばかり強調してる人がいるが、
原因はそれだけじゃないでしょ。
中国国境付近まできたところで明の援軍が来てそれから
向こう側の攻勢が始まったんだから、何も兵站だけの問題だけじゃないでしょ。
朝鮮戦争の時も、あの辺りまで押し返したところで
中共の援軍が来て国連軍は押し返されたわけだしさ。
591 :
某研究者:2007/03/28(水) 01:44:46 ID:7mZfs+3h
日本側も篭城後に敵が疲弊した後の追撃に
もう少し拘っていたらだろうが
秀吉が死なずに島津が可也長期に戦っていたら
篭城・追撃を繰り返して
明軍は壊滅していた訳だろうが
清正は篭城は兎も角追撃は何故
やらなかったのだろうか
592 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 02:38:00 ID:YHSG7eAH
>>586 その屁理屈だとバトゥも欧州諸国にに負けちゃったんだね
593 :
某研究者:2007/03/28(水) 03:44:00 ID:7mZfs+3h
進撃して敵の城を落とすのでは無く
敵地に城を築いて
攻めて来る敵を撃退してから
疲弊する敵を追撃し包囲殲滅し
空と成った城を占領して
又同じ事を繰り返すと言う
パターンも有っただろうか
594 :
某研究者:2007/03/28(水) 03:47:37 ID:7mZfs+3h
まあ敵地に早期に城等
築けるのかだろうし
敵に宣戦布告して
味方領内の城と戦わせ
敵が弱った所で
此れを追撃し包囲殲滅すると言う
方向も有る訳だろうか
595 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 06:13:44 ID:dn/5UafH
>>592 バトゥがロシア平原から叩き出されていたなら、そう言えるな。
596 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 07:41:21 ID:fRd3eu1x
戦国日本は騎兵の能力や補給や対外戦争に問題がある、織田信長でも明を相手に朝鮮出兵しても、勝てないと思う。
武田、上杉騎兵も外国の騎兵に比べて見劣りする。
597 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 09:56:32 ID:YHSG7eAH
>>595 じゃあ日本軍が負けたことにならないな
わかってるんならいいんだよ
598 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 11:52:18 ID:STWMCQHH
半島から叩き出された日本
ルーシーを切り取ったモンゴル帝国
599 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 15:42:27 ID:B9/tQ4nA
>>592 戦略目標が「欧州諸国の征服」だったなら達成できなかった以上は負け。
当たり前の話だ。戦争の勝敗の基準にそれ以外のものはない。
仮に欧州遠征が他の目的を達成するための手段であり、最終的に当初の目的が
達成されていたなら中途で撤退しても勝ちだけどな。
或いは「西方で可能な限りの領土を切り取る」というのが目的だったなら、
部分的勝利ということも言える。バトゥの遠征に関して言えば、これが一番
近いかな。
>>597 秀吉の朝鮮出兵を考えた場合、戦略目標は「明の征服」なわけで、明に辿り着き
さえせずに撤退した以上は単なる負け以外の解釈はない。
600 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 15:50:19 ID:B9/tQ4nA
>>588 負けた戦争に「挑戦の価値」なんてものはない。スポーツやゲームならそれも
いいけど。
・兵は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず
・国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ
・百戦百勝は善の善なるものに非ず
601 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 15:58:33 ID:B9/tQ4nA
>>589 「『軍』の能力」は「与えられた任務を遂行できるかどうか」で判断するもの。
だから「虎とライオンどっちが強い」的な単純比較は成立しないし与太話の域を
出ることは無い。
602 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 16:52:47 ID:A97ZrotZ
>>601 ここはスレタイ見ればわかるけど、「あえて与太話する」スレ。
つか「戦争は政治外交の一手段」だから、”戦争に負けても政治的に勝った”例は多いけど。
(小牧の戦い、七年戦争、匈奴vs漢etc..)
こういう場合の負けた軍の能力はみんなへぼかったって判断するの??
603 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 21:58:01 ID:STWMCQHH
関係ない城に攻撃しかけた揚句、確固撃破されて死んでりゃそうなるな
604 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 23:03:14 ID:Y0banFWa
ポルトガルも、1578年に海峡を越えたモロッコに2万5千もの大軍を送り込んだことがあるよ。
出港してから2ヶ月後には兵站不足に陥り、あっさりと全滅したけど。
スペインも、1588年に海峡を越えたイングランドに侵攻を試みたことがあるな。
こちらは、上陸することすらできなかったが。
605 :
人間七七四年:2007/03/29(木) 00:54:05 ID:V5O/hQx5
スピキオは成功してるがな
606 :
人間七七四年:2007/03/29(木) 01:22:59 ID:s5WVwLJV
>>604 スペインなら、1601年(5回目)にはアイルランド南部に上陸成功させてるよ。
反乱軍と合流できなくて孤立して降伏したけど…
607 :
人間七七四年:2007/03/29(木) 01:48:23 ID:YN5Bzu0o
確か、昔の日本の馬はサラブレッドみたいなのじゃなくて
もう少し小さい馬しかいなかったんですよね。
ああいうおっきい馬が輸入されたのは江戸とか明治ぐらいで。
速度も鎧を着て騎乗すると全然でなかったとか。
日本の騎兵はやはり外国よりは劣っていただろうと思います。
608 :
人間七七四年:2007/03/29(木) 02:17:11 ID:Z2n28R27
サラブレッドを比較の対象にする時点で煽り臭がするな。
長くてたったの3000メートルしか走れない馬が戦争に使えるかアホ。
それに江戸時代は馬の小型化が進んだ時代だ。
609 :
人間七七四年:2007/03/29(木) 02:38:12 ID:cHEOZjqK
15〜19世紀あたりの馬について良い文献って何かありますか?
日本に限らず欧州や中国についても網羅したようなもの
610 :
人間七七四年:2007/03/29(木) 03:48:09 ID:b+5707KL
>>607 骨格から推定するに、
欧州やモンゴルの馬に比べて小さいとは言えません
611 :
人間七七四年:2007/03/29(木) 04:30:55 ID:V5O/hQx5
>>608 発想と文章の構成から漂うゆとり臭が本命
612 :
人間七七四年:2007/03/29(木) 06:27:45 ID:m4RRniVV
馬の話はもうええやん
613 :
スーパーキセルンルン ◆.//fH73A1o :2007/03/29(木) 06:34:51 ID:aHu1BvXO
>>585 人頭税廃止が人口爆発の要因なんだが。
それと18世紀後半からしばらくは、地球が寒冷化して、日本でも飢饉の連続だった訳だけど。
614 :
人間七七四年:2007/03/29(木) 21:07:22 ID:34BMVNac
>>612 いや、馬は重要だろ
軍隊の移動、物資の輸送、情報収集、伝達
いずれも速さが大事だと思うが、内燃機関や有線、無線通信のない時代では、
それらの速度を保証するのは馬と船だと思うぜ
馬と船の速度は、広大な面積を支配し、各地を一つに結びつける帝国の根幹なんじゃないかとも思うし
615 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 12:51:06 ID:JtEff4V3
「朝鮮渡海日記」での明軍の描写のなかに
「馬の大きさけしからず候男もけしからず大き候」とあるけど
大柄の馬を選りすぐってたのかな?
616 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 08:34:07 ID:Da9Ime4P
>>584 とりあえず、
海上輸送は順調だったのだから、完全渡海侵攻を強調する必要はないでしょう。
617 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 09:41:05 ID:DP5v8hy2
>>616 「海上輸送は順調だった」から「完全渡海侵攻を強調する必要はない」
…という論理の展開についていけないのですけど…
618 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 15:26:28 ID:Da9Ime4P
それが秀吉軍の補給にとって特に障害になることではなかったのだから、
別段特にで強調する必要はないだろうと。
619 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 18:17:00 ID:DP5v8hy2
>>618 「数年の間、陸軍を保持するための物資海上輸送が順調」
…っていうのはすごい補給能力ことだと思うのですが…
>>584はそう言ってるのでは??
620 :
人間七七四年:2007/04/01(日) 08:51:19 ID:uXVhcuK7
海上輸送をあまり強調すると、
海上輸送は順調だったが陸上輸送が破綻していた、
という実体がつかみにくくなると思うが。
実際はむしろ陸の上を輸送するほうが大変だったわけだから。
621 :
人間七七四年:2007/04/01(日) 14:27:52 ID:GK3FFgBz
19世紀まで陸上輸送は人力か家畜しかなかったんだから、
陸上補給のそれを比較するのは難しくないかなぁ…
622 :
人間七七四年:2007/04/01(日) 21:47:53 ID:H82OEJ2M
三国志の蜀は(ry
623 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 12:57:57 ID:6LHdEVyF
>>621 ローマ帝国みたいに土地を占領する度に徹底的に道路の整備を行った
勢力や、中国の歴代王朝のように食糧集積地のネットワーク作りに腐心した
勢力など、陸送に工夫をこらしていた勢力はいろいろある。
というか、そうやって輸送システムを整えない限り巨大帝国なんて作れない。
624 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 13:13:19 ID:gsNCNRjn
秀吉の時代、朝鮮半島の位置にグレートブリテン島があって、イングランド王国
そのまんまの戦力を持ってたとしたら……
・英国が日本に攻め込む
→ 日本の方が兵力・小銃数で圧倒し、日本の勝ち
・日本が英国に攻め込む
→ 制海権を英国が握っていて日本は兵員・物資の輸送が滞り英国の勝ち
こんな感じの結果になるかな。
625 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 16:17:47 ID:vybUi3hg
>>623 ローマのインフラ整備は平和時の国内だけ、だよ。戦争中にはそんなことしとらん。
(第二次ポエニ戦争直前の北イタリアなんて、なんも手をつけとらんでしょ)
だいたい戦争最中に補給用の道作るような作戦できるのは第二次大戦以後じゃない?
16世紀の軍隊、とくに朝鮮の役でインフラ整備まで兵站に含めるのはいかがなものか?
>>624 英国艦隊が来るとしたらポルトガルのマラッカ征伐(18隻兵800人)見たいな感じじゃないかなぁ…
逆倭寇みたいになって日本はえらい悩むと思う。
626 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 17:45:25 ID:gsNCNRjn
627 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 18:05:47 ID:6LHdEVyF
「大量の工兵を連れて」というよりは「ローマ兵=工兵」という方が正確かも。
628 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 21:39:56 ID:vybUi3hg
>>626 ちゃんとそのリンク読みなよ…「兵士たちに常時仕事を与えるためでもあった」とかいてあるじゃん。
平和な時期に自軍がコントロールしている地域で駐屯軍が道路や水道等の土木作業した、のよ。
これは日本だってやてtる街道整備とか天下普請とかとおなじじゃん。
遠征できる補給能力とはまったく別問題じゃないかな??
でもおいらが勉強不足なのかもしれないから、
戦時に、たとえ冬の休戦期でも、公共インフラ作ってる例があったら教えてくだされ。
629 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 21:48:58 ID:6LHdEVyF
>>628 平時に工事、戦時に工事だよ。有名な話。
なにしろ日頃から工事ばかりしてるため、工兵としての錬度がおそろしく高い。
土地奪う→道作る→土地奪うというサイクルで領土を広げ、
占領地が本格的に安定したら「〇〇街道」と呼ばれるような
大規模幹線道路を作る。
630 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 22:38:01 ID:K8z+FzM6
まぁ
高台の砦落とすために城壁の高さまで土盛っちゃったり
島に攻め込むってんで島まで続く突堤作っちゃったりしてるのがローマ軍だからなw
超長期に渡る包囲戦とそれを維持するための兵站補給・道路整備に関しては世界戦史上でも屈指の軍隊だわ
補給戦の能力を測るなら間違いなく16世紀西欧も日本も明も相手にならんわいな
>>630 >島に攻め込むってんで島まで続く突堤作っちゃったりし
それはローマじゃなくて俺のテュロス征服だろ!
632 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 23:27:44 ID:aQlp1Gwm
共和制時代なんかだと、財務官(戦時には軍の補給を司る)につくことが超エリートコースだったしなあ。
他の時代・国々で後方任務を担当する人が軽視されがちだったのとは対照的。
まあ現代の日本では財務省の役人はエリートだけど、それはまた別の話。
633 :
人間七七四年:2007/04/03(火) 21:27:41 ID:2trMVtpN
>>629 それをいったら、秀吉は土木工事でお城を水浸しにした罠。
攻城戦のそれと、街道とか社会インフラ関係のそれを
「軍の能力」比較でまぜちゃうのはちょっと…
つか「ローマは政治的に軍を社会インフラにつかう制度があったけど他の国にはなかっただけ」じゃ?
軍隊使わないけど軍事経済目的での整備(街道運河)は普通にどこでも行われてるよ。
>>630 占領してその地に街道をぐつくったわけじゃないよ。けっこう長いインターバルがある。
第二次ポエニ戦争前にローマはナポリあたりまで遠征してローマ支配下にしたんだけど、
すぐに街道作らなかったから、ハンニバルが来て負けたときに
その地の殖民都市を見捨てて戦線下げてるよ。
それにローマの街道は基本的に防衛目的で整備されてて、
侵略のために新しく作った例はないんじゃない??
攻撃に出るときの補給考えるなら、なんか話し違う感じがするけど。
634 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 00:27:37 ID:5pUZ6eTP
>>633 ローマ−ナポリのあたりを結ぶアッピア街道は前311年、第二次ポエニ戦争が始まる100年近くも前に
完成してる(着工からカプアまでの200kmをわずか1年で完成している)。これは南方民族の征服と並行
して南に伸ばされ続け、南イタリアを完全制覇した5年後の前285年にはほぼイタリア半島の南端まで開通。
ハンニバルの侵入のときに前線を下げたのは街道云々じゃなくて、戦力を考慮した純然たる戦術的判断に
よるもの。持久戦に持ち込んでハンニバル軍の消耗を待とうとしたわけだ。
途中、カンナエの戦いで手痛い負けを喫したりもしているが、ローマの取った持久戦術は海軍力を活かした
カルタゴ本国とハンニバル軍の連絡分断に成功したこともあり、最終的な勝利につながっている。
君が参考にしているローマ史の史料を知りたいんだが、一体どんな本を読んでるの?
635 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 00:43:54 ID:keg3db8X
ローマ帝国がユダヤを攻めた時は、ユダヤ人が籠る難攻不落のマサダ砦を
落とすため、岩山を切り開いて大型の攻城兵器を運べる道を作って攻撃したりも
してますな。
636 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 03:52:39 ID:MLBJ4Q4C
>>634 カンパニアがローマ圏にはいったラティウム戦争がBC338、
アッピア街道に着工したのはBC312、戦争勝ってから26年も放置してますよ?
しかも当初はローマ→アルパーノ丘陵までの道の拡張工事で、
…iまさか一年でナポリまで今遺跡として残る石造りの街道完成させたと思ってます?
ベネヴェントまで延びたのがBC190でその後も延びてるとおり、
侵略の心配がほぼなくなったイタリア半島ですら長い時間かけて街道は作られていたんですよ。
どうも私の知ってるローマ史とあなたのそれとは、かなり違うようですね??
>>635 そういう話(武器を運ぶための土木工事)はローマだけの特徴じゃないですね。
BC480にはクセルクセス1世が半島の根元を無理やり艦隊丸ごと越えてます。
でもこういう話は、補給路の確保(のためのインフラを…)ってこととはちょっと違うような…、
637 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 11:48:27 ID:keg3db8X
前線で必要な物を運ぶための道を作ることが補給路の確保とは違う
という理由が分からん。なんで?
638 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 12:38:25 ID:b7faHp7X
>>636 >ベネヴェントまで延びたのがBC190で
多分wikipedeia(日本語版)の記事を読んだんだと思うが、それBC290の
間違いだから。
639 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 16:44:27 ID:CEb3VgHP
>>610 新田義貞の鎌倉攻めの戦死者と共に出土した128体の馬の平均体高は、129.5cm。
126〜136cm台がもっとも分布数が多く、大きいもので140cm。
グスタフアドルフ時代のスウエーデン軍装備目録の、騎兵用軍馬の体高は112〜133cm。
モンゴル馬と同程度の小柄な馬だ。
北欧は馬の体格が劣っているのは知られているが、この小さな馬であの長剣突撃を行なっていた。
640 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 20:13:39 ID:q7KgzhKU
グスタフ・アドルフでイメージ検索すれば絵が見られるな。
641 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 21:43:41 ID:5pUZ6eTP
>>638 BC190年はいくらなんでも間違いだが、290年ってのは早すぎだと思う。それはサムニウム戦争に
勝った年だ。どっちにしても第二次ポエニ戦争が始まる頃にはとっくに半島最南端のブリンディシ
まで開通はしているが。
ローマ軍が戦地で作った道というと、カエサルが湿地帯だらけのガリアを攻略したときに盛んに敷設した
「長い橋」と呼ばれる仮設道路(ベースは湿地帯の上に敷いた木材だが、砂利で舗装したなかなか立派な
もの。4車線から5車線もあった)とか、トラヤヌス帝がダキアとの戦いの休戦期間に突貫工事で作った
ドナウ川を横断する二階建ての橋などが有名か。
しかしローマ話はかなーりスレ違い気味だし、そろそろ控えた方がいいんジャマイカ?
642 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 22:03:03 ID:ntLrEeZ+
>641
別に良いんじゃねーの どうせ日/20レス程度の低速スレだ
スレ違いくさくても話題が続いてんなら止めることもねーだろ
話題を排除してスレ死ぬより良いやね
643 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 22:42:36 ID:3CN/QLfn
>>638>>641 なるほど。いや勉強になります。
そういやラインを超えるためにカサエルって一時的に架橋してますね。
>>637 恒常的にメンテナンスがひつような大規模街道を戦争目的のために作るか、…ってことで。
ガリアでも
>>641で紹介された仮設道は軍事関係だと思いますが、
アッピアレベルの本格的ローマ街道はアウグストゥス以後に建設されてます。
つまりそういう本格的ローマ街道と遠征軍の補給のための道は別と考えたほうが…
秀吉軍でも、半島から日本国内に何万という朝鮮人を輸送(?)しているので、
そうとうレベルの補給は確保されていたと思いますが、
基本遠征軍は相手の食料を当てに作戦を開始するので、はっきりとしないところはありますねぇ。
644 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 00:06:41 ID:4tG5ItvB
詳しそうな人がいるので便乗して質問するが、
カンナエ以降のハンニバル軍は、従来カルタゴ軍が採っていたギリシャ型ファランクスから
全歩兵にマニプルスを採用しクインカンクス陣形で、ローマ的に戦っていたの?
それとも完全にローマ化せず、単純な3列横隊だったんだろうか?
カルタゴ市民兵はファランクスを廃して、長槍からグラディウスに持ちかえたのかどうか・・・
防具にしても従来のコリントヘルム・ブレストアーマー・脛当て・円盾という典型的ギリシャ装備や、
リビア歩兵の様なリネンアーマーは廃れ、武器防具の現地調達もあってローマ化していったそうだが。
645 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 00:13:36 ID:4tG5ItvB
盾といえば朝鮮軍の歩兵は盾を持っていて、盾に自分の名前を書いてあったそうだ。
乱戦の中で盾を落とすと必死で拾いに来るらしく、
それを見た日本側は「彼らも名を惜しむということがわかる」と感心してたw
646 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 13:00:54 ID:EGGgMl4D
647 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 15:20:29 ID:lbBnL1rR
>>574 明史は清の時代から編纂された、デフォすぎる内容はいたるところにあるから信用できない
648 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 19:41:37 ID:1V4jOySM
デフォすぎるって何さ
649 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 20:45:52 ID:+QOVvCsR
デフォすぐるに
650 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 21:01:54 ID:XFyMuWll
朝鮮を「属国」って書いたりしてるから信用できないんだってさw
651 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 02:13:52 ID:RRF+pG9A
>>644 カルタゴは市民軍ではなく傭兵なので、基本ファランクスが主装備だと思うな。
イタリア半島から帰るときも子飼いしか連れてかなかったから、
ザマの戦いでもギリシア式が主力だったと思う。
いちおグラディウスを装備させた最初はスキピオで
北アフリカ侵攻時にも武器を作らせて訓練してたようなので、
一般(?)ローマ軍としか戦っていなかったハンニバルが
ザマ以前にグラディウスを戦場で見たかどうかは不明かなぁ…
652 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 14:48:30 ID:6yRjIiZH
>>643 >アッピアレベルの本格的ローマ街道はアウグストゥス以後に建設されてます。
アウグストゥスはBC62年生まれ。アッピア街道はBC312年に着工して前3世紀の
半ばには全通している。他のイタリア半島内の主だった街道もほとんど前3世紀
〜前2世紀ぐらいに作られている。
知らないことについて書くときはちょっとぐらい調べてからにしようよ……
ローマ街道が軍用道路だったことも、世界史の教科書見れば普通に載ってるでしょ。
653 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 18:30:16 ID:RRF+pG9A
>>652 ガリアのアッピア”レベル”の本格街道網と、とられなかったのは残念です…
アウグストゥスの時代は「軍縮の時代」なので侵攻ではなく防衛のために
当然もともとのアッピア街道も同じ目的だったから整備に年数がかかってると。
つまり、本格街道網の完成もその地がローマ圏に入ってすぐじゃないのは
その建設が侵攻目的じゃなく防衛だから、…って言ってるだけで。
誰も街道が軍事用じゃない、なんていってませんよ。
このスレ、もともとが”秀吉渡海軍”との比較なので、
侵攻する際の兵站と、国内整備の街路網とは別話じゃないか、
と思ってのgdgdなんですよ。
654 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 21:40:11 ID:YR9G9lFb
>>653 もともとの論点は、ローマが戦争するときに補給用にわざわざ道路を整備していたかどうかって
話だろ。上のいくつかのレスを読めばわかるように、答えは「していた」。
なんでアッピア街道レベルの、つまり最高級の幹線道路を作ってないことが関係してくるわけ?
戦時にそんなもん作れるわけないじゃん。
でも、湿地の多い土地で兵や荷物を運ぶために仮設道路を作るし、岩山の砦を攻めるときは大型
兵器が通れる道を作るし、大河の対岸にある敵を攻めるときには常設の橋をかけたりしてたわけさ。
そもそもローマの話を出したのは
>>489の
>「人力しかない16世紀の話でソレか!?」
という無知な感想に対する反論なわけで。人力しかない紀元前でもそういうことをやってた文明は
存在するってこと。
655 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 21:48:15 ID:YR9G9lFb
街道にしても、防衛にも侵攻にも両方役立ったことは、アッピア街道がカプアまで開通して以降、
イタリア半島南部にいたサムニウム族などとの戦いが加速度的に進捗したことなどからも明らか。
前線まで完全に開通してなくても充分役には立つわけだ。
東京から高速道路の走っていない岐阜の田舎町まで行くのに、ずっと一般道を走って行くのと、
途中まで東名高速に乗って行くのではどっちが速いか考えればすぐにわかる理屈だな。
656 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 22:24:16 ID:xOrMSUxg
朝鮮はいざ知らず、国内戦は基幹道や履道の確保や整備は日常的に行われている様だが。
朝鮮も道はそれなりに整っているのであって、問題はその間の安全確保なのだが・・・
657 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 22:43:18 ID:zaUQivXu
>>653 まっ、ローマの道と言うと、なにかと本格的街道としてうけとられがちだもんな
ローマが戦時にやっていた土木工事程度なら、そうとりたてて言う程のことでもないわな
それに土木工事の凄さと言えば、このスレ的には、やっぱ秀吉の石垣山一夜城の築城でしょ
同時代の世界史でも、戦時におけるこれ程の規模の土木工事って他にはないんじゃない?
658 :
人間七七四年:2007/04/09(月) 00:56:48 ID:g6g3U/e1
>>654 >戦時にそんなもん作れるわけないじゃん。
えー!?でもローマ軍がかかわった工事、っていうから…
つか遠征時での土木作業限定なら他の大国(ペルシア元etc..)はもっとすごいですよ。
つかてっきり「渡海遠征」での兵担の話がでてこなくて街道の話をするから、
それと秀吉渡海と比較するなんてわかってないんだと勘違いしててました。すみません。
まぁローマ軍の兵站が秀吉渡海軍ほどにはなかったというのは
ブリタニア遠征あたりが証明しているのではないでしょうか…
659 :
名無し三等兵:2007/04/09(月) 10:48:10 ID:jVgMpZBZ
既に海路が確立た大貿易港博多を利用できた秀吉渡海と、自国から遠く離れ
港工事や舟の建造から始めなければいけなかったブリタニア遠征を比べて、
何かが証明できるとは思えませんが。
660 :
人間七七四年:2007/04/09(月) 20:28:48 ID:ZK+vp6Kj
朝鮮出兵とブリタニア遠征との比較が適切かは兎も角、秀吉も博多を利用せずに、
肥前名護屋という拠点都市の建設から始めたんだけど。
当時、来日していた宣教師も「何も無い所に、あっという間に巨大な都市を建設した」
と書いて、かなり驚いていた。
661 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 01:34:13 ID:cE7uEImm
>>651 dクス
本で、イタリア戦役中にハンニバルの戦術がローマ化していったと見たもんで・・・
南イタリアの頃には、ザマの時のように新参、中堅、古参と3列でやってたのかなと。
スキピオは逆にカンナエを真似てハンニバル化してたけどw
グラディウスに似た短剣は、ハンニバル側のヒスパニア兵も使ってたが
あれって片刃だったっけ。
662 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 20:13:33 ID:jKz0B4Yk
ローマ軍の行軍速度の記録にとんでもない、と言うより「トンデモじゃねーの?」ってのがあるんだけど、実際はどの程度だったのか知りませんか?
第二次ポエニ戦争時、一説によると14日間で1600q(1日平均100q超)。
もちろん、全軍歩兵w
663 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 21:57:56 ID:zu4I/yjC
>>661 ハンニバルの陣立て見ると、アフリカ傭兵とスペイン兵は一緒なのに、ガリア兵は分けてるので、
スペイン兵も正規軍に編入される際にアフリカ傭兵と同じ装備方式に訓練されてたと思うな。
そうじゃないと一緒に使いにくいし……あくまで予想だけど。
あと”ハンニバルの戦術のローマ化”というのは戦術レベルのことじゃないかな?
装備とか編成とか、そういうことじゃなくて。
つか”ハンニバルの戦術”つーのも漠然としてますな…
…「ローマ軍が正々堂々戦わなくなった」ってことでええんかな…
664 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 05:05:07 ID:HMoMMu4y
戦保守
665 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 20:06:01 ID:6lT4LYaf
>>658 条件があまりにも違いすぎて単純比較はできないけど、ブリタニア遠征なんていう
小規模な戦いより、カルタゴ遠征のような大規模な戦いで比較した方がいいんじゃね?
666 :
人間七七四年:2007/04/18(水) 03:03:36 ID:8F7kyWXS
現代でも20万トンクラスのタンカーが沈没した実績(?)のある東シナ海と地中海じゃ単純比較はできん。
・・・ってねそういう話しじゃないか。
667 :
人間七七四年:2007/04/18(水) 04:53:09 ID:wZbYyIe9
14日間も毎日フルマラソン2本にハーフマラソン1本なんてしたら戦えんわ
668 :
人間七七四年:2007/04/18(水) 23:22:47 ID:cqmjhSI0
>>663 どの本かおぼえていないんだけど、
「ハンニバルは旧来の戦術を捨て、ローマの戦術を模倣するようになった」
みたいに書いてあったのが発端だった。オスプレイだったかカルタゴの興亡だったか。
で、あまりに漠然としていた文だったので、具体的にどう変わったのか知りたかった。
ハンニバル側は南イタリア諸都市の援軍によって、ローマの軍制のノウハウが詳らかにわかっているはず。
そこで、マニプルス制を採用するまでいったのか・・・
装備にしても、ローマからの鹵獲品で装備がローマ化したと本にあったが、
具体的にどこまでローマ化したか、ということが書いていなかった。
で、悶々としていたと。
オスプレイの図解だと、ヒスパニア兵は小型の円盾に短剣という装備。
グラディウス以前にヒスパニアで使われていた、切っ先だけ両刃のグラディウスもどきのような剣なのかな?
ハンニバル側のサルディーニャ兵はまったくローマ軍の装備だった。
669 :
人間七七四年:2007/04/18(水) 23:32:34 ID:cqmjhSI0
でも、ザマを見る限りクインカンクスではないし
ハスタティ、プリンキペス、トリアリイに倣ったローマ的な3重戦列にしつつ、
中隊編成はファランクスなどカルタゴ的に編成した、
カルタゴとローマのちゃんぽんみたいな隊形だったのかも?
わけがわからなくてスマソ
670 :
人間七七四年:2007/04/20(金) 16:46:22 ID:aWlMYQyl
>>666 もともとの話の発端が、
「海上輸送は上手くいっていたが、肝心の陸上輸送がだめだった」
「人力のみでそんなに上手く輸送できるのは無理」
「ローマ人は上手くやってたよ」
というところから出てるので、論点は陸上輸送の話中心だと思ってた。
ちなみに、朝鮮の役のときの日本の輸送体制は、海上輸送は石田三成らの官僚が
きっちり管理して計画的に行っていたのに対し、釜山から前線までの輸送については
各大名家の「手くり(各自のやり方で運ぶ)」に任せていたことに問題があったそうだ。
ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/kaidai55.html 確かに各自ばらばらに運んでいては無駄も生じやすいし、ゲリラへの対応も困難になる
だろうな。
671 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 03:01:36 ID:08lzs+Hg
>>662 賤ヶ岳の戦いの時の秀吉本隊一万五千が
大垣〜木ノ本間約50kmを五時間というのも
並外れている
672 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 09:13:45 ID:YmpXilgb
まさしく超機動
スペ公など瞬殺だろう
673 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 12:20:58 ID:r9eon48w
674 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 21:27:01 ID:fN+yHIw1
>>673 ネット。
第二次ポエニ戦争時、ハンニバルの弟のハスドルバルを迎撃し戦死させた執政官ガイウス・クラウディウス・ネロの軍の強行軍の記録らしい。
誰も信用していないのか、具体的な数字が書いてあったのはひとつだけ。
もちろん、こんな数字は俺も信用していないけど、実際のものがわからんから訊いてみたんよ。
675 :
人間七七四年:2007/05/02(水) 19:47:56 ID:GWaGLUgc
騎兵の行軍速度より速い時点でおかしいと思わないと
676 :
人間七七四年:2007/05/16(水) 07:34:11 ID:OE0gQe+5
賤ヶ岳の戦いの例もあるように、一日か二日くらいなら100q/日の行軍も可能だとは思う。
しかし一週間以上これを続けられるかどうかとなると、ハードな訓練をした人間でもキツイよね。
半数以上が脱落しても不思議は無い。
677 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 21:24:52 ID:jsOY86bP
戦国時代の武士は4〜50万人居たとされる。
同時代の全欧州の兵力を集めても半分ぐらいじゃねー
678 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 02:09:07 ID:67RvZucD
>全欧州
オスマン帝国とモスクワ大公国を入れてもいいのかどうか
679 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 11:37:30 ID:ukMD9Awo
近代以前の武器消耗は少なく、水・食糧などの補給も当時は現地調達が基本。
ナポレオンや普仏戦争の頃も微妙に現地調達。今でも可能なら現地調達。
豊穣な北アフリカで現地調達しながら戦ったからローマ軍は成功した。
朝鮮の場合は元々生産が低く自治能力も貧弱、腐った統治状態に治安悪化で地域社会が連鎖的に自己崩壊していった。
飢えたのは日本軍だけではない、地元の朝鮮軍も援軍の明軍も一緒。
むしろ本国からの輸送に頼れる日本軍の方が遙かに活動的に軍を動かしている。
680 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 12:15:54 ID:Qmbn0m0f
ナポレオンも普仏戦争も微妙に、どころかほぼ現地調達頼みだよ。
681 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 12:20:43 ID:Vgp0Yipk
kk
682 :
名無し三等兵:2007/06/02(土) 13:23:05 ID:76EyRvWu
それにひきかえ、20世紀になっても現地調達頼みとは帝国陸軍も情けない。
683 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 13:54:04 ID:Qmbn0m0f
ドイツ軍もソ連で同じ事を…
684 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 19:41:05 ID:PSiArkO9
ナポレオンもオロシヤで現地調達に頼ってあぼーんしたなw
>>683 戦争経済(笑)か!
685 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 20:15:51 ID:tRESOtVR
>>682 大日本帝國舐めんな
南の方でガンガッテる兵隊さんに新巻鮭送ってる
勿論腐ったが
686 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 23:48:19 ID:6ah5M0Av
687 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 03:41:13 ID:JEgErrKg
やっぱオスマントルコ最強なんじゃない?
688 :
人間七七四年:2007/08/30(木) 06:55:54 ID:o57g+4OR
あげ
689 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 01:17:31 ID:pIjBST7y
このスレ、凄い読みごたえがありますな。
言い合いにも大人の余裕すら感じる。
個人的に、
>>68以降で戦国日本の『備』の説明は頷ける部分があった。
俺が前から考えていて説明しにくかったことが綺麗にまとまっている気がした。
ついでに、俺の読み違え出なければ、騎兵と歩兵の混合は機動力を削ぐ・・という意見が
あったように思うが、むしろ騎兵(騎馬武者)と歩兵(徒歩)の混合こそが
少なくとも日本での智恵の結晶であると思う。
騎兵は速度が武器であって、速度が鈍れば歩兵の餌食。複雑な地形で速度が鈍りがちな日本で、
騎兵と歩兵をセットにして騎兵を『打たれ強く』することは極めて合理的。
森林山地など、大軍が分断されやすい場所では、独立・完結した小集団に編成するのは
現代でも通じるもの。
690 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 08:39:51 ID:1E++tAk1
691 :
人間七七四年:2007/09/21(金) 16:40:01 ID:MxptCNCT
過疎スレ
692 :
人間七七四年:2007/11/21(水) 17:34:59 ID:zMnSbpJm
良スレ保護
693 :
人間七七四年:2007/11/21(水) 23:21:33 ID:epZqltm3
>>689 備は諸兵科連合みたいなもん、ってことか
694 :
人間七七四年:2007/11/21(水) 23:47:39 ID:N1U26X0T
>>679 まあ、日本軍も明朝軍も、食糧確保に必死で戦いどころじゃなかったんだろうね。
秀吉最大の誤算は、朝鮮が想像を絶する不毛の地であることを知らなかったことだな。
もし知っていたら、戦争など起こさなかったかも知れない。
695 :
人間七七四年:2007/11/22(木) 00:54:18 ID:da0D+TTe
>>694 明本国への通り道としか認識していなかったから…
696 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 23:57:33 ID:xwVkctTg
>>695 朝鮮を宗氏の属領くらいに考えていたようだからな>秀吉
宗氏に任せず、もっと中央のイニシアチブで外交をやっていれば、
朝鮮も臣従したかもしれんのに・・・
697 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 14:44:56 ID:5z9fFzOG
秀吉の頃はオスマンも斜陽の始まりだよ。火縄銃の効果なんてたかがしれてるから
日本もたいした事ない。
698 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 17:08:32 ID:feECXgk3
>火縄銃の効果なんてたかが知れてる
火縄銃が戦国の主力兵器です、刀や槍より鉄砲での負傷が多い
699 :
人間七七四年:2008/01/14(月) 12:11:22 ID:Mm7IGEAn
そもそも戦国期の戦闘でどの程度の損耗率なんだろう
700 :
人間七七四年:2008/01/14(月) 12:13:29 ID:Mm7IGEAn
同時に比較される他国の戦闘における損耗率が解れば
火縄銃の実用性が導きだされる
701 :
人間七七四年:2008/01/14(月) 12:54:33 ID:2Kn0bMcP
火縄は防衛戦に役立つけど攻撃にはあまり役に立たない。
702 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 05:01:53 ID:X5EPW3OA
数字でしめせよ
アホみたいな顔でいいよってからに
703 :
人間七七四年:2008/01/19(土) 23:30:36 ID:PxGXPmHP
朝鮮や明がちょっと本気出しただけで豊臣秀吉軍が惨敗した事実は拭い去れない。
豊臣秀吉=徳川家康だから、家康もボコボコにされただろうな
704 :
人間七七四年:2008/01/20(日) 01:41:10 ID:SmRd1xPw
中華王朝に曰く
『勝つ見込みは全くなかった。秀吉の死のみが戦争を終わらせた。』
明軍は、4倍の軍勢で小西行長軍を撤退させたことが勝利と呼べるようなもので、
その他には勝利したと記録される戦闘はない。
小西は朝鮮の城に篭っていたが全く防御性能がないため、後は日本軍は倭城と呼ばれる日本式の城を築き
防御の拠点とした。
そして長期にわたる戦闘期間において陥落した倭城は一つもないという事実。
705 :
人間七七四年:2008/01/20(日) 21:37:40 ID:gpMyjiQv
何れにしろ後日、明王朝を滅ぼした
女真族より遥かに大規模な兵力を動員しながら
朝鮮半島を完全に制圧できなかったのは事実
恐らく総帥たる秀吉の不在と老いが主原因だと思うけど
対外戦争における当時の日本の軍事力なんて大したことないな
ヨーロッパでいえば精々、一公国程度の戦力に過ぎないレベル
706 :
人間七七四年:2008/01/20(日) 22:42:51 ID:gFaAUfWf
馬鹿なのか低脳なのか釣りなのか
707 :
人間七七四年:2008/01/22(火) 08:44:32 ID:M0hbawGP
たぶん、韓国の教科書にはそんな風になってるんじゃないかなぁ。
北朝鮮の人には、ツノがあるって書いてあったくらいだから。
708 :
人間七七四年:2008/01/23(水) 00:48:33 ID:5R4DTRza
単にモノを知らんだけだろう
公国にもピンキリあるしな
709 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 21:53:36 ID:HzeK7eW4
ジオン公国程度の戦力だったら逆にスゴイけどなw
710 :
人間七七四年:2008/01/28(月) 22:21:14 ID:/JsOcKfM
ジオン公国みたいなマイナーな国を知らないとこのスレに書き込むなって
言うのは敷居が高すぎるだろ
世界史はある程度できた方だが聞いた事もないぞ
711 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 18:06:53 ID:MjBpeh9Z
三国人乙w
基地外国家の人間が出入りしているという事実だけは理解できた。
712 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 19:06:48 ID:wnfFu/cO
>>710 ジオン公国ってのはガンダムって言うアニメの中の架空の国な
現実の歴史と架空戦記の国を混同してる奴がいるが本人には悪気はないんだ
このまま放置してれば近い将来ヤマトにのってどっか遠い星にいくんで放置しててくれ
713 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 19:24:20 ID:MjBpeh9Z
ネタをネタとして理解できなくても同胞にはやさしいんだなw
714 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 19:26:09 ID:dFLkle09
なんだ真性か
715 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 21:11:56 ID:Gt0u18Sp
ジオン公国は実在する!
716 :
人間七七四年:2008/02/02(土) 02:32:37 ID:yatZ7gnA
良スレがバカ共のせいで画も無残に
717 :
人間七七四年:2008/02/02(土) 11:21:49 ID:KBsupToY
遣唐使の頃に比べて朝鮮出兵時の渡海は特に命がけというイメージ
がないが、それでも難破する船はあったんだろうか。
718 :
人間七七四年:2008/02/02(土) 13:50:40 ID:9ijANQb2
イグルーは神だけどな。
ジャブローから宇宙に撤退してきたシャトルやザクが連邦にカモられていく姿はマジ泣きした。
その次の回で海兵が水陸両用ズゴックで大気圏をダイブして急降下しながら
ジャブローから宇宙へ相次いで打ち上げられる連邦艦隊を殲滅しジオン軍人の意地をみせた一連の流れは見事。
まぁスレ違いだが。
719 :
人間七七四年:2008/02/02(土) 18:19:40 ID:vQOgg9vV
>>717 日本近海は現代でも海難多発地域。
1980年代には20万dクラスのタンカー(確かオーストラリアの船)が沈んでる。
720 :
人間七七四年:2008/02/03(日) 23:15:31 ID:Pz1utrQQ
>>717 室町時代に構造船の技術が発達してからは、東シナ海を渡っての
明との往復ぐらいは、問題なくこなせるようになった。
遣明船なんかにしても、ほとんどが無事に往復してるし、
民間の船も往来してる。
(遣明船自体も一般の商船を借りてやってる)
721 :
人間七七四年:2008/02/04(月) 03:03:34 ID:fS3qm/XI
>>719
もっと補足するなら
世界で一番の海難事故はタイタニック
2番は40年前にあった日本の青函連絡船
しかもこの時に5隻まとめて連絡船が沈没してる
日本近海が荒れると近代の船でも簡単にのまれるよ
722 :
人間七七四年:2008/02/06(水) 18:33:03 ID:YDl0Evt7
そういえば、第四艦隊事件というのもあったね。
沈んだ艦艇は無かったみたいだけど。
723 :
人間七七四年:2008/02/09(土) 19:52:24 ID:BgwaIL8G
日本には世界屈指の金鉱脈と銀鉱脈があって
その資金力を背景に兵具を購入できたし、
最新兵器の鉄砲も量産体制にあったことを考えると、
世界的にもかなりの陸軍強国だったと思う。
しかし、大型の軍艦がほとんどなかったり、
馬は外国馬よりも貧弱(既出)だったり欠点はいくつかあるね。
724 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 16:15:59 ID:st4uuMEZ
人間が作った組織である以上、どんな軍隊にだって欠点はあるさw
725 :
人間七七四年:2008/02/13(水) 13:37:20 ID:d6ioR6lx
秀吉の唐入りの動機はカトリック教国の中国割譲政策に先んずることに
あったなんて説があるらしいんだけど、
それにしては海軍の整備がお粗末なんだよなー。陸軍畑の秀吉の
限界なのかな。残念。
726 :
人間七七四年:2008/02/13(水) 22:07:00 ID:+ONa2aSr
>>725 なんか宣教師が「一万あれば滅ぼせる…」とか言っていた、てネタか。
明末と清末を意図的に勘違いしてるような説だがな。
727 :
人間七七四年:2008/02/13(水) 23:01:23 ID:4HFoKqEV
当時の欧州勢では本国で国王が率いる軍ですらせいぜい数万単位なのに、
極東に1万も派遣できるわけがないけどね。
北アフリカの拠点にすら数百人の駐留が限界なのだし。
728 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 01:27:20 ID:ybc86ikV
1万派遣できたところで日本でいえばちょっとした規模の軍勢くらいだしなあ。
ペストやら天然痘やらにかかっている人間が混じっていたらヤバイけど。
729 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 01:49:51 ID:0epHQASu
726は1万で中国を落とすっていってるんじゃないか
730 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 14:21:34 ID:J+Of9PKA
お前らの論理なら戦国日本はサイキョーでその気になれば世界を支配できそうだなw
731 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 16:02:27 ID:2YQxCqw/
いや世界は無理
ただ過小評価もせずそれなりの戦力を有してる
それより明は世界屈指の強国なんだが戦争嫌いだからな
732 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 17:18:36 ID:J+Of9PKA
島国の矮小な視野や宗教無理解、異民族統治経験、補給思想などが欠如してるから無理だけどな。
朝鮮支配ですら失敗なんだから。過大評価し過ぎ。
733 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 17:22:51 ID:2YQxCqw/
>>732 うん、だからそれなりの戦力だな
世界は無理という言い方が悪かったな
何より致命的に海上戦力や社会インフラが整ってない
ただ人口が国土の割に比較的多かったからそれなりの戦力を有してると
要は蛮族よか手ごわい程度
734 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 23:10:30 ID:wLg9Nf3k
異民族統治経験ない割には、明治維新後は結構よくやってるよね。
こんなこと言うと反論あるかもしれないけど、台湾南洋諸島はもちろん
WWIIがなければ朝鮮だっていい感じだったのではと思うよ。
イギリスだってたいして言語もかわらんくせに結局アイルランドには
恨まれてしまってるわけだし。
まぁ唐入りがいろんな意味で思想・経験不足というのは全くその通り。
秀吉が若ければ、琉球-台湾-(安南/アユタヤ)とスキルアップしながら
いい感じで後金が強大になったところでおいしく明を頂けばよかったのに。
デザートに朝鮮って感じで。
735 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 23:48:39 ID:szjqhaSp
蛮族とはどんなものかよく分からんが中華思想が透けて見えるな。
736 :
人間七七四年:2008/02/15(金) 11:33:36 ID:cs32LZ0W
「中国」という言葉自体が差別意識の塊のようなものだから、ある意味仕方が無い。
737 :
人間七七四年:2008/02/15(金) 21:01:35 ID:t586qBnB
まあ、日本だって朝鮮だって大概アレな名称ではあるけどね。
738 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 09:15:58 ID:nMSfKWaZ
質問していいですか?
秀吉の唐入りの戦略がよくわからないので教えて欲しいの。
@〜Cの中のどれにあたるのでしょう?
@明まで一気に攻め込もうとしていた。
A朝鮮半島全土を平定しようとしていた。
B朝鮮半島の一部(南部)を占領し足場を築こうとしていた。
Cその他。
739 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 09:37:42 ID:RZD0eo/3
>>738 最初は@だったが、2回目はBが目的になっていた、
ってとこが一般的な考え方だと思う。
740 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 10:02:30 ID:fx6I/KA8
>>739 2回目はあくまで内外の面子のために半島南部を欲した
741 :
人間七七四年:2008/02/18(月) 14:38:46 ID:1W3T0gBw
>>739&
>>740 Wあんがと!
実際は秀吉が死んだため中止になったわけだけど、
半島南部の占領が成功していたら維持が大変だったでしょうね。
742 :
人間七七四年:2008/02/18(月) 23:55:10 ID:fHgIDj/J
もし維持ができるのなら、全面撤退なんてしないだろうからねぇ
743 :
人間七七四年:2008/02/19(火) 20:56:00 ID:hswyTNf1
いや、維持が可能でも維持するメリットが少ないと思えば、
普通に撤退するわけだから、撤退した=維持不可能とはいえないだろうけどね。
言える事は、コストに見合うメリットがなかったということかと。
まあ、コストが大きすぎたのかメリットが少なすぎたのか、
それともその両方なのかは分からないが。
744 :
人間七七四年:2008/02/19(火) 22:20:51 ID:k83qyll4
>>743 大陸進出を狙う秀吉なら橋頭堡が欲しいところでしょうが、
政権簒奪を狙う家康からしたら半島占拠は無用の長物かな?
745 :
人間七七四年:2008/02/22(金) 04:11:56 ID:Y9222c5D
後の世に鄭成功から援明乞師の要請を受けても、「大陸に領地を得ても維持に困難」という認識が(幕閣の)大半だったみたいだから、やはり無用の長物と思っていたのかもしれない。
746 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 01:50:55 ID:b/c1t0Cz
>>745 「大陸に領地を得ても維持に困難」
夢がないけど現実的な判断。さすが260年つづいた政権担当者じゃなー
747 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 02:53:39 ID:npjp6Shw
朝鮮の役と島原の乱のおかげで、ものすごく現実的な対外政策採るように
なっちゃったからなぁ。
748 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 22:05:31 ID:CtVu3I8d
ちなみに、DQNで有名な名君・徳川家光は明への援軍にノリノリだったらしく、内々に西国の大名を中心に出兵の打診をしていた(ソースがイマイチ不明確)とも言われているんだけど、寿命で全部お流れに。
次代の家綱は幼少での即位であり、また病弱であったため、上のような流れに。
749 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 20:32:32 ID:rOQUQW9b
女真族と戦う理由が日本にはないし。
見返りがなければ、いくらDQN将軍でも動く気にはならないだろう。
鄭成功はどんな見返りを約束したのか?
世界最強の民間人とはいえ、個人が国家と交渉すること自体凄いけど。
750 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 06:48:34 ID:p5Ys+oCQ
>世界最強の民間人
三沢さんはまだ生まれてないだろ
751 :
人間七七四年:2008/04/06(日) 18:16:40 ID:w2/gusdH
752 :
人間七七四年:2008/04/19(土) 16:31:38 ID:oBYhFKLw
大明(南明、残明)の延平郡王(後に潮王)・鄭成功は軍閥の長で大将軍などの官職に就いているので、亡命政府の肩書きではあっても「民間人」という訳ではありませんよ。
753 :
人間七七四年:2008/04/19(土) 18:54:55 ID:OOrYdjlt
侵略は易しい、統治は難しい。
アメリカがイラクを侵略するなど赤子の手をひねるより簡単だったが
統治し続けることは難しいというより不可能。
ブッシュ政権の終わりとともに徐々に米軍撤退はせざるをえなくなる。
754 :
人間七七四年:2008/04/19(土) 18:55:50 ID:T1WeghfU
良文とカス文の偏りがすざましいな。
日本はこうこうであれあれ だから他国より強いとか征服できたとかwww
何にも比較してねーのw。 意見の土台にすらなってねーのがおおいなww
755 :
人間七七四年:2008/04/19(土) 19:17:39 ID:OOrYdjlt
日本軍が朝鮮軍を侵略するのは米軍がパナマ侵攻やアフガン侵攻する程度にやさしかったのは事実。
明の援軍が無ければ家康も日本軍を撤退させなかった可能性すらある。
でも朝鮮を長く統治しようとしたら傀儡政権の樹立や朝鮮向けの行政組織の創立とか
しなければならない仕事は山ほどあったので、そういう事が全く頭になかった秀吉には不可能だった。
もし傀儡政権を作る気があったら人質のニ王子を返還せずに
その二人に朝鮮を二つに分けて「王」として朝廷を作らせ朝鮮土民や一部の貴族を懐柔したはずだ。
756 :
人間七七四年:2008/04/19(土) 20:43:07 ID:T1WeghfU
>>755 朝鮮は明の属国、従属関係みたいな位置だろ。
この状況で明の援軍がなけ れば なんてありえない。
なんの大儀も名文もない戦争で援軍が来ないわけがない。
しかも秀吉は明の征服と歌ってる、これでこないというほうが可笑しい。
援軍を蹴散らして、一定領土を長い間維持できてようやく行政組織等が作れるんじゃないのかな?
侵攻する前にそういう下準備してたか 情報収集、戦力比較とかしてたとは思えない
してても余りにも微弱じゃないのかな?
そういう意味で晩年の秀吉はって使われる。
で日本の戦力比較となると海外に飛び出したという意味で
文禄・慶長の役がある一定参考になるけど。
戦力は中〜高低、戦争能力は低 と言わざるいえないでしょ。
李氏朝鮮に勝ってたから強いんだ、じゃ客観さと世界基準さがない。
低迷期に入った明を相手に結局追い出されている。
局地戦で勝ってるに過ぎない。維持できてない。
これで日本の当時は最強とかいう万歳派の意見は2chのニュー速でしか通じないだろ・・・
他の海外の情報は国家間戦争がほとんどなのに、日本の参考はなぜか国内戦争。
文禄・慶長の役で当時の明の戦力からの戦力分析が一番正しいと思うのだがどうだろうか?
あと日本ですんでるからやっぱし、日本の情報は細部まで知っていてそれまで評価に入れてしまうというアンフェアさも考慮にいれないといけなくね?
757 :
人間七七四年:2008/04/24(木) 07:42:43 ID:MG6u6W/l
>>756 >日本の情報は細部まで知っていて
倭寇対策から明は日本をリアルタイムで研究していた。
だから太閤政権・日本軍のどこにどんな策をかければ有効か、知っていた訳で。
相手の政府要人に揺さぶり懐柔をかけ、方針をブレさせるのは本来攻め手の技なんだが。
758 :
人間七七四年:2008/05/01(木) 00:57:40 ID:jb08YH8N
>>757 多分勘違いしていると思う。
そこは評価をする現代の私達がってことでしょう。
759 :
人間七七四年:2008/05/10(土) 13:00:05 ID:0Y9Cykul
追い出されていないでしょ。こう着状態に陥っただけで。
760 :
人間七七四年:2008/05/15(木) 12:50:16 ID:zxnoMTga
761 :
人間七七四年:2008/05/15(木) 13:22:27 ID:kDBu4rXD
762 :
人間七七四年: