■ 明応の政変 ■

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884人間七七四年:2012/08/20(月) 16:09:26.31 ID:QuSxlVHP
例えば>>734
>京兆家の守護代級(宿老級)内衆は、細川勝元が1473年に死亡すると、跡を継いだ聡明丸(政元)が、若干
7歳である為、従来の管領内意見人(管領管国内意見人?)制度を拡充し構成メンバーの権限を強化して
京兆家当主や分国守護の業務を補佐するという名目で“京兆家評定衆”を設置した。

とあるけど、管領内意見人って1491年にも確認できるのですが?
なんか無理矢理、「管領内意見人→京兆家評定衆」という図式を作ろうとしていませんか?
それと、摂津欠郡は分郡扱いだったので、上郡・下郡と同列にするのは適切ではないですよ?
885人間七七四年:2012/11/08(木) 04:11:38.50 ID:bpG9R0ys
摂津欠郡は、1482年に畠山義就に占領されているのを返還してもらった。
だから、摂津欠郡の分郡扱いは、政元の代で解消しているはず。

1478年に勃発した摂津国人一揆は、もともと京兆家近習だった上郡の国人衆が
応仁の乱の終結に伴い京兆家に復帰を申し出たが、京兆家評定衆に断られた為
河内の畠山義就を後援を受けて成立したもの。

当時の畠山義就は、河内を事実上軍事占領して実力で統治していたが、幕府の公認
(守護の任命等)は無く、応仁の乱終結後には畿内にも、いよいよ室町幕府から独立
した形での領国経営が出現していた。そして義就の河内統治の形態は、幕府の公認
が無い事もあり、寺社公家領の押領を積極的に進め、当時の中間搾取であったこれら
の勢力の土地支配権を排除する一円知行方式の領国経営方式を採用した。

その影響もあり、摂津国人一揆は、積極的に上郡での寺社公家領の押領行為を行い、
畠山義就が河内で行なった一円知行方式を摂津上郡でも真似て導入していた。

当然畠山義就が、欠郡を占領している事も影響しており、
政元に欠郡を返還する1482年までは、畠山義就は、摂津の知行に対する一定の発言権を維持していた。
886人間七七四年:2012/11/08(木) 06:09:53.99 ID:1tMcRXED
↑典厩家が欠郡の分郡守護だということを知らないのかな?
887人間七七四年:2012/11/08(木) 12:48:44.93 ID:bpG9R0ys
それは、1482年の段階で解消し、政元で一本化している。
888人間七七四年:2012/11/09(金) 06:28:54.24 ID:e/0QqF+J
細川政国、政賢、尹賢は分郡守護だよ
889人間七七四年:2012/11/10(土) 22:52:15.97 ID:Hm8XU/+B
>>885
>摂津欠郡の分郡扱いは、政元の代で解消しているはず。
「してるはず」って、単なるお前の思い込みだろw
890人間七七四年:2012/11/11(日) 08:36:19.55 ID:2qx78Fyv
お前って言うな、アホ。
891人間七七四年:2012/11/11(日) 23:19:48.36 ID:CrToRyEP
摂津欠郡は、1482年に政元が畠山義就と交渉して取り返している。
摂津守護は、政元に変わりない。
892人間七七四年:2012/11/12(月) 06:39:22.23 ID:EiiRmsrq
摂津守護とは別に置かれていたから分郡守護と言うんだよ
摂津守護は細川政元のままだけど、
少なくとも1486年以降は典厩家が分郡守護となっているよ
893人間七七四年:2012/11/16(金) 06:35:49.96 ID:opQVhiQM
欠郡(西成・東成・住吉の3郡)全体が、典厩家の分郡守護の統治範囲かどうかは不明。西成郡だけと言う説も多い。
894人間七七四年:2012/11/25(日) 15:44:18.04 ID:8Xo2bmO1
政元が畠山義就から欠郡を取り戻した1482年以後は、
当然、典厩家の分郡守護の統治範囲は縮小しているんだろう。西成郡だけではないか?

もう戦国時代が始まっているので武力無き分国統治はありえない。
室町幕府が守護を任命したらそれで終わりと言うわけには行かない。

京兆家の軍事力が無いと、京兆家と同盟を組んでいるとは言え、またぞろ義就や基家が
欠郡に手を伸ばしかねないし、明応の政変で完全に京兆家の敵になった畠山尚順は、
京兆家分国の弱点として嵩にかかって攻撃してくるだろう。
また、細川氏同族連合から離脱し始めている阿波守護家や和泉両守護家も如何動くか判らない。

典厩家が欠郡三郡を押えるほど独自の軍事力や経済力があると思えないし、
典厩家や野州家が、細川氏同族連合から離脱しなかった(出来なかった)のは、
京兆家に依存しないと分国が維持できない現実があったからだろう。
895人間七七四年:2012/11/28(水) 20:30:23.41 ID:WcpT/YuM
政元は政国から家督を引継いでからは、
分国丹波も含めた畿内を一元支配する事に注力していた(畿内領有化)。

基本的に政元は、細川氏同族連合体制なんて如何でもよかった。

所詮、細川氏同族連合体制は、細川管領家が幕府内での他の二つ管領家との政争を有利に進める為の装置に過ぎない。

応仁の乱によりライバルだった他二つの管領家の力が、減退した時点で、京兆家にとって
それほど細川氏同族連合体制は必要なモノでもなくなっていた。斯波家は、分国を宿老や
隣国の守護家に盗られて、完全な分国は尾張だけになっちゃったし、畠山家も分裂が一向
に収まらず、応仁の乱が終結しても南山城や河内や大和で畠山家の内戦は続く一方だった。

むしろ京兆家にとっては、阿波守護家や備中守護家と山城守護職や所領の押領を巡って対立し
始めていたので、細川氏同族連合体制の維持が、政元の利害や方向性と一致しなくなっていた。

むしろ内衆や京兆家評定衆の方が、細川氏同族連合体制の維持を求めていた感じがする。

政元は、典厩家、野州家、淡路守護家、和泉両守護家だけが付いて来れば良いって感じだったのだろう。
京兆家の分国だった土佐と讃岐の統治ですら同族の土佐守護代家や阿波守護家に丸投げしている感じだ。
896人間七七四年:2012/11/28(水) 21:01:18.25 ID:WcpT/YuM
タケダ、視ね!
897人間七七四年:2013/01/14(月) 15:08:42.18 ID:hNQwZMys
長く続いたこのスレもうすぐ終わり。残念!
898人間七七四年:2013/01/29(火) 02:41:21.03 ID:7bVzY7i4
細川家同族連合体制 = ユーゴスラビア
899人間七七四年:2013/01/29(火) 06:05:06.45 ID:QkWcQkiV
>>898
いくらなんでも違いすぎるわw
900人間七七四年:2013/02/14(木) 02:55:24.39 ID:2sdSCwdu
セルビア=京兆家

モンテネグロ=淡路守護家

クロアチア=阿波守護家

スロベニア=備中守護家

ボスニア=和泉上下守護家
901人間七七四年:2013/02/14(木) 09:10:44.00 ID:Ipts4lFH
>>900
元々おんなじものなんだから、神聖ローマ帝国とかのほうがまだ合ってるだろ
902人間七七四年:2013/06/21(金) 07:25:49.89 ID:nwtpmsHW
■当主ごとの分国支配体制の変化

【政元期】

京兆家当主(守護)→宿老級内衆(守護代)→国人

【高国期】

京兆家当主(守護)→永正の錯乱で内衆半減→国人

【晴元期】

京兆家当主(守護)―――――――――――→国人
903人間七七四年:2013/06/21(金) 07:29:14.28 ID:MF4QdTjw
>>902
> 【晴元期】
>
> 京兆家当主(守護)―――――――――――→国人

晴元の時は国人との間に、三好政長なんかの奉行人が介在してるだろ。こいつらの存在が
三好長慶との対立を生んだわけだし
904人間七七四年:2013/06/21(金) 07:51:55.39 ID:nwtpmsHW
むしろ国人が、内衆規模に拡大してる面がある。
大きくなった国人のコントロールに晴元が苦労している感じ。

政元の段階で、内衆を整理して、守護一円知行(国人直接統治)を完成させるべきだった。

政元は、内衆の排除を考えていたフシはあるけど、内衆もそれを察知して反乱を起こし始める。
905人間七七四年:2013/06/22(土) 06:24:25.60 ID:t+gNkram
政元は、摂津の守護代を廃止したがっていた感じがする。
薬師寺氏は、反乱起こしていたし、そのワリには、在地性が希薄だからね。

西摂津の池田氏なんて、一回の国人に過ぎないのに、
勝元から色んな恩賞ももらっているし、内衆にはしてもらえなかったのに、
応仁の乱前後から拡大し始めて、下手な内衆よりも財力や兵力を持っている感じ。
906人間七七四年:2013/06/22(土) 21:18:45.55 ID:N3ZsTMGD
さらに言っちゃえば摂津国人衆はみんなが実力を持ったため分裂状態に陥る
一人傑出した人物が登場したら戦国大名に成長できたかもしれない
いや傑出した人物はいたけどなんだかんだ消されていったが正しい解釈かな
この摂津国人衆の対立に乗じて阿波三好が管領細川を凌駕していくのは面白いけどね
907人間七七四年:2013/06/23(日) 04:27:58.50 ID:cTC16VCf
>さらに言っちゃえば摂津国人衆はみんなが実力を持ったため分裂状態に陥る
>一人傑出した人物が登場したら戦国大名に成長できたかもしれない
>いや傑出した人物はいたけどなんだかんだ消されていったが正しい解釈かな

それなんてハシシタ?  まあ〜ハシシタは、自滅のケースだけど。
908人間七七四年:2013/06/23(日) 05:36:12.79 ID:m6QuwAwm
ま、ハシシタはともかく、日本史的観点のみで言うと、摂津国人が分裂状態で一人傑出した勢力が
出なかったのは、それが京兆家の政策だったから。と言う面もある。とにかく京兆家は、突出した
家臣を作らせなかった。内衆にせよ、国人にせよ、徹底的に均衡させて、並列化させて分国を統治した。

また、京兆家は、所領を分国内に徹底的に集中させている。
これは、応仁の乱の時期に行った勝元による荘園押領の遺産でもある。

勝元は、徹底的かつ大量に寺社領や公家領を押領した。

大乗院尋尊は「武士の中で荘園押領が最も激しかったのは、細川勝元と朝倉孝景だ!」
と記録に残しており、別の尋尊の記録には、勝元の葬儀の時に激しい雷鳴が鳴り響いた
のは「勝元が行った寺社領押領の天罰である」と記している位である。
909人間七七四年:2013/06/23(日) 19:56:30.22 ID:JUS1DNJg
907は変な人っぽいからスルー

>>908
勝元の遺産も肝心の細川が抗争を繰り返してしまってはなんともなりませんね
910人間七七四年:2013/06/24(月) 05:07:19.30 ID:g67NCDrl
政元に直系男子が居たとしたら、京兆家は、如何なっていただろうね?
911人間七七四年:2013/06/24(月) 20:02:42.90 ID:jjXWQaJu
>>910
そもそも直系男子が存在するなら永正の錯乱が発生するかどうか
それ以前に三人も養子縁組するかどうか
まあそんなことを言ったら先に進まないので養子はアリで永正の錯乱は発生ルートの場合

その直系男子の能力次第でしょうか?
無能なら家中をまとめられず衰退
有能なら足利義澄を支持し足利義尹と対立
912人間七七四年:2013/06/25(火) 09:02:18.85 ID:T6LgSOSX
>>911
>そもそも直系男子が存在するなら永正の錯乱が発生するかどうか それ以前に三人も養子縁組するかどうか

まあ〜そうでしょうね。香西元長も、政元への直接の不満と言うよりは「阿波守護家から澄元が京兆家に来ると
三好之長まで来てしまい、京兆家家宰の地位が奪われるのが嫌だ。だから政元を暗殺して澄之を擁立してしまえ!」
って事になっている。

直系男子が居れば、そもそもそういう話に成らないから、京兆家家督分裂の話しにもならない。

政元も後20年くらいは、長生きしたでしょうし、
京兆家の分裂が無ければ、大内氏の畿内進出も無いので、
延々と畿内周辺で畠山や細川庶流や宗教勢力との抗争が続きそうです。

政元は、比叡山や大和の寺院の焼討ちもしてます。


>有能なら足利義澄を支持し足利義尹と対立

だね。はげどう。
913人間七七四年:2013/06/26(水) 03:15:58.49 ID:xeyfht8n
>延々と畿内周辺で畠山や細川庶流や宗教勢力との抗争が続きそうです。

畠山や宗教勢力はともかく、
庶流って言っても、何代も前に枝分かれしているから、親族親戚の感覚は無いだろう。
914人間七七四年:2013/06/26(水) 03:25:51.17 ID:xeyfht8n
>>913の修正)
>延々と畿内周辺で畠山や細川庶流や宗教勢力との抗争が続きそうです。

畠山や宗教勢力との抗争は当然有得るだろうけど、
細川庶流って言っても、何代も前に枝分かれしているから、親族親戚の感覚は無いのだろう。

野州家や典厩家は、比較的京兆家と血統が近いが、
阿波守護家や備中守護家、それに和泉両守護家なんかは、何代も前に枝分かれしている。

応仁の乱後に守護家で京兆家と協調しているのは、淡路守護家と土佐守護代家ぐらいか。
915人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:l96tHJUS
「細川家同族連合体制は、明応の政変以後に崩壊した」
って言っている人が居るけど、如何なんだろうね?

播磨の赤松家返還問題なんかを見てもは、細川京兆家が言っていた訳ではない。

どちらかと言うと、細川庶流の阿波守護家が騒いでいた。細川持常とその弟
の子で養子の成之が騒いでいた件だ。勝元は、ノータッチと言うか、山名宗全
の味方をしてた。そもそも細川本宗家と山名本宗家は、そんなに仲が悪くない。

京兆家と山名宗家が本格的に対立し始めるのは、文正の変以降だ。

元々細川京兆家と山名本家は、畠山家に対抗する為に姻戚関係を結んでいた。
さらに養子ももらっていた。だから、ケンカしたくなかったので、赤松家に
播磨返還するよりも、山名宗全との同盟を選択し、同族である阿波守護家の
主張には当初は、同調しなかった。

1448年と54年に赤松家への播磨返還問題が、浮上したが、その時の勝元は、
宗全を守る為に足利義政に嘆願や仲介を繰り返して、なんとかやり過ごしている。
916人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:l96tHJUS
>>915の続き)
特に1454年の赤松家への返還問題は、宗全の反発で幕政上の大問題になり、この時
は、義政が怒って山名宗全討伐を諸大名に命じた。そして、宗全討伐軍の総大将に
阿波守護家の細川成之が任じられている。

しかし、細川本宗家の勝元のロビー活動で、宗全討伐は中止となり、その代わりに
宗全が隠居して分国に蟄居する事になった。この事では、細川家内部で完全に意見
が分かれ、本家と庶家の間で対立している。

細川家同族連合体制は、応仁の乱後や明応の政変後に崩壊した、と言われているが、
既に応仁の乱前から、この様に対立しており、細川家同族連合体制の芽は、この時点
から既に有ったと言える。

なぜ、この様に阿波守護家が、播磨の赤松家返還に躍起になったかと言うと、一つは
足利義政の意向が有ったらしい。阿波守護家は相伴衆であり、将軍と阿波守護家の間
には接点があった。
応仁の乱初期には、足利義政は、宗全との和解を望んだが、この時点での義政は宗全
を完全に危険視し、討伐の対象にしていた。また、それに乗じて阿波守護家も赤松家
の播磨復帰を後押ししていた。

細川勝元が、宗全と完全に袂を分かつのは、大内政弘と山名宗全の同盟が出来た1466年
からで、それ以前は、宗全と勝元は、同盟を組んで畠山家と対峙していた。文正の政変
で義政側近の伊勢貞親と季瓊真蘂を追放出来たのは、宗全と勝元の同盟関係が有った為
とされる。
917人間七七四年:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:vuIiJdKB
>>906
>この摂津国人衆の対立に乗じて阿波三好が管領細川を凌駕していくのは面白いけどね
このあたりは関東における北条氏の立ち位置と似ている。
河内だけど木沢長政が良いところまでいったけどね。
918人間七七四年:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN ID:bX8ZcYZX
政元のイメージって、後漢末のトウタクあたりが近いんじゃないの?
919人間七七四年:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN ID:jTES72Z1
三国志脳はお帰り下さい
920人間七七四年:2013/11/02(土) 19:39:43.17 ID:dEjuc4D1
政元と内衆は別に対立しているようには思えないな
安富元家や上原元秀を重用しているように見えるし、実際に対立したのだって薬師寺の件くらいで
鎮圧後、守護代を廃したわけではなく弟の長忠が継いでいる。
香西元長に殺されるのも、内衆との対立ではなくて世継ぎ問題の対立。

個人的自論だけど、むしろ政元の殺害は足利義澄の陰謀の可能性もあると思う。
そもそも細川澄元・三好之長は阿波細川の出身で、足利義材・畠山尚順と同盟関係にあった。
澄元を後継者にするという決定は、政元が義材に寝返る可能性を持ったものだと解釈できなくもない。
義忠(義材の弟)の件もあるし義澄が政元を警戒していたのは間違いなく
香西元長が三好之長と険悪であったことから利害が一致して政元を殺した可能性は十分考えられると思う
実際に永正の錯乱の後、澄之は義澄から管領に任命されているし、澄元には尚順が味方している。
澄元は勝利したのち、義材との和睦を模索しだすのも三好之長・畠山尚順など義材派が多かったからではないかな
ただ分からないのは、なぜ義材はこれをそっちのけで高国を味方にしたのか・・・
さすがの尚順も以降将軍家とは距離を置くようになるし
921人間七七四年:2013/11/10(日) 22:14:22.53 ID:K1sp9JQo
魔法将軍マジカル☆細川〜山伏☆天狗☆魔術でつかむよ!室町幕府♪〜
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1384056585/

魔法半将軍の暗殺(中) 山伏・天狗・魔術で権力つかんだ室町幕府細川マジカル大名≠フ天才的謀略センス
魔術に熱中する余りに家臣から見放され、ついには湯殿で行(ぎょう)に入る直前、
首を切られて殺された室町幕府管領、細川政元。子供のときから父・勝元も認める知略
を駆使して将軍以上の権力を持ち、「半将軍(はんしょうぐん)」と恐れられた存在だった。
そんな彼がどのように魔術に魅せられ、権力をつかんでいったのか。誕生から姿を追ってみた。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131110/wlf13111007010000-n1.htm
922人間七七四年:2013/12/16(月) 23:36:21.13 ID:UiDnTraT
920 面白いです
そういう見方もあったのか
923人間七七四年:2014/03/14(金) 15:20:30.74 ID:mbnN8+bl
細川 幽斉の真の先祖って、どの細川?
924人間七七四年:2014/03/14(金) 23:20:50.66 ID:3wJwgIeN
>>923
和泉上守護家で系図的にはこんな感じです

細川元有1459┬元常1482─晴貞
            └晴員1500┬藤英
                      └藤孝
925人間七七四年:2014/03/16(日) 11:52:59.28 ID:sKKfNzsU
三淵晴員って、三淵の養子になった人だから
藤孝は細川氏の養子にならないと細川になれないよね?
細川の誰の養子になったの?
926人間七七四年:2014/03/16(日) 18:24:46.07 ID:zvIdTuxD
三淵の実家が細川じゃなかったか?
927人間七七四年:2014/03/16(日) 21:46:00.32 ID:R7FE1K3T
>>925
晴員の実兄元経の養子というのが通説。
ただ藤孝が養子になった頃には既に晴員の実子晴貞が守護職を継いでいたらしいので、藤孝は元経ではなく晴貞の養子だったのではないか?という説も。
928人間七七四年:2014/05/18(日) 11:40:12.29 ID:hC4V2QDh
明応の政変・両細川の乱を畠山視点で

応仁の乱後、畠山家は二つに分かれたものの
最終的には畠山政長の尾州家が優位に立つことができた。
1482年、政長は細川家とともに総州家を攻めるも
政元が勝手に帰陣したため細川と畠山は関係が悪化。
義澄を擁立する政元に対し政長は義材を擁立し勝利、
権力を握ると再び総州家畠山義豊討伐にのりだした。

幕府はこの討伐の前に奉公衆の再編を行っている。
この段階で山城の幕府直轄化を計画していたともいわれ、
伊勢氏を一番衆に多く起用、山城を与えて味方に取り込もうとした。
畠山としては実効支配できていない山城を幕府に返上し、
かわりに総州家を討伐してもらおうと考えたのかもしれない。
畠山の混乱を収束し能登畠山を帰参させ
その軍事力をもって加賀や越前を討伐する算段だったのだろう。
山城・加賀を押さえ込むことは細川の力を弱めることにも繋がった。
929人間七七四年:2014/05/18(日) 11:40:52.76 ID:hC4V2QDh
続き
政元が明応の政変を起こすと政長は河内正覚寺城にて自害。
死に際し、政長は切腹を試みようとするも三度失敗。
畠山当主たる者が持つ刀がなまくらな訳も無く、
家臣たちは「刀が主君を切ることをはばかった」と感心した。
最後は家臣の一人が前に出て、信国という刀で自分の太ももを二回突き刺して
刀の切れ味を確かめてから政長に差しだし、政長はその刀で自害したという。
一見美談のようで、政長が実は臆病で切腹も出来ないという逸話とも取れる。

息子の尚順は紀伊に逃れ、抵抗を続けた。
このころ、尚順の家臣の木沢という男の活躍(?)で
堺の商人から資金援助を得られることになった。
尚順はその後、総州家の畠山義豊を討ち取るも、天王寺で大敗。
翌年には細川元有を討ち取るも、赤沢朝経に敗れ弟三人を討ち取られる。
1504年に尚順と畠山義豊の子・畠山義英は和睦し、
義英の子の畠山勝王を尚順の猶子としている。
翌年、反細川の大和国人一揆が結成され、
赤沢朝経と大和を巡り激戦を繰り広げている。
930人間七七四年:2014/05/18(日) 11:41:55.87 ID:hC4V2QDh
続き2
永正の錯乱で細川政元が暗殺されると、尚順と細川澄元は和解。
この頃に尾州家と総州家は再び決裂したと説明されることが多いけど、
個人的には(あくまで素人の考えだけど)違うんじゃないかと考えている。

尾州家と総州家が本格的に争い始めるのは船岡山合戦以降で
それまで両者の間で合戦が行われた様子はほぼ無い。
それと尚順と細川澄元の和解の時期だけど、これは
西国の大内氏と足利義材(義尹)が上洛を開始した頃で
尚順がこれを知らない事はありえない。そもそも
細川・畠山が和睦したのは大内が上洛を開始したからではないか。
このころ細川は足利義材との和解を模索するようになり
畠山が和解の仲介役になることを期待しただろう。
それと、畠山にとってもこの和睦には理由があった。
かつて紀伊は大内義弘が治めていたが、応永の乱を起こし畠山満家に
討たれ、この功で紀伊は畠山のものになったという経緯があった。
もうひとつ、堺と博多の商人の対立。大内の目的は貿易の独占であり
堺の商人から支援を受けている畠山にとっては問題であった。
細川家もまた堺の商人とは懇意であり、利害が一致していた。
将来的に対立しかねない大内を助長してしまうよりは
政元亡き細川と和睦し大内をけん制した方が良いと考えたのではないか。
もしかしたらこの頃家中で意見が分かれ対立を生じていたかもしれない。
結局大和の抗争が激化した事と細川高国の寝返りにより和睦案は破綻、
尚順はどっちつかずの状態になってしまう。
船岡山合戦で尚順は動かなかったが、義英を中心に河内勢力は
堺との関係を重視してか澄元派として戦うことになった。
遊佐河内守という人が戦死しており、これが遊佐順盛と同一人物かどうか
よく分かっていないけど、自分は同一人物だと思っている。
931人間七七四年:2014/05/18(日) 11:42:54.92 ID:hC4V2QDh
続き3
船岡山合戦で大内が勝利すると、情勢は一気に変化することとなる
堺の商人は最終的に大内に日明貿易の権利を奪わることになり、
畠山義英は畠山稙長との戦いで没落してゆく。
畠山尾州家は総州家に対し優位に立ったといわれているが
尚順自身は船岡山合戦の同年に高屋城を八歳の畠山稙長に譲ったり
紀伊へと下向して中央の政治に干渉しなくなる。
これは重職に任命されなかった不満と説明されるものの、
船岡山合戦で尚順の名前が見当たらないことを考えればやはり
尚順はこの戦いに参加していない可能性が高い。だとすると解釈は一変し
幕府が尚順に対する不信から重職に任命せず、隠居を強制されて
政治に関与できなくされてしまったとする見方も可能ではないだろうか。
いずれにせよこの頃から畠山家の力関係は
家臣>主君 という状態になる。
将軍義稙が細川高国と対立すると、尚順は家臣に追放されるが
畠山義英と結んで挙兵、さらに越中に畠山勝王を派遣している。
最終的には越中で抵抗するつもりだったのかもしれない。
結局敗れて将軍義稙と淡路に逃亡しそこで没した。
932人間七七四年:2014/09/27(土) 16:51:07.44 ID:OyF1tsea
細川宗家は京兆家から忠興に移った
933人間七七四年
尚順と澄元が和睦した前後に細川元常や赤沢長経が尚順に与して義英を攻撃してるから、船岡山合戦前に両畠山の争いが見られないなんて言えないんじゃないか
まあ間もなく高国が蜂起した際に尚順は高国方について、長経・義英と戦うことになるけど
ついでに言えば義稙の上洛作戦にはほぼと言っていいほど尚順との連携が見られるし、今更大内の上洛に抵抗するなんてことは考え難い

あと尚順の紀伊下向は隠居とか追放じゃないよ
尚順が自ら大内義興を通して義稙に申し出たもので、義稙からは「御覚悟」を労われている
目的としては敵が阿波から上洛しようとする澄元に絞られたことで、和泉・紀伊・河内の国境付近を強化するために前線に赴いたんじゃないかと推測されてる
ただ紀伊で積極的に支配を強化しようとした結果、熊野衆ら反発されて没落することになったけどね
ともかく稙長期以外の遊佐長教の時代ならともかく、この時点の畠山家に「家臣>主君」と言える根拠はないと思う(長教の河内領国論ですら近年は疑問視されてきてるのに)