■ 明応の政変 ■

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名無しさん@お腹いっぱい。
明応の政変によって室町幕府が瓦解した事を戦国時代の始期とする説が現在、有力になっています。

日本史上重要な出来事なのに、何故か知名度が低い、細川政元の足利将軍廃立事件を語りましょう。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 20:07:28 ID:Ugrr2300
教科書では完全に無視されている。
3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 20:10:52 ID:/Uezaswn
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

とりあえずwiki。
詳しく解説しているサイトはないかね。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 21:17:25 ID:a0KCCpWG
教科書では完全に無視される事変の一つだね。
そのせいか大学入試には出ることが多い(京大入試などたまに出題される)から勉強しないとダメだが。
5朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2006/09/05(火) 21:20:51 ID:ILOqugKY
足利茶々丸の討伐がこの政変と綿密に関わってるとみられてますね。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 21:29:55 ID:Ugrr2300
同じ明応二年だからね。
中央の動乱に連動したものと見られているようだ。
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 21:41:41 ID:/Uezaswn

明応政変以後の、畿内の政治史区分
政元政権期 1493−1507
高国政権期 1508−1531
晴元政権期 1531−1550
三好・松永政権期 1550−1568

正確には、高国政権は義稙が将軍の前期と義晴が将軍の後期に分けた方が良いのかも。
8朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2006/09/05(火) 22:17:19 ID:ILOqugKY
明応二年の政変で畿内を追われた前将軍義材について面白い記事があります。

  公方越中国正光寺ニ御座、近国皆以奉随了、能登守護畠山大夫参申、越前国朝倉参申、
  越後国上杉参申、加賀国守護トカセ参申、
                                                「雑事記」明応二年七月二十六日条

義材は当初、反政元派大同盟ともいえるこの北陸で復権の機会を伺ったようです。
それに対して政元は本願寺と連携して永正三年の北陸一向一揆(1503年)を引き起こして牽制します。
ちなみにこの時期の朝倉氏は三代貞景の代で、政変後は一貫して義材派として行動、
度々京都を伺った義材に対し、軍勢1500余を一年半に渡って逗留させたりしてたです。
9朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2006/09/05(火) 22:21:34 ID:ILOqugKY
余談ですが永正三年の北陸一向一揆のとき、一向一揆20万対朝倉宗滴1万2000といわれる(ぉ、
かの有名な九頭竜川合戦があったわけです。
10奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/09/05(火) 22:26:26 ID:J3FdCZku
実際って10倍水増しくらいでよろしい?
11名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 22:40:33 ID:a0KCCpWG
20万と言われてるがやっぱ大げさなのかね
12朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2006/09/05(火) 23:19:47 ID:ILOqugKY
史料における軍勢の数ほどあてにならないものはないっすね。
この永正三年の一向一揆の規模について史料を元に検証しようと思ったのですが、
打った長文消しちゃったのでやめます。

ただ富樫介が討たれた長享二年加賀一向一揆では、加越だけで20万と「蔭涼軒日録」にあります。
永正三年の一向一揆は、それよりはるかに大規模なものだったことから察すると、
20万じゃまだまだものたりないぜ的数だったことになります。
13名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 02:14:15 ID:z3Z89Lge
魔法半将軍バロス
14名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 21:20:04 ID:GgDz9B+/

実際、明応の政変までは、室町幕府は応仁の乱以前とほとんど変わらずに機能しているからな。
15名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 14:43:33 ID:0wDa9DoC
明応の政変が、非常に重大な事件であったのは認める
でも戦国時代=戦乱の時代でとらえると、応仁の乱からの方がしっくりくる
足利幕府は曲がりなりにもあるわけだし

個人的な考えなですけど
16名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 19:02:48 ID:MMugdFS/
何故教科書で取り上げられないのだろうか?
天皇関係の出来事でもないし。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 15:29:15 ID:5ub3f8Gk
現行の教科書に何が載ってて何が載ってないか、知らないからなんともいえないけど、
そもそも明応の政変が戦国時代の始まりだー
と言い出した学者って誰?
18名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 03:36:39 ID:IbfYffWA
>>15
戦国時代以前の室町時代もわりと戦乱の時代だったりするんだよね
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 04:07:13 ID:uEDXDMk2
応仁の乱終わった後は、足利幕府の畿内への支配力は、強化されてる。
将軍義向の近江親征や伊勢・大和・河内への出兵計画、義材の河内出陣etc
将軍は親衛隊;奉公衆を応仁の乱後に完全に掌握し将軍の指揮下に置き畿内
における最大の軍事力を目指している。それに守護大名は乱の最中から在国
を始めており、洛中には例の細川政元とその一門、それに管領の畠山政長ぐ
らいしか居ない。畿内の大名は六角氏と畠山氏ぐらいでその2家を足利将軍
がしきりに攻撃している。そのかわり幕府の全国レベルの支配力は無くなっ
てるけど・・・義向・義材両将軍は幕権回復のため将軍親裁と奉公衆の軍事
力強化で対応し、畿内に関してはある程度成功してる。応仁の乱後に畿内に
奉公衆に単独で対抗できる軍事力を持った大名は、細川政元ぐらい。そのた
めなのかな?義向・義材両将軍の御親征に協力的でなかったのは。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 05:14:47 ID:Ib0YHVGX
>>19
たしかその頃の討伐に、
次は越前朝倉か?美濃土岐か?
と真剣に検討される位、将軍家の力は回復してたのは事実だね。
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 12:00:13 ID:A++IvWBQ
>>15
下剋上的な側面から言ってるんじゃないの?
22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 12:18:17 ID:AIfH8qqw
>>21
その通りですな。

ただし下の細川が上の将軍家を滅ぼして代わりに上に立った
わけではなく、将軍家の間で別の神輿を担いだという形だから、
「下剋上」じゃなくて「主君押し込め」と呼んだほうがいい、
という説はある。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 03:17:29 ID:Ja/jJqK4
>>22
細川政元が明応の政変で目指していたのは、
室町幕府の乗っ取り「京兆専制」なのか、それとも・・・
室町幕府から独立した「戦国大名」なのか、論争がありますね。

政元がなしえた事は、足利将軍家の集権化と軍事力強化を横から断ち切った事でしょうね。
この政変で奉公衆は完全に崩壊し足利将軍家の軍事的基盤は無くなります。

政局面から言えば、応仁の乱よりこの件の方が重要かもしれませんね、応仁の乱は守護大名
(地方封建領主)が2派に割れて争い共倒れになっただけで、将軍家に直接軍事的対決をもたらす
性格のものではなかった。イギリスのばら戦争やフランスの百年戦争と同じ性格かもしれま
せん。英・仏のチューダー家とヴァロワ家による集権化もこれらの戦後に進みました。

私の仮説ですが、将軍義向が長命なら細川政元はどうなっていたんでしょうね。
明応の政変では、日野富子が義材憎しで政元に協力したんでしょうけど、義向
が将軍ならそんな事はしないはずですので足利義教の時のように赤松家に暗殺させ
るんですかね?足利将軍家と細川京兆家の関係はかなり微妙というか、むしろ
陰湿に対立してるのかもしれませんね、応仁の乱以前から。

畿内の領国化を目指す政元には足利将軍家も畠山家も一門の阿波守護家も奈良
の寺社勢力も打倒する対象と言えるかも知れません。

24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 20:31:47 ID:smvwj/f2
最近の研究では義尚を義向って書くのが定説なのか?
25名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 00:43:44 ID:v31mqMRB
>>24
ナイス ツッコミ!義尚ですね。失礼致しました。よしなお君です。
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 01:11:18 ID:si/ZBuAq
ひさだと思ってた
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 02:43:44 ID:v31mqMRB
>>25
よしひさです・・・たびたび間違えてしまい申し訳ないです。

たしか陣中でお酒の飲みすぎで死んじゃった将軍ですね、昼夜逆転の生活を
していたとか、甘いものが好きだったとか、公家の娘にストーカーまがいの
事したとか変な人ですね。
足利一門には「鬱の遺伝子がばらまかれてた」との事ですが、
義尚もそうなんでしょうね。25歳で死ぬのは早すぎですね、あと10年生きて
れば将軍権力の集権化や幕府の支配領域の回復も進んだ可能性もあると思う
んですが?
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 03:29:49 ID:zepIc/2f
細川政元の室町幕府乗っ取り説(京兆専制)→今谷明

細川政元の室町幕府からの独立説(戦国大名)→末柄豊

どちらが事実に近いのでしょうか?

政元が自分で将軍になるつもりは無いんでしょうけど。
管領畠山政長の専横に対する反感はかなりあったんでしょうね。政長は、他の在国の守護大名にも嫌われてたと言う話を聞いたことあります。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 04:16:00 ID:U1qh1kEv
細川政元の力の源泉は、幕府内の地位や権限ではなく
丹波・摂津両国を支配している事にあると考えてもよいのでしょうか?

この両国は、幕府所在地の山城を西から囲むように隣接し、交通の要所
でもあり何かあればすぐに洛中に軍勢を入れられる。また勝元の代から
山城領国化工作を開始しています。元々畠山氏の力が強かった山城は、
南山城国一揆で畠山氏を追放します。これも政元の陰謀ぽいです。

細川京兆家は、応仁の乱終結後も将軍家の意向に囚われずに
(伊勢氏とは協力しつつ)山城の領国化を行う方針であり、同時に丹波
摂津両国の維持に全力を注ぐ政策を取っている。
讃岐も京兆家は、領有維持の姿勢であり現地の反乱や阿波から侵入に軍勢を
送り軍事的対決をしている。
ただし土佐の支配は現地の守護代(細川一門)に委ねている。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 05:28:32 ID:G0WZ1IwD
将軍義材が第2次近江親征を行っている時に、丹後と越前への親征の噂が
出ていた。その時に将軍義材は、丹後の守護一色氏に対し親征中止の条件と
して押領した奉公衆の領地返還とともに再度在京する事を求めた。
この事が、在京した守護大名を刺激したと言われている。なぜなら守護大名
は在国しても必ずしも立場が強化された訳ではなく、守護代に実権を奪われ
ていたり被官(家臣)・国人たちの反抗や下克上が始まっていたからだ。細川
政元も丹波・摂津両国の守護代(内衆)と国人の処遇・処罰について対立があ
ったと言われている。このように将軍義材が在国要求を一色氏にした事に守
護大名は敏感に反応し細川政元の将軍廃立(明応の政変)に賛同した可能性が
強い。彼ら在国した守護大名にとって幕権回復が畿内にとどまらない可能性
を見出し政元に解決を託したとも言えなくもない。また将軍義教・義政は、
守護代の人事にも口出ししており、このことで守護代クラスも幕権回復に反
対した可能性がある。将軍権力が回復したら実権を握りつつある守護代も再
度幕府に押さえつけられると考えた可能性もある。したがって細川政元の将
軍廃立に有効な反対がなかったのはこの為ではないかと思われる。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 20:03:12 ID:Yq/dMLSt
間違いを修正します。

在京した守護大名を刺激したと言われている。
    ↑
    を

在国した守護大名を刺激したと言われている。

に直します。失礼いたしました。

32名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 20:06:23 ID:Yq/dMLSt
再度、間違いを修正いたします。

このように将軍義材が在国要求を一色氏にした事に
      を
このように将軍義材が在京要求を一色氏にした事に

に直します。失礼いたしました。
33名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 20:08:07 ID:Yq/dMLSt
>>31 >>32は、>>30の修正です。あしからず。
34名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 04:35:56 ID:d4PCWLST
末柄豊は、細川政元が将軍義尚の第一次近江親征に協力しなかったと記述し
ているが、他の資料では政元は協力した事になっている。京兆家の軍勢は奉
公衆と一緒に出陣しているし、政元は六角氏を追撃しその後近江に守護にも
任命されてる。義尚と政元の間には特に何もない。1479年に政元が丹波に拉
致された時、内衆と細川一門の一部が細川勝之を還俗させ擁立しようとした
事件でも、幕府は事態を静観しており特に勝之に肩入れしていない。京兆家
の家督分裂の危機が他家同様に存在したのに将軍義尚と大御所義政はそれを
利用することはなかった。義尚・義政と政元の間には特に対立点はないよう
に思える。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 19:08:49 ID:Rd0aM6+B
 
36名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 19:09:20 ID:Rd0aM6+B
 
37名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 21:01:04 ID:g2ORlS7v
名前を変えて将軍職に復帰ってのが面倒だな。改名した意図はなんだろ?
38名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 04:39:30 ID:ik3sN8Re
大川栄作 から 大川栄策ミタイナコト。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 15:37:21 ID:ke2Z418q
>>37
義材→義尹→義稙のことかな?
義尹改名が明応七年(1498)とすると、周防に落ちていたころ
義稙改名が永正十年(1508)とすると、そのころは高国、義興で安定してたころ

前者は期するものがあるとしても、後者はよくわからないね
40名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 18:16:21 ID:J8tnaI3K
>>39
永正10年(1513←だよね?)3月に、義稙は高国らの専恣を怒って近江甲賀に出奔してる。
4月に高国と義興がもう背きませんっていう誓書を提出して、5月に義稙は帰京。

ここら辺で思うところがあったんじゃないかな?
41名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 18:33:12 ID:ZBOQ19kA
そういや等持院の木像は、どの名義で作られてるんだろ? 最初の義材?
42名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 15:13:32 ID:F5YQ8O5P
義稙か恵林院じゃないですかね、行ったことないのでわかりませんが

>>40
ううう、申し訳ありません、間違えました
その流れで11月改名ですね
43名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 16:19:41 ID:SxoTVM39
44名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 18:03:50 ID:IQAjyjdo
この事件って教科書に載ってる?
45名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 10:28:14 ID:d6XB5bif
>>37
石原真理絵みたいなもんか
46名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/12(金) 16:19:31 ID:IIq1bvKZ
この事件について学べる書物を教えて下され。
47名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/12(金) 17:49:13 ID:qwNHQlV6
実隆公記あたりがいいんじゃね?
あとは大乗院寺社雑事記かな
48名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 00:11:50 ID:AI1bp1u5
>>44
載ってない。実況中継とかいう参考書にも無いね。
教科書に載ってないから京大とかが入試で出すんだろうな
日本史用語辞典にはさすがにあるけど。
49名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 21:49:03 ID:LUCbCFzj
そんな馬鹿な・・・
これほどの重大事件がなぜ載ってないの?

はっきり言って、例えば川中島合戦だの大坂の乱なんぞとは
比較にならないほど歴史的重要度が高いんだが。
50名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 23:46:09 ID:tgGJrTAF
大坂はまあ、一つの時代の終わりだからいいんじゃね。
しかし時代の転換点たる明応の政変が載らないのはおかしい。
51名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/19(金) 02:44:34 ID:s2y7Bp76
室町時代って随分と軽視されるよね
52名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/19(金) 09:49:41 ID:20u32d2e
( ^ω^)それは、禿げ上がるほど同位
53名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/19(金) 13:34:15 ID:5PProQwp
室町時代の、特にこの時期は、対立というか勢力の構図が
ほんとにわかりにくいってのが一因でもあると思う。
畠山義就(基家)にしても、最初は細川京兆と対峙してたのに。。。
って感じだし。
明応の政変で室町「幕府」の機構はほぼ瓦解した(というのがスレでの定説)
んだけど、
やっぱり事件のインパクトとして、京一面が焼け野原になった
応仁の乱の方が、取り上げやすいし、
ここで室町幕府の凋落が明らかになった、
ってした方が教えやすいんだろうな。
54名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/19(金) 15:53:44 ID:BzhLqqwo
明応の政変くらいならまだまだじゃね?
南北朝や応仁文明の乱はもっとごちゃごちゃしてね?
というか、室町時代はいつもごちゃごちゃしてね?
安土桃山時代がえらいスッキリしてて物足りなくなるくらいじゃね?
そこがイイ!と思わね?
55名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/03(土) 11:08:16 ID:fu64MlK2
何で"明応の政変”は有名じゃないのかね?不思議だね。
この政変は、日本史のターニングポイントだよ。"本能寺の変”もあれだけ
語られるのだからこちらも語られてもおかしくない。

織田信長は、戦国時代を終わらせた人物だとすれば、細川政元は、戦国時代
を始めた人物。対照的だけど同じ程度のキーパーソン。中国の三国志なら
細川政元は"司馬い”並みの人物。クーデターで政権乗っ取った。特に
将軍の親衛隊「奉公衆」と皇帝の親衛隊「禁軍」を崩壊させたのは同じで
中央権力の直属の武力部隊をやっつけた事で実質的な政権を獲得した。

ただ政元と司馬いの違いは、政権獲得後、元将軍や敵対勢力からの巻き返し
や反撃があったが政元は敵対勢力からの反撃に負けてしまい。結局養子を
乱立させたため内紛で自滅。その点、司馬氏のほうが色んな反撃を撃退、
新王朝「晋」の成立に向かった。
56名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/03(土) 11:58:31 ID:2zvH+hcX
教科書には一応出てるよ。太字じゃないけど
57名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/03(土) 13:59:19 ID:/K89ZA5k
太字じゃないのか・・・
本気で呆れた。
58名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 19:06:33 ID:B+Au0qKV
学会で高名な学者が新しい論文でも出さないと盛り上がらないね。
59名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/05(月) 00:13:47 ID:tIyqgAqP
自民党をぶっ壊した政治家→小泉純一郎

室町幕府をぶっ壊した大名→細川政元

魏王朝をぶっ壊した武将→司馬い
60名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 22:09:52 ID:i77w2XRl
将軍義尚の第一次近江親征の後は、美濃と越前への親征の計画もあり
美濃の土岐氏や斉藤氏と越前の朝倉氏は、近江の六角氏と提携し足利幕府と
対決姿勢を強めた。もし第一次近江親征が成功し六角氏を完全に滅ぼせた
なら足利幕府は、畿内の幕府への集権化だけでなく中部地方への幕権回復
の可能性も。土岐氏と朝倉氏が手をくみ幕府と対峙したら足利将軍家自体が
戦国大名化したかも。将軍義尚も義材もやたら畿内で親征してる。ある意味
これは将軍の戦国大名化を意味してるのか?そうなると将軍の戦国大名化
を細川政元が“明応の政変”により阻止したことになる。また将軍親衛隊の
「奉公衆」が軍事力として畿内・中部地方の大名にはかなり強力に意識され
始められいたという事だろう。
61名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 22:36:57 ID:zCahhDXz
関東はすでに戦国時代に入ってまつ。
足利持氏\(^^@)/万歳\(^^@)/
戦国時代はくじ引きで足利義教が将軍になった時に開始されますた。
よってもっとも重要な事件は【でっち上げのくじ】です。
62名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/07(水) 17:32:25 ID:zD33msMU
関東では、鎌倉公方が関東管領を暗殺してから戦国時代に突入。時代的には
関東のほうが先に戦国時代に入ってます。しかし京都の将軍様は義教は暗殺
されただけで別に戦国時代にはなってない。義政の時代でも親政を行い諸大名
を統制している。ただし「文政の政変」で大名への抑えは効かなくなってる
けど、この政変で一時的に手を組んだ細川勝元と山名宗全は後に対立を激化
応仁の乱へ。ただし応仁の乱の最中でも奉公衆の働きもあり将軍家は直接攻撃の
大衆にはなってない。東軍の頭にされてるけど西軍が降伏する時も簡単に許して
大名が国許に帰ることを許可してる。そのせいで守護の在京制度くずれ畿内以外
の大名へのコントロールは効かなくなってる。
63人間七七四年:2007/02/17(土) 19:25:34 ID:apm1EAbd
頼られた神保氏萌え。
64人間七七四年:2007/02/20(火) 23:31:16 ID:EP2XKsOs
神保みたいな氏素性が微妙な奴を頼るとは将軍家も墜ちたものだ。
65人間七七四年:2007/02/21(水) 02:09:27 ID:MJ7JgpfG
神保氏は畠山氏の歴代の被官で宿老にもなってる。従って本拠地はないはず。
斉藤氏・遊佐氏も同じ。
土肥氏・椎名氏は越中の国人。
応仁の乱の13年前、足利義教が暗殺された後に遊佐氏が神保氏の京都の
屋敷を攻撃、神保氏父子は死亡、屋敷は炎上、洛中は大騒ぎになった。
また同じく土肥氏・椎名氏も攻撃されて京都から逃亡、三管領家の一つの
畠山氏の内訌の始まりである。
義教時代に畠山持国は総領の地位を追われ異母弟の持永に取って代わられた。
義教死亡後、持国が総領に復帰、しかし子供がナカナカ生まれないため
別の弟の持富の子の弥三郎を持国が跡取りに指名、しかし後に持国に実子
義就が生まれた。実子に相続させたい持国が弥三郎を廃嫡する為、弥三郎派
の神保氏・椎名氏・土肥氏を遊佐氏に攻撃させ、京で市街戦に。
まるでバクダットやね
66人間七七四年:2007/02/21(水) 03:47:59 ID:zOcMfIZP
神保氏は弥三郎・政長派だけじゃなく
義就派の内衆に神保国久もいるように、両派に分裂している。
遊佐氏も両派に分かれてるし、本当にややこしくて混乱する。
67人間七七四年:2007/02/22(木) 01:04:23 ID:zndSepVD
足利義稙は本当に流転の人生だね。
周囲の権力構造もそうなのだが、本人の資質もそれに拍車をかけてるような。
68人間七七四年:2007/02/22(木) 09:22:39 ID:2dCK2TIo
幕府に公然と反旗を翻した結城合戦
もしくは関東を混迷の渦に巻き込み二度と旧体制に戻る事のなかった管領管領足利成氏の鎌倉放棄の古河城移転が戦国の幕開けではないかと。
それか義政の弟の掘越公方が関東入部できない時点。
早雲がキッカケを作ったのを初めとするのは微妙。
つかなんで掘越公方が関東に入れなかったんだろう?今川が紛争中だったのか、扇谷上杉が関東に入れなかったのか?(旗下の太田氏や大森氏や三浦氏が反対?)
成氏の三島侵攻もあったが、あの時は山内上杉の長尾軍が古河城を落城させて牽制してるが相模守護の扇谷上杉は三島まで見て見ぬフリでもして素通りさせたのか?
69人間七七四年:2007/02/23(金) 00:26:29 ID:mzo+PzCe
何年か忘れたが、義稙は暗殺者と斬り合いをしてるね。
手傷を負いながら撃退してるようだが。
70人間七七四年:2007/02/23(金) 09:43:54 ID:NpyMJxNR
義輝じゃなくて?
71人間七七四年:2007/02/23(金) 10:16:10 ID:0ZlEScaT
義教じゃなくて?
72人間七七四年:2007/02/23(金) 10:35:53 ID:hWn1la7w
義勝じゃないのは確か。
73人間七七四年:2007/02/23(金) 16:57:43 ID:mzo+PzCe
1509年(永正6)の10月の事件

近江の足利義澄が送った刺客で、義稙の同朋衆が手引して忍び込んだとか。
74人間七七四年:2007/02/24(土) 09:05:48 ID:qKxCaIpU
ワザと灯りをつけず、騒がずに暗闇で撃退したってやつだっけ。
75人間七七四年:2007/02/24(土) 13:29:56 ID:bMz06yef
公家化してしまったかと思いきや、さすがは将軍だな。
76人間七七四年:2007/02/24(土) 18:12:13 ID:lIA6Wzo9
義植はヘタレというイメージが強かったんだが、
それは偏見だったよw

将軍様tueeeee
77人間七七四年:2007/02/24(土) 18:59:51 ID:BQ6qROdV
義稙より義植のほうが強い
78人間七七四年:2007/02/26(月) 10:49:36 ID:y+jTHkFb
義稙は不屈の人だよ
義晴も細川晴元も同じだけど、諦めることを知らない
79人間七七四年:2007/02/28(水) 21:42:57 ID:kCxlw5v+
本人はともかく周りが許さないんだろう。
家臣団は殿の出世に賭けていた。

鎌倉公方vs関東管領の時も互いに本人には実権がないしヤル気も???
鎌倉公方の実権は、奉公衆に
関東管領の実権は、執事の長尾家や太田家に移行しているので
本人が止めたいのに回りに引き回されて暗殺&合戦に
80人間七七四年:2007/03/01(木) 03:36:38 ID:P5349gkw
>>73
>1509年(永正6)の10月の事件
      ↑
この時期になると「奉公衆」が明応の政変で崩壊しボディガードもままならない
のが実態。やっぱ親衛隊が居ないのはこの時代ムリな事。
足利将軍は、明応の政変後は細川・三好・松永の都合で殺されたり追放されたり
ばっかり。しまいには織田が出てくるわけだが。
奉公衆は5000人〜10000人の兵力だが、まとまりはあるし畿内でコレだけの
軍勢を集められるのは細川政元ぐらいか?畠山は分裂してるから数千人ぐらい?
六角氏は将軍親征でに逃げ出してるし色んな意味で貴重な軍隊だったと思う。
奉公衆の基幹構成員(約300人)の半分が三河・美濃・尾張・近江の4カ国に所領を
持つ御家人。御今の兄も奉公衆です。将軍御料地もこの4カ国に多く
足利幕府の基盤はこの地域にあるということか。
81人間七七四年:2007/03/01(木) 06:59:23 ID:pWVORTSn
>>80
奉行衆は国元に代官を置いて、自分達は常に上洛してたの?
江戸時代の旗本みたいな感じで。
82人間七七四年:2007/03/02(金) 12:07:25 ID:a56hVOj5
>>81
横レスだけど、奉行衆(奉行人)と奉公衆は別物。
奉公衆は守護家一門子弟、御家人・国人が主体。軍事的基盤。

奉行衆は、飯尾・松田・斉藤・諏訪などの官僚群。
元々は軍勢催促を行えない、純粋な行政官僚。このころはどうなのかは、忘れたけど。
83人間七七四年:2007/03/02(金) 15:05:38 ID:O9un9dfl
>>79
当初義材を支援したのは、政長との兼ね合いで、畠山尚順、神保、
これに朝倉が加わり越中〜越前

六角、政元に敗れて落ちていったのが周防
そして義稙を大内義興が擁して上洛

この一連の流れは、各氏の思惑も大きいだろうけど
義稙の思いによるところも大きいと思うが
84人間七七四年:2007/03/02(金) 20:35:52 ID:yPMWQ/Jt
>>82
良くご存知ですね!勉強になりました。

奉行衆と奉公衆は、あんまり仲良くないです。応仁の乱後に義政は、義尚に
代替わりする時に奉行衆を掌握したまま大御所に退いた。
義尚は奉公衆を掌握したが将軍として制約があり、義尚は奉公衆と強固な
関係を結んだ。そのため奉公衆と奉行衆が分裂状態になり、1485年に両者は
参賀の順次争いから抗争となる。この確執では奉行人全員の出家と、奉公衆
による奉行人布施英基父子の殺害に発展する。
この分裂した状態を克服するために、義尚は近江六角氏の討伐を利用した。
この出陣に伴い、実務的な奉行人らを含め、幕府の主要な機構が義尚ととも
に近江に移動して、実際の政務は義尚の掌握する事になった。
この第1次近江出陣は、将軍の権力基盤強化につながる。
義尚と奉公衆の繋がりはさらに強固なものとなり、義尚政権は奉公集が創造
した政権との評価を受けている。
85人間七七四年:2007/03/03(土) 02:12:11 ID:3n98sSys
義材にせよ義稙にせよ執念深いね。なんとしてでも将軍に返咲きたいんだろ。

義材については、明応の政変の時に殺されてもおかしくないし
実際、日野富子に毒殺されかけたが、上原元秀邸に隔離されてしまう。

その後義材は逃げ出して越中の神保長誠を頼り、紀伊に逃げ出した畠山尚順
と提携して政元や新将軍義高と対決する。
その後の神保長誠は大した事してないが、畠山尚順の方は紀伊から反撃に出て
河内や大和・摂津で細川政元やその配下の武将と数度の合戦に及んでいる。
大和では、畠山基家派の国人と畠山尚順は国人の戦いが続いているし
河内では基家が畠山尚順との戦いに負けて戦死している。
ちなみに基家は義就の子であり、彼の死後跡を継ぎ、明応の政変に便乗して
政長の自刃と畠山総州家の家督、河内の守護職を手に入れた。
基家は、京兆家の傘下に入り畠山尾州家の畠山尚順と戦う事に
応仁の乱の原因となった畠山家の分裂は、3世代にわたり続いているし、
また細川京兆家に利用され畠山家の凋落に拍車をかけている。
86人間七七四年:2007/03/05(月) 14:46:38 ID:obM8j+AX
しかしろくな実権があるかも疑わしい権力に魅力があるのかね?
87人間七七四年:2007/03/05(月) 20:50:13 ID:zXa+0G/+
>>85
細かいことだけど、神保長誠は義材を放生津に迎えてしばらくして、中風を患ってしまっている。
子の慶宗を、義材と共に大内氏の元に赴かせてるらしいし、
直接的な軍事行動を起こさなかった、って程度の評価じゃなかろうか。

あと、話はずれるけど、南大和って不思議なところだな。
後南朝の影響があったり、幕府権力に背いたものが拠ってたり・・・
88人間七七四年:2007/03/05(月) 23:08:58 ID:y9adOmqc
>>87
十津川郷もな・・・
89人間七七四年:2007/03/06(火) 01:36:29 ID:HqpXk+m5
応仁の乱以降の将軍はかならずしも実権がない訳ではない。(>>19より)
幕府の支配地域の縮小が見られるが畿内での将軍権力は大名の在国が一般化
したことと将軍親征で逆に強化されてる。義尚政権では将軍権力は向上している。

また、明応の政変以後の将軍は完全に細川・三好・松永の傀儡になった。という
説と、幕府は権力も支配地域も縮小しながら細川・三好・松永とは別個の存在である。
という説があり、論争になっている。
将軍親衛隊である奉公衆も明応の政変以降は、縮小されながらも続いている。
五番衆と言われているように5個の部隊で編成され人数も5千人から一万人
程度いたが、政変以後は人数は縮小する。(半分?三分の一?もっと縮小?)
名称は奉公衆から「詰衆」に変わり、詰衆の御家人は細川・三好・松永らの被官
に所領の侵食を脅かされながら何とか存在している有様であった。
将軍への求心力は低下し、義晴が京都から追放されても詰衆は追従する事無く
京都に留まりかつての将軍権力の面影はない。

ちなみに北条早雲こと伊勢新九郎盛時は奉公衆のメンバーです。
90人間七七四年:2007/03/08(木) 07:24:47 ID:bgYu5Tno
>>87
神保長誠は、所詮畠山の家臣の国人の1人にすぎず、畠山政長・尚順親子に
頼まれて義材をかくまっただけに過ぎない。神保長誠と畠山尚順は、イーブン
な関係じゃなくて上下関係。畠山尚順の方がぜんぜん大物。

軍隊の動員数もぜんぜん桁違い。畠山尚順は細川政元に追い落とされたとは
いっても3カ国の守護をかねる大大名。明応の政変後も細川家と戦い続ける
ことが出来た有力者。神保長誠じゃ小物で細川家とは戦争できません。

河内は畠山基英が抑えてるが、紀伊は尚順がおさえてる。大和は両者入り乱れで
よく分からないがほぼ折半か?南大和は、紀伊に近いため尚順側の勢力下に
あり、細川&将軍義高から見れば敵地。細川家の武将が何回か侵攻してる。
尚順も紀伊から大和に進出してくるし大和は細川家と畠山家の決戦場になっている。
9187:2007/03/10(土) 14:05:21 ID:4KNJSjKg
>>90
書き方が悪かったかな。

国人じゃなく、神保氏は畠山家内衆ですね。
弥三郎擁立時の寛正内訌の詳細を参照されたし。
神保氏は同時期なら越中・紀伊守護代なんで、
義材=尚順方の軍事的行動の消極性に原因があるのかなぁとも思ってみたり。

そもそも、この頃の情勢を16世紀以降の戦国大名同様に見ていいのかなぁ。
92人間七七四年:2007/03/11(日) 04:44:36 ID:PiEyVJgK
>そもそも、この頃の情勢を16世紀以降の戦国大名同様に見ていいのかなぁ。
                 ↑
87さんは、もしかして学者さん?それともその卵?
いま学会ではその辺の論争&学説はどうなってるの?教えて欲しい。

自分的には、この質問には、ヤッパリ細川政元が戦国大名か守護大名かの
判断により回答が違うのでは。

それと近畿では荘園領主や寺社勢力など既得権者の存在が大きいし
惣村の独立性自治性が高まっているので、上からの押えが効き難い。
いまでも関西の会社は部長クラスの力が強く社長と話してもダメと言う
ことが多いよ。阪神球団だってよくもめてるしwww
小林一三と五島慶太は全然経営手法違う、五島は強盗慶太、まるで戦国大名
みたいにM&Aやってる。小林の乗っ取り劇は聞いたことナイ。

関東や中部地方の方が惣村の組織化がやり易かったのでは?
後北条が関東であんなに短期間で巨大化したのは既に近畿の大名たちが
始めようとしたけど抵抗が大きくてナカナカ実現できないダイレクトな一円
支配方式が関東ではスムースに導入できたためとの話を聞いた事がある。
御北条の家臣が病気になった農民のために夜中にクスリを持ってきたとか
税金を安くしたとか公共事業をやって米の収穫を上げたとか言う話がある。
ある種の初期段階の福祉行政国家?なのか戦国大名は。

近畿の大名もそのような意識は持っていたのかも知れないが惣村の独立性や
国人のハネッカエリで上からの統合が失敗したのかもね。それが軍事的に
多数の兵力を動員できない理由か?
93人間七七四年:2007/03/13(火) 04:30:30 ID:x4laFiG/
>>92
タマゴの方ですw
この辺は、ちょっと神保氏に興味があってかじっただけでして。
理解不足は許してくだされ。

細川政元の勢力を、中央政権としてみるのか、
それとも畿内近国の守護大名としてみるのかによっても違うと思います。
政元の勢力を、戦国大名的に理解するのはあまり聞きません。
室町幕府自体への理解も近年変化してきているようですし、その関係からも考えられると思います。

>ある種の初期段階の福祉行政国家
この辺は「公」っていう論理で戦国末期は見通されているようです。
戦国末期の後北条氏はその研究が盛んなので、いろいろ本が出ていますね。

惣村についてはかなり勉強不足です(;´Д`)
ただ、惣村にしても上部に何らかの権力が存在しています。
畿内の場合、公家・寺社の影響力が依然として大きかった可能性もあります。
東国は・・・どうなんでしょうね?よくわかんないです。
突然戦国時代に突入したわけじゃなかろうし・・・
94人間七七四年:2007/03/15(木) 05:09:16 ID:Z1iavgll
なぜ関西の惣村の自治性独立性が高まったかを
民俗学をかじったおいらが真面目に学術的に説明しとく。
西日本は基本的に年齢階梯制っていう社会構造で村落が形成されてたのよ。
村落内のメンバーは平等。年齢ごとに役割を担っていく。
一定年齢に達すると、若者宿や娘宿ってとこに入って、成人すると家を持つ。
ここで成人になるときに、村落のメンバーとして宮座(寺社での寄合に出席する)の構成員になる。
で、年取ると、宮座のなかで村ごとに人数はことなるけど役につく。そして引退するってのが西日本の村落。
この社会は、基本的に全員平等なわけ。だから、寄り合いなのでみんなで話し合い村落構成員全体の同意などが
重要となるし 外部からの強制力も行使しにくい。垂直統合的な権力機構は作りにくい。

対して、東日本は、親方子方制なのね。親方の家、有力者の家とそこに隷属する子方で社会が構成されてる。
神社の祭祀なんかも、有力者の家が世襲したり、いくつかの有力な家で持ち回りでやる。
この親方子方制の社会だと、不浄とされる仕事は子方にやらせれば終わるし、
戦争になれば手下に動員をかけやすい。だから関西系の伊勢家がなぜか関東で急にデカクなるわけよ。
伊勢家が持っていたダイレクトな一円支配体制が関東でスコーンと当てはまり
垂直統合的な権力機構に出来上がったのでは?東の方が関西より守護家残ってんじゃん?
95人間七七四年:2007/04/13(金) 23:56:39 ID:NkCu7a5T
>>94
詳しいな。
96人間七七四年:2007/05/10(木) 15:26:22 ID:hy1tH0FZ
政元は確かに傑物だけど、えらく変わった人だよね
周りの評価はどうだったんだろ?
97人間七七四年:2007/05/12(土) 12:05:29 ID:hDyewkim
>>94
たしかに近畿では守護大名が一円支配方式を導入したがったけどなかなか
上手くいかなかったようですね。畠山氏ナンカは、山城で応仁の乱やその後の
戦乱を利用して一円支配を開始しようとしたところ将軍家・細川京兆家の
反発もあり土民が惣村単位で武装蜂起。両畠山家は、山城から追い出されました。

この話は有名ですよね。“山城の国一揆”というやつです。
この時の山城の国人はほとんど細川政元に仕えている状態で応仁の乱
以降の東軍の動員令が効いてる感じ。

この後にこの国一揆も分裂して大和の国人に攻め込まれたりして崩壊。
国人層と土民層の利害対立?それとも国人同士の離合集散?
山城の守護代にも細川家の内衆が就任して上から細川家の支配が強まります。
洛中の検断権も細川京兆家が吸収、山城は細川家の領国体制化の始まり。
しかし早い段階で細川京兆家の跡継ぎ問題で内紛が激化、政元も殺されてしまい
細川家による恒常的な領国支配も出来なくなった。
98人間七七四年:2007/05/30(水) 21:29:08 ID:yepBR6fv
この事件を分かりやすく解説した本とかないかな?
高価な専門書じゃなくて。
99人間七七四年:2007/06/10(日) 02:42:11 ID:YFkGQX3E
室町時代にはよくある権力闘争の一つ
観応の擾乱から南北朝合体までのごたごたにくらべりゃ
対立図式はかなりシンプル
100人間七七四年:2007/07/03(火) 00:25:49 ID:JN5Qzfsr
小説の題材にすると面白そうだな。
101人間七七四年:2007/07/15(日) 04:03:56 ID:9CG5oK9r
細川政元は、戦国大名とは見なされていないのはなぜか?

父親の細川勝元は、公家の日記に「応仁の乱で押領しまくったのは。
細川勝元と朝倉孝景だ。」とかかれてる。

押領している場所は、ほとんどの場合自分は守護をしている国だから、
朝倉は越前で、勝元は丹波や摂津・山城だろう。

戦国大名とは、ある国の領土と人民を1元支配する体制だから
守護がその国の領土を全部押領したら戦国大名になる。

そうなると細川勝元は丹波・摂津・山城を1円支配支配するために押領
したのならアル意味守護大名から戦国大名への変化は勝元の代から開始
されていたのではないか?

細川政元は、完全な戦国大名ではないが守護大名よりはるかに
強い支配体制敷いていた事になるのでは?
102人間七七四年:2007/07/15(日) 20:50:15 ID:mwnBzYuI
>>101
全面的押領ができていたら、戦国時代なんてやってこなかったんじゃね?
所詮、「押領がほかより激しかった」程度じゃないかな。

ちなみに誰の日記?提示していただけるとありがたい。
103人間七七四年:2007/07/15(日) 23:20:54 ID:OLbYVgDn
>>102
まあ〜そうなんですけど、戦国大名は一円支配言いますからね。
しかし戦国後半には戦国大名は、一応全面的押領したんじゃないですかね?

ただ朝倉孝景の押領は酷かったんじゃね?アンだけ恨まれてるということは。

>ちなみに誰の日記?→甘露寺 親長じゃなかったかな?
もしかすると一条 兼良か尋尊?カモ知れませんが・・・良く覚えてないです。
すいません!でもどこかの日本史の書物で書いてありました。

成り上がりの朝倉はともかく、細川勝元と伊勢貞親は確か、部下の領地の
処分権持ってませんでしたっけ?
将軍から特別にこの2名だけに認められたはず。コレがあれば守護である
勝元は、一元支配に向けて動きやすいでしょうね!伊勢氏は宝の持ち腐れでしょうが。




104人間七七四年:2007/07/17(火) 16:31:51 ID:JXwJ8vwX
細川政元(武将) 84.6点

画数:細[11] 川[3] - 政[9] 元[4]
天画(家柄)14画 凶  対人関係がうまくいかず、精神的な悩みも多く抱え孤独感に悩む。
地画(個性)13画 大吉 誰からも好かれて話し上手で社交上手、穏やかな性格で成功する。
人画(才能)12画 凶  小心者で神経質、強引だが中途半端。孤独で家庭に恵まれない。
外画(対人)15画 大吉 人の輪、家庭運に恵まれ、周囲の協力に恵まれ、大成功する。
総画(総合)27画 吉  自力で道を切り開けるが、人の輪をおろそかにするため発展しない。

評価 : 84.6点
モバイル姓名判断

おっ!なんか、当ってね!?点数は悪くない。
105人間七七四年:2007/08/04(土) 20:25:09 ID:pi8+kO1n

細川政元の場合、下克上は成功(将軍廃立:明応の政変)してますが、
上克下、つまり下を押さえ込むのは失敗してます。
守護代級内衆を押え込めなかったという事でしょう。

政元は、分国法みたいなの作ったけど政務は放棄させられてるみたい、
あれは自分から辞めたのかわかりません?

戦国大名は、下克上も上克下も両方できないと成功出来ません。
信長も本能寺の変で殺されているわけですし・・・

しかし、政元は、アチコチに出かけてるし、出陣もアチコチにしてますね。
将軍親征に付いて行ったりや明応の政変後も近江に出陣して畠山と合戦している。

摂津は自分で出陣して畠山氏と戦って奪回してるし、河内・大和や紀伊
までも赤沢親子に攻めさせている。このときには大和の寺社勢力はかなりの
打撃を受けている。信長チックな事してる。

また若狭の武田と組んで丹後の一色氏を攻撃している。

守護大名でココまで自分の領地の周囲を攻撃しているものはいないし、
当初、政元は勝元から家督を継いだ時点では畿内には丹波と摂津の1部
しか領土を確保していなかった。
その後、山城は・河内・大和は完全に支配化に置き畠山氏の片割れも傘下に入れた。
領国化したかは不明だが、紀伊・丹後・近江にも軍事侵攻している。

行動様式は戦国大名に近いかもしれない。守護大名はここまで戦争や領土拡張
やっていない感じがする。
本拠地は相変わらず洛中の細川管領亭でそこから領国支配している
丹波に本拠地移してないのは守護大名ポイけど。

106人間七七四年:2007/08/04(土) 21:17:17 ID:7anjLkVt
( ´゚ω゚` )
107人間七七四年:2007/08/06(月) 20:16:07 ID:wZNztBTp
政元は、播磨・備前・美作を押えていた赤松政則と同盟していた為
山陰地方への出兵はほとんどしていない。
政元は、自分の姉と赤松政則を結婚させている。

政元のメインの進出先は機内南部、河内・大和であろう。
そうなると邪魔なのは畠山氏。
108人間七七四年:2007/08/06(月) 20:28:50 ID:rB1gBdpB
畿内での合戦の兵力規模ってどれくらいだったんだ?謙信が2千人くらいの兵力で上洛したとき
松永や三好が震え上がったと聞くが
109人間七七四年:2007/08/07(火) 01:05:03 ID:wd1G61P/
謙信が震え上がったから坂本から京に通ったの間違いだろ?
110人間七七四年:2007/08/07(火) 03:25:25 ID:nXlO20vN
>>108
明応の政変の時、政元は2万の軍勢集めたといっていたけど、
将軍義尚の近江第1次親征は1万の軍勢。

応仁の乱のときみたいに7万とか8万とかの軍勢は居ないだろうが。
数千から1万ぐらいかもしれない。

応仁の乱の終わりごろ、畠山が洛中から河内に撤退する時には
2000名の歩兵と数百の騎馬隊が撤退したと言っていたけど?
それが目安になるのでは?
111人間七七四年:2007/08/07(火) 19:10:38 ID:okWqHuIU
>>110

となると五千あれば十分戦が出来たということか。
112人間七七四年:2007/08/07(火) 19:18:20 ID:e6txtD+g
>>111
つーか、1万人以上動員する戦なんて、戦国時代通してみてもそう数は無いだろ。
113人間七七四年:2007/08/07(火) 19:48:26 ID:ETXdJLE3
船岡山・天王寺・教興寺の合戦は畿内でも最大規模の合戦だな
まぁそれぞれ性格が違うのは置いといて
114人間七七四年:2007/08/07(火) 20:08:43 ID:Z3WgnmaS
少なくとも松永の性格からいってびびることはないだろう
115人間七七四年:2007/08/08(水) 01:14:45 ID:XHAdzxpt
そうなると細川政元は、守護大名でもなく戦国大名でもない中間的な存在。
政元は自分で将軍を追放しているのだから守護大名ではないだろう。

このころの守護大名はみんな国許に帰り国人層の掌握に躍起になるか
他国からの侵略に備えるか、下克上で守護代や国人に滅ぼされるかの
どれかになる。

守護の皆さんは自分たちが将軍あっての存在だと気付かなかったんですかね?
116人間七七四年:2007/08/08(水) 02:00:09 ID:nkxk8UNY
三好をなめるな。
117人間七七四年:2007/08/08(水) 03:51:05 ID:Mw2ky6OP
三好も松永も守護や守護代ではないな、
松永なんかどこの馬の骨かもわからん位の人物。

三好は信濃の守護をやっていた小笠原家の分家筋だから下克上の
成り上がり組みだけど言われているほど家筋は下ではない。

それに三好は細川管領家(京兆家)の執事という立場で細川政元に呼ばれ
京へ上り中央政界デヴュー

それを嫌がった細川京兆家の内衆が政元を暗殺、三好もその後の合戦で戦死。
118人間七七四年:2007/08/08(水) 10:12:18 ID:1vn8rwTz
三好は成り上がりだろう
鎌倉南北朝期の活動はやはり不透明
119人間七七四年:2007/08/09(木) 00:28:42 ID:GJfqkqeA
三好の素性は最近判ったのでは?鎌倉南北朝期に信濃から四国の阿波の
三好に土着したはず。それにより小笠原の家筋のものと判ったはず。

三好は元々細川の分家の阿波守護家の家臣だった。
応仁の乱後は、阿波守護家は、細川総本家の京兆家の支配下から独立し
政元と張り合って山城の守護職になろうとする。
その時に阿波守護と一緒に上洛したのが出世の第一歩。

明応の政変時には、細川の阿波守護家は、政元に追放される
将軍義材と一緒に河内に出陣していた。その後将軍義材を見捨てて
逃げ出してるw
細川政元は、将軍足利義材と管領畠山政長、阿波守護を明応の政変で
政治的に追放した。

しばらくは三好も阿波に逼塞しているが、政元が殺される直前に
阿波守護家と細川政元の同盟が出来上がり再度上洛。
政元の養子に阿波守護家の人間が決まった。細川澄元である。
これで三好の京兆家の執事就任が決まった。
120人間七七四年:2007/08/09(木) 04:07:36 ID:sBqd7XUN
それは最近分かったことじゃなくて、三好の系譜まんまじゃないの?
まぁいいけどさ
でも十分成り上がりだろう
細川の分家の家来が幕府牛耳るまでになったんだから
121人間七七四年:2007/08/09(木) 13:49:30 ID:3GaPDneL
三好之長は、応仁の乱でも京都周辺で戦っている。
その頃から京には上っている。あまり素行はよくなく、
幕府に逮捕されそうになり阿波守護家の京都の屋敷に逃げ込み
難を逃れた事も。

阿波守護家には、2種類の家臣団があり、1つは総本家の細川京兆家から
監視役としての機能を望まれた江戸時代の御三家の付け家老的な存在の
家臣と阿波守護家の直属の家臣団である。
もちろん三好は後者で、阿波守護家は、応仁の乱後は、の京兆家シンパの
家臣団は排除する傾向。そのため阿波では京兆家シンパの家臣団が何度も
反乱を起こしている。
この反乱は京兆家の策動があり、阿波守護家の弱体化の目論見があった。

それを鎮圧するため、阿波守護家は直続の家臣団を強化し反乱を鎮圧した。
そのため三好の勢力が阿波で増大、後々阿波守護家も下克上されるし
三好之長も京へ上り何かと猟官運動したりしている。

後に政元は阿波守護家との同盟を結ぶがそれが京兆家の内衆の反発をまねき
暗殺される。殺される直前の京兆家は、軍事的に追い詰められていた為
同族の阿波守護家との同盟に活路を開いたとの説がある。
122人間七七四年:2007/08/10(金) 14:55:50 ID:BF6FXPZe
細川 元有(ほそかわ もとあり)は、室町時代中期から戦国時代にかけて
の武将。和泉半国の守護である。

明応4年(1495年)、同じ和泉半国守護(下守護)であった細川政春と共に

畠山尚順と手を結び、細川政元と敵対したが、政元に敗れて降伏し、その

家臣となった。しかしこのため、明応9年(1500年)9月2日に畠山尚順に

よって居城の和泉岸和田城を攻められることとなり、城は落城して戦死した。享年42。

後を嫡男の細川元常が継いだ。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%85%83%E6%9C%89" より作成
123人間七七四年:2007/08/10(金) 21:35:17 ID:7AdHVk15
>>121>>122
細川京兆家は、応仁の乱以後次第に分家への影響力がなくなり始める。

特に阿波守護家や備中守護家、和泉両守護家など国持ちレベルの規模の
大きい守護家は、分家といえども細川総領家(京兆家)の言う事は聞かな
くなり、むしろ畠山氏と結託し反京兆家を目的とした軍事行動をとるな
どの動きを見せる。

なぜ、細川各分家はこのような動きをするのか、末柄豊氏によると・・・
応仁の乱により守護職の帰趨の決定が、幕府内部の政治情勢や重臣会議の
決定によってではなく、実力つまり自分の領国内部の守護代・国人層に
対する掌握度による事が公然と明らかにされたからである。
そのため乱後は、細川政元と畠山政長以外の守護大名は在国してしまう。

特に応仁の乱以後、幕府の影響力が低下し始めた畿内以外の地域ではその
傾向が大きい。畿内では応仁の乱以後も義尚・義材両将軍による幕権回復
の政策が履行されていて明応の政変までは、従来の秩序維持の力がまだ残
っている。

他にも細川の分家が本家から離反した理由がある。
幕府の存在意義も低下し細川氏のライバルの畠山氏も分裂抗争でその影響力
がそがれたため、末柄豊氏の言ういわゆる“細川家の同族連合体制”は存在
する意義自体が低下したからだ。
そもそもこの“同族連合体制”は幕府内で他の守護大名家に対する優位を
保障するモノだった。しかしライバルや幕府その物のがなくなれば親族と
言えでもまとまる必要がなくなる。

このような複合的ナ理由で細川京兆家による分家への影響力が低下する事
になった。
124人間七七四年:2007/08/11(土) 06:03:23 ID:iEr+tm6d
細川京兆家は、阿波守護家や備中守護家、和泉両守護家が離反するに
及んだ時にすんなりと認めたわけでもない。
各守護家(分家)を弱体化させるかもしくは軍事的に打倒する為軍事的
オプションも含め色々画策している。

1485年(文明14年)に阿波守護家内の京兆家シンパの家臣を阿波に帰国させ
どうやら反乱を起こさせたようだ、京にいた阿波守護の細川成之・政之親子
は、急いで帰国し、また三好之長も先陣で帰国し一応鎮圧した模様だ。
しかし細川成之・政之親子は3年間も在京せず、三好之長も8年間も地元にいた。
これは阿波での反乱が大規模であり鎮圧やその後の処理に手間取った事がわかる。

阿波守護家が京兆家からの離脱の傾向が見えたのは、細川政之が1478年に阿波守護に
就任した時から始まったらしい。守護就任後3ヶ月後にもう京兆家に近い家臣団が
政之を守護から退任させ別人を阿波守護家の当主とすることを決定したという。

京兆家と阿波守護家が決定的に対立したのは、1493年(明応3年)の明応の政変
直後の事だ。三好之長が中心となり伊勢貞陸を辞めさせ細川義春を山城守護職に
就任させようと図った。これは伊勢貞陸と結んで明応の政変を成功させた細川
政元にとって認められるはずもなく、両家は対立状態になった。
この時点では伊勢氏は山城の国人と対立している為、それを利用して国人たちの
支持を獲得し細川義春の山城守護就任を画策した。

備中守護家に対しても京兆家は、各種の画策を行い弱体化もしくは対備中家
軍事的オプションを開始している。1491年の庄元資の乱である。
これは庄元資は京兆家と備中守護家両属の家臣である事を京兆家が利用し
庄元資を含め4人の家臣を備中にて反乱を起させたものである。
1494年にはこの反乱は失敗し備中守護家が優勢で庄元資が備中から追い出された。
その後元資は、京兆家支援のもと石見と安芸の国人層を糾合し再び備中に侵攻した。

そのような状況下で明応の政変勃発時には、備中守護細川勝久は在国したまま
で政元に対し京での政変の協力はしていない。それだけ対立していたという事だろう。

>>122から1495年に和泉両守護家も紀伊の畠山尚順と同盟を組み細川政元と
敵対し軍事行動をとったことが分かる。しかし和泉両守護家は政元に大敗し、
京兆家の傘下に留まった。
そのため逆に畠山尚順に攻め込まれ和泉両守護は戦死した。
その後細川政元が河内で畠山尚順をやぶり和泉に攻め込み奪回している。

以上のように分家の各守護家の自立傾向にストップをかける為、京兆家は
色々な手立てを実行する。しかしコレでは長期的ナ戦闘が予想され、京兆
家にとりリスクが大きすぎた。
そこで摂津・丹波の支配の強化をまず行い。その後山城、河内、大和を
領国化し京兆家は政治的軍事的基盤を畿内中心に改めた。

これが細川家の同族連合体制が崩壊した時の京兆家の処方箋である。
125人間七七四年:2007/08/11(土) 15:06:45 ID:aW8uVnf1
これらの“細川氏同族連合体制”の崩壊には、将軍の意向もあるだろ。
つまり細川京兆家と分家の連合を切り崩し細川氏の勢力を削ぐ将軍家の
政治的試みである。

足利義尚・義材政権では畿内に於ける幕府の権威回復が試みられている。
具体的には将軍親衛隊の奉公衆による直接的な軍事行動の発動と同時に
細川京兆家に対する抑制政策である。特に足利義材政権ではいかに細川
政元の政治力・軍事力を押さえ込むかが重要視された。そのため畠山政長
は、将軍義材に起用された。

その時期に細川の各守護家(分家)は京兆家から離反を開始している。
まず、各守護家は、自国の領国内に存在する京兆家の家臣(京兆家内衆)
と親京兆家派の家臣の所領を押領し始めた。これにより細川の分家は
京兆家の自国に対する影響力を阻止し合わせて京兆家家臣の経済・軍事力
を削ぐことを目論んだのであろう。

これらの政策が開始されたのは足利義尚政権時であり、本格化されたのは、
足利義材政権時である。したがってこの“細川氏同族連合体制”分断政策は
義尚・義材政権による細川氏抑圧政策としての意味合いがある。
126人間七七四年:2007/08/12(日) 01:30:29 ID:tcGe0gBD
義材はともかく義尚は政元とは関係悪くないんじゃない?
127人間七七四年:2007/08/12(日) 15:25:36 ID:R+PanJcM
確かに義尚政権と細川政元は悪くない。義尚政権自体任期が短かったし
将軍親征や大名抑圧政策も特別細川京兆家だけを狙い撃ちしたわけではない。
将軍義尚にもっとも酷い目に合わされたのは近江の六角氏だろうし、
親征の対象になった美濃の土岐氏や越前の朝倉氏の方が抑圧されている。

やはり義材政権になり当初政元が義材の将軍任官に反対した事もあり
畠山政長の管領就任ともあいまって細川京兆家が抑圧の対象になった。

しかし1度“細川氏同族連合体制”が崩壊すると元には戻らず
各守護家(細川分家)は、京兆家の軍事的攻撃を跳ね返しかえって
領国支配体制を強めより京兆家からの自立性は歴然とした。
時代的にも下克上や地元の国人層の動きに守護や領国支配が左右される
為それに拍車をかけた。

そのために京兆家は“細川氏同族連合体制”崩壊で失った分家の支配地、
具体的には阿波や備中や完全に喪失したわけではないが阿波守護家の侵略
を受けている讃岐などの領土の代わりに畿内の山城・河内・大和等の獲得に
動く。
その為に畠山氏や将軍家の存在は邪魔であり、後には本願寺や根来寺など
の宗教勢力とも戦い畿内に京兆家の一元的支配を確立しようとする。
その手始めとしての将軍義材の廃立つまり“明応の政変”である。
128人間七七四年:2007/08/12(日) 22:01:01 ID:6ZVdGMrq
強大になった京兆家に対して将軍家が分家の対立を煽って勢力を削ごうとした
のに対抗して政元が先手を打った可能性は?
もう1つの領国の土佐には阿波守護は手を出していたのですか?
129人間七七四年:2007/08/13(月) 00:06:07 ID:KQHBpTjw
それもあると思います。それと細川政元が・・・
明応の政変を起こした理由は複数あり1つに集約しない方が良いと思います。
時間軸では既に将軍家の“細川氏同族連合体制”への分断工作は開始され
ていると思います。そうなると先手を打ったという表現は?

京兆家の阿波での下守護家(阿波守護家)に対する反乱工作は1985年に
行われているし。備中での庄元資の乱は、1991年です。
明応の政変は1493年です。
これらは京兆家が分家が離反し始めたと感じたから行った工作であり
各分家の後ろには将軍家、特に足利義材が居たと言う事でしょう。

難しいのは時間的に京兆家と各分家の利害の対立が先なのか、
将軍家の“細川氏同族連合体制”分断工作が先なのか良く分からない
という事です。鶏と卵の関係ですねw

土佐に関してですが、阿波守護家は手は出していないのでは。
あまりそれを示す資料は無いようです。

理由としては、京兆家の阿波守護家に対する圧力はかなり激しかったので
阿波守護家は阿波国内の京兆家派の家臣をやっつけるのが精一杯だったの
ではないか?阿波の反乱が1段落着いたあとは、阿波守護家は、土佐ではな
く讃岐に侵攻している。土佐よりこちらの方が興味あったようだ

また、土佐は京兆家にとって余り力を入れて支配していない国だったようです。
細川氏の分家には土佐守護代家という家があり、そこが土佐に在国し
直接土佐の国人に対し命令を出していたようです。つまり京兆家は
土佐の支配を分家の土佐守護代家に“アウトソーシング”していたのかも
知れません。またこの当時の土佐守護代家の支配は長宗我部兼序と結託し
かなり強固なものだったようです。そのせいで政元が死ぬと長宗我部兼序
は土佐の国人からかねてから反発を買っており総攻撃を受け戦死します。
したがって阿波守護家もあまり土佐に注意を払わなかったのでは。
130人間七七四年:2007/08/13(月) 04:23:00 ID:NgvyHvgc
>>127
根来寺はともかく、本願寺は政元攻撃していないのでは?

政元が攻撃したのは、延暦寺です。
あと大和の興福寺も攻撃してましたっけね。
131人間七七四年:2007/08/13(月) 13:38:00 ID:UFAkmmGW
>>130
興福寺は政元に散々なめに合わされますな。
まあ〜国人のほとんどが衆徒だから仕方が無いですけどね。
政元の大和攻撃で、国人衆は手酷くやられますね。これで実質的に大和は
京兆家の領国になりますね。

二十一年間没落の憂き目を見た島氏を含む筒井党は明応六(1497)年に復活、ようやく念願の帰国を果たし、代わって越智党は没落する。しかしそれも束の間の明応八(1499)年
十二月、今度は細川政元の重臣・赤沢朝経(沢蔵軒宗益)が大和へ侵入して
秋篠城に押し寄せ、筒井党と激戦を行ってこれを破り、筒井・豊田・番条・
十市・楢原の諸氏は再び没落する。
 朝経は大和侵入後、数カ所の庄園を配下に知行させたため大和国人衆は
危機感を持ち、永正二(1505)年二月、春日社頭に起請文を掲げて和睦し結束
した。すなわち「大和国人一揆」の結成である。これは中世大和の特異な
支配状況を物語っており、外敵の侵入には個々の確執を捨てて一丸となって
これに当たろうとするものである。
むろん、その背後には興福寺の存在があるのは言うまでもない。

 同年十一月、細川政元から赤沢朝経を将とする畠山義英(義豊の子)討伐に
向けた軍勢が大和を通過することを求めて来るが、大和の国人衆は連判状を
作成してこれに反対している(『多聞院日記』)。朝経が大和を通過したかど
うかは判らないが、結局政元勢は河内誉田城の義英、高屋城の尚順と立て続
けに破り、両人が大和へ逃げ込んだことから、南都に再び緊張が高まる。
そして永正三年八月、政元は大和国人衆が義英をかくまったとして、再び
赤沢朝経に大和侵略を命じた。
 こうして大和は朝経の二度目の侵略に遭い、大和国人一揆は苦戦する。
永正三年八月には郡山城も落とされ、結局一揆勢は大敗北を喫して大和は
朝経に支配されてしまう。

この大和攻撃はあくまで細川政元の命令であり、朝経個人の思惑ではない。
朝経の支配下というよりも京兆家の支配下に大和は置かれた。
132人間七七四年:2007/08/13(月) 13:55:01 ID:UFAkmmGW
将軍義材は翌明応二年(1493)、畠山氏討伐のため河内に向けて出陣
する。ところが将軍権力の強大化を望まない管領細川政元は義材の留守を
ついてクーデターを起こし足利義澄を擁立、義材は京都を離れたまま将軍
の座を追われることになる。またもや運は高頼に味方した。このクーデタ
ーにより近江では高頼が力を盛り返し、金剛寺城を取り戻すのである。

 細川政元は六角虎千代に替わり山内就綱(政綱の子)を近江守護に任命
し近江制圧を期す。明応三年(1494)十月、山内就綱は延暦寺の援護
を得て近江に侵攻、金剛寺城に籠もる高頼を破る。しかし翌月には美濃守
護代斎藤利国(持是院妙純)の援軍を得て高頼が反撃を開始し、まもなく
就綱・延暦寺を駆逐する。これにより幕府は六角征伐を諦め、高頼は領国
を完全に取り戻すことになる。高頼は明応四年(1495)頃には近江守
護に還補され、幼少時から数えて実に三十年近く続いた幕府との戦いも幕
を閉じる。これ以後高頼がその地位を追われることはなかった。
133人間七七四年:2007/08/13(月) 13:59:30 ID:UFAkmmGW
 二度にわたる六角征伐を耐えぬいた六角高頼は、領国支配を強め戦国大名
への一歩を踏み出そうとしていた。しかしここに一つ大きな障害があった。
それは家臣の伊庭貞隆である。応仁の乱以降、六角家では当主高頼のもと
山内・伊庭両氏が家臣団を統率して難局を乗り越えてきたが、第二次六角征伐
で山内政綱が討たれてからは伊庭に権力が集中することになった。その結果、
伊庭貞隆は高頼に匹敵する権勢を有した危険な存在となったのである。

 そして文亀二年(1502)十月、第一次伊庭の乱が勃発する。
「伊庭連々不義の子細共候間」として高頼が貞隆の排除を決行したのである。
戦闘に敗れ湖西に脱出した貞隆であったが、幕府との強いつながりを持つ
貞隆は管領細川政元の後援を得て反撃に転じ形勢は逆転する。青地城・馬淵
城・永原城と次々に落とされた高頼は、観音寺城を捨てて蒲生貞秀の音羽城
に落ち延びることになるのである。

 さらに翌文亀三年には細川政元の被官赤沢朝経が派遣され、高頼軍は窮地
に陥る。かろうじてこれを耐え抜いた高頼は政元の斡旋により講和を成立さ
せた。こうして戦争は終結した。しかし高頼にとっては、貞隆を除くことの
困難さを痛感させられた。
134人間七七四年:2007/08/13(月) 22:00:52 ID:pHWVGfgq
>>129:人間七七四年2007/08/13(月) 00:06:07 ID:KQHBpTjw(1)
>京兆家の阿波での下守護家(阿波守護家)に対する反乱工作は1985年に
行われているし。備中での庄元資の乱は、1991年です。



…五百年ほど違くね?
135人間七七四年:2007/08/14(火) 00:21:19 ID:8LykVmfo
↑すみません!確かにマイナス500年です。
136人間七七四年:2007/08/15(水) 15:30:47 ID:WLwHpCQr
明応の政変の発生時点では、細川政元は、管領ではない。
この時の政元の立場は丹波・摂津両守護であり、この地を支配している
という実態が政元の力の源泉である。もはや幕府管領という地位そのものに
政治力は無くなり始めている。丹波・摂津は幕府本拠地の山城の西側に
隣接し直ぐに洛中に軍勢を入れることが出来る。そういう軍事的後背地
を領有しているという実態が京兆家の力の背景である。

従って、この時点から幕府のポストを巡る政局ではなく、次第に領土獲得
戦争の色合いが出てくる。
そうなった原因は、応仁の乱の時に東西両軍が、敵の領土をかく乱する目的で
互いの領土の国人を扇動し反乱を起こさせたのが原因ではないか?
それが戦国時代での下克上や守護の任命に関係ない地元の事情による領土
獲得に拍車をかけていたのではないか。

京兆家の“細川氏同族連合体制”の崩壊による備中・阿波の喪失、讃岐の
支配体制の弱体化に代わり政元が畿内領有化を政治的目的にしたのは
そういう時代背景があったと思う。
137人間七七四年:2007/08/15(水) 17:13:24 ID:QuBf+fuN
赤沢朝経をもっと有名人にしよう。
相当やり手だったんだろうな。
一度裏切ったくせにまた仕えてる。政元もよく許したね。というか、政元から戻ってきてくれと。
でも、言い方は悪いが朝経は政元の犬。
奈良の寺焼くわ比叡山焼くわ。波々伯部五郎もそうだけど。
でも、最後がいいよね。政元の後を追ったって感じで。
138人間七七四年:2007/08/15(水) 22:33:53 ID:OoGzDdd7
赤沢朝経は、経歴や系譜が良くわからない人物。
いわゆる京兆家譜代の内衆ではなく、政元個人がリクルートした直属の部隊
の隊長。ドイツ30年戦争でハプスブルグ家に採用されたワレンシュタイン
みたいな感じ。「政元の犬」って言うけど仕方ないね。彼のような新参者は
成果を挙げて内衆との差を見せるしかない。
それに内衆は、この時点では政元の直接的な国人支配制から見れば邪魔な
存在。守護代なんは政元から言わせるなら廃止したかったのかも知れない。

そういう背景があるから政元の命令があれば無理をする。宗教勢力への
陰惨な攻撃は政元の命令でしょうね。丹後で一色氏の攻撃で死んだもの
もしかすると自害かもしれない。政元あっての自分と判っていたのだろう。
ある意味阿波守護家の三好之長と同じ位置づけかもしれない。
政元自身がもっと長生きすればもっと有名になるか大物になるったかもしれない。

とにかく良く働いている。鬼の赤沢と言わる位の猛将ですな。
政元の場合、代々相続してきた丹波と摂津を戦国時代にも維持し
さらに畿内の領有化を推進する為にこの2カ国の周囲をアチコチ攻撃している。
もはや超多面戦争状態に。
その為、全てに政元自身が出馬できる状態ではなく、ある方面は部将に任せ
そのほかの戦線は政元が出馬する体制。特に大和や河内の征圧は、赤沢が
居なければ出来ない事だったであろう。
そのほかにも紀伊や和泉、丹後まで進撃し敵の根拠地に打撃を与えている。
139ドゴールクラブ:2007/08/16(木) 03:09:41 ID:mPrfyEEV
細川政元がこれほど力をもてたのは、丹波と摂津両国を領有できたからだろう。

丹波は古くより京都の出入口に当たる地理的条件から各時代の権力者から重要
視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司
代などの支配を受けた。
ただそれだけにひとたび都で戦乱が起こった時は戦乱にすぐ巻き込まれた。
足利高氏の倒幕の挙兵も明智光秀が本能寺の変へと向う際にもこの丹波が
舞台である、だから何度も時代変革の舞台ともなった。

摂津も同じく重要拠点である。海に面し貿易の拠点になりやすく河川も入り組
んで大量運搬にも適している。

この両国を領有した事により代々の京兆家当主は幕府本拠地の出入り口を押えた事になる。

>>108
また京兆家はどのくらいの兵力動員数なのか?大体40万石で1万人の軍勢の
動員が出来るとされている。丹波は約20万石、摂津は約50万石だから合計
70万石で約1万7000人と言う事になる。それに讃岐は20万石、南山城の国人
も勝元以来応仁の乱の動員に応じ京兆家の影響下にある。従って京兆家の
動員数は2万5000人前後と類推される。
140人間七七四年:2007/08/16(木) 03:47:36 ID:mPrfyEEV
しかし、政元が京兆家家督を相続した時点ではまだ摂津は応仁の乱の最中で
大内政弘と畠山義就に占領されており、摂津守護代以外の国人は京兆家に従
っていなかった。先代の勝元も応仁の乱後半には戦闘は対大内氏に限定し
領国奪回に躍起になっていた。応仁の乱終了時に政元と後見人の細川政国は
将軍義政同意の下大内氏に本国への撤退即し畠山義就と交渉し何とか摂津を
奪回した。この時点でようやく京兆家の動員人数2万5千人である。

他に畿内では将軍親衛隊の奉公衆の動員人数は5千人から1万人であり、
畠山家も政長と義就に分裂している為両者が約1万人づつと考えられる。
もし畠山家が分裂していなかったら、山城・河内・大和(公式には興福寺が
領有)・紀伊の4カ国にわたる大大名で京兆家に対抗できる兵力を動員出
来るのだが、2家に分裂した為動員数が半減し、勝元時代は政長が傘下に
政元時代は基家・義英親子が傘下に入ってしまう。

このように京兆家の圧倒的な動員力があるため軍事的に畠山家が分裂して
いる間は戦争になっても畿内を制圧できる。政元の執拗な畠山家との戦闘は
このことからも理解できる。畿内領有化の具体的目標である山城・河内・
大和は、全て畠山氏の領国であり畠山家の分裂による敵兵力動員数の減少が
政元の畿内領有化計画の助けになったか計り知れない。
141人間七七四年:2007/08/18(土) 01:45:34 ID:nJN3BDJX
“細川氏同族連合体制”の崩壊により京兆家は備中・阿波の喪失、讃岐の支配
体制の動揺に直面しその対応策として“畿内領有化”つまり山城・河内・大和
なども京兆家の領国として拡大する計画に乗り出した。
しかし政元の対策はそれでけではなかった。領土を広げるだけでなく、既に
累代にわたり支配してきた丹波・摂津両国の支配体制の変更である。

政元は、今までどうり内衆を守護代に任命して間接的に支配するのではなく
政元自身の人間関係を国人末端まで広げ、戦国大名が行う一元的な領土と
人民の支配に乗り出す事となった。
具体的には、政元近習に丹波・摂津の国人を採用しダイレクトな指揮命令系統
を確立し、行政から軍事的な事案まで政元自身か彼の側近により決定する体制
を作り上げる事である。
その為守護代の下は小守護代や各種奉行であるが、政元は、丹波・摂津の奉行
に積極的に国人層を採用している。
このように譜代の内衆を経由しない直接的な支配体制は、当然、伝統的な中世
の権門体制から逸脱し京兆家当主だけ権力をを突出させる事となる。したがっ
て本来政元に付属し彼とともに領国運営に携わるべき内衆と軋轢が生じ始めて
いる。これらの支配体制に移行するなら政元と国人や人民との中間に位置して
いた内衆は領地経営から排除される可能性があり、また本来内衆の配下にある
べき国人層が政元と一体化すれば内衆が保持する京兆家領地内の自分たちの権
益さえも京兆家当主に剥奪される可能性がある。したがって政元と内衆の間には
恒常的な利害の不一致があり京兆家内部で領地経営についての主導権が争わせる
事態となった。
この支配体制の変更は、勝元時代から始まった事なのか政元が始めた事な
のか判らないが、下克上や室町幕府の支配体制が弱体化した事により各地
の守護が自立的な支配体制を確立しようとした事とも通じる。
142人間七七四年:2007/08/18(土) 09:29:05 ID:eIMr4blk
それならなぜ政元は阿波守護家の澄元を養子にしたのですか?
澄之も理解できない人選でしたが
143人間七七四年:2007/08/19(日) 23:43:08 ID:mYyrPBfC
政元が変人だったから。
144人間七七四年:2007/08/22(水) 16:25:01 ID:AsDWWnoU
政元は、ガチガチのホモw

家臣の内衆や細川一門のおとな衆にも呆れられてる。
145人間七七四年:2007/08/22(水) 16:59:21 ID:7T254LNJ
守護代クラスの内衆への対抗上では?
政元暗殺後の内衆は澄之一本でまとまっているし、
それ以前から澄之擁立の動きはあったでしょう。

澄元を養子にすることにより、
阿波守護家との関係強化、後継者問題で澄之派を牽制、
おまけに三好之長も手駒に使えると一石三鳥。

…むしろ破滅を早めた気もしますが、末期の政元は綱渡り状態ですね。
146人間七七四年:2007/08/23(木) 16:29:50 ID:8fSPSUOM
>>142
>>145
古野貢氏の論文に、澄之・澄元を迎えたことについて書いたものがあったと思う。
「細川氏同族連合体制」の崩壊を主題としたものだったと思う。
147関連スレ:2007/09/27(木) 03:30:38 ID:ppzTSM4W
【越中】神保氏を語ろう【紀伊】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1190830871/
148人間七七四年:2007/10/16(火) 10:33:24 ID:Ataf/MRd
政元に実子がいればその後の混乱はないな。
149人間七七四年:2007/10/26(金) 05:02:07 ID:wOqwDUft
>>148
それは性癖上、難しい相談かと。
150人間七七四年:2007/11/05(月) 02:21:21 ID:dDhUvnbb
この政変が無かったら、室町幕府はどのくらい命脈を永らえたんだろうね?
地方に強力な戦国大名が生まれ始めていた以上、あまり史実と大差なかったような気もするが。
151人間七七四年:2007/11/05(月) 17:42:32 ID:JDHDPfjo
史実以上に生きながらえる可能性もあるが、
諸大名にしてみれば危険な存在なので史実より早く潰される可能性もある。

いずれにせよ、担がれるだけの御輿ではなくなるだろうね。
152人間七七四年:2007/11/12(月) 09:13:40 ID:Cy8SH2vN
義輝や義昭みたいな野心家が史実通り出てくるなら、戦国大名化するね。
細川や三好、六角が強大化するとやばいけど。
153人間七七四年:2007/11/27(火) 12:40:19 ID:A9M780cI
実力者の一存で天下人がすげ替えられるって、相当なことだな。
武田信虎の追放とか、比じゃないし。
154人間七七四年:2007/11/27(火) 16:10:48 ID:c8Sj+2CG
足利家が戦国大名化したら相当強力なんじゃ無いか?奉行衆は数は多くないとはいえ
当時の日本でも最新の戦術を操る最精鋭部隊だろ。
155七資産1970:2007/12/02(日) 15:50:27 ID:dXaSxNoj
煽るわけではないが

足利将軍家が戦国大名化することってできるの ?
できるならば、それはどういう状態をさすのだろうか
156人間七七四年:2007/12/03(月) 15:36:30 ID:jXovhrfw
>>155
政元が明応の政変を起こすまで足利将軍家は戦国大名化するコースだったよ。
奉公衆の兵力は畿内の大名にとって大きな脅威的存在。

政元も怖いので、明応の政変を起こした。
157人間七七四年:2007/12/03(月) 16:00:32 ID:qJC2j+Z5
>>3
そこみたが、ノートに名指しで編集人を弾劾している人がいるけど
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

記述自体は妥当なものなの?
最低、国史大辞典などの歴史学者が編纂した辞典を参照してくださいと高飛車なモノいいしている人が
難癖つけているけど。
158人間七七四年:2007/12/18(火) 17:18:19 ID:1wuXdxxH
>>156
何故どうやって戦国大名化への道を進むのか教えて欲しいです。
159人間七七四年:2007/12/18(火) 17:50:52 ID:E9WwCxcW
>>158
自立した領域国家化すればそれを戦国大名化というんでないかい?
義尚、義澄あたりはそう言う意味で足利家を戦国大名化しようとしていたと言っていいと思うが。
160人間七七四年:2007/12/21(金) 08:33:59 ID:rlbWHjOx
直轄地で増えてくれば、それだけ軍事力も高まるからね。

やっぱ、足利幕府は御料所(天領)が少なすぎた。
六分の一殿とかありえないw
161人間七七四年:2007/12/21(金) 11:00:01 ID:jWUcFE1K
斯波や畠山が上手く自滅してくれたが、ついでにぐたぐたになった将軍家
が建て直しして細川を弱体化させようとしていたが、政元に先手を打たれた
のがこの政変?
162人間七七四年:2007/12/22(土) 18:07:02 ID:627Moq7x
>>161
>ついでにぐたぐたになった将軍家
義尚・義材は近江親征・河内親征を行ったように、軍事力を重視して実際に行使している。
明応の政変前に将軍家がぐだぐだな状態だったわけではない。
むしろ親征という軍事的な強権を発動する将軍家が今後より一層強い存在にならないように、
事前に縮小化させることを狙ったのがこの政変ではなかろうか。

斯波氏が尾張に逼塞、渋川氏が没落(関東・北九州の一地方勢力)、
赤松氏と山名氏が相争って国力を疲弊、京極氏が没落(出雲は尼子台頭、近江は六角優勢)。
義材の目にはこれら在京武家の極端な没落及び地方大名化を目にした上、
河内親征により畠山氏を追い落とせば残る在京の危険勢力は細川氏のみになるわけで、
細川氏の弱体化を狙っていたとしてもおかしくはないけど。
163人間七七四年:2008/01/11(金) 11:47:04 ID:x3OWrGeT
義材は復活してるけどね。
164人間七七四年:2008/01/26(土) 10:02:09 ID:XK7uttJF
京兆も澄之 澄元 高国が争うちゃうからな。
165人間七七四年:2008/02/12(火) 14:47:20 ID:fNOc5fw2
政元のあとがつづかないね。
166人間七七四年:2008/02/13(水) 14:06:29 ID:7/VnFOK3
>>164-165
将軍家としては望ましい展開だろうね。
167人間七七四年:2008/02/17(日) 06:32:01 ID:ys5uFUvW
だから、政元がホモではなくて、ちゃんと子供作っていれば
あそこまで京兆家が分裂しないと思います。

養子3人もとるなよw

ただし、下克上が始まっていますので、仮に政元の実子が居て京兆家家督を継いだとしても
丹波・摂津・河内・大和・山城の国人や守護代が黙って大人しく従うかどうかは不明。

仮定の話として政元の実子が継いだ瞬間、領国内の国人や守護代と大戦争となるかも。
168人間七七四年:2008/02/18(月) 08:55:08 ID:43ETj6aA
>>167
> 養子3人もとるなよw

思うんだけどこの養子って
アッー!
の為だよね?
169人間七七四年:2008/02/18(月) 11:37:19 ID:7YjtIFuI
>>168
もう少し史書も読みなされ。
170人間七七四年:2008/02/18(月) 15:10:38 ID:ncn3cVpx
アッー!の為だけなら小姓で十分!

養子の問題は、家の問題だから家臣団(被官衆)の支持獲得も必須。
養子の出来不出来が最も重視される。

この時代は、実子ならよほどのペケしない限りまだ大丈夫。
本格的な戦国時代になると実子でも出来が良くないとダメになるけど。

戦国時代初期はまだまだノホホンとしている。守護大名も残っているし。

応仁の乱終結から明応の政変勃発までの16年間は、室町幕府の復権の時代。
だから畿内だけに関しては下手な事すると、直接足利将軍から攻撃されかねない。
畿内の国人も守護代も、奉公衆を意識してますね。

171人間七七四年:2008/03/01(土) 14:45:16 ID:TngUakBw
阿波守護家からはなんとなくわかるが
九条政基の子を養子に貰う意味は?
172人間七七四年:2008/03/02(日) 02:09:05 ID:lBrNb/86
>>171
なんか気に入ったんだろ。
173人間七七四年:2008/03/02(日) 23:33:36 ID:oNAr8+VR
いいや政元の性癖ではなく、以前からの付き合いが深い公家との養子縁組は守護大名には多い。
個人的な関係というよりもイエとイエとの関係に近い。

京兆家と同盟している赤松家も公家から養子もらっている。

江戸時代には、後に財閥家になる住友家は、男子直系が断絶し
西園寺家から養子をもらっている。

近衛家も戦前の昭和期に京兆家の分家筋の熊本細川家に婿入れてるし。
174人間七七四年:2008/03/17(月) 17:27:48 ID:AR2PBGiW
赤松はいつの頃の話だろうか?
175人間七七四年:2008/04/01(火) 15:32:35 ID:BA1dN4or
勝元が畠山あたりを引っかきまわしたから 分裂も因果応報だよ。
176人間七七四年:2008/04/15(火) 15:58:17 ID:UsxABxeb
斯波・畠山と同じ轍を踏んだな細川も。
177人間七七四年:2008/04/17(木) 12:32:05 ID:MTLyylV2
 奉公衆に非常に興味ありまくりんぐなんだが

 彼らの忠誠心ってどれくらいだったのかな?

 何かいろいろ調べくと飛騨の内ヶ島氏?とやらも『奉公衆』だったようだが
 1510年くらいにはもう忠誠心何か忘れてるっぽいような事書かれてる
 んだがwww 実際義政くらいの時は将軍のための死ぬ覚悟とか
 あったのかな? ちょっと胡散臭そうw
178人間七七四年:2008/04/17(木) 14:20:21 ID:AUwNr/qR
足利茶々丸




名前が良くないな。
179人間七七四年:2008/04/23(水) 02:22:20 ID:8eRD2h6M
>>177
義尚・義材までの奉公衆は忠誠心高かったろうな。
近江遠征軍や河内遠征軍の中核なわけだし。
明応の政変以後の奉公衆はそれ以前とは別物と考えていいんじゃね?
規模も縮小されたし、あの辺りから中身を伴わない地位的な位置に落着したと思うが。
180人間七七四年:2008/05/07(水) 15:28:45 ID:6U2bfFRy
もともと室町幕府の体制は、守護たちの寄合い所帯のイメージがある
奉公衆も江戸期の旗本や譜代大名とは全く違うような
181人間七七四年:2008/05/09(金) 22:42:57 ID:Z9WfiSDW
どうも足利家の意識としては、北条を排除した鎌倉幕府を復興した、くらいの意識だったらしい>室町幕府
182人間七七四年:2008/05/10(土) 15:51:51 ID:oxmIGnwL
御所から見ればあれだが、得宗からみれば鎌倉幕府の方がしっかりしていたと思うな
183人間七七四年:2008/05/10(土) 16:53:19 ID:XcPHekpb
室町幕府は建武の新政の反動か知らんが、法律まで鎌倉幕府の御成敗式目を
全くそのまま使い通した、って言うのが面白い。おかげで社会の現実から乖離しまくって
訴訟なんか大変だったらしい。担当者によって現実と合わせた解釈をするかどうかが
えらく違ってて、町の揉め事すら将軍の裁決を仰ぐはめになる事も間々あったらしい。
184人間七七四年:2008/05/19(月) 00:32:33 ID:eOMWy5XK
>>183
別に変じゃないよ。
御成敗式目は武家(政権)の祖法と思われていたから。
朝廷だって、全く形骸化した養老律令を明治維新まで掲げていた。
185人間七七四年:2008/05/31(土) 13:55:07 ID:/iJR3ido
鎌倉のやり方を受け継いだら、将軍は力持てないよね
反面教師にしながら、家康は相当考えたものだ
186人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 00:56:24 ID:RrlJ7zlL
>>185
鎌倉時代の、いわゆる源氏三代以降の宮将軍や公卿将軍も、実際はかなりの権威と権力を持っていたらしいぞ。
実は北条としょっちゅう対立してたりする。決して北条に唯々諾々と従うだけのお飾りのロボット、では無かったことは
確かだ。
187人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 16:42:33 ID:s3PiDZKp
北条得宗って結構全国に領国もっていたよね
対する足利将軍は…
ここらに問題がある

>>186
九条頼経・頼嗣・宗尊親王・惟康親王と悉く追放されちゃうけどね
188人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 05:08:02 ID:alf3Bib3
>>187
やはり山城や近江(か大和)は直轄地にすべきだったな。
189人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 03:50:12 ID:CVuWcpZl
>>188
そうなんだけど、細川京兆家に横取りされるからな。
190人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 04:09:01 ID:fS5d1Ftf
>>188
寺社勢力が強い大和は無理じゃないか?
羽柴秀長がかなり巧みに支配したようだけど。
191人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 04:27:33 ID:RNmd0XYi
>>188
元々幕府発祥の頃から諸氏の神輿的な存在だからなぁ
北条氏と比較するよりは源氏と比較した方がいいかもしれん
源氏と比較すれば、よくやった方だと思うよ
192人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 04:27:56 ID:RNmd0XYi
あ、>>187だった
193人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 10:27:13 ID:r7dgkvXf
明応の政変の前に、将軍義尚が戦陣で没しているが、酒の飲みすぎで体壊したなどといわれているがアレはやっぱり
暗殺かねえ?
194人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 12:38:13 ID:GVXMRJtN
甲賀53家が将軍の陣を襲ったらしいけどね
病死じゃないかな
195人間七七四年:2008/06/16(月) 15:14:13 ID:JP6gZUlx
病死と思うよ
196人間七七四年:2008/06/16(月) 15:29:22 ID:6egX5DNI
六角攻めが成功していたら、足利幕府は勢力を盛り返したかねえ?
197人間七七四年:2008/06/16(月) 16:02:26 ID:WTd86VbD
近江を直轄化出来てればね。
198関連スレ:2008/06/20(金) 21:44:07 ID:jzBjUQ3s
戦国時代と室町時代ってどこがちがうの?
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1213284466/
199人間七七四年:2008/07/05(土) 15:55:21 ID:KZqnvjoK
将軍家には直轄領という発想すらなさそう。
200人間七七四年:2008/07/05(土) 17:10:36 ID:2oIztn+T
>>199
自分の領内の直轄管理を最初にやり始めたのは室町幕府だぞ。
幕府官僚だった伊勢盛時は駿河や関東でその政策を展開しているので、だいたいあの当時の室町幕府が
どういう方向性を志向していたのかは予想できる。
201人間七七四年:2008/07/07(月) 21:01:39 ID:6Vl2GplA
>>199
足利家の初期の所領は南北朝の戦いで敵に奪われたり、恩賞で家臣にくれてやったからかなり早い時期に相当の直轄領が失われた。
202人間七七四年:2008/07/07(月) 23:40:08 ID:oNfoUjPY
直轄軍の強化を狙って実行に移していたわけだから、当然直轄地という発想もあったんじゃまいか
203人間七七四年:2008/07/09(水) 20:37:03 ID:atdEqfPC
足利義教の頃から将軍家の直轄領や親衛隊の整備始めているよ。
204人間七七四年:2008/07/09(水) 23:49:47 ID:ILBSxfTr
足利義政は伊勢氏を使って山科を直轄領にしようとしたら、畠山政長に邪魔された。それで明応の政変で伊勢氏と細川政元が結託して明応の政変に。
205人間七七四年:2008/07/10(木) 02:22:00 ID:e6I5Rp/E
>>190
大和は興福寺が守護だけど、実際は畠山家の支配地。

畠山家が分裂するので、大和の国人衆も2派に分かれて争います。
206人間七七四年:2008/07/13(日) 01:01:16 ID:PjdyaMaf
細川政元が荘園保護派って本当かい?
207人間七七四年:2008/07/23(水) 19:09:08 ID:BZx8jYEH
結局、将軍家の戦国大名化への志向はあったが、義教暗殺で潰えたと。
208人間七七四年:2008/07/23(水) 22:49:58 ID:WXjkF/T0
義尚が死んで直系が絶えたのが大きいんじゃないかな
義政は無能だけど傀儡かというとそれは違うし
209人間七七四年:2008/07/23(水) 23:09:18 ID:CA8tTL46
>>208
義政は本質的に、享楽主義の独裁者だからなあ。
あんなに失政を、天皇から叱られている将軍も、いないんじゃなかろうか。
今の時代ですら、天皇自身による政府批判なんて明らかになったら、その政府は一発で吹っ飛ぶだろ。
それを考えると、義政のあの鉄面皮と、政権基盤の、ある意味の強固さは、恐ろしいものがあるw
210人間七七四年:2008/07/28(月) 19:01:34 ID:F42N/kcm
>>207
一応、形の上では統一権力だから割拠して勢力を小さく必要性は無いだろう
211人間七七四年:2008/08/04(月) 00:18:47 ID:JI+8fylU
天皇から云々については、天皇の方が勘違いというか間違っていたという見方もあるけどね。
212人間七七四年:2008/08/04(月) 03:16:54 ID:rYiqTH+I
義政は妻や子からもダメだしくらって
晩年は中風でそのまま没だからな
213人間七七四年:2008/08/14(木) 15:03:19 ID:aUuWM895
義教も義政も方向は違うが ともにまともじゃないんだよね。
義尚は結構まともだけどね。
214人間七七四年:2008/08/16(土) 02:39:14 ID:kM48pW6l
義政は守護の首のすげかえやりすぎ
215人間七七四年:2008/08/29(金) 15:41:32 ID:piOESqY7
応仁の乱の遠因?
216人間七七四年:2008/08/29(金) 17:24:09 ID:LZQYPXp2
>>215
年表見てからいらっしゃいな
217人間七七四年:2008/09/06(土) 15:42:09 ID:JjUNHfxc
>>214 何を狙ってたんだろうね?
218人間七七四年:2008/09/06(土) 16:24:40 ID:y6tdixCV
>>217
義政は自分の思う通りに成らないと、とりあえず人事をいじるタイプ。
219人間七七四年:2008/09/06(土) 16:50:50 ID:nmWB481j
享徳の乱を鎮圧しようとして、軍事力調達のため斯波家の当主の首挿げ替えまくって起きたのが武衛騒動と応仁の乱
応仁の乱の後も斯波義廉のことだけは許せなかったのか執拗に追い回して歴史から消滅させた

将軍を義尚に譲った後も人事権だけは手放さないなど、目の付け所だけは心得てる
220人間七七四年:2008/09/06(土) 17:00:33 ID:y6tdixCV
同じように執拗に追い回していた畠山義就に対しては、逆に周りが呆れて、義政の命令を無視するようになったのに。
221人間七七四年:2008/09/07(日) 13:20:12 ID:4GWuJ9WZ
細川宗家は京兆家、斯波氏は武衛家、畠山氏は?
222人間七七四年:2008/09/07(日) 13:25:56 ID:BT+LsTAa
>>221
金吾家
223人間七七四年:2008/09/07(日) 13:29:52 ID:BT+LsTAa
つーか、畠山の嫡流は本来、奥州の畠山なんだよな。
管領家である河内畠山(金吾家)は、実は傍流。
224人間七七四年:2008/09/08(月) 06:59:10 ID:qGm3awPB
岩切合戦の後、国詮が40年ぐらいふんばってたんだけど、晩年にはスルー対象になってて
次の代で庶流の本宮氏とお家騒動が起きて完全に一国人に零落
225人間七七四年:2008/09/08(月) 23:29:58 ID:UVKg4uo2
むしろ、畠山の真の嫡流は北条の策動で倒されただろうが
226人間七七四年:2008/09/11(木) 07:28:22 ID:ipjkVRS1
>>218
つーより、パパやお爺ちゃんの真似して、自分もあちこちに口突っ込んでみたら
段々収拾が付かなくなって、応仁でドッカーンってイメージなんだが
227人間七七四年:2008/09/11(木) 12:01:20 ID:qwcl/Om8
>>226
応仁に関しては、その直前に義政が、「畠山の家督争いは私闘だから幕府は関係ない。勝手に勝負つけろ。」
って言い放ったのが、乱勃発のトドメだったとおもう。
228人間七七四年:2008/09/24(水) 15:15:30 ID:mdmLsuUA
やはり義政の責任が一番重いか。
229人間七七四年:2008/09/24(水) 15:51:19 ID:WMcx9BM6
>>228
少なくとも、直接的な原因は全部、義政が作ってるな。
230人間七七四年:2008/10/01(水) 14:51:04 ID:jC0F49Xv
義教にも遠因はあろかもね
231人間七七四年:2008/10/01(水) 16:24:26 ID:3Kqw5GDY
遠因だけ言ったらそれこそ、室町幕府の成り立ちにまで突き当たるからなあ。

やっぱり直接的な原因は、義政がその場しのぎの人事を繰り返した事と、両畠山の紛争を
自分で煽っておいて、騒ぎが大きくなったら、「アレは私闘」って、無責任に突き放した事でしょ。
232人間七七四年:2008/10/02(木) 01:03:59 ID:4Vwy1rOB
どう好意的に受け取っても義政は凡君どまり
233人間七七四年:2008/10/02(木) 01:28:32 ID:1ZwzHorE
そんじょそこらの凡君じゃあそこまでの事は出来ないわなw
むしろ、そんな中でも権力を終始保持している手腕を見れば、ある意味天才だと思うよ。

あと、芸術面に関しては本当に天才。その分野だけで歴史に名を残せるくらい。>義政
234人間七七四年:2008/10/06(月) 18:50:25 ID:+v8DrV/j
後白河法皇と似ているかもな
235人間七七四年:2008/10/06(月) 23:08:06 ID:uKBhvrK7
しかしこの変で成立した京兆家政権が、政元が暗殺されない場合は、長く続いたのだろうか?
敵が多すぎることも含めて、どうも非常に不安定な体制だったように見えるが。
236人間七七四年:2008/10/07(火) 03:29:42 ID:zN+DYTyM
在地の国人層の強い反発を受けていたから暗殺されちゃったわけで
暗殺されなくとも、相当の混乱は避けられなかっただろうな
237人間七七四年:2008/10/07(火) 10:38:02 ID:caQyWuTM
しかし政元も信長と一緒で、しょっちゅう派手に、配下に裏切られるよねーw
それでも結構許しちゃうところも似ているな。
238明応の政変ってどお?:2008/10/10(金) 15:36:18 ID:wB4wK8J3
ご存知の方へ。1つ質問があるのですが…。
延徳3年(1491)管領細川政元が秘かに越後を訪問したとのことですが…、
それはどれくらいいたのでしょうか? また私の資料には3月3日に東国(越後?)を巡回したとの事ですが…
それは本当なのでしょうか? なんでもいいので情報待っています。一応「関東王 越後守護 上杉房定親子」スレにも書きました。恐々謹言。
239人間七七四年:2008/10/14(火) 03:42:05 ID:DQ8LBeuU
>>235
>政元が暗殺されない場合は、長く続いたのだろうか?
実子が居れば違ったでしょう。あんなにもめないと思う。

阿波細川家から澄元だけが養子にくれば内紛・暗殺には発展しなかっただろう。
澄元の家臣の三好之長ら阿波国人が一緒に京兆家に来たから内紛になった。

>在地の国人層の強い反発を受けていたから暗殺されちゃったわけで
政元は国人層の反発は受けていない。政元に反発していたのは内衆で
反発の理由は、阿波国人らを京兆家の家臣団に組み入れた事。

政元は、どちらかと言うと国人層を新たに京兆家家臣団に組み入れようとしていた。
内衆を守護代に任命する間接的な従来の統治方法を変更し、政元直属の家臣団として国人
層を組み入れたり、領国内の政元の直轄地を増やす体制変換を考えていた。

丹波守護代の上原元秀は丹波物部の豪族である。細川政元の信任厚かったものの驕慢な振る舞い
が多かったため丹波諸国人の怒りを買い1489年9月に丹波の国一揆“位田の乱”が起こった。

鎮圧の過程で政元は丹波の国人に同情を寄せ、降伏後に国人の殺害をしないように
命令を出していたが、上原元秀は無視して殺害してしまった。
摂津での国一揆でも同じような事が起きている。

また、国一揆に参加した国人衆の領地を政元が没収するか守護代が没収するかでも揉めている。
240人間七七四年:2008/10/14(火) 04:01:27 ID:EQiFbdqc
>>239
入嗣するのに、澄元だけを連れてくるなんて無理だろう
普通は複数の家臣をつけるもんだ
澄元を養子にした時点で、内衆と阿波衆の多少の対立は避けられない
その阿波衆に三好之長がいたのは不運だったが…
241人間七七四年:2008/10/14(火) 08:43:01 ID:KQ32uPK3
>>239
> 政元は、どちらかと言うと国人層を新たに京兆家家臣団に組み入れようとしていた。
> 内衆を守護代に任命する間接的な従来の統治方法を変更し、政元直属の家臣団として国人
> 層を組み入れたり、領国内の政元の直轄地を増やす体制変換を考えていた。

なるほど。今風に言えば、京兆家の戦国大名化を推し進めていたって事かな?
242人間七七四年:2008/10/15(水) 02:34:52 ID:cWEt3XzV
>>240
>その阿波衆に三好之長がいたのは不運だったが…
三好之長は人格的に問題の多い人物のようで、京兆家家中だけでなく
阿波細川家家中からも嫌われていた。
しかし阿波家当主には一応の忠誠心は持っていたようなので、使われていた。

応仁の乱後に細川政元とに細川成之に隙間が出来ると、阿波家家臣は京兆家と
の協調を望む者が多かったが、三好之長は当主に従い阿波細川家の独立路線に
従った。

細川成之は応仁の乱の際は東軍に味方し、細川京兆家を盛り立てたが、細川勝元の没後、
細川政元の時代においては、畿内での領国拡大と京兆家家督の一円知行の強化を図る細川京兆家と
しばしば対立し、摂津守護代の薬師寺元一の反乱に関与するなどした。

>>241
>今風に言えば、京兆家の戦国大名化を推し進めていたって事かな?
はい、日本の中世の荘園制は重層的に入り組んだ支配・権利関係にあるので、
細川政元が一元的に土地と人民を支配することを目指した。
領国拡大もこれとセットで行う訳です。

しかし、特に畿内では国人の独立志向が非常に高く、山城や丹波などで、
守護(細川氏)が数十年をかけても国人層の被官化を達成できない事例も
見られた。これは京兆家内衆が守護代に就いている事もあり、京兆家家督の
権限拡大を妨害した為でもある。
243人間七七四年:2008/10/15(水) 04:38:58 ID:RoI1vkz6
三好之長が一揆関係でパクられたのも間接的には阿波細川家への嫌がらせだよね
244人間七七四年:2008/10/15(水) 10:59:21 ID:SN2/BJQ+
> しかし、特に畿内では国人の独立志向が非常に高く、山城や丹波などで、
> 守護(細川氏)が数十年をかけても国人層の被官化を達成できない事例も
> 見られた。これは京兆家内衆が守護代に就いている事もあり、京兆家家督の
> 権限拡大を妨害した為でもある。

畿内は京兆家、内衆、国人層の三すくみみたいな状況だったと考えていいのかな?
それに分裂した将軍家などの要素がかかわってきて、安定しえなかったと。

しかし土地と人民の一元支配って、おそらくは足利義尚も目指した方向性だろうし、
伊勢宗瑞が関東で実践したものでもあるね。やはり畿内では利害が交錯しすぎてて、
改革の芽は出ていても、それを育てることは出来なかった、って事なのだろうか。
245人間七七四年:2008/10/15(水) 11:53:09 ID:1vh6eC3I
>>227-232
義政クンに全責任を押しつけないでください…
義教の強引な政治に嫌気が差した側近が義政クンを凡君に教育(調教?)したんです…
義政はそれによって芸術面に傾倒していっただけなんです…
246人間七七四年:2008/10/15(水) 11:57:02 ID:SN2/BJQ+
いやあ、義政は方向性が違うだけで、義教と変わらん位の、強烈な独裁者だよw
247人間七七四年:2008/10/15(水) 16:55:35 ID:tE+CCOUv
義政&富子が日本史上最悪の馬鹿夫婦なのは間違いないだろ
有力守護を二派に分裂させることで幕府を安定させるという
室町幕府の基本政策を踏襲していたものの、
バランス感覚と事態収拾という点において、大きく失敗してしまった
混乱に拍車をかけた細川・山名・伊勢たちの責任も大きいがな

馬鹿世代のツケをまとめて払わされる義尚も気の毒だな
248人間七七四年:2008/10/16(木) 06:09:50 ID:7t6iZC/p
>>243
三好之長は、くだらない馬泥棒でも幕府から追及されている。

阿波細川家は、山城守護職を狙っていたから、三好之長が畿内でうごめいている。
応仁の乱終了時は。山城で土一揆・国一揆が続発している。
三好之長は、それに絡んで山城の国人層の支持を集めて細川政之の山城守護職任官を企んだ。
細川成之と細川政元の対立は、この辺りからもうかがえる。

また。阿波守護家の細川政之・義春兄弟が、若死にしているのも京兆家との対立と関係しているのかも。
応仁の乱終了後に阿波国内でも争乱が続発している。

阿波細川家だけでなく備中細川家・和泉両守護家も京兆家から離れて行く方向。
備中では京兆家内衆と戦闘を起こしているし。和泉守護家は畠山家と組んで京兆家と
戦闘に及んでいる。
249人間七七四年:2008/10/16(木) 23:39:51 ID:9yePsyQs
畠山尚順はけっこう働き者だな
ノブヤボの冴えない顔グラと城配置のイメージがいまだに抜けなかったりするけど
250人間七七四年:2008/10/17(金) 00:06:27 ID:nTNjyVAR
長尾為景と連携とったりいろいろしてるよね。
しかし残ってる書状とか見ても、確かにいまいち頼りないw
251人間七七四年:2008/10/18(土) 03:45:46 ID:CMZsbwpb
>>244
>畿内は京兆家、内衆、国人層の三すくみみたいな状況だったと考えていいのかな?
畿内とその周辺の京兆家分国の内情はそうでしょうね。
分国内国人の支持を京兆家家督つまり政元と内衆が取り合っている感じ。

また守護代職内衆は、政元側近の国人も攻撃して潰している状態。
政元と内衆で分国の支配権を巡り争っている感じ。

まるで鎌倉幕府末期の御内人が得宗や執権を祭り上げているのと同じ構図。
内衆=御内人って事じゃないかな。

おそらく代々の京兆家家督は分国経営にはそれほどタッチしておらず、
幕政の参加を第一の職務にしていた可能性があるのかも、
それが急に勝元の代で応仁の乱での戦闘中という事もあり、京兆家家督が
分国内の荘園押領を開始し京兆家内衆と分国経営をめぐり利害が直接対立
し始めた可能性がある。

伊勢家と京兆家の家督だけに闕所処分権が室町幕府から公認されていた事も重要。

>土地と人民の一元支配って、おそらくは足利義尚も目指した方向性だろうし
室町幕府は応仁の乱後には、全国の守護から守護出銭を集められなくなり、
銀閣寺の建設費という名目で1483年から山城の足利家領国化を開始した。
伊勢家はこの山城領国化を実務をにない山城一円支配の具体化のため動いている。
山城の国一揆を潰したのも伊勢家だし。

>伊勢宗瑞が関東で実践したものでもあるね。
むしろ山城の一円支配の方が時期としては先で、この伊勢家のノウハウがあるから
伊勢新九朗盛時は、関東で一円支配の統治システムが実現できた。
252人間七七四年:2008/10/18(土) 08:39:28 ID:fgpTngI3
>>251
> おそらく代々の京兆家家督は分国経営にはそれほどタッチしておらず、
> 幕政の参加を第一の職務にしていた可能性があるのかも、

逆に、だからあれだけ幕府の中で主導権を取れたのかな?


> むしろ山城の一円支配の方が時期としては先で、この伊勢家のノウハウがあるから
> 伊勢新九朗盛時は、関東で一円支配の統治システムが実現できた。

ありがとう。凄く勉強になった。
253人間七七四年:2008/10/18(土) 10:57:02 ID:Ql3YxvKs
京兆家だけでなく、守護大名全部が在京している訳だからそれほど分国経営に
自らが積極的である訳ではない。在国した応仁の乱以後の守護もほとんど分国
経営の主導権を取り戻せなかった。
ただ京兆家の分国は京に近い事もあり、他の守護よりかは分国に京兆家家督の
影響力が行使できたと言う事だろう。

細川勝元にしても細川四天王と言われるように家臣の活躍が喧伝されている
ことから見ても、京兆家は家督個人が活躍する体制ではなく、言わば家臣の
合議制で運営されていたのだろう。
細川政元にしても修験道に凝って政務を顧みることが少なくなったため、
細川京兆家は「内衆」と呼ばれる重臣の合議(京兆家評定衆)によって分国を経
営したと言うよりは、もともとそのような体制だったが、むしろ政元が歴代の
家督に比べ異常に分国経営に関心を示したと言えるのではないか?

勝元の代にも“管国内意見人”という制度があり、京兆家評定衆の前身かも
しれない。歴代の京兆家家督にはこのような合議機関があり、それにより
京兆家家督は、自身の権限を制限されていたのかもしれない。

安富元家はこの内衆筆頭として政元の政務を代行し、京兆家評定衆の意見を
取りまとめ、実際の分国経営を担当した。
彼が三好之長が澄元を伴い上京するまでの京兆家家宰である。
254人間七七四年:2008/10/18(土) 11:13:33 ID:fgpTngI3
上原元秀の排除、罷免も、内衆と国人衆との対立と言う面から見たほうがいいのかな?
255人間七七四年:2008/10/18(土) 14:23:17 ID:RYjSAxp8
ゴメン、なんかすごく居心地いいわ
256人間七七四年:2008/10/19(日) 19:57:56 ID:/CteHmTP
>>254
上原元秀は、そうとう調子に乗っていたらしいから、仕方ないでしょうね。

明応の政変は、絵を描いたのは政元でしょうが、実行者は、上原元秀と安富
元家の2人ですから京兆家内衆の中では相当の実力者です。
畠山政長が居る河内国正覚寺城を2万の軍勢で攻撃したのは上原元秀であり、
洛中の畠山氏やその家臣の邸宅、花の御所、足利義材の親族が居た寺などを
制圧したのは安富元家が率いる軍勢だと言われる。

政元は、このまま丹波守護代を続けさせると乗っ取られると警戒したのかも?

1489年9月の丹波の国一揆“位田の乱”も実は、守護代上原元秀が一円支配強化
を図り丹波の国人層を締め付けたのに対し政元側近の国人衆が対決したかもし
れない。そうなると国人衆と京兆家当主の利害が一緒した為守護代の上原元秀
が解任された事になる。
丹波国一揆は京兆家への反乱勢力ではなく、むしろ京兆家の丹波一円支配の強化の
可能性があった組織と言える。ただ丹波国一揆の参加者は国人3〜4名という数の
少なさから見ても丹波で政元の国一揆参加者は、それほど多くないのかもしれない。
この明応の政変以前の時期では、政元が先祖代々からの伝統的な幕府任命の丹波守
護であると言う事で従う国人がほとんどであったと言う事だろう。

それに実際の守護代交代の時期は1495年と言う事を見ても、93年の明応の政変
を待っての解任かもしれない。95年以降上原氏は丹波で弱体化したことを見る
と上原氏弱体化の政元の政策は達成されたと言っていいだろう。
しかしその代わりに内藤氏や波多野氏が台頭したことを見ると守護代級内衆の
下克上を止めた事にはならない。

私見として上原元秀の守護代職解任時に政元は丹波守護代職そのものの廃止を
検討すべきであっただろう。
257人間七七四年:2008/10/19(日) 22:37:20 ID:14eHSeUh
丹波を京兆家の直接統治下におくって事?当時の京兆家にそんな事可能だったんだろうか?
延徳三年の富士一見すら、経費は上原の負担だったようだけど。
258人間七七四年:2008/10/21(火) 03:00:50 ID:Ec9LxOGq
丹波という難しい土地を支配できるようになったのは、信長以降の話だからねぇ
北陸・中国・山陰・山陽を結ぶ戦略上の要地ではあるが…
259人間七七四年:2008/10/21(火) 18:27:43 ID:xDhTLb2U
>>257
>丹波を京兆家の直接統治下におくって事?
丹波の重要拠点などの街道沿いや大規模荘園などじゃ京兆家の直轄地にすべきかと。
それとこの時期であれば、まだ波多野氏はそれほど強大化してませんよね、
細川尹賢が、香西元盛を讒訴して高国に殺させた1526年の波多野氏の勢力は、
事実上丹波西部を支配してます。丹波東部は内藤氏が支配してますね。
こうなる前に手を打つべきかと。
>当時の京兆家にそんな事可能だったんだろうか?
細川高国は尹賢の讒訴を信じ、度々自身の家臣を自害させていたようですが、
これは丹波守護の尹賢が国人や内衆の下克上を恐れて居た為の事では?
尹賢は自害させた家臣の所領を収公し直轄領を増やすつもりだったのでは?

伊達家は、1542年に天文の乱で家臣団の半分近くを誅してます。
このときに成敗した家臣団の所領を伊達家の直轄領に収交したり家臣に分配
して家臣団を再編成し伊達家は戦国大名に変化したと言われています。

乱暴な意見ですが、政元の時代に京兆家の内衆や分国内の国人を半分近く
成敗し伊達家のように京兆家家督の直轄地を増やし被官団を政元の思うよ
うに再編成しないと守護代級内衆の制御は不可能なのでは?

一応、政元は分国法を作り内衆の制御を図りますが、その時期に政務の放棄
が始まり、京兆家家宰の安富元家の領国経営が目立ち始めます。
分国法の制定の交換条件として内衆は、政元に分国経営から身を引くことを
強いたのではないでしょうか?
260人間七七四年:2008/10/21(火) 19:09:09 ID:VRa4pw0W
奥州と近畿では錯綜する勢力の数も規模も違いすぎないかな?
たしかに政元のころは京兆家が圧倒的な勢力を持っていたことは確かだろうけど。

もしくは、京兆家が圧倒的だったからこそ、改革の必要性はわかっていても、
それをやろうという機運が盛り上がらなかったのかもしれませんね。
ほおって置いても脅かされる心配が、少なくとも当面はないのだから。
261人間七七四年:2008/10/23(木) 22:29:39 ID:dLxKi48o
戦国期の家督争い・御家騒動・内乱を語る
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1224768422/
262人間七七四年:2008/10/25(土) 23:13:31 ID:qROu4c93
>>260
>奥州と近畿では錯綜する勢力の数も規模も違いすぎないかな?
奥州では、余剰生産物の増加や商業や金融業の活性化があまり感じられません。
荘園が成長し惣村に成長し自検断までしている様子は無いのかも知れません。

>もしくは、京兆家が圧倒的だったからこそ、改革の必要性はわかっていても、
>それをやろうという機運が盛り上がらなかったのかもしれませんね。
>ほおって置いても脅かされる心配が、少なくとも当面はないのだから。
政元が家督代行の細川政国から京兆家家督を引継いだ時点では、応仁の乱の
勝者の立場であり、丹波・摂津・讃岐・土佐の相代の守護職も引継いだ。
このように伝統的な京兆家の家督の立場は相続したが、応仁の乱後の新しい
事態に対処する必要があったようにも思える。

なぜなら摂津だけは実際の支配は畠山や大内の下にあり、それに対応する為
に畠山家相代の守護である河内の重要拠点は京兆家が押えていた。

元服後政元は、当初は畠山政長と組み義就・基家親子と対立、摂津奪回に
動き、最後は義就と交渉して京兆家の河内の占領地と摂津を交換しようやく
実際上の支配を奪回した。
だがしかし京兆家の支配復活後の状態は・・・・
摂津国人は西摂の国人池田氏以外はほとんど大内氏に与同してしまい、長年
にわたり京兆家の奉行や家督の近習として京兆家の摂津支配の先兵的活躍を
していた嶋下郡や嶋上郡の国人衆ですら大内氏に味方し、国一揆を組織して
いた。後に摂津守護代の薬師寺元長が国一揆を鎮圧したが、その後の国人の
宥免や闕所処分をめぐり政元と薬師寺元長と対立している。とくに政元が宥
免した国人にも関わらず元長が成敗したり、闕所を政元は自分の直轄領組入
の意向があるにも関わらず、薬師寺氏は、自身の取得や薬師寺氏の被官に分
配する行為を取っている。

このように分国内の守護代級内衆の行為が京兆家家督の統制を離れつつある現象も見られる。
263人間七七四年:2008/10/26(日) 08:45:30 ID:a2wJPwup
>>258
>丹波という難しい土地を支配できるようになったのは、信長以降の話だからねぇ
丹波国は古くより京都の出入口に当たる地理的条件から各時代の権力者から
重要視され、播磨や大和などと並んで各時代の政権中枢部の支配を受けた。

丹波国は大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞ
れ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てている。このため、
丹波国は甲斐や尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性
質があり、丹波の歴史を複雑化したのは事実。かなり治め難い土地柄。

その為か、細川氏は領国支配政策として分郡守護代制を布いている、
内藤氏が丹波一国を支配してはおらず、東部のみの守護代の可能性も
大きいある。
応仁の乱の際、内藤氏は但馬より出撃した山名方の将・太田垣氏と丹
波諸国人を従え夜久野で交戦しているので、東軍の細川勝元の指揮下
に丹波国人は一応の集結はしている。

丹波より治め難いのは摂津と言われ、瀬戸内海に面する複数の港や河川、
山陰地方への出入り口である西国街道などがあり西日本の交通の拠点である。
それゆえあらゆる勢力が、侵入しやすく、大きな戦争の舞台になりやすい。

京兆家も勝元・政元の代には摂津の支配に苦労している。
応仁の乱の初期に北九州と中国地方の大名、大内政弘が摂津に上陸してくると
摂津国人は、京兆家からの支配からすぐに脱却し、大内しに与同してしまい
戦乱の時期と言う事もあり、京兆家の摂津支配体制は、崩壊した。

応仁の乱終了後にも、京兆家は、摂津の国一揆や守護代の反抗に合い安定的な
支配が困難であった。政元は、度々京から出かけ摂津に在国し自ら摂津支配に
乗り出している。政元は、丹波よりも摂津への出張が多く、京兆家の摂津支配
体制の再構築に苦労しているのが伺える。政元自らの摂津在国が増えたのは、
この事態に対応した為である。

京兆家の支配力の原泉は、応仁の乱以後は特に、管領などの幕閣に就いている
事では無く、西日本の交通の重要拠点である丹波・摂津両国を押えている事に
あり、この2カ国の支配の強化に京兆家家督は、注力する。
そして、幕府権力の完全な崩壊を見ながら、さらにこの両国の周辺にも支配圏
の拡大を企画・実行する。
264人間七七四年:2008/10/26(日) 09:12:28 ID:uiJvTY8x
南北朝時代の丹波は分郡守護だったけど、京兆家が丹波守護の時代の丹波守護代は一人制みたいだよ(文書上では)
265人間七七四年:2008/10/26(日) 09:42:52 ID:qswYHBAq
京兆家は足利幕府に変わる新しい政権の形を模索していたんだろうか?
正直そこまでの実力はなかったようにも思うけど。
266人間七七四年:2008/11/03(月) 23:35:35 ID:QMWieD19
>京兆家が丹波守護の時代の丹波守護代は一人制みたいだよ
ご指摘ありがとうございます。おそらく、そうでしょう。
>京兆家は足利幕府に変わる新しい政権の形を模索していたんだろうか?
越後に山内上杉定正と会いに行って、堀越公方に潤童子の擁立を相談したり、
茶々丸の攻撃を伊勢盛時に命令したり、関東のことは頭にあるようですね。

ただ、潤童子の擁立は暗殺で不可能になり、伊勢盛時の伊豆侵攻は潤童子擁立失敗の後始末ですからね。
堀越公方でさえ擁立出来ない訳で、全国政権の構想は無理でしょう。
政元は、畿内で精一杯でしょう。

政元は、摂津守護代と山城下守護代に殺されているわけで、いかに京兆家家督による
分国の一円知行が守護代に阻害されているか分かります。摂津守護代の反乱は実に2度目です。
畿内の領有化も政元晩年の包囲網と守護代のサボタージュにさらされているのが分かります。
267人間七七四年:2008/11/03(月) 23:47:25 ID:YCB29JZU
仮に潤童子擁立が出来ていたら、どんな体制になってたんでしょうね?
ただ、足利義澄も政元に従順と言うタイプではないから、関東と近畿に
足利義澄-潤童子の兄弟ラインが出来てしまうと、逆に将軍家の強化につながったんじゃないかな?
268人間七七四年:2008/11/04(火) 17:52:53 ID:HMF1YFO5
>>267
いささか無理な仮定かと思います。
山内上杉家は、潤童子擁立どころか堀越公方そのものを嫌がっている感じです。
足利政知がそもそも山内上杉家の反対で鎌倉に入れず、仕方なく伊豆に御所を
設置した訳で、元々すぐに消えるべき存在かと。両上杉は、堀越公方の動員令
に従っているのでしょうか?

山内上杉は、関東管領の憲忠を殺されているとはいえ、扇谷上杉は特に恨みは
無いはず、古河公方に何れは鎌倉に帰って来てもらいたかったのではないでしょうか?
関東の大名の大方の願望かと思います。
まあ反上杉の結城などの武将は反対するでしょうけど。

>足利義澄-潤童子の兄弟ラインが出来てしまうと、逆に将軍家の強化につながったんじゃないかな?
応仁の乱以後、室町幕府は守護大名の連合体と言う実態が崩壊し幕府の支配領域が
縮小しています。守護大名自体が京に居ません。在国化し、居るのは細川政元とその一門ぐらい。
たまに畠山や阿波細川家が上洛するぐらいです。
将軍親征には西日本の大名は、参加しますが、それ以外は知らん振りです。
各地の守護大名は、大御所義政や日野冨子の在京要請も無視して在国しています。

こういう事態になっているので、足利義澄-潤童子の兄弟ラインが出来ても遅いかも。
義澄自体、政元が居なければ将軍職に就けなかったわけですから。
明応の政変で将軍親衛隊の五番衆(奉公衆)は軍事的に崩壊し、
将軍の親征や動員令にも西日本の大名は従わなくなります。
269人間七七四年:2008/11/04(火) 17:57:35 ID:Df36VSqJ
> いささか無理な仮定かと思います。
> 山内上杉家は、潤童子擁立どころか堀越公方そのものを嫌がっている感じです。
> 足利政知がそもそも山内上杉家の反対で鎌倉に入れず、仕方なく伊豆に御所を
> 設置した訳で、元々すぐに消えるべき存在かと。両上杉は、堀越公方の動員令
> に従っているのでしょうか?

じゃあ政元は、元々無駄な足利義澄-潤童子の兄弟ラインを、無駄を承知で画策してたって事?
そこまでピエロ的な人物だとは思えないけど…。
270人間七七四年:2008/11/04(火) 18:50:59 ID:10UFazcW
古河公方と敵対してる山内上杉は伊豆を政知に譲渡してるので堀越方ですよ。
むしろ相模国を領有してる扇谷が鎌倉入りに協力的でなかったように見えますね。
上杉禅秀の息子らが政知に扇谷重臣の讒言をして政知が義政に訴える事態になったりしてますし。
古河公方らが伊豆三島へ侵攻した時も扇谷領を一気に突っ切って伊豆まで侵攻できたのも非常に怪しい。
この時は山内上杉の家宰だった白井長尾景信が下野内を撃破して古河城を落城させて堀越を救ってます。
のちに道灌の死を経て上杉同士の対立になると、古河&扇谷&伊勢氏VS山内上杉&堀越&越後上杉の対立構造になるくらいだし。
ちなみに景信の息子の景春の姉妹が扇谷定正の正妻で山内と敵対して古河方にいる。
この戦いは勝ち続けた定正が増長し古河が離反し苦戦するようになり、最後は伊勢氏の救援なく越後長尾によって平塚まで蹂躙され川越が落城し扇谷が山内に降伏する事で山内扇谷が対伊勢氏協調体制に。
この間に山内の策謀(顕定の父である越後上杉氏が相模守護に任じられる)で早雲は幕府から切り離されてしまい相模統一に苦戦するようになったらしい。
271人間七七四年:2008/11/04(火) 20:50:58 ID:3BHEoOfj
>>269
>じゃあ政元は、無駄を承知で画策してたって事? そこまでピエロ的な人物だとは思えないけど…。

政元は、義尚の近江親征ですら、あまり賛成していませんよね。
義尚死後に政元は義澄擁立を図りますが、結局義材が将軍に任官します。

この時期の政元の行動は、摂津・丹波の支配権回復・強化や山城領国化工作、
洛中検断権掌握などを進めている最中で将軍職や堀越公方を決めるほどの
政治力は無かったのかも知れません。

やはり明応の政変を成功させたのが、将軍職を左右するほどにまでなった、
政元の政治力アップの原因でしょう。

>>270
あまり私は詳しくないのですが、関東の戦国時代初期の解説ありがとうございます。
勉強になりました。
272人間七七四年:2008/11/05(水) 01:32:33 ID:4jSpJG5e
政元は3人の養子を指名しているが、細川勝元は、実子の政元が生まれる前
に既に2人の養子を指名している。養子に山名豊久を迎え、猶子は細川勝之
とした。
この政元の母は、山名宗全の娘とも養女とも言われる。勝元は宗全と争うこ
とは得策ではないと考え、畠山氏で家督をめぐる内紛が起こった時には、政
敵である持国を失脚させるため宗全の娘?養女?を正室に迎え、更に養子に
山名豊久を迎え協調することにした。これらの2重の姻戚関係は山名と細川
の両宗家の同盟関係を表している。
このように実は山名と細川の両宗家には、それほどの対立点は無い。あるのは
旧赤松氏の分国の守護職を狙った阿波細川家と山名宗家である。
文正の政変で将軍義政の側近を失脚させ将軍親政を挫折させた時には、勝元と
宗全は協調体制を取ったが、その直後、勝元と宗全の娘の間に実子が生まれた。
後の政元である。しかし、山名家の血統を引く養子の細川豊久と実子の政元を
廃嫡し細川勝之を嫡子とした。このように勝元は、応仁の乱開戦時に山名家血
統を排除した。

私見であるが、このような勝元の山名家血統排除処置は、政元の京兆家家督
相続にかなり反対派を生んだと思う。1472年に山名と細川両宗家は、応仁の
乱終結を目指し単独講和をし、勝元は、嫡子勝之を廃嫡した。
しかし数年にわたり戦闘を交えた山名と細川両宗家の被官衆は、山名血統者
である政元を京兆家家督に迎えるのは抵抗があったのではないか?
それらの被官衆の思いが、典厩家や野州家による勝之の宗家家督相続の画策
を起こさせたのではないかと考えられる。

このように応仁の乱での東西両軍の対立感情は、戦後の守護大名の動向だけ
でなく各守護家の内部にも大きな影響を出している可能性がある。

細川京兆家は東軍の総大将でありこの感情は尚更大きく被官衆に浸透してい
ると思われる、元服後でも政元への家督相続への反対が実は家臣団の中
にくすぶっていたのではないかと想像する。
ないかと思われえる。
273人間七七四年:2008/11/05(水) 01:36:40 ID:w/TEVTBv
>>271
> 政元は、義尚の近江親征ですら、あまり賛成していませんよね。

あまり賛成してないどころか、裏で六角と結んで近江親征を極力邪魔してますやん。
274人間七七四年:2008/11/05(水) 01:39:15 ID:4jSpJG5e
(>>272 最後3行修正)
細川京兆家は東軍の総大将であり西軍との対立感情は尚更大きく被官衆に浸
透していると思われる、元服後でも山名家の血統を引く政元の家督相続への
反対は実は家臣団の中にくすぶっていたのではないかと想像する。
275人間七七四年:2008/11/05(水) 03:03:49 ID:FBffetOE
政元の母は、山名宗全の娘とも養女とも言われる←俗説だろ?
276人間七七四年:2008/11/15(土) 14:19:07 ID:SDP7IiHG
春林寺殿で間違いないんじゃ
277人間七七四年:2008/11/16(日) 04:54:27 ID:eVbAQ5Jg
南総里見八犬伝に、細河 左京兆 政元って名前で出てくるな、細川政元w
278人間七七四年:2008/11/16(日) 15:36:48 ID:O52qHiz3
八犬士の誰だったかのイケメンを男色狂いの政元が誘うんでなかったっけ?
気持ち悪がって政元からうまく脱出したんだよな。
政元もイケメンに好意を寄せてたから里見によい返事だしてたような…
長尾景春とか同時代人はけっこう登場するね。
279人間七七四年:2008/11/16(日) 21:11:53 ID:jkaKrnSC
>>271
>裏で六角と結んで近江親征を極力邪魔してますやん。
政元は、将軍義尚から近江親征を打診された時には、反対したものの、義尚が
諸大名の反対を振り切って奉公衆に近江侵攻を指示した時は、仕方なく参戦し
てますね。その時に政元が六角氏サイドに義尚の作戦情報を漏洩しています。

しかし、義材の河内侵攻の時は、政元の反対は分かりきった事なので、義材は
事前に相談すらしていません。京兆家の軍勢は当然参加せず、阿波細川家と淡
路細川家が参加しています。義材は、細川惣領家とは不仲ですが、分家とは上
手く行っていたようです。
このように事前の相談有る無しと京兆家の将軍親征軍参加・不参加の違いは大きいです。
政元は、義尚の意向には表面的には賛成しているのに対し、義材には公然と反対しています。
この違いは大きく、やはり足利将軍家直系で義政の実子として満を持して将軍
に任官した義尚と元西軍総大将の息子で義尚の急死により養子として半ばヤッ
ツケ的に擁立された義材の違いが有るかと思います。
義材は奉公衆や奉行衆の支持の確保もまま成らないまま河内親征を開始します。

これも私見ですが、もし将軍義尚が長命で実子もあるならばそもそも政元は、
明応の政変そのものを起こせなかったかも知れません。
存在の軽い養子将軍で、将軍直臣団さえまとめられない義材だから明応の政変が成功したとも言えます。

これは政元にも同じ事が言えて、彼も実子が居たならば、あそこまで京兆家家臣団が分裂内訌しなかっただろうと思います。
>>278
あの時代は、両刀多いですね。足利義政も有馬某とそういう関係。
>>276
そう思いますね。俗説ではないと思います。
280人間七七四年:2008/11/16(日) 21:22:32 ID:eVbAQ5Jg
そういえば政元って例の誘拐事件のとき、あっさり後継者から外されそうになってたなあ。
あのとき後継者から外されたままになったら、歴史は大きく変わったんだろうなw
281人間七七四年:2008/11/17(月) 16:52:57 ID:eQy9NFPt
>>280
1479年12月の政元が13歳の時に発生した、丹波国人の一宮宮内大輔による丹波への拉致事件ね。
あれは本当に不思議な事件ですね。政元がまだ元服する前の事です。

結局、事件そのものは、3ヵ月後に同族なのか一宮賢長により政元が救出され、
京兆家家宰の安富元家と内衆の庄元資が一宮宮内大輔を討って一応の終結となります。

問題なのは、この事件の3ヶ月間の間に内衆が、京兆家評定衆として誘拐され
不在となっている政元を廃し、1472年に山名宗家と単独講和の為に細川勝元に
廃嫡され出家していた勝之を還俗させ再度京兆家家督として擁立しようとして
いた事である。
これは、細川京兆家も他家と同一に家督分裂の芽が有った、と言う事になる。
しかし幸いにも、畠山家や斯波家のような家臣団同士の戦闘にまでは至らずに
事件は終結した。この点も不思議である。
282人間七七四年:2008/11/17(月) 17:34:14 ID:ZDlEkbdP
裏があったのか、単純な所領問題の不満からの誘拐事件なのか。
283人間七七四年:2008/11/17(月) 18:32:39 ID:RHaP851y
勝元が生きていた頃までは内衆をうまく統制していたのかな
284人間七七四年:2008/11/17(月) 18:45:10 ID:ZDlEkbdP
応仁の乱の和平交渉で身動き取れなくなって、髻を切った件とかみると、どうなんだろうねえ>勝元
285人間七七四年:2008/11/17(月) 18:53:21 ID:ylTghAFM
勝元は宗全と連携とってたときは上手くいってたっぽいけど、
山名と大内を両方敵に回す羽目になって同族連合と内衆に
頼らざるをえなくなってから精彩を欠くようなイメージ
286人間七七四年:2008/11/22(土) 23:59:02 ID:WkcwqPKN
政元は誘拐事件とかのトラウマで、あんな変な性格に育ったのだろうか?w
287人間七七四年:2008/11/23(日) 00:31:00 ID:Ugzuuu0K
そんな事件に巻き込まれなくても、
あんな政治の中枢に生まれてまともに育つとは思えないんだが
288人間七七四年:2008/11/23(日) 00:38:30 ID:xyvDeahL
>>287
政元以外の京兆家の人って、案外常識的というか、まともな人って印象があるが。
289人間七七四年:2008/11/23(日) 00:40:16 ID:eRpkXwmJ
優秀から凡庸の差はあるけど、当主の個性が今ひとつ感じられないというか
290人間七七四年:2008/11/23(日) 01:00:25 ID:xyvDeahL
勝元なんて個人としても相当優秀だし、政治的にもえぐいこといっぱいやってるけど、
全体の印象として、なんというか、人間としての生臭みが少ない。

そう言う意味でも、政元の個性は強烈だよねw
291人間七七四年:2008/11/24(月) 03:01:22 ID:a5WKub6/
この戦国時代初期の守護や各武将の動きときたら、複雑で良く分からないな。
駆け引きと言うか、互いのだましあいなんだろうけど。

ある種のゲームの理論だな、ナッシュ均衡だっけ?
あの映画のビューティフルマインドの。

だれか応仁の乱から細川政元暗殺まで、ゲームの理論で説明できない?

関東の享徳の乱とかも、複雑すぎて良く分からん。
292人間七七四年:2008/11/24(月) 14:09:31 ID:WQko3R6f
義植に常に協力していた畠山尚順が
船岡山だけ反目に廻っているのは何故?
293人間七七四年:2008/11/24(月) 15:12:40 ID:oYnfnf0J
>>291
簡略化して言ってしまえば、義稙系と義澄系という2つの流れが
あり、実力者たちがそれぞれの事情でどっちかを擁したり敵対したり
という図。
294人間七七四年:2008/11/24(月) 18:52:08 ID:+J9Z3A1w
>>292
船岡山で戦死した「遊佐河内入道印叟」ってのがいるけど
同じ受領名の人物が尚順の家臣にも義英の家臣にもいるから紛らわしい

尚順の家臣の遊佐順盛だろうってのが昔の説だけど、
順盛はその後も生きてたことが分かってるから
今では義英の家臣の遊佐就盛だろうってことになってる
295人間七七四年:2008/11/24(月) 19:07:58 ID:kk5WKUU7
しかし明応の政変は、結局誰が得をしたのか良くわからん。
政元にしても事態収拾のため嫌々表舞台に出されたような。
あれは単純な、足利家内の内乱に過ぎないんじゃないだろうか?
296人間七七四年:2008/11/25(火) 19:46:15 ID:7ou474py
政元てホモ?
初めて聞いた
不老長寿を求める宗教的情熱に被れたと思ってた

俗人には分からない変人では?
297人間七七四年:2008/11/26(水) 23:05:04 ID:Ry7AqeE1
政元にしても事態収拾のため嫌々表舞台に

よしたねにかなりの憎悪を抱いてたと思ふけどな
298人間七七四年:2008/12/04(木) 15:15:32 ID:AJeAFNFi
>政元にしても事態収拾のため嫌々表舞台に

そうなの?
299人間七七四年:2008/12/08(月) 15:34:14 ID:q2ZBxYph
政元の目的は?ってとこだね。
300人間七七四年:2008/12/09(火) 07:17:14 ID:4VUcunZB
>>295
義材が将軍だから、将軍廃立が出来た。
義尚が将軍のままなら明応の政変はかなり成功確率が低くなる。
なぜなら奉公衆が義尚の下で結束しているからで、特に近江親征以降はその傾向が強くなる。

政元も、旧西軍系の義材が将軍なら奉公衆がすぐに分裂する事を見抜いているから政変を起こした。

義尚政権自体、奉公衆が創出した政権との評価もある。
逆に言えば、足利幕府の支配領域は畿内に縮小しているともいえる。

守護大名の在国化が一般化し有力守護大名の連合政権という足利幕府の基本的性格が、
応仁の乱で崩壊し、足利幕府は畿内限定の地域政権に転落したとも言える。
301人間七七四年:2008/12/09(火) 08:20:35 ID:xDDT8x00
もともと室町幕府自体の支配領域は、畿内から瀬戸内程度に限定されてたしねえ。
あとは間接支配地域。
302人間七七四年:2008/12/09(火) 08:33:55 ID:d6oQ03LY
鎌倉幕府だって似たようなもんだろ。
303人間七七四年:2008/12/09(火) 08:42:09 ID:4VUcunZB
>>281の件ですが・・・

守護支配に抵抗する丹波国人の一宮宮内大輔による細川政元誘拐事件というのが京兆家の公式発表ですが、
実態は、丹波守護代の内藤元貞と京兆家近習で丹波国人の一宮氏が何らかのトラブルを起こした為に、
一宮宮内大輔が幼い守護の政元を丹波で擁し、内藤氏と対決しようとしたのが事実らしい。

この手のトラブルは、ほとんど所領問題でるため、守護代内藤氏による京兆家近習国人の所領押領が発端だと思われる。
こうなると一宮氏の単なる守護誘拐事件というよりは、対守護代での国人一揆ともいえる。

このようにどこの分国内部でも、守護代と国人の領地をめぐる争いはあるが、
京兆家の場合は、政元の廃嫡や勝之の擁立・守護自身の身柄の奪い合いまで事態が大きくなったのは異例である。

ここまで大きい騒動になったのは、実は、政元の京兆家家督相続に反対する内衆や一門が数多く存在し、
政元が元服し、本格的に京兆家家督として活動する以前に勝之の擁立を図る動きがあったのかもしれない。
また、細川勝元以来、押領により分国内に所領を集中し守護直轄領を増加させる施策をとっていたので、
それについて危機感を持つ内衆が、守護直轄領の削減や京兆家家督直属の国人を抑制しようとしていた可能性もある。

政元の身柄の拘束時には、摂津でも国人一揆が発生しており、摂津国人の茨城氏や
吹田氏が一揆に参加している。さらにこの一揆には、三宅氏や芥川氏といった没落
しつつあった摂津国人も参加していると言う説もありかなりの大規模な国一揆であった。

国一揆に参加した国人は全て嶋上郡と嶋下郡の国人であり、この両郡は、京から最も
近い支配地として南北朝時代から京兆家家督に重視されていた地区である。

このように京兆家では、
政元=国人(京兆家家督近習)
勝之=守護代(内衆)
と言う構図が見てとれる。
304人間七七四年:2008/12/09(火) 08:54:30 ID:4VUcunZB
>>301
>あとは間接支配地域。

応仁の乱以後は、足利幕府は、間接支配すら出来なくなる。

応仁の乱以前は、守護は在京していたが、応仁の乱以後は、将軍に挨拶もせずに下国している。
また、守護は幕府への上納金も納めなくなり、幕府は山城を幕府直轄領にして事態を乗り切ろうとする。
305人間七七四年:2008/12/09(火) 09:23:18 ID:xDDT8x00
>>303
そういえば政元は山城一揆も含めて、やたら国一揆や土一揆の黒幕やってるね。
これも対幕府と言うより、京兆家内での、内衆を抑えての主導権確立と言う意味が
あったのかもね。

>>304
> また、守護は幕府への上納金も納めなくなり、

そういえば後の戦国大名や、畿内政権、信長もそうだけど、将軍直轄領である「寺社領の回復」を
戦争や権力保持の、公的正当性の根拠の一つにするようになるね。

義尚のやろうとしたことは、あの時代的には公論であった、って事にもなるな。
306人間七七四年:2008/12/09(火) 19:02:27 ID:4VUcunZB
>>303
>実は、政元の京兆家家督相続に反対する内衆や一門が数多く存在し

細川勝元の死後に家督代行に就いたのは、典厩家当主で野州家からの養子の
細川政国である。彼は野州家当主の教春の実弟である。
例の応仁の乱終結時に山名家と京兆家の単独講和の条件として廃嫡された
勝之は野州家当主の教春の実子であり、政国の甥となる。

ここに教春・政国兄弟は、野州家当主と典厩家当主の立場から勝之の京兆家家督相続を進める願望があり、
内衆に 政元の廃嫡と勝之の擁立の根回しを進めていた可能性がある。
守護代級内衆も守護の直轄領や権限の削減を条件に、この野州家と典厩家の根回しに応じ、
逆に京兆家家督近習の国人は勝之相続に反対していたのかもしれない。
事実、細川一門や内衆には山名家血縁者の政元の京兆家家督相続を嫌がる傾向があった。

このような動きが京兆家内であったので、政元の身柄が丹波国人に渡った時に守護代級内衆は、
京兆家家督近習の国人に対抗する意味も込めて、京兆家評定衆にて政元の廃嫡と勝之の擁立を決定したと言える。
307人間七七四年:2008/12/09(火) 19:41:18 ID:4VUcunZB
>>303
>政元の身柄の拘束時には、摂津でも国人一揆が発生しており

丹波国人による細川政元拉致事件と摂津国人一揆がほぼ時期的に同じに起きた事は、
京兆家内部で重大な分国経営体制の再編成が起きた事の現れである。

1473年に応仁の乱の最中に細川勝元が死亡し後継者の政元は7歳に過ぎなかったため、
守護代級内衆が強固に結集し京兆家評定衆を組織して細川京兆家の維持を図る
「京兆家ー内衆体制」が構築された。
この体制は、勝元のような強大な京兆家家督が出現しないような守護代級内衆の防衛策でもある。

しかし京兆家家督と直結し摂津支配の現地実務を担っていた嶋上郡と嶋下郡の国人は、
「京兆家ー内衆体制」の成立により京兆家の分国支配体制の中枢から排除されたため、
自己の権力基盤の拡大を在地の荘園侵略に求め国人一揆を形成した。
この事態の解決の為、守護代級内衆は国人一揆と対決を選択し、より一層の対立を
激化させた。

また、嶋上郡と嶋下郡の国人は、応仁の乱の時期には京兆家を裏切り西軍の大内氏に与同し、
摂津の京兆家支配体制を崩壊させた。これも守護代級内衆との対立を招いた理由の一つでもある。
308人間七七四年:2008/12/10(水) 19:25:34 ID:5klvkhen
丹波と摂津の国人達は、示し合わせて守護代級内衆と対決した。
京兆家家督近習級国人は、政元の復帰がなければ守護代級内衆に制圧される危険性があった。

しかし、なぜ守護代級内衆は、京兆家家督と対立しある意味恐れたのか?
おそらく、京兆家の守護権限が半ば特権として機能し、他の守護よりも権限が強いからだと言われている。

京兆家の持つ特権とは、闕所処分権の事で、他の守護も分国内の家臣や国人などの闕所処分権は持っていた。
しかし京兆家のそれは、将軍自ら許可した特権的闕所処分権であった。

普通の守護の闕所処分権は、分国内の家臣や国人が第3者の訴えや自らの犯罪行為により幕府から処罰を受けた場合には、
守護はその家臣や国人の所領(この時代は、荘園領主から現地の農地管理を任されている請負代官職の事)を没収し、
守護は、無条件に本来の所領の所有者である荘園領主に請負代官職は返還する。

しかし京兆家の闕所処分権は、家臣や分国内の国人が処罰を受けたらその所領を没収する事までは同じであるが、
荘園領主に所領を返還しなくて良く、京兆家家督自身の所有地にしても良いという強大な権限なのである。
このような強い権限は、伊勢氏と京兆家にしか認められていない。

守護職を保持しているのは京兆家でしかなく、京兆家の分国内の家臣や国人の所領は、幕府から処罰が下された場合には、
何時でも京兆家家督直轄領に出来るという状態にあり、京兆家家督にとって家臣団の拡大は、家督直轄領の拡大とほとんど同義であった。

このような強力な特権があれば、丹波と摂津両国の守護である京兆家家督は、単に自分の所領を増やせるだけでなく、
制度的に分国内(摂津・丹波)の家臣や国人の所領を自分が没収する事が可能になり、強力な守護による一円支配を実現できる。
つまり京兆家は、幕府公認で事実上の戦国大名化が果たせるのである。

このような強力な分国の一円支配が幕府に認められている京兆家家督は、本来家臣であるはずの守護代級内衆から見ると、
領国経営の強力なライバルでもあった。個々の所領の支配についても京兆家家督と守護代級内衆は競合する関係にあった。

このような背景から守護代級内衆は、本来は京兆家の家臣であるにも関わらす、京兆家家督をけん制する様な動きを見せていたのである。
309人間七七四年:2008/12/10(水) 19:32:27 ID:zeTBILKr
>>308
しかしこれだと、国人達にとっても京兆家は敵、もしくは強大な脅威だ、って事にならない?
310人間七七四年:2008/12/10(水) 22:46:12 ID:5klvkhen
なりますね〜
実際には京兆家に所領を没収された国人も居るのではないでしょうか?
分国内国人全部が京兆家家督サイドと言う訳ではないでしょう。

ただし京兆家家督の近習や分国内の小守護代・奉行などに就いていた国人は、
京兆家の所領没収から免れやすいと思います。
摂津の嶋上郡と嶋下郡の国人がこれだと思います。
311人間七七四年:2008/12/10(水) 22:55:33 ID:zeTBILKr
>>310
つまり、国人にとって同じ脅威なら、まだ京兆家のほうが、普段接している守護代などの内衆よりも、
上級権力であるだけに御す価値がある、って事かな?
312人間七七四年:2008/12/11(木) 07:47:49 ID:Om2GuhTR
>>311
そうですね。
逆に言えば、京兆家家督から見れば、守護の一円支配の邪魔になる存在は、
国人と守護代級内衆のどちらなのかと言う事ですね。

国人とは地侍の事で、身分統制が強まる江戸時代には、武士の位を捨て、
庄屋・地主化する場合もありました。つまり国人が持つ所領は少なく、
守護代の方が制度的には分国内のどこにでも所領を持つことが出来ます。

京兆家家督は、特権的な闕所処分権を持つとは言え、おそらく国人よりも
守護代の方が、分国内の所領は全然多いでしょう。

それを考えればどちらが京兆家家督にとって邪魔かよく判ります。

しかし、もし国人が港町や街道沿い・河川沿いの重要拠点を所領としていた場合は、
京兆家家督も守護代級内衆もその所領を狙ってきます。
摂津の嶋上郡と嶋下郡の国人一揆が潰される理由の一つはその為でもあります。

茨木氏・吹田氏・三宅氏・芥川氏と言った一揆に参加した摂津国人は、
一揆鎮圧後にその所領を没収されます。そしてその没収された所領は、
京兆家家督と守護代薬師寺氏の奪い合いになっています。
313人間七七四年:2008/12/12(金) 07:12:56 ID:b6DBfESK
1477年に西軍の大名は、京周辺から撤退する。畠山義就は河内へ撤退し、
大内政弘は、4カ国の守護職を将軍義政に安堵され摂津から周防へ撤退する。

大内氏撤退後に摂津国人は、河内の畠山義就と手を結びつつ、国人一揆の結成を準備する。
これは、1473年には守護代級内衆が強固に結集し京兆家評定衆を組織して、「京兆家ー内衆体制」を
構築していた為、摂津嶋上郡と嶋下郡の国人は、細川京兆家への帰参が難しかった事による対策であった。

78年ごろから国人一揆の動きはあったが、正式な発足は、79年からで、丹波国人一宮氏の細川政元拉致事件
(守護代内藤氏との対立)の発生を待っていたかのような経過である。

1482年に細川政元の摂津侵攻が始まり、畠山政長と一緒に出陣するが、新将軍の義尚と
日野富子の意向で政元は、畠山義就と連絡を取り戦闘ではなく、交渉により摂津の奪回
をする事になる。その流れもあり摂津国人一揆を鎮圧する事は政元も望んでいたが、
鎮圧後に摂津国人を赦免しようとする。茨木氏・吹田氏・三宅氏・芥川氏のうち茨木氏
は内衆であり吹田氏も内衆と縁が深かった、政元は特に茨木氏を赦免した。

しかし守護代薬師寺元長は、政元も方針に従わずに茨木氏も含めて国人一揆参加者全員
を討ち取ってしまう。このように京兆家家督と摂津守護代とでは国人一揆への後処理の
方針に乖離がある。
薬師寺氏は同じ内衆で摂津国人であり京兆家家督近習として政元に直接繋がる茨木氏が
自己の管国内で存在する事を望まなかった。
この時点ではまだ、京兆家評定衆が京兆家の家政を担っている状態である。
314人間七七四年:2008/12/12(金) 07:33:24 ID:bLO+MiFo
>>313
そこまで独立性を志向しているのに、それでも京兆家の内衆は、例えば斯波の朝倉や
土岐の斉藤妙椿、後の三好長慶のように、京兆家を通り越して直接将軍に繋がろうとはしなかったよね。
これは何故なんだろ?

あと1477年の段階だと義政は室町殿だな。
315人間七七四年:2008/12/12(金) 19:53:57 ID:b6DBfESK
細川政元誘拐事件の時に政元廃嫡と勝之の擁立を京兆家評定衆が決議しているので、
その時が足利将軍家が京兆家に介入する一番のチャンスだった。

結局、足利将軍家が、京兆家弱体化をもくろんだ事自体あまり無いのでは?

なぜなら細川頼之以来、将軍家と京兆家が手を組んで他の大名を分断、
弱体化させるのが、基本パターン。
将軍家と一体化している京兆家までを弱体化すると将軍家も困るのでは?
それに・・・
畿内の山城の後背地である丹波・摂津が乱国状態になると幕政にも影響が
出るし、物流網を分断してしまい、飢饉や生活の混乱も考えなければならない。

ただ足利義教の時は、京兆家も赤松家共々危なかった。
それと足利義材の時も京兆家抑圧政策を取っており、京兆家の守護代級内衆は
ともかく、庶流の阿波守護家と京兆家を対立させ競わせる政策を取っている。
その時期は細川家の同族連合体制も崩壊していたので、京兆家と阿波守護家と
の山城守護職をめぐる対立はかなり激しいものだった。

また、京兆家の場合、分国内での所領の集中度が高い事から京兆家直轄領や
一門領が多く、守護代と言えどもそれほど分国内の所領は持てなかった。
そうなると守護代級内衆の経済力も軍事力もそれほどたいした事ではない為、
将軍家も京兆家の守護代級内衆に期待出来なかった可能性もある。
316人間七七四年:2008/12/13(土) 18:57:50 ID:9f575yYM
>>315
>分国内での所領の集中度が高い事から京兆家直轄領や一門領が多く、
>守護代と言えどもそれほど分国内の所領は持てなかった。

この記述は、守護代級内衆は、斯波の朝倉・織田や土岐の斉藤妙椿、上杉の長尾・太田などに比べて
所領が少ないだろうという話です。
しかし丹波や摂津の国人よりは、守護代の方が多い所領であったと思います。
朝倉などは、越前一国を丸ごと押領した様な物で、応仁の乱以後は、斯波氏は、入国出来なかったようです。

摂津国人一揆鎮圧後の所領の後始末ですが、茨木氏・三宅氏・芥川氏の所領は、
京兆家家督である政元が没収し彼の直轄領にします。しかし吹田氏の所領は、
吹田氏から没収はするのの政元の直轄領にはせず、赦免した茨木氏を吹田庄に
移住させ、そこを茨木氏の所領にさせようとします。
しかし、摂津守護代の薬師寺元長は、一揆鎮圧後に茨木氏を逮捕し殺害してしまいます。
どうも茨木氏も内衆であると言うプライドがあった為か、薬師寺氏に反抗的な態度を取り続けたようです。
その後も政元は、茨木氏生き残りを吹田庄の領主として取り立てようとしますが、
薬師寺元長は頑なに彼の家臣である四宮四郎に知行させると主張し、結局政元は、
彼の言い分を飲んで吹田庄は、四宮四郎が支配する事なります。

このように政元と守護代薬師寺元長は、茨木氏の処遇と吹田庄の処理をめぐり
対立し薬師寺元長が押し切っています。守護代級内衆は、京兆家の分国の確保
には努めるものの反面京兆家家督の増長を抑えようとする行動も取っており
若い政元には守護代級内衆の統制術を考える必要に迫られます。

このように下克上の流れは、京兆家にも及び始めます。政元はそれを押さえ
込みつつ同時に分裂し弱体化しつつある畠山氏や幕権再興に燃える足利幕府
細川家の同族連合体制から脱却し将軍家と手を結んで山城や讃岐守護職へ手
を伸ばす阿波守護家と対決をしなければならなくなります。これがこの時点
の京兆家家督の政治的課題となります。
317人間七七四年:2008/12/13(土) 19:11:47 ID:igyG50rS
>>316
> 政元はそれを押さえ
> 込みつつ同時に分裂し弱体化しつつある畠山氏や幕権再興に燃える足利幕府
> 細川家の同族連合体制から脱却し将軍家と手を結んで山城や讃岐守護職へ手
> を伸ばす阿波守護家と対決をしなければならなくなります。これがこの時点
> の京兆家家督の政治的課題となります。

それが細川政元掟書に繋がるわけなのかな?
318人間七七四年:2008/12/14(日) 12:46:58 ID:1sK8sTYK
細川政元掟書は内部統制の問題で、それだけでは無いですけどね。

足利義材・細川成之・細川義春・畠山政長・畠山尚順・一色義有・比叡山延暦寺・根来寺 等の
外敵を打ち破るには、戦争しかないわけで、政元は、ある種の多面戦争を強いられます。

政元の味方と言えば、
畠山義豊・畠山義英・赤松政則・武田元信などで、東国には伊勢盛時や今川氏親・上杉定正などでしょう。
319人間七七四年:2008/12/14(日) 15:02:27 ID:1sK8sTYK
細川政元掟書は1501年に政元と京兆家評定衆の合意により制定された、
5ヶ条の式条のことですね。
喧嘩・盗人の沙汰の条項があり、京兆家家督が家臣間の紛争に介入できる内容のようですが、
全条文は、知りません。

誰か教えて下さい。
320人間七七四年:2008/12/15(月) 23:17:16 ID:UJoWGjBx
細川政元掟書はたしか、九条政基旅引付の中に収録されているんだっけ?
321人間七七四年:2008/12/16(火) 13:01:15 ID:T2HBU/E5
九条の会
322人間七七四年:2008/12/23(火) 16:18:18 ID:Q9vXw7xF
>>319
細川政元式条は、全部で五条で、
喧嘩、盗人、請負沙汰、強入部、新関についてかかれたものだそうですね。
条文は一部しか知らないのですが。
323人間七七四年:2008/12/28(日) 15:01:59 ID:/XWpgVHb
どうなんでしょうね
324人間七七四年:2008/12/29(月) 10:05:11 ID:SJvCSTI8
薬師寺元一の反乱は華麗に鎮圧。
意外と軍事感覚は優れてたんじゃね?>>政元
325人間七七四年:2009/01/01(木) 21:56:22 ID:Xvn5QfOe
摂津守護代の薬師寺元一は、表向きの理由として澄元擁立を目指して淀城に籠城したんだっけ、
実際は、摂津守護代職を取り上げられそうになり、それを察知して籠城している
でも内衆には赤沢朝経以外の同調者はいないので、大失敗。

摂津国人ですら、この反乱に同調していない所を見ると政元の分国の直接統治
は意外と浸透していたのではないかとも思える。

薬師寺氏は、元一の父元長の頃から政元と利害が対立し領地の取り合いをしている。
政元にとって薬師寺氏の存在自体が、邪魔になりつつあったのかもしれない。
元一の弟の長忠は、政元を香西元長と一緒に暗殺するに関与する。
香西元長は、澄元家督相続と三好之長の京兆家家宰就任に反対する為に暗殺したが、
薬師寺長忠が政元暗殺に関与したのは、兄と同じく守護代職に取り上げられない為といわれ、
政元の摂津守護代の薬師寺氏圧迫の政策が垣間見える。
326人間七七四年:2009/01/06(火) 23:28:17 ID:vItBWYzO
明応の政変と北条早雲

近年、明応の政変と北条早雲(伊勢宗瑞)による伊豆の堀越御所(茶々丸)討ち入り
は、連動しているとの説明がなされていますが、
詳しい方いらっしゃいますか?
327人間七七四年:2009/01/06(火) 23:38:28 ID:eJwug9YJ
>>326
明応の政変→義澄が将軍に→茶々丸は将軍の生母と弟潤童子の仇
→将軍の敵討ちとして宗瑞伊豆に討ち入り→茶々丸を滅ぼす

以上
328人間七七四年:2009/01/08(木) 06:15:31 ID:7lA/l4GX
>>306
>ここに教春・政国兄弟は、野州家当主と典厩家当主の立場から勝之の京兆家家督相続を進める願望があり、
>内衆に 政元の廃嫡と勝之の擁立の根回しを進めていた可能性がある。
>>313
> 将軍の義尚と日野富子の意向で政元は、畠山義就と連絡を取り戦闘では
>なく、交渉により摂津の奪回をする事になる。
>>314
>あと1477年の段階だと義政は室町殿だな。

1482年に細川政元の摂津侵攻で摂津国人一揆を鎮圧し、その後の一揆参加の
国人衆への処罰で、政元と摂津守護代の薬師寺元長の間に乖離があったのは、
大御所義政と新将軍義尚の間で京兆家に対して意見の相違が合ったからでは
ないか?
1479年の政元拉致事件では、義政は、応仁の乱の経緯から義教以来の有力守
護抑圧政策として京兆家当主廃嫡を策し、義尚はむしろ京兆家と協調し足利
幕府の親衛隊的な役割を負わせる為に政元の救済を考えた可能性がある。
また、野州家と典厩家の当主である細川教春・政国兄弟は、京兆家庶流であり
京兆家(細川総領家)と足利将軍家の連絡役でもある。義政は細川教春・政国兄
弟に対し政元排除の意思や同意を与えた可能性もある。義政からすれば京兆家
は脅威であり政元を廃して弱体化させたいという願望があったのかもしれない。
細川教春・政国兄弟も実子・甥にあたる勝之の京兆家家督相続を願い両者(義政と
教春・政国)の結託があったのかもしれない。
329人間七七四年:2009/01/08(木) 06:46:47 ID:6GQrD9vp
勝之の廃嫡も壮絶だったらしいからね
330人間七七四年:2009/01/08(木) 07:10:27 ID:D7w6UD+a
応仁の乱の細川と山名の単独講和条件は、
@聡明丸(細川政元)の家督相続
A元服まで細川政国の後見
B細川勝之の廃嫡
だから、もし1479年に政元が廃嫡され細川勝之は京兆家を相続したとなれば、
細川と山名の単独講和自体が怪しくなる。
まだ応仁の乱の停戦から2年しか経っていないし、河内・和泉・大和では畠山
義就と政長の紛争が泥沼化し播磨・美作・備前では山名と赤松の因縁の紛争が
激化しつつあった。
こんな事態の時に細川と山名の安定しつつある関係を崩壊させてしまえば、
せっかく落ち着いた応仁の乱を再度呼び覚ましかねないし、旧西軍系の守護
達も再度結合し再度内乱の兆しとなるかもしれない。

面白い事に、この政元拉致事件勃発の直ぐ後の2ヵ月後に山名宗全に次ぐ
旧西軍総大将格であった美濃の斉藤妙椿が死亡している。
その直後に一宮賢長が政元を救出し、京兆家評定衆も1480年3月に勝之還俗
と相続を取止め政元が京兆家当主に復帰している。

そうなると案外、この政元拉致事件の根は深くて、旧西軍系の有力守護も事実上
東軍(京兆家)の勝利で終わった応仁の乱の結果に不満を持ち政元廃嫡を支援して
いた可能性もある。特に畠山家(特に政長)は分裂し京兆家に山城の支配権を事実
上乗っ取られつつあった事から京兆家弱体化は願っても無いことだろう。
政元拉致事件にかこつけた政元廃嫡は、大御所義政と旧西軍系守護の支援が背景
にあったのかもしれない。
331人間七七四年:2009/01/08(木) 07:22:25 ID:D7w6UD+a
>>329
詳しく!詳しく!
332人間七七四年:2009/01/08(木) 16:21:25 ID:zx7zh/8V
細川政元式条より、家中の喧嘩に関する条文

・喧嘩(による殺人事件)については、どんな事があっても先ず(被害者側が加害者側の主人に)
 使者を派遣して、大法の成敗(加害者本人の処刑)を行うように要請し、それでも加害者側の主人が
 処罰を渋った場合は、その次第を細川家に申し上げれば、細川家の手により御成敗(処分要求)
 を出す。
 万一、それでも加害者側が処分を行わない場合は、加害者をかくまっている主人の、
 細川家の被官としての身分を剥奪し、その所領も没収する。
333人間七七四年:2009/01/08(木) 20:56:16 ID:jLJaP/r+
>>327
>>326 基本的構図は、327のとおり(将軍となった義澄VS母の仇の異母兄茶々丸)です。

従来、早雲による堀越御所討ち入りは、延徳3年(1491年)されていました。
それが近年、明応2年(1493年)が有力です。

ただ、将軍となった義澄は当時13歳の少年、自分の意思を幕命にして下せるほどの
能力があったかは疑問です。
334人間七七四年:2009/01/09(金) 03:48:12 ID:p1nGukOS
>>332
感謝いたします。特に現代語訳して頂いて光栄です。
他の盗人、請負沙汰、強入部、新関の4条についてもお願いいたします。

細川政元式条は、事実上の京兆家分国法と理解しても良いのですか?
そうなると政元は初期の戦国大名と言う事になりますが・・・
335人間七七四年:2009/01/12(月) 01:56:37 ID:wFAwCZYX
>>329
1472年1月の応仁の乱の細川惣領家(京兆家)と山名惣領家の単独講和交渉で
なかなか交渉が進展しなかったのは、畠山や赤松が講和に反対しただけでは
なく、細川惣領家(京兆家)内部事情があった。
文政の政変直後に、山名宗全の子で勝元の養子となった豊久と細川勝元と
春林寺殿(山名宗全の養女)の間に出来た聡明丸(政元)を廃嫡し京兆家から
山名家血統を排除し勝元は山名家との対決姿勢を鮮明にした。
野州家教春の子の勝之を猶子とし、応仁の乱では、京兆家は勝元-勝之体制
で戦ったが、山名宗家との講和が出始めると勝之を廃嫡して山名血統を引く
聡明丸(政元)を京兆家の嫡子にする事が山名宗家サイドの講和条件になった。

しかし、この講和条件に細川勝之が大反対。
野州家当主で父の教春もこの聡明丸(政元)嫡子案に反発し、勝之と共に
京兆家内衆に反対論を説いた可能性がある。
というのもこの講和条件が提示された4ヵ月後に勝元と勝之、それに内衆
14名が髺を切り、宗全も切腹を図るといった行動をとる。
これは双方が講和条件を履行できない為の行動であり、双方の家中でこの
講和条件に抵抗があった証拠とされている。山名宗全もこの直後に隠居し
山名政豊に家督を譲る。
336人間七七四年:2009/01/12(月) 02:12:19 ID:SFPqod9w
>>335
しかし文明五年に勝元が死ぬと、政元があっさり家督を継ぐよね。
その時点では教春・勝之親子らの反対派に、新たに京兆家の後見となった持国が勝利したって事かな?
337人間七七四年:2009/01/12(月) 03:17:59 ID:O+Haflak
>>329
当時42歳の細川勝元は、26歳の勝之と共に応仁の乱を戦い、勝之自身も
内衆を率いて東軍武将として名を上げている。このため内衆の中には勝之
を武将として評価し、まだ幼少の聡明丸よりも勝之の方が京兆家家督に相応
しいと考えるのも多かった。
他にも応仁の乱の最中に最も押領をした武将は、細川勝元と朝倉孝景と言われ、
乱の最中に京兆家分国内で守護領・京兆家家督直轄領が急増した可能性がある。
このことで玉突き的に守護代級内衆の領地が増加が押えられたり、逆に京兆家が
特権的闕所処分権を行使して守護領・直轄領として勝元が内衆から領地を取上げ
てしまったケースもあったと予想出来る。
このように応仁の乱の東軍総大将として勝元が活躍した事で、京兆家家督の権限と
直轄領が急増し、内衆がそれに反発し勝之支持の内衆が増えたとも言える。

京兆家内衆には、いくつかの種類があり、累代にわたり京兆家に仕える譜代的宿老的
内衆から、その時の京兆家家督に直に採用された新参の親衛隊的な内衆、真っ
先に戦闘に加わる武将タイプではなく京兆家家督の行政官・秘書官的な存在で
ある奉行や近習、などいくつかの種類に分かれている。
特に勝元以降は、京兆家は丹波と摂津2カ国の分国支配強化の為の国人の内衆
採用の増加と山城でも強力に国人層へのリクルートを行い新参の内衆も増えてくる。

戦国期には、譜代層の家臣が守護家への反逆や謀反が多いことから、譜代層の
支持は勝之に集まり勝元の山名宗家サイドの講和条件の受け入れに反発したと
考えられる。また、丹波・摂津・山城の国人層が内衆として新規に京兆家家臣に
組み込まれる事に譜代層内衆には不満があったのかもしれない。
その不満が後の政元拉致事件の際の政元廃嫡につながるといえる。

結局、細川山名両宗家の単独講和交渉の翌年には勝元も宗全も死去し、
細川教春の弟の政国が、聡明丸が元服するまでは京兆家家督後見人を務める
事を条件に細川山名両宗家は決着した。1473年の事である。

これは、教春・勝之親子と勝之支持内衆をなだめる為の苦肉の策でもある
のだが、いずれ聡明丸が元服し正式に家督として活動する段階で政国の家
督後見人の役割は終わるので、この政国家督代行案でも勝之派は不満が残
った可能性がある。
1473年に細川勝元が死亡し後継者の政元は7歳に過ぎなかったため、守護代級
内衆が強固に結集し京兆家評定衆を組織して細川京兆家の維持を図る
「京兆家-内衆体制」が構築されたが、これも「聡明丸次期家督-政国後見体制」
に不満な内衆や野州家の意向があったから構築された可能性がある。

京兆家評定衆は、京兆家を維持発展させる機関でもある反面、京兆家家督の権限
行使を抑制する機能もある。1478年に政元が元服し、その直後に拉致事件が発生
しそれをを口実にした政元廃嫡と勝之還俗・家督復帰の決議は、この京兆家評定衆
にて行われた。
338人間七七四年:2009/01/12(月) 03:52:54 ID:O+Haflak
>>336
>その時点では教春・勝之親子らの反対派に、新たに京兆家の後見となった持国が勝利したって事かな?

持国ではなく政国ですね。
>>337に書いたように政国の勝利でなく、反対派との中途半端な妥協案でしょう。
こんな妥協案を反対派が呑んだのは、山名政豊から講和を催促されただけではなく、
新将軍義尚や日野富子からも講和を急ぐように言われたからではないでしょうか?

家臣や守護代が守護に反旗を翻す時は、全て将軍の支持があるときです。
しかし、この時は大御所の義政はともかく新将軍義尚や日野富子は勝之の
京兆家家督相続を認めない意向があったからでは?

日野富子は西軍の意向を汲んだりお金を渡したりして何とか応仁の乱の終結に導きこうとします。

この辺の事情もあるのかもしれません。
339人間七七四年:2009/01/12(月) 10:29:08 ID:SFPqod9w
>>338
そういえば義尚の新将軍代になった、富子の兄の日野勝光が、畠山義就の帰参を図ろうとしたな。
礼金の要求額が大きすぎて義就が断ったやつ。
340人間七七四年:2009/01/12(月) 15:06:07 ID:crclkg5j
>>339
兄妹そろって構造汚職の権化みたいな人達だからね。
今なら政治資金規正法の現行犯でしょう、典型的な斡旋収賄。

こんなに賄賂に兄妹にのめり込むのも、この時代余剰生産物の増加で
マネーサプライが増大しある種のバブル的な景気のよさもあったらしい。
それと幕府も全国から満遍なく税金を集めることが出来なくなり、山城偏重の
税収構造になっているので、京の入り口にやたら関所を設けたりすることになる。

日野勝光は、西軍びいきで、細川勝元が義政に将軍旗と山名宗全追討の綸旨を
要求した時に反対して潰した。その為勝元に攻撃されそうになり、自宅に堀を作って
立てこもったこともあった。

一応勝光は妹を助けるというスタンスだけど、武力はないし、あるのは妹のコネだけの
典型的なロビイスト。富子が応仁の乱を終結させる意向で動いているのに合わせているが
京兆家とは完全に喧嘩している状態で動くから無理が生じている。
東西両軍とも彼のことを信用していない感じもする。あくまで印象だけど。

最後はポックリ死んでいるのを見ると何か京兆家サイドに毒盛られた感じもある。
341人間七七四年:2009/01/14(水) 22:50:00 ID:WU4wUw2a
歴代細川当主の寿命が短いのは
斯波はすでに無理としても畠山にとって千載一遇だったはず
なのに 生かしきれなかったなかったですねえ
342人間七七四年:2009/01/15(木) 01:20:03 ID:ahrZKZyc
畠山の内ゲバの最中においしい所領は持ってかれちゃったしな
気づいた頃にはもう遅かった
343人間七七四年:2009/01/15(木) 22:03:45 ID:1zdLttCP
持国政長尚順はそれぞれちょっと盛り返したんだけど
結果 畿内のぐだぐだ状態が加速されただけというか
のちに畠山家臣の木沢長政が三好長慶に討たれたことを鑑みても
やはり細川の地盤はそれなりには強靭だったんですねえ
344人間七七四年:2009/01/15(木) 23:46:08 ID:HcTyVKb0
義就系とか奉公衆系の畠山一族がしぶとく残ってたし
家督相続の最終的な決定権は幕府が持ってて
幕府の実権は京兆家が握ってるとくれば
いくらでも引っ掻き回せるしな
345人間七七四年:2009/01/24(土) 02:59:19 ID:e6Z1R2y2
>>343
>やはり細川の地盤はそれなりには強靭だったんですねえ

応仁の乱以前でも守護大名としては、1の存在だが、さらに応仁の乱の
最中に荘園を押領しまくり分国内での所領を急激に拡大した事が京兆家の
それも家督の権力基盤・経済基盤が乱以前よりもより強化された。

大乗院尋尊が日記の中で、
「応仁の乱で武士たちによる荘園押領をもっとも激しく行ったのは細川勝元と朝倉孝景だ。」
と言いっており、尋尊自身の丹波や摂津、越前の荘園領もほぼ勝元に押領された。
一条兼良も越前の荘園領を全部朝倉に押領れてしまった。
346人間七七四年:2009/01/24(土) 03:16:21 ID:KuwCqWmM
>>345
京兆家が、それほどまでに荘園横領を「出来た」理由は何なんだろ?
反発だって非常に強かっただろうに。
347人間七七四年:2009/01/24(土) 11:38:52 ID:Lot+vAPE
応仁の乱以降は、ある一定以上の武家は、猫も杓子も荘園押領に乗り出して
いるので、この時代の武家の荘園押領自体はおかしな行動ではない。
明応の政変以降は、京兆家は分国内の奉公衆の所領でさえ押領し始める。

細川勝元は東軍の中での総大将であり、もっとも軍事動員数が大きい大名で
ある。また、京兆家家督には将軍自ら許可した特権的闕所処分権が付与され
ているのでそれも荘園押領に拍車をかけた理由だろう。
将軍義政も勝元には最終的には将軍旗を授けており京兆家の激しい荘園押領
を戦乱期という事もあり黙認したのだろう。

また、大乗院尋尊の日記には、細川勝元という固有名詞が記されている事か
ら見ると内衆を含めた京兆家全体の荘園押領ではなく勝元個人、つまり京兆
家家督直轄領・丹波や摂津などの守護領領として激しい荘園押領を繰り返し
たと言う事を指すのだろう。

しかし、奉公衆の所領が押領される事は将軍として認めないだろうし、
応仁の乱が終結すると将軍の寺社領還付政策が再開されるので、京兆家が
押領した寺社の荘園は問題にならざるを得ない。しかし、応仁の乱終結後
のどの守護もこの将軍の寺社領還付政策に応じていないことから、掛け声
だけに終わってしまった可能性もある。

このような事から、将軍義尚の代から将軍親征を繰り返し、将軍権力の回復
に乗り出すひとつの理由になっている。
348人間七七四年:2009/01/24(土) 17:45:36 ID:KuwCqWmM
義尚や義材がやったのは、応仁の乱の後始末か。
349人間七七四年:2009/01/24(土) 21:22:09 ID:1/2DDLbM
義尚が長命でもやはり政元との衝突は避けられなかったってことか
ただ政元もかなりてこずったはず
あるいは将軍家権威高揚が実現した可能性も
350人間七七四年:2009/01/24(土) 21:32:41 ID:KuwCqWmM
義尚は死後異様に貶められたイメージがある
351人間七七四年:2009/01/25(日) 01:13:24 ID:dZ9L9ghj
義政は政所の伊勢氏と協調して指導力発揮できてたけど
義尚は母親と近い伊勢氏を遠ざけて近習やら奉公衆だけで
なんとかやろうとして、かえって余計な溝を作った印象がある
352人間七七四年:2009/01/25(日) 11:47:46 ID:nhSYisiS
京兆家を荘園保護派と言う人がいるけど、この時代の公家の日記を見れば
とてもそうは言えない。むしろ公家や寺社の荘園を押領しまくって恨みを
かっている側。細川勝元と朝倉孝景はもっとも公家や寺社サイドから嫌わ
れている人物。
朝倉孝景が1481年に死んだ時にある公家は、「総じて別に珍重(とりわけ
良い事)、天下の悪事始業の張本なり」と記している。

このような人物と細川勝元は、並んで記載されている事を見るといわゆる
中世の権門体制(武家・公家・寺社3者が並立して人民と土地を支配する社会構造)
になじむことなく、武家のみの政治的経済的支配を貫徹する姿勢が見られる。
もはや勝元の代から京兆家は、守護大名の位置から次第により人民と土地の
直接支配を志向する戦国大名的な一円支配を目論む方向へ体制を移管し始め
ていると言わざるを得ない。
その結果丹波・摂津などの京兆家の分国所領集中率(京兆家分国の農地総面積
のうち京兆家直轄地・守護領の占める割合)は急激に上昇し、守護代領やその
他の京兆家宿老級内衆領を圧迫・削減し始めたと思われえる。
これが勝元死後の京兆家内の混乱と次期家督を巡る対立を生んだ。

京兆家家督の権力とその経済的基盤の拡大により内衆と京兆家家督の間で
対立が潜在的に起き始めた。そして従来の京兆家分国支配を担う
「管国内意見人」制度が形骸化され京兆家家督の直接的な分国支配が開始さ
れた。今まで分国支配においては重要な構成員であり、京兆家家督による
恣意的かつ独占的な分国支配を阻止する機能があった「管国内意見人」の制
度は、おそらく京兆家宿老級内衆により構成されており、分国支配は彼ら
の合議により運営されていた。しかし応仁の乱の戦乱期に軍事動員を行う
京兆家家督により、「管国内意見人」は次第に分国支配から排除され、京兆
家家督による一円的な単独直接支配が開始された。
353人間七七四年:2009/01/25(日) 16:40:38 ID:JVnY9pD/
なんでここは日本史板並の濃さなんだろうなw
たまにカキコするけど相当調べ上げないとツッコミきつそうでハラドキするw
354人間七七四年:2009/01/25(日) 19:53:36 ID:JbJnLrIp
>>353
日本史板のレベルが下がっているだけような気もするが、
それはともかくして、ここはマジで勉強になるな。
355人間七七四年:2009/01/26(月) 13:48:34 ID:ylZaMenf
日本史板は時代ごとに特化しないとレベルが落ちる一方かも知らん。
もともとそんなに高くもないんだけれど。
356人間七七四年:2009/01/26(月) 17:26:46 ID:3AaH0gaU
戦国板は独立して良かったタイプだな。
357人間七七四年:2009/01/27(火) 23:37:10 ID:NpTzqURK
ちなみに大乗院尋尊は、僧正(僧官制の頂点の1つ)の地位にあり1456年大和
守護職を担う興福寺別当就任し奈良長谷寺・橘寺・薬師寺の別当をも兼任し
た。応仁の乱では父一条兼良とその日記を兵火から守った。また見聞したこ
とを多くの記録に書き記しこの時代を知る上での必須の資料である。
一条兼良・尋尊親子は、五摂家出身の公家・僧界のトップクラスの人物であり
尋尊は大和の支配にも関与し、兼良は関白に就任している事から当時の政局
には詳しく、いかに応仁の乱時に公家と寺社が経済的に武家に打撃を与えら
れたかを知っている。

このような人物が、細川勝元と朝倉孝景の荘園押領を記していると言う事は、
特にこの2人の荘園押領が目立ったのだろう。武家も戦いに負けたり情勢如何
では押領されており、単純に公家と寺社だけが応仁の乱の経済的被害者とは
言えないものの、着実に応仁の乱は権門体制を破壊し武家による単独支配の
社会構造へと進歩させている。

不思議なのは、権門体制の破壊の代表的な行為である武家による公家と寺社
の荘園押領を成り上がりの朝倉孝景が頻繁に行うのは理解できるが、守護大
名bPと称され事実上の足利幕府bQの地位にあり権門体制にドップリつか
って来たアンシャンレジームの京兆家が、今までの幕府の地位や公卿・高位
僧侶との協調関係をかなぐり捨てて荘園押領に邁進し始めた理由が単なる歴
史の進歩に歩調を合わせただけの事なのだろうか?

そこには応仁の乱による守護大名の動員による軍事力向上も武家押領の背景
にあるだろうし、京兆家に限れば将軍付与した特権的闕所処分権もあるだろう。
しかし実際には政局的背景も考えなければならない。
勝元は東軍総大将として足利義視の9代将軍任官を願い、山名宗全を始めと
する西軍との大規模な戦闘を開始した。しかし乱の最中に義政の態度の変化
と勝元の知謀により義視は西軍に担がれ、9代将軍は事実上義政の実子義尚
に決定した。日野富子や勝光兄妹の義尚将軍職任官運動もあり、富子や勝光
の地位向上は当然視され、文正の政変で勝元と宗全が追放し将軍義政の親政
を支えていた伊勢貞親も室町殿に復帰し幕府は文正の政変以前の状態に戻っ
てしまった。
このため勝元は面目を失い西軍との戦闘は事実上停止してしまい、京兆家の
分国の回復にのみ傾倒する。この頃から勝元は戦闘領域を丹波・摂津・山城
(西岡)方面に移行している。
東京大学比較文学の桜井英治教授が言うように、既にこれらの事から勝元は、
幕閣として幕府内での地位向上は諦めており、もはや幕府構成員として幕府
に貢献する事は断念したと言える。つまり勝元は将軍義尚の下では自己の存
在意義がないと理解したのだろう。
これ以降勝元は、幕府内での地位向上を諦め、ひたすら京兆家の分国支配の強
化とその拡大にに乗り出す事になる。これが後の細川政元の幕府から独立した
政治行動の背景となり、さらに過激な公家や寺社の荘園押領の背景となったの
はないだろうか。
358人間七七四年:2009/01/27(火) 23:58:41 ID:u6bganoq
>>357
多少時系列的に無理が有る気もする。
359人間七七四年:2009/01/28(水) 00:34:28 ID:Bpw9DKbS
例えば、どのあたり?
360人間七七四年:2009/01/28(水) 00:47:22 ID:MihyWage
>>359
勝元や孝景の荘園横領は、義尚擁立以前から進められてたと思うが。
あと応仁の乱の終局前にコロっと死んじゃうし。
京兆家全体としてそう言う、ある種の戦国大名化方針をとらせる体制を作るほど、
時間的余裕があったようにも思えない。
361人間七七四年:2009/01/28(水) 01:54:16 ID:KDXrvQ2M
勝元の荘園押領で分国内の京兆家領・守護領が急劇に拡大したことが、既に
ある種の戦国大名化ともいえる。
他の守護大名も荘園押領をやっているが、勝元と孝景は押領規模が他の大名
に比べ格段に大きい。京兆家と朝倉家は早い段階から政策として分国全体で
ローラー作戦的に押領を進めていた可能性がある。

本来京兆家と朝倉家は、公文書では併記される存在ではないく、私的な日記
と言う事で併記されている。しかし逆に言うとそれほど京兆家と朝倉家は閣
の違いはあっても行動様式は大変似ていた為に併記された。公卿や高位僧侶
から見れば、新興の朝倉も名門で将軍家の親類とも言える京兆家も同じ事を
していると見えたという事ではないか。
成り上がりの朝倉ならともかく名門で公卿との付き合いも深いある意味“礼儀”
をわきまえたの京兆家が“朝倉的”な荘園押領をしている事に五摂家あたりは
さぞかし驚かされただろう。同じ権門として分をわきまえ公家や寺社との同盟
関係を維持すると思いきや“朝倉的”な一円支配を分国で行いだしたので尋尊
は本来併記すべきではない両者を私的な文章の中で併記してしまった。

また、勝元は死ぬ直前に宗全と単独和平交渉をし、応仁の乱から離脱と
勝之廃嫡・聡明丸相続の方向を打ち出そうとしている。
勝之廃嫡・聡明丸相続は山名サイドの講和条件でもあるが、勝元が応仁の乱
に嫌気がさしていたのは事実だろう。
362人間七七四年:2009/01/28(水) 02:27:36 ID:dLyD/xVn
また1468年に伊勢貞親が室町殿に復帰し日野勝光が活躍の場を広げるなど
文正の政変以前のように近習が闊歩する幕府に戻ってしまい1473年に亡く
なるまでの4年強の間は勝元にとっては無力と阻害感を味わったのではないか。

戦闘地域も摂津や丹波・山城となり洛中での戦闘はほとんどなくなる。
対戦相手も山名ではなく大内や畠山であり、従来の瀬戸内海の貿易紛争
相手とライバル管領家同士の戦いとなり将軍を巡る戦闘ではなくなりつ
つある。

また1473年5月には勝元が死亡し同じ年の12月に義尚が将軍に任官する。
これは義政や富子が勝元の死をまって義尚に将軍職を譲ったのかもしれない。
義尚擁立が以前から決まっていたとは言え、勝元の存在がある程度義尚の
将軍任官にストップをかけていたとなれば、義政・富子みてやはり勝元の
存在は邪魔であり勝元に幕府内の居場所は無くなりつつあったのだろう。

これも京兆家の戦国大名化=幕府からの独立化を進める理由となるだろう。
363人間七七四年:2009/01/28(水) 13:04:00 ID:UckvtZU5
応仁の乱は1466年から77年までだが、洛中での市街戦は主に66年から68年まで
で68年から73年までは主に丹波・摂津・南山城での戦闘となる。
その後77年までは惰性的に戦闘が続くが、地方に戦闘が拡散し、また和平交渉
も併行して続いている。

このような情勢下での細川勝元の荘園押領は、68年から73年の約4年強の丹波
摂津・南山城での戦闘の最中に行われた物だろう。京兆家の分国内での戦いで
あり多数の軍勢を率いていた勝元は、戦闘地域が自己の分国なので荘園押領を
最も行い易かったのであろう。

丹波・摂津での戦いでは、丹波が西軍に占拠されたり摂津の国人36名がこぞっ
て大内氏に与同している為、国人層の東西両軍への入れ代わりが激しく京兆家
が戦闘に勝利する事で敵側の国人所領を京兆家が押領する口実となる。
摂津の嶋上郡や嶋下郡の国人一揆がその典型で、彼らは京兆家の家臣でありな
がら大内氏に味方するなど京兆家サイドから攻撃される口実を作っている。
また、摂津での戦いには守護代の薬師寺元長とその家臣四宮四郎も戦闘に加わ
り、細川四天王と言われる讃岐の国人武将も勝元は動員している。

この68年から73年の丹波・摂津・南山城の戦闘を京兆家は分国支配を強化する
方向で利用したとも言える。また、南山城(西岡)での戦闘も京兆家の被官関係
を山城に拡大し後の山城国人一揆発生の下地を作った事にもなる。
山城国一揆に参加した国人は、細川政元の家臣であり畠山氏を山城から排除す
る事に成功し、山城の京兆家領国化を進める契機となる。
364人間七七四年:2009/01/29(木) 00:45:23 ID:IIhi/0D5
権門体制を前提とした足利幕府のbQであり、幕府体制を支える主柱でもあり
武家の名門中の名門である細川総領家(細川管領家)は、権門体制下の足利幕府
でも美味しい思いをしてきたのに、自らその安定した社会関係を破棄し別の社
会構造を模索した事には驚かされる。
やはりこれには応仁の乱が背景にあり、この政治事件がいかに歴史的なターニ
ングポイントになっているかがよく分かる。

朝倉のような成り上がりは、現在の社会構造を破壊することにより成り上がる
他ないのだか、既存のレジームのど真ん中に居た細川管領家が、荘園押領と言
うある種の社会構造の変化(進歩)に自ら最も手を貸した事が大変奇異に感じら
れる。
細川管領家がこのような判断をしたのは、戦乱期には土地の重層的な権利関係
を前提とする既存の中世の社会構造を壊しダイレクトな一円支配を作り上げた
方がより大きい経済的収益(税収等)を上げられると判断したとしか言い様が無い。
この武家による一円支配への構造改革は、細川管領家にとって同じ権門として
対等な同盟関係を築いていた公卿や寺社の経済基盤を破壊し奪い取る構図となる。

武家による弱肉強食は当然だろうが、応仁の乱の最中でもあり、もはや今まで
の関係をかなぐり捨てて公家や寺社の荘園を押領する事それ自体が社会の進歩
であり直接的な土地と人民の支配の実現こそが武家としての生き残り策である
と細川勝元も感じていたのかも知れない。

政元の代になれば応仁の乱が終わり足利幕府の支配地域の縮小が目に見えてい
ただろうし、下克上も開始され乱世であることが自然と感じることが出来たで
あろうが、既に勝元の代でも応仁の乱の戦闘の最中と言う事で半ば自然な行為
として荘園押領は他の守護大名も含め行われたのかもしれない。
有力公家や高位僧侶が戦闘を避け地方に疎開していたのも荘園押領が促進された
理由の一つであろう。
365人間七七四年:2009/01/29(木) 04:23:45 ID:utbV2Uzo
>>364
公家が地方に疎開したから荘園が横領されたのではなく、
荘園が横領されたから地方へと疎開したのでは?
366人間七七四年:2009/01/29(木) 04:29:59 ID:6KkbQzdL
>>365
食い扶持が入ってこなくなったから、食い物を生産しているところに行こう、って感じがあるな。
応仁の乱のときの貴族の疎開って。
367人間七七四年:2009/01/29(木) 05:23:28 ID:XEh0XS1k
公家の地方疎開は、戦火を避けるのが第一の目的。
若狭と大和への疎開が多かったらしい。親戚を頼ったり、自分の荘園の近くに
引っ越したらしいから確かに食い物の近くに行く感じはある。

それと荘園から公家の処には直接食料が送られてくる事は少なく、
金納契約が圧倒的に多い。現地の請負代官は武士で彼らが農地管理をしている。
請負代官が、農作物を換金してそのうち何%もらうとの契約だが、その請負
代官の武士が応仁の乱開始後に荘園領主たる公家や寺社に送金を止めてしま
いそのまま押領というケースも多い。
368人間七七四年:2009/01/30(金) 03:31:19 ID:POS6H0QJ
>>360
>京兆家全体としてそう言う、ある種の戦国大名化方針をとらせる体制を作るほど、
>時間的余裕があったようにも思えない。

勝元の晩年にはまだ本格的な戦国大名は居ない。
しかし有力幕閣だから分国を支配できると言う幕府内の権力構造に
依存して分国支配を行うのではなく、幕府内の位置づけがどうであれ
分国支配は行える体制作りを細川勝元は考えたであろう。

1468年に文政の変以前にのさばっていた近習が復活して以降、勝元は東軍
総大将であるにも関わらず、幕府内の居心地は良い物ではなかった。

同年の足利義視の2回目の西軍への出奔は、幕府内での京兆家の将来の栄達に
絶望した勝元の知謀であるとされる。
つまり、義政も富子も宗全に義尚に将来を託しており、いつ将軍夫妻が、
山名方に走るか分からない。義視も一緒に山名方に走った場合には勝元が
幕府の敵に成りかねないので義政と義視を別々にしておけば、義政が山名
に走った場合でも義視を擁立することで公方の敵に成る事を防げる。
と勝元は考えたらしい。
また、西軍の山名宗全に頼る日野富子への対策として、その西軍に義視を
送り込み西軍の将軍として擁立させる事で、勝元は、日野富子の孤立化を
図った。
369人間七七四年:2009/01/30(金) 03:38:55 ID:Y5ltAS3J
>>368
斯波義廉を私怨と言っていいほど憎んでいた義政が、そう簡単に
西軍に参加するかな?

それに大内政弘の伯父教幸を離反させたり、朝倉を寝返らせたりしたのは
義政主導といってもいいんじゃない?

義政と富子は、別の思惑で動いていると思う。
370人間七七四年:2009/01/30(金) 22:52:08 ID:7fDDLuei
>斯波義廉を私怨と言っていいほど憎んでいた義政が、そう簡単に西軍に参加するかな?

勝元がそう思うほど西軍贔屓だったんだろう。
勝元もかなり幕府内で居心地悪かったようだし。

>大内政弘の伯父教幸を離反させたり、朝倉を寝返らせたりしたのは義政主導といってもいいんじゃない?

大内氏や河野氏の内訌を煽る工作は、義政と勝元の両方でやっていただろう。
それだけ大内氏が畿内に攻めて来たのが厄介だったという事だろう。

朝倉の件は、守護就任とセットの工作で言わば武家トップの将軍が、
下克上と家格破壊を公認してしまった事になる。
斯波氏の弱体化の意味もあるのだろうが、この事で守護大名全体の
立場が弱くなってしまったともいえる。
足利幕府のbQにして幕府体制を支える主柱であり武家の名門である
京兆家が権門体制を崩壊させるような荘園押領を繰り返したのも将軍
のこのような発言があったからだろう。

>義政と富子は、別の思惑で動いていると思う。

わが子の将軍任官を願うのは一緒でしょうね。
371人間七七四年:2009/01/31(土) 00:31:49 ID:IoC9IFvQ
>>370
> わが子の将軍任官を願うのは一緒でしょうね。

でも少なくとも応仁2年9月の、義視が義政に提出した例の、「邪徒三人」排斥の諫書までは、
後継は義視って路線で動いていたと思うよ?>義政
372人間七七四年:2009/02/02(月) 13:50:04 ID:9hN5MmDz
最終的には義尚が将軍任官する方向へ。
応仁の乱10年間のうち始めの2年間だけが、義視の将軍任官方針で
あと8年は義尚の将軍任官方針。
なるべくしてなったのでは?

細川勝元が幕府内で居心地悪いのは、この事と関係があるわけで、
事実上義視の後見人と周囲から見られた勝元は、義尚将軍任官方針決定で
自分の意志(義視将軍任官)が幕府では押し通せない事が露見した為でしょう。

西軍もこのことを良く分かっているので、大内氏が摂津に上陸したり畠山も
一緒に摂津と南山城に攻め込んできたり、山名と一色が丹波に攻め込んでき
たりしたのかも。
68年以降は洛中での市街戦は収束気味で、丹波・摂津・南山城での野戦が増
えます。勝元は幕閣として幕府内の権勢維持の為に応仁の乱に参加するとい
うよりも、単に自分の分国維持の為の戦闘という性格に変化します。

この時から勝元の荘園押領の激しさが増すこになるのだと思います。
1470年には朝倉の守護就任が義政に認められ、下克上が事実上公認されます。
373人間七七四年:2009/02/02(月) 18:01:17 ID:jHcr0HH1
朝倉の下克上の公認って言っても、それは室町将軍がかねてからやってきた
守護のコントロール手段じゃない?
374人間七七四年:2009/02/02(月) 20:10:54 ID:o5LEa+oN
>>373
守護統制手段の一つだろうが、
守護家が存在するにも関わらず守護代を守護に任ずるのは先例とまったく異質じゃないか?
応永の乱や明徳の乱に代表される総領交代劇とは別物だと思うが。
375人間七七四年:2009/02/02(月) 20:15:08 ID:jHcr0HH1
>>374
斯波家に関してはそれ以前に甲斐を幕府の直臣にしたり、幕府内にそういう、
一定の勢力削減、もしくは分裂方針があったとは思うぞ。
376人間七七四年:2009/02/02(月) 22:34:52 ID:ydFo3l4O
>>374
私もそう思いますね。単なる守護の交代ではなく家格破壊も伴うから
前例の無い事を義政はしましたね。
義政は、制度としての守護大名そのものを弱体化させるつもりだったのでしょうか?

斯波家は足利義持の頃は凄かったけど、義政の代になると、三管領家の中で
一番弱体化しています。畠山家も内訌でガタガタで結局細川京兆家だけが野原の
一本杉のように強くなりますね。

斯波氏では幼少の当主が続いたため、その実権は「被官人等評定衆」に移り
斯波氏執事としての立場から、事実上、常治が斯波家を取り仕切っていた。

甲斐常治は、斯波一門をかなり馬鹿にしていたとか。家臣の前で新当主
の斯波義淳を無能呼ばわりしたりして斯波一門から目の敵にされていた
みたいですね。二宮氏・島田氏などの他の被官人は、当主をないがしろ
にする常治の専横に業を煮やし、一門と結託して討伐計画を企てたりす
るなど常治と対立してます。

これは、陪臣なのに将軍家を直に繋がっていたからですかね?

それと斯波家の被官人等評定衆は京兆家評定衆(管国内意見人)と同じ制度?
377人間七七四年:2009/02/03(火) 21:18:09 ID:3176V2hd
>>375
勢力削減と分裂方針は同一の目的で行われるのは理解できるが、
別個の守護家を取り立てることは削減・分裂と同一目的といえるだろうか?
越前と尾張に分裂した斯波家のうち、越前の方を滅ぼして後釜にその家臣を据えたんだぞ?
斯波の庶流をもってきたり、富樫や武田らを斯波に替えて守護に命じる、ってのがそれまでの政策。
そのどちらでもなく、斯波の家臣に過ぎない朝倉を持ってきたのは前代未聞のことじゃないか?
斯波が滅亡したからならともかく、斯波家そのものは存続しているわけだし。
有力守護大名家の勢力削減方法にしてはかなり異例な措置だったと思うが。
378人間七七四年:2009/02/04(水) 10:36:38 ID:JL7hNoY6
異例だろうね
その後数十年間は斯波との間でgdgdの訴訟が続いたぐらいだから
379人間七七四年:2009/02/04(水) 18:23:23 ID:M7tLJolk
そもそも東軍への寝返りの条件である、守護職補任はあったのだろうか?
応仁の乱勃発当時、越前守護は斯波義敏(東軍)
越前守護代はおそらく甲斐氏だろう
西軍に属していた朝倉孝景を東軍に寝返らせる条件は、
守護職ではなく守護代に任じることの方が自然だと思う
その後、斯波義廉の息子に鞍谷氏を継がせることで、
斯波義敏を追放したんじゃないのか?
380人間七七四年:2009/02/04(水) 21:51:16 ID:GQ9vYDqK
いまでこそ管領家の中で冴えない斯波だけど
当時の感覚では鎌倉公方に近い存在だったんじゃないか

細川は実力はもちろんだけど家柄が将軍家としては
安心できたというのもあるはず
381人間七七四年:2009/02/05(木) 01:23:20 ID:Nwomja3W
斯波氏は幕府内で北関東、東北の取りまとめ役だよね。
382人間七七四年:2009/02/12(木) 02:24:32 ID:lAEymiJ3
朝倉が越後守護に任命されたのは、甲斐氏よりも越前国内の押領地が多く、
朝倉家が斯波家被官人等評定衆の中で越前で一番領地を多く持っていたから
ではないか?
守護領が少ないと言う事は、その分国の支配力が弱いと言う事になり、
斯波氏が弱体化した理由は、政局的な側面だけではなく、斯波家の分国所領
集中率(斯波家分国の農地総面積のうち斯波家直轄地・守護領の占める割合)
が低かったからではないか?

歴代の足利将軍は、寺社領還付政策を布いており、中でも斯波家の所領が、
最も狙われたとの東京大学比較文学の桜井英治教授の指摘もある。

足利将軍家は斯波家の弱体化と寺社領還付政策マッチングさせたのか、
たまたま寺社からの所領返還の要求が斯波氏に向ったのか不明であるが、
この寺社領還付政策で斯波家の分国所領集中率が三管領家の中で最も小さく
なり、越前・尾張・遠江の3カ国の斯波家支配のグリップが弱まったと言える。

仮に足利将軍家が斯波家の弱体化と寺社領還付政策マッチングさせたのなら、
足利義持政権期に三管領家の中で最も強大化した斯波氏を弱体化させようと
いう将軍義持自身の意志と細川家と畠山家の斯波氏への反感が一致したと言
う事になるのだろう。
383人間七七四年:2009/02/12(木) 02:43:31 ID:EJKm/B6l
まあ、斯波氏に対する幕府の態度も、例によってころころ変わるんで、
一貫した政策があったとはとても思えないが。

むしろ斯波義廉への、義政の敵愾心からくるものが、斯波氏弱体化にいたる政策への影響の
ウエイトが大きいのではなかろうか?
384人間七七四年:2009/02/12(木) 09:23:51 ID:ZSDWj6uA
斯波氏から守護職を奪い取った先例を朝倉が作ったおかげで
織田信長も守護職に就けたんだよな。
385人間七七四年:2009/02/12(木) 16:13:41 ID:N4wTn0R1
信長が守護職って初耳なんだが
386人間七七四年:2009/02/13(金) 01:42:52 ID:mj7SYu05
尾張守叙任してるぞ。
387人間七七四年:2009/02/13(金) 01:46:44 ID:MnFmQr6J
国司と守護の区別ぐらいリア厨でもつくぞ
388人間七七四年:2009/02/13(金) 19:11:35 ID:xxBOhsmQ
>>386
尾張守と尾張守護って別物だぞ
389人間七七四年:2009/02/14(土) 15:32:43 ID:97d9fEi/
斯波義将が孫の義淳を管領にして後見してたあたりは
名実ともに三管領筆頭だったけど
そのは後全然いいとこなしで、も少しなんとかならなかったものかと
390人間七七四年:2009/02/14(土) 15:54:04 ID:IQITJrOz
幕府に目を付けられてたもんなぁ
391人間七七四年:2009/02/14(土) 15:58:23 ID:2Bv0b7du
幕府が関東に手間取っていればもっと立場を強く出来た
392人間七七四年:2009/02/15(日) 16:52:28 ID:r9iDeCbK
斯波義将がやり過ぎて将軍義持の警戒心をかったと思います。
管領を5年しかやっていないけど、義持の弟の足利義嗣の将軍への動きを
完全に押えるなど動きが凄かった。

斯波義将は将軍義持の側近を失脚させるなどの動きもあり、そのあたりが
義持の警戒心を煽ったと思う。
393人間七七四年:2009/02/15(日) 22:33:12 ID:Fx9Nlxsz
応仁の乱後の生き残り方を見ると
細川に10の力があったとして
畠山3か4、斯波は1がいいとこかと
394人間七七四年:2009/02/15(日) 22:48:01 ID:qH44tiDW
>>391
逆。
関東の平定に手間取ったから見境なく斯波の力を利用しようとして
義政が当主の首のすげかえをやりまくったのが斯波弱体化を決定つけた

最初は政知の執事が渋川義鏡だった関係から義鏡の子の義廉に斯波の家督継がせて
斯波の軍事力を利用としたけど、義鏡が失脚すると義廉を袖にして、奥州の斯波氏にパイプを
もっていた義敏をまた家督に戻そうとした

義廉の時代には奥州の斯波と連絡とれなくなってた形跡が残ってる
395人間七七四年:2009/02/23(月) 15:38:53 ID:2z0CIf21
狙ったわけでなくても 義政と細川にはよかったかな 斯波の弱体化。
396人間七七四年:2009/02/27(金) 03:40:13 ID:Zmo/pW2o
3管領家の管領在任期間をみると細川管領家が異常に長期間管領を勤めている事が分る。
397人間七七四年:2009/02/28(土) 01:47:30 ID:CINa+aZa
唯一20年も遠のいたのが
斯波義将全盛期でしたね
398人間七七四年:2009/02/28(土) 01:58:36 ID:lWgAno2z
本来の家格じゃ細川なんて下の下もいいとこだからな
399人間七七四年:2009/03/03(火) 23:51:33 ID:cLXbedCW
畠山が管領家に加わったの将軍家の意向?
斯波細川の2対立の緩衝作用を期待 というか斯波を恐れてか??

西軍=大内山名一色土岐は元は斯波派のながれ

斯波が健在なら応仁の乱は激しい決戦になって白黒ついたのでは
400人間七七四年:2009/03/09(月) 16:32:41 ID:ZYYRMSWO
二家より三・四十年遅いんだ。畠山は。
401人間七七四年:2009/03/09(月) 16:44:19 ID:nJTzn6uE
斯波も細川も足利親族だけど、畠山は足利と代わらない鎌倉以来の名門だからな。
402人間七七四年:2009/03/13(金) 14:21:54 ID:0HbHsY7u
家柄としてはそうなるかな
403人間七七四年:2009/03/19(木) 15:29:10 ID:m5E+LslC
将軍家との近さでは斯波。
404人間七七四年:2009/03/24(火) 15:50:37 ID:BPq6wHiE
家の格はそうだね
405人間七七四年:2009/03/30(月) 15:38:28 ID:sAVHDfA1
細川頼之が傑物だから
406人間七七四年:2009/04/03(金) 14:50:09 ID:aW8ZYuFM
南北朝の時に、和氏やら頼春やら顕氏やら兄弟従兄弟らが競い合ったのが大きいと思う
407人間七七四年:2009/04/09(木) 14:45:41 ID:7dcQRFFC
南北朝の細川は面白いね。
408人間七七四年:2009/04/13(月) 16:09:43 ID:ID+0IdaU
和氏ー清氏が嫡流
409人間七七四年:2009/04/17(金) 14:52:29 ID:BLD17nt1
頼之と斯波義将の勢力争いは伯仲していたが、そののちは細川が強い
貿易のせいもあるか
410人間七七四年:2009/04/18(土) 05:08:45 ID:rL+U23HR
>>409
細川は領地以外に瀬戸内航路を勢力圏にしてたけど、斯波はせいぜい北関東から東北だからな。
411人間七七四年:2009/04/21(火) 15:03:50 ID:Do/NlItY
守護に任じられた土地柄の違いか。
412人間七七四年:2009/04/21(火) 19:27:35 ID:Sr6Vf7IH
明徳の乱で山名氏清が足利義満に滅ぼされた。

幕府所在地である山城の隣地である丹波と
貿易港が複数存在し、農地が広く石高が大きい摂津の
両方を押えた事で畿内での京兆家の存在が大きくなった。

貿易港だけでなく京兆家が洛中への山陰・西国街道を押さえた事により、物流網を握った事も大きい。
413人間七七四年:2009/04/23(木) 18:56:27 ID:bnz++2UW
四国統一して瀬戸内の海軍もしっかりおさえておければよかったのに
414人間七七四年:2009/04/23(木) 19:10:26 ID:Z/KNEkgD
京兆政権時代は、四国は完全に抑えていたでしょ。
415人間七七四年:2009/04/23(木) 22:16:21 ID:2djlykud
>>414
京兆政権(政元?)時代は、畿内に政権基盤を移していた。

政元は、丹波と摂津の維持にかけていた。
領国内の反抗的な国人を倒し、京兆家家督直轄領に組み込んだり
重要拠点の国人を直参に抱え込んだりしている。

守護代の支配権の拡大の阻止にも動いている。
従来の家臣団(内衆)の再編成も行い京兆家家督よる分国直接支配体制に移行している。

勝元代から継続している京兆家による山城の国人への家臣団リクルート工作も継続しているが、
京兆家の四国の分国である土佐と讃岐は、半ば放棄しつつある。
416人間七七四年:2009/04/23(木) 22:56:31 ID:P3TAeTkR
>>415
なんで放棄せざるを得なかったの?
417人間七七四年:2009/04/24(金) 10:28:44 ID:mzXIpiKU
足利幕府の中央権力の弱体化に伴い、細川家の同族連合体制が崩壊したから。

京兆家だけではないが、守護大名は、複数の分国を支配する場合には
隣国などのまとまった領土ではなく飛び地で守護職に任命されるケースが
ほとんどである。

その場合には、どこかの飛び地の支配を諦める。
応仁の乱が終結し、足利幕府の中央政府としての権力が喪失してからは
守護大名の飛び地放棄政策が恒常化する。

放棄した場合は、土着の有力国人に支配を委ねるか、飛び地の隣国の守護に
支配を委ねる場合が多い。
言わば一種の領国経営のリストラです。
418人間七七四年:2009/04/26(日) 01:24:58 ID:kh4YuoTP
複数の分国支配の場合、守護大名にとって重要な分国とどうでも良い分国があるんだよ
419人間七七四年:2009/04/27(月) 14:16:22 ID:3rJhWGVG
戦国時代の始まり、諸説あって確定していないようです。以下代表的なもの。

応仁の乱 1467
応仁の乱終結から 1477
明応の政変(東国では北条早雲の伊豆乱入) 1493
応仁の乱で室町体制が崩壊し、下克上の世になり各地で群雄割拠の時代となる。
最近では、明応の政変からが有力。

終わり
信長入京 1468
将軍義昭追放され室町幕府事実上滅亡 1473
秀吉の全国統一完成 1490
関が原の戦い 1600
大阪夏の陣 1615
新秩序が形成された秀吉の全国統一あたりが妥当か! 
420人間七七四年:2009/04/27(月) 17:37:16 ID:g1rIpQoV
個人的には戦国の収束は、兵農分離がほぼ完了した徳川家光期でいいと思う。
421人間七七四年:2009/04/27(月) 21:00:46 ID:Samw0tHf
戦国時代の開始時期は畿内(中部地方以西)と関東では異なります。

畿内では明応の政変の1493年から
関東では1454年の享徳の乱から

畿内では応仁の乱終結の1477年から明応の政変の1493年までの16年間は
足利幕府の幕権回復期

将軍親征を繰り返し畿内では将軍の権力はむしろ強まっている。

それに明応の政変は、それに対抗する意味もあり。
422人間七七四年:2009/04/27(月) 21:15:02 ID:UPMVpJi+
幕権回復=長い目で見れば細川の基盤も固まる
下剋上を起こせば巡り巡って政元自身も・・
という発想はなかったんでしょうか
423人間七七四年:2009/04/27(月) 21:23:27 ID:g1rIpQoV
>>422
ぶっちゃけると、明応の政変で政元は、京兆家が政権を丸抱えするような事態になるとは
想定していなかったと思われる。
変そのものより、義材の逃亡を許したのが痛かったんじゃないかな?
424人間七七四年:2009/04/27(月) 23:06:13 ID:zOOw9Nx0
1467〜1590が戦国時代

1467〜1493が黎明期

明応の政変は「始まりの終わり」
425人間七七四年:2009/04/28(火) 12:13:17 ID:SGI2KPIl
上原元秀の監視体制が悪かったか、義材に買収されてわざと逃がしたかのどちらかだね。

細川政元の信任厚かったものの驕慢の振る舞いが多かった上原元秀は
他の内衆や丹波諸国人の怒りを買いあまり京兆家内では評判が良くない。

丹波守護代として国人領地の押領を強化したため1489年9月に丹波国人一揆の位田の乱が起こった。

これに関連して1492年上原元秀と長塩弥六と刃傷沙汰となりその傷がもとで死亡した。
426人間七七四年:2009/04/28(火) 19:21:24 ID:gwrn7zmv
>>425
上原元秀が死亡したのは1493年でした。
明応の政変の半年後です。
修正します。
427人間七七四年:2009/04/29(水) 00:21:42 ID:JxkDALrF
義材が予定どおり流されてたら 
さらに政元に実子がいたら
幕府はより長く存在したか 否か??

428人間七七四年:2009/04/29(水) 00:37:28 ID:KURZYAm1
>>427
将軍家が二流に分かれなければ、少なくとも対抗する勢力それぞれが「将軍」を頂いて
正当性を争う、って状況はなくなるわけで、
政元死後京超家が分裂しても、その影響は限定的だったと考えられる。

幕府が滅びないまま何らかの新秩序が形成された可能性すらあるんじゃないかな?
429人間七七四年:2009/04/29(水) 01:34:01 ID:E2710qgU
>>428
明応の政変で将軍の親衛隊である奉公衆は崩壊します。
幕府再建は、奉公衆再建を何とかしないとダメでしょうね。
1477〜93年までの幕権回復期も結局奉公衆の積極的な軍事行動に支えられていた訳ですから。

政元に実子が居れば、あそこまで畿内の政局は混乱しないでしょう。
この時期の畿内の政局は、将軍職よりも半ば京兆家の家督を巡るものになります。

ただし政元の実子が居れば京兆家の分裂は避けられますが、
細川家の分裂は避けられません。

政元生存時から、京兆家と阿波守護家との対立、京兆家と備中守護家との備中大合戦
京兆家と和泉両守護家との合戦が繰り広げられており、もはや細川家の同族連合体制
は、応仁の乱後の幕府支配地域の縮小に伴い崩壊しています。
430人間七七四年:2009/05/01(金) 11:17:01 ID:UvWBc2uQ
将軍義材も政元を押さえ込むために阿波守護家に肩入れした。

その挙句の明応の政変。

当時の阿波守護家の家督細川義春は、河内に将軍義材と一緒に出陣中
しかし、政元の軍勢が京から迫ると将軍を見捨てて逃亡w
431人間七七四年:2009/05/01(金) 21:16:05 ID:YORBIjoi
義材と一緒だったのは政長父子 斯波義寛 阿波細川
 大内は近くまで来て退散
一色あたりも参加したのか
432人間七七四年:2009/05/01(金) 21:55:38 ID:4Ez9jvWF
大内もよく強大な力を維持したよなあ、天文期まで
433人間七七四年:2009/05/01(金) 23:35:51 ID:7fJC6aNI
一色義直は、応仁の乱後は分国の丹後に在国し京には居なかった。

しかし、将軍義材は、丹後への親征計画を止める代わりに一色義直が
京に戻る事を要求し一色義直は京に戻った。

応仁の乱以後に守護大名の在国が一般化したが、一部では在京化が戻り始めていた。
434人間七七四年:2009/05/02(土) 09:37:07 ID:90aciczL
>>429
足利義晴の内談衆再建は実質上の奉公衆+奉行衆集団の再編+再建だったのだが、時期が悪すぎた。
435人間七七四年:2009/05/02(土) 12:08:46 ID:c6RImvuS
>>433
義植が元西軍というのと政長の不人気で参加大名が少なかった
ということだろか

436人間七七四年:2009/05/02(土) 23:58:03 ID:Ft80tOhf
>>434
悪すぎたし、遅すぎた。

>>435
特に問題なのが政長。
本当に傲慢だったらしい。諸大名からコテコテに嫌われる程の専横だったらしい。

政元も変わり者だけど、ココまでではない。

私見だが・・・・・義就が先に死んで、調子に乗ったか?
河内の国人衆(基家家臣)の一部からでも帰参の連絡でもあったのか?

政長は自分が畠山家を統一出来るとでも思ったらしい。

1482年に政元は義就と和睦し河内と摂津の双方の占領地を交換している。
この時に基家の事でも頼んだのか、これ以降の政元は基本的に基家を後押ししている。

義材の河内親征も基家潰しが第一の目的であり、これが成功していれば
政長による畠山家の統一となっていた。
その後に義材は京兆家と統一した畠山家と対決させるつもりであったのだろう。
437人間七七四年:2009/05/03(日) 10:04:25 ID:pVL51mXU
>>436
は京兆家と統一した畠山家と対決させるつもり

義材は足利家中興の将軍となった可能性もあった
政元のおかげで流浪将軍に・・
438人間七七四年:2009/05/03(日) 10:36:15 ID:zJWSKXsy
本当に義材に求心力があれば、政元の軍勢と戦うはず。

しかし実際には義材を諸大名は見捨てた。

明応の政変は、政元個人の行動ではなく、畿内や西日本などの守護大名は将軍の専制化を嫌がっていたのだろう。
439人間七七四年:2009/05/03(日) 10:44:23 ID:Ajl0Diu6
恐ろしかった公方が弱体化していよいよ俺たち守護の時代だぜ!
と思ったら公儀の権威が消失したので国人に下剋上されたでござるの巻
440人間七七四年:2009/05/03(日) 12:26:14 ID:zJWSKXsy
>>439
基本的にはそうだけど、政元の場合は守護代に下克上された。
丹波と摂津の国人はどちらかというと政元寄り

むしろ伝統的な譜代の京兆家家臣団(内衆)が下克上している。

>>437
幕府中興は、旧西軍系の義材では無理。
義尚が長命なら可能かも。
義政や日野富子も後ろに控えているし。
441人間七七四年:2009/05/04(月) 18:51:48 ID:I1UDYrIO
>>423
>明応の政変で政元は、京兆家が政権を丸抱えするような事態になるとは想定していなかった

応仁の乱以後に全国政権としての室町幕府を政元が運営する事自体無理な話。
なぜなら・・・・
足利政知は政元と連携して将軍足利義材の廃立を計画するが、1490年に弟
の足利義政が病死。翌年の1491年1月には異母弟の足利義視が病死して、
さらに4月には政知自身が伊豆で病死したことによって挫折した。享年57。

政知の死から3ヵ月後には、堀越公方の跡継ぎをめぐって政知の子・茶々丸
と潤童子の間で内紛が起こり、政元が跡継ぎとして支持した潤童子とその母
は茶々丸に殺され堀越公方家と伊豆は急速に混乱することになる。

政元は、茶々丸が殺された時点で、彼の政権構想が崩壊しており、
伊勢新九郎の伊豆侵攻は、潤童子擁立計画失敗の後始末と言える。

結局、堀越公方家は滅亡し伊豆は伊勢新九郎の領地となってしまう訳だから
室町幕府の全国政権としての性格は1493年時点で崩壊している。

1457年に足利政知が鎌倉に入れない時点で室町幕府の関東支配は半ば崩壊
しているともいえる。

応仁の乱以降の室町幕府は、関西と西日本に限定した地域政権であり、
政元も幕府管領として全国支配を目指す事は潤童子殺害の時点で不可能であり、
それ以降は、畿内の制覇を第一の目標とすることに政治目標を変化させた。
442人間七七四年:2009/05/04(月) 20:07:43 ID:gCzf1ljY
応仁の乱以前から、直接的な支配は畿内と瀬戸内地域に限定されてると思う>室町幕府
443人間七七四年:2009/05/04(月) 23:42:27 ID:I1UDYrIO
>>442
応仁の乱以降の室町幕府は畿内と瀬戸内地域支配すら怪しくなっている。

守護大名の在国化が進み、京には細川政元や畠山政長以外の大名は完全には居ない体制になる。
義政が応仁の乱以前に発令した寺社領還付・保護命令は大名は完全無視状態。
畿内でも在国化した守護大名やその家臣団による寺社領や公家領や奉公衆領への押領が盛んになる。
もちろん国人による守護大名への反抗も始まっている。

応仁の乱以前の権門体制は、乱以後急速に崩壊し始める。
444人間七七四年:2009/05/05(火) 14:20:16 ID:k9Tcl0ha
甲斐武田家は、信玄の祖父の武田信縄の時代の1464年に守護代の跡部氏
を滅ぼし守護による甲斐の直接支配を開始する。

さらに武田信虎は甲斐を統一し、武田家を守護大名から戦国大名へと脱皮さ
せ強力な中央集権化を断行した。この過程で叔父の信恵や甲斐国人小山田氏
や駿河今川氏に支援されていた大井氏を撃破した。
晴信(信玄)による信虎追放のクーデターは、その中央集権化に反発した国
人衆主導によるものであった。

信虎の有力な親族・家臣の殺害は、戦国大名が中央集権化をはかる際に広
く行われたことであり、織田信長や豊臣秀吉などの場合と違い家臣の整理
に最終的には失敗したため武田信虎の否定的な評価につながったという面
がある

細川政元も丹波・摂津にて同じ事をしており、政元による守護大名から戦国
大名への脱皮は、政治路線として正しい帰結である。

しかし、甲斐武田家は、既に1464年に守護代跡部氏を滅ぼし、守護代そのも
のを廃止している事から政元はもっと早い時期に守護代を廃止し、守護によ
る丹波・摂津の直接統治を開始すべきであった。
445人間七七四年:2009/05/05(火) 21:31:49 ID:hIiqKVnA
甲斐一国程度の規模なら出来た事でも、細川家ほどの規模では抵抗勢力もその分多くなるわけで、
単純に甲斐でうまく行ったから細川家でもそうすればうまく行った、と言うわけにはいかんでしょ。
446人間七七四年:2009/05/06(水) 01:09:43 ID:qxFzxf/L
抵抗勢力ってだれ?
447人間七七四年:2009/05/06(水) 01:11:46 ID:avYsSvhN
内衆じゃね?
448人間七七四年:2009/05/06(水) 02:19:57 ID:qxFzxf/L
じゃ〜政元が内衆を皆殺しにしないとね
449人間七七四年:2009/05/06(水) 17:00:29 ID:frS4Gbga
>>445
一つの参考になるでそ
450人間七七四年:2009/05/06(水) 17:39:37 ID:avYsSvhN
参考になってもそれが単純に他でもマネ出来るかっていうのは別の話で。
それに武田家の改革と言えども紆余曲折があって、信玄の時代になってようやく安定した体制になったという
側面もあるわけで。
451人間七七四年:2009/05/07(木) 03:02:10 ID:YveLZAlp
中間層を排除し分国の土地と人民のダイレクトな統治体制(一円支配)を作るのは
守護大名から戦国大名への転換の基本コース

そのくらい出来ないなら大名止めた方が良いね。
452人間七七四年:2009/05/07(木) 03:22:43 ID:xfYmfLNA
>>451
基本コースってw
別に定められた進行表があるわけじゃ無いんだから、何が正しくて何が正しくないかなんて、
誰にもわからないっつーの。
戦国大名だって、初めからその方向を目指したわけではなく、生き残りのために紆余曲折を得た挙句、
気がついたらあの形になっていたに過ぎない。目標モデルがあってそこに向かったわけじゃ無い。

結果の出た後の視点から、過去の優劣を考えるのは、非常に愚かな行為だと思うぞ?
453人間七七四年:2009/05/07(木) 19:54:21 ID:Q+Ngfcim
基本的な計画性がないとマズイでしょう。

権門体制の崩壊や下克上(国人・農民一揆)はリアルにその時代に起きている現象

どうすれば生き残れるか少し考えればわかるはず。

政元に限れば、摂津に大内政弘が上陸して来た時に摂津国人衆がこぞって
寝返ったのが京兆家に中間層への不信感を植え付けたかもしれないですね。
454人間七七四年:2009/05/07(木) 21:47:46 ID:ym6H/V77
義材は大名連にどの程度協力を得て
政元はこれほどの政変を起こすに前、どの程度根回ししたんだろか

政元は赤松には接触してるが山名 一色 京極 土岐らには?
在京せず情報もなく単なる傍観者か・
政元への消極的支持者ってとこが妥当なんだろか

455人間七七四年:2009/05/10(日) 12:33:58 ID:1ahUsYeM
細川京兆家ー赤松家ー京極家ー武田家(若狭)は一つのラインになっている。
応仁の乱のときの東軍はこのラインで形成された。

明応の政変の時もこのラインは生きている
456人間七七四年:2009/05/10(日) 12:41:42 ID:ja7ZKO4s
>>455
明応の政変の支持勢力はそれに加えて、義就流畠山、堀越公方、越後−山内上杉、日野富子、
って所か。
457人間七七四年:2009/05/11(月) 22:02:38 ID:28slKCko
政元派は今川か

上杉顕定が弟の仇を討ちに越後の攻め込んだ際
朝廷で北国凶徒の鎮定を祈った記録があったらしい
なんで関東管領が凶徒??だが義植復権時だからか

長尾為景は義種や大内と連携してたと思われ
458人間七七四年:2009/05/13(水) 03:02:52 ID:TBbKvVtx
義材は、在国化した大名を再び在京化させようとしていたのでは?
459人間七七四年:2009/05/13(水) 07:55:53 ID:E8F6HEB0
義材の政策は基本義尚の政策の踏襲だね。
460人間七七四年:2009/05/13(水) 12:40:22 ID:4+Px4PiQ
義尚が長命で実子がいても政元は明応の政変を起こせたかどうか

また、赤松邸に将軍を呼び出して・・・・・
461人間七七四年:2009/05/13(水) 12:43:33 ID:E8F6HEB0
つーか、政策の問題っていうより、明応の政変を引き起こしたのは、義材の西軍系の人脈が、
最大の問題だったんじゃないかね?
462人間七七四年:2009/05/15(金) 03:03:19 ID:Tphr2hhV
西軍系の将軍が幕権回復を目指す中央集権策をとったから政元が反発した。

義材は露骨に畠山政長に肩入れしたからな
463人間七七四年:2009/05/16(土) 11:25:05 ID:WeIFcQqp
この時代に興味あるんですが、
入門用としてそこそこ詳しく、かつお奨めな本ってありますか。
464人間七七四年:2009/05/16(土) 12:08:30 ID:LrzJ8vOo
>>463
大阪の陣まであつかっているが、明応の政変前後から、畿内政権の流れなら

戦国の活力
山田 邦明 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%B4%BB%E5%8A%9B-%E5%85%A8%E9%9B%86-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E9%82%A6%E6%98%8E/dp/4096221082

これが分かりやすくてある程度詳しく、入門としてはいい本だと思う。
465人間七七四年:2009/05/16(土) 12:55:22 ID:WeIFcQqp
>>464
ありがとうございます!
早速買ってきました。
今から読みます。
466人間七七四年:2009/05/22(金) 16:11:17 ID:9C2cYmzS
面白そうですね。
467人間七七四年:2009/05/27(水) 15:54:23 ID:+lc2JI00
ちょいと高いね。
468人間七七四年:2009/05/27(水) 17:53:07 ID:+liEFnnL
歴史書にしては安い方
469人間七七四年:2009/06/02(火) 15:04:20 ID:2WJpzGC6
そうだね
470人間七七四年:2009/06/06(土) 18:25:27 ID:RQI0BZMn
結局、足利将軍家は三管領家のバランスの上に乗っかっていたのに
義教・義政両将軍が、畠山家と斯波家を分裂内訌に追いやった為
この2家が弱体化し細川京兆家のみが結果的に強大化した。

将軍義教も京兆家を狙っていたが、京兆家と仲が深い赤松家に先手を
うたれて殺害され、将軍義政も応仁の乱で京兆家と山名や畠山、大内
と戦わせたが弱体化せず、後に明応の政変を起こすくらいの実力を貯
めてしまった。

足利将軍家の守護大名抑圧政策が裏目に出たといえる。
これも結局足利将軍家が封建領主として弱体でり、絶えず地方の封建領主
を抑圧しないと中央政権である足利将軍家が圧倒されかねないという力関係の現れ。
471人間七七四年:2009/06/09(火) 12:08:31 ID:PttN1fTh
戦争の日本史
畿内・近国の戦国合戦  福島克彦/著
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/R0422875

> 足利将軍家の継嗣問題、畠山氏と細川氏の内紛、三好長慶や松永久秀らによる争乱…。
> 応仁・文明の乱終息後も畿内とその近国では戦乱が断続的に繰り広げられた。
> 絵画資料・現地踏査・発掘調査を手がかりに都市や城郭、防御施設の実態を探り、
> 織豊時代への連続性を検証する。「英雄不在」といわれる信長以前の約一〇〇年間、
> 「都の戦国時代」を詳細に描く。

これは楽しみだ
472人間七七四年:2009/06/12(金) 15:06:57 ID:IK2HgXQa
来週だね
473人間七七四年:2009/06/12(金) 21:01:11 ID:CQxt4Iy8
>>471
『畿内・近国の戦国合戦』
応仁の乱後信長入京までの畿内史(もちろん「明応の政変」含む)を扱った書籍は、
今谷氏などの専門の研究書はあったのですが、
本書籍のような通史一般の解説本は、ありませんでした。

本スレ「明応の政変」読者が、期待するような内容の本であって欲しい!
期待外れでないことを祈りたいです。
474人間七七四年:2009/06/15(月) 17:05:50 ID:pyJ+St0i
>>471
まだ売ってなかった訳だが。流石吉川弘文館。
475人間七七四年:2009/06/15(月) 18:41:28 ID:IpK1Hrq1
だれか細川政元を単行本にしないかな?
明応の政変でもいいけど
476人間七七四年:2009/06/17(水) 19:23:50 ID:B0QxOf4O
織田信長→下克上で成り上がる
細川政元→上克下で内衆押さえ込む
477人間七七四年:2009/06/18(木) 20:08:48 ID:M7XWHW+T
●最新刊(最終回配本) 6月下旬発売
11畿内・近国の戦国合戦
http://www.yoshikawa-k.co.jp/senso-n1.htm

下旬になったらしい。しかし


> 〈主な目次〉戦国期の畿内・近国のイメージ プロローグ/
>
> T=応仁・文明の乱と山城国一揆(応仁・文明の乱〈応仁・文明の乱の波及/畠山氏の内紛/
> 大内軍の攻勢/「木津城」の景観/畠山政長と義就の戦い/ふたたび南山城の戦局へ〉
> 以下細目略/山城国一揆と国人たち)/
>
> U=果てしない戦乱(足利将軍と明応の政変/細川京兆家の分裂/本願寺・天文法華一揆と細川晴元)/
>
> V=三好長慶の時代(長慶の台頭/長慶と晴元の京都攻防戦/長慶の畿内征圧/将軍義輝殺害と
> 義昭の奈良脱出/松永久秀と三好三人衆)/
>
> W=合戦の様相(対立の構図/将軍と軍事力/守護による軍勢催促/防御施設の発達/
> 山岳寺院から山城へ/戦国期城館の発達/守護所の景観)/
>
> X=都市と戦争(戦国期以前の山崎/戦場の街、大山崎/禁制と都市民)/織田信長の上洛以後
>
> エピローグ


これは面白そうだな
478人間七七四年:2009/06/24(水) 11:31:48 ID:oF1RloPm
発売延びるの前もあったね。
479人間七七四年:2009/06/27(土) 15:01:34 ID:qaqwMPfu
関連スレ

六チンの乱を語る
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1246072639/l50
480人間七七四年:2009/06/27(土) 17:00:35 ID:i31hCh32
>>477
この本出てたよ。買った。

まだ最初のほうしか読んでないが、たいていの本で軽くスルーされる、
応仁の乱から乱後における、両畠山の戦いの詳しい描写だけで、個人的には買う価値があったw
481人間七七四年:2009/06/29(月) 23:32:13 ID:pZAbnaCb
応仁の乱で畠山が義就流と政長流に分かれて、

明応の政変で将軍家が義稙流と義澄流に分かれて、

政元の暗殺で京兆家が澄元流と高国流に分かれて、

畿内はぐちゃぐちゃになったってことだな。
482人間七七四年:2009/06/30(火) 13:15:35 ID:PkqxUL39
その泥々とした人間関係がたまらないわ
483人間七七四年:2009/07/03(金) 21:42:12 ID:+MGbWNt7
>>471>>473>>477
『畿内・近国の戦国合戦』 福島克彦/著
書籍の真ん中ら辺の城郭史関連の記述が気にかかる。
著者の専門なのか知れませんが、あまり興味がない。その意味では残念。
484人間七七四年:2009/07/04(土) 00:19:55 ID:cxdM/oAR
>>13
魔法半将軍の作者が本名で次期衆院選の民主の公認を取ったそうだ。
485人間七七四年:2009/07/04(土) 00:29:06 ID:7klS+D+A
>>484
つーか、作者男だったのか…
486人間七七四年:2009/07/07(火) 15:13:08 ID:lG0+vQXu
わしだせいとう、とか難しいペンネームだね
487人間七七四年:2009/07/13(月) 17:57:08 ID:VRyygLOk
当選しそうなの?
488人間七七四年:2009/07/17(金) 16:15:38 ID:kPdgPhmo
尾身が相手か?本来なら厳しいがわからんね。
489人間七七四年:2009/07/17(金) 20:39:43 ID:ll+fSsBv
衝撃!9.11テロは米政府の内部犯行だった!!!

■9.11検証ビデオLoose Change 2nd Edition(ルース・チェンジ 第二版)日本語版(1時間23分13秒)
http://video.google.co.jp/videoplay?docid=4377032998245988095
■ツインタワー崩壊の疑惑を追え『 9.11 疑惑 〜2007 10.15 』(世界まる見え!テレビ特捜部)
http://video.google.com/videoplay?docid=-5334843523818408771
■『911』の真実とは (ダイジェスト版30分) 〜 ConfrontingTheEvidence 〜
http://video.google.com/videoplay?docid=-8142677247936155656
■『911ボーイングを捜せ-航空機は証言する』ダイジェスト版(10分)14.5MB
http://www.harmonicslife.net/gallery/main.php?g2_itemId=3701
■見ればわかる 9・11研究 
http://doujibar.ganriki.net/00menu.html
■9/11トリック─「テロ」は起きなかった マック・レイカー (日本語まとめサイト)
http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/muck_raker.html
■911 の真相は?(日本語まとめサイト)
http://rose.eek.jp/911/
■9.11の真実(WTC第7ビルは爆破された、ペンタゴンに旅客機は突入していない?
などの数々の疑惑とその反論も) 911同時多発テロにおける真実を追う(日本語まとめサイト)
http://nvc.halsnet.com/jhattori/green-net/911terror/nyterror.htm
■国会で民主党が9.11捏造の証拠をみせました January 10, 2008
http://www.youtube.com/results?search_type=&search_query=%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E3%80%809.11&aq=f
■9・11事件の米政府内部犯行説に関するリンク集
http://www4.atwiki.jp/911insidejob/
■「ロックフェラーの友は、911を事前に予告した」 アーロン・ルッソのインタビュー(その後、死亡)
9・11がアメリカ政府によって計画されたものであるという証言
http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=600415
■9.11疑惑過去ログ保管庫
http://www.geocities.jp/yhp20010911/index.html
490人間七七四年:2009/07/23(木) 16:16:44 ID:EKmActq3
>『畿内・近国の戦国合戦』
買った方多いんですね
491人間七七四年:2009/07/25(土) 10:40:23 ID:+uYP3kTh
大きな書店があるところがうらやましい。
492人間七七四年:2009/07/25(土) 11:29:14 ID:VGBg7LRJ
アマゾンやセブンイレブンなら送料ただで送ってもらえるよ?
493人間七七四年:2009/07/26(日) 01:24:50 ID:VzB3xwrS
福島先生小学生のときに日教組にいじめられてたのね。
俺も似たようなこといわれたなあ。
こういうわけの分からん教師が多いよな。
494人間七七四年:2009/08/03(月) 15:44:44 ID:LzReHQnJ
買ってみないとわからないか
495人間七七四年:2009/08/07(金) 14:39:00 ID:KewUvZmc
勉強家が揃ってるね
496人間七七四年:2009/08/08(土) 05:54:03 ID:u+H7oBi0
勉強と言うか楽しみだわな。
497人間七七四年:2009/08/11(火) 16:23:53 ID:Y+eiOn1E
政元は興味深い人物ではある
498人間七七四年:2009/08/11(火) 17:32:39 ID:Gk7ap0wp
「機内政権」という不思議なものを作り出した人だね。
豊臣政権くらいまでは、政元の構想の延長線にあると思う。
499人間七七四年:2009/08/17(月) 15:58:29 ID:RHrN3u8y
畿内政権?
500人間七七四年:2009/08/21(金) 15:08:25 ID:os9fPqg1
だね
501人間七七四年:2009/08/22(土) 01:57:59 ID:0lEhAJAE
この飛行機は我々がハイジャックした…機内政権
502人間七七四年:2009/08/22(土) 16:47:45 ID:PwPjVxFV
>>501
エアフォースワンを占拠したんですね。わかります。
503人間七七四年:2009/08/22(土) 22:00:32 ID:HrVmvzs/
政元は戦は上手くて強いのに、もの凄いむらっ気があるよな。
やる気がなくなるとさっさと引き上げて、粘着力がない。
504人間七七四年:2009/08/22(土) 22:02:01 ID:gduFDQrj
早めに撤退して戦力を温存した後反撃を考えていたんだよ
505人間七七四年:2009/08/27(木) 15:15:12 ID:Rvsw0Ypt
好きではないんだよ。
506人間七七四年:2009/09/02(水) 15:47:54 ID:VPS/InyX
望みしは何ぞ?
507人間七七四年:2009/09/02(水) 17:51:18 ID:Lud+i24J
空を飛ぶ事
508人間七七四年:2009/09/08(火) 16:16:02 ID:AmjIy5NQ
真剣に望んでそうだ。
509人間七七四年:2009/09/11(金) 15:26:50 ID:52RZ7+XQ
違う事に望みがあれば、京兆支配が安定したかも
510人間七七四年:2009/09/16(水) 15:41:05 ID:nkNzmQqe
政治的に望んだのはどんな体制?
511人間七七四年:2009/09/16(水) 20:16:36 ID:CbcOPe67
>>510
正直政元がなにをやりたかったのか良くわからん。
政権を持つ事自体、面倒くさいと思っていたような節もある。
512人間七七四年:2009/09/21(月) 16:19:36 ID:so2Dbd4x
幻術に走るとかやはり心に何かが
513人間七七四年:2009/09/21(月) 23:31:57 ID:5YuurYxb
政元に限らず室町時代の幕府高官って、さっさと引退して悠々自適に過ごしたい、
ってタイプが少なくない。
514人間七七四年:2009/09/23(水) 14:28:47 ID:IIBkXiRU
基本的に変わり者だよ、政元は。
ただし畠山家と足利将軍家だけは潰している。
515人間七七四年:2009/09/23(水) 15:37:53 ID:rJaRGnNl
厭世的な面倒くさがり屋のなした所業が、歴史の転換点になっている事が面白いな
516人間七七四年:2009/09/28(月) 16:06:34 ID:XGjDlbrM
結果的には、という事かな
517人間七七四年:2009/10/02(金) 15:55:51 ID:9MeGXcbe
権勢欲が強そうではないよね。
518人間七七四年:2009/10/02(金) 18:53:35 ID:hdGIp7Y8
元々最大の権勢家だからな。
足利義材さえおとなしくしていれば、家柄といい勢力といい権威といい、
何もしなくても天下の第一人者。
519人間七七四年:2009/10/06(火) 16:01:10 ID:WfwCb8te
親父の頃はそうでもないんだがな
520人間七七四年:2009/10/06(火) 20:17:39 ID:pqP/MDdd
勝元のときは宗全や畠山に勢いがあったよなぁ
細川氏そのものも京兆家を頂点とした集合体に過ぎず、
京兆家の当主に圧倒的な権力があったわけでもないしな
521人間七七四年:2009/10/13(火) 16:21:35 ID:yysOJHjl
他が争って衰えたりの幸運はあるね。
522人間七七四年:2009/10/14(水) 00:24:30 ID:aPVDv0AG
勝元をちと過少評価しすぎやしないか
まあ山名宗全が化け物じみてるしな
523人間七七四年:2009/10/14(水) 19:33:01 ID:GdOiooOk
勝元はすごい強大な権力を持っているよな。
ただ若い頃は、勝元と政権争いしてた畠山持国の化け物じみた政治力に
いいようにやられてた印象もあるが。
524人間七七四年:2009/10/15(木) 23:05:00 ID:hqyuj7r3
そういえば長宗我部元親のじいちゃんの、長宗我部兼序が政元の被官だったな。
525人間七七四年:2009/10/16(金) 22:32:39 ID:Ifb2YO3h
>>524
政元の被官じゃなく土佐細川氏の被官だろ
土佐の一土豪で大平氏のように中央とパイプがあるわけでもない長宗我部氏が、
京兆家の直接の被官になれるわけがない
526人間七七四年:2009/10/16(金) 23:42:25 ID:lfThVbzo
>>525
当時の土佐は京兆家支配じゃなかったか?
527人間七七四年:2009/10/21(水) 15:20:38 ID:FgViWOlL
支配かどうかは別として政元までは土佐守護も兼ねてるね
528人間七七四年:2009/10/21(水) 15:39:09 ID:16+ulZD6
実態はともかく、名目としては政元被官と言っていいだろうな。
529人間七七四年:2009/10/26(月) 01:04:11 ID:fTXRXAQh
長宗我部氏は、実態は土佐一条家の被官じゃなかったの?
一条家の勢力範囲が実際どの程度だったのか、今一歩わかりにくいのだが、
細川家の土佐支配はあくまで名目上で、実際は各地の有力土豪が権力を牛耳っていたと思われる。


530人間七七四年:2009/10/26(月) 03:00:48 ID:mpUr/cPi
名目上でも守護権力、それも中央政権を牛耳っている勢力と繋がっているってことは
大きな力がある。
長尾為景が細川高国政権と繋がっていた間、彼の越後支配は安定していた事を
考えるといい。

あと長宗我部が一条家に服属したのは国親の時代からかと。
531人間七七四年:2009/11/02(月) 15:56:46 ID:xhwAy5SC
一条と細川どっちもなんかな
532人間七七四年:2009/11/02(月) 18:24:18 ID:UaqSJ1nA
まあ、両属なんて珍しくも無い時代だからな
533人間七七四年:2009/11/07(土) 15:34:04 ID:aZmrrAsD
その時代は実質的な勢力はなさそうだけどね 京兆。
534人間七七四年:2009/11/12(木) 16:14:47 ID:KzNyZlx/
一条は在地だから
535人間七七四年:2009/11/16(月) 16:12:15 ID:PARhunip
細川は阿波が基盤のイメージがある。
536人間七七四年:2009/11/17(火) 02:45:12 ID:2CXzq1MA
>>535
それは澄元以降だな
537人間七七四年:2009/11/24(火) 16:17:16 ID:SkeiEWnP
阿波から入ったからか。
538人間七七四年:2009/12/12(土) 21:05:16 ID:XqvEEQRT
山川の日本史教科書に太字で載ってるの?
539人間七七四年:2009/12/29(火) 14:53:52 ID:QOnJiNVq
1386年に土佐守護代として細川頼益が入部し、国人らは細川氏の被官に組込
まれ守護支配が浸透し始めた。その後、細川頼益血統は、土佐守護代家とし
て細川京兆家の土佐支配を在国しながら補佐する。当然、土佐の守護の京兆
家よりも在国する守護代家の方が、土佐の諸国人への支配を実質的に掌握す
ることに成り、土佐は京兆家の分国でありながら、実際には細川土佐守護代
家が支配する分国となってしまう。

土佐守護代家は。頼益以降、満益、持益、勝益、最後に政益・国益兄弟となる
が、勝益の代に応仁の乱が勃発し、土佐国人の長宗我部氏・安芸氏・大平氏ら
を引き連れて東軍に参加し京で戦闘を行っている。

また、細川政元時代は、政益・国益兄弟が、土佐守護代を務めるが、この頃から
細川京兆家の土佐支配は、弱体化し始める。政益・国益兄弟は在国と在京を繰り
返しているものの、長曽我部兼序が、細川政元の信任を得て守護代家の了解の
下に土佐国内で力を伸ばし始め、土佐群雄のなかで一頭抜きん出る存在となった。
京兆家はともかく、守護代家の土佐支配は、まだ堅固であり、細川一門の軍勢
が土佐国内に駐留している間は、守護代家に反旗を翻す国人は存在せず、長曽
我部兼序の立場も堅固であった。
しかし、細川政元は家臣によって暗殺され、細川氏は内紛状態となり、同族同
士の抗争となった。各地の細川一門は次々と帰京し、土佐守護代家も例外ではな
く上京し、細川一門の軍勢は、土佐から撤退してしまう。
土佐守護代家分国支配体制は一気に崩壊してしまった。
ここに兼序は後楯を失うことになり、いままで兼序の横柄な態度に憎しみを増
幅させていた本山梅慶を中心として、反長宗我部連合が結成されたのである。
兼序は初戦は勝利したとはいえ多勢に無勢であり、岡豊城で自刃し落城した。
540人間七七四年:2009/12/30(水) 22:50:02 ID:sE6J0gmM
上原元秀は金策は上手かったんだろうがどうして政元にそこまで信任されたんだろうか。
541人間七七四年:2009/12/31(木) 01:18:54 ID:EBE3S/87
上原は豊臣政権とかに居たら能吏として扱われたかもしれんがやっぱりすぐ調子に乗る性格が災いして消されそう。
542人間七七四年:2010/01/05(火) 02:00:54 ID:sgDfRIKQ
上原元秀は、明応の政変の実行者だよ、企画したのは、細川政元と日野富子かも知れんけど。
543人間七七四年:2010/01/05(火) 23:17:39 ID:VK41Po6R
赤澤朝経は信濃から来たんじゃなくて阿波の国人説の方がしっくりくるような。

信濃の方が泊付けるために系図つなげたんじゃないの。
544人間七七四年:2010/01/11(月) 01:14:03 ID:gVexY4EY
家督問題を見ると政元には破滅願望でもあったんじゃないかと思ってしまう
545人間七七四年:2010/01/31(日) 07:52:50 ID:nz/xdC9j
そこまではないな
546人間七七四年:2010/03/14(日) 07:43:26 ID:/QvYbBnV
邪教に嵌まってるんじゃ
547人間七七四年:2010/05/25(火) 00:12:35 ID:5RUOlaz5
最近書き込み無いな・・・・
548人間七七四年:2010/05/25(火) 00:16:51 ID:by8LawWD
明応の政変について新しい研究も無いからな
549人間七七四年:2010/05/25(火) 15:09:21 ID:nG3feTmL
この事件で入門用の新書でも出してくれればな。
550人間七七四年:2010/05/25(火) 19:16:59 ID:by8LawWD
応仁の乱以上に全国に大きな影響与えているわけだしなあ>明応の政変

将軍家が二流に分裂したことで全国の合戦が恒常化し、関東への伊勢宗瑞の侵入も
中国、九州での大内の巨大化も、明応の政変が原因。
551人間七七四年:2010/05/27(木) 02:56:39 ID:lRhj0U/U
応仁の乱で守護が在京しなくなり荘園も横領されて全国統治が破綻したほうが大きいと思うけど
552人間七七四年:2010/05/27(木) 14:50:22 ID:HmkXLM5q
>>551
応仁の乱以降も関東政策も含めて幕府による地方政策は機能していた。
将軍義尚、義材の軍事活動では、大内も含め多くの守護大名、守護代を動員するなど
一定の権威を保っていた。

明応の政変はこの将軍権威を分裂させ、また政長の元に収束しようとしていた両畠山の争いを
再燃させ、畿内混乱の恒常化を促した。
信長上楽以降の戦国後期だけを見ると解らないだろうが、戦国期の動乱とはその殆どが
敵対する勢力が二流に分裂した足利将軍家の、そのどちらかに繋がることによって
大義名分を得て反対派と戦う、と言うもの。

応仁の乱は乱世の「基盤」を作ったが、スイッチを入れたのはやはり明応の政変で正しいよ。

まあ個人的には明応の政変にプラスして、細川政元暗殺による京兆家分裂も
重大事件として加えるべきだと思うけどね。
これにより完全に、「戦国乱世」に突入した。
553人間七七四年:2010/05/31(月) 08:30:29 ID:0pjtQnFH
お隣の近江の、四職の京極氏の支族の六角氏すら従わせられなかったのに
あと摂津や備中などでも争乱が起こってたけどそれらも要因が荘園支配のこじれだったと思う。
他にも山名氏が播磨に侵攻してたし既にに戦国乱世って状態になってただろう
554人間七七四年:2010/06/02(水) 10:46:01 ID:6Bk3EFwR
>>553
義尚、義材の六角征伐では共に、六角は将軍に屈服してるぞ。その後将軍家の方で
事件が起こったから有耶無耶になっただけで。

あとの紛争は室町期に恒常的に起こっていた騒乱に過ぎないんじゃね?

個人的には明応の政変までは、応仁の乱の余波である地方の紛争も、収束傾向にあったと考えている。
555人間七七四年:2010/06/02(水) 16:44:46 ID:TuMjWZlb
摂津国人はこの一揆以降ずっと自立的に振舞うようになるし備中もずっと争乱状態が続くし、
山名のほうだけど毛利次郎の乱なんてのもあるし、
戦国時代の肝である守護在京制や荘園制の破綻と国人などの地方勢力の台頭による争乱ってのは十分起こってる。
収束に向かってたようには見えない
556人間七七四年:2010/06/03(木) 21:46:13 ID:57z5U14z
>>555
そのへんは個々の事象をどう評価するかで結論もぜんぜん違うだろうからなあ。
個人的には、明応の政変までの、特に西日本での紛争の根は畿内での両畠山の戦いであり、
これが解決すればその他の紛争も自然に収まった、と考えるが。
557人間七七四年:2010/06/15(火) 19:56:22 ID:MtGtc+hY
>>552
流石に応仁の乱終結後に室町幕府が全国政権とは思えない。
幕府は全国から税金も徴収出来ず、守護大名の在京制度も破綻し1482年までに
京には細川京兆家一門と畠山政長、武田国信、一色義直ぐらいしか有力大名は居ない。
86年になると武田国信と一色義直も帰国してしまう。

守護在京原則は、有力守護大名の幕政参加保障制度だったが、彼らはこの権利を捨ててしまっている。

>細川政元暗殺による京兆家分裂も 重大事件として加えるべきだと思うけどね。
>これにより完全に、「戦国乱世」に突入した。

これは禿同!政元が畿内を仕切れれば、アソコまで戦国動乱には成らなかったと思う。

>>554
>義尚、義材の六角征伐では共に、六角は将軍に屈服してるぞ。

六角は逃げてしまい、後は、伊賀忍者がゲリラ戦、細川京兆家内衆と六角氏家臣団がウラで内通。

>個人的には明応の政変までは、応仁の乱の余波である地方の紛争も、収束傾向にあったと考えている。

応仁の乱終結時から明応の政変までの間は、室町幕府の権力回復期間
ただしそれは現在の関西地方にぐらいの範囲内に関してだけで、全国政権としてはもう無理。

>>553
>あと摂津や備中などでも争乱が起こってたけどそれらも要因が荘園支配のこじれだったと思う。
>>555
>摂津国人はこの一揆以降ずっと自立的に振舞うようになるし

摂津でも丹波でも国人一揆が発生しているけど、守護である京兆家当主
つまり細川政元に対して反乱を起こしたのか、守護代である内衆に対して
反乱を起こしているのかで全然意味が違ってくる。

細川京兆家は、応仁の乱の最中から、従来型の間接支配を脱して、土地と人民の
直接支配体制に移行している。その証拠の一つとして大乗院尋尊の日記に
「応仁の乱での武士の荘園横領で最も激しいのは、細川勝元と朝倉孝景だ!」
と記してある。勝元の荘園横領は分国である丹波と摂津、そして山城あたり
でも行っている。
また、この時期東国では守護代職を廃止し分国の守護直接統治体制が始まっている。
甲斐の武田家や陸奥の伊達家などがそうだが、家臣団や守護代を廃し守護に
よる直接統治で領民や国人を掌握しようとしている。

摂津国人の自立化は、政元生存時はそれほど活発化していない。
むしろ国人一揆鎮圧後に国人の所領を政元が守護直轄領として組み込んでしまっい
守護代である内衆とトラブルになっている状態。
558人間七七四年:2010/06/16(水) 01:10:14 ID:MuPTErQg
政元自ら下向しなければならなかったのは摂津の国人が把握しにくくなってたってことじゃないの
559人間七七四年:2010/06/16(水) 02:39:33 ID:TGNZP4Mh
政元の放浪癖はガチだからなあ。どこまでが修験道の修行でどこまでが政治的動きなのか
正直良くわからん。
560人間七七四年:2010/06/16(水) 12:25:58 ID:EMF386Lo
>>558
政元を殺したのは、摂津や丹波の国人ではなく、守護代クラスの内衆です。

摂津に下向しているのは事実だが、今まで見たいに他人任せは止めて
自分で直接分国経営に乗りだしたとも言える。

実態は、応仁の乱まで嶋上郡の国人衆が分国摂津の経営の代行をしてくれていたが、
応仁の乱の時に大内に味方したり、後に国人一揆を起こしたりだったので、
結局、京兆家が嶋上郡の国人衆を滅ぼしてしまった。
一連の動きが政元の意思なのか内衆(京兆家評定衆)主導なのか、よく判りませんが・・・

>>559
ワザとそうしたのかもしれません。
561人間七七四年:2010/06/16(水) 12:43:58 ID:MuPTErQg
>>560
じゃあ実際摂津の国人の自立化に対して政元が対策として直接的な支配をしようとしたってことじゃないの?
562人間七七四年:2010/06/16(水) 15:18:29 ID:KuYn5XZL
摂津国人の自立化とは、大内政弘への与同や嶋上郡の国人一揆の事を差すのでしょうか?
その対策とは、1482年の畠山義就討伐を名目とした摂津嶋上郡国人一揆鎮圧作戦の事とします。

1479年に勃発した摂津国人一揆は、摂津全部の国人が満遍なく参加した訳ではありません。
参加したのは、嶋上郡の主だった国人である茨木氏、吹田氏、三宅氏、芥川氏の4氏とされています。
だいたいこの4氏が嶋上郡のほぼ全部の所領を押えていました。1482年の細川政元の摂津侵攻でこの4氏は
事実上全員攻め滅ぼされてしまいます。これで摂津嶋上郡は政元の直轄領となります。
(ただ吹田だけは、守護代薬師寺氏の抗議で薬師寺氏の家臣四宮四郎の所領になる)

これを単純に摂津国人の自立化として良いのか良く判りません。
なぜなぜらば、国人一揆は嶋上郡の国人しか参加していないからです。
後に有力となる西摂津の池田氏などはこの国人一揆に参加していないのです。

末柄豊氏は、幼少の政元(聡明丸)から内衆が分国支配権を取り上げ
嶋上郡の国人を分国経営から排除した為に、このような国人一揆が発生した、としています。

同年1479年に丹波の国人一宮宮内大輔が幼少の政元(聡明丸)を誘拐し
丹波守護代の内藤氏と対決しようとします。
1489年の丹波位田の乱でも丹波守護代上原元秀に対して丹波の国人衆、浪人衆が蜂起します。

丹波や摂津の国人の自立化が守護代からの離反の意味であるならば
かならずしも守護支配への抵抗とは言えないのではないでしょうか?

結局、摂津嶋上郡も政元の直轄領となり、丹波守護代上原賢家・元秀親子も
位田の乱の責任を取らされて解任されています。

戦国時代の下克上で中間搾取が排除され、ダイレクトな分国支配体制が構築されます。
563人間七七四年:2010/06/16(水) 15:23:54 ID:KuYn5XZL
戦国時代は、国人層の下克上もありますが、反対に守護の上克下もあるんです。
下からの反乱を片っ端に弾圧して、反抗した家臣団の所領を守護がジャンジャン収交し直轄領にしてしまえば
戦国大名の出来上がりとなります。
564人間七七四年:2010/06/16(水) 15:59:16 ID:KuYn5XZL
1485年から1493年にかけての山城国一揆なんてむしろ政元が首謀者だもんね。
両畠山家を山城から追出す為の工作でもある訳でっしょ〜〜う!

“国人一揆=守護に敵対”と単純に思わない方が良い。
565人間七七四年:2010/06/16(水) 17:32:46 ID:KuYn5XZL
ほとんどの守護大名が応仁の乱終結後に在国を選んだのに、細川政元が在京
していたのは、京が丹波と摂津の交通の結節点であり、当時の交通事情でも
丹波街道や西国街道を下れば半日で在国出来るからである。

細川政元にとって、在京=在国といわれる所以です。
末柄豊氏や桜井英治教授もこの説を採用しています。

丹波と摂津の京兆家の守護所が長年発見できなかったのは、この為で、
一応摂津では、茨木に城を構築して守護所にしたようだが、
結局京の細川管領邸が、丹波と摂津の守護所役割を持ち、
明応の政変後は、山城の守護所の機能も兼ねる事になる。

細川京兆家は、丹波、摂津、讃岐、土佐が分国であった。
政元は、その中で畿内の丹波と摂津の維持に全力を注ぎ、さらにその隣国、
近隣国である山城、河内、大和を支配下に置くべく活動している。

政元は、土佐の支配は細川家分家の土佐守護代家に任せる体制で、事実上
土佐は政元の分国から離脱し始めていた。讃岐も政元にとってはそれほど
重要ではないと判断していた可能性が有るが、内衆や細川四天王などの京
兆家評定衆(家臣団)は讃岐出身の部将も多く、彼らの意向で京兆家からの
支配の離脱は認められなかったのかも知れない。
政元としては、讃岐の隣国の守護で細川家分家筋の阿波守護家にその支配
を委ねる意向があった可能性もある。後に阿波守護が讃岐守護を兼ねる事
から見てもその可能性がある。
566人間七七四年:2010/06/16(水) 17:34:39 ID:MuPTErQg
>>584
んじゃ摂津の上郡の直接支配は摂津の国人への警戒より内衆の独走への警戒が大きかったってこと?
567人間七七四年:2010/06/16(水) 17:47:06 ID:MuPTErQg
>>565
丹波と摂津を重視するのは政元に限らず細川氏の方針で遠隔地交易のためなんだから当然その経路の讃岐も重要だと思うんだけど。
あと近いから在京=在国と出来るのなら三好氏による晴元への下克上なんて起きないんじゃないの?
568人間七七四年:2010/06/16(水) 17:53:57 ID:MuPTErQg
あと阿波守護が讃岐守護を兼ねるようになったのは勝元が死んだ時でしょ?
569人間七七四年:2010/06/16(水) 21:07:22 ID:jS1zQmxK
修正します。
1492年の摂津国人一揆の参加者は嶋上郡ではなく“嶋下郡”の国人でした。
そして京兆家内衆や当主近習に取り立てられているのは、嶋下郡の国人に限られています。
14世紀になると摂津の嶋上郡と嶋下郡の双方を合わせて上郡と称する様になります。

>>566
上郡以外の国人、内衆双方を警戒したと思います。

欠郡や西摂津の国人衆は、単に京兆家に軍事的に従属しただけで
上郡の国人衆のように、京兆家の行政事務まで携わってはいません。
摂津国人でも地域差があるように、上郡以外の国人には政元もそれほど
信用はおけないのでしょう。

また、守護代級内衆は、政元の幼年期を良い事に、自己の管国での支配権を
強めようと、荘園横領や国人の所領を収公を開始しており、摂津での重要地区
である上郡を政元直轄領にしなければ、守護代に自分の分国を乗っ取られると
思ったかもしれません。

応仁の乱後は、下克上の風潮が広まったでしょうし、現実に越前では斯波氏の
守護代級被官であった朝倉氏が守護に任官しています。半ば身内である内衆でも
室町幕府の支配力が弛緩し始めると同時に室町幕府の身分秩序も崩壊し始める
訳ですから、守護代に自分の分国を乗っ取られない様な対策は必要だと言えます。

>>567
もともと阿波の国人である三好の下克上が成功したのは大分後の事ですし、
その頃の三好は畿内にも所領を確保出来ていたのではないですか?
三好の事はあまり良く知りません。

>>568
政元時代にも阿波守護は讃岐守護を兼任していませんか?
570人間七七四年:2010/06/16(水) 21:58:22 ID:fi4cR3xY
丹波って重視されてたのか

上原って信頼されてたの?
571人間七七四年:2010/06/17(木) 00:15:43 ID:M5Q6ucCX
>>
572人間七七四年:2010/06/17(木) 00:21:23 ID:M5Q6ucCX
丹波は重視するでしょう、当然。
摂津と丹波は政元にとってセットで重要。

上原元秀は、荘園や国人所領の横領を繰り返し急激に財政的に豊かになり、
さらに性格的にもすぐ調子に乗るので、他の内衆や主君政元に嫌われている。
573人間七七四年:2010/06/17(木) 11:09:56 ID:xiM7ihlV
今谷明氏の言う細川京兆家の内衆や守護代への畿内国人不登用説や
荘園保護による在京権門協調派って本当かな?と思う。

丹波の守護代の上原氏(平安時代に信濃から移住)や内藤氏は丹波国人といえる。
摂津守護代の薬師寺氏や秋庭氏は如何だか知らない。

むしろ京兆家は、なまじ国人の中から守護代を登用したがために、その国人が
守護代家の家筋としての家格を獲得してしまい、累代にわたって守護代を勤め
る事となりに、守護代の権限を行使して同国国人の中から頭一つ経済力や軍事
力が抜け出てしまい。室町幕府の弱体化に伴う家格秩序崩壊に乗じて下克上を
起こしている感じがする。

国人でも守護代の職務権限を使えば、荘園や他の国人領の押領はやり易かったと思う。

いっその事、勝元の時代には応仁の乱では軍隊を動員して荘園押領
しまくっているんだから、それにかこつけて守護代職を廃止し丹波
と摂津は守護直接支配を宣言してしまえば良かったと思う。
大乗院尋尊の日記には、ボロクソに書かれるだろが。

ただし守護代の下にいる小守護代や各種奉行には直接命令する必要がある。
574人間七七四年:2010/06/17(木) 13:30:43 ID:m4LyMKbR
>>569
大内義興帰国後の澄元の戦いにしろ在京勢力が阿波勢力の摂津上陸を許してしまうという事態が戦国時代には多く起きてるのを見ると
在京と在国をイコールで結び付けられるようには思えない
三好の下克上にしろ摂津にいたのを晴元が統制できなかった結果といえるし

>政元時代にも阿波守護は讃岐守護を兼任していませんか?
勝元が死んだ時からってことね。既得権のようになって口が出せなかっただけなんでは?
575人間七七四年:2010/06/17(木) 14:10:54 ID:m4LyMKbR
>>573
畿内のもいるけど、基本的には南北朝時代の頼之の頃までに関東から来たり四国で被官化したものが内衆を構成してる
丹波はともかく摂津の守護代は内衆の持ち回りでやってるはず。
四国など、畿外では遠隔地の統治をしやすくするためなのか累代の守護代が多いけどそれでも権力の集中を念入りに防いでるように思う。
576人間七七四年:2010/06/17(木) 14:27:10 ID:xiM7ihlV
>>574
それって16世紀にはいってだいぶ経過した頃のことでしょう。
その頃には京兆家の摂津国人のグリップがかなり弛緩していたんじゃないですか?

政元時代には、阿波細川家が畿内に中々手が出せないでいるのが現実かと思います。
明応の政変は、政元が、末柄豊氏の言う畿内領国化の為に3つの目的を持って行ったものです。
@将軍足利義材の廃立
A管領畠山政長の滅亡
B細川義春の山城守護職任官阻止
このように明応の政変前には阿波守護家の畿内での活動が見られましたが
このクーデターで阻止されます。

その後摂津守護代の薬師寺元一が、澄元への家督相続を狙い淀城に立て籠もり
反乱を起こします。この反乱にも阿波守護家は関与しますが、すぐに鎮圧されます。

結局、政元暗殺の前年に政元と阿波守護家は講和し三好之長が許されて
上洛しています。この時期まで阿波守護家の畿内での活動はありません。

政元時代は、彼の許しが無ければ阿波守護家は畿内での活動が出来ない状態でした。

これを見る限り政元は、摂津国人を一応掌握していたと思います。
嶋下郡(上郡)の国人一揆を鎮圧し上郡を事実上の政元の直轄領にした作戦の
効果が有ったのかも知れません。

ただ政元も晩年は、在京よりも摂津での在国が増えることから
下郡や欠郡の国人の動向や守護代への監視は怠らず、守護による直接統治に近づきます。
薬師寺元一の反乱も彼から摂津守護代を取り上げる事を政元が考えていたからの様ですし。

阿波守護による讃岐守護兼任の件ですが、
結局、東方西方両守護代は京兆家内衆が就き、守護は阿波細川家が就いていませんか?
讃岐は京兆家と阿波守護家の共有地の様に思えます。

内衆はともかく、政元は讃岐確保にそれほど力を入れているとは思えません。

政元の目的は、第一に丹波と摂津の確保であり、最終的には畿内領有化だと思います。
577人間七七四年:2010/06/17(木) 14:28:20 ID:xiM7ihlV
失礼!>>576は、>>575でした。
578人間七七四年:2010/06/17(木) 14:39:13 ID:m4LyMKbR
>>576
>内衆はともかく、政元は讃岐確保にそれほど力を入れているとは思えません。
それは海を隔ててるから摂津や丹波のような後代から見て分かりやすい直接統治のような行動が取れなかっただけなんでは?
細川氏には交易路こそが重要なんだから、北岸の備中の問題にもしつこく干渉してたし、当然南岸の讃岐も重要なはずだけど。
579人間七七四年:2010/06/17(木) 15:22:37 ID:xiM7ihlV
政元は一回ぐらいは、讃岐へ軍勢を派遣したかも知れませんが、
政元自身が渡海して讃岐で戦闘した事ありましたっけ?

こういうのは内衆だけでしょう、安富とか香川とか香西とか。
580人間七七四年:2010/06/17(木) 15:33:36 ID:m4LyMKbR
>>579
そもそも讃岐で政元がわざわざ軍勢を派遣したり戦闘したりするほどの争乱はないだろう
東讃で国人間の争いの調停はしたりしてたけど。
備中の戦いに讃岐の軍勢を派遣したりはしてたから讃岐の一定の統制は取れてて、かつ備中をそこまでして確保しようとしてたってことだろう。
581人間七七四年:2010/06/17(木) 15:43:17 ID:xiM7ihlV
>>575
何で丹波は、国人を守護代に登用し、摂津は四国系内衆を守護代に登用したんですかね?

土佐なんて勝元や政元あたりになると分家の土佐守護代家に丸投げって感じですが。
582人間七七四年:2010/06/17(木) 15:45:50 ID:xiM7ihlV
讃岐に阿波守護家の軍勢が攻め込み、京兆家が一回だけ讃岐に援軍出しませんでしたっけ?

それも負けてしまい、それ以降讃岐に阿波守護家の力が及ぶようになったと思いますが。
583人間七七四年:2010/06/17(木) 15:54:54 ID:xiM7ihlV
細川家同族連合体は、応仁の乱終結で崩壊していますよ。

畠山家も斯波家も幕府も弱体化し、それほど細川家の本家も分家も手を組む必要性が無くなります。

なかでも京兆家と阿波守護家の山城守護職の取り合いはすざましいモノだったようです。
584人間七七四年:2010/06/17(木) 16:19:00 ID:4wSb1o7f
応仁の乱後に他の守護大名は内紛などで没落していったのに、持ちこたえたのが細川同族連合ってのが一般的な説明じゃないの。
応仁の乱後の細川氏の畿内の領国化を強調するためにそこまで否定されてもなあ
585人間七七四年:2010/06/17(木) 17:53:13 ID:pXzL3eIW
細川家が16世紀まで内訌を起こさなかった理由は
将軍家による分断工作が無かった事と、(特に京兆家の)分国内の守護直轄領が
大きく集積してしまい守護代や国人がなかなか下克上出来なかった事です。

応仁の乱後には細川家同族連合体制は機能していませんよ。

特に京兆家と阿波守護家の山城守護職を巡る対立は激しさを増すばかり。
586人間七七四年:2010/06/17(木) 18:20:33 ID:4wSb1o7f
阿波は元々細川氏の支配の特徴の分割統治的な体制作りが進まず、有力過ぎて例外的な立場だと思う。
野州家や典厩家あたりまでが好き勝手に振る舞ってたならともかく機能してないってのは極端じゃないの。
587人間七七四年:2010/06/17(木) 18:32:25 ID:pXzL3eIW
備中守護家だって和泉上下守護家だって、応仁の乱後には京兆家と合戦してますよ?

典厩家は、京兆家を良く補佐していますが、野州家はどうでしょうか?
応仁の乱の末期に細川京兆家と山名宗家の間で単独講和の話しが出たときに
細川勝之は、反対している。
元々阿波守護家も山名との講和には大反対でしょう。

1479年に政元が一宮宮内大輔によって丹波の山奥に誘拐された時も内衆は
勝之を還俗させて京兆家家督を相続させようとした。
早く解決しなければ、この時期に京兆家が分裂内訌しかねなかったとも言われています。

典厩家・野州家は独自の分国を持たず京兆家に寄生している家なので
外部から見れば協調しているかもしれませんが、
それだけに京兆家乗っ取りの願望も強かったでしょう。
588人間七七四年:2010/06/17(木) 18:58:14 ID:2EZSViyD
ID:pXzL3eIWは一方的な決め付けや推測が多すぎると思うぞ。
自説を語るのは構わないけど、それを他者に押し付けるような態度をとるのは宜しくない。
589人間七七四年:2010/06/17(木) 22:58:18 ID:+vyuxs9L
今谷明説vs末柄豊説ですね。
今は後者の方が有力な説に成りつつあります。

応仁の乱以後でも細川氏同族連合体制を機能していたと言うのは
今の学説では認められないと思います。

そうなると備中大合戦や明応の政変が何故発生したか、判らなくなります。

また、細川勝之が山名宗家との単独講和や自身の隠居には嫌がっていたのは事実ですし、
1479年に政元が誘拐されて時に内衆が勝之の還俗相続のに動いたのも事実です。

これらの事実を如何解釈するのかという事です。

応仁の乱の前ですが、細川勝元と山名宗全つまり細川京兆家と山名宗家の間には
直接の利害の対立は無かったとされています。
抜き差しなら無いのは、阿波守護家と山名宗全の播磨の支配権を巡る対立で、
勝元もそれに引っ張られて、宗全と対立し始めたと言われます。
これを見る限り、応仁の乱以前は、細川氏同族連合体制は機能していたんでしょう。

また、畠山家の対立に勝元と宗全双方が関りそれも応仁の乱の原因になっています。

いずれにせよ、甥っ子は可愛いですね。
590人間七七四年:2010/06/17(木) 23:05:51 ID:+vyuxs9L
なぜ京兆家は丹波守護代には地元国人を採用し、摂津守護代は、内衆の持ち回りにしたんですか?
591人間七七四年:2010/06/17(木) 23:11:34 ID:8ARqHT9C
丹波守護代やった香西も内藤も上原も内衆じゃないか
592人間七七四年:2010/06/17(木) 23:24:53 ID:+vyuxs9L
守護代級内衆には畿内国人は居ないと今谷明氏は主張しています。
香西は讃岐国人ですが、内藤と上原は丹波国人ですよ、四国系内衆ではありません。

摂津守護代だけは、関東系ないし四国系内衆を採用したのは不思議なので誰か教えてください。
593人間七七四年:2010/06/18(金) 10:06:11 ID:ELmPGRyJ
書き込みが止まった。
594人間七七四年:2010/06/18(金) 15:44:58 ID:M2H6NoIz
1479年に摂津国人一揆を起こした嶋下郡の国人である
茨木氏、吹田氏、三宅氏、芥川氏の4氏のうち、茨木氏と三宅氏は京兆家内衆だと確認されている。

また、吹田氏も内衆である長塩宗永の親友だとされている。

この様に摂津国人一揆の参加者は京兆家の内部の人間かそれと近い人物で構成
されている事から、この一揆の発生原因は京兆家内部にあり、今谷氏の言う
京兆家国人不登用に反発する摂津国人の反乱とは言えない。

むしろ京兆家内部の当主近習グループ(嶋下郡国人グループ)と守護代級内衆(薬師寺氏)の対立と考えるべき。

同年12月には丹波国人一宮氏が政元(聡明丸)を拉致し丹波守護代の内藤氏と対峙している事から
摂津国人一揆と丹波国人の政元誘拐事件は連動して考えるべき。
摂津嶋下郡の国人衆と丹波国人衆は、かなり緊密に連絡を取り合っていたのかも知れません。

京兆家の幼少の新当主を守り立てようとする当主近習グループと
勝之シンパの多い守護代級内衆の間で、何か有ったのかもしれません。
595人間七七四年:2010/06/18(金) 20:37:17 ID:M2H6NoIz
応仁の乱直前では京兆家と阿波守護家では山名宗全に対する敵対関係に温度差が有ったようです。

応仁の乱後には、山城守護職を巡り京兆家と阿波守護家との対立が激化します。

文明10年(1478年)以降つまり応仁の乱終結直後から京兆家は、西岡中脈衆を
はじめとする山城の国人の被官化を推し進めます。
まだこの時点で政元(聡明丸)は12歳でしかないので、細川政国の主導の下に
京兆家評定衆で決定された事だと思います。

しかし、この山城の国人の被官化政策が、阿波守護家の山城守護任官の願望
の阻害要因になっている可能性が大きく、それと同時に、山城の国人も従来
の畠山家の山城分国統治に不満を持ち、それを京兆家、阿波守護家双方が汲
み取ろうとして山城支配を巡る京兆家と阿波守護家の競合関係が生じたのだろう。

1485年の山城国一揆の結成は、山城国人衆の畠山家への不満と京兆家の山城
分国化の欲求が合致して出来たモノであり、後に伊勢家が畠山家に取って代
わり山城守護に任命されるが、両山城守護代に京兆家内衆に任じられた事か
ら伊勢家の分国と言うよりも、畠山家の軍勢が山城から撤退した時点で山城
は京兆家分国となったと思われる。
596人間七七四年:2010/06/21(月) 16:06:41 ID:CfF6KUWI
室町幕府の統治意識としては、幕府が直接掌握すべき地域は、畿内近国(関西地方)
瀬戸内海(中国地方・四国北部)・中部地域の3地区で、東北地方は篠川公方が、
関東地方は鎌倉公方が、九州は大内氏が統治する事になっている。

東北、関東、九州は遠国であり、室町幕府が直接統治責任を負わない。

しかし、応仁の乱後は、幕府が直接掌握すべき、瀬戸内海地域も中部地域も
幕府の支配圏から離脱し、近畿近国のみが室町幕府の支配下にある状態となる。

ただし、義尚政権と義材政権のもとで3回にわたる将軍親征で畿内近国の支配権
は着実に強化されている。近江への2回の親征、河内への1回の親征だが、越前
美濃、伊勢等の中部地域への将軍親征は企画倒れに終わり、丹後の一色氏への親
征も直前で一色氏の再度の在京化受諾した事で取止めになっている。

この将軍親征で将軍親衛隊である奉公衆(五番衆)は、将軍の下に結束し守り立て
在国化し始めた守護やその被官からの押領から身を守りるすべとして、畿内近国
での将軍支配権の復活に協力してきた。
また管領畠山政長の政治目標であり、応仁の乱勃発の最大の理由である畠山家
内訌を解決する手段としても将軍権力の復活は望ましいモノであった。なぜなら
強力な将軍権力により畠山家を統一し足利将軍家と畿内支配権を争う位に政治
的に強大化した細川総領家(京兆家・細川管領家)に対して足利将軍家と統一さ
れた畠山家がスクラムを組んで対峙する構想を十代将軍足利義材が持っていた
からである。

この様に足利幕府の畿内近国への支配権復活策は、畿内領国化を求める細川惣領家
の政治目標と直接ぶつかる事になり、また応仁の乱以前のの畠山家と京兆家のライ
バル関係をも復活させる事なりかねなかった。

政元は、これらの危険性を十分認識し、足利将軍家と畠山家の強大化を阻止すべく
明応の政変を起こしたと言える。

ただし明応の政変は、西軍系の足利家血統である足利義材が将軍だから成功したとも言える。
父が西軍に担がれた足利義視である義材は、彼の旧西軍由来性を嫌がる奉公衆(五番衆)
の掌握を難しくし、明応の政変時に京兆家の軍勢に対して徹底抗戦を続ける事が出来なかった。
細川政元も足利義材の元では奉公衆(五番衆)は、容易に解体する事を事前に認識していたと言う。
また、9代将軍義尚の母である日野富子や将軍家執事である伊勢家もこの政変を支援する立場だった。

もし仮に9代将軍義尚の頃に細川政元が、将軍廃立クーデターを起こしたのなら
京兆家軍勢の前でも奉公衆(五番衆)は容易に解体・克服せず足利将軍家vs細川管領家
という前代未聞の構図で畿内で長々と戦が継続されていただろうと言われる。

これは同じ時期に関東で、鎌倉公方(古河公方)vs関東管領家(上杉家)の構図で
享徳の乱が30年近くにわたり継続してきたのと似ている。
597人間七七四年:2010/06/21(月) 18:25:28 ID:s76c9VdC
> 父が西軍に担がれた足利義視である義材は、彼の旧西軍由来性を嫌がる奉公衆(五番衆)
> の掌握を難しくし、明応の政変時に京兆家の軍勢に対して徹底抗戦を続ける事が出来なかった。

傍流である「水戸由来」を旗本御家人に忌避された慶喜を彷彿とさせるな。
598人間七七四年:2010/06/21(月) 19:29:44 ID:CfF6KUWI
確かに鳥羽伏見の戦いを家茂が指揮したら彼が大阪城から逃げ出す事は無かっただろうし
大目付滝川具挙や勘定奉行小野広胖も対朝廷戦争に成りかねないとして嫌がる将軍(慶喜)を
脅して無理やり大阪城から幕府陸軍を出撃させる事は無かったかも。
それと江戸城や関東でももっと旗本や譜代大名の官軍に対する抵抗が激しかったであろう。

室町幕府9代将軍義尚の若年での死亡が案外室町幕府の滅亡の重要要素の一つかも。
政元にしても奉公衆が結束している義尚政権を打倒するのはなかなか大変だろうし、

大乱での京の破壊による社会秩序の弛緩と同時に余剰生産物の増大によるマネーサプライの増加が
中世権門体制を揺るがしており、それが戦国時代の到来の底辺にあるのかもしれないが、
政局を無闇に混乱させる事がなければ、中央政府の消滅と言う事態には至らなかったかも。

結果論だが、足利将軍家の稚拙な政治運営が、有力封建領主の離反や反乱を招き、室町幕府滅亡を早めた。
ばら戦争の時のプランタジネット家と同じ。
599人間七七四年:2010/06/21(月) 23:38:57 ID:CfF6KUWI
義尚が義政くらい長生きして50代まで生きていたら、歴史は如何なったかを考えると面白い。

日野富子は1496年に死亡するが、もし政元が将軍廃立クーデターを起こす場合は
日野富子死亡後だろう。畠山政長と義尚が一緒に河内を攻める時に政元が兵を挙げて
攻撃しても伊勢氏を頭に奉公衆が将軍義尚を守り決死の抵抗するだろうから、義尚は
逃げ失せる可能性が大きい。河内から和泉経由で畠山政長の分国である紀伊か京兆家
と対立を深める阿波守護家の所に逃げてしまうかも知れない。
明応の政変で、京兆家は2万の軍勢で河内の義材と畠山政長を攻撃していることから
奉公衆は、その程度の攻撃を受けるだろう。奉公衆は約1万人程度だと言われている
から京兆家2万の軍勢の攻撃を撃退する事は難しい。奉公衆が全滅覚悟で抵抗し、そ
の間に時間稼ぎをして義尚を逃がすしかない。京兆家の攻撃で奉公衆は何れにせよ壊
滅し、制度としての崩壊は何れにせよ免れそうに無い。

義尚が生きて逃げおおせば、阿波守護家や和泉両守護家、紀伊の畠山尚順、大内義興
あたりが味方になってくれるだろう。畠山政長はどのみち管領として専横を極めて嫌
われており、京兆家の軍勢に攻め込まれて自害は間違いなさそう。
また和泉両守護家も京兆家と戦うもののすぐに敗北し京兆家の家臣になりかねないので
あまり義尚の役にはたたなさそう。やはり大内あたりが大軍を率いて畿内に侵攻しない
と義尚は畿内に戻れないだろう。ただし大内氏が京兆家を打ち破れればの話しだが・・・

これらを考えると義尚が長生きしても、奉公衆が居ない場合は、足利義材や義澄と大して
違いは無い運命かもしれない。

それを考えると、政元に実子が居た場合の方が、歴史的にインパクトがあるかも知れない。
600人間七七四年:2010/06/22(火) 00:12:34 ID:Qw1iLuuu
義尚が長生きした場合はたして畿内近国の細川諸家は京兆家に従っただろうか?
義尚も当然細川家への分裂工作を仕掛けるだろうし、将軍権力が一元化した状況ならば
細川同族体制、あるいは京兆家分裂も可能だったのではないだろうか。
601人間七七四年:2010/06/22(火) 00:15:51 ID:QvbmIAF/
1504年に京兆家内衆である摂津守護代薬師寺元一が政元によって守護代を更迭
されそうになった時に足利義澄が政元に解任の中止を命じている。薬師寺元一
は返礼として足利義澄に馬や太刀などを贈っている。同年9月、赤沢朝経と共
に政元を廃して澄元を擁立しようという陰謀を企て、摂津で挙兵している事か
らみると、京兆家に擁立されたはずの足利義澄が巧みに京兆家内部に干渉・撹乱し、
守護である政元の分国一円支配の強化を阻害し、更に京兆家当主である政元と
内衆の関係悪化を目論んでいる様に見える。

足利義視の子で室町幕府将軍足利義材の異母弟で出家している義忠を政元は殺害している。
1502年に将軍に任官した足利義澄が職務を放棄し金龍寺に籠った直後に翻意を促す為に
同寺を訪れた細川政元に対して、義澄が示した将軍職復帰のための5条件の中に義忠の処刑があった。

将軍として自ら政務を行おうとする義澄とこれに反発する政元の確執が激しくなり、
かつて義材を廃して義澄を新将軍に擁立した明応の政変と同じようなクーデターが
今度は義材を廃して義忠を新将軍に擁立する形で発生する可能性があった為にこれ
を封じ様としたのである。
義忠の殺害によって次期将軍候補の切り札を失い、かつ義材派から完全に敵視され
る状況となった細川政元は義澄を廃して新たな将軍候補を立てることも義材派と和
解することも出来なくなりその政治的選択肢を狭める一方で、足利義澄の将軍とし
ての地位は一応の安定を得ることになった。

政元も分国の守護代廃止を目論んだが、足利義澄が政元の畿内領国化を阻止する為に
自分の替わりの将軍候補になりかねない義忠を殺害させ、政元の政治的要求を撥ね付け
ていたのかも知れない。京兆家に擁立され、親衛隊である奉公衆も居ない無力なはずの
足利義澄であるが、彼も足利義材と同じく京兆家の畿内領国化を阻止使用としていたのかも知れない。
602人間七七四年:2010/06/22(火) 00:47:00 ID:QvbmIAF/
京兆家の畿内領国化を阻止使用としていたのかも知れない。 ←×
京兆家の畿内領国化を阻止しようとしていたのかも知れない。←○

>義尚が長生きした場合はたして畿内近国の細川諸家は京兆家に従っただろうか?

史実でも従わないのだから無理でしょうね。特に和泉両守護家は京兆家と戦争しているぐらいですから。
将軍家直参の性格がある野州家は、当然離反するでしょう。典厩家は微妙です。
ただ野州家も典厩家も独自の分国は持っていないので離反されて何か問題が有るのでしょうか?

>将軍権力が一元化した状況ならば細川同族体制、あるいは京兆家分裂も可能だったのではないだろうか。

だから政元は、史実でも表向きは義尚親征に参加し表立って反対していません。
密かに内衆に六角氏家臣団へ軍事情報を漏洩させていますが。

一応政元も義尚には気を使い近江親征の時には酒宴を開いて接待しています。

義政が斯波家弱体化の為に越後守護代で斯波氏被官の甲斐氏を将軍直参にします。
これと同じ事を義尚も京兆家にもしかねないですが、細川勝元の代に丹波、摂津
山城で荘園押領をしまくり、守護直轄領拡大させ守護代の分国内所領を拡大を事
前に阻止しています。

1479年の丹波国人一宮氏による政元誘拐事件とそれに伴う京兆家評定衆による
細川勝之還俗相続決議未遂事件は、義尚か義政どちらかの意向かもしれません。
足利将軍家の行く末を考えて京兆家の弱体化と直系男子の排除を企んだのかも知れません。
603人間七七四年:2010/06/22(火) 01:04:51 ID:QvbmIAF/
越後守護代←× 越前守護代←○

>義尚が長生きした場合はたして畿内近国の細川諸家は京兆家に従っただろうか?

阿波守護家や備中守護家が、義尚側に参じるでしょうな、大内もそれに参加しますが、
そろそろ尼子や毛利の活動が活発化していますので、畿内ばかりに関心を払う事も出来ないでしょう。

畿内に大軍を出発させて摂津や和泉で京兆家に大敗北したら、大内の本国支配がやばくなります。

史実でも阿波守護家は、政元と対立している間(1493〜1505年)は畿内で活動出来ていません。
604人間七七四年:2010/06/22(火) 01:09:45 ID:Qw1iLuuu
>>603
> そろそろ尼子や毛利の活動が活発化していますので、

尼子はともかく毛利はどうかと。
そして将軍権力が一元化している状況で、将軍の命に従っている大内に対し
尼子がそうそう動くことが出来るとは思えないのですが(史実の尼子の大内への攻撃は、
将軍家が二流に分かれていることから来る大義名分の取得が大きいと考えます)
605人間七七四年:2010/06/22(火) 01:45:05 ID:QvbmIAF/
>そして将軍権力が一元化している状況で、将軍の命に従っている大内に対し
>尼子がそうそう動くことが出来るとは思えないのですが

応仁の乱以後は、室町幕府の支配地域は畿内近国に限られると思います。
将軍権力一元化がなされていても、大して関係ないでしょう。
尼子も別の理由を探して大内を攻撃するだけでは?
606人間七七四年:2010/06/22(火) 19:28:54 ID:Qw1iLuuu
>>605
尼子経久は出雲統一だけでも30年かかってるし、それすら畿内での将軍家や京兆家の
分裂があって出雲に目が向かなかったため、と言う部分が大きいのだから、
将軍家の分裂がない場合経久は出雲統一すら無理なんじゃないかな?
607人間七七四年:2010/06/22(火) 21:24:21 ID:N3jZZnOZ
畿内で細川京兆家vs足利将軍家の武力抗争が起きれば中央政権の分裂という意味では同じ事。
尼子経久は細川高国と親しいみたいだし、政元が殺されずに長生きするか、仮に実子が居れば
その時点での京兆家家督が尼子経久に大内攻撃を命ずる事が出来るでしょう。

関東では、現地と全く関係のない備中出身の伊勢盛時(北条早雲)が、古河公方vs関東管領の
抗争図の中で上手く泳ぎ渡り伊豆一国をモノにします。今川の支援も有ったんでしょうが、
それと似たケースになると思います。

尼子氏は、京極氏の分家筋で出雲守護代を任されている家筋、基本的に京兆家−赤松家−京極家−若狭武田家
のラインがあり、応仁の乱の東軍もこのラインで結成された。西軍は基本的に彼らの対抗勢力で構成される。

また細川高国は、永正の錯乱や両細川家の乱をへて京兆家家督となる訳だが、
政元の殺害や京兆家の内部抗争に伴って細川家の人間も内衆も畿内国人も
それぞれが散り散りに分裂抗争した挙句の高国の京兆家相続となった事から、
大いに疲弊しただけでなく、細川京兆家としての一体感もすっかり喪失し、
京兆家当主による内衆や畿内国人衆への縛りが希薄に成ったらしい。

また高国が、政元の直系男子ではなく、細川氏庶流である野州家の生まれで、
正式な相続ではなく本家を武力で追い落として京兆家の権力を握った事から
内衆も分国国人衆も高国の正統性あまり感じなくなっていた事もその背景と
して挙げられる。

その為に勝元・政元時代に行った苛烈な分国一円支配の為の荘園押領や国人一揆
への武力弾圧などは、高国政権では行えず、弱体化した畿内国人層の掌握を補う
意味でも九州と中国地方をまたがる大大名大内義興の力に依存する政権となる。
1518年に大内義興が帰国すると、高国政権は揺らぎ始め、細川尹賢が丹波国人へ
の弾圧を強めた事もあり畿内の国人層の下克上により高国政権は崩壊する。

その後は同じ細川家の晴元が政権を握るが、一連の京兆家の内部抗争で国人層への
掌握度が低下している事は否めない。永正の錯乱の直前に薬師寺長忠と香西元長が
語り合っている内容は・・・
@主君政元は40歳過ぎても妻帯せず、子も居ないのに山伏修験に凝っている。これでは細川の家(京兆家)も長くない。
Aそれに澄元が家督を継いだら、三好之長が京兆家家宰となり、我等(守護代級内衆)の権力は奪われるだろう。
Bそれなら主君政元と澄元を殺害し、われらの澄之に京兆家を継承させ守り立てよう。
となっている。
これらの事から、政元に子供が居ない事が守護代級内衆が政元を見限るきっかけになっている事が良く判る。
また、それと同時に阿波守護家が京兆家を継ぐ事で阿波国人が京兆家に入り込む事を嫌がり懸念して
いる事も良く判る。結局、畿内政局の安定(京兆家分裂阻止)の為にも、また京兆家畿内領有化計画の
貫徹実現の為にも政元に実子が居る事が必須であったと仮定する。
608人間七七四年:2010/06/22(火) 21:32:03 ID:xKuCBdKH
>>589
>1479年に政元が誘拐されて時に内衆が勝之の還俗相続のに動いたのも事実です。
京兆家自体を排除したいならこの際にとっとと政元ごと攻め滅ぼしてたんじゃないの。
そんな絶好の機会がありながら政元を生かしておいた意味のほうが考えるべきだと思う。

それと、なんで山城守護職での対立や備中大合戦を同族連合が破たんしてる証拠としながら
>抜き差しなら無いのは、阿波守護家と山名宗全の播磨の支配権を巡る対立で、
>勝元もそれに引っ張られて、宗全と対立し始めたと言われます。
>これを見る限り、応仁の乱以前は、細川氏同族連合体制は機能していたんでしょう。
といった、応仁の乱以前の庶流の暴走を京兆家が御せなかった事実は逆に同族連合が機能していた証拠としてるのかがわからん。
609人間七七四年:2010/06/22(火) 23:17:12 ID:N3jZZnOZ
>そんな絶好の機会がありながら政元を生かしておいた意味のほうが考えるべきだと思う。

その時期には政元による京兆家相続を足利将軍家は願っていたんでしょう。
義政、義尚、日野富子は三者三様で良く判りませんが。
内衆も全員が勝之派では無かったのでしょう。
また、京兆家当主近習や分国内奉行を勤めるの国人と守護代級内衆の対立はよく言われている。

>応仁の乱以前の庶流の暴走を京兆家が御せなかった事実は
>逆に同族連合が機能していた証拠としてるのかがわからん。

勝元が細川氏同族連合体制維持のために阿波守護家の主張を飲んだ可能性がある。

また、山名宗全の息子で勝元の養子になっている細川豊久を勝元が出家させ後継
者から外し、更に勝元と宗全の娘の間にできた聡明丸(後の政元)も廃嫡し、野州
家の細川勝之をこの時点での正式な京兆家の跡継ぎにします。
京兆家は、山名家血統排除の姿勢を見せ、京兆家と山名宗家の間でも、今までの
協調関係から急に敵対関係に移行します。
610人間七七四年:2010/06/22(火) 23:43:34 ID:xKuCBdKH
>>609
>その時期には政元による京兆家相続を足利将軍家は願っていたんでしょう。
願っていたなら家の中の争いにも待ったをかけられてたのか?自分の家の逆臣を誅殺するなんてことに。
当主が死ぬかもしれない状況に置かれたときにあらかじめ後継ぎを決めておくことだって京兆家を存続させるための当然の行動だろう。

>また、京兆家当主近習やまた、京兆家当主近習や分国内奉行を勤めるの国人と守護代級内衆の対立はよく言われている。
安富や香川など、守護代と近習を同族で受け持つのが細川京兆家の内衆の特徴だったんでは?

>勝元が細川氏同族連合体制維持のために阿波守護家の主張を飲んだ可能性がある。
それならば澄之の後に澄元を養子にしたことも同族連合を維持する動きと取れる。
同族からの養子を後継ぎにすること自体同族の連帯の表れだろう。
611人間七七四年:2010/06/23(水) 00:31:34 ID:jnFt+ND6
>>584
>応仁の乱後に他の守護大名は内紛などで没落していったのに、
>持ちこたえたのが細川同族連合ってのが一般的な説明じゃないの。

そもそもこの書き込みが間違えている。

斯波氏や畠山氏などの3管領家が内紛に陥ったのは、応仁の乱前です。
この内紛に決着がつかず、京兆家と山名宗家がこれに巻き込まれ次第に
両者の関係が悪化したのが応仁の乱の原因です。

また、応仁の乱以後には、
京兆家と阿波守護家は山城守護職を巡り対立します。そして京兆家と淡路守護
家は1505年に手を組み讃岐に出兵、阿波守護家と合戦となります。
京兆家と備中守護家は、備中守護家の内衆や備中国人による京兆家内衆の備中
国内所領の押領をたんに発する対立が発生、1491年には備中大合戦となります。
また、京兆家と和泉上下両守護家は、後者が畠山尚順と同盟を組み、1495年に
京兆家と敵対し合戦となります。しかし和泉上下両守護家は大敗し和泉は事実
上京兆家に占領されてしまいます。

この様に阿波守護家、備中守護家、和泉上下両守護家はそれぞれ京兆家と対立
合戦となります。この事態を見れば応仁の乱以後には細川家同族連合体制は
崩壊していると言えます。

応仁の乱以後も京兆家と協調したと言えるのは、典厩家と淡路守護家、土佐守護代家位のものでしょう。
野州家は細川勝之の強制的な出家や廃嫡、1479年の京兆家評定衆による勝之還俗相続決議
があるので京兆家と協調関係に有ったかどうかは不明です。
612人間七七四年:2010/06/23(水) 00:59:31 ID:jnFt+ND6
>当主が死ぬかもしれない状況に置かれたときにあらかじめ後継ぎを決めて
>おくことだって京兆家を存続させるための当然の行動だろう。

替わりの当主候補が居る事自体、内訌の芽が有る証拠だろ。>>601をよく読め!

それに勝之強制廃嫡の時には内衆や京兆家家臣14人がもんどりを切る等抗議の姿勢を見せている。
勝之自身は応仁の乱でそれなりに成果を挙げ内衆からも一定の支持が有った。
それを山名宗家との単独講和の為に無理やり廃嫡出家させたのだから内紛の芽になるのは仕方が無い。

>それならば澄之の後に澄元を養子にしたことも同族連合を維持する動きと取れる。

末柄豊説では、1505年の京兆家と淡路守護家による讃岐出兵が阿波守護家の軍勢
により大敗。それと同時に両畠山家が和睦し河内・摂津に進撃し始める事になり
細川家も急な両畠山家和睦の事態に対応し、応仁の乱後に対立を続けてきた京兆家
と阿波守護家も和睦、その為に澄元を京兆家養子に迎えたとある。

そのために京兆家も澄之派と澄元派に分裂、後継者候補が複数居るとこうなります。
613人間七七四年:2010/06/23(水) 01:15:51 ID:oIJKKAtM
>また、応仁の乱以後には、
といいつつ備中守護以外庶流家と合戦に及んだのは明応の政変以後。
野州家はそもそも勝之、高国と養子を出しているし交易の拠点の分郡守護を維持するのには京兆家との協調は欠かせないだろう。
細川氏内で起きたトラブルをいちいち細川同族連合が崩壊した証拠だとこじつけてるようにしか見えない。
614人間七七四年:2010/06/23(水) 01:21:02 ID:oIJKKAtM
>>612
>替わりの当主候補が居る事自体、内訌の芽が有る証拠だろ。>>601をよく読め!
政元が死んでから次の当主を決めることのほうがよほど内訌を招く危険性が高いだろう。601を読んで覆ることでもない。
615人間七七四年:2010/06/23(水) 01:23:05 ID:jnFt+ND6
応仁の乱以前に、細川家同族同氏で武力衝突した事は無い。

それに明応の政変以後だって応仁の乱以後だろ。
616人間七七四年:2010/06/23(水) 01:25:01 ID:jnFt+ND6
>政元が死んでから次の当主を決めることのほうがよほど内訌を招く危険性が高いだろう。

????????????????????
617人間七七四年:2010/06/23(水) 01:27:03 ID:oIJKKAtM
>>615
んじゃ全部縄文以後って語るのか?
和泉守護家にしろ阿波守護家にしろ合戦に及んだのは明応の政変による情勢変化が要因だぞ。
618人間七七四年:2010/06/23(水) 01:31:02 ID:oIJKKAtM
あらら、言葉が通じなくなってきた。
もう潮時かな
619人間七七四年:2010/06/23(水) 03:31:12 ID:jnFt+ND6
>んじゃ全部縄文以後って語るのか?

アホww

>和泉守護家にしろ阿波守護家にしろ合戦に及んだのは明応の政変による情勢変化が要因だぞ。

応仁の乱でも十分情勢は変化しているよ。
備中守護家と京兆家は合戦に及んでいるし、幕府も畿内近国しか支配力ないんだから。

それに京兆家と阿波守護家が山城守護職をめぐり対立す始めたのは、
明応の政変前からだよ、1485年頃から三好之長が細川政之の了解の下に京で一揆
を組織している。その為に幕府から逮捕命令が出ているのに細川政之から庇護され
身柄の拘束を逃れている。その頃から山城領有化を巡り両家は対立関係に成っている。
620人間七七四年:2010/06/23(水) 13:08:08 ID:TGlumqPH
>細川家も急な両畠山家和睦の事態に対応し、応仁の乱後に対立を続けてきた京兆家
>と阿波守護家も和睦、その為に澄元を京兆家養子に迎えたとある。

この事態も、政元の意志というよりは、京兆家評定衆での決定らしい。
この決定により薬師寺元一と土佐守護代家である細川政益は阿波に下り
細川澄元を出迎えている。

おそらく讃岐出身の国人が多い京兆家の内衆は、讃岐が京兆家分国から
欠落し阿波守護家の分国になることに反対していたと思われる。
そのためも阿波守護家から京兆家の養子を迎え入れる事を京兆家評定衆で
組織決定した。また同時に今まで対立してきた両畠山氏の急な和解にも対応
し様としたのだろう。しかし既に京兆家内衆は、畿内国人も多数採用して
おり、この決定で京兆家の内部分裂が、より加速される事になる。
621人間七七四年:2010/06/23(水) 17:11:02 ID:bazXNmKC
>野州家はそもそも勝之、高国と養子を出しているし交易の拠点の分郡守護を
>維持するのには京兆家との協調は欠かせないだろう。

勝之相続は、京兆家内衆や一門の反対、それに山名宗家との単独講和の為に政元相続が優先され失敗。
高国相続は、分家が本家を武力で追い落としての相続である為に京兆家の政治力が減退、畿内国人が言う事を聞かなくなる。

京兆家の政治力が保持される一番の方法は政元に実子が居る事。

京兆家の瀬戸内海の貿易拠点は、淡路守護家との協調体制が継続されれば
かなり代替が出来る。淡路守護家と阿波守護家は瀬戸内海貿易を巡り対立
していたのかも知れない。それに備中守護家と京兆家は瀬戸内海貿易で対
立していたのではなく、備中国内の京兆家内衆所領の押領問題で揉め始めた。

1478年に細川政之が阿波守護職に任官した直後から京兆家派被官人により
廃立を計画され、阿波国内で京兆家派vs阿波守護家派で内乱となっている。
この時に阿波国人の三好氏が阿波守護家側で軍功を挙げたのだろう。
政之と義春が20代後半で死亡している為に、京兆家サイドによる暗殺の
可能性が有るかもしれない。
622人間七七四年:2010/06/23(水) 17:48:47 ID:bazXNmKC
1502年に将軍在任中の足利義澄が、職務を放棄し金龍寺に籠ってしまう。
その直後に翻意を促す為に同寺を訪れた細川政元に対して、義澄が示した将軍
職復帰のための5条件の中に義忠の処刑があり、それを政元が飲んでしまう為
に義忠は殺害され、政元は次期将軍候補の切り札を失い、政治的選択肢を狭め
る一方で、足利義澄の将軍としての地位は一応の安定を得ることになってしまう。

これを考えると、1502年に足利義澄が、職務を放棄し金龍寺に籠った時点
で、政元は再度将軍廃立クーデターを起こすべきであった。職務放棄による政
務結滞は将軍廃立の大きな理由になるし、2回も足利将軍が京兆家当主により
廃立されればイメージとして完全に足利将軍は京兆家の傀儡になる。その時点
で実質幕府の政治力はゼロになる。そうなれば畿内領国化計画も政元のやりた
い様にやれるだろうし、京兆家分国守護代の交代や廃止も行える。
もう1502年の時点では日野富子や伊勢貞親は死亡しており、政元の単独行
動でも将軍廃立は可能と言える。

京兆家は、義材に続いて義澄も廃立に追いやり、出家した義忠を還俗させ新将軍に
擁立する事で、より一層京兆家の権力は増すだろう。
623人間七七四年:2010/07/02(金) 00:59:38 ID:Jed0ughK
1502年に足利義澄の将軍廃立を行えば、明応の政変に続いて“文亀の政変”となる。

1495年に細川元有は、同じ和泉半国守護(下守護)であった細川政久と共に、
細川総領家当主である政元に対して反旗を翻す、元有と政久の両者は、紀伊
守護の畠山尚順と手を結び、細川政元と敵対行動を開始している。

1497年、河内を奪回するため畠山尚順は挙兵し、1499年には高屋城を奪い、
さらに十七箇所城に逃れた基家を攻撃し、これを殺害した。政元を義材と挟撃
するチャンスがあったが、基家の子の義英と結んだ政元と畠山尚順や細川元有
細川政久は、摂津国天王寺で合戦となったが、畠山尚順が大敗を喫したため、
実権の回復は果たせなかった。前将軍で政元に追放されていた義材もやはり敗
れ周防に去っていった。

同じく細川元有と細川政久は、政元に敗れて自己の分国である和泉は京兆家に
占領され降伏し、京兆家の家臣となり和睦した。これは、細川家同族連合体制
が崩壊し政元の畿内領国化計画を妨害するものは同族の細川家庶流ですら軍事
的な攻撃対象になる事を示している。そして和睦後の和泉守護家は、京兆家と
同格の連合体の構成員ではなく、家臣として京兆家に仕える立場として和解している。

和泉両守護家は敗れ京兆家に下り、畠山尚順からは離反した。
1500年9月に反撃に出た畠山尚順によって和泉守護家は、居城の和泉岸和田城
を攻められる事となり、城は落城して細川元有は戦死した。
その後、政元により京兆家内衆に採用された赤沢朝経率いる京兆家の軍勢により、
押し戻され、畠山尚順は三度敗れた。河内や和泉、大和の尚順が占領した地域は
赤沢朝経率いる京兆家の軍勢に奪回され、1501年に尚順は再び紀伊に逃亡した。

この様に1502年の政元の政治的立場や軍事情勢は、かなり有利な情勢となっている。

明応の政変では、日野富子や伊勢貞宗・貞陸の協力の下に政元は将軍廃立を行えたが、
もし文亀の政変を起こしたのなら、この場合は政元の単独行動でも将軍廃立は可能であろう。

ただし、京兆家内衆で摂津や丹波の守護代職である薬師寺氏や内藤氏が、この将軍廃立に
反対する可能性がある。畿内領国化を図る上で、中間搾取的な立場の守護代級内衆は、
京兆家当主である政元によって分国経営から排除される傾向にあり、京兆家当主による
上克下が必要となる。そういう意味で、早い段階での守護代級内衆による政元暗殺を招か
ない様に、将軍廃立と併行して守護代級内衆への反乱予防策が必須となる。
624人間七七四年:2010/07/02(金) 05:35:03 ID:Jed0ughK
守護代とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。
広義には代官の一種であるが、室町時代以降は幕府の直轄領の土地支配の
代理人を代官といい、守護の代理人たる守護代とは区別された。

守護代は守護の一門やその傍流、或いは重臣、または守護国内の有力武士(国人)
が任じられる。ただし、複数の守護を兼ねる家の場合には、他の領国の国人が
守護代とされる事も多くなり、次第に世襲化していくと、守護に代わって実質
的統治者になっていった。

守護代は室町幕府より守護の白傘袋毛氈鞍覆及び塗輿の格式に次ぐ、唐傘袋毛
氈鞍覆及び塗輿の使用が認められる格式を与えられた、その為に、守護代と将
軍が直接結びつき、有力守護家の内紛を助長させその力を弱める政策をも担う
ようにも成って行った。一般に将軍家の守護被官への直接指揮が守護と被官国
人の対立を呼び起こす事が指摘されている。中でも有力守護家の守護代は、将
軍家と結んで守護家を牽制するような事が応仁の乱前後には頻発した。

また、分国内の国人でも守護代に任じられる事があり、世襲化される傾向が中
世には多くあった。その結果、代々守護代を勤める国人は、その他の国人より
も一等高い地位や経済力そして軍事力を保持するようになり、応仁の乱前後は、
将軍家の支援もあって守護と分国経営の主導権を争い、さらに分国内の所領の
獲合いまでも行う位に力をつける状態になる。

また、応仁の乱以後の幕府支配地域の縮小化で、室町幕府が求めるの身分秩序
が次第に溶解し始めた事により、守護の国人達への支配力も弱体化し始めた。
守護被官である国人層の反乱が恒常化し下克上と呼ばれる事態になるが、守護
と違い応仁の乱以前から在国していた守護代の支配力は、応仁の乱以後も変わ
らないどころか、むしろ強化され、守護代が、守護に代わって戦国大名化した
事例も随所に見られる。

越後の長尾氏、越前の朝倉氏、尾張の織田氏、阿波の三好氏、備前の浦上氏、
出雲の尼子氏などが、その良い例である・
625人間七七四年:2010/07/02(金) 06:12:30 ID:8ChYw3KC
正確にいえば在国守護代な
在京守護代もいるから
626人間七七四年:2010/07/02(金) 09:09:04 ID:Jed0ughK
摂津守護代の薬師寺氏や丹波守護代の上原氏や内藤氏って
在国守護代なんですかね?
それとも在京守護代なんですかね?

国人系守護代なら在国守護代が多そうだけど、どうなんでしょうか?

畿内だと1〜2日で在国になるから在国と在京の区別付き難いです。

洛中の細川管領邸(上屋敷)に守護代が通勤しているのなら在京とも思えますが、
京から丹波や摂津だと半日か1日にで在国になるから判別しにくい感があります。

政元は、16世紀の晩年は京よりも、摂津での在国が多かったようですが、
丹波や摂津や山城の交通の接点が京だとすると、京兆家にとって在京が在国である
という少し変わった理屈になるかも知れません。
末柄豊氏は、そのように述べています。

政元は、絶頂期は、半将軍と言われ、京兆家の分国も摂津・丹波・山城・河内・大和・和泉まで含めるようになりますが、
これらの守護所は、京の細川管領邸(上屋敷)と言う事になるんでしょうか?
627人間七七四年:2010/07/03(土) 03:33:56 ID:iri7h3Hv
返答がありませんね、回答が見つからないのでしょうか?

丹波内藤氏は、藤原氏秀郷流を称すが、経歴が不明な事が多い。
ただし1336年に京都から撤退した足利尊氏は、丹波国の内藤左衛門尉の館に入
っている、という記録がある。この時点での内藤氏は奥丹波の一国人でしかな
く、特別丹波で大きな存在感を示している訳ではない。だが、この記録から室
町時代の初期に丹波での活動が確認出来る。そして鎌倉時代には丹波で国人と
して活動を始めていたと予測できる。

その後に細川氏の被官・内衆となり、1431年に丹波守護代である香西元資が罷
免されると、細川京兆家の被官である内藤信承が守護代に就任、内藤氏は船井
郡八木に根拠しての城を構えた事から内藤氏の丹波支配が始まる。この八木城
が内藤氏の丹波守護代所としての機能を発揮していたと思われる。

記録ではハッキリしないが、内藤氏は、この1431年の丹波守護代就任時に丹波
に入国したと言う人も居るが、足利尊氏との記録から既に丹波で代々国人とし
て活動していた内藤信承を京兆家が丹波守護代に任命した可能性の方が大きい。
その意味では、今谷明氏の言う京兆家の四国系国人の守護代登用説は誤りだと
言える。

また内藤氏が、在国守護代なのか在京守護代なのかは、不明だが、一例として
政元の暗殺事件発生15日後に澄之が丹波から上洛し、その数時間後に内藤貞正
も上洛している記録がある。これだけを見ると内藤氏は在国守護代に見えるが
内藤氏は内衆でも有り、細川管領邸での政務も無いとは言えないので、即断出来ない。

丹波内藤氏は、政元暗殺時までに半世紀以上も守護代を勤めている。この場合
船井郡八木城が内藤氏の守護代所としての常勤場所となっていたのか、それと
も細川管領邸と八木城を行ったり来たりしていたのか、良く検証すべきであろう。
ちなみに八木城がある船井郡は、丹波の入り口に位置している事から、比較的
短時間で八木城と細川管領邸は行き来可能な道のりではある。
628人間七七四年:2010/07/03(土) 06:07:24 ID:iri7h3Hv
内藤氏は、守護代として1431年に丹波支配を始める訳だが、それと比例して
丹波国内の所領が増加したかどうかは良く判らない。仮に増加したとしても
その拡大速度は緩慢であろう。

内藤氏が、丹波守護代に就任した時期はまだ幕府の統治機能が発揮されており
更に家格秩序も維持されていた為に、権門体制を壊すような激しい荘園や所領
の押領は不可能であった。特に主家である京兆家が権門体制を無視し激しい荘
園押領を開始するのは応仁の乱最中であり、その時期まではそのような守護代
による荘園押領は不可能と言える。

丹波は幕府所在地である山城の後背地であり、物流網の拠点でもある。幕府か
ら丹波守護代は監視されていただろうし、それよりも丹波守護である代々の京
兆家当主は、丹波守護代がオカシナ荘園押領を行った場合には反逆行為として
処罰する関係にある。したがってその様な室町幕府の機能時の丹波守護代は、京兆家の家職の一つとして位置づ
けられ、さほど裁量範囲があったとは思えない。
なぜなら京兆家は守護代級内衆の勝手な活動を阻止する為に管国内の守護代以
外の中小国人を京兆家当主の近習として召抱え、彼ら中小国人を京兆家当主が
直接掌握する事で、守護代を牽制する分国運営を行っていた。京兆家が、この
様な管国内の守護代級内衆と中小国人を互いに牽制均衡させる分国経営を止め
るのは、応仁の乱時代の勝元である。元々京兆家は分国内の所領集中度が高く、
守護である京兆家当主の直轄地は多かったが、応仁の乱最中からは、勝元は、
更なる京兆家当主直轄地の拡大を目指し、公家領や寺社領の積極的な押領に乗
り出し、西軍に寝返った管国内国人所領も押領している。

これは将軍家から京兆家に特権的闕所処分権を付与されていたから可能な事でもあった。
またこの特権的闕所処分権は伊勢家にも付与されているが、分国経営をしなかった
伊勢家は、この権限を分国の直接的な一円支配に応用出来なかった。
629人間七七四年:2010/07/03(土) 06:14:34 ID:iri7h3Hv
(>>628修正)
内藤氏は、守護代として1431年に丹波支配を始める訳だが、それと比例して
丹波国内の所領が増加したかどうかは良く判らない。仮に増加したとしても
その拡大速度は緩慢であろう。

内藤氏が、丹波守護代に就任した時期はまだ幕府の統治機能が発揮されており
更に家格秩序も維持されていた為に、権門体制を壊すような激しい荘園や所領
の押領は不可能であった。特に主家である京兆家が権門体制を無視し激しい荘
園押領を開始するのは応仁の乱最中であり、その時期まではそのような守護代
による荘園押領は不可能と言える。

丹波は幕府所在地である山城の後背地であり、物流網の拠点でもある。幕府か
ら丹波守護代は監視されていただろうし、それよりも丹波守護である代々の京
兆家当主は、丹波守護代がオカシナ荘園押領を行った場合には反逆行為として
処罰する関係にある。したがってその様な室町幕府の機能時の丹波守護代は、
京兆家の家職の一つとして位置づけられ、さほど裁量範囲があったとは思えない。
なぜなら京兆家は守護代級内衆の勝手な活動を阻止する為に管国内の守護代以
外の中小国人を京兆家当主の近習として召抱え、彼ら中小国人を京兆家当主が
直接掌握する事で、守護代を牽制する分国運営を行っていたからだ。
京兆家が、この様な管国内の守護代級内衆と中小国人を互いに牽制均衡させる
分国経営を止めるのは、応仁の乱時代の勝元である。元々京兆家は分国内の所
領集中度が高く、守護である京兆家当主の直轄地は元々多かったが、応仁の乱
最中からは、勝元は、更なる京兆家当主直轄地の拡大を目指し、公家領や寺社
領の積極的な押領に乗り出した、西軍に寝返った管国内国人所領をも押領している。

これは将軍家から京兆家に特権的闕所処分権を付与されていたから可能な事でもあった。
またこの特権的闕所処分権は伊勢家にも付与されているが、分国経営をしなかった
伊勢家は、この権限を分国の直接的な一円支配に応用出来なかった。
630人間七七四年:2010/07/03(土) 06:17:02 ID:iri7h3Hv
元々多かったが←× 以前から多かったが←○
631人間七七四年:2010/07/04(日) 01:24:01 ID:Cfk1jspC
>京兆家が、この様な管国内の守護代級内衆と中小国人を互いに牽制均衡させる
>分国経営を止めるのは、応仁の乱時代の勝元である。

守護代級内衆と中小国人を互いに牽制均衡させるのは、別に勝元の時代には辞
めてはいない。応仁の乱の最中でも国人を近習として抱えて分国経営や京兆家
の文書行政を担わせる体制は変えていないと思う。
1467年に摂津を大内政弘に占領され、摂津国人が挙って大内サイドに鞍替えし
ているので摂津国人は確かに1467年から応仁の乱終了時の77年まで京兆家当主
の近習では無くなっているかも知れないが、それならば逆にその時期は丹波や
讃岐の国人衆が京兆家の政務を引き受けて処理していたと思われる。

近習がいないと政務が滞り、どうしようもない。
丹波と摂津の国人が京兆家当主の近習から外されたのは、むしろ1473年の勝元
の死亡時だと思う。後継者の幼少の聡明丸が、当主として政務が取れないので、
京兆家内衆が評定衆を結成し「京兆家-内衆体制」を構築した時だ。

管国内国人を京兆家当主が近習に召抱えたのは、政務を担わせ、尚且つ守護代
級内衆の動きを牽制掣肘する意図があった。逆に丹波や摂津の国人は守護であ
る京兆家当主と直接被官関係を結ぶ事で守護代級内衆の押領行為に対抗する意
味があった。勝元が死亡した事で丹波と摂津守護としての政務は、聡明丸に移
るが幼少であったが為に、守護職の政務は、内衆が京兆家評定衆を組織しそこ
で決済する体制に移行させた。そして典厩家の政国が当主代行として守護職務
を執行したり細川惣領家一門親族として評定衆を主導した可能性もある。

ただし政国はあくまでも代行でしかなく、時限的当主に過ぎない。政国の実家
で甥である勝之の相続が、勝元により山名との単独講和時に潰されている事も
ある。そういう意味では守護代級内衆に対して政国は弱い立場だ。国人を近習
として登用し守護代級内衆の動きを掣肘しょうとする主体が勝元死亡と聡明丸
の幼少と言う事態で消滅してしまい、守護代級内衆の動きを止めるものが京兆
家に居なくなった。その事が「京兆家-内衆体制」の構築に表れている。

勝元の死亡と聡明丸の幼少期と言う時期を狙い、守護代級内衆が京兆家評定衆
として結束し、彼らを掣肘しょうとする京兆家当主や管国内国人衆を分国経営
から排除した。更に、畠山家や斯波家に比べて分国内所領が膨大であり、京兆
家直轄地の拡大をこれ以上阻止したかったと言う守護代級内衆の欲求も「京兆家
-内衆体制」の構築の背景に有ったかも知れない。
そしてそれに対する反作用が、1479年の政元誘拐事件であり、摂津国人一揆の
勃発と言える。
632人間七七四年:2010/07/04(日) 09:19:47 ID:Cfk1jspC
摂津守護代の薬師寺氏は、元々下野国大掾小山氏の支族で、鎌倉幕府の御家人
として西国に下り、1328年には摂津国輪田荘地頭職で薬師寺貞義の名での活動
の見える。

観応の擾乱ごろ高師直や直義傘下の武士に同氏の名があり、1399年には備中守
護細川氏の薬師寺氏が守護代に就任している。1470年には椋橋城合戦でめざま
しい功績を立てた細川勝元の被官薬師寺元長が摂津守護代に任ぜられ、以後同
氏は細川京兆家の分国摂津に支配を任される事となった。

元長は1501年(文亀元)病死。守護代は子元一が継いだ。しかし元一は1503年
守護細川政元の養子として阿波の細川澄元を迎えることに成功、その功もあり
翌1504年9月政元に背き山城淀城で挙兵した。摂津守護代薬師寺元一が政元に
よって急遽守護代を更迭されそうになった時には義澄が政元に解任の中止を命
じている。やはりその後も薬師寺氏は摂津守護代職を政元に没収(解任?守護
代廃止?)されるとの噂が相次ぎた。薬師寺元一は、結局政元への反乱を行い
直ちに鎮圧され元一は刑死、弟の長忠が守護代を継承した。
633人間七七四年:2010/07/04(日) 14:29:14 ID:gJ2yNP/N
>>575
>>632の書き込みを見ても薬師寺氏が既に鎌倉時代に摂津で活動している事を
見ると、薬師寺氏も摂津国人と言う気がする。歴史舞台に本格的に登場する
150年前から摂津で国人として活動しているのだから、十分に土着していると
いっても良いだろう。
そうなると15世紀頃の丹波や摂津の守護代は、基本的に畿内国人を登用してい
ると言って良い。今谷明氏の京兆家の守護代の四国系国人起用説は実態と大分
異なる。丹波の内藤氏や上原氏、摂津の薬師寺氏などは完全に畿内国人である。

少し時代は下るが内藤氏と一緒に下克上を行い細川高国追放に動く波多野氏の
方が、実は他国者である。波多野氏は丹波生え抜きの国人ではなく、石見国の
吉見清秀が細川勝元に仕え応仁の乱に活躍、勝元の命を受けて母方の波多野を
名乗った。そして、政元の代、多紀郡の小守護代に任じられ多紀郡に下向して
来た者が丹波波多野氏の起源となったと言われている。

他にも、秀長が因幡国から丹波へ移住したとも、秀長の祖先が相模国から丹波
へ移住したとも言われており諸説がある。いずれにせよ秀長が丹波国に居を構
えたのは確かだ。

この様に丹波や摂津の守護代と関係ない国人が他国出身者である場合もある。
634人間七七四年:2010/07/05(月) 03:34:07 ID:lqEaHoxx
丹波の上原氏は、元々は信濃国に根拠を持ち、神官である諏訪氏の庶流であった。
上原九郎成政(景正)が1193年に丹波国に移住し、何鹿郡物部と西保の地頭と
して丹波に土着し歴史的に注目される約300年前から丹波国人として活動している。

14世紀中旬の細川頼之の代で上原成基は細川家の合議機関である「内衆」に名
を連ねる。細川京兆家の内衆の一人、上原賢家の次男として元秀が丹波国に生
まれる。元秀は文明の末頃から史上に名を現すと父や兄を凌いで急速に出世し
1482年に79年の丹波国人一宮氏による政元誘拐事件等の責任を取らされ丹波守
護代内藤元貞が罷免されると、元秀は50年以上に渡って丹波守護代を補任され
てきた内藤氏に替わって丹波守護代に任じられ、急速に丹波上原氏は急速に台
頭し始める。また、上原氏の守護代就任はこれが初めての事であった。

上原氏の出世の背景には豊富な資金力で細川家への積極的な経済支援をした事
が挙げられ、1490での政元邸での観世能の開催、政元の富士一見のための東国
への出立費用、和歌会の取り持ち費用など様々な面で資金援助を惜しまなかった。

こうした資金力の裏側で分国丹波では久我家や鷹司家ら公家の荘園や寺社領か
ら代官を廃して自らを代官と自称し不当に収入を押領したり、在地の旧内藤家
臣の地頭職などの中間搾取層の権限を剥奪して自身に権力と金を集中させよう
とするなどの強引かつ急進的な守護代による一円知行政策が執られており、上
原親子に対する不満が高まっていた。

この守護代による一円知行政策は、中間搾取を排除し税収コストを削減するな
ど近代化の側面があるが、その一方で守護代に権限と国人との被官関係が集中
し守護を下克上しかねない等の京兆家当主にとっては、危険な諸刃の刃となる
政策だった。
守護が一円知行政策を行うならば、税収増加し権限も強化され国人層の直接被
官化が促進されて戦国大名化を促進させるだけなのだが、守護代が一円知行政
策を行えば、越前の朝倉氏や越後の長尾氏の様に守護代に分国を乗っ取られか
ねない。京兆家にとって守護代に就任した丹波上原氏が、急進的な一円知行政
策を開始した事は近代的な税収強化策である一方、内衆であり丹波の一国人に
過ぎない上原氏に丹波を横取りされかねない事態だったと言えよう。

そういう意味では、京兆家当主は、守護代に就任し一円知行で富強化し始めた
上原氏が下克上しないうちに、上克下しなければならなくなった。また、丹波
の中小の国人層も、守護代上原氏に所領を押領されないように、守護である政
元直近に結集し政元近習として守護代上原氏の収奪的徴税行為に対抗しようとした。

当初政元は、守護代上原元秀の資金援助に気を良くし、それまで内衆の一員で
ありながら、目立たなかった上原氏を重宝し始めた。丹波では既に上原氏に対
する国人層の反発や反乱が始まっていたものの、明応の政変までは特に目立つ
形で上原氏を押さえ込む政策を展開していない。
明応の政変でも政元の寵臣として行動し1493年に河内の畠山基家と接触して足
利義材廃立を強く推し、同年4月には義材と畠山政長を安富元家と共に2万の軍
勢で責め立て政長を自害に追い込み、更には将軍足利義材、腹心の葉室光忠を
生け捕りにするという大功を挙げて義材を京へと送還し光忠を処刑する。河内
に残る政長家臣らも殆どが元秀と安富元家によって討伐され、元秀は政変に於
いて大きな役割を果した。
635人間七七四年:2010/07/05(月) 04:53:39 ID:lqEaHoxx
明応の政変が成功し、元秀の働きに気を良くした政元は、家臣である上原元秀
に細川の苗字を与え細川一族に加えるべき旨を一族家臣に披露するも、いっせ
いに反発を受けて撤回を余儀なくされる。その後は「元秀の言う事だけを聞く事
は慎む」と政元の方が、内衆に約束させられてしまう。
この時点で27歳の政元は、妻帯していない事や実子が居ない事をそろそろ問題
視され始めており、もしかすると上原家からの養子も念頭に置いていたのかも
しれない。しかしこの事件で元秀の転落は始まる、大功によって更に上原氏の
被官達は驕り高ぶり、他の京兆家内衆被官との刃傷沙汰に及ぶなど問題行動を
度々起こした。同年10月、ついには元秀本人が長塩弥六と喧嘩の末に抜刀し双
方斬られ、長塩は元秀に斬られ即死し元秀も重傷を負った。その傷は一向に癒
えず悪化の一途を辿り、1493年11月に死亡した。
この事件は、ただの喧嘩とも伊勢氏との協調路線を取る元秀への刺客という説
もあるが実態はよく分かっていない。ただ政元は、丹波で守護代として一円知
行を行い富強化する上原元秀を危険視する理由はあるし、さらにそれに加えて
元秀が伊勢氏に接近したのは、謀反の前兆と取られかねなかった。なぜなら京
兆家と伊勢家は、本来、山城の領国化を巡りライバル関係に有るからだ。

明応の政変では、便宜的に将軍廃立と畠山政長追討の為に手を結んだ京兆家と
伊勢家は、山城の国一揆の処理の過程では、両家の間に齟齬をきたしている。

明応の政変で山城守護職に任官した伊勢貞陸は山城の一円知行を考え始め、大
和国の有力者で畠山氏の被官でもあった古市澄胤を綴喜郡・相楽郡の守護代に
任じて支援を仰いだことで、伊勢・古市の支配を認めて従来の地位を維持しよ
うとする国人たちと「他国者」の古市の侵入を認めず京兆家などと結んでこれ
を排除しようとする国人の動きに分かれた。1493年には伊勢氏に近い国人たち
は自ら自治を放棄する集会を開き惣国は解体され、守護の支配下に入ることに
なった。これに反対する京兆家派の国人衆は稲屋妻城に立て篭もって抵抗する
が敗れ、ここに山城国一揆は完全に終結を見ることとなった。

この様に京兆家は山城への影響力拡大を目的に山城国人との被官関係の維持を
考えていたが、伊勢家は守護による一円知行で山城国人を押さえ込む方向で動いていた。
636人間七七四年:2010/07/06(火) 06:38:43 ID:ol9phPUL
丹波上原氏を語る上で欠かせないのが、1489年に勃発した丹波国一揆“位田の乱”である。
この一揆は、守護細川政元を差し置いて守護代という丹波bQの立場でありな
がら一円知行を強行してしいる上原氏に対する丹波国人層の反乱である。

一円知行という丹波での広域的かつ直接的な徴税姿勢をとる守護代上原氏は、
公家領や寺社領への押領を繰り返すでけでなく、丹波国内の政元近習の国人や
前守護代で内藤氏家臣である国人層までも押領の対象とした。そのために丹波
国内の多数の国人が結束し「上原親子への訴訟」と称して謀反を起こし、位田
城に立てこもる事態となった。この反乱に参加した国人は、位田氏・荻野氏・
大槻氏・須知氏・久下氏でさらに現地の牢人衆も参加し、位田城に篭城した。
丹波でこれほどの大規模な国人一揆は始めての事態である。ちょうどこの10年
前に丹波国人の一宮氏が政元を誘拐した事件があるが、これは一応一国人の単
独犯行とされている。しかしこの位田の乱は、現在判っているだけでも5氏近
い国人が参加しさら牢人までも加わる大規模な国人一揆になってしまった。

コレは、前守護代の内藤氏と異なり、上原氏が守護代に就任してからいかに広
範囲に押領を繰り返したかが判る。内藤氏が守護代に就任したのは、室町幕府
の統治能力と家格秩序が維持されていた時代であり、権門体制を崩壊させる様
な急進的な一円知行は実行不可能であったのだろう。しかし上原氏が守護代に
就任した時は応仁の乱以後であり、幕府の統治能力や家格秩序も崩壊し始めて
いた時代であったが為に、内藤氏が行わなかったような、急進的な一円知行を
上原氏は丹波守護代として実行してしまったのだろう。その証拠に内藤氏が守
護代であった時代の国人反乱は一宮氏の政元誘拐事件ぐらいで後は無いのだが、
上原氏時代は、位田の乱と言う大規模な国人一揆が起きている事が挙げられる。

ただし、一宮氏の政元誘拐事件や位田の乱でも共通しているのは、守護である
政元に対する反乱ではなく、あくまでも守護代に対する反乱である事だ。一宮
氏は、政元の誘拐犯とされてしまったが、実際には丹波山中で当時の守護代で
ある内藤氏に対して対決姿勢をとる一宮氏の陣に政元を引き入れ、政元を奉じ
て内藤氏と決戦する計略だったとされる。つまり政元誘拐犯とされた一宮氏と
政元の間には敵対関係は存在しなかったのだ。位田の乱も同じ構図で、守護で
ある政元に対しての反乱では無いので、位田の乱参加の国人衆と丹波守護の政
元の間には敵対関係が無いのである。位田の乱も一宮氏政元誘拐事件も守護で
ある政元への犯行反乱ではなく、あくまでも守護代である内藤氏や上原氏への
反乱なのである。
637人間七七四年:2010/07/06(火) 07:28:26 ID:ol9phPUL
位田の乱に参加した国人衆の位田氏・荻野氏・大槻氏・須知氏・久下氏のうち
荻野氏と須知氏は政元近習として活動している記録が数多く残っている。つま
政元近習が参加している反乱であり、位田の乱の原因は政元近習の国人層への
上原氏の押領行為である。荻野氏と須知氏は政元側近であり、摂津嶋下郡の国
人衆の茨木氏や吹田氏、三宅氏、芥川氏と同じく、洛中での細川管領邸で文書
行政に携わっていた可能性がある人物である。政元側近の丹波国人の経済基盤
である丹波国内の荻野氏と須知氏の所領を守護代上原氏は押領している事は、
守護政元を支える権力機構の経済的基盤を守護代上原氏が空洞化させている訳
で、一種の下克上とも言えなくも無い。しかし、同時期に上原氏は政元に膨大
な経済援助をしているし、将軍廃立が迫るなかで内衆との齟齬を回避したいと
いう政元の事情が有ったのかも知れない。いずれにせよ、政元と上原氏の間に
利害の対立があったとしても、直ぐには表面化しなかった。
この位田の乱は大規模国人一揆で丹波守護代の上原元秀は鎮圧を父に一任して、
更に細川家に応援を要請し、年を跨いだ1490年に但馬、摂津、備州など13ケ国
から集められた大軍をもって鎮圧を図り、須知氏などを討ち位田城に迫るが、
位田城だけは火攻めなどの策を講じたものの陥落させる事が出来ず逆に攻め手
方に数百人の死者が出るなど苦戦を強いられた。
結局、一揆の大部分を叩いたものの短期での完全な鎮圧には至らず軍はそれぞ
れ国へと戻ってしまい、1491年には一揆軍が再起し位田城など含めた7つの城
を占拠し上原軍と位田城に籠る荻野・大槻両氏の間の抗争は泥沼化し、1493年
に位田城が陥落するまで決着を見なかった。

この様に上原元秀は、位田の乱鎮圧に大変苦労している。京兆家にも援軍要請
を出しているが、政元がそれに応じたかどうかは不明である。但馬、摂津、備
州など13ケ国から集められた大軍で位田の乱の鎮圧作戦に乗り出したところを
みると、上原元秀は、近い関係に有る伊勢氏を頼り、将軍から諸大名に出動命
令を出してもらった可能性もある。しかしこの他国の軍勢を自己の分国の反乱
鎮圧作戦に動員するのは政元としては面白くないはずで、この元秀の他国勢へ
の援軍要請も政元を刺激したかも知れない。この様に位田の乱を鎮圧するのに
時間がかかったのは、政元が密かに国人衆への支持を示しており、上原氏は鎮
圧の為の軍勢動員に苦労していた。
638名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 00:45:34 ID:yAr7T5wl
元秀死んですぐに賢家も排除されたな
639人間七七四年:2010/07/22(木) 20:15:52 ID:x8h4x4UX
結局、応仁の乱直後の室町幕府の家格秩序崩壊時のアダ花的な存在なのでしょう。
父賢家も丹後守護代に就任後直ぐに解任され、内藤家が丹後守護代に戻っています。

私的には、この時点で丹波守護代を廃止し、守護である政元の直接統治を開始したら良いと思いますけどね。

また、位田の乱当時の元秀は、13カ国の兵を動員したのに、鎮圧しきれずにおり、
結局アチコチから集めた兵も完全に鎮圧し切れないうちに、撤退を開始している
ところを見ると、政元は、自分の近習国人は攻め滅ぼさないで、何とか守ろうと
している事の現われかもしれない。
1491年には、丹波国人衆が再蜂起し、位田城など含めた7つの城を占拠し守護代
の上原軍と位田城に籠る荻野・大槻両氏の間の抗争は泥沼化し、1493年に位田城
が陥落するまで決着を見なかった。この事から一度は、守護代上原勢が解散して
しまった事などから、位田の乱の決着はウヤムヤになったが、丹波国人は再度守
護代上原氏排除を狙い蜂起した事になる。

これなども、政元の意志が丹波国人サイドで働いていると言わざるを得ないし、
この丹波国人一揆が、いかに守護代に対しての反乱であるかが良く分かる。

この様に摂津国人一揆や丹波国人一揆は、その主要構成員に京兆家当主近習が
数多く含めれており、国人一揆=丹波と摂津守護の支配への反発&弱体化とは
言え無い事が良く分かる。また山城国一揆も守護である畠山家に対しての反発
はあるが、守護代に任官している京兆家内衆や山城国人の被官化を進めていた
京兆家当主への反発は見せていない。

この様に政元は、従来の様な内衆への分国経営の委託は行わずに、分国内国人衆
の直接掌握を経て分国の直接統治を目差していたと言わざるを得ない。そして
国人一揆はむしろそれに抵抗するものではなく、京兆家当主の分国直接統治を
支えるツールとしての機能を発揮すべく組織されたのもであろう。
640人間七七四年:2010/07/22(木) 20:46:32 ID:m0Ah+c5O
一つだけ質問いいか?

>明応の政変が成功し、元秀の働きに気を良くした政元は、家臣である上原元秀
に細川の苗字を与え細川一族に加えるべき旨を一族家臣に披露する。


これの出典を教えて欲しい。疑うわけじゃなくて初耳なんで興味が湧いた。
641人間七七四年:2010/07/23(金) 15:26:15 ID:rxGPjrGH
>>640
戦国の活力(全集 日本の歴史 8) 山田 邦明 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%B4%BB%E5%8A%9B-%E5%85%A8%E9%9B%86-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E9%82%A6%E6%98%8E/dp/4096221082/ref=sr_1_15?ie=UTF8&s=books&qid=1279863997&sr=1-15
第二章 地域勢力の台頭――細川高国の時代 74ページ 3行目〜6行目

黒矢龍作の歴史年表  明応二年(1493)
http://www.kuroyaryusaku.com/history-table/2008/05/1493.html

上原元秀に対し細川の名を授ける事を内衆や京兆家一門に披露した事、しかし
その事に反発されてしまい撤回する事までは史実だが、政元が上原家からの養
子を迎える事を念頭に置いていたかどうかは不明。
養子の件は、自分の想像でしかないが、大名で26歳の時点で妻帯もしていな
い事は、この時代ありえない事なので、漏れ的には政元は念頭に置いていたと思う。

またこの時点では、丹波での守護代による一円知行や寺社領や公家領の押領は
行われていたが、その資金を上原家が退蔵するだけでなく、膨大な献金を政元
にしたり、明応の政変の下準備としてアチコチ走り回り根回しをしたり、政変
時は、京兆家の軍勢を率いて出動し将軍足利義材の身柄を拘束したりしている。

政元が元秀に疑念を持ち始めたのは、伊勢家に近いからもあるが、足利義材の
逃亡を許した事にあるのではないか?と考えたりもする。
りしている。
642人間七七四年:2010/07/24(土) 14:34:26 ID:2qEtB3WW
>>641
サンクス。なかなか興味深かい話をどうも。
643人間七七四年:2010/07/24(土) 20:06:19 ID:+W64+YnF
徳川家康の、明応の政変についての発言

「勝元の子の政元は、さらに思い上がりが強かった。

将軍(義材)が父義政から位を引き継いだ後、茶の湯をうち捨て、武道を起し、尊氏のやり方を
模範にして、畿内近国より次第に悪逆非道の者を退治し、(応仁の乱以後の乱世を)
今一度天下統一せんと思い立ち、江州の六角高頼を退治されたので、智のある者はみな
足利家の昔に立ち返るべきであると称賛したのであるが、政元は、畠山義豊と心を合わせて、
義材公を追い落とし、伊豆の左兵衛佐の幼い子息を擁立して、公方義澄と称した。

これは、政元が、天下国家のために主を立てるのではなく、ただおとりをこしらえて
自分のおごりを究めんがためであったが、罰逃れ難く、政元は家臣の香西元春のために殺
されることとなった。

これらはどれもこれも、天下をただわが身ひとりが楽しまんがためのものと思い、
人民のことを思わなかったがためである。」
『披沙揀金』
644村上浦宗:2010/07/24(土) 20:13:18 ID:izwUjmBs
絶対にこの人が言うべきことじゃないね
あんた自分の驕りを極めんがために将軍になったんじゃねーのかww
しかも、勝手に義材を義政の息子にしてるしwww
んでこいつには罰が下ってないから余計腹立つわ
645人間七七四年:2010/07/24(土) 20:26:59 ID:2qEtB3WW
政元の代の成り上がりというと赤沢朝経もそうだな。

彼はどういう経緯で重用されるようになったんだ?
646人間七七四年:2010/07/25(日) 01:41:41 ID:ICLXVUns
畿内を積極的に武力で平定しようとしたのは義尚の方だと思う
647人間七七四年:2010/07/27(火) 02:44:21 ID:s30RfnDv
>>643
徳川家康が、本当に“明応の政変”についてコメントしているのか?
不思議だな〜、ソースは?

それに政元を殺したのは香西元春ではなく香西元長なんだけど?

>>645
小笠原氏の庶流で信州からワザワザ上京して、小笠原流の弓道を足利義政や細川政元に教えていたらしい。
その後、政元の家臣となり新参の内衆になった。

鬼の赤沢と言われるぐらい戦力としてはカナリ期待され、山城、河内、大和などを転戦して実績を出していたが、
薬師寺元一の謀反に同調した。しかし薬師寺長忠との戦いに破れ捕らえられたが、
これまでの今までの戦勝の実績を惜しまれて赦免され、再度大和や和泉、紀伊、丹後などを
攻撃し実績を出していた。

政元暗殺を知ると、撤退しようとするが、丹後守護の一色義有から攻撃され自害する。

>>646
義尚、義材、政元のそれぞれが、畿内の制圧を目差していた。

政元の畿内領国化計画がそれで、ほぼ実現しかかった時に殺される。

政元の間違いは、実子が居なかった事と1504年に畠山義英と尚順が和睦し
1441年以来の約60年ぶりの両畠山家の内訌が中断した事だろう。
京兆家の畿内での勢力拡大は、畠山家の分裂による弱体化がその背景にあり
それがなくなれば、京兆家と畠山家はモロに正面衝突となる。
それは大変にリスキーな事だし、寺社勢力や前将軍の義材の勢力なども
畠山家サイドに立って一緒に復活しかねない事態。

それを避けるために、政元は阿波守護家と和睦しなければならなくなった。
そうなれば政元に実子がいないのだから、澄元を京兆家の養子にしてくれと
阿波守護家から言われてしまう。その結果、薬師寺長忠と香西元長は、三好
之長の京兆家家宰就任を阻止する為に政元と澄元殺害を計画するようになる。
648人間七七四年:2010/07/27(火) 02:52:55 ID:9kMVpSfb
>>647

> 不思議だな〜、ソースは?

>>643に『披沙揀金』って書いてあるぞ?
649人間七七四年:2010/07/27(火) 05:14:45 ID:VO3EgTl+
義材にゃ寄るべきものがないから彼が畿内平定を志していたとしても机上の空論だったと思う
実際に政元にクーデター起こされちゃったし、その後はまあフラフラとアッチいったりコッチいったりと
名実伴っていたのが義尚の方で足利幕府最後の輝き
650人間七七四年:2010/07/28(水) 03:25:38 ID:1SBDncdf
義材は、肝心の奉公衆が全然掌握出来ていないから、全然ダメ。

義尚は、奉公衆が創出した政権とまで言われている。
義政が、全然幕府の実権を義尚に渡さないので、義政サイドの奉行衆と義尚サイドの奉公衆が武力衝突している。

でもその結果、義尚が実権を掌握し将軍親征を始めているから、奉公衆の義尚への期待が如何に高いか良く判る。

ここまで奉公衆や伊勢家、日野富子の支援が義尚サイドで固まるとなかなか細川政元も将軍廃立は難しいかも…
義尚が子供をつくらず、若死にしたのが案外室町幕府の崩壊要因の重要な一つかも。
651人間七七四年:2010/07/28(水) 15:38:05 ID:R54GB6ve
>>647
>政元の間違いは、実子が居なかった事と1504年に畠山義英と尚順が和睦し
>1441年以来の約60年ぶりの両畠山家の内訌が中断した事だろう。

実質、京兆家の傘下に入っていた畠山義英が、政元から離反して尚順と
和睦のは、薬師寺元一や赤沢朝経が謀反を起こしたのを見て、京兆家内
が混乱し弱体化したと見なしたから。

それを見ると、政元の失敗は、実子が居なかった事はその通りだが、
むしろ摂津守護代職をそのまま存続させ、薬師寺氏にそのポストを就けっ放し
にしていた事ではないかと思う。

丹波では、位田の乱(丹波国人一揆)の鎮圧時に上原元秀が解任されているが、
政元は丹波守護代職をこの時に廃止すべきだったと思う。
摂津守護代も摂津国人一揆の鎮圧時にでも廃止しておけば良かったのではないか。

上原元秀は、丹波守護代だけでなく摂津守護代も同時に兼任しようと動いていたらしい。
652人間七七四年:2010/07/29(木) 00:06:03 ID:evrqt7k7
薬師寺元一が、謀反を起こしたのは、摂津守護代職を政元が没収しようとしていると聞かされたからなのだから
やはり、政元はもっと早い時期に丹波、摂津の守護代職を廃止した方が良かったかもしれない。

丹波守護代の廃止の理由は“位田の乱”の発生で構わないが、摂津国人一揆の発生は摂津守護代の廃止の理由には難しいかも、
そうであれば、丹波守護代だけでも位田の乱終結時の1493年に廃止し、丹波は守護である政元の直接統治にしておくのも
悪くないと思う。

こういう意見を言うと、「この時期に京兆家では守護代廃止は難しい」と言う事を言う人が居るけど、
同じ時期に南近江の六角氏は守護代伊庭氏を2回の戦闘を経て押さえ込み守護代職を廃止している。
同じ畿内の六角氏が出来ているのに、京兆家が出来ない理由は無いと思う。

ただ政元が、早期に守護代廃止を実行しなかったは事実だし、後から慌てて摂
津守護代を没収しようとして将軍義澄に反対されたり、薬師寺元一に謀反を起
こされたりしたのは、やはり政元の判断として抜かったのだろうと思う。
653人間七七四年:2010/07/29(木) 16:21:59 ID:qXjwFegj
丹波しゅ
654人間七七四年:2010/07/29(木) 16:32:17 ID:qXjwFegj
丹波守護代は、位田の乱が再発した1491年に
摂津守護代は、薬師寺元一が謀反を起こした1504年に
それぞれ廃止べし。

政元も活動拠点を京の細川上屋敷(管領細川邸)から丹波や摂津に移し
守護所としての居城を建設した方が良い。
摂津では、茨木に滞在し安威に城を建設しそこが守護所となっている。
薬師寺氏も守護代所を茨木に設置している。

丹波は、八木城が内藤氏の活動拠点である為にここが守護代所と言われる。
655人間七七四年:2010/07/30(金) 04:27:27 ID:rliIka0v
それぞれ廃止べし。 ←× それぞれ廃止すべし。 ←○
656人間七七四年:2010/08/09(月) 22:51:48 ID:Do1waz1S
明応の政変の後京では放火事件が続出して、下京も上京も大火で大被害を受けたそうな。
当時の記録には「賊」がネズミの尻尾の先に火種をつけて離す、という無差別テロだったとか。
政元のクーデターに反発する反京兆家の運動はかなり活発に起こってたみたいね。
657人間七七四年:2010/08/11(水) 00:17:16 ID:UaPy2Zwa
京が政元に取って必ずしも安全な場所ではなかったとすると、
摂津などに居着いていたのは危険を避けるという意味もあるのかね?
658人間七七四年:2010/08/14(土) 16:38:27 ID:QujYllvv
京兆家は、勝元の時代から、つまり既に応仁の乱の最中から、公家や寺社の荘園の押領を恒常的に進めており、
権門体制や荘園保護の姿勢は捨ててしまっている。東軍総大将として東軍将兵の食料を確保すると言う名目で
丹波や摂津、山城、河内で京兆家直轄領の確保に血道をあげており、それにより分国とその周辺国での京兆家
の所領集中度を他の大名を寄せ付けないほど拡大させている事から、京兆家当主は、公家や寺社からは相当恨まれていただろう。

明応の政変で政元らに擁立された足利義澄も成年し日野富子が死亡すると次第に政元の言う事を聞かなくなる。
政所執事の伊勢貞宗も生前の日野富子の依頼により、義澄の後見人を務めている。
政元も貞宗の存在を無視することは不可能であったというから、明応の政変で奉公衆が崩壊しても
奉行衆を伊勢氏が掌握している限り、足利幕府は京兆家からは一定の独立性が有ったのかも。

政元と義澄は16世紀に入ると仲が次第に疎遠になり、意思の疎通も悪くなり政元は丹波や摂津での在国が多くなる。
流石に奉公衆が解体された後は、洛中の細川管領邸を攻撃するまとまった兵力は無いだろうが、
京兆家の畿内領有化計画が、次第に進むにつれ政所執事の伊勢貞宗と義澄の抵抗が激しくなったであろう。
そういう意味では、京兆家と足利将軍家・政所伊勢家は利害が一致していない。

山城の国一揆でも京兆家と政所伊勢家は、対立しているし、そもそも京兆家と伊勢家は
山城領国化を巡り競合関係に有る。不用意に伊勢貞宗に接近した上原元秀への暗殺未遂事件
を見ると京兆家と伊勢家の間で戦争にならない方が不思議。
伊勢家には、京兆家ほどの軍勢が無く、相手にならないので、幕府行政上のサボタージュを
繰り返して京兆家に嫌がらせでもしていたのだろうか?

これを考えると>>623-624で言った様に政元は、文亀年間に再度将軍廃立クーデターを起こして、
将軍の足利義澄や政所執事の伊勢貞宗を打倒すべきであった。そうすれば丹波や摂津の
守護代職の廃止なども速やかに行え、政元暗殺を招かなかっただろう。
政元は、分国の一円知行や畿内領有化を目的とした“下克上や上克下”の不徹底により自ら死を招いたとも言える。

それとあまり話題にならないが、政元は寺社勢力とも激しい対立関係に有る。
新興の本願寺門主と政元の関係は良かったが、門徒とは必ずしも一致していなかったし
京の延暦寺や大和の興福寺、紀伊の根来寺に限っては、戦闘になっている。
これら大寺院は、畿内に多数の荘園を持っており、この支配権を巡り対立するし、農民や国人門徒の数も多い。

政元が、畿内領有化による一円知行を目差せば、大名だけではなく、寺社とも対立する事になる。
659人間七七四年:2010/08/14(土) 18:58:19 ID:DgpT48tf
茶々丸享年何歳?
660人間七七四年:2010/08/15(日) 02:06:33 ID:5bWchret
わかんないんだろ、生まれた年月日が。自害したのが 明応7年(1498年)。
正式な元服をする前に自害したので成人としての実名である諱は伝わっていない。
近世後期に高松松平家が編纂した『歴朝要紀』には、何に拠ってか、茶々丸の名を政綱としている。

明応4年(1493年)、宗瑞(盛時が出家)は伊豆へ乱入して堀越公方足利茶々丸を討っている。
戦国時代の幕開けとされる事件だが、近年の研究では、この事件は中央で起こった明応の政変
(管領細川政元が将軍足利義材を追放して茶々丸の弟の義遐を将軍に据えた)に連動したものとする説が有力。

京兆家と伊勢家はこの件では一致出来たんだろうな、山城国一揆対策では一致出来ていないが。
661人間七七四年:2010/08/15(日) 04:58:41 ID:5bWchret
明応の政変で紀伊に逃げ込んだ畠山尚順は、紀伊守護として根来寺の僧兵集団
である根来衆や雑賀の国人商人集団である雑賀衆を組織し、彼らを対京兆家戦
部隊として活用した。
また、大和守護である興福寺が支配していた。大和国人を膝下の宗徒として興福寺が支配していた。
中でも筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏の四氏が「大和四家」と呼ばれる大和を代表する国人勢力に成長しており、
さらにその後を追って古市氏も国人として成長し始めた。
しかし、これらの代表的な大和国人衆の興福寺との被官関係は形式的な部分もあり、
実際には、大和国人衆は、隣国の守護家である畠山家との被官関係が深化して来る。
筒井氏と十市氏は政長・尚順陣営に、越智氏と古市氏が義就・基家陣営に別れ、
畠山家の内訌が大和にも影響し国人同士の内紛に発展した。

この事から、畠山尚順は、明応の政変後には大寺院の宗徒である根来衆や筒井氏と
十市氏、そして紀伊の雑賀衆を動員して京兆家との戦いを継続する。
雑賀衆はともかく、根来衆や筒井氏、十市氏は宗徒であり、政元と畠山家との戦いは
武家同士の畿内の領地争奪戦と言う形式を取りつつ、武家と寺社勢力との戦いという面もあった。

京の延暦寺は、平安時代後期から僧兵を擁し独立した武力勢力として武家と対立している。
延暦寺は応仁の乱後も僧兵の軍事力を背景に独立状態を維持していたが、明応8年(1499年)、
細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたために
足利義教以来再び根本中堂は灰燼に帰した。
662人間七七四年:2010/08/15(日) 09:05:06 ID:5bWchret
また、大和守護である興福寺が支配していた。大和国人を膝下の宗徒として興福寺が支配していた。←×

また、守護である興福寺が大和を支配していた。大和国人は膝下の宗徒として興福寺に支配されていた。←○

663人間七七四年:2010/08/15(日) 20:57:32 ID:K+J3jjfr
足利義教以来再び根本中堂は灰燼に帰した。

禁闕の変でも燃えなかった?
664人間七七四年:2010/08/16(月) 08:32:31 ID:AsQqXUy8
そうですた。

しかし、平安時代からの歴史がある延暦寺、興福寺、根来寺あたりは、畿内に膨大な荘園を抱えています。
京兆家からすれば、これらの大寺院の荘園は、押領の対象になるのでしょうから、
軍事的対立は仕方が無いのかも知れません。

政元の命令で、大和を2回ほど攻撃した赤沢朝経は、大和で大量の荘園押領をしています。

明応の政変後の畠山尚順は、宗徒である根来衆や筒井氏、十市氏を動員し、海運業者でもある雑賀衆も動員して
一時的に大和、河内、和泉を奪回しますが、京兆家が本格的に兵力を動員し反撃に出ると比較的
簡単に畠山尚順の軍勢は撃退されます。同じ細川同族である和泉両守護家も畠山尚順に同調していますが、
畠山尚順の勢の敗北と共に、京兆家の軍勢に制圧され、同族であり連合を組んでいた比較的対等な関係から
事実上京兆家の家臣とされてしまう。
応仁の乱終了後に、細川同族連合体が崩壊していた何よりの証拠になるが、
幕府の家格秩序の崩壊と下克上の観念の発生により、血縁関係よりも近場の
大名同士の関係を優先する時代になっていたと言る。
それと、やはり明応の政変以後の畠山尚順の軍勢には、他の大名の軍勢よりも僧兵が多い感じがします、
紀伊には本格的な国人が少なく僧兵や海軍業者を兼業している国人しか動員出来なかったのかも知れません。
比較的簡単に京兆家軍勢に畠山尚順勢が撃退されているのも、こういう背景が有るのかも。

京兆家の軍勢は、畠山尚順の軍勢とは異なり、丹波、摂津、讃岐の国人衆がその中核となっており、
典型的な大名軍勢の構成員にて組織されている。丹波と摂津の国人は場所的にも近く丹波国人の一宮氏
による政元誘拐事件や摂津国人一揆の発生時期などを見ると相互に連絡を取り合っている可能性が高い。

その点、讃岐国人と丹波や摂津両国人の関係は如何なのかが良く判らない。

澄元が政元の養子となり阿波国人で三好之長が京兆家に入ってくると畿内の
国人や内衆が激しく反発し、政元暗殺までに至るが、讃岐国人の場合は同じ
京兆家分国の国人としてそれほど問題が無かったのか、それとも15世紀後半
からは丹波や摂津、山城(上下)の守護代に讃岐国人が任命されていない事を
見ると、やはり讃岐国人と丹波と摂津両国人の間には一定の距離が合ったのか?
この辺りがあまり良く判らない。
665人間七七四年:2010/08/17(火) 08:24:20 ID:Ba0BmGPO
【名将】 畠山義就を語るスレ 【戦闘オタ】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1277309435/

12 :人間七七四年:2010/06/26(土) 09:03:20 ID:aIfYD4ln
戦国大名第一号は、北条早雲ではなく、畠山義就だ、って誰かが書いてたな。
誰か忘れたけど。

13 :人間七七四年:2010/06/26(土) 23:38:06 ID:W4Z7ZV+X
>>12
逆説の日本史で見たような気が
ただ、義就は元管領なんで、戦国大名じゃあないと思いますが

14 :人間七七四年:2010/06/26(土) 23:41:42 ID:b+7FIHvu
別に管領だろうと戦国大名になって構わないだろうが
そもそも戦国大名の定義があいまいなのでなんとも言えん

個人的には土着勢力を切り離して集権を行い近代化した大名を戦国大名と言いたいが
それだと細川政元が戦国大名で武田信玄は戦国大名じゃないということになる

15 :人間七七四年:2010/06/27(日) 10:36:51 ID:bpDOvLfE
>>14
それも認識がゆがんでいるようなw
その定義なら信玄よりもっと遅れた体制だった織田信長なんてなんて呼べばいいんだw
666人間七七四年:2010/08/17(火) 23:51:53 ID:17uDBE5l
667人間七七四年:2010/08/17(火) 23:54:58 ID:AnhDDb6a
地頭職を与えるのが守護大名で
知行を与えるのが戦国大名では?
668人間七七四年:2010/08/18(水) 08:10:27 ID:5wuvmtan
地頭は、中世の重複した土地の権利関係では、本家-領家-開発領主-荘官-地頭となっており、
任命権者は、荘園領主にあるのでは?荘園領主は、武士や守護とは限らず、院宮家、摂関家、大寺社が多いと思います。

知行の意味は、だいぶ広い意味で使われており、主君から土地などを給付された場合の事を言います。
地頭職も知行に含まれる可能性もあります。

守護大名と戦国大名の最大の違いは、前者が室町幕府由来の職務権限に基づく
領域支配なのに対し、後者は、全くの自立的な領域支配権力だと言う事です。
もっとも守護大名から戦国大名に上手く移行した大名も居ますから、
両者の間にそれほどの断絶は無いのかもしれません。

分国支配構造を見ると、守護領国制的な支配構造と大名領国制的な支配構造が
両方有る大名も居ます。政元時代の京兆家などにもそういう感じがあります。

政元は、摂津の茨木や芥川に城を築き、守護所としましたが、城下町や家臣の集住
までは行いませんでした。まだ京の細川管領邸にも守護所機能が残り、そこに内衆
や政元近習が詰めていました。守護としての重要文書の発給もそこで行われたケース
が多いようです。

ただその一方で、京兆家評定衆(守護代級内衆)の合議により経営されてきた
京兆家分国は、政元時代から、守護の一円知行の色彩が濃くなり、守護代の
存在が分国支配から排除される傾向にあります。そのために政元時代には
守護と守護代の対立が表面化します。
これと併行して、政元時代の京兆家は、室町幕府の職務権限由来の分国支配から脱却し、
京兆家当主による幕府より自立した直接的な領域支配を強めていると思います。

既に応仁の乱の最中から細川勝元により、分国内荘園の押領を繰り返しており、
守護による直接支配(直轄領)の拡大は始まっていると見ても良いでしょう。

大乗院尋尊から、「武士たちの荘園押領のなかで最も激しいのは細川勝元と朝倉孝景だ!」
と指弾されています。これは如何に京兆家が荘園領主である公家や大寺社の荘園を奪取したかがよく判ります。
669人間七七四年:2010/08/19(木) 23:18:42 ID:dlKjdQLD
畠山尚順は、紀伊にて根来衆や雑賀衆だけではなく熊野衆も動員している。
670人間七七四年:2010/08/20(金) 23:01:57 ID:+HcaedzP
尚順は、熊野衆だけではない、粉河寺宗徒も動員している。

畠山尚順は、明応の政変後に紀伊に逃げて来た時には、身一つの状態に近かった
のではないだろうか?従来の畠山家の家臣や軍勢は、明応の政変で壊滅したか
逃亡し事実上の崩壊状態となったと思われる。

そのために紀伊守護であるはずの尚順は、紀伊内での守護としての業務遂行
にも困難した可能性があるかもしれない。畠山基家の紀伊侵攻の防衛は何と
か成功させたが、基家や政元への反撃準備には時間がかかり、1495年によう
やく和泉守護家を味方につけ、反撃への道筋をつけた。本格的な政元に対する
敵対軍事行動は1497年からで、この時に和泉や大和にも侵攻している。
元々大和には政長・尚順サイドの国人も多く、この時の尚順への反撃に行動を共にしている。

このような事態から尚順は紀伊にて国人や地侍の根こそぎ動員となり
根来衆や雑賀衆、熊野衆、粉河寺宗徒などを動員している。
ただ根来衆は政長時代から畠山家軍勢として動員されており、明応の政変時
にも政長・尚順親子救出の為に紀伊国人の斉藤氏と一緒に一万の軍勢で出動
しようとしている。現実には京兆家側の大名で明応の政変に参加した赤松政
則や京極氏により根来衆と紀伊国人の斉藤氏の一万人の軍勢は、政長・尚順
親子との合流を阻止させられている。
政長は、当初は義材の元に残った8千名の軍勢と根来衆と紀伊国人の斉藤氏
の一万人の援軍を合流させ京兆軍勢2万と対決させようとしたが、援軍一万
の合流がないと判った時点で政長は自害した。
671人間七七四年:2010/10/03(日) 22:59:13 ID:DTBGeolj
丹波上原氏は細川京兆家に内衆として仕えていたのだが、
家中で特に目立つ存在ではなく、勢力もそれほど無かった。
しかし当時の当主上原賢家の次男元秀は父と兄を凌いで急速に頭角を表し、
1482年に丹波守護代に任ぜられ上原氏初の守護代就任を果たす。

その後も元秀は主君細川政元が管領に就任した際は伴衆として随伴し、六角氏との戦いでは先鋒として出陣し武功を挙げる等
政元の近臣として活躍する一方、和歌会・観世能の開催、富士山見物の為の旅費等資金援助を惜しまなかったため
更に政元の寵愛を受け、権力を増大させていった。

しかしこの費用を捻出するために丹波の公家の荘園や寺社領を横領し、土豪たちにも重税を課したため
激怒した土豪は挙兵した。いわゆる位田の乱である。一揆勢の抵抗は激しく、元秀は苦戦の末4年かかってこれを鎮圧している。
一説によると一揆勢がここまで頑強に抵抗したのは政元が密かに国人衆を支持していたからだともいう。

だが領内の動乱の一方で明応の政変では安富元家と共に畠山政長を自害させその遺臣を滅ぼし
足利義材を捕縛し幽閉するなど目覚しい武功を挙げた。
元秀の活躍と惜しみない資金援助に気を良くした政元は「元秀に細川の苗字を与え細川一族に加える」と一族家臣に発表した。
勿論猛烈な反発に逢いこの計画は頓挫し、逆に政元は他の内衆に「元秀の言う事だけを聞く事は慎む」という誓詞を書かされている。

そしてこの事件がきっかけとなり上原氏の没落が始まる。

元秀は元々自らの功と政元の寵愛を誇り、専横の振る舞いが多かったため同僚との仲は険悪だったのだが
この事件の後元秀の家臣と他の内衆の家臣との刃傷沙汰が度々起こる等の問題行動が重なり、
遂に1493年10月に同僚長塩弥六との喧嘩が刃傷沙汰に発展し、元秀は弥六を斬殺したものの自らも致命傷を負ってしまう。

傷は一向に癒えず死を覚悟した元秀は今までの罪滅ぼしのつもりなのか、横領していた荘園を公家たちに返還し
放逐処分を下していた住吉大社の神主の帰参を許すなどしたが、同年11月に死亡した。

その後上原氏は父賢家が丹波守護代を引き継いだものの、DQN赤沢朝経の讒言により追放され
元秀の兄秀家が跡を継いだが守護代職を没収され細川家中での上原氏の地位は失墜、すぐに没落してしまった。
672人間七七四年:2010/10/07(木) 20:55:33 ID:FGf3opsX
( ;∀;)イイハナシダナー
673人間七七四年:2010/10/07(木) 20:58:17 ID:kQ2kOHXX
上原元秀は京兆家当主権力の強大さと限界の両方を表しているな
674人間七七四年:2010/10/25(月) 03:00:55 ID:RCvgw2W9
>一説によると一揆勢がここまで頑強に抵抗したのは政元が密かに国人衆を支持していたからだともいう。

これが事態の肝だわな、国人層は上級権力である守護(京兆家当主)に寄生して
自らの所領を守りたかったのかも知れない。そのために中間に位置する守護代
級内衆が邪魔なんだろう。

国人にとっても、京兆家当主にとっても、中間的な守護代級内衆を排除して
守護の直接統治を考えていたために位田の乱は、発生したのかも知れない。
675人間七七四年:2010/10/25(月) 23:00:37 ID:CbbQ/rxu
そもそも、山城に守護領国制が確立されること事態が幕府にとって不都合の極み
676人間七七四年:2010/11/03(水) 09:44:01 ID:8dhBUISc
1478年に畠山政長が山城に守護領国制をひこうとして、日野富子と伊勢貞宗に反対されている。
その後に富子と義尚が、山城を領国化しようとする畠山政長を煙たがり、山城守護から解任しようとする。

しかし、その直後に何故か、政元の丹波国人による誘拐事件と京兆家評定衆による政元廃嫡未遂事件が勃発する。

そしてその2年後に幕府は正式に山城御料国化政策を発表している。
この時は山城守護に赤松政則、御料所代官に浦上則宗を内々に打診しているが、
山城国内での畠山家軍勢の存在を理由に辞退されてしまっている。

そして1485年の11月に山城守護に細川政元が任じられると言う噂が京の政界に飛ぶが、
その一ヵ月後に山城国一揆が勃発、両畠山家軍勢が山城より追放される。

山城を京兆家と畠山家で取り合っている感じだな、将軍家とその代官の伊勢家は
その間を行ったり来たりしている感じw
677人間七七四年:2010/11/04(木) 08:53:33 ID:fxVtTDSD
>>674
イギリスの名誉革命でも
ジェームス2世の追放に賛成している(ホイッグ)のは大貴族ばかり、
中小貴族(トーリー)は、ジェームス2世の追放に反対している。

これを見ると、分国内で大規模な所領を保有している守護代級内衆(京兆家評定衆)は、
守護(京兆家当主)を牽制して権限行使を抑制したいし、膨大な守護直轄領(京兆家当主所領)
の拡大を止めてして自分達の所領の方を拡大させたいんだろうな。

守護代級内衆(京兆家評定衆)は、守護(京兆家当主)を弱体化させることで
分国内の中小国人や寺社領、公家領を押領したいんだろう。

もっとも守護(京兆家当主)の方も領国経営に欠かせない直参の中小国人はともかく、
寺社領、公家領の押領に関しては、自分も行っているし、むしろ守護代級内衆(京兆家評定衆)
には寺社領、公家領の押領をさせないで、自分だけが押領しようとしている。

応仁の乱以後の足利幕府の統治権が弱体化する中で、分国の一円支配を巡り、
守護(京兆家当主)と守護代級内衆(京兆家評定衆)の間で利害の相反が起きている感じ。
678人間七七四年:2010/11/09(火) 00:39:18 ID:QjpfYWGF
経済的に自立できる大貴族や宿老級内衆は、自分達より上級な権力者は要らない。
つまり国王や守護は、弱体化するか、むしろ居ない方が勝手気ままに出来る。

しかし中小貴族や国人は、上級権力者によって大貴族や宿老級内衆を押さえ込んで
もらわないと、自分達の所領を大貴族や宿老級内衆に奪われる可能性がある。

その為に中小貴族や国人は、上級権力機構の構成員になり、上級権力者と一体となる事で
大貴族や宿老級内衆からの押領行為を防ぎ、自分達の所領を守ろうとする。
それが“政元が密かに国人衆を支持していた”と言う事の背景だろう。

丹波の上級権力者であり守護である政元は、上原元秀の押領行為が政元直参の国人所領にまで
迫ってきた為に京兆家の分国支配システムが崩壊する危険性を見出したのだろう。

公家領寺社領の押領だけならば、まだ政元の黙認は有り得たかも知れないが、
丹波守護の行政ラインスタッフである守護右筆や小守護代や郡奉行の構成員までもが
元秀に所領を押領され無足の浪人になってしまえば、京兆家当主の分国支配の手足が
無くなってしまうのと同じ事になる。
そうなれば上原氏による下克上で、京兆家分国である丹波を取られてしまう可能性すらあった。

政元としては、そうならないように、中小国人に肩入れし、位田の乱を密かに
支援して丹波の中小国人衆を支援し、反乱を長引かせる様にした。
上原家の丹波での一円支配は、守護の支援と中小国人衆の抵抗とで潰えたとも言える。

政元は摂津でも守護代薬師寺を常に監視して、分国支配システムの維持を図った。
679人間七七四年:2010/11/09(火) 00:41:37 ID:QjpfYWGF
>政元は摂津でも守護代薬師寺を常に監視して牽制し、京兆家分国支配システムの維持を図った。

680人間七七四年:2010/11/09(火) 15:20:25 ID:s0PjL0qU
>上原家の丹波での一円支配は、守護の支援と中小国人衆の抵抗とで潰えたとも言える。

上原家は京兆家内衆である為に丹波守護代に任官出来たし、下克上と言っても
京兆家内衆のメンバーと言う背景が有るうちは、他の内衆との関係や政元の牽制もあり、
なかなか支持層を拡大出来ない。なぜならば、京兆家評定衆には京兆家家臣団の
一揆的組織としての性格が強かったからである。京兆家評定衆は、特に守護代級
(宿老級)内衆の結束を図る事が目的であり、その次に家臣の意見調整や、京兆家
家督の権限行使の抑制と言う目的である。
こういう背景の中で上原家がいくら資金力を付けても、京兆家の家臣である内は、
露骨な下克上は不可能だ。それだけ京兆家の分国支配システムも機能していたし、
政元が当主を継いでからは、特に京兆家当主個人による分国の一円支配を目差して、
支配形態を寄り直接的なモノにしていた。その事が結果として守護代を分国経営から
遠ざける事に成ったであろう。
政元は、自分の右筆や分国内の各種奉行や郡代官、都市代官に中小国人層を
任命する事でこれらの職務を直接掌握し、分国の一円支配を目差したと思われる。
応仁の乱以降の分国内の京兆家所領、守護直轄領の拡大もその傾向に拍車をかけた。

その一例として京兆家分国内では、領民同士や惣村同士の耕作権争い、水争いなどでの
裁判では、自ら内衆や政元が家臣を現地に派遣して検分し事情を聴取して裁定を下し、
兵を率いた奉行人や代官に命じて判決内容の執行を現地で行わせるなど郷村の対立や
利害に直接的に関る様になって行った。この時代は判決の執行などは当事者の自力に
任されていたのだが、京兆家に関しては自己の分国の判決内容の執行には必ず京兆家
の代官や奉行、それらの率いられた軍勢により代行され、その後も定期的に執行場所
を点検巡回し判決内容が執行後も遵守されているか確認していた。また裁判の開始に
当っても事前の事情聴取や現場検証も京兆家の家臣が行う体制であった。

この様に京兆家分国での荘村、郷孫のリーダーや土豪達は、京兆家の意向が
判決内容やその執行に当り、直接的な影響力を持っている事を知っているので、
競って京兆家当主に仕える様になって行った。

この事は畿内には広く聞かれる様になり、山城の西岡中脈被官衆などは、この京兆家の
新しくてダイレクトな京兆家の判決執行システムに関心を示して、従来の畠山家の支配から
脱却し京兆家への仕官を目差す様になった。

また、この新しくてダイレクトな京兆家の判決執行システムは、将軍家から特権的闕所処分権を付与されている
京兆家と伊勢家が優先的に構築し易い。なぜなら、処罰されるような事があれば京兆家の家臣達は、全ての所領を
政元に持って行かれる可能性があり、その為により一層分国内の国人や土豪達は、政元への求心力を高める事になる。

ただしその執行費用がその領民に負担させる場合がほとんどであった。
681人間七七四年:2010/11/10(水) 00:06:50 ID:oBZKkJpx
中小国人が守護代級(宿老級)内衆から身を守る術として、政元直参衆や分国行政スタッフに
参加したという背景もあるのだろうが・・・

京兆家当主が、将軍家から特権的闕所処分権を付与されている怖い存在だからこそ、
ダイレクトな京兆家の判決執行システムや分国行政スタッフに中小国人を動員出来たのかも知れない。

もっとも政元からしたら、小規模な所領や兵力しかない中小国人よりも
守護代級(宿老級)内衆の所領を削り取る為に特権的闕所処分権を行使したいのだろうが。
682人間七七四年:2010/11/10(水) 08:44:46 ID:IXl3R4TD
政元の本当の敵は、守護代級内衆だからね。

彼を殺したのもそうだし。

政元は、力の無い分国内中小国人をそれほど相手にしていないだろう。
683◇ ◆7rwH1f27PA :2010/11/10(水) 20:30:13 ID:JfOiNjJl
てす
684人間七七四年:2010/11/10(水) 21:39:30 ID:IziBlpDQ
>政元は、力の無い分国内中小国人をそれほど相手にしていないだろう。

中小国人は、小さいながらも所領を持っている土豪的性格を失ってしまい、
京兆家に勤務するサラリーマンみたいな感じになったんだろう。

自宅の一階で床屋をやっていた人が、近所に1000円カットのQBハウスが出来てしまい
客が入ら無く成った為に、自宅の床屋を閉めて自分もQBハウスみたいなところに
サラリーマンとして勤め人になった感じ。

元自営の薬剤師が自分の店を閉めてサラリーマンとして大手ドラッグストアの管理薬剤師をやっている場合さえある。
685人間七七四年:2010/11/12(金) 01:08:58 ID:5fU4HPyt
政元の本当の敵は、守護代級内衆+畠山家。

両畠山家の合一が成った時点で政元の転落が始まる。
686人間七七四年:2010/11/25(木) 11:12:08 ID:T2IYdkpX
同族連合が破綻したとか旧来からの内衆が敵だとかを前提として語ってて
そうなっていった理由や過程や内実が言及されてないな。
687人間七七四年:2010/12/01(水) 19:43:02 ID:+n0L20P4
今まで散々書いたヤン、良く読めよ。

■同族連合が破綻した理由

京兆家最大のライバルである畠山家の分裂弱体化が、
応仁の乱以後に決定的になり、細川家が団結理由する理由が無くなった事。

特に京兆家と阿波守護家の山城守護職を巡る対立が激しくなった。

■京兆家当主と守護代級内衆の対立の背景

父勝元以来の京兆家直轄領の押領拡大策による分国一円支配を守護代級内衆が京兆家評定衆に結集する事で牽制したから。

また応仁の乱により、室町幕府の身分秩序が揺らぎ、守護代内衆が守護を差し置いて分国一円支配を目差す行為もあった。

しかし京兆家の守護代内衆は、在京守護代であり、守護を上回るほどの分国支配力(分国内所領集中度)が無く、
守護代内衆による分国支配は、政元の下ではナカナカ実現しなかった。
688人間七七四年:2010/12/03(金) 10:26:39 ID:M6tAoNbO
面白いけど語ってんのほぼ一人だよねこのスレ
689人間七七四年:2010/12/03(金) 12:44:38 ID:oK3mLc5A
>>688
このスレの主ですね!
このほぼ一人の方、明応の政変後信長入京までの畿内政治史にかなり詳しい方とみた。
690人間七七四年:2010/12/03(金) 13:43:59 ID:ylZ22B4W
>>688-689
原稿を持ち込んで初心者向けの新書でも書いて欲しい。
691人間七七四年:2010/12/03(金) 22:34:38 ID:e4l2JDT1
三好氏を勉強する身としては上の方で語られていた畿内型の国人がどの様な制度を取っていたのか
とか畿内と関東との違いとかが詳しく書いてて良かったし面白かった。
自分的に戦国板で一番勉強になるスレだわ。

詳しい人に聞くけど三好氏(長慶)が畿内に覇を唱えられたのは
やはり地方豪族・国人勢力からの信頼を得られたからだと思うんだけど。
三好氏の特徴として山城・西岡などの京近辺出身の被官が多いけど何か特別な理由があったのでしょうか。
あと、各国人勢力・阿波・讃岐・淡路などの阿波三好氏の兵站地は省いたとして
畿内三好氏が率いる独自の兵は一体何処で調達してたのかが今一つ解らない。
やっぱ畿内は下摂津の一部と西岡・山城辺りの地域以外では権限を行使しにくいのかね…





692人間七七四年:2010/12/04(土) 01:11:19 ID:KGfwYQp6
>>691
> 畿内三好氏が率いる独自の兵は一体何処で調達してたのかが今一つ解らない。

これは後に織田信長が大軍を率いられた理由にも成るのだけど、畿内は日本中で
余剰人口の最も多い地域であり、金や食料を出せばいくらでも兵は集められたと
考えられる。
693人間七七四年:2010/12/04(土) 01:17:00 ID:iaftCxuh
>>691
之長は阿波守護細川政之に従って在京しているんだけど、このときに「一揆之張本」になっていたという
記録が残っており、徳政一揆の編成を通じて山城西岡地区の国人を被官化していた可能性が指摘されている。
阿波については、之長・元長は吉野川中流域の領主を被官化して編成しており、吉野川水運を生かして畿内へ進出
する過程で下流の勝瑞を押さえ、撫養氏などの海運を押さえている領主たちを従えている。これにくわえ、篠原氏や
加地氏のような他国出身が加わっている。これらが三好氏の阿波国内での勢力基盤になっている(だけど、それ以外の
国人たちについては、あくまでも守護細川家から指揮権を預かっているだけという状態なので、軍事動員権を掌握できる
ようになるのは、実休が阿波守護細川持隆を討つ段階まで待たなきゃならない)。で、これらが長慶が畿内へ
進出すると三好実休のもとで編成され、後に実休が河内南部の支配を担ったときにもその中枢となっている。
で、実休が討ち死にすると、上記の阿波国人や三好笑岩が若年の長治のもとで結束を図っている。
694人間七七四年:2010/12/09(木) 11:50:41 ID:pYWccbr0
信濃の赤澤と阿波板西城主の赤澤信濃守ってどういう関係なんでしょうかね?
信濃の小笠原家と阿波の小笠原家の関係もいまいちはっきりしない。
信濃守を名乗る以上、信濃と関係が深いはずですが、
阿波側の資料が少ないようで、なんとも・・・。
細川、三好と京でつながりができて、阿波に下ったのか、
それとも、細川、三好とは関係なく小笠原家の事情で阿波に遷ったのか・・・。
もっというと、三好と小笠原は同族だって言うし、
結構ややこしいです。
695人間七七四年:2010/12/21(火) 22:19:44 ID:hvC9bsgG
>>693
>之長は阿波守護細川政之に従って在京しているんだけど、このときに「一揆之張本」になっていたという
>記録が残っており、徳政一揆の編成を通じて山城西岡地区の国人を被官化していた可能性が指摘されている。

京兆家と阿波守護家が、対立し始める最大の理由がこれ。

>徳政一揆の編成を通じて山城西岡地区の国人を被官化していた可能性

これは、阿波守護細川政之が、山城守護職を狙っていた証拠の一つとされる。
政元は、この頃丹波、摂津という先祖伝来の分国支配だけでなく、山城の分国化も狙っていた。

あと之長は、つまんない馬泥棒とか傷害事件とか上原元秀との喧嘩も起こしているので
これらも含めて幕府から逮捕命令が出ている。ただし阿波守護である細川政之の庇護を
受けているので、幕府の逮捕命令も執行されず伯仲堂々と徘徊している。
こんなんだから之長って武将としては全然評判悪くって、京兆家からの
悪評も手伝い人望が全然無かったらしい。

>阿波については、之長・元長は吉野川中流域の領主を被官化して編成しており、吉野川水運を生かして畿内へ進出
>する過程で下流の勝瑞を押さえ、撫養氏などの海運を押さえている領主たちを従えている。

阿波守護家の内部構造は、全然知らなかったので、勉強になりました。
阿波守護家では、京兆家派の旧来型被官と守護家派の新興被官がいて1479年と85年に
京兆家の意向で政之を守護から引きずり降ろす為に京兆家派の旧来型被官が阿波で
反乱を起こしている事しか知りませんでした。
696人間七七四年:2010/12/22(水) 15:25:52 ID:dlc6YjUo
澄之のみ子孫無しか
697人間七七四年:2010/12/23(木) 05:32:16 ID:Vtr1/E+O
政元の最大の失敗は、直系男子が居なかった事ですが、
政元の性癖を考えると無理な話。

もし直系男子が居れば、
公家の九条家や阿波守護家や野州家から養子だのナンだのと言う話は、
途中でポシャッテいるのでしょう。

政元自身、勝之という野州家からの養子と競い合い、細川京兆家と言う祭祀を継承しました。
ウィキによると、政元には、対山名家協調派が味方に付き、勝之には対山名家強硬派が付いたようです。
1472年に細川勝元は、勝之を廃嫡しますが、その時に14名の内衆が髻を切り落とし勝之廃嫡に抵抗している
事から、この時点で京兆家内に勝之派の内衆がおり、勝之廃嫡に抵抗があった事になります。

1479年の政元誘拐事件では、守護代級内衆が構成員である京兆家評定衆が、
政元の廃嫡と勝之の擁立を決めている事から、この時でも内衆内部に政元派と勝之派が有ったのかも知れません。
1479年の段階では、政元派は中小国人、守護代級内衆は勝之派と言う色分けですね。
698人間七七四年:2010/12/23(木) 05:35:16 ID:Vtr1/E+O
勝元による勝之廃嫡に反発があった事になります。←○

勝之廃嫡に抵抗があった事になります。←×
699人間七七四年:2010/12/24(金) 18:05:40 ID:TT9ngMFr
>>696
高国流も断絶したろ
700人間七七四年:2010/12/25(土) 09:16:21 ID:f53JT7q2
>>649 >>650
室町幕府も、義尚が子を残してその系統だったら実権を伴う幕府が続いていたかもしれない。
義材では正統性が弱いし、義澄以下の将軍は堀越公方系列の将軍で更に正統性が弱い。
いずれにしろ、それは小さなことで、幕府弱体化は時間の問題ともいえます。
701人間七七四年:2011/01/01(土) 21:18:46 ID:HMxs8ME5
>室町幕府も、義尚が子を残してその系統だったら実権を伴う幕府が続いていたかもしれない。

義尚の子が居たら、政元による明応の政変は出来たかどうか…

明応の政変は、伊勢氏や日野富子の支援があったから、成功した訳で、
それが無い場合にはカナリ苦しい。

以前に書きましたが、むしろ義尚流の足利将軍と細川京兆家(管領細川家)
の対立が恒常化し、畿内版の享徳の乱みたいな状態になるかも。
702人間七七四年:2011/01/02(日) 11:58:23 ID:8hmmDMjo
明応の政変が、成功した理由は、義材の西軍由来性を嫌う日野富子や伊勢氏の協力があったから。
将軍親衛隊である奉公衆もそれを理由に義材の元で団結していなかった。

義尚の子が居たら、そういう心配はないので、明応の政変は難しいかも。

応仁の乱後には足利将軍家の力は衰えていたとはいえ、細川京兆家が真正面に将軍家に軍事的に挑戦するとなると
ナカナカ決着が付かず、“享徳の乱”のように何十年も抗争が続く可能性がある。

京兆家は、将軍を京から追い出せても、将軍は、畠山政長、尚順親子や大内氏に支援されて
京兆家に永年抵抗し続けるだろう。
ただし、京兆家からすれば、自分より上位の権力が京や畿内からなくなる訳で、
守護代職の廃止や頻繁な交代は、可能になり、丹波と摂津の守護(政元)による
一円支配は史実よりやり易くは成る。

史実では、政元は薬師寺氏を摂津守護代職から解任しようとすると、
政元が擁立した将軍義澄に摂津守護代職解任を反対され実現出来なかった。
703人間七七四年:2011/01/02(日) 13:02:34 ID:/985WbCZ
しかし将軍権威あってこその京兆権力なわけで、足利一門である京兆家が将軍から離れて
その権力の正当性を持続できるとは全く思えん。
将軍から家督の分裂工作されておしまいだろ。
704人間七七四年:2011/01/02(日) 22:33:49 ID:RyRgsOQ2
足利家と細川家が別れたのはだいぶ前ですからね、
それに、その理屈だと、明応の政変は起こせない事になりますね。

>将軍から家督の分裂工作されておしまいだろ。

政元は、守護代級内衆に殺されますが、摂津守護代職解任の反対は、
案外、将軍義澄による京兆家の分断工作かも。

また、将軍を京や畿内から放逐してしまえば、
将軍による京兆家家督の分裂工作はやり難くなります。
705人間七七四年:2011/01/02(日) 22:43:22 ID:/985WbCZ
>>704
明応の政変は足利将軍の権威を否定したわけでもなんでもないし。
どのみち朝廷と直接つながるとか(政元はもしかしたらその方向性を模索していたかも知れないが)
そういう、将軍からのいただき物じゃない、京兆家独自の権威を作り出さないと
安定した独立勢力圏なんて作れないよ。
706人間七七四年:2011/01/03(月) 11:24:02 ID:Q2b+LFKx
>明応の政変は足利将軍の権威を否定したわけでもなんでもないし

将軍職や足利幕府を即座に否定はしていないと思いますが、
応仁の乱終結に伴う、幕府の支配領域の縮小や守護の在国化を見ると
政元に限らず守護の幕府からの独立傾向は否めません。

この時点での守護は、幕権の強化は守護による分国一円支配の
邪魔になると見て嫌がるでしょう。

>将軍からのいただき物じゃない、京兆家独自の権威を作り出さないと
>安定した独立勢力圏なんて作れないよ。

確かにそうですね。

明応の政変後には、義澄を新将軍に擁立し、義澄も成人になるとあんまり
政元の言う事には従わなくなります。

文亀2年には、義澄は将軍政務を放棄し寺に篭り、自分の弟義忠の殺害を含め
政元に色々と要求を突き付けます。この時点で政元は義澄追放のクーデターを
起こして義忠を還俗させて新将軍に向かえ、足利将軍は完全に京兆家の
傀儡になったことを畿内にアピールすべきだったかも知れません。

そうなれば、将軍に摂津守護代の交代の反対を言われる事は無かったかも知れません。
707人間七七四年:2011/01/03(月) 21:14:44 ID:NRas6V0M
>>706
義忠は義材の弟では?
708人間七七四年:2011/01/04(火) 21:58:44 ID:jU/iI+re
実相院義忠は、義材の異母弟ですた。失礼致しました。

>将軍からのいただき物じゃない、京兆家独自の権威を作り出さないと
>安定した独立勢力圏なんて作れないよ。

そういう意味では、山内上杉家は、上杉氏の宗家でもあり、上手い事足利義教を利用して
鎌倉公方を滅ぼし、関東管領の職をほとんど独占、上野国を本拠に武蔵、伊豆をも事実上
の分国としてしまい事実上関東一円の武士を掌握、鎌倉府以上の力を持つようになってしまった。

永享の乱から1447年の鎌倉府再興まで東国支配を関東管領が単独で8年間も受け持つことになったし、
享徳の乱でも28年間も古河公方と戦い続けるなどを考えると山内上杉家は、関東で独自の権威を
作り出したと言えるのではないか?

まあ〜1493年からは、後北条が台頭してしまうが。
709人間七七四年:2011/01/29(土) 13:22:05 ID:+KWodtDv
洋泉社の歴史新書で研究書でないかな?
710人間七七四年:2011/02/05(土) 14:03:37 ID:e12h1pA1
誰か自費出版で“細川政元”を書けば良いじゃん? 紙質の悪いペーパーバックで良いからさ〜
711人間七七四年:2011/03/02(水) 01:03:20.65 ID:0qNjJeoh
>>708
その点、北条得宗家は、上手い事自己の家を権威付けた。
北条時宗や貞時は、他家はもとより、同族傍流や得宗家臣筆頭(内管領)までも
滅ぼして謀反の発生を力で押さえ込んでいる。

政元も時宗や貞時を見習わなくては。
712人間七七四年:2011/04/22(金) 23:15:34.32 ID:TbQ68ykx
松山新介は一体何処出身の人だったんだろうか
三好氏勉強してる身だけどこの人謎すぎるんだよね。
斎藤利三が最初に仕えてた人って事と信長の高野山攻めの前線大将って事位か。
713人間七七四年:2011/05/01(日) 12:51:03.26 ID:8RyvYDu7
細川政元は上原一族で元秀しか興味なかったんだな。

賢家も一応守護代にしてやったがあっさり捨ててあと継いだのは守護代になる事すら無かった。
714人間七七四年:2011/05/11(水) 05:06:59.89 ID:MO2WedRl
元秀は、膨大な献金を政元にしていた、政元としては資金源として利用していた。

それに元秀は、丹波守護代に就いてから、強引な一円知行と公家領・寺社領・国人領の押領を始めており、
政元から見ると、下手をするとこのままでは丹波を元秀に乗取られかねない状態。

これ以上の上原元秀の一円知行や押領の拡大は、丹波の京兆家直轄領を上回る上原家領を形成させかねないし、
政元近習の国人衆(右筆・京兆家奉行人等)の所領も元秀は、押領し始め、“位田の乱”の原因になっている。
715人間七七四年:2011/05/11(水) 05:09:51.25 ID:MO2WedRl
また、元秀は、明応の政変では活躍している、政元は元秀の挙げた功績を高く評価し、細川姓を与えて
細川一門に加えるという考えを一門や内衆たちに披露したが、猛反対に合いこれは撤回させられている。
元秀は、丹波での継続的な押領行為や位田の乱などで周囲の反発をかなり買っていたのだろう。

政変後の元秀は、前将軍の身柄を逃がしたり、京兆家内衆でありながら伊勢貞宗に接近したり、
内衆だけでなく、政元自身からも不信を買っていたのかも知れない。位田の乱も一度鎮圧したのに
再発し、その鎮圧に時間がかかっているのは、位田の乱に参加した国人衆を密かに政元が支援した
可能性すらある。

元秀の最後は、政元近習の長塩弥六と喧嘩の末に抜刀し双方斬られ、長塩は元秀に斬られ即死し
元秀も重傷を負い一ヵ月後に死亡した。この事件も伊勢氏との協調路線を取る元秀への政元の刺客
という説がある。
716人間七七四年:2011/05/11(水) 11:10:34.91 ID:byzaeu7o
京兆家も伊勢氏と協調路線を取ったのは一緒じゃない?
この場合元秀は政元の意図とは別に独自に伊勢氏と結びつこうとした、って事なのかな?
717人間七七四年:2011/05/11(水) 23:36:08.10 ID:7hwKqbr2
かなり好き勝手やってるからそれも有り得そうだな。

刺客抜きにしても斬られるに充分な恨みを買ってたとも思うけども。
718人間七七四年:2011/06/08(水) 11:02:05.52 ID:UW79SYlO
戦国誕生 中世日本が終焉するとき (講談社現代新書) / 渡邊大門/著
http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/078f4162.0400bdaf.078f4163.d5699732/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f11192662%2f%3fscid%3daf_ich_link_mail&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f14664306%2f

>第6章 明応の政変そして戦国へ-中世日本の解体

誰か買った人がいたら感想聞きたい。
719人間七七四年:2011/06/08(水) 11:16:08.97 ID:WRD7uC62
>>718
面白かったのは面白かったが、基本義政期をざっとなぞった内容なので
基礎的な知識以上のものは求められないな。
明応の政変も事実の説明程度。
後何でもかんでも義政の無能で説明しようというのは無理があると思った。

個人的にはこの内容なら、明応の政変の部分も含めて吉川弘文館の日本の戦争史シリーズの
「応仁文明の乱」のほうが内容があると思った。
720人間七七四年:2011/06/29(水) 01:12:04.93 ID:9zFd79Ha
TIGER&BUNNY
721人間七七四年:2011/06/29(水) 02:11:09.55 ID:zJZZAfy6
>>719
助言ありがとう。
余力があったら、買うぐらいにするわ。
722人間七七四年:2011/08/13(土) 16:48:43.13 ID:/PPgmO7v
>>716-717
この明応の政変直前の時期には、上原親子は、赤松政則や畠山義就・基家、朝倉貞景と
連係して色んな工作をしています。特に畠山義就・基家親子とは伊勢貞親と同し位親しくしていた。

伊勢家は、山城の守護職に就いた事があるとは言え、基本的には分国を持っていない
足利将軍家に寄生する勢力です。しかし、義就流の畠山家は河内を分国とし大和も
事実上分国化し始めています。そういう意味では、京兆家と義就流の畠山家は、
河内や大和の支配を巡り何時なんどき敵対関係に成ってもおかしくない状態だった。

この時期、義就流の畠山家と細川京兆家は、同盟を組み始めていますが、基家の子義英の代には、
畠山政長の子尚順と和睦し畠山家は実に56年ぶりに統一されます。その後義英と尚順は、内訌が
始まっていた京兆家と敵対する軍事行動を取るなど、京兆家と義就流畠山家は、必ずしも安定的
な同盟関係を築いたとは言えません。

このように政元は、元秀が伊勢貞親だけでなく、畠山義就や基家とも接近し始めた事も懸念していた。
結局、元秀刃傷事件の背景には、政元の元秀に対する不信があったと思う。
723人間七七四年:2011/08/13(土) 16:59:36.49 ID:/PPgmO7v
失礼!
伊勢貞親はもう死んでいたw
貞宗だった。
724人間七七四年:2011/08/14(日) 03:06:11.21 ID:M5RDWn+B
明応の政変に我等が和泉細川家は何か関わってる?
725人間七七四年:2011/08/14(日) 11:08:02.63 ID:s8Rw1EqN
明応の政変には和泉両守護家は、たいして関っていないでしょう。
むしろ明応の政変後の細川政元と畠山尚順の対決に関っている。

1995年に明応の政変で紀伊に逃げ込んでいた畠山尚順は、紀伊の分国支配を完成させ、
畠山基家の紀伊侵攻を撃退する事が出来た。そこで1495年に畠山尚順は、和泉両守護家
の当主である細川政久と細川元有を抱き込み、尚順派大和国人の筒井順賢・十市遠治ら
も動員して細川政元と畠山基家に対する大反撃攻勢に出た。

当初は、この尚順の反撃大攻勢は、上手く行き基家の分国である河内を順調に制圧していた。
河内の守護所である高屋城も尚順軍に奪われ、1499年に基家は河内北部の河内十七箇所に
追い詰められ、そこで尚順と合戦と成り敗れて戦死した。
この方を聞いた政元は、当初基家に援軍を送るだけで良しとしていた態度を換えて自ら出陣
する事にし、京兆家分国である丹波・摂津・讃岐・山城の国人衆に総動員令を出している。

政元は、京兆家の大軍を集め、明応の政変以来の大軍とも言われる2万の軍勢を自ら指揮して
河内に侵攻した。尚順は摂津に侵攻して政元軍勢をかわそうとしたが、政元と基家の子である
義英が手を結び摂津に攻め込んだ尚順を攻撃して摂津天王寺で合戦と成り、尚順は大敗した。

尚順の反撃大攻勢は、この摂津天王寺の戦いの敗北で頓挫し河内でも敗走を重ね、
河内の守護所の高屋城も京兆家の軍勢に奪回される。政元と京兆家軍勢は順調に
進撃し河内を奪回、義英は政元の支持で河内守護に復帰する。
そして政元は部将であり、自分の弓道の師匠でもある赤沢朝経に別働隊を指揮させて
大和に侵攻させ、尚順派国人を攻撃させた。この大和侵攻も成功し筒井氏や十市氏等の
尚順派国人は大和から没落している。この時期から事実上河内と大和は京兆家の分国
となり、政元の支配下に入った。畠山義英は河内守護に復帰しているが、京兆家の
傀儡になってしまう。

政元は、更に進撃を進め、和泉にも侵攻するが、両和泉守護家は、河内や大和での尚順軍勢
の大敗を見て尚順と手を切り早々に降伏した。この行為を尚順は裏切りと見たようだが、
尚順軍勢の大敗があった以上当然ともいえる。

政元は、京兆家内の懸念も有ったが、重要な貿易港の堺を政元が欲しがった事や和泉で
大規模な戦闘になると摂津の重要な貿易拠点である平野にも影響が出る事などから、
細川政久と元有の降伏を受け入れたと言う。

しかしこの時点ではもう細川家同族連合体制は、崩壊し同族間の信頼関係や連係は無くなっていた
ので、政元は、京兆家の軍勢や代官を和泉に駐屯させる事を両和泉守護家との講和条件とした。
さらに両和泉守護家は京兆家の家臣となる事も承諾させられ、和泉は事実上京兆家の軍事占領下に
おかれてしまった。一説には堺の関税収入も京兆家の代官や奉行が徴収するようになった、とも言われる。

大敗した尚順は、再び紀伊に逃げ込み、京兆家が内訌で動揺し始めるまで逼塞している。
一部の京兆家軍勢は、この時に政元の部将に率いられ尚順の唯一畿内付近に残る分国である
紀伊にも侵攻していると言う説もある。

この様に15世紀末の畠山尚順の反撃は大失敗し、京兆家が河内・大和・和泉などを支配する事を
可能にさせ、京兆家の分国を拡大させただけだった。

この尚順の大反撃には足利義稙も呼応し、更に比叡山延暦寺も与同した。その為に政元は、
赤沢朝経と波々伯部宗量に比叡山の焼き討ちも命じた、彼らは京兆家軍勢を率いて比叡山
に攻め上り根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの
山上の主要伽藍を全焼させている。
726人間七七四年:2011/08/14(日) 18:17:26.52 ID:M5RDWn+B
ありがとうございます。
上守護家元有は確か幽斎の祖父ですよね
彼の代に和泉から追い出されたと聞いてたので畠山か三好にヤられたと思っていたのですがよりによって京兆家ですか
727人間七七四年:2011/08/14(日) 18:51:21.23 ID:pc2EA8Eu
>>726
元有が殺されるのは1500年の畠山尚順の再反撃の時です。
京兆家は、1499年に裏切った元有を一応許しているんですよ。

で尚順は、元有が京兆家に降伏した事を裏切りだと思ったようで、1500年に
尚順が元有を攻撃して和泉の守護所があった岸和田城が陥落、戦死します。

また、その後も元有の子の元常が和泉上守護家を継いでいます。幽斎の父ですね。

ちなみに>>725には一部誤りが有ります。
和泉両守護家が、京兆家に降伏し許される、と記載しましたが。
事実は、和泉下守護家の細川政久は1499年の京兆家による攻撃で戦死し、
ここで和泉下守護家は断絶しています。資料によって政久には九郎という
子息がいた記録が有りますが、これも不明ですが、一緒に京兆家との戦闘
にて戦死した可能性が大きく、政久の子息が、和泉下守護家を継いだ形跡は有りません。

この時期の京兆家は、細川氏同族連合体制が既に崩壊している為に同族であっても
敵対した場合には、容赦なく合戦に及んでいます。
728人間七七四年:2011/08/15(月) 15:04:19.97 ID:15AbXoao
>>719>>721
近衛前久が文庫本で出ているくらいなんだから、
文庫本で「細川政元」が発刊されないかな?
親父さんの細川勝元の解説本は、結構有るんだけど…

しかし京兆家って北条得宗家に似ているなw
得宗家は、御内人に乗っ取られるし、京兆家は、内衆に乗っ取られる。

権力が、下に下に行く感じ。


729人間七七四年:2011/08/17(水) 00:12:55.48 ID:2YEEY1ZQ
西摂津の国人池田氏は、大内政弘が摂津に上陸してきた時に一時的に大内氏に帰属する
も直ぐに東軍総大将の細川勝元の陣営に復帰、地元の摂津における池田家のほとんどの
領地を大内氏に占領されながらも西摂津の国人池田充正は、京兆家に帰属して東軍とし
て対大内氏との戦闘に参加した。

すぐに京兆家に復帰したのは、守護代薬師寺元長からの京兆家への復帰要請に応えたから、
とも言われ、池田充正は、大内氏に帰属したばかりだったが、京兆家に戻ってきた。

しかし摂津の嶋下郡の国人は、代々京兆家の摂津支配のラインスタッフとして京兆家当主
の近習となり京にも生活拠点を持って細川管領邸に勤務していた。しかし応仁の乱の拡大
により大内氏が摂津に上陸してくると応仁の乱終了時まで大内氏に帰属するケースが多く、
西摂津の国人池田充正に比べて京兆家に復帰する時期が遅かった。嶋下郡の国人が、大内
氏の配下から京兆家に戻ろうとしたのは、実に応仁の乱が終了して大内政弘が帰国してから
の事だった。

ちなみに西摂津の国人池田氏は、応仁の乱以前から有力な摂津の国人であり、歴代の京兆家
当主も皆注目していた。室町時代中旬の充正の時に経済的にも威勢が大いに上がった。
充正は幕府管領細川勝元に属し、その被官のなかでも有力な国衆であり、「嘉吉の乱(1441)」後、
荘園の代官請負や高利貸によってたいへんな富を貯えた。一国人でありながら守護大名に匹敵
する経済基盤を確立し、その繁栄ぶりは中央にまで聞こえ、貴族からも「富貴栄華の家」
「富貴無双」などと称された。
嘉吉三年(1443)には池田城を改築したが、当時としては珍しかった本丸の周辺に弓場や馬場を設けた。
また高台地を屋敷町にし、常備の武士を城内に置いて非常に備えるなど、武士がそれぞれの領地に
住している時代としては進歩的な試みをみせている。
 
その後、応仁の乱が勃発しようとするとき、勝元麾下の有力国人として、騎馬十二騎、野武士千人を
従えて上洛した。そして、応仁の乱では勝元率いる東軍に属して、西軍方の大内氏と地元摂津で戦い、
文明元年(1469)池田城を落され池田氏の所領のほとんどを大内氏の軍勢に占領されてしまう。
しかし、1477年に大内氏が撤退したことで池田城を奪回すると以前よりも更に領地を拡大し、同十年
には摂津国桜井郷の代官職を獲得した。
 
充正はその一代において、大広寺の伽藍諸堂を再建して菩提寺とし、池田氏の基礎と財政基盤を
築きあげ、また大内氏との戦闘においても京兆家から認められ西摂津の有力国人としての地位を確立した。
応仁の乱以前から池田氏は経済的に有力な国人であったが、対大内氏との戦闘参加の功を京兆家に認められ
更に摂津国内と京兆家被官としての地位が高まって行った。
730人間七七四年:2011/08/17(水) 10:49:16.38 ID:G1AjTV4d
西摂津の国人池田氏は、大内政弘が摂津に上陸してきた時に一時的に大内氏に帰属する
も直ぐに東軍総大将の細川勝元の陣営に復帰、地元の摂津における池田家のほとんどの
領地を大内氏に占領されながらも西摂津の国人池田充正は、京兆家に帰属して東軍とし
て大内氏への戦闘に参加した。

すぐに京兆家に復帰したのは、守護代薬師寺元長からの京兆家への復帰要請に応えたから、
とも言われ、池田充正は、大内氏に帰属したばかりだったが、京兆家に戻ってきた。

摂津の嶋下郡の国人は、代々京兆家の摂津支配の行政スタッフとして京兆家当主に直結した
近習となり在京して細川管領邸に勤務していた。しかし応仁の乱の拡大により大内氏が
摂津に上陸してくると、京兆家から離反して応仁の乱終了時まで大内氏に帰属するケースが多かった。

嶋下郡の国人衆は、西摂津の国人池田充正に比べて京兆家に復帰する時期が遅かった。
嶋下郡の国人衆が、大内氏の配下から離れて京兆家に帰参しようとしたのは、実に応仁の乱が
終了して大内政弘が帰国してからの事だった。

ちなみに西摂津の国人池田氏は、応仁の乱以前から有力な摂津の国人であり、歴代の京兆家
当主も皆注目していた。室町時代中旬の充正の時に経済的にも威勢が大いに上がった。
充正は幕府管領細川勝元に属し、その被官のなかでも有力な国衆であり、「嘉吉の乱(1441)」後、
荘園の代官請負や高利貸によってたいへんな富を貯えた。一国人でありながら守護大名に匹敵
する経済基盤を確立し、その繁栄ぶりは中央にまで聞こえ、貴族からも「富貴栄華の家」
「富貴無双」などと称された。
嘉吉三年(1443)には池田城を改築したが、当時としては珍しかった本丸の周辺に弓場や馬場を設けた。
また高台地を屋敷町にし、常備の武士を城内に置いて非常に備えるなど、武士がそれぞれの領地に
住している時代としては進歩的な試みをみせている。
 
その後、応仁の乱が勃発しようとするとき、勝元麾下の有力国人として、騎馬十二騎、野武士千人を
従えて上洛した。そして、応仁の乱では勝元率いる東軍に属して、西軍方の大内氏と地元摂津で戦い、
文明元年(1469)池田城を落され池田氏の所領のほとんどを大内氏の軍勢に占領されてしまう。
しかし、1477年に大内氏が撤退したことで池田城を奪回すると以前よりも更に領地を拡大し、翌年
には摂津国桜井郷の代官職を獲得、本貫地豊島郡でも次々と押領していった。
 
充正はその一代において、大広寺の伽藍諸堂を再建して菩提寺とし、池田氏の基礎と財政基盤を
築きあげ、また大内氏との戦闘においても京兆家から認められ西摂津の有力国人としての地位を確立した。
応仁の乱以前から池田氏は経済的に有力な国人であったが、大内氏への早期の戦闘参加の功を京兆家に
認められ応仁の乱以前よりも京兆家被官としての地位が高まり、西摂津での勢力も拡大していった。
731人間七七四年:2011/08/24(水) 13:43:02.96 ID:sVy1Q0Vs
細川高国の最後アワレ
732人間七七四年:2011/08/24(水) 21:18:04.05 ID:S5UvA0F2
細川政元掠奪(誘拐)事件
http://lovekeno.iza-yoi.net/20060707d.htm
政元が管領である意味
http://lovekeno.iza-yoi.net/20060707e.htm

 
 畠山政長=島田伸介
733 忍法帖【Lv=7,xxxP】 :2011/08/25(木) 07:00:45.12 ID:5uHW0tUF
>>731
政元も相当カッコ悪い死に方だぞw
734人間七七四年:2011/08/27(土) 07:20:03.53 ID:sepeDNLf
応仁の乱終結後の西摂津の国人池田氏の台頭に刺激されたのが、山城に近い嶋下郡の国人衆であった。
前述したように、京兆家は、当主直結の近習に嶋下郡国人衆を採用し分国である摂津の行政スタッフ
として他の摂津の国人よりも高い地位に居た。池田氏は単に国人として守護に軍事的に従属する関係
でしかなかったのだが、嶋下郡国人衆は、京兆家当主近習として歴代京兆家当主(摂津守護)の文書
発給業務に直接関与していた。
しかし、西摂津の国人池田氏の早い時期の京兆家への帰参や東軍サイドでの軍功により京兆家内部に
おいて乱以前よりも池田氏の地位が上昇した。その結果京兆家により摂津国人としての地位も上昇し
嶋下郡国人衆を凌駕する位置づけとなった。

この為に1477年に大内氏が摂津から撤退、応仁の乱が終結した時点で嶋下郡国人衆は、従来の摂津国
内(京兆家内部)の地位を復活すべく急いで京兆家に帰参し乱以前の京兆家当主の近習に戻ろうとした。
特に代表的な嶋下郡の国人である茨木氏、吹田氏、三宅氏、芥川氏の四氏は、西摂津の国人池田氏の
台頭に焦りを持っていた。茨木氏は単なる京兆家の国人被官ではなく内衆の称号を持つ程の地位にあったし、
吹田氏は京兆家内衆の長塩氏と長年に渡る親交が有るなど京兆家中枢とも接点を持っていたのである。

京兆家の守護代級(宿老級)内衆は、細川勝元が1473年に死亡すると、跡を継いだ聡明丸(政元)が、若干
7歳である為、従来の管領内意見人(管領管国内意見人?)制度を拡充し構成メンバーの権限を強化して
京兆家当主や分国守護の業務を補佐するという名目で“京兆家評定衆”を設置した。これは当主代行の細川
政国の諒承は得ていたと思えるが、明らかに守護代級(宿老級)内衆の合議(一揆)によって京兆家当主の
守護権限の乱用的執行を阻止する面があった。細川勝元は、応仁の乱の時期に守護大名で最も多くの荘園押領
を繰り返し分国内の京兆家直轄領を拡大させていた、と言う事実があった。また勝元には、家臣が罪を犯した
場合には家臣の所領や荘園代官職を守護である勝元自らが没収出来る特権的な闕所処分権すら幕府将軍に認め
られていた。

摂津嶋下郡国人衆は、77年に京兆家への帰参を申し出たが、74年の聡明丸(政元)の京兆家当主相続直後に設置
されたらしいこの“京兆家評定衆”により帰参を認められなかった。特に嶋下郡国人衆が求めていた京兆家当主
と直結する近習への復帰は、事実上不可能になった。代表的な嶋下郡国人衆の1人である三宅氏が、大内氏に帰属
している時期に積極的な軍事行動を展開し、京兆家との敵対性を強めた事も理由としてあった。
735人間七七四年:2011/08/27(土) 07:20:45.70 ID:sepeDNLf
翌78年には将軍義政が、応仁の乱の最中に武家が押領した寺社領の返還を促進する政策を始めると、嶋下郡国人衆は、
それを理由に相互の連絡を活発化させ国人一揆の準備を始める。そして79年6月に嶋下郡国人衆は、国人一揆を開始して
公然と京兆家と敵対する行動にでる。また将軍義政の寺社領の返還促進政策にも反発し寺社の荘園領主支配を排除する
姿勢すら見せてしまう。こうなると公然たる幕府への反逆であり、後に管領畠山政長の軍勢にも制圧される理由の一旦となる。

しかしこの摂津国人一揆は、嶋下郡の国人衆のみの限定的な国人一揆であり、発生理由も当初は幕政に対する
反感と言うよりは、 京兆家内部の当主と直結する勢力と当主の権限・所領の拡大を抑制つつ京兆家を維持する
勢力との内紛であり、お家騒動の色彩が強かった。京兆家評定衆による嶋下郡国人衆の京兆家(中枢)からの
排除が、摂津国人一揆勃発の最大の発生理由である。嶋下郡国人衆は、自己の権力と経済基盤強化のために在地
の荘園押領にも乗り出し、それも国人一揆結成の理由となっている。しかしこの事は、幕政への公然たる挑戦と
なり幕府との敵対関係をも鮮明にするだけではなく、摂津守護代職を持つ薬師寺氏を始めとする京兆家評定衆
(宿老級内衆)との対立も激化させる事になってしまった。この為に3年後の82年には幕府軍としての性格がある
管領畠山政長と京兆家当主の細川政元の連合軍により摂津国人一揆は鎮圧されてしまう。

しかしこの79年6月に勃発した嶋下郡国人衆による摂津国人一揆は、同じ京兆家分国の丹波の国人である一宮
(いちのみや)宮内大輔による政元誘拐事件に連動している可能性がある。政元誘拐事件の発生は79年の12月
であるが、時期としては半年しかズレていない。また、両事件とも発生理由が、京兆家と直結する国人近習と
京兆家評定衆のメンバーである守護代級内衆との対立で発生しているのである。

丹波と摂津は、双方とも最重要な京兆家分国であり、両国の国人衆は、距離的に人馬で一日乃至半日で往来可能
な京にも定住し細川管領邸で近習として勤務していた。当然の事ながら両国人双方には交流関係があり、京兆家
当主(守護)を行政スタッフとして直接的にサポートしていた。
特に勝元時代は、応仁の乱の最中に守護大名としては最も荘園押領を繰り返し分国内の勝元の所領を拡大させて
いる事から、同じく分国内に国人よりも多く所領を持つ京兆家の宿老級内衆の懸念を買っていた。しかし勝元生
存時にはその対立が表面化する事は無かったし、勝元時代は当初は野州家出身の細川勝之が京兆家の跡継ぎだった
為に宿老級内衆は、勝之の下に結集し彼を守り立てつつ京兆家当主の直轄領や権限の拡大を抑制する事を目指していた。

しかし、応仁の乱での西軍との講和で山名家血統の聡明丸(政元)を跡継ぐ事になり、勝之は廃嫡された。
その時には勝之本人や内衆・被官数名が廃嫡に抵抗・抗議し本鳥(髻)を切っている。この様に聡明丸(政元)
の相続の裏には勝之廃嫡が有り、勝之相続を願う宿老級内衆には聡明丸(政元)の相続には抵抗があった。
この事も京兆家評定衆設置の一因になっていると思われる。

しかしこの事が有るからこそ、逆に宿老級内衆から常に所領押領の危機がある丹波と摂津の国人から京兆家
当主である政元は支持される理由になっており、丹波・摂津両国人が更に上位の権威である守護(京兆家当主)
を持ち出して宿老級(守護代級)内衆と対決した背景となっている。
736人間七七四年:2011/08/31(水) 12:12:05.74 ID:VQLIllW6
細川勝元の時代にあった“管領内意見人”制度が、1473年の政元の家督相続時に
京兆家評定衆に再編拡充された。元々管領内意見人と言う制度が有り、それが
京兆家評定衆と言う名前に変わっただけと言う意見もあるが、意見人と評定衆
では明らかに言葉の意味も異なり、評定衆の方が権限を強いと思われる。

そもそも意見と評定には以下の様な言葉の違いが有る。

★意見→@ある事に対する考え。見解。 A好ましくない行いに対する注意。忠告。諫言。
★人→@ひと、ひとがら。Aその行為をする人。その役目の人。B身分。C従者、家来、供。

★評定→会議の事。皆で相談して決める事。「評定衆・小田原評定など」
★評→物事の良し悪しを諮る。品定めをする。★定→物事を決めて変えない。さだめる。さだまる。★衆→@人数が多い。A多くの人々。

この様に意見人には、京兆家当主ないし管領に対して意見人が自分の見解や忠告を述べる事が出来るが、
それを聞くかどうかは、京兆家当主ないし管領という意味になる。つまり意見人は、自己の見解を述べる
だけで決定権は無い地位と思える。また○○人と言う使い方だと、その役目の人、身分と言うだけで、
人数も定まっておらず、当主や管領との関係はあくまで一対一の関係になる。
現代でいうと顧問としての地位に近いと思われる。

しかし評定衆だと言葉の意味として既に複数である事が前提になっており、京兆家当主は、
その会議の構成員の1人でしかない、と言う意味に解釈出来る。更には決定権も有る事になる。
“人”と“衆”の違いであり、“定”の意味には決定する事が含まれているからである。
“評定”の意味だけでも複数の人員での会議と言う意味があり、更に“衆”で複数を強調している事
を見ると会議や合議体である事は一目瞭然であり、京兆家当主(守護)の権限を会議や合議体
に移行させた事乃至はその意志や方向性が明白である。

この様に言葉の意味だけ見ても権限において意見人=評定衆ではなく意見人<評定衆という事が判り、
管領内意見人の権限を強化し人員も増やした制度が、京兆家評定衆だと判る。

京兆家評定衆は、京兆家根本被官の性格が強い守護代級(宿老級)内衆による合議体であり、
京兆家当主の権限を移したモノと言える。
737人間七七四年:2011/08/31(水) 16:21:38.26 ID:AF4nblnC
管領内意見人と京兆家評定衆とをそれぞれ構成する氏族はほぼ同じだから、せいぜい発展形でしょう
738人間七七四年:2011/08/31(水) 23:01:19.06 ID:PekLtL2g
強烈な印象を残している上原元秀、wikiも無いのは何だかw
やってることは傑物レベルだけど
現代になってまで表に殆ど出てきてないってのは相当嫌われてたんだろうな
739人間七七四年:2011/09/01(木) 00:05:19.01 ID:bWjfMMF7
740人間七七四年:2011/09/01(木) 06:35:34.54 ID:dEeqOgRz
>>737
いや、評定衆の方が全然権限強化されているって。

第一、言葉の意味からして意見人と評定衆じゃ全然異なる。

評定衆は、ここのメンバーに決定権が有るし、会議を前提にした複数形の名称。

意見人は、単独形の名詞で自分の意見を言いっぱなしの状態で
実際には複数居たとしても管領との関係は個別に一対一だった。

意見人=顧問、評定衆=取締役(取締役会)位の違いが有る。

それに新当主の聡明丸が幼少と言うのが京兆家評定衆設置の大義名分だろうが、
当主代行として典厩家の政国が、当面は面倒を見る事になっていたはず。
当主代行として政国が居るのに何で守護代級(宿老級)内衆は、京兆家評定衆を設置したのよ?って事。

応仁の乱の拡大進展による幕府の分裂や弱体化、家格秩序の崩壊等により管領細川一門が、
守護代級(宿老級)内衆に一歩引く形で京兆家評定衆を設置を認めたか、それとも
京兆家庶流の野州家や典厩家と守護代級(宿老級)内衆の利害が一致して新しい京兆家当主
を掣肘し権限の一部を取り上げる為に機関決定の場を設置したかのどちらかであろう。

>強烈な印象を残している上原元秀、やってることは傑物レベルだけど

守護代なのに丹波の一円知行を目指すのは一見して税収増加や安定確保につながるが、
守護代による下克上でもあり丹波守護である京兆家当主に対する反乱準備行為とも見える。

既にこの頃には、守護代による守護への軍事的反逆は始まっている。
(越前の甲斐常治、甲斐の跡部氏、武蔵の長尾景春、など)

それと京兆家内衆なのに畠山基家や伊勢家と繋がり彼らの利害を組んで政治活動を
行うなど京兆家からしたら謀反人とも言えなくも無い。

喧嘩で斬られたと言う事になっているのかもしれないが、政元が殺害を命じた可能性も有る。
741人間七七四年:2011/09/01(木) 19:32:30.60 ID:sdVWmecz
>>740
歴史学において
>意見人は、単独形の名詞で自分の意見を言いっぱなしの状態で
実際には複数居たとしても管領との関係は個別に一対一だった。
意見人=顧問、評定衆=取締役(取締役会)位の違いが有る。

のような国語辞典的解釈をしても説得力が全く無いので、
一対一の関係を示す文書、顧問的役割を示す文書を挙げる方がよいかと。
742人間七七四年:2011/09/02(金) 01:46:12.73 ID:X7I+ZzzB
>>741
>国語辞典的解釈をしても説得力が全く無いので

官職の名前の由来や内容如何でもよい、何て言い切りやがって、すごい歴史学者だねw
征夷大将軍の意味も良い、と聞こえるわ〜
(源頼朝が何故“大将軍”職に就きたかったのか、コイツにとっては如何でも良いw)

取締役と執行役、執行役員の違い判っていないな、コイツはw

まあこっちも学者でもネーシ、証拠文章は挙げられません、古文読めないし。

逆に意見人が居ても勝元の数多い荘園押領を止めた乃至は方針を変更した等の記録は、見た事無い。

政元の代になると、京兆家評定衆との間で分国経営や軍事行動をめぐってガタガタもめているイメージしか無い。

>構成する氏族はほぼ同じだから、せいぜい発展形でしょう

発展したから、評定衆の権限が強化された、ともいえる。

また、構成する氏族が同じなのは、評定衆のメンバーを守護代級(宿老級)内衆に限定したから、

京兆家評定衆設置の意味には、京兆家当主の補佐(当主権限の部分的委譲)だけでなく、
守護代級(宿老級)内衆によるそれ以外(以下)の京兆家内衆や家臣への統制強化の意味もある。
743人間七七四年:2011/09/02(金) 02:02:21.54 ID:X7I+ZzzB
>当主代行として政国が居るのに何で守護代級(宿老級)内衆は、京兆家評定衆を設置したのよ?って事。

>応仁の乱の拡大進展による幕府の分裂や弱体化、家格秩序の崩壊等により管領細川一門が、
>守護代級(宿老級)内衆に一歩引く形で京兆家評定衆を設置を認めたか、それとも

>京兆家庶流の野州家や典厩家と守護代級(宿老級)内衆の利害が一致して新しい京兆家当主
>を掣肘し権限の一部を取り上げる為に機関決定の場を設置したかのどちらかであろう。
744人間七七四年:2011/09/02(金) 05:52:59.26 ID:QM+BcsoI
>>742
>源頼朝が何故“大将軍”職に就きたかったのか
征夷大将軍就任(辞任)後も「前右大将」を名乗り続けた頼朝のことをどうお考えですか?

>取締役と執行役、執行役員の違い
委員会設置会社の子会社として執行役員制度を持つ会社を立ち上げる
というややこしいことに関わったことがあるから、普通の人よりは詳しいよ。
むしろ取締役会で報告すれば取締役個人に対してはレクの必要は無いけど、
代表取締役や顧問に対しては取締役会の前に個別にレクが必要なことが多いから、
むしろ顧問の方が存在感が大きいので、意見人=顧問、評定衆メンバー=取締役
に例えるようなやり方はいかがかな、と思いました。
745人間七七四年:2011/09/02(金) 07:26:27.17 ID:2w7rI7uf
>「前右大将」を名乗り続けた頼朝のことをどうお考えですか?

やってらんネーから、直ぐに辞めてやったよって事。後鳥羽法皇に任命された時からブーたれてた。

一橋慶喜の禁裏守衛総督の方が、実際に働いている。
ま、江戸には家茂がいたし江戸幕府の旗本官僚組織はシッカリしていたし。

>顧問に対しては取締役会の前に個別にレクが必要なことが多いから、
>むしろ顧問の方が存在感が大きいので、

それ何て長老支配の会社w総会屋事件当時の味の素?ブレジネフ時代のソ連共産党みたいw

石神隆夫の『汚れ役 -「味の素総務部」裏ファイル』(太田出版)って面白いらしいなw
味の素は「4長老」が支配。創業家直系で名誉会長の四代鈴木三郎助、三代三郎助の娘婿の鈴木恭二(味の素5代社長)
鈴木家の番頭である渡辺文蔵(同6代社長)、歌田勝弘(同7代社長)の4人だ。石神隆夫は、この4長老に使われていたのだろう。

だが、味の素創業家の鈴木家は、京兆家に似ている処が有る。同じ同族の四代鈴木三郎助と鈴木恭二は仲良くない。
本家筋の四代三郎助の社長就任を娘婿で分家筋恭二が、三郎助の私生活に問題ありとして阻止してしまったからだ。
これ以降、本家筋の四代三郎助と娘婿の鈴木恭二は、対抗関係に有った。4長老と言っても仲が良い訳でもない。

>委員会設置会社の子会社として執行役員制度を持つ会社を立ち上げる
>というややこしいことに関わったことがあるから、普通の人よりは詳しいよ。

自己の経歴を誇りたいのは判るが、執行役制度(委員会設置会社制度)が日本の実情に合わず、
ほとんど採用されていない事も言わなくちゃ。商法改正して執行役制度(委員会設置会社制度)
を止めても良い位ダメダメな制度、取締役と執行役の兼任アリなんてトンでもない制度的欠陥。
746人間七七四年:2011/09/02(金) 07:47:32.07 ID:2w7rI7uf
(修正)娘婿の鈴木恭二→三代目三郎助の娘婿の鈴木恭二

執行役員制度と執行役制度は別物。
747人間七七四年:2011/09/02(金) 18:54:27.57 ID:JnMLguK5
京兆家について興味深いことを言っていたけど、
論拠が現代国語的な言葉の解釈であったり、
比喩が適切ではなかったので(取締役も大将軍も)、
それを指摘したら、幼稚な逆切れが返ってきたのには失望しました。
例えば、「管領内意見人」が単独で活動している傍証を挙げたり、
「意見(異見)」という言葉を当時の用法からアプローチしたり
していれば、とても良い論説になったと思うだけに残念です。

>やってらんネーから、直ぐに辞めてやったよって事。後鳥羽法皇に任命された時からブーたれてた。
これは初耳なので興味ありますが、
「後鳥羽天皇に征夷大将軍に任命されたこと」
「後白河法皇に右近衛大将に任命されたこと」
のどっちの誤記か不明なのでノーコメント。

執行役員制度と執行役制度は別物だということが分かっているから、
「委員会設置会社の子会社として執行役員制度を持つ会社を立ち上げる
というややこしいこと」と言ったのですが、伝わらなかったようで残念です。
748人間七七四年:2011/09/02(金) 20:17:58.47 ID:OdGzevf3
>本家筋の四代三郎助の社長就任を娘婿で分家筋恭二が、三郎助の私生活に問題ありとして阻止して…

これ知っていたか?

ちなみに今の業積低迷のソニーも長老支配会社な、顧問が45人(笑)居る。
アップルのiPodシリーズも最初はソニーが計画していたが、ソニーの音楽部門が著作権をたてに大反対。
ソニーのiPod計画を潰した。その時に音楽部門の顧問達が大活躍している。

ホリエモンが、フジテレビの次に乗っ取ろうとしていたのがソニー。
しかもそのソニー買収ファンドのスポンサーにホリエモンが想定していたのが、サムスン。
ホリエモンは、韓国のスパイだな、逮捕されて良かったw

>例えば、「管領内意見人」が単独で活動している傍証を挙げたり、
>「意見(異見)」という言葉を当時の用法からアプローチしたり

古文読めない、と何べん言えば?

>幼稚な逆切れが返ってきたのには失望しました。

ハイハイ、サヨナラ!
749人間七七四年:2011/09/07(水) 03:45:13.71 ID:oKeXQJhJ
1492年には京兆家と阿波守護家には色々な事が起きる。

京兆家には、摂津国人一揆と政元誘拐事件が、発生した。

阿波守護家では、78年に阿波守護職を継いだ成之の子の細川政之を被官人達が
「正体無き人」との言い分で批判し別人を立てる、との行動を起した。
結果的に守護の交代は起こらず、未遂事件で終わったが…
これらの行動を起したのは、飯尾氏、清氏、東条氏と言った親京兆家派の阿波守護家の被官人達であり、
これ以降この動きに同調しなかった三好之長が、阿波守護家内部で出世し始め、親京兆家派の被官人達と
対立を深める事になる。

これら一連の三つの動きに関連性がみられるが、京兆家評定衆の動きと絡んで検討する必要がある。
750人間七七四年:2011/09/07(水) 07:00:06.02 ID:ptm2wKqk
1492年には京兆家と阿波守護家には色々な事が起きる。←×

1479年には京兆家と阿波守護家には色々な事が起きる。←○
751人間七七四年:2011/10/18(火) 00:54:27.22 ID:H7MIqWYF
阿波守護家は、当主が政之に替わってから、ちょっと自立の道がもたげてきちゃったよね。
まぁ、それより以前から京兆家とは違う動きをしていた部分もあったが、応仁の乱はいい刺激だったなー。

浅識を恥じらいながら言うと、「管領内意見人」という言葉って、誰の著書で使われてますか?
評定衆っていうのはよく目にするのだが、その言葉は管見にないのです。

室町中期の話だから、多分、小川信先生の本かなとは思うのだが、どうでしょう?
史料を引用している部分まで教えていただく必要はないので、(学術的に作られた用語かもしれないですし)
ぜひ、よろしくお願いします。

あと、「意見」は普通に『衆議の結論』という意味でも、あの時代の様々な身分で使われてますぜ。
特に奉行衆について言えば制度的な用語を示します。
「意見」という言葉の捉え方については>>747氏にも伺いたいです。
752人間七七四年:2011/10/23(日) 16:05:24.96 ID:u96yHLmF
>阿波守護家は、当主が政之に替わってから、ちょっと自立の道がもたげてきちゃったよね。

政之と義春は、かなり山城守護職に就きたがっていた様ですしね。

応仁の乱で家格秩序が崩壊し先祖相伝の守護職もグラつき始めていたので
実力さえあれば、狙った守護職は就ける可能性があると思ったんでしょう。

畠山家の分裂内訌は応仁の乱以後も継続し、細川家に比べて決定的に弱体化した事、
それにより細川家の同族連合体制を維持する必要性が少なくなった事等が、
政之と義春に山城守護職任官への野心に火をつけた可能性は大きいですな。

細川の各イエは、畠山や斯波の両氏に対抗する為に京兆家を中心とした同族連合体制の
構築を認めた経緯があります。畠山や斯波の両氏が、決定的に弱体化しライバル足り
得なくなったら細川の各家は、同族連合体制を維持する必要はなくなります。

>まぁ、それより以前から京兆家とは違う動きをしていた部分もあったが、

京兆家は、管領家として守護勢力の右代表と言う意味も有りましたからね、
その点、阿波守護家は、京兆家よりも足利将軍家に近かったとも言えます。

元々山名本家(宗全)と細川京兆家(勝元)が対立し始める原因を作ったのは、阿波守護家ですしね、
応仁の乱後に足利義材が、河内親征を行いますが、その軍に細川義春も参加しています。
明応の政変には、阿波守護家は参加していないどころか、むしろ反対していた感じですね。

>「管領内意見人」という言葉って、誰の著書で使われてますか?

ウィキにも出ているし、末柄豊氏の著作にも出てきますよ。
753747:2011/10/27(木) 07:46:22.46 ID:ify6B8Ay
管領内意見人と評定衆のほぼ同じような守護代級の氏族で構成されていますが、
管領内意見人には細川政国がいる、という点が大きな違いだと思います。
754747:2011/10/27(木) 07:56:36.99 ID:ify6B8Ay
すみません、誤字訂正
管領内意見人と評定衆は、ほぼ同じような守護代級の氏族で構成されていますが、
管領内意見人には細川政国がいる、という点が大きな違いだと思います。
755人間七七四年:2011/11/02(水) 11:26:22.15 ID:SKmbHH5P
>>754
ソニーの顧問達は、
ソニー音楽部門の意向を受けてipodの開発を途中でやめてさせた。

法的には、何の権限無いのに無駄に45人も居やがる。
年寄りのクセに邪魔ばかりしやがって、早く視ね!

ipodの開発を止めさせたのなら、少しでも林檎への対抗策考えろ!
756人間七七四年:2011/11/02(水) 13:34:33.35 ID:b7bXDjDB
つまり…

何だ?
757人間七七四年:2011/11/03(木) 17:46:51.97 ID:TAUQuFbu
>>755=>>748か?
758人間七七四年:2011/11/04(金) 11:05:27.13 ID:QBNUz7Y4
1477年に応仁の乱が終了し、西軍で摂津を占領していた大内政弘が、足利義政と拝謁し
大内氏相伝の分国の安堵を受けて摂津からの撤退を開始した。しかし、大内氏が摂津を
占領していた時期に嶋下郡や嶋上郡の国人衆は、大内氏に協力的で京兆家と敵対していた。
元々嶋下郡や嶋上郡の国人衆は、京兆家内衆であったり、京兆家当主近習であり、京兆家
当主による摂津支配の為の行政スタッフであった。
この為、大内氏撤退による応仁の乱終了に伴い、嶋下郡と嶋上郡の国人衆は、京兆家に再び
帰参し応仁の乱以前の様に京兆家当主の近習や摂津支配の為の行政スタッフに復帰し様とした。

しかし1473年には先の当主勝元が死亡、7歳でしかない聡明丸が京兆家を相続し、京兆家分家の
典厩家当主の政国が当主代行に就いた。それに伴い守護代級内衆は、管領内意見人の制度を
拡大強化し京兆家評定衆を結成、事実上この組織が京兆家の意思決定機関となった。

そしてこの京兆家評定衆が、応仁の乱終了に伴う嶋下郡と嶋上郡の国人衆の京兆家帰参願いを
拒絶し、これら国人衆が京兆家当主直属の近習や行政スタッフに戻る事を阻止してしまう。

この為に1479年6月には、摂津嶋下郡の国人が京兆家評定衆に対抗する意味もあり国一揆を結成した。
中心のメンバーは、京兆家内衆の茨木氏と内衆と繋がりの深い吹田氏だった。この茨木氏と吹田氏が
呼びかけて、三宅氏、芥川氏、太田氏、中川氏、安威氏等々の嶋下郡や嶋上郡その周辺の国人が
続々と国人一揆に参加した。

更に茨木氏と吹田氏は、一揆を始めるにあたり、隣国河内を幕府から独立して支配する畠山義就と
事前に連絡を取り、同盟関係を結んでいた。摂津国一揆の政治的軍事的後背地を確保する為である。

また、足利義政が、応仁の乱後に既に武家が押領した寺社領の返還政策を開始したが、同年9月には、
摂津国人一揆衆は、寺社領の返還を拒否するどころか新たに寺社領の押領を開始し公然と反幕府
反荘園的な側面を見せ始める。これも幕府より独立して河内を統治する畠山義就の影響を受けて
の事で、義就は河内を幕府から独立して支配するだけでなく、荘園領主などを排除した河内の
一円知行を目指していたのである。嶋下郡と嶋上郡の国人衆は、荘園領主などの中間層の排除
を目指して在地の荘園押領を開始し一揆の権力経済基盤の強化に乗り出した。

同年12月には、丹波の国人一宮氏により聡明丸(細川政元)誘拐事件が発生している。
この事件も摂津国人一揆の発生時期とほんの数ヶ月しか離れていない為、関連性を疑われる。
特に丹波の国人一宮氏は、丹波守護代で内衆にして評定衆である内藤氏により所領を押領
されており、国人と京兆家評定衆の対立と言う意味では摂津国人一揆と構図が良く似ている。
その為に摂津と丹波の両国は、歴代京兆家当主相伝の分国であり、丹波国人と摂津国人は、
隣国という事もあり相互に連絡を取り合っていた可能性がある。

当初は京兆家内部の内紛的な一揆であった摂津国人一揆は、旧西軍でいまだに幕府に抵抗を
続ける畠山義就との繋がり出来た事や足利義政の寺社領の返還政策に反対する行為などを見せた為に
反体制的反幕府的反乱と見なされてしまい、とうとう幕府は、1482年に摂津国一揆を鎮圧する決定をする。
しかし、足利義政や義尚自らが奉公衆を率いて親征する事は無く、管領の畠山政長と摂津守護職を担う
細川政元が出陣する事になった。
759人間七七四年:2011/12/29(木) 21:46:39.12 ID:BG1/9aST
そろそろ明応の政変の話題に戻すが畠山政長はあっけなく死んだよな
畠山の家風である異常な粘り強さは一体何所に・・・
760人間七七四年:2012/01/09(月) 17:47:54.36 ID:ASeFSQgs
ありゃあ義材逃がすために死んだようなもんだからなあ。
761人間七七四年:2012/01/09(月) 18:07:22.17 ID:GrnQAjbF
明応の政変から政長が死ぬまで1ヶ月近くある
義材を逃がすならとっとと逃がせばいい
それに味方の兵士の脱走も著しく孤立無援状態
この状況で迎え撃つとは狂気の沙汰としか言い様が

齢50も超えるとある意味死を覚悟に散ったと見る方が妥当かと


762人間七七四年:2012/01/10(火) 20:02:24.78 ID:exDgLY+v
尚順を逃がすためだったんじゃない?

尚順は一貫して義材復帰に協力したが管領にはなれず
だいぶ後に義就系から一瞬管領がでたのが細川以外で唯一でしたね
763人間七七四年:2012/01/12(木) 23:59:11.87 ID:kst5GkpY
>>762
>尚順を逃がすためだったんじゃない?
逃がすなら捕まらないように早い段階で逃がすべき
逃げることすら難しい状況まで手元に置いておいた時点で無能だ

つーか逃がすためとか言っている時点で間違いだろ
764人間七七四年:2012/02/28(火) 02:37:49.73 ID:+OULHqBh
室町時代には大名が将軍の下で在京奉公し領国経営は家宰が担当する役割分担があった。

しかし応仁の乱の終了により幕府権力が縮小矮小化して畿内政権化した事により大名の
在京奉公義務も幕政への参加の必要性も無くなり、大名自らが分国に在国して領国経営に
あたる事なった。

その為に全国で大名と家宰の間で分国経営を巡る主導権争いが生じていたと考えられる。

細川京兆家ですらその向きから逃れられ無かったといえる。

代々の細川京兆家当主は、管領職に就く事が多く在京しながら幕政を執り行った。
そして丹波・摂津・讃岐などの京兆家の領国経営は、内衆や家宰が管領内意見人
として担当していた。

しかし、応仁の乱で細川京兆家当主の細川勝元が東軍総大将となり自ら軍勢を率いて
京兆家領国を防衛する事になり内衆や家宰の仕事が無くなってしまった。更に勝元は
畿内や京兆家分国で軍事物資の調達を名目とした寺社領や公家領への大規模な押領
行為を行い細川京兆家直轄領を急拡大させ、内衆の領地拡大の機会を奪ってしまう。

その為に勝元の死後、跡継ぎの政元が幼年だった事もあり内衆が団結して管領内意見人
制度をより整備した京兆家評定衆を設置し分国経営の主導権奪回を目指した。
そして細川京兆家当主直属の家臣である丹波や摂津の国人衆の抑圧政策に乗り出した。

政元誘拐事件と丹波一宮氏の反乱、摂津国人一揆、丹波位田の乱など京兆家分国内での
武力抗争が続発するが、政元の誘拐事件が解決され京兆家当主に復帰し摂津国人一揆を
自ら鎮圧した事で一端はこの分国内の武力抗争は収まる。

その後管領になるが、従来の京兆家当主の様に在京しながら幕政を執る姿勢は見せず、
すぐに辞任。幕政よりも洛中の検断権の掌握を目指したり山城の国人衆の被官化を進
めるなど京兆家の分国拡大の方向に意欲をしめす。そして9代将軍足利義尚の死亡と
10代将軍義材の任官に不満を持った政元は明応の政変を起こして10代将軍義材の廃立
クーデターを断行する。

そして11代将軍に義澄を擁立し足利将軍の実権は細川京兆家が奪い取る事になる。

しかし明応の政変以後も幕府は存続しており、日野富子の意向もあって政所執事の
伊勢家(貞宗)が後見人となり政務は続けられていた。その為に政元は政変後管領
に復帰したが、政元は鎌倉幕府の得宗家の様に独裁的に幕政を担う事は無かった。

政元自ら擁立した義澄が成年になると幕政に意欲を見せ、政元ともぶつかる事が増え、
政元は、京兆家分国内に滞在する事が増える。明応の政変前は、分国が山城の隣国と
言う事もあり洛中の細川管領邸と分国内の守護所した城を行き来していたが、将軍と
の不仲もあり上洛は控え摂津の守護所に居を定める様になる。

元々政元は幕政への意欲は弱く京兆家領国の拡大や守護による領国一円知行化に
意欲を示していた。そして11代将軍に義澄との不仲により分国内の守護所に居を
移し守護としての分国一円支配に乗り出した為に京兆家評定衆の構成員である
内衆との領国支配を巡る主導権争いが再燃する。

特に摂津守護代の薬師寺氏や京兆家家宰となっていた香西氏との軋轢が講じて
おり、政元は一円知行実現の為に薬師寺氏の摂津守護代職の解任まで目論むが
将軍足利義澄も政元による領国一円知行の実現を阻止する為に薬師寺氏の守護
代職の解任を阻止する。

その後政元は、畠山氏や分家筋の細川家との戦いを進めて山城だけでなく大和
河内・和泉まで領地を拡大させる。しかし政元が丹波と摂津での一円知行を進
めるにつれて分国経営から外されれたり分国内の領地拡大を規制される内衆の
反乱が続発し、内衆で摂津守護代の薬師寺長忠と京兆家家宰の香西元長によっ
て政元は謀殺されてしまう。
765人間七七四年:2012/02/28(火) 05:40:54.20 ID:IZsJbzSO
コピペ貼り付けは流行らないよ
内容を集約して3〜5行でまとめる力をつけた方がいい
766人間七七四年:2012/02/28(火) 20:55:54.36 ID:GUDrVZDj
政元は、若い頃は、何かあると丹波に引き篭もっていた。

丹波国人に誘拐されたりしているのに、丹波に始終来ている時期もあり、
洛中の細川管領邸より居心地良かったらしい。
最も晩年になると丹波よりも摂津に居住する事が増える。

政元の政治的軍事的目標は、幕政の掌握ではない。むしろ幕府から独立した
細川京兆家独自の分国の拡大であり、最終的には京兆家単独の軍事力による
畿内5カ国の制圧とその一円知行化だろう。

畿内五カ国とは、摂津、山城、河内、和泉、大和であり、既に摂津は、
京兆家が従来から分国としていたので残りの山城、河内、和泉、大和を
幕政に関係なく京兆家の領国にし、従来から支配している丹波、摂津を
も併せて細川京兆家当主による単独支配体制を構築してしまう計画だった。

山城、河内、和泉、大和の4カ国には幕府の所在地や畠山家、寺社勢力、
奉公衆や奉行衆などの領地が点在しており、さらに村落共同体の成長も
著しく自検断や土一揆が既に行われている状態だった。

その様な多元的多面的な支配構造を持つ畿内を細川京兆家が単独で軍事的に
制圧し、細川京兆家が畿内の一円知行を実現する為には、積極的な軍事力の
行使は欠かせない。そして軍事力を維持する為の莫大な経済力も必要になった。

従来、応仁の乱以前の京兆家の財政収入は、関所等からの交通税が大きかった。
しかし京兆家には応仁の乱以降に直轄領を急速に拡大させており、しかも
その所領のほとんどは自己の分国内に集中していた。つまり誰からも課税
される事無く京兆家直轄領からの収入を政元が使う事が出来たのである。
応仁の乱で父細川勝元が公家や寺社から押領した莫大な領地からの収入を
政元は軍事力に投じる事が出来たのである。
そして政元は、分国(丹波・摂津)でも内衆らの中間搾取を排除した
一元知行を行う事で税収の拡大や安定的な確保や目指した。

また、政元は元服直後から山城における被官衆の拡大を開始し1482年には
摂津の国人一揆の鎮圧、90年代には河内、大和、和泉への領地拡大を露骨
に目指す姿勢を見せる。
京兆家の分国拡大姿勢を抑制しようとする10代将軍義材を廃立する明応の
政変を決行、畠山家や分家筋の和泉や阿波の守護家の細川家とも対立し、
更には山城や大和の寺社への攻撃も辞さず強引に政元は京兆家の領国拡大
の姿勢を見せる。

1500年には赤沢朝経の大きな活躍で、河内と大和北部を占領し寺社を焼打ち
して京兆家の畿内制圧に目星をつける。1504年には摂津守護代薬師寺元一や
赤沢朝経の謀反が発生したが赤沢朝経は投降し許され、また政元は同族分家
の阿波守護家と和解し、その家臣である三好之長と赤沢朝経に謀反の後ろに
居た河内と紀伊の両畠山家(畠山義英と畠山尚順)を1506年に討伐させた。
事実上この時点で京兆家による畿内5カ国の制圧は完了してしまう。

そして畿内5カ国の隣国である紀伊や丹後にも出兵し畿内五カ国の支配の強化
にも乗り出し始めていた。政元はこの様な時期に暗殺されるが、殺害直前には
京兆家による畿内5カ国の制圧は成功していた。

政元殺害以後、京兆家当主の座を巡り細川家の内乱が発生する。
幕府将軍職はもう既に名目上のモノになっており、畿内の制圧を意味する
のは、細川京兆家家督だった。その為に両細川家の乱や高国と晴元の間で
京兆家家督の座を巡り戦乱が繰り広げられ、戦国の世が一段と濃くなっていく。

政元に京兆家家督を継ぐ様な実子が居なかった事が悔やまれる。
767人間七七四年:2012/02/29(水) 06:31:27.04 ID:NiDTcfbZ
>政元の政治的軍事的目標は、幕政の掌握ではない。むしろ幕府から独立した
>細川京兆家独自の分国の拡大であり、最終的には京兆家単独の軍事力による
>畿内5カ国の制圧とその一円知行化だろう。

政元の領国拡張は一応成功していると思う。
だが、京兆家単独の軍事力ではなく、阿波守護家との共同軍事作戦だ。

応仁の乱以後、京兆家は備中守護家と合戦にしているし、阿波守護家とも
山城守護職の任官を巡り対立している。更に後には和泉守護家とも合戦と
なっているし幕府の弱体化と共に細川家同族連合体制は崩壊している。

その為に明応の政変以後は、山城守護職を狙っていた阿波守護家の細川義春や
その家臣の三好之長は、京兆家によって畿内から追放状態となり国元に撤退し
畿内での活動を出来ていない。細川義春は明応の政変で政元に追放される将軍
足利義材に気に入られていた、細川京兆家の政元を牽制する為にだと思われる
が、義材は幾度となくその屋敷に「御成」している。また、義春に偏諱もしている。

この様な細川一族の内部分裂状態や本家の京兆家家臣団の反乱(摂津守護代の
薬師寺元一や赤沢朝経の謀反)勃発を見て、畠山基家の子義英の代には、畠山
政長の子尚順と和睦し畠山家は実に56年ぶりに和解統一される。この2004年の
畠山家の統一を見て内部分裂状態だった本家の京兆家と分家の阿波守護家も和解
し両家は手を組んで畠山家と対決する様になり、畿内の制圧が実現される。

京兆家の畿内制圧は一応の成功を見るが、阿波守護家の援軍も有っての実現だった。

特に政元にはとっては、56年ぶりの畠山義英と尚順の和解は想定外だったであろう。
一説には政元が追放した前将軍の義材が義英と尚順の仲を取り持ったと言われている。
前将軍の義材の工作により一時は阿波守護家も再統一された畠山家と同調する動き
を見せたが、阿波守護の細川之持の弟澄元を京兆家の養子に迎える事で京兆家は、
再度阿波守護家を前将軍の義材や再統一された畠山家サイドから離反させる事に成功した。

これで、政元は、阿波守護家の軍勢を援軍として活用出来る体制となり、京兆家と
阿波守護家の連合軍が大和や河内方面に出動し畠山義英と尚順の統一畠山軍を攻撃
する事になる。そしてこの京兆家・阿波守護家連合軍は急速に軍事力を増大化させて
統一畠山軍を撃破、河内、大和南部を占拠し一部の細川家軍勢は紀伊に侵入したらしい。

畠山義英と尚順の統一畠山軍は、京兆家・阿波守護家の細川連合軍に完全に敗退した。
768人間七七四年:2012/02/29(水) 06:56:39.08 ID:SNSAcuXk
>>767
おい、間違っているぞ!

>この2004年の畠山家の統一を見て
えらい最近の出来事だな。
正解は1504年12月18日。
769人間七七四年:2012/03/08(木) 10:41:43.15 ID:504loqk/
政元の政治目標は、畿内領国化と畿内一円知行化だろう。
正式には畿内+丹波となるが。

そうなると畿内近国限定の地域政権となっていた
室町幕府と正面から利害が衝突して明応の政変となった訳だ。

義尚も義材もしきりに将軍親征を繰り返していたが、この行為の行き着く先は
室町幕府の戦国大名化でもある訳で、畠山政長も伊勢貞親・貞陸親子も単独では
京兆家に敵わない為に将軍親征(室町幕府の戦国大名化)を支援していた。
奉公衆も畿内近国に多くの領地や地頭職を持っていたが、在国化した守護やその
被官に押領されていた為には将軍親征(室町幕府の戦国大名化)を望んでいた。

当初、近江への義尚の将軍親征を支援参加していた政元も義尚の意図を察知し、
近江守護の六角高頼サイドに幕府軍の情報を漏らし始める。その為に軍事的成果
が挙がらず長期在陣を余儀なくされた(鈎の陣)。その後義尚は死亡(毒殺?)
し義材が将軍任官となるが、既に長享・延徳の乱(六角征伐)の頃から明応の
政変の素地が有った事になる。

ただし義尚生存時には、義政や日野富子、伊勢貞親・貞陸親子の将軍側にあり、
奉公衆分裂の可能性が無い為に政元は、将軍廃立クーデターを起こせなかった。
しかし義材は日野富子や伊勢貞陸と対立し奉公衆を完全に掌握出来なかった事から
政元による明応の政変は成功裏に終ったと言う事だろう。

もし仮に義尚生存時に政元が将軍廃立クーデターを起こしたらどうなっていただろうか?
おそらく義政と富子や伊勢貞親・貞陸親子は京で京兆家軍勢に生け捕りにされる可能性がある。
また、仮に京から鈎の陣に脱出し義尚と合流出来たとしても奉公衆と共に京兆家と長い戦いに
なるだろう。丹波・摂津・讃岐など国人衆を動員した京兆家軍勢が畿内で活動する限り
足利将軍家も直ぐには京に戻れるとは思えないが、奉公衆も義尚の下では分裂する事無く団結して
京兆家軍勢と戦う事になるだろう。ただし京兆家側に畠山義就が合流して足利将軍家(奉公衆)や
畠山政長の軍勢と戦う事になるだろう。
応仁の乱以上の長い戦いになる可能性があり、畿内バージョンの享徳の乱となる可能性がある。

史実でも山内上杉家と京兆家は手を組み明応の政変に対応して足利政知と正室の子である
潤童子と清晃をそれぞれ鎌倉殿と将軍に擁立し様としていた事から見て、京兆家と山内上杉家
は立場も利害も近い関係に有った。山内上杉家は永享の乱と結城合戦での勝利の結果事実上
関東(性格には利根川東側の関東地方:上野・武蔵・伊豆)の実質的支配者となっており
関東における山内上杉家と畿内における京兆家の立場には近いものが有ったと言える。
770人間七七四年:2012/03/10(土) 03:00:10.94 ID:SXHCuWTR
>>769
それだと足利茶々丸のクーデターで、山内上杉が茶々丸側を支持した理屈がわからなくなる。
山内上杉は京兆家のクーデターを認めず、義材の方を正当と考えていたように思えるのだが?
771人間七七四年:2012/03/10(土) 09:32:33.78 ID:DYyejW3n
私も770に賛同。
実際、囚われていた足利義材が北陸に脱出した時、
上杉定実は畠山尚順・富樫泰高・朝倉貞景と共にこれを支援。

山内上杉家は足利義材派として支持していると考えるべきだと思う。
772人間七七四年:2012/03/12(月) 21:39:21.10 ID:/ovh2PvV
政元と山内上杉家の越後での直接会談は?

山内上杉家と京兆家(さらに鎌倉公方家も)は、
政局ごとに敵対的になったり味方したりの繰り返しだったのだろう。

ただ「関東における山内上杉家と畿内における京兆家の立場には近い」
と言うのは、双方とも将軍家(公方家)を祭り上げ畿内と関東の領有化を
狙っていたと言う事。
773人間七七四年:2012/03/13(火) 13:34:39.71 ID:G9BJ6O/s
上杉定実って山内上杉家ってよりも越後上杉家だし、越後守護代の長尾家の傀儡だし。
政元と明応の政変で会談したのは、上杉房定・顕定父子だし。

延徳3年(1491年)、管領細川政元と歌人冷泉為広が越後を訪問した。

表向きは奥州に修験道の修行に行くという政元を房定が説得して京都に
帰らせた事になっているが、近年では10代将軍足利義材の廃立計画に
ついて房定・顕定父子の協力を求めに来たのではないかとも言われている。
そして将軍足利義材から第二次六角高頼討伐の出陣命令が届いた為に
奥州行きを断念、4月に帰京した。

この旅行の背景は堀越公方足利政知と連携する意向で房定を取り込む意図が
あり、政知との会見をも計画していたが、政知が亡くなった為もあり帰京した。
政元は、この時から明応の政変を計画していたとされる。
774人間七七四年:2012/03/15(木) 21:12:39.80 ID:a0mrazTk
顕定は1507年に一旦越後制圧に成功したが定美為景すぐに逆襲された
定美為景が同時期復権した義植派だったころが大きいのかと

775人間七七四年:2012/03/17(土) 04:43:51.72 ID:EFnpojxW
顕定の越後支配が、
一円知行的であまりにも強硬姿勢だった為に国人が反乱を起こしただけ。

定美為景もそれに参加しただけ。
定美為景が義植派云々は、それほど関係ない。
776人間七七四年:2012/03/18(日) 05:09:51.59 ID:r58obPNJ
応仁の乱の時点で最有力の大名であった細川勝元が
乱の最中に畿内で膨大な公家と寺社の荘園を押領している。

大乗院尋尊は、
「武士の荘園押領の中で最も激しいのは、細川勝元と朝倉孝景だ。」と言っている。

公家の甘露時親長は、細川勝元の葬儀の際に雷が鳴った事にも触れ、「不審」と記した。
実は、山名宗全の葬儀の際ににも雷鳴が鳴り響いているのだが、これには触れずにいる。
結局この事は、親長が暗に勝元を非難している事を示している。

同じく大乗院尋尊も、勝元の葬儀の際に雷鳴が鳴った事を記しており、
「勝元が寺社領の違乱を行った為の天罰である」と、厳しく断罪している。

この様に公家や寺社関係者の日記には、荘園押領の最大の首謀者である
細川勝元に対して大変厳しい評価を示している。これは公家や寺社の最大の
経済基盤であった荘園を最も押領し彼らに最大の経済的打撃を与えた武将が
細川勝元であったことを示している。

応仁の乱以前では、管領と言う要職あった事等から公家や寺社関係者の日記
では必ずしも悪者では無かった細川勝元が、応仁の乱勃発により見事に最大
級の悪者にされている換わり様を示している。これは勝元の荘園押領の被害
や規模の甚大さを表していると言って良いかも知れない。

そしてこの勝元の荘園押領行為は、公家・武家・寺社の三者の共同支配体制
であった権門体制崩壊を示す事柄 とも言えるし、中世日本の荘園制解体の
トリガーを細川勝元が引いてしまった、とも言える。
777人間七七四年:2012/03/20(火) 22:33:43.47 ID:UAvyMoEQ
在国し始めた多数の守護は、分国内所領を拡大する為に荘園押領を開始している。

ただし細川勝元による荘園押領の記録に関してだけが、やたらに複数の公家
や寺社関係者が残した文章に記録されていると言う事実がある。ここまで多数
の公家や寺社関係者の書類に荘園押領の行為者として記録されている例は無い。
大乗院尋尊は、朝倉孝景の荘園押領の事も細かく記載し呪詛までしているし、
他の公家や寺社関係者の書類にも山名宗全の荘園押領の記録はあるだろう。

しかしこの大乗院尋尊が、
「武士の荘園押領の中で最も激しいのは、細川勝元と朝倉孝景だ」
とまで勝元の固有名詞を朝倉孝景と並べて挙げて言い切っている事から勝元
の荘園押領の規模なり件数なりが他の大名に比べて異常に多く、目立ったの
は事実だろう。尋尊の孝景への恨みは尋常ではなく、その人物と並べて記載
されている勝元の荘園押領の規模もやはり他の大名とは桁違いだったのでは?

勝元の分国である丹波と摂津が、京の近くであり公家や寺社関係者の目に入り
易かった、という事も有ろうし、勝元自身、山城や河内でも戦闘を繰り返して
おり、特に山城の国人衆の被官化(山城領有化)を行っていた、と言う背景もあるだろう。

また、勝元は東軍総大将であり大軍を率いている事から大量の食料調達の必要
性があり荘園押領の規模が拡大したとも言える。また逆に勝元は東軍の軍事力
を使っているが故に大規模な荘園押領を可能にしている面もあり、公家や寺社
関係者の誰もが勝元の軍事力には対抗出来ない為に文章なり日記なりの私的な
記録に勝元への批判が目立つ形で残されたとも言える。

勝元は応仁の乱以前は半ば家職と化した管領職を勤め、その職務上公家との
接触が多く、更に禅宗を信仰して龍安寺や竜安寺を建立するなど寺社関係者
の知音も多かった大名だった。

しかし、応仁の乱勃発後のこの様な高圧的な行動に急激に態度変更した事は、
余計に公家や寺社関係者の反発を買ったと思われる。乱以前から従来の秩序
を重視しなかった宗全や斯波管領家の一宿老から成り上がった朝倉孝景とは
異なり、勝元は幕府創成期から幕閣に名を連ねる名門細川管領家の当主であり
「礼儀をわきまえた常識人教養人」という評価が政界宗教界でも一般的だった。
特に京兆家は伝統的な権門体制に順応していた大名家であり、京兆家は応仁の乱
以前は荘園保護派の大名だったと言って良いのかも知れない。

しかし勝元は応仁の乱勃発で公家と寺社に対する態度を急変させる。
この事は応仁の乱以前の権門体制が、乱の勃発により崩壊し土地と人民を武家
が一極支配する体制へと移行した事実を示している。勝元の自覚の有無に関らず、
彼のむき出しの大規模荘園押領行為は、中世荘園制の崩壊と武家や大名による
人民と土地の支配の集中の契機が、良く示されていると言える。

そしてこの事は、室町幕府の職の体系や家格秩序の崩壊にまで繋がって行くのである。
778人間七七四年:2012/03/28(水) 21:12:50.86 ID:q2MrV9pX
>>777
「しかし」だらけの文章は君の国語のレベルの低さを証明するだけ
それに内容も稚拙で主張が支離滅裂
文章を書く時は何回も書き直してからレスすることを勧める
できればお家の人に添削してもらってね
779人間七七四年:2012/04/02(月) 22:50:53.74 ID:mE13etGb
>内容も稚拙で主張が支離滅裂

それは、そちらの頭の悪さが原因。

一々絡まないでくれる?キモイから。
780人間七七四年:2012/04/03(火) 06:31:14.11 ID:S7lhVaSi
「俺の文章を理解できない奴は頭が悪い。
なぜなら俺の文章は完璧だからだ。
俺の文章が完璧なのは俺が証明している。」
と言いたいのですか?
781人間七七四年:2012/04/03(火) 09:20:45.62 ID:eQU3RVRQ
>>5
三好長治は暴君だったかも知れないが、
それを誅したのは、主家の細川真之(しかも長治の異父兄)
下克上じゃないんだよな。長治がもっとまともだったら、長宗我部の勢力拡張も無かったし、
三好家の衰退も、もっと違う結末だった可能性が有る。いろいろ残念な人物ではある。
782人間七七四年:2012/04/03(火) 09:23:19.59 ID:eQU3RVRQ
すんません誤爆しました(汗
783人間七七四年:2012/04/03(火) 09:30:07.71 ID:WQZz4Vfw
三好と言えば政元の頃には既に、政元の保護のもと畿内のチンピラ・足軽を組織していたようだが、
明応の政変には何か関わっていたのかね?
784人間七七四年:2012/04/03(火) 09:51:58.61 ID:eQU3RVRQ
>>783
明応の政変の頃には、まだ阿波屋形の有力被官という程度で、地盤がためしている段階だと思われます。
三好家自体、出自がはっきりない(一応、旧阿波守護家、小笠原家末裔を称しているが、現段階では真偽不明)
また、阿波屋形と京兆家の力関係は、まだ京兆家が力を持っていた時代ですから、
陪臣に過ぎない三好がそれほど影響力が有ったとは思えません。
三好の躍進は政元暗殺後ではないかと思います。
785人間七七四年:2012/04/03(火) 18:04:30.49 ID:WQZz4Vfw
>>784
たしかにそうなんだろうね。それでも政元の頃から三好が機内で土一揆を組織するような活動をしていて、
政元もそれを黙認していた感じだけど(一揆の閲兵とかしているね)、あれはどういう意図からなんだろう。
786人間七七四年:2012/04/04(水) 19:05:16.24 ID:fsyEhSP6
>>779
しかし連呼君(>>777>>779)が痛すぎる件
文章を適切にまとめられる力がつくといいね
787人間七七四年:2012/05/24(木) 19:32:57.92 ID:xFAZdtpH
そもそも西軍の御輿として大乱の当事者だった義材。なんで西軍の流れを
汲む義豊の討伐に動いたのか、動機がよく解らん。
788人間七七四年:2012/07/01(日) 02:03:11.43 ID:xmuR3m5h
>>786
上から目線で、偉そうだな。
京兆家の事も知らんで、コメントするな馬鹿!
789人間七七四年:2012/07/01(日) 07:16:09.56 ID:EPk90u0f
…と京兆家のことも知らない馬鹿者が上から目線で偉そうに喚き散らしておりますので注意しましょう!
790人間七七四年:2012/07/02(月) 03:59:50.45 ID:fuOKhtpb
>>784-785
京兆家の譜代の内衆って言っても、在地性は希薄だったらしいよ。

辛うじて京兆家分国の守護代や奉行などの職に任命されているって程度で、
内衆だからと言って自ら広大な領地や城を抱えていた訳でもないらしい。

むしろ内衆ではない国人の方が、広大な領地を抱えていたり、その中に城下町が
出来ていたり、街道の関所から膨大な通行料を徴収していたりして金銭的にも裕福だったようだ。
摂津の池田氏がその典型らしい。

池田氏は、摂津の国人で細川家の被官ではあるが、内衆ではない。

三好のような新興の非内衆系国人が台頭出来た理由の一つには、
内衆にまつわる、この様な背景があったと思う。
791人間七七四年:2012/07/05(木) 08:43:36.24 ID:EbxQq3Vk
例えが悪いかもしれないけど、警察官より地元ヤクザの方が裕福って言う感じ
かな?
792人間七七四年:2012/07/05(木) 08:47:28.77 ID:HMdk5ig+
むしろ本社勤めと地方支社勤めの関係だろう
793人間七七四年:2012/07/05(木) 14:22:19.81 ID:uWJLCs13
>>790
内衆の収入って、自分の領地と代官職を任されている土地から上がりの一部とかより
取次の手数料・礼金のほうが大きいんじゃない
もっというと賄賂とか
794人間七七四年:2012/07/06(金) 16:35:01.37 ID:u8LAvIv2
>>793
守護代級内衆と言っても、所詮は丹波や摂津の国人の1人に過ぎないんだよね。
だから畿内では京兆家分国の守護代から1人も戦国大名になっていない。
これも守護代級内衆の在地性の希薄さの状況証拠の一つだろう。

丹波守護代の内藤氏や上原氏、摂津守護代の薬師寺氏は結局戦国大名になれなかった。

丹波の戦国大名になったのは、京兆家家臣だったが内衆には成れなかった波多野氏だし、
摂津の戦国大名は、摂津国人一揆のリーダー格である茨木氏がなった。茨木氏は、内衆の
称号を得ており、国人一揆の鎮圧時に政元の助命があったにも関らず、守護代の薬師寺氏
により多くの茨木一族が殺害され一時的に逼塞していた。

内衆の収入のポートフォリオは、知りたいけど判らない。>>793の言うとおりロビー活動
による収入の方が多いかも知れない。おそらく丹波摂津両国は、既に田畑に適する土地は
開墾されつくしており、当時の農業技術では、もう開墾不可能な場所しか残っていない為
に領地収入は増やせなかったのかも知れない。

京兆家の歴代当主や細川一門の分国内所領の集中度の高さからすると、丹波と摂津の
重要拠点(重要街道沿いや街道交差地、河川港など)は既にほとんど守護(京兆家当主)
直轄領ないし細川一門領となっており、守護代級内衆でも所領拡大余地が無かった。

そこに応仁の乱による細川勝元の寺社領の押領行為が重なり、更に分国内での一人守護
(京兆家当主)直轄領が激増し京兆家当主の分国一円知行の統治形態が強まった。

結果、ますます守護代級内衆は、分国内所領の拡大は不可能になり、その不満が勝元の
死後に爆発し、守護代級内衆は京兆家意見人制を強化拡大して京兆家評定衆を結成した。

京兆家評定衆を結成では、幼少の政元(聡明丸)を祭り上げ、丹波と摂津の分国支配を
京兆家当主の一円知行(独裁)から守護代級内衆の合議制に移行させる事で政元の丹波
と摂津の守護の力を弱めようとしたのではないか?そしてこれは応仁の乱後に大っぴら
になり始めた室町幕府の家格秩序の崩壊に促された行動では無かったのだろうか?

一応、京兆家評定衆結成の表の理由は、幼少の政元(聡明丸)の補佐の為の合議と言う
事になっているが、その実は京兆家当主の力を弱めたかった事にあるのではないだろうか?

京兆家内部で、京兆家当主と守護代級内衆の間で分国経営の主導権を巡る深刻な対立が生まれていた可能性がある。
795人間七七四年:2012/07/06(金) 17:38:26.82 ID:xX2le2Vu
とすると政元が京兆家の主導権を握り返したターニングポイントはいつだったのだろうか?
796人間七七四年:2012/07/07(土) 05:56:54.27 ID:ceQ0GXak
非内衆系国人は、京兆家内部には寄って立つ組織がなく守護代級内衆ほどの
権限のある(分国内での)職にも就いていない事から摂津国人一揆や一宮氏
による政元誘拐事件、位田の乱(丹波国人一揆)などの実力行使を惹起させ
る事で、自己の権益や所領を守る算段をつけ様とした。つまり非内衆系国人
は、京兆家分国内の国人同士の連帯(国人一揆)を強める事で守護代級内衆
による押領や一円知行化に対抗しようと試みた。

一方、守護代級内衆は、京兆家意見人を強化して京兆家評定衆を組織する事
で京兆家当主(丹波&摂津の守護)に対抗し、その一方で、非内衆系国人の
権益や所領を押領して守護代による分国一円知行化を目論んだ。
京兆家評定衆は、幼少の京兆家当主を補佐する京兆家の家政最高機関である
一方、京兆家当主を制約する為の“守護代級内衆による一揆”組織とも言える。

ターニングポイントは、一つではないと思う。
2〜3の段階があり、次第に政元は分国支配権を回復して行ったと言う事ではないのだろうか。

まず大きいのは、やはり元服成人だろう。この時期医療水準や環境衛生を見ると抵抗力体力の
無い体の弱い子は、間違いなく成人出来ていない。成人出来るか否かが、一つの壁になっていた。

それプラス室町幕府の家格秩序の崩壊に起因する被官衆の下克上が既に始まっており、将軍、公卿、
守護やその親族が、被官や国人に殺害される事態も出始めている。また、越前の斯波氏支配体制の
崩壊と守護代朝倉氏の一国押領行為は、家格秩序の崩壊に重要な一歩を与えたと思う。
守護代級内衆による京兆家評定衆の組織もこれに起因しているのではないのだろうか?

また、1479年12月の元服直後の一宮氏による政元誘拐事件の解決も、政元の分国支配の主導権回復には役立っている。

この事件は、そもそも丹波守護代内藤氏による国人一宮氏所領の押領に端を発しており、京兆家内部
で内藤氏への責任追及の声が出たと思う。一宮氏の誘拐反乱行為も政元への反乱ではなく守護代内藤
氏への反乱行為として行っている事から、内藤氏への責任追及ともに同氏の勢力も弱体化し1982年の
丹波守護代交代につながっている。これにより50年にも及ぶ内藤氏の丹波守護代任官も中断される事
になってしまった。この後に丹波国人の上原元秀が守護代に任じられ丹波上原氏の台頭(一円知行)が始まる。

最終的には、1482年の摂津国人一揆の鎮圧の成功が大きいだろう。この国一揆は1479年6月に開始され、
ているが、途中で政元の誘拐事件などが発生した事もあり鎮圧に時間がかかっている。そしてこの国一揆
も当初は守護である政元への反乱と言うよりは、摂津嶋下郡の国人衆と守護代級内衆との対決であり、特に
摂津守護代の薬師寺氏への反乱と言う性格が強かった。事実上、摂津嶋下郡の国人衆のリーダーである
茨木氏と守護代の薬師寺氏の対決とも言って良かった。しかし守護代職を持つ薬師寺氏は、管領畠山政長や
政元への説得に成功し幕府による摂津国人一揆鎮圧命令が発せられ、京兆家と畠山家の連合軍は、幕府軍と
して国人一揆鎮圧を鎮圧した。鎮圧後は内衆であり、代々京兆家当主近習であった茨木氏を許したが、薬師
寺氏はそれを認めずに茨木氏の生残りを殺害した。
797人間七七四年:2012/07/07(土) 06:40:13.58 ID:ceQ0GXak
非内衆系国人は、守護代級内衆に対抗する為に京兆家分国内の国人同士の連帯
(国人一揆)を強める事を行っているが、更に京兆家当主を奉じる事で守護代
級内衆の押領行為を阻止する事も行っている。

一宮氏の政元誘拐事件では、一宮氏は一応の形として政元を誘拐したとは言わず、
守護である政元を擁して守護代内藤氏と対決する、その為に一宮氏の館に政元の
身柄を移し守護である政元を奉じている、と言う形を取っている。
その為に内藤氏は、政元放棄論を京兆家評定衆では開陳し、代わりに将軍義尚の
実弟である三宝院義覚を養子に迎える事、それがダメになった後は、細川勝之の
還俗当主復帰論をぶち上げている。

摂津国人一揆も守護である政元への反乱行為ではなく、事実上守護代職の薬師寺氏
への反乱を当初は標榜していた。政元も直ぐには摂津国人一揆活動を始めていない。

摂津国人一揆の参加者には、京兆家当主近習や京兆家分国の奉行職を経験した国人も
おり、摂津国人一揆に参加した国人衆は、元々京兆家当主側近グループとも言える集団
でもあった。非守護代級内衆系国人は、守護代の職や内衆の称号が無いのは事実だが、
京兆家被官衆の構成員ではあった。

摂津国人一揆や一宮氏による政元誘拐事件、位田の乱(丹波国人一揆)などは京兆家
家臣団の内部抗争という面もあった。
798人間七七四年:2012/07/07(土) 07:54:41.33 ID:+khD908Q
なるほど。守護代級内衆と非守護代級国人の利害対立と紛争の中、勝元時代に領地を大きく拡張した
京兆家当主の求心力が政元の成長とともに回復、拡大した、という理解でよろしいだろうか?
799人間七七四年:2012/07/07(土) 13:14:42.94 ID:Vw1PvN+m
>>797
一宮氏は京兆家内衆の初期メンバーで守護代もやっていたけど?
歴史学って帰納的に事実を積み上げるべきかと思うけど、
事実誤認があると台無しだと思う。
それにあなたは自分の主張ありきという気もする。
800人間七七四年:2012/07/07(土) 14:12:44.70 ID:Vw1PvN+m
すまん
×それにあなたは自分の主張ありきという気もする。
○それにあなたは自分の結論ありきという気もする。
801人間七七四年:2012/07/07(土) 14:28:12.06 ID:098y/cBZ
政元も直ぐには摂津国人一揆鎮圧活動を始めていない。←○
>政元も直ぐには摂津国人一揆活動を始めていない。←×

そうですね。
だいたい1482年には政元が京兆家当主として支配権を回復したとみなして良いでしょうね。
この年は、摂津国人一揆が鎮圧された年であり、また丹波守護代の内藤氏が更迭された年でもあります。

さて、勝元が応仁の乱の最中に寺社領や公家領を大量に押領して京兆家の所領を拡大させた件ですが、
大乗院尋尊に言わせると「荘園押領のなかで最も激しいのは、細川勝元と朝倉孝景だ」と言っています。
応仁の乱の戦乱に乗じた寺社と公家の荘園押領は、勝元が最も大規模に行った可能性すらあります。

応仁の乱終結直前の1478年10月から将軍義政は、寺社領還付政策を始めており、勝元死後の政元(聡明丸)
幼年期には勝元が行った荘園押領地の返還命令が幕府から京兆家に来ている可能性があります。この命令
は、すんなり実行される内容ではありませんし、事実そうなのですが、京兆家評定衆では議題になった可能性もあります。

特に守護代級内衆からは京兆家の分国内所領の拡大により自己の所領の拡大余地が少なくなった事への問題
意識はあり、京兆家に寺社や公家へ押領地を返還させようと言う動きも京兆家評定衆内部では、あった可能
性があります。返還に成功した暁には、守護代級内衆が荘園代官職就く事を約束させた上でこの様な動きを
していた可能性すらあります。

ただ実際には返還された寺社領は少なく、京兆家所領を減らす様な事を細川一門も許す可能性は少ない事
から実際には返還されてはいないと思われるが、将軍義政からの寺社領返還命令も守護代級内衆による
京兆家当主抑制の口実に使われている可能性はある。

以前も言ったように、守護代級内衆は、守護代と言う職には就いていたが、自らの所領はその同国国人と
大して変わらない規模であり、職以外の在地性を確保するこれ取った強みはなかった。そこで守護代級内衆
は、守護代などの職務権限を行使し非内衆系国人の所領を押領する行為に出始めた。内藤氏による丹波国人
の一宮氏所領押領はこの現れだと言える。

しかしこれを政元が認めるとなると、守護代級内衆の所領までもが拡大を始め、守護代のコントロールが難しく
なってしまう可能性がある。更に丹波上原氏が丹波守護代を勤めた時も中間搾取を無くす直接的な一円知行を
行い、税収の確保に成功してもいる。しかしこのことから守護代を押える為にも守護代級内衆の所領拡大処置には、
政元は基本的にOKしない方針であり、上原氏も丹波国人一揆(位田の乱)の鎮圧失敗を口実にして政元は、守護代
職の解任を決定してしまった。
802人間七七四年:2012/07/07(土) 14:41:41.12 ID:098y/cBZ
>>799
でも、摂津国人一揆や政元誘拐事件、位田の乱などは京兆家家臣団の内部抗争の面が強いよ。

単なるマルクス主義的階級闘争ではないと思う。

もっとも京兆家被官衆でも当主に近いか、そうでないかの違いはあり、
さらに被官同士の格の違いもあって、それが抗争劇の原因となっている。

一宮氏は15世紀末期では、内衆や京兆家近習ではなくて、丹波国人としての性格が強くなっている。
もっとも一宮氏も洛中に住居を構えており、そこから細川管領邸には顔は出していたらしい。
803人間七七四年:2012/07/07(土) 17:42:49.83 ID:HsyICu2H
>もっとも一宮氏も洛中に住居を構えており、そこから細川管領邸には顔は出していたらしい。

これは内衆としての要素であり、「丹波国人としての性格が強くなっている」と矛盾するけど?
804人間七七四年:2012/07/08(日) 07:41:45.35 ID:20CTpaBC
一宮氏と同族と思われる一宮賢長が、一時期京兆家評定衆を勤めている。
誘拐事件を起こしたのは、傍流の一宮氏(宮内大輔)だろうが、親戚縁者だろ。

一宮氏も丹波の所領の館と洛中の住居両方持っている。
京兆家分国内の何らかの職に就いた時は、細川管領邸に出向事も増えるのだろう。

欧州の貴族は、カントリーハウスとタウンハウスの両方有るしな。


ただ一宮氏は、守護代にはなれなかった。その為に丹波全体的に影響を及ぼせる職権は無かったと思われる。
内藤も上原も守護代だから丹波の一円知行を行おうとした訳で、荘園代官、郡代、小守護代、段銭奉行等では、
分国全体に影響を及ぼせるほどの影響力も職務権限も無い。

その為に戦国期に入っても丹波国人の性格を持ち続けており、むしろその性格が強くなっている。

摂津国人一揆を主導した、茨木氏は内衆で段銭奉行や京兆家当主の使者を歴任し、京兆家犬追物
にも参加してる。また洛中に相当な邸宅を構えていた事を一条兼良が記している。この経歴が
あった事から、摂津国人一揆鎮圧後に政元からは許されている。

同じく摂津国人一揆に参加した吹田氏は内衆の長塩氏親しく、東寺領の荘園代官や在京して河上
関所の代官を勤めるなど京兆家の被官としての活動は色濃い。ただし吹田氏は荘園押領を繰り返
して京兆家から追放命令が出た事があり、更に歴代畠山家当主とも親しく摂津国一揆の時期には、
畠山義就とも近かった。事実上吹田氏は、京兆家と畠山家の両属関係に有ったといえる。その為
に摂津国一揆鎮圧では制圧の対象になったのだろう。
805人間七七四年:2012/07/08(日) 09:35:05.49 ID:7m+kUhX3
一宮氏って阿波国人が京兆家内衆になって丹波守護代として入部した家だけど・・・
806人間七七四年:2012/07/08(日) 12:32:01.83 ID:PQmuV4fI
>>805
何時頃?
807人間七七四年:2012/07/08(日) 12:42:10.29 ID:7m+kUhX3
応永四年十二月二十七日 丹波国守護代一宮栄正遵行状(東寺百合文書)
808人間七七四年:2012/07/08(日) 14:09:37.29 ID:2vcmp/KD
【応永】
1394年から1427年までの35年間を指す、一世一元の制導入以前では最長である。
また、応永10年から22年までの10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。

室町将軍は足利義満、足利義持、足利義量で幕府安定期である。

14世紀の話しだろ?
15世紀後半の幕政が揺らいでいる時期の話しではない。時期が違い過ぎる。

出目が阿波でも100年近くも丹波に居て所領を確保していれば、
京兆家被官だろうがなんだろうが国人化するだろ普通。
809人間七七四年:2012/07/08(日) 14:47:59.64 ID:kcHn43q5
>>804
>ただ一宮氏は、守護代にはなれなかった。その為に丹波全体的に影響を及ぼせる職権は無かったと思われる。
内藤も上原も守護代だから丹波の一円知行を行おうとした訳で、荘園代官、郡代、小守護代、段銭奉行等では、
分国全体に影響を及ぼせるほどの影響力も職務権限も無い。

と書いていたから反証を挙げたのだけど・・・
内藤氏も永享年間から丹波守護代になっているので、70年近くも丹波にいて所領を確保しているけど
それは国人化と言わないの?100年と70年の違いってそんなに大きいかな?
810人間七七四年:2012/07/08(日) 16:47:34.82 ID:9h0ve7f4
内藤氏も上原氏も立派な丹波国人だろ。

ただ一宮氏と違い、内藤氏は政元死後に一時的に丹波東部を広域的に制圧した。
その後丹波西部の波多野氏が、攻勢に出て丹波は波多野氏が押領する。

波多野氏は、勝元時代に京兆家に任官し、応仁の乱で活躍した部将であり、
政元時代にようやく丹波西部に入植した出来たばかりの武士なので丹波国人と言えるかどうか?

いずれにせよ、内藤氏は、越前守護代の朝倉氏と違い丹波一国押領は、不可能だった。
811人間七七四年:2012/07/08(日) 18:04:47.47 ID:kcHn43q5
あなたが、
一宮氏=非内衆系国人
内藤氏=守護代級内衆
という対立構造で考えていたので、
それの反証(一宮氏の丹波守護代事例)を挙げたのですが、

>>796
>内藤氏による丹波国人の一宮氏所領押領
>>810
>内藤氏も上原氏も立派な丹波国人
というのは矛盾してますよね。

ちなみに朝倉氏が越前守護代というのも微妙ですよ。
(朝倉氏が守護代になったのは斯波氏追放後なので、あなたの論旨に合わない。)
812人間七七四年:2012/07/08(日) 18:42:50.10 ID:9h0ve7f4
>>794をよく読めよ。

守護代どころか、
斯波氏と朝倉氏が争っている真っ最中(1471年)に孝景は守護に任命されている。

それに朝倉は、守護代甲斐氏サイドの武将です。
813人間七七四年:2012/07/08(日) 19:42:23.93 ID:kcHn43q5
一宮氏・内藤氏から話がそれているので細かくは書かないけど、
1471年までずっと甲斐氏が越前守護代
1471年に斯波義廉から離反した朝倉孝景に越前守護職の御内書
1483年に斯波義寛の下で甲斐氏が遠江守護代、織田氏が尾張守護代、朝倉氏が越前守護代
という時系列なので、朝倉氏は守護代になる前から越前の横領をしている。
814人間七七四年:2012/07/08(日) 20:26:32.74 ID:9h0ve7f4
守護代甲斐常治が、急死。
その代わりとして、朝倉孝景が戦闘の指揮を取った。

越前での戦闘で朝倉が有利になり、越前の一国押領状態になる。

既に甲斐常治の段階で斯波家被官人等評定衆を基盤にして勢力を拡大し、
斯波一門を蔑ろにしており、その姿勢を朝倉が引継いだ形。

同じ時期に京兆家や細川一門を蔑ろに出来るほど分国支配体制を強化した
丹波と摂津の守護代や内衆系国人や非内衆系国人は居ないだろ。
815人間七七四年:2012/07/08(日) 23:49:20.50 ID:kzHyfuwJ
京兆家は、内衆系国人であれ非内衆系であれ、
分国内の国人を均等化させて突出した勢力を造らせない様にしていた。

また分国内の都市や交通の要所は、京兆家直轄領にしていた。
国人などが関所を作り通行料などの収入を手に入れない様に対策を講じていた。
816人間七七四年:2012/07/09(月) 20:16:03.38 ID:00s3bAXZ
上原元秀は突出していたが
817人間七七四年:2012/07/13(金) 14:53:14.31 ID:QvcMRYBS
元秀が突出し始めたのは、丹波守護代職に就いた以降だけどな。

それ以前は、たいした勢力でもなく、単なる丹波の一介の国人に過ぎなかった。

元秀以前の守護代の内藤氏が、一宮氏の所領(勝元により免税されている)を押領して
政元誘拐事件を引き起こしたり、その過程で政元放棄論を主張して、政元や細川一門から
丹波守護代職を解任されている。

その代わりの上原氏であり、それほど丹波国内で広域な勢力を持っている訳でも無かった。

ただ元秀が丹波守護代職に就いてから、時代の波に合わせて、中間搾取(荘園領主)を
廃し、公家領寺社領の押領を進めるなど、守護代による丹波一円知行を進め始めた。

これにより、丹波の徴税効率が向上し莫大な税収をもたらし上原家の勢力が拡大した。
また、毎年莫大な金銭を政元に上納し京兆家の政治活動を下支えした。これらの行為は
政元から認められている。

しかし反面、元秀の押領行為も拡大し、それにより公家や寺社勢力から批判を浴びた。
更に所領を奪われたり、奪われそうになった丹波国人衆が一揆(位田の乱)を起こし、
長期に渡り丹波では内乱状態になった。

しかし明応の政変では下工作から元秀は、率先して行い、伊勢家と京兆家との橋渡し役
を買って出ている。明応の政変時の京兆家と伊勢家の同盟関係は、元秀の人脈があって
成立した面も有るり、伊勢家と元秀は大変親しかった。

元秀は、明応の政変が、勃発した時点から、京兆家家宰の安富元家と共に河内に2万の軍勢
を進めて河内における管領畠山政長と将軍義材の身柄を確保に成功している。これらの軍功
によって一介の丹波国人から内衆トップである京兆家家宰の安富元家と同じ立場にまで成り
上がったとも言える。
818人間七七四年:2012/07/13(金) 15:04:29.59 ID:QvcMRYBS
>>817の修正)
元秀が突出し始めたのは、丹波守護代職に就いた以降だけどな。

それ以前は、たいした勢力でもなく、単なる丹波の一介の国人に過ぎなかった。

元秀以前の守護代の内藤氏が、一宮氏の所領(勝元により免税されている)を押領して
政元誘拐事件を引き起こしたり、その過程で政元放棄論を主張して、政元や細川一門から
丹波守護代職を解任されている。

その代わりの上原氏であり、それほど丹波広域に勢力を持っている訳でも無かった。

ただ元秀が丹波守護代職に就いてから、時代の波に合わせて、中間搾取(荘園領主)を
廃し、公家領寺社領の押領を進めるなど、守護代による丹波一円知行を進め始めた。

これにより、丹波の徴税効率が向上し莫大な税収をもたらし上原家の勢力が拡大した。
また、毎年莫大な金銭を政元に上納し京兆家の政治活動を下支えした。これらの行為は
政元から認められている。

しかし反面、元秀の押領行為も拡大し、それにより公家や寺社勢力から批判を浴びた。
更に所領を奪われたり、奪われそうになった丹波国人衆が一揆(位田の乱)を起こし、
長期に渡り丹波では内乱状態になった。

一方、明応の政変では下工作から元秀は、率先して行い、伊勢家と京兆家との橋渡し役
を買って出ている。明応の政変時の京兆家と伊勢家の同盟関係は、元秀の人脈があって
成立した面も有るり、伊勢家と元秀は大変親しかった。
また、資料によっては、赤松家、畠山家、朝倉家との連係も賢家・元秀親子の尽力で成立したとある。

元秀は、明応の政変が勃発した時点から、京兆家家宰の安富元家と共に河内に2万余の軍勢
を進めて河内における幕府軍勢を内応分断させ、将軍親衛隊の奉公衆を撃破、管領畠山政長
を自害に追い込んだ。そして決定的なのは将軍義材の身柄を確保に成功している事であろう。

これらの軍功によって一介の丹波国人から京兆家内衆のトップである京兆家家宰の安富元家
と同じ立場にまで成り上がったとも言える。
819人間七七四年:2012/07/14(土) 00:56:33.36 ID:/8dWNzQU
もともと信州の諏訪氏の出らしいな、上原氏は。
鎌倉時代中期に丹波の物部に土着、そこで開墾を始めて荘園と成ったらしい。
820人間七七四年:2012/07/14(土) 07:43:26.95 ID:dMVg+l0k
守護代であっても内衆系国人じゃないのか?
821人間七七四年:2012/07/14(土) 11:37:37.05 ID:PbSN+3ec
京兆家の内衆には、成っていただろ。

南北朝時代には、丹波守護で管領の細川頼元の随兵を勤めている。
同族が、赤松家の被官になっており、京兆家と赤松家を繋ぐ役目もあったらしい。

ただ賢家・元秀の代まで、意見人とか守護代程の地位には、成ってなかった。
822人間七七四年:2012/07/14(土) 16:17:09.43 ID:dMVg+l0k
細川頼元の随兵を内衆と言わずして何を内衆と言うんだ?
823人間七七四年:2012/07/14(土) 18:48:59.91 ID:dMVg+l0k
そんな上原氏を「単なる丹波の一介の国人に過ぎなかった」と言うのか?
824人間七七四年:2012/07/14(土) 23:50:16.69 ID:lq+pTb1Q
内衆でもクラスが色々有るんだよ。

守護代級内衆と単なる国人クラスの内衆と色々有る。
守護代級の内衆だと京兆家宿老と言ってもよい。

その他に京兆家当主の近習としての性格が強い内衆も居る。
政元の右筆や奏者、使者、傅育役、京兆家奉行人などを勤める内衆も居る。

内衆と言っても規模や性格が微妙に異なる被官で構成されている。

所領が一箇所とか隣合せで2箇所とかしかない内衆もいれば、
複数の郡にまたがっていくつも所領(荘園代官職なども)を確保している内衆も居る。
そうなるとその内衆は、複数の郡に影響力を確保している事になる。

摂津国人一揆を主導した摂津の国人である茨木氏は、
内衆であるが、どちらかと言うと政元近習としての性格が強い内衆と言える。
825人間七七四年:2012/07/15(日) 08:32:43.11 ID:L59aDstI
細川頼元の随兵を「単なる丹波の一介の国人に過ぎなかった」と言う理由ががわからん
826人間七七四年:2012/07/15(日) 12:17:56.54 ID:Hp3zSks8
所領の規模や影響力からしたら、一介の国人と大して変わらない。
守護代にでもなっていれば、違うのだろうが。

もともと元秀以前の丹波上原家は、そんなにたいした被官でもなかった。
827人間七七四年:2012/07/15(日) 12:40:17.61 ID:L59aDstI
それならば守護代と非守護代の区分だけで十分だろ?
なんでわざわざ内衆系国人とか言うんだ?
828人間七七四年:2012/07/15(日) 12:53:19.01 ID:L59aDstI
そもそも>>815で「内衆系国人であれ突出した勢力を造らないように」と言いながら
>>818で「守護代の上原氏が横領で勢力拡大することを政元が認める」と言う意味がわからん
守護代なら突出しても構わん、とでも言うのか?
829人間七七四年:2012/07/16(月) 00:13:18.08 ID:RNEF2GB6
内衆になっていない国人も居る。でも丹波や摂津の国人なら京兆家の被官扱い。

西摂津の池田氏などは、城下町を抱え、諸領内に街道を抱えている事から関所
の収入も膨大で、かなり有力な国人だ。しかし内衆にはなっていない。

元秀は、結局暗殺に近い形で死んでいるシナ。
元秀の伊勢家との親密ぶりを嫌がって政元に消された可能性も有る。

位田の乱にも政元近習と思われる家筋の丹波国人が参加しており、
丹波国人一揆自体が、政元による守護代の上原元秀抑制策の可能性がある。
それか丹波国人達が政元の介入を求める目的の反乱を起こした可能性も有る。

政元は、元秀に細川の姓を与えようとしたが、内衆の反発で撤回させられている。

政元自身が、内衆を抑制しているし、
他の内衆も特定の被官が突出しないように相互牽制している面も有る。

守護代は、分国内で押領出来る権限があり、突出しやすいのは事実。
また京兆家にとって守護代級内衆は、京兆家の宿老でもある。
ある意味守護と守護代は、競合関係に有る。特に幕府の力が弛緩したり
家格秩序が崩壊しつつある時期になると、守護と守護代は分国支配の
主導権を巡り武力衝突を起こしガチに成る。

薬師寺氏も摂津守護代職を解任されそうになり、反乱を起こしたり、
将軍に泣きついて守護代職の確保に躍起になっている。

応仁の乱終了後には守護代による国盗や下克上が始まっており、
守護が在国していない分国では、守護代の主導権は強まる一方だった。

守護代の下克上に懲りた甲斐武田家は、
既に守護代職そのものを廃止し、守護の直接統治を開始している。
830人間七七四年:2012/07/16(月) 08:11:26.41 ID:7GERqI/I
なんか支離滅裂ですよ。
ご自身の論をマトリックスにまとめてみてはいかがでしょうか。
一つのレスの中でも相反することが書かれているので読みにくいです。
831人間七七四年:2012/07/16(月) 12:54:59.18 ID:+rnsFuXV
>>829
単純で基本的な疑問なんで笑われるかもしれないが
守護代の任免権は守護の専権で、幕府や将軍は関係ないんじゃないか
畿内近国では守護代の任免に将軍が口を出すことがあるのは知っているが
それってただの口先介入で何の権限もないんじゃない?
832人間七七四年:2012/07/16(月) 15:53:09.54 ID:s94ZTMF6
>>830
具体的には?

>>831
将軍も守護代を解任している。
義教時代に、丹波守護代を将軍が解任している。

ただそれをやり過ぎて大名と将軍義教の関係が、おかしくなっているけどね。

8代将軍の義政ですら、1451年には尾張の守護代人事問題に介入、守護の斯波義健に対して
織田敏広を更迭して織田郷広を守護代にさせようとする。この人事は管領の細川勝元と畠山
持国らに反対され、実行には移されなかったが、義政時代でも守護代職の任免は将軍の介入
が可能であった事を示している。

この人事政策には義政の乳母(養育係)として幕政に影響力を持つ今参局に織田郷広が賄賂を
支払って行わせたモノだと言われている。

応仁の乱の最中でも、足利義政は、斯波家の宿老だった朝倉孝景を越前の守護に任命している。
833人間七七四年:2012/07/16(月) 16:19:39.76 ID:mODV9CMU
守護代、内衆、被官、国人、それぞれについてご自身が書いたことを整理してみれば矛盾がわかると思います。

>丹波国人一揆自体が、政元による守護代の上原元秀抑制策の可能性がある。
>政元は、元秀に細川の姓を与えようとしたが、内衆の反発で撤回させられている。
このように一貫していませんよね?

>この人事は管領の細川勝元と畠山持国らに反対され、実行には移されなかったが、義政時代でも守護代職の任免は将軍の介入
が可能であった事を示している。

「実行には移されなかった」ということは>>831が正しいということですよね?
834人間七七四年:2012/07/16(月) 16:50:44.42 ID:s94ZTMF6
>>833
政元の真意内意を知った内衆や近習が、元秀の押さえ込みを考えた可能性もありますよ。

それに守護職獲得の為に将軍介入を狙った織田郷広の今参局へのロビー活動は、
全くの的外れと言う事になりますが、それもおかしいでしょう。

朝倉孝景なんかは、守護代どころか、いきなり越前の守護になっているんですから。
835人間七七四年:2012/07/16(月) 17:53:53.48 ID:mODV9CMU
抑え込む対象の人物に細川名字を与える、というのは矛盾ですよね?

守護代の任免権を持つ守護の任免権を行使することで間接的に守護代の人事に介入することを
「守護代の任免権を持つ」とは言いませんよ。
836人間七七四年:2012/07/17(火) 00:29:14.38 ID:v0OKOX5X
名前の件は、最初は、元秀が望んだって言う話しも有る。
それに元秀には、摂津守護代職も狙っていたと言う話しも有る。

何れにせよ元秀は、伊勢家に近すぎ。

将軍による守護代任免は、間接的介入ではない。
直接任免している。だから織田郷広は、まず今参局へのロビイングしたんだよ。
837人間七七四年:2012/07/17(火) 06:41:26.17 ID:PR7jLlwT
足利義教のときも、細川持之が丹波守護代解任の伺いをたてただけ。
足利義政のときも、今参局へのロビイングは成功しなかった。
守護代補任状を誰の名義で出しているか考えればわかりますよ。
というか守護以外から出ている事例があったら教えてもらいたい。
838831:2012/07/17(火) 12:49:32.18 ID:eOsB9uOw
>>837
そうなんですよ自分も見たことがない
ただ畿内近国に限っては将軍・幕府による「守護代職の任免」への介入が見られる
実際、首をすげ替えたりもしてるし
守護の専権であるところのものを強引に介入するのに
1、どのような権限を持った人が
2、どのような命令系統で
3、どんな理由付けで
行われたのかがわからない
昔からの疑問です
839人間七七四年:2012/07/18(水) 19:22:35.84 ID:D2UKTPKN
>足利義教のときも、細川持之が丹波守護代解任の伺いをたてただけ。

めっちゃ気にしてますヤンw

>足利義政のときも、今参局へのロビイングは成功しなかった。

他の件では、成功しているかも知れません。

>守護の専権であるところのものを強引に介入するのに

将軍が、介入していたら、専権では無いでしょうね。

840人間七七四年:2012/07/19(木) 06:23:06.06 ID:KZCTmWQA
>他の件では、成功しているかも知れません。

「かもしれません」と言われても困ります。
成功例を挙げなければ説得力ないですよ。
841人間七七四年:2012/07/19(木) 15:26:53.51 ID:eCWM553b
足利義政による1471年の朝倉孝景の越前守護職任命。
842人間七七四年:2012/07/19(木) 21:31:43.32 ID:i7f6a44b
将軍が守護を差し置いて守護代を任免できた成功例、という話をしているのに
将軍による守護の任命例を出されても困りますが
843831:2012/07/20(金) 14:23:44.89 ID:WH+nlQaL
>>841
私も越前の例を考えに入れていましたが問題となるのは甲斐氏の方だと思います
斯波氏の内訌と宿老・守護代クラスの勢力争いが招いた守護権力の空白
守護権力の空白期に上位権力が介入することは大いにあり得ます
守護空白期(幼少なども含む)場合、執事や守護代は幕府と直接結びつく必要があるから
問題になるのは
甲斐氏が将軍直臣のようになっていて、直臣ならばその家督継承にも口を出す事ができること
斯波氏が三管領家のひとつであり、その内訌は幕府権力内の争乱に直結する為に介入したこと
守護任免時に守護代改選もおこうなう慣習があった可能性
守護任免時に特定人物を守護代にすることを条件にしてた可能性
844人間七七四年:2012/07/22(日) 01:36:30.50 ID:ZIhc2ZjU
>>842
守護は、守護代の上司です。
しかも斯波家の既得権(守護職の固定化)を認めない方向での任命です。

更に、新規に守護に任じられたのが、長年越前で戦って来た斯波家宿老です。
これは将軍権力による革命的な事件です。将軍自ら、幕府の家格秩序と既得権をぶっ壊してしまいました。

>>843
時系列の問題もありますよね。
斯波家がダメになったから、斯波家宿老が将軍直参化したのか、
逆に斯波家宿老が将軍直参化したから斯波家がダメになったのか…
(ダメになってもやっていけたのか)

もっと言えば、歴代将軍は、斯波家弱体化の意向があり、
その為に斯波家がダメになっていたからなのか…

何れにせよ、義政の治世下では、斯波家の家政は、
完全に被官人等評定衆の合議の元に運営されている体制になっています。
その議長格には甲斐常治がすわり、それを将軍が認めてしまっています。
常治は、斯波家一門をかなり蔑ろにしていたようですね。

これも下克上なのかも知れませんが、将軍権力主導の下克上だと守護権力抑制策となり、
将軍権力の強化と幕府の集権化の側面も検討する必要が有るのかも知れません。


勝元期だと三管領家の管領在任期間の長さを見ると圧倒的に京兆家ですが、
将軍義持の時期までは、京兆家と武衛家の管領在任時期は、そんなに違いは無いかと。
845人間七七四年:2012/07/22(日) 05:53:35.13 ID:C+l9Z4nP
>斯波家がダメになったから、斯波家宿老が将軍直参化したのか、
>逆に斯波家宿老が将軍直参化したから斯波家がダメになったのか…

どちらも違います。
甲斐氏は応永年間でも将軍から所領安堵を受けているなど、初期は将軍御家人でした。
甲斐氏は将軍直参から斯波被官になったという時系列です。
846人間七七四年:2012/07/22(日) 13:52:11.75 ID:d2ZPRhkx
つまり…

>もっと言えば、歴代将軍は、斯波家弱体化の意向があり、
>その為に斯波家がダメになっていたからなのか…

って事じゃん。

これは要するに

>将軍権力主導の下克上だと守護権力抑制策となり、将軍権力の強化と
>幕府の集権化の側面も検討する必要が有るのかも知れません。

って事になる。
“将軍・幕府による「守護代職の任免」への介入”はこの観点から行われたんだろう。
847人間七七四年:2012/07/22(日) 17:18:13.29 ID:D3tJlNg3
具体例も無いまま、「つまり」とか「要するに」と言っても説得力ありませんよ。
848人間七七四年:2012/07/23(月) 02:26:02.83 ID:kSlyUl9w
>>847
将軍権力強化の具体例?

義教が暗殺された事そのものが、その具体例なんじゃねーの。
849人間七七四年:2012/07/23(月) 06:25:14.81 ID:/DD2ua37
今の話題は、「守護代職の任免」を「将軍が直接行使できるか」または「あくまでも守護の職権か」ですよね?
850人間七七四年:2012/07/24(火) 01:13:00.23 ID:gC6sDaxX
将軍の権限か?守護の権限か?じゃね?

ま、守護は、自己の分国の守護代人事に将軍がクビ突っ込んで来るのは嫌がるだろう。

明応の政変も将軍権力の復活を阻止する為だったし。
851831:2012/07/28(土) 14:09:49.24 ID:WYE6kVc/
守護任免権は将軍の大権の一部です。では守護代は?というのが現在の疑問ですね

朝倉氏の越前守護職補任は疑わしいですね。あとで争論の種になります
朝倉はともかく、将軍は近江においてもめちゃくちゃな守護人事をしています
京極に与えたり、佐々木六角家一門衆に与えたり、お気に入りの直臣に与えたり、細川に預けたりしています
この間(結構な期間です)の守護代の変遷が問題となります
幕府と六角(南近江)が戦っている六角征伐の時代を除けば、近江守護代はほぼ伊庭氏だと思われます
●伊庭氏が佐々木一族で京極とも近しく、常に北近江との緊張状態にあった六角氏には必要な調停役
●伊庭氏は将軍直臣でもあり、守護交代時にも混乱を最小限に抑える為
●そもそも六角久頼の守護補任の段階で将軍が守護代伊庭氏に直接指示をしている
●憶測だが馬淵氏から伊庭氏への守護代の変更にも幕府の影響があったのか?
六角氏と伊庭氏の対立時には細川が援軍を出していますね
伊庭氏は事実上、守護からはアンタッチャブルな守護代として存在していたと言えます

将軍が近江の守護代人事に介入できたのは
伊庭氏が将軍直臣だったからと、そもそも非常時(守護不在時、内乱時)には将軍の非常大権が優先するから
だと思われます
852人間七七四年:2012/07/29(日) 19:51:11.22 ID:9MZtoW3I
佐々木越中八郎や山内政綱はあくまでも六角一族として、
近江守護になったから守護代は六角時代と同じだと思う。
京極政経のときは京極被官の多賀経家が守護代じゃないかな?
細川政元のときは細川被官の安富元家が守護代。
結城尚豊のときは知らんが、伊庭氏ということが有り得るの?
853人間七七四年:2012/07/29(日) 20:10:54.13 ID:9MZtoW3I
京極持清のときの守護代の多賀高忠を書き忘れていました。
854人間七七四年:2012/07/31(火) 14:22:01.12 ID:3AdRXoZn
守護代伊庭氏って後に六角氏に潰されなかったっけ?

>細川政元のときは細川被官の安富元家が守護代。

これって本当に守護代の職務を執行出来たのかね?

安富元家は、京兆家評定衆筆頭で家宰でもある。
京兆家の仕事と両立できたのかね?

多賀高忠って晩年には侍所所司代になって
1485年に土一揆を組織した三好之長を細川政元と一緒に逮捕しようと、細川政之邸を包囲した。
だが、政之が之長逮捕を拒否し身柄引き渡しを拒んでいる。

その一年後に死亡し、京兆家が、侍所の機能を吸収したらしい。
高忠が、所司代を務めていた時期って京の治安が物凄く良かったらしい。
855人間七七四年:2012/07/31(火) 14:24:43.71 ID:3AdRXoZn

1485年に土一揆を組織した三好之長を逮捕しようと、細川政元と一緒に細川政之邸を包囲した。←○

1485年に土一揆を組織した三好之長を細川政元と一緒に逮捕しようと、細川政之邸を包囲した。←×
856人間七七四年:2012/07/31(火) 20:12:50.22 ID:3bKUXItC
そもそも安富元家は讃岐守護代だったので両立とかいう問題ではない。
ひょっとして在京守護代と在国守護代を混同していないか?
守護代が内衆なのは当たり前。
857人間七七四年:2012/08/01(水) 14:50:00.53 ID:vCRI5frL
安富元家が、讃岐守護代だった時は、家宰じゃないだろ。
それにこの時期の守護職は、固定化されている。

京兆家相伝の守護国でない近江守護代に京兆家被官が任じられるのは、やはりイレギュラー人事。

>ひょっとして在京守護代と在国守護代を混同していないか?

京兆家の場合、京にすぐ近くの分国であり、
両国の交通の結節点が京である為に、あまり在京守護代と在国守護代の違いに大きな意味は無し。

丹波や摂津の国人ですら自領の館と洛中の邸宅と言う具合に双方を構えている。
国人が京兆家当主の近習を勤める期間は、洛中の邸宅から管領細川邸に通っている。

管領細川邸が丹波と摂津の守護所の機能を持っている。
政元が1482年に摂津国人一揆を潰すまで、摂津に守護所が無かったのは、この為だ。
858人間七七四年:2012/08/02(木) 06:21:23.40 ID:FHeBnTrr
安富元家が家宰になった後の讃岐守護代は誰だと言うつもり?
京兆家の在京守護代と在国守護代を調べてみれば?
859人間七七四年:2012/08/02(木) 11:16:32.26 ID:mMRDGlnI
讃岐西方守護代は、安富元顕(元家の息子)。 讃岐東方守護代は、香川満景。
で、肝心の讃岐守護は、細川成之と政之親子なんだな、これがw

政元は、畿内領有化に没頭しつつあり、土佐の統治は、既に守護代家に丸投げ。
讃岐も次第に阿波守護家に譲りつつある状態。ただ守護代だけは、京兆家内衆が務めている。
860人間七七四年:2012/08/02(木) 20:48:17.85 ID:RIxjh72K
安富元家が家宰をやっている時の讃岐守護代が元顕?
安富元顕が守護代になったのは相当後だと思うけど、いつごろを想定してるの?
安富元家が家宰になったのはいつだと考えているの?
861人間七七四年:2012/08/03(金) 22:55:19.55 ID:+loZWCkH
讃岐西方守護代は、安富元家→安富元治→安富元顕の順か。
詳しい在任時期は知らない。

いずれにせよ、政元は讃岐の統治を阿波守護家に渡しつつあるのは事実。
その後に讃岐で京兆家と阿波守護家の戦いになるけどね。

1485年ごろには、山城守護職を巡り、京兆家と阿波守護家は武力衝突寸前にまでなっている。

三好之長の土一揆扇動は、山城国一揆と連動したもので、細川政之が、山城守護職を
狙っていた事から、三好之長が行ったもの。同じ時期に政元も山城一揆衆を管領細川邸周辺に
集結させてときの声をあげさせている。政元は、この時期の山城守護職には伊勢貞宗貞陸親子を推している。

三好之長と阿波で対立した親京兆家派の東条何某は、阿波守護家の内衆で安富元家の兄弟だとか。
三好が台頭するまでは、そのラインがあったから、阿波守護家の讃岐統治も問題なかったのかも。

阿波守護家の親京兆家派の内衆である東条、飯尾、清、一宮などと政之派の三好や河村との対立は
阿波国内での内乱となって表れている。1478年には、政之を阿波守護家当主から辞めさせる動きが
有ったし、1485〜88年には阿波国内では、内乱状態になったが、これは親京兆家派の内衆の反乱が
発生した事によるものだ。政之や三好は、この間数年間の動静があまり掴めなくなる。おそらく
阿波での反乱鎮圧の為の軍事行動に忙しかった可能性がある。この間政之や三好の畿内での活動は
見られない。
862人間七七四年:2012/08/04(土) 07:29:16.42 ID:hAllS7Cy
話が逸れている。
守護代任免権は将軍の権限か?という話題だったので、
安富氏が近江守護代や讃岐守護代になったのは、
京兆家の任命ではなく将軍の任命による、
ということを論証したかったのでは?
私はそうは思わないけど。
863人間七七四年:2012/08/04(土) 08:05:59.94 ID:hAllS7Cy
甲斐氏は執事(家宰)のときに守護代を兼ねていたのに、
安富氏は執事(家宰)のときは守護代を兼ねていないはず、というの変では?
864人間七七四年:2012/08/04(土) 08:13:44.46 ID:hAllS7Cy
>>859
>政元は、畿内領有化に没頭しつつあり、土佐の統治は、既に守護代家に丸投げ。
とありますが、土佐守護代も京兆家評定衆ですよね?
865人間七七四年:2012/08/04(土) 10:57:21.23 ID:BLsvmipi
安富氏の讃岐守護代任命は、京兆家当主累代の了解事項だろ。
まあ政元は、畿内領有化に注力しているから、讃岐の事には畿内程の関心が有ったと思えないが。

近江守護代任命は、将軍義尚がらみだろ、政元も将軍に言われたから仕方がないって感じ。
しかし、hAllS7Cyの話しには、もう飽きた。消えて良い。

京兆家と阿波守護家が、仲良かったのは、1485年位までだね。その後は、対立状態。
将軍足利義材が、やたら細川家下屋敷に顔を出してるが、これも京兆家と阿波守護家の分裂工作なんだろ。

細川同族連合体制は、応仁の乱以降は、機能不全になっている。

明応の政変は、管領畠山政長の打倒と将軍義材の廃立が第一の目的だったが、
将軍家と阿波守護家が、近づき過ぎている事や阿波守護家が露骨に山城守護職に
野心を見せた事なども京兆家の不信感をかった切っ掛けの一つになっていると思う。

1485年当時は、義政と義尚の間で将軍職引継ぎや応仁の乱の後始末(幕権回復策)が
上手くいかず、奉公衆と奉行衆が対立し戦闘にまでなっている。幕府の内紛や弱体化
で山城御料国化が頓挫し、幕府の山城支配が上手く行かなくなり、それを見た大名や
国人や土民達が幕府の内紛弱体化に乗じて蜂起した面が有ると思う。

特に阿波守護家が、山城での一揆を組織しているのは、山城守護職欲しさだが、それを
実現する為に内紛や応仁の乱以後の幕府の権威失墜(畿内地域政権転落)による執行能力
の低下を見抜いて強引に一揆扇動に走った可能性が高い。

幕府の意向に関係なく国人や土民の支持を梃子にして強引に山城守護職を取りに走った
阿波守護家の行動は、いよいよ戦国的な下克上な政治行動が、細川同族連合内部でも
始まった事を意味するし、同族連合体制が弛緩し始めた意味も有ると思う。

この時期の京兆家は、義尚政権と一応の良好状態にあったので、幕府権力(侍所)
と一体化して阿波守護家の山城守護職任官に向けての数々の工作を鎮圧する体制だった。
866人間七七四年:2012/08/04(土) 11:30:32.90 ID:hAllS7Cy
自分理論に都合の悪い事例を指摘されるたびに議論から逃げたら、誰からも支持されませんよ?
867人間七七四年:2012/08/04(土) 11:31:16.13 ID:BLsvmipi
お前もなwww
868人間七七四年:2012/08/04(土) 11:39:57.11 ID:hAllS7Cy
私はここで自分理論を語りたいとは思わないですけど?
史料的な根拠の無い論述が気になるので指摘しているだけです。
一次史料は無視している、とおっしゃるのでしたら何も申しませんが。
869人間七七四年:2012/08/04(土) 15:01:09.20 ID:BLsvmipi
お前もなwww
870人間七七四年:2012/08/05(日) 13:58:58.36 ID:yAXPKXQK
夏休みだねえ
871人間七七四年:2012/08/05(日) 23:52:22.12 ID:ElgSrgAU
>>851
>朝倉氏の越前守護職補任は疑わしいですね。あとで争論の種になります

コレすげーなw
史実を完全に無視している。

朝倉が、守護職に任じられなければ、東軍に寝返る理由が無いのになw
872人間七七四年:2012/08/13(月) 18:07:17.97 ID:6aUjCdpo
>>861
1485年から88年までは阿波で親京兆家派の阿波守護家の内衆の東条、飯尾、
清、一宮らが反乱を起こして騒乱状態になっているし、1491年には親京兆家派
の備中守護家の被官であった庄元資が、同じく京兆家内衆である讃岐の香西氏
の支援を受けて備中守護の細川勝久と戦闘状態に入っている。備中大合戦である。

さらに88年に9代将軍の義尚が死んで、10代将軍に義材が就くと、まるで京兆家
を牽制するかの様に新将軍義材は、京の阿波守護家の屋敷(下屋敷)に足を運んでいる。

コレを見ると1480年代後半以降は、実質的に細川同族連合体制は、崩壊していた
と見なすべきだろう。阿波守護家や備中守護家は、京兆家のコントロールから離脱し
京兆家派の内衆と戦闘を始めている。

既に利害が一致しなくなっていた阿波守護家や備中守護家に対して政元は、京兆家
シンパの両国の内衆や国人被官を使って軍事的挑戦を開始した。詳しい経過が判ら
ないものの88年までには阿波守護家は反乱を一応鎮圧し阿波守護の細川政之が京に
復帰している。91年には備中守護の細川勝久が反乱を鎮圧している。

つまり政元は、阿波守護家や備中守護家に対する軍事的挑戦に失敗しているのである。
これにより、細川同族連合体制は完全に崩壊し、95年には和泉上下守護家も京兆家から
離反して畠山尚順と手を結び、細川政元と敵対する軍事行動を起こす。

この様に京兆家は、1490年代早々には、
野州家や典厩家、淡路守護家のみを率いる勢力に縮小してしまう。

その為に政元は、瀬戸内海一体の勢力圏の維持確保を断念し、京兆家累代相伝の
最重要分国である丹波と摂津の支配力強化、更にその隣国である畿内も自らの分国に
加えるべく、領地拡大に乗り出して、瀬戸内海の勢力圏喪失の代わりを成す事にした。

これが、京兆家の畿内領有化である。

この畿内領有化は、単なる京兆家の畿内における領地拡大だけではない。

既に何代にも渡り支配を継続している丹波と摂津でも従来の守護職の職権に
よる分国支配体制から更に強化すべく京兆家当主が直接的かつ一元的に分国
の土地と農民を支配する分国一円知行体制を構築して、より京兆家の丹波と
摂津での分国支配体制を強化しようとしていた。

その為に政元は、丹波と摂津の守護代とは、
分国支配を巡り守護代と競合関係を生じ始める事態となる。
873人間七七四年:2012/08/13(月) 22:06:00.73 ID:Kem+JRvH

その為に政元と丹波と摂津の守護代は、分国支配を巡り競合関係を生じ始める事態となる。←○

その為に政元は、丹波と摂津の守護代とは、
分国支配を巡り守護代と競合関係を生じ始める事態となる。←×
874人間七七四年:2012/08/13(月) 22:28:28.81 ID:Kem+JRvH
9代将軍の義尚の死亡は1489年で、10代将軍に義材が就くのは、1490年でした。
875人間七七四年:2012/08/14(火) 20:36:11.78 ID:6KqipKRp
>88年までには阿波守護家は反乱を一応鎮圧し阿波守護の細川政之が京に復帰している。

政之は1488年に死亡なので、京に復帰しているのは、弟の義春。
政之の死因と阿波の騒乱状態には、関係有るかもしれない。
876人間七七四年:2012/08/15(水) 08:25:42.09 ID:9PbuG7wX
>>601-618あたりと同じ流れになってきたな・・・
877人間七七四年:2012/08/15(水) 12:11:42.14 ID:MT02hXN+
東条氏はともかく、飯尾氏・清氏・一宮氏は京兆家内衆だろうが
878 忍法帖【Lv=2,xxxP】 :2012/08/16(木) 19:22:05.43 ID:thvJ9A0e
そうなのか?
879人間七七四年:2012/08/16(木) 23:29:11.98 ID:imwpOZve
この時点の東条氏は、安富元家の兄弟だよ。
先代の東条国氏は、応仁の乱の時に三河守護代に任じられ、現地での戦闘に破れ自殺。
東条家は断絶状態だったので、京兆家家宰の安富家から名跡を継ぐ人物が来た。
細川持常が、足利義教の一色氏弾圧に功があり、三河守護に任じられ成之がその後を継いでいた。
その為に阿波守護家の有力内衆だった東条国氏も三河守護代に任じられたのだろう。
880人間七七四年:2012/08/17(金) 00:06:10.60 ID:58oghBnO
一色氏や阿波守護家の統治でも三河で強固な守護領国制を敷いた形跡が無く、応仁の乱以降は、
三河の守護、守護代もハッキリしない状態になる。阿波守護家は、応仁の乱後に三河から撤退した。

三河には、奉公衆が多くて将軍御料国の色彩が強く、政所執事伊勢氏が、守護を代行したと言う説も有るが…
881人間七七四年:2012/08/17(金) 07:54:30.68 ID:BGjsCREX
松平なんて伊勢氏被官で、応仁の乱の後勢力を伸ばしてるしなあ。
882人間七七四年:2012/08/17(金) 11:03:20.66 ID:bMweI9mS
>飯尾氏・清氏・一宮氏は京兆家内衆だろうが

京兆家内衆には、同族が居るし、彼らとしきりに連絡を取ってはいるが、別人だよ。

京兆家からの付家老であり本家による分家のお目付け役だが、一応阿波守護家の内衆。
だが、京兆家への依存度が高く在地性の希薄な被官衆である。その為に地元の阿波国人衆とは仲が悪い。

阿波守護家内衆の名跡を継がせる為に
わざわざ安富家から招いたのは、京兆家内衆と近かったが、別の被官衆であった為。
また、安富家が隣国の讃岐東方守護代家の家筋であった事も関係しているかも。
883人間七七四年:2012/08/19(日) 10:23:34.46 ID:TujlpDKI
庶流家の分国の守護代が京兆家に近い人物、ということは
京兆家による「瀬戸内海一体の勢力圏の維持確保」が継続していたとも言えるだろ
884人間七七四年:2012/08/20(月) 16:09:26.31 ID:QuSxlVHP
例えば>>734
>京兆家の守護代級(宿老級)内衆は、細川勝元が1473年に死亡すると、跡を継いだ聡明丸(政元)が、若干
7歳である為、従来の管領内意見人(管領管国内意見人?)制度を拡充し構成メンバーの権限を強化して
京兆家当主や分国守護の業務を補佐するという名目で“京兆家評定衆”を設置した。

とあるけど、管領内意見人って1491年にも確認できるのですが?
なんか無理矢理、「管領内意見人→京兆家評定衆」という図式を作ろうとしていませんか?
それと、摂津欠郡は分郡扱いだったので、上郡・下郡と同列にするのは適切ではないですよ?
885人間七七四年:2012/11/08(木) 04:11:38.50 ID:bpG9R0ys
摂津欠郡は、1482年に畠山義就に占領されているのを返還してもらった。
だから、摂津欠郡の分郡扱いは、政元の代で解消しているはず。

1478年に勃発した摂津国人一揆は、もともと京兆家近習だった上郡の国人衆が
応仁の乱の終結に伴い京兆家に復帰を申し出たが、京兆家評定衆に断られた為
河内の畠山義就を後援を受けて成立したもの。

当時の畠山義就は、河内を事実上軍事占領して実力で統治していたが、幕府の公認
(守護の任命等)は無く、応仁の乱終結後には畿内にも、いよいよ室町幕府から独立
した形での領国経営が出現していた。そして義就の河内統治の形態は、幕府の公認
が無い事もあり、寺社公家領の押領を積極的に進め、当時の中間搾取であったこれら
の勢力の土地支配権を排除する一円知行方式の領国経営方式を採用した。

その影響もあり、摂津国人一揆は、積極的に上郡での寺社公家領の押領行為を行い、
畠山義就が河内で行なった一円知行方式を摂津上郡でも真似て導入していた。

当然畠山義就が、欠郡を占領している事も影響しており、
政元に欠郡を返還する1482年までは、畠山義就は、摂津の知行に対する一定の発言権を維持していた。
886人間七七四年:2012/11/08(木) 06:09:53.99 ID:1tMcRXED
↑典厩家が欠郡の分郡守護だということを知らないのかな?
887人間七七四年:2012/11/08(木) 12:48:44.93 ID:bpG9R0ys
それは、1482年の段階で解消し、政元で一本化している。
888人間七七四年:2012/11/09(金) 06:28:54.24 ID:e/0QqF+J
細川政国、政賢、尹賢は分郡守護だよ
889人間七七四年:2012/11/10(土) 22:52:15.97 ID:Hm8XU/+B
>>885
>摂津欠郡の分郡扱いは、政元の代で解消しているはず。
「してるはず」って、単なるお前の思い込みだろw
890人間七七四年:2012/11/11(日) 08:36:19.55 ID:2qx78Fyv
お前って言うな、アホ。
891人間七七四年:2012/11/11(日) 23:19:48.36 ID:CrToRyEP
摂津欠郡は、1482年に政元が畠山義就と交渉して取り返している。
摂津守護は、政元に変わりない。
892人間七七四年:2012/11/12(月) 06:39:22.23 ID:EiiRmsrq
摂津守護とは別に置かれていたから分郡守護と言うんだよ
摂津守護は細川政元のままだけど、
少なくとも1486年以降は典厩家が分郡守護となっているよ
893人間七七四年:2012/11/16(金) 06:35:49.96 ID:opQVhiQM
欠郡(西成・東成・住吉の3郡)全体が、典厩家の分郡守護の統治範囲かどうかは不明。西成郡だけと言う説も多い。
894人間七七四年:2012/11/25(日) 15:44:18.04 ID:8Xo2bmO1
政元が畠山義就から欠郡を取り戻した1482年以後は、
当然、典厩家の分郡守護の統治範囲は縮小しているんだろう。西成郡だけではないか?

もう戦国時代が始まっているので武力無き分国統治はありえない。
室町幕府が守護を任命したらそれで終わりと言うわけには行かない。

京兆家の軍事力が無いと、京兆家と同盟を組んでいるとは言え、またぞろ義就や基家が
欠郡に手を伸ばしかねないし、明応の政変で完全に京兆家の敵になった畠山尚順は、
京兆家分国の弱点として嵩にかかって攻撃してくるだろう。
また、細川氏同族連合から離脱し始めている阿波守護家や和泉両守護家も如何動くか判らない。

典厩家が欠郡三郡を押えるほど独自の軍事力や経済力があると思えないし、
典厩家や野州家が、細川氏同族連合から離脱しなかった(出来なかった)のは、
京兆家に依存しないと分国が維持できない現実があったからだろう。
895人間七七四年:2012/11/28(水) 20:30:23.41 ID:WcpT/YuM
政元は政国から家督を引継いでからは、
分国丹波も含めた畿内を一元支配する事に注力していた(畿内領有化)。

基本的に政元は、細川氏同族連合体制なんて如何でもよかった。

所詮、細川氏同族連合体制は、細川管領家が幕府内での他の二つ管領家との政争を有利に進める為の装置に過ぎない。

応仁の乱によりライバルだった他二つの管領家の力が、減退した時点で、京兆家にとって
それほど細川氏同族連合体制は必要なモノでもなくなっていた。斯波家は、分国を宿老や
隣国の守護家に盗られて、完全な分国は尾張だけになっちゃったし、畠山家も分裂が一向
に収まらず、応仁の乱が終結しても南山城や河内や大和で畠山家の内戦は続く一方だった。

むしろ京兆家にとっては、阿波守護家や備中守護家と山城守護職や所領の押領を巡って対立し
始めていたので、細川氏同族連合体制の維持が、政元の利害や方向性と一致しなくなっていた。

むしろ内衆や京兆家評定衆の方が、細川氏同族連合体制の維持を求めていた感じがする。

政元は、典厩家、野州家、淡路守護家、和泉両守護家だけが付いて来れば良いって感じだったのだろう。
京兆家の分国だった土佐と讃岐の統治ですら同族の土佐守護代家や阿波守護家に丸投げしている感じだ。
896人間七七四年:2012/11/28(水) 21:01:18.25 ID:WcpT/YuM
タケダ、視ね!
897人間七七四年:2013/01/14(月) 15:08:42.18 ID:hNQwZMys
長く続いたこのスレもうすぐ終わり。残念!
898人間七七四年:2013/01/29(火) 02:41:21.03 ID:7bVzY7i4
細川家同族連合体制 = ユーゴスラビア
899人間七七四年:2013/01/29(火) 06:05:06.45 ID:QkWcQkiV
>>898
いくらなんでも違いすぎるわw
900人間七七四年:2013/02/14(木) 02:55:24.39 ID:2sdSCwdu
セルビア=京兆家

モンテネグロ=淡路守護家

クロアチア=阿波守護家

スロベニア=備中守護家

ボスニア=和泉上下守護家
901人間七七四年:2013/02/14(木) 09:10:44.00 ID:Ipts4lFH
>>900
元々おんなじものなんだから、神聖ローマ帝国とかのほうがまだ合ってるだろ
902人間七七四年:2013/06/21(金) 07:25:49.89 ID:nwtpmsHW
■当主ごとの分国支配体制の変化

【政元期】

京兆家当主(守護)→宿老級内衆(守護代)→国人

【高国期】

京兆家当主(守護)→永正の錯乱で内衆半減→国人

【晴元期】

京兆家当主(守護)―――――――――――→国人
903人間七七四年:2013/06/21(金) 07:29:14.28 ID:MF4QdTjw
>>902
> 【晴元期】
>
> 京兆家当主(守護)―――――――――――→国人

晴元の時は国人との間に、三好政長なんかの奉行人が介在してるだろ。こいつらの存在が
三好長慶との対立を生んだわけだし
904人間七七四年:2013/06/21(金) 07:51:55.39 ID:nwtpmsHW
むしろ国人が、内衆規模に拡大してる面がある。
大きくなった国人のコントロールに晴元が苦労している感じ。

政元の段階で、内衆を整理して、守護一円知行(国人直接統治)を完成させるべきだった。

政元は、内衆の排除を考えていたフシはあるけど、内衆もそれを察知して反乱を起こし始める。
905人間七七四年:2013/06/22(土) 06:24:25.60 ID:t+gNkram
政元は、摂津の守護代を廃止したがっていた感じがする。
薬師寺氏は、反乱起こしていたし、そのワリには、在地性が希薄だからね。

西摂津の池田氏なんて、一回の国人に過ぎないのに、
勝元から色んな恩賞ももらっているし、内衆にはしてもらえなかったのに、
応仁の乱前後から拡大し始めて、下手な内衆よりも財力や兵力を持っている感じ。
906人間七七四年:2013/06/22(土) 21:18:45.55 ID:N3ZsTMGD
さらに言っちゃえば摂津国人衆はみんなが実力を持ったため分裂状態に陥る
一人傑出した人物が登場したら戦国大名に成長できたかもしれない
いや傑出した人物はいたけどなんだかんだ消されていったが正しい解釈かな
この摂津国人衆の対立に乗じて阿波三好が管領細川を凌駕していくのは面白いけどね
907人間七七四年:2013/06/23(日) 04:27:58.50 ID:cTC16VCf
>さらに言っちゃえば摂津国人衆はみんなが実力を持ったため分裂状態に陥る
>一人傑出した人物が登場したら戦国大名に成長できたかもしれない
>いや傑出した人物はいたけどなんだかんだ消されていったが正しい解釈かな

それなんてハシシタ?  まあ〜ハシシタは、自滅のケースだけど。
908人間七七四年:2013/06/23(日) 05:36:12.79 ID:m6QuwAwm
ま、ハシシタはともかく、日本史的観点のみで言うと、摂津国人が分裂状態で一人傑出した勢力が
出なかったのは、それが京兆家の政策だったから。と言う面もある。とにかく京兆家は、突出した
家臣を作らせなかった。内衆にせよ、国人にせよ、徹底的に均衡させて、並列化させて分国を統治した。

また、京兆家は、所領を分国内に徹底的に集中させている。
これは、応仁の乱の時期に行った勝元による荘園押領の遺産でもある。

勝元は、徹底的かつ大量に寺社領や公家領を押領した。

大乗院尋尊は「武士の中で荘園押領が最も激しかったのは、細川勝元と朝倉孝景だ!」
と記録に残しており、別の尋尊の記録には、勝元の葬儀の時に激しい雷鳴が鳴り響いた
のは「勝元が行った寺社領押領の天罰である」と記している位である。
909人間七七四年:2013/06/23(日) 19:56:30.22 ID:JUS1DNJg
907は変な人っぽいからスルー

>>908
勝元の遺産も肝心の細川が抗争を繰り返してしまってはなんともなりませんね
910人間七七四年:2013/06/24(月) 05:07:19.30 ID:g67NCDrl
政元に直系男子が居たとしたら、京兆家は、如何なっていただろうね?
911人間七七四年:2013/06/24(月) 20:02:42.90 ID:jjXWQaJu
>>910
そもそも直系男子が存在するなら永正の錯乱が発生するかどうか
それ以前に三人も養子縁組するかどうか
まあそんなことを言ったら先に進まないので養子はアリで永正の錯乱は発生ルートの場合

その直系男子の能力次第でしょうか?
無能なら家中をまとめられず衰退
有能なら足利義澄を支持し足利義尹と対立
912人間七七四年:2013/06/25(火) 09:02:18.85 ID:T6LgSOSX
>>911
>そもそも直系男子が存在するなら永正の錯乱が発生するかどうか それ以前に三人も養子縁組するかどうか

まあ〜そうでしょうね。香西元長も、政元への直接の不満と言うよりは「阿波守護家から澄元が京兆家に来ると
三好之長まで来てしまい、京兆家家宰の地位が奪われるのが嫌だ。だから政元を暗殺して澄之を擁立してしまえ!」
って事になっている。

直系男子が居れば、そもそもそういう話に成らないから、京兆家家督分裂の話しにもならない。

政元も後20年くらいは、長生きしたでしょうし、
京兆家の分裂が無ければ、大内氏の畿内進出も無いので、
延々と畿内周辺で畠山や細川庶流や宗教勢力との抗争が続きそうです。

政元は、比叡山や大和の寺院の焼討ちもしてます。


>有能なら足利義澄を支持し足利義尹と対立

だね。はげどう。
913人間七七四年:2013/06/26(水) 03:15:58.49 ID:xeyfht8n
>延々と畿内周辺で畠山や細川庶流や宗教勢力との抗争が続きそうです。

畠山や宗教勢力はともかく、
庶流って言っても、何代も前に枝分かれしているから、親族親戚の感覚は無いだろう。
914人間七七四年:2013/06/26(水) 03:25:51.17 ID:xeyfht8n
>>913の修正)
>延々と畿内周辺で畠山や細川庶流や宗教勢力との抗争が続きそうです。

畠山や宗教勢力との抗争は当然有得るだろうけど、
細川庶流って言っても、何代も前に枝分かれしているから、親族親戚の感覚は無いのだろう。

野州家や典厩家は、比較的京兆家と血統が近いが、
阿波守護家や備中守護家、それに和泉両守護家なんかは、何代も前に枝分かれしている。

応仁の乱後に守護家で京兆家と協調しているのは、淡路守護家と土佐守護代家ぐらいか。
915人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:l96tHJUS
「細川家同族連合体制は、明応の政変以後に崩壊した」
って言っている人が居るけど、如何なんだろうね?

播磨の赤松家返還問題なんかを見てもは、細川京兆家が言っていた訳ではない。

どちらかと言うと、細川庶流の阿波守護家が騒いでいた。細川持常とその弟
の子で養子の成之が騒いでいた件だ。勝元は、ノータッチと言うか、山名宗全
の味方をしてた。そもそも細川本宗家と山名本宗家は、そんなに仲が悪くない。

京兆家と山名宗家が本格的に対立し始めるのは、文正の変以降だ。

元々細川京兆家と山名本家は、畠山家に対抗する為に姻戚関係を結んでいた。
さらに養子ももらっていた。だから、ケンカしたくなかったので、赤松家に
播磨返還するよりも、山名宗全との同盟を選択し、同族である阿波守護家の
主張には当初は、同調しなかった。

1448年と54年に赤松家への播磨返還問題が、浮上したが、その時の勝元は、
宗全を守る為に足利義政に嘆願や仲介を繰り返して、なんとかやり過ごしている。
916人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:l96tHJUS
>>915の続き)
特に1454年の赤松家への返還問題は、宗全の反発で幕政上の大問題になり、この時
は、義政が怒って山名宗全討伐を諸大名に命じた。そして、宗全討伐軍の総大将に
阿波守護家の細川成之が任じられている。

しかし、細川本宗家の勝元のロビー活動で、宗全討伐は中止となり、その代わりに
宗全が隠居して分国に蟄居する事になった。この事では、細川家内部で完全に意見
が分かれ、本家と庶家の間で対立している。

細川家同族連合体制は、応仁の乱後や明応の政変後に崩壊した、と言われているが、
既に応仁の乱前から、この様に対立しており、細川家同族連合体制の芽は、この時点
から既に有ったと言える。

なぜ、この様に阿波守護家が、播磨の赤松家返還に躍起になったかと言うと、一つは
足利義政の意向が有ったらしい。阿波守護家は相伴衆であり、将軍と阿波守護家の間
には接点があった。
応仁の乱初期には、足利義政は、宗全との和解を望んだが、この時点での義政は宗全
を完全に危険視し、討伐の対象にしていた。また、それに乗じて阿波守護家も赤松家
の播磨復帰を後押ししていた。

細川勝元が、宗全と完全に袂を分かつのは、大内政弘と山名宗全の同盟が出来た1466年
からで、それ以前は、宗全と勝元は、同盟を組んで畠山家と対峙していた。文正の政変
で義政側近の伊勢貞親と季瓊真蘂を追放出来たのは、宗全と勝元の同盟関係が有った為
とされる。
917人間七七四年:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:vuIiJdKB
>>906
>この摂津国人衆の対立に乗じて阿波三好が管領細川を凌駕していくのは面白いけどね
このあたりは関東における北条氏の立ち位置と似ている。
河内だけど木沢長政が良いところまでいったけどね。
918人間七七四年:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN ID:bX8ZcYZX
政元のイメージって、後漢末のトウタクあたりが近いんじゃないの?
919人間七七四年:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN ID:jTES72Z1
三国志脳はお帰り下さい
920人間七七四年:2013/11/02(土) 19:39:43.17 ID:dEjuc4D1
政元と内衆は別に対立しているようには思えないな
安富元家や上原元秀を重用しているように見えるし、実際に対立したのだって薬師寺の件くらいで
鎮圧後、守護代を廃したわけではなく弟の長忠が継いでいる。
香西元長に殺されるのも、内衆との対立ではなくて世継ぎ問題の対立。

個人的自論だけど、むしろ政元の殺害は足利義澄の陰謀の可能性もあると思う。
そもそも細川澄元・三好之長は阿波細川の出身で、足利義材・畠山尚順と同盟関係にあった。
澄元を後継者にするという決定は、政元が義材に寝返る可能性を持ったものだと解釈できなくもない。
義忠(義材の弟)の件もあるし義澄が政元を警戒していたのは間違いなく
香西元長が三好之長と険悪であったことから利害が一致して政元を殺した可能性は十分考えられると思う
実際に永正の錯乱の後、澄之は義澄から管領に任命されているし、澄元には尚順が味方している。
澄元は勝利したのち、義材との和睦を模索しだすのも三好之長・畠山尚順など義材派が多かったからではないかな
ただ分からないのは、なぜ義材はこれをそっちのけで高国を味方にしたのか・・・
さすがの尚順も以降将軍家とは距離を置くようになるし
921人間七七四年:2013/11/10(日) 22:14:22.53 ID:K1sp9JQo
魔法将軍マジカル☆細川〜山伏☆天狗☆魔術でつかむよ!室町幕府♪〜
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1384056585/

魔法半将軍の暗殺(中) 山伏・天狗・魔術で権力つかんだ室町幕府細川マジカル大名≠フ天才的謀略センス
魔術に熱中する余りに家臣から見放され、ついには湯殿で行(ぎょう)に入る直前、
首を切られて殺された室町幕府管領、細川政元。子供のときから父・勝元も認める知略
を駆使して将軍以上の権力を持ち、「半将軍(はんしょうぐん)」と恐れられた存在だった。
そんな彼がどのように魔術に魅せられ、権力をつかんでいったのか。誕生から姿を追ってみた。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131110/wlf13111007010000-n1.htm
922人間七七四年:2013/12/16(月) 23:36:21.13 ID:UiDnTraT
920 面白いです
そういう見方もあったのか
923人間七七四年:2014/03/14(金) 15:20:30.74 ID:mbnN8+bl
細川 幽斉の真の先祖って、どの細川?
924人間七七四年:2014/03/14(金) 23:20:50.66 ID:3wJwgIeN
>>923
和泉上守護家で系図的にはこんな感じです

細川元有1459┬元常1482─晴貞
            └晴員1500┬藤英
                      └藤孝
925人間七七四年:2014/03/16(日) 11:52:59.28 ID:sKKfNzsU
三淵晴員って、三淵の養子になった人だから
藤孝は細川氏の養子にならないと細川になれないよね?
細川の誰の養子になったの?
926人間七七四年:2014/03/16(日) 18:24:46.07 ID:zvIdTuxD
三淵の実家が細川じゃなかったか?
927人間七七四年:2014/03/16(日) 21:46:00.32 ID:R7FE1K3T
>>925
晴員の実兄元経の養子というのが通説。
ただ藤孝が養子になった頃には既に晴員の実子晴貞が守護職を継いでいたらしいので、藤孝は元経ではなく晴貞の養子だったのではないか?という説も。
928人間七七四年:2014/05/18(日) 11:40:12.29 ID:hC4V2QDh
明応の政変・両細川の乱を畠山視点で

応仁の乱後、畠山家は二つに分かれたものの
最終的には畠山政長の尾州家が優位に立つことができた。
1482年、政長は細川家とともに総州家を攻めるも
政元が勝手に帰陣したため細川と畠山は関係が悪化。
義澄を擁立する政元に対し政長は義材を擁立し勝利、
権力を握ると再び総州家畠山義豊討伐にのりだした。

幕府はこの討伐の前に奉公衆の再編を行っている。
この段階で山城の幕府直轄化を計画していたともいわれ、
伊勢氏を一番衆に多く起用、山城を与えて味方に取り込もうとした。
畠山としては実効支配できていない山城を幕府に返上し、
かわりに総州家を討伐してもらおうと考えたのかもしれない。
畠山の混乱を収束し能登畠山を帰参させ
その軍事力をもって加賀や越前を討伐する算段だったのだろう。
山城・加賀を押さえ込むことは細川の力を弱めることにも繋がった。
929人間七七四年:2014/05/18(日) 11:40:52.76 ID:hC4V2QDh
続き
政元が明応の政変を起こすと政長は河内正覚寺城にて自害。
死に際し、政長は切腹を試みようとするも三度失敗。
畠山当主たる者が持つ刀がなまくらな訳も無く、
家臣たちは「刀が主君を切ることをはばかった」と感心した。
最後は家臣の一人が前に出て、信国という刀で自分の太ももを二回突き刺して
刀の切れ味を確かめてから政長に差しだし、政長はその刀で自害したという。
一見美談のようで、政長が実は臆病で切腹も出来ないという逸話とも取れる。

息子の尚順は紀伊に逃れ、抵抗を続けた。
このころ、尚順の家臣の木沢という男の活躍(?)で
堺の商人から資金援助を得られることになった。
尚順はその後、総州家の畠山義豊を討ち取るも、天王寺で大敗。
翌年には細川元有を討ち取るも、赤沢朝経に敗れ弟三人を討ち取られる。
1504年に尚順と畠山義豊の子・畠山義英は和睦し、
義英の子の畠山勝王を尚順の猶子としている。
翌年、反細川の大和国人一揆が結成され、
赤沢朝経と大和を巡り激戦を繰り広げている。
930人間七七四年:2014/05/18(日) 11:41:55.87 ID:hC4V2QDh
続き2
永正の錯乱で細川政元が暗殺されると、尚順と細川澄元は和解。
この頃に尾州家と総州家は再び決裂したと説明されることが多いけど、
個人的には(あくまで素人の考えだけど)違うんじゃないかと考えている。

尾州家と総州家が本格的に争い始めるのは船岡山合戦以降で
それまで両者の間で合戦が行われた様子はほぼ無い。
それと尚順と細川澄元の和解の時期だけど、これは
西国の大内氏と足利義材(義尹)が上洛を開始した頃で
尚順がこれを知らない事はありえない。そもそも
細川・畠山が和睦したのは大内が上洛を開始したからではないか。
このころ細川は足利義材との和解を模索するようになり
畠山が和解の仲介役になることを期待しただろう。
それと、畠山にとってもこの和睦には理由があった。
かつて紀伊は大内義弘が治めていたが、応永の乱を起こし畠山満家に
討たれ、この功で紀伊は畠山のものになったという経緯があった。
もうひとつ、堺と博多の商人の対立。大内の目的は貿易の独占であり
堺の商人から支援を受けている畠山にとっては問題であった。
細川家もまた堺の商人とは懇意であり、利害が一致していた。
将来的に対立しかねない大内を助長してしまうよりは
政元亡き細川と和睦し大内をけん制した方が良いと考えたのではないか。
もしかしたらこの頃家中で意見が分かれ対立を生じていたかもしれない。
結局大和の抗争が激化した事と細川高国の寝返りにより和睦案は破綻、
尚順はどっちつかずの状態になってしまう。
船岡山合戦で尚順は動かなかったが、義英を中心に河内勢力は
堺との関係を重視してか澄元派として戦うことになった。
遊佐河内守という人が戦死しており、これが遊佐順盛と同一人物かどうか
よく分かっていないけど、自分は同一人物だと思っている。
931人間七七四年:2014/05/18(日) 11:42:54.92 ID:hC4V2QDh
続き3
船岡山合戦で大内が勝利すると、情勢は一気に変化することとなる
堺の商人は最終的に大内に日明貿易の権利を奪わることになり、
畠山義英は畠山稙長との戦いで没落してゆく。
畠山尾州家は総州家に対し優位に立ったといわれているが
尚順自身は船岡山合戦の同年に高屋城を八歳の畠山稙長に譲ったり
紀伊へと下向して中央の政治に干渉しなくなる。
これは重職に任命されなかった不満と説明されるものの、
船岡山合戦で尚順の名前が見当たらないことを考えればやはり
尚順はこの戦いに参加していない可能性が高い。だとすると解釈は一変し
幕府が尚順に対する不信から重職に任命せず、隠居を強制されて
政治に関与できなくされてしまったとする見方も可能ではないだろうか。
いずれにせよこの頃から畠山家の力関係は
家臣>主君 という状態になる。
将軍義稙が細川高国と対立すると、尚順は家臣に追放されるが
畠山義英と結んで挙兵、さらに越中に畠山勝王を派遣している。
最終的には越中で抵抗するつもりだったのかもしれない。
結局敗れて将軍義稙と淡路に逃亡しそこで没した。
932人間七七四年:2014/09/27(土) 16:51:07.44 ID:OyF1tsea
細川宗家は京兆家から忠興に移った
933人間七七四年
尚順と澄元が和睦した前後に細川元常や赤沢長経が尚順に与して義英を攻撃してるから、船岡山合戦前に両畠山の争いが見られないなんて言えないんじゃないか
まあ間もなく高国が蜂起した際に尚順は高国方について、長経・義英と戦うことになるけど
ついでに言えば義稙の上洛作戦にはほぼと言っていいほど尚順との連携が見られるし、今更大内の上洛に抵抗するなんてことは考え難い

あと尚順の紀伊下向は隠居とか追放じゃないよ
尚順が自ら大内義興を通して義稙に申し出たもので、義稙からは「御覚悟」を労われている
目的としては敵が阿波から上洛しようとする澄元に絞られたことで、和泉・紀伊・河内の国境付近を強化するために前線に赴いたんじゃないかと推測されてる
ただ紀伊で積極的に支配を強化しようとした結果、熊野衆ら反発されて没落することになったけどね
ともかく稙長期以外の遊佐長教の時代ならともかく、この時点の畠山家に「家臣>主君」と言える根拠はないと思う(長教の河内領国論ですら近年は疑問視されてきてるのに)