田舎大名の大内なんかが1番経済力を持っていたなんてうそ臭い
戦国大名の経済力について資料を持っている人は詳しく教えてくれ
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 19:18:54 ID:Erco/VI7
三戦にたてたら板違いと言われました
どうぞよろしくおねがいします
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 19:34:06 ID:T/f/8iUs
田舎が裕福になったから戦国時代なんじゃない
大内なんて貿易やりまくりの西国なんだから当然
領国に金山や銀山があるか
米が多く取れる土地か
交通の要所を押さえているか
後はこのあたりの条件?
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 20:14:37 ID:xfOdjlVu
尾張・美濃・伊勢をおさえた信長の経済力は半端じゃないでしょ
これだけで他の有力大名と十分に渡り合える国力があるんじゃないの
>>5 それだとそこそこにしかならないような。何のかんので信長は畿内を押さえたことが
一番大きいよ。やっぱり先進地帯はあのへんなわけで。
>>5 その辺りは一国当りの石高がでかいからね。
毛利元就なんてあれだけ国を手に入れてやっと100万石ぐらいか。
武田の収入の半分以上は人身売買(笑)
そんなに人身売買が儲かるならそれこそ年貢なんぞ後回しで生んで
増やさせりゃいいから楽チンだよなぁ……真面目な話、そこらへんは
あくまで(経済的にみてだが)副収入としてしか機能しないんじゃないか?
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 21:36:03 ID:suDAZjtH
武田の金山収入を忘れては困るな
武田は紙や漆などの産業を興して特産品作りもしてたかな。
しかしそれでも人が集まる地方で税金をとった方が
手っ取り早く収入になるのは現在の法人税と同じだな。
なんだかんだで堺や京都を押さえた大名は経済力も桁違いだろう。
人身売買は上杉じゃなかった?
しかも拉致付き。
人身売買は武田、上杉、大友がダントツ
島津もだろ
じゃあこの際スレに合わせて便乗して聞くけど
江戸期の島津は昆布だったりするけど当時の大内って何捌いて稼いでたの?
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 01:27:44 ID:XCszf9EW
ほう
>>16 銅や鉄などの鉱物と、農海産物じゃない?
ちなみに室町時代の記録で、中国の寺が精進料理作るのにつかってた
干し椎茸が日本産だったそうだが、当時貿易権を握ってたのが細川か大内だったわけで
この辺も考証にはなるかと。
>>16 右で買ったものを左に高く売り
左で買ったものを右に高く売ったんじゃない
20 :
ネットの問題点:2006/08/05(土) 02:15:05 ID:JaZh7UQ9
【前頭前野の異常】インターネットをやり過ぎると以下のことが起こります。
・キレやすい性格になる。
・協調性の低下。
・人をいじめたり、日常会話で暴力的な発言をする。
・羞恥心の欠如
・時間感覚の欠場
(深夜までずっと2ch)
・すぐに理屈をこねる
・集中力の低下,ぼーとしてる時が多い。
・常に2chのことを考えたり、ネットがやめられない。
・学校や会社をサボり易くなる。
・世の中に対して悲観的になる。
↑どれに当てはまりますか?ネットはやめましょう。
時間感覚の欠場ってのを見て心がなごんだ
武田の金山支配や上杉の港湾都市支配(商品は越後上布)は確実な史料もあり、
鋳造金貨(武田金貨は伊勢でも流通が考古学的に実証)もあるが、
織田の経済基盤は一次史料では不明らしい。矢銭(用心棒代)は
確実なのだが・・・。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 03:14:16 ID:FC5Ojv7f
ほうほう金貨が一般に流通していたのか。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 03:24:46 ID:FC5Ojv7f
なんかで織田は銭をだいだい的に輸入してた。
と見た覚えがある。
大内もだけどな。
尼子の銀鉄、毛利(村上)、里見、安東の海運は確実だろ。
今川の金も。
>>23 このころの「金貨」は、削って重さは買って使ってたはず。
統一的な金貨は流通してなくても、金は流通しているんだよ?
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 07:01:45 ID:VMCSM4vN
当時の貨幣の単位って「貫」でしたっけ?
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 07:07:06 ID:VMCSM4vN
>>7 尾張・美濃・伊勢だけで160万石越えるからね。
ちなみに武田家は信玄のころに110万石くらい、
勝頼の代の最盛期で120万石くらい。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 07:49:38 ID:Ehh5ppcy
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 11:34:51 ID:Y+IxZwti
>>16 昆布といえば蝦夷地だろ?
なぜ南の島津が昆布なんだ?
>>30 江戸期の北前船による国内貿易をなめるな。
北海道で取ったニシンを瀬戸内で木綿や菜種の肥料にして京大阪の工業地帯で
製品化しさらにそれを北前船で全国に流通させるシステムも完成されてたんだぞ。
北海道の昆布を薩摩が買い付け輸出するなんで造作もないこと。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 18:50:59 ID:Y+IxZwti
>>32 島津家の昆布って国内向けじゃなくて海外へ輸出品ってことか?
だったら納得できる
以前のNHKの歴史番組で観たのは大阪の商人が蝦夷の昆布を買い付けて
国内向けに販売していたという内容だったのでもしも蝦夷産昆布だったら
薩摩が出られる幕は無いと思っていたんだよ
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 19:01:49 ID:HZ11RaKr
大名の収入って両?石?
わからんけど現在で言うとどのくらいだったんだろ?
>>25 それは金が流通していたと言う事で、武田鋳造金貨が流通していたと言わない。
>>36 そりゃ武田産の金は「碁目金」って呼ばれるように
金貨の形じゃなかったし、重量で価値の判断がされてたわけだから
「武田の金が流通してた」のは間違いじゃないと思うが…
>>37 多分
>>36は、武田鋳造金がコインとして流通してないと納得しないんでしょ。
ヨーロッパですら金貨ってものは18Cくらいまでは基本的に削って使うものだったのに。
ただ、武田金は純度の高い「ブランド」として信用があったから、全国どこでも使えたけどな。
これは過去西方における基軸通貨であるペルシァ金貨、ローマ金貨、ビザンチン金貨、
アラブ金貨への「信用」と意味は同じだ。
甲斐のヒルモ金(碁石金を延べた形状)が畿内にも流通してたらしい。
勝沼氏(武田一門)の居館跡で発掘されたものと、三重県で発見されたものが一致。
>>33 越中商人に裏で昆布を運ばせてた
対価は島津藩内での商売許可と禁制の中国産薬種
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 22:39:54 ID:fLNuy+9R
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 22:48:20 ID:fLNuy+9R
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 22:56:41 ID:fLNuy+9R
遣明船の利益は恐るべきものがあった。遣明船は新造されることはなく、瀬戸内海水運に使
用されていた民間の船舶を借り上げられた。ある例では、安芸高崎の船が1800貫文ほどで調
達され、積荷が1500貫文ほど用意された。そして、明に進貢船として入港するため、幕府から
の勘合符をうる必要があった。その際に納める礼銭は最低300貫文くらいであった。こうして少
なくとも3600余貫文の資金が必要となった。
これら資金の捻出は、すでにみた有力な寺社といえども簡単なことではなく、他家から借用し
たり、便乗する商人に割り当てたり、所領の農民に段銭を賦課して調達したりした。しかし、日
本で1駄10貫文の銅が明では40-50貫文で売れ、また明で1斤250文の唐糸は日本では20倍の
5貫文になった。いろいろな史料から、遣明船の利益は少なくとも10000貫文くらいの純利益に
はなったとみられている。
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi2/page011.html
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 10:21:47 ID:vG6JlWnq
織田信長は本願寺5000貫文(8億5000万)、堺に2万貫文(34億)の矢銭を要求したそうな
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 10:26:24 ID:vG6JlWnq
「人間・上杉謙信」(渡辺慶一)によれば、直江津・柏崎の「船道前」だけで
年間4万貫文(4000万文目=現代の金額で10億円)を超えたとされている。
金山の直接支配はなかったが、商人や国人領主への貸付金(金融)も莫大な規模だった
らしい(死後、土蔵から発見された証文など)越中能登を分国化した時も、放丈津や七尾を
直轄領にしているので、港湾都市支配の経済政策は一貫していたとされている。
1万貫=現在の17億?2.5億?
どっちのレートが正しい?
最近は江戸期の一両=十万円っていうので(もっと高い説もあるけど)、
一貫文=千文〜四千文=一両でいえば二万五千円
いいや、戦国の一貫文はもっと高い、江戸期の一両に相当する、これで十万円
いやそれ以上だ、と諸説ある
基本的に当時の金銭価値の現代価換算は米価基準だったりするが
主食における五穀の比重が高かった当時の米は今よりは高級だっただろうからな。
単純に換算した金銭価値よりかなり高めに見積もった方が感覚的には近くなるんでない?
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 14:57:14 ID:EcgF3uw/
三好はどうだったんだろ?
一時期は京や堺といった重要な都市を抑えてた時期があったけど。
経済力はすごかったのだろうか?
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 15:19:08 ID:UHRk6rSp
>>50 三好は知らないけど
細川だったら大内に次ぐ経済力を持っていたよ
大陸との貿易の拠点は、博多か堺
この主導権争いが、大内と細川とのあいだに繰り広げられたのが室町期
三好長慶は堺押さえてたから、経済力はあったはず
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 18:27:12 ID:49DZM+EF
北海道で現在並に米が取れたら蠣崎家の石高は400万石超えるのにな
早稲があれば蠣崎の天下も夢じゃないかもw
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 18:30:16 ID:btYgBfhe
人がいない。
むしろ北方貿易を活性化して後金辺りと宜しくやってほしかった。
北方領土どころか沿海州まで日本の勢力範囲になったかもしれん
彼らはその前にアイヌをどうにかしないといけなかったからねえ。
しかし、当時の満州と北海道って互いに交易する時の交易品って何かいい物あったのかね?
不勉強だがあまり思い浮かばない。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 20:44:03 ID:EZRoyV6N
「蝦夷錦」と呼ばれる絹織物は大陸から輸入していたね
アイヌからは毛皮を輸出していたと以前NHKの番組でやっていた憶えがある。
>>57 しかし、後金とということになると、
後金の領土って毛皮の産地だと思うのだけどどんなものだろう?
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 20:59:55 ID:EZRoyV6N
そういえばそうだな?
毛皮くらいいっぱいあるよね?
当時北海道にしかいなかったような動物がいたのかな?
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 21:11:06 ID:THbYQM55
>>59 安かったからとか?
今で言う中国産みたいなものだったのも。
>>59 北海道産に希少価値があったとしても、それほど大規模な交易にはならないような気がする。
まあ、そんな大規模になっていればもっとよく知られていてもおかしくないし、
つまりそれほど大規模ではなかったということでよいのだろうか。
少なくとも戦国時代においては。
>>60 現地でとれる毛皮より、海を越えて運んでくる毛皮の方が安いってあまりないと思う。
近代的な工業品なら人件費でって話も分かるが、毛皮では?
仮にそうでも、それほど利益が上がるほどの差額は出来ないだろうし。
鰊でも鮭でも昆布でも
干物になる海産物はどれだけでもある
そういうのはむしろ内地向けでは?
需要もあるだろうし、大陸より近いし。
大陸は大陸の沿岸部で生産があるだろうしね。
一応大陸との交易はどうだろう?って話だから。
内地に大陸からの貿易品流して
大陸に内陸からの貿易品流せばいいじゃないか
別に蝦夷だけのもので交易する必要はない
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 23:41:47 ID:KcFc2+GT
まず、金や銀などの鉱物がどれ程の価値があったのか知りたいな。
結局これらの鉱物は貨幣としての需要しかなく、各国で貨幣を鋳造したり、大陸の銅銭代用していたような時代に、国力を計る尺度になるとは思えない。
当時の貨幣は現代のような「価値の保存」機能があったとはおもえない。真の意味での単なる余剰品だったんじゃね。
貨幣としての金や銀は兵器や食料の購入にあてることができるのに
余剰品であって国力にはならないと考えるのが全然分からないので
良ければ説明してくれ。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 23:48:49 ID:KcFc2+GT
徳川政権になって、鎖国にして米建ての財政をひいたのはこのためだと思われる。
当時は現代のような為替とか外貨という概念がないのだから、貿易なんか国の資本の流失でしかないからな。
内需中心の米経済をこのスレで語るべきじゃね?
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 00:01:02 ID:KcFc2+GT
>66
海外との貿易だと単なる資本の流失。国内でも共通した価値貨幣がないのだから、金や銀にそれ程需要があったとはおもえない。
あなたがいう食糧や兵器の生産力が国力につながるじゃないかと言いたかったのです。
貨幣って言っても秤量貨幣と計数貨幣があって
戦国時代の日本では、計数貨幣としての金貨・銀貨は統一されてなかったけど
秤量貨幣としての金・銀は流通してたでしょ? 金屋や銀屋があるんだから。
まぁ参考サイト
ttp://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_gra1-4.htm >領国貨幣
戦国時代後期から江戸時代初期にかけて、各地の戦国大名が自国領内で流通させた貨幣。
金銀鉱山の開発とともに金銀の保有が戦国大名の経済力を左右する重要な要素となったため、
鉱山の争奪戦が各地で繰り広げられた。
とりあえず東アジア圏じゃ明末期には国際間決済通貨として銀は流通している。
明産貿易財を信用担保として永楽銭が流通してたなら当然同様の理由で
銀も流通可能と考えられる。
もっとも高級貨幣故に大名大商人クラスの大口取引以外じゃ
そうそう使われなかっただろうけど。
弥生時代の鉄挺みたいなもんだな。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 13:36:00 ID:k6UflQCw
>>58 後金は漢民族の王朝のように朝貢貿易という形式だったのかな?
だとしたらアイヌ側の交易品の商品価値はあまり関係ないかも知れないよ
朝貢貿易が気取れるほど余裕ないでしょう。
少なくとも経済的には。
>国内でも共通した価値貨幣がないのだから、
>金や銀にそれ程需要があったとはおもえない。
黄金商売には「京目」や「田舎目」という基準があったわけだし、
信玄や信長も金銀「両」の貨幣価値を永楽通宝との比率で定めてる。
鳥目(貫文)は重過ぎて使えないという意味合いよりも、自然性的な金本位制
が発生していたとみるのが妥当な考えだ。事実、戦国大名間の和議交渉(例として甲越同盟)
には金が使用されているし、帰参(穴山信君の織田への降伏)も黄金が代償になることが多かった。
とくに室町末期は文化的に金銀の付加価値(使用価値)もあったので、戦国大名は永楽銭を
金に換える(上杉謙信の「かい金」)ことが多かったとされている。
上のほうにもあったが、甲州金は領内通貨としてだけでなく、畿内でも発見されている。
秤量貨幣なんだから、域外で取引に使用されていてもまったく問題ないし
特別なことでもないと思うが?
銭や米は重いからね
>>65 大内尼子の合戦の殆どは石見銀山の奪い合い。
大内は金銀を国外との交易にも使ってるしな。
当時兵農分離してない毛利が尼子攻めで数年にわたり数万の兵を駐屯させ
兵糧攻めができたのも石見銀山からあがる莫大な経済力のおかげ。
戦国大名にとって金山銀山は最重要拠点。
まぁ、石見銀山が特別ってのもあるけどな。
最盛時には当時の世界の産出量の三分の一を占めてたらしいから。
現在、世界遺産に申請してるらしいな。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 00:36:57 ID:SkG0HrWl
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 00:38:08 ID:SkG0HrWl
>76
三分の一ってのは世界中の産出量に対して?
だったらスゴいな…
上杉は経済的には恵まれてたそうだけどそれは鉱山の収益が大きかったのか
>>80 鉱山は直轄領じゃない。越後麻布の冥加金と津料が収入の大半だったらしい。
佐渡金山も部分的にしか開発してないし。津料(港湾関税)だけで、年間4万貫はすごいが。
>>76-79 厳密には日本の産出量が世界の三分の一を占め、国内の銀の殆どを産出してたのが石見銀山だったらしい。
当時、石見銀山は世界の二大銀山としてボリビアのポトシと共に欧州にも知れ渡ってた。
>>82 そんなに大量に掘り出された日本の銀は
今現在、地球上のどこに・どれだけ・どんな形で存在しているのだろうか??
貿易で大半が欧州に渡っちゃったのかな・・・
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 20:47:38 ID:WPgKrB0r
>>83 銀→銅銭→阿片→賠償金→戦艦・近代化の基礎
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 10:41:53 ID:gC+YxcWA
>>83 銀は、日本における銀貨の価値がヨーロッパ圏における銀の価値より低い為に
錬金術としてがんがん使われました。
銀貨を貨幣として取得する⇒貴金属の銀としてヨーロッパに売る
⇒差額で儲かる⇒ウマー
よって、さんざん海外流出してしまいました。
確か、だいぶ後になって幕府がその事に気づいて何かの方策は立てたと思ったけど。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 12:10:44 ID:0nLNfgL8
江戸時代は金と銀の交換比率が安すぎて
金が流出したんだよな
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 12:19:49 ID:pTR5zfKX
>>84 >>85 >>83は別にそんなことを聞きたいんじゃないんジャマイカ?
むこうで銀食器とかになったみたいなことを知りたいんじゃね?
まぁ、どこで採掘された銀か?なんて解らないから探すの難しいだろうけど。
そういや関連自治体で探してたな、石見銀山に関連する欧州製の銀製品や諸々の情報を。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 21:24:59 ID:kjuyS6JO
信長は尾張にいた頃サラリー制に近いことをやっていた、
っていうのは司馬の妄想でせうかね。
司馬の妄想が正鵠を得ているとしても
後に信長が明らかな領主制を布いていることをみれば、
サラリー制にすることのむずかしさがよくわかる。
>>90 貫高取りは馬廻り衆(旗本)・弓衆・小姓のことだろ。
城下に住まわせて知行地もないんだから当然といえば当然の処置。
つか、他の大名でも同じことやってる。
安土山時代の日本の経済力は西洋のすべての国を含めて同等は言い過ぎかなw
金銀の産出量はすごいだろうね
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 02:15:21 ID:dy4u1H0t
西洋の国家は、動員兵力などからみても、当時は大国とは言いがたい。
当時の大国は、トルコ、インド、明、でしょう。
オスマントルコは、西洋全部とどんぱちして、優勢だったんだし。
戦国末期には金が取れなくなっていたところもあったんでしょ?
なら最盛期は同等かもね
この時期のインドはムガール帝国か
ていうかその頃のオスマントルコはヨーロッパの領土も獲得してたからな
戦国末期のヨーロッパ
・ポルトガル
順調に新大陸経営を行うものの、1578年にモロッコとの戦いで王が戦死し、
後を継いだ高齢の王の叔父も子供が無く、1580年にスペインに併合。
ちなみに王が戦死した戦いで多数の貴族が捕虜となったために、身代金で財政は破綻寸前。
・スペイン
レパントでオスマンを破り、新大陸でウハウハ……の筈だったが、
銀の輸入でヨーロッパ全体がインフレ。フェリペ2世の在位中に四度破産している。
末期には軍事費負担で財政が傾くわ、オランダ独立戦争は勃発するわ、アルマダはボロ負けするわ。
・オランダ
スペイン(ハプスブルグ家)独立戦争中
・イングランド
エリザベス1世万歳! でも、まだ大国ではない。
・フランス
ユグノー戦争で激しく内乱中
・オスマントルコ
スレイマン1世崩御後、産業革命まで緩やかに下降線を描く。
そういう状況で東アジアまで進出し、
さすがに現地のまともな国家と戦うのは無理でも、
台湾やフィリピン等を占領して拠点を作ったのはたいしたものだけどね。
鉄砲や大砲といった軍事技術の発展は非常に大きい。
大航海時代は英国以外はみんな赤字になるんだよな
その英国もアヘンで儲ける始末
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 09:57:39 ID:mgb0rhez
へ〜 俺のヨーロッパのイメージはランペルールだから勉強になる
いや、17世紀の時点で当時のオランダの経済力っていうのは、そりゃ凄いわけなんだが…
あんな小さい国が、世界規模で貿易ネットワークを整備し、アムステルダムには巨大な金融市場が成立し、
植民地としてはインドネシアとモルッカを押さえてる。
モルッカの香料貿易でヨーロッパ市場を独占、砂糖もインドネシアで栽培して、アジア市場で売りさばいて
大もうけ。ヨーロッパでは、自国製の織物を輸出し、アジアではプランテーションを展開し、
自分の販売ルートで売りさばく。
これで、莫大な資本を本国に蓄積させているわけで、経済的な実力から言えば、当時の日本は
残念ながら足許にも及ばないです。
というか、当時の日本が大量に流出させた銀の流れている先こそヨーロッパで、
そこでは、銀を国際決済通貨とした金融市場と株式市場が成立してる仕組み。
そこを抑えてるのは17世紀はオランダ、17世紀後半以降、フランスとイギリスが
競争相手として参入する感じ。
経済史では、17世紀のオランダ、19世紀のイギリス、20世紀のアメリカは、それぞれの時代の世界の中で、
ぶっちぎりのトップ(覇権国家)だと言われている。
とはいえ、オランダがスペインと長いこと争っていて、
必ずしも一方的に優勢ではなかったのも事実。他の西欧諸国も互いに争っている。
逆に言うとそういう状況でも西欧諸国は東アジアまで進出してきていた、
造船技術・航海術と軍事技術においては明らかに東アジアよりも発展していたといえる。
ただし、さすがに送り込む兵力に限りがあるので、
本格的に侵略とまでいえるほどの影響力を持つようになるのは、18・19世紀以降。
>>103 >アムステルダムには巨大な金融市場が成立し、
国内に金融市場が成立して、大規模に資本が蓄積・運用できるシステムが
あるかどうかは、近代的な経済体制の成立に不可欠だな
スペイン・ポルトガルが、新大陸から莫大な銀を手に入れながら
結局17世紀に衰退してしまったのは、それを王室の奢侈品や教会建設に
使ってしまったから
そりゃ経済は成熟しないし、工業化もできんわ
おかげで現在は浪費して得た美術品や建築物を観光で見ることできるんだろうけどね
江戸時代はオランダと交易し
ある研究者は最初の海洋国家同盟「日蘭同盟」と言ってる
まぁ所謂『東アジアの優越』の時代だからなぁ
それから徐々に各分野で欧州と東アジアの差が縮まり、越えていくわけで。
東アジアをトータルで欧州が越えるのは、19世紀末から20世紀に入ってからなんだよ。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 08:17:13 ID:DEPtu8TG
そうか?
18世紀の段階じゃ経済力国力軍事力ではまだ中国の方が上だろ
軍事力の質ではヨーロッパが上としても。
やっぱ人口の差は大きいだろ。
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 08:49:53 ID:DEPtu8TG
>>108のいうのも、まあ、一理ないこともない。19世紀末ってのは????と思うけど。
実は「近世の東アジアは経済的にどうよ?論争」っていうのがあって、
「アジア間貿易派」:近世から近代初頭の東アジアの貿易額とその内訳を見よ!
なんとその規模は、ヨーロッパなんか全然目じゃない。
中華帝国+その影響圏で、ヨーロッパの輸出商品は売れてないし、
中国製品が支配的ではないか。
おまけに貿易体制は華僑のネットワーク中心だしな。すごいよ東亜!
「西ヨーロッパ派」:んなこといっても、それって、所詮東アジア限定の話じゃね?
世界規模でみれば、18世紀以降の金融市場の中心はロンドンでそ。
商取引や金融システムのグローバル・スタンダードは西ヨーロッパが
つくっちゃったし、何より近代的な資本主義を生み出して、
工業化に結びつけたのは、中国ではなく西ヨーロッパだったじゃん。
大雑把に言うとこんな感じで、1980年代からずっと論争してる。
バブルの頃に東アジア貿易派が登場。あの頃は日本も東南アジア経済も好景気で、
21世紀はアジアの時代だって言われてた。
おれは西欧派(ウェスタン・インパクト派)だけど。
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 10:07:36 ID:BXu8DcUR
東インド会社とは交易したがオランダとは交易してないだろ
実際に戦争したら、18世紀でも中国は負けると思うけどね。
人口多いって言っても、全員が兵隊になって突撃はしないしよ。
まぁそもそも戦争と言ったって、例えば欧州のどこかが中国にやって来て戦争するのと
中国がヨーロッパに攻め入るのじゃ話が別になるし、状況がある程度絞れない限り
勝ち負けを論ずるだけ無駄だろう。
>>111 確かに中国の力が西欧に及ばないことが実証的に確認されたのは、
1840年アヘン戦争だけど、もちろんその瞬間まで中国の方が優位だったわけじゃあない。
実際には既にイギリスら西欧の方が強大になっていて、はっきりしたのがその時だったというだけ。
そして、より重要なのはそれはあくまでも、
イギリスが極東まで送り込める兵力だけと比べても中国は勝てないという実証にすぎないということ。
地球半周以上回ってやってくるというハンデを除いて考えたなら、
実際の軍事力はかなり前から西欧が有利だったと見るべきでしょう。
それがいつかをはっきりさせるのは難しいが、少なくとも18世紀以前にはなると思う。
17世紀前半の段階で中国は最新式の大砲等は西欧から輸入しているように、
軍事技術的には後進国だったわけだから。
清の18世紀は最強レベルじゃないか?
>>117 そうでもない、軍事技術は引き離されっぱなしなのは事実。
確かに数の論理は脅威だから一概にどっちが強いと言い切ることは難しいけど、
繰り返しになるが、19世紀前半には「イギリスが東アジアまで送り込める兵力」
相手にすら勝てないほど差がついていたのだから、
その大分前に総合的な軍事力は凌駕されていたと見るべきでしょう。
>>118 なるほど
確かに英国が東洋まで送り込める兵力は強さに比例してる
確かに18世紀前半の清の国力は最強レベルです。
しかし年代と共に軍事的に中核をなす火器のレベルと、戦術論(ナポレオン以降)では大きく水を開けられますが。
西洋は量(人口)を質(機械・火器)で補い、東洋は質を量で補うという感じでしょうか?
16・17世紀の宗教戦争による混乱が終わった後から、あきらかに西洋と東洋の差が付き始めたと考えます。
(ちなみにイギリスが強大化できたのは、フランスでのナント勅令廃止によるユグノー流入に拠るところが大きいです)
小国の西洋自身がEUを作って巨大化しようとしてるからね
>>119 まあ、具体的にいつ頃だってことまで考察するのは非常に難しい、
というか不可能だと思うけどね。
とりあえず「日本が戦国時代と呼ばれていた頃には無理でした」でいいんじゃない?
ここ戦国板なわけだし。
書き方分かりにくかったな。
「日本が戦国時代と呼ばれていた頃には中国や日本に軍事的勝利を得ることは無理でした」だ。
>>124 その頃に東アジアで、つまり西欧各国が東アジアに送り込める兵力では無理、
ってことなら全く問題ないでしょうね。鄭成功あたりがそれを実証している。
取りあえず世界史板に帰ってもらいたい
軍事的にどうこうする必要があるのか?
布教して現地の人間を徐々に取り込むのが普通じゃない?
で、内戦起こして自分たちに友好的な政権を作る。
そのうち、政治に深く取り入って乗っ取る。
海の向こうを自分の兵だけで軍事制圧なんてありえないでしょ。
あきらめろ。言っても無駄だ。
欧州の帝国主義の時代の感覚でしか、言えない無知達だから。
そんな事より、話を日本に戻そう。
隠れた金持ち大名とか居ないのかね?
じつはかなり良い土地で特産品でウハウハって奴とか、
副収入でがっぽりとか。
江戸時代だったら九州の中山氏だったかな?
幕府に内緒の隠し鉱山で稼ぎまくってたとかあるけど。
たしかその周辺、今は廃村で心霊スポットになってたよな?
>>95 16世紀の英国なんて人口が500万しかいなかったわけだし。
数百人規模の戦いがメインだった中世ヨーロッパは話しにならないよw
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 08:22:06 ID:jwKSZ52p
世界史板の住人がいてもいいんじゃない?
戦国時代は、日本だけで経済が完結しないような時代だったんだし
別に排他的になる必要はなんにもない
当時の日本の銀の産出量とか、オランダの経済のはなしとか、
おれは面白かったけどな
ただ最近のレスは、経済の話と軍事技術の話をごっちゃにするから、
わけわからんだけで
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 09:49:39 ID:phTPaP1q
このスレは本当に勉強になります
世界観が分かりやすく論じられているので
授業よりもわかりやすい
皆様ありがとうございます
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 09:56:12 ID:phTPaP1q
ついでに世界史を学んでいない俺に教授ねがいたいのですが
スペイン・ポルトガルの目的というのは
・布教を利用して日本を乗っ取ること
・貿易相手
・東洋交易の補給拠点
どれなのでしょうか?
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 11:07:46 ID:QiOsnKnT
>>133 ・貿易相手
ポルトガルは、中国のマカオに居住許可をもっているので、
ここを拠点に日明貿易を肩代わり(明の海禁策で日本はしたいのにできない)
をして、中継貿易で大儲けするのが目的。これで莫大な銀を手に入れた。
明の生糸・絹織物→ポルトガル商人→日本が銀で支払う→ポルトガル商人ウハウハ。
スペインが後からこれに参入。オランダもイギリスもこの中継貿易が目的。
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 11:17:36 ID:UuzuH7TJ
赤穂藩は裕福じゃなかったけ?
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 14:10:42 ID:82kjMSCz
産業革命前の余剰生産物が少ないしかも戦乱の時代に
通貨を基本にして経済力を語ることに意味があるのかねえ
金があっても物がなければ買えないし供給量が少なければ跳ね上がる
やはり戦国時代の経済力は石高で量るのが妥当
信長の躍進も尾張、美濃の石高によるところが大きい
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 15:28:28 ID:YawIHFl6
信長の躍進は、石高もそうだが、父信秀の時代に
津島湊、熱田湊をおさえたことによる
その税収によるところが大きい。
素朴な質問ですが
戦国から江戸初期の日本って、生糸と絹織物を南蛮貿易や朱印船貿易で
大量に明・清から輸入してるけど、それは
1)国内で生産する技術自体がまだなかったってことなのか。それとも、
2)この時期に爆発的に生糸や絹織物の需要が国内で増えて、
輸入に頼らざるを得なかったってことでしょうか。
どなたか知っている人がいれば、ご教示ください。
>>127 キリスト教にそれほどの影響力ないから無理だよ、
実際東アジアを植民地化できるようになったのは、
軍事力で制圧できるようになった19世紀以降で、
それ以前は取り込むだの乗っ取るだのというところまで行っていない。
要するに戦国時代を語る上では西欧諸国はあくまでも貿易相手であって、
具体的脅威の対象とはいえない。
>>130 良い鉄は釘にならないって言われてるくらいだから、
チュン王朝の兵卒ってのは伝統的に質は低いぞ。
数だけじゃなんともならんのは、ベトナムが実証してる。
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 04:26:17 ID:2UuBL78q
>>116>>118 18世紀序盤までなら
インドや中国が英国にやられたのは、インドや中国の軍事技術の問題というより
政治システムの問題だろ
中国やインドが挙国一致でイギリスに挑んだことは一度も無い
インドの場合国内の混乱や内乱が凄まじく、太守間の反目も著しく権力闘争などの短絡的な発想で
イギリス勢力に自分から組する者も多かった。
群雄割拠の状況であり、多元外交のデメリットそのものを持っていた
実質的な統一国家といえるものが無く「インド全体」を大局的に考えうる
統治機関を持ち得なかった
インド勢力相手に戦争で敗れたときもこのような複雑な情勢の合間をぬって生き抜き
しぶとく、着々と百数十年かけて少しずつ侵食していたというのが正しい模様
一方中国も例えば阿片戦争林則徐を解任したりせずに、
徹底抗戦を貫けば勝てたであろうというのが一般的。
結局、緒戦の敗戦により抗戦派の林が次第に影響力を失って失脚、講和に至ったんだけど
つまるところ中国にしろインドにしろ、本当に戦争をやる気が無かった、
統一国家としての意識が薄かったことが帝国主義時代の序盤において
西洋の侵略を許してしまった第一の理由だと思われ
>135
赤穂城築城の影響で、内証はあんまりよくない。
144 :
142:2006/09/10(日) 04:56:21 ID:2UuBL78q
ちなみに林が権力の座から追われたのは、
伝統的な賄賂の習慣を彼が排したことによる高官、商人たちの反発
阿片密輸に際しての賄賂収入が無くなったことに憤っていた行政官
によるところが多く、やはり国内政治に拘るあまり外的への備えという
意識が薄い清朝の体質がもたらしたという面が強いとおもわれる
>>142 当時は統一国家としての意識なんてほとんどない方が一般的なんだよ。
そして軍事技術が決定的に劣っていたのも事実。
もしそうでないなら統一国家の意識なんてものはなくとも、
西欧に侵略されることはなかった。17・18世紀にそうだったように。
ちなみにそもそも18世紀序盤頃は、別にやられてなんかいないと思うが。
18世紀序盤じゃまともに戦争になったら清が勝ちそうな気もする
ロシアと清が戦争したのは17世紀末だが
>>147 東アジアで戦ったなら多分ね。
17世紀にロシアと清が戦ったのはアムール川流域にモンゴル高原と、
清の根拠地の直ぐ近く、ロシアにとっては当時鉄道もなしでシベリア横断しなければ、
軍を派遣できないところだった。
そういう条件なら清も当時は勝つことが出来た、
多分海を渡ってくる連中に対しても同じようなものでしょう。
ところが、19世紀にはそういう条件でも勝てないほどに差がついてしまっていたと。
というか、スレ違いだわな。
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 01:25:24 ID:EqH9zBYM
>>144 あと、近年の説では歴代直隷総督の治水対策を批判した上奏をした事が他の大臣(直隷総督はエリートコースでここから大臣に転じる例が多かった)の恨みを買ったと言う説もある。
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 03:01:17 ID:N9TJ3Ctw
なんだか全然スレ違いの話題がどんどん進行していっているようですが、実際の
所、戦国期において 鉱山資源の有る所、 商業がさかんな所、 農産物、特に
米の生産が多い所、 どれが一番有利だったんっでしょう?勿論一言では済ませられない
とは思いますが、有名例で言うと。自分の無知で、もっとはっきり言うと、要するに自国で
得られない資源は貿易で得るしか無いが、どの程度商業が発達していたのか、そして
信玄の塩止めじゃないが、相手国に対する禁輸措置が実効的にあったのか、あたり教えて
頂ければ、と。
宣教師の書物に
日本のほうが暮らしやすい
日本人は清潔とか
当時、最高の栄華を誇ったスペイン帝国ポルトガル帝国に住んでた人が言うのは面白い
日々の生活の清潔さでは、少なくとも、当時のヨーロッパ主要国に負けたくはないなw
>>150 農業が盛んになれば、穀物の集積場が必要になり自然と港町が栄えます。
あくまでも主要な産業は農業で、その他の収入はオマケ程度に過ぎません。
まぁ甲斐みたいに米の収穫量は少ないが
金山開発でもってる国とかもあるにはあるけどね。
武田より飛騨の江馬氏なんて典型的だけどな。
地震と鉄砲水で滅んだけど。
>>150 実は日本では鎌倉というか平安末期の時点で、自給自足ができる荘園なんてのは
わずかなものでほとんどの土地では生産物を市などに運び込んで換金、交易して
他の必要物資を求めるということが日常的に行われている。
甲斐などの米が取れない土地ではなおさら交易によって必需品を求めていたんだとか。
上杉謙信が、土地も取れずに遠征を繰り返せたのは、
佐渡の金山と港湾・商業・物流収入で戦費をまかなえたから。
これで、謙信は莫大な遺産を残してる。
どこかのスレで奴隷商売が馬鹿に出来ない収益をあげていたからだ、
と書いてあったがそれは嘘?
そこには具体的にどれぐらいの収益をあげていたのか書いてなかったから分からないが。
奴隷商売の基本は遠隔地との売買だと思うんだけどな
簡単に逃げられないようにするためにも
蝦夷や琉球とやっていたならともかく、関東や畿内辺りとの近郊奴隷貿易が、
大規模に成立したとは思い難い
それ以上遠く国外になると、根本的に巨大な奴隷貿易船の往来が要りそう
そのスレでどういう検証があったかは興味深いけど、やっていたとしても、
大名の経済力を支えるようなのが出来るのかね?
>>159 奴隷戦貿易は九州だな
それ以外の奴隷売買は身代金目的や派遣社員みたいなもんじゃないか?
宣教師絡みの奴隷貿易ね
それは結構有名な話か、確かに
上杉や武田の辺りでも、そういうことがやれていたとは、ちょっと思いにくいだろうね
捕虜や占領地の人間を、奴隷的な労働力として扱っていた可能性はあるけど、奴隷貿易とは違うし…
>>154 甲斐の国が米が取れないなんて大嘘だよ。
盆地で富士山系からの豊かな水利が在り、1平方キロメートル辺りの生産性は相当に高かった。
実際に石高を面積で割ると
甲斐の国 54石/平方メートル
信濃の国 30国/平方メートル
と生産効率の開きが倍近くある事が分かる。
更に小笠原・木曾・諏訪・村上と群雄割拠状態であった信濃が武田に侵食されるのは、
農業経済の見地から見ても普通の事だったのさ。
163 :
教えて下され!:2006/09/12(火) 16:49:15 ID:y5FhoqKq
大名の禄高、石高についてなんだけど、石って体積の単位ですよね。コップ一杯が
180mlでこれが一合、その十倍が一升、その十倍が一斗、その十倍が一石。つま
り、180リットルが一石になる。大名は一般的には一万石以上の石高の「米」を
産出する領地を持った武士のことを指す。ここまではわかるんだけど、でも体積で
しょ?一万石は180万リットル=1800キロリットル、十万石なら18000
キロリットル。 こんな膨大な「米」の体積を量れるわけが無い・・・。だとすれ
ば、大名の石高(=禄高?)は実際には誰が、具体的にはどの様にして定めたの?
実際に産出する「米」の体積には関係なく、ただ領地の広さだけなのでしょうか?
詳しい方どうか教えて下され。
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 17:18:28 ID:GO62kaTX
>>158 忘れたけど、ゴミ同然の安値で叩き売ってたみたいだから、
とてもこれ目的で遠征するのは割りに合わないんじゃないか?
せいぜい、ちょっとしたお小遣い程度じゃない?
でも、がんがん狩られてる北条にも問題アリだ。
いくら税金が安くても、領民を守らない領主はどうかと思う。
>>163 えーっと、君は学校で検地って教わらなかった?
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 18:49:39 ID:HjnE8B8m
>>159 違う、基本は親類縁者が買い手になる。
言うなれば、身代金を払って誘拐された身内を取り戻すのが主、最も高値で売れるから。
この場合、領主などが全額、或いは一部の金銭を負担する場合もあった。
そういった買い手が付かない場合、二束三文で奴隷として売り払われる。
大量の奴隷が発生する場合は、その地域が天災などで不作+大規模な戦役が重なる場合。
特に不作が酷いと、自主的に奴隷に落ちる場合もある。
それは貴族・騎士・武士、或いは裕福な宗教者や大濃のような階層の話でしょう
第一義的に身代金が商売の手法なら、奴隷商売と一緒くたに扱うのは混同が激しすぎる
両者の商売上のシステムも、被害社会に与える影響も、「商品(人)集め」の手法も、全く異なるんだから
奴隷制度が定着していた国のケースと、奴隷待遇として扱われる人々がいた、というケースとの違いから
論じるはめになりそうだし、話切るべきだろうか…
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 09:10:44 ID:CSzml2wB
奴隷商売って外国並に考えるから変に成るんであって、戦火においての
一時的保護業者と思えば良いんじゃない?
例えば震災なんか経験した人は解ると思うが、避難場所で良くある光景
は「○○の親族の者です。御存知の方が居られましたら御連絡ください」
と言うのがある。まあこの避難場所が奴隷市場と考えればいい。
もし誰も保護者が現れない場合、第三者が保護者となる。それが奴隷商人。
日本の奴隷は海外から見れば非常にリーズナブルで一人一貫(6万円)ほどだったらしい。
まぁどっちにしろ戦のついでであって経済性を論ぜられるほどの収益はなかったんじゃないかね?
そもそも日本国内に「商売になる」ほどの奴隷市場が存在したとは思えないし、国外となるとまず
そのルートを持ってる大名をある程度絞ってから話を進めないとならない。
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 09:51:34 ID:CSzml2wB
詰り外国のように母、子が別々に競に掛けられ手足は拘束されてる風景じゃない。
戦国時代と言っても日本の風土が根底から違う訳じゃない。飽く迄も奴隷商人は
職業斡旋や身元引受人の仲買業者であり、バイキングなどではない。
故に奴隷に対して特別な印(肉体に刺青をしたり、一部を欠いたり)を付けない
し、当人も今で言う奴隷の意識は無いだろう。ただ運悪く海外に売られた人は
地獄を見たのは確かであろう。(海外では奴隷は飽く迄も商品)
>詰り外国のように母、子が別々に競に掛けられ
「安寿と厨子王」の話は日本のお話やないの?
産業革命以前、人は生産力そのものだったから、
奴隷売買に世界の違いはないと思うなぁ。
>>170 日本国内であればそっちがだいたい正しいと思う。
武田の佐久攻めでそのような身代金要求があったような
小作人も日本で言うならある意味奴隷なんだろうな。
>>171 それは時代が違いすぎないか?
そこらへんは単なる民の貧困による話であって
介入して儲けを出してたわけじゃないし、
大名の経済力からは話がずれると思うのだが。
それじゃあ人返し令などに代表されるように戦国時代の農村の労働力不足と
奴隷売買による労働力の確保とかの話は
あんま詳しくないけど
鉱山労働に捕虜や奴隷が使われるのは危険な仕事だし、
良くあったらしいが、農作業に奴隷を使用するのは聞かないなあ。
兵農分離がなされてない時代なら戦争が起こるたびに農村の労働人口が
減って困るのは確かだろうし、小作人(水呑百姓)も使ってただろうけど
他国から連れてこられた捕虜を自分の田で使用したがる人は
どんだけいたのか良く分からない。
奴隷奴隷というがアメリカにおける黒人奴隷などとはだいぶ形態は違うぞ。
今の感性だとわからないかもしれないが、当時は食料にありつくのに必死だ。
うられる方も半ば自発的だった部分もある。うる方も口減らしになるわけだし。
バブルの時ジャパユキさんという言葉がはやったが、もともとはカラユキさんというのが
本家だ。詳しく知りたいやつは山田長政あたりと一緒に調べてみれ。ミクロ経済の視点で
見れば、今とは比べ物にならないほど食料は必死に確保するものであり、貨幣経済なんぞ
二の次だったんだよ。
>>174 人返しは、農民の都市への流入の禁止じゃなかったっけ?
永住は勿論、日雇いも含めて。
大体、秀吉は奴隷の海外流失は禁止したが、奴隷自体は禁止していない。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 18:36:28 ID:QnpfKrie
つーか、佐渡の金山と上杉って無関係でしょ
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 21:51:41 ID:iN/d9Yu/
佐渡は地獄だ
>>181 > 1589-1600年は上杉領
たしかにそうだが、佐渡はそれほど鉱山開発されていない。
しかも掘っていたのは銀山であって、金山ではない。
上杉の金山は揚北衆のもの。
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 01:41:02 ID:qcKsqPZH
少なくとも謙信の軍資金には無関係だな
信長の野望で、謙信のいる越後でがんがん金山開発できた記憶はあるが
それ武田じゃぁ…
>>184 謙信の時代だと、こんな感じ。
・揚北衆・鮎川氏の高根金山
・上田長尾氏の上田銀山(後に直轄)
・越中椎名氏の松倉金山(後に直轄)
・佐渡本間氏の鶴子銀山と西三川金山
>>186 それだけ鉱山があればウッハウハかな?
新田次郎の「武田信玄」の中で甲州軍が
越後兵がみんな砂金と白米を持ってるのを見て驚くシーンがあったけど
他スレで何度も出てきているが、
上杉の資金源はアオソと直江津。
そか、まあ金山銀山の収入はそこを知行としてる豪族のモンだろうしね
いや、本当に鉱山の規模が大きいなら、土豪が集める人手じゃ足りないよ
金銀を売買するためのルートも簡単に保持できるものではないし
その辺りを公権力によって徹底的に拡大したのが、秀吉や家康(大久保)ということになるのかな
金山銀山の収入って、大名の取り分はどれぐらいなんだろうね。
戦国期の鉱山技師は、武家権力にも従属しない独立した性質があったというからね
大久保長安の頃、徳川家と長安側(鉱山技師や彼らの責任で集める人手含む)で5:5という話を聞いたけど、
アテにはならないな
ぶっちゃけ、掘るのも精錬するのも技師がいないとどうしようもないから、
大久保長安のような散財・蓄財が可能だったわけで、正確な取り分は大名側にも分かってなかったと思う
専門知識が絡む分野なら、適当に表沙汰の辻褄が合えばどこに金が消えてもよく分からない構図は、
古今東西変わらないと…
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 22:14:09 ID:G67Mrlf3
保守
秀吉は確か産金の一割を上納させてたんじゃ
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 00:50:13 ID:iUfTfO3w
北条に滅ぼされた里見氏も滅亡の原因は篭城の末最後は兵糧を買う
お金もなくなったとか
返るお金があれば海からいくらでも取り寄せられたのでまだまだ
粘れたのだろうが
制海権を無くしたから、経済的にジリ貧になったんじゃ?
確定的にそうだと分かるような勉強したわけじゃないけど…
確かに、経済で負けたら戦争にならんよなぁ。
ジリ貧になったら恩賞も払えなくなるし。
>>195 里見は北条には滅ぼされてませんよ。
古河公方辺りとお間違えでは?
三浦氏じゃないの?
古河公方の滅亡も戦争によるものじゃないし。
ばかばっか
>>1 明が面子のためにやっている朝貢貿易は、明側に儲けるという意思がないのだからぼろ儲け。
倭寇の活動も、オイラトやモンゴルの侵入も、もっと朝貢貿易をやらせろという、
デモンストレーションのような意味合いが強かった。
う
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 19:36:53 ID:h/t4Z0SI
あげ
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 02:37:49 ID:Uq4W4py5
1貫=12.5石(1,000貫=12,500石)
つまり
知行40貫=知行500石(公35:民65として実収175石)=切米(現米)175石取り=500俵取り=100人扶持取り
そして
現米1石=1両=10万円
ちなみに100人扶持の100人とは自家の使用人や家臣の家族も含むので、軍役上の動員家臣はせいぜい10〜15人
貫高・石高換算は時代・地域差が出るからなあ。
つか、どこの江戸時代の資料だ?
豊臣期は小田原では北陸で100石6人役、徳川は7人役。
近畿や西国でも4〜5人役。
朝鮮での九州大名は5人役。
江戸時代の倍の軍役を割り当てられてる。
朝鮮は長引いたし九州大名の負担は大きかったろうね。
小田原とか朝鮮での動員数だけでは反当収量は割り出せないらしいよ。
単純に石高から兵隊数決めてたわけじゃないので。一律の基準はないっぽい。
石高、領地の遠近、秀吉に対するそれまでの態度とかから決めてたみたいだから。
一部外様大名の石高は低く見積もられていたから
実質的な軍役はもう少し低かった気がする。
小田原や朝鮮は無茶しても大丈夫なんじゃね?
領地攻め込む敵いねーし、飽く迄、豊臣家の戦だから、豊臣家からの経済援助も特に朝鮮の役では期待出来たし。
>豊臣家からの経済援助も特に朝鮮の役では期待出来たし
実際はどうでしたっけ?
確か自力補給だったんでわ
>>209 朝鮮の役は各自自腹じゃないかな。
たしか三河では一村丸ごと餓死とかあったらしいし。その時の領主は誰だ?
どこまで本当か分からんけど石田さんが高利貸しで儲けたとか聞くけど。
秀吉が本当に援助してたら大坂城に金銀が残ってないんじゃないの?
あくまでも豊臣に対するご奉公働きかと。
>>211 田中と池田って朝鮮に渡ってないような・・・
>>211 そうだったっけ?
補給の不手際も清正が三成恨んだ原因の一つじゃなかったっけ?
不手際というか、根本的に補給線を維持できなくなった、というのが客観的なんだろうけどね
誇張があるとしても、「伝令兵を通すにも騎馬の二十はつけてやらないといけない」
というぐらいの状況だったそうだから
慶長の役はともかく、文禄の役は進軍速度速すぎだろw
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 20:56:42 ID:FhAND6an
あげ
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 13:23:49 ID:IRP8eHaB
ほしゅ
謙信じゃないの?銀でたし
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 18:18:12 ID:5Qcc0hrk
なんだかんだ大友だろ。
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 00:01:26 ID:Kjw1meYl
で
hyuいいい
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 17:09:07 ID:1e2oqm9W
あげ
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 21:45:45 ID:/HQYVZ4y
保守
225 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 14:00:08 ID:8H3w5c9i
あげ
>>211 それは確か小牧長久手の戦いの時だったような気がする。
その時の領主がどうしようも無かったんだろ?
227 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/18(月) 15:42:22 ID:tv88zGe9
>>226 小牧長久手の時の三河の領主って誰だっけ?
228 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 17:06:54 ID:dUWWdlFr
あげ
229 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 22:27:31 ID:oOw1z4R4
あげ
230 :
武蔵国:2007/01/08(月) 23:40:25 ID:mSNivuym
>227それは家康君だろう、その当時の領国は三河、駿河、遠江、甲斐、信濃かな。
今さらだけど山口ってのは当時すごく栄えた貿易都市だったんだよ
>>1 それに鉱山も豊富だったし中国地方は鉄鉱業も有名だからね
まぁ後に厳封されて周防・長門にはいった毛利の石高は30万石も無かったんだけどさ
貿易できないからな。
大友氏は、博多支配と硫黄の輸出で儲けていた。
234 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 07:03:19 ID:s02aygH0
藩政改革に成功した末期の長州は表高37万石に対して実高120万石越えているけどなあ
235 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 21:29:02 ID:37HISOtV
別に山口は貿易都市ではないから。
大内氏は瀬戸内海流通と博多支配と日明貿易で財を成してたわけで。
鉄砲の値段:慶長期
史料によると、六匁目の鉄砲一丁が九石=約金二両。
で、現代の金銭感覚に直す場合
米一石は約150Kg、スーパーで米1kgは約500円とすると、
米一石=150×500円=7万5000円。
鉄砲一丁=9×7万5000円=67万5000円になる。
長篠の織田軍三千丁とすると、
67万5000円×3,000=6億7500万円
FROM 歴史群像No40 天下取りの収支決算
↑玉薬の値段、信長の街道政策、秀吉の高松城攻めの人夫代などが書いてある。
戦国時代の経済知りたいなら入門にちょうど良いと思う。
237 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/02(金) 18:40:48 ID:0nFafJMQ
238 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 02:11:17 ID:s1UqBA6s
日朝貿易はほとんど触れられないのはなぜだろう?
239 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 05:02:22 ID:2zhNm3Tx
>>238 やってる奴があまり居ないし、日明貿易より規模も重要度も影響も極小だからじゃね?
高麗白磁器と朝鮮人参以外なにがあるの?
高麗白磁器も明から白磁器が入りだすと価値下がって行ったし。
>>238-239 戦国大名ではないけど、
博多の商人・島井宗室は朝鮮貿易専門だったとか何かの本で読んだ記憶があるが
朝鮮半島にも何回か渡っているようだが
>>239 うろ覚えだが、朝鮮は中国・北九州の諸豪族に
1or2年に一回の交易権を与えていたはず。
十何年に一回しか行わない日明貿易より大きくなってもよさそうだが。
交易品はこれもうろ覚えだが、綿織物だったみたいだ。
大きくならなかったのは、
回数は多くても、量が少ないor質が低かったのかな。
簡単に言うと、日朝貿易は是と言って、影響が無い程度だったと言う事じゃね?
そこらの話は、どうも、朝鮮半島との関わりになるべく触れたくない意識の問題がありそ
実際の貿易関係で、比較的言われる南方との貿易よりも小さかったなんて事は考えにくいし
当時からそうだったんだろうけど、東アジアでの国際関係=中華国家との関係、
というように演出されがちな思想の影響かもね
246 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 23:22:35 ID:zp3vXNCq
普通に考えりゃあ国力の高い相手との交易が利益も効率も良いわけなんだが。
247 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 23:33:03 ID:fjOw/P7t
松前藩のアイヌ貿易もかなり利益があったと聞いたことがある。
戦国時代にはアイヌ貿易はどうだったのだろう?
>>245 対馬はたりない穀物を韓国から輸入してたよ。
関ヶ原後の韓国貿易再開も、それが理由だったらしい。
対馬にとっては、力の高い相手だが…って話ですな。
250 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 12:59:18 ID:i+QlOrGn
251 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 09:34:19 ID:6i6MjiL9
アイヌからの交易品といえば
毛皮などが主で、蝦夷錦やガラス玉は江戸期の話かな?
252 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 18:17:50 ID:W5oKK9kI
あげ
253 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 18:26:02 ID:slgAmYWf
伊達藩は?どうだったの
254 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 22:33:55 ID:1WAZRboS
北条から徳川に代わった時の税制はどうなってたのかな?
家康は相当せこかったようだから4公6民なんて甘い事は
ないだろう
255 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 10:36:37 ID:cbg5soKx
江戸幕府は当初四公六民だよね
256 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 17:26:54 ID:tuMP33KH
>>254 同じ程度の国力であった場合、
秀吉は、収入を増やして余剰金に余裕をだす傾向がある
家康は、支出を減らして余剰金を捻出する傾向がある
家康がせこかったのは事実だが、
伊勢宗瑞も折れた針も蓄財の対象にしていたくらいのケチだし、
あるいみこっちの方が武家的なのかも知れない
257 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 00:49:50 ID:W8fpgT80
そうなると、武家的でない戦国大名多くないか?
258 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 06:45:43 ID:uC4Yytst
貴族趣味に浸る大名もいたな
259 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 13:11:16 ID:EGGgMl4D
土豪・地侍だって立派な武家ですよ
大名だけが武士じゃないやい
余裕があると散財したくなるのは人の常
まあそれはそれとして、
貴族趣味・散財主義は所謂名門や織豊系に多い気がする
260 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 11:49:56 ID:w6a5yLiV
数世代に渡り朝廷との関係が深い名門と、
散財しても問題ないほど裕福な織豊系。
多いというか、人の常だろ?
261 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 13:53:19 ID:peIHCS8N
貴族趣味といえば大内義隆だけど、あとは?
262 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 14:11:45 ID:p34SiWOJ
一条・今川?
263 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 14:36:07 ID:peIHCS8N
一条は元々摂関家だから習俗は当然お公家さん的だったろうね
今川・・・お歯黒や蹴鞠って専売特許なのかな?
264 :
人間七七四年:2007/04/28(土) 00:20:23 ID:e1kakdCQ
>>263 つ 島津忠良家訓「武将たる者戦場でもたしなみを忘れず、常にお歯黒に気を使い(ry」
つ 島津忠恒は飛鳥井家に書状を送るほどの蹴鞠ヲタク
265 :
人間七七四年:2007/04/28(土) 09:29:32 ID:WV/g8O6a
>>264 そうですかありがとうございます
今川が目立ってしまってるだけなんですね
266 :
人間七七四年:2007/04/28(土) 13:58:20 ID:OiNIR/PH
貴族趣味=文弱というイメージの所為
当時は、貴族趣味=箔なんだがな
267 :
人間七七四年:2007/04/29(日) 00:17:11 ID:32mpRs1x
北畠も貴族出身だがあまり貴族趣味的なイメージは無いな?
268 :
人間七七四年:2007/04/29(日) 00:29:38 ID:bUvxDkIW
貴族趣味自体が大名家の威光を示すモノだったらしいからね。
経済力というと山陰の銀山は元々商人が管理し
その銀に対し多重の税をかけその税金を巡って大内・毛利・尼子は
争ったって聞いたな。
大森銀山が一番賑わっていた江戸時代前期、大田は江戸の
人口を上回ったという。(佐渡は囚人に採らせていたが石見は違う)
鉄も同じで鉄駄別銭やら関税で利益を上げていた。
守護取り分だけで5万疋だから結構な額。
269 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 21:03:18 ID:Z5do5QTo
>>263 武田信玄、大友宗麟も蹴鞠好きだったはず。
要するに公家が逗留する程度に、余裕のある安定した大名なら
嗜みとしてやっていすタンだと思うよ。
270 :
人間七七四年:2007/05/02(水) 06:14:25 ID:H5PP9urS
信長もお歯黒は欠かさなかったはずだ。
271 :
人間七七四年:2007/05/10(木) 20:08:10 ID:kiQMLdpA
今川って裕福な印象があるが経済の基盤って何なの?
金?塩?
清水港を持つぐらいだから何か輸出できるような特産物が有ったんだろうが
何を輸出していたんだろう?
272 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 00:01:05 ID:0mjp6rCw
銀。
後はウナギパイくらいだな。
273 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 02:20:07 ID:k3qKmZzK
だな。ブランデー入りのうなぎパイVSOPの美味しさは異常。
浜松通ると必ずお土産に買ってしまうよ。
274 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 06:25:22 ID:JsizUgBF
ウナギパイってウナギエキスみたいなの入ってる?
俺ウナギ嫌いだけどパイは食べてみたいんだ
275 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 07:41:18 ID:XaWGRZ7q
>>274 さすがに何も入ってないのに、うなぎパイって表示にしたらJAROに怒られるじゃろ。
276 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 13:25:01 ID:8dX74ql6
当時の港湾での収入ってどれくらいあったんだろう。
誰か知らね?
277 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 14:40:16 ID:IQNXDmSi
越後港の史料によると、積み荷額の10分の1が、税収だったらしい。
278 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 20:31:55 ID:3nCNKLJO
そういえば石見銀山の領主取り分も1/10だったな。
当時の年貢以外の税率って1/10が一般的だったのかな?
279 :
人間七七四年:2007/05/12(土) 15:17:07 ID:oQsJZdkb
源氏パイは源氏エキス配合なのか?
280 :
人間七七四年:2007/05/12(土) 15:28:26 ID:wJHXiGM1
山口は京に次いで日本2位の人口だった。
281 :
人間七七四年:2007/05/12(土) 21:37:32 ID:4mYPoCMp
282 :
人間七七四年:2007/05/13(日) 00:55:51 ID:bPWKEnvh
>>279 かつての紗那エキスが入っているなら買い占める。
283 :
人間七七四年:2007/05/13(日) 17:26:42 ID:4sXc+dqf
内ヶ島は金で儲けていたと聞いたが、どの程度かは知らん
284 :
人間七七四年:2007/05/14(月) 08:27:02 ID:xRVI7HEP
武田は金山の上がりの、3割取ってなかったか?
285 :
人間七七四年:2007/05/14(月) 21:35:20 ID:G5PC703m
漁師の税はどのくらいだったんだろう?
286 :
人間七七四年:2007/05/14(月) 21:59:30 ID:tekDJVsW
そもそも漁師に税をかけていたのか?
287 :
人間七七四年:2007/05/14(月) 22:55:36 ID:IO9VTNgE
288 :
人間七七四年:2007/05/15(火) 00:43:50 ID:DiTQKVqc
289 :
人間七七四年:2007/05/16(水) 22:22:26 ID:yPQ8PKfx
>>288 詳細を教えてくれ。
戦国大名って農民や鉱山に対する以外は収入を把握できず、
農民に対する年貢、鉱山の採掘量の一部、商人に対する通行税と矢銭
の三つしか収入が無いと思っていたよ。
290 :
人間七七四年:2007/05/17(木) 01:51:11 ID:gJy57Ykr
>>289 大友氏の場合だが。
家臣・従属の国人に対して労役を課すことも定期的な収入。
臨時収入としては、季節ごとの進物、御芳志(物品の寄付)、一時切り
出しに伴う進物、官位の斡旋の謝礼もあったみたいだな。
291 :
人間七七四年:2007/05/17(木) 09:47:17 ID:gJy57Ykr
訂正
○ 一字書き出し
× 一時切り出し
292 :
288:2007/05/18(金) 01:01:40 ID:QfDBDSFC
>>290 それって最終的国人が上の三つのどれかで集めるってことになったりしない?
293 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 19:02:26 ID:qFTRamaJ
あげ
294 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 18:27:41 ID:dqp6Q/ZR
あげ
295 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 14:52:03 ID:bYmSteKE
>>292 そう言えるかもね。
ちなみに御芳志については、田北氏に「材木を御芳志せよ」という
書状が残っているし、大友宗麟が所蔵していた茶器は、博多の商人
からの御芳志。
296 :
人間七七四年:2007/06/21(木) 17:55:56 ID:7LW1zX8l
あげ
297 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 00:01:06 ID:TSRr9Tie
ああああああ
298 :
人間七七四年:2007/07/05(木) 14:21:20 ID:ELtNdqXu
あげ
299 :
人間七七四年:2007/07/05(木) 14:32:03 ID:xaBjiw6l
あげんなゴルァ
300 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 23:51:50 ID:utGOvXeb
飛騨って人口少ないし石高もすくないのに国として認められてるよね
よく美濃か越中に合併されなかったよね
やかましい。讃岐や丹後よりはまだマシなんだぞこれでも。
302 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 00:53:19 ID:bXQoRRZZ
飛騨→岐阜県に併合される
丹後→京都府に併合される
単独で生き残った讃岐が一番
303 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 02:10:16 ID:uSB6Rj7i
>>300 飛騨は材木輸出で意外と潤っていたそうだ
304 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 02:49:56 ID:Sh9TaFt2
対馬、壱岐、淡路は?
305 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 16:52:10 ID:wxlJPD/8
長門・周防の扱いが酷い
どの時代も同一勢力が両国を所有しているせいでいつも一緒にされてしまう
306 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 19:33:26 ID:TtwGiy81
>>256 そういえば。
織豊政権は、自らの国力を高めるもので、
幕藩体制は、諸藩の力をそぐものだな。
>>306 織豊政権が国力を高めた例をぜひ教えてほしい
308 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 11:33:39 ID:xFSUf1qX
木材輸出って儲かるの?
戦国時代ぐらいだったら現在より森林が多そうだし簡単に手に入ると思うんだけど
やっぱり木材のブランドが違うのかな?
309 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 15:05:29 ID:iz8Qub/c
寺とか近世城郭とかバンバン建てる時代は大木を大量に必要とするから
ただ飛騨の場合は奈良時代には既に「飛騨の匠」など飛騨木工のブランドが確立していた模様
310 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 21:06:06 ID:qfE0gUu4
火事で街も燃えまくってただろうからな
国内需要が大きいだろ
311 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 22:45:52 ID:PYGm6/Od
日本の船じゃ、大木は持っていけないだろ。
>>311 大型和船が積めない材木…
いかん、想像できん
313 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 00:31:32 ID:uQhoPfwm
マジレスすると取りあえず いかだ。
海はどうするかって、考えないw
てゆうか、豊臣秀吉が島津義久に
「方広寺の大仏殿建てるのに屋久島から過ぎきってもってこいや(#`Д)モラァ!! 」
…という史料が残っているし。
屋久島から京都まであれだけの巨木をどうやって持っていったのか
方法まで書いた史料を知らないので分からないが。
314 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 11:58:07 ID:Me2eEzHR
>>313 恐らく船につめる大きさに切り分けて輸送したと桃割れ。
屋久杉は密度が高く、水には浮かばないため船に積むしかない。
山からの切り出し、船積み、島津義久も屋久島の住民も大変だったろう。
315 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 14:06:10 ID:gWnAL4vG
木材は、切り出して、運んで、加工して、流通させてと総合産業だから、
土地が無くても生計を立てていた集団はいくらでもいたし、
土地を持つ必要がないほど豊かな人々もいたと考えるといいだろう。
網野善彦的に言うと、山の民、川の民、海の民となるのだろうが。
316 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 01:44:52 ID:E/X7UT7Q
輸出して計算が合うほどの輸送技術が無いかと。
317 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 04:25:47 ID:/vHqg1uh
そもそもどこに輸出するのかと。
318 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 23:23:32 ID:THVbGxmk
あげ
319 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 00:45:13 ID:uSQQa4Tl
木材利権といえば、江戸初期、都市開発で沸き返る江戸で木曾材木の利権で幕府に目を付けられて貼り付けにされたなんて説あるよね>風魔小太郎
320 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 13:45:38 ID:EjSAffVl
徳川=豊臣>織田>>三好>大内くらいの順だと思う。
全部全盛期ね
321 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 19:12:41 ID:t1Zd68e6
こんなスレにも夏厨が。
今年は大量発生しているのかな?
322 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 19:33:29 ID:q3b3U/gn
山名や毛利は?
323 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 20:23:16 ID:5IFSyCaP
佐竹藩では名産の秋田杉を伐採しすぎて禿山があちこちにできたと文献にある。
植樹して元通りにするのに一苦労したのだそうな。
324 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 22:53:24 ID:d1oJUtgo
日本の山林は江戸時代以前以後で
全く違うものになったと聞いたな。
青森県の白神山地だっけ、江戸以前の
山林の姿を留めてるところって。
325 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 20:58:54 ID:2jZS+8L2
江戸時代よく屋久杉は切られなかったな。
財政破綻寸前で特産物欲しがっていたはずなのに>>薩摩藩
326 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 21:32:55 ID:4C8e+A/n
327 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 21:33:17 ID:oFg4756C
江戸時代に屋久杉切られまくりだったろ
最大級の縄文杉が難を逃れたのは、縄文杉が伐採後輸送に困難な高所に生えてたからに過ぎない
328 :
人間七七四年:2007/08/06(月) 00:38:53 ID:foRM7lQQ
戦国時代の特産品で利益が多く取れそうなのは木材なのかな
鉄はどーなんだろ
戦国時代の経済でのおすすめな本ありますか
329 :
人間七七四年:2007/08/06(月) 02:57:07 ID:MZav/fOJ
鉄はてまひまかかりすぎて利幅が小さいイメージがあるな。
重要な物資ではあるんだろうけど。
330 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 17:32:09 ID:OjB6KQ8t
尼子氏は鉄製品の生産と貿易で、儲けていたはず。
大友氏の一族の田原氏も領地の国東が、砂鉄の産地だった
ので鉄製品の生産で、経済力をつけていたという。
砂鉄の産地を押さえているのは、かなり経済的に有利だった
ようだ。
331 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 19:31:21 ID:/RJJCJaP
食べ物関係の特産品はどうなんだろう?
今と違って保存がきかないじゃない
干物とか塩とかかな
332 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 20:07:37 ID:ETXdJLE3
塩は重要だろう
砂糖も同じぐらい重要だと思うんだが
砂糖はどこがメインなんだ?
>>332 当時の甘味は米、麦、小豆を用いて引き出していた。
334 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 21:07:52 ID:0OsSx7ga
砂糖なんか昭和初期ですら
335 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 02:08:32 ID:nkxk8UNY
>>334 砂糖は江戸中期あと甘藷もね。
干柿と蜂蜜を忘れてもらいたくない。
米麦の水飴と並んでどこの田舎でも作れる重要な甘味。
336 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 02:24:13 ID:QFUJUSqG
甘味といえば、安土盛りだろ、常識で考えて・・・
337 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 07:56:27 ID:CRica8Yl
くそたわけがぁぁぁ!
338 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 10:49:08 ID:W1iPT+Ld
339 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 10:54:47 ID:W1iPT+Ld
駿河や小田原が山口よりも繁栄していたとか思っていそうだな
340 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 18:51:52 ID:H3pHSjem
>>320 規模と位置からいっても三好より大内のが経済力は上でしょう。
>>339 今の都会は遥か昔から都会(田舎は昔から田舎)だったと思ってる奴は結構いる。
341 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 21:10:30 ID:J+qcA/oG
三好の位置には毛利が入るんじゃね?
342 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 00:18:29 ID:0xAj4D7J
>>341 博多を押さえられなかった毛利の経済力が大内に勝るとでも?
343 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 19:51:13 ID:sU8qDCOY
瀬戸内海は物流の経路として潤っていたみたいだけど
太平洋側はどうだったのかな
344 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 20:56:10 ID:So0M2kEm
紀伊から土佐、大隈(志布志)、奄美諸島、琉球、台湾と島づたいに航海して
中国大陸(華南)に行くという航路がかなり昔から確立していた。
鎌倉時代、紀伊、土佐は三浦氏、大隈を北条義時が守護になって押さえたのも、
この海上航路を押さえる意図があったようだね。
345 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 22:53:35 ID:odttL1Kc
時代は降って南北朝時代、
劣勢の南朝があそこまで粘れたのは太平洋側の海路を押さえていた事もその一因
346 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 00:01:53 ID:NOOB5XaF
まあ南北朝の頃になると、武士や公家がというより、
海賊が押さえてたというのが良いかも知れない
347 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 01:25:51 ID:lI7ispS/
>>346 こらこら、海賊衆と海賊を混同するな。
まあ、日本の歴史上所謂「海賊」がいたのかどうかは
議論の余地は有りそうだな。
348 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 07:15:06 ID:NOOB5XaF
いやまあ、混同というか、基本的に無関係な存在じゃないしな…
武士や公家が海の権益を握っていた、というニュアンスよりは妥当かなぁというぐらいで(^^;
まあ確かに、妙な意識の持ち方されやすい言葉の使い方だったかも
349 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 19:36:58 ID:3sRDj2r6
海賊衆は海上戦力を持った「武士」なんだが
350 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 04:15:28 ID:7mEt1IEZ
砂糖は長宗我部が信長に贈ったような
351 :
人間七七四年:2007/08/22(水) 18:09:51 ID:VJ0/qhXd
あげ
352 :
人間七七四年:2007/08/29(水) 19:38:44 ID:uJDcgupg
あげ
353 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 18:26:48 ID:Aj41JdMM
このスレ結構好きなのにかなり過疎ってるな・・・
ageとく
354 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 20:18:02 ID:RTIC8o3S
信長の野望の影響なんだろうが、戦国時代は領土の広さだけで、勢力の強弱を測る傾向があるよな。
昔だって現代と同じで、商業都市の価値は、相当高いというのに。
355 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 20:42:16 ID:vlYmRpSu
相当高いのは事実だが、現代と同じって事はないわな。
356 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 20:44:43 ID:5iPHZ/wi
現代より大きい割合で考えなきゃいけないのは、気候がある
大昔の雪国は、洒落にならないw
357 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 00:46:41 ID:VKMwMaJq
かき氷食い放題。
358 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 01:15:05 ID:8KY/VQsR
>>354 あとは石高だけでも国力は計れんよね。
とりあえず、土地の広い狭いはあまり関係ないと思う。
359 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 01:56:23 ID:Jg3s1/OB
国の農業生産高は検地でおおまかにわかるんだが、
それ以外の特産品、鉱山、港湾の諸税なんてさっぱりだもん
飛騨とか江戸時代直轄領なってるから
木材関連の利潤も馬鹿にならん気がするんだがな
360 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 05:22:58 ID:Kz+bH+XF
私貿易による収入も検討つかないな。
対朝鮮は朝鮮側に記録が有りそうだけれど、
対明貿易は密貿易が多すぎて誰も把握出来ないorz
361 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 09:48:16 ID:MY9W7Em7
商業都市からの収入は、現在の税収のように制度的に
きっちりと定期的に入ってくるものだったのか?
けっこう、その都市を支配する領主の威光と言うか、
裁量や方針によって大きく異なっていたんじゃない
だろうか。
362 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 19:49:10 ID:MgHSfZDW
税制を決める中央政府がないのだから、取り方はそこの領主の裁量ってことになるね。
黙っていても税は入ってこないから取り立てるわけだが、そのやりかたを前例と変えるのは
なかなか難しいと思う。
信長は「矢銭」というのを都市に課していたがこれは御用金みたいなものか。臨時軍事費
的なもので、額も信長が決めて「これ払え」じゃないかと思うが詳しく知らない。
上杉謙信が永禄3年(1560)に府内(直江津)の税制を改革した触れ書きでは
「府内の町人に対しては、これまで臨時の課役や新税は一切かけていないが、最近は
日を追って町人が困窮しているという。そこで昔からの諸役や地子を5年間免除する。
詳細
一、寺社領の地子は町人は納めなくてよい。寺社には代わりの土地を(府内以外の場所
から)寄進するので、国家安全の祈祷や毎年の祭り、修造を怠ってはならない。
一、給人にも(府内以外の)土地を与えるから軍役奉公に不足があってはならない。
一、船頭はこれまで年中いろいろな御用があったが、自国他国の船が自由に出入りできる
よう、船頭の持ち船だけでなく役所の船からも諸役を免除する。
鉄役も免除。ただし二階堂と青苧座の船だけは検査する。(以下略)」
(上杉家文書)
などとあって、特産品の青苧への課税などは5年の免税期間も続けている。
略した中には「地方雪垣(じかたゆきかき)」というのもあって、雪かき費用も課税されていた
のはお国柄だが、これは軍用道路の除雪費を都市に負担させていたのかもしれない。
もっとも宿送り(運送)への課税は続けているなど、大事なところは押さえている感じ。
これでどれぐらい減税になったかはわからないが、都市課税のやり方がわかる。
363 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 23:52:55 ID:QqEM3N0G
信長は商業に対して安めにしていたのと違うん?
参入を楽にしていただけなら旨味無いし。
364 :
人間七七四年:2007/09/09(日) 00:32:06 ID:Tde9XQiq
領内の関所を取っ払ったと言われているから、
細々取られていた通行税が無くなったことで流通は促進されたろうね。
そう言う意味で、商業に対して安めの税設定と言えないこともない。
税率自体は知らないので何とも言えないが。
365 :
人間七七四年:2007/09/20(木) 22:06:00 ID:qz/YBqjP
>>364 ダンナ、関銭は関所あたりでみれば細々ですが、コース全体で見れば莫大な金額ですぜ?
宇治・山田から、京まで百以上の関所があったというから、取られる方は悲鳴を(ry
366 :
人間七七四年:2007/09/21(金) 13:21:33 ID:cveKez8L
信長の楽市・楽座と言うのも領内全域で
一斉に行われていたわけじゃない。
座だって敵対勢力(例 本願寺)に関係した座は
潰したが、自分に友好的な座は残した。
367 :
人間七七四年:2007/09/22(土) 06:51:43 ID:qZrnl+HS
この板に巣くってる奴らなら、その位知ってるだろ
368 :
人間七七四年:2007/10/03(水) 12:44:14 ID:701Eb4aK
>>354 あと江戸時代以後の知識を混入するやつも。
越後は米どころとか。
369 :
人間七七四年:2007/10/05(金) 22:10:23 ID:qUbotlEf
370 :
人間七七四年:2007/10/05(金) 22:20:48 ID:ogHlF5GF
>>369 博多は当時有数の大都会で当時の山口は今じゃ想像出来ないほど栄えてた、と
このスレで何度か出てるから落ち着け。
371 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 19:02:17 ID:06+fDzf4
保守
372 :
正村:2007/10/18(木) 01:16:23 ID:oOd2C5eT
織田が代官置く前の堺って自治してたけど税はどうなってたの?
373 :
人間七七四年:2007/10/24(水) 19:30:37 ID:+FJ3yIwO
鉱山系都市を除いて収入源としての都市上位は
やっぱり商人町の堺と博多とかですかね?
次に門前町とか利権もってた坊さん関係?
駿府とか山口とか小田原ってのは大きいイメージあるけどどうなんでしょ?
374 :
人間七七四年:2007/10/24(水) 22:09:26 ID:X6P/d43t
>>373 豊後の府内も大きかったよ。
一説には、当時の人口2万とか。
当時の日本を代表する大都市だった。
375 :
人間七七四年:2007/10/24(水) 23:04:41 ID:z0inShoY
>>373 大内全盛期の周防は首都京都に次ぐ大都会だったし、
大友全盛期の豊後は「名前通り豊かで何でもある国」と言われていた。
どちらも博多での貿易で栄えた。
戦国時代の堺は「東洋のベニス」と称されるほど商人達で賑わってた。
376 :
人間七七四年:2007/10/25(木) 19:47:54 ID:pgdrip2c
東洋のペニスってなんだよw
とか思った
377 :
人間七七四年:2007/10/26(金) 09:02:37 ID:p+jiZ52/
自分も、えっ?と思ったが、
フロイスがベネチアのようだと言ったんだよね、確か
378 :
人間七七四年:2007/10/26(金) 12:56:38 ID:8WVexXPx
>>373 駿府は今川のイメージで大きく見られがちだけど実際はそれほどでもない
今川も徳川や織田を基準に語られるから過大評価気味だし
北条の小田原に至っては田舎の城塞にすぎない
当時は地味に伊勢とかすごかったらしいね
379 :
人間七七四年:2007/10/26(金) 19:03:34 ID:xL7WItI5
徳川関係が過大評価されちゃうのは仕方ない
それから、北条の凄さって田舎を開発した事にあるもんな
と予防線を張っておく
380 :
人間七七四年:2007/10/26(金) 23:22:26 ID:yz8MDzET
381 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 02:57:34 ID:/OW4OqGc
南関東で美味いものを食べたいとなったら小田原は避けては通れないところだしな
382 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 14:55:37 ID:XiQR+ZEx
戦国時代はそれほどでもないけど
過大評価気味なのは金沢・仙台かな
江戸時代は繁栄していたけど戦国では・・
383 :
人間七七四年 :2007/10/28(日) 23:00:52 ID:oDL2mb44
関東管領上杉の居城のあった藤岡辺りが
栄えていたらしいけど、どうだったんでしょうか。
384 :
人間七七四年:2007/11/04(日) 11:45:50 ID:hyWuUeNG
人口の推移っていうのも当然あったんだろうな。
けどわかんねえしなあ。
385 :
人間七七四年:2007/11/04(日) 12:51:31 ID:gAYsrJDY
大内氏の全盛期は、お膝元はエライにぎわいだったっていうしな。
農民はともかく、商業関係の移動は激しかったように思うわ。
386 :
人間七七四年:2007/11/04(日) 14:55:29 ID:RMT3IxAS
まあ、大勢力の本拠地は基本的に栄えるよな。
387 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 20:32:19 ID:9Xp1zl7q
>>378 駿河+遠江で、尾張と同じ位の国力だったりして。
388 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 20:46:43 ID:2Zj6IYpf
>>387 尾張の国力は全国有数で石高以上の物がある、駿河+遠江+三河でも尾張一国に
勝てないかも。
389 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 20:56:52 ID:Nsf9YMdL
>>383 藤岡というか、明治時代あたりまでは群馬県は関東の先進地域
390 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 21:24:37 ID:2Zj6IYpf
大友の府内は結構な勢力だよね。
博多が廃れた影響もあるんだろうけど、海外から来る硝石を対毛利で止めて
中国地方を回らない土佐ルートを作り、結果的に土佐の長宗我部が勢力を拡
大したって言う感じ。キリシタン、軍艦、大筒、鉄砲比率と当時のテクノロ
ジー率ではトップと言えるな。(ただし政治システムや一般庶民の民度等の
文明率で考えれば上位の畿内に比べて低いな)
391 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 22:11:54 ID:LRhFWQ/A
熊野灘?遠州灘・常陸灘?
これら難破船になる危険性ある波が荒い海域があったから東海道の港はあまり栄えてなくて瀬戸内海や日本海貿易と違い税収が少なかったと聞いた事あるけどマジ?
すると伊勢〜尾張間の海域貿易は大丈夫だったの?東海道方面の水軍規模とかわかればな…。
駿河や小田原、江戸などの港は貿易港というより軍事港?
392 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 08:39:08 ID:zkavBwYf
>>390 ただ、宗麟があまりにキリシタン重視しすぎて
領内で不満が爆発で大名家としては
衰退しちゃったけどね
393 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 09:07:31 ID:HVCUt0LE
対馬では殆ど米が取れなかったようだが、
交易で稼いでいた宗氏はどの位裕福だったんだろ?
>>387-388 通説の今川の大軍VS小勢の織田って、構図は結構インチキかもな。
394 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 13:09:12 ID:E/s+8TfQ
>>393 とはいえ今川は尾張にも影響力を有しているし、
織田に全ての力を注げる今川と違って、
織田は今川以外にも備えなければならない。
今川の圧倒的優勢は動かない。
が、確かに言われるほど絶望的な差では無かったかもね。
395 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 13:31:00 ID:B9YZAGA5
>織田は今川以外にも備えなければならない
妄想乙
396 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 18:56:04 ID:u3JpDbNS
大友の府内は、長期間にわたって戦乱にさらされなかったことが大きいよ。
大友義長・義鑑の代にも反乱や他家の侵入で府内は焼けていない。
大友宗麟が家督をついで一度、一万田・宗像の反乱で焼けた以外は、島津の
侵入まで焼けていない。
ちなみに本拠地を移した臼杵は、大友本家の直轄地で野津・三重と同じ経済圏を
構成していたそうだ。
397 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 23:07:02 ID:DShvsfCB
>>393 むしろ今川領内は東海道を横切っているから、そっち方面の商業的な
収入が大きかったんじゃないか?
それに尾張といっても当時の信長は尾張を完全に掌握していたわけでは
なかったはず。
398 :
人間七七四年:2007/11/24(土) 02:19:23 ID:aWU2MOPr
>>397 この時期の東海道って(他と比べて特に)発達していたのかな?
399 :
人間七七四年:2007/11/24(土) 11:37:51 ID:kNwwB6J1
>>397 尾張が裕福かどうかよりも、信長は熱田と津島の二つの湊を押さえていたのが大きい。
鉄砲の調達ができたのも、古くからの日本海側の湊ではなく、
ポルトガル等が利用していた太平洋側の湊の利権を持っていたからだな。
400 :
人間七七四年:2007/11/30(金) 12:13:35 ID:EY9qB22U
貿易で儲けるってさ、米とか木材とか原材料系が多いのかな
鉄とかの加工品の流通量はどうだったのかな
刀や防具類とかの高度な商品は利益が大きいのかな
戦国や中世の貿易についてのお勧めの本があったら教えてください
401 :
人間七七四年:2007/11/30(金) 15:01:17 ID:P7V0iHlT
米は輸出品としては弱いような。
やはり特産品や鉱物資源を輸出して、銅銭(明)や硝石(南蛮)を買ってたんじゃないかな?
402 :
人間七七四年:2007/11/30(金) 16:05:02 ID:rD842vLX
詳しくは知らんが刀や扇は外国に輸出してたんじゃなかったか?
米は普通に売り買いされていたようだが。
403 :
人間七七四年:2007/11/30(金) 22:46:45 ID:D4OFx9BI
米の輸出は聞いたことがないな。
日本刀等の鉄製品とか鉱物資源(硫黄)は聞いたことがある。
真珠も輸出していたと昔読んだが、記録にある?
404 :
人間七七四年:2007/12/01(土) 22:10:30 ID:+VOKe3d6
よく言われているのは、銀、銅、硫黄、刀、鑓、屏風、扇かな?
405 :
人間七七四年:2007/12/01(土) 22:14:32 ID:4y3MQT4N
当時の「貫」てどのくらいの価値があったのですか?
伊東義祐が朝廷に納めた三万貫とはどのくらいだったのか…
この人、これで三位という地位貰っているのだから結構な額だと思うが。
406 :
人間七七四年:2007/12/01(土) 22:22:01 ID:4zdDzLSc
一貫が銭1000文。
一貫が米一石というが、地方や時期によって
相場が大きく違う。
407 :
人間七七四年:2007/12/01(土) 23:00:51 ID:4y3MQT4N
>>406 ありがとう。
日向は一国で20万石位だったはず。伊東の領内では10万石程度。
当時、米があまり取れなかった日向では、相場は上がってたろう。
それ以外の特産品も乏しかったし。
全国的にどうあれ、三万貫は伊東にとってはかなりの出費だったのだろうね。
そこまで納める前に、産業振興か軍備増強に走ればよかったのに。
408 :
人間七七四年:2007/12/01(土) 23:28:35 ID:GwvpDBbP
米の輸出は有ることにはある、というには語弊はあるが売り買いはなされていた。
兵糧として、イギリスなどに売っていたようだ。
もう少し言えば、兵・武具・兵糧などでワンセットでイギリスの尖兵として使っていた。
それに待ったをかけたのが徳川秀忠。
409 :
人間七七四年:2007/12/01(土) 23:34:30 ID:1FTWn4rW
>>407 国内統治のために位が欲しかったんじゃないか?
日向の田舎者だし。
410 :
人間七七四年:2007/12/02(日) 00:45:58 ID:8taVm2A6
>>408 海外(英国)で日本兵が活躍したって本当ですか?
かなり興味snsn
411 :
人間七七四年:2007/12/02(日) 00:49:33 ID:8taVm2A6
412 :
人間七七四年:2007/12/02(日) 03:07:16 ID:EB7aadEM
>>409 単純に貴族趣味の表れじゃねえの?
いくら田舎ったって公卿に列せられるほどの高位なんて必要ないだろ
413 :
人間七七四年:2007/12/02(日) 05:10:28 ID:VADS4Jwh
みんな肩書きに弱いからな
今も昔も
414 :
人間七七四年:2007/12/02(日) 11:39:32 ID:HD81GmMN
>>410 一時平戸が英・蘭連合の艦隊寄港地になってたりしたみたいだな。
その後、英・蘭が「一緒に旧教国ぼこぼこにしよーぜ」という提案を蹴って、
軍需物資や日本奴隷の海外流出の禁令を出した。
415 :
人間七七四年:2007/12/03(月) 22:18:56 ID:EH4r5ZUV
416 :
人間七七四年:2007/12/05(水) 15:58:53 ID:Bg3dmwwU
戦国期の国内貿易はどうなんだろう?
鉄や硫黄は戦略物質だから近隣には売れないよね
塩とか米なのかな
417 :
人間七七四年:2007/12/05(水) 16:33:18 ID:omV0PuBc
謙信時代に出雲の鉄と越後の米の取引を日本海貿易でやっていたようだ。
吉川元春の家臣が謙信に会ってたりするしな。織田包囲網における毛利・武田・本願寺よりも
毛利・上杉・本願寺の方が密接で連携しやすい状況だったと思われ。
418 :
人間七七四年:2007/12/05(水) 17:23:01 ID:EWm4MyDQ
419 :
人間七七四年:2007/12/05(水) 17:59:08 ID:omV0PuBc
太平洋側は鹿島灘や遠州灘や熊野灘の難路があったからね。
それに瀬戸内海や東アジア貿易圏と連動した動きだからね。
420 :
人間七七四年:2007/12/05(水) 19:22:41 ID:QfX50IEB
>>378 小田原は山口と並んで、当時では最大クラスの大都市でっせ。
時期にもよるけどさ。
421 :
人間七七四年:2007/12/06(木) 10:39:35 ID:1prZLJbB
小田原が都会なのは氏政後期くらいになってからじゃないか?
422 :
人間七七四年:2007/12/06(木) 20:09:49 ID:5jtWmLJM
>>418 昔は海運でもしなきゃ、冬にやれることなかったんじゃね?
一ノ谷(敦賀)も栄えてたし、日本海航路は昔は…って場所多いなぁw
423 :
人間七七四年:2007/12/06(木) 21:01:21 ID:3hmgiTZw
>>422 あ、あのー冬の日本海は現代でも船が遭難しただの座礁しただの
時々有るくらい(主にロシア船)むちゃくちゃ荒れるんですが・・・
冬場の航海は自殺行為。
424 :
人間七七四年:2007/12/06(木) 21:04:21 ID:5jtWmLJM
425 :
人間七七四年:2007/12/06(木) 21:12:37 ID:TbqPSzCG
そりゃ秀吉以前は人口最大の京都への物資搬入港は大阪ではなく日本海側だから栄えてるよ
ただ冬に日本海へ釣り行こうとネット天気予報見ると波9Mとかで目が点になる事がある
426 :
人間七七四年:2007/12/06(木) 23:55:38 ID:3hmgiTZw
>>424 無理。
沿岸は暗礁があったり、風に押されて岩場に打ち付けられたり、
陸風の影響で風向きがころころ変わったりするから、
沿岸の方がもっと危険。
427 :
人間七七四年:2007/12/07(金) 00:05:07 ID:gzCjZs4B
日本周辺の外洋は荒れる海が多いから
瀬戸内以外は通年での航路は維持できてない
江戸時代に日本海側、太平洋側に航路が拡大していくが
それでも海難事故は多かった
大阪から江戸を目指す途中で難破し蝦夷地について
ロシアまで行った大黒屋光太夫なんて有名だね
428 :
人間七七四年:2007/12/07(金) 00:06:32 ID:gzCjZs4B
「待てば海路の日和あり」
この言葉は日本周辺の海をよく表現してる気がする
429 :
人間七七四年:2007/12/07(金) 01:03:04 ID:13fcUpiW
戦国以降になるけど、「酒田」は江戸時代にはかなり繁栄してたはず。
流通を通じて、文化も微妙に上方に影響されてたと思う。
430 :
人間七七四年:2007/12/07(金) 14:02:54 ID:YGmkTjdx
だってなぁ、戦国期の海運なんて、太平洋を越えてのものなんて皆無だし。
そうなると必然的に日本海側になるじゃないか。
当時の湊での税は、積み荷額の100分の1。
越前なんかは、現代の価格に直して、年間10億円以上儲けていたって言うぞ。
431 :
人間七七四年:2007/12/07(金) 14:25:32 ID:W/sbpNnm
今の俺には想像難しいけど当時日本海側が表日本 太平洋側が裏日本って事だな
432 :
人間七七四年:2007/12/07(金) 17:43:52 ID:gzCjZs4B
越前>近江で琵琶湖の水運>大津>京都
日本海側から京都まで物資を運ぶ場合はこのルートがメインルートだっけ?
敦賀周辺で100万石もらった丹羽は秀吉に優遇されてたってことだな
433 :
人間七七四年:2007/12/08(土) 14:51:26 ID:UWJnsz7U
太平洋側もかなりの通商海路はあったが、国内のみ管理が大名でなく寺社勢力なので、あまり記録に残らない。
国内海路は基本的に、大名は関知しない中立を基本的に維持していたようである。
434 :
人間七七四年:2007/12/08(土) 17:32:10 ID:8vSoiTNY
戦国史SEやれば大体一国の石高とか金山とか経済力はわかる
城単位でみると微妙だけど
435 :
人間七七四年:2007/12/08(土) 17:37:50 ID:Ugnc+ZCl
>>313遅レスだが、
有名なウィルソン株だね。
今でも縄文杉並の株が奉られ残ってる。上空洞で横から入れる
大人10人以上入れる気がする
436 :
人間七七四年:2007/12/10(月) 02:24:15 ID:fwacXxxl
>>403 輸出品としての俵物は江戸期からだっけ。
米、鉱山以外の国内産業としては、この時期、木綿とか植物系の油とかの
需要が急激に上がってたはず。
油を商ってた道三、針の行商してた秀吉とかは、その種の職種が増えてたということかな。
437 :
人間七七四年:2007/12/10(月) 14:42:05 ID:0IJtgFTL
>>436 油はこの時期菜種油から胡麻油への転換期で、生産量が急増しているね。
だけれど、木綿はまだ国内で生産出来ず、中国や朝鮮からの輸入に頼っている。
ちなみに江戸時代に国内でも木綿の生産をするようになると、主要輸入品が無くなって対馬藩の財政が悪化していったらしい。
438 :
人間七七四年:2007/12/10(月) 21:00:04 ID:7LgrIR4k
>>437 木綿は戦国期には国内で生産され結構需要を賄っていたとどこかで読んだ。
室町中期頃まではまだ輸入頼みだったらしいが。
439 :
人間七七四年:2007/12/11(火) 07:44:53 ID:5camCf8P
15世紀後半から16世紀前半ごろ
日本で栽培が始まったんじゃなかったか?<木綿
440 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 17:35:40 ID:feECXgk3
戦国時代100万石程度で2万5千の常備兵を養えたそうだけど半分の年貢でも50万石収入がある。
一人一年に食べるのが米の量が大体一石といわれるから、家族代含めて一人に10石与えても一年に25万石しか使わない。
当時は兵数が多いほうが戦は有利なんだから、100万石あればもっとたくさん兵隊多く雇えたんじゃないの?
その辺がよくわからないんだけど?
441 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 18:17:11 ID:Osy+2jmT
年貢で集めた米全部食うわけじゃないんじゃよ
しかも25000人も正規軍にとられたら村にはもう人が(ry
442 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 18:30:46 ID:jGg0xEYx
うちの集落じゃ米作れる土地が少なくて
麦、粟、里芋、蕎麦がメインだったから
支配する旨味は薄かっただろな
蕎麦ごめ雑炊うまー
443 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 18:33:33 ID:V2Ftboi4
なんでオマエラそんなに詳しいの?
444 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 19:22:02 ID:LsSF4Xa1
相場で儲ければ5万の常備軍も夢ではないw
445 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 19:38:51 ID:feECXgk3
>>441 当時は他国からでも武士雇えるやん、長宗我部は自領の農民兵使って兵力あげたし。
ナポレオンも国民皆兵したけど通用した。
446 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 20:05:33 ID:Osy+2jmT
農兵や市民兵みたいな季節労働者は常備兵とは言わないのじゃよ
日本中軍人不足してる時代
場所にもよるが100万石で人口30万、内男性10万、平均寿命45-50歳と想定すると・・・
447 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 20:19:26 ID:iNHgB/lU
米は食い物であると同時に売り物だからね
単純に一人が食べる量で計算はできないんじゃないかな
448 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 20:38:02 ID:feECXgk3
>>446 いちまいちわからんのだが、当時は自領内の人口じゃなく自領の生産力(石高)で常備兵雇ってんでしょ。
人口が10万しかいない国で、国内からのみ兵を補充するしかないなら国内の生産力落とさないようにしなきゃいけんけど。
というか人口と石高って大体一致するんじゃないの?人口30万人で3倍以上の100万石って無理じゃないの?
人口30万人で土地の生産性が低いため25万石とかはありえると思うけど・・?
449 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 21:58:20 ID:Osy+2jmT
えーと 人口と石高はまったくの別物ですよ
信長が暴れまわる前の3大人口都市は京都>越後>尾張でこの3国はスバ抜けて人が多いと言われています
百姓が少ないパターンですがここだけ見ても石高とは一致しません
レスした30万人はいい加減な数字ですが江戸前期で国内人口が1500万人という説に基づくとそれほど変な数字ではないかと・・・
450 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 23:48:13 ID:GZaD62e7
副菜入れると一石じゃ足らないな。
装備も必要だし。
港が有り商業が発展してれば人も集まるだろうが
そんな条件が揃ってるのは少ないだろうから
簡単に人は集まらないだろうなぁ。
451 :
人間七七四年:2007/12/13(木) 18:26:34 ID:JGy8gQDq
>>449 一人一石、貧乏人でも最低半石食わんといけんから最低でも人口を養うくらいの生産性は必要なんじゃないの。
当時は今と違い田んぼを維持するの大変だろうし維持する労働力が必要になる。
当時30万人で100万石を維持するのは可能なの?
452 :
人間七七四年:2007/12/17(月) 01:10:58 ID:I8mkPrHZ
戦国大名の経済力と言うなら石高より貫高で語るべきかもしれないが、まぁ余計こんがらがるから良いとして(笑)
一万石=軍勢動員250人は戦国時代後期の一応の目安ではあるけど、これは外征動員能力であって相応の防衛力を残した上での数字。
最盛期の武田120万石前後でやはり西上作戦に三万くらい動員している。しかし別の資料では防衛戦力も合わせた最大動員では五万くらいとの見積もあるから、一万石=250〜450人辺りが相場だろう。
しかし三万の軍勢っつっても…一日でどんだけ飯食うんだよ!って話しになるわけで、実際三万の7、8割くらいは兵站で忙しかったらしく、戦闘要員の中心はやはり侍や土豪などのプロの殺人集団だったのだろう。
こう考えると戦国時代ってかなりホーム&アウェーなのな(笑)信長の野望みたく十年もプレイすると勢力が四つ五つしかないとか有り得ないんだよ実際。
結局、兵と経済力は土地にくっついているものだし土地は土着勢力の連合体なわけだから、ほとんどの大名家は勢力拡大どころか一国の維持さえ大変だったと思うよ。
453 :
人間七七四年:2007/12/17(月) 02:02:24 ID:dHZ79mpw
一貫を何石として計算するかは大名によって違ってる事もあるので貫高制は余計わかりにくい
454 :
名無し三等兵:2007/12/17(月) 13:14:47 ID:HPU1JyZ2
>>397 >>399 尾張1国をまるまる織田家が支配できていた訳ではないからね。
東尾張の連中はどう考えたって、本領安堵を願うのであれば、織田よりも
はるかに強大な今川に着かざるを得まい。
秀吉の生まれたという尾張中村のあたりまで今川の勢力は浸透していたという。
今川が上洛開始(?)した頃、信長が掌握できたのは西尾張+αじゃないかな。
石高にしておそらく20万石強程度あればいい方だろうね。
商業地や湊から上がってくる銭の量はかなりのものだったが、あくまで
マトモな武士を雇うには知行地を与えることが前提条件。
直轄兵力である馬廻りとか小姓というような連中もそれぞれ自分の知行地を持った
中・下級の土豪階層或いはその子弟。
よく織田家では「銭で兵を雇っていた」とか、「織田家の代官が各武士の領地を
まとめて管理していた」なんてのは完全な創作話。(特に司馬さん)
他所の大名家同様に織田家内部でも土地問題で四六時中騒動が発生してるw
身代の小さな徒士の連中でもそれぞれ小さな知行地を保有・経営していた。
更に知行地ではなく銭と米で雇われた足軽階層にしても、当時の戦国大名家の足軽大将が
支配していた標準的な数は30人とか50人。100人支配していた香具師はまずいない。
そんな足軽大将を「織田信長だけ」が数十人も抱えていたとは(ry
455 :
人間七七四年:2007/12/17(月) 23:04:19 ID:wcoXPnNG
>>452 甲斐は17万石、信濃は35万石、駿河、遠江はそれぞれ16万石くらい・・
・・・合わせて85万石!
20万石で6000人の兵力と考えると2万5000人くらいの兵力か?
456 :
人間七七四年:2007/12/17(月) 23:21:15 ID:dTtIYyAZ
武田は占領地には重い軍役を課してたんじゃないっけ?
457 :
人間七七四年:2007/12/18(火) 00:36:05 ID:rh3XgOpg
>>456 場所にもよる、諏訪とかは本国と同じくらい
東信とかは明らかな重軍役
458 :
人間七七四年:2007/12/18(火) 00:37:09 ID:rNkLROwU
>>455 最盛期で言うなら他に西上野、東美濃の一部、飛騨の一部にも勢力圏が広がっていたし、三河も圧迫していたから100万石以上は確実だろうな。
まぁ単純に米収穫高だけで軍事力は計れないが、100万石で侵攻なら二万五千程度、防衛なら四万五千程度の動員力と考えていいだろう。
信長〜大坂の陣くらいの動員数の記録もこれで大体合う。
あと百万石で五公五民なら五十万石は大名の取り分になるかと言えばそうではない。
まず戦国末期でも寺社や旧荘園の勢力が在ったし、とにかく土豪勢力の力が強い。特に甲斐信濃辺りはそういう既得権層が武田家を支えていた色彩が濃いから家自体の財政基盤は意外に小さいと見るべき。
(金山経営なんていうのは本家の直轄地をなかなか増やせない苦肉の策だと思う)
守護大名から戦国を生き延びた武田や朝倉が没落し始めたらあっという間に滅亡してしまった理由として、この手の既得権層が信長に寝返ったことが挙げられるわけだ。
459 :
人間七七四年:2007/12/21(金) 15:38:53 ID:tL300FNO
話がそれるけど幕末の長州は実高120万石といわれていますが
長州征伐の動員はわずか4000人程度。
しかもこれは藩取りつぶしのかかった大事な戦なので
藩兵だけではなく奇兵隊など武士以外の人間を含めた総動員体制の動員。
それにしては戦国時代と比べてあまりにも人数が少ないと思います。
ひょっとして戦国時代は国内総動員の限界以上に
動員していたのかもしれませんね。
460 :
人間七七四年:2007/12/21(金) 15:57:52 ID:rlbWHjOx
>>459 長州のその数は逃散や脱藩で領内が不安定だったからでは?
461 :
人間七七四年:2007/12/21(金) 16:25:19 ID:UquHO/o9
>>459 戦国時代なら一万石高あたり最低250は動員できるだろうけど、
300年の太平の世が続いていた時代に農民兵を動員するのは無理だと思う。
462 :
人間七七四年:2007/12/21(金) 20:12:14 ID:pHezM6Ba
財政負担が戦国期より幕末の方が大変だったんだろ
463 :
人間七七四年:2007/12/21(金) 21:42:02 ID:RoF/0gEf
装備に金がかかっていたから。
464 :
人間七七四年:2007/12/21(金) 22:50:17 ID:UquHO/o9
>>462 それもあるね。
>>463 長州征伐でフルボッコされた時の長州の装備は戦国時代の装備から何も変わってなかったんじゃなかったっけ?
465 :
人間七七四年:2007/12/21(金) 23:50:52 ID:zaFiTIMV
農民兵を動員しようにも刀狩しちゃいました><
466 :
人間七七四年:2007/12/22(土) 09:49:16 ID:vJBHAn8L
確かに幕末は多くの藩が実質的に財政破綻状態にあったけど、殖産振興に成功した一部の雄藩は石高(米)経済から脱却していたし、単純に石高で言っても全国的に戦国時代の倍くらいに実高は上がっている。
幕末は石高より、藩全体の財政規模と人口で見て行かないと動員力は計れない。あと動員力より洋式装備や練度が重要になっていたから、地域対抗で頭数を揃えて、敵を圧倒するお祭り合戦のような戦国時代とは戦いの質も変わったと思う。
それでもまぁ石高も人口と平地面積に比例したものだから、幕末の動員兵力は表高で一万石が100人くらいで俺は見ている。根拠は低いけどね(笑)
これで計算すると毛利は37万石で3700人程度。
467 :
人間七七四年:2007/12/22(土) 19:36:38 ID:79ZeWK/I
長州藩は米ではなく特産品(なんだっけ?)の生産で儲けてたような。
その売り上げは米に換算すると100万石に相当するんだっけ。
468 :
人間七七四年:2007/12/22(土) 20:45:42 ID:3DkO1Akn
>>467 長州藩の特産品として有名なのが「防長四白」ですね。米・紙・塩・蝋のことです。
撫育方という幕府に内緒の裏会計を通して産業奨励に努めた結果、銀8万5000貫もあった藩債を
完済した上でそれと同じくらいの貯蓄を得たそうです。
469 :
人間七七四年:2007/12/22(土) 22:04:40 ID:0loOTEyq
幕末期くらいになると一万石で250人みたいな戦国期の動員力の目安は全く役に立たないよね。
人口の増加率に比べて生産力の増加率がはるかに大きいから。
簡単に言うと、明治時代の一円が大金だったのに対して今の一円がカスみたいなのと似てる。
470 :
人間七七四年:2007/12/22(土) 22:53:53 ID:vJBHAn8L
単純に動員力=軍事力じゃなくなったからね。鳥羽伏見を見れば明らかだけど。
徳川幕府はあくまで太閤検地と開幕初期の検地記録を公式な表高として幕末まで使い続けた。これは家康が定めた家格と知行の関係を変えない為なんだろうけど、実際の加減増には幕府も諸藩も実高を使った。
更に幕末になると殖産収益が大きくなって、米=経済力=軍事力の石高制そのものが有名無実化して行ったわけだ。
仙台藩なんか江戸中期には既に米だけで百万石超えていて、それを人口爆発中の江戸に流して大儲けして、将軍家に次ぐ金持ち大名と言われたけど、幕末には結局わけわからん行動ばかりして、宇和島伊達家のおかげで助かった(笑)
加賀の前田もそうだけど、古き良き米の時代はもう終わってたんだ。
471 :
人間七七四年:2007/12/22(土) 23:30:50 ID:ZKHkOD7t
おまい等、その前に軍役が有名無実化して石高当たりの動員力(経済力当たりでもいいけど)が
意味を成さなくなったのを語るのが先じゃあないか?
472 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 00:29:00 ID:Lchuevk5
純粋な武人と文官の割合ってどの程度だったの?
文官武官の役割は当時ハッキリしてないが、石田三成とか当然行政手腕に長けた文官肌も必要になるでしょ。
100万石位だったらどの程度能史が必要になるの?
473 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 01:03:30 ID:aSsGSqWO
>>472 純粋な文官とか日本にはいないよw
三国志の世界じゃ無いんだから。
内政に通じた軍人は光秀や三成みたいに、普通にいたけど。
474 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 01:17:03 ID:Bg68MFco
475 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 02:57:42 ID:Lchuevk5
>>473 だから役割はハッキリしてないって書いてるだろ。
100万石を治めるのにどの程度の能士が必要かの回答も書いてないし。
476 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 10:29:36 ID:x94u0HMd
>>475 武士の割合は人口の7%ぐらい、適正は諸説あるが3%とか
477 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 10:45:05 ID:rJaVfmDQ
478 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 11:02:13 ID:x0LhTe3X
だから人口の3%程度だろ?
479 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 12:15:40 ID:86i/pNml
織田信長の場合は、京、堺、草津を抑え、安土や美濃加納には楽市楽座をしいていたのでその経済力ははかりしれまい
武田信玄は甲斐、上杉謙信は佐渡、毛利元就は石見大森の鉱山を抑えていたので、米だけでは大名の経済力は計り知れなかったのである
480 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 12:20:26 ID:rJaVfmDQ
>>478 それは動員兵力だから、その中のどれくらいの割合が文治をやるか
481 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 12:22:10 ID:3A3mdXea
公務員じゃないんだから武士の数なんて常にほとんど余剰なんだよ。
質問の内容はつまり100万石の統治にどれだけの官吏が必要か?ってことだと思うんだけど。
それは簡単には言えない。前田は参勤だけで三千人連れたりしているわけだけど、これも100万石維持に必要な人員と言えるでしょ。
単純に統治業務に必要な官吏の数と言っても、地域によっては庄屋・名主の自治管理が大きいところもあるし、簡単には言えない。百万石だと侍の数は一万〜二万くらいだと思うけど。
482 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 12:32:55 ID:rJaVfmDQ
100万石で養える人数じゃなく、行政に必要な数ですよ
100万石で2万5千人養えたってのがほぼ定説だけど、文治はもっと少人数でできたんでしょ
明治維新のとき大半の武士が失業したわけだから
483 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 13:01:40 ID:x0LhTe3X
必要な人数なんて分かるわけがない。
今の日本の行政を行うのに「必要な」人数って何人なんだ?分からんだろ。
分かるのは今実際に働いてる人数だけ。
484 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 14:04:05 ID:x94u0HMd
なんとなく意味がわかったが
江戸時代の武士だと約半数がお役目無しのゴク潰し
ならその半分でいいんじゃね?、ぐらいしか言えんわな
485 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 14:54:32 ID:JkigFu5s
100万石で食える人の数は100万人だと思うんだが。
少なくとも25000人ってことは無いな。
軍役の25000のことを言ってるんだとしても、
あれは騎馬軍団がどうのと本気で言ってた帝国陸軍が適当に作った数字だしな。アテにならん。
486 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 19:41:03 ID:YCx0qrns
487 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 22:45:30 ID:rMiHnges
腐れ儒者どもがw
488 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 01:42:53 ID:6PSuDcAB
腐儒どもがっ
って言えよ
489 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 02:19:01 ID:a0IGlkeK
一字一句の解釈や枝葉末節にこだわるなよw
腐女子がっ!
490 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 12:12:17 ID:LVlgI/2s
話は変わりますが戦国時代には大名家が他大名と商取引をしてたりしたのでしょうか?
信長の野望だと取引は大商人としかできませんが
実際には大名間で取引もしてたんじゃないかと思うのですがいかがでしょう?
491 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 12:20:59 ID:04yOinvc
商人を介して他国と商売させて税をとってた。
492 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 10:41:01 ID:YzrFRTFn
外貨獲得みたいな感じか
493 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 20:43:27 ID:qE2OjUMP
>>485 100万石を維持する労働力まで兵にしたらあぼんでしょ
494 :
人間七七四年:2007/12/26(水) 00:34:11 ID:hn0OutmB
>>491 ありがとうございます
公社みたいなのをつくって直接自分たちで取引する概念はなかったのですね
495 :
人間七七四年:2007/12/26(水) 06:52:33 ID:PR80EV3T
>>494 この時代、通商は中立を基本としており隣国が敵であってもそこから来る
商船は入港を許されている(もっとも、厳重な取調べはあるが)。
そうしないと必要なものが手にい入らないので、基本マターリ。
496 :
人間七七四年:2007/12/26(水) 22:36:55 ID:o28xfSII
武家だって普通に商取引は行う。ただ大名家同士となると、普通は政治や外交の一環として、
贈答のやりとりになるだろ。
497 :
にゃんこ:2007/12/26(水) 22:48:06 ID:chcDof2C
あのさ、歴史の基本なんだが、
封建制とは、君主が家臣の領地から徴税することは、できないが、戦争の際、
家臣が手弁当で駆けつける制度だよね。
まあ、実際は、いろんな諸経費がかかるし、君主自身も少数の直轄兵の食料は
準備しなければならないが、軍の主力の最も大きな出費である食料費は、家臣持ち
なんだから、以外と、君主の財政規模は小さいよね。
まあ、戦国時代が進むほどに、大名持ちの組織的補給も整備されていったようだが、
原則、主力である家臣の兵の食料費は、君主にとってはタダだよね。
封建制なんだもの。
498 :
名無し三等兵:2007/12/26(水) 22:55:17 ID:ndPOdDdS
>>497 段銭とか、棟別銭とかは守護とか、戦国大名が支配地全域に
賦課してたと思うんだけど。
499 :
にゃんこ:2007/12/26(水) 23:26:35 ID:chcDof2C
498>
あっ、そうか。日本の封建制は、そのへんがあいまいなんだな。
500 :
人間七七四年:2007/12/27(木) 01:36:57 ID:eep3F+Vr
戦国時代くらいの支配形態だと地域差がかなりあるからね。
単に主家の直轄地収入で言えば江戸時代とは比較にならないくらい少なかっただろう。
戦争に勝っても滅ぼすのは敵主家であって、降伏して来た地域土豪は本領安堵が基本。それじゃないと治まらなかった。
だから秀吉がやった検地(石高制の導入)と刀狩りというのは、そういうアンタッチャブルな地域既得権層の力を弱めて支配権を大名家に集中させる意味に置いて革新的だったと言える。
つかこれをやらなかったら大名の転封や取り潰し、加減増といった中央の政策がうまくやれなかった。
九州、四国、関東、奥羽と大名の仕置きと検地・刀狩りがセットだったし、逆に中国地方なんかは毛利が早くから帰順していたから例外的に切り込めなかった面がある。
家康の関東移封が失策だったとか言うスレもあるけど、俺が思うに北条の取り潰しと家康の関東移封は戦略的事情だけじゃなく、関東と東海甲信地域の近代化、中央集権化という意味ではしかたなかった面があると思う。
地域既得権層の力を削ぎ、大名家との縁故関係を切らせる意味ではね。
伊達や上杉の微妙な転封も理由は同じだと思う。
501 :
名無し三等兵:2007/12/27(木) 08:21:18 ID:t7eaualb
>>500 江戸初期の福島正則侍帳では50万石食んでいても、直轄領はわずか10万石。
そこから藩政の費用と自分の賄料を捻出。
参勤交代もしなきゃいけないし、次々課せられるお手伝い普請。
幕府高官への付け届け(賄賂ではなく、定期的な挨拶の方ね)も不可欠だし、
官位昇進の都度の出費も馬鹿にならない。
高禄家臣の減俸を初めとした家臣団のリストラをしても追いつかない。
とにかく自分と家臣団の領地を増やしていかなきゃいけない自転車操業の
戦国の世もけっこう厳しいんだけどね。
まだ収入拡大の機会があるだけマシなのかなぁ?
502 :
人間七七四年:2007/12/27(木) 17:06:58 ID:eep3F+Vr
>>501 まぁ10万石というのは実収入だと思う。50万石の半分で25万石くらいが歳入、家臣の知行は大名によって拝領形態が違うけど歳出の40〜60%くらいだから、実際の大名家の予算はそんなもん。総石高の20〜30%ほど。
戦国時代になると地域土豪とか旧荘園勢力とか寺社領とかが複雑にあるからもっとひどい。
武田みたいに金山でも掘らないと(苦笑)
503 :
名無し三等兵:2007/12/27(木) 17:26:21 ID:t7eaualb
>>502 違うよ。
実収じゃなくって、50万石から家臣団に知行やら扶持を割り当てていくと、
正則君のところに残っているのは表高で10万石だけだよ。
俺もそのとき「まさか?」と思って電卓使って何度も計算したもん(笑)
従って、自分の財布(米びつ?)に残るのは5公5民として5万石。
だって一門衆には1万5千石とか分けてるんだぜ。
福島家でちょっと名前の通った侍ならば5千石とか3千石なんて知行を
もらってる香具師は珍しくもなんともない。
それなりの侍をたくさん抱えてホルホルしてたら、いくらあっても足りない。
正則君は同じ武闘派でも清正君ほど頭良くないから。
そりゃ、普請なんかは軍役の1つだから家臣団にも負担を割り振れるんだけどさ。
だから、多くの大名家では相続の際などに大身家臣団の知行を削っていく。
もちろん、政争に負けて潰されたり、減封される家臣がたくさん出てくる
なんてのは日常茶飯事。
あと小身の家臣団の知行を蔵米渡しに振り返ることも多い。
どのお大名もコツコツそんなことをやって、蔵入地を確保してるんですよ。
504 :
にゃんこ:2007/12/27(木) 17:40:47 ID:1JjgMTPK
>関東と東海甲信地域の近代化、中央集権化という意味ではしかたなかった面があると思う。
地域既得権層の力を削ぎ、大名家との縁故関係を切らせる意味ではね。
んだ、わしも同じこと考えとった。先を越されて書かれてしまった。口惜し。
農村の武士になりたい軍役衆を城下町に集住させて、百姓衆は村の中。と、いうのが
兵農分離なんだけども、これだけでは徹底しないよね。だって、軍役衆と百姓衆は
親戚やら兄弟やらで地縁血縁が濃いから、互いの交流は続いてしまう。
思い切って遠くに、軍役衆を飛ばしてしまうのがいいね。
こうして、武士階級を、百姓衆から切り離した方が、地域から浮いてしまって、
大名の中央依存が高まるよね。大名が中央へ抵抗しにくくなる。
505 :
人間七七四年:2007/12/27(木) 18:38:45 ID:PqRGi8Ww
>>503 伊達とか、改易されたけど最上あたりも凄かったらしいな。
石高の半分以上が大身家臣の知行地。
伊達スキーな人たちは伊達四十八館なんて誇らしげに語ってるけど、
あれって要するに中央集権に失敗しただけだよな。
506 :
人間七七四年:2007/12/27(木) 19:07:59 ID:qEpsWi93
江戸期における権力集中への反発が伊達騒動ということやね
507 :
人間七七四年:2007/12/27(木) 20:11:53 ID:ECE3v9Mq
関東入国時の家康直轄領が250万石に対し100万石の凄さが良く解る
508 :
名無し三等兵:2007/12/27(木) 21:01:57 ID:t7eaualb
>>507 その百万石から知行地を持ってない下級家臣団にも禄を支給しなきゃ。
決して全額懐には入らない。
ちなみに中期以降の江戸幕府直轄領(天領)は表高400万石強もあるが、収入の半分近くが
そういう知行所を持っていない旗本・御家人への扶持や役料などで消えてしまっている。
吉宗が諸侯に上げ米を「御恥辱をもかえりみず」命じたのは、そういう小身の旗本・御家人への
給料支払にも支障をきたす寸前だったから。
509 :
名無し三等兵:2007/12/27(木) 21:19:18 ID:t7eaualb
>>505 そして島津家も負けず劣らず。
あそこも上位10家だけでどれほどの大禄を食んでいるやら・・・
もっとも、一門衆にはそこそこの禄を与えておかないと、お世継ぎが
いなかったり、幼かったりした時、幕府から養子を押し付けられちゃうw
余談だけど、幕藩体制下までいくと人件費倒れの筆頭だったのが上杉家。
120万石が30万石になり、元禄に末期養子で15万石まで削られた。
家臣団もそれぞれ家禄を返上しながらやってたんだけどね。
たしか収入の9割が人件費だったはず。
あんまりにも採算が合わないので、領地を返上しようとしたくらいの貧乏。
510 :
人間七七四年:2007/12/28(金) 00:41:14 ID:Pq4qPkAu
上杉は人数を削らなかったから。
ってのは本当?
511 :
人間七七四年:2007/12/28(金) 00:58:23 ID:uMp/EYxe
人数を削らなかったら削らなかったで、正直酷い話だけどな。
年収八分の一じゃ暮らせないよ。
512 :
人間七七四年:2007/12/28(金) 02:41:18 ID:vzSgv93c
>>503 502だがマジか?(笑)手取り25万だが生活費に5万しか入れない福島正則(笑)
まぁ米の収穫高だけでは大名家の収支は計れないが、戦国時代に近いほどイコールに近くなるわけで。それはちと少な過ぎる例だよな。
513 :
名無し三等兵:2007/12/28(金) 06:58:29 ID:mYvtCxwD
>>510 >>511 多少の人員整理はやったんでしょうけどね。
それでも家臣団にすれば、他に雇ってくれるところもそうそうないし。
>>512 念のため算盤でも計算したよ(笑)
でも、時代背景が微妙というと微妙なんだけどね。
大禄を与えられながら、それ相応の家来を抱えなきゃ格好がつかない。
信長時代に佐久間さんはこれで解雇されちゃった。(他にもいろいろあったけど)
特に武家諸法度は極めて不気味というか、将軍なり幕府執政サイドの匙加減で
どのようにでも解釈して、そして無制限に処分できる悪魔のような法典だった。
全く戦乱というものが絶えてしまったという保証もないから、優秀な家来を
たくさん抱えておかなきゃいけない。手取りも生活費も増えないから。
まるで中小企業の自転車経営ですなw
加藤の清正クンじゃない、光泰クンなんぞは家来をたくさん抱えすぎて破産してる。
(正確には管理を委託された秀吉の蔵入地にまで自分の家来に分け与えようとして、
大目玉を食らって領地没収とか、あちこちに「加藤家の家来でござる」って香具師が
大量発生しちゃって、秀吉の逆鱗に触れちゃったとかいろいろなことで有名)
あと、跡継ぎ問題に備えて、一門衆にはそれ相応の禄を与えて、本家の予備にしなきゃ
いけないってのもあるだろうね。
信長亡き後の織田家のgdgdっぷりや太閤秀吉の最期もしっかり見てきてるわけだし。
あと身代=組織が大きくなれば、槍先での働きを要求される武官だけではなく、領地や
福島家家政を管理する文官も相応に必要。あれやこれやで出費が嵩み(ry
514 :
人間七七四年:2007/12/28(金) 19:17:27 ID:vzSgv93c
>>513 なるほどなぁ。前時代的なしがらみが薄い豊臣恩顧の連中は収入多いくらいだろうって思い込んでた。違うのかぁ。
縁故が薄いからこそ自腹切らないとはじまらないってとこは豊臣家も同じだよな。
あとまぁ福島正則の例なら中国地方って切り口もあるわな。毛利の支配時代が長くて政治も経済も脱戦国(近代化、中央集権化)が遅れていたという切り口。
まぁ伊達や島津といった名門も内実は似たようなもんだけどな。
完全にムダのない合理的な国家体制なんて現代でも無理だし、ムダがあったから面白かったって部分もあるだろうな。
それにしても、江戸初期なら1900〜2000万石くらい有っただろうに、実際に国家運営にあたっていた将軍家や大名家が握っているのは実収で一割とか二割。あとはひたすら無生産的な武士たちがタダ飯を喰らい続けるという巨大な無駄構造社会が見えてきた(笑)
515 :
人間七七四年:2007/12/28(金) 19:26:32 ID:uMp/EYxe
いや、一応働いている武士だって居るんだよ。
大半は穀潰しなのは否定しよう無いけどさw
しかし遊べるほど裕福な奴は少数で、あとは武士の体面を保つために必死だったんだから。
516 :
名無し三等兵:2007/12/28(金) 20:40:52 ID:mYvtCxwD
>>514 >>515 江戸時代初期だと築城はもちろん、大規模な土木工事には武士たちも
動員されてる。
足軽やら中間・小者だと文字通り労働者として汗を流しているわけで。
その他に知行所から農民を連れてくるにせよ、銭で人夫を雇うにせよ、
普請役は軍役の一部なので全部自腹なのは言うまでも無い。
戦国時代だと安土桃山文化の印象で豪勢で壮大なイメージがあるが、
ごくごく一握りの人間以外の生活は楽なものじゃなかった。
300石を食んでいる・・・槍持の中間を引き連れるのはもちろん、馬に乗って
参陣するそれなりの身分ですな・・・武士の家でも平素は1日2食で雑炊。
もちろん、混ぜ物の雑穀や野菜の量の方が多いし、味も塩とか。
平素使ってる味噌も豆の麹味噌じゃなくって、糠の味噌。
米だって白米じゃない。よくて黒米(玄米)。白米は戦陣のみ。
大坂城内で「今日は蓼(タデ)に塩をつけて食ってきた。すごく美味かった。」と
言ったお大名に、御同輩が「朝から蓼に塩つけて食ってくるなんで贅沢だ!」と
いさめたという有名な話もあるからね。
朝から納豆と明太子で白米の飯食ってる俺なんか、問答無用で斬られちゃう。><
そもそも戦のときは武器や鎧兜はもちろん、食事も自弁。(遠征は別かな)
ごく身分の低い連中には主から食事も提供されているけどね・・・
だから自分で具足が揃えられない下級武士に対しては、大名から「お貸し具足」が
貸し与えられ、足軽なんか弓・槍・鉄砲など主戦武器はもちろん陣笠とかも借り物。
517 :
人間七七四年:2007/12/28(金) 23:04:03 ID:vzSgv93c
そういうリアルなシュミレーションゲームやりたいね。戦より大名家のリアルな運営にスポットを当てたやつ。
士気が低いから苦渋の思いで白飯食わしてさ(笑)めちゃめちゃ感謝されちゃうような。
愛着のある忠義者たちを減封しないと来年苦しいとか(笑)
信長の野望も初代の頃はあの不完全さの中でいろいろ脳内エフェクトしながらやったもんだが…今は百万の兵すら動員できてしまう、戦国時代とは別ゲーに成り下がった。
大河も同じ。リアルな戦国とは別ドラだ(苦笑)
518 :
1111111111111:2007/12/29(土) 00:05:30 ID:DI9J+cTS
そりゃオマエ等何時の時代も楽して人生楽しむなんてのは
ほんの一握りさ
今の時代ほんの一握りも何かあると転落する可能性あるしな(折口とか
519 :
名無し三等兵:2007/12/29(土) 00:31:56 ID:+tpd+OO4
>>517 いまのところ、(山を)開墾して棚田や段々畑を作ると治水能力が下がるとか、
年貢率を上げると民の忠誠値や財産が減る程度のものしかないからね。
例えば町を作っても商人や職人が来てくれないと意味がない。
その意味では家臣団を極力城下に定住させないと需要だって発生しないので、
商人や職人もなかなか集まっては来ない。
高い税金を掛けるとその分物価も上がるし、完全な楽市楽座政策を採ると
座を支配する公家や寺社勢力の反感を買う。連中は実に陰湿だから(汗)
信長にしても、安土はともかく、他では座の権利を保障することで必要な物資を
安定調達してきたわけだからね。
当時には、どうでもいいものを無理やり売りつける「押し売り」じゃなくって、
無理やり物を買い上げる「押し買い」って単語があった訳で。(笑)
上杉謙信が敵に塩を送った美談も、なんてことはない甲斐に太平洋側から塩が
入ってこなくなれば越後の商人が塩を売れるわけで。ここから税も取れる(笑)
関所の撤廃にしても、秀吉が関白になることでようやく皇室や公家・寺社に対して
法的な強制力を持って実施できたわけだから。
特産品の製造・販売に税をかけるか鉱山開発でもやらなきゃ、台所は苦しいわな。
商工業者や運送業者に特権を与えるなどして薄く広く献金させることで、貨幣収入を
得なければ、自前の兵を雇うにしても厳しいからねぇ。
520 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 01:11:57 ID:DB90GzYK
>>519 ここは三等兵殿のおかげで良スレになってるな(笑)
まぁ、一石で一人が一年食えるのに、百万石もあって二万五千しか軍勢を動かせないわけがないとか、前田100万石とか伊達62万石とか言うのは家臣の知行地を含まない直轄地だとか(笑)
秀吉も家康もビックリして墓から飛び起きちゃうような持論を強弁している人たちは見て欲しいね。
まぁ江戸期を通じて人口の上昇ほどは石高は増えてないわけで、地方ほど悲惨だったと思う。
その武士という武装特権階級による支配そのものが幕末には限界に来ていたんだろうな。政治的な闘争は別にして、経済学的な問題としてさ。
そういう観点から見直さないと歴史のホントのところを読み違える可能性があるよな。
経済闘争としての本能寺の変とか関ヶ原ってすごい可能性のある切り口。まぁやってる学者居るだろうけど。
521 :
名無し三等兵:2007/12/29(土) 01:21:04 ID:+tpd+OO4
あと、この時期に大変だったのが統一貨幣が無かったこと。
商工業は確実に拡大しているのに、宋や明の銅貨が入ってこなくなってる。
選銭令出しても(悪貨は良貨を駆逐してしまい)守られないからね。
せっかく発掘量が増え始めた金・銀にしても品位や量がバラバラ。
かくして、貨幣の代わりは「米」という実に退行的な現象。
だから経済の発展していた上方では検地も武士の給料も(米本位制で)
石高制が徐々に拡大し、逆に東国では貫高制のまま。
基軸通貨である米の生産量が増え始めると、収入が米である武家の財政は
上納される年貢が極端に増えない限り逼迫してくるよね。
戦に勝って隣接地を奪うか、大幅な加増の機会を掴むか、新田開発するか、
あとはお決まりの年貢を上げるか。
でも、新田開発には大規模な治水工事が必要だし、年貢率を上げると百姓は
一揆を起すか逃散しちゃう。(そりゃ、そうだ)
戦争に勝つには家臣団の増強や武器の購入という資本投資が必要になり、
かくして悲しき戦国自転車操業が始まる。(笑)
その意味では国産の統一貨幣制度を作った家康ってのは実にすごい。
これで金貨・銀貨・銅貨の交換比率を一定に固定できていればと思んだが。
ただ、当時の金銀の多くは海外貿易決裁手段だったので、一歩間違えると
幕末の金貨大量流出みたいな状況になっちゃうからなぁ。
522 :
にゃんこ:2007/12/29(土) 08:46:50 ID:3bBlK4Fv
速水融氏は、細川家の統計から、1万石で7000人ぐらいの人口としている。
誤解している人がいるが、石高とは、米の生産量+米代に換算した他の生産量
である。つまり、100万石とは、米が100万石とれたわけではないのだ。
これも、幕府の初期の話であって、江戸時代は、生産力上昇が見られたのにも
関わらず、一揆等に阻まれて、検地が18世紀以降は困難になっている。
ここで、実際の実高と、名目の表高の乖離が見られる。
網野先生は、表高に9公1民もの年貢を課せられた村は、村の中心収入である
海運と果樹は非課税だったと書いている。
実際、幕府のの江戸時代中期以降は、低税政権だと見て良い。
1万石250人説は、
遠征時の動員ノルマ。防衛戦なら、惣村の協力が得やすくて、もっと、動員できる。
なお、江戸時代の飢饉は、搾取よりも、経営の問題。現金収入を求めて、東北地帯
で、南方系作物の栽培を強行したことが大きな原因。冷害に強い芋や雑穀の栽培は
少ししかしてなかった。
栽培を
523 :
名無し三等兵:2007/12/29(土) 12:06:40 ID:+tpd+OO4
>>522 1万石=約250人は、幕府が(おそらく)譜代大名と旗本に課した軍役です。
だから最大でも10万石までの規定しかないわけで。
しかも上(石高が多い)にいくほど軽くなっているという不思議な逆累進課税制度w
おそらく、どうしても経済的に体力の無い小身の侍=軍役を弱体化させかねないってのが
想定されたので、下になるほどしめつけが厳しかったんでしょうね。
ところが井伊家は35万石、酒井家は雅楽頭家も左衛門尉家も15万石近く。
(譜代大名でも大きなところは10万石どころじゃないんですが。)
そして各大名家の軍役は幕府から要求されている軍役をはるかに上回っているんです。
長岡の牧野家では百石で10人。もちろん中期以降は有名無実ですがw
もちろん、外様の大身や名門はそれ以上の軍役を家中に課してます。
九州とか東北で知行所を持つ土豪時代の尻尾を持った家臣団だと、有事には
非戦闘員である小荷駄とかには農民を使うつもりだったんでしょうね。
そうそう、最盛時の明智家軍役は100石につき6人。
馬上1・槍1・旗指物1。
馬上の1人は主人(若しくは名代)が鎧兜着て出陣。
槍1には槍持ちが、旗指物1には旗持ちが必要。
あと馬を牽いてくる以上は馬の世話をする馬の口取りが不可欠ですね。
残りは陣夫や小荷駄か、はたまた草履持ちとか鎧櫃持ちなのかな?
524 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 12:18:19 ID:veHflMep
>509
上杉は30万石減封でもまだ家臣の首を切らなくても養う余地はあって
財政が本格的に逼迫したのは15万石に削られたときだったと聞いたな。
30万石減封された頃はまだ上条政繁とか柿崎憲家とか
戻ってきたりしてるし。
525 :
にゃんこ:2007/12/29(土) 12:58:59 ID:3bBlK4Fv
523>
江戸時代ネタに反論はないのだが、
明智家の頃は、石高制じゃないよね。そもそも、明智光秀は、丈量検地を行った
地域の支配者じゃないし。100石6人てのは、江戸時代の創作じゃないですか。
526 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 13:20:32 ID:DB90GzYK
まぁ人口=労働力だからな、ある程度は石高と比例するけど一万石=人口何人=軍役何人で一律に言うのは無理があるだろうな。
地域差があるし、支配形態も違う。
単なる割り算なら太閤検地の1900万石弱と推定人口1200〜1400万人というマクロレベルでの数字があるけどね(笑)
織田はいろいろ再編を進めたけど、長期の遠征にも耐えうる機動的な軍団構成を創った軍政の面は評価すべきだろう。
そしてそれが出来た背景として、人口密集度が高い畿内を抑えたことが挙げられるわけだ。
100石に軍役6人なんて、維持も大変だけど、まず集めるのが大変だからね(笑)
527 :
にゃんこ:2007/12/29(土) 13:53:06 ID:3bBlK4Fv
526>長期の遠征にも耐えうる機動的な軍団構成を創った軍政
それは、今昔の小説家の空想なんですよ。
そもそも、農繁期に農民兵は出兵できない、なんてのは間違い。だって、当時は
みんな大規模農家で、一家に何人も男がいるので、いつでも出兵可能。
信長も、武田家や北条家と同じく、農村の軍役衆が軍の主力です。
ちなみに「方面軍」なんてのも空想。正しくは、寄親寄騎制。鎌倉時代からある
武士の普通の軍制です。
信長の長期出兵も、交代での出兵だったんだと思いますよ。本能寺の変の頃、
いかに多くの兵が、出兵せずに地元に止まっていたか。秀吉軍は過半が「大返し」
の途中で解体してしまったんだけど、摂津衆約1万等をかき集めて勝ちました。
ところが、秀吉ほどでも無かったけれども、わずか10日ほどで、光秀も近江や
若狭の国人の軍を集めていたんです。つまり、交代要員はいっぱいいたわけだ。
528 :
名無し三等兵:2007/12/29(土) 14:50:46 ID:+tpd+OO4
>>525 明智家の軍役に関する資料はけっこう信憑性があるんですがねぇ。
1.前にも書きましたが、宋銭や明銭が輸入できなくなってきたことによる
(日本全体で)銭貨不足やせっかくの金銀も素人には品位の検証ができず、
慢性的な貨幣の不足に悩まされていたわけです。
*信長の選銭令は、「金10両=銭15貫。銀10両は銭2貫。選銭は禁止。
高額商品の決裁は金銀で。米による決裁は厳禁!」という内容ですが、
果たしてどこまで守られていたのやら。。。
特に商品経済が(比較的)進んでいた西国にあっては、なおさら、当時の
最大の必需品であり戦略物資でもある米が貨幣に変わる決裁機能やら
価値判断機能を発揮するしかなかったというのが実態のようです。
絹や木綿や鉄砲ではお腹は膨れませんし、全ての人に不可欠なものでは
なかったですからね。丹波も坂本も京都・大坂(not大阪)近隣の西国。
2.当時は差出検地がメインでしょ?
度量衡も全国で統一されていたわけではありません。
度量衡を統一した大規模な検地は太閤検地までなかったわけですから。
(もっとも九州の某国は1間=6尺ではなく、1間=6尺3寸だか6尺5寸)
国人やら土豪が自分の所得をすんなり正直に公開してますかねぇ?
百姓だって隠し田・隠し畑をせっせと作ってるんです。
国人・土豪は文字通り、その地に土着した有力者ですよ。
田畑以外のいろんな権益だって持っていたでしょうし。
興福寺や東大寺、高野山なども差出検地で申告した数倍、数十倍の所領を
持っていたことが暴露、信長や秀吉の逆鱗に触れて大騒ぎになってますw
家康が関東に移封されることになった太閤さんの小田原討ち入りの際、
隣接地とは言え百石につき7人役を命じられてるんです。
もっと過酷な元亀天正時代なら、6人役は十分ありえますよね?
(太閤さんの場合、検地に基づいた石高から、大名家の台所を賄ったり、
在京手当としての免除分を差し引いたものに、百石につき何人役という
軍役を課してますけどね。)
3.そういうわけで、生真面目な明智常務(笑)のこと、他の重役諸氏よりも
しっかりとした土地台帳兼資産目録を作成し、支配地の実情を調べ上げた上で
権利関係の保証・裁定やら動員体制の整備を実施したのだと思います。
そして出世レースに負けないよう、部下や家来たちには百石につき6人役w
529 :
名無し三等兵:2007/12/29(土) 15:20:39 ID:+tpd+OO4
528の続き
武田氏の一族である穴山氏は、甲斐・駿河の領地の他に金山も支配していました。
なにがしかの金は武田本家に献上或いは上納してたでしょうが、基本は自分の物。
信長の馬廻りには塩屋兼運送屋を営んでいたのもいます。
たしか愛妾生駒氏の実家も・・・(きっちりした身分制度がなかった時代ですからね)
そういうわけで、明智常務自身が持ってた知行地を渡してもらった専業家臣はともかく、
その他のみなさんは給料明細以外の隠し財産はもちろんのこと、公認された別の稼業を
もっていても別段不思議じゃありません。
坂本界隈だったら、馬借・車借・回漕業者その他いろいろ。
(丹波にもいろいろと名物はありますよね。黒豆とかイノシシとかw)
それにしても悲しいことに家康が天下を取るまで、まともな貨幣制度は
日本には無いんですよねぇ。
まったくたいしたオヤジです。シミジミ
530 :
にゃんこ:2007/12/29(土) 15:52:16 ID:3bBlK4Fv
戦国時代は、差出検地がメインです。しかし、近年、信長が光秀や滝川に命じて
大和を丈量検地したという説もあります。あと、越前でも。
まあ、どっちみち、光秀は丈量検地した地域の支配者ではありません。
>太閤さんの小田原討ち入りの際、隣接地とは言え百石につき7人役を命じられてるんです。
もっと過酷な元亀天正時代なら、6人役は十分ありえますよね?
丈量検地以前の石高そのものに根拠が無いと思います。明智光秀は、大和で丈量検地
を行ったようです。しかし、自分の支配地域(丹波や坂本)で行った、という論は
見たことありません。
それ故、100石6人説は、怪しいと思います。次のどちらかでしょう。
1,江戸時代の創作
2,戦国末期ゆえに明智の支配地域は石高制を布けた。しかし、差出検地ゆえに、
実高はもっと高い。例えば表高100石6人は、実高200石6人というように。
信長は、しばし、配下に、「遠征の人数は絞れ」という書を出していたそうです。
このことから、
1,食料家臣持ち自弁から、織田家による組織的補給がすすみ始めていた。
2,信長は無理な動員を避けた。
と読めると思います。
531 :
名無し三等兵:2007/12/29(土) 18:56:25 ID:+tpd+OO4
528の一部訂正
×(もっとも九州の某国は1間=6尺ではなく、1間=6尺3寸だか6尺5寸)
○(もっとも九州の某国は1間=6尺3寸ではなく、1間=6尺5寸)
謹んで訂正し、お詫び申し上げる次第です。(///)
532 :
名無し三等兵:2007/12/29(土) 20:15:52 ID:+tpd+OO4
>>530 <江戸時代の創作
明智光秀家中軍法は、福知山市内の他、尊経閣文庫からも同じ内容のものが
見つかってるんで、けっこう信憑性は高そうなんですけどねぇ。
越後長岡藩の軍役は「百石で10人」(もちろん、千石で100人じゃないですよ)。
当然、国内⇒隣国⇒遠征と出兵先に応じて減らすことも十分あったでしょう。
そのあたりから考えていくとそれほど無茶でもなさそうです。
<遠征の人数は絞れ
それじゃ、佐久間専務が解雇されたときには、公開された【折檻状】で、
「加増してやったのに家来を抱えず、寄騎ばかりを使っていた云々」と
問い詰められてますよね!?
(他にもたくさんほとんど言いがかりみたいな条文はあるんですけどねw)
おそらく、戦には専業の家臣団を使わせて農民の動員は控えさせたのでは?
臨時非常勤の百姓兵&軍属よりも、プロの戦闘員の方が農繁期・農閑期に
関わらず長期戦も遠征も安心してできますから。
やはり餅は餅屋ではないですが、農民にはしっかりと田畑で耕作させて、
納税という形で使った方が得策という判断だったんじゃないですか?
*江戸初期に細川候は、「国元から百姓を幕命の普請の現場に連れていくより、現地で
日雇(人夫)を雇う方がいい。日傭の方が賃金も高く、すぐに怠けるが、百姓には国許で
農耕や治水工事に精を出させた方が藩全体の経営には好ましい」と言ってますから。
<食料家臣持ち自弁から、織田家による組織的補給
大遠征になれば自弁の食料だけでは不可能でしょうね。
株式会社上杉興業みたいに「略奪!」ってわけにはいきませんから。
もっとも上杉興業の略奪は雪国で貧しい(=裏作のできない)越後住民の
口減らし乃至出稼ぎだった要素が非常に高いですね。
他国を荒らす分には自国の食料も減らず、略奪による現物(人間含む)給与で
越後勢は潤い、脅威対象国の国力を低下させ得る訳ですから、一石二鳥。
但し、間違っても天下は取れません。彼にもそういう希望は無かったようですし。
533 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 21:15:17 ID:QqVjTCNV
最高で1000石ちょいで100人ってのがあったような。
それも朝鮮出兵で。
かなり特異な例だと思うけどね。
おそらく借金支まくったんだろう。
>>529 江戸時代のを貨幣制度といっていいのかねえ。
あの程度のものを貨幣制度というのはちょっとなあ。
534 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 21:35:29 ID:QqVjTCNV
>>527 いや田植えと稲刈りの時期は無理だよ。
そのくらい忙しい。
機械で田植えができる今でもそうなんだから、
昔はこんなもんじゃなかっただろう。
そしてその人手の為に、子供や無駄飯食いがたくさん必要だったんだから。
>>522 あと低税なのは天領だけかと。
外様は容赦なく検地してまっせ。
長州藩なんて、金に困ったら検地。幕末は10年くらいのスパンでやってる。
結果。しまいには十数万つう規模の大一揆までおきてる。
ま、ここは課税対象が非常に広く、庭の柿木にまで税をかけたつーとんでもない藩だから、
例外かもしれんが、餓死者が数万ってでてる、北関東東北地域は、似たようなもんだ。
>>532 子会社もおかず、本社直轄で真面目に経営している北条社はいい迷惑ですなw
535 :
名無し三等兵:2007/12/29(土) 22:27:58 ID:+tpd+OO4
>>533 1.それまでの為政者があまりにも、ねぇ。
もちろん信用の裏付けとなるだけの資金準備が政体や中央銀行に無かった訳で。
おっと、それ以前に中央銀行も統一政権もなかったんですよねw
皇朝十二銭の鋳造中止以降、国家乃至事実上政権を持っている人間が貨幣を国産で鋳造し、
なお且つ全国区で流通させた事実上最初の政権は江戸幕府です。
もっとも銭に至っては、寛永通宝が大量に鋳造され、流通しはじめた家光以降ですが。
太閤さんの天正大判は流通貨幣じゃないですし、1番たくさん必要な銭は作ってません。
武田の甲州金も全国統一貨幣でもなければ、流通量も少量。あくまで地方区です。
2.千石ちょっとで100人!?
家臣団以外の船頭さんとか馬方さんとか、そういう輜重兵メインなんですかねぇ?
それでも賄は必要だし、そうそうみっともない格好もさせられないし。大変だ(汗
正直、朝鮮なんぞ分捕っても日本よりも遅れた貧しい国だったんですけどねぇ。
それ以前に真面目に明国まで進撃できると? まるでインパールの牟田口廉也だ。
兵站と情報の重要性を知り抜いた秀吉(&その幕僚団)が立てた作戦にしてはあまりお粗末過ぎて・・・
>>534 北条社さんも他所ではいろいろとやってますけどねw
別に戦時国際法なんてものは無かった訳ですし、戦時国際法がある現在でも
「でも、そんなの関係ねぇ!」ってお国と軍隊はいくらでも、いえ、大半が・・・
正直、自国外においても「軍紀厳正 士気旺盛」な立派な軍隊は自衛隊くらいですw
536 :
にゃんこ:2007/12/29(土) 23:06:40 ID:3bBlK4Fv
532>
繰り返すが、石高は、米の生産高の総計ではない。米+米に加算した生産高。
だから、100石なら人口は100人以下。細川氏の統計によれば、たったの
70人。これで10人の動員は、まず不可能だ。
信長兵農分離説は、小説家の空想です。農繁期の農民兵出兵不可能論も間違い。
当時の農家は、大家族+使用人(下人)の大規模経営ですから、一部はいつでも
動員可能です。実際に年表を見ればわかります。
農村の、出兵に積極的な軍役衆(武田家の用語・一般にも使用)が軍の主力なんです。
人口70人の村に軍役衆10人なんてあり得ませんね。事実だとしたら、表高100石
だが、実高は300石ぐらいないとね。
534>
長州藩なんて例外でしょう。検地ができないから、多くの藩は財政難なんですから。
検地ができたのなら、4公6民で、財政再建ができますって。
537 :
にゃんこ:2007/12/29(土) 23:31:16 ID:3bBlK4Fv
訂正
×米に加算した
○米に換算した
石高は、食料だけの生産高ではありません。総生産高に近いです。
538 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 23:36:28 ID:QqVjTCNV
>>535 為政者というより、強力な中央集権国家というものがなかった。
それは明治までまたないといけない。
そして通貨といえるのも、明治からかと。
>それ以前に真面目に明国まで進撃できると? まるでインパールの牟田口廉也だ。
実際に国境まで進撃したじゃないw
それにそんな無理な話か?
九州や中国の大名が小田原まで、いくのに比べれば、距離的にもそうたいした差はない。
朝鮮での流通網が貧弱で、補給に非常に苦労したのは事実ではあるが。
秀吉があと10年も長生きしてたら、明はあちこちで反乱がおきてくるコロなので、
戦争の継続はまず無理だぞ。朝鮮はいわずもがな。
539 :
名無し三等兵:2007/12/29(土) 23:47:16 ID:+tpd+OO4
>>536 そうですね。
例えば、石高には陸稲(オカボ)はもちろんですが、畑は作物の価値を米に換算して
課税されます。畑一反につき米1石とか。たしか家屋敷も畑並みの年貢率。
あと、和紙などの特産品がある村などでは、木(というか畑だな)には敢えて
税をかけないとか、あくまで畑としてとらえておく代わりに、田に1反あたり
1石8斗とかちょっと高目の基準高を設定して調整している場合もあります。
(普通だと上田でも1反で1石5斗くらい)
養蚕業が盛んな上州や野州では、江戸時代中期以降はとんでもなく低い税率に
なりますよね。
武田家の場合、農地を所有する男子には3種類の人種がいたはずですよ。
@年貢は納めなくってもよい代わりに常時軍役を負う
A年貢はかなり安い代わりに(ときおり)兵士として出陣することも要求される
B年貢は納めるが兵士としての出陣義務はない
おそらくにゃんこさんのおっしゃる軍役衆はAでしょうね。
もっとも、どの大名も村に対して、陣夫役という軍属としての出陣や普請などでの
労働は要求してましたが。
でも、全ての農地所有者が大家族&下人ではないでしょう?
小規模自作農とでも言うべき人だと、そこまで余裕もないだろうし。
村全体で出征者の田畑を管理するように惣村でやりくりしたんでしょうが。
540 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 23:49:14 ID:eSffiCML
ところで「1石の価値」ってここの住人はどう考えてる?
俺は石高(3000万石)=総生産≒人口(3000万人)という観点から
現在に置き換えるとGDP/人口という数式として、
一石=388万円≒だいたい400万円と考えている。
541 :
名無し三等兵:2007/12/29(土) 23:50:56 ID:+tpd+OO4
>>538 だから、朝鮮の貧弱なインフラやら食料事情が
事前に全く調査できてでいなかったわけでw
ただ、秀吉が10年長生きできても、諸侯の財政が・・・orz
542 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 00:07:36 ID:dv2sbQdz
>>536 ただその人口には幼児や武士が入ってないんじゃなかったかな?
宗門を元に算出しているから、ある程度の年齢にならないと、
登録されなかったし、武士はそもそも登録されなかったり。
だから実質的には一石一人に近い数字になる。
また総生産高ではなくて、あくまで石高は税収というか、
課税対象に限定される。
藩によっては、米以外の産品からは税をとってなかったり、
隠し田など、課税の対象になってない場合のものも、そうとう含まれる。
実際検地が100年に一回くらいしかなかったところもあり、
その間に、何割も増えていることが予想される。
70人で10人が無理か、というと無理ではないと思われ。
何年も派遣するのなら、そりゃきついが、
農閑期には、人手が余っているわけだから、その時期なら余裕。
ていうか、もっといける。
つまり数ヶ月なら余裕。
ちなみにドイツ軍なんて、成人男子は全て徴兵っす。
その総数は1000万を余裕で超える。当時の人口からすれば、四分の一くらいかな。
>当時の農家は、大家族+使用人(下人)の大規模経営ですから、一部はいつでも
田植え稲刈りの時期は無理ですって。
田植えや稲刈りはずらせません。時間がかかりすぎても駄目です。
だから収穫までの合間とか収穫後、田植え前など農閑期じゃないと無理っす。
家族以外の使用人や小作人(半分アルバイター)とかなんで雇っているのかというと。
この農繁期の時期のためといっても過言じゃありません。
その時期でも動員されている人は、まず農民じゃありません。
というかみてて思ったんですが、
なんか固定化された要員がいると思ってません?
暇な時期なら、大量に集まるけど、
農繁期なら、まず集まらない。こんなもんですよ。
>長州藩なんて例外でしょう。検地ができないから、多くの藩は財政難なんですから。
財政難なのは、参勤交代や江戸滞在などで、費用がかさむからです。
とくに中期くらいは、(後期は減ってますが)江戸に人口が集中した結果。
物価が高騰し、滞在費用が倍増してます。
543 :
にゃんこ:2007/12/30(日) 00:09:36 ID:EJTXRJ/v
3種ではなく、4種の論も見たことあります。兵士と軍属とに分けての。
経営規模ですが、自作農は、太閤検地以降、政策的に作られたものでしょう。
そもそも、日本人に、単婚家庭が定着したのは1670年代だそうです。
戦国時代は、シングルマザーを地域で支える?なんてのが普通だったようで。
544 :
にゃんこ:2007/12/30(日) 00:17:51 ID:EJTXRJ/v
542>
年表を見てください。農繁期にも出兵してますって。
軍役衆の固定化なんて、学者の定説ですよ。農繁期出兵説は小説家の想像。
一石一名なんて無理でしょう。人間は米だけで生存できませんし、生存以上の物も
求めますから。だから、細川家の統計の一万石7000人説は妥当だと思います。
(江戸時代初期だから、ほぼ実高)
もちろん、参勤交代等の費用も財政を逼迫しました。でもそれよりも、検地が
できないことによる、実質脱税の方が大きいと思います。
545 :
にゃんこ:2007/12/30(日) 00:18:52 ID:EJTXRJ/v
訂正
×農繁期出兵説
○農繁期出兵無理説
546 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 00:44:47 ID:dv2sbQdz
>>541 諸侯の財政は問題ないかと。
江戸初期は、普請、移動、廃城築城など、いろんな理由で出費させてましたから、
それらの負担がなくなれば十分ペイできるかと。
朝鮮出兵だって、あれだけ長期にわたっていたのに、
あれで財政破綻した大名っていませんけど、江戸初期はほんとやばい藩がごろごろいた。
>>543 村村によって形態が違うんじゃなかったかな。
大規模というか、一族でやっているところと、
実質村ぐるみでやっているところ、
夫婦や単身という核家族でやっている小規模なところと。
もっとも単身でやっている人は、ほとんどの場合、
どっかの地主と契約結んで、一定の畑を耕している小作みたいな人ばかりですが。
鬼頭宏氏だったかな?日本の家族制度でなんかいろいろ書いていたと思われ。
>軍役衆の固定化なんて、学者の定説ですよ。農繁期出兵説は小説家の想像。
固定化されている人は農民じゃないっすよ。
>一石一名なんて無理でしょう。人間は米だけで生存できませんし、生存以上の物も
こういう時期の人口は基本的にピラミッド型で、
子供が非常に多く、子供の摂取量は一石には満たなかったりします。
また山で採る山菜やら、畑とかになると、
把握できてなかったり、課税対象にならない藩も多いですし。
農民も結構したたかですから。
村ぐるみでやっていますしね。
あとあまり関係ありませんが、江戸初期だから実高というのはちょっと、
初期から偽っている藩なんて結構ありますしね、
初期においては、それこそ土着の勢力が強く、
検地もままならない地域も多かったですから。
前出の毛利なんて52万あったのに、37万を表高にしてますし。
547 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 00:47:13 ID:dv2sbQdz
>>545 それは農民を徴用しての出兵ではないかと。
548 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 04:54:05 ID:+ltxNt7l
>>540 う〜ん。どうだろうな。
GDPとか言うより、一人が一年食う最低限度の金額で考えたほうが早いような気がする。
俺は、感覚として一石=100万円前後かなと。
一石=10斗=100升=1000合で、一合がおよそ150グラムとして一石=150キロ。
嫁も寝てるし、ようわからんが5キロが千五百円〜魚沼産で三千円とかするのか?(笑)
つーことは今の米の価値は一石=4万5000〜9万円 程度。吉宗もビックリな暴落ぶり(笑)
549 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 06:05:01 ID:LNos3mpR
石高はあくまでも米の生産性中心だろ?
550 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 06:09:05 ID:LNos3mpR
一年中兵隊をする遠征軍は補給などから世界中見ても人口の3%以下が限度
551 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 07:22:01 ID:DypQiuu4
>>548 一人が食う最低限度の額、というのは、当時のエンゲル係数考えると
今よりものすごく高いと考えたほうがいいのではないかい?
当時の食糧生産能力を考えると、多くの人間は、
それこそガキの頃から一日中働いた収入=労働力の大半が食に消えて行くわけで。
ちと古い資料になるけど、H6年度の新潟県の米生産量は、
減反に減反を重ねて一県で78万トン=520万石。
ちなみに新潟県の農業GDPは全体のわずか2%(加工食品もろもろも加えると20%)だから、
ありえない仮定だけど、もし今の農業技術=食料生産力を使って米を生産したら
新潟一県で当時の日本全国の米の生産力を軽く凌駕する。
外国に比べて高い、効率の悪い生産力と悪し様に言われる日本の農業で、さえだ。
現在は、それだけ効率的に食料が生産できる時代ということで、ここから考えて
自分の食費が生きていくのにぎりぎり100万、だから一石=100万と
考えるのはイメージずれていくんじゃないかな。
昔は文字通り食うこと=生きることの大半を占めていたわけだし。
552 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 07:24:56 ID:dv2sbQdz
それは補給をしている場合
武器弾薬以外は、現地調達で済ませてしまえば、そこまでかさまなかったりする。
もっとも現地調達するためには、圧倒的な軍事力か、買い占めれる財力が必須。
ハンニバルなど、本国からはほとんど補給をうけずに、
十年以上にもわたって、遠征軍を維持していたし。
モンゴル軍なんて、それこそ民族大移動てきに進撃してる。
戦国大名の多くも、現地調達が当たり前。
略奪か買収かは、大名による。
ていうか輸送してる場合こそめったにないかと。
553 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 07:43:25 ID:dv2sbQdz
効率が悪いのは、小規模経営で、人件費が高く、高齢化し、
補助金が漬けだから、無意味な農道とかもあるしな。
米そのものは、非常に効率がよい作物。
一粒から実る作物の量が倍はあるし、
さらに小麦を粉にすると、ただでさえ少ない麦が半減する。
最終的には膨らむけど、それをいったら、米だってそうだしな。
ただ大量の水が必要。水田である必要はないが、
連作障害を避けるためや、安定した収穫には水田が必要となり、
ある程度の灌漑施設が必要となる。
ちなみに日本は全て水田だったように思われているが、
明治でも半分は陸稲であり、戦国時代なら、今で言う水田の割合はさらに低いと思われ。
天気しだいの天水田か、陸稲が基本。
だから山の中にも普通にあったりする。
554 :
名無し三等兵:2007/12/30(日) 09:41:31 ID:LZjfltPY
とりあえず、この3点を再確認しておきましょう。
1.当時はみんなが貧乏。
このスレで何度もお話していますが、ほとんどの人(お武家さんでも)が
裕福ではありません。
戦国末期、300石のお侍さんの家では家来や下人どころか、家人でも
平素は雑炊しか食べることができません。
(まぁ抱えている人数が多いってのもありますが)
服もたいてい着たきり雀に近い状態です・・・「おあむ物語」より
2.米はぜいたく品
そんなわけで、米は極めて贅沢な食べ物です。
江戸時代はおろか、昭和になってもです。
豊葦原 瑞穂の国と日本の国のことを言いますが、その日本でお米が
余りだしたのはWWU以降、外国から小麦が大量に輸入されるように
なってからのことです。
(明治以降の急激な人口増加って要素も馬鹿にはできないんですけどね)
戦国時代なら今で言う魚沼産コシヒカリの扱いどころじゃないでしょうね。
そうでなきゃ、貨幣の代用品として認知されるとは思えません。
3.いろいろなものの生産能力が低かった。
人或いは動物以外の「動力」というものが水車くらいしかないので
当然ですね。
もちろん製造しているのも、ほとんどが家内制手工業です。
これでどうやって大量生産しろとw
555 :
名無し三等兵:2007/12/30(日) 10:14:22 ID:LZjfltPY
あと、いくつかの要素も考えておきましょう。
オマケ その1
いまでもそうですが、天然物(の農産物)はどうしても「時価」。
たくさんできれば安くなりますし、不作だと高騰します。
しかも主食である以上、なかなか代用品ってわけにもいきません。
ちょっとでも不足すると売り手は強気の商売ができますよね。
また、収穫直後と収穫前の欠乏時では値段が違って当然です。
オマケ その2
同じ日本国内でも地域差が極めて大きいです。
流通(特に輸送)が極めて貧弱です。
日本郵船も日通もJR貨物もありません。(極めて真面目に言ってます)
当然のことですが、不足しているところにもって行けば高く売れます。
オマケ その3
人件費=お給料も安かった。
江戸初期でも下女のお給金は年1両。
極めて粗末な食事と寝る場所、場合によってはお仕着せが与えられますが。
(今で言うと住み込み+食事支給+作業服貸与ですね)
江戸中期、武家奉公の中間が同じような条件で年2両程度。
足軽だとか若党という階級で年3両+米1人扶持(1日5合・年換算で1石8斗)。
足軽・若党も官舎である長屋は無料で借してもらえますが。
足軽が戸建の組屋敷住みの場合は普請は自前かもしれませんが、地代は不要。
556 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 11:15:26 ID:DypQiuu4
>>554-555 つまり「一年分の食料(or生活費)」は、当時の価値としては、
今とくらべられないほど高い、ということかい?
俺はその辺も踏まえて、一石(米のみにあらず)=一人頭GDPにほぼ匹敵と考えたが、
貴方はどうイメージする? 相場の変動は別として。
議論と言うよりは、お互い自分の知識と計算式を発表するだけのすれ違いが続くスレだなw
557 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 11:28:11 ID:3d5D7yrj
つーか昔の人って白米すらほとんど食えんかったろ
ヒエやアワ食ってたんだから
558 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 12:03:41 ID:dv2sbQdz
それは流石に。
白米まで精米はあまりしないけど、
米を食うのは普通。
米の作付け量が一番多かったのは事実だし、
経済力がある都市圏の人間や、武士の上級の人口なんて、
人口のほんの一部。
そして武士層はそんなに贅沢しない。
大名クラスでも、一汁一菜とかかゆくらいが普通。
白米もあまり食べないしな。
559 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 13:04:50 ID:3d5D7yrj
一反で約一石多くて二石取れるらしいが、どの程度の人数で昔は一反維持できたの?
560 :
名無し三等兵:2007/12/30(日) 14:23:32 ID:LZjfltPY
>>556 今は米価がその当時と比べると比較にならないほど安いですからねぇ。
他の穀物(特に小麦)の影響で米の消費量が減ったことや、オカズで
栄養を取れるようになったので。実にありがたいことです。
そしてなによりも国民全体が裕福になったってのも大きいですが。
さて、少し時代が新しくなりますが、江戸初期の城普請で日雇人夫=日用
(これが正しい字でした。すいません)の日当が銀1匁5分。
別段、石工とか大工のような特殊技能は不要ですが、キツイ肉体労働です。
当時の米相場が概ね1石=銀20〜25匁で、小売だと当然割高になりますね。
この際面倒だから高い方に切り上げて小売は1石=30匁にしちゃいましょう。
戦国末期以降、大規模な治水や開墾で米の生産高は飛躍的に増えてますが、
それでも5升=7.5`のお米しか買えませんね。(もちろん、玄米です)
米が贅沢な食べ物であったことを考慮し、1`=1000円で計算して日当7500円。
東京の山谷地区や大阪の釜ケ崎(あいりん)地区の労務者の相場からいくと
そう無茶な金額でも無さそうです。
米1石=150`ですから、1石は15万円ってところですね。
561 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 15:18:27 ID:/4sQ1VTA
元々は日本以外の東洋史専門の人間からすれば、日本はまだマトモだよな。
飢饉だから自分の娘を売り飛ばすって話しはよく聞くけれど、
飢饉だから自分の娘を食っちまったって話しはあまり聞かないな。
562 :
名無し三等兵:2007/12/30(日) 15:25:05 ID:LZjfltPY
あと、貨幣制度や相場も参考にして考えてみましょう。
信長は金10両=銭15貫目、銀10両=銭2貫目というお触れを出していますね。
まず、銭1貫目=銭(主に永楽通宝)1000枚です。
もっとも、これは良銭(品位のいい、割れ欠けなどもないもの)限定。
割れ、欠け、焼け、安直な私鋳銭などは各々1/2とか1/10に減額換算。
これで京都あたりで米1石が1200〜1600文ぐらいだったそうです。
甲府の武田勝頼が「1石=1400文ちょっとで換算して云々」という書状を
寺社向けに出していたそうですから、そんなところですかね。
もちろん、米のたくさんとれた尾張や伊勢だともっと安いでしょうね。
古くは鎌倉時代に1石=1貫目という公定相場(?)があったそうですから、
ある意味、需要と供給を考えるとそんなものかもしれません。
江戸幕府は永楽通宝の良銭1貫=鐚(ビタ)銭4貫という交換比率で新しい銭の
銅貨を発行しています。
公定相場は金1両=銀50匁=4000文ですから≒永楽通宝の良銭1000文(1貫)
*もっとも、信長時代では度量衡も統一されていませんし、金銀の品位も
家康>秀吉>信長ってことになりますし。
ここでは敢えて無視させて頂きましたが、念の為に書き添えておきます。
太閤さんの時代になってからの農業生産の高い伸びを考えると、江戸初期の
日雇い人夫の日当銀1匁5分で小売の米5升も、戦国時代の米1石=銭1貫目は
妥当な線ですよね。
近江の国友村で作る鉄砲(堺の鉄砲よりもはるかに優秀とされていました)が
米9石したそうです。米1`=1000円だと、9石は135万円。
極めて割高なことで定評のある89式5.56o自動小銃は1挺347,000円(98年調達価格)
もちろん性能や機構ははるかに国友産鉄砲を凌駕していますが、NC旋盤どころか電力も
無かった当時のことを考えると、まだ国友の鉄砲は高いとは言えませんね。
需要(それも性能の良い国友村の鉄砲)はいくらでもあったわけですから。
これで考えても戦国時代の米1石=15万円はそう無茶な単価でもなさそうですね。
563 :
名無し三等兵:2007/12/30(日) 16:39:11 ID:LZjfltPY
>>561 民族がマトモですからね。
支那の皇帝は「人間の丸焼きが食べてみたいアルヨ」と言い出して、
宮廷料理長も自分の妾の赤ん坊を焼いて差し出してますからね。
犬を好んで食べることで定評のある朝鮮では、うんこを舐める遊び
・・・ホンタク・・・もありますし。
儒教の生まれ育った、自称「東洋の君子国」では歴代政権の搾取や
異民族の侵攻などもあって、民衆は国家を全く信用していません。
その属国である朝鮮では「小中華思想」のせいで、更に濃縮されてます。
日本でも平安朝なんかとんでもない政体ですからね。
とても国家とは呼べない代物(シロモノ)です。
【夜警国家論】でも、国防・外交・治安維持・徴税が最低限度の国家の仕事です。
国防も外交どころか、治安維持もろくにできず(やらず?)に、徴税のみw
おまけにその徴税も有力者の名義の土地はノータッチw
おそらく貴族には国家の運営に当たっているという自覚が無かったですから。
その意味でも、儒教に日本の武士道がミックスされて出てきた独自の武家文化が
非常にいいものだったんですね。
西洋で言う騎士道に近いものがありますね。
「強き者=上に立つ者は弱き者を守るのが勤め」なんていう考え方は
およそ中国や朝鮮の支配者には全く考えもつかないでしょうね。
彼らは権力・財力・名誉を独占し、額に汗することは卑しいわけですから。
己の土地を命がけで守る「一所懸命」(イッショ ケンメイ)や、戦場での武勇を尊び、
質実剛健思想の武家の文化が近代日本の成立には極めて役立ったと思います。
564 :
名無し三等兵:2007/12/30(日) 17:41:38 ID:LZjfltPY
>>530 100石6人役のもっともらしい根拠w
序論:太閤検地までは、度量衡が統一されていないどころか、田んぼや畑の品位も
明確には考慮されていません。面積も収穫量も田畑の基準生産高も不統一です。
本論:それまでは収穫高から、不作や荒(アレ)を差し引き、更にその他の諸経費も差し引き、
地頭職(地頭の取り分)、名主職(名主・・・「ミョウシュ」と読んでね・・・(事実上の)地主としての
取り分などといういろいろな権利関係が複雑に絡み合っていました。
ほとんど存在してはいなかったでしょうが、国衙領(国家としての朝廷の土地)も
あったでしょうし、本荘・・・荘園の名義上の所有者=多くは公家や寺社・・・の取り分も
考えなければいけませんね。(ほとんど地頭が横領していますが)
信長までは、安堵状に「本領並びに諸買い得(徳)・・・侍が買い取った田畑・・・の権利を
権利を認める云々」というのが普通です。
結論:それらを考えると明智家軍役は各武士の手取である地頭職の石高を基準に
課せられていたことも十分考えられます。
手取100石なら本人乃至名代が鎧兜に身を固め、乗馬1頭と槍・旗各1本用意して、
家の子・郎党を5人引き連れての出陣も可能ですよね。
江戸時代の5公5民だと200石に相当するわけですから。決して楽ではないですが。
オマケ:ちなみに太閤検地では2公1民になってますから、知行高=表高=生産基準高。
従って百石の武士の手取りは66石。
家康の7人役は厳しいようですが、各大名に対して諸経費としての蔵入地や
在京手当を控除して、何人役という軍役をかけていました。
こちらも決して楽ではないんですけどねw
565 :
名無し三等兵:2007/12/30(日) 17:45:11 ID:LZjfltPY
>>530 100石6人役のもっともらしい根拠w
序論:太閤検地までは、度量衡が統一されていないどころか、田んぼや畑の品位も
明確には考慮されていません。面積も収穫量も田畑の基準生産高も不統一です。
本論:それまでは収穫高から、不作や荒(アレ)を差し引き、更にその他の諸経費も差し引き、
地頭職(地頭の取り分)、名主職(名主・・・「ミョウシュ」と読んでね・・・(事実上の)地主としての
取り分などといういろいろな権利関係が複雑に絡み合っていました。
ほとんど存在してはいなかったでしょうが、国衙領(国家としての朝廷の土地)も
あったでしょうし、本荘・・・荘園の名義上の所有者=多くは公家や寺社・・・の取り分も
考えなければいけませんね。(ほとんど地頭が横領していますが)
信長までは、安堵状に「本領並びに諸買い得(徳)・・・侍が買い取った田畑・・・の権利を
権利を認める云々」というのが普通です。
そして、その田畑を直接支配する侍は地頭と呼ばれていました。
結論:それらを考えると明智家軍役は各武士の手取である地頭職の石高を基準に
課せられていたことも十分考えられます。
手取100石なら本人乃至名代が鎧兜に身を固め、乗馬1頭と槍・旗各1本用意して、
家の子・郎党を5人引き連れての出陣も可能ですよね。
江戸時代の5公5民だと200石に相当するわけですから。決して楽ではないですが。
オマケ:ちなみに太閤検地では2公1民になってますから、知行高=表高=生産基準高。
従って百石の武士の手取りは66石。
家康の7人役は厳しいようですが、各大名に対して諸経費としての蔵入地や
在京手当を控除して、何人役という軍役をかけていました。
こちらも決して楽ではないんですけどねw
566 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 19:43:41 ID:+ltxNt7l
>>560 なるほどなるほど。一石=15万円。一万石=15億円か。いやいやそれ当たりだよ。
徳川幕府の年間予算1600億円とか言う試算もそういう出し方だろう。
天領四百万石から二百万石蔵入して、直参に半分配ればな。
まぁかなりの概算だけど(笑)
一万石=15億円で、五十万石=750億円。
平社員(百姓)に半分くらい出してやると。で管理職(家臣)にガツンと出して、「おめーら出張費も交際費も手弁当な!」と。
で会社本体の予算と社長(藩主)の報酬を合わせて37億5000万円。
福島正則株式会社(笑)
567 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 19:50:28 ID:+ltxNt7l
あ、違う。予算75億だ(笑)
568 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 19:57:12 ID:+ltxNt7l
自分の年収を石高になおすとガッカリすんなぁ(・ω・`*)
一万石なんてメジャーリーグに行かねーと無理!(笑)
569 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 21:08:31 ID:fUFg2z+e
>>555 日本は古代から海路水路を使った輸送路が発達した社会だったよ。
そりゃ現代からすれば貧弱だったろうさ。
570 :
名無し三等兵:2007/12/30(日) 21:29:34 ID:LZjfltPY
>>566-567 う〜ん、どうですかねぇ。
福島正則梶@主な業務は戦争(警備含む)と建設の請負業です。
総売上高・・・750億円 社長報酬&本社諸経費・・・75億円
でも、ここから人件費以外のいろいろな販売管理費も捻出しなければいけません。
この会社は概ね現在の県レベルの仕事をしなければいけません。
もっとも、各家臣団の知行地は個々人に面倒見させればいいんですけどね。
県全体に関わるような大規模工事などは社長の自腹も切らねばいけません。
まずは立派な本社社屋=城が必要です。
東京にも見栄えのいい出張所(江戸屋敷)を、それも複数構えなければいけません。
官邸(上屋敷)・公邸(中屋敷)・私邸(下屋敷)って感じですかね。
それよりは小規模ですが、京都や大阪にも出張所(蔵屋敷等)が必要です。
関が原のお手柄で福島正則鰍ヘ担当テリトリーをほぼ倍増されています。
それまでの担当テリトリー(清洲24万石)時代から単純に社長の手取りも
倍増したと考えると社長直属の鉄砲隊だけでも、最低5万石分(300丁)は
必要なので、それだけでも135万円×300丁=4億円は飛んでしまいます。
他に弓・槍も必要ですし、弾薬をはじめとする消耗品も不可欠です。
おっと、軍役は最低レベルの出陣契約ですから、予備兵力や留守の間の
警備部隊も必要ですから、もっとかかりますね。
本社(=お城)の中の高熱水費は社長の自腹で、他に給仕(茶坊主)・清掃員も
かなりたくさん社長の自腹で雇用する必要があります。
人件費は安いのですが数が馬鹿になりませんし、経費族もけっこういます。
社長夫人の秘書部長(奥方)はお世継ぎを産み・育てるのが主たる業務ですが、
広い江戸公邸の奥でいますので、メイドさんも雇わなければいけません。
お給料はそれほど高くないんですが、衣食住支給の上、とんでもない人数です。
オマケに社長の性欲処理以外にもお世継ぎ製造のために、私設秘書(側室)も
それなりに雇わなければいけないのが、世襲企業の辛いところです。(笑)
もちろん、私設秘書にも相応のメイドさんたちをつけてあげないといけません。
そんなこんなで、私設の秘書さんたちの経費はかなりの出費となります。
自分の担当エリア以外でも、総本社(幕府)から命じられれば、無償で築城やら
川普請などの工事を引き受けなければいけません。これがまた多い。(涙)
下手をすると、無償工事が重なると簡単に赤字転落してしまいます。
総本社と担当エリアの往復にはたくさんの部下を引き連れて、自腹で長旅です。
社長&会社の交際費・・・幕府要人やら関係機関への付届・・・もそれなりの金額に。
徳川コンツェルンの本社社員や給仕(茶坊主)連中は防衛省の守谷クンもびっくりのタカリ体質。
この連中とのお付き合いも馬鹿にはなりません。公的な交際費以上の金がかかります。
もちろん、業界人(お大名)同士のお付き合いだって無視できません。
それでいて、あくまでも本業の用意をしておかないとコンツェルンから叱られますし、
かと言って、準備をし過ぎると「謀反」の疑いで会社は潰されます。
朝鮮半島に出動して、お財布が空っぽになるどころか、借金まみれになった
同業者もゴロゴロしています。
それでも、社長になりたいですか?
571 :
名無し三等兵:2007/12/30(日) 21:54:29 ID:LZjfltPY
>>568 雇用しなければいけない家臣団の数や、仕事に関しては原則自腹ということを
差し引くと、お大名も自分の好きなことに使えるお金はかなり少ないんですよw
本業の戦争請負(もちろん無償)の他に、無償で本社社屋建てたり、社用車どころか、
メーカーに例えると製造設備まで自腹で手配しなきゃいけないんですから。
普段、パンや麺類別にすれば、3食白米でしょ?
しかもお味噌汁は大豆のお味噌汁でしょうし、オカズだって食べてるでしょ?
コンビニで売ってる600円くらいの幕の内弁当なんか、お金持ちを別にすれば
昭和の中期でも十分ご馳走ですし、戦国大名でも山海の珍味そのものです。
戦国時代、木綿の女物の小袖は、現代の欧州直輸入のシルクスリップ以上。
それどころか、欧州製のブランドスーツ上下よりも値打ちがあります。
568サンは1万円あれば、ユニクロで綿のシャツとスラックスが十分買えますよね?
こちらでお給料を計算すると、けっこう幸せになれますよ。(笑)
572 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 22:24:32 ID:+ltxNt7l
>>571 今武士の一分観てるけど、キムタクが三十石取りか。そりゃ俺のほうが贅沢だがな(笑)
そりゃ殿様になって「大儀…」とか言ってみたいよ(笑)
福島工務店の次は、伊達商事でよろしく。
573 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 22:28:44 ID:DypQiuu4
>>570-571 それでも、社長になりたいですか?
その時代においては一番いい仕事といい待遇だけどね。
現代の平民と比べたらそりゃどの時代の王侯もみな悲惨な生活だわな。
なんか、うまいこと言っているようでいて、ものすごく薄っぺらな長文だなー。
574 :
名無し三等兵:2007/12/30(日) 22:31:43 ID:LZjfltPY
>>569 江戸初期、出羽の秋田から近江の大津まで佐竹候のご家来衆が換金するため
お米運んでるんですが、3000石(450d)運ぶのに経費は600石(90d)程度。
うち、秋田〜越前敦賀は廻船。敦賀からは川舟使った人もいますし、馬で
山越えさせた人もいるようですが、琵琶湖湖畔にでれば、船で運んでます。
しかも秋田〜敦賀は運賃をかなり抑えてます。(豊臣時代の1/3とか1/4)
いま、お米運ぶのにこんなに運賃かけてたら、会社は潰れますw
それどころか、戦国時代は敵もいれば、山賊・海賊もたくさんいます。
(江戸時代でも追いはぎはいましたね)
海賊にマージン払わなきゃ、襲われてあぼーんしても文句言えません。
マージン払うのが嫌だったら、護衛の武装兵をたくさん引き連れなきゃ。
さて、どっちが安いんでしょう!?
関所だって、いっぱいありますよ。
土豪やお公家さんや有力寺社がそれぞれ関所作って、通行料取るんですから。
淀川で京都まで行くのに約400の関所があったそうです。(汗)
こんな中で商取引をしようとすれば、とんでもない物流費がかかりますよね。
【与太話】
海難事故なんか珍しくはありません。
もちろん、海上保安庁も海上自衛隊も助けに来てくれません。
おっと、明治まで日本には本当の意味での政府って無かったんですよね。
575 :
名無し三等兵:2007/12/30(日) 23:02:56 ID:LZjfltPY
>>572 30石のキムタク殿の手取は5公5民でも15石。
江戸中期以降、米価は戦国時代から見れば相対的にかなり低下しています。
他の物価の上昇率には追いつけませんでしたからね。
幕末の数年、米価はとんでもない高騰をしていますが、これは全国的な不作や
貿易赤字やら、世情不安など、とんでもない悪要素が山ほど重なったせい。
そして米価にリンクして、場合によってはそれ以上に諸物価が高騰しています。
キムタク殿がご加増もなく、役料も頂かず、賄賂も付け届けもらわず、内職もせず、
悪事にも手を染めずに裕福になろうと思えば、毎年毎年全国的な不作が発生する中、
自分の藩だけが豊作にでもなってくれないと絶対に不可能です。
それどころか、幕末近くはどこも会社が赤字なので、半知御借上(ハンチオカリアゲ)と
称して、お給料半分しかもらっていないおサムライさんは珍しくありません。
しかも、返してくれることはまずありません。(涙)
576 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 01:26:15 ID:Pv4WrB0N
>>575 最大の要因は内外情勢の緊迫化で諸藩が米を大坂に回さなくなったから大坂基準の米価に反映された。
実際には幕末でも豊作だった年はあったが、全く値段の低下をもたらさなかった。
577 :
名無し三等兵:2007/12/31(月) 03:05:47 ID:AumjJDuz
>>573 でも、実際問題、楽なお仕事じゃなさそうですよ。戦国大名。
いつ家族や家来に寝首掻かれるかわかんないしw
戦争で必ず勝てるわけでもなく=必ず戦費を上回る収入があるわけでもなし。
泰平のお大名も、生活水準と物価が上がり、幕府からの命令ですごい金額の
無償奉仕をさせられ、交際費もかかるんですから。
そして、どちらも1度不作が起これば、収入は・・・
よほど鉱山や特産品の販売権益を持っているか、うまく商工業者から薄く広く
税金を取り立てないと・・・
ちなみに幕藩体制下では、主な金山銀山は幕府の支配下でしたね。
578 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 04:09:38 ID:b53WJvyX
うろ覚えだけど、肥後の細川さんちでは
「税を増やすと一揆が起こって家をつぶしかねないが、商人からの借金は踏み倒しても家はつぶれん」
とか何とか言ってたような…・・・
579 :
名無し三等兵:2007/12/31(月) 04:25:55 ID:AumjJDuz
1回踏み倒すと、次から貸してくれる人はいないですよw
580 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 07:06:53 ID:UtKjH1B9
>>579 一般藩士や旗本、御家人の場合はね。
幕府が何回か旗本や御家人の借金を棒引きするように布告したら、次からは、なかなか貸してもらえなくなったりw
というか、その一件でかなりの札差が潰れたり、首が回らなくなったりしている。
だけど、藩に対しては”貸さない”というわけには行かなかった模様。
何をするにしても藩の許可が必要だったし、
目をつけられて家財没収されたりとかしかねないし(没収された財産は藩のものになる)
当時の商人の立場はとても弱かったのよ。
581 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 10:13:38 ID:l+BQMeRF
戦国時代の鎧や槍や馬など武具っていくらしたの?
582 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 11:48:31 ID:SKfi7hBh
>>575 30石というと下級武士だから手取り30石だな。
583 :
名無し三等兵:2007/12/31(月) 12:49:20 ID:AumjJDuz
>>582 TVでは表現しにくいんですけどね。
武士の給料は知行という土地で渡されるのが原則です。
「大名」という単語の起源は、自分の名をつけた(或いは自分の名義の)田んぼを
たくさん(=大規模に)持っている武士ということで大名ということです。
下級の武士だと(それどころか、江戸中期以降は藩財政の安定や管理の手間をも
考えて)藩=大名の直轄地(蔵入地)から玄米(現米ともいいます)で渡すんです。
したがって、現米30石という表現をしていない限り、知行(もしくは知行相当分)は
30石で、そこに一定の年貢率を掛けた形で支給されるわけで・・・
たとえば、江戸の町奉行所の与力は200石です。
不思議なことに、世襲制にも関わらず、彼らは個々人の知行所を持っていません。
南北五十騎分を・・・馬上の格式を持つ与力は1騎、2騎と数えるのが作法です・・・まとめて
玄米が1万石取れるとみなされた土地を一括して「与力分」として渡されています。
時期により、全員200石ずつのこともあれば、古い順・身分の上下の順に少しずつ
多く分けたり少なく分けたりしていますけどね。
そこで、4公6民でサラリーをもらうと玄米(現米)80石になりますよね?
同格の大阪町奉行所の与力は現米80石です。
こちらも同様に知行地として渡されていたのですが、面倒だったのか、それとも
不作が続いたりして安定してサラリーが欲しかったのかは知りませんが、幕府の
蔵屋敷から(もちろん札差経由ですが)80石の現米渡しに切り替えてもらった
そうです。
このあたり、十分気をつけないといけません、
584 :
名無し三等兵:2007/12/31(月) 14:08:48 ID:AumjJDuz
小田原の北条社株式会社は比較的管理体制のしっかりした会社です。
(お給料に)貫高制度を取り入れていることで有名ですね。
田=500文/反、畑=165文/反という、非常にすっきりした安堵状という給料明細が
本社の社長さんから部下(或いは子会社)に渡されています。
田や畑の収穫は一律ではないんですが、これが1番無難なレベルだったんでしょうね。
江戸時代になってからですが、平均すると1反からは籾(モミ)状態にして3石取れ、
これを脱穀すると嵩は半分になって1石5斗の玄米になります。
これを「上田」(ジョウデン)と分類・呼称しています。
正確にはそれまでは(地域によりばらつきがありますが)6尺四方=1歩、360歩=1反。
江戸時代の1反は6尺3寸四方で1歩・300歩で1反です。
面積は少し小さいですが、農具や灌漑設備の向上を考えると誤差の範疇です。
まあ、そういうものもひっくるめて田んぼ1反は500文です。
さて、北条社でも他社同様に、生計を立てる権利(御恩)をもらっているみなさんに対して
義務の履行(奉公)を求めてきます。いつでも、どこでも、只でお給料はもらえません。
その中で、もっとも重要なのが軍役なのはいずこも同じです。
だって、どこの会社も農地の管理≒戦争(警備)を主たる業務としているわけですから。
町の用心棒代やらみかじめ料(?)徴収の業務もありますけどねw
そんなこんなで、北条社さんでは7〜10貫につき1人の割合で出陣するように
「着到状」という召集令状或いは出荷手配書が出されます。
どこの会社も同じですが、北条社でも高額のサラリーの人はあまりいません。
70貫とか20貫とかの人が大半です。
ここで30貫のサラリーをもらっている山田太郎兵衛さんがいるとしましょう。
人によってばらつきはありますが、山田さんには概ね馬1匹・槍1本・旗1本程度の
着到状が本社から届くはずです。普通、馬には山田さんが乗ります。
江戸時代式だと30貫=田60反=90石。5公5民で手取は45石です。
*当時の南関東はあまり米作に適したところではなかったようなので、上田と
仮定するのは酷かなという気がします。最低でも2割くらいは割り引いて計算する
必要があるかもしれません。(汗)
これで家族を養い、馬を飼い、家来を2人引き連れて出陣するのはけっこう大変でしょうね。
家来も怪我や病気になる場合に備え、もう1人か2人の予備がいた方がいいでしょうね。
戦場で手柄を立てるには頭数が多いに越したことはありませんし、余計に家来を連れていくと
上司も高く評価してくれますし、多い分の食料は無償で提供されるのも普通です。
どのみち、人間が生きていくためにはご飯食べなきゃいけないんですが、田植えや稲刈りの他は、
せいぜい盆と正月くらいしか白米は食べれません。平素は野菜や雑穀メインの雑炊を主食です。
しかし、戦陣では手っ取り早い調理と栄養の補給、そして士気の高揚のために米を食べ、それも
白米だったりするので厳しい負担が山田さんの財布(or米びつ)を直撃します。
馬だって、鎧兜をつけた山田さんを載せて歩く訳ですから、日常よりお腹空かせますよね。
自前の食料をほとんど持たずに収奪や分捕りを専らとする上杉さんの会社みたいな無茶を北条社は
あまりしません・・・注:全くしないとは言ってません(笑)
それでも遠征はけっこうあります。武田物産と喧嘩したり、佐野組に殴り込んだり。
遠征が長期になると本社はお米を貸してくれたり(利息取られます)、無償で支給してくれることも
ありますが、あくまで基本は自腹です。
「私は朝夕2食の塩粥で辛抱してますから、どうかお手柄を立てて、お給料を増やして下さい。」と
言って見送ってくれた古女房に、「この前に小袖を買ってあげたのはいつだっけ?」と佐野組へ向かう
馬の上で山田さんは考え込んでいます。家来たちは今日も白米が食べられるとニコニコしていますが・・・
585 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 16:34:49 ID:eEIyzFVE
なるほどなぁ。
しかし外征の時なら相当な物資量だろうな。
一石=1000合だから、三百〜四百人の一日分。
三万の軍勢が百日出陣で兵糧一万石か。
一石=約150キロ(石、斗、升、合というのは体積単位だから一概に言えないけど)で一万石=150トン!(笑)
まぁいっぺんに運んだはずないし、大なり小なり現地調達もしていただろう。しかし大型トラックで15台分だからな(笑)戦国時代の戦争というのはとんでもない一大イベントだな。
殿様「そうだ。京都へ行こう!おめーら、全員米運びな!」
軍勢「まじすか?(・ω・`)」
三万の軍勢なら進軍のたびに水の確保も大変。
百姓「一塊で襲来されたら村の井戸が枯れちまうべさ!あんたらイナゴかっ!」
殿様「あ、悪りぃ(笑)おめーら、くっつくな!離れて進軍しろ!」
つーことで、敵勢と遭遇する頃には三万の軍勢を率いたはずの殿様の回りに、千人足らずの兵しか居ませんでしたとさ(笑)
586 :
582:2007/12/31(月) 17:10:57 ID:eIC4MYmp
>>583 熱く語ってくれて申し訳ないんだが、江戸時代は知行制は上級武士まで。
中・下級武士は額面丸々貰っているってことを言いたかっただけ。
(中級は俵単位だが)
587 :
名無し三等兵:2007/12/31(月) 18:05:57 ID:AumjJDuz
>>585 1石=10斗=100升=1000合
1人1日あたりの兵糧は滝川常務の部隊は5合だったという説があり、
明智常務のところでは8合だったという説があります。
また1日6合宛の配給だったというところもあるようです。
時代や武将によって異なるんでしょうが・・・
お米はたくさん渡すと、バクチの形(カタ)にする香具師や酒を造る香具師が
たくさん出てくるので、1度にたくさん渡してはいけないそうです。(笑)
普段は1日2食ですが、こういうときは3食とか4食です。
朝はお昼の分も併せて炊き、夕方は夜食の分も併せて焚くそうです。
もっとも、戦闘になったりすると食べる暇も炊く暇もないのでお預け・・・
忙しいときなどは干し飯(ホシイイ)なんかをポリポリかじりながら行軍。
仮に配給が1番多いと思われる明智常務の軍勢10000人が活動すると毎日
80石ものお米(それもうっかりすると白米)が消費されます。3ケ月だと7200石。
他に味噌や塩、魚の干物なども用意しなければいけません。
原則、各人が持ち寄るのですが、我が身ひとつでで出陣する軽輩だと、そうそう
たくさん兵糧は持てませんよね。身動きが取れませんから。
お米とかお味噌とか貸してくれたんですかねぇ。
以前、どこかの武将の家で、米が無かった場合には貸してくれるが、帰ってから
利息をつけて返さなければいけない(お給料と相殺するんでしょうか)という話を
読んだ記憶がかすかに残っています。
万が一、長丁場になった場合は、主君や大身の武将が無償で支給してくれていた
のでしょうか?
いい資料をお持ちの方、教えて下さい。
588 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 18:54:35 ID:Ah9qS8nW
小田原攻めのときの秀吉の軍資金&米というのは、どういう性質のものだったの?
皆に配ったわけ?
589 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 20:58:48 ID:eEIyzFVE
>>587 一万石で150トンだよ。そんなに食ってたら手弁当なんて一週間十日が限度だろうよ(笑)
補給線を確保して組織的に運搬せにゃ無理だと思うな。したがって織田は別として戦国期の戦で隣国に攻める時は兵の五割〜八割くらいが兵糧運搬に従事してたんじゃないかな。実際は。
だからもう、飯を食うために米を運び続けるというありえない状況(笑)
運搬つったて結局そいつらが食うんだからね(笑)敵と遭遇すると仕方なく石投げなんかで応戦、危なくなったら逃走と(笑)
で、屈強な奴とか禄を得ている家臣たち、プロの殺人集団は実際の戦の主力だから運ばない(笑)
というのが俺の妄想的予想。
590 :
名無し三等兵:2007/12/31(月) 21:51:03 ID:AumjJDuz
>>589 そうなんですよねぇ。
軍勢の大部分は食料やらご主人さまの荷物を運ぶ中間・小者&農村から
徴発されてきた陣夫(ジンプ)と呼ばれる面々です。
そして589さんの仰るとおり、彼らもしっかりと飯を食います(笑)
平素と違って、米のご飯をお腹一杯食べさせてもらえる機会ですから。
鍛え抜かれた戦士は自分の体重の1/3の荷物を身に着けて行動できると
言われていますが、たくさんの兵糧を担いでいては戦(イクサ)にならず・・・
やっぱり主君なり部隊長が有償或いは無償で支給したんでしょうねぇ。
うまく近くで買えればいいんでしょうけど、毎回毎回上手く手に入るとは
思えませんし、足元見られて高値で売りつけられます。
上杉軍が越冬を兼ねて、近隣で略奪行為に走った気持ちもなんとなく・・・
591 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 23:43:13 ID:qdefN4sX
>>586 そういう時は
”30石というと蔵米取りなら30俵だな。”
と書くと誤解されずにすむ。
1石=2.5俵だから30石=75俵
四公六民ならば手取り30俵ということになる。
キムタクは江戸町奉行所の同心(足軽)より劣る収入ということになる。
よく言われることだけど
200石取り(知行)の旗本と200俵取り(蔵米)の御家人は収入面では同じ、ということになる。
592 :
名無し三等兵:2008/01/01(火) 06:33:12 ID:FJx3gkKr
>>591 藤沢さんの小説に出てくる「海坂藩」は架空の東北の小藩。
海坂藩シリースでは複数の話があるけど、どれも設定は概ね同じ。
藤沢さんの出身地、出羽庄内のお殿様 酒井左衛門尉さんのところでは
ないんですよ。 あくまでも架空の東北の小藩。
300石前後の登場人物は上士身分という雰囲気があるから5万石前後だろうね。
そんなわけで数十石の下級侍が大半。
20石でも足軽じゃなくって、お目見えのできない下級層だけど藩士身分。
武士の社会では知行所を持ってる>>||超えられない壁||>>米・金支給。
実際には藩が大昔に直轄地に組み入れてしまい、個々人の明確な知行所を
持ってなくても、30石取を30俵取と言われては、彼らの面子に関わる。
もしくは先祖乃至本人が新規に召抱えられた時点で、そういう制度になって
しまっていても、やはり面子を重んじる彼らのためには20石の扱いをする。
だから、たぶん足軽はもっと下。10俵とかそれ未満の階層だろうね。
加賀百万石の前田家には5万石とか3万石のご家老さんがおり、
播州浅野家5万石で城代家老を勤めた大石蔵之助は1500石。
1万石の三宅藩だと渡辺崋山は100石そこそこでも上士どころか家老職。
ところが、徳川将軍さまは、旗本の知行所を合わせると800万石の大大名。
そんなわけで200俵でも、お目見えできないお侍さんがゴロゴロいます。
町奉行所の与力はもちろん、他の諸組与力は200石(=200俵)でもお目見え以下。
100俵10人扶持でも、お小十人組の番士はお目見えできますけどねw
そして、町奉行所同心に限らず、幕府の諸組同心の標準給与は
30俵2人扶持=年収40俵。中には20俵2人扶持=30俵の同心だっている。
小人目付なんかだと15俵1人扶持=年収20俵。
2万数千名いる幕府の直参の大半が50俵未満。
もちろん、彼らはお目見えなんかできない。
諸藩で言うところの下士ではなく、卒=足軽身分とどっこいどっこい。
だから、25石=25俵のキムタク殿は足軽ではなく、
下士だけど間違いなく藩士身分。
貧乏していても、サムライでござる。
だから、「武士の一分」の自負があっても全くおかしくないわけw
593 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 09:40:15 ID:HbKEbGjy
>>559 こちらのHPによると
tp://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J004.htm
夫婦二人に子供一人の中流農家(江戸後期)
田1町と畑5反
馬などの耕作用の家畜は飼っていないようなので、すべて人力。
日雇いの費用が支出にあるので、
一人当たり5反〜10反くらい?
594 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 09:57:36 ID:8F0bU2IS
足軽に配る兵糧については、現物と現金が半々。その物資も殆どは現地での購入。
大名自身の軍勢が自力で持ち運びできる兵糧は足軽自身が持つ分を含めて、10日
程度が限界。
それ以後は外部よりの補給に頼るしかないが、傭船による外地からの補給は海・河川
の周辺でないと不可能なので、自然現地調達(収奪・買い上げは状況による)に依存する。
595 :
名無し三等兵:2008/01/01(火) 13:55:19 ID:FJx3gkKr
そうだろうなぁ。
どう考えても当時の輸送能力では兵站が維持できない。
よほどうまく海や川が近くにあって、舟が使えなきゃ・・・
いまでも1番安く大量の品物を運べるのは船便だし。
その意味では遠征をやった場合は、地元で買わなきゃねぇ。
太閤さんとその幕僚団は小田原攻めでとんでもない量の物資を(徳川領内に)事前集積。
徳川勢も自分の分を用意しはじめた時、「太閤さんがそれだけ集めてくれてれば、別に
我々が必死になって集めなくても、近くでいる分だけ買った方が早くて楽ですぜw」と
進言して、そのちゃっかりぶりで周囲をうならせたのが伊奈忠次@秀才官僚。
後の関東郡代伊奈家はこの人の一族。
基本的にそれなり以上に身代が大きいか、何かサイドビジネスでもやってないとなぁ。
平素は徹底的に切り詰めて、コツコツとやってるだけではお金も溜まらないだろうし。
近隣の村同士が1日2日の小競り合いでカタがついちゃう時代ではなくなってるし。
いい家来を雇うためにも、お金や領地はいくらあっても邪魔にならないもんなぁ。
いくら作家とはいうものの、司馬さんは、「織田家では各人の領地を信長の代官が
一括して管理していた」なんていうストーリーを作るんだろう?
小説なのである程度は創作が必要なのは理解できるけど、その当時の武士にそんな
効率一点張りの無愛想なこと言ったら、まともな武士は織田家からいなくなっちゃう。
596 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 14:24:10 ID:lGs335yA
>>595 >>いくら作家とはいうものの、司馬さんは……
はい、それ後世の人間の好き勝手ね。
司馬遼太郎の時代はネットもなかったし、大学図書館の解放も進んでなかった。
文章の内容など誰もチェックしないし、司馬以外の作家なんて創作もいいとこ。
だけど、「資料を集め始めると大坂の古書店からそのジャンルのものが全部なくなった」と
言われる司馬が今でも歴史作家として取り沙汰されるのは
当時の歴史作家のレベルを超えて史料を使っていて、
それが(日本軍嫌いなところをサヨクに利用されたことも差っぴいても)
昭和中盤に世間に大いに評価され、歴史作家の地位を向上させ、
結果、現在の歴史作家を育てたこと。
お前さんのいうことは、
「キャプテン翼見てサッカーはじめて、Jリーグ発足まで盛り上がった選手世代」がいなくなった後、
「キャプテン翼って痛いよねpgr」と笑う茶髪Jリーガーみたいなもん。
つまり、おまえさんも茶髪Jリーガーも高橋陽一も司馬遼太郎も全部すごく痛いwww
597 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 14:45:05 ID:4uF5uvId
598 :
名無し三等兵:2008/01/01(火) 15:00:23 ID:FJx3gkKr
>>596 オマイか?
戦国板で毎回毎回絡んでくるのはw
599 :
名無し三等兵:2008/01/01(火) 15:22:40 ID:FJx3gkKr
>>597 足軽とかだと年俸3両そこそこ。
あと1人扶持(1日玄米5合支給)がつく。
1人扶持は1年で概ね1石8斗を現物支給される。(閏年とかは別ですな)
江戸のお旗本なんかに奉公してると、塩や味噌を支給してくれる家もある。
官舎の足軽長屋は無償で貸してくれるのが普通。修繕は自前かもしれん。
職種によっては制服を貸与されることもある。
衣食住の支給・貸与は原則としてここまで。
小さな自家菜園で少しでも食卓を飾り、あとはお決まりの内職。
しっかり働けば抜擢してくれる可能性のある勘定方とか目付方で勤務できれば
まだしも、警備専門職の番方だと厳しいだろう。
もっとも警備職は比較的暇だから内職の時間はあるが。
5反の田んぼで1石5斗取れれば、5公5民の年貢で3石8斗ほど取られる。
他に小物成(追加税)をいろいろと・・・(藩によって異なる)
裏作で麦を作ることができて、こちらを主食にすれば米も多少は残る。
幕府の天領だと、そこそこ残るような気がする。
あとの収入は日雇いとか、野菜作って売ることくらいかなぁ。
不作さえ起こらなければ、足軽とどっこいどっこい。
下手すると自前の経費がかかる足軽よりも多少いい暮らしかも。
600 :
名無し三等兵:2008/01/01(火) 15:55:49 ID:FJx3gkKr
おっと、1反で1石5斗取れればってのが抜けてたw
それで、5反だと7石5斗だな。
さて、戦国に戻るとしますw
貿易と瀬戸内海の通行料というドル箱を抱えていた大内さんなんかだと、そこそこ
貯まってたんでしょうなぁ。
土豪が自分の領地を通る道に関所を設けた理由もよ〜く理解できますね。
都市を押さえることによる収益は有名ですが、城下に町を作れば物資の集積が有利に
なるという効果もありますよね。
もっとも、安全でないと商人も職人も集まってきてくれません。
税金(労役含む)もごくごく安くするか、無税にしてやる必要がありますね。
そこで信長は岐阜や安土では商・工・運送業者に極めて寛大な取扱をするわけですが、
そうなってくると厳しい農村での生活を嫌った農民が町に逃げてきます。
信長はあまり取り締まった形跡がないのですが、部下である秀吉はなかなか。
長浜城主時代、秀吉の領内から農民が町に出てきて住みつくことを厳禁しています。
年貢や陣夫役をかける農民がいなくなれば、収入が減ると同時に陣夫を確保できなきゃ、
軍事行動にも支障をきたしますからね。せっかくの領地を荒らすと信長様に叱られるし。
古くは律令体制下、租は3%程度だったそうですが、調は都まで納入しなきゃいけないし
年間60日も無料で使われる庸や防人などの兵役の負担で生計が立たなくなることが逃散の
1番大きな原因。ふと気がつけば公地公民という律令体制や朝廷≒公家の支配体制も崩壊w
逃げた下人の引渡しを要求する旧所有者と新しく抱えた新所有者の間の揉め事も
律令体制崩壊後は、戦国どころか江戸時代まで続いた、ごくよくある話。
601 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 16:13:29 ID:2I+2TOjm
>>595 いやぁ、地元で買ってるイメージがつかめない(笑)ましてや数万規模の軍事行動では。
一万石=150トンだよ。なにしろ(笑)運ぶのも大変だけど、地元つっても敵地だし。もちろんヤクザみたいな連中が金もらっていろいろ現地コーディネートをやったんだろうけど、それでも俺は150トンを調達するイメージできない(笑)
それこそ俺が前書いたみたく、三万で出陣したけどいざ戦の時には殿様の回りに千人足らずしかいないみたい感じしか(笑)
戦国時代の大規模衝突ってイメージできない。結局地域対抗の祝祭性の強いイベントであって、頭数揃えて示威行動はするけど本気になって戦うのは禄を安堵されてるプロだけみたいなイメージしか湧かないの。
雑兵はひたすら米を運んで米を食う役目(笑)でもお祭りだから盛り上げてくれる群衆性って大事だからね。
しかし口減らしという意味合いもあっただろうから、たまに突撃させられる。でもほとんど逃げる的な(笑)
戦争というのはいつの時代も最終経済なんだなぁと思うよ。
602 :
名無し三等兵:2008/01/01(火) 16:34:57 ID:FJx3gkKr
>>601 だから上杉流の現地調達=収奪・略奪・強奪w
そもそも、味方の領内では略奪しちゃダメだという陣触れが
いろんな大名から出されている時点で・・・orz
大量の米や味噌の食料を調達して現地販売するとともに、所要地点までの
輸送業務も引き受けて、盗賊や敵性組織からの略奪を防ぐ為の警備業務。
ああ、これだけのことができる組織があれば、とっくに天下取ってるわなw
603 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 23:23:13 ID:100n69pz
>>601 なんで1万石も運ばないといけないの?
1人1石は1年分の食料でしょ。
1ヶ月戦うとして、
1万の人間に必要な食料は、10000/12 = 833石
833石=12.5t。
604 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 23:37:28 ID:4uF5uvId
あのー、米一石は150kgなんですけど…。
米千石で150tonでは?
605 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 06:59:45 ID:g/1kMJJY
兵一人につき一日5〜6合配給だから
30日*1万人*5合=1500石じゃな。
陸路で全部運ぶとなると、単純計算だと馬1頭で2俵運べるから…
馬2000頭と同数の人足がいれば運べなくもない……うーんw
銭を持っていって現地で購入するほうが安くつきそうな予感。
土地で備蓄食料を多く抱えてるのは第一に商人だからなぁ。
武士にしても農民にしても、自分が食べる分以外は換金するんで
その分を商人が抱えているわけで。
606 :
名無し三等兵:2008/01/02(水) 09:37:25 ID:2ZfwexRE
米1石=10斗=100升=1000合=150kg=150g/合×1000合。
戦陣・行軍では最低でも1日5合(750g)は食べさせなきゃいけません。
だから、1万人で50石/日=7500kg/日=7.5d/日も飯を食っちゃうんですよ。
仮に5斗入りの俵だとして、1匹の馬が2俵=1石運んでも50匹。
1ケ月分の米運ぶと1500匹の馬が必要ですね。
俗に鯨飲馬食と申しますが、お馬さんにもご飯食べさせなきゃ。
人間様だけ白米食べて、馬は草でも食ってろとは言えんでしょ。
天下泰平の江戸時代、定火消与力は1日に3升の大豆を馬の餌用に支給されました。
有事に過酷な労働に従事してもらう馬にも同じ量を食べさせてあげますと、
3升/馬/日×1500匹分/日で300石/日。
あらら、馬1500匹の餌を運ぶ馬だけで別に300匹/日もの馬が必要になりました。
30日分だと9000匹。食料運ぶ馬の他に、武将や武者を乗せる馬もいますね。
かくして馬の餌を運ぶ馬がまた必要になり(ry
なんとかたくさん運ぶために大八車使ってでも運びたいところですが、山道だと
それも無理ですね。
う〜ん、総勢1万人でも道路条件が悪い地域だと数日分の糧秣を運ぶのが精一杯ですね。
あと、大将やその幕僚としては飲み水や炊事用の水の確保も必要です。
最後に。人や馬が飲み食いすれば、当然、出(以下自粛)
607 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 10:30:32 ID:ZDtUIdk8
>>601 そこはそれ、禁制やる替わりに兵糧・金銭を供出させる仕組み
商人も結構、敵味方関係なく出入りしているものも多数いる
結構、商人と言うのは中立と言う立場を維持できるようである
608 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 12:46:32 ID:1utpROwi
今の為替制度と似たようなシステムを開発していた大名もいたみたいだね。
本拠地城下で米を売却し倉荷証券のようなものを受け取り、現地でそれを現物米に換える。
荷駄隊の負担を軽くするために考えたものだが、同時に商人間の流通ネットワークの発達にも多大な貢献をしている。
おそらく世界最初の例だろう。
609 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 13:36:56 ID:Daj1m+oM
ごめん。一石=150キロとごっちゃになってたな(汗)
えー、そんな便利なシステムがあったの?江戸時代ならともかく戦国時代ではちょっと信じられない。まず量(一ヶ月分ならウン百トンでしょ、結局)から見ても、貨幣制度も満足じゃない時代にそんな商取引ができる連中が居たなんて。。
まず戦国大名の大動員の具体例でやってみたらいいと思う。信玄の西上作戦とか。あれは資料ないのか…。
おれは補給線を確保しつつ定期的に運ぶ以外にないと思う。もちろん現地調達(商取引、略奪も含む)があったにせよね。
つまり三万動員できても三万が前線に立てたとは思えない。国内で取り纏めて国境まで運ぶ兵(国内守備兵)と敵領を護送する兵(これは侵攻軍が兵力を割いてやっていた)が居て、兵站をやっていたと思うんだけどな。
610 :
名無し三等兵:2008/01/02(水) 15:30:19 ID:kpzgVg/9
>>608 >>609 戦国大名が営んでいたかどうかはともかく、日本には為替システムは案外早い時期から
存在していたようですよ。
ただ、兵糧を運ぶ為に相当な数の陣夫とその護衛兵がいたのは事実。
これは近代軍でも同じです。
輸送手段が車輌になったので、一見効率は上がっていますが、その代償として
車輌(特に戦車や装甲車は)とんでもない量の燃料を必要とします。
火器の進歩で消費弾薬の量もとんでもない量になってますよね。
かくして戦闘部隊を支える支援部隊は永遠に(ry
米軍の場合ですとM1戦車60両を保有する戦車大隊の定員は約600名。
1両には4名乗ってますので、(迫撃砲小隊とか通信小隊なんかもいますが)戦闘員1名を
後ろから1.5人の人が支えています。
この1.5人の他に、師団の後方支援旅団や、軍団以上の兵站部門は含まれていません。
戦車大隊が自前で運べる燃料や弾薬の量なんぞ知れてますからね。
611 :
名無し三等兵:2008/01/02(水) 18:52:20 ID:kpzgVg/9
基本的に堺や大津や草津のような大規模な商業都市からは、どのような形で
税金取り立てたのだろう?
津島とか、熱田のようなところから、相当な金が少なくとも信秀時代から
織田家の財布に入っていたが。
略奪や乱暴狼藉、押し買いを禁止する制札のようなもので、見返りの献金を
商業都市に要求したのかな?
それとも街の有力者たちが金を集めて上納する代わりに、彼らの権益を含めた
保証を権力者に求めてきたのかも知れんが。
信長が堺に矢銭を2万貫課したというのは有名だけどね・・・
612 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 20:20:27 ID:mOKMmXS1
>>608 >為替システム
じつは紀元前に中東地域ですでに使われていたり。
世界で最初の都市・交易文明圏だし
日本の為替制度は室町時代には存在している
//
年貢米の管理も大方商人がやっていて、輸送代や関税、保管料などの必要経費と手数料を
差し引いた残りのものを領主に収めるという方法が一般的だった模様
長距離輸送も、兵糧米の輸送ぐらいしかないよ。
鎌倉時代の頃のデータだけど
陸路を敦賀〜近江琵琶湖北岸までの山越え駄賃が1石につき米2斗
琵琶湖を舟で渡って大津に陸揚げし、大津〜京都までの車賃が1石につき米1斗
の手間賃を取られた。
すさまじい手間とコストがかかるので、遠くの土地からの年貢は銭や高級物資で代納していた模様
船便だと琵琶湖北岸〜大津間、1石につき米4升8合。
613 :
名無し三等兵:2008/01/02(水) 21:37:04 ID:kpzgVg/9
>>612 いくら海賊衆に津料払いたくないからって、大型輸送船どころか、エンジンも海図も
六分儀もない時代は陸地が見えないような沖合いを航行する訳にもいかんですしねぇ。
京都では米が高かったのは、そういう運賃&とてつもない数の関所を通る度に関銭を
むしりとられて通行税がかさんだからでしょうなぁ。
これに、座による価格統制&座への上納金も加算すると(汗
談合とか闇カルテルとかそんなレベルじゃないですねw
614 :
名無し三等兵:2008/01/02(水) 21:44:35 ID:kpzgVg/9
おっと、待てよ。
運賃と通行料でそんなに取られていたら、よほど飢饉とかで相場が高くならなきゃ、
商人が武士から買う米の値段はすごく安かったんでしょうねぇ。
彼らも食べていく以上、利潤の追求をしなきゃいかんのだから。
生産者米価と消費者米価の差額って、半値くらいなのかな?
まさか半値八掛け二割引き(32%)くらいとか?
615 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 01:21:26 ID:EZwOXrWC
武田と北条しか収税システムを知らないから全国的にどうかは知らないが、
銭納が基本、つまり米や野菜などの換金は農民側の負担。
ただ大規模な天災飢饉や選銭問題から全て精銭で揃えることは困難だったようで、
北条は一定の割合でびた銭の混入・物納を認めている。
そういう時でも容赦なく取り立てる所は、やはり武田。
616 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 01:22:26 ID:EZwOXrWC
×収税システムを知らないから
○収税システムしか知らないから
多少の誤字は無視するけど、真逆になるから修正。
お目汚し失礼。
617 :
名無し三等兵:2008/01/03(木) 09:23:03 ID:qv2gWdto
運賃も通行料も、どこからどこへ持って行くかでずいぶん変わりますねぇw
米も西国では比較的安く、東国では高かったそうですが、少なくとも当時の
関東平野は米作にはあまり適した土地じゃなかったみたいですね。
東北とかだと厳しい寒さもあって、不作も起こりやすいから。
平野部や大きな盆地に大規模な灌漑施設や河川の氾濫を防ぐ堤防なんかを
造れるようにしなきゃ、せっかくの川の水も却って農耕の妨げになるから。
武田は農民を酷使して(どう考えても労賃を支払うタイプには見えんです)、
信玄堤とかこしらえさせたようですが、そういう大規模土木工事は、強大な
国内統治権力無しにはできないですから・・・
上杉さんはそういうの苦手みたいですしw
618 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 09:54:54 ID:AqPsWSIV
西国の米が安かったのは、瀬戸内の海運が発達していたからじゃな。
陸路だと運んだ分の3〜4割が輸送費や関税で目減りするのに対して
海路だと1割以下で抑えられる。
兵庫関で船1隻に付100文ほどの関税だったという話しだし。(1440年代)
室町の頃には千石船が行き来してたという話だから、
関税の面でも海路はものすごく安くつくということで
619 :
名無し三等兵:2008/01/03(木) 10:02:03 ID:qv2gWdto
瀬戸内なら海賊に襲われなきゃ、割と安全ですよね。
関銭が安ければ、案内料+用心棒代と考えてもいいかもしれませんね。
難破する確率は陸路で山賊に襲われる確率より低いかもw
620 :
人間七七四年:2008/01/07(月) 13:48:20 ID:vI4ZvpRf
戦国や江戸期の御家経営事情を語った本でお勧めはありますか?
621 :
人間七七四年:2008/01/22(火) 15:22:16 ID:RbCXyuTK
622 :
人間七七四年:2008/01/27(日) 23:41:32 ID:8zofAuq4
流れぶった切ってスマンが・・。
信長の領国支配(収税)システムって不明なのか。よく「安土を楽市楽座にした」とか「流通からの税収を重視した」とか書かれてるけど、米とかの年貢はどうなってたんだ?
北条はその全貌が明らかになってるらしいけど。
誰か教えてたもれ
623 :
人間七七四年:2008/01/28(月) 00:19:12 ID:Bu9skKLd
そればっかりは、新発見がないことには。
624 :
人間七七四年:2008/01/28(月) 09:57:18 ID:kfGmQgvv
625 :
人間七七四年:2008/01/28(月) 22:43:21 ID:JiwLqgwk
>>624 どこが直轄領で、そこからどういう年貢を取っていたのかとか。
特に上洛後忘れられたかのような本国の尾張・美濃の土地支配について知りたい。
『織豊政権と江戸幕府』って本で、「畿内近国では石高制で、本国の尾張・美濃では貫高制を採っていた」って書いてあったけど、ある程度史料はあるんじゃないの?
626 :
名無し三等兵:2008/01/29(火) 01:34:10 ID:It0IR0ms
>625
直轄領と知行地の区分と言っても、けっこう所有者は変わるんじゃないかな?
例えば佐久間さんやら安藤さんみたいに知行を没収された連中の土地を信長の
直轄領に編入することもあれば、良く働いた侍に恩賞として渡すこともある。
実際問題、国や群レベルどころか各村々の中でも直轄領と知行地は入り混じってる。
例えば「この田は信長様の直轄領」、「その隣の畑は○○様の知行地」で、
「向かいの田は××寺の寺領」とか、そういう感じに。
627 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 22:56:21 ID:Pity1A8P
『愛知県の歴史』に「尾張は信長時代も重臣達の所領がひしめきあい、旧来の土地制度が根強く残っていた。それが清算されたのが信雄時代の検地」て書いてあったな。
とすると、そういうしがらみを一々解くのは時間がかかるから、信長は流通や商業からの収入を重視したってことだろうか?
628 :
名無し三等兵:2008/01/30(水) 08:24:13 ID:0ilque3Y
>>627 武家の財政はいつの時代でも基本的には田畑から得られる年貢収入がメイン。
1枚の田んぼに地頭職(じとうしき)・名主職(みょうしゅしき)・作職(さくしき)
などという権利が複数介在。
実際の耕作者と領主の間に中間搾取する階層がたくさんいたわけですよ。
もちろん、地頭が名主職などをも併せて保有していることもありますが。
でも、棟別銭とか、段銭はどこの戦国大名も領内一律に課してますよね?
流通や商業からの課税重視はどこの戦国大名もやってますよ。
ただ、過酷に取り過ぎると必要な物資の調達に困難をきたしちゃいます。
商人は課税された分はちゃんと商品価格に上乗せしますw
それに、極めて陰湿且つ強欲な公家や坊主が後ろに控えている「座」という
実にヤバイ勢力が商品の生産や流通を牛耳っていますから流通が止まります。
京都周辺七ケ所の「関所」なんか(名目上は)皇室が権利者でしたから。
この「座」とか、京都周辺の「関所」を完全に撤廃できたのは、太閤さんが関白に
就任することで、公家や寺社に対しても名実共に圧倒的な権威と権力を振るうことが
できるようになってからです。
信長も見かけによらず地味にコツコツとお金貯めてますよ。
629 :
人間七七四年:2008/01/30(水) 21:46:45 ID:kVvLYXYU
age
630 :
人間七七四年:2008/02/09(土) 21:10:16 ID:zB73pFRN
脇田修『織田政権の基礎構造』(1975年刊)という本がかなり詳しく信長の経済基盤を説明してたけど、以後にこれを超えるような新発見は無かったのかな?
631 :
人間七七四年:2008/02/21(木) 14:44:20 ID:876m97DH
>>628 信長が貯めたのは銭なんですかね?
甲州金ではないですよね。
632 :
名無し三等兵:2008/02/22(金) 20:10:07 ID:LljC2gAg
>>631 金銀についての1次資料を読んだことないんですが、少なくとも銭は
しこたま持っていたようですよ。
もっともあの当時・・・宋や民の銭を国内で使っていた上に、民からの
銅貨の輸入が途絶えはじめた時期なので日本では良質の貨幣不足・・・
のことなので、精銭ばかりじゃなかったようですがw
633 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 13:45:35 ID:SRlkY81p
なるほどありがとうございます。
634 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 06:21:41 ID:g476qN2N
>>632 民じゃなく明な。
永楽通宝は明永楽帝時代かえあ鋳造された銭。
宋の銭はさすがにないだろう。
信長の時ではすでに400年の古銭になってるよ。
あってもびた銭扱いだろうけど。
635 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 14:52:06 ID:PGtgW1rD
東と西では精銭・びた銭の種類が違った模様。
件の永楽通宝は北条領内では精銭扱いだし。
636 :
名無し三等兵:2008/02/27(水) 22:59:50 ID:nLYZg4PL
>>635 製造元の支那に近い・商工業が発達している・大商人が多いなど
貨幣の入手・流通については必然的に西日本の方が有利でしょう。
江戸後期になっても経済力に関しては西日本>東日本だったから・・・
637 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 14:45:05 ID:Fe+Cp46/
>江戸後期になっても経済力に関しては西日本>東日本だったから・・・
天下の台所ですな。
638 :
人間七七四年:2008/03/27(木) 15:03:48 ID:Qvnmyz05
銭の慢性的不足もこの時代に与えた影響大だね。
639 :
人間七七四年:2008/03/27(木) 22:32:43 ID:RLbpmx8t
東国は統治体制が西国より優れている。軍役みても東国の武田・北条・上杉は細かく軍装が決められてるが
西国は田んぼあたりの人員が指定されている程度
「物資の西国、制度の東国」といえるかと
640 :
人間七七四年:2008/03/28(金) 00:17:24 ID:B2H7Y8dJ
そういえば、
赤備えとか、五色備えとか、
東国では部隊単位で軍装統一するのを良く聞くけど、
西国だとあまり聞かない気がするなあ。
641 :
人間七七四年:2008/04/10(木) 15:06:56 ID:K0EOtMvy
642 :
人間七七四年:2008/04/17(木) 12:19:42 ID:zcLgxP+9
貨幣経済は日本では13世紀にだいたい定着したが、じつは東日本の方が西よりも
わずかに早かったらしい。
東に定着したのが13世紀前半で、西は後半になるそうだ。
643 :
人間七七四年:2008/04/17(木) 12:28:28 ID:hyzt0/Lc
まあ江戸時代でも武士にとってお金や経済は汚れ物扱いだからな
お金の処理は下級武士の仕事だし
644 :
人間七七四年:2008/04/19(土) 00:19:07 ID:uhrHdSps
マジで?
645 :
人間七七四年:2008/04/19(土) 09:49:34 ID:uiKaQZ07
どのスレにマジで?と言ってるかわからんが、
金に関わるのがヨゴレとされ下級武士が担当したのは本当。
646 :
人間七七四年:2008/04/19(土) 20:34:03 ID:xOgEeLpW
汚れというか、算術などの技能職は世襲制というわけには行かなかったので
その辺ユルユルな下士階級や足軽が担ってた。
徳川時代全般に言えるけど、行政上必須といえるこの手の技能を持つ人材が慢性的に不足していた。
逆に言えば身分の低い武士でも、この手の技能を持っていれば、
中流クラスにまで出世することも出来たわけで。
数学って中世、近世の身分制度を破壊しかねないスキルだった模様。
647 :
人間七七四年:2008/04/19(土) 22:08:13 ID:IULQVcmq
数学が洋の東西問わず身分制度クラッシャーなのは同意。
これほど組織に必要で、個人の技量によって左右される技能はないからね。
ただ必要だとわかっていながら、諸藩の藩校で積極的に算術を教えないところが多数派なのは、
実力主義だからでは説明つかない。
町人を武士に仕立て上げたり、例外的に中途採用を積極的に行う役職の割には、
自家の中で育成しようとしないんだぜ。
汚れというのが妥当な表現ではないかもしれないが、文系偏重だったのは疑い得ない。
というか文系偏重は今も続いてるけどな…。
648 :
人間七七四年:2008/04/20(日) 04:39:18 ID:XCcCrnlc
うーん
1つには算術は職業技能ではなく芸技(趣味)と考えられていた、というのがあるのかも。
町人でも実益よりも趣味や道楽的なところがある>算術
あと、事務系の役職につく家のお家芸という部分があって、
父から子に相伝で教育する傾向が強くて、藩校で学ぶというのは少なかった模様。
あとは、
>>647の言うとおり、文系偏重主義かしらん?
649 :
人間七七四年:2008/04/20(日) 08:07:32 ID:dPBhoDld
そこら辺は「武士の家計簿」に詳しいけど、
加賀前田の御算用者の家では
長幼の順を無視して一番出来の良い子に家督を譲ったり、
子供の出来がみんな悪いときは出来の良い養子を取って家を継がせるなんて事もあったらしいし。
文系偏重主義については、確か儒学が算術を卑下してなかったっけ?
650 :
人間七七四年:2008/04/20(日) 10:39:44 ID:h8NOFavq
文系偏重というより法治重視と見るべきかと
法治思想は基本的に共有させないといかんが、算術は計算法が
違っていても結果が同じならそれでよいし
651 :
人間七七四年:2008/04/20(日) 17:30:19 ID:bbYSodHp
>算術は計算法が違っていても結果が同じならそれでよいし
一概にそうとも言い切れないかも
江戸期には算額といって、数学の問題や解法を絵馬に書いて神社や仏閣に奉納する
という風習があったりして、数学者や数学愛好家には解法は重要なものだったり。
どうも高等数学の類は親子や師弟間での継承が主で
公的機関で教育するというのがなかったっぽい。
家々や各流派の秘伝じゃなぁ
652 :
人間七七四年:2008/05/07(水) 15:25:24 ID:7UZla2vC
江戸期は寺子屋で読み書きそろばんを教えていたから
結構な教育水準だったというが 戦国期はどうだったんだろか。
算術は商人の分野だったのかな。
653 :
人間七七四年:2008/05/07(水) 19:19:45 ID:t2XXGtk2
戦国時代でも(上流層の)女性の識字率は欧州のそれに比べて高かったみたいだよ。
654 :
人間七七四年:2008/05/08(木) 00:14:57 ID:furNGR/B
算術もそれなりにできたんじゃないだろうか。
ほとんどの家臣が、自分の領地を経営していたわけだから
年貢の計算・軍役の費用の計算という具合にそれなりに
必要が生じただろう。
文章については、公文書でもかなり当て字が多いみたいだね。
武田信玄も自筆の手紙のなかで、「手にできものが出来たので
上手くかけない」とか言い訳している。大名クラスでもそれなりの
様式を整えて書くことは、難しかったみたいだな。
655 :
人間七七四年:2008/05/08(木) 01:22:30 ID:DEj8nsAw
公的な文書でも当て字は珍しくないからなあ。
あと、「みなもとのかつよりうち」とか「たけ田はるのぶあくぎゃうのこと」などひらがなで人名を
書くことも珍しくない。
>>654 検地も差出検地だったわけだし、年貢高の計算、軍役などいろいろあるので、まあ普通にできたはず
656 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 13:29:44 ID:ypQSMtTO
武士は出来たでしょうね、でも百姓となるとどうでしょう、江戸期は結構普及したようですが
657 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 23:56:35 ID:WKsUUl4N
武士と百姓の違いが曖昧な時代だから、どうなんだろな
658 :
人間七七四年:2008/05/30(金) 21:46:03 ID:YnaTrWQp
659 :
人間七七四年:2008/05/31(土) 05:14:44 ID:XbOHrHzq
昔の人は今の現代人より大変だよね。
辞書や地図みたいなツールがなくても文章を書かないといけない。
しかも公文書なら全部漢字でしょう?
もうね勉強だけしとけば良いってもんじゃない、年がら年中戦してる。
今でいえば中卒で一人前として扱われる。やってらんね><
660 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 05:04:40 ID:VtpwoFN/
ひらがなくらいようちえんじでもかける
漢字の読み書きは小学校低学年レベル
文書を認める立場の家の子なら知能に障害がない限り鼻糞ほじりながらでも何の問題もなく身につく
そこらの領主レベルで必要なのは初歩的な「こくご」と「さんすう」程度
ソフトさえあればハード的には習得の難易度は極めて低い
大名レベルとそれの政策ブレーン以外は「経済学」等の比較的高度な学問知識なんて必要ないしな
661 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 09:03:50 ID:Z7LJOc8n
(・◎・)わいはかんじかけへんで
南蛮貿易は、かなり儲かったみたいだな。
豊後府内に南蛮船が来たのは、確実なのは5回だけだが、それ以外にも
豊後の商人は、南蛮船の来た横瀬浦(長崎県)ので出かけていって派手に
積荷の生糸・絹製品を買い上げていたらしい。
大友氏が将軍家とその側近にした献金は、10年間で金330両に銭6860貫。
戦国〜江戸くらいの食事について書かれていたが、医学的に言うと(オレの専門は生物学で、医者ではないんだが)、当時の人間は武士・農民を問わずかなりの量の米を食っていたはず。
「武士の家人でも雑穀の雑炊ばかり」なんてのは、そんな家もあるのかもしれんが、一般的な姿ではないと思う。
なぜかというと、尿。
人は何故オシッコするのかというと、アンモニアという形で不要になったアミノ酸を排出しているからだが、これが1日400g分のアミノ酸に相当する。
で、出た分は補充。
副食(おかず)が現代のように豊かでない当時、米からこの400gのアミノ酸を摂取するためには、1日に5〜6合は食べなければならない。
上記の明智軍団の米の配給量も、このような見地から妥当な量と思われる。
行軍中でなくても、オシッコは毎日でる。
つまり、当時の人間は毎日毎日5〜6合の米をしっかり食ってたのは間違いない。
塩止めがなぜ有効な戦略手段になるのか(信玄を苦しめた氏真はやっぱ名将だよな)。
もちろん、塩分がないと人は生きられないのだが、この「米5〜6合」に着目すると、事態はさらに深刻になる。
想像して欲しいのだが、一食あたり2合もの飯を、おかずもなく、ただ飯だけを食うことができるだろうか?
最低限、塩がないと、味のない飯を食うなんて最早拷問である。
つまり当時の人間は5〜6合/日の米を食うために、かなりの量の塩も摂取していたのである。塩止めされると、食事すらままならなくなるのである。おそるべし、氏真公。
「昔は貧乏でみんな米なんて食ってない」は単なるイメージ。本当に食ってなかったら、生命体が維持できず、奈良時代の農民みたいに逃げて、共同体そのものが崩壊する。そりゃ、豊作・凶作、各大名・各家ごとの経済のつごうとかあるだろうけど。
オレだって学生のころはバイトの給料日前はろくに食ってなかったし、今の日本で年間何億食もインスタントラーメンが売れるからって、「日本人はラーメンばかり食べている」とは言えないだろう。
あと司馬遼太郎が戦国時代の日本人は全然計算ができなかった的なことを書いてたな。ソースが小説ですまんこ。
秀吉の近江系吏僚が会計とか帳簿とかをはじめた、みたいな。
664 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 17:08:18 ID:G6ETuhnv
当時は貫高制だからお金の計算くらいは出来るのでは
665 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 17:45:09 ID:B6TookQn
当時の雑炊は”米を煮たもの”なので、必ず雑穀が混じってる前提はちょっと…
…七草がゆ、茶がゆなんかのイメージが適当じゃないかな。
あと、鎌倉時代後期から戦国時代半ば(1560年くらい)までは、年貢は”銭納”だったので、
日本人の多くが計算できなかった、もちょっと…
司遼が言いたかったのは”複式簿記”の技術の事じゃないかな。
これは日本では近江商人が最初に始めた、といわれてる。
666 :
人間七七四年:2008/06/16(月) 14:21:55 ID:rmoHfbJz
代替納と言うのもあってだな、銭納が全てではないよ
実際に北条でも物納を許してるし、幕府の権威損なわれ、銭の信用度が下がり始めると、
銭の替わりに米が通貨替わりになってる
それに信長による分国内の関所撤廃によって銭の価値が更に下落したりね
これは朝倉と対立する要因の一つと言われてる
667 :
人間七七四年:2008/06/16(月) 18:36:19 ID:G4DWKSBT
北条が物納を許したのは1560年がはじめてなので、666の
>実際に北条でも物納を許してるし
は、665の
>戦国時代半ば(1560年くらい)までは、年貢は”銭納”
の反証にはなってないぜ。
なお1560年の納法はあくまで特例だったが、
1564年に鐚銭の混入比率を廃止して、代わりに物納の混入比率を定めた。
なので1560年以前に北条領国では物納は無いと思われる。
他の大名に関しては、詳しい人に任せるけど物納が現れたのはやはりこのあたりだと思うけど。
668 :
人間七七四年:2008/06/16(月) 20:32:21 ID:rmoHfbJz
>>667 下村效氏などの経済学の各論文読んだらいいよ
北条氏を例に挙げたのは、北条氏は銭納に関しては徹底されていた方だったが、
それでも現物納が行われていたと言う事だから
今川氏・武田氏・大内氏・毛利氏などでも見受けられるし、戦国期には米納と銭納の二本立て
年貢受取状などでは貫文表記だけど実際は現物納の例も少なからず見受けられる(逆の代銭納もある)
現物納や代銭納と言う言葉でググると論文などひっかかるので、それが載ってる本を読むといいかも
669 :
人間七七四年:2008/06/16(月) 21:53:09 ID:G4DWKSBT
>>668 はっきり言ってやるけど、話がまったくかみ合ってない。
現物納を665も俺も否定していないし、
後に石高制に移行したように現物納が主流になったことも分かってる。
663が末尾に「司馬遼いわく、当時の人たちは計算が出来なかった」に対して、
664-665が戦国半ばまで銭納だから出来るんじゃね?といっている。
なのに戦国半ばから末期にかけて物納に移行してるよ、じゃ話が通じてないとしか。
670 :
人間七七四年:2008/06/16(月) 22:06:17 ID:rmoHfbJz
>>669 はっきり言うけど
>鎌倉時代後期から戦国時代半ば(1560年くらい)までは、年貢は”銭納”だった
と平気で嘘を書いてるので、戦国期以前にも現物納は存在したし、米納との併用とも書いてるのだけれど
鎌倉期から室町期のを調べてもいいよ、普通に現物納あるから
それに
>戦国時代半ば(1560年くらい)までは、年貢は”銭納” の反証にはなってないぜ。
とまで書いてるのに、違うと指摘したら噛み合ってないと切り返すのって恥ずかしくないか?
671 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 04:03:23 ID:xj27uaS6
>>670 …嘘と言われても困るなぁ……
しかも、物納があったからって、当時の年貢が銭納が主流だった反証にはならんでしょ。
現在でも税の物納あるよ?
室町時代(一六世紀半ばまで)日本は銭経済で都やら領主やらに納める税は銭で、
米納が主流になるのは中国から悪銭が多量に流入して銭の価値が揺らいだからだとか。
説明めんどくさいから↓をご参考に。
浦長瀬隆著『中近世日本貨幣流通史─取引手段の変化と要因─』(勁草書房)2001年
(…なんか 食事スレで暴れた人と同じ臭いがするな……)
672 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 20:21:19 ID:+fG5jT8K
>>671 >当時の年貢が銭納が主流だった反証にはならんでしょ。
↓
>他の大名に関しては、詳しい人に任せるけど物納が現れたのはやはりこのあたりだと思うけど。
主流だったのに反論はしていないよ、君は物納が現れたのは戦国中期以降と書いてるんだよ?
浦長瀬氏の著書は読んだことあるから今更紹介されてもどうかと思う
と言うか、浦長瀬氏のその著書を紹介しているなら、
>>666で書いてる事は知っているはずだし、
付け加えるなら、浦長瀬氏はその著書でも、地域によっては(近江・播磨の一部、摂津など)で、
米による支払が主流であったと書いてるよ
食事スレというのが何のスレかは知らないが、そんな事かいてる時点で君は勘違いしまくってるんじゃないの?
673 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 01:35:22 ID:S7WVdGng
674 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 02:07:31 ID:AvkkYxUg
>>671 シナから銅銭が流入するのは十三世紀ごろだ
南宋滅亡で元が紙幣政策を採って、不要になった銅銭が流入
インフレで米の価値が相対的に上昇した
中学の社会レベルの話だぞ、少し考えれば分かりそうなもんだが
それでも米の相場次第で米で納めさせたり、銭で収めさせたりしてる
その程度の知識だと、お前が小ばかにしてる相手のほうがまともなこと言ってるのかもな
675 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 02:49:24 ID:0jXZ5fjN
>>672 あのー じゃぁ どこを「嘘つき」呼ばわりされたのでしょうか??
>君は物納が現れたのは戦国中期以降と書いてるんだよ?
…なんて、一言も書いてないんですが……
>>665をにそう誤解される文が見つかりません。
あ、
>>674の指摘は、なぜここで出てきたか、ちょっとわからないです。
えっと、何の反証のために出したのか、端的に書いていただけると幸いです。
676 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 03:20:21 ID:AvkkYxUg
>>675 わからんのならその程度のおつむだということだ
677 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 08:14:00 ID:uewHwhlz
むー、なんか荒れとるが
ちなみに年貢が物納か銭納かで武士が計算できるか否かは判断が難しいと思う。
基本的に年貢の収納は
>>612がちょろっと書いておるが、大概商人が関っている。
村ごとに年貢を集めて、それを商人が管理して領主に引き渡している。
銭納なら、米を商人が買い取って銭を領主に送るし、物納なら米を領主に送る。
同じレスに陸路輸送のコストなんかも書いてあるが、東国だと輸送路がそれほど発達してないせいで
米を直接領主に輸送するのが困難なため銭納が主流になっている。
#全国的に銭納が普及したのは、商業の発達でそれまでの物々交換が銭を介した取引に移行したため。
物納でもさまざまな理由から現物ではなく手形にして納めている。
何石分というような手形を送ってもらって、領主はそのうちのいくらを現金で、残りを物納で、
という風に商人と取引して処理するんだな。
だから、それほど細かい計算しなくていいんだ。
まぁ、完全に商人任せにすると色々アレなんで(笑)ちゃんとできる人間に会計をやらせているだろうけど。
678 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 18:59:18 ID:YspF6Lvp
>>675 >>665 >戦国時代半ば(1560年くらい)までは、年貢は”銭納”
>>667 >他の大名に関しては、詳しい人に任せるけど物納が現れたのはやはりこのあたりだと思うけど。
思いっきり書いてるんだけど?特に>667の内容は、戦国中期以前の現物納を完全に否定しているけど?
しかも最初の>666の銭納が全てではないと書いてるのに対してのレスだしね
>666、>668、>670、>672は自分だけど、
>>674は他の人だよ
679 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 03:00:44 ID:44UpEMkE
>>665はおいらで
>>667ちがうのだけど……あえて
>>667の
>なので1560年以前に北条領国では物納は無いと思われる
と、かなり条件付けで出してる推測と、、
>戦国中期以前の現物納を完全に否定している
とは、同じ事言ってるようには見えないんですが……
つか、「戦国中期以前の現物納を完全に否定している」人はいないかと。
「室町時代は銭納が主流だった」ことには、異議はないのですよね?
…なんか論点がすれ違っている気がします。
>>677 そこらは程度の問題かと。商業的技術(複式簿記とか)なんて、今の日本人でも知ってる人は少ないし…
680 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 08:21:21 ID:TFFnK6jI
__ __
,ィミ川彡三ヾ三\
{三{※}三}三ll三 }
_ヽ彡川ミノ三レ勿/__
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{三{※}三{三{※}三}三ll 三}
__ヽ彡川ミノヽ彡川ミノ三レ勿/__
,ィミ川彡ヾィミ川彡ヾ,ィミ川彡三ヾ三\ っ
{三{※}三{/ ,二二、\{※}三}三ll三} ∧__∧ っ
ヽ彡川ミノ/ /\ | /ヘ ヽll.ミノ三レ勿/ ( ´・ω・`)
I二二二二二| |―‐((_))―| |二二二二二二I二○==○ 年貢の納め時です
ヘヽ/ | \,/ / 〈_ノ=レ'
( ( \二二二/ (_vノ(_y)
681 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 08:25:49 ID:TFFnK6jI
歴史初心者には年貢=上記の米俵を大八車に乗せて悪代官に収めるイメージ
銭納ということは米を一度売却してその収益に応じて税を払っていたということでしょうか?
たとえば
年貢:100石収穫できる田んぼ→40石の年貢
銭納:40石を売却した売上(米相場が高いと税も多くなる?)
地租改正みたいなことが大昔から行われていたんですかね?
682 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 09:30:18 ID:3ZHJ59vv
>>681 戦国時代ごろの税率は実は出来高制で
毎年、領主や代官が出来高を見て農民と交渉、決定していた。
だから収入は毎年変わる。
>年貢:100石収穫できる田んぼ→40石の年貢
こんな形になったのは、江戸初期から中期にかけて定免制が普及してから。
銭納の方は良く知らないんだけど、確か1反につき500文とか1貫とかいう形になっていたと思う。
だから米相場によって収めなくてはならない税が変動するということは無かったと思う
683 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 12:07:47 ID:CDQLi0F0
こういうときよく引き合いに出される北条の場合は確か、
682の言うとおり土地の面積に対して幾らという考えで、その年の収穫量で上下しない。
けどあまりに酷い人災・天災のときは減免されたり、免除されたりしているようだ。
684 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 16:29:44 ID:bPahGaLd
685 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 19:15:37 ID:HdDgWBqf
>>683 北条は基本は一定税か。
農民も大変だったろうなー。
686 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 21:02:35 ID:ujWfmHsu
>>679 665と667が違うから分けて書いてる
>同じ事言ってるようには見えないんですが……
>667
>他の大名に関しては、詳しい人に任せるけど物納が現れたのはやはりこのあたりだと思うけど。
これ読めますか?
>…なんか論点がすれ違っている気がします。
銭納が全てではないよと書いてるのに、>667が現物納を全否定してるから書いたのに、
それに対して現物納を全否定したから「嘘つき」表現を用いたら、>675でどこが嘘つきなんだと書いてきた
君が勝手に混同しているだけで、すれ違いも何も無い
これでわからなければ、もういいよ、日本語が通じなさそうだから
687 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 21:17:08 ID:MWTy8LvA
銭納もあれば現物納もある。こんなググれば分かる事実について
いちいち噛み付いたり反論したりしてスレ見苦しくしてんじゃねーよ。
論破しなきゃ気が済まんのか?つまらん価値観だ。
688 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 21:55:46 ID:CDQLi0F0
>>685 実際はそこから減免分が引かれる。
いわゆる税の控除があったので実際の年貢はもう少し下がる。
まあそれは灌漑維持や賦役などの見返りとしての控除なので、百姓の負担には違いないが。
689 :
人間七七四年:2008/06/21(土) 00:40:23 ID:f+0Ld4Sk
>>687 そんなググれば分かる事とやらが分かってないノータリンがいるからそれを指摘したんだろう
お前のそのレスのほうがよっぽど見苦しいわ
690 :
人間七七四年:2008/06/23(月) 23:18:26 ID:CtzM4QDq
>>674 それも変だぞ。
日宋貿易で獲得した宋銭が平家政権の有力な財源の1つであったことは教科書にも載っているだろうが。
691 :
人間七七四年:2008/06/24(火) 00:00:55 ID:PVeHE3wA
なにか変か?
流入自体はそれ以前からあるだろうが、多量に流入したのは元成立によるものだから十三世紀になる
692 :
人間七七四年:2008/06/24(火) 04:47:29 ID:f9sJnKdP
むはー
12世紀後半、平家による宋交易で渡来銭の流入
・銭が一般的に使われ始め、それまで貨幣として機能してきた米や布の価値が低下。それに伴い貴族の経済力が低下。
朝廷が銭の使用を禁止したが効果なし。
○13世紀前半。栄銭輸入拡大。銭の密貿易まで始まる。
鎌倉幕府、布に代わって銭を使用することに
○13世紀後半、元から銭が大量に流入
銭による年貢の支払い(代銭納)が始まる
というわけで、渡来銭の流入により日本の経済が物々交換から銭を介する取引に移行しはじめたのが12世紀後半。
土地の売買に銭が使用され始めている。
13世紀後半になると、年貢の支払いも銭で行われ始めるようになる。
で、いいんじゃね?
693 :
人間七七四年:2008/06/24(火) 09:21:42 ID:PVeHE3wA
694 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 01:36:29 ID:qFlv3j83
>>693 えぇー? 呼ばれたら何かしないといけなくなりますかね?
おいらはもう食いつく話でもないと思いますけど……
税というのは、金で納められなかったら代替品で取るわけで、例えば…
「現代日本の税は”銭(金)納”ですよね。だから日本人の多くが計算出来る
と思います」
…といったら、「いや、田中真紀子は目白御殿を半分”物納”した」
…というレスがついたから誰かが、
「いや(計算出来るかの話で税の納め方の話だとすると)現代日本の税は”銭(金)”で集めてたよ」
「コイツ、現代日本での”物納”を完全否定した! ムキー!!」
…という展開なのはちょっと、ってだけの話なのです、はい。
695 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 02:08:31 ID:ikt2uwdN
なるほど、つまり嘘を認めると
696 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 15:20:38 ID:KJ4+BLkt
>>693は現物納と代替納の違いもわからないと判明しました
697 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 15:21:20 ID:KJ4+BLkt
698 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 19:40:44 ID:l2EEGUC4
ちょっと質問
戦国時代はどうなのかはともかく昔は鋳造技術が悪くて中国から輸入して使っていたんですよね?
両替というか当時日本の粗悪な通貨で中国の通貨を買おうとしても当然相手にされなかったでしょうから
何らかの物を中国で売って貨幣にかえて帰っていたってことでしょうか?
しかし国内の貨幣を賄うほど流出させようとしたら
中国側も黙ってないと思うのですがその辺はどうだったのでしょう?
質問ばかりで済みませんがどなたかご回答お願いします
699 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 20:05:50 ID:MRJzw+An
700 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 21:54:32 ID:bSfMZsQd
宋は一時銭の輸出規制をしているよ。
唐の頃から発行量が経済規模に追いついてなくてね。
宋銭はアジア一帯やペルシャやアフリカにまで流通してた貨幣なのよ。
そんなものだから不足分を補うために紙幣を発行したりしている。
モンゴルに攻め込まれると戦時鋳造の粗悪銭を大量生産。
占領後はモンゴルは銀を貨幣として使ったので、大量の銭が日本やベトナムに流出することになる
宋日貿易では日本からの輸出品は銅や硫黄などの鉱物、木材や日本刀など。
701 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 23:26:34 ID:N/he1kJx
>>698 現代からは想像もできない話だが昔の日本はあふれんばかりの
鉱工物輸出大国(加工品は現代でもだけど)
702 :
人間七七四年:2008/06/26(木) 00:45:46 ID:hhvw8CA0
703 :
人間七七四年:2008/06/26(木) 01:16:23 ID:JkuQ8Dn3
704 :
人間七七四年:2008/06/26(木) 02:45:35 ID:eaQPK9dQ
705 :
人間七七四年:2008/06/26(木) 05:32:29 ID:aAV2DU3r
706 :
人間七七四年:2008/06/26(木) 07:15:19 ID:lJxkdFvE
ところで後北条の領地での銭の流通量はどれだけだったんだろ?
年貢をすべて銭でとなるとかなりの量が必要になるんだが
鎌倉・室町の頃のは銭納は公事、夫役が主で
年貢のほうは地頭が、集めた米をまとめて商人に売って現金化して
領主にはそれを手形にして送るというのか主で
農民が米の変わりに現金でというのはまれだったという話なんだが。
貫高制の地域でも全額銭で支払うには流通量が少なかったので無理だったと思うんだがの
707 :
人間七七四年:2008/07/09(水) 14:39:10 ID:2wGQrVaV
鋳造してるわけではなから、銭は少なそうだよね
708 :
人間七七四年:2008/07/18(金) 13:06:21 ID:ONzAiInP
民間で選銭(売買のとき質の悪い銭を受け取らない)してたから流通量は減っていく一方だった。
そうすると銭で税を納めることが出来なるなってしまうので、
選銭令で一定の範囲まで使うように指導している。
北条氏じゃあ税の何割かは鐚銭でもOKになってたね。
当然誰も守らないわけで、
物納も可(輸送・換金コスト分上乗せ)になった。
709 :
人間七七四年:2008/07/18(金) 19:17:17 ID:90rqsrOD
ちょっと違う。
鐚銭混入→物納切り替えは、選銭が深刻化して鐚銭が一切通用しなくなるという異常事態を受けて。
明日から二千円札以外使えませーんみたいな状態が発生したからだよ。
ただでさえ銭が足りなかったのに精銭のみでとなると話にならないから、
永禄二年だか三年だかの飢饉で特例として物納を許したのを先例として以後制度化された。
710 :
人間七七四年:2008/07/20(日) 10:58:21 ID:alYg7YqP
質の悪い銭の価値を低くみたりしたのはなぜ?
同じ貨幣の価値が状態で変わるって変じゃね?
711 :
人間七七四年:2008/07/20(日) 12:53:22 ID:+CtP3FUu
>>710 別に変じゃあない。
例えば古銭や切手を売買する時にきれいな物は人気が出るので高く、汚れた物は安い値がつくだろ。
これも同じこと。
今の紙幣やコインは汚れたり破れたりしても銀行に持っていけば新しいものに
交換してくれるから値崩れしないだけ。(銀行は銀行で日銀つまり国に新しい物に交換してもらっている。)
つまり国が保障しているから価値が落ちないだけ。
それに貨幣自体宋の時代ものから明のもの私鋳銭など色々あって、
純度も違えば大きさ、形、重さも違って同じ貨幣ではない。
712 :
人間七七四年:2008/07/20(日) 15:09:39 ID:8QKmF5rU
>>711 当たり前のように感じていた
政府が交換を保証するって
画期的なことだったんですね
713 :
人間七七四年:2008/07/20(日) 15:18:16 ID:MEiSH2FM
こうして歴史を知ることで
我々は先人たちの苦労と智恵に有り難みを覚えるのであった。
714 :
人間七七四年:2008/07/21(月) 00:47:49 ID:OOwZN2h0
>>710 客観的な真贋のライン引きがされてないから100人中60人がおkおkって言ってく
れる銭より、100人中95人がおkおkって言ってくれる銭のが価値があるのは当然
だろ
つか日銀は政府機関じゃないから
日本赤十字と同列
715 :
人間七七四年:2008/07/21(月) 01:05:37 ID:UGv1OeJy
政府機関じゃないけど
完全民間機構といえるかというとそうでも無いという
総裁は政府+国会が選ぶしな
716 :
人間七七四年:2008/07/21(月) 04:22:59 ID:OOwZN2h0
民間って誰が言った?
日本赤十字と同列の認可法人まで書かないと共通項見えない?
政府の銀行≠政府が経営する銀行
政府の銀行=政府を取引相手にする銀行
大株主が政府だから当然の如く権威の後ろ楯は政府だが、日本唯一の発行銀行であ
る以上、政府機関では断じてない
官に近い法人
717 :
人間七七四年:2008/07/21(月) 08:38:06 ID:EKorK2Zu
どうでもいい
718 :
人間七七四年:2008/07/29(火) 17:10:32 ID:pQvDkx5f
>>710 例えば金の純度が100%の金貨と、50%しか含まれない金貨を「両方同じ値段
ですよ」って言われても納得いかないでしょ?
50%の方を同じ価値のものとして流通させるには、国がその価値を保証してやる
必要がある。現代のような高度に経済が発達して国の信用度も高い時代ならば
ただの紙切れでも貨幣として流通させることができるけど、当時は国というもの
にそれほどの信用はなかった。
719 :
人間七七四年:2008/07/29(火) 17:18:14 ID:4tVGHuEd
お金の形をしていても中身は物々交換だからね
純度が半分なら価値も半分
720 :
人間七七四年:2008/07/29(火) 19:49:31 ID:AARMxq1A
江戸前期の勘定奉行萩原だっけかな、貨幣悪鋳で白石に有名にされた。
あいつが「そもそも貨幣なんかは瓦でもよいのだ」と言ったが
これが政府の保障なんだよな。
まあ輸入した銭に頼っている戦国時代じゃあできない発想だ。
てか金本位とかドル本位とか現代まで貨幣の価値の裏づけが欲しいというのをみると
戦国時代が異常じゃなくて萩原の斬新な思想が異質なのかもな。
721 :
人間七七四年:2008/07/30(水) 17:17:56 ID:GyLX0QZz
>>718 てことは貨幣の製造コストを減らすために
金の比率を下げたらインフレになるってことですね?
昔の時代の商人にいまのアルミ硬貨を流通させようとしても
「金がつかわれてないから受け取らない」とか言われそうだな。
722 :
人間七七四年:2008/07/30(水) 17:44:50 ID:cfUR4bJS
世界中に例が満ち溢れているぜ >金の含有率減らしてインフレ
723 :
人間七七四年:2008/07/30(水) 19:16:46 ID:pOBVsXvh
なんで経済学講義スレになってんだよw
724 :
人間七七四年:2008/07/30(水) 23:22:28 ID:Xlyb8CGO
ロレンスの罠
725 :
人間七七四年:2008/07/31(木) 00:40:23 ID:/QBxp6N6
>>721 金の含有率減らしたからインフレ、というよりは、含有率減らした改鋳で市場の貨幣量が増えたからインフレ、
今でも「予算足りないからお札刷っちゃおうよ」ってすればインフレはくるし。
だから貨幣の素材はあんま関係ないと思う。
室町時代は 銭は勘合貿易で日本に入ってきてたんだけど、実は日本国王の取引(朝貢)しか銭は手に入らなかった。
(他の船の商取引は物々交換と明が決めてた)
それ故、銭のコントロールを将軍が出来たのだけど、戦国時代に入るとその慣習が破れて市場の銭が増えて
崩壊したんじゃないかなぁ…
726 :
人間七七四年:2008/07/31(木) 06:58:49 ID:jw//jvDN
>>721 アルミは電解精錬で作るので、当時は単離されていません
もし、当時にアルミを持っていったら、貴金属の扱いを受けたかもしれません
727 :
人間七七四年:2008/07/31(木) 07:59:41 ID:U7sD6EKN
200年位前には金と同価値くらいだったからねぇ
728 :
人間七七四年:2008/08/03(日) 14:18:30 ID:rSgKZV/p
大河の「黄金の日日」で茶器のオークションみたいことを秀吉が催した描写があるけど、
戦国時代に美術品や工芸品や茶道具などのオークションて、本当にあったのかな?
経済力と少しズレた話しだけど…気になる。
729 :
人間七七四年:2008/08/06(水) 18:51:06 ID:heyff3jM
そういえば信長の野望では当たり前のように
茶器が宝物扱いされているよな
730 :
人間七七四年:2008/08/06(水) 19:56:39 ID:bgceu/AM
そりゃ、信長に渡すのが嫌なあまり
茶釜に火薬詰めて自爆する武将がいるくらいだし
731 :
人間七七四年:2008/08/07(木) 09:12:27 ID:WMKVcqcu
現代の価値観からすると単なる粗悪品でしかないものが
信長・秀吉などがこれはいい物と言うとあっという間にプレミアム品に
732 :
人間七七四年:2008/08/08(金) 00:06:28 ID:1Iolb5Ey
ミノがこれはいい物と言うとあっという間にプレミアム品に
733 :
人間七七四年:2008/08/08(金) 01:54:41 ID:AVz5W1uK
はだかの王様みたいなものね
734 :
人間七七四年:2008/08/08(金) 03:27:32 ID:aHMLI2qq
呂宋壷なんて元をただせば痰壷
735 :
人間七七四年:2008/08/09(土) 09:05:09 ID:3n9QU4nC
壷の価値は何に使われたかではないよ
736 :
人間七七四年:2008/08/19(火) 15:47:25 ID:C1BoHsUI
それの価値が上がるのが不思議
737 :
人間七七四年:2008/08/21(木) 01:04:26 ID:ySDxplEB
欲しがる人がいれば、石だって高価になる。
738 :
人間七七四年:2008/09/01(月) 15:36:43 ID:GteRPVEN
それはそうだけどね。
739 :
人間七七四年:2008/09/01(月) 15:43:25 ID:JSFWahmg
そういえば江戸時代は奇石コレクションが流行ったらしいね
※あくまで「奇石」であって宝石ではない
おそらく中国の文人趣味の影響だと思うが。
現代でも極たまに『鑑定団』でスペシャルコーナーが組まれるが、
石ハァハァだけは理解できない・・・
740 :
人間七七四年:2008/09/02(火) 00:18:35 ID:ZdHZnvqs
石をラッピングしペットとして出荷して、
億万長者になった奴がいるのはアメリカだっけ?
741 :
人間七七四年:2008/09/04(木) 22:12:17 ID:XMDQur1e
石の話を見聞きすると「無能の人」(つげ義春)が思い浮かんでしまう。
742 :
人間七七四年:2008/09/11(木) 17:08:37 ID:wfiWtsMD
石で実際儲けた人もいたのかな?
743 :
人間七七四年:2008/09/12(金) 15:06:00 ID:tl2/vhTr
石屋って職業あるんだからそれなりに儲かるんだろう。
744 :
人間七七四年:2008/09/24(水) 15:14:20 ID:mdmLsuUA
確かにそれはそうだ。
745 :
人間七七四年:2008/10/01(水) 14:49:44 ID:3lDHh/Xi
戦国期は石屋の商売は盛んだったんだろか?
746 :
人間七七四年:2008/10/01(水) 18:45:55 ID:MYu/8xSl
清正みたいにチョンの石工を攫ってくるやつがいるんだからそれなりなんじゃね?
747 :
人間七七四年:2008/10/01(水) 19:28:59 ID:aHhfoP60
今では禁止されてるが、少し前まで長良川で丸石拾ってきて売る商売があった
今でも長良川の丸石は人気があるが入手手段が限定されていてそこそこの値で取り引きされている
748 :
人間七七四年:2008/10/01(水) 19:56:00 ID:1Nr9mGrF
石垣に使われてる様々な石(地蔵とか色々)からして当時の石不足はわかるね。
少なくとも良い商売になったろう。
749 :
人間七七四年:2008/10/01(水) 20:26:14 ID:goulzAc5
石不足というよりは経費と期間の問題でしょう。
他の城の石垣や櫓などを転用するのは経費削減や期間短縮に有効ですから。
750 :
人間七七四年:2008/10/01(水) 21:11:10 ID:hSOW49Bi
利根川の河原に転がるたくさんの石ころにも持ち主が存在していて
遊びにきて勝手にいじると怒られるから触るなと昔、言われた事がある。
751 :
人間七七四年:2008/10/05(日) 08:45:40 ID:aNpljaWt
金融危機 勝ち負けの構図
勝ち逃げ(強烈な取立てと慎重な融資で勝ち抜く企業)
中国銀行(本店 岡山市)
生き残り組(金融危機の中、他社を買いに回る勝ち組企業)
バンカメ ゴールドマン・サックス ロイズ ワコビア JPモルガン シティグループ
様子見組(現状、動きがない)
ドイツ銀行 JA バークレイズ(リーマン買収?) ゆうちょ銀行 クレディ・スイス UBS(身売り組に転落?)
身売り組(他社に合併されて何とか生き残り)
ベア・スターンズ メリルリンチ HBOS ワシントン・ミューチュアル モルガン・スタンレー
国有化組(国有化されギリギリセーフ)
AIG
倒産組(さようなら。あなたのことは忘れない)
リーマンブラザーズ 大韓民国
752 :
人間七七四年:2008/10/05(日) 22:42:07 ID:84V14ckD
秋
753 :
人間七七四年:2008/10/15(水) 14:31:05 ID:YK0OFypP
754 :
人間七七四年:2008/10/15(水) 20:58:35 ID:vY6bKSqQ
石の価値の話だろ
755 :
人間七七四年:2008/10/24(金) 15:06:46 ID:7SSzieig
価値有りって話だね。
756 :
たけのすけ:2008/10/25(土) 19:22:52 ID:9PMGylNy
銭不足っていうけど、銭の鋳造は、そんなに大変だったのかな?
原料の銅がない?技術がない?信長や秀吉あたりが、鐚銭集めて
鋳造すればいいと思うんだけど。表に天下不部、裏に天象10年とかにして。
757 :
人間七七四年:2008/10/25(土) 19:37:36 ID:cRF+tvZF
>>756 技術がなかった
特に大量に流通させるだけの量産技術が
後はそれを保証する政治基盤
758 :
人間七七四年:2008/10/26(日) 09:29:47 ID:6P8RNxYE
貨幣の信用は、それ自体の質とと、それに政権による裏づけのいづれかもしくは両方で決まる。
信長は天下統一しつつあっただけで、天下統一したわけではないから厳しいところはある。
秀吉がやらなかったのは、経済に疎いとしか。
幕府はまさに、銭の鋳造をさっさとやっちゃうわけだからな。
759 :
人間七七四年:2008/10/26(日) 17:02:22 ID:CcAbvnJ5
宋銭が流通したのも貨幣価値に信頼があったからね。
秀吉の金のあり方は経済ではなく見栄で決まるよね。
760 :
人間七七四年:2008/10/26(日) 20:41:24 ID:e6fma1J6
まあ秀吉は商売はわかっても経済はわかんねって感じだ
761 :
人間七七四年:2008/10/26(日) 22:07:44 ID:E3scPPFM
慶長通宝と駿河版の銅活字が鋳造されたのがほぼ同時期
このころに量産は難しいが、銅の精密な鋳造が可能になったと思われる
それ以前は金銀が限界だったんでしょうな
762 :
人間七七四年:2008/11/04(火) 15:03:57 ID:co1zhZ+F
銅の鋳造が一番難しいんだ
763 :
人間七七四年:2008/11/04(火) 22:31:17 ID:vWPBcFxZ
銅は金や銀よりも融点高い、ちなみに鉄はさらに高い
764 :
人間七七四年:2008/11/08(土) 15:53:37 ID:bOQn7ESz
>>756 当時(室町戦国時代)の日本では私鋳銭が存在していました。
つまり”銭を作る技術”は存在しています。
祇園社の銅細工師が検非違使に新銭(私鋳)の疑いで逮捕の記録(祇園社記1343)があり、
発掘でも京都市内の室町の住居跡から、”□和□宝”の鋳型が見つかってます。
また傍証になりますが、江戸幕府で銭を鋳造していた鳴海氏の由緒書には、
「足利義持公に永楽銭鋳造を命じられた由緒ある家柄」と書かれています。
そして銭の材料になる銅地金自体、日本が明に輸出していますので、国内に質の良い材料は豊富でした。
で、「なぜ自国貨幣が作られなかったか」については単純に「幕府に信用がなかった」だけ、かと。
当時”明銭”は額面(含有銅)以上の価値で流通し、また埋蔵金で見つかるされる銭の大部分が宋銭です。
「悪貨は良貨を駆逐する」の言葉通り、蓄財された輸入銭に対し、
私鋳銭(日本製)は市場流通の”悪貨”の部分を担ったと思われます。
つまり、自国で自前の通貨をつくっても、国民がそれを信用しなかったので、
わざわざ将軍が”明の貨幣を真似て銭を作る”状況になったのでしょう。
765 :
人間七七四年:2008/11/09(日) 20:33:08 ID:eUgxsmMF
766 :
人間七七四年:2008/11/09(日) 23:32:42 ID:reRFq9+L
京都の五味の市行けば私鋳銭手ごろに買えるよ。
明らかに薄くて質が悪いのがそう。本物も安いけどね。
767 :
人間七七四年:2008/11/09(日) 23:39:16 ID:vta37CtK
>>765 おいらは、中国銭経済は200年あまり続いているので、
室町戦国初期の銭納の時代は高品質(見分けがつかない)私鋳銭がかなりの量存在した、と思いますよ。
京都の銅細工の技術は主力輸出品”奈良刀”の飾りなどにも見られるように、中国製品と遜色はないものでした。
また捕縛の記録から自由気ままに私鋳することは出来なかったようですし、
私鋳には何らかの権威者が関わっていた可能性も大きいと思います。
そのような公の私鋳ならば、その質は相当のものであったはずです。
また、16世紀半ばに税が銭納から物納に変わった理由が多量の悪貨が氾濫したためなので、
この時期に日本各地で活発な私鋳が行われたのではないかと。
(当時安芸の国の小早川家でも私鋳していた様子があります)
中央の権威が一時期消滅(つまり戦国時代)に日本各地で様々な私鋳が行われた結果が”質の悪い”私鋳銭なら、
それまで室町幕府はしっかり私鋳銭の質の管理していたのでしょうし、
「将軍命令の銭鋳造」という話もそこらに関わることかもしれません。
そこで貨幣の信用に幕府の権威ではなく”中国”を持ち出したところに
室町時代の特色が出ているのかもしれませんね。
768 :
人間七七四年:2008/11/10(月) 22:35:37 ID:k7sUYbz0
それは事実でしょうが、当時の日本に大量生産する技術と資本がなかったのも事実かと
特に応仁の乱以降は技術の断絶・劣化は間違いなくあったでしょうし
769 :
人間七七四年:2008/11/20(木) 15:45:54 ID:LAaqX+q7
よくわからない部分も多いという事か。
770 :
人間七七四年:2008/12/01(月) 15:11:03 ID:hk9a/Un9
銅銭一つでも深いんですね
771 :
人間七七四年:2008/12/03(水) 14:14:17 ID:Pnb0C5SZ
主要都市の人口
西暦 平安京 山口 博多 堺 大坂
1350年 150,000
1400年 150,000 40,000
1450年 150,000 35,000 50,000
1500年 40,000 35,000 30,000 30,000 25-26,000
1550年 100,000 60,000 17,000 60,000
1575年 300,000 90,000 35,000 75,000 100,000
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
772 :
人間七七四年:2008/12/04(木) 18:08:23 ID:jZhxl0Tq
>>768 戦国時代の私鋳銭には二種類あったんじゃないかと。
まず 将軍家のつくる”公の私鋳銭”
鎌倉時代末から室町初期にかけて、銭飢餓(ぜにけかち)という言葉がつかわれたように、
市場に銭が払底した時代もありましたが、足利義満以降、
勘合貿易(これ以外には多量に明銭を手に入れる手段はありません)
により将軍家が明銭供給元になってからはある程度経済的に安定した時代が続きました。
で、将軍家が輸入したのは一文銭のみ、高額貨幣はまったくしていません。
一文銭と高額貨幣には含有銅に違いがあり、将軍家は”均一な品質の銅貨”を多量に必要としたのです。
そして一文銭含有銅の価値は額面の3割程度しかありません。
つまり、室町時代の明銭=将軍家の放出銭、というわけで、
当時の明銭は、そのものの銅価値や明の保証ではなく”将軍家放出の銭”という信用価値で流通したわけです。
で、将軍家支配下の都に明銭鋳造の遺跡が残っているのは、
若干の”水増し”を将軍家自身でやってたんじゃないかなぁ……と。
これがおいらの考えてる”公の私鋳銭”です。
これは、将軍家が明銭の流通を管理、つまり日本の経済を把握していた結果だとは思うのですが。
773 :
人間七七四年:2008/12/04(木) 18:23:16 ID:jZhxl0Tq
…つづき……
もう一つは 宋銭などの”法律違反な私鋳銭”
実際市場の主流だった宋銭は将軍家以外の貿易でも日本国内に流れ込んできました。
(台湾に向かった貿易船が銭を全部集めたので、台湾市場での銭が払底した、なんて話も)
銭の流通形態は、紐を穴に通した形で行われていて、私鋳銭はそれを水増しする形だったようです。
このような私鋳銭は鎌倉時代から隠れて多量に作られていたらしく、
たとえば鎌倉の大仏建立に寄付された銭を溶かして使用したとか、
本当に価値があるならソレで銅地金買った方が良いだろ、と思うような事例が見られます。
おいらはコレは品質の悪い私鋳銭の処分に近いのじゃないか、と……
まぁ、検非違使の取り締まりの例もあるように、一番生産力のある都での私鋳は禁止され、
地方も守護の目が光っていたわけで、その私鋳の規制はなされていたと思います。
ま、守護自身が私鋳したかどうか、はわかりませんが……
赤松家が幕府布告の座の権利保護を無視し国内商人を保護した例もありますから、まぁ……
で、なぜ銭経済崩壊は、将軍家による銭管理体制が崩壊したんじゃないかと。
戦国大名が守護の勢力を浸食することにより幕府のタガがなくなり、一地方豪族でも私鋳を始めるようになります。
しかも制限無く多量に生産し多量に使います。
たとえば小早川家の例では私鋳銭を銭一本の三割程度も混ぜていたようです。
現在残る”質の悪い私鋳銭”の多くが、この時代の産物じゃないかと思います。
774 :
人間七七四年:2008/12/08(月) 15:32:47 ID:JuLabz7O
随分くわしくありがとう
775 :
人間七七四年:2008/12/13(土) 15:48:31 ID:VCvU9ynn
江戸期に繋がる金銀銭の貨幣制度をつくったのは秀吉?
776 :
人間七七四年:2008/12/14(日) 05:04:17 ID:35aRDM3X
>>775 徳川幕府
秀吉は金銀銭の交換比率を定めていない
777 :
人間七七四年:2008/12/17(水) 12:53:39 ID:zYOMP6hT
金銀が貨幣として流通していない時分に、
何千・何万貫もの銭で物資を調達したりした時に、
それらの巨額の銭をどうやって運搬してたんかな?。
…そもそも、それほどの巨額な銭を調達する事が出来たんかいな?。
778 :
人間七七四年:2008/12/17(水) 14:42:25 ID:nD8ccZ92
為替の原型がある
779 :
人間七七四年:2008/12/17(水) 23:25:13 ID:ZCAJqvtS
鎌倉時代から為替があるな。
手数料かかるけど証文だけで済む。
持ち運びの問題ではなく銭不足で高額取引が出来なくなった室町後期は
東国では金、西国では米が代わりになってる。
780 :
人間七七四年:2008/12/18(木) 03:45:14 ID:DioOYYAX
それは銭不足というより、銭の価値を保証する幕府の権力低下も踏まえた、
銭の信用度の低下によるものじゃなかったっけ?
>>779
781 :
人間七七四年:2008/12/18(木) 04:19:58 ID:rIM2lLSA
明からの銭の供給の停止と、貫高制から石高制への移行って時期が大体一致してるんだよね。
供給が止まれば必然的に銭の信用度も落ちる。(磨耗や損傷で鐚銭化する)
東国ではそれでも貫高制が維持されたのは、米の輸送が陸路に限られていたので
輸送費で足が出てしまうため、銭の方が目減りせずにすんだかららしい。
一方西国は瀬戸内海運が発達していたせいで安い輸送費で米が輸送できたので、石高制に。
15世紀から輸入された明銭は西国では嫌われていて、
宋銭は14世紀で供給が止まっているので磨耗や損傷で失われてゆき流通量が少なかったらしい。
16世紀後半になると、西国では米遣いから銀遣いへ移行(大口決済が銀へ変わる。)
米で決済するより、目減りが少ないのが魅力。
東国では金が使われる。
こんな感じ?
782 :
人間七七四年:2008/12/18(木) 10:22:26 ID:qHdcP0IQ
豊臣秀吉や徳川家康は、米相場の価格操作でしこたま儲けたそうだが、
その当時に、それほどの全国規模の巨大な?米市場(江戸時代の堂島のような米市場)があったんですか?。
783 :
人間七七四年:2008/12/18(木) 14:15:36 ID:XMbzPyLc
>>781 銭から現物に移行してるよ >東国
関東では永禄年間に深刻な選銭問題が発生してそれまでの経済体制がほぼ崩壊してしまって維持されていない。
この手の事を検証しやすい北条で例を挙げれば、
永禄七年の反銭の米納を認めたのを皮切りに数年内にすべての税に現物納を認めている。
784 :
人間七七四年:2008/12/18(木) 22:42:53 ID:KzmBL4cw
>>780 そもそも幕府は銭の価値を保証していない。
基本的には中国で通貨となっているというのが信用であり、
西国で言えばアジア圏で貿易に使えるというのが信用。
だから、明が銀の流入で銅銭経済が崩壊し、特に新しい永楽銭の信用が
なくなったため、西国ではより古い貨幣、洪武銭や宋銭などを良銭と
見なしたわけだ。
>>781 強いて言えば、東国では時期的に新しく、流通量の多かった永楽銭を
良銭と見なしていて、比較的多量の銭が確保できたという事が大きい。
それでも最後まで銭による納税を維持した北条家でも最後は物納に切り替えた。
(なお、納税時期の直前に農民がこぞって米を売るため米価が下がり、納税のために
より多くの米を売るはめになるという、農民の生活を保護するためという事もある)
同時期に西国は永楽銭を悪銭と見なして古い貨幣を重宝したため、
良銭の絶対量が圧倒的に不足していた。
785 :
人間七七四年:2008/12/18(木) 23:15:12 ID:2goK0b+Z
江戸初期では銀の紙入とか成熟したっぽい流通の仕方をしてたから、
戦国時代から西国では銀が高額貨幣として流通していたと思っていたが違うんだね。
まあ、各銀山の銀の質が全然違うから難しかったのかな。
786 :
780:2008/12/18(木) 23:31:30 ID:DioOYYAX
>>784 なるほど、勉強になった
そうか、明への銀の流入かぁ、なるほどねー
ついでに大内が結構大量に銅銭を輸入してたのは、どう影響あったんだろうか?
でも誰かの論文で、輸入量はさほど多くないと言う指摘もあったようだけど・・・
787 :
人間七七四年:2008/12/18(木) 23:41:24 ID:oV1Nv+AS
もちろん、秤量貨幣としては使われていたよ。
銀の重さが何グラムだからこれだけの価値ってね。金も同じ。
でも明の貨幣経済を崩壊させるほどの銀が日本から輸出されたってのは、
なんだか不思議な気分だね。
日本で初めて、刻印された額面通りの価値がある計数貨幣を作ったのは、
武田信玄だろう。領内の秤を統一して、その秤を基準に、金貨を規定の重さで
鋳造する。額面と重さが一致しているから、いちいち計量せずに使える。
単純な話だけど、他に誰も成し得ていない。
しかも、単位が1両=4分=16朱=32朱中=64糸目=128小糸目=256小糸目中で、
当時の金の価値が1両あたり3〜4貫とすると、かなりの小額までカバーしている。
銅銭不足を、金貨で補ったということなのだろう。
788 :
人間七七四年:2008/12/19(金) 00:08:02 ID:glm2gws2
>>787 ただ、銀の重さを量るのも当時は難しいんだよね。
石見銀山の銀の含有量は90パーセント以上だけど、他はもっと低かったり。
江戸時代以降は均質になっていったからいいんだが。
まあ、銭も計数貨幣なので、金の計数貨幣という話なら多分そうだろうね。
789 :
人間七七四年:2008/12/19(金) 14:55:39 ID:u+aGWaK+
織田信長は、武田信玄が甲州金を鋳造して
領国内に流通させたように、
金銀で貨幣を鋳造して領国内に流通させなかったのでしょうか?
790 :
人間七七四年:2008/12/19(金) 16:59:09 ID:S6R1tLZG
鉱山資源って今も昔も大切だね。
金鉱脈から金を産出する場合1tの鉱石から0.3〜10gと鉱山によって
まばららしいが、3g取れる鉱山は超優良。鉱石1t取るには普通の土
も取らないと行けないから超大変。
因みに携帯電話1tから取れる金は300gはある。その他にも携帯はレア
メタルの宝庫。日本は分離分解する技術はあるのだが、なぜか中国に
そのまま大量に流れてるらしい。
791 :
人間七七四年:2008/12/19(金) 17:04:37 ID:S6R1tLZG
>>789 結局、金銀で貨幣を鋳造する事よりそれを流通させる流通経路の確保
こそが重要で、信長の軍事行動を見ていけば非常に上手く流通拠点を
確保している。武田も必要に上野に拘ったのは上野が日本海と関東を
結ぶ貴重な陸の流通拠点だったから。後年駿河に侵攻したのも流通経
路の確保の為だね。
792 :
人間七七四年:2008/12/19(金) 18:09:48 ID:u+aGWaK+
>>790 日本の金山の金鉱石は、
外国の金山の金鉱石に比べてかなり優良(金鉱石に含まれている金がかなり?多い)だったそうだ。
793 :
にゃんこ:2008/12/19(金) 21:14:26 ID:f99iQoy+
791>
流通経路重視なら
1,伊勢
2,美濃
3,近江
となるはずだが、実際は
1,三河(松平の妨害で挫折)
2,美濃
3,伊勢
だったのだが。
794 :
人間七七四年:2008/12/19(金) 21:57:57 ID:4mr2n0pr
>>739 人間、生命力と好奇心に溢れているときは人間に興味を持つ。
少し疲れると、人間よりは単純な動物に興味を持つ。
さらに疲れてくると、動かないが育ちはする植物に興味が移り、
もっと疲れてくると、石や器など動きも成長もしないものに手を出すようになる。
おまいさん、まだまだ生命力がたっぷり残っているんだな。ウラヤシス。
795 :
人間七七四年:2008/12/19(金) 22:04:36 ID:k4i3tUVM
>>788 銭は一枚が一銭というだけで、例えば5と書いてあれば五銭、10と書いてあれば
十銭という使われ方はしないので、計数貨幣ともちょっと違うかと?
>>789 信長は京都で永楽銭を良銭にしようとしたり(当時の京都では真逆)、どうやら貨幣政策には
疎そうですな。
>>791 貨幣は所詮は媒体でしかないから、大事なのは人と物の流通やけどね。
それは信長はよく理解していたと思う。
796 :
人間七七四年:2008/12/23(火) 05:10:28 ID:SQt12CWO
>>786 日本の銀の流入が明の経済を変えた、というのもちょっと微妙な話かも?
銀というのは元々大陸の交易通貨(モンゴルとか元とか)でした。
明では当初、銅銭=紙幣の二本立て経済だったんですが、
そこに日本が一文銭ばっかり多量に買い占めたものだから
中国国内の銭の交換レートが乱高下して経済大混乱、
たまらず銀=紙幣に移行した結果、銅銭を作ることをやめちゃったから
日本の銭もどんどん”びた銭”ばっかりに……
…とみる説もありますよ。
ちなみに清の時代に”銭”は復活したんですが
その国内生産量は少なく日本の寛永通宝(鉄銭)が輸入され、
室町時代とは逆の状況になってますね。
797 :
人間七七四年:2008/12/23(火) 12:42:40 ID:xmAuVV1D
日本は貨幣が欲しくて、ちょうど西日本には腐るほど銀があったから、
どんどん交換。明は銀びたしになって銀経済に移行。貨幣の価値暴落。
日本でも貨幣の信用失墜。
石見銀山恐るべし。サブプライム級だな。
798 :
人間七七四年:2008/12/23(火) 17:28:41 ID:BO6s0ZsR
石見銀山を保有していた毛利家と、
豊臣政権下で最大の石高を所有していた徳川家と比べたら、
何となく毛利家の方が金を持ってそうな気がする…。
…徳川家は、最大の石高を所有しているが、
その実、関東の土地は痩せていて、米の生産に適した土地が少なかったし、優良な鉱山等も無かったと思うが、
毛利家は、米の生産に適した土地が結構有りそうだし、
石見銀山等の優良な鉱山を所有し、
交易でも結構稼いでそうだから、
徳川家より金は有りそうに見える…。
799 :
人間七七四年:2008/12/23(火) 18:02:49 ID:vffLpkC4
田と畑の収穫量を合計したのが石高なんで、農業生産力はほぼ石高通りと
見て良いと思うのだが。
800 :
人間七七四年:2008/12/23(火) 21:56:38 ID:KPps0NgH
米雑穀類の農業生産力は石高通りだとしても金はあったんだろうな
石見銀山とたたら鉄とあとは赤間が関・美保関・厳島・鞆津からの運常金
尼子の本拠を数年がかりで包囲、大友との10年以上の筑前豊前攻防、
本願寺側面援護、織田羽柴方面軍と尼子復興軍との攻防、四国征伐への従軍、
九州征伐への従軍、広島城築城、2度にわたる朝鮮出兵
これだけやってなお関ヶ原前夜に数万動員、どさくさに紛れて伊予征伐しようとする
801 :
人間七七四年:2008/12/25(木) 18:37:24 ID:RkYW8zdB
残念ながら毛利は秀次や家康から大金借りまくってたから
802 :
人間七七四年:2008/12/25(木) 20:43:20 ID:79l/5ufn
毛利家のやりくりとして、家臣から借金して新領で返すという
自転車操業が、特徴として挙げられてたような気がスル。
803 :
人間七七四年:2008/12/26(金) 14:07:03 ID:xfenYw8f
北条の税制は
村高-控除分=税でいいんだっけ?
(村高-控除分)×税率=税だっけ?
804 :
人間七七四年:2008/12/26(金) 15:05:05 ID:62tAo2vR
(村高×税率)-控除分=税 じゃないか?
805 :
人間七七四年:2008/12/26(金) 15:59:58 ID:xfenYw8f
仰るとおり、
(村高-控除分)×税率=税
よりは
(村高×税率)-控除分=税
のほうがただしいっぽい。ありがとう。
でも、それで北条の税収を計算してたんだけど、全然上手くいかない。
反銭+懸銭+棟別銭=税らしい。
反銭・懸銭は
畠貫高×6%=懸銭
田貫高×8%=反銭
ということだけど、なんだか少なすぎる気がする。
棟別税=(狭義の)棟別銭35文+正木棟別銭20文。
一軒あたり55文。仮に一人暮らしで二反の田を耕している人がいるとする。
北条では一反あたり500文の貫高だから二反で一貫。
税は一貫の八%だから80文。で、計135文。
一反あたりの米が取れる量は一応一石といわれてる。
(ただし、この時代はもっと多いかも。)
で、米の値段だが、安めに見積もっても一石1200文。(関東は物価高)
135÷2400×100で5.6%と異常に低い税率がでてくる。
これに夫役とかもかかるんだろうけど、いくらなんでも安すぎるなあと。
もしかして、田一反あたり500文が税なんじゃない?と思ったのよ。
806 :
人間七七四年:2008/12/26(金) 17:46:23 ID:fpOQFjr/
織田信長は、あれだけ同時多発的に地方攻略を目指して
天下統一事業を推進していったが、
統一戦争と同時に、
領国内のインフラ整備や国力の充実、軍備の充実等に力を注がなければならないから、
普通の戦国大名とは桁違いの費用が掛かったと思われるが、
彼が領国経営等の経費の補填に苦慮した事は無かったの?
807 :
人間七七四年:2008/12/26(金) 19:02:05 ID:j5i3BO2a
>>801 そんな話は初めて聞いた。どこから得た情報なのかな?
808 :
人間七七四年:2008/12/26(金) 19:31:02 ID:AKYRcff/
>>805 後北条は、永楽銭本位制(選銭して永楽銭の価値を今までより高く設定)ひいて、
それを元に貫高決めたから、税の銭は”永楽銭表記”じゃないかなぁ。
その米の取引値段の銭はびた銭じゃないかなぁ、調べてないので想像だけど……
809 :
人間七七四年:2008/12/26(金) 20:22:56 ID:UoKw2k16
確か1反500文は年貢高だったかと。
つまり、500文が年貢
反銭はたしか田畑を耕作すための税だったような。
これら合計で四公六民というそれまでで最低税率になったという話だったような気が
記憶があやふやですまぬ
810 :
人間七七四年:2008/12/26(金) 22:09:08 ID:xfenYw8f
>>808 一石一貫が基本的な相場だね。
一石1250文が元亀年間の京だと思うんだけど、こちらも選銭が起こってデフレの時期。
恐らく805の割り算の分母はこれより大きくなる事はあっても小さくなる事は少ないと思う。
ただ、こっちも関東の物価を知ってるわけじゃないので間違いはあるかもしれない。
>>809 それなら納得できる。
反銭+懸銭+棟別銭=税ってのが間違いなのかなぁ。
811 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 00:00:15 ID:5igIWPaZ
>>805 >もしかして、田一反あたり500文が税なんじゃない?と思ったのよ。
その通り。で、プラスアルファとして段銭、懸銭、棟別銭があります。
一応領内の基本的な米の売値が定められていて、ちょっと詳細は忘れてしまったが、
以前、実質税率を計算してみたところ、結局収穫の4〜5割程度という結論になった。
ただ関東は二毛作可能だからマシ。その分は純収入になるから。
上杉家(越後は雪のため二毛作できない)は一反を700文で評価してたとか
聞いたことがある。
>>806 単純に言えば、商人から巻き上げた。例えば上洛直後に堺から2万両、本願寺から5000両を
巻き上げ、拒否した尼崎を焼き討ちしたが、武田信玄の上洛資金が7000両だったとか、
上杉謙信が遺した黄金が2万両だったというから、こりゃちょっと大変な金額。
812 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 00:12:05 ID:wb5MTOG7
堺の資金力が尋常じゃ無いことが分かりますなぁ
813 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 00:29:12 ID:5igIWPaZ
基本的に日本最大の都市である京都に向かって、全国からモノが流れてくる。
大阪湾から京都に入る、つまり全てのモノが通る道を、堺の商人が押さえている。
そりゃ儲かるわ。
814 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 03:28:49 ID:p7ujTyLo
このスレも糞だな、何でそんな適当な話すんの?
>>801もそうだが、お前それ2chの過去スレで誰かが適当に質問調で言った
事が出典だろうが?
>>811上洛直後に堺から2万両???
…お前なそんな間違い指摘する気にもならん、そんなのゲーム厨でも知っ
てるつーの。確りしろよ素で両と貫文間違えるなら戦国経済語るな。
815 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 04:06:39 ID:y2RDjlcs
無駄に尖ってるねぇ
両なんて単位は畿内で一般的じゃないことぐらい皆知ってるんだから、
いちいちつっこみ不要。
>>811 ありがとう。
基準(物納時の評価額と思う)では榛原枡で1斗2升が100文らしい。
榛原枡の大きささえ分かれば一応の税率の計算できるんだが・・・。
帰省中で大学の図書館に行けん。
仮に現在の枡と同じ大きさとする。
そして、太閤検地の一反=300歩から一石取れると仮定する。
北条家の一反=360歩だから1,2石採れる。
年貢高が500文だから6斗=0.6石
この時点で五公五民となる。この上に段銭、懸銭、棟別銭、等々がかかるから、
ちょっと重くなる。
まあ、仮定だらけで無意味な数字かな。
物納時の評価額=米屋の買取価格とも思えないし。
816 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 04:36:13 ID:bsIWyGNo
宝永大地震以前の遠州灘は今よりもっと北にあって、菊川の河口近くには
湊が栄えていたんだって。地震で地盤が隆起して以降は面影も乏しいけど、
海路の難所である遠州灘の中継地点として確かにいい位置にある。
現代の感覚だと「あんな辺境の山城がなぜ重要拠点?」と感じそうな
高天神城もこれを踏まえると東海道と湊を結ぶ菊川を扼し、軍事的にも
掛川城と湊の水軍の連携させることができる要地だと知れる。
817 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 11:06:09 ID:rZRBJaig
足利幕府の末期の財政基盤はどんな感じやったんですか?
…足利幕府の末期ともなると、御料所なんぞは殆ど無いし、
勘合貿易で利益を稼ぐ事も無かったから、
何を財源にして、幕府の経常費を賄ってたんかな?
818 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 11:53:33 ID:DT25Y2M7
>>817 山城や大和にちょっと有った程度でしょ。それほど多くの直臣があったわけでもないし、中央政府としての機能はとっくに有名無実化してる。
そもそも室町幕府というのはそれほど多くの直轄地を持ってない。五山からの莫大な上納金が財政基盤になってたからね。
朝廷さえも踏み込めない聖域だった五山も、信長の比叡山弾圧が象徴的で、急速に弱体化してる。
819 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 12:04:53 ID:Es+At8Lx
>>817 津料や関銭などの通行税や商人達に対する営業税が主かと。
関所ってお金儲けの手段でもあったんだよねぇ。
たしか後北条の武士で土地ではなくて、関銭や待ちの商人達からの税徴収権を知行代わりに
もらってたのがいたという話を読んだことがあるよ。
820 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 12:11:34 ID:y2RDjlcs
末期の御料所からの収入は山城丹波摂津からが主だとどっかで読んだな。
821 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 13:18:02 ID:UhvpsTVn
天文法華の乱は、商人が幕府に対して地子銭を納めたくないと言いだしたのが
原因の一つなので、さすがに弱体化した幕府もお膝元の徴税権は持っていたのだねえ。
822 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 15:35:44 ID:EaaXBedD
>>817-818 雇い主の幕府(将軍家)がそんなんだと奉公衆の方々は大変だったんじゃねえのと想像w。
だからこそ細川や三好がでかい顔できたわけだが。
823 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 21:52:04 ID:aOGU1ckh
足利義昭は京都を追い出されても五山に対しては権限を持ったまんまなんだよなー
でもまあ、幕府の財政って基本はその時点で幕府の実権を握ってた管領次第じゃないの。
824 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 23:28:33 ID:zU1953y0
>>811 信長が上洛時に巻き上げたのは二万五千「貫」が正しいが、3〜4貫で1両相当とすると、
田舎大名が集めた上洛資金ぐらいは商人脅せばすぐですよ、ってとこか。
とすると、信長以前は堺は三好氏の畿内への前進基地でもあったはずだけど、三好氏も
金持ちだったんだろうか・・・・?
825 :
人間七七四年:2008/12/28(日) 16:54:40 ID:8flkPIvG
金とろうとか思わなかったり
出してもらっても少しで満足出来たりするれば又違うでしょ。
後、力関係もあるだろうし
826 :
人間七七四年:2008/12/29(月) 00:58:13 ID:0Eih/I/V
三好家だと誰がどこの徴税権を得るかで内紛しそう
827 :
人間七七四年:2008/12/29(月) 02:59:41 ID:nXESr98R
堺は自治都市だからお金はそうそう出さんでしょう。
防衛の為の兵力も有してるしほいほいと払ったりは絶対しない。
信長が力づくでやる前は
828 :
人間七七四年:2009/01/04(日) 23:55:07 ID:BZrY7G8W
自治都市とはいえ、バックに大勢力がいなければ、戦国大名に敵うものじゃない。
海上の安全確保のために堺の商人は村上水軍に年間一万貫を払ってるが、
当然ながら陸上での後ろ盾となっている勢力にも相当の上納金を払ってるだろう。
829 :
人間七七四年:2009/01/05(月) 05:28:17 ID:T4cegbSX
そんなに払ってたの?資料だと、村上氏に徴収権を放棄させた代償に大内氏に
支払われた額は200貫だけど、それまで村上に万貫も払っていたってのは法外すぎないか?
瀬戸内の海賊は村上だけじゃないのに、一箇所でそんなに払ってたら商売になんない。
830 :
人間七七四年:2009/01/05(月) 06:55:08 ID:qNsdiwPD
831 :
人間七七四年:2009/01/05(月) 08:37:48 ID:E2Myb5Q7
>>830 多分、俺の知ってる資料と同じだけど、2万疋=2000貫?
2万疋は普通200貫だよ。一疋10文。
そのサイトは1疋=100文という何か根拠あるんだろうか?
一疋30文だった記録は俺も知ってるけど、100文というのは初見。
832 :
人間七七四年:2009/01/05(月) 23:51:08 ID:eeckWRMJ
山内譲氏の『海賊と海城』では一万貫と言っていたかな。
最盛期の三島村上氏は塩飽とか広い範囲を影響下に置いてるからねえ。
ま、京の町衆も天文法華の乱の後、比叡山に年間一万貫を
払ってるし。お金ってあるところにはあるのかねえ。
833 :
人間七七四年:2009/01/06(火) 10:58:46 ID:SMpmiCbb
要は利益が出ればいいわけだしね
太平洋ルート:天候不順や黒潮に乗ってしまった時の航路の危険度、及びとっさの寄港先の有無
瀬戸内海:海賊はやっかいだけど一定金額さえ払っておけば水先案内船までつけてくれ航路の
安全性は保障され、いざ天候不順な時には逃げ込める寄港先には事欠かない
明、朝鮮、ルソン方面、九州からの物産を畿内一円、東日本へ流す事によって利益を
得ていたのが堺港だから
船丸ごと(当然人も物も)ロストする危険性を犯すよりも航路の安全性を金で買った方が
よほど利益になる
834 :
人間七七四年:2009/01/16(金) 14:59:27 ID:EeYTauSU
覇権を博多と堺が争っていた訳でしょ。
835 :
人間七七四年:2009/01/18(日) 14:27:39 ID:v8iqSSXK
・豊臣秀吉 → 金9万枚、銀16万枚、金銭5貫文、銀銭200貫文、金銀分銅数知れず?…。
・徳川家康 → 江戸に400万両、駿府に200万両、金銀分銅数知れず?…。
の遺産を遺しているが、
織田信長や他の有力な戦国大名は、
どのくらいの遺産を遺していたんだろうか?
836 :
人間七七四年:2009/01/18(日) 14:40:08 ID:p2GvyUZL
チョット教えてほしいんだけど、
信長の政策で「楽市楽座で領内の商業活動をさかんにした」
ってよく聞くけど、税金をとるわけでもないのに信長や家臣達にはどんなイイコトがあったの?
837 :
人間七七四年:2009/01/18(日) 14:59:53 ID:1SswIwH0
商売敵が増えれば対抗上物価が下がる
庶民万歳、民忠が10上がった(^ω^)
838 :
人間七七四年:2009/01/18(日) 15:03:37 ID:EaNQfKe/
>>836 信長の発した楽市令は3件。岐阜加納。近江金森。そして安土。
加納と金森は信長以前から楽市であったところを、信長が追認したもの。
安土は既存の楽市を真似たものと理解される。
経済的には、追認型は上納金を取っていると考えられる。
安土は人集めのためかもしれないが。
あと、信長は座を潰したりはしていなくて、基本的には全て認めている。
もちろん上納金を取る。
楽市令自体は信長のオリジナルなどではなく、信長以前から行われています。
今川氏真だってやっている。
839 :
人間七七四年:2009/01/18(日) 15:08:07 ID:TeZdkrmr
世田谷のボロ市は、北条氏政の楽市が元だしね。
840 :
人間七七四年:2009/01/18(日) 19:04:56 ID:p2GvyUZL
「生産手段の土地と人民は俺が独占して、
家来には現金や米を支給すれば会社の財産は守られるぞ」
って考えはなかったのか?それとも思い付いたけどできなかったのか。
841 :
人間七七四年:2009/01/18(日) 19:55:48 ID:FcSZqs0n
600年かけて封建制やってきて、律令制に戻るのかw
842 :
人間七七四年:2009/01/18(日) 20:31:54 ID:p2GvyUZL
でも自分の家来が謀叛の手段を持っているって怖くないか?
843 :
人間七七四年:2009/01/18(日) 20:52:40 ID:7CIk8hPP
近代軍隊でもクーデターやれるよ
844 :
人間七七四年:2009/01/19(月) 03:50:43 ID:u6s5Gt9a
>>824 そりゃそうだろ、数年で播磨、丹波、河内、大和を制圧したのを見る限り
後年の信長と比べても、なんら引けをとらないどころか
三好の方が活動的で手腕に長けてるとも見えるし。
あと10年生きてれば、そのまま信長なぞるような事跡を残したんじゃないか
845 :
人間七七四年:2009/01/19(月) 21:03:47 ID:dMtebRz7
三人衆(笑)とかやってるうちは、無理でしょ。
846 :
人間七七四年:2009/01/20(火) 18:11:27 ID:3s0uwv3T
信長の親族より優秀だし問題ないだろw
織田家は信長横死したら一瞬で瓦解したからな
847 :
人間七七四年:2009/01/21(水) 05:31:59 ID:+OVpK+UW
信忠が生きてりゃ・・・、まだ・・・。
848 :
人間七七四年:2009/01/21(水) 06:17:17 ID:E0RLitOo
はいはい。該当スレでやろうね。
849 :
人間七七四年:2009/01/21(水) 15:05:59 ID:364lY1bM
戦国大名自身の直轄領(蔵入地)って、
各々の戦国大名の勢力範囲の
どのくらいの割合で持っていたんですか?
850 :
人間七七四年:2009/01/21(水) 16:01:46 ID:grpVQDci
各大名によって差が著しいので、これぞ、という値はなかなか出せないと思う。
一例を挙げれば、関ヶ原直前の家康の石高は240万石で、蔵入地は100万石といわれている。
ゆえに、おおよそ四割。
851 :
人間七七四年:2009/01/21(水) 19:35:07 ID:LP0/guep
>>850 旧来の大名である長曾我部や島津は15%
豊臣大名は25%、近世大名は40%位
因みに家康は五ヶ国時に25%、関東時に40%
これだけを見ても徳川家の凄さが解る
852 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 00:26:35 ID:LYGsfHw4
>>851 島津氏は蔵入地の割合を上げるためにかなり強引なことをしているよね。
>>849 まず、直轄領≠蔵入地。
家臣の所領もその家の代々相続してきた土地+新恩の地
この点、大友氏の下にいた宣教師の面白い書簡がある。
日本の大名は、ヨーロッパの諸侯より貧乏だというもの。
これは、直轄領内の蔵入地をなるべく少なくして、土地を捻出し
家臣に与える(新恩の地)ようにしていたそうだ。
おまけに罪を犯した家臣の没収した土地も親族に与えるか
機会を見て返還する。
そんなわけで、蔵入地は普通なかなか増えない。
ただし、大友氏の場合は、領内最大の商業地府内・博多さらに臼杵、
肥後から府内への交通の要地(当時市が立って賑わっていた)も抑えていたし、
穀倉地帯にも蔵入地を持っていたから、蔵入り地の割合が低いことで、それほど困らないだろう。
ちなみに大友氏の重臣吉岡長増・戸次鑑連・斉藤鎮実は、菊池氏制圧の功績で
肥後(合志)に各10町歩の田畑を恩賞で貰っている。
853 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 01:16:24 ID:ibk3r36e
>>852 あの所業はまさに「鬼」島津w
100石取りの家臣A、あなたの領地を検地します。
調べた結果、貴方の領地は300石相当です。
でも貴方の知行は100石ですので、差分は200石は島津家がいただきます。
面積は1/3になっちゃいましたが、知行高は変わりませんので当然兵役も変わりません、よろしく!
あら不思議、直轄領が一挙に二十万石強増えましたw
854 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 01:44:10 ID:23HjvEJl
自分の土地が14%、直属の家臣も含めれば26%、
一族やら譜代重臣も足せば51%、残りの49%は、その他の国人って感じで
過半数の過半数の過半数を持ってるから第一人者という
ちょっと昔の自民党政治みたいなもんといってる人もいたな
855 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 01:51:39 ID:ibk3r36e
うまいたとえだ
856 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 23:24:03 ID:GWHp+Fw+
日本人町増強すれば貿易で儲かったんじゃないか?
857 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 23:33:43 ID:gXluy1bW
>>856 総体から見れば日本から金銀が流出し続け、
浪人は欧州諸国の傭兵として倭寇の名をもって、悪名を垂れ流し続けた
根本から貿易の方針を変えない限り、碌でもない事になっていたでしょう
858 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 23:37:32 ID:pYtbfwKj
かなりの量流出したんだろうなー
859 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 13:02:57 ID:G8e9wVDv
金銀だが、
織田信長は、美味しい金山や銀山を
所有してたんですか?
また、信長は海外との交易は、
派手にやっていたのでしょうか?
860 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 13:26:28 ID:7ZU738af
信長の頃は、金はもう出なくなったが銀は大量に産出できた。
日本、ポルトガルの貿易商人は、日本から銀を持ち出し、金を産出していた明で
有利なレートで交換し、これを繰り返して儲けていたらしい。
最終的にはヨーロッパに持ち込まれたのであろう。
ただ南米で銀が大量に産出してから、
交換レートは日本に不利になったであろう。
また銅の産出も日本では盛んで、家康がスペイン人に
優秀な精錬技術の提供を依頼したが、国家機密として
手に入らなかった。
861 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 15:08:37 ID:6MT4o+5p
南部・・・三戸・七戸
上杉・・・佐渡・松倉
武田・・・深沢・蒲原・岩殿・下山・甲府・韮崎・内山・高遠・上原
毛利・・・石見
山名・・・竹田
三木・・・飛騨
北条・・・韮山
織田・・・大河内
862 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 14:30:16 ID:qZFRJvpg
「土地」というシバりから一番早く抜け出せた大名が富を多く手にしそう。
863 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 14:39:54 ID:XujRyAAq
>>862 永遠に抜け出せないだろ。基本的な生産手段が土地なんだから。
864 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 15:01:10 ID:TzKx6Bjj
土地というより国人領主に縛られている。
865 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 16:02:30 ID:qZFRJvpg
俺が言ってる土地っていうのはつまり田畑の事で、
現金を得てお金で軍隊や物資、家来の俸給を賄う事ができれば
地縁血縁から飛躍出来るんじゃないかと思ったのよ。
866 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 16:10:07 ID:XujRyAAq
>>865 だから
> 現金を得てお金で軍隊や物資、家来の俸給を賄う事ができれば
中央権力不在の状況で、これは無理だと言ってる。
欧州でも、土地による生産力から乖離して常備軍的戦力を持てる様
になるのは、ルイ14世による中央集権化の推進以降なんだぞ?
(しかもリシュリュー・マザランによる、半世紀以上の徹底的な重商主
義による下積みの上で、だ)
867 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 16:33:52 ID:iE2Bb9Xa
貨幣の流通、基軸通貨という問題がありまする。
868 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 16:35:50 ID:bYtaLNlk
選銭で貨幣経済が破綻寸前の戦国時代で徹底した重商主義は、難しすぎる
869 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 16:47:28 ID:tB40icy+
そこで銭の代わりに米を使うんですよ
アレ(・ω・)?
870 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 17:36:26 ID:BHSqR15G
重米主義か
871 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 18:46:18 ID:iE2Bb9Xa
米ではかさばるから、茶器にしちまった信長。
872 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 21:05:05 ID:X5zXP/4m
重茶主義
873 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 23:55:30 ID:qZFRJvpg
堺商人が浪人雇ったり領地なさそうな海賊衆が暴れ回ったりしてたらしいから
領地がなくても武力を保有出来ると思ったんだけど違うのか……
874 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 00:25:10 ID:i8p+m0Ec
>>873 土地を捨てて武力を養えたとしても、捨てられた土地に根付く武士は誰が抑えるんだ?
って問題もある。
ヤクザの総長が引退して、警察のトップに転職しました〜みたいなもん。
875 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 01:01:00 ID:hf2o9M7P
土地を捨てるんじゃなくて、
例えば石高があんまりなくてもたくさん兵隊を持ったり、農繁期に関係なく戦えたり信長みたく本拠を自由に移動出来たりメリットがデカそうだな、と。
876 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 01:33:50 ID:QQjvNN2w
知行は一代限りじゃないって事、わかってる?
だからこそ配下の武士は一所懸命に戦ってくれる。
自分が死んでも子孫に残るものがあるからね。
これは農民にも同様のことが言える、
彼らの家族が安定して暮らすためなら、奮戦を期待できる。
傭兵は、これは東洋に限らず西洋でも言える事だが、自分が死ねばそれまでなので、
雇い主への忠誠なんてほとんどないのが大半。
契約が続いている限り裏切らない、なんてのは幻想。
傭兵は略奪には熱心でも戦闘には役に立たないからと、大名達は嫌がってるし。
同じ一人でも、
自分が死んでも何か残せる奴と、
自分が死んでは何も残らないという奴とでは期待できる士気が違いすぎる。
877 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 02:28:45 ID:8nTx3znV
地縁血縁があるからこの時代の人はまとまってるんだよ
それが無いのに同等な質の戦力を金で繋ぎ止めようとしたら膨大な金額が掛かる
結局損をするって話
878 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 03:25:47 ID:/lgnkvjq
>>873 都市国家のレベルであれば可能なことでも、領域国家では不可能。
そんなことはザラにあるだろ。
また欧州の例だが、中世のヴェネツィアは農産物に頼らず、交易で
国の利益のほとんどをまかなっていたし、その利益によって防衛力を
維持してきたが、広大な領地を持つ領域国家がこれをまねることが可
能か?
中世〜近世の主たる産業は農業であり、これはいかんともしがたい。
そして農業は、土地と深く結びついている。その土地という生産手段は
中世的封建領主によって握られている。これを無視して、大規模な経済
力や兵力を持つことは出来ない。
また、簡単に「金」とか「資金」とか言うが、この時代に安定した貨幣が存
在し、潤沢に供給されていたと思うか?
上の二つの問題点を解決するには強大な中央集権的権力が必要。そして
それを実際に行ったのが豊臣政権と徳川幕府であり、それにより中世から
近世へ時代が進んだのさ。君の考えていることは順番が逆だってこと。
879 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 10:21:34 ID:SVvoXQyJ
現代の志願・徴兵された兵隊は土地に縛られずに国の為に戦ってるけど、
それは国民国家という概念が国民一人一人にあるからだよ
戦国時代にはまだ無い
880 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 20:33:51 ID:2ypP9pqR
レアメタルの縄張り争いしてるアフリカの貧困国は戦国時代以下だよ
881 :
873:2009/01/26(月) 21:02:33 ID:hf2o9M7P
イロイロ勉強が足りなかったようでスミマセンでした。
もうひとつ教えて欲しいんだけど、地縁血縁が重視される戦国時代で、
信長が家臣の不満や反対を振り切って本拠地を移転しえた強権の源は何ですか?
882 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 23:42:54 ID:pIK88J9l
本拠地移転自体は島津も大友も三好も朝倉も上杉謙信も
北畠も斉藤も武田も伊達政宗も芦名も里見も佐竹もやってる
検地と同じく別に言うほど大した事じゃない
883 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 23:48:55 ID:Ud+M2gkn
ついでに北条もだね。
884 :
人間七七四年:2009/01/26(月) 23:56:03 ID:QQjvNN2w
北条宗家だけじゃなくて、氏照も誰に言われたでもなくやってるな。
あと戦国時代から微妙にずれるかもだが、毛利の広島移転もそうだね。
引越しには確かに金はかかるけど、
それを上回るメリットがあるなら普通にやるよ。
885 :
人間七七四年:2009/01/27(火) 02:16:17 ID:BWvuTn6n
室町期の話だが、阿波細川家は守護所を秋月→勝瑞へと移転している。
同じ郡内では有るのだが、
内政が安定し、南朝の残党が跋扈していた山岳地帯に対する警戒の必要性が低くなったため、
より開けた交通の便利な場所へ移転したのだと思われる。
886 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 00:06:47 ID:REhMrJf+
楽市楽座が信長の専売特許じゃないことは分かってるんだけど、なんで一般的には信長だけが脚光を浴びてるんだろう?
あとこの件に関して信長の新しさというか貢献は何なの?
887 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 00:38:07 ID:xd3vh/0B
信長の楽市楽座(つーか経済政策)の功は、
領国の規模が段違いって点だろうね。
888 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 04:08:57 ID:BHYYy9mB
信長=英雄の結論ありきで研究のようなものをしていた
古い文系人共の産み出した弊害に満ちた虚構が
長い間人口に膾炙してたからでしょ
889 :
人間七七四年:2009/01/30(金) 19:11:01 ID:4g9RyFIy
ちょっと話が逸れるけど、
武田って駿河を征服した時になんで本拠地を移さなかったんだろう。
石高・交易拠点・上洛戦の出発点、甲斐にいるより有利になったんじゃないかと思うんだけど
どうだろう。
890 :
人間七七四年:2009/01/30(金) 20:12:37 ID:97w1LOY9
>>889 上杉との決着がついていなかったからというのが要因の一つだろうね。
駿河に本拠地を移したら上杉が動いた時の対処が遅れてしまうから
勢力範囲の中心近くに位置する甲府から動かなかったんだろう。
891 :
人間七七四年:2009/01/30(金) 20:57:16 ID:kW5qY7Tn
まぁ移転するほどの利点はまだ無いわな
892 :
人間七七四年:2009/01/30(金) 21:40:58 ID:xk4itK1m
>>859 秀吉に比べれば、鉱山がらみの話って聞かないね。
>>860 日本の金の最盛期は、家康が大久保長安を起用して以降だよねん。
>>887 だが信長の楽市令で確認できるのは、岐阜加納、近江金森、あとは安土の
3件ぐらいじゃない?
岐阜加納と近江金森は、以前から楽市だったのを追認した形だし。
>>889 信長ぐらいの領国を持って、方面軍を編成してバラバラに戦うとかでないなら、
動員の際は各地の兵と道中で合流しながら目的地に向かうから、本拠地がどこでも
あまり変わりは無かったり。
岐阜は濃尾平野を一望できるとか、安土なら京都との距離が一日だとか、本拠地として
明らかなメリットがあれば別だけど。
893 :
人間七七四年:2009/01/30(金) 23:17:28 ID:MMP79mO0
>>889 駿河府中に移転するならそれ以前に諏訪に移ってるだろうね
小笠原村上上杉とドンパチやってる時期でさえ諏訪に本拠を移さなかったと
いうことは甲斐から移す意思はないということじゃね?
894 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 10:38:56 ID:IqRpSoBm
秀吉に出した金の総量では
上杉・伊達がトップワンツーで全国の8割を占めてたし
銀山といったら毛利(上杉領にも大きな銀山があったような)
ここら辺は信長は奪ってないからなー。
895 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 12:50:59 ID:taML/HS7
むしろその当時に諏訪に本拠地を移して、居城が襲われた場合、
兵力で言えば主力は甲斐の兵だから、甲斐から兵が来るまでに
3日かかるとして、その間に主君が殺されてしまうなw
896 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 15:41:21 ID:T7Ghu8U3
武田はともかく、北条・大内・今川・朝倉と
古くからの本拠・領国が安定発展してた家は移す意味無いだろね
897 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 16:43:40 ID:VwaV0Vua
講談の域を出ないが、北条は江戸への移転計画があったとかなんとか。
氏政は江戸周辺の統治に格段に心を砕いているのは事実だし、
隠居所として江戸を志向していたらしいしね。
898 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 16:50:18 ID:uvwGJZGg
北条は一応小田原へ移転したといえるな
後年氏政が江戸の直接支配開発に取り組んでいるから
あのまま関東での勢力拡大が続けば江戸近辺かに移転した可能性もある
織田の場合は小牧への移転もあるし、信秀も頻繁に本拠移転している、
こちらは経済の中心への移転というよりも軍事を優先したからか
899 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 19:09:05 ID:EqeNgvUP
>>889 当時の駿府は安倍川の氾濫が意外に多く、町としても狭くて、本拠地としての発展が望めなかったらしい…と何かで読んだ事がある…海に暗い武田家では、遠浅の清水湊を利用した貿易は意図しなかったのでは?
…釜無川のようにはいかなかったのでしょうか?
900 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 19:53:19 ID:uHsAm6kW
まだこの時期、秀吉以降のような有無を言わさない家臣の知行地の割り振り、
領国統治のシステム構築の対応など、迅速にはいかなかったからでは。
中世たる社会の片鱗では。
信頼に足る貨幣流通の欠如が基盤にはあると思う。
901 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 20:13:45 ID:GpPW/sxm
信長は自分自身は直轄地の中で好きな場所を本拠としたけれど、
部下の領地を転封してやるようなやさしさは無く。
身代の大きい武士なら、領地に代官置いとけば足りるのだが、
そんな余裕のない武士、あるいは自分と家族で田畑を耕してた
武士層には大層な迷惑だったようで。
信長の馬廻の中には家族を尾張に残して安土に単身赴任していた者がおり、
安土で火事があった際にそれが発覚。家に人がいないから火事を出すのだと
激怒した信長は彼らの尾張の家に放火した。
おそらくその後は尾張の土地には小作を置いたのだろうが、収入は小作人の
取り分だけ減少するわけで・・・・
902 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 20:15:30 ID:GpPW/sxm
>>899 貿易もなにも、清水湊は当時の主要港の一つであり、何もしなくても
太平洋沿岸を航海する船が停泊料を落とす、重要な収入源。
903 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 20:22:05 ID:NvB8GVou
武田家が駿河支配の拠点を駿府ではなく江尻とし、
山県昌景や穴山信君などの重鎮を置いたことや
伊勢や伊豆の海賊衆を呼び寄せて水軍を強化した事など、
いかに海運を重視していたかわかるというもの。
904 :
人間七七四年:2009/01/31(土) 23:36:22 ID:fZjsMJTr
>>899 何のために嫡子を殺してまで、駿河を攻めたかっていえば、
・海が欲しい → ・港がもたらす経済的利益が欲しい
という連想が働くはず。
905 :
人間七七四年:2009/02/01(日) 00:07:16 ID:F5bhmEel
本に100万石で年収330億円ってのってた
906 :
人間七七四年:2009/02/01(日) 01:39:03 ID:zwE22WQl
「経済的利益」の不適切な一言で括る短絡さからしてお察しだな
駿河1国が欲しいのであって、港はオマケ
907 :
人間七七四年:2009/02/01(日) 08:05:43 ID:WDYg41qT
三河時代の徳川家は、
強力な?水軍や、美味しい港等は所有していたんですかねぇ〜?
908 :
人間七七四年:2009/02/01(日) 08:58:49 ID:8Srzi8Ks
>>907 伊勢から駿河までは基本的に同じ伊勢水軍系から傭兵として
雇ってたので、この間の水軍はガチで戦闘した事はありません
特に徳川家は双方が伊勢水軍系なので、領国警備というより
魔除け札程度に雇ってた節があります
彼らが駿河領有後に武田水軍を吸収するのは、隣国に異なる
水軍系(東国)と接触し、強力な水軍が必要としていたからです
909 :
人間七七四年:2009/02/01(日) 10:03:39 ID:qhVgki0b
伊勢から駿河にかけて、当時の海運の難所だったんでしょう。
水軍といっても、今のように迅速に行動できなかったのでは。
910 :
人間七七四年:2009/02/01(日) 10:38:38 ID:8Srzi8Ks
勿論、現地出張です
911 :
人間七七四年:2009/02/01(日) 10:52:07 ID:YE0wiH8m
ところでどうやって商人から徴税するの?
確かに隠し田はあったにせよ田畑からあがる年貢はゴマカシ様がないとして
戦国時代に確定申告なんてあるまいし現代でいう脱税なんてザラにありそう。
912 :
人間七七四年:2009/02/01(日) 11:08:39 ID:xF267rk0
>>911 地子銭や座からの上納金など、定額タイプです。
913 :
人間七七四年:2009/02/01(日) 13:16:13 ID:YyNzkrtd
>>908 なるほど。
桶狭間の直前、尾張沖の制海権が今川方に握られて
いたというのも納得した。
>>911 大商人にお金を貸しなさいと言う。
もちろん返さない。
あと、茶器を献上しなさいと言う。
914 :
人間七七四年:2009/02/03(火) 07:20:34 ID:6dawFly3
家臣に対して軍事面では「百石につき何人兵士を養え」と命令できたとして、経済面ではどういう負担をさせていたのかな?
江戸時代には色々公共事業させてたみたいだけど。
915 :
人間七七四年:2009/02/03(火) 10:33:49 ID:JByQZb0p
>>914 手っ取り早く、公共事業に伴う予算確保のため、知行半分召し上げとか
916 :
人間七七四年:2009/02/03(火) 19:25:52 ID:f+1RF3wn
>>914 森林は公儀のモノだから材木もって来いとか
海川は(ry‥魚獲って来い、山は(ry‥石寄越せ
年貢は貴様のモノだが民そのものは(ry‥城普請しろ、とかじゃね
917 :
人間七七四年:2009/02/03(火) 20:49:31 ID:PNgA808E
>>914 単純に言えば、配下の武士には軍役と賦役が課されている。
賦役ってのは、公共事業に人足を出しなさいって事やね。ものすごく単純化すると。
で、賦役の代わりに土地の名産品を納めるとかのパターンもある。
まあ租庸調の律令時代から変わらんと言えば変わらん。
江戸時代の中期には、武士がそれぞれの領地を治めるという図式は崩れて、
武士はサラリーマン化する。
918 :
人間七七四年:2009/02/04(水) 12:53:14 ID:3+t7kaSd
>>917が言ってる前半は「地方(じかた)知行制」、後半は「俸禄制」ね。
もっとも仙台伊達や薩摩島津は幕末まで地方知行制だったそうで。
(篤姫の実家が指宿辺りに領地を持ってたのが例)
919 :
人間七七四年:2009/02/04(水) 19:57:40 ID:w8ks3QGg
地方知行制
所有者の意識が俸禄制と全然変わる
軍事の強さを維持したいならこちら向き
でもやっぱり民からみるとかなりきつい
せめてなりたや御蔵百姓(殿様直轄)なんて詞が
残ってる
920 :
人間七七四年:2009/02/04(水) 20:45:16 ID:Ks3kNNrb
俸禄分の米や金支給するから城下に住めってヤツだっけ?
921 :
人間七七四年:2009/02/04(水) 22:54:33 ID:9X/WxBxa
>>918 今和泉島津家は、事実上の薩摩藩の支藩じゃないのか?
922 :
人間七七四年:2009/02/04(水) 23:43:25 ID:3XXBGoH7
>>921 詳しくは知らないけど、支藩だったら、将軍家から「領知朱印状」みたいなものを交付されるんじゃなかったっけ?
今和泉家は島津本家から家禄として知行地をもらってるんだと思うんだけど、違うかな?
923 :
人間七七四年:2009/02/07(土) 20:54:15 ID:QzNQBYWO
飛び地で領地もらっても統治がしにくかったり生産性が悪そうで経営がメンドくさそう。
924 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 10:14:22 ID:uxLZHUdR
大名の直轄領の年貢取立てを行う代官は配下の給人武将だったことが多いと思うけど、
そいつは自分の領地の年貢と共に主君からも録をもらってんだろうか?
それとも費用は自分持ち?
925 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 13:43:14 ID:WjQS/zka
北条なら年貢とは別に代官の給料分を徴集してたはず
926 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 19:37:08 ID:UNnfZhNE
年貢と別じゃなく、年貢の中から代官給与を差っ引いて上納
927 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 01:33:46 ID:/jFlTl+r
お前ら何万石までなら経営できると思う?
928 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 01:58:29 ID:+/KckEdA
俺は村ひとつでいいよ
929 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 02:24:48 ID:5al17pIj
経済力というか財テクという点じゃ
謙信>義元>信玄>長慶>氏康>>>>>元就
こんな感じか
元就は石見銀山がたまたまあったというだけで
領内の利権は土豪や海賊連中に丸投げしてるほどの能無しだからな
930 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 03:11:02 ID:TvCMm1iN
石見銀だって、博多に持ってっての海外交易品だし、
小早川家では貿易で得た銭に混ぜる私鋳までしてるし、
毛利家が他の所と比較して、経済に疎い、っていう評価はちょっと、、、
931 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 04:42:28 ID:ry8ECiYo
929はゆとりなので許してつかーさい
932 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 18:40:07 ID:xijjTa+y
個人的には毛利元就と尼子経久・徳川家康(特に元就)は
あの時代の中でも抜けて優秀だったと思うな、経済関係ないけどw
933 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 19:05:46 ID:F1XB+OWF
経済力の目安が動員力だとすれば…
戦の規模と回数と動員力で言えば、信長と謙信がダントツ。特に謙信は、佐渡金山を開発する前だったし…
毛利は見た目ほど楽ではなかったと思う…四国・九州に備える為とは言え、
備中高松城の援軍に3万…信長の10万(公称)と比較(敢えて単純に)すれば、
十ヶ国でもそれが限界だったという事。
934 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 21:11:46 ID:xijjTa+y
その辺は環境次第だからまあ
関東侵攻時は諸大名・国衆の軍勢が大半だろうし
信長は当面の相手だった斉藤、六角の当主が
共に朝倉義景、今川氏真なんて目じゃない暗君
上洛時も三好長慶早逝で三好家瓦解した状態だったわけで
935 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 09:28:39 ID:QJmlXsWA
上杉にはあおそと日本海交易路と港(直江津)
織田には陸上交易路と港(熱田)
毛利には何もなかったが瀬戸内交易路と港をもつ大内を飲み込み(赤間ヶ関、鞆)、
次いで銀と鉄と日本海交易航路と港(美保)をもつ尼子を併呑した
とはいえ本気で何もなかったわけではなく高橋氏を滅ぼして木材、吉川氏に元春を
送って武器精錬、小早川氏に隆景を送って瀬戸内航路にちょっかいと足場固めを
してはいる
936 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 09:44:58 ID:dqNH0N9b
まあ、統治機構・税制・軍制の近世化、という意味では毛利が進んではいなかった
ってのは確かだなあ。上杉も島津もその点ではお話にならない訳だけど。
937 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 09:48:45 ID:Ey/7BkNK
兵農分離とか言い出しそうで怖い奴だな。
938 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 10:08:43 ID:dqNH0N9b
>>937 ・・・おいおいおい。そう言うこと言ってる訳じゃないんだが。
中間既得権層の整理や、中世的な税の二重構造、煩瑣で無駄な
労役負担などに手を付けなかった(手を付けられなかった)という
意味だぞ。
近世化って言ってる時点で兵農分離とかと関係ないってことに気
付いてくれよ。
939 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 11:06:01 ID:ycNfVKWF
940 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 11:21:46 ID:NIBvYeAh
>>939 何か問題ある?
936に対する937の発言に対し936=938が答えているだけにしか見えんが
941 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 12:50:01 ID:wGspTdMX
>>940 ID:dqNH0N9b
↓
dqN
↓
DQN
942 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 12:51:04 ID:ycNfVKWF
マジレスがかえってくるとは思わなかった・・・
学術版並に固い人しかいないんだな。いや、日本史板でももうちょっと冗談が通じるけど。
>>936=
>>938で表示されたIDをよーく見てみると面白いことになっている
943 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 12:57:20 ID:NIBvYeAh
ありゃ、そこまで見てなかった
失敬、失敬
944 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 13:11:19 ID:dqNH0N9b
うわ、今気付いたw
945 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 20:39:27 ID:SU2PLkAp
中国地方の主な鉄山だけで
播磨→宍栗
美作→千種
伯耆→印賀
備中→千屋
出雲→横田、吉田
備後→高野、本郷甲山
石見→出羽
安芸→都志見、加計
中国地方のほとんどの国で鉄が取れている(しかも良質)
横田で生産した鉄は毛利の居城に送らている記録が残っているので直轄にしていたようだ
中国山脈は偉大だ!
946 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 21:33:14 ID:WbYKqaJU
そういえば相模では鋳物が盛んだったけど、
薪はともかく鉄は何処から調達したのか気になる。
947 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 22:55:28 ID:V+fm9Nbq
伊豆からだよ。
今でもあまり知られてないが結構な規模の隠し鉄山がある。
948 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 23:13:41 ID:Hv+UWGwM
949 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 23:51:27 ID:WbYKqaJU
950 :
人間七七四年:2009/02/13(金) 20:12:36 ID:91bsNcv2
毛利は元就の代から商人、職人と市に対しては直接的な支配をしている
大内輝弘の山口侵入の際、周防の濃物商人なんかは団結して戦っている
鋳物師職座法には鋳物師が自由通行権を与えられ諸役を免除されるかわり
公用を怠らず忠勤するよう命ぜられている
951 :
人間七七四年:2009/02/14(土) 12:28:19 ID:1WdCHbTG
一万石につき200〜300人兵隊が養えると聞いたことがあるんだけど、
フル装備で武装させて鉄砲を持たせて馬まで用意したら
一万石でどのくらい揃うの?
952 :
人間七七四年:2009/02/14(土) 14:13:53 ID:RY14MjuE
経済に影響でないように動員できるのが3%、な
物資の量じゃなくて社会から抜いても影響ない人数が1万石につき300人
装備云々は各大名家により違うよ
953 :
人間七七四年:2009/02/14(土) 14:49:17 ID:g/Fa4gkL
万石250人は軽いほうだ。
明智軍法によれば700人、
北条なら貫-石レートによるけれど350人〜400人(対信玄・対秀吉の国家総動員令は含まない)。
いわゆる250人は遠征用と思ったほうがいいと思う。
これが適用されるのは、小田原征伐とか、唐入りとか、関ヶ原とか、大坂の陣とか、
通常の戦国大名ではありえないような遠隔地に兵を送るときに適用される基準だし。
954 :
人間七七四年:2009/02/14(土) 18:24:27 ID:1IVNLGTh
>>938 信長も畿内近国じゃ中間既得権層の整理に手を付けてないけどな
毛利家も職人、商人は直轄支配してるし
賦役に関しても天正期には基本毛利家一括で扱ってる。
955 :
人間七七四年:2009/02/18(水) 00:47:08 ID:V17sLm9N
謙信は越後国内の都市に関しては
中間既得権益層の排除をしてるな。
都市以外にはろくに手を付けてないがw
都市型・湾岸型大名と言われる。
956 :
人間七七四年:2009/02/18(水) 01:02:25 ID:yIqkxVX/
>>954-955 中世以来の土地の支配権に手を付けないと意味無いだろ。
そこが肝要なんだから。
957 :
人間七七四年:2009/02/18(水) 01:12:23 ID:V17sLm9N
そこが肝要といわれてもそもそも謙信は
土地の支配権自体には興味なかったようだからなあ。
交易で莫大な利益が上がってくるから都市はもらっとく、
アオソ以外は税イラネみたいな扱いだし。
958 :
人間七七四年:2009/02/18(水) 10:37:29 ID:h7H2l//6
越後はなー
上・中・下越と実質3ヶ国くらいの広さが越後1ヶ国になってるし冬は国内でも分断される
土地に拘るよりあおそ権益と鉱山を押さえ港湾を握ってる方がよほど実入りがいい
959 :
人間七七四年:2009/02/18(水) 18:10:36 ID:H/iseiLa
実入り自体は土地からの収入に敵うわけないけど
蔵入地の割合が低いから、賦役や山林、河川・海その他は全て大名のモノ、って事でしょ
青苧もそうだけど、藍や漆・材木の収入も国によっちゃ万石単位であったらしいね
960 :
人間七七四年:2009/02/18(水) 20:40:06 ID:yIqkxVX/
中世〜近世の社会構造の変革、という観点からすると土地の改革に
全く手を付けてない時点で中世同然ってのは言われても仕方のない
部分だろ。
>>958-959の様な事情は非常によく分かるが。
961 :
人間七七四年:2009/02/18(水) 23:42:52 ID:G+iU2Rfw
ただでさえ反覆常ならぬ越後の国人達にそんなことやったら大変なことに
まあほっといたから国人達が好きかってやってたと言う事でもあるんだろうけど
962 :
人間七七四年:2009/02/18(水) 23:49:05 ID:H/iseiLa
>>960 毛利や上杉と同じように
信長も統一前の秀吉も全く手を付けてない。
963 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 00:00:37 ID:Zyujev8S
>>962 織田は多少は手を付けている。
秀吉は統一するまでそんな時間は無かろうよ。
上杉はまともに検地すらしていない。
>>961 越後じゃ難しかった、ってのはあるんだよね。
北条が関東であれだけ嫌われたのも、北条のやり方ってのが
国人層にはかなりの反感を持って受け取られたからだろうし。
964 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 00:03:16 ID:cBQ2C7bX
織田の何がわかってるっていうんだ!
965 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 00:37:23 ID:EfO5jJTL
>>963 多少って何?意味が解らない
上杉家も信長と同等以上には検地してるよ
966 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 01:38:32 ID:DnntX+FO
検地って言うのは課税対象の確認だから、
どこの大名でも直轄地ではやってる気はする、、、
967 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 02:04:06 ID:EfO5jJTL
大内、北条、武田、今川、上杉、毛利、島津、織田は検地してるし
直轄地以外を検地してない大大名家のが稀だろ
三好はしてなかったらしいけど。大友はどうだっけ?
968 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 09:23:14 ID:po5zP7f/
隣接する地域に同規模または匹敵しうる勢力が存在してる場合には
国人衆の既得権益をいくら室町型の守護大名から脱却した意味での戦国型大名としても
早々に改革していくなんてのは無理じゃね?
越後上杉家の場合だと謙信存命中は隣に武田、北条
下越の先には全盛期の芦名もいる
越中には本願寺門徒
こんな周囲状況で土地という国人衆既得権益に介入するよりかはあおそ、鉱山開発、
港湾の支配によって蔵入の不足を補う方針は間違ってはいないと思う
幸いなことに越後ではこれが収益的に大成功
969 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 18:22:55 ID:PJZxs4Lf
>>968 北条はその環境でやってるよな。
あれは地縁が無いのが大きいのだろうが。
970 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 18:39:24 ID:EfO5jJTL
北条も江戸〜河越辺りまで、その外は国衆の管轄
>>968 何を勘違いしてるか知らんが、棟別銭や夫役は
国衆領だろうが何だろうが上杉家の権利下、毛利家も防長経略以降はほぼ同様。
971 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 21:37:14 ID:Zyujev8S
>>970 伊豆〜相模〜川越までってかなり広大だぞ。
そこまでで既に100万石近い。
972 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 22:12:18 ID:EfO5jJTL
>>971 だから何?
北条がした事は上杉も武田も今川も遅かれ早かれやってる
973 :
人間七七四年:2009/02/19(木) 22:21:01 ID:Zyujev8S
>>972 実際にはあんまりやってないんでないか?
あの文書主義と直轄主義って、他の大名はあそこまで徹底してないぞ。
(だから北条関連の文書ってのは、今も山のように残ってるんだが)
豊臣政権>徳川幕府、という流れの中で他の大名も同じ方向に向かって
言ったというのはあるけどね。
ある人が後北条家の統治を「プレ近世」といってるが、言い得て妙だろう。
974 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 01:53:34 ID:7ZymnY43
>>973 文書に関しては大半が失われてるわけだから、なんとも
(織田家なんて、どの家にもまして残ってないし)
直轄主義って代官支配の事? 確かに北条家は徹底していたと思うけど
元々飢饉で起きた苦情噴出への対処に困って始めた事だし
別に代官支配してないと検地出来ないワケでも、領国一括の税を徴収できないワケでも
労役を課せないワケでもなく、代官支配でも年貢は領主の取り分だからまあ、なんとも
戦国後期は動員規模が大きくなって、在地へ張り付いていられず
代官派遣する形態が増えていった時期だし、って、そういう意味じゃ先駆的なのか?
975 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 02:04:35 ID:fmWvjfFB
徳川家が関東で(比較的)
迅速に基盤を固められた理由の一つが、北条氏による長年の仕事の成果…でなければ、いくら大久保長安ら有能な地方衆でも数年で調査は出来ない…重要だからこそ徳川家も記録として残しているし、代官などの再就職も容易だったのでは?
実際、上杉氏後に越後に入った堀秀治は、立て直しにエラく苦労してる…
976 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 02:08:08 ID:Aw1ntbdu
なんどもなんともなんなんど。
977 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 03:52:30 ID:7ZymnY43
堀秀治と家康じゃ、出自も抱える家臣も能力も大きな差があるうえ
上杉家はまだ存続してたのだから、それだけじゃなんとも
大内氏の防長支配は盤石で制度も整備されてたが
毛利は陶滅亡後も数年間は手を焼いたしね、その後は大内の遺産が活きたっぽいけど
978 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 17:49:05 ID:f6BTQsU1
>>977 能力とか、実態のないものをベースに「差がある」とか、ゲームじゃない
んだからさ。
出自(特に譜代の家臣団)の差はあるだろうが、統治に当たる上で、現地
の従前の統治システムってのはかなり大きいぞ。
それを生かした家康に「能力」があった、という評価はありだろうけどな。
979 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 18:23:06 ID:7ZymnY43
能力に実態がない?意味わからんw 「判断できない」なら話は解る
まず、譜代の家臣団を抱えた六角義治、斉藤龍興の末路を見れば
統治に当たる上で統治能力が一番重要なのは確定的に明らか。
んで、堀秀治と家康の実績には隔絶した差があるのは
それだけじゃあないにしろ、能力の差が一番大きく影響してるのは自明。
980 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 18:28:58 ID:rWXTy6k+
ん?六角義治と斉藤龍興には統治能力が無かったと言いたいのか?
981 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 18:48:16 ID:UKaziYik
>>979 どう明らかなの?
堀と徳川の統治実績に隔絶した差があるというが、その差とは具体的にナニ?
またそれだけではないといいながら、その差の主要因を能力に帰結させえる根拠は?
982 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:37:20 ID:7ZymnY43
>>980-981 両者のお家騒動、特に六角の騒動も知らないの?
>堀と徳川の統治実績に隔絶した差があるというが、その差とは具体的にナニ?
何?言葉遊びしたいの?
天下人と父の遺産を受け継ぎ同世代の武将と比べこれと言った事績の無い堀秀治
これを生んだのが、能力差でなければ何なんだろうねw 説明どうぞ
983 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:54:17 ID:rWXTy6k+
>>982 イエスかノーかで聞いているのになんでこんな答えが返ってくるのかねぇ。まあ、イエスととるよ。
お家騒動をもって統治能力の有無を言うの?それこそ判断できないでしょうよ。
この手の問題は必ずしも個人の能力に帰するわけじゃないだろ。
まさしく、「それだけじゃなんとも」って奴じゃないの?
984 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 23:34:46 ID:BuUuCDHN
>>982 能力ってのは結局実績でしか判断できないでしょ?
だから、そういう内的要因を検討する前に、外的要因を検討するのが
科学ってもんだよ。家臣の構成や統治すべき領国の諸要因といった
のは典型的な外的要因。能力ってのは最後に結果論として出てくる。
家康の方が能力が上!
とか言うのは簡単だけど、そこに至るまでの分析過程をすっ飛ばして
まず結論ありき、になってるよ。
985 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 01:26:04 ID:defT0xL2
>>984 判別の難しい事柄ならね
堀秀治と家康くらい事績に差があるんじゃ比較分析する余地も無い
何か新事実を知っているなら別としてね
>>983 双方問題を抱えていない中でのお家騒動
それで判断できないなら、何をどうしても判断は不可能
というより判断しない為の方便にしか聞こえない。
六角、斉藤家の場合、家臣に権限の蚕食や離反を窺わせるモノはなく
他家と比べて特殊な事情が有ったわけでもないからね。
とりあえず、観音寺騒動と稲葉山放逐に関する分析をどうぞ↓
986 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 03:32:31 ID:wZrjhgVe
>>982 家康が天下人になれたのは、圧倒的な動員兵力を背後にした発言力で、
しかもその兵力は自分で作ったんじゃなくて秀吉の政治によってもらったものだから、
家康自身の内政や部下統制能力が高かったかどうかは無関係じゃないかなぁ
実際、三河にいたころは一向一揆で家臣団の分裂を起こし、
勝利を得た小牧山の戦の後で軍団長クラスの出奔があったり、
あんまり家臣を統制できてたようには見えないんだけど……
逆に、掘家は関が原の土民一揆(上杉側の工作)の時に
篭城を薦めた家臣に「堀家はこれまで善政をしてきた。土民が反乱おこすわけがない」
といって出陣したり、現地の土豪とか家臣の把握とかしっかりしたイメージがあるけど…
987 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 04:00:30 ID:rlmaJolf
>>986 > 秀吉の政治によってもらったもの
それを生かし得たのは、家康の「能力」だとおもうけど、それはあくまで
結果論だからね。
988 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 08:21:01 ID:dJ+6EE1i
佐々成政はそれで失敗したんだが。
石川出奔はともかく、
一向一揆は一族・家臣の分裂上等で家康が起こしたようなものだからなあ。
逆に言えばあれがなければ家康が宗徒の家臣を掌握できなかったと言ってもいい。
むしろ家康の評価対象にこそなれ、減点対象にはならない。
989 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 09:40:14 ID:vzQ4ouaX
>>986 石川は出奔契機として、三傑を中心とした体制の変更が行われているが、
これは以前からの流れで、それが石川出奔の理由の一つな気もする
990 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 09:50:30 ID:n7u7tpPi
>>988 >むしろ家康の評価対象にこそなれ、減点対象にはならない
これこそ結果論じゃないのか?
991 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 10:10:00 ID:vzQ4ouaX
>>990 故意にやって成功したんだから、当初の予測通りなので
評価だと思うのだが
結果論は予測しなかった事が主因で成功することだし
992 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 12:31:24 ID:rlmaJolf
993 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 18:59:55 ID:wZrjhgVe
>>988 徳川と堀の比較で、佐々出されても、、、
だいたい秀吉の領地交換で失政してる武将の方が少ないし、
徳川家は100万石超えて官僚制がしっかりした時代より、
まだ小国だったことの方が、家康本人の政治能力わかる気がするんだけどなぁ。
家康って、↑の他にも外圧で嫡男を処刑したり、
他の武家では失政じゃないか、とおもえる決断をしてる場合が多いのだけど、
これって”家康の能力の証明”になりうる、のかなぁ……
まぁ スターリン型の政治家だったのかもしれませんが
994 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 23:35:04 ID:gtgnMyFb
>>985 判断できないと言ってる俺に分析を求めるのはおかしい話だよね。まあ、レス返すけど。
龍興は祖父が内乱起こした挙句に鎮圧したと思ったら父親が急死して13歳で
元服とほぼ同時に家督継いでる。問題がないとはとんでもない言い様だなぁ。
六角にしても義賢が野良田で破れたのいつか知ってる?
むしろ、どこが問題なかったのかを知りたいね。
995 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 03:53:21 ID:z+dD6gut
>>993 失政ってのは、天文の大乱や信虎の追放劇等の事件を引き起こすことでしょ
それにまだ小国と言うけど、家康と信長の立場が逆なら
家康は桶狭間後10数年で濃尾+南江・北勢の一大勢力
片や信長は三遠2ヶ国の領主に留まったのは確実
996 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 12:39:46 ID:6ooWcbiT
>>995 今は”指導者個人の能力評価”の話だよね??
花倉の乱、天分の大乱、のようなTOP決めの跡継ぎ騒動、
今そういう例がなぜ出てきたか理解に苦しみますが……
しかも嫡男処分って、信虎が信玄にやろうとしたことじゃぁ……
「さっさと嫡男を殺す」ことができる、って、家康の能力の高さを示してるの??
>家康と信長の立場が逆なら
これは……
「徳川家と堀家の立場が変わったら、もっとうまく掘家はやった。堀最強!!」
…と、おいらが主張したら、あなた、どーおもいます??
997 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 17:07:06 ID:z+dD6gut
>>994 三好長慶は別勢力の一族政長の陰謀に巻き込まれ、10歳前後で家督継いでるよね。
そもそも家臣に居城乗っ取られ、赦免せざるを得なかった事件の是非を判断できないとか
本心だとすればアリエナイ**さだよね。
野良田の戦いと観音寺騒動の間に因果関係無いよね。
しかも、その程度の被害を4年経過して立て直せな(かったと仮定したら)無能だよね。
結局、家中にはまるで問題を窺わせるモノが無いよね。
998 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 17:21:11 ID:9O4kj9e4
>>997 たった一例だけ?それで他家と比べた気になってるの?君の戦国時代って凄い狭いんだね。
家臣に居城をのっとられて斜面せざるを得なかったという一例だけで統率力がないという思考方法は
随分短絡的だね。
>野良田の戦いと観音寺騒動の間に因果関係無いよね。
義賢が隠居した理由がわからない?アリエナイ**さだよね。
>しかも、その程度の被害を4年経過して立て直せな(かったと仮定したら)無能だよね。
四年?短いでしょう。義治が継ぐ前からなんのかんのでお家騒動があるのに、
平穏無事とは恐れ入る思慮の足りらなさだよね。
釣りにかかった気分だよ。
999 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 17:27:05 ID:VWrD3ZBp
みんな頭を冷やせバ〜カ
1000 :
人間七七四年:2009/02/22(日) 17:31:56 ID:d34yG2fg
ていうか内紛でボロボロになって滅んだ大名家を例にしてる時点でありえん
1001 :
1001:
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