619 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 20:41:13 ID:Vx07Z/lw
今川義元(1519-1580)
日本独立時代、現代の静岡県の領主。
1570年以降、京都を領地にし、管領となって政治の実験を握るが、内乱の激化を招いた。
1580年のキリスト教一揆により敗死。
日本の国力を低下させ、日本がポルトガルの植民地にされる元凶を作った人物とされる。
徳川家康【天下を取り損ねた男】
信長、秀吉の盟友として"律儀なる御仁"との評価をほしいままにしながら
大大名の座をも保っていた戦国でも稀有な人物であるが太閤秀吉の死去に伴い
分不相応な野心を抱き、太閤遺訓を積極的に破って多数派工作を行う。
家康の目論みは前田利家の死で半ば成功したかに思われた。
が家康暗殺の嫌疑が掛かった前田家に利家未亡人芳春院の質を求め芳春院の内諾を得たにも
関わらず結局武門の誇りを訴えた利長の涙の決断で前田家が徹底抗戦を決定した。
当然の決断であろう。
が細川忠興が顔面蒼白になって利長に本意を訴えたにもかかわらず決は覆らず
忠興が伏見城に守備を報告に行ったときの家康は対面を憚らないくらいに怒り狂って
おり、その後細川は前田と共に歩むことになる。
前田の屈服を前提とした上杉への詰問状は既に会津に届いており
家康は自分で北陸に強大な反徳川勢力を生み出してしまったといえる。
この時、石田三成は隠居しており(大谷吉継の助言とされる)家康の赦免許可
にも拘らず隠居の身から復することなく、強引に石田三成を敵役に仕立て
て名文にしようとした家康の思惑は大きくはずれ、その後も三成は終始一貫中立
して動かなかった。
三成に代わるように大谷吉継が前田家と組んで家康に組した丹羽などを下し
家康は強引な北陸征伐を敢行するが、なんら敵対行動を取っていない佐和山城を
小早川秀秋や吉川広家、脇坂ら四将が独断攻撃した事から風向きが変わり
戦局は混迷数年に及ぶ慶長騒乱の始まりとなる。
その後、有力大名の○○○○が天下を鎮め幕府を開く事になるのである。
劉備
琢県楼桑村の青年
母に茶を捨てられたショックで自害
621 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 04:21:40 ID:XddK3qSb
失礼、これは三戦板の方のだったかも。
622 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 18:51:45 ID:qfoy5HaH
小早川秀秋(1582-1600)
木下家定の子で、豊臣秀吉の養子、後に小早川隆景の養子となった。
関ヶ原の戦いでは、天下万民のためやむをえず東軍に寝返ったが、
戦後その裏切りを恥じて自害したという。
623 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 19:15:00 ID:5srnaoCG
サカイの聖アウグスティヌス(1555?-1596)
カトリックの聖人・博物学者。もとは豊臣秀吉配下の武将で、小西行長としても知られる。
堺の薬種商の家に生まれ、一時期は宇喜多氏に仕えた。
朝鮮出兵のとき、加藤清正に先陣を譲ったため、本来の家業に因んだ薬袋の旗印を掲げて二番手として進攻。
抜け駆けして漢城・平壌攻略に邁進する清正を横目に薬草の生息地を探索し、家中のめぼしい者を朝鮮と女真族の国境地帯に送った上で降伏。
このために補給線が途絶え、秀吉の朝鮮侵攻は早々と頓挫した。
日本から詰問の使者として石田三成が送られたが、家臣の西飛(内藤如安)に自身の首を日本に送り返させて生涯を終えた。
彼がこの挙に出た原因は、清正に自身の出身をなじられた腹いせとも、日本におけるキリスト教の将来に悲観したためともいわれる。
結果的にイエズス会は女真族への布教拠点を獲得し、行長は後世に聖人として尊崇されることになる。
624 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 01:57:17 ID:w2Av+R9a
本多忠勝(1548〜1584)
天正10年、小牧の役において
羽柴秀次を大将とした徳川領中入り隊を追尾した
家康本隊の進軍を助けるべく
家康本隊を追った秀吉本隊に対して小勢で挑発。
挑発の度が過ぎたのかたちまち殲滅を受け忠勝も討死を遂げる。
尚その後の戦況は
忠勝が一命を賭けて秀吉本隊の追跡を遅らせたものの
家康本隊は秀次以下中入り隊を打ち破ったものの
小城で兵を休めて鬼ごっこのつもりか
その夜のうちに小牧の陣に帰陣。
結果、みすみす敵大軍を領国寄りに残すことになり
秀吉軍が東に進軍すると慌てて追尾して合戦するも破れ
秀吉軍の当初の予定通りに三河蹂躙を許すことになる。
戦後、徳川氏は駿遠2国50万石、
関東平定後に相武80万石の一大名として存続することになる。
625 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 04:36:38 ID:4ZW0o7cw
>>7 72年時で29歳ってことにびっくりした
なんだかんだで天と地の利を得てるよな
626 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 06:11:33 ID:4ZW0o7cw
仙石秀久(1552〜1608)
羽柴家臣 美濃の豪族の子として生まれる。
元は斉藤氏に仕えていたが、美濃が信長に征服された後は信長の家臣、羽柴秀吉に仕官する。
その後、秀吉が織田家で頭角を現すに従い、羽柴家中の先陣として各地で奮戦した。
九州の役後、阿波讃岐淡路内に27万石を与えられた。又、瀬戸内の海運を統括する奉行も任されていた。
この頃、堺に近い土地を押さえたことが影響し、内政家としての芽が育まれたといわれている。
88年に佐々成政の後釜として肥後一国52万石を与えられる。
これは九州の監視と共に朝鮮出兵を見据えた仕置きであった。
九州仕置きでは急な国替えであり、いまだに不安が残る土地であったため、前年度から続く一揆の早期鎮圧と内政の充実が求められた。
秀久はこの問題に対し、この地に土着していた阿蘇氏や断絶した大友の残党を家臣として迎えることで対処した。朝鮮の役で活躍する仙石十二名臣の半数もこの時に迎えられている。
秀吉や前田利家といった豊臣家の支柱が死去した後は、歴戦の雄として大阪城の北東にある高槻城に詰め政務をとった。
〜〜主な戦い〜〜
秀久は猪突猛進を旨としており、そのせいで九州の役では島津の釣り野伏せにまんまと引っかかってしまった。仙石軍は壊乱を極めたが、追走する島津軍を側面に伏せていた長宗我部、十河両軍が逆に奇襲することで反転し、逆襲に転じた。
しかし、大友氏が動かなかったこともあり、兵力差をひっくり返すには至らず、互いに相手の将を討つまでにはいたらなかった。(この戦いのことで後に大友氏は難癖をつけられて秀吉に領地を没収された。)
この時、四国勢が事前に相手の戦術を調べ上げ、その上で仙石勢が囮を引き受けたのか、はたまた、
軍議が割れ、仙石勢が無謀に突っ込んだのかは記録に残っていない。
朝鮮の役後にまだ書けそうだな
627 :
人間七七四年:2010/12/12(日) 22:17:14 ID:gBlVe3e/
しばらく前から勝手にまとめサイトの編集やってます。
同時代の外国人とか、時代が合ってない人とかの専用ページも作りました。
手作業なので漏れもあるかもしれませんが、可能な限り拾っていきます。
過去スレのも入れてしまっていいものでしょうか。
続き物とかでまとめづらいものもいくつかあるんですが、
(例:510氏の黒田長政乱心時の大谷吉継)
どんな感じにしたらいいでしょうかね? ご意見お待ちしています。
628 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 16:49:40 ID:Ma80iLrK
珠璃亜比丘尼(?〜1637)
慶長〜寛永期に活躍した吉利支丹比丘尼(修道女)。
朝鮮生まれ。文禄年間に戦災孤児となり、小西行長に養われた。
彼とその家族から日本語と薬草学、キリストの教えを学び、
慶長6年、京都の南蛮尼寺(女子修道院)に入った。
その動機は海外出身である引け目だったとされる。
のちに長崎で新しく発足した南蛮尼寺を任され、薬用酒の製造を始める。
朝鮮語をはじめとする各種外国語、および医術に通じた才媛であり、
外国船で病人が出ると励まし、手当てしたという。
寛永14年、疫病により帰天。
分岐が早すぎてわかりにくいが、西軍勝利で禁教令が出ない場合のジュリアおたあ。
629 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 15:27:36 ID:D5hObzdV
小田氏治(1534〜1602)
土浦公方。または江戸公方とも。号して天庵。
父、政治の跡を継いで当主となる。当時の小田家は河越夜戦に敗北し、凋落の一途を辿ろうとしていた。
氏治は手始めに結城政勝を攻略すると、南進して来た佐竹義昭も返り討ちにする。1558年には佐竹・多賀谷連合軍を破り、常陸と両軍の家臣団を一気に傘下に収める。
その戦上手振りを恐れた北条氏康は同盟を持ち掛け、互いの息子である小田友治と北条三郎(のちに北条治康と名乗る)を人質として交換した。
1560年代になると上杉謙信の侵攻が激化するも、氏治はその都度撃退し、時には逆に上野に攻め込んだ。更に旧佐竹家臣だった真壁らに下野の諸勢力を攻略させ、自らの版図に加える。
この頃になると堀越公方・足利政知を祖父に持つ氏治は、有名無実化した古河公方を廃し、自らが関東公方を名乗る事を土浦城にて宣言。世に言う土浦公方の誕生である。
だが、これは氏治の数少ない失策であった。氏治の公方僭称を認めない関東管領の謙信と小田家の膨張を恐れた氏康が越相同盟を組んだのだ。
この状況に氏治は武田信玄と甲常同盟を結んで対抗した。
そして1569年、ついに氏治と謙信・氏康との決戦が始まる。決戦の地は河越。そう、かつて父が氏康に敗北を喫した地である。
北条綱成が篭る河越城を小田軍が包囲、更に連合軍が遠巻きに囲むと言う状況だった。実は氏治は河越城を囲む前に布石を打っていた。それは里見義頼を動かす事である。
氏康らが小田原を発つのとほぼ同時に里見軍が安房より進発。海上から相模に上陸、一路小田原を目指す。
これに気付いた氏康は、全兵力の半数を氏政に預け、救援に向かわせた。
それにより第二次河越合戦は、小田軍二万に上杉・北条連合軍が五万(籠城兵五千を含む)となった。
開戦直後は流石に数に勝る連合軍が優勢で、氏治自身も危機に晒されるほどであったと言われる。(謙信が単騎駆けしたとの文献も見られるが、定かではない)
だが、小田原救援軍が里見家家臣、正木時茂に敗れるとの報が入ると状況が一変する。
帰るべき城を無くしたと思った北条兵が次々と逃げ出したのだ。逃げるならまだしも、中には小田軍に下る一門衆や家臣も出る程である。
更にこの混乱が上杉軍にも及ぼうとした時、氏治は次なる手を打つ。
小田本陣に上がる狼煙。連合軍が訝しむ中、鬨の声が上がる。上杉軍にいた佐野昌綱が矛を逆しまに攻めかかって来たのだ。
前々から打倒謙信に燃える昌綱に調略の手を伸ばしていた氏治はこのタイミングで昌綱を裏切らせたのだ。
第二次河越合戦に際して昌綱が謙信に早々に下り、道案内を務めたのも全ては氏治の策であった。
こうなると連合軍は誰が敵で誰が味方か分からずに同士討ちを始めてしまった。
さしもの謙信もこれ以上の戦闘継続を諦め、越後に撤退して行った。また、氏康を初めとした北条軍も逃走兵以外は何とか河越城に逃げ込む事に成功したが、既に風前の灯火である。
三日間の抵抗の後、河越城は落城。氏康らは自害した。(但し、氏治の元に人質として来ていた治康が北条家を継ぐ事を許されている)
630 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 15:29:21 ID:D5hObzdV
敗戦後、謙信は
「儂は憲政公より上杉姓と関東管領を拝命し、その職を全うしようとしたが、むべなるかな。関東に氏治がおる限り、儂は三国峠を越えられぬ」
と周囲に漏らし、また同盟相手の信玄も死去する際に
「儂が死んだら小田氏治を頼れ。西の織田家とは争っても、東の小田家とは争うな」
と勝頼や家臣団に厳命したと言われる。
この合戦により小田家は常陸・上野・下野・武蔵・相模を領する大大名に成長。関東の覇者に君臨した氏治は新しい拠点に江戸を選ぶ。ここを整備し、東の京都と呼ばれるまでに発展させた。(氏治を江戸公方と呼ぶのもこの辺りが要因である)
拠点を江戸に移してからは内政に力を入れ、10年近く関東全域から戦が絶えると言う快挙を成し遂げた。
だが、それも長くは続かなかった。1582年に武田征伐が起きたのだ。氏治はかつての同盟相手の息子である勝頼が滅びるのを良しとせず、信長と敵対してでも、勝頼の甲斐脱出を援助した。
その結果、上杉を降した柴田が上野から、武田征伐を終えた滝川が甲斐から、信長の盟友徳川が駿河より侵入して来た。
これに対し、氏治は相手戦力を減衰させながらも、最後には太田資正が手掛けた東国一の堅城と呼ばれた江戸城にて籠城戦を繰り広げる。
籠城戦の最中、包囲軍の動きが慌ただしくなるのを氏治は見逃さなかった。細作を放ち、調べさせると、信長が本能寺で明智光秀に討たれたと言うのだ。
これを好機と見た氏治は、上野から撤退する柴田軍に資正を、甲斐に撤退する滝川軍には客将として迎え入れた勝頼父子を、駿河に撤退する徳川軍には自らが当たり、逆襲の追撃戦が始まる。
結局は勝家が神流川で、一益は甲府で、家康は箱根でそれぞれ首級を挙げられた。(一益に関しては土民に討たれたとも言われる)
その後も徳川残党を追撃するが、三河・遠江国境で東進して来た明智秀満軍と遭遇。互いを不可侵とする事で合意した。
明智幕府が開かれると、、引き続き関東公方に就任。奥州征伐の総大将として白河関を越える。
伊達政宗を討ち、江戸に凱旋すると家督と関東公方を守治に譲り、隠居。
かつて関東公方を宣言した土浦にて悠悠自適な生活を送り、1602年に死去。死後、孫の経治の手によって日光に祀られる。
631 :
人間七七四年:2010/12/19(日) 00:09:40 ID:X+orVbJ1
天庵大勝利か
632 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 21:05:10 ID:std4wdZQ
ジョン・レノン(1940年-)
ビートルズのボーカルとして知られる。
1980年12月に彼を殺害しようとする事件があったが
それを命を賭して守った日本出身の女がいた。
なお、この人物は柳川藩の家老小野氏の一族と言われているが
小野家は当家とは無関係の人物としている。
633 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 09:23:58 ID:BMpWKcIY
せめて分岐点を江戸時代初期以前にしてくれw
634 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 01:07:44.77 ID:rDNTak2X
保守
635 :
人間七七四年:2011/05/03(火) 18:02:30.89 ID:A3GqI3pf
マイナーだけど…
津軽為信(1550―1591)
1570年に石川高信を敗死させ津軽から独立。
1590年に三成、秀次、信雄に鷹を送り本領安堵を図ったが
南部信直の画策により惣無事令違反と見なされ
九戸政実と共に津軽為信の乱を起こす。
当初は善戦したものの最終的に南部信直、伊達政宗の連合に破れ
戦後一族と共に斬首された。その後津軽は南部領になり信直は
晴政に勝るとも劣らぬ名将と称えられた。
蠣崎慶広(1548―1582)
1582年、安東愛季の命により浅利勝頼の暗殺を画策も
津軽為信の手引きにより宿泊した寺を襲撃され討死した
その後幼名が天才丸だっただけに2chでは戦国の○カ○ンとネタにされた。
636 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 00:14:59.54 ID:TeVMt8eN
宇喜多直家(1529〜1568?)
戦国時代の備前地方(現岡山県)の武将
主に策謀により主家である浦上家の勢力拡大を果たし、浦上家による備前、美作両国の支配権を確立する。
主家の勢力拡大のためには手段を選ばず。自らの親族に対してすら謀略を仕掛けたとされる忠義の武将。
1568年頃、何者かによって殺される。
直家の死亡後、主家である浦上家は毛利家に征服される。
浦上宗景は「直家さえ生きて居れば浦上家が滅びることがなかったであろう」とこぼしたとされる。
政治75 戦闘 70 知謀85 義理100
やっぱり北条氏だな…
638 :
人間七七四年:2011/06/08(水) 20:07:56.90 ID:4KUIDRQ3
坂本直陰
土佐長宗我部家の家臣。
特になにかをしたわけではないが、
寝小便癖がなかなか直らず、彼の名から
「直陰」と呼ぶことだけが後世に伝わる。
一部の架空戦記物では彼が歴史を変える人物になるなどという
あまりにも突拍子のない作品がある。
本人も草葉の陰で苦笑いしているだろう。
639 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 19:51:47.30 ID:FWRBugBB
>>618をセルフ受け
徳川竹千代(1604-1616)
秀忠の長男。一説には家康から第三代将軍に指名されていたという。
大坂の陣の翌年、父たちの後を追うかのように12歳の若さで早世する。
暗殺説もあるが、両親も見放すほど生来病弱であったといわれる。
また、竹千代の乳母である斎藤利三の娘が責を負って殉死している。
徳川忠長(1606-1625)
秀忠の次男。母であるお江与の方から溺愛されていたという。
兄の死後、母と家康〜秀忠時代の旧臣らに次期将軍候補として擁立される。
しかし元服直後に発生した「駿府事件」(※)の責めを負わされ、
蟄居命令を受けた数年後、蟄居先で死亡する。
自刃とも暗殺ともいわれるが定かではない。
保科正之(1611-1677)
秀忠の三男。妾腹ということでお江与の方の勘気を恐れた秀忠によって、
秘密裏に保科家へ養子に出される。
家康、秀忠の死後に起こった徳川嫡流の悲劇も他家へ出ていたため連座を免れ、
信州高遠の一大名として生涯を全うする。領内では善政を布いて民からも慕われていたらしい。
640 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 19:54:20.67 ID:FWRBugBB
※駿府事件
1620年、駿府城下で捕まった男の荷物から一通の密書が見つかる。
そこには「江戸と京都、同時に火を放ち、混乱に乗じて帝を拉致。
そして将軍忠輝を暗殺し、忠長を将軍職に据える」という衝撃の文言が綴られていた。
幕府は密書のやり取りをしていたとされる酒井雅楽頭と松平忠直を捕縛、
更にそこから芋づる式に多くの大名、旗本が捕まるという一大事件に発展する。
幕府は雅楽頭とその一派をお家取り潰しの上斬首、一門の忠直には切腹を言い渡し、
毛利輝元、脇坂安治など多くの大名、旗本も改易、追放処分となる。
首謀者とされた忠長だったが、先代将軍の子であることや
主体性が低いことから死罪は免れ、上州に蟄居処分となる。(後に死亡)
この事件は忠輝と岳父の伊達政宗が反対勢力排除のために図った陰謀だという説もあるが、
取調べされた関係者は帝の拉致など直接的な暴力行為を除いてはあまり否定しておらず、
政権転覆計画自体は実際に存在していたものと見られる。
この一件で反対勢力の粛清に成功した忠輝政権は徐々に安定していく。
なお、実質的な首謀者であるお江与の方は忠輝に捕まることをよしとせず、
薙刀を振り回して侍女や捕縛の使者などを殺傷して抵抗した末、最後は堀に身を投げて果てた。
人々は子供を溺愛した挙句に身を滅ぼした彼女を姉の淀君と重ね合わせ、
空気を読まずに暴走した女が自滅することを指す「浅井の駄目姫」、
転じて「のだめ」という慣用句の元となった。
641 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 23:26:05.34 ID:n+cbfFqc
※駿府事件
1622年、箱根山中で捕らえられた不審な男の荷物から一通の密書が見つかった。
そこには、駿河大納言徳川秀忠が老中本多正純と共謀して、異母兄である江戸幕府第二代将軍徳川信康が日光参詣に向かう途中、正純の居城・宇都宮城で殺害しようとしたと言うのである。
秀忠と正室お江与の方は兄であった家光を疎んじて弟の忠長を寵愛し、男子のいない兄・信康の後継に忠長を据えようと図ったが、家光の乳母春日局の働きによって信康は家光を養子に迎えて家督を継がせることとなり、これを深く恨んでいた。
一方の正純は初代将軍家康の在世中は大いに権力を振るったが、家康と父の本多正信が没した後、信康に加増を申し出たところ、宇都宮15万石を与える引換として老中を免ぜられたことを恨んでいた。
更に実父の見舞いのために駿府城を訪れていた家光が何者かに襲われ、家光に従っていた松平忠直(秀忠の婿)が家光と間違えられて殺害されたことから秀忠の謀叛は疑いなしとされた。
このため、松平定勝と土井利勝が問責のために駿府城を訪れたところ、秀忠夫妻は全ては自分たちの責任であるとして自らの命を絶った。本多正純は出羽国に配流された。
また、秀忠と親しかった佐竹義宣・毛利秀元らの諸大名・旗本の中にも譴責されたものがあった。
かつて関ヶ原の戦いの際には上田城にて真田昌幸の姦計に気付いて城を素通りして決戦に間に合わせて父・家康に「息子がいて良かった」と言わせしめた信康も弟の策動には気づかずその衝撃的な顛末の影響か、翌年に65歳で病死してしまう。
また、この事件は家光にも衝撃を与え、後に上野国で幽閉されていた忠長は自害を迫られることとなった。
642 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 00:11:30.62 ID:oOFpxOaZ
>>641 できれば信康生存までの経緯もあれば・・・
しかしどのルートでも忠長不遇でワロスw
643 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 06:35:52.26 ID:DulneOv/
武田信玄
三方が原の戦い後岡崎城に突入、徳川家康を討ち取る。
その後三河吉田城攻略中に病死。
武田勝頼
信玄死後即座に甲斐に戻り武田家実権を掌握。
信玄死後のゴタゴタの際徳川信康に遠江を大井川以西まで取り戻される。
1575年、勝頼軍が長篠城を包囲、織田・徳川連合軍の援軍が到着により長篠の戦が開始され敗北、重臣の多くを失う。
この戦により遠江を徳川家に取り戻される。
1582年織田信忠の電撃戦により天目山にて自刃。武田家は滅亡した。
徳川信康
家康死後に混乱する家臣を纏め、義父である信長や義理の兄弟である信忠と連携し武田家を攻略する。
1582年、光秀の謀反に気づき信長・信忠親子に知らせるも間に合わず、信長は自刃。
その後難を逃れた信忠と共に光秀を討とうと岡崎を出発しようとした時には既に光秀は天王山において秀吉に討ち取られた後であった。
後に秀吉が謀反を起こした際、信忠と連携しこれを撃破。そのまま姫路城に迫り秀吉を討ち取る。
その後も信忠と共に天下を平定し、天下を平定。岐阜幕府において初代副将軍を務めるも、2年のうちに天ぷらが中り天寿を全うした。
以降代々岐阜幕府において副将軍は徳川家が務める事になる。
織田信忠
本能寺の変後、信康と連携して秀吉との覇権争いに勝利し織田家を完全に掌握。
父・信長の統一事業を受け継ぎ、信康と共に天下を統一。
岐阜に幕府を開き初代将軍に就任する。
岐阜幕府は明治維新までの300年間、徳川家と共同し平和に世を治めた。
644 :
人間七七四年:2011/07/26(火) 15:30:25.04 ID:d6Dy2y9Q
蘆名政道(?-1595)
伊達輝宗の次男。当主が次々と夭逝した蘆名家に送り込まれてその家督を継ぐ。
蘆名家を継いだ政道であったが実質的には伊達家の傀儡であり、
伊達家の意向を受けて上杉・佐竹ほか周辺豪族らとの戦いに明け暮れることとなる。
しかし1590年、関白秀吉の関東征伐が起こると政道は蘆名家として真っ先に秀吉の下へ馳せ参じる。
当時、破竹の勢いだった兄・政宗が秀吉からの召集命令をのらりくらりとかわす中、
本家の意向を無視した政道の勝手な行動は東北に一大勢力を築いていた伊達家に大きな衝撃を与える。
これにより秀吉との対決を余儀なくされた政宗だったが、周囲を敵に囲まれた状況では如何ともしがたく、
秀吉に先鋒を志願して許された政道らの前に敗北、最後は城と領地を差し出して自害した。
それまで目立った業績もなく傀儡同然だった政道が突然叛旗を翻すに至ったのには、
政道を溺愛していた母・義姫の兄である最上義光の後押しがあったという説が最有力とされている。
事実、政道が小田原へ出向いた際には最上軍が蘆名領との国境で伊達軍を牽制していた記録もある。
また、一説には政道と政宗は母からの偏愛が原因で常日頃から兄弟相克の状態だったともいう。
ともあれ、兄を売る形になった政道は秀吉から会津領を安堵される。
ところが1595年、いわゆる「秀次事件」が発生。
義光の取り成しで秀次に取り入っていた政道はそれが仇となって連座させられ、改易の憂き目に遭う。
失意のまま母のいる山形に身を寄せた政道は、隠棲先で程なくして謎の急死を遂げる。
時と場所をほぼ同じくして母の義姫も急死していることから、恨みを持つ伊達家の残党による暗殺説、
もしくは息子の没落を悲観した義姫との心中説など様々な説が錯綜している。
なお、伊達家は留守家に入っていた政景(政道の叔父)が小大名として存続することを許されて
明治維新まで続いたが、その家譜から政道の名前は完全に抹消されている。
江戸時代の当主の一人が政道の勘当状態を解こうとする動きもあったが、
家中の大部分が猛反発して頓挫。今もその状態は解かれていない。
645 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 03:07:40.66 ID:1jT2tKNn
細川藤孝(1534-1600)
細川元常の養子。足利義昭の擁立に尽力したが、やがて織田信長の家臣となる。
剛の者で、歌道は武士がたしなむものではないと考えており、配下に風流にふける者がいれば一喝したという。また、逃した敵は決して深追いしなかったという。
慶長5年、関ヶ原の戦いにて東軍に味方したため、石田三成に居城を攻囲され、自害した。
646 :
人間七七四年:2011/10/09(日) 23:51:52.78 ID:smUyHqX7
テス
647 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 02:44:16.33 ID:l3W4XoHF
ate
648 :
!sengoku:2012/01/04(水) 19:42:46.44 ID:hUHuiH+u
伊庭義明(?-1561)
越後に突如出現した武士団の首領。従六位少尉を自称。
後の上杉謙信となる長尾景虎の配下となる。
長尾景虎は越後から西へ進んで浅井・朝倉連合を、伊庭は南へ進んで信濃の川中島で武田信玄をそれぞれ討ち破って京で会合する計画で、上洛作戦を開始した。
「空を飛ぶ鉄の船」や「地を這う鉄の車」で武装した伊庭率いる部隊は川中島で武田軍と正面から激突。
当初は圧倒的な火力で優位に戦を進めたが、情報を得ていた武田信玄はそれに対処するための戦術を駆使して奮闘する。
やがて「鉄の船」は忍び込んだ武田勝頼によって乗員を殺害されて墜落、「鉄の車」は人海戦術で動きを封じられ、落とし穴にはまって自走不能となり、その他の車輌も全て失って、伊庭の部隊は戦闘能力を事実上喪失した。
窮地に陥った伊庭は最後の望みとして武田信玄の首を求めて武田本陣に単騎斬り込み、信玄を一騎打ちの末に討ち取ることに成功した。
信玄の首を取ったことで伊庭隊は辛くも勝利を収めたが、もはや武器は連発式の火縄銃程度しか無く、足軽も次々と戦死したことで士気は低下した。
しかし、素性の知れない伊庭らの上洛を好まない公家達の意を受け、長尾景虎自身により討ち取られる。
容貌は、後の服部正就、柳生三厳に似ていたという。
649 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 12:54:40.29 ID:ratX9NYr
良スレ
650 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 02:55:58.25 ID:MQGBpHWq
松下則吉(1537-1598)
尾張国愛知郡中村の半農半兵の家に百姓として生まれた。若くして故郷を離れ遠江の国人松下長則に
小物として仕える。その才気に気付いた長則が士分として抜擢すると松下家において頭角を表す。
桶狭間の合戦後に弱体化した今川家の支配を離れようとした松下長則の寄親・飯尾連竜からの
離脱および徳川家康(当時松平家康)への臣従を長則に進言して松下家が遠江の国人としては
いち早く徳川家の被官となるのに一役を買うこととなる。徳川家康の遠江侵攻の案内役となった
松下家はその功により家康より遠江曳馬城とその周辺で5000石を与えられ徳川家の有力家臣なっていく。
またこの頃、則吉は長則の養女を妻として松下家の準一門として松下姓と則の一字を拝領し木下秀吉から
松下則吉と改名することとなる。長則の隠居に伴い之綱が家督を相続すると義弟・家宰として之綱を
政戦両面から支え、徳川五大将の一人と呼ばれることになる之綱のために粉骨砕身することとなる。
本能寺の変後、混乱する甲信の切り取りの先鋒として松下之綱が派遣されると調略・城攻めの策を
進言し破竹の勢いで信濃へ浸透していくことになる。中でも上田合戦では知将・眞田昌幸の守る上田城を
則吉の策で落城させ眞田親子を捕縛する功を得、家康より拝謁の栄誉と長船の名刀を拝領することとなる。
またこの頃、則吉は石川数正と誼を通じ之綱の政治参加を促し農業・経済政策の立案を陰ながら担当する。
陪臣でありながら裏で蠢動する則吉を快く思わない本多重次・本多忠勝・榊原康政・大久保党の面々とは
折り合いが悪く面と向かって罵倒される事もあったがその家中の者とは天性の人たらしを発揮して受け入れられ
色々と情報を得て之綱へ向かうべき憎悪を一身に受けるのを生涯の仕事とする。
徳川家康の東北仕置きの大将を務めた之綱を補佐し大功を挙げる。1596年駿府幕府成立時に松下家は
宇都宮23万石の譜代大名として幕府の重鎮となり則吉も1万石を領する家老となる。その時に家康より3万石で
直臣として誘われるが小物より抜擢してくれた松下家の恩を裏切れないとして松下家の家老として仕えることを
家康に宣言する。これには本多忠勝・榊原康政たち三河衆も感心したと伝えられる。
1598年9月、5ヶ月前に亡くなった之綱を追うかのようにその生涯を終えた。
則吉を祖とする中村松下家は嫡子則勝以降代々松下家の家老を務め、次男則頼は3000石の旗本として
別家を立てることとなる。三男以降の息子たちは石川家・本多家に召抱えられ明治まで存続することとなる。
651 :
人間七七四年:2012/08/13(月) 15:42:39.31 ID:fNUG/G9s
忍法帖のせいでネタ書き込めないじゃねーかよ・・・
652 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 11:49:44.89 ID:B0h1Fm7G
秀吉の略歴を読んでると、
そこそこ出世して綺麗な秀吉のまま歴史に名を残したイフ秀吉と、
天下人となったけどラスボス化した史実秀吉、どっちが幸せだったんだろと思えてくるな。
653 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 20:08:08.90 ID:S4g1PrJM
北条氏直
北条氏政の子。祖父に北条氏康、武田信玄を持つ戦国のサラブレットであった。
しかし小田原の陣で北条家が敗北したため関東の広大な領地を全て失い
父、叔父も切腹し本人は高野山に謹慎することとなる。
半年の後に秀吉の許しを得て謹慎が解け大阪にて旧織田信雄邸を与えられた。
その半年後には遠江一万石の大名に復帰。この時家康の娘とは離婚している。
秀吉死後には旧父徳川家康に従い関ヶ原では旧臣とともに活躍。戦功により小田原への復帰が認められ
5万石の加増となった。
大阪の陣でも活躍し憎き豊臣家に復讐するが戦後言いがかりをつけられ改易された。
654 :
人間七七四年:2014/04/12(土) 01:13:26.53 ID:RFCEWZdP
大崎義宣
伊達稙宗の次男。大崎家の内乱を治める際に伊達家の力を借りた見返りとして養子として送り込まれる。
天文の乱では弟達とは違い兄の晴宗側につき、終息後稙宗側についた前当主義直を討つ。
大崎家の分家筋にあたる最上家の内乱、天正最上の乱では甥の輝宗と同じく義守側につく等、実家と行動をともにしている。
1578年息子の義宗に家督を譲るも6年で死去、子の小僧丸が幼かったため当主として復帰するが、
小田原征伐に参陣しなかったため留守政景らと同じく所領没収の目にあう。
伊達政宗のところに身を寄せるも葛西大崎一揆との関与を疑われ切腹させられる(または政宗から目を逸らさせるためとも)。
小僧丸は幼年だったため許され、子孫は一門の高清水大崎家として仙台藩に仕えた。
655 :
人間七七四年:2014/04/13(日) 14:28:41.32 ID:/54md+QB
人いねえな・・・
656 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 21:10:59.85 ID:T9tPfYXY
宇喜多詮家(1563-1630)
宇喜多忠家の子、伯父直家の薫陶を受け成長する。
宇喜多騒動が勃発した際に戸川派を支援し、秀家の毒殺に成功。
宇喜多宗家を相続し関ヶ原の戦いで東軍として活躍した。
その後、千姫と公家との縁談の取りまとめ役に任命されたが
千姫は本多忠刻に再嫁することに決定したため詮家は面子を潰されることとなった。
が、伯父の薫陶を受けていた詮家は立て籠りという行動には出ず、冷静に病死に見せかけて本多忠刻を毒殺した。
毒殺の証拠がなかったために詮家が処罰されることはなかったものの
幕府の警戒を強める事となり詮家の死後勃発したお家騒動(第二次宇喜多騒動)によって宇喜多家は改易となった。
657 :
人間七七四年:2014/05/29(木) 10:11:49.98 ID:HTLODpQF
贅六
血迷って徳川様に喧嘩売ってくたばった雑魚。
豊臣は関係ない。負けたのはあくまで贅六のみ。豊臣を楯にする虎の威を借る狐贅六きんもー☆
贅六一の負け犬野郎チンカス贅六ワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
糞バカチョン犬死に最後まで戦ってないひたすら命乞い情報貰ってない
あってもなくても日本の完勝
糞バカチョン舎弟全く貢献していない
658 :
人間七七四年:2014/05/29(木) 10:12:33.94 ID:HTLODpQF
贅六
全てにおいて大敗して死亡
659 :
人間七七四年:2014/06/04(水) 20:48:53.21 ID:XbcaaPwB
保守
660 :
人間七七四年:2014/06/11(水) 12:27:52.36 ID:Q3Czfuqi
井伊直政(1560〜1600)
徳川家臣。四天王に列せられ本多忠勝と並んで語られることが多い。
勇猛果敢な将でありながら狡猾な謀略も企てており、主君である家康からの評価は高かったが、
自身の意に反した家臣を切り捨てたり、降伏状態の兵士を見せしめに虐殺しており、徳や義を欠いていた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、先鋒として宇喜多秀家らと戦ったが、深追いしたために釣り野伏せにかかり捕縛。
西軍勝利後は今までの罪状を読み上げられて斬首された。
美丈夫で、小姓の頃に家康との肉体関係を持っていたために、外様の家柄でありながら重宝されている。
また、強きを助け弱きを挫き、部下を道具のように扱う様は反面教師の手本であり、生臭を極めるとして、
直政の成り上がりと末路は歌舞伎の演目「伊井名直左衛門」にもなった。
統率38、武力93、知力69、政治31
毛利秀孝(1590〜1627)
徳川家臣ののち毛利一門となる。井伊直政の息子で、はじめは井伊直孝を名乗っていた。
1621年の江戸征伐にて、乱の首謀者である徳川清康を逃がした後、殿軍として奮闘する。
戦後は彼の武勇を買った毛利輝元に養子として迎え入れられ、豊臣秀頼から秀の字を与えられ毛利秀孝を名乗る。
こうして助命されたものの、催事での火の不始末で下関の町を焼いた責を問われ、主君の秀元と共に連座して切腹。
その後、秀孝の一族郎党も同罪と言いがかりを付けられて処刑され、井伊家は断絶した。
一度も父である直政に会ったことがなく、容姿も似通ってないことから実子ではないとの説が囁かれており、
連座した際には自身の生まれを恨みながら切腹したという。
統率73、武力62、知力54、政治58
661 :
人間七七四年:2014/06/11(水) 12:38:38.13 ID:Q3Czfuqi
毛利勝永(1577〜1643)
尾張毛利家、後に備後毛利家の初代当主となる。
温順寛厚な人柄だが卓越した采配の手腕を持っており、前哨戦では伏見城を大筒による砲撃を以って3日で陥落さたほか、
本戦では伊奈忠次を討ち取るなどして、西軍の急先鋒として名を上げた。
戦後は23万石に加増され、江戸征伐でも高坂甚内を討ち取るが、敵方の投石で嫡子である勝家を失い、
一時は所領返還と隠居も考えたものの、豊臣秀頼や家臣に説得されて思いとどまっている。
1627年末には、下関炎上の罪で所領没収となった毛利秀元に代わって備前、備中、備後、美作72万石に転封された。
転封後は民との融和に励み、1635年には息子の義永に家督を譲って隠居。
1643年に死去した際には吉川、小早川の両家も葬列に参加しており、「お仕え出来て幸せでした。」と死を惜しまれた。
統率92、武力63、知力74、政治81
毛利義永(1607〜1662)
備後毛利家二代目当主にして備後宰相と呼ばれている。幼名は太郎兵衛。
幼いがために戦に出ることが出来なかったが、勤勉さは父の勝永にも一目置かれていたという。
兄の勝家の急死を受けて後継者となってからは更に磨きがかかり、勝永をはじめ各地の君主の政策を学んだ。
1635年に家督を継ぐと、田園整備や国人制度の見直しで石高を114万石まで押し上げるなど、
備後毛利家の地盤を固めており、「戦を知らぬ武士であったが、長じて治世の名君となられた。」と称えられている。
書に精通しており達筆で、現代でも多くの書物と手紙が残っており、領地では彼を見習って書士官を志す者が多くなった。
統率57、武力38、知力86、政治92
662 :
人間七七四年:2014/06/11(水) 19:30:22.45 ID:iIvevi2e
織田信忠
織田家の実権を握っていた父が本能寺にて討たれると、一時的に錯乱し、
二条城で明智軍に蹂躙されるつもりになっていた
しかし叔父に説得されて翻意し、京を脱出
安土で態勢を立て直し、明智軍を撃破
後年、あの時二条城に籠っていたら全くの犬死にになっていたと
幾度となく回想し、肝を冷やしたという
663 :
人間七七四年:2014/06/14(土) 00:41:44.50 ID:alzDO4ah
宇喜多秀家(1572-1608)
宇喜多直家の次男で、幼くして家督を継ぎ、臣従関係にある羽柴秀吉に付き従って九州、小田原征伐、朝鮮出兵で功を立て、
57万石の大名にまで成長するが、素行に問題があり家臣団とは不仲のため、1599年には宇喜多騒動を勃発させた。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、釣り野伏せの先導役を買って出て西軍を勝利に導いている。
この功により80万石まで加増されるものの、参戦が遅れた毛利よりも少ない石高に留まったことに腹を立てた家臣も少なくなく、
秀家自身は石田体制や家臣との対立に嫌気が差したのか、酒や道楽に浸るようになってしまった。
1608年に起きた第二次宇喜多騒動の責任を取って切腹するが、これは豊臣大老筆頭となった石田三成の謀略との説もある。
晩節を汚す前は内外的に積極的な君主であり、備前宰相の異名は後の毛利義永の備後宰相の由縁となっている。
統率76、武力82、知力63、政治78
小西行長(1558-1612)
はじめは商人の養子であったが、宇喜多家臣を経て独立し、キリシタン大名として名を馳せる。
朝鮮出兵では先鋒として朝鮮軍を相手に大立ち回りをしており、関ヶ原の戦いでも西軍側について奮戦。
筒井定次を敗走させるなどして勝利に貢献し、肥前、肥後の36万石に封ぜられている。
バテレン追放令を発端としたキリスト教との軋轢の中で、重臣であることを理由に信仰を許されていたが、
1612年、人身売買によって得た利益を隠していたことが発覚し、所領没収ののち一族は釜茹での刑に処された。
翌年には禁教令が発布され、キリシタン勢力の徹底的な排除が開始されている。
なお息子の小西ペドロ(主殿介)は朝鮮出兵の際に戦死しているが、1981年作の漫画「キリシタンの逆襲」では
生存した彼が歴史上の偉人を陥れながら小西家を存続させ、日本にキリスト教を広げる役として描かれている。
この本での日本は俗に大正義日本とも呼ばれ、後の歴史創作で世界観の土台として利用している作品も少なくない。
統率61、武力66、知力77、政治74
664 :
人間七七四年:2014/06/14(土) 01:06:21.70 ID:alzDO4ah
風魔出羽守(?〜1622)
風魔衆5代目当主。生年には諸説あるが不明で、7尺(210p)を超える色黒の巨漢だったとされる。
北条氏政、氏直に仕えていたが、小田原征伐で北条家が滅びると関東を荒らす夜盗に身を落とした。
しかし北条氏規、氏次の二人に乞われて再び北条家に仕え、石田三成のもとに馳せ参じて西軍に属する。
関ヶ原の戦いでは後詰め隊でありながら、徳川家康が籠城した大垣城に忍び込み、城内を大混乱に陥れている。
その後も河内に加増された氏次に仕えており、1621年の江戸征伐に従軍した際には真田信之を相手に大善戦を繰り広げるが、
別の兵士に背後から斬られたことにより退却を余儀なくされ、この太刀傷が祟って1622年に没する。
風魔小太郎として有名だが、これは代々の当主が襲名したものであり、出羽守の代から記録に名が追記されるようになった。
統率77、武力86、知力68、政治36
風魔三郎太(?-1625)
風魔衆出身だが謎が多く、両腕をはじめ体中に火傷の痕があり、背中には殺生石が埋まっていたという。
出羽守よりも先に北条氏次に帰参し、北条遺臣や牢人の調査のほか、在野の人材を発掘して再編に力を注いでいる。
関ヶ原の戦いでは、西軍寝返り組の首を狙う200人余りの伊賀忍者隊を、たった10人で討ち取った。
江戸征伐の際には敵方の投石を胸に受けて重傷を負いながらも、真田丸に焙烙の計を敢行して江戸城突破に一役買っている。
出羽守の死と北条家の転封を見届けた後、三郎太も役目を終えたかのように1625年に没した。
書を好み、優秀な学問書(のちの周期学)や論文を著しているほか、同じく書に精通した毛利義長らとも親交がある。
内政面でも、物資専売による官民相互利益と資金調達を推進しており、後の豊臣家もこの手法を取り入れるほどであった。
生まれは諸説あり、二曲輪猪助の孫や北条遺児との説があるが詳細は不明。
上杉景虎との説は殺生石の破片の所在や火傷から信憑性が高いが、三郎太は若い姿であり年齢的に不可能と退けられている。
統率74、武力81、知力88、政治83
665 :
人間七七四年:2014/06/17(火) 12:12:59.73 ID:ABh5BdI4
竹中重門(1577-1621)
豊臣秀吉の軍師、竹中重治を父に持つ。
若くして小牧長久手、小田原征伐に従軍して戦を学び、豊臣家の未来を担う逸材と嘱望されていた。
関ヶ原の戦いでは西軍に属していたものの、井伊直政の口車に乗せられ東軍に鞍替し、本戦では島清興に捕えられる。
重門の才を惜しんだ清興の助命嘆願により死は免れられたものの、清興陪臣の知行600石にまで重門の地位は落ちた。
1621年の江戸征伐でも参謀として清興、信勝を補佐して包囲の一角を担うが、
敵本陣への奇襲を仕掛けた透破残党の部隊を相手に、二人を逃すために奮戦して果てている。
高坂甚内(?-1621)
透破の頭領で高坂昌信の孫と言われている。
彼が頭領を継いだ時には既に武田氏は衰退の一途を辿っており、目立った記録はほぼない。
しかし武田、北条亡き後の関東の裏社会を取り仕切ったことで、徳川家との繋がりも築いていた。
江戸征伐では透波の残党を率いて入城し、部下を豊臣の撹乱に割いて攻め手を緩めさせ、
自身は江戸城表門の前で、他の牢人と共に波状攻撃を何度も追い返す大立ち回りをしている。
撹乱部隊全滅の報を聞いた後も孤軍奮闘し、毛利勝永に討ち取られるまで甚内らに討たれた将兵は2000を超えるという。
甚内の奮闘を称えた勝永は「まるで武蔵坊弁慶の如し」と称賛し、戦後は勝永によって墓が立てられた。
666 :
人間七七四年:2014/06/17(火) 22:24:57.26 ID:4wVPNOk+
直江兼続
上杉家の家老。無礼討ちした領民が現世に復活し復讐で殺されたといわれている。
その領民は菅原道真の子孫とも生まれ変わりであったともいわれており
兼続に持たされた閻魔状を手に圧倒的な力で世を震撼させたが
最後は陰陽師によって地獄に送り返されたという。
667 :
人間七七四年:2014/07/13(日) 12:31:22.85 ID:33bwBgaw
木下藤吉郎
何の野心も見せず百姓として過ごすがある時終わりの商人見習いになってそこから
一大資産を築くと歴代子孫たちはよく藤吉郎の教えを守り今に至る木下財閥を築くのであった
668 :
人間七七四年:
相馬義胤(1548〜1635)
天文の乱以降、相馬と伊達の仲は険悪であったが
家督相続前の1570、1575年、家督相続後の1586年に
はるか東の彼方からの大海嘯により領地は荒廃し、
その度に伊達家より手厚い支援を受けたことに感じ入り随身。
伊達の先方衆として活躍。