歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴

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1名無しさん@お腹いっぱい。
織田信長(1534―1560?)
尾張守
尾張守護代・織田氏の家を乗っ取って
一時期尾張を支配したが、上洛途中の義元に
攻められ滅亡。その後自害したとも諸国を放浪したともいわれている。

明智光秀(1528―1600)
明智幕府初代将軍。明智光継(仮)の嫡子
明智氏は代々土岐氏に仕える城主。
その後、織田信長に仕えるが暴政を敷く信長に
止むを得ず、信長を討つ。
その後、羽柴秀吉を山崎にて討ち取り
近江坂本に幕府を開く。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 00:57:31 ID:isCYv3bM
3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 01:03:38 ID:isCYv3bM
武田信玄(1521―?)
武田氏の嫡男として生まれ、父信虎を追放し、当主となる。
隣国の信濃を平定し、上杉謙信と川中島の戦いを行いつつ勢力を広げ、甲斐、信濃、上野を領するが
実の息子・義信に謀反を起こされ、追放される。
その後の消息は不明。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 01:04:12 ID:vZCgt82t
羽柴秀吉(1536―1598)
尾張中村出身。出自は貧農説が高い。
織田信長につかえ数々の手柄を立て長浜城主にまでなる。
信長が本能寺の変で戦死し明智光秀追討のために京都へ向かうも、
背後から追ってきた小早川隆景軍の猛攻を受けて討ち死にする
5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 01:05:12 ID:vZCgt82t
(1536―1582)だったわw
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 01:21:13 ID:isCYv3bM
島津義弘(1535―1572)
島津貴久の次男。
木崎原の戦いでは10倍以上の伊東軍に対し、果敢にも奮戦するも戦死する。
義弘の死後、島津家は滅亡する。

統率78 知力43 政治21
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 04:13:55 ID:ijG9umDh
徳川家康(1543―1572)
三方ヶ原の戦いに大敗し籠城するも、
血迷うて自ら門を開けたため、あっさり敵に討ち取られる。
脱糞して戦死したことから「海道一のウ○コ野郎」と現在までバカにされる。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 07:50:17 ID:XthGL5ky
上杉景勝(1556-1582)
長尾政景の子。
御館の乱で上杉景虎を倒し上杉家を継ぐが、
家臣の離反や織田氏との対立から徐々に力を失い、
最後には柴田勝家軍に捕らえられ京で処刑された。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 16:59:17 ID:APppvQi3
木下秀吉 1536-1570

織田家家臣

仕官を求め国を歩くも出自が卑しいために叶わなく
一時は乞食にまで身を落としていたが
信長に戦の才を見出され従うようになった
浅井長政の離反で絶体絶命の危機の時は
即座に殿を希望し、三千の兵と共に三万もの浅井朝倉連合軍と激しく戦った
殿隊壊滅寸前に信長の離脱成功の報を聞き、笑いながら「勝ったぞ!」と叫びなら
敵陣に突撃し討ち死にした。

統88
知71
政21
10名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 17:10:15 ID:WAVaJhlo
>>9
猛将タイプww
>殿隊壊滅寸前に信長の離脱成功の報を聞き、笑いながら「勝ったぞ!」と叫びなら
敵陣に突撃し討ち死にした。
糞ワロタw
11名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 18:22:17 ID:WAVaJhlo
浅井長政(1545-1586)
近江国小谷城主浅井久政の子

1560年、長政は15歳の若さで軍を率い、
六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦ぶりを披露して
重臣赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われている。

尾張から美濃を手に入れ、上洛せんとする織田信長の妹、市姫と婚姻し織田と同盟する。
信長の上洛に全面的に協力し、実質一門として信長の絶対的な信頼を得る。

信長と越前の朝倉義景の戦争の際には、朝倉家との同盟を捨て、あくまで織田家に付いていくことに決心。
朝倉滅亡後、畿内の統一に大きく功をたて、山城・大和・摂津・河内・和泉の五カ国を任せられ、江北から移る。

信長の統一事業に対し巨大遊撃軍団として東へ西へ縦横無尽に大活躍。
しかし、1582年 家臣の蒲生・長谷川・堀・稲葉・武藤らの共謀により信長が暗殺された。
四国統一の仕事をしていた長政は僅かな手勢を率い、船で馬で、驚異的な速さで京へ引き返した。
神風が吹いていたと伝わる。長政、八千の兵で二万の反乱軍を撃破、見事仇討ちを果たした。

鎮圧後、清洲で開かれた相続の会議で、長政の活躍を聞いた一門らに、信長・信忠死後の家督を打診される。
長政は快く承諾し、早急に家中を纏め、信長の志を継ぐことを決意した。

しかし以前から対立していた羽柴秀吉が長政に背き、山崎の地でにらみ合いとなった。
羽柴秀吉は黒田孝高に奇襲をさせるが失敗、まともに撤退できずに壊滅する。
主力の崩壊により、羽柴軍全体の士気が下がり、多くの兵が逃走、これを長政が見逃すわけはなかった。
結果、野戦達者の長政が勝利を得、家中を完全に纏め、
1585年、日本を統一信長の残した仕事を終わらせる。長政この時四十。
本拠を武蔵国に移し、さいたま幕府を開く。


がしかし、元の襲来により、日本軍敗北。
台風で帰っちゃったけど、日本はまた戦国突入!
1600年徳川家康が統一し、また平和がおとずれましたとさ、
めでたし。
12名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 18:35:47 ID:lN5lcwsF
>>11 最後の方が蛇足
13名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 20:56:50 ID:UOm6zCq7
明智光秀(1528―1582)
智勇兼ね備えた武将。織田信長に使えてもその才気はますます輝きが増し、信長四天王と評されるまでになる。
本能寺にて休息中の信長に対して謀反を起こすが、天魔信長が天に向かって打ち放った矢が光秀の頭部に突き刺さり死亡。
主君を失った明智軍は潰走し散り散りとなる。明智秀満ら謀反に加わった光秀重臣たちは捕らえれて斬首となっている。
14名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 21:47:30 ID:U1+y0OUL
小早川秀秋(1582-1600)
通称金吾中納言。木下家定の五男に生まれる。一時は秀吉の養子になったが、のちには小早川隆景の養子になる。
13歳で30万石の大名となり、朝鮮の役では総大将として奮戦したが、その軽率な行動が秀吉の目に余り、国替えの憂き目にあう。
秀吉の死後、石田三成と徳川家康との対立が激化して東西決戦の様相を示した際は、西軍に荷担。しかし実際は徳川方からの誘いを受容して東軍に内通していた。
だがいざ関ヶ原で東西両軍が相まみえてみると意外にも西軍は強く、東軍への寝返るべきか否か判断がつかずに苦悶。いたずらに山上で時を過ごす。
業を煮やした家康が秀秋の陣に向かって半ば恫喝的な催促の射撃を行ったが、秀秋は家康が本気で自分を攻撃しているものと勘違いし、家康の二枚舌に激怒。「家康は裏切り者だ!」と絶叫しながら東軍になだれ込む。
この台詞を家康が豊臣家を裏切った行為を指すものであると錯覚した麾下の兵は大いに戦意を高揚させ、大谷良嗣の率いる軍と連携をとりつつ東軍を蹂躙する。





もういいや。続きは誰か考えてよ。
15名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 22:09:03 ID:Iti+gnNj
武藤喜兵衛(1547-1582)

真田幸隆の三男。
大井家の支族武藤家の養子となり、武藤家を相続する。
武田勝頼とともに天目山で自害する。

武藤源三郎(1566-1658)
※後の真田信之

武藤喜兵衛の嫡子。
武田家滅亡後、徳川家・本多忠勝に仕える。
関が原の合戦などの功績により
祖家の地、沼田9万5千石を得て上田藩主となり真田姓を称した。

武藤源二郎(1567-1615?)
※後の滋野信繁

武藤喜兵衛の二男。
兄・源三郎と同じく武田家滅亡後、徳川家・石川数正に仕える。
各地を転戦し、数正が徳川家から出奔後もつきそった。
この頃に父の祖家である真田姓の本姓である滋野を名乗り、滋野信繁となる。
石川家家臣であったが、豊臣秀吉から豊臣姓を許され、北信濃5万石を拝領する。
関が原の合戦では徳川秀忠軍を足止めするが、戦後領地を没収される。
大坂の陣では冬の陣、夏の陣でも活躍するが、大坂城落城後は消息不明。
自害したものとされている。
16良スレあげ:2006/07/13(木) 22:31:35 ID:MG/wtC2N
朝松元吉(木下秀吉)
1536〜1575
今川家臣。鳴海城主。織田信長(>>1)の小姓出身とも言われる。弟の真吉(秀長)と共に義元の雅噺衆を勤めながら、故・雪斎上人の後任軍師的な働きを見せる。刈谷事件に連座し、政敵・松平元康に謀られ自害した。茶人で著名。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 22:37:14 ID:Iti+gnNj
三好信吉(1568-1600)
※後の羽柴秀次・豊臣秀次

羽柴秀吉の甥(姉の子)で三好家に養子となり
近江40万石を拝領し羽柴秀次と改名する。
長久手の戦いでは奇襲攻撃を見抜き、若江八人衆とともに猛攻を仕掛け
徳川家に多大は損害を与える。
四国征伐や小田原征伐において軍功を上げ、
織田信雄旧領尾張国と北伊勢国の100万石を治める。
1591年秀吉嫡子鶴松が亡くなり、関白を譲られる。
1593年秀吉に秀頼が生まれたことで秀吉との関係が悪化する。
前野長康らの説得により、関白職を秀吉に返上に隠居する。
謀反の疑いありとされ秀吉により、北伊勢12万石に減封される。
関が原の合戦は東軍につき、西軍の伊勢進行軍により戦死する。
18前スレのやつをチョイ改良:2006/07/13(木) 23:40:55 ID:t9Re4F+y
浅井長政 【1545〜1583】 統率 90 武勇 93 智謀 32 政治 87 魅力 93
浅井忠政 【1563〜1635】 統率 81 武勇 75 智謀 84 政治 93 魅力 72

彼が元服したばかりの頃、父久政が六角家に従属していた為、賢政を名乗った。
六角の家臣の嫁を室として迎えていたが、六角からの離反を決意。
嫁を送り返し、野良田の合戦で劇的な勝利を挙げると、家臣団の支持を得て当主の地位を父から奪取。半ば強引に隠居させた。
同じ頃、桶狭間の合戦で今川義元を破った織田信長に習って長政と改名する。
その後は朝倉と同盟を結んで北近江を席巻、六角を圧迫。武名をとどろかせた。
この為、名前の元となった信長自身も、長政に目をつける。

1563年、織田家から同盟の申し入れがあるとこれを受け入れ、
さらに4年後には信長の妹お市の方が輿入れし、織田家との関係はより強いものとなった。
翌年、織田、浅井連合軍による上洛が敢行され、宿敵六角家の打倒に成功。
同年の朝倉討伐においては、熟慮の末織田家との縁を選び、猛反対する父を説き伏せ朝倉討伐に加わる。
その功績から越前を与えられ、一向一揆と戦い続け、やがて100年に渡る加賀一向一揆を収束せしめた。

やがて嫡男万福丸が元服。信長の嫡男、信忠から一文字賜り、忠政と名乗った。
1577年の手取川の合戦においては軍神上杉謙信を相手に懸命に防戦。忠政も見事な初陣を飾る。
その戦いぶりは謙信をして「信長に過ぎたる者が二つあり、備前守に安土の城」と言わしめた。

終生、信長との盟約を守り続けた為、「北の浅井に東の徳川」と称えられる。
戦だけではなく領国経営にも類まれなる才覚を見せ、善政を施して領民に深く慕われた。
家庭においても夫婦仲睦まじく、多くの子宝に恵まれた。

その後も上杉家との戦いを続けていくが、本能寺の変により大きくその運命はかわっていく。
越中での戦いに勝利し懸命に引き返すも、信長のあだ討ちにおいて羽柴秀吉に後れを取ってしまう。
清洲会議においては、一門かつ織田家の同盟者として三男信孝を推挙するも、結局は秀吉の功績の前に押し負けてしまう。
19前スレのやつをチョイ改良:2006/07/13(木) 23:44:21 ID:t9Re4F+y
やがて信長の後継者としての地位を巡り秀吉と対立。柴田勝家などの有力な織田家遺臣を味方て対抗する。
ところが、彼が旧来の織田家臣団ではなく、また自身が謀略戦や根回しなどに不得手であったことが禍する。
有力な味方である、柴田勝家の病死を切欠として次第に織田家での求心力を失い離反者が続出。孤立してしまう。
兵力差10倍以上の圧倒的に多勢に無勢な中で行われた賤ヶ岳の合戦では、奮戦するも敗退。
先祖代々の地である小谷を焼き払われ、最期は越前北の庄まで追い詰められて自害した。

秀吉は下賎の出であるが故に、主君の血筋を引くお市の方に横恋慕しており、
自分の元へ走れば命は助けると勧告したが、お市の方はこれを公然と拒否。夫と運命を共にした。
残された子供達は老臣遠藤喜右衛門の手引きで逃れようとしたが、秀吉によって須らく捉えられてしまう。
この時長女の茶々は自ら秀吉の愛妾となる道を選ぶことで弟達や妹達を守った。

嫡男忠政は信孝の傍に仕えていたが、信孝が彼の諌めを聞かずに打って出て戦死すると徳川家康の下へ逃れる。
食客として過ごしていたが、秀吉との合戦に当たっては自ら志願して秀吉を誹謗中傷する文面を書き、これを挑発。
小牧長久手の戦いにおいては、父の名に恥じない見事な戦いぶりを見せ、正式に徳川家の客将として迎えられる。

北条征伐後の家康の関東転封に従い、関ヶ原の合戦では妹婿にあたる秀忠を補佐して徳川家の勝利に貢献。
恩賞として近江長浜城を中心とする近江38万石を拝領。浅井家再興を果たした。
江戸城中において一門かつ、初代老中として徳川家中で重きを成すが、大阪の陣が発生。
長女茶々は淀の方として大阪に、三女のお江与が秀忠の正室として江戸に。
そして末弟井頼が大阪入りしたことで西と東に分かれた兄弟姉妹がそれぞれ争う形となった。
夏の陣では、出撃してきた末弟井頼と真正面からぶつかる形となり、血涙を流して断腸の思いで采配をとったと史書には記されている。

やがて家督を嫡男家政に譲り、江戸城につめて妹婿秀忠や、甥家光のよき相談相手となり、家政は初代大老となった。
その後も長浜藩は幾人にもわたって老中、大老を輩出し、桜田門外の変で暗殺された浅井弼政は彼の子孫に当たる。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 01:36:43 ID:j7VaNcNJ
北条氏直(1562-1616)

後北条家第五代当主。氏政の嫡男。
本能寺の変が起こると上野に侵攻、神流川の戦いで滝川一益を破り
更には信濃へ進軍したが、一度は従属させた真田氏の裏切りなどもあって
更なる領土拡張は失敗に終わる。
その後も徳川家と結んで真田と戦うが、最後まで崩せず、
結局豊臣秀吉の仲介が入るも遺恨を残すこととなる。

1590年、真田領を無断で侵略したことが発端となった小田原の役において、
豊臣の大軍を前に小田原城に篭城するが破れ、全領地を没収されたうえで高野山に謹慎処分となる。
しかし徳川家康の娘を娶っていた関係から早くに処分は軽減され、
1592年には伯耆に領土を与えられ大名として復活を遂げる。
朝鮮の役では弟の太田氏房と共に肥前名護屋に赴くが、
現地で真田の者と諍いを起こし秀吉・家康に諌められたともいう。
関が原の合戦では領国にとどまりながらも岳父家康の東軍につき、
宇喜田や毛利を牽制した功によって伯耆の残りと出雲の一部を与えられる。

1614年、大久保事件によって小田原藩主の大久保忠隣が改易処分を受けると、
氏直は相模・伊豆の全域・東駿河に転封となり、24年ぶりに小田原城に戻ることとなる。
1616年、大坂夏の陣に徳川方として参加するが、真田信繁隊と激突、戦死する。
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 10:10:04 ID:yLbQ9wLc
KOEIパラメータいらない
22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 12:07:13 ID:kG8joooU
長尾景虎

越後守護代長尾家に生まれるが寺に預けられ僧侶になるべく修行する。
しかし国内における内乱が続き、兄の晴景は景虎を還俗させ、栃尾城に送った。

ボロい城に500の兵と、心もとない限りであった景虎に三条長尾家が攻撃してきた際、寡兵ながらも奮戦し敵大将を討つ
寸前に本庄が裏切り総崩れにあい越後を逃走、
兄にも見放され甲斐の武田家に身を寄せ、持ち前の軍才と主人に対する忠節ぶりを発揮。
やがて信玄の娘を妻にもらい一門になる、
海津城主として越後方面攻略の司令官となり功績をあげる
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 19:36:14 ID:KWNj/8k4
織田信長

尾張の大名。
桶狭間の戦いで今川義元の大軍を破り、周囲にその名を轟かせる。
その後美濃を落とし地盤を確立。
その後上洛し、天下に足をかけるも、浅井長政の裏切りによりそれは崩れ
千種越えの最中に杉谷善住坊に狙撃され死亡する。
24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 19:41:48 ID:poK1vRg2
毛利輝元
毛利隆元長男。
父隆元が急死したため、祖父元就の後見をうけ元服した。
元就死後は、吉川元春と小早川隆景の両叔父に補佐され
1565年に、元服し将軍足利義輝より「輝」の字を賜り、毛利輝元と名乗り、
本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えた。
1585年に秀吉が四国征伐のため長宗我部元親を攻める際、輝元は秀吉の要請により伊予へと侵攻する。
この後大事な後見にして叔父の小早川隆景に恩賞として伊予一国35万石が封ぜられ
九州征伐では小早川と並ぶ毛利両川と謳われた吉川家の当主吉川元春が
筑前35万石に加増移封され
ここに毛利両川は事実上毛利宗家と切り離され独立大名とされてしまう。
 さらに京洛に近い立地にある大国 毛利は秀吉に警戒を受け
輝元自身にも九州転封の恩賞が下る。
当初備中半国、備後、伯耆半国、出雲、隠岐を収貢する手筈であったが
あわせて安芸も収貢され
変わりに周防、長門、石見を安堵に加え豊前、豊後、筑後、肥後、日向半国
を与えられる大幅加増であるが故郷とも離れ見知らぬ地に追われ
さらに輝元は本拠を熊本に指名されてしまう。

 当初は渋っていた毛利家がこの沙汰を承諾した背景には
子供のいない輝元に秀吉の親族を養子にするのはどうかと
黒田如水から内々に話があり、これを断るには九州転封を承諾する他
無かった事情があった。

 がこの九州転封は毛利に利した。国人衆一揆の延長であった
毛利家体制は一気に近世大名としての国内体制に転換できた。
この点で関東転封を受けた徳川氏と似通っている。
25名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 20:06:40 ID:poK1vRg2
 朝鮮出兵では否応無く主体的な役回りは毛利吉川の担当となった。
そのうえ全国諸侯の兵站や肥前名古屋の屋敷をも負担し
これは大きな負担となったが
 これによって毛利宗家当主・毛利輝元は吉川家当主・吉川元長
小早川家当主・小早川隆景(後に嗣子秀包)は三家そろって武家清華成
に昇進、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家と並ぶ年寄衆に任じられる。
後の五大老である。
太閤秀吉薨去後
石田三成に代表される豊臣官僚と外様の雄・徳川家康が対立
前田利家の死去
上杉の謀反嫌疑という激動を経験する。

時の五大老に徳川家康、前田利長、宇喜多秀家とともに名を
連ねていた毛利輝元、吉川元長
四国征伐での勲功で伊予で独立大名になった熊谷元直
同じく毛利の九州転出の際豊臣に通じて出雲17万石にて残った吉見広長
隆景の周旋で毛利輝元の養女を迎えていた
長宗我部信親、羽柴秀秋、
秀吉によって豊臣家直臣として大阪城で執事の役回りを片桐且元とともに
執行するようになっていた吉川広家といった
一門連枝衆は輝元の屋敷に参集
輝元の九州行きで出奔した家臣たちも参じたと言うから当時の
昼行灯やあほうという評判からは推測しにくい人徳のほどが窺われる。
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 20:13:06 ID:csPJ71Aw
南光坊天海

徳川家康の側近として活躍した人物。関ヶ原後に仕え、明智家を滅ぼす事に力を注いだ。
羽柴秀吉と同一人物という異説もある。
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 20:42:23 ID:poK1vRg2
 やがて徳川家康の上杉征伐にタンを発した慶長の乱起こる。
石田三成の斡旋のもと西軍総大将に毛利宗家毛利輝元が立ち
西軍主力を毛利一族軍が占めると、この戦乱は徳川と毛利の天下取の戦
の様相を呈してきた。
関が原の戦いで輝元の婿秀秋と養子秀元とが大活躍して勝利を収める。
この勝利を背景に大阪城では吉川広家が半ば強引に千成瓢箪の旗印を
持ち出して秀頼の西軍支持を演出、
このあと朝鮮出兵で知り合った知己を通じて東軍を分断していく。
このあと関東に立て篭もった徳川征伐の際に
朝廷工作を前田玄イとともに安国寺恵瓊が行い
毛利輝元を征夷大将軍にしてしまう。
 天下に知られた徳川家康を討った実績は毛利幕府の意向を高めるに十分で
あったがそれは家康の嗣子秀忠が妹婿で、この戦争でも蚊帳の外であった
淀殿との関係は大きく悪化
毛利が天下を取ったとの印象を薄めるべく
征夷大将軍の職責を嗣子秀就に譲り養子秀元を後見として徳川の跡の関東に置き
戦乱の収拾を図らせる一方
自身は出家剃髪して宗瑞を名乗り長門周防37万石をもって封じた次男毛利就隆
の所に身を寄せ隠居所も長州の萩という辺鄙な場所に置くという
気の使いようで隠居所には豊国明神を祭るほど気を使ったが
 本人の思惑と別に江戸に開府された格好となった毛利幕府は威光
を高めていく。
豊臣家との戦になったものの秀頼は切腹するも
国松と娘は助け出され豊臣家は捨扶持1万石の高家筆頭として続くことを
許されている。この辺が戦国武将らしからぬ甘さであろうか。
晩年江戸に赴く事となり帰路駿府で病状が悪化そこで逗留することとなり
1年後に死去 
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 20:43:18 ID:HOqz1wlt
力作乙です
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 20:48:46 ID:2u10HzBm
織田信勝(1536-1596)
※達成・信成とも

織田信秀次男。
稲生原合戦で弟・織田秀孝や異母弟・信時と結託し、
兄信長を討ち取り織田家を相続する。
今川家が尾張侵攻の際にはいち早く、軍門に降り尾張4郡を治め
織田家当主が代々名乗っていた弾正忠を名乗る。
今川家の美濃侵攻や近江侵攻で軍功を上げ、尾張国を治めた。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 21:47:30 ID:o2tefmXc
柴田勝家(????-1587)

織田家臣。親・出身は不明。


若きころの出世

若くして織田信秀にその才を認められ、のち息子信勝付き家老となる。
安食・成願寺の戦いでは、信勝の代理として出陣、長槍を駆使し、清洲勢を簡単に打ち破る。

しかし信勝は兄信長に背くことになる、
だが勝家は「わしは亡き信秀公に取り立ててもらった恩義がある。
信長の殿に背くのは不本意だが、喜んで謀反人となりましょう」
そして稲生の戦いに及ぶ

勝家隊一千は信長の馬前まで押し寄せたが、織田造酒ら信長旗本が奮戦し、
そこへ信長が勝家隊に対し大音声を上げた。
信長の威光を目にして士気が萎え、もろくも崩れたった。
勝家は改めて信長の実力を恐れた。初の敗戦である。

一旦許されるも、信勝は再び兄に背く。
とうとう信勝を見捨てた勝家は信長に謀反を知らせる。
ここで勝家は本当に謀反人となった。
勝家の強さを知る信長は、勝家を直臣とする。


織田家筆頭家臣

上洛戦の頃より、信長の重要な重臣として頭角を現し、近江蒲生郡を領す。
その後も活躍を続け上杉謙信の抑えとして、ついに家中最大石高の越前49万石を任される大身となった。
手取川の戦いでは、軍神上杉謙信に大敗。越中能登加賀北部を上杉に先取りされる。
しかし謙信死後、上杉に内紛が起き、怒涛の進撃で越中までを制圧、
北越後の新発田重家を寝返らせ、越後国境まで迫った森長可と挟む形を取った。



信長の死

上杉滅亡寸前まで追い詰めたが、本能寺で信長が死去したと報告が来た。
中川重政による暗殺であった。勝家には悲しむ間もなく、仇討ちの準備を始めた。
だが一早く仇討ちを果たした人物がいた。
明智光秀だった。


織田家分裂

重臣たちは清洲で跡継ぎの会議をした。
功を得た光秀は、信長嫡男信忠の遺児三法師が適格だと主張する。
勝家には陰謀が見えたが、他重臣たちはそれに気づかず賛同する。
勝家は三男信孝を推していた。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 21:48:49 ID:o2tefmXc


光秀との決戦

光秀は対立している勝家と雌雄を決するために、近江木ノ本に進出。
これに対し勝家は柳ヶ瀬を本陣とし、両者は対峙した。
両者の固い守備で長いにらみ合いが続くが、とうとう光秀が先手をうつ。
かっこ撃破せんと岐阜へ向かい、岐阜城を囲んだ。
しかしその時、勝家軍主力の佐久間盛政隊が賤ヶ岳の桑山重晴と停戦し、
大岩山の中川清秀を奇襲、大岩山を落とし、高山重友が岩崎山を捨て、
木の本の光秀軍本陣へと逃走した事態に陥った報告を受けた。
光秀は直ぐさま戻ろうとしたが、夜間の雨により合渡川が氾濫、戻ることが出来なくなった。
光秀の不在により、神明山堂木山の勝家に心を寄せている者らが木村隼人および木下一元らを殺害、
光秀軍第一守備線も崩壊、負けた光秀は逃走途中で自害した。

勝家は信勝を裏切ったが、信長には忠義を尽くすことができて嬉しかったろう。
その後、信孝が天下を統一、安土幕府を築いた。
見届けた勝家は、1587年に死去した。



が、しかし、日本を攻め滅ぼさんとする、USA家ダグラス・マッカーが信孝に挑んだ。
なんとか撃退したものの、家臣に恩賞を与えられず、幕府崩壊が崩壊した。

1600年徳川家康が平和を創った。後にオシムジャパンを優勝に導くのちの天才FWエスパー家康である。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 21:50:10 ID:o2tefmXc
幕府崩壊が崩壊ってなんですか
33亜名留:2006/07/14(金) 22:12:05 ID:OR7VxNR7
武田勝頼
(1546-1604)

武田信玄4男。母は諏訪御料人。通称諏訪四郎、諏訪四郎神勝頼。
兄弟は兄に義信、信親、信之、弟に盛信、信貞、信清。
子に信勝、勝親など。  

1546年、甲斐の戦国大名、武田信玄の4男として産まれる。
母が諏訪氏の出であった為、諏訪氏の名跡を継いだ。
勝頼には4人の兄がいたが、1565年に長兄である義信が父信玄に対して謀反をおこし幽閉されたため、(のち自害、病死説もあり)
急遽武田家の 後継者と目される事となる。

1573年、三方ケ原にて徳川・織田連合軍を破った直後に父信玄が病の為急逝し、武田軍は甲斐へと引き上げた。

勝頼は正式に家督を継ぎ、翌1574年には父信玄ですら落としえなかった遠江の高天神城を落城させ、
また美濃国の明智城以下18城を落城させた。その破竹の進撃に諸将たちから
『信玄公をも超えられる御館』
と称賛されたという。  
1575年、三河長篠城の攻略へと向かう。
が、城を落城させるには至らず、攻略に手間取っているうちに信長自ら兵を率いて設楽原に布陣、
またそれに家康も合流したため勝頼は窮地に追いやられた。

両軍の兵力差、武田軍の地理的不利、および織田軍が大量の鉄砲を携えているとの報に勝頼は
潔く甲斐への撤退を決断する。

夜半のうちに武田軍は撤退を開始、それを知った信長は急遽追撃を決断する。

しかし信濃との国境で織田・徳川連合軍の追撃を知った勝頼は急遽軍を反転、分散させ
峠の頂上から連合軍に攻撃を仕掛けた。

武田軍の思いもよらぬ奇襲攻撃に連合軍は撤退し、勝頼の武名は全国に轟いた。

しかしこの戦で山県、真田兄弟といった名将が戦死し、
またかねてから反抗的だった穴山信君は単独で撤退してしまった。
勝頼は戦死した武将たちの後釜に真田幸村、曽根昌世、そして弟仁科盛信等を登用し
穴山らの諸将を追放するなどし家中改革に努めた。

戦後上杉、北条らと同盟し織田・徳川に対抗するが
本能寺にて信長が倒れると台頭してきた羽柴秀吉と対立する。
しかし上杉景勝が羽柴方についたこともあり勝頼は秀吉に降伏、甲斐1国を安堵される。
この時に真田、木曽氏らは秀吉により独立させられた。

のち秀吉逝去後は台頭していたかつての宿敵、家康と親しくし、
関ケ原合戦においては老齢ながら東軍として参陣し、縦横無尽の働きを見せた。

これにより甲斐、信濃中部、南部計50万石をあたえられ、家督を嫡子信勝に譲った。
1604年、甲府にて病死、波乱に満ちた人生に幕を閉じた。
34名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 23:30:21 ID:YrpJHjDp
もし、あのまま今川が勝っていたらどうなっていただろう・・
35名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 00:10:14 ID:nIYBMlqU
>しかし信濃との国境で織田・徳川連合軍の追撃を知った勝頼は急遽軍を反転、分散させ
峠の頂上から連合軍に攻撃を仕掛けた。

おもしろいね、戦死者が出たのは微妙だけど
36名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 22:31:12 ID:jb7zISrQ
今川義元 (1519-1582)
駿河の国の守護大名である今川氏親の子として生まれる
4才で仏門に出されるも1536年、兄の氏輝が病死したため玄広恵探との家督争いが発生
太原雪斎の尽力で勝利、今川氏9代駿河守護となる
その後三河を支配下におき「東海道一の弓取り」と呼ばれるようになる
1560年、大軍を率い京への上洛をはじめる
まず軽く尾張のうつけ者、織田信長を倒し(その後織田信長は宣教師の船に乗り海外へ渡ったと言われている)
美濃の国の斉藤家を破る その時の松平元康の活躍は素晴らしかった しかしそれが後に自分の首をしめることとなる・・
浅井とは同盟を結んだものの義元の敵は多かった 特に六角氏と三好氏の力は強大だった
しかしここでも元康が大活躍 そして自身も兵を率い見事京への上洛を果たした
義元は本願寺や朝廷とは上手く付き合っていたが将軍足利家との関係が悪化
同盟を結んでいた浅井家や朝倉家などと戦うことになる
1570年、姉川の戦いが発生 義元は13段の陣のうち11段まで突破されたが松平元康の奮戦により勝利(しかし、最近ではこれは否定されている)
その後も浅井、朝倉との激しい戦いは続くこととなった 特に先の戦いで大活躍だった朝倉家の武将、明智光秀に義元は苦戦を強いられる
しかし光秀はどれだけ活躍してもあまり朝倉氏に認められなかった それに目をつけた義元は朝倉氏と光秀の分断を図った 遂に光秀は義元に降り兵力で勝る今川軍は浅井、朝倉家を滅ぼすことに成功した
この勝利により今川家が新たな将軍家となるのは明確だった 足利義昭が毛利に逃げたとはいえ残る敵は毛利以外には上杉家ぐらいしか残っていなかった
しかし1582年、僅かな手勢を引き連れ入った本能寺で松平元康の謀反に合い殺されてしまう
息子の今川氏真は動かなかったため松平元康はあっさりと今川家の乗っ取りに成功する
その後徳川家康と改め天下統一を果たし徳川幕府が誕生した

義元 政治96 戦闘95 智謀92
元康 政治100 戦闘98 智謀84 野望100
光秀 政治23 戦闘99 智謀95
37名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 23:30:25 ID:08lN5u2Y
好きなスレだった。
復活は嬉しい。
38名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 23:40:27 ID:SiT2Sa4d
落雷により死亡した戦国武将がいたらしい。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 00:31:06 ID:YMmgDnxS
結城秀康 (1574-1600)
徳川家康次男、幼名、於義伊。1584年、父家康の小牧の戦い敗北後、人質として羽柴家の養子になる。
この時秀吉より「秀」の一字を賜る。
その後、羽柴家一門衆として九州征伐、小田原の陣、朝鮮出兵などに出陣し、数々の武功を立て
若年ながら武勇抜群の将としてその名を知られることになる。
その後関東の名家結城家の養子として結城家を継ぎ、下総結城城10万石を得る。
1600年の関ヶ原の戦いでは、上杉家への押さえとして下野宇都宮城に配され、主戦場に参加することは無かった。
9月15日の関ヶ原東軍総崩れ、父家康の討死が秀康の元に伝えられたのは5日後の9月20日であるといわれている。
秀康は宇都宮城に篭城するが、最上を打ち破った上杉、佐竹、さらには西軍に寝返った伊達の軍勢総勢7万の軍勢に囲まれる。
かつての縁より降伏すれば厚遇するとの西軍首脳の手紙なども送られたが、秀康はこれをはねつける。
名将の名に恥じぬ戦いぶりを示したが、他勢に無勢、1600年12月25日、将兵の助命を条件に自害する。享年26歳。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 22:48:02 ID:rleJipl4
佐々成政(?〜?)
 織田信長の家臣。越中富山城主となる。家臣の制止をきかず厳寒のアルプス山中に入り消息を絶つ。
彼の目的が何であったのかは現在に至るまで謎である。
41名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 23:27:19 ID:YMmgDnxS
吉川元春(1530〜?)
 毛利元就次男。1543年、元服。1547年、父の命により熊谷信直の娘と結婚することになるが、
娘があまりに不器量であったため、対面の儀で逃走、その後の行方は分かっていない。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 23:32:04 ID:cbgluR0p
ワラタ
43名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 02:49:05 ID:04rd0jc/
織田信雄(1558〜?)
織田信長の二男。大坂の役では知らず知らずのうちに豊家総大将にされるも恐ろしくなり行方不明となる
44亜名留:2006/07/20(木) 06:16:01 ID:4hG+natp
朝倉義景
(1533-1595)

越前国の戦国大名。朝倉孝景の嫡男(養子説もあり)

越前国の大名、朝倉孝景の子として生まれた義景は当初、政や軍事にまったく関心を示さずに遊興にふける日々を送っていた。

しかし足利将軍家の義秋(義昭)の自国への亡命
さらに加賀の一向一揆の度重なる自国の侵入により、徐々にその才能を開花させる。
義昭の上洛要請に義景は
今の朝倉家にそんな力はないと判断、しかし義昭を丁重にもてなした。
また加賀の一向一揆との戦いにおいて家中随一の猛将であった朝倉宗滴の死後は自ら軍を指揮し、
幾度となく10万以上の一向衆を打ち破っている。

やがて義昭が頼った尾張の織田信長が台頭してくると、義景は信長から臣従を求められた。

義景はこれまでの信長の数々の悪逆非道な行為、そして越前の国主としてのプライドがこれを許さず戦うことを決意した。

これを口実に信長は即座に越前に軍を進めるも、浅井長政の裏切りにあい朽木元綱を頼って京へと引き返した。
浅井の裏切りに激怒した信長は小谷攻めを決意、徳川家康と共に出陣した。
これに対して義景は自ら1万の軍を率いて出陣し浅井軍と合流、両者は姉川にて対陣した。

浅井軍は織田軍の陣を次々と突破し本陣近くにまで肉迫、
朝倉軍も先峰、朝倉景健の活躍で徳川軍の陣を次々と打ち破った。
これにより織田、徳川軍は引き返すもたびたび両者は近江国で激突した。
度重なる戦でも決着はつかず、双方決定的な打撃を与えるには至らなかった。

しかし義景が一向衆との戦の為加賀に出陣中、信長は不意をついて小谷城を攻め、亮政、長政親子は越前に亡命した。
これにより勢いに乗った織田軍は朝倉方の城を次々と攻略し、朝倉方は数々の武将が討ち死に、窮地に立たされたのである。
義景は一向衆と和睦、急遽彼らと連合軍を組みなんとか織田軍を追い返した。

だが朝倉家の受けた被害も大きく、義景は一族の景鏡の居城である大野へと移り徹底抗戦の構えを示した。

その後織田軍は再度越前に進撃、対する義景は3000の兵で大野城に立てこもった。
やがて城を囲まれるが、加賀の一向衆が織田軍の背後に陣取ると
これを見た義景は城から出撃、一向衆と共に織田軍を挟撃し見事織田軍を敗退させたのである。
その後信長が本能寺で横死するまで織田軍を撃退し続けるも、本能寺の変後は柴田勝家に降下する。
これは度重なる戦による国力の低下を恐れての事であった。
賤ヶ岳合戦時は秀吉有利を見抜き、秀吉勝利に大きく貢献した。
のち秀吉から大野、勝山10万石を賜ると家督を嫡子愛王丸に譲り隠居、数年後大野にて病死した。
なお朝倉家はのちの関ケ原合戦時には東軍につき、越前にて20万石を賜り幕末までその命脈を保っている。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 08:01:55 ID:2yqlLNms
佐久間信盛 1527-1586

織田家家臣の筆頭格で通称退き佐久間

信長に「退却戦をさせれば日ノ本では右衛門の右に出るもの無し」と言わせしめた

浅井長政の離反の際は秀吉と共に殿に志願
そのあまりに鮮やかな手際のよさから両軍の大将の浅井長政、朝倉景建は即座に戦意喪失させ
秀吉は感激の涙を流したという

三方ヶ原の戦いで徳川家康が武田信玄に敗れた際、が尾張方面に退却して討ち死にしていく一方
自身はあえて三河方面へ向かい、その結果ほとんど無傷で済んだ。

賤ヶ岳の戦いでは甥の盛政と共に柴田方に属し中川清秀を討ち取り、はやる盛政を諌めながら即座に退却
これは岐阜に向かっていた秀吉が即座に軍を返してくることを理解していた為と思われ
秀吉は心底悔しがったという。
秀吉勝家が和解した1586に病死
巷では暗殺説が出回った

政治51戦87智81
46名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 19:47:43 ID:cIVQipC8
今みたら誤字脱字ばかりだった
スマソ
47名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 21:55:41 ID:pCBcuVcW
北条氏政

父、氏康と食事をとっている最中、飯にかける汁の分量を誤ったことから、
氏康に疎んじられ、廃嫡。その後は不遇の人生を送った。
48名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 22:57:18 ID:04rd0jc/
伊勢新九郎(1456年〜?)
家臣の制止を振り切り単独で鹿狩りの振りをして小田原城侵入、
すぐさま大森藤頼の警護兵に捕縛される。「戦国の虚け者」として名高い人物。
49名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 00:21:24 ID:SrGfeYf0
種子島時尭(1528-1543)
種子島家十四代当主、1543年ポルトガル人が種子島に漂着した時、
止せばいいのに白刃を抜いて追い回し、撃ち殺される。
戦国武将最初の鉄砲被害者として一部に名を残す。
50名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 09:04:44 ID:hG02U3jU
今川氏真

古来より日本に伝わる蹴鞠から発展した、蹴球の創始者。1573年には、
初の世界杯を開催。初代日本代表の主将を務める。
51名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 04:16:09 ID:wo4VQeTc
木下秀吉(1936年〜?年)

今川義元配下。元は乞食であったという。
義元配下の一武将が彼の才覚を大いに評価し、推挙された。

また、元々下層階級の出身であったから領民には優しかったと言われ、
それと同時に様々な知略が伝承として地元に残っては居るものの、
出自が低かった為、500石以上の出世は叶わなかった。

無論、元はただの乞食であった事を考えれば大出世とも言うべきであり、
乞食が禄を得るまでの出世した事実そのものに、乱世の妙が感じられる。

今川家滅亡後は織田家に降伏し、以降、その領地を平穏に納めた。
52名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 07:57:05 ID:MIiOUo79
>>51
最近じゃねぇかw
53名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 14:19:01 ID:bLP84Meg
織田吉法師

織田信秀の子。2歳で川に落ちて死亡

木下日吉丸

木下や衛門の子。1歳で餓死。

松平竹千代

1歳で犬に噛まれて死亡。

54名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 18:55:48 ID:FF67ptyR
http://pksp.jp/tensaikoyaku/bbs.cgi?m=1800&u=603299&sn=4034426&o=7&ss=&ps=19891112
ほらよ。お前らの好物(神木くんの入浴画像)
55名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 19:35:46 ID:YEtNpCGF
 織田信長 
織田幕府の創始者
南寇の撃退者

南北朝時代 北朝を擁する足利幕府は懐良親王を頂く九州南朝を屈服させること
に失敗、九州一円を統一支配に成功し明の冊封を受けた事から、日本とは別個の独立国・筑紫
として体裁を整え、以降九州は独立国として歩み始めた。
懐良親王は筑紫国王として南朝に由来する王統を唱え
足利直冬を征西大将軍とする。ここに東西足利幕府が成立
ただ惰弱な東の足利幕府と異なり西の足利幕府は天竺に砲艦を送って武威を示し
国威の発揚と港湾の確保による交易拡大を得ており、
独立国として琉球や呂宋まで版図とし明朝の皇女を迎え
将軍の次男がローマを訪れ洗礼を受けるなど国際的な大国として発展しつつあった。
 筑紫の表玄関となった博多や長崎はコンスタンティノープル以東で最大の城塞を構え
その都会の様はかの長安や古のローマの如し・・と宣教師に謳われる国際的なメトロポリス
となっていた。
またイスパニアはコロンブスなる人物が見出した新天地に派兵して雲煙万里を越えて
メヒコインカの地を「略奪からの解放」の名のもとに己が物とし
イスパニアポルトガルとの抗争でアフリカはマダガスカルと喜望峰まで獲得
東洋初の日没無き帝国の威容を備えるに至っていた。
これほどの世界帝国でありながら隣する日本は国祖・懐良帝の遺言で手を出すことは
禁じられていた。
が海洋帝国として分断工作に余念はなく日本は長い戦国時代を迎えていた。
そんな戦国を終わらせる可能性を秘めた男それが織田信長であった。
信長と筑紫との抗争は石山本願寺への支援に始まり
東の足利最後の将軍義昭の亡命を機に本格的な戦争となる。
世にいう南寇の勃発であった。
筑紫と気脈を通じた中国路の毛利に軍勢を派遣 備前で激突
四国を統一した長宗我部元親が筑紫王に四国を献納、自らは
その四国都督に任じられていたが、これも呼応して立ち上がった。
  また国際的な世界帝国らしく北方からの調略も遂行され
密約を結んだ奥羽の伊達政宗が筑紫の支援のもとに信長の後押しする
佐竹最上を撃破、奥羽統一を果たした伊達が関東に迫る勢いを見せた。
・・信長・信忠二代に渡る織田幕府いや日本始まって以来の国難
とされる南寇は・・・

ってなんか話が取り留めなく長くなりそうなので・・ここまでにしよ。

 信長は甲斐の武田勝頼、越後の上杉景勝らの協力をも仰ぎ
戦争は信長の息子・信忠の代まで続き
56名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 19:37:23 ID:YEtNpCGF
↑ごめん下二行は無視してくれ。
57名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 20:18:11 ID:GNWpijCe
長宗我部信親(1565-1626)


土佐の戦国大名・長宗我部元親の嫡男。初代土佐浦戸藩主。

1586年、父と共に九州征伐に従軍。戸次川の戦いでは総大将・仙石秀久の失策により敵中に孤立。自害を決意するが福留儀重に諌められ、儀重が身代わりとなり辛くも脱出した。

1590年、元親から家督を譲られ、その後朝鮮出兵で活躍した。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦功を挙げ、戦後、伊予南部を加増された。

武勇だけでなく内政にも優れ、領民から非常に慕われたという。
58名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 23:34:44 ID:t5sHPyCJ
斎藤龍興(1547-1577)
美濃の戦国大名。国主斎藤義龍の嫡男として生まれ、13歳で家督を
相続した。非常に聡明な人物であったが、敵・織田信長の油断を誘うため
わざとバカのうわさを流したという。
1561年7月21日、竹中重治らとともに初陣で織田信長を討ち取る。
竹中と謀議して編み出した計略は入念なもので、これまで龍興の能力を
疑っていた美濃三人衆も驚き、「斎藤の家名を揚げるはこの殿にて候」と
歓喜したと伝えられる。
その後、尾張織田氏を告いだ織田信包を滅ぼし、美濃・尾張を攻略して
徳川氏・本願寺と同盟。その実力を買った足利義昭を将軍に擁立して
上洛を果たし、三好・松永らを滅ぼして室町幕府副将軍職兼美濃・尾張
両国守護職に就任。一族の明智光秀を政所執事、斎藤利三を侍所所司に任じ
幕府の実験を掌握した。ただしその政治は中世的権威を背景にしたものであり
近世への過渡的なものであると評価され、中世形仁君の典型と評される。
1577年急死。その死は領民から甚だ悲しまれ「天下嘆き悲しむことかぎりなし」と山科言経は日記に記している。
腹心・政所執事代竹中重治が殉死。家督は子・康龍が継いだが幼少のため
政治の権は岳父徳川家康に移り、それを不満とする明智光秀が挙兵して
関が原で争ったが、徳川家康の勝利に帰し、徳川幕府が1580年に成立した。
幕府成立後、斎藤康龍は伊勢33万石に移封されたが、幕末まで「制外の
家」とされ特権を維持した。
なお、キリスト教に布教許可を与えるなど龍興は宗教には非常に寛容であり、
ルイスフロイスも「非常に有能で思慮深い人物」と高く評価している。
死の直前に洗礼を受け、現代の日本のキリスト教隆盛の基盤を築いた人物として
加藤一二三枢機卿が最近も斎藤龍興墓に参拝したことは記憶に新しい。
室は徳川家康女(亀姫)。
59名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 23:56:20 ID:t5sHPyCJ
>>58
補遺。この場合、足利幕府は足利義昭が三好・松永の残党と組んで
早期に反斎藤の挙兵をして滅亡しているということでw

この時の信長・秀吉の略歴

織田信長(?-1561)
尾張の戦国大名。猛将であったが思慮に欠け、猪突猛進の嫌いがあった。
1560年、今川義元に対し無謀な奇襲をかけこれを討ち取る。
1561年、それに味を占めて美濃に攻め込み、斎藤龍興に奇襲を
かけるが、逆に斎藤龍興の計略にはまり、戦死した。
極めて粗野な人物であり、風体かまわず「うつけ者」と評された。

木下藤吉郎(?-1561)
名は秀吉・久吉など諸説あり。織田信長の軍師。美濃奇襲戦を立案したが、作戦に失敗。その後
逃亡し、放浪の後足利義昭をそそのかして挙兵させ槙島城に篭城したが
敗れ、京都四条河原に於いて斬首された。良質な資料に名が見えないので
存在が疑問視されている。

前田利家(1538-1598)
斎藤龍興の家臣。元は織田信長家臣。
極めて有能な人物であり、信長の無理攻めを諌めたが、その有能さを
嫌った信長に疎まれ、1560年、浪人して野に下っていた。
織田信包を滅ぼすとき、斎藤家の道案内をしたことから運が開け、
織田信包を討ち取ったことから尾張犬山城主となる。
その後は文武両道に活躍し、問注所執事代・侍所所司代・堺奉行など
要職を歴任。柴田勝家・佐々成政など家臣に勇猛な人物がいたことでも
名高い。室は藤井又左衛門女(ねね)。側室は篠原氏(まつ)。ともに
美人で有名であった。
60名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 09:13:06 ID:xz0rQaPf
徳川(松平)忠輝 1592-1683

長七郎、左近衛大将、正木忠輝。豊臣幕府初期の重臣。徳川家康の六男。
1600年、関ヶ原の戦いで父を失い、弟義直の母お万の実家・安房里見家に
身を寄せ、漁師たちと交わりたくましく成長した。
長じて豊臣秀頼に召しだされたが、逆賊の子として松平姓を称することが
できず、正木姓を称した。
弁舌に優れていたため秀頼に重用され、石田三成の専横を憤っていた秀頼の配下として、
旧東軍の諸大名を説いて味方につける役割を担う。
1614年、石田三成軍20万を大坂に迎え撃った世に言う「大坂冬の陣」に
於いて、大阪城前面に「松平丸」を築城して石田軍真田信繁隊を壊滅。
翌年の「大坂夏の陣」に於いては甥・松平忠直・岳父伊達政宗らとともに
石田三成軍に肉薄、石田勢を潰走させるなど父譲りの猛将ぶりを発揮した。
その後も大津の戦いなど佐和山幕府攻めで活躍。石田滅亡後は父の後を
継いで徳川忠輝を称し、武蔵江戸に於いて100万石を領し武蔵百万石
徳川家の藩祖となり五大老に列した。キリシタン大名として浅草に診療所を設け、
領民を手厚く介護するなど仁君として名高い。室は伊達政宗の娘。
後世、徳川十勇士(酒井佐助・本多才蔵・榊原清海入道・榊原伊三入道・
井伊小助・土井鎌之助・大久保六郎・鳥居甚八・服部六郎・渡辺十蔵ら)を
率いて活躍する松平長七郎として脚色された。
松平秀忠
徳川(松平)忠輝の兄。無能な人物で、関ヶ原の戦いのとき、大軍を率いて
決戦場に向かったが、統率に失敗。戦場に到着できなかった。
父家康が戦死した後、「余りにも無能であるから生かしておいても
実害はないだろう」と石田三成に判断され、信濃川中島1万石に移された。
徳川(松平)忠輝が家を継いだ為、そのまま信濃川中島にて死去。
松平家光
徳川(松平)忠輝の甥。無能な秀忠の長子として生まれた。
信濃川中島藩を継ぐが、粗暴の振る舞いが多かったため家は取り潰され、
若くして隠居させられた。
松平綱吉
松平家光の子。家が潰れたため易者として江戸の町で過ごす。犬が大好き
であったため家が犬だらけであり、庶民に「お犬様」と親しまれた。
松平吉宗
松平綱吉の一族?徳田新之助。ならず者。武家屋敷に押し込み殺人を
行った罪、勝手に「暴れん坊将軍」を称した罪を問われ火あぶりに
処せられた。それにしても犬好きの温厚な易者綱吉の一族にどうして
このような粗暴漢が出たのか不明である。
61名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 10:50:09 ID:O8bJsbgV
>漁師たちと交わりたくましく成長した。

アッー!
62名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 16:44:08 ID:b4uVQ28r
前田利政(1578-1633)

前田利家の次男。
関が原の合戦では、兄利長が東軍についたのに対し、西軍につく。
能登から私兵5000を率い西軍勝利に貢献する。
利政の功績があり、兄利長も助命となる。
江戸城攻略や会津征伐に大きく貢献し、毛利家を石高で大きく上回り五大老筆頭となる。

越前、加賀、能登、越中の4カ国を治めた。
子ができず、晩年は弟利常に家督を譲った。
63名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 16:46:31 ID:TJOv7xcD
森 蘭丸

ぢになった時に、主君に行為を迫られ、あまりの痛みにショック死した。
64名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 10:34:21 ID:f80vV/AS
弥助
 宣教師がアフリカより連れてきた奴隷。宣教師が信長の歓心を得るために献上
されたが余りにも黒いので信長の怒りをかい無礼討ちにあう。宣教師に彼の黒さ
は生まれつきであることを聞かされた信長は己の無知を恥じ、その償いとして
「弥助」の称号を与えた。
65名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 17:41:29 ID:VXQkFQt1
戸次鑑連(1513-1537)

1526年3月、佐野親基、問田重安らを大将とする大内勢が馬ケ岳城を占領。大友義鑑はすぐに戸次家に攻撃を命じた。
その時、父の親家は病に伏しており、初陣でありながら鑑連が采配をふるう事になった。
鑑連は夜のうちに駆けて馬ケ岳城に迫り、朝日が昇る前に猛然と攻め、
わずか一日の戦闘で城方を降伏せしめた。この華々しい初陣で鑑連の名将としての名は誰も知らぬ者がいないところとなった。
同年6月1日、戸次家の家督を継承。烏帽子親は大友義鑑で、「鑑」の一字をもらい守親から鑑連に改名した
。これは父の親家が4月19日に死去したためによる急な家督継承であった。

しかし若い頃、鑑連は夏のある日、木陰で俄雨をよけていると
突然落雷に襲われ、感電死してしまった。
66名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 10:04:25 ID:lzI2pBAU
藤堂高虎(1556-1570)

近江の土豪、藤堂虎高の子として生まれる。
1570年姉川の合戦にて討ち死に。
67名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 12:16:18 ID:7ysvXx7h
松平竹千代
 松平広忠の嫡男。今川家に人質として護送中、何者かに連れさらわれる。
その後の行方は不明。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 14:35:58 ID:5SqS7vGZ
>>66
>>67

つまらないというより、なんというか、書く必要性を感じないというか、なんというか・・。
本人もウケようと思って書いてるわけではない、それはわかるんだが・・・。
69名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 18:48:29 ID:QFw9A469
>>59
利家美味しすぎw

>>65
俺には過ぎた言い分だけど、それじゃああっさりしすぎたから
「落雷による死は、古来暗殺の隠喩として用いられてきた」って加えた方が面白いかも
70名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 22:48:36 ID:dZXn9VlQ
松平松子

松平元康の妻。名は「まつ」。高畠定吉の娘。非常に美しかったと伝わる。
織田家に邪険にされていたまつは三河の合戦において織田家が敗北したとき、
進んで今川兵に捕らえられ、幼少の故をもって
人身売買にかけられたが、ちょうどその場を通りかかった鳥居忠吉が
憐れんで自らの蓄財の一部をもってまつを買い求め、主君松平元康の
下女(今風に言えばメイドさん)とした。
まつは美しい上に驚くほど賢く、元康が太原雪斎から兵法を習っているのを
下働きをしながら覚えてしまい、あるとき孫子を全部暗誦してみせた。
太原雪斎は驚愕し、「彼女は今川家の軍師さえも務まるだろう。
元康の武勇とまつの智謀があれば天下を手中にできる。元康が鳳雛なら
まつは臥龍だ」と今川義元にまつを推薦し、まつは今川寿桂尼の養女として
英才教育を受けることとなった。元康とは相思相愛であったため、
1560年に結婚している。
1560年、今川義元の上洛戦に随行したまつは、桶狭間において
織田方の蜂須賀正勝らが付近の農民に化けて酒宴を進めにきたのを
喝破し、義元に告げたため、蜂須賀らは捕らえられ、奇襲してきた
織田信長は待ち構えていた今川軍に討ち取られた。
この合戦では夫元康も功績を上げ、大高城救援の後、前田利家・佐々成政ら
織田方諸武将を討ち取っており、夫妻の功績を高く評価した義元は
松平夫婦に尾張を与えた。その後も松平夫婦は戦国のおしどり軍師として
今川家の天下統一に貢献し、尾張名古屋百万石松平家の基礎を築いたことは、
以前放映された松平健・松島奈々子主演の大河ドラマ「元康とまつ」でも
お馴染みであろう。
子は松平信康、武田秀康(次男・武田家を継ぐ)、上杉秀忠(三男・上杉)、
織田信吉(四男・織田)、北畠義輝(六男・北畠)などみな
優秀であり幕政に関与している。

前田利益
慶次郎。前田利家の甥。叔父と一緒にまつをいじめていた。
織田家滅亡の後、木下藤吉郎らと一揆を起こして抵抗したが、敗北。
後に松平元康に逮捕され、「まつをいじめるような人間を
生かしてはおけない」として尾張において釜茹でにされた。
絶筆「呪いの文字がわら」が名古屋城に残る。
「この書き物後世にご覧ぜられ 松平三河守どの
一揆千人ばかり釜茹でに致され候 まつのせいに候
かくのごとくに候」
71名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 00:11:18 ID:wj2hzuf2
どうでもいいことかもしれないけど歴史が違うのに子供達の名前が同じというのはおかしいんじゃないですか。
信康の信は信長から秀康と秀忠の秀は秀吉からもらったものですから歴史が違っていたらそういう名前にはならないはずでは。
72名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 14:16:39 ID:nXsUomcx
>>71
いやね、そう思ったもんで一度は
>松平義康、武田真康(次男・武田家を継ぐ)、上杉真忠(三男・上杉)、
>織田信吉(四男・織田)、北畠義輝(六男・北畠)
にしたんですけどね、義康は義元の偏諱、真康は氏真の偏諱とか一々
書くとわずらわしいしそもそもわかりにくいかなと思ったもんで
書き直したんですよ。ところで一字拝領の法則って上の字を取るんでした
っけ、下の字を取るんでしたっけ。わかんないので教えて。
73名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 16:11:56 ID:nli36Is5
六角義冶1545〜1615

近江六角家の当主

不仲から家老を殺害し(ry

父から日置流弓術の奥義を授かり豊臣秀頼に弓術指南として従える。
大阪冬の陣では老齢ながらその弓術で数え切れないほどの敵を討ち、
鉄砲が主役の時代においても弓が使える事を日本中に知らしめた。

冬の陣が終わると秀頼に日置流弓術の奥義を授ける
そして秀頼が習得した直後にこの世を去った。

秀頼は義冶の死を心から悲しみ夏の陣において自ら出陣し、
その弓で多くの敵を討ったものの敗北が近いとみると最後の大坂城へ帰還
腹を斬り死んだ。

また大坂へ帰還するさい秀頼が天に向かい弓を撃つ姿が多くの兵に目撃されている。
74名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 16:56:53 ID:3RCxZO5L
>>73
秀頼の出陣は大嘘。
この知能遅れのデブは出陣どころか、側室とS○Xの最中であったと、多くの家臣に目撃されている。
75名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:05:38 ID:wj2hzuf2
>>72

一字拝領の基本は下の文字を与えることです。
義元→元康のように。
上の文字を与えるのは特別待遇です。
わかりやすく言えば下の文字は家臣に与えるものです。
上の文字は親族などの身内に与えるものです。
信康の場合は信長の娘婿ということで秀康の場合は秀吉の養子ということで秀忠の場合は家康が秀吉の妹婿ということでそれぞれ親族に準ずる扱いとなっているのです。
76名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:30:14 ID:I7qnNSQU
信親は?
77名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:48:02 ID:zyZThP+P
78名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:39:24 ID:nXsUomcx
>>75さん
非常によくわかりました。ありがとうございました。
79名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 19:03:51 ID:SWetsdKe
木下秀吉
若い頃に蜂須賀党の一員に拾われ、野党として過ごした
当初は背が低く、猿顔で仲間内から馬鹿にされるが
何かと頭が回るので子六からの信頼が厚く、
子六が斎藤家に雇われて以降も、知恵猿と呼ばれ子六をその智才で支えた。              政25戦64智81
80名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 21:05:18 ID:5FYaHRIf
織田信長

天正3年5月、盟友徳川家康に請われて
三河長篠に来襲した武田勝頼の軍を迎撃。
鉄砲3千挺を持参するも、梅雨の真っ只中の悪天候の日に合戦し、
武田軍の猛攻の前に鉄砲3千挺を放り捨てて敗走。
81名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 21:45:16 ID:JFQASASu
宇喜多秀家 1573)〜(1615
宇喜多直家の子として生まれ1581直家の病没により9歳で家督継ぐ。
豊臣秀吉に気に入られ秀吉の一門衆としての扱いを受ける
若くして五大老に名を連ねる中納言の官位を得るが
1600年関ヶ原にて西軍の主力として奮戦するも敗北し八丈島に配流となるも
慶長19年大坂冬の陣にて八丈島より泳いで大阪城に入場するも
徳川の物量には敵わず大阪夏の陣にて自害する
秀家が言ったとれる「八丈島より泳いで参った」はあまりに有名
  
82名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 09:12:31 ID:2BeoxipZ
>>81
冬に水泳とは、さすが秀家
83名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 21:20:58 ID:iBeZvY+3
武田勝頼(1546〜1607)

武田信玄の四男。父の急死により
息子信勝の元服までの暫定的当主となる。
信玄を引きずる家臣達の掌握に苦労するが、
1575年の設楽ヶ原合戦で重臣連が軒並み討死したため、
その後は新たな家臣団を編成し統率力を高めることに成功する。
上杉謙信の死後、1579年に越後で御館の乱が起きると
北条氏政の要請に応じて景虎側に加勢し上杉家当主に据えた。
この後は越後相模と三国同盟を結び織田・徳川勢に対抗し続け、
付け入る隙を与えず、逆に家康の嫡男信康を調略し家中を分裂させる。
1582年に信長が横死するとその隙をついて三河に侵攻し、
匿っていた信康を擁立して家康不在の中徳川家を乗っ取る。
その後美濃で羽柴秀吉と対峙した挙句和睦し、翌年臣従するが、
1586年の小田原攻めの際に上杉北条と共に謀反し秀吉を討ち取る。
混乱の中東海大返しを敢行し、京を押さえて
実質的に天下第一の勢力となり、その後7年かけて天下を統一した。
84名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 01:05:09 ID:Z6At9Gkw
天下取太郎(1538〜1611)

琉球出身。元服と同時に天下取りを宣言して九州に上陸し、
阿蘇山中で猿と修行した後、島津大友龍造寺を
口先三寸で丸め込んで九州連合略して九連を成立させ初代長者となる。
その後九連軍十万を率いて中国四国を平定。
1570年には単身で京に入り織田信長と七日七晩の膝詰談判の末
京無血開城を成功させる。そして織田家を九州し
五年かけて東国を制覇。小田原城に単騎入城を果たし
氏政の顔に味噌汁を三回かけて心服させたエピソードは
あまりにも有名。天下統一した後は突如天皇制を廃し
自らが日本国王となり、トッタロー一世と名乗った。
85名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 02:09:35 ID:0kO46+83
>>84
これはひどい
86名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 02:17:37 ID:zcNLOXPf
こいつはひどい。
87名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 05:26:32 ID:GeG0r60f
笑えるならいいがまったくもって笑えねーからな。
88名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 09:17:27 ID:Z6At9Gkw
長尾景虎(1530〜1559)

越後守護代長尾為景の次子。元服後兄晴景を破って当主となる。
その後三年かけて国内をほぼ統一し、近隣にも食指を伸ばし始める。
戦に強く家臣の統率も取れていたが自らを軍神の化身と
信じ込んでいた節がありそのため火中を歩こうとしたり
崖から飛び下りたり等の奇行を好んでした。
1559年北条家の大軍に囲まれた下野唐沢山城の救援に向かった際、
儂に矢玉は当たらぬとばかりに敵陣の中を単騎で通り抜けようとし
当然の如く全身に矢と槍を受け満身創痍で絶命した。
死体には手柄を求めて雑兵が群がったため
越後に戻ったのは左の耳たぶだけであったという。
89名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 10:54:36 ID:m9IfcHtd
長宗我部元親

土佐の戦国大名。幼少時ひよわで、姫若子と称されたが、
初陣のときより武勇をあらわし、土佐一円を平定するにいたる。
天下を取る志も有ったようであるが、土佐平定後、雲辺寺参詣の折、
「あなたは土佐は取れるが四国は取れない」と越後出身の旅の雲水に諌められ、
「なるほど、そうですね」と改心。雲水すなわち不識庵謙信を軍師に迎え、その後は
領土拡大をせず、隣国から頼まれたときのみ出兵、旧主一条家を保護する、
合戦の時には大将自ら敵陣に切り込むなど義将として
生きた。豊臣秀吉の四国征伐にはいち早く降伏。所領安堵を受けた。
その後九州征伐時には仙石・十河・三好ら四国勢の総大将として
渡海し、島津の挑発に乗らず堂々たる戦振りを見せつけ、
不識庵謙信とともに敵陣に切り込むなど「土佐の出来人」
の名を挙げた。戦後、軍令違反で所領没収となった仙石領淡路を加増され、
嫡男信親に土佐を譲り自らは末子盛親と淡路に移り、剃髪して雪窓と称した。
関ヶ原の戦いでは東軍につき、所領安堵を受け、近世土佐二十二万石の
藩祖となった。

不識庵謙信
俗姓長尾氏。越後の人。優秀な人物であったが兄と争って敗北。
兄に降伏して小領主をしていたが、領主が嫌になって坊主になり諸国を放浪。
四国雲辺寺にて長宗我部元親と知り合い、意気投合して長宗我部家の軍師となる。
冷静な軍略で長宗我部家の基礎を築く。久武内蔵助の乱を未然に防いだ
功績は高く評価される。酒豪であり、「暖かい土佐で飲むから雪隠で頓死
せずに済みまことにありがたい」といったという。
90名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 11:21:14 ID:IyT14g/l
>>89
謙信ワロスww
91名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 12:08:45 ID:jKly2qMx
田代 政治

1568〜1645年

近江の百姓の生まれ。能役者として大成し、織田信長、豊臣秀吉に認められる。
1588年、村娘の用便を覗き、捕縛され、秀吉に切腹を命じられるも、千利休、出雲の阿国らの取り成しに
よって、芸能活動復帰を成し遂げる。しかし、1590年、関東巡業の折、武蔵の商家の風呂場を覗き、
再び捕縛。またしても命は長らえたものの、能団体を追放され、放浪の生活に。
1594年、朝鮮出兵に従軍すると、現地の朝鮮人と親しくなり、明、朝鮮軍のスパイとして活躍。
報償として全羅道を与えられる。1年後、反旗を翻し、瞬く間に朝鮮全土を手に入れ、
返す刀で満州に侵攻、足掛け10年で満州を得る。協力な騎馬軍団を武器に、15年かかって中国全土を
統一すると、イスラム諸国、ロシア、東南アジアに軍を進める。日本の徳川家康は早々に降伏し、
1640年にはヨーロッパ連合との一大決戦を制し、全世界を統一する。
自ら神を名乗り、その神国は2002年、幕を閉じた。
92名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 17:48:02 ID:TX3ln8Ig
佐竹義重・義宣

常陸統一を急ぎ、南方33館の当主達を
太田城に呼び寄せて暗殺を目論むが
未然に計画を察知した彼らによって返り討ちにされ
佐竹家を滅亡させた。
93名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 19:36:41 ID:quBwvAiq

嗣永桃治(つぐながももち)(1547〜1582)

貧農の子でありながら、早くからその才能を認められ、
信長の小姓として寵愛を受ける。桶狭間の戦いで、
義元の本隊を見つけ、義元を討ち取ったのもすべて
この人である。美濃攻めにおいては西美濃三人衆を
織田方に寝返らせ、稲葉山城一番乗りを果たす。
信長上洛後、朝倉攻めにおいて浅井長政の裏切り
に遭い、窮地に立たされるも、自ら殿軍をかってでた
ばかりか、追撃してきた浅井朝倉の連合軍を完膚な
までに討ち破り、余勢をかって近江越前を瞬く間に
平定した。天下に比類なき働きであった。その後も
数々の手柄を上げるも天正十年、夏焼雅秀の謀反に
より、本能寺において奮戦した後に信長と共に果てる。
嗣永桃治の発布した「嗣永憲法」は世界の哲学者、
法学者に多大なる影響を与えた。
94名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 20:26:45 ID:GeG0r60f
架空にしても笑えるやつを書いてくれよ。面白いスレなんだからさ。
95名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 20:37:16 ID:EafjMCWK
三戦板のスレで出尽くしたからな...。
96名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 21:58:01 ID:NnLKhwo7
>>84
バロスwwwwwwwwwww」
97名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 00:12:58 ID:6D5ZS2n3
というか、>>84への冷たい反応にワロタw
98名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 00:33:34 ID:HNcp8W+4
>>91
四行目までにしとけば笑えたのにな
99名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 01:41:17 ID:Txw0mjpM
揖斐光親  ????-1570

土岐政房の子
兄に美濃守護土岐政頼、土岐頼芸
弟に鷲津光敦、土岐頼香 
1527年
斉藤道三土岐頼芸の土岐政頼の追放には多くの反感を買い
政頼の弟である揖斐光親、鷲津光敦、土岐頼香がその急先鋒だったとされる

1535年
親密であった尾張織田氏と追放された前守護政頼が匿われた朝倉氏を背後に
美濃乗っ取りを企む
この反道三連合をもってしてとうとう道三を国外へ追放させる事に成功

1547年
さらに土岐三兄弟は現守護頼芸と嫡男土岐頼栄が不仲である事につけ込み
頼芸を追放、頼栄を傀儡守護にたて美濃の事実上支配者になる。

1550年 
守護 頼栄急死 毒殺暗殺説が流れる
同年
揖斐光親が名を改め土岐光親となり美濃守護となる
1553年
織田氏六角氏と同盟を結び
兄の政頼擁する朝倉氏と対立
1555年
美濃関ヶ原で浅井朝倉軍と戦い勝利する
政頼の引渡しを朝倉氏に要求し朝倉氏はそれを承諾
政頼は美濃の一部を与えられられるも出奔
以後行方知れず
土岐三兄弟は美濃に京文化の流れを汲ませる事により
商業が大いに活性化し
また多くの文化人を迎える事で国外にも一気に知名度を上げることができた。

1557年以前から接触してきた東濃の遠山氏を従属させ美濃一国を制覇する 
1560年今川軍25000が尾張に進出してきたため援軍を2000送る
1560年丸根砦、鷲津砦が陥落するもこう着状態に陥り今川軍撤退
1561年死去家督は弟の鷲津改め土岐光敦が継いだ
100名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 04:36:47 ID:Z1HHVJW5
百々綱家(生没年不詳)

キリ番ゲットに命を懸けている。
101名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 11:35:27 ID:YC+6sRSh
上泉信綱(????〜1577)

上野大胡城主。関東管領上杉家に従い武田・北条と争うが
後に身分を捨て諸国を放浪しながら剣を研き新陰流を創始した。
丸目蔵人や柳生宗厳等優れた弟子にも恵まれ、
自身も剣の勝負では生涯無敗を誇ったが、急速に普及しつつある
新しい武器鉄砲に対抗心を燃やし弟子達の制止も聞かず
鉄砲の名手稲富伊賀守に勝負を挑み、
あと一歩で間合いに入ろうという所で射殺された。
102名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 13:58:08 ID:DyjPtRf1
佐々成政(1536-)

織田家臣

兄が戦死したため家督を継ぐ
武勇に優れ信長の信頼厚く(中略

しかし1586年に謎の失踪をした
一説には家康を味方につけるために北アルプスを通って浜松へ向かう途中に
遭難したといわれている。

補足
2006年2月に登山家の小出祐樹さん(51)が
遭難していた佐々成政さんを発見
衰弱していたためレスキュー隊を呼び
無事救出された。
佐々さんがいうには吹雪がひどいため洞窟で過ごしていたという。
103名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 17:52:06 ID:TbQ+Newt
木下秀吉(1936年〜?年)

貧しい農民の出であったが、利発な子であり
行商などに才を見せて各地を渡り歩く。
安定はしないものの、それなりの稼ぎを得る事が出来た。

後に近江へ移り住み、落ち武者狩りの最中、乗り馬を失った逃走中の明智光秀を討ち取る。
この事で多くの恩賞を得たが晩年は呆けが酷くなり、太平の世を知らぬまま病に伏せ一命を閉じる。

戦国の世に翻弄されつつも自由闊達に立場を変えつつ生き延びた生涯は
現代社会のフリーターのモデルとも言われ、その卓越した先見の明が近年再評価されている。
104名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 18:03:21 ID:2TTdNl/o
秀吉ネタ大杉
105名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 22:25:46 ID:5uFW3p+R
足利茶々丸 (?-1582)

堀越公方足利政知の子。
血みどろの家督継承騒動から出発し、今川家の介入を排除。
謀略を駆使して小田原を奪って拠点とし、両上杉氏・古河公方との激闘の末かれらを倒した。
武田・今川・長尾(上杉)氏と時に結び、時に争いながら関東平野を切り従え、
長寿を保って乱世を睥睨した一代の覇王である。

その破天荒な人生は、
90歳近くで没するまで「茶々丸」という名で通したことからもうかがえる。
106名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 00:12:40 ID:bYHpls02
ルイス・フロイス(1532〜1637)

リスボン生まれ。1563年に来日し布教活動と商業活動を
併行して進めて行くなかで日本を深く考察した「日本史」を著す。
織田信長の寵愛を受け、和泉岸和田五万石を与えられ、
「紅毛碧眼の大名」と言われた。
本能寺の変発生時は家康と共に堺でオペラを観劇しており、
家康の帰国を助けた。その後織田信孝の軍勢に加わろうとしたが
誅殺されそうになり逃亡。わずかな供廻りと供に
東上して来た秀吉の陣に駆け込み命拾いした。
九州征伐後は肥前唐津に移封され、公然と密貿易を行う一方、
海外の情報を逐一中央に知らせ、豊臣政権下で
年寄に匹敵する権力を得た。秀吉の死後関ヶ原の戦いが起きると
「アルマダが負けてショックだから」と所領に篭って中立を装い、
鍋島直茂が柳川城を攻めている隙に佐賀城を奪取し、
鍋島家が当初西軍であったことから幕府が強く出られないことを
奇貨としまんまと肥前一国を手中にした。
その後大坂の陣に際しては幕府からの出陣要請に対し
「ソレガシニホンゴワカリマセーヌ」と今更な言い訳で誤魔化し、
没年に起こった島原の乱の時にも同じ手で切り抜けた。
また島原城内に大量の武器弾薬を横流しして戦を長引かせ
討伐軍相手にあの手この手で荒稼ぎし巨万の富を得た。
乱が鎮圧されると逃げてきたキリシタン達を全て保護し、
「今ヨハネ」と崇められた。
同年、カステラを喉に詰まらせ死去した際には
全領民が三日間の喪に服したという。
107名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 00:34:21 ID:PXzoi87q
アテブレーベ・オブリガード
108名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 09:27:02 ID:bYHpls02
石田三成(1560〜????)

近江出身。幼少時に秀吉に見染められ小姓となる。
長じては優れた経済感覚を発揮し、豊臣政権下で年寄として活躍した。
また1583年の賤ヶ岳の戦いでは武功を立てる等文武両道に秀で、
富田勢源の下で学んだ小太刀の腕前は一流であった。
秀吉没後は大老筆頭格である徳川家康と対立し、
1600年、関ヶ原で雌雄を決するも敗れ、再起を期して逃亡し、
庇護を受けるためかつて面倒を見た土地へ向かった。
昨年8月、明治維新を知らずに伊吹山中に潜伏しているのを
偶然近畿大学の登山サークルによって発見され、
史家による二週間に及ぶ説得の後、漸く納得して保護された。
13代に渡って養い続けてきたという辻与史郎さん(42)は
「これでやっと肩の荷が降りました」と
ほっとした表情を見せたという。
現在は全国を巡って講演活動等を精力的に行っている。
109名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 12:04:53 ID:vTpuoJlz
佐々と石田は現代でどう生きていくのだろう・・・。
110名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 12:29:00 ID:rofTp095
たけたろう

秀吉の前でちんぽ出したら殺された
111名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 00:54:06 ID:Bkm+65na
淀君(1569〜1615)

浅井長政と織田信長の妹お市の方の長女。
多感期に小谷・北庄と二度の落城を経験し乱世の厳しさを知る。
母の死後、豊臣秀吉の寵愛を受け側室となり世継秀頼を産む。
大坂城にあって正室北政所をしのぐほどの権勢を持ち、
「姫公方」と呼ばれた。秀吉死後は天下纂奪の動きを見せる
徳川家康をいち早く察知しこれを阻止するため石田三成を垂らし込み
敵対勢力の形成を図ったが、三成が関ヶ原で敗北すると
挙兵は預かり知らぬこととし秀頼へ塁が及ぶのを防いだ。
その後は幕府からの無理難題を時には知恵で時には体で切り抜けたが
ついに大坂の陣が勃発すると、秀頼を守るため甲冑を身に纏い出陣。
真田丸の隣に浅井丸を造り奮戦した。しかしこのままでは
じり貧になる危険があるとみて和睦に奔走し、何とか実現させた。
しかし後藤又兵衛ら主戦派に引きずられるようにして
再び戦端が開かれ大坂夏の陣が始まってしまう。
淀は道明寺口に布陣し率いる紅備えと共に怒涛の突撃を行い
家康の本陣を幾度となく脅かし、そのため家康は
本陣を5町も下げざるを得なくなり、一時は命も危ぶまれたが
次第に体勢を建て直した幕府軍によって紅備えは討ち減らされ、
淀は終に松平忠直の手の者によって首を取られた。
後に家康は淀をして「日本一の兵」と評したという。
112名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 01:13:25 ID:G36QJnsF
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    〜〜∞プーン   \、..・;*;:/  ←逆賊 朝敵 売国奴 非国民 最重罪人
              ~; ~| |::;; ~~
          【   ゴ    ミ   】   〜〜∞プーン
113名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 19:58:34 ID:/THQ9pYU
過去にあってワラタのが
細川護熙・・・参勤交代改革を唱えた肥後領主
大友宗麟・・・日本初のムスリム大名
なのだが、そのログないでしょうか。
114名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 23:44:44 ID:7UrJLhGB
歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴【三国志】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1155736696/
115名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 09:18:06 ID:WMH9qtpQ
116名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 09:20:38 ID:WMH9qtpQ
180 名前:無名武将@お腹せっぷく :05/03/04 02:05:32
細川護煕(1938〜)

肥後熊本藩16代藩主

1980年後半からのリクルート事件などの汚職や、湾岸戦争における幕府の対応の遅れなど、幕政に批判が集まる中で、1992年(平成4年)文芸春秋誌上で「外様譜代連合」構想を発表する

1993年参勤交代制度改革で幕府内が対立する中、譜代大名を離脱した井伊家と薩摩島津家、長州毛利家などと連合し、1993年に大老に就任し、。御三家らと妥協し、参勤交代制度改革を実現させる

幕政改革を国民から期待されるも佐川急便からの献金スキャンダルが発覚し、辞任した。その後御三家尾張徳川家、島津家、会津松平家による三家が成立した



258 名前:無名武将@お腹せっぷく :05/03/14 16:15:41
大友宗麟 1530-1587

豊後・府内に漂着したアラビア商人と親交を深めてイスラム教に興味を持ち、
日本初のムスリム大名になった。ムスリム名・アブドゥルラフマン。
領内の寺社神社を破壊し、竜造寺・島津・大内ら諸氏と激しく覇を競った。
天正少年遣トルコ使節団を派遣、オスマン帝国と友好関係を結んで
アラビアの学問や兵器を導入したが、耳川で島津氏に大敗し没落した。
フロイスは見るに耐えない凄まじい言葉で彼をけなし、
「シモの地方で十字軍を起こすべきだ」と述べている。
117名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 16:16:55 ID:BHE4EBDX
人物じゃないけど・・
本能寺の変
織田信長が僅かな兵を連れて本能寺に入ったという偽情報を掴まされた光秀は1万4千の兵を引き連れ信長を討とうとした
しかし信長は実は二条城におり、光秀は誰もいない本能寺に攻め込んだ
その知らせを聞いた信長と信忠は凄まじい速さで兵をかけあつめ(その兵のほとんどは光秀が親友だと信じていた細川や筒井の軍勢だったという)
誰もいない本能寺を焼き喜んでいた光秀を急襲、光秀は結局落ち武者狩りに遭い殺される
偽情報を掴まされたことと、自分が親友だと思っていた者に裏切られ殺されたことで本能寺の変という言葉は今では信じていた者に裏切られること、勝手に人を親友だと思い込むこと、クーデターが失敗することなどの理由で使われる
118名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 22:29:58 ID:MUDJdvZy
陶晴賢(????〜????)

明国出身。先祖は徐州刺史の家柄であったという。
1530年頃商船に乗って山口に渡来し、
そのまま大内義隆の家臣となった。
足軽頭に任じられ大陸仕込みの用兵でよく敵を破り重宝される。
順調に出世していくが言葉の壁には終始苦しみ、
家臣団の中で孤立の状態が続き、終に1551年、股萎えに効かないと
義隆に高麗人参茶をぶっかけられたことが引金となり謀反に踏み切る。
挙兵時に言った「うれしはずかし謀反です」は
その年の山口の流行語となった。
主君を討った後は大陸へと戻りそこで死んだと言われている。
119名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 08:30:53 ID:Ehnr24Ay
武田徳栄軒信玄(晴信)1521〜1573

1541年、父信虎により駿河に追放され
名僧太原雪斎の下で出家して法号「信玄」を名乗る。
120名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 13:49:21 ID:2vEEVpyw
朝倉義景(1456〜1789)

越前・大野にて朝倉幕府を開いた
121名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 14:00:29 ID:VJUdg9V1
約三百年も生きたのか・・・
122名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 14:03:50 ID:IJh57cXG
北条早雲
形式上の妹が今川家に嫁ぐが、嫡男の竜王丸がまだ幼い頃に父が戦死。
母子を守るために駿河へ向かう。駿河での家督問題を謀略・謀殺により解決。
その後、西へ進出。三河・尾張・美濃・伊勢を平定。
駿河の今川氏親・甲府の武田信虎と三国同盟を果たし、
嫡男の氏綱に家督を譲り隠居する。
孫の氏康が畿内を統一し、曾孫の氏政が天下統一を成し遂げ、幕府を開く。
20代に渡って続いた北条幕府の偉大なる祖である。
123名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 17:08:26 ID:IsRq/xUT
お尻 かゆ太郎

お尻がかゆすぎて死んだ。
124名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 17:25:51 ID:bkbdkWdq
              -ー=-‐ 、__
          , r '"        ヽ,
          l             ' ,
         /   三ニ=ー-'`=ニiiiiiiiiiiil
        /  ニ'"       `ヾiiiiiiii|
        /  ニ'           'liiiiii|
       ,l   |,r=-;.,_   _,、-=-、|iiiiil
       l  .il .,rェェ、_" :;"ェェ j  |iiiiiil
       | . i| ,,     :;   ,,  iiiiiiil
       ,|   il,    , :: ,    liiiiiill
       l   iil,    ` '      ,|iiiiiiii|
      /     l、  ー- -,ー   イiiiiiiiiill
      /      iゝ、  ̄  /|iiiiiiiiiiiil
     /      i| `ー- ' " ,liiiiiiiiiiii|

    クソスレータ・テルナー[Qtosleata Telnault]
         (1946〜1992 イタリア)
125名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:39:21 ID:JdKvUuoH
黒田 長政 永禄11年−慶長5年(1568−1600)

豊前中津城主。父は黒田孝高。
朝鮮遠征では五奉行の石田三成や小西行長らと対立し、
秀吉死後は五大老の徳川家康に接近する。
慶長5年(1600年)に家康が会津討伐の兵を起すと出陣し、
東軍武将として関ヶ原の戦いに参加、活躍する。
調略においても西軍の小早川秀秋ら諸将の寝返りを工作し、
東軍の勝利に多大な貢献をする。
戦後、家康が長政の功労を讃えて右手を手にとった瞬間、
突然左手の脇差で家康を刺し殺す。
長政はその場で徳川家家臣によって斬殺された。
父の孝高さん(享年54歳)は長政乱心の責をおって切腹。
ここに黒田家は断絶した。
乱心の原因は不明。被害者の家康さん(享年57歳)もなぜ刺されたのか
わからないと不思議に思いながら死亡したという。
長政には筑前52万石が与えられる予定であった。
なお3年後、秀忠が征夷大将軍に就任し徳川幕府が開かれた。
126名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 22:33:27 ID:rNEHkrq7
>>125
いくらなんでも関が原直後に家康が死んでいては
秀忠が征夷大将軍になれるわけないじゃないか・・とマジレスしてみる
127名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 04:18:03 ID:YGM1gsY6
佐吉少年(1560〜???

観音寺小姓。
寺に立ち寄った秀吉にお茶を出そうとしたが足がもつれて
秀吉にぶっかけてしまった。火傷を負った秀吉は侍従に命じ少年を百叩きの刑に処した。
後に彼はこう言ったという、「最初はぬるいお茶にしときゃよかった・・・」
128名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 06:42:50 ID:+vM+RMcy
小早川秀秋
1600年関ヶ原の戦いにおいて、再三の家康の裏切りにも動じず終始、日和見をしていた。
関ヶ原の戦いで西軍が勝っても、決して喜ばず「ふーん」の一言。

以後、戦争において、必ず顔は出すが、常に日和見なため、日和見将軍として社会の教科書にのることもしばしば。
129名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 13:25:44 ID:uq4LQT8S
羽柴秀吉(1536―1577)

柴田勝家の指揮下に置かれるのを嫌って戦線から離脱を
試みるも、事前に察知され討たれる。
秀吉の死後、羽柴家臣団は弟の秀長が引き継いだ。
130名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 00:54:11 ID:QfthvKK5
 徳川秀忠
豊臣政権五大老筆頭徳川家康の嗣子としてしられ、
豊臣秀頼の生母淀の方の妹を妻としている。
父家康が豊臣家の名を利用して邪魔な上杉に謀反の嫌疑をかけ
おこした会津征伐の際に、上方で西軍の決起が起こるが
背後の上杉、伊達、佐竹ともいずれも後背定かならぬ相手であり
それを警戒した家康は中仙道を慎重に進み
秀忠に東海道を進ませた。秀忠が他の東軍諸侯の動揺を沈め
家康の到着を待つまで抑えておく為であった。
実際のところ真田の足止めや洪水のせいで家康の到着は大幅に遅れ
 戦況の変化から関が原の合戦に縺れ込むこととなる。
しかし西軍に有利な鶴翼の陣形を取られ、秀忠軍は戦闘中に陣営を後退させ
(一説には退却の準備)本田正信の諌止により先陣を福島正則に許した他
徳川はほとんど戦闘に参加せず、逆に日和見(一説には内応していたとも)
していた小早川秀秋に鉄砲を乱射し、家康ならぬ秀忠の行動に怒った秀秋の
猛攻撃で東軍は総崩れとなる。
 さらに、この後、本田正信が密かに豊臣恩顧の共倒れを意図して
徳川は戦争に参加しないので無事退却を許されたしという密書を大谷に送っていた
事実が発覚する。
家康は秀忠らの再戦すべしという主戦論を退け本田正信の押す和睦をとった。
しかし領土安堵の約束と裏腹に戦後徳川は津軽南部30万石に移封される。
実質10分の1への大減封であった。
家康は不運を嘆き剃髪し天海をなのる。
 本田正信は、その功をもって3万石を与えるように指名されたが
徳川家で本多家は冷遇され万石取りながら大名格の扱いを許されなかった。

その後「猿がつき狸がこねし天下餅座りしままに食うは○○」
の歌で知られるように、1年続いた混乱を収拾した○○が徳川の後の
江戸に幕府を開設
 大阪の陣では徳川家は10分の1以下の石高になったにもかかわらず
最大級の兵力を送り、
豊臣家の滅亡を見届けたあとは、徳川家は江戸幕府に最も警戒された外様
として尾張の城建設、河川補修などにかりだされていく。

 徳川の家臣が正月の挨拶で「関東征伐の儀どうしましょうと?」
たずねさせ秀忠は「時節でない」と返答する挨拶はあまりに有名で
秀忠のことを別名「まだだよ公」と称するのは、ここからきている。
131名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 01:24:47 ID:23MUo9ta
昭和天皇裕仁(1901〜1989)

1926年即位 即位後立憲君主をこころがけ政治に介入することはなかったが、
1936年二・二六事件に際し、自ら近衛師団を率い反乱軍の鎮圧にあたる。
反乱鎮圧後、陸軍首脳部は天皇に罪を問われる前に、自らを恥全員自決。
以後陸軍の政治力急激に低下。
事件後総辞職した岡田内閣に代わった米内内閣のもと、欧米協調の外交路線
がとられ、(具体的には、満州国への欧米資本の積極的導入、対中国では、
あくまで英仏との協調路線)日本は国際的孤立から脱出する。
 その後、激化した中国の国共内戦に際しては、国民党軍に積極的に武器輸出を
を行い、日本の国際収支、国内の景気は大いに改善されるとともに、共産党軍に
援助されるソ連製兵器に対抗するため工業水準も大いに上昇した。
 そしてその後第二次世界大戦勃発に際し、日本は第二次日英同盟のもと積極的に
イギリスを支援する。
 バトルオブブリテンにおけるゼロ戦の活躍、北アフリカ戦線あるいはノルマンディ
上陸作戦からベルリン陥落までの山下戦車軍団の大活躍、海軍に目を向ければ
北大西洋における戦艦大和とビスマルクの一騎打ち、また中立国アメリカから輸入された
B29による野中五郎大将指揮下の独本土空襲など、この戦いにおける日本帝国陸海軍の活躍は
数多くある。
 アメリカが最後まで中立国にとどまったため、日本がイギリス側に立たなかった場合、
第二次世界大戦がどうなっていたか全く不明であった。
 また国内では、全く戦火にあわないまま対英向けなどの輸出が行われ、第一次世界大戦を
こえる好景気が訪れ、未曾有の高度経済成長を遂げた。
 第二次世界大戦後、大韓共和国、満州王国などの独立は許したが、いずれも日本と
安全保障条約を結び日本の影響下にあることは言うまでもない。
 また中華民国も対共産党撃滅戦においての日本の援助を恩とし、日中両国の友好関係は
第二次世界大戦後60年少しも揺らいだことはない。
(毎年、中華民国政府首脳部が靖国神社に参拝するのは、このことをよく表している
儀礼である)
 このように現在の、政治、軍事、外交大国の基礎を築いた昭和天皇であるが
立憲君主としての二・二六事件の際の行動を後悔される発言が、最近明らかに
なったのは何とも奥ゆかしい限りだと思われる
132名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 07:30:31 ID:VA8vv73J
>>129
つヒント:秀勝
133名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 09:33:13 ID:uWyWfpOJ
ネタに突っ込むのもなんだが
>反乱鎮圧後、陸軍首脳部は天皇に罪を問われる前に、自らを恥全員自決。
以後陸軍の政治力急激に低下。

陸軍皇道派と統制派の区別ついてないのか?
134131:2006/08/20(日) 10:05:20 ID:23MUo9ta
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E9.99.B8.E8.BB.8D.E3.81.AE.E5.8B.95.E3.81.8D
「川島義之陸軍大臣によって反乱に理解を示すかのような陸軍大臣告示」
「なお陸軍首脳部は武力鎮圧を躊躇」
 そりゃ皇道派と統制派の区別ぐらいあるけど、陸軍首脳部に同情的な雰囲気が
あったのは事実だろう。(中には、反乱後の政府首脳に擬せられていた人物が
いるくらいで)
 で、彼らがあんまり躊躇して、天皇自ら制圧なんて事態になったら、皇道派で
あろうと統制派であろうと、切腹は大げさであるかもしれないけどとにかく陸軍首脳部が
現職にとどまるのは不可能と思われ
135名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 12:32:02 ID:QnlzMxO6
今川氏真(1538〜1615)
戦国大名
桶狭間の合戦で父義元が敗死したため家督を継ぐ
弔い合戦で織田氏を滅ぼし三河・遠江・駿河・尾張四国
の太守となる。
親族衆で弔い合戦の実質的な指揮を取った松平元康に実権を握られ
後半生は半幽閉状態で過す。
136名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 14:17:44 ID:DXt6qcKB
思いのほか長生きでワロス
137名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:18:28 ID:eRL+udP+
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。

※謙信自身が敗北を認めている書状↓
 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
 かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日                  虎(花王)
[三洲寺社古文書]


【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。

1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。

上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。

謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである

本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
138名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 01:31:03 ID:NyO++97X
徳川家康(1543〜1610)

三河出身。人質として暗い青春時代を過ごす。
そのことが後々人格形成や思考回路に大きな影響を及ぼすことになる。
織田信長の同盟者として寄生虫のようにして成長して行き、
やがて信長が死に秀吉の天下になるとこれに服従。筆頭奉行として重きを成す。
1598年秀吉が没すると、石田三成ら文治派の年寄達との確執が表面化し、
1600年遂に両派閥は軍事衝突に至るが、この時敵軍に属していた
吉川・小早川両家から寝返りの内諾を得たことに安心してしまい、戦場である
関ヶ原における布陣を疎かにしそのため敵軍に囲まれる形となってしまう。
どうせ寝返るので不利でもかまわないという価値観の逆転が産んだ間隙に
機運に聡い吉川広家・稲葉正成らが手をこまねいているはずもなく、
寝返りを拒否し布陣が誘うままに包囲攻撃してきたため、大敗北を喫してしまう。
混乱の中身一つで落ち延びたが、またもや悪い癖が出て盲点を狙うとばかりに
松尾山の麓の躑躅の陰にほっかむりをしてうずくまっている所を伊藤盛正の
手の者に捕縛され、市中引き回しの末隠岐島に流された。
しかしその半年後に旧臣達の助けによって島を出て出雲に上陸を果たし、
捕らえにきた青木一矩の軍勢を丸ごと取り込んでしまう等流石戦国の古豪と
言わんばかりの振る舞いを見せるが所詮燃え尽きる前の輝きであり、
宇喜多秀家率いる討伐軍に敗北を喫し、今度は八重山群島のどこかに流され、
その地で蝙蝠の天麩羅に中毒して没した。
家康死去の報を聞いた三成は「それは十年前なら一大事だが、今では些事だ」
と呟いたと言われている。


139名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 02:51:42 ID:722jyhpc
織田信長(1534―1635?)
尾張の豪族の嫡男。
その奇行から大うつけと呼ばれるが、その実なかなかの才覚を持っていたといわれる。
隣国の斉藤道三などにはその才を認められ、娘を嫁に貰うも、将来を心配した家臣たちにより病院に連れて行かれ
出された向精神薬で本当に頭がおかしくなって、分裂病の症状を発症し強制入院されられることになる。
入院中に著した自伝では自身は天才的な軍略を発揮して大活躍をし、初めて鉄砲隊を組織的に運用したことになっていたり、
鉄板で覆われた巨大軍船で毛利家を破ったことになっていたり、ただの新興宗教の本願寺が強大な戦国大名化して立ちはだかったことになっていたり、
閤豊臣秀吉を見出したことになっていたり、徳川家康とは同盟を結んで全国を統一する直前で暗殺されたことになっているが
実際には江戸期まで恐ろしく長生きしている。
昭和時代には、このウソ自伝を元に書かれた小説など盛んに書かれてベストセラーになるなどし、
一般には実際の歴史と勘違いした話が広まっており、歴史研究者や教育者は頭を痛めている。

「世界はとんでもトロピカル」「鳴かぬならわしが鳴ぃちゃぉホトトギス」の名言を残す。

140名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 12:51:55 ID:xZuNZ7l/
東条英機(1884-1953)
第43代内閣総理大臣、陸軍大将。米内内閣倒閣運動成功後の近衛新内閣で陸軍大臣候補とされていたが、倒閣運動は失敗に終わり入閣できなかった。
その後、第2次米内内閣・東郷内閣の中間内閣では日本は第2次世界大戦に対して中立を維持したため、東条は関東軍総司令官に転じる。そこで蒋介石政権との停戦を仕上げた事で名声を高めた。
戦後、政党内閣制が復活した後、町田忠治・三土忠造・鳩山一郎内閣の3代でで陸軍大臣として入閣するが、国共内戦への介入を巡って外務大臣・吉田茂と対立して鳩山内閣崩壊の原因を作った。
その後、内閣総理大臣として内閣を組織するも、中華人民共和国が成立する。そこで東条は蒋介石を助けてアメリカとともに中国へ派兵するも、中国民衆の抵抗に加えてアメリカ国内の反対運動による撤退、朝鮮での独立運動激化によって介入は失敗に終わった。
そこで原子爆弾を開発して中国攻撃に用いようとするが、昭和天皇に叱責されて内閣総辞職に追い込まれ憂悶の余り病没した。
東条の死の直前、吉田内閣は中国からの撤退と朝鮮への自治権付与に追い込まれた。
141名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 20:38:48 ID:KnT8VFFn
松平定知

伊予松山藩藩主。
名君として民衆に慕われていたが、
泥酔して運転手を殴ったため蟄居を命ぜられた。
142名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 23:17:07 ID:74HfmAiT
八幡三成、重家
旧姓を石田といい父三成は豊臣秀吉に仕えた能吏であった。
彼の命運をわかったのは主君秀吉の死であった。
かろうじて秀勝(幼名鶴松)とお拾という二児がいたがともに
豊臣の身代を背負うには年少すぎた。
 二人の元老、前田利家と徳川家康の危うい均衡で成り立っていたが
前田利家が死去、その前に蒲生氏郷、小早川隆景、豊臣秀次が相次いで病没
しており徳川家康の専横が目立ってきた。
 朝鮮出兵の失敗はあったものの明より豊臣家に「日本国王」として冊封と
朝貢交易を許されたことで一息ついたものの、いまだ脆弱な国の土台を
憂い三成は宇喜多秀家にこう書をしたためた。
「中大兄皇子たれ」
 こうして第二の改新といわれた元和の改新が起こった。
三成は加藤清正、大谷吉継、浅野幸長、と語らい
前田利長を推戴して宇喜多秀家と小早川秀秋と豊臣秀保をもって
家康の弾劾を決定する。
主に文治を担う三成が、宇喜多、浅野、小早川といった豊臣家門は
もとより武断を尊ぶ清正を同士に引き入れた点は重要で
 「徳川は蘇我氏の様に振舞っております。」と淀の方に訴えるが
淀の方に一蹴され後世に残る名言が出来た。
「淀の方は皇極の君の如し、筑前公をもちて軽皇子たらしめよ」
この助言に従って小早川秀秋と豊臣秀保、大谷吉継、前田利政が
京で決起する。
京に隠棲する高台院をすがって秀秋を改めて養子扱いとし豊臣姓に
復し朝廷より内覧たるべしとの辞を賜った。
続いて「宇喜多公を持ちて豊臣姓を許し征夷大将軍たらしめよ」
京を抑えることで矢継ぎ早に清正を将軍たらしめる。
九州からの出兵となり地理的には不利ながら
反目しあう小西が加藤が関東に移るとの約束で中立を保ち
島津、黒田、鍋島が加わりこれに毛利も勝機アリとの目算から
加勢を決めた。
これに動揺した家康であったが
「豊臣は平家のようである。彼らに富士川より東、関の東は担えまじ」
と発言、家康に勝算アリとする関東東海道筋奥羽の諸侯を語らって
西に対抗
上杉景勝は東国の儀を訴える家康に対し中立を保つことを約束
越後、山形の併合に動く。
関が原に布陣「承久、壬申の先例あり、勝利は我にあり」と語ったというが
戦況は一進一退の攻防を続け決め手となったのは菊の紋章をした錦の御旗と
千成瓢箪の旗印であった。
これで勝敗は決した。
加藤清正を征西大将軍とし関東征伐に乗り出す。
 このあと旧弊を改め新しきを持ちて国を治めるとの志を謳い
御一新を宣言
摂政関白、征夷大将軍、太政大臣などの律令制以来の官位を廃し
新たな国家体制に移行するこれまでの奉行職を職務ごとに整理し
大臣と命名、総括する総理大臣を関白太政大臣に変えた。
これを近世的内閣制といいのちの近代内閣制度の前身となった。
京の帝は天皇として神祇を司り、豊臣は太政を司るとの分担を
明確にし江戸に移ってっこを東京都と命名
あらたな日本の首都として規定する。
また憲法発布、有力諸侯による合議を制度化、五大老などの
大大名を知事とし州と規定した地域の管轄を委託するなど
近代国家の前身となる。

143名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:01:34 ID:FxdIll2s
妖怪 乳舐め(????〜1597?)

いつの頃からか、大坂城に怪しげな魔物が現れるようになった。
人の如き姿形をして一切声を出さず、夜な夜な丑三刻になると
若い女の寝所に忍び込み胸元を寛げて
長い舌で乳房をピチャピチャ舐めたという。
淀君始め秀吉の側室も悉く被害に遭ったが、
その事はすぐには表沙汰にならなかった。
その理由は舌の扱いが巧みであったことと、
乳を舐められた女には必ず良い事が起きたからだという。
しかし、何故か北政所の寝所には現れなかったため、
北政所は加藤清正に妖怪討伐を命じ、清正は毎夜城内を見廻り、
遂に妖怪を見つけて三晩に渡って闘った末、
妖怪の面に一太刀入れて追い払ったという。
その後妖怪が出ることは絶えたそうな。

尚余談であるが、大谷吉継が唐瘡にかかったとして
頭巾を被るようになったのはこの頃のことである。
144名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:24:48 ID:gPMxytDp
羽柴秀吉
織田家足軽、気がきく人物だったが、
寒い日に信長の草鞋を懐に入れて温め、信長に「足軽の分際でわしの草鞋を懐に入れるとは!貴様の体臭がうつったらどうする!」
と言われ打ち首にされた
145名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:31:18 ID:5qACzwmB
足軽の時点ですでに羽柴を名乗っていたのか
146名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:34:46 ID:gPMxytDp
ごめん、間違った
じゃあ木下秀吉ね
147名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 23:03:57 ID:mrS1/DHf
羽柴秀吉(1536―1598)
尾張中村出身。出自は貧農説が高い。
織田信長につかえ数々の手柄を立て長浜城主にまでなる。
信長が本能寺の変で戦死し明智光秀追討のために京都へ向かうも、
背後から追ってきた小早川隆景軍の猛攻を受けて討ち死にする

木下秀吉 1536-1570

織田家家臣

仕官を求め国を歩くも出自が卑しいために叶わなく
一時は乞食にまで身を落としていたが
信長に戦の才を見出され従うようになった
浅井長政の離反で絶体絶命の危機の時は
即座に殿を希望し、三千の兵と共に三万もの浅井朝倉連合軍と激しく戦った
殿隊壊滅寸前に信長の離脱成功の報を聞き、笑いながら「勝ったぞ!」と叫びなら
敵陣に突撃し討ち死にした。

統88
知71
政21

朝松元吉(木下秀吉)
1536〜1575
今川家臣。鳴海城主。織田信長(>>1)の小姓出身とも言われる。弟の真吉(秀長)と共に義元の雅噺衆を勤めながら、故・雪斎上人の後任軍師的な働きを見せる。刈谷事件に連座し、政敵・松平元康に謀られ自害した。茶人で著名。

木下秀吉(1936年〜?年)

今川義元配下。元は乞食であったという。
義元配下の一武将が彼の才覚を大いに評価し、推挙された。

また、元々下層階級の出身であったから領民には優しかったと言われ、
それと同時に様々な知略が伝承として地元に残っては居るものの、
出自が低かった為、500石以上の出世は叶わなかった。

無論、元はただの乞食であった事を考えれば大出世とも言うべきであり、
乞食が禄を得るまでの出世した事実そのものに、乱世の妙が感じられる。

今川家滅亡後は織田家に降伏し、以降、その領地を平穏に納めた。


木下秀吉
若い頃に蜂須賀党の一員に拾われ、野党として過ごした
当初は背が低く、猿顔で仲間内から馬鹿にされるが
何かと頭が回るので子六からの信頼が厚く、
子六が斎藤家に雇われて以降も、知恵猿と呼ばれ子六をその智才で支えた。              政25戦64智81
148名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 23:05:11 ID:mrS1/DHf
木下秀吉(1936年〜?年)

貧しい農民の出であったが、利発な子であり
行商などに才を見せて各地を渡り歩く。
安定はしないものの、それなりの稼ぎを得る事が出来た。

後に近江へ移り住み、落ち武者狩りの最中、乗り馬を失った逃走中の明智光秀を討ち取る。
この事で多くの恩賞を得たが晩年は呆けが酷くなり、太平の世を知らぬまま病に伏せ一命を閉じる。

戦国の世に翻弄されつつも自由闊達に立場を変えつつ生き延びた生涯は
現代社会のフリーターのモデルとも言われ、その卓越した先見の明が近年再評価されている。

羽柴秀吉(1536―1577)

柴田勝家の指揮下に置かれるのを嫌って戦線から離脱を
試みるも、事前に察知され討たれる。
秀吉の死後、羽柴家臣団は弟の秀長が引き継いだ。

羽柴秀吉
織田家足軽、気がきく人物だったが、
寒い日に信長の草鞋を懐に入れて温め、信長に「足軽の分際でわしの草鞋を懐に入れるとは!貴様の体臭がうつったらどうする!」
と言われ打ち首にされた
149名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 23:06:22 ID:mrS1/DHf
8つのネタ

これぞお茶の間の人気武将よ
150名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 23:15:05 ID:aB/fjpan
豊臣秀吉
初代大日本帝国皇帝、本能寺の変を境に天下人への道を進み
最強の敵である徳川家康を小牧・長久手の戦いでを討ち取る。
天下統一を果たした後は大陸進出を決定する。
無謀ともいえる大陸進出であったが最終的に朝鮮・明王朝を滅ぼす事に
成功する。
北京ににて大日本帝国の建国と皇帝への即位を宣言する。
その後、1600年に死去する。
彼が作り上げた大日本帝国は死去後も領域を拡大し、最終的に
日本列島・シベリア・朝鮮・中華・印度など亜細亜全土と
豪州大陸・北米太平洋側地帯を支配する大帝国となるのである。
151名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 00:29:30 ID:1ybG3pk7
羽柴秀吉(1536〜????)

織田家臣。一介の農民から身を起こし近江長浜ニ○万石の大名となる。
しかし1577年、柴田勝家の援軍として北陸に赴いた際、
軍議で勝家と対立し勝手に陣払いしてしまう。
この事が信長の怒りを買い、死を賜る所を信長の嫡子信忠の口添えで
国外追放処分となった。その後は明に渡ったというが、
晩年については諸説あり、近年では高僧の供をして天竺に行き、
そこで没したとする説が有力である。
152名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 01:51:13 ID:Ooug9fWI
今川氏真(1538-1615)

日本史上に名を残す天才司令塔。父の死後、うつつを抜かしている間に
家を傾けてしまった反省から、生まれ持った蹴球の才能と磨き上げた
剣術のスキルを生かし、巧みな足技と屈強なフィジカルを生かし相手を負かす
ことで瞬く間に名が全国に広まった。1570年開催の麿チーム対氏真の11対1という
無謀な対戦にも彼は相手に全くボールを触れさせず、10対0で勝利した。
 このような逸材の再来を現代の日本は待ちわびている。
153名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 00:53:34 ID:zEdwYugt
なぜか史上有名なこのネタを扱った話がないので出してみる。

石田三成
 豊臣秀吉の家臣であり吏令ぶりをつとに知られている。
当初は生地の近江に佐和山20万石で封じられていた。
 奉行として辣腕を振るっていたが、彼の運命を暗転させる出来事があった。
九州筑前を誰に任せるかである。
当初予定していた吉川家が沙汰止みとなり、小早川家に秀吉の甥秀秋を養子として
いずれは筑前に置こうという思惑も沙汰止みとなったとき
登場したのが石田三成である。
筑前54万石に封じられたが実高は100万石あったといわれる。
 本来は誰にも任せようがなく三成を代官としていたところ
思いのほか上手に統治していたところから三成を筑前に置くという
話が出たらしい。
当然家康や利家は能吏の三成が100万石になるのに反対だったといい
 秀吉は折衷案として三成を奉行から外す措置を取った。
実際のところ、彼を朝鮮出兵に専任するためだったという。
朝鮮出兵においても全面的な兵站とともに自ら出征して
多くの将兵と苦しい戦いをともにしている。
 治部が助勢なくば我はこの世になかったというのは帰国後の清正の
言葉である。
三成が100万石といわれつつ実際は奉行を外された左遷であり
その後苦しい他国での戦いを強いられた中
 豊臣家では千利休切腹、秀次切腹といった
諸問題が噴出し手がつけられなくなっていた。
 
 家康の専横と前田利家の死そして上杉景勝の反家康の旗幟の鮮明化
がきっかけとなり会津征伐が起きる。
 そして西軍が決起する。
長らく豊臣から離れていた三成にも家康の誘いがあったが彼は
当初から西軍としての行動を決めていたようで彼の親友大谷吉継も
西軍に組している。
 加藤清正を誘って直ちに大阪に赴いた三成は自分と清正の
奉行就任を申請、戦勝に大きく貢献する。
 戦後は筑前を嫡男にまかせ佐和山を本拠として豊臣政権に復帰
活躍することとなる。
 石田家の筑前豊前と豊後の一部で150万石、政権下では大老
官位は中納言という立場は豊臣直参では異例であり三成の手腕と功績が
しのばれる。
154名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 08:55:40 ID:ZOiYuBDY
上杉謙信(1530〜1578)
越後守護代長尾為景の次女として誕生。幼名は虎千代。
19歳の時に病弱であった兄・春景の跡を継いで長尾家当主となり、長尾景虎と名乗る。
1552年、度重なる政治干渉を行って彼女の獅子身中の虫となっていた姉の仙桃院を嫁に出す形で追放。
この一件で姉からは後々まで酷く恨まれる。
1553年、初めて川中島にて信玄と対決、以後五回にわたり死闘を繰り広げる。
1561年、上杉憲政より関東管領の職と上杉の家督を譲られ、上杉政虎と名乗る。
この時、関東地方の領民からは「まんとらさま」と呼ばれている。
1570年ごろには出家して謙信と名乗り、信玄、後に信長らと激しい戦いを行う。
1578年、更年期障害の一種が原因で死亡。享年48。
領民からは阿虎様の愛称で呼ばれ、「男も及ばぬ大力無双」と呼ばれるほどの男勝りで、
それでいて母性愛も併せ持っていた女武将であった。

現代の2ちゃんねる戦国時代板および日本史板では初期の頃から
「謙信タソ萌え」なスレを乱発しまくり、その厨は「謙信厨」と呼ばれ、両板で一定の影響力を持つ。
155名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 21:07:48 ID:sBSHaRmm
毛利 秀元
天正7年11月7日(1579年11月25日)に毛利元就の四男穂井田元清の子として
生まれる。
 毛利家は本来織田家とは敵対していたが本能寺で信長が急病に倒れ死去した際、
関係回復が図られた。
織田家の家督を相続していた信忠が健在であったことから
吉川元春の嗣子吉川元長 四男吉川経信
元就の九男で小早川隆景の養子だった毛利元総
とあわせて織田家の人質として召し出された。
他にも織田家の重臣だった羽柴秀吉の肝いりで迎えられていた宇喜多直家の子秀家
明智光秀の肝いりで迎えられていた長宗我部元親の子国親
も同時期に参代している。
しかし彼らの待遇は決して悪くなくむしろ織田姓を許されるなど準一門として処遇
されている。
織田家の九州征伐や奥羽征伐には秀元も一応参加を許されている。
 彼の名が大きく登場するのは信忠の死去のときである。
彼の死去で彼の庶子秀信(三法師)と幼い嗣子信頼を巡って
内紛が起こる。信頼は武田信玄の娘で信忠の正室になる予定であった姫
と出来た子であり、父信長を慮って生前には手を出しかねたが信長の死後
そばにおいてうませた子である。
 秀信には胡乱な織田信雄と織田信考と徳川家康が後押していたが
信忠に恩義を感じる七将は幼い信頼を護持することを誓い合い
信雄の館を襲撃する。
この七将が宇喜多秀家、毛利秀元、羽柴秀次、長宗我部国親といった面々であった。
さらに一門であることをかさにきた信雄と信考に対し
大老を任じられていた蒲生氏郷と津田信澄が詰問
ここに天下分け目の大乱が起こった。大垣城を陥落を受けて
関が原を陣取り織田信雄と織田信考と徳川家康のいわゆる東軍を相手に
戦った。
 毛利秀元は南宮山に陣取り敗走してくる東軍を堰き止め活躍した。
戦後は織田幕府で西国に睨みを利かせる取次ぎとして
姫路に置かれ姫路宰相100万石と謳われ
西国将軍の威勢を誇った。

剛勇の将であり、智略にも優れていたと言われ、碁盤の上に人間を立たせ、それを両手で持ち上げた
という逸話も残っている。
156名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 22:14:53 ID:uknx7YAw
なんで国親?元親の親父じゃないか?
157名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 12:24:24 ID:c3Shw5iq
武田晴信(1521〜????)

甲斐武田家当主信虎の長男として生まれる。
父信虎に対し不満を持つ家臣を集め謀反を起こすが失敗し、追放される
後、諸国を渡り歩くが詳細は不明。
一説には当主を継いだ弟・信繁を支えた軍師の山本晴幸が
後に帰参した晴信その人ではないかとも言われる。
158名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 14:10:06 ID:4RuAvXFP
愛新覚羅ヌルハチ(1559-1631)

女真族の一部族長だったが、1583年に挙兵し、明の後援をうけ満州の統一を目指す。
以後急速に勢力を伸ばし、1995年には明によって竜虎将軍に任命されるが、
文禄の役で明を脅かした日本軍が1997年に再び朝鮮に侵攻するとこれに呼応して明に敵対を宣言、
怒涛の勢いで南下、平壌・漢城を占領し日本軍と合流を果たす。
この時に言葉や文化の壁を乗り越えて加藤清正とよしみを通じた。
しかしこの無謀にも思える進軍のおかげで後方が手薄になり、明軍に隙を突かれてヌルハチは旧領を失う。
1598年に豊臣秀吉が死去すると日本軍は撤退するが、ヌルハチは一族郎党と共にこれに従った。
その後加藤清正の右腕となり、関ヶ原の戦いでは九州で兵を率いて南下し、小西・島津軍を圧倒、存在感を見せつけた。
ヌルハチの力を恐れた徳川氏は「功を称えて大名として独立させる」
という名目で、ヌルハチを蝦夷の日高静内に封じる。
現地ではアイヌに友好的な政策を取り、アイヌや本州との交易で利益を上げた。

なお、愛新覚羅家は次第に松前氏に取って代わって蝦夷の盟主として認知されることとなるが、
4代藩主玄Y(1654-1722)のときにシャクシャインの乱を裏で手引きしたと松前氏に讒言されサハリンに追放処分となる。
その後玄Yは沿海州を経て満州に復帰、さらには中国を統一して清の初代皇帝康熙帝となった。
159名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 16:31:07 ID:3QH3+4IH
>>158
>日本軍が1997年に再び朝鮮に侵攻
自衛隊ハァハァ
160名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 21:02:52 ID:yCMwIKXp
松平竹千代(1542〜1548)
一時、三河の大半を領有した松平清康の孫。
6歳の時に今川家の人質に出されるが、田原城の戸田弾正の裏切りで
織田領の尾張に連れて行かれる。織田信秀は「織田家に帰順すれば
竹千代は返す」の条件で松平家の帰順を試みるが、
竹千代の父・松平広忠はその申し出を拒否。竹千代はわずか6歳で斬られた。
161名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 21:12:47 ID:4woiSKCS
徳川家康(1543―1543)
生まれてまもなく便所に落ちて死亡
162名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 21:13:44 ID:2GaDIdao
歴史に残らない
163名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 22:15:47 ID:UpCFp1BN
>>161花子さんktkr
164名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 23:52:26 ID:Fy/YJjGZ
そんなにすぐに死んでたら、その名前じゃないだろw
165名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 01:07:12 ID:DE+rOWEJ
当時は松平竹千代かな
166名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 01:09:09 ID:DE+rOWEJ
って、上に書いてあるしw
167名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 01:23:14 ID:94lxj1aB
「堀越公方」足利政知の子として生まれ、父の跡を嗣ぐ。
伊勢新九郎の侵入を撃退して伊豆国内の基盤を強化
し、謀略を以って大森氏から小田原城を奪う。両上杉
氏と争いつつ、1502年、ついに鎌倉入りを達成。伊豆・
相模を支配するに至った。60歳で子に家督を譲ながら、
戦国時代に珍しい90歳の長寿を保ち、子や孫の関東
制覇を見守った「後鎌倉公方」の祖。彼の名は、足利
168名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 10:26:40 ID:yZ/1oB/9
>>158
康熙帝の頃には李自成が立てた「順」が中国支配を固めているような気もするが。
169名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 16:19:41 ID:b5ZOotP0
朝倉義景
朝倉孝景の息子。
家督相続後から一向一揆との戦いに忙殺される。
京を追われた足利義昭を庇護した後は、その家臣明智光秀の勧めもあって一揆と和睦する。
義昭を擁立した義景は上洛の軍を起こし、三好一族を京から追放して幕府再興を果たす。
管領職に任じられた義景は近畿一円を席巻する勢いを見せ、1572年には三好義継を河内で討つ。
その後一族・景鏡の謀反や再び敵対した本願寺対策などに苦慮しながらも室町幕府のために尽くす。
1585年、東を任せていた盟友浅井長政の三河攻めの援軍として向かう途上、近江で客死。


豊臣秀頼
豊臣秀吉の息子。
父の死により幼くして家督を継ぐが、徳川家康によって没落させられる。
しかし成長すると共に将器の片鱗を見せ、元服直後には執拗に干渉する母・淀君を幽閉する。
当初は妻のこともあって徳川家への恭順を模索するが、家康はそれを許さなかった。
やむを得ず望んだ大坂の陣では自ら出陣して士気を高め、家康の首を挙げることに成功するが、
それも一時的なことに過ぎず、三回目となる第二次冬の陣では弔いに燃える秀忠軍の前にあえなく敗北する。
天守に上った秀頼は脱出を拒む千姫と共に自害して果てた。太閤の子という意地を見せた一生であった。
170名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 19:29:45 ID:xGf83ZHC
安宅冬康 1528年〜1600年
三好元長の三男。大納言。幼少の折に水軍安宅家に養子に出される。
長じては兄の畿内制覇を助ける。兄弟や甥が謀殺される中、一人
奸臣松永久秀の謀略を見破り、独断で誅殺する。これにより長慶は
助かるかと思われたが、既に長期に渡って毒に蝕まれた体は助からず、
1564年に波乱の一生を終える。

この後、長慶の養子であり、末弟十河一存の実子の三好義継を三好三人衆と
共に後見する。そんな中1568年、将軍足利義輝が突如近江坂本で挙兵。六角や畠山、
波多野、赤松が呼応して攻め寄せるとこれを各個撃破して、六角義賢と畠山
高政は敗死。赤松義祐と波多野秀治は逐電し、足利義輝は出家した。
これにより、阿波公方足利義栄が14代将軍に就任。三好家は危機を逆手に取り、
勢力を拡大し、畿内に新秩序を施行した。応仁の乱以来160年ぶりに畿内に平和が
戻り、京や堺の市民達は口を揃えて安宅冬康の徳を称えた。
その後、時の正親町天皇から諸国平定の勅命を受け、美濃の織田氏、丹波の一色氏、
土佐の長宗我部氏、安芸の毛利氏等を次々に降し、天下は確実に三好家の手に
握られていった。このように早い進軍を可能にしたのは、水軍を活用したのと、
方面軍団制度を導入したことが大きい。三好家の直轄軍を中央軍とし、
荒木村重の中国方面軍、三好長治の四国方面軍、篠原長房の北陸方面軍、
細川藤考の東海方面軍がある。また、後期には松永久道の関東方面軍、
十河存保の九州方面軍が設置された。

1590年には東北以外の全てが三好家に征服・恭順した。
しかし、伊達政宗は三好家に従わず、東北・蝦夷地を征服し
頑強に抵抗を続けていた。流石の三好もこれには手を焼いた。
一番損害を出したのが三好長逸が黒川城を十万の大軍で
包囲した時である。伊達政宗は降伏すると見せかけ、城を
明け渡して、三好勢が受け取りの為に城に入ると、周辺に
伏せていた五千の兵が城内に乱入し、中に入った八万人が
戦死あるいは捕虜にされた。殿軍を務めた岩成友道は戦死。
三好政康も深手を負い、長逸もあわやという場面が何度もあったが、
松永久道が父親譲りの智謀を発揮し、難を逃れ、後詰の北条軍と
合流することができた。後の世に「黒川崩れ」と呼ばれる撤退である。

しかし、最早伊達軍も戦力は乏しく、3年後に首を差し出すこととなる。
こうして、1593年に全国を統一した三好家は朝廷に賞賛され、一族が
高官に昇った。三好義継は征夷大将軍に任命された。つまり、足利家
に代わり幕府を開くことを許されたのである(これより足利家は公家とされた)。
また、安宅冬康は副将軍となり、位階も正三位大納言に進み、天下の政治を
執った。安宅冬康はこの時期に大阪幕府の基礎を築き、三好三百年の太平の世
を現出させたのである。そして、自分の仕事は終わったとばかりに1600年に
72歳の天寿を全うした。また、文化人としても名が高く、千利休や狩野永徳
等の文化人が葬儀に参列した。
171名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 21:09:37 ID:m1385xbP
十河存保は?
172名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 20:33:02 ID:L0FylFFN
徳川家康
豊臣政権 五大老筆頭として太閤豊臣秀吉の死後天下の政務を預かる。
前田利家の死後専横を極めたとされているが、当時の風紀の乱れを粛清する為
やむをえない措置という意見もある。
 彼が同じ五大老の上杉景勝に詰問の末謀反と断罪して会津征伐の軍を起こす。
しかし津川口、米沢口、仙道口の諸軍は日和見であり信夫口の伊達政宗が白石城を
攻め落とした以外は白河口から進軍した家康の軍のみが上杉と交戦
 地の利を生かした戦法で上杉が終始優勢に戦を進め
佐竹の裏切りという虚報で見事に家康を敗走させたことから天下の形勢は一変する。
 大阪ではこの気に専横な家康を排除すべく待機していた後詰の西国諸侯を
大阪留守居の大老毛利輝元が総括
家康に蟄居を促すべく西軍を起こす。
西軍は総力を挙げて伏見を落すと全軍を持って清洲に進軍
堀尾忠氏が西軍に鞍替えしたのをはじめ
伊達政宗も家康の命運尽きたと見て最上南部に兵を向けた。
佐竹と前田の軍も上杉と合流
ここに関東包囲の体制が整い
家康は関東から会津40万石に移され徳川の後に関東には上杉が入府する。 
大老の地位も奪われ石高も6分の1に減り
仙台150万石の伊達と関東250万石の上杉、常陸下野100万石の
佐竹という油断のならない大国に囲まれたまま
失意の晩年をすごす。
173名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 22:37:18 ID:6La5hnPs
>>171
>"十河存保"の九州方面軍が設置
174名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 23:43:30 ID:rVi2TzoL
完全に見落としてたわ・・・スマソ
175名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 00:03:17 ID:mi9n9Phh
朽木元綱

金ヶ崎から逃れてきた信長一行を朽木城内にて討ち取る

その後幕府を開いた朝倉義景より西近江20万石を与えられる
176名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 02:39:28 ID:z3Z89Lge
トッタロー2世(1575〜1650)

天下取太郎こと初代日本国王トッタロー1世の嫡子。
母は赤井直正の娘(一説には側室とも)。
1605年、父の後を継いで国王に即位する。翌年30万の大軍を率いて
西方大遠征を開始するが朝鮮で大敗を喫し捕虜になって
ちんこをもぎ取られ泣きながら帰国した。
その後素早く名をトラレタローと改め積極的に女装する等、
一世一代の大失態を笑いに転嫁し、ピンチをチャンスに変えて
民心が離れるのを防いだ。
このお陰でトッタロー家の栄華は1870年の
アジャラカモクレンの乱までおよそ270年続くことになるのである。
177名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 21:37:19 ID:hCx6HsZE
上杉謙信(1530-1561)

川中島の戦いにて信玄と一騎打ちを行うも相打ちとなる。
姉婿であった長尾政景の嫡男・景勝が政景の後見を受け、
上杉家を継いだ。
酒を好み、梅干し一つで大酒をあおっていたことでも有名。


武田信玄(1521-1561)

川中島の戦いにて謙信の挑発に乗ってしまい、一騎打ち
を行い相打ちとなる。
その死後は嫡男・義信が高坂昌信ら重臣の補佐を受け、
武田家を継いだ。
美少年を好み、戦場で恋文を書いたことでも有名。
178名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 15:43:18 ID:RU7aIFnj
北条氏政(1538-1604)
北条氏康の次男。左京太夫。
兄の早世により家督を継ぐ。名君の誉れ高かった父の没後もその覇業を継ぎ、
安定した領国経営と領土拡大に努める。
やがて、天下人となった秀吉から上洛の要請をされるが家中の意見がまとまらず、
関東征伐を招いてしまうが、出陣直前に姻戚・徳川家康のとりなしで降伏。
氏政は出家し、嫡男・氏直をそのまま奥州征伐の先陣として派遣させることで許しを得る。
しかし、この後北条家は厳しい試練を迎えることになる。
征伐軍の先鋒として出陣した北条軍は、伊達政宗軍の激しい抵抗の前に潰走。
氏直を救おうとした弟・氏照、氏規が戦死してしまう。
更に戦後、上洛しなかったことの責を問われて北条家は関東領を没収され、
大幅に減封された上、岩出山の旧伊達・大崎領に転封されてしまう。
悪い事は更に続き、朝鮮に出兵した氏直が出陣の途上に病死してしまい、
秀吉の上洛要請時に徹底抗戦を主張したはずの重臣・松田憲秀が秀吉のもとへ出奔してしまう。
再び当主に復帰した氏政はそれでも腐ることなく豊臣大名として尽力し、
北条家が代々培った内政術で新しい本拠地・仙台を実りある土地へと変えて行く。
秀吉の死後の動乱では、姻戚であり恩のある家康を迷うことなく支持。
会津の上杉景勝を最上義光らと牽制し、関ヶ原での東軍勝利に大いに貢献する。
戦後、直江兼続の旧領・米沢三十万石などを加増された氏政は、家督を三男・氏房に譲って隠居し1604年に死去。
その後も徳川家に忠誠を誓った北条家は大坂の陣でも活躍し、
仙台米沢九十五万石の大大名として明治まで残る大名家となった。
今でも仙台の町には、関東時代の名残を示す「相模新田」「小田原一丁目」などの地名が残っている。

ちなみに、民衆に「しせいさん」と慕われた氏政は、味噌汁を少しずつ飯にかけて食すその癖が愛された。
今でも仙台地方の人には味噌汁をちょっとずつ飯にかけて食う人も少なくなく、
牛タンと並ぶ仙台の名物・「しせいさん飯」は誰もが知る有名な料理である。
仙台城址には味噌汁の椀を傾ける氏政の像が建ち、今もなお仙台市民を見守っている。
179名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 15:44:35 ID:RU7aIFnj
内ヶ島氏理(?-?)
飛騨の国人。帰雲城主。
1585年、領内で大地震が起こり城は壊滅するが、外出中で難を逃れる。
しかしそのおよそ十年後、逗留した伏見で大地震に遭遇。
火災に巻き込まれて死んだとも、これまた直前に難を逃れたともいわれるが、
遺体が見つかっていないため定かではない。

那古野勝泰(?-?)
尾張斯波家臣。男色関係にあった簗田弥次右衛門の調略に応じ、
織田信長の清洲城攻略に貢献する。その後の消息は不明だが、
一説には男色春画のモデルになったことを密告され、主君の不興を買って出奔。
失意のまま新天地を求めて宣教師の船に乗ったと伝えられる。

徳川秀忠(1579-1623)
家康の三男。徳川幕府二代将軍。
温厚篤実な性格で江戸幕府の基礎を固めるが、1623年、東照宮参拝の途中に立ち寄った宇都宮城で
寝室に仕掛けられた釣り天井の罠に押し潰されて暗殺される。
首謀者である宇都宮城主・本多正純はすぐさま幕府の討伐を受けて滅ぼされるが、
将軍の呆気ない頓死で幕政は大混乱を来し、江戸幕府が三代で終わる原因となる。
180名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 15:45:28 ID:RU7aIFnj
陶晴賢(1521?-1551)
大内家臣。大内家を代表する猛将であったが、1551年突如として謀叛を起こす。
しかし、この計画を事前に察知していた主君・義隆軍の前に敗北。
晴賢は支援者であった豊後の大友宗麟を頼るべく逃走を図るが、
追手から逃げ切れずに杉重矩、青景隆著共々滅ぼされる。
晴賢が謀叛に至った理由は定かではないが、
主君の寵愛を受けられなくなったことによる逆恨みとも、
武よりも文を重んじた義隆の方針に不安を覚えたからとも言われる。

武田晴信(1521-1541)
信虎の息子。十九代当主信繁の兄。
利発な武将で家臣団からも将来を嘱望されていたが、1541年突如として謀叛。
しかし、信虎と信繁の征伐軍の前にあえなく敗れ自害。
史料がないため謀叛の理由ははっきりしていないが、
晴信が廃嫡されるという奸臣の讒言を信じたことによる決起とも、
姻戚であった今川義元との密約があったからとも言われる。
181名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 01:22:12 ID:EqH9zBYM
徳川信康(1559−1623)
江戸幕府第2代将軍。徳川家康の嫡男。
1579年、織田信長に謀反の疑いをかけられるが、服部半蔵らの手によって替え玉が立てられて脱出して出家する。
本能寺の変後、徳川家に復帰して各地で転戦する。
1600年の関ヶ原の戦いでは真田昌幸の姦計に気付いて合戦前日に関ヶ原に到着する。
1605年、父から将軍を譲られる。
父の晩年には大久保忠隣の改易や大坂の陣を巡って父と確執があった。
父の死後、弟の駿河大納言秀忠と本多正純の謀略で元和の乱が起きる。これを打ち破って秀忠は信康の養嗣子となった実子・家光の手で討ち取られる。
間もなく、病を得て死去。一説には弟を討った事悔やんで倒れたのだと言う。
182名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 07:32:46 ID:9jkt7sZD
島津忠直

信濃の大名。信濃を統一し二万の兵を率いて上洛を果たす。
三好党を追い払いその後三十五年間管領として京に留まった。
わずかな兵で上洛してきた上杉謙信を騙し討ちにするなど
奸智に長けた一面もあった。
信濃に帰った後は東国将軍を僭称し武田北条を滅ぼした。
そばは熱い内に食べたという。
183名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 09:41:27 ID:hOnBw2me
井伊直親 1535-1602
遠州井伊谷の領主。今川家に仕える。
一時謀叛の嫌疑をかけられたが、今川氏真は聡明にもそれが濡れ衣であることを見抜いた。
のち徳川家に仕え、幕末まで3500石の旗本として続いた。
184181:2006/09/11(月) 12:31:04 ID:wLDGFlO8
>>181
信康は本多正信の奸智を嫌っていたが、その能力は認めていた。
正信死去の際、信康に対して息子・正純の加増を辞退していたが、死後に正純が強引に加増を信康に求めた。
信康は加増は許したがその代わりに老中職を解任した。
これを恨んだ正純が日光社参の信康一行を暗殺して弟の秀忠を将軍に据え様と画策した。
暗殺は失敗に終わり、追い詰められた秀忠・正純は幕府に不満がある諸将を集めて挙兵したこれが「元和の乱」である。
185名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 15:28:45 ID:S15powSb
石田三成(1560〜1615)
幼年の頃より豊臣秀吉に仕え、奉行衆の一員として半生を送る
豊臣秀吉・前田利家らの死をきっかけに加藤清正・福島正則ら七将に襲撃されるが、
日頃より懇意であった徳川家康に助けを求め、家康の公正な裁定により七将は失脚する
恨みに思った七将らは、家康・三成に不満を持つ大名を集めて挙兵するが、
三成は家康を中心とした連合軍を結成して対抗、勝利する

その後、徳川の幕下で辣腕を振るうことを選んだ三成であったが、
家康が豊臣家を除いて憂いを断とうとする方針を固めると、それに反発
豊臣を守るために手を尽くしたが、適わず大阪の陣が起こると徳川陣営から離反
豊臣陣営に加わり奮戦したが、彼の手腕をもってしても劣勢を覆すことはできず、
討ち死せんとする秀頼を説き伏せて共に大阪脱出を図るが、失敗し捕縛される
秀頼の助命を条件に、再び家康に仕えるという要求を呑んだ三成であったが、
後日、約定をたがえて秀頼が処刑された事実を知ると後を追って自刃する

三成の死を知った家康は、
「石田が共に消えると知っておれば、豊臣を滅ぼそうなどと考えなかったものを・・・」
などと、彼の死を悔やんだと言う
186名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 16:01:58 ID:Pm191mzg
羽柴秀吉(1536〜1583)

織田家臣。はじめ木下と名乗っていたが
重臣、丹羽長秀と柴田勝家の姓より一字づつ取り、羽柴へと改姓する。
が、勝家とは性が合わなかったらしく、度々衝突を繰り返したと言う。

信長が本能寺の変により討たれると、攻略中の中国地方より急ぎ引き返したが、
いち早く光秀を討った勝家に功を奪われる。清洲会議では長秀らと共に
三法師を推すが、信孝を推す勝家に退けられる。この政争により勝家との抗争
に打って出るが、筆頭家老の勝家に敵うはずもなく、滅ぼされる。

賤ヶ岳で討たれた際に、「柴羽にしときゃ良かった」と洩らして息絶えたと伝えられる。
187名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 23:16:49 ID:hOnBw2me
石田三成 (1560〜1600)
豊臣家に仕えて奉行として頭角をあらわし、徳川家康や武断派諸将と対峙。
1600年、関ヶ原の戦いを指揮するも敗れ、捕らえられた。
六条河原の刑場に曳かれる途中、食べた干し柿を喉に詰まらせて死亡。
それ以来、水代わりに干し柿を供することは「 痰の毒」として忌まれることになった。
188名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 18:30:15 ID:Bre+/ZIq
小川祐忠(?〜1600)
関が原の合戦で西軍につく。
戦況を日和見していたが東軍の威嚇射撃によって
小早川秀秋が寝返ると脇坂・朽木・赤座・大谷吉継らと共に
小早川隊を迎えうち全員討ち死に。
後の世で『亡き太閤の恩に報いた忠義の者』として尊敬される。
189名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 19:27:13 ID:74Vkd60m
徳川家康

うんこがくさかった
190名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 19:41:12 ID:tWufJV+Z
肝付兼正(1935〜)
肝付幕府第20代(当代)将軍職。立憲将軍制の下、元首として多忙な政務に当られる傍ら、
演劇やアニメなどの文化の振興に深い関心を持ち、自ら俳優・声優としても活躍されている。
191名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 21:50:59 ID:PYp8Z34K
長尾景虎(1530〜)

越後守護代長尾為景の子
2006年現在は、度々、米沢でタクシーを拾い、「春日山城まで・・・」と
賃金も持たずに乗り込んで行っては、家族たちを悩ませているらしい。
192名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/14(木) 00:48:19 ID:OiJ1dWyq
そ、それ幽霊じゃなかろうな・・・・・・
193名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/14(木) 21:52:17 ID:aa3sypu/
>>187
うまいな。
194名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 16:01:52 ID:9nIYsvAQ
テーマ:アンチ大河

山内一豊(1546-1600)
対馬守。織田信長に仕え、羽柴秀吉の配下として活躍する。
彼の妻・千代は頭の良いことで知られ、槍働き一辺倒の夫を盛り立てていく。
しかし、一豊が出世するにつれてそのことを鼻にかけるようになった千代は
北政所を通じて豊臣家の政策に口を出すようになり、
それは転じて諸将から一豊への風当たりにつながる。
秀吉死後の関ヶ原で徳川家康が勝つことを確信した千代は、
夫に居城を差し出させて心証を良くしようと画策する。
だが東軍は敗れ、一豊は許しを請うべく寝返った福島正則らによって討たれてしまう。
混乱の中、千代は北政所を頼って逃亡を試みるも相手にされず、
以前、千代の讒言で謹慎の憂き目にあった小早川秀秋の軍に捕まって嬲り殺しにされた。
戦後、大谷吉継は自らが記した「越前軍記」の中で、敗軍の総大将である家康を差し置いてまで、
「家を滅ぼすものまず二つあり。甲斐性なき男と、身の程を弁えぬ毒婦である」
と批判している。このことから、だらしないヒモのことを指す「腑抜け対馬」、
小知恵の働く女が才に溺れて身を滅ぼすことを指す「千代の浅知恵」という言葉が生まれた。
195名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 16:02:22 ID:9nIYsvAQ
久武親信(?-1600)
長宗我部家臣。知勇兼備の将として主君の信頼厚く、
1579年には岡本城を陥落させて伊予攻略の足がかりを築く。
その後、伊予攻めの留守に乗じた弟・親直が十河存保に通じて謀叛する。
責任を感じた親信はそれを討ち果たした後自害しようとするが、
報を聞いて駆けつけた福留儀重にすんでの所で押し留められる。
四国制圧後、秀吉の四国進出に伴う外交交渉では、
秀吉とのかつての誼もあって谷忠澄と共に交渉役に抜擢され、
感じ入った秀吉から土佐一国と伊予の一部を安堵される。
九州征伐では福留儀重と共に元親の嫡男・信親を補佐。
戸次川の敗戦では血気に逸る信親、儀重を押し留め、無事生還させる。
このことで更に信頼を深めた親信は伊予で加増を受け、
一門を除いた家中では最大の四万石を領することになる。
元親死後、関ヶ原で長宗我部氏は成り行きで西軍に属するが、
戦後、親信の必死の嘆願もあって赦免に成功。当主・信親は隠居し、
その嫡男・秀親に跡を継がせることで土佐一国のみを安堵される。
その年、親信は長宗我部家の安泰を見届けるかのように死去。
久武家は明治まで続く長宗我部家の重臣として存続した。
弟の謀叛時から戸次川に至るまでの親信と福留儀重の逸話は、
「土佐儀親伝」として、歌舞伎の演目にもなって残っている。
196名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 22:32:35 ID:TgV8IKTb
北畠具盛(?−1615)
戦国時代、伊勢国の武将。蔵人。神戸長盛の子。兄に神戸利盛。
出家して僧侶となっていたが、利盛が25歳で早逝すると還俗し、神戸具盛と
改め、神戸氏の家督を継承した。その後、長野氏との塩浜合戦に大勝し、勢い
に乗じて北畠氏の本拠がある伊勢国府に迫ると、北畠具親の内応を得て国府を
落とした。この際、北畠具房を捕縛し、その父であり北畠当主の具教を降伏
させることに成功した。
その後は着々と伊勢の国人層を幕下に取り込み、1562(永禄2)年には伊勢国
を統一した。当時、織田氏の勢力が尾張から伸張しており、頻りに伊勢に侵入
していた。具盛は室の実家である近江蒲生氏と連携してこれに抵抗、数回に
渡る織田軍の侵攻を退けた。遂には織田軍を率いる滝川一益を負傷させ、その
伊勢攻略を頓挫させるに至ったと言う。
1570(元亀元)年、北畠姓を継承し北畠具盛と改名した。同時に、朝廷から
従三位権中納言に任ぜられている。この頃になると、北畠氏の勢力圏は近江、
伊賀、紀伊の一部に及び、中央に進出した織田氏や三好氏と争うようになった。
織田信長が足利義昭を追放し室町幕府が事実上滅亡すると、直ちに義昭を伊勢
に招いて庇護し、これを奉じて対抗。信長包囲網の形成に大きな役割を担った。
1582(天正10)年、織田信長が安土城で小姓・森蘭丸長定により殺害され、内紛
が生じた。その後、織田家中の内紛は織田信忠により収拾される。信忠は織田
領国再編の一端として、北畠氏と和議を結んだ。
以後、北畠氏は織田氏の同盟国としてこれに協力する。北畠氏は徳川氏の監視を
兼ねていたものと思われる。1588(天正16)年、徳川家康が武田氏、北条氏と
結び離反すると、具盛は1万4000の軍勢を蒲生賦秀につけて東海に派兵し、これを
撃破した(三河、遠江、駿河は北畠氏の支配下に入り、家康は関東に逃亡した)。
織田氏が1590(天正17)年に毛利氏、その翌年と翌々年に渡って武田氏、北条氏
を立て続けに降伏、滅亡に追い込み、1594(文禄3)年には中央に織田政権を
樹立すると、具盛は隠居して嗣子・盛信に家督を譲った。具盛は、和議を破って
織田氏に抵抗しようと考えたが、盛信や蒲生賦秀ら家臣によって諌められ、恭順
を決めたとされる。結果、北畠氏は遠江、駿河を接収されることとなり、一方で
嫡子盛信は信忠の一字を賜り、北畠忠盛と名乗ることになった。
具盛の野心はその後も失せず、この判断を後々まで悔いると共に、忠盛の力量に
懐疑的であったと言われる。
1610年、織田家重臣・羽柴禅門秀吉が摂津、河内、和泉の軍を擁して反旗を翻す
と、具盛も忠盛の後詰として出陣。1611年、天王寺の戦いでは、具盛は信忠に
請われて信忠嫡男・信秀の身辺に控えた。1614年、秀吉が信忠の家老・斎藤長龍
と池田元助の軍により攻め滅ぼされると、具盛は秀吉の首実検にも臨席している。
1615年、病を得て阿野津に隠棲、間もなく死去した。享年は90歳以上とも。
法名は智麓院殿沢舜琴月大居士。
197名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 05:09:45 ID:J24mNdZN
平林秀吉(1536-1598)

尾張国中村の百姓として生まれ、はじめは木下藤吉郎と名乗る。
織田信長に仕えて次第に頭角を表し、平林秀吉と改名した。
重臣・平手政秀と林秀貞から一字ずつ字をもらって苗字としたという。
ほかの苗字候補としては、柴久間、佐々間、丹田、柴手、など。
198名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 13:02:03 ID:1NBl/CBT
>>197
響きが良いね。
199名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 15:19:30 ID:P3PliyDg
二度寝マン

二度寝する癖がありそのせいで合戦に悉く遅参し命を長らえた。
200名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 19:55:43 ID:sUujvKhQ
毛利元就(1497-1555)

安芸の豪族として謀略を駆使して着々と勢力を広げたが、
陶晴賢率いる大軍に居城を包囲され、一族郎党の助命を
条件に開城、切腹した。
しかし、約束を反古にされた毛利一族は陶晴賢によって
一族郎党誅殺されてしまった。
陰謀の多すぎる元就を忌み、その血統を残すことに疑念
を抱いたが故の凶行であったという。
201名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 21:26:02 ID:l/zrjb4N
ホトトギス(1560―1561)
尾張国に生まれる。
単独で清洲城の塀を飛び越え、潜入に成功するが
出自が鳥であったために織田家に捕われる。
信長に鳴けと命ぜられるが、鳴かず、処刑される。

信長の性格や時勢を読み取る事ができなかった暗愚の鳥と評されるが
近年、鳥としては凡鳥であったのではと再評価の動きも見られる。
墓は清洲城内にあると推定される。享年1歳。
202名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 22:23:26 ID:XAOMSYbE
アシタカヒコ(?−1558)
戦国時代初期の武人。出自は現在の青森県恐山か。その他経歴は不明。
現在の秋田県に下り、現地の国人の客将となった。程なく戸沢氏、安東氏
らによる蚕食が開始されると、地侍による一揆の中核としてこれに抵抗した
が、討ち死にした。
203名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 23:54:44 ID:FWUVzewu
>196
秀吉が叛く理由がわからん。
204名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 02:07:12 ID:UsrVybRw
高橋統増(1573-1600)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。高橋紹運の次男。立花宗茂の弟。
凡庸な兄に代わり高橋家を相続。1586年の島津の筑前侵略の際、岩屋城で戦死した
父紹運の遺志を継ぎ、宝満山城で大籠城戦を展開。僅か500人の軍勢にて5万人の島津軍を
撃退し、「500の高橋勢は兵5万に勝る」との逸話を残す。
秀吉の九州征伐では先鋒を務め、その功により筑後一国26万6000石を領する大名となる。
朝鮮の役でも獅子奮迅の働きを見せ、その武勇ぶりについては
「秀吉に過ぎたるものが二つあり、黄金(きん)の茶室と高橋統増」と言わせしめた。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、東軍に寝返った小早川秀秋勢を撃破した後は
徳川本陣に突入。一時は家康に切腹を覚悟させるほどの奮戦をした。
戦後は本領で鍋島勢と交戦中に加藤清正の調停で降伏した。家康の統増に対する憎悪は激しく
石田三成、安国寺恵瓊、小西行長などが助命される中、ただ一人切腹を命じられる。
辞世の句は以下のとおり。
「浮世をば 我に悔いなし 武士(もののふ)の おもふは豊の 永遠(とは)の祈りよ」
享年28歳
205名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 02:26:47 ID:L3xOhAxV
毛利元就(1497-1571)
猿懸城主。少輔次郎。吉田郡山城主・毛利興元(1492-1561)の弟。
寺社などへの安堵状が三通ほど残されている。
206名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 04:56:43 ID:kt3638Kl
それにしても、小説風な語り口が多いですね。
淡々とした口調で書いた方が面白くなると思うんだが・・・
ウィキペディアの野球選手の記事に対する違和感に通じるものがある。
207名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 08:55:56 ID:b7Ov3kF+
206(1988〜2006)

他人の行いに口を挟む以外取り立てて特技もなく、
流れ矢に左の睾丸を射ち抜かれて死亡した。
「時が来れば 射たねど玉は 散るものを 心短き 秋の山風」
辞世すら自作できなかったという。
208名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 12:28:22 ID:fc1aOJjg
>>204
でもリアル統増も兄に隠れていたけどかなりの武勇の士だったらしい。
朝鮮で孤立した兄を救うために血路を開いて助け出したとか。
209名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 13:00:02 ID:L3xOhAxV
里見義豊(1496-1574)
安房里見家第三代当主。義実の孫で、義通の長男。
1533年、北条家に唆されて謀叛を企てた叔父の実堯・従弟の義堯、
重臣の正木通綱を討ち、里見家の基盤を磐石なものにした。
上総から下総へと勢力を広げ、宿敵北条家との間に
二度にわたる国府台の合戦を行ったが、二度とも敗れている。
義豊は修史事業を熱心に行ったことで知られ、
今日の研究者はこれによって里見義実の入国時の事情、
安房平定の過程、また里見一族や家臣団の系譜関係・生没年など
戦国里見家勃興期の歴史を詳しく知ることができる。
210名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 19:47:07 ID:1eujMMgb
>>146
この時点で秀吉と名乗ってたのか?
211名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 20:03:56 ID:1eujMMgb
直江兼続(1562〜1619)
政治109 戦闘107 智謀104 采配110 野望100

父:武田信玄 母:上杉謙信 養父:樋口兼豊

女性ながら病弱な兄に代わり家中を取り仕切り
生涯不犯を誓った謙信だが
第4次川中島の合戦にて単騎武田本陣に突入した際、
信玄と組み合いになり、男女の腕力の差から犯される。
短刀で信玄の腕を傷つけて束縛から逃れる謙信だが
犯されたことにより気が動転し、
全軍の采配を放置して善光寺に走り、結果、戦の形成は逆転。
この時信玄は「これで20年後、越後は武田の子のもの」と呟いた。

その後、生まれた男児は謙信の姉泉桃院とその夫長尾政景に預けられ
名家樋口家の養子という肩書きを与えられる。
その件について知る者は謙信・政景・謀臣宇佐美のみ。
宇佐美曰く「殿と信玄の子なら双方の優れた点を兼ね備えた名将となろう。
      世継ぎではなく家宰として育てるべし。」
その後、兼続を反乱の材料に起とうとした政景は宇佐美に消されるも
兼続は景勝の小姓として育ち、「直江兼続」を名乗る。

謙信・信玄譲りの将器が生かされるのは慶長5年、
家康による上杉征伐の際である。
革籠原にて結城秀康軍、小山にて渡河前の家康を討ち、
奥羽を平らげた後、上京して
豊臣秀頼以下側近達に対し
家康に許した上杉征伐について詰問して政権から引きずり下ろし、
その上で「上杉幕府」を開設し、大老として引き続き家政を取り仕切る。
212名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 21:12:05 ID:wEMH6n8a
生年まで変えるのか。
213名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 21:17:14 ID:1eujMMgb
前スレ投稿のコピペ
交尾を八幡原とするなら1年ずらさな...ね。
214名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 22:05:44 ID:7cmtmpou
歴史の流れとかもうそういうんじゃないな。
完全に別人だ。
215名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 22:23:25 ID:M80hCenJ
種畠ともに違う方向へ行っただけだ。問題ない。
216名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 19:28:20 ID:oNqsxgk1
徳川家康
織田信長の盟友であり「東海一の弓取り」と称された戦国末期の代表的な武将。
天下を平定した秀吉に唯一負けなかったとも言われており
秀吉の母親を人質に上洛した逸話は有名である。
 しかし後世には、家康という人物は戦下手という評価が付きまとっている。
その最大の要因は関が原の合戦でそれまで戦下手と定評のあった三成に
敗北してしまっていること。
 小早川秀秋と吉川広家の裏切りと内応を信用し不利な陣形のまま戦に望むという
無謀な賭けを行い逆に小早川と吉川に裏切られたこと。
 などなどがあげられるが一番有名なのはこのエピソードであろう。
家康は戦場を命からがらに逃れ清洲に到着した時恐怖のあまり脱糞してしまった
のを焼き味噌と言い訳したのである。
 戦後は豊臣家への謀反として切腹ではなく斬首とされたが
刑場に運ばれる際、のどの渇きを癒す為
白湯を所望したが、代わりに干し柿を出され、それで腹の調子を崩し
脱糞したという逸話も残っている。
 武田信玄との合戦で同様のエピソードもあり
家康といえば「三河殿の焼き味噌」として知られている。
217名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 21:58:56 ID:fyKs+eHh
>>186
オチ、上手いなあぁ〜。
218名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 16:50:58 ID:6NKeyx6K
荒木村重(1535-1599)
大納言。元は池田勝正の家臣だったが、これを見限って織田信長に降伏。のち摂津一国を与えられる。
武将としての才覚もありながら茶の湯にも通じていた村重は信長に重用され、
家中では羽柴秀吉、明智光秀に次ぐ出世を果たし、別所氏攻略などに戦功を挙げた。

1582年、本能寺の変が有岡城にいた彼の運命を大きく変える。
親交のあった光秀から事前に計画への荷担を持ちかけられていた村重はそれに通じて
四国攻めのため堺に滞在していた信長の三男・信孝と丹羽長秀を討ち、ちょうど逗留していた徳川家康一行も討つ。
村重は変を聞いて急行してきた秀吉軍を摂津で迎え撃ち、光秀と共にこれを撃退する。
秀吉は敗走途中、村重の配下・池田知正に捕まり、京で磔刑に処せられた。

この勝利で日和見をしていた筒井、細川もようやく腰を上げて光秀陣営に参じる。
安土城に籠城していた蒲生賢秀・氏郷親子も間もなく降伏し、光秀は越前を除く畿内の制圧にほぼ成功した。
光秀は信長の遺児・信雄、滝川一益の降伏を待ってから改めて方面軍を形成。
中国路には細川親子と筒井順慶、北条が侵食した木曽路には明智秀満、東海道には斎藤利三、四国には津田信澄らを派遣。
北ノ庄城に柴田勝家を滅ぼした村重はそのまま北陸方面軍を任される。
先の秀吉、勝家との戦いで降伏した黒田官兵衛、前田利家、佐々成政らを配した村重軍は破竹の勢いで北陸を席巻。
1585年、遂に上杉景勝を降伏させる。その頃には光秀の覇権は揺るぎのないものとなり、
それから5年後の1590年、伊達政宗の自害をもって全国統一を成し遂げた。
その後、毛利に寄食していた足利義昭を呼び戻して幕府を再興した光秀は管領に任じられ、
越前守護に任じられた村重もまた、第二期足利幕府の重鎮として越前・加賀など百三十万石を領し、
村重は細川藤孝、亡き筒井順慶の嗣子・定次、義昭を庇護していた毛利輝元と共に「今四職」と称された。

しかし、光秀の力に信長の影を見た義昭の行動は次第に常軌を逸し始め、
1596年、筒井定次を謀叛の疑いありとして切腹させたのを始め、同じ理由で忠臣だった細川父子を領地召し上げの上蟄居させたり、
果ては「織田の汚れた血を引く者め」と、年賀の挨拶に訪れた津田信澄を斬殺してしまう。
村重にも謀叛の疑いがかけられそうになるが、間もなく義昭は急死してしまい難を逃れる。
その死因は狂死とも毒殺ともいわれるが定かではない。
219名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 16:51:53 ID:6NKeyx6K
義昭死後、実子がいなかったことと、人心が離れていたこともあって天下の情勢はにわかに騒がしくなる。
後継者が決まらないうちに光秀が死去するとその混乱は決定的なものとなり、将軍の座が空位という異常な状態が生まれた。
光秀の実子は早世しており、その対立軸は残る「今四職」で、養子・義忠(細川忠興の次男)を擁する村重と、
同じく養子・義真(今川氏真の次男)を擁する毛利輝元だった。義忠には村重の他、宇喜多秀家、島津義弘、上杉景勝などが付き、
対して義真にはその実父・氏真の姻戚である北条氏直、佐竹義重、大友義統などの有力大名が付いて全国をほぼ二分する形となった。
当初、実父が謀叛の疑いで失脚している義忠よりも義真のほうが優位に見えたが、細川一族を庇護していた村重が
「幽斎どのは十四代・義晴様のご落胤であり、その孫にあたる義忠様は同じ一族でも義真様よりも正当なお血筋に近い。
尚且つ義忠様の母は管領様(光秀)のご息女であり、次代の武家の棟梁としてこれに優るものはなし」と発言。
これによって光秀の直臣・「四奉行」(明智秀満、斎藤利三、溝尾茂朝、妻木広忠)も村重を支持し、
次いで村重の朝廷工作で義忠が右大臣の位を受領したこともあり、村重派(東軍)と輝元派(西軍)の対決は避けられなくなった。

1597年夏、会津で東軍の蒲生氏郷が西軍の最上義光と戦闘状態になったのを皮切りに、
九州では島津義弘と大友義統、関東では上杉景勝と北条氏直が小競り合いを開始して合戦の火蓋が切られる。
村重は上杉軍を援護すべく、備前の宇喜多秀家と但馬の宮部継潤に毛利を任せて東海道から東進を開始しようとする。
東海道にはかつて村重が討った徳川家康の遺児・秀康など、徳川ゆかりの大名家が点在しており一応は中立を宣言していたが、
「道中、彼らは結託して村重を討ち果たすらしい」という噂が流れており、家臣も経路の変更を勧めるほど事態は緊迫していた。

しかし、村重はあえて進軍した上でそれら諸将を自陣に招いて茶会を催し、点てた茶と脇差を同時に差し出して、
「ここでわしを討つも、茶を嗜むも貴殿たち次第」と言い放ち、三河の諸将を仰天させる。
結果、感じ入った榊原康政を皮切りに全員が脇差に手をかけることなく茶を飲み干し、村重の軍勢に加わることを誓う。
この裏には、家康の遺児を養子にして厚遇することなどを条件にした、康政への調略が事前にあったと言われているが、
とにかく東海道の大名たちを味方につけた村重は北条氏直を上杉と挟撃。寝返った佐竹義重と共にその動きを封じる。
220名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 16:53:19 ID:6NKeyx6K
北条の牽制を明智秀満に任せた村重は西へと転じ、苦戦していた宇喜多、宮部軍の救援に駆けつける。
備前笠岡で対峙した両軍はやがて激突。最初こそ数量に勝る毛利軍が押していたが、
井伊直政などの三河衆、筒井の旧臣・島左近などの活躍で両川不在の毛利軍を撃破。副将・穂井田元清を討ち取った。
これが大きなきっかけとなって戦は終息。その後、各地からも続々と東軍の大名の勝利が伝えられた。
毛利輝元、吉川広家は四条河原で首を刎ねられて毛利家は滅亡、最上、北条などといった西軍大名も改易され、
義真は氏真と共に隠岐へと流されることになる。
義忠を第十六代将軍に据えた村重は、旧態のシステムを刷新した上で自らを副将軍と名乗り、新たな幕政を取り仕切った。

二年後、村重は病を得て死去。元から茶人として名高い村重であったが、最晩年に「自分は道端の糞である。
誰にも知られぬまま消えるもよし、畑の肥になるもよし」という理由で剃髪し、「道薫」と号するなど、
三河衆を説得した茶会にも見られた変人ぶりは文化人としての深みを大いに評価された。
葬儀には二十万人が参列し、堺や京では町衆が自発的に一週間の喪に服したという。

新足利幕府はその十五年後、十七代・義秀の時に再び断絶して、隠岐に配流されていた義真が不穏な動きを見せる。
これを収めたのが、村重の養子となって荒木家を継いでいた徳川家康の三男・秀忠とあの時の三河衆であり、
出雲で旗上げした義真とそれを擁立した最上義光親子らを討つ。
なお、この戦いでは義真側に加わった旧羽柴家臣の福島正則、加藤清正などの猛者が秀忠軍を大いに苦しめた。
武運つたなく玉砕したが彼らはのち、その戦いぶりが賞賛され、
後世、主君に忠義を尽くす「隠岐七本槍」として歌舞伎、講談などで民衆に大きな支持を得た。
ちなみにそれらを討った信州の真田信之・信繁兄弟は戦後、
密かに義真を支援していたかどで改易された佐竹氏の常陸五十四万石に加増、転封されたが、
話の中では悪役として書かれることも多く民衆からの人気は芳しくなかった。

秀忠は二年後、朝廷から新たに創設した幕府の初代将軍に任じられ、その後二百五十年続く太平の世を築くことになる。
その後、秀忠は姓を徳川に戻したが、村重は神君として家中で祀られ続け、天下取りを皮肉った狂歌では、

「織田がつき、明智が奪いし天下餅。こねて仕上げし道端の糞」

と歌われている。
221名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 03:21:05 ID:nj287S2j
坂上天陽にその設定で書かせるんだ!
222名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 16:43:43 ID:BnSPEom7
佐々成政(?〜?)
織田家臣。信長没後は柴田勝家に属して越中富山城主となるが、1586年に謎の失踪を遂げる。
この失踪劇については史家の間でも意見が別れ、
羽柴秀吉に対抗するべく厳寒の北アルプスを越えて徳川家康に救援を求めようとしたとか、
親不知を越えて上杉家へ出奔しようとしたなどの説が乱れ飛んだが、
「日本でも指折りの豪雪地帯である北陸で、厳しい冬の時期にそんなことをするはずがない」という理由で、
対立していた隣国の将・前田利家によって秘密裏に暗殺されたという説が最近まで有力だった。

ところが2005年、立山山中で発見された旧時代のミイラが思わぬ波紋を呼ぶ。
成人男性のものと思われるミイラは佐々家の家紋のついた着物、刀、
更には油紙に包んだ花押付きの書状を所持していたことから、成政のものではないかといわれた。
書面には秀吉を罵倒する文言と家康へ助力を嘆願する旨が綴られており、
調査は現在も続いているが、これによって戦国史の一部が塗り変わる可能性も出て来た。

黒田孝高(1546〜?)
小寺家臣。のち居城を織田信長に差し出し、羽柴秀吉に属して辣腕を振るう。
1578年、謀叛した荒木村重を説得しようと有岡城に赴きそのまま消息を絶つ。
村重に荷担して寝返ったとも、説得に失敗して斬られたともいわれているが、
怒り狂った信長に謀叛人の烙印を押された孝高の長男・松寿丸は即刻首を刎ねられ、黒田家は歴史の闇へと消えた。
孝高が抜けたことで秀吉の中国攻略は完全に狂い、のちに失脚して追放される原因となった。
史家も孝高が小寺家をあっさり見限ったことや、村重と親しかったことなどから謀叛説を支持し、
通説での彼は「信長・秀吉を見限って荒木に走った裏切り者」とされてきた。

しかし最近になって、秀吉の代わりに中国攻略を担当した明智光秀が主君・信長に
「土牢で朽ち果てし小寺(孝高)どののこと、誠に無念の極み」と宛てた書状が発見された。
長年謀叛人の汚名を着せられ続けた孝高であるが、今後の研究が注目される。
223名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 22:39:30 ID:hzJfbFHU
小早川隆景
毛利元就の子で毛利両川として毛利本家を支える立場にいた。
父親元就の智謀を最も受け継いでいたといわれている。
晩年にあって太閤秀吉の薨去の後
専横を極める徳川家康と敵対し
前田利家と連携するも利家も死去してしまう。
家康は隆景が目を光らせて付け入る隙のない毛利ではなく
上杉征伐の軍を強引に起こす。
 このとき家康打倒を巡って三成の企てを推す安国寺と
徳川への協力を主張する吉川の論争にあって
家康打倒を毛利家の立場として決定したのが隆景である。
巷間にいわく
「内府の思惑は昔年の日頼様と同心なり。看過すれば安芸は出雲の悲哀をかこつであろう」
家康の野心は明白で、いちど協力しても、後々裏切られ尼子のような末路になろう
といい、また出雲に城を置く吉川への牽制でもあった。
この決定に従って
積極的に行動を起こした毛利一族は、まず毛利輝元が西軍総大将に小早川隆景を推薦した。
ここに太閤の遺産を継ぐのが
徳川か?毛利か?
を巡る天下分け目の戦いが起こった。
東軍総大将徳川家康に対し、西軍総大将に小早川隆景が対し一歩も引かない構えを見せ
双方の調略、裏工作は熾烈を極めたものの、最期に西軍の勝利を獲得した。
 戦後
隆景は秀秋を豊臣姓に復し関白職につけるものの
豊臣家から実権を奪い
自らの采配のみで論功行賞を実施、毛利の天下の基盤を固めた。
徳川が退いた江戸に毛利輝元を征夷大将軍として下向させ
ここに江戸幕府の開設をみて
毛利三百年の太平の世を見届けるかのように世を去る。

224名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 19:00:22 ID:FUgAhjie
>>209
義堯の方が悪者だったらしいね。
225名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 21:54:43 ID:zFRaBV7z
三村家親の次男。
父・家親が宇喜多直家に暗殺されると以後宇喜多氏に対し深い恨みを持つ。
その恨みは尋常ではなく、上司・毛利家が宇喜多と同盟すると、
元親は毛利家から離反し、これにより毛利家の三村征伐軍を招いてしまう。
しかし堅城・備中松山城に籠城した三村軍は毛利・宇喜多連合の攻撃を退け、
更には織田家の援助もあり防衛に成功する。
勢いに乗った三村軍は織田家の中国方面軍・羽柴秀吉と結び、宇喜多氏を滅ぼし、
以後は羽柴家臣として数々の合戦に参加し備中一国を任せられる大名となる。
天下人となった秀吉の死後、関ヶ原の合戦が勃発すると
いち早く徳川支持を表明し、かつて旧主であった毛利家を攻め、
東軍勝利に大きく貢献する。これにより三村家は備中・備後の大大名にまでのしあがる。
以後は徳川家に仕え、幕末まで続いた。
226名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 21:55:55 ID:zFRaBV7z

三村元親
227名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 17:30:12 ID:iOxsAfnT
法性院信玄(1521-1581)
戦国時代の天台座主(比叡山延暦寺住職)。俗名は武田晴信。
足が長く、「足長坊主」とあだ名されたという。
甲斐守護の武田家に生まれたが、父と折り合いが悪く、
1541年父信虎を追放しようとするが、陰謀が露見して逆に追放され、
比叡山において出家した。比叡山では熱心に修行し、生来の
達者な弁舌を駆使し、浅井・朝倉・三好氏を始めとする武家や、
公家・朝廷にも仏教の布教を行い、当時流行のキリスト教の宣教師にも
積極的に論戦を挑み、ルイス・フロイスを論破して弟子にするなど、
仏教の改革者として名を上げ、座主の位に上り詰める。

しかし、その信玄の前に立ちふさがったのは、天下統一を目指す織田信長で
あった。中世の権威を集大成した信玄と、西洋文明に基づく国づくりを目指す
信長とは思想的にも相容れなかったのである。
1571年、信長は比叡山を攻撃したが、信玄がかねてから養成していた
比叡山騎馬軍団に蹴散らされ、近江宇佐山に於いて自害。
その後比叡山の武力に逆らうものは誰も居なくなり、信玄のカイライ政権
である足利幕府が名目上の天下人となったが、幕府には室町探題として
信玄の腹心・春日坊教虎(高坂昌信)、山本道鬼斎(勘助晴幸)、明智天海(光秀)、瑠居巣坊風呂椅子(ルイス・フロイス、日本に帰化)ら
が送り込まれ、実質的な天下人は信玄であったという。
信玄は1573年、栄光に包まれてこの世を去った。
なお、武田家は弟の信繁が継いだが、信玄ほどの外交手腕を
持たなかった信繁は隣国の長尾、北条などに攻め込まれ1570年に
滅亡した。おそらく信玄が武田を継いでいればこのようなことは
なかったと思われる。
228名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 19:44:27 ID:HLvwrWV2
>法性院信玄(1521-1581)

>信玄は1573年、栄光に包まれてこの世を去った。

どっちだよw
229名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 21:31:16 ID:iafAzSkP
1570年に滅亡ってとこにも突っ込んであげて下さい。
230名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 22:37:47 ID:czXoqb+z
>>229
お前の読解力につっこみたい。
231名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 20:26:20 ID:xR41Qd6a
阿蘇惟光(1582-1654)
阿蘇大宮司。三歳で家督相続後、秀吉に投降。のち佐々成政、加藤清正に預けられる。
肥後国人一揆の際、清正の謀略で一揆煽動の罪に問われそうになるが、
幼いながらもその才器を惜しんだ隣国の小西行長の嘆願により命を救われ、
その身は行長に預けられる。
雌伏の時を経て元服した惟光はその恩に報いるべく行長のために尽くす。
関ヶ原で肥後の留守を守った惟光は、侵入してきた加藤清正軍を撃退するなど戦功を上げ、
西軍敗北後は柳河の立花宗茂と連携して鍋島直茂を討ち、武名を世に轟かす。

戦後、行長が斬首されて主家を失った惟光は流浪の身となる。
全国津々浦々を行脚した惟光はやがて本多正信に見い出され、その推挙で家康直属の旗本として登用される。
大坂の陣に参陣した惟光は家康の本陣に迫り来る真田幸村を命懸けで返り討ちにし、家康から絶賛される。
その後、旧領阿蘇などに領地を与えられて大名に復帰した惟光は、
泰平の世になったのを見届けながら73年の生涯を全うした。
恩人である行長との別れ、浪人時代のエピソード、真田幸村との一騎打ち、そして御家再興と、
彼の波乱万丈な人生は色々と脚色されながらも後世の人々に愛され、
今でも「宮無し宮司」の愛称で時代劇や小説などに姿を変えて人々の心に生き続けている。

ちなみに、大川興業のお笑い芸人・阿蘇山大噴火さんは惟光から数えて十七代目の子孫である。
232名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 17:12:06 ID:dfoLueTC
前田利家(1538-1605)
大納言。織田信長、次いで柴田勝家、羽柴秀吉に仕える。
豊臣政権下では五大老の一人として重きを為し、秀吉の天下統一に大きく貢献する。
秀吉死後の争乱では、不穏な動きを見せる徳川家康の対抗馬として
上杉景勝ら他の五大老、石田三成ら五奉行らによって擁立される。
利家を始めとする有力大名のスクラムの前に、さすがの家康もそれ以上の抵抗を見せることが出来ず、
大老職を辞した上で隠居した。家康は失意のまま二年後に没することになる。
晩年の家康は「又佐死すまで辛抱足りずこと、口惜しき限り」が口癖だったという。
最大の敵を片付けた利家は政権の安定化に奔走。五大老の空席に長宗我部元親(死後島津義久)を配し、
その上で家康に与した福島正則、加藤清正などの大名を改易、蟄居させた。
関白の座には秀頼成人時までの暫定措置として小早川改め豊臣秀秋を据え、
補佐役となった利家は豊臣家の将来を案じつつ、秀吉と同じ伏見城で1605年に没した。
233名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 17:12:48 ID:dfoLueTC
伊達政宗(1567-1636)
太政大臣。伊達幕府初代将軍。奥州の独眼竜として勇名を馳せる。
秀吉に降伏後は豊臣大名として朝鮮出兵などに尽力する。
そんな政宗の一番の生命線は、天にも愛されたといわれる悪運の強さであった。
遅参した小田原攻め、関白秀次事件に連座することなく罪を免れた彼は、
秀吉死後のいわゆる「徳川事件」で家康と婚姻を結んでおきながら、
必死の申し開きで大老衆を説得。改易なしの謹慎のみの処分となる。

一番の実力者・前田利家が死ぬと野心家の政宗はさっそく動きを見せる。
かつて家康に与し、利家に不満を持っていた大名たちと緊密に連絡を取り合って同盟。
上杉、佐竹を除く東北・関東のほとんどの大名の他、利家政権下で不遇をかこっていた
九州の黒田如水、立花宗茂などを味方に取り込むことに成功する。
翌年、関白秀秋が乱心して側近を斬り殺して自害する事件が起こると、
政宗はほかの大名と結託して大坂にいる大老、奉行たちの失政を追及する。
これに上杉景勝など一部の大老が反発すると、政宗はそれを口実に会津へ攻め込み、
ここに、天下分け目の戦いが勃発することとなる。
越後の上杉、常陸の佐竹義宣、そして寸前で寝返った陸奥の南部利直に挟撃された政宗だったが、
最上、戸沢など他の東北大名との合力でこれを打ち破ることに成功する。
南部討伐を秋田実季、津軽為信に任せた政宗は関東平野に転じ、佐竹義宣を太田城に滅ぼす。
信濃の真田昌幸、越後の堀秀治とも連携した政宗は景勝を野沢口で討ち、
返す刀で北陸の前田利長を降伏させ、東・北日本の大半を制圧することに成功する。
西では黒田、立花、島津軍が九州を制圧し、政宗陣営は事実上、日本の半分を制圧した。
これによって残りの大老たちも次々と降伏、恭順の姿勢を見せ始める。
最後に五奉行を降伏させた政宗は、秀頼母子を擁して大坂に入城。事実上の天下人となる。

その後、徳川家康が開発した江戸に本拠を移した政宗は征夷大将軍に任じられ、豊臣家の封じ込めに入る。
豊臣家を牛耳る淀君を暗殺した後で秀頼を旧南部領に転封させ、かつての旧領には長男の秀宗を押さえとして配する。
その後、嫡男・忠宗に家督を譲った政宗は、泰平の世になったのを見届けながら70年の生涯を閉じた。
234名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/11(水) 05:52:14 ID:lARZn/Yr
公文 某 (生没年不詳)
土佐の国人。徳善城主。
周囲の豪族たちと離合集散を繰り返し、結局は長宗我部国親に属する。
武勇の士である一方温厚篤実な仁君ともうたわれ、所領は栄えたという。
近年徳善城跡の調査が行われ、臼や杵など当時の貴重な生活道具が
泥の中から発掘されている。生活には若干の余裕があったらしい。

しかし、地誌や史書、あるいは軍記物の著者たちにとって、
特に興味を引くエピソードはなかったとみえ、名前は伝えわらない。
235名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 23:47:10 ID:F6KQBjQA
二本松義継(1552〜1592)

 伊達政宗による過酷な仕置きに腹をたて義継は、
伊達輝宗を人質として逃亡するが、米沢上近くの川原にて政宗に追い詰められる。

輝宗は人質なる自分のせいで政宗が身動きとれないのをよしとせず、
政宗に自分自身もろとも義継を撃ち抜くこと命じる。

 決死の覚悟の親子の絆の前に、絶体絶命の義継であったが、
ここでの草の手より、銃声が響く!
次の瞬間、草むらに横たわる政宗と伊達家中たちだった。
親子愛を利用した、義継一流の奸計である、
政宗が追ってくることを見越して、草むらに鉄砲隊を隠していたのであった。

 全身を赤く染めて絶命している政宗とは対象に、
輝宗の顔面は蒼白だった、一瞬の出来事で何が起きたか分かっていない。
次の瞬間、その輝宗の心臓を後ろから突き刺さされ、政宗の体の上に重なって倒れる。
血の滴る懐刀をぺロリと舐め、義継は吐いた、
「不味い、これが奥州探題の一族の血か、、、間抜けな龍の血じゃ(w」
不適な笑いともに、重なった親子の体に刀を振り下ろした。

 政宗の弟、小次郎のもとに、知らせが届く。
「すわ、まことか!?」
急ぎ、川のほとりに駆けつける小次郎に、
目を背けたくなる景色があった。
自分の父、兄の首が切り取られ、目、耳をそがれ並べられていたのである。
兄の恨みをもつものからの意趣返しであった。

 ここで弟が、並の戦国武将としての心意気を持つならば、
復讐の気炎ともに、伊達家中を一つにまとめられたであろう。
しかし、気の弱さを母に心配されたほど彼は精神の錯乱をきたしてしまう。

義継の作戦通りであった。
236名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 00:09:21 ID:Q+mB1ym7
 後継者も決定できない伊達家は分裂をきたし、分裂した伊達家は周囲列強の餌食であった。
ここで畠山義継は芦名盛隆に進言する、
「ここで伊達を攻め、その領地を接収し、奥州に覇をとなえるべし。」
しかし、芦名・・は迷う、いくら血を血で洗う戦国とはいえ、
ここで伊達を攻めれば、火付けの火事場泥棒であり、大儀がない。

盛隆はつぶやいた。
「芦名家100年の信用は地と墜ちよう。」
この男は危険だ。ここで伊達領を攻めたとしても、
この男は裏切るやも知れぬ、ここで手討ちにして、
その亡骸をもとに伊達に対して義を貫こう。
盛隆は鯉口に親指をつけた。

 しかし、義継はとどめの一言を言う。
「迷うなら、我を切りなされ。我を切り、わが首を旗頭に、伊達領土に攻め込めば、
盗人の戦でなく、伊達の親戚により混乱平定の戦として大儀がたちましょう。
二本松の一国人であった我を二階堂家は支援してくれた。
大恩のある二階堂家、そして芦名家の礎となるなら、我は悪名とともに黄泉に参りまする。」
義継は着物で目を拭いながら、真っ赤にした目で涙を流して、盛隆に訴えかける。
「中央では秀吉が天下を手中に治め、ここ5年で秀吉の天下は定まりましょう。
今ここで、芦名が力をつけなければ、秀吉に飲み込まれまする。。うぅぅ。」

 盛隆は思い出した。
義継は自身が幼少の頃から、父、二階堂 盛義の盟友であり、悪友であり、
盟友の子に対して、戦話、講談などを聞かしてくれた。
義継の話は魅力的であり、盛隆少年は心をときめかせて聞いていた。
その後、盛隆が青年となり、養子に出された芦名家の当主となってからは、
芦名家をよく支援してくれた。
盛隆は言った。
「ここで貴様を切れば、対外的な義を貫けよう、
しかし、我と父と貴様との義を貫けぬ。貴様とともに伊達を攻めよう。」
盛隆は泣いていた。部屋の中の妙なアンモニア臭には気づかずに。。。

 義継の着物の袖には、小便が湿っていた。
厠で着物の袖を小便で濡らし、
小便のアンモニアの湿った着物で目を拭い、目から涙を流していたのだ。
頭を垂れて、うつむきなが泣く振りをして、義継は舌を出した。
(盛義よ、お前の愚息には呆れ果てたよ。
対外的な義、領土拡張、内部の義、天下の趨勢、何を捨て、何を優先させるべきか、
定量的な判断ができない、意思決定の基準が弱い!
ここで俺を切れば見込みはあるのだが、、
これでは戦国の世は生き抜けぬ、悪いがお前の息子を殺すぞ。
俺より先に死んだお前が悪いのだよ・・・)
237名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 00:21:15 ID:Q+mB1ym7
つか、自分で書いた後に気づいたんだが、
輝宗拉致の一年前に盛隆は暗殺されてるな。。。
238名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 00:26:56 ID:f3M/yDI0
続き早くしろw
239名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 00:46:15 ID:Q+mB1ym7
うーん、仕事の合間の気分転換に書いていたので、
ここから先のラフなイメージはあるけど、文章は溜まっていない。。
ちょっと待って。
240名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 12:14:33 ID:g6WmNi/i
>>237
その点も含めてのifでいいじゃん
241名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 17:09:33 ID:VWbcPN71
木下藤吉郎(1536―1597)
法名は秀吉(しゅうきち)、号を夢幻斎と称する。
安土桃山時代の茶人。
型にとらわれない天衣無縫な茶道で知られる木下流の始祖。
尾張中村出身。
地元の権力者である織田尾張守信長の茶道仲間であったが、信長の勢力拡大とともに門弟の数を増やす。
大納言となった信長の天下統一の際、特別に造らせた黄金の茶室で茶を点て、侘び茶を極めようとするライバル千利休に「権力におもねる俗物めが」と毒つかせたエピソードは有名。
信長の死後も、後継者の右大臣信忠の茶道の師として織田家中に影響力を持ったが、若くして信忠が病死したため織田の家督争いに否応なしに巻きこまれる事となる。
242名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 17:10:52 ID:VWbcPN71
一般に「清洲会議」と呼ばれる織田家督相続問題では、内大臣信雄派、左中将信孝派、信忠嫡男三法師の鼎戦の中で、後の岐阜中納言信秀、三法師を支持。
家督は信雄の相続で決定したが、藤吉郎は三法師を支持した事で新たな天下人の不興を買ってしまう。
これが遠因となったか、後に信雄の勘気に触れて藤吉郎は山崎の地に閉門となる。
弟子である秀吉七哲の大名、福島正則(月翁)や加藤清正(永運斎)、糟屋武則(真雄)らの取りなしための奔走の甲斐もなく、信雄に切腹を命ぜられ、呼び出された二条城内で藤吉郎は見事な作法で切腹したという。
閉門中、藤吉郎が庭に生えていた竹で茶匙を作り秀吉七哲に与えたのが「山崎の七本匙」であるが、現存するのは肥後細川家に伝わる国宝の「銘 猿」の一本のみである。
243名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 19:30:44 ID:iTysZxdI
>>205
地味過ぎて笑えるww
244名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 00:19:12 ID:D6AzL6KT
大友義鑑(1502-1557)

豊後大友氏第二十代当主。
1557年、「二階崩れの変」で、三男・塩市丸とともに死亡した。

原因は、手抜き工事といわれている。
245名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 07:05:48 ID:9CtUBLGl
>>244
ちょっと違うけど、帰雲城の内ヶ島タンみたい。
246名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 11:22:22 ID:SFX96Z9u
蘆名盛隆(1561-1584)

もとは二階堂氏の二階堂盛義の子で、蘆名家の人質であったが、
1575年、蘆名盛興が夭逝したために蘆名盛氏の養子に入り盛氏の死後、家督を継承する。
盛隆自身は武将としての能力に優れていたが、もとは二階堂氏だったために家臣団が盛隆に対して反発するようになる。
1584年、家臣であった多田野八九左衛門に黒川城内で暗殺された。

多田野八九左衛門が襲った理由には諸説があるが、盛隆の籠に多田野八九左衛門の籠が追突し、臣従を余儀なくされる。
盛隆は過度に男色を好む人物で、それ以降、八九左衛門が相手を務めたという。
その恨みから八九左衛門に暗殺された説が有力である。

その後、奥州全体を巻き込む内乱へとハッテンし、蘆名家の勢力は衰え、伊達家に臣従することとなる。
247名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 07:00:52 ID:KT5BFLWC
伊東美咲(????〜????)

伊東義祐の5女。慈定院。
高橋元種に嫁ぎ、3男2女を設けた。
しばしば城下から婦女子を呼び寄せ直々に引見した後、
選抜して侍女にしたため「選る召すの方」と呼ばれた。
248名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 07:17:04 ID:/2ms++J1
>>247
つまらん
249名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 14:49:34 ID:ShPh/WTM
>>242
信忠死後の家督相続になんで今更信雄や信孝がしゃしゃり出てくるんだ?
250名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 15:37:52 ID:Z1V/zMz+
若くして信忠が病死

じゃね?
251名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 16:36:55 ID:ShPh/WTM
いや、若かろうがなんだろうが、信忠の跡継ぎは信忠の嫡子に決まってるだろう
家督相続が中途半端だった本能寺の時とは状況が違う
弟二人も後見人として実権握ることはできるかもしれんが
252名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 20:42:34 ID:28IsMBLk
織田信長(1534-1575)

別名上総介。尾張織田家当主。父は猛将信秀。
奇行多く、うつけと呼ばれる。しかし1560年、今川義元率いる大軍を桶狭間にて奇襲で破り
一躍全国に武名を轟かす。その後、後を継いだ今川氏真と抗争を重ね、1574年ごろほぼ三河全土を攻略する。
しかし1575年、武田信玄の息子勝頼率いる3万の軍勢に攻められる。
信長は「桶狭間よふたたび」と意気込み1万弱の兵で奇襲をかけたが、あっさり見破られ、討死。
結局ただのうつけであったことを示す結果となった。

なお、同じことばかり繰り返して失敗することを「桶狭間を決め込む」と言うのは彼が由来である。
253名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 22:43:44 ID:nnJ6aDJU
二本松義継の続きが読みたいお
254名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 22:47:28 ID:J4HB902V
つまらない。つかめちゃくちゃ。
255名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 22:48:44 ID:J4HB902V
>>252ね。
256236の続き:2006/10/20(金) 00:58:12 ID:viZIzWoT
 主が居ない米沢城はあっけなく落ちた、いや開城したという表現が適当か。

輝宗、政宗親子を殺した義嗣は、
義嗣自身の進言で黒川城の牢に閉じ込められ、追って沙汰ある身となった。
伊達晴宗の孫でもある芦名盛隆は、
伊達小十郎の従兄弟として、伊達家混乱の鎮圧する名分をもとに米沢城を開場させた。

芦名勢が攻め入るや否や、小十郎の母義姫は実家の最上家に逃げ込み、
主戦論者の片倉影綱は盛隆によって誅殺された。
後楯のいない小十郎は盛隆に頼ることになり、盛隆は伊達家の親戚として小十郎の後見人となる。
実質的な芦名家による伊達家の乗っ取りである。

 米沢城の奥間で、盛隆は家臣団は酒を酌み交わしていた、
奥州120万石となった芦名家の祝杯である。
家臣団は表面上はみな笑顔だが、内心穏やかでない。。
芦名家は、政宗の代の伊達家に侵略を受けていたものの、
植宗、晴宗の時代の婚姻外交による親戚同士でもある。
大義名分でなく、騙し討ちに近い状態で伊達家を乗取とったことに対して、
不満を感じているものも少なくない。もとより盛隆は二階堂家出身であり、
芦名家旧臣には慕われてないのだ。
           :
           :
 芦名家旧臣との酒盛りが終わった後、
大庭三左衛門と寝所にて改めて酒を酌み交わしていた。
この三左衛門なるものは、盛隆とは男色の中であり、
私事、公事にわたる信頼できる相談相手となっていた。
「あっけないものだな、将のいない城などこのようなものか。」
気楽に話しかける盛隆に対して、三左衛門は、
「いや、あなた様なかなかでございますよ。」
二人だけの会話の場合に、君主と臣下の関係はあまり感じられない。

盛隆「なかなか??」

三左衛門「人を疑うことを知らなすぎる、戦国の世の大名としてね。
私は以前は義嗣様に使えていた、その後芦名家に鞍替えした。」

盛隆「そういえば、おぬしは以前は義嗣の臣下におったな。」

三左衛門「義嗣様は人を裏切ることをなんとも思わぬ、
心の面では戦国の世を体現したようなお方。
義嗣様の近くでは刺激を受け反面、心休まることはなかった。
あなたも義嗣様の進言で群雄の一角となったものの、
心は不安で一杯なのでしょう」

盛隆「まあ、確かに不安だ。義嗣は危険だね。」

三左衛門「義嗣様は幸い黒川の牢にて納まっております。
策略を張り巡らすことはできても、実行に移すことはできません。
しかし、義嗣様の存在そのものが、
芦名家家中を不安に落としめている側面もあり申す。」
三左衛門「義嗣様は伊達家混乱の責任をとってもらいましょう。
義嗣を殺せば、芦名家家中もまとまりまする。」

三左衛門は盛隆の股座に手を入れ、耳元で声を静めてささやく。
三左衛門「ここで男を魅せねば、義嗣に喰われますよぉ。。。」

酒に何か混ぜてあったのであろうか、
盛隆は何も考えらえずに、三左衛門の手管になすがままであった。
「よ、よきに計らえ、、」「おおせままに♪」
257名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 01:30:19 ID:FEYFcCbT
つまんねえから
258名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 01:38:42 ID:yO1oAVZH
何でもありだから仕方ねーべ。
259名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 20:37:05 ID:CjMOI6ut
>>252
つ【柳の下のドジョウ】
260名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 19:11:22 ID:45D207Ml
島津義弘
1535-1600

薩摩の戦国大名で、勇猛であったが思慮に欠ける人物であった。
1600年の関ヶ原の戦いで、西軍について関ヶ原に布陣したものの、
個人的な感情から兵を動かすことを止めてしまい、形勢を傍観している
うちに周囲の西軍が悉く壊滅し、孤立。
慌てふためいて北国街道沿いに逃亡中、小早川秀秋に討ち取られた。
彼の死によって島津家は改易され、薩摩には小早川秀秋が封ぜられた。
作家逝宮正一郎は、この武将の哀れな生涯を題材として「逃げろ義弘」
という小説を書いている。
261名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 01:03:13 ID:ehmV0N/G
織田信長
尾張の戦国大名
幼少期はうつけとよばれたが長じては東海一の弓取りと呼ばれる
今川義元を破って天下に名をとどろかせる。
彼が天下を意識したのはいつかは定かではないが
当時はユーラシア大陸に巨大なモンゴル帝国が覇を唱えていた影響が大きいとされる。
遠く地中海や大西洋から日本の近海にまで及ぶ史上空前の超巨大世界帝国
が隣に位置しながら狭い島の日本が分裂してあい争っている状況から
天下統一を意識したといわれる。
三好を破って畿内にまで勢力を伸ばすが
 モンゴル帝国に朝貢し勘合貿易を行なう西国諸侯と衝突したことから
モンゴル帝国よりの来寇を受ける。

大友宗麟、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、島津義久以下四兄弟
長宗我部元親等の西国諸侯にモンゴル帝国旗下の多国籍軍が加わった混成軍
とはいえ総勢数十万の大軍勢を相手に
織田信長は激戦をすることとなる。
この長い戦いにおいて信長配下の智将羽柴秀吉とモンゴル帝国日本軍師に
抜擢された謀将黒田孝高の智謀と駆け引きは有名である。


実際モンゴル帝国が西日本を配下にして織田信長と一戦とか興味ある。
262名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 13:19:45 ID:ehVh8GiK
>>261
その場合元朝が続いてるのか?
それともダヤン汗辺りが改めて大陸を制覇しなおしたのか?
263名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 07:08:57 ID:RqQSGCWe
松平忠輝

 徳川家康の六男。
かねてより海外貿易、キリスト教に興味をもっていた。

1609年(慶長14年)、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)への帰途台風に
遭い房総の御宿海岸で座礁難破し地元の漁民達に助けられたフィリピン総督ドン・ロドリゴに、
徳川家康がウィリアム・アダムスの建造したガレオン船を贈り、
一行をヌエバ・エスパーニャへ送還した事から日本とエスパーニャとの交流が始まっている。

義父伊達政宗の支援のもとに、
1613年に遣欧使節として、支倉常長とともに通商目的でスペイン、ローマに赴くことになった。
1615年にスペイン国王フェリペ3世、同11月3日にはローマ教皇パウルス5世に、
スペインでは通商、ローマでキリスト教で認められた。
此のときの国王、教皇に対する、忠輝の弁舌は見事の一言であり、
支倉常長は「われ一人では、決して国を開けず、上総介殿こそ日ノ本の遣欧の士なり。」という言残を残している。

1620年に、通商と布教の約束を土産に日本に帰国したが、
父徳川家康は既に亡くなっており、日本はキリスト禁教令が出されていた。
忠輝は禁忌を犯したものとして、兄秀忠に捕縛されてしまう。

忠輝は自分が海外に赴くころは、禁教令などないことを訴えたが、
キリスト教を捨てなかったこと、義父伊達政宗に見限られたことなどで、
忠輝の配流が決定された。

信濃諏訪藩預かりとなった忠輝は、その後1683年まで生きることになる。
海外渡航経験のある忠輝の見識は広く、
蟄居の身である彼もとに隠れて学びに来るものは少なくなかった。
幕末に長州、薩摩、土佐ともに信濃から烈士が輩出されたのも、
忠輝の影響が大きいとされる。
264名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 10:47:24 ID:DtFOu55W
>>262
元朝が続いてるのでは再度の元寇なんぞ起きないと思う。
 明朝が成立せず軍閥が割拠する状況が続き元朝は北元として存続してたが
やがてティムールとかが現れてモンゴル帝国の再統合を実現ってとこだろう。
その勢いで北アフリカや欧州やインド、新大陸を席巻して
モンゴル帝国による大航海時代が世界中に激震を与えているってとこで。
265名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 12:51:56 ID:eyeppyZM
>>264
ああそうか別にティムールでもいいんだな
一度解体した後なら、何もチンギス汗の直系でなきゃ大汗に慣れんという事もない
266名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 19:54:47 ID:bQczfzGA
一条兼定(1543-1611)

室町末期・桃山時代の公卿、歌人、書家。権大納言・房基(1522-1549)の子。
1551年、9歳で正五位下に叙せられ禁色昇殿。同年元服し従四位上、
右少将・左中将。1562年には従三位に叙任。1575年内大臣、
76年右大臣、77年左大臣を経て1581年関白。82年、従一位・氏長者となった。
近衛前久らとともに朝廷勢力を代表して武家勢力と折衝に奔走、
織田信長ついで羽柴(豊臣)秀吉という天下人と真っ向から渡り合った。
1584年、関白を辞して出家し嵯峨野に隠棲、俗塵を離れ風雅に生きた。
和歌・連歌を能くし、『兼定集』(1598)は中世歌壇最後の輝きとして名高い。
書道は青蓮院流を学んで「桃山三筆」の一人として知られ、彼の筆写になる
『源氏物語(一条本)』『古今和歌集(土佐本)』は国宝に指定されている。
267名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 22:33:10 ID:3MMk4q+N
>>266
そっちの方が幸せだったかも。
268名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 23:30:37 ID:XyMpwJZv
覚慶(?〜?)
安土桃山時代の興福寺の僧侶
御所や地方の有力大名へ窮乏を訴える書状が多数遺されている
269名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 10:09:02 ID:jCHTqPhC
270名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 16:21:06 ID:O00q0LmC
平手政秀(1492-1553)
中務丞。織田信秀の家老を務め、林通勝と共に家中で重きを成す。
信秀死後は嫡男・信長の後見役になるが、政務を省みず、
毎日野山を駆け巡って遊び呆けるその姿に不安を覚え、
林通勝、柴田勝家らと廃嫡を謀ってこれを討ち果たす。
その後、弟・信勝を擁立した政秀はその腹心となるが、
婿・信長の仇を取るという名目で侵攻してきた斎藤道三軍に抗戦して敗北。
政秀は那古屋城に籠城して建て直しを図ろうとするが、
林、佐久間信盛といった重臣たちが次々と寝返って孤立。
最後は信勝の介錯をした後、自らも自害して果てた。

斎藤道三(1494?-1555)
左近大夫。下剋上の祖として北条早雲と並び称される。
一介の商人からのし上がり、土岐頼芸を追放して美濃の国主となる。
1553年、隣国で内紛が起こったのを好機と見た道三は、
娘・帰蝶の夫であった織田信長の仇を取るという名目で尾張に侵攻。
織田信勝とそれを支持していた斯波義統を滅ぼして尾張を手に入れる。
その後、対立した三河の今川家対策に乗り出した道三であったが、
今川と通じた長男・義龍に謀叛を起こされて美濃を丸ごと奪われてしまう。
ほぼ四面楚歌の状況で身動きが取れないまま、道三は清洲城で悶死する。
道三は死の間際、「土岐の倅(義龍)、後生許すまじ」と言い残したと伝えられている。

斎藤長龍(?-1570)
道三の末子。父の死後、若くして尾張斎藤家を継ぐ。
度重なる今川、美濃斎藤家の侵攻に悩まされ、今川に臣従することを選ぶ。
今川の上洛軍の先鋒となった長龍は美濃へ攻め込むがことごとく敗北を喫し、
1561年、義龍が急死した後にその息子・龍興を討ってようやく美濃を奪還することに成功する。
美濃平定後は旧領の一角・岩村城に封ぜられるが、かつて父が登用した丹羽長秀、前田利家などの
旧織田家臣が頭角を現したせいで、その後は働きの場をほとんど与えられることはなかった。
1570年、突如として三国同盟を破棄してきた武田信玄が今川領への侵攻を開始する。
長龍は木曽路から侵入してきた秋山信友軍を迎え撃つが、あえなく降伏。
長龍は城兵の助命を条件に自害。ここに道三以来の下剋上の血は途絶えた。
271名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 23:41:16 ID:p+68DLnG
羽柴秀長(1540-1591)
美濃守、小一郎。
もとは尾張中村の百姓であったが、兄秀吉に口説かれ、兄の家臣となる。
ところが1570年4月、兄が金ヶ崎の戦いで戦死。兄に付随して与力であった
蜂須賀正勝・竹中重治ら美濃国人衆も戦死したため、羽柴軍団は解体され、
秀長が家督を相続したものの、丹羽長秀家臣となる。
文武両道に秀で、かつ人格者であったため諸将の信頼も厚かったが、
兄のような派手さがなかったため常に微妙な地位にとどまった。
1577年、丹羽家与力のまま但馬出石城6万石の主となる。
1582年、本能寺の変の折には優柔不断な丹羽を説得して攝津諸大名に
明智討伐の兵を挙げるよう遊説したが、その間に徳川家康が小牧長久手で
明智を討ってしまったため、そのまま徳川家に従属。
その後は四国征伐・九州征伐などで武功を上げ、家康からも
「律儀の美濃殿」として評価を得、地味に加増を重ねた。
1591年、大和郡山20万石の城主として病没。
余りにも意外性のない生涯であったが、茶坊主から石田三成を育て上げ、
徳川幕府の遠国奉行として幕政に重きをなさしめたことは特筆されて良い。

妻は兄の妻、寧々。美人で有名であった。
一説には兄が浮気者で兄嫁を蔑ろにしているのを
見かねた秀長が、兄に無謀な殿を進言させ、わざと討ち死にさせて妻を
奪ったともいい、甚だしい説にいたっては兄に粗暴のふるまいがあった
ことを憤った秀長が、近習加藤虎之助に命じて兄を切り殺したともいう。
寧々と秀長は相思相愛で、秀寄・秀明・秀継・郷姫の
三男一女が生まれている。
272名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 22:36:12 ID:0DDyJaYV
大石朝良(?〜?)
近江・栗太郡国人。大石氏は藤原秀郷の末裔、小山氏の流れを汲む。
織田信長が近江に入ると、蒲生賢秀ら近江国人とともに織田氏に従った。
その後、秀吉に仕えて功績が多く、のちに近江で1万石の所領を得た。

大石良信(?〜?)
朝良の子。豊臣秀次に家老として付けられ、その失脚に連座して流罪となるが、
蒲生氏郷の取り成しで許され、大名に復帰。関ヶ原では東軍につき、
戦後伊予吉田に転封され、3万石の領主となった。

大石良勝(1587〜1650)
良信の子。伊予吉田第2代藩主。大坂の陣に出陣し、
天王寺合戦で多大な功績があり……(以下略)





大石良雄(1659〜1737)
伊予吉田藩第4代藩主。1677年、祖父良欽の死により家督継承。
領主としては凡庸で、「昼行燈」と陰口を叩く者がいたという伝説もあるが、
領内はおおむね平穏であり、本人も天寿を全うした。
1701年、院使饗応役を命じられた際、相方の勅使饗応役、
赤穂藩主浅野長矩が吉良義央に斬りかかる刃傷事件を起こしたことで有名。
273名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 21:02:16 ID:jHnoloJI
三好(十河)存保(1554-1638)

三好義賢の次男。叔父・十河一存の養子となる。
7歳の時に養父を失くし十河家の家督を継ぐが、
次第に長宗我部元親に圧迫されていき、中富川合戦で大敗し、羽柴秀吉を頼る。

四国征伐では先陣を務め、旧領の回復に成功した。
その後九州征伐にも従軍し、戸次川合戦では仙石秀久の失策により窮地に陥り、
瀕死の重傷を負いながらも島津家久を退け、秀吉から称賛された。
関ヶ原合戦では西軍についたが敗戦、四国に引き揚げる際長宗我部盛親と同行した。
家臣たちは「今こそ仇敵を討つべし」と進言したが、
存保は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と退け、盛親と親交を結び無事讃岐に帰り着いた。

その後存保は改易され各地を流浪したが、家康にその才能を惜しまれ旗本として徳川家に仕えた。
大坂の陣では大坂方についた旧友・盛親や一族の三好政康を説得し、
戦後その功績により大名として復帰、三好姓に復した。
1637年、生駒高俊の改易により讃岐高松に転封、実に37年ぶりに讃岐の地を踏んだ。
その翌年、存保は84年の長きに渡る波乱の生涯を終えた。
子孫は維新まで転封されることなく讃岐の地を領した。
274名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 21:15:59 ID:k214r3kh
>>273
そうなんだよな生駒さえ潰しておけばよかったんだよな
275名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 06:49:03 ID:rGhOzvKn
小野洋子(1933年 - )
立花家家老小野英輔の娘。
結婚し幸せな生活を送る。
276名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 08:21:02 ID:6fOtkgye
>>273
戸次川で生き延びたのが大きいね。
277名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 10:08:43 ID:eiKIx/9A
於松

武田信玄の六女。織田信長の嫡男・信忠に嫁ぎ、正室となる。
信玄が死んだのち、勝頼は甲斐・信濃の安堵を条件に織田家の傘下に入るが、
彼女の説得によるものと言われている。
信長の死後、混乱する織田家の統率に苦慮する信忠を陰日向に支えたと言われ、
信忠は見事天下統一果たす事が出来た。
信忠の死後、信松尼と名乗ってからも、事実上の後継者である嫡男を抑えて織田家で絶大な権力を誇ったという。
278名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 16:29:51 ID:vFWVlzAe
足利義輝(1536-1588)
室町幕府第十三代将軍。十二代将軍・義晴の子。
これまで争っていた三好長慶と和睦して京へ復帰するが、1564年、
その配下である松永久秀と三好三人衆に二条御所を襲撃される。
命からがら脱出して逃れた義輝は当初、六角義治を頼る予定であったが、
観音寺騒動を起こして忠臣を誅殺するなど義治の器量に不安を覚え、
成長著しい江北の新興勢力・浅井長政に白羽の矢を立てる。
長政はその要請を快諾。三年後に義輝は長政の助けで京への復帰を果たす。

再び権力の座に就いた義輝は各地の大名に檄文を発し、
長政の他に朝倉、赤松、一色などと連携して三好一族の討伐に乗り出す。
1568年には長慶の遺子・三好義興と三人衆を河内に討ち取り、
松永久秀を信貴山城に討ち取って三好一族の一掃に成功する。
やがて美濃を統一した尾張の織田信長が、義輝に排除された六角、
三河の徳川家康などと連携して不穏な動きを見せると、
今度は甲斐の武田信玄とこれを挟撃し、墨俣の合戦で滅亡へと導く。
この戦いは浅井軍が主力であったが、義輝直臣の明智光秀が
鉄砲攻撃で総大将・織田信長の首を取り、戦を勝利に導いている。
その後も卓越した宮廷外交を軸に幕府権力を保った義輝は、
体調を崩したのがきっかけで1587年に嫡男・義長に将軍職を譲って隠居。
管領に任じていた浅井長政にその後見を託し、翌年死去する。

なお義輝は剣聖・塚原卜伝に免許皆伝を受けるほどの剣の腕を持っていたが、
政務のほとんどを畳の上で執り行ったためその腕を振るうことはなく、
「宝の持ち腐れ」と同義語の「将軍様の鞘刀」という諺の元となった。
279名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 17:56:18 ID:WjokflaC
>>278
そうか浅井長政の長は、足利義長の長をもらったものだったのか!
280名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 07:30:59 ID:Xlcx7llP
島津歳久(1537-1600)

薩摩島津家四兄弟の三男「智謀の歳久」
九州統一戦では補佐・後詰めの役割を受け持ち、地味ながら堅実に活躍した。
豊臣秀吉の九州征伐では家中で唯一慎重論を提案し、長男義久はこれを承諾、
三州を所領として残すことで和睦となる。
義久が秀吉と会見した際、和睦の提案者が歳久であることを告げたことにより
秀吉に気に入られ、様々な条件で引き抜きを受けるが歳久はこれを総て拒否する。
朝鮮出兵の際、病を理由に遠征を免除されるが関ヶ原には「恩ある太閤の為」と
義弘の結成した義勇軍に弟の家久、息子の忠麟、甥の豊久と共に参戦。
西軍総帥である石田治部と仲違いし、動こうとしなかった義弘に代わり
弟家久と共に実質的な島津隊の大将として奔走する。
同じように動こうとしなかった毛利、吉川、小早川勢を動かし、西軍を勝利に導くが
「病で死ぬより戦で死ぬ。私は死に場所を探していた」と本多忠勝の敵中突破の阻止を敢行し、討死する

島津家久(1547-1605)
薩摩島津家四兄弟の末弟「兵法の家久」
九州統一戦では家中でも最高の実績を上げた猛将。
九州征伐にて開戦派の筆頭であったが、義久が和睦を提案すると
それを承諾し、その為の準備に奔走した。
朝鮮征伐でも獅子奮迅の活躍をしたが、朝鮮半島の征服まで後一歩のところで
秀吉の訃報が入ったためやむを得ず撤退する。
関ヶ原では義弘、歳久らと共に西軍として参加し、指揮を放棄した義弘に代わり
歳久と共に島津隊の指揮を取り西軍を勝利に導いたが
撤退する本多忠勝を追撃した際に手傷を負わせるも負傷し、それが元で数年後亡くなった。
西軍総帥である石田治部にかなり頼りにされていたようで、
島津に無礼を働いた石田隊の使者が戻ってきた際、三成自ら頭を下げに行ったという逸話が残っている。
281名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 23:23:43 ID:ENugKKdn
川上久朗(1536−1603)
島津家家臣。幼い頃より才気に溢れ、18歳で島津氏の家老職・守護代に任命される。
肝付氏との戦いなどで、その才能を遺憾なく発揮して武功を挙げた。1568年、相良氏
との戦いである大口城攻めのとき、勇む島津義弘を止めたが義弘は聞かずに敵陣に突撃
して戦死。責任を感じた久朗は蟄居・出家を申し出るが、義久は久朗を翻意すべく久朗の
彼の自宅へ日参したという。その後、九州平定に活躍し、次いでの織豊政権下を義久と
共に乗り切った。秀吉死後、義弘の遺児・御屋地が、子の島津久賀や伊集院忠棟らと計
らって起こした庄内の乱(御屋地騒動)を制圧した。関ヶ原の合戦ではあくまで中立を
貫くよう進言。三州安堵を確認した後、安心したかのように没した。


島津 義久(1533−1611)
島津四兄弟の長男。島津家第十六代当主
優秀な弟達や家臣を率い、島津家悲願の三州統一を果たす。九州制圧に
あと少しで手が届く頃、秀吉から惣無事令が届く。怒りに任せて秀吉を
挑発する手紙を書くも、川上久朗に留められ、降伏を決意。三州を安堵
することに成功した(なお、秀吉に出す予定だった手紙が近年尚古集成館
から発見され、話題となった。
《関白羽柴事は、寔(まこと)に由来なき仁と世上沙汰候。当家の事は、
頼朝已来愁変なき御家の事に候。しかるに羽柴へ、関白殿あつかいの返書は
笑止の由どもに候。≫などといった文面が書かれており、実際に秀吉に
届けられたのなら九州に大軍が押し寄せたものと思われる。)
男子が居らず、島津彰久に嫁いだ次女玉姫の子・信久を後継とするが、
これを不満に思った義弘の遺児・御屋地らが謀反を起こす(庄内の乱)。
この乱を通じて弟達の勢力は大きく削がれ、結果的に不満分子が排除
された事から、この謀反は義久・歳久サイドによって仕組まれたもの
ではないかとする研究者もいる(この乱に密かに加担していたとされる
弟家久も責任を問われて大幅に所領を減らされている)。
282名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 16:49:39 ID:qRr7oFMP
松永久秀(1510?-1582)
弾正少弼。その詳しい出自は不明。三好長慶のもとで頭角を現した久秀は
将軍・足利義輝をを始めとして、長慶の実弟・安宅冬康、
長慶の嫡男・三好義興らを次々と暗殺。事実上、三好家を乗っ取る。
その後、台頭してきた織田信長に降伏した久秀は三度まで謀叛を企てるが失敗。
それでも信長に気に入られていた久秀は、名物茶器を献上することで命を永らえる。
1582年、信貴山城主だった久秀は明智光秀と謀って本能寺に逗留中の信長を討つ。
一時は光秀と共に畿内を制圧した久秀であったが、今度は光秀暗殺を画策。
しかし、それは彼の動きを警戒していた光秀によってあっさりと露見。
居城を放棄した久秀は西国への脱出を目論むも、竹薮に潜んでいた、
かつて久秀に所領を追われた大和の豪族・筒井順慶の手の者によって竹槍で殺される。
戦国を代表する梟雄のあっけない最期であった。
283名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 22:53:00 ID:NbKM3KXe
グスタフ・アドルフ(1594-1632)
スウェーデン・ヴァーサ朝第6代国王。17歳で国王に即位後、大国ロシアをバルト海沿岸から駆逐してスウェーデン・ポーランド戦争にも勝利するが、その頃、朝鮮・明から中央アジアを征服した豊臣政権の勢力がヨーロッパに迫りつつあった。
豊臣政権2代目である関白豊臣秀頼の命を受けた伊達政宗・愛新覚羅多爾袞・呉三桂ら五十万の欧州遠征軍がロシアへと侵攻する。
ロシア皇帝ミハイル・ロマノフの要請を受けたグスタフはフランスのルイ16世・スペインのフェリペ4世・イングランドのチャールズ1世らとともにロシア救援に向かう。
1632年、東ウクライナ・ポルタヴァで豊臣政権軍と欧州連合軍が衝突する。
この戦いでのグスタフの奮戦は凄まじく、政宗の本陣に突撃して政宗の側にいた娘婿の松平忠輝を討ち取って豊臣軍を撃退するも、殿を務めた立花宗茂・徳川家光軍による反撃を受けて、徳川家臣・柳生十兵衛三厳に首を討たれた。
284名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 00:53:40 ID:I9RfgxCH
織田信長(?―1560?)
尾張守
尾張守護代・織田氏の家を乗っ取って
一時期尾張を支配したが、上洛途中の義元に
攻められ滅亡。その後自害したとも諸国を放浪したともいわれている。

明智光秀(1528―1582)
明智幕府初代将軍。明智光継(仮)の嫡子
明智氏は代々土岐氏に仕える城主。
その後、織田信長に仕えるが暴政を敷く信長に
止むを得ず、信長を討つ。
その後、羽柴秀吉を山崎にて討ち取り
近江坂本に幕府を開く。

松平元康(?―1560)
三河の豪族。義元の傘下に入る。
後、義元の上洛に従い討ち死に。


さびしいww

武田信玄
甲斐の国主。上洛して足利義昭を補佐するが、後に追放。

毛利輝元
安芸幕府・初代将軍
関ケ原で徳川家康を破り、ついでその五年後、豊臣家を屈伏させ天下統一を成し遂げる。
ちなみにその時の政敵・家康の墓は今も「江戸」という地名のさびれた田舎町にひっそりのたたずんでいる・・・
285名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 00:56:16 ID:I9RfgxCH
伊達政宗
最上義光の妹を娶り、後顧の憂いを取り払った後南進
北条、武田と結び春日山城を占拠

今川氏真
世界的蹴鞠ブームの火付け役


伊達政宗
最上義光の妹を娶り、後顧の憂いを取り払った後南進
北条、武田と結び春日山城を占拠

朝倉義景
足利義昭を奉じて上洛。
三好長慶・松永久秀を追い払い、義昭を15代将軍の座につける。
しかし、反撃してきた三好三人衆に敗れ、京を追われる。


明智検地帳〜尾張巻(現・国会図書館蔵)

(前略)
この年・尾張の国中村を検地する。
中村地方の総石高はおよそ100石だった。
尚、この際に猿に似た百姓が抵抗したために斬殺した。
(後略)

秀吉のことです
286名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 02:27:22 ID:I9RfgxCH
曹操
橋玄に「治世の能臣、乱世の姦雄」と評される
黄巾討伐に功を挙げるが、董卓軍の武将徐栄に攻め殺される
劉備
公孫賛配下の武将。
出陣してきた顔良に斬り殺される
孫権
重臣達の反対を押し切って曹操軍20万との徹底抗戦を選択するも、派遣した周瑜率いる主力は赤壁で大敗。
重臣達は一斉に反旗を翻し、孫権は殺害され、首は降伏の証として曹操に差し出された。
【呂布】
武安国と戦い腕を切り落とされる。
その後の行方は不明。
287名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 02:29:46 ID:I9RfgxCH
今川氏真
今川幕府2代将軍
父・初代将軍今川義元死後、父の作り上げた強固な官僚機構・常備軍を背景に、全国に渡って善政を敷いた。
戦は不得手であったが、彼の内政手腕は確かなものがあり、今川幕府の礎を築いた。
また、彼は風流人であったため、今日の日本文化に多大な影響を与えた人物でもある。
上杉景虎
北条氏康の七男。上杉謙信の養子となる。
養父の急死後、同じく養子である上杉景勝との後継者争いに勝利。
その後豊臣家に従い、秀吉死後は家康に臣従し、本領安堵される。
足利義昭
足利幕府15代将軍
兄で13代将軍の義輝が殺された後、
信長の尽力により入京して将軍に就任。
信長に対し「御父方」と呼んで報いるも決別。
諸国の大名に対して信長討伐を呼びかける書状を送り
「手紙公方」とあだ名される。
1573年織田・徳川を滅ぼして入京を果たした
武田勝頼の故父信玄を「御父方」と呼んで報いる。
が、程なく決別し浅井・朝倉に書状を送り、
少人数で東国に戻る勝頼を背後から襲わせて討ち取る。
その功に対して朝倉義景を「御父方」と呼んで報いる。

その後、御父方と呼ばれた者
上杉・宇喜多・毛利・北条・大友・島津・・・。
いずれも義昭の謀略で消されている。
288名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 02:30:52 ID:I9RfgxCH
張飛

武力15
知力2
政務5
魅力9

劉備配下の将
袁術討伐に向かった、劉備の留守を守っていたが
禁止されていた酒を飲み、呂府に隙を突かれて討ち取られる
徳川家康
戦国期の大名。三方が原の合戦で散々悩んだあげく、出撃し、武田信玄(※現在の日本皇帝・武田としゆき様のご先祖)に討ち取られた。
いまも諺で、悩んだあげく失敗することを『狸の糞もらし評定』と言うのは、この故事による。

何進
後漢末期の肉屋
裕仁(1901-1945)
アメリカの52番目の州として併合される前の、最後の日本国天皇。
今川氏真(1536〜1614)

三カ国の太守今川義元の息子として生まれた彼は、和歌・蹴鞠を得意とする一方で塚原ト伝に剣を学んだ武芸者でもあった。
父義元が桶狭間で織田信長に敗れ世を去ると、剣の道に生きることを決め武田と徳川に領土・家臣を譲り渡した。
以後、諸国放浪の末今川流剣術を興し、天覧試合で吉岡憲法を破り天下一と称された。
その後、かつての配下徳川家の兵法指南役となってからも剣に対する情熱は衰えることは無かった。
1612年には宮本武蔵・佐々木巌流の二人を打ち倒したが、1613年最愛の妻早川殿が亡くなると1614年、後を追うように世を去った。
織田家の忠臣
木下秀吉 1537-1598
織田家の部将
1570年浅井長政が寝返った際
自ら殿に希望し僅かな兵と共に金ヶ崎に残る。
なんとか浅井・朝倉の大軍を食い止め信長を無事京まで逃がすことができたが
自身はこの戦いで戦死した。
政治23
統率72
智謀53
289名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 02:31:58 ID:I9RfgxCH
馬ショク

諸葛亮の第1次北伐に参加し、街亭にて敗因を作り
諸葛亮に死罪を命じられるも、帝・劉禅の一声で
(実は人材の損失を惜しむ諸葛亮の策)
罪を許されて以後、軽挙を慎み深慮をもって献策し
諸葛亮の北伐を支える。
諸葛亮の死後は姜維の副将として
夏候覇とともに姜維を支える。

しかし、街亭での敗戦後に彼が生かされたことは
蜀の武将の間で大きなわだかまりを残すことになった。
【呂布】
丁原配下の将、董卓に丁原を裏切るように言われたが断ったために、怒った董卓に殺された。
武力72
知力32
政治12
魅力68
義理13
(V以降登場)
290名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 02:32:42 ID:I9RfgxCH
【織田信忠】
日本を統一し、戦国を終わらせた織田信長の嫡男。
父・信長の遺言に従い、外国との外交・貿易を積極的に進めたが、
若死してしまう。
その後、稀代の野心家・明智光秀と羽柴秀吉に謀反を起こされ、
織田政権は崩壊した。
【武田信玄】
猛将と言われた武田信虎の息子。
父・信虎を、信虎に不満を持つ重臣達と共に追放。
しかしそのせいで重臣達の持つ権限は大きくなり、事実上傀儡政権となった。
力ある重臣達の拡大政策が上手くいき、それなりに大大名となるが、武田家内の立場は変わらなかった。
後にその状況を打破しようと試みるも、今度は息子・義信と重臣たちにそむかれ、
自身が追放される羽目となった。
統率66
智謀38
政治71
魅力47
教養73
【長尾景虎】
越後の幻の猛将と言われる。
戦では類まれなる才能を見せるが、家臣達の心は掴めず、反乱が相次いだ。
とうとう我慢できず、大名という立場を捨て、仏道に入った。
その後も長尾家の反乱は治まらず、やがて隣国に吸収され、滅びた。
統率97智謀72政治43魅力11教養54

あんま変わんないな
【北条氏康】
関東の大名。
天下の名城・小田原城を持ちながらも、長尾軍の前に敗れ去った。
後に人は氏康を、引き篭もり王と呼んだ。
291名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 02:33:35 ID:I9RfgxCH
松平忠政(1540?〜?)
松平広忠の長子で元康の異母兄。
幼少の折から岡崎城外で過ごしてきたが
1560年、今川の尾張侵攻時に
今川方の先鋒として華々しく討死した
松平家当主元康、その子竹千代も相次いで病没したため
今川義元により、松平家当主として擁立される。

【曹操(孟徳)】
宦官曹騰の孫。黄巾族討伐に貢献する。
董卓の暴虐に耐えかね、暗殺を試みるが失敗し、その場で呂布に斬り殺される。

統率:75 武力:64 知力:78 政治:67

うーん、いまいち・・・


【伊達政宗】( 〜1590)
安土桃山の東北大名。
秀吉の北条攻めに参陣するが、
遅参を咎められ持参した金の十字架に磔にされた。



信長記 おまけ

信長の草履を尻にしいていて、怒った信長に斬られた者があったという。

二階堂盛義(1544?〜1581)

二階堂家18代当主。1566年、芦名盛氏との戦いで勝利し、盛氏の長男盛興を人質とする。
その後田村・石川・白河・二本松らの近隣の諸氏を降し、南奥州のほぼ全土を支配する戦国大名となるが、
1581年伊達氏との戦いのさなか突然謎の発狂、陣中で自害した。
その後二階堂家は急速に弱体化し、1589年伊達政宗に滅ぼされた。
292名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 02:34:56 ID:I9RfgxCH
凌統
凌操の子。呉の将。
父の仇である甘寧が孫権に仕えた際、殺害する。
その咎で追放され、憂悶のうちに死亡。

【浅井長政】
浅井家大名。拡大著しい織田信長と同盟、信長の天下武布事業に大きく貢献した。
信長による天下平定後、織田政権で重要な地位を得たまま病死。
その後何百年も浅井家は安泰となり、戦国屈指の賢人と称される。

【曹豹】
曹豹、徐州の陶謙の部下。呂布の夫人の父。
陶謙が死に劉備が徐州を継いだ際。劉備は袁術攻略で、張飛が留守をしていた。
張飛は酒を飲み兵卒達にも進める、曹豹はこれを注意するが聞き入れられず
「私が使える人物では無い」と考える
そこへ呂布が攻撃を仕掛ける、
城の者は張飛の薦めで酒を飲んでいて応戦できず、張飛は逃げ出す。
だが曹豹に見つかり張飛は曹豹に槍をひとつきされ死亡、
その首を呂布に差し出し以後重く用いられる、
(この際、自分のむこであるから助けて欲しいという願いから呂布は曹操軍の将軍となる)
曹操に呂布が負けたときも「燕人張飛」を倒した者、
として目を付けられ後に南威将軍に任命。
漢中を劉備軍より死守するなど多くの功績を残す。

曹豹

武力95
統率85
政治72
知力76
魅力84

張飛
武力76
統率5
政治4
知力10
魅力72
293名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 02:35:38 ID:I9RfgxCH
【斉藤義龍】
父、斉藤道三に反乱を起こすが、あえなく敗れ、
討死した。
統率47智謀43政治59魅力12教養21

毛利 勝永(もうり かつなが)
天正5年(1577)?〜慶長20年(1615)
勝永は大坂城の弱点とされる城南の平野口の外側に「毛利丸」という出丸を築き守備。
来襲した前田利常らを痛撃して、天下に名を轟かせた(毛利丸の攻防戦)。夏の陣では
大和口迎撃の後衛に配置され、誉田の戦いで伊達政宗を撃退。翌日の天王寺・岡山の
戦いでは家康麾下を突き崩して、これを窮地に追い込む大活躍を見せたが多勢に無勢。
一歩及ばず戦死した。その活躍は、島津家の薩藩旧記に「毛利日本一の兵、古よりの
物語にもこれなき由」と絶賛され、後に講談の題材にもなり「毛利十勇士」「毛利の抜け
穴」など数多くの伝説を生んだ。

政治53戦闘98智謀89

真田 信繁(さなだ のぶしげ)
永禄10年(1567)〜慶長20年(1615)
冬の陣では西ノ丸・惣構今橋を守備。夏の陣では大和口の後衛に配置され、誉田の戦
いでは殿を務める。天王寺・岡山の戦いでは豊臣軍の開戦の口火を切って本多忠朝・
小笠原秀政の大名二人を討つ大活躍をしたが、味方の毛利勝永隊の壊滅により敗勢と
なると撤退。落城の際、秀頼に殉じて自害した。その戦いぶりは、江戸時代の文人・神沢
杜口が「惜しいかな後世、毛利を云いて真田を云わず」と嘆く程であったという。

政治65戦闘80智謀59


・・・正直、勝永が家康本陣に突っ込めたのは信繁のおかげじゃん

294名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 02:36:26 ID:I9RfgxCH
周瑜
孫策・孫権に仕えて江東の支配に尽力した。
曹操の大軍が江東に迫ると開戦を主張したが、降伏派の重臣達によって殺害された。
統率 85
武力 60
知力 72
政治 36

長宗我部盛親

土佐の大名長宗我部元親の息子。
関ヶ原の戦いで西軍に付き所領を没収される。
その後は寺子屋の師匠として余生を過ごし多数の人材を輩出した。

真田信繁

真田昌幸の次男。
関ヶ原の戦いの際、父昌幸とともに徳川軍を釘付けにしたが、西軍が敗北したため九度山に流される。
極貧生活の中開発した紐が評判を呼び、それは真田紐と名付けなれた。
彼の死後真田家は赦され、子の幸昌は堺で真田紐の販売で財を成し、真田屋の祖となった。

斎藤竜興

1562年、父義竜の後を継ぎ美濃1国を支配。
家督相続時より織田の美濃侵攻軍と戦い
墨俣にて織田方の将、柴田・佐久間を討ち取り、
1566年、河野島の戦いにおいて
織田に壊滅的損害を与え、信長自身も溺死させる大戦果。
295名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 02:36:56 ID:I9RfgxCH
山中鹿之介幸盛

尼子氏の家臣。
毛利配下の勇将・品川大膳との一騎討ちにて首を獲られる。

政治5 戦闘52 智謀21


渡辺通

出雲退却戦にて、かつて父の勝を討った毛利元就を
撤退時の混乱に紛れて討ち取り
以後、尼子方として
元就の跡を継いだ隆元・両川との戦いにて勇名を馳せる。


土岐頼芸 1502〜1582
美濃守護の兄・政頼を西村勘九郎の協力を経て追放する事に成功し
自らが守護になると守護代長井藤左衛門を粛清
さらには勢力を拡大してきた西村勘九郎さえも追放した
その後、朝倉氏、浅井氏、織田氏と
次々と美濃へ侵攻するもこれらを全て撃退
美濃の足元を磐石にしたのち頼次に家督を譲る。
しかし後に頼次と不和になり廃嫡を企てるもこれが露見し
自らも国外追放された。
追放後は各地で鷹の絵を描いていたという。
政治58
統率74
智謀72
教養80


品川勝盛(15??〜1581)
益田家臣
元就の出雲遠征の時、
尼子方の山中鹿介に一騎討ちを挑み
見事討ち取った。
1581年鳥取城を守備するも
落城の際吉川経家とともに自害した

政治19 戦闘68 智謀38
296名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 02:39:07 ID:I9RfgxCH
取り合えずネタ停滞気味なので前スレ初期のものを保守を兼ねて復元してみた。
297名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 10:03:08 ID:6QeUWIv8
>>284-296
なんと言ったらいいか、活性化のネタを出すのはいいけど、中途半端と言うか何と言うか。
298名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 22:27:37 ID:oQUTP33J
三好長逸(1515〜1590)
三好三人衆筆頭。日向守。長光の子で長慶の従兄弟。早くから長慶に仕え、各地を転戦し、
畿内における三好政権の成立に尽力する。長慶亡き後は養子の義継に仕える。1565年に13代将軍
足利義輝を討ち取り、阿波公方足利義栄を14代将軍に据えるが、足利義昭を擁する朝倉義景に
一時、京を明け渡す。しかし翌年、六条河原の合戦で劇的な大勝利を収め、朝倉勢を畿内から
一掃し、義栄を再び16代将軍として将軍の座に就ける。その後はかねてから専横の振る舞い
激しかった松永久秀を滅ぼし(この時松永久秀は名器平蜘蛛と共に爆死)紀伊の畠山高政を
臣従させる等獅子奮迅の働きをする。しかし、1574年今度は美濃の織田信長が義昭を擁し、
上洛してくる。この時は近江国大津で迎撃することとなった(琵琶湖合戦)。この合戦は
織田軍が前半優勢で、柴田勝家軍が五度も三好軍の本陣に肉薄し、四回めは大将義継に
馬上から斬りかかったが、傍に居た怪力で知られる七条兼仲が飲み水を入れた瓶を投げ
つけて守ったがその瓶を片方の手で反射的に叩き割り、瓶割り柴田の異名を取ることとなる。
しかし、昼を過ぎる頃に長逸が内応を促していた朽木元網が織田の後方を突き、長逸自身も
陣頭に立って突撃を敢行したため、織田軍は総崩れとなり、信長はその後行方知れずとなる。
こうして最大の危機は長逸の事前の国人への誘降活動と勇敢な行為により去ったが、その後も
赤松氏や六角氏を滅ぼし、東大寺や内裏の再建、領内の内治等に老骨に鞭打ち奮闘し、毛利氏、
長宗我部氏、大友氏、島津氏を降して西日本を完全に三好家のものとした後、後のことを案じ
ながらこの世を去った。享年85歳。ひたすら三好家に忠を尽くし、民を忘れなかった人生であった。
その後、三好政康や岩成友道が彼の意思を継ぎ、日本を統一することになる。

>>285に刺激されて書いた、反省はしていない
299奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/11/15(水) 22:47:29 ID:73azWRCG
>>298
政康と岩成は遺志を継ぐほど長生きせにゃならんのね・・・
300名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 22:50:58 ID:DxaIbmiy
>>299
政康=青海入道らしいから無問題
301名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/17(金) 22:01:11 ID:kdJL6OAl
>>299
1615年の時点で95歳だから寿命は大丈夫であります。
302奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/11/17(金) 22:32:24 ID:tS3+uYmf
なるほど。参ったorz
303名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 12:58:29 ID:Ob9zsGS7
三人衆って子供いないの?
304名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 19:31:19 ID:ggMSAUEs
>>234
遅レスだけど、涙が出てきた。
そうか、そっちの歴史ではあの人は
餅を食べることができたんだな…
305奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/11/21(火) 21:41:57 ID:fov5zKr9
名作を見落としてたね。
306名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 02:42:30 ID:7ZYX7UO8
伊達梵天丸(1567〜1572)
伊達氏第16代当主・輝宗と最上義守の娘・義姫の長男。
疱瘡(天然痘)により幼くして病死。
307名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 12:51:21 ID:dVsbdyP8
高橋紹運(たかはし じょううん、天文17年(1548年) − 慶長16年6月4日(1611年7月13日))
は大友氏の家臣。吉弘鑑理の次男で、立花宗茂、高橋統増の実父に当たる。妻は斎藤長実の娘で斎藤鎮実の妹。

初名は吉弘 鎮種(よしひろ しげたね)という。立花道雪とは盟友、または実の親子のような関係にあったと言われ
ており、その武勇も道雪に劣らぬほど秀でていた。
1569年、大友氏の家臣であった高橋鑑種が謀反を起こし、戸次鑑連(後の立花道雪)と共に鎮圧した後、
吉弘鎮種は、大友宗麟より高橋氏を継ぐことを命じられ、姓を高橋、名も同時に紹運と改め、岩屋城と宝満城
の二城を与えられた。
1581年、実子の無い道雪から嫡男・立花宗茂(当時の名は統虎)を養嗣子として立花氏にくれるように請われる。
紹運は、これを最初は拒絶していたが、道雪の度重なる要請に遂に拒絶できなくなり、養嗣子として統虎を立花氏
に出した。
1586年、大友氏を滅ぼすべく島津軍が5万を号する大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。
このときの高橋勢はわずかに763名ほどであったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて、徹底抗戦を行なう。
岩屋城が堅城であったこともあり、この無謀とも思える抗戦に勝利してしまい、島津氏の攻勢をくい止めたとして
豊臣秀吉に激賞され筑後柳川に13万2000石を与えられ、大友氏から独立した直臣大名にまで取り立てられた。
その後主君であった大友宗麟と義父であった道雪の菩提を弔うため隠居し、朝鮮出兵は息子の宗茂と統虎にまか
せていた。1593年、旧主家であった大友義統の代理として豊後国も支配することとなり、柳川は次男・統増に譲り
自らは長男・宗茂と共に豊後に移り府中城の建設など内政に尽くした。
1600年、関ヶ原の合戦では家の安泰のため苦渋の決断を行い、自らと宗茂は石田三成率いる西軍に、統増は
徳川家康の東軍に味方させた。結果、東軍が大勝し、豊後は改易されてしまう。その後、宗茂と共に高野山に登り
蟄居。1611年、その高潔な人柄を惜しまれつつ病死した。


大友義統(おおとも よしむね、永禄元年(1558年) - 慶長10年7月19日(1605年9月2日))
織豊時代の大名。大友義鎮(宗麟)の長男。

家督相続直後から島津氏らの侵攻を受けるも、豊臣秀吉の九州征伐によって豊後一国を安堵される。
しかし元来病弱だったため、実際の采配は旧家臣の高橋紹運に握られていた。
関ヶ原の合戦で高橋紹運が改易されると義統は江戸に移り本来の主君は自分であると主張、豊後の回復を
徳川家康に陳情したが、その軽率な行動は一族や他の家臣からも見捨てられていたという。
1605年に急死したが妻や子を巻き添えにした自殺であったとも言われる。
その後、紹運の次男が支配していた柳川藩では大友義統の悪霊の仕業とも言われる奇怪な事件が起こり、
後の世に「柳川の化け猫騒動」として喧伝されることとなった。
308名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 15:07:40 ID:HD0G4mbn
松浦鎮信(1549-1703)
平戸の領主。隆信の子。法号は法印天祥。
竜造寺氏の勢力下から独立、関ヶ原の合戦では東軍につき、初代平戸藩主となる。
オランダとの交易に力を入れたが、1641年、徳川幕府に平戸商館の閉鎖を命じられた。
しかし新田開発や産業を振興して財政を立て直し、名君とたたえられている。
鎮信は文人としても知られ、とくに茶道は鎮信流と称される一派を立てるに至った。
1703年10月6日、江戸・向島の平戸藩別邸で死去。享年155歳。
なお、父の松浦隆信(1529-1637)も長寿で知られている。
309名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 15:22:37 ID:LBjLwR3+
野暮なこというとあれだけど、人間の脳細胞の寿命は120年前後だそうな。
310名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 18:39:11 ID:zvngEmZ/
・真田信繁(1567-1615)
安土桃山時代から江戸時代の前期の武将。
一般には「真田幸村」の名で知られている。

大阪の陣では真田丸で主力として長宗我部隊が活躍している。
道明寺の戦いでは信繁の行軍ミスにより援軍に赴くはずの後藤基次勢が壊滅した。
最後は毛利勝永、明石全登らが主力を引き受け、
信繁は雑魚を相手に獅子奮迅の活躍をみせたが力尽き戦死した。

親族に智将が多く、信繁にも数々の逸話が残っている。
大阪の陣の際、家康は「大坂城に入ったのは親(昌幸)の方か?子(信繁)の方か?」と聞き、家臣から「信繁」と聞き安堵したと言う。
島津家当主の島津忠恒は信繁の活躍を聞き「真田日本一の疫病神」と評した。

現在は小説やゲームで味方に不幸を運ぶ武将として親しまれている。
311名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 20:58:14 ID:8umX4+cT
立見尚文 1845-1907
桑名藩士・幕臣・陸軍大将(のち元帥)
通称 鑑三郎。少年期より風伝流の槍術の使い手として知られ、湯島の昌平坂学問所に学ぶ。
藩主松平定敬の京都所司代就任に伴い京都で藩の周旋役を任される。
後に幕府陸軍に出向。大鳥圭介の創設した伝習歩兵第1大隊に籍を置きフランス式用兵術を学ぶ。
大政奉還後も抗戦を主張し、鳥羽伏見の戦いにおいて官軍に大勝する。
その後、古屋佐久左衛門と連繋し長州攻めに功あり。特に萩城下の戦闘では、村田蔵六を討ち取る殊勲を挙げる。
また九州征伐では新編の伝習歩兵旅団長として近代戦を展開。肥前・薩摩軍を度々壊滅、敗走させる。
日清戦争では陸軍中将で仙台歩兵第2師団長。世界史上唯一の師団夜襲成功はあまりにも有名。
その後、陸軍大学校校長、台湾総督、軍務局長を歴任。
日露戦争では陸軍大将として満州軍を率い、奉天合戦では劣勢であるにも関わらず露西亜軍を包囲殲滅。
明治39年、陸軍元帥に昇進。
薩長出身の将軍たちは、戊辰戦争以来の苦い経験から、立見の前では頭が上がらないことが多く、
特に山県有朋は何度も煮え湯を飲まされていることから、生涯避けていたという。
列強陸軍関係者の間では「立見の前に立見無く、立見の後に立見無し」とまで恐れられたが、終生謙虚な人柄であったという。
312名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 09:03:14 ID:aAZ5TZpu
>>311
流れからすると幕府が勝った歴史か?
だとすると山縣クラスが陸軍の将軍になれてるのは不自然では
313名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 13:07:31 ID:HjVEFeeo
島津 忠恒(しまづ ただつね、天正4年11月7日(1576年11月27日) - 寛永15年2月23日(1638年4月7日))は
安土桃山時代の戦国武将。歌人。島津義弘の三男。戦国大名としての地盤を築いた島津忠良のひ孫。
戦国大名としての島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたる。

==経歴==
義弘の三男であったが、義弘の兄・島津義久に男児が無かったことと兄の島津久保が朝鮮で夭逝したため、
豊臣秀吉の指名により後継者と定められた。

父や伯父同様に武勇に優れ、豊臣秀吉の慶長の役では父に従って8000の寡兵で明軍数万を破る猛勇を見せ
1599年には秀吉に近いと言われていた家老・伊集院忠棟を自ら斬り殺した。この結果忠棟の子・伊集院忠真は
庄内の乱を起こした。忠恒自ら出陣し互角の争いを繰り広げたが決着が付かず、徳川家康の調停により和平す
る。しかしこの結果、国元が疲弊して関ヶ原の合戦に出陣できなかったと言われる。

1602年、所領安堵を家康に保証されたため、伯父・義久の猛反対を押し切り上洛するが、
これが家康の謀略であり上洛したと同時に改易を申し渡されてしまった。
その後は帰国もならず、知己であった近衛前久・信尹親子の援助を受けながら京で余生を送る。
蹴鞠と和歌に長じて公家と親交を深め、晩年は青年期のどう猛ぶりが嘘のような変貌であったといわれている。

経歴のよく似た長宗我部盛親と対比されることが多い。また地元鹿児島では「天下無双の親不孝」の例えとされている。
しかし江戸初期の文化面での活躍から国文学者などからの評価は高い。
314名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 19:04:58 ID:YHSKSqWs
本人の歴史的分岐点で違った場合が殆どだけど、
ある人物が歴史的分岐点で違った場合の別の人物の経歴を考えてみても面白いかもな。
例えば、今川義元が桶狭間で負けずに上洛した場合の武田信玄の経歴とか。
315名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 19:16:18 ID:FzuH7RhQ
いやぁ……それ以前にさ。
今川は桶狭間で勝っていようが、あのまま上京なんてするわけないから。
アレは、上洛軍なんかじゃないし。
316名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 20:08:44 ID:D5XtKTh7
湯川直春(?〜1586)

湯川氏は紀州亀山(御坊市)の有力国人。
守護畠山氏に従いながら、事実上の守護代として強力な勢力をもっていた。
1585年、紀伊・大和守護に任じられた由比正純が大軍を率いて紀州に入ると、
湯川一族は山本氏・小山氏など日高・西牟婁の豪族を糾合して激しく抵抗、
紀伊の深い山地を舞台にゲリラ戦を展開し、今川軍を悩ませた。
由比正純は本領安堵を申し出て和議を結ぶが、これは罠であり、
1586年、由比正純の大和郡山城に出向いたところ、直春は毒殺された。

湯川氏の流れを汲む土地の古老は、次のように語っている。

「歴史にifは許されない、という。
 しかし、もし“万が一”が起こって、尾張の織田にでも今川が倒されていたなら、
 湯川氏は南紀の有力大名としてもっと有名になっていたのではないだろうか。
 というか、KOEIは鈴木と堀内だけでなくウチの先祖をだな(以下略)」
317名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 22:16:38 ID:LwUcSSHU
もしも足利義昭が織田信長に叛旗を翻さなかったら・・・

伊達昭宗(1567〜1636)
1567年(永禄10年) 伊達氏第16代当主・輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の長男として出羽国米沢、米沢城に生まれる。
幼名は梵天丸と名付けられる。
1571年(元亀2年)、疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。
1577年(天正5年)に元服、織田信長に庇護されていた傀儡将軍足利義昭より偏諱を受け伊達藤次郎昭宗と名乗る。
〜以降省略〜
318名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/25(土) 01:56:22 ID:91LSgbbN
>>315
別にそのまま上洛するって意味じゃないだろ。
319名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/25(土) 04:44:11 ID:nZFuCwzx
>今川義元が桶狭間で負けずに上洛した場合
って見る限り、そのまま行くと思ってそう
320名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/25(土) 07:09:29 ID:wKQ2JXOy
>>319
思ってるかもね。
じゃ揚げ足取りは満足して主題にうつろう
ここはこう言うスレじゃない
321名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/25(土) 12:52:14 ID:ZnC8btCT
>>312
勝海舟あたりが、「たとえ敵の人間であっても優秀な者は国家の財産云々」とか
言い出して助命どころか、降伏後はそれなりの待遇で迎えるという前提で。
322名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/25(土) 16:26:41 ID:6GA1PFfk
長野業盛(1546-1600)
長野業正の子。信濃守。
父の死後家督を継ぐが、上野進出を図る武田信玄の前に敗北。
箕輪城を枕に玉砕しようとするが、家臣に諌められて越後へ脱出する。
上杉謙信の客将となった業盛は越後軍団の一翼として活躍。
川中島合戦では仇敵・信玄の嫡男・義信の首級を挙げ、武田家弱体化の遠因を作る。
謙信死後の御館の乱では景勝を支持し、武の面において上杉家の重鎮となる。
本能寺の変後の混乱では上野半国を奪い取り、ほぼ20年ぶりに箕輪城への帰還を果たす。
その後は北条家と上野を巡る小競り合いを続けたが、
やがて豊臣家の小田原征伐軍の一翼に組み込まれてしまい、全領回復は夢と消える。
秀吉死後、関ヶ原の最上・伊達連合軍との戦いで殿を務めた業盛は
景勝主従らを逃がした後、追っ手の猛攻の前に討ち死にする。
業盛の子孫は上杉家の家臣として残ったが、江戸時代に失政を追及されて失脚。
流罪となって以後の消息はわかっていない。
323名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 01:37:56 ID:Hssxcpfi
>>321
なるほど





まあぶっちゃけ幕府が勝っちゃった場合、勝程度に発言力あると思えんし
勝自身、自分が勝ち組に回った時にそこまで寛大になれるような大人物でもないし
山縣は軍人としては敵方からあえて採用されるほど優秀でもないけどな
324名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 02:10:07 ID:/86Mkn97
痔絵異損(?〜?)

大阪の陣に初参陣した後、消えた謎の武将。
南蛮人との説も有り、極めて無口だった事でも有名。

1614年大阪冬の陣での和睦による堀埋め作業の際、突如土の中から現れ
徳川方の人夫・兵士を全て殲滅し大阪城内に入場。
その後「新手の味方か!?」と色めく大阪方の兵士も無差別に殲滅。
鋭利な刃物と怪力で豊臣・徳川双方を大混乱に陥れる活躍を見せる。
窮余の策として組まれた臨時豊臣徳川連合軍の総大将豊臣秀頼の水攻め
により幼少時のトラウマが発動し、その後失神・捕縛されるもその抵抗ぶりは
最強と謳われる徳川家臣団が大御所徳川家康を放り出して逃走し、
捨て置かれた家康が糞尿を漏らす程の凄ましさだったという。
捕縛後は三浦安針らの手により人間兵器としてイスパニアへ輸送されるも
途中船員全員を殲滅。そのまま東の新大陸へ漂流したとの説もあるが
真偽は謎のままである。
また後世に名高いこの秀頼の水攻め(大阪水の陣)の鮮やかさについては
太閤直々に英才教育を施された」とする説が有力視されるが、翌年夏の陣
での痔絵異損の復活は無かった為豊臣徳川連合の再現は果たされず、
これが豊臣家滅亡へ直結する結果となった。
海外にも多くのファンを持つ武将であり、大阪及び姉妹都市米国
クリスタルレイク市で毎年13日の金曜日に合同復活祭がとり行われている
事でも有名である。




325名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 20:30:38 ID:F7pthx+p
和久宗是(1535〜1625)
又兵衛。三好家・足利家・織田家に仕えた。
豊臣秀吉の祐筆として高名であり、そののち伊達政宗に招かれた。
能書家として、また古い武士の風格を持つ人物として当時から高名であり、
徳川家康もしきりに側に招きたがっていた。宗是が伊達家に招かれたと知るや
「わしの筆をせめて又兵衛殿の側に置いてくれ」と述べたという。
このため、1608年に家康が病死した際、遺品の筆を与えられている。
1625年、一族に囲まれ、黒川郡大谷邑にて大往生。享年91。
326名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 18:00:00 ID:6z+wqeTB
もし本能寺が無かったら(能力は信長天下統一記のもの)

織田信忠
信長の息子で信長死後は海外に送った兵を戻し国内の安静を図った
非常に優秀で以後300年続く織田幕府の礎を作った
政治:94 統率:87 知力:83

羽柴秀吉
尾張の農民の出身と言われている
美濃攻め、対朝倉戦で活躍し遂には大名となる
その後50万石の大名に
政治:76 統率:88 知力:89

明智光秀
足利義昭の部下だったが信長に付く
その後丹波攻めなどで武功を重ね近畿の大名を束ねる要職につかされた
しかしこれが彼の絶頂期であった 信長にとってその圧倒的な実力は邪魔だったのだ
石見、出雲に飛ばされ その後失意のまま病死
政治:91 統率:93 知力:90

徳川家康
弱小大名の嫡男で、幼少時織田や今川に人質に出された
今川義元が桶狭間で死ぬと独立 その後少しずつ領土を広げていきその領土は100万石近くになった
苦しい時も織田との同盟を頑なに守り続けたその姿は日本一義理堅い男とされ、日本国民の鏡となっている
政治:85 統率:77 知力:79

上杉景勝
上杉謙信の後を継いだが潰れた
政治:22 統率:60 知力:13

長宗我部元親
四国のうち3国を手に入れるも信孝率いる軍勢に負け滅亡した
政治:30 統率:83 知力:41

武田信玄
甲斐1国から領土を5倍に広げた
信長包囲網で信長を倒そうと25000の軍勢で攻めようとするも病死
戦をしまくっていたおかげで領土は疲弊し、NTVの一番嫌いな歴史上の人物ランキングの5位になった
悪魔のような信玄を描いたドラマ ―父を追放し、息子を殺した悪魔 武田信玄― が流行った影響もあるのだろう
政治:21 統率:85 知力:67 野望:99 魅力:13

上杉謙信
武田信玄のライバル ドラマでは信玄のあまりの悪行に耐え兼ねて信玄を攻めたとなっているがそんなことはない
人身売買を行い、一部では非常に評判が悪い また、10万の兵で小田原城を攻めて引き上げている辺り戦下手だと言われている
女というのが一般的
政治:55 統率:73 知力:48 野望:87 魅力:91

朝倉義景
信長包囲網の主力であり、信長に早くから対抗し続けた朝倉家当主
加賀一向一揆を押さえ込みながら信長を苦しめた
しかし圧倒的な国力の差などもあり朝倉家は滅亡した
また、一乗谷に一大文化圏を築いたなど政治の手腕も凄かったようである
政治:98 統率:85 知力:77

雑賀孫一
雑賀衆と呼ばれる鉄砲隊を操り信長を苦しめた伝説的人物
政治:15 統率:100 知力:95
327名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 19:45:09 ID:Meo3WkUl
坪内石斎 (生没年不詳)

戦国時代の伝説的料理人。足利将軍家・三好家・織田信長に仕えた。
客の顔を一目見るだけで、好みや体調を理解し、客の欲するとおりの料理を提供したという。
「味つけに一流も三流もない。客の欲する料理こそ最高の料理」という言葉を残している。

なお、織田信長が45歳で早世したのは、
坪内が求められるままに塩味を効かせすぎたためだと言われている。
328名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 00:57:17 ID:I80FKW7n
渡辺錠太郎(1874-1948)

日本陸軍大将。戦時中の駐米大使。

陸軍教育総監を務めていた当時、青年将校の間の革新運動が不穏になってきた事を憂い、いざ事があった場合の対策をひそかに練っていた。
1936年の2.26事件に際し、自宅に侵入し拳銃を撃ちかけてきた将校に対し、「教育してやる!」と怒声を上げながら、
愛用のトンプソン短機関銃で反撃して侵入者を自ら殲滅した事はあまりにも有名である。
(他の暗殺対象者たちも、護衛の警官があらかじめ用意しておいた各種の短機関銃で反撃したことから概ね逃亡に成功している)
事件自体は、首都のど真ん中で兵を私用された天皇が心底激怒し、直ちに近衛師団の残部と第一師団に完全殲滅命令を告示し、
要人多くを殺されそうになった海軍もこれを支援したため、戦艦<長門>の艦砲射撃で陸軍省と参謀本部、山王ホテルが倒壊、
戦車の支援を受けた近衛師団と第一師団の突撃で反乱軍は容赦なく皆殺しという凄まじい展開となった。
事件後、天皇の指示と渡辺の指導により、スターリンの粛清に匹敵するといわれた大粛軍が行われ、
1930年代の大陸進出を指導した将官・参謀はあらかた鶴首され、多くは自決した(させられた)。
この過程で恨みを買った渡辺は安全な米国へ大使として派遣され、満州国からの段階的撤退とアメリカによる防衛、
朝鮮の早期独立への有形無形の支援などを訴えて好感を買い、完全に仮想敵国状態であった日米関係を大逆転させ、後の日米安保体制の基を作った。
しかしその心労がたたり、終戦三年後の1948年にアメリカで客死した。亭年74歳。
329名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 17:56:56 ID:0iRnDjR8
今川氏真

今川氏真(1538-1615)は、戦国期の武将。幼名五郎。
父・義元の死後、駿河今川家10代当主として、東海地方から、
美濃、近江にいたる大領国を継承する。
巧みな外交戦略によって東西に長い領国の安全を図った。
親戚筋の甲斐武田氏、相模北条氏とは協調して東海地方の安全を確保する一方、
かねてより親交のあった文化人達を通じて、伊勢北畠氏、
飛騨姉小路氏ほか、畿内の諸勢力とも良好な関係を維持した。
一時武田氏と不和になるも、北条氏、越後上杉氏と協力して経済封鎖
(俗に言う塩止め)を敢行、干戈を交えることなく武田氏を苦しめた。
その後、親今川派の義信が武田家を継いだこともあり、
武田氏との関係を改善させる事に成功した。
これは今尚、最も成功した経済封鎖の一例として名高い。
領国内で実施した楽市・楽座政策によって培われた強力な経済力が、
こうした外交戦略成功の背景となっていたのである。
また、清和源氏足利流の一角として、足利将軍家とも密接な関係を持つ。
後に足利家の発布した総無事令が東国で一定の効果を発揮したのも、
今川家及び、その同盟諸国が後ろ盾となったればこそである。
しかし、西国にまでその威令が及んだわけではなく、毛利氏や、
島津氏の増長に苦慮しながら、1615年、この世を去った。
330名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 17:58:59 ID:0iRnDjR8
松平元康

松平元康(1543-1616)は、戦国期の武将。幼名竹千代。
今川家9代当主・義元の軍師として名高い太源雪斎の薫陶を受けて育ち、
元康もまた、義元の子・氏真の軍師として今川家を二人三脚で支える。
氏真の経済、外交戦略を自らが先頭となって実施し、
その執行力は、「当代随一の行政官」として名高い。
1615年、氏真の死を見て、摂津大坂に中国の毛利氏が進出すると、
老体に鞭打って出陣、これを駆逐した(大坂の陣)。
以後毛利家は、今川家との協調路線へと体制転換していく。
これは、ともすれば「文弱」とのそしりを受ける今川家の武力を天下に見せ付けるとともに、
後に今川家によって進められる事になる、全国統一事業の布石ともなった。
帰国後すぐに体調を崩し、翌年息を引き取った。死の間際、
「(西国の情勢を)心配していた氏真公に、よい土産話ができた」
と語ったという。
331名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 22:16:26 ID:miXcCiLt
家康の生年て1542年じゃね?
332奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/11/28(火) 22:23:11 ID:HnrGs0CF
そう記憶してる。
333名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 00:59:50 ID:PGDsfFa6
簗田政綱(生没年不詳)

尾張の国人。1560年今川義元に尾張に侵攻すると
「義元が桶狭間に本陣を置いた」という情報を清洲城主・織田信長に伝えた。
しかし、信長は「桶狭間」の場所を間違え、敗死した。

信長の最期については「誰も居ない谷間に突入してしまった」説と
「誰も居ない山に登ってしまった」説の二つがあり、
「桶狭間」の場所は今日でもよくわからない。
334名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 20:45:41 ID:PGDsfFa6
足利義輝(1536-1638)
室町幕府第13代将軍(位1546-1550)。わずか11歳で将軍職に
就任させられるが、権謀術数の政治の世界に倦み、
15歳で自ら将軍職をなげうって廻国の旅に出た。
各地の料理人について修行してその技を吸収・改良し、
全国に伝達した功績は大きく、「日本料理の父」とも言われる。

体質を改善し病気を予防する、今日で言う健康食を発展させ、
北条幻庵・天海僧正・真田信之らの食生活をアドバイスした。
自らも103歳の長命を保ち死去。

作家の宮本昌孝は小説「健康将軍義輝」を書いている。
335名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 02:41:15 ID:X1QCZVOf
足利義昭
室町幕府第十五代将軍。
兄義輝の死後、諸国を流転し、濃尾を平定した織田信長の協力をとりつけ、上洛、将軍職に就く。
その後織田信長と対立するにいたり、各地の大名と共に信長追討を企てるも
しかし諸侯の足並みが揃わず、頼みの武田軍も信玄の死亡により帰国。浅井・朝倉は滅亡。

その事を知らない義昭は僅かな兵と共に勝龍寺城で挙兵してしまう。
圧倒的な織田軍に囲まれ、猛攻を受けるがそれを尽く退け戦線は膠着、長期戦の様相を呈す。
翌年、一向宗が各地で決起、勝竜寺城の囲みは解かれ、帰京を果たす。
六角の残党、丹波・摂津の諸豪族を従え、近江に乱入、一進一退の攻防を繰り広げる。
その間にも得意の謀略で伊賀・伊勢の諸豪族を自陣営に引き込み、朝倉旧臣をもって越前を乱し
遠江を平らげた武田勝頼の西上と歩調を合わせ、織田陣営を圧迫。
関ヶ原で両軍が対陣、その間に武田軍が徳川軍を降伏させると、信長に城下の盟を強いた。
足利幕府の威光は高まったが、直轄地の少なさから諸豪族の統括に苦心。
織田への仕置きに不満を持つ武田、台頭した一向宗、毛利一族の圧迫などへの対応にも苦慮し、
1582年、死去。心労がたたった為、と言われる。

彼の死後、足利幕府は崩壊する。
336名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 07:50:38 ID:wfPHufWC
佐竹義宣

常陸の戦国大名。
1591年、常陸南部の「南方三十三館」と呼ばれる領主達を誕生日のパーティーに招いたが、
三十三館の領主達は「天気が悪くて」「バイトがあって」「佐竹君と遊ぶと仲間外れにされるから」などと
さまざまな理由を設けて太田城に集まらなかった。
大きなケーキやクラッカーを買って楽しみにしていた義宣は深く怨み、「南方三十三館」を滅ぼしてしまった。
337名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 14:06:04 ID:dt2Z+xWp
>バイトがあって
ここが気になる。
338名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 20:37:37 ID:wfPHufWC
朽木材綱(くつききつな)(1498-1546)
近江国朽木谷の国人。貞清の子、晴綱の父。
京と若狭とを結ぶ要衝を抑える朽木氏は将軍家との関係も深く、
材綱の名も10代将軍足利義材から偏諱を受けたものである。
朽木谷は将軍の「避難所」としても有名で、材綱も12代将軍義晴を庇護している。
それはともかく引っ張るとボロリと抜けそうな名前で、しかも呼びにくい。
339名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/02(土) 17:01:58 ID:xH7QOOXp
真田昌幸(1547-1617)
真田幸隆の三男。武田信玄の近習として器量を見い出され、長篠合戦後は戦死した長兄たちに代わって家を継ぐ。
信州上田を拠とした昌幸は善政を敷いて領土を石高以上に富ませたのみではなく、
北条、徳川といった近隣の有力大名たちの侵攻を幾度となく撃退して武名を轟かせる。
豊臣政権樹立後はその傘下に与するが、秀吉死後の関ヶ原では
長男・信之を家康側、自らと次男・信繁は三成側と家を分けて生き残りを図る。
その結果、昌幸が徳川秀忠軍を上田城に釘付けしたのが大きく響いて西軍は勝利。
しかし、信之を東軍に派遣していたことを責められて信濃一国の加増に留まる。
その後、関白・豊臣秀秋と秀頼の争いでは、今度は家を割ることなしにいち早く秀頼を支持。
越後の上杉景勝、東海道の百万石に加増・転封されていた宇喜多秀家らと連携し、
大津城下の決戦で秀秋軍に勝利する。この功績で昌幸は上野・下野と甲斐の一部を加増されて五大老の一人となり、
関ヶ原で没落して以降、流罪となっていた長男・信之の赦免も許される。
本家の相続は信繁に決まっていたため、信之は別家を立てて宇都宮真田家の祖となった。
昌幸は1617年に没するが、豊臣幕下の大大名となった真田家は明治まで生き残ることとなる。
昌幸は晩年、酒席で「些事であるが、もし関ヶ原で家を割らなければ日の本に号令できていたかもしれぬ」
と、後年芽生えた天下獲りへの野望と後悔を冗談混じりに口にしていたという。

なお、独立時に地盤の弱かった真田家は滅亡した大名家の家臣を積極的に登用し、
中でも本多忠朝、井伊直孝、大久保長安、奥平信昌、鳥居忠政、柳生宗矩(徳川家)、
可児才蔵(福島家)、片倉景綱・重綱親子(伊達家)、これに三好笑岩を加えた十人は
「真田十将」と呼ばれ、文武の面で卓越した才を発揮したという。
340名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/02(土) 17:13:51 ID:xH7QOOXp
☆大津城下の決戦☆
関ヶ原の論功行賞として暫定的に関白の地位に就いた豊臣(小早川)秀秋だったが、
かつての秀次失脚事件、そして秀頼の元服時期が近付くにつれて自分の将来に不安を覚えるようになる。
そこに九州、四国の一部をも領して二百万石以上の大大名となった毛利輝元の一族・吉川広家が、
淀君一派の台頭を快く思わない高台院の意を受けて秀秋に接近。
伊達政宗、藤堂高虎など野心抑え難い旧東軍大名、新政権下で冷遇されていた大名が加わって秀頼排斥の動きが起きる。
1607年、肥後で改易された加藤清正が一揆を起こしたのを契機に再び戦乱が勃発。

秀頼軍=新東軍(島津忠恒、立花宗茂、小西行長、宇喜多秀家、上杉景勝、結城秀康etc...)
秀秋軍=新西軍(毛利輝元、藤堂高虎、伊達政宗、前田利長、長宗我部盛親、黒田長政etc...)
各地に飛び火した戦火は再度の戦国の世到来を予感させたが、およそ一ヵ月後、
秀頼派の中心・石田三成が逃げ込んだ大津城に迫った毛利輝元率いる大軍を、宇喜多秀家が主力の新東軍が迎撃。
二日間の激闘の結果、真田信繁、明石全登、島勝猛といった猛者の活躍で新西軍を打ち破る。
その後、結果を知った長宗我部盛親ら畿内の大名が次々と寝返る。中国一帯に広がっていた毛利領も、
東から宇喜多、南から長宗我部、西から九州の鍋島や島津などに侵食されるなどしてあっけなく制圧。
東北でゲリラ的活動を行っていた伊達、最上も相次いで降伏し、戦乱はここに収束する。
捕縛された関白秀秋、毛利輝元、吉川広家、藤堂高虎らは、かつて徳川家康の首が晒された四条河原で斬首。
伊達政宗、黒田長政らは自害。長宗我部盛親は改易こそ免れたが、関ヶ原で加増されていた四国の領地を全没収された上、
秀頼側に味方して越中へ加増・転封された津軽為信の旧津軽領へと転封された。
もう一人の首謀者・高台院を高野山に配流した淀君たちは、その後、元服した秀頼を征夷大将軍に就任させる。
五大老制度は維持されることとなり、宇喜多秀家、上杉景勝の他、島津忠恒、真田昌幸、佐竹義宣が新たに就任。
三代目将軍・秀光が大名と幕政の切り離しに着手するまでの約六十年間、その体制は続けられた。

(※ちなみに関ヶ原で家康が討死し、嫡男・秀忠、忠吉も斬首されて没落した徳川家だが、
秀吉と縁が深く父・家康から疎んじられていた秀康だけは結城家をそのまま相続することで許されている。
秀秋と秀頼の争いで秀頼を支持した秀康は、その功で結城十万石から旧毛利領の出雲伯耆二十四万石に転封された。
幼子だった忠輝も岳父の伊達家に預けられて生き延びているが、再度の戦乱では政宗と運命を共にしている)
341名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/02(土) 20:47:48 ID:I86ExFf1
松平清康(1511-1560)

三河松平氏第七代当主。信忠の子。1523年家督を継承。1526年岡崎城に本拠を移した。
松平庶流を服従させ、三河を統一。花倉の乱に乗じて今川領に討ち入り、遠江の国人を
傘下におさめ、西には尾張織田氏の守山城を攻めてこれを屈服させて、三尾遠三国に
またがる領国を一代で築き、「海道一の弓取り」といわれた。

1560年、背いた織田氏を攻めるべく尾張に出兵するが、桶狭間の合戦で討死した。
342名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/02(土) 20:56:25 ID:h1nZ5ek6
守山城からなら桶狭間通る必要無いだろ?
343名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/02(土) 21:00:22 ID:h1nZ5ek6
>>340
あと、秀頼が関白にならなかったら秀吉はなんのために関白を征夷大将軍に代わる武家の棟梁にしたのだか……。
344名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/02(土) 21:47:51 ID:0PKJzQDk
>>339三好笑岩て、おい。
345名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 00:48:45 ID:YNEDOsQ0
松平清康(1511-1568)

三河松平氏第七代当主。信忠の子。1523年家督を継承。1526年岡崎城に本拠を移した。
松平庶流を服従させ、三河を統一。花倉の乱に乗じて今川領に討ち入り、遠江の国人を
傘下におさめ、西には尾張織田氏・美濃斎藤氏を滅ぼして岐阜に入った。
足利義昭を奉じて上洛の軍を起こすが、六角義賢の奇襲を受け、義昭ともども
近江国草津の手前で討たれた。

世に言う「守山崩れ」である。
346名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 01:38:13 ID:3gDlMxoD
近衛前久(1535-1612)
(普通に同じなんで中略)本能寺の変の前夜、信長はふと気まぐれからいつもの様に前久を誘って嵯峨野に鷹狩りに出かける。
近くの寺に宿を取ったところ、信長は明智の兵が京へ向かっている事に気付き、前久を叩き起こして金ヶ崎の戦いのように家臣も見捨てて前久の案内で京を脱出、大坂の丹羽長秀の元に奔った。
このため、本能寺襲撃に失敗した光秀は羽柴・丹羽らの兵を率いた信長に敗れて戦死し、前久も信長とともに帰国した。
1585年信長は全国を平定すると、大坂に城を築いて太政大臣兼新設の司馬大将軍に任じられた。この際、前久も先の本願寺開城と本能寺の危機の際の功績により「近江国司」に任じられて安土城を与えられた。
朝廷の御料の数倍の所領を有するに至った近衛家の下には有能な中下級の公家や有能な浪人達が仕官してきた。
以後近衛家は公家でありながら京都守護の家として京都所司代を兼ね、朝廷は近衛家の保護下で存続する事になり、前久は「後御堂関白」と呼ばれるようになった。
晩年はともに一線から退いた信長とともに全国を漫遊し草津温泉で和歌を詠みあった記録が残されている。

ちなみに信長が天下平定後に近衛前久を大名に取り立ててともに地方を旅する約束をしたのは現存の記録に残されているマジ話。
晩年は
347名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 09:43:53 ID:vJyycV3T
>>339
康長は1585年以降、記録に現れていないからそのあたりに
世を去ったとされるのが通説。
348名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 13:19:47 ID:1p40+ild
>>328
教育してやるw
349名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 20:01:54 ID:3gDlMxoD
>>330-332
どっちもあっている。
家康は旧暦12月生まれなので新暦に直すと翌1月に入ってしまう。
350奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/12/03(日) 20:10:19 ID:0g8OgSJO
というと、大河の「徳川家康」はそれを逆手に取って元旦生まれにしたんだな。
351名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 21:40:38 ID:HxAIdzC6
>>350
山岡荘八じゃないの?
352奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/12/03(日) 22:22:29 ID:0g8OgSJO
>>351
ごめん。1巻読んでないんで知らんのです。
353名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/04(月) 00:33:56 ID:X48bzTbM
>>340
素敵な夢をみたw
GJ!
354木村重成 ◆kJOq8Zhosg :2006/12/05(火) 00:59:03 ID:YyRN7utF
やべー!!>>9がかっこいい
355名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/05(火) 01:32:42 ID:sIMZ8Hwu
石田三成(1560〜1603)
豊臣秀吉に知性をかわれ、出世していき、太閤検地・貿易町堺の発達
など、さまざまな功績を残す。
秀吉の死後、230万石の大大名であり、次の覇権を握ろうとする
徳川家康と関ヶ原で戦う。
島左近や、毛利家の活躍も目覚しく、午後12時ごろ小早川秀秋の
参戦により、東軍を圧倒、見事勝利を収める。
しかし、約三年後、石田三成にたいして不満を持っていた豊臣恩顧
の諸大名(関ヶ原の豊臣恩顧の大名以外)が突如三成の城である佐和山城
を包囲、三成は城兵の命を第一に考え、城兵の命と引き換えに、自分の
命を絶った。
356名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/05(火) 13:48:15 ID:UcAlD8bK
円月 1529-1620

室町末期〜江戸時代初期の禅僧。肥前出身。
7歳のとき仏門に入り、修行に励んだ。1589年南禅寺住職となる。
徳川家康に招かれてその政治顧問となり、キリスト教禁令、寺院諸法度、
武家諸法度、禁中並公家諸法度の制定などに関与した。
「黒衣の宰相」「熊坊主」などと呼ばれ、よいイメージは持たれていないが、
少年時代に一族がことごとく謀殺されるような悲惨な原体験が
徳川泰平の世への新秩序作りに熱意を注がせたのだとする見方もある。
357名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/05(火) 16:26:02 ID:rP2X1+KH
熊様が>>356のようになっておれば
龍造寺は沖田畷で家名を汚さずにすんでいたものを・・・

358名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/07(木) 02:22:08 ID:zcbV6C/6
覚慶(1537〜1597)

室町末期〜安土桃山時代の法相宗の僧。興福寺別当。大僧正。一乗院。
父は室町幕府第十二代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘。兄に第十三代将軍である足利義輝がいる。
1565年の永禄の変で、将軍であった兄・義輝が松永久秀や三好三人衆によって暗殺され、弟で鹿苑院院主であった周嵩も誘殺される。
自身も久秀の手によって奈良に幽閉されるが、幕臣である細川藤孝や和田惟政らに助けられて脱出する。
細川藤孝・和田惟政らに還俗して将軍家再興する事を促されるが、拒否し僧籍のまま近江、若狭、越前など各地を転々とする。
上洛の動きを見せた織田信長の援助を得て、再び一乗院に戻る。
14代将軍足利義栄が没し、15代将軍職に足利義助が就くが織田信長により放逐される。
足利将軍家が滅亡していく様を見て世の中の無常を悟り修行に専念する。
織田信長が比叡山焼き討ちに対して意見する書状を出した事により放逐され再び各地を流転するが、
本能寺の変で織田信長が死した後、豊臣秀吉の援助を得て再び一乗院に戻り、余生を過ごした。
359名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/07(木) 22:20:38 ID:F1citLwv
>織田信長が比叡山焼き討ちに対して意見する書状を出した事により放逐され再び各地を流転するが、

延暦寺と興福寺は犬猿の仲
360名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/08(金) 04:44:07 ID:XWyLlcBn
織田信貞 1574-1624

織田信長の九男。1582年、本能寺の変で信長・信忠親子が横死し、
それにひきつづく騒乱の中で信雄・三法師・長益・信孝ら主要な
織田家の者たちが命を落とすと、織田家の後継者として浮上した。
柴田勝家に擁立され、一時は窮地に立った織田勢力を再統合し、
天下統一を果たした。1615年征夷大将軍に任じられ織田幕府を開いた。

幼名の「人(ひと)」は、中世日本語で「者」「民」を意味する普通名詞。
信長のネーミングセンスを疑いたいが、初代将軍のご幼名ということで、
将軍家の嫡男には代々「人」と名づけられた。
一般の者はこのおそれ多い言葉を避けるならわしとなったため、
近世には「ひと」という言葉が廃れることとなった。

歴史にIFは許されないというが、信貞が将軍にならなかったなら
ドラマ「3年B組金八先生」の名ゼリフ「“者”という字は〜」も、
また違う形になっていただろう。
361前田 ◆LIBERALCQY :2006/12/09(土) 00:21:55 ID:lFy8xpF6
偖というじ。
362名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/09(土) 18:46:21 ID:FTTu6txK
 徳川家康
戦国期の武将。幼名竹千代。
今川義元の人質として育ち、長じてからは織田信長の同盟者として
天下統一に貢献するが本能寺の変の後、台頭してきた羽柴秀吉と敵対
小牧長久手の戦いで秀吉の甥秀次に破れ
所領は岡崎15万石に落とされてしまう。
 関東には秀吉の弟の秀長が入るが死去、空き地となった関東の問題や
蒲生氏郷の急死、朝鮮出兵の失敗で混迷する中
秀吉が死去、続く前田利家の死で
豊臣の天下の擾乱は決定的となる。
老練な家康は少ない石高ながら加藤清正や福島正則、伊達政宗らと婚姻を結び
三成を標的として一戦を仕掛け勝利する。
世にいう関が原の戦いである。
 しかしわずか15万石の身代しかない徳川の基盤は脆弱で
空き地の関東に移るものの、その開墾は時間をとられ
征夷大将軍任官するも幕府として天下に号令するのも
難しい有様であった。
やがて徳川恐れるに足らずとみた黒田如水の挙兵に破れ
江戸幕府はわずか数年で瓦解
家康は江戸から奥羽への逃走中に命を落す。
363名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/09(土) 23:50:43 ID:HXCUvr1Z
伊達政宗
奥州の戦国大名。藤次郎。
美男子で有名。「あの美しい両目で見つめられると」
という内容の書状が残っている。
祖父・父同様、婚姻策による勢力の維持をもくろみ、
相馬、畠山、二階堂といった周辺豪族を融和し、
さらに最上との同盟を背景に、戦国の世の中に奥州の平和を築いた。
364名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 00:06:36 ID:+Nj97jbt
立花宗茂
旧姓高橋。高橋紹運の息子統虎。
大友家の重臣立花道雪の願いにより娘の柳川城主ぎん千代の婿になる。
文武に優れ立花家を支え活躍するが、惜しいかな、早世。
ぎん千代が寝かせてくれなかったための消耗死だといわれている。
365名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/11(月) 21:37:56 ID:9H3ez+R1
尾張国愛知郡中村の藤吉郎(生没年不詳)

年代はよくわからないが戦国時代の頃に大言雑言をはく猿に似たご先祖様が居たらしい・・
と我が家に伝わる。
まあ、名前が伝わってる位だから地元じゃそこそこ有名なご先祖さまだったのかも知れない。
366名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/12(火) 00:57:43 ID:j4XJ3Yyg
毛利元就
安芸の戦国武将。
毛利幸松丸を良く補佐し、相合元綱と共に毛利の両翼と謳われた。
武勇の元綱に対し、知謀の将として知られる。
367名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/12(火) 09:56:44 ID:tcOQf0ix
毛利幸松丸 (1515〜1579)
安芸の戦国大名
本人は凡庸で、一郡の土豪から一国の主にまで上り詰めたのは
叔父元就ら有能な家臣の力によるものと言われるが。
終生幼名のままで通した珍しい人物として高名である。
368名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/12(火) 13:16:49 ID:tMfgXytA
毛利隆元
安芸の戦国大名。毛利興元の嫡男で幼名を幸松丸。
父が早世したため叔父元就の後見を受け、家督を相続する。
大内義隆の加冠を受け元服、隆元を名乗る。
大内家配下の安芸衆筆頭として活躍するが、
後に正室吉川氏を通じて尼子寄りだった叔父元就と対立し討たれた。

従来は隆元が暴君であったため、元就がやむを得ずこれを討ったというのが定説であったが、
隆元を文武両道の名将とする同時代人の評もあり、
近年の研究では元就を祖とする猿掛毛利氏による史料の改竄があったものとみられている。
369名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/12(火) 13:22:56 ID:ojQiwknP
毛利賢元
毛利元就の嫡男。陶晴賢が主家の大内氏に謀反を起こすと人質として陶氏に送られる
陶晴賢の一字を受けて賢元と名乗った
370名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/14(木) 18:29:43 ID:nmDw7o7j
姓名不詳(生没年不詳)

戦国末期、尾張と美濃の境辺りに勢力を誇った山賊がいたらしい。
371名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/16(土) 17:22:23 ID:ZgXtdVR2
>>370
蜂須賀?稲田?前野?
372奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/12/16(土) 21:38:07 ID:t1sTW4xJ
>>371
前野は外してください。
373名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/17(日) 01:51:43 ID:CT7U9TyX
>>368
最後の3行が最近の里見義豊話に似ているが……気のせいか。
374名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/17(日) 19:12:59 ID:AXIAaYn1
モデルは里見だろうな。うまいね。
仁義なき里見式を使えば、無能とされている当主から
実力のある当主への親子相続以外の継承が全部うさんくさく見える。

九鬼嘉隆「…………」
上杉謙信「…………」
南部信直「…………」
375名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/30(土) 18:24:33 ID:ak4H/YPI
本願寺光佐顕如(1543〜1592)
幼名を茶々。
法眼、僧正を務め、諱は光佐。
第10世証如の長子であり本願寺第11世。
織田信長との1570年以後10年に渡って大阪における
石山合戦で本願寺門徒衆を徴発して前線に送り込むほか、
毛利氏の援助を得て信長と徹底抗戦する。
自ら攻撃の鐘を鳴らし、檄を飛ばす様子は
全国各地の一向一揆を奮い立たせ、あっという間に
信長に勝利。

かねてより朝廷と姻戚を結んでいた事により、
中央の権力を一気に掌握。
史上、稀に見る速さで全国統一を果たす。
1592年、多くの信者に看取られながら死去。
一大宗教国家と化した日本は、以後、キリスト教と激しい
争いを展開。近代にまでその影響を及ぼす事となす。


つまんなくてスマソ。いや、「信長の野望 革新」で
デモプレイ放置にしてたら、いつの間にか本願寺が
天下統一してたYO(w
376名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 10:18:24 ID:sB/0psbV
最上義光
(1546-1615)
謀略で諸豪族を暗殺し(ry
1590年、甥の伊達政宗を暗殺しようとして失敗するが、
毒薬の副作用で政宗の片眼は失明してしまった。
これに乗じて視力を失ったことを口実に政宗を強制的に隠居させ、
弟伊達政道を擁立して伊達家を掌握し、一気に
東北屈指の大勢力となる。秀吉には臣従したが、徳川家康と並ぶ東北の
巨大勢力として奥州藤原氏にも比せられる超強力大名として豊臣政権に
於いて隠然たる勢力を保持した。
1595年、秀次事件が発生すると、なんと私邸に娘婿秀次を匿い、
引渡しを迫る石田三成を得意の謀略で暗殺。徳川家康とともに
「娘婿の秀次に位を譲って隠居せよ、さもなくば東国は全てあなたの
敵に回るぞ」と秀吉を脅迫し、その間に浅野長政を徳川家臣の吉良上野介に
切りかからせ、聚楽第松之廊下にて暗殺、増田長盛を堺にて暗殺、
千人斬りをするため夜間うろうろしていた大谷吉継を義光みずから鉄棒で
撲殺するなど、暗殺を駆使して豊臣政権の奉行を次々に暗殺させ、政権を
事実上崩壊させた。
1596年、譲位を渋っていた秀吉を石川五右衛門に
暗殺させ、秀次が後を継ぐ。義光の娘駒姫は正室に直され、
最上家は暗殺した諸大名の所領を全て奪い取って近畿地方にも勢力を拡大。
五大老次席(前田利家もこの頃謎の死を遂げた)に就く。
最後には徳川家康をも暗殺しようと謀るが、柳生・服部ら個人戦闘に
長けた部下に守られた家康は容易に殺せず、五大老筆頭の座は奪えなかった。
晩年には近畿の所領を分け与えた子どもたちが争い、
伏見城の耐震偽装を行っていた秀次が、豊臣家の当主の座を
追われるなど、謀略によってつかんだ権力は次々と失われ、失意の
日々を過ごす。
それに追い討ちをかけるように謀略の才で上回っていた
徳川家康によって次々と義光の暗殺の所業が明らかにされ、
義光の威光は地に落ちた。家康は義光に隠居させられた伊達政宗を
ひそかに自邸にかくまっており、政宗の口から義光のやり方を詳細に
聞き、それを一つ一つ柳生や服部に調査させ、諸侯に公表していったのである。

1615年、遂に秀吉暗殺が発覚。破れかぶれになった義光は山形に於いて挙兵
するが、近畿の所領は徳川・石田・大谷連合軍により次々に陥落し、
伊達家臣が政宗の意向を受けて一揆を起こした上、
父の敵を討つべく燃えていた前田利常が鼻毛を降り降り越後方面から猛攻を
かけて来た為、支えきれず山形城にて自刃。最上家は滅亡した。
377名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 07:22:07 ID:iMHRJh/7
>>376
中身は面白いけど、伊達家の通字は宗だから、
伊達政道というのはいただけない。
378名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 03:50:31 ID:9GOnWYN0
別にいいと思う。誰のことかわかれば。
(小次郎は名前が不詳。政道と伝えられるが疑わしい)
379名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 14:30:06 ID:9GOnWYN0
伊達吉宗
伊達輝宗の次男。幼名竺丸。
1590年(天正18年)、小田原の陣への出立を遅怠する兄政宗を廃して
伊達家十八代当主となる。
秀吉の勘気をこうむり、全所領を没収されるが、石田三成のとりなしにより
許され、米沢を安堵される。
美男子であったため「姉か妹はおらぬか」という秀吉の問いを受け、
縁者の女子を差し出して意を得、近侍を許され、一字拝領して吉宗と名乗る。
一方でその態度は奥羽諸豪族の反感と軽侮を買う。
叔父にあたる最上義光に防衛を頼んだため、伊達家中は分裂、留守・石川といった
分家は小大名として別々の道を歩むことになる。

関が原の戦いでは石田の恩に答え西軍に属したため、再び所領没収。
再興運動のかいなく江戸にて客死し、戦国伊達家は滅亡する。
380名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/15(月) 00:13:57 ID:FBfcmZZD
>>376-378
>伊達政道
1765年建立の金上盛備墓の碑文に書かれている「政宗之弟正道」が、政道説の根拠かな?

>>379
秀吉から一字拝領の場合、「秀」を拝領するのが一般的。
ってか「吉」を拝領って誰かいたっけ?
史実では小次郎の甥が名乗った「伊達秀宗」でいいんじゃない?

381名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/05(月) 23:24:34 ID:n1GcFzIO
>>197
俺の6代前の先祖に同じ名前の人がいる。
382名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 16:10:38 ID:GcH67ZVD
武田信豊(?-1590)
信繁の子。相模守。川中島の戦いで父を失った後はその跡を継いで信玄・勝頼に仕える。
長篠の戦いで勝頼が討死した直後に勃発した家督争い(躑躅ヶ崎の乱・※1)では、
勝頼の遺児で正当な後継者の信勝を擁立する仁科盛信一派を支持し、
北条に通じた小山田信茂一派が擁立した信玄の六男・葛山信貞を討つ。
盛信が暫定的当主になった後は、抗い難しとして織田家との停戦交渉に奔走。
結果、信忠と信玄の娘・松の婚約関係が効いて甲斐一国と信濃半国の安堵で降伏するが、
信玄時代の旧臣たちからは軟弱者だと罵られ、真田昌幸らを独立させる原因となってしまう。
それでも信豊は織田家の一翼になった新武田家の家宰として盛信・信勝を盛り立てていき、
再び敵対した上杉軍の侵攻を謙信死後まで耐え抜くと、北条には徳川と誼を通じて対抗した。
1582年、謀叛した羽柴秀吉が織田信長を討った「三木城の変・※2」では、岐阜にいた信忠をいち早く援護して秀吉に対抗。
秀吉を討った明智光秀らと共に信忠政権を確立させる大きな原動力となった。
その後、盛信が隠居して信勝に代替わりした後も織田政権の東進に大きく貢献するが、
1590年、領内で謀叛した木曽義昌討伐のため出陣した際、奇襲を受けて戦死する。
降伏当時は批判の矢面に立たされた信豊であったが、彼の死を聞いた家臣は皆嘆き悲しんだという。
義理の従兄弟であった信忠もその死を大いに嘆き、木曽討伐に織田軍本体を差し向けるほどだった。
今も山梨地方には「蛙の子は蛙」と同義語の、「典厩は二代続く」という言葉が残っている。
383名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 16:11:08 ID:GcH67ZVD
※1・躑躅ヶ崎の乱
長篠の戦いは、山県昌景など信玄時代からの名将を数多く失っただけでなく、
総大将の武田勝頼が退却途中に鉄砲の流れ弾に当たって討死するという、
武田家に壊滅的な被害をもたらした。その隙を狙ったのが、隣国の北条氏政である。
武田家の一枚岩でない内実を把握していた氏政は、かねてより独立心の強かった小山田信茂に調略をかけ、
駿河の葛山家に養子に出されていた信貞を新当主として擁立するよう働きかける。
信茂はその件を承諾。長篠の戦いの翌年、一族や盛信の相続に不満を持つ武将を集めて挙兵する。
北条の支援を受けた信茂だったが、信玄の忘れ形見ともいえる真田昌幸、武田信豊といった
猛者を擁した盛信派の前に破れ去り、最後は初鹿野昌次に首を取られてしまった。
信茂の早い敗戦で信貞は戦うことなく追い詰められ、要害山で自害して果てた。
しかし、武田家はこの内紛のおかげで駿河や遠江、信濃の一部を徳川や北条に侵食されて
急速に弱体化してしまい、織田家に従属する一因となってしまった。

※2・三木城の変
1582年7月2日、羽柴秀吉から中国攻めの援軍の依頼を受けた織田信長は三木城へ入る。
だがその夜、備中高松城にいるはずの秀吉軍が三木城を急襲。信長は二万の軍勢を率いていたが、
大半の兵を姫路城に置いたままで、身の回りには数十人の警護しかいなかった。
信長は自ら弓を取ってよく抵抗したが、衆寡敵せず、三木城の炎の中へ姿を消した。
その後、秀吉はすさまじいスピードで畿内へと兵を返したが、明智光秀、細川藤孝、筒井順慶の連合軍の前に大敗。
最後は山崎で筒井軍の島勝猛に討ち取られてしまった。その首は京の四条河原に晒された。
なぜ秀吉が突然の謀叛に至ったかは定かではないが、毛利を前にして兵を返していることから
毛利輝元とその食客である足利義昭との間に何か密約があったのではないかという説と、
討ち取られる際に漏らした「話が違う」との言葉から、光秀らと同調する密約をしていたのではないかという説などがある。
最近では、信長の脅威を恐れた朝廷が暗殺を画策したという説まで浮上している。
また、なぜ信長がわざわざ大軍と離れて三木城へ入ったのか、という謎についての理由もわかっていない。

なお、講談などの俗説では「昔から猿、猿と呼ばれることに耐えられなくなった秀吉の堪忍袋の緒が遂に切れた」
「横恋慕していた信長の妹・市を自分ではなく柴田勝家に娶らせたことの逆恨み」「光秀が贔屓されることへの嫉妬」
などといったくだらない理由が変の原因とされることも多いが、実際の秀吉は才気に溢れた賢い男だったという。
しかし、人を選んで付き合う実利主義な性格だったようで、佐々成政など同輩だった武将からの評判は芳しくない。
384名無し選出投票・投票日は2/11(日):2007/02/08(木) 19:33:30 ID:aMCZ5Y5m
>>380
大谷吉継
木村吉清
田中吉政
385名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 22:57:30 ID:JZJtLeeK
松永久秀(?-1577)
若い頃日本中を放浪し、政治、戦について学んだと伝わるが詳しくは不詳。
初め三好長慶に右筆として仕える。しかしその才を見い出され武将となる。
1560年、長慶の命で専横の激しい長慶の末弟十河一存を暗殺。
1562年、長慶の嫡子義興が足利家に通じているという噂が流れる。
翌年、義興は長慶に自害を命じられるが、久秀はその助命嘆願に奔走する。
結局受け入れられず、介錯人に志願したが涙で前が見えなかったため、
首を落とすことができず、立会人の篠原長房が慌てて苦しむ
義興の首を斬り落としたのは涙無しには語れないエピソードだ。
さらに翌年、やはり長慶の弟で淡路水軍を束ねる安宅冬康の配下が乱心。
傷から菌が入り寝込む冬康に久秀はクスリを持っていったが甲斐なく病死。
同年、親族の相次ぐ死に心労の溜っていたと思われる長慶が急死。
三好宗家は長慶の意向で一存の息義継が継ぐが、歴戦の重臣達はこれに反発。
三好三人衆が将軍足利義輝の暗殺を謀ると久秀はこれを誅めた。
しかし逆上した三人衆は久秀の嫡子久通を拉致、久秀には内密に
松永軍を無理矢理編入、将軍暗殺の片棒を担がせたように見せた。
これに怒った久秀は三人衆と決別することとなる。対し三人衆は筒井順慶と結び対抗する。
だが順慶を支援する寺社が多い大和での戦いは苦戦を極める。
久秀は順慶打倒のためやむなく僧兵の篭る寺だけを焼き打ちする。
そして大和を統一した久秀だが、なんと三好三人衆が義継を篭絡してしまった。
独立した形になってしまった久秀だが、大和の民のことを思い抗戦を決断。
日の出のでる勢いの織田信長に接近、傘下に入る。
その後、久秀は織田軍団の一翼を担う将として活躍する。
朝倉征伐では浅井長政の離反を察知、撤退の先導を務めている。
室町幕府滅亡の際には信長に名茶器を献上、将軍義栄の命を救っている。
そしてある日、領内を視察する久秀の下に一人の僧が現れる。
僧は突如久秀に斬りかかり、久秀は近くの寺に運ばれたが間もなく死亡した。
この事件を久秀が運ばれた寺かつ僧のいた寺から「興福寺の変」という。
386名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 03:01:58 ID:w000yByb
>>384
徳川秀忠、伊達秀宗、毛利秀元
異なる意味合いを含む部分もあるが織田秀信、秀雄も

直臣には「吉」だが諸侯の後継者には「秀」の字を与えている。
一般的に本人一代の字より、一族の通字を与える方が価値が高い。
387名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 09:37:12 ID:VX99d5KP
>>384
木村もなの?田中大谷はガチだろうけど・・・
388名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 23:32:03 ID:THrtFxvI
大友義統も、吉の字もらって大友吉統と称してたな。なんでだろ。
389296(前スレ復刻ネタで保守):2007/02/19(月) 22:59:26 ID:gEf7UeT8
二階堂輝行(?〜1564)

二階堂家17代当主。
芦名家、田村家の度重なる領内への侵攻に苦しめられるが、
忠臣の須田盛秀の献身的な働きにより、辛うじて領内を守りきる。
しかし後に領主としての力がないと判断された盛秀に、酒宴の席で謀殺された。
最も信頼していた家臣に裏切られた輝行のショックは大きかったと思われる。

伊達政宗(?〜?)

輝宗の子。
輝宗が人取り橋の戦いの際に、人質になった時にも構わず
容赦なく父親側を撃った。しかし二階堂の隙をついて
脱出した輝宗に、「不心得者」と叱咤されてその場で手討にされた



1543年、奇妙な鉄の棒を持っていたポルトガル人が種子島で島民に殺害されたという

武田晴信

武田信虎の子、信虎に不満を持つ一部重臣に利用され追放を試みるが、結局は暴かれ自害した。
信虎は日頃から彼の無能さに嘆いていたという。
統率47
智謀35
政治18




三好義興(1531〜1580)

河内の戦国大名。
父長慶の死後家督を継承。
優秀な叔父達の後見の元、六角・畠山を滅亡させ、畿内の権力抗争を終結させる。
さらに四国・東海にも手を伸ばし、これもほぼ統一。
三好家の天下を誰もが疑わなかったが、父の代からの重臣松永久秀が突如謀反。
当時京都の屋敷で連歌会を催していた義興の周りには全く兵は居なかった。
こうして天下統一を目前にして義興は業火の中に生を終えた。享年49歳。
また、松永久秀は一時畿内を掌握したものの、中国を攻略していた三好三人衆が
7日で引き返し、敗北。居城の信貴山に敗走の途中、農民に討たれて絶命。
「松永の3日天下」という言葉を残す事となった。
また、三好家の後継者を決める「飯盛会議」が行われ、三好三人衆が「十河義継」を
推挙する。しかし、実権は三好三人衆が握ったままであった・・・。


諸葛亮

諸葛謹の弟。劉備の使者として会戦を渋る孫権の元へ会戦をけしかける為に来たが、
無礼な態度をとったため孫権の怒りを買い斬り殺された。

武力23
政治71
知力68
魅力27
390296(前スレ復刻ネタで保守):2007/02/19(月) 23:00:29 ID:gEf7UeT8
関羽雲長
故郷の河東で人を斬り、関羽と名前を変えて逃亡者となった。
放浪中、琢郡で出会った劉備玄徳に官憲に突き出され、あえなく死刑となった。


織田・松平5代の怨恨
1.信秀vs清康
 守山崩れにて清康死亡、勢いに乗じて岡崎に攻め入った信秀、
 井田にて松平の寡兵に討たれる。
2.信広vs広忠
 安祥・岡崎にて対峙、小豆坂にて広忠死亡、
 太原雪斎率いる今川軍の後援を得た松平軍が安祥を強襲し、
 尾張へ逃げ遅れた信広自害。
3.信長・元康
 1560年、今川義元が大軍を率いて尾張に来襲。
 元康、佐久間大学を討つも、織田・今川本隊同士の最終決戦
 「庄内川の合戦」にて先鋒の元康討死、寡兵の信長も今川勢に討ち取られる。
 信長の遺児奇妙丸、西国に亡命。元康遺児竹千代、
 幼弱ながら今川一門として松平家相続を認められる。
4.信輝(信忠)vs真康(信康)
 信長死後、その遺臣に連れられて西国各地を放浪した奇妙丸が
 最終的に行き着いたのが毛利家、上方に安定勢力が現れないため
 自ら天下を取るべく邁進。奇妙丸、当主輝元の偏倚により「信輝」。
 毛利上方進出の際、側女を持ち一子「三法師」を得る。
 もう一方の松平竹千代も義元の子氏真の偏倚を受け「真康」。
 年増し後家の西郷氏との間に1子「長松丸」を得る。
 今川家と武田・北条との同盟関係も今や今川が盟主的な関係。
 天下取りを目指す両家m1582年、近江愛知川にて初の衝突。
 両軍、未曾有の損害を出す戦となり信輝・真康相討ちの一騎討ち。
 あまりの損害のため、両家10余年の静寂を余儀なくされる。
5.就信(秀信)vs氏忠(秀忠)
 長年沈黙を守ってきた毛利と今川が 1600年、関ヶ原にて激突。
 織田・松平の間にも最終決闘!その勝敗は不明。


毛利元就
左馬頭。安芸の土豪。病死した兄の跡を継いで当主と成り、
尼子家と大内家の境で勢力をじわじわと広げていたが、
陶全姜を厳島におびき出そうと姑息な手段を弄したことが
江良三河守に見破られ、全姜の意を含んだ家臣井上元兼に暗殺され死亡した。
このことから、短慮の人を「毛利の浅知恵」というて嘲るようになったという。
(『陶藩閥閲録』)大河ドラマ「陶全姜」では妻に頼り子に当り散らす
徹底した小人物として描かれていたことは記憶に新しい。
毛利元春
元就の次男、吉川家の養子となっていたが、父が暗殺されてからは
養家を追放され、甥の輝元を連れて諸国を放浪。羽柴秀吉に仕え
毛利家再興を願い上月城に拠ったが、陶の大軍に包囲され自刃した。
毛利隆景
元就三男。小早川家の養子となっていたが、父が暗殺されてからは
養家を追放され、四国を放浪した後長曾我部家に仕え、家老にまで昇進。
関ヶ原の役のおり、長曾我部家分裂の危機を収拾し、久武内蔵助を切腹させ、
幕末まで続く長曾我部藩二十四万石の基礎を築く。幕末の長曾我部藩参政
毛利象二郎(敬親)は子孫である。
391296(前スレ復刻ネタで保守):2007/02/19(月) 23:01:33 ID:gEf7UeT8
織田信長

茶人。三郎、無楽斎と号す。戦国武将織田信秀の子。
優秀な能力を持っていたが、その奇抜なセンスが親や家臣に全く理解
されず、信秀没後の後継争いに敗れ、諸国を放浪。
堺で今井宗久の弟子となり、卓抜したセンスで独創的な茶器を作り、
茶人として天下第一の名声を得るも、天下を再統一した将軍足利義輝と
次第に対立を深め、1582年京都本能寺茶室天下布文庵に於いて
自刃を命じられ、管領土岐(明智)光秀の監視の元、弟子の松平元康に
介錯され死亡した。室生駒氏との間に生まれた常真斎信雄が茶道織田流を
三河松平藩に於いて再興し、その流派は現代でも続いている。
尚、信長自刃の折下人で黄金細工に優れた猿の藤吉なるものも殉死し、
「下人といえども人情を知るもの哉、世が世なれば天下を取るべき人
だったやもしれぬ」と土岐(明智)光秀は嘆息したという
(光秀公記『織田無楽斎の事並びに下人忠義の事』)。


孫権

呉皇帝孫策の弟。勢いに任せて何事も逸る兄をたびたび諌めた。
しかし、そのために兄から疎まれ表舞台で活躍することはなかった。
生活は質素、たまに酒をたしなむ程度で、人当たりもよく特に張昭との仲が良かった。


大阪夏の陣

1615年、徳川家康・秀忠親子が豊臣秀頼の立て篭もる大阪城を攻めた。
当初は徳川軍の圧勝かと思われたが、真田信繁・毛利勝永の捨て身の突撃で家康・秀忠親子が討ち死にするという事態に。
結局大阪城は落ちず、徳川家では家督相続争いが勃発。地方でも関ヶ原で改易された大名の残党が蜂起するなど、再び戦国の世に戻ってしまう。
そこにつけ込んだイギリス・スペインなどのヨーロッパ諸国の侵略を受け、
以後、1867年にTYOUSYU・SATUMAが海外勢力を追い出すまでの250年以上にもわたり我が国は植民地支配された。



【織田信長】

尾張半国の大名・織田信秀の実子。
嫡男であったが、信秀の葬儀で見せた奇行な振る舞いなどで家中の反感を買い、
それをいち早く察知した信長は、尾張を去り、遠く武田信玄の元へと流れた。
武田家では人が変わったようにめきめきと頭角をあらわし、
尾張の大うつけ、甲斐では楠正成と称され、その名声は遠く京まで轟いたという。
また正式に信玄の養子となり、その頃から武田信長を名乗った。
1570年、武田家は信長の活躍などもあり、ついに宿敵上杉家を倒した。
またその頃、今川義元は、織田、北畑を倒し西へと勢力を拡大していたが、
信玄の急成長に同盟を一方的に破棄、大勢力どおしのぶつかりあいとなったが、
密かに北条家へ武田を味方するよう画策していた信長の活躍もあり、
やがて今川は押されてゆき、やがて滅んだ。
そして満を持して義昭と共に上洛を決行した武田は、ついに名実ともに日本最大の大名となった。
将軍となった義昭はすぐに信玄に副将軍を与えたが、信玄の重臣となっていた信長が信玄に対し、
受けるべきではないと主張したため、やむなく辞退した。
その態度に不信感を募らせた義昭は、信玄打倒を発したが、すでに信玄の敵と言える者はおらず、
やがて義昭はそれを口実に処刑されてしまう。
そして信玄は将軍に任じられるが、その途端病死、
今川との戦いの際に義信はすでに死亡していたため、勝頼が跡を継ぐはずだった。
しかし信長の実力を疑わない家中の者や、信長の直臣によって、信長が担がれたために内乱が起きた。
やがて勝頼が敗れると、その一派は粛清され、武田家は信長が正式に跡を継ぐこととなった。
そしてとうとう日本を統一、ここに武田信長による天下は来た、と、

甲斐公記は伝えている。
392296(前スレ復刻ネタで保守):2007/02/19(月) 23:02:08 ID:gEf7UeT8
豊臣秀吉

尾張中村の農民の子。
織田信長に仕え、人望と知略を用いて戦功を重ね、足軽から一国一城の主へと出世し、羽柴氏を称した。
その後、信長の中国進出の中心を担う。
天正十年、備中高松城を包囲中に本能寺の変を知らせを受け、素早く軍を帰し山崎の合戦で明智光秀を破った。
翌年、柴田勝家を滅ぼして信長の後継者の地位を確立。
天正十二年、小牧長久手にて織田信雄・徳川家康と戦い、後に講和。
同十三年に四国の長宗我部氏、同十五年に九州の島津氏を平定。この間、関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜る。
天下統一まであと一歩という、天正十八年、後北条氏の小田原城包囲中、帰順していた奥州の伊達政宗によって放尿中に殺害される。
このとき秀吉は、自らの太刀を政宗に預け後ろに控えさせ、得意げに兵法を語っていたという。


徳川家康

幼い頃は織田・今川の人質として過ごし、桶狭間の戦い直後に岡崎城に帰り自立。
以後は織田と同盟を結び今川・武田と戦い、本能寺の変の混乱に乗じて三遠駿甲信を領する大大名となる。
1度は秀吉と敵対するも後に臣従し、小田原征伐の後に関東へ移封され、
豊臣政権下の大名の中で最高の地位を得る。
秀吉の死後、石田三成と対立し関ヶ原にて決戦を展開するも、
傍観していた小早川秀秋の陣へ不用意にも発砲し、秀秋の逆襲を誘発、大敗した。
家康は逃走中に捕らえられ、京都六条河原にて処刑された。

前田利家

織田家家臣。後に秀吉に従う。
甥の前田利益が出奔する際、水風呂に入れられて心臓マヒで死亡した。



島津義弘 天文四年(1535)〜元和五年(1619)
1600年 義弘66歳のとき関が原の戦いに参戦。
小早川某の裏切りを事前に察知し、鉄砲を撃ちかけこれを未然に阻止。
その後、大谷刑部小輔らと共闘。
藤堂高虎、京極高知、さらには徳川四天王、井伊直正を討ち取るなどの戦功をあげるも、戦い自体は膠着状態に。

およそ一週間の攻防の後、送れて参陣した徳川家嫡男、秀忠軍2万5千の活躍により、戦況は一変。
一気に劣勢と化した石田軍に早々と見切りをつけた義弘は、豊久や盛淳にそれを提言。前代未聞の撤退戦を開始する。
乾坤一擲の檄をもって徳川本陣を急襲した島津軍はそのまま松平忠吉を討ち取り、本多忠勝をも敗走させ、
近江の国、水口までの退路を確保した。

しかし、そこで義弘に急報が舞い込んだ。
関が原の戦いが膠着したことにより、その間隙を縫って挙兵した黒田如水が九州を平定したとの報せが届く。
進退きわまった感のある義弘であったが、その後の行動は素早かった。
まず大坂、堺に軍を向けた義弘は、人質となっていた自身の夫人と忠恒の夫人を救出。
そのまま海路をとり、北上。上杉景勝の下に参じ、これに臣従。
家康を今度は背後から脅かす存在となる。
393296(前スレ復刻ネタで保守):2007/02/19(月) 23:03:05 ID:gEf7UeT8
【石田三成】
治部卿、左吉。戦国〜江戸初期の徳川家臣。
近江の国に生まれた彼は、織田家臣羽柴秀吉によって武将として見出され、
薫陶を受け、次第に頭角を表した。しかしそんな彼を悲劇が襲う。
1582年、山崎の戦いで主君秀吉が戦死。信義に薄い羽柴家臣は
次々に敵の明智家に使えたが、義に篤い彼と親友の大谷吉継(越前鯖江藩祖)
・片桐助作(摂津茨木藩祖)の三名は「主君の仇とは伴に天を頂かず」といい、
徳川家に仕官。家康は彼の優秀さを一目見て気に入り、
井伊万千代とともに近習とする。
「へいくわい者」と呼ばれた三成は負けん気と得意の弁舌を生かし、
信濃の真田昌幸・越後の上杉景勝など徳川家と反目していた大名を
次々に徳川方に付け、柴田勝家を破った明智光秀に対抗しうる勢力を
作り上げる事に成功する。これにより天下は東西に二分され、
1600年の関ヶ原の戦いまで決着の付かない混戦状態となった。
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍師として中山道を通過し、
戦が不得手な秀忠に変わって西軍・福島正則を討ち取る活躍を見せた。
関ヶ原の後、故郷の近江長浜に於いて十二万石を領し、江戸幕府初代老中
として武家諸法度などの制定を行った。
柴田勝家養女(茶々)と大恋愛の末結婚し、妻との間に重家・(羽柴)秀頼
の二男があり、羽柴家を継いだ秀頼は豊後日出藩祖として幕府に重きをなした。
1632年、徳川幕府の長老として惜しまれながら死去。

【武田信玄】
一説に上杉家臣武田義信の父という。晴信、信繁とも。
甲斐源氏武田氏の末裔。
寵童上がりの佞臣高坂弾正にそそのかされ、譜代の臣をないがしろにし、民に圧政を強いたと伝わる。
謀略と裏切りをもって諏訪や信濃など周辺諸国を併呑するが、信濃に侵攻した上杉謙信に敗北、甲斐に逃げ延びる途中、落武者狩りの一揆農民に討ち取られる。
現在、長野県・山梨県には武田氏時代の事跡は何一つ残されておらず、居城の場所さえ定かではない。
郷土史家の中には、上杉謙信が残した謙信堤や棒道の一部は、武田時代に既にあったと身びいきな説を唱えるものもあるが、真偽は論をまたない。
高坂弾正の暗躍は、江戸時代に歌舞伎などにより民衆に広まり、陰湿な悪役の代名詞として有名。
戦前、榎本健一が演じた「川中島の戦い」の武田信玄は、毛ずねをむき出しに逃げまどうさまが、古来より伝わる信玄のイメージをよく伝えており、人気を博した。

織田信長(1534〜157?)

近江安土の地に大層な御殿を建てて移り住み
天下の掌握も間近かと思えたが、
突如、御殿のある丘が大爆発を起こし、
御殿は跡形も無く吹き飛び、信長自身の遺体すら発見できず。

後の調査で丘の地中に空洞ができ
つるはしや焔硝などの遺留品も多数発見。
同様の事件が同日、岐阜でも起き長子信忠が死亡、
その他、織田一門の居城、徳川父子の居城2つなどでも
大小の出火が起こり、織田・徳川家を狙った
同時多発テロ的な様相を見せる。

安土・岐阜に関しては長篠で手痛い惨敗を喫した武田が
金堀衆を使って起こしたものと思われる。
394296(前スレ復刻ネタで保守):2007/02/19(月) 23:04:40 ID:gEf7UeT8
長宗我部盛親

土佐の大名長宗我部元親の息子。
関ヶ原の戦いで西軍に付き所領を没収される。
その後は寺子屋の師匠として生活を立てようとしたところ
「元大名の寺子屋」という評判が人を呼びこれが大繁盛。
後に寺子屋から青年を対象にした私塾と改変。
医学・理学・法学など総合的な学問を扱い、
今日の大学の元になるような教育体制を整備する。
現在の私学の雄「長宗我部義塾大学」の創始者。
高額紙幣の顔として老若男女に知れ渡っているのは周知のとおり。

羽柴(豊臣・徳川)秀頼
江戸初期の大名。大和郡山藩祖。
豊臣秀吉の第二子として生を受ける。母は浅井氏(淀殿)であったが、
生まれてすぐ北政所の元に送られ、柳生石舟斎に剣術を学び、
質実剛健な人物となった。大柄な彼は体格を生かし、自ら
豊臣新陰流を創始し、石舟斎から絶賛されたという。
幼い頃から英明を謳われた彼は、時代の趨勢は既に徳川幕府に傾いて
居る事を知っており、二条城で徳川家康と会見した時、大坂城返上を明言。
家康をあっといわせる。大野治長や生母浅井氏(淀殿)はこの
発言に激怒し、1615年秀頼の子国松を秀国と改名させて
後を継がせ、豊臣政権復活を図るが、機先を制した秀頼が
豊臣新陰流の剣を以って大野を斬殺。秀頼の意を受けた片桐且元が
淀殿を出家させ、計画は頓挫する。
大坂城を去った秀頼は、大和柳生に於いて愛妻・千と伴に
しばらく隠棲していたが、家康は彼の英明さを愛し、
羽柴秀長の家を継がせ大和郡山一万石の捨扶持を与えた。
その後、柳生宗矩に推挙され堺奉行となり、秀吉により破壊された
堺の復興に尽力し、父秀吉が猿とあだ名されていたことに因み猿飛佐助という
偽名を使って真田信繁・大岩(長曽我部)祐夢と伴に諸国を巡回し、
悪人を退治するなど、多方面で活躍した。
徳川姓を賜り御三家に準ずる扱いを受け、石高は最後には15万石に達している。


孔明「陛下、宿敵魏を討つため出陣のご許可を!」
劉禅「その心意気やよし!ならばいっそ朕が親征しよう!」
孔明「陛下、そ、それは・・・」

その時歴史が動いた!

【呂蒙】
勉強しなかった
知力0

毛利元就
中国地方に磐石な基盤を築いた元就は1566年突如大船団を率い朝鮮半島を攻めた、ポルトガルの援助物資を得た毛利軍は1570年朝鮮半島を統一、翌年元就逝去。追記 猿が調子に乗って攻めてきたがやっつけた
395296(前スレ復刻ネタで保守):2007/02/19(月) 23:07:22 ID:gEf7UeT8
足利義輝
足利幕府中興の祖。
1546年。わずか10歳で父義晴に将軍職を譲られ13代将軍に就任する。
この頃将軍家は三好長慶により京を追われ衰退していた。
1552年、いったんは和解し京に戻るも再び決裂。またも京を追われる。
一度は勢力を盛り返すも再び劣勢に立たされる。
しかし長慶に幕府を滅ぼすまでの意思はなく1558年再び和解が成立し義輝は入京。
その後義輝は各地の大名間の争いに積極的に介入。上京した長尾輝虎や織田信長と誼を結び徐々に名声を高める。
更に1564年幕府を牛耳っていた三次長慶が死亡。その兄弟、嫡男も既に死亡しており好機と見た義輝は一気に勢力の巻き返しを計る。
だがその動きを危惧した三好三人衆と松永久秀らは御所を襲撃。

この最大の危機に義輝は、上泉信綱・塚原朴伝に習った剣術の腕前を遺憾無く発揮する。
押し寄せる敵兵の中を側近達と共に決死の突入。三好三人衆・松永秀久を討ち取り危機を脱したのである。

危機を脱した義輝は、この事態を逆に利用。
将軍殺害を企てた三好家の討伐令を、一色・波多野・六角などに発令。
この討伐令の効果は大きく、十分な兵力を揃えた義輝は三好家に決戦を挑む。
家中の中心人物を立て続けに失った三好家は討伐軍に抗せず本拠地讃岐まで勢力を後退させる事となった。

これにより、足利家は畿内の大和・摂津・和泉に基盤を獲得。
これを日本再統一の足がかりとしていくのである。


【高祖・袁世凱】
現代中国帝室の祖


396296(前スレ復刻ネタで保守):2007/02/19(月) 23:13:06 ID:gEf7UeT8
大内義長

大友宗麟の異母弟。
1544年大内義隆の養子になる。この時、周防行きを諌めた兄に「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らずや」と言い放ち決定的な対立を招く。
1551年の陶晴賢の乱では相良武任と陶晴賢両者を和解させ義父義隆隠居で決着、という電撃的な政治工作を見せ大内領内の動揺を最小限に抑える。
また義父の代から仕える毛利元就を国人から切り離し、直臣として参謀に迎える。
この事により仲の悪くなった陶晴賢を1555年の厳島神社参詣の折に暗殺。
また、1560年には月山富田城を元就の奇策で奪取。尼子晴久・義久親子は戦死。
元就の奇策とは1542年の月山富田城攻めの二の舞に見せたもので、大内麾下だった吉川・本城・三刀屋などの国人衆が攻めあぐねる大内に愛想を尽かし、
尼子に寝返ったように見せかけて内部から火の手を放つものであった。
すでに元就の謀略によって尼子宗家から離れ、大内に帰属していた新宮党尼子誠久との壮絶な一騎討ちの末晴久は討たれたとある。
1568年にはついに宿敵大友宗麟との北九州を巡る一進一退の戦いが始まる。
立花鑑載・秋月種実・高橋鑑種・龍造寺隆信など反大友諸将と連携するも、戸次鑑連・吉弘鎮種・一万田鑑実など大友麾下の前に各地で苦戦。
ついに業を煮やした義長は元就の制止も聞かず、立花ら諸将を糾合して多々良浜で決戦に及ぶ。
大内軍3万大友軍2万3000の戦い、誰もが大内優勢を信じて疑わなかった。
ところが戦の最中に大内軍最左翼に陣取る筑紫広門が返り忠を働き、ほぼ同時に遅参してきた蒲池鑑盛率いる筑後からの大友の援軍1000に右翼を衝かれ総崩れになる。
殿軍を務めた毛利隆元を始め立花鑑載・龍造寺長信などの戦死者を出し筑前・豊前から大内の勢力は一掃される。
またこの戦いの参謀を務めた江良長栄(房栄より改名)は責任をとり切腹。
義長は自らの責任を被り、大内軍内部崩壊を防いでくれた長栄の為に涙を流したという。
これが後に言う「泣いて長栄を斬る」ということわざである。
397296(前スレ復刻ネタで保守):2007/02/19(月) 23:14:06 ID:gEf7UeT8
また、この敗北により各地の反大内勢力の動きが活発になる。
出雲には尼子秀久・倫久兄弟が、備後には三村家親が侵入を繰り返すようになる。
これらの動きに対し義長は再び元就を参謀に迎え、適切に対処していく。
1570年には神西城に尼子兄弟を破り秀久を討ち、倫久を敗走させる。
また翌71年には芦田川の戦いで三村家親を大敗させる。この年元就が亡くなり、元春は毛利を継いでいたので、隆景を新たに参謀に任命する
このころから伊予の河野通宣が援軍を求めてくるが、兵力不足を理由に断る。
1573年には再び九州に上陸。雪辱を試みるも大友に匿われていた大内輝弘が宗家を名乗り、大友の援助で山口に乱入。仕方なく1週間の滞在で退陣し、輝弘を敗死に追い込む。
輝弘の「捨て駒や いつか花咲く 布石かな」は辞世の句としてちょっとした話題になる。
74年ついに重い腰を上げ伊予に兵を出す。河野・西園寺と連合し一条・宇都宮・大友連合と戦う。小競り合いに終始したが敵勢を追い返し数城を奪う。
その直後、毛利元就の息子元清を河野通宣の養子にし河野家乗っ取りに成功する。
翌75年には宇都宮豊綱を滅ぼし中予平定。すでに大内麾下になっていた西園寺勢を加え一条氏を滅ぼす。
76年には三度九州に上陸。猛烈な勢いで途中の諸城を抜き、立花山城を包囲する。
だが小勢の立花道雪の前に釘付けになる大内軍。そうこうしてる内に大友の軍が集結という話を聞いた義長は包囲を解くと門司まで後退する。軍内からは「戦う前から退却か」と不満の声が上がるが、
ここで義長は船は対岸の下関にあり、退路は断たれている事を宣言。諸将の顔色が変わる。
大友軍は敵が背水の陣である事を見抜くと、兵糧攻めにしようと下関からの水軍を完全に叩き兵糧運搬を阻止しようと田原親貫が提案。これに反対する道雪・高橋紹運と賛成する若手に意見が割れるが
結局採用され、大友水軍100艘は下関に向かう。だがこれが隆景の策謀であった。
壇ノ浦で迎え撃った大内水軍は潮の流れを利用し、潮が逆転する前に一気に殲滅したのである。
源平合戦の再現はならなかったのである。
また同時に義長率いる本隊も猛然と大友軍に襲いかかったのである。
大内軍2万6000に対し大友軍4万5000と数の上では劣勢であったが 狭い地形では戦線が伸びるはずもなく、実際に戦ってるのは7000対8000とほぼ互角であった。
大内勢は背後が海という状況に加え義長自ら太刀を奮い督戦したため、士気がいやが応にも上がっていった。また大友勢は緒戦こそ互角に戦って見せたものの
三刻も立つとじわじわ押され始め、水軍潰滅の報を聞き兵は浮き足立って次第に崩れ始めた。
一度崩れた態勢が立てなおせるはずもなく大友勢は夕方には退却していった。
義長は追撃を試みようとしたが、道雪や紹運が整然と軍をまとめ下がったので無理に追わず、この門司の戦いは大内軍の圧勝に終わった。義長の鎧は返り血で真っ赤だったという。
大友軍は立花山城を放棄し、豊前・筑後に兵を戻したので義長は立花山城に入城し筑前平定果ては宿敵大友宗麟との直接対決にこれからという時、1578年病に倒れこの世を去る。
398人間七七四年:2007/02/20(火) 10:45:36 ID:vh1jIOeT
池田秀雄

滋賀県を中心に展開する中堅スーパー、佐々木六角堂の営業部長。
同僚に後藤高雄さん、布施公雄さん、などがいる。
399人間七七四年:2007/02/20(火) 12:57:05 ID:d6GTKXRR
武田勝長

信長の五男。北畠信雄、神戸信孝、羽柴秀勝、長野信包に続き武田の名跡を継いだ。
ちなみに兄の信孝は四国平定後十河の名跡を継いでいる。
これは弟勝長の武田に対すして信孝の格を上げるための信長の配慮だと思われる
400人間七七四年:2007/02/20(火) 21:20:56 ID:Hij9e06Q
織田上総介信長

尾張半国の大名織田信秀の嫡男。父信秀の死後、一族との争いの末一時的にせ
よ尾張統一を達成する。しかし今川義元の上洛に際し、家臣等の籠城説を退け
無謀にもわずかな兵で田楽狭間に義元の本陣を強襲するという奇策にうってでる
だが、信長の動きは事前に察知されており、目指す義元の本陣を目前にして壮絶
な最期を遂げた。若い頃から奇矯なふるまい多く、おおうつけと影でささやかれ
ていた。その末路もまた死の恐怖のあまり錯乱した信長の自殺行為であったともいわれる。
401人間七七四年:2007/02/21(水) 23:20:51 ID:FY6lGvqJ
織田信長

信秀が急死し家督を継いだ、部下の離反などで尾張の四分の一以下の領土になるも数年で尾張を
その後は今川義元を破り美濃も10年足らずで取ってしまった 僅か15年で100万石の大領土を持つまでになったのである
だが、その辺をブラブラ歩いていたところを殺される
402人間七七四年:2007/02/23(金) 09:11:55 ID:pYGYq1uU
武田信玄(1521-1561)

武田信虎の嫡子。第4次川中島の戦いにおいて、単身乗り込んできた
敵大将・上杉政虎の一撃を軍扇で受け止めようとして失敗、軍扇ごと
脳天から叩き割られて即死した。
撤退に際し見事な手際を見せた嫡男・義信が武田家を継ぎ、家中の混
乱を鎮めた。


上杉政虎(1530-1561)
上杉為景の次男。晴景の弟。第4次川中島の戦いにおいて単身で敵陣
に乗り込み、宿敵・武田信玄を討ち果たした。だが宿敵を葬った喪失
感からか、呆然としていたところを四方八方から斬り掛かられて斬殺
された。
撤退に際し冷静な采配を振るった一門の長尾政景が信望を獲得し、
政虎の甥でもある息子・景勝の後見として政を司った。


この故事に因んで、「大将の一騎駆け」は後先を考えずに行動して敵
味方双方が自滅する様を表す意味に用いられるようになったという。
403人間七七四年:2007/02/23(金) 10:32:58 ID:hWn1la7w
武田信虎(1494-1574)

旧甲斐国主。子の晴信によって駿河に追放され、
駿河でも義元死後の今川家の転覆を図って氏真に追放された。
志摩の地頭の元に客分として滞在していたが、
地頭たちと九鬼嘉隆が対立すると九鬼方に寝返り、地頭方を打倒した。
信虎は嘉隆を陸戦の巧者として支え、末裔は三田藩家老となった。
404人間七七四年:2007/02/26(月) 11:36:41 ID:DitC4wkd
弥助(?−?)

本能寺にて主人である織田信長が討たれたのち、諸国を放浪。
新たな舞の流派である段須を創設する。また邪図と呼ばれる独特な音色を考案したことでも有名である。
なお現在の駄洒落は弥助の言葉遊びに端を発しているという説が有力視されている。
405人間七七四年:2007/03/13(火) 12:09:41 ID:oa1iANZ2
ホッシュ(・∀・)
406人間七七四年:2007/03/14(水) 06:17:35 ID:JvrTEEFS
筒井順昭(1523〜1616)

大和の国人から出発、盲目の身でありながら、ついに戦国時代の終焉を導いた筒井幕府初代将軍。
筒井時代300年を通じて神君と崇められた。現在も繰り返しドラマ・小説で取り扱われ、人気が高い。

晩年の順昭に仕えた儒者・林羅山は「郡山政事録」で奇妙なことを記している。
慶長17年、順昭は家臣を前にこんなことを語ったというのだ。
「奈良で拾われ、三年間の約束で筒井の城に入った。三年が過ぎたが、元の木阿弥になるのが嫌になった」

この記述などをもとに、「本物の順昭」は1550年に死亡しており、その後の「順昭」は奈良の盲人・木阿弥だと
する「順昭影武者説」がある。これに従えば嫡男・順慶との確執や非情な一族粛清も説明がつくと言われるが、
史実を覆すだけの確証はなく、伝奇小説家の題材を豊かにする俗説にとどまっている。
407人間七七四年:2007/03/14(水) 19:42:21 ID:kow2PCrS
織田信長
尾張守護代・織田氏の家を相続し
尾張を支配、上洛途中の義元を奇襲で破って以降
昇竜の勢いで天下の覇権を窺うまでになる。
 天下統一後は石山本願寺跡に壮麗な大阪城を建立
城内には内裏を設けて帝を招聘するなど
従来の日本にはありえない強力な中央集権的絶対王政を樹立する。

 が晩年に行った唐入りは信長最大の汚点ともされており
イスパニアと同盟して(これは遠洋航海の技術と砲術を得るためだとされる)
大明征伐にのめりこむ。
結果的に明を征服はできなかったが
イスパニアはキリスト教布教の許可
日本は大陸沿岸部の永代租借と交易での優先権を獲得し
この遠征をきっかけに日本が海外進出を行ったことは
後の史家から賛否両論が出ておりいまだに結論が出ていない。

 日章旗の翻るもと日が沈むことなしと歌われた
七つの海に君臨する大日本帝国の礎を作った人物であるのは確かで
ヨーロッパでは海のジンギスカーンと恐れられ
世界史に与えた影響も大きい。
408前スレネタ保守:2007/04/15(日) 02:39:45 ID:owTGTkz9
徳川家康(1542〜1615)

大坂夏の陣にて真田隊の猛反撃に遭い、数度の本陣後退。
輿に乗っての退却中、真田方の将兵により
輿の外から槍を受け絶命し、遺体は近くの南禅寺に葬られる。
世上の同様を防ぐため、1年限定で小笠原秀政が影武者を勤め、
南禅寺にひっそり眠るは家康、東照宮で大いに祀られるは秀政・・・。


鳥居強右衛門

徳川・武田に仕えた奥平貞昌配下の足軽。
貞昌が武田家から徳川家に鞍替えし、長篠城を包囲されると得意の泳ぎで武田の包囲を突破。織田信長に援軍を要請し快諾させた。
しかし、城への帰りに武田軍に捕縛され、磔にされる。
武田軍から「援軍は来ないと叫べば助ける」と言われると言われた通りに叫び、これにより長篠城は落城した。
城の救援に駆けつけた織田・徳川軍も落城の報を聞き退却する途中に追撃を受け、殿を務めた本田忠勝が討ち死にするなどの被害を被る。
このことで強右衛門は武田家に召抱えられ、武田勝頼に従い各地の合戦で活躍。
武田家の天下統一の折に長篠城など5万石を与えられた。
409前スレネタ保守:2007/04/15(日) 02:40:23 ID:owTGTkz9
島津義久
●天文ニ年(1533)〜慶長十六年(1611)

  永禄九年(1566)、貴久から家督を継いだ義久は、弟の義弘らとともに領土拡張に乗り出し、
天正十三年(1585)、九州統一を実現した。
その後二度にわたる秀吉の九州出兵をしりぞけ島津九州国の実力を示すことになった。
  土佐・長曾我部元親の嫡子・信親、毛利両川の一翼吉川元長は、この時に島津の捕虜となり
その後島津の客将となっている。
  琉球王国を服属させ島津九州国として大陸の明朝に朝貢の使者を送り九州全土(及び琉球)の
統治権を認められ、国号を筑紫と定め独立王国の道を歩むことになる。
博多、長崎などの良港に恵まれ積極的な海外交易で経済通商機構の整備を進め軍事・経済大国として
世界史に登場していくこととなる。
  
   文禄一年(1592)、家督を弟義弘に譲る。この際に秀吉自らが博多に義久を尋ね
翌年には秀吉が朝廷に言上し義久には鎮西管領、義弘には九州探題の官職を送る。
これは秀吉一流の島津家の懐柔分断であったが
文禄四年(1595)、義久が正式に引退し剃髪して龍伯と号した事から、この目論見は頓挫する。

同・文禄四年に島津の大艦隊が高砂(台湾)征伐を敢行、これは倭寇退治であると弁明されたものの
明朝との関係は悪化している事から推察して、日本の関係回復に伴い大きな海軍力を直接日本に
向けることが不可能となったので、対外的な軍事誇示としてなされたとの見方が大きい。
九州でのキリシタン布教認可の代わりにポルトガルの布教代表コエリヨから借款せしめた
この時の遠洋艦の製造技術はその後、日本にも伝わり海外進出に大きな貢献をしていくこととなる。

  島津九州王国の存在感が秀吉の奥州征伐を遅らせたことは事実であり、もし仮に島津が秀吉に屈服
するような事態になっていれば、政宗は奥羽統一を待つことなく摺上原の戦いの近辺で秀吉の征伐を
受けていたとする史家も多い。
  政宗が秀吉に対し一定の距離を置いて奥州独立王国の立場を貫けたのは島津、豊臣との等距離
外交にあったとする点は論をまたないところで、実際、後進性の強い奥羽の王者として上方の秀吉と
対抗するため島津の仲介でイスパニア貿易の振興や島津との軍事協力で実力を養っていく。

  小田原北条氏の攻略に兵を派遣するも一切の恩賞が伊達家には与えられず
250万石という大封で徳川家康が関東を与えられたのは伊達政宗と徳川家康を牽制させる為とも言われる。

○関白太政大臣・豊臣秀吉
  版図:九州と奥羽を除く日本
○陸奥守、鎮守府将軍・伊達政宗
  版図:奥羽、蝦夷地、樺太
○鎮西管領、九州探題・島津義弘
  版図:九州、琉球、高砂(台湾)、呂宋、他東南アジアの日本人町全般

この後日本は三国志に時代に突入していく。

秀吉亡き後の覇権を巡る争いでは関が原の合戦では家康が大勝するも、長曾我部信親、吉川元長の暗躍で
大阪に入城した島津義弘以下の島津九州軍の西軍参加で戦局は一転、
  その後の戦乱を経て
慶長8年(1603)大垣会議で和睦が成立、日本は連合王国としての道を歩むことになる。

日本連合国の確立を見届け慶長十六年(1611)大隈国分で死去、享年七十九歳
410前スレネタ保守:2007/04/15(日) 02:41:23 ID:owTGTkz9
長宗我部国親

「二階から飛び降りたら長宗我部再興!これマジ!」というお公家大名の戯言を
真に受けこれを実行。辛くも一命を取り留めたものの半身不随に。結局長宗我部
は復活することなく国親は土佐中村の寺子屋の先生として一生を終える。
出来の悪い子供に対しては月謝として一両要求したことから、こののち「一両愚息」
という言葉は土佐においては無能の代名詞となったといわれる。

淀君(茶々)

浅井長政と織田家の姫市との間に生まれるものの、時代の流れに翻弄され小谷・北ノ庄と2度の落城、そして肉親の死を経験する。
家来筋である豊臣秀吉の側室の一人と成り下がるも、彼の子を二度も懐妊する僥倖にめぐまれ秀吉の死後正妻である北の政所を追放し幼い秀頼を後見し豊臣家の実権を掌握。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍が敗れた後は豊臣家の将来を案じ勝者徳川家康の人質として江戸下向し、戦火の拡大を未然に防いだ。
その後秀頼とその庶子国松が夭折すると妹お江の生んだ国松を養子として豊臣家の家名を存続させたが、世間では「浅井家が豊臣家をのっとった」と悪評を受ける結果となり淀君は憂悶のうちに死去。

なお、淀君の死と同日、腹心であった大野治長もまた殉死したことから、秀頼の出生の秘密について後世の歴史家がいろいろ憶測をよぶことになる。

織田信忠(1557〜16??)

幼少期に武田信玄の娘、松姫との政略婚約を結ぶ。
時は流れて1573年春、
前年三方ヶ原にて徳川軍を破った武田軍が尾張に乱入。
雪解けによる上杉謙信の動きが懸念されたが
江北戦線で浅井勢が織田方の横山城を強襲して
大勝利を収めたとの報を受けての賭けである。
武田と織田による濃尾最終決戦!
兵力では織田が5万、武田が3万ほどだが
長島一向宗の支援と連戦連勝の勢いにより武田が勝利。
その戦いの最中、信長と信忠の隊が分断、
信忠必死の奮戦で信長を岐阜に逃がし、
自身も清洲に入ろうとするも生け捕られる。
岐阜はわずか2日で落城し、信長自害。
信長自害の報を聞いた徳川父子も降伏。

捕らわれの身の信忠は自害しようと試みるも
先の戦での戦い振りに惚れ込んだ信玄が
見張りをつけ四六時中監視してそのスキを与えない。
信忠が次に採ったのは「断食」による餓死。
みるみるうちに信忠の体は痩せこけていった。
信玄は愛娘、松を呼んで信忠の看病をさせるも信忠は食を拒み続ける。
ほどなくして、信忠は危険な状態に陥る。
死の淵にて松の愛が伝わり、献身的看病により体力を取り戻す。
快復後、信忠と松の婚儀が行われ、幼少の頃の婚約が実現。

以後、信玄により密かに除かれた家康の跡徳川を継いだ信康、
後に同じく信玄の娘を娶る上杉景勝とともに勝頼を輔佐し、
武田の天下取りに貢献し、尾張1国を宛がわれる。
411前スレネタ保守:2007/04/15(日) 02:42:52 ID:owTGTkz9
浅井長政 【1545〜1583】
浅井信政 【1563〜1635】

彼が元服したばかりの頃、父久政が六角家に従属していた為、賢政を名乗った。
六角の家臣の嫁を室として迎えていたが、六角からの離反を決意。
嫁を送り返し、野良田の合戦で劇的な勝利を挙げると、家臣団の支持を得て当主の地位を父から奪取。半ば強引に隠居させた。
同じ頃、桶狭間の合戦で今川義元を破った織田信長に習って長政と改名する。
その後は朝倉と同盟を結んで北近江を席巻、六角を圧迫。武名をとどろかせた。
この為、名前の元となった信長自身も、長政に目をつける。

1563年、織田家から同盟の申し入れがあるとこれを受け入れ、
さらに4年後には信長の妹お市の方が輿入れし、織田家との関係はより強いものとなった。
翌年、織田、浅井連合軍による上洛が敢行され、宿敵六角家の打倒に成功。
同年の朝倉討伐においては、熟慮の末織田家との縁を選び、猛反対する父を説き伏せ朝倉討伐に加わる。
その功績から越前を与えられ、一向一揆と戦い続け、やがて100年に渡る加賀一向一揆を収束せしめた。

やがて嫡男万福丸が元服。信長から一文字賜り、信政と名乗った。
1577年の手取川の合戦においては軍神上杉謙信を相手に懸命に防戦。信政も見事な初陣を飾る。
その戦いぶりは謙信をして「信長に過ぎたる者が二つあり、備前守に安土の城」と言わしめた。

終生、信長との盟約を守り続けた為、「北の浅井に東の徳川」と称えられる。
戦だけではなく領国経営にも類まれなる才覚を見せ、善政を施して領民に深く慕われた。
家庭においても夫婦仲睦まじく、多くの子宝に恵まれた。

その後も上杉家との戦いを続けていくが、本能寺の変により大きくその運命はかわっていく。
越中での戦いに勝利し懸命に引き返すも、信長のあだ討ちにおいて羽柴秀吉に後れを取ってしまう。
清洲会議においては、一門かつ織田家の同盟者として三男信孝を推挙するも、結局は秀吉の功績の前に押し負けてしまう。

やがて秀吉と対立するが、謀略戦に不得手であったために、味方についた猛将柴田勝家も謀殺されてしまう。
その後はやはり本来織田家の者でなかったことから丹羽などの多くの旧織田家臣団を味方に出来ず、
圧倒的に多勢に無勢な中で行われた賤ヶ岳の合戦では、奮戦するも敗退。
先祖代々の地である小谷を焼き払われ、最期は越前北の庄城まで追い詰められて自害した。

秀吉は下賎の出であるが故に、主君の血筋を引くお市の方に横恋慕しており、
自分の元へ走れば命は助けると勧告したが、お市の方はこれを公然と拒否。夫と運命を共にした。
残された子供達は老臣遠藤喜右衛門の手引きで逃れようとしたが、秀吉によって須らく捉えられてしまう。
この時長女の茶々は自ら秀吉の愛妾となる道を選ぶことで弟達や妹達を守った。

嫡男信政は信孝の傍に仕えていたが、信孝が彼の諌めを聞かずに打って出て戦死すると徳川家康の下へ逃れる。
食客として過ごしていたが、秀吉との合戦に当たっては自ら志願して秀吉を誹謗中傷する文面を書き、これを挑発。
小牧長久手の戦いにおいては、父の名に恥じない見事な戦いぶりを見せ、正式に徳川家の客将として迎えられる。

北条征伐後の家康の関東転封に従い、関ヶ原の合戦では妹婿にあたる秀忠を補佐して徳川家の勝利に貢献。
恩賞として近江長浜城を中心とする近江38万石を拝領。浅井家再興を果たした。
江戸城中において一門かつ、初代老中として徳川家中で重きを成すが、大阪の陣が発生。
長女茶々は淀の方として大阪に、三女のお江与が秀忠の正室として江戸に。
そして末弟井頼が大阪入りしたことで西と東に分かれた兄弟姉妹がそれぞれ争う形となった。
夏の陣では、出撃してきた末弟井頼と真正面からぶつかる形となり、血涙を流して断腸の思いで采配をとったと史書には記されている。

やがて家督を嫡男家政に譲り、江戸城につめて妹婿秀忠や、甥家光のよき相談相手となり、家政は初代大老となった。
その後も長浜藩は幾人にもわたって老中、大老を輩出し、桜田門外の変で暗殺された浅井弼政は彼の子孫に当たる。
412人間七七四年:2007/04/16(月) 00:37:20 ID:JaAdCpkU
足利義輝

第十三代足利将軍。
三好三人衆と松永久秀らによって襲撃されるが、
ばったばったと三好勢を斬り倒し、その勢いで三好家を刀一本で滅ぼす。
織田信長が台頭してくると、これも斬り滅ぼし、武田・上杉・毛利等有力諸大名を次々と滅ぼし、
足利幕府の全盛期を築いた。

なお、近年光栄から発売された歴史アクションゲームゲーム「戦国○双」は
もちろん足利義輝の大活劇をモデルにしている。
413人間七七四年:2007/05/08(火) 18:30:20 ID:6uWnnr+8
age
414人間七七四年:2007/05/09(水) 14:34:10 ID:26on2Hlc
蒲生氏郷(1556-1618)
蒲生賢秀の子。飛騨守。幼少の折に織田信長へ人質に出されるが、
感じ入った信長が娘を娶らせるほど、武将としての才覚を認められていた。
信長死後は羽柴秀吉の属将として才能を遺憾なく発揮する。
だがその器は天下人となった秀吉や他の大名たちの畏怖の対象となり、
半ば左遷ぎみに会津92万石に移封された後も、秀吉だけでなく
隣国の伊達政宗などからもその命を度々狙われることになる。
1595年には逗留中の伏見で毒殺されそうになるが、
石田三成の怪しい動きを耳にした家臣が事前に察知して事なきを得る。
これら一連の秀吉側の動きに強い危機感を覚えた氏郷はその年、
家督を嫡男・秀行に譲って早々と隠居し、実質上の院政状態に入る。
だが秀吉の追及は緩むことなく、言いがかりともいえる失政を突かれて宇都宮12万石に減封されてしまう。
それでも耐えることを選んだ氏郷は、秀吉死後の動乱で徳川家康に同調。
秀行を東軍本体に同行させる一方で、自らは自領の宇都宮で結城秀康と共に上杉軍を牽制。
戦後、その功で蒲生家は、元より大幅に少ない石高ながら会津領に復帰を果たす。
その後、秀行が夭逝すると氏郷は急遽当主に復帰。老齢をおして出陣した大坂の陣でも鯰尾の前立を押し立てて活躍する。
氏郷には他に男子がいなかったため、家康から孫の忠長を養子に迎えることを打診されて承諾する。
1618年、氏郷は蒲生家の将来を案じながら、自分が建てた会津若松城で62年の生涯を全うする。
氏郷は最期、「万代の 高み目指さば いざ行かん されど我が田に 萌えぬ苗代」と、
跡継ぎに恵まれなかったことの無念さを、会津の地名に掛けた辞世の句で表している。

忠長が継いだ蒲生家は氏郷とは全く関係ない藩になって駿府52万石に転封されるが、
その後、忠長が不行状で改易されたことにより、ここに蒲生家は断絶した。
415人間七七四年:2007/05/27(日) 11:22:43 ID:VgaBycEl
期待アゲ
416人間七七四年:2007/05/27(日) 11:23:28 ID:VgaBycEl
再度あげ
417人間七七四年:2007/05/27(日) 14:11:14 ID:Jhv5BGCw
418人間七七四年:2007/05/27(日) 15:15:36 ID:m5j3xm0s
黒田如水(1546〜1604)

信長の中国征伐に際して主の御著城主・小寺政職を説き
織田家麾下に入り、毛利攻めの羽柴秀吉に協力する。

信長に謀反を起こした荒木村重を説得する為、伊丹城に入るが捕えられ幽閉される
その後、長い幽閉生活の苦がたたってインポになる
救出後は備中高松城の水攻めなど、秀吉の毛利攻略に大いに貢献する。

本能寺の変に際し、毛利氏との講和を進め、秀吉の中国大返しを実現
山崎合戦でも活躍。島津征伐には軍奉行として従軍
財部城を攻略し、のち、豊前を与えられ、中津12万石の城主となる。

秀吉死後に起こった関ヶ原合戦時において、東西両軍が関ヶ原で死闘を繰り広げる中
瞬く間に九州を平定。次いで中国地方にも攻め込む

その後、関ヶ原で家康が勝つと、東軍に馳せ参じたと思わせておいて、一気に攻撃
豊臣恩顧の東軍武将を悉く引き抜き、東軍を壊滅させる

江戸城に立て籠もった家康を討ち取ると、相次いで伊達家を降伏させ
西軍総大将、毛利輝元も八丈島に幽閉する

その後、秀頼が若くして急死すると豊臣家の最高権力者に上り詰め
自ら征夷大将軍を名乗り、都を博多に移す。

死後に流行った、後世の唄にこうある

織田がつき、羽柴がこねし天下餅、椅子に座りて喰らう徳川・・から横取る如水

419人間七七四年:2007/05/27(日) 19:16:25 ID:6F4m5AMY
小早川秀秋(1582-1603)

秀吉の近縁であることから政権に取り込まれるも、精神薄弱の気があったと伝えられる。
関ヶ原の戦いではこれが余の合戦と違い、天下分け目の戦いであることを知らされたため
恐怖に取り付かれて身動きできなくなってしまう。これを好機と見た徳川家康が威嚇射撃
を行って秀秋軍を潰走させようとしたのがかえって仇となり、狂を発した秀秋が東軍に突撃を
命じて西軍大勝利のきっかけとなった。

戦後本来であれば勲功第一であるはずの秀秋はその前後の挙動を疑われ、ついには隠岐
へ流罪となり22歳の若さで夭折する。その早すぎる死については古くから毒殺説が有力である。
最近の研究では東軍への内通は濡れ衣であり、精神に問題のある秀秋の排除を望む
北の政所の意を受けた三成ら政権中枢部の画策であったという説もある。

余談であるがその後五国鼎立時代に「日の本だけが天下ではない」を合言葉に各国が争って
海外に進出し、世界に覇を唱えたのは周知の通りであるが、これはそれ以前は日本五州のみ
が天下であったことの裏返しである。もし仮に秀秋が裏切り東軍が勝利していれば徳川氏が
日本全州を掌握したのは間違いないと思われるが、その場合現在の世界の舵取り役を担う
日本連邦が成立しえたかどうかはなはだ疑問である。
420人間七七四年:2007/05/28(月) 07:42:57 ID:05CEIJbT
後藤基次(1560-16??)
黒田如水・長政父子に仕え黒田八虎と讃えられた勇将
であったが、朝鮮の役の際長政が敵将と組討を行った際
加勢せず、結果長政が討ち取られたことが原因で黒田家を退転
大坂で隠棲したと伝わる。
421人間七七四年:2007/05/29(火) 00:44:52 ID:msITwJQ7
織田信長(1534−1557)
尾張織田信秀の次男(一説には三男)。幼名は吉法師。1548年美濃の斎藤道三の
娘と結婚する。これにより長年敵対していた織田と斎藤は同盟関係になった。
1551年父信秀が没したため家督を継ぐ。しかしうつけものと言われた信長では
織田家の将来が危ぶまれるということで、織田家重臣の林秀貞、柴田勝家らは
信長の弟信行を擁立し、織田家は信長派と信行派が対立した。
1556年、織田と同盟関係にあった斎藤道三が討ち死にし、これを好機と見た
信行派は1556年8月24日挙兵して信長派と戦うが、敗北する。世に言う稲生の
戦いである。その後信長は末盛城の信行を包囲するが、母土田御前の仲介により
信行を許した。
しかし1557年、信行派は再び謀反を企てる。そして尾張守護斯波氏の援軍を含めた
4000の兵で信長の籠もる清洲城を包囲した。この危機に信長は、先の合戦以来
信長に通じていた柴田勝家を利用して信行暗殺を企てるが、信行に事前に察知
され、柴田勝家は林秀貞に斬られ暗殺を失敗した。
これに激怒した信行はついに兵を動かし、清洲城を力攻めした。しかし信長派の
抵抗はすさまじく、落城には一ヶ月を要したという。しかし、同盟関係の斎藤道三が
滅んだ今となっては援軍の期待はできず、もはやこれまでと思った信長は城に火をかけ
好んでいた敦盛を舞いながら焼死したと伝わる。
信長の失敗は、稲生の戦いで破った信行派を家臣ともども許したことである。
この時、林秀貞らの首を取っていれば謀反は起こらなかったかもしれない。
ただ、父信秀が称した様に、わざとうつけを装い周辺豪族を油断させていたなど
能力はかなり高かったらしい。ただ戦乱の世、親兄弟といえども戦いあう時代、
情に負け、断固とした態度をとれなかったゆえの悲劇であった。

なんだこれw
422人間七七四年:2007/05/29(火) 02:08:24 ID:qqVwwe6F
松平竹千代
三河岡崎城主松平広忠の嫡子。
今川への人質に出される途中、富田城主の裏切りに合い
あべこべに敵方の織田へ送られる途中、船が転覆し溺死した。
後を追うように父も死に、三河は織田と今川の草刈り場と化した。
423人間七七四年:2007/05/31(木) 16:21:40 ID:D0hNgjF3
佐竹義宣

1600年
徳川家康率いる東軍と毛利を盟主とする石田の西軍が関ヶ原で合間見えようとしていたとき、
一応東軍に与していた義宣、義重親子は上杉と組み突如離反、徳川本体を背後から突き瓦解さしめ、家康は討ち死に、秀忠、忠勝等の主力武将も自刃
藤堂高虎は即帰順 福島、黒田も西方へと離反
真田も親子で帰順(いわゆる今日での‘関ヶ原の夜戦’である)

徳川領を手中に収めた義宣は関東には伊達、最上、北条の残党などの不安材料が多いことを理由に関東を平定するまで徳川領を一時的に拝領すると秀頼に使いを送り石田を大阪に戻らせる。

積年の恨みを晴らすため義宣はまず伊達に討伐軍を差し向け、上杉にも南下してくるよう要請
政宗も即刻最上、結城、里見や津軽と組み さらに北条の残党に蜂起するよう使いを出す

しかし勢いと数に勝る彼らの敵ではなかった
景勝軍は最上を攻略し、南下 
これによって旧北条家も長い協議の結果(後の第二次小田原評定)帰順し、義宣の背後に危険はなくなった

完全に勢いを失った伊達家は段々と攻め潰され、ついに政宗は厩橋で捕らえられ義重により打ち首にされる。ここでついに関東の戦乱は収まった

義宣は天下より政宗を倒すことの方が大事であったので、佐竹親子は即刻領土を秀頼に献上、義重は常陸太守、鎮守府大将軍を賜るが出家を理由に固辞
 義宣は左大臣と氏の長者に任ぜられ、義重と協力して関東の治世に注力した

後世の歴史家は1600年に佐竹が背後を突かなければ徳川は関ヶ原で天下を得、佐竹家は秋田、或は南部へ領地替えが行われていたであろうと推察する


なんだかなあ...
424人間七七四年:2007/05/31(木) 20:16:55 ID:b7lGXEu2
朝倉景鏡(1525-1584)
通称は孫八郎。式部大輔。朝倉一門筆頭として各地を転戦。
織田家の侵攻の際、土橋城に籠城し奮戦。しかし、義景の自刃を聞き開城降伏。
その潔さと能力を認めた信長に朝倉家の存続を条件として仕官。
翌年の越前一向一揆の際は信長が景鏡の救援を優先したため生き残る。
その後、かねてよりの約束通り家名の再興と越前半国を賜る。
さらに加賀・能登の平定を成し遂げ、そのまま統治することを許される。
本能寺の変の後、明智光秀を羽柴秀吉と挟撃しこれを討ち取る。
だが、その後織田家の処遇について秀吉と対立。
山陰攻めの大将であった柴田勝家と結び賤ヶ岳にて対峙する。
景鏡は事実上の総大将であったが、自ら手勢を率いて羽柴軍を奇襲。
乱戦の中、自身は討死するが、事前に指揮権を委嘱されていた柴田勝家が
その混乱を突き、羽柴勢は壊滅。羽柴秀吉は長浜にて自害する。
文字通り命を賭して織田家に義を尽した景鏡を人々は称賛したという。
425人間七七四年:2007/06/02(土) 23:21:00 ID:JAc7IO/U
>>131
 これ『レッドサン・ブラッククロス(オリジナル・アド・テク版)』と『パシフ
ィック・ストーム』(いずれも佐藤大輔:著)が混じってる…

>>407
 これ、どこの『逆転・信長軍記』(『覇王信長伝』『信長征海伝』『信長新記』でも可)?

426人間七七四年:2007/06/04(月) 10:35:39 ID:Nh6D7gS1
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         /      ヽ    \ \.  / /    |    \
        /    ヽ    \    \ >'  /    |      ヽ
       /      ヽ    \    \ /     /       .l

             うそはうそであると見抜ける人でないと
            (朝日新聞を購読するのは )難しい

                     西村博之 哲学者 1976-2010
427人間七七四年:2007/06/04(月) 12:44:36 ID:Bten93Zy
立花統虎(1567-1587)

大友家の重臣 高橋紹運の長男として生まれる。
西大友と呼ばれた大友家の重臣である立花道雪に望まれ道雪の娘のァ千代の婿養子となり家督を継いだ。
島津軍の猛攻により実父 紹運が岩屋城で戦死を遂げた後も立花山城で島津軍を苦しめた。
大友義統が島津義久に降伏した後も徹底抗戦を主張し立花山城に篭城するも3万の島津軍に囲まれ
最期は、城に火をかけ自刃した。
428人間七七四年:2007/06/04(月) 13:11:27 ID:dwJSyGXf
小川祐忠(15??〜1600)
関ケ原の戦いにおいて脇坂・朽木・赤座らと共に寝返るも、何を血迷ったのか再度西軍に寝返り
小早川隊に突撃して討ち死に。配下も一人残らず死亡した。
死亡直前まで叫んでた「小早川家のみなさん目を覚ましてくださ〜い」は
子孫の小川直也に引き継がれ新日本プロレスに上がったときにリサイクルされた
429人間七七四年:2007/06/04(月) 15:39:34 ID:C56B/kG0
上杉謙信(1530-1578)
長尾為景の子。兄・晴景の隠居によって家督を継ぐ。
毘沙門天に帰依していた謙信は戦では無類の強さを誇り、
戦場を騎馬で疾駆する姿は「軍神」と呼ばれ恐れられていた。

関東管領・上杉憲政を庇護してからの謙信は天下を志すようになる。
信濃進出は武田信玄の猛烈な抵抗の前に果たせなかったが、
「山内上杉領を回復させる」との名目で臨んだ北条との戦いは
破竹の勢いで勝ち進み、上野、武蔵と北条領を次々と切り取って行く。
北条氏康死後は唯一残った小田原城を陥落させて北条家を滅亡に追い込む。
その後、信玄が死んだ武田家の領土をも呑み込んだ謙信は、
信濃の真田領を除く北陸・中部・関東地方の大半を制圧する。

謙信は家臣を統率するために恐怖政治を用い、一度でも謀叛した家臣はどれほどの重臣でも討ち捨てた。
武田に調略された北条高広、独立を目指した本庄繁長などは一族全てが撫で斬りにされた。

なお謙信は無類の女好きであったことで知られ、侵攻した土地に美女がいると知ると
すぐさま側に上げて夜伽の相手をさせるほどだった。
おかげで男子8人、女子12人の子宝に恵まれることになる。
1578年、謙信は春日山城で脳卒中により急逝するが、
人々は張り切りすぎたことによる腹上死ではないかと噂した。
なお謙信死後の上杉家は長男・景康が継ぐが、器量に欠けていたため家中に混乱が生じ、
これまで恐怖政治で辛うじてまとまっていた家中は直江兼続、山浦国清らが
それぞれ謙信の遺児を擁立したせいで分裂する。
その隙を織田信長・徳川家康、滅亡寸前だった旧武田領の武田勝頼・真田昌幸、
そして常陸の佐竹義重らに狙われた上杉家は10年を待たずして滅亡する。
430人間七七四年:2007/06/04(月) 20:07:35 ID:7ilIQO0n
秋月種実(1548〜1596)
秋月文種の五男。父が大友家によって滅ぼされた時に、弟たちと共に高僧に伴われて城を脱出、以後毛利家に匿われる。
その後毛利氏と秋月領を死守していた深江美濃守の援護を得て大友家の手から旧領を回復し、以降父の仇である大友家との戦に明け暮れた。
休松の戦いで立花道雪の軍勢を破る等、武勇に秀でる面もあったが、その反面教養豊かな文化人でもあり、キリスト教の布教を許すなど、南蛮文化にも寛容であった。
また、今に伝わる重要無形文化財、大蔵谷獅子舞は種実が稲爪神社に寄進したものである。

耳川の戦いで大友家が敗れた後は竜造寺氏、島津氏と結び、更に領土の拡大を図る。
最終的には筑前、豊前、筑後に36万石に及ぶ広大な領土を築き上げ、秋月氏は最盛期を迎えた。
しかし、ここに来て大友氏は豊臣秀吉に援軍を乞い、九州征伐を引き起こす。
島津に付くか、豊臣に従うか――秋月氏は秀吉が目前に迫ろうとしていた時すらも家中がまとまらずにいた。
段々と抗戦に意見が傾いてゆく中、一人それに異を唱えるものが居た。秀吉と会談を行ってきた恵利暢堯である。
種実は恵利の説く豊臣と九州勢との物量の差を受け入れ、主戦派を強引に押し切り、松浦氏を通じて降伏、所領を安堵された。
この時、種実は日本三大肩衝の一つである「楢柴」を用いて秀吉を茶でもてなし、大層感心されたという。

その後は内政に努め、秋月36万石の基礎を築く。1590年に家督を嫡子の種長に譲って隠居し、48歳で病死した。
431人間七七四年:2007/06/11(月) 19:23:00 ID:y9V0D15r
織田信孝(1558―1630)
侍従・参議・中納言。織田信長の三男。
神吉城攻めでは足軽に混じって奮戦するなど、血気に逸りがちであるものの武勇に秀でた。
また、村井貞勝の元で行政官としての経験も積み、後の善政の礎とした。

1582年、父信長と長兄信忠が明智光秀の謀反から命からがら京を脱出した際、
信孝は丹羽長秀と四国征伐の途上にあったが、いち早く大坂まで引き返して父や兄と合流した。
この際、光秀の娘婿となっていた津田信澄を攻撃するよう進言する者もあったが、
信孝はそれを退けて信澄に使者を送り、父(信長の弟信勝)の怨恨などに囚われず信長側につくべきと説得させた。
信澄も最初から光秀に与するつもりはなく、妻を離縁・出家させ(彼女は後に赦され天寿を全うした)光秀討伐の先陣を志願した。
講談などでは信孝自ら信澄の元へ赴き、理路整然と光秀の非と天下万民の為に戦うべきと説いたとあるが、もちろん後世の創作である。

光秀を打倒した後は四国征伐を続行、遅れを取り戻すかのような電光石火の快進撃を重ね、
四国諸大名はことごとく降伏・滅亡していった。
その功により、信孝は新設された四国総督の初代に就任、四国全土を支配する事となる。
その善政は代々の当主が必ず手本としたほど細やかで民を第一に考えるものであった。
信長の後を追うように信忠が若くして死去した後は
和解した次兄信雄と共に甥の信道(仮想戦記では秀信と呼ばれる事が多い)の補佐に徹し、
「雄孝ある限り、織田家に陰りなし」とまで言われた。

羽柴秀吉の謀反においても活躍し、秀吉の首を挙げた後にも命乞いをする秀吉の母なかと妻のねねに対し、
「形の上でも武家の女(ねねに関しては武家の出だったという説もある)となった以上、覚悟はできていよう」と冷然と磔に処した。
これは織田家の禄を食んでおきながら弓を引く謀反人とその一族の末路を見せつける意図があったという。

そんな信孝ではあったが、不思議と男児には恵まれず、
次女と織田信衡の間に生まれた次男である孝衝に家督を継がせた。
しかしながら、依然として実権は信孝が握っており、
徳川家の家督争いが勃発した際、老体に鞭打って紀州徳川家当主の頼宣を次男忠長側につくよう説得した逸話が有名。
「家光殿の如き凡愚の御仁では徳川は滅びましょうぞ。どうしても家光殿につきたくば、この老骨を斬ってからになされよ!!」と
頼宣を大喝した時の眼光は若き日に戦場を駆け巡っていた頃から、いささかも衰えていなかったと伝えられる。

1630年、72歳の長寿で永眠。多くの大名にその死を惜しまれた。
覇王信長の子に恥じぬ炎のような生涯は、今も多くの創作物となって人々の心を滾らせている。
432宇喜多直家信者:2007/06/14(木) 16:53:07 ID:vI+EjIFL
最所元常(さい、は禾に最)

前半生は全く不明だが、備前軍記に見られる最所備中守の子と思われる。
父の代から松田氏家臣にて重きをなし、また武勇にも優れていたため、仇敵浦上氏への
最先端城龍ノ口城を任されるほどであった。
この龍ノ口城は標高536メートルにあり、また2方を旭川に囲まれている天然の要害であった。
実の父中山信正を滅ぼしたばかりの宇喜多直家は主君浦上宗景の命で、この城を攻めた。
しかし元常の巧みな采配と城兵の結束力によって、宇喜多勢はいたずらに死者の数を増やすだけであった。
この城は力攻めでは落ちないと読んだ直家は、この城を謀略によって落とそうとした。
元常は武力、知略において類まれなる実力の持ち主であったが、男色好みが甚だしいのが
唯一の弱点であった。
これを聞いた直家は自らの小姓岡清三郎に龍ノ口城を落とす計略をつげた。

まず岡清三郎が直家の側室と密通したというスキャンダルを流した。
これを聞いた直家はたいそう怒ったふりをして、清三郎を打ち首に処すゆえ牢に
押し込めよ、と命令した。しかしどうしたことか清三郎はその夜のうちに脱獄したのである。
これを聞いた直家は門番2人を切り殺したという。

清三郎は旭川のほとりで身を潜めていたが、毎夕尺八を吹くことを常にしていた。
元常は毎夕流れてくる尺八の音が気になり、小姓の早川左門を

433人間七七四年:2007/07/03(火) 00:18:34 ID:dpo5BGie
みんな面白いなあ
お気に入りのスレ
434人間七七四年:2007/07/03(火) 01:21:35 ID:jm82/lKK
有馬豊氏(1569-1642)

有馬則頼の次男。渡瀬繁詮の家老を務めた。
435人間七七四年:2007/07/10(火) 23:33:13 ID:5gfMf50U
前田利益

前田利家の甥。奇矯な振る舞いを好む傾奇者として知られたが、
養父利久(利家の兄)の死によって改心、以後は主家に忠義を尽くした。
しかし、関ヶ原の合戦においては甥の利長を強引に説得し、東軍との全面決戦へと導いた。
これは若き日より思慕していた芳春院が人質となるという噂を聞いての事だったと伝えられる。
四井主馬率いる加賀忍軍の撹乱工作で浮き足立った東軍に奥村助右衛門と共に突撃、見事壊走させた。
この一戦での勝利が東軍の士気を大いに減退させ、西軍の勝利に貢献した。
豊臣政権下の揺ぎ無き柱石となった主家を見て安堵したのか、
1612年に子や孫に囲まれ穏やかに息を引き取ったという。
利益の子孫は代々名臣を輩出し、前田家の危機を幾度となく救った。
文化人としても知られ、現在でも加賀の人々からは「りえきさん」と呼ばれ親しまれている。
436人間七七四年:2007/07/15(日) 23:49:37 ID:wuOxpI9S
上杉憲昭(1531〜1565)
初名佐竹義昭。佐竹義篤の嫡男、豊臣家五大老筆頭上杉憲重の父。はじめ佐竹家17代当主、のちに関東管領上杉家を継ぐ。
1545年、父の死により家督を継ぎ常陸の統一を目指し勢力を拡大する。
1546年、関東管領上杉憲政が川越夜戦で大敗すると、常陸に勢力を拡大して勢いに乗る義昭に、
関東管領職と上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めてきた。
この背景には佐竹家12代義人が上杉家の出身という血縁関係があったからだと言われている。
義昭は勢力拡大をする上でも関東管領を名乗ることの重要性を感じ、これを受け入れ憲政の養子となり名を上杉憲昭と改め関東管領職を相続した。
以後、常陸統一の大義名分を得た憲昭は隣国宇都宮家の内紛への介入や江戸、大掾、小田氏らを下し1562年、常陸全土を統一した。
常陸統一を機に嫡男憲重に家督を譲って隠居した。(佐竹氏は次男義尚が相続)
この後も後見として政務に携わり葦名氏、結城氏、那須氏を破るなど勢力をさらに広げたが1565年、急逝した。

後世の史家は憲昭の上杉家相続がなければ常陸統一はさらに数年を要し、憲昭生前には成らなかっただろうと推測している。
憲昭は志半ばで倒れたが、その志は「鬼憲重」といわれた長男上杉憲重に受け継がれた。
佐竹家という名を捨て、関東管領という実を取った憲昭の勇断こそが後の憲重飛躍の基礎を作ったのである。
437人間七七四年:2007/07/17(火) 21:35:12 ID:uKv7qcvT
鬼憲重ワロス
438人間七七四年:2007/07/18(水) 22:36:43 ID:7lSEGpob
伊達政宗(1567-1636)
仙台藩祖。
すでに天下の趨勢が決まっていたにもかかわらず芦名を倒し、その上小田原征伐に
遅参し秀吉の怒りを買う。かろうじて改易は免れたものの領地はほとんど没収されてしまった。
その後も東北らしく時節も読めずに反乱分子的な態度をとり続けるが、
豊臣ー徳川政権の中でかろうじて生き残り仙台藩の祖となった。





なお、1987年の大河ドラマの主役に選ばれかけたこともあったが、なぜか企画倒れになり
変わって「蒲生氏郷」が放送された。



信長の野望
伊達政宗; 政治60 戦闘 80 知謀43
…実際あの評価は大河ドラマの影響うけまくりだろ
439人間七七四年:2007/07/19(木) 12:59:21 ID:GfINZs53
松永久秀(1510〜1563)
三好長慶の家臣。畠山氏の戦いなどで活躍し重用されるが、長慶嫡男の義興暗殺を謀ったとして斬首される。
十河一存の急死についても関与があったといわれる。
440人間七七四年:2007/07/24(火) 17:46:59 ID:mdXDtTfl
戦国時代板のwiki作りました。
ご自由に編集してください。
http://www37.atwiki.jp/sengokuita/

まとめサイトとして利用してもいいです。
441人間七七四年:2007/07/25(水) 20:49:59 ID:27+3l7IS
442人間七七四年:2007/07/25(水) 21:44:54 ID:Mb91yTgb
>>438
渡辺謙の評価も変わる
443人間七七四年:2007/07/25(水) 22:47:39 ID:uirfbt5M
>>438 >>442
それより伊達政宗というネタ自身がこのスレ↓
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166957093/l50
送りになってたと思われ
444人間七七四年:2007/07/27(金) 03:40:00 ID:+3j5vDI3
徳川家康

今川義元の人質となり、そのまま元服し、従軍。
かの桶狭間の合戦では義元が討たれたことにビビり、脱糞。
その後、独立し、織田と同盟を結ぶ。
三河の一部を領土としていたが、突如三河一向一揆がおこり、多数の家臣が離反。
その時、家康の肛門から糞も離反していたという。
織田・徳川で朝倉攻めを行ったとき、浅井が裏切り挟撃をかける。
織田の殿、秀吉と共に逃走劇を繰り広げるが、脱糞してしまう。
姉川の戦いでは、織田の13陣のうち11陣破れたときき、ここでも脱糞。
これはやばいと思った家臣の活躍で難を逃れる。
忘れてはならないのが、武田信玄が攻めてきたときである。
三方が原で激突した両軍であるが、風林火山の猛攻に耐え切れず、史上最も有名な脱糞を行う。
もう二度と脱糞しないという意味もこめて、特異な肖像を残す。
その後、本能寺の変が勃発。堺にいた家康が本国に戻ろうとする。
この時、何度も自害しようとしたが、腹心・本多忠勝が諌めたため、脱糞で済ますことに。
本国に戻り、信長の仇をとろうと行軍していたが、尾張のあたりで、
秀吉が明智光秀を討ったことを危機、あまりの速さに驚き脱糞する。
豊臣秀吉の天下、家康は移封を命じられる。理不尽な移封であったが、脱糞により乗り越える。
その後、秀吉が死に、家康は関ヶ原で西軍と激突する。
内通していたはずの小早川秀秋が中々動かないため、焦燥のあまり脱糞。
このことを聞いた秀秋は糞を投げつけられたら困ると思い、内通を決意。
3年後、幕府を開く。
しかし、依然として豊臣家は存在しているため、秀吉の遺児、秀頼に危機感をおこし、2回に分けて豊臣討伐に出る。
通称冬の陣とされる戦いでは、まだ初陣であった木村重成が異様な抵抗を見せる。
謀略のために偽りの和議を結ぼうとするが、この重成に血判が薄いことを指摘され、思わず脱糞。
夏の陣では、大坂方の要、後藤基次を伊達軍が討ち取る。
窮地に追い込まれた大坂方は、家康軍と大激突することに。
この時、平和ボケしていた両軍であったが、毛利勝永と真田信繁の活躍が家康のケツに火を付けた。
本陣を何度も踏み荒らされる始末。家康は馬上で何度も腹を切ろうとしていたが、家臣に止められたので脱糞に留めたという。
最後はテンプラを食べて、珍しすぎて脱糞。
そのまま帰らぬ人となった。
445人間七七四年:2007/07/28(土) 17:15:01 ID:8/WBlYUk
山崎庄五郎(1494〜1565)

戦国時代の豪商。号は道三。
僧侶から荏胡麻油の行商人に転身、様々なパフォーマンスで人気を博したという。
当時主流であった荏胡麻油に限界を感じ、苦労の末に菜種から多くの油を作り出す技術を開発。
その後、様々な分野に着手し、戦国時代の商業を著しく発展させた。

また、私財を投げ打って戦乱で国を追われた人々に生活の場と教育を提供するお救い小屋を作ったのは、
僧侶としての経験と商人として各地の荒廃を見てきた彼の人間性の発露と言える。
ここでは貴賎を問わず様々な人々が学問を学び、その中でも美濃を追われた
土岐頼芸の子は庄五郎もその才を愛し、我が子のように慈しんだという。
これが後に織田信忠の右腕として活躍した名宰相土岐頼龍である。

仮に庄五郎が野心家であったとするならば、稀代の梟雄となったのではないかという珍説も近年見受けられるが、
乱世にあって生涯を真っ当な商売に捧げたあの世の庄五郎が聞いたらさぞ苦笑する事であろう。
446人間七七四年:2007/08/07(火) 14:30:16 ID:WkAPhMAh
北条氏政(1538-1615)
北条氏康の次男。兄の早世により家督を継ぐ。
苦労を知らずに育った氏政は覇気に欠けてどこか頼りなげで、
名君の誉れ高い父・氏康からすればどこか物足りなく見えたという。
氏康はある時、食事の席で汁を何度も飯にかけて食する氏政の姿を見て
「どれほど汁をかければ一度で済むのか分からないとは・・・」と嘆く。
しかし、それを聞いた氏政は「一度に汁をかけることもできますが、
それだと後から食べる飯がふやけてまずくなります。お父上の考えもご尤もかと思いますが、
私は民が作った飯を最後の一粒まで楽しみたいのです」と反論して氏康を唸らせる。
この件で氏康以下家臣団からも跡継ぎとしての信頼を得た氏政は、
父の死後も時流を見極めながら北条家の家名を守ることに務め、
その後の豊臣、徳川両政権下でも大大名として生き残ることとなる。

那古野勝泰(?-?)
尾張斯波家臣。男色関係にあった簗田弥次右衛門の調略に応じ、
織田信長の清洲城攻略に貢献する。その後の詳しい消息は不明だが、
一族は多田野姓を名乗って伊達家へ仕え、相手の弥次右衛門の一族も
のちに姓を谷岡に変えて尾張徳川家に仕官したという。
ちなみに七年前、下北沢で起きた大学生三人による暴力団員射殺事件の
加害者と被害者が偶然にも二人の末裔であり、時を越えた悲劇として一部で話題になった。
447人間七七四年:2007/08/29(水) 19:01:45 ID:emfT3uM4
六角義治(1545〜1612)
六角義賢の嫡男として生まれる。
父に実権を握られ、義治自身も周囲に心配されるほどの凡庸な人物であったが、
重臣後藤賢豊らの度重なる諫言で開眼。
あえて当主に権力を集中させず、家臣団と共に国を運営する「六角氏式目」を制定した。
これは織田信長ですら為しえなかった近代的な民主主義の嚆矢と高く評価されたが、
時流の流れには抗えずに信長の軍門に下る事を決定したのも家臣団との合議であったのは歴史の皮肉である。
しかし、その先見性と家臣団の結束に目をつけた信長により、
義治は織田政権の政治顧問として辣腕を振るう事となった。
弓の名手としても知られ、上月城に篭城する同族の尼子勝久を救援に向かった際は、
吉川元春の眉間を見事に射抜き、毛利勢総崩れの切っ掛けを作った。
そんな義治を信長の嫡男信忠は文武の師として義治を尊崇していたという。
高齢で一線を退いた後は信忠の子秀信の教育係を務めた。
1612年に邸内の弓場で衰えぬ剛弓を見せて一息ついていたが、
いつまで経っても動かない義治を案じた小姓達が声をかけた所、眠るように息を引き取っていたという。
448人間七七四年:2007/08/29(水) 19:03:20 ID:emfT3uM4
×そんな義治を信長の嫡男信忠は文武の師として義治を尊崇していたという。

○そんな義治を信長の嫡男信忠は文武の師として尊崇していたという。

久々のネタ投下なのに凡ミススマソw
449人間七七四年:2007/09/09(日) 14:05:15 ID:8Fmi9q9A
 
450人間七七四年:2007/09/16(日) 23:48:14 ID:5ioWWFXa
長宗我部盛親

前略、大阪の陣が大逆転し、すったもんだで徳川幕府滅亡。
盛親は寺子屋の先生から土佐の国主に返り咲く。
寺子屋時代の経験を生かし、一領具足の子達に義務教育をほどこす。
これが功を奏したのか、明治時代に土佐藩出身者が大活躍する。
それは初代内閣総理大臣武市瑞山や坂本財閥を興した坂本直柔、
日本陸軍の父と言われた岡田吉振といった綺羅星のような面々である。
451人間七七四年:2007/09/18(火) 01:01:58 ID:vNl7qw4A
武市は瑞山を戸籍の本名にしてしまうということか。
吉振って以蔵?以蔵はなぁ・・・
452人間七七四年:2007/09/18(火) 01:03:34 ID:vNl7qw4A
ところで久しぶりに>>1を読んで思ったが、
近江坂本ってめちゃくちゃ狭っ苦しいぞw
453人間七七四年:2007/09/27(木) 19:12:36 ID:1Z68+kKp
毛利輝元
西国最大の大名毛利家の三代目(実質二代目)
織田信長の攻勢の前に劣勢にたっていたが、本能寺の変では
小早川隆景の助言を受けて中立を保ち長門周防石見安芸四カ国への
減封で、かろうじて家を保つ。 その後は毛利両川といわれた
小早川隆景と秀包を伊予三十五万石
吉川元長以下吉川家を筑前三十五万石として独立大名とされ
吉見広長が輝元との紛争のあと石見一国の大名として独立し
秀吉の甥秀秋を養子にさせられ
朝鮮出兵に借り出されと苦難の時代を迎える。
秀吉の死去の後、関が原の戦いでは、一貫して東軍に属し
西軍の黒田如水、前田や宇喜多と戦い
秀秋は豊臣に戻しと失われた状況を回復
石見豊前を賜り安芸百三十五万石の礎を築く。





安国寺恵瓊

454人間七七四年:2007/10/02(火) 09:46:21 ID:kakJqS0F
北条氏康

後北条氏の三代目。
父氏綱の後をついで領土拡大に励むが、その動きに脅威を感じた
扇谷、山内両上杉氏、古河公方足利晴氏ら連合軍の討伐を受ける。
氏康は連合軍の数の多さに恐れおののき、仕舞いには土下座で
全ての領地を返すことを条件に降伏を願るという情けない有様だった。
勿論この降伏は受け入れられず、一族ともども磔にされた。
455人間七七四年:2007/10/04(木) 11:27:06 ID:a7iGAeiQ
>>453
煽るつもりはないがもうちょっと筋立てを
456人間七七四年:2007/10/09(火) 18:52:46 ID:zITmQSLS
細川政元

細川勝元の子
その強大な権力で室町幕府を意のままに操った。
また、子沢山であった彼は、自分の息子達を他家の養子にすることで
その権力を地方にまで広げ、後の新政権の礎を築いた。
457人間七七四年:2007/10/09(火) 20:55:54 ID:TtmNCgL/
もっと読みたいあげ
458人間七七四年:2007/10/09(火) 21:17:21 ID:qv1HpEoV
福島正則
戦国一の愚将といえば彼である。
豊臣恩顧でありながら関ヶ原の戦いでは我先に東軍につく。
岐阜城攻めでは手柄を全て池田輝政に奪われた。
関ヶ原の戦いでは今度は井伊・松平に一番槍を奪われ慌てて宇喜多勢に攻めかかるも
四度も押し戻され命からがら戦場を逃げ回る。
小早川秀秋により捕縛され京都大阪中を引き回されて打ち首となる。
459人間七七四年:2007/10/09(火) 21:28:49 ID:+3uNmyI3
ぬるぽして1時間以内にガッされなければ天下人2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1189207248/
460人間七七四年:2007/10/10(水) 00:05:31 ID:/2hW8S54
細川政元(1466〜1507)

魔法の王国のプリンセス。魔法の王様から「人々を幸せにする」という試練を与えられ
管領・細川勝元の子ということになって人間界に住み着いた。
魔法庁のうっかりミスで男性の姿になってしまっているが、
政元は魔法の刀を抜き「マジカルダキニ・イズナノホー」という呪文を唱えることで
魔女っ子管領「プリンセス・ケイチョーイン」に変身できる。
ときどき落ち込んで家出したりするものの、悪い将軍を追い出したり、空を飛んでみたり、
有能な部下を集めて政治を委ねたりして大活躍する。
人間界の麗しいプリンスを三人も養子に迎えて幸せを手に入れたかに見えたが、
信頼していた仲間に裏切られてしまい、王様から与えられた試練を果たすことはできなかった。
終盤の「三人のプリンス編」の展開は愛欲まみれのどろどろしたもので、
「子供に見せられない」との批判が集まった。とくに、夢も希望も無い衝撃的な最終回は物議を醸した。
461人間七七四年:2007/10/10(水) 15:19:23 ID:oGz26LwK
昨日細川の元総理、教育テレビに陶芸家で、でてたね
462人間七七四年:2007/10/10(水) 17:01:51 ID:oGz26LwK
あげ
463人間七七四年:2007/10/10(水) 18:30:10 ID:maf9aTAm
大谷吉継

豊臣四天王の一人。
関ヶ原合戦において、同じく豊臣四天王の一人、石田三成と共に西軍の中枢を担う。
小早川秀秋の内応を事前に察知し、脇坂隊、朽木隊などと連携して秀秋の大軍を撃破。
西軍勝利に大きく貢献する。

吉継自身は関ヶ原合戦の直後、らい病の悪化により没したが、
大谷家はその後豊臣政権が倒れるまでの300年間、有力大名家として存続した。

現代でも人気の高い武将であり、彼を主人公とした映画、小説も多い。
特に戦後、映画「刑部の名は」は大ヒットを記録し、
彼を真似た男性たちの間で「吉継巻き」が流行したことはあまりに有名。
464人間七七四年:2007/10/10(水) 20:04:57 ID:/2hW8S54
李如松(?〜1598)

明の将軍。遼東鉄嶺衛の出身で、字は子茂、諡は忠烈。
1592年、東アジア征服を目指した豊臣秀吉が琉球に出兵すると(文禄の役)、
尚寧王の要請を受け、防海禦倭総兵官として明軍を率いて琉球に赴いた。

李如松軍は那覇港に上陸し、漫湖に陣営を構えていた小西行長を激しく攻め立てて
これを破り(第一次漫湖の戦い)、ついで琉球の首都・首里を回復したが、
島尻(南部)方面から反撃に転じた小早川隆景・立花統虎の軍を
漫湖で迎撃、大きな出血を強いられ敗北を喫した(第二次漫湖の戦い)。
以後は首里城を拠点として積極的な攻勢を控え、交渉による事態の終息を模索。
小西行長と漫湖の和を結んで帰国した。
465人間七七四年:2007/10/10(水) 20:56:25 ID:/2hW8S54
ヤン・ヨーステン(1556?〜1623)

豊後出身の船乗り。当時の中国語文献には「耶楊子」と記載されるが日本名は不詳。
八重洲氏とする説、名を弥右衛門とする説もあるが推測の域を出ない。
1600年、朱印船でアユタヤに向かう途中遭難し、現在のインドネシアに漂着。
1602年にオランダ東インド会社が結成されるとその傭兵兼外交顧問として召抱えられ、
ヤン・ヨーステンというオランダ名を得た。
現在のジャカルタ駅の近くにある「ヤエス」の地名は、彼の邸宅があったことに由来する。
466人間七七四年:2007/10/13(土) 19:02:47 ID:UqDUHfbB
徳川家康
元は願人坊主の子供が松平家の若殿の影武者になったのが始まりとされる。
武家と名ばかりの出身ながら、厚顔無恥にも源氏の血筋を名乗った。
織田信長の知遇を得たことで五ヶ国の大名になったが
同じく信長の知遇を得た豊国大明神秀吉公とは違い天下を見る器のなさを
露呈したのか、これが自力での限界だったという。
恐れ多くも天皇家と萩中納言家の出自である豊国大明神秀吉公と比べれば
父場の違いもあったのではともいわれている。

 若かりしころの関白秀次公との戦で、実力ではなく運だけでうまく戦ったおかげで
実力以上の厚遇を得て関東255万石と大老職を許されている。
しかし厚顔無恥振りをさらけ出し秀吉公に大明征伐をするように
進め、豊臣家の没落を画策、しかし期待したのとは裏腹に
海外交易の利権や所領の拡大に成功したため日本国中の全大名武家で
唯一出兵を断っていた徳川家の立場は弱くなる。
にもかかわらず秀吉死没の際には五大老の筆頭などの身に過ぎた
立場を得ていたのを利用して豊臣家の天下の簒奪を画策

 こともあろうに豊臣家の重鎮にして槍働きで織豊の関羽とされた
前田利家公の病没を狙い、前田に家康暗殺の嫌疑をかけたのを皮切りに
 身のほど知らずにも軍神上杉謙信公の再来とされる
北国の竜上杉景勝公に戦争を仕掛けた。
世にいう慶長徳川の乱である。
当然ながら豊臣の懐刀石田三成、慶長の義将大谷吉継
人中の仏とされ予言で名高い安国寺恵瓊長老をはじめ
天下の三兵法、真田昌幸、直江兼続、黒田如水
謀将毛利元就の再来と恐れられる日之本六分一殿毛利輝元
南海の覇者島津義久義弘兄弟
四国の蓋長蘇我部盛親
などそうそうたる武将が西軍として立ち上がり
当然のごとく大敗する。
刑場に引き出される際に馬上で恐怖のあまりウンコをちびった
にもかかわらず老境にさしかかろうかという武将が半泣きで
「それは焼き味噌だ」といった故事は有名
467人間七七四年:2007/10/13(土) 19:39:12 ID:PsOW+nf0
豊臣秀頼 (1593年〜1672年)

太閤と呼ばれた豊臣秀吉の次男。秀吉の死後、家臣である徳川家康の乱などがあったが
それらも無事平定され、1605年に関白に叙せられる。
また1609年には征夷大将軍に任命される(様々な工作などが噂されている)。

1612年、五大老筆頭の石田三成を中央から遠ざけ自ら独裁政治を開始する。
翌年反旗を翻した石田・小西同盟軍を討ち果たす。
事あるごとに朝廷内に介入し、何度も公家からの毒殺の危機にあうが回避。
1620年には父秀吉の悲願であった唐入りにチャレンジするも
自らの腹痛により方針を転換。国中の医師にお触れを出し治療を命じる。

大の南蛮かぶれでもあり、大坂城をビッグキング城と改名。
周囲には自分をサーと呼ばせていたという。
さらに嫡男にジョン、次男にポール、三男にジョージと名づけ
愛犬にはリンゴという名をつけたことでも有名。
1639年、嫡男ウェルドに将軍職を譲り隠居。大御所として権勢を誇る。

秀頼の女狂いは父秀吉以上に有名で国中の美女(10歳〜25歳)を集めさせ
南蛮伝来の衣服を元に考え出した「せいらあ服」と呼ばれる衣類を身につけさせ
ビッグキング城には500人近い美女が生活していたという。
家臣の妻や娘に手を出すことは日常茶飯事であったという。

1672年、14歳の南蛮人のレイとのマグワイの最中に死亡。享年79。
468人間七七四年:2007/10/16(火) 19:39:13 ID:35xClWAC
武田晴信(1521〜1567)

1566年、前将軍の弟・足利義秋の呼びかけに応じ上洛の軍を起こす。
美濃の斎藤・南近江の六角を撃破して入京し、旭将軍(木曽義仲)の再来と謳われた。
しかし、尾張の織田や北近江の浅井による攻勢を受け美濃・南近江を失陥、京に孤立。
要衝・瀬田川を突破され、山科で激しい攻防が続く中、流れ弾に当たって討ち死にした。

最後の言葉は「明日は瀬田に旗を立てよ」だったという。
469人間七七四年:2007/10/20(土) 18:01:45 ID:uxaoPP1S
井伊直政(1561〜1642)

徳川家の誇る赤備えの猛将。
若い頃、大久保忠世らに食事に招かれた直政は、
糠味噌で味つけした汁を談笑しながら次々とおかわりして食べた。
あまりの大食ぶりに仰天した忠世らが「食いすぎじゃ、自重せよ」と嗜めた所、
直政は毅然とした表情でこう返したという。
「我らは常に全力が出せねばなりません。
普段からしっかり食って力を蓄え、いつでも殿の御為に働かねば。
それに、腹が減って全力が出せずに討ち死にして餓鬼道に落ちるのは御免ですからな!」
直政が糠味噌汁を嫌がるのを全員で責めてやろうと思っていた一同は
すっかり赤面してうつむいてしまったという。

しっかり食べてしっかり働いたのが功を奏したのか、直政は関ヶ原や大阪の陣でも現役で出陣し、
島原の乱でも将軍家光や幕閣の面々に適切な助言をして勝利に貢献し、当時としては80を超える高齢で大往生した。
470人間七七四年:2007/10/25(木) 19:47:59 ID:kuQck+rF
山本晴幸(?-1573)
通称勘助。三河牛窪の出とされるが、詳しい出自は不明。
諸国を流浪の後、武田信玄(晴信)にその才を見い出された晴幸は、
浪人時代の経験を活かして軍事、内政の両面で活躍する。
第4次川中島合戦では巧みな陽動作戦で上杉軍の有力武将を何人も討ち取り、
弱体化した上杉家の勢力を駆逐して北信での覇権を確定させる。
北条家との同盟関係を考えて越後攻略を一旦中断した後は、
義元死後、弱体化著しい今川家の駿河攻略に参軍する。
駿河攻略後の晴幸は老齢を理由に一線を退き、四男・勝頼の補佐に徹する。
時あたかも嫡男・義信が重臣と謀叛を起こして自害した直後であり、
晴幸は混乱する家中で勝頼を正式な後継者とするべく奔走する。
1573年、晴幸は信玄が上洛軍を起こす直前に老衰で死去する。
晴幸がその1年後に京に翻る武田菱を見ることはできなかったが、
上洛軍が進軍途上で落とした城を改修する際に晴幸の築城技術が盛り込まれ、
現在でも愛知の清洲城、京都の伏見城などにその名残が残っている。
信玄は征夷大将軍就任に当たって新しく建造させた二条城を見て、
「勘助はここに生きておる」と勝頼に語り、共に涙したという。

なお、義信が今川家攻略に反対して謀叛を起こした「義信事件」は、
晴幸が勝頼に後を継がせるために義信とその一派を煽動したという説がある。
また義信一派の挙兵が事前に察知されていたことと、その後の処理が早いことから、
今川攻略に障害となる義信を消すために信玄が晴幸に命じたという説もある。
471人間七七四年:2007/11/01(木) 21:07:42 ID:tkrSAEe0
朝倉義景(1533〜1603)
足利幕府管領。越前の大名であったが、1565年足利義昭を奉じて上洛。
以後三代の将軍に仕え、滅びかけた足利幕府を再興させた名臣と呼ばれる。
文化振興に力をつくした。特に彼の好んだ漆金工芸は大きな発展を見せ、
現在でも英語の一般名詞「japan」が「漆器」を指すほどになっている。
漆金趣味が高じて、遺言により自らの頭蓋骨を薄濃にさせたことは有名。
472人間七七四年:2007/11/03(土) 12:05:59 ID:fCtbLi+y
ヤスケ一世
近世モザンビーク初代国王。
元は王族の身でありながら奴隷として日本に連れてこられた奴隷であったが、
織田信長に気に入られヤスケという名を与えられ、刀持ちとして仕える。
その後、織田家中でメキメキと頭角を表し、織田政権の日本統一に貢献した。
やがて織田政権の世界進出の過程でアフリカ方面軍の軍団長に任命され、
故郷モザンビークから白人勢力を見事駆逐してみせた。
信長の命によりヤスケはモザンビーク国王ヤスケ一世に即位する。
主であり恩師でもある信長の薫陶を受けた彼の治世は
白人の搾取で荒れ果てた国を見事に復興させた。
現在でもヤスケの名は代々国王に襲名され、
モザンビーク王家と織田家の交流は続いている。
473人間七七四年:2007/11/07(水) 01:31:48 ID:Dc4Nl/S7
武田勝頼(1546〜1582)
甲斐武田家最後の当主。武田晴信の次男(一説には甥で晴信の養子)。
当初諏訪家を継いで高遠城主を務めていたが、兄義信が父と対立し自害したため後継者となる。
武勇に優れていたといわれ、父の死(1573年)により家督を継いだ後は一時武田家の最大版図を築いたが
設楽が原の戦い(1575年)での敗戦以降は勢威振るわず1582年、織田徳川に攻められ自害、武田家は滅亡した。

なおこれまで勝頼は晴信の次男とされてきたが、最近の研究では諏訪頼重と晴信の妹との間に生まれたとされる
寅王丸が晴信の養子となり勝頼と名乗ったとする説が注目を集めている。
その根拠としては史料上寅王丸と入れ替わるように現れたこと、諏訪家の家督を相続していたこと、
武田家の通字は「信」にも拘らず諏訪家の「頼」が入った「勝頼」を名乗り続けたこと、
甲斐入明寺に武田家滅亡時に晴信の次男が自害したこと(勝頼が天目山で自害した事実と矛盾する)などが挙げられている。
この説では勝頼の代になってから武田宗家の家臣団への急速な影響力をスムーズに説明できるため注目されている。
しかし武田家に関する史料は織田氏やその後に甲斐を支配した徳川氏が旧怨を晴らすため遺臣や縁の寺社を
徹底的に弾圧、破却したためその多くが散失、この説の立証は現在困難であり尚一層の研究が待たれている。
474人間七七四年:2007/11/13(火) 15:07:40 ID:BOII2H4I
あげ
475人間七七四年:2007/11/15(木) 01:20:33 ID:QE9dSxLk
>>473
どの辺が変わったんだ?
476人間七七四年:2007/11/19(月) 00:46:47 ID:9FRChG9s
それ以前に勝頼は次男じゃない
477人間七七四年:2007/11/19(月) 12:53:59 ID:jry4U4rY
>>475

>寅王丸が晴信の養子となり勝頼と名乗ったとする説が注目を集めている。

ここじゃないのか
478474:2007/11/22(木) 23:50:28 ID:0gwEY2TY
>>475
>甲斐を支配した徳川氏が旧怨を晴らすため遺臣や縁の寺社を 徹底的に弾圧、破却したためその多くが散失

この部分が史実と違う部分です。

>>477
>甲斐入明寺に武田家滅亡時に晴信の次男が自害したこと

ここを見てもらえばわかりますが、史料不足で誤伝が生じた事を表しました。
479人間七七四年:2007/11/23(金) 18:11:58 ID:GIdXAagm
わかりづらいw
480人間七七四年:2007/12/18(火) 14:17:00 ID:02k4Ftu1
長尾景虎

越後守護代長尾為景の四男・虎千代として春日山城に生まれる。
天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗る。
その後兄晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退する。

永禄2年(1559年)4月、上洛を目指す。
その時何を勘違いしたのか、兵5000を引き連れて上洛をしたため
時の実力者三好長慶に疑われ近江坂本にて襲われその家臣三好政康に討ち取られた。
今川義元と並び評される上洛の失敗例として知られる。

なお三好政康はその後大坂の陣にまで活躍をし、現代まで講談などでで親しまれている。
481人間七七四年:2007/12/18(火) 14:34:02 ID:/fxX9ycx
長尾景虎

越後守護代長尾為景の四男・虎千代として春日山城に生まれる。
天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗る。
その後兄晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退する。

永禄2年(1559年)4月、上洛を目指す。
その時ほんの遊び心で、兵5000を引き連れて上洛をしたため
時の実力者三好長慶に疑われ近江坂本にて襲われるが難なく撃退
これを見た長慶は直後に病に伏す。後に鬱病と診断される。
そして怖気ついた長慶はなんと、政権を景虎に一存すること表明し
家臣三好政康を人質に差し出す。
しかし政康の余りの無能さに景虎の怒りは爆発。
手打ち断罪の処置とし三好家の討伐を表明する。

3ヵ月後、三好家は滅亡し長尾景虎は副将軍に就任
足利幕府再興の忠臣として末永く世に敬われた。

482人間七七四年:2007/12/18(火) 15:12:43 ID:1SHFPePT
前スレみられる人へ
前スレ後半の方に真田信繁(幸村)のがあった覚えがあるんだがあげてくれないか。
たしか・・・・・現代まで生存していたって話
483人間七七四年:2007/12/18(火) 16:51:42 ID:/jRIjAOL
織田信忠(1557〜1630)
信長嫡男、初代織田幕府将軍
1582年、本能寺の変のおり信忠も京にいたが光秀謀反を知ると急ぎ安土へ退却、西から迫る秀吉軍と共に光秀を山崎にて打ち破る。
その後、毛利、長宗我部を従え1588年全国統一。
1590年征夷大将軍に就任。大坂にて織田幕府を開く。
484人間七七四年:2007/12/18(火) 17:19:02 ID:/jRIjAOL
徳川信康(1559〜1582)
家康は嫡男
1579年、武田勝頼と内応の疑惑により父家康より二俣城へ幽閉される。
しかし幽閉先より脱出し甲斐へ逃亡する。
その後、1582年の織田軍による武田征伐のおりに天目山にて勝頼と共に自害。享年24歳
485人間七七四年:2007/12/18(火) 17:20:48 ID:/jRIjAOL
訂正
家康嫡男
486人間七七四年:2007/12/19(水) 11:56:32 ID:hcUPPSXW
長尾景虎

越後守護代長尾為景の四男・虎千代として春日山城に生まれる。
天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗る。
その後兄晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退する。

永禄2年(1559年)4月、上洛を目指す。
その時何を勘違いしたのか、兵5000を引き連れて上洛をしたため
時の実力者三好長慶に疑われ近江坂本にて襲われそうになる、
その時使者に赴いた長慶の家臣三好政康の肉体美を見た景虎が政康惚れ込み
他意の無いことを表明し平和裏に長慶の供応を受ける。

なお三好政康はその後三好家が滅亡後越後に逃れ景虎と夫婦同然としてすごし、
養子景勝の初尻を奪うまで信頼される。
その麗しい友情は現代まで美談として伝えられている。
487人間七七四年:2007/12/19(水) 13:53:15 ID:UJ1LHC+4
寒井野 矢田夫
(?〜1572)

北海道のカニ船団の長の三男として生まれる。
極端に寒がりな為、暖かい地を求める旅に出る。
各地を転々としたのち
南端の島津家に仕える。
ある日、
暑いのもやだお〜!と逆ギレ
主群の怒りを買い
桜島で処刑される。
処刑される時、ほそっとこぼした
【傾くなら傾きとおせ!】
と言う謎の台詞は
その年の流行語大賞にも選ばれたが、
その真意は謎…
488人間七七四年:2007/12/19(水) 18:05:28 ID:o2p8yTkl
>>482
真田幸村 (1567〜1615?)

戦国大名真田昌幸の次男。本名は信繁。
関ヶ原の合戦の際、父と共に徳川秀忠軍を釘付けにするも、西軍が敗れた為に九度山に流される。
1614年、大阪城の豊臣秀頼の要請を受け入城。
大阪冬の陣では大阪城弱点とされる南側に出丸を築き、徳川軍に大損害を与えた。
夏の陣では敵本陣を目指して突撃し、一時は家康を脅かすほど奮戦したが適わず討ち取られたというのが通説だった。
しかし2005年2月13日、鹿児島県の農家が山中に潜んでいる幸村さんを偶然発見した。
警察の調べによると、徳川家の打倒を目指して山中に潜伏していて、徳川幕府の崩壊にも気づかなかったという。
2005年2月18日、彼は故郷の上田に415年ぶりに帰郷した。
489人間七七四年:2007/12/20(木) 14:05:04 ID:o0QtYq2K
毛利元就(1497-1555)

近年、岡山大学海洋生物研究チームにより安芸沿岸で一隻の沈没船が発見された。
わずかに残された鎧や兜からその船は毛利水軍の艦船であることが明かされた。
その船には、
奇跡的に密閉された木箱が残されており中からは大量の【カツオ節】が発見された。
この事実を踏まえて、
歴史学者達は新しい学説を導き出した。
毛利家(毛利水軍)の強さは
カツオ節に隠されているのではないかと。
息子達に折らせたモノは
矢ではなくカツオ節なのではないか。
【三本のカツオ節】が正しいのでは…など
どちらにせよ、カツオ節を保存食として、いち早く導入した大名は恐らく元就一人だろ。


※現在、巷の若者の間では
【カツオ節大名】
【カツオ節水軍】と呼ばれるようになった。
490482:2007/12/28(金) 16:36:08 ID:rR5RiP5Y
>>488
遅ればせながらサンクス。
前スレで一番爆笑したのがそれだった。
491人間七七四年:2008/01/05(土) 17:01:58 ID:K92yeULG
斎藤龍興(1548-1583)
義龍の子。左近太夫。1568年、道三を討った後も美濃国主として君臨した
父が病死した(毒殺ともいわれる)のを契機に家督を継ぐ。
その頃の斎藤家の版図は飛騨、近江の一部まで及んでいたが
時折しも隣国の織田家と刃を交えていた最中であり、
家督を継いだ龍興は動揺収まらぬ家中の掌握に奔走する。
家中の一本化に成功した龍興は父の強兵政策から一転、
武田家を初めとする周辺各国と誼を通じて織田家との戦いに専念する。
家督継承から5年の間、濃尾国境でたびたび衝突した両者の戦いは
主戦場の名前を取って「赤坂合戦」と呼ばれ、川中島合戦と並ぶ戦国名勝負に数えられている。
ちなみに両者の勝負は、武田信玄の上洛作戦を機に打ち止めとなっている。
徳川家を一蹴した信玄の上洛は、進路上に立ち塞がる龍興にとっても滅亡の危機だったが、
尾張を攻略したところで信玄が急死。龍興は九死に一生を得る。

その後、龍興は武田家内部の混乱に乗じて尾張、木曽、三河の一部を奪取。
巧みに同盟・離反を繰り返して中部地方の覇者としての地盤を築いていく。
その狡猾さは祖父の道三を凌ぐとも言われ、あの上杉謙信をして
「蝮の血を絶やさぬ限り京には上れぬ」と言わしめるほどであった。
1582年には近江に進出していた三好義継の勢力を駆逐し、
龍興が京に上って覇権を唱えるのは時間の問題かと思われた。
ところが上洛軍を起こす寸前の1583年、元三好家臣で近江攻略の立役者となった
松永久秀親子が突如謀叛して、龍興のいた大垣城を急襲。
不意を突かれた龍興は脱出を試みるが失敗、久秀の息子・久通に討たれた。享年35。
謀叛に成功した久秀だったが、急を聞いて駆けつけた稲葉一鉄にあっさり敗北、首級を取られた。
龍興死後の斎藤家は嫡子・道興が9歳と幼かったこともあって徐々に勢力を削られ、
7年後、西国を制覇した毛利輝元の軍門に降ることで辛うじてその命脈を保った。

なお、龍興は竹中半兵衛を重用していたが、若年時は侮って馬鹿にしていたという。
半兵衛の実力に気づいた家督継承前の龍興が出奔してしまった彼に対し、
その時の非礼を詫びるため何度も隠棲所に足繁く通って赦しを得たエピソードは、
孔明の「三顧の礼」ならぬ「三顧の詫び」として今も伝えられている。
492人間七七四年:2008/01/05(土) 19:11:32 ID:K92yeULG
追記。センゴク史観準拠、でw
493人間七七四年:2008/02/16(土) 05:46:44 ID:+pqK4FvG
ほしゅage
494人間七七四年:2008/02/16(土) 07:08:02 ID:mJEstrvN
足利義元(1519-1588)

室町幕府の第14代征夷大将軍(在位:永禄11年(1568年)−天正16年(1588年))。
父は足利氏の傍流吉良氏の分家にあたる今川氏の第7代当主・今川氏親。
はじめ僧籍にあったが父と兄の死後、今川家を継ぎ駿河守護となる。
永禄3年(1560年)、永年の宿敵であった織田氏を滅ぼし今川氏の勢力は
駿河・遠江・三河・尾張という東海道の4ヶ国にまたがったため「海道一の弓取り」と称される。
義輝が松永久秀らに暗殺されると上洛し、足利宗家以外からはじめて室町幕府第14代将軍に就任した。
寄親・寄子制度を設け、軍事組織力の革命的な改革を行った。
破綻しかけていた幕府権力を再建したことから室町幕府中興の祖と呼ばれる。
495人間七七四年:2008/03/03(月) 03:20:57 ID:sGWRq0XU
佐々成政(1536〜1588)
尾張国春日井郡に生まれる。5歳のとき、父に連れられてはじめて小牧山に登る。
織田家に仕えて柴田勝家の与力となり、伊吹山・白山などに登頂。
富山城主を務める傍ら、1584年に日本初の厳冬期の立山・北アルプス縦走という偉業を達成した。
上高地の美しさや、黒百合をはじめとする立山の美しい動植物を紹介したのも成政である。
1588年、阿蘇山の根子岳登頂中に滑落死。享年53。
死後佐々神社に祀られ、登山家と高山植物研究家の守り神として知られている。
496人間七七四年:2008/03/03(月) 03:37:00 ID:sGWRq0XU
YASUKE(生没年不詳)
もともと宣教師ヴァリニャーノの所有物で、日本に連れて来られて織田信長の目に留まった。
信長はその姿を理解できず疑ったが、いろいろと調べ上げたすえにその存在を理解したという。
ヴァリニャーノは信長にYASUKEを献上。信長はYASUKEを弥助と呼び側近くに置いた。
ヴァリニャーノの下では人間扱いされなかったが、信長の下では人間として扱われたといい、
YASUKEはかいがいしく務めを果たしたという。
本能寺の変の後に捕らえられたが、光秀はYASUKEを「人間ではない」として殺さず、
インドのバテレンのもとに放逐した。その後の消息は不明である。

YASUKEのエピソードは、懐中時計を解体して修理するなど好奇心旺盛な信長の一面を伝える。
現在失われたオートマトンの技術は、「キリシタンバテレンの魔術」として伝説化されている。
497人間七七四年:2008/03/03(月) 07:51:08 ID:fmaH5a4L
織田秀信(1580〜1630)
織田幕府3代将軍。
1603年、父信忠より将軍職を譲り受ける。
参勤交代、武家諸法度などを制定、織田幕府260年の礎を築いた。
498人間七七四年:2008/03/03(月) 09:03:28 ID:cF/t2X0F
>>38の何気なさがよかった
499人間七七四年:2008/03/03(月) 11:38:39 ID:cF/t2X0F
武田信親(1541-1598)
武田幕府初代将軍信道の父。
次郎、大膳大夫、参議、大納言、内大臣、竜芳軒日香。
信玄の次男。母は晴信正室の三条氏。正室は海野幸義女。側室に遠山直廉女など。
1560年、海野一族の謀叛の後、その名跡を継ぎ、東信支配に貢献する。
その後、春日弾正とともに海津城に在城。
1565年、兄義信の謀叛の後、武田姓に復姓する。
義信の死去により、1567年、正式に嫡男となり、家臣団から忠誠を誓う起請文が提出される。

上洛戦に際しては、総大将として出陣。
三方ヶ原合戦で徳川軍を破り、三河野田城を攻略。信玄を迎えるが、間もなく信玄は病死。
家督を継いだ信親は、遺言に従って信玄の死を隠し、遠征目的を変更して浜松城を包囲した。
1573年6月、徳川家康の切腹により、浜松城は開城する。
山城における足利義昭の蜂起に呼応して西三河まで進出し、これを支援。
織田家滅亡後は、東美濃、尾張、北伊勢の獲得を義昭、浅井昭政(改長政)、朝倉義景に認めさせた。
同年、義昭によって天正に改元されると同時に、参議に叙任され甲斐宰相と呼ばれる。

その後新領地の統治、飛騨・越中への調略に尽力する。
1576年、上杉氏に対抗する為、北条氏政の妹を異母弟の諏訪少将勝頼の妻に迎える。
この頃から再び武田軍の軍事活動が活発となるが、信親は政治に専念し、勝頼が軍事という体制が出来上がる。
1578年、上杉謙信の死後、家督を継いだ景虎(氏政弟)によって追放された上杉景勝(後の長尾親顕)を登用する。
また、家督相続の混乱に乗じて反北条派の上杉家臣を調略し、勝頼を大将とした軍勢を越後へ派遣。
北条氏が景虎を正式に配下とするまでに、越後の大半と上野を制圧した。
謙信の関東出兵によって南に押されがちだった為、その後、関東の反北条勢力と武田氏による包囲網によって北条氏は降伏している。
余談だが、この時離縁せず、信親に叛意を抱くこともしなかった勝頼夫妻の話は美談として伝わる。

上杉氏、北条氏を屈服させた後、勝頼に近畿方面への進出を任せる一方で、短期間に膨れ上がった領土の統治に苦心。
祖父の例に倣って府中を移転、甲斐駿河に跨る後の新府の土台を築く。
この時、後に信親の隠居所となる上田城を築く武藤昌幸、東北の要となる会津若松を築城する曾根昌世が普請奉行となった。
1582年、倒幕の後、家中の世代交代もあり、信玄に倣って、出家。竜芳軒を名乗り、御聖道様と称される。
その後は奥羽や中国の勢力との外交に尽力。新府は穴山梅雪斎(信君。竜芳に従って出家)を奉行とした。
1590年、17歳の嫡男信道に家督を譲り、海野氏本領の小県に移る。
1597年の信道の征夷大将軍就任まで寺社勢力との繋がりを駆使した外交力を発揮し続けた。
1598年、上田城にて没する。

信親時代の有力家臣として、以下の二十四人の武将が挙げられている。(北条氏が入るなどの異説あり)
諏訪勝頼、仁科盛信、武田信豊、一條信就、穴山信君、長尾親顕(一門衆)
山県昌景、山県昌次、内藤昌秀、跡部親資、小山田信茂、真田信綱、小草野隆吉、
小幡昌盛、横田尹松、三枝守友、土屋昌続、大熊朝秀、武藤昌幸、曾根昌世(譜代衆)
小笠原長忠、岡部親幸、岡崎親康、江間輝盛(他国衆)
注:信玄時代に他国衆として仕えた者は、信親時代には譜代とされている。
この竜芳二十四将図は、父の時代の信玄二十四将図と並んで武田家臣団を語る際に用いられるが、
最近の研究では必ずしも正確に家臣団組織を現しているとはいえないとされている。

信親には目に冠する逸話が多く、幼少時に疱瘡にかかって失明しかけた話や、
視力が悪いことを悩み、後に宣教師から眼鏡を献上された話が有名である。
500人間七七四年:2008/03/03(月) 15:23:51 ID:S6nY+2aS
ニャンまげ(?〜)
日光江戸村に寄生しているネコ。
普段はおとなしいのだが、修学旅行生がニャンまげに容赦ないケリやパンチを食らわした途端、動きが一変。
修学旅行生を投げ飛ばしてしまったという怪力の持ち主。
501人間七七四年:2008/03/03(月) 17:06:00 ID:QmY8Ym2E
今川氏真(〜1602)

父・義元が天下を統一し幕府を開くも、父の死後に蹴鞠に没頭するのを見放され1600年に重臣・徳川元康が三増峠で挙兵。

重臣・北条氏政、武田勝頼も元康に賛同した。
天下分け目の決戦に総大将を朝比奈秦潮を三増峠に派遣、敗北する。
1602年に駿河夏の陣で敗死する。
502人間七七四年:2008/03/03(月) 17:17:51 ID:QmY8Ym2E
今川義元(〜1592)


1582年上洛し、斉藤道三・織田信長を滅ぼす。
1584年に六角・浅井・朝倉を下し、1587年本願寺を下す。1589年に甲州街道の戦いで武田勝頼を大敗させ、武田家を下す。
1590年に北条が降伏、伊達を攻め滅ぼす。
1591年毛利・長我部が降伏、島津を下す。天下統一。1592年に今川幕府を開くも数日後に死亡。
503人間七七四年:2008/03/03(月) 17:24:39 ID:QmY8Ym2E
朝比奈秦朝(〜1600)


甲州街道の戦いで活躍、今川幕府で今川四大家臣に任命される。

その後に、松平元康が三増峠で挙兵すると大軍を率いて討伐に向かう。
が、朝倉義景の裏切りで敗北し高野山で自刃する。
504人間七七四年:2008/03/03(月) 17:38:40 ID:QmY8Ym2E
武田勝頼(〜1600)


父の死後、甲州の乱で義信に勝利。
父の家督を継ぎ父の偉業を継ぎ、謙信の死の隙をつき、上杉領土に進行。
越後夜襲戦で勝ち上杉景勝を滅ぼす。


1589年に今川義元進行に対して甲州街道で向かい打ち大敗、降伏した。
領土は越後をとらあげられたが、伊達攻めで活躍し今川重臣に取り立てられる。

1600年に松平元康に応じて挙兵、不運にも朝比奈軍の放った弓矢を受けて死亡した。
505人間七七四年:2008/03/03(月) 17:48:57 ID:QmY8Ym2E
柴田勝家(-1589)


織田滅亡後、武田に使え今川義元への復讐を誓う。
1589年に甲州街道の戦いで、総崩れになる武田軍の中で一軍だけ今川軍に突っ込み義元本陣に迫ったが力つき、打たれた。
義元は「柴田日本一の兵」とたたえたという。
506人間七七四年:2008/03/03(月) 17:55:19 ID:QmY8Ym2E
羽柴秀君(〜1656)


羽柴秀吉の子秀頼の子。
松平幕府で実権を握った。
507人間七七四年:2008/03/04(火) 05:03:44 ID:o8hr27+h
難波田憲重(?〜1546)
扇谷上杉家臣。武勇にすぐれていただけでなく風流も解した名将で、
衰運著しい主家に忠義を尽くし、北条氏の北征をたびたび挫いた。
しかし河越夜戦で北条家に捕らえられ、古井戸に沈められた。
憲重の無念の思いは長らく地元河越で語り継がれた。都市伝説で言う
「のろいのビデオ」に古井戸の中から這い出る憲重が写っているといい、
ダビングして他人に見せなければ、無性に和歌を詠みたくなるという。
508人間七七四年:2008/03/05(水) 22:16:08 ID:XWjRC14M
毛利元就(1497〜???)

安芸国人毛利弘元の次男。
幼君幸松丸の後見人となり、その後夭逝した幸松丸に代わって家督を継ぐ。
文武の才能に溢れ、智謀策略を張り巡らせて勢力を拡大し、
その非道な手段は重臣すらも恐れさせた。ある日、人心が離れていく事を案じた
忠臣井上元兼の諫言に激怒し、元兼の一族全員を処刑しようとするが、
このことに反発した嫡男隆元と重臣達によって主君押込が行われ、安芸国から追放させられてしまう。
その後の行方は不明。
509人間七七四年:2008/03/09(日) 14:02:41 ID:gXRtM1Xd
真田昌幸(1547〜1582)
真田幸隆の三男。7歳で人質として甲府に入り武田信玄の近習となる
信玄に寵愛され武藤氏を継ぐ。後に兄信綱、昌輝の討ち死ににより復姓、真田家の家督を継ぐ。
父親以上の智謀の士であり長篠敗戦以降衰退する武田家を再建するべく奔走した。
武田家滅亡時、勝頼に自分の居城である岩櫃城に落ち延びるようよう進言し、これを欺いて殺害した。
勝頼の首を手土産に甲府の織田軍本陣に出頭するも信長は昌幸の裏切りに激怒、
「古今未曾有の不忠者」として子の信幸、信繁共々甲斐善光寺にて処刑された。
後世「表裏卑怯の者」と木曾、穴山とともに武田三大不忠者に一人に数えられ
獅子身中の虫という意味で寄生虫のサナダ虫の語源ともなった。
510人間七七四年:2008/03/09(日) 20:43:41 ID:2SVlUhDI
大谷吉継(1559-1613)
豊臣秀吉の家臣、後に大名。
関ヶ原合戦直前に、親友三成の挙兵を思いとどめんと
説得を続けるが失敗、戦いでは決して家康に勝てぬと見た吉継は
家康を暗殺する事で豊臣家を救おうと決意、東軍に参加する。
やがて関ヶ原合戦後の家康と諸将対面時において
家康と刺し違える絶好の機会を得るが
目の前で>>125の黒田長政乱心事件が起こってしまう。
あまりの出来事に吉継は茫然自失の態だったと言う。

大谷家は恩賞として10万石の加増を受け、中堅外様として
幕末まで栄えるが、初代藩主の吉継は鬱々として楽しまなかった。
晩年は「こんな事になるのなら、佐吉と共に死ぬべきだった」
としきりに悔やんでいたという。
511人間七七四年:2008/04/12(土) 12:29:08 ID:EaUNJOJQ
512人間七七四年:2008/04/12(土) 21:02:38 ID:a+YJb+eS
1の明智幕府って何だ?

それを書くなら信長が光秀の謀反に気付いて回避した後の事を書けよ。
513前スレ再放送:2008/04/28(月) 00:52:07 ID:FUzGopFz
徳川家光【慶長9年(1604)〜寛永10年(1633)】

江戸幕府二代将軍秀忠の長子として生まれるが、愚鈍気な外見を生母に嫌われ廃嫡、嫡
子の座を同腹の弟忠長に奪われる。
これを憂えた乳母福は駿府の大御所家康に縋って覆そうとしたが、目通り直前に家康が鯛
の天ぷらに食中りして死去したため果たさなかった。また、福自身も抜け参りを咎められて
斬首されている。
家光派はますます立場が悪くなったため守役青山忠俊を中心にクーデターを画策する。
秀忠夫妻を拘束して正室浅井氏を殺害、その間に諸大名に徳川の家督掌握を宣言して将
軍宣下の使者を迎えるという計画で、実働兵力として伊達政宗、藤堂高虎らを引き入れて
発動寸前まで行ったが秀忠夫妻を拘束しようと御殿の屋根に登っていた家光付き小姓松平
信綱が足を滑らせて転落、秀忠夫妻に捕らえられたため計画が発覚、家光派の譜代大名
・旗本の多くが断罪された。

一方、政宗らも無事新将軍に就任した忠長の「余は生まれながらの将軍である。不服な者
は征伐するので国許へ帰って戦支度せよ」という恫喝に「そのような者、政宗が先鋒として
退治してくれましょう」とヘタレなおべんちゃらを言って逃れようとしたが、後に連判状が発見
されると改易・切腹となったがその様はまことに見苦しく、「見苦しく恥ずかしい男」を意味す
る「伊達男」という言葉の語源となった。
そのため、家光は高崎藩にお預けとなるが、この元和の政変(元和9)の際の負傷で翌年秀
忠が急死すると将軍忠長は新たな叛乱を防ぐために家光に切腹を命じた。
なお、この時同時に高遠城主保科正光の養子に切腹が命じられているがその理由は定か
ではなく、後世の歴史家の想像をかきたてている。


[北条氏直](1562〜1610)
氏政の子。江戸幕府初代将軍。
1589年、豊臣秀吉の命に従い上洛。
上野国の一部を没収されるも、ほぼ所領を安堵される。
その後、東北に転封になった徳川家康
上杉景勝・毛利輝元・前田利家らと共に五大老に就任。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍と対陣。
別働隊を率いた父・氏政が中仙道で真田昌幸に釘付けにされるも
義父・徳川家康の助力により、西軍を撃破。
1602年、征夷大将軍に就任。本拠地を江戸に移し、江戸幕府を開く。
1610年、鶴ヶ丘八幡宮に参詣した帰途に落馬、落命す。
尚、氏直の死亡については、執権・徳川家康、秀忠親子による
暗殺説が今も根強い。
514人間七七四年:2008/05/03(土) 01:50:40 ID:ClAx8LQd
※お礼に行った板
狼、ダウソ、FFDQ、鳩、ジャニーズ、HRHM、蟻

※まだの板
歴ゲー、国内サッカー、なりきりネタ、市況
515人間七七四年:2008/05/04(日) 13:54:57 ID:NX1pvKnn
武田信勝(1567〜1634)
武田勝頼の嫡男。甲斐武田氏第21代当主。
父の勝頼は信玄の庶子で諏訪氏を継承して高遠城主となっていたが、同年には武田家の嫡男義信が謀反の疑いにより幽閉され廃嫡される義信事件が起こる。
1579年に元服し、守役に温井常陸介が任命され、御曹司衆(信勝衆)が付けられた。
高遠城で育ち、元亀2年には勝頼と甲府の躑躅ヶ崎館へ移る。
元亀4年には信玄が死去するが、『軍鑑』によれば信勝は武田家の正嫡として成人するまで勝頼が陣代を務めるように言い渡されたという。

1582年、織田信長の甲斐侵攻によって新府城に危機が迫ると、同城での徹底抗戦を主張する父・勝頼を見限り、
温井常陸介、信勝の師・土屋昌恒、御曹司衆や、信勝の親友・真田信繁(幸村)らと共に、御館の乱以後、密かに内通していた上杉景勝を頼り、越後へと落ち延びる。
景勝は信勝らを武田家の正当な跡継ぎとして、手厚く歓迎したという。

1585年、信繁の父、真田昌幸の居城、上田城が徳川・北条連合軍に攻められると、信勝、信繁は上杉景勝より兵を借り、自ら軍を率いて昌幸を救った。
これを切欠に反攻を開始し、1588年、遂に徳川・北条軍を追い出し、甲斐、信濃を平定。武田家再興を成し遂げる。
その後間も無く北条氏と和睦している。
516人間七七四年:2008/05/04(日) 13:55:30 ID:NX1pvKnn
1590年、東国に侵攻する動きを見せる豊臣秀吉に対抗すべく、武田、上杉、北条と、この頃勢力を伸ばしつつある伊達氏による四者同盟が締結された。鉄の四ヵ国同盟の始まりである。
1594年、嫡子信虎が産まれる。武田氏の通字「信」と、上杉景勝の父・上杉謙信の旧名、長尾景虎から「虎」を賜った。
同年、豊臣軍が北条氏本城、小田原城へと攻め込んで来ると、兵糧攻めなどで苦戦するも、見事連合軍が豊臣軍を撃退する。

1598年、豊臣秀吉が死去すると、家督相続を廻って豊臣方は揺れる。
これにより反戦ムードが高まり、1600年、武田信勝を総大将とする東軍と、徳川家康を総大将とする西軍が関ヶ原にて激突する。
真田昌幸、片倉景綱らを失うなど損害も大きかったが、徳川家康を討ち取った事で西軍は総崩れとなり、見事東軍が勝利を治める。

武田信勝は四ヵ国同盟の盟主であり、また源氏の末裔である事から征夷大将軍となり、1603年、江戸幕府を開いている。

1624年、将軍位を信虎に譲り、自身は躑躅ヶ崎館に隠居。1634年に死去している。
517人間七七四年:2008/06/21(土) 16:43:36 ID:QL6+jT2Q
高山長房(1552〜1615)

高山右近は、1552年摂津国に生まれ、64年頃キリシタンに改宗、ユストと命名
される。73年高槻城城主、さらに85年には播磨の国の領主となり明石に居城を
置く。しかし、87年に発布された伴天連追放令の一年後に金沢へ身を引き、キ
リシタンの教えに専心する。
93年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府を「支那に至ればルソンはすぐ近く
予の指下にある」と手紙で恫喝して朝貢を要求するも、総督府は要求に応じな
かったため、秀吉は台湾王:亀井茲矩を先鋒大将とし、豊臣勝俊を総大将、副
将を高山右近・内藤如安とする総勢15万5000人のマニラ討伐軍を派兵した。
しかし、朝鮮出兵中のため派兵の人員確保は困難を極め、秀吉は九州・四国の
すべての15歳から60歳の男子を強制的に徴募した。そのありさまは「村に残っ
た男子は僧侶のみで嘆かわしい」といわしめるほどであったという。
また、総大将の豊臣勝俊は秀吉から呂宋関白の朱印状を下賜されながらも、こ
の派兵に反対して天川(現在の香港)で勝手に戦線を離脱するというお粗末な
有様で、早くも厭戦ムードが高まっていた。
総大将は高山右近が「陣代」としてつとめてマニラに上陸するも、マニラ沖
の海戦で兵糧・武器の多くを失い、上陸後は疫病で多くの兵が倒れた。
キリシタンである右近は如安と相図り、戦う前に兵糧の提供と兵士の助命を
条件にマニラ総督との間で和睦を勝手に結んだ。
一方、先鋒大将亀井が率いる2万5000人はダバオに侵攻していたが、右近は亀
井を軍議にかこつけて呼び寄せ捕縛した。
亀井は「太閤殿下に王侯に任ぜられた厚恩もだし難し」といい残し慫慂と切腹
したという。マニラ総督府は異国の者なれども同宗の者は本国の許しなく殺す
ことはできないとして、兵士を日本に送り返したのち、高山・内藤を助命しセ
ブ島に追放した。
なお、右近の棄戦に激怒した秀吉は、再度ルソン征伐軍の派兵を決定するも、
秀吉の死により実現はしなかった。
のち、罪を許された右近は如安とともにセブ島の副総督に任命され、右近
は1608年にマニラ総督にまで累進した。なお、右近の後任の副総督は山田
仁左衛門がつとめている(彼の子・長政は六昆王として著名である)。
1615年2月4日夜半、マニラ市民に惜しまれつつ、イントラムルスで帰天。
518人間七七四年:2008/06/21(土) 18:18:27 ID:u8y39cUn
ヤスケ(?〜?)
元々は宣教師ヴァリニャーノに仕える奴隷であったと言われている。天正9年(1581年)、
ヴァリニャーノが信長に謁見した際に連れていた奴隷。
信長は、ヴァリニャーノへ要望して献上させ、そのまま直臣になったと伝えられている。
年齢は26・7歳、身長は6尺2分(約182.4cm)であったという。
信長は彼を「ヤスケ」と名づけ、武士の身分を与えて家臣とし衣食住不自由がないように
取り計らわれた。
ヤスケは投げ槍を得意とし、視力は4.0あったといわれ、甲斐平定戦では大将の小山田備中を
約800メートルの距離から槍を投げて討取る殊勲をあげた。
その際光秀が「かのくろやっこ(弥助のこと)の投げ槍は犬槍にて卑怯なり」と抗議したのに
対して、信長は光秀を足蹴りにしたとの記録が残っている。
弥助を激賞した信長は自ら着用していた真紅のビロードマントを褒美として与え、近江坂本
5万石の大名に抜擢した。これは光秀へのあてつけとの説が近時有力である。
他方、もともと「黒人は動物であって人ではない」と弥助の出世をねたむ光秀は本領を取り
上げた信長の措置に対して大きな不満を抱き、6月2日に弥助が滞在する京都の南蛮寺を13000
の軍勢で囲み弥助の引き渡しを宣教師に要求した(南蛮寺の変)。
このときの宣教師バリニャーノが引き渡しに応じたときの「是非には及ばず」のセリフはあま
りに有名である。
ところが、明智軍の兵卒が誤ってとなりの本能寺に放火したため、信長は明智の謀反と勘違い
し、日本の3代悲劇の1つとなる「本能寺の変」が勃発した。
そして、肝心の弥助はそのどさくさに行方不明となった。
だが、17世紀にモザンビークにてオダヤスケと名乗る人物がポルトガルと戦い続け、日本式
の砦を築いて立てこもり、最後まで降伏せずに徹底抗戦するも、仲間は全員逃がしてオダ
ヤスケなる人物は 砦の中で一人割腹して死んでいたという記録が近時発見された。
オダヤスケは赤いビロードマントがトレードマークと言われているのので、この男こそ
その後の弥輔ではないかと言われている。

519人間七七四年:2008/06/23(月) 12:23:25 ID:UV0OZDo+
徳栄軒信玄(1521〜73)

土木建築家。甲斐の人。俗姓は武田、諱は晴信。
甲斐国の守護大名武田信虎の嫡男として生まれるも、弟・信繁を
偏愛する父に甲斐国を追放され今川氏の許に身をよせた。
のち各地を放浪するも、建築の才能を発揮した。中でも水利堤防
建築にその才能を開花させ、各地に「信玄堤」と呼ばれる優れた
堤防を建築した。また、築城術にも優れ「人は城・人は石垣」と
いう有名な言葉を残している。
信玄堤の遺構がいくつか現存しているが、彼の建築技術は現代で
も摂津の安井道頓と並び「西の道頓堀、東の信玄堤」と評価され
ている。
彼自身は生涯甲斐への帰国がかなわず、信濃駒場にてその生涯を
終えた。
なお、江戸時代には城のお堀に菱の花を植えることが多かったが、
これは武田家の家紋「武田菱」にちなみ信玄を偲んだことに由来する。
520人間七七四年:2008/06/23(月) 12:24:57 ID:UV0OZDo+
大日坊咲庵(1528〜82)

連歌師。美濃の人。俗姓は明智、字は十兵衛。
若年の頃は山崎宗鑑に師事して、その後は全国各地を巡って
してさまざまな公家や連歌師と交流をもち、元亀年間に近江
坂本に庵を結んだ。
しかし、近江の領主・織田信長の招きには応ぜず、連歌仲間
の丹後の細川藤孝のもとに身をよせた。一説には、故郷美濃
の侵略者である信長を嫌悪していたという。
天正10年に土岐旧臣安藤守就が謀反する直前に愛宕山百韻に
招かれ、土岐旧臣である安藤の決起をうながす、
「ときは今 雨が下なる 五月かな」
との発句を詠んだのは有名である。
しかし、安藤の謀反は未遂に終わり、咲庵は信長から謀反の
共謀をした者(同時の記録には「今度謀反随一」とある)と
して磔刑に処せられた。
彼と公家との交流は深く「晴豊記」・「兼見記」などに残さ
れた彼の連歌は、現在の俳句研究家の貴重な資料となっている。
521人間七七四年:2008/06/23(月) 12:26:34 ID:UV0OZDo+
木下道糞(1536〜98)

尾張の人。織田家臣。諱は秀吉。
軽卒の出身であるといわれるが、機知に富むところを気に
入られて織田信長に仕官し抜擢された。
なかでも、城の塀の修理を期限内に普請した逸話、墨俣に
一夜城を築いた逸話はよく知られる。安土城の作事奉行に
も起用され、その功により尾張岩崎城主となる。
しかし、天正8年に、林秀貞・佐久間信盛・安藤守就ととも
に突如信長に追放された。
追放の理由は定かではないが、天正8年4月に鷹狩に出た信長
が、近江の伊庭山において目の前に突如大石が落石するとい
う事故に遭遇したという。山上で秀吉の家臣が普請していた
のである。幸い事故にはならなかったが、信長はこの事故に
ついて秀吉を深く恨んでいたという。
追放後は秀吉は高野山に上って隠棲するも、本能寺の変後に
罪を許されて織田信雄に仕官し、旧領を回復したという。
また、一時は織田家重臣の柴田・丹羽にあやかり羽柴の姓を
用いていたが、追放の際に恐れ多いということで旧姓の木下
に復した。隠棲後は木下道糞と名乗るも、これは自らを卑下
したものと言われる。
522人間七七四年:2008/06/23(月) 12:28:45 ID:UV0OZDo+
織田信長(1534〜82)

男色家。尾張の人。弾正忠。
尾張国勝幡城主・織田信秀の嫡男であったが、若年から「うつけ者」
といわれるような奇矯なふるまいが多く父から廃嫡され、以後は実弟
・信勝の家臣となった。
廃嫡後は「国色無双」と言われた美貌を武器に、信勝の小姓である
丹羽万千代、前田犬千代、万見仙千代らと相次いで男色関係を結んだ
(この3名を「三千代」という)。
以後、信長は三千代とともに、男色を「衆道」という芸道に体系
づけた。
衆道とは、一定の礼式で相手の男性を吟味・鑑賞する芸道をいい、
享楽的な男色を芸術にまで昇華させ、東海地方を中心に衆道文化
が花開いた。
当時来日していたフロイスは、キリスト教の教えに反する衆道を
蛮風であると嫌悪し、衆道を広めた信長を「ルシフェルである」
としたが(「日本史」)、のちその芸術性を再評価し、1582年
ローマ教皇への使節として三千代を派遣することを決定した。
しかし、同年に本能寺の変で織田信勝・信澄親子が弑逆され、
この計画は幻に終わったという。また、信長は男色相手の小姓・
森乱丸が本能寺で討死したのをはかなみ、琵琶湖に投身自殺した。
江戸時代の浄瑠璃では彼を主役とするものが多く、戦国時代の
三弾正の1人である「色弾正」として著名である。

参考文献:「信長*記」
523人間七七四年:2008/06/23(月) 12:29:56 ID:UV0OZDo+
北条菊寿丸(1493〜1500)

相模の人、北条早雲の三男。実名不詳。
箱根権現別当金剛王院主。生来病弱なため仏門に入るも8歳で夭折した。
法名は幻庵と伝わる。





朝倉小太郎(1477〜1491)

越前の人、朝倉孝景の末子。実名不詳。
加賀の一向一揆との合戦で討死、主君・朝倉貞景は小太郎の初陣での戦死を嘆いたという。
法名は宗滴と伝わる。
524人間七七四年:2008/06/24(火) 16:48:15 ID:dk2ugTZ3
OH!くん
()
岡山放送に住む伝説の猫。OHK岡山放送内部では社長よりも地位が高く、社の稼ぎの7割が彼によるものとされる。
褌一丁で社内を放浪する癖がある。
無口だが、時々「オー」と鳴く。
ひこにゃんが最大のライバル。
岡山・香川の両県では、サンリオのキティちゃんやディズニーのミッキーマウスよりも人気がある。
525人間七七四年:2008/07/26(土) 14:09:56 ID:fmDbp6i4
日本人と韓国人では恥と感じることが違うんだよ
日本人は嘘をついたり卑怯なことをするのを恥と感じるけど
韓国人は負ける事を恥と感じるから、負けないためには嘘も卑怯な行為も平気でする
526人間七七四年:2008/07/30(水) 12:26:21 ID:0mvuHpr/
小島貞興(1522?-1582?)
上杉家臣。通称弥太郎。
長尾為景の側近だった頃から智謀に長け、主に智の面で謙信を助ける。
川中島合戦では信玄自慢の獰猛な飼い犬を周到な下準備をして逆に飼い慣らし、
上洛した謙信に対して将軍義輝が獰猛な猿をけしかけようとした際も
得意の頓知で切り返して義輝を唸らせるなど多くのエピソードが残っており、
越後地方では今でも「越後の一休」「知恵小島」などの愛称で親しまれている。
しかし貞興に関するエピソードの多くは後世に創作された軍記物や
子供向けの民話でしか確認できず、存在自体が疑われている向きもある。

直江兼続(1560-1600)
上杉家臣。樋口兼豊の子だが主君景勝に見込まれて直江家を継ぐ。
謙信の小姓も務めた兼続は戦略眼に優れ、当時不安定だった越後を完全に平定し、
その卓越した才能は時の天下人であった豊臣秀吉にも愛されて
豊臣政権下では陪臣の身でありながら三十万石の大禄を拝領する。
1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると上杉家は伊達・最上連合軍と戦うことになる。
猛将であった兼続だが奮戦虚しく連合軍の前に敗れ去り、
退却途中に負った傷が元で間もなくこの世を去る。
戦後、上杉家は改易こそ免れるが石高を四分の一に減らされて兼続の領地であった米沢に転封される。
この転封で財政状態が急激に悪化した上杉家はその後も持ち直すことが出来ず、
無理な年貢の徴収など圧政を布いて二代将軍秀忠の時代に米沢百姓一揆を招いてしまう。
景勝は責任を取らされる形で改易され、大名家としての上杉家はここに途絶えることとなる。
配流された上杉景勝は「兼続が居れば未来は違っていたかもしれぬ」と語ったというが、
同じケースで財政を再建した毛利家の領地に比べて米沢が過酷な自然環境であったこと、
また兼続が関ヶ原の際に家康を手酷く挑発していたことなどから、史家の間ではたとえ兼続が
江戸時代まで生存していようともこの事態は避けられなかっただろうというのが定説である。
527人間七七四年:2008/08/09(土) 02:14:17 ID:Sal+PUjt
北条 政成(1559 - 1611)
北条綱成の孫で北条康成の次男。
父と兄の死後、玉縄北条氏の家督を継ぐ。1590年の小田原征伐の際は初め山中城に篭城するが落城、
政成は落城前に脱出し、本城である玉縄城へ戻り再び籠城する。
その後玉縄城は徳川家康に包囲され開城、以後徳川家に仕え岩富北条氏の祖となる。
528人間七七四年:2008/08/09(土) 04:13:01 ID:OfCK4oOP
氏勝と違う人?
529527:2008/08/09(土) 23:51:50 ID:Sal+PUjt
同じ人です。
康成→氏繁の改名がなく、その後も玉縄北条家当主の名が宗家当主の一字+成だったらという流れです。
政成(氏勝)は氏政の「政」+玉縄家の通字の「成」という感じで。
530人間七七四年:2008/08/29(金) 19:47:29 ID:BRLySIW3
みんな乙!
531人間七七四年:2008/10/24(金) 09:36:01 ID:8XIae6ru
織田信広(?-1549)
織田信長の庶兄。太原雪斎に敗れ捕虜にされる。
その後、織田家の人質となっていた松平竹千代との人質交換を打診されるも、
竹千代を渡すことを良しとせず自害。
532人間七七四年:2008/10/24(金) 16:56:30 ID:2DVKQXiO
今川氏真(1538〜1615)
今川義元の長子
義元が尾張桶狭間でよもやの織田信長に討ち取られ今川家最大の危機となるが
雪斎和尚に仕込まれた才覚で切り抜け家内はまったく揺るがず1枚岩となる
勇猛果敢でも知られる氏真であるが新進の松平元康を中心とした三河勢もまとめることに成功
早くも1年後に尾張侵攻を開始
信長を下して尾張、美濃を加えてからはその統一の速度は承知のことである
533人間七七四年:2008/10/24(金) 17:24:03 ID:VkIfnTxy
豊臣秀秋(〜1615)

豊臣摂関家三代目当主。秀吉の養子。豊臣秀次と関白の座を争うが破れ、五大老小早川隆景の養子となり小早川姓を名乗る。
秀次死後に起こった関ヶ原の乱で徳川家康の本陣に突入する活躍をし、大坂城にて関白職に就く。
1615年に関白職を狙う伏見の豊臣秀頼(秀吉次男)との間に大坂夏の乱が起こると、圧倒的に不利な兵力差にも関わらず敵方の威嚇射撃音を聞き何故か秀頼本体に突入。討ち死にした。

死後城内を重臣稲葉正成が見事にまとめ上げたことから正成の名は「秀秋に過ぎたるもの」「やっぱり稲葉、大将死んでも大丈夫」と後生まで伝わっている。
534人間七七四年:2008/10/25(土) 03:06:54 ID:JVDoVECA
>>533
最後w物置に吹いたww
535人間七七四年:2008/10/27(月) 00:47:01 ID:lLokhdpU
近江国にて浅井氏配下の小領主の子として生まれる。家督を継いだ時期は定かではないが、
同じ近江生まれの石田三成らと共に長浜城時代の羽柴秀吉の家臣として仕えたといわれている。
天正11年5月、信長死後に対立した織田家の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、
「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた。このとき、秀吉から戦功を賞されて3千石を与えられている。
その後は奉行人としての後方支援などの活動が中心となり、街道整備や軍船の調達、小田原城攻めや奥州仕置の調査役を担った。

方広寺鐘銘秀吉死後は秀頼の補佐役となり、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦い後、五大老筆頭の徳川家康から大和竜田に所領を与えられた。
彼はその後も秀頼を補佐し、豊臣氏と徳川氏の対立を避けることに尽力。
彼のクライマックスは慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件による両者の緊張状態を見事に調整し、
徹底交戦派の大野治長と淀君の駆け落ちを誘った後、大坂の無血開城を成し遂げたことである。
これにより、豊臣氏は和歌山に転封されながらもお家存続を果たした。
また且元の評判も鰻登りに上がり、九州雄藩との調整を意図した徳川幕府により柳川藩主となる。
その子孝利が島原の乱で一揆軍により討ち取られたためお家断絶となったが、
浪人の徴集を幕府から怪しまれた際にとっさに思いついただんじりの市内駆け回り(岸和田だんじり祭り)等、
大阪では且元の功績を今でも称える行事が多く残されている。
536:2008/10/27(月) 00:47:53 ID:lLokhdpU
前スレの人物は片桐且元です。
537人間七七四年:2008/10/27(月) 14:23:06 ID:lHu0TpJ3
>>533
絶対最後が言いたかっただけだろwww
538人間七七四年:2008/11/22(土) 18:32:29 ID:kH5YkQgl
真田信繁(1567-1617)
真田昌幸の次男。大坂の陣で豊臣方として大坂城に入城するものの、兄信之、叔父信尹が
徳川方にいることから徳川に寝返るのではないかと疑われ孤立していた。
そんな中、家康の使者としてやってきた叔父信尹の説得に従い、
信濃十万石を与えるという条件のもとに信繁は徳川に帰順した。
しかし、豊臣を裏切った信繁に世間の風当たりは厳しく、敵味方から第二の小早川秀秋と罵倒され
そのストレスによって発狂死し、信繁流真田家は改易となった。
539人間七七四年:2008/11/22(土) 20:27:53 ID:IjKHrjpM
本多忠勝(1548-1560)
今川家臣 三河衆
武勇に優れた家中期待の若武者であったが
初陣でのかすり傷が原因で病死したと伝えられる
540人間七七四年:2008/11/23(日) 02:43:53 ID:L7tdBjSr
伊達梵天丸(1567〜70)

伊達輝宗の長男で政道の兄。疱瘡にかかり幼くして死去した。
541人間七七四年:2008/11/24(月) 05:34:59 ID:gko1fncJ
本多重次(1529-1588)
徳川家臣、三河三奉行の一人。通称「鬼作左」
人質の羽柴秀吉の母を軽率に焼き殺した事が
徳川家滅亡の発端となった。
542人間七七四年:2008/11/24(月) 06:26:03 ID:CPFr4F+G
足利政知(1435-1491)

応仁の乱の後、義尚・義視の代わりに9代将軍になる

足利茶々丸(????-1494)
政知の死後、将軍位を兄弟(足利潤童子、足利義澄、足利政治)・親族(足利義植)と争い
明応の大乱を引き起こし京都は御所も残さず焼け野原となった

足利義澄により処刑される
543人間七七四年:2008/11/26(水) 10:24:10 ID:i3SkudBY
石田三成(豊臣秀勝)(1560(1570)-1601)
1600年、徳川家康が上杉討伐中に秀吉実子秀勝であると僭称し、
豊臣秀頼、淀、高台院ら秀吉縁者を追放し豊臣家をのっとる

翌年、諸大名にフルボッコされ御所門前にて鋸刑に処せられる

544人間七七四年:2008/11/26(水) 13:28:11 ID:i3SkudBY
ちょっとまじめに書いてみる
石田三成(1560-)
関が原の敗戦後、諸将謁見時に黒田長政から贈られた猫のきぐるみをかぶって石田みつにゃんと称する

あまりのかわいさにDQN福島正則ですら助命嘆願するにいたる
現在、滋賀県にて県民のアイドルとして生存中
545人間七七四年:2008/11/26(水) 15:51:46 ID:mIMGkEg7
長文と落ちがないのはおもしろくないよ
546人間七七四年:2008/11/26(水) 18:57:11 ID:jUVQPA19
>>543-544
つまらねえ
547人間七七四年:2008/11/26(水) 20:02:26 ID:NllXUhJ2
伊達輝宗(1544-1637)
伊達晴宗の嫡男。畠山義継に拉致されるも、これを即座に返り討ちにする。
輝宗はこれが嫡男政宗の陰謀だと気づいていたが親子相克を良しとせず、
次男政道を連れて隠棲した。隠棲後は妻義姫と政宗の不和を憂い
両者の仲介に奔走していたという。
548人間七七四年:2008/11/26(水) 20:12:57 ID:MBpXFiOH
元平清康

松平広忠の子
今川義元から一字を授かるも、偉大な祖父の名のままでいたかったため苗字につけたらしい
549人間七七四年:2008/11/27(木) 20:13:04 ID:2e6eV8xz
山名豊国(1548-1626)
鳥取城主。鳥取城攻めで 満 場 一 致 で 織田方に降伏すると織田方として山陰を転戦。
因幡の大半と但馬半国の領主として本領安堵その際の遺恨からか毛利とは相反した思いを抱くようになる。
関が原の合戦では東軍に与し小早川の裏切りを見て「毛利も地に落ちたな」と吐き捨てたという。
後に加増され因但28万石に封ぜられ、善政を敷いた。
また、かつての命の恩人である豊臣家が滅亡した瞬間「豊臣も地に落ちたな」と吐き捨てたという。
晩年は家督を長男に譲り、禅高と号し茶人としての生活をたっぷり味わった
時勢にうまく乗り、智勇両面での活躍は、宗全以来没落の一途をたどっていた
山名家をわずかな形ながら再興したので「三十三分の一殿」と称された。
550人間七七四年:2008/12/10(水) 00:27:38 ID:GcO8Ayra
庫論募(ころんぼ) ???〜1506

 明応元年、関東に漂着したと伝えられる異人。
「三多丸(さんたまる)」という長さ六〇尺の帆船に乗って沖合いに現れたという。
だが船はほとんど破損しており、乗員も庫論募一人だけが瀕死で生き残っている有様
だったという。現地の村人に保護された庫論募は息を吹き返し、わずかながら言葉も
通じるようになったものの十数年後に病死した。
 庫論募の残した供述の多くは要領を得ないものだったが、故国から身毒(インド)を
目指して西方の海へと航海したすえにこの地に漂着したと述べたらしいと伝えられている。
こうした供述や、記録に残る風体や船体の描写から、ヨーロッパから日本を目指して
航海してきた実在の人物であるとする説もある。
 日本に数多ある異人漂着伝説の中でもこの記録が人の注目を誘うのは、庫論募ヨーロッパ人説
のみならず、航海の途中に立ち寄った様々な島や土地について語った詳細な内容に負うところが
大きい。しかし当然ながらヨーロッパと日本を結ぶ線上に該当するような陸地は存在しておらず
遭難や漂流によって幻覚や妄想を得たとする意見もあるが、一般的な見方としては、
この記録そのものの真実性が疑わしいものであるとして、庫論募についても民間伝承内の人物と
見なされている。
 当時のヨーロッパではすでに地球球体説が認められており、またインド方面への航路を
各国が模索する動きがあったことは確かである。こうした背景から庫論募の実在を主張する
論者は、スペイン王国が地球球体説を根拠に地球を一周するルートを探るために派遣した
探検者ではないかと推論している。
 しかしインド航路をポルトガルに抑えられて海外への発展が叶わず、1580年にポルトガルに
併呑され消滅したスペイン王国の記録はほとんど残存しておらず、この説を裏付ける証拠は
発見されていない。
551人間七七四年:2008/12/15(月) 20:19:02 ID:xoKzg/aE
>>550
この記述のラストに無理がある。
当時スペインと神聖ローマ帝国は同一国家なのだが。
植民地を新大陸に見出せたからこそスペインを分国したわけだが。
552人間七七四年:2008/12/16(火) 08:03:00 ID:uH+g2mpB
>>550
>しかし当然ながらヨーロッパと日本を結ぶ線上に該当するような陸地は存在しておらず

いったいどういう地球なんだw
553人間七七四年:2008/12/16(火) 08:45:45 ID:bA2pf1Vv
曲線なんだろw
554人間七七四年:2008/12/19(金) 04:49:44 ID:8vogOfzt
南北アメリカ大陸が沈んだ世界
555青空:2008/12/20(土) 10:12:55 ID:SAClgJZJ
片倉景綱

片倉景綱(小十郎)は伊達家家臣であり戦国時代の武将である。

主君正宗が初陣の際、敵に囲まれ窮地に陥ったが景綱は「我こそが政宗なり」と叫び敵を引き付け窮地を救った。
その際、矢で睾丸を射抜かれたが豪胆にもそのまま矢を引き抜き矢に刺さったままの睾丸を食したと言われている。
それ以来、隻眼の正宗と隻玉の小十郎は主君と軍師として勇名を轟かせることとなる。

その後も主要な戦には必ず出陣し戦功を挙げていたが、関が原の戦いの後、
スペインとの国交が結ばれるのではないかとの政宗の早とちりで景綱はイスパニア(スペイン)に派遣されることになった。
180人の大使節団は途中で大嵐に遭い難破、オランダ圧制下のインドネシアに漂着した。

当時インドネシアではオランダの圧政により民族意識が芽生えており使節団の多くは独立運動に身を投じたようである。
片倉景綱は反政府組織の首領となり活躍したが捕らえられ拷問の末獄中死したと伝えられている。

現地では今でも景綱は崇拝されておりインドネシアの地名でも「カタクラ」もしくは「カタタマ」と呼ばれる場所が多く残っている。
ちなみに「カタタマ」は現地では「目的を達せられず潰えること」という意味で使われている。

戦時中日本軍がインドネシアに進軍した際、カタタマでは縁起が悪いということで地名変更させたのが現在のキンタマーニ高原である。
556人間七七四年:2008/12/22(月) 18:51:49 ID:cDVuml+j
>>554
それは日本以外全部沈没?
557人間七七四年:2008/12/23(火) 22:36:49 ID:hmJRJX+G
羽柴秀次(1568〜1630)
戦国〜大阪時代初期の武将。筑前守。羽柴秀吉の甥で養子。正室は織田信長の姪で養女の茶々。嫡男は秀頼。
1582年、明智光秀が謀反を起こしこれの討伐戦で初陣を飾る。
当初は他家に養子入りしていたが秀吉の嫡子秀勝(信長四男)の死により羽柴家の嫡子となった。
その後は信長の天下統一の過程で各地の戦に参戦、武功を立てた。
1590年、秀吉の隠居により羽柴家家督と姫路60万石を相続、主君信長の養女を娶る。
羽柴60万石の基礎を築いた名君として知られ、また優れた教養人でもあった。
秀次の業績として特に知られるのが他家に先んじて藩校を設置したことである。
自らも農民の生まれであったためか、家臣の子弟だけでなく庶民にも教育を施し、
その中からは多くの優れた人材を輩出され羽柴家繁栄の原動力ともなった。
1611年、主君信忠の隠居にあわせて自らも嫡男秀頼に家督を譲り隠居、大阪の羽柴屋敷に住み
京の公家衆や文化人と交流を持ち、また多くの子や孫に囲まれ悠々自適の晩年を送った。
558人間七七四年:2009/01/20(火) 21:43:57 ID:gGDI2TrG
明智光継(1473?〜1538?)

美濃大名・明智城主。子に明智光綱・光安、娘は斉藤利隆の妻、孫は光秀とされる。
美濃の守護大名であった土岐政頼に協力し、飛騨国司の姉小路基嗣を攻撃、自害に追い込む。
こうして土岐家を支援する一方、同じく美濃の豪族であった遠山頼景と親交を結び
土岐家臣・斉藤利隆に自らの娘を娶らせる事で美濃への影響力を強める事に成功。
しかし、永正元年(1504年)に「遠山頼景が土岐家の領国へ奇襲をかける」という噂が原因で、土岐軍の攻撃を受けた遠山頼景父子は自害。
光継は和睦の仲介を行い、そこで頼景の一門(孫説もあり)である景前を養育・遠山領を自領に組み込んだ。

永正4年、細川政元が土岐家の勢力拡大を警戒し、従属を求めた事がきっかけで美濃は騒乱に陥る。
政元は足利幕府と管領の威勢を持って、すでに近畿・四国・東海の諸大名を服属させており
身近に存在する抵抗勢力は赤松・土岐・今川家であった。
土岐政頼は美濃の諸勢力を糾合したが、この時に一軍を率いていた光継は到着が遅れたとある。
その為に政頼は川手城に篭城するも、幕府・細川連合軍の先方である京極高清に敗北し、処刑された。

この報を聞いた光継は細川家への降伏を是とせず、再び美濃の諸勢力を結集させ
すでに連合軍の主力が去った川手を押さえ、唯一生存していた政頼の遺子である土岐頼武を保護、明智城に迎えた。
次いで、美濃の統治・軍政の効率を考え川手に本拠を移している。
だが、数ヶ月後には頼武が暗殺される事件が発生。この為、自ら大名として名乗りを上げ、長きに渡る明智と細川の抗争が始まる。

一説によると、遠山頼景の件は光継の策謀によって引き起こされたとされる。
土岐・遠山両家の信頼されている光継が行えば疑われる事も無く、和睦の仲介も上手くいく為等と言われているが…
それだけではなく、川手への遅参も計算ずくであり、頼武暗殺も明智の手の者の仕業(これは細川による暗殺説も有力)とも。
真相は不明ではあるものの、後に斉藤利隆の後を継いだ斉藤道三は、光継の事を「東美濃の梟雄」と評した。
ただし、これは外交・合戦で比類無き活躍をし、優れた情勢判断と情報力、政治力を有して大名となった光継を賞賛したとも言われる。
559人間七七四年:2009/02/18(水) 21:22:56 ID:WOkBIAOi
吉川元長(1547-1625)
吉川元春の嫡男。叔父小早川隆景の死後、弟の経言とともに輝元を後見する。
関ヶ原の戦いにおいては西軍に付こうとする安国寺恵瓊を失脚させ、
東軍に付く事を進言し輝元の説得に成功した。
なお関ヶ原直前に小早川秀秋が急死しているが、これは元長による暗殺が疑われている。
560人間七七四年:2009/02/20(金) 16:56:23 ID:o7McV/pd
武田信虎(1494-1574)

甲斐武田第17代当主。武田信縄の嫡男。父の死後、楠浦昌勝
(荻原と表記するもの有り)らと共に叔父の信恵を倒して家督を
継ぎ、川田夫人との間に生まれた嫡男・虎縄(とらつな)と共に
国内の統一を進める。天文10年(1541年)、国内外での専横を
許されず不満を持っていた板垣氏・甘利氏ら国人衆が、次男の
大井晴信・三男油川信繁を立てて叛旗を翻すが、原虎胤・小幡
虎盛・山本勘助ら国外から帰服した家臣の力もあってこれを制圧、
娘婿の今川義元と共に北と南から国土を広げ、永禄4年(1561年)
直江津の戦いで長尾景虎を倒すと*1、国主の座を武田輝虎と改名した
嫡男に譲った。隠居後も戦いの前線に立ち、永禄9年(1566年)に
畠山義続を倒し*2、11年(1569年)には今川義元、九鬼嘉隆らと共に
六角・三好・織田らを撃破して入京する。今川氏輝が「二条の変」で
十八人斬りの伝説を残しながら殺害された後も、巧みな外交術で
輝虎らの勢力拡大を助けていたが、天正2年(1574年)、小早川
隆景邸での歌会に参加していた際に、武田信隆・熊谷元実らが
これを襲った「大寧寺の変」に巻き込まれて死亡した。

*1 なお、この時の長尾景虎は上杉家の家督を受けて「政虎」と
   改名していたが、あまりに短い期間なので認知している者は少ない。

*2 信虎は畠山義続の肖像を見て「見るからにおぞましい
   面つきだ」と嫌悪し、討伐の思いを固めたといわれている。
561人間七七四年:2009/02/20(金) 22:03:50 ID:3fqBHkv0
「氏輝」は「氏真」の間違いジャマイカ
562人間七七四年:2009/02/25(水) 00:00:02 ID:Y6L1EtvC
大友義誠  初代豊後大友藩藩主

幼名:塩市丸

天文19年に父大友義鑑と長兄義鎮が争った別府の変の結果、継嗣となり後に大友家を継承した。
その後、父義鑑が陶晴賢と協力関係を結び毛利氏を打倒後、大内氏に養子として入った兄義長が晴賢と共に上洛に目標を絞った事もあり、
以後は別府の変で力を弱めた国人勢力を撃滅し大友宗家の力を伸ばすことで、大友家は守護大名から戦国大名への完全な脱皮を果たした。
その後、父から正式に家督を継承し守り役入田親誠から一字を取り義誠と名を改めると龍造寺隆信の反乱を退け滅亡させ、以後は北上を目指す島津氏と一進一退の攻防を続けた。
秀吉の天下統一後、別府の変で義鎮方であった戸次道雪やその甥である戸次増時とも和解、大内藩改易後は二人を重臣として迎え入れ、
後の関ヶ原においては増時の進言で東軍に付いたことで、大友藩の安泰をい勝ち取った。
563人間七七四年:2009/03/01(日) 15:05:03 ID:8rBsCHNt
真田信之(1566-1615)

真田昌幸の嫡男。弟信繁が大坂に入城した際は、せめて自らの手で葬むらんと決心し
病を押して信繁と対峙するが、信繁と相打つ形で戦死した。
564人間七七四年:2009/03/01(日) 15:12:57 ID:YlXnrVWN
>>562
家臣から一字取るっておかしいだろ
565人間七七四年:2009/03/01(日) 16:15:35 ID:Gd63+Pah
高橋紹運
島津忠長率いる二万の大軍を相手に、紹運は736名という寡兵で岩屋城に立て篭もり、その侵攻を退け豊臣秀吉の援軍到着まで城を守り抜いた。後に秀吉から引抜を受けるが「忠臣二君に従えず」とそれを断った。紹運はその勇猛ぶりから道雪「雷神」と並び「風神」と称された。
566人間七七四年:2009/03/03(火) 04:22:59 ID:JomlOqkV
>555
 片倉景綱
 政治52 戦闘70 智謀65
>557
 羽柴秀次
  政治79 戦闘82 智謀70
>558
 明智光継
  政治85 戦闘82 智謀92
>559
 吉川元長
  政治87 戦闘75 智謀83
>560
武田信虎
  政治91 戦闘95 智謀93

>562
大友義誠
  政治89 戦闘79 智謀80
567人間七七四年:2009/03/03(火) 06:30:15 ID:Q3rJai7L
直江兼次

1560-1578
上杉家臣、
景勝を当主にするため景虎の悪評を吹き込み決起させるに至る。
御館の乱で敗北の後、
北条景広に捕えられ斬首された。
この乱を招いた張本人として奸臣と評される
568人間七七四年:2009/03/04(水) 01:27:54 ID:M5sopcSK
>>565
その際の長男の立花宗茂の評価も気になるところ・・・・・・
569人間七七四年:2009/03/05(木) 09:36:54 ID:BWobg3vo
>>567
御館の乱の時点ではまだ樋口兼続
570人間七七四年:2009/03/06(金) 18:00:13 ID:+bPTVKvu
真田信幸(1566〜1700)
真田昌幸の嫡子
関ヶ原の合戦にて婚姻関係から徳川方に付き敗北
昌幸、信繁の助命嘆願により命は救われるが正室小松殿との離縁を拒んだ為に真田家を追放される
妻子を連れての牢人生活中に永田徳本と懇意となり医術に傾倒
没落した旧主徳川家の治める江戸に診療所を開設し医師としてその後の人生を送った
三男信吉が真田家に復帰した以外は子女は全て医師か医師の妻となった
1700年に134歳で死去
彼の墓は胃痛、長寿に効能があるとして削られる為、現在ある墓石は4代目である
571人間七七四年:2009/03/07(土) 00:41:01 ID:b7hP/ZZk
山田長政(1590?〜1660) 初代大和朝鮮府太政大臣、弾上大弼
・徳川家康の命により、若年の時から漢城に潜伏し、若くして李氏朝鮮の特権階級「両班」に上り詰める
・女真族の勢力と徳川幕府や大名の黒田家を味方に付け、腐敗していた李氏朝鮮に止めをさす
 同時に李氏朝鮮王朝を廃し、時の後陽成天皇の四男を迎えて初代大和朝鮮朝廷を樹立、補佐する
・1625年 大和朝鮮府扶余守(日本で言う上位大名クラス)に任命される、同時に日本朝廷より弾正大忠を賜る
・1630年 大和朝鮮府高句麗管領(日本で言う関東管領クラス)に任命される、同時に日本朝廷より高麗守(こまのかみ)を賜る
・1640年 大和朝鮮府太政大臣(日本で言う征夷大将軍相当)に任命される、同時に日本朝廷より弾正少弼を賜る
・1672年 贈 弾上大弼(従四位下)
572人間七七四年:2009/03/12(木) 22:31:50 ID:mJ11ANTf
上杉景虎(1554-1590)
北条氏政の弟で、上杉謙信の養子。御館の乱において上杉景勝に勝利して
上杉家の家督を相続し、関東管領に就任した。
小田原の役においては兄氏政と共に秀吉に抵抗するも敗れ自害した。
上杉家の名跡は景虎の遺児上杉秀虎(道満丸)が旗本として存続している。
573人間七七四年:2009/03/12(木) 23:21:05 ID:bXck/NRt
直江兼続

「僕と喜平次様は北斗で結ばれている」と法螺を吹いてボンクラ景勝の信頼を得る
便所でウンコしている謙信を暗殺して景勝を相続させる。
異議を唱える柿崎晴家を景勝邸に招いて双六中に暗殺し(柿崎のほうから襲ってきたと宣伝)、上杉景虎が北条氏政とつながっているという密書をねつ造して挙兵に追い込んで滅ぼした

恩賞では身内(父親と弟と自分)にたくさんの領地を宛がう方向で処理し、不満で激怒している毛利定広には「直江信房様の差し金だ」と煽って直江を暗殺させる
そしてお船の協力で用意しておいた「信房の捏造遺書」でちゃっかり直江家を相続するのであった。

織田信長との戦いで、最前線の魚津城に邪魔な重臣・吉江宗信や中条景泰などを配置して、援軍をわざと派遣しなかった。
魚津城は全滅し、上杉家中の直江の権力は固まる。
信長の死後、直江は秀吉には大人しく服従し、石田三成とアッーの関係を築く。
そして直江は秀吉から山城守に任ぜられ、米沢30万石を与えられるなど地歩を築く。
秀吉の死後に徳川が勢力を強めると上杉家中を統一して、家康に挑戦状をつきつけて反徳川を鮮明にする。
しかし最上の城を落とせず苦戦し、関ヶ原で三成が敗れると、直江は帰国してクーデターで景勝を成敗する。

家康は直江の忠義を褒めて米沢30万石を安堵し、上杉姓を許した
直江は仁愛を家中のスローガンとして徹底した教化政策を行い、不心得者が出ないようにした
だが家康の密かな調査で直江の過去の行状が明らかとなり切腹を命じられ、米沢藩は改易された。
574人間七七四年:2009/03/13(金) 16:55:00 ID:0CHRJ1XG
懐かしいスレだ。

『織田・松平5代の怨恨』みたいな題名で昔書き込んだな...。
575人間七七四年:2009/03/14(土) 02:43:12 ID:aOP+XJL7
>>539
忠勝じゃなく忠負だなw
576人間七七四年:2009/03/14(土) 22:31:55 ID:aOP+XJL7
新発田重家

蒲原郡の大湿原にて盛り土や木造高架橋を建設し
10里にも及ぶほぼ直線的な高架道路を造る。
この道路によって新興港町新潟の富を呼び込んだり
走り馬の往来がよくなりいち早く情報を掴むなどの利点。

又、天正年間に旧主上杉家と争った際には
東西の戦線を迅速かつ巧みに往来して
上方よりの講和裁定の使者を迎えるまで持ちこたえて
末永く新発田・蒲原にて独立した一大名として君臨することになる。
577人間七七四年:2009/03/15(日) 01:40:03 ID:X4e2JiOl
古田織部

名を重然といい、茶人、陶芸家として著名。
利休七哲の一人。
秀吉に仕え、師である利休が自害した後は後釜として権勢を誇る。
関ヶ原の戦いでは佐竹義宣の説得を試み、成功。
しかし、後の大坂冬の陣で、禿頭に反射した日光により、場所が大坂勢に露見。鉄砲により狙撃され、討ち死にした。
歴史研究家の間では、討ち死にした数少ない茶人として、頻繁にジョークのネタとして使われる。
578人間七七四年:2009/03/15(日) 11:48:41 ID:YEpQ+9jl
>>564
一応、大道寺盛昌が 北条氏綱の次男為昌の烏帽子親および後見人となり、「昌」の字を与えている例もあるから

579人間七七四年:2009/03/28(土) 17:57:48 ID:+yu53JQr
織田市(1547〜1615)
賤ヶ岳の合戦の際、柴田勝家に進められ徳川家康の下へ逃亡、
羽柴家の討伐を家康に進言するも大政所と娘の茶々との人質交換で和睦
その後大阪の陣の直前まで茶々に降伏を説得するも願い虚しく死亡し自身も
3ヵ月後に死亡した。
580人間七七四年:2009/04/01(水) 00:17:32 ID:thT0USXx
蘆名盛政(????〜1642)
伊達輝宗の次男。幼名竺丸。小次郎。
天正15年(1587年)、蘆名盛隆の娘と結婚して蘆名盛政と名乗り、蘆名氏二十代を継承する。
しかし、金上盛備らの叛乱に合い黒川城を追われ小浜城に逃れた。
天正17年(1589年)、兄の伊達政宗と連合し佐竹・金上連合軍と摺上原で激突。勝利し再び黒川城に入る。
しかし、1590年(天正18年)に豊臣秀吉に小田原への不参陣を咎められて改易された。
以後は実家の伊達氏を頼り家臣となる。
天正19年(1591年)、涌谷城に移った亘理重宗に代わり亘理城主となり3万石を領し、一門筆頭となる。
慶長19年(1614年)、一関に移り3万石の分知を受け大名に返り咲き一関藩初代藩主となる。
子が無かったので、政宗の十男千勝丸を養子に迎えた。(蘆名兵部盛忠)
寛永19年(1642年)没す。
一関藩主蘆名家はその後、兵部盛忠が伊達騒動の主役となり改易され断絶した。
581織田・松平5代の怨恨・改:2009/05/04(月) 23:31:24 ID:V18NF3FE
1.信秀vs清康
 守山崩れにて清康死亡、勢いに乗じて岡崎に攻め入った信秀、
 井田にて松平の寡兵に討たれる。
 以後、信秀の子として生まれるはずだった子女は一門の子
 (信長にとって従兄弟)とす。

  織田信秀:政治47 戦闘76 智謀51
  松平清康:政治45 戦闘77 智謀47

2.信広vs広忠
 嫡男信長が赤子ということもあり庶子信広も幼少ではあるが
 重臣や一門に貢献されて家督を継承す。
 1540年の安祥城攻略以後、信広は人生の大半を安祥城に居し、
 自らを先代からの宿敵松平氏からの守り手たらんとした。
 松平側にしても対織田の敵愾心は強く、特に松平家所縁の安祥城奪還の願望は強く、
 1542年には今川の援兵を得て小豆坂で戦うが破れ、
 さらに1545年に起こした合戦においては松平方の敗色が濃くなった時に、
 広忠自身、本多平八郎忠豊以下数騎を率いて織田本陣に特攻をかけ
 当時としては新兵器火縄銃の餌食となって壮絶な討ち死にを遂げた。
 さらに今川の支援を受けるべく今川義元の元に送った広忠嫡子の竹千代が
 家臣の裏切りによって織田の人質になる事態まで起きていた。
 又、それから4年後に松平家掌握を目論む駿河今川氏によって仕掛けられた
 第2次小豆坂合戦では老巧な今川軍の大将太原雪斎と大軍の前に
 織田方が惨敗を喫し、当主信広自身が敵軍迫る安祥城に籠り、
 多くの将兵を尾張に逃した後に本丸に火を放って自害して果てた。

 尚、信広は生前に重臣平手政秀を遣わして美濃斎藤家との縁談を結んで信長の後ろ盾とした。
 安祥落城直後に、今川軍は松平竹千代を解放すれば矛を収めるとし、
 松平竹千代の奪還に成功した後に休戦の約定を反故にして引き続いて尾張に侵攻する気配をみせたが
 織田家は信広が残したこの濃尾同盟という遺産に助けられることになる。
 尾張掌握の野心があった斎藤道三が織田との姻戚を利用し、今川に対し
 「約定を反故にし、尾張を奪ろうとするなら全兵で織田を支援す」と圧力をかけた。
 今川側とて織田軍との戦いで損害を受けた後で、戦上手と名高い斎藤道三と戦う余力が無く、
 斎藤側からしても大軍を有する今川家と戦うのは無謀であり、
 結局、尾張が斎藤・今川両家の緩衝地帯となり10余年、矛を交えることは無かった...。

  織田信広:政治62 戦闘54 智謀54
  松平広忠:政治32 戦闘68 智謀27
582織田・松平5代の怨恨・改:2009/05/05(火) 00:41:58 ID:7TC/cIAw
3.信長・元康
 1560年、駿河の今川義元が大軍を率いて東海道を西上した。
 目的は定かではないが、近隣諸国では『上洛のため』との噂が広まった。
 今川の先鋒は松平広忠の遺児、竹千代 改メ 松平元康
 今川軍本隊が尾張に入る前から佐久間大学の守る丸根砦を陥したり
 前線基地大高城への兵糧運搬など大車輪の働きを見せたが、
 織田の当主、信長は清州城本丸の居室でふんぞり返っていた。

 かつて元康が織田家の人質として尾張にいた頃、
 それぞれ幼名、織田吉法師と松平竹千代と名乗っていて
 ともに兄弟の少ない両名は兄弟のように親しんでいた。
 吉法師は折にふれて、「父祖宿怨の間柄であるが次世代思考でry...」と
 いざという時には手を結ぶべく幼心に誓いあっていた。
 今回、元康に活躍させているのも云わば義元を油断させて
 義元と大軍を切り離すための餌のようなものであった。

 ところが!!! 今川軍本隊、沓掛に着陣すると
 元康始め前線の諸将は一部の守備兵を残して義元の下に馳せ参じた。
 予め駿府での評定において元康によってされた
 「寡兵の信長はきっと乾坤一擲、御舘自身を狙うに違いない。
  尾張内では御舘様と大軍は常に行動をともにすべき」との進言によるものである。
 元康にしてみれば父祖2代の怨恨強く、又、今川一門として将来を約束されており
 あえて危ない橋を渡って信長の企てに加担する必要が無かった。
 やがて元康の進言で義元が大軍と行動していると知った信長の元康憎悪は募り、
 同時に織田家滅亡を悟った。
 それならばせめてものと正面合戦における『元康と義元の首』を第1目標とし、
 林佐渡を守将とする那古野を攻める今川軍2万に対して3千の寡兵で攻めかかった。
 戦場は庄内川。もはや戦略云々ではなく意地の織田軍。
 柴田勝家以下、名だたる者が討ち死にしていった。
 結局、元康は前田利家、佐脇良之兄弟によって討ち取られ
 信長自身も義元打倒を果たせず弓矢の雨を浴びて討ち死を遂げた。

 出撃前に信長がしたこと。
 最愛の妾で妻同然の生駒氏の産んだ奇妙丸を西国に落として織田の血筋を残すことである。
 それにあたって御前に呼ばれた者は池田信輝・滝川一益・木下秀吉...。
 特に池田信輝は信長の乳兄弟でもあり強く殉死を願ったが
 摂津池田氏と繋がりがあるとされる血筋を活かすため許されなかった。
 滝川一益は信輝とは同族ともされ甲賀にも所縁がある。
 木下秀吉は下賎の出とされてるが、尾張浅井氏の流れとも言われ
 六角当主義秀と知己であるとも...。
 彼らに伴われて奇妙丸は西国に落ちることになる。

  織田信長:政治56 戦闘87 智謀37
  松平元康:政治47 戦闘79 智謀64
583織田・松平5代の怨恨・改:2009/05/05(火) 01:52:57 ID:7TC/cIAw
4.輝信(信忠)vs真康(信康)<1>
 庄内川の合戦において織田信長を討ち取って尾張を掌握した今川であったが
 今川方の受けた損害も甚大なものであった。
 松平元康始め、鵜殿、由比、松井、井伊、飯尾...、名だたる者が討ち死した。
 そのような中で尾張の新領が増えたために人事異動として
 元康には義父にあたる関口親永が尾張那古野にあって
 今川が織田残党の抑えのために擁立した傀儡当主津田信勝や降将林、佐久間らの目付けや新領経営、
 親永の娘で元康の正室関口氏が松平・鵜殿家を預かるべく岡崎城に入った。

 一方、庄内川における織田家の奮戦、
 又、合戦における損害により今川の上洛が立ち消えとの噂が広まったため、
 近隣諸国には織田の血筋を探して織田の血筋を入れようとする織田ブランド志向が高まった。
 近江浅井家は従妹市を嫁に、伊勢の長野氏、神戸氏、北畠氏も男子を養子とした。
 今川の同盟国武田家でも諏訪勝頼が織田一門の姫を迎えたことで後々、内乱に発展することに。
 これらの国々が連合して『反今川同盟』を唱えられては堪らずと
 津田信勝を当主として立てるだけでなく、生駒舘に隠れ住んでいた
 信長の一の姫を竹千代の正室に迎えることになる。
 しかしあくまで形式上の正室であり、関口氏の意向で側妾におかれた
 永見氏や西郷氏が実質的な妻とされた。

 木下秀吉らに伴われて西国へと落ち延びた奇妙丸は
 彼らの所縁の土豪や祖父信秀の頃に交流のあった公卿の元を転々としていた。
 ある日、木下秀吉と毛利家の使僧安国寺恵瓊が遭遇して意気投合。
 両者が交流しているうちに恵瓊が秀吉の底知れない器量を見抜いて
 毛利家本国への書状にも度々、『木下秀吉』の名が挙がるようになり、
 やがて恵瓊より『毛利家仕官』の話が出るが奇妙丸を裏切れず、
 『主従で毛利へ』との話がまとまり毛利家へ。
 奇妙丸は毛利家当主輝元の偏諱により『輝信』と名乗る。
 更に一門小早川隆景はほぼ同年代の生まれで天下取り最右翼とされていた
 今川と死闘を繰り広げた織田信長の子に興味を持ち、
 面構えに只者ならぬところを感じ取り、養子として小早川家の一派『竹原』を
 継がせることを願い出て許された。
584織田・松平5代の怨恨・改:2009/05/05(火) 03:09:08 ID:7TC/cIAw
4.輝信(信忠)vs真康(信康)<2>
 元康正室の関口氏は元康より6歳ほど年上とされその経験から
 子である竹千代 改メ 松平真康にも年上の妻を勧めた。
 1人目は永見氏で、長子於義丸を産むが女性ながら
 松平真康元服まで三河を支えた女傑関口氏の勘気により、
 2人目で後に長松丸を産む西郷氏が実質上の妻とされた。
 1560年代、甲斐の武田家では川中島にて当主武田信玄が
 上杉謙信と相打ちという形で討ち死してから跡継ぎ義信と舎弟勝頼の間で内紛。
 親今川志向の兄に不満を持ち、嫁も織田の血筋の姫を迎えたが、
 合戦となると今川の援軍を得た義信によって討伐される。
 しかし、一族から反乱者を出したことにより武田家への締め付けが厳しくなり、
 近親の葛山氏、真康元服後に小山田家に再稼した関口氏(後に真康の異父弟小山田信綱を産む)
 に睨まれるような形で盟約関係から徐々に従属関係へと化していく。
 信濃に今川の勢力が及んだことにより60年代半ばより美濃斎藤家を東と南より圧迫。
 又、1570年頃に前後して今川義元・関口親永が死に、
 松平真康は若年ながら三河・尾張を併せ持つ大身に。

 奇妙丸こと小早川輝信主従が加わったことは毛利家に大きな助けとなった。
 輝信は義父隆景とともに山陽地方を東へ東へと進んでいた。
 特に木下秀吉の城攻めは凄まじく、
 高松城水攻め、山陰の吉川元春の求めに応じて鳥取城兵糧攻め、三木城兵糧攻めなど。
 滝川・池田の武勇も素晴らしく、隆景はそれよりも輝信の采配能力を買っていた。
 どことなく自らの長兄隆元を彷彿させた。
 毛利家先代元就に『天下を目指してはならぬ』と戒められていたが
 『上方に安定勢力が現われない今、安寧をもたらすのは我ら以外に無し』と
 戒めを無きものするのに十分と思わせた。
 隆景とは血の繋がりは無いが、播磨陣中において側妾塩河氏との間に三法師を産んだ。
585織田・松平5代の怨恨・改:2009/05/05(火) 04:34:19 ID:7TC/cIAw
4.輝信(信忠)vs真康(信康)<3>

 1582年...、
 小早川輝信擁する?毛利家と松平真康擁する今川家、
 毛利家の方が上方進出には積極的で京を勢力圏に取り込んでいた。
 今川家は庄内川合戦後の家臣団再編成、武田・北条の従属化、
 反今川色の強い近畿諸国の鎮定に時日がかかった...。
 そのような折に西国から台頭して京を支配した勢力が現われて捨てておけなかった。

  今川家:旧北条領・甲信・駿遠三・尾・勢・志・大・美・飛・賀・越前
  毛利家:山陽・山陰・隠岐・淡路・摂津・和泉・河内・紀伊・山城

 今川軍が近江に進出し、琵琶湖畔愛知川のおいて決戦!!!

 輝信は隠れていた同腹の姉妹が真康の形式上の正室に祭り上げられ
 3年ほど前に用済みとばかりに離縁されたこと、
 他家に引き取られた弟や従兄弟が亡き者とされたこと
 父祖の地尾張を領していることを聞き憤りをかんじていたし、
 真康にしても父祖数代の宿敵が敵陣にいると聞いていた。

 この合戦は終始、今川方東軍優位に経過した。
 特に今川本隊、武田隊、北条隊...。
 武田の大将義信は内紛で武田家を弱体させたものの名将信玄の子として
 武将の器をしっかり受け継いでいたし、この三家は姻戚で幾重にも結ばれて
 当代においては従兄弟同士、それぞれ当主が老練な壮年武将の域に達していた。
 対する毛利家は吉川・小早川兄弟、大河の二川体制であるがしょせん一家の中のもので
 その後に追随する勢力がない。外様最右翼宇喜多家は若年八郎が当主である。
 輝信の采配能力が発揮できるのは分家の養子的立場上から
 せいぜい、旗下や共に戦ったことのあるもの2万人程度。
 一方面の鎮定軍としては申し分なくても天下分け目の戦の采配は振れない。

 結局、西軍総崩れという形で敗走。
 輝信が『瀬田に強固な陣を張って京を維持すべし』と殿を受けて
 退却戦の最中に真康と遭遇。
 壮絶な一騎打ちを繰り広げて相討ちという形で両名20半ばの生涯を終えた。
 若くして今川家を支えていた者と毛利東進に一役買ったものの惜しまれる死である。

  小早川輝信:政治82 戦闘79 智謀77
  松平真康:政治79 戦闘84 智謀73

 尚、その直後に今川の入京と毛利の京防衛をかけて2次合戦が行われると思われたが、
 越前朝倉氏の軍事全般を司る明智光秀が突如反旗を翻して今川の背後を突くべく、
 2万の兵で江東に乱入し疲弊しきった東軍と合戦。
 明智光秀は討ち取られて朝倉家も処分されることになるが東軍の受けた損害は甚大で
 入京戦どころではなくなる。
586人間七七四年:2009/06/14(日) 22:57:50 ID:KaVrUPFc
宇喜多秀家(1572-1607)
八丈島へ配流後、その翌年に入水死した。
一説には八丈島を泳いで脱出しようとしたとも言われている。
587人間七七四年:2009/06/15(月) 00:02:20 ID:iwegbMCU
宇喜多秀家(1572-1607)
八丈島へ配流後、その翌年に行方不明となる。
一説には風船に乗って八丈島を脱出しようとして風に流されていったとも言われている。
588人間七七四年:2009/06/15(月) 00:24:45 ID:GzYWdqeC
>>587
気球の発明が100年以上も早くなるよ。
589人間七七四年:2009/06/15(月) 11:03:25 ID:QgY/tlKt
南部晴継

南部家重臣の九戸政実の後見を得て家臣団を統一し、津軽、斯波、角館と領土を広げる。
葛西氏とは同盟関係を築き上げ、安東攻めに本腰を入れようとしたところ、重臣の田子信直、北信愛に裏切られ、津軽一帯をかすめ取られる。
小田原にいち早く田子信直が参陣したこともあり信直は津軽領を安堵、以後津軽信直と名乗る。
現代でも青森県人と岩手県人は仲が悪いとされる。
590人間七七四年:2009/06/23(火) 23:19:11 ID:1gYwKmXl
福島正則(1561〜1586)
千利休の娘に投げ飛ばされ、打ち所が悪くそのまま死去した。
591人間七七四年:2009/08/09(日) 23:24:27 ID:myQ4O2WH
長尾政景(1526-1614)
上田長尾家当主。宇佐美定満に暗殺されかけたが、逆に定満を説得し謙信を暗殺させた。
その後、実子景勝を謙信の後釜に据え、上田長尾家の家督は養子の勝景(北条三郎)に譲った。
592人間七七四年:2009/08/10(月) 03:52:31 ID:NGF+KJqs
織田長益(1547-1582)
織田信秀の11子。織田信長の実弟。通称は源五。
豪胆な性格であったらしく、武勇に秀で、特に槍術に優れた。

信長が上洛を果たした頃から名前が見え始め、金ヶ崎の退き口では木下秀吉とともに殿軍に名乗りをあげ、大いに奮戦したという。
その際、あまりにも戦闘にのめりこみすぎて、敵兵に囲まれ体中に傷を負いながらもなんとか逃げ延び、
そのため戦後信長から「軽率な行動は慎め」と叱責を受けたといわれている。

1582年の武田征伐では、信長の嫡子信忠の旗下にあり、
鬼武蔵こと森長可と先陣争いをし、信忠から「叔父上自重してくだされ」という内容の書状を送られている。

同年の本能寺の変でも信忠の側におり、信忠の甲冑を身につけ身代わりとなり、前田玄以らとともに大いに奮戦した後、
明智光秀の家臣・四王天又兵衛政実に討たれた。

その時の奮戦ぶりは甲冑が返り血で真赤に染まり、のちに「織田の源五は人ではないよ」と京童に詠われたという。

統率56 武勇82 知略5 政治23
593人間七七四年:2009/09/09(水) 16:17:14 ID:IFgzDuWV
小早川秀秋(1582-1597)

秀吉縁者の子。秀吉の養子となったのち小早川家に入る。
朝鮮の役に従軍した際、敵地に孤立した加藤清正の救出のため突出するが
包囲され討ち死にした。のちに関ヶ原で敗れた石田三成は
「秀秋殿さえ生きておられればこうはならなかったものを」と嘆いたといわれる。
594人間七七四年:2009/09/09(水) 17:53:07 ID:ioUt3ZVt
上杉成実 (1568-1646)

上杉景勝の臣。父の実元は伊達稙宗の三男で、上杉定実の養子となり越後守護上杉氏を継いだが、
実権は守護代長尾氏に握られており、成実生年の頃には完全に家臣化していた。
猛将として知られ、新発田重家の乱や豊臣秀吉の小田原攻めなどに功があった。
慶長五年(1600)年の関ヶ原の戦いの際には、景勝の命で陸奥国福島城を守り、伊達政宗の大軍を松川の戦いで破った。
上杉氏の米沢移封後も福島城代としてかの地に留まった。
正保三年(1646)没。
595人間七七四年:2009/09/11(金) 22:36:25 ID:6lqvOmAg
大友塩市丸(?〜1550)

大友義鑑の三男。大友氏第21代当主。
1550年1月、義鑑は、長男・義鎮を担ぐ一派の謀叛を鎮圧し、義鎮を切腹させるとともに、
後継者を明確にするため塩市丸に家督を譲った。
しかし、同年9月4日に発生した地震により大友館は崩壊。
塩市丸は父と共に圧死した。これが有名な「二階崩れの変」である。

大友家の家督は異母兄の晴英(のち義長)が継ぎ、
戦国大友家は全盛期を迎えることになる。
596人間七七四年:2009/09/22(火) 22:49:40 ID:A2SLA8Dx
明智光慶(1569-1669)
明智光秀の嫡子。父光秀が羽柴秀吉に敗れ戦死後、江戸川小五郎左衛門天海と改名する。
父の仇を討ち冤罪を晴らすために、徳川家康に接近し、その卓越した推理力で
見事に信長を殺害した真犯人が秀吉であることを証明することに成功した。
その推理力は後世においても高く評価され「明智小五郎」「名探偵テンカイ」など
人気作品のモチーフとして愛されている。
597人間七七四年:2010/01/18(月) 21:04:13 ID:VlEbFqSi
武田義信(1538〜1582)

甲斐武田家第21代当主。信玄の嫡男。川中島合戦において敵将を討ち取る等、
家督継承者としての存在ぶりを十分に発揮するが、次第に父と不和になり、1565年、
父に対して謀反を起こすも失敗。父の追手から逃げ延び、三河の徳川家に身を寄せる。
1573年、信玄が死去すると、祖父・信虎と共に甲斐へ向けて挙兵する。
間もなくして躑躅ヶ崎城を制圧し、当主・勝頼は自害。
その後、信玄の死によって乱れた領内を統一すべく尽力する。
ところが、信玄の死を好機と見た織田信長によって居城を攻められる。
騎馬隊の威力を以て幾度と撃退するが、織田軍の勢いに次第に押され、
1582年、居城を完全に包囲され降伏。武田家は滅亡した。
その後、捕虜として京まで連行される。処断が決まらぬまま、本能寺の変が起こり戦後、
武田家再興を恐れた明智光秀によって斬首された。
598人間七七四年:2010/01/20(水) 23:54:04 ID:AaHk54ga
その辺のIF小説よりよっぽどおもしろいスレだ
599人間七七四年:2010/02/01(月) 09:48:21 ID:uCx41ujf
        @@@@@@@
         @''''''   '''''':::::::@
        @(●),   、(●)、@ +
       @   ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::@      昔は賑やかだったけど
      .   |   `-=ニ=- ' .:::::::| +     寂れちゃったわねー このスレ
         \  `ニニ´  .:::::/     +
          ,`'ー‐---一' \
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         | ヽ、         | ヽ  l      /\___/\
         ヽ-''        | (__)    / ⌒   ⌒ ::\
          |          |  ヽ \  | (●), 、 (●)、 ::|
          |          |   \ \|  ,,ノ(、_, )ヽ、,   :::|
          i..,_,_,,,_,____.ノ    l  |   ト‐=‐ァ'   .:::|  もう終わりだね
           | |     .| |      ヽ \  `ニニ´  .::/
            | |     .| |      \ `ー‐--‐‐一''´\
600人間七七四年:2010/02/10(水) 11:05:51 ID:eESOZEpJ
大内晴持(1524-1547)
周防大内家第32代当主。幼名:太郎、初名条恒持。大内義房とも。
父は一条房冬、母は大内義興女。
幼い頃から聡明で容姿に優れたため、叔父である大内義隆に可愛がられその養子となる。
1543年、出雲の尼子氏を討つ為に義父・義隆と共に出陣した。尼子氏の居城、月山富田城を包囲するも味方の裏切りにより大敗する。
晴持と義隆は別々の船で退却する事になったが退却中、晴持の乗った船が出雲沖で転覆し晴持は行方不明になってしまう。
無事に山口に戻った義隆はこの報を聞いて大いに嘆き悲しんだ。
晴持のために義隆は足利家に働きかけて義の字を拝領し、義房と改名させた上で弔った。
その後、喪失感から立ち直れない義隆は戦を嫌い、築山の舘で毎日のように宴を開いて傷ついた心を慰めていた。そんな時……
――バタン!!
ふすまを開き、ずんずんと上座に進む男。それは近頃山口の町に現れたずぶ濡れの男だった
「何者ぞ!!」
叫んだのは義隆の寵臣、相良武任
しかし、彼の後ろの冷泉隆豊や杉重矩、いや、彼らだけでなく内藤興盛や陶隆房ですらその顔に驚きを浮かべ、ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた
「晴持……」
義隆がようやくといった感じで放った言葉に、武任を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた
「大内晴持、大内家の御危機を聞き、隠岐島より  泳  い  で  参  っ  た  !!!」
義隆から養子としては格別の愛情を受けて育った男が再び大内家の為に戦うため帰って来た…
しかしその後義隆に実子が生まれ存在を義隆に疎まれた晴持は突如追放され、七日後に切腹を申し付けられた。享年24。
その死を悼んだ人々が晴持を社に祀り大内権現(大内神社)として今も残っている。
601人間七七四年:2010/02/10(水) 21:25:08 ID:rS6bjYL/

ある下男が信長に対し、無礼な振る舞いを行った。
信長はこれに激怒し、一刀両断にせんと刀を抜くと、
それを恐れた下男、部屋の隅にある大きな棚の陰に隠れた。
信長は棚へ刀を当てると、下男を棚ごと押し切ってしまった。

このような言い伝えから、その刀は切られた下男の名を取り
「圧切り藤吉郎」と名付けられたという。
602人間七七四年:2010/02/10(水) 21:27:20 ID:rS6bjYL/
しまった、長谷部は斬られた茶坊主の名じゃなかった。
>>601はスルーしてくれorz
603人間七七四年:2010/02/12(金) 19:29:17 ID:+iSJXEm5
>>600
結局なにか変わったのか?w
604人間七七四年:2010/02/14(日) 14:57:29 ID:MKkH9xK5
明智光秀(1528?―1569)
戦国時代の武将。美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出自。通称は十兵衛。
越前国の朝倉氏に仕え、のち越前国へ亡命してきた足利義昭の直臣となる。
美濃・尾張両国を領する織田信長に縁故があり、その伝手で義昭を信長へ引き合わせた。
義昭の上洛、征夷大将軍就任後も義昭に近似したが、永禄12年(1569年)1月、織田勢が
美濃国に帰還した隙を突いて三好三人衆が蜂起。義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した。
光秀は義昭を守って奮戦するも討ち死したと伝えられる。
良質な資料に名が見えないので存在が疑問視されている。
605人間七七四年:2010/02/16(火) 08:45:46 ID:GuHFCDpY
森成利(1565?-1634)
戦国時代の戦国武将。江戸時代初期の大名。美濃国金山城主→信濃国川中島藩主→美作国津山藩の初代藩主。
本姓は源氏。通称乱丸、右近大夫。父は森可成。兄に森可隆、森長可、弟に森坊丸、森力丸、森忠政らがいる。
織田信長に小姓として出仕。のち家中での諸取次、者奏、諸事奉行、加判奉行等を努めた。
天正10年(1582年)、本能寺の変に際しては安土城の留守居だったため難を免れた。
同僚との喧嘩を信長に見咎められ、まだ幼すぎるとして母親のもとに返された。結果としてこれが幸いして本能寺の変に巻き込まれずに済んだ。
天正12年(1584年)、兄の長可が小牧・長久手の戦いで戦死したため、家督を相続。美濃国金山城に7万石を領した。
天正15年(1587年)には豊臣秀吉から羽柴姓を賜っている。
秀吉没後は徳川家康に近づき、慶長5年(1600年)に家康から信濃国川中島に13万7000石を与えられた。
1603年(慶長8年)美作国18万6500石を与えられ、津山藩主となった。

人物
・父の可成や兄の長可と同様に武術に優れ、朝鮮出兵・関ヶ原合戦・大坂合戦で活躍、「鬼右近」と称された。
・通称は嵐丸という名で流布しているが、当時の史料は全て乱、乱丸、乱法師と表記されており、「嵐」の文字は後世に創作的に充てられたものである。
また、森嵐丸といえば、大抵のイメージでは鬼のような面相を持ち、筋骨たくましい偉丈夫だったとして描かれる傾向がある。
しかし、実際の森成利に関する容姿の記述は同時代の史料には存在しない。
606605  修正:2010/02/16(火) 08:50:24 ID:GuHFCDpY
森成利(1565?-1634)
戦国時代の戦国武将。江戸時代初期の大名。美濃国金山城主→信濃国川中島藩主→美作国津山藩の初代藩主。
本姓は源氏。通称乱丸、右近大夫。父は森可成。兄に森可隆、森長可、弟に森坊丸、森力丸、森忠政らがいる。
織田信長に小姓として出仕。のち家中での諸取次、者奏、諸事奉行、加判奉行等を努めた。
天正10年(1582年)、本能寺の変に際しては安土城の留守居だったため難を免れた。
天正12年(1584年)、兄の長可が小牧・長久手の戦いで戦死したため、家督を相続。美濃国金山城に7万石を領した。
天正15年(1587年)には豊臣秀吉から羽柴姓を賜っている。
秀吉没後は徳川家康に近づき、慶長5年(1600年)に家康から信濃国川中島に13万7000石を与えられた。
1603年(慶長8年)美作国18万6500石を与えられ、津山藩主となった。

人物
・父の可成や兄の長可と同様に武術に優れ、朝鮮出兵・関ヶ原合戦・大坂合戦で活躍、「鬼右近」と称された。
・通称は嵐丸という名で流布しているが、当時の史料は全て乱、乱丸、乱法師と表記されており、「嵐」の文字は後世に創作的に充てられたものである。
また、森嵐丸といえば、大抵のイメージでは鬼のような面相を持ち、筋骨たくましい偉丈夫だったとして描かれる傾向がある。
しかし、実際の森成利に関する容姿の記述は同時代の史料には存在しない。
・寛永11年(1634年)、桃を食べた後に腹痛を起こし、そのまま亡くなった。通称の乱丸、あだ名の鬼右近をもじって「これが鬼の霍乱である」と話題になった。
607人間七七四年:2010/02/22(月) 09:27:43 ID:+K2bh8uE
>>603
宇喜多秀家と豊臣秀次のパロディでは
608織田・松平5代の怨恨・改:2010/03/26(金) 17:43:13 ID:eXA3nsH1
5.就信(秀信)vs氏忠(秀忠)

1582年愛知川の合戦後、毛利・今川両家が直接矛を交えることはなく、
今川は北陸・関東方面、毛利は九州・四国方面に勢力を拡張していった。
ある時は熱く矛を交え、ある時は平和裏に盟約的に従属させつつ...。
中でも毛利家と父祖の代から争った大友氏との戦い、
今川家と北陸をほぼ手中に治めていた上杉氏との戦いが激しいものであった。
しかし熱い戦いの後、それぞれ所領を減らされながら
東西両陣営の中で重要なポストに収まることになる。
尚、毛利・今川両勢力のぶつかる前線においては
反今川的な領民の多い近江において大規模な一揆が起こり
毛利家の軍兵を導き入れたことにより濃・江国境の関ヶ原が最前線となる。

毛利・今川両家が再度争うことになる1600年における両家の勢力は
毛利:山陽・山陰・畿内・四国・九州北半分
   九州南半分を領有の島津家とは友好関係にありながら完全従属化に至らず。
   両川体制は元春・隆景らが死に
   さらに2流化吉川:元氏・広家、小早川:秀包・就信(秀信)
今川:東海(濃尾以東)・北陸(越前以東)・関東全域
   今川家の執事松平真康の後継には西郷氏の産んだ子就信、
   真康の母にして女傑関口氏の勘気を蒙った永見氏の産んだ子秀康は
   東へと追いやられて結城氏の養子、1600年当時は
   北からの台頭著しい伊達氏の押さえとして宇都宮城に在陣。

長い間、矛を交えなかった両家であるが
毛利家が一気に乗じて近江全域に進軍したことにより開戦。
609織田・松平5代の怨恨・改:2010/03/26(金) 18:37:41 ID:eXA3nsH1
めんどくさくなった...。

東軍主軸の武田・北条両家当主が老齢のため代替わり、
信勝・氏直ともに大軍で威圧する戦ばかりで戦経験乏しい。
対して西軍は輝信西国落ちに同行した織田旧臣が没したものの
その2世や宇喜多八郎の成長、毛利両川の2流肥大化、
対大友戦の死闘を経て成長。

今川氏真自ら最後の特攻を敢行、
その乱戦の最中、氏忠が氏真に逃げれと説得して
現、R365から撤退させて自らは殿として就信と戦い死亡。

戦後、小早川(竹原家)就信→織田姓に復姓して尾張数カ国を治める。
東軍と和平。
今川は駿遠、武田は甲、北条は相・豆、松平家督は秀康が継ぐ。

  小早川改メ織田就信:政治64 戦闘69 智謀59
  松平氏忠:政治65 戦闘67 智謀58
610人間七七四年:2010/05/11(火) 13:31:38 ID:kEGDUzlR
徳栄軒店主:信玄

嫡男義信と対立し、駿河に追放される。
今川氏の庇護を受けていたが今川氏没落後、
駿府にてほうとう鍋の店、徳栄軒を開く。

尚、同時期に高遠の地を任されていた信玄弟信廉も
信玄追放後の武田家内義信・勝頼の対立に嫌気がさし
遁世して兄と提携してほうとう鍋の店、逍遙軒を開く。

ただ、兄より弟の方が商才があったらしく
逍遙軒の方が知名度があったようである。
611人間七七四年:2010/05/11(火) 16:00:27 ID:R8BHVhgA
上杉景勝(1556-1578)
戦国時代の武将。上田長尾氏の当主長尾政景の子で、長尾上杉家初代、上杉謙信の養子の一人。
謙信の没後同じく養子であった北条氏出身の景虎と家督を巡り対立。
先手を打ち春日山城本丸を占拠し一時優勢に立つも、甲相同盟に従い出兵した武田勝頼を始めとした
周辺諸国の大規模な介入により離反が相次ぎ勢力が崩壊。
上田長尾氏の本拠地である坂戸城に逃れる途中、安田城主安田顕元の裏切りにあい自害した。

政治32 戦闘73 智謀39
612人間七七四年:2010/05/11(火) 19:37:59 ID:fXZw06qI
優良スレ
613人間七七四年:2010/05/11(火) 21:20:41 ID:kEGDUzlR
>>611
北条・北条上杉・武田大連合ができるね。
614人間七七四年:2010/07/03(土) 02:01:19 ID:9smiGxx/
姉妹スレ
関が原の戦いのIF設定を語るスレ
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1212196912/
【歴史の】徳川家康VS前田利家【IF】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255967241/
ありとあらゆる平行世界からカキコまれるスレ・第12接線
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1263286364/
日本近代史IFを考える
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1148544152/
【IF】坂本竜馬が死んでない日本近代史【戦争回避】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1245369338/
大東亜戦争 if
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1252133682/
615人間七七四年:2010/09/19(日) 05:44:37 ID:0U1wfe4E
>>614
関が原の戦いのIF設定を語るスレ
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1212196912/
【歴史の】徳川家康VS前田利家【IF】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255967241/
ありとあらゆる平行世界からカキコまれるスレ・第12接線
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1263286364/
大東亜戦争 if
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1252133682/
板が移転したよ。
616 ◆.2YkH1lsHwl/ :2010/10/06(水) 19:27:47 ID:aeFI3L6K
617人間七七四年:2010/10/08(金) 13:03:34 ID:CRkwPNYH
宇喜多秀家(1572-1610)
宇喜多直家の次男。幼くして父を亡くすが、後見人の羽柴秀吉に大変気に入られ、
成人後は九州・小田原征伐などに従軍し数多くの武功を立てる。
戦後には五十七万石を領する大大名となり若くして五大老に任じられ、
また前田利家の娘で秀吉の養女になっていた豪姫を正室に迎えている。
このように秀吉に愛された秀家であったが、秀吉没後の関ヶ原では
態度を明確にしない小早川秀秋を誘って共々徳川家康に接近、東軍の勝利に大きく貢献する。
この裏切りに対して豊臣家は当然激怒、秀家を梟雄であった父・直家と絡めて罵倒するが、
東軍に属した豊臣恩顧の武将の多くが大なり小なり似たような立場である上、
類稀なる人たらしで知られた秀家に対する風当たりは思いのほか少なかった。

しかし1610年、病に倒れた秀家は38歳の若さで死去する。
人々は秀吉の呪いだと噂したが、実際は贅沢な暮らしを続けていたための成人病といわれ、
事実、関ヶ原以降の秀家は暴飲暴食でぶくぶくと肥満化していったという史記もある。
宇喜多家は嫡子が継いだが元々家中が不安定だったせいもあり、大坂の陣後、
豊臣色の一掃を狙う幕府に言いがかり同然の責めを負わされて改易されてしまう。
実家へ戻った豪姫や配流された息子たちもまた贅沢病のせいで長生きできず、
四代・家綱の時に秀家の孫にあたる人物が早世して宇喜多家の直系は断絶した。

また余談ではあるが、関ヶ原時に秀家と同じく家康への接近を図っておきながら
どちらに付くこともせず結果的に日和見に徹することになった小早川秀秋は、
戦後、家康の追及を恐れて単身逃亡。二週間後、伊勢の海岸で水死体となって発見される。
これは秀秋が島津や毛利などの西軍大名のもとへ逃れるために船出したものの、
嵐に遭ってあえなく水死したものであるという説が有力である。中には精神薄弱気味であった秀秋が
泳いで遥か遠方の八丈島まで泳いで逃げようとしたという珍説もあるが、信憑性は低い。
618人間七七四年:2010/10/08(金) 13:07:44 ID:CRkwPNYH
徳川忠輝(1592-1683)
家康の六男。江戸幕府第三代将軍。勇猛だったが父に疎まれたとされる。
一大名として封ぜられた忠輝は事あるごとに家康の不興を買い、大坂の陣直前には遅参を理由に謹慎させられていた。
ところが大坂の陣で父・家康、兄・秀忠が共に討死したことから事態は大きく変化する。
忠輝の義父であり外様大名として重きを成していた伊達政宗が混乱する徳川家の継嗣問題に介入し、
忠輝を正当な後継者とすることを主張する。秀忠には三人の男子がいたために当然猛反対が起こったが、
徳川に対して腹に一物を持っていた豊臣恩顧の外様大名がぽつぽつと政宗に同調。
組織として固まりきっていなかった徳川幕府は圧力に屈する形で、家康の遺言とされる
「秀忠の遺児(家光)が成人するまで」との条件で忠輝を後継者に据えるが、結局それが守られることはなかった。
第三代将軍となった忠輝は政宗の後見を受けながら幕政の確立に取り組む。
当初は天下取りの野心を再燃させていた政宗の傀儡同然だったが、やがて大将としての才気を見せ始めると
政宗も野心を引っ込め、叛心を見せる者たちの排除など娘婿の政に心を砕くようになる。
忠輝もまた政宗を実の父以上に慕い、五郎八姫の間にも三男二女を儲けるなど夫婦関係も良好だった。
政宗の助力で以後200年続く武家社会の基礎を築いた忠輝は、父・家康を超える91年の天寿を全うした。
その頃には徳川幕府も曾孫である六代・忠宣の御世になっており、人々は忠輝の長寿に驚嘆した。
仙台市にある忠輝の霊廟は、長生きにご利益があるとして訪れる人が絶えない。

なお、先に没した政宗の霊廟は忠輝の命により将軍家のそれに準じた絢爛豪華な造りとされ、
海外文化にも通じていた政宗らしく和洋折衷のデザインが随所に施されている。
対して実父・家康の墓は申し訳程度の霊廟とはなっているもののかなり簡素な造りで、
兄・秀忠やその息子たちの墓と分けることなく纏めてあることからも忠輝の家康に対する心境が窺える。
619人間七七四年:2010/10/25(月) 20:41:13 ID:Vx07Z/lw
今川義元(1519-1580)

日本独立時代、現代の静岡県の領主。
1570年以降、京都を領地にし、管領となって政治の実験を握るが、内乱の激化を招いた。
1580年のキリスト教一揆により敗死。
日本の国力を低下させ、日本がポルトガルの植民地にされる元凶を作った人物とされる。
620前スレの再掲示:2010/10/31(日) 04:19:36 ID:XddK3qSb
徳川家康【天下を取り損ねた男】
信長、秀吉の盟友として"律儀なる御仁"との評価をほしいままにしながら
大大名の座をも保っていた戦国でも稀有な人物であるが太閤秀吉の死去に伴い
分不相応な野心を抱き、太閤遺訓を積極的に破って多数派工作を行う。
 家康の目論みは前田利家の死で半ば成功したかに思われた。

が家康暗殺の嫌疑が掛かった前田家に利家未亡人芳春院の質を求め芳春院の内諾を得たにも
関わらず結局武門の誇りを訴えた利長の涙の決断で前田家が徹底抗戦を決定した。
当然の決断であろう。
が細川忠興が顔面蒼白になって利長に本意を訴えたにもかかわらず決は覆らず
忠興が伏見城に守備を報告に行ったときの家康は対面を憚らないくらいに怒り狂って
おり、その後細川は前田と共に歩むことになる。
前田の屈服を前提とした上杉への詰問状は既に会津に届いており
家康は自分で北陸に強大な反徳川勢力を生み出してしまったといえる。



 この時、石田三成は隠居しており(大谷吉継の助言とされる)家康の赦免許可
にも拘らず隠居の身から復することなく、強引に石田三成を敵役に仕立て
て名文にしようとした家康の思惑は大きくはずれ、その後も三成は終始一貫中立
して動かなかった。
三成に代わるように大谷吉継が前田家と組んで家康に組した丹羽などを下し
家康は強引な北陸征伐を敢行するが、なんら敵対行動を取っていない佐和山城を
小早川秀秋や吉川広家、脇坂ら四将が独断攻撃した事から風向きが変わり
戦局は混迷数年に及ぶ慶長騒乱の始まりとなる。

その後、有力大名の○○○○が天下を鎮め幕府を開く事になるのである。

劉備
琢県楼桑村の青年
母に茶を捨てられたショックで自害
621人間七七四年:2010/10/31(日) 04:21:40 ID:XddK3qSb
失礼、これは三戦板の方のだったかも。
622人間七七四年:2010/11/10(水) 18:51:45 ID:qfoy5HaH
小早川秀秋(1582-1600)
木下家定の子で、豊臣秀吉の養子、後に小早川隆景の養子となった。
関ヶ原の戦いでは、天下万民のためやむをえず東軍に寝返ったが、
戦後その裏切りを恥じて自害したという。
623人間七七四年:2010/12/02(木) 19:15:00 ID:5srnaoCG
サカイの聖アウグスティヌス(1555?-1596)
カトリックの聖人・博物学者。もとは豊臣秀吉配下の武将で、小西行長としても知られる。
堺の薬種商の家に生まれ、一時期は宇喜多氏に仕えた。
朝鮮出兵のとき、加藤清正に先陣を譲ったため、本来の家業に因んだ薬袋の旗印を掲げて二番手として進攻。
抜け駆けして漢城・平壌攻略に邁進する清正を横目に薬草の生息地を探索し、家中のめぼしい者を朝鮮と女真族の国境地帯に送った上で降伏。
このために補給線が途絶え、秀吉の朝鮮侵攻は早々と頓挫した。
日本から詰問の使者として石田三成が送られたが、家臣の西飛(内藤如安)に自身の首を日本に送り返させて生涯を終えた。
彼がこの挙に出た原因は、清正に自身の出身をなじられた腹いせとも、日本におけるキリスト教の将来に悲観したためともいわれる。
結果的にイエズス会は女真族への布教拠点を獲得し、行長は後世に聖人として尊崇されることになる。
624人間七七四年:2010/12/11(土) 01:57:17 ID:w2Av+R9a
本多忠勝(1548〜1584)

天正10年、小牧の役において
羽柴秀次を大将とした徳川領中入り隊を追尾した
家康本隊の進軍を助けるべく
家康本隊を追った秀吉本隊に対して小勢で挑発。
挑発の度が過ぎたのかたちまち殲滅を受け忠勝も討死を遂げる。

尚その後の戦況は
忠勝が一命を賭けて秀吉本隊の追跡を遅らせたものの
家康本隊は秀次以下中入り隊を打ち破ったものの
小城で兵を休めて鬼ごっこのつもりか
その夜のうちに小牧の陣に帰陣。

結果、みすみす敵大軍を領国寄りに残すことになり
秀吉軍が東に進軍すると慌てて追尾して合戦するも破れ
秀吉軍の当初の予定通りに三河蹂躙を許すことになる。

戦後、徳川氏は駿遠2国50万石、
関東平定後に相武80万石の一大名として存続することになる。
625人間七七四年:2010/12/11(土) 04:36:38 ID:4ZW0o7cw
>>7
72年時で29歳ってことにびっくりした

なんだかんだで天と地の利を得てるよな
626人間七七四年:2010/12/11(土) 06:11:33 ID:4ZW0o7cw
仙石秀久(1552〜1608)
羽柴家臣 美濃の豪族の子として生まれる。

元は斉藤氏に仕えていたが、美濃が信長に征服された後は信長の家臣、羽柴秀吉に仕官する。
その後、秀吉が織田家で頭角を現すに従い、羽柴家中の先陣として各地で奮戦した。

九州の役後、阿波讃岐淡路内に27万石を与えられた。又、瀬戸内の海運を統括する奉行も任されていた。
この頃、堺に近い土地を押さえたことが影響し、内政家としての芽が育まれたといわれている。

88年に佐々成政の後釜として肥後一国52万石を与えられる。
これは九州の監視と共に朝鮮出兵を見据えた仕置きであった。

九州仕置きでは急な国替えであり、いまだに不安が残る土地であったため、前年度から続く一揆の早期鎮圧と内政の充実が求められた。
秀久はこの問題に対し、この地に土着していた阿蘇氏や断絶した大友の残党を家臣として迎えることで対処した。朝鮮の役で活躍する仙石十二名臣の半数もこの時に迎えられている。


秀吉や前田利家といった豊臣家の支柱が死去した後は、歴戦の雄として大阪城の北東にある高槻城に詰め政務をとった。

〜〜主な戦い〜〜
秀久は猪突猛進を旨としており、そのせいで九州の役では島津の釣り野伏せにまんまと引っかかってしまった。仙石軍は壊乱を極めたが、追走する島津軍を側面に伏せていた長宗我部、十河両軍が逆に奇襲することで反転し、逆襲に転じた。
しかし、大友氏が動かなかったこともあり、兵力差をひっくり返すには至らず、互いに相手の将を討つまでにはいたらなかった。(この戦いのことで後に大友氏は難癖をつけられて秀吉に領地を没収された。)

この時、四国勢が事前に相手の戦術を調べ上げ、その上で仙石勢が囮を引き受けたのか、はたまた、
軍議が割れ、仙石勢が無謀に突っ込んだのかは記録に残っていない。



朝鮮の役後にまだ書けそうだな
627人間七七四年:2010/12/12(日) 22:17:14 ID:gBlVe3e/
しばらく前から勝手にまとめサイトの編集やってます。
同時代の外国人とか、時代が合ってない人とかの専用ページも作りました。

手作業なので漏れもあるかもしれませんが、可能な限り拾っていきます。
過去スレのも入れてしまっていいものでしょうか。

続き物とかでまとめづらいものもいくつかあるんですが、
(例:510氏の黒田長政乱心時の大谷吉継)
どんな感じにしたらいいでしょうかね? ご意見お待ちしています。

628人間七七四年:2010/12/13(月) 16:49:40 ID:Ma80iLrK
珠璃亜比丘尼(?〜1637)
慶長〜寛永期に活躍した吉利支丹比丘尼(修道女)。
朝鮮生まれ。文禄年間に戦災孤児となり、小西行長に養われた。
彼とその家族から日本語と薬草学、キリストの教えを学び、
慶長6年、京都の南蛮尼寺(女子修道院)に入った。
その動機は海外出身である引け目だったとされる。
のちに長崎で新しく発足した南蛮尼寺を任され、薬用酒の製造を始める。
朝鮮語をはじめとする各種外国語、および医術に通じた才媛であり、
外国船で病人が出ると励まし、手当てしたという。
寛永14年、疫病により帰天。

分岐が早すぎてわかりにくいが、西軍勝利で禁教令が出ない場合のジュリアおたあ。
629人間七七四年:2010/12/17(金) 15:27:36 ID:D5hObzdV
小田氏治(1534〜1602)
土浦公方。または江戸公方とも。号して天庵。

父、政治の跡を継いで当主となる。当時の小田家は河越夜戦に敗北し、凋落の一途を辿ろうとしていた。
氏治は手始めに結城政勝を攻略すると、南進して来た佐竹義昭も返り討ちにする。1558年には佐竹・多賀谷連合軍を破り、常陸と両軍の家臣団を一気に傘下に収める。
その戦上手振りを恐れた北条氏康は同盟を持ち掛け、互いの息子である小田友治と北条三郎(のちに北条治康と名乗る)を人質として交換した。
1560年代になると上杉謙信の侵攻が激化するも、氏治はその都度撃退し、時には逆に上野に攻め込んだ。更に旧佐竹家臣だった真壁らに下野の諸勢力を攻略させ、自らの版図に加える。
この頃になると堀越公方・足利政知を祖父に持つ氏治は、有名無実化した古河公方を廃し、自らが関東公方を名乗る事を土浦城にて宣言。世に言う土浦公方の誕生である。
だが、これは氏治の数少ない失策であった。氏治の公方僭称を認めない関東管領の謙信と小田家の膨張を恐れた氏康が越相同盟を組んだのだ。
この状況に氏治は武田信玄と甲常同盟を結んで対抗した。
そして1569年、ついに氏治と謙信・氏康との決戦が始まる。決戦の地は河越。そう、かつて父が氏康に敗北を喫した地である。
北条綱成が篭る河越城を小田軍が包囲、更に連合軍が遠巻きに囲むと言う状況だった。実は氏治は河越城を囲む前に布石を打っていた。それは里見義頼を動かす事である。
氏康らが小田原を発つのとほぼ同時に里見軍が安房より進発。海上から相模に上陸、一路小田原を目指す。
これに気付いた氏康は、全兵力の半数を氏政に預け、救援に向かわせた。
それにより第二次河越合戦は、小田軍二万に上杉・北条連合軍が五万(籠城兵五千を含む)となった。

開戦直後は流石に数に勝る連合軍が優勢で、氏治自身も危機に晒されるほどであったと言われる。(謙信が単騎駆けしたとの文献も見られるが、定かではない)
だが、小田原救援軍が里見家家臣、正木時茂に敗れるとの報が入ると状況が一変する。
帰るべき城を無くしたと思った北条兵が次々と逃げ出したのだ。逃げるならまだしも、中には小田軍に下る一門衆や家臣も出る程である。
更にこの混乱が上杉軍にも及ぼうとした時、氏治は次なる手を打つ。
小田本陣に上がる狼煙。連合軍が訝しむ中、鬨の声が上がる。上杉軍にいた佐野昌綱が矛を逆しまに攻めかかって来たのだ。
前々から打倒謙信に燃える昌綱に調略の手を伸ばしていた氏治はこのタイミングで昌綱を裏切らせたのだ。
第二次河越合戦に際して昌綱が謙信に早々に下り、道案内を務めたのも全ては氏治の策であった。
こうなると連合軍は誰が敵で誰が味方か分からずに同士討ちを始めてしまった。
さしもの謙信もこれ以上の戦闘継続を諦め、越後に撤退して行った。また、氏康を初めとした北条軍も逃走兵以外は何とか河越城に逃げ込む事に成功したが、既に風前の灯火である。
三日間の抵抗の後、河越城は落城。氏康らは自害した。(但し、氏治の元に人質として来ていた治康が北条家を継ぐ事を許されている)
630人間七七四年:2010/12/17(金) 15:29:21 ID:D5hObzdV
敗戦後、謙信は
「儂は憲政公より上杉姓と関東管領を拝命し、その職を全うしようとしたが、むべなるかな。関東に氏治がおる限り、儂は三国峠を越えられぬ」

と周囲に漏らし、また同盟相手の信玄も死去する際に
「儂が死んだら小田氏治を頼れ。西の織田家とは争っても、東の小田家とは争うな」

と勝頼や家臣団に厳命したと言われる。

この合戦により小田家は常陸・上野・下野・武蔵・相模を領する大大名に成長。関東の覇者に君臨した氏治は新しい拠点に江戸を選ぶ。ここを整備し、東の京都と呼ばれるまでに発展させた。(氏治を江戸公方と呼ぶのもこの辺りが要因である)
拠点を江戸に移してからは内政に力を入れ、10年近く関東全域から戦が絶えると言う快挙を成し遂げた。
だが、それも長くは続かなかった。1582年に武田征伐が起きたのだ。氏治はかつての同盟相手の息子である勝頼が滅びるのを良しとせず、信長と敵対してでも、勝頼の甲斐脱出を援助した。
その結果、上杉を降した柴田が上野から、武田征伐を終えた滝川が甲斐から、信長の盟友徳川が駿河より侵入して来た。
これに対し、氏治は相手戦力を減衰させながらも、最後には太田資正が手掛けた東国一の堅城と呼ばれた江戸城にて籠城戦を繰り広げる。
籠城戦の最中、包囲軍の動きが慌ただしくなるのを氏治は見逃さなかった。細作を放ち、調べさせると、信長が本能寺で明智光秀に討たれたと言うのだ。
これを好機と見た氏治は、上野から撤退する柴田軍に資正を、甲斐に撤退する滝川軍には客将として迎え入れた勝頼父子を、駿河に撤退する徳川軍には自らが当たり、逆襲の追撃戦が始まる。
結局は勝家が神流川で、一益は甲府で、家康は箱根でそれぞれ首級を挙げられた。(一益に関しては土民に討たれたとも言われる)

その後も徳川残党を追撃するが、三河・遠江国境で東進して来た明智秀満軍と遭遇。互いを不可侵とする事で合意した。
明智幕府が開かれると、、引き続き関東公方に就任。奥州征伐の総大将として白河関を越える。
伊達政宗を討ち、江戸に凱旋すると家督と関東公方を守治に譲り、隠居。
かつて関東公方を宣言した土浦にて悠悠自適な生活を送り、1602年に死去。死後、孫の経治の手によって日光に祀られる。
631人間七七四年:2010/12/19(日) 00:09:40 ID:X+orVbJ1
天庵大勝利か
632人間七七四年:2011/01/08(土) 21:05:10 ID:std4wdZQ
ジョン・レノン(1940年-)
ビートルズのボーカルとして知られる。
1980年12月に彼を殺害しようとする事件があったが
それを命を賭して守った日本出身の女がいた。

なお、この人物は柳川藩の家老小野氏の一族と言われているが
小野家は当家とは無関係の人物としている。
633人間七七四年:2011/01/09(日) 09:23:58 ID:BMpWKcIY
せめて分岐点を江戸時代初期以前にしてくれw
634人間七七四年:2011/04/18(月) 01:07:44.77 ID:rDNTak2X
保守
635人間七七四年:2011/05/03(火) 18:02:30.89 ID:A3GqI3pf
マイナーだけど…
津軽為信(1550―1591)
1570年に石川高信を敗死させ津軽から独立。
1590年に三成、秀次、信雄に鷹を送り本領安堵を図ったが
南部信直の画策により惣無事令違反と見なされ
九戸政実と共に津軽為信の乱を起こす。
当初は善戦したものの最終的に南部信直、伊達政宗の連合に破れ
戦後一族と共に斬首された。その後津軽は南部領になり信直は
晴政に勝るとも劣らぬ名将と称えられた。
蠣崎慶広(1548―1582)
1582年、安東愛季の命により浅利勝頼の暗殺を画策も
津軽為信の手引きにより宿泊した寺を襲撃され討死した
その後幼名が天才丸だっただけに2chでは戦国の○カ○ンとネタにされた。
636人間七七四年:2011/05/06(金) 00:14:59.54 ID:TeVMt8eN
宇喜多直家(1529〜1568?)
戦国時代の備前地方(現岡山県)の武将
主に策謀により主家である浦上家の勢力拡大を果たし、浦上家による備前、美作両国の支配権を確立する。
主家の勢力拡大のためには手段を選ばず。自らの親族に対してすら謀略を仕掛けたとされる忠義の武将。
1568年頃、何者かによって殺される。
直家の死亡後、主家である浦上家は毛利家に征服される。
浦上宗景は「直家さえ生きて居れば浦上家が滅びることがなかったであろう」とこぼしたとされる。

政治75 戦闘 70 知謀85 義理100
637ura205005010591711_vn:2011/05/08(日) 07:58:51.68 ID:Anj9aqSQ
やっぱり北条氏だな…
638人間七七四年:2011/06/08(水) 20:07:56.90 ID:4KUIDRQ3
坂本直陰
土佐長宗我部家の家臣。
特になにかをしたわけではないが、
寝小便癖がなかなか直らず、彼の名から
「直陰」と呼ぶことだけが後世に伝わる。

一部の架空戦記物では彼が歴史を変える人物になるなどという
あまりにも突拍子のない作品がある。
本人も草葉の陰で苦笑いしているだろう。
639人間七七四年:2011/06/16(木) 19:51:47.30 ID:FWRBugBB
>>618をセルフ受け

徳川竹千代(1604-1616)
秀忠の長男。一説には家康から第三代将軍に指名されていたという。
大坂の陣の翌年、父たちの後を追うかのように12歳の若さで早世する。
暗殺説もあるが、両親も見放すほど生来病弱であったといわれる。
また、竹千代の乳母である斎藤利三の娘が責を負って殉死している。

徳川忠長(1606-1625)
秀忠の次男。母であるお江与の方から溺愛されていたという。
兄の死後、母と家康〜秀忠時代の旧臣らに次期将軍候補として擁立される。
しかし元服直後に発生した「駿府事件」(※)の責めを負わされ、
蟄居命令を受けた数年後、蟄居先で死亡する。
自刃とも暗殺ともいわれるが定かではない。

保科正之(1611-1677)
秀忠の三男。妾腹ということでお江与の方の勘気を恐れた秀忠によって、
秘密裏に保科家へ養子に出される。
家康、秀忠の死後に起こった徳川嫡流の悲劇も他家へ出ていたため連座を免れ、
信州高遠の一大名として生涯を全うする。領内では善政を布いて民からも慕われていたらしい。
640人間七七四年:2011/06/16(木) 19:54:20.67 ID:FWRBugBB
※駿府事件
1620年、駿府城下で捕まった男の荷物から一通の密書が見つかる。
そこには「江戸と京都、同時に火を放ち、混乱に乗じて帝を拉致。
そして将軍忠輝を暗殺し、忠長を将軍職に据える」という衝撃の文言が綴られていた。
幕府は密書のやり取りをしていたとされる酒井雅楽頭と松平忠直を捕縛、
更にそこから芋づる式に多くの大名、旗本が捕まるという一大事件に発展する。
幕府は雅楽頭とその一派をお家取り潰しの上斬首、一門の忠直には切腹を言い渡し、
毛利輝元、脇坂安治など多くの大名、旗本も改易、追放処分となる。
首謀者とされた忠長だったが、先代将軍の子であることや
主体性が低いことから死罪は免れ、上州に蟄居処分となる。(後に死亡)
この事件は忠輝と岳父の伊達政宗が反対勢力排除のために図った陰謀だという説もあるが、
取調べされた関係者は帝の拉致など直接的な暴力行為を除いてはあまり否定しておらず、
政権転覆計画自体は実際に存在していたものと見られる。
この一件で反対勢力の粛清に成功した忠輝政権は徐々に安定していく。

なお、実質的な首謀者であるお江与の方は忠輝に捕まることをよしとせず、
薙刀を振り回して侍女や捕縛の使者などを殺傷して抵抗した末、最後は堀に身を投げて果てた。
人々は子供を溺愛した挙句に身を滅ぼした彼女を姉の淀君と重ね合わせ、
空気を読まずに暴走した女が自滅することを指す「浅井の駄目姫」、
転じて「のだめ」という慣用句の元となった。
641人間七七四年:2011/06/17(金) 23:26:05.34 ID:n+cbfFqc
※駿府事件
1622年、箱根山中で捕らえられた不審な男の荷物から一通の密書が見つかった。
そこには、駿河大納言徳川秀忠が老中本多正純と共謀して、異母兄である江戸幕府第二代将軍徳川信康が日光参詣に向かう途中、正純の居城・宇都宮城で殺害しようとしたと言うのである。
秀忠と正室お江与の方は兄であった家光を疎んじて弟の忠長を寵愛し、男子のいない兄・信康の後継に忠長を据えようと図ったが、家光の乳母春日局の働きによって信康は家光を養子に迎えて家督を継がせることとなり、これを深く恨んでいた。
一方の正純は初代将軍家康の在世中は大いに権力を振るったが、家康と父の本多正信が没した後、信康に加増を申し出たところ、宇都宮15万石を与える引換として老中を免ぜられたことを恨んでいた。
更に実父の見舞いのために駿府城を訪れていた家光が何者かに襲われ、家光に従っていた松平忠直(秀忠の婿)が家光と間違えられて殺害されたことから秀忠の謀叛は疑いなしとされた。
このため、松平定勝と土井利勝が問責のために駿府城を訪れたところ、秀忠夫妻は全ては自分たちの責任であるとして自らの命を絶った。本多正純は出羽国に配流された。
また、秀忠と親しかった佐竹義宣・毛利秀元らの諸大名・旗本の中にも譴責されたものがあった。
かつて関ヶ原の戦いの際には上田城にて真田昌幸の姦計に気付いて城を素通りして決戦に間に合わせて父・家康に「息子がいて良かった」と言わせしめた信康も弟の策動には気づかずその衝撃的な顛末の影響か、翌年に65歳で病死してしまう。
また、この事件は家光にも衝撃を与え、後に上野国で幽閉されていた忠長は自害を迫られることとなった。
642人間七七四年:2011/06/20(月) 00:11:30.62 ID:oOFpxOaZ
>>641
できれば信康生存までの経緯もあれば・・・

しかしどのルートでも忠長不遇でワロスw
643人間七七四年:2011/06/22(水) 06:35:52.26 ID:DulneOv/
武田信玄
三方が原の戦い後岡崎城に突入、徳川家康を討ち取る。
その後三河吉田城攻略中に病死。

武田勝頼
信玄死後即座に甲斐に戻り武田家実権を掌握。
信玄死後のゴタゴタの際徳川信康に遠江を大井川以西まで取り戻される。
1575年、勝頼軍が長篠城を包囲、織田・徳川連合軍の援軍が到着により長篠の戦が開始され敗北、重臣の多くを失う。
この戦により遠江を徳川家に取り戻される。
1582年織田信忠の電撃戦により天目山にて自刃。武田家は滅亡した。

徳川信康
家康死後に混乱する家臣を纏め、義父である信長や義理の兄弟である信忠と連携し武田家を攻略する。
1582年、光秀の謀反に気づき信長・信忠親子に知らせるも間に合わず、信長は自刃。
その後難を逃れた信忠と共に光秀を討とうと岡崎を出発しようとした時には既に光秀は天王山において秀吉に討ち取られた後であった。
後に秀吉が謀反を起こした際、信忠と連携しこれを撃破。そのまま姫路城に迫り秀吉を討ち取る。
その後も信忠と共に天下を平定し、天下を平定。岐阜幕府において初代副将軍を務めるも、2年のうちに天ぷらが中り天寿を全うした。
以降代々岐阜幕府において副将軍は徳川家が務める事になる。

織田信忠
本能寺の変後、信康と連携して秀吉との覇権争いに勝利し織田家を完全に掌握。
父・信長の統一事業を受け継ぎ、信康と共に天下を統一。
岐阜に幕府を開き初代将軍に就任する。
岐阜幕府は明治維新までの300年間、徳川家と共同し平和に世を治めた。
644人間七七四年:2011/07/26(火) 15:30:25.04 ID:d6Dy2y9Q
蘆名政道(?-1595)
伊達輝宗の次男。当主が次々と夭逝した蘆名家に送り込まれてその家督を継ぐ。
蘆名家を継いだ政道であったが実質的には伊達家の傀儡であり、
伊達家の意向を受けて上杉・佐竹ほか周辺豪族らとの戦いに明け暮れることとなる。

しかし1590年、関白秀吉の関東征伐が起こると政道は蘆名家として真っ先に秀吉の下へ馳せ参じる。
当時、破竹の勢いだった兄・政宗が秀吉からの召集命令をのらりくらりとかわす中、
本家の意向を無視した政道の勝手な行動は東北に一大勢力を築いていた伊達家に大きな衝撃を与える。
これにより秀吉との対決を余儀なくされた政宗だったが、周囲を敵に囲まれた状況では如何ともしがたく、
秀吉に先鋒を志願して許された政道らの前に敗北、最後は城と領地を差し出して自害した。
それまで目立った業績もなく傀儡同然だった政道が突然叛旗を翻すに至ったのには、
政道を溺愛していた母・義姫の兄である最上義光の後押しがあったという説が最有力とされている。
事実、政道が小田原へ出向いた際には最上軍が蘆名領との国境で伊達軍を牽制していた記録もある。
また、一説には政道と政宗は母からの偏愛が原因で常日頃から兄弟相克の状態だったともいう。
ともあれ、兄を売る形になった政道は秀吉から会津領を安堵される。

ところが1595年、いわゆる「秀次事件」が発生。
義光の取り成しで秀次に取り入っていた政道はそれが仇となって連座させられ、改易の憂き目に遭う。
失意のまま母のいる山形に身を寄せた政道は、隠棲先で程なくして謎の急死を遂げる。
時と場所をほぼ同じくして母の義姫も急死していることから、恨みを持つ伊達家の残党による暗殺説、
もしくは息子の没落を悲観した義姫との心中説など様々な説が錯綜している。

なお、伊達家は留守家に入っていた政景(政道の叔父)が小大名として存続することを許されて
明治維新まで続いたが、その家譜から政道の名前は完全に抹消されている。
江戸時代の当主の一人が政道の勘当状態を解こうとする動きもあったが、
家中の大部分が猛反発して頓挫。今もその状態は解かれていない。
645人間七七四年:2011/08/05(金) 03:07:40.66 ID:1jT2tKNn
細川藤孝(1534-1600)
細川元常の養子。足利義昭の擁立に尽力したが、やがて織田信長の家臣となる。
剛の者で、歌道は武士がたしなむものではないと考えており、配下に風流にふける者がいれば一喝したという。また、逃した敵は決して深追いしなかったという。
慶長5年、関ヶ原の戦いにて東軍に味方したため、石田三成に居城を攻囲され、自害した。
646人間七七四年:2011/10/09(日) 23:51:52.78 ID:smUyHqX7
テス
647人間七七四年:2012/01/04(水) 02:44:16.33 ID:l3W4XoHF
ate
648!sengoku:2012/01/04(水) 19:42:46.44 ID:hUHuiH+u
伊庭義明(?-1561)
越後に突如出現した武士団の首領。従六位少尉を自称。
後の上杉謙信となる長尾景虎の配下となる。

長尾景虎は越後から西へ進んで浅井・朝倉連合を、伊庭は南へ進んで信濃の川中島で武田信玄をそれぞれ討ち破って京で会合する計画で、上洛作戦を開始した。

「空を飛ぶ鉄の船」や「地を這う鉄の車」で武装した伊庭率いる部隊は川中島で武田軍と正面から激突。
当初は圧倒的な火力で優位に戦を進めたが、情報を得ていた武田信玄はそれに対処するための戦術を駆使して奮闘する。
やがて「鉄の船」は忍び込んだ武田勝頼によって乗員を殺害されて墜落、「鉄の車」は人海戦術で動きを封じられ、落とし穴にはまって自走不能となり、その他の車輌も全て失って、伊庭の部隊は戦闘能力を事実上喪失した。

窮地に陥った伊庭は最後の望みとして武田信玄の首を求めて武田本陣に単騎斬り込み、信玄を一騎打ちの末に討ち取ることに成功した。

信玄の首を取ったことで伊庭隊は辛くも勝利を収めたが、もはや武器は連発式の火縄銃程度しか無く、足軽も次々と戦死したことで士気は低下した。

しかし、素性の知れない伊庭らの上洛を好まない公家達の意を受け、長尾景虎自身により討ち取られる。

容貌は、後の服部正就、柳生三厳に似ていたという。
649人間七七四年:2012/01/21(土) 12:54:40.29 ID:ratX9NYr
良スレ
650人間七七四年:2012/01/24(火) 02:55:58.25 ID:MQGBpHWq
松下則吉(1537-1598)
尾張国愛知郡中村の半農半兵の家に百姓として生まれた。若くして故郷を離れ遠江の国人松下長則に
小物として仕える。その才気に気付いた長則が士分として抜擢すると松下家において頭角を表す。
桶狭間の合戦後に弱体化した今川家の支配を離れようとした松下長則の寄親・飯尾連竜からの
離脱および徳川家康(当時松平家康)への臣従を長則に進言して松下家が遠江の国人としては
いち早く徳川家の被官となるのに一役を買うこととなる。徳川家康の遠江侵攻の案内役となった
松下家はその功により家康より遠江曳馬城とその周辺で5000石を与えられ徳川家の有力家臣なっていく。
またこの頃、則吉は長則の養女を妻として松下家の準一門として松下姓と則の一字を拝領し木下秀吉から
松下則吉と改名することとなる。長則の隠居に伴い之綱が家督を相続すると義弟・家宰として之綱を
政戦両面から支え、徳川五大将の一人と呼ばれることになる之綱のために粉骨砕身することとなる。
本能寺の変後、混乱する甲信の切り取りの先鋒として松下之綱が派遣されると調略・城攻めの策を
進言し破竹の勢いで信濃へ浸透していくことになる。中でも上田合戦では知将・眞田昌幸の守る上田城を
則吉の策で落城させ眞田親子を捕縛する功を得、家康より拝謁の栄誉と長船の名刀を拝領することとなる。
またこの頃、則吉は石川数正と誼を通じ之綱の政治参加を促し農業・経済政策の立案を陰ながら担当する。
陪臣でありながら裏で蠢動する則吉を快く思わない本多重次・本多忠勝・榊原康政・大久保党の面々とは
折り合いが悪く面と向かって罵倒される事もあったがその家中の者とは天性の人たらしを発揮して受け入れられ
色々と情報を得て之綱へ向かうべき憎悪を一身に受けるのを生涯の仕事とする。
徳川家康の東北仕置きの大将を務めた之綱を補佐し大功を挙げる。1596年駿府幕府成立時に松下家は
宇都宮23万石の譜代大名として幕府の重鎮となり則吉も1万石を領する家老となる。その時に家康より3万石で
直臣として誘われるが小物より抜擢してくれた松下家の恩を裏切れないとして松下家の家老として仕えることを
家康に宣言する。これには本多忠勝・榊原康政たち三河衆も感心したと伝えられる。
1598年9月、5ヶ月前に亡くなった之綱を追うかのようにその生涯を終えた。
則吉を祖とする中村松下家は嫡子則勝以降代々松下家の家老を務め、次男則頼は3000石の旗本として
別家を立てることとなる。三男以降の息子たちは石川家・本多家に召抱えられ明治まで存続することとなる。
651人間七七四年:2012/08/13(月) 15:42:39.31 ID:fNUG/G9s
忍法帖のせいでネタ書き込めないじゃねーかよ・・・
652人間七七四年:2012/09/08(土) 11:49:44.89 ID:B0h1Fm7G
秀吉の略歴を読んでると、
そこそこ出世して綺麗な秀吉のまま歴史に名を残したイフ秀吉と、
天下人となったけどラスボス化した史実秀吉、どっちが幸せだったんだろと思えてくるな。
653人間七七四年:2013/09/18(水) 20:08:08.90 ID:S4g1PrJM
北条氏直 
北条氏政の子。祖父に北条氏康、武田信玄を持つ戦国のサラブレットであった。
しかし小田原の陣で北条家が敗北したため関東の広大な領地を全て失い
父、叔父も切腹し本人は高野山に謹慎することとなる。
半年の後に秀吉の許しを得て謹慎が解け大阪にて旧織田信雄邸を与えられた。

その半年後には遠江一万石の大名に復帰。この時家康の娘とは離婚している。
秀吉死後には旧父徳川家康に従い関ヶ原では旧臣とともに活躍。戦功により小田原への復帰が認められ
5万石の加増となった。

大阪の陣でも活躍し憎き豊臣家に復讐するが戦後言いがかりをつけられ改易された。
654人間七七四年:2014/04/12(土) 01:13:26.53 ID:RFCEWZdP
大崎義宣
伊達稙宗の次男。大崎家の内乱を治める際に伊達家の力を借りた見返りとして養子として送り込まれる。
天文の乱では弟達とは違い兄の晴宗側につき、終息後稙宗側についた前当主義直を討つ。
大崎家の分家筋にあたる最上家の内乱、天正最上の乱では甥の輝宗と同じく義守側につく等、実家と行動をともにしている。
1578年息子の義宗に家督を譲るも6年で死去、子の小僧丸が幼かったため当主として復帰するが、
小田原征伐に参陣しなかったため留守政景らと同じく所領没収の目にあう。
伊達政宗のところに身を寄せるも葛西大崎一揆との関与を疑われ切腹させられる(または政宗から目を逸らさせるためとも)。
小僧丸は幼年だったため許され、子孫は一門の高清水大崎家として仙台藩に仕えた。
655人間七七四年:2014/04/13(日) 14:28:41.32 ID:/54md+QB
人いねえな・・・
656人間七七四年:2014/05/27(火) 21:10:59.85 ID:T9tPfYXY
宇喜多詮家(1563-1630)

宇喜多忠家の子、伯父直家の薫陶を受け成長する。
宇喜多騒動が勃発した際に戸川派を支援し、秀家の毒殺に成功。
宇喜多宗家を相続し関ヶ原の戦いで東軍として活躍した。
その後、千姫と公家との縁談の取りまとめ役に任命されたが
千姫は本多忠刻に再嫁することに決定したため詮家は面子を潰されることとなった。
が、伯父の薫陶を受けていた詮家は立て籠りという行動には出ず、冷静に病死に見せかけて本多忠刻を毒殺した。
毒殺の証拠がなかったために詮家が処罰されることはなかったものの
幕府の警戒を強める事となり詮家の死後勃発したお家騒動(第二次宇喜多騒動)によって宇喜多家は改易となった。
657人間七七四年:2014/05/29(木) 10:11:49.98 ID:HTLODpQF
贅六
血迷って徳川様に喧嘩売ってくたばった雑魚。
豊臣は関係ない。負けたのはあくまで贅六のみ。豊臣を楯にする虎の威を借る狐贅六きんもー☆
贅六一の負け犬野郎チンカス贅六ワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
糞バカチョン犬死に最後まで戦ってないひたすら命乞い情報貰ってない
あってもなくても日本の完勝
糞バカチョン舎弟全く貢献していない
658人間七七四年:2014/05/29(木) 10:12:33.94 ID:HTLODpQF
贅六
全てにおいて大敗して死亡
659人間七七四年:2014/06/04(水) 20:48:53.21 ID:XbcaaPwB
保守
660人間七七四年:2014/06/11(水) 12:27:52.36 ID:Q3Czfuqi
井伊直政(1560〜1600)
徳川家臣。四天王に列せられ本多忠勝と並んで語られることが多い。
勇猛果敢な将でありながら狡猾な謀略も企てており、主君である家康からの評価は高かったが、
自身の意に反した家臣を切り捨てたり、降伏状態の兵士を見せしめに虐殺しており、徳や義を欠いていた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、先鋒として宇喜多秀家らと戦ったが、深追いしたために釣り野伏せにかかり捕縛。
西軍勝利後は今までの罪状を読み上げられて斬首された。
美丈夫で、小姓の頃に家康との肉体関係を持っていたために、外様の家柄でありながら重宝されている。
また、強きを助け弱きを挫き、部下を道具のように扱う様は反面教師の手本であり、生臭を極めるとして、
直政の成り上がりと末路は歌舞伎の演目「伊井名直左衛門」にもなった。
統率38、武力93、知力69、政治31


毛利秀孝(1590〜1627)
徳川家臣ののち毛利一門となる。井伊直政の息子で、はじめは井伊直孝を名乗っていた。
1621年の江戸征伐にて、乱の首謀者である徳川清康を逃がした後、殿軍として奮闘する。
戦後は彼の武勇を買った毛利輝元に養子として迎え入れられ、豊臣秀頼から秀の字を与えられ毛利秀孝を名乗る。
こうして助命されたものの、催事での火の不始末で下関の町を焼いた責を問われ、主君の秀元と共に連座して切腹。
その後、秀孝の一族郎党も同罪と言いがかりを付けられて処刑され、井伊家は断絶した。
一度も父である直政に会ったことがなく、容姿も似通ってないことから実子ではないとの説が囁かれており、
連座した際には自身の生まれを恨みながら切腹したという。
統率73、武力62、知力54、政治58
661人間七七四年:2014/06/11(水) 12:38:38.13 ID:Q3Czfuqi
毛利勝永(1577〜1643)
尾張毛利家、後に備後毛利家の初代当主となる。
温順寛厚な人柄だが卓越した采配の手腕を持っており、前哨戦では伏見城を大筒による砲撃を以って3日で陥落さたほか、
本戦では伊奈忠次を討ち取るなどして、西軍の急先鋒として名を上げた。
戦後は23万石に加増され、江戸征伐でも高坂甚内を討ち取るが、敵方の投石で嫡子である勝家を失い、
一時は所領返還と隠居も考えたものの、豊臣秀頼や家臣に説得されて思いとどまっている。
1627年末には、下関炎上の罪で所領没収となった毛利秀元に代わって備前、備中、備後、美作72万石に転封された。
転封後は民との融和に励み、1635年には息子の義永に家督を譲って隠居。
1643年に死去した際には吉川、小早川の両家も葬列に参加しており、「お仕え出来て幸せでした。」と死を惜しまれた。
統率92、武力63、知力74、政治81


毛利義永(1607〜1662)
備後毛利家二代目当主にして備後宰相と呼ばれている。幼名は太郎兵衛。
幼いがために戦に出ることが出来なかったが、勤勉さは父の勝永にも一目置かれていたという。
兄の勝家の急死を受けて後継者となってからは更に磨きがかかり、勝永をはじめ各地の君主の政策を学んだ。
1635年に家督を継ぐと、田園整備や国人制度の見直しで石高を114万石まで押し上げるなど、
備後毛利家の地盤を固めており、「戦を知らぬ武士であったが、長じて治世の名君となられた。」と称えられている。
書に精通しており達筆で、現代でも多くの書物と手紙が残っており、領地では彼を見習って書士官を志す者が多くなった。
統率57、武力38、知力86、政治92
662人間七七四年:2014/06/11(水) 19:30:22.45 ID:iIvevi2e
織田信忠
織田家の実権を握っていた父が本能寺にて討たれると、一時的に錯乱し、
二条城で明智軍に蹂躙されるつもりになっていた
しかし叔父に説得されて翻意し、京を脱出
安土で態勢を立て直し、明智軍を撃破

後年、あの時二条城に籠っていたら全くの犬死にになっていたと
幾度となく回想し、肝を冷やしたという
663人間七七四年:2014/06/14(土) 00:41:44.50 ID:alzDO4ah
宇喜多秀家(1572-1608)
宇喜多直家の次男で、幼くして家督を継ぎ、臣従関係にある羽柴秀吉に付き従って九州、小田原征伐、朝鮮出兵で功を立て、
57万石の大名にまで成長するが、素行に問題があり家臣団とは不仲のため、1599年には宇喜多騒動を勃発させた。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、釣り野伏せの先導役を買って出て西軍を勝利に導いている。
この功により80万石まで加増されるものの、参戦が遅れた毛利よりも少ない石高に留まったことに腹を立てた家臣も少なくなく、
秀家自身は石田体制や家臣との対立に嫌気が差したのか、酒や道楽に浸るようになってしまった。
1608年に起きた第二次宇喜多騒動の責任を取って切腹するが、これは豊臣大老筆頭となった石田三成の謀略との説もある。
晩節を汚す前は内外的に積極的な君主であり、備前宰相の異名は後の毛利義永の備後宰相の由縁となっている。
統率76、武力82、知力63、政治78


小西行長(1558-1612)
はじめは商人の養子であったが、宇喜多家臣を経て独立し、キリシタン大名として名を馳せる。
朝鮮出兵では先鋒として朝鮮軍を相手に大立ち回りをしており、関ヶ原の戦いでも西軍側について奮戦。
筒井定次を敗走させるなどして勝利に貢献し、肥前、肥後の36万石に封ぜられている。
バテレン追放令を発端としたキリスト教との軋轢の中で、重臣であることを理由に信仰を許されていたが、
1612年、人身売買によって得た利益を隠していたことが発覚し、所領没収ののち一族は釜茹での刑に処された。
翌年には禁教令が発布され、キリシタン勢力の徹底的な排除が開始されている。
なお息子の小西ペドロ(主殿介)は朝鮮出兵の際に戦死しているが、1981年作の漫画「キリシタンの逆襲」では
生存した彼が歴史上の偉人を陥れながら小西家を存続させ、日本にキリスト教を広げる役として描かれている。
この本での日本は俗に大正義日本とも呼ばれ、後の歴史創作で世界観の土台として利用している作品も少なくない。
統率61、武力66、知力77、政治74
664人間七七四年:2014/06/14(土) 01:06:21.70 ID:alzDO4ah
風魔出羽守(?〜1622)
風魔衆5代目当主。生年には諸説あるが不明で、7尺(210p)を超える色黒の巨漢だったとされる。
北条氏政、氏直に仕えていたが、小田原征伐で北条家が滅びると関東を荒らす夜盗に身を落とした。
しかし北条氏規、氏次の二人に乞われて再び北条家に仕え、石田三成のもとに馳せ参じて西軍に属する。
関ヶ原の戦いでは後詰め隊でありながら、徳川家康が籠城した大垣城に忍び込み、城内を大混乱に陥れている。
その後も河内に加増された氏次に仕えており、1621年の江戸征伐に従軍した際には真田信之を相手に大善戦を繰り広げるが、
別の兵士に背後から斬られたことにより退却を余儀なくされ、この太刀傷が祟って1622年に没する。
風魔小太郎として有名だが、これは代々の当主が襲名したものであり、出羽守の代から記録に名が追記されるようになった。
統率77、武力86、知力68、政治36


風魔三郎太(?-1625)
風魔衆出身だが謎が多く、両腕をはじめ体中に火傷の痕があり、背中には殺生石が埋まっていたという。
出羽守よりも先に北条氏次に帰参し、北条遺臣や牢人の調査のほか、在野の人材を発掘して再編に力を注いでいる。
関ヶ原の戦いでは、西軍寝返り組の首を狙う200人余りの伊賀忍者隊を、たった10人で討ち取った。
江戸征伐の際には敵方の投石を胸に受けて重傷を負いながらも、真田丸に焙烙の計を敢行して江戸城突破に一役買っている。
出羽守の死と北条家の転封を見届けた後、三郎太も役目を終えたかのように1625年に没した。
書を好み、優秀な学問書(のちの周期学)や論文を著しているほか、同じく書に精通した毛利義長らとも親交がある。
内政面でも、物資専売による官民相互利益と資金調達を推進しており、後の豊臣家もこの手法を取り入れるほどであった。
生まれは諸説あり、二曲輪猪助の孫や北条遺児との説があるが詳細は不明。
上杉景虎との説は殺生石の破片の所在や火傷から信憑性が高いが、三郎太は若い姿であり年齢的に不可能と退けられている。
統率74、武力81、知力88、政治83
665人間七七四年:2014/06/17(火) 12:12:59.73 ID:ABh5BdI4
竹中重門(1577-1621)
豊臣秀吉の軍師、竹中重治を父に持つ。
若くして小牧長久手、小田原征伐に従軍して戦を学び、豊臣家の未来を担う逸材と嘱望されていた。
関ヶ原の戦いでは西軍に属していたものの、井伊直政の口車に乗せられ東軍に鞍替し、本戦では島清興に捕えられる。
重門の才を惜しんだ清興の助命嘆願により死は免れられたものの、清興陪臣の知行600石にまで重門の地位は落ちた。
1621年の江戸征伐でも参謀として清興、信勝を補佐して包囲の一角を担うが、
敵本陣への奇襲を仕掛けた透破残党の部隊を相手に、二人を逃すために奮戦して果てている。


高坂甚内(?-1621)
透破の頭領で高坂昌信の孫と言われている。
彼が頭領を継いだ時には既に武田氏は衰退の一途を辿っており、目立った記録はほぼない。
しかし武田、北条亡き後の関東の裏社会を取り仕切ったことで、徳川家との繋がりも築いていた。
江戸征伐では透波の残党を率いて入城し、部下を豊臣の撹乱に割いて攻め手を緩めさせ、
自身は江戸城表門の前で、他の牢人と共に波状攻撃を何度も追い返す大立ち回りをしている。
撹乱部隊全滅の報を聞いた後も孤軍奮闘し、毛利勝永に討ち取られるまで甚内らに討たれた将兵は2000を超えるという。
甚内の奮闘を称えた勝永は「まるで武蔵坊弁慶の如し」と称賛し、戦後は勝永によって墓が立てられた。
666人間七七四年:2014/06/17(火) 22:24:57.26 ID:4wVPNOk+
直江兼続
上杉家の家老。無礼討ちした領民が現世に復活し復讐で殺されたといわれている。
その領民は菅原道真の子孫とも生まれ変わりであったともいわれており
兼続に持たされた閻魔状を手に圧倒的な力で世を震撼させたが
最後は陰陽師によって地獄に送り返されたという。
667人間七七四年:2014/07/13(日) 12:31:22.85 ID:33bwBgaw
木下藤吉郎
何の野心も見せず百姓として過ごすがある時終わりの商人見習いになってそこから
一大資産を築くと歴代子孫たちはよく藤吉郎の教えを守り今に至る木下財閥を築くのであった
668人間七七四年
相馬義胤(1548〜1635)
天文の乱以降、相馬と伊達の仲は険悪であったが
家督相続前の1570、1575年、家督相続後の1586年に
はるか東の彼方からの大海嘯により領地は荒廃し、
その度に伊達家より手厚い支援を受けたことに感じ入り随身。
伊達の先方衆として活躍。