290 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 01:28:52 ID:PaVStp/D
良スレage
291 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:18:08 ID:+9dktsB/
管直人(1946年〜)
日本国第94代内閣総理大臣。
0-157、お遍路、ブーメランなどの話題で知られているが、
党内の反小沢勢力を巧みにまとめ上げ「脱小沢」を錦の旗に
日本国第94代内閣総理大臣の椅子を手に入れた。
先の参議院選挙では消費税増税という鬼門にあえて果敢に挑み
各党の党首らを前にTVで増税を訴えるなどの革新的な手法で選挙に臨んだ。
また参議院選挙敗北の責任を取らせ更迭した人物を
再び登用するといった懐の深い人物であることも知られている。
更にその懐の深さはとどまることを知らず嘗ての仇敵と言っても過言ではない
与謝野氏に大臣のポストを与えたことは大きな反響を及ぼした。
第一部
第六天魔王信長を遥かに超える器量と噂されながらも、長幼の序を重んじ、兄を立てるため自らの才覚を隠し凡将を演じる信雄。
戦によって尊い命が失われるのを憂い、宿敵である北畠の養子となり、武力を用いずに戦乱の世の終結を目指す。
しかし信雄を慕う家臣が、功に逸り独断で伊賀に侵攻してしまう。信雄は家臣を守るため、伊賀攻め失敗の責を自ら被る。
第二部
父信長、兄信忠は本能寺の変により非業の死を遂げた。父兄の遺志を継ぎ、戦乱の世を鎮めようとする信雄。
だが、天下を私せんと欲する秀吉が信雄の前に立ち塞がる。匹夫秀吉を討つべく盟友、家康とともに挙兵する信雄。
その最中、秀吉にも天下を思う気持ちがあることを悟り、信雄は矛を納め天下を秀吉に譲り渡す。
その後も自らに100万石近くの領地があると世が乱れる元になると憂い、秀吉が信雄に隠遁を命じざるをえないような計略を仕掛ける。
第三部
太閤秀吉、遂に死す。
晩年の秀吉の所業を憎む信雄は盟友家康とともに新しい世を作ろうとする。
だが、石田三成、大谷吉継らの忠義の心にうたれ、敢えて西軍への加担を決意する信雄。
血気に逸る甥、秀信を説得し岐阜城を西軍のものとするなど、西軍勝利のために邁進する。
しかし関ヶ原において西軍は敗北。西軍の再起を目指す諸将が信雄のもとに続々と集まる。信雄は天下泰平の為、諸将を説得し、領地収公に応じる。
第四部
大坂の陣において人望、実力、血統、威厳、戦略の全てを備える信雄は大坂方総大将の話を持ちかけられる。信雄が総大将となれば兵力は圧倒的不利なれど、戦略で家康と互角となり、戦乱が長引き民が疲弊する。
「天下は民草のための天下である」そう考える信雄は苦渋の末決断を下す。
彼の決断が天下を泰平へと導く。
以上四部からなる聖将「織田信雄」の波乱万丈の生涯を描いた愛と血と涙の感動巨編。
2014年NHK総合にて放映予定。
293 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 01:29:05.01 ID:2OobsfIi
保守
294 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 14:55:31.35 ID:tO3pG7x9
295 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 00:24:38.84 ID:L98D6nKt
保守
296 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 00:06:36.27 ID:+zt2EBZG
297 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 00:58:13.75 ID:UEf7uteh
298 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 22:59:28.54 ID:VTtL2GS7
これは良スレ発見
299 :
人間七七四年:2011/12/10(土) 19:50:06.98 ID:22Ot2NT+
>>26 森長可(もりながよし)は、戦国時代の有力武将だが、知名度では弟の森成利(森乱、森蘭丸)に遅れをとっている。
森長可は、森可成の次男で、兄弟は、可隆、長可、成利(乱)、坊丸、力丸、忠政。このうち、乱、坊丸、力丸は天正10年(1582)の本能寺の変で倒れた。
父の可成と長兄の可隆が元亀元年(1570)戦死したため、次男の長可は13歳で家督をついだ。このとき、父の金山城(東美濃)も継いでいる。
弟の森乱が信長の有名な寵童なので(ということになっている)、長可も、無論、女子と見間違うほどの美麗で優しい若者であった。「姫若子」と呼ばれたこともあるらしい〔要出典〕。
天正10年の武田攻めでは、織田信忠の指揮下で出陣した。
このとき、信長から二度に渡る軍律違反を注意された。具体的な理由は分からない。ただ、高遠城攻撃のとき天井裏に居たというので、ときに逃げ腰になったことを咎められたのではなかろうか。
この森一族への信長の厚遇は非常なものであった。
武田を滅ぼした後、長可は北信濃を与えられ、弟の森乱は、その後の金山城を与えられた。織田家臣では、同年代で、これだけの領地や城を与えられた者は居ない。
森長可は、関所などを正規の手続きをとらずに通ることで知られていた。関所役人が、高位の者を通す際、面倒な儀礼などで苦労することを気の毒がり、楽をさせようと気遣ったのであろう。
後に、安田国継が仕官を求めてきたとき、本能寺の変で弟の森乱を討った者なのに、断りきれず召し抱えた。長可は、気弱なところがあったようだ。
本能寺の変の後、長可は東美濃に逃げ帰った。その東美濃争乱に勝利し、美濃領主の信孝ではなく秀吉側についた。
秀吉が天下をとり、叔父の池田恒興とともに美濃をかためる。本能寺の変で三人の弟を失ったものの、長可の森家は安泰に見えた。
しかし、秀吉と信雄の軋轢が深まり、天正12年(1584年)小牧の役が勃発した。
叔父の池田恒興は、犬山城を奪取した。
長可は、自分も戦功をあげようと勇み立って小牧をおさえるべく羽黒に進出したが、そこで、徳川の精鋭にうち破られた。
名誉挽回をかけて長久手戦に出陣するも、眉間を射抜かれて討ち死にした。叔父の池田恒興、その嫡男元助も倒れた。
森長可周辺に「人間無骨」という言葉が聞かれた。これは、長可の、やや女性的で、少しなよなよして骨の無いように見える風情を指すらしい。
長可は多くの武功を上げている。しかし、長可は、武人には少し不向きであった自身の柔弱さを、長久手戦出陣前、「娘を武士に嫁がせるな医者に嫁がせよ」と遺言することで、周囲に告白した。戦国の血なまぐさい時代は、森長可にとって生きるには厳しすぎたのかもしれない。
300 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 14:01:35.38 ID:HKYURfLF
兄弟揃って名器だったんだろうな。
「人間無骨」とかエロすぎw
301 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 20:54:31.83 ID:u2MpQ7bx
猛将秀吉
今日は1月1日。日輪が懐中に入って懐胎したなか(後の大政所)から、47
4年前の今日、国民的英雄、太閤さん、豊臣秀吉がこの世に産まれ出た輝かし
い日である。今日この日は、秀吉を物語らぬわけにはいくまい。
天下を統一した太閤豊臣秀吉は、戦国最強の猛将として知られている。
その人並外れた武勇は、若年のときから秀でていた。
秀吉は、日吉丸といった少年期、三河で行商し、夜、矢作橋で眠り込んだ。そ
こに、蜂須賀小六正勝を首領とする乱暴狼藉をこととする夜盗の一団が通りかかる。
その場面は、小学生まで知らぬものはない国民的唱歌になった。
「1、三河の矢作の橋の上 大のおとこの正勝は 長い薙刀ふりあげて 日吉
めがけて切りかかる
2、日吉丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上
へあがって手を叩く
3、前やうしろや左右 ここと思えば またあちら サルのような早業に 鬼
の正勝あやまった」
ここから秀吉は「サル」とあだ名が付いた。
秀吉は、蜂須賀小六一味を影の諜報部隊として従える一方、新進気鋭の織田信
長に仕官した。
秀吉の若い頃からの友人、前田利家は、信長の近習・寵童の拾阿弥を斬り殺し
て一時追放されるほどの粗暴な男だが、似たもの同士、秀吉も、武技の練達、
腕っ節の強さと蜂須賀一味を従えている強みから、利家を上回る蛮勇を振るっていた。
ある朝、信長が外出しようとすると、控えていた秀吉が草鞋を抱え込んで離さ
ないので外に出られない。秀吉は「出世させないなら草鞋は渡さない」と信長
に強談判する。秀吉のこと、機嫌を損ねると寵童の2,3人斬り殺しかねないし、まあ、それなりに働いているのだからと、秀吉の粗暴さにやや手を焼く信長は秀吉に出世を約束した。
秀吉は、金ヶ崎の引口はじめ浅井・朝倉戦で暴れまくり、天正元年、信長から今浜(長浜)をふんだくって城持ち大名となった。
302 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 20:56:24.11 ID:u2MpQ7bx
天正四年、上杉謙信との戦いに北陸におもむくが、北陸の方面軍司令官柴田
勝家の言動が気に入らず、勝手に軍を引いて帰ってきた。腕っ節に自信を持
つ秀吉らしい傍若無人さである。しかし、秀吉の機嫌を損ねることをどこか
怖れている信長は、これほどの軍律違反なのに何の罰も与えず、中国地方方
面軍司令官に任ずることでこたえた。
秀吉の武名は高まったが困ったことがあった。
秀吉は、自ら、凶暴な猩々のように先頭で敵陣に切り込み、それに屈強の親
衛隊が続く。秀吉が振り回す長鑓の前に、周囲は敵兵の屍の山となる。この
猛将ぶりに怖れをなす敵軍が、秀吉出陣を聞くと城に閉じこもってしまうこ
とが通例となった。降参しても後が怖いので、完全な閉じこもりになる。
かくして秀吉の城攻めは長引いたが、三木城、出石城、鳥取城などを落とし
てゆく。強豪の名高い吉川元春でさえ、秀吉を攻めることにおびえ、戦いを
避け、毛利方の城が落とされて行くことを防げなかった。
しかし、備中高松城を攻めているとき、天正十年、信長が本能寺の変で倒れ
た。秀吉は、サルのように敏捷にとって返し、山崎の戦いでは、輿に乗って
指揮をとり、たびたび、輿の上から敵将に向けて大猿のように跳躍しては叩
き斬った。
清洲会議では、他の家老を脅して幼少の三法師を織田家当主にさせた。マン
トヒヒのように歯をむき出して迫る秀吉に、「鬼柴田」ですら震え上がった
という。
その後、賤ヶ岳合戦で勝利し、小牧の戦いで家康と同盟して東方を委せる体
制の基礎をつくり、紀州攻め、四国攻め、九州攻め、小田原攻めと攻め進み
、天正十八年に全国を統一した。
秀吉は、比類ない富と権力を得たが、野獣の本性はおさえられず、明から天
竺(インド)に至る海外征服を構想するに至った。
かつて、三蔵法師が孫悟空を従えて天竺に向かったが、孫悟空の生まれ変わ
りであるサル、いや秀吉は、三蔵法師の生まれ変わりである三法師=織田秀
信をたてて、再度、天竺に向かうという壮大な夢を描くことになった。秀吉
は、このときのために清洲会議で三法師を推挙し、また天下統一後、秀信に
岐阜城を与えるという特別の厚遇をあたえたのであった。
こうして、秀吉の夢は、実現に向けて動き出す。
ここから波瀾万丈、痛快無比、スケール雄大、血湧き肉踊り、手に汗握る物
語が始まることになる。
・・・・・
………しかし、太閤さんの話は、途中で終わる約束になっている。残念なが
ら、この話しもここで終わらなければならない。
303 :
【!sengoku】:2012/01/02(月) 11:22:57.86 ID:ipzyKd2Z
小田太平記(全十二巻)
関東に覇を唱えた常陸の名門、小田氏治。
河越夜戦で敗北し、小田家は衰退の道を歩みはじめる。
北条・上杉・佐竹ら大大名の草刈場となった関東で、彼と長男の小太郎友治、次男の彦太郎守治らは、小田忍びらによる卓越した情報収集と謀略によって激しい戦国乱世を生き抜いていく。
天下統一を目論む豊臣秀吉の小田原征伐で所領を没収されるも、結城秀康の客分として家名を残すことに成功する。
しかし、大坂の陣で孫の義治に煮え湯を飲まされた幕府と甲賀衆は、小田家取り潰しを策謀する。
唯一の生き残りとなった義治は小田家の存続を図る。
304 :
人間七七四年:2012/01/02(月) 20:27:31.59 ID:A+Kevweo
負けた軍隊は良く学ぶと言いますが、小田氏治って、たしか、深く学びつくした名将ではなかったかとw
期待してます。
305 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 01:49:48.60 ID:KZTC6ULJ
皇民党のほめ殺し並み
306 :
!sengoku:2012/01/05(木) 21:19:12.93 ID:A5aWvQ1+
小田太平記
小田氏治(丹波哲郎)
「小田城ならば、再び奪って見よう。駄目な…いや、駄目すぎる、恐ろしい駄目城じゃ。あの城なら何度でも取り返せる」
「あのような駄目城が、小田の小勢をもって守れましょうや。たわけたことを申される」
「いや、そうでないぞ、摂津守…」
われ知らず、小田氏治は熱していた。
おもいもかけずに、わが口から飛び出した冗談が、知らず氏治の妄想を掻き立て、架空の戦争を脳裏に浮かべつつ、眠っていた戦将の情熱が一度にほとばしったものか。
「わしならば、天下が目を剥くような負け方をして見せよう。小田城も使い様じゃ。こりゃ、おもしろいぞ摂津守」
「戦は、勝つものでござる」
「う、ふふ…」
氏治が、意地の悪い含み笑いをした。
307 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 21:35:20.70 ID:SZTzdM0m
伊達政宗(1567?-1636)
陸奥国米沢城主。後に仙台城主。米沢城主・伊達輝宗の男。官途は左京大夫、後に権中納言。
天正13(1585)年、桧原峠において蘆名氏に敗れる。
天正16(1588)年、大崎平野の戦いで大崎氏に大敗、二年後の奥州仕置により領土の大半を失う。
寛永13(1636)年、没。
308 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 00:51:23.71 ID:mz6g8GAK
直江兼続(1560-1619)
上杉景勝の臣。従五位下・山城守。
関ヶ原の直前・会津遠征のきっかけとなった直江状の作者として知られる名将。
天正6(1578)年の御館の乱では、父・兼豊と共に景勝方に就いた。
その際、景虎支持に回った武田勝頼と交渉を行い、景勝支持に転向させる。
天正10(1582)年の織田信長越後攻めに際しては、信濃口の森長可を撤退させる功を挙げている。
天正11(1583)年・山城守を称する。豊臣政権下においては豊臣の氏を授けられ、
上杉領内に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられるほどの厚遇を受けている。
なお、六大老・五奉行の制度は、徳川家康の権勢に対抗するために、
兼続が石田三成を通して秀吉に献策したものであることが近年の研究により明らかになっている。
秀吉の死後、三成と共謀して家康包囲網を構築、その際に全国の諸大名に対して宛てた檄文が、
後に直江状として世に知られることになる。
関ヶ原合戦の後は米沢城下の整備に力を入れ、米沢藩の藩政の基礎を築いた。
その際に助言を請うた伊達政宗をして「我が故郷をかような程に変えてしまうとは」
と驚嘆せしめたのは有名な話である。
309 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 11:37:13.28 ID:MGxSJbfo
>>308 シエにワースト大河の座を奪われた、粗末先生乙です
310 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 03:36:08.31 ID:e1/Tcf25
311 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 19:38:08.39 ID:IXHeid6w
312 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 15:01:55.28 ID:+As5uVPJ
>>310 武官としての直江山城は凡人以下
評価としては限りなく不可に近いダメ大将
313 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 00:02:27.82 ID:X4t+NDlc
織田信長(1534-1582)
永禄3(1560)年に桶狭間の戦いで今川義元を破る
これ以降、今川家が上総介に任じられていたことから信長はその上にあたる
織田上総守信長と名乗った。
信長はしきたりにとらわれず、周りの目を気にせず突っ走る武将であった。
314 :
人間七七四年:2012/02/24(金) 11:54:33.45 ID:Zs2xzUa5
「小田太平記」続きを。
315 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 21:49:00.34 ID:i0qB6dzt
>>292 簡潔にうまくまとめてるのに、ローマ字タイトルが凡将臭w
316 :
荒らされたので、住人誘致中:2012/03/17(土) 21:38:15.31 ID:AnkonT8h
317 :
人間七七四年:2012/05/13(日) 02:20:40.30 ID:rJmlMTed
戦国武将は、おりあらば領地を奪い勢力拡大に目を光らせる荒々しい者ば
かりと思われているかもしれない。
しかし、なかには、奪われ続けで、だれもが同情してしまうひ弱な武将も
いる。
斎藤道三その人である。
斎藤道三は、その輝かしい出世の経歴について、その前半生を、最近にな
って父親にごっそり奪われてしまった。
そして、道三は、その息子に命を奪われる。
加えて、自分の領地は、娘婿に奪われる。
奪われるだけのみじめな人生であった。
人は、道三のことを、「蝮ににらまれた蛙」のような道三と言った。だ
が、どこかで短縮されて伝わってしまい、蝮の道三と言われている。
道三のことを「戦国の梟雄」と呼ぶものもいるらしい。意味が良く分から
ないが、昼間外に出てこられない、引きこもりのフクロウを、斎藤道三
になぞらえたものらしい。
某大家が、斎藤道三を主人公に「国盗られ物語」を執筆中とも言う。
318 :
人間七七四年:2012/05/14(月) 16:59:49.39 ID:RLlht0cO
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
319 :
人間七七四年:2012/05/21(月) 17:23:24.30 ID:fKv9fxTc
武田信玄
生来病弱であり、廃嫡の可能性すらあったが自力でその可能性を排除
強豪の今川北条と組み目の前の強豪を順調に平らげる
その途中で宿敵とも呼べる上杉謙信と出会い戦闘、痛み分けで和睦
その後自分を引き摺り下ろそうとする嫡男のたくらみを看破、排除しその後ろ盾となった今川が統治する駿河を侵攻
その際氏真の正室の実家である北条を敵に回し、更に徳川にまで裏切られ反包囲を敷かれるがうまく立ち回り北条と和睦
そうしているうちに運よく強敵である信長の包囲網が敷かれたため参加し、その同盟である徳川を一蹴したが寿命には勝てず天寿を全うした
彼が死ななければ恐らく上洛し、甲斐幕府を開いて居たであろう
320 :
人間七七四年:2012/07/25(水) 02:52:12.95 ID:5sQHwjqZ
上杉謙信
生来柔弱で、女児ではないかとすらいわれたが自力でその可能性を排除
国人衆を支えに越後の支配を固めてゆく。
その途中で宿敵とも呼べる武田信玄と出会い戦闘、痛み分けで和睦
その間、小田原城を攻め、関東管領に就く。
北条、武田を敵に回し、苦しい局面もあったが、うまく立ち回り越相同盟を結ぶも氏康死去で再び北条と対立
そうしているうちに運よく強敵である信長の包囲網が敷かれたため参加し、その北陸方面軍を一蹴したが寿命には勝てず天寿を全うした
彼が死ななければ恐らく上洛し、越後幕府を開いて居たであろう
(盗作、許されよ)
321 :
人間七七四年:2012/07/25(水) 19:43:14.48 ID:NBF0ArdF
似たような死に方だから仕方ない
322 :
人間七七四年:2012/07/29(日) 15:58:48.75 ID:d+NNEFxz
堀久太郎秀政
生来弱体であった(かどうか良く分からない)が自力で可能性を排除
信長の寵童から奉行へと順調に出世する。
その途中で宿敵とも言える長谷川秀一とであうが、特に喧嘩することもなかった。
その後、光秀による稲葉家からの斎藤利三,名和直治引き抜きをめぐる裁定を通知するなど政争にもかかわるが
上手く立ち回り、戦も巧みで「名人久太郎」と呼ばれる。
そうしているうちに、運よく、本能寺の変の際に秀吉の陣にいたため、秀吉の天下取りにつき従い、
北条打倒後は関八州を与えると言われるが寿命には勝てず天寿を全うした。
彼が死ななければ、おそらく、秀吉死後、江戸を拠点に天下をとったのは秀政であっただろう。
(少し苦しくなってきた)
323 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 15:54:15.12 ID:EbS0gtpa
440 :公共放送名無しさん:2012/08/08(水) 15:24:38.82 ID:0U9bTFVM
梵天丸は実の母に右目に根性焼きを入れられた
むかついたので実の弟に根性焼き入れて殺した
秀吉に殺されそうになったので全身に根性焼きいれて土下座して許してもらった
根性焼きだけで改易の波をググり抜いた男
324 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 20:36:56.12 ID:2V5+AA5J
麻生太郎
むろん、屈指の名将である。
姉川の合戦で織田信長と武田信玄が戦ったとき、鉄砲隊で信玄の騎馬軍団を敗退させた。
それも、だれ一人気付かないほど迅速な勝利であった。
そのため、姉川合戦で、信長と信玄とが戦って信玄が負けたことを誰も知らず、歴史に残らないままになった。
麻生太郎は、麻生読みと呼ばれる漢字への独特の造詣があり、文武両道の名将としても名高い。
325 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 01:20:15.91 ID:k4miHs4U
黒田孝高
生来病弱であった。主君が織田信長に臣従する際、代わりに使者となり、長男を人質に差し出す。
中国方面を担当する羽柴秀吉に付き従う。有岡城の戦いでは、謀反を起こした荒木村重の説得に赴くが、捕らえられ幽閉される。
小田原の陣では、城兵助命の労に対する謝礼として、北条氏から『吾妻鏡』を贈られた。
326 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 21:48:27.43 ID:HOWP8sBQ
秀吉の朝鮮出兵においては、総大将の軍監として参加したが、全く軍を統率できず、
病となり出家し、俗世を離れる意味で「如水円清」と号した。
関ヶ原の合戦では東軍に属したが大友氏の残党に悩まされた。その後の島津討伐では、
黒田勢の敗北が予想されたが、それを危惧した家康により和睦交渉が成立し、
孝高は、何とか失態無く無事に戦を終えることができた。
一方、嫡男の長政は関ヶ原において大功を挙げ、52万3,000石の初代藩主の地位を得た。
孝高はこのことを非常に喜び、家康が自ら長政の右手をとって賞した事を聞いた時には、
「その時左手は何をしていた」(即ち、なぜ両手で家康の手を捧げ持ち、感謝の意を表さなかったのか?)
と問い詰める程、感謝したと伝わる。その後は、家臣に嫌われつつも裕福な暮らしを送った。
327 :
人間七七四年:2014/02/15(土) 17:09:45.39 ID:5d/cXIA/
佐村 河内守
佐村河内守をあれこれ貶すものは多い。しかし、そのような毀誉褒貶にさら
されなかった名将など皆無に等しい。
信長、秀吉、信玄、謙信、元就など言うに及ばず、名の知れた将は、また、
攻撃も多い。
非難するものが多いことは、将の知名度を示す有名税にすぎない。
佐村河内守は、安芸の出身である。
この出身地や名前すら疑う者がでている。
しかし、そんなことを言えば、秀吉はどうか、北条早雲、斎藤道三はどうか。
出身や名前への疑問は、なにひとつ、将の価値を傷つけるものではない。
もともと、佐村河内守への非難は、影武者の使用にかかわっている。
しかし、そんなことを言うなら信玄はどうなのか。それどころか、表に出て
いないだけで、多くの将が影武者を使っている。信玄の名が上がるのは、い
ろいろ事情があるにしても、信玄の知名度によるところが大きい。佐村河内
も、また、その知名度によって、影武者があれこれ言われているにすぎない。
佐村河内守は、全聾や腕、目などの不自由を装ったとして、とりわけ非難を
被っている。
しかし、弱点を装って敵を翻弄することは当たり前の政略である。それをあ
れこれ言われるなら元就はどうなのか。それなしに、一代で巨大な毛利家を
つくることなどできなかった。
多くの名将も、あちこちで、自軍の内紛や裏切りを敵に思い込ませるなど
「自虐」演出は当たり前のことであった。
そもそも、「武士のウソを武略と言う」と言うのは、偉大な将、光秀の言葉
である。
名将の中には、領民とのかかわりを「鉢の木」のエピソードで語られる北条
時頼のような者もある。佐村河内守も、また、義手の少女との交流など全国
が知るところとなっている。
佐村河内守は、ここにあげたすべての将に通じている。すなわち名将である。
ところで、佐村河内守が、どのような実績を上げたのか。
その点に限っては、後の研究に待たねばならない。
328 :
人間七七四年:2014/02/15(土) 21:12:24.72 ID:3sm88aV2
斎藤龍興
祖父道三と父義龍の天才的なDNAを持つ大名。
竹中半兵衛、美濃三人衆など、織田の天下取りの基盤となる武将を仕えさせており半兵衛が16人で城をとった理由はあえて自分の無能さを示すために龍興様自ら仕組んだ事である。
永禄4年の森部の戦いでは素晴らしい采配や家臣の頑張りによって勝利した。家臣の忠誠心がある証である。
また、後に織田の進行を止めるため浅井家と同盟を結ぼうとするが信長に先を越されてしまった。だがしかし家督をついだばかりの浅井家領主に同盟を持ちかけるなど人材を見る目があったという事である。
永禄6年に信長を退けておりその有能さがうかがえる。
1567年、稲葉山城が落城するも農民たちの心を伺うために長島へ行く。この時二十歳である。
329 :
人間七七四年:2014/02/15(土) 21:15:06.43 ID:3sm88aV2
長島一向一揆で指揮をするなど農民たちに慕われていた。
その後畿内に移りキリシタンを目指した。
その証拠にルイス・フロイスからキリスト教の宗儀・世界の創造などについて説かれると聴聞した事を逐一書き留め、次に教会へ姿を現した際にはその総べてを明白に、流暢に、一言一句の間違いなく反復することが出来たといい、教会の信者達はとても驚いたそうである。
そのためルイス・フロイスからは「非常に有能で思慮深い」と評価された。
その後、朝倉家の客将となり刀禰坂の戦いで名誉の戦死を遂げ波乱万丈な人生に幕を閉じた。
余談だが87歳まで生きたという説がある。
330 :
人間七七四年:2014/02/16(日) 13:19:58.68 ID:v9gVhPmK
織田信長
東海最大にして最強の今川を撃退
後に戦争に特化された美濃の国を掌握、大国伊勢を占領、
超大国、近江・越前を占領し日本征服まで後一歩まで上り詰めた天才
331 :
人間七七四年:2014/02/16(日) 20:44:17.83 ID:Abw98epI
332 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 07:29:39.64 ID:F7UWKGVO
凡将ではあっても凡人ではなく
天才ではあっても名将ではなかった。
333 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 08:20:11.61 ID:QPaw4MQe
334 :
人間七七四年:2014/05/19(月) 12:04:38.27 ID:7Z3aIZJ/
NHKニューヨーク犬メガ盛り塩素プール問題 ホワイトホットサンド 72762885
NHKニューヨーク犬メガ盛り塩素プール問題 ホワイトホットサンド 72762885
NHKニューヨーク犬メガ盛り塩素プール問題 ホワイトホットサンド 72762885
335 :
人間七七四年:2014/05/26(月) 22:48:38.24 ID:CmBpNrSh
三好義継
鬼十河こと十河一存の嫡子。養父は三好長慶。
長慶の嫡男・義興が病没し親族から宗家の後継者を選出することになると、聡明であった義継が同じく長慶の甥である三好長治、十河存保、安宅信康らを押し退け選ばれた。
長慶死後、三好三人衆・松永久秀が対立すると常に有利な方を重用し、同時期に頭角を現した織田信長にはいち早く合力する姿勢を見せる等、時勢を読む事に長けていたとされる。
その後足利義昭と織田信長が不仲になると縁故を重んじて幕府方に味方し、信長包囲網の一角を担う。
信長が巻き返し包囲網が弱まると佐久間信盛を総大将とする三好討伐軍が義継の居城・若江を攻囲。
勝ち目無しと判断した義継は妻子を殺し自身も腹を切り壮絶な最期を迎えた。
336 :
人間七七四年:2014/09/17(水) 09:52:06.73 ID:4zVP2eMV
王国クランベリーラーメン
王国クランべリーラーメン
王国クランべリーラーメン
駐車近代リカエらーめん
337 :
人間七七四年:2014/12/30(火) 21:02:37.02 ID:eoT9AW2D
織田信雄
永禄元年(1558年)、尾張国丹羽郡小折(現在の愛知県江南市)の生駒屋敷で織田信長
の次男として生まれる。12歳の時に、父・信長の北畠家攻略戦の和睦条件として、北畠
具房の養嗣子となり伊勢に乗り込む。しかし北畠一族は信雄を侮り織田家に叛旗を密かに
翻していた。この状況を憂いた信雄はわずか19歳にして畠一族の粛清を決意、これを決行
した(三瀬の変)。更に北畠一族の手下と成り下がっていた補佐役・津田一安を粛清、
この英断により、北畠信意(信雄)の勇名は織田家家中に轟き、皆震え上がったという。
その後、数々の戦場で勇名を馳せた信雄は、21歳にして魑魅魍魎の跋扈する伊賀国への第1次
伊賀国攻めの総司令官に自ら就任、見事にこの威力偵察を成功させた。これは信孝の四国攻め
総司令官就任より3年も早く、2人の地位の違いがうかがえる。この時、更に、重臣で伊賀国人に
内通し私腹を肥やしていたと思われる柘植保重の暗殺にも成功している。(但し、この第1次伊賀国
攻めは信長による秘密任務であった為、表向きは叱責処分となった。)その後、第2次伊賀国攻めは
当然の如く成功し、大和・伊賀・伊勢の武将は信雄が完全に掌握したため、織田家の諸将は
その武功に震え上がったという。
本能寺の変に際して信雄は近江国甲賀郡土山まで進軍したため、明智光秀は震え上がり、
主力のほとんどを安土城防衛に振り向けたが信雄はこれを粉砕、主力を失った光秀は
劣勢のまま山崎の戦いに臨み、滅びて行った。
清州会議では信雄は織田家筆頭の地位にあったがあえて沈黙し、織田家当主を三法師、
後見役を信孝に譲り、大器であることを証明して見せた。この威光に織田家家臣は
ひれ伏し、本拠地尾張が信雄に献上され、若くして伊勢、伊賀、尾張100万石の
長老格として遇された。
その後、賤ヶ岳の戦いでは織田信孝を誅殺、小牧長久手の戦いでは重臣の津川義冬・岡田
重孝・浅井長時を誅殺するなど、正義の番人として振る舞い、常人なら躊躇するその英断に
織田家の諸将は「三介殿(信雄)のなさる事よ」と心底震え上がったという。その後も、秀吉の
転封命令には、家臣とその家族の為に断固として断り、自ら領地を天下泰平の為返上したという。
その後は関東、四国、奥州を視察し、その深遠なる見聞についに秀吉もひれ伏し、
三顧の礼で秀吉の師として栄えある御伽衆に迎えられた。
その後、関ヶ原の戦い、大阪の陣では、自身の兵団の圧倒的な戦闘力を抑えきった為、
徳川家康に感謝されその子孫は代々織田家筆頭として恐れ敬われたという。
本能寺の変から大阪夏の陣にかけて、信雄の行動が一つでも間違えば、戦国時代が
終わることは無かっただろう。寛永7年4月30日(1630年6月10日)死去。
人物
・伊勢国河合において、杉を無断で切った家臣を許さず、追っ手を差し向けて誅殺したという話がある。
・伊賀国に難なく侵入し帰還した信雄を、織田信長は非常に警戒し一時は親子の縁を絶とうとしたと伝えられる。
・信雄は家臣の処刑だけでなく能にも秀でていたという。
338 :
人間七七四年:2015/02/03(火) 20:26:21.54 ID:U8EMwrbt
武田晴信(1521-73)
甲斐武田家19代目当主。父信虎を追放して
当主の座を奪うが、自らも嫡男義信と対立する。
彼の後を継いだ四男勝頼の代で武田家は滅亡した。
上杉輝虎(1530−78)
越後守護代・長尾氏の出自だが関東管領上杉氏の名跡を継ぐ。
出奔や一騎駆けなど奇行を繰り返し、後継者を定めなかったため、
彼の急死後、上杉家は滅亡の危機に瀕する。
北条氏康(1515-71)
氏綱の嫡男。父の死後家督を継ぐが、
領内飢饉の責を負って隠居した。
12歳の時に鉄砲の音に驚いたのを恥じて自害しようとした逸話が残る。
339 :
人間七七四年:
豊臣鶴松(1589-1591)
出生前より誰もが次期天下人として認めるほどの知勇兼備の将。
朝鮮の使者を迎えた際は、小便を垂れるという豪胆さを見せつけたという。
齢二歳の大往生であった。