1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 17:31:38 ID:hiDPsROF
あぁこのスレ好きだったのにな…
まとめサイトも良かったのにね。もったいない
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 19:58:39 ID:wlx8F6wi
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 23:58:38 ID:7NZcTr4W
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 01:05:52 ID:jkyHua6b
織田有楽斎
織田信長の弟。
本能寺の変では、織田信長・信忠親子が相次ぎ戦死し大混乱に陥る中、狂騒の京からいち早く離脱に成功する。
庶民は人離れしたこの活躍を絶賛し、「織田の源五は人ではないよ」と褒め称えたという。
関ヶ原の戦いでは西軍の武将蒲生郷舎を討ち取るなど大活躍を見せ、、大和3万石を授かった。
茶道にも精通し、利休七哲の一人にも数えられるほどだった。
大阪冬の陣では豊臣側の中心人物となり奮戦し、将としての器を示す。
有楽斎は豊臣の未来のために、和平策を提案したが
受け入れようとしない豊臣側に呆れ、有楽斎は大坂城を退去する。
有楽斎の提案を受け入れなかった豊臣は予言どおり滅亡してしまう。
大坂城退去後は茶道に専念し、趣味に生きた。
文武両道兼ね備えた希有な武将であり、文化人でもあった有楽斎は有楽町という地名で現代に残り、
人々の心に生き続けている。
7 :
今川義元:2006/07/10(月) 03:33:46 ID:y2yyLeP2
数多の武将が、しのぎを削り覇権を争う戦国時代全盛期において
武田、上杉、北条、毛利など歴史的有名な大名をも完全に力で抑え付け
初めて京に上洛を試みた、真の戦国最強大名
その大上洛軍は3万とも4万とも謳われ
駿河を出発し尾張に入るまで、敵一人いない有様だったと言う
また、徳川家康の才能を早くから見抜き、己の帝王学を叩き込む為には
相手を人質に取るとまでいった信念の強い漢だった
彼の貫かれた信念と厚い親心の甲斐あって、家康は後に天下人になるのだが
彼の存在なくして徳川幕府の成立はなかった事は周知の事実であろう
また、お歯黒と言われる古来のお洒落を嗜み
戦国のファッションリーダーとしての一面も垣間見せている
そして、その文武に突出した彼の黄金人生の最期も、また歴史に残る壮絶なものだった
4万近くもの大軍で快進撃を続ける彼の軍だったが
敵の余りの弱さを哀れと思い、己の周囲は少数の兵を残しただけで
敵将・織田信長と指しの勝負を挑んだのである
そこには「今川軍は数だけではない。例え一人でも上洛してみようぞ」
という、彼の自信と志の強さ、フェアプレーの精神が感じられる
そして、鬼神の如き働きで敵兵をバッタバッタと切り伏せる義元であったが
予期せぬ戦場の、ぬかるみに足を取られ、転倒したところを敵兵に命を奪われてしまう
もし、彼が生きていたとしたら・・?
それは憶測としてではなく事実として、今川幕府の成立が実現していた事であろう
8 :
今川氏真:2006/07/10(月) 03:46:45 ID:y2yyLeP2
サッカーの神様
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 13:14:24 ID:PO1TbmLd
織田信雄 (おだ のぶかつ・のぶお)
永禄元年(1558年) - 寛永7年4月30日(1630年6月10日)
織田信長の次男(出生順では三男と言われる)。
1570年、北畠家との和睦の条件として若干12歳にて北畠の養子となり、17歳ま
での間には、完全に織田領化するなど、戦後処理に卓越した手腕を発揮する。
また、北畠家時代には、伊賀の地侍の危険性にいち早く着目し、この点に鈍感で
あった父信長の勘気を受けてでも伊賀攻めを実施するなど、先見の明もあった。
1582年、本能寺で信長が非業に倒れると、近江方面に出兵する。このとき、明智
勢が退去した安土城に火をつけ、信長の菩提を弔った。信長追悼については、細
川幽斎の追悼連歌会や秀吉による大金を投入した葬儀が有名であるが、この城そ
のものを信長の供物にするという豪儀な方法は、信雄の大気さを示すエピソード
といえよう。
本能寺の変の後は、自ら織田当主となることをいち早く放棄し、信長嫡孫である
三法師(後の織田秀信)を一途に立てるなど、織田家の柱石ぶりを見せつけた。
また、非嫡流での三男織田信孝が重臣筆頭の柴田勝家と組んで、三法師を岐阜城
に軟禁すると、羽柴秀吉と組んで両者を滅ぼし、三法師を救出する。
三法師救出後は、織田家の家政を秀吉ら重臣に任せて一歩退いた形で所領の尾張
から後見をすることになる。しかし、これは時期尚早でもあった。信雄不在の中、
秀吉が勢力を伸ばして織田家の所領を自分のものにしはじめたからである。
これのを見て、信雄はやむを得ず東隣の徳川家康の助力を得て秀吉の暴虐に対抗
することになる。(小牧・長久手の戦い)
この戦いでは、機動力と統制力に優れる信雄・家康の連合軍が数で勝る秀吉軍に
勝利し、戦線を膠着状態に持ち込むことに成功する。後方に不安のある秀吉は、
この状態に焦り、信雄に対して講和の要請をしてくる。信雄も、父信長の仇を討っ
た秀吉の功績に免じ、この講和を受け入れる。このとき、信雄は徳川家康に知ら
せることなく秀吉を講和を結んだが、これを聞いた家康は「天下のために大慶」
とおおいに喜んだという。家康ほどの人物にそれほどの信頼を得ていたというこ
とで、信雄の魅力を語る一端を垣間見せる。
この後、信雄は日本に残った残存勢力の掃討を秀吉に任せている。しかしながら、
小田原の陣(1590年)の後、転封を打診されたのを断ったことに際して、秀吉に
領土を奪われることになる。あくまでも秀吉を信じ続けた信雄の人間性がここに
きて裏目に出た結果であろう。
三法師救出後は、織田家の家政を秀吉ら重臣に任せて一歩退いた形で所領の尾張
から後見をすることになる。しかし、これは時期尚早でもあった。信雄不在の中、
秀吉が勢力を伸ばして織田家の所領を自分のものにしはじめたからである。
これのを見て、信雄はやむを得ず東隣の徳川家康の助力を得て秀吉の暴虐に対抗
することになる。(小牧・長久手の戦い)
この戦いでは、機動力と統制力に優れる信雄・家康の連合軍が数で勝る秀吉軍に
勝利し、戦線を膠着状態に持ち込むことに成功する。後方に不安のある秀吉は、
この状態に焦り、信雄に対して講和の要請をしてくる。信雄も、父信長の仇を討っ
た秀吉の功績に免じ、この講和を受け入れる。このとき、信雄は徳川家康に知ら
せることなく秀吉を講和を結んだが、これを聞いた家康は「天下のために大慶」
とおおいに喜んだという。家康ほどの人物にそれほどの信頼を得ていたというこ
とで、信雄の魅力を語る一端を垣間見せる。
この後、信雄は日本に残った残存勢力の掃討を秀吉に任せている。しかしながら、
小田原の陣(1590年)の後、転封を打診されたのを断ったことに際して、秀吉に
領土を奪われることになる。あくまでも秀吉を信じ続けた信雄の人間性がここに
きて裏目に出た結果であろう。
所領を奪われた後は、出羽・伊勢・伊予などで軟禁されていたが、1592年には小
禄ながら、秀吉の相伴衆に加えられている。この復帰の理由は定かにはされてい
ないが、すでに一大名の地位の落とされてしまった甥の秀信のためだと思われる。
この血縁の者に対する面倒見のよさは、信雄の特徴であり、後の大阪の陣におい
ては、従姉妹の淀殿のために豊臣家との確執を無視して大坂城で後見をし、さら
に、もう一人の従姉妹であるお江与(淀殿とは姉妹)にも大坂の情勢を伝えるな
ど、深い交流を続けている。
大坂の陣の後には、徳川家からの要請によって大名に復帰し、2つの大名家を出
すにいたる。
また、信雄は、能の名手でもあり「天下を取ったら、この舞いを公卿にみせてやろ
う」というほどであった。天下と匹敵するするほど神域に達したということでもあ
り、かつ、安土城を業火で包んだのを見ても判るように、芸術的への真摯さはたぐ
いまれまものを持っていた。また、茶の湯でも高見達した点をみても、文武ともに
優れた人物であったことがわかる。
なお、信雄を「のぶお」と読むか「のぶかつ」と読むかは、現在に至っても結論が
でていない。自らの呼び名すら韜晦した信雄は、後世の歴史家に対し数百年にわた
る研究課題を与えつづけているのである。
(12はミス><)
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 01:24:32 ID:YIHSngnJ
【上杉謙信】
長尾為景の次男。
その凶暴な気性から越後の虎と呼ばれた。
幼い頃は林泉寺に預けられて学問を学んでおり、元服すると栃尾城主となった。
ところが家督を継いだ兄の晴景に突如叛旗を翻し、兄を無理矢理隠居させ、長尾家の実権を掌握する。
北条氏に敗れた関東管領上杉憲政が越後に救援を求めてくると、
先祖代々の姓をあっさり捨てて関東管領に就任した。
関東管領就任後は、毎年のように関東に攻め寄せ、略奪や人身売買を繰り返した。
上杉軍の放火や狼藉によって関東の町は壊滅状態に陥った。
しかし味方の成田長泰を手打ちにするなど、謙信の言動は度を過ぎていた。
そのため徐々に関東諸将の信頼を失っていき、関東における所領の大半を北条氏に奪われてしまう。
謙信の関東攻略は失敗し、北条氏と同盟という救いの手に助けられる。
しかし北条氏が援軍を要請しても、謙信は何もせずに、それどころか領土の返還を求めたため
怒った北条氏に同盟を破棄されてしまう。
関東攻略を諦めた謙信は今度は北陸に手を伸ばす。
神保氏や畠山氏から領土を奪うが、最後は厠で急死する。
謙信は後継者を定めていなかったために御館の乱と呼ばれる後継者争いが勃発する。
国は内乱によって疲弊し、せっかく奪った北陸の所領のほとんどを失ってしまう。
謙信は乱世の梟雄として悪名を轟かせている。
謙信はアルコール中毒であり、気性も荒かった。
まだ幼い人質を自ら斬り殺した事もあったという。
また謙信領ではその余りある行為から、その家臣の反乱が絶えなかった。
名将も愚に書いていいのか
あえて凡将を名将として説明するから面白くて感嘆するんであって
其の逆をやると只のアンチスレ化しかねないので余計な波風は立てない方が・・・・
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 23:31:21 ID:vbcZpEES
>>16 名将→凡将の場合は、アンチを感じさせないクオリティを求めたい。
織田信雄
覇王・信長の子でありその嫡子信忠の同母弟。
生来剛毅であり、幼くして伊勢の名門北畠氏に人質に出されるも
当主具教の弟らを抱き込み家督を簒奪し具豊と名乗って伊勢国司となり
さらに己の地位を安泰とするため北畠一門を根絶やしにする。
覇者となった豊臣秀吉とも対等に渡り合い、理不尽な転封には一顧だにせず断る逸話が有名。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 23:27:43 ID:TOfKt/Mw
大友義統を名将に出来る奴はおらんか
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 21:25:19 ID:HOqz1wlt
84 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/08/10(水) 18:32:17
大友義統 (おおとも・よしむね) 1558−1605
大友義鎮(宗麟)の嫡子に生まれる。幼名長寿丸。
将軍足利義昭の諱字を受け義統。後、豊臣秀吉の諱字を受け吉統。洗礼名コンスタンチノ。
信仰厚きキリスト教徒であり、彼の住まう野津においては爆発的に信者が増加したという宗教的徳望の持ち主であった。
また子作りに励んでばかりの実父大友義鎮に対し、お家騒動の元凶になると批判する高いな倫理性も併せ持っていた。
その為か、一万田宗慶ら義統に忠言する家臣は数知れずであったという。戦国時代においては稀にみる人格者だった
と言えるだろう。
戦場においては黒田長政揮下の将として朝鮮に出兵、長駆して鳳山城を占領する勇猛さ、小西行長の救援要請に対し
戦局不利と見て応じなかった的確な判断力を兼ね備えていたが、秀吉には理解されず、この対応を逃亡と非難、義統
は領国を召し上げられ山口の本国寺に幽閉された。家康はこの処罰に対し、石田三成や福原直高らによる「贔屓の
沙汰」と判断、慶長4年赦免される。
その後、関が原の合戦に西軍として参戦するも、敵が黒田如水では相手が悪かった。降伏したのち、配流。赦される
ことなく没する。享年48歳。
今川氏真を名将のように語ってみてくれくれ
一条兼定もキボン
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 23:47:40 ID:yR1x++s5
前田利家は名将ですか?
今川氏真
今川義元と武田信虎娘の間に生まれる。幼少時から文武の神童と呼ばれ、とくに
蹴鞠と詠歌は東国で彼の右に出る者はなかった。武勇においても、父義元をしばしば
驚かせ、三河松平氏からの人質竹千代(のちの徳川家康)を弟分として鍛え上げたという。
父義元が織田信長とフェアプレイの旗本同士の合戦によって不運にも落命して以後、
氏真は駿河領国の治世に努め、父義元以上の名君として領民に慕われた。
この時期、松平元康(前出・家康)から父の敵討ちを勧められ、たびたび尾張織田領
に出兵しようと準備するが、家臣団の反対に遭い断念。一説には、敵討ちによって
信長を討取るのは簡単だったが、むしろ信長を背後から操り天下に覇を唱えようと考えた。
武田氏の駿河侵攻に際しては、領民たちの保護を第一義に無駄な争いを避けて
掛川城に素早く撤退。武田兵の無駄死にを回避させ、人道的な視野に立っていた。
家康や武田に先んじて上洛し、京都では蹴鞠の技を極める。のちに、信長の前で模範演技を
披露したのはあまりにも有名。じつは、京都での信長を操っていたのが彼で、
有職故実、宮中との交渉など、はては足利義昭の追放も指示したのだった。
駿河に帰還するために、武田攻めに従軍して武名を高めたのも周知のとおり。
ところが、信長は氏真の指図を受けずに独自の政権構想を打ち立てるようになっていく。
氏真は慙愧の思いで明智光秀を操り、本能寺に信長を討ったのである。その後は
幼なじみの家康の江戸開府を黒幕として指揮し、品川に屋敷を構えて老後を送った。
>>23追加
なお、甲斐信濃への「塩止め」と伝わるのは、武田氏や甲斐信濃領民を
苦しめるためではなく、じつは塩分の摂りすぎを警告する諸学に通じた氏真
ならではの高潔な措置だった。上杉謙信が塩分の摂りすぎで命を縮めたと伝承
されるケースと好対照である。蹴鞠などの運動第一、健康第一の武将だったのだ。
以前のスレであった、文官→猛将化
細川藤孝
幼いころから剣聖・塚原卜伝に鍛えられた剣豪武将。
「金串を一刀両断した」「大牛を一人で引きづりまわした」など、
怪力エピソードも残っている。
足利・織田などの弱小大名に仕えていたためか、その武勇のほどは余り
知られていないが、織田家の同僚の記録では「戦況がヤバくなってきたので
強い細川殿に代わってもらった」などという記述があり、
運送業者や野武士などのアマチュアの集団で、三河の兵士に比べ
3分の1の能力しか持たないほどの弱兵であった織田家にとっては
非常に心強い武将であったようで、堅城信貴山城を攻略するなど
ここ一番というときに起用されている。
晩年になっても猛将ぶりは衰えず、わずか500の兵力で1万五千の敵兵と
交戦して勝利を収めるなど、驚くべき武力を持っていたらしい。
なお、息子の与一郎と息子の嫁のガラシャも武力に優れており、
関が原の戦いの折には、味方がふがいなく敗走する中を与一郎のみが
踏みとどまり、敵本陣に猪突猛進して勝利を収め、息子の嫁のガラシャは
大阪城に向かい自爆テロを敢行するなど、父の血を引いて大いに奮闘している。
猛将化(ぎゃくに猛将を文官化?)も面白いね
>>25愉しめたyo。
武勇の名将を女性化(じつは女だった)とかはどうかな?
27 :
豊臣秀頼:2006/07/15(土) 03:20:58 ID:E2HaPNd2
ドイツ・サッカーワールドカップ決勝戦において
フランスの主将・ジダン選手が、イタリア代表・マテラッツィ選手に
頭突きを喰らわせた事件は、皆の記憶にも新しい事だろう
何故、あれだけの選手が己の引退試合、優秀の美を飾るべき大舞台において
あの様な行為をはたらいたのであろう?
それは「己の愛する母を冒涜されたから」
そう。偉大なる主将ジダンは己の晴れ舞台よりも、母への愛を貫いたのだ
そして戦国の世においても、愛する母への愛を貫いた一人の主将がいた
その名は、━━━━豊臣秀頼━━━━
彼は戦国一の出世頭、豊臣秀吉の子として
日ノ本総石高、総大名を統べるべき宿命を背負わされて、この世に誕生した
身の丈六尺、色白の大変な美男子だったと言われている。
生まれながらにして帝王の宿命を持ち、富も力も容姿も、全てを手に入れた漢
そんな全てを持つ漢に、運命は悪戯だった
彼の存在を嫉む一匹の醜い獣。そう、化け狸・家康が謀反を働いたのである。
彼は関ヶ原において辛くも豊臣義勇軍を退け、何を勘違いしたか江戸に幕府を開く
そればかりか、天下一統を統べるべき豊臣家を65万石の一大名に降格させる
この様な蛮行を秀頼が許す分けがない! 全ての大名が秀頼の怒りを恐れ、震え上がった
さすがの家康も秀頼の怒りを恐れ、すぐさま千姫を嫁がせ秀頼を右大臣に推薦する
そして京・二条城において秀頼に謝罪の会見を恭しく催す事になる
しかし反省も束の間、 家康の欲望や愚かさは底抜けだった。
28 :
豊臣秀頼:2006/07/15(土) 03:22:00 ID:E2HaPNd2
信心深い秀頼が、寺に上納する為に作った鐘に「国家安康」の文字があるとして
己を呪う行為だとして、無謀にも豊臣家に戦を挑んだのである。
被害妄想の境地、精神錯乱者の兆候さえ感じさせ、豊臣家に弓を引く家康に対して
全国の諸大名達も恐怖を感じる。そして、反乱軍として秀頼に襲いかかるのである
秀頼は直ちに義勇兵を募り、これを迎え撃つ
当初、秀頼は配下である真田幸村の進言を用いり、城を出て家康を討ち取るつもりだったが
城に残す年老いた母を不憫に思い、籠城戦を決意する
野戦で戦えば、士気の低い反乱軍など一たまりもなかったが
籠城戦でも充分に勝算はあった。事実、反乱軍は大坂城の堀にすら近づけない有様だったという
しかし、ここで事件が起きた。
敵わぬとみた家康が南蛮渡来の大筒を、北朝鮮のテポドンの如き乱射したのである
そして、その中の一つが、たまたま淀君のそばに着弾し、淀君を大層、不安に陥れる
そして母思いの秀頼は、降参ともいえる家康の和睦を見す見す受け入れる事になる
秀頼にしてみれば、家康の首を目の前にしながらの和睦は、さぞ悔しかっただろう。
しかし愛する母の為、漢は我慢した。万感の思いを胸にし・・
そして無事、和睦も調ったと思った束の間。 またも家康が己の卑劣さを露にしたのだった。
そう。 アマゾンの大河に匹敵するとまで言われた大坂城の堀を、約束を違えて全て埋めてしまったのである
これには、さすがの秀頼も狼狽した。
飛べない豚は、ただの豚。それ以上に、堀のない城は、ただの城だったからだ。
そして、1615年。 その時、歴史は動いた。
再び叛旗を翻した逆賊・家康軍と、秀頼軍が大坂の地で再び雌雄を決する。
秀頼軍の猛攻は凄まじかった。並み居る敵を討ち果たし、家康本陣めがけて何度も突入する
家康は腰を抜かし、命からがら逃げまどう有様だったという
そこには遥か後方において、味方の軍を指揮する秀頼の威光が輝いていた。
秀頼は決意した。
今だ。 今、自分が前線に翔ければ味方の軍は逆賊・家康の首を取る事が出来よう
しかし、漢がそう決意した時、またしても母が止めに入った
「もしも、神君で在らせられる貴方様の身に何かあったとしたら、この母はどう生きればよいのか!?」
この母の懇願に漢は、またしても目の前の勝利と栄光を自らの胸に抑えた・・
その後・・数で勝る逆賊軍の手によって大坂城は炎に包まれる事になる
しかし戦国の主将・秀頼はこう言うだろう
「後悔はしていない。何故なら、それは相手を認める事になるから」
山内上杉憲政
関東管領上杉憲政は北条氏に圧迫されて関東をのがれ、越後の上杉謙信を
頼ったと伝えられ、凡将の見本のように語り継がれてきた。しかし、じっさいには
関東公方と関東管領の権威を復権し、関東平定の大構想を持っていたのだ。
北条氏との川越合戦で扇谷上杉朝定は川越城を追われ、山内上杉憲政を頼ってきた。
憲政はただちに今川氏と同盟をむすび、迅速な外交手腕を発揮した。両上杉氏は
8万の大軍を率いて川越城を包囲し、北条方の城将たちの命は風前の灯となったのである。
だが、ここで憲政は一計を案じた。北条氏康の8000の軍が後詰に出馬してくると、
どさくさにまぎれて扇谷上杉の軍勢を突き崩し、朝定の首を討取ったのである。
両上杉家は関東管領を交代で務めるライバルでもあり、憲政はこの一件で関東管領
の座に君臨することになったのだ。なんという狡猾、かつ周到な計画であろうか。
こんにちに伝わる凡庸な武将、臆病な公家大名という評判は江戸時代に作られた創作であろう。
こうして上杉家を一本化した憲政は、関東の武将たちを評定衆として傘下におさめ、
傀儡の足利晴氏を冠に、関東の覇者として君臨する予定だった。
ところが、勢いに乗った北条氏が憲政にも襲い掛かってきた。予定外の事態に
驚いた憲政は越後にのがれ、いったん長尾景虎に関東管領をゆだねることにした。
長尾氏に北条氏を抑えさせ、今川氏に武田氏を抑えさせる熟練の政治家らしい高等戦術だった。
武勇にも裏付けられたその政治手腕により、以後の関東情勢は上杉(長尾)・武田・北条の
三国志さながらの騒乱が火蓋をきることになる。つまり、上杉謙信・武田信玄・北条氏康ら
優れた戦国大名たちは、憲政の手のひらの上で踊っていたということになる。
こうして越後で楽隠居していた憲政だが、天下の情勢も流動的になってきたので、
謙信の死をさかいに再び政治の表舞台に出ることにした。すなわち、越後御館の乱
への介入である。ここにいたって憲政は上杉・武田・北条をイッキに和解させる
ことで、関東の覇者である自分が天下に号令する時だと考えたのである。
憲政の調停により、上杉景勝と武田勝頼が和睦。ついで、憲政は景勝と上杉三郎景虎の
和睦を調停し、あわせて北条氏政の和睦も取り付ける計画だった。
ところが、景勝の家臣が何を血迷ったのか、たぶん人間違いと思われるのだが、
春日山城に出向いてきた憲政を殺してしまったのだ。関東府管領として関東を平定する直前、
戦国の大英雄は勘違いによって斃れたのだった。彼が関東甲信越20万の軍勢を
もって西上していたならば、足利義昭はいうまでもなく織田信長や徳川家康もたちまちひれ伏し、
上杉幕府が発足していたことであろう。惜しむべき勘違い事件であった。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 19:11:35 ID:9OE2G4B/
仙石秀久
通称 逃げの権兵衛
秀吉に逃げっぷりの見事さを賞賛され家臣の列に加わる。
数々の軍功を積み重ねて淡路城主となる。
薩摩の島津家の圧迫を受けていた、豊後の大友家救援のため四国勢を
率いて豊後に着陣。戸次川で両軍は激突し、激しい戦いの中、利我にあらずと
察した秀久はここでも見事な逃げっぷりを披露し無事淡路に生還する。
敵将島津家久は柔の者と秀久を賞賛したという
>>30-31 いいねいいね、仙石は知らんかったけど。
なるべく感想を書き込むようにしよう、職人さんたちの励みになるはず。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 20:41:07 ID:17UJ3rDq
凄い!すべてが名将に見えてくる流石
三戦板にあった頃からこのスレは面白かったよな
職人頑張れ
小早川秀秋
太閤秀吉の甥であり、幼い頃から後継者として期待され、またふさわしい将の片鱗を見せていた。
しかし秀頼が生まれると冷遇され、厄介払いの如く小早川家に養子に出される。
しかし秀秋は腐ることなく鍛錬を重ね、朝鮮出兵では総大将として出陣、自ら数多くの首級を上げる活躍を見せる
しかし秀秋の存在を疎ましく思う三成(一説には秀頼の実父が三成であり、秀頼の強力なライバルである秀秋に恐怖していたと言われる)
によって戦果は捏造され、秀秋は秀吉の逆鱗に触れることとなる。
このとき秀秋は三成の策謀に気づいていたが、秀頼を自分の子供と信じて疑わない養父秀吉のことを思い、
自分が犠牲になるだけならばと自ら身を引いたといわれている。
関ヶ原合戦においては1万6千の兵力もさることながらそれ以上にその絶大な将器を広く知られていた秀秋を味方につけたほうが勝ちであろう
と雑兵に至るまで噂されるほどであり、両軍から破格の条件を持って誘われることとなる。
しかし家康、三成とも私利私欲の兵であることを見抜いていた秀秋は双方どちらにも味方せず中立を保っていた。
こんなつまらぬ戦で大事な家臣たちを一人でも殺すことは出来ないと考えての勇気ある決断であった。
しかし劣勢になり恐慌をきたした家康軍が秀秋軍に発砲するという暴挙に出る。これを受けて兵士たちは
「西方にお味方すべし。家康軍に突撃すべし」といきり立ち、もはや中立の維持は不可能な状態であった
これを受けて秀秋は咄嗟に「三成とその操り人形である秀頼ではこの日の本は持たぬ、まだ家康であればなんとかなるであろう」
と判断し、家臣を一喝し石田方に突撃。秀秋軍の獅子奮迅の奮戦により総崩れ寸前であった東軍は大逆転勝利を収める。
戦後戦功第一であった秀秋は関白職を打診されるが、もはやいたずらに天下を乱したくないとしてこれを固辞する。
戦後は領土経営に尽力していたが、1602年に急死。秀秋の将器を恐れた家康の暗殺と言われる。
おお、やっぱり秀秋は名将だったか。
無理のない解説だし、当時の政治の裏側までよくわかる。
やんや、やんや♪
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 23:36:50 ID:dzhUaITw
>>31がおもしろかったのでつくってみた
当時すでに秀久の逃げっぷりは伝説と化しており
秀久を先頭に目にもとまらぬ速さで戦場から消えて行く
仙石隊のパフォーマンスは、敵味方を通じて絶大な人気を誇った。
そのため、上方の戦においては「仙石逃げ」が行われると
味方はすぐに撤退の準備に入り、敵方は「なんと見事な逃げっぷりよ」と
賞賛し、追撃はしないのが暗黙のルールになっていた。
戸次川の戦いにおける大きな不幸は
豊臣政権に組み込まれたばかりの四国勢にとっては
「仙石逃げ」の真意がわからず、そのまま戦い続けたことにあったと言えよう。
おっと、さげ忘れた。
ごめんなさいさい。
>>37-38 やんや、やんや♪
ageてもいいよ、多くの戦国オタに読ませたい名作ばかりだ。
誤解を招くような紹介スレも復活しないかな。
あのスレも結構好きだったのに。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 23:57:40 ID:gQRje9/Y
過去ログある?
ゴメン、ログとかわかんないんだ。
お詫びに、そのスレから一個。
いち早く鉄砲の導入を進め、上洛し、
日本全国を武家のもとに統制しようとした。
周辺の有力大名らを敵に回し、包囲網を敷かれる等、
幾度か危機的状況を迎えたこともあったが、
その度に外交交渉や、彼の同盟者や家臣たちの
軍事的な働きによって、その危機をはねのけた。
家臣の謀反によって彼の子供ともども京都で絶命するまで、
畿内での統治はおよそ十数年に及んだ。
その晩年には、旧来の有力家臣が相次いで粛正される等の
事件もあり、もしかしたら、この謀反には、
このときの粛正が関係しているのではないかと言う者もいるが、
謀反の背景については、依然日本史の謎の一つである。
また、鉄砲の普及に伴い、それまでの木の柵と土塁からなる城に、
新たに石を多用するなどした新時代の築城術を模索したことでも知られる。
城下には鉄砲鍛冶を集め、キリシタンの教会までもその領内にはあったという。
度々仏教界と衝突しながらも、その存命中はキリシタンを保護
し続けたことでも有名であり、金銀を豪奢に用いた彼の宮殿は、
彼の死と共に完全に焼失してしまったが、その内部の様子については、
彼の庇護を受けたフロイスら宣教師が、その著書や書簡に
詳しく書き残していることなどから、窺い知ることができる。
美術面においては、新進の絵師狩野永徳を重用した。
おそらくは焼失した彼の宮殿も、永徳の手になる様々な絵画で
飾られていたのではなかろうか。
最近の学説においては否定する人々もいるが、
上杉謙信にこの永徳の手になる洛中洛外図を贈ったのは、彼であるともいう。
織田信長……………じゃなくて足利義輝。
>>42 やんや、やんや♪
鉄砲対策の築城術から「上杉本洛中洛外図」(諸説あり)まで、義輝と信長は似てるんだね。
誤解させる記述もなかなか・・・orz。 すっかり信長の評伝だと・・・。
また、よろしこ!
囃されたんで、調子に乗っちゃいますよ?
『甲斐の虎』こと武田晴信(信玄)の宿敵ともいわれる戦国大名。
漢字一字の軍旗を用いた。
信玄に追い落とされた信濃の敗将を迎え入れ、
北信濃の地を巡って信玄と数度にわたる激戦を繰り広げた。
信玄を信濃から駆逐することは叶わなかったが、
その軍略で武田家譜代の臣を多数討ち取り、天下に勇名をはせた。
「人は石垣、人は城」として家臣を上手くまとめた信玄とは対照的に、
配下の反逆を数多く経験しており、その政治力は信玄に及ばないと見る向きが多いが、
滅亡の憂き目にあった武田家と異なり、
子孫は上杉一門の名跡を近代にまで残している。
なお、塩不足に陥った武田領に塩を送ったという事実はない。
上杉謙信……………じゃなくて村上義清。
>>44 あっぱれ、あっぱれ♪
なるほど村上義清、てっきり謙信公の武勇と思ったでつ。
もうひとひねりあれば、ワタシも信じ込むところを・・・。
もう、寝マツ・・・
であるか、励め! 上総介
北条氏康
北条家の三代当主。二代当主の氏綱が没し家督を継ぐ。
河越城が両上杉・足利に包囲された時は「これまで奪った領土はお返しする。」
と相手を騙し、更に夜襲という姑息な手段で敵を殲滅する。
その後は東駿河を攻め興国寺城を奪うも、戦下手ゆえ奪還される。
しかたなく駿河を放棄し、武田・今川と同盟を組むのである。
上杉軍が来襲した時は城に将兵と兵糧を蓄え、
民は見殺しにするという旧日本軍ばりの人命軽視の策を立てる。
結果的に上杉は撤退するものの、北条の関東覇権構想はもろくも崩れ去った。
後顧の憂いを立ち里見氏と戦うも、戦下手ゆえ劣勢に。
綱成の進言によりなんとか勝利を収める。
武田が今川を攻めた際も、関東のみに拘る無策振りで今川を滅亡させる。
恩義ある同盟国も力がなければ助けぬという卑劣な考えである。
上杉と同盟し武田とあたろうとするも、領土問題を解決できず同盟すらまともに結べなかった。
しかし後の名君氏政を始めとする四人の子の活躍により、
関東を制圧。武田との講和にも成功する。
自身は無能だが勢力を拡大する様は、「関東の死屍」と呼ばれた。
ちなみに、某ゲーム風に評価すると、統率55知略70政治75 である。
龍造寺隆信
肥前龍造寺氏当主。華奢で病弱であり、いつも目の下に隈のできた顔が印象的であったため「肥前の隈」と揶揄される。
幼い頃に厄介払いのように仏門に入るが、その後一族がいなくなり、やむをえず担ぎ出される。
当主となってからもほとんど存在感は無かったが、名将鍋島直茂やなぜか5人いる四天王などの活躍により、龍造寺氏は大大名となる。
しかし1584年、有馬氏討伐の軍を(直茂が勝手に)起こした際、
「たまには殿も戦場にお出になってはいかがですか」との直茂の無責任な進言を受け
隆信は自ら出陣するが、本陣で落馬、打ち所が悪く死亡する。
総大将を失った龍造寺軍は兵力優位でありながら総崩れとなり、その後没落する。
一説には隆信の出陣自体直茂の陰謀であったとも言われている。
>>46 なるほど、通説を逆転する発想。いいね。
>>47 も少し直茂をこき下ろしてもよかた。隆信は名君!ww
武田太郎義信
武田信玄と正室三条夫人のあいだに生まれた一門期待の俊英だった。
川中島合戦では軍神上杉謙信と御幣川の中で切り結び(諸説あり)、
謙信をして「武田のこせがれに苦戦し、悔しいことであった」(北越軍記)
と言わしめるなど猛将ぶりを発揮。「甲陽軍鑑」の伝えるところによれば、
あまりの猛将ぶりに信玄も驚嘆したが、義信の攻撃的防御の策を用いず、
かえって武田軍は甚大な被害を出すことになった。合戦後、将兵たちが信玄の
愚策を批判したため、義信は部下たちをたしなめた。ところが、将兵の人気が義信
に集まるようになると、武田家中に対立が生じるようになってしまう。
とくに反義信派の諸将が諏訪四郎(勝頼)を擁立する方向に動き、信玄も側室の
面影を宿す四郎を飯田城代に据える。ここに至って、危機を感じた義信派の過激分子が
クーデターを謀るも、義信の戒めによって事前に鎮圧される。信玄に疑われた義信は
武田家中の対立を回避するために、自主的に東光寺で謹慎中に病没したという。
軍功の面では、ただ一人奮戦した川中島合戦のほかに、西上野の猛将長野業政とたびたび
干戈をまじえ、しばしば退けたという。義信との合戦に苦労した業政はのちに過労死。
義信が病没した時、武田家中は悲しみに暮れ、その人徳と武勇を惜しまない者はなかった。
武田氏が田野に滅亡する命運は、彼の死によって決定づけられていたというべきであろう。
感想は有ったほうが良いが、joiAoA4Jのテンションはうざい。
>>49は真ん中の話以外はほとんど史実だしなぁ
義信事件=将来の武田家の分裂か滅亡が決定的になった瞬間だし
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 15:47:53 ID:DlyOpAmP
義信は凡将か?普通に有能だと思うが。
誰が見ても凡将愚将だともう捏造するしかないから見ていて詰まらんからそれはしょうがないだろ。
真実しか述べていないのにイメージと食い違うことがいいんであって。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 17:20:58 ID:S4J2yBrW
北条氏康
名将と称えられる彼だが、人の気持ち、痛さ、心をほんの少しも理解しようとしなかった、
計算だけができた冷たい人間であった。
初陣より、人が休んでいるところばかりを急襲したり、
相手より多い兵力を持って多勢に無勢で相手をいたぶるなど
相手の気持ちを全く考えずに勝つことだけしか考えていなかったので
敵ばかり氏康は作っていった。
ついに凶行及ぶこと関東の正統な支配者たる上杉家すらも追い落としたため、
関東の人間だけではなく長尾家まで怒らせたため。
大兵力を持って氏康と正面決戦をしようとしたのである。
しかし氏康は、正面決戦も逐次抗戦もしようとせずに
自分だけ安全な小田原城に引き篭もってしまう。
確かに小田原城に引き篭もっていれば相手は退却せざる終えないだろう。
しかし略奪や寝返りもあるだろうし、部下は心細く思うだろう。
だが人の気持ちを考えることが出来ない冷血人間氏康はそんなことは全く考えずに
小田原城に篭りつづけた。
結果として相手を退却させることに成功はしたが上杉軍が毎年襲来することになり
関東制覇の夢は断たれたといっても過言ではない。
今川家を加護したときも、武田家から駿河を一時的に奪還したにも関わらず
土地を返さないなど、武田家以上の凶悪な行動に出た。
そのため、駿河の国人層は北条には協力しようとしなかったのだ。
彼は57歳で死ぬまで人の暖かさに触れることが無かったのであろう。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 17:21:53 ID:S4J2yBrW
訂正
関東の人間だけではなく長尾家まで怒らせてしまった。
彼らは大兵力を持って氏康と正面決戦をしようとして、
関東の土地をほとんど奪っていった。
だから名将→凡将はスレ違いだって。
ていうかアンチ北条でも沸いてるのか?
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 20:56:18 ID:l1jSanr1
>その逆もあり。
つまらん、名将をこき下ろすのは簡単、誰でも出来る芸。
凡将とされている(真実はともかく)のを名将として解説して、新しい発見があれば楽しいが・・・。
57 59 (共に生没年不詳)
凡将を名将のように説明するスレにおいて悪しき伝統となっていた、
名将を凡将のように説明する行為に対して毅然と立ち上がった義憤の士。
自らネタを書くわけでもなくただ批判のみ行うその姿は一見滑稽にも見えるが
これは「将たるもの軽々しく自ら先陣に立つべきではない」という深い思慮あっての行動である。
>>60 そこもとの評価の視座はともかく(たぶん当たってるが)
>>57>>59が、ここの住人をして唸らせる(もしくは唾棄させる)職人
だとしても、そのような評価に過ぎないのか?? せっかく書いてきたのに、つまらんなぁ。バカじゃねぇの??
今更かもしらんが、
>>50に同意。
とりあえず回線切って(ry
北条氏政 〜第一章〜
北条家の四代当主。
父である氏康時代の相越同盟を無用と判断し、武田家と再同盟を結ぶ。
この同盟が功を奏し、関東に専念できた。水運の拠点関宿城をとり、宿敵里見を従属させる。
御館の乱が起きると氏邦・氏照らを派遣。武田にも援軍を要請する。
しかし、景勝が上野を譲るという条件を出し、武田は景勝側に。
氏政は怒り重須で戦いを挑む。この一戦では決着が付かなかったが、武田崩壊の序章となった。
真の同盟相手を求める氏政は信長と同盟を結ぶ。そして武田家討伐に乗り出したのだが、
織田家が北条家を恐れて武田軍の情報を隠した為、北条軍は苦戦した。
武田は滅び、駿河は徳川、上野は滝川一益、甲信は信忠が支配した。
織田家は天下をとったかに見えたが本能寺にて信長は死亡。
これを見て氏直を上野に派遣。滝川軍を打ち破り上野を手に入れる。
さらに真田氏・小幡氏を懐柔し信濃でも優勢に戦を進める。
甲斐に兵を進めた徳川は信濃奪取を目論み真田氏を調略。兵を小笠原領に進める。
これにより信濃を巡って徳川と北条が対立するのであった・・
北条氏政
ある日氏政が飯に汁をかけて喰ってる時に、汁を二回にわけてかけたのを見て
父・氏康は「飯にかける汁の分量も一度でわからぬか」と嘆いたが、
それに対し氏政は「一度に汁をかけてしまうと、食べ終わりかけには米が萎びてしまいます。
それよりも、まず少なめに汁をかけて米の歯ごたえや味わいを楽しみ、その後に汁をかけ足して
汁と米が渾然一体となった旨味を堪能するのがよろしいのではございませぬか」
とピシャリと言い返し、若くして氏康を越える見識を持っていたことを伺わせる逸話が残っている。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 23:20:12 ID:L+FzYVp5
面白いな相変わらずこのスレは。
サイトがないのが残念だ。あれはかなりの良作揃いだったんだが・・・
北条氏政 〜第二章〜
しかし、氏政は信濃にはそれほど興味を示さなかった。
関東平野を制圧し、そこに領国を築くことこそ北条家のとる道と考えたのだ。
事実、真田家は上杉家に寝返り、信濃・上野に勢力を広げた。
あのままでは上杉・徳川・佐竹等の勢力の前に苦戦していただろう。
こうして信濃を手放すことで徳川と同盟を結び、
さらに勢力を拡大する佐竹・芦名に対抗し伊達と同盟を結んだ。
関東・東北・東海という別地方に拠点を置く勢力と同盟を結ぶ事は、遠交近攻の外交の鉄則通りだ。
これは氏政の優れた外交センスゆえであろう。
徳川・島津らが豊臣家に屈服し、豊臣家と対立したときも、
家康を介して氏規を派遣、上野沼田の領土問題を解決してもらう形で関係を友好にした。
しかし、関東の領土が平穏ではない為に自身の上洛だけは先延ばしにしていた。
さらに、名胡桃城奪取事件が発生。これは氏政の想定の範囲外だった。
これをきっかけに豊臣氏との対立は絶望的なものとなった・・
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 12:31:23 ID:T26szoFe
織田裏臭いは凡将じゃない気がするが
柿崎景家
越後柿崎城主。長尾為景・上杉謙信親子に仕える。
上杉定実の養子問題の際に伊達家に外交で赴いたという。
弘治二年村山美作守が武田晴信に内通した際にはその間者を捕らえ、謙信に注進。
美作守は直ちに誅殺された。
永禄元年からは春日山城の留守居役を務めた。
元亀元年北条氏との和議が成立した際には、子の晴家を人質に送った。
その他北陸の勢力との外交交渉も担い、奉行として行政にも手腕を発揮するなど
直江景綱らと共に重臣として重きをなした。
なお川中島の合戦にも参加しているが、飯富虎昌の攻撃を支えきれず危機に陥ったところを
色部勝長に救われたという。
なんか、よくわからなくなってきた
凡将→名将?
名将→凡将?
武将→知将?
武官→文官 じゃね?
北条氏政 〜第三章〜
氏政は小田原で評定を開き、策を練った。
子の氏直は野戦を主張したが、徴兵と軍需物資の蓄積、
韮山城などの支城により東海道の防備が調っていることから、篭城策をとることにした。
自身の結んでいた徳川・伊達との同盟を過信した面もあるだろう。
しかし、弟の氏邦は反発して鉢形城に帰ってしまう。
豊臣軍は黄瀬川周辺に布陣した。ここは源頼朝が平氏打倒の挙兵の際に兵を集めた地だ。
この動きを予想した氏政はゲリラ戦を指示。豊臣軍は兵糧を焼かれ一時は飢餓状態になった。
氏政の戦略は支城に篭城し兵力を分断、物資を欠乏させることにあったのだ。
ところが秀吉が到着してからは進軍が再開した。
徳川軍は足柄城を落とし、秀次軍も将を討ち取られながらも山中城を落とす。
しかし氏規が篭る韮山城は10倍の兵でも落とせない。
秀吉はやむなく兵の一部を残したまま小田原へと向かう。
そして各城の包囲をしつつ、一夜城建設や茶会を行った。
一方の前田・上杉軍は大道寺政繁を降伏させ武蔵を順調に南下していた。
しかし氏邦の鉢形城や湿地帯の忍城・館林城を落とせず進軍は難航。
戦線が膠着し豊臣軍の内部では不満を持つ将も現れた。
さらに夜襲の成功や堀秀政の陣没から豊臣軍の士気は落ち込んでいた。
一方の氏政側も内通者が出た事や八王子城の陥落で戦意を喪失し始めた。
さらに一夜城が完成し抗戦か降伏かで重臣も対立し始めた。
これを見た氏直が降伏を決断。戦後処理としては、
氏政・氏照、さらに松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じ、
氏直と氏規は家康の嘆願により助命された。
こうして、関東に君臨し続けた北条家は滅亡したのである。
北条氏政 〜最終章〜
氏政は佐竹・宇都宮等の反北条の機運が高い北関東の豪族を掌握、
さらに飛び地である信濃も豪族懐柔で成功するなど統治手腕が非常に上手い。
さらに本能寺後の上野侵攻や対徳川戦で証明されているように、
突発的な情勢に対して見事に対処している。
局地的に見ると敗戦も多いが、北条家の最大領土を築いたのも彼だ。
家を狭山藩1万1000石にまで落とさなければ、北条家最大の名君と言われただろう。
76 :
衆道野郎A部隊:2006/08/02(水) 12:50:35 ID:+W2G6Z/c
一条 兼定(いちじょう かねさだ、天文12年(1543年) - 天正13年7月1日(1585年7月27日))
僅か7歳で父・一条房基が死去した為、土佐一条家の家督を継ぐ。だが、いかに兼定が天賦の才を
持っていたとは言え未だ幼く、京より兼定の大叔父で、時の関白である一条房通が養父として後見
をする事になるが、兼定の不運はこの房通であった。房通は、兼定が幼少である事をいい事に専
横を始め、1558年には伊予の宇都宮豊綱の娘と婚儀をさせる。当時伊予では河野氏が村上水軍と共
に日の出の勢いであった為、兼定は河野氏との結びつきを望んだが、房通は身分が卑しいとこれを
拒否し、兼定の先見の明は房通によって潰される事になる。更に、兼定が成人し房通を見事京に追
い返した後、房通は京で兼定を悪く言い触らした為に、一条本家とも疎遠になってしまう。
この頃には既に土佐国・国司、中納言に叙され、若き兼定はその血筋と知略とをもって独自の外交
を始めている。まずは、有名無実の伊予・宇都宮氏と縁を切る為に豊綱の娘と離別し、1564年には
九州を席巻していた大友義鎮(宗麟)と結んだ。まさに磐石の態勢で土佐統一を始めようとした矢
先に突如、伊予の諸大名を助けるといった理不尽な理由で1568年に毛利元就に攻め込まれ、惜敗す
る。全く悲運としか言い様が無く、毛利の大義名分は全くのでっちあげであったとされる。
そして、台頭を始めていた長宗我部氏に対抗すべく、妹婿の安芸国虎と呼応して長宗我部氏を挟撃
しようとするが、1569年に国虎が功を焦るばかりに大敗して討たれてしまい、兼定の挟撃策は無能
な国虎によって台無しになってしまう。
また内憂も抱えてしまい、重臣であった土井宗珊が簒奪の動きを見せたが、見事に討ち取っている。
だが、宗珊にそそのかされた家臣達の勢いは、いくら名将の兼定と雖も止める事は出来ず、無益な
戦はしたくない、と1574年に大友氏を頼って一旦豊後で雌伏の時を過ごす。そして、翌1575年に大
友氏の援助で再興を図り、土佐に大々的に進軍し長宗我部氏と雌雄を決する渡川の戦いが起きる。
兼定は、宇和島から土佐中村に入り旧臣をまとめ、一大決戦になったが惜しくも敗れ、その怒りか
らか10年後に死去している。
兼定が暗愚であったという定説は、勝者である長宗我部氏によって喧伝されたものであり、都合の
良いように兼定を悪人にしたてあげたという説が有力である。また、土佐一条家の独立傾向に反発
する、公家の一条本家の企みがあったとされ、兼定の有能ぶりは、彼等によって書き換えられたと
言っても過言では無い。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 18:49:49 ID:CTNWjQoG
織田信雄
織田信長の次男 幼名 茶筅丸
父信長の気性の荒さを兄弟の仲で最も色濃く受け継いだといわれる
伊勢北畠家攻略の際、和睦の条件として養子に送り込まれる
見事な手腕で北畠家を織田色に塗り替える事に成功
実績を積み重ね、自信をつけた信雄は意気揚々と伊賀征伐を敢行するが
土豪の反抗にあい一時撤退を決意する
再度の伊賀征伐には万全を期して大挙侵攻、伊賀の土豪衆を父信長譲りの
苛烈さをもって撫で斬りにし、伊賀を平定
信長亡き後天下を我が物にせんとする逆臣羽柴秀吉に対し兵をあげる
三河の徳川、四国の長宗我部、紀州の雑賀衆を味方につけ秀吉包囲網の
旗手として活躍する
信雄の器量を恐れた秀吉は信雄に和睦を提案する
領民想いの信雄は戦で領土が荒廃する事を懸案して渋々和睦に応じる
その後は秀吉の天下統一に協力し見事に太平の世をもたらした
戦国最強の傾き者 今川氏真
生まれた頃より、やりたいことをやり流れる雲の様に生きてきた「今川氏真」
彼は自分の命を賭してまで自分のやりたい事をやり遂げた戦国最強にして最高の
傾き者と言えるであろう。
お歯黒という奇抜な風貌を好み、自分の命を賭して「蹴鞠」と「SEX」の心を
忘れなかった。
武田氏と徳川氏に領土を犯されながらも、彼(氏真)は女を犯していたという・・・。
武田氏、徳川氏共に彼の豪胆さを大いに畏怖したという・・・・・。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 20:22:37 ID:P/RXhHbY
豊臣延由
〜豊臣家を復活させた果断の将〜
豊臣秀頼の嫡男。幼名国松。通称、木下縫殿助延由。
幕府提出資料では名は延次。豊後立石藩祖。
秀頼と側室成田甲斐との間に生まれ、将来の天下人を約束されて育つ。
ところが1615年、悲劇が起こる。父豊臣秀頼の大坂城が徳川氏に落とされ、
豊臣氏は滅亡。国松(後の延由)も辛くも逃げ延びたものの、影武者の
田中六郎左衛門の子は国松として処刑されてしまい、将来の天下人一転して
天涯孤独の素浪人となってしまったのである。
しかし国松は家臣の真田信繁・後藤基次とともに九州薩摩へ落ち延び、
島津藩にかくまわれ、真田に育てられてたくましく成長した。時の人々は
「花の様なる秀頼様(国松の誤り)を鬼の様なる真田が連れて落ちも
落ちたり鹿児島へ」とはやしたという。
成長した延由は父よりも祖父秀吉に似ていたのか、すばしこく食い逃げを
得意とし、鹿児島では食い逃げで有名であった。
後、客分として一族の豊臣(木下)延俊(豊後日出藩主)の元へ赴く。
延由の将器を認めた豊臣(木下)延俊は、延由に自らの領土を分け与え、
1万石の大名とするよう家老に命じたが、徳川幕府に内通していた家老長沢は
頑としてそれを認めようとせず、豊臣家本家再興を阻み続けた。
寛永19年(1642年)1月7日、豊臣(木下)延俊の死去後、
延由は家老と粘り強く交渉し、遂に5000石を以て豊後立石に
立藩。お家再興を果たす。しかし、立藩後も家老一派綾部甚左衛門・
綾部弥五右衛門・修験者岩尾某らは執拗に延由を狙い、襲撃を続けていた。
しかし延由はそれらの障害を跳ね除け、分国の完全支配に成功。
信繁譲りの謀略を十二分に発揮し、立石藩の基礎を固めた。
死に関しては、愛妾とともに武士をやめ、耶馬溪で寺子屋を開いていた
元家臣後藤基次が殉死している。
なお、室は里見忠義の娘であり、恐らく綾部・長沢らとの戦いでは
真田信繁配下の真田十勇士に加え里見八犬士も活躍したと思われるが、記録がまったく
残っていないので、活躍ぶりが不明なのは残念である。
織田秀信
織田信長の嫡孫。
父は信忠、西山家文言覚書秘伝録によれば母は武田信玄の娘、松姫とされている。
通称は三郎。幼名は三法師。
祖父信長・父信忠が家臣の明智光秀に討たれた際には
留守居として父信忠の居城岐阜城を預かっていた。
安土城が明智側に落とされた際も前田玄以など重臣の意見を容れ
冷静に事態に対処し、自ら清洲城に入り反乱の収束にあたった。
光秀混乱に乗じて神戸氏に養子に出ていた叔父の信孝が勝手に織田姓に復し、
柴田勝家とともに織田家の乗っ取りを図っていたが、
未然にこの陰謀を掴んだ三法師は先手を打って
織田家の諸将を清洲城に招集し、事態の収拾を図った。
三法師、わずか二歳の時のことである。
秀吉は感激の余り三法師をかき抱き、織田家の家督を三法師に相続させ
政務の代行に粉骨砕身することを誓い、主だった重臣たちもそれに従ったという。
秀吉との強固な信頼関係は彼が死に至るまで続き、
また秀信も秀吉の機智と行政手腕を愛し、父と仰ぎ、思うがままに政務を執ることを許した。
結果として秀信は祖父信長が成しえなかった天下統一をついに成し遂げ、
百数十年ぶりの平和を日本にもたらした。
関が原の戦いに際しては秀吉の一族であるはずの豊臣宗家でさえも
三成と家康の私戦として曖昧な態度をとる中、
率先して三成を支持し織豊政権、ひいては日本の平和を守るべく立ち上がる。
西軍の足並みが揃わぬ中、木曽川沿い東軍の大部隊をひきつけ、
ついに8月、東軍先鋒の池田輝政や福島正則らの攻撃に応戦する。
関が原での決戦に先立つこと一月、誰よりもこの戦いの歴史的な意義を理解していたのは
家康でも三成でもなく、織田秀信その人であったのかもしれない。
一進一退の野戦から三成の為により多くの時間を稼ぐべく、岐阜城に篭城する。
救援のあてなど当初から望めない中、
かぶいた甲冑をまとって常に陣頭で指揮し、不退転の決意を示した壮烈な戦いぶりは
本能寺の変での祖父・信長の最後の姿を髣髴とさせ、攻め手の諸将の胸を打ったという。
結局、充分な時間を稼いだとみた秀信が、池田輝政らの勧告をいれ開城するという形で
この関が原の前哨戦は幕引きとなる。
武具を解き、尾張知多へと護送され、静かに沙汰を待つうちに西軍の主力が敗れ、
関が原の戦いは終結した。東軍の中には秀信の存在そのものを危険視する声が根強くあったが、
秀信軍と槍を交えた福島正則らの懸命の助命の結果、改易という形で赦されることとなる。
この時、軽輩のものに至るまで家臣全員に再仕官のための紹介状を手ずから書いて渡し、
己の節義を貫く為に改易の憂き目にあい、彼らの禄を失うに至った事を詫びたという、
祖父とは一風違った家臣思いの逸話がある。
岐阜の明け渡しなど全ての仕置きを終えた秀信は、高野山に僧として隠居するよう言い渡された。
しかしながら秀信は、祖父信長が高野山を焼いた一件を理由に入山を辞去し、直後に謎の死を遂げる。
キリシタンとして受洗し、パウロの洗礼名をうけていた彼は、
異教徒となって生き延びるより、
信義を貫いて暗殺されることを受け入れたとの説もあるが、つまびらかではない。
慶長十年五月八日没。享年わずかに二十六。正三位中納言。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 06:19:16 ID:q3dkyew7
松永久秀が義将になってるやつが好き
このスレのクオリティって単行本化できるな
オレは読んでるだけだけどすげー面白いよ
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 08:52:09 ID:y4UDBIqb
大宝寺義氏
ある時は越後の虎上杉謙信、又ある時は日の出の勢いにあった
織田信長と、当時の実力者を後ろ盾にして大宝寺氏の最盛期を築く。
あまりの武勇に、敵から悪屋形と嫌味を言われる事もしばしばあった。
織田信長が本能寺に倒れると、強力な後ろ盾を失った義氏は、最上氏の
謀略によって家臣に謀叛され波乱の生涯を閉じた。
羽柴秀吉はこの報を聞いて「日の本から賢人が一人消えた」と嘆いたという。
難波田憲重(?-1546)
扇谷上杉氏の重臣。武蔵松山城主。弾正と称す。法名の善銀でも知られる。
北条氏に河越城を奪われた扇谷上杉朝定を松山城に迎えて衰運の主家を支え、
関東にあって日の出の勢いの北条氏の行く手に立ち塞がり、進撃を阻んだ。
松山城に攻め寄せた北条方の山中主膳との「和歌合戦」も有名であり、
彼が文武に秀でた名将であることを物語っている。
1546年、長年対立していた山内家・古河公方家を反北条の旗印の下に糾合し、
河越城奪回戦を発動。ここに新旧関東勢力の一大決戦の幕が切って落とされる。
故地河越に上杉の旗を再び掲げ、扇谷家の宿願が叶うかに見えた刹那、
戦国戦史に名を残す、かの北条勢の夜襲を受ける。世に言う「河越夜戦」である。
憲重は敵の猛攻を食い止めるべく奮戦したが、その一子・隼人正ともども
乱軍の中壮烈なる討死を遂げ、主家の滅亡に殉じた。享年は明らかではない。
その悲壮な死は巷間さまざまに伝えられ、伝説の光に包まれている。
憲重は主君朝定が討たれたことを聞くや、天を仰いで悲憤慨嘆し、
「もはや我が武運も尽きたり、北条の輩にこの首は討たせじ」と刀を銜え、
自ら古井戸に身を投じた――という物語があれば、あっぱれ名将、花も実もある
武者ぶりよと、聴くものの涙を誘わずにはおかなかっただろう。
知識がないと書けないんだよな。
織田信包
織田信長の同腹弟
17歳のとき、兄信長が3000の兵で当時の最強勢力、今川義元の軍30000を打ち破るという奇跡を見る。
26歳のとき、兄信長の命で北伊勢を支配していた長野氏の養子として入る。
28歳のとき、兄信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、高僧女子供まで3000人余りを皆殺しにする。
30歳のとき、兄信長が浅井長政の居城・小谷城を包囲させて長政を自殺させる。
浅井の血が絶えるのは忍びないということから妹・お市を保護し長政とお市の娘・茶々、初、於江与を保護して育てた。
31歳のとき、兄信長が伊勢長島城を兵糧攻めし降伏させるも、約束を破り退去中の一揆衆に一斉射撃を浴びせ虐殺、
信包自身も理解できないが、甥信忠に「これも戦国なのかもしれませぬ」と諭す。
1582年、信包39歳のとき兄の織田信長が家臣明智光秀に本能寺にて殺される。
織田家は柴田勝家と羽柴秀吉の家臣同士の争いが起こる。
その後、信包は覇権を手にした秀吉に従う。
47歳のとき、豊臣秀吉が小田原征伐、北条家を滅ぼそうとする。関東に大勢力を誇った北条家の終わりを見る。
哀れに思った信包は北条氏政・北条氏直の親子の助命を秀吉に懇願するが逆に怒りを買い、改易される。
豊臣秀吉の死後、関ヶ原にて徳川家康が石田三成を破り権力を握る。
また、天下の動きを見たのであった。
90 :
まとめ:2006/08/17(木) 14:01:12 ID:U3uI4hwY
革命児織田信長の弟。奇跡を見、戦国の厳しさを経験。
信長の死後、兄が築き上げた大勢力織田家を家臣の羽柴秀吉に乗っ取られる。
そして秀吉の死後天下を徳川家康が権力を握り1615年、非常にも豊臣家を滅ぼす。
信包は兄の身近にいて乱世の虐殺や裏切りなど疑念を抱きつつも成長した。
家臣によって消滅する権力の脆さも知った。元家臣に従わなければ生きていけない。
一人の大悪人に戦国を学び二人の悪人に翻弄された。
信包は1615年の事件も予想していたであろう。
乱世に疑問を持ち、権力に翻弄され、自分の存在意義もわからず、
人間の欲望を長年死ぬまで見て生きるために生きてきた一人の武将であった。
上杉謙信を戦闘能力より政治的手腕の高さで、
武田信玄を父や子を愛する人情家として説明して欲しい。
上杉謙信
越後を掌握すると、農閑期には雇用対策として他国遠征を敢行し、
軍事行動による物資の消費や街道の整備などでインフラストラクチャーのさきがけを行った。
同時に、遠征に際しても農地の取り合いの延長であった
当時の国取りの概念を脱却し、捕虜とした城下住民の身代金の要求と
未払い者の売買によって利益を得るという、
西欧の列強諸国の方策にも通ずる領地経営に縛られない
新機軸による戦時経済の循環を作り上げた。
また、金銀山の開発による豊富な貴金属流通量を更に有効利用し、
専売制のさきがけともいえる物品の買い上げと売却を行い、
相場の調整と投機を軌道に乗せた。
これらの方策の結果、ほぼ毎年の遠征の戦費を賄った上で、
更に軍団規模を拡大しながら累積黒字を積み上げるサイクルを形成するに至った。
これらの政策は、米どころといわれる越後を根拠地としながらも、
いち早く米本位制を脱却する兆しを見せ近世近代にさきがけるという、先駆的な業績を残している。
謙信没後、御館の乱に際し景勝が金蔵を押さえた時には黄金三万両の蓄えがあったという。
これらの謙信経済感覚の鋭さは後世、
豪商を目指す商人たちがこぞって越後屋の屋号を名乗った由の一因ともなった。
大内義隆
(永正四年〜天文二十年)
応仁の乱によって決定的となった室町幕府が権威を失ってゆく課程で
畠山、山名、そして細川といった旧来の幕府の要職を担った守護大名が次々と失墜してゆく中、
大内家は唯一名門としての矜持を保ち、西国の雄として天下に威光を放ち続けた。
その大内家の最盛期を築いた人物が大内義隆である。
彼の日本の担い手としての気概は近隣諸国の民はもちろんのこと、
遠く洛中にまで伝わり、幕府の高官から公家に至るまで大内の威光に
よすがを求め、屋敷を捨て、着の身着のまま義隆の元に群れ集った。
快く彼らを受け入れる義隆の器量にいよいよ城下山口は繁栄を極め、
日本一の都市となるに至り、
当時の有識者の間では天皇の行幸遷都までもが取り沙汰されるほどだった。
日明貿易によって海内屈指の富を一手に納めた義隆は、
同時に当時世界のパワーバランスを塗り替えつつあった
南蛮勢力に対しても鋭い国際的センスを以て対応する。
日本の武力統一に万一南蛮勢力が介在した場合の危険性をいち早く見抜いた義隆は、
当時の現状では無謀だった武力統一から、天皇の威信を核にした雄藩の連合を目指し
大友家、竜造寺家、松浦党などの大勢力の引込みに才知を持って挑み、友好関係の樹立に成功する。
だが、これらの先駆的な行動は、既得権益に縛られ、
旧来の価値観から脱却できない者の反動を呼び、
武断派である陶隆房の暴発による
無謀な尼子攻めと敗退、謀反によって非業の死を遂げる。
彼の遠大な日本再統一と世界進出への夢は、
彼が終生に渡って目をかけていた毛利元就という男の手によって20年後、
ごく不完全ながら引き継がれた。
日本、朝鮮、明、そして遠くヨーロッパにも目を向けた
義隆の理想に沿った西欧文明の吸収と超越という課題に挑むには、
毛利に吸収された大内の遺民を中心とした長州藩士をして、
実にその後300年という年月を必要とした。
天文20年9月1日没。
従二位兵部卿、太宰大弐、侍従如元。法名は竜福寺殿瑞雲珠天大居士。
松永久秀 (1510-1577)
三好家臣。詳しい経歴は不明だが三好長慶に右筆として仕える。
先に三好家に仕えていた弟・長頼の活躍もあり徐々に地位を築き、長慶が畿内を平定すると
幕政にも関わるようになる。
また軍を率いても大和を平定、飯盛山城にて窮地に陥った長慶を救出など功績を挙げた。
長慶死後はその養子・義継を後見、織田信長と結んで足利義昭政権に加わる。
その後信長と義昭の関係が悪化すると主君・義継と共に義昭を支持、信長と戦うが、
1573年義継が討死したため降伏した。
茶人、教養人としても知られている。
内藤宗勝 (1516-1565)
丹波守護代・内藤国貞の婿。国貞の死後その跡を継ぐ。
1565年対立する豪族・赤井忠家の城を攻撃するが、逆襲に遭い大敗、討死した。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 23:43:04 ID:1Be19H6+
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 01:55:03 ID:zEYZOxS9
何だこの桁外れのクォリティーはw
武将を短く説明するスレですか?
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 18:29:48 ID:x/cK6PxK
age
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 21:28:26 ID:9o6Y+o1b
小早川 秀秋 1582-1602
官位は従二位、権中納言。左衛門督を兼ねたことから、小早川金吾、
金吾中納言とも称された。
幼少から文武に優れ、豊臣家から厄介払いされて小早川家の養子になったにも
かかわらず、秀吉、隆景の後ろ盾がなくなっても1万近い兵卒は、この時14歳の
秀秋につき従っている事から見てもその非凡・名将ぶりがうかがえる。
慶長の役の蔚山城の戦いでは、明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かった。
初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど活躍した。
関ヶ原の戦いでは徳川家康の内通工作があったが、西軍に属した。
西軍勝利の暁には豊臣秀頼が成人するまでの間、関白職への就任と、
上方2ヶ国の加増を秀秋に約束され、
また、宇喜多秀家隊が福島正則隊を撃破し、また大谷吉継隊も藤堂高虎隊
を敗走させるなど西軍優位の展開の中、
焦った徳川家康は小早川秀秋の陣へ威嚇発砲した。
この期に及び松野重元ら豊臣恩顧の秀秋重臣は西軍への参戦、東軍への攻撃
を確信したが、石田三成らに約束された関白就任を空手形だと見破った
小早川秀秋は西軍・大谷吉継への攻撃を命令。
これにより東軍の勝利となったが、その際秀吉から強い恩顧を受けていた
松野重元は、関ヶ原の戦いにおいて、東軍へと寝返った秀秋に反発し、
戦線を離脱する。
小早川秀秋が大谷吉継攻撃を命じた際発した松野重元の「そっちかよ!!」
は今も吉本芸人に愛されている基本的突込みである。
乙
山名 豊国(やまな とよくに、1548年(天文17年) − 1626年
1560年、父が死に兄やその家臣に領国を追い出されたがそれを自らの手で取り戻し山名家の家督を継いだ
その後は毛利家の家臣として各地を転戦する
しかし1580年、羽柴秀吉の大軍が鳥取城に押し寄せた 秀吉は得意の兵糧攻めをしようとしたが豊国は準備万端で力で攻めようとも巧みに守ったため秀吉は手が出せなかった
だが時期を見て豊国は秀吉に降る 妻や娘が人質にとられたとも言われているがそうではない、豊国は秀吉が天下を取る人物だと見ていたのだ
そして豊国がいなくなったことにより鳥取城は陥落する 兵糧攻めに対し準備万端だった鳥取城が、である 如何に豊国の存在が大きかったかがよくわかる
秀吉が天下を取った際には秀吉の御伽衆となり、秀吉が死ぬと家康に仕えた
豊国は秀吉や家康が天下を取る人物だと見抜いていたのだ 的確な主換えにより豊国は遂に6700石の旗本 領土持ちとなった
征夷大将軍となった家康に山名氏当主に贈られた羽織を着て参上して家康から賞されたという逸話もある
あ、でもこれホントの話なだけかも
>>106 ちょっとぐぐってみたけど、普通に勝ち組じゃないのか?
かなしいねえ。
朝倉義景(あさくらよしかげ) 1533〜1573
1548年、父孝景の死後、家督を継承して朝倉氏第十一代当主となる。
はじめは延景と名乗っていたが、将軍足利義輝から一字を拝領して義景と改める。
義景は優れた文化人でもあり、荒廃した京から下向してくる公家や文化人を庇護し、
また一乗谷の居館も華美を極め、小京都とまで呼ばれるに至った。その一方で、
1555年には上杉謙信の川中島出兵に呼応して加賀に出兵、一向一揆を破り加賀半国を
制圧する。
1565年、永禄の変で将軍義輝が暗殺されると、義輝の弟、覚慶(後の足利義昭)を
一乗谷に迎え入れて、同地で元服させる。磐石な領国経営体制を確立するため後任に
織田信長を推薦し、明智光秀を同伴させる。
1568年には、若狭武田氏を屈服させ若狭一国を掌握するが、幕府再興を目指す義昭と
信長の対立が表面化すると義昭に属して、信長の再度に渡る上洛要請を拒否、以後
信長と対立する。
1570年4月、信長の侵攻に際しては自領に雪崩れ込ませ、かねて密約のあった浅井長政に
背後から奇襲させて自らもこれに呼応、信長軍を完膚なきまでに破り京都まで撤退させる。
同年6月、信長、家康連合軍が、浅井氏の本拠である小谷城に迫ると、一族の景健を
総大将とする援軍を派遣して近江姉川で対陣、坂井政尚を討ち取る。結果的には
信長、家康連合軍が優勢ではあったもの、両軍ともに損害は甚大で小谷城攻略を
未然に防ぎ撤退させることに成功する。
9月、信長が本願寺勢力討伐のため摂津に出陣した際には、家臣の反対を押し切り
自ら近江に侵攻して、宇佐山城攻防戦では、織田信治、森可成、青地茂綱、尾藤源内、
同又六、道化清十郎ら名立たる将を敗死させ、ついで志賀の陣では、坂井政尚を討ち
延暦寺に入り京都に迫るが、補給線が開き限界に達していたため信長と和を結ぶ。
講和の宴では、後に第六天魔王と恐れられた信長をして「天下は朝倉殿が持ち給え」と
まで言わしめる。
更には、長年敵対していた本願寺顕如と和睦、教如と娘の婚約を成立させるなど、
外交的にも父孝景以上の戦果をあげる。
1573年、浅井氏を助けるため近江に出兵するが、丁野山砦が陥落し連絡網を絶たれたため
に、軍を退けようとするも信長の奇襲を受け、近江刀禰坂で敗れ一条谷に戻る。ついで
大野庄に逃れて建て直しを図るが重臣朝倉景鏡の裏切りに遭い、また平泉寺の衆徒が
信長に応じたために賢松寺で自害した。
111 :
くるるん兄弟:2007/01/21(日) 10:04:53 ID:Tkg8zM/Z
大友義統(おおともよしむね,1558年〜1605年)
大友氏第22代当主。豊後の戦国時代後期の大名。
キリスト教や遊興にうつつを抜かし、政務を省みなかった父・大友宗麟から1576年に
家督を譲り受ける。
織田信長との積極外交により従五位下左兵衛督となる。1579年には織田氏と結び
毛利氏を挟撃。父もなしえなかった本格的な中国地方進出に乗り出すが、本能寺の変に
より親毛利色の秀吉が信長の後継となったためあえなく撤兵する。
島津氏との戦いにおいても、当時九州全体を席巻する勢いだった島津氏相手に善戦し、
数百年大友氏の本拠で旧態然とした府内館を捨てるという英断をした。このように、
義統は名家に生まれながら改革を断行した先進的な人物である。
キリシタンでありながら、日本でキリスト教の時代は終わるだろうと直感。秀吉の棄教
令に従った。ちなみに秀吉は、彼に豊後一国だけではなく、一字を与えている。秀吉は、
この名家生まれの改革者に注目していたに違いない。
文禄の役の際、小西行長隊から救援を求められるが、無欲な質なので明の大軍にあえて突
撃した行長の勲功を奪う気は無いとして拒否。武士の男気を見せるが精神に異常を来たし
ていた秀吉によって改易される。毛利輝元の預かりとなるが、仇敵・大友氏の当主である
のにあえてそのままにしておいたのは、彼の人となりや才能に輝元も感じ入る所があった
のだろう。
関が原の戦いでは、輝元に支援を受けて九州に侵攻するが、天下統一の野望に燃える黒田
孝高の大軍を前にし、ここで無理な突撃をして両軍に甚大な損害を出すよりは和睦をすべ
きと判断、母里太兵衛の陣に出頭し降伏した。
武田信虎 明応3年〜天正2年(1494〜1574)
通称五郎。初名信直。
甲斐守護武田氏十七代当主、信縄と岩下氏の嫡子として生まれる。
甲斐源氏の名門武田氏も下克上の禍を逃れることはできず、
新興国人層の台頭、一族の内紛によって崩壊寸前の危機を迎えていた。
そんな混乱の最中、父・信縄は一説には暗殺説もあるほど
武田家にとって最悪の状況で幼い信虎を残し死去する。
十代半ばにして家督を相続した信虎は父の代から
たびたび甲斐を狙い行動を起こす北条早雲を撃破牽制しつつ、
武田宗家と対立していた叔父の武田信恵を滅ぼし、
父の悲願であった甲斐武田氏の内紛をついに終結させる。
ついで信恵を支えていた甲斐東部の豪族、
小山田氏との闘争を有利に進め臣従させることに成功する。
未だ二十にならぬ青年武将信虎がわずか数年で
名族武田家を復興させ甲斐一国を掌握した事実は
驚きと畏怖をもって都でも噂され、
いつしか人々は信虎を「甲斐の虎」と呼ぶようになった。
当時の甲斐は駿河の今川氏や相模の北条氏、信濃の諏訪氏ら
強力な周辺諸大名に囲まれていた。これらの圧力に対し、
信虎はつねに敵地に赴いて戦うことで領国の荒廃を最小限におさえた。
加えて信濃東部を勢力化に収め、後の晴信の信濃進出の足がかりを作った。
また、内政においては内藤氏、馬場氏、山県氏などの
独立心旺盛な国人衆を駆逐しいち早く中央集権化を推し進めた。
同時に小幡、多田、原といった浪人衆を諸国から招聘、
春日虎綱(後の高坂昌信)教来石民部(後の馬場信春)など
有能な若者を抜擢し、家臣団の強化を図った。
また生産力の低い石和から甲府に本拠地を移し城下町と街道を整備し富国強兵に務めた。
躑躅ヶ崎館の建造にあたっては
「戦はよそでするものであって城を頼みに篭もるなどもってのほか。
無用の普請に心砕くことなく塀の高さなどは三尺もあればよい」
と指示したという。
外交面でも今川氏との婚姻政策などを有効に展開し
無用の戦乱をさけつつ勢力の伸長に成功すると同時に上洛の下準備を整えた。
嫡男晴信の嫁に公家の三条公頼の娘を迎え中央に太いパイプを作ると同時に
晴信と本願寺顕如が義兄弟(顕如の妻は三条氏の妹)の間柄となったことは、
後の武田家の外交政策上大きな利益をもたらした。
甘利、板垣らの反動的な国人層が晴信を担ぎクーデターを起こすと
父子で争いを起こすことを嫌い隠居し義理の子である
今川義元の後見をしながら今川家の最盛期を裏方として支えるとともに
悠悠自適の生活を楽しむ道を選ぶ。
永禄三年、桶狭間の戦いで義元が織田信長によって討たれると、
孫でもある当主氏真の器量の底を誰よりも早く見限り、駿河を去った。
この時、今川氏の滅亡が近いことを信玄に知らせ、大名たるものの覚悟と、
駿河侵攻への助言を行ったという。
かねてより信虎を敬愛していた伊勢国司北畠具教の招きにより、
志摩の地頭甲賀氏のもとで静かに暮らすが、
具教の要請と甲賀藤九郎の懇願を請け、軍師として近隣の地頭を統率し、
志摩の九鬼氏を撃破、本拠地の田城を落城させ、
九鬼嘉隆を追放することに成功する。
事が終わると固辞して志摩を去り、
京で義理の息子三条実綱の菊亭晴季に囲まれ余生を過ごす。
その際も晴信の官位推戴や天台座主の就任等に
なにかと手を焼いてやっていたという。
晴信が病死すると、孫の勝頼の招聘に応え甲斐に向かったが、
途中、信濃国高遠で死去。八十歳での大往生だった。
細川藤孝
将軍を裏切り、親友であった光秀を裏切り、主君信長を裏切り、これまた主君の秀吉をも裏切った男
4度の裏切りによって領土を伸ばした戦国の梟雄である
竹中半兵衛(重治)
戦国三悪人の一人。
二十歳の時に主君を裏切り稲葉山城をだまし取るなど、謀略に長けていた。
荒木村重をそそのかし、ライバルであった黒田孝高を陥れた事件はあまりに有名。
その卑怯なやり口は斎藤道三から学び取ったものと言われる。
118 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 22:49:05 ID:Xb8TRKAG
佐久間信盛
織田家譜代の家臣で信長に重用された。
『翁草』が伝える唄では
織田家には
木綿藤吉 米五郎左
かかれ柴田に のき佐久間
と、唄われ、「のき」→「退く」つまり殿を任せるにおいて絶大な信頼を得ていた。
信長の弟の信行が謀叛を起こしたときは、織田家中が信行派に傾倒していた中で
信長に従うという先見の目も持っていた。
そして運命の石山本願寺攻めでは
軍議において信長を説得しきれずに総大将に任命されてしまった。
だが、仏門に弓引くことや女子供を手にかける事を快しとせず
又、主君にそのような汚名を着せたくない思いで戦線をわざと膠着させ
本願寺側に降伏か和議の道を探っていた。
が、一向に進展にない状況に信長の気の短さが災いし
十九ヵ条もの折檻状を陣中に送りつけられ、即刻解任、織田家から追放となった。
しかし、他国に仕官して信長に刃向かう様な事はせず
この様な状況になったのも自分の不甲斐無さの為との自戒の念から
身一つで山に篭もり、食を断つ行をおこない、そのまま山中で生涯を終えた。
本多平八郎忠勝
戦において死力をつくして敵と戦うことで我が身に受ける戦傷。
この傷こそが戦国武将の誇りであり、主君への忠節の証であったが、
本多平八郎忠勝は数十の戦に出ながらも名誉の傷一つ負うことがなかったと言われる。
関が原戦後においては娘婿の真田信之の父昌幸と弟幸村(信繁)の助命を
主君である徳川家康に申し入れ、聞き入れられぬのであれば武装蜂起をするなどと
脅すに到った。
そして、忠勝の暴言・暴挙により助けられた幸村であったが、
その後の大阪夏の陣においては徳川家康を後一歩のところまで追い詰めるに到った。
これこそまさに、忠勝の愚行が招いた主君家康の危機であったという他ないであろう。
天才肌ではないものの、誠実な人柄の徳川秀忠。
その人物に心酔し、絶対の忠誠を捧げる腹心にして剣豪、柳生宗矩。
影武者世良田次郎三郎が、関ヶ原での父の非業の死をきっかけに
関が原の亡霊島左近、異国から流れてきた異形の忍群、闇の住人たちの力を
使って天下を我が物とすべく動き出す。
ようやく治まった世を戦乱に戻すことは許されない。秀忠主従は、表舞台では
悪の影武者を大御所家康として立てる一方、裏では闇の軍団との厳しい暗闘を
関ヶ原以降、13年間戦い続けるのであった…
大野治長 ?-1615
母は淀殿の乳母・大蔵卿局。淀殿が豊臣秀吉の側室になると一緒に家臣となった。
伏見城修築に関わるなど、多くの政務に携る。
太閤死後、家康暗殺の嫌疑を掛けられ、浅野長政らと共に失脚。
(家康の脅威を逸早く見抜いていたといわれる)
関ヶ原合戦後、治長は再び家康と対峙。衰退の兆しをみせる豊臣家から多くの
重臣達が離反するなか、幼い秀頼公を守り立て孤軍奮闘する。
片桐且元の不穏な行動に気付き、且元を大阪城から退去させている。
(且元を成敗しようとする者も現れたが、これが家康の計略である事を見抜いた治長は、
事態収拾の為、且元を退去させたという)
計略を見透かされ激怒した家康は、半ば強引に且元の大阪城退去に異議を唱え、
大阪攻略の準備を開始する。この動きを察知した治長は、もはや開戦を避けられない
事を悟り、太閤が遺産の金銀を使い浪人衆を雇うという奇策を発案する。
(秀頼公への恩義と治長の人望により、各地から多くの浪人達が馳せ参じたという)
慶長十九年十一月、治長の想いも空しく大阪冬の陣が勃発。己の武功の事しか考えない
浪人衆と対立しながらも、敵を引き寄せ殲滅する自らの戦法を説き、緒戦を大勝利に導く。
(武功を求める浪人衆を宥める為、真田幸村などを出城に配置し、自らは一線を引き
作戦を指揮するという適材適所の計略が功を奏したという)
この治長の見事な計略に恐れをなした家康は、大筒をもって大阪城天守閣を砲撃。
不意を付かれた城内は混乱し結局、淀殿の命により和議を結ぶ事となる。
(治長の真意は、大阪方の力を見せ付けその後、和議を結び豊臣家の存続を図るというもの
だったといわれる)
補給などまるで頭になく徹底抗戦を主張する浪人衆を宥め、和議を成立させた治長は、
茶臼山にて宿敵・家康と会談。家康は「今度の戦いで豊臣軍を仕切った手腕は言うに及ばず、
秀頼公への忠節も浅からず思っている。お前も将軍(徳川秀忠)への奉公を治長にあやかる
ように」と治長の肩衣を貰って本多正純に着せたという。
(治長は宿敵の想わぬ賞賛に感涙したとも、「狸に化かされ喜ぶようでは武士は務まらぬ」
と言い放ったともいう)
万事すべて治長の計画通りに進んでいた元和元年一月、突如関東方が大阪城を裸城にすべく
すべての堀を埋めるという暴挙に出た。信義にもとる行為に大阪方は、激しく抗議したが
後の祭りであった。
(動揺する城内を尻目に治長は、カラカラと笑い「老いとは哀れなるものよ」と感慨ぶかげ
に語ったという。また和議の責任を取り、治長が自害するのでは?と思い諌めに来た
秀頼に「私が死ねば秀頼様を守るものがいなくなります」と言い秀頼が感激したという
話も伝わる)
家康の手段を選ばぬ態度に不退転の決意を見てとった治長は、これ以上の抵抗は無意味と
悟り、ただひたすら秀頼公の御身安泰に専念する事となる。
そんな治長を主戦派の刺客が襲い、危き目に遭うも一命を取り留める。
(肘を切りつけられた治長は、片手にて刺客を切り伏せたという)
治長が床に伏す間、城内主戦派や浪人衆に主導権が移り、元和元年四月、大阪夏の陣が
勃発する。もはや事態収拾は不可能であると悟りながらも、必死に奔走するが城内の味方は
己の武功のみを求め戦場へ消えてゆく。もはやこれまでと秀頼と淀殿を曲輪に退避させ、
千姫と交換条件に二人の助命を願い出るが、これが家康に拒否されると千姫を警護の者を
付け家康の陣へ送り出した。多くの者が秀頼を見限り逃亡する中、秀頼、淀殿、二人の
自害を見届け自らも後を追って自害。治長の豊臣家存続、秀頼安泰の願いは露と消えた。
享年は四十半ばであったという。翁物語では治長を、「現代に日本中の軍勢を引き受けるほどの
大将を知らない」と評している。また治長は茶道に造詣深く古田織部の弟子となり奥義を
極めるほどの名人であった。完。
スマン、長すぎた・・・
123 :
文官を武闘派にしてみたよ:2007/02/08(木) 19:05:37 ID:ZlIdnRC5
石田三成 1560〜1600
近江の土豪の生まれ。10代の頃より秀吉に仕官する。
22歳の時、仙石秀久に従って赴いた淡路攻めで武功を立てる。
以来、秀吉の戦の殆どに参戦し、数多くの武功を立てる。その主なものを以下に記す。
賤ケ岳の戦いでは「先駆けの衆」として活躍、加藤清正ら七本槍に匹敵する槍働きをする。
小田原攻めでは忍城攻めでは秀吉からの理不尽な命令があり
思うように采配を振るえず失敗したが、館林城の攻略には成功する。
朝鮮出兵においては幸州山城の戦いで、自らも負傷するほどの激戦を繰り広げ、
また碧蹄館の戦いにおいては開城の放棄および漢城近郊での迎撃戦を主張。
主戦派の諸将を抑えてこの戦略を実行し、朝鮮軍を破る。
秀吉死後の関ヶ原の戦いでは野戦の名手と言われた徳川家康を相手に健闘。
予期せぬ裏切りにより結果的には敗北したがこの合戦において石田隊は
東軍諸将の猛攻を物ともせず、敵軍を何度も押し返したという。
黒田長政の兵が恐怖のあまり石田勢の武将嶋左近を誰一人として正視できなかった事や、
戦後、三成と犬猿の仲だったはずの長政が彼に陣羽織を与えたり
藤堂高虎が囚われの身の三成に自分の鉄砲隊について助言を乞うたエピソードからも
石田隊がいかに精強だったかがわかる。
東軍に捕えられて処刑される際にも最期まで己の体を労り堂々としていた。
優れた武人であった三成らしい最期である。
後に津軽家が三成の子の一人を養子に迎えているが、
武人石田三成の血を自分の家にも取り入れようとしたのであろう。
幕末の偉人、西郷隆盛も彼を高く評価している。
北条氏康
一族皆引きこもりの北条氏の中でも最強の引きこもり というか、こいつの時代から北条氏=引きこもり の流れが誕生した
引きこもりだったので当然のことながら幼少期の評判は非常に悪く綱成を当主にしようという動きさえあった
女の子が家の前までやってきても引きこもってた
ちなみに、本気を出すと無茶苦茶強い
125 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 03:55:58 ID:lCyJDAED
age
126 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 07:26:05 ID:65AOQvan
>>124亀レスだが、お前男食大名信玄スレ住人だろww
127 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 09:49:49 ID:h9BJsQJf
中村一氏 (?〜1600) 前編
近江甲賀二十一家の1つ、瀧(多喜)氏の出と考えられ、初め瀧孫平次と名乗り秀吉に仕えた。
この一氏を召抱えた頃から、秀吉の本格的な大出世がはじまる。
金ヶ崎の退き口、姉川合戦、小谷攻略など、その目覚しい活躍の蔭には常に一氏の存在があり
軍師半兵衛と並んだ羽柴家の巨頭として、大車輪の働きをした。
その甲斐あって秀吉から200石!という大封を与えられ、一氏自身も大出世の名乗りを挙げた。
その後も様々な激戦で活躍し、当時最も恐れられていた雑賀衆の抑えとして泉州岸和田城主に上り詰めた
128 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 10:14:42 ID:h9BJsQJf
中村一氏 (?〜1600) 中編
その岸和田城主時代に武勇伝とも言える面白いエピソードが残っている。
羽柴家最強の一氏さえ討てば、戦局を優位に運べると考えた雑賀・根来衆が
その総力を結集させて岸和田城を来襲したのである。
一氏の抵抗は目覚しかったが、さすがに多勢に無勢。追い込まれ、あわや落城寸前にまで追い込まれた
その時、大蛸に乗った僧と数千の蛸が現れ城を救われたという伝説が残っているのだ。
モーゼの十戒をも彷彿とさせる、この逸話を持つ男、一氏。まさに神の領域である。
そして、その功により故郷の近江国甲賀郡水口岡山6万石城主になり故郷に大錦を立てる。
129 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 10:41:20 ID:h9BJsQJf
中村一氏 (?〜1600) 後編
その後、関東の雄・北条征伐の際に秀次隊の先鋒を務め、
ほぼ単独で、北条家中随一の猛将・松田康長の守る箱根山中城の主要部分を攻略。
その大功により駿河国駿府14万石を拝領する。
そして一氏の活躍によって、秀吉は念願だった天下統一を達成する
そして第一功労者である一氏は政権内一の要職と言われる三中老に任命された。
もはや天下は一氏を中心に回っていた。
そして天下一の実力者に上り詰めた一氏の死後すぐに、関ヶ原の合戦が起こる
それは家康が一氏の存在を心底恐れ、その死を待っていたという事実に他ならないだろう
家康さえも恐れさせた男、中村一氏。
その実力と人気は400年経った今でも、この戦国板で多くの信者を惹きつけてやまない
130 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 18:24:10 ID:uQBISbLG
良スレage
本当は愚将だったのに、ここの職人さんの様な人に名将として語り継がれた人物がいたかもね。
131 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 19:18:19 ID:hdfEIBQs
age
132 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 06:41:39 ID:klwN7kXi
朝倉義景 1533〜1573
朝倉氏第十一代当主、別名「越前の虎」。
朝倉宗滴などの武断派の専横を御しつつ、朝倉家の最大版図を築く。
また義にも篤い彼は、都落ちしてきた将軍足利義昭の保護などもした。
盟友の浅井氏が織田信長に反旗をひるがえした際も、
時勢を見通せる彼は敵わぬと知りつつもこれに味方した。
一旦は信長に「天下は朝倉殿が持ち給え」とまで言わしめた彼だが、
最後は浅井氏との義に殉じ、一乗谷でその生涯を終える。
またその際、少しでも人命を救おうと一門の朝倉景鏡などに敵方に降伏を勧めたという伝承もある。
その後義景の遺体は、これを敬う信長によって金箔を貼られ丁寧に鎮魂されたという。
133 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 07:40:46 ID:F3PYRCHA
134 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 11:25:03 ID:ka1GHFwX
>>132 ちょwwwww最後の一行wwwwwwww
135 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 14:47:36 ID:byRAucQY
>>132 こういうパンチが効いててシンプルなのがいいなw
136 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 03:58:32 ID:Uz5jRjtQ
林秀貞
実力主義者、織田信秀の時代より才覚を認められ織田家の筆頭家老として地位を占める
そして、あの覇王織田信長の養育を担当した事は特筆すべきであり、まさにこれは彼の教育の賜物であろう
政務においては堅実な行政手腕
策謀においては、信行に謀反を煽り、信長に討たせる事で織田家の後継者争いにピリオドをうち
外交においては清洲同盟を取り仕切り
教育においては信長、信忠の教育を担当し超一流の武将にしたてあげ
軍事においては水軍を率い長島一向一揆を粉砕するなど
まさに万能の天才といえる。
目立った功績がないように見えるのは、彼自身が非常に謙虚で決して功績を他人に
ひけらかしたりしない性格が所以である
この謙虚な姿勢と堅実な働きは、甲斐の虎、武田信玄にも絶賛され
「静かなること、林の如し」と、まるで師の如く武田軍に模範されるほどである
1580年
その才覚を妬まれた奸臣の讒言により追放される
バランサーを失った織田家は急速に傾き
本能寺の変がおこるのはこの二年後である
実質、織田家は林一人の名望により存続しえていたと言っても過言ではなかった
137 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 04:11:45 ID:Uz5jRjtQ
なお
安土城落成の際において
信長が一番最初に城内を観覧させているのがこの林であり
この時、信長は林にこういったと言われる
「どうだい。爺や。僕は爺やのお陰でここまで成功する事が出来た。
安土城一番乗りは爺やと前々から決めていた」
これを聞いた林は号泣したと言う
138 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 08:31:41 ID:P+I5E3rl
どのネタも秀逸だがどう見ても手を抜いて書いたと思われる>8で腹を抱えて笑った
139 :
人間七七四年:2007/04/03(火) 10:52:25 ID:Oth46f+t
三戦板でよく書いていた者だが、今日やっとここを見つけたよ。
大野治長とか六角義賢とか可児才蔵とかを書きました。
黄蓋をマゾにしたのも俺です。
まとめサイトが消えてしまったのが哀しい・・・。
140 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 16:05:55 ID:pTf/253x
141 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 21:51:21 ID:7W/nXCa0
>>139 おひさです。それがしも以前いろいろ書いていて、最近このスレを見つけました。
魏の五将や武田勝頼、安藤守就、柴田勝豊などを書かせていただきました。
まとめサイト消滅は惜しいですね…専ブラのキャッシュで読めるのですが、みんなで見れないとねぇ…
と雑談はさておいて、挨拶代わりに凡将を名将のように説明する凡作を。
142 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 21:53:53 ID:7W/nXCa0
大内義長
初名、大友晴英。大友宗麟の弟であり、大内氏最後の当主。
道義の廃れた戦国の世に義とは何であるかを示した名将。
幼いうちから優れた才徳を期待され、子のない伯父、大内義隆に養子として迎えられたのも義隆が
義長の才徳を特に見込んだためという。
その後、義隆が家臣陶晴賢(隆房)の謀反にあい横死した後、晴賢が傀儡とするために新当主に
据えられたが、少年とはいえ才徳を期待された義長が謀反人晴賢の言うがままであったのは
密かに期するものがあったためと言われる。
その証左として上げられるのが、才徳にあふれる義長が晴賢に擁立されてからは何ら積極的な
行動を起さなかったことである。晴賢の元に大内家臣が一丸とならず晴賢の謀反に反対する声が
やまなかったのは、義長が何一つ晴賢のために行動しないのを見て多くの家臣は晴賢に義がないと
考えたからという説が有力である。
もう一つは、晴賢と毛利元就との謀略戦での対応であり、この時英明な義長は元就の謀略に
気付いていたが、あえて無関心無言を貫くことで間接的に謀反人晴賢を陥れたと言える。
このようにして、英主義長が晴賢の謀反に組せずその非を鳴らした結果、当然の帰結として晴賢は
厳島合戦で毛利元就に敗北、自害。その後の義長の自刃は、謀反人には必ず報いがあることを
示すためとはいえ大内家を断絶させたことを先代義隆に詫びるためといわれている。
この義長の最期については元就が宗麟に弟の命を助けようか、と問うたところ、宗麟は弟が死んでも
恨みに思わないが大内家伝来の茶器を所望する、と答えたという。
これはそれぞれ二つの解釈があり、元就は義長の才気を惜しんで助命の口実を作ろうとした、
あるいは元々義長を生かすつもりはなかったが英主義長の殺害の汚名を一人で着るのを嫌った
という説、宗麟は義長が大内家を断絶させてまで生きるつもりがないことを分かっており、せめて
大内家伝来の茶器を大友家が持つことで義長の義挙を後世に伝えるつもりだった、あるいは義長が
助命されて大友家に送られると己の地位が危うくなるため茶器に事寄せて元就に殺させたという説、
それぞれが唱えられている。
いずれの説によっても、義長が大友宗麟と毛利元就という時代を代表する名将から懼れられるほどに
認められていたことは変わらず、これだけをとっても大内義長という武将がいかなる人物であったかが
うかがえるといえよう。
143 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 01:33:34 ID:cATE59Kn
>142
。・゚・(*ノД`*)・゚・。
職人の復活に嬉し涙が出た
今後も楽しみにしてます!
144 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 04:51:08 ID:0jbQxdHZ
145 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 10:14:25 ID:iGvouTfc
146 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 10:35:49 ID:u7QHJqFS
朝倉義景
朝倉義景は越前50万石を治める名門朝倉家の当主である
信長や謙信ですら苦戦した一向一揆と戦い続け、その領土を守るだけでなく南方の浅井家や西方の武田氏を守るために何度も兵を繰り出していた
その武勇の誉れの高さに時の将軍、足利義昭が頼り上洛してくれと頼んだほどである
しかし当時の三好家は長慶が死んだとはいえ三好三人衆や松永がまだまだ畿内を制圧していたため時勢の読める義景はあえて兵を出さなかった
いつか三人衆と松永が対立し、三好が内部から崩れると考えていたからである そして実際三好は崩れた しかしその頃には足利義昭は既に信長を頼って織田家に身を寄せていた
そのため朝倉家は上洛できず、織田家は六角氏や北畠氏を滅ぼし堺を手中に収め更に勢力を広げていった
その一方で義昭の権力は落ちていった 元々信長は義昭に再び天下を取らせてやる気などなかったのである
義昭は完全に身を任せる相手を間違えたのである 義昭は朝倉氏に信長と対立するように呼びかけた
義に厚い朝倉義景は一度は裏切られた相手の願いを受け入れて自分の4倍の領土を持つ織田家と戦うことを決意した
しかし信長の力は凄まじい 何しろ信長が半分の兵を動かすだけで朝倉家の2倍の兵力が動くのである しかし義景は確信していた この朝倉討伐の兵は引き上げると
義景は浅井氏が裏切ると読んでいたのである いや、当主や重臣が信長の味方をしたとしても国人や武将たちはどうか 朝倉との付き合いは長い 織田とはほんの数年の関わりである
浅井の家臣の一部が織田を攻め、織田は挟み撃ちになった 信長は桶狭間以来の窮地に陥ったのである
しかし義景はあまり追撃をしなかった 裏切ったのは所詮浅井のほんの一部で、下手に攻めれば2倍以上の兵力を持つ織田家に潰されると考えていたからである
この思慮深さがすぐに物事を自分勝手に決めてしまう信長と戦い得た一番の理由であろう 実際、何も考えてなかった武田はさっさと滅ぼされた
その後軍勢を立て直した織田・徳川連合軍と姉川で戦う(姉川の戦い)が、小競り合いだけで終わった
後にこれは徳川史観により朝倉が寡兵の徳川に負けただとか寡兵の浅井が織田家相手に善戦したとかありえない話に書き換えられたが、これは徳川が朝倉をそれだけ恐れていたということだろう
そして、ここからが朝倉義景の本領発揮である 本願寺と共同で信長を再び追い詰めたのである
これに対し信長は反則技を使うしかなかった 信長は朝廷を頼り、朝廷の権威で朝倉を引き上げさせた 信長が形振り構わぬ程にまで追い詰められたのはやはり桶狭間以来である
信長は朝倉義景様が天下の盟主です、織田家では敵いません といった手紙を義景に送っている 信長は謙信や信玄にも同じような手紙を送っているがこれだけへりくだった内容は朝倉氏に対してのみである
対織田家で武田や上杉が全く役に立ってない(捏造の歴史でいかにも信長を追い詰めたように見せているが)のに対し朝倉は4倍以上の勢力の織田家を追い詰めたのだ
信長にとっては馬鹿の謙信や信玄よりもよっぽど恐ろしい存在だったのだろう
しかし相手はやはり4倍以上の勢力を持つ織田家である おまけに明智光秀や羽柴秀吉といった反則的な部下もいる
明智光秀はかつて朝倉にも仕えていたのだが義昭についていってしまった その後信長に取り入り部下となった なんと腹黒い奴であろうか
羽柴と明智によって朝倉は崩された 武将は次々と離反し、組織として朝倉は弱体化していった
そして一乗谷の戦いが起きた 不利を悟った義景は兵を引き上げさせた この素早い判断は英雄にしかできない 決断力も義景は持っていた ・・だが、ここで信長は今までにない革新的(日本史においては)なことをやってのけた
追激戦である 追激戦なんてそんな珍しいものではないと思われるかもしれないが戦国時代に追激戦というのは殆どなかった あまり相手の領土の者を殺すと後々面倒だからである
信長の凄まじいまでの追激戦がはじまり ・・遂に、朝倉義景は自害に追い込まれた
ここに信長を最も追い詰め、苦しめた大名 朝倉義景は死んだ 彼の死により信長包囲網は崩壊
以後武田でも毛利でも上杉でも朝倉家の代わりはできず、信長を追い詰めることすらできなくなったのである
ちなみに、一乗谷に街を栄えさせた文武両道の名将だったといわれている
147 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 12:03:45 ID:b5R2fhsh
>>146の文才及び日本語能力の低さは異常。
小学生ならまぁまぁかな。
148 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 13:20:22 ID:vRG2JwNr
あと、「西方の武田氏」って安芸武田かい?
さらに言うと、本当の名将なら三好三人衆なんてちょろいもんなんだよ…ってこのスレの意義に反するか
149 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 14:06:09 ID:qT8FQ5LP
若狭武田だろ
150 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 16:12:49 ID:6jQvDx/X
京極高次
京極氏はばさら大名として有名な宇多源氏佐々木道誉の子孫であり、
室町幕府の四職を務める名門である。高次はその京極氏の当主として戦国時代後期に
その名を馳せた名将として知られ、領地や地位よりも戦場における派手派手しさや
楽しさを追及し、一方で妻を愛でた、戦国随一のばさら者でもある。
秀吉や家康よりも一世代下になる高次は最初信長の元に人質として出されそのまま仕えるが、
若干20歳のころに本能寺の変に遭遇する。この時高次は信長の薫陶を受けて得た戦略眼で
光秀の敗れを予見したが、義兄弟の武田元明が旧領回復のため光秀に付いたのと、
何よりただ勝ち馬に乗るのは詰まらない、という理由からあえて劣勢な光秀側に付き、
秀吉の本拠、長浜城を攻めて武名をあげる。
戦後、秀吉は高次を敵に回すのは得策でないと考え、武田元明は処断しつつも高次の姉
(妹とも)竜子を側室に迎えて懐柔した。秀吉がここまで腰を低くしたのは他に家康程度であり、
高次に海道一の弓取りと同等の評価を与えていたことがうかがえる。
しかし、ばさら者の高次にとっては世間の評価もさほど気にならなかったと思われ、
それを秀吉も感じて改めて、お市の方の次女、お初を妻にさせる。
長女のお茶々は秀吉の側室であり、三女のお江は秀忠の正室であることからも、
秀吉が高次に気を使っていることは明らかである。
秀吉政権下では美貌の妻を愛でつつ、秀吉の戦は物量で押すだけなので詰まらぬ、
とばかりにさしたる働きもせずに呆けていた高次だが、関ヶ原の戦いが起こるに至って
要衝近江大津城を押さえる高次のところに東西両軍から誘いが掛かる。
当初、高次はこの戦は家康の勝ちと見て、本能寺の変のときと同じように三成方へ付こう
とするが、家康が会津征伐に行き、上方を打ち捨てると知って俄然考えを変えて家康方に付く。
これは家康が説得したのが奏功したともいえるが、ばさら者の高次が三成方の軍勢を受けて
戦を楽しもうとした、と理解するのが正しいと言える。
実際、関ヶ原の戦いでは伏見城の鳥居元忠が玉砕、丹後田辺城の細川藤孝が1万5千の兵に
攻められて和議となり、大津城に立花勢ら4万ともいう大軍を引き受けた高次は
後詰もない中で城兵をよく掌握して奮戦した。
己の身に矢傷を負っても城を抜かせないの高次の勇猛ぶりは京にまで伝わり、
ばさら者高次の雄姿を一目見ようという民衆が集まったほどである。
10日間に渡って城を守りぬいた高次はそろそろ家康と三成との決戦が付くと読み、
関ヶ原での両軍激突の前日に北政所の敬意を表する形で開城するが、
これは決戦の時まで守り抜くのは名を誇示する行為であり、かえって己の身を
危うくする元となる、と考えた高次なりの出処進退であったと思われる。
なお、余談であるが、近年戦国時代を舞台に大名が先陣をきって大軍を打ち破っていく
アクションゲームの中に、「戦国BASARA」なるゲームがあるがこのタイトルは
戦国時代のばさら者、京極高次の大津城攻防戦での活躍をモチーフにした、という説が
有力である。
151 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 22:06:06 ID:IaXxcHje
北信濃の井上氏をどなたかよろしく!
152 :
人間七七四年:2007/05/19(土) 15:11:18 ID:WcaaPbZu
コンニチハ!今川義元です
さっきランチしてたら
信長に襲われちゃったよ〜
あのガキ、マジムカつく〜
153 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 12:58:00 ID:urp1TnNp
直江兼続をお願いします。
154 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 00:14:37 ID:WJyPH1eG
直江兼続 愛深きゆえに…ry
155 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 23:26:29 ID:uEe37pjA
伊東義祐をお願いします。
156 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 01:52:42 ID:xRF7dClu
伊東 義祐→日向のアホ
157 :
小西行長:2007/05/23(水) 02:17:11 ID:AcA44434
関ヶ原、多くの義将達が咲き乱れ、散っていった大戦。
幼い秀頼、心から尊敬した天下人秀吉、運命に苦悩する一人の女性「淀」を守るために戦った石田三成。
親友のため、自ら盾になった。命を燃やした討死…大谷吉継。
数多の名将たちの最後…彼は夕焼けに何を見つけたのだろうか…
義の名将 小西 行長
彼は切支丹大名として有名である。九州の一部を豊臣に任された将であった。
島津家、立花家、黒田家、加藤家、小早川家、名将たちの激戦区…九州。
東軍と西軍に二分され謀略と裏切りが覆い尽くした。
そんな時代を生きた彼の出自は商人であった。生まれたのは京都である。
このころから、商人である父の影響で切支丹となる。
最初に仕えたのは裏切りの将と言われる、宇喜多直家。行長は主に外交の仕事を任された。
だが、圧倒的な勢力を持った織田家には逆らう事は出来ず、ついに降伏することとなった。
その時、活躍したのが小西行長である。羽柴秀吉との交渉により戦をすることなく降伏できた。
その後、小西行長の実力を見抜いた秀吉は行長を自軍に取り入れる。
九州征伐では国人を敗退させ24万石の城主となる。
秀吉は朝鮮を攻める際に先鋒として行長を派遣する。加藤清正にも劣らない大きな武功を立てた。交渉だけでなく、戦でも力を発揮した。
朝鮮攻めが不利になると得意の交渉で切り抜けた。
そして、運命の関ヶ原…激動の人生の終わり…。
戦は東軍の圧勝。義将として戦いぬいた行長は三成、安国寺と共にに処刑される。
そうして、名将「小西行長」の人生は終わりを迎えた。
正義を貫いた彼は天界で永遠の幸福を手に入れたのだろう…
158 :
157:2007/05/23(水) 02:26:19 ID:nhz7ZWj0
申し訳ないがなんか普通だぞ
159 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 02:31:00 ID:6oz8zWW3
小早川秀秋
初陣は
160 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 05:53:30 ID:f4ot5Juw
小西行長は普通に名将でそ。
加藤厨のせいで悪く言われてるだけ。
161 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 02:51:12 ID:6KYj0sFZ
以前ショウ欽を書いたけど、まさかあんなブレイクをするとは思わんかったなぁ
162 :
人間七七四年:2007/07/01(日) 02:46:08 ID:6Xb5QYmD
あげい
163 :
人間七七四年:2007/07/01(日) 12:43:08 ID:ddi8bq+3
小西が名将な訳ないだろ。
関ヶ原においては開戦して真っ先に総崩れして宇喜多に大迷惑させた凡将だよ。
この戦い振りで朝鮮での武功もかなり疑われた。
鍋島にも馬鹿にされてるし凡将の条件が整っとるわ
164 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 00:19:15 ID:dpo5BGie
まあまあ
165 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 13:45:59 ID:uTAwxaBm
166 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 15:13:07 ID:HBJvx7kz
河野通宣(こうの-みちのぶ)?-1581
別名通賢。通称宗三郎、四郎。官位伊予守、左京大夫。
1543年、兄晴通の早世により家督を継ぐ。
この頃の河野氏は先々代通直(弾正少弼)により引き起こされた後継問題による
統率力の低下、細川(三好)、大友、大内、長宗我部等外敵の進入に悩まされていた。
また通直も後見人として権力の座には残っており、これも通宣を苦しめる事となる。
通宣は内訌に対しては名将平岡房実を起用する事で鎮圧に成功。
また対外関係においては大内、尼子を滅ぼす前の毛利元就と手を結ぶ事を決断し
厳島の戦いにに来島水軍を派遣。これにより毛利氏と河野氏の間に友好関係が
築かれる事となり、この関係は以後自慢の海軍力共々外敵を退ける大きな力となる。
更に低下した権威の強化にも着手、朝廷から左京太夫を受任する。
1568年病に冒される。万一没した場合混乱しない為、また再び継承問題にならぬ為
家督を妾腹の子ではなく一族の牛福丸(通直、伊予守)に譲る事を決断。
なお後見人に悩まされた経験からかこののち通宣が主だった動きをすることは無くなる。
1581年死去。数年の後に半ば騙されるような形で河野氏は滅ぶ事となる。
仮にもう数年長く生きる事が出来たならば河野氏は滅亡をまぬかれたかもしれない。
167 :
人間七七四年:2007/07/04(水) 10:31:26 ID:NlVRZQEO
放浪の風雅人、伊東義祐
168 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 00:34:49 ID:QsQkxWwx
高梨政頼をお願いします
169 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 12:48:43 ID:8Ve2tWay
懐かしいスレだな。
昔幸村とか氏政とか黄祖とか書いたわ
>>168 素で上手く生き抜いた感があるので難しいが、
後でやってみよう
170 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 20:21:34 ID:6Gp3m6/H
高梨政頼
北信濃の豪族。隣接する越後長尾家とのつながりが代々深く、
政頼も長尾景虎(後の上杉謙信)が宗家を継ぐ際に与って功があった。
政頼の代の高梨氏は、信濃中北部で勢力を伸ばした村上義清に
しばしば戦を仕掛けられたが、彼の戦略眼は更に南の大敵、
甲斐武田氏を見据えていた。
このため、武田氏が村上領を侵す動きを見せた天文17年には
長尾氏の内乱鎮定に事寄せて敢えて越後に滞留し、
同じく19年には当時高梨領へ攻め込んでいた村上方からの
身勝手な和議申し入れに快く応じている。
こうして高梨家の脅威から逃れ自衛に専念できた村上義清が
武田に大打撃を与えたのが上田原の戦いと砥石崩れであり、
政頼のお膳立てが戦の趨勢を決めたことは当時から常識だった。
このように政頼の掌の上で北信への防波堤を演じた村上氏も
やがて自滅の形で勢力を失い、高梨氏は直接武田氏と対峙した。
このとき政頼の取った策は広大な自領を退却し続けることで
武田を懐に引きずり込むという大胆なもので、
決して押し捲られての敗走でない証拠に、永禄4年の
長尾氏の関東出兵に際しては自ら援軍として越後入りする
余裕を見せている。
政頼の来援により留守中の春日山城防衛の問題が解決したことから
景虎は勇躍征旅につき、政頼もこれに応え外敵を一切寄せ付けなかった。
このとき遠征の矛先となった北条氏政は「高梨殿が居らねばかような
憂き目は見なかったものを」と嘆いたと言われる。
遠征から戻った長尾景虎改め上杉政虎は政頼の功に報いるべく
直ちに信濃へ出兵、これにより起こった川中島合戦では
政頼の策により深入りしすぎていた武田軍は
一門の左馬助信繁をはじめ有力な大将と多数の兵を失い、
後の武田家滅亡の遠因をなした。
その後政頼は越後の地で静かに世を去り、
その末裔は上杉氏とともに会津へと移ったため、
信濃の地で高梨政頼の名を記憶する者も稀となった。
しかし、自らが戦わないことによって
大きな勝利を掴み続けた知将の生涯は深く人々の心に刻まれた。
後世、武田信玄がこの地方の英雄としてもてはやされ、
その姿を孫子の信奉者、戦わずして勝つを最上と唱える大将
として描く創作物が百出したが、その種の名将譚の源は、
皮肉にも武田に対してそれを実践した高梨政頼の伝承から
発しているのである。
171 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 22:00:17 ID:27+3l7IS
172 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 02:29:24 ID:R2Ic3z9e
>>170素晴らしいです。
須田満親や井上昌満もぜひお願いします。
173 :
人間七七四年:2007/08/06(月) 16:54:31 ID:83SxxMI2
有馬豊氏
有馬氏は名門赤松氏の庶流であり、豊氏はさらにその庶流の出である。
秀吉に従い2万石を領した有馬則頼の次男であり、豊臣秀次の付け家老であった渡瀬繁詮に家老として3千石で仕えた。
しかし、繁詮は文禄4年の秀次事件に連座し、改易の上切腹となってしまう。
秀次が処罰されるとその家老であった繁詮が切腹したように、繁詮が切腹となればその家老も罰を免れないのが普通である。
だが、豊氏は違った。秀吉は繁詮の遺領横須賀三万石をそのまま豊氏に相続させ、しかも渡瀬氏の家臣はみな豊氏に付き従ったのだった。
この異例の大出世は、秀吉も豊氏を高く評価しており、周囲からの人望が厚かったことの証拠だろう。
秀吉が死に、天下が東軍と西軍に分かれると、豊氏は時流を読み誤ることなく家康に味方した。
そして関が原の前哨戦において、岐阜城攻めで活躍する。この活躍に、西軍は大きく怯んだ。
西軍の士気は著しく低下しており、とても決戦を挑める状況ではなくなっていた。
この事態を打開するため、石田三成は腹心の島左近に有馬豊氏隊への奇襲を命じた。
島左近は有馬豊氏・中村一栄隊に奇襲を仕掛け成功するとすぐに退却した。有馬・中村両部隊は島左近を追撃し、杭瀬川を渡るが、
明石全登の伏兵に横腹をつかれて敗走してしまう。これが杭瀬川の戦いである。家康はこの報せをきいてひどく不機嫌になったという。
だが、この戦いは、ただの豊氏の敗戦だったのだろうか。そうであるならば、なぜ戦後に豊氏は石高2倍という大加増をうけたのだろうか。
杭瀬川の戦勝にわきたつ西軍はこれにおいて決戦への決意をかためた。そうして行われた一大決戦は、周知の通り、東軍の勝利に終わる。
つまり、豊氏の敗戦こそが関が原の戦いの鍵だったのである。当初不機嫌になった家康も後に豊氏の深謀遠慮に気付いて加増を行ったのかもしれない。
島左近は名将として知られるが、杭瀬川で有馬・中村隊を誘き寄せ破ったとはいえ局地戦に勝利したに過ぎない島左近と、
局地戦に負けることによって西軍を慢心させ決戦へと誘き寄せ、家康を天下人へと押し上げた豊氏を比べれば、その将器の差は歴然であるように思われる。
こうして、豊氏は福知山6万石を与えられ、慶長七年に父、則頼が世を去ると、その遺領2万石をも加えたのだった。
大坂の陣には両度とも出陣した。豊氏の戦功が如何に大きかったかは、
戦後に13万石も加増され、久留米藩21万石を領し、準国持ち大名になったことからも明らかである。
大坂の陣で木村重成と長宗我部盛親を破り、窮地に陥った秀忠を救い、淀殿・豊臣秀頼を自害に追い込むという
華々しい活躍を見せた井伊直孝の17万石の加増には劣ると思われるかもしれない。
しかし、井伊の加増は約2倍で、譜代の信頼できる臣を強大にする目的もあったと考えられるのに対し、
豊氏の加増は約2.5倍で、徳川が大大名を極力減らしていく方針のなかでの、豊臣恩顧の大名への加増であることを考えれば、
豊氏こそが大坂の陣における戦功第一であったと推測するのに何の問題もないだろう。
ただし、直孝の活躍が前述の通り具体的に残っているのに対し、豊氏の手柄は首級五十七というだけしか残っていない。
ここから考えると、豊氏の兵法はそこに布陣しているだけで全軍の戦いを大きく助けるようなものであっただろう。
ただそこにいるだけで偉大な戦功を立てるような名将は世界的に見ても少ない。豊氏こそはその一人であったに違いない。
皮肉なことだが、豊氏の名があまり知られていないのもこのような豊氏の兵法に原因があると言えよう。
こうして豊氏はわずか20数年でたったの3千石から久留米藩21万石を築き上げた。
乱世においては、秀吉や漢の高祖のように、大出世を遂げことができる。
しかし、豊氏の出世は、秀吉によって天下がほぼ定められてからの出世で、しかも天下人の譜代ではない。
もし、豊氏が生まれるのが10年はやかったらどうなっていただろうか。
豊氏の子孫、伯爵有馬頼寧は大政翼賛会事務局長となり、戦後は日本中央競馬会第2代理事長として辣腕をふるい、
その名を有馬記念に残した。こうして『有馬』の名は、今でも日本人に親しまれているが、
その家を興した稀代の名将、有馬豊氏の名はあまり知られていない。
174 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 19:46:03 ID:nhqsvTyo
>>173 かっこいい!惚れた!
是非、豊氏公で大河を!!民放の長時間ドラマでも良い。JRAドラマスペシャルとかね…(w)
175 :
人間七七四年:2007/08/25(土) 14:27:58 ID:ldoBbgcJ
保守
176 :
takeda:2007/08/28(火) 18:00:02 ID:AW4Of/MP
跡部勝資頼みます。
177 :
人間七七四年:2007/08/29(水) 19:11:28 ID:dGBzCQm9
跡部勝資
武田信玄・勝頼の二代にわたって仕えた名臣として知られる。跡部氏は甲斐の名族で、
勝資の父信秋は武田信虎・信玄に仕えていた。代々内政を担当したために信玄が
取り立てた武闘派に不当な罵りを受けることも一再ではなかったが、それによく耐えて
長坂釣閑斎とのコンビで勝頼を支えた。
武将としての気骨を見せた一面もあり、信玄没後に武田家中が消沈していた天正二年
には美濃の飯羽間城攻めを勝頼に進言して見事に成功させ、家中を大いに活気づけた。
長篠の合戦においても、主君勝頼を身をもって守り、無事甲斐に撤退させた功労者で
あったとも言われる。
天正六年越後の上杉謙信が死するや、後継者をめぐって景勝と景虎の二人の養子が
争う事態になったが、このときも情勢を冷静に見極め、景勝との同盟を積極的に推進した。
武田家が天正十年まで延命できたのはひとえに跡部の奔走によるといわれる。景勝との
同盟交渉においては、景勝が約束したにもかかわらず払わなかった黄金五百両を同族の
勝忠に命じて催促させ、武田家の財政好転にも大いに貢献した。このとき彼が上杉家から
二千両の賄賂を取ったという俗説があるがむろん偽りである。正しい史料では上記の通り、
進上金の全額が五百両であった。どうして二千両の賄賂を景勝が与えることがあろうか。
天正十年、勝頼に殉じて田野で没した。景徳院の戒名に「跡叟道張 跡部尾張守」とある
のがその証拠である。最後まで勝頼を支え続けた生涯であった。
178 :
人間七七四年:2007/08/30(木) 22:30:39 ID:iJS112pa
跡部勝資は普通に凡将でもないと思う
猛将や名将でもないけどさ
179 :
人間七七四年:2007/09/01(土) 04:13:45 ID:x1hDn15+
奸将とでも呼ぼうか
180 :
人間七七四年:2007/09/05(水) 19:56:09 ID:ugKwzZ8d
保守
181 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 18:06:33 ID:FwAAONDb
織田秀信で誰か。
182 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 20:05:43 ID:/Pg5FF9b
183 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 19:04:12 ID:9ao3pimq
スマヌ、首つってくるよorz
184 :
takeda:2007/09/16(日) 16:08:07 ID:cpmegxiC
三村家親おねがい
185 :
人間七七四年:2007/09/17(月) 13:14:51 ID:2GguI4aH
凡将って誰だよ
186 :
人間七七四年:2007/10/08(月) 09:06:50 ID:sCP6yVIL
三村家親
戦国大名 備中国松山城城主 天下人家康が恐れていなかった人の一人。
備中守護家である細川家の支配力が弱まり、尼子家の影響力が及び始めた難しい情勢の中、抜群の政治感覚と卓越した将才で確実に勢力を伸ばしていった。
家親対策で疲弊した尼子家が、逆に家親の命を受けた毛利家に横腹を突かれ滅びることとなる。
三村毛利同盟の際に、毛利家当主元就が家親の人となりに深く敬服し「備中より西は元就にお任せあれ、家親殿に東(天下)は託し申す」と話した事は有名で、これを聞き及んだ織田信長、徳川家康が同じような同盟関係を持って成功した。
また、家親の存在により元就は天下を断念し、息子たちに天下六分の一衆こそが毛利家安泰の道と諭すこととなった。
その後、家親が瞬く間に備中を掌握し、美作、備前の攻略を開始。緒戦を勝ち近隣諸国にその才能が改めて恐れられたが、軍議中に銃撃により暗殺される。
暗殺は宇喜多直家の謀略と言われているが、強力な支配者の登場を恐れた天皇家陰謀説や、家親を恐れ過ぎた毛利家の暴走など諸説がある。
余談ではあるが、家親は敵の防備が不十分と見るや、間髪いれず突入しかく乱する戦法を得意とし、
「三村のそのまんまツッコミ」と言われ恐れられた。
187 :
名将の愚将化:2007/10/08(月) 21:51:16 ID:Mr/adkiW
朝比奈泰朝(1538〜?)
今川家重臣。掛川城主。
1560年、今川義元に従い尾張に侵攻するが、桶狭間の合戦で義元が討死すると逃亡。
今川家の重臣でありながら主君・氏真の失政をとどめるどころか、
誤った謀叛の風説によって井伊直親を殺害するなど、率先して領内をさらなる混乱に導いた。
1568年、武田信玄・徳川家康が今川領に侵攻すると、
天命に見放された暗君・氏真を掛川城に迎え入れ、無駄な抵抗を継続した。
半年の籠城戦で今川・徳川双方に大きな出血を強いた挙句、結局開城している。
泰朝は、武田・徳川に流れる時代の流れを最後まで読むことができなかった愚将といえ、
その後の消息は明らかではないのも無理はない。
188 :
人間七七四年:2007/10/09(火) 06:20:55 ID:VFpn8w09
三好吉房(1522〜?)
大和の名族・三輪氏一族である三輪宣政の子。
はじめ母方の長尾姓を名乗る。弥助、一路。妻は瑞龍院日秀(とも)。
吉房は立派なヒゲを持ち、王者の風格があったと伝えられる。
妻の弟である木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の才能をいち早く見抜き、
その政戦にわたる天才を妨げることなく、天下の舞台で遺憾なく発揮させた。
いわゆる「豊臣政権」の実態が「三好政権」であることは、
吉房の長男の秀次(のち関白となる)と次男秀勝が秀吉の養子に迎えられ、
また三男の秀保が豊臣秀長の養子となっていることからも明らかである。
しかし、三好親子の実力を恐れた秀吉によって陥れられ、
三人の息子は非業の死を遂げ、吉房も不遇のうちに没した。
189 :
186:2007/10/10(水) 23:10:24 ID:Xw29AKZx
書いてて何だけど、三村家親は凡将ではないですね。
190 :
名将の愚将化:2007/10/16(火) 10:43:28 ID:28EC7hCJ
三村家親
備中一の男色(受け)武将
遠藤又次郎、喜三郎兄弟の短筒で出血死。
ケツの穴が小さかったとされる。
191 :
夜の部:2007/10/18(木) 01:14:32 ID:QzK1DS2H
徳川家康
江戸幕府初代征夷大将軍。16人の子を成した名将。
これ以外に多数の落胤があるという軍神伝説もある。
織田信長
尾張の戦国大名。24人(男12人、女12人)の子を成した軍神。
父の信秀も26人の子をあげて名をとどろかせている。
豊臣秀吉
太閤。生涯に3人の子をなした凡将。しかも2人は夭折し、
ただ一人残った秀頼には「胤違い」がある。その説が正しければ愚将である。
武田信玄
甲斐の戦国大名。13人の子をなした名将。
上杉謙信
越後の戦国大名。お話にならない無能。
192 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 19:12:18 ID:KW2NhLNv
wwww
だが、最後は不能にすべきだったな
193 :
人間七七四年:2007/10/19(金) 12:35:32 ID:qFQOfEYg
>>191 信長は信秀にガキばかり作ってたら領土紛争が起こるだろって言ったらしいが・・・
人の事いえんよな
194 :
人間七七四年:2007/10/19(金) 12:47:10 ID:gCeuCxvE
信長も親に文句言いたい年頃だったんだよ
195 :
人間七七四年:2007/10/20(土) 05:08:28 ID:DjI4WqZM
息子は多いにこしたことはないが、兄弟は少ないにこしたことはない
196 :
人間七七四年:2007/10/22(月) 20:49:44 ID:IBxww/u6
今川氏真
蹴鞠の家元・飛鳥井雅綱に鞠を学ぶ。いわずと知れた軍神。
細川藤孝
蹴鞠、和歌、茶道、書道、料理、有職故実など諸芸に通じた万能の天才。
飛鳥井曽衣
名門飛鳥井家出身で土佐一条家に仕えた神将。長宗我部元親にも蹴鞠の指南をした。
長宗我部元親
分国法に「武士は蹴鞠や茶道なども大体はたしなんでおくこと」と記した名君。
金森長近
織田家臣。すぐれた茶人であるとともに、蹴鞠をこよなく愛した良将。
大友宗麟
京都の飛鳥井家から蹴鞠の免許を得、一代の繁栄を築いた名太守。
島津義虎
島津一門の薩州家当主。蹴鞠とともに和歌に通じた驍将。
1563年に上洛した折に飛鳥井邸で蹴鞠の会を主催したことが言綱卿記に記されている。
上井覚兼
島津家の柱石。邸内に正式の蹴鞠場を持ち、島津家の若侍に蹴鞠の修練をさせた。
樺山善久
島津家臣。飛鳥井氏に蹴鞠を学び、近衛前久からは古今伝授を受けた両道の名将。
伊集院忠棟
島津家の名家老。上洛した折に、飛鳥井家から蹴鞠の免許をもらったという。
八木正信
島津家臣の智将。真幸吉田の地頭職。蹴鞠の達人であり能書家でもあった。
島津家久
義弘の子のほう。飛鳥井雅庸に蹴鞠を学び、近世薩摩藩の基礎を築いた。
織田信長
軍神氏真に請うてその神業を披露されたエピソードで知られる。
蹴鞠を練習したが、足をくじいてやめたという。
名将に育つ可能性はあったが、努力を惜しみ凡将にとどまった。
――感想:島津家は蹴鞠で見ても鬼すぎる
197 :
名人の凡人化:2007/11/01(木) 21:21:01 ID:tkrSAEe0
塚原卜伝(1489-1571)
今川氏真の剣術の師匠。
198 :
人間七七四年:2007/11/20(火) 01:11:12 ID:CoE4Z0lr
ちょっと待ておまいら
困ったことに記述に間違いはないが素人にオススメできない展開になってきたぞ
少し罪悪感を感じる
199 :
人間七七四年:2007/11/22(木) 00:11:04 ID:GACt/Jmw
そうか?
島津義虎とか金森長近も知らない戦国時代ド素人だけどオモシロイよ。
>>190-196は新しい方向性だし
>>197は弟子で貶めるのがグッドアイデアだし。
3スレ目かつ戦国限定でネタ投下が少なくなってはいるけど毎回楽しみにしてる。
200 :
人間七七四年:2007/11/22(木) 23:39:21 ID:niC0jEEj
井伊直政
見ず知らずのネコにホイホイついていくという聡明さを持った武将
そのおかげで命を救われたエピソードは有名である
そして何よりの功績はその事によって2007年の世に『ひこにゃん』を登場させた事である
201 :
人間七七四年:2007/11/24(土) 20:27:53 ID:0zhUoR/V
>>200 志村ー、直孝、直孝!
それにしてもひこにゃん騒動は無事決着がつけばいいが。
元祖招き猫が騒動を招いたのでは洒落にならんってスレ違いだな。
織田信忠でものすごいかっこいいように、御願いします。
203 :
人間七七四年:2007/12/18(火) 21:00:52 ID:QjNSMjRR
織田信忠
親父が顔が変と思ったので幼名は奇妙丸。
親父と趣味、作戦、家臣の扱い等で時々口喧嘩になるヤンチャな青年期の途中、家臣の明智光秀に攻められ二条御所で自刃。
本能寺の変では親父に真っ先に疑われた親不孝者であった。
204 :
人間七七四年:2007/12/19(水) 00:19:24 ID:HIMuGdNX
8:名無しでGO! :2007/09/29(土) 00:07:06 ID:VNrOn6vl0
逆撫裸 昌弘(さかさぶら まさひろ)
相模国程ヶ谷出身の自称「最強武将」
「潜在能力あり」「欠かせない人材」と自らを売り込み、相模国や武蔵野国周辺で幾多の家に仕えるも
武将としての働きはほとんどなく、むしろ軍規を破ること夥しく、流浪の人生を送る。
彼は女性に対する興味が常人の比ではなく、数々の女性に無数の書状を送ったがこの一部は
今も「偽婦賭(ギフト)」と呼ばれ、一部研究家から精神混濁状態の貴重なサンプルとして重要視されている。
また彼は生涯独身を貫き不犯を誓ったといわれている。が、これはただ単に
その機会に恵まれなかったため(いわゆる童貞)とされるのが今では通説となっている。
彼の名が知られるきっかけは、いわゆる「見えない敵を追っての一人働き」であり
北は陸奥、西は讃岐、果ては薩摩にまで転戦し、
時には夜を徹して徒歩で行軍するなど、その行動力は後世に名を残すものであった。
また、女性用武具を着用する肖像画を自ら公開することを好み
「逆撫裸(さかさぶら)」「川本降吐(かわもとふると)」「余皮本(あまりかわもと)」などの異名を持つことになる
後年は、軍規を破ることが知られ、どの家にも仕えることがならず自ら「なめってよ教」なる教えを説く日々であったという
(民明書房刊:戦国武将列伝その参 17010頁より抜粋)
205 :
人間七七四年:2007/12/19(水) 07:43:04 ID:M+cqJFs6
織田信雄(1558〜1630)
信長の次男
信長存命中は伊賀に無断で攻め入り見事に敗北。
本能寺の変のおりはどさくさに紛れ安土城を放火した疑い。
1584年小牧長久手の戦いでは単独講和。
1590年国替えを拒み領地没収。
1615年大坂の戦い陣のさいスパイ活動により5万石の大名に返り咲く。
信長の息子に相応しい波乱に満ちた生涯である。
206 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 21:37:11 ID:bcjIgfFc
うしお ゆききよ
尼子家臣。宇山久兼や佐世清宗と並び家老職にあった。
1511年の三好攻めを始め、対毛利元就の吉田郡山城攻めに従軍した。
尼子晴久の死後、当主の義久とともに月山富田城に籠城するも降伏。その後は行方不明となっている。
近代になって子孫が地元に『スーパーうしお』を作った。
207 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 02:04:42 ID:VUId/zs9
細川政元(1466〜1507)
中世の日本に実在した魔法使い。
職人さん、織田信孝御願いします。
209 :
人間七七四年:2007/12/27(木) 00:54:12 ID:7Bwc0Xvt
210 :
人間七七四年:2007/12/28(金) 01:36:02 ID:9M9T2jcX
>>209 信仰的理由、性癖で童貞だった可能性は高いが多分そういう意味じゃない
211 :
人間七七四年:2008/01/18(金) 00:01:34 ID:gYZ6EvPL
木下藤吉郎(秀吉)(1536年-1598年)
尾張国中村の百姓として生まれ、織田信長に仕え、織豊政権時代末期に没する。
他家の養子となり天下人の後継と目されるまでに昇り詰めた豊臣秀次の叔父にあたる。
目端は利いたようで、浅井朝倉戦で功を挙げ、1573年に旧浅井領を与えられる出世を遂げたという。
しかし、翌年以後1598年に死亡するまで24年の長きにわたり、
「木下藤吉郎(秀吉)」の名が世に轟くことは一度も無かった。
彼が生きたのは織田-豊臣-徳川へと向かう動乱の世であり、
真に才のある人間であれば大活躍できた時代であったことは言うまでもない。
当時の常識を知らないので、間違いがあれば指摘をよろしく。
212 :
人間七七四年:2008/01/23(水) 16:56:31 ID:wOQ3Dld8
たしか浅井朝倉滅亡前に木下藤吉郎の名は世に轟かなくなった希ガス
213 :
人間七七四年:2008/01/24(木) 02:43:18 ID:0z4BRdf6
六角義賢
あの残忍な信長がなぜか許したくなるかわいいおじちゃん
214 :
人間七七四年:2008/01/24(木) 10:58:26 ID:avghDesr
出自が百姓というのは出世物語を演出するための創作であって
土豪の息子であったという説が最近は多い。六角義秀に士官してた
時代もあり、秀吉の秀を賜ったという説もある。
六角氏はなぜか豊臣時代に復活し、他家、公家が首をかしげるほど
豊臣氏と緊密な関係を築いているのもそういう説が出る一因になっている。
215 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 10:49:50 ID:vEN+UPwl
松平広忠
三河岡崎城主。清康の嫡男。 徳川家康の父。
幼少期に敵の謀略に因り父を家臣に殺されて居城を奪われるも
復帰して近隣の水野氏、戸田氏と婚姻を結び、嫡男をも人質に出すなどの
巧な外交戦略で織田、今川の大勢力の狭間を生き抜いて
嫡子・家康の天下統一事業の基礎を作った。
216 :
人間七七四年:2008/01/27(日) 00:38:36 ID:V+dmEJxI
>>212 >>214 ありがd。ようやく人大杉から解放されて書きこめた。
単に「尾張の国中村に生まれ」にすれば嘘ナシだったのね。
改名の時期は良く分からなかったので、改姓済みの年を書けば間違いではないだろう、と思って。
もしも改姓後も普通に「木下」と呼ばれていたら構想自体が崩壊するけど。
>>215 言われてみれば弱者が強い奴らにヘイコラしながら威を借りて生き抜くのは「巧みな外交戦略」。
納得。
217 :
人間七七四年:2008/02/02(土) 01:38:27 ID:g46I2yQw
凡将って言われても
ナカナカ名前でてこないもんだなぁ
218 :
人間七七四年:2008/02/22(金) 16:23:00 ID:yhTxo6Xa
落ちぶれた官僚家と四職(五職)あたりにウジャウジャ居る事にしる。
219 :
人間七七四年:2008/02/22(金) 16:49:29 ID:yhTxo6Xa
別所長治
所司を務める赤松家を氏族とし、播磨に強大な影響力を持っていた。
当時日の出の勢いで近畿諸国を支配下に置く織田信長と早くから誼を持ち、時勢に迎合する姿勢を見せた。
しかし、織田軍の中国方面司令官が雑兵上がりの羽柴秀吉である事を知ると名族の節度を重んじ反信長勢力となる。
播磨の成り上がり者の織田家に与する勢力を駆逐し、中国地方の雄、毛利家と同盟し織田軍に対抗した。
一時は強大な織田軍を播磨から撃退し、播磨武士の気概を存分に発揮したが、
毛利家の消極的な支援により次第に劣勢に移り、播磨の攻防は籠城戦となる。
非常な織田軍の干攻めに二年も耐える等、非凡な将才をみせるが、
城兵の惨状を耐え忍ぶに及ばず、一族の命と引き換えに城兵の除名を懇願し切腹して果てた。
気概ある中にも情の深い良将であったと言える。
220 :
人間七七四年:2008/02/22(金) 16:51:13 ID:yhTxo6Xa
非常→非情
面目ネ
221 :
人間七七四年:2008/02/22(金) 16:53:57 ID:yhTxo6Xa
除名→助命 深く反省スル…
222 :
人間七七四年:2008/02/22(金) 18:25:42 ID:/m9+6zeG
佐久間信盛 (1528-1582)
尾張国に生まれる。早くから信長の才覚に目を付け、信行謀反の際も信長に組する。
以後筆頭家老として織田家の中枢となり、政戦両面で活躍することになる。
織田家最大の畿内7ヶ国を支配し、隆盛を誇る。
「退き佐久間」の異名を持ち、撤退戦での采配は家中一であった。
三方ヶ原の戦いではわずか3000の兵で当時最強と謳われた武田軍27000の侵攻を防ぐ。
忠告を聞かず、無謀な野戦に打って出た若き家康の尻拭いをしたことになるが、激戦
の中佐久間配下の将兵にほとんど死傷者がいなかったことからも信盛の戦上手さが伺える。
その後信長最強の敵とも言える本願寺を担当する。
本願寺戦では持久戦を選択し、盛況を誇った本願寺を大幅に弱体化させる。
畿内からの本願寺勢力掃討はすぐそこまで来ていた。
だが、その才を恐れた信長により、不当な言いがかりをつけられ追放される。
失意の中信盛はこの世を去る。享年54歳。早すぎる死であった。
死後半年後に本能寺の変が起こるが信盛が生きていればこのようなことは起こらなかった
とも言われるが、黒幕は信盛とも言われる。真相は闇の中である。
223 :
人間七七四年:2008/02/22(金) 23:09:27 ID:zt68n1K0
224 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 01:53:27 ID:6KhSjSOU
219
嘘なしとワシの文才ではこれ以上は無理。
長治は周りの押さえが出来ない唯のボンボンだし・・・
225 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 10:31:53 ID:RihKRUK0
信州の井上昌満をお願いします
226 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 03:10:48 ID:8PVDSAiW
畠山高政(1527-1576)
■義・勇・謀を兼ね備えた将器
河内・和泉・紀伊の守護大名。
摂津守護である細川家が執事・三好家に牛耳られ、
京畿に政情不安が波及するのを目にするや、敢然として義軍を起こす。
道理を弁じ、武勇に優れた高政のもとには、
紀伊の雑賀衆、大和の国人衆がこぞって参じ、
10年以上にわたる三好軍との激戦を戦い抜いた。
1562年には、三好家随一の名将・三好義賢を討ち取っている。
この後、わが事成れりと心得た高政は、河内を捨てて紀伊に退去する。
事実、続く一年の間に三好長慶は乱心、一門の重鎮を粛清したうえ病死するのである。
■発展する民力を見守る
紀伊における高政は、情勢を静観し、国内統制に大鉈を振るう事はなかった。
このために根来・堺・雑賀にて鉄砲生産技術の自由な発展がみられ、
さらに軍事力そのものを輸出する「雑賀傭兵団」が成立しえたのである。
根来・雑賀衆は、高政の領国である和泉を実効支配し、この不世出の守護大名を盛り立てた。
■世の定まりゆく中
三好家の残党は内紛に陥り、京畿の混迷は深まった。
が、これがコップの中の嵐に過ぎないことを高政は見抜いていた。
最終的な支配者となる織田信長が上洛を遂げると、高政は織田家への臣従という英断を下す。
彼の護るべき二つのもの……自ら打ち立てた「義」、そして河内・和泉・紀伊の「民」。
高政は、守護大名という自らの顔さえも捨て、あくまで真摯に答えを出したのである。
1576年、没す。
信長による紀州征伐が行われるのは、その翌年であった。
227 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 08:15:27 ID:HK7RRM+B
追放されたことはスルーかw
228 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 16:50:26 ID:tTNa9B/n
仁科盛信(1557-1582)
■敗北した兄弟の系譜
武田信玄の五男。
1582年、武田家存亡の一戦、高遠城防衛戦に敗れた武将。
彼の敗戦により甲信の防衛線は全面崩壊。
兄・武田勝頼は軍勢の結集をあきらめ、
新府城を焼き捨てて敗走、当主・信勝とともに自刃することとなった。
甲斐源氏武田家滅亡の無念はいかばかりだったであろうか。
なお、盛信には複数の男子がおり、
彼らは誰一人討たれることもなく徳川家の旗本として存続、繁栄を謳歌した。
■諏訪の運命
高遠城主に盛信が配されたのは1581年。
高遠は伊那から諏訪への関門であり、兄・勝頼の本貫地とも言うべき場所である。
新任の盛信は民政に意を用い、人心収攬に成功したとされるがどうであろうか。
彼の統治はわずか1年。その後8年間、信濃は安定した統治者を失い、紛争地帯と化したのである。
信仰の中心である諏訪大社も織田軍に焼き払われ、30年余りも再建されなかった。
「五郎さまの頃はよかった」
諏訪の民のやるせない呟きが、善政の伝説へと転化していったのではないだろうか。
■高遠城の戦い
3万と称される織田の大軍であったが、武田軍に勝ち目が無いわけではなかった。
ひとつは、勝頼とその弟・盛信に心を寄せる精兵3千。
いまひとつは、敵の総大将・織田信忠である。信忠は血気にはやる猪武者であった。
強攻を下知すると自らも城内に突入し、城兵と切り結びはじめたのである。
ここが決勝点であった。信忠を討てば、敗走は無いまでも織田の進軍は停止していたであろう。
しかし、盛信の器はここまでであった。
既に有力な将兵を消耗し、決勝点を掴み取る余力は残されていなかったのだ。
満身創痍で割腹した盛信には、織田軍から「比類なき働き」と賞賛が手向けられた。
この翌日、信忠は諏訪に将旗を進めた。
229 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 20:18:23 ID:vZ4KX86O
焼味噌 (脱1572〜不明)
三方が原の合戦において、神君徳川家康を心胆寒からしめ、この屈辱を忘れまじ肖像画を残す事になった。
結構臭ったと言われる。
230 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 23:13:45 ID:LgBzA/Jw
孕石元泰 (?-1581)
■忠義の武士
今川家の武臣。通称主水、藤六。
主君義元の覇業を助けつつ、駿府に構えた閑静な邸宅に憩うのを愛した。
ある日、隣家に転居してきた者があった。家主は少年で、小姓と若侍が同居人であった。
この日を境に、沈勇の武士・孕石元泰の人生は一転する。
■非行少年と大人の責任
少年は乱暴者であった。
同い年くらいの小姓を激しく罵る声が聞こえたと思うと、
縁側から突き飛ばされたと思しき落下音が響く。
若侍の止め立ても聞かず、床板を蹴立てるようにして出てゆく。
また飼っている鷹さえ少年を恐れ、隙あらば元泰邸へと飛び去り、静かな林に憩うのであった。
少年はこれを追い、幾度も元泰の閑静な庭を踏み荒らしては連れ帰るのだった。
元泰のたびたびの注意にも耳を貸さない。
そればかりか、「生意気な三河の小せがれめ」と悪罵されたかのように吹聴して回るのであった。
なんと狡猾卑劣の天性。断罪せずにいられようか。
しかし、元泰は耐えた。主君の悲願、東海道一覇のため。
少年は西三河の国人、松平氏の次期当主となる身だったのだ。
■因果は巡る
1560年、今川義元は尾張に遠征し、よもやの敗死を遂げた。
今川軍に従軍していたかつての少年、松平元康はただちに離反。
西三河の独立、三河一円の平定を狙って挙兵する。
ここに元泰の夢は断ち切られた。
「やはり、斬るべきであったのか……」
苦渋の元泰はひたすら軍務に精励するも、武田軍の駿府入城に遭ってついに屈する。
そして、1581年。高天神城の守備につく元泰の前に、彼は軍を率いて現れた。
徳川家康、高天神城にて得た捕虜を引見。
ほぼ全員を助命するも、元泰の名を聞くや
「昔の恨み、忘れたと思うてか」
と切腹を命じたという。
悪を摘み取れず、かえって増長させた元泰の上に、運命の断罪は下った。
231 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 13:04:21 ID:v7FyxU+B
>230
しらなんだ
切るべきだったね
小早川隆景がやったみたいに
232 :
人間七七四年:2008/03/04(火) 18:49:32 ID:7tvtHBBZ
有馬 義貞 (1521-1577)
父の晴純から家督を相続し、幕府の相伴衆を務める。
先見の明があり、南蛮の力に目をつけた義貞は領内でキリスト教布教を許可した。
しかし、父晴純はこれに従わずに対立。家臣団も分裂した。
さらには竜造寺氏や大友氏から圧迫を受け、窮地に立たされた。
そんな中でキリスト教を家中に布教し有馬家をまとめ、
貿易による国力増加によって失った領土の分を帳消しにした。
劣勢の中でも家をまとめた義貞について、かのルイス・フロイスは
「詩歌に造詣深く、書道に巧みで、為政者としては老練慎重かつ賢明である」
と著書の『日本史』に書き残している。
義貞がよくまとめた有馬家はその子晴信の代に宿敵竜造寺氏を撃破。
豊臣家の九州征伐にも参加し本領を安堵している。
孫の直純の代では改易されるも奇跡的に復活した。
逆境の中でもその才幹で家を保った有馬義貞。
その一族ゆえに豊臣・徳川政権下でも生き延びることができたのだ。
233 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 18:50:06 ID:ZdQgTE3V
織田信邦…勤王を家訓とする名門織田家に生まれ、国持ち大名に準ずる待遇を受ける。
戦国最大の大名だった先祖信長の血を受け、兵法家や将棋棋士と交流し、
江戸城攻撃の議論に日夜興じた。
幕府にその才能を警戒され、左遷された後は、隠居ながら藩政改革に乗り出し、
将棋駒の技術者を上杉より派遣してもらい、今日の天童名産品の礎となった。
234 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 19:17:04 ID:ZdQgTE3V
堀尾忠氏…豊臣三中老の一人茂助の嫡男。
30歳以上も年上の山内一豊から相談役として敬われ、
関ヶ原では領土を城ごと家康に献上するというアイデアを思いつき、
かつ山内にアイデア横盗りすれても怒らなかったという大人物。
家康も抜かりなく堀尾を山内以上の二カ国の太主に抜擢した。
松江城には堀尾家の築城の才能が発揮され、今日も観光客で賑わっている。
235 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 20:07:57 ID:ZdQgTE3V
(逆)立花宗茂…城付き娘に頭が上がらなかった駄目亭主。
勝ち目の無い戦に籠城徹底抗戦を主張した戦略眼の無さは味方諸将を呆れさせた。
敗走の途中で仇の島津と出くわすも腰が抜けてしまい好機を逃す。
改易の際には多くの領民が惨めな姿を見に現れ、元領主に直接声をかけるという無礼な振る舞いに及んだ。
浪人時代には乞食同然の暮らしをしているのに家臣が粥を出すと激怒した。
あげくの果てに敵だった徳川にペコペコしてゴマをすり、大名に帰りざき、世間から「三成どのはあの世でさぞや良い味方を持ったと喜んでいるだろうよ」と物笑いの種となった。
236 :
人間七七四年:2008/03/16(日) 15:28:13 ID:rugaeMnM
大崎義直 ?〜1577
大崎家第12代当主。新井田頼遠の反乱が起きると、大崎家単独でこの乱世を乗り切るのは難しいと判断し、隆盛を誇った伊達稙宗に従属し、家名を保とうとする。
だが、稙宗の子・義宣が大崎家に入り、乗っ取りの危機を迎える。やがて天文の大乱が勃発するが、義直は義宣を敵として討ち、禍根を絶った。
それでも、伊達家は大崎家を併呑しようと、手先の葛西家を大崎家を戦わせる。だが、それも切り抜け最低限の独立を保つ。その一環として子・義隆に家督を譲り、名門大崎家はまだ朽ちていないことを内外に示した。
1577年、義直はついに逝った。名門の誇りは子・義隆にも受けつがれ、伊達政宗を一度は撃退している。だが、その後ついに大崎家は伊達の門前に馬をつないだ。
それはあたかも、蜜蜂の最後の一刺しにも似た名門の意地だった。
237 :
人間七七四年:2008/03/17(月) 00:57:04 ID:B1w2zBNL
大崎義直って凡将なのか名将なのかようわからんわな
238 :
人間七七四年:2008/03/17(月) 07:31:13 ID:njktPbZo
239 :
人間七七四年:2008/03/18(火) 18:50:02 ID:HMsWjkRb
今度は名将を凡将化 PART1
織田信長 1534〜1582
信長は後年の広大な版図から、相当な傑物であると思われているようだが、実はそうではない。以下に真相を紹介しよう。
母親から疎まれ、十代は本当の不良少年であった。馬鹿なふりをしていたと言われるが、憶測に過ぎない。教育係・平手政秀の手を大いに焼かせた。
そういう状況だったので政秀は信長や織田家の将来を悲観し、1553年、ついに腹を切り諫死した。信長はこれをひどく悲しみ、ある程度はまともになった。
同年、正徳寺で舅・斎藤道三との会見が行われる。信長は「正装なんて面倒くさいよお」と思い、道中はいつもの「うつけスタイル」であった。道三は秘かに信長の身なりを見た。
この無礼者には略装で十分、と道三は思いこんでしまった。一方、信長は正徳寺に着くと「こんな正式な会見の時くらい正装しなければ」と思い直し、正装に着替えた。やがて会見の時間を迎えた
道三は、信長の正装を見て気まずく感じた。
どうみても自分のほうが場違いである。道三は不安になった。「信長はうつけでは無い。うつけを演じられる相当な切れ者だ。この男には、儂の子や孫では太刀打ちできぬ。斎藤家は織田の門前に馬をつなぐであろう」と。
信長はうつけの姿をあえて晒し、道三を油断させ、会見の場で正装することで道三を圧倒したと言われている。
だが、真相は信長の気まぐれにすぎなかったのだ。道三は策謀家であったが、それが却って信長がとてつもない傑物だと誤解させたのであった。
1560年、今川義元が西進し、上洛の途上にある織田家を滅ぼそうとしていた。
信長は義元を桶狭間にて奇襲したとか、情報を最大限に活用したとか言われている。だが、実は信長は半ば絶望していた。今川は父以来の宿敵。命乞いなど通用しないと考えたからだ。
信長は、もはや自暴自棄になって小姓数人と共に数騎で駆けだした。家臣達もそのうち気づいて、あとを追った。
織田軍は桶狭間山の付近に到着した。見ると、今川軍が陣取っているではないか。信長はそこへ猛烈な勢いで駆け上がった。家臣らあとにも続く。
信長はあまりに動揺しており、我を忘れていた。だが、今川軍はその鬼気迫る表情に圧倒された。
そうしている中、信長も訳がわからないうちに今川義元が討ち取られた。
巧妙な奇襲や諜報活動ではなく、まったくの僥倖によって桶狭間の戦いで信長は勝利した。
240 :
人間七七四年:2008/03/19(水) 02:55:42 ID:DOiy+owm
>>239 ちょっと凡将には無理がある
これだけ運があるなら十分名将扱いされてもおかしくないわ
241 :
239:2008/03/19(水) 08:17:45 ID:VpIjPsx9
>>240 うーん、やっぱ無理か・・・
凡将を名将にするより、名将を凡将にするほうが難しいな・・・下手すればただのアンチになるし・・・
242 :
人間七七四年:2008/03/19(水) 09:55:40 ID:wRbiGS7l
伊達 政宗
生誕 永禄10年8月3日(1567年9月5日)
死没 寛永13年5月24日(1636年6月27日)
陸奥仙台藩の初代藩主。独眼竜の勇将として知られるが実は
自身が片目であることに深いコンプレックスを抱いており、死後
つくられた木像、肖像画を両目にするよう遺言で徹底するほど神経質な人物。
また、短慮ゆえの失態も数多い。畠山義継への5カ村以外残り全て改易という処遇は
父・輝宗の拉致・殺害事件にまで発展。大内定綱討伐の際の小手森城の撫で切りは
その残虐性ゆえに他の奥州諸将の不審を招き伊達家をより苦境に立たせた。
当時、天下をほぼ手中にしていた関白豊臣秀吉の私戦禁止命令を無視し芦名氏を滅ぼす。
時節を読めぬこの判断が小田原参陣の際に伊達家中を割り、あわよくば存亡の危機に陥った。
大崎、葛西の一揆扇動を裏で扇動するも失敗。証拠不十分としてかろうじて処罰を免れるも
先祖伝来の地からの国替えという恥辱を受ける。関が原の際はそれらの所領を復帰させるお墨付きを
得るも、南部領での蜂起扇動の疑惑により約束は保護。ここでも同じ過ちを犯し100万石を得る好機を
みすみす棒に振る。他にも禁経令への幕府の動きを読めないままでの支倉常長の派遣。
娘婿の松平忠輝の改易の一件など、目先の利益にとらわれて失態を犯す先見性に疑問符のつく判断が多い。
一時は若干23歳にして150万石の太守となる武勇を誇りながら結局、60万石程度の一大名に納まったのは
ひとえに彼の後先を考えぬ短慮によるものである。
243 :
人間七七四年:2008/03/19(水) 09:58:24 ID:wRbiGS7l
>>239 実際、桶狭間はそんな感じだったらしいな。最近の説だと。
武田信玄 生誕 大永元年11月3日(1521年12月1日) 死没 元亀4年4月12日(1573年5月13日)
戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。後世において神将の如く賞賛されるがこれは江戸期に創られた虚像である。
そもそもその治世において彼は有力諸豪族に担がれた神輿である。豪族連合の盟主にすぎない武田家の構造改革を自身の
代で為す事のできなかったつけは次代において武田氏の滅亡となって現れた。戦上手といわれるが実際は敗戦も多い。
勢力的には遙かに格下の村上義清相手に敗戦を重ね、隣国の長尾氏の介入も招き、信濃一国の平定に20余年を費やす
その外交戦略にも疑問が呈される。甲・駿・相の三国同盟を破棄した南進政策は家中にも嫡男義信の廃嫡事件を引き起こす。
この一件が一族・家臣団に生んだ亀裂は後世の甲州崩れの主要因となっている。また不和となった北条氏との戦いに明け暮れるうちに
天下の趨勢が織田氏に傾いていくのをみすみす見過ごした。信長包囲網にもどちらかといえば信長よりの日和見の態度をとりつづけ
各勢力がほぼ各個撃破されかかる頃合でようやくして参戦しておきながら、豪雪で動けぬ朝倉氏を詰るという理不尽な態度も示す。
三方ヶ原において大勝を収めるも家康を打ち洩らす。この爪の甘さもまた後に禍根を残し、行軍中病に倒れ、後継体制を整えず逝去。
死後、彼の残した数々の火種が爆弾のように武田家を苛む。彼の後世における有名は三方ヶ原で彼に敗北した家康が貶められない
ようにという江戸幕府あげてのヨイショと徳川家に仕え生き残った旧武田家家臣によるプッシュのためである。
245 :
人間七七四年:2008/03/20(木) 14:39:06 ID:UQFZBQ4h
>>239 >馬鹿なふりをしていたと言われるが、憶測に過ぎない。
最近の学説でも、うつけを演じていたというのは否定されつつありますね
後年の「かぶき者」ぶりから見てもそのへんは説明できそうですが
246 :
人間七七四年:2008/03/21(金) 13:35:12 ID:vAoeF/80
武田義信(1538〜1567)
甲斐の大名、武田信玄こと晴信の嫡男として生を受けた。
彼の周りには幼い時より飯富虎昌ら、武田の重鎮がそばに居り、強く影響を受け育った。
彼は始め内政面で才覚を現し、千曲川の治水など、多くの事業に携わっている。
また、今川義元の娘を妻として迎え、外交面でも駿河と甲斐の架け橋となった事は言うまでも無い。
彼の家中の人望を示すエピソードとして、川中島の戦が挙げられる。
上杉軍によって布陣が崩壊寸前にまで至った状況で、彼は苦肉の策として自ら敵陣に飛び込み、上杉軍の注意を引いた。
この動きをみた武田軍は義信を援護しようと再び体制を立て直す。
こうして上杉軍の猛攻を凌ぎ、川中島では一応の勝利を収めたことは良く知られている。
しかし、彼の清廉潔白な鎌倉武士のような生き様は、父信玄には理解されなかった。
そもそも信玄は策略などを得意としており、義信とは全く違うタイプの人間であった。
次第に義信は信玄の非道な戦略に疑問を持つようになり、決意する。
かつて信玄が行ったように、自分も信玄を追放する。
自らが最も信頼を置く虎昌を中心に、家臣団に檄を飛ばすが、やはり策略は信玄が上手だった。
義信をあらかじめ監視しておくことで、義信の先手を打ったのだ。
頼みの虎昌も切腹に処され、進退窮まった義信は、嫡男の座を弟勝頼に譲り、
自らは自害した。
かくして武田家はひとつにまとまり、その後信玄の上洛につながっていく。
その後の歴史は知られているが、もし勝頼でなく義信が順当に家督を継いでいたら・・・?
日本の歴史は大きく変わっていたであろうことは、言うまでも無い。
247 :
人間七七四年:2008/03/23(日) 00:25:34 ID:NEMro0+s
>>246 この構図、平清盛と嫡男小松殿(重盛)にそっくりだな。
248 :
人間七七四年:2008/03/24(月) 13:08:04 ID:ZShpsIPu
>>242 史実と違わないような気がしますが、気のせいでしょうか?
249 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 16:50:06 ID:UcD4Yaji
250 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 20:02:31 ID:1PFDV0NA
どうした、気が狂ったか?
251 :
人間七七四年:2008/03/29(土) 21:49:39 ID:+7AmbPtu
イタチ政宗とはまた小物臭がするな。
252 :
人間七七四年:2008/08/15(金) 11:20:04 ID:GGhf+7vv
織田信長(1534-1582)
日本で初めて金平糖・バナナを食し、ワインを飲んだ戦国武将。
天下を食べきれず腹が割けて死亡したと言われる。
253 :
人間七七四年:2008/10/08(水) 00:45:53 ID:18cvSks0
須田満親 をお願いします
254 :
人間七七四年:2008/10/08(水) 01:31:33 ID:QoXSn52A
凡将ではないので断る。
255 :
人間七七四年:2009/01/17(土) 14:14:46 ID:OT0vK0w+
age
256 :
人間七七四年:2009/03/10(火) 00:28:19 ID:aXPyiCrJ
尼子勝久をお願いします
257 :
人間七七四年:2009/03/10(火) 18:36:42 ID:aXPyiCrJ
↓自分で書いてみた
尼子勝久
天文22年(1553年)、尼子誠久の五男として生まれる。
翌年、祖父の尼子国久、父の誠久ら新宮党が尼子晴久によって誅殺されたとき、
京都へ逃れ東福寺の僧となった。
東福寺では「百年に一度の神童」と呼ばれ、僧としての将来を大いに期待されたが、
永禄9年(1566年)、毛利家の侵攻を受けた尼子家が滅亡したことで運命が一変する。
永禄11年(1568年)、尼子家の再興を図る山中鹿介・立原久綱らに擁立されて還俗。
この時、出雲の空に巨大な虹がかかったことが伝えられている。
永禄12年(1569年)、悲願である月山富田城奪還を目指し出雲へ侵攻。
神がかり的な采配で有利に攻城戦を展開するものの、死兵と化した城兵の奮戦を目の当たりにし、
「これ以上人が死ぬのを見ていられない」と言い残して撤兵する。
城兵は涙を流し、勝久の情けに感謝したと伝えられている。
その後、各地で転戦を続け、天正5年(1577年)には播磨上月城を攻略することに成功した。
天正6年(1578年)、毛利・宇喜多連合軍が播磨上月城への侵攻を開始した。
毛利・宇喜多連合軍三万に対し、尼子軍はわずか二千であったが、
勝久主従らの奮戦により幾度も毛利・宇喜多連合軍を押し返した。
この時、勝久は傷ついた家臣たちの体に包帯を巻いて回り、
一人一人に労いの言葉をかけたことが伝えられている。
しかし頼みとしていた羽柴秀吉の援軍が来ないことを知り、城兵の助命を条件に降伏することを決意する。
心優しい勝久にとって、家臣たちを無駄死にさせることはどうしても耐えられなかったようだ。
山中鹿介ら捕虜となった家臣たちに対して、
「法衣をまとって一生を送るべきはずであった自分を一度は尼子の大将にしてくれたことを感謝する。
今後は命を永らえ、命を大切にするように」
と言い残し見事な切腹を遂げた。享年26。戦国の名家尼子家はここに滅亡した。
258 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 15:59:25 ID:PTUibsLN
age
259 :
人間七七四年:2009/06/18(木) 19:58:48 ID:nsFpkkbc
戦国覇王伝外伝
NOBUKATSU
〜秀吉に天下を獲らせた漢〜
260 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 12:59:30 ID:+n7RJMxb
マジレスすると北条氏康の為にあるようなスレやな
同格相手でも篭城してしまう腰抜けぶりや、野戦で散々敗退してしまう戦下手
さはおいといて、小田原を中心に兵力を分散させられるドジっぷりもおいといて
小田原城を信玄謙信から守りぬいたという名将らしい???
261 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 12:46:08 ID:00ldlenr
262 :
人間七七四年:2009/06/23(火) 21:51:09 ID:T90+KNBw
小早川秀秋が、幾つかあって面白かったので、
羽柴秀次をお願いします。
263 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 13:44:17 ID:MPGPfvX6
大内義隆
戦国大名。周防大内氏の第31代当主。
享禄元年(1528年)、父・義興の死により
周防・長門・石見・豊前・筑前の五ヶ国守護職を継ぐ。
しかし同時に北九州の少弐氏、大友氏、山陰の尼子氏、安芸の毛利氏
という四面楚歌、そして纏まりの無い国人衆という負の遺産を抱え、
実際の大内氏は非常に危機的な状況であったと言える。
だが義隆は絶大なカリスマ性により、これを打開する。
有力な家臣である陶隆房、陶義清を重用(寵愛)する事によって、
部分的であるが国人衆の掌握を果たす。
更に返す刀で毛利隆元、小早川隆景に迫り、これを寵愛した結果、
まず中国地方に安定的な覇権を確立した。
天文5年(1536年)、かねてよりの朝廷に働きかけが功を奏し
大宰大弐を官位を手に入れる。
この権威をもって少弐氏を滅ぼし、
その重臣・龍造寺胤栄を肥前守護代に任じ、
父の代からの宿敵・大友義鑑とも和睦、
これをもって北九州の制圧を完了する。
天文9年(1540年)には、尼子経久が大内従属下の毛利氏を襲うが、
義隆は陶隆房を総大将とした援軍を送り、尼子軍を撃破する。
(吉田郡山城の戦い)
天文10年(1541年)には、尼子方の国人である安芸武田氏及び、
友田氏を滅ぼし、安芸を完全に勢力下に置いた。
これによって義隆は先代の晩年に失った領土を取り戻し、
大内氏は再び、戦国最強を謳う事となった。
また父が上洛を果たすも安定政権を築けなかった理由は、
領国周防の基盤の弱さと、人の結び付きの弱さと看破した義隆は、
領国経営と重臣篭絡に重点を置き、また明、朝鮮、南蛮との貿易など
開明的な政策により、山口は繁栄を謳歌するようになる。
264 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 13:45:19 ID:MPGPfvX6
しかし欲をかいた陶隆房の暴走により、
天文11年(1542年)に出兵した月山富田城の戦いでは、
配下の国人衆の寝返りによって、尼子晴久に大敗した。
またこの敗戦により、容姿端麗かつ跡継ぎであった
大内晴持を失ったが、実際は養嗣子であり、
恋愛遍歴多き義隆にとってはそれほど大した痛手では無かった。
この戦いにより自身の権力・権威増強の必要性を痛感した義隆は、
前にも増して重臣篭絡に精を出し、これを妨げるザビエルの妄言には、
敢然と立ち向かい、排除した。
更に相良武任、冷泉隆豊を抜擢(寵愛)、大名自身と近臣からなる
家臣団による大名権力の強化と
公家文化を背景とした権威の増強を図ったが、
これを理解できず嫉妬に駆られた陶隆房及び、毛利隆元、小早川隆景
の陰謀により、大寧寺の乱が起き、冷泉隆豊の奮戦虚しく、
大内館で自刃した。
辞世の句
「討つ人も、討たるる人も、もろともに、如露亦如電、応作如是観」
(互いに愛し合った事、戦った事は、皆と同様、
露の如く儚く、雷のように一瞬だった。
思えば私の野望も、斯くの如きであった。)
しかしながらその精神は毛利家に受け継がれ、
義隆の愛する山口は江戸時代を乗り越え、
幕末に覇を唱える事となった。
265 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 00:10:37 ID:Z5WJ/93R
266 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 00:20:04 ID:wCikkrGZ
ここの住人をもってしても伊東さんはむりなのか・・・
267 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 12:20:51 ID:5QtQQLlw
>263-264
恋愛遍歴って薔薇のほうかw
跡継ぎの件にしろ、家中統制さえできていればねえ。
268 :
人間七七四年:2009/12/03(木) 02:32:47 ID:ckq7ILha
あげ保守
269 :
人間七七四年:2009/12/03(木) 19:15:50 ID:NqbcgBJ6
>>266 天ぷらや唐揚げも、少しは具がないと衣の乗りが・・・
270 :
人間七七四年:2009/12/07(月) 22:03:21 ID:M6uc5wLy
凡将と言ったら
織田信雄で決まりだろ
271 :
人間七七四年:2009/12/09(水) 00:13:58 ID:Yms+8em4
織田信雄(1558-1630)
■高2→国司
織田信長の次男。正二位内大臣、法号常真。
第六天魔王・信長の血をもっとも濃く受け継いだ、冷徹なる猛将である。
父の手によって伊勢に進駐した信雄は、まず姓を「北畠」と改める。
「北畠」とは、公家にして武将、南北朝の争いにあって凛呼として伊勢を墨守した国司大名の家である。
この名家の娘を娶り、伊勢国司を承継した信雄、ときに17歳。
名作アドベンチャーゲーム「高2→将軍」を地で行くデビューであった。
■破壊の魔将
伊勢は、万物を生長させる太陽の国である。
国司たる信雄もまた、自らの破壊の血に目覚め、覇道を歩み始めた。
1576年、旧国司・北畠具教らを粛清。国内支配を確立。
1579年、約1万の兵力で伊賀に侵攻。6千を討たせて帰還する。
1581年、約4万4千の兵力を糾合して伊賀に再征。一国を焦土と化して領土に組み入れる。
1583年、清洲会議により敵となった弟・織田信孝を岐阜城に攻め滅ぼす。
一説には、父の天下布武の象徴である安土城までも焼却して、顧みなかったという。
戦国の中心で破壊を叫んだけもの、それが織田信雄であった。
■三英傑に伍す
父の支配というくびきから解き放たれた信雄は、
羽柴秀吉、徳川家康と虚虚実実の駆け引きを繰り広げる。
小牧・長久手の戦いである。
織田家再興を賭けたいくさは、しかし、破壊の天才にはそぐわなかった。
以後、信雄は秀吉・家康の間をたくみに遊泳する演出家となる。
あえて秀吉の給する大禄を離れ、のちに無害な貴人の顔をした二重スパイとして出仕するなど、
およそ天才の所業と評するほかはないであろう。
1615年、豊臣家滅亡、大坂城は灰燼に帰した。
信雄の演出による、究極の破壊が完成した瞬間であった。
272 :
人間七七四年:2009/12/09(水) 09:32:28 ID:F1iOH4vg
>>271 これじゃあ、名将と言うよりも基地外だな
273 :
人間七七四年:2009/12/09(水) 23:12:14 ID:k5Uk6VfY
戸次鑑連 (べつきあきつら 1513〜1585)
大友家の家臣。戸次親家の二男として生まれる。
初陣を14歳でかざり、その後何度も合戦に参加した。
1550年、主君の大友義鑑と子の大友宗麟の間で二階崩れの変が発生。
このとき戸次鑑連は大友義鑑から一字をもらうほど信頼されていたにも関わらず、
冷酷にも宗麟を支持し義鑑を見殺しにした。その直後、宗麟は鑑連に妻の父親に
あたる入田親誠の討伐を命令し、鑑連は入田親誠をわざと阿曽家に逃がして
殺させることに成功。出世のためなら親族をも手にかける冷酷ぶりを見せつけた。
しかし、宗麟が主君の座についたことによって、宗麟は父から危険視されていた
通りの暴虐ぶりを発揮する。結果大友家は衰退し鑑連は主家滅亡を早めてしまのだ。
また、鑑連自身も宗麟の飼っていた大事なサルを突然殴り殺すような凶暴な性格
であり、彼の諫言など聴く耳持たなかったであろう。こうして戸次鑑連は宗麟に
疎んじらるようになり「毛利家のおさえ」という名目で北方に左遷させられてしまった。
さらに対毛利戦でも1559年の休松の戦いでは劣勢の秋月家の逆襲によって一族皆殺し
の憂き目に遭い、よくよく戦が弱かったと見える。
1570年の今山の戦いでは、総大将の大友親貞が敵の鍋島直茂の奇襲を受けた時
鑑連は大友親貞の隣の陣でありながら本陣が総崩れになるのをガン無視し、
たった800の兵に敗れるという無能ぶりを発揮した。
1578年の耳川の戦いでは島津家との一大決戦であるのにまたしてもガン無視して合戦に
同行せず、結果大友家は大敗し以降坂道を転がるように弱体化していく。
1585年、島津家に立ち向かうためにようやく立ち上がったがほどなく病死。
最後の最後まで役に立たない武将であった。
274 :
人間七七四年:2009/12/09(水) 23:55:52 ID:Yms+8em4
まあ宗麟周辺から見ると、ほんとに
>>273+煙たいオヤジっていう印象だったかもな
275 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 00:02:34 ID:IpqsG2Sg
>鑑連は大友親貞の隣の陣でありながら本陣が総崩れになるのをガン無視し、
オイラもどうして戦上手の道雪君がいて、総大将が死ぬのか不思議でならなかった。
道雪君はシャア同様の裏切り者か、さもなくば戦において無能だったとしか考えられないね。
276 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 04:33:31 ID:E1jnKLLl
赤松則繁で誰かお願いします。
277 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 14:53:48 ID:c0Pms+sB
278 :
人間七七四年:2009/12/14(月) 23:45:24 ID:w3B0nsrs
直江加熱具
裏切りや殺戮が繰り返される戦乱期に生まれながら、
ひたすらに義を貫くことに徹し、天下人の秀吉から絶賛された。
また、西欧的なLoveの概念が存在していなかった16世紀当時の
日本に家族や友人、郷土に対する「愛」の概念を独自に打ち立てた
哲学・倫理学上の巨人としても知られており、
一種の新興宗教の教祖として、石田三成、毛利輝元、徳川秀忠らの
崇拝を受けた。(なおこれらの武将が戦闘に不向きと見なされるのは
加熱具の人道的非暴力主義に傾倒していたためである)
米沢において、内政家として優れた手腕を発揮したばかりでなく、
30万石の国土を「天下」と見なす加熱具の画期的な政治思想は、
石橋湛山の小日本主義、リーカンユーのシンガポール建国、
麻原彰晃のサティアンなど、後世の政治家に絶大な影響を与えたことで
知られている。
279 :
人間七七四年:2009/12/14(月) 23:54:36 ID:w3B0nsrs
直江加熱具
さらに加熱具は、絶世の美男であったことでも知られる。
このため、上杉謙信、上杉景勝のみならず、前田利益、
石田三成、伊達政宗などとの身分や利害を超えた恋愛遍歴が
知られている。
加熱具の外交手腕や人間関係構築の手腕は
あまりにも超人的であり、後世のドラマなどに描かれる場合は
不自然で唐突な印象さえ与えてしまうが、これは、男性同性愛が
特にタブー視されない16世紀の文脈の中において、加熱具が
百万人に一人とも称される美男であったことが表現しきれていない
ためである。
280 :
人間七七四年:2010/01/18(月) 12:44:18 ID:NeWABIrl
大内義隆は見方によっては悪くないんだよな。
「末世の道者」と称賛されていたように各地の寺院を再興しているし、
国内外の書物や芸術品の収拾に尽力し戦火から守っている。
(うちの近所にある園城寺が保管している書物もこの時期に大内が収拾したものらしい。)
神道、仏教を保護する一方で基督教にも寛大で理解しているので強い保守というわけでもない。
産業立国の担い手としても灰吹法を開発して銀の産出量を増やし、銀輸入国から輸出国に転換したり、
輸入依存だった絹織物の国産化に成功したり、その後の日本の国益に多大な貢献している。
281 :
人間七七四年:2010/01/19(火) 13:08:22 ID:177xCF6+
>>280 大内義隆の存命中は毛利元就は手も足も出せなかった
代わりに息子たちのケツを差し出した
と書くとすごく聞こえるよな
282 :
人間七七四年:2010/03/09(火) 12:29:31 ID:CvWm2stB
織田上総介保守
283 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 02:20:47 ID:NoZgoG+q
尼子好きだろ?皆。
だから語るぜ、尼子を!(晴久メイン)
尼子晴久(1514−1561)
謀聖・尼子経久の嫡男である政久の子(次男)として生まれる。
兄は夭折しており、父・政久も1518年の桜井討伐の際に戦死した。
その為、経久は弟である久幸に家督を譲ろうとするも、久幸は兄にも劣らぬ晴久の器量・
将としての資質を幼い晴久に対して既に見抜いていた為、これを辞退した。
ここから八カ国守護・尼子晴久(詮久)の苦難と憂鬱な戦いが始まる・・・
経久の三男である塩冶興久が反乱を起こした際には、興久に味方した山内氏を攻め、
翌年には美作に侵攻し、美作を確保し、更には備前にも出兵する等、家督相続前にも拘らず、
晴久の前途は洋々たるものであったことが分かる。
そして1537年に経久から正式に家督を譲られ、翌年には大内方の佐東銀山城を落とし、
播磨に侵攻。赤松晴政を撃破する。これにより尼子は播磨にも勢力を持った。
更には備後・安芸国人衆を従属させるなどして大内への牽制をする。
しかし大内に佐東銀山城を落とされ、武田氏は敗走。遂に大内との関係は破綻した。
この時武田氏からの強い要請により、やむなく1540年から1541年にかけて行った吉田郡山城の戦いでは、国人衆を多数味方に付け、
三万ともいわれる大軍で吉田郡山に攻め込む。しかし、あくまで大内との決戦を所望していた晴久は、迂闊に手を出さず、
大内と毛利の連携を断つ為に本陣を移すなど、祖父の経久に劣らぬ智謀を見せる。
しかし陶隆房率いる奇襲により、本国への撤退を余儀なくされてしまうが、この時にも篝火を大量に灯しながら出雲に撤退した為、
毛利・大内両軍とも尼子勢の撤退に気付いたのは遥か後の事であり、積雪に阻まれ追撃は不可能であった。
このように敗戦の際にも鮮やかに撤兵し、時期を読み季節をも味方に付ける事を軽々やってのけた。
翌年には祖父の経久が死去し、大内毛利の連合軍が月山富田城に押し寄せてくる。
更には国人衆も先の敗戦・祖父の死去に伴い、大半が連合軍側に寝返る。
しかし、この時も晴久は神懸かりな采配を見せ、奇襲により敵の兵站を断ち、
更には記録的な豪雪により進軍を遅れさせるなど、先の敗戦時の撤兵の際にも見せた天をも味方に付ける程の
運をも兼ね備えるという智勇兼備、神算鬼謀のどの言葉でも形容し切れない力を持っていた。
この晴久の威光と采配振りに感嘆した国人衆は、ほぼ全てが寝返るという状況にまで達し、
遂に大内・毛利連合軍は撤兵を決意するも、大内晴持が戦死、毛利元就も俗に「七騎落ち」と言われるほどの大敗を喫した。
晴久はこの大勝に酔いしれる事無く、すぐさま石見に出兵、東部を取り戻した。
この後国人衆の所領を削減する等して、更に尼子の基盤を磐石な物とした。
その後も晴久の軍略は衰える事無く石見銀山を奪取・因幡、美作、備前に侵攻して勢力拡大。
1551年には八ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護及び幕府相伴衆に任ぜられた。
この八ヶ国守護という大義名分により、奉行制度を確立。他の戦国大名には例を見ないほど革新的な政治を行った。
更には砂鉄を軸に貿易を強化、出雲を中心とした領国経営行った。
1554年、それまで尼子家中で権勢を振るっていた叔父・国久を始めとする新宮党を粛清し、尼子家中での統制を図った。
新宮党がそれまで持っていた領土を直轄地とし、尼子の基盤を強化することに成功。
1556年には毛利と石見銀山を巡って争っていたが、「忍原崩れ」と呼ばれる大勝により石見銀山は尼子方に落ちた。
後にまた毛利が侵攻して来たが、降露坂の戦いで撃退し、「謀聖」である毛利元就と鎬を削る所か、これまでの戦跡を見るからにほぼ圧勝している。
しかし、1561年に死去。脳溢血により死亡したと伝えられる。
後を子の義久が継いだ。しかしこの後に尼子氏は没落し、毛利家の下で義久以下三兄弟は保護された。
毛利三兄弟のように優秀ではなかったが、その家名を残す為に一切抵抗しなかったその堂々とした振る舞いは、
同じ頃尼子を再興させる為に立ち上がった尼子勝久や山中鹿之助らとは方向こそ真逆だが、
「尼子」を後世に残すという点では共通しており、義久の父・曽祖父譲りの大局を見る深慮が見受けられる。
いじょうです。尼子こそパーフェクトな訳だ。違いない。
284 :
人間七七四年:2010/03/19(金) 00:40:55 ID:ZlXdtRcY
織田信長(1534〜1582)
尾張出身の戦国武将。古渡城主・織田信秀の子として生まれる。
信秀の長男とも三男ともされるが、はっきりしない。
1582年、京都に滞在中、家臣の裏切りを受けて不慮の死を遂げた。享年49。
現在も郷土の英雄として名古屋の人々に親しまれており、
「名古屋まつり」で行われる仮装行列での信長役公募には、毎年多くの応募がある。
大須の万松寺に伝わる「身代り餅」の伝説に名を残すなど、
後世に記された物語では虚実取り混ぜて超人的な英雄として描かれたが、
近年の歴史研究の進展によって、その生涯が実証的に解明されつつある。
286 :
人間七七四年:2010/03/24(水) 21:07:39 ID:oRxi4tmj
>>285 なんか悲しいね。
確かに戦国時代は、全国地方の田舎祭りの出し物になってるけどさ。
287 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 23:57:53 ID:O5sHUnOp
三井寺の凡将
288 :
人間七七四年:2010/05/03(月) 22:49:18 ID:DSot5VCl
数年ぶりに覗いてみたら
>>285 にワロタ。
マイナー凡将感あふれる解説が、とてもいい雰囲気を出してる。
何というか、コーエーの武将列伝あたりで行数が足りないから無理やり埋めました、的な。
来てよかった。GJ。
289 :
人間七七四年:2010/08/20(金) 23:35:06 ID:ZzoEmKYX
あげ
290 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 01:28:52 ID:PaVStp/D
良スレage
291 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:18:08 ID:+9dktsB/
管直人(1946年〜)
日本国第94代内閣総理大臣。
0-157、お遍路、ブーメランなどの話題で知られているが、
党内の反小沢勢力を巧みにまとめ上げ「脱小沢」を錦の旗に
日本国第94代内閣総理大臣の椅子を手に入れた。
先の参議院選挙では消費税増税という鬼門にあえて果敢に挑み
各党の党首らを前にTVで増税を訴えるなどの革新的な手法で選挙に臨んだ。
また参議院選挙敗北の責任を取らせ更迭した人物を
再び登用するといった懐の深い人物であることも知られている。
更にその懐の深さはとどまることを知らず嘗ての仇敵と言っても過言ではない
与謝野氏に大臣のポストを与えたことは大きな反響を及ぼした。
第一部
第六天魔王信長を遥かに超える器量と噂されながらも、長幼の序を重んじ、兄を立てるため自らの才覚を隠し凡将を演じる信雄。
戦によって尊い命が失われるのを憂い、宿敵である北畠の養子となり、武力を用いずに戦乱の世の終結を目指す。
しかし信雄を慕う家臣が、功に逸り独断で伊賀に侵攻してしまう。信雄は家臣を守るため、伊賀攻め失敗の責を自ら被る。
第二部
父信長、兄信忠は本能寺の変により非業の死を遂げた。父兄の遺志を継ぎ、戦乱の世を鎮めようとする信雄。
だが、天下を私せんと欲する秀吉が信雄の前に立ち塞がる。匹夫秀吉を討つべく盟友、家康とともに挙兵する信雄。
その最中、秀吉にも天下を思う気持ちがあることを悟り、信雄は矛を納め天下を秀吉に譲り渡す。
その後も自らに100万石近くの領地があると世が乱れる元になると憂い、秀吉が信雄に隠遁を命じざるをえないような計略を仕掛ける。
第三部
太閤秀吉、遂に死す。
晩年の秀吉の所業を憎む信雄は盟友家康とともに新しい世を作ろうとする。
だが、石田三成、大谷吉継らの忠義の心にうたれ、敢えて西軍への加担を決意する信雄。
血気に逸る甥、秀信を説得し岐阜城を西軍のものとするなど、西軍勝利のために邁進する。
しかし関ヶ原において西軍は敗北。西軍の再起を目指す諸将が信雄のもとに続々と集まる。信雄は天下泰平の為、諸将を説得し、領地収公に応じる。
第四部
大坂の陣において人望、実力、血統、威厳、戦略の全てを備える信雄は大坂方総大将の話を持ちかけられる。信雄が総大将となれば兵力は圧倒的不利なれど、戦略で家康と互角となり、戦乱が長引き民が疲弊する。
「天下は民草のための天下である」そう考える信雄は苦渋の末決断を下す。
彼の決断が天下を泰平へと導く。
以上四部からなる聖将「織田信雄」の波乱万丈の生涯を描いた愛と血と涙の感動巨編。
2014年NHK総合にて放映予定。
293 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 01:29:05.01 ID:2OobsfIi
保守
294 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 14:55:31.35 ID:tO3pG7x9
295 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 00:24:38.84 ID:L98D6nKt
保守
296 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 00:06:36.27 ID:+zt2EBZG
297 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 00:58:13.75 ID:UEf7uteh
298 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 22:59:28.54 ID:VTtL2GS7
これは良スレ発見
299 :
人間七七四年:2011/12/10(土) 19:50:06.98 ID:22Ot2NT+
>>26 森長可(もりながよし)は、戦国時代の有力武将だが、知名度では弟の森成利(森乱、森蘭丸)に遅れをとっている。
森長可は、森可成の次男で、兄弟は、可隆、長可、成利(乱)、坊丸、力丸、忠政。このうち、乱、坊丸、力丸は天正10年(1582)の本能寺の変で倒れた。
父の可成と長兄の可隆が元亀元年(1570)戦死したため、次男の長可は13歳で家督をついだ。このとき、父の金山城(東美濃)も継いでいる。
弟の森乱が信長の有名な寵童なので(ということになっている)、長可も、無論、女子と見間違うほどの美麗で優しい若者であった。「姫若子」と呼ばれたこともあるらしい〔要出典〕。
天正10年の武田攻めでは、織田信忠の指揮下で出陣した。
このとき、信長から二度に渡る軍律違反を注意された。具体的な理由は分からない。ただ、高遠城攻撃のとき天井裏に居たというので、ときに逃げ腰になったことを咎められたのではなかろうか。
この森一族への信長の厚遇は非常なものであった。
武田を滅ぼした後、長可は北信濃を与えられ、弟の森乱は、その後の金山城を与えられた。織田家臣では、同年代で、これだけの領地や城を与えられた者は居ない。
森長可は、関所などを正規の手続きをとらずに通ることで知られていた。関所役人が、高位の者を通す際、面倒な儀礼などで苦労することを気の毒がり、楽をさせようと気遣ったのであろう。
後に、安田国継が仕官を求めてきたとき、本能寺の変で弟の森乱を討った者なのに、断りきれず召し抱えた。長可は、気弱なところがあったようだ。
本能寺の変の後、長可は東美濃に逃げ帰った。その東美濃争乱に勝利し、美濃領主の信孝ではなく秀吉側についた。
秀吉が天下をとり、叔父の池田恒興とともに美濃をかためる。本能寺の変で三人の弟を失ったものの、長可の森家は安泰に見えた。
しかし、秀吉と信雄の軋轢が深まり、天正12年(1584年)小牧の役が勃発した。
叔父の池田恒興は、犬山城を奪取した。
長可は、自分も戦功をあげようと勇み立って小牧をおさえるべく羽黒に進出したが、そこで、徳川の精鋭にうち破られた。
名誉挽回をかけて長久手戦に出陣するも、眉間を射抜かれて討ち死にした。叔父の池田恒興、その嫡男元助も倒れた。
森長可周辺に「人間無骨」という言葉が聞かれた。これは、長可の、やや女性的で、少しなよなよして骨の無いように見える風情を指すらしい。
長可は多くの武功を上げている。しかし、長可は、武人には少し不向きであった自身の柔弱さを、長久手戦出陣前、「娘を武士に嫁がせるな医者に嫁がせよ」と遺言することで、周囲に告白した。戦国の血なまぐさい時代は、森長可にとって生きるには厳しすぎたのかもしれない。
300 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 14:01:35.38 ID:HKYURfLF
兄弟揃って名器だったんだろうな。
「人間無骨」とかエロすぎw
301 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 20:54:31.83 ID:u2MpQ7bx
猛将秀吉
今日は1月1日。日輪が懐中に入って懐胎したなか(後の大政所)から、47
4年前の今日、国民的英雄、太閤さん、豊臣秀吉がこの世に産まれ出た輝かし
い日である。今日この日は、秀吉を物語らぬわけにはいくまい。
天下を統一した太閤豊臣秀吉は、戦国最強の猛将として知られている。
その人並外れた武勇は、若年のときから秀でていた。
秀吉は、日吉丸といった少年期、三河で行商し、夜、矢作橋で眠り込んだ。そ
こに、蜂須賀小六正勝を首領とする乱暴狼藉をこととする夜盗の一団が通りかかる。
その場面は、小学生まで知らぬものはない国民的唱歌になった。
「1、三河の矢作の橋の上 大のおとこの正勝は 長い薙刀ふりあげて 日吉
めがけて切りかかる
2、日吉丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上
へあがって手を叩く
3、前やうしろや左右 ここと思えば またあちら サルのような早業に 鬼
の正勝あやまった」
ここから秀吉は「サル」とあだ名が付いた。
秀吉は、蜂須賀小六一味を影の諜報部隊として従える一方、新進気鋭の織田信
長に仕官した。
秀吉の若い頃からの友人、前田利家は、信長の近習・寵童の拾阿弥を斬り殺し
て一時追放されるほどの粗暴な男だが、似たもの同士、秀吉も、武技の練達、
腕っ節の強さと蜂須賀一味を従えている強みから、利家を上回る蛮勇を振るっていた。
ある朝、信長が外出しようとすると、控えていた秀吉が草鞋を抱え込んで離さ
ないので外に出られない。秀吉は「出世させないなら草鞋は渡さない」と信長
に強談判する。秀吉のこと、機嫌を損ねると寵童の2,3人斬り殺しかねないし、まあ、それなりに働いているのだからと、秀吉の粗暴さにやや手を焼く信長は秀吉に出世を約束した。
秀吉は、金ヶ崎の引口はじめ浅井・朝倉戦で暴れまくり、天正元年、信長から今浜(長浜)をふんだくって城持ち大名となった。
302 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 20:56:24.11 ID:u2MpQ7bx
天正四年、上杉謙信との戦いに北陸におもむくが、北陸の方面軍司令官柴田
勝家の言動が気に入らず、勝手に軍を引いて帰ってきた。腕っ節に自信を持
つ秀吉らしい傍若無人さである。しかし、秀吉の機嫌を損ねることをどこか
怖れている信長は、これほどの軍律違反なのに何の罰も与えず、中国地方方
面軍司令官に任ずることでこたえた。
秀吉の武名は高まったが困ったことがあった。
秀吉は、自ら、凶暴な猩々のように先頭で敵陣に切り込み、それに屈強の親
衛隊が続く。秀吉が振り回す長鑓の前に、周囲は敵兵の屍の山となる。この
猛将ぶりに怖れをなす敵軍が、秀吉出陣を聞くと城に閉じこもってしまうこ
とが通例となった。降参しても後が怖いので、完全な閉じこもりになる。
かくして秀吉の城攻めは長引いたが、三木城、出石城、鳥取城などを落とし
てゆく。強豪の名高い吉川元春でさえ、秀吉を攻めることにおびえ、戦いを
避け、毛利方の城が落とされて行くことを防げなかった。
しかし、備中高松城を攻めているとき、天正十年、信長が本能寺の変で倒れ
た。秀吉は、サルのように敏捷にとって返し、山崎の戦いでは、輿に乗って
指揮をとり、たびたび、輿の上から敵将に向けて大猿のように跳躍しては叩
き斬った。
清洲会議では、他の家老を脅して幼少の三法師を織田家当主にさせた。マン
トヒヒのように歯をむき出して迫る秀吉に、「鬼柴田」ですら震え上がった
という。
その後、賤ヶ岳合戦で勝利し、小牧の戦いで家康と同盟して東方を委せる体
制の基礎をつくり、紀州攻め、四国攻め、九州攻め、小田原攻めと攻め進み
、天正十八年に全国を統一した。
秀吉は、比類ない富と権力を得たが、野獣の本性はおさえられず、明から天
竺(インド)に至る海外征服を構想するに至った。
かつて、三蔵法師が孫悟空を従えて天竺に向かったが、孫悟空の生まれ変わ
りであるサル、いや秀吉は、三蔵法師の生まれ変わりである三法師=織田秀
信をたてて、再度、天竺に向かうという壮大な夢を描くことになった。秀吉
は、このときのために清洲会議で三法師を推挙し、また天下統一後、秀信に
岐阜城を与えるという特別の厚遇をあたえたのであった。
こうして、秀吉の夢は、実現に向けて動き出す。
ここから波瀾万丈、痛快無比、スケール雄大、血湧き肉踊り、手に汗握る物
語が始まることになる。
・・・・・
………しかし、太閤さんの話は、途中で終わる約束になっている。残念なが
ら、この話しもここで終わらなければならない。
303 :
【!sengoku】:2012/01/02(月) 11:22:57.86 ID:ipzyKd2Z
小田太平記(全十二巻)
関東に覇を唱えた常陸の名門、小田氏治。
河越夜戦で敗北し、小田家は衰退の道を歩みはじめる。
北条・上杉・佐竹ら大大名の草刈場となった関東で、彼と長男の小太郎友治、次男の彦太郎守治らは、小田忍びらによる卓越した情報収集と謀略によって激しい戦国乱世を生き抜いていく。
天下統一を目論む豊臣秀吉の小田原征伐で所領を没収されるも、結城秀康の客分として家名を残すことに成功する。
しかし、大坂の陣で孫の義治に煮え湯を飲まされた幕府と甲賀衆は、小田家取り潰しを策謀する。
唯一の生き残りとなった義治は小田家の存続を図る。
304 :
人間七七四年:2012/01/02(月) 20:27:31.59 ID:A+Kevweo
負けた軍隊は良く学ぶと言いますが、小田氏治って、たしか、深く学びつくした名将ではなかったかとw
期待してます。
305 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 01:49:48.60 ID:KZTC6ULJ
皇民党のほめ殺し並み
306 :
!sengoku:2012/01/05(木) 21:19:12.93 ID:A5aWvQ1+
小田太平記
小田氏治(丹波哲郎)
「小田城ならば、再び奪って見よう。駄目な…いや、駄目すぎる、恐ろしい駄目城じゃ。あの城なら何度でも取り返せる」
「あのような駄目城が、小田の小勢をもって守れましょうや。たわけたことを申される」
「いや、そうでないぞ、摂津守…」
われ知らず、小田氏治は熱していた。
おもいもかけずに、わが口から飛び出した冗談が、知らず氏治の妄想を掻き立て、架空の戦争を脳裏に浮かべつつ、眠っていた戦将の情熱が一度にほとばしったものか。
「わしならば、天下が目を剥くような負け方をして見せよう。小田城も使い様じゃ。こりゃ、おもしろいぞ摂津守」
「戦は、勝つものでござる」
「う、ふふ…」
氏治が、意地の悪い含み笑いをした。
307 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 21:35:20.70 ID:SZTzdM0m
伊達政宗(1567?-1636)
陸奥国米沢城主。後に仙台城主。米沢城主・伊達輝宗の男。官途は左京大夫、後に権中納言。
天正13(1585)年、桧原峠において蘆名氏に敗れる。
天正16(1588)年、大崎平野の戦いで大崎氏に大敗、二年後の奥州仕置により領土の大半を失う。
寛永13(1636)年、没。
308 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 00:51:23.71 ID:mz6g8GAK
直江兼続(1560-1619)
上杉景勝の臣。従五位下・山城守。
関ヶ原の直前・会津遠征のきっかけとなった直江状の作者として知られる名将。
天正6(1578)年の御館の乱では、父・兼豊と共に景勝方に就いた。
その際、景虎支持に回った武田勝頼と交渉を行い、景勝支持に転向させる。
天正10(1582)年の織田信長越後攻めに際しては、信濃口の森長可を撤退させる功を挙げている。
天正11(1583)年・山城守を称する。豊臣政権下においては豊臣の氏を授けられ、
上杉領内に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられるほどの厚遇を受けている。
なお、六大老・五奉行の制度は、徳川家康の権勢に対抗するために、
兼続が石田三成を通して秀吉に献策したものであることが近年の研究により明らかになっている。
秀吉の死後、三成と共謀して家康包囲網を構築、その際に全国の諸大名に対して宛てた檄文が、
後に直江状として世に知られることになる。
関ヶ原合戦の後は米沢城下の整備に力を入れ、米沢藩の藩政の基礎を築いた。
その際に助言を請うた伊達政宗をして「我が故郷をかような程に変えてしまうとは」
と驚嘆せしめたのは有名な話である。
309 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 11:37:13.28 ID:MGxSJbfo
>>308 シエにワースト大河の座を奪われた、粗末先生乙です
310 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 03:36:08.31 ID:e1/Tcf25
311 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 19:38:08.39 ID:IXHeid6w
312 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 15:01:55.28 ID:+As5uVPJ
>>310 武官としての直江山城は凡人以下
評価としては限りなく不可に近いダメ大将
313 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 00:02:27.82 ID:X4t+NDlc
織田信長(1534-1582)
永禄3(1560)年に桶狭間の戦いで今川義元を破る
これ以降、今川家が上総介に任じられていたことから信長はその上にあたる
織田上総守信長と名乗った。
信長はしきたりにとらわれず、周りの目を気にせず突っ走る武将であった。
314 :
人間七七四年:2012/02/24(金) 11:54:33.45 ID:Zs2xzUa5
「小田太平記」続きを。
315 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 21:49:00.34 ID:i0qB6dzt
>>292 簡潔にうまくまとめてるのに、ローマ字タイトルが凡将臭w
316 :
荒らされたので、住人誘致中:2012/03/17(土) 21:38:15.31 ID:AnkonT8h
317 :
人間七七四年:2012/05/13(日) 02:20:40.30 ID:rJmlMTed
戦国武将は、おりあらば領地を奪い勢力拡大に目を光らせる荒々しい者ば
かりと思われているかもしれない。
しかし、なかには、奪われ続けで、だれもが同情してしまうひ弱な武将も
いる。
斎藤道三その人である。
斎藤道三は、その輝かしい出世の経歴について、その前半生を、最近にな
って父親にごっそり奪われてしまった。
そして、道三は、その息子に命を奪われる。
加えて、自分の領地は、娘婿に奪われる。
奪われるだけのみじめな人生であった。
人は、道三のことを、「蝮ににらまれた蛙」のような道三と言った。だ
が、どこかで短縮されて伝わってしまい、蝮の道三と言われている。
道三のことを「戦国の梟雄」と呼ぶものもいるらしい。意味が良く分から
ないが、昼間外に出てこられない、引きこもりのフクロウを、斎藤道三
になぞらえたものらしい。
某大家が、斎藤道三を主人公に「国盗られ物語」を執筆中とも言う。
318 :
人間七七四年:2012/05/14(月) 16:59:49.39 ID:RLlht0cO
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
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319 :
人間七七四年:2012/05/21(月) 17:23:24.30 ID:fKv9fxTc
武田信玄
生来病弱であり、廃嫡の可能性すらあったが自力でその可能性を排除
強豪の今川北条と組み目の前の強豪を順調に平らげる
その途中で宿敵とも呼べる上杉謙信と出会い戦闘、痛み分けで和睦
その後自分を引き摺り下ろそうとする嫡男のたくらみを看破、排除しその後ろ盾となった今川が統治する駿河を侵攻
その際氏真の正室の実家である北条を敵に回し、更に徳川にまで裏切られ反包囲を敷かれるがうまく立ち回り北条と和睦
そうしているうちに運よく強敵である信長の包囲網が敷かれたため参加し、その同盟である徳川を一蹴したが寿命には勝てず天寿を全うした
彼が死ななければ恐らく上洛し、甲斐幕府を開いて居たであろう
320 :
人間七七四年:2012/07/25(水) 02:52:12.95 ID:5sQHwjqZ
上杉謙信
生来柔弱で、女児ではないかとすらいわれたが自力でその可能性を排除
国人衆を支えに越後の支配を固めてゆく。
その途中で宿敵とも呼べる武田信玄と出会い戦闘、痛み分けで和睦
その間、小田原城を攻め、関東管領に就く。
北条、武田を敵に回し、苦しい局面もあったが、うまく立ち回り越相同盟を結ぶも氏康死去で再び北条と対立
そうしているうちに運よく強敵である信長の包囲網が敷かれたため参加し、その北陸方面軍を一蹴したが寿命には勝てず天寿を全うした
彼が死ななければ恐らく上洛し、越後幕府を開いて居たであろう
(盗作、許されよ)
321 :
人間七七四年:2012/07/25(水) 19:43:14.48 ID:NBF0ArdF
似たような死に方だから仕方ない
322 :
人間七七四年:2012/07/29(日) 15:58:48.75 ID:d+NNEFxz
堀久太郎秀政
生来弱体であった(かどうか良く分からない)が自力で可能性を排除
信長の寵童から奉行へと順調に出世する。
その途中で宿敵とも言える長谷川秀一とであうが、特に喧嘩することもなかった。
その後、光秀による稲葉家からの斎藤利三,名和直治引き抜きをめぐる裁定を通知するなど政争にもかかわるが
上手く立ち回り、戦も巧みで「名人久太郎」と呼ばれる。
そうしているうちに、運よく、本能寺の変の際に秀吉の陣にいたため、秀吉の天下取りにつき従い、
北条打倒後は関八州を与えると言われるが寿命には勝てず天寿を全うした。
彼が死ななければ、おそらく、秀吉死後、江戸を拠点に天下をとったのは秀政であっただろう。
(少し苦しくなってきた)
323 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 15:54:15.12 ID:EbS0gtpa
440 :公共放送名無しさん:2012/08/08(水) 15:24:38.82 ID:0U9bTFVM
梵天丸は実の母に右目に根性焼きを入れられた
むかついたので実の弟に根性焼き入れて殺した
秀吉に殺されそうになったので全身に根性焼きいれて土下座して許してもらった
根性焼きだけで改易の波をググり抜いた男
324 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 20:36:56.12 ID:2V5+AA5J
麻生太郎
むろん、屈指の名将である。
姉川の合戦で織田信長と武田信玄が戦ったとき、鉄砲隊で信玄の騎馬軍団を敗退させた。
それも、だれ一人気付かないほど迅速な勝利であった。
そのため、姉川合戦で、信長と信玄とが戦って信玄が負けたことを誰も知らず、歴史に残らないままになった。
麻生太郎は、麻生読みと呼ばれる漢字への独特の造詣があり、文武両道の名将としても名高い。
325 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 01:20:15.91 ID:k4miHs4U
黒田孝高
生来病弱であった。主君が織田信長に臣従する際、代わりに使者となり、長男を人質に差し出す。
中国方面を担当する羽柴秀吉に付き従う。有岡城の戦いでは、謀反を起こした荒木村重の説得に赴くが、捕らえられ幽閉される。
小田原の陣では、城兵助命の労に対する謝礼として、北条氏から『吾妻鏡』を贈られた。
326 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 21:48:27.43 ID:HOWP8sBQ
秀吉の朝鮮出兵においては、総大将の軍監として参加したが、全く軍を統率できず、
病となり出家し、俗世を離れる意味で「如水円清」と号した。
関ヶ原の合戦では東軍に属したが大友氏の残党に悩まされた。その後の島津討伐では、
黒田勢の敗北が予想されたが、それを危惧した家康により和睦交渉が成立し、
孝高は、何とか失態無く無事に戦を終えることができた。
一方、嫡男の長政は関ヶ原において大功を挙げ、52万3,000石の初代藩主の地位を得た。
孝高はこのことを非常に喜び、家康が自ら長政の右手をとって賞した事を聞いた時には、
「その時左手は何をしていた」(即ち、なぜ両手で家康の手を捧げ持ち、感謝の意を表さなかったのか?)
と問い詰める程、感謝したと伝わる。その後は、家臣に嫌われつつも裕福な暮らしを送った。
327 :
人間七七四年:2014/02/15(土) 17:09:45.39 ID:5d/cXIA/
佐村 河内守
佐村河内守をあれこれ貶すものは多い。しかし、そのような毀誉褒貶にさら
されなかった名将など皆無に等しい。
信長、秀吉、信玄、謙信、元就など言うに及ばず、名の知れた将は、また、
攻撃も多い。
非難するものが多いことは、将の知名度を示す有名税にすぎない。
佐村河内守は、安芸の出身である。
この出身地や名前すら疑う者がでている。
しかし、そんなことを言えば、秀吉はどうか、北条早雲、斎藤道三はどうか。
出身や名前への疑問は、なにひとつ、将の価値を傷つけるものではない。
もともと、佐村河内守への非難は、影武者の使用にかかわっている。
しかし、そんなことを言うなら信玄はどうなのか。それどころか、表に出て
いないだけで、多くの将が影武者を使っている。信玄の名が上がるのは、い
ろいろ事情があるにしても、信玄の知名度によるところが大きい。佐村河内
も、また、その知名度によって、影武者があれこれ言われているにすぎない。
佐村河内守は、全聾や腕、目などの不自由を装ったとして、とりわけ非難を
被っている。
しかし、弱点を装って敵を翻弄することは当たり前の政略である。それをあ
れこれ言われるなら元就はどうなのか。それなしに、一代で巨大な毛利家を
つくることなどできなかった。
多くの名将も、あちこちで、自軍の内紛や裏切りを敵に思い込ませるなど
「自虐」演出は当たり前のことであった。
そもそも、「武士のウソを武略と言う」と言うのは、偉大な将、光秀の言葉
である。
名将の中には、領民とのかかわりを「鉢の木」のエピソードで語られる北条
時頼のような者もある。佐村河内守も、また、義手の少女との交流など全国
が知るところとなっている。
佐村河内守は、ここにあげたすべての将に通じている。すなわち名将である。
ところで、佐村河内守が、どのような実績を上げたのか。
その点に限っては、後の研究に待たねばならない。
328 :
人間七七四年:2014/02/15(土) 21:12:24.72 ID:3sm88aV2
斎藤龍興
祖父道三と父義龍の天才的なDNAを持つ大名。
竹中半兵衛、美濃三人衆など、織田の天下取りの基盤となる武将を仕えさせており半兵衛が16人で城をとった理由はあえて自分の無能さを示すために龍興様自ら仕組んだ事である。
永禄4年の森部の戦いでは素晴らしい采配や家臣の頑張りによって勝利した。家臣の忠誠心がある証である。
また、後に織田の進行を止めるため浅井家と同盟を結ぼうとするが信長に先を越されてしまった。だがしかし家督をついだばかりの浅井家領主に同盟を持ちかけるなど人材を見る目があったという事である。
永禄6年に信長を退けておりその有能さがうかがえる。
1567年、稲葉山城が落城するも農民たちの心を伺うために長島へ行く。この時二十歳である。
329 :
人間七七四年:2014/02/15(土) 21:15:06.43 ID:3sm88aV2
長島一向一揆で指揮をするなど農民たちに慕われていた。
その後畿内に移りキリシタンを目指した。
その証拠にルイス・フロイスからキリスト教の宗儀・世界の創造などについて説かれると聴聞した事を逐一書き留め、次に教会へ姿を現した際にはその総べてを明白に、流暢に、一言一句の間違いなく反復することが出来たといい、教会の信者達はとても驚いたそうである。
そのためルイス・フロイスからは「非常に有能で思慮深い」と評価された。
その後、朝倉家の客将となり刀禰坂の戦いで名誉の戦死を遂げ波乱万丈な人生に幕を閉じた。
余談だが87歳まで生きたという説がある。
330 :
人間七七四年:2014/02/16(日) 13:19:58.68 ID:v9gVhPmK
織田信長
東海最大にして最強の今川を撃退
後に戦争に特化された美濃の国を掌握、大国伊勢を占領、
超大国、近江・越前を占領し日本征服まで後一歩まで上り詰めた天才
331 :
人間七七四年:2014/02/16(日) 20:44:17.83 ID:Abw98epI
332 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 07:29:39.64 ID:F7UWKGVO
凡将ではあっても凡人ではなく
天才ではあっても名将ではなかった。
333 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 08:20:11.61 ID:QPaw4MQe
334 :
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335 :
人間七七四年:2014/05/26(月) 22:48:38.24 ID:CmBpNrSh
三好義継
鬼十河こと十河一存の嫡子。養父は三好長慶。
長慶の嫡男・義興が病没し親族から宗家の後継者を選出することになると、聡明であった義継が同じく長慶の甥である三好長治、十河存保、安宅信康らを押し退け選ばれた。
長慶死後、三好三人衆・松永久秀が対立すると常に有利な方を重用し、同時期に頭角を現した織田信長にはいち早く合力する姿勢を見せる等、時勢を読む事に長けていたとされる。
その後足利義昭と織田信長が不仲になると縁故を重んじて幕府方に味方し、信長包囲網の一角を担う。
信長が巻き返し包囲網が弱まると佐久間信盛を総大将とする三好討伐軍が義継の居城・若江を攻囲。
勝ち目無しと判断した義継は妻子を殺し自身も腹を切り壮絶な最期を迎えた。
336 :
人間七七四年:2014/09/17(水) 09:52:06.73 ID:4zVP2eMV
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337 :
人間七七四年:2014/12/30(火) 21:02:37.02 ID:eoT9AW2D
織田信雄
永禄元年(1558年)、尾張国丹羽郡小折(現在の愛知県江南市)の生駒屋敷で織田信長
の次男として生まれる。12歳の時に、父・信長の北畠家攻略戦の和睦条件として、北畠
具房の養嗣子となり伊勢に乗り込む。しかし北畠一族は信雄を侮り織田家に叛旗を密かに
翻していた。この状況を憂いた信雄はわずか19歳にして畠一族の粛清を決意、これを決行
した(三瀬の変)。更に北畠一族の手下と成り下がっていた補佐役・津田一安を粛清、
この英断により、北畠信意(信雄)の勇名は織田家家中に轟き、皆震え上がったという。
その後、数々の戦場で勇名を馳せた信雄は、21歳にして魑魅魍魎の跋扈する伊賀国への第1次
伊賀国攻めの総司令官に自ら就任、見事にこの威力偵察を成功させた。これは信孝の四国攻め
総司令官就任より3年も早く、2人の地位の違いがうかがえる。この時、更に、重臣で伊賀国人に
内通し私腹を肥やしていたと思われる柘植保重の暗殺にも成功している。(但し、この第1次伊賀国
攻めは信長による秘密任務であった為、表向きは叱責処分となった。)その後、第2次伊賀国攻めは
当然の如く成功し、大和・伊賀・伊勢の武将は信雄が完全に掌握したため、織田家の諸将は
その武功に震え上がったという。
本能寺の変に際して信雄は近江国甲賀郡土山まで進軍したため、明智光秀は震え上がり、
主力のほとんどを安土城防衛に振り向けたが信雄はこれを粉砕、主力を失った光秀は
劣勢のまま山崎の戦いに臨み、滅びて行った。
清州会議では信雄は織田家筆頭の地位にあったがあえて沈黙し、織田家当主を三法師、
後見役を信孝に譲り、大器であることを証明して見せた。この威光に織田家家臣は
ひれ伏し、本拠地尾張が信雄に献上され、若くして伊勢、伊賀、尾張100万石の
長老格として遇された。
その後、賤ヶ岳の戦いでは織田信孝を誅殺、小牧長久手の戦いでは重臣の津川義冬・岡田
重孝・浅井長時を誅殺するなど、正義の番人として振る舞い、常人なら躊躇するその英断に
織田家の諸将は「三介殿(信雄)のなさる事よ」と心底震え上がったという。その後も、秀吉の
転封命令には、家臣とその家族の為に断固として断り、自ら領地を天下泰平の為返上したという。
その後は関東、四国、奥州を視察し、その深遠なる見聞についに秀吉もひれ伏し、
三顧の礼で秀吉の師として栄えある御伽衆に迎えられた。
その後、関ヶ原の戦い、大阪の陣では、自身の兵団の圧倒的な戦闘力を抑えきった為、
徳川家康に感謝されその子孫は代々織田家筆頭として恐れ敬われたという。
本能寺の変から大阪夏の陣にかけて、信雄の行動が一つでも間違えば、戦国時代が
終わることは無かっただろう。寛永7年4月30日(1630年6月10日)死去。
人物
・伊勢国河合において、杉を無断で切った家臣を許さず、追っ手を差し向けて誅殺したという話がある。
・伊賀国に難なく侵入し帰還した信雄を、織田信長は非常に警戒し一時は親子の縁を絶とうとしたと伝えられる。
・信雄は家臣の処刑だけでなく能にも秀でていたという。
338 :
人間七七四年:2015/02/03(火) 20:26:21.54 ID:U8EMwrbt
武田晴信(1521-73)
甲斐武田家19代目当主。父信虎を追放して
当主の座を奪うが、自らも嫡男義信と対立する。
彼の後を継いだ四男勝頼の代で武田家は滅亡した。
上杉輝虎(1530−78)
越後守護代・長尾氏の出自だが関東管領上杉氏の名跡を継ぐ。
出奔や一騎駆けなど奇行を繰り返し、後継者を定めなかったため、
彼の急死後、上杉家は滅亡の危機に瀕する。
北条氏康(1515-71)
氏綱の嫡男。父の死後家督を継ぐが、
領内飢饉の責を負って隠居した。
12歳の時に鉄砲の音に驚いたのを恥じて自害しようとした逸話が残る。
339 :
人間七七四年:
豊臣鶴松(1589-1591)
出生前より誰もが次期天下人として認めるほどの知勇兼備の将。
朝鮮の使者を迎えた際は、小便を垂れるという豪胆さを見せつけたという。
齢二歳の大往生であった。