常陸の勇出羽転封と、その後の「秋田の四倒れ」。
戊辰の役における官軍への対応など等。
話題に尽きない佐竹氏を語るスレです。
「退け! 逃げよ。彼奴は人でなし。鬼じゃ!」――大将自ら、真っ先に敵陣の中へと踊り込み、瞬時に7人を斬り捨てる。
漆黒の甲冑が一転して朱に染まるが、それにも飽き足らず、太刀が届く相手を次々と血祭りに上げていく。
「鬼佐竹」「板東太郎」と諸国から怖れられ、伊達・北条と互角に渡り合った常陸の戦国大名、佐竹義重。
その鬼神のような戦場での働きは、下妻の追撃戦で北条軍2万を潰走させ、人取橋の戦いでは奥州の伊達政宗さえも討ち取る寸前にまで追い込んだ。
最盛期には義重が戦場に姿を現すだけで、敵軍は戦わずして退いていくこともしばしばであったという。
清和源氏の流れを組む関東屈指の名家でありながら、常陸の半分にしか勢力が及ばない「半国守護」として、長年屈辱を味わってきた佐竹氏。
だが、義重の登場によって悲願の常陸統一を果たし、絶頂期を迎える!
3 :
公孫参:2006/07/05(水) 16:12:37 ID:wMvsEqxL
公孫参が暑くて布団いらないから参げつと
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 16:29:09 ID:36fFMZ+x
常陸統一は秀吉の命だろ?
知事も市長も民主でもうだめだ
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 23:45:01 ID:tNFYUGXt
秋田行くとき美人を全部連れてった。だから茨城にはブスしかいない。
佐竹の家系図には、どの本を見ても大概母系の平直方が載ってるのはなぜだろう。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 23:47:42 ID:eb/Sb0ld
秋田行くとき美人を全部連れてった。だから茨城にはブスしかいない。
>>7 どんな風に載ってるのか知らないが
始祖義光の祖父にあたるわけだから書かれてても不思議ではないんでは?
佐竹義治あたりの代では瀕死モ――ドだったのに
山入の乱は長引いたからね
でも山入氏が継いだ方が血統的には良かったんじゃないかと思うが…
山入と言えば長倉氏もいい加減しぶといな
あれだけよってたかって攻撃されてよく生き延びたものだ
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 14:12:07 ID:HPo1UOz5
小田原征伐までは中小大名
それで北条や伊達とまともにやり合っていた事が凄い
しかしその実態は佐竹単独ではなくその辺の諸勢力と力を合わせただけ
そもそも伊達は大勢力ではないしな
上杉謙信、武田勝頼、豊臣秀吉などの同盟者がいたことがラッキー
宇都宮とだって先祖代々仲が良かったわけではない
義昭の娘が広綱の室になってから、宇都宮滅亡までずっと連合組んでるけどね
あとはついたり離れたり
ただ政治力は評価すべきと思う、義重
同盟者は求めるもの、しかも実力がないとつづかない
違うところにも書いたが
あと十年小田原の陣が遅かったら…
蘆名の会津は失ったが
いいタイミングではあった
常陸統一のお墨付きももらえたし
まぁコレと言った実績も無く。
ある意味、血筋だけで支配、統治してた家で生き残ったのは立派とも
言えるけどね、けどなんもねーなぁ、この家。
名族で名前は知られてるのに。
支族の武田の方が支配地多いし
まぁ義重が出て良かったね。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 21:53:29 ID:uK8zHoUz
義宣は加藤や福島が騒いだとき、三成救ったぞ。まあ関ヶ原時は情けなかった
が・・・
結果的に54万石の大名になったんだから
とりあえずはヨシじゃないかな
佐竹は古い家だけに話題の宝庫だよ
義光〜義宣間を調べてみるといいよ
至る所に登場してて面白い
佐竹は本当に義重様だけで生き残ったから。
義重が出てこなかったらどうなったものか?
義宣位か?
義昭はいいよ
短命だけどね
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 22:21:17 ID:+qa5ApVC
たまには佐竹雅昭の事も思い出してあげてください。
直系じゃなくて東家の人だけど佐竹義久も評価高いんじゃね?
義重よりも義昭の方が名将かもね
山入騒動で疲弊した佐竹を立て直して
常陸西部から奥州へと勢力拡大したのは義昭だし
長生きしてればもっとスムーズに佐竹も伸びたかもしれない
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 23:55:29 ID:t6CS12sM
>>23 秀吉に天下の三陪臣にならぶほど優遇されてたしね。義宣とは別に知行地もらってたし、東義久。
山入氏との抗争の中で戦国時代に突入したのが辛いな
せっかく足利の下で活躍して勢力を回復しつつあったのに
また奥七郡の平定から初めなくてはならなくなり…
まあ、単に内乱ってだけじゃなく将軍家と鎌倉府の対立の一端だから余計と揉めたわけだが
義昭は伊達輝宗とキャラがかぶるな
けっこうがんばってるのにおいしいとこは全部息子にもってかれてる
義昭の主な事績
・弘治三年(1557) 宇都宮城を追われていた伊勢寿丸を助け、壬生綱房より宇都宮城を回復、
伊勢寿丸元服し広綱となり、義昭の娘を娶る
=この後宇都宮氏と強い同盟が結ばれる
・永禄元年(1558) 小里郷に進攻した岩城重隆と戦い、和議
=この後も岩城氏進攻は義重の多賀郡全域奪還まで続く
・永禄六年(1563) 大関高増とともに那須資胤と戦うも勝敗つかず
・永禄八年(1565) 永禄三年から始めた南郷全域奪還が成る
=義重の奥州への足場になる
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 15:04:58 ID:pBnNat2X
結城合戦後に結城成朝も多賀谷に連れられて佐竹に落ち延びてるしな
結城合戦での結城支援で、佐竹は窮地に陥りそうになる
が、義教の死で難を逃れたと言われる
義昭は府中城で隠居してるのが面白い
義舜も義篤もさあこれからって言うときに若死にしたからな。
義舜は山入一揆を収めて、義篤は部垂の乱を収めて。
義重の代になるまでみんな死ぬのが早いんだよな。
常陸平氏とか小田氏とか山入氏とか江戸氏とか・・・
その辺が片付いたら今度は徳川でつかw
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 15:12:52 ID:WClm7kOt
南常陸に勢力を伸ばした義重は、関東制覇を目指す北条氏と敵対することとなった。
さらに北方においても蘆名盛氏の南下などもあり、義重は窮地に追い込まれはじめる。
義重は必死に抵抗したが、北条軍の猛反攻にあって、不利な状況下においての和睦をせざるを得なくなったw。
この頃になると、奥州では蘆名盛氏が死亡して、代わって独眼竜政宗が勢力を拡大していく。
義重は政宗の勢力拡大を危険視し、畠山救援の名目で蘆名との連合軍を結成し奥州に出陣。
人取橋で開戦するが、相手より圧倒的な兵力を持っていたにも関わらず伊達軍に対し劣勢のまま兵を退くこととなるw。
次いで次男の蘆名義広を蘆名氏の養嗣子として入れることで政宗と対抗しようとしたが、義広は摺上原の戦いにおいて大敗を喫してしまい滅亡。
佐竹は南から北条、北から伊達という二大勢力に挟まれ、滅亡寸前に追い詰められてしまったのだw。
このため家中の反発を買いまくり、義重は子の義宣に家督を譲って隠居せざるを得なくなったのだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060708-00000078-mailo-l05 > 秋田市・朝鮮総連税減廃止:公共的利用なし、市長は見解変えず /秋田
>
> 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)県本部が、固定資産税の減免措置廃止を決めた秋田市に対して不服を申し立てたことを巡り、
> 佐竹敬久市長は7日の記者会見で「申し立てを受け再調査しており、
> その結果を受けて判断する」と述べる一方、「(県本部の)公共的利用はなかった」とする市側の見方を変えるつもりがないことを示した。
> 佐竹市長はまた、北朝鮮のミサイル発射を受け、中田宏横浜市長が同市内の朝鮮総連県本部に対する減免措置廃止を検討していることについて
> 「中田市長の発言もその通り」と話し、「(日本人が北朝鮮で減免措置を申請しても)北朝鮮は減免しないだろう。朝鮮総連の個人には罪はないが、
> 北朝鮮と朝鮮総連は一体だ」と指摘した。【馬場直子】
>
> 7月8日朝刊
> (毎日新聞) - 7月8日12時3分更新
>朝鮮総連の個人には罪はないが
犯罪組織の一員である時点で罪だとも思うが
>>34 義重が家督譲ったのは天正14年
摺上原の2年前なんですが…
あんま強くないよね佐竹って
小田氏とか白河結城氏よりはややマシって程度かな
なんでそんな本当のこと言うの怒るよ
佐竹は負けて支配地増やす特異体質だから
戦でまともに勝った事ないでしょ
那須、宇都宮、江戸には皆殺しにされたんじゃないかってぐらいボロ負けしてるし
結局義宣の代まで佐竹の領地て奥七郡以上ほとんど増えてない
これで北条、芦名、伊達、常陸下野陸奥下総の豪族らと戦ってたのは尋常じゃない
情勢と利害を読んで他国を操る技で生き延びていた
あと攻めるのは弱いけど防衛戦は昔から異常に強い
いっそ関ヶ原で三成が挙兵する前に佐竹が挙兵すりゃ面白かったのに
得意の金砂山から花園に引き込んで防戦したら
家康もいい加減ウンザリしたに違いない
むしろ江戸時代の文化大名のイメージが強いな。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 18:16:07 ID:ZV58xkq1
転封先の秋田が思ったより随分と富んだ土地で驚いたらしいね
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 13:33:25 ID:l4EBgWCY
応仁の乱以来百年以上歴代当主がみな良将ってだけですごいな
本家は上杉、分家が佐竹という事実
>>43 みんなそこそこいい武将なんだが、短命なのがね
だが当主の死で勢力が落ちないのは、南、北、東を筆頭とする家臣が支えているお陰
山入で懲りたんじゃないかな、当主も家臣も、内輪揉めに
>>44 血統的には藤氏勧修寺流だね、竜保丸以降は
>>46 でも源朝臣なんだよね。これは他の大名でも同じ
ちなみに他姓養子が入ることで旧来の姓を変えたのは
頼朝の子阿野氏に藤原から養子が入ったのを最後に途絶えた
阿野は藤朝臣
血統的には、上杉も藤氏→平氏(長尾)→源氏(吉良)となるわけだから
それでも藤氏勧修寺流なわけでしょ
義昭も義重も新羅三郎の後裔であることを誇ってるしね
途中で藤原に替わってる
上杉→佐竹の養子のときは女系でのつながりはあったのかな
佐竹読本によると義俊の母は、義盛の娘源姫になっている
女系では繋がってるよ
どっちみち上杉も源氏の血混ざってるしな
ていうか我が家も佐竹の庶流
平安末期ごろにわかれたのだが我が家の嫡流は途絶えてないから宗家名乗っていいかな?
秋田市長に鼻で笑われるに5文
蜂須賀氏も江戸時代に一時佐竹系になってたね
orz
佐竹は古いだけに一族多いからなぁ
鎌倉時代には既に分家は100家越えてたらしいし…
佐竹の印象。
さすがに長い間生き残って来た家らしく。
時流の見極めと外交がしたたか。
そうさね、名門だけあって実力の程は別として、一方の雄と言うか旗頭に祭り上げられた
周りは担いで悪い言葉でいえば利用し、
佐竹自身は周りの声を逆に利用して、勢力の伸張を図った
勢力の割りに、北に南に西にと常に出て行って、戦っていたんだから、凄いといえば凄い
義宣以前の佐竹はあくまで守護大名だからね
攻め滅ぼした勢力なんてほとんどないし
佐竹自身の領地は少なく
国人達の代表と言う形のままだった
戦で他勢力を併呑というより外交で豪族達を引き込んで勢力を増やしたに過ぎない
だからいつも連合軍で戦うしかなかった
でも無数の混成軍を統率できる手腕は凄い
あんな寄せ集めで大国相手に対等な戦できるんだからな
しかもいつ離反や敵対するか分からない爆弾抱えて
そこらが名門の懐の深さ、でも悪く転ぶと脇の甘さにもなるけどね
結果論からいうと、うまく周囲を糾合出来たと思う
そこらは歴代の力量もあるんでしょう
それからあまり関係はないけど、常陸、それも奥七郡は金の産地なんだよな
好きなように出来るのは常陸北部だけで、乗り切った
すご大名
北条の大軍と度々戦って一進一退の攻防演じてたけど
なんで戦えたのか疑問だったが
沼尻合戦で佐竹連合は一説に8千梃以上もの鉄砲を使用したと言う
さすがに8千はありえないだろうがかなりの数を保有していたものと思われる
常陸北部から南陸奥は金脈があり
豊臣時代に佐竹の八溝金山は全国で4番目の産出量を誇っている
兵力こそ少ないが金の産出により財政に余裕があったから戦えたのかなと思う
佐竹も年貢は安かったそうだが、それも金山の影響かなと
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 23:26:07 ID:TOfKt/Mw
上杉憲政って謙信の所に行く前に、佐竹の所に行って
関東管領職を譲ろうとしたんだよね。断ったけど。
もし関東管領になっていれば、佐竹氏はどうなったと思いますか?
早い時期から北条と全面対決で相当苦しくなったんじゃないか?
おまけに謙信の関東進出がないわけだから
北条は関東制圧に専念できる
謙信介入の無い関東は、北条の草刈場。
関東管領佐竹家は第一目標。
そうそうに滅亡。
さらに言うと、家柄だけで実績、実力がともなわない佐竹の元に
集まる馬鹿はいない。
戦国期佐竹を買いかぶりすぎ。
滅亡せずに本領安堵を保っただけでもかなりの幸運。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 00:15:31 ID:aX43EYgS
>>62 沼尻合戦の連合軍の鉄砲隊は、佐竹だけじゃなく、他の勢力も持ち寄った数だからね。
宮家全体で1000、結城が500、多賀谷が1000、江戸が500、府中とその仲間が1000、
東1000、北300、山尾500、佐竹1000、その他合わせて1000。
カネの出所よりもどこから手に入れたのかが気になる。
関八州古戦録にも佐竹方が花火で遊んでいたとかいう記述があるので、
かなりの鉄砲を保有していたのは事実かもね。
>>63 戦国時代の佐竹がある程度成功していたのは、表面上は北関東や奥州の衆と
ほぼ対等の同盟関係にあったことが理由だと思う。
管領になった場合ある程度の圧力を持って諸勢力を糾合するようになる。
そうなると北条とたいして変わらないので、諸勢力側は佐竹につく利益が薄れる。
もし圧力をかけなかった場合、諸勢力各々の努力に期待するしかないので、
歴史と同じように諸勢力は北条に各個撃破されていく可能性が高い。
上手くやるには、前者と後者のあいだをかなりの努力をして切り抜けるという技が必要だな。
上杉謙信はもろ前者のエクストリームな感じだったので、すごい嫌われたね。
ついでに北条は畿内の細川や三好と違ってかなり隙がない連中なので、
もろ力と力のぶつかり合いになるだろうな。
すると後発で制度的にも耐久力のない佐竹が先に疲弊するだろう。
逆だよ
実績、実力があったから山入一揆であれだけ衰退したにも関わらず
結局佐竹に頼るざるを得なかった
憲政が常陸までわざわざ援助を求めにやってきた時
義昭はまだ二十歳でしかない
その後にも古河公方から宇都宮支援を頼まれている
小勢力ながらも過去の実績のお陰か結構頼りにされている
>>68 それで覆せる程度なら、とっくに、両上杉に潰されてるよ北条家は
佐竹家より強大で管領家としてちゃんと認知されてる上杉家で無理なのに
上杉と争ってた時より、強国になった北条家に
上杉よりすべての面で劣る佐竹家に付く家は稀だろ、
一時的付くことあっても現実に北条の脅威が迫ったら寝返るだろ。
あくまで謙信の後ろ盾があったればこその反北条同盟。
憲政が佐竹に管領職を渡そうとしたのは、関東府下では右京大夫だったことがあるということと、
あと血に上杉が混ざってるということからだと思うんだよね。
まあ関東では北条を除いて最も実力があったということはあるかもしれないけど、
動員数や外交力なんかは小田や里見とどっこいどっこいだよね。タブン。
義昭が断ったのは、一度義人のときに血を捨て、さらに今度は苗字を捨てることになるので、
山入の乱のようなことになるのが恐かったんだと思うけどね。
>>69 いや、実際に佐竹の元に集まったし
上杉との関係も常に良好であったわけでもない
一時は謙信が北条と組んで佐竹を攻める気配すらあったし
当然だが北条との争いが激化したのは謙信死後だしね
元々北条に従うのが嫌な連中が援助求めてきたわけだから
戦況が苦しくなるほど結束するしかない
>>71 だから、そう言う状況つくり出したのは、謙信介入後であって。
謙信の後ろ盾があったから反北条で結束出来たし、謙信が北条と同盟した後も、
それが維持できた。(信頼や現状維持出来てる状態で壊す奴はあまりいない)
じゃ 佐竹の対北条戦における、盟主的活動、戦果、実績教えて?
ごめん熱くなってしまった。
俺は佐竹は好きなんだが
三戦のスレで佐竹好きと言う奴が
佐竹は名門で家格が高いから〜、毛利は新興で成り上がりだから〜
と言ってたから、毛利が大江氏だと言う事もしらんのか?
佐竹が毛利を馬鹿にできるのか?
と思ってね。
>>70は良いこと言ってる
>苗字を捨てると、山入の乱のようなことになるのが恐かったんだと思うけどね
何かありそうな話ではある
管領受けるメリットってそんなになさそうだし
>>73 名門だからエライんじゃないし、ましてや強いって訳でも全くない
ただ名門だから同盟を組み、頼りにされたのは事実と思う
当然越後上杉なしでは、戦略上厳しいし、早々に滅亡したかもしれない
だけどそれは仮の話
事実は生き残り、常陸一国を得たわけだから
運もあるし、それなりの実力も備えていたと見るべき
>>73 そういう類の奴は毛利も佐竹もよく知らん
相手にするだけ無駄
そもそも佐竹は源氏の名流ではあるが
名門と言う点では源氏自体が元々御所に上がる事すら許されない卑賎の身分であったわけだしね
一概に家格の善し悪しは決められないよ
ちなみに北条と佐竹の関係だけど
佐竹と北条が直接戦ったと言う事はあまり無い(領地が隣接してないから
下野、下総、常陸の豪族(簗田氏、多賀谷氏、宇都宮氏、結城氏、佐野氏など
が北条の侵攻を受けて佐竹に援軍要請
そして佐竹が救援に向かって北条と対峙と言うパターンが多い
天正年間はほとんど毎年のように救援に出陣している
盟主とまで言えるかは疑問だが佐竹がかなり頼られていたのは間違いない
佐竹も自分の戦(南陸奥、常陸南部、下野北部あたりの侵攻
をしながら甲斐々々しく救援依頼を受けている
さらに陸奥にまで救援にいってるわけだしね
自分的に佐竹は働き者ってイメージ
むしろ
うっかり権兵衛だな
存保「ゴン!長曽我部の奇襲だ」
権兵衛「いけねぇ、こいつはうっかりしてた」
存保「ゴン!島津の伏兵だ」
権兵衛「いけねぇ、こいつはうっかりしてた」
長倉の強さはガチ
下ネタかよ
>>75 働き者か
言いえて妙だね
佐竹は領地を増やす欲が、それほどない
佐竹がっつーか、義重が消極的で領土を増やそうとしなかった。
義昭と義宣はかなり不動産欲が強い。
旧武田家臣の金山を掘る人らが佐竹にきたとか
お金イパーイになったのか
北条と伊達がいるから防衛に徹したほうがいいと判断したのかも
北条と芦名だろ
伊達稙宗・晴宗父子みたいに養子縁組によって、
周辺大名を佐竹宗家の下に組み込む事で、義重は勢力拡大
を狙ったのかもね。(岩城、芦名。多賀谷はちがうかも)
周辺大名間の、複雑な婚姻関係による離散と集合により、
敵対大名を滅ぼす程の圧倒的な力が、佐竹伊達両家
にはなかった(攻められた側へ他家の援軍が集結…も考慮に入れて)
というのはどうだろう。
また、伊達稙宗・晴宗はそれぞれ、奥州守職、奥州探題
として、周辺大名の内訌に介入していた様だけど、常陸守護
の佐竹家が常陸はさておき、南奥や北関東へ影響力を行使
するのは肩書きだけでは無理で、実力もそれなりにはあった
んだろうね。
伊達稙宗は実元の越後上杉への養子入りに際し、
伊達の精鋭100騎(?)を実元に添えようとしたところ、
伊達宗家の弱体化を危惧した晴宗が反対し、天文の乱が勃発…
となったけど、優秀な家臣を添えないと芦名盛重(義広)みたいに
家中統制もままならないまま敗北しちゃうしねぇ。
伊達稙宗は兵を出して相手が降伏、その後養子縁組のパターンが結構あった
陸奥守護を得る前も武力で色々介入してたし伊達は元から力技が多い感じがするけどな
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 16:30:40 ID:ApS5Zzyr
ワタシは義重が勢力拡大をしなかったのは義重自身が消極的野郎だったからだと思っています。
元亀頃に岩城家をのっとる事が出来る可能性があったのに放置。
小田家領をバッチリバシシと押領することができたのにそれもしない。
天正の中頃伊達家をぶっ飛ばそうと思えば簡単に出来たのに放置して蘆名家滅亡。
ついでに義重の息子達が目下の大名家の養子となったのは、義重妻の策謀だと思っています。
義重は「あ、そう」と鼻をほじっていただけです。
なにこの気違い
伊達厨も忙しいなw
伊達は南北朝時代頃から武力で成り上がった戦闘集団
家柄だけよい佐竹と同列に語られてもな
芦名なんて戦国時代の終わり頃にやっとまともな勢力になった雑魚
室町時代初期頃から大きな勢力だった伊達とは器がちがう
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 21:30:23 ID:v9E1EEv9
伊達厨うざいからw
佐竹の話題は?
佐竹は平安末期には大勢力に成長していた
なんせ平家を放っておいてまで佐竹討伐やったぐらいだから
佐竹の勢力は常陸を越え下総まで及んでおり
平家を追って都に上ってる間に関東奪われるんじゃないかと危惧された
佐竹は終始平家側だったからね
で、頼朝に追われて奥州へ…
鎌倉時代は佐竹暗黒時代
後に臣従したけど領地返して貰えなくて鎌倉で細々暮らす
しかし尊氏の登場で佐竹も従軍し各地で戦功をあげ所領を回復
南北時代も終始足利支援で常陸守護に任命され勢力を伸ばす
が、分家の山入氏も将軍に近従するうちに宗家並の力を持つに至り
跡目争いのこじれから泥沼の内戦化
どさくさに紛れて近隣豪族に領地切り取られるわ
家臣が領地横領するわでまたも衰退
しまいには居城まで無くなる始末で…
しかし何とか山入氏を滅ぼし義舜、義篤、義昭と三代の努力で復活
その後は知っての通り義重と義宣によって苦労の末
豊臣政権下で常陸+αの大大名となる
が、またも家康に奥州へと追われる…
なんか佐竹は将軍と相性悪い
むしろ結城、宇都宮>小山、小田>(超えられない壁)>千葉>那須>>佐竹
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 03:31:15 ID:gNRxAhWh
佐竹は家もそれほどでも無いし、古いだけ。
清和源氏嫡流が新田足利系に移ったから、かなりの外戚。
源氏で名流だがただそれだけ、決して嫡流筋の後継争いにも、
絶対加われないくらい遠い。
山入一揆位の騒乱はどこの家でも古い家はあった時代だしな。
例は武田信虎、今川家もあったし、伊達、島津、織田、さらに追放までされて復活してる長尾、尼子など。
こいつらは佐竹以上の争いしてるしな。
元々源氏の宗家争いが原因で常陸に流れてきたわけだが…
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 12:50:40 ID:+otDdRtC
質問です。
わざわざ、相馬が攻めてきたことがあるみたいですが、疑問があります。
・なぜ岩城領を素通りしてこれたか
・なぜ佐竹を攻撃したか
分かる人います?
まず年代がわからないと
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 05:58:46 ID:zb2GuJkF
>>96 当時の佐竹の当主は義昭から義重への移行期ですが、ちょっと流れを見てみると
・永禄元年(1558)岩城氏が南郷および常陸小里郷侵攻、和議
・永禄三年(1560)七月、白河結城氏ならびに岩城氏の影響下にあった、南郷に佐竹侵攻開始
・永禄五年(1562)春、義重家督を継ぐ
・同年八月、相馬氏常陸侵攻、佐竹に敗北
・永禄八年(1565)佐竹が南郷全域を制圧完了
・同年十一月、義昭死去
つまり岩城氏ならびに相馬氏に侵攻は、佐竹の南郷侵攻に対する反攻、牽制と思われます
当然岩城氏は相馬の進軍を止めることなく、領地を通過させています
岩城侵攻が先だから、反攻ではないですよね・・・
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 21:45:58 ID:FLYp3Vo1
【上杉家の特徴】
・武田に北信濃を奪われ、頼りにしてきた豪族を裏切った上杉は論外
・関東を散々荒らしまくりながら、結局土地を取れなかった上杉は論外
・一時の感情で味方に暴行し、離反された上杉は論外
・小学生でも見抜けるような捏造武勇伝ばかりの上杉は論外
・下野の小豪族佐野家の城を10度攻め、一度も落とせなかった上杉は論外
・関東豪族を裏切ってまで北条と同盟したのに、その後北条にも同盟破棄された上杉は論外
・家臣に反乱を起こされまくった統率力が無い上杉は論外
・後継者の事を何も考えず便所で死亡し、勝手に自滅した上杉は論外
・勢力的に明らかに格下の神保に苦戦しまくった上杉は論外
・織田家に嫉妬し、手取川の戦いを捏造した上杉は論外
・伊達家に対するコンプレックスで松川の戦いを捏造した上杉は論外
・自ら起こした関ヶ原で負け組みになった上杉は論外
・幕末、何も見せ場がなかった上杉は論外
・容姿がキモ過ぎる上杉は論外
http://www.valley.ne.jp/~rinsenji/kenshin.jpg ・肖像画まで捏造した上杉は論外
・大量の基地外信者を生んでしまった上杉は論外
【vsスレ荒らし・上杉信者の特徴】
・根拠もなしに上杉謙信最強と言う
・歴史初心者に上杉家最強と吹き込む
・紛れも無い捏造の松川を事実と言い張る
・上杉を擁護するために平気で捏造をする
・自作自演での印象操作が得意
・たいして知識が無いのに、歴史に詳しいフリをする
・なぜか伊達家の話題を振ってくる
・突っ込んだ質問をされると即逃走
・人格攻撃、コピペが得意
・どこ行っても嫌われ者
・上杉は○○だからダメと言われる→そんなことは無い、とただ単に全否定するだけ
・一度書き込み出すと連続で書き込む(でも時間は絶対に被らない)
人取橋のときあれだけ動因できたのは感心する
まぁ半分政宗の自爆かもしれんが
[佐] [竹] [学]
今日買ってきたよ
佐竹義宣
2〜3日で読んでみる
今読んでるよ
小田原合戦あたり
しかしこれ読んでると、佐竹戦よえ〜と思ってしまう
防衛や追撃には強くて、攻めには弱いのか?
家臣のやる気の問題か?
どの辺が弱いと思ったのか感想を聞かせてくれセニョール
佐竹義重 では強すぎたから・・・
俺も小田原落城まで行ったけど、
城は全く落とせないし(小田原攻め関連の下野除く)、家臣には不信感持ってるし
秀吉来なけりゃ、舞鶴城も危なそうだし・・・
まあ読み物として、ゆっくり読みます
それとふと思ったけど、常陸一国を与えられたのは、会津の埋め合わせかもと
違うだろ。
ただバランス取ろうとしただけだろ?
江戸の家康、会津の氏郷、岩代の政宗、常陸の佐竹で。
ふと思っただけだから、反論しないよ
それになるほどとも思うしね
だけど一つだけ・・・
小田原の陣の段階で、佐竹は奥七郡と南郷程度が所領
この後水戸の江戸、府中の大掾を力攻めで滅ぼし、三十三館主謀殺とつづいて
やっと常陸一国を確保
お墨付きの力が大きいわけで
なぜお墨付きが出たかは別として
「佐竹義宣」では家康への牽制になってるなあ
せっかく産まれた子供は死産だったなんて!
お気の毒に・・・
俺もそこ読みました
現実は義隆(弟岩城貞隆の子)があとを継ぐわけですけどね
>>111 そうかも知れないね
佐竹は戦国大名じゃないから難しいんだよ
純粋な意味での家臣は少なく各勢力のまとめ役という形のままだったから
一門でさえ気が抜けない状態だし
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 00:27:58 ID:qqQgh6kQ
佐竹が主役の仮想戦記てないの?
とりあえず 義宣 完読したよ
義重 はちょっと持ち上げ過ぎてる感があったけど、
まあ心理描写としては、的を射ているような気はした
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 01:21:55 ID:qqQgh6kQ
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 21:45:45 ID:P+ZSnNyV
パリで人肉食った佐竹君っていなかったっけ
それ佐川くんの間違いじゃないか?
>>120 その佐川とかいう人食い男の話
キモイ人食の本で読んだ事ある。
和田昭為は壮絶だなあ
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 02:10:55 ID:tNKiLpuX
戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一
この本の中で、北条氏は秀吉の小田原攻め以前に、すでに死に体と化していたという話です。
その布石は「沼尻合戦」。長篠の戦から9年後。
佐竹氏が8千挺もの鉄砲を動員して、北条氏の騎馬軍とのガチンコ戦。
決着がつかず、佐竹東義久と北条氏照による無条件講和成立。
佐竹側から見れば、とても死に体だなんて見える余裕はなかったろうけどね
特に北のことで手一杯で、北条が静かであっても、不気味に感じたんじゃ
佐竹は秀吉の小田原攻めを、一日千秋で待ってたと思うよ
確かに沼尻では北条が総動員で押し寄せて来て
100日にわたる対戦したけどあまり戦闘はなかったよ
双方とも動くに動けず結局決戦を避けて引き上げた
北条は翌月にまた佐野攻略の為に下野に出兵しているし
佐竹も鹿沼や那須に出兵している
相変わらず戦闘は継続している
引き分けでは佐竹がジリ貧に陥るのみじゃないか?
なにせ北と南の巨大勢力が同盟してて、里見は北条に屈伏、宇都宮は宇都宮城を退去する有様で滅亡寸前。
那須は北条側の立場だし、葦名は伊達政宗に滅ぼされた。
多少粘ったところで、これでは先は見えている
まあそうだな。
でも北条も佐竹も最適というか最善の行動をとったと思うよ。
北条としては無理にいくさで勝ちに行かなくても、各領主の切り崩し工作で北関東を取り込んでいける。
佐竹から見れば、鉄砲を大量に持っていたとしても二倍も三倍もある大軍と決戦をするのはリスクが大きい。
それよりは秀吉との外交を以って北条に圧力をかけていくほうがいい。
結果としては後者に軍配が上がったっつーことだな。
ただ佐竹にとって伊達の伸張は予想外だったろうな。明らかに佐竹がぼんやりしてたせいだけどな。
10倍以上の国力持つ北条に勝てるわけないよw
寄せあつめの連合軍で引き分けにもっていっただけでも奇跡的
その後も小田原征伐まで毎年年内に何度も北に南に西に兵を進めてる
佐竹の体力は異常だ
戦略上そうせざるを得ない状況だんたんじゃ、と思うよ
北でも南でも西でも、
見放すということは、後退、更には自らの衰亡につながるから
130 :
sage:2006/07/27(木) 18:52:51 ID:ahdPOsf3
毎度思うが、よく人集まるな
裏切りとか普通に許してんのに
おっと、こっちだった
ここまでして北条と戦う必要はなかったと思うんだが
佐竹自身は北条と仲悪くないし
一度は北条の傘下にも入ってるのに
佐竹はなぜ北条とことを構えたか?
・謙信の越山
・太田資正の存在
・下妻の多賀谷に対する北条の攻勢
・皆川広照が北条に内通し反逆
・・・・・
どちらかといえば当初は受動的、北条の勢力拡大に対して
周辺の敵対勢力の掃討、味方勢力を守る行動をしているだけ
これが最後まで続き、常陸や下野の死守が狙いかと
小説読んだよ
小山で追撃しなかったことを後悔しまくりだが、
あのとき、義宣は棚倉にいたんだよね?
追撃はどだい無理だったのでは?
義宣は追撃しようなんてまたく思ってなかったと思うよ。
そもそも棚倉に出たのは秀忠が棚倉に居ろといったからなんだよな。
でも義宣は家康に人質を出さなかったし、上杉にも曖昧な態度しかとらなかったんで、
どちらにもにも不審に思われた。上杉も連合軍が攻めてきたら反撃するまでのことで、
追撃しようとまではしてなかったんじゃないかな。結局最上領に出撃するし。
つーか、そもそも上杉と一緒に「追撃する」という選択肢は、初めから三成が決起する事を知っていて、
且つ連合軍が小山から引き返すことを知ってないと不可能な作戦なんだよな。
あぼーん
棚倉在陣自体が、上杉との密約、家康の命令の両面がある
完全に日和見して、両方の顔を立てている状況
(現実には、双方から疑われているんだろうけど)
だから天下の趨勢が固まらない段階で、追撃する気はないと思うよ
というか実際は東軍としてしか動いてないよ
関ヶ原以前から義重、義久は家康に加担する事を約束していたし
ただ、義宣は西軍加担決め込んでいたわけで
棚倉でだいぶ揉めたようだが
義重と重臣はみな東軍加担を主張してたからさすがに義宣も動けず
もう勝手にしろとばかりにふて腐れて水戸に居座り決め込んだ
それでやむなく義久は自分の手勢だけで中仙道へ向かった
義宣は余程面白くなかったらしく戦後も上京するように促されたが無視して
亡くなった正妻の寺建立したりして水戸で気ままに過ごしていた
全国で家康の機嫌伺いに行かなかったのは義宣と島津義弘だけで
江戸の目と鼻の先でそんな態度とってたら家康としても放っておくわけにはいかないわな
佐竹家が一丸となって西軍加担を鮮明にしていたら、
どういう行動がベストだったろうか?
義重や家臣どもに不貞腐れてるとしたら、
義宣は何がしたかったんだろうか?
秋田転封後は結構独裁的にやってるぞ>義宣
義重の方が現実的で、
義宣は律義者という名の、理想家肌なんだろうか?
寄生獣の人の漫画は面白かったな
秋田転封から久保田築城のあたりが描かれてた
>>140 そうだね
秋田転封を好機として
たとえば東義久六万石→東義賢六千石
二百石以上の家臣、二十五名と一門、譜代勢力を減殺
新規登用を行いやすくした
布団の逸話のほのぼのっぷりは異常
俗に奥七郡と言うけど、多珂郡を完全に手中にしたのは、天正十三年(1585)
依上保ですら、天文年間以前は白河氏の影響下にあった
現在の秋田市である
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 15:26:19 ID:2TTdNl/o
義重が尾張にいたならば天下取ってた
義重は天下取るなんて考えもしないと思うが…
領土欲すらほとんどないし
正当な理由のない所には攻めないと言う律義さ
頼朝とか尊氏みたいに周りに担がれない限り天下取りなんてやらないよ
義重が尾張にいても天下は無理。
生まれが遅いし、能力も無い。
義重が天下取るなんて考えもしないと思うのは
俺たちが義重が天下取るなんて考えもしないからだ
まあ、あれだ
義重は鎌倉武士なら一級だな
各領主束ねたり動かしたりするのは巧い
一昔のように源氏の棟梁として動ければ天下取れたかもしれない
戦国時代では無理だな
諸国を攻め潰して切り取るような苛烈さがない
お人好し過ぎて戦国の世じゃ伸びられない人だ
戦国武将ですらない
そうか、4000で20000の北条を打ち破ったとしても、
やはり義重はむりかな
無理だね。
たかが一回の局地戦に勝っただけだろ?
北条滅びたか?その戦果を利用してなんかしたのか?
ただタンに防衛に成功しただけだろ。
佐竹の強さを知らしめたってとこだな
北条も下野せめても佐竹がくればまともに当たろうとしなかった。
実際に天下を取ってないのだから肯定も否定も結局妄想だな
しかし局地戦をたかが一回などと言わないでね
佐竹と北条は何回も戦ってるじゃないか
そもそも互角に戦える事自体がおかしい
国力差ありすぎ
いつも寡兵で混成軍だし
不利な状況でも長期間対峙できるのが佐竹マジック
佐竹は那須と結束すれば無敵だったはずだ
関係が上手くいかなかったのがお互いの不幸だな
那須も三倍の佐竹・宇都宮連合に勝ったりあなどれない
那須は関東東北最強に違いない
北条も伊達も芦名も佐竹相手にだいたい五分だけど
内乱の隙をついて佐竹が大軍集めて何度那須を攻めても全く勝てず
と言うか惨敗
重臣が捕虜になったり義重も本陣まで崩されて命からがら太田まで逃げ帰ったり散々な結果ばかり
宇都宮も那須征伐を行ったが
三百騎の那須勢相手に二千五百騎の宇都宮勢は惨敗
当主の尚綱まで討ち取られる始末で宇都宮氏は衰退した
芦名なんかも負けてるし
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 00:24:11 ID:xowsU892
那須つえー
まあ那須は年がら年中内紛ばっかやってたみたいだが
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 08:02:13 ID:FiOefSaS
那須氏って結構過小評価喰らってるよね?
こんだけすごい活躍してんのに。
関東武士を描いた小説物を読む人が少ないとか
ただ知ってる人が少ないと
それに那須も江戸大名として残れなかったからマイナーなんだと思う(一瞬復活したけど…
まあ、大田原とか大関は残ったが
那須も何百年だか知らんが那須七党で争いが絶えなかったのが痛いな
分裂しててもあれだけの精強さを誇ったのだから
結束したら鬼だったな
>>157 佐竹氏を勉強しようと佐竹の小説から入り始めたんですが、義重って軍神ですねこれは。
北条2万・佐竹5千とかで、普通に野戦してるとこが凄い。
しかも北条逃げまくりw ひょっとして謙信より強いんじゃないんですかねこれ。
光栄のゲームとかでは異様に九州の武将の統率とか高いですけど、義重の実績は負けて
ないと思いますね。
↑どう見てもアンチ佐竹にしか見えないわけだが
佐竹は利根川を越えてくる北条を追い返していただけだ。
相手の当主を討ち取ったという事も無いし、北条が攻め手という構図もひっくり返した事は無い。
北条は毎年大軍を利根川の向こうへ送るだけで勝手に北関東の国人領主が北条方に寝返るので、
無理に戦闘をする必要は無い。北条は退いてもいいし、だからこそ致命的な敗北は無い。
義重は確かに重要な「負けない戦をする」という点ではそれなりではあるものの、最後までそれだけ。
秀吉との外交も佐竹からのものではないし、芦名との和睦も謙信が斡旋したもの。
身も蓋も無い言い方だが、はっきり言えば、結局義重は最後まで何もしなかった。
その義重のケツを拭いたのが義宣。というか義宣はほんの少しだけ義重自身にケツを拭かせたけども。
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 23:34:48 ID:Uc5GLF+b
>>168 ちみちみ、結果論だけ唱えてはニートの域はでられないよ。
その裏に行動があるから、現在評価の動きがあるんじゃないのか?
北条の北進を阻止した事に意味があるんだろ
別に佐竹は好きで北条と戦っていたわけじゃない
10倍ぐらいの国力差があるのに戦になるわけない
他は次々呑み込まれて行く中
佐竹連合は北進を阻止し続ける事によって結果的に危機から脱して更に栄達できたわけだし
因みに義重は秀吉が勝家を賎ヶ岳で破った後
次の天下人は秀吉と見て誼を通じている
元々武田の同盟要請蹴って織田と組んだように中央勢力の動きには敏感だった
上杉の越山の恐怖。
上杉が帰国した後の北条の怖さ。
武田の乱入と。
小大名みんなマゾ化しますね。
でも常陸・下野は最後まで併呑される事も統一される事もなかったね
案外強豪揃い?
常陸は佐竹がフリーになった途端に一瞬で統一されちゃったけど…
174 :
168:2006/08/16(水) 08:03:07 ID:8g6C2ZbZ
誤解があるとあれなので言っとくけど、
>>168は
>>166に対して言った事だよ。
>>171 「北条の北進を阻止した」というのは、認識の差によることだからどうこう言うのは難しいな。
オイラからいわせれば、「佐竹は北条の北進を阻止できていない」。
1573 どうやら宇都宮を離れて北条と仲良くなったらしい皆川を、佐竹が攻める。
1575 下野へ出陣した謙信と義重が喧嘩して、怒った義重が常陸へ帰ってしまったため関宿が陥落する。
1575 佐竹が壬生、皆川を攻める。
1575 小山秀綱が城を北条に開けわたす。
1576 北条が多賀谷を攻める。
1577 北条が下野に出陣して、結城、宇都宮が北条に合力するという屈辱的条件を飲んだ模様。
1578-1583 御館の乱、織田勢の厩橋入城、徳川との同盟という急がしい事情のため、
北条の常総野への出陣は沙汰止み。佐竹は武田と同盟し、上野辺りまで攻める。
1584 真壁、梶原が佐竹の言う事を聞かなくなる。特に梶原は佐竹と直接対決寸前までになる。
1586 佐野に北条氏忠が入嗣。佐竹は壬生攻め。徳川家康が秀吉に屈服する。
以上、北条はどんどんと関東の北東部へ影響力を拡大している。
義重が自分自身の力で(ここ重要)コレをひっくり返した事は一度も無い。
佐竹が54万石になれたのは、関東で小田原から一番遠いところにいたからに過ぎない。
あとこの点では、ある理由からちょっと義重を弁護する気にはなれない。
北条とは10倍以上の兵力が〜なんていうけど、世間で一流の戦国武将扱いを受けているやつらは、
そういう苦しい情況を自分の力でナントカしてきたわけだから。毛利、北条、織田、伊達とかね。
勿論、陶、上杉、今川なんて連中に比べたら北条はかなりスキの無い相手だから難しいだろうけど、
>>166がいうように佐竹にもう一枚チップを上乗せしたいんだったら、
佐竹からのアクションでどうにかした事柄が欲しかった。
ついでに、羽柴には佐竹のほうから音信を通じたという証拠は無いし、
多分これも向こうからの提案を受け入れたに過ぎないと思う。
つまり徳川と北条が組んでしまったので、羽柴はその北条のむこうにいた佐竹や芦名と通じたというわけ。
そんで織田に対しても、また謙信が死んだあとの上杉に対しても、佐竹からのアクションはないと思うよ。
佐竹は織田と組んではいないし、むしろ武田、上杉と同盟を結んで織田、北条に対している。
( ´_ゝ`)
>>174 何を訳の分からない事言ってるんだ
誼を通じるのにどちらからとか関係ないだろ
双方合意じゃないと成り立たないのだから
ちなみに織田と佐竹の親交は天正3年頃から始まったと思われる
翌4年には信長の奏請により義重は常陸介に任じられた
つまり信長から常陸の支配を認められ事になる
秀吉との関係は天正11年に賎ヶ岳での勝利を祝う使者を出した事から始まり
その後も度々使者を送って親交に努めている
177 :
166:2006/08/16(水) 17:46:45 ID:Y5iHhRww
いやあ、別に義重が毛利や信長クラスの覇者クラスなんて話はしてないですけど、
北条の万クラスの大軍を4・5千ほどで、毎度毎度追い返して凄いなーと単純に
思っただけなんですが、そんな大したことないですかね?
ってか義重って領土欲とかあったんですかね。 なんか手伝い戦ばっかやってますけど。
状況が状況だからあんな感じになっちゃったんですかね。でも最盛期は葦名まで取り込んでる
感じですけど、宇都宮とかまでいれると支配圏凄くないですか?
関東3強全盛の中あそこまでいった義重は相当なもんだと思いました。
そうなんですよ南陸奥に出兵しつつ
ほっといたら自分も危ない下野を応援したり
それでも着実に領土を広げたのは凄い。
並みの大名ではないのは確か。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 22:42:57 ID:H/ZNNUpa
>>168 ちみちみ、南奥政策のことを忘れちゃ困るよ。。。
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 01:47:43 ID:MUDJdvZy
七人斬るとか凄くね
大将クラスでこんだけ活躍した人他にいるか?
怪我したことないとかいうのはよく聞くがそれはヘタレの証拠だよな
どっちかつーと
181 :
168:2006/08/17(木) 05:52:56 ID:yURMp55p
また長文になるけどな、なんどもいうが、義重は北条を追い返していただけ。
北条は佐竹と決戦する必要は無いので、時期になれば帰る。ただそれだけだ。
勿論実際に勝利した事はあるが、負けたこともある。ちなみに蘆名には一回もいくさで勝ったことは無い。
そして北条に勝ったというが、じゃあ具体的にどの程度被害を与えたの?って話になると全く心もとない。
つーか何故か戦後はむしろ佐竹のほうが不利な状況になっているんだよ。それは
>>174でも言ったとおり。
北条の侵攻を遅らせた、不利な情況でも頑張った、そうかもね。でもそれが何?ってはなしだ。
だからそれなりの評価をしろっていうのなら、精々「あなたいい人ね」って言う程度の評価にしかならねーな。
島津は戦績においては戦国随一のものがあるが(多分にオハナシも入ってはいるが)、
相手の大名をいくさの最中にブッ殺したりしている。この点で佐竹は全く比較にならない。
それから義重が拡大した領土は下野那須郡のごく一部(おそらく那須に割譲させたもの)と
奥州高野郡の赤館までだ。それ以外に拡大した領土は、少なくとも確認できるものは無い。
そして蘆名や宇都宮を「支配」するなんてことは佐竹にはできない。
蘆名や宇都宮等等は佐竹と仲良くはあっても、滅亡する最期までれっきとした独立した大名だ。
義重の頃の佐竹は確かに多くの北関東南奥州の勢力に頼られたが、結果は次の通り。
蘆名滅亡、二本松滅亡、二階堂滅亡、白河石川は伊達を頼り、簗田滅亡、小山事実上滅亡。
佐竹について領土を保ったのは結城、岩城、宇都宮。多賀谷は分割。太田、梶原、真壁は佐竹家臣に。
よく義重は相手の領土を盗るような事はせず、それが北条や伊達への連合を組む理由になったといわれる。
義重には彼らを守る義務があったわけだが、ほとんど失敗しているね。
コレは義重の無能さと、小領主を盾にして佐竹の所領を守るという卑劣さのどっちをあらわしているんだろうな。
「北条相手に仕方が無いよ」。ウン確かにそうかもね。でも伊達に対しては「仕方なくない」だろ。
伊達に対する対応を見れば、義重があまりにも無為無策であることがよくわかる。
それは最終的に伊達と北条に挟まれて、二進も三進もいかなくなって
羽柴の小田原征伐を懇望するしかなくなったということにもよーくあらわされている。
そして佐竹が羽柴と仲良くなったのも、たまたま北条が徳川と同盟を結んでくれたおかげだ。
北条が甲斐のことで徳川に強硬路線を取っていたら、羽柴=北条、徳川=佐竹という連携になっていた事は
想像に難くない。つまり義重は戦略でイニシアチブも取ろうとせずほとんど何もしなかったが、
運はそれなりに良かった、というだけ。佐竹からのアクション云々というのはそういうことだ。
義昭、義宣は、義重とは違い試行錯誤して自分からどうにかしようとしたけどな。
ただの義重アンチにしか見えんな。
何をそんなにムキになることがあるのだろう
オレは佐竹好きだけど、感覚的には小田原の陣が幸いした説
そりゃ義重は凡将じゃないと思うし、よく踏ん張っていたと思うよ
でも奥羽は南郷以外全てを失ってしまったし、南も少しづつ追い詰められて来ているし
そこに天の助けでしょ、小田原の陣って
結果的に豊臣期に五十四万余石の、大大名になったから、それでいいの、って考え
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 17:51:02 ID:D5buPtHu
いやそれはね伊達政宗がべらぼうに別格な武将だからだよ。
それは信長・毛利レベルなんてもんじゃなく、戦国最強の可能性すらもった武将だから
仕方ないよ。だから雑魚北条が4倍の兵できてもお遊び程度に出て行けば、勝手に
逃げていくし、ちょっとでも手出してきたら皆殺し状態にできるほどの武将だからね。
あの謙信ですら義重の武勇には敬意をあらわしてるしね。伊達に押されたとか言うけど、
政宗も義重も最強クラスの武将なんだよね。おしむらくは人鳥橋あたりで政宗討ち取らなかった
点はもったいないなーと思うけどね。
あと島津出してくるけど、島津の周りが腑抜けの大友じゃなくて上杉・武田・北条
だったら認めるよ。ってかね義重なら家久ができることはできると思うよw
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 21:38:47 ID:hG8Bpfd4
>>168 弱小大名や小名相手に全力で潰すなんて、アホなことはせず、
外交で旨く利用するのも器量が大きいからじゃないと出来ないよ。
その辺は鬼義重の評価に値するところだろうな。
あとは、佐竹家の家柄から単独行動はご法度なのは承知なはずだ。
そこを取り纏めて家を維持していくのは相当の器量じゃなきゃ出来ないな。
まあ、粛正し家の半分をぶっ壊して自派閥派だけとなったら、
周囲の敵味方から信用されないのは目に見えている。
これも鬼義重の器量だろう。。。
秀吉や家康だったら即滅亡
>>185 南郷以外失ったって
元々南郷しかもってないじゃないか…
どうでもいいけど変なのがいっぱい湧いてるな
こんなマイナー大名スレ何がしたいんだ
マイナーだって佐竹家が好きなやつはいるんだ。
ただ愛でたいだけなのにお隣ってだけで伊達が
>>189 >南郷以外
あくまで勢力圏の話、南陸奥政策が白紙に戻ったって話です
補足でちょっと整理
・義昭 永禄八年(1565)南郷回復(いつから失われていたかは?)
・義重、義宣
天正三年(1575)白河城占拠、後の義広が白河義親の養嗣に
天正十二年(1587)義広、蘆名の家督を継ぐ
この段階までに蘆名、白河、二階堂、石川、畠山らが佐竹に従う
別に従わせていたわけじゃないぞ
佐竹の場合は極めて緩い友好関係でしかない
江戸氏ですら従属と言える関係じゃないし
陸奥で佐竹と関係が深かったのは岩城ぐらい
自分で従うと書いて言うのもなんだけど、
従属とかに当てはまらない、佐竹の何ともいえないバランスが好き
>鎌倉御家人 とか
>守護大名 とか の表現が言いえて妙
ヌルくてもいいじゃない
>>193 ある時期まで同等だったわけだし、江戸氏の当主は佐竹の家臣とは思ってないでしょ
せいぜい同盟関係ぐらい、反骨心満々
もともと高野郡南郷は佐竹の所領だった事は無いよ。
ついでに依上保も佐竹宗家の所領だったわけじゃない。
依上保はもとは北条得宗領で、その後は北畠、白河、山入佐竹と支配が変わってる。
山入滅亡後佐竹宗家のものになる。
南郷は佐竹義昭が長尾景虎の小田原征伐の前に手に入れた。
このとき義昭は北郷の赤館まで手に入れようと家臣を督戦しているが、
何故かそれを中止して対小田戦に切り替えている。
佐竹が周辺の比較的大きな領主を統制しようとしなかったのは
義重自身のパーソナリティによるところが大きいと思う。
例えば義昭は謙信を常陸まで呼んで小田城を落とさせた上に小田領を自分の側近に宛がい、
その上自分は常陸府中に築いた城に移って大掾家臣を手足のように使っている。
常陸府中に移ったのは対小田対策でもあるが、同時に大掾を自分の統制下に置き、
且つ江戸をも内包しようとする意思があったということだと思う。
これはまあ義重なら間違いなくやらなかったはずだ。
確かな事はいえないが、義昭はおそらく常陸統一をしようとしていたんじゃないか。
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 01:07:11 ID:XHKsMRxZ
ちなみに、東義久は鹿嶋6万石を拝領する前に、下野宇都宮20万石の拝領が打診されたが、
断ったのはなんとも奥ゆかしいが、直江のようにガメツクいかなかったのがなんとも歯がゆいかぎり。。。
>>195 南郷の地頭職は佐竹じゃなかったっけ?
山入一揆の時に白河氏に奪われたから旧領回復の為に進出したと言う事だったような
南郷は佐竹の旧領か
そこがはっきりしないんだよね
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:30:35 ID:eRL+udP+
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 10:19:54 ID:kdu15zQR
>>195 源平期に頼朝と事を構えたせいで、領地没収されたからなあ・・・。
>>200 佐竹討伐で全領を没収
ただ奥州征伐で活躍し、奥七郡の回復+奥州で数箇所の所領を与えられたという
この数箇所がはっきりしないようだが、依上保、南郷、菊田庄の一部では、といわれている
>>195 そうそう、俺は義昭は義重以上と思ってる
義昭の晩年はもっぱら南部の経営に注力していたね
長生きしてたら彼一代で常陸を統一していたかも知れん
>>195 間違いなくそれはただのオハナシだよ。宇都宮は豊臣政権下でも宇都宮のもの。
1597に宇都宮が改易される前に、佐竹義久領六万石は秀吉によって決定されている。
関が原のあとに家康から宇都宮を与えるといわれたという伝説と間違えてないか?
あと直江兼続が米沢に秀吉から三十万石を貰ったという伝説があって、
これが人口に膾炙してマジデ本当の事のように言われているが、そんな事実はない。
秀吉は安国寺や伊集院、佐竹義久も含めて大大名の「奏者」的立場のものに
十万石弱の所領を与えているが、直江もこれらと変わらない程度の石高だったはずだ。
上杉が米沢三十万石に所領替えされたから「米沢は三十万石」という認識が生まれたんだろうな。
これは佐竹が出羽二十一万石に国替えされたから、前の安東秋田の所領は二十万石と
思われてることとそっくりで、どうやら旧軍のいい加減な戦史歴史研究からきているっぽい。
>>197 いろいろ見てみたが、わしの持ってる史料や書籍からは確認できないのう。
ついでに依上保は北条得宗じゃなくて、北条時綱(誰だコイツ)の所領だった。
オレの本では依上保を領したのは、
後白河法皇→平重盛→中略→北条得宗家→後醍醐天皇(管理は北畠顕家)→白河結城
→佐竹→白河結城になってるね、間違いないかどうかは?だけど
北条時綱って時房の曾孫で、北条時員の子にそういう名前の人いるね
>>202 たしかに三十六歳で亡くなったわりには、大活躍してるからね
短期間に北に南に西に兵を出し、岩城氏の侵攻も防いでるし
長生きしたらどうか?はわからないが
太田から50KM以上離れた最前線で隠居っていうのも面白いな
しかも他家の領内で
義昭って隠居して、大掾貞国の妹を娶ってるんだね
永禄五年(1562)隠居
永禄六年(1563)十二月、大掾慶幹の妹(娘でしょ、多分?)、義昭に嫁ぐため佐竹に向かうが、風雨のため府中に帰る
永禄七年(1564)六月、義昭、府中に居を移す
永禄八年(1565)十一月、義昭死去
この間に小田城を攻略し、北義廉を小田城に入れている
南方に関してやる気満々ですね
>>208 大掾貞国は慶幹の異母弟説もある、この場合両者の妹
貞国が慶幹の子なら違うけどね
ててごとははごと ごとごとと
義舜は佐竹中興の祖(山入の乱治めたから)と言われ、
義昭は結構評価高いけど、
義篤(貞義の子じゃない方、そっちは活躍してるけど)は、ちょっと陰薄いよね
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:55:43 ID:1BqOHFy7
現代で佐竹義重の血をひいてる人っているの?
1回秋田騒動あたりでごたごたしてその後相馬家から佐竹の子が入ってきたのは
わかったんだけど・・・
分家がいっぱいあるからいるんじゃない?
>>211 世間的には義篤と義昭はどっこいどっこいでは
なぜかこのスレでは義昭株が急上昇してるけど
義篤は部垂の乱を鎮圧した事くらいしか印象に残ってないな
義篤は三十九歳で亡くなったわりには、治世は二十八年と長い
義舜が没して家督継いだのが十一歳だから、三家が選ばれ補佐した(南義隣は年少だと思うが)
部垂の乱以外では、依上保と南郷関連かな
義舜が依上保を確保したと言われるのが、永正十年(1513)頃
この確保を確実にし、南郷に進出するために義篤は、
・地域の実力者岡本掬月に采地をあてがい、輩下に組み入れた
・同様に吉成、石井、野内、糸井などにも采地をあてがう
・白河結城に圧力をかけ、東館の砦を破却させた
戦ではない地味な政略で、足場をつくった
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:19:02 ID:1ybG3pk7
ブータレの乱てなに?
部垂(へたれ)の乱
すごく簡単に言うと
義篤の弟佐竹義元が、義篤に反抗し天文九年(1540)三月に討伐されたこと
ちなみに地名の由来は、
川沿いの台地の周 辺 部分が、垂 れ下がるように下降していた→辺垂→部垂とか
部垂って酷い名前だよね
部垂義元の配下は部垂衆て呼ばれているんだが
ヘタレの集まりみたいだ('A`)
>>216 小田政治と一緒に那須親子の争いに介入したりとかもあった気がする
義治みたいに遺伝子残すことでしか活躍できなかったのもいるからな
小田は城二つもあるのに武将が一人なのが死ぬ
>>220 天文八年(1539)、山田城主那須政資と嫡男の烏山城主高資が対立
政資の要請で、佐竹義篤、小田政治、宇都宮尚綱らが烏山城を攻めたが、
損害を受け撤退した
>>221 山入と戦ってるのに、義俊・義治親子と義俊の弟実定が抗争して、親子で追い出され、
実定が死去し、親子で太田城に復帰できたと思ったら、親子対決始めて義治は太田城から追われるし、
義俊が死去して、やっと太田城復帰できたら、久米城を山入方に落とされるし、
義治は晩年には山入と和解、没後十三歳である義舜の後見人はなんと、山入義藤
結果的に義藤の家政壟断、義舜の太田城からの脱出へといくわけで
何もしてないというより、混乱を深めたような
那須に佐竹が介入するのって、那須政資と高資の対立からかな?
>>225 それだけの状況で家を潰しちゃいないからすごいっていやすごいのかな・・・?
>>226 上下那須氏が統一したときに介入してなかったっけ
義舜の頃に、上那須、下那須をともに攻めてるね
詳細には触れないけど、義治の活躍に、
延徳元年(1489)の白河結城をはじめとする、奥州連合軍を多賀郡で撃退した件があるね
朝鮮人は武田は朝鮮人だ!
って言うけど、本家筋の佐竹は朝鮮人だ!
とは言わないね。
知名度。
>>230 それって新羅三郎義光の名に「新羅」が入ってるから、とか言われてるよな。
でも本当は近江国の「新羅明神」で元服したからなんだとか。
醜い民族だね。チョンは。
>>232 韓国では、柔道だか合気道だかは朝鮮由来だそうです。
なんでもこれの開祖が「新羅三郎義光」だからなんだってさ。
そんなたわごとはおくとして、義光にそんな武術にかかわるエピソードなんて
ありましたっけ?
だいたい義光自体が、義家の付属扱いじゃん。
大きく見た日本史の中じゃ。
“八幡”太郎義家は支那系になってしまうな。朝鮮人発想だと。
>>229 中興の祖、義舜の活躍ってどうなんだろう?
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 23:36:43 ID:MNLLJmcY
>>234 付属、ねえ・・・。
京都では義家と義綱を会い争わせ、一方自分は常陸の平家本家吉田家に取り入って、源氏の本流になろうと画策していたとか。
義光長男の義業を義綱の養子にして、一方義清を常陸の武田郷で勢力伸長させたり。
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 21:53:34 ID:tHDpe2l9
金砂山城退却!
by義舜
そういえば近所の人(同姓)が先祖だとか言ってたけどホンマカ否
太田城復活!
by義舜
義盛・義俊あたりが衰退の原因なのかな
義盛が竜保丸の件で、上杉と密接になることと、一族の反発を秤にかけたんだけど、
中期的には大きな読み違いだった、と思うよ
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 22:26:06 ID:NXLJqYEq
義宣には、嫡子(義弘)がいたという家系図が
亀田藩岩城氏の資料館にあったのだが。。。
継室の大寿院との間に一男あったがそれだろうか?
でも2歳で亡くなってるから幼名しかないよな…
義宣は側室が何人かいたが子は全くなかったのかな
男子ができなかっただけで女子はいたのだろうか
前に読んだ本に信道とか言う人物が義宣の子と書かれていたが一体何者だ…
どうもよくわからない
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 23:23:42 ID:S4ajsSEI
もし義宣の男児があったなら、義重、義宣、または一族の思慮深い配慮から、
お家を羽柴色へ染めさせないため、表舞台へださなかったことも考えられるなぁ。。。
義重の時代、和田氏も車氏との確執から一時出奔し、白川氏を頼った後、
一族を義重に粛清されたが、白川氏が義廣を嫡子に迎えたあと、
義重に許されて太田に赴いている。
しかし、一族を義重に粛清されたとあるが実は末子が生存していて、
後で和田家を継いでいる。
当時は流行り病もあったことだし、実は和田氏一族が流行り病で一族が瀕死の状態だったところへ、
義重が謀略を働かせ、和田氏を出奔したことにして、白川氏へスパイとして送りこんだなんてことを
思ったりする。。。
大河で石田佐竹のエピソードがヌルーされた件について語ろうぜ
義宣のかっこよさは関ヶ原後だと思ってる俺にとってはこの程度の事は想定の範囲内。
やっぱ「佐竹三代」が欲しいな。
義昭、義重、義宣を1年かけて放送。
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 22:25:34 ID:jjpXPptP
>>244 和田のその末の子が生きていたという話は何に書いてあったのかのー。
史料か書籍を教えてください。
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 07:20:04 ID:E/1FtR2l
鬼義重、ばんざーい。
さて義舜の活躍
山入義藤を滅ぼして百年ぶりに、家内の乱を押さえる
家法二十三ヶ条を定める
依上保を白河結城から奪い、常陸久慈郡に編入
こんなとこ
他にかるかな?
佐竹高校・・・
>>250 北家とか東家とか作ったのは義治の代だっけ
宇留野氏に義元を養子として押し付けたとかかな
>>252 北家 義治の四男義信が利員龍貝城、後に久米城に入る、太田の北のため北殿
東家 義治の五男義政が東を称する
南家 義舜の四男義倭が戸村に城館を構える、太田の南のため南殿
と家を構えた年代がわからないのでなんとも言えないけど、義治+義舜の合作ぽいと思う
>宇留野氏に義元を・・・
・・・部垂・・・
254 :
244:2006/11/05(日) 18:51:50 ID:rDssU7gw
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 19:48:33 ID:NZJcBw+M
>>251 通常は「常陸太田高校」の命名のはず。何ゆえ旧名の「佐竹」を冠したのやら。
そういえば、大阪府吹田市の千里ニュータウンに「佐竹台」という地名がある。
どういう由来で命名されたのか、ネットで調べてもわからない。
佐竹と太田は別なんです
佐竹高校が建っているのは太田市街から少し離れた旧佐竹村なので地名からとって佐竹高校になりました
佐竹氏の発祥地である馬坂城があるのもこの辺りで
現在でも佐竹と言う地区名は残っています
後に町村合併で太田市に組み込まれました
ちなみに太田市内の太田城跡には太田第一高校が、向かい側の山には太田第二高校があります
水戸城は学校ばかりだけど、
舞鶴城は高校や小学校だけじゃなく、街も含まれるよね
どちらも観光ようの整備はなされていないけど
水戸城は水戸一高になってる本丸は勝手に入れる
旧県庁があった大手門の前には大規模な空掘があり
左手には小規模な掘と土塁があり一応城跡を偲ばせている
太田城は跡形もないね
掘や土塁の跡もない事もないのだが言われなければ絶対に気がつかない
まあ、完全に消滅したと考えていい
わざわざ遠方から見にくるのはやめたほうがいいよw
水戸藩が熱心に佐竹色の払拭をした為もあり茨城に佐竹を偲ばせるものは皆無に等しいね
県南には大規模城郭が結構いい感じに残っているのにな
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 21:07:10 ID:7fOM8NRV
東幹久は関係あるな
>>259 「幹」の字が、真壁氏の偏諱に由来するならな。
幹といえば大掾だべさ
>>262 いろんな意味で駄目人間だな、お前
お前みたいな最低なクズ野郎は滅多にいない
俺、佐竹のOBなんだが会社の人にその事件言われけど
別に俺に言われても知らんがな…
佐竹氏の現当主がホームページ作ってるぞ。
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 19:22:39 ID:7xua83BQ
そうよ佐竹のセクシーボム
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 11:16:59 ID:CPv2o9Ke
大田城が跡形もないのは、江戸時代初期の一国一城令によって破却されたためでは?
あと、西金砂城って今でも跡は残っているかな?
佐竹が篭城戦やるときのお定まりの舞台なんだが。
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 22:17:08 ID:29szxK1u
「47都道府県うんちく事典」なる新書を見た。
何でも出羽の米生産量は、江戸初期の慶長年間では32万石程度が、明治初年は150万石弱になっていたとか。
山形も出羽の一部とはいえ・・・。資料の読み違えでもしたか?
はっきりいって、トンでも雄藩レベルだ。
庄内も有数の米どころだからね
だとしてもそれだけ実高が増えると言うことは、新田開発がうまくいったってことかな
なんで久保田藩は城3つも許可されたんだろうね
伊達や黒田みたいな東軍側の大藩はまだわかるが
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 20:11:05 ID:wcLCJwbk
西軍でもないし
家康も減封も転封もなく、不問にしようとしたとかしないとか
義宣の実直さに好感もってたから、転封させるけど城3つは許されたのかも
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 22:20:40 ID:mchwwOaH
逆に考える。
久保田城が質素なつくりになっているのは、城の建築自体結構な出費を余儀なくされるため、なるべく格安に仕上げるため。
大名行列も、格式という形で大名に出費を余儀なくさせ、叛乱のための軍事費蓄積を阻む狙いもあったとかと聞いた。
あえて城3つ許すことで、城の維持費を嵩ませ秋田が雄藩化するのを防ぐ意図も合ったのでは?
>>270 大まかに、
前田150万石
伊達110万石
毛利101万石
池田90万石
まぁ全国の雄藩はこのクラス
出羽=秋田山形のほぼ全域。
佐竹単独じゃなくて今の秋田山形両県域で150万石だったという事ね。
江戸時代の秋田県域は佐竹20万石+岩城・六郷など6万石+αだけど
1660年代には新田開発もあって佐竹領は32万石の実高があった。
この数字を元に表高を20万石から32万石に上げて欲しいと言ったが断られてる。
実高は最大で40万石くらいのはず。
久保田藩は結構実高多いんだね
それと引き換え佐竹の故郷常陸は・・・
佐竹の54万余は実高なんだろうけどね
つまり最上の遺領を継いだ庄内藩最強ということですね。
三城は対露政策上、海防掛の必要性からではなかろうか
石高だけじゃなく土崎湊による交易もあるからな>久保田藩
>>276 常陸の実高は約91万2600石だよ
水戸徳川が荒廃させてもこれだけあったんだから
まともな政治をしてれば200万石ぐらいはいったかもしれない
今も米の収穫量は全国3位だしね
その割に水戸藩は30万石前後でしょ、実高
実高は20万石弱と思われる
義重時代の佐竹領がだいたい水戸藩領と同じぐらいで20万石程度だったから
更に水戸藩時代は人口が激減して田畠が荒廃したから20万石を下回っていた可能性が高い
元々常陸は水戸より南が下総まで広がる広大な関東平野で
水戸以北は山岳地帯であり平地が少なく稲作には適しない
常陸の石高は南半分、つまり水戸藩領以外の所が大半を占めている
それなのに佐竹が、比較的強い勢力をはれたのが謎といえば謎
金山の影響もあるでしょうが、他の要因はなんだろう?
家柄
佐竹は一族や友好豪族総動員で五〜六千程度だから支配地域は二十万石ぐらいが妥当
宗家は十万石ぐらいと思われる
この国力で北条や伊達のような大国と戦えたのは
周辺国の利害をうまく操る事が出来たことによるだろう
佐竹単独による合戦は殆どない
戦闘での有利性については武装によるものだろう
八溝金山は豊臣時代に全国四位の産出量だった
義重は早くから鉄砲に興味を持ち
技師や商人を招いて産出する金の大半を鉄砲にかけていた
常陸国誌によると天正期までには五千挺もの鉄砲を購入したとある
北条が大挙して押し寄せた沼尻合戦で佐竹連合は八千六百挺の鉄砲を使ったと言われるが
誇張を差し引いても膨大な量を保有していたと見られる
火薬が貴重だったこの頃に陣中で花火を打ち上げてたぐらいだし
野戦で大軍を覆すのは至難の業だよ
毎回奇策が当たるなんて事はありえないし
豊富な火力で防御陣を構築し対峙していたんじゃないだろうか
睨み合いで膠着状態にし和議に持ち込むパターンが多かったし
秀吉に臣従する頃は
義宣 11万石(うち蔵入分1万石)
義重 1万石
東義久 1万石
与力 12万8800石
合計 25万5800石(数字合わないが)
1595年の朱印状だと
義宣 軍役15万石+無役10万石
義重 無役5万石
東義久 軍役5万石+無役1万石
与力 16万8800石
その他 1万7000石?
合計 54万5800石
ぐぐったらこういう数字が出てきた。
佐竹は水戸君にいっぱい(ry
>>281 農業史を知っているわけではないから確かな事はいえんが、
どうも近世以前の農業は平地よりも丘や山でのほうがしやすかったみたいなんだよな。
関東平野は江戸湾に注ぐ利根川と太平洋に注ぐ常陸河の流域で
江戸以前は平野中央以外もかなりの部分が湿地帯だったわけだが、
そういう場所に田んぼを作れたとは全く思えないんだな。
江戸時代の治水で利根川が東選され、また流れの固定で土地が乾いて、
関東東部に大きな平地が出来(下館あたりから印旛沼あたりまで)、
かつ近代以降の開墾推進と用水路の敷設で、
水がとどきにくい平地にもやっと田んぼが作れるようになったんじゃないかと。
じゃあそれ以前はどうなのかというと、山をチョロチョロと下ってくる清水を使って、
その左右に田んぼを配置するようにして(つまり棚田のように)していたんじゃないか。
もちろん平地を流れる河川のそばにも田んぼがあったのは間違いないが、
それは夏季の水の氾濫によって失われる可能性も非常に多かった。
いうまでもなく、河川の氾濫で水が押し寄せるようなところには人が村落を営むようなことも
ほとんど有り得ないので、当然田んぼもそれなりにしかない。
例えば、頼朝の時代に彼を支援した連中の多くが丘の領主(北条、三浦、上総、千葉)だったことも、
以上のことを裏付けているんじゃないかと思う。
当然佐竹も丘の領主だったわけで、つまりは近世以前の農業的には比較的恵まれていたと思う。
>>287 佐竹領の場合は八溝連峰の麓で本当の山
奥七郡の耕地状況を見ると太田・久米・那珂南部の一部以外は
畑地が7割以上を占めています
多珂、依上、賀美、余戸、美和、広嶋など北部や西部は8割〜9割が畑地で田はほとんど作る事ができなかった
因みにこれは比較的農業技術が発展した江戸期の状況なので
戦国時代は更に畑地の割合が高かったと思われる
>>285 朱印状の詳しい内約あったので補足しときます
拾五万石 此内五万石御加増 義宣
拾万石 無役此内九万石御加増内義宣蔵入
五万石 無役此内四万石御加増 義重
六万石 此内壱万石無役五万石御加増 佐竹中務大夫(義久)
拾六万八千八百石 此内四万石御加増与力家来
壱万石 太閤様御蔵入
壱千石 佐竹中務御代官徳分被下
参千石 石田治部少輔(三成)
参千石 増田右衛門尉(長盛)
都合五拾四万五千八百石
ちなみに佐竹領では金山以外の副収入として和紙があげられる
いわゆる「鳥の子紙」というブランドで古くから知られていた
佐竹時代も「佐竹大方紙」「佐竹杉原紙」と言う名称で産出し結構な収入を得ていたようだ
山間部では和紙を年貢に取り入れていた
292 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/15(金) 18:42:43 ID:j/t//p9A
>>284 鉄砲に興味を持ったきっかけは何だろう?
信長の長篠の戦いという答えが返ってきそうだが、どうも近年の研究では、長篠戦は通常の弓矢や槍の合戦と大差ないみたい。
長篠鉄砲合戦は江戸時代の与太話が元みたいだ。
なにしろ後年、鉄砲忍者雑賀衆に信長は散々な目に合わされているからね。
与太話の(名前難しい)が沼尻合戦をヒントに長篠合戦を脚色したのでは?というのが漏れの考え。
佐竹(正確には真壁だが)は、長篠の戦いの十年近く前、手這坂の戦いで、
小田勢相手に少数だが鉄砲を運用した戦いをしている。
興味を持ったとすれば、この戦いの前後だと思うよ。
あと沼尻合戦は、佐竹方は多数の鉄砲を用意したものの、睨み合いばかりだったので、
長篠の戦いのヒントにはなりにくいように思える。
鉄砲商人や職人達は全国的に歩いていたようだから
どの大名も鉄砲の有用性には気がついていた
でも高価過ぎて揃えられなかっただけだと思う
佐竹は金山開発で現金収入が豊富な上に所帯が小さいから存分につぎこめたのかと
下野、常陸南部、下総、陸奥の勢力の援軍要請にいちいち応えて
一族や協力国人達の離反を鎮圧したり
上杉の関東遠征に参加し
更に北条や伊達の大規模な進攻を迎え撃ったり
とにかく毎年休みなく戦を強いられている
佐竹の動員数では毎回何百も被害だしてたら人がいなくなってしまうよ
だから鉄砲に目を付けたのではないだろうか
義重の合戦を見ると無理押しする事が少ない
勝っても負けても割と被害少ないし
鉄砲を上手く運用して被害軽減を図っていたのではないだろうか
見入りの少ない援軍で甚大な被害だしちゃやってられないしね
たしかに動員数5〜6千であれだけ頻繁に戦闘して
スタミナが尽きないのは尋常じゃないなあ…
義昭の早過ぎる死が痛かったな
あと10年でも生き続ければ北条の北関東進攻前に常陸を手中に収めて
佐竹も戦国大名化し飛躍できたかもしれない
297 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/20(水) 18:33:09 ID:oPBJg07E
鉄砲の段撃ちを考案したのは、紀州雑賀集の鈴木孫市らしい。
それが石山合戦で駆使され、その記録が当時信長と親交のあった義重の元へ新書とともに届けられた。
石山合戦における鉄砲の威力を知った義重は、佐竹の金山を総動員して、鉄砲の購入に走らせた。
・・・これが一番納得のいく、佐竹の鉄砲勢結成の真相かな?
義宣公は、鉄砲の火薬調合法についても一書を著していたらしいし、佐竹氏って関東ではかなり詳しく鉄砲研究していたんじゃまいか?
火薬調合法だけど、日本じゃ火薬に必要な硝石が取れないらしいから、硝石なしか、節約する方法か、オリジナルで硝石取り出す研究をしていたんじゃ・・・。
常陸・下総あたりの勢力はやたら鉄砲に熱心だったようだ
水谷や真壁もかなり早い時期から使用していた記録がある
多賀谷氏も3千程度の兵力で千挺保有していた
他の勢力も兵数に対する割合が非常に高い
中央と親密にしていたから上方から情報仕入れていたのだろうか
入手先や金策もどうしていたのか気になるところだ
299 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 21:40:43 ID:JhlNq//n
やはり佐竹は上杉と連合して宇都宮の結城秀康を倒し、江戸に攻め入るべきであった。
戦後、家康は佐竹の観望反復を咎め、出羽久保田に18万石格で転封を命じた。
常陸みたいな目と鼻の先に外様を置くわけなかろう
>>299 佐竹が転封になったのは関ヶ原の事が原因ではないよ
家康の命令で赤館まで進出し
家康の命令で関東に引き返した
また、義重は義久を秀忠軍に合流させた
東軍側として動いた事実があるから家康も何も言えなかった
302 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/25(月) 23:22:40 ID:Kpg0WWHD
命じたのは家康だが、強行に推したのは有力配下の本多正純。
家康を強行に説き伏せ、出羽転封をしかけた。
ただ、その強引さが仇となり、後年宇都宮吊り天井事件を仕掛けられ、佐竹預かりとなり、家光からは「正純の墓を作ることならず」と厳命されてしまった。
303 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/27(水) 09:21:13 ID:wmL1Mu5n
義広が会津失わず、宇都宮も残ってればな
強力な佐竹与党だったのにな
304 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/27(水) 10:33:10 ID:wmL1Mu5n
後世の歴史にたいした影響ないか
大老になれば少しは違うかな?
そうでなけりゃ上杉征伐が越後になるだけか
それ以前にありえん
宇都宮と蘆名一党が与力になったら200万石ぐらいになっちまう
そこまで優遇するほどの関係じゃないだろ
200万石はないなあ。せいぜい120いくかいかないかってところだな。
ただその場合、確実に羽柴の身内か近い関係者が蘆名の養子にさせられる。
そんで蒲生は東海地方に国替えになるかな。
307 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 00:22:25 ID:vKxPyTmn
浅野め!
いやしくも名門の我らに土民の血は流させねーよ!
返す気があるなら返したでしょ
>>303 佐竹・葦名・宇都宮の三国同盟か。ロマンはあるね。
しかし仮想敵の存在や、血縁ってだけで強固な同盟が築けるなら、
伊達家なんかは周囲に敵が無くなってしまうw
稙宗の養子押しつけはもの凄かったし。
手広く押し付けようとしすぎて息子と対立してしまった変わった人。
でもこの3人は仲良いいから大丈夫マイフレンド
天正期あたりの佐竹は鬼気迫る感じだな
南北西敵だらけ
北進して蘆名・白河・相馬・田村・岩城あたりと戦えば北条が北上してきて
常陸南部・下野の諸勢力は北条に加担してしまう
引き返して南進すれば今度は陸奥の勢力が南下してくる
那須氏との領土争いも絶えず
江戸氏・大掾氏・真壁氏・梶原氏など佐竹の旗下にある勢力も状況次第で叛旗を翻し油断できない
天正六年には謙信から越山する旨の書状が来て
佐竹と結城がお互い連携して謙信の関東進出に協力するように求められた
義重は陸奥に出陣していたがこれを受けた
しかし謙信の越山は行われず北条は北進し結城を攻撃し危機に陥る
常陸南部や下野の勢力も北条に属し宇都宮氏まで危険を感じて北条に加担する有様
義重も陸奥で白河や蘆名に敗れ赤館まで撤退
更に北条は佐竹を追い詰めようと蘆名・田村・白河などと結び
連携して佐竹を挟撃せんとした為四面楚歌になる
義重は兵を別け陸奥方面を防衛しつつ
宇都宮や那須を説得し味方に引き入れ下野の北条勢力を攻撃し
転じて南下し結城救出に赴き北条の北進を食い止める
と言った具合が毎年続く
数年経つと更に伊達の侵攻も相次ぎ
少ない兵力で南北を行ったり来たり、又は兵を数手に分けて同時に戦い
外交を駆使して離反した勢力を引き戻したり討伐したり
新たに同盟勢力を増やしたりと全く絶え間無しに動き続けている
佐竹の活動を見てると疲れてくるよ
確かに鬼だなこれは
義重は戦より外交に見るべき点が多いな
313 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 00:08:26 ID:HHMNuQeZ
>>312 最新鋭の鉄砲と鉄砲戦術がなかったら、とっくに滅亡していたな。
兵隊自身も農民からの徴募だから、訓練も満足にできない。
前線で働かせることも出来ない。下手に死人出したら帰農後の農作業→徴税→軍資金&兵糧に影響してくる。
手っ取り早く鉄砲与えて強化して、後方支援に専念させるのが一番の手。
雑賀衆の鉄砲戦術を積極的に導入しないと、やってられない。
314 :
伊達政宗:2007/01/01(月) 14:24:41 ID:ZwkYWH9D
佐竹ども!今年もヨロシクな
315 :
伊達足軽:2007/01/02(火) 20:46:12 ID:VzpTuKCn
北条討伐が後5年遅かったら確実に佐竹家は伊達政宗公!に滅ぼされていたな
316 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 20:58:42 ID:CW+dFvIE
伊達とは、限らんだろ?北条だって北進しようとしてたし。
むしろ北条討伐がなかったらどうやって佐竹止めたのよ
>>315 逆だな。不慣れな関東に引き込まれて政宗が戦死して、伊達家は最上か佐竹の傀儡になって史実の葛西・大崎・田村・
石川みたいに領地を失いどっちかの家臣として細々と残ったと思うよ。
佐竹なんぞとっくに潰されてそうだが。
まあそうだな。蘆名滅亡の時点で見れば、
佐竹が伊達や北条を巻き返すことはほぼ有りえないな。
ただ北条が佐竹を屈服させた場合、北条は佐竹を潰さない、というか潰せないだろう。
伊達は微妙だが、義重も義宣もいるのでこれもかなり難しいだろうな。
おそらく佐竹は名簿とか起請文を提出して、北条や伊達に従ったんじゃないかな。
むしろ結城氏などと結び優勢に国内の北条勢力の駆逐を進めていたのだが
古戦録にも
切捕所分、年月に加倍し武威もまた日を追い輝き出て末頼もしく見えにける
と記されている
南部は佐竹と結んだ多賀谷氏が急成長し切取りを進め
義宣は奥州に矛先を変えて会津進攻を始めようとしていた
関東での北条派と上杉派(佐竹派)の争いは一方的に北条の優勢で進んでいる。
1574 関宿落城 1575 小山落城 1577 結城宇都宮が北条に逆らわないという講和。
1580頃 佐竹は武田と結ぶが、あまり効果はなく武田滅亡。
1582 武田のあとは織田が東国の仕置きを始めるが、信長死亡で織田が
東国から撤退したため、北条は甲斐信濃へ攻め込む。北条は徳川と抗争ののち講和。
1584 ここで東国は徳川北条派と羽柴佐竹派の対立となるが、
以後、中央を握った羽柴の惣無事令で北条の北進は極めて遅滞する。
1585 一方奥州でも伊達派と佐竹派の抗争となり、1585-1589までの奥州領主群は
佐竹を旗頭とする秩序体制から伊達を旗頭とする秩序体制へと移行し始める。
もっともこれは伊達が惣無事令を無視する形で行われたわけだけど。
こうしてみると関東と奥州で佐竹の影響力が少しづつ圧迫されていた事がわかると思う。
惣無事令がなかったら、佐竹は北条の北進も受けて
かなりやばい状況になっていたんじゃないかな。
ついでに多賀谷は微妙やね。佐竹は多賀谷の押領を黙認せざるを得なかったし、
北条も旧小田に関しては知らないふりで(南方からは常陸川を渡らなければならないので、
結城口からの進入を企図していたみたいだけど)、結城佐竹を抑えることで、
多賀谷も抑えることが出来ると思っていたんじゃないかな。
あるいは北条が多賀谷の押領を認めてしまえば、多賀谷は佐竹派から北条派に
鞍替えというのは十分にありえる話だからな。
ついでだから、関東の面白い情勢について補足的に書いてしまおうかな。
所謂関東管領というのは実質的には北条が継いでいたわけだけど、
ここで長尾が山内から直接苗字をもらう事で、名目上の管領が誕生する事になる。
これで関東には二つの管領が存在するようになるが、実はもうひとつ似たようなのがあった。
鎌倉府は山内と抗争していたとき、山内を牽制するためもうひとつ管領のようなものを作り出した。
それは鎌倉府独自の「管領」で、室町の管領である細川右京大夫家に準えて、
「右京大夫」の官位を勝手に名乗らせる事で、鎌倉府の私的な「管領」としたんだな。
始めは岩松が、次は小山が、そして最後に佐竹義人が鎌倉府の「右京大夫」となった。
本来ならばこれは鎌倉府の勝手な創造であって、さらに一代限りといっていいものだったが、
どうも佐竹は義人以後も関東の「右京大夫」を自認していたらしい。
山内憲政が佐竹義昭に管領職を譲ろうとしたのも、血脈もあるだろうが、
この佐竹「右京大夫」という名乗りも関係しているのは疑いない。
そんでその子供の義重だが、義重は自分が出した書状とかに官位を書いていないんだな。
1575に常陸介をもらったあとも、どうも「佐竹常陸介」と書いていた形跡がない。
これは実質室町執権の織田を認めなかったという気持ちの現れであると同時に
やっぱり関東の「右京大夫」という気分が強かったんじゃないかと思う。
佐竹が関東奥州の旗頭となれたのも、この「右京大夫」があったからなんだろう。
ちなみに羽柴政権の後、義宣は正式に朝廷から右京大夫を任官する。
この頃には「管領は右京大夫」という室町体制での秩序構成はなくなっているわけだけど、
佐竹が「右京大夫」であると思っていたにせよ、他の誰かが気を利かせたにせよ、
なかなか面白い歴史が続いていくもんだな。
>>322 情勢は目まぐるしく変化してるから一概には言えないよ
小山氏は国を追われ佐竹の元に逃れたが信長の口添えを得て所領を回復している(本能寺後はまた北条の支配下
1577年に宇都宮・結城が北条の支配下に入ったが
翌1578年には再び佐竹に従って北条と対峙している
更に北条方だった那須・小田・壬生・皆川などを味方に付けている
武田とは謙信死後に連携して北条に当たっていたが
織田とも1570年代初頭から親交があり織田と武田の対立以後は武田との同盟は破棄して織田との連携を図る
また徳川とも交流があり、徳川と北条が甲信で対立した際には徳川と結び上野に出兵した
同時に賎ヶ岳以後豊臣と親交を図り豊臣と徳川が対立した際には豊臣方として北条と対峙し
徳川北条伊達×豊臣佐竹上杉
と言う図式が形成されてゆく
ちなみに多賀谷氏は初め上杉、次いで佐竹の支援を受けて結城からの独立を果たした
1580年には義宣の継室に娘を送り込み結び付きを強めて行った
そして佐竹と共に北条方の勢力を侵食し続けて勢力を拡大してゆく
北条としては多賀谷の侵食を許しては旗下の勢力の信頼を全て失う事になるから認めるわけにはいかない
実際幾度も奪われた領地の回復を図って進攻を重ねた
豊臣の東国支配が遅れれば…とよく言うが
1580年代にもなると織田・豊臣政権の動きに合わせて東国の戦も展開されて行ったわけで
切り離しては考える事はできない
府中城 南義尚
片野城 石塚義辰
柿岡城 長倉義興
小田城 梶原政景
海老ヶ島城 宍戸義長
真壁城 真壁房幹
玉造城 川井大膳
島崎城 小貫頼久
松野城 松野資通
武茂城 太田景資
那珂湊城 真崎宣広
戸村城 小貫伊賀
友部城 山方右馬介
長倉城 中田駿河
滑津城 出沢筑後
石神城 小野崎千代房
小高城 大山義景
鹿島城 東義久
宍倉城 大山田刑部
石塚城 東義堅
久慈城 北義憲
大賀城 武茂治良
戸崎城 飯岡兵部少輔
下吉影城 舟屋道堅
鉾田城 河勾豊前守
久米城 北義憲
小場城 小場義宗
友部山尾城 小野崎宣政
鳥子河内城 江戸舜通
袋田月居城 野内広忠
赤館城 和田昭為 河井伊勢守
竜子山城 大塚隆通
すごくおもしろい。
>>324何を言いたいのかよくわからんが、とりあえず答えてみることにする。
おいらの言いたい事は
>>315のレスを受けて「佐竹は独力で自分と
自分と同位もしくは目下の同盟者を守る事が出来たか」ということだよ。
・確かに小山は祇園城に復帰しているが、それはもはや北条の家臣といっていい立場での
復帰であって、小山領支配の実権は北条氏照にあった。この復帰によって北条が損をしたか
といえば全くそうではなくて、むしろ小山領支配の一層の深化が可能になっている。
・宇都宮は1580前後に宇都宮城では北条の攻勢をささえきれないとみて、
多気山城を築城して移っている。これは壬生がほぼ完全に北条に従属したことも
関係しているのは間違いない。1586頃にはは皆川も完全に北条に従属した。
沼尻合戦前に佐竹に協力した由良も北条に落とされ、
佐野さえも佐竹からの養子案を蹴って北条から氏忠を入れてしまう。
これらのように佐竹の影響力が縮小しつつあった事は明らか。
・あとなんでそんなに多賀谷に拘るのか良くわからないが、
多賀谷の伸長は小田と佐竹の争いの火事場泥棒みたいなもので、
これにどれだけの正当性が与えられるか激しく疑問なわけ。
この正当性は佐竹の黙認という形で成されていたわけだけど、
仮に北条も多賀谷の新たに獲得した「所領」を認めるとした場合、
多賀谷は完全に北条方に付く。その場合、結城の与力だったという歴史的経緯の
整合性が求められる事になるけど、その解決はそれほど難しくは無いだろうな。
むしろ小田家臣に対しての北条の態度のほうが問題になるだろうが、
ほとんど所領を失って佐竹に人質を出してる小田に、ほぼ関東の仕置きを
終えつつある北条がどこまで擦り寄る必要があるかは、まあ言うまでも無いな。
実際に北条は梶原にちょっかいを出して、一時的にだけど北条方に転向させているし。
ついでにこの多賀谷の微妙な状況は、羽柴の処断で
独立した大名としては扱われなかったことからも見てとれる。
さらに多賀谷の最盛期の動員数はおそらく2000前後。これは国典類抄の鉄砲数と
秀吉政権下での石高から類推できる。佐竹義久とほぼ同じか、ちょっと少ないくらいだ。
何度も言うが、北条は律儀に惣無事令を守っていたので、天正後期は北進の速度が鈍り、
そのために佐竹は奥州を見る機会が増えた。
しかしじゃあ伊達に対してきちんと統一的な政策を取れたかというとそうではなくて、
むしろ対応は後手後手で、会津はおろか須賀川まで落とされ、さらに長年佐竹と同盟関係に
あった石川まで伊達についた。ついには佐竹の最北の拠点の滑津城まで放棄せざるを得ず、
伊達方に対して何度か反攻を試みたものの全て失敗している。
とても会津進攻など出来る状態ではなく、赤館を守るのでさえ精一杯の状況だったのだ。
その上もし北条も再び北進を開始したら、その結果は言うまでも無いな。
佐竹も惣無事令を守っていたから伊達と直接殴りあうのを避けたのだろうという意見も
あるだろうが、その意見だと蘆名や二階堂を盾にして佐竹を守った事になってしまう。
戦争というのは使える手段はどんな汚いことでも使うのさ、というドライさと、
やっぱり佐竹はちょっとお人好しだったんだな、というある種の諦観のどっちを取るかは、
まあ自由だけど。
なんだただのアンチか
だろうだろうって全部こじつけじゃん
今更こんな過疎スレでやってて何が楽しいのやら
残念だけど義重がお人好しだというのは同意
室町の武家社会から脱しきれず、比較的大規模の国人盟主性格から戦国大名になり損ねた。
名門ゆえのジレンマか?
>325
へー、知らない武将がたくさん。
どこかでこうした家臣総覧見れるのでしょうか。
>>330 詳しいサイトとかはないから関連本見るしかないね
県の刊行物が一番いいと思うが結構高い…
出羽国城将(慶長7年
六郷城 川井伊勢守
院内城 矢田野安房守
大曲城 梶原美濃守
浅舞城 茂木監物
能代城 大窪三河守
檜山城 今宮摂津守
米内沢城 赤坂朝光
湊城 和田昭為、比井伊勢、白土大隅守
金沢城 東将監
十二将城 塩谷義綱
横手城 松野上総介、和田安房守、伊達三河守
長野柴嶋城 北義廉
角館城 葦名盛重
増田城 前沢筑後入道芸球
湯沢城 南義種
比内城 小場義成
大館城 赤坂朝光
分かる範囲の分限表作ってみた(常陸・出羽混同)
佐竹義久 鹿島城代60000石
小場義成 大館城代5000石
大山義景 小高城代4012石
石塚義辰 片野城代3700石
真壁房幹 真壁城代2017石
小野崎千代房 石神城代900石
松野綱高 松野城代706石
吉成織部 350石
天神林義種 250石(白河)
佐藤四郎右衛門 250石
石松平信久 200石(茨城)
大和田重清 200石(茨城)
片野志摩守 200石
小野崎通景 200石(岩城)
滑川伊賀守 200石(赤館)
天神林義広 150石(久慈)
天神林玄蕃亮 150石
糸井駿河守 150石(依上保)
矢野重広 150石(南郷)
根本出雲守 130石(白河)
生田目大蔵丞 120石(釜子)
田崎相模守 120石(小田川関)
石井大蔵 120石
矢野重里 100石
中田若狭守 100石(入野)
田崎廉親 60石(寺山)
糸井能登守 50石(依上保)
高部信濃守 50石(新治)
矢野綱重 50石
松野資通 50石(松野)
吉成豊後守 40石
三奉行 小貫頼久・和田昭為・人見藤通
水戸普請奉行 大縄義辰
山尾普請奉行 根岸丹後守
根津政景 院内銀山奉行、惣山奉行、勘定奉行、町奉行
秋田転封後の内約だけど
出羽国秋田、山本、河辺、仙北、平鹿、雄勝六郡二十万石
下野国河内、都賀両郡之内五千八百余石
と朱印状に書かれている
下野にも飛び地があったんだね
>>328 オイラは佐竹の在り様ついてもっとよく知りたいから、
佐竹の良いところも悪いところも偏りなく見たいんだわ。
最近乱立気味で下らない煽りレスだけの伊達スレや上杉スレみたいに、
単なるお国自慢の馬鹿スレにしたいならてめえで勝手にスレ立ててやれ。
佐竹スレだけはああいう某国人みたいなマンセー意見のみ歓迎みたいなのはゴメンだわ。
オイラの意見が間違っていると言いいたいなら、ちゃんとそれ反論のかたちでを示してくれ。
それがよりシンプルで、同時の状況によく合致するなら喜んで受け入れるわ。
>>329 オイラの仮説というか推論だが、義重は室町体制からの脱却を1574あたりに図ろうとしていた。
佐竹は北条を抗争していたが、実は上杉謙信とだってそれほど仲良かった訳じゃない。
義重は上杉の関東管領としての「上から目線」をどうにかして払拭したいと思っていて、
1574の関宿合戦のときにわざと謙信を怒らせ、どうも謙信の「上から目線」を、
対等に近い同盟関係に仕切り直しさせているっぽい。
実は佐竹が「戦国化」を閉ざされた最後の原因は上杉謙信にあって、
それは1566の第二次小田城合戦にあったとオイラは見ている。
この時謙信は小田の降伏を許しているんだが、
そのせいで義重は父の義昭のように「戦国的」に小田の仕置きをする事が不可能になっている。
つまり小田も佐竹も関東管領上杉下での同位の大名となってしまったために、
佐竹は勝手に小田に対して戦争して領土を分捕るという事が倫理的に出来なかった。
このために義重は義昭の悲願だった常陸の領国化が不可能になって、
1566から1569までのほぼ三年間をほとんど無為のままに過ごしている。
これが破られるのは1569の越相同盟によって、義重が「もう上杉とかどうでもいい」と
ブチキレて、手這坂合戦を起こさせて事実上上杉との協調路線を反故にしたとき。
そんでこれ以後は北条の北進が激しくなって戦国化なんてことを言っていられず、
北関東&南奥州同盟でなんとかやっていかなければならなくなったのは周知のとおり。
>>330 http://avec-des-yeux-l.enfant.jp/writings/00-vassal-satake.htm
>>335 ついでに下野の飛び地について。
『「梅津政景日記」読本』によると、これは1605に幕府から引き渡されたものであるらしい。
この本のなかでは、宇都宮に約6000石を貰った理由はわからないとしているが、
ひょっとすると秀忠のちょっとした心意気かもしれない。
豊臣時代の前半に、佐竹は宇都宮を一門与力としていたが、
その宇都宮は浅野長政の讒言で改易されてしまう。
義宣はこの宇都宮の再興を強く願っていて、
それを秀忠が加増というかたちでかなえてやったのもしれない。
もっとも関が原のときに宇都宮に侵攻しようとしていた義宣としては厭味に思ったかもしれないけど。
>>336 正論だけどケンカイクナイ!
テンプレに書いてない以上スレのあり方は個々人の解釈でいいと思う
佐竹氏を(マンセーしながら)語るスレ
佐竹氏を(ニヒルにアンチに)語るスレ
佐竹氏を(大局的客観視点で)語るスレ
後半と337の解釈は俺も一緒。義宣は関ヶ原で後詰出したりと
秀忠にはあんまり嫌われてはいなかったみたいよね。
宇都宮は佐竹の与力ではないだろ
白河結城の対応もかったるくて甘い印象がある
さっさと首切って自領ふやせばいいと素人目には思ってしまう
白河結城は芦名方で上杉の支配下でもなんでもないよね
奥州仕置の兵役は二万五千
朝鮮出兵は五千
伏見城普請では惣掘普請夫役三千人
関ヶ原でも二万数千
常陸国誌では三万騎と記されているが正確な数字ではなく大軍と言う程の意味だろう
八十万石ともなるとなかなか豪勢だな
>>340 白河は取り込む名分がないから仕方ない
首切って自領増やせるなんてノブヤボじゃあるまいし
>340
一揆でグタグタになる→芦名・田村連合軍あたりが押し寄せてくる→奥郡あぼーん
ところで、義重時代の家臣の武勇伝をよく知らない。
どんなのがあるの?
武勇と言えば真壁暗夜軒闇礫斎
真壁を佐竹家臣というのは気が退けるな。だから別の人をあげてみた。
・真崎宣宗
初めは重宗という。元亀年間の対壬生戦で兄貴の真崎義保が討たれたと
聞いて戦場へ飛び出し、義保の首を奪い返してきた。
義重はその武勇を称えて「雲井亮」という官途を与えたという。
初めに「重」、次に義宣から「宣」の字を貰っている事からもわかるとおり、
二代にわたって当主との個人的な関係(「義」という佐竹にとって
「公的な」字ではないという意味)によって仕えていた。
ちなみにあるとき陣中で佐竹義久に無理矢理酒を飲む事を強要されたとき、
盃を義久へ投げつけて「てめえ俺にそんなに酒を無理強いするってことは、
俺が酔ってるその間に謀反でもする気じゃねえだろうな!?コノヤロー!!!」
と、啖呵をきったという話もある。つまり殴られたことよりも エリナさんに
買ってもらった服が血で汚れたことを怒るタイプ。
・戸村義広
戸村家の人間には怪力持ちが多かったらしい。
山入一揆の頃の戸村の当主には、巨大な猿の妖怪の腕を太刀で切りとったところ、
妖怪が「もー悪い事しねえから腕を返してくれよー」と謝ってきたという伝説がある。
義重の頃の戸村家の当主であると思われる義広も、戸村城の近くにあった
でか過ぎて誰も持ち上げられなかったという岩をヒョイと抱えあげたという。
・赤坂朝光
矢祭町あたりに赤坂城という城を持っていた土豪。
『奥羽永慶軍記』には佐竹義久を助けて、地味だが賢い働きをする知将的な感じで出てくる。
詳しくは軍記参照。この人は実際に義重にもかなり信頼の置かれていた人らしく、
義重が陣中にある時などに朝光に近況を細かく伝えた書状が数多く残っている。
実は石川氏の庶流なのだが、秋田にも移って、大館城だかなんだかの受け取りもしている。
・車斯忠
佐竹といったら車斯忠。通称猛虎大統領でもぶん殴ってみせらあ。飛行機だけは勘弁な。
『奥羽永慶軍記』では、政宗を三回だか五回だか刀の届くところまで追い詰めた。
どうも戦前くらいまでは割と著名な人物だったらしい。
所謂福島正則系の人で、和田昭為を罠にかけ、義重から赤館城主を罷免され、
義宣に煙たがられ、直江兼続に「お前はいらないから佐竹に帰ってよし」と
追放された面白い人。
水戸城を取り返そうとした義の人的な言われ方をするが、実はただのいくさ馬鹿。
疲れたので今日はこのへんで勘弁な。
347 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/21(日) 01:30:29 ID:ivEzxrvD
>>347 で、その車の息子が江戸の非人頭となった「車善七」。水戸黄門の風車の弥七のモデルにもなった。
斯忠が水戸城奪回に失敗し、斬られるところを見たために徳川への憎悪を募らす。
後に家康暗殺を謀るも失敗、動機を語ったところ、家康に酌量され、「殺さぬなら非人たちの頭にしてくれ」と言った。
東はかような気概持った人物が部落のルーツにいたとはね。
ところで、佐竹の金山についてだが、どうも「修験道」とのつながりが濃いみたい。
常陸の佐竹の領地の西金砂山だけど、八溝山系での修験道の本山らしい。
佐竹が常陸から追われる度に、金砂神社が西から東へと移され、佐竹が戻ると再び西へ戻されるとか。
加えて、佐竹の常陸の城は「殺気がない」とか。
修験道グループとのつてから、篭城するなら平山城の舞鶴城より急峻な山城である西金砂城で、そこも破られたら山岳機動戦という戦術シナリオが、代々佐竹の防衛戦術なのかも。
348 :
347:2007/01/21(日) 01:36:15 ID:ivEzxrvD
で、出羽転封の際、八溝の修験道グループに金山閉鎖を秘かに依頼、一方で出羽の修験道グループにとりなしを依頼する。
義宣公は八溝の修験道グループから出羽の羽黒衆を紹介され、院内や阿仁の鉱山の情報を知ったと妄想。
全国の山を渡り歩く修験道のネットワークは、鉱山の開発にも精通していたと。
349 :
347:2007/01/21(日) 01:45:53 ID:ivEzxrvD
修験道と佐竹の係わり合いだけど、どうも義光公まで遡るかも。
北茨城には鬼の割った岩というのがあるが、鬼というのはどうも義光公らしい。
京においては笙の名手、関東に合っては拳法の鬼神。
おそらく、修験道グループから肉体強化方法を伝授してもらい、そこから試し切りがてら岩石をパンチやキックで割ってみたのかも。
イギリスにはエクスカリバーと言う岩に刺さった有名な聖剣伝説があるが、フランスには岩を割ったデュランダルという剛剣伝説がある。
義光公はさしずめ剛「剣」ならぬ剛「拳」伝説?
車善七の話しは何の根拠もない逸話だけどね
初代善七は正式には三河出身と言う事になっている
斯忠の子は斯忠と共に反乱に加わって斬首されたと言われていて
他に子がいたかは記録がない
常陸北部には修験者が多かったようだね
近代まで修験者の寺が多く点在していた
頼朝の佐竹征伐でも敗れた秀義は花園山の修験者に匿われていたと言われる
佐竹時代は全国で四位と言われる金の産出量を誇った八溝金山だが
水戸藩時代は余り掘れなかった
佐竹が閉鎖して行ったと言われるが地元民がそっくり残っているのに
全く分からなくなるとは考えにくい
何か特別な採掘技術でもあったのだろうか
あらかた掘り尽くしてしまったと考えるのが自然かもしれない
最近まで採掘は続いていたからある程度の産出量はあったのだろうけど
351 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/21(日) 04:23:04 ID:OhrevsLC
>>347 >>350 斯忠の舎弟の子孫じゃねかったっけ?
金山に関しては、佐竹家直轄地鉱山以外の鉱山は甲斐や甲府などの金掘衆をスカウトして税分差し引き以外
(藩の取り分以外)は、全て金掘衆の分であり、それらの鉱山の経営は全てに全て任せられたので、
当然、主家が出羽に転封になり鉱山が閉山となると、再重要技術である冶金術は封印され、
技術者は出羽に渡ったか、地元に帰化したか、帰郷したのでは。
その後は技術が閉山とともに枯れ再開発は不可能に陥ったんだろうな。。。
>>351 水戸藩も直ぐに黒川金山衆を雇って採掘を行ったんだけどね
何故か佐竹時代のように産出されなかった
佐竹は出羽に移ってからも銅山開発を大規模に行った事からしても
優秀な金堀衆がいたのではないかと思う
それにしても武田と佐竹って同族のせいか知らないがよく似てるな
353 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 08:39:48 ID:0m0QMH79
今、南原の小説読んでるが、なんだか架空戦記読んでる気分
354 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 14:19:23 ID:o6FzdUhE
南原の「迷将 佐竹義宣」はかなり酷い出来らしいな。
小説の体裁を保ってないとどっかに書いてあったぞ。
355 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 00:00:04 ID:R6pGoXg8
けっこう良かったと思うけどな
まあ、PHP文庫以上・常羽有情未満だな
356 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 09:01:09 ID:W6myKlsN
常羽有情ってそんなにいい感じなの?
357 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 19:18:45 ID:apm1EAbd
佐竹義久について詳しい人いる?
358 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 19:45:12 ID:74WJuuGp
特別詳しくはないが実家の辺りは義久の領地だった
359 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 23:13:28 ID:p1u1JR3w
>>357 なんだかワカランが、ためしに聞いてみろ!
どーせ2chくらいしか聞けるところないし。
360 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 01:21:05 ID:Vt/H1BEg
あいつはいい奴だったよ
361 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 04:33:28 ID:zgNWr4HN
義久は太閤や三成に贔屓されてたようだが、どこが好かれたんだろ?
362 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 15:21:56 ID:oP5gvnre
>>361 佐竹家の有力家臣につばつけて、
豊臣政権が確立したあとに勢力分散させたかったんじゃない?
太田親子もそんな感じでしょ?
363 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 16:17:20 ID:o2DYKi1w
364 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 23:17:49 ID:M32XfwfF
>>361 義久が個人的に秀吉や三成と交友したという話はあんまり聞かないな。
概ね、豊臣政権は100万石前後の有力外様大名には、
その大名家の中から6万石程度で豊臣政権との窓口を担う担当官を任命した。
島津は伊集院忠棟八万石。毛利は安国寺恵瓊六万石。
上杉は直江兼続六万石。佐竹は佐竹義久六万石。
そんで豊臣のほうの窓口が石田三成。
その所領は、はっきり言えば、豊臣家のために便宜を図るべしという意図で与えられたもの。
だから石田三成と仲がいいように見えたんだろうな。
ただ当の大名家のほうには不興だったっつーのは、
コイツラののちの運命からも知ることができるな。
ちなみに伊達も片倉だか誰かが六万石くらい貰うはずだったが、拒否したらしい。
>>363 普通の書店に売ってないし、アマゾンでも買えないから読めないYO!
365 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 00:17:36 ID:WaE+hLi+
義宣「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」
366 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 21:36:20 ID:m6GJm2vc
義久もだが当主の義宣は誰かと仲良かったのかな?
三成景勝の他は
367 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 22:26:00 ID:+gnnIOCu
>>365 佐竹義宣は三成と「アッー!」な中だったの?
368 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 11:48:57 ID:914GateZ
意味不明・・
369 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 12:14:32 ID:2JskSP/Y
剥げしく胴衣
370 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 22:57:38 ID:/Jf4qdKy
371 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 23:01:14 ID:EP2XKsOs
372 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 02:39:18 ID:6ndiwoLR
373 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 13:26:49 ID:MQqLrm+R
「三成を討たせては生きがいなし」
この初出は『常山紀談』だと思う。
三成は外様大名の便宜を図る立場にいるんだから
死なれたらそりゃまずいわな。
外様がjほとんど三成に味方したのも当たり前だな。
374 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 17:07:34 ID:xcdaoLws
三成が武断派に追われた時に佐竹屋敷に逃げ込んだ事から見ても
結構な信頼関係があったのではないかと思う
一番接触が多かったであろうと思われる義久は徳川派であったし
ご隠居の義重も完全に徳川派だった
関ヶ原の後ふてくされて上洛しなかったり
三成保護の件の弁明も突っぱねたりしてる事からしても
やはり義宣は個人的にも三成と親密であったのではないかな
375 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 18:21:09 ID:FuAntdgP
新参の渋江や梅津を保護しまくったり
居眠りしてた嫡男にブチギレたり
重成の子孫を保護したり
結構堅物だったんじゃないかな
376 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 23:53:04 ID:EuyeXg8D
武断派で仲良しは?
長政とは友好だった?
377 :
人間七七四年:2007/02/27(火) 21:46:39 ID:onyNmT+o
大名同士あんまり仲良くするとイクナイし、友達つくらなさそう
お前ら出来星がとか内心思ってるかも
378 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 18:33:15 ID:PiVMepWz
あと、関城攻略の際、三成の人となりをつぶさに見たのもあるかも。
加えて太閤の宇都宮家取り潰しの際、親類筋の佐竹に累が及ばぬよう取り計らったのも三成という説がある。
379 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 20:56:36 ID:1NPNxQwC
上杉南下せず徳川挟撃が実現出来ずに悔しかったろうな
やる気満々だったろうに
常陸下野下総で100万石
380 :
人間七七四年:2007/03/01(木) 01:12:41 ID:dmSiBp1Y
やはり政宗の動向が、ね。
挟撃すれば確かに家康は倒せるかもしれないが、逆に伊達政宗に背を向けることになる。
政宗は徳川と婚姻関係とはいえ、覇者の座に汲々としていたのを上杉も佐竹も承知。
家康倒したのを契機に、一気に上杉・佐竹に伊達が背後から襲い掛かり、一気に東北・会津・常陸を自分の領土化。
義宣は徳川より伊達憎しの思いが強い。三成に加勢したいが、結果政宗を利するのはまっぴらごめん。
義重もそう義宣を説得したのだろう。
381 :
人間七七四年:2007/03/01(木) 01:20:37 ID:dmSiBp1Y
政宗の無体ぶりはその後の大坂夏の陣で証明されてしまった。
戦場に駆けつけてみたら、神保隊が首級を挙げて凱旋。
頭にきた政宗は神保隊をフレンドリファイア。
島津が呆れてその様を日記に記したくらい。
382 :
人間七七四年:2007/03/01(木) 12:41:28 ID:e3fc124v
また水野の傭兵部隊の話か
水野が怒らずなぜ島津が呆るのかw
383 :
人間七七四年:2007/03/01(木) 13:06:11 ID:hSTdV4uE
神保の場合、家康に全く相手にされていないのが哀れを誘うな。
生き馬の目を抜くような戦場で、急浮上した原子力空母(伊達)に追突されて
一瞬で沈没した漁船(神保)程度の認識だったのだろう。
384 :
人間七七四年:2007/03/01(木) 20:16:44 ID:VdriLsme
ていうか秋田の四崩れって何?
ググっても何も出てこんのだけど
385 :
人間七七四年:2007/03/01(木) 23:44:23 ID:sl1TqW1R
伊達厨って本当に知恵遅れだな。
急浮上する原子力空母って何だよ?
無用の長物という意味か?
386 :
人間七七四年:2007/03/02(金) 13:23:30 ID:6IQZN/t2
伊達厨・・・
赤石が最強と言い張るヤツがよく使っていた言葉だ・・
387 :
人間七七四年:2007/03/04(日) 18:30:34 ID:6pgAs2YS
那須や田村ぐらいは潰してほしかった
388 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 00:39:21 ID:zESEE7cq
>>384 「食い倒れ」「飲み倒れ」「着倒れ」「住み倒れ」
「食い倒れ」美味がそろっているからついつい食いすぎてぶっ倒れる。
「飲み倒れ」美酒がそろっているからついつい飲みすぎでぶっ倒れる。
「着倒れ」着飾りすぎてぶっ倒れる。えふりこぎ。
「住み倒れ」家の建て方に拘りすぎて悩んだ挙句ぶっ倒れる。
389 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 01:35:32 ID:dRIh/iKP
そもそも他家を潰そうとしていたとも思えない
常陸国内や赤館など守護や地頭として認められた土地の回復はしようとしてたが
他国まで切り取ろうという野心があったか疑問である
芦名・白河・田村連合とは幾度も戦いを重ね
ついに白河領の全城を落とし義親以下、白河一族を捕虜としたが
お人好しにも結局全領返還している
本来なら岩城や白河など降した大名を潰して自領に取り込み
内訌の続く芦名も切り崩していけば
北条や伊達との戦いも遥かに楽に戦えたのにね
佐竹は戦国大名化していなったと言言える
390 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 07:51:52 ID:JSQ3Rafc
秀吉がいて助かったね
391 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 21:17:07 ID:HpmyZW6v
同意
白河領を自領にしなかったのはなんでだろ
出来ない理由がさっぱりわからない
統治機構に詳細な偉いひと解説きぼんぬ
392 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 21:41:37 ID:cVRmVmZJ
393 :
人間七七四年:2007/03/07(水) 02:16:03 ID:LCwayt85
一、常陸 一、下野 一、上総 一、磐城 一、下総 右国内之内百万石宛該物也
佐竹右京大夫義宣殿
慶長五年八月二日
家康 花押
394 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 12:04:48 ID:2Cj8VNdv
>>392 佐竹氏というよりも、出羽の人間。
秋田転封後の開墾政策が功をなして、名目21万石余が実質4,50万石。
東北の他の藩よりも農民の取り分は実質的に多かった。
加えて鉱山や山林での収入も多かった。
北前船が土崎湊に出入りするおかげで、地元産品の売り上げ以外に、江戸・上方・蝦夷の物産も領内に入ってきた。
で、殿様ほどではないが、平民も結構羽振りがよかったのでは、と。
まあ、江戸や上方ほどではないにしろ、地方としては結構な上客だったのでは。
以下、妄想。
元禄時代、酒の主な産地は播磨の灘が中心だった。おかげで輸送費がけっこう高くついた。
ある佐竹の殿様は、高い酒を買うより自前で作ったほうが安く済むのではと思い、手元にあった「御酒之日記」を手に、酒の作り方を聞いてみた。
いい米といい水がまず大事だという話。
領内には米どころの上、六郷の水という酒造りにぴったりの水がある。
そこで佐竹の殿様は、灘の杜氏を招聘し、農民たちの農閑期の冬場の仕事として酒造りをやらせてみた。
最初は失敗。なんでも、最後は酵母が秘訣で、杜氏に酵母が根付いて、初めていい酒が出来上がるとのこと。
やがて秋田の杜氏も腕を上げ、秋田は代表的な酒どころにもなっていった・・・と言いたいが、地元での消費が意外に大きく、外へはあまり出荷されないため、全国的にはマイナーでマニアックな酒蔵が多い。
395 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 17:54:52 ID:xJXEzu9n
山形は最上川沿いの諸藩が裕福だった話はよく聞くが
秋田はあまり聞かんなぁ
396 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 23:00:18 ID:XK005vhK
>>391 出来たか出来なかったかで言えば、出来た。
ただしおそらく義重は自分の意思でやらなかった。
397 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 09:04:24 ID:EYVrwtq/
同盟関係にあった真壁氏について詳しい人いる?
398 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 09:13:21 ID:g0wFSGiW
全然知りません。でも試しに言ってみろ!
399 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 12:26:35 ID:fN2LFztF
真壁氏は常陸の名族大掾氏の支流で
領地は真壁城を中心に5000石程
大掾氏と小田氏との間で争いを繰り返すが
北条氏の台頭により佐竹氏との間を行き来するようになる
真壁久幹は長男を北条氏政から一時貰い氏幹と名乗らせ
次男は佐竹義昭から一時貰い義幹とした
皮肉にも氏幹の代から次第に佐竹家臣化して行き
反北条として活躍するわだが。
義宣元服の際も参列し
宿老家に次いで三列目を与えられ
外様でありながら他の佐竹一族より上席であった
佐竹家中で重要な位置を占めていた事が伺える
400 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 12:54:36 ID:fN2LFztF
ちなみに氏幹の代にも佐竹と不和になる事が幾度かあった
義重も氏幹の弟義幹に柿岡城(後に大島城)を与え別家を立てさせている
真壁氏を重用していたと言えるが、反面「氏」の名を持つ氏幹に対して不安を持っていたのではないかとも取れる
氏幹は子がなく義幹の長子房幹を養子とし1596年に家督を譲った
宗家は真壁城領4571石と他に佐竹から筑波郡に2017石の知行地を与えられていた
秋田転封の際には義幹、房幹、重幹(義幹の次男、後真壁宗家当主)は
秋田へ従ったが氏幹は常陸(下館)に留まり隠棲した
鬼真壁も晩年は静かに過ごしたようだ
401 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 13:00:21 ID:jMJtuZy1
沼尻で一回裏切ったってのは本当?
402 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 14:46:39 ID:KN613G9O
佐竹の扇に月の丸
潔くて格好いいと思う
403 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 16:02:13 ID:yy6Icw4t
佐竹スレにいると案外政宗が凄いというのがよくわかる。
404 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 08:59:34 ID:BEw7G9zw
伊達スレだと政宗が凄過ぎで身の丈がわからなくなりそうだからな
405 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 14:05:11 ID:6Fx/H1G9
>>399-400 ありがとうございます。大変勉強になりました。
氏幹の「氏」がやはり北条家が由来とか、ビギナーには大感謝です。
406 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 08:46:07 ID:bywsqtFQ
徳寿丸
407 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 11:43:47 ID:cN/EvXF7
「伊達酔狂」
「νガンダムは伊達じゃない」
408 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 12:10:11 ID:/4RQMwu3
政宗の業績は植宗の政策と佐竹の優しさで出来ています。
409 :
佐竹足軽:2007/03/16(金) 12:10:22 ID:1A465gO4
貴様!くだらん
410 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 18:32:33 ID:FkXWNE3f
佐竹 って画数が少ないせいか、あっさりして迫力に欠けるなぁ
佐武 こっちの方がよくね
411 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 18:37:05 ID:r+09sLCa
左丈で十分
412 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 17:15:24 ID:NsyfqDMz
義久が関ヶ原の折りに
家康から一代限り転封しないって証文もらっているが
あの状況でよくもらえたな
さすが義久
413 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 18:48:31 ID:z3VHXI4W
本屋で戦国武将の最後の戦いを特集した本を読んだ
その中に日頃触れられることのない芦名義広の名が
負け戦であっても鬼義重の息子の名に恥じない戦いぶりを称賛されてた
なんだかうれしかったな
ただでさえ伊達派と佐竹派に家臣団分裂のうえ
佐竹の付け家老の専おうで組織の機能がマヒして
これじゃあ戦えやしない
414 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 18:58:07 ID:z3VHXI4W
思えば芦名を伊達次男が継いでたら
内訌が起きて南下どころじゃなかったんではなかろうか?
415 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 19:24:12 ID:WriqXUdG
>>413 こいつ腹切らずに実家に逃げたダメ人間じゃん
416 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 19:34:18 ID:y1SdsoGv
豊がその後芦名領くれなかったのは残念だな
まあさすがによくばりか
417 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 20:35:52 ID:0ALuJwZc
確かに義広はかなり奮闘したよ
摺上原の時はまだ14才でしかない
初陣するのもまだ早いぐらいだ
葦名軍はまるで長篠状態で
先鋒の富田らと佐竹から義広につけられた佐竹衆400騎余りに金上ら佐竹派の3000程度しかまともに戦わなかった
先鋒が崩れ葦名四天らが勝手に戦線離脱した後も
義広は本隊の400騎余りで何度も政宗本隊に突撃をかけて激戦を演じている
衆寡敵せず大半が討たれた為義広を落としたが
追撃戦で葦名方は2000余り討たれ伊達方も500余り討たれた
追撃側にこれだけ犠牲がでるのだから
いかに激戦だったかが伺える
418 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 21:08:57 ID:OoHIP1fF
>>410 「佐竹伊賀守」:足利将軍の命により「佐竹」を「佐武」に改姓。
鉄砲集団雑賀衆で雑賀孫市と共に戦った鉄砲名手。
彼の鉄砲に関する覚書が有名。
419 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 04:22:04 ID:jmP2Ym+z
川井の子孫はいるのか?
420 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 09:19:55 ID:Spb0haZ6
義広が佐竹に戻らず籠城して義重の救援部隊と合流してたら歴史的には面白い流れになってたな。
もちろん伊達との本格的衝突になるが伊達と佐竹の川中島になるかな?
421 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 09:35:49 ID:TAWL9jgG
川井って「雪の峠」では常陸を偲ぶ旧世代の代表のように描かれてたけど
常陸で台頭したの結構後の方だよね?
422 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 10:23:18 ID:3hiwpGnN
>>420 というかそのつもりだったんだよ
摺上原から直接落ち延びたわけではない
義広は黒川城に戻って籠城の準備をしていた
だが摺上原から黒川に戻る時点で既に寝返りが続出し
なんとか突破して黒川城に入ったが
留守居役の重臣や葦名四天すら寝返り政宗を手引きした為籠城もままならなくなり
5日後ついに黒川を捨てて白河口から下野に落ちていた
423 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 10:44:12 ID:4lpFzUNV
義広って、佐竹が秋田に移ってからしばらくは存命だったんだな。
分家を継ぐとかしてたんかな?
424 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 18:37:54 ID:gRxQFwBq
>>423 常陸に戻った後は、盛重と改めて常陸江戸崎藩4万5000石の
領主になっている。
葦名当主の通字が「盛」だから当主としての自覚を強くもって
いたんだろうね。
宗家の秋田移封後は、角館に移り、義勝と更に改めたところに
独立大名としての立場を失った悲哀を感じる。
実子が立て続けに早世し、義勝次男の盛俊の嫡子、千鶴丸が
夭折して葦名家は廃絶。その後角館へは佐竹北家が移って
来ている事からして、佐竹一門としての家格は高かったんだろうね。
425 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 19:37:55 ID:kGNWSVJG
伊達家臣の針生氏(蘆名家傍流)が、その後、蘆名の名跡をついだんだな
426 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 20:04:42 ID:3hiwpGnN
葦名盛隆には亀若丸のほかに庶子があったらしいよ
どうなったかは分からんが
427 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 12:45:31 ID:7EphqLhI
義広よく頑張ったんだね
これまでの義広への印象を修正せねば
428 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 13:53:10 ID:Ou7KJ0VJ
母方が常陸時代から佐竹家臣だったけど
俺よりお前らの方が佐竹に詳しい
429 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 18:22:33 ID:1G/auy0p
蘆名はすでに内部崩壊していたんだろう
佐竹派と伊達派で真っ二つだったんだ
430 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 09:30:40 ID:+/RrmZ0I
猪苗代も陸にが悪い
431 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 23:07:40 ID:twXd+Fv7
意味わからん
432 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 00:27:11 ID:x18gvRHI
猪苗代盛国が裏切ったから負けたといいたいんだろう
433 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 00:46:36 ID:Gfz2mtm/
あれは伊達成実の交渉力の勝利だな
434 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 11:33:21 ID:ML5lQNYF
というか盛国はかなりの野心家
摺上原の数年前、葦名盛隆の時代に既に密通していた
・葦名を滅ぼした際には会津北部を猪苗代家のものとする事
・伊達家中に於いて猪苗代家は会津衆筆頭とする事
・反乱が失敗した際には伊達家が代替え地を用意する事
という条件を出して
これをのむなら葦名に叛旗を翻して伊達につくと書き送った
政宗はこれ幸いと受け入れた
だがこの時は盛国の嫡男盛胤が強固に反対した為実現はしなかった
この数年後に隠居した盛国は盛胤と対立
ついには合戦に及んだが葦名義広の仲裁で治まった
しかし家中での立場が微妙になり扱いが益々悪くなった為
同じく扱いに不満を持っていた長沼氏と共謀して伊達に寝返る事を決めた
ここで伊達成実と連絡を取り今度は寝返りが実現した
と言う経緯がある
猪苗代・長沼らは摺上原では葦名の先鋒富田らに散々に破られたが
突然の離反に葦名は単独で伊達に当たるハメになった事
葦名家中でも合戦に間に合わなかった武将が多数いた事
葦名家中が疑心暗鬼に陥り摺上原では大半が様子見をしていて積極的に戦わなかった事
など、盛国の寝返りは葦名の滅亡する要因に直接結び付いた事は間違いない
435 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 12:23:52 ID:DCDF6n1L
そもそも蘆名は佐竹ほど大名の力が強くなかったからのう。
猪苗代も、本当は自分が会津の三浦氏の宗家だという自負がずっとあったにも関わらず、
力関係では蘆名に敵わなかったので溜まっていたものがかなりあったしな。
盛隆が三浦介になってしまったこともあって、かなりむかついていたのだろうな。
四宿老も松本平田富田あたりは蘆名家に対して不羈の風が強すぎて、
盛氏が外に目を向けさせることで会津はやっと治まっていたからな。
義広が養子になることになったのは、金上、針生らの蘆名一門と結城義親が
頑張ったお蔭だな。義親は、義広がいなくなれば自分のところに白河の
権力が戻ってくると期待していただけなんだけれど。
436 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 14:53:41 ID:ML5lQNYF
でもそっくり義親に返してしまうとは義重のお人よしにも程があるんじゃなかと
あれだけ何十年も争って降したのに
結局元々佐竹の支配地であった赤館周辺のみ取り返して
あとは全部返してしまったのでは
437 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 20:53:12 ID:jGGFUkr8
盛氏の時代は、佐竹より蘆名のほうが勢力強かった
438 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 22:12:54 ID:ML5lQNYF
盛氏時代は支配地100万石と言われたからね
盛隆、義広時代も佐竹の3倍近い国力はあったかと思う
でも盛氏死後から摺上原まで10年もないんだよね
世継ぎが定まらないのは恐ろしい事だ
僅か数年であんなにガタガタになってしまうのだから
もっとも僅かな間に
盛氏→盛興→盛氏→盛隆→隆氏→彦姫→義広
と目まぐるしく当主が入れ代わった
しかも盛隆、義広と続けてよそ者が当主になっている
これでは家中がまとまらないのは無理もない
盛興が生きていれば奥州戦国史も全く違ったものになっていただろうね
439 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 23:01:00 ID:+pMFY9XH
多賀谷家の養子に出された宣家のことも忘れないであげてください。
440 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 23:38:20 ID:ML5lQNYF
宣家はもはや戦国武将とは言い難いからなぁ
初陣は大坂の陣かな?
義重は割と子宝に恵まれたね
末子の義直は亡くなってから生まれたようだし
441 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 09:58:58 ID:4pPVWYJc
義重はピザじゃないよね?
442 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 13:02:45 ID:eDThCT+O
?
443 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 15:43:50 ID:Ojwsg2MR
>>441 ピザだったら、騎馬一騎掛け7人ぶちのめしなんて真似できません。
当時の馬はポニーサイズ。
これが元で「坂東太郎義重」「鬼義重」とあだ名されるようになった。
444 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 13:07:11 ID:X0N7/9tY
宣家と言えば正室は真田信繁の娘
九度山に配流されてから豊臣秀次の娘との間にできた子だ
大坂の陣の際には瑞龍院(秀吉の姉)に保護されていた
一体どういう経緯で宣家の室に迎えられたのだろうか
445 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 14:05:49 ID:ZAgSksXF
>>444 信之の計らいで大奥の下働きをしていたらしい。
宣家が義宣の供で上洛する折、一行の給仕係を務めたことが馴初めだそうな。
当然このときには多賀谷の姫とは離別している。
446 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 18:28:59 ID:XBUvvDC/
多賀谷政弘の娘だっけ?
447 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 19:37:34 ID:y2YthqZB
>>443 豪族の首領クラスなら、それなりにでかいぞ
448 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 22:50:16 ID:X0N7/9tY
多賀谷重経の娘だよ
長女は義宣の継室
次女(三女とも言われる)の婿養子として宣家を多賀谷家の当主に迎えた
重経は例の家康暗殺未遂で追放処分を受けた為
宣家も佐竹預かりになり秋田へ移った時
幕府に遠慮して離別したようだ
449 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 08:11:36 ID:Svbcn90/
佐竹と真田のコラボレート
450 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 11:00:01 ID:8TpI29Le
つまり岩城重隆は鬼義重と日本一の兵こと幸村の孫か
なんか凄く強そうだw
そういや佐竹と真田も懇意だったようだね
義重と昌幸は同い年だし
武田繋がりで割りと気が合いそうだな
奇しくも死んだのも10ヶ月違いだし
451 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 20:47:29 ID:h9QHOizH
よくわからないところがある。
1575年に白河城を落とし当主の義親を捕虜にしたが
その後義広が養子になる1579年くらいまで白河氏の抵抗は続いたらしい。
つまりせっかく義親を捕らえたのに帰らせてまた抵抗されたのか?
それとも義親を常陸のどこかに幽閉した後,
白河氏の残党が反乱を起こしていたのか?
でも自分たちの大将が捕まってるのに反乱なんて起こせないだろうしなぁ。
452 :
人間七七四年:2007/03/29(木) 00:18:10 ID:3dRqFOTO
確か白河義親は最初、後に実家の大関氏を継いだ大関晴増を婿養子にしていた筈。
453 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 00:08:40 ID:ZE2S49Zk
於田宜しく
454 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 08:23:05 ID:yr1wQGea
大関が背後で煽ってたってことか
455 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 09:12:35 ID:FsXH8Iq4
そもそも義親は当主ではない
元は小峰義親と言って白河氏の一族であった
当主は白河義顕
佐竹の度重なる侵攻で義顕は領地の大半を失っていた
義親は主家の衰退を突いて白河城を乗取り義顕を追放した
だが当然義親に反対する家臣も多く内乱状態に陥った
それを逃さず義重は白河を攻め全城を落とし義親を捕虜とした
だから義親を捕えたからと言って白河家臣全員が言う事を聞くわけではない
むしろ好機とみて勢力を伸ばそうとする者や
義顕も葦名の支援で返り咲きを狙ったり
他の白河一族を擁立する者などの動きがあった
456 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 09:57:31 ID:FsXH8Iq4
ちなみに義親が佐竹に捕えられた後
義広を養子にする事などを条件に白河領は返還され
義親は後見人となった
義親はある意味佐竹によって立てられた当主と言える
しかし、追放された嫡流の義顕もすぐ後に葦名の働き掛けがあり
佐竹も白河に迎え入れる事に決めた為
白河領のうち七郷を与えられ復帰した
義広が葦名へ入嗣が決まった際には
白河家は義顕ではく義親が当主となった
その後義親は伊達に服属
奥州仕置で白河家改易後は義親ら小峰系は伊達
義顕ら嫡流は佐竹の家臣となった
457 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 11:05:04 ID:lrrhHp3i
義親はもともと白河の当主だった可能性が高いよ。
そもそも小峰は永正の変で白河に統合され、白河氏は同時に小峰氏だった。
はじめ晴綱の弟だった七郎隆綱が晴綱の養子となって白河を継いだが、
晴綱に義顕が生まれたことで、晴綱の一声で義顕が白河の当主になってしまった。
隆綱は仕方なく義親と名を変え、已む無く小峰のほうを継いだが、かなり不満だったらしく、
舅の蘆名を後ろ盾にしつつ、義顕から当主の座を取り戻した。
というのが真相っぽい(『白川氏・小峰氏と「永正の変」』垣内和孝)。
>>451 君は
>>391でもあるな?
そもそも大名が下位の連中に対して絶対に近い裁断権を持っていると考えるのが間違いで、
言う事をきかなかったら軍事的にあーしてしまえ!的な発想は間違っている。
現代で例えてみると、税金を払わなかったりデモを起こすようなやつらは全員逮捕!
とかシベリア送り!に近い。そーいう国は通称朝鮮民主主義人民共和国と呼ばれます。
いくら戦国でもルールはちゃんとあります。
大名でも勝手にある人が持っている土地の権利を、他の人にあげてしまうなんてことは、
そー簡単に出来る訳じゃないんです。
当時のあり方として、下位の侍が上位の侍に不満を持っている場合、
弱い形での出方が詫び言、強い形で出ると「謀反」ということになる。
この場合の「謀反」はほとんどの場合、デモンストレーションに近く、
大抵は元のさやに収まる(例えば北条高広とか)。
たまに失敗して酷いことになったりする(荒木村重とか)。
戦国は最上位の侍がより下位の侍に対して大きな権力を握っていく時代で、
まあだんだんと大名がいろいろ強いことを出来るようになっていくわけだけど。
おそらく佐竹もそういった武士統制の中で、自分達に出来る範囲では最善か、
かなり最善に近い方法をとったと思われます。
別の例では後北条氏の小山領支配とかがあるんだけど、彼らはそれまでの
ノウハウの蓄積があったと見えて、極めてスムーズに所領支配を展開してますね、
458 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 14:29:37 ID:q8sQSOfR
>457
佐竹は大きな内紛を経験したからか
領土をとると、そこをいかに摩擦を少なく寄騎勢力にするかで動いてた感じがする
常陸国内以外では よほどのことがないと強引なことはしてないよね?
第一目標が天下統一とか大それたものでない
大名というより 盟主 として最善にちかい選択だと思うわ。
ただ義親が食えん男だったということよねw他に適材もいなかったけど。
459 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 20:55:38 ID:eEqhwWW+
日立って耕地面積パーセンテージ高いんか?
460 :
391:2007/03/31(土) 02:43:51 ID:6JgzKtKU
>457
解説どうもです。
ちなみに451は別人です。
他領を奪って、軍事的に裁くのは無理な話ですよね。
国内統治を警察力だけで締上げるのは限界がありますから。
ただ、他の大名でも信玄や信長は信濃や近江を、
軍事的に奪い自領とし、かつ安定的に統治をしています。
この比較が適切かどうかはわかりませんが、
この差はなんだろうかという疑問を持っているのです。
なるほど、統治のノウハウの差ってことですか。
中央と違い、血縁による戦略がより有効ということなのでしょうか。
上位の者が下位の者をこれまで以上に豊かにしてあげられないと不満を持たれてしまうので、
経済的に発達が遅れている北関東以北では家族愛を支えに不満に目をつぶってたってこと?
462 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 19:36:27 ID:FpANNMYg
白河も石川も岩城も最終的には(蘆名氏滅亡後)伊達側になっちゃったんだよな。
最後まで付き従ったのは二階堂くらい。
463 :
人間七七四年:2007/04/01(日) 15:50:09 ID:Jn0Efj51
薄情やなぁ
464 :
人間七七四年:2007/04/01(日) 17:15:38 ID:K/yJW8NL
佐竹の穏やかな性格は魅力でもあり弱さでもある
佐竹は他勢力の自立を奪わないからこそ諸大名が信頼し集まったが
何の制約も課さないだけに離反するのも早い
北条と芦名が組んだ時も長年の親交を重ねてきた宇都宮さえアッサリ北条に寝返った
関東南奥州全てが敵にまわる事になり
白河を攻めていた義重も慌てて引き返す事になり
散々に追撃を受けて酷い被害を被った
北に向かえば北条が北進し関東諸将が北条に呼応し
南に進めば芦名、後には伊達が南進し南奥州の諸将が呼応する
といった具合に常に苦心した
465 :
人間七七四年:2007/04/01(日) 21:43:20 ID:DtjaIR2E
その点、多賀谷だけは律儀だったね。
最後まで反北条、親佐竹の立場を貫いた。
466 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 04:11:53 ID:1z/WWWyn
白河はともかく石川と岩城は伊達からの養子組だからね。
まあ、二階堂はその伊達から嫁いだ姫様が反伊達の旗頭だったけど。
でも岩城は当主の実の子より佐竹からの養子を世継にしてるからちょっと律儀?
467 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 10:00:00 ID:5y1waJzN
ハウス多賀谷
468 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 17:11:13 ID:vEQB83JQ
>>460 まず事実確認からいってみよう。
●1574年二月に佐竹は赤館城を落とし、その後伊達輝宗の斡旋で
蘆名田村佐竹は講和した。このとき義重義久は鹿子某、生田目某ら
もと白河家中の武士と、和田昭為や佐竹東家中の武士に赤館近辺の
所領を宛がった。
●1575年二月に再び白河と開戦した佐竹は白河城を落とし、白河義親の
弟の善七郎を名代とし、義親自身は常陸へ居住させたと思われる。
●1575年六月、義重は白河に出陣し、蘆名の斡旋で講和。
このとき義久は白河家中の17人に所領を与えた。
●1577年七月、義重は関山という白河付近の土地を攻める。
その後田村氏がこれに呼応して白河を落とす。
この頃上杉謙信の斡旋で、佐竹と蘆名が講和する。
今更言うまでもないことだが、白河から佐竹に乗り換えた連中には佐竹義久から
所領が与えられている。信長も信玄もこれとたいして状況は変わらなかった。
まず自領にするってどういうことなんだろう、と考えてみる必要がある。
例えば秀吉は信長から江北長浜十二万石を貰うが、おそらく、かつては浅井氏に
仕えていた地下人に秀吉に軍役や労働の負担をするようにさせ、地下人が百姓から
取っていた米やらその他の物品の数割を納めさせ、というようなことをしたに違いない。
義久の場合、白河家中の17人という人々の有り様が問題だが、秀吉と対して
変わらないと思われる。違うのは地侍(地下人)から税金をとることまでは出来なかった、
つまり秀吉に比べて行使できる力が小さかったということ。
469 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 17:13:19 ID:vEQB83JQ
一方この義久に与同しなかった白河家中の者もいたのは確かだが、
この連中の掌握のために弟の善七郎を名代として立て、のちに義親自身の
白河への還住をさせたんだろう。これらが1577年に田村と謀って(たぶん)関山に陣し、
その後白河城を一時的に奪取した。だがこの後蘆名と佐竹が一和(同盟)し、白河は
蘆名と佐竹によって頭ごなしに差配されることになる。その結果が喝食丸の白河入嗣。
織田と比較するならば、これは北畠への織田信雄入嗣と同じであり、
武田と比較するならば、武田勝頼の諏訪継嗣と同じ。
義広は佐竹こそ名乗らなかったものの、白河を藤原姓から源性に改めることはしてる。
こうして白河は安定したので、佐竹としては何も問題を感じなかったと思われる。
仮にもっと時間があったならば、義広の権力が大きくなるに従って、義親のそれが
後退し、あるいは義広は佐竹を名乗ることまであったかもしれない。
そうなれば白河は佐竹分国のひとつとして編成されたであろうし、これは岩城や宇都宮と
いった佐竹周辺の豪族にもより大きな影響を与えることになったのは間違いない。
で余談だが、まず自領にするというのはどういうことか、
ということについてよくよく考えて見る必要がると思う。
大名領国の構造は大体、大名>家臣、国衆>地侍(地下人)>百姓というようなものだが、
信長も信玄も地侍を植え替えることはほぼまったくと言っていいほど出来なかったはずだ。
実際にそれが出来たのは秀吉からで、秀吉の日本統一政権が出来ると、刀狩りを通じて
武士と百姓の身分統制をし、それまで百姓から年貢と労役を取っていた地下人地侍が
武士か百姓のどちらになるかを選ばされることになる。
こうして大名領国は大名>家臣>百姓というより単純な構造になり、まさしく「自領」と
呼んでいい状況となる。戦国板の他のスレでもそうだが、秀吉未然と秀吉以後について
一緒にして語るのは、領国の構造、年貢の取り方、そして軍事組織の構造も
大きく変わってくるので適切ではないんだよね。
470 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 17:49:43 ID:m1F7K+zK
結局義広は白河から追い出された形になったんだよな。
政宗の弟が蘆名を継いでたらそれはそれで南陸奥の勢力図が
いろいろ変わってたな。
471 :
人間七七四年:2007/04/03(火) 19:42:45 ID:2FGwkky7
それは尾も白そうだ
472 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 00:31:44 ID:C/TXnz8X
伊達家の争いが始まって南進は無理かもしれない
473 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 08:34:52 ID:c2IJl9Sd
佐竹の北進も進まなさそうだが
474 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 09:24:37 ID:G9W+Tmdg
でも政宗と小次郎って仲悪かったんだよねえ?
例え蘆名継いでも協力したんか?こいつら?
対して状況変わらなくねえ。
むしろ、そっちの方が義重に付け入る隙があるんじゃないかな?
白河に義広が居た方が安定してるし。
475 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 09:23:08 ID:eW6jrcGT
伊達内乱になるな
476 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 00:18:22 ID:YlJRGuWJ
でも、義重はぬるいから政宗のように黒川城を奪ったり出来なさそうだ
477 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 09:40:51 ID:JOi8HacR
また間接支配か
478 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 11:41:27 ID:4Eo3asum
佐竹の凄いところは守護大名のまま戦国時代を乗り気ってしまったとこ
佐竹が守護大名を脱皮して戦国大名になったのなんて小田原以降のほんの数年だろ
479 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 12:03:09 ID:oel83nfQ
義重までは確かに守護大名の延長線上の印象だね
義宣…江戸、大掾を滅ぼしたり、三十三館を謀殺したり、少し戦国大名らしくなる
480 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 15:30:45 ID:Em9y/gKo
>>479 やっぱ初代昌義公の遺言のせいかね?
「男子たるもの、運がなければならぬ。運とは人との縁である。」
人との縁を重視するあまり、戦国大名的なイケイケに踏み切れなかった。
481 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 17:10:42 ID:oel83nfQ
その遺言は初めて聞いたが
昌義は大掾の娘を娶り、更に藤原清衡を継室として迎え・・・
と婚姻関係を重視して勢力拡大を図った人ではあるよね
482 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 17:11:13 ID:oel83nfQ
清衡の娘ね
483 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 21:18:56 ID:LBU7KBgC
>>478 守護大名形態でも時代は乗り切れるんだね
484 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 00:24:40 ID:lQcY25dw
俺、佐竹義重は好きだよ。
かなりうそ臭いけど単騎で斬り込んだなんて言う逸話もあるし。
弱小諸大名のために右往左往する。頼られて断れない。
ああ!俺こう言う人大好き!!
でもさ、常陸は小田ぶっ潰せるのに、結局降服許すし、
南陸奥や下野もそんな戦ばっかり。
華々しいのって北条戦ぐらいだしなあ。
俺この人の所業で一番わからないのは和田君を信じれなかったことかなあ。
何で、義重の家臣になって数年の車君より、
父の代からの宿老和田君を信じてあげないのさ。
485 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 00:38:49 ID:G66zxl25
486 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 00:54:12 ID:lQcY25dw
>>485 ありがとうございます。
そう言う見方もあるんだね。
蘆名盛氏と車君にまんまとやられただけかと思っていた。
確かに和田君の返り忠で、白川落としてるからなあ。
487 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 01:51:05 ID:gjALUNNW
根拠が薄い仮説だが
488 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 18:30:37 ID:v4B9S3zw
まじか
489 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 23:14:57 ID:LrQisKnL
490 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 11:15:03 ID:KedffVd4
というか昭為の子供は沢山いるよ
分かってるだけで男子は6人いる
和田氏誅滅の流れから行くと
1570年7月頃和田昭為出奔し会津へ向かう
理由は定かではない
説としては
・蘆名白河に内通していたのが露見した
・奥州政策で功名争いから義重の不興を買った
・車丹波の讒言にあった
などが書かれている
ともかく昭為は単身出奔して会津へ向かい
その後、白河義親に招かれて白河氏に仕える
この時点で昭為の離反が確定した為、義重は和田氏の誅滅を命じる
この戦いで嫡男の兵部・次男の彦十郎・三男の善九郎が死亡
四男以下は白河へ逃亡したと思われる(もしくは生まれていなかったか
1575年に佐竹に帰参
ちなみに四男重仲は1588年、大掾氏との戦いで玉里にて討死
(恐らく取手山館の攻防戦
五男頼重は和田氏と同じく佐竹の重臣である小貫氏に養子入りし家督を相続した
六男為宗は昭為の後を継ぎ和田氏を相続した
491 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 11:29:43 ID:lViQhHEB
>>490 ありがとう
和田氏もぎりぎりの選択だったのかな
492 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 21:11:15 ID:KedffVd4
和田氏は奥州方面を受け持っていて
領地も白河氏と隣接する辺りだから蘆名や白河に調略されてもおかしくはない
それに車の讒言と言うのも怪しい
何かしら確証がなければ昭為のような重臣が簡単に追い出されるわけがない
ただ、昭為は単身出奔しているから突発的なものだろうと思われる
それに離反する気があるなら一人で出ていくのはおかしい
やはり何かしらの嫌疑をかけられてやむを得ず出奔したと見るのが自然かもしれない
和田一族を攻めたのは昭為出奔の理由や出奔自体の事ではなく
敵対している白河氏に属した事が原因のようだし
493 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 21:55:25 ID:/oXTK5GY
50get
494 :
人間七七四年:2007/04/09(月) 15:38:31 ID:fQfOoHVm
横車を押す、車丹波
495 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 21:24:47 ID:fJkyRwxE
風雲録だと、義重の政治力が66・・・・
496 :
人間七七四年:2007/04/11(水) 01:39:41 ID:vl0TuhWs
初期の作品は知名度補正がかかってるからしょうがない
497 :
人間七七四年:2007/04/11(水) 08:26:22 ID:k9IC2qGc
全国版は義昭だったかな
山賊の頭みたいな顔だったような
498 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 08:34:53 ID:XyFYwb+O
499 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 08:54:37 ID:elGflP4q
そうだ!そうだ!
500 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 11:32:33 ID:j4BGkyHv
名誉毀損かなんかで訴えられるんじゃ・・・
501 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 14:46:58 ID:fMONBU/F
イ左ケケ 羊 千
我 里
502 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 21:44:19 ID:jCrZYQtL
車氏といえば、風車弥七が復活するね。
(内藤剛志)
あぼーん
504 :
人間七七四年:2007/04/13(金) 08:27:08 ID:jP2bKh+X
佐竹スレだからあれだけど、
残念ながら戦国時代じゃないんだよね
ネタにしては長文で爽快感がない
よって40点
505 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 00:05:37 ID:BOi8/4jI
あめぞうにも似たようなコピペが
506 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 10:33:07 ID:T0U5RiVe
基地外が出没しているようなので、あえて話題をふってみる。
佐竹氏の家政組織をジーっと見ていると、ある家とすごく似ているように思えてくる。
例えば岡本氏。元は岩城家臣だったが、太田の松山に禅院を立て佐竹家臣となる。
関東公方や周辺の大名から書状を頻繁にやり取りし、僧侶という立場ながら
佐竹洞中で大きな権限をもっていた。
北、東、南という佐竹の苗字を持つ三つの家。なんで三つなんすかね。西は江戸時代に
できるけど、戦国時代にはなくて、三つのまま。
これら三つの家は、佐竹氏にとって一門庶子家や外様という佐竹宗家の権限が中まで及ばない
連中を「指南」していた。
そして「側近」に仕えた人々。特に和田昭為、小貫頼久、真崎宣広、根本通国や大縄義辰等々。
彼等は佐竹氏の「直々成敗之地」である直轄領の徴税を行っていた。
文禄四年の知行替えでは大体千石前後以上を宛がわれたり、預け置かれた人たち。
そして上記の「側近」ほどではないが、やはり身近に仕え、
文禄四年の知行替えで百石前後を宛がわれた人々。
彼等は大山や真崎など佐竹庶流のまた庶流だったり、天神林や宇留野など不手際で所領を
没収された庶流の人も大抵ここに属する。
「佐竹幕府」における春屋妙葩、あるいは夢窓疎石=岡本氏。
「佐竹幕府」における三管領=佐竹東、佐竹北、佐竹南。
「佐竹幕府」の政所執事=和田昭為。奉行衆=小貫、真崎、根本、大縄等々。
「佐竹幕府」の奉公衆=大山義種、大山重光、天神林、宇留野、石井一族等々。
「佐竹幕府」の一門守護=江戸、小野崎、大山、小場、石塚、大塚、等々。
「佐竹幕府」の五山=勝楽寺、正宗寺。
そりゃ室町幕府の大名なんだから似ているのは当たり前でしょう、という意見もあるだろうけど。
五山文化と室町幕府の関係>勝楽寺文化と佐竹の関係はそのまま幕府の雛型を思わせるし、
また一門庶子家のあぶれ者が佐竹の旗本を構成しているのも、幕府と奉公衆の関係に
似ていて面白い。
507 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 12:19:45 ID:KjZt6UFD
秋田弁は常人には理解しづらい言葉なんだけどいつからああなんだろうか
関東の言葉が浸透しなかったんだろうか
508 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 12:49:30 ID:9LRomdFK
ぶっちゃけ戦国最強武将かもね義重。
謙信と真っ向勝負できる唯一の武将だと思う。
509 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 13:26:23 ID:PcthvoUb
ぶっちゃけそれは無理だね
510 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 14:03:02 ID:GpD39nOp
>>506 なかなか面白い視点ですね
佐竹にとって鎌倉幕府(とくに出来た当初)は悪夢の時代
足利は同じ清和源氏であるのは勿論、南朝方との抗争を通じての徹底的な同盟者
当初から厚遇されましたし、やはりお手本とするなら室町幕府というのがあったんでしょうね
511 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 15:38:25 ID:T0U5RiVe
>>508 義重は謙信と「真っ向勝負」して「勝った」よ。
比喩だけどな。
>>510 義重(&当然ながら足利義氏)は室町幕府の滅亡を当初認めなかったふしがある。
つっても信長がしたことだから認めねーもクソもねーけど。
512 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 22:58:14 ID:fdaGxRP2
佐竹義俊の母って誰?
513 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 07:02:20 ID:wMZgtCk/
泉ピン子
514 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 11:28:02 ID:qKcDjMe2
つまんね
515 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 18:32:55 ID:c1C3U+1t
>>511 何を比喩してそう言っているのかとても興味があるの
教えてはくれまいか・・・
516 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 00:30:17 ID:5k1h2/Kz
>>403 味方討ちの名人のどこがすごい?
ああ、味方討ちしておいて恥ずかしいとも思わないでいるところかw
517 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 00:46:42 ID:vXM2QHc0
武将としての戦闘能力は謙信かな。
でも外交手腕は義重の足元にも及ばない。
北条と手を結んで関東の武将を見捨てておいて、
手が切れたら関東の武将に援軍を求める、大変虫の良い御方。
義重と比べて外交の失敗が多過ぎる。
自分は信義に厚いつもりでも周りからそう思われてない・・・
義重は、常に同盟勢力に頼られている。
小大名でここまで信頼された人もいないと思う。
518 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 02:51:50 ID:5n978ROn
秋田知事選か秋田市長選挙でも近いのかな?
519 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 11:20:04 ID:PLvR0MIW
>>515 概ね
>>517が書いているようなことなんだけど、補足。
余談も入ってちょっと長くなったが。
言うまでもなく謙信ってのは強圧的な人で、実際関東の大名から嫌われてたんだけど
(成田とか佐野なんか特にそう)、関東のために何かやったかっつーと激しく疑問なんだよね。
義重も永禄後期あたりからかなり嫌ってて、その理由の一つが
佐竹を格下の大名だと思ってるんじゃねーの?ってことなんだな。
謙信は、義昭の代の佐竹には割と頭が上がらないところがあって
(義昭のおかげで管領になれたからね)、書状も厚礼だし、同陣しているのに
禁制も佐竹と上杉で別に出したりとか、義昭に対して一歩引いてるんだな。
ところが義重の代になると、年下だからか、謙信は佐竹に強制的に
事を起こしたり、あるいは起こさせなかったりする。
こういう謙信の態度に義重はブチギレて、天正二年の「関宿争論」が起こる。
謙信としては佐竹と一緒になって、関宿救援をしたかったのだが、義重は拒否。
関宿救援はいいが、その前に血判起請文をよこせと謙信に催促する。
(その起請文の内容はわからないがたぶん上記のようなことだと思う。
あと義重と謙信の間には関東の仕置きの方法について乖離があったんだと思う)
ところが謙信はそれを拒否。結果義重は北条と交渉して関宿を北条方に明渡してしまう。
これには当然謙信もブチキレた訳だが、でももうこの頃には佐竹無しでは関東の仕置きは
不可能になってるってことに謙信も気づいてたんだよね。
その証拠に謙信は上杉軍だけで関宿を包囲してる北条と戦えばいいのに、それをしなかった。
おまけに後で義重の妹に「義重は見込み違いをやりますた。越後から出てきて後悔してます。
でももっと仲良くならなくちゃならないのは謙信も同様に思ってるんです」って言ったりしてる。
520 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 11:20:55 ID:PLvR0MIW
どうも謙信は義重に対して悪いことしたんじゃないか、と思っていたらしく
(これはワタシの勘です)、本当に最後に義重に対してある贈り物をするんだな。
謙信は蘆名盛氏に書を送って、佐竹との一和(同盟)を進める。
知ってのとおりこれは上手くいく訳で、しかもただ上手くいっただけじゃなくて、
盛氏の義重に対する信頼ぶりが結構すごい。
盛氏は二階堂に対して送った手紙の中で、「何分にも以御分別、佐竹へ無二懇望之儀
肝要令存候(とにかくよく考えて、佐竹へ切に頼みいることが重要だと知らせてください)」
なんて言ってる。さらに、例えば信玄は「俺の死は隠せ」と言ったそうで、同盟者にも関わらず
北条はまんまと騙されたらしいけど、蘆名盛氏が死んだときは蘆名の家臣が態々義重に
盛氏が死んだことを伝えてる。そこまで信頼されてたわけだぬ。
こうして義重は大連合を形成するんだけど、別に頼んでもいないのにあの佐野とかが佐竹から養子を
欲しいとか言ってきたり(失敗したが)、由良なんかも北条と手を切って通じてくるあたり、
謙信の剛の政策よりは、義重の柔の政策のほうが上手くいったんじゃないかと。
つまり謙信はラオウだが、義重はトキだと言いたい訳です。
もう義重が謙信に勝ったとか勝ってないとかどうでもいいわ。この野郎。
521 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 13:37:50 ID:oyQg2M0T
>>519 なるほろなるほろ
生きた時代の違いもあるけどそういう観点では
たしかに義重に軍配があがるのー
なんか義重好きになればなるほど謙信しょぼく感じる気がする
野戦は神なんだけど 他がねえ。。
結局上杉との因縁って幕末まで続くのよね
522 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 15:36:30 ID:Vr7tM3ql
謙信と義重どっちも好きなんで、こういう逸話は面白いな。
あの「鬼義重」が外交巧者っていうだけでも良いし
軍神は軍神で「野戦は神だが他は…」っていうのが、なんか長所短所ある野心家って感じで好きなんだ。
523 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 18:56:09 ID:vXM2QHc0
うん。勉強になるね。
俺も謙信のことは好きなんだよ。
武田視点だと、敵ながらあっぱれって、感じ。
でも佐竹視点だと、どうしても損な役になる。
524 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 19:20:15 ID:lEI7rTJe
そうだね
525 :
人間七七四年:2007/04/17(火) 08:18:33 ID:yKfjJGNN
www
謙信が義重や俺らにした悪いこと
小田を同盟者と認めたことで
常陸統一事業を阻害したこと
526 :
人間七七四年:2007/04/17(火) 23:51:58 ID:gunohKcP
527 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 09:38:52 ID:AXbHORI9
佐竹氏って自身や傘下の領土確定ってしっかりやっていたの?
それとも曖昧なまま?
528 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 12:11:45 ID:Ol/8hyTj
天正十八年以前はほとんどやってない。
文禄四年の太閤検地以後はビシッとやってる。
529 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 13:32:13 ID:4D1WBb0S
イメージ何だけど
義重は、職人気質の武将、純粋軍人って感じなんですよね。
領土欲が少ない割に、周りに頼られては、やたらと戦の手を広げて、出兵回数や名声程には、実入りが少ない。
そんなオヤジの後始末を、義宣はうまくやったと思うんですよ。
いち早く、秀吉に味方して、常陸一国の御墨付き。
従わない連中を討伐するは、一網打尽に謀殺するはで、気づいたら、組下与力も含めて80万石の大大名。
関ヶ原での行動も、上手な負け方をしたと思うんですよ。
徳川について、ガンガン戦っても、家康秀忠が、豊臣徳川よりも、古い関東の名族を残しておくか、どうか?
以上、義宣は、オヤジよりも優秀だと思うんですけど、何で、オヤジよりも、知名度は低いのかな?
詳しい方、教えて下さい。
530 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 16:40:45 ID:lycEKrtx
記録を残すのが勝者だからさ
531 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 16:54:07 ID:JX+8nVsC
何て言うか義重の方が日本人好みなんだよね
格好つけて滅んでしまったら意味がないけど、そこまでは行かず
勿論腹のなかはいろいろあるでしょうが、頼られたら裏切らず
義宣はそんな父親が歯痒かったのかな
532 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 16:54:25 ID:Dn+kMHJw
普通に知名度は
義宣>義重
だろう
義重>義宣ってなってるのは信ヤボユーザーだけの認識だと思う
533 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 18:57:59 ID:isQop2bq
というか義宣が実権を掌握したのは秋田に移ってからだよ
常陸時代は義重が実権を握っていた
豊臣家との外交も義重とその代理人である義久がメインに行っている
義重も義久も豊臣との交友は深かったが
秀吉の晩年にはキッパリと見切りをつけて家康に近づいている
だが義宣はやはり二代目である甘さがあったのだろう
三成の言う大義に魅力を感じてしまった
まだ30歳になったばかりの男盛りに
2万を超える大軍を擁していれば
存分に戦ってみたいというのも無理もないとは思うが…
結局義重や重臣達の反対にあい軍を返したが
東軍に積極的に加担するのは義宣の美意識に反したのか
水戸で居座りを決め込んでしまった
やむなく義重と義久が上方に上り弁明に努めたが
義宣は家康から上洛命令が出るまで2年近くも動こうとせず
上洛の際にも戦仕度で赴くなど反抗的態度を変えなかった
義宣が早めに恭順の意を示せば
もう少し佐竹の待遇も良くなったかもしれない
あそこまで反抗的にでられては
家康も他の大名の手前甘い顔は出来ないだろう
だが義宣はそういう形で
西軍に参加できなかった面目を施そうとしたのかもしれない
534 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 19:33:47 ID:Dn+kMHJw
そりゃあんまりにもテンプレすぎな考えだと思うが・・・
535 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 19:58:30 ID:TZETR6nK
関ケ原は後世の俺らからすりゃ家康必勝の戦いだったけど
当代に生きた人間達にとっちゃどう転ぶか判らなかった戦だろう。
よく張り虎の西軍と言われるが、東軍だって上杉攻めの軍の転用だし。
個人的に三成と親しいというのもあったけど
義宣は義宣で戦国大名らしく打算と利益込みで傍観をしたんだろう。
毛利や伊達とかそういう大名も多いし、
義宣は三成と義久は家康とで、いわば二股だし
536 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 21:33:52 ID:VfrBtBmt
>533
義宣は甘かないよ
むしろ果断さは坂東太郎より上だと思う。
三成を七将から躊躇せず助けたんだよ
関ヶ原は欲得ずくで西軍に付くつもりで兵を返そうとするも、
親父が足を引っ張って機を逃したんジャマイカ
537 :
柏木:2007/04/19(木) 23:53:11 ID:XKCi7lo4
初めまして、最近調べて知ったのですが先祖が佐竹氏ではないかと思ってます。家紋が扇に満月が入っていて、息子か兄弟かわからないですが、柏木義兼という人がいます。時代は源平の時代ぐらいです。知ってる方いますか?
538 :
人間七七四年:2007/04/20(金) 07:08:29 ID:pwzLUMRN
>>533 それはかなりどうかと思うお話。
まず常陸時代に義重が実権を握っていたという事実はない。
たしかに義重はほぼ文禄期まで文書を出していたケースが見られるが、
それは義重付の家臣に対してであって、佐竹全体の政策にとって重要な文書ではない。
分かりやすく言えば、「義重の家臣」と「義宣の家臣」という区分があったということ。
こういった文書の受取人がその発給者とって厳格に決まっているという傾向は、
毛利など土地的関係よりも人的関係を重視した大名によく見られる。
義宣が肥前から「年貢をちゃんと払わない百姓は皆磔にしてブチ殺せ」という書状を
国許に送っていることからも分かるが、政治の実権を握っていたのはまぎれもなく義宣。
また佐竹東義久も義重の代理人などではなくて、羽柴方から決められた佐竹羽柴間の
「奏者」だということ。近代以前は政治や外交の当事者同士が直接文書を交わすということは
ほとんどなくて、大抵中間にお互いの意を汲んだ「外交官」がいて、そいつが伝奏となって
音信を交わすという方式。羽柴には石田、上杉には直江、毛利には安国寺、島津は伊集院etc。
さらに上でも言ったように、義宣は全然優柔不断などではなくて、
むしろしゃれにならないほど決断力に富んだ人物。常陸平氏一族当主数十人を暗殺し、
父親である義重に、その義重から一字を貰った江戸重通を滅ぼさせ、
常陸時代からの家老宿郎をまたしても暗殺強制引退させて自らの独裁体制を確立し、
といったようなことを優柔不断の人間ができるわけがない。
539 :
人間七七四年:2007/04/20(金) 07:10:41 ID:pwzLUMRN
じゃあなんで関が原ではしょぼくれてたの?に対する答えだが、
初めから解答を言ってしまうが、義宣は宇都宮を欲しがっていたというのが答え。
理由は言うまでもなく、宇都宮が取り潰されたから。
勿論上杉にとっては徳川を叩くのが主目的だが、佐竹を味方に引き入れるために
已む無く宇都宮侵攻を認めざるを得なかった。
これはほぼ間違いのない話で、結城朝勝(宇都宮国綱の弟)が直江と義宣の間の奏者となって
宇都宮旧臣をそそのかして一揆を煽動しようとしていることからも分かる(文書残ってる)。
ところが石田の蜂起を受けて小山の軍勢が西上してしまい、上杉は態々徳川と一戦やらかす
理由が消えてしまい、佐竹にとっても結城秀康が宇都宮に居座っているために
宇都宮に侵攻するのが極めて博打的要素を帯びているため
(義宣は宇都宮を手に入れるために蒲生と戦するのは仕方ないことだが、
徳川と開戦してしまうのはかなりヤバイ)仕方なく水戸へ帰った。
義宣にとっては(黒田や伊達や上杉etcにとってもだが)関が原は一日で終わるんじゃなくて、
迷走して何年を続いて欲しいと思ってたところだろうが。
だが義宣が父親や義久の言うことを守ったかというと、それもどうも違うようで、
秀忠のもとに派遣された軍勢が義久の二百乃至五百騎程度の軍勢だということからも分かるとおり、
これは純粋に義久の鹿島行方六万石だけのものに過ぎない。
義宣が徳川に味方すると決めたなら五百騎程度ではすまないのは明らか。
従って義久の独断で徳川へ味方したが、家康はこの佐竹の計画全てを知っていて、
のちにあてつけで義久に「加増宇都宮十二万石」(伝説だが)、と言ってみたり、
秀忠が佐竹に宇都宮に約五千石の加増をしてみてたり(これ本当)、もう何をかいわんや。
540 :
人間七七四年:2007/04/20(金) 07:11:39 ID:pwzLUMRN
>>537 ─新羅義光──進士判官義業──+──佐竹昌義───佐竹隆義───佐竹秀義
|
| ──山本義定─+─山本義経─+─山本義弘
| |
|─-山本何某 |─柏木義兼
|─錦織義高
山本氏は近江の水口あたりに所領を持っていた。佐竹昌義が常陸の佐竹に住んだ頃には
すでに分かれていたらしい。柏木という地名が水口に残っているのでその辺を本領としたんだと思う。
山本&柏木一族らは源頼朝が挙兵したときに、佐竹が平家についたのとは逆に、東国方についた。
近江周辺で軍事行動を起こし、平家方の物資を奪ったりした。
だが数では平家方に勝てずに敗れて鎌倉へ逃げ、頼朝の御家人になったという。
その後の消息は明らかではないが、柏木が月扇五本骨の家紋だとすると、同族の佐竹を頼ったっぽいな。
というのは佐竹が月扇の家紋を貰うのは、頼朝に討伐された後、奥州平泉攻めのときと言われているので、
そのあとに佐竹と何らかの関わりをもったのが類推できるということ。
でなければ同じ家紋になるわけがないしな。
541 :
人間七七四年:2007/04/20(金) 10:12:30 ID:JzAIu7z/
佐竹義俊の母って誰?
542 :
人間七七四年:2007/04/20(金) 11:24:38 ID:bnFw2lOg
543 :
人間七七四年:2007/04/20(金) 17:26:58 ID:ufxMad7Q
そもそも義宣が関ヶ原で義重や義久の反対に合って傍観した
という話しは何か裏付けあるの?
単に義宣自身が迷ってそういう態度に出ただけだと思うが。
家譜なんかでは義久がやたら悪者扱いされてるのも不可解
主家を飾るのに人柱にされたんじゃないだろうか
544 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 02:52:20 ID:+ZYr29iu
>>542 じゃあ義俊以降も本来の佐竹の血は一応入っていたんだ?
545 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 08:53:50 ID:YzzlRlZS
>>544 持っている本にはそう書いてあるが、裏は取れていない
546 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 09:55:23 ID:Hy833lGq
義宣の凄さは、粛清を文字通り、一網打尽にすることかな。小田原の陣後と秋田転封後の、大事な節目で二回も行っている。
547 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 11:20:47 ID:IqTQa/gP
人の心を動かす力を持たない人間がよくやることだ
548 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 11:22:21 ID:fAi+d9LU
秋田には譜代家臣てかなり少ないんじゃないの?
常陸から移ったのは僅か93騎だし
常陸時代は1000騎以上はいただろうから大半は置いていったのだろう
更に粛清や追放してるし
549 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 11:57:50 ID:Hy833lGq
魅力に乏しいってのは、理解できるけど、小物なら、媚び売ったりするんだろうけど、それを割り切って粛清するところが、大物感を漂わせている。
スターリンや毛沢東は、悪人だけど、大人物と同じ理屈かな…。
550 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 13:16:55 ID:ml+gxN+I
>>549 日本人はロシア人や中国人と違って粛清をあまりしない民族性だから、
それをやったからと言って大物感とかそういうのとはちょっと違う。
ロシアとか中国は虐殺を受け入れる下地があって、はじめて粛清が評価されるけど、
日本でそれをやると非難されるだけ。
信長が大物なのは、粛清を行ったからではなく、それを補って余りある改革を
当時の人間にも今の人間にも証明しているところ。
義宣の粛清は、とくに小田原陣後のほうjは
「父親と比べて小物」と言われ続けた黒田長政のだまし討ちと通じる小物感がある。
551 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 13:23:56 ID:o0fVMzH9
粛正と虐殺は違うだろ
552 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 16:10:15 ID:sNKtXBS2
戦国時代ならどこの大名家でも
粛清やってるだろ
553 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 16:29:38 ID:ml+gxN+I
しかし一番有名な功績が粛清という大名はそう多くない。
長政のように石田がらみで関ヶ原にエピソードを残していれば
またちがっていたのだろうが。
554 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 18:51:59 ID:R6ClB7PA
何時、義宣の一番有名な功績が粛清になったんだ?
555 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 19:02:57 ID:fAi+d9LU
義宣の最大の功績は常陸統一でしょう
佐竹の名の下に常陸を掌握したのは義宣だけではないだろうか?
そして常陸を失ったのは最大の失敗
佐竹歴代で最大の功績と失敗を併せ持つと言える
556 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 19:27:43 ID:Hy833lGq
徳川幕府の世の中で、佐竹が常陸で生き残れたかなぁ…?
かなり、難しそうな気がする…。
里見しかり結城しかりだよな
558 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 19:39:52 ID:+NGUrVT2
沖縄県の方へ(命に関わる注意事項です)
沖縄県での選挙ですが、どうか民主党だけは避けてください。県民の生命に関わる可能性があります。
民主党の最大の公約は一国二制度(※)ですが、一度「一国二制度 沖縄 三千万」等で検索をお願いします。
この際、民主党のHPで調べても良いです。以下の注釈↓と矛盾することは書いてないはずですから…
※一国二制度
簡単に言えば沖縄を中国と日本の共有物にし、そこに3000万人の中国人を入植させます。
(つまり沖縄人口の 96% を中国人にして、実質、沖縄を中国人の居住地とします。)
さらに「自主」の名の下、沖縄で有事が起きても自衛隊は干渉できません。
3000万人の中国人が、少数派となった130万人の日本人に何をしても、です。
そして反日教育を受けた中国人の反日感情の強さは、ほとんどの日本人の理解を超えるものです。
今回の選挙で民主党が勝った場合、「自主」「発展」を連呼しつつ段階的に進めていくことになります。
自主と言っても、自主を認めるのが「住人の96%が中国人となった」後だということに気をつけてください。
発展と言っても、新沖縄の少数派となった「少数民族日本人」の発展ではないことに気をつけてください。
559 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 20:16:38 ID:SpP5szo6
>>550 信長とて改革が認められたのは後世の話で、
当時は「魔王」以外の何者でも無かった。
ただ、絶対権力者だから非難を封じ込める
事が緒出来ただけで、その事情は中ソの独裁者
と然程変わらん(尤も、後世でどう評価されるかは
別問題だが)
>>558 選挙活動の期間は午後八時で終了だからね
560 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 22:05:35 ID:qPyPUoyA
>539
>義宣は宇都宮を欲しがっていた。
なるほどっっ!!知らなかったー、いいこと教えてもらったな。
上杉が白川で徳川との戦況に応じて、宇都宮に進行するか徳川の背後を襲うかを決めればいいわけだ!
宇都宮家は佐竹与党だったからね。浅野のせいで片腕をもがれたわけだし。
そういえば、宇都宮取り潰しで不可解なことがある。
佐竹は徳川包囲陣にあり、宇都宮も当然佐竹=上杉=石田ライン
その豊家への奏者は石田でしょ。なんで浅野に替わったんだろ?
561 :
人間七七四年:2007/04/22(日) 01:39:19 ID:ly3pW90W
>>556 江戸に近い常陸では生き残れなかっただろうね。
562 :
人間七七四年:2007/04/22(日) 10:10:27 ID:L791cbDM
>>560 浅野は譜代どころか一門だし
包囲網としては何の問題もない
もっとも宇都宮退去後、藩主になったのは蒲生だが
左遷の地にするぐらいだから
それほど重要視してなかったんだと思う
563 :
人間七七四年:2007/04/23(月) 20:10:36 ID:tmXStkBT
>556,561
関ヶ原で徳川についてたら
加増して九州あたりに領地換え→いちゃもんつけてお家取り潰し
がいいとこだったかと。。
564 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 00:04:31 ID:M9H8pz7c
徳川から養子もらえたかもよ。
そしたら外戚ながらも源氏嫡流と血縁関係になれたら徳川も潰すマイヨジョンヌ
565 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 21:10:58 ID:cesF+/Pj
子供居なかったからな。
確かに養子入った可能性が高いかも。
でも関ヶ原の時点だとまだ30だし
このまま世継に恵まれないと予測するには難しい気がする。
566 :
人間七七四年:2007/04/25(水) 19:38:23 ID:fXHahy7f
>>560 宇都宮改易の理由はいくつかあって定かではないが、次の三つが主なものらしい。
1.太閤検地によって打ち出された石高が、以前の表高18万石に対し
倍以上の39万石だったことにより、不正を咎められたため。
2.奏者を石田三成から浅野長政に変えることを拒否したため。
3.浅野長政の三男長重を養子とすることを断ったため。
またその養子の話で家臣同士の争いに発展したことを咎められたため。
1.だが、これは全くありえない話。断言していい。
まず太閤検地以前の18万石は小田原陣直後の差出で、当座のものだった。
実際に縄入されれば、以前以上の高が表れてくるのは豊臣政権の経験として
すでによく認知されていたこと。天正18年の高野山の検地で、以前の申告の
3千石の17倍の5万石が出てきたため、「曲事」とされて約2万石に削減されている。
また佐竹は小田原陣後の差出約25万石にも関わらず、文禄の検地で54万石が
出てきたが、なんの咎めも受けていない。という訳で、少なくとも差出と縄入の
高の違いで、高野山は減封なのに宇都宮がいきなり改易というのは有り得ない。
2.下野宇都宮領の検地奉行は浅野長政だったため、そのことで石田から
浅野に代わった可能性がないでもない。佐竹の54万石のうち、石田と増田に
3千石づつ知行が設定されているので、大名の領国中になんらかの関係をもった
豊臣方の奉行に利権が発生すると見ていい。つまり太閤検地後に宇都宮領から
数千石程度が浅野に割かれ、且つ浅野が奏者になったのではないかということ。
3.おそらくこれが真相に一番近いんじゃないかと思われる。
長重養子の話がどこまで進んでいたかは分からないが、そのことで芳賀高武と
今泉高光の争いに発展し、どうもいくさになったらしい。
1.や2.は宇都宮が家中の統制を欠いたという自分たちの責任を隠すため、
体面を保つための後付けの理由じゃねーかと思うんだが。
>>564-565 徳川が外様旧族大名に養子を出したことは、少なくとも近世初期は無い。
家康には相当数の子供がいるにも関わらず、ほとんどが分家を立て、
例外の秀康は秀吉によって結城を継がされたこと、信吉は断絶となった
武田を復興するという形であることを見ても、徳川は他家に養子を出すという
意思は全く無かったといっていい。
という訳で、はっきり言って佐竹に養子が入ることは有り得ない。
567 :
人間七七四年:2007/04/25(水) 20:39:58 ID:tP0YFzQJ BE:474204858-2BP(0)
とするとやはり
叛意なしと思ってもらえる程度に減封される が最善の結果か。。。
ほとんど博打だけど、よく生き残れたね
城を築いたのが窪田だったのも幸いしたのかしら
568 :
人間七七四年:2007/04/25(水) 22:56:39 ID:eV1Vil7f
569 :
人間七七四年:2007/04/26(木) 09:43:58 ID:JW9iIOoM
>>567 はっきり言って、佐竹が転封される理由なんか全く無いんだよ。
義宣には何の過失も無かったし、上杉討伐から
関が原に至る戦いでも明らかに「東軍についた」んだから。
棚倉まで出たのは徳川の命令だし、棚倉から帰ったのも徳川の命令。
直江らと怪しいメールを交わしたのは事実だが、
徳川方に造反するようなことは何もしてない。
徳川に人質を出せといわれたときも、すでに「上方に人質を出している」と言って
拒否したのは非常に筋が通っている。
その人質をどうするかは豊臣方(=家康と石田)の問題で佐竹の問題ではない。
つまり徳川へワタクシに人質を出す理由なんてない訳だ。
後世の我々は、徳川が征夷大将軍となって幕府を開いたこと、
豊臣とは独立した政権を持ったことを知っているから、関が原への一連の擾乱で
佐竹が徳川に味方しなかったということで転封されたことを納得してしまうが、
当時の状況としては極めて理解不能なことのはずだ。
豊臣方(徳川)の指令は全て聞き入れ、且つ反乱者(=上杉方、石田方)には
味方はしなかったが、積極的に豊臣(=徳川)へ味方しなかったので国替え、
という論理はどう考えても無茶苦茶です。
な訳で家康は、義宣が石田方だったと思わせるために、色々喧伝したようだ。
★豊臣のお馬鹿メン七人衆に暗殺されそうになった石田三成を、義宣が助けたということ。
(事実だろうが、豊臣政権内部ではたいして重要でもなかった
佐竹のエピソードとして何故かこれだけがクローズアップされている)
★佐竹義宣ってホント律義者じゃない?
(誉め殺し。「律義(=石田三成に対して)者」と賞賛するが、よく考えると何が律儀なんだw
思いっきり徳川の命令聞いてるじゃねーかwwまた義宣が常陸統一過程でしたこと見れば、
とても律儀なんていえない。それは義宣自身が良く分かっていたはずだ)
★義宣は形勢観望し、両端を持した。
(何度も言うが、義宣は完璧に徳川の命令で動いていた。
もはや義宣を悪い子ちゃんだと思わせるために形振りかまっていられないらしい)
ということで、佐竹を出羽へ転封させたのは徳川(特に秀忠)は
申し訳ないと思っていたようで、出羽半国にも関わらず国餅大名とされ、
佐竹の知行高が明示されたのが国替えの60年後という事実をみても、
徳川が佐竹の対処に悩んでいた形跡が読み取れる。
570 :
567:2007/04/26(木) 12:53:39 ID:iQ405wGR BE:142262126-2BP(1)
>>569 とすると、家康としてははじめから佐竹に対して
国替えはさせても、潰そうとする意図はなかったのかしら。。
佐竹を源氏の嫡流として保管しておきたい意味もあったのかな。。。
携帯からなんで改行等おかしかったらごめんぽ
571 :
人間七七四年:2007/04/26(木) 17:02:37 ID:B1AKjiJX
素直に常陸に居座られると何かと困るからどいてちょて言えばどいたか?
もともと太田時代は20万石くらいだから
豊臣政権時代の54万石は忘れてってとこか
たしかに家康は豊家時代の出来星大名よりも
命家を大事にしてるように感じるね
572 :
人間七七四年:2007/04/26(木) 18:15:56 ID:WHBkKA84
確かに佐竹が常陸に残れる可能性はゼロと言っていいが
だからと言って減封が絶対と言うわけではない
上手く立ち回れば同等の国替えや
加増転封の可能性だって当然ある
やはり秋田減転封は下手うったと言わざるを得ない
573 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 09:49:13 ID:cnmR1g1H
減転封って言うけど、出羽半国は実高45万石ぐらいあるぞ
574 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 10:21:33 ID:s8RmaJ/g
加封されたって貧しい土地に移されちゃしょーもない
日本海、東海道、瀬戸内海、伊勢湾、この辺りの交易ルートから外れたらとても豊かとは言えない
伊達なんか仙台に入ってすごい苦労してる
575 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 12:46:12 ID:peIHCS8N
出羽は交易上も豊か
576 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 14:30:56 ID:eMAyYuIs
>>569 徳川本体は佐竹を減俸したうえで常陸に留まらせておくつもりだったらしい。
平安末期からの名家に加え、北東という鬼門、住民との親和度から、統治の上ではいちおう常陸残留が家康の所存だった。
家康は秀吉から関東を与えられてから、「吾妻鏡」を東国統治の参考資料として座右に置いていた。
加えて後北条氏との交友から、関東の地が関西以上に豊穣の地であることも耳に入っていた。
それに異議を唱えたのは本多正純。
島津が転封なしだったのは、島津の本拠が薩摩という、中央から見れば南の最果てで、これ以上遠い地がなかった。
蝦夷地か東北だったら、移転途中で京を通ることになるため、騒ぎを起こされたら事だから。
佐竹の移封が最後の最後にもつれたのは、本多と徳川の交渉がもつれにもつれまくったためというのが真相に近いか?
>>574 当時の交易中心は船。特に盛んなのが日本海側。
転封当時の秋田(久保田)は確かに数万石程度しかなかった。
実際前の主の秋田氏は5万石余だったし。
開墾奨励に加え、鉱山開発、林業管理、土崎湊の北前船の中継地化と、義宣公のスタッフはさまざまな富国策を編み出した。
結果、稲作+金銀鉱物+建築木材が主要産品となり、北前船を介した蝦夷地や京・江戸の物産と交換出来、四倒れとも言われる裕福な生活が出来るようになった。
577 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 14:46:18 ID:eMAyYuIs
再来年の大河は「天地人」直江兼続が主役だそうです。
直江状をめぐって、果たして義宣公の出番はありやなしや?
578 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 14:54:36 ID:WJ6iC0sf
佐竹義宣公が転封された最大の原因は江戸に近すぎたということでFA.
579 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 15:00:16 ID:peIHCS8N
最大なのがその点なのか、関ヶ原関連かは別として
原因の一つではあると思う
580 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 17:04:28 ID:SBuld6tN
>>576 秋田氏の領土と佐竹氏の領土の大きさも考えずにさも佐竹氏が入ったから裕福なったみたいに言うね
581 :
仙台藩百姓:2007/04/27(金) 17:07:55 ID:WAi+w58B
親藩でも格式の高い水戸藩でさえ20数万石
常陸半国程度しか与えられなかったお
その水戸藩が関東で最大
外様は追いやられ4藩しか残らなかったお
その中で最大のものは大関藩の18000石だお
1万石程度にならない限り佐竹が関東内に残れるわけないお
義宣なんて何もやってないのだから
お情けで20万石も貰えれば十分すぎるお( ^ω^)
582 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 17:32:03 ID:s8RmaJ/g
つか秋田は石高過小申請してたろ。
その時点で蔵入り地含めて七万五千石ぐらいだった筈。
海商貿易を石高換算して実高計れば、旧秋田領だけで相応のもんがあったろう。
おまけで旧戸沢領(結構肥沃)、旧小野寺、由利までついてきたんだから
他の転封大名に比べりゃおいしい買い物ですな。
583 :
仙台藩百姓:2007/04/27(金) 18:24:39 ID:WAi+w58B
実高が表高を上回ってるのはどこでも同じだお
常陸だって実高は90数万石と言われているお
表高が一致するほうが珍しいお
584 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 19:55:12 ID:zjNcs1nI
いや水戸藩は実高に満たなかったよ
585 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 21:53:38 ID:o1PcXGdy
水戸藩は史上最低の暗君が君臨してたからな。
586 :
仙台藩百姓:2007/04/27(金) 22:30:54 ID:WAi+w58B
水戸は表高35万石
実高は30万石程度
下野にも多少領地があったから常陸内は30万弱と思われるお
つまりは水戸領を除いた常陸半国で
実高60万石あったと言う事になるお
水戸藩が真面目に統治してれば軽く100万石超えはしたお
本来は水戸領が常陸国内のメイン耕作地であるのに
なんとも酷い有様だお( ´ω`)
それでも一揆天国の久保田藩よりかマシけど(≧ω≦)
587 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 23:25:20 ID:SBuld6tN
沼田→松代の真田とか哀れだな
海上貿易に関して言えば、佐竹より安東の方が上手だったろうが
鉱山経営は佐竹の方が上手かったとオモ
まぁ地元に残ったままの大名は、家臣団の統制が大変で
逆に移封のさいに家臣団バッサリできて大名の集権が可能になった家が多いな
588 :
人間七七四年:2007/04/28(土) 00:13:22 ID:44OFkuNW
まぁ秋田時代の佐竹は酷い有り様だったけどな
ぐだぐだの藩政は最悪の部類に入る
佐竹て存在は地味だけど
案外派手好きで浪費家の殿様が多い
589 :
人間七七四年:2007/04/28(土) 02:04:54 ID:Guz2CTzQ
旧秋田氏の領地で、実高20万
秋田実季は、それを5万(太閤蔵入地2万5000)として過少申告
佐竹氏の領土は、旧秋田両に加えて、旧戸沢領・小野寺領を
加えていたので、入封時点での実高はかなり高い
590 :
人間七七四年:2007/04/29(日) 00:29:58 ID:szfENZMj
ほほう
591 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 07:44:41 ID:iXAxZ4/W
佐竹の一族に真崎氏っているよね。
中でも真崎重宗は、兄貴の首を取り返すと言う、
全国でも稀な武勲を挙げた人物。
その真崎氏も秋田に行ったの?
それとも常陸に残った?
詳しい人教えて。
592 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 17:07:31 ID:mTT3WkLB
ちょっと長いが補足。
久保田藩の20万石という数字だが、これは実際の年貢高(斗代)を表したものじゃない。
大名の地位(知行高)を表したもので、佐竹はそれだけの位に落とされたということ。
だから実際の年貢高(斗代=実高)はもっとあると言ったって、格が上がるわけじゃない。
実際の年貢量なんて、それこそほとんどの藩は表高より多いんだから。
んで徳川は当時大体思い描いていた佐竹の新しい知行高に基づいて
国分けをしたはずなので、おそらく国替え当初は、秋田郡仙北郡(当初の佐竹領)は
20万石前後と考えられていたとは言える。
ついでに徳川はどうもあとで檜山(山本)郡等の知行宛行状に記されていない
地域の領知も認めたようなので、実際には20万石以上あったのは確実。
あとよく検地で過少申告していたというが、差出による検地では仕方のないこと。
常陸の佐竹も初めは20万貫(25万石くらい)だったのに、あとで54万石出てきた。
出羽国も文禄時代にきちんと縄入れの検地を行ったので、もっときちんとした
数字が出てきていたはず(ただし確定された高を示す文書等は残っていないようだ)。
関東では天正検地→文禄検地で二倍強の数字が出てきてることからすると、
出羽ではそれ以下だったはず。1664年に知行目録が与えられる際に、久保田藩は
実高が32万石だと幕府に言って、知行高もその通りにするように願い出たという
話があるが、これが文禄検地のときの水準にかなり近い数字だと思われる。
この知行目録では秋田郡と山本(檜山)郡の高が合わせて65千石になっていて、
これは安東秋田時代の75千石より1万石も少ない。
豊臣は縄入れ検地の結果を重要視したけど、徳川にはどうでも良かったようだね。
ちなみに豊臣政権の検地は田畠から取れるもの以外の生産品も石高に入れて数えたので、
当然佐竹領20万石の中には杉の材木の生産高も入ってる(秋田郡仙北郡)。
その秋田杉は実季の時代から利用され、伏見城の普請とかにも使われてる。
>>591 国替えのときまで重宗=宣宗とその息子宣広が生きていたかどうかは定かではない。
ただ生きていたとしたら、出羽へ行かないはずはない。
重宗は佐竹の宿老の中でも、和田昭為、小貫頼久に続く重要な人物で
真崎自体那珂湊に数千石を預け置かれるほどの家。
孫?の宣伊は出羽へ行っている。
593 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 18:28:40 ID:iXAxZ4/W
>>592 ありがとうございます。
真崎って、結構凄いんだね。
和田・小貫の次だったのか。
知らんかった。
594 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 01:31:21 ID:zE/SyXTw
真崎は他の武将とは毛色が違う
真崎氏の城館である真崎城は
海岸に面した水城である
そして、太平洋沿岸と那珂川の水軍を統括していた
また、塩の生産もしていたと言われる
朝鮮出兵の際も船奉行を勤めており
秋田移封後も湊城に入り水運を担当した
真崎氏はいわば佐竹水軍の大将と言える
595 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 04:07:28 ID:Gviz1iqY
真崎城の辺りが海だったなんて今じゃ全然信じられないね
たしか東海の原研の敷地内で塩の生産跡の遺跡も発掘されているんじゃないかな?
あの辺りは久慈川もあるし、塩の生産ともに重要なところだったんだね。
596 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 05:43:58 ID:2zSBZ1T7
佐竹は取り潰した庶子家(宇留野や天神林)や、国人、庶子家の庶子などを旗本や近習として
取り立てていく制度みたいなものがあったと思われ、真崎も庶子の彦六郎を太田城下に
住まわせ、義重は後で一字を与えて重宗と名乗らせたらしい。
他にそういう感じの人々は大山重光、車斯忠、宇留野義長とかがいる。
真崎の場合惣領は重宗の兄義保だったが、義保が壬生で戦死したため、
重宗が真崎の惣領となった。ところが重宗は義重の近習でもあったので、
真崎の本領を差配しながらも太田城にいるという状況になり、次第に真崎は佐竹宗家
に直に仕置きされるようになっていき(おそらく重宗は真崎領の「奉行」に近い感じに
なったんじゃねーかと思われる)、那珂湊は義宣の代では完全に義宣の蔵入地とされ、
改めて二千数壱百石を預け置かれるという形になる。
重宗は、義宣の代に宣宗に名前を変えて義重の家臣から義宣の家臣となっていたり、
佐竹義久との不思議なエピソードを見ると、結構おもろい人物だったようだ。
ちなみに那珂湊は久慈水運と那珂水運の物資輸送の中継地点で、
水戸と太田をつなぐ重要な場所だった。
597 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 22:21:21 ID:c9SWp3NJ
二千数壱百石?すkないのぉ
598 :
人間七七四年:2007/05/04(金) 00:25:24 ID:1Rg13KlA
少なくはないよ
1000石て言ったら家老レベルだし
東義久は別物として
例えば城を預かった重臣でいくと
南義尚6246石
江戸舜通5890石
真壁房幹4571石
大山義景4012石
石塚義辰3776石
小貫伊賀守2770石
梶原政景2703石
宍戸義長2451石
長倉義興2321石
真崎宣広2113石←
太田景資1808石
松野資通1417石
小貫頼久1261石
山方右馬介953石
小野崎千代房900石
川井大膳821石
出沢筑後守799石
中田駿河守717石
このような感じで高い地位にいる事が伺える
599 :
人間七七四年:2007/05/04(金) 17:05:23 ID:e70qTtzO
>>598 南義種の間違いのような・・・
これを見ると梶原も結構待遇良かった方なんだ。
でも越前亡命後の方が裕福そう。
600 :
人間七七四年:2007/05/04(金) 18:09:52 ID:1Rg13KlA
>>599 義尚についてはよく分からないんだよね
義重の弟で那須氏に入嗣し那須資綱となり
その後常陸に戻り南義里の養子になり南義尚を名乗った
そして嫡男が義種なわけだが
いつ家督が譲られたのか諸説あって明確ではない
1571年に没したと言う説もあるが
茨城県史では1590年に府中城に入ったのは義尚としている
梶原政景は越前松平で2000石だから
佐竹時代のほうがやや禄は高いかな
いわくのある人物だけど
新参者で2000石は厚遇と言えるね
601 :
人間七七四年:2007/05/04(金) 20:19:34 ID:e70qTtzO
>>600 勉強不足でござる。面目無い。
それにしても、江戸や真壁の評価の高さが意味解らないけど。
どうして?
602 :
人間七七四年:2007/05/05(土) 10:48:31 ID:d/HyT68o
茨城県史中世編第1章第2章は網野善彦が書いていてクオリティが高いが、
第4章第5章のクオリティはかなり低いので、話半分で見たほうがいい。
適当にパラパラめくってみただけで、かなりのいいかげんな記述を指摘できる。
佐竹南義尚はあんまり活動のあとがないので、やっぱり早死にしたと見ていい。
江戸は常陸の守護代だし、一貫して佐竹とともにあったので、
江戸重通をぶっ飛ばした後に、旧江戸家臣を巧く支配するために
一族の江戸舜通(誰だ('A`)?とやらに江戸氏を継がせたんだろう。
真壁も比較的早くから佐竹に従属して、かなり役に立ってきたので、
そういう意味でやっぱりたくさん禄をあげたんだろうな。
それでも義宣はかなり削ってると思うけどな。
あと知行を宛がわれた人達は旧領主旧国人で、
義宣の蔵入地を「預け置」かれた人達は旗本っつー違いがある。
603 :
人間七七四年:2007/05/05(土) 16:01:07 ID:LHqsmvDj
佐竹の常陸統一の為に
まず取り除かなくてはならないのは
南部の二大勢力である小田・大掾であり
江戸や真壁はそれらに隣接する最前線に位置していた
だから南部進攻の足掛かりとして非常に重要であり
また、佐竹義昭の代になると奥州での戦いも激化していて
常陸を留守にするにあたって
江戸や真壁との親交は必要不可欠のものであった
だから佐竹も彼らの懐柔に心を砕き
彼らの地位も必然的に上がっていった
江戸氏に関しては簡単に介入できない程の勢力になっていて
優遇せざるを得なかったと言う背景もある
江戸宗家を追ったと言えども
県央に勢力を張っていた江戸氏の影響力を
一朝一夕に廃除できるわけでもなく
義宣が水戸に居城を移してからは
国人達の慰撫の為に江戸一族の力は重要であった
604 :
人間七七四年:2007/05/05(土) 16:48:32 ID:X8xnZMrU
佐竹って常陸統一したのか?
下妻の多賀谷とか下館の水谷は結城に従属(半独立?)だけど
常陸国だよな
多賀谷はどうか知らんけど、
水谷は佐竹には降ってないはず
605 :
人間七七四年:2007/05/05(土) 20:48:13 ID:4vLw0wjn
多賀谷重経age
606 :
人間七七四年:2007/05/05(土) 20:49:38 ID:LHqsmvDj
正確には全て佐竹領ではないけど9割以上佐竹領だから
統一したと言っても差し支えないかと
どの大名も〇〇国を与えられたと言っても
実際は無数の飛び地が存在していて丸々一国と言うのは少ない
水谷氏や多賀谷氏ら結城四天王は
豊臣政権下では結城氏の与力大名という位置付けとなった
しかしながら大名として正式に認められた事となる
しかし多賀谷重経は結城秀康と折り合いが悪く
家中を二分して子の三経は結城に
自らは佐竹から養子を向かえ嫡男とし佐竹の与力となった
ちなみに佐竹は常陸54万石石と言われるが
実際は陸奥国東白川郡周辺や下野国那須郡周辺も含まれている
607 :
人間七七四年:2007/05/06(日) 00:13:47 ID:S/G1uSTj
信濃の鉄道遺失物タクシードライバーコロンボ検事を見てて暇なので適当に書くぜ。
佐竹東の一代目政義の「政」は足利政氏の「政」。高嶋政伸の「政」ではない。
政氏は内乱を克服した佐竹義舜を私的な「管領」として東国の右京大夫に任命し、
その補佐をさせるという意味で、家中で有力だった義舜の弟に一字を与えた。
本来右京大夫は管領細川家にしか許されないので、
幕府の永禄諸役人附では「佐竹修理大夫義昭」となっている。
多くの大名がこの右京大夫に伍すという意味で左京大夫への任官を幕府に
求めた訳だが、義昭は勝手に右京大夫を名乗る。結構厚顔な人物だったようだ。
義重の時代、織田信長は佐竹に手紙を出すときに、佐竹の官途は何か調べた。
有職に詳しい坊主か誰かに聞いたんだろうが、佐竹は「右京大夫」だと言う。
信長は細川家に遠慮して「右京大夫」はまずかろうという訳で、
「佐竹左京大夫」と書いて手紙を送った。義重は喜んだに違いない。
ところがあとで信長が朝廷に奏上して任命させた義重の官途が「常陸介」。
隣の格下のはずの江戸は「但馬守」。「常陸守」にはなれないのは分かっているが、
義重はむかついたに違いない。義重は自分から「常陸介」を名乗ることはなかった。
義重としては自分は「右京大夫」だという自負があったんだろう。
だって伊達も北条も「左京大夫」なんだから。でも義重は親父ほど厚かましくは
なかったので、朝廷や足利に無断で勝手に右京大夫なんて名乗れない。
なので義重は手紙に自分の官途を記すことはなかったとさ。
さて豊臣の時代になると事情は変わり、幕府も終わって管領細川家は消滅した。
秀吉ってのは流石にひとたらしと呼ばれるだけはある。
筋としては細川藤孝か忠興でもいいと思うが、佐竹義宣を右京大夫にしてやった。
佐竹家は関東府の私的な「右京大夫」ではなく、正式な「右京大夫」になった。
こうして近世以降、右京大夫は佐竹家の官途となったのだった。
ちなみに半基地外の細川忠興は佐竹義宣の茶の湯の先輩でもあるが、
佐竹の国替えのとき、本多正信に出羽一国にしてやれよと意見してやったという。
一方管領細川家の末裔細川頼範は母親の縁で、
出羽から常陸に移された秋田家に寄食した。
ついでに義重の妹が「せうしやう」とか、奥さんが「小大納言」というのはデタラメ。
少将も小大納言も付き人の名前です。高貴な女性、
特に誰かの奥さんになっている人に手紙を送るときは、恐れ多いので、
直接相手の名前を書いて送ってはいけません。それがサムライの嗜み。
秀吉も自分の妻であるおねにさえ、手紙を送るとき、侍女の「こほ」に宛てている。
信長さえもおねに手紙を出したとき、「とうきちろうおんなども」に宛てている。
どこの大名家の家中にも「小少将」とか「ナントカ納言」という女性が必ずいるけど、
こういう名前の人はみんな高貴な女性の付き人です。
と、戦国史研究48を見て思ったことを書いてみますた。
608 :
人間七七四年:2007/05/06(日) 10:21:51 ID:UplLF/fp
こんなの要約して五行で書け馬鹿wwwwww
609 :
人間七七四年:2007/05/06(日) 20:47:39 ID:qieVdtgw
610 :
人間七七四年:2007/05/09(水) 09:42:08 ID:W1W2TwwR
あげ
611 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 00:46:28 ID:s5X8l5yd
暴れん坊将軍の姉ちゃんは秋田に嫁に入ってあるのね
612 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 01:31:22 ID:Fh/VAUYN
>611
お主
時代劇チャンネル見てるだろw
613 :
人間七七四年:2007/05/12(土) 09:54:50 ID:wRwoTifD
おまいら何の話を・・・・
614 :
人間七七四年:2007/05/14(月) 09:45:58 ID:iSM6Hm77
ドーピングコンソメスープ
615 :
人間七七四年:2007/05/14(月) 16:18:27 ID:IhAXJxwB
結局、義重の男系子孫は残ってるのでしょうか?
616 :
仙台藩百姓:2007/05/14(月) 17:17:38 ID:5An23Mw7
相馬宗家と織田宗家は
義重の男系子孫と言えなくもないのではないかお?
617 :
人間七七四年:2007/05/15(火) 22:20:33 ID:W1siQ80a
>>606 土浦とか旧小田領の大半は太閤殿下の御養子の結城秀康に授けられた筈だが。
618 :
人間七七四年:2007/05/16(水) 10:40:36 ID:hqw+2JXf
ウチ土浦駅から1kmなのに・・・・
619 :
人間七七四年:2007/05/18(金) 09:42:26 ID:yY/vTq/R
関係ねぇよw
620 :
人間七七四年:2007/05/20(日) 02:16:18 ID:vFd6Zrfa
620get
621 :
佐竹に問う者:2007/05/20(日) 03:59:48 ID:cVr7Z4dC
結局のところ、佐竹氏には上杉の血が入り
新羅三郎義光の流れは続いていないんですね?!
義重・義宣の血を引く流れは現存するのでしょうが、
佐竹氏が拠り所としてきた源義光との繋がりは既に昔のお話ですよね。
でも、上杉から養子を入れる前に分家した庶流で
新羅三郎の流れを保っている一族はあるのでしょうか?
622 :
人間七七四年:2007/05/20(日) 09:06:33 ID:LEdcyO1+
山入一族の反乱で滅びたんじゃない?
623 :
人間七七四年:2007/05/20(日) 11:41:29 ID:nQ3PAjVn
>>621 上杉家から義人が養子として入ってきたが、正室は源姫(佐竹血統)
義人と源姫の間にできた子が、次の当主である義俊だから
本当に佐竹の血が入ってないのは義人だけ
624 :
仙台藩百姓:2007/05/20(日) 11:44:25 ID:kMcJZGzR
室町期になると常陸に於ける佐竹の支流は
200家ぐらいあったそうだお( ^ω^)
今でも相当数いるはずだお
漏れの知り合いにもいるお
625 :
人間七七四年:2007/05/20(日) 17:31:36 ID:Egm9ISYh
佐竹って上杉に見捨てられたら滅びそうになった雑魚豪族でしょ。
で、滅ぼされそうになって上杉通じて秀吉に泣きつくが結局関ヶ原でぺしゃんこにされる。
大阪の陣では上杉軍が30000万の敵兵を打ち破ったのに、佐竹は撃破されて惨めに逃走。
仕方なく上杉軍が出て来て撃破。
なさけねえ。
626 :
人間七七四年:2007/05/20(日) 17:35:18 ID:Bj9FhI8x
3億かよ
627 :
人間七七四年:2007/05/20(日) 17:41:29 ID:Egm9ISYh
なんで、東軍について佐竹って田舎に移住させられたの?しかも100万石持っていたのに15万石という上杉以下。
笑えるね。腹筋がなくなりそうだ。
628 :
人間七七四年:2007/05/20(日) 17:48:55 ID:Egm9ISYh
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻め笑われる。
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
629 :
佐竹に問う者:2007/05/21(月) 02:46:42 ID:G8xyB3SO
>>623 なるほど義人は、上杉からの婿養子ゆえ佐竹の血脈は続いたんですね!
残念なのはその後、相馬氏からの養子により佐竹宗家は、その血を途絶えたのですね。
630 :
佐竹に問う者:2007/05/21(月) 03:06:13 ID:G8xyB3SO
>>624 室町期に既に二百の支流とは!
いわゆる佐竹一門と呼ばれた家はそれら総てなのでしょうか?
いずれにしてもそれだけ多くの支流があれば、間違いなく現代にも新羅三郎の血脈がいそうですね!?
もしかしたら八幡太郎の血脈より多いのかも?
清和源氏の末裔らは今も何処かに続いてるような気がします・・・中でも常陸源氏は東国平氏一党と和を以ていたらしいことは、源平騒乱を導いた頼朝の義家流とは違った血を感じます。
よく源氏の血は冷たいと言われてる様なのですが、常陸源氏や義光も冷血漢だったのでしょうか?
631 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 08:23:05 ID:Ay2tgGRX
632 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 08:40:26 ID:D76kheor
>>630 何を言っているのか良く分からんが、
源氏史のなかで新羅義光ほどの悪人はいないぞ。
源氏の嫡流になりたいがために兄義家の嫡男義忠を殺す。
しかも謀略をつくしてその濡れ衣を次兄の義綱に着せ、
佐渡に配流させたあと、追捕を派遣して自害させる。
その上自分の子供の義業に義綱のあとを継がせるという周到さ。
それ以外にも藤原顕季を脅迫して、その荘園を押領したりとやりたい放題だった。
白河院さえも「義光には逆らうな」などという始末。
633 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 10:16:39 ID:GCoIqpoz
>>622 山入氏滅亡後も山入分家の子孫はずっと、それこそ江戸時代まで続いた。
討たれた山入宗家の血統も、少なくとも義昭・義重には生き残りがいた。
634 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 10:27:10 ID:GCoIqpoz
>>629 佐竹義処―相馬叙胤
|――相馬恕胤―相馬祥胤―相馬益胤―佐竹義尭
相馬昌胤の娘
佐竹の血は絶えていない
635 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 11:36:54 ID:5TFy7Rza
テスト
636 :
東義久ってどう?:2007/05/21(月) 16:12:58 ID:UuirzrLE
ぞうですね。「関宿論争」を見ると、謙信って子供っぽいような気がする。
命令に従わないと、駄々をこねるし、義重の妹(宇都宮広綱室)や、梶原政景に愚痴をこぼすわ…。
義重は若年で家督を継いだから、堅実だったのかも…゜
637 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 17:00:41 ID:lanO/6os
>>ロシアとか中国は虐殺を受け入れる下地があって、はじめて粛清が評価されるけど、
>>日本でそれをやると非難されるだけ。
スターリンの粛清、文化大革命など評価している人間など
一部の信者を除きロシアや中国にもいないが?
638 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 17:11:02 ID:tx9CtQ+L
>>637 単純に義宣が粛清を帳消しできるほどの
功績を挙げたとは見なされなかったから非難されたんだろう
ロシアや中国では粛清して認められるなんて偏見
639 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 19:41:53 ID:wJeQsjT7
江戸舜通の江戸氏て少し不可解ではないか?
舜通は烏子河内城主(旧美和)だけど
俺はてっきり佐竹の配下になってから
河内城に配置されたのかと思っていた
しかし、舜通の3代前から既に河内城に入っている
河内城の周囲を見ると
北の大子周辺は佐竹配下の野内氏(義昭以前は白河氏
北東の山形周辺は佐竹配下の山形氏
東の大宮周辺は佐竹一門の部垂氏、宇留野氏、小場氏など
後には和田氏なども入る
南の御前山周辺は佐竹一門の長倉氏
更に南の桂周辺は佐竹一門の大山氏
更に南の城北周辺は佐竹一門の石塚氏
南東の瓜連周辺はよく分からないが
義昭の代には大方佐竹領となっていたようだ
その南の那珂周辺には佐竹一門の戸村氏や江戸氏の勢力
ちなみに河内城の西は那須氏の本拠地である烏山である
で、河内城から水戸方面へ行くには
美和〜御前山〜桂〜城北〜水戸
もしくは
美和〜緒川〜大宮〜瓜連〜那珂〜美和
のルートである
いずれのルートでも40Km以上はあるかと思う
つまり何が言いたいかと言うと
江戸宗家のいる水戸からあまりに遠い!
しかも佐竹の勢力に分断されている
何でこんな所に江戸氏が??
640 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 00:48:03 ID:eXurCVfE
640get!
641 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 10:07:47 ID:8ab500XH
訂正
×少なくとも義昭・義重には生き残りがいた
↓
○少なくとも義昭・義重時代には生き残りがいた
642 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 10:35:52 ID:tq5e5ZgJ
山入支族といえば小田野が有名
643 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 12:42:18 ID:9lrnleCp
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻め笑われる。
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
644 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 12:42:59 ID:9lrnleCp
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻め笑われる。
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
645 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 12:44:22 ID:9lrnleCp
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻め笑われる。
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
646 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 12:46:20 ID:9lrnleCp
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻める
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
647 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 17:50:59 ID:1dDw5ho9
義憲(義人)入嗣以前に分かれた佐竹一族
田口氏 町田氏 国井氏 額田氏 岡田氏
岡部氏 国分氏 小場氏 前小屋氏 稲本氏
東野氏 石塚氏 北酒出氏 南酒出氏 大山氏
藤井氏 粟氏 小室氏 利倉氏 革島氏
山角氏 山入氏 大畠氏 長倉氏 豊間氏
小瀬氏 箕浦氏 山本氏 大内氏 塙氏
野口氏 並河氏 手綱氏 大縄氏 白鳥氏
馬淵氏 高久氏 高倉氏 田谷氏 白石氏
鷹久氏 寺門氏 福村氏 柏木氏 錦織氏
錦戸氏 中根氏 葦間氏 大沢氏 上平氏
今野氏 河内氏 小浦氏 野口氏 森戸氏
和田氏 速見氏 速水氏 松平氏 大鳥氏
高垣氏 早見氏 早水氏 仁平氏 依上氏
大島氏 山田氏 畔柳氏 馬場氏 黒柳氏
上有智氏 真島氏 豊後氏 綱懸氏 大野氏
袋田氏 小田野氏 檜沢氏 笹葉氏 真崎氏 小川氏
全部は知らないので他にも大勢いるかと思う
でも、ざっと見ても結構な数いる
義宣(二十代)までくだれば確かに二百家ぐらいありそうだ
648 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 22:28:03 ID:L3CKqfAB
戦国時代の関東は、激動だったね
良く生き残ったよ
義重の器量もあっただろうが
佐竹って、家臣団の結び付きも強かったのかな
でもあの所領で二百家もいたら、日の目を見ない奴も
いただろう
実際知らない奴たくさん居るな
白石氏って、白石美帆と繋がりあるのかな?
649 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 02:52:42 ID:WU8NWkjF
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻め笑われる。
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
646 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/05/22(火) 12:46:20 ID:9lrnleCp
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻める
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
650 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 09:57:39 ID:aN5afXka
荒らしがひでぇw
651 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 12:23:43 ID:9MC/NmpJ
>>639 まず鷲子江戸氏の系図から
通房─通秀─通長─通雅─通泰─忠通─通政─重通
l─隠岐守通治─通盛─伊豆守通賢─上野介舜通─長左衛門(鷲子系)
l─頼通……(鯉淵系)
l─通栄……(額田系)
舜通って誰やねん、と疑問だったが、『新編常陸国誌』をみたらすごい勢いで載ってた。
だが江戸が何で鷲子を領したかは分からず。そこで可能性を考えてみる。
1.佐竹から貰った。
2.南北戦争の時に那珂通泰が足利方についているので、そのとき貰った。
3.太田通延の時代から那珂氏のもの。
1.は多分無いんじゃないか。一族に所領を分封するなら兎も角、
守護代とは言っても江戸は別家だからなあ。安土桃山、近世以前だし。
ただ佐竹義篤(先の刑部大輔義篤)が死にかけたときに書いた譲り状の中で
娘で那珂通泰に嫁いだ中御々(注:娘の名前)に所領を与えているので、
そういう可能性が全く無かったともいえないかもしれない。
ただこれはあくまで中御々個人の所領な訳だが。
2.これが一番可能性が高い。那珂氏は初め熊野方に就いたらしく、
そのせいで那珂通泰を除いて佐竹に皆殺しにされたが、通泰だけは足利方に
味方したので、那珂郡江戸郷を与えられた。これと同時か、あるいは近い時期に
何らかの戦功の代わりとして足利系列から鷲子周辺が与えられたのではないか。
3.これはないね。間違いないね。
そもそも鷲子周辺がもともと誰の所領だったかも定かではない。
ただ気になる点がひとつ。
まず佐竹庶子家の南酒出義茂が出家して「善念」と名乗り、親鸞に師事して
鷲子に善徳寺という寺を建てたというインチキ臭い話(新編常陸国誌)があり、
本当だとすると、鷲子は南酒出か佐竹と関係があった土地と言えるかもしれない。
態々他家の所領に、しかもちょっと歩けば佐竹の所領がある場所に
隠居の寺を建てるとも思えないからだ。
因みに近所の高部は佐竹東家の本領で、鷲子江戸氏は佐竹東と関係が
深かった(水戸市史P499)ことと合わせて考えると、なかなか面白い推測が
成り立たないでもない。佐竹東義久はかつて(南)酒出氏を継いでいたことがあるからだ。
以上です(゚д゚)
652 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 19:14:10 ID:WU8NWkjF
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻め笑われる。
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
646 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/05/22(火) 12:46:20 ID:9lrnleCp
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻める
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
653 :
佐竹に問う者:2007/05/24(木) 02:33:28 ID:Efb04sS7
>>647 佐竹庶氏家は沢山あるのですね!
これらの中で家格といったものはあるのでしょうか?
つまり佐竹氏の中心的庶子家はしぼられるのでしょうか?また佐竹氏以上に新羅三郎義光に近い末裔は佐竹庶子家にいるのでしょうか?
つまるところ佐竹にかぎらず清和源氏の末裔で一番その血が濃い一族は?
654 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 04:30:18 ID:XzITEA8W
>>653 あんたの質問の意図がはっきりしないんだよな。
「新羅義光に近い末裔」ってのは、義光の男系y遺伝子が
途切れることなく伝わってる血筋ってことか?
で、それは近世に入った時点までか、それとも現在までか、どっちを想定してんの?
近世まで(つまりまだ常陸に佐竹がいるまで)なら、続いている家もあるだろうな。
現代までなら、たぶんほぼ無いといっていいな。
東北南小場等々は義人入嗣以後の家なので、義光の男系血筋としては
続いていない。残るは大山石塚小瀬小野長倉、それから庶子家の庶子家である
小田野等、もっと遡れば岡田、山本、北酒出から分かれた馬場などだが、
大山石塚小瀬小野長倉はともかく、それ以外の家には怪しい部分がない
系図は残っていないと思われる。
大山以下の家々も果たしてどれくらい信頼できるものか微妙だ。
『新編佐竹氏系図』などの系図を自分で調べてくれ。
あとは武田小笠原系列だが、こっちはもっと微妙だろうな。
ひとついっておくが、ほとんどの武士は室町殿が滅亡するころには
「血筋なんて糞食らえ」と思っていて、家としての継続のほうを
重要視していたので(つまり家産の相続という現実的な問題)
あんまり期待しないほうがいい。
あと庶子家の家格は時代とともに変わるので、
これも時代を通じて普遍的な家格はない。
だが基本的に武士は後に分かれた家のほうが偉いということになっている。
出羽国替え直前ならだいたい
東北南大山石塚小場戸村今宮小野古内真崎…の順。
655 :
佐竹に問う者:2007/05/24(木) 06:58:07 ID:Efb04sS7
>>654 すごい!
基本的なことから知らないこと多くてごめんなさい・・・父系母系問わず現在において一番新羅三郎の血が濃い可能性が高い人が知りたかったのです。
もっと言えば清和源氏の現代一番の継承者は何処にいるのだろうと思ったのが始まりでした。八幡太郎系はもはや絶えてしまったであろうと思い、ならば明治までも続いているといわれる佐竹氏の流れやその氏祖である新羅三郎の流れの中に答えを期待してのことでした。
源平藤橘とよく言いますが、その源氏の中でも清和源氏の血族的末裔の人が現代何処にいるのやらとの単純すぎる思いからの疑問でした。
でも実際は、なかなかそのようなこと知っている人いないですよね。
故に我こそは清和源氏を血縁をもって今の世に繋いでいるといった人が、もしやこちらの参加者にいるやもしれぬとの淡い期待でお邪魔した次第です。
どなたか清和源氏の研究されてる方や参考になる本ご存じの方おりませんでしょうか?
656 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 09:37:59 ID:/pTATJ/a
>>655 「奥富敬之」という人の源氏研究本は安価なので買って損はない。
アマゾン辺りで検索してくれ。ただし載っているのは中世までだ。
はっきりいって現在まで続いている男系清和源氏の家系は無い。
「無い」というのは「実際には有るかも知れないが、それが正しいと
証明することは不可能」という意味だ。
明治以降の戸籍はほぼ間違いなく信用できるだろう。
江戸時代の系図は江戸時代内だけに限って言えば、
信用できるといっていい。ただ領内の上級武士なら系図をきちんと
作っている可能性は高いが、下級武士は多分だめだろう。
室町以前の系図は全く信用できない。きちんと書かれていない上に、
大抵養子か実子かの区別もされてないし、血縁か非血縁かの
区別もされてないのが多数だ。
そもそも「清和源氏」というもの自体いい加減なものだし、平安から
鎌倉へ至る時代の武士達の紀伝も史実としての歴史にどこまで
忠実なのか非常に疑問がある。操作されているのは間違いない。
義家三兄弟も経基王からの血筋ということになっているが、
果たして何処まで信用していいのかかなり疑わしい。
義光以降の連中も同様だ。せいぜい正確だと言えるのは
佐竹では義人入嗣以後くらいだ。
ちなみに今現在清和源氏の血筋として一番有力なのは徳川恒孝。
657 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 10:36:16 ID:MdKbRW2N
658 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 16:43:27 ID:OveDS4JR
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻める
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
659 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 18:03:20 ID:HBLabO8c
久我美子とか細川護煕のほうが源氏としてはなあ
660 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 18:27:57 ID:TJt3LV6l
>>651 詳細サンクス
その情報を元に少し調べてみました
意外と1の説に近いかもしれない
市史の城郭の項に記載があった
烏子河内城を築いたのは江戸通治との事
1465年頃、佐竹は山入氏の反乱真っ只中で
その隙をついで通治は勝手に築城し居座ったらしい
佐竹宗家も乱で手一杯であり
途中から佐竹宗家側についた江戸氏の助力もおおきかった
その為か烏子河内城は佐竹に返還されなかった
その後、烏子江戸氏は江戸宗家とは疎遠になり
佐竹に属するようになる
つまり、初めは不法占拠したが佐竹宗家に協力する事で
領有が認められるようになっていったと言う事らしい
しかし、3の説で言ってるように
河内城の近くには佐竹一族、例の小田野氏がいる
河内城を北側に一山越えた辺りであり
距離にして2`ほど
こんな近くにいて黙って見ていたと言うのもおかしな話しだ
だが更に不思議なのは
実は河内城の向かい側、200〜300mの所にも城がある
これも新羅三郎の子孫と言われる高沢氏の高沢城だ
高沢氏は五代目の高沢民部少輔が武門を捨て出家した
その際高沢城は廃城になったが
後に宇都宮一族の武茂泰長が入り烏子氏を名乗り居城とした
これが14世紀末頃
つまり江戸通治が河内城を築いた時にはいたはずである
目の前で勝手に築城しているのを見ていたのだろうか…
不可能な話しだ
661 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 18:43:26 ID:TJt3LV6l
そういや佐竹が常陸21万貫文を得た時
多くの重臣達は配置替えになったけど
江戸舜通はそのまま烏山河内城据え置きだよね
しかもトップクラスの所領
この優遇ぶりは謎
>>648 自分も一瞬有り得ると思ったが
よく考えたら白石美帆は芸名だよ
本名は阿久津だし
ちなみに佐竹高校出身
ある意味佐竹繋がりw
662 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 19:51:29 ID:IjEzK9FP
>>660 わしも山入の乱の時に押領されたのかもと思ったが、そのとき佐竹が
書いた「違乱相違之地」に鷲子辺りのことが書いてないんだよな。
つーことはもともと山入系佐竹のものだったんだろうか。
山入系佐竹の所領を継いだのは佐竹東だからそれもあるかもしれない。
阿久津氏は佐竹家臣の苗字のひとつ。
663 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 09:58:19 ID:ebcHrhPj
阿久津(圷)や宇留野って茨城北部にはかなり多いぞ
佐藤より多いと思う
佐竹と関係あるなら佐竹一族だらけだな
横山てのも多いけど
664 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 23:24:47 ID:Em/8JN8i
岩城秀隆age
665 :
佐竹に問う者:2007/05/26(土) 03:15:53 ID:0dA5ZAGw
>>663 常陸には、佐竹が秋田に移ったあとも相当の一門や家臣が残ったのですね。
彼らの殆どは武士を捨て農民となったのですか?
聴くところによると新たな徳川による領主は佐竹遺臣達をあまり召抱えなかったばかりか佐竹一門衆の居残り組みにはその家系図さえ捨てるようにさせたといいます。
つまり佐竹氏秋田移封後に常陸に残った佐竹がらみの人々は佐竹庶子家でさえ以来、武士を捨てたということなのでしょうか?
もっとも佐竹にとって重要な一門及び家臣達は秋田に連れて行かれ選ばれなかった者達が常陸居残りとなったと何かの本で読んだ記憶がありますが・・・そうなのでしょうか?
666 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 03:26:36 ID:yFmxu72m
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻める
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
667 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 04:01:46 ID:yFmxu72m
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻める
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
668 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 11:53:40 ID:AHnAlabV
今の水戸市の基盤を築いたのは佐竹義宣公
俺が、好きなのは義重公だけど
>>665 佐竹氏が秋田に行く家臣を選抜する他無かったのは
単純に、領土が狭くなったからでしょう
常陸時代と同じぐらいの家臣を養うことは到底
無理だと思います
初めて行く土地で、どれほどの家臣を連れて行けるか
手探りでしたから
義宣公も苦渋の決断をしていたと思いますよ
狸爺の佐竹嫌いは言うまでも無く
死ぬまで憎んでいたんじゃないですか
だとすれば、そう言った所業も有り得たのでは
常陸に残った旧臣達も、佐竹氏を慕っていて
他の家に仕えるくらいなら・・・
って、思ったのでしょうね
義重公や義宣公の肖像画が無いのも狸爺の謀略じゃ無いですかね?
669 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 17:15:42 ID:tUdHHmR1
秋田へ随行した者は恐らく1割以下だと思われる
新領が禄高不明とは言え思い切った決断と言える
残った者達の去就も様々
他家に仕えた者も少なからずいた
帰農した者が大多数を占めたが
帰農と言っても郷士や庄屋の身分を与えられ
苗字帯刀や武家構えの屋敷は認められていた
また、佐竹旧臣は25年間無税であった
なにせ人数多いし反乱など度々起こされたら厄介だから
水戸家もかなり気を遣っていた
670 :
佐竹に問う者:2007/05/26(土) 22:33:42 ID:0dA5ZAGw
>>669 結構な数の佐竹一門家臣衆が常陸に残ったのですね!
すると東氏等の四家名も常陸に残ったのかな?
秋田では有名な四家のようですが・・・。
他の大山石塚小場等の佐竹筆頭庶子家も同様に家名を常陸の地で伝えたのでしょうか?江戸期の秋田における彼ら各家の消息や逸話は、現在東北や秋田地域出版されてるものの本等で伺い知ることできますが、なかなか常陸居残り組に関するものがないんですよね。残念です。
どなたか良い資料ご存じではないでしょうか?
671 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 23:49:27 ID:tUdHHmR1
佐竹旧臣録、常陸家名録などに詳しい記載があるらしい
ただ、一般に出版されているものなのか分からない
672 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 00:31:08 ID:PozJKVFc
>>668 土地はむしろかなり広くなった。
石高って言うのは収入だから、広さとは違う。
当初の21万石から、江戸時代入って50年ぐらいで45万石ぐらいの収入になったらしいが
673 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 09:50:28 ID:4q0EXWGX
佐竹の政治力はなかなかですな。
674 :
佐竹に問う者:2007/05/29(火) 00:38:14 ID:FrJKmxlW
>>671 その後の常陸では、佐竹一門に関する著作や研究があまりなされてこなかったのですね!残念です・・・。
675 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 01:52:53 ID:dSF1zgH6
>>670 確か転封後は、
東家は久保田(秋田)
南家は湯沢
北家は角館
西家(小場家)は大館に居を定めたと聞いた。
676 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 09:36:47 ID:NhwE8zko
横手は?
677 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 09:41:06 ID:kCSMd8Ff
横手は義重の隠居したところだよね
没後はどうなったんだっけか?
678 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 13:56:32 ID:k1IHwk34
義重は六郷。
横手は伊達盛重、戸村氏が城代に任命されてる。
679 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 17:38:46 ID:rVvEpImN
さたけぎじゅう
680 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 17:53:50 ID:91c9G1eU
義重って対外政策に関して言えば神だけど
常陸時代の内政はどうだったのかね
681 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 22:33:49 ID:LOOB6hyO
682 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 22:46:37 ID:hMhaqBxG
国分か
683 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 00:23:38 ID:G4pd1wuz
伊達に置いていった三男の古内重広の子孫が仙台藩志会会長になったね
684 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 09:23:20 ID:M4B+s5tD
蘆名盛重は?
685 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 18:53:28 ID:qc3dVXjm
角館。
686 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 00:04:57 ID:sE3dOBHM
>>671 常陸太田市編纂で出してたけど今は絶版だよ。
常陸太田市に出張で行った際、運よく地元本屋で見つけたので即ゲットだったけど。
687 :
佐竹に問う者:2007/05/31(木) 03:41:05 ID:P1tK5Byb
>>686 絶版とは残念!
常陸に残った佐竹一門は、その後いかようになったのでしょうか?
主な庶子家などはどうなったのでしょうか?
想うに庶子家本家のみは秋田に移ったとおもわれますが、庶子家分家はその家名を保ったまま常陸に残ったものと思います。
電話帳によると今でも大山石塚等の名が常陸に見られるのでもしやと思ったのですが、佐竹一門とは関係ないのかもしれません。
現代史の方が戦国期より解らないことが多いですね!?
688 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 09:48:03 ID:5a79nn6a
可能性はあるがね・・・・
689 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 23:55:08 ID:U1Yl5aFm
戸村氏って佐竹一門?
690 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 01:01:08 ID:OAL6Zgdc
そうだよ
691 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 09:43:56 ID:8XW2uEBW
一門多いなぁ
692 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 22:03:54 ID:2iCbnfxE
基本的に世継以外は別家を建てるか他家の養子に入るかで佐竹を名乗れないからね。
永く続けばそれだけ一門が増えていく。
693 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 10:25:13 ID:McS6w8/f
ふぃううむ・・・・・
694 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 15:46:03 ID:+1fKCHJu
佐竹氏といえば沼尻合戦で8600挺の鉄砲を集め、優勢な北条氏を撃退したのが有
名ですが
8600挺もの大量の鉄砲購入料やほぼ南蛮からの輸入であるその膨大な火薬のもと
である硝石の購入料を賄う佐竹氏の財源には何か特別な特産品でもあったのです
か?
695 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 17:01:41 ID:M+xdfOjG
金山
696 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 20:43:41 ID:IZXB2Sde
筑波一族ってなんですか?
697 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 23:38:05 ID:0MnBP9cH
コスモ星丸くんです
698 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 09:40:37 ID:USPBpuvY
tsumannne
699 :
人間七七四年:2007/06/10(日) 16:42:40 ID:y5k3Crtp
佐竹義重 無双に出してくれ
700 :
人間七七四年:2007/06/10(日) 21:51:25 ID:NWKbxQkS
おま、ここでも書き込んでたのかw
知らずにあっちのスレでレスしちゃったじゃまいか
397 :人間七七四年 [sage] :2007/06/10(日) 21:49:30 ID:NWKbxQkS
希望出せば?ついでに佐竹もヨロ
701 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 09:59:04 ID:8w45ToPs
なんだ?
702 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 23:57:50 ID:W+eEN9wZ
義重強すぎww
もう少し京に近いところで産まれてたら天下をとるのも不可能じゃなかったと思う
703 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 09:37:57 ID:P/AvsHFd
ん゛〜だうでしょう〜
704 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 15:53:02 ID:4701s0dp
ぶっちゃけ義重とか政宗のほうが、関東三国志な連中より上な気がする。
なんか万能じゃんこの二人。
705 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 16:05:54 ID:MNY8RqiT
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。
北条をここぞとばかりに攻める
上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。
706 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 16:54:25 ID:HXSCeaoL
(´∀`)さらば〜この世よ〜旅立つ船は〜檜造りの〜お棺〜♪
宇宙の彼方〜十万億土、戒名背負い今旅立つ〜♪
必ず盆に〜帰ってくると〜遺族の皆に〜笑顔で応え〜♪
この世を離れ〜極楽浄土、はるばるのぞむ〜阿倍野斎場焼き場〜♪
707 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 20:01:53 ID:UrJyb55j
>>705のアオリって仙台の百姓のアオリに似てるな
708 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 21:01:44 ID:lHpl+NZC
ちょっと前にもどこかで読んだ気が。
こぴぺだよね。
709 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 01:11:17 ID:d9aYTjom
うん。木にしなくていいよ
710 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 16:41:55 ID:kANTyGrf
関東三国志より義重が強いんだったら
那須や田村や蘆名ぐらいつぶせよ
711 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 17:07:54 ID:wy4nCHvs
蘆名はほとんど義重の勢力圏だと思うが
712 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 20:34:50 ID:5+p8nH1n
那須や田村は、大勢力にくっついたり離れたり
713 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 02:28:49 ID:ukvKNhPd
>>710 そこが守護大名の悲しさ。
本来守護大名って、京都在住で、地元は守護代が治めていた。
で、応仁の乱後、在地の守護代が領地を乗っ取って戦国大名というパターン。
佐竹は皮肉にも、宗家が関東八屋形に任命され、宗家が守護大名として地元在住。
普通なら山入一揆が宗家を潰して戦国大名となるパターンのはずが・・・。
義舜公に地獄の悪運発動で、土壇場で生き残り、山入一揆を皆殺し。
これが、宗家が守護大名の体制のまま安土桃山時代迎えた背景か。
714 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 08:38:20 ID:a8AZnf9I
義昭が脱守護しようと南進し
大じょうを取りこむまではよかったが
小田と決戦する前に早死にしたのは残念無念
715 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 11:27:19 ID:ZaGTmpzi
関東三国志な連中より武将としては優秀だろ。
謙信・信玄・氏康合わせたようなキャラじゃん義重。
戦やらせりゃ劣勢で北条打ち破るし、外交面では葦名を傀儡化するし、内政面も
常陸の経営にケチつけるとこないしな。
生まれが悪すぎただけだろ。その辺は政宗と一緒。 関東3強全盛に生まれて葦名の
傀儡ふくめりゃ支配圏百二・三十万石までいったんだ、関東3強より上と言い切っても
ええよ。
716 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 15:52:19 ID:toCpkHJ1
>>715 俺の予想だとたぶんこの後のレスで反対のレスがビシバシ入ると思うぜ!
717 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 03:02:06 ID:QafmDeb0
佐竹の歴史。
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで逆転勝利。
北条に攻められるが上杉謙信公が率いた援軍のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
北条と武田が和睦また北条が攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去
佐竹の転落開始
北条に征服され追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付き豊臣に来てもらう。
豊臣が来たからと北条をここぞとばかりに攻める。
上杉が義を忘れずに西軍につくが佐竹はどっち付かずの態度を見せ使節を送り徳川に付くがなぜか東北のど田舎に減封される
大阪の陣では後藤基次に佐竹義宣が殺されかけるがまたまた上杉に援軍に来てもらい勝利。
718 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 03:59:09 ID:AEYJ7/fa
>>上杉が義を忘れずに西軍につくが
西軍につくがも何も、上杉は発端じゃねーかw
719 :
人間七七四年:2007/06/21(木) 22:24:33 ID:XEyn2192
佐竹も血はかなり上杉
720 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 04:13:07 ID:74/3u3hh
どゆこと?
721 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 09:49:40 ID:RWRaEuoY
上杉憲定―――佐竹義人
|――――佐竹義俊〜略〜佐竹義重―佐竹義宣
佐竹義盛――――源姫
722 :
sage:2007/06/22(金) 10:53:06 ID:zktgOMie
723 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 21:02:30 ID:R9DERY7O
724 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 00:16:15 ID:lSBx4rmv
上杉・佐竹・北条で関東三国志
武田は甲信からの侵入者
725 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 12:23:28 ID:UJNyesN0
那須を大兵力でせめてもつぶせず
攻めやすい田村清顕勝ったことがない
義重のどこが三国志より上なんだよ
726 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 13:42:46 ID:bhq4tU4l
義重がでてれば簡単に潰せるだろ。
727 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 14:42:48 ID:SW83Ysqs
>>725の理論だと
下総の小城一つ落とせず敗退した上杉謙信や衰退著しい大崎に負けた伊達政宗もゴミクズですねw
北条なんていわずもがなw
728 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 17:21:25 ID:IsvUlXyx
佐竹の歴史。
平安末期、源平、奥州征伐
時勢を読めず平氏について源頼朝に負け所領を没収される。
その後頼朝の犬になる
南北朝
南北朝時代では北条氏の残党ごときに敗れる。
足利尊氏に付くが苦戦しまくりボイコットその後時勢が読めず直義につき足利尊氏に負ける
楠正家に負ける。
戦国時代
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで逆転勝利。
北条に攻められるが上杉謙信公が率いた援軍のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
北条と武田が和睦また北条が攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
安土桃山時代
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
北条に征服され追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付き豊臣に来てもらう。
豊臣が来たからと北条をここぞとばかりに攻める。
江戸時代
上杉が義を忘れずに西軍につくが佐竹はどっち付かずの態度を見せ使節を送り徳川に付くがなぜか東北のど田舎に減封される。
江戸時代ではずるして石高を過少申告する。
大阪の陣では後藤基次に佐竹義宣が殺されかけるがまたまた上杉に援軍に来てもらい勝利。
729 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 18:44:39 ID:KDS3W5P2
佐竹情けない
730 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 19:02:14 ID:vDX48ggB
義重マンセー
鉄砲隊6000で北条撃破はとかアリエネ
731 :
人間七七四年:2007/06/25(月) 00:18:52 ID:UPU0XaoN
普通に関東3強や天下人三人より優秀な武将なのに、劣勢すぎて領地拡大度が少ない
おかげで格下の扱いにされてる可愛そうな義重公。
家康なんて地力で広げた領土150万石くらいだから、そんな義重公と変わらんのにな。
義重公が三河生まれなら瞬く間に三河制圧して、義元亡き後の今川なんて簡単に潰してるだろ。
北条あたりは5分の1くらいの勢力でもあしらえるほどの戦闘能力持ってるからな。
732 :
宇喜多直家信者:2007/06/25(月) 01:12:27 ID:HFV8834+
「今の世に律儀なる人は佐竹義宣のほかに見たことがない。しかし、工夫が足りず、
律儀が過ぎたために本領を失ったのだ」家康談
733 :
人間七七四年:2007/06/25(月) 02:23:28 ID:Sb505D2f
そういや佐竹に外交官はいても謀臣とかはいないね
734 :
人間七七四年:2007/06/25(月) 18:21:20 ID:9MUNVWPD
モバイル姓名判断より
「佐竹 義重」
画数:佐[7] 竹[6] 義[13] 重[9]
天画(家柄)13画 大吉 創造力豊かで人気者
地画(個性)22画 凶 不平不満・短期で失敗
人画(才能)19画 凶 好き嫌いが激しく情に不安定
外画(対人)16画 大吉 凶も吉にしてしまう希有な強運
総画(総合)35画 中吉 縁の下の力持ちで実力発揮
「佐竹」姓自身は「大吉」なんだが、「義○」という名前とは相性悪いみたい。
735 :
人間七七四年:2007/06/25(月) 20:41:46 ID:9MUNVWPD
続いては・・・
「佐竹 義宣」
画数:佐[7] 竹[6] 義[13] 宣[9]
天画(家柄)13画 大吉 創造力豊かで人気者
地画(個性)22画 凶 不平不満・短期で失敗
人画(才能)19画 凶 好き嫌いが激しく情に不安定
外画(対人)16画 大吉 凶も吉にしてしまう希有な強運
総画(総合)35画 中吉 縁の下の力持ちで実力発揮
「義○」という名前自体、佐竹宗家筋(東・南・北の御三家含む)の伝統名だからなあ・・・。
736 :
人間七七四年:2007/06/25(月) 22:50:51 ID:f++YBimP
新人物往来社の「常陸・秋田 佐竹一族」って買う価値ありますか?
他にいい本があれば教えてください。
737 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 09:35:29 ID:VbKlPNpW
ぼくも迷ってます
738 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 00:10:26 ID:VSFpxbLy
佐竹家譜がほすぃー
739 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 00:20:45 ID:vBJGpjKJ
>>736 図書館でまず閲覧してみれ。
特に南北朝時代の佐竹一族の戦いがわかる。
鎌倉時代、御家人になれたとはいえ、冷や飯食いだった佐竹氏。
それがどうして室町時代には守護大名となれたのか。
太平記とは別視点ではあるが、おそらく一番の激戦地だった常陸をメインに書かれてます。
740 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 11:19:32 ID:9WlKNwDG
>721
この意味が分かりません><
↓
>上杉憲定―――佐竹義人
憲定の息子が佐竹氏を継いだってこと?
741 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 11:36:40 ID:7rU6clQF
そだよん
742 :
人間七七四年:2007/06/30(土) 00:24:00 ID:gqbvGHRi
743 :
人間七七四年:2007/07/04(水) 02:29:33 ID:CqTEG0O8
>>742 先代に男子がいなかったため、上杉氏(関東府の足利持氏派)から養子をもらった。
これに反対したのは山入氏。
当時は室町幕府と関東府がにらみ合いの真っ最中。
幕府側が山入氏、関東府側が宗家というねじれ構図に。
で、にらみ合いの結果起こったのが結城合戦。
これで関東府側の結城氏は壊滅、残存兵力は佐竹の居城の太田城にこもった。
幕府側は佐竹宗家も討伐しようとしたが、赤松氏が造反、能舞台の最中に将軍を暗殺する。
これが嘉吉の乱。結果、佐竹討伐はうやむやのうちに終わったが、赤松氏は幕府軍に討伐されることに。
744 :
人間七七四年:2007/07/06(金) 09:53:06 ID:CsXKYeYi
あぶないとこだったな
745 :
人間七七四年:2007/07/06(金) 12:38:03 ID:imNJZ/tQ
744の冷静な一言にワロタw
746 :
人間七七四年:2007/07/06(金) 12:44:48 ID:x0+qgoxm
佐竹が家康の背後ついてれば西軍快勝!””””
747 :
人間七七四年:2007/07/06(金) 12:53:27 ID:9og4f9J4
そんな勇気ねぇもん>義重・義宣
748 :
人間七七四年:2007/07/06(金) 12:59:11 ID:1ntTknmM
代わりに多賀谷が実行する予定だったんだよ
749 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 11:12:13 ID:2/B3Sm6b
多賀谷が実行したところでどうなるんだ
750 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 11:21:19 ID:6JW3zZ9s
ザコだからなぁ
751 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 13:47:45 ID:+ets6zzh
752 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 14:24:34 ID:SEPIyvXN
そういや、芸人にいなかったか?多賀谷
753 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 14:33:22 ID:oTZ/r/CK
それは 加 賀 屋 ハウスなんじゃ・・・
754 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 22:08:25 ID:DwiuM3u7
小田氏 佐竹と何度も戦い、城を獲られてるが
つくば市小田に小田城跡を見に行った。
なんというか 後ろに山があるのに、田んぼの真ん中に城がある。
防御のこと 考えてないのか?
755 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 22:43:10 ID:oTZ/r/CK
後ろの山が詰め城でそっちは平時の館跡ってことはないの?
756 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 22:54:40 ID:yHXC0z73
小田前山な。
俺は見に行ったことはないが、小田城はすごい平城らしいな。
初めは居館に過ぎなかったが、少しづつ拡張していったという感じだな。
だが小田はついに前山を総構えの中に取り込んだり、詰めの城として
使うことはなかったらしい。小田は小さな後醍醐天皇なので(楠木正成は菅谷)
軍事的なことには全く疎かったんだろう。
前山まで拡張しようとしたのは梶原か佐竹のときだったようだ。
757 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 01:09:09 ID:ECQoOXc8
忍城も田んぼの真ん中にあった城だが、堅城と言われているよ。
田んぼって結構重要な障害物だったんじゃね?
758 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 01:13:21 ID:naNs7bxf
泥に足が埋まってうまく走れないから?
借り入れ後は切られた稲株が突き刺さって上手く走れないからとか?
759 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 09:04:44 ID:KoWslZjN
忍城は田んぼっていうか沼だよね。
760 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 13:54:18 ID:HovTYsuG
当時の関東平野はなー
河の氾濫も多くて地盤が脆弱だったそうだからね。
田沼は立派な自然の障壁になるから。
761 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 22:30:19 ID:xq9prC42
忍城て、埼玉県の行田だよね。 あそこ 市街地の公園では?
見に行く価値あるの?
騎西城レベル?
762 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 10:00:56 ID:Kn5Yn9iD
関東は市街地化してるからなぁ・・・・
763 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 21:33:16 ID:qXD1jkPx
>田沼は立派な自然の障壁になるから。
ならば 冬に戦だ
764 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 02:25:21 ID:NRGP+nQv
沼は冬でも沼でしょ。
765 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 03:02:44 ID:bXQoRRZZ
凍っていれば無問題
766 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 09:37:03 ID:NkuEppwj
>>765 東北と勘違い?
関東では冬でも凍らない場所多い。
冬は他の地方より暖かいくらい。黒潮が一番ぶつかる場所だし。
鎌倉時代末期までは、東京湾は今の群馬県の高崎付近まで入り込んでいました。
「足立」という名前も、「足が立つ水深」という意味。
それが地盤隆起で、一気に陸地として開ける。
767 :
仙台藩百姓:2007/07/12(木) 09:58:15 ID:1PfXpd/+
戦国時代なら凍ったかもしれないお( ^ω^)
でも氷の上走って攻めるのもかなり難しいと思うお
768 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 11:53:24 ID:In6u1uxA
>>766 暖かい?
銚子や東京、横浜は暖かいが、水戸、宇都宮、前橋は寒いってば
よほどいわきの方が暖かい
769 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 19:24:28 ID:HZL6qCNX
戦国時代は温暖だから凍らないよ
770 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 22:11:33 ID:NRGP+nQv
だいたい沼が凍るほどの寒さだと戦どころじゃないだろ。
771 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 23:01:19 ID:zlBhiPhV
>戦国時代は温暖だから凍らないよ
え? 戦国時代は寒冷期と聞いたが
772 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 00:44:05 ID:g6YyAdtH
>>770 ヨーロッパだと凍った湖の上で合戦したりしているから、不可能ではないかと。
関東は雪は少ないし。
773 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 01:13:49 ID:5p5ZSsWD
上杉義重
774 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 06:28:18 ID:Adu+BZh6
あえて関東管領 譲る受けたほうが得すると思う。
関東平定の大義名分できるし、対北条線でも近隣の土豪の
支援も積極的に受けられるし。
まあ 上杉氏になってしまうが。上野は上杉 常陸は佐竹
息子 多ければ佐竹の家も残るだろ。
775 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 17:02:12 ID:QzjllIIo
いや、20万石程度でどんだけ言う事聞くか疑問
そうなると影虎の名分も消えて越山なくなるし
あれを断った義昭はなかなか
776 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 21:43:18 ID:EODWymEP
管領様(上杉義昭)が、長尾 兵隊出せや といえば、あいつ(謙信)のことだ。
よろこんで、3万くらい出すだろ。 尻尾ふって 雪の三国峠も越えてくる。
777 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 22:24:00 ID:WksFzWtk
つーか実際、義昭は常陸まで輝虎を呼んでるからな。
1564に小田城攻めをさせてる。
778 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 07:54:30 ID:C/Ac5s4o
小田城攻めは上杉を継だ輝虎が
北条倒すのに、佐竹あったほうが便利だから機嫌とったんだろ
779 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 11:51:47 ID:mOZ+ZGbZ
しかし水戸城は水捌けいいよなw
台風でも堀に余り水溜らないもん
水堀作るにはかなり地面固めるようだな
780 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 15:55:12 ID:UwDwhHFr
越後で地震が・・・・
781 :
震源:2007/07/17(火) 02:14:51 ID:M0EcVnMp
春日山攻めの好機じゃ
出陣じゃ
782 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 08:15:34 ID:/PT8Iw1A
>781
上手い!座布団1枚!
783 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 22:31:47 ID:jiI2z3m2
越後は地震多いなぁ 3年前にも合ったばかり。
戦国時代もこんな感じか?
784 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 23:56:28 ID:VVENlMtd
フォッサマグナに聴いてみな
785 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 10:05:54 ID:YL5ihDz5
久保田城は堅城
786 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 15:48:23 ID:wFoKUbN5
>>785 堅城ではない。篭城戦をしていない。
転封後、窪田案と横手案が出たときは、横手を小田原城並みの大堅城にしようという案があったが、結局ボツ。
窪田は、むしろ戦乱の世はもうないと見て、小高い丘の上に城というより館として作られた。
転封で手持ちの資金が乏しく、大堅城作れば幕府に怪しまれお家取り潰しというリスクも犯しかねない。
戦乱になったら、むしろ城外へ出て戦うという戦法。
787 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 16:38:16 ID:nALY0CVi
元々佐竹は城に固執しない家だしね
常陸時代も金は豊富にあったが
大した城を造らなかった
義昭も義重も遥か領外で戦うのを常としたから
必要なかったと言う事もある
最前線にはそれなりの規模の築城もしたけど
(正確には築城と言うか改修だが)
常陸の統治が続いていれば
派手好きで豊臣の影響も色濃く受けていた義宣の事だから
水戸を総石垣の大城郭に改修したかもしれない
788 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 21:03:37 ID:+6h3/lK8
結構無茶いいますね。
金も銭も豊富になんかないがな。
どこの大名も奥州陣と名古屋詰めでカツカツだよ。
そんで領外で戦うのを常としたんじゃなくて、佐竹と北条や伊達とのあいだには
小領主がいて緩衝地帯になってたから、佐竹領には直接攻め込まれなかっただけだ。
だいいち佐竹から北条領に攻め込んだことはない。
水戸を総石垣にするなんて無理。佐竹にはそんなノウハウはなかったし、
義宣自身が石造りの城の普請なんて無理といってるよ。
789 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 22:38:58 ID:Zj52KqpI
金は豊富だよ
佐竹家は義昭はあれだけど義重・義宣は
奪還した土地は返して自領にする事はほとんどないから
戦国してないよ的な事を言われる
石垣は関東には少ないらしいから難しいらしいね
790 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 23:08:40 ID:Eaz9kTW3
>義昭はあれだけど
あれって?
791 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 09:25:25 ID:3JVrXyHh
アルツハイマーでもわかる事
792 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 17:27:13 ID:1+iE6810
義昭は元々は佐竹家領だったとこの取り戻す為だけど
けっこう戦しかけてたからね
本拠も常陸の真ん中に移ろうとしたり
793 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 22:37:40 ID:d0ZSkBhY
上杉家を継いだらどうなっていたかな?
794 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 07:43:22 ID:04kmUMze
>793
上杉氏になってしまうな。
まあ 利益が無いから断ったが、デメリットしかないと見えたんだろ。
しかし、ちょっと待ってほしい。 デメリットはメリットではないだろうか?
ピンチこそチャンスだ という言葉もあるし。
関東管領という事は、大義名分を持って関東平定を押し進めることができる。
戦国大名はむやみやたらに、戦を仕掛けてはない。
それなりの大儀名文を持って戦に臨んでる。
あの 家康でさえ
常陸 上総 下総 上野 下野くらいは 取れたんでは?
795 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 16:01:56 ID:l4M7UD5M
常陸の頃は、太田城はあくまで統治行政用の城。
篭城戦の時は、西金砂城へと移って、そこが敗れたら八溝山系で山岳機動戦。
第1回の篭城戦は、頼朝の佐竹征伐。
第2回の篭城戦は、南北朝期にあったらしい。
第3回の篭城戦は、義舜公と山入一揆の戦い。
796 :
仙台藩百姓:2007/07/22(日) 19:30:31 ID:nvIuhz6V
西金砂にしたって城と言うよりただの山だお
797 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 21:07:00 ID:0jfNUNiG
山は城 川は堀 この地すべてが、わしの城よ。
798 :
人間七七四年:2007/07/23(月) 10:08:36 ID:QNtS9Qr8
山に櫓何棟か立てれば、もう城だお
799 :
どっかの山猿:2007/07/23(月) 19:37:49 ID:CTii0Mbq
人は城 人は石垣 喪前らそこに積み重なって石垣になれ!
800 :
人間七七四年:2007/07/23(月) 22:32:47 ID:SgT0sYea
義昭が関が原まで生きていたら、どっちに付いたかな?
801 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 09:58:27 ID:WzHNz2R+
むずかしいな、寿命が30年も延びてるからな・・・・・
802 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 15:06:46 ID:GEO4URwN
803 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 14:22:20 ID:Fo1ShGGj
質問させて下さい
越相同盟〜関宿救援にかけての解釈ですが
たまに「越相同盟は謙信の関東諸侯に対する裏切りだ」「前科だ」
などといった感想に接する機会が有ります
しかし風前の灯だった羽生城、関宿城が助かった訳ですよね?
ここを守る広田、簗田の両氏は正直胸を撫で下ろした筈
意固地になって同盟を拒否するより、ずっと現実的で賢明な判断だったと思います
痛すぎる敗戦の後、不様にも側室の子に城を乗っ取られてしまった資正
こんな大失態を演じた彼に批難する資格があるのかなと・・・
そして関宿見殺しといった事態〜この時の北条方は3万と言われています
対して2000m級とも言われる三国峠を越え、救援しに来た上杉軍
五千〜一万弱がせいぜいでしょう
やはり救援要請を受けてる者同士、佐竹と力を合わせたい
しかし佐竹は関宿城を助けるどころか、逆に北条へ献上してしまう・・・到底解せません・・・
この関宿城&羽生城陥落により、北条の勢いは下野小山まで達します
これで宇都宮&佐竹が強い影響を受けてしまう
この関宿見殺しといった判断は義重の物ではなく、重臣の主張だったとも聞きますが、
要するに救援を待っていた簗田氏に対する裏切りでも有り、且つ
自らの首を締めるきっかけをも作ってしまったように思えます
804 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 22:59:15 ID:wdTuwI7N
兎に角、佐竹は弱く、上杉はつおい。
805 :
渋江内膳:2007/07/26(木) 00:07:27 ID:+6ZT69UR
806 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 00:29:42 ID:SgvGQvPI
この早漏
807 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 10:04:41 ID:GOlDLO2t
>>805 越相同盟は足利義秋の和睦要請を受け入れる形で成ったもので、
本来なら武田今川北条上杉の和睦によって義秋の上洛を促そうとしたものだったが、
武田が今川を攻めたことによって、越相同盟という形になった。
だから関東屋形中が果たしてこれに裏切りという気持ちを持っていたかどうかは
分からない。実際には越相同盟によって北関東での北条の動きが遅延して、
関東屋形が助かったのは確かなこと。
ただ同盟後もお互いを信用しきれず裏切りつづけたため、結局破談となる。
とくに太田資正を岩槻に戻せ、という謙信の要求はかなり無理がある。
岩槻は、国府台合戦のときには境目の領主にありがちな状態になっていて、
家中は完全に北条派と反北条派に分裂していたと見られる。
国府台の合戦の後、資正も政景も里見のもとから岩槻に帰れなくなっていて、
やっと帰還した直後に氏資によって追放されていると、まあそんな状況。
岩槻自体今更資正が戻ってくるといわれても迷惑仕り候だろうな。
で、関東屋形中だが、彼らは北条だけと戦っていたわけではなくて、
上杉とも戦っていたんだな。つまり重要なのは北条や上杉の干渉を排除して、
自分達の独立を維持しつづけること。仮に北条を排除しえたとしても、
上杉に軍事政治に限らず口出しされちゃあ一体何の為に?ってことだ。
そういう関東屋形(代表は佐竹)と上杉のイデオロギー的ぶつかり合いが、
関宿篭城のときに表面に出てきたということ。
義重は謙信に血判の起請文を出せと要求しているが、起請文つーものが
どういうときに出されるかということを考えれば、上記のことは容易に想像がつく。
関東屋形中としては実力についてはさておき、伝統的な格式の上では北条上杉と
同格だと意識していて、おいら達の自力も認めてくれよ、ってことなんだ。
関宿に関しては、上杉派、北条派というちょっとずるい後知恵的史観からすれば、
渡してしまうのはまずい、と言えるんだけど、関宿にも関宿の立場がある。
これは上の岩槻の場合と全く同じだ。
そんで関宿城を最前線として使えるのかと聞かれれば、これは「否」だ。
最前線として使うには、関宿に上杉か佐竹の軍勢を駐留させなくてはならない。
でもそれだと関宿の連中も、上杉や佐竹の援軍諸将も、迷惑だろう。
吉江や色部を駐留させられた佐野の立場と同じことだな。
また簗田晴助ひとりつっぱったって、もはやどうにかなるものじゃない。
現代の我々から見れば、佐竹および関東屋形のやり方ってのは、
鎌倉時代の古い錆の出たようなやり方かもしれないし、
戦国的に所領支配をやってくる北条に対しては、これでは勝ち得ないよ、
てのは当然の見方だと思う。でも当時の彼らにとっては、実はその錆こそが
重要なことだったんだな。
本当の敵は北条でも上杉でもなく、時の流れだったってことだな。
808 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 10:05:32 ID:GOlDLO2t
809 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 10:46:19 ID:IH7/lDTv
810 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 20:03:11 ID:0WXSFFJi
>>805 責任をもって、あと200埋めるネタを提供するべし
811 :
東義久ってどお?:2007/07/27(金) 13:48:12 ID:eqmZ7Cr9
2つ質問があるんですけど…
1.手ばい山の戦いについて
諸説色々あるのですが、宜しければ詳しく教えてください
2.塚原卜伝の弟子に当たる真壁暗夜軒って誰なの?
812 :
東義久ってどお?:2007/07/27(金) 14:23:27 ID:eqmZ7Cr9
義重は強いぞぉー
多功原は2万対5700で勝ったし
高道祖原でも
鬼怒川対陣でも
寡勢で大軍と堂々と渡り合ったし…
しかし北条は何やってんだか…
813 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 21:16:49 ID:USZ1GWLt
北条軍は勇将が少ないからなぁ
814 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 21:43:26 ID:fl4vZsWO
とっくに勝負がついてたから・・・
北条としたら真剣に戦う意味なんて無かっただけでは?
鬼怒川対陣だって結局北条有利な講和を結ぶしかなかった
佐竹・宇都宮がジリ貧だったのは誰の目にも明らか
815 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 02:54:11 ID:uaVtpnwT
じり貧じゃ意味ないのだよ
結局佐竹らを攻めきれなかったのが北条の滅亡に繋がった
816 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 08:29:47 ID:41mQH+nB
佐竹必死の防戦が北条の滅亡に繋がった???
佐竹贔屓するのもいい加減にしろよw
佐竹なんて関東でも東北でも通用しなかったw
817 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 10:32:50 ID:Im9zFfz4
>>811 1.手這山合戦に諸説なんてあったっけ?
真壁太田梶原が小田を煽って破ったというだけの話です。
2.真壁暗夜軒は氏幹。幾つかの本では久幹とあるが、
久幹は氏幹の父で鬼真壁暗夜軒ではない。
氏は古河公方からの一字な。
>>812 北条は数ヶ月おきに利根川鬼怒川の向こう側へ兵を出すだけで
関東諸将はびびって降参してきたので、無理に戦う必要がなかっただけ。
無理に戦争で取っても、織田のように地元の恨みを買って面倒くさい
ことになったりするので、よりスマートな方法を取ったのだ。
岩槻も関宿も千葉も佐野も小山も非常にスムーズな
所領支配を行い得ているね。
そしてそもそも佐竹なんかが一時的な戦闘で勝利しても、
すぐに太田へ帰ってしまって防衛線を築くことはないことを
よく知っていたのだ。
>>815 最近こういうやたらと身贔屓するようなレスが増えてきたな。
818 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 11:47:32 ID:+LsBfumN
贔屓自体は普通だがこのスレだと違和感があるな
819 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 12:27:43 ID:Qb3rlDNK
>>816 佐竹滅ぼしてたら東国政権築けて秀吉に対抗できたかもよ。
佐竹にてこづりすぎて時間を浪費したのが運のつきだったんだよ。
820 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 12:47:47 ID:9RMtvTev
>佐竹にてこづりすぎて時間を浪費したのが運のつきだったんだよ。
エイプリルフールは4月1日ですよw
821 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 13:27:14 ID:Im9zFfz4
>>819 ム リ 。
西国政権の国力を甘く見すぎだ。
小田原攻略の時点で東国と西国では文化とか政策ノウハウだの
何やかや含めて20年以上は開きがある。
関東攻めの際に多少落とさなくちゃならない城の数が増えるだけだ。
しかも羽柴は小田原陣のあと奥州陣、名古屋陣と連続して行っている。
一方北条は領国内に百姓まで動員かけて見せかけの軍勢を作るだけでヤットコ。
822 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 13:33:16 ID:+LsBfumN
たぶん沼尻で家康との連動の事いってんだよ
823 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 14:51:23 ID:uaVtpnwT
>>816 ゲームばかりやってないで本の一冊も読んだら?
佐竹ら北関東衆らの訴えで秀吉は
天正13年には既に関東出馬の意思を固めている
それから4年後、北関東を攻めきれず
すったもんだしてる間に実際に秀吉の手が入る事になる
そこで起きたのが名胡桃城事件だ
天正壬午の乱以降、甲斐信濃を支配下に収めた徳川に対し
北関東の抵抗によって上野一国手中に収められなかったのが
名胡桃城事件に繋がったのは言うまでもない
伊達との連動策も、間に佐竹らが踏ん張っていたのでは
当然実現出来るはずもなく結局伊達にも見捨てられた
824 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 16:37:03 ID:Qb3rlDNK
825 :
仙台藩百姓:2007/07/28(土) 17:03:52 ID:w9CEht8w
小城一つ掠めて滅びたアホウジョウよりは
北関東のしょぼくれ大名の方がまだマシかもね( ^ω^)
826 :
項龍 ◆Sw15bzOP8. :2007/07/28(土) 17:18:24 ID:O5Cd1TZ1
>>825 そういえば政宗が毒殺されそうになった事件があるけど
母が弟の小次郎を寵愛してたからそれを妬んで
毒殺未遂事件の犯人を小次郎にして処刑したんだっけ?。
827 :
仙台藩百姓:2007/07/28(土) 17:32:46 ID:w9CEht8w
>>826 そういう事は伊達スレに書き給ゑ( ^ω^)
828 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 17:37:38 ID:GUw2LdOo
あの毘沙門狂いの電波がノコノコ出てこなかったらな
氏康公御存命中に佐竹を滅ぼして関東を平らげる事が出来たろうに
関東甲信越を20年早く統一した北条家
その善政があまねく民を潤し、一大アルカディアを現出させていた筈
カビの生えた名族意識をもったダニ(上杉、佐竹)どもが
日本の発展を遮ったといえよう
829 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 17:40:37 ID:+LsBfumN
平将門も駄目だったしね
830 :
項龍 ◆Sw15bzOP8. :2007/07/28(土) 17:42:01 ID:O5Cd1TZ1
831 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 18:45:51 ID:Im9zFfz4
なんか本当に煽りだけのレスが増えたなあ。
三戦板から分かれた後からこういうのが顕著になったよな。
できれば前のようにもっとマッタリしてて欲しいんだけどな。
>>823 秀吉は北条と北関東諸将を同列に捉えていた。
問題はどっちが先に上洛するかということ。
ただし北条が北関東を牽制する傾向にある(逆は不可能)ので、
北条に対して厳しい態度を取らざるをえなかった。
それは度重なる上洛要請となって表れている。
無論北関東もきつく上洛を催促されている。
秀吉は柴田を倒した辺りから天下統一と唐入りの構想を
概ね具体的に考えており、なるべくなら鎮西や東国への出兵をせずに
日本統一(その後即唐入り)したかったが、
島津も北条も上洛しなかったため、手っ取り早く秀吉から出向いた訳だ。
これは大友が佐竹がという以前に、上段のことも合わせて
島津や北条自身の問題であって、佐竹が死にそうだったから
小田原に来たんじゃない。
だから葦名のことは全く知らない振りをされてしまったのだ。
つーわけで名胡桃事件も単にひとつのきっかけに過ぎず、
問題は氏政氏照が上洛するかどうかにかかっていた訳で、
名胡桃事件が起こらずとも北条が曖昧な態度を取りつづければ、
秀吉は小田原に出兵したのは間違いない。
佐竹が何かしたから北条が滅亡したのでは決してなくて、
北条は自ら地雷を踏んでしまったんだよ。
832 :
仙台藩百姓:2007/07/28(土) 18:48:42 ID:w9CEht8w
>>828 所詮北条は形骸化した組織の亡霊共を
打破する力すらなかったと言う事だお( ^ω^)
その後、皮肉な事に過去の遺物共は新しい世界に目を向け生き残り
北条は取り残されて滅亡する事となる
833 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 20:06:05 ID:uaVtpnwT
>>831 同じ事だろ
北条が関東を支配する事が出来ていれば
名胡桃城事件など起こりようがない
北条が上洛できなかったのも事件に対する処罰を恐れたからだ
氏直は秀吉にそう弁明している
834 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 21:08:48 ID:Im9zFfz4
>>833 何言ってるんだか良く分からないが、
俺が言っているのは、佐竹がなんかしたから
北条が滅亡することになったんじゃないってことだ。
名胡桃城自体佐竹のせいで起こったことではない。つーか名胡桃城は真田の城だよね。
佐竹が「北条の滅亡に関わるようなこと」に関与したことはないし、
小田原陣も秀吉の思惑によるもので、全ては秀吉と北条の間のことなのだ。
835 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 23:43:57 ID:DIH9/o+Z
>>833 ゲームさえも我慢して得た読書の成果がそれかよw
少しは論理的に物事を考えられるようにしてはどうだ?
北条が関東統一を果たせたか否かは滅亡と関係はない
秀吉の上洛要請を拒否し、まずは沼田問題の裁定を優先させ、
有利な条件でひとまず調停することと引き換えに
上洛を再度促されるも、それを先延ばしにしている
この直後に名胡桃城事件が起こるわけだが、
数度にわたる上洛要請に応じる様子がない北条の姿勢に
業を煮やした秀吉が小田原出陣を発令する
上洛に応じなかったのは、初めから北条家中の意見不統一によるものであり、
名胡桃事件以前から小田原の陣にいたるまで、北条氏は臣従か抗戦かで揉めていた
これら周知の事実を君は時系列も踏まえてしっかりと把握してほしい
臣従反対派のと言われる氏政らが、関東統一したからといって秀吉に従うとは考えられない
>>834 関与してないわけないだろw
佐竹ら反北条連合は豊臣方なのだから
北条滅亡に豊臣が関与してないと言ってるも同じだ
なんか氏政上洛は名胡桃事件がなければ
来月に上洛予定で準備してたよ
でも氏政はVS残り関東で講和とかしても兵を引かず
そこは条件にはないからみたいな感じで
だまし討ち同然でねちねち小城やら豪族を
つぶしてたから豊臣もさすがに同じレベルと思わないが
そんな認識があったと思う
佐竹はナウそうだから取り込んでれば義久ががんばって滅亡を
まぬがれたかもしれんね
日本語でおk
ヒント: 掛馬治郎左衛門
841 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 12:24:56 ID:U94LN82y
なんだと!
ナウイヤングの漏れにさからうつもりか?
ナウイヤング語の問題だすからこたえられんのか?
ウチのLBがBKの1000πと「あしあそ?」とか言っててマジどんだけ〜!
>>841 何に対して怒ってるんだチンカス
なあバカ、教えてくれよ
「日本語でおk」に対してきれてるんなら筋違いだぞ。
日本語でおkと複数の選択肢を用意してくれている発言だから
おまえのとれる選択の幅を広げてくれているだけ
怒るのはまったく意味がない
わかったかチンカス
おい、常陸国について語るなら
加賀谷とかだけじゃなくて、掛馬治郎左衛門の話題はないのか?
それともゲームばかりのチンカス厨の巣窟だから、語るべき話題を語れないか?
だったらプゲラもんだな乙。
844 :
838:2007/07/29(日) 14:04:34 ID:WI9vQ3/p
>>836 オメー話が最初に戻ってループしてるじゃねえか。
だいたい豊臣方ってなんじゃい。
少なくともそのころの佐竹は豊臣政権下の大名ではなく、単に常陸の佐竹。
それも含めて
>>831に書いたことを、もう一回詳しく書いてやるから理解してください。
北条が滅亡させられることになった直接の原因=秀吉の小田原攻め自体が、
秀吉の意思と北条のメンタリティによって起こったこと。
秀吉が佐竹を滅亡させてはならんぞー、と思ってたなら(つまり秀吉が
佐竹および北関東の言うことを聞いていたらってことだ)、
小牧長久手沼尻対陣のあとすぐに小田原攻めしてるっつーこと。
実際には紀州、四国、鎮西弓箭の後回しにされて、その間五年も
ほうって置かれた挙句、その間に伊達が台頭して葦名が滅ぼされてしまう。
またこの五年の間に結城晴朝は北条が恐ろしくて卒倒してしまい、
相争う北関東勢に「頼むからやめてよみんな仲良くしよー」と泣きつく始末。
宇都宮も壬生皆川が完全に北条方についてしまい、佐野も乗っ取られ
おまけに常陸でも佐竹が洞中の問題をきちんと公平に裁くことができず、
額田が離反し、大掾も離反して北条を頼ってしまうということに。
ところが秀吉は北条の上洛を要求するだけ。
つーか北関東の連中にも同じように上洛を要請してる。
つまりは佐竹の関与とかどーとか関係無しに、
斉一的に東国を従属させようとしていたってことだ。
そんで小田原陣が起こる。無論佐竹が北条を陥れた訳ではない。
全ては北条の勘違いから出たことだ。
そして秀吉がテレテレしていたことで滅亡した葦名が会津に戻ることを
許されなかったところを見ると、仮に佐竹が滅亡していたとしても
佐竹が再興されることはなかっただろう。
つまりは秀吉は佐竹とか葦名とか宇都宮なんてどうでも良かったのだ。
堀だの浅野だの木村だの、常陸都督の候補はいくらでもいるからな。
極めつけは秀吉が出兵する前に諸大名に宛てた北条を糾弾する手紙で、
これには「関東で狼藉を繰り返す北条をブチ殺そうと思ったが、
親戚の家康が懇望するので許してやった」と書かれおり、
つまり秀吉の中では、徳川>北条>北関東という「大事な大名ランク」付けに
なっていたことが分かる。そのあとは北条が真田の名胡桃を攻めたり、
天下をなめきってるのでやっぱり小田原攻めを決定したと書いてある。
ナウな佐竹のことは一切書いてない。
>>845 分かったし845
お前がミクロ的な瑣末問題を提出するだけで
なにも考える頭も意思ももっていないことがな
だからお前も自分の低級さを自分の書き込みで証明することはやめて
おとなしくスレを出て行ってくれたほうがお前のためになると思う
お前のために書くから忠告に従えよ
ほんとウザイし、お前みたいなマニュアル人間いらないから、
さっさと信長の野望でもやって日常の憂さ晴らしでもしてろ
二度と来るな!
>>841 LBとBKが分からない。もったいぶらず教えてんか?
>>850 いずれにしても845が社会のゴミためのような奴だって事はお見通しだし、
そういう低級な書き込みするやつにはスレを出て行ってもらう必要がある。
ウザイし、スレの品位に対して無関心だし、さすがに忍耐許容範囲外だ!
____
/ \ ………
/ ─ ─\
/ (●) (●) \
| (__人__) | ________
\ ` ⌒´ ,/ | | |
ノ \ | | |
/´ | | |
| l | | |
ヽ -一ー_~、⌒)^),-、 | |_________|
ヽ ____,ノγ⌒ヽ)ニニ- ̄ | | |
はいじゃあ終了----------------------------------
854 :
仙台藩百姓:2007/07/29(日) 18:05:00 ID:7Pphd00k
チンピラみたいなアンチぶりにワロタおw
いやぁ、最近進行が早いねぇw
857 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 00:23:23 ID:KVjA3sSx
伊達儲、毛利儲、武田儲に佐竹儲も追加
858 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 03:39:48 ID:ExfiFPIQ
859 :
東義久ってどお?:2007/07/31(火) 11:43:03 ID:KI3TyWOd
860 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 11:46:47 ID:gx8KERf0
「鉄砲と日本人」によると、信長軍の長篠の戦での鉄砲三段撃ちは後世のフィクションだったとか。
そう考えないと、その後の石山戦での雑賀鉄砲衆による信長軍の苦戦が説明できないとか。
すると、沼尻での戦いの佐竹軍の8千丁の鉄砲による北条軍迎撃はどうなるんだろう?
もしかして、沼尻戦が、後世での信長軍長篠戦鉄砲三段撃ちのモデルになったのか?
なにしろ当事関東最強を鳴らした北条騎馬軍団が8万騎だからな。
8千丁という数はフィクションにせよ、数千丁の鉄砲工面しなければ、到底伍する事は不可能だったろうし。
861 :
東義久ってどお?:2007/07/31(火) 16:20:25 ID:KI3TyWOd
>>812の逆で義重の失敗も書きます。
それは那須を最後まで屈服させられなかったこと。
862 :
東義久ってどお?:2007/07/31(火) 16:34:30 ID:KI3TyWOd
あと、スリアゲ原かなぁ?
863 :
東義久ってどお?:2007/07/31(火) 17:15:44 ID:KI3TyWOd
人取橋も
864 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 17:28:34 ID:rvXG4gDF
>>860 沼尻の戦いの鉄砲数はフィクションじゃない。
これでよく勘違いされるのは佐竹だけで鉄砲を8000以上集めたと思われてること。
実際には佐竹の鉄砲は2100挺で、多賀谷1000挺、宇都宮500挺などなど、
各大名が持ち寄った数合わせて8000強挺の鉄砲になったということだ。
その数なら十分に説明がつくし、不思議でもなんでもない。
長篠設楽原合戦は牛一の『信長公記』に記されている数が1000挺。
3000挺の由来は甫庵の『信長記』の怪しい記述から。
北条騎馬軍団←「騎馬軍団」の定義次第だが、多分「騎馬軍団」と聞いて
多くの人が予想するようなものではないな。
設楽原合戦は1575、沼尻合戦は1584だが、この十年の間に日本列島内の
鉄砲数はフィボナッチの兎に匹敵する速度で増加しており、
関が原では両軍合わせて数万挺の鉄砲が使われた云々ということから見ても、
沼尻合戦の鉄砲数はさして問題になるようなことじゃない。
865 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 21:14:42 ID:ol1SN9wz
残り4400の内訳を書かないと説明がつかないだろw
866 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 21:34:45 ID:AuRsmOhj
ってか長篠の鉄砲の数も3千はあると思うよ実際。
信長公記の記述ですら信長本軍で1500の記述があるんだし、その他家臣団
家康合わせて3千ないほうが逆におかしいんじゃないの?
北条ですら同時期の鉄砲装備10%はあるんだし、3万数千で1千丁そこらじゃ
逆に少なすぎる。
867 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 21:56:30 ID:E3j8ISbC
沼尻では北条側はどのくらい鉄砲を持ってきてたんですか?
868 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 00:02:16 ID:KrFfkUu7
じゃあオイラが以前に別のスレに載せたやつを再び出そう。
以前のにちょっと手を加えてある。
鉄砲一千挺 下妻(多賀谷重経)
鉄砲三百挺 結城(晴朝)
鉄砲三百挺 下館(正村)
鉄砲三百挺 宮(宇都宮)旗本
鉄砲三百挺 皆川(広照)
鉄砲三百挺 壬生(綱雄)
鉄砲二百挺 芳賀(高武)
鉄砲千百挺 東(佐竹義久)
鉄砲五百挺 江戸(重通)
鉄砲八百十挺 府内(大掾と南方三十三館主全部で)
鉄砲百挺 竜子山(大塚)
鉄砲五百挺 幸沢(山能小野崎)
鉄砲五十挺 塩松(奥羽の安達郡辺りの人)
鉄砲千挺 旗本(佐竹旗本)
鉄砲三百挺 会津(盛隆)
鉄砲百挺 岩瀬(たぶん義宣の妻の実家、二階堂の親戚)
鉄砲百挺 白川(義親)
鉄砲百挺 田村(清顕)
鉄砲百二十挺 須賀川(二階堂)
鉄砲三百挺 北(佐竹義斯)
鉄砲二百挺 小田北(梶原政景)
鉄砲三百挺 片野(太田資正)
鉄砲二百挺 額田(従通)
鉄砲百挺 茂木(筑後守良治)
鉄砲二百挺 真壁(氏幹)
計8780挺。
佐竹は2400だな。
これは国典類抄の第十軍部だかどっかにかかれているやつだ。
はっきり言ってぜんぜん普通だ。
869 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 09:16:09 ID:zFUqy/TF
佐竹葦名と敵対していた田村清顕が入ってる時点で信用できん
870 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 13:29:55 ID:3ptaGACM
>>869 田村が一貫して敵であったわけじゃない
完全に伊達に取り込まれるのは天正16年の事(沼尻の4年後)
それまでは伊達側に付いたり佐竹側に付いたり繰り返している
>>868 鉄砲千百挺 東(佐竹義久)
鉄砲百挺 竜子山(大塚)
鉄砲五百挺 幸沢(山能小野崎)
鉄砲千挺 旗本(佐竹旗本)
鉄砲三百挺 北(佐竹義斯)
佐竹分は以上の2900だと思う
額田の小野崎も佐竹の配下と言えば配下だが
あと岩瀬を指す所はたくさんある
岩瀬御前は葦名盛隆の娘の事だよね
二階堂の大乗院(盛隆生母)の養女になっている
別に岩瀬家と言うものがあったわけじゃないと思うけど
恐らく岩瀬という所に屋敷を構えていたからでは?
ちなみに佐竹支配下の部垂南部にかつて岩瀬氏がいた岩瀬と言う土地がある
あとは真壁の北部にも岩瀬村があった
871 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 14:17:03 ID:HbX/yLXN
>>860 以前漏れが書いた記憶が・・・まあいいか。
漏れはまず、雑賀衆の石山合戦が始まりと見ている。
信長はそこで、手痛い敗北と引き換えに鉄砲の使い方を学んだ。
それを親交のあった義重へ文書として送った。
義重は、信長を通じて知った雑賀鉄砲術を、領内に取り入れることにした。
ちょうど手這坂の戦で、友軍の真壁家が鉄砲を(おそらく関東で初めて)使っていた。
農民からの志願兵で成立している当時の佐竹軍は、兵たちの軍役の訓練に時間を割けない。
なにしろ、農作業の合間に兵役に出てきているものだから。
加えて南北西は敵だらけ。
手っ取り早く使える兵隊にするためにも、鉄砲とその用法技術は必須だった。
872 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 22:50:46 ID:HmHRHplo
掛馬治郎左衛門について知っている人いますか
873 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 11:21:07 ID:0jr4tiGG
本願寺側に雑賀衆が当初ついたのは確かたが、織田側にも同じ紀州鉄砲集団とし
て有名な根来衆が早期から味方しているが
874 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 16:48:48 ID:F0Tn9qZq
明智光秀を大河にという声が出ている。
「佐竹」は・・・だめか?
875 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 17:37:55 ID:FNjuNz3U
何しろ『独眼竜政宗』でもスルー
島津や立花や加藤清正のように半島がらみもないのに全力でスルーだからなぁ>さたけ
事情はよく分からないけど。
876 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 17:58:12 ID:QPQxdnU7
北条五代をやったらヤラレ役として出てくるだろうけど
北条に敗れ去る謙信共々
その醜態を全国に晒したいね
滅亡寸前に追い込まれ秀吉に泣きつく佐竹
凄く・・・惨めです
877 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 20:32:49 ID:F0Tn9qZq
>スルー
未だに宗家が健在なせいか?
「闇の権力」とも大して関わっていそうにないと思うんだが・・・。
878 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 21:34:01 ID:XevtotKm
車斯忠のあったよな
879 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 23:32:04 ID:7vFWojNU
分かりやすい「見せ場」も一般的な知名度もないからな>佐竹
鬼義重なんて言ってみても、常陸統一できたのは秀吉の威光おかげで、
しかも戦国時代終了後だからね…
江戸・小田・大掾・白河レベルなら勝てるけど、後半は北条・伊達に滅ぼされそうになってるし…
880 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 08:33:07 ID:p1AkvX8A
佐竹の見せ場ねぇ
昭重宣父子3代だと
関東管領お断り
謙信と喧嘩
沼尻の戦い
人取橋の戦い
南33館暗殺
宇都宮家取り潰し
対徳川で上杉にハシゴ外される
こんなとこか
地味だ
だがそれがいい…か?
881 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 08:35:16 ID:xG5mFlsr
あの国力でそれだけ見せ場作れたのが凄い
882 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 09:46:34 ID:0BSpCaRX
883 :
東義久ってどお?:2007/08/03(金) 11:27:25 ID:oTPktiza
>>868 私の見た資料と若干違うようです。「図説 茨城県の歴史」「国典類抄」
「鉄砲三百挺 壬生(綱雄)」→二百挺
「鉄砲百挺 茂木(筑後守良治) 」→百十挺
「鉄砲八百十挺 府内(大掾と南方三十三館主全部で) 」→
府内 200
竹原 70
畑 50
津賀 20
中原 50
鹿島 100
山田 20
下河辺50
小高 50
相賀 30
武田 50
島兼(島崎の誤りか?)20
手賀 30
玉造 50
計720
どうでしょうか
884 :
東義久ってどお?:2007/08/03(金) 11:38:04 ID:oTPktiza
>>880 私見 大河ドラマ「佐竹義重」
主演 キムタク(もちろん視聴率アップのため、それ以上でもそれ以下でもない)
確か海老沢前会長は茨城出身なんだよなぁ
見せ場
1565年 義昭との早すぎる別れ。義昭35歳、義重19歳
謙信の関東出陣に従軍
太田・梶原父子を客将に迎える
1567年 大崖山の戦い。佐竹勢、那須資胤に敗れる
(以後、那須との小競り合いをちょくちょくととりあげる)
1569年手這山の戦い
一時休憩
885 :
東義久ってどお?:2007/08/03(金) 12:05:34 ID:oTPktiza
続き
1570年 那須と戦う。2戦2勝。しかし、烏山手前で退却
義宣誕生
1571年 妹を通じて岩城家中に口出しし始める。
車斯忠、筆頭家老和田昭為を讒言す。
昭為出奔。義重、和田一族誅す。小貫頼久、筆頭家老に。
下妻城攻防戦。佐竹・多賀谷6000、北条勢2万を破る。
1572年 奥州寺山城下の戦い。引き分け。
葦名・白河・田村7000、佐竹4000。
多功原の戦い。佐竹・宇都宮5700、北条勢2万を破る。
皆川領攻略、11の支城を攻略し、残すは本城の皆川城のみ。
1573年 田村氏と共同して石川昭光を攻め、服属させる。
義重、太田梶原真壁と共に小田領宍倉城、戸崎城を攻略す。
出奔して白河家中にいた和田昭為が、
白河家中の内紛(義顕vs 義親)に嫌気が差し、義重に内通す。
一時休憩
886 :
東義久ってどお?:2007/08/03(金) 12:50:33 ID:oTPktiza
続き
1574年から、赤舘をめぐる白河・葦名vs佐竹・船尾・石川の小競り合い
1574年 謙信、最後?の関東出陣。
義重との誓詞を取り交わすか、交わさないかもめあう。
関宿論争。
>>803 >>807 1575年 和田昭為の策により、白河城攻略。昭為帰参。
1576年 高道祖原(たかさえはら)の戦い。義重、北条に対し局地的勝利を収める。
(詳細不詳…「誰か助けてください」byサクタロウ)
長沼城攻防戦。最初、義重は田村と共同して葦名領に攻めたが、
逆に田村が葦名と共同して長沼城を包囲している義重を襲う。
1577年 北条勢と鬼怒川対陣(1578年説あり)
葦名・二階堂・田村・白河勢7000、白河城攻撃。
対する義重勢4000、城から打って出て敵中を突破し危機を脱す。
白河城は敵の手に…
1578年、謙信、関東出陣前に、義重と盛氏の和睦を仲介す。
義重、危機を脱する。謙信死亡。
船尾昭直の仲介により、白河・田村との和睦成立。
次男、喝食丸を義親の養子に出す事が決まる。(来年に実施された)
義重・梶原、小田領の木田余城攻略。
一時休憩
887 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 13:51:53 ID:Zr57wDfG
佐竹はむしろ見せ場には困らない
義重は家督を継いで以来
関東東北の戦いは激化する一方で一年と平和が続いた例しがない
大河とかやったら毎週決戦だの対決だので
ホームドラマやってる暇がない
888 :
東義久ってどお?::2007/08/03(金) 14:14:40 ID:oTPktiza
889 :
東義久ってどお?::2007/08/03(金) 14:42:05 ID:oTPktiza
続き
1580年 盛氏没。その前に義親を通じて義重に、
「自分が死んだら葦名家を頼む」と言われた。
信玄と謙信みたいなものかな?
勝頼と共同して上野出兵。ただし同陣はせず。
1583年 宿敵?小田氏を服属させる。
車義秀、伊達・田村に通じ謀反を起こす。
義秀・斯忠、岩城氏に亡命す。
1584年 沼尻合戦。
佐竹2万vs北条8万が、前半は渡良瀬川を挟んで対陣し、
後半は太平山をめぐる小競り合いが、110日間行われる。
(といっても、大規模な合戦はなかった?らしい)
政宗、家督相続
1585年 宇都宮、多気山城に本城を移す。普請に佐竹からの援助あり
人取橋
1586年 景勝を通じて秀吉から「第一次関東奥羽惣無事令」が言い渡される。
(1584年説あり)
葦名亀王丸没。白河義広が葦名家を相続す。
以後葦名家中、義広派と反義広派に分かれてもめ始める。
1588年 郡山の対陣。伊達勢600vs佐竹連合4000。引き分け。
1589年 スリアゲ原の戦い。葦名滅亡。
佐竹も高野郡を除く奥州の所領ほぼ失う。
1590年 北条滅亡。佐竹旧領+常陸ほぼ全土安堵。
>>342 仮に善政を敷いても、お家がつぶれたら「オシマイ」(by欽ちゃん)
890 :
東義久ってどお?::2007/08/03(金) 14:44:15 ID:oTPktiza
>>342 これここのスレじゃない!!スマソ。スマソ。
891 :
東義久ってどお?:2007/08/03(金) 14:57:05 ID:oTPktiza
あとは、私にとってはつまらないので…省略
892 :
東義久ってどお?:2007/08/03(金) 15:03:06 ID:oTPktiza
あと、もう一つ付け加えさせてください。
1588年、北条氏直・松田憲秀、霞ヶ浦まで出陣。東義久が出陣すると
北条勢、攻撃目標を変えて、多賀谷領の谷田部城を攻める。
確か、この時、あの梶原政景が北条に寝返ったが、
太田が義重に泣きを入れて、許してもらったエピソードあり。
893 :
東義久ってどお?:2007/08/03(金) 15:04:50 ID:oTPktiza
間違った
梶原が裏切ったのは沼尻合戦だった!!
894 :
人間七七四年:2007/08/06(月) 10:12:41 ID:VquTMu5C
梶原政景あげ
895 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 21:16:39 ID:/mbOgeDp
>>876
北条五代なんかやったら、
一番惨めなのは、四代以降の北条だろ。
佐竹が、援軍に駆け付けると、逃げ足の速さ発揮。
おそらく、秋から冬にかけては北関東での負け戦ばかり・・・
なさけねぇ・・・
896 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 21:19:30 ID:FKDO+aaP
>>892-893 「鬼」と呼ばれていたにもかかわらず、なぜか甘ちゃんだな、義重公。
和田氏の家族を虐殺したのが、実は流行病にかかった和田氏の後始末ジャマイカという話もあったが・・・。
小田原参陣後、常陸統一のために徹底的に非情に徹したけど。
897 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 22:05:54 ID:/mH13TzE
鬼は規律が厳しくて味方が義重をそう呼んで
敵方は坂東太郎と呼んでいたと、佐竹を扱っているサイトで読んだな
ところで坂東太郎って誰?
898 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 23:00:24 ID:hT9d4Jis
坂東ってのは「足柄"坂”以"東"」を指す言葉。
また坂東を中心とした坂東武者で知られる通り、源氏を指す言葉でもある。
太郎は長男つまりは家長を表している。
つまり坂東太郎ってのは関東を治める源氏の長者(=関東の覇者)としての意味を持つ。
つまりは関東の覇者
899 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 23:28:28 ID:Tby5+Z1E
>ところで坂東太郎って誰?
1 平の将門
2 利根川
3 佐竹義重
900 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 23:34:48 ID:hT9d4Jis
2番
901 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 06:27:06 ID:4K6Hz+Os
吉野次郎に筑後三郎
902 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 10:18:25 ID:CZWuBTor
河川かよ
903 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 18:09:18 ID:w58om2/6
坂東太郎は日本一の暴れ川として畏怖された利根川の別名
その名で呼ばれた義重は名誉な事であると思う
でも実際の義重は案外お人好しで
嫁に頭が上がらなかったり
結構愛嬌のある人物だ
息子の義宣の方が鬼にふさわしいかもしれん
904 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 21:54:59 ID:0GrPwLWK
>>898 そうだったのか
昔の武将の名だとばかり思ってたよ
いや、ありがとう
905 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 21:40:32 ID:yNzOHCmV
>>901 筑紫次郎(九州)と吉野三郎(四国)じゃなかったっけ?
九州四国に同様な仇名を持っていた武将っていないのか?
北条軍が常陸・下総に出てきたとき、補給用の拠点に義重公自ら殴り込みをかけて、戦国無双ばりに兵士を七人打ち殺し。
「野立刀」ではなく「鋲打ち六尺棒」が凶器だと思われ。
これが坂東太郎の名の由来となったエピソード。
906 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 00:23:21 ID:LlQoRtFX
鈍器好きにはたまりませんな
907 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 17:02:43 ID:6uXvOJe8
鈍痛
908 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 18:54:07 ID:R3P2iQET
義重「こぉ〜のでれすけが〜、ぶぢまわしてやっから」
昭為「でぇー、御屋形様一人で行っちまったっぺよ。久やん、わしらも早ぐいんべや」
義久「そうすっけぇ」
きっとこんな感じだったに違いない
909 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 09:47:09 ID:JQU/577P
バカにしすぎwww
910 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 10:12:25 ID:Nj/Fa4Gz
半家臣の真壁氏も棒使いだし常陸は鈍器愛好家が多いのか?
911 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 12:55:56 ID:DkYNWFrE
鋲付き樫棒は坂東武者のあいだではポピュラーな武器だったんだよ
912 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 13:34:45 ID:mjLt2c9e
佐竹を必死に侮辱する輩は名古屋辺りの人でなし守護代の片割れか節操なしの伊達の有象無象か(笑)
913 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 19:49:23 ID:T+4mfY4k
昭為「でぇー、御屋形様一人で行っちまったっぺよ。久やん、わしらも早ぐいんべや」
義久「そうすっけぇ」
↓
昭為「でぇー、御屋形様一人で行っちまったっぺよ。久やん、わしらも早ぐいぐべや」
義久「そうすっぺぇ」
こうでは? 常陸中部出身者が添削すると。
914 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 21:16:12 ID:8BWUOmpU
915 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 21:28:43 ID:kMOraK/C
916 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 10:54:23 ID:3WMYtF1C
917 :
913:2007/08/15(水) 12:06:37 ID:bhm55o5p
>>914
うちの実家近辺を基準に考えると、言葉がそうなるんで。
別に常陸訛りは、恥ずかしいとは思ってないよ。
転勤が多い仕事なんで、むしろ 利用させてもらってるし。
帰省したときに、 図説 茨城の城郭 2800円 こんなの見つけたけど
うちの近所の小学校が元城跡かよ 墓参りのついでに見に行ったが
住宅が立ち並んでいまいち、想像できない。
あーゆのって買っとくべき? 廃刊にならないうちに。
918 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 18:32:12 ID:gq+IoDb0
そういや舞鶴は城跡が住宅になっちゃってるんだっけ。
小学校に石碑かなにかあったような??
919 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 20:32:26 ID:xrlUL8J1
「小野崎義昌、その奴婢の為に弑される」
佐竹家譜より
卑怯者は所詮卑怯者w
920 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 20:33:45 ID:xrlUL8J1
無論その卑怯者とは米沢辺りの眼帯野郎だw
921 :
仙台藩百姓:2007/08/15(水) 23:43:42 ID:42CD3PDT
>>918 住宅地やら商店街になってるお( ^ω^)
高台になっている事と急勾配の坂ぐらいしか城を感じる所がない
小学校の石碑は道路から見えると思ったお
全国的にどこの城跡もそうだけど
いくらでも周りに空き地あるのに何でわざわざ城跡に家建てるのだ
と思わぬこともない
922 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 08:37:27 ID:wf3UdZ3o
その空き地は堀の跡では?
923 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 10:11:32 ID:lRUGQ3jA
924 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 11:18:40 ID:kJ5s5/Xh
925 :
仙台藩百姓:2007/08/16(木) 11:30:36 ID:R8mT96dQ
>>922 というか周辺は見渡す限り田畑と山なんだから
離れた平地に住めばいいのにと言う事だお
そういや空堀も多少残ってるらしいけど
素人じゃ見つからんかったお( ´ω`)
水戸城も佐竹時代の痕跡など今となっては知るよしもないし
常陸には何も残ってないおね
佐竹寺ぐらいか
926 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 18:28:24 ID:JKEDSzWy
927 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 21:04:51 ID:jNuJVM3c
必死を繰り返す
>>926の池沼がもっとも必死であることが良くわかったw
928 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 23:38:39 ID:svrI8Ze2
>>925 水戸城跡は、旧県庁跡の堀が目に付くよね。 あと ガイドにしたがって歩くと
だいたい 想像できる。
929 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 23:42:22 ID:svrI8Ze2
佐竹氏の家臣て、どんなのいたの?
佐竹二十四将とか四天王て、聞かないけど。
930 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 00:05:27 ID:NeEHQb2U
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■死■■■■■死■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■死死■■■■■死■■■■■■■ねねねねねねねねねねねね■■
■■死死■■■■■死死死死死死■■■■■■■■■■■■■ねね■■
■死死■■死■■■死■■■■死■■■■■■■■■■■■ねね■■■
■■死■死死■■死死死■■死死■■■■■■■■■■■ねね■■■■
■■■死死■■死死■死死死死■■■■■■■■■■■ねね■■■■■
■■死死■■■■■■■死死■■■■■■■■■■■ねね■■■■■■
■■死■■■死■■■死死死死■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■死死死死死死■■死死■■死死■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■■■死■■■死死■■■■死死■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■死■死■死■■■■死死■■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■死■死■死■■■■■死死■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■死死■死■死■■■■■■■■■■■■■■ねね■ね■■■■■■■
■死■■死■■■■死死死■■■■■■■■■■ねねね■■■■■■■
■■■■死■■■■■■死死死■■■■■■■■■ねね■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
931 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 01:24:58 ID:oH3h3w7a
小幡城跡って水戸城の支城だったんだな。
市街化のギャップを感じた。
932 :
仙台藩百姓:2007/08/17(金) 03:00:14 ID:aP8JKNTB
>>928 あの空堀や郭間の堀切は結構な規模だおね
北は那珂川(だっけ?)、南は千波湖に挟まれ
台地の面積も広いし
あそこならもっと巨大な城郭を築けたと思うお
>>931 小幡城は街道筋からそれたお陰で良い保存状態を保てたと思うお
去年見に行ったけど中世の城郭の雰囲気をよく残していて気に入ったお
曲がりくねった堀底道はなかなか( ^ω^)
ついでに小田城も見て来たけどあれは守り難いわけだお
高低差なんて全くないし
大きな川が流れてるわけでもないし
堀や土塁も大した規模じゃないから大軍に囲まれたらお手上げだお
さすが黄門様の居城だけあるな。
934 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 07:24:56 ID:+RD10Wu8
>>932 そうそう 小田城はすぐ後ろに山があるのに、あれをひとつも利用してない
935 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 09:40:51 ID:XFLwmeOu
佐竹って名門中の名門なの?
936 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 10:03:11 ID:m/1iruCD
937 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 13:57:51 ID:blyB7+YX
>佐竹って名門中の名門なの?
うん 新羅三郎 源義光の流れを組む 源氏の出 信玄と同じ。
で、家の格として、どっちが上かで揉めたり。
まあ、ぽっとでの北条には、やばげでも負けたくなかった。
土着の北にいる眼帯野郎にも、負けたくなかった。
938 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 15:14:09 ID:m/1iruCD
>>935 当然だよ。この無礼な呑百姓がw
奥羽の眼帯野郎や小田原の泥棒野郎と一緒にするなクズw
939 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 15:34:07 ID:8d/+CpqA
940 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 17:03:59 ID:m/1iruCD
941 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 17:05:07 ID:8d/+CpqA
釣れたw
942 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 17:51:59 ID:AjR2+hcm
なんという…
943 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 18:06:37 ID:yMfFB1bJ
奥州伊達氏 藤原北家山陰流
小田原北条氏 伊勢平氏正度流
最上氏 清和源氏義国流
佐竹氏 清和源氏義光流
これらの家には、仮冒や系図偽造はないよね?
944 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 19:30:48 ID:sZphOjZV
佐竹、最上は間違いない
後北条も伊勢氏の出身だとほぼ確定されつつある
伊達は不明
あくまで自称であり今だ裏付けされていない
ただ、鎌倉以来の家柄であるのは間違いないから
出自不明であっても名門である事には変わりない
そして政宗以降は全国で一、二を争う名門大大名となった
【信憑性】
奥州伊達氏 藤原北家山陰流・・・E
小田原北条氏 伊勢平氏正度流・・・D
最上氏 清和源氏義国流・・・C
佐竹氏 清和源氏義光流・・・X
【私観】
伊達は論外。中村朝宗との関係をきっちり立証して出直せ。
伊勢新九郎は幕府の伊勢氏の同族で構わないが、正度流というのが怪しい。
最上・大崎はまあ許してもいいかなと。
佐竹は途中で藤原氏に代わってるといろんな人が教えてくれた。
946 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 21:23:45 ID:8d/+CpqA
出自なんかどうでも良し
弱肉強食の世に名門・成り上がりなど関係なし
947 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 22:22:53 ID:YkGl43+H
948 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 22:26:43 ID:YkGl43+H
>>946の必死さから。コイツの出自がいかがわしい賤民である可能性大w
949 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 22:31:29 ID:AjR2+hcm
>945
他は知らないけど佐竹は確かに途中で藤原の流れを汲む関東管領上杉氏の血が入ってたと思う。
でも婿を迎える形でだから厳密な意味で嫡流とはならないけど、
血が途絶えてるわけじゃないんじゃ?
950 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 22:36:25 ID:8d/+CpqA
>>948 必死さってw
名門出ではないことは否定しないが
951 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 22:43:41 ID:HuqZ/Fe1
まあな 俺の先祖は 義重公と戦場を駆け回った設定なんだが
調べても 家臣に名前がないんだよな。 どうして?
そういや 俺の実家は、つくば市なせいか?
>>949 >仮冒や系図偽造はないよね?(
>>943)
これに対する返答だけで、母系で繋がってるとかいうことを否定してるわけじゃないよ。
953 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 22:51:38 ID:YkGl43+H
笑わせてくれる嘘八百な系図w
奥州伊達氏 藤原北家山陰流
小田原北条氏 伊勢平氏正度流
954 :
人間七七四年:2007/08/18(土) 00:06:16 ID:5Ccbn0fP
家は高垣と言うのだが
義憲入嗣以前に別れた家で
庶流ながら一応義光以来の男系子孫である
しかし父は婿養子
ついに途切れてしまいました
だが、父の家系も義業系ではないものの義光の子孫
これはどう見ればようのだろう
イエは誰が継いでも問題ない。足利が上杉を継ごうが伊達が継ごうが
逆に上杉が佐竹継ごうが本姓は養子先の姓を継承する原則からも
異姓個人の介入なんて屁でもないわけよ。これが仮冒とか詐称とか言っちまうのは
中村朝宗とか得川とか時宗の僧とかが仮冒というのと本質的にかわらん
余談だが
早雲のオヤジ盛時が伊勢氏の出で盛時のオヤジ盛定が、本家伊勢と今川の連絡役つうのは家永が確定させ
盛時が本家伊勢貞藤の甥だっつうのは黒田が確定させたわけよ
皇室が血統の基本なんだ。
男系で繋がっていない黒田家や蜂須賀家を現代人が認めるんかね。
少なくとも明治大帝は蜂須賀の血をそう認めていたし
当の蜂須賀候は真に受けて学者を動員して血の繋がりのない先祖の汚名回復を運動してたぞ
これはイエの成せる業
タバコのパクリは徳川の血への当て付けじゃなかったっけ。
佐竹と何の関係もないな。お互い
それより雑賀衆の佐竹家でも語ろうぜ
いや、樅ノ木絡みで百姓を召還して親直を語るべきだと思うんだ。
そっちもおもろそうだな。信州島津家とか駿河伊達家とか下総土岐家とか因幡武田家とか
本家の華々しさとは真逆の衰路を辿った分家諸君を語るスレを見てみたい気がする
962 :
人間七七四年:2007/08/18(土) 11:29:51 ID:SAxEANav
信州島津は信長の野望に出てくるからいいじゃん
963 :
人間七七四年:2007/08/18(土) 11:32:19 ID:pETZgnqg
いたっけ?
964 :
人間七七四年:2007/08/18(土) 11:51:12 ID:sFBsykAw
蜂須賀は佐竹と関係大有りですよ(´ω`)
965 :
人間七七四年:2007/08/18(土) 21:43:27 ID:EdiSz1CN
武蔵島津家⇒六所宮社家・猿渡氏の親戚
966 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 10:06:11 ID:OqaRjfVI
佐竹義宣って戦上手なの?
義重には遠く及ばないって思ってたけど
義重より有名なんだよな・・・・
967 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 10:08:49 ID:KYNmG0Ax
義宣が義重より有名か?
まぁ戦国時代に義宣が当主だったら
佐竹をつぶしてた可能性もあると思うが
968 :
東義久ってどお?:2007/08/20(月) 12:29:16 ID:WbBo23MV
江戸氏や南部三十三館攻略のみたいに謀略をかけまくるのでは?
969 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 14:44:35 ID:2+I11ETj
義宣なら周りの豪族潰しまくったろうな
伊達の血のせいか何となく政宗と似てるし
970 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 15:39:34 ID:oXFP/Ive
950超えました。
次スレは・・・手回しいいのか、既にできてまつ。
971 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 16:56:44 ID:KYNmG0Ax
義宣じゃ周り中に喧嘩ふっかけて滅亡
972 :
人間七七四年:2007/08/22(水) 10:50:19 ID:acZ3FZwT
>>971 チキンなお前は2chで喧嘩ふっかけて逃亡かw
973 :
人間七七四年:2007/08/22(水) 19:21:25 ID:EoTMLwWI
>>969 政宗は最上の血って感じがするが…。
義宣はお坊っちゃんって感じ。名家の御曹司?かな。
974 :
人間七七四年:2007/08/22(水) 23:35:22 ID:+eyHRKub
義宣公、小田原参陣以降は三成と懇ろ。
秀吉死去以降は上杉景勝と、なんとなく腐れ縁的な付き合い。
謙信と義重で繋がりがなくはないね。
976 :
仙台藩百姓:2007/08/23(木) 01:27:50 ID:wQWXfwlM
義重より義昭の方が謙信と懇意であったようだけど
戦国時代ではむしろ義宣が一番苦難の道を歩んだ感じがするお
977 :
人間七七四年:2007/08/23(木) 19:46:54 ID:K6+Lo/Mq
義宣は伊達政宗とかと同じ世代だが、
政宗と違って戦国世代かというと微妙だな
関が原では親父の言うとおりに徳川につかず減封食らったのが痛い
978 :
人間七七四年:2007/08/23(木) 20:20:13 ID:3izFTkNH
>>977 徳川についてたら加増されてたから、実質100万石くらいになっちゃって
江戸時代中に潰されてた可能性は高いんだぜ〜
979 :
人間七七四年:2007/08/23(木) 23:16:38 ID:H040z7ig
そこらへんはIFだから難しいな
980 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 13:02:44 ID:iL9MS/rr
江戸に近い所にそんなでかい外様がいたら目障りだろうよ。難癖つけて飛ばされるか潰されるだろ。
981 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 13:18:40 ID:ztvBZn9U
そもそも佐竹が東軍についても100万石もくれるわけない
982 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 14:02:40 ID:5HR68yE9
983 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 14:41:26 ID:s1Pnc3oF
南原氏の「名将佐竹義宣」ってどう?
984 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 15:50:45 ID:Is28cqqm
なかなか面白いぞ
985 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 16:40:19 ID:OWazbEZd
>>983 ヒドイ。
基本的にオイラは歴史小説で架空の人物が物語りの流れのひとつになるのに萎えるので、
コヤタとか藤枝とかいう売春婦との漫才が多いのが鬱陶しかった。
また佐竹の考証は半々以上がいい加減。この点は確実に近衛の佐竹シリーズに劣る。
三成が義宣に対してタメ口なのに義宣は三成に敬語とか、筑波一族って誰やねんとか。
所謂童門とかあの辺の連中と同じやっつけ仕事的な小説だぬ。
この小説で佐竹の何かが理解できるとは到底思えない。
なんでまたこれを書かなければならなかったのか理解できない。
986 :
人間七七四年:
生め