1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
とかいうことを話すスレです
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 01:40:45 ID:i5qATDn9
1564年に書かれたガスパル・ビネラという人の報告書には、
「天皇は少しの兵ももっておらず、そのためいつも困窮していたが、国民達には尊敬されていた」
とある。
翌年の、宣教師ルイス・フロイスの報告書にも
「都には宗教上の位を持つ人がいて、日本人は天皇を日本の頭としてほとんど神であるかのごとく尊敬している」
と書かれている。
貧窮を極めた天皇であるが、それでもなお国民の大多数の人達に敬慕されている・・・・。
こうした外国人の見方は当時の状況をかなり正確に表したものだと考えられている。
ちなみに、フロイスは足利将軍にも触れている。
「威厳のある地位を持っているが、実力は乏しい。戦国大名はほとんどその力を認めておらず、尊敬もしていない」
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 01:42:29 ID:XGSRRyeZ
神ですから・・・
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 01:42:36 ID:XGSRRyeZ
神ですから・・・
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 01:49:08 ID:CBJ9R8+7
さてと・・・
当時テレビも新聞もないのに
なんで見たこともない天皇を国民の大多数がマンセーしてたかの件。
少なくとも畿内周辺の雰囲気の中にはあったんじゃないの
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 01:53:17 ID:i5qATDn9
91 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/05/24(水) 00:32:24
一向一揆の時に天皇の勅命で和解したんだけど、
信徒には本願寺明け渡しは天子様の御意だと説明されたとか記録が有った。
知らないわけねーな
戦国時代は即位式のお金すらなかったり内裏修理費すらなかったりと大分困ってたそうだ
時折、大名からの献金があったり(官位と引き換えのケースが多い)してなんとかもっていた
信長が台頭すると御料所回復や継続的な支援が得られるようになり落ち着いた
奥野高広氏の研究の中で室町後期の皇室御収入という項があり、
1487〜1569までの82年間の御領毎の収入表を掲げ、1521〜1569までの平均収入額は620貫文、
他に禁裏御修理費として125貫文、合計で750貫文ほどらしい
他に雑収入や献金などの臨時収入もあったと考えられるので、
事実はこの額以上らしい。
>>5 神と同じで見た事がないからこそとも言えるのではないか
日本神道は全国に広まってただろ
天皇を崇めるようになったのは
もっと後の時代だろ
天皇が全国に立てさせた国分寺とか
分かりやすい存在を示す建造物ないし地名はそこかしこにあったから、存在を知ることは容易くできたんじゃないの?
戦国だからってまったく情報を入手できないわけじゃないだろうし
>>11 見たことがないはそういう意味じゃないと思う
領主が勝手に作った氏神を
領民は疑いもせず祀ってたんだろ?
墓参り程度の事かもしれないが
氏神って領主が勝手に作れるもんじゃなかろう
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 01:13:41 ID:mXnGfe9u
天皇という言葉すらしらないんじゃない?
もともと全国の民は天照大神(太陽)を崇めてたんだよ
どっかから来た馬の骨の王がその神の権威を借りて成功したと
>>9 信長が石山本願寺から徴収した税が五千貫じゃなかったか?
皇室の台所事情、寒すぎ。
>>21 あくまで御料所や禁裏修理費の徴収での収入なんで、実際はもっとあるようだよ
何より献金額が大きいようだからね
でも後奈良天皇なんかも即位式が行えず、献金によってようやく出来たから
経済事情が相当逼迫してたのは確かかと
ちなみに室町前期だとこの御料所収入は7500貫文あったらしく
戦国期に10分の1に落ちてるらしい
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/15(木) 11:20:47 ID:Z2BZ2gTe
各地(地方)の豪族達が位を貰う為に相当の貢物をしていたのはあた
かなーり歴史の表舞台からは遠ざかってるね
特に何もしてないと思う
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/17(土) 17:36:18 ID:D0NaUdfd
戦国期には天皇も他の公家と同じ悲惨な生活を送っていたのか?
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/19(月) 16:42:59 ID:9PTVnzhY
後柏原天皇 明応九年(1500)践祚→永正十八年(1521)将軍義稙や本願寺の費用調達で即位
後奈良天皇 大永六年(1526)践祚→天文五年(1536)諸大名の献金で即位
(諸大名・・・北条、大内、今川、土岐等の名前が出ている)
正親町天皇 弘治三年(1557)践祚→永禄三年(1560)毛利らの献金で即位
と徐々に期間は短くなってはいますが、随分時間がかかったものです
どうも今日はageてしまって困る
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 22:25:42 ID:RRkh3DAO
本能寺朝廷黒幕説をどう思う?
台所事情考えると、かなり薄い。
しかもそれだけの大義名分を光秀が、微塵も表に出してないのも疑問。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 22:01:06 ID:YukMO7q7
素朴な疑問なんだけど、
禁裏は誰によって警備されていたの?
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 22:47:38 ID:82lvwzAH
古式な朝廷の財政収入は詳しい事はあまりわからない。
神宮からの貢送やわずかばかりの勤皇家達からの善意でくらしていたんじゃないのかな。
実力をもった大名からの支援はあまりなさそう。織田家は結構していたらしいが。
武家が叙位・任官されるときに馳走(礼銭)を出すしきたりだった
信長も最初のうちは「こういうときは馳走を出すものですよ」と
たしなめられたりした
>>30 将軍家が京で健在のときは大番がいた
(大番催促って高校で習うよね?)
公家が警護を勤める禁裏小番というのもあって
これは摂関家以外の公家ならみんな勤めた
上下北面、西面、滝口など院周辺にもいたね
大番って鎌倉幕府の職制で、南北朝までじゃないか?
室町では侍所が担当で御門役奉行が置かれたと思うが
禁裏小番は活躍したみたい
後奈良天皇の十三回忌の法会でも金がなかったらしい。
結局山科言継が岐阜まで直接出向いて信長・家康から二百貫の献金を受けたとか。
37 :
33:2006/06/27(火) 14:15:19 ID:J9+7njt5
>>35 その通りだね。
禁裏小番に話をつなげることばかりが頭にあって
思いっきり筆が滑ってしまった。ごめん。
>>32の補足だけど、礼銭を出すという約束で叙位
されながら、叙位された後は催促無視で踏み倒した
詐欺まがいの事例もあって、担当の公卿が日記に
愚痴を書き残したりもしてる。
無知な俺でも知ってるからにはたぶん有名な
言継卿記にあった話だと思うが記憶が定かでない。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/29(木) 02:04:55 ID:cvVAlLFv
>>1 その頃の天皇の現実政治と関わりが深い大きい行為としては、官位授与と改元が挙げられる。
朝儀の費用や官位の礼銭は、命の綱ともいうべき収入となっていた。
まさに彼らは、官位授与と改元をなりわいとする、政治的職能集団だったのである。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/29(木) 16:15:31 ID:t3w9/Dkz
後奈良天皇なんぞはせっせと手紙書いて金もらってたみたいらしいな。
官位濫授の例としては、本来幕府の侍所頭人しか与えられなかった左京大夫を
一時期に大内義興、伊達稙宗、武田信虎、北条氏綱に与えたことがあげられる
稙宗は旅費を含めてだが、二百五十五貫文使ったそうだ
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 23:44:16 ID:M4dBxHLD
百官を統べて天皇を補佐すべき関白は一体何をしていたのか?
秀吉が関白になったのは国政上の権限を利用するためだったとか
秀次が関白となり独自の権限を行使したため、秀吉は切腹させざるをえなかった
という意見があるが、そのような権限はそもそも関白にあったのだろうか。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 19:45:08 ID:ktjLjsgt
あるといえばあるし、無いといえば無いというか
没落した足利将軍の例を見るまでも無く、
経済力の伴わない権威では人はついて来ないから
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 20:07:12 ID:Y8EWlhXq
架空の人物かもしれないが、神武天皇ならバシバシ戦国大名をぶった切っていったんだろうぁ。
信長も謙信も信玄も相手にならない強軍事力をもった天皇陛下もかっこいい。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 00:46:11 ID:/G43enYH
>>41 実際は全く反対で、この時期の関白は朝廷政治から疎遠となり、むしろ意識的に距離を置こうとしていました。
たまに開かれる伝統的朝儀には参加していましたが、実質を伴う官位授与、改元に関わってませんでした。
それだけでなく、摂関家の公卿は陳儀には全く参加せず、消息宣下の上卿にもならなかった。
改元についても摂関家の公卿は陳儀に参加せず、関白は内覧する立場にあったが、出仕せず意見を求められても返事をしなかった。
それは摂関家が禁裏小番衆に最後まで参加しなかったことにも現れています。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 17:28:35 ID:fSoAguT+
今谷明の戦国期天皇権威保持説についてどう思いますか?
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 18:29:47 ID:R+qcj8yT
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 18:33:52 ID:krTMXfxy
オリエンタルラジオで初めて笑った
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 23:16:50 ID:IZ3EQGu7
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 00:28:16 ID:4DG7JjL8
振り込め詐欺と架空請求
今谷明か、読んでないからなんとも
そのうち読みます
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 15:15:50 ID:2xTx23mS
>>2 それは信長が義昭の力を削る為に天皇の存在を天下に示した為
将軍より上の存在がいると言う認識を持たせて
天皇の勅命により将軍を追放したとすれば全国の非難を受けなくて済む
また、宣教師なども対外政策に利用した
それが今谷説なの?
幕末にも似たようなことが
信長の二番煎じなのかな
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 22:02:16 ID:Nn7Z8rby
戦国時代なんて山城付近しか天皇が何かなんて知らなかっただろ
存在に気がついたのが信長だけだし
信長が持ち上げなかったら天皇家も消えていたかも知れない
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 23:21:28 ID:8vZw53TM
今の天皇家だって国民の税金収入で暮らしている訳だから
昔も今も変わらない、って事か?
国費できちんと生活できてるぶん、現代の方がましでしょ
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 23:10:50 ID:GNV63mEE
本願寺顕如なんかは
信長が11年も戦い続けてついに倒せず、朝廷に講和を仲介してもらった相手。
信長の本願寺引渡しの要求を蹴り交戦、1576年5月の戦いでは[土高]直政
などの有力武将が戦死するなどの激戦を演じるも
後陽成天皇の仲介により1579年に本願寺は紀伊国鷺森に移転することで解決をみている。
1600年の関ヶ原の戦いでも
細川藤孝の居城・丹波田辺城を石田三成の命を受けた小野木公郷の軍勢
1万5千が包囲したとき、
後陽成天皇が勅旨を出し、西軍に城攻めを中止させ、城主・幽斎には開城を
勧告して成功している。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 23:40:26 ID:TOfKt/Mw
天皇の妻はどこから迎えられていたんですか?
この時期の天皇に「正式な妻」はいない。
適当なお公家さんの娘が女官仕えしているのに手を着けるという・・・
正式な妻が復活するのは正親町天皇(女御・正親町町子)からだったっけ?
後陽成天皇の女御、近衛前子じゃね
ところで正親町町子って?
ちなみに中宮はずっといないんだね
後醍醐帝、西園寺禧子、c子内親王
光厳帝、懽子内親王、以来
後水尾帝、徳川和子まで、女院はいるけど
ところで皇室の窮乏の話のつづきだけど、
後土御門崩御の時は、葬儀の費用がなく
四十九日間黒戸の御所に置かれたそうだ
信秀のおっさんみたいな田舎大名はちまちま貢いでたみたいだけどな
四千貫ってちまちまなんだ
それとも、四千貫を何度も貢いでいたとか?
今で言うと一貫が十万円ぐらいだっけ?
一貫文は米1石(〜4石くらいまでの説もあるけど)
一石=一両とすると七万〜十万円くらいかな?
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 21:01:57 ID:eEoVUw2W
権威だってそんなにあったとは思えないな。
仲裁したといっても、大名たちが権威に恐れ入ったわけじゃなく、
一つには信長が本願寺や浅井、朝倉と停戦した時のように、
双方に停戦することにメリットがあったから成立したのであって、
メリットがなければ聞く耳持たずに戦い続けただろう。
もう一つには、浅井、朝倉や本願寺、あるいは関ヶ原のときの
細川幽斎にせよ、信長や豊臣家が天皇の権威を利用している以上、
天皇の名による停戦なら騙し討ちにしないと考えた点が大きい。
そういう点を考えた上で、信長や幽斎が
確実に停戦を成立させるために天皇を担ぎ出したと
見るのが妥当ではないだろうか。
>>65 >一つには信長が本願寺や浅井、朝倉と停戦した時のように、
双方に停戦することにメリットがあったから成立した
お互いのプライド保つための役割?
仲間やら親兄弟やら死んだせいで復習の戦争続けたがる部下達を
納得させるための役割?
天皇に権威があるのは依存はない
あるちゃあるでしょ、いつの時代も
だがここは暮らし向き中心のスレと思うよ
戦国期天皇の葬礼
・後土御門帝 明応九年(1500)九月二十八日崩御 十一月十一日火葬
・後柏原帝 大永六年(1526)四月七日崩御 五月三日葬礼
・後奈良帝 弘治三年(1557)九月五日崩御 十一月二十二日葬礼
天文四〜五年(1535〜36)後奈良天皇即位の礼のための献金
大内義隆 2140貫+100貫
朝倉義景 100貫
長尾為景 100貫
土岐頼芸 10貫
永禄元〜三年(1558〜1560)正親町天皇即位の礼のための献金
毛利元就 2000貫
朝倉義景 100貫
三好長慶 100貫
北畠具教 20貫
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 22:02:56 ID:GWLvOOnA
大田道灌とか、上杉謙信とか、明智光秀といった教養人は
本気で天皇に対して尊崇の念を持っていたと思うんだよね。
でも信長や秀吉が同じような尊崇の念を
持っていたとは思えないんだよ。
彼らは利用することしか考えていなかったと思う。
利用するために尊崇するポーズは示すけど、内心はそうじゃない。
親父の信秀は内裏修繕に、四千貫も献じてるのにね
>70
北畠が寄進少ないのは伊勢国司として
まだ北朝の天皇に抵抗でもあったんだろうか。
教具以来、親幕府に転じた、北畠氏
戦国期は北朝も南朝も気にしていないのでは
ちなみに永正七年(1510)北畠材親が大納言に任じられたが、
このときの献金は、天皇に二十貫、人事を周旋した三条西実隆に五貫
経済力の問題と思う
今谷明氏によると、官位に対する献金の相場は、三十貫
それにみたない事を理由に、蹴られた事例もある
畠山義総や土岐頼芸
最低では二十貫の例もあるよ
戦乱や老朽、大雨などで酷く痛んだ内裏の、修繕費向け献金
天文十年〜十八年
織田信秀 四千貫
今川義元 五百貫
麻生興益 三百貫
本願寺 百貫
阿蘇惟豊 百貫
信秀のは異常としかいいようがない。
さすがは神主の血筋。
三河守欲しさもあるんだろうけどね
それにしても破格だね
ていうか四千貫てちょっとした城が建つよな。
信長の朝廷軽視(に見える行動)て親父が献金しまくった事への
反動なんじゃないかって気がしてきた。
くだらないことに会社の金使いこんでんじゃねぇよ、みたいな(w
三河守得たからって、勢力図が特に優位になったわけじゃないものね=親父殿
反面教師も、有り得なくはないね
信長の朝廷軽視って、天正改元と暦の変更と右大臣返上だっけ。
でもこれって信長の理想の追求が朝廷の思惑を超えただけで、
別に軽視とかいうのとは少しだけ違う。
朝廷軽視かどうかは、別として
左大臣任官の誘いに、正親町天皇譲位を逆提案するとか
ある意味ありえないことはしてる
何その新事実。
ソースは今谷の本
朝尾直弘氏はこの問題を、信長の誠仁親王傀儡化への、希望の表明だとしているらしい
反論としては、もともと譲位は天皇の意思だったが、手元不如意でできなかった
というのもあるが。
いや、この段階(天正九年)の段階では、朝廷の拒絶により譲位はしていないよ
実際の譲位は天正十四年(1586)
践祚したのは、信長が傀儡化を狙った誠仁親王の子、周仁親王
朝廷が正親町天皇の拒絶なんてどう解釈しても無理、むしろ譲位ではなく、
それに託けて要求された暦問題を拒否したと見るべきだろう
天正十四年三月十九日に、小御所の群議で、譲位の要求を拒否することに一決してるのだが
まあやめときます
暮らし向きスレだし
ゴメンなさい
>>89の天正十四年→天正九年の誤りでした
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 03:38:32 ID:UJkLqrmG
今谷明氏は
天皇の権威は義満の頃が最低で
そのあとは徐々に上がっていき、戦国の頃はかなり大きかったと述べている
だが生活の困窮は戦国期が、多分一番ひどい
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 17:29:13 ID:+fCcY1r9
勤皇の家柄織田家。
信長の代でもそれは続いて
安土に天皇招くための御殿も建てられてるぴょん!
この時代の天皇は実像を消すことによって神格化されていった
って日本史の時間に先生が言ってたんだが
俺の日本史の先生は、歴史は権力と民衆の戦いだといってたんだが
>>92 大葬や即位の礼の話もそうだし、
例えば土御門御所の築地塀の修理の話もある
永正十七年(1520)十二月に、朝廷は細川高国に修繕を要請したが
暫く放置され、翌年二月末にやっと修築をはじめた
この時は献金というかたちではなく、細川氏が人夫を動員して行ったとか
三条西実隆は今川氏親と朝倉貞景の夫人に頼まれ、
後柏原天皇に宸筆の源氏物語二巻を、揮毫してもらっている
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 14:00:12 ID:uhW4J2cL
信長が、天皇家を一番理解していたと思います。
戦前の教科書では、信長を尊皇の代表人物のように
書かれています。上洛前から金銭的に援助していたからです。
経済、明との外交、暦、序列、神道・仏教などの宗教を
一纏めにしている力があるのに、武力は無い、という謎を
信長は一番よく即物的に理解していたんだと思います。
本願寺勢力や比叡山など、旧体制に依存するものを殲滅
しつつ、天皇家を保護しているのは、高度な政治力としか
いいようがありません。
100(*^ヮ^*)キャハ
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 11:46:18 ID:27/P35yw
>77
信秀のその献金って、
興福寺の多聞院英俊に「不思儀の大営か」と書き残されてたけど、
尾張半国程度が勢力範囲だった信秀が、
西国の雄で比較にならない国力を持つ大内・毛利氏をはるかに上回る額を献金してきたのだから、
「ありえなーい」なんて書かれるのも無理はない。
だが、そこで考えてみると、比較的裕福とはいえ、たかだか半国程度の領主がそれだけの献金が出来たのであれば、
他の諸勢力も、少なくとも同じくらいは捻出できたのではないか?
ところが、実際には1000貫を越すことさえ極めて異例だった。
これは、「経済的な理由で出せない」のではなく、「出さない」「出す気がない」ということではないかと。
そうしてみると、当時の民衆はおろか、中央・地方の有力大名、知識人が
果たしてどの程度、朝廷に対して崇敬の念を抱いていたのか、はなはだ怪しい。
だいたい、大名が本気で尊皇とか言い出すのであれば、まず自分の領国にある、朝廷の荘園を返還するのが筋ってモンであろう。
ところが、実際には、朝廷から「領国にある荘園のうち、○×の分の貢租を納めよ」と、催促されてから
ようやく「その年に請求された分の」貢租を一度納めればまだましなほうで、
実質勅命を無視することも多々あった。
もちろん、所領の管理については、実質的に土地の権利を持っているのは土着化した家臣団であり、
その家臣団に対して決して専制的に絶対権力を振るえたわけではないから、
という理由付けは出来るが、
それこそが、
朝廷への奉仕より領国の統治の安定のほうが重要だった、
ということではないか。
だから、当時の朝廷は生活に相当苦労しただろう。
ただでさえあてになる収入が見込めないのに、「朝廷」である以上その格式を守るためには何かと物入りである。
「格式」のためにも、うかつに「倹約」なんざできやしない。
外遊のときだけ体調が回復するヒトとは苦労の次元が違いすぎる、いろいろな意味で。
最後の一行は蛇足だな。
内容の是非ではなく、板的に。
天皇って10万石しか持ってなかったってホント?小名クラスじゃん
それは江戸期の話で(詳しくないので詳細は知らないですが)、
戦国期は、禁裏料所からの年貢が途絶えがちだったと思いますが
ようするに極貧だったのか
まあそうだよね
..,,,,,ll,,,,,,,|||Illllla,,_
: .,,,illlllll゙゙¬゙|ll|l》゙|ト砲,、
、,llllll゙゙`″ : : `: ``ミi、
.:ll感l″ ..゙lL
..,,,l巛゙l,!: 、 i、 法
.i'フ,,l,゙l": .:igl絲!llト:″|: .,,,,iig,,,,永
.`;ll,lト : ]″_,,,,,┐._ .,i´ .゙て″ A級戦犯どもには、朕の代わりに
: ;,lレ-・''゙‐'ゼ゙゙”`,ア~`゚゙|,゙゙゙゙lト,レ⊥
广'i、ァ ゙゙‐'‐'" : ::: ゚"ー'″ .|i、 侵略戦争の責任を取ってもらわんとのう
.;ヒ'::;,il| _.::::::: .=@ ||
.'fi,;゙l;ヒ : : ;: :":・lll゙l,.'l・!° |′ だからA級戦犯は「極悪人」でないといけない
゙'!,,,い: ,‐ .,!.gl,,|i,,j,,\ .,l゙ 極悪人を祀った靖国には行けない
.”゙l /゜,,,,,lwew-ii,, ゝ ,l′
ll, ゜,,l゙`:;,,,,l,ll,,、.゚ト.,,i´ それが私の心だ
,,,i'llr゚''ri,,,,,_ : : : : _,r°
,,,iilllli,゙h,、`゚゙゙゙lllllllllilllllll"】
>>108 ものをよく知らない人間の感想
というか、オートでしかAAつくれないやつがネタ作ってる時点でさむい
それを平気で転載する奴もさむい
コピペにまじれすw
和歌とか書いたのを売ったりして小銭稼いでたとなんかに書いてあった。
あと、言葉は悪いが、人身売買も大きな収入源だった。
いや、その、言葉が悪いけど・・・。
寺に子供を出家させて、寺に格式を与えて、その見返りで、寄付を受けていた。
アワレス(つД`)
>>112 公卿だと、娘を地方の有力大名に嫁がせて、そこから仕送りを貰ってたケースも
あったとか。
織豊政権の間は地方の荘園を取り戻してもらったり、献金してもらったりと比較的
生活が立て直されるも、徳川時代以降はまた貧乏に逆戻り。おまけに紫衣事件を
始めとする屈辱的な事件が続発。
江戸時代だと公卿の娘は大名の側室に入ってたね
戦国時代でもだっけか?
書き忘れ
五摂家以下の公家ね
117 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 18:15:31 ID:DA9z/4Q+
てか、戦国に限らずなんだけど
天皇が大体的に国民に宣伝されたのは明治だよね??
それ以前は国民は天皇の存在を知ってたの??
知ってたにしても忠誠心はあったのかな
忠誠もなにも臣下という感覚がなかろう
天子様くらい大概の人間が知ってる。
120 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/11(月) 14:53:02 ID:Ho3HCDZ7
存在は知っててもよく理解していなかったようだが
121 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/11(月) 18:45:59 ID:siPQM6S8
明治になって将軍家とは別のシンボルとして天皇を持ち出したわけだが
庶民には天皇って誰?レベルだったので民間に信仰されてた神社の
総元締めが天照大神で、その子孫が天皇だって説明したって話だが・・・
>>121 よくわからんけど一番偉い人がいるらしいってのが案外虚像が膨らむってもんよ
知らないからこそ悪いイメージがつかないからな
あと農民レベルは誰も知らない、ってのはありえないよ
建前としては千年以上変わらないんだから、もう伝承のレベル
ちょっくら戦国大名の興亡なんかよりよっぽど根付いているよ
畑を耕して、飯食って、セックスして寝るだけ
こんなに何にもない時代に他にどんな事に興味を持つんだよ
9世紀に五衛府の官職が農民に売官されまくったことがある
官位大系はその最上位に帝を据えているわけだから少なくともこの時期の上級農民には
帝の存在は認識されてたわけだ
あと戦国時代でも京洛の町人のなかに地下の位階や職式を帯びるものが出てくる
魚屋の初位とかね
前にもそれ言ってたね。
久守記だったか重胤記だったかと思う
将軍殺しは多々あったけど天皇殺しは流石に誰もやらなかったからな
そこが日本と中国の違いだよね。
崇峻天皇はどうなんだ
安徳天皇もどうなんだ
後南朝はまあいいか
孝明天皇もかなり怪しいぞ
>>122 飽食で医療設備の整った現代人にはぴんと来ないが
食うことと生き残れることが一番の興味だよ。
>>128 崇峻天皇のあたりまで遡る必要があるというのが特異だと思うが。安徳天皇は
殺害とはちょっと違うと思う。後南朝は、自天王は天皇ではないでしょ。
>>129 人はそれだけでは生きていけんよ。
貧しくても歌を詠む人間がいる。
詠み人知らずと言われるのは大抵富裕層だけどな
133 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/13(水) 11:13:15 ID:An+1v4By
それと実は著名な人でもわざと名を残さずに書いた
いわば匿名希望なんて人も居たって話だが・・・
>>19 天照大神信仰自体が奈良時代にできたんじゃないの?
太陽神信仰ってどこの国でも大抵「男神」なのよ。それが日本の場合
女神になってる時点で怪しい。
北欧神話の太陽神ソールも女の子。
キリスト教改宗後は、これの代わりに「聖ルキア」が「光の乙女」として特別扱いの守護聖人に。
お祭りの日は12月13日。(←今日)
136 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 18:22:46 ID:6WPSxryU
あの時代の天皇の威光は民衆まで届いていたのだろうか?
例えば松永久秀が天皇を殺したとしたら、各地から袋たたきにあったりするのか?
137 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 18:46:40 ID:cjpK3C3s
極貧でも権力は衰えた幕府より上だったな。
改元に関しても早々に決めて、幕府の意向なんか無視だし。
改元後も旧元号を使ってた義輝公がお労しい。。。
誤解を恐れずに言えば天皇は時の権力者に日本統治の正当性を
与える機関にすぎない。それが外国人であってもだ。
戦後アメリカによる日本統治に力を貸したのは紛れもなく昭和天皇だし。
>>137 南北朝や持氏のように政治的な意味でわざと違う元号を使うならかっこいいけどな
義輝はたしかにとほほ過ぎる
140 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 19:37:42 ID:H6IFKeay
山村や漁村には天皇から発給されたという近世の偽文書が結構ある。
天皇の直轄民としてその地域での森林伐採権や魚漁業権、狩猟権、採掘権などを認めたもの。
これを調べ、中近世の庶民にけっこう天皇の権威が及んでいたと誰かがなんかの本に書いていたね。
141 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 21:34:54 ID:WM4rwrXW
中世と倒幕後である近世じゃ全然違うと思うよ
待て「近世」だぞ?
143 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 22:30:37 ID:WM4rwrXW
スマソwww
144 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 10:34:00 ID:cbg5soKx
戦国の極貧が、江戸期の逼塞を耐えさせる土台になったのかな、と思ってしまう
145 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 17:31:57 ID:tuMP33KH
まあ、即位の儀式を執り行う金がなくて延長に延長を重ねたり、
落書きだらけのボロ塀や雨漏りのする御所で過ごすことを思えば、
締め付けられていても、
ちゃんとした場所に住めて、ちゃんと儀式は執り行える方がいいと思えるんじゃね?
146 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 01:35:19 ID:ArSmcmx3
>>63 江戸時代だと屋台の蕎麦1杯が16文
現代の貨幣価値だとまぁ16文=300円くらいだろうか
これだと4千貫で7500万円
通常は1文=25円(屋台蕎麦=ファストフードが400円)とされるがそれだと1億
売春婦は一番安いのが24文(1文25円で600円、18.75円で450円)
どっちにしろ激安
人間の値段が安かったんだな
100貫で188万〜250万円、20貫だと38万〜50万円
信秀以外の大名はご祝儀程度だな
やる気ない
20万貫の大名(小田原征伐後の佐竹程度)で年収37億円
太閤検地の常陸と尾張の石高は大差ないから
勝幡織田家の国家予算は傘下の小領主分込みで年20億くらいか
そっから7500万〜1億円の拠出(下心あり)を高いとみるか
40万〜250万円しか出さない他の守護クラスの大名がセコイとみるか
147 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 15:15:08 ID:TJ6DZNad
>>146 米価換算・物価換算どっちで算出してる?
どちらを採用するかでかなり差が出る。
148 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 02:21:36 ID:6odCA5sD
どうみても物価。一番高くなるのは賃金換算。
149 :
人間七七四年:2007/04/27(金) 12:16:05 ID:peIHCS8N
>>145 明らかにマシだよね
あとは後水尾をどう説明するかだな
150 :
人間七七四年:2007/05/16(水) 14:24:41 ID:/Won5qyq
後水尾の場合は、紫衣事件で激怒したんだから
朝廷も勝手に与えさせないとくれば、怒るのも当然
その後はそれにも馴れてしまうわけだが
151 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 21:25:09 ID:2KrO610e
本能寺の時に、親王が切腹を覚悟したらしいね。
皇族が切腹の作法を心得ていたかは分からないけど。
152 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 22:04:44 ID:iKQUp2/X
天皇家の正式な自殺の作法は
「絶食」なのに。
153 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 22:27:06 ID:g2JefKnK
「首つり」つうのもあるわな
大友皇子とか長屋王とか(古過ぎか)
154 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 23:28:53 ID:XdcFmqSL
155 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 23:50:49 ID:ZFFkwhBj
「絶食」は淡路廃帝・早良親王・順徳院など
淡路廃帝は逃げようとして弓で射られて殺逆されたともいわれるが。
赤松の残党ごときに無様にも首を取られたのが二人もいるが
157 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 23:40:55 ID:RnngpfRL
その二人は公式メンバーじゃないから
って、厨にはお触り禁止だっけ
158 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 21:57:18 ID:EWII4+8r
天皇家は「利用されるだけの存在」
大名は敬意じゃなくて「利用価値があるから」献金したんでしょう
今も昔も一緒ですな
>>157 ほう、いまの学会には公式メンバーという定義でも存在するんか
kwsk聞かせてくれ
オレも聞きたい。
161 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 08:57:27 ID:DslYuunt
仮に信長包囲に成功した浅井朝倉が
天皇の停戦命令に従わなかったらどうなってたかね
162 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 13:18:25 ID:FNjuNz3U
信長に「天子様の命に背く逆賊」として浅井朝倉を討伐する理由が出来るかと。
畿内周辺じゃボンビーとはいえ天子様の威光はそれなりにある。
163 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 16:45:13 ID:7vFWojNU
「よく分からんけど天皇は偉い」
この言葉に天皇家が千数百年も命脈を保ちえた秘密が隠されているね
164 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 19:05:11 ID:ZK6Yw38+
>>162 信長に理由ができるって言い方じゃ言葉足らず過ぎる。
浅井・朝倉を討つのが天子様公認の大義名分になるから信長以外からも狙われることになる。
場合によってはお家の中から謀反が起きる可能性もあがる。
165 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 19:13:59 ID:nFunzCaQ
〉〉163
あれだな「よくわからん」が最大のポイント
それがなけりゃ天皇家なんざなくなってた
166 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 19:18:38 ID:ZK6Yw38+
中華の皇帝は奪い奪われだったのにな。
なぜ日本の神聖君主はあれほど不可侵を保てたのだろうか・・・
167 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 23:38:26 ID:7vFWojNU
古代ですら既に神輿的存在だもんね、天皇家は。
早い時期に「滅ぼす価値」がなくなったことは大きいと思う。
滅ぼさなくても天下の実権を握れるなら、わざわざ滅ぼす必要は無い。
しかも天皇家の歴史が長くなればなるほど、益々滅ぼしにくい。
168 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 01:40:57 ID:DjiSCRKk
よく街中に取り残された神社や寺があるじゃない。
ああいう感じで、なんかようわからんけど
積極的に潰しちゃうのはあれだし
とりあえずそのままにして置いとこか
みたいな感じジャマイカ。
169 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 19:19:21 ID:W6r0shaK
そんな感じかな
影響力が薄いからこそ生き残れた?
170 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 19:40:09 ID:Eiz8E434
いつか使うかも知れないから、としまってある日ごろ使わないものほど
なぜかいつまでも行方不明にもゴミにもならず手元に残り続けるのと
同じようなもんか。
171 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 09:46:10 ID:8YQB51kM
日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴でもある、今も昔も。
いわば日本上流社会の権威そのものだったわけだ。
172 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 12:38:39 ID:rNLTo7LQ
上流と金持ちが必ずしも一致しない、と思えばいいな。
173 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 13:46:51 ID:8YQB51kM
現代日本でも天皇家より事務次官経験天下り官僚の方がいい暮らししてるしな。
174 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 18:57:39 ID:NXIEG25d
>>173 朝から晩まで”まつりごと”にいそしんでそれ以外の時間は国の仕事に追われてるんだから
相当な激務ではあると思う。
175 :
人間七七四年:2007/09/03(月) 13:01:47 ID:tv+Ikwxu
暦以外に管理してたものってある? 元号は違うんだっけ?
176 :
人間七七四年:2007/09/05(水) 07:23:28 ID:tK5V1UaX
鎌倉で権威失墜してからは、ただのお飾り
明治・昭和ですらお飾り
鎌倉以前には国民放置で好き勝手やってたんだから当然と言えば当然
177 :
人間七七四年:2007/09/05(水) 20:29:14 ID:YzYO5249
権威というか権力な
権威づけにはいつの時代でも利用されてる
建武の新政で一時期高騰したが
完全に武家の信頼そこなっちゃったから
もうほんとお飾り
>>174 天下り組は暇なんだろ?
年号改元の情報って、どうやって地方まで流れてたんだろう。
伊勢暦って江戸時代からみたいだし。
干支で暦を記す事も多かったようだし、生きていくだけなら不要不急の情報だし、
辺境まで情報が届いたころには、京ではまた改元なんてこともありそう。
179 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 23:23:25 ID:FhDpB+Op
天下る前に事務次官まで行かなきゃならんならそりゃ激務だろう。
180 :
人間七七四年:2007/09/18(火) 01:46:03 ID:OEuoyKwZ
あと、初期の武家政権を作ったのが
平氏と源氏でどちらも天皇の分家てのが大きかったと思う
天皇の血を引く名家ってのが売りで
本家の天皇をやたらに蔑ろにする訳にもいかない。
でその配下になることによって天皇とは無関係だった独立系の武士も
天皇中心の上下関係に組み込まれちゃって
天皇なんて関係ねーよなんて言える武力集団が消滅した
IFだが安倍氏が源氏の攻撃を跳ね返して東北に独立王国を作ってたら
天皇の権威を否定する勢力が残って権威も大きく削がれたんではなかろうか。
181 :
人間七七四年:2007/09/19(水) 20:56:18 ID:x3kWojM3
それも皇運のなせるわざ
182 :
人間七七四年:2007/10/10(水) 16:31:21 ID:oGz26LwK
あげ
183 :
人間七七四年:2007/10/10(水) 19:47:12 ID:oGz26LwK
で、結局どうやって食ってたの?
184 :
人間七七四年:2007/10/10(水) 20:43:15 ID:JhU317ig
アメリカ自由主義を受け入れるまで、儒教の封建精神と一緒に天皇マンセーしてたのが現実。
中国も皇帝制度から抜けられずにマルクスの思想と全然違う封建共産主義。
185 :
人間七七四年:2007/10/11(木) 16:55:24 ID:5UjKnepV
>>183 滞りもあったがある程度所領からの収入があった
あとは大名からの献金
186 :
人間七七四年:2007/10/14(日) 00:47:25 ID:HkQQb3eR
いい身分だね
187 :
人間七七四年:2007/10/20(土) 14:06:39 ID:HcdaAkuX
今だって国民の税金で暮らしてるじゃないw
188 :
人間七七四年:2007/11/08(木) 15:47:08 ID:hgoSOXMG
儀礼関係は足利将軍家が支えていたようだから、足利が力を失うと大葬も大嘗祭もできなくなった
189 :
人間七七四年:2007/11/22(木) 13:46:02 ID:AAUFD88z
後陽成帝はたいへん気難しい方だったようですね。
190 :
人間七七四年:2007/12/10(月) 15:43:18 ID:mSCWZJAK
先帝の葬儀は出来ない、自分の大嘗会も出来ない、と歴代鬱憤は相当たまっていたでしょうね
191 :
人間七七四年:2007/12/26(水) 14:33:26 ID:i9Ba8niU
献金では大内や毛利が目立つね、あと信秀
192 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 15:58:06 ID:tPJvcOJW
結構派手に官位を濫発してるよね。
193 :
人間七七四年:2008/02/01(金) 14:57:42 ID:1c4kzSXz
所領からの収入が激減し、室町幕府の献金も途絶え、即位も大葬も御所の修繕も出来なくなった
そこに献金し始めたのが大内毛利ら西国大名と織田朝倉ら、見返りは当然官位
194 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 15:59:40 ID:I6QWU7V1
献金は総額では大内が多いようですね
195 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 16:22:14 ID:moaGCsqD
京都御所の近辺で乞食をやっていた
196 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 17:12:29 ID:MluQ3rwA
どっちにしろ将軍は権威も無ければ経済力も無く中央をちょい治める
悪ガキ大将くらいの地位が無かったってことか…
天皇より将軍の惨めさがひどいなw 戦国はw(だから戦国なんだろうがw)
197 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 16:42:55 ID:YWSiXACO
将軍家は、身内やら庶流やらなにやら、血統的にほとんど同格の氏族がごろごろいますからね。
足利氏自体、軍事力でのし上がった訳ですから、
力が衰えたら、地位が低下するのは致し方ないと・・・。
それにひきかえ、天皇家は軍事力はなくとも、権威は確保しています。
198 :
人間七七四年:2008/03/06(木) 13:53:00 ID:vLQ+7D1F
政治利用はされたけど かつてのように大名を利用して体制を変えるまでは考えなかったろうな。
199 :
人間七七四年:2008/03/22(土) 15:49:11 ID:aobQpzIr
性分にもよるんだろうけどな。後醍醐みたいのが出てくれば話は別。
200 :
人間七七四年:2008/04/05(土) 15:27:55 ID:u3grR8QO
後鳥羽院 後醍醐帝の失敗でおりたでしょ それに北朝は大人しいし。
201 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 01:18:58 ID:h1OPeQxu
家系の足しに直筆の書を売ってたというが
そもそも買う人がいなければ意味が無いわけで
それなりの地位としてはあったんだな
見向きもされなかったらその辺のおっさんと同じで
そんな奴の書いた書なんてわざわざ買わんだろうし
202 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 07:18:44 ID:HqfZIoAe
家系図売買?
203 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 11:56:19 ID:u/xYoBlu
家康からミカンを土産に持たされて
追い返された?
204 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 19:46:53 ID:ota6k8LW
書を売っていたのは後奈良帝ですな
商家の旦那とかが結構買っていたらしい
いいコレクションになったんだろう
俺でも買うかも知れん
205 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 20:28:21 ID:HqfZIoAe
>>204 好きなの選べ
・日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科clathrozonideのヒドロ虫類
・天草諸島のヒドロ虫類
・カゴメウミヒドラclathrozoon wilsoni Spenerに関する追補
・小笠原諸島のヒドロゾア類
・紅海アカバ湾産ヒドロ虫類5種
・伊豆大島および新島のヒドロ虫類
・パナマ湾産の新ヒドロ虫Hydractina bayeri n.sp.ベイヤーウミヒドラ
・相模湾産ヒドロ虫類
・相模湾産ヒドロ虫類2
206 :
人間七七四年:2008/04/16(水) 23:52:51 ID:7E1xM/5V
皇室の研究発表か何かか?
207 :
人間七七四年:2008/04/16(水) 23:59:45 ID:Q1BuDQLa
マイナー海洋生物の研究なら昭和天皇じゃね?w
ホヤとかその辺の生物の論文も書いていたよーな。
208 :
人間七七四年:2008/04/17(木) 06:42:13 ID:Qz1f8BYM
ホヤは今上帝じゃなかったか?
209 :
人間七七四年:2008/04/23(水) 09:29:50 ID:Qt41RUrs
ヒドロ虫は昭和天皇
ホヤは今上天皇
よし、覚えた!
210 :
人間七七四年:2008/05/06(火) 16:27:08 ID:ayYbb6UA
211 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 13:27:22 ID:ypQSMtTO
宸筆だからね
短冊で二十数万みたいよ
213 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 15:41:30 ID:TVACJQvv
意外と安いね。当時は価値があったんでしょうが。
214 :
人間七七四年:2008/07/05(土) 15:54:00 ID:KZqnvjoK
後奈良天皇は後奈良天皇なりに必死だったんだってば。
215 :
人間七七四年:2008/07/17(木) 14:15:40 ID:vdgJE7dc
困窮の極みなんだろうが 公卿らみたいに都を離れる考えはなかったんだろね?
216 :
人間七七四年:2008/07/31(木) 16:07:28 ID:3eHz/h4W
減ったとはいえ領地からの収入があったから。
217 :
人間七七四年:2008/07/31(木) 16:11:29 ID:05/B58V7
献金されなきゃ祭祀も維持できないのに領地からの収入じゃ生活できんじゃろか?
218 :
人間七七四年:2008/07/31(木) 19:30:00 ID:Huqkds9u
日本史板や世界史板の痴呆と違ってここは冷静に議論してるな。すげー
219 :
人間七七四年:2008/07/31(木) 20:04:26 ID:OhUrwH6O
古来からの権威を保持しつつ、後醍醐帝みたいな例外は存在するけど、積極的な政治性を廃除することでなんとか時の権力者の纂奪の野心から皇統を護って来たという部分はあるだろう。
今だって贅沢放題やってるわけじゃないし、常に衆目の元で神聖なる存在であり続けるのは大変な苦労だと思う。
220 :
人間七七四年:2008/08/13(水) 15:30:03 ID:nhJQeVqZ
明治が例外なんだよね
221 :
人間七七四年:2008/08/14(木) 01:32:41 ID:FJFFnk55
大日本帝国の天皇制も本質は同じだろう
天皇主権なんてお題目に過ぎないものを、まるで真実かのように教えるからな
日教組は当然だが、大して歴史を知らない教師もそのように吹聴するし
222 :
人間七七四年:2008/08/14(木) 20:24:26 ID:4fb4p0iN
明治という時代は明治天皇の魅力的なパーソナリティに支えられた部分も多かった。西洋風の立憲君主をよく演じられたと思うよ。
惜しむのは大正時代。ここで君臣のバランスがおかしくなった。この暗黒が無かったら昭和も違う時代になっていたように思うけどね。
2・26事件に代表されるように天皇というのは過激であってはならない。高度な政治判断は敢えて行わないというのが皇統維持の伝統的な智恵ではあっても、明治帝ならどう処置しただろうか?と思うことがある。
223 :
人間七七四年:2008/08/15(金) 10:33:46 ID:K0Xm3m+O
そのifは面白いけれど、ifに過ぎないし、板違いだからやめようぜ。
224 :
人間七七四年:2008/08/28(木) 15:06:33 ID:qXN60xjQ
実権がないのはいつの時代も大差ないけどね。
貧しさでいえばやはり戦国期だろね。
225 :
人間七七四年:2008/09/01(月) 04:14:48 ID:yOru+fhb
>>221 別にそれはウヨも同じだろう
天皇が絶対権力者じゃないと困るのは右も左も同じです。
226 :
人間七七四年:2008/09/07(日) 07:56:55 ID:amOqS6kW
はて?右で困ってるやつなんているのか?Www
227 :
人間七七四年:2008/09/08(月) 09:26:49 ID:YoEyPNCO
想像だけで歴史を語ろうとすると失笑されるぜ
228 :
人間七七四年:2008/09/15(月) 03:20:59 ID:FHh3xMyi
いるんじゃないの?
天皇親政が理想とか言っている奴とか
229 :
人間七七四年:2008/09/19(金) 00:48:55 ID:+Q0DBB2+
まあ、でも一朝事が起こった時に担げる旗頭がいるってだけで得だわ。
230 :
人間七七四年:2008/09/19(金) 23:38:50 ID:h9L+kPd6
内閣が機能停止してどうしようもなくなった御前会議開けばいいしな
今やった方が良いんじゃないか?w
231 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 13:55:53 ID:20h52ykL
天皇には国民投票で3分の2取ったら期限付き(半年程度)の独裁権を付与できるようにしたらどうだろう。
毎回発動には国民投票が必要だけど、責任は国民全員が負う、みたいなさ。
232 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 17:28:02 ID:gCyl9iw8
>>231 それは陛下も困るだろう。
いくら責任に国民が負うとしても、心情的な負担を思えば気の毒。
233 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 13:39:56 ID:2rV+hiuN
天皇家に政治的な権力を与えなかったから、長続きしたというのに
234 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 23:27:32 ID:3LPd4w3f
いくらトンチキな失敗しても責任取らなくていいからな
首相や将軍を吊るして無かった事にw
235 :
人間七七四年:2008/09/29(月) 01:13:38 ID:VzZlpVdF
権力ないから失敗しようがない
236 :
人間七七四年:2008/10/06(月) 15:18:53 ID:luehQA5t
ある意味戦国期の天皇って 権威だけって点では江戸期や現代に通じると思う。
237 :
人間七七四年:2008/10/06(月) 17:51:41 ID:rEDdBVoX
>>236 ある意味も何も、ほとんどの時代において日本の天皇家は
最高の権威は持っているものの、最高の権力者ではない
例外は、ほんの一握りしかない
238 :
人間七七四年:2008/10/06(月) 18:52:05 ID:KLN0Faqo
権力と権威が根本的に別物だってのが良く分かるいい教材だよな。
239 :
人間七七四年:2008/10/15(水) 14:29:37 ID:YK0OFypP
でも即位はどうでも葬儀も出来ないのは可哀想すぎだ。
240 :
人間七七四年:2008/10/23(木) 14:49:58 ID:ZKhDoEnt
もともと大葬は幕府が費用出してたんだっけ?
241 :
人間七七四年:2008/10/27(月) 18:42:56 ID:1DMv3eC+
っていうか、朝廷が持っていた京都市中の徴税権限を幕府が取り上げて自分のものにしたから、ある程度の面倒を見なければならなくなった。
242 :
人間七七四年:2008/11/01(土) 11:03:48 ID:Lh/kK0EJ
って事は鎌倉期は朝廷に徴税権限があったって事だね。
243 :
人間七七四年:2008/11/03(月) 07:27:27 ID:nLGLdfOG
>>242 承久の乱以後、幕府が朝廷に関与するようになったといっても、京都市中の一般行政及び徴税権限は朝廷側にあったし、地方の公領・院領なども相当残っていたから。
244 :
人間七七四年:2008/11/06(木) 13:57:06 ID:eyd7dLa8
北朝には市中の徴税権限を渡さなかったって事か
245 :
人間七七四年:2008/11/14(金) 15:39:23 ID:rsxMdPFv
南朝の所領は幕府に没収されたから
246 :
人間七七四年:2008/11/19(水) 14:56:35 ID:Jqv8qxfs
八条院領 室町院領とかか。
247 :
人間七七四年:2008/11/22(土) 14:50:19 ID:goZScmxR
もともと北朝は以前の朝廷ほど力がないわけだ
248 :
人間七七四年:2008/11/22(土) 17:54:08 ID:wtj1HGnE
足利が後醍醐天皇に対抗するためにでっち上げたものだからな
以前ほど力が無いってレベルでさえない
幕府の都合次第で解体されたり復活させたり、全く無力。
249 :
人間七七四年:2008/11/26(水) 14:40:52 ID:tVeZf98r
なるほど、そこに戦乱が追い討ちをかけた訳だ
250 :
人間七七四年:2008/11/26(水) 17:46:29 ID:HLz37wuf
権威と権力だのアホか?天皇にそんなもの必要ない!ありゃ〜アホだべ、世間知らずのアホになぜ敬意を払うのかの〜そもそも日本に天皇なんていらない
251 :
人間七七四年:2008/11/26(水) 17:48:09 ID:HLz37wuf
戦国時代は天皇は力のあるものに媚びうって生き延びた情けない一族
252 :
人間七七四年:2008/11/26(水) 18:00:50 ID:wRHq/tS5
天皇は最強の能力
253 :
人間七七四年:2008/11/26(水) 20:37:13 ID:b8QXv7nC
政治力や軍事力は確かに乏しかったけど決して無力だったわけじゃない。
実名出すとあれなんで某摂関家の日記によると諸国漫遊に出かけた天皇も何人かいた。
出かけた先々で虐げられている人々を助けるが、最終的な処分は各地の大名、豪族に任せたとある。
またある天皇は剣術に秀で、徳田某と名乗って悪党を懲らしめたとある。
今でいう庶民派のヒーローとして人気が高かったようだ。
254 :
人間七七四年:2008/11/26(水) 21:16:22 ID:PlUl76ML
なんで天皇家って滅びずに続いたんかね?
権力捨てて云々は解るけど中国の王朝と比べるとかなり不思議だ
禅壌思想の影響はなかったのか
255 :
人間七七四年:2008/11/27(木) 00:38:38 ID:vMDPQ/kk
日本史Bの教科書読めばいいんじゃない?
256 :
人間七七四年:2008/11/27(木) 10:11:46 ID:C9DkYWfu
>>254 誰にとっても滅ぼす必要がないし、滅ぼすリスクしかない。
権力でも宗教でもない文化遺産をつぶしても恒久的な反発を食らうだけ。
為政者としては担ぎ上げて利用してその権力の正当性を保障してもらうほうがいい。
民衆や権力と対立する存在じゃないしな。
257 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 03:19:49 ID:3G2i+uZa
今の帝って国民最大級の生活保護じゃね?
258 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 08:31:11 ID:AHM6uCmP
歴史的には逆で、こちらが皇土を預かり、私有地として扱わせてもらっているのだから、
政治家と違ってこちらが税金を払ってあげて食わせているような存在ではない。
むしろこちらが食わせてもらっているようなもん。
まあ、こういう理屈は今じゃ通じにくいけれどね。
259 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 12:46:15 ID:VLdr6bLy
人間国宝ならぬ人間遺産みたいなもんだしな、あれは。
生まれた時から一般と隔絶した伝統のある生活おくらせるとか、
今更どこかの誰かにやらせるのは人権うんぬんで無理だし。
260 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 14:17:12 ID:qtlh0fZM
最初は新たな国家運営、国民慰撫にかかる費用より、既存の権力を使って反発抑えた方が得って流れで残されてたんだろうけどね。
段々代を重ねる毎に妙な権威が増していって、今さら潰せないし、潰すのももったいないって言う考えに至ったかね。
実際、外交的な意味での効果はかなりあるし、その効果を支えるのは累代を重ねた世界でも古い高貴な血筋だからってのもあるしね。
潰すのはもったいないわ。今さら。
261 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 14:26:15 ID:drITTFiY
>>258 時の権力者云々と同じで、国民主権はあくまで長い日本の歴史の中の一形態に過ぎないもんな。
貴族・武士が主権であった時代と同様に今上から「統治の代行」を任されているだけ。
いくらなんでも何百年も国民主権が続くわけはないから、遠い未来、朝廷に対し国民自身が大政を奉還する日が来るだろう。
262 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 20:15:57 ID:M0eA/96t
では次に朝廷に権力を託されるのはどういう階級かな。外人かな。
263 :
人間七七四年:2008/12/02(火) 01:09:43 ID:6k9AU0yF
>>258,261 あっ、そうだったんだ…
なんか目からウロコ
264 :
人間七七四年:2008/12/02(火) 01:18:40 ID:dt8WUIT1
国粋に洗脳されてるw
265 :
人間七七四年:2008/12/05(金) 15:06:59 ID:W4bBYb7a
北朝は生まれた時から力がなかったのは分かった
266 :
人間七七四年:2008/12/07(日) 22:17:44 ID:sDwR4Wjx
>>261 天皇大権そのものだって、実際に即位している天皇が持っていようが、退位した天皇が持っていようが支那かぶれの朱子学者と明治政府のえらい人以外は余り気にしなかった。
とりあえず朝廷が動けばね。
267 :
人間七七四年:2008/12/09(火) 00:15:31 ID:jc4PPFqr
>>256 一族皆殺しにでもしない限り
生き残った誰かが敵に担がれて
ヘタすりゃ自分が朝敵だからねぇ。
特に武士の主だった奴は平氏や源氏の名家ってのが売りだから
逆賊扱いはつらい。
現代の首相だって天皇からの任命なんて形式だかイラネーてやったら
政敵に正式な手続きを経ていない憲法違反だって突っ込まれるかもなw
268 :
人間七七四年:2008/12/09(火) 00:50:24 ID:6fU+Pptz
最初は偶然に生き残ってただけだったのが、歴史を重ねる事で必然性を得た例だよな。
269 :
人間七七四年:2008/12/09(火) 12:46:41 ID:scD8Vjg6
天皇って携帯も持てないしテレビも見れないし勝手に出歩けもしないって本当なの?
270 :
人間七七四年:2008/12/09(火) 16:42:31 ID:zgPq3OIY
昭和天皇はおしんをご覧になっていたというけどね。
それに大のそば好きで出雲の糞マズいそば屋でも文句言わず喜んでお食べになったとか。
昔の天皇は和歌の行事が仕事と趣味を兼ねていた。謹製を有力者に下賜して代わりに扶持を得ていたから。
三河の漁師が戦国時代食うのにも窮した当時の今上を不憫に思い、塩シャケの皮でもと献上したそうだが、
ことのほか大喜びでお食べになられたとか。当時のひどい困窮ぶりが伺える
271 :
人間七七四年:2008/12/12(金) 15:04:55 ID:gnMHpshc
新聞なんかも読んでるみたいですね
272 :
人間七七四年:2008/12/14(日) 15:08:11 ID:UP1gh9HB
当時の人は、実像を知らないこそのおそれがあったのかな
それこそ神さまみたいな
逆に今上天皇については最近の一連の報道で、過酷な勤務の実態を知ることによって
見方が尊敬の方向に変わった人も多いんじゃないかなあ
273 :
人間七七四年:2008/12/14(日) 15:53:46 ID:0QthxL2e
尊敬と言うより同情だな
274 :
人間七七四年:2008/12/16(火) 14:40:12 ID:qqT1l0E6
戦国期は利用される価値はあった。
275 :
人間七七四年:2008/12/22(月) 15:59:30 ID:51n5m7g1
政治利用の典型が明治維新の時だけどね 戦国期は大人しいもの。
276 :
人間七七四年:2008/12/23(火) 00:53:31 ID:xuSaBtKY
井沢元彦氏の著作に本能寺の変は正親町天皇が光秀に勅命をだしたから、って説が載ってた
277 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 15:20:26 ID:8e3CkzgR
本当なのかな?
278 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 15:36:31 ID:wb5MTOG7
眉唾
279 :
人間七七四年:2008/12/28(日) 18:02:07 ID:U+pm3gAX
そんなことが出来るような存在だったら、
朝廷は落ちぶれることもなく、もっと政治的に主導権を取れただろ
280 :
人間七七四年:2008/12/28(日) 19:00:11 ID:LTpbX4Vf
誰か井沢を黙らせろ。
281 :
人間七七四年:2008/12/30(火) 01:48:32 ID:L8EPHxOT
>>279 朝廷の権威というより光秀が過激派右翼だったから、ってな論調だったな
282 :
人間七七四年:2009/01/05(月) 16:02:14 ID:08wuBKgb
正親町帝個人はどんな考えだったんだろうね
283 :
人間七七四年:2009/01/06(火) 01:33:58 ID:3Ze1Be06
織田包囲網の時の足利義昭の手紙作戦だって
相手が受け取って決起しなきゃ無意味な訳で
受け取る側との関係を考慮しないと
でもいくら過激派右翼たって
いきなり決起するかね?
正親町天皇と光秀って直接勅命を受けるような間柄かね?
284 :
人間七七四年:2009/01/07(水) 22:19:23 ID:3kuqqQoM
正親町天皇と信長の関係についてだって結論に程遠いのに、本能寺と関係があるかないかなんて出るわけ無いだろう。
285 :
人間七七四年:2009/01/14(水) 14:52:00 ID:Abi++r/0
闇の中ってところですか
286 :
人間七七四年:2009/01/14(水) 23:33:07 ID:2k70Xhxp
謎とするほどのものじゃない。
対立する証拠が絶無なのに、
わざわざ邪推して対立を考えるのが間違い。
287 :
人間七七四年:2009/01/15(木) 23:58:04 ID:FTkBYL6J
証拠かあ
でも、よく言われる「新しい権力構造を造ろうとした信長に朝廷が危機感をもった」
というのはありそうだなあという感想
288 :
人間七七四年:2009/01/16(金) 00:35:43 ID:qJdzYee4
危機感を持ったったって、陰で謀反を煽ってたなんて信長にばれたらぶち殺されるだろ。
289 :
人間七七四年:2009/01/16(金) 09:20:09 ID:GviyvV/G
新しい権力構造を造ろうとした信長なんてものが根拠の無い妄想なんだよね。
290 :
人間七七四年:2009/01/16(金) 23:03:20 ID:wOXnZ6qb
右大臣を返上したことが、ひいては朝廷以外の新たな権威をつくろうとすること…
にはつながらないかな
291 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 15:08:31 ID:VOfLpdfs
そうも言われるけれど 想像の域をなかなか出ない。
292 :
人間七七四年:2009/01/30(金) 15:09:08 ID:NNG4Xy5g
正親町帝も生活に精一杯でそこまで考えてなさそう。
293 :
人間七七四年:2009/02/03(火) 14:58:13 ID:FjuHZiaQ
何を望んだかは判らない
294 :
人間七七四年:2009/02/07(土) 14:55:46 ID:gFmWeNKS
余裕はなかったろうね
295 :
人間七七四年:2009/02/07(土) 15:08:07 ID:/N+lnmV5
天皇ははじめは統治者だったけど武士に政権を奪われて以降統治者の地位はなくなり、神主の親玉と言った存在!
明治から第二次世界大戦までは時の政府に担ぎ上げられたけど。
これは長い歴史で言えば例外中の例外。
要するに形式を司るだけだったから生き延びたんだよ。
信長は暦問題とかで揉めたけど信長が天下を取れば形式的にしろ天皇の下にたっ男ではないな。
信長が天皇を任命したはずさ。
まあ革命半ばで本能寺で死んでしまったから異論反論はあると思うけど信長は絶対王政を目指してたんだと思うよ!
296 :
人間七七四年:2009/02/07(土) 17:46:13 ID:AAUoIc2/
唯一天皇自らが戦ったのが南北朝時代
297 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 00:31:26 ID:C02arkjX
>>295 ん〜まあそうなんだろな
日本人っていう民族は自分の欲望を全面に押し出す人物には反発するからな
自分の為じゃなく誰々のために命懸けます!ってのが大好きだ
本当はもちろん自分が最高支配者になりたいけれどもそれを表に出すと
総スカンくらいかねないから天皇の御為、天皇から命令もらったからやるの、のほうが
圧倒的に動きやすいよな
298 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 04:42:38 ID:sOO9BlbD
つーか今後の天皇家って、悠仁様次第だよな
悠仁様から3人ぐらい親王が生まれたら、皇統も安泰だろうな
古墳時代ぐらいからず〜っと続いてるんだよなぁ
すげえなぁ
299 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 10:54:19 ID:C02arkjX
ひとつの血統がずーーーっと続いてるわけじゃないけどな
継体天皇なんてどこの馬の骨だかわかんないじゃん
300 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 11:28:09 ID:QwsmrPWY
継体天皇は応神天皇の6代孫(
>>299の言うように当時でも信憑性は怪しかったと思われる)
に加えて先代天皇の婿養子になって正当性を高めた。
でも一人だけお墓が摂津国島上郡(今の高槻市)にぽつんと離れているところから、
やはり信任しなかった人が多かったと推測されている。
>>296 でもその後醍醐天皇はその時の流れを見ると実際は傍系なんだよね
父親の後宇多天皇の本命は孫(後二条天皇の子)の邦良親王だった
301 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 12:15:02 ID:Wxn9ka9D
なんだかんだ言っても天皇は今でも国民に敬愛されてるからな。
ネットで天皇をボロカス言ってる奴いるけど外では言えないような
雰囲気がある。 マスコミですら天皇の悪口は言えない。
天皇制廃止を訴えているメディアがあるかい?
302 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 12:52:26 ID:SJ5DmSJu
ローマ周辺の貴族、オルシーニ、コロンナ、ファルネーゼ家は、ローマ時代
紀元前から続き、ローマ教皇を何人も輩出、傭兵隊長、軍人としてもおびただしい
血を流し、ルネッサンス芸術を奨励、今も子孫が連綿と続いている。
ファルネーゼ子孫はブランド衣料品会社社長。
英国、ベルギーのなんちゃって王室よりも遥かに格式高い。
単に家柄の古さだけなら、あまり意味無い。
何をしてきたか、何をしているかだろう。
303 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 23:59:15 ID:HTUl9ZQn
本来日本の国土は天皇の土地で、しかも天皇制によって身分制が無くなり一君万民の国になったからな。
304 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 06:15:26 ID:zJfNywRP
古来より権威と権力の分化に徹してきた天皇制は、かなりの発明だ
305 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 09:21:20 ID:I82gtxhI
戦国時代一時期すごい貧乏してたらしいね。
306 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 15:47:45 ID:Kg7K/uBf
このスレが天皇に好意的なのそこらへんもあると思う。
苦労してた頃の印象が強いから、つい点数が甘くなっちゃうよねw
307 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 17:06:26 ID:wANovutF
所有していた乏しい荘園なんて、どんどん掠めとられただろう。
栄光とは無縁で、歴史上もっとも必死に生きていた時代だったかもしれない。
308 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 22:26:11 ID:u1o1bNPE
309 :
人間七七四年:2009/02/10(火) 03:16:32 ID:2981xktN
徳川家光は日本の皇帝って海外では、紹介した事を歴史新聞に書いてありましたよ。
310 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 19:12:11 ID:+RpV46id
イスパニア人がら見れば秀吉や家康が皇帝だっただろう
311 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 09:13:38 ID:bi79eYmU
実質、天皇は教皇にも比肩出来ない程度しか権威持てなかったしね。
312 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 09:26:51 ID:ZSDWj6uA
311の母です。この子は悪い子じゃないので許してやってください。
313 :
人間七七四年:2009/02/14(土) 16:31:01 ID:hKousL87
今日の新聞にも今上天皇のご公務がいかに多いかって載ってたけど
正親町天皇たちもおなじような公務をされてたの?
宮中行事などずっと続いてるイメージあるけど実情的にそうでもないのかな
314 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 15:12:05 ID:VlZpSISR
公務は勿論だけど 神事とかも明治以降のほうが増えてたりして。
315 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 15:14:15 ID:6SAFwVRP
戦国はお金の問題で祭祀も簡略そう。
316 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 15:16:32 ID:zdJhEDfU
食うのに精一杯だろうね
317 :
人間七七四年:2009/03/02(月) 15:43:45 ID:AZfEEJhD
利用しようという勢力は沢山いたけどね。
318 :
人間七七四年:2009/03/06(金) 15:15:16 ID:bL0onilS
北朝は大人しいからね
319 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 15:02:54 ID:ZYDFCigV
鎌倉までの朝廷と比べらないぐらい弱められた、北朝
320 :
人間七七四年:2009/03/17(火) 14:58:40 ID:FerD5uTL
鎌倉期まではイメージと違って、朝廷は力がある
321 :
人間七七四年:2009/03/21(土) 15:46:17 ID:YVp+YPnj
後嵯峨院のせいか。
322 :
人間七七四年:2009/03/27(金) 15:39:17 ID:dz+W8eOY
両統が争ったのはいけなかった。
323 :
人間七七四年:2009/04/01(水) 14:41:21 ID:gMWKzyjV
北朝は足利が自分の為に作った朝廷だから
324 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 16:00:02 ID:7ggq2klS
だよね。幕府が苦しくなると真剣に支えないわね。
325 :
人間七七四年:2009/04/08(水) 16:12:58 ID:Q2nP6Eat
・変態レイプ魔のクソ天皇が徘徊しています
・人殺し虐殺指導者のゴミ汚物キチガイ天皇が逃走中です
・顔面奇形障害者の天皇、皇后、皇太子が暴走中。目に毒です。
・淫売ブス売春婦(梅毒持ち)の不細工ビッチ皇后が不法営業中。保険局より。
・鬼畜クズ戦犯で凶悪犯罪者で殺人犯の天皇が逃亡しました。賞金10ドル。
・ニート精神障害者キチガイ馬鹿カルト不細工女の雅子皇太子妃が生活保護詐欺で逮捕。
・不逞バカ自意識過剰うんこ蛆虫カス野郎の秋篠宮が脱糞・失禁・食糞中。衛星上の難題。
・知的障害者で池沼でキチガイで精神障害者で変質者で変態で脳カタワの天皇が入院。
・ダメ人間クソガキ馬鹿キチガイ糞ゴキブリ廃棄物の悠仁が虐められています。
・知的障害者で発達障害者でアスペルガーで唯の馬鹿キチガイの愛子が発狂。
・戦犯鬼畜凶悪犯罪者で人殺し人でなし殺人鬼レイプ犯放火魔のクズゴミカス天皇は死ね。
・穢い臭いキモイ気色悪い病原菌の天皇・皇后・皇太子・秋篠宮・雅子・豚ビッチ紀子クソ淫売
・腐ったゴミ汚物の各種皇族 死ね
・鬼畜凶悪犯罪者で大量虐殺レイプ犯のクソ天皇は死ね!!!
326 :
人間七七四年:2009/04/08(水) 20:22:20 ID:S7W1cKr+
現在の憲法でも、極端な話天皇が認めなければ法律の発布も、総理の承認も拒否できるんだよな
まあ、そんなことをすれば押し込められますが。
昭和天皇も軍部による押し込めを気にして行動する上に馬鹿右翼の天皇至上主義に対応しないといけないんだろ
凡人がその立場に置かれたら発狂しそうだw
327 :
人間七七四年:2009/04/08(水) 21:10:08 ID:dcscQD3h
戦国時代の話をしろよ
328 :
人間七七四年:2009/04/08(水) 21:48:31 ID:S7W1cKr+
>>327 板違い御免
当時の天皇は為政者としてはどの程度の能力があったんでしょうか
やはり権威付としての存在を是としていたんですかね?
329 :
人間七七四年:2009/04/08(水) 23:45:53 ID:zPqqG0Ij
何にも無いよ
330 :
人間七七四年:2009/04/09(木) 01:51:51 ID:79KLr0kS
何も無ければ天皇を倒しても問題ないじゃん
331 :
人間七七四年:2009/04/09(木) 02:46:17 ID:x3ljn1bj
うん、でも誰も倒さなかったね。
権力じゃないから倒すって発想すらなかったんでしょ。
332 :
人間七七四年:2009/04/09(木) 04:45:07 ID:tMnjZwjB
権力じゃなくて権威なんだろうね。
現人神だからね。
本質的に、神に対して不遜であると祟られるという考えがあるんだと思う。
333 :
人間七七四年:2009/04/10(金) 00:02:53 ID:5I1aV+m2
領地持たない古ぼけた神社焼いても、ばちが当たるだけで儲けはない。
ホント、宮中、宮家食うや食わずの貧窮ぶりだったらしい。
334 :
人間七七四年:2009/04/14(火) 21:56:39 ID:Q90ZBZ9R
応仁の乱以降京は死体がごろごろ転がってるようなカオスで貴族らは地方に逃げ出した、って司馬の本で読んだんだが
そんなにやばかったら天皇もただじゃすまないわな
335 :
人間七七四年:2009/04/15(水) 09:07:52 ID:7cfjCp5b
貴族は収入が絶たれたから地方に逃げたんだよ。
336 :
人間七七四年:2009/04/15(水) 15:52:47 ID:bQeJ4lTo
>>335 武力で荘園を守る発想は無かったのかな?
戦国時代の公家って、夜中にニューヨークのスラム街を
いい身なりで歩いて、丸裸にされたようなもんだろ。
武力には武力で対抗しなかったのかしら?
337 :
仙台藩百姓:2009/04/15(水) 17:50:23 ID:BsD9OXru
収入ないのだから兵を雇えないじゃんお( ^ω^)
そもそも荘園を守らせていた連中が武士になって荘園を横領したわけだし
338 :
人間七七四年:2009/04/15(水) 18:51:50 ID:WanVXJVD
>>326 義満時代じゃあるまいし、昭和天皇を押し込める覚悟の軍人なんぞおらんだろ。
大正天皇に摂政を付ける時ですら山県や原敬のような大物でも躊躇してたんだから。
重慶やアメリカとの和平を主張する方がずっと気楽だわ。
昭和天皇は責任回避に徹していたに過ぎん。
北朝創始以来そうやって延命してきたわけで。
339 :
人間七七四年:2009/04/15(水) 22:20:47 ID:T1WiQRXi
>>338 昭和天皇は憲法に従ってただけだろ。当時の明治憲法の解釈では天皇は君臨すれども統治せずだからな。
340 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 05:40:21 ID:jrXF4KHX
スレ違い好きだなお前ら。
341 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 09:10:30 ID:3EkZ4DFn
明治以後の「天皇」とそれまでの「天子」は別物と考えて語れよ
342 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 09:50:33 ID:sGj+iCmJ
でも昭和天皇の行動原理は実に天子様である。
権威と権力は比べ物にならないけどな。
343 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 10:46:02 ID:sGj+iCmJ
>>339 統帥に関して参謀本部の輔弼を受けるという規定は無かった。
天皇の判断で軍を動かすというのが明治憲法の趣旨。
でも北朝系にはそういう伝統は無いんだよなあ。
天子様的に丸投げしちゃったから、責任の所在が無くなった結果あのザマである。
344 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 12:21:29 ID:3EkZ4DFn
明治以後の話はすんなといい加減。
345 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 20:23:21 ID:sGj+iCmJ
>>332 現人神というと語弊がある。
幕末に一君万民思想が現れるまでは公家全体が崇められていた。
天皇はその親玉に過ぎん。
346 :
人間七七四年:2009/04/16(木) 21:11:10 ID:vjY51SIN
正親町天皇は、即位式も出来ないほど貧窮していた。
347 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 09:30:18 ID:/M++pDLO
あと、退位も出来ない位
信長が正親町天皇を退位させたがっていたと主張する人たちは金がないと退位も出来ない(退位したらどこに住むんだ?)という話はスルーするんだよな。
348 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 18:28:38 ID:Pikexkz3
上皇になると、小御所が必要だからかあ・・
京都市内に散らばる小さなお寺さんがそうだね。
349 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 07:51:01 ID:sXeAZWAd
押し込めには大まかに3種に分かれているんじゃないのかな
1、黄泉の国への押し込め
2、政権(統治)+立場から転落させるための押し込め
3、政治に関与さてないための押し込め(自宅軟禁・蟄居等)
天皇に関しては2・3は実際に実例がいくつかあるわけだから
昭和天皇が押し込めを恐れていなかったという論拠はそこまで強くはならないんじゃないの
介入するだけで軍部が分裂しそうな感じだし
スレチなので回線切って死んできます
350 :
仙台藩百姓:2009/04/20(月) 11:07:27 ID:1rHpvqFN
住む所どうするんだって、信長が造るに決まってるじゃんお( ^ω^)
351 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 11:17:28 ID:QcJzuVf/
宮廷や諸侯の主だったものに根回しするか懾伏させればよかった社会と
それを1億人に対して行わなければならない国民国家の違い。
352 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 22:26:14 ID:CA2l5psq
>>350 アホか、信長が天皇を退位させる気があるなら、とっくに造営しているだろうって話だろう。
353 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 22:59:52 ID:9+fuMxQV
どこでも好きなところ行けやと放逐したらいかんのか?
354 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 09:34:16 ID:nPx3zsqF
第二南北朝のはじまりである
355 :
人間七七四年:2009/04/24(金) 10:04:03 ID:HO4ZBR7c
信長と敵対する大名が引き取って大義名分にするだけだな。
幽閉せず追放するくらいなら、殺したほうがまだマシだってところだな。
マイナス100がマイナス98くらいになる、程度だろうが。
356 :
人間七七四年:2009/04/24(金) 18:21:21 ID:QOTCHOiW
それこそ足利義昭と同じだな。まあ足利はいろいろと蠢動したけど天皇は
そんなことしないし変に敵を作る必要もない。
357 :
人間七七四年:2009/04/27(月) 15:19:39 ID:ghMzrNZc
言われる程図太くないと思う。右往左往のイメージ。
358 :
人間七七四年:2009/05/01(金) 13:35:54 ID:RJEO12pe
生き残りに精一杯だよ。
359 :
人間七七四年:2009/05/12(火) 14:23:41 ID:RZX3FFD4
官位で利用しようとした人たちはいるんだろうがね。
360 :
人間七七四年:2009/05/17(日) 10:54:13 ID:8R1265Aw
>>356 むしろ献金したから官位くれとか
官位くれるなら献金しますとかいう話を潰して回っているしな天皇は。
おかげで相当貧乏するわけだが。
361 :
人間七七四年:2009/05/17(日) 11:04:30 ID:lE0yqNHv
官位を支給してお金をもらう、
というのは、天皇家や朝廷の大事な収入だったんじゃないの?。
ただ、三河守の称号がほしいと申請してきた松平家を、
守護の家系ではないと、いったん申請を却下しているしな。
松平家は献金を上積みして、松平ではなくじつは徳川という家系だったと
偽称?して、三河守の称号をゲット。
362 :
人間七七四年:2009/05/17(日) 11:10:48 ID:lE0yqNHv
>>357 天皇家は、強い方になびく、というポリシー。
京都に武力侵入してきた勢力に対しては、抵抗せずに、強き者へ
コロコロと態度を変えるというのが伝統的対処。
田舎暮らしスレを見ると、京都や滋賀では、こういう態度の土地柄だと
そこに住んでる2チャンネラーが自ら激しく罵っていた。
363 :
人間七七四年:2009/05/17(日) 21:04:25 ID:u2ggLqlS
>>360 公家にとっては官位秩序の維持は公家社会を維持するための最後の切り札だからな。
某信長世界みたいに献金だけで関白や太政大臣になれたら、朝廷の実際の運営に携わる公家が地位を保てなくなって没落してしまう。
364 :
人間七七四年:2009/05/20(水) 05:43:28 ID:fnOT6JUd
公家はくわねど高楊枝ですな
365 :
人間七七四年:2009/05/27(水) 15:52:46 ID:+lc2JI00
愚痴のこぼし方が騒がしそうだが。
366 :
人間七七四年:2009/06/01(月) 14:44:37 ID:CstEEnke
武家よりは格好を付けず 世渡りが上手そう。
367 :
人間七七四年:2009/06/06(土) 14:26:25 ID:h3WT4+EC
流石に内職は江戸時代の話なのかな
368 :
人間七七四年:2009/06/11(木) 15:39:55 ID:Co2yUCT2
位が上だったり 何かの道に通じていれば大名が歓迎してくれたろうから。まだ幸せ。
369 :
人間七七四年:2009/06/16(火) 15:02:23 ID:psNVWonO
和歌とか連歌とかね。
370 :
soopllofeiv:2009/06/19(金) 19:28:19 ID:DZrZlRkH
京都の寺院仏かく焼き討ちの原点のウンコ天皇一族
信長「お前が"神の使い"なら神を呼んでコイ!!」
371 :
soopllofeiv:2009/06/19(金) 19:30:29 ID:DZrZlRkH
あのね"命のやり取りをシテル者"は
ハッキリ物をいうのだよ・・・上記ノ白痴な屑共!
372 :
人間七七四年:2009/06/23(火) 16:12:48 ID:6Te9dlEl
公家自体は軽んじていても 京の文化にはあこがれるから。
373 :
人間七七四年:2009/06/27(土) 15:35:35 ID:MqFglreQ
教養のためか。
374 :
人間七七四年:2009/06/27(土) 16:44:57 ID:Dg0O+IWi
禁中並びに公家諸法度って
右翼的にはどうなの?
375 :
人間七七四年:2009/06/27(土) 23:26:06 ID:9oDBQurH
リフティングしてた
376 :
人間七七四年:2009/07/02(木) 15:41:15 ID:FPcI8FsV
江戸期は十万石だっけ?戦国よりは豊かだね。
377 :
人間七七四年:2009/07/07(火) 15:09:13 ID:zBmfjz1V
公家領がかな。
378 :
soopllofeiv:2009/07/07(火) 16:36:34 ID:VhqXRCnI
江戸に帰れお前ら!
379 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 15:50:32 ID:esN3RNfK
江戸期公家は内職してました
380 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 00:41:16 ID:FIao4lSd
381 :
人間七七四年:2009/07/16(木) 15:29:46 ID:lypd0Ap6
即位も大葬もできないんだもの。
382 :
人間七七四年:2009/07/22(水) 14:26:46 ID:ok3URzEp
官位濫発したくもなる。
383 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 15:31:33 ID:D2Eez4Tj
左京大夫がすごいんだっけ
384 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 18:02:59 ID:sZ2U0cWG
385 :
人間七七四年:2009/08/01(土) 16:04:50 ID:A3sxGuQs
派手に濫発された話ね。後奈良帝の時に。
386 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 15:23:29 ID:Pgq6pcj3
後奈良の時代は本当に苦しかったようだ
387 :
人間七七四年:2009/08/10(月) 21:46:25 ID:CyoygGya
概ね良スレ
388 :
人間七七四年:2009/08/15(土) 13:46:58 ID:lklTQJ7K
左京大夫は濫発された官位の代表格
389 :
人間七七四年:2009/08/21(金) 15:05:49 ID:5yrZEQOI
右京は細川京兆だけどね。
390 :
人間七七四年:2009/08/25(火) 14:44:04 ID:2EsYivse
京近辺ににはずっといたから 右京兆。
391 :
人間七七四年:2009/08/31(月) 15:34:07 ID:zWh1QhNz
後奈良帝はユニークなお方だ
392 :
人間七七四年:2009/09/05(土) 14:34:16 ID:v+FzNYGE
存続を優先された賢明なお方
393 :
人間七七四年:2009/09/09(水) 18:16:06 ID:CpPuIUkO
おならてい?
394 :
人間七七四年:2009/09/10(木) 15:37:15 ID:qgoS/wkZ
後土御門帝が唯一四文字だそうな
395 :
人間七七四年:2009/09/12(土) 14:36:40 ID:bZpqfvMk
戦国時代って天皇に限らず朝廷って何で空気だったの?
396 :
人間七七四年:2009/09/12(土) 19:46:43 ID:QnepepxM
空気じゃないだろ。
397 :
人間七七四年:2009/09/12(土) 20:12:40 ID:DyFScXyd
戦国時代のような下克上、謀反、何でもありの乱世でも天皇は殺さないでおくという暗黙のルールでもあったのかねぇ
足利将軍でさえも暗殺されたのに
398 :
人間七七四年:2009/09/12(土) 23:28:42 ID:uY6klZ/I
守護でも権力を手放せば生かされてるぞ
既に実権を手放して久しい天皇なんか殺す必要ないだろ
そんなことしたら、むしろ部下に下克上される大義にされちまう
399 :
人間七七四年:2009/09/13(日) 01:53:38 ID:IRJd0+TS
マジレスすると、俺の横で寝てた。
400 :
人間七七四年:2009/09/13(日) 02:15:00 ID:VI3+bXDo
>>398 でもさぁ。
鎌倉幕府の例もあるから潰しといても良かったと思うよ
それに戦国時代だからこそ、豊臣を滅びしたように大義名分なんていくらでもつくれる。
401 :
人間七七四年:2009/09/13(日) 03:09:06 ID:DSAaoeDe
明治維新とか例外はあるけど実際に何かできるわけでもない朝廷をつぶすメリットって思いつかないな
何の権威づけや正統性もなく己の力だけで全国の敵対者を黙らせるだけの自信があればやる人もいただろうが
402 :
人間七七四年:2009/09/14(月) 09:08:16 ID:3CODOwQK
>>400 潰すって発想がないんだよ。
朝廷を消滅させる大義名分なんてどうやってもありえないし。
潰すメリットも絶無。
虫歯が痛むからって、虫歯ではなく頭を切り落とす馬鹿はないよ。
403 :
人間七七四年:2009/09/14(月) 17:13:28 ID:qI3BAzw9
そもそも日本に例えば中国で朝廷を潰すことが容認される根拠になる
易姓革命や禅譲などの思想は知識人などの間ではもちろん広まっていただろうけど
それを根拠に実際に何かができるほどの実質的な権威を持っていたのだろうか
404 :
人間七七四年:2009/09/16(水) 03:14:09 ID:GCv79uPH
>>402 また、後醍醐天皇みたいなやつが出てくるかもしれないから潰すメリットはある。
405 :
人間七七四年:2009/09/16(水) 15:17:33 ID:vY178a0/
>>404 別に突発的に現れた悪人じゃないだろ。
後醍醐帝はもっと複雑な政治状況が生んだ事件や現象といっていい。
それにそんなわけのわからん理由でつぶす意味がわからん。
まだ生まれてもない子を「ゆくゆく不良になるかも知れない」と中絶するようなものだろ。
あなたはそんなに朝廷が憎いのですか?
406 :
人間七七四年:2009/09/16(水) 17:16:23 ID:AZV0/dyc
そんな何百年も前の人物、社会情勢の事例を挙げて政策の立案、
実行する奴はいないだろ。
407 :
人間七七四年:2009/09/16(水) 20:23:43 ID:WIOus6Gb
んじゃ、お前、天皇やれよ。
嫌だろ。
田舎の長男よりも、100倍は大変。
408 :
人間七七四年:2009/09/16(水) 21:48:56 ID:sGmbLWJI
なんとなく残ってただけのものがだんだん時を重ねるごとにそれ自体が
権威や神性さを持ってきちゃったんだろうな
409 :
人間七七四年:2009/09/17(木) 01:18:13 ID:Gua8u1tb
後醍醐ってよく鎌倉幕府に暗殺されなかったよね…
島流しで済むなんてありえんわw
410 :
人間七七四年:2009/09/20(日) 16:31:05 ID:nprC4Tns
奈良時代以前は皇族でも殺された人いるけど その後は以仁王くらいか(南北朝期は別として)。
崇徳院以来島流しが伝統。
411 :
人間七七四年:2009/09/22(火) 17:22:15 ID:LdhSh01L
結局あれだろ、戦国時代だって朝廷に手を出そうという考えを持った時点であぼーんだろ
光成の謀反も朝廷を頂とする国体護持の為だし
412 :
人間七七四年:2009/09/22(火) 17:22:58 ID:LdhSh01L
光秀の間違い
413 :
人間七七四年:2009/09/26(土) 15:57:45 ID:LUtTfajI
本当にそうなのかは疑問
414 :
人間七七四年:2009/09/26(土) 20:50:01 ID:SXoz/b1f
まだ朝廷護持論者がいるのかよ。
415 :
人間七七四年:2009/09/26(土) 20:51:02 ID:SXoz/b1f
416 :
人間七七四年:2009/09/27(日) 01:26:40 ID:P/pF4V0w
当時だって朝廷をつぶしたらそれなりに悪評になっただろうし
真っ向から対立するよりも都合の悪い天皇は暗殺でもして
便利な神輿になってもらった方が楽だろ
417 :
人間七七四年:2009/09/27(日) 06:22:18 ID:xJGMWKrW
悪評になるだけですむんじゃなくて、社会全体が成立しなくなるんだけどな。
そこを理解せずに現代的な考えで発言されても無意味だよ。
418 :
人間七七四年:2009/10/02(金) 15:50:41 ID:9MeGXcbe
利用した方が旨いって事。
419 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 10:06:09 ID:JTdClmVV
今でも社会的にある程度政治的権力持った人が
天皇の悪口言ったら即効でウヨに殺される
という事は光秀もウヨって事だな
420 :
人間七七四年:2009/10/04(日) 19:41:53 ID:w0pswNJW
そりゃ織田信長ですら右翼だしな。
そもそも当時で天皇もろとも朝廷を排除して
新体制築こうとした革新的な奴なんかいるのか?
421 :
人間七七四年:2009/10/04(日) 19:43:48 ID:CrzlLgoS
右翼だの天皇だのってとりあえず糞だもんな
422 :
人間七七四年:2009/10/04(日) 19:59:00 ID:YbF182o+
天皇の排除なんて絶対に無理
信長だって誰だって絶対に出来ない
ラスト将軍と言われたマッカーサーだって
出来なかったんだから
423 :
人間七七四年:2009/10/05(月) 08:15:22 ID:KC4Hrn+l
わざわざ自分から朝敵になりたがるバカはいねえよ
そんなバカならそもそも天下取れる器じゃないし
424 :
人間七七四年:2009/10/05(月) 10:03:09 ID:Aantbcvj
というかなんで信長が天皇の排斥や滅亡を企むと思うのか理解に苦しむ。
あほな歴史小説家のたわごとを本気で受け取ってるのか?
425 :
人間七七四年:2009/10/05(月) 19:48:09 ID:ULJoRIXW
政教分離を徹底していた信長なら朝廷のもつ権力をある程度取り上げても、儀式や
伝統は保持させたんじゃない?
別に比叡山も浄土真宗も潰されてはいない。
426 :
人間七七四年:2009/10/05(月) 22:47:52 ID:OJo0OCqJ
>>422 出来なかったんじゃなくてしなかった
マッカーサーもそれまでの権力者と同様、
天皇の権力は潰すより利用した方が価値があると考えた
その象徴があの記念写真だ
戦前は現人神とされた昭和天皇と横並びで写真を撮ることにより
占領軍総司令官として自らの権威を全ての日本人に鮮明に叩き込んだ
427 :
人間七七四年:2009/10/05(月) 22:48:45 ID:OJo0OCqJ
×天皇の権力
○天皇の権威
に訂正
428 :
名無しさん:2009/10/06(火) 01:34:25 ID:nrP5zfIh
天皇家の人間でなければ天皇になれない。
すなわち、信長のような権力者が仮に天皇を殺しても
自分「信長」が天皇になることはできない。
それならば、天皇の権威を利用するのが得策。
429 :
人間七七四年:2009/10/06(火) 02:26:38 ID:3M5xhlpu
>>419 逆に天皇を褒め称えることを言っても、民団や総連に殺されるけどな
っていうか右翼は殺しはせんやろ
430 :
人間七七四年:2009/10/11(日) 11:45:05 ID:8NyG2c31
信長ですら だから。
431 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 15:39:32 ID:D6Mf0K41
現代でもそうだが中々賢いのさ。
432 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 02:46:29 ID:JM+2koyK
信長で無理なら家康なら滅ぼせたんじゃね?(家康が後10年長生きしてたらの話し)
合戦の大義名分をつくる天才だし、朝廷さえ滅ぼせば幕末で幕府の権威下がる事は無かった。
433 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 04:49:31 ID:AcbkUGOM
だから誰だろうと滅ぼす意味がない
434 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 09:50:17 ID:GR/V4+qN
別に家康じゃなくても天皇家は軍隊持ってないから小大名どころか豪族国人だって滅ぼせる
でも、その地位に自分が立って何の利益があるのか?
天皇家が統治権を失って久しく皇位についたところで実質的な力は何も得られない
何より自分が滅ぼせば他人にも滅ぼす名分を与える事になる
そして国家の形態を一から構築しなくてはならず従来の天下人よりも強大な力を保持し続ける必要がある
それよりも「代わる事の出来ない絶対的な存在」として天皇家を置いておけば
天皇の支持を受けているうちは安泰を得られる
しかも天皇家は長年をかけて無力化され形式だけの存在になっており
傀儡にするにはこれほど都合のよいものはない
言わば存在そのものが政治道具化している
分かりやすく言えば天皇は水戸黄門の「印籠」と同じ
これを持っていれば掲げるだけで皆を平伏す事が出来るが
この「お決まり」を壊してしまえば毎回武力で殲滅し自らの実力を誇示し続けなくてはならず容易ではない
435 :
人間七七四年:2009/10/18(日) 22:12:01 ID:LfS7wzR7
中国で権力を持たない権威はあっという間に歴史に埋没していった。
なんで日本でそれができたんだろう。
436 :
人間七七四年:2009/10/19(月) 00:24:19 ID:7KlyOUTA
437 :
人間七七四年:2009/10/19(月) 12:16:09 ID:nfk2ee2Y
>>435 日本人ほど権威や権力に弱い民族はないから
それと右に倣えの古からの国民性だろうな
438 :
人間七七四年:2009/10/19(月) 12:32:15 ID:FFnj73gD
そうだね。半万年属国の国もあったね。
439 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 16:18:11 ID:zhhpW0Lq
神罰ってのも少しはあるかもよ。少しだが。
440 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 23:04:25 ID:Gbt0snQl
441 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 20:39:46 ID:X1e9hd/v
マッカーサーも権威に弱かったから天皇制残したらしいからな
442 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 00:23:54 ID:eiP6YzoO
【岡田外相 「民主党が"天皇は植木職人になるべき"と言うのならば、そうなる」】
植木職人発言オフレコ(岡田外相・金曜夜プレ懇) デスクオンリー/オフレコテープ起こしママ/公表不可 納品 2009年10月24日 02:11:40
1/5 Q.「まず、今回の外相の発言の真意をお伺いしたい。ご発言は、天皇の国事行為を前提とした、という理解でいいんですよね?つまり、あくまで内閣の助言と承認…(カブリ。聞き取れず)」
岡田氏「(さえぎり。カブリ)内閣とか国事行為とは無関係だ。あくまで陛下の……(聞き取れず) ご自身のお考え…お声を知りたいということだ」
2/5 Q.「では、宮内庁というのは?」
岡田氏「宮内庁というのは方便…というかレトリック(聞き取れず)とでも…。 陛下自身のお考えが聞きたいという趣旨。もちろん、宮内庁が陛下のお考えを聞いて起案し、文章化するとか措辞を整え とかあるだろうが、陛下自身のご意見が問題だ」
3/5 Q.「ズバリ、大臣は、陛下にどのようなお言葉が…(カブリ)」
岡田氏「(カブリ)そりゃ…政権交代ですよもちろん。
"勝てば官軍"といえば言い過ぎでしょうけど(数名笑い声)、民主党がこうして 勝った訳ですから、陛下もそれに恭順…(…間…)というかその支持をご自身のお言葉で表明してほしいですよね?
このままじゃ"自民党の皇室"のままだ」
4/5 Q.「大臣のそういうお考えは内閣としても憲法上問題である、という見解が…」
岡田氏「内閣といっても法制局でしょ。"官"ですよ。政権がかわれば、憲法解釈もかわります。我々は政治主導です。そういうくだらないことを言うんであれば、法制局長官
をクビにするだけです。それが政治主導です」
5/5 Q.「陛下の政治的中立を守らないと皇室の維持の将来にも問題が…」
岡田氏「政治的中立とか…(…間…)政治的中立って憲法に書いてあるんですか?マニフェストに書いてあります?皇室の将来より民意ですよ。民意は民主党支持なんです。
民意より皇室の維持が重要なんてあり得ない。民主主義です民意が"天皇は植木職人になるべき"というのならばそうなるんでしょ」(了)
443 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 00:44:47 ID:4fv3e7XS
>>441 自分達が無理に潰さなくてもイタリアみたいに日本国民がそのうち自分達で君主制を廃止するだろうと思ってたらしい。
それがそうならずに今日まで続いた。
444 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 00:59:58 ID:Z8O+U9jR
>>442 基地外はカルトの基地外スレでやれや!巣に帰れ!
445 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 02:57:08 ID:EC6/EDpu
日本人の特性として「既存の権威に弱い」っていうのはあるんじゃねーの
ブランドに弱かったりさ。良く言えば組織主義的というか
446 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 06:52:15 ID:TrRRHZVz
時勢に応じて独裁者にもなれば飾りにもなる。
だからこそ千年以上も同一王朝が続いたんだと思うぞ。
447 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 07:12:12 ID:XQngeAYw
良く言えば順従、悪く言えば奴隷体質
近代憲法が出来たのも、昭和天皇が人間宣言したのも大衆の自発的な
行動じゃなくて、支配階層の権力闘争や外部からの介入の結果だしな
自民党が長期政権を築けたのもその延長だろうけど、そう見ると今回の
政権交代は確かに画期的だ
けど、自分達が今まで自民党を選んできた事を棚にあげて、頭をすげ替えれば
なんとかしてくれると思ってるあたり、民主主義が根付くのはまだ先そうだ
448 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 14:08:20 ID:jiO2HKnX
王権じゃなくて神権だから政治への関与が薄まれば薄まるほど存在意義が高まる。
しかし時代に応じて王権が求められればそれに応える。
こういう曖昧さが日本の風土と民意にうまく適合しているんだろう。
民意に逆らおうとしないかぎり、危険でも何でもない。
449 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 15:28:01 ID:vA/YCt2J
>>447 それだって第四の権力と言われるマスゴミに踊らされただけだからな
しかも過去の自民のキングメーカ小沢の傀儡政権だし、鳩山総理の祖父が自民の初代総裁だし
政権交代っつーても、結局明治維新と一緒で支配階級の権力抗争だし、もうこの国はほんとどうしょうもないわ・・・orz
450 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 17:25:29 ID:cMxVH6Va
>>158 > 天皇家は「利用されるだけの存在」
> 大名は敬意じゃなくて「利用価値があるから」献金したんでしょう
いや、芸能人や横綱のタニマチみたいなもんで
交友があることそのものが見返り。
451 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 19:46:32 ID:V/6Se9RQ
利用価値があるという表現はおかしい。
例えば「親孝行には、当人の信頼を高める効果がある」だろうけど、
それだけを目的にしてやるわけじゃないだろう。
根源的には国民の総意がさせていることだ。
452 :
人間七七四年:2009/10/31(土) 15:41:52 ID:P5a1oAuf
不思議な神秘的な存在ではあったんだよ。
453 :
人間七七四年:2009/11/06(金) 15:46:34 ID:oSzLicPD
滅ぼしたとて詮無き事。
454 :
人間七七四年:2009/11/06(金) 16:27:01 ID:Bc9PaL/N
今の時代と当時とでは、天皇の持つ意味が違うからな。
戦国武将が天皇を滅ぼさなかったことを謎とする考えは、
なんでここを見ているおまいらはなぜ父親を殺さないのか?という疑問に似ている。
455 :
人間七七四年:2009/11/12(木) 16:10:42 ID:KzNyZlx/
滅ぼしたところで帝王になるのは難しいから
456 :
人間七七四年:2009/11/12(木) 21:35:14 ID:QjJ2ClHa
>>453 天皇陛下、だろうが。
日本人はそんな所で今上天皇なんて使わねえぞ。
ひどいのになると今上、なんて略しやがる。
朝鮮帰って勉強し直して来い。
457 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 16:10:07 ID:PARhunip
いい意味で空気みたいな存在なのさ。
458 :
人間七七四年:2009/11/21(土) 15:27:00 ID:t6oZsyvU
鎌倉期と比べれば空気だよ
459 :
人間七七四年:2009/12/17(木) 21:09:42 ID:pP1bxtc2
南北朝期に政治的実権をほとんど失ったのだろうけど
軍事的な実権をなくしたのはいつごろなんだろ?
天武帝のころが親征としては最後なのかなあ
460 :
人間七七四年:2009/12/31(木) 13:46:19 ID:DfSUZFK1
奈良朝で既になさそう。
461 :
人間七七四年:2010/01/01(金) 11:30:26 ID:4Kk0BX/p
『 天皇・皇室 』「在日朝鮮人」「日本国民」
我々「日本国民」を守ってくれるものは『 日本国憲法 』!
『 天皇・皇室 』はけっして「日本国民」を守ろうとはしない!!
これまでもそうだったし、これからも全く変わらない!!!
『 天皇・皇室 』は「在日朝鮮人」の味方ではあったとしても、
「日本国民」にとってはむしろ敵なのである!!!!
462 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/02(土) 03:55:11 ID:ZYOGMMpo
わかったから二度とくんな。
463 :
人間七七四年:2010/01/02(土) 11:56:07 ID:NnFwIk2F
古来より天皇に軍事力なんて無いし。
神武東征からして実際は呪術合戦。
戦前の軍部プロパガンダの悪影響は深刻だ。
464 :
人間七七四年:2010/01/02(土) 12:31:34 ID:NnFwIk2F
>>276,280
井沢氏本人が後に主著で明確に否定してますよ。
本能寺は光秀単独説@逆説シリーズ。
465 :
人間七七四年:2010/01/02(土) 16:27:30 ID:F07wKKUx
>>464 ストレスがたまりにたまっていて、あまりに無防備な信長と、それを一気に
攻め滅ぼせる軍勢があったので、発作的にやっちゃった説だよね。
俺もそう思う。信長を討ったあとのことを何も考えてないっぽい。
山崎の戦いを凌いでも、まだ柴田軍が控えているし、徳川もこのチャンスを
逃すとは思えない。
毛利や上杉と連携するにしても、その前準備をまったくしていない。
466 :
人間七七四年:2010/01/02(土) 16:44:52 ID:tcoyTbtl
まあ、井沢とか言う歴史研究者(笑)は基礎の知識が大河だしな
467 :
人間七七四年:2010/01/12(火) 11:11:10 ID:rTzfxxil
>>456 関係ないが、今上のままでも尊語ですよ。
468 :
人間七七四年:2010/01/31(日) 07:51:10 ID:nz/xdC9j
生き残るの大変だった
469 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 09:34:18 ID:nq5tyEXz
貧窮していたんだろうなぁ・・・御料所からの収入も途絶えがちだったろうし。
470 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 01:12:17 ID:9mbPZFo5
俺が足利義昭だったら、錦の御旗で信長軍潰すんだけどなー。
471 :
仙台藩百姓:2010/04/19(月) 15:08:18 ID:ICuIWNWJ
落ち目の貧乏将軍では貰えないお( ^ω^)
472 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 12:21:27 ID:mGf0OtLl
神国。日本の恥だ!。ρ。ある趣味@JBBS掲示板の管理人は天皇を侮辱した罪は重いぞ!!!!
ρ  ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
シコシコ→ mドピュッ
シコ C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ ←日本一の変態最悪おもらしマニア。豚の糞以下の人間だwww
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ←こいつのHPに書き込むな。実名やIPを公開する犯罪者。
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )←◆5u2YhSgQ★ 女の小便漏らしでしか、せんずりできない重症の馬鹿www
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| ←怨んでいる人間は多く近日中に殺される。ざまぁみやがれw
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄) ←童貞で包茎。いい歳して女とデートしたこと無しの馬鹿w
(__/ \____/
こいつのHP
http://jbbs.shitaraba.com/sports/2469 2ちゃんねる
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/tubo/1253603749/ 大日本愛国政義塾
473 :
人間七七四年:2010/07/13(火) 00:29:24 ID:P+dvknj7
まず「天皇家」ではなく「皇室」では?
474 :
人間七七四年:2010/07/14(水) 18:00:16 ID:Lyt9NcBq
>>1 一日中鼻くそほじりながら寝っ転がってたんじゃね
475 :
人間七七四年:2010/07/14(水) 21:09:11 ID:VXHPA8u0
ガイシュツかもしれないが、後奈良天皇は自分の直筆を売って糊口を繋いでいたとか。
476 :
人間七七四年:2010/07/14(水) 21:31:11 ID:Q3z9ekdZ
古今集とかの筆写ね。
477 :
人間七七四年:2010/08/10(火) 15:50:55 ID:SWJ0EPH/
面白いスレだった
478 :
人間七七四年:2010/10/16(土) 15:56:57 ID:N35aG95Y
>>402 国をダメにしたってだけで十分すぎる大義名分だが。
最悪、滅ぼした人間は憎まれても、その後それが当然の状態になってしまえば、日本人の気質上どうとでもなる。
虫歯にかかるような生活をする頭を治す必要があるわな、歯が全部なくなっちまう前に。
>>405 突発的。そして複雑でもなんでもない。
中国マニアの後醍醐が、誰も望んでない中国化改革をやろうとしただけ。
「すでに生まれて国を蝕んでる不良を間引きする」の間違いな。
それにはシステムを作り変える必要がある。
>>409 とりあえず身一つで無人島に行ってみ。
話はそれからだ。
>>419 戦国大名は全部軍事政権ですが???
>>422 つ紫衣事件
>>424 天皇が治めていた結果世が乱れて戦国時代になったからさ。
ちなみに学者の方がもっとアホで無知だからな。
>>461 日本国民を守るのは日本国民に決まっとるだろーが。
憲法は道具。
>>463 アホ。坂上田村麻呂に謝れ。
>>466 基礎の知識が2ちゃんな奴ハケーン
479 :
人間七七四年:2010/10/16(土) 23:12:36 ID:lkzqe9yV
>>478 「遠島」が無人島に流されると思ってるバカはっけーんwww
隠岐島が無人なわけねえだろが。
後鳥羽上皇なんか、流されてからも大事に扱われて結構長生きしてるよ。
480 :
人間七七四年:2010/10/17(日) 23:34:30 ID:xn2ERgpw
>>479 当時の僻地というものを知りたいなら現代では無人島くらいの生活を想定しないといけない、という事も分からないのかね?
バカに合わせて会話するのは疲れるものだな。
481 :
人間七七四年:2010/10/18(月) 15:57:32 ID:sMTisAsz
>>480 少ないながらも人が住んでいる僻地と、
まったく人が住んでいない無人島を同一視するバカハケーンw
482 :
人間七七四年:2010/10/19(火) 15:58:59 ID:v0PZE5bd
TO☆BO☆E
483 :
人間七七四年:2010/10/19(火) 22:07:03 ID:5oHP6vcX
>>480 隠岐島は日本海航路の潮待ちで栄えたんだが。
まぁ、日本海航路が発展したのは江戸時代だから、鎌倉〜南北朝時代はたかが知れいてたかも知れないがね。
それでも、きちんと領主がいてコミュニティがあったのを無人島と同等とはいやはや(苦笑
484 :
人間七七四年:2010/10/20(水) 19:18:54 ID:lTApKTBc
隠岐島の隠岐氏は戦国時代には本土に援軍に行って戦争したことがあるはず。
対馬の宗氏もそうだった。
485 :
人間七七四年:2010/10/21(木) 11:42:54 ID:AKXWdfrL
れっきとした佐々木一族が守護代にまかせず守護していたんだが
486 :
人間七七四年:2010/10/21(木) 13:29:02 ID:xhbO6Czw
日本海側が一番発達してた訳なんだが
江戸時代からってのはおかしいな
487 :
人間七七四年:2010/10/21(木) 15:32:13 ID:AKXWdfrL
土御門天皇が崩御後放置されてたのは朝廷の悲惨具合を象徴する事案だが、土葬自体はしたの?この時代火葬は嫌われたイメージあるが
488 :
人間七七四年:2010/10/22(金) 00:51:34 ID:Hcv7vpd0
>>5 農民はそもそも自分の領主ぐらいしか知らなくてもよかった
商工業者だって奉公人風情は同じこと
一部の知識層だけで世の中が回っているのが時代が近代以前のごく一般的な話
489 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 13:01:46 ID:avrh3Lnc
>>483 ほんと知識があるだけのバカと話すのは疲れるな…
>>478で言ったとおり、現代の無人島と同等ということだろうが。
これ以上揚げ足取りをしたいなら完璧なソースを出しな。
490 :
人間七七四年:2010/10/27(水) 10:31:07 ID:fv8ZS0bD
>>489 もう許してやれよ
アウトドアなんてした事ない人なんだよ
491 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 02:55:07 ID:diPRvoVL
>>489 知識があるだけの馬鹿ってお前の事じゃん
492 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 04:05:06 ID:XddK3qSb
>>487 「後」土御門天皇
日本の皇室は持統天皇以来、仏教崇敬から火葬となった。
明治維新後に仏教伝来以前に火葬は無かったという国学者の主張で土葬に戻った。
なお、余談だが持統天皇の火葬された骨は銀の骨壷に入れられていたが、鎌倉時代に盗掘されて骨壷だけ奪われて遺骨は捨て去られたことが『明月記』などに書かれている。
493 :
(´ー`)y─┛~~ ◆YK/jqQHtcg :2011/02/03(木) 13:15:57 ID:SSgJ22yk
ユダヤ人とその結社フリーメイソンリーによる経済支配に風穴を開け、
現在の様に複数の人種が経済競争できるまでに「欧州を正常化」させることに成功した。
その点において全ての泥を被る覚悟を持って遣り遂げたのであり、ヒトラー本人ゎ現在の扱ぃにも納得付くであろぅ。
第2次世界大戦以前のユダヤ人による悪行および、今も暗躍しているフリーメイソンリー(エシュロン含む)につぃて、
アメリカ建国の父の9割が、天皇が服従した占領軍司令官マッカーサーが、
フリーメイソンリー構成員であると言ぅ「事実」を日本義務教育で扱わず、
すなわち「隠蔽し続けている状況」でゎ、国家と民族と言ぅ定義を正常に判断できる成人ゎ育まれなぃ。
戦時の自国領に、特定民族の「秘密結社すなわち敵国に本拠を置ぃて居る情報網」が蔓延っておれば、
適切なる対処をするのゎ指導者として当然のことであり、それを国民が望んだからこそ
ヒトラーゎ民主政治の選挙によって正当な指導者に成れたのであり、看板に偽りなし。
目標の大半ゎ成し遂げたと言っても過言でゎなぃ。 見事であったと言ってやるべきだ。
根本的なシステムに欠陥の有る、「共産主義」などに身を売ったスターリンが生き延びたのこそ残念。
俺がヒトラーの立場なら、イギリスを占領するまでゎソ連と開戦ゎしなぃ。 その辺、なぜそうしたのか疑問に思ぅ。
「天皇狩り」提唱者ゎ、2017年までに衆議院選挙で出馬するんで宜しくw(クス
現天皇に敗戦責任を取らせ、大統領制/州制/核武装に移行し、帰化しなぃ在日朝鮮人ゎ「奴隷」にする。
下記スレで試行錯誤して行くことにするwww(うはっ
天皇制廃止・共和制樹立 1
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1284922956/289n-
494 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 22:55:12 ID:3dxmV/1G
>>489 揚げ足じゃなくて、知ってて言っているんだと思うよ。
まあ、勢いでレスしない方が良いってこった。
495 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 00:08:49.97 ID:VvFmWYvk
戦国期の公家衆ってさ・・・
何か可愛くね?
なんと言うか、小動物的というか
こう・・・はわわぁな感じが
え?キモい?勿論ですとも
496 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 00:00:49.86 ID:8hKBQBFi
家康と家光は朝廷潰してれば、いまでも徳川の世の中だったのにな…
497 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 18:39:03.99 ID:I9fd0kEU
は?
498 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 20:08:35.94 ID:jVCSSL3x
聖徳太子くらいは一般庶民も知ってたかもな
仏教関連で
499 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 21:12:39.46 ID:FIEjypCT
>496
幕府も壊れたけどな
500 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 23:06:12.16 ID:jtdJwVGE
この時代の「庶民」とか「大衆」とかの言葉には注意が必要だと思うなぁ
中世特有の固定的な階層社会ってヤツがどうもね信用できないかなぁ、と
501 :
人間七七四年:2011/04/15(金) 01:08:56.40 ID:mQBzSUpK
>>499 あり得ない
あの時の幕府の権威は半端じゃない!
勅使が下座の時代だぞww
502 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 00:22:30.80 ID:MWCvPi7i
そのソースを見たことがないから本当か知らんが
征夷大将軍、従一位・右大臣、太政大臣、従一位と官位の満漢全席状態で
朝廷内での最高位でもあるんだから使者レベルじゃ平伏するの当たり前だろ
503 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 01:23:21.34 ID:v0nooGHt
>>502 勅使は勅命を持って来ている以上、天皇の代理人。
そこに天皇がいるものとして扱うのが基本。
下っ端貴族だろうが、密勅を預かってきた公家侍だろうが、勅命を渡すまでは関白より上。
504 :
人間七七四年:2011/04/23(土) 22:08:42.61 ID:N1TeJEie
そのソース何?
505 :
人間七七四年:2011/04/23(土) 22:15:20.83 ID:CD2zk5HC
506 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 19:28:56.14 ID:yW7FMMNg
答えになってないぞそれじゃ
507 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 20:22:37.88 ID:oVfWdrEq
そうは言うてもな。
武家だって主君から書状持ってきた使者にたいしては、使者が下っ端だろうと書状渡されるまでは
使者を上座に据えないと、主君に対して不敬とされるのは常識だぞ。
まして、相手は勅使。
508 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 21:53:00.46 ID:i7SF0If3
だから参照元をだせと
常識というほどならどっかにのってんだろ
509 :
人間七七四年:2011/06/12(日) 10:38:42.31 ID:5mG71lbx
称光天皇の経歴見るとかわいそうで泣けてくる
510 :
人間七七四年:2011/06/12(日) 11:04:21.45 ID:Fv81uPT9
なぜ貧乏になる前に、直接代官を派遣して税を徴収しなかったんだろう
その辺も中国と違うな
511 :
人間七七四年:2011/06/12(日) 12:20:07.47 ID:C+U6yP5s
>>508 現代でも天皇の使者とかが着ても上座を譲らないのか?
512 :
人間七七四年:2011/06/12(日) 15:44:48.36 ID:/qO3migj
質問を質問で返す奴は答えを持ってない。
513 :
人間七七四年:2011/06/12(日) 17:54:46.75 ID:pWSSPcQB
>>510 個々の公家は直務支配を行っている例はあるな
514 :
人間七七四年:2011/06/12(日) 21:10:28.19 ID:deuJxTZi
その代官が横領した結果、貧乏なったんだから
北朝系は武力持ってないし
一条みたいに皇子土着させれば別だか
515 :
人間七七四年:2011/06/12(日) 21:30:08.77 ID:phV1qxG8
御所さえ荒れるに任せた戦乱の末の世において、常に民草の暮らしぶりと日の本の安寧をお祈りになった後奈良帝の御仁愛こそ、我が皇国の皇統の御遺徳にして、至尊御代々の伝統と言えよう。深く崇敬するところである。ホントに。
516 :
人間七七四年:2011/06/12(日) 22:22:11.46 ID:KGkd07sv
崇敬する前に改行覚えろ
517 :
515:2011/06/13(月) 00:37:52.07 ID:lK+sR3/a
失敬。携帯で打つ悲哀…。
518 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 01:07:17.50 ID:QhWMVYdt
家族養えるだけの献金があるなら
古今の部屋住み殆どが祈るだろ
519 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 13:14:40.23 ID:Io28IFU+
戦国時代は、成長期だったので、朝廷にも結構、寄進があり、
結構、裕福だったのかな?
520 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 22:22:24.61 ID:7uB1MQpy
官位を得るには応分の見返りが必要だからな。
521 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 22:38:46.17 ID:WbP75V5n
御所の前で天皇の直筆の書を売ったりしたんだよね。
今の皇室が同じ事やったらどうだろうね?
売り上げを被災地に寄付とかでやったら皇室に対する人気も上がると思うけど。
522 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 02:33:34.69 ID:eYxVIvNf
>>520 その礼金を賄賂として嫌った結果、ど貧乏に陥ったからな
一条大内の時は
523 :
515:2011/06/14(火) 18:13:59.71 ID:If02J++i
皇室予算のある今と比べてもしょうがない。
実際に宸筆を鬻がなければ財政がまわらなかったのだから胸が痛む思いである。
中国のような売官よりも、丹精こめて御書きになった宸筆を売るほうが、帝には清廉に思われたのだろうし、私奴もそう思う。
荘園の横領で定収入が無いのだから、献金と言ってもたくさんの公卿がいる朝廷にとっては微々とは云わないがその場しのぎにしかならない。
まして儀式の費用が優先なのだから楽なお暮らしなど出来ようはずもない。
524 :
515:2011/06/14(火) 18:48:21.37 ID:If02J++i
ここで日本皇室大鑑より、御奈良帝の御事跡を要約して引かせて頂く。
父帝後柏原帝が崩御の折りに、幕府からの献金が足りず、
大葬を先にし、践祚を後回しにされそうになる。
前例が無いとして、幕府と交渉、何とか両儀式を行なうことが出来た。(1526年)
しかしお披露目である即位式挙行にはその後10年を要した(1536年)。
大内氏二十万疋、朝倉氏一万疋の献上が大きかった。
即位式の年から兵火が洛中に及び、
3年後には諸国に洪水・凶作・餓死・疫病蔓延の惨状を呈した(1539年)。
帝は般若心経を宸写され、諸国一宮に奉納された。
「天下万民多く死亡す。朕、民の父母として、不徳であり、心痛である。
この般若心経が疾病の妙薬となることを願う。」(要約)
と、奥書に宸禁を滲ませている。
帝は御在位中朝儀の再興と売官の抑制二つを心掛けられた。
在位32年、宝算62にて、崩御(1557)。
525 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 01:10:44.40 ID:kIKCNDrG
売官行為そのものは前近代価値で言えば決して非難されるものでもないんだよな
官職につくための合理的な規定が予め定められている訳でもないし。
526 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 07:37:56.53 ID:3IEcJc/Q
つーか、現在の企業でも中元・歳暮とかはするわけで。
そこには社内で有利になりたいという意思があるんだよね。
それと売官がどう違うかという。
527 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 19:02:29.78 ID:Xdbb9M31
528 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 23:36:10.61 ID:MetqYknV
529 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 14:23:43.95 ID:1NfW/elN
、z=ニ三三ニヽ、
,,{{彡ニ三ニ三ニミヽ
}仆ソ'`´''ーー'''""`ヾミi
lミ{ ニ == 二 lミ|
. {ミ| , =、、 ,.=-、 ljハ
{t! ィ=・ r=・, !3l
!、 , イ_ _ヘ l‐'. jl //
Y { r=、__ ` j ハ[]`ミー、,,,, l || ヽ \/ ドパパパパパパパ
,r''iへ、`ニニ´ .イ /|| | ""'''ヽ | || ゝ /
/ ,,,-彡_,r''" ̄ 「/ ̄/ ̄/;二"二"二((二((三三C≡=─
/_,-| r'" 二 ==i ニニ二/\/ccccccc//_ヽ ) ヽ
<、、゙l - ̄ ̄C=] ノ;ヾ / ⊂ニニニ二二ソニニニソ ノ/⌒ヽ \
,l゙゙'l、 」ニニ二二〈ー;; \/二L_」 j
/ l /;:: /{ ̄`)ノ ーーー \ /
/´ ゝ ;;::/ {  ̄ソ ヽ /
530 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 18:10:19.58 ID:ahxUykvo
我慢に我慢を重ねてやっとできた即位式、なのに直前になって将軍の野郎は・・・
531 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 18:12:39.46 ID:Ek8tmjdR
532 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 20:15:08.33 ID:is3YykFU
533 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 20:16:54.88 ID:is3YykFU
>>530 当時いかに天皇の権威が失墜していたかのいい例なんじゃ?
ま、その後幕末に錦の御旗と崇められるまでは割と空気だったな
534 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 23:33:41.64 ID:9zFd79Ha
空気なのは昔からだろう。
535 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 02:39:08.37 ID:Acco33NC
まさになくてはならない御存在だと
536 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 21:18:50.40 ID:H6VChINn
>>533 >当時いかに天皇の権威が失墜していたかのいい例なんじゃ?
武家も宗教も朝廷の後ろ盾なしには、正当性を主張できなかった事実は中世通じて変わりがない。
御料所収入が落ち込んだのは治罰を行うべき幕府や管領の衰退が直接原因でしょ。
仮に権威失墜が起こったのであれば、神祇不拝を教義化する仏教があっても良さそうだがそれもない。
むしろ反本地垂迹説を受け容れる仏教があった宗教面での流れは、天皇権威の上昇を示した。
当時、朝廷権力は失墜したんだろうが、権威はたいして変わってない。
537 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 03:27:45.95 ID:7lv0ngZv
徳仁だろうが文仁だろうがどっちでもOKという程度の正当性だな
538 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 17:57:22.32 ID:osA566qT
当時の源平藤に対するこだわりって半端ないじゃない。
皇統との繋がりが領地支配の正当性を担保する側面もあったということだ。
539 :
人間七七四年:2011/07/03(日) 14:00:25.51 ID:ZigRrlq1
戦国には自称後南朝て現れないんだな
540 :
人間七七四年:2011/07/03(日) 15:37:44.00 ID:CxTQ4FR3
西陣南帝とは何だったのか。
541 :
人間七七四年:2011/07/04(月) 03:14:41.54 ID:BVXKsdkY
血筋的にはそもそも持明院統が優位なわけだし、
足利が強引に擁立し、合一した点を除けば北朝自体に正当性に欠ける部分が無い。
御維新や終戦の混乱期などに南朝が持ち上げられるのは本来ナンセンスであると考える。
542 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 00:05:30.65 ID:uQdMiMQQ
ご維新つーか、明治にだいぶ入ってからじゃなかった?<南北正統論争。
そもそも、あれは南朝を正統とした水戸学の流れを組む議論なんだから、
幕府終盤からずっと引きずってきた論点をやっと整理したに過ぎないと思う。
で、南朝正統は単に当時の学会で多数を占めてたからそっちになっただけ。
そもそも「学会」自体が水戸学の流れに引っ張られてたわけだが。
543 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 21:38:22.52 ID:HEZApCpi
違うよ
南朝正統説の流れを決めたのは、水戸学・朱子学、ついでに太平記を賞賛する政治家とマスコミ。
帝国議会の質疑で「教科書がけしからん」と騒いだ奴がいたのがきっかけ。
544 :
人間七七四年:2011/07/06(水) 22:53:48.12 ID:toiIHxG1
南朝正当とか言って、明治天皇も賛成だったのか?
545 :
人間七七四年:2011/07/07(木) 06:58:02.72 ID:eKiKiy4r
>>544 それはわからない。あくまで下々の者が議論して、南朝正統という結論に達した。
明治大帝はその結論を受け入れた。
賛成だったのか、しょうがなく従ったのか、記録にない。
つーか、明治大帝〜今上天皇まで、個々の問題についてどう考えられていたか、
記録に残っている方が圧倒的に少ないだろう。
今の皇室典範の議論だって皇室の方々がどう考えられているか、まったく
表に出てこないじゃないか。
結局、万世一系という建前を貫くためには皇統分裂をいう事実を否定したかった
明治の思想家のゴリ押しに過ぎないわけで、どうでもいいんだけどね。
546 :
人間七七四年:2011/07/10(日) 20:38:27.93 ID:GHCTCE5l
内心は複雑だったから、勅裁の中で北朝の天皇の祭祀は従来通り行うようにという念押ししているんだと思うぞ。
547 :
人間七七四年:2011/07/11(月) 16:28:43.60 ID:a+iSm9do
帝>戦国大名でOK?
548 :
人間七七四年:2011/07/11(月) 21:45:33.53 ID:5GaIqG/L
おk
549 :
人間七七四年:2011/07/11(月) 22:52:17.70 ID:enBBVVaa
南朝正統説と北朝正統説は矛盾しないのか?
550 :
人間七七四年:2011/07/11(月) 23:21:47.45 ID:9U/Wk/Ua
>>549 するよ。だからどっちが正しいか、って話になるんじゃないか。
551 :
人間七七四年:2011/07/12(火) 09:16:56.34 ID:w+quUTFt
血統的には憚りながら(略
552 :
人間七七四年:2011/07/24(日) 14:41:37.19 ID:r2Ug1I7R
水戸学が流行ってたからね、
北朝の明治天皇も、南朝を正統と、、
血統は、どっちもok
それより、天武天皇系のほうが、謎めいていておもろいよ
553 :
人間七七四年:2011/07/26(火) 19:41:39.75 ID:UQ27aF3o
>>550 柳原紀光は北朝正統説を採りながら正平一統の時は北朝に天皇がいなかったという理由で崇光→後村上→後光厳とした
554 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 14:17:44.65 ID:7YjIsJDd
_
/ jjjj _
/ タ {!!! _ ヽ、
,/ ノ ~ `、 \ _
`、 `ヽ. ∧_∧ , ‐'` ノ / `j
_ ∧_∧_ \ `ヽ(´・ω・`)" .ノ/ / /`ー'
│jjjj ∧_∧ (´・ω・`)  ̄"⌒ヽ `、ヽ. ``Y" r ' 〈 `ヽ
│ヽ (ω・` ) / ) ヽ' / 、 `、 i. 、 ¥ ノ `、 ヽ∧_∧
│ ⌒ , ⌒ヽ / --‐ ' ヘ. ; `、.` -‐´;`ー イ 〉 ´・ω) ,-、、 ∧_∧
ヽ-_、 / / \ f 、 ヾ / ) i 彡 i ミ/ / ノ  ̄⌒ヽ 「 〉 (´・ω・`)
ヘ 丿丶 ヽ ! ノヽ、._, '`"/ _,. '" } { ノ ' L `ヽ./ / /⌒ ⌒丶
│ミ / ゙ ノ |  ̄`ー-`ヽ 〈 < _ ヽ. / `\ / , ' ノ\ ´ / / ノヽ 人 ノ ヽ
/ ̄⌒ / / / !、__,,, l ,\_,ソ ノ / /ヽ、 ヽ. ( ∠_ ヽ、_, ' ヽ、 ヽ ゙ 、ノヽ ソ
《 _/ 彡ノ 〈'_,/ / / / ノ ヽ. ) i 、 ヽ ヽ_ソ ´ /巛/、
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\ / ノ _ へ l.__| }_ l \ \ | i f" ノ { / /⌒、/ / \ ゙丿
ヽ│ ⌒ │ _.| .〔 l l ノ _> j キ | i⌒" ̄ / /_ / / 丿 /、
<.,,ヽ_ ノ゙´<.,,_/ 〔___! '--' <.,,_/~ 〈 `、ヾ,,_」 i___,,」 ヾ,,_」ヘ_ソ i___,,」
555 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 19:53:54.61 ID:xrUyExs0
天皇制が一番危うかったのは承久の乱だったのかな?
南北朝のように別に天皇を立てるとかそういう事出来なかったのにあっさり幕府勝っちゃったし
逆に言うと何でそういう状況で朝廷への処分があの程度で終わったのだろうかね
556 :
人間七七四年:2011/10/08(土) 13:09:04.77 ID:K4kJ88n2
天皇なんて、日本で一番の生活保護だろ
557 :
人間七七四年:2011/10/10(月) 16:56:34.17 ID:9BcvgVHP
558 :
人間七七四年:2011/10/11(火) 01:13:27.30 ID:Wxk5YbOv
光厳→後醍醐→光明→崇光→後村上→長慶→後村上→後小松→称光→後花園以降崇光系
が正当かな
正平の一統が痛すぎる
559 :
人間七七四年:2011/10/11(火) 03:08:07.21 ID:Z28syD2D
560 :
人間七七四年:2011/10/11(火) 10:47:22.87 ID:Zucfr3TL
561 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 00:10:48.82 ID:uK+a3jxj
>>556 大きな勘違いしてるが天皇家って日本有数の資産家だからな
普通に資産だけで末代まで遊んで暮らせる連中
宮内省があるせいで資産は自由に使えないし、公務があるから自由が無い
君が考えてるのとは逆で世界最大のボランティア一族だぞ
562 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 05:15:56.05 ID:+TX5Ox6S
大体公務の対価として税金収入があるのにそれが生活保護なら公務員はみんなそうかよ。そもそも皇室にかかる費用の多くは人件費なのだがね。
563 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 22:07:41.52 ID:mkgz+XIg
天皇なんて、その辺の公務員より仕事してねーだろ(笑)
天皇は世界一の生活保護だろww
イギリスの皇室は税金払ってるから、日本の皇室より全然いいわ
564 :
人間七七四年:2011/10/13(木) 00:08:16.80 ID:EFUNdtle
>>563 こういう奴は、旦那の接待とか下見とかも遊びだと思ってる女みたいだな。
もしくは芸能人はカメラの前で旅行したりいいもん食ったりしてればいいみたいな考えの手あいと同程度の思考回路。
報道されてる以外にも色々ご公務はこなされているが、
半可通には一見して遊びに見えるような催しなどでも、
ご静養やお忍びなどの他はすべて
親善や振興などの為に招待を受けて臨席される公務であって、御自身達の好む好まざるに関わらず執り行われるものであることは言わずもがな。
批判するのは自由だと言うかもしれないが、無知(無恥)を盾に舌足らずな暴論を振りかざすのは甚だ見苦しいから止めて欲しい。
あと皇室も税金を払ってるんだよなこれが。
まあさすがに板違い。
565 :
人間七七四年:2011/10/13(木) 17:15:17.92 ID:DcV3Fz11
566 :
人間七七四年:2011/10/13(木) 18:44:40.16 ID:mV7x2YyV
そもそも天皇家の嫡流ってのは南北朝時代の南朝から始まるの?
今の天皇陛下は厳密には嫡流ではなく庶流だと聞いたけど…
567 :
人間七七四年:2011/10/13(木) 19:58:14.36 ID:EFUNdtle
むしろ南朝のほうが血筋的には庶流の庶流だよ。
庶流の庶流だからこそ、後醍醐帝は皇位を御自身の血筋に継がせたくて動いた面もあっただろうし。
だからよく半可通が云うところの現皇室は北朝の裔だから正統じゃないという論は理解出来ないね。
三種の神器云々なら、後小松帝より以降は連綿と現皇室に受け継がれているわけで。
568 :
人間七七四年:2011/10/13(木) 21:06:25.19 ID:6E4LSzfB
明治以降の学者が南朝が正統とか言うから…
569 :
人間七七四年:2011/10/13(木) 21:48:46.16 ID:mV7x2YyV
歴史では南朝が勝ったから正統だが…でも実際は北朝が正統で今の皇室も北朝の末裔ってことで良いんだよね?
だから…南北朝時代の大河を頻繁に作ることは中々できないし、昭和に入ってからはタブー視されたんだっけ?
570 :
人間七七四年:2011/10/13(木) 21:52:46.38 ID:mV7x2YyV
連レスゴメン…
南北朝を扱えないのは今の皇室に配慮したもので…朝鮮出兵が忠実に描写されないのも、朝鮮人への配慮と一緒だと言うことになるね。
571 :
人間七七四年:2011/10/13(木) 23:09:55.62 ID:EFUNdtle
>>570 結局 南北朝正閏論に関しては、
帝が能動的に動いた南朝のほうが、
帝が受動的だった北朝よりも権威主義者の尊崇を集めやすく、
且つ 勤皇の志士が活躍した南朝のほうが、
足利シンパの連合軍だった北朝側よりも尊皇家の同情を集めやすいという、
大変重大な構造上の問題があるように思えてならない。
私見ではあるが、この点によって、南朝側の高邁な理念ばかりがある種理想化され(それは無論尊重すべきではあるが)、
一方的に両統迭立を破棄され、一時しかるべき地位をも奪われた挙げ句、
後世において即位の正当性をも半ば否定された
北朝五代の帝の、現皇室にも通ずる「受動の美学」に関しては、余り省みられることが無く、
印象の薄さが無理解を生んでいるのではないだろうか。
572 :
571:2011/10/13(木) 23:43:09.81 ID:EFUNdtle
そもそも北朝に何の非も落ち度もない。
持明院統(北朝)は後嵯峨帝第一皇子、後深草帝の裔であって、
本来であれば一貫して皇位を世襲し得るところを、
後嵯峨帝の次子可愛さかは不詳なれど、弟亀山帝の裔まで皇位を継ぐこととなり、
やがて両統枝分かれての迭立、これだけでも不遇のところを、
建武の御中興にて、継承権まで奪われて、厄介払いとは、畏くも憐憫の極みである。
このような機微に疎い国士が、南朝を称えるまでは結構だが、北朝系の皇室に下手に気を遣い、スタンスを明瞭にしなかった為
(そもそもそれぞれの善のぶつかり合いである南北朝に、正閏を定めるのもおこがましいのだが)、
現在に到るまで、「触らぬ神にたたりなし」、やがて万人の興味も薄れて無関心が広まったのではと考える。
帳尻合わせに、戦国時代に話を戻せば、当時の朝廷の困窮もまた、北朝系の「受動の美学」が垣間見えるようで、
私は好きである。
573 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 20:06:00.16 ID:cQUdFi3x
おれが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしい
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうだ
その世界では有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報だよ
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタだね、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識だろ?
574 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 14:11:31.40 ID:aTWSJM+w
一世一元制やめようぜ
平成はなんかもういいや
575 :
人間七七四年:2011/11/21(月) 02:13:33.74 ID:GtvTFvH9
後深草-光厳-崇光流が本来の嫡流いうが後小松から取り戻せた後花園は伏見宮流で正嫡なの?
576 :
月孔雀:2012/01/17(火) 18:28:43.70 ID:Yyf6ej5Z
天皇家の存続は、現代、ヤバいのかな?
577 :
人間七七四年:2012/01/17(火) 18:50:16.53 ID:iDOtRivh
悠仁様次第
578 :
人間七七四年:2012/01/18(水) 00:28:03.82 ID:JPtEOe3k
悠仁殿下が氏政夫妻並に子作りに励めば問題ない
579 :
人間七七四年:2012/01/18(水) 09:56:02.89 ID:m2pNxwtl
>>575 だって崇光帝のほうが兄ですから
後花園帝はその裔
いっぽう後小松帝はたまたま北朝に擁立された弟の後光厳帝の裔
580 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 00:58:55.45 ID:H6KajOjl
南朝に関しては「天皇のために戦って死んだ人」がたくさんいる方を選んだ。
単純に明治政府の都合。
北朝の血を引く明治天皇自身の意思で選んだのか、疑わしい。
581 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 12:38:26.24 ID:3Ln9Ve2g
>>580 北朝祭祀も続けるよう命じたらしいし水戸学充満していた明治政府の空気を読んだ?
582 :
人間七七四年:2012/05/09(水) 10:38:02.44 ID:6yIqNbFD
素人考えでは下々の連中が血を流しあってる時にまったくの無関心でひたすら
短歌と蹴鞠をしてるイメージしかない
朝議だって妄想の中の会議みたいなもんだろ
583 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 19:56:08.38 ID:V/qK/3oe
ゴミしかいないゴミスレ
584 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 16:53:24.41 ID:ph1lyFAN
はい??
小牧長久手の戦いは7倍もの圧倒的兵力差がありながら
短期決戦しかけ三河方面への大規模軍事作戦が大敗により失敗
その後家康が後詰にこれない木曽川筋を圧倒的大軍でダラダラ攻め取るのがやっと
長久保奪われ神戸も奪われ蟹江でも負け戸木城でも松ノ木でも負け
おまけに夏の対陣でも圧倒的兵力差がありながら砦間の攻防で苦戦して退却
秋になって権力基盤がガタガタで北畠の傀儡状況だったほどの弱い信雄の領国に苅田や放火の応酬を行って
示威的行動してたらヘタレ信雄がビビって勝手に和議を結んだからなんとかなっただけ
秀吉が将軍というか朝廷権威によるよりも武力平定路線を歩んでいたが小牧長久手の戦いを契機に
朝廷への急速な接近をしていくのは近世成立記の大規模戦争論文でも学説でほぼ一致する所と言われてる
585 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 16:54:04.88 ID:ph1lyFAN
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
秀吉⇒和仁親王 銀20枚
7月 秀吉⇒天皇 白鳥三 蝶子三十
⇒誠仁親王 白鳥ニ 綿百吊
⇒和仁親王 太刀
⇒若御方 料紙
と献品しまくり
また寺社衆への所領安堵もしまくっている
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
586 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 16:54:44.34 ID:ph1lyFAN
また豊臣政権の政権基盤の弱さを象徴するのが外様大名の広域な版図だな
それも当たり前。軍事力で屈服させたわけじゃなく惣無事令通達による停戦で平定しただけなんだから
トップが死ねばあっと言う間に政権が崩れるなんて誰の目にも明らか
587 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 16:55:22.79 ID:ph1lyFAN
諸大名の権限や版図の大きいなあなあ統治だったから秀吉が死んだだけであっと言う間に崩壊した
588 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 16:56:05.23 ID:ph1lyFAN
アホ秀吉厨なんて妄想しかできないがな
589 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 16:56:42.05 ID:ph1lyFAN
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
590 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 16:58:10.89 ID:ph1lyFAN
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
591 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 16:59:51.34 ID:ph1lyFAN
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
592 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 11:22:42.11 ID:QaPK4+QS
アンチ秀吉の反日キチガイ織田厨による捏造歪曲にご注意ください。
こいつは秀吉や三成を貶したいことが目的なので、
実は家康についても詳しくないのが判明しています。
しかし三河物語の解釈において、信長贔屓に曲解するなどで、
織田厨であることが判明しております。
つまり織田厨房であることを隠蔽して徳川厨を装っているのです。
593 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 11:27:09.01 ID:QaPK4+QS
まあ北畠信雄は織田家臣団から三介殿のなさることだからwって馬鹿にされ、
南蛮寺が出来た時は信雄、信忠、信孝の順番で訪問するほど、
信雄が宣教師を厚遇してたのに
宣教師からは知恵が足らないと酷評され、
伊賀攻めでは信長から親子の縁を切ると言われた程の暗愚だから傀儡にするのは簡単だろうな。
信雄はどんだけ賤しくぶざまでも死にたくないって言う情けなさで戦国時代を生き残った名誉も持たない男だから。
一方、信孝は南蛮寺に行くのが最も遅い男だったが、耶蘇会から思慮あり諸人に対して礼儀礼節あり偉大な勇士だって激賞され、
天正記でも知勇は人を超えていたとまで評価されていたので、
秀吉に操られた信雄は嫉妬しまくり信孝を殺した。
信雄は暗愚だから織田家を滅ぼした後の自分は用済みになるとは夢にも考えて無かったんだろうな。
まさか強制出家させられ小姓1人だけを連れて秋田へ流罪にされるなんて。
織田家を残す必要があるなら、嫡流の秀信を救うか、
北畠氏による簒奪をせずに織田家に復姓していた信孝の死を免じてやればよかっただけ。
伊勢国司北畠信雄は彼らを死ぬように追い詰めただけ。
結果、秀吉によって北畠姓まで剥奪されて秋田へ流刑。
織田を滅ぼした命乞いの土下座王信雄。
大坂陣の時もひそかに逃亡するヘタレ
関が原?戦果挙げてたのは島左近だろ。次点で明石全登じゃない?
足引っ張ったのは織田信雄、西軍から白金2000枚パクったw
清華家の家格を持つ北畠氏のまま、
家格の低い織田氏に戻らなかった信雄の空気の読め無さが、
強制出家と秋田への流罪を呼んだ。
関ヶ原の戦いの西軍首謀者だった輝元への懲罰でも強制出家が強要されていて、
結局のところ家臣らを通して必死な命乞い嘆願が行なわれて、
責任を取っての名誉を守る自刃を回避する武士の風上にもおけぬヘタレに対する恥辱的な死一等免除の慈悲であり、
武人としての生命を絶たれたと言っても良い死ぬのが怖い愚主を内外に知らしめる処置なのである。
清華家の家格を上回るために秀吉は藤原氏の養子にならないといけなかったくらいだからね。
実際、北畠氏の家格は征夷大将軍と並ぶ鎮守府大将軍として地方政権を樹立できる資格も余裕で持ってるからね。
そりゃあ北畠の名前にすがってれば高貴な殿上人として、
どんな大罪であろうと死一等免除の遠罪レベルにしてもらえるんだから信雄だって織田なんてクソに戻りたくはないだろうよ。
信雄家康が秀吉に負けたから鎮守府大将軍として政権を立てられ無かったが、
秀吉に勝ってたら朝廷から任じられ政権樹立できただろうね。
594 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:47:51.67 ID:35hRb18v
半年や1年じゃ全く影響なし
特に武田信玄は死ぬ半年前から病気で出陣遅らせるまでやってる
長篠城で療養する期間が長くなるだけで終わり
595 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:48:23.07 ID:35hRb18v
信長が畿内で浅井朝倉などに崩壊させられるだろ。
もう既に4将のうち2将が欠けて戦力ガタ落ちになって天皇に必死に土下座してる状態なんだから
596 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:48:54.61 ID:35hRb18v
織田鮮人がなんら具体的根拠や一次史料による裏付けも無く偏向自慰レスを繰り返してるだけでワロタw
597 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:49:25.88 ID:35hRb18v
織田厨のデタラメ「信玄が毎年戦をしまくって財政破綻して
兵糧はなくなり長期遠征は不可能だし民衆は怨嗟した」
1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて
1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、
それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
織田厨の話の誘導パターン
「どうしても野田城で苦戦してたから三河制圧なんて出来ないし
そこからさらに尾張へいくなんて無理w」
実際は 鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響してる。
謙信は信玄と氏康同陣の時にたびたび俺が乗り出してきても決戦せずに退散するくせにと愚痴ってる)
朝倉義景が一乗谷城から越前府中まで3/11には出陣してきたことを報じている。
また濃州・信州境を用心しろとも書いていて、信玄の美濃侵攻が近いことがわかる。
3/7信長→幽斎書状にも長与一(長景連)が味方だと書いてる。
元亀4年時点ですでに明らかに七尾城は織田方なのだがwww
598 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:50:04.10 ID:35hRb18v
朝敵認定された織田信長1万が武田信玄6万に踏み潰されて終了でしょ。
599 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:51:13.72 ID:35hRb18v
朝敵認定された織田信長1万が武田信玄6万に踏み潰されて終了でしょ。
600 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:52:04.75 ID:35hRb18v
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
長篠直後ですら家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
601 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:52:36.25 ID:35hRb18v
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は農業の暦に合わせて帰る必要が無い
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは 軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
602 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 21:08:26.96 ID:muvYbR87
信長の功績は捏造だらけ
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
603 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 21:09:21.64 ID:muvYbR87
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
604 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 21:09:55.55 ID:muvYbR87
1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば←NEW
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
605 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 21:10:33.78 ID:muvYbR87
龍興16歳1565年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている(重要な外交政策なのに公記が隠蔽している)
これをぶっ壊そうとしたのが後の家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数(義昭による六角義秀・斉藤・織田・徳川・北畠共同上洛作戦が
信長の裏切り斉藤攻め奇襲で失敗し、激怒した三好に近江矢島御所を攻められた義昭は若狭を経て越前へ逃亡・六角義秀失脚)
その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すもまったく美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角義秀主導で浅井と織田の婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←NEW
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。
606 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 21:11:32.84 ID:muvYbR87
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった
美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし、近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
607 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 21:13:27.26 ID:muvYbR87
国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
608 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 21:14:52.84 ID:muvYbR87
結局、義昭と朝廷や公家と深いパイプを持つ江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先) 義秀が朝廷工作をやっていて信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦まで
してるし。しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京西や京南での親義昭側との攻撃に対処すべく撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて
信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に義治は敗走して上洛成功しただけ。信長の戦下手は神レベルだよな。
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
609 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 21:16:11.21 ID:muvYbR87
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
610 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 15:24:13.53 ID:qGJ90Mfg
義龍時代と龍興時代すら混同してむちゃくちゃなことを書いてる織田厨w
所詮、他人の書いたレスを熟読してから、自分に都合よく曲解しても根本的馬鹿は消えないなw
611 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 15:24:48.94 ID:qGJ90Mfg
永禄7年6/17信玄→金山城主長井道利宛書状
井口(斎藤)より攻撃とのことで、信州衆を派遣しようと支度したが退散とのこと。今後も加勢や城米が必要なら言って下さい。
永禄8年11月苗木遠山氏の娘を信長養女として武田と織田の同盟。
永禄9年6/13信玄→岩村遠山左衛門&苗木遠山直廉宛書状
信長や森とも入魂になってきたようで安堵しています。
私は越後を攻めますので約束通り鉄砲衆50人を急いで加勢をお願いします。
ただ苗木殿も出陣準備してるとのことで、
その志しが私に対して浅くは思いませんが、
斎藤勢が森へ攻撃すると聞き及んでいますので、
苗木殿は私への出陣を延期するのが尤もだと思います。
612 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 15:25:49.79 ID:qGJ90Mfg
信玄が東美濃の金山城主長井へ兵糧や兵力支援をしていたが、
武田織田同盟により支援を切った為に、
金山城は織田軍の森の手に落ちる。
永禄5年2/27快川→禅昌寺宛で、信長が西美濃で斎藤に敗れ墨俣城で人質を出して斎藤と和議をして帰ったことが書かれているので、
信長は頑強な西美濃攻略を諦め、
武田に養女を差し出すことで同盟を結び、
信玄の力に依存しての東美濃攻略に切り換えていたのがわかる。
613 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 15:27:14.46 ID:qGJ90Mfg
織田厨「信長と違って信玄は裏切り三昧で信義を守らないクズ!!」
しかし見事に悉く論破されて大敗走を重ねる。
織田厨「信玄は騙されて馬鹿!利用して裏切った信長天才!」
ここまで下劣なキチガイっぷりは今まで見たことがない。
さすが反日アンチ秀吉のニダだな。。。
614 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 15:28:46.66 ID:qGJ90Mfg
>>息子すらぶっ殺す悪党信玄
信玄は息子を殺したくなかったんだよ。つかそもそも殺したとはどこにも書いてないから病死だろうし。
永禄8年5月に富士山麓の勝山で、義信妻(今川からきた)のために信玄は祈祷してあげてるし、
でも6月に義信は甲斐二の宮美和神社で不穏な集会を開いた。この出席者の署名のうち17名中4名は名前に花押がない。これは反信玄決起集会に集まらなかった人々がいた証拠とされる。
そして10月に飯富を親子不仲にする陰謀の罪状で死刑にしてる。11月には去る6月より文句が多いと三枝昌貞を信玄は叱責してるし、
翌年8月に三枝を含む3人が知行を与えると言う条件で信玄に反逆を企てたりしませんと信玄に忠誠を誓ってる。その後に義信の存在がまったく無くなると鴨川氏が指摘してる。
義信は明らかに信玄に反逆し、その態度を改めなかったので自業自得で自滅した。信玄は父を追放してるだけにそれを黙認するわけにもいかなかっただろうね。
信玄は晴信を殺したとは一次史料にはないしただの急死だろ。そもそも嫡男殺したのはまずい事だと連呼してるバカ長厨は江戸幕府を作った家康が信康を殺したことはどう思ってんだw
それに本能寺の変の時に信長は秋田城介(信忠)の仕業か!と言ったと言うから嫡男の謀反は想定内のことだったようだしな。
だいたい自害に追い込んだのは家康だろ!なに混同してんだw天正6年3月に信康の岡崎城へ岡崎衆の常住を義務づけた家康だったが、
突然9月に岡崎衆に信康へ出仕することを禁止天正7年8/4岡崎から追放したと8/8に信長へ報告
9/15の銘文で信康の五輪塔。三河物語には二股城で15日に服部半蔵が自刃の検使だったと書いてる。ちなみに2/20に信長の娘の五徳が桶狭間まで家忠らが護衛して送ったと書いてる
織田厨ってなんでこんな初歩的なことも知らずに無知を晒すだけでなく武田義信のことと恥ずかしくもなく混同して書いてんの?
615 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 15:29:53.45 ID:qGJ90Mfg
>>将軍家仲介の和睦を平気で反故にする信玄
いやいやそんな証拠はいっさい無い。第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。その後、謙信は二度目の上洛して義輝に会っている。
永禄11年3月からの義昭・信長による近じか上洛するからお前ら和睦して上洛してきて協力しろよ交渉の時も9月に謙信が武田の使者を抑留して断交宣言するなど、
武田側に非は見られない。(ちょうど謙信は今川氏真との武田挟撃の秘密交渉を成立させていた)
616 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 15:31:21.06 ID:qGJ90Mfg
>>朝敵にされても、まったく動じなかった約束破りの常習犯信玄
信玄は朝敵になんてされてねーぞ・・・むしろ幕府へ宛てた逆賊信長打倒の激文を正親町天皇が取り寄せて筆写し醍醐理性院に奉納してるほど。
その後の話は同意。信長は何も考えてなかった乱暴者に過ぎない。
>>同盟を破り奇襲したキチガイ信玄
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が、今川が武田に攻められたのも止むを得ないと情勢報告してるから、信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに義昭の斡旋で越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。だとすると今川に内緒にしていた北条も同罪だしな。武田と北条が上杉と戦っている裏で、今川が上杉と秘密同盟する表裏をしていて、
武田に起承文を出したことまで上杉に報告。武田が本庄を謀反させ 飯山城攻めし、上杉を追い込んでいる最中にこんな真似をして、
駿甲国境を封鎖するは、謙信に信濃出兵を依頼する始末。しかし信玄が一揆を依頼したために謙信は越中攻めする必要に迫られて無理だった。
ここにおいて武田が今川攻め開始。明らかに今川が関係悪化をエスカレートさせてる。
と言うか開戦に向けて今川が動いてる。
617 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 15:32:00.65 ID:qGJ90Mfg
>>天文22年に謙信が天皇直々の「治罰」令を貰っている。が、それでも信玄はへっちゃらだし、謙信の配下も謀反。後年、謙信と信玄の和睦が成ると信玄は見返りに
>>朝廷から信濃守の官位貰っているが和睦破りで奇襲し春日山近辺まで略奪。それでも特に不利蒙ったことなし。
この頃の謙信は越後を統治するのも難しい状態で平子と松本の山俣の領地を巡る紛争は幕府の介入による解決を謙信は依頼してるし越後守護上杉家の伊達時宗丸養子問題から対立
していた揚北衆の抗争もいまだまったく解決できてない。その挙句に関東管領山内上杉まで越後に逃亡してきた。そこで混乱する越後統治の正当性と北条化した上野国への対応
として天皇権威が必要だったんで天文22年4/12治罰の綸旨を謙信は貰っているが、一方の5月には武田も後奈良天皇の綸旨と義輝の御内書をもらってる(村上氏と一進一退の攻防中)
7/23には義輝が嫡男に義の字を与える使者も甲斐に来てる。8/20には後奈良天皇が諏訪大社に自筆文書を奉納してるが
それには信玄の戦勝を祈願し信濃を安定させた上で禁裏奉公するように頼んでる。8月中に村上氏との勝敗が完全に決したことから、謙信が危機感を抱き9月に南下開始しており
それ以前の段階である謙信がもらった治罰の綸旨が信玄を朝敵にしたとする曲解捏造は非常に気持ち悪いぞ。
618 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 14:29:50.55 ID:AnC5gjXE
619 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 15:18:14.58 ID:G3FYtr2z
>>617 あの時代に天皇権威なんてあるのか?
ほとんどの武将は「天皇?何それ?おいしいの?」程度の認識だろ。
620 :
月孔雀:2013/09/25(水) 15:41:35.15 ID:kyopUZE/
朝廷に金払って、官位を貰うのが戦国武将
621 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 11:21:20.53 ID:N6XnP5lW
>>620 それは大名化した武将だろ。
一般的な武将にとって天皇や朝廷なんて本当に実在してるのかも疑わしい世界。
622 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 11:34:47.03 ID:Z1Ug+wFm
視野の違いだな。
この時代も身分や家格や名分が重要であった。
朝廷を滅ぼすことを誰もしないのも
上記の構造を守っていく方が有利だからだ。
権力だけでは日本は治められない。
権威も非常に重要だったのだ。
特に武力と支配力をつけたものほど、
広大な領域を支配すればするほど
壁に辺り、権威を持って賊を討つ形を取りたがる。
623 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 00:50:02.13 ID:+/HprP8L
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。
624 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 00:51:06.94 ID:+/HprP8L
美濃攻略に11年もかけてるあまりのgdgdぶりに対して、
将軍の権威の光背を受けてからの別人のような版図の急拡大ぶり。
いかに将軍を擁立し京を押さえて公家や朝廷を敬うことが統治の正当性という巨大なパワーを生むかが理解できる。
そして増長してその力の源泉を自らの神性に由来するのではないかと誤解するや高転びに転落し織田自滅・・・
幼少の家康が織田家の人質にやってくる伏線と言い
信長が志賀の陣で朝倉に土下座してから半年後に毛利元就が死去してて運が良いよな〜。
もし元就が生きていて信玄の西上が開始されてたらフルボッコ瞬殺されてたな。
つか浅井軍を少ない手勢で長期に渡り押さえていた秀吉のような神がいて良かったよな。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね
625 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 00:51:56.79 ID:+/HprP8L
戦国時代を平定した秀吉
なんでもかんでも秀吉の業績はすべて信長が脳内で構想していたと
バカみたいに主張する織田チョンの歪曲を糾して
秀吉を正当に評価しよう。
626 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 00:53:11.53 ID:+/HprP8L
軍鑑を一次史料だと誤認して
無知の生き恥を晒す織田厨バカ杉w
627 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 00:54:07.67 ID:+/HprP8L
武田陣営総崩れで士気もガタガタ
きっと史料に書かれてなくても寝返りや兵の逃亡もあったに違いない
何せ浅間山噴火&領国疲弊による混乱・寝返りの連鎖中
他にまともに迎撃しようとする連中なし
こんな圧倒的有利な状況で武田で唯一抗戦した仁科1000以下に50〜60倍の兵力比でもって絶対的に兵力比が物をいう城外戦で
大損害だし一門織田信家討ち取られ、普通なら10分程度で終わりそうな戦闘に最低で見積もって4時間以上も戦われた雑魚信忠
628 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 00:55:48.98 ID:+/HprP8L
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
629 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 00:57:37.73 ID:+/HprP8L
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
630 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 00:58:17.61 ID:+/HprP8L
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
631 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 05:33:36.26 ID:+/HprP8L
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
632 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 05:34:54.89 ID:+/HprP8L
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
633 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 05:37:16.34 ID:+/HprP8L
連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった
武田侵攻のときといい、勝頼にビビリまくりなのが信長
634 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 05:38:47.48 ID:+/HprP8L
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
勝頼がいくら信長が戦下手だからって
ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし
武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。
鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。
まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。
しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。
義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。
635 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 05:45:01.73 ID:+/HprP8L
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。
636 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 05:47:10.54 ID:+/HprP8L
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。
637 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 05:50:13.06 ID:+/HprP8L
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。
638 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 19:32:20.40 ID:C54MrSv+
天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために
織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。
その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで
武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから
合同作戦じゃなくなって武田単独で
景虎自刃した3/24を過ぎてからの
4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて
信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。
いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが
まったくのヘタレぶりを露呈したために、
これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、
天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい
武田と毛利の滅亡が確定した。
しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。
結局、毛利がありえないくらいヘタレだから
織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。
639 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 19:34:02.33 ID:C54MrSv+
ちなみに8月末に厩橋北条高広が北条から武田へ服属先を変えたことをきっかけに
9/5北条と徳川が同盟したことを受けて武田内通の罪で信康が9/15に自害させられてる。
武田は佐竹らと同盟して北条を圧倒。伊豆浦でも武田水軍は北条水軍を圧倒し連戦連勝。
氏政は「このままでは北条は滅亡に向かう」
「上州は武田のものになってしまう」などと武田を恐れまくる。
しかし同時期に石山本願寺が勅命和睦命令の連投に恐れ多いと受託してしまう。
それでも天正9年末まで北条を圧倒し続け伊豆まで攻め込み里見氏も同盟参加。
徳川も高天神城をやっとの思いでなんとか攻略できたが、そこまででしかなかった。
所詮、家康は穴山とどっこいどっこい程度の実力しか無い。
640 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 19:37:47.18 ID:C54MrSv+
天正10年の織田の攻撃のタイミングが浅間山噴火とシンクロして武田が崩壊しただけ。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
641 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 19:39:19.79 ID:C54MrSv+
付け加えるとして5/15書状の内容から
鉄炮放と玉薬の調達の報告だとわかるんだが、
鉄炮放とは砲手を意味しており、実際には細川が
玉薬と鉄砲の使い手を雇っていることを意味してる。
これは5/17付多聞院日記にも伝聞内容のためにタイムラグがあるものの
信長の命令で筒井が鉄砲衆50名を派遣と記しており
細川や筒井らが堺あたりから鉄砲衆を雇い入れて派兵してると思われる。
それを佐々や前田や塙らに配分して率いさせたと考えられる。
(当時の武士は鉄砲を扱わず百姓・足軽・雑兵のような身分に使わせてる)
また6/13付けの信長から上杉への書状において兵糧の調達が不充分なので
織田軍は撤退したとも述べていて、対陣長期化も織田軍は望んでいなかった。
武田が対陣を続けていたら、織田は長篠城を見放して和議を結ぼうとしただろう。
642 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 19:40:48.40 ID:C54MrSv+
8/13には秀吉が兵糧を調達していて、信長はそれを小谷城で受け取って
越前一向一揆を討伐に向かっており、
数万人規模の老若男女の区別ない越前一円での大虐殺大会と大略奪を開始し9/26に帰還する。
10月初頭には石山本願寺が織田と和睦しようとするが、
信長がホントかどうかわからんからしばらく様子を見てから朱印を与えてやるとか余裕をぶっこくが
翌年1月に吉川に支援を願っていた赤井氏に呼応した波多野氏との挟撃で
明智軍が大敗北&摂津でも石山本願寺に織田軍がダブル敗北を喰らうw
643 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 19:43:08.41 ID:C54MrSv+
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達
駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。
越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。
南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)
美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。
跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
644 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 19:45:26.07 ID:C54MrSv+
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
645 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 19:46:04.35 ID:C54MrSv+
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
646 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 21:41:42.73 ID:O/j83g3I
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。
11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。
しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。
これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。
信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。
だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
647 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 21:42:24.27 ID:O/j83g3I
信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で
新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり
延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信玄が今川を討たないと
逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた
648 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 21:43:57.81 ID:O/j83g3I
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論であり
その文中には
「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので
忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。
そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において
岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
649 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 21:45:48.09 ID:O/j83g3I
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
650 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 21:46:56.70 ID:O/j83g3I
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して秋山を討つまでは
苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。信勝に弓を引くとか考え難い。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
651 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 21:48:05.75 ID:O/j83g3I
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状
遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候
などと書いてあって織田と武田の間で
数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の
元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて
本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
鴨川→14日岩村城の武田方への自発的な降伏開城説
芝辻の反論→18日付け謙信宛河田書状に書いてある通り岩村城を巡り攻防戦があったのは間違いない。
同城が織田方重要拠点なのに城将達が自発的に投降なんて説は奇異だ。
652 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 21:49:04.39 ID:O/j83g3I
長篠がガチンコ負けとかアホすぎる
丸で城みたいに堅固な陣地&かなり数的不利&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんな所に飛び込んでいく馬鹿が総大将だったから勝てただけ。
しかもその状況ですら9時間戦われて所々柵が破られたりして織田方にも6000被害でてるんだから
勝頼みたいな基地外が総大将じゃなく普通に戦術的勝負やらせてたら武田が圧勝してただろ
653 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 21:50:24.95 ID:O/j83g3I
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる
これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
654 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 00:00:32.75 ID:cd9OFTUN
織田も呆然自失だったろうな 勝ったけど武田の武威に肝を冷やしまくったと思う
武田攻めのときでも信長は信忠の突出を恐れているのか
慎重に事を進めるように書いてる
運良く離反の連鎖でまともな戦闘が皆無だったから勝てたけど1万くらい集まってたら大敗してただろうな
655 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 00:04:10.82 ID:cd9OFTUN
天正日記は同時代史料
織田なんてアホみたいに武将の数が多いから途中で死ぬような奴は有名にならなかっただけの話だろう
前田利家が負傷しているのは前田側の記録にもある
というか9時間も戦ってたのに一方的な戦闘だったわけないしな
656 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 00:05:03.03 ID:cd9OFTUN
1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候
1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
信玄死去から10年経っても
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。
657 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 00:11:08.40 ID:cd9OFTUN
1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候
1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
信玄死去から10年経っても
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。
658 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 00:12:34.87 ID:cd9OFTUN
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
659 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 00:13:36.08 ID:cd9OFTUN
高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。
660 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 00:14:26.04 ID:cd9OFTUN
高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。
661 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 00:50:48.43 ID:zA9q4wxk
この人はスレ違いの話を延々とレスして何がしたいの
662 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 02:32:23.34 ID:cd9OFTUN
天正6年9月22日信康の岡崎城へ岡崎衆が信康へ出仕することを家康が突然禁止した時期が
謙信が死去して御館の乱が勃発したのが3月で
6/29には越後府内に勝頼が到着していたが
真田が景虎と北条側の沼田城攻めをしようとしており氏政が不審に思っていたり
8/19には北条が信濃通過するのに制限をかける代わりに
奥信濃まで武田へ譲渡と景勝と縁組する約定が取り交わされ
9月上旬に北条軍が景勝の実家の上田長尾氏の本領たる越後坂戸城を攻めていたが
景勝が坂戸や妻有へ武田軍の援軍が近いと報せていて
(9月下旬に妻有城や赤沢城も武田へ譲渡され兵を入れている)
しかも武田軍は中立的に景勝と景虎を和睦させる努力をしていたのに
6月以来、北条がやっと越後出兵を開始したことを
「遅すぎる」と不満に思ってきていて帰国してしまった。
これらの情勢から家康は北条と武田の同盟破綻を察知して
親武田のチャンネルを持っていた信康を更迭してしまった。
天正7年9月5日の北条と徳川同盟が成立したことで
伊豆と駿河国境で武田と北条が全面戦争に突入すると信康を9月15日に自刃させてる。
北条と武田同盟が存在する限りは武田は強勢を保ち続けると読んでいた家康は
武田との交渉チャンネルを維持してきたんだろう。
万が一の時には家康が隠居して信康に家督を譲渡して
武田騎下として生き延びれる選択肢を持っていたが、
謙信死去で北陸戦線を放置しての上杉内乱や
甲相同盟破綻と北条と家康の同盟は
武田と互角に戦っていける状況の到来を確信させ
信康が用済みになったと言える。
663 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 02:33:05.68 ID:cd9OFTUN
長篠の戦いの翌年(天正4年)に毛利領で義昭が鞆幕府を立ち上げ、
上杉も本願寺と和睦している。
天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に敗戦を隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないとあまりに大幅な白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
664 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 02:33:39.06 ID:cd9OFTUN
荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
665 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 02:34:19.05 ID:cd9OFTUN
江戸時代における信長の評価要約その一
小瀬甫庵「孝行の道に厚くなく、無礼である」
「敵国の兵を皆殺しにしないと気がすまない性格だった」
「人の非をもっての他だと憎む人だった」
新井白石「信長は残忍で、詐術をもって志を得た。最後が良くなかったのは自業自得。」
大田錦城「信長の器量は狭少であり、その事は他の武将達と比べて遥かに劣っていた」
明治時代における信長の人間性評価要約
山路愛山「一生荒くれな田舎人だった」
「生まれながらのだだっこのような野人だった」
花見朔巳「性格は残忍希薄、猜疑心が強く包容力に乏しい。これは古来からの定評だ。」
徳富蘇峰「信長の性格はすこぶる欠点があり、実に傍若無人で、悪く言えば我侭者の骨頂というべき」宣教師ルイス・フロイスは信長について述べている文を要約
「彼は日本中の全ての王侯を軽蔑し下僕にするように接した」
「彼らは自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」
このように当時、江戸時代、明治時代、と信長への業績評価に関しては
さまざまな解釈が出るものの、人間性評価に関しては基本的に傲慢で我侭、短気、という点が見事なまでに共通している
明治時代に一般人アンケートで行われた全世界英雄番付
この中では豊臣秀吉が横綱、徳川家康は関脇、この中で信長は前頭で北条時宗や伊達政宗よりも劣る位置にいる
当時における一般大衆の率直な評価といえるだろう
666 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 02:34:50.05 ID:cd9OFTUN
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時は
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。
667 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 02:35:26.39 ID:cd9OFTUN
北条に対して武田が圧倒的に優勢で
上野が武田のものとなってしまう・このままでは当方が滅亡してしまうのではないかと氏政が嘆いている。
大した被害もないが北条も反撃していて天正8年5/15に都留郡に侵入した氏照を西原合戦で撃退してるが甲斐府中がいつ攻められるかわからんことを受けて天正9年1月から新府城の築城が開始されてる。
この時点では織田の脅威などまったく想定されてない。
(当時の武田は猿ヶ京攻略成功と沼田攻略中や田中城攻撃に失敗した家康が掛川へ逃げるのを追撃したり、武田水軍が伊豆を襲撃しまくりで氏政も伊豆から逃亡。10月には利根川を渡り武蔵本庄の氏政の陣へ肉薄した武田軍にまた氏政逃亡し12月に沼田城攻略成功)
天正9年には3/17に北条軍が甲斐へ進入し上野原市にあたる棡原で武田軍が撃退してる。
その一方で外交戦では武田・佐竹同盟に里見も参加の意思を示してるし
北条水軍の本拠地伊豆長浜城を武田水軍が大破している。
長期に渡り苦戦していた徳川が砦を構築したやっと高天神城が落ちたものの、その周囲の武田方諸城や砦は健在なまま。
こんな状況で織田に備えて新府城を作ったなど暴論以外の何ものでもない。
甲斐府中にとっての安全保障を脅かしてるのは
突発的な北条側のヘタレ奇襲であって織田じゃない。
9月に完成した新府城だったが10月の伊豆の韮山攻撃で新府移転が延期になるなど
対北条戦略進展で新府移転まで延期される始末。
11/16に佐竹も武田に呼応して出陣してるが
伊豆対陣で北条が陣から出ず、見切りを付けて武田は撤兵して12/24に新府城へ入城してる。
668 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 02:36:01.52 ID:cd9OFTUN
そもそも織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った
2/11に信忠が岐阜出陣しており2/14に浅間山大噴火が観測され武田領国大混乱のドサクサ紛れに火事場泥棒同然の織田軍が信濃へ侵攻。
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人間七七四年:
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