1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
雨にまぎれての迂回奇襲説が有力かのぉ
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/11(日) 03:33:27 ID:1AX9p8qB
野原一家が車ごとタイムスリップして一緒に戦ってくれたんだよ、たしか。
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/11(日) 12:36:41 ID:rxEbHwiO
正面攻撃説は俺は支持してない
どちらにしろ、他にも部隊がいたのによく気づかれずに本隊に近づけたな。
見つかったらそこで終わっていただろう。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/11(日) 23:02:02 ID:7GPbHwYf
晴れてたら負けてたんだろうな
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/11(日) 23:04:56 ID:NliRqz49
田楽狭間じゃなかったっけ?
いや、桶狭間でいい。
>>6 小学校のテストで、そう書いたら×をもらった。
悲しかった。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 00:36:18 ID:i182wwcR
>>8 田楽狭間で今川義元を討った戦いを桶狭間の戦いっていうんだろうな。
だから、どこでと聞かれたら「田楽狭間」というのは間違いでは
ないと思うが、何の戦いかと聞かれたら間違いなのかも。
今川義元落命の地は、地元だと桶狭間武路だとされてる。
田楽狭間から高徳院に向かうと、陣僧は戦地に向かって歩いたことになるよ。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 00:48:55 ID:TB7XGOq1
しかし信長も運がいいんだか悪いんか。順調にすすんでたのに結局謀反でアボン。
…そもそも運なんか関係ないか
桶狭間のという範囲の中に田楽狭間があると聞いたが。
信長公記を信用するのか?
それとも甫庵信長記を信用するのか?
軍部が編纂した日本戦史によると、田楽狭間で戦いは行われたがやや離れた場所にある桶狭間という地名のほうが人の口にのぼった
だから桶狭間の戦いとなったということだそうだ
もまいら牛一の「公記」嫁。甫庵の迂回説は小説だ。
田楽狭間なんてない、あるのは桶狭間山!義元は丘の上で討取られた。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 22:43:48 ID:4C94u50R
今川と織田の兵力差は実際どのくらいだったのかね
公記には2万5千人と記されてるみたいだけど、今川がそんなに動員できたかな
尾張の石高と比べ織田の兵数も少なすぎる
桶狭間直前には今川は知多半島まで進出してたみたいだけど。
大高は抑えられてるしな。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 20:49:28 ID:/R1fZrZR
参考
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
>>18 それは一万石で約250人の兵を動員出来るって計算式だな。
ただ、石高に応じてこの兵数を維持出来るかと言うと
ちょいと?なんだよなぁ。
信長勢の兵数の少なさは農繁期も関係してくるかと
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 21:20:28 ID:/vrYS5y2
純粋に食うだけなら
1万石=1万人が1年間に消費する米の量
太閤検地のは実は米の量でなく、穀物類全体の石高だったりする。
島津なんか、石高における水田米である造米の割合は、
他の国と比較して低いのは指摘されてる。
>>19 あの時期の信長は、尾張を完全に掌握していたっけ?
だいたい50万石強って慶長のデータでしょ
信長の時代から豊かだったとしてもそこまで圧倒的になるのはやっぱり織田勢力が伸張してほとんど戦火に見舞われない時期が長かったからでは?
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 01:05:48 ID:mXnGfe9u
信長公記を読むと、桶狭間のときの信長軍は総出撃とは思えない。
二千というのは信長の国力からの最大動員兵力ではなくて、当時の状況での
最大出撃可能兵数だったんだろう。
特に鳴海城周囲の付城には佐久間などの尾張の大族や一族が配置されている。
この兵力もそれなりにあったんでしょう。他にも義元本陣突撃組以外に、佐々
千秋氏の別働隊もいたことが記録にある。
信長としては義元の軍勢が西進を開始したからといって
美濃や伊勢への警戒を緩める訳にはいかなかっただろう。
上洛時を除いてマトモに戦力を集中させたことの無い織田家のことだ、
大軍を擁するといえども各方面に薄く展開させるしかなかった
信長包囲網形成時よろしく、今川迎撃に割ける兵が少なくとも不思議は無い。
桶狭間は織田軍の斥候部隊が今川軍と接近しすぎて偶々おこった遭遇戦、と言う説は非常に納得がいくな。
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 06:35:59 ID:YHf1cMYc
石膏舞台だったら、なるべく戦闘に深入りせず、さっさと引き上げようとするでしょ。
>>27 そこを「戦機」と見て手持ちの軍を全部投入したのが、信長の信長たる所以じゃないかなあ?
寧ろ迂回奇襲なんていう作戦より、こちらの方がよほど天才だと思うよ。
織田の二千は大半が常備の武士だった。
と言う説がある、雑兵多数の今川本隊の前衛部隊はほぼ一撃で壊滅。
そして勢いに乗った織田常備軍二千、対、常備軍今川親衛隊と多数の雑兵荷駄隊五千
なら勝負わからない所までは行くんじゃない?
むしろ謎は今川軍の本陣以外の部隊の動き
堂々と敵中を突破してくる織田軍の動きに全く気付いていない
本陣が襲われても同様
大雨のためだからって全然情報も得られないのは不自然
気付いていたでしょう。
でも戦闘中や戦闘後の再編、休憩中であったであろう。
と言われている。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 22:06:27 ID:WRXzsIJ2
>>18 敵を過大に、味方を過少にするのは勝ち戦の常道
ようするに、島津の戦と同じということでしょ
今川軍の侵攻は、織田軍にとって通説ほど危機ではなかった
大高城は織田軍に兵糧攻めにされており、それを救出するのが今川軍の第一戦略目標だった
それには成功した今川軍はちょっと欲をだした。そこを足元を掬われた
大局からみるとこういうことなんじゃないか、と俺は昔から考えていた
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/16(金) 00:58:27 ID:E669Ruea
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/16(金) 12:55:25 ID:ZDBA9rUp
義元は三国同盟で戦力を尾張方面に集中でき、しかも長嶋の本願寺宗徒に協力を取り付けている
一方の信長は尾張過半を統一したばかりで、各地や美濃にも守備兵力を置かなければならない
動員の余力において劣勢だったのは確実じゃないかね
でないと信長公記なんかにある家臣団の様子なんかが・・・
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/16(金) 21:33:11 ID:UzE9eqkR
清洲城の会議を雑談だけで終わらせた信長は急に出陣を決めて飛び出して、このときは付き従うのは僅か数騎
後は熱田神宮での現地集合
戦闘要員ばっかりだったって説の根拠はここか?
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/16(金) 21:41:36 ID:ZprS5pQE
水野氏も織田方だったが援軍送ったのか?
今川もうかつすぎ敵のど真ん中に行くなんて
熱田神宮集結後、中島砦に入り、そこの兵も引きつれ桶狭間に向かった。
だったと思う。
これを目視した他の部隊は、後詰めが来たと思い、今川勢に反撃し壊滅したんじゃなかったっけ?
信長突撃の寸前、今川勢の前衛は織田方の急襲を受けているがびくともしなかったことから
従来言われる弱兵などではなくきっと戦慣れした部隊だったと思われる。
奇襲後だから今川前衛は周囲の警戒が当然厳しくなるだろうし
その後信長は正面から、しかもあきらかに寡兵で突撃してくるのが見えていたわけだから
今川の迎撃態勢は万全だったはずである。
それがものの見事に今川前衛続いて本陣を切り崩したという史実は
正直にわかには信じられない
甫庵もきっとこれが納得できなかったんだろうな
>>37 黙視したのは信長が中島ではなく善照寺に入った様子だと思われ
今川は、独断で兵を動かすと重臣でも罰せられたっぽいから、
織田の動きを見て本陣にお伺いをたてに行ってて、
動けなかったのでは?
ちなみに攻撃されたところは、本陣に対応を聞きに本陣まで
動いていって堪えきれずに崩れて本陣も巻き込んだのでは?
そこまで軍律を厳しくできたのかな吉本
最終的に今川本陣は桶狭間山から脱落したんだよ
体勢が奇襲じゃなくて精神的奇襲だったのかも
「まさかあんな少数で突撃してくるわけない」「佐久間勢や砦が壊滅してる状況で突っ込んでくるわけない」と今川勢みんなが思ったところへ吶喊が来たとか・・・
信長とその直轄軍は稲生の戦いで7百の兵で千7百の敵を破ったりと戦闘力はかなり高かったようでもあるし
そこで幻の織田騎馬軍団ですよ。
まあ本当に正面突撃だったらバンザイ突撃並の悲壮さだし
それで突き崩した&大将首getなら講談幸村も真っ青だね。
>>34 桶狭間の戦役というのは、実は織田から売った喧嘩だったりする。
桶狭間の四ヶ月前に、今川方の尾張品野城を奪った。
さらに尾張大高城を兵糧攻めにしている。
これで今川軍が来援しないと考えていたら、織田家の重臣たちバカだろ。
俺は「信長公記」などという本格的なものは読んだことはないのだが、一般的に信用度の高いとされる「信長公記」の中で、首巻だけは極めて信用度が低いというのを見たことがある。
もしかして、桶狭間の戦いの記録って、この首巻に書かれていたりして?(詳しいのなら教えて)
織田から売ったというより鳴海城の山口氏が今川に寝返って尾張南半が崩壊しかねない状況だから、じゃないの
元々二代に渡って抗争してるわけだから今更先に手を出したのは…というのはあまり意味がないかも
首巻の信憑性が低いって話はそもそもどこからさ?
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/17(土) 12:57:05 ID:zXWAWOT7
読んでないのに…確かに読んでないな
信長公記によると、来援した今川軍が潮の満ちるタイミングを計り攻めてくるかも、という注進が前線から相次いで来てどうするか軍議してたとある
勝手に織田軍重臣を馬鹿にされてもw
>>48 いや、つまり、俺がいいたかったのは、
織田家の重臣たちはバカなはずがない。
自分たちから仕掛けた戦だ。今川軍が来援してきたら、撃退する自信があったろう。
通説ほど、絶望的な雰囲気ではなかったんじゃないかなぁ、っこと。
>>49 >自分たちから仕掛けた戦だ。今川軍が来援してきたら、撃退する自信があったろう。
桶狭間の二十年前に西三河に手を出して、小豆坂で今川にケチョンケチョンにされた信秀って……。
小豆坂は織田が攻めて撃退された戦いだし。
守る側の方が有利ってだけじゃね?
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/17(土) 17:16:20 ID:+Ac7jM8c
一応一回目の小豆坂では勝ってる。信憑性に疑問符つける向きがないでもないが>信秀
今川義元の西進は、それまでの松平への加勢レベルじゃなくて大名自らが大軍を率いての行動
織田家がビビっても不思議はないと思うが
ただ、不安の根底は雑談ばかりの信長の態度にあったような感じも。この行為は内通者を警戒してのもん、とか言われてるが実際はどうなんだろうね
小和田哲男も書いてるが過去数度の義元親征時に比べて桶狭間における義元の本陣は
あきらかに突出していたがこれは何を意味するのだろう
桶狭間は和平交渉が進んでいる最中の裏切り
という電波説を日本史板で見たよ。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/17(土) 19:38:14 ID:ed7chylf
信長が義元本陣を突けたのは偶然なのか狙ってた結果かどっちなんだろうね?
武功夜話とかだと現地の野武士まで動員して事前に情報集めしたことになってるけど
ちなみにその武功夜話だと、義元は現地民からの献上品を断わって警戒を解かなかったそうだから通説と違う態度
義元が判断ミスから勝ちを決め込み、効率良く平定しようと部隊を分散させた
その間隙を信長に突かれたという解釈はどうだろうか?
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/19(月) 22:51:14 ID:Ps0yEKxT
桶狭間山の義元本陣北西方向に高根山、幕山、巻山に松井宗信、井伊直盛、瀬名氏俊を配置している事から部隊を分散させたと言う事は考えにくい。
彼らは織田軍攻撃を前衛防御するために布陣したわけだから。先遣先発で陣形を決めた将:瀬名氏俊はここまでは理想的な布陣をしている。高所には義元を配置、近くには人馬に必要な豊富な水利など、およそ戦術地としては田楽坪は最適な場所だ。
問題は先にあげた三山から桶狭間山頂の間に泥田が存在したというところだろう。
織田軍が横から突然攻めてきた場合、前衛守備隊は後方に乱が起こる形となる。救援に向かおうとしても深い泥田が邪魔をして動きが取れない。
この泥田はなんと昭和六十三年まで存在しているのだ。
>>57 その泥田、いまの地名を挙げてもらえない?
巻山と幕山は表記の違いだけだったと認識してるんだけど間違い?
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 00:09:06 ID:IGWNWCrj
泥田は今はありません。緑区桶狭間古戦場公園整備と宅地開発で消えました。
巻山、幕山はそれぞれお隣同士です。現在は見る影もありません。少し丘っぽいけど。
泥田は現在の古戦場公園一帯をヒロツボと呼んでいます。旧い呼び名は「田楽坪」といいます。
おけはざまというところは、狭間くみて深田足入れ、高みひくみ茂り節所ということ限りなし」
(信長公記)
この地形が、さらに突然の大雨で荒れに荒れたから他の陣地は気付いても応援に間にあわなかった?
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 21:48:55 ID:nlCxe46N
桶狭間は信長のミスが結果的に勝利を得たらしい。
>>59 ある程度はわかるよ。前は武路の山頂に住んでたんだから。
戦場は
>>61の図でいうなら豊明市の「南舘」の字がある辺りかと思うんだよね。
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 23:43:10 ID:IGWNWCrj
激戦地はスーパーマーケットのあたりで隣の古戦場公園で義元は落命した。
ちなみに桶狭間山であるが、公園から東へ約100〜150mくらいの所が義元本陣であったと思われる。
享保の頃に測量した図やや旧陸軍測量だと山頂付近は針葉樹や雑木林となっており、今川軍勢が伐開して設営するのは大変難儀だ。
丘の頂上に本陣というよりももう少し下方(現在は民家)が妥当と思われる。
しかし現在は土地自体、開発によって削ったり足したりしてるので当時の地形とは異なる所がおおい。
桶狭間というところはある一地点と見るよりも広域な桶狭間エリアとして見る方がよく、桶狭間エリアの中の田楽坪、と解釈するのがよろしい。
幕山のユーストアのことかな。
桶狭間交差点から大府に抜ける道はそのまま知多街道に繋がる。
平安末期には確認できる旧い道だよ。
日本の道は低いところに自然と成立するもの。
本陣は郷前か南舘南部じゃないかと思うんだがなあ。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/21(水) 00:04:22 ID:iSg1gneA
そこだと、前衛から本陣までが異様に遠い。
そして何よりも見えにくい。桶狭間で織田軍兵と決戦する覚悟で陣ノ城を構築するならまだしも、今川にとっては桶狭間なんぞ大高城に入る為の休憩所みたいなところなので。
遠くて見通しが悪いから奇襲喰らったんじゃないの?
少なくとも織田勢は鎌倉街道から米塚と敷田の二方向で桶狭間に向かった跡がある。
兵は低きに流れるもの。今川本軍が鎌倉街道を外れて大高に向かうなら
直線・仙人塚〜南舘〜藤塚〜大高城
迂回・仙人塚〜南館〜神明〜茶屋〜森の里〜大高城
当時の海岸線はもっと内陸にあるだけに、これが自然な進軍予定だったと思う。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/21(水) 19:24:07 ID:iSg1gneA
昔調べた事のある1582年当時の桶狭間村付近の地方道。鎌倉街道は別とする。
東浦道?と呼んでいたのか分からないが 阿野村〜大脇村〜緒川
大高道?阿野村〜大脇村〜桶狭間村〜大高
近崎道?阿野村〜大脇村〜桶狭間村〜大高
近崎道?横根村〜近崎村〜桶狭間村〜鳴海村
三河道?刈谷村〜横根村〜追分村〜桶狭間村〜鳴海村等が存在していた。
今川軍は先発先遣の瀬名氏俊による陣地偵察の結果、沓掛城から大脇村まで東浦道、大脇村から大高道〜近崎道を通って桶狭間山に本陣を据えた。
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/21(水) 19:46:29 ID:iSg1gneA
近崎道?桶狭間山(といっても海抜64m程度の丘)まで通じている。この丘から見ると(桶狭間山)は先陣の居た巻山・幕山・高根山の三丘が一望でき、近くには軍馬に必要な大池(現在も残ってる)があり
他に池・沼が約3ケ所点在していたので人馬の飲料水が豊富であろう事は容易に想像できる。兵法書にも「軍駐スルハ、高地ヲ良、低地ヲ危、 東西開放処ヲ選ビ 水・草ノ豊所を以ッテ貴ト也セ」とある。
義元ほどな武将が豊明・伝説本陣跡のような展望の利かない変な場所に休憩と陣張りするとはないと思う。
又、合戦当時の南館付近は1帯数百町歩に及ぶ極悪山林地帯であり義元の19日の目的は、丸根、鷲津両砦の攻撃奪取のみ、
これ一点に尽きる。配下の部将:松平氏、朝比奈氏両軍で同日10:00に完了。この戦闘詳報は義元に即効で情報が届いているので
義元は夕方くらいまでに大高城に入り、翌二十日に攻撃予定の鳴海救援の指揮執行をすればよかったわけなので桶狭間山で織田軍を
迎え撃つ作戦は無いと断言しても良いと思う。当時は沓掛から桶狭間の間は山林で、
他に上に書いた以外にジモティ道もないので、豊明南館の伝説古戦場に義元が本陣を構えていたとは考えにくいんだな。
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/21(水) 19:52:37 ID:iSg1gneA
改行が変になってすみません。
コ68、69は私見なのであしからずです。
最近は、主戦場は名古屋市内説が有力なんだそうだ
「公記」だと永禄3年が天文22年になってるから、やっぱり創作が入ってるのかな。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/22(木) 23:13:06 ID:MTcupvHU
太田牛一は日記やメモ魔だったので、当時見聞きした事は保存してあったのだと思う。
しかし公記は晩年編纂なので、記憶違いや年代の整合性で不自然な事もありえる。
ウソはついていないが、信長の都合の悪い事は省いている。
はぶいてる、といわれるけど
信長の敗戦とか判断ミスも記述してるでしょ。書き方があっさりとしているけれども
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/23(金) 06:46:10 ID:Jjj7M3+N
横山合戦の記述が公記にはない。
織田信長が清州城城主だった頃、今の愛知県日進市にある岩崎城を攻めた話。
丹羽氏の奇襲を食らい慌てて信長が敗走した様はよほど無様だったので省略したのだろう。
取るに足らない小規模な戦だからでしょ
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/23(金) 07:54:54 ID:IONC2boJ
>>76桶狭間って何で有名なんだろ 今川義元の首をとったからか
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/23(金) 08:00:00 ID:IONC2boJ
てか この板どこのカテゴリか?いきなり北からわかんね
戦国時代終焉の序幕だからでそ
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/23(金) 08:04:43 ID:IONC2boJ
>>79d。てか三戦板の下にあったのね。自己解決⊂⌒~⊃。Д。)⊃
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 22:38:19 ID:RRkh3DAO
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 23:18:09 ID:yee3Fcts
名古屋市と豊明市がここが主戦場と双方ゆずらず。
雰囲気的には豊明市かな。東海道のすぐ近くだし。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 07:47:01 ID:82lvwzAH
豊明市の伝説古戦場はありえない。
史実より観光的な雰囲気で、江戸中期以降に草創されてしまった。(元陸軍少
尉 海福三千雄氏による調査では江戸初期に豊明説なんてゼロに近い)
豊明古戦場説を唱えてやまない人は甫庵信長記による記述を元に中期以降作られたいろんな文献で誤解を招いている。
甫庵信長記では「義元は山陰云々・・・」とあってどこの山かさっぱりわからない。
で、中期以降作られた読み物もいい加減な解釈が多く、地名にしても田楽窪、館挟間、田楽挟間、等、存在もしていないのに勝手に増やしてしまった。
つまり何故豊明古戦場説が通説となったかというと、江戸中期以後「甫庵信長記」による信長ブームによって桶狭間合戦にも大分注目が集まった。
大名行列や旅人等の、桶狭間の合戦場、古戦場は何処なのか?と尋ねる声が多くなって来たのにつれて、古戦場は江戸中期ごろ東海道沿線の、豊明市伝説史跡に移されてしまった。
徳川吉宗の治世、享保の頃に桶狭間の地改が残っており、沓掛から豊明市南館を囲む広大な地域が複雑極まりない雑林に近く足を踏み込む余地もない事から、義元が豊明に本陣を据えたまずありえない。
オレも豊明説はないと思うなあ。
今でいうなら国道一号線そばにある豊明の古戦場公園は東海道の茶屋町だったわけで、
観光名所にはなりえたとしても、どう見ても「狭間」ではないね。
ともかくOK狭間で信長は勝ってしまった!人の運とはそういうもんです
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/29(木) 01:47:03 ID:cvVAlLFv
一部の部隊の混乱が全軍に波及した
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/29(木) 07:13:23 ID:k/TI2Cfb
織田軍本体が、桶狭間山一帯に布陣する前衛部隊と、義元本陣を寸断する形で突入したために今川軍が混乱した。
(この半時前に雷・雨の為に火焔、長槍を一時休収した今川軍は半戦闘状態)
また前衛部隊と本陣までは、泥田や狭間が存在したため義元救出のために出動したものの、先に述べた泥田、狭間の障害により、部隊の動きが遅鈍、次第に混乱をしていった。
経験・練度の実績が高い、前衛部隊長の松井氏、井伊氏もここで討ち死にした。
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 21:12:21 ID:M4dBxHLD
本当あの時雷雨だったのは奇跡だね。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 22:18:50 ID:wkd5GN3A
運が良かった男だな。まともにやったら信長は負けていた。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 22:27:55 ID:N1988ZJ6
それも信長が奇襲で倒した武将はとてつもなく強大だからな
それにしても義元ほどの武将が油断してたのが信じられん
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 07:10:06 ID:GGvV5vKM
迂回して攻撃かけるとは信長もやるじゃん!
あれは織田軍が静かに迂回しなきゃ眼下に広がる今川軍を奇襲なんてできない合戦だもんな。
しかし、今川軍もバカだね。あんなところに陣張るなんて。しかも酒宴の真っ只中。
っていうのが一昔前の桶狭間の戦いのストーリーだよな。これをずっと信じていたわ。
これだけの僥倖かましといて、以後神仏に対し冷めた視線を持ってる
信長が怖いっちゃあ怖い。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 13:15:58 ID:6p0zCvYX
はたして本当に幸運だったのか?
清洲城での会議から唐突な出撃から異様にタイミングが良すぎる
地元の側だから今で言う気象情報でも掴んでたとしか
ただ、信長が神仏を敬わなかったわけではない。熱田神宮に桶狭間の戦勝祈願をかなえてもらったお礼に寄進した壁は今も残ってるはず
>>74 意図的に省いたということじゃなくて、メモの整理ミスや最後にまとめる時の配置ミスで不自然な部分が出たりする
んでない?
話題によっては別のところに同じ内容が重複してたりして研究者を惑わせたりするけど大抵は他の一次資料で補い
がつくようなことが多いから。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 19:37:07 ID:GGvV5vKM
熱田神宮の「信長塀」も落書きのターゲットと化している。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 21:17:07 ID:BYmpl7YO
味方の士気上げる為に神仏や祈祷師使うことあるよね
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 13:08:48 ID:HPo1UOz5
信長公記では今川軍は4万5千
甲陽軍艦では2万5千
間をとって32500だ!
どっちも無理だと思う。
公称がどうであれ1万未満でしょ。そこまで足軽が編成出来てる時代じゃない。
4万5千とかになると駿府にゃ誰もいなくなってそうな感じがするがな。
駿河・遠江・三河・尾張(一部)で約70万石、1万石あたり250人動員とすると17500人。
太閤検地後の基準ではアテにならんだろ。常駐軍が編成できる世でもないのに
まあ太閤検地後の基準でも二万五千は多すぎってことで。
北条辺りから援軍でも送られたか?
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 18:49:37 ID:XE4mCJ4s
恩賞目当てでナラズモノが馳せ参じたりしたんじゃね、参加すりゃ飯が食えるし銭も貰えたかも
石高がすべてじゃないでしょ
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 21:11:30 ID:Ijk32XwT
桶狭間合戦の信長の相手が義元ではなく信玄あるいは謙信、もしくは北条氏康だったらどうなっていただろう。
謙信 → 地元民から酒を振舞われて泥酔してる時に夜襲をくらってであぼん
信玄 → 道中に好みの少年を見つけ、陣中でウホッってる最中にその少年(織田の間者)に寝首をかかれてあぼん
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 23:42:59 ID:Ijk32XwT
結局信長にやられる訳ね。
三国志の曹操だったらどうなっていただろう。
桶狭間合戦も信長と曹操の戦いだったら、さぞ面白かろうに。
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 23:44:55 ID:T3oW51Fz
>>108 日本の風土気候に体質が合わず、発病→故郷に帰りたいよう・・・→死
乾燥した中原から湿潤の日本に来れば病気にはなりやすいだろうな。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 23:51:30 ID:Ijk32XwT
結局信長にやられる訳ね。
ならば、義経ならどうであったろうか。義経なら逆に織田信長の裏をかいて逆桶狭間を演出してくれたかもしれない。
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 23:57:47 ID:T3oW51Fz
義経→道中に好みの女を見つけ、陣中でエロってる最中にその女(織田のくのいち)に寝首をかかれてあぼん
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 00:02:12 ID:Ijk32XwT
結局信長にやられる訳ね。
信長最強だ。しかし義経が陣中でエロったとか、笑えるよな。
面白くない考え方だと、義経は大兵力を率いるのが苦手そうなので
信長が小兵で来襲した場合には対応しきれずに今川と同じ結果になる。
氏康ならば、いい勝負するかもしれん
意外と島津あたりだと勝てそうジャマイカ
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 07:43:12 ID:WiAV7E9U
村上義清はどうか? 信玄といい勝負したみたいだし。
毛利元就なら
マンシュタイン率いる機甲師団なら・・・
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 06:32:00 ID:hFBxM1CR
やっぱ好敵手はマサシゲだろう。奇襲、かく乱のプロだし。
イシュトヴァーン率いる新生ゴーラ軍なら…
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 22:05:07 ID:JWOEp1hj
千葉真一率いるJAC軍団なら・・・
ヤン提督なら
仙道ならきっとなんとかしてくれる
信長の部隊に柳沢がいれば、
義元も死ななかったであろう。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 22:32:19 ID:U7sDlXW9
義元が討ち取られたのは有名だけど
他の重臣に被害はでなかったの?
また織田軍の損害は?
ググっても上手く情報が見つけられない、詳しい人いたらお願いします
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 21:19:46 ID:5Fx1hf1b
井伊直盛・松井宗信・瀬名氏俊は確実。
鳴海城篭城によって義元を首を返還してもらって、
さらに悠々と帰還する帰りがけの駄賃に
刈谷城を襲撃する岡部元信のかっこよさはガチ。
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 20:20:00 ID:X/oe/2rb
主君が討ち取られても頑として城を明け渡さず、度重なる織田攻勢にも良く耐えた姿はまさに武人の鑑。
時間が掛かりすぎる鳴海城攻撃を中止した。 あまり有名ではないが岡部元信はかなりの戦人。
敗軍に所属しながらも城を堅固に守り、
さらにその後刈谷城主・水野信近を討ち取るという活躍に、
なんとなく東の立花宗茂という称号を与えたくなるのは
俺だけ?
岡部元信って有名じゃないのか・・・
有名どころじゃないの?
小説にならないとね〜
>岡部元信
光栄のゲーム内では絶対に諜略不可能な一人(PAR以外では)
あぼーん
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 19:00:50 ID:l1jSanr1
地の利も今川家にあったそうだし(桶狭間は小高い山だったらしい、その頂上に
今川義元の本陣があった)よく信長は勝てたよな〜
実際に桶狭間で戦った戦力は何対何人くらいだったのだろうか?
2500どうやって集めるんだよ・・・
丸根砦攻め参加部将
総大将 松平元康
正兵 松平家広、松平昌久、松平弥右衛門、松平右近、松平半助、松平金助、加藤景元、酒井忠久、米津藤蔵、上野次郎
川澄半七郎、柴田正和、酒井功之助、足立左馬助、峰谷貞次、大橋伝七郎、山本小七郎、月晦左馬助、酒井頼次
大見藤六郎、天野太郎兵衛、加藤伝十郎、大久保右衛門、近藤伝十郎、赤松日根之丞、酒井又六郎、佐野與六郎
遊兵 松平康定、松平清善、松平信一、松平直勝、松平重吉、本多忠真、鳥居忠吉、小栗勘兵衛、小栗忠吉、加藤日根之丞
中根十三郎、村越十三郎、村越久兵衛、村越勘五兵衛、村越左太郎、榊原忠政、荻田武左衛門、赤根弥六郎、赤根弥太郎
赤根藤太郎、松平勝吉、山田清七郎、山本七平、加藤重常、加藤伝蔵、波切孫四郎、本多喜蔵、天野清兵衛、足立孫四郎
石川善五左衛門、赤松新左衛門、天野助兵衛、天野甚四郎、村越新十郎、村越佐吉、赤根弥次郎、永見勝定、遠山康政
近藤場左衛門、青木善九郎、川澄文助、川上十左衛門、池波之助、池波水之助、岩堀忠七郎、杉浦忠正、杉浦鎮貞
渡辺勘解由左衛門、渡辺甚平治、吉野助兵衛、山田彦八郎、青木平大夫、筧重忠、筧重成、筧正重、山本才蔵、小野新平
村井源四郎、黒柳彦内、斉藤彦市、水野藤七郎、大久保忠世、大久保忠佐、渡辺貞綱、渡辺政綱、渡辺義綱、久世長宣
小栗五郎左衛門、小栗重常、朝比奈五郎作、大切七蔵、鳥居信元、加藤源蔵、斉藤喜七郎、青山忠門、久米新四郎、
八国甚五郎、酒井喜八郎、安東重次、筒井與左衛門、酒井囚獄、土屋重信、土屋甚七郎、内藤善教、内藤正成、佐橋吉久
大橋左馬助、石川大八郎、石川右衛門、内藤與八郎、江原孫助、本多三九郎、鳥居元忠、浅見金七郎、浅見主殿
三浦平三郎、近藤新九郎、黒柳金七郎
御馬廻衆 酒井忠次、酒井正親、石川数正、本多広孝、本多重次、植村家政、高力清長、天野康景、阿部正勝、平岩親吉、平岩善十郎
平岩新八郎、内藤正次、内藤信成、植村忠安、高木広正、新見太郎兵衛、今村勝長、松平忠次、江原孫三郎、大竹吉治
朝岡久五郎、斉藤彦太郎、朝岡新蔵、植村権内、松平康孝、鳥居鶴之助、鳥居林五郎、林忠正、鳥居久五郎、加藤九郎兵衛
加藤十三郎、中根藤蔵、山田平五郎、赤根甚五郎、大野宗兵衛、矢田作十郎、大久保忠勝、本多甚四郎、石川左衛門
石川新七、石川新九郎、成瀬新兵衛、酒井又蔵、酒井造酒助、佐野與五郎、内藤孫十郎、石川又十郎
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 17:59:57 ID:bcJ7HyF1
下がりすぎなのでage
寡兵の織田軍が義元を討ち取るには、移動中以外は殆ど可能性無し。
更に織田軍が1箇所に押込められたりして、今川軍の戦力が集中していると奇襲は出来ない。
そう考えると、義元が鳴海城に入る前、どの砦が落ちた、落ちないといった、
所謂、混乱期にしか奇襲のチャンスは無いっぽい。
遅くても左京山が落ちる前までで、丹下砦は見晴らしが良すぎるので、獲られると奇襲の大きな障害になる。
昔の地図を知らないので、どこに街道や間道があるのかわからないけれど、
現在の徳重、白土あたりから迂回して、豊明高校方面から桶狭間に向かったと妄想。
と、全て妄想w
現場の地理だけは詳しいけれど、当時の知識が殆どないので、何か参考になる読み物があったら教えて下さい。
ご近所さんかいな。
30年前の緑区や豊明の航空写真を見ると、現在の諸輪線はほとんど山間やん。
平針街道や諸輪線の原型に近い道はあっただろうけど、
沓掛が今川に落とされてる状況でその迂回路は無理あると思うよ。
>>145 熱田神宮北西にある住吉神社の近くなので、少し遠いかな。
航空写真って、国土交通省の航空写真ですかね。ちょっと調べてみます。
滝の水公園の東に昔から住んでいるおばあさんも、昔は何も無かったって言ってました。
熱田区の金山にあった老舗うどん屋の浅野屋さんが滝の水に引っ越して、
そこに食べに行った時に出会ったお客のおばあさんなので、よく知らない人ですがw
君はたぶん知り合いの知り合いの知り合いくらいで繋がる人なんだろな。
滝の水から鳴子・相生までは完全に山だったから、現在のような道は考えにくいね。
織田勢は熱田から野並・笠寺・星崎のいずれかから緑区に入る。
どこが一番自然か考えると、オレは笠寺だと思ってるけど。
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 03:54:52 ID:hNZC5aUz
伝馬町→堀田→笠寺→星崎→??(大雨)→有松
要は一号線だな。
当時だったら今の一号線は通らないよ。
古道は笠寺から山王山。そこから鳴海へ南下して鳴海から東へ。
なぜなら、海岸線が現在より入り込んでいたから。
丹下砦に入るまではこの線で動かないと思うけど。
山王山(誤)→三王山(正)
>>148 それだと奇襲ではなくて、正面突破になりますな。
雨に紛れて鳴海の岡部元信と伊勢湾からに備えている葛山信貞をやりすごし、
鷲津を落とした朝比奈泰能と丸根を落として大高城にいる松平元康に見つからないで、
有松へ?
笠寺からは飯田街道を外れて北から左京山(善照寺砦)に行く道はあったかも知れません。
徳重の北にある熊野神社は「鳴海旧記」によると鎌倉時代からあったそうなので、
扇川沿いには村もあり、現東海通から入る道は無いせよ、平針方面から善照寺に入れる道はあったと考えられます。
沓掛は今川に獲られていたけれど、飯田街道の北から回れば、
皆、出払っているのでガラガラかも。
このスレは地元民が多そうだなw
>>149 そう。オレも三皿交差点までは旧東海道=旧国一をなぞるのが自然だと思う。
>>148のようにいうなら
伝馬町〜大磯〜笠寺〜赤坪〜三王山〜北浦(丹下)
ここまでは確定でいいと思う。
>>151 >沓掛は今川に獲られていたけれど、飯田街道の北から回れば、
>皆、出払っているのでガラガラかも。
今川本陣を豊明側から突くかたちはちょっと斬新過ぎないかな・・・
豊明市民にしたら、義元が討ち取られたのは、
名古屋市緑区ではなくて、豊明市にある伝説地が正しいと思っているのかな。
未発見の文献がこれ以上出てくる可能性はないだろうから、
緑区から豊明市の辺が正解?
善照寺砦北2kmくらいの現平手交差点から保健衛生大学病院前を通って豊明に抜ける、
鎌倉街道のすぐ北にある道が、当時から間道としてあったら面白いな。
勅使ヶ池の北側を通ると丘を挟んでいるから鎌倉街道からは見えないし。
>>154 古戦場はセト山北だろうね。
織田軍が真北から攻めると瀬名本陣、関口軍にぶつかる。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 22:42:02 ID:tFh/gh1g
今のところまで、およそこんな感じでいいかな?
--------------
[×]今川義元の上洛通過点説
[▲]今川氏の織田領、侵攻説
[◎]今川氏所領の出城救援説
[○]織田氏と今川氏の局地戦説
--------------
[◎]名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」
[○]豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」
--------------
[○]正面突撃説
[◎]正面遭遇説
[×]迂回攻撃説
[▲]迂回奇襲説
--------------
[×]論功行賞 勲功第一 簗田広正
[▲]論功行賞 勲功第一 別の誰か
--------------
スレッドが若いから二転三転するだろーけど。
桶狭間の知名度は異常
もしかして関が原よりも知名度高いんじゃねーの?
戦と言えば何が出てくるかっていうとやっぱり桶狭間が多いんではないかなと思う
まぁそりゃ確かに凄い戦だけどさ、5千で2万5千の戦国最強今川義元に勝ったんだから
でもそこまで凄い戦かこれは?
凄いイクサなんじゃないのかな。
これがなければ天下布武はない、秀吉は出てこない、家康はわからんけど。
桶狭間なくして関ヶ原なし、なんてどうだろ。
別にこの戦で今川の領地ぶんどった ってわけじゃないんだけどなー
まぁ俺も桶狭間は好きだが・・
進路が気になるのは以前からなんだよね。地元ですら諸説あるし。
15日くらいに旧道散策してくるよ。
簗田広正が戦功第一、というのは3千貫を与えられ沓掛城主に抜擢されたからそういわれてるんだっけか?
親子ともども(子が加賀で一揆に破れて蟄居を命じられるまでは)出世してるから何らかの働きはあったのかね?
義元の所在を正確に伝えた戦功によるそうだね
乱戦になればかなわないのは明らか
梁田の諜報がなければ織田軍は勝てなかっただろうし
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 17:52:07 ID:m414moaI
人は、いつかは死ぬのだ。
老いて悔いるより、力の限りやるべし。
やるべし──。
尋常でない支度で吉本本人が出ているいじょう、普通の局地戦というのはあり得ないと思うのだが。
上洛ではないにしても、尾張制圧ぐらいは考えていたんじゃなかろうか
戦国最強今川義って、過大評価だろ。
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 00:43:30 ID:JGPO9Sgv
>>168 まぁ当時の戦国武将はザコばっかだったから
カエレ
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 06:52:04 ID:PZlWiQEb
今川義元の本隊には5千もいなかったかもな 兵を分散して各砦を攻めてたから 死に物狂いの信長と運悪く遭遇したんじゃ 百姓が動員されてる今川に勝ち目はないだろ
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 22:12:24 ID:+t0t1YN/
軍兵を分散なんて有り得ない話。
ほとんどの将帥はそんな事しません。
朝比奈、松平の両将は最初から計画されていた丸根・鷲津攻撃軍だ。
義元及び幕僚が桶狭間で思いついたように両将を派遣したわけではない。
桶狭間で義元が着陣した理由はまさに一時の休軍。休軍といっても織田軍の攻撃対処は施していた。
義元はさっさと大高城に入る予定であったので、桶狭間山なぞは織田軍推移の監視みたいなものだったろう。
>>167 それは当時の織田を舐めすぎでしょう。
局地戦だから手を抜いてもいいやというほど、
当時の織田は弱小ではありませんよ。
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 05:44:02 ID:3brQmv85
事前に計画された行動でも軍を幾つかに分ける事を 分散と言う!
信長も今川の本陣が手薄なのを知り 攻撃を決断
たしか、兵農分離前だったんじゃなかったけ?
だから今川25000を疑うんじゃないか。
そもそも2万5千や4万は何に書かれていたんでしょうか。
常山紀談とかは三国志で言うところの演義の位置付けですよね?
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 01:56:39 ID:+SRMfD9x
ただ織田に比べて大軍だった事は事実だと見ていいんじゃないか?
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 06:31:09 ID:9cz/01Rn
合理的な考えをする信長だ城を出る前から 何か勝算があったのは確か
あと今川が朝倉に人質を取られてると聞いたが 本当なら上洛を視野にいれてた証拠 俺も盆に上洛予定
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 09:04:31 ID:mpjndbi8
○義元の本隊を発見した人
○義元の首を討ち取った人
○義元の本隊に突撃した人
○最前線の砦で奮戦した人
○清洲城の門番をしてた人
この5名に褒美を与えたいのですが、
恩賞に使える銀子が手元に100万円しかありません。
どなたか上手く分配してください。
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 12:41:00 ID:9cz/01Rn
勝算は混戦になれば
短足で馬に乗れない義元が逃げ遅れると天才信長公はよんだ
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 13:05:10 ID:WvtLhp39
織田家臣の中でも信長の評判が悪く織田家の将来に不安を持った家臣は多いはず。
大うつけと呼ばれてた頃ね。
今川義元の元にも織田家当主の信長は相手にならないと思ってしまったと思う。
進軍しても信長が動く気配なく普段なら用心しなければならない大軍指揮において油断して本隊が手薄になった。
そこへ地の利・天候を味方につけた信長の奇襲が成功したんじゃないかな。
信長がどこまで計算したかはわからんけど負けた最大の理由は織田家当主が大うつけだったことだと思うけど。
義元っていいとこのボンボンみたいに言われるけど、結構苦労人なんだよな。
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 19:51:19 ID:cNc3PFG6
織田信長は確かに変わり者であったかもしれない。
・蛇替えと称し、池にもぐった大蛇を探した(その池は今でも残っている)
・今で言うコスプレが大好きだったらしい(津島天王祭において天人の格好及び京都馬ぞろえにおいてもお化粧をして練り歩いた。嫌がる柴田・丹羽氏もさせた)
・今でこそどこの企業でもするが、社名変更をしてイメージ一新を平気でやった。井ノ口→岐阜、稲葉山→金華山。
・主城、政庁を思い切って変える(武田や上杉、北条なんて一切しない)
・豪商や一部階級人が好んだ文化芸能事「茶の湯」をスーパーステイタスとして許可制とした。
・御自慢の安土城を拝観料を取って見せびらかす。しかも櫓の概念しかなかった建物を高層化し、高級建築物としてライトアップ作戦までやった(他の国主はこんな事しません)
・その自慢の安土天主はあまりにも部屋数が多かったらしく、自身迷ったと宣教師に照れ笑いした。
その他、数え上げれば切がないけど、魅力的な人ではあったのだろう。
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 21:42:25 ID:cSjxT4BB
金華山はちがうぞ。
岐阜の昔話を読め。
うん。読んでほしい。
>>183 当時の信長は尾張統一の戦いで、
何度も兵力で優勢な敵を破り既に相当以上に評価されていました。
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/11(金) 15:27:10 ID:UCYtxcvC
織田と今川の八百長だろ
今川の多くは圧倒的な勝ち戦で死ぬのは馬鹿らしいと考えていたり、
大将の義元が殺されので給料が出ない?、士気がいまいちな農民兵の予感。
んなわけねーか。
流石に本隊は武家ばかりだわな。
191 :
奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/08/15(火) 00:12:44 ID:fBqPgZ9j
明日、古戦場跡地を見に行ってくる。
二村台と保健衛生大辺りに通ってる鎌倉街道の写真うpよろ
熱田神宮からスタートします。
>>199 ありがとうござる。ってかね、車停める場所がなくて単なるドライブになっちまいました。
古戦場の案内板は緑区も豊明市(ニセモノ)も北側ルート説だったのにおどろいた。
甫庵と参謀本部の呪縛っすね(笑
さすがよくご存知で。松井大将の碑が豊明側(ニセモノ)に建ってます。
高徳院の東隣。
休みを使って親子連れで騙されに来ている人たちが気の毒。
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 16:45:30 ID:XM/PhNmV
「桶狭間の合戦」を今だに「奇襲」だと思ってる人がいるんだ…
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 20:50:10 ID:5s+OokCV
しかし、ある意味奇襲っぽい。
>>204 まあ、それは何を以って奇襲というかの定義によると思う。
大軍の今川、その義元本隊への突入を許した挙句、大将首を挙げられた事は、
戦術が正面突破でも、大まかに言えば奇襲に近い正面突破とも取れると思うし、
今川側が織田は篭城すると思っていたのなら、攻めて来た事、出陣自体を奇襲と言いかえる事も出来ると思う。
ただ山岡小説などの、迂回して今川軍に殆ど気付かれぬままに義元が討たれるようなのは、
信長公記など史実価値が、ある程度高い書物に記述が無いと言う点に於いて「奇襲」ではないと言える。
信玄が今川軍の情報を織田にリークしたんだよ
出来レースかいな。
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 21:32:11 ID:vmf63zUv
奇矯屋onぷらっとは尾張人。
「な」の使い方で分かる。
知らんが「な」←尾張
知らんが「ね」←三河
関係ないけど「オマエモナー」は、もろ尾張訛り。
惜しい。
俺のア音便は東濃訛りなんだよ。
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 09:41:44 ID:Ya3U+1Pf
スレ違いだが、熱田神宮から桶狭間の古戦場跡(でいいんだっけ?)まで
歩いた。疲れた。休憩を入れたとは言え、昔の人の体力は今の自分よりずっと上で
あるとは言え、あの距離を走って更に戦する体力は凄いなと思った。
奇襲した後に、事態に気付いた今川軍に討ち取られてもおかしくないと思うのだが、
そんなに周りの今川軍は気付かなかったものなのかね?それとも奇襲に驚いて逃げた?
どちらの古戦場に行ったの?
ききょーやさんは豊明がニセモノニセモノってかなりこだわるよなw
そりゃあこだわるさ。
豊明古戦場は江戸時代に街道の名所としてできた観光地だから。
主戦場の観点なら名古屋側のが圧倒的に有利っぽいね 豊明側は地名がずれるし
ただ10km、20km離れている訳じゃなくて1kmしか離れていないわけで
豊明側はどちらにしても今川軍の退路のひとつにあたるから戦いはあったと思う
二つの市に分かれていて、名古屋側が後から作った結果が今の状態なので
名古屋側のがなかったら、豊明側の伝説地も人通りの多い旧東海道(1号線)に
「この辺りで桶狭間の合戦がありました」と言って差し支えない
名古屋側がピンポイント、豊明側がアバウトに、「ホンモノ」の価値あり
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 17:31:31 ID:Ya3U+1Pf
>>213 中京競馬場の裏だから豊明の方だね。
でも、熱田神宮からの距離で見たら大高の方よりも豊明の方がまだ近いね。
ちなみに歩いたのは2年前ね。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:06:51 ID:C/9wh//x
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 20:32:14 ID:RlZ3igxr
へぇ〜 謙信のイメージが・・・
自演なのかネタにマジレスなのか?
書いてあること自体は事実。
ただし貶める意図だけをもって事例を選んでいる。
謙信と桶狭間の関係を100字以内で述べよ
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 07:02:10 ID:mODQCBXE
その時謙信は男色に励んでいました
ドン、ドンドンドンドン
今川本隊 5000人
トイレのトラブル 8000円
ドン、ドンドンドンドン
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 18:01:33 ID:sBKYEW0p
ワロス↑w
ブレイク タイーーム
あー織田攻めるの疲れたなー
そーだなー
え?何?誰か来てる?
おーおーまた豪族連中の貢物か? 良きにはからえ。
え?攻めてきてる?敵?
うそー!?
あ、おい逃げるな!俺、輿に乗ってるんだぞ?置いていくなよー
誰か連れてってー
わーー
ドン、ドンドンドンドン
梁田政綱 大幅加増
駿府の跡取り 若輩小僧
ドン、ドンドンドンドン
>224
korede iika?
兵1 「なぁ」
兵2 「うん」
兵1 「・・・・・・」
兵2 「・・・・・・」
兵1 「ぶっちゃけ暇じゃね?」
兵2 「・・・・・・」
兵1 「・・・・・・」
兵1 「寝んなよ」
兵2 「寝てねーよ」
兵2 「・・・・・・」
兵1 「おい」
兵2 「うん」
兵1 「なんか義元の大将、くつろぎすぎじゃね?」
兵2 「気のせいじゃね」
兵1 「気のせいか」
兵2 「・・・・・・」
兵1 「瀬名のおっさん、西寄りすぎじゃね?」
兵2 「・・・・・・」
兵1 「・・・・・・」
兵2 「・・・・・・」
兵1 「やっべ、佐々隼人、鳴海に特攻しちゃったよ」
兵2 「すげー、全滅・・・」
兵1 「・・・・・・」
兵2 「・・・・・・」
兵1 「おい」
兵2 「うん」
兵1 「なんか来た」
兵2 「まじで」
兵1 「斜めからものすごい勢いでなんか来た」
兵2 「あ、服部小平太」
兵1 「――――」
兵2 「もうだめかもわからんね」
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 23:13:03 ID:3cv5ph/X
神宮からすぐ南に行ってますが、神宮右から上手道、大喜−井戸田を抜けて笠寺へ行ってほしかったな。
そのほうが、信長ルートに近いはず。エンドが5番は何故?
>神宮からすぐ南に行ってますが、神宮右から上手道、大喜−井戸田を抜けて笠寺へ行ってほしかったな。
大喜の交差点から旧道らしい道がないので、桶狭間に向かうのに通ってるかどうかが疑わしいもの。
>エンドが5番は何故?
豊明説は江戸時代に否定されてるし、5000人が戦える広さってこの辺しかないもん。
「桶狭間合戦 脳内イメージ図」
山頂
義元
兵兵兵兵
雑木林│ │ │ │雑木林
兵兵兵│ 泥田 │あ│ 泥田 .│兵兵兵
兵兵兵│ │ぜ│ │兵兵兵
兵兵兵│ │道│ │兵兵兵
(雨宿り) │ │ (雨宿り)
織田軍
兵兵
兵兵
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 06:47:46 ID:a+3lE1P6
信長公は神宮南ルートである”しもてのみち”はショートカットで早いけど潮の関係で嫌だからパスしてる。
信長公記に出てくる信長ルートは遠回りになるけど”かみてのみち”を行軍。
神宮本殿向かって右手から西に伸びてる道が鎌倉街道。ほんのちょっぴりだけど大喜に残ってるよ、ほんとに少しだけど。
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 06:48:49 ID:a+3lE1P6
すいません、神宮向かって東に訂正します。
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 06:55:11 ID:a+3lE1P6
で、鎌倉街道自体、めためたに壊されました。いまはほとんど民家になっちまってます。
大喜ルートも江戸時代の宿場語り臭くてさ・・・
8/15にも書いてるけど北側ルートはやはり不自然だって。
鎌倉街道もそれなりには残ってるしさ。
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 06:21:21 ID:ElArCd8s
そうかなぁ・・・
”かみてのみち”といえば大喜、井戸田を抜けて笠寺から南西へ、というのが鎌道なんだけど。
井戸田あたりで古老の人も言ってたし。
熱田から大喜だと北東に向かって進むという妙な行動をとることになるやん。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 07:24:46 ID:a0ST/Gfp
熱田社本殿よりすぐ右に抜けてるから北東ではないだろ。
真東でも無理がある。上手の道だけにこだわる必要はないと思うよ。
できるだけ直線を考えて動くのが地元民の強さだろうし。
極論を言うなら瑞穂区には入っていないと思う。
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 22:18:31 ID:a0ST/Gfp
え〜〜〜〜、じゃ信長公記の「かみてみち」は嘘なの???
神宮南から行く道路がかみてみち??? 鎌倉街道を調べなおせ!!
なんとかぷらっとさんは楽しんでそうで良いね
鎌倉街道説が既に胡散臭いっての。
熱田神宮から出陣したのはほぼ間違いないのは確定したとして、
なぜ昼間には見通しが利いた直線道をわざわざ迂回して通るのさ?
太田牛一が公記を書いている時期も怪しんだほうがいいんじゃなかろか。
話逸れるけど、前線の城主が今川方に降伏せず悉く玉砕したのは凄いよな。
潔いね。
大学?
城って?鷲津砦の人はトンズラこいたはずだが・・・・
滝川兄とか?
佐久間盛重であってたっけ?
あんなふうに華々しく散るとは、まこと天晴れじゃ
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 07:41:42 ID:vZC/mlRl
当時の平均身長150代
今川義元乗馬できないくらい短足だったらしいし
顔は公家風に化粧をしてなかなか
佐久間盛重もあそこで死ななければ柴田、佐久間信盛なんかと並んで活躍したんだろうね
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 19:01:51 ID:/Z05W0oC
>242
ふ〜ん。じゃ、否定する根拠は何?
何かソースがあるの?
信長公記編纂で行軍ルートをごまかしても、読み手からすればドラマティックでも何でもない。
信長の一生を魅せたいというのならまだしも、公記自体ドラマティックな読み物でもなんでもない。
桶狭間役にしても淡々と記述してあるだけで。
織田方の前線部隊が降伏しなかったのは、
山口親子の例があるからじゃねーの?
>>251 山道を取ってわざわざ時間を掛ける理由がないから。
時間軸を信長公記に頼るのはいやなんだけど、
朝7時に熱田にいる主力が古鳴海を抜け鳴海城を避けつつ桶狭間に向かうのに
海岸線寄りならまだしも、ゆったり迂回路を取っていたら14時には間に合わないと思うよ。
>>253 いや、どちらの道を採っても時間的にはかなり余裕があると思うよ。
現在の道より悪路だということを想定しても。
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 23:55:41 ID:WiS0+0UT
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 00:40:07 ID:CxMIo4GD
案外、土地の古老の話が重要な事がある。古鳴海の近くに鉾ノ木というところがあるが、名古屋市の郷土調査でも載っていない城跡でもあったらしいし、処刑場でもあったそうだ。
こういう情報は古老しか分かるまい。そして桶狭間合戦も地元にしか伝わっていない伝承・口伝もある。無視できない事も有るよね。
鳴海の古老に桶狭間山はどこですかと尋ねても知らないと答える人が多いが、あの丘陵地帯に上様(今川義元卿)は陣取られた、と言われる。
それは緑区古戦場公園の東方向にある丘陵地帯頂点付近手前。現在は工場?この辺が桶狭間山一帯だそうだ。
>>256 >こういう情報は古老しか分かるまい。
鉾の木というか、三王山ね。
三王山遺跡の調査報告書(たぶん)に中世の溝跡が検出されていて、
丹下砦が作られる前に防御施設を備えたもの(要は砦だわな)であったことが推測できるとかなんと書かれている。
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 01:23:50 ID:CxMIo4GD
お前、帰郷やなんとかだろうが。
>>252 今川に降伏しても誘殺されるからってこと?
あれって信長の謀略って聞いたけど
>>258 なんの保障もないが257はオレじゃないよ。
>>259 理由はどうあれ殺したのは今川。
(まぁあえて信長の謀略に乗って、山口氏を潰したと言われているけどな。)
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 08:32:42 ID:SfZJyliX
尾張を統一したはずの信長が今川に比べてかなり少ない兵力しかなかった理由は?
一般的に言われてる兵力差は本当?
既出だがまだ尾張統一し終えてない
さらに美濃とは敵対状態で、伊勢方面にも親今川の一向宗徒が動いていた
同盟のお陰で後背の憂いがほとんど無い今川のほうが、兵力が大きくなるのは当然
ただ、桶狭間に突っ込んだ織田軍二千は予定のない信長出陣にも追従してきた士気と機動力の高い野戦部隊だから、質は織田軍のほうが良かったかも
>>262 二千というのは全兵力ではなく出撃可能兵数。
もう一つ、信長公記をよむと信長は軍勢を整えて出陣したのではなく、自分が
飛び出してきた後についてきた連中を集めて動いている。
実際に記録を読むと、林や柴田、坂井森といった大身の武将の名前がない。
結構織田軍も各地に分散しているからな
最終的に今川本陣を攻撃したのは二千程度だが
桶狭間近辺に居る兵力でも全部併せてみると五千近くにもなる
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 16:19:04 ID:0j28J8R0
織田信長にとって桶狭間合戦は危ない戦いだったに違いない。
勝てたからよかったものの・・・
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 16:27:00 ID:pBkQz1ny
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 13:12:44 ID:mnsrZ9xZ
大高城の周りには丸根・鷲津の他にも三つ砦があったのです・
なぜ資料から抹殺されたのですかね?
徳川家康に関係あると思いますよ。
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 13:21:03 ID:Sa/ZIBBI
>>261 あえて山口を潰したんならその理由は?
何のメリットもないぞw
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 22:20:02 ID:W4PNSplc
迂回奇襲説、正面強襲説みんな嘘。
家康(元康)が内通して義元を桶狭間までおびき出すのにまんまと成功。
信長公記にちゃんと書かれてる。
>268 幻の三つの砦。
何年か前の歴史読本に出てたね。
それぞれの守将は佐々、千秋、水野と推量。
現地検証もしていた。
確かに丸根・鷲津だけでは大高城封鎖には無理がある。
なぜ信長公記以下の史書に記録がないのか。
徳川家にとってまずいことがあった証拠だろう。
武功夜話にもこの砦についての記載がないところをみると
やはり偽書か。
>>269 信頼できる譜代を城主にしたかった
直轄領を増やしたかった
前線に不安分子を置いておきたくなかった
理由は付けようと思えばいくらでもつけられるんじゃないかと
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 22:05:04 ID:69d4Dp8Q
火上砦とかだな。重要度は中くらい。軍事的には砦のその下の役割くらいだったろうから。
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 11:19:54 ID:Qa3F542r
義元が勝っていたならその後尾張制圧戦に移行したと思いますか?
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 14:22:43 ID:GshSF9/R
桶狭間の前に、佐久間・飯尾・佐々等名のある人物を死なせていて、
なおかつ、桶狭間で敗走していたら、信長への求心力は低下すると
思う。
今川軍は、信長を追う事はするだろうけど、後詰の目標は成功して
いるから、今川に靡く者が続出すればともかく、そうでなければ
いったん引き上げて、織田家家臣に今川への寝返りの求める謀略を
行った後、今度は、尾張制圧を目標に軍を動かすんじゃないかな。
>>273 まずは知多半島を完全掌握してから北上だろうね。
知多半島を分断した事で桶狭間の合戦になったんだから。
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 23:37:11 ID:GshSF9/R
桶狭間当時、今川方が尾張の2割位を支配下にしていたと言われるが、
それだと、尾張8郡の内、2郡位支配下にしていたことになる。
春日井郡から3月に追い出されているので、愛知郡の半分。知多郡の
刈谷・緒川の水野・阿久比の久松・羽豆の千秋が織田方だろうから半分。
残りは海西郡・海東郡の半分と言う事か?
蟹江や鯏浦は今川方でしょ。
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 11:35:58 ID:pmFQ4lBo
>>276 知多半島の北は、水野が中心で、中央は、今川方の佐治が
中心、南は戸田が中心だったと思う。
知多半島掌握には、水野次第で、抵抗すれば時間がかかる。
水野が今川方に降れば、熱田・古渡・那古屋・守山・清洲
と要所を目指して北上かな。
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 22:19:19 ID:C8X0R8Xq
信長なら岡崎に本拠を移して狸の先兵で制圧掃討戦をしていたと思うが、
中世の発想から抜け出せてなさそうなので、尾張のどこかに元康を移して
斯波家の者に一部を与えて復活させそう・・・
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 22:34:42 ID:pmFQ4lBo
斯波氏を守護に復活させ、織田氏に上四郡の守護代・一族の
那古屋氏を下四郡の守護代までさせたりして。
今川家は、徳川で言う御三家にあたるよ。足利のだけどね。
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 15:18:43 ID:4oqFuXY0
実は義輝が信長に隠助していたのではないかと思う。
・今川は、3国同盟を結び、将軍権力を無視すると言う事を堂々と宣言し
(今川仮名目録)他国に侵略を行っていた。
・それは自分が天下主宰者と考えていた義輝にとって許せない存在。
・信長に命じ、義元を殺すことができたが、12月氏真は北条の援軍千余艘
(1万位か?)を迎え弔い合戦に出陣しようとした。
・義輝は、謙信に命じ、11万の大軍で小田原を包囲させ。今川軍は逆に
北条の援軍に出陣しなくてはならなかった。
・永禄4年3月家康は、義輝に馬を献納し、4月今川に独立戦争を仕掛けた。
・6月氏真は、義輝に屈し、馬を献納。
・永禄5年1月氏真を許した義輝は、氏康・信玄に、氏真・家康停戦を命じ
氏康は5月義輝に従う。
・信玄は従わず、謙信と死闘を繰り返し、不甲斐無い氏真を見限る事となる。
とりあえず、信長のあれは「義元の首を狙った奇襲」ではない。
というか、「奇襲して結果的に勝ったから良かったけど失敗したら全滅だった」、なんて信長なら、俺は信長の評価を一気に下げる。
少数で戦うなら直接本陣にぶつかるしかない!なんて作戦が通るんなら、どんな武将だってみんなやってるわな。
そもそも奇襲ですらない。せいぜい、勢いに飲まれた、とか思ってたよりちょっと多かった、程度の軽い精神的奇襲だ。
山の上から存在を確認できていた相手に攻撃されるのが、どこか奇襲なんだか。
義元にしたって、別にその顔が見えるほど信長の部隊から近かったわけでもなく、戦いでしっちゃかめっちゃかになったところでようやく見える辺りにいたわけで。
信長の当初の狙いは、単に「崩す」ことにある。信長のその時の発言を見ればわかる。(いけそうならばいけ、首はいちいち取るな)
つまり何が何でも大将をとれとも言ってないし、バンザイアタックしろとも言ってない。
さっと攻撃、駄目そうならさっと引く、というすばやさを重視した攻撃。
だからこれで義元をしとめようとは考えてない。せいぜい、兵を減らすぐらいのゲリラぽい戦法。
でも、かかったタイミングが絶妙だったため、素晴らしい戦果となった、そんだけ。
もし崩しきれなかったら、また引いて、また何かしただろう。
後ろが攻撃されたとなれば、とりでを攻撃していた前線の部隊も止まるしな。
>>282 当時の義輝にそんなことしてる余裕があるのかと
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 17:00:36 ID:pghfkgZq
桶狭間合戦って、今川から見て、まさか織田本体が突っ込んでくるとは思わなかったんじゃねーの。
何でこんなに有名な戦いが決定的な資料がなく、こんなにも意見が割れるんだろうか。
決定的史料はあるけど、信長らの行動に合理的な説明をつけようとするから争うんじゃ?
年代の間違いを覗けば経緯自体はおおよそ信長公記の通りだろう
桶狭間合戦ってなかったという説もあるけど
それについてはどう思いますか?
そんな珍説知らんから、詳しく経緯を書かなきゃわからんて。
アレか?
桶狭間じゃなくて田楽狭間での戦いだったんだよ!
というトンデモ説とか
ああ、確かでっちあげみたいなセツがあったよね
今川は内部分裂と武田の進出で滅んだだけで、信長は臣従してただけという・・・。
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 19:20:39 ID:wZpSFf9W
信長が臣従するんだったら、経緯と兆候があったはず。
仮に信長が臣従したとして、尾張国境まで軍勢揃えて出迎えました。
信長変心して手薄な桶狭間に突入しました。義元討ちました。としたら今後にせまる、武田や上杉諸氏の合戦でののしられる事必定だろう。
しかしそんな記録もない事から、信長臣従説は無いと思う。
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 22:48:41 ID:Qv73bSzF
>>283 信長の性格やらを考えれば野戦しかないと考えたのは想像に難くないし、どこかで勝敗を決するにも後に何度もチャンスはない
もともと相手の油断も期待しなきゃいけないのに局地戦で小さな勝利を飾るのは相手を引き締めてマイナスだ
そもそも奇襲以外に勝機がない時点で勝算は五分以下なのは当然
どんなに作戦が緻密であろうが半分は運
信長だって戦争前に神に祈る
奇襲の肝要は折れない勇気
さも勝利が必然みたいに思っているほうが間違い
桶狭間の詳細は別にして、この戦いで信長がもっとも称賛されるべき点は持って生まれた天運と胆力だろう
それで信長の評価を下げたいなら下げればいい
>>293の意見は丸々俺の言いたいことだったんだけどw
でも、
>>283は別に信長の評価下げる意図ないと思うぞ。
むしろ冷静に信長の戦略眼を評価しようとしてるんじゃないかな。
でもその後の戦いでは別人のように冷静で着実だよね。
博打はこれだけというのも説が色々出る理由かと。。
国力差が歴然としてる以上、着実な手なんて無いと思うが…
だからこその博打だったのか…。
今川方への内通を疑っていたんじゃないのかな?
林、柴田が信頼できるってこともないし
単に、味方を信頼できなかったから、今川方に少数で突っ込んだとか
歴史に名を残す英雄の心情を、戦に出た事も無い凡人が理解するのは無理なのかもしれん……
柴田や林は、動かないし
信頼できる味方は、既に玉砕して果ててるしな。
後は自分が特攻しか無い気もする。
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 04:58:42 ID:7Xn23MqT
あのー
今川方に潜り込ませていた奴に首をとられたらしいです
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/14(土) 13:44:11 ID:cusnBFBc
この戦いは、そもそも義元の戦略目的がはっきりしない。
上洛?攻略?救援?補給?威圧?挑発?
それに対して信長の戦略目的は、はっきりしている。
総大将の首を「狙って」取れるなら、誰も戦で苦労はしない。
信長の目的は「防衛」である。気合を入れた自国領の「防衛」。
え?
信長の目的は、鳴海城の攻略じゃなかったっけ…?
それを防衛しに来たのが義元でしょ?
窮鼠、猫を噛む
窮鼠、虎を倒す
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 19:13:17 ID:3L3t49SO
急須、茶を飲む
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 20:06:32 ID:XCJQQlUw
おそらくは内応してる武将が今川の大群の中にいて
大暴れして指揮系統がずたずたになってるところを
突いたんだろうね
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 20:49:49 ID:aDmVF8lW
信長は義元を討ち取れたが、家康は信玄を討ち取れなかった。
桶狭間と三方ケ原、敵国主将が領土侵犯をしてきたと言う点で似てるよな。
ここで義元戦闘中に病死説を推す
ソースは脳内
>>308 「討ち取れなかった」という書き方だと、
まるで、大勝したのに惜しいところで討ち洩らしたように聞こえる。
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 17:23:35 ID:yP+m8ox4
家康は野戦で無理な軍展開をする傾向がある。
三方ケ原や関ヶ原など、およそ慎重なイメージの家康とは思えない。
晩年家康は武田信玄の戦立てを参考に徳川軍を指揮したと言っているが、あれは信玄ではなく謙信だな。
反面信長は桶狭間以来の戦いは軍兵を十分持って行って戦ってる。現在で言うとアメリカ式だな。
俺の脳内のイメージだから御容赦あれ。
無理な軍展開をせざるをえない戦いを切り抜けたからこそ天下人になれたのであって
十分な兵力があるなら皆たっぷり持っていくだろ
信長が何故あそこまで接近出来たか、というのは、やはり情報戦の問題だろう。
信長は少なく飛び出してから後で合流したり、旗を巻いて実際より少なく見せたりと工夫をしたため、義元側にはわかりずらかったろう。
そのあたりが、義元本陣の油断(正確に言うと、別に油断はしてないんだけどね。単に普通の状態だっただけ)を誘ったように思う
あと、よく、兵力を石高だけで見て、すぐ誇張だとか判断するのもどうかと思う。勝てそうな戦なら勝ち馬に乗りたがる連中も出てくるのに。
義元の大軍とやらもそういうのに水増しされて、結果的に大軍となったのではなかろうかと思う。
>>293 >そもそも奇襲以外に勝機がない時点
んなこたないと思うぞ。そもそもこれが通るんなら戦国時代なんて一瞬で終わる。
そんな風に思うのは現代から見てるからでしょう。
314 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 23:37:25 ID:yP+m8ox4
関ヶ原合戦時、信長の孫、秀信も言っていた「祖父様は、領国内では決して戦わなかった。討って出て勝機を見出した、従って城にこもるは織田の成すならざり!」
と言って陪臣木造の意見を撥ねた。結果は福島軍にボロンコ状態。しかし、信長の血は孫の代になってもたぎっていたんだね。
孤立無援のじじいと数だけなら10万の後詰がある自分じゃ全然違うだろうに
残っていたのは激情だけだな
>>311 信長は桶狭間後も少数で戦ったり、自ら先頭に立ったりしてる
家康は武田信玄の戦立てを参考に徳川軍を指揮したと言ってるが
甲州流を取り入れてからはどの戦もぱっとしない、弱くなったような
印象を受ける、軍法が駄目だったのか、家康が大軍指揮を苦手に
したのかは分からないが。
>>316 どこが具体的に弱くなったのか言えるのか・
ぶっちゃけ徳川って関ヶ原以外ぱっとした戦ってしてなくね
関ヶ原にしたって戦術的には微妙だし
姉川でやる気ない朝倉勢を追っ払ったぐらいだろ
一応、小牧長久手では豊臣軍別働隊二万五千を一万一千で強襲して倒している
これが戦術的に一番徳川の華々しい戦じゃない?
つ 小牧・長久手の戦い
小牧長久手も有名だが
本能寺後の北条との甲斐争奪戦も凄まじい
5倍ほどの北条軍相手に善戦している。
小牧・長久手の戦いが戦術的に華々しいって・・・
秀次のボケに突っ込みを入れてやったとしか
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 19:30:12 ID:tQ5nHbj1
後進した豊臣秀次は悪くないだろう、あの状況では強襲されて壊滅しても仕方あるまい。
むしろ岡崎長入り作戦を立案した池田恒興に問題がある。
恒興は徳川方の岩崎城からの挑発行為で腹を立て、迅速に岡崎まで行軍する事を完全に忘れ、小城相手に数時間を割いた。
その間、豊臣秀次は待機状態を余儀なくされた。行軍途中で休止で防御態勢もおぼつかないまま徳川軍の餌食になった事は無理もないだろう。
どんな知将でも秀次状態なら壊滅しちまう。
wikiだと先鋒の池田が狙撃されてぶち切れるのと、後方の秀次が奇襲されるのは同じ頃らしいが
小牧長久手って石川が出奔する前だから、甲州流ではないのでは?
>>325 井伊直政に武田遺臣が多数抱えられた後
だから武田厨レベルの言説でいくと、信玄のお陰という論法になるのでは?w
流石にそこまでひどくねーか…単に徳川家の戦でって話だと思う
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 22:22:59 ID:IJoGTpLz
関ヶ原合戦最中の家康の陣変え行為はとても武田信玄流とは思えぬが。
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 22:44:51 ID:7MXLl8kD
…詳しい方が沢山おられますね…
話がソレますが、戦で負けた後の今川(弟)の対応と対処がまずかったので今川家は衰退したようです。
何故?兄の敵討ちに兵をあげないのか?残った家臣達は不信感を今川(弟)に抱いたと伝えられています。
まー関係ないけど家康は、人質時代に磨かれたと思われる
的確な情勢の判断がすさまじくすごいところだよね。
三河一向一揆のときも、甲信乱入時も小牧長久手にしても。
今川(弟)て誰のことよ?
まさか氏真を義元の弟と勘違いじゃねえだろな・・・
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 19:08:01 ID:yHVP/5e3
俺から言わせると、桶狭間合戦ってごり押し戦術のたまもの。
戦国期の合戦って強襲(ごうそ)ってあたりまえ。将領は兵法はみんな勉強するものだが、諸葛孔明のような先読みの先読みなんて無理。
俺は歴史家がいう織田信長計算ずく戦術論は完全否定する。佐々・千秋討ち死にの報を受けた信長はやや角度を変えて桶狭間に戦闘行動をおこしたと思う。
行って見ればわかるが桶狭間は山と呼べる物ではない。あれは丘。なだらかな丘陵地帯。
織田が中島砦から鳴海城に見つからずに桶狭間に向かうとなると、
そのまま東海道に出ては駄目。善照寺方面に少し迂回して、
相原から有松に伸びる間道を通って桶狭間に向かったと思う。
今でも当時のままの藪になっている場所も多く、見通しはかなり悪い。
今川の物見(櫓)の位置が分からないので、定かではないが、
悪天候なら今川本隊には幕山か権平谷あたりまで気付かれないと思う。
やっぱり謎は織田軍が中央を横断してる時に今川軍の左右に位置した部隊はなぜ気付かなかったのか?だなぁ
見張りを片っ端から根切りにするのは物理的に不可能だし、悪天候っつったって2000もの軍馬が移動すりゃバレるだろうし…
335 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 21:10:41 ID:yHVP/5e3
中島砦から桶狭間山際までの行軍ルートの検証など今となっては推測は出来るものの不可能に近い。
信長公記では「山きわまで押し寄せた時、突然豪雨云々・・・」この記述だけ見ると桶狭間山っていう単体の山を想像するから脳内合戦イメージがおかしくなる。
「桶狭間山」なんていう山の名前は実はない。名古屋市教育委員会が様々な古文書、史書を調べたが出てこない。したがって桶狭間地帯の尖出した場所がそれに当たる。
旧陸軍が測量をした物をみなさんは見た事があるだろう。現在は工場になっているところがそれだ。しかし今川義元はその場所には布陣していない。なぜなら当時その付近は陣を張るにはブッシュ多すぎだからだ。
>333はセンナ藪、あるいは瀬名藪というのを御存知ですか? 今川先遣隊の瀬名氏俊が織田軍監視の為、桶狭間合戦の半年前からインスタント監視所を設けたところです。
>>336 瀬名陣所跡には行った事があります。監視所だったんですね。
櫓か何かが建っていた記録をご存知でしょうか?
木の上くらいでは丸根砦は見えても鷲津砦は無理でしょうし、
有松方面の北側は丘が邪魔して南側しか見渡せませんよね。
20メートル位の櫓か梯子があれば中島砦まで見えそうですが。
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 23:16:40 ID:scdhxAwH
信長が部隊の1部を迂回させて攻撃した可能性は?
桶狭間団地も元々は丘陵を馴らして出来ているから
南側が平地というのは賛成しかねるなあ。
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 07:02:49 ID:NMZ+i5us
半年前から監視所って、もう砦と言ってもいいね。
>>332 >諸葛孔明のような先読みの先読みなんて無理。
これはギャグで言ってるのかな
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 22:27:42 ID:OcVoU2RX
桶狭間の山に義元は北西に向かって陣を張った。義元本陣から泥深田をはさんで幕山・巻山・高根山と続く。その先は大高緑地公園方面、すなわち織田軍が三砦を構えている方向。今川軍からは丸見えだ。
しかし、大高緑地方面から織田軍の一次攻撃隊の佐々・千秋が攻撃を仕掛けてきた。玉砕してしまったが信長は自身を含む攻撃隊を企画し一次隊と同じように攻撃した。さてここでだ、攻撃途中で信長は分軍して太子ケ根方面に行軍した(行軍経路は不明)
太子ケ根(桶狭間丘陵のスソ即ち山際)に到着すると豪雨が襲来した。雷を伴なっていたとしたら今川軍は武器兵器を半使用状態にする。信長にとっては大変都合がよい。豪雨がやむ頃には本陣と前衛をはさむ泥田に近接していた。あとは知ってのとおり。
北側大将ヶ根方面説は
このスレの前のほうで思い切り否定されてるのだが
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 22:15:09 ID:yM9oY6UD
タイミング良く突風を伴う豪雨になるなんて話がうますぎる。
>307
おそらくは内応してる武将が今川の大群の中にいて
大暴れして指揮系統がずたずたになってるところを
突いたんだろうね
このへんが真相に近いと思う。
誰が内応したかは義元が死んで一番得した武将だろうな。
あの情勢下で内応が上手く行きまくるなんて方が話が上手すぎるような気がするんだが・・・。
家康の事言ってるなら、位置関係確認した方がいいような・・・。
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 22:55:17 ID:7Xjsnhw5
桶狭間合戦数ケ月後に愛知県豊田市近郊で織田と松平は合戦してるが。
内応て実際血まで流すとは思えん。誰がそんな事言い出した!
信長が熱田から鳴海城の岡部元信に攻められずに善照寺砦に入るためには、
最短距離じゃなくて、途中で少し東に進んで北側から入る必要がありそう。
だけど信長は無謀にも最短距離で進んで鳴海城をスルーして善照寺砦へ。
なぜか岡部もスルーして攻めない。
岡部「急に信長がきたので・・・。」
そして岡部が信長は鳴海城に攻め込んでくると思って備えていたら、
信長は丘を反対側に下りて中島砦に向かい、そこから桶狭間へ・・・。
内応って、明らかに滅亡寸前と思われてた織田家に誰が内応するんだよってのもあるな。
>>347 今川の大軍って寄せ集めで、
特に尾張で従属して間のない豪族もいたよな?
だったら、そういった連中に
トロイの木馬として信長が送り込んだ連中は
いたかどうかだ。
どうだろう?
その間もない連中も元はと言えば信秀に攻められて忍従してた連中。
恨みはあれど義理など無い、まして東国との折衝で動きが鈍かった東海の巨人が
ついに本腰を上げてくれた上に、信秀はもうこの世に亡く、相手はうつけ。
敵に内応どころか味方の結束も怪しい状況だっつーの。
あとそれじゃ、桶狭間前に最後まで抗戦して果てた佐久間大学が浮かばれなさ過ぎ。
>>348 その間もない連中も元はと言えば信秀に攻められて忍従してた連中。
上洛戦で織田軍の首一つでも多く挙げれば、上洛が成功したときに
莫大な恩賞が約束されてるようなもんじゃん。
敢えて尾張統一すら果たせてない弱小大名に肩入れする理由がみつからん。
足軽一人が立身出世を夢見て敢えて弱小大名に仕えるって事はあったかもしれんが
一族郎党を抱えてる地方の豪族やら実力者は弱小織田に仕えるメリットが無さ杉じゃね?
防衛庁かなんかの関係機関に算出だと
今川軍は2万5千ではなく1万8千くらいらしい。
しかも、寄せ集めで統一性が取れていたか分からん。
桶狭間当事に織田が固めていた領地は20万石くらいか?って感じ。
尾張一国の半分以下ってところらしい。
攻勢は守勢の3倍ないと攻め込んではいけないというのが戦国の基準らしいから
織田4千VS今川1万8千だから、やや今川のほうが優勢かってところか?
ただ、織田の4千は固まっているけど、今川軍の中で尾張・三河あたりの軍は
どれだけ今川と団結していたかは分からん。
あと、尾張は平野部だから、比較的に攻めやすい土地だな、今川家からしたら。
>>351の分析から考えて
そんなに言われているほど、今川が有利だったわけではないんだな。
今川がやや優勢というくらいだった。
だから、戦略や運で、形勢が逆転する可能性はそれなりにはあったのでは
ということ。
戦国の軍隊の実数がいい加減に記録されているのはよく言われるが
それも所詮、予測の一つに過ぎないんだよな。旧陸軍の算定もかなりいい加減だったし
>>351 >防衛庁かなんかの関係機関に算出だと
>今川軍は2万5千ではなく1万8千くらいらしい。
突っ込んでいいのかどうなのか
むしろそんなソースがあるならぜひ見てみたいな。
興味がある。
俺の妄想
織田軍は農民の格好で進軍し、義元の部隊に近づいたんだよ。
無理だな。
槍や弓のような長物は隠し持つことができないし、
農民の格好でも数百〜千人単位で行動していればモロに怪しまれる。
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 00:10:25 ID:H9INuZDh
>344
>家康の事言ってるなら、位置関係確認した方がいいような・・・。
家康は大高城にいたことになっているがね、
これがくせもんだ。
家康は織田方だって信長公記にも書いてある。
輿にのって合戦なんてありえないだろ
あれは創作だろう>輿
>>358 初耳、公記にどのような文章で書いてあったっけ?
大谷吉継は輿に乗ってたって話無かったっけ?
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 10:06:41 ID:Zf3Z4Q7Q
大谷出すならべっきー出せよ
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 10:38:05 ID:BuVe1UKv
戸次鑑連か。別名、自走式道雪。輿なら肥後熊もか
もしも輿ではなく、乳母車だったら義元の運命は変わっていた
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 11:18:34 ID:mFUHdhhl
孔明は四輪車に乗ってたって光輝先生が言ってました。
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 14:21:46 ID:8pNRWW2g
輿に乗ったまま白兵戦で刀振るうバカがどこに居るかっちゅうに
輿に乗った武将を心配する前に輿を支える下っ端の心配しる!
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 15:45:21 ID:2p98vZFI
当時の兵数は小者や雑兵は抜いた数だったりするからな。
今川軍は昔は4万と言われていたが、今では当時の今川の石高から2万5千が妥当と言われてる
2万5千に補給部隊ついて4万とか、2万5千だけど、戦闘員以外もいるから1万8千とか諸説あります
でも当時は野武士や農民も雑兵として勝手に参加するから(各武将が勝手に徴集する)総数は
推測の域を出ないね。
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 23:25:58 ID:cTN/JkcA
奇襲なんかできるわけねーだろ
降参するっていうんで、宴会張って待ってたらいきなり切り込みやがって!
完全なだまし討ち
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 00:05:41 ID:VLCi/DqU
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 12:27:40 ID:DjiJYrHI
>>367 将が白兵戦で刀振るう状態になったら普通はもうだめだろう
>>369 降参するって言われてほいほい宴会する馬鹿いるわけないだろ。
義元を過小評価しすぎ。
義元は謀略に戦争に外交にと、戦国大名として必要な能力を充分もってた名将だぞ
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 20:42:11 ID:YQvQ2ma0
そこで蜂須賀小六ですよ
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 20:44:05 ID:YQvQ2ma0
戦国の戦は、実際は談合のヤラセが多かったらC〜
>>373 まあ、義元は家督を継ぐにあたり兄二人を毒殺した疑いがあるといわれてるし、
家督を継ぐときにも花倉の乱というお家騒動を武力で制しておさめている。
とはいうものの、それが本当に義元の実力なのか、
うしろに控えていた寿桂尼や太原雪斎の力なのかはよくわからんなぁ・・・
雪斎が死んでわずか5年で桶狭間のていたらくだし。
>>375 談合っておまい・・・小説ですら読んだこと無さそうだな・・・。
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 21:49:37 ID:VEotTj0C
談合もあったんじゃない。
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 00:13:54 ID:kjxbIoG7
桶狭間は、奇襲とガチンコと、どっちがより信憑性があるんだろうなぁ。
個人的にはガチンコって気がするんだけど。
義元、当日行軍中に陣中で心臓発作を起こし急逝
陣内混乱の最中に織田軍との戦闘により壊滅
事実なんてそんなもん。あとは勝者の脚色しだい
>>381 一行目と二行目に矛盾と突っ込みどころを作りまくってることに、
お前は気づかないだろうね、自分の言葉に酔ってるから。
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 20:34:48 ID:J+ZS//gA
謙信の出兵は殆どが民衆の支持によるもの
謙信は渋々出兵
適当にやって談合して還る
チョソに厨 息するように嘘を吐き
まぁ、義元本隊に信長親衛隊が突っ込んでる事は間違いないから
相当な無茶である事は確かだと思う。
そんなのが成功したんだから、義元に何かあったと想像するのは、そんなに不自然なことではないな。
証拠は何一つ無いけど。
何はともかく信長の本隊が義元の本隊に突っ込んで毛利新助が義元の首を上げたことは間違いないんだよな?
いや、服部小平太だったか?
>>383 越後の山賊の襲来を民衆が望むわけねーだろ。
親衛隊どころか、信長本人が下馬して槍もって格闘するほどの特攻ぶり
しかも当時当然だった功名のための首取りも厳禁しての(前田利家が首いくつかとって帰参願いしても無視した)
やっぱり乾坤一擲の大勝負だったことは確かだろうね
信長の馬廻り(小姓との説も)服部小平太が義元への一番槍で、
義元の反撃を膝に受けて負傷、同じく馬廻りの毛利新助が義元の首級を挙げた
毛利新助は信忠と共に二条城で討死
服部小平太はその後3万5千石の大名になるが秀次事件で連座改易切腹
まぁ馬廻りの二人が敵の総大将と組み合うってのは相当な乱戦だった
てのはほぼ間違いないかと
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 23:47:49 ID:XQVdBHzs
だまし討ち説は一番説得力がある。
織田本体に殆ど死傷者が出ていないことの説明がつく。
記紀を読むと殆ど全てだまし討ちで天皇家が天下を取ったことになっている。
一番犠牲が少なく革命を起せる方法
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 23:54:34 ID:UZ6zy2js
>361
初耳、公記にどのような文章で書いてあったっけ?
キーワードは朱武者
それと信長公記に記されている六名の小姓(単騎出撃の信長の後を追った)
がこの合戦の後どうなったか?
>>392 その書き方じゃ何が言いたいのかさっぱりわからん、
俺も勝手な想像で突っ込むのも嫌なので、何か主張があるなら具体的に書いてくれ。
あの描写で家康は織田方とする根拠を書いてくれないと説明になってない。
>>392 俺もさっぱりわからない。
元康が桶狭間の時に織田方ってのは信長公記からは出てこないと思うけど、
義元本陣の兵数の少なさや、その直後の掃討戦で、
まだまだ多勢の今川軍を圧倒できた一つの要因として、
可能性は無くは無い位の物だと好意的に解釈してるけど、何かちゃんとした理由はあるんでしょうか。
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 14:09:37 ID:YEjUCEh9
結局、義元は家臣団からも嫌われていたんだろ
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 15:01:05 ID:xpDmVR3b
真実
桶狭間の合戦は無かった。
>>343 仮に内応者が暴れてたのだとすれば
今川方の資料でそいつのことがボロカスに書かれる。
織田方としても内応者のことはちゃんと書き記す。
信長の戦功のために内応を伏せるなんてことはしない。
例えば信長公記では「内応=上様のご威光」だから、絶対に書く。
>>388 いや、「無理そうなら引け」という発言からして、明らかに長丁場を意識してる。
あと、信長自身が駆けるのはわりとよくあることなんで、別に今川相手に死を覚悟して、とかでもない。
勢いで崩せる、と思って崩したのであって、相手に勢いが戻ってきそうになったなら、引いただろ。
実際、重臣連中もごろごろ失ってるわけだから…
それで、本隊が行ってるわけだし
余裕がまったく無いのは確かと思うけど。
戦死将校リスト
織田方
佐久間盛重:丸根砦の守将を務めていた。
今川方
松井宗信:遠江の豪族、松井家当主。
井伊直盛:遠江の豪族、井伊家当主。
久野氏忠:遠江の豪族、久野家当主。元宗?
蒲原氏徳:駿河の豪族、蒲原家当主。
由比正信:駿河の豪族、由比家当主。
庵原元政:駿河の豪族、庵原家の一員と思われる。
三浦義就:旗頭。今川家直属の家臣か?
藤枝氏秋:前備の指揮官。侍大将か? 藤枝の地を領する豪族の一員かも。
一宮宗是:1554年には同盟相手である武田晴信の軍事行動に協力するため、出征。
今川家臣か豪族かよくわからないが、将としての地位が高かったことは確実。
千秋すえたかだっけ?
ほかにも何人か戦死してると思うが
あ、佐々成政の一族らしき人物と共に、千秋なんとかって侍も戦死してたみたいですね。
どんな地位・階級だったか、情報おねがいします。
織田秀敏:鷲津砦の守将。一門。
飯尾定宗:鷲津砦の守将。信長の叔父。
佐々政次:成政の兄。佐々家当主。
千秋季忠:熱田神宮大宮司
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/14(火) 22:47:33 ID:89p2UUdx
普通、鷲津、丸根の砦を落とされた時点でギブアップだよなw
織田勢戦死武将
佐久間盛重
織田秀敏
飯尾定宗
佐々政次
千秋季忠
今川勢戦死武将
松井宗信
井伊直盛
久野氏忠
蒲原氏徳
由比正信
庵原元政
三浦義就
藤枝氏秋
一宮宗是
今川義元 ←ここ注目
双方に大きな損害が出てるが、
トータルすると今川の大敗
ここで重要なのはトータルじゃなくて
信長が義元の本隊に突っ込む時点での戦力だと思うが?
主力豪族の佐久間と佐々がやられてる時点で、もう壊滅寸前だろ。
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 14:21:42 ID:rstO0dAc
佐々政次らの無謀な突撃は陽動を自ら買ってでたという説がある
そして信長公記を信じるのなら、義元はまさにその戦果で驕ってしまった
信長にとってはまさに忠臣だよな
>>407 失敬。自分は今川家史における、この軍事行動の意義を考えたくて情報を漁っていたところ、
>>401-404を見かけて浮かれてしまっていた。
戦略的意義を考えるところじゃなくて、
本隊決戦の兵数を推理してたところだったのね。
流れ読めなくてごめりんこ。
>>409 いい資料だったよ。
信長の攻撃がいかに強力だったかを示せている。
クソッ。雪斎がいれば…。
ま、でも結局は今川vs松平狸で関ヶ原か。
でも信長の指令は「義元以外の首は打ち捨て」じゃあ?
みんな違反しまくりかw
「すわ、かかれ」の「すわ」ってもう殆ど死語ですかね。
今だと「それ、かかれ」って感じ?
織田軍「すわや、かかれ」「すわこそ、かかれ」(そりゃー、いけぃぃぃ!!)
今川軍「すわすわ、織田じゃぁ〜」(はわわ、織田だよ〜)
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 18:34:07 ID:XE1EsaZy
>>408 佐々政次の突撃が正午。
これを討ち取って、今川軍どんちゃん騒ぎしていたとしても
信長が、今川軍に丸見えでの中、中島砦に入ったのを見れば
警戒態勢に入ったはず。
午後1時の突撃時にはまだ警戒態勢を解いていないと思う。
>>412 そりゃあ金銀パールがそこら中に落ちてる中で「ダイヤ以外は打ち捨てにしろ」っていわれたところで
拾うやつは絶対出るだろ
金と首は違うだろ
恩賞をくれるのはその金を見捨てよって言ってる大名自身だし
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 22:39:08 ID:whcXv4WU
大高城に固執せず、鳴海城開放作戦を実施していたら歴史は変わったかも。
凸丹下砦
凸鳴海城 凸善照寺砦
凸中島砦(中州)
凸鷲津砦
凸丸根砦
凸大高城
<────約2km─────>† 桶狭間
>>417 >鳴海城開放作戦
今川側は鳴海城を放棄し、
もっと後退した箇所に戦線を張って、守り易い防衛線にするということ?
前線を織田本隊が突破出来た人為的理由は突撃した佐々軍、千秋軍が藪の中で四散、撹乱して、
松井、井伊の前衛を視界の利かない場所に誘引した事。それと天為である大雨。
今川は鎌倉街道側にもう少し兵を割けば善照寺砦で信長の身動きが取れなくなったかもしれないが、
鷲津、丸根を落とす作戦に全力を向ける為には仕方なし。
岡部にしても橋頭堡の鳴海城死守が第一で命令がなければ動けない。
今川軍の槍の長さが短かった説
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 23:16:06 ID:lN7v47gH
家康が裏切ったんですよ。
このあと家康は駿府に一度も戻らなかった、
というよりは戻れなかったんですよ。
徳川時代が300年近くも続いたのですから、徳川氏にとって都合の悪い
資料は抹殺されたり改ざんされるでしょうよ。
ついでながら本能寺もあやしいですね。
そういう反三国志みたいなフィクションは立花京子でお腹いっぱい
あの時期の家康がそんな大博打に出る意味がわからん。
それをそのまま解釈すると随分大雑把な計画になってしまう。
松平が裏切って、今川の本陣を突くまでは行けるかも知れないが、
その後は全くの運頼みじゃないか、合戦で大将の首が取られるなんてそうそう無いぞ。
普通にしてれば先鋒の功として、厚遇が約束されてる状況で、
しかもまだ若い元康が、そんな吹けば飛ぶような内応策に家運賭けるバカがあるか。
ないね。
今川軍に化けて進軍したとか
・松平が裏切った
・今川軍や農民に化けた
・偽降して騙し討ち
・義元が心臓発作
記録が残っていないのは、史書や資料が改竄、捏造、処分されたから。
ってな感じのはお腹いっぱいですw
そりゃあ現在進行形で歴史の捏造や改竄をしてる国があるけどさ。
確たる歴史なんかないってのをわかって、敢えて限りある文献から、
当時の状況などを解き明かしていかないと、他人を納得させる、そして自分も納得できる事は出来ない罠。
じゃあ閑話休題。
桶狭間の合戦の真実か・・・
今川軍にカミナリが落ちたんだよ。見てたから知ってる!
つまり信長は孔明並の落雷の計使いかw
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 23:30:45 ID:mUUg8nnZ
家康は桶狭間合戦後に岡崎大樹寺にて織田軍に殺されそうになっているが。
松平一党が織田軍に寄みしたとは考えられない。
信長に負けて死んだでどうしてダメなの?
気持ち悪いよな義元厨ってあんな小太りのお歯黒のどこがいいのかねー
義元厨なんて見たこと無いが、義元が好きならむしろアレは信長が凄かったとしたい所だろう。
だから義元ほどの人物がやられても仕方ない、でも義元も凄かったよってつなげたいだろうし。
運とか裏があったという事にしたいのは、義元厨と言うよりアンチ信長なだけかと。
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 00:16:06 ID:vFtTbwDI
義元はお顔を白く塗って、歯も黒く塗っていたからきっとだいぶ目立ったんだろう。みつかりやすい格好はいかんね。
馬に乗れないアフォは駿河で待機してればよかったのに
義元が輿に乗って歯黒をしてたのをただの公家かぶれと思ってるやつがこれほど多いとは・・・
情報ソースが漫画とか光栄ゲームくらいしかないからな。
>>434 違うの?
ずっとそう思ってたんだけど
wikiにもそう書いてるし
輿は将軍から許可された特権。名門の証として乗っていたそうだよ
信長公記にも義元が馬に乗ってた描写があるぐらいだからな
輿を家柄の証として使っていただけだろう
輿に乗っていたことがある=馬に乗れない
という発想が出来る奴って、
近所のコンビニへ歩いて行く=自動車運転スキルがない
という発想も可能なんだろうな
昨日一日で一気にスレのレベルが下がったな
日本史板で相手にされなくなったからって移住してんなや、この低脳
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 20:48:54 ID:vFtTbwDI
今川義元と聞くと俺は一休さんの将軍様を思い出す、似てるだろ。
新衛門さんは岡部元信か。
442 :
やよい(ヤリマン):2006/11/22(水) 22:22:16 ID:Jm45IjFH
気にしない、気にしない〜、気にしないぃ〜193!
443 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 22:36:21 ID:i2RpkDP6
wikiを真に受けてる奴がいるとは・・・
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 22:37:42 ID:vFtTbwDI
wiiは欲しい。
ははうえさま〜 おげんきですか〜
ユーべつえぇぇぇぇぇ
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/25(土) 22:28:11 ID:b+4Lnnlm
幻の砦、すなわち大高城を囲む氷上砦、正光寺砦、向山砦が
信長公記他に記されていないのはなぜか?
また水野信元はどこで何をしていたのか?
信長公記が世にでたのはすでに徳川時代。
家康のとって不名誉なことは書けるわけがない。
桶狭間合戦に関する記録はみな徳川時代のもの。
今川氏の記録などあとかたもない。
まさか襲撃の直前に、実に都合よく突風を伴う豪雨になったなどと
本気で信じている方などいないでしょうな?
はい。地元にいますから。
・松平が裏切った
・今川軍や農民に化けた
・偽降して騙し討ち
・義元が心臓発作
記録が残っていないのは、史書や資料が改竄、捏造、処分されたから。
ってな感じのはお腹いっぱいですw
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/25(土) 22:48:12 ID:ghpebQe7
陰謀だのくだらない電波説はオカ板でお腹一杯
450 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/25(土) 22:58:42 ID:bWyfWRbw
水野信元は、今川に降参していて、氷上砦・正光寺砦・向山砦に織田方
の兵は居なかった。そうすると、有名な大高の食糧入が、実はたいした
ことじゃなくなってしまうから。
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/25(土) 23:17:53 ID:1dowlYET
氷上砦と簡単に言うが実際はその昔、草薙剣を仮安置した神社だぞ。
軍事砦としての機能も意味も薄い。
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/25(土) 23:31:35 ID:qhE0ctiq
ここは勝者の歴史に洗脳された馬鹿ばかりだ。
当時の緑区周辺の地形を理解してる人手ェ挙げて。
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/25(土) 23:58:57 ID:ghpebQe7
古今、歴史は勝者が作るんですがw
455 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 00:04:14 ID:qhE0ctiq
このときの義元の立場は、信長の朝倉攻めで浅井に裏切られたのと
同じようなものだ。
信長は終生家康に心を許さなかった。
長篠のときも義元の二の舞をおそれ、じっくりと家康の出方をみ、
人質まで徴収している。
敗者がいるから歴史の検証もできるわけで。
義元をもちあげればもちあげるほどそれを打ち破った信長の評価が高くなるだけ
>>446 信長公記を著した大田牛一は信長本隊に従軍していたので、
彼の見聞きした事、体験した事を中心に書かれているのは当たり前の話。
桶狭間の合戦で一番重要なのは義元が討ち取られた事だから、
それ以外であまり重要でないことは省いているとも考えられる。
大高城以南の砦は戦略的という意味ではなく、話を書く点で重要ではなかったのでは。
彼が体験したのは大高城以北、または以東の事。
省かれているのは、大田牛一が従軍していた場所からは見えない砦ばかり。
義元が大高道を信長本隊に遭わずにもう少し進んでいれば、それらの砦も出てきたかもしれないが、
そこまで行く前に義元は討ち取られてしまい話としては完結している。
あまり信長は好きではないですが
桶狭間における、傘下豪族達の忠誠心には本当に感服する。
そういう忠誠を作り出したのが信長だとしたら
桶狭間は、政治力の勝利だと言っていいと思う。
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 08:55:53 ID:rKWxITiv
>>436 例えば島津家久などもお歯黒姿で出陣したんだけどね。
当時は多くの武将がお歯黒など公家姿で出陣したんだけどね。
戦国大名というと勇ましいイメージだが、
実際は地方貴族の一面もあって、
風雅や教養に流れるのはいわば当然なんだが。
武田家とか島津家はその典型だが、
信長も茶の湯や蹴鞠に請ったのは有名だし、
時には輿にも乗ったよ。
島津家久が京都に歌道を習うために上洛した時に
輿に乗った信長の行列を見物した時に
信長は輿の中で居眠りしてたとか日記に記してる。
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 08:56:51 ID:rKWxITiv
あと、あんま関係ないが、
お歯黒は単なる奇習ではなく、
虫歯の予防に効能があるとか。
麻呂は食事中じゃ、オホホホ
ど どうした なに オダが来たと!
オ ダ マ リ !
藤沢マリはかわいいと思うぞ
>>31 休憩中だったから、
織田軍が義元本陣を襲撃するのを気づいていても、放置したと言うのか・・・・
馬鹿すぎ(笑
>>459 信長を見限った連中は既に離反してます。
桶狭間の戦いに繋がる経緯を創り出した山口教継も、その一人。
それなりに信長を認めた連中が残っていたわけで。
>>26 それだったら、今川の陣中に深入りしすぎたということだから、
たちまち、周囲の今川兵に包囲殲滅されるだろう(笑
467 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/13(水) 15:08:55 ID:KPAribNH
桶狭間合戦時、
>>264のように柴田勝家ら、重臣の名前が無いのは、どう考えますか?
太田牛一と同隊にいたのなら、信長公記に何らかの記述があって然りの名ですよね。
1.
>>263の伊勢や美濃に備えていた等の別行動をしていたが、
>>446のように義元討死がクローズアップされているために割愛。
2.本隊にはいたが簗田政綱などと比べると戦功で劣っていたため記述がない。
3.信頼出来ないので当該部隊から外された。
4.信長の命令をシカト。
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| 三| 三シ ヾ三 |三 |
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ト、ニ| <でiンヽ ;'i"ィでiン |三.|
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_, イ | ヽ_ 二=''" _,. -''´ """""´´ ``ー
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'ソノ/ヘi川川Kハヘッ'"~ |::| .:|
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rf三三t=っ |::| .:|
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,'j川'、ヽヽヽ'、',l,l,l,l,l,l,ノノノノィiリハ |::| .:|
ハi、'、'、ヽ'、ミ'、ヾ',i,l,l,i,ツノノリ,川,l,l,'!, |::| .:|
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Xiミミ三,r‐ァ- 、ヾ'、jlli,'ノツ彡≦ソノノj! |::| .:|
メjミミ三〈 / ``'' ー '"´ `ヾ゙',ニl ,ィi |::| .:|
トミミfr'" l| li j三シノ |::| .:|
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ゝ_>! `ヾミヽ、,,_、i ir;'_,,.ィ彡',}シ |::| .:|
彡ト'、 `ヾでラ≧ォi' rf=tiァラ´ }リ |::| .:| 貴様の旅は桶狭間で終わりじゃで
Tfハ `"" 彡| lヾ`~´ ,ツ |::| .:|
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ィシ"〃゙゙''"""""""((ヾミミ川川
,〃_,,. ‖ .r;;;;;i )) ヽン巛川、
〃、(ツ ノ _二-、、 〃 7川川川;、
/ `ヽ ;' ヽ, ' ,_,_,_,、、ヽ( 彡川川川ル
,r'""゙`フ ,ヽ、 ̄ ̄`゙゙' :. ) '彡川川川川
i' / ヽ、 /.. 川川川巛ミソ
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| ノ,=≡≡=、 ::::. ,'川川川巛川
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| リ| |r' ̄`゙'ーヾト、 〃' /´ヽ .i川ノノ
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>>467 あくまでどこかのサイトで見ただけなんですが
柴田も林もどこかに出陣はしていたようです。
ただ、その場所が桶狭間ではなかった、と。
もしかしたら、小説か何かを見ただけかもしれないので、自信はないんですが。
林は別の城か砦の守備に就いていたような・・・
だから信長の意表を突く行動には感知してない。
柴田も同じくらいの重臣だけに、どこかで別行動をとってたかも。
柴田の同列佐久間も別砦を守備しつつ敵本隊を牽制してたから柴田が別行動でも
不思議ではないよな
>>472-474 レスありがとうございます。
具体的な引用史料名は挙がっていらっしゃらないようですね。
やはり当時の史料には無いけれど、どこかに出陣していたと考えるのが自然ですよね。
皆、その後の戦で活躍していますし、軍令違反をしていたら処断されているでしょう。
勉強不足で何か史料に残っていたらごめんなさい。
信長公記
鷲津・丸根攻略へ佐久間盛重・織田玄蕃
善照寺へ佐久間右衛門・左京助
丹下砦へ水野・山口・柘植・真木・伴
当時、林は那古野城を預かっていた。
合戦時に出撃したかどうかは明らかではないが、
信長の直接指揮下になかったことは確実。
田楽坪は桶狭間北二丁目三丁目当たりだと思うよ
田楽狭間が決戦場だったという話は、明治時代に唐突に出現したんだっけ?
480 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 13:00:44 ID:BYG6jrn+
なんで動員兵力や記録について正確、と評価されてる信長公記で
桶狭間合戦の部分だけ今川軍四万とか年号間違いとかが起こってるんだろう?
執筆時にはかなり昔のことだからか?
>>480 その頃は信長公記書いててなかったから じゃね?
あのドラマでは信長死後に書き始めていたし、実際桶狭間の時期には書いてないだろ
その辺はてきとー
482 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 14:39:25 ID:rrhnqGw9
義元に降伏して誓紙をかわすと約束して、おびき出したところを騙し討ち。
BY 明石散人
信長公記の首巻部分は基本的に付けたしなんで、信憑性は他の部分に比べかなり低い。
つか信長公記が動員兵力が正確と評価されてるなんて初耳なんですが。
484 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 15:51:29 ID:NBMev0dk
>>482 しかしながら今川家から信長糾弾の声が上がっていなかったり、
それに類する書状も見つかっていなかったりで架空戦記の域を出ていないという・・・。
まぁ。ぶっちゃけ運の要素を省いたら一番理詰めで説明できるのは
それしかないんだけどね・・
今の所迂回奇襲はほぼ考えにくく、正面突破と騙し討ちが有力?
騙まし討ちが有力ってどこでそんな学説が支持されてんの?
一番理詰めで説明出来るとか意味不可解な事言ってるし・・・頭痛い
487 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 16:51:16 ID:HlXSQCzR
>>486 つーか
・織田方が集団行動を隠密にとっていても今川方に気付かれないぐらいの豪雨の中で
義元の正確な位置を割り出したのか
・窪地だったかなんだったか忘れたけど、近習だけを連れて休憩しててなおかつ他の
隊から救援が容易には来れない位置にわざわざ義元がいたのか
の二点だけとっても流石に偶然で片付けるのは、強引なんじゃね?
今川方は隠密も周囲に放ってなかったの?
を、無知な俺に説明してくれ・・・orz
学説って誰の本?散見しかしてないけど、なんだかそこらへんの説明が妙に
曖昧で分からんのだ。
>>482 騙し討ちという結論に至ったまでの過程を知りたいね。
史料比較や実地検分を相当しないと説得力がない意見になりがち。
>>484 「一番」や「それしかない」って(484の中で)ってのを省略されて断定されると反発したくなるw
>>487 日本語で(ry
そもそも
・織田方が今川本陣の正確な位置を割り出していた
・義元周辺には近習しか連れておらず休憩中だった
・他から救援来れなかった
・隠密って?
ここら辺から説明よろ
490 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 17:06:02 ID:Y2ySDyyE
みんな当り前だが想像でしか書けんのだから
残ってる書物なんか信憑性どうのこうのて‥
どれも分からんだろ実際
甲陽軍艦あたりでも、
「6万討ち取ったは過大だが、凄いことは凄い。」
みたいに書いてあるし
三河物語でもそうだし。
河越夜戦みたいな話もあるが。
等の今川が
492 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 17:25:05 ID:3kIUCE6W
>>489 ごめんね、日本語不自由でor2
1.なんだか信長公記とか信長記読んでも、信長が初めから義元本陣がそこに
いるのを知っているかのような書き方してるじゃない?ただでさえ少人数による攻撃だったの
だから、奇襲をかけるにしてもただの先鋒部隊とかに進撃するかな?窪地に進撃したっていうことは
奇襲をかけるのに最適な場所つまり守るに難い場所、逆に言えば奇襲部隊の退路が無い場所でしょ?
それこそ本陣だったと知っての行動じゃないとあまりにもリスクが高すぎないかなと俺は思ったので質問してみた。
2.ごめん、隊が集結していたわけではなくて、分散していたんじゃなかったのか?と言いたかった。
3.義元が300騎程度で逃げ惑って終には討たれたという記述があり、なおかつ豪雨や奇襲の影響で
今川軍が混乱していたとは言え、義元が討たれるまでに組織だった迎撃部隊の記述が無かったこと
4.忍者って意味じゃないんだ、哨戒部隊って意味なんだ、ごめんね
こんな感じ。
>>492 1:信長公記読んでもらえればわかるけど、公記では義元本陣を知っていたというより、
進撃した先に義元本陣があったという書き方になってるよ。
だから、「旗本は是なり、是へ懸かれ」と御下知あり・・・という文あるでしょ。
逆に甫庵信長記は義元本陣を簗田政綱が発見しているのを書いている(信長公記には記述なし)。
これを知って迂回奇襲策に信長が出るようになってる。
で、義元本陣は信長公記においては「おけはざま山」、甫庵信長記においては「桶“狭間”」と窪地になっている。
そもそも両者は相反する内容なんで、それを混同して話すと会話にならないんだよね。
現在主流?というか露出多いのが藤本氏の唱える正面突破説で、
それは信長公記を主体にし、甫庵信長記は全く採用していないんですよ。
で、君の書き方だと甫庵信長記を主にしてるようなので答えると、甫庵信長記では
信長は義元の本陣を知っており、義元本陣が窪地で宴会中だったんで奇襲が成功したという解釈になってる。
これは千載一遇のチャンス(宴会自体が織田方の謀略っつー話もあるけど)で、信長から見れば
十分勝算あると踏んでいたと考えられるよ。
2:甫庵信長記で言うなら義元本陣宴会中、信長公記で言うなら「水を捲るが如く、
後ろへくわっと崩れなり」。両者とも分散していたという表現は無いですよ。
3:これは2を読めばわかると思うけど、組織だった迎撃する前に崩れてる。
4:哨戒部隊の活動はよくわからないが、迂回奇襲説にしろ、正面突破説にしろ、
大高城にいた松平元康他の今川勢は全く動きが無い事や、佐々隼人・千秋四郎以下三百程が
今川勢に向かって行き、両名含む50人程討ち死にしたとある事から、
さほど厳重な哨戒を行っていなかったと考えるほうが良いかと。
俺的にも終局の展開、織田軍の退路に一番興味があるな
ドラマじゃないが、最後から逆算すれば事実が見えてくることが多い
495 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 18:34:00 ID:hxsyy17/
>>493 詳しいレスありがとうございます。
厚かましいにも程があるとは思うのですが、更に質問よろしいでしょうか?
1に関して言えば、「山はねぇだろう・・」という勝手な主観と、桶狭間古戦場伝説地
が沓掛城と鳴海城の間にあり(ややずれていますが)、義元の墓があるということでしたので
窪地説を採りました。誤解を招く文章でした。申し訳ないです。
1から4までを通して疑問なのですが(というより多くの人が提示している事なのですが)
組織だった迎撃が出来ないほどに油断していて、哨戒もさほどせず、宴会(流石にこれは・・・)
をしていて、奇襲に適した地にたまたま義元がいたというのが正直おかしすぎるのではないかと
思うのですが、これについてはどうお考えでしょうか?
信長方の小姓や武将も多々討ち取られていることも考えて、退路はどのように設定していたのでしょうか?
迂回にしろ突破にしろ、いちかばちかでやったら結果オーライだったというのも十分に考えられるのですが、敵陣の密集地帯から
の離脱に関して私は書物から読み取ることが出来なかったので、御意見をお伺いしたいです。
お時間があれば、お願いします。
やっぱり勝因は雨じゃないかな。
雨がなければ迎撃の態勢を十分取れたと思う。
木が倒れるくらいの豪雨だから2,3百メートル先までしか視界が取れないんじゃないかな
雨がやんだと思って前を見たら、いきなり目の前に織田の軍勢2千もいればそりゃびびるって
雨で双方の視界が遮られているが、その前段階として織田軍は一方的に相手を探知し接近していた。逆に今川軍は無防備が続いていた
雨は戦果拡大の一因だが、決定打は信長の独断的な敵中突破だろう
そもそも突撃可能な地点まで接近してなけりゃ雨が降ろうと関係無いか、逆に足を取られて停滞して行動が制限されていたはず
498 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/13(土) 11:49:32 ID:mAm2pb7d
結局、義元は周りから嫌われていたんだよな。
敵討ちの話が全然挙がってこない。
よって、裏切り者説も有力かも
今川からすりゃ兵力差を考えたら信長は篭城するとの予測に基づいてのものじゃないかな
先発の先鋒からは良い報告の連発だし、本陣を襲われるなんて夢のまた夢、完全な想定外だったろう。
今川からすりゃ、あり得ない後詰めを襲われたまで
朝比奈泰朝だったかな?
義元の首と引き換えにするまで踏ん張った武将もいたじゃないか
つか、義元だけじゃなくて近臣層にもかなり打撃を受けてたから、仇討ちしたくても戦力が整わなかったんじゃ?
松平氏の独立だって傍観せざるを得なかったんだし
>500
岡部元信だなそれ。鳴海城を陥落させてたが、義元の首を要求してそれと引き換えに城を返還した。
ついでにうちも500の意見に賛成。
仇を取ろうにも、まず義元が討ち取られた事で全軍に動揺がある。
そして先鋒部隊の一角がそれまで無理矢理抑えつけてきた松平勢だということ。
また武田・北条と同盟を結んでたとは言え、次期党首である氏真の器量を考えれば攻められる可能性は十分ある。
現に仇討ちが出来なかったとは言え、あっさり同盟を破棄され武田に侵攻されている。
義元がいきなり討ち取られた大混乱の中で、何とか本国に退却するしかなかったんだろう。
502 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/13(土) 13:44:46 ID:bKt75v9Q
信長公記と信長記では資料としての価値が全然違うんだから引き合いに出す神経がわからん。当時の合戦は朝早くに始めて夕方に終わる。信長が戦場に現れたの昼の2時だぜ?織田方の動揺がかなりのものだったと。信長公記よく読め
503 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 11:22:00 ID:HuQkKwME
たぶん武田と内通した奴ばっかりで仇討ちできなかった。
(今川勢が)鳴海城を陥落させてたって?
桶狭間合戦の少し前に、織田勢が奪回していた鳴海城を今川勢が再奪回していたということ?
>>505 いや、質問じゃなくて、突っ込みのつもりだったんだが。
まぎらわしかったか。
鳴海城は織田方だった豪族・山口氏の持ち城だったが今川方に寝返り
その後その山口氏が粛清されて、今川の岡部元信が入る
それを織田方が付け城で封鎖したのがそもそもの今川本隊出撃の理由
戦国時代の典型的な合戦だった、拠点への攻撃とそれに対する援軍の激突である「後詰合戦(あるいは決戦)」だったのが桶狭間合戦の基本構造
仇討ちは氏真が却下してたはず。
理由はたぶん500の通り。
509 :
にゃんこ:2007/01/20(土) 21:55:03 ID:obL1whKH
尾張はちょいと経済大国だから、半国でも大きい。おそらく、この時点の、
織田対今川の経済力は、1対2程度だろう。織田方は、防衛戦だから、補給
などあまり考えずに、大動員をかけやすいし、志気も上げやすい。
今川はその逆。だから、戦闘力の差は、1対2よりももっと小さくて、
織田は今川の7〜8割程度はあったのではないかな。この程度の差なら、戦術と
運で逆転はありうるよね。
510 :
にゃんこ:2007/01/20(土) 22:03:04 ID:obL1whKH
480>
1,どうせ正確な統計なんか無いんだし、数学合理的な戦術の可能な
組織や連絡手段も無いんだから、兵数ははったりでええ。
2,正確な統計から正確な兵数を把握して、数学合理的な戦術
1から2への進化するものだが、戦国時代は、この移行期の初期。だから、
ぬるい検地から、厳しい検地へと移行する戦国時代末期から、やっと統計が
正確になりはじめたんじゃないかな。桶狭間の頃は、ぬるぬる検地だろうさ。
511 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/21(日) 02:32:27 ID:MEMz/3xb
>>509 織田は美濃と伊勢からの防御もしないといけないので、今川にあまり兵力を裂けない。
一方の今川は、攻め手なので確かに守りほど大量動員はかけられないだろうが
三国同盟で守りを気にする必要は若干少ない。
しかも、柴田や林は後陣の各城の防衛で、前線には使えない。
実際に使えた戦力は本当に少ない。
512 :
にゃんこ:2007/01/21(日) 09:07:09 ID:RCh4eaFX
それは、
1,各「前線」(対美濃方面・対伊勢方面・対三河方面)の間の距離が遠く、
2,各方面の敵が、常備軍を前線に配置してあればの話。
当時は常備軍なんか極少だから、多くを主戦場に割ける。
ただ、戦国時代は、農民等の反乱も多いから、多くの城にも待機兵力が必要
だが、それは今川方も同じ。
513 :
にゃんこ:2007/01/21(日) 09:11:16 ID:RCh4eaFX
戦国時代も末期になって、検地が厳しくなり、やっとまともな社会統計が
でき、兵数も正確に把握できるようになった。
桶狭間の頃なら、源平合戦の頃に毛の生えた程度の「統計」しかなかったろ。
兵数の記録は信用できんな。
何のために今川義元がかつて殺しあった武田北条と同盟したのかと
信頼できない、の一言で現存する史料全てを否定するのは勝手だけど完全信用の裏返しの極論に過ぎないな
515 :
にゃんこ:2007/01/21(日) 11:11:11 ID:RCh4eaFX
今川は、「国境」の端から端が遠い。しかも、遠征だから、同盟は必要条件。
対織田と、対北条の二正面作戦は不可能だ。
しかし、織田は、距離から言って、侵入してきた今川を倒してから、
侵入してきた斉藤を討つことは、難しいが可能だ。まして、常備軍でない、
斉藤軍の動員は遅い。つまり、織田と斉藤の同盟は、十分条件だ。
516 :
にゃんこ:2007/01/21(日) 11:13:31 ID:RCh4eaFX
人口統計もなく、整列もできない人々を、どのようにして、計る?
今川は織田の10倍にも及ぶ大軍を動員
北の斎藤氏と織田は元々中が悪く、西の伊勢一向衆は今川と組んで尾張を攻撃
普通に考えれば信長大敗してるのにな
518 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/21(日) 21:11:11 ID:hqPXW1dG
桶狭間の戦いを現代に例えると、
ニッポン放送(今川) vs ライブドア(織田)
とか
阪神電鉄(今川) vs 村上ファンド(織田)
ぐらいの戦力比があった。
また領地以外に、今川はブランド的(ネームバリュー)な強みも、織田を圧倒していた。
>>518 阪神よりかは村上のほうが強くないか? まぁ実は互角ぐらいという点は合っているが・・
今川義元は当時としては先駆的な領国全域の検地を済ました国力の大部分を掌握した大名
信長は尾張統一も完遂しておらず、多くの土地は支配地に入って間もない程度
後世の石高ならともかく、当時の実質動員力でそれぐらい差がついてもおかしいとは思わないが
おまけに一向衆とかまで今川方でしょ。完全に戦略では義元が必勝
戦術的勝利で戦略的不利を覆した稀有な例
522 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 15:09:23 ID:bteSKvES
実は、明治時代の軍隊が訓練として何度も旋回戦を実行したけれども、一度も成功しなかったと記録が残っている
>>522 そりゃ今川役のほうが織田軍が来ることを知ってるし
524 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 14:34:24 ID:TXzUFgBH
日本三大夜戦て検索したら、桶狭間の戦いが含まれてた。
夜戦だったのか?
朝から昼にかけての戦いだと何度言えば
だろ?
だからなんで夜戦扱いされてるのか、わけわかめ
誰が言い出したんだろ、日本三大夜戦て。
前哨戦の丸根・鷲津砦の戦いならともかく桶狭間自体は
一般的には昼飯食ってるときに突入したことになってるはずなのに
紀州線ならわからんことはないが
>523
ということで、秘密裏に移動することが成功の秘訣になりました
まあ実戦でも、なかなか成功できなかったようですが
実は桶狭間の合戦というのは今川軍VS織田軍ではなく
今川軍VS尾張国民の総力戦だったわけで
義元が宿泊や休憩に使った寺にしても
織田のために必死で引き止めて足止めしてるわけですがな
531 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/09(金) 01:17:03 ID:i9lqRWjC
結局、なぜ織田本隊が他の部隊に発見されることなく今川本陣まで来れたのかは
議論されてないね
そう織田隊は正確に義元本陣を突いている。いかに雨中とはいえ何故二千の軍隊を
今川前線は察知できなかったのだろうか。
534 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/09(金) 18:19:28 ID:riJUd6k2
気付いてた味方の部隊も
氏ねよ義元ってことだろ
上のほうであった東海道説にある程度納得できるが…
鳴海城の岡部軍をかわすには海岸線を進軍しなければならない
天気は晴れ、旧暦の5月…霧でも出ていたのだろうか
>535
海岸線とは鳴海城の南でしょうか?
私は丹下→鳴海城北→善照寺だと思っています。
霧の記述はないので、信長が丹下砦から鳴海城に進軍してきた時、
岡部は見えていたけれど専守を決断したかもしれませんし、
攻めるかどうか思考半ばに信長が通りすぎていったかもしれませんし、
義元に伺いと立てているうちに善照寺に入られたかもしれません。
理由は謎ですが、「鳴海城から出てこなかった」ということだけは、
信長公記に攻め寄せてきたと言う記述がないことではっきりしていますね。
鳴海城から出て来れるぐらいだったらそもそも
義元が尾張まで来る必要は無いって
今川の出兵目的の一つは織田軍の砦によって包囲された鳴海城大高城の解囲
鳴海城から出撃しなかったんじゃなくて出撃できなかっただけじゃないか
丸根・鷲津大高方面からの今川軍の出撃が無かったのは信長の行動が速過ぎたのと
既に昼間になって戦は無いと思っていたこととかもあるだろうけど
地理的に反対斜面で直接動きが見れたわけじゃないし、
丸根・鷲津と善照寺間は川&湿地帯及び海岸沿いと言う地形に大雨で
信長の動きを捉えていても迎撃できる位置じゃ無かったのでは?
540 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 07:27:20 ID:Wsn+jndK
氏豊じゃねいの?しらんけど
541 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 07:28:02 ID:Wsn+jndK
鳴海城から岡部隊が出てきたら、織田隊は鳴海を獲るチャンスじゃん!
…スルーでいい?
544 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 22:11:14 ID:YBvQ/mVu
義元は夕方に大高城に入ってから翌日からはどんな戦略だったのだろう??
大高城から鳴海城に入り尾張東部の征圧戦に乗り出して織田主力が来るなら
戦うつもりだったのだろうか
545 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 12:41:13 ID:uSDlJn+5
>>544 もちろん、織田と雌雄を決するつもりだから、自身出馬したんだろう。
546 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 02:03:49 ID:XXupo6NN
まあ一般的に想像されてるほどの戦力差がなかったことだけは確かだよな
547 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 09:23:56 ID:ckqjRi30
>>546 >「まあ一般的に想像されてるほどの戦力差がなかったことだけは確かだよな 」
ということが不確かだということだけは言えるw
“一般的に想像されてるほどの戦力差”なんて曖昧なものに、
統計や参照もださずに“確かだよな”とかいわれても誰も納得できないと思うんだ。
548 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 13:45:10 ID:o8ajVfHe
>>547 君の脳内設定の一般が不確かだということだけは言えるw
549 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 14:16:15 ID:Id6yncvw
戦力差が少ない=織田軍が大軍だったらどうやって今川軍前衛に気付かれないようにその陣地をすり抜けたんだ?
至近の鷲津の朝比奈勢が反応しなかったほどなんだから、むしろ二千より少ない可能性すらある
550 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 16:13:23 ID:ckqjRi30
>>548 546の人ですか?
一般的に想像されてるほどの戦力差を不問にしても、
なぜ戦力差がなかったのかがわかりません。
理由が書いてないから。
一番わからないのは理由も書かずに、
「確かだよな」と言いきる自信がどこからくるのかという事ですw
551 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 20:19:22 ID:7fo+10vX
>>550 お前が挑発的な文章書くからイカンのじゃね?
普通に疑問を指摘すればいいのに
尾張一国と三遠駿の石高比較だろ。常識的に考えて
553 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 22:42:41 ID:ckqjRi30
“世間では”、“一般的に”、“普通に”、“常識的に”、“基本的に”等を使用すると、
マイノリティによるひとりよがりな意見でも、まるで多数派(支持されている)の様に見え、
更にそれは自分の意見ではなく、世間一般の意見なので責任まで回避できてしまう魔法の言葉だと、
世間一般的に広く、常識的に考えて、そう言われていますねw 普通にw
554 :
人間七七四年:2007/02/27(火) 02:29:24 ID:uPcvJir/
元康が軍令違反となることを相当恐れていたというが、それは人質だったからではなく、
家臣全体が軍令違反となることを恐れていたと考えることも出来るかも。
それならば命令にない行動をしようとするときはお伺いを立てないわけにはいかないから。
555 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 20:21:27 ID:H6IFKeay
正面衝突はそうだとして、やっぱり雨は降ってたのかね?
556 :
にゃんこ:2007/03/13(火) 21:51:53 ID:3U9LDAna
58年に信長は、ほぼ尾張を制圧している。
尾張は太閤検地では57万石だったらしい。戦国時代は100年で2倍になったらしい
から、その30年ほど前だから、8がけして46万石ぐらい。一部が今川方になったり
一向一揆が軍役拒否したとして、また8がけしたら、37万石。
今川は3カ国で70万石代プラス尾張の一部。それに8がけして、70万石ぐらい。
経済力にて2倍くらいの差。そして、今川方は、遠征だから、1万石あたり250人
ぐらいの動員が限界だが、織田方は、惣村の協力の得やすい防衛戦だから、1万石
あたり300人以上は出せる。
総兵力の差は2倍以内。
そして、今川は、主力を分散させてしまった。一方、織田は、西や北の「国境線」まで
近いから、西や北に大軍を置く必要は無い。警戒兵力で十分。
織田信長の勝因は、典型的な内線作戦による各個撃破に成功したこと。決勝点である
桶狭間山では大した戦力差は無かったろう。
偵察のミスなど戦術的な失敗はたくさんあっただろうが、「内線作戦による各個撃破」
という戦略を良く理解し実践できたことはすごい。
天候も大きいが、天候を勝利に結びつけられるのも戦略的に正しいからだ。
557 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 09:25:45 ID:YfMPbKps
いやぁ、西側から今川と通じた伊勢一向衆が攻めてきてることも知らない無知をベースに長文で語ってくれて乙
でも散々否定されているんだよねその論法
558 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 19:28:10 ID:xmXKdxvn
今川は自領(間接支配下の土豪の領地も含めて)全域に徹底的な検地を実施している。
その精度は太閤検地を上回る完璧といってもいいものであり、領内の生産力を掌握しきっている。
一方、内紛が続いた織田領は、尾張の半分を支配していたに過ぎず、農地の掌握も杜撰。
織田勢への寄与生産力は、太閤検地時のデータの四分の一もあったか怪しい。
また、尾張攻めにおける今川軍には兵力分散があったことは確かだが、
全体的な兵力がより少ない織田軍にも兵力分散があった。
桶狭間でぶつかった決戦では兵力差はそれほど無かったことにしたがるのは、
事実と向き合うことを拒絶したこじつけ。
戦いというものは必ずしも机上の計算通りに運ぶとは限らないことが理解できない輩は絶えないが。
559 :
にゃんこ:2007/03/14(水) 22:03:58 ID:InwmZIHu
557>
せめて、内線作戦と各個撃破いう言葉の意味を調べてから反論してくれ。
558>
今川の検地は、「差し出し検地」ですよ。つまり自己申告。しかも、末端の
農民ではなくて、中小領主によります。後の丈量検地と違いますよ。
今川義元の内政能力如何よりも、実測による丈量検地のできる時代じゃない
でしょう。それができるくらいなら、兵農分離ができて、城下町への全兵力の
集住ができますからね。
すでに書いたが、織田信長は58年に岩倉城を落として、尾張の大部分を
制圧してますよ。「尾張半国」なんてのは、講談ネタか軍記物じゃないですかね。
560 :
にゃんこ:2007/03/14(水) 22:12:41 ID:InwmZIHu
558>
実戦は、机上のプラン通りにはいかないのは当然だが、勝因は必ず兵理に
かなっている。
「少数で多数に、桶狭間で突っ込んだ」なんてのは、ゲーム上でしか、ありえんよ。
それこそ、机上のプラン。体制の違う、奴隷兵対市民軍や、封建軍対近代軍でもない限り、
これでは勝てん。
兵理にかなった桶狭間の戦いは、
「主力を分散してしまった今川義元の本陣を、桶狭間山にて戦力差の少ない織田方主力を
当てて勝った。」
これなら兵理にかなう。よく似たことを、ナポレオンもフリードリッヒ大王もやっている。
561 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 22:39:09 ID:7EGLG2HO
局地合戦を語るには、まず現地を歩くのが大事だと思いますが、皆さんは桶狭間に足を運んだことがありますか?
行った事のないのに語るのはリアリティがないというか何処かが欠落した机上の空論になりがちですね。
当時の地形を3Dにおこすのが好きなので、いずれ桶狭間のデータも集めたいです。
562 :
にゃんこ:2007/03/14(水) 22:52:47 ID:InwmZIHu
信長公記によると、桶狭間じゃなくて、桶狭間山。
ただし、一級史料「信長公記」だが、兵数は怪しい。差し出し検地の段階では、
人口も兵数も「自己申告」だからだ。信長自身も、桶狭間山の決戦兵数に
ついての正確な数字は知らなかっただろう。なにしろ、配下の国人や地侍の
「自己申告」の合計なんかアテにならんから。
なお、兵数=戦力ではない。
563 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 23:25:26 ID:7EGLG2HO
>>562 信長公記に桶狭間山とあるのは知っていますが、桶狭間山では所在に諸説がありますので特定は難しいですよね。
それを踏まえて桶狭間を広域の、戦場であったろう辺り一帯を指す言葉として使ったのですが、
もし桶狭間山を完全に特定しているのであればご教授下さい。
564 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 23:26:45 ID:pFGzBQcs
>奴隷兵対市民軍や、封建軍対近代軍
…こ、これは、ゲームオタ臭がきつすぎる…
つか、”奴隷兵”って、具体的にどの時代の軍隊さしてんだろ??
565 :
にゃんこ:2007/03/14(水) 23:36:57 ID:InwmZIHu
564>
たぶん読み間違ってるよ。君。
563>
あっそう。だったら、桶狭間一帯などと表記してくれたら理解しやすいね。
桶狭間山がどこかは知らぬが、今川方からは見晴らしが良さそうだな。
奇襲説は不利だよね。
566 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 23:59:19 ID:pFGzBQcs
>>565 うほ、答えに詰まるところはスルーか!?
ナポレオンでてるけど、イエナ・アウエルシュタットの戦いとかどうなの?
567 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 00:01:26 ID:7EGLG2HO
>>565 レスありがとうござます。桶狭間の合戦及び、地形に詳しくない方のようですみませんでした。
どこかもわからないのに色々わかってエスパーにゃんこさんですね。
568 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 00:08:10 ID:ceDrrDQm
にゃんこ大人気に嫉妬しちゃうwwww
569 :
にゃんこ:2007/03/15(木) 00:13:13 ID:NPZccZtX
566>
やっぱり読み間違ってるな。「常に各個撃破した」などとは書いてないぞ。
「各個撃破したこともある」と、書いたんだよ。
3回読め。1時間たって落ち着いてから、もう3回読め。落ち着けよ。
567>
軍事は努力よりも才能だそうですなハハハ。ミクロでマクロに反論するのは無意味な
ことだな。
570 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 01:10:38 ID:Mmd6i8a/
>>569 佐久間重盛とか信長は各個撃破されちゃってたほうじゃない?
しかしアウエルシュタットってダヴーがガチンコで二倍の敵を撃退した戦いなんだけど…
遭遇戦や野戦の場合、イッソスとかカンネーとかザマとか
軍の絶対多数よりも優秀な指揮官と士気錬度の高い兵士が勝利に貢献したことが多いよ。
フリードリッヒ大王の斜行戦術なんていい例じゃない??
とにかく指摘したいのは、あなたの歴史認識おかしいよ? ってところですよ。
そんな人に指南されても、ちょっとねぇ…
…でもね、あなたのね、「勝因は必ず兵理にかなっている」って
臆面もなく言えるところがね、萌えますね。
571 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 02:32:46 ID:9iKIhrW3
>>570 そうとも限らない
そういう名の残っている戦いは、
記録に残る戦い(歴史上重要な戦い)か
記憶に残る戦い(奇跡とも言えるような鮮やかな戦術で勝った戦い、ライバル同士の戦い)の二種類で、
名の残らない戦い全てを網羅しているわけではない
あと兵数を多くってのは、兵の質とそれを維持できる物資・国力あってこそ、というのは前提ですよ
572 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 05:38:14 ID:9Bwvrrte
>570
正直
>軍の絶対多数よりも優秀な指揮官と士気錬度の高い兵士が勝利に貢献したことが多いよ。
この一文についてはあなたの認識のほうがおかしいように思う
基本的に多数のほうが絶対的に有利なのはそれこそ戦史を漁っていけば明白だろう
それでも少数が勝つ場合っつーのは
多数の側が何か重大なミスを犯すか
少数の側が優れた戦術を、適切な地形・軍の錬度・政治的状況などに基づいて、巧みに遂行した場合がほとんど
そりゃまぁ、極稀に勝敗を分けた原因がさっぱりわからん戦ってのもあるにせよ
「勝因は必ず兵理にかなっている」というのは基本的には正しいと思うが
573 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 16:34:06 ID:Mmd6i8a/
>多数のほうが絶対的に有利
いや、ソレは否定してませんよ。
>>560をふまえて、
あくまで野戦遭遇戦という限定的条件下の認識ですよ → 指揮官兵の質の有利さ
>多数の側が何か重大なミスを犯すか、少数の側が優れた戦術を、
>適切な地形・軍の錬度・政治的状況などに基づいて、巧みに遂行した場合がほとんど
桶狭間はそれにあたるのでは???
574 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 22:24:59 ID:9Bwvrrte
>573
ならば、桶狭間も十分に「兵理にかなっている」戦になるわいな
575 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 00:54:03 ID:eOlrLcY8
「勝因は必ず兵理にかなっている」の必ずっていう言葉の重みをわかってないよな
576 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 02:20:33 ID:iR+Qua+n
>>574 >「少数で多数に、桶狭間で突っ込んだ」なんてのは、ゲーム上でしか、ありえんよ。
>それこそ、机上のプラン。体制の違う、奴隷兵対市民軍や、封建軍対近代軍でもない限り、
>これでは勝てん。
遡って見てくれないんで
>>560引用しましたが、
>>566>>570はこれに対するツッコミですよ。
で、にゃんこさんはどうみても歴史史実をよく調べてないようなんですけど、
こういう人が「勝因は必ず兵理にかなっている」と言い切る態度に”萌えてる”わけで
言葉自体を否定なんかしてませんよ。
…にゃんこさんには独自な理論家として精進していただきたいものです…
577 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 02:41:21 ID:k7qtvl9i
とりあえず今川方から見れば大高城の後詰戦なわけだが織田方から見れば
鷲津丸根砦の後詰戦なわけだ。
小説なんかだと信長が鷲津丸根砦をわざと見捨てたような書き方が多いが、今川方への
寝返りが続出しかねないこの状況下でそれは有り得ない。
従って本来なら鷲津丸根砦と中島砦間の平野部が決戦場になる可能性がもっとも高かった。
今川方も織田方も最初はそのシナリオ前提で作戦プランを立ててた筈。
砦前面が決戦場として想定されてるなら義元隊が桶狭間村近辺に布陣していたことの意味がわかる。
決戦生起時に東海道沿いに駆け上ればまさに織田勢の左側面から後背を突ける位置なわけだ。
つまり義元隊の位置付けは伏勢だったと考えられる。
さて、織田方はちゃんと砦守備隊の諸将を助けるつもりだったが結果的に間に合わずに
早期に砦が落ちてしまった。
この時織田方がどう考えたかが真相を探る鍵になる。
信長公記ベースに考えるならこの時中島砦において信長は義元隊と鷲津丸根砦攻城部隊が別だとは
考えていない。まさに攻城部隊が義元自身の指揮する全主力という認識だったと考えられる。
大高城解囲に成功した今川方が翌日鳴海城解囲に移行してくれる確証があるなら問題はない。
織田方は既に主力を結集できてるわけだから今度は砦群と連携して有利な決戦を挑める望みがある。
問題は今川方が大高解囲だけで引き上げる意図だった場合で、これを見過ごすと結局鷲津丸根を見殺しにした
形のみが残ることになる。
この時の織田家統制の不安定さからすれば一戦して敗走する事よりも戦わずに終わることの方がリスクが高い。
したがって今川方がもしそのまま撤退する意図だったとしても確実に捕捉して一戦する方法を
見つけなければならない。
となればまず東海道を下り、現在大高緑地となってる山岳部を回り込んで大高道沿いに攻め上る、
つまり想定される今川勢撤収路を逆走する形で機動するのが最良となる。これなら仮に今川勢が
撤収する意図なら退路途中で捕捉できるし、動かない意図だったとしても大高城前面で確実に
捕捉できる。大高城前面での遭遇になったとしても今川勢は中島砦方面に向けて布陣してる
可能性が高いから側面を突く形で有利に戦える見込みも高い。
問題は今川方に陥ちた両砦の櫓からの観測で中島砦から東南への機動を悟られる場合だが
幸い折からの雨で視界が悪化してる。
ということで東海道を下っていったわけだが、これはまさに義元隊(伏勢)が織田側面を突くべく行軍する
予定だったルートを逆走する形であり、必然的に義元隊布陣地に行き着く。兵数的な今川方主力はあくまで
織田後詰勢と正面からぶつかる予定の攻城部隊であり側面打撃前提の義元隊兵力はずっと少ない。
で、結果は周知の通り。
ま、あくまで仮説だが両軍が戦理に沿った合理的判断を重ねたにもかかわらずにああいう結果に至る
シナリオの一例として。
578 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 05:36:16 ID:iR+Qua+n
>>577 >早期に砦が落ちてしまった。
丸根砦の佐久間大学は門を討ってでて全滅したんよ。もともと篭城する気ない。
主力も善照寺あたりにつくまで諸城砦の兵士を集めてるし、
どうみても野戦での短期決戦狙ってるようだけど、
”砦を使った有機的防衛”を考慮してた当時の資料はあるかな??
しかも義元の率いていた本陣は五千人はいるのに、
直前にわざわざ遊軍つくって2千人程度に減らしたのはなぜ??
これって”戦の常道”に反してるけど、他の部分は兵理にしたがって判断した、というの??
579 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 13:07:14 ID:ruVD7zF6
戦理を無視したアドリブだからこそ、戦理に外れた結果を呼び起こしたんだろう
普通にやってたら二万五千(+伊勢一向衆)対せいぜい三千かそこら。勝負にもならん
580 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 01:28:13 ID:FC902EVP
甫庵説最大の問題は部隊を潰走させれば指揮官が必ず戦死する前提になってるところだな。
数千人も引き連れて隠密行軍やら山岳部をありえない速度で行軍したことになってるのも無茶だが
仮にそんなことが全部可能で奇襲効果だけで義元の部隊を敗走させられたとしても
それで義元が戦死してしまう確率は微少。戦国期、大名直率の部隊が敗走に追い込まれる例は多いが
それで戦死してしまう例はむしろかなり少ない。
もちろん可能性はゼロじゃないが実際のところ1割以下の見込みだろう。
初めから「義元の首だけを狙って」というのはどう見ても結果から逆算した創作だな。
牛一の方にはそんな話は全く無いし。
たとえ義元の部隊だとわかって攻撃したとしても今川勢の一部隊を敗走させる以上の結果は
ほとんど期待できない。他方面でも同時に攻勢があるのなら一時的な指揮機能麻痺の成果を期待できるが。
義元を戦死させられない前提で、それでも意味があるから攻撃したと考えるのが妥当だな。
581 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 17:10:38 ID:0beG8Z67
なかなか面白いスレなので、揚げ。
582 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 19:24:48 ID:fi+HpPut
大将がやられたとしても兵力で信長を倒せるはずだが・・・
583 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 22:03:47 ID:7/XlwZsD
そうだよな、二万五千の兵で包囲すりゃ全滅必至
584 :
人間七七四年:2007/04/08(日) 18:13:24 ID:z1AWtHU5
誰が総指揮を執るのかが問題だ。
事態を収拾して指揮系統を再構築するまでに、現場のNo.2も戦死。
更にNo.3もNo.4もNo.5も戦死してしまったようなもの。
585 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 21:29:19 ID:GlzONay7
人間50年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり…
586 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 22:46:51 ID:uZKKyiAz
そういえば謙信も50を目前にして死んだらしいね
587 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 22:22:14 ID:IkAloi7X
来月くらいに桶狭間古戦場祭かな
588 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 05:46:13 ID:Sy3mtYyr
猿「うはwww殿ww義元は桶狭間にて休憩厨www」
うつけ「うぇうぇwwktkrwwwおまいら突汁www」
猿「mjskwwwおkwww」
勝家「テラみなぎってきたwwww」
今川兵「ちょwwwマロタソもちついて聞いてwww」
今川兵「うつけ奇襲部隊キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!」
義元「はいはい釣りだろ?マロスワロス くるわけないだろ・・・常識的に考えて」
織田兵「kskwwwkskwwww」
義元「ク・・・クマー?」
今川兵「あぼーん」
織田兵「kskwwwkskwwww」
毛利新助「フヒヒwwwサーセンwww」
義元「ナンテコッタイ俺オワタwww」
信玄「今北産業」
農民A「義元の首うpキボン!!!」
農民B「うpもなしに凱旋とな?!」
589 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 14:04:34 ID:WjvDMW7Q
田楽狭間だよ〜ん
学校でウソを習ったよ〜ん
590 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 18:32:27 ID:Sy3mtYyr
桶狭間と田楽狭間が全然違う位置にあるのは、散々既出
591 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 08:07:32 ID:WITrKDJ8
否定されまくりの奇襲説は事実かもしれない
信長公記には、いくつか内容が違う異本があり、そのうちの一つが甫庵の書いた内容と酷似している
この版の記述が真実だとすれば、甫庵は創作をなしたわけではない
592 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 11:12:58 ID:uoruW1IW
織田から見れば正攻法
今川から見れば奇襲
それだけのこと。
593 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 21:01:55 ID:nNM9NCDP
今日の歴史が動いたは桶狭間
594 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 22:06:30 ID:lx1EOhMB
NHK
595 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 22:38:28 ID:BgHgAdaY
何か先日のTV東京のパクリのようだ。解説の静岡大学の教授も同じ
人だったし・・・・・。
596 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 22:51:18 ID:fkW63nMK
大将が死ねば終わりだよ
1つの国家のような意識がないんだろ
大名はその周辺地域の有力者の盟主的な存在だから
盟主が倒れれば盟主を頭とする同盟関係は解散だな
597 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 23:02:02 ID:fkW63nMK
今川家 何某家 何某家 何某家 ・・・
とそれぞれが各地域の支配者であり、おのおの独立した勢力で
もっとも力のある今川家がそれらを束ねているだけで
各勢力は今川家ではない。今川家が滅べば、残った勢力はみな対等の立場でフリーになる。
後の信長軍団はもっと近代的な軍組織だけどな。
598 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 23:04:51 ID:9obG5ibF
今川義元みたいな、当時の超大物が討ち取られたら
パニックになって雑兵は散り散りになるわなw
599 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 23:10:10 ID:fkW63nMK
関が原を想起すればわかりやすいよ
東軍大将の家康が死んでれば、東軍は解散していたはず。
ああいう感じの緩やかな連合組織にすぎんのよ今川軍は。
600 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 23:12:17 ID:z5jYYBDZ
>>597 近代的ってのがどうにも納得いかないな
ようするに、信長のは官僚制だろ。
そんなの太古の昔からあると思うが。
601 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 23:21:26 ID:9obG5ibF
>>599 真田信繁も、大坂の陣で大逆転するには家康の首をとって、秀頼を出馬させて
徳川の外様諸大名を豊臣に寝返らせるしかないと思ってたらしいしね
602 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 23:56:45 ID:skPGK5IZ
NHK見てたけど、桶狭間で乱取りしてたそうじゃねーか、今川軍は。
603 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 00:19:27 ID:pWZUVR3R
今川軍の弱点がクサビ一本でほころぶ連合組織の緩さだと見切ったからこそ
信長は同じような組織でぶつかれば数で負けるとみて
2千の精鋭軍をぶつけたんだろうきっと。
604 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 00:23:02 ID:pWZUVR3R
ようするにあれよ
大きな岩に、中くらいの岩でぶつかっても
小さいほうが砕けるだけだが、小さくても固い固い鉄のクサビでなら
岩を砕けるというような発想だろう。
信長はすごすぎる。
地の利に勝ったものが勝った。そんだけ。
606 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 00:31:55 ID:LZILHb/D
>576
>「勝因は必ず兵理にかなっている」
勝つのに理由は要らない。勢いや敵失だけで勝ってしまったりするもの。
よって勝因が兵理に必ず適うとは限らない。
だが逆は真である。
負けるのには必ず理由が有り兵理に背いているものだ。
半可通だ罠。ぬこ。
607 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 00:40:18 ID:pWZUVR3R
あれは必然的結果だろう
10回やれば8回は信長が勝つくらいの
雑兵を切り捨てて精鋭を選りすぐり研ぎ澄ました部隊の貫通を
ゆるゆるの今川軍は押し返せないだろう。
信長がそのクサビを打ち込む場所を見誤るとも思えないし。
608 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 10:07:58 ID:/rYZnhyI
当時の兵站能力で、万を超える人間に補給を与えるのは不可能に近い
分進合撃は当然の策。ってか他にやりようも無い
609 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 11:50:45 ID:jcP3KcWO
現在迄に名が判明している信長の配下はどれぐらいいるのだろう
総て挙げられる程少ないか
はたまた挙げられない程多いのか
610 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 12:00:07 ID:lUEmMptU
スパルタは300人の精鋭でローマ軍100万を撃退した。
上には上がいる
611 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 12:17:16 ID:tjxGZkip
兵站がもたなくなって撤退しただけじゃん
612 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 12:24:37 ID:SNs35jcK
>>607 必然もじゃないでしょ
今川もいつもゆるゆるじゃないでしょ
613 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 12:35:35 ID:24WVi9xL
>>610 ねえボク、えいかってみんなほんとうのことばかりじゃないんだよ
614 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 13:22:57 ID:FtINddOJ
>>610 > スパルタは300人の精鋭で「ローマ軍」100万を撃退した。
> ローマ軍・・・釣りだよな?
615 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 13:36:31 ID:lUEmMptU
釣りとか以前に俺は世界史は興味ないのさ。
616 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 13:40:58 ID:24WVi9xL
これははずかしい
617 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 13:51:11 ID:lUEmMptU
敢えて触れなかったけど
>>613の映画を「えいか」と書いてんのも相当恥ずかしいって。
どの面下げてまた来てんだ?って感じ
618 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 14:46:30 ID:24WVi9xL
はじのうわぬり
619 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 16:11:12 ID:RcpWp+uH
無知の無知を晒し上げ
610 :人間七七四年:2007/07/12(木) 12:00:07 ID:lUEmMptU
スパルタは300人の精鋭でローマ軍100万を撃退した。
上には上がいる
615 :人間七七四年:2007/07/12(木) 13:36:31 ID:lUEmMptU
釣りとか以前に俺は世界史は興味ないのさ。
617 :人間七七四年:2007/07/12(木) 13:51:11 ID:lUEmMptU
敢えて触れなかったけど
>>613の映画を「えいか」と書いてんのも相当恥ずかしいって。
どの面下げてまた来てんだ?って感じ
620 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 19:45:49 ID:lUEmMptU
更に言うと日本史もほとんど興味ない。
俺は戦国時代と第二次世界大戦しか興味ない。
やっぱし戦闘は漢の浪漫だし。戦争もんでも源平とかはトロくせーから興味ないね
621 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 20:58:11 ID:24WVi9xL
ひっこみがつかなくなったもよう
今日はえらく低俗な流れだな。
623 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 23:28:05 ID:pWZUVR3R
>今川もいつもゆるゆるじゃないでしょ
桶狭間の今川がゆるゆるなのは蓋然性が高いというか信長の策だろう
電話も無線もない当時のことだ。
信長はギリギリまで出陣しなかったわけで
「信長が城を出た」との伝令が義元の本陣につくころには
信長軍は桶狭間のすぐそばまで迫っている。
「ほう、信長な城を出たと。なにをするつもりじゃ」
などとほざいている間にアボーンだ。
624 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 23:28:44 ID:lUEmMptU
全ては
>>613の無知が招いた結果だ。
賭けてもいい。コイツの世界史の知識は俺と同じくらいだ
625 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 23:38:51 ID:24WVi9xL
ボクちゃん、もうおねむのじかんでちゅよ
626 :
人間七七四年:2007/07/12(木) 23:43:10 ID:lUEmMptU
賭けてもいい。
613もスパルタってなにか知らない。
627 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 00:17:10 ID:D6iNzDkk
何なの↑の馬鹿は
てめえの間違いを指摘されたら訂正するどころか延々粘着して……
キモすぎ
628 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 00:23:42 ID:sBUI5HZa
629 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 00:50:26 ID:D6iNzDkk
どうでもいいよそんなこと
素直に間違いを認めて帰れよ
630 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 01:15:48 ID:0qGQVBTK
>スパルタは300人の精鋭でローマ軍100万を撃退した。
羅馬には突っ込まんが、それでも嘘をこけとしか胃炎。
撃退どころか叩き潰されておるのだよ。多少の時間を稼いだだけでな。
しかも玉砕という形の完全な被殲滅という無様さで。しかもペルシア
側の兵力は当然ながら軍記物的表現の筈も無い(もっと小勢に叩き潰
されたのだよ100万なぞ大嘘だ罠)。
「撃退」に至ったのは海戦の結果によるシーパワーの覆滅によって、
その支援が受けられなくなったからだ(ヘラスにとってはそれを援護
したという点にのみレオニダスの価値がある)。陸路だけで兵站維持
する苦労を考えれば当然の帰結であって浪漫で戦争に勝てるなら苦労
は無いのだ。
出来の悪いフィクションの罪は深いな。
631 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 15:26:36 ID:DLBzAET0
今川軍がゆるゆるでも仕方ないかもしれない
織田方の有力家臣を次々討ち取ってるし
林、柴田は城に篭ったままだし、長島からの挟撃もできてるし
義元が信長の手の内で踊らされたみたいな意見は
本当に酷いものがある。
作戦でわざと家臣を殺させたとでも言うのか…。
もっとも、ここで有力な家臣達が討ち死にして代替わりしてくれたことで
後の織田家改革をしやすくなったことは確かだろうが。
632 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 15:54:27 ID:DGJJ8FAo
300程度の小部隊や、前線の砦をいくつか粉砕したぐらいで「義元が戈先には天魔鬼神も忍べからず 心地よし」とか主将自身が慢心しちゃったから駄目でしょ
相手は第六天魔王ですぜ
633 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 15:57:25 ID:sBUI5HZa
今川吉本って公家気取りのバカ殿だろ。
そんなバカ殿が魔王に勝てるわけがない。
真っ向勝負でも魔王信長の圧勝だったろうね
634 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 16:03:52 ID:QUTh+qvu
今川義元はかなりの名君だよ。
武田や北条と外交的に仲良くし駿遠と地歩を固めていった名将と断言できる。
635 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 16:08:18 ID:sBUI5HZa
名将がウツケモノに負けるかよ。
名将とは武田宝生院信玄や上杉影虎謙信を指す。
バカ殿はバカ殿だルックス同様に
636 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 18:06:23 ID:D6iNzDkk
こいつまだいるのかw
637 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 18:14:02 ID:QUTh+qvu
>>名将がウツケモノに負けるかよ。
シーザーや伊藤博文を侮辱するようなもんだぞw
638 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 19:16:35 ID:udyQL8OM
>>610 ペルシャ連合軍なんすけど?
あとスパルタ側にはアルカディア軍の援軍が1000ほどいたから
639 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 21:04:10 ID:sBUI5HZa
>>638 検索乙!
全部Wikipediaに書いてあることを丸で自分しか知らないみたいに書いてて楽しいか??
640 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 21:09:21 ID:M9MsiX+v
>>631 当時の問題は情報伝達の遅さだよ。
全速で動く軍の場所を遠隔地にて把握することはテレビゲームじゃないから事実上不可能。
伝令も馬にしかすぎず、伝令の到着する頃には、軍は移動していまっている。
出陣してわずか半日で義元を討ち取っている。
伝令の速度も大してかわらない。
信長が清洲城を出たとの報を義元が受け取って討ち取られるまでの時間は1〜2時間にすぎないのじゃないのか。
641 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 21:16:25 ID:sBUI5HZa
640=狼煙を知らないマヌケ。
狼煙は煙の色などを変え1万を超える言葉を伝えることが出来た。
民明書房刊〜世界狼煙発見!〜より
642 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 21:19:20 ID:M9MsiX+v
しかも義元本陣の隊は前線より後方に布陣している。
2万の動員をかけたわけで、別の隊が尾張各地を蹂躙するのを
後方で見物するつもりだったのだろう。
なにも義元の本隊が戦闘に参加する必要は全くないほどの戦力差だ。
だから輿に乗ってくるなどふざけた状態だ。
当然、義元本隊の兵士も自分達が直接に戦闘するとはおもってないほど気楽だったろう。
戦闘に参加するにしても先遣部隊が尾張を平定してから悠々と数日後に尾張に乗り込むくらいの意識。
そこを信長が急襲したのだから反撃すらできない有様だ。
643 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 21:28:30 ID:M9MsiX+v
信長が何のためにギリギリまで出陣せず
なんのために突如あわただしく全速で進軍したか
たまたま?偶然?
バカも休み休み言えといいたくなる。
そんな偶然野郎が天下を取れるはずもない。
644 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 22:00:49 ID:M9MsiX+v
義元が各方面の砦や城に部隊を分散派遣した時点で勝敗は決したようなものだ。
信長の撒きエサに引っかかった愚か者でしかない。
645 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 00:16:43 ID:HXxhbIai
>644
二万五千の大軍が当時のインフラストラクチャーを活用した場合の行軍長経を
想定してみよ。ついでにそのインフラストラクチャーの強度も菜。大軍は存在
し行軍するだけで我が身と周囲を破壊する。それを恙無く稼動させる所に大軍
運用の苦心と妙味は集約される。
分進合撃をするには、それなりの理由がある場合&単なる戦力分散と二種類程
あるのだよ。
信長のエロいところはその生涯の殆どにおいて、「大軍」を動員しこれを大過
無く稼動させ得た事にある。桶狭間もテッポーも些事にすぎない。
646 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 01:05:53 ID:WkqV/DP6
いま読んでる谷口克広さんの本では、馬廻り衆の奮闘を主な勝因にしてるな。
「300」じゃないけどw、農兵の多い今川軍の数万より、信長直属の馬廻り2千が優ったと。
647 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 01:36:34 ID:KHZsythS
>>646 藤本氏、小島氏なども、勝因を一つには絞れない旨を前置きしつつ
馬廻り衆の結束や奮戦を勝因の一つに挙げてるし、谷口氏も
まぁ、それは親衛隊に主眼を置いた本だから(だよね?)、見方の一つとして
「このようにも考えられるだろう」と前置きして、敢えて一つだけを挙げたのだろうね。
648 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 02:16:29 ID:R+Ot/2iJ
分進合撃なら織田に負けてないさ。
義元のは分進分撃というか、ただのバラバラ分散。
649 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 02:26:17 ID:h/8cVAZE
しかし督戦のためにわざわざ義元が尾張に来る必要があったの?
尾張なんか弱小の上、勢力が分裂してる地区なんだから
駿河で留守番しながら部下に指図をするだけで良かったと思うんだが。
信長も同時に多方面で戦争するために自らは居城に居座って
各軍司令官に命令だけくだしてたし、秀吉だって奥州仕置きや朝鮮戦争で
留守番して部下に戦争命じちゃってたじゃん。
650 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 02:51:28 ID:R+Ot/2iJ
信長が各地の城や砦に500や1000の兵を残したというかそのまま放置していた。
各々に今川が2000〜3000づつ食いつけば今川の本隊は必然的に小さくなる。
現実にそうなった。
非道な作戦だからなにも指示すらしなかったし、作戦としては信長の脳内のみにとどめ
表に出さなかったのだろう。
結果論?
これだけ挙げられる多くの勝因が、偶然に重なったとするには無茶苦茶だ。
幾多もの勝因を意図的に積み上げなければここまで重ならない。
651 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 09:40:22 ID:HXxhbIai
>649
>駿河で留守番しながら部下に指図をする
能力と威信において義元を代行出来、その上忠誠度においても十全の信頼を
おける代理指揮官が居るなら可。
また、純軍事的にも狼煙に複雑な通信は無理だから、重要かつ微妙な内容の
連絡になると伝令が走る事になるが、往復するだけでも日にち単位で時間が
掛かる。状況の変化に対し隔靴掻痒とならざるをえん。
督戦というより統率の為の君主自らの出陣だろうよ。勢力をこぞっての出陣
となると前近代の軍は親征せざるをえないもんだ。信長の場合は当時として
苛烈でも、システマティックな統率機構を作った故に自分の目に適う指揮官
を派出すれば各方面を任せられた。その目違いが生じた瞬間死んだという事。
652 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 15:16:37 ID:R+Ot/2iJ
おそらく、信長の軍は中央集権的なピラミッド型の支配指揮系統に対し
義元のは旧式の封建的な並列式指揮系統なんだろう。
ピラミッド式であれば頂点付近の明智秀吉柴田等の重鎮クラスがその下を支配掌握できるが
義元の旧来式の並列封建的な指揮系統では、義元本人以外では指揮統括できない。
各隊の上に立って服従させることの可能な人間が義元しかいない。
どっちみち、これだけの勝ち戦に本人が出馬しないというのもみっともない。
義元はピクニック気分で出て行ってあっさり殺されたのだろう。
653 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 16:05:58 ID:HXxhbIai
>勝ち戦に本人が出馬しないというのもみっともない。
会戦または大規模攻城戦による決戦という訳でなし、あの時点で総司令官が
戦術レベル以下の指揮を取ってない事(言い換えれば義元自身の肉声により
統制せにゃならん事態)自体はとりたてて非とする程の事では無いだろ。
作戦レベル以上での対処(兵力の派出による分散、及びそれによる分進合撃
とその行軍長径等々による作戦レベル以上の対処)に瑕疵があったのは事実だが。
654 :
にゃんこ:2007/07/14(土) 16:12:48 ID:cz0UkUTV
1,秀吉が、「根切り」という信長の意向を無視して勝手に調略してしまう。
2,秀吉が、勝手に対上杉戦から離脱してしまう。
3,信長の再三の督戦に応じず、佐久間は一向一揆に対して対峙したまま。
4,光秀の本能寺襲撃案に、重臣達は反対しない。(重臣達は信長ではなく、光秀
の被官になっている)
これらの件は、織田家も他の戦国大名と同じく、国人衆を寄子寄り親で編成
した、分権的な軍制だったからであろう。
655 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 17:03:30 ID:7G7FvXJH
ときどき現れる、もったいぶった言い回しのコーエー厨がウザいな
656 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 18:49:08 ID:bdOPRjZ2
急に伸びてる。テレビの地からは偉大だ。
657 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 19:01:09 ID:R+Ot/2iJ
今川軍には明智や秀吉に相当するものがないだろう
義元
家臣 家臣 家臣 家臣 家臣・・・
信長
軍団長 軍団長
重臣重臣 重臣重臣
家臣家臣家臣 家臣家臣家臣
こういうことだよ
658 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 19:20:08 ID:5zQqjFxj
桶狭間の時期の織田家と今川家の軍制の比較をするべきじゃないの?
ここに後世のものを持ち出して比較することに何の意味があるんだろうか?
659 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 19:21:58 ID:R+Ot/2iJ
桶狭間の時期の織田家は今川と変わらないだろう。
信長は直接掌握可能な2000に絞って迎撃したしそこは問題じゃない。
660 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 19:24:38 ID:5zQqjFxj
652で書いてることと違うようだが?
661 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 19:24:47 ID:R+Ot/2iJ
信長は勢力の規模に応じて支配体系を組み上げていったが
今川は2万を動員する規模にまで勢力を伸ばしていながら
陳腐な組織しか組めなかったことが大きな差だ。
662 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 19:26:01 ID:R+Ot/2iJ
今川家の組織を説明するのに比較として後の織田家の組織を説明したにすぎない。
読み取れないか?
663 :
にゃんこ:2007/07/14(土) 19:35:39 ID:cz0UkUTV
657>
気分として、君の主張するような、今川方の寄り親のリーダーシップの弱さが
あったかも知れないけれども、
この時期の戦国大名に、寄子寄り親の制を越えた軍制は実現しにくい。社会制度に
応じた軍制でなければ機能しない。
尾張と駿河に大きな社会制度の差があったとは考えにくいから、軍制もよく似た
ものだったんだろう。
664 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 19:40:01 ID:R+Ot/2iJ
もし今川家に後の織田家の秀吉柴田に相当するような者がいれば
それらの者が軍を統率してなんらかのアクションを起こしていただろう。
本能寺の変後、秀吉や柴田がしたように。
今川軍は義元が討ち取られた時点で木っ端微塵に瓦解している。
665 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 19:51:30 ID:R+Ot/2iJ
問題は社長、部長、課長というように、ちゃんとした肩書きがあって
制度として定められていたかどうかじゃなく
実体として上下間に上意下達の支配服従関係のあるピラミッド型組織になっていたかどうかだ。
666 :
にゃんこ:2007/07/14(土) 19:52:12 ID:cz0UkUTV
以前にも書いたのだが、
1,58年に豊かな尾張をほぼ制圧した信長は、尾張の一部を失っても、義元の
半分くらいの経済力はある。
2,遠征よりも防衛戦の方が惣村の協力が得やすく、補給も容易だ。
3,対斉藤、対一向一揆の兵力は、警戒兵力で良い。狭い地域での内線作戦なので。
4,信長は、兵理(戦理)に乗っ取って、内線作戦による各個撃破を実施した。
5,結果的に、各個撃破の早い段階で義元の本陣を襲えた。
なお、「偶然や気合いが大きくて、戦理を越える」という説は、戦理の何たる
か、誤解している。正しくは、「必然も偶然も気合いも、いろんな要素が相まって、
結果的に戦理にはまる。」だ。
667 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 20:00:06 ID:mERrKei1
いかにもゲームなり仮想小説という知識レベルの人間がいるなあ
668 :
にゃんこ:2007/07/14(土) 20:30:41 ID:cz0UkUTV
664>
木っ端微塵に瓦解?岡部や松平は健在だったが。
上意下達組織なら、トップが急死したら、混乱する。
むしろ、分権的な組織なら、トップが死んでも各部隊は生き残り易い。ただし、
各部隊長が有能でなければならないが。
織田信長自身は、独裁者的なキャラだったけれども、都市の自治は奪えず、丈量
検地はほとんど行えず、兵農分離も未達。中世的な分権体質は拭えなかった、
というのが史実だよ。
669 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 20:44:28 ID:R+Ot/2iJ
各個撃破というより、義元の隊のみ撃破だ。
それだけで2万が崩壊する陳腐さだ。
670 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 20:47:01 ID:R+Ot/2iJ
>織田信長自身は、独裁者的なキャラだったけれども、都市の自治は奪えず、丈量
検地はほとんど行えず、兵農分離も未達。中世的な分権体質は拭えなかった、
というのが史実だよ。
君は白か黒しかないのか。
完全な中央集権か封建かとか。
そんなことの議論になにか意味を見出せるか?
よりどちらに近いかが重要だ。
671 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 20:52:33 ID:R+Ot/2iJ
信長の軍が近代か中世かなど全く不毛な話。
後の信長が組織した軍や、今川が組織した軍や他の大名が組織した軍の間に生じる差違を問題にしている。
端的な単語を取り上げて、完全に当てはまらないと主張することに何か意味があるのか
672 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 20:58:58 ID:R+Ot/2iJ
中世的な分権体質は拭えない軍は全て同じか?
673 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 21:09:39 ID:R+Ot/2iJ
>上意下達組織なら、トップが急死したら、混乱する。
社長が死んでも会社はつぶれないだろ?
取締役が代わりに仕切ればよい。
極端な話、社長以下全員が平社員なら、崩壊するだろうが。
こんな極端な対比でなくとも、どちらに近い組織かということだ。
674 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 21:17:07 ID:oBReDoqo
もう痛いから消えたら。
675 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 21:31:17 ID:R+Ot/2iJ
そもそもこいつは、それらしい用語を並べてなにか言った気になっているようだが
内容はなにも述べられてない。
なにが言いたいのかすら甚だ疑問だ。
676 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 21:40:49 ID:R+Ot/2iJ
>木っ端微塵に瓦解?岡部や松平は健在だったが。
中隊長レベルだ
今川軍には小隊長、中隊長はいても
大隊長、師団長はいない。
だから粉みじんになる。
677 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 21:55:34 ID:u/LPA16u
信長はちょんまげじゃなくて無造作ロン毛だし鎧じゃなくてヨーロッパのナイトみたいな甲冑着てマントを羽織ってたから
当時としてはかなり先を行ってたはずだ。
しかも日本で唯一地球は丸いと理解してた頭脳明晰ぶりだ
678 :
にゃんこ:2007/07/14(土) 23:33:12 ID:cz0UkUTV
松平が中隊長レベル?松平は、歴とした国人だぜ?国人って言葉の意味、知ってる?
どちらに近いかと言えば、織田家も今川も分権体質だよ。「信長が中央集権に近い」
なんてのは、小説家の妄想。どんなに優秀な人物だって、時代は超えられない。
いや、時代を越える事の危険性を熟知しているから優秀なのさ。
679 :
にゃんこ:2007/07/14(土) 23:41:58 ID:cz0UkUTV
ID:R+Ot/2iJ氏よ。ここは、検地とか、国人とか、惣村とかの教科書的専門用語
を理解した者でないと辛い板だ。
「革命児信長は、時代を超えた新組織で軍を編成し、日本人離れした絶対王政
をめざした・・・・。」なんて小説的な意見を発表したいのなら、三国志・戦国
がピッタリだ。
680 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 01:54:42 ID:7H4KzAKM
織田家がどうだろうが、今川家がどうだろうが
総力戦なんだから、大将が出てくるのは当然のこと。
織田家の全軍を、
柴田や羽柴が率いたことがあったか?
681 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 02:26:41 ID:Ztzf6rzs
お前らって歴史のマニアックなことばっか調べてて基本的なこと全然知らないのな。
なんで義元が自ら戦場に出たかって言うと
丁度、京都に進軍する途中だったから。と中学の時に歴史の先生に習ったぞ。
682 :
にゃんこ:2007/07/15(日) 02:30:04 ID:ygCvea8W
681>
釣りか?
その説は小説だ。直接的には、織田方が、今川方の2つの城を包囲した事に始まっている。
まあ、普通に縄張り争いだったんだと思う。
683 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 02:39:43 ID:Ztzf6rzs
じゃ義元も単なるバカ殿じゃなかったんだろ。
武田宝生院信玄が大大名の自分との同盟を崩してまで近づいた小大名の織田上総介信長って漢を自ら見たかったんだろう。
モノノフにしか分からんだろ。お前らみたいなパソコンオタクには絶対分からん漢の浪漫じゃね
684 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 08:42:16 ID:GQSxZPMA
当時まだ織田と武田の同盟関係は始まってもいない
685 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 09:33:15 ID:fQuNiNpQ
今川方にとってほぼ総力戦だし、たかが縄張り争いでそこまで国力を消耗させるか?
この戦に見合う対価として尾張制圧が狙いだろう。常識で考えて。
686 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 09:38:54 ID:fQuNiNpQ
織田家と今川家が同じはさすがにないw
織田家のほうがヒエラルキーがより重層的だね常考。
687 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 09:59:06 ID:fQuNiNpQ
最近の論調で、偶然に今川本陣と接敵して今川義元を討ち取ったという説があるけれど、頭の悪い学者が思いつきそうな話だねまったく。
論功行賞で情報収集に成果を挙げた簗田政綱を勲功第一としている。
このことから、信長は情報収集に全力を挙げていたことがわかる。常識で考えて。
688 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 10:09:11 ID:yasbVl9G
689 :
にゃんこ:2007/07/15(日) 10:15:39 ID:ygCvea8W
685>
「尾張制圧」が尾張の一部制圧なら、縄張り争いそのものであり、拙論と同意だ。
しかし、「尾張大部分制圧」をさすのなら、そりゃ無茶だ。たった一回の遠征で、
今川の約半分の勢力を持つ織田家を滅ぼさなければならない。織田家が、分裂気味
で末期状態でない限り、不可能。
687>
それ、小説ネタ。仮に史実なら、それ程有能な梁田が、埋もれるはずがない。
もし、「情報機関はブラックボックスだから、文献に残らない。」と思っている
のなら、先に「そういう官僚体制は、戦国時代に無い。」と指摘しておこう。
690 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 10:26:44 ID:fQuNiNpQ
簗田は埋もれちゃいない。加賀を任されている。
691 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 10:29:04 ID:yasbVl9G
尾張への侵攻目的が大高鳴海の封鎖解除にあるという藤本正行氏の主張だけど
小和田哲男氏など多くの研究者は織田家の打倒まで戦略目的にあったという説を
取ってるんだよな。
692 :
にゃんこ:2007/07/15(日) 10:29:27 ID:ygCvea8W
一級史料「信長公記」は、梁田の情報の件は無く、かなり偶然の要素の大きい
「桶狭間の戦い」を描いている。
一方、作者による潤色が多く、小説に近い「信長記」が梁田情報説をあげている。
もちろん、小説である。
比較的、史料が良く残っている第二次大戦や日露戦争でも、戦争に戦術的には
偶然の要素が大きい事がわかっている。
例
スプルーアンス提督「ミッドウェーはまぐれだ」
リデルハート「奉天での主攻撃の正面攻撃は効果薄だが、補助的な秋山騎兵団の
砲撃は効果大であった。」(かなり要約)
戦術が偶然に左右されるから、確かな戦略が必要なのさ。
693 :
にゃんこ:2007/07/15(日) 10:30:50 ID:ygCvea8W
690>
それは、息子。
694 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 10:42:05 ID:fQuNiNpQ
親父が死んで息子が後を継いだのか、名前を変えたのか、何にしても埋もれてなどないし
桶狭間の手柄で城も与えられている。なにか問題でも?
695 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 10:47:06 ID:fQuNiNpQ
つか、なんでも新説なんていって、妄想話をでっちあげて注目を浴びようとするエセ学者はいつの時代もあふれかえっている。
そんなのあほらしい。ちょっと時間がないのでこれにて。
696 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 10:53:27 ID:wcnSori3
簗田親子は、それこそ功績が殆ど記録に載ってない程度なのに織田重臣層の中でも出世頭なんだよね
そこから逆算したのでは?
結局、息子の代で加賀一揆鎮圧に失敗して更迭されるんだけど
697 :
にゃんこ:2007/07/15(日) 11:47:07 ID:ygCvea8W
691>
ウィキでは、「国境紛争、あわよくば尾張制圧が学者達の定説」となっているね。
長期的(何年かかけて)には、織田氏打倒だったとは、にゃんこも、そう思う。
織田氏は被官化するには大きすぎ。打倒するしかないと思う。
しかし、短中期的(何ヶ月か)には、不可能だと思いますよ。もっと、織田方から
裏切りが出ないと。(後の織田氏による武田氏打倒・甲斐侵攻のように)
694>
そのソースも実質小説「信長記」だろ。それとも、一級史料「信長公記」かい。
696>
息子の出世から、逆算して親父の「活躍」を作成されたんだろうね。まあ、事実としては、
最初から有力国人だったんじゃないかな。
698 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 11:49:03 ID:Q8HR3E8u
何で短足がわざわざ来たのかが謎
699 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 12:09:51 ID:pI+WnD++
>>691 尾張制圧までは無理だと思うが、今川の戦略の中には、尾張以外にその他の国
も念頭に入れている。
当時の美濃は関係が無いのに対し、北伊勢には今川方に味方する勢力があった
所から、伊勢・志摩に触手を伸ばす気もあった。
>>692 義元にとって、戦略は一流だったのに、戦術で完敗したって感じ。
700 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 12:16:31 ID:fQuNiNpQ
>>697 一級資料に明記されてない→信長は情報収集をしてない→信長は偶然に桶狭間の今川本陣にたどり着いた
常識で考えておかしいっしょ。
神話として語られていたトロイア遺跡も実在した。
なにもない話が語り継がれるはずもない。
701 :
にゃんこ:2007/07/15(日) 12:35:13 ID:ygCvea8W
700>
別に戦争に限らず、思わぬ偶然が起こるのが実践(実戦)の常。信長も情報収集は
当然していただろう。しかし、ゲームのように、お金を払えば確かな情報が手に
入るわけではない。
前述したように、奉天もミッドウェーも、戦術的には偶然の勝利だった。まあ、ウィキ
で太平洋戦争の記述でも見てみなよ。戦術的な偶然はいっぱいだ。
>常識で考えておかしいっしょ。
君の常識と、歴史学者の常識には、一万光年の開きがあるようだ。
>なにもない話が語り継がれるはずもない
「おぜほあん」が作った創作があったのさ。そして、君も、その創作を信じている。
702 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 12:36:25 ID:fQuNiNpQ
あれほど派手な今川本陣の場所がわからないほうが一万光年おかしいっしょ。
703 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 12:38:27 ID:fQuNiNpQ
ちょっとまた家をでるので、機会があればまた貴方のファンタジーにつきあうよ。
704 :
にゃんこ:2007/07/15(日) 12:48:08 ID:ygCvea8W
702>
そうなら、「梁田の情報」が不必要だよね。君の前説と矛盾するよ。
703>
あのね、君の読んだ小説等の元ネタが「信長記」。でもこれは、江戸時代の創作
や潤色が多いと、史料価値の低いものなの。
705 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 13:05:16 ID:whpNZivx
ただ創作だとしたら、「なんで梁田なんだ?」とは思う。
706 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 13:11:55 ID:fQuNiNpQ
あのね
ああいえばこういう子だね
もう出るからレスできないけど
1万人結集している大軍はすぐわかるにしても誰かが斥候なり細作を放って
報告しなければ千里眼じゃない信長にはわからないっしょ。
ちょっとは自分の頭で考えなさい。
707 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 13:25:55 ID:Ztzf6rzs
単に魔王信長軍の兵が強かっただけだ。
キンカン明智光秀、閻魔大王柴田勝家、槍の又座前田利家、ハゲネズミ羽柴秀吉etc
どれもかれも歴史に名を刻む歴戦の覇者のビッグネーム揃いだ。
こんな猛者相手に公家かぶれの義元が勝てるわけがない。
708 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 13:36:07 ID:pI+WnD++
家康が、秀吉に警戒されるほど、勢力を増す事ができたのも、岡崎衆
だけでなく、東三河・遠江の兵も強かったから。
駿河の兵が強かったかはわからないけど。
709 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 13:43:56 ID:GmCvGvwG
\\ こっぺぱーん♪ ジャム塗ったら あ〜んぱ〜ん♪ //
●
/\___/\ ./\((/\ /\___/\
/ ノ' '\、 ::\ /ノ ヽ :\ / ''\,,, ,,,/'' ::\
| (●), 、 (三)、 ::| | \ / ::| | (●), 、 (●)、 :|
| ,,ノ(、_, )ヽ、, \_ :| | (_▼_ ) :| | ,,(● ●)ヽ、, :|
| r=、 :| ミ :LLl::: .彡 | r=、 .:|
| |,r--| .::| ミ |∪| :彡 | |,r--| :|
\ `ニ´ .::::/ \. ヽノ ::/ \ `ニ´ ::::/
/`ー‐--‐‐一''´\ /`ー‐--‐‐一''´\ /`ー‐--‐‐一''´\
710 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 14:42:59 ID:iB2HyR3J
武功夜話でも活発な情報収集を行ったことになってるね
でもこれは後世加筆した部分とそうじゃないところの判別が難しいって話だから真偽はやっぱり闇の中
711 :
にゃんこ:2007/07/15(日) 18:21:34 ID:ygCvea8W
710>
武功夜話にも。
活発な情報収集は、当然していると思いますよ。織田も今川も。偵察を
出さない軍隊なんて、滅多に無いと思う。
しかし、それで有効な情報をキャッチできるかどうかは、運もあるし。相手に
対して、わざと偽情報を流す事もあるし、味方がカン違いによって偽情報を
流す事も多々ある。
小説では、秀吉や蜂須賀や梁田を情報専門担当者なんかと目するものもあるようですが、
当時の社会制度や軍制からいって、専門の偵察部隊や情報機関は無いでしょう。
それには、官僚制が確立しないとね。(後の石田三成や増田長盛が専門の文官で
無かったように。)
712 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 20:31:45 ID:xLE6efsC
とりあえず、
城が包囲されたから慌てて包囲解除に行ったというのは、違うらしいね。
どこで見た話だったか忘れたが、
2年だったか3年だったか掛けて、
大量動員の為に、色々な下準備をしてるそうだ。
山口なんかの寝返りも、その一貫じゃないか。
>>711 官僚制が進むかどうかは、兵農分離と同じで
その地域で戦乱が収まってきたかどうかの問題でしかない。
713 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 21:01:45 ID:Ztzf6rzs
とにかくお前らは今川吉本を買いかぶりすぎだ。
コイツは全然大層なヤツじゃない。
信長を引き立てるために滅びべくして滅びた名もないしがない無能の大名だ。
今川吉本にピッタリな諺「アホな大将、敵より怖い」
714 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 23:32:44 ID:8B0VVoSL
>714
なるほど。
それだけ無能な大将に
よくあれだけの家臣が
付いて行ったんだね。
駿河の武将って、
ホントに従順なんだね。
715 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 23:49:47 ID:fQuNiNpQ
それはある意味では言えてる。
織田信長をみると
空前の大軍に対し、寡兵で篭城せずにうって出るという意表を衝く作戦。
それを実行に移す的確なタイミングと神速の用兵、優れた情報収集と分析力。
胆力、決断力、頭脳ともにさすが戦国の覇者といったところか。
一方で、義元は信長の行動に対し、なにも手を打てていない。
もし仮に秀吉が2万の総大将なら?あるいは信玄が2万の総大将なら?
あのような情けない討ち死にをしただろうか。ちょっと考えにくい。
716 :
静岡県民:2007/07/16(月) 01:47:34 ID:fxDIB1zJ
何じゃ今川の2万5千は信憑性が無いんか?
でも信玄とか動因兵力見ると1万とかがいっぱいみたいだしいくら
静岡全体+愛知ちょっとが豊かでも2万は多いのかなぁ やっぱ?
でもそうすると織田とあんま兵力差なくなっちゃうよね
噂以上に織田はもともと強力だったんか?
717 :
静岡県民:2007/07/16(月) 01:56:52 ID:fxDIB1zJ
俺は義元は異次元へワープしちゃったんじゃないかなぁと
最近考えてる
ソースは戦国自衛隊
毛利伸介が首取ったていうのも嘘で目の前で義元が急にワープ
した事の説明がつかないので後世に牛ちゃんが仕方なく書いた
んだと思う
ヨッシーは多分未来にいるよ
718 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 03:09:45 ID:9Umlai6v
家臣の扱い方もすごいよなあ。
清洲城であれこれ軍議していれば必ず篭城派や和平派やさまざまな意見が飛び交って
紛糾し家臣団が混乱分裂しただろうけど
信長はずっとまともに軍議せず、出陣の日になって突然城を飛び出して
家臣は追いかけるだけで必死だったとか。
議論もなにも否応なしについていくしかない。
信長の場合、一つ一つの行動がちゃんと勝因に結びついている。
凡人には理解を超えた存在だったんだろうな。
719 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 10:32:48 ID:9LUX06KT
もし今川本隊が野営ではなく砦や城に本陣を構えてたらどうなっただろう
720 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 16:38:19 ID:4TTZ24z8
同じだろう
問題は安全だと思ってたところに、織田最精鋭部隊が直接攻撃をかけたということなんだから
721 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 00:04:28 ID:TD/AogMQ
まあ、結局城(大高城)に本陣を構える為に、そこへ向かおうと
していた所を襲撃された訳で…。
722 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 00:56:00 ID:dusffJnO
既出かもしれないけど、桶狭間奇襲説が有力なのは、旧日本軍の参謀達が考察した結果、
奇襲から偶然に近い確率で義元を討ち取ったって結論に達したからじゃなかったっけ?
ソースは面倒くさいから探さないけど。
723 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 04:45:37 ID:SNZPc+Mp
まったくの遭遇戦。今川は行軍用の縦列で、そこに横から織田が突っ込んだ
そしたらそこに義元が居た
724 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 07:09:45 ID:PfJ/Ht+0
>>723 思いつきでないなら今川軍の陣立てと信長の進軍路を示せよ。
725 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 23:11:28 ID:dusffJnO
ロマンを抱きたいのは分かるが運が良かった意外ないだろ
726 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 23:31:51 ID:3NmGmXB2
意外だな
727 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 23:38:20 ID:4aq6Ol4G
推測だけど今川吉本って公家かぶれのバカ殿だから自分のいるとこだけ豪華絢爛な感じにしてたんだろ。
そして信長が「あそこに吉本がおらいでや」とか名古屋弁で行って
ハゲネズミあたりが「さすが上総助様!ぴったしカンカンでヤンス」とか大阪弁で答えて
見事バカ殿の首ゲットって感じだと思う
728 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 23:44:24 ID:jiI2z3m2
729 :
TRICKSTER ◆CASVAL9Zfw :2007/07/18(水) 00:32:52 ID:5ACqUgNd
730 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 03:11:31 ID:iHHKg1KH
どうせ桶狭間に到る街道でも、大名行列よろしくド派手に行進していったんだろ
そんなの織田の斥候にばれないわけがなかろうw
731 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 13:01:11 ID:/n7CqI7O
理由はわからないが、信長がとりあえず今川の後方部隊の位置を把握していたことは確か
じゃあ今川方はどうなんだ?
信長が中根砦まで進出してきた事も最後まで知らなかったんじゃないか?
今川は鳴海城を奪って久しいから、現地掌握や情報で織田に遅れを取っているとは思えん
この諜報の差は謎だよね
信長が忍者を使ったとかいう話もないし
732 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 16:30:52 ID:NDzleuPN
信長が忍者だった
733 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 22:51:04 ID:xce8gfAw
>>731 今川方も信長本隊の存在は知っていたと思います。
ただ、まさか山上(丘上)に陣取って前衛部隊もいる今川本隊に山を駆け上って突撃してくるとは思わなかったのでは?
織田軍は東尾張の始末、北方及び西方の警戒に主力部隊を取られている状況で半ば強引に大高城、鳴海城の包囲をしたところ、想定外の今川本隊の侵攻を受けた。
織田軍は尾張を統一して間が無く、結束力は弱い。弱腰の対応を取れば寝返り続出の状況であった。
信長は今川軍に対し出撃可能な馬廻衆をもって大高城、若しくは鳴海城を目指すであろう今川本隊と決戦するべく清洲を出撃。
鳴海城包囲の丹下砦、善照寺砦、中島砦の兵を吸収して決戦戦力を整えていたところ予想通り、桶狭間山に陣取る今川本隊を発見。
今川軍も織田軍の動きを発見し今川軍本隊の前衛部隊である松井隊、瀬名隊の警戒を命じつつ休息。
信長も優勢な高地に陣取る今川軍に対しどのように対処するか思案していたところ、視界も利かない大雨が降ってきた。
信長は直ちに今川本隊に対する総攻撃を命令、全軍突撃。
今川軍は相互の連絡も取れない中、前衛部隊ははたちまち崩壊。今川本隊も混乱がおき、何が起こってるかわからない状況のまま乱戦に巻き込まれる。
結果、総大将の今川義元が討ち取られるという、信長すら予想外の大金星をあげる。
全て根拠の無い妄想ですが・・・・
734 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 23:24:57 ID:KHn48oGi
なんにせよ戦国の時代に相手を舐めてかかった吉本のバカ殿だっただけだろ。
親兄弟が殺し合う時代にのほほんと公家の真似事してた吉本は所詮バカ殿
735 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 23:52:01 ID:breK9bLp
>公家の真似事してた吉本は所詮バカ殿
(゚д゚)・・・・
736 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 00:03:54 ID:mnbqTMGy
今川吉本はバカ殿なんだから今度から今川吉本興行って呼ぶことにしようぜ?
737 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 10:48:39 ID:t4AuPewE
親兄弟の殺し合いを乗り越えたんですが、その義元は……
だいたい公家の真似云々なら、信玄も謙信も該当しちゃうし
(塗り輿は貴族の真似ではなく、幕府から与えられる栄誉みたいなもん)
だいたい死に際に剣で渡り合い、首取られる寸前には敵の指食いちぎるほど気力旺盛なお公家さんなんてそれこそイメージにあわんw
738 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 19:13:04 ID:AMciZmgE
>>731 善照寺砦から中島砦まで、一列で進まなくてはならなくて、今川に数が少ない
のが丸見えですって家臣に注意されていなかったかな。
739 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 04:41:16 ID:GvLjLkKf
>親兄弟が殺し合う時代にのほほんと公家の真似事してた吉本は所詮バカ殿
お前ww今年の大河でやってたじゃないかw
義元が兄弟と殺しあった花倉の乱をwww
740 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 09:17:10 ID:BA+C6VbA
>>738 セリフとかはもう作者のアドリブじゃないの。
作者もそこまで正確に覚えてないだろうし。
木陰とかに隠れながら進んだんだよ信長はw
今川は先日来から他の部隊が城攻めしてるし、本隊はいつでも救援にいけるように
不眠の臨戦態勢でつかれて、桶狭間で寝てたんじゃないのw
741 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 14:18:48 ID:jSSfNkvl
とりあえず桶狭間村のあたりは大高道と東海道のどちらにもアクセスできる
戦略予備の配置場所としては絶好の地。
もし織田方が積極的に攻勢に出て大高城周辺が戦場になった場合も、
逆に消極策に出て中島砦周辺が戦場になった場合も、それぞれ
街道をさかのぼることで迅速に織田方側面を突ける。
万が一、織田方が東海道を遡って桶狭間山方面の攻撃に出た場合も
低地の中島砦周辺は大高城や陥落した丸根鷲津砦から丸見え、故に
大高の部隊と桶狭間の部隊で前後から挟撃できる筈だった・・・・本来は。
ただ、折からの雨で視界を塞がれ、大高方面から中島砦が見えなくなった
隙を衝かれたのが今川方の不運。
742 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 04:21:21 ID:WuGUbdb0
俺は義元は異次元へワープしちゃったんじゃないかなぁと
最近考えてる
ソースは戦国自衛隊
毛利伸介が首取ったていうのも嘘で目の前で義元が急にワープ
した事の説明がつかないので後世に牛ちゃんが仕方なく書いた
んだと思う
ヨッシーは多分未来にいるよ
743 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 04:55:07 ID:M4F4t/1m
ネタは他でやってくれ
744 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 20:18:52 ID:BLkuh3FQ
>>741 雨のために移動する織田軍が見えなかったというのは、
小説などでよく描かれるシチュエーション。
しかし
雨は、織田軍の移動中には降っていない。
「山際に兵を寄せた時」に降り始めた。
そして、その雨が止んだ時に総攻撃。
――「一級史料」信長公記によれば
745 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 23:00:10 ID:Cm1sLYuq
>>744 信長公記の「急雨」の解釈だが霰のような豪雨になったのが「山際」
の時と書いてるだけで、それ以前にどうだったのかは書いてない。
一般的な天候のパターンからすれば晴天からいきなり豪雨ということはまず無い。
小雨模様から豪雨に移る方が普通だわな。
移動に差し障りない程度の小雨でも遠距離からの監視を無効にするには充分。
746 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 23:03:56 ID:RvN51RJ+
>一般的な天候のパターンからすれば晴天からいきなり豪雨ということはまず無い。
晴れてたと思ったらいきなり豪雨ってのは普通にあるだろ。
>>744の意見否定したいんだろうけど、そんな捏造する必要はないだろうに・・・
747 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 23:10:40 ID:i3Dq4Nqw
>>746 晴れていたと思ったらいきなり豪雨はあるだろうけど、
桶狭間は梅雨の時期だから、その天候パターンは少ないと思う。
748 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 23:15:09 ID:RvN51RJ+
「まず無い」とか気候の専門家でもあるまいに断言してることに突っ込んだだけ。
気候のメカニズムから攻めるなら、思い込みじゃなくデータ提示しろ。
ほぼ海岸線を行軍した織田軍に天候が影響してただろうか。
750 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 01:33:34 ID:bWGaj7zR
>>745 >>747 山際まで御人数寄せ候ところ、俄かに急雨、石氷を投げ打つように、敵の輔に打ちつくる。
(略)
空晴るるを御覧じ、信長槍をおっ取って、大音声を上げて、すわかかれと仰せられ、
(信長公記)
はっきりと、「俄かに」と書いてあるよ。
小雨から豪雨に変わったわけじゃない。
当日は猛暑だといわれてるから、梅雨というより、夕立であろう。
「投げ打つように、打ちつくる」という降り方も、
「空晴れる」と、降り止むとすぐ青空が現れるのも、夕立っぽい。
書いてないのに、「山際に着く前は小雨が降っていた」と、勝手に決めて、
そこからいろんな想像をめぐらすのは、正しい歴史解釈を誤ると思うよ。
751 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 01:41:23 ID:KABT/1lE
なんにせよ、中島に入った時点では信長に自部隊の動きを隠蔽する
つもりは全くなかった。隠蔽するつもりならあんな川の中州にあって
目立つ上に丸根鷲巣のある高地から丸見えの砦には入らん。
家臣の進言も退けてるしな。
しかし、中島から東海道を下るとなると大高の部隊から追撃を受けない確証が
無いと動けないのは確か。
仮に桶狭間での会敵を予想してなかったとしても、もし東海道を下った後で
大高の部隊に中島方面に動かれたら背後を遮断される形になるのは
承知してただろう。。
桶狭間の敵滞陣を知ってたら完全に自滅行為としか思えないだろうな。
にもかかわらず、敵の包囲環に飛び込んだと言うことは包囲の片翼を無力化できる
確信、中島からの南下を大高に知られないことが確信できるような、なんらかの
状況があったのは確かだな。
少なくとも二千、1個連隊相当以上の大人数の動きを隠蔽するのはかなり困難にも
かかわらず。
752 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 01:48:11 ID:bWGaj7zR
>>741 それから、
義元本隊と中島砦の間に大勢いた今川兵を、どうやってすり抜けたの?
公記にも、中島砦に迫ってた今川兵の様子が描かれてるけど?
これは、ちょっとばかりの雨が降っていたと仮定しても、黙って通してくれないだろう?
753 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 10:44:02 ID:TG1YhrOI
信長には摩利支天の加護があったんだよ
信長の異名の一つが梅雨将軍
754 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 18:39:07 ID:6kh9VJ/f
755 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 00:09:18 ID:uLc3aYYl
>>754 史料じゃないならなんなんだ?捏造だとでも?
756 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 00:45:12 ID:0xLknQRt
>>752 公記の中島砦に迫ってた今川兵の様子が描かれてるところってどこ?
見つけられないんだが版本が違うのか?
757 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 01:39:42 ID:iObaX0Jq
>>756 中島砦での訓示の中で、
「あの武者、宵に兵糧つかいて、夜もすがら来るなり。・・・」
あの武者と言うから、中島から目視できるところに今川軍が迫って来ているだろう。
前田又左衛門らが首を取ってきたのも、その周辺にいた今川軍のだろう。
その前、信長が善照寺砦を出た時に、
佐々隼人正らと戦ってこれを討ち取った今川軍も、明らかに義元本隊ではなく、
中島砦に迫って来ていた今川軍前衛部隊だろう。
300人の佐々隊をあっという間に討ち取ったのだから、相当の数の今川軍が中島砦と義元本隊の間にいると、
読むべきだろう。
中島砦と義元本隊の間は、2・3km離れているからね。
なお、佐々らの戦死を見て、義元が上機嫌に謡をうたったということが書いてあるけど、
本隊が襲われたのなら、そんな余裕かませれないだろう。
義元本隊はずっと高い場所から、前衛部隊が中島砦を包囲していくのを見ている。
俺はこれを見てますので、↓
ご参考までに
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html
758 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 12:56:45 ID:En9uosZi
織田の兵が少数だったんで、味方の部隊と勘違いしてたとか?
759 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 13:50:56 ID:0xLknQRt
>>757 今川方が中島攻撃に出ていなくても普通に中島の位置から
鷲津山の今川勢は目視できるが。
とりあえず、その仮説に基づくと織田方は西から攻撃を受け続けながら
南下したことになるが。
ちなみに「おけはざま山」が桶狭間村周辺のどの山だったとしても
現在大高緑地公園になってる丘陵が間にあるせいで中島砦周辺
を目視するのは不可能。
義元の戦況把握は大高道を往来したと想定される伝令経由でないと無理だな。
ちなみに、俺は謡云々の部分は全く信用できないと思ってる。
当時の義元の状況を伝聞できるのは近侍していた上位の馬廻か重臣だけだが
これらはことごとく義元守って討ち死にしてるわけだから。
公記が高く評価されてるのはあくまで牛一が甫庵なんかよりは記録者として
誠実な姿勢であるという点なわけで牛一の伝聞ソース自体が誤ってたなら
どうしようもない。
760 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 22:55:53 ID:v2mPhS7R
>>759 西からの攻撃って、鷲津砦の今川勢からの攻撃?
それもあるけど、俺が言ってるのは、
正面攻撃説に従うならば、中島砦と義元本隊の間、旧東海道沿いにいる、
5・6千の今川軍を蹴散らしながら、2・3km先にいる義元本隊を目指さなければならないということ。
それと、義元本陣は、現桶狭間古戦場公園の辺りにあったと考えられているかもしれないけど、
俺の考えでは、もう少し北、旧東海道と手腰川越しに中島砦を目視できる場所だったろうと思う。*
というのは、
1)義元は沓掛城から大高城へ行くのに、大高街道を行ったほうが近道なのにもかかわらず、
わざわざ旧東海道をこの位置まで来て、そこから大高街道へつながる道を南に行く予定だった。
2)酒と謡の話は、俺も疑うが、この位置で昼食をとり、2時間くらい過ごしていたのは事実。
そして、まだしばらくこの位置にとどまる予定であったらしい。
1)と2)から、俺の推測だが、
義元はこの位置で、中島砦攻めを督戦する予定であったと思う。まったくの推測だが。
前夜から早朝にかけて、丸根・鷲津の2砦を落し、次のターゲットは中島砦である。
丸根・鷲津に差し向けたのが計4千、本隊が5千。
今川軍が総勢1万5千とすれば、まだ5・6千の余裕がある、これを中島砦にぶつける。
中島砦の陥落を確認してから大高城に入る予定だったのだろう。
信長が正面攻撃をするとしたら、この5・6千を蹴散らして進まなければない。
*:追加:この位置からでも中島砦が目視できないとしても、目視できるところに監視隊を置くのは当然っしょう。
参考にしたのは、この図↓
http://www.finvic.com/syumi-15.html
旧1号線と鉄道の弊害だよなあ。
高低差で進軍路を推測すれば今川軍がセト山に陣取るのはとても自然なことなんだが。
762 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 12:40:02 ID:N2HvccOG
そもそも本陣への攻撃を受けないために後方の、それも見晴らしの良い山に義元が位置したわけだろ
前衛部隊をあっさりとすり抜けた織田勢の機動は確かに謎
>>760 正面攻撃といっても、信長は最初から義元本陣を目指して攻めたわけじゃない。
中島を出たときの信長の目的は、前夜鷲津・丸根を攻めて疲れている今川勢を叩いて
局地的な勝利を得ることだった。
そして、今川勢が簡単に崩れたので、追撃して行ったら、その先に義元本陣があった。
いわば、桶狭間合戦は偶然の遭遇戦だった。
>>763 その仮説の問題点は鷲津山と桶狭間が全然違う方向にあるという点だな。
織田方は基本的に後詰めに来たわけだから本来は中島から西進して
目前の朝比奈・松平勢と交戦し砦を奪還しなければならないのは確か。
しかし、大高周辺の部隊は最後までその位置を確保している。
松平勢は後の躍進のお陰で比較的史料が残りやすい立場だが
この合戦で有力武将が戦死してる話は皆無だから交戦敗退はしていないと
見なして良い。
だから、大高道沿いに敵を追撃して桶狭間に至るような仮説は成り立たない。
かと言って東海道を辿るなら砦の敵に背後を向ける形になって追撃を受ける。
織田方がどうして南進できたのかがこの合戦最大の謎。
部下を安心させるために言った方便かもな>信長が疲れた敵を叩くんだと発言
766 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 18:57:29 ID:cf1Q0fpT
信長の馬回り衆は天田の戦を勝ち抜いた修羅だ。
槍の股座こと前田利家の槍捌きは一突きで足軽10人を串刺しにした。
そんな猛者揃い相手に今川吉本興業の百姓侍が勝てるわけがない
戦国の長嶋巨人軍
志茂田景樹 実業之日本社 1995年
あの直木賞をとったのが信じられない志茂田大先生の作品。タイトルからして凄いものがありますが、内容もタイトルのまんまです。
まず冒頭、長嶋巨人軍(まだ落合が居た頃の)が何故か自衛隊の演習をしています。しかも実弾を使って。
「実戦向きの精神を養うために」トレーニングをしているのだそうですが、民間人が実弾撃っちゃまずいでしょう。
落合は「実弾を使うなんて、税金の無駄じゃないか」とぼやきますが、そういう問題じゃない気がします。
そうこうしてるうちに、巨人軍はいきなり桶狭間の戦いへタイムスリップ。
しかし流石は長嶋、「タイムスリップしてきた以上、またタイムスリップして戻れるという訳だった」ということで、「しょうがない、
これも俺達の運命だ」とあっさり納得してしまいます。
そうなればもう後は怖いもの無し。実弾が有るのを幸いに、織田軍に加担して今川軍を蹴散らします。
そして巨人軍はそのまま信長と友好関係を築きます。まずは迫撃砲で信長の美濃征服を手助け。あーあ。
長嶋はこれだけでは飽き足らず、信長に野球を教え込みます。
この野球のシーンというやつがまたやけに大きいスペースを割かれていて、主な武将皆野球選手になっちゃってます。
秀吉はショートとして小技と頭脳プレーを見せ(というか、まんま殿馬)、勝家は織田家一のパワーヒッター、滝川一政は
制球力のいいエース、そして織田軍の監督をしている信長は自ら代打で出て来る藤村富美男みたいな選手にされちゃってます。
信長、長嶋のことを「チョウさん」って呼ぶし。
また、巨人軍選手達もなんか完全に戦国時代に順応してしまい、戦国時代に「巨人軍選手のサイン」ブームを作り出したり、
川相と大久保が裸踊りを踊ったり、桑田が闘鶏にこって金をスった上「巨人軍饅頭」を売り出そうとして失敗し借金を作ってしまうなど、
「やりすぎ」といった感のあるシーンがじゃんじゃん出てきます。
また、小説の後半で比叡山の焼き討ちのシーンがあり、「僧、坂本の町民、子どもに至るまで、比叡山にいた者は見つけ次第
捕らえられて虐殺された」と描写されています。
そしてそれを見てみぬふりする長嶋。虐殺止めろ。
戦車や迫撃砲使って戦争するとか好き放題に歴史変えてるんだから、こういう歴史的事件を変えたっていまさらバチ当たらないでしょうに…。
ちなみにこの小説は、信長軍と巨人軍が共同で武田軍を撃破し、長嶋の顔が晴れ晴れとしたところで終わります。
そう、長嶋達が現代に戻らないまま終わってしまうのです(「タイムスリップしてきた以上、またタイムスリップして戻れるという
訳だった」っていう文章は何だったんだ?)。
もしかしたら続編を書くつもりだったのでしょうか。真相は今も藪の中です。
え、結局これは「戦国自衛隊」のパクリなんじゃないかって?馬鹿を言っちゃあいけません。それは余りにも失礼というものです。半村良に対して。
ttp://www.kansuke.jp/text/sengoku.html
768 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 10:06:48 ID:OrrcmRz1
志茂田景樹って今何してるんだろう
769 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 12:47:55 ID:1wVPxhyi
その小説めっちゃ読みたい。普通の本屋に売ってるのかしら
770 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 21:20:19 ID:O68qHOyb
>>764 鷲津・丸根砦の今川軍は、砦の守備を命じられているから、基本的に動かない。
信長は、中島砦に来るまでに、2砦の陥落を知っているので、後詰めが目的ではない。
今川軍を分散させたことで2砦の役目は終わっている。いまさら奪還しても意味がない。
したがって、信長が鷲津・丸根方角へ攻めることはありえない。
>>763 公記には書いてないが、
中島砦の西から東南、および旧東海道沿いには、今川軍がひしめいていたと考えられる。
その理由は、
1)前夜から早朝にかけて鷲津・丸根の砦を落として、次のターゲットである中島砦を放置するはずがない。
2)この日は信長の出陣が予想され、しかも善照寺方面から来る可能性が最も高い。
3)義元がわざわざ中島砦攻めを督戦するために桶狭間中腹あたりまで来て陣を張っている。
4)義元本陣を守る意味でも、最大の兵力をここに配置する必要がある。
しかも、中島砦から義元本陣までは約3kmの距離で、駆け足で行っても30分はかかる。
中島砦はほとんど海抜0m、山の中腹にある義元本陣まで、今川軍は高地で待機している。
こんな状況なので、今川の前衛部隊を叩いて局地的な勝利を得ることが無理なことは、やる前から明らか。
もし攻めてみて、敵が簡単に崩れたら、追撃を誘って包囲する罠だと考えなければならない。
まして、「追撃して行ったら、偶然その先で義元本陣と遭遇した」
は、ありえない。信長は義元が桶狭間中腹(田楽狭間(?))に陣を張ったのを知っていた。
しかし、全力で正面攻撃したとしても、2千の信長軍が5・6千の今川軍を蹴散らして義元本陣にたどり着くことは不可能である。
>>770 「近代以前の両者不意をつかれた遭遇戦」というものを解ってない。
何が起こったかを把握するだけでもかなり時間がかかるものだ。無論軍の規模の大きいほうがその混乱も大きい。
それに「桶狭間中腹」ってのも相当広いんだぜ?正確な場所がわかっていたとも限らないだろ。
それに軍隊は生き物なんだからいつ移動するかもわからない。「正確な位置」と言う情報自体が嘘に近いものだ。
とにかく近代以前はどんな軍隊でも、可視範囲に入って始めて敵軍を性格に把握出来た、と言える。
第一次大戦の頃のヨーロッパすらそうだったんだぞ?
君は頭の中だけで戦争を構築しすぎてる。
いいから暇な奴は今川の旗指物を持って16日に有松駅に来なさい。
現地を歩き、車で周辺を走って海岸線を想像するだけでも感覚的に結構分かってくるから。
773 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 04:04:12 ID:fVQnGvCB
松平が織田に情報流しててもおかしかないしなあ
一門で優遇されてた説もあるが、義元戦死後の松平の動きは
家康の生涯で最も機敏なほどだ。
774 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 04:35:20 ID:7vFWojNU
家康は普段どっしりしているイメージがあるが
要所要所では相当すばやいだろ
775 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 19:36:23 ID:PeGSVC0j
>>773 それはない。今川方が尾張攻略に成功したらかなりの高確率で
内応がばれる。合戦の実相がどうだったにせよ、基本的に寝返り続出で
勢力圏を大きく押し込まれた織田方不利の大勢だったのは間違いないんだから。
しかも、今川家が勢力拡張を続けられたなら、今川家中武士団でも
トップクラスの勢力を誇る三河松平党棟梁として黙っていても
相応の地位と繁栄は約束されている。
この時点で無用なリスクを負う必要は全く無い。
776 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 19:57:47 ID:nDHHvSqH
松平家康は生粋の博打打ちだ。
単に今川吉本興業より織田上総之助信長の漢ぶりに賭けたにすぎん。
777 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 20:03:06 ID:Zb+RU5zK
>>775 当時の家康に博打をうつ動機はないというのには同意ですが、当時の信長が
そこまで追い込まれていたというのはどうかと。
鳴海城は基本国境の城ですし、桶狭間の時点で今川に寝返った者というのは?
尾張で今川に味方したのは長島の服部党がいますが、これは信秀の代からの
敵対者ですし。
>>777 桶狭間の段階での信長の勢力圏は、信秀時代の3分の1程度でしかない。
信秀次代と同等に見る事は間違い。
779 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 20:46:34 ID:nDHHvSqH
キンカンやハゲネズミや槍の股座や家康や信玄と言った戦国の覇者が上総之助信長の潜在能力を見抜いていたのは誰の目にも明らか。
今川吉本興業は信長の天下フブの噛ませ犬に過ぎないってことさ。
桶狭間は単なる序章に過ぎない
780 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 22:05:58 ID:Zb+RU5zK
>>778 では、当時の尾張で信長に服属していなかった勢力を教えてください。
私が調べた限りでは、鳴海城周辺の今川勢力と、一応行政区画では尾張ではない
長島の連中と、かつては友好的だったが桶狭間の頃には微妙に敵対していた犬山
くらいでしたが。
というか、信秀の時代だって尾張全域支配はできていない。それの三分の一?
信長が家督を継いだ直後ならその数字もわかりますがね。その後の清洲攻略や
末森支配や岩倉攻略はなんなのかと。
春日井郡北部や愛智郡東部が不安定ではある。
当たり前だけど辺境は弱いな。
782 :
織田上総之信長:2007/08/02(木) 22:49:12 ID:Xmptgij9
今川強い
783 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 23:18:51 ID:BflOkhRC
歴史読本8月号の「信長記」の大研究を見たら、天理図書館所蔵の「信長記」によると
1)信長は大高砦の南に、大野・小河衆を配置していた。
2)今川軍の備えが、義元本陣の前に、北西の方角に何段にも展開していた。
3)熱田・山崎より中島砦まで見学についてきた人々が、急に帰ってしまい、手薄になってしまった。
と有るそうだ。
鳴海城ってどんな意見でも大概スルーされるよな。
785 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 03:03:03 ID:ra2Q83mj
>>784 鳴海城って、信長もスルーしたしね。
>>783 2)は、俺の意見を補強する記述だと思った。
3)は、見学者って野次馬が大勢ついて来ていたってこと?
>>780 それと、桶狭間のころは、品野城もとられ、その周辺も今川に侵攻されていた。
>>772 16日に、「桶狭間を歩く会」のような催しがあるの?いいなぁ、近かったら行って見たいけど。
>>771 俺は「桶狭間合戦は正面攻撃〜遭遇戦ではない」と主張しているので、
「両者不意を突かれた遭遇戦をわかってない」とか言われても、なんのこっちゃとしか言いようがないよ。
そもそも、織田軍が約3倍の今川軍前衛部隊を正面攻撃し、それを突破して本陣にたどり着けることはありえない。
百歩譲って、仮に正面攻撃・追撃そしてたまたま今川本陣と遭遇したとしても、
「遭遇戦」というのは、織田軍からの視点で言っているのに過ぎない。
今川本陣から言えば、「さっきから見ていて待ってたぞ。ゴルア!」といったところ。
要所要所に見張り隊を派遣し、戦場全体を監視していなかったら、今川軍は烏合の衆かということになる。
高所に陣を張って、戦場を見ていなかったとしたら、今川本陣はほんとに酒飲んで休息していたのかということになる。
生存をかけた戦争である以上、そんなことはありえないんでね。
今川の前衛部隊を「正面攻撃・蹴散らして」、思いがけず今川本陣と「遭遇した」織田軍は、
義元を安全な場所に移して待ち受けていた本陣と、体勢を立て直して追撃して来た前衛部隊に包囲されて、壊滅という結果になる。
今川本陣の位置情報について。
よく小説やドラマなどで、桶狭間に出陣した信長の元に間者が来て、
『今川義元、ただいま田楽狭間にて休息中でございます』と報告。
信長は即座に奇襲を決断した・・・という描写があるけれど、
間者が義元を発見してから信長に報告するまでに早くても30分、
信長がそれを聞き、奇襲を決断してから義元の本陣に接近するのにまた早くても30分はかかるので、計1時間。
(正面攻撃ならば1時間ですむわけがない)
休息や昼食ならば1時間もあれば終了して義元は移動してしまう可能性が高いから、
奇襲は成功しないと思う。
下に示すサイトの桶狭間周辺の地図を見たとき、
義元はなぜ、近道で安全な大高街道を行かず、わざわざ旧東海道を桶狭間中腹まで来たのかと考えると、
中島砦攻めを督戦するため、それと、この日は信長が出陣してくる可能性があり、その戦いを指揮するために、
桶狭間中腹に本陣を張る必要があったのだとわかった。
だとすれば、たまたま通りかかって昼になった、涼しげな木陰があったからそこに休息の本陣を張ったのではなく、
前日のうちに、本陣にふさわしい場所を探し、安全を確かめ、下準備をする作業が行われたはずだ。
そして、義元の本陣の位置を知りたい信長が間者を派遣してそれを探索しないはずがない。
したがって、前夜のうちに、信長は義元本陣の予定地を知っていた。
そして、昼食や休息のためではなく、督戦と指揮のための本陣である以上は、短時間で移動することはなく、
信長の奇襲は成功したのである。
桶狭間周辺の地図
http://www.finvic.com/syumi-15.html
786 :
111111111:2007/08/03(金) 09:52:30 ID:SzmjLMqz
約2000の兵が5000の陣中に突っ込んでいって大将のところまで
たどり着くのは無理なことかなぁ???
大阪夏の陣では信繁は家康の旗本が家康置いて逃げてしまうほど
突っ込んでいかなかった?? あの場合でさえ予期された突撃であるのに
不意の遭遇戦(信長軍だけは確信的)の場合は余裕のヨッちゃんな気が
しないでもない.例え真田ほどの勇猛果敢な兵ばかりじゃなくても.
787 :
111111111:2007/08/03(金) 09:55:14 ID:SzmjLMqz
まあ俺もあちこち読んだり調べたりしているけど結局何も解らない
というのが本当の所… 信長が勝ったという事実だけが残る…
まあ運にせよ何にせよ信長はやっぱ天才.その後も運によって
浅井の裏切りとか信玄とか本願寺とかで救われてるし最早運とは
言えないような強さ.
最後の最後でそれまでの幸運が全部裏返して帰ってきたけどな。>信長
789 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 15:04:06 ID:hKTUfZ8y
家康は運を貯金して、最後に解き放ったな
790 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 22:18:33 ID:WxNaFD0p
最後の最後でそれまでの幸運が全部裏返して帰ってきたけどな。>信成
791 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 23:11:37 ID:MIOeQPpe
蟹江城も落とされたというから尾張沿岸部も不安定
792 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 14:54:11 ID:Bmn3N5Fx
>>786 講談の真田幸村の活躍話を引き合いにされても困る。
その真田隊も家康本陣にたどり着くまでに全滅したし。
信長は義元本陣の位置を知っていたのだから、遭遇戦というのは当たらない。
2千の兵が5千の本陣に突っ込んで義元を追い詰めることは、次の条件下でならば可能だろう。
1)2千丸ごとで一気に攻める
2)義元本陣にとってはまったく予期しない時に、予想しない方角から攻撃
3)本陣よりある程度高い位置から攻めることで、陣幕の配置などから、全員が義元の位置を推測でき、攻撃を集中
4)周辺にいる義元軍が加勢に来ない
正面攻撃だったら、本陣にたどり着いた時、2千のうち何人生き残っているのか?
正面攻撃だったら、本陣から丸見えだから、当然予想し待ち受けている
正面攻撃だったら、下から攻めあがる形になり義元がどこにいるか見当もつかない
正面攻撃だったら、駆け足で行くだけでも30分かかる、前衛部隊と戦いながら進んだら1時間か2時間か?
当然、鷲津・丸根、大高城の今川勢も加勢に駆けつけるわな。
条件を満たす方法は、正面にいる今川前衛部隊との戦いを避け(迂回)、本陣を直接攻撃するしかない。
793 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 18:03:27 ID:1vrcMpU6
>>792 なんで天候無視してるのかわからないけど、ぐるーって遠回りな迂回じゃなくて
最短距離の正面攻撃でも悪天候や千秋、佐々の残軍狩りなどで
今川前衛部隊や本隊の統制が取れなくなっていて、前衛部隊と大して戦わないで本陣に着く正面攻撃もあるのでは?
てか、下から攻めあがる(ryの件とか、駆け足で30分ってのは土地勘なさすぎと思うんだけど。
794 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 22:22:32 ID:pbO8JxxD
>>793 >悪天候
同じことを何度も書きたくないので、簡略に書くと、
信長公記よればは、雨は、『山際に兵を寄せたとき』に降り出した。
上のほうで、「雨ははじめから降っていた」と言う人がいたけど、
公記には、熱田のあたりで、鷲津・丸根砦の陥落の煙が見えたと書いてあるので、それはない。
>千秋、佐々の残軍
佐々らは300人で攻め込んで、あっという間に50騎が討ち取られたと書いてある。
1人の騎乗の武士に武田鉄也や前田吟のようなのが2〜10人、仮に平均5人付いて戦争に参加したとすると、
300人=約50騎だから、佐々ら武士はほとんど全滅したことを意味する。
信長の出陣を予想し、必勝の布陣をしている今川軍が、その程度で混乱するわけがない。
仮に前段が混乱したとしても、中段後段、本陣が信長本隊を見逃すはずがない。
>下から攻め上げるとか駆け足で30分
中島砦は海抜ほぼ0m、「桶狭間」の山の中腹にいる義元本陣は海抜20mくらい。
両者の距離は約3km。途中何もなく駆け足で行けば約30分くらいだよね。
もちろん、戦いながら進んだら30分で行けるわけがない。
騎馬武者が全速力で走って行ったら…?
歩兵とはぐれたら、槍衾で突っつかれて、たちまちぶっ殺されるよ。
795 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 01:02:29 ID:g14CksFC
お前アホだろ。
洋式の駆け足が日本に入ったのは幕末だぞ。
戦国時代の武士の駆け足はがに股で擦り足で走るからめちゃめちゃ遅い。
3キロだと1時間以上かかる
796 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 13:06:15 ID:6Ic9mDMt
主戦場が尾張と三河のモロ国境(どちらかと言うと三河領内)なのにも関わらず、
その割りに、この戦いにおける三河衆(家康含む国人衆)の動きは、
どこかリアリティを欠く、微妙な部分が感じられる。有体に言うと熱気がないのだ。
また、後世に残された文献に、いくらでも三河衆の活躍(真偽問わず)を、
伝えられた立場であったにも関わらず、この戦いにおける三河衆は、
四世紀半を経た現在に至っても、目立たない脇役程度に留まっている。
何か腑に落ちないのだ。
>>795 洋式でなくても昔っから日本には「駆け足」も「早足」もあったわ。
西洋のものが入ってくるまで日本人は早く走らなかったとでも思っているのか?
「韋駄天」って言葉の意味と、いつから使われていたかを考えろ。
きっとお前は「戦国時代の日本の馬は体格が小さかったから騎馬隊も無かった」とか信じちゃってるタイプだろうなw
798 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 14:44:19 ID:g14CksFC
>>797 やっぱお前アホ。
嘘だと思うなら秘剣鬼の爪だったかの山田洋次の映画見てみろや。
昔ながらの武士の駆け足対イギリス式駆け足の対決してるから。
あと時代劇や大河ドラマに出てくる馬は戦国時代に存在してないのはアホでも知ってる。
当時の日本産の馬はロバやポニーみたいな短足だ。
だから騎馬隊はいただろうけどかなりマヌケな代物だったのはあらゆる歴史研究者の共通認識だ
799 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 15:01:12 ID:sm66Unf5
どうでもいいが映画は史料じゃないぞ。
ボニーサイズが一般的ではあっても南部駒や木曽駒のような大型種もいた。
騎馬隊もアラブ系のような競走馬ではなく、常に農業で使う農耕馬を戦に使っていただけ。
戦国時代に武士と農民の線引きが非常に曖昧だったのも覚えておいたほうがいいな。
>>798 映画…
人間の体で出来る事はどんな民族でも人間である以上可能だ。
その説はそれを無視して、先ず結論(西洋式の入る前は遅いに決まってる)があって、それをもとに
理論を組み立てている典型的なタイプ。こういうのを「本末転倒」と呼ぶ。
あと、これはなんでもかんでも「啓蒙」で「発展する」って考え方だね。
いかにも自称インテリ進歩的知識人の山田洋二が好みそうな説だ。
それからさー、馬も含めた生物には「個体差」ってのがあるんだよー?
しってた?
平均値は平均でしかないんだよー?
わかる?
どんな国でも騎馬隊に使うような馬は当然選別された馬格の大きいものを使うに決まっているって言うのが
理解できるかな?
801 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 15:04:45 ID:1eIcS0Ll
>>792 >条件を満たす方法は、正面にいる今川前衛部隊との戦いを避け(迂回)、本陣を直接攻撃するしかない。
迂回奇襲説は、藤本氏によって完全に否定されて、
いまは正面攻撃説が通説になっている。
802 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 15:18:10 ID:g14CksFC
山田洋次の映画はよくリサーチされてるし派手なチャンバラもないし退屈な展開だけどそのぶんリアルだ。
俺はお前らよりは山田洋次を信じるね。
803 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 15:45:30 ID:sm66Unf5
拗ねるのは勝手だが、山田監督を語りたいなら邦画板行ったら?
804 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 15:53:17 ID:j9I5nyKU
>>798 お前には西洋の騎馬用馬はサラブレッドで
日本の馬はシェトランドポニーとでも思ってそうだな。
日本産の馬を貶めてるのは新説大好きな一部の娯楽メディア向け研究者だけだ。
805 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 15:54:32 ID:g14CksFC
別に山田洋次について語るわけじゃないだろ。
俺は戦国時代の馬について語りたいだけだ
806 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 15:59:57 ID:XKeJiBse
職業差別を助長する映画を作る山田なんか人間のクズ
807 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 16:19:27 ID:j9I5nyKU
当時の宣教師がポニーと日本の馬を評した
→ちっちゃいシェトランドポニーと同じだったんだ。
NHKの実験で訓練していない現代の木曽馬に重り付で乗ったら10分でバテた。
→こんなんじゃ騎馬隊による合戦なんて無理。
これは明らかに騎馬隊否定を目的とした論法であり、あらゆる研究者の共通認識ではない。
当時の馬のサイズが小さいのは日本に限った話ではないし、140cmもあれば十分威圧感はある。
第一、江戸期に幕府の方針で在来馬の小型化の品種改良が行われた事実を無視してる。
小型化の目的は地方の反乱を抑える為で、わざと馬の戦闘力を落とした。
だからこそ明治期に日本は軍馬を外来種に頼らざるを得なかった。
NHKの実験の話も現代の訓練されていない在来馬を対象としており、
大河撮影の為のデータ収集が目的であり、中世日本の馬の検証を目的としたもので無い。
また仮にNHKの実験が当時の馬と同等と仮定しても、騎馬隊否定にはなりえない。
なぜならば、45kgもの戦闘用甲冑もありえないし、10分以上の騎馬突撃なんて戦況もありえないからだ。
むしろ人間の方が先にばてる。
繰り返すが、通説批判が目的でゆがんだ解釈をする研究者の意見を
「あらゆるあらゆる研究者の共通認識」とするのは研究者に対するの冒涜に他ならない。
だいたい世界最強の騎馬民族帝国をつくったモンゴルのモンゴル馬も、西洋人から言わせれば「ポニー」だ。
「戦国時代に騎馬隊は存在しなかった」説をとる人間は、同時に「モンゴルに騎馬隊は存在しなかった」言う事を
証明しないといけない。
809 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 17:09:25 ID:gbl7iLKK
つか、藤本なんか信じてる時点でどうかと思う。
810 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 18:17:47 ID:5BPMJenZ
映画から史実を語っている奴がいると聞いてトンできますた
811 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 19:52:44 ID:g14CksFC
日本に鉄砲が輸入された翌々年には日本が世界一の鉄砲所有国になった。
それほど日本人は新しいモノ好きなんだ。最強と歌われた武田の騎馬隊も鉄砲の前ではポニーに乗ってる単なる兄ちゃんでしかなかったんだ。
そう言う意味では騎馬隊はいただろうが重要な部隊ではなかった
>>811 前半と後半でまるで文章がつながっていないぞ?w
つーかさー、(西洋人が勝手に言う)ポニーの騎馬隊にその君の大好きな西洋人の組織した、体格の大きな馬を使った
騎馬隊は完膚なきまでに敗れたんだがね。
ワールシュタットの戦いって、知ってる?
813 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 20:05:18 ID:g14CksFC
それってチンギスハンが戦った戦いか?
だったらそれこそお前らが言う選別を行って侵略したヨーロッパなんかでよりよい馬を選別して戦利品として使ったんだろ。
だから蒼き狼達がポニーに乗ってた証拠にはならない。
>>813 アホか。モンゴルのワールシュタットでやった戦術から言って、モンゴル馬以外を
使用したとは考えられない。少しは自分の頭で考えて物を言え。
815 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 21:11:43 ID:g14CksFC
とりあえず俺は世界史は専門外なんでこれ以上釣りには付き合えん。
俺は日本史の戦国時代専門なんで
816 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 22:44:13 ID:sm66Unf5
だとすれば俺の指摘に対して矛盾が生じるわけだが。
史料よりも映画を優先しておいて戦国専門って、書いてて恥ずかしくならんか?
知らないなら知らないで別に恥ずかしくないんだからもっと謙虚になろうや。
817 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 12:53:51 ID:8zICMXqS
騎馬隊が存在しなかった事さえ知らない人がまだいるのか。
これが夏厨という奴か・・・
武田騎馬軍最強!とか信じちゃってるんだな、可哀想に。
818 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 13:16:59 ID:TXtg0+df
信長本人が馬を降りて突撃したってことは公記にもある
この戦では純然たる移動手段だったことには違いない
一方で美濃攻めの撤退戦の時に織田軍が「騎馬を足軽のように繰り出して」敵を追い払った話も載っているから
微妙な
819 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 13:36:20 ID:fGO8Rr8z
騎馬隊というのは騎兵のみで構成されている軍隊のこと。
武士が登場していらい戦国時代までは純然たる騎馬隊は存在しなかった。
例外としては源義経が一の谷の合戦の際、別働隊として少数の騎兵を組織したのが
有名なくらいだな。
820 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 14:34:56 ID:Jdg8K/Jr
http://www.finvic.com/syumi-15.html の、桶狭間周辺図は、わかりやすくて、大変参考になりました。
ただし、名鉄本線と現国道一号線がないほうが見やすかったのにと思います。
あと、土地の高低の情報と、当時の山林の分布があればもっと良かったかなと思います。
でも、城砦、川、道路の位置関係がよくわかって参考になります。
このサイトでは、佐々・千秋ら300人を陽動作戦軍と考え、高根山の今川軍を攻撃、
その隙に、信長本隊が丘陵南斜面を太子ガ根まで接近したと解釈しているようですが、
佐々隊は、もっと中島砦に迫っていた今川軍と戦い全滅しているし、
信長本隊の動きは高根山・幕山・本陣から丸見えなので、それはないと思います。
また、武路釜ヶ谷から本陣へ攻め上ったとの解釈ですが、
その位置にいたら、まさに高根山・幕山・本陣から挟撃される、
兵法でいう「死地」に自ら飛び込む形になると思います。
(まあ、本陣の位置についても私は違う考えを持っていますが)
いずれにしても、このサイトの図のおかげで、長年抱いていた疑問が解決したので、感謝しています。
821 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 15:28:58 ID:O6dX/k8s
>>820 信長の動きが丸見えと断言されていますが、測量ソフトかなにかで検証をされたのでしょうか。
あと土地の高低の情報と、当時の山林の分布を知るのに何を参考にされたのでしょうか。
おすすめがあったらお願いします。
822 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 15:47:44 ID:SI9g2ibi
>>790 > 最後の最後
まだ生きてるじゃないか。最後の最後は棺桶の蓋が閉まる時。
823 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 19:35:17 ID:oQ2QR+6L
>>819 軍隊師旅レベルで混成兵科なのは当たり前だろう。
>騎馬隊というのは騎兵のみで構成されている軍隊のこと。
小学生でも言わないぞ。こんな屁理屈。
>>817 映画とかドラマのような騎馬隊がありえたかの話じゃないぞ。
戦闘に騎馬が使われたかについてだぞ。
夏厨じゃあるまいし、極論で話ねじまげるのはやめような。
>>817 お前は「専門家」が、「織田信長は実は宇宙人だった」って言い出せば
ホイホイ信じちゃうタイプだなw
825 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 20:42:47 ID:0NEFGgS/
信長公記に普通に馬防の為の策とかあるじゃん。
で3万8千も要して、城塞化したりして俺ら以上に信長のほうが武田騎馬幻想が強い
気がするけどな。
826 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 21:04:40 ID:rI9n6R7y
>>815 創作物でもその作者がまともな作り手で、受け手にもそれなりの知性(知識ではなく)があれば、勉強になることも多い…と考えるけど、貴方のは酷いですな…。
こんな処で訳のわからん人間の為に悪口書かれるはめに成った山田氏が哀れだ。
今回、此処に居たお兄さん方はかなり優しい人達だと思われ…。普通ならもっと酷い精神的ダメージをおってるよ。
……って、もう居ないかな?
827 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 21:49:01 ID:Jdg8K/Jr
>>821 すみません。検証はしていません。
ただ、今川軍が先に戦場に到着して高地を占拠していること、
要所要所に見張りを配置しているであろうこと、
信長本隊が移動して木立などで見えなくなったら、偵察隊を出さないわけはないので、
丸見えと言い切っていいと思いました。
以前、ネットで古地図(江戸時代のもの?)を見た覚えがあるのですが、
今回、Googleでイメージ検索してみたが、出てきませんでした。
関心があるのは、旧東海道の北側の地形と山林の分布ですが。
迂回説のルートで本陣に接近できるかどうか知りたいです。
828 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 23:03:37 ID:O6dX/k8s
>>827 裏付けはないみたいですね。ありがとうございました。
その古地図は、また見つけた時に教えてくれるとうれしいです。
829 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 23:11:17 ID:2YqshFP1
確かにそうだな。
大軍を集めておきながら
包囲解除の為の後詰なのに
馬防柵どころか砦まで作って、篭り続けた。
よほど、恐れていたというのは確かなようだ。
>>823 どこにでも必ずいるよな。こうやってすぐ噛み付いてくる奴。
いちいち他人に反論しないと気がすまないんだろうな・・・・・。
831 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 15:32:42 ID:8LJocjMf
三段撃ちは大嘘だし馬防柵というのも後世の創作、一般的なただの野戦陣地。
武田軍は後詰に来たはいいが織田の迅速な進軍の前に逆に退路を絶たれ、
大軍相手に強行突破を図らざるを得なかった。
完全に信長の戦略的勝利、戦術面での勝利と貶めるのは信長に失礼千万。
834 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 05:49:55 ID:xMOTvK2s
馬防柵が創作たって、信長公記に馬防柵って書いてあるんだから、ないも糞もない。
835 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 22:29:45 ID:0C0xpBHE
つか「馬防」目的かどうかにかかわらず陣城に柵こさえるのは普通では。
平地に土塁だけである程度有効な防御施設築こうとしたら
本格築城並みの労力がかかるw
836 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 23:07:28 ID:h0TP14r3
これから戦おうってときに最前線に柵を作るなんて、普通ないだろ。
セト山に柵を張るのはいいけど、どこから現れるか分からん敵のためではないな。
838 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 23:23:00 ID:Yahmp0nd
古代ローマ軍は宿泊のたびに陣地を築いたというから
作る人間は作るんじゃないか?
839 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 00:16:27 ID:F6MSoQhg
設楽原の柵は宿泊のための陣地じゃないだろ。
まさに戦場の最前線。
所詮歴史なんて憶測にすぎない・・・なんて事を言ったら身も蓋もなくなってしまうのだが
大河ドラマのように全体の流れはともかく、詳細の部分に至ってはどこまでが事実かなんて
誰もわかりはしない。
もちろん残された資料や発掘調査などから精度は高くはなっているものの、それでもやはり
想像の域を出ないことには間違いないだろう。
例えばテレビ・ラジオ・ネットなど、情報収集の手段は今までにないほど充実した現代でさえ
我々は自身が生きている現在の世の中で起きている出来事をどれだけ正確に把握できてるだろうか?
それを考えると、信憑性の高い資料が皆無に近い歴史は想像の産物と言っても過言ではないだろう。
それゆえ、誰がどのような見解をしてもまた許されるともいえる。
841 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 00:59:20 ID:W5h2i58A
長篠では武田の後方を遮断するまで対陣しておく必要があったから
野戦陣地築いたんじゃないの?
包囲殲滅を狙う場合に気をつけなければならないのは
包囲が完成する前に相手に突破されることでしょ
842 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 15:04:06 ID:fiU0OnFm
武田の後方を遮断するなんて話はどこから出てきたんだ?
843 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 20:25:22 ID:t0CsobdD
鳶ノ巣山奇襲攻撃でしょ
徳川軍の酒井隊+信長馬廻選抜隊で、武田軍の長篠城封鎖を兼ねた後方陣地を迂回奇襲
これにより武田勢は織田徳川軍に包囲される形になった
勝頼が無謀と思われる突撃をやったのもこれが原因だろう
844 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 21:00:04 ID:S9wyoEcj
それって軍議の中で急遽決まったことでしょ。
柵をつくった後で。
845 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 11:12:25 ID:TVx1evxY
長篠城を落とせなければ、武田軍は後方を抑えられているのと同じ
長篠勢には積極的に打って出る力は残っていなくても、武田軍に野戦と攻城戦を同時並行するだけの余裕が無い以上そういう形成となる
勝頼は、恐らく野戦でまず織田徳川の後詰に対処しようと考えたんだろうけど、結果的にこれがより完全な包囲を喰らう奇襲の呼び水となってしまった
846 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 12:12:29 ID:fuHNljyM
軍鑑だから信用度は低いが
信長が出てきたから長篠諦めてとっとと逃げようという主張も軍議ではあったそうだ
これが結果から逆算すれば一番の正解だったな
武田の優勢は、西で反織田勢力が信長の足を引っ張ってくれていたから
ガチでやれば兵数が大きく、バックボーンとなる国力がデカいほうが勝つ
847 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 21:38:20 ID:zp3GNW4p
「信長は本当に天才だったのか」工藤健策著にある通り。
雨が降ったという運が良かっただけ。
848 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 21:55:35 ID:5G+VAhJQ
雨が降っても織田軍が今川軍本陣近くまで突入してなけりゃ意味ないじゃん
運が良かったのは確かだが、それを引き寄せたのは信長の才覚
敵前衛を突破して本陣を奇襲するような電撃的な作戦成功例、戦国史でもほかに無いよ
849 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 22:03:54 ID:+focz3iJ
桶狭間の合戦が行われた頃は梅雨末期の突発的な大雨が降りやすい時期だったとも
聞いている。
むしろ今川義元がそういう時期を選んだことが不可解だね。
850 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 22:24:37 ID:oRQVwbGj
一番わかりやすいところを不可解とか言ってるような気がするんですが。
851 :
人間七七四年:2007/09/03(月) 07:37:11 ID:KreSF8wN
と言ってる本人が一番何もわかっていないという事実
852 :
人間七七四年:2007/09/03(月) 12:27:21 ID:liwfUjWQ
雨は、ほとんど関係ないな。
降りだす前に「山際」に到達している。
降るか降らないか不確かなものをあてにして作戦立てるほど、信長はアフォじゃない。
853 :
人間七七四年:2007/09/14(金) 22:29:02 ID:T7XwLlg+
史上最大の捏造戦。
後世に多大な迷惑を及ぼす。
李舜臣神話どころの話ではない。
854 :
人間七七四年:2007/09/22(土) 20:30:54 ID:D0sm+p2b
山口親子が寝返らなかったら、この合戦はおきなかったね、
855 :
人間七七四年:2007/09/23(日) 03:11:57 ID:ioXGlwE1
856 :
人間七七四年:2007/10/04(木) 04:00:41 ID:WVmk45+F
>>854 そうだけど、山口教継の寝返りは、桶狭間の7年前。
857 :
人間七七四年:2007/11/13(火) 16:20:03 ID:nv7QNLXb
今日本屋行ったら桶狭間本の新書が出てたぞ。
帯に正面攻撃・兵数は1万対5千だったとか、思わず買いそうになった。
858 :
人間七七四年:2007/11/13(火) 16:28:24 ID:AVNSloYo
>>853 桶狭間みたいなことはめったにないレアケースだね。
大将が討ち死にした合戦って桶狭間以外だと河越夜戦ぐらいか?
信長くんは単に運が良かったってことだろう。
このめったにないレアケースが明治以降の
帝国軍人に悪い影響を与えたのは不幸だったね。
859 :
人間七七四年:2007/11/13(火) 16:37:08 ID:nv7QNLXb
島津家久が大名3人殺しという偉業を達成してる。
860 :
人間七七四年:2007/11/13(火) 19:03:14 ID:fU17RmNu
歴史というたった一つの結果だけみれば、幾多の偶然が重なった出来事にみえても
もし〜の場合、もし〜が〜でなければ、など
考えられる他のさまざまな可能性に対し、信長も策をめぐらしていただろう。
いずれにしても信長の能力を考えると、桶狭間の勝利は偶然とは思えない。
861 :
人間七七四年:2007/11/13(火) 19:06:43 ID:fU17RmNu
信長がこの一戦のみで名をあげただけの者なら、ただの偶然といえるが
その後も次々と周辺諸国をねじ伏せていった圧倒的な力の持ち主だから
862 :
人間七七四年:2007/11/13(火) 19:51:00 ID:pNie+vIx
全く関係の無いことを一見関係がありそうに語るなよ。
863 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 00:02:10 ID:pbL3lifU
>>860 馬鹿か
これほど偶然が積み重なった合戦なんて他にない
本隊とは知らずに正面から突っ込んで勝利した
これが真実だ
妄想癖の多い連中だ
ったく!!
864 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 00:41:22 ID:pC7AxUgx
865 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 00:49:01 ID:OsZr2WZL
桶狭間の小休憩がいつ終わるかなんて分からない。
「信長が桶狭間に着いた時には誰もいませんでした」という現象もありえる。そうならないよう、信長は綿密に義元の身辺を探っていたんだと思う。
尾張鳴海城の山口氏を義元が駿府で成敗したことで、尾張国人は今川家を恐れて注進することをためらっていたことも効を奏した。
866 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 00:58:36 ID:OsZr2WZL
正面突撃説が有力なようだが、それなら信長軍にかなりの死傷者が出たはずだ。
信長の桶狭間突撃で一族重臣の戦死者は出たっけ?
867 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 01:11:19 ID:P1YmrwRT
868 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 01:14:50 ID:OsZr2WZL
想像力を逞しくして桶狭間を一望できるポイントに立つと、
史料の信憑性に振り回されずになんとなく軍勢の動きが分かってくると思うよ。
870 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 01:27:16 ID:P1YmrwRT
>>868 第四次川中島で、上杉軍が武田軍に攻撃を加えたのも、正面突撃だ。つまりは、そういうこと。
871 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 01:31:15 ID:U8U5BHvb
872 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 01:31:39 ID:OsZr2WZL
>>870 正面突撃なら、織田軍に多くの死傷者が出る。
川中島の例なら信玄の本隊は8千で越後軍は1万3千だった。しかし信玄を討ち取れず、一時は越後軍が押し戻されそうになった。
それだけ中央突破は難しい。
873 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 01:36:51 ID:fw8eaglu
相手の予期せぬ正面突撃は、奇襲になりうるからな。
総勢は多数ながら、砦の攻略の別働隊に多くの兵力を割いていたため、
正面衝突にもかかわらず、衝突した隊と隊の兵力差が多大に減少してしまった上、
狙って突撃した側と、予期せぬ突撃から戦闘に突入した側じゃ、正面突撃による奇襲になりえただろう。
874 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 01:38:05 ID:P1YmrwRT
>>871 上杉軍は、武田軍に正面から突撃したぞ?
それが奇襲になるなら、「正面突撃=奇襲じゃないにはならない」であってるだろ?何いってんだ?
875 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 01:40:52 ID:fw8eaglu
>>872 川中島は、別働隊が合流後に戦況が一変したんでね?
もし川中島で、信玄が討ち取られてたら、桶狭間に近い状況になったと思うが。
実際、正面突撃した側の上杉側は、織田と同様に主たる将に被害はほとんどなく、
被害も不利になった後半、追撃戦での被害が大半。
876 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 02:00:06 ID:6CAyf9w1
「あ、ヤクザの人と目が合ったぞ・・・あれ?なんかこっち見てる。・・・あッ、こっち来た。
あれ、走ってる。あッ、速ッ・・・うわッ・・・グサッ」
正面突撃の奇襲。
877 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 03:53:35 ID:f9y2BsbM
>>866 織田方も馬廻り衆を中心に、結構な被害が出てないっけ?
単に信長が大きくなる前に死亡したんで、後世には名が残ってないだけで、
その当時からしたら、相応の人間が死んでると思われ。
878 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 12:21:44 ID:1jkKsfv0
「信長公記」の記述なんで
どこまで信憑性があるかわからんが、
桶狭間では信長の御馬廻衆も「手負い、討ち死に数知れず」
って書いてあるよ。
信長のほうもかなりの犠牲を出したんじゃないの?
879 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 12:33:31 ID:WL0gAu1n
結局、将棋と同じだよね
ひとつの作戦の成功の裏には、他の何十通りもの場合についても計算され手が打たれている
例えば、他の場所に陣取っていたら?
どっちみち、義元は他の形の偶然(必然)で負けただろうよw
880 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 13:00:39 ID:pbL3lifU
NHKで描かれたような酒盛りなんてことは少なくとも
なかったろうことは窺い知れる
ただ、今川側に油断というか、隙があったことは確か
戦闘の準備を整えていない合間に正面から攻撃を仕掛けられて
もはや陣形を整える余裕がないまま壊滅した。
これが真相だろう
881 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 13:33:16 ID:OsZr2WZL
>>877 その記述は知ってるが、具体的に戦死者の名前がない
882 :
たられば君:2007/11/14(水) 13:42:13 ID:lNekCBob
佐々成政の兄とか
883 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 13:52:08 ID:OsZr2WZL
>>882 佐々は、信長の桶狭間突撃前に討死している
884 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 13:58:26 ID:QahkdLeY
>>879 将棋の世界でも「頓死」という言葉があって、
たとえ盤上の隅々まで綿密に計算しつくして慎重に事を進めて
99%勝ちが見えていても、つまらない見落としで
コロッと王を詰まされて負けることもあるんだけどね。
885 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 19:43:29 ID:Qb90WL/k
>>881 信長公記が主に記している時節に、桶狭間含まれていない。
さらに言えば、桶狭間の時点で牛一は信長の直臣ではない。
加えて江戸時代に秀吉の指示で書かれた以上、桶狭間について詳細を記す意味がないし、
当時は織田にとって高名であった将や子息が死んだとして、所詮はまだ名もない者ばかりの小国の時期であって、
江戸時代において誰も知らないような馬廻り衆レベルの人物の名を列挙する意味がない。
886 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 20:12:25 ID:Qb90WL/k
↑江戸時代に完成、当初、秀吉の指示で書かれ始めた、ね
887 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 21:21:27 ID:OsZr2WZL
>>885 名もない小国というのは言いすぎだろう
織田の名は、それなりに知れ渡っていたぞ(朝廷への大量献金と上洛)
馬廻が次々と死んだなら、補充や(その家の)家督相続が続出したはずだ。
そんな例があったか?
888 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 21:31:19 ID:0dJK9px1
首巻に記載されている村木攻めも側近多数戦死とあるが、具体的な名前はほとんどない。
889 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 21:33:35 ID:BzmUIcwF
ここで聞くのもなんですけど、信長公記って秀吉が信長への敬意を込めて太田に
作らせたんですか?
890 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 03:30:30 ID:m8yESz5Y
>>863 >本隊とは知らずに正面から突っ込んで勝利した
妄想、ワロス。
>>873 >総勢は多数ながら、砦の攻略の別働隊に多くの兵力を割いていたため
今川勢は、諸説あるが1万5千として、
そのうち丸根・鷲津砦攻撃に4千、本隊が5千といわれている。
残り6千は、どこでどうしていたのかな?
>狙って突撃した側と、予期せぬ突撃から戦闘に突入した側じゃ、正面突撃による奇襲になりえた
信長がいた中島砦から義元がいた本陣まで約2km、しかも高地に布陣。
それなのに、接近してくる信長軍に気がつかなかったのは何故?
>>880 >戦闘の準備を整えていない合間に正面から攻撃を仕掛けられて
へえ、目視できる距離に中島砦があり、その朝信長が出陣したという情報も入っていたはずなのに、
しかも、義元は、先に戦場に到着していたのに、何の防備もなさずに休憩していたのか。
義元は、遠足に来ていたのか?
891 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 04:04:45 ID:9C78qJ8R
信長の出陣後の行動がやたら迅速だったので
今川方の伝令が遅れただけじゃないの
あの時刻に今川本陣が
信長主力の急襲を受けるとは想像すらしていなかったような状況では
892 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 05:02:47 ID:Fo/CNq11
>何の防備もなさずに休憩していたのか
どんな防備をすると言うんだ?
着いたばっかりだというのに
まさかお前陣城を築いてたと言い出すんじゃないだろうな?
893 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 16:40:07 ID:TgdLI0oy
>>892 義元は着いたばっかりだったというソース、キボンヌ。
信長公記では、今川の前衛部隊が佐々隊を全滅させたと書いている。
義元はそれを聞いて上機嫌で謡を歌ったとか。
明らかに先に戦場に着いて、万全の防備をしているゆえの余裕だろ。
2キロ先に敵の砦があるのに、まったく防備をしないで本陣張る馬鹿はいない。
信長は、その朝6時頃清洲城を出陣している。
当然、その情報は義元に届いていて、信長軍を待ち受ける体制で布陣していたはずだ。
894 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 16:58:32 ID:TgdLI0oy
>>891 信長の行動が迅速だといっても、2キロの山道は駆け足で行っても30分かかる。
敵の前衛部隊と戦いつつ進めば、時間はもっとかかる。
あの時刻にって・・・・
昼食タイムってことか?(笑
895 :
たられば君:2007/11/15(木) 17:51:10 ID:e/lBtL13
桶狭間そのものが嘘だという流れに見えてきた。
896 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 18:26:38 ID:QisWRC2d
>>890 >>893 桶狭間突撃における織田軍の「具体的」戦死者は判ってない。そうなる信長は、驚くことに無傷で義元本陣に突撃したことになる。
厳島合戦の小早川軍が陶の援軍のふりをして厳島に上陸したように、信長も今川軍の援軍のように見せかけて進軍したんじゃないか。
桶狭間の進軍ルートが判ってないのは、多くの今川兵に見つからないように獣道というか道じゃない所を進んだためとか。
897 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 19:02:49 ID:9C78qJ8R
>当然、その情報は義元に届いていて
電話かなにかで?
伝令と同じような行軍速度なのに届いているわけが・・・
898 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 19:23:20 ID:V6JOBHES
完全に妄想合戦になってるなww
全くの偶然に本隊同士がかち合って、死に物狂いの織田軍が勝っただけの話だ
信長公記をみても必然的な要素は薄い
899 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 21:05:21 ID:TgdLI0oy
>>897 >伝令と同じような行軍速度なのに届いているわけが
信長は、朝6時ころ清洲城を出陣している。義元本陣への突撃は午後2時ころ。
途中、熱田神宮や善照寺などの砦で、信長はかなりの時間を費やしている。
今川のスパイが、信長の出陣を知らせる時間は十分にあっただろう。
>>898 >全くの偶然に本隊同士がかち合って、死に物狂いの織田軍が勝っただけの話だ
当てもなく突っ込んで行く信長軍、それを見逃す今川軍前衛部隊・・・
素晴らしい偶然だ!
そこまで言うともう、完全な妄想だなー(笑
死に物狂いで戦った数時間の間、本隊以外の今川軍は何をやっていたのかね?
900 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 21:17:57 ID:QisWRC2d
>>899 桶狭間は正味数時間もないのでは?
数時間も戦っていたら、さすがに義元が各方面に援軍を求める早馬を出すはず。
901 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 21:23:58 ID:ufIvj7FB
そりゃあ信長自ら馬上から督戦したから士気も奮うだろうね
902 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 00:08:55 ID:E2ULQOpc
これはそんなに凄い出来事なのか?
まず局地戦だし軍勢の人数はは関係ないよね、
寧ろ少数精鋭の方が有利、
子飼いの精鋭もかなり居ただろーし、
信長の庭で情報掌握も容易かった筈、
信長はかなり自信が有ったと思うよ、寧ろ余裕さえ有っただろうね。
903 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 01:19:58 ID:tsHzfNS6
>>900 >桶狭間は正味数時間もないのでは?
公記には、急ぎつつ帰ったので、その日のうちに清洲に帰城と書いてある。
桶狭間・清洲間は約二十数キロというから、時速4キロで(駆け足)帰ったとして、5時間半から6時間。
夜の12時前に帰り着くためには、遅くても6時には帰路についている。
戦闘終了の命令をしてから、敵を追って散らばっている兵を呼び集め、
各部隊整列して、帰陣の体制になるのに、仮に1時間とすれば、戦闘終了命令は5時。
すなわち、大雑把にいって戦闘開始が2時で、終了が5時、戦いは約3時間ということになる。
>数時間も戦っていたら、さすがに義元が各方面に援軍を求める早馬を出すはず
義元が援軍を求めなくても、本陣が攻撃されてるのを見たら、最優先で応援に駆けつけないか?
中島砦に向けて防備していた前衛部隊は、信長軍にすり抜けられたとしたら、すぐさま追撃してこないか?
鳴海城の横をどうすり抜けるかが問題だったり。
905 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 01:25:45 ID:EX/NPGwK
詳しくなくて申し訳ないが
義元が前線に近いところで指揮してて討ち取られたとか
そういう可能性は無いのかな?
武田元繁は元就にそれが理由でで討ち取られたそうだしね
緑区セト山本陣説を採れば、義元は岡部や瀬名・関口を前に進ませた上で最南端に陣取ってる。
(敗走ルートはほぼ北の豊明古戦場・高徳院方面)
みんな古地図持って現地においでよ。納得できるから。
907 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 06:50:32 ID:SJAstGPL
なんだかこのスレの言いたい事を要約すると
「桶狭間の戦いは織田が勝ったのだから本当は勝って当然の戦い」というような意見ばかりのような気がする。
「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」というように
偶然や幸運が重なって勝ったという旧来の説の法が説得力あるよ。
908 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 06:59:40 ID:68rCka9a
圧倒的兵力差で挑んだ戦は桶狭間合戦以降、皆無。
よほど骨身にしみたんだろう。
ラッキーに頼る戦ほど危ないものは無い。
909 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 07:50:13 ID:uvH4734V
信長公記等に具体的な戦略について記述がなくては、どの主張も否定も肯定もできず、説得力がないな。
時系列だけでは何もわからない。
というか太田某の史家としての能力を疑いたくなる。
910 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 11:02:06 ID:XToJ6xdq
近代以前の史家って客観的な史料を残すのが仕事じゃなくて
基本的に主人の命令にしたがって主人に都合のいい歴史を記録するのが仕事だから
現代の歴史学の視点でどうこう言っても仕方ない
911 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 12:39:34 ID:LoEiW9TX
俺には、
桶狭間合戦は、義元と信長が、それぞれ最善手を打った将棋の名勝負のように思えるがな。
義元は本格的尾張侵攻のために、1年かけて準備した。
その情報を得て、信長も1年かけて対応策を考え準備していた。
その結果、信長が勝利をもぎ取った。
確かに公記を読んだだけでは不明の部分もあるが、
偶然、幸運、ラッキーと決め付けるのは、安直で、何も考えてないってことだぁ。
912 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 12:55:51 ID:uvH4734V
>>911 25000と5000でしかも義元を討つなんて考えられるかよ。
奇跡だし運が無いと有り得ない結果だろう?
どんな計画や戦略でもこの成果は凄すぎる
913 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 13:14:15 ID:DLg/G0Zy
↑の書き方だと25000の今川軍とまともにぶつかったように捉えられるぞ
914 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 13:16:13 ID:yENTnyyJ
桶狭間の前も後も 負けるとわかった時の信長軍の退却速度は異常だからな
勝てる戦と見て突っ込んでるはず
織田勢にしてみれば予定通りに攻めれたんだろ
915 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 13:23:06 ID:x/sBqT6K
輿に乗って戦場に来て、いの一番に討ち取られるなんて
まるでマンガに出てくるようなバカ殿
916 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 13:26:49 ID:qmBSKFg+
>>914 勝てる勝てないじゃなく逃げ場があるかないかの違いだと思うのだが……
917 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 16:15:18 ID:ieB/XsUZ
>>903 義元は遠くから狙撃されて死んだわけじゃない。
もしも正面攻撃説が正しいなら、信長軍が自分の本陣へ少しずつ迫るのを肌身に染みて分かる。
普通なら慌てて「朝比奈と三河勢に急ぎ参れと伝えよ」と早馬を出すけどな。
早馬を出す時間もなく不意打ちで討たれたとみるべき。
918 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 18:51:22 ID:uvH4734V
>>917 つーか早馬が出てなかったら不意打ち確定???
だとしても早馬が出てない根拠は?
このスレの論点が不毛だよな〜
919 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 18:57:00 ID:yENTnyyJ
新しい資料でも出ない限り真実など見えぬ
俺は義元が狭い谷間から全軍突撃命令出してしまって先陣の隙間から織田勢突破
義元逃げようとしたが後詰押せ押せで逃げ場無しと予想してるが
920 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 19:05:38 ID:uvH4734V
>>919 じゃあ俺は織田軍の特殊部隊が義元を暗殺と予想ww
信玄といい謙信といい、信長の都合に合わせて、打ち合わせでもしたように死んだとしか思えないからそれも特殊部隊の仕業だな。
921 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 21:01:10 ID:yENTnyyJ
>>920 合戦中どさくさに暗殺しても側近達の近くから義元の首を持ち帰るなど不可能でしょ
それに毛利新介や服部小平太の立場はどうなる?
ハットリってどこかで聞いた名前だが・・・
922 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 21:24:43 ID:ieB/XsUZ
>>918 義元が早馬を出したなら、(結果的に間に合わないにしても)大高城や鳴海城に到着するはずだ。
でもそんな記録はない。
第一報は「義元討死」だった。SOSではなく。
923 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 21:25:08 ID:RcNFfUpt
924 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 23:28:26 ID:YhKtgyHl
梁田正綱が一番の手柄。
925 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 23:43:29 ID:uzf4sVD8
信長部隊が今川兵に扮していたなんてことはないの?
926 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 23:55:15 ID:OOduB5xX
今川家は駿河15万石、遠江25万石、三河30万石で計70万石。
織田家は尾張(信長は前年に尾張統一を果たしている)58万石
石高の差で見ると、実は大差がない。
双方の動員可能兵力を1万石あたり300人を目安として割り出してみると、
今川2万1千人程度、織田1万7千人程度となる。
この程度の兵力差なら奇襲などしなくても勝って何の不思議もないと思うが如何に?
927 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 00:01:20 ID:gn2VENW6
928 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 00:06:57 ID:JkByV6nb
>>922 今川家視点の史書がないのに、第一報が「義元討死」なんてわかるはずがないやろw
信長公記は織田軍に従軍した太田の(境遇も含めた)視点からでしか書かれてないはず
(重臣でもない太田が戦術などを知るはずもなく、ただ付き従っていた時に見聞きしたもの)
早馬の件は名古屋説だと中島と丸根、鷲津、大高は義元のとこからほぼ等距離、
豊明説だと中島のが義元まで近いから早馬を出しても間に合わないかもな
929 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 00:14:07 ID:tHHaDJnL
逆に考えるんだ
寡兵しか出せなかったんじゃなくて寡兵にする理由があったんだと
930 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 00:20:29 ID:8PNgOyTK
信長の勝利に運の要素が全く無かったとは思わないが、ハナから運頼みの一か八かの
やけくそ突撃がラッキーにも大成功、なんてシロモノだったとも思わない。
「人事を尽くして天命を待つ」の具体例かな。
931 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 00:29:17 ID:an3LNP+n
>>925 今川軍のコスプレをして「どーもー」って言いながら通り過ぎる
織田信長に萌える
932 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 07:15:38 ID:a2DMQc7A
>>926 今川軍25000は公称の可能性がある
実数は20000弱だったのかもしれない。
当時の尾張は清洲、熱田以外は閑散としてたし三河、美濃周辺の石高から想像すると30万石弱のくらい妥当だろう。
信長は尾張の3/4を制していたから25万石くらい。
まあ5000が精一杯だろう。
58万石は尾張徳川の時代の話で桶狭間の50年後の話だ。
933 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 10:52:49 ID:6vjX2fbm
2万VS5千だったら、守り側が勝っても別段不思議がない数字だよな。
今川方は城砦攻めに兵費やしてたんだし。
934 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 13:50:01 ID:8PNgOyTK
>>932 >清洲、熱田以外は閑散としてたし三河、美濃周辺の石高から想像すると30万石弱のくらい妥当だろう
意味不明なんで根拠と説明をお願いします。
935 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 14:21:32 ID:8NjX8VRi
>>928 牛一が桶狭間に従軍してたかどうかはわからん。
つか、むしろ従軍してない可能性の方がはるかに高い。
基本的に信長公記が信頼性の高い資料とされるのは、牛一自身が織田政権
の一員として活動してた時期の記録が他の一次史料と一致しているから。
つまり、自分が直接知ることについては可能な限り忠実に記述するという
本人の姿勢が評価されている。
ところが牛一が関わらなかったことに関しては牛一にその話を語った人間が
信用できるかどうかという部分が問題になる。
牛一に語った人間が甫庵のようにエンタメ指向の強い語り手(当時はむしろ
こっちが一般的)だった場合は信憑性は一気に下がる。
信長公記の牛一が政権参加する前の部分は本人の筆では無い後補という
見方もあり、公記と言えども、このあたりの信憑性はかなり割り引いて見るべき。
936 :
人間七七四年:2007/11/18(日) 15:33:31 ID:+6GXPKHz
吉兆による偽装です
937 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 19:42:32 ID:caLAAvnl
>>935 >ところが牛一が関わらなかったことに関しては牛一にその話を語った人間が
>信用できるかどうかという部分が問題になる。
>牛一に語った人間が甫庵のようにエンタメ指向の強い語り手(当時はむしろ
>こっちが一般的)だった場合は信憑性は一気に下がる。
詭弁というかレトリックというか。
単純に「牛一は桶狭間合戦には参戦していない可能性が高い」の一言で済むのに。
要は「桶狭間の部分は牛一が見聞したものじゃないから信用できるかどうか分からないよ」って言いたいんだろ?
たったそのレベルのことをさも重大事であるかのように述べて、確たる根拠も無く公記の信憑性を貶める。
938 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 19:48:49 ID:caLAAvnl
本来ほとんどの史書の類は(日記なんかを除けば)作者自身が見聞したこと以外の、
取材や文献調査等によって得た情報が書かれてるものだろ。
それが信頼できるかどうかを、他の史書の記事との整合性とかから測ったりするわけで。
信長公記は
>>935自身がいうように
>記録が他の一次史料と一致しているから
信憑性が高いとされているわけで。
だったら問題の桶狭間の部分も他の一次史料等との整合性なんかから語るべきなのに
「牛一自身が見てない」という理由だけで信憑性を割り引いてみる、ってのは問題だ。
そもそも牛一自身が見聞きしたことだって牛一が真実を書いてるかどうか分からないのに。
939 :
人間七七四年:2007/11/24(土) 21:57:58 ID:piPBsMFf
織田本隊は、内戦を約10年続けて勝ち残った精鋭。
今川本隊の駿河衆は、ここ数年大きな戦をしていない。
合戦をしても、三河衆・遠江衆がいつも先鋒であり、経験が少ない。
また、桶狭間での織田本隊は前線に進んだ軍隊で、
今川の三河衆・遠江衆に包囲されている形。
織田本隊は壊走したら全滅は必須。
士気は、断然織田本隊の方が高い。
本隊と本隊のガチンコ対決。
兵数が2〜3倍あったとしても、織田の勝つ可能性は高いと思う。
940 :
人間七七四年:2007/11/25(日) 01:08:50 ID:Cv5y6isb
>>939 それで、本隊が戦ってる間、他の部隊は何をしてたの?
941 :
人間七七四年:2007/11/25(日) 08:23:30 ID:iDciqypy
朝比奈親徳という重臣がいる。
彼は、本隊にて直轄軍を率いていたと想像するが
信長の最初の攻撃で、鉄砲に撃たれて負傷している。
その為、義元の撤退により離れ離れとなり、生き残ってしまったらしい。
942 :
人間七七四年:2007/11/25(日) 09:56:08 ID:UiZjo5oW
今川軍本隊は2万5千中5千に過ぎない
そう考えると信長本隊は多くて千程度なのでは。
3千で出陣できたのは重臣たちの兵が合流したから。兵力を集中させて乾坤一擲の決戦にかけた。
943 :
人間七七四年:2007/11/25(日) 15:41:15 ID:LPY2y92F
>>887 名も無い小国って言ってるんじゃないだろ。
まだ小国だったから、後世には書く必要の無い人間が居たはずだ、
っていってるだけでしょ。
944 :
人間七七四年:2007/11/26(月) 13:46:54 ID:vDLW+kgA
おけはざまの…まみについて…?
945 :
人間七七四年:2007/11/28(水) 18:03:11 ID:zoQZBTKJ
>>943 ちゃんとそう書いてあるのに読み取れない奴は困るな。
946 :
人間七七四年:2007/12/21(金) 09:24:34 ID:8+Hml7wz BE:800307465-2BP(177)
北条早雲率いる今川軍(おそらく歴代最強)1万
を500で撃破した松平長親(家康の先祖)の立場は????????
947 :
たられば君:2007/12/21(金) 10:05:08 ID:ToqviJfc
戦国初期〜中期にいくら今川家とはいえ一万というのがサバ過ぎ。
撃退した長親が有能なのは同意だけれど。
948 :
人間七七四年:2007/12/21(金) 15:23:37 ID:+2xZ61cC
>>401 今川の直臣と今川に従っていた豪族の区別がつかない俺
949 :
にゃんこ:2007/12/22(土) 21:59:47 ID:3VZQU0+r
927>
福島正則は、尾張一国ではなくて、尾張清洲。
石田三成の近江佐和山が近江一国ではないように、尾張清洲も尾張一国ではない。
926氏がほぼ、正解。小さな不足が4つ。
1つは、尾張の一部は今川方。(今川有利条件)
もう一つは、太閤検地よりも30年ほど前だから、石高は全体を8がけぐらいしないとね。
もう一つは、惣村は遠征に対して、非協力的になりやすく、防衛戦には協力的。(織田有利条件)
もう一つは、織田は、西や北への「国境線」が近いから、対一向一揆や対斉藤には、あまり、
兵力をまわす必要はない。
950 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 08:15:51 ID:c3HRdG/+
今川義元はどMでツンデレだから多分信長に手紙送ったんじゃない
私ここにいるけど待ってないからねって
951 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 19:21:38 ID:OinKtIin
熱田神宮で初詣してきた。
952 :
人間七七四年:2008/01/07(月) 11:37:14 ID:mjz6Kr2X
>>927 > 福島正則の領地は尾張一国だが20万石だったぞ
犬山には石川、黒田には一柳がいた。それに、関ヶ原直後に尾張一国で入国した松平忠吉との差を見ると豊臣直轄領や
万石以下の豊臣家家臣の領地も設定されていたんじゃないかと思う。
953 :
人間七七四年:2008/01/17(木) 21:44:31 ID:4dxSrA4y
この間の歴史群像の記事は、だいぶ想像力たくましいところもあるけど
結構なるほどと思ったよ。
史料によれば信長本人は中島砦から出撃したっぽい。
これだとやはり桶狭間に正面から仕掛ける形になるけど、
別働隊が善照寺砦で別れて迂回したとすれば、
迂回攻撃説も正面攻撃説も両方満足させられる。
いくら地の利があるとは言え、正面から突きかけただけで
義元の本陣が粉砕されたというのはいささか苦しい。
別働隊を用いて挟撃したというのはかなりもっともらしい推論に思えたね。
954 :
人間七七四年:2008/01/17(木) 23:42:14 ID:TJ9vjKtV
>>953 しかし、それだと信長隊が、今川正面軍に殲滅させられるだろうね
955 :
人間七七四年:2008/01/18(金) 10:29:04 ID:YU9RwDqT
状況によるだろ
956 :
人間七七四年:2008/01/18(金) 16:10:45 ID:vaSmuZ1E
>>953 あれは俺も面白いと思った。
この説だと信長は奇策でも何でもなく、片翼突破包囲という
わりとオーソドックスな戦術で勝ったことになるな。
地形上、敵中央と右翼の間に丘陵があることで中央が右翼を
破られたことに気付きにくいのが平原戦と違うだけで。
あと、前田隊が別働隊の戦果の報告に来たとすれば、
突破に失敗して背後に回れなかった場合は決戦を
断念することができるようになってたというわけだな。
運にも奇策にも頼らずに優位を確保するという、極めて
信長らしい戦術だったということになる。
とりあえず俺が今まで読んだ桶狭間仮説の中では
一番説得力があると思った。
957 :
人間七七四年:2008/01/18(金) 16:15:32 ID:3DGXAt4b
この頃の前田って利家じゃないし林の与力だよね 誰?
958 :
人間七七四年:2008/01/18(金) 16:50:05 ID:vaSmuZ1E
>>957 前田隊と書いたら語弊があったね。
又左を含む首を持ってきた1隊のこと。
959 :
人間七七四年:2008/01/18(金) 17:57:47 ID:3DGXAt4b
ふむ 叉ざはよくわからないけど
服部小平太が信長とは別部隊で先頭駆けて突入とは考え難いが
何らかの形で本陣後方に横槍が入ってたって事かな
960 :
人間七七四年:2008/01/18(金) 21:31:12 ID:jTPKdVJb
そういえば、服部小平太とか毛利新助とか、このあとどうなったの?
961 :
人間七七四年:2008/01/18(金) 21:37:46 ID:EqxeCOvo
俺も説得力があると思った。
数は無いが、後方から鉄砲隊数千が一斉射撃して、服部小平太ら百人が義元本隊に突入。
それを見届けてから、信長2千が突撃したら勝利も有り得る。
疑問は、別働隊が沓掛で反転して後方に回っているが、
鎌倉往還からの敵を警戒していた、沓掛城いた1千5百と思われる今川軍は
何をしていたのか。
962 :
人間七七四年:2008/01/18(金) 21:56:02 ID:SqjchvvR
>>960 毛利新助は本能寺の変の時に、二条城で討死
服部小平太は秀次の事件で、上杉景勝に預けられた後切腹
Wikiより
963 :
人間七七四年:2008/01/18(金) 23:01:54 ID:QZMmeMKc
織田鉄砲隊は姉川の佐々部隊が初代
964 :
人間七七四年:2008/01/19(土) 00:39:56 ID:R5p1CNoW
>>962 ヰキに書いてあったのか。
小平太は出世したんだな。新助は一度も浮上せずか。
965 :
人間七七四年:2008/01/19(土) 12:46:44 ID:21TfNUdj
でも、なんで今川方の先鋒隊の鵜殿勢、鷲津の朝比奈勢、鳴海の 岡部勢が信長本隊の背後攻撃しなかったのだろう・・・
966 :
人間七七四年:2008/01/19(土) 12:51:14 ID:ZJ73VxkO
>>961 大風で沓掛の峠の木が倒れたという記述が別働隊参加者の
証言に基づくという点がこの説の文献上の根拠だよな。
ということは、別働隊が峠を越えるタイミング、つまり
沓掛城からの視界に入りはじめるタイミングで天候悪化が
起こったと言うことで、それで城兵は察知できなかったん
じゃないのかな。
木が倒れるほどの強風をともなってたとなれば、
物見櫓上の兵も見張りどころじゃなくなるしなw
織田方としては沓掛城から出てくる部隊との交戦は
当然想定してただろうし、そこで義元隊に察知されること
も織り込んでたと。
しかし早期に察知されても義元隊は背面の敵に備えて
陣地転換を余儀なくされるし、その混乱に付け込んで
優位を確保するのが元々の意図だったのに、
沓掛城が運悪く天候悪化で探知できなかったせいで、
織田方も期待してなかった程の完璧な奇襲効果を
発揮してしまったということかな。
967 :
人間七七四年:2008/01/19(土) 15:05:44 ID:ZXykEy/R
>>966 さんきゅう
勉強になりました
しかし、となると
織田軍の目的が各個撃破だと理屈に合わないような・・・
仮に織田軍の目的が各個撃破だとすると
何故、『義元本陣』に突撃したのか分らない
前線の部隊から崩した方がいいのでは?
わざわざ包囲される危険をおかして一部隊である『義元本陣』を襲う理由が分らない
となると織田軍の目的は、最初から義元本陣のほうが納得できてしまう。
しかし、それだと信長公記の記述と矛盾・・・
うーん・・・・
教えて君でごめんなさい
968 :
人間七七四年:2008/01/19(土) 16:02:01 ID:IJYKTC+V
ってか新助凄い出世じゃないか
次代当主(?)付だぞ
半ば将来安定じゃないか
969 :
人間七七四年:2008/01/23(水) 04:40:25 ID:rppx6CRS
義元を討った二人がそろって馬廻なので、騎馬隊のみ、迂回して後方に回っていたかも。
そうでなくても、偶然とは思えないので、騎馬隊のみ別に行動していたと思います。
970 :
人間七七四年:2008/01/23(水) 06:54:11 ID:Ge8lYr1T
ただの偶然ですが。
971 :
人間七七四年:2008/01/23(水) 08:55:40 ID:Ea6rlS7x
義元を討った二人がそろって忍者だった。
ひそかに侵入した二人が吉本を暗殺。
その混乱に乗じて信長正規軍が突入した。
これが真実。
972 :
人間七七四年:2008/01/24(木) 02:51:59 ID:QkwZ16kZ
>>967 前線というが
中嶋砦から桶狭間山はそれなりに近い
直線距離なら鷲津丸根のほうが近いけど、その二つの砦は中嶋砦とは反対斜面にあり
中嶋砦との間に手越川があり、信長公記の記述によるなら深田の低湿地帯を挟んでいる
桶狭間合戦之図の地図によるなら鷲津丸根から中嶋砦の道は二つあるが、
一方は山を迂回して一旦桶狭間山の方に出てから川沿いに中嶋砦へ行く道と
海岸に出て天白黒末川沿いに行く道しかなくて海岸に出る方は
潮の状態によっては通行は?だし、湿地帯を抜けての軍事行動は困難、
また鷲津砦から山間をぬけて手越川に抜けるにしても軍事行動には不向き
一番前線に近いのが鷲津や丸根とは限らないと思う
またあの武者や山際が桶狭間山や義元旗元を指すとも限らないし
義元の本陣は桶狭間山にあったとしてもまわりの足軽はもっと中嶋に近い位置に
いたかもしれないし、中嶋の近くに今川が抑えの兵を置いていた可能性もある
佐々や千秋を討ったのは今川の部隊とか
ついでに当時は雨が降ったこともあって
鷲津丸根から中嶋方面を窺うには湿地帯と手越川下流の渡河などが必要だが
雨の描写からそれは恐らく不可能、義元を助けようと思っても
一旦迂回して南から桶狭間に行くしかないと思う
973 :
人間七七四年:2008/01/27(日) 10:43:09 ID:ib10EwbV
桶狭間合戦ってむずかしいな。
古戦場自体二つあるしややこしい。
名古屋市緑区にある古戦場公園が本物っぽい感じがする。公園一体の地名も広坪って言うけど昔は田楽坪っていう地名だったし。
桶狭間山ってよくわからんけど公園後方の高い丘が該当地かな?旧陸軍測量図の写し見てたら三角点あるんだよな。一応山頂?現地行くと山に見えない・・・
974 :
人間七七四年:2008/01/27(日) 10:53:43 ID:g3J27enD
まあ熱田神宮の場所は確実なんだから
熱田に近い名古屋市の方なんじゃないの。
海岸線も違うしなあ。
現地を見てもらえば豊明でないのはわかるだろうけどさ。
976 :
人間七七四年:2008/01/27(日) 11:18:07 ID:ib10EwbV
熱田神宮で思い出した。
源頼朝公も熱田出身といわれてるらしいね。
名古屋、愛知はある意味すごい。
頼朝は熱田神宮司の娘の長子であったおかげで惣領扱いに位置付けられた。
熱田神宮は頼朝のおかげで大神宮として生き残れた。
織田弾正家が飛躍するのに重要だったのは津島や清洲の講であって
熱田神宮は待ち合わせ場所くらいの意味しかなさそうだけどね。
978 :
人間七七四年:2008/01/27(日) 17:44:34 ID:Ek33oS18
おいおい
神宮保護やら宮司支援やらは朝廷対策にかなり重要なんだが
特に熱田は馬鹿にならない
まぁそれだけじゃなくて桑名との間に七里の渡しって所があるからその点でも馬鹿にならない
桑名は伊勢の貿易都市として戦国時代では有名だったからこの2ヶ所を抑えるのは弾正忠家としては必要不可欠
他地方豪族ならともかく津島の弾正家が朝廷に挨拶するのに熱田神宮に仲介を頼む理由がない。
朝敵指名されて威信が半分に低下するゲームじゃあるまいし対策てあーた。
まあ鎌倉街道と七里泊の脇にある熱田神宮周りは当時のちょっとした経済圏。
弾正家でなくても邪険にする理由はないけどね。
内田橋・七里の渡し横の駐車場からケータイ書き込み。
980 :
人間七七四年:
熱田湊っていつ埋められたの?