竹島問題

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11竹島の歴史
1145        「三国史記」<十三年(512)夏六月、于山国帰服>干山国、・・・或いは名、鬱陵島≠現・竹島
           http://toron.pepper.jp/jp/take/15C/shiragi.html
1471        「成宗実録」<于山、武陵二島・・・>半島南端・江原道からの視線であり≠現・竹島
           http://toron.pepper.jp/jp/take/15C/sesyuu.html
1438        韓国、鬱陵島に空島政策を始める。(以降450年)
1481        「東国輿地勝覧」<一云武陵 一云羽陵・・・>砂浜・樹木が見える、干山鬱陵本一島≠現・竹島
           http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/rekireki.html
1614        「芝峰類説」日本人が鮑・若布(ワカメ)採取目的で磯竹島(鬱陵島)の占拠を始める。
1618(元和4年)  大谷・村川両名に幕府から竹島(鬱陵島)へ渡海免許。以降80年日本が鬱陵島を実効支配。
           「竹島渡海由来記拔書」 http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/tokai.html
1656        『輿地志』に「一説に于山、鬱陵本一島」。現・竹島の記述なし。
1667        隠岐島巡察報告「日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す」鬱陵島が北限ゆえ竹島日本領
1692(元禄5)   朝鮮人漁民が「竹島(鬱陵島)」に出漁を始める。
1693        日本船が朝鮮漁民2人を捕らえて連れ帰る。(安龍福事件)
1696        「竹島(鬱陵島)」への渡航を禁止。鬱陵島が韓国領で決着。現・竹島には言及なし。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/ikken.html
1211:2005/04/07(木) 17:13:40 ID:kxezqkBE
( 1751〜64年 宝暦年間 )  
           「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里に「竹島」と記述。現・竹島は隠岐の国に属していた。
1770        『旅菴全書』「彊界考」の<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」而るに諸図志を
           考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>
           を底本にして、『東国文献備考』「輿地考」が
           <輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の所謂松島なり>
           http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/kaizan.html
           安龍福事件(1693)で、<安龍福証言「松島即ち于山島」>の曲解証言(『粛宗実録』)で知った、
           「松島」名を古来の『輿地志』の于山に強引に結びつけたものと思われ。もともと松島(現・竹島)の
           所在を未把握のため、その後「松島」「竹島」名は鬱陵島付属小島(現竹嶼)に収斂され「松竹島」に。
           http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1111774463/471-473
1311:2005/04/07(木) 17:14:18 ID:kxezqkBE
1787        フランス船が鬱陵島を発見。ダジュレー島と命名。89年イギリス船も発見しアルゴノート島と命名。
           同じ島だが経緯度の違いで別の2島化。日本寄りにダジュレー、朝鮮寄りにアルゴノート島となり、
           ダジュレーが松島に、アルゴノートが竹島に。1854ロシア船の測定でアルゴノートが不正確と判明。
           1849フランス船[リアンクール]号竹島を発見。54年ロシア、55イギリス[ホーネット]。一時3島併存。
           1870年代アルゴノート消滅。1900年代ダジュレー(or松島)、リアンクール(orホーネット)で確定。
           シーボルトがダジュレーを松島、アルゴノートを竹島にしてたが、アルゴノート消滅で竹島も消える。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/konran.html
1801(享和元年) 「長生竹島記」にも、松島をもって「本朝西海のはて也」
1828(文政11年) 江石梁編述「竹島考」が現・竹島に関する、かつてより更なる詳細描写。
1836(天保7)   「竹島」での密輸事件で、死罪申し渡し書に「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」
1849(嘉永2年) フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
1882[5]      韓国・李奎遠が鬱陵島調査するもその属島の認識は竹嶼までで現・竹島は存在に気付かず。
1867        勝海舟編纂の「大日本国沿海略図」は3島併存。
           アルゴノート(竹島=架空の島)、ダジュレー島(松島=鬱陵島)、リアンクール(現・竹島)。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/konran.html
*以上、誤解、間違いから大混乱が生じ、文献上の島名の取り扱いに注意が必要に。
1411:2005/04/07(木) 17:17:33 ID:kxezqkBE
1870(明治3年)「朝鮮国交際始末内探書」に「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」
           “松島は、竹島の隣島・・・。これまで掲載した書類もない” 松島≠現・竹島
1877       太政官指令「日本海内竹島外一島〜〜本邦関係無之義」*外一島=現・竹島との証拠なし。
          http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/taittou.html
*「松島の議」「松嶋巡視要否の儀」現・竹島は日本領と認識。ただ「現竹嶼→松島、現鬱陵島→竹島」解釈が存在。
1880       「軍艦天城松嶋調査」 軍艦天城が調査を実施。「松島=鬱陵島、竹島=一個の岩石」と認識。
          http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/matsugi.html
          これまで政府が「松島」と判断してた島は鬱陵島であり、竹島と判断してた島が竹嶼だったと判明。
1882       韓国・李奎遠が鬱陵島調査するもその属島の認識は竹嶼までで現・竹島は存在に気付かず。
           欝陵島最高峰聖人峰より「四望し、海中の先に一点の島嶼の見形無し」(『鬱陵島検察使日記』)。
1511:2005/04/07(木) 17:18:43 ID:kxezqkBE
1894        日清戦争
1895[4/17]   下関条約で韓国が中国から独立。
           http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84
    [4/23]   露・仏・独、三国干渉
    [7/06]   閔氏一族が露公使の指図でクーデター、親日派を一掃。日本公使は大院君と組み閔氏殺害。
1896[2]      露・水兵の後押しで反日クーデター。高宗王は以降1年間、避難先のロシア公使館で過ごす。
           http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1895a3.htm
           http://www.rinku.org/~rin_koku/Kenkyusha2000/pak/shoronbun.htm
1900(明治33年)韓国・禹用鼎が鬱陵島周辺を調査/6月に報告書を提出。現・竹島への言及なし。
 同年09月23日 韓国「皇城新聞」(鬱陵島について)「付属する小六島の中で、最も顕著な島は、于山島と竹島」。
 同年10月25日 報告書を元に大韓帝国、勅令41号を発布。「石島」の記述があるが、報告書からして≠現・竹島
           http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1111774463/293-295
1903        隠岐島民の中井養三郎らが現・竹島に漁舎を建ててアシカ漁。
1904[2/06]    日露戦争勃発〜05[9/5]
1904[2/23]    日韓議定書
   [9]      中井養三郎、内務・外務・農商務省に「りゃんこ島(竹島)領土編入並に貸下願」を提出。
1611:2005/04/07(木) 17:19:11 ID:kxezqkBE
1905[7/05]    鬱陵島に望楼建設、同島と朝鮮・竹辺湾を軍用海底電信線で結ぶと決定。
           望楼は8/3着工、9/2稼動。電線は9/8〜9/25。
1905[8]      第1次日韓協約(≠外交権剥奪。日本から財務・外務顧問派遣。1905[8]の第二次日英同盟
           第三条に韓国外相が駐韓イギリス公使と日本公使に抗議した事実などもある。)
   [9]      韓国で「独島」名の発生が確認される。軍艦・新高の日誌に「韓人これを独島と書き・・・」。
           勅令(1900)で鬱陵島付属小島「石島(ソクト)」が訛りトクドとなり、地元で勝手に現・竹島名に
           流用されたか。その後音韻が中央に回帰して当て字された「独島(トクド)」名が全国区へ。
           http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1111774463/358-359
   [11]     日本軍艦対馬、現・竹島に望楼建設可能と確認。
           政府に「多数の鬱陵島の住民は、毎夏同島に上陸し、小屋をたて附近において
           漁業に従事する」むね報告。ここで“鬱陵民”=隠岐→鬱陵島→現・竹島。韓人は和布刈りonly。
1905[1]      閣議でこの無人島を竹島と命名して本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする。
   [2]      島根県知事、島根県告示第40号で竹島の名称とともにその所属所管を明らかに。
           韓国皇帝、日露戦さなか、ロシア皇帝に密使を派遣。
   [4]      密使派遣の事実が露見しはじめ、激怒した日本、韓国への保護権確立を閣議決定。
           http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/kousou.html
1711:2005/04/07(木) 17:19:51 ID:kxezqkBE
   [5/17]    島根県、竹島を隠岐国四郡の官有地台帳に登録
   [5/27]    日本海海戦
   [6/05]    島根県知事、中井らにアシカ漁を許可。
   [6/13]    軍艦橋立を竹島に派遣、望楼建設の詳細な調査。[7/25]望楼建設着工、[8/19]活動開始。
           http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.6984
   [8]      島根県知事松永武吉、随員3名とともに海軍用船京都丸にて竹島視察
   [9/5]     日露の講和成立。
   [10]     海底電信線が鬱陵島→現・竹島→松江に敷設([10]着工、[11]完了)
   [11]     第2次日韓協約(外交権剥奪)
           http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/kougi/kindai_kyozai/SKyouyaku.htm
1906[3]      竹島(独島)視察 島根県第3部長神西由太郎外43名。以降の韓国報道で現・竹島編入措置
           に対し頻発不満報道の内容から、韓国中央社会で「独島」=鬱陵島と認識されてたと分かる。
          (「独島(トクド)」呼称の由来「石島(ソクト)」が、本来鬱陵島付属小島呼称に過ぎなかった証明。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/rensa.html
1907[7]      第3次日韓協約(内政権剥奪)
1910[8]      韓国併合 http://toron.pepper.jp/jp/20cf/heigou/sankei.html
1811:2005/04/07(木) 17:21:10 ID:kxezqkBE
1939[4]      島根県隠岐郡五箇村議会、竹島を五箇村の区域に編入することを議決
1940[8]      島根県、竹島の公用を廃し、海軍用地として舞鶴鎮守府に引き継ぐ。
1946[1]      連合国軍総司令部の訓令で竹島は日本の行政権から除外。
1951[3]      サンフランシスコ講和条約最終草案をアメリカが韓国へ提示。
   [7]      日本放棄領土をもって建国領土となす韓国は、日本の放棄対象に竹島も列挙するよう要求。
   [8]      米国は竹島が日本領土との認識を示し、韓国要求を拒否。
           http://www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/takeshima.htm
1952[1]      サンフランシスコ平和条約の発効3ヶ月前に韓国政府が突然李ラインを宣言、竹島をその中へ。
   [2]      日本政府、韓国に抗議。
   [4]      サンフランシスコ平和条約発効。
           条約発効後、米国は日本に対して射爆撃場として竹島の提供を求め、翌年3月まで使用。
1953[6]      島根県、海上保安庁共同で竹島を調査、韓国人6名に対し退去命令、領土標識(木柱)を建てる。
   [7]      海上保安庁の巡視船、竹島で韓国の官憲から発砲を受ける。韓国、竹島に領土標識を建設する。
1952        7月頃より、竹島の東島に韓国警備隊員(警察)が常駐、宿舎、燈台、監視所、アンテナ等を設置。
1954[2]      日本外務省の覚書 1954年2月10日付亜2第15号。
   [9]      日本政府、竹島紛争を国際司法裁判所に付託するよう、韓国に提案。[10]韓国政府が拒否。
1911:2005/04/07(木) 17:25:21 ID:o8O7IxLA
1965[2]      日韓基本条約の調印、竹島問題は紛争処理事項とされる。

以降、日本政府は毎年3月、竹島に対する領有権を主張する口上書(Verbal Note)を韓国政府宛てに発送。

竹島に関する近代年表
http://dreamtale.ameblo.jp/entry-0b3eb6030a7956175034da7d445b6a54.html
http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11126918918819/
2011:2005/04/07(木) 18:15:54 ID:uSA87aTA
>>11-19
以上のように、

韓国は512年頃より、鬱陵島を領有してきたが、1438年から450年間、空島政策を施行したため、
同島への渡海が途切れ、のちには密航逃亡罪人の渡海が限定的に存在していたにすぎない。
そのため現・竹島とは一切交渉が無かったものと思われる。
というのも半島から鬱陵島は時に視認できるが、
http://toron.pepper.jp/jp/take/15C/sesyuu.html
鬱陵島から現・竹島の視認は困難であり、また現・竹島は真水を産出しないただの岩礁にすぎないため、
渡海する理由が存在しないからである。
http://homepage3.nifty.com/moriapa/ullungdo_3.htm
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/utsugaizu.html
http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/simulate.html
一方、日本側は秀吉の朝鮮出兵を契機に1614年頃から、当時空島だった鬱陵島への渡航が相次ぎ、
幕府より1618年、同島への渡海免許が交付され、以降同島を実効支配するようになった。
日本から鬱陵島へ渡航するルート上の現・竹島が存することから、日本人と現・竹島との接触が
生じたことは疑いの余地がない。
1693年、安龍福事件が起り、96年、鬱陵島を韓国領と認定したが、
以降も同島への日本人の密航があったと同時に、現・竹島自体は国内で依然、日本領と認識されていた
ことが文献上明らかである。
1903年、中井養三郎が現・竹島に漁舎を建てて活動し、
1905年、日本政府が無主の現・竹島を国際法の手続きを満たす形で編入したことにより、
名実ともに現・竹島は日本領土となった。
その後、同島に望楼建設・電線敷設がなされ、実効支配は具体性を持っている。
日本の敗戦後、講和条約において、韓国の執拗な現・竹島領有工作を却下して米国が日本領土と断じ、
条約発効後、李ライン宣言に抗議しつつも、米国が日本政府に要請し、
現・竹島を射爆場として使用していたことからも、講和条約の意図するところは明白である。
また、戦後の韓国による侵略・不法占拠に対し、日本政府が一貫して外交ルートでの抗議を
欠かしていないことから、不法な実効支配の事実が領有権を最終的に左右する可能性は、
国際法上まずないと考えられる。
http://toron.pepper.jp/jp/take/law/index.html