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竹島の歴史:
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11:2005/04/07(木) 17:13:40 ID:kxezqkBE
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11:2005/04/07(木) 17:14:18 ID:kxezqkBE
1787 フランス船が鬱陵島を発見。ダジュレー島と命名。89年イギリス船も発見しアルゴノート島と命名。
同じ島だが経緯度の違いで別の2島化。日本寄りにダジュレー、朝鮮寄りにアルゴノート島となり、
ダジュレーが松島に、アルゴノートが竹島に。1854ロシア船の測定でアルゴノートが不正確と判明。
1849フランス船[リアンクール]号竹島を発見。54年ロシア、55イギリス[ホーネット]。一時3島併存。
1870年代アルゴノート消滅。1900年代ダジュレー(or松島)、リアンクール(orホーネット)で確定。
シーボルトがダジュレーを松島、アルゴノートを竹島にしてたが、アルゴノート消滅で竹島も消える。
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/konran.html 1801(享和元年) 「長生竹島記」にも、松島をもって「本朝西海のはて也」
1828(文政11年) 江石梁編述「竹島考」が現・竹島に関する、かつてより更なる詳細描写。
1836(天保7) 「竹島」での密輸事件で、死罪申し渡し書に「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」
1849(嘉永2年) フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
1882[5] 韓国・李奎遠が鬱陵島調査するもその属島の認識は竹嶼までで現・竹島は存在に気付かず。
1867 勝海舟編纂の「大日本国沿海略図」は3島併存。
アルゴノート(竹島=架空の島)、ダジュレー島(松島=鬱陵島)、リアンクール(現・竹島)。
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/konran.html *以上、誤解、間違いから大混乱が生じ、文献上の島名の取り扱いに注意が必要に。
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11:2005/04/07(木) 17:17:33 ID:kxezqkBE
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1905[7/05] 鬱陵島に望楼建設、同島と朝鮮・竹辺湾を軍用海底電信線で結ぶと決定。
望楼は8/3着工、9/2稼動。電線は9/8〜9/25。
1905[8] 第1次日韓協約(≠外交権剥奪。日本から財務・外務顧問派遣。1905[8]の第二次日英同盟
第三条に韓国外相が駐韓イギリス公使と日本公使に抗議した事実などもある。)
[9] 韓国で「独島」名の発生が確認される。軍艦・新高の日誌に「韓人これを独島と書き・・・」。
勅令(1900)で鬱陵島付属小島「石島(ソクト)」が訛りトクドとなり、地元で勝手に現・竹島名に
流用されたか。その後音韻が中央に回帰して当て字された「独島(トクド)」名が全国区へ。
http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1111774463/358-359 [11] 日本軍艦対馬、現・竹島に望楼建設可能と確認。
政府に「多数の鬱陵島の住民は、毎夏同島に上陸し、小屋をたて附近において
漁業に従事する」むね報告。ここで“鬱陵民”=隠岐→鬱陵島→現・竹島。韓人は和布刈りonly。
1905[1] 閣議でこの無人島を竹島と命名して本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする。
[2] 島根県知事、島根県告示第40号で竹島の名称とともにその所属所管を明らかに。
韓国皇帝、日露戦さなか、ロシア皇帝に密使を派遣。
[4] 密使派遣の事実が露見しはじめ、激怒した日本、韓国への保護権確立を閣議決定。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/kousou.html
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11:2005/04/07(木) 17:19:51 ID:kxezqkBE
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11:2005/04/07(木) 17:21:10 ID:kxezqkBE
1939[4] 島根県隠岐郡五箇村議会、竹島を五箇村の区域に編入することを議決
1940[8] 島根県、竹島の公用を廃し、海軍用地として舞鶴鎮守府に引き継ぐ。
1946[1] 連合国軍総司令部の訓令で竹島は日本の行政権から除外。
1951[3] サンフランシスコ講和条約最終草案をアメリカが韓国へ提示。
[7] 日本放棄領土をもって建国領土となす韓国は、日本の放棄対象に竹島も列挙するよう要求。
[8] 米国は竹島が日本領土との認識を示し、韓国要求を拒否。
http://www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/takeshima.htm 1952[1] サンフランシスコ平和条約の発効3ヶ月前に韓国政府が突然李ラインを宣言、竹島をその中へ。
[2] 日本政府、韓国に抗議。
[4] サンフランシスコ平和条約発効。
条約発効後、米国は日本に対して射爆撃場として竹島の提供を求め、翌年3月まで使用。
1953[6] 島根県、海上保安庁共同で竹島を調査、韓国人6名に対し退去命令、領土標識(木柱)を建てる。
[7] 海上保安庁の巡視船、竹島で韓国の官憲から発砲を受ける。韓国、竹島に領土標識を建設する。
1952 7月頃より、竹島の東島に韓国警備隊員(警察)が常駐、宿舎、燈台、監視所、アンテナ等を設置。
1954[2] 日本外務省の覚書 1954年2月10日付亜2第15号。
[9] 日本政府、竹島紛争を国際司法裁判所に付託するよう、韓国に提案。[10]韓国政府が拒否。
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11:2005/04/07(木) 17:25:21 ID:o8O7IxLA