現役隣保館職員です。

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628りんぽ
>>521,523 最近驚かされたのが、総務省の高官が「差別があるかどうかは分から
ない。少なくとも私の目には見えませんから」という談話です。この官僚、社会学
的な知識に明るくないんでしょうね。社会学では常識とされていますが、人間が集
団を形成する過程が、同時に、その集団に入れない人間を不可避的に生み出します。
人間は一人で生きていけない以上集団的な営みをしますが、同時に、集団に入らな
い人を排除するための「妥当性構造(排除を正当化させる社会通念)」と言われる
ものを作り上げます。外見的差異を要件としない例では、穢れ意識や、欧米の魔女
なんかが典型的な例です。これは人間の本質的なものといえるのではないかと思わ
されたのが、島根県の石見地方には部落差別があり、「狐もち差別」がなくて、隣
接する出雲地方はその逆だという現象を知ったときです。このことが意味するとこ
ろは、深いですよね。もちろん排除の根拠は荒唐無稽です。しかし、根拠の理論性
は重要ではないと思います。排除する方の集団内で、持続可能で共有しやすければ
「おまえの母ちゃん出べそ」でも、何でもいい訳です。それを「こっちから差別」
しても、相互排除作用のベクトルが逆を向くだけで、あまり意味がないかと。
それよりも、相互作用の組み替えの方が重要であると思っています。相互排除を解
除して再構築を実行するためには、差別される側、差別する側双方のカムアウトが
非常に重要になってくると思っています(ご指摘の通り、どこまでが部落民である
かは曖昧と言う問題が残りますが)。その前提で生まれる関係性は、恐らく
M.ブーバーが主張するような「我と汝」の関係性のようなものなのでしょうね。
だからといって、学校教育の現場で「部落民宣言」が行われることについては、
私は批判的です。人格が十分に形成されていない子どもに、カムアウトさせて、
それを本人、あるいは子ども集団が、集団を再構築し、意味のある出会い直しを
できるとは到底思えません。力量のある教師がいれば話は別ですけど。