1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
以下の都市の事情について語ろう。
【大阪府】
大阪市/都島区、福島区、港区、大正区、生野区、城東区、阿倍野区、住之江区
北摂/摂津市
北河内/枚方市、交野市、門真市、四條畷市
中河内/柏原市
南河内/河内長野市、大阪狭山市
泉北/泉大津市
泉南/岸和田市、阪南市
【京都府】
城陽市、向日市
【奈良県】
香芝市
【兵庫県】
神戸市/兵庫区
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/06(日) 20:16:27.66 ID:LAkoe35B0
岸和田にBがないだと?
神戸にはいっぱいあるだろ。
枚方、岸和田も少ないけど地区はある。
城東は地区は無いがアパッチの末裔がまだいるんじゃないか?
後、門真に同和が無いのが意外だよな。
ボロボロの細い路地がとてつもなく多くて地区顔負けの雰囲気。
岸和田にBはないよ。
>>1 羽曳野ってBあるんじゃないの?
奈良県、斑鳩も公式にはないと言う見解らしい
>>4地味ながらあるよ。
まぁ岸和田自体町並みとか只の田舎だし言われなければわからないけどね。
>>6あるって言うならソースを出してくれ。
実際、地名総鑑にも岸和田は載ってない。
>>7 最近、市町村調べたら
4月1日限定部落地名総監って表示されるけど←これってなんなん?
あと、部落とかそうじゃないとかきめつけて訴えられんの???
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 03:02:08.40 ID:KbiSXJ5+O
柏原市にもBあるで
つーか、大阪、奈良、神戸、京都はBのメッカだからなw
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 08:35:37.41 ID:4QrBtZaz0
大阪市阿倍野区ですが、Bはない。
だから、困る。
B民がどっさり移住してきて、そこらじゅうに、一杯。
BはBが分かるから、グループ化して、親睦しとる。気色悪いの一言ですわ。
住之江区にも、あるでしょ。敷津浦。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 08:41:22.39 ID:45XBsZBj0
上の方で、大阪市城東区にはない、と書いてられますが、ある。
鴫野。(しぎの、田んぼなんかで片足で立っている鳥、鴫)。
大阪でB地域ないとこ探す方が難しいだろ。
BがなくてもK地域だったりするしなw
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 17:40:09.58 ID:ZDgX4/JI0
>>13 確かに。
生野区には、B地区はない。
けれども、生野区の全体が、言ってみれば、チョーセンブラク。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 20:10:58.48 ID:E8O2/vYi0
四條畷は確かに無いけど市境が非常に香ばしい
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/08(火) 13:22:53.67 ID:5SUeGRgWO
鴫野は線路沿いがやばいな
10年20年前は、他の地域からBじゃない良質な転入者が
多かったけど
最近は、近畿はBのお仲間の転入が多くて排他的とは聞くがな
そんで、10年20年前に近畿に越してきた良質な転入者は
子供の成長とともに関東に去ってるという現状
高石市の非人宿
>>3 城東は東日本からの転居者が越してきても問題なし?
>>13 豊中や吹田とかもやばいの
>>17 関西はマナーが悪かったり自分本位な人間が非常に多く感じるがそれで濃度が高いのか
同和地区を指すのか
俗に言う未開放も入れるのか
それによって変わってくるわな
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/18(金) 22:34:48.22 ID:k7MSB6aV0
天鳳で
3人同時プレイで
てめーにチャッソを切って上がるまことwww
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/18(金) 23:44:40.02 ID:QbMhpNMD0
指定なら確かに・・・
しかし、夙やスラムクリアランスの対象とされた町は多い
阿倍野ではまさに再開発エリアの多くが宮本常一の指摘したところ
都島は某橋の両側が水上生活者が居たところで今も砂利採取船が・・・
港区は水上生活のメッカで今も・・。
大正の沖縄から来た人々はクブンガァ(窪地)に住んでいて今は市営テニスコート
住之江は川沿いが微妙な歴史を持つ
城東には●●神社と寝屋川沿いの有名な・・・
福島は元野田城の近くに・・・
スラムクリアランスは湾岸寄りの区にあった歴史があるな
此花の伝法の一部と港区の八幡屋
北区の長柄もそうだったらしい
ただこれは解同にべったり甘えませんよという姿勢の側だから
スラムクリアランスなんてのは当然改善が前提だから今はもう普通
伝統的な部落産業もある訳ないし
北摂以外で東日本出身者が安心して住める地域って府内にないの?
阪神間や神戸の方がいいのかな?
>>24 その安心して住めるという事の「安心」て何?
引ったくり 飲酒運転 放火 通り魔 変態犯罪
これらが少ない町に住めよ。簡単やん
>>25 では島本町とか千早赤阪村みたいな田舎になるか?
488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/28(月) 01:57:14.19 ID:bIeFaC+j0
よりによって安堵かよ・・・
名前と違って全然安堵できねえとこだろそこ・・・
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/13(火) 13:05:46.52 ID:74rh+sD+0
島本町…笑
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/14(水) 07:54:55.13 ID:57Gc75ID0
東北と南九州は少ないと思うぞ
北海道はBK犯罪者が屯田兵として入ってるから
ある意味、全体がBとも言える
東北が住みやすいかというとどうかな
ガキをマットで簀巻きにして殺しといて
町中で隠蔽するような土地だからな
まあ日本中どこ行っても同じようなもんだべ
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/14(水) 07:56:40.00 ID:57Gc75ID0
畿内に住んでる以上、どこでもあるからな
>>29 だから北海道はマスコミが作り上げたイメージと違いガラの悪い田舎物が多い。
実際俺の道出身の父親も血の気が多い田舎のチンピラあがりみたいなのだったし。
東北は差別がないほど全体が貧しいかったことからこちらも全体がBみたいな認識かと。
こちらも長屋の市営住宅に親戚の家があり15年ほど前に遊びに行ったがトイレは汲み取りだった。
(なお数年前水洗化されたのを確認)
>>30 茨木吹田みたいな割と良いイメージ持たれる地域でも特定の場所にあるぐらいだからね
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/16(金) 21:28:00.35 ID:wd6PUwEF0
北海道←おおらか
横浜←おしゃれ
神戸←おしゃれ
京都←みやび
四国←のんびり
全部う〜そさ♪
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/16(金) 23:17:15.93 ID:di67X8maO
それリゾートバイトの歌でしょお
>>33 神戸某所に少し住んでいたことがあったけど下町っぽい風情を残していてかといって直接的に危険な目にあったわけじゃかったからわりといい思い出だったんだけどな。
マンションの裏で爆弾騒ぎがあって警察が検問してたがw
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/17(土) 08:34:25.60 ID:4vdVLRrh0
>>33 それは、真理です。
「うそ」が「正しい」のです。
以下に、「神戸」のインチキを引用で記載します。ご期待下さい(ファイルを探す必要があるので、すこし時間が掛かります)。
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/17(土) 08:55:54.36 ID:sVyrJJYW0
130 :底名無し沼さん:2013/05/13(月) 11:03:51.20
『神戸の真実 イメージだけで造られた新興都市』
第1章:震災がなければ再開発できなかったほどの巨大スラム
第2章:震災があっても手がつけられない中心部の事情
第3章:THE・闇市 日本最大のパラダイス
第4章:中内功の野望 **人を駆逐せよ!
第5章:西欧人に足蹴にされた人々 〜下働きで頑張った祖先たち〜
第6章:神戸ビーフの裏事情
第7章:西洋館、洋食、中華 国際都市と称された神戸の真実
第8章:阪急沿線が高級化されるまで 「土石流地帯を攻略せよ!」
第9章:寒村を都市化へ 近代日本の弊害を一身に背負った神戸
第10章:神戸人への提言 お花畑から脱却せよ!祖先からの手紙
お洒落、ハイカラというのがウリだった神戸が、実はこうだというのが素直に歴史を見ていくだけでどんどん崩れていくのが実感できた。
兵庫津付近と違って、現在の中心部は本当に寒村で、地価が安上がりな事情だけで港が開発された。
そして西日本各地からアンコ(港湾労働者)、土方、丁稚、工員など、あらゆる下層階級の人々がどっと押し寄せて、神戸を造った。
貿易関係の西欧人向けに神戸ビーフ、ケーキ、パン、洋食が名物となり、西洋館ができた。
それらの下働きをしていたのが神戸人であった。
筆者が述べていた「水上生活していた貧困香港人が、当時彼らを支配していた西欧人の館を誇らしげに自慢するようなもの」と
いった表現は、あまりに的を射ていた。
当時の貧困層であった中国人が流れてきて、集落を作った結果、現在の南京町となったこと等も、
今現在の神戸人でも知らない人は多いと思う。
神戸の西欧的な世界は、実は当時の人口の1%未満しか体験できなかった現実。
数%がやっと平均的日本人の生活を送れて、大多数は下層社会に身をおいていた現実。
バブルが終わって、失われた20年をすぎる中で、神戸が一地方都市に堕していく。
支店もこない、中心部は再開発されない、大阪依存・・・神戸のメッキがはがれて,
知らずうちに神戸本来の姿が露になってきたように思えてならない。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/17(土) 09:01:01.76 ID:7mpBNHg/0
131 :底名無し沼さん:2013/05/13(月) 11:04:21.85
Q:神戸に歴史はあるといえますか?
A:ありません
Q:神戸にはスラムが多かったですか?
A:はい、社会運動家が目を覆うレベルでした
Q:神戸は寒村でしたか?
A:はい、兵庫津と混同している人が多いですが、現在の中心部とは違います
大阪の外港として地価が笑えるほど安い寒村だったので港として開発されました
Q:神戸には流れ者が多かったですか?
A:はい、そうでないと数十年で寒村が100万人を突破するでしょうか?
Q:神戸はオシャレとよくいわれますが?
A:それは神戸人本人が自分たちから宣伝としていってただけの話です
本当にシャレていたのは神戸に住む西欧人です
外国人居留地に住む西欧人を見て神戸の人はオシャレ、ハイカラと形容しました。
それがいつしか、神戸の町、神戸に住む人はオシャレ、ハイカラだと誤変換されました。
神戸都心部には被差別同和地区があり、現実はオシャレとは程遠いものです。
また、パンやケーキが早くから食されていたというのも事実でしょうが、
現代までそれをウリにしていること、今では神戸のそれらは古臭さだけが
残っている現状を彼らは学ぼうとしません
Q:神戸には戦後、日本最大の闇市があったらしいですね
A:はい、いわゆる三国人がメインとなって拓かれていました
某任侠団体がこれらを警察と手を組んで駆逐するということまで実行されるほどのひどさでした
現在でも街中にその名残があります
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/17(土) 09:01:43.80 ID:4vdVLRrh0
132 :底名無し沼さん:2013/05/13(月) 11:05:11.63
Q:神戸の人が靴関係を自慢しています
A:神戸で靴を大々的に有名にしたのはケミカルシューズの開発ですが、
開発者は長田出身の朝鮮の方です
元々長田には小さいマッチ工場等が非常に多く、マッチ工場が下火になってきたところ、
生き残りをかけて編み出されたのがケミカルシューズの開発でした
兵庫県、神戸市はエタ・非人である被差別同和が多い日本で最も多い土地で
同和皮革産業が盛んでした
Q:神戸にはファミリアがある!
A:ファミリア創業者も食うに困るほどの生活環境だったと語っていますし、
代々服飾関係に携わっていたのでもありません
Q:神戸にはワールドがある!
A:調べてみると、創業者は淡路島出身のようです
Q:神戸には裏社会を統制した任侠団体がある!福岡とは違う!
A:確かに神戸の某団体は個人的には大好きなんですが、
設立者は淡路島出身、団体を日本一にまでした功労者は徳島出身のようです
神戸の欧米かぶれのやつらのなかには、多いんだろうな
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/23(金) 09:27:48.64 ID:6GLLTsfc0
城東区 天王田
城東のだんじり一生懸命な人らってそういう人らですか?
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/24(土) 11:07:56.37 ID:OHaCNlca0
熊取町と千早赤阪には存在しないと聞いたことがある
ただ夙などの雑種賤民はあるかもわからん
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/03(火) 08:42:21.85 ID:a/FQTM5s0
岸和田は昔 土生町 荒木町あたりにでかい村があったみたいだな
京都府の園部の城南地区(野中の生家)に移転したらしいぞ
だから今でもあの村は泉州弁を使う輩が多い
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/07(土) 22:26:40.00 ID:PXSvKC900
東中浜
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/08(日) 01:11:52.07 ID:Ny7+G7Hs0
北摂って他地域の移民が多いので知らないだけでしょ
結構、北摂でもジモティーは濃いし知っているで
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/08(日) 09:36:11.80 ID:Hybq5IcQ0
北摂は多いぞ
能勢 高槻なんか濃いよ
特に箕面は猿がね
>>42 マジか!
近所に知り合いがいるんだが・・・
>>48 豊能郡のSEX部落を見学したい
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/14(土) 17:35:29.91 ID:5I8Pn9UM0
>>49 まじやで 小規模すぎて指定から漏れた
部落 非人村 夙 陰陽師村 おんぼー 在日 秘境 魔境
未知という言葉に魅せられた凄い奴らがいる
人はそれをハンターと呼ぶ
俺は部落ハンター兼フィッシュハンター
セックスハンターのオレは
>>49の言う豊能郡のSEX部落について
くわしく聞きたい
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/19(木) 03:20:17.96 ID:r4U1Rzdc0
628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/18(水) 21:33:58.01 ID:AQpSmUqw0
同和地区と言われていない場所で
長屋のような古い平屋建てが密集している所に
迷いこんでしまった経験があるのですが
同和地区でない地域でも
部落団地は存在するのでしょうか
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/09(土) 23:19:06.55 ID:9QZur3d+0
どどど同和ちゃうわ
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/11(月) 20:07:04.38 ID:1rfyeefMi
あ
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/16(土) 10:16:27.50 ID:kPhgf3e30
大阪の北部に陰陽師が集中してるのは一説によると
戦国時代に愛知県の田舎者である織田信長 豊臣秀吉が京都を
上洛して都をケガした
なんとか清めようということで祈祷に集まってきたらしい
それがいつのまにか周囲の農民からキモい集団ということで
差別の対象になっていったらしい
57 :
もっこす:2014/08/19(火) 03:56:03.91 ID:61Vghv2d0
それは、俗説。
陰陽師たちの生業は暦つくりだった。
農業に暦がないと種まきができないからね。
年末に陰陽師たちは暦を売り歩いた。
農村に近いほうが便利だろ?
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/15(月) 01:15:12.62 ID:8C2yypZY0
>あと、舞村は平安時代は舞を奉納する集団の村でありましたが、
> 安土桃山・江戸時代に差別されていた事実は全くもってありません
本当に?単に史料がないということではなく?
例えば素人村と通婚していたということが史料上確認できたりするのかな?
だとすると「陰陽師」と一括りに分類するだけでは説明つかないね
実際そのサイトに書かれてる事と同じ生業(曲舞、暦等)してる村で
差別がきついという江戸時代の史料だってあるわけで
その扱いの違いは何なんだということになる。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/15(月) 10:23:55.23 ID:8C2yypZY0
>>59 舞村の陰陽師さんの家は生業というよりか、副業という感じでしょうか
江戸時代、表向きは百姓代ということであったと思います。
そして、差別されていたというよりもどちらかというと「陣内さん(じんだいさん)」と、
豪農とかそういうわけではありませんが、学識のある家として他とはちょっと区別された扱いを受けていました。
御当主は常に袴をはき、堂々としていたそうです。
そして時は流れて今ではカレンダー作りが盛んです
グラビアアイドルや女子アナなどのものの需要は高いのです
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/17(水) 19:22:14.01 ID:TPKBDzS/0
差別されてたかどうかは知らんけど
雑種選民と研究者が呼んでるということは差別されたと思う方が普通だよな
高石の取石の夙なんかは今でも近所からエタ呼ばわりされてるし
>>60 なるほど、あからさまな蔑視ではないがやはりある種の分け隔ては
あったということになるのかな?
百姓代というのは、その舞村を含めた本村全体の村役人ということ?
エタ村に比べて夙とか陰陽師は差別が緩やかで、村役人を
務めるということはあったみたいだね。
ただ、そういう日常生活では何もないのに、いざ婚姻となると
絶対にしないということだったらしいが。
>>62 同意。通婚があったかどうかなんかは人別帳調べれば一発でわかるけど
心情的な差別があったかとなると案外史料には出てこないんだよ。
何か特別な事がないとね。
例えば上に書いた差別されていた陰陽師村の史料は、天理の村なんだけど
差別を払拭するために、口寄せの仕事を廃業しようと村で取り決めをした
のに、違反して口寄せを続けている家があるからやめさせてほしいと領主に
訴えた時のもの。その中で具体的な差別の内容が書いてあるんだが、
余所に奉公にいけない、逆に村に奉公人が来てくれない、大工に手間仕事を
頼んでも来てくれない、あそこは穢所だからと罵られるとかある。
こういうまあ今でもさもありなんと思えることが、通常は史料に残らない。
だからといって差別がなかったとか言うのは安易だと思う。
>>63 穢多てのは現業職公務員なんだから、差別はなかったんだよ。
関しおされていた土民百姓が差別をはじめたんだ。
>>64 はいはい、あんたには何言っても無駄だからw
ただ一つだけ、まともに答える気があるのなら
穢多は現業公務員→差別はなかった
この間の飛躍を埋める説明ができますか???
>>65 中卒か?
高校歴史教科書に2007年からカワタ身分について書いてある。
>>1 部落は百姓のいるところどこでもいた
。
任務が一揆の監視だったからだ。
敗戦直前のアメリカ軍空襲で全滅した部落はおおい。
枕崎の爺ちゃんの出里も壊滅した。
祖父自身は能力を買われて、陸軍熊本鎮台で密偵をしていた。
はい。案の定まともな答えは返ってきませんなw
現業公務員だから差別はなかったとか全く論理のかけらもないね。
今の歴史学会の常識なんだ。
大学のセンセイに確認してくれ。
ただ、なぜ「穢多」村に浄土真宗だけが広がったのかについての明証はなく、一般的には、
たとえば、中世の浄土真宗が移動する商工業者(渡り者)に教線を広げたとされ、「穢多」村
にはそうした商工業者が多かったためと考えられたり、被差別の立場を前提に、来世での
阿弥陀仏の救済を願ったためだとも説明される。しかし、中世の商工業者のすべてが
浄土真宗門徒ではなく、また、逆に「穢多」村住人のすべてが商工業者だったわけでもない。
とくに奈良町の商工業者には日蓮宗信者が多く、また被差別といえば、ここまで見てきたように、
大和には「穢多」以外の被差別民が多数存在したのである。
そうした人々や村々がすべて浄土真宗に帰依したことは歴史的に確認されず、大和の場合、
同じ被差別民集落である夙村や三昧聖村には浄土宗や融通念仏宗も数多く見られるのである。
したがって、近世大和の「穢多」村にある寺院がすべて浄土真宗寺院であることの合理的な説明は
今のところできず、残された史料からはその一端さえもうかがえない。
苗村神社 三十三年式年大祭 2014/10/11(土)〜13(月)
http://www.rmc.ne.jp/dragon-kanko/namura-jinjya/event/33nen.html 滋賀県竜王町苗村神社では33年に1回行われる祭りがある。
その時に、氏子の中の部落の者が兜鎧に身を固めて行列に参加する。
この部落は農業を中心とした集落で、豊かな集落である。
苗村神社ができた時の創建の由緒があるから、つまりその部落が神様を連れてきたという由緒である。
それでも彼らは差別を受けた。つまり結婚がないと思われる。私的な交流の場からたたれている。それが差別である。
部落史研究はそこまで到達した。
苗村神社の行列が続いてきたのは、だれもが創建の由緒を動かしがたい事実として知っていたし、事実として認めていた。
ここに部落差別の本質を見いだすことができるのではないかと考えている。
神官の問題だが、祝(しゅく)と屠(と)という概念は、部落差別で極めて複雑で重要な問題だと考えている。
桑田郡保津村
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00010164&elmid=Body&lfname=kj00000651793.pdf 当村の未解放部落は南北両村に存在したが、北村の場合は、隠墓と称され、宗門帳末尾に編別されている。
たとえば、宝暦一○年(一七六○)の「人別宗旨御改帳」では隠墓九軒九人組五三人、与次郎一軒四人、番人一軒二人が記載されている。
文政以降の宗門改帳では表紙に「隠墓人、与次郎別帳」と記入され、与次郎のみは別帳になっている。
「与次郎」は与次郎六兵衛が「御城下河原町与次郎頭与七郎弟三拾八年以前卯年当村へ来番人仕性○」とあるように、仕事は「番人」であった。
隠墓の家の通婚通縁関係は、文政三年(一八二○)から慶応四年(一八六八)までの宗門帳でみる限り、第四表のようになっている。
圧倒的多数は他村の同一身分との婚姻養子縁組であるが、もし、宗門帳に記載洩れがないとすれば、五九件のうち一○件が他村平人と婚姻縁組を結んでいる。
これは幕末に近くなって平人との婚姻が増加したわけではなく、すでに宝暦一○年の宗門帳でも六件の平人との通婚・縁組・奉公がみられるから、
はやくから脱賤化のための平人との通婚がすすんでいたと考えられる。
しかも第四表中の一○件の平人との通婚は、六軒の家にのみみられ、しかも、そのうち四軒は平人との通婚が二件ずつみられる。
このことは領主ちがいの土地の平人との通婚による脱賤化の意識的努力のあらわれとみられないこともない。
また天保一二年(一八四一)の宗門帳記載の惣助後家は「城州伏見松屋町近江屋勘右衛門娘三一年以前縁付来候処、勝手筋ニ付親元方へ三年前□来候」
として宗門帳の現存者からはずされておる。
同家には娘一人しか残っていないから、「勝手筋」とは家族内の紛争とは考えられず、おそらくは、前章にのべた天保期の洛中洛外の戸口調とのかかわりがあると考えられる。
とすれば、身分ちがいの通婚に対する制約は、むしろきびしくなったといえないこともない。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/18(木) 14:28:58.12 ID:XQtyzpGC0
よくよく見てみるととんでもないことが・・・・
>>62 取石の夙とは、よく言われますが、取石全体ではないのであしからず。
そして、自分は取石の人間ですが一度たりともあの辺り(等乃伎神社の辺りでしょうか)がエタ扱いされているのを見たことはありません。
実際、平安朝のころには夙であった記録はありますが、
江戸時代には決して被差別部落ではありませんでした。
一般的な農村であったと思います。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/20(土) 12:37:32.02 ID:UyXQzz5d0
>>73 ないない 近所のもん知ってるけど
あそこはアレやと指4本立てて言ってた
堺の原田 石橋 鳳西2もやばい言うとった
自分が後で図書館で調べたらきっちり地名が載せられてたんでワロタ
菱木あたりに住んでたんだが上もやばいとか言うてたな
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/22(月) 22:37:05.49 ID:xoScyGqe0
>>73 富○でしょ?
いや、少なくとも江戸時代にあそこはそんなところにはではなかったと思いますがねえ。
他の取石の村々の庄屋であった家との通婚の記録もありますが・・・
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/10(金) 22:20:23.70 ID:Nv5D49np0
南大阪で無いの泉大津、狭山、岸和田くらい?
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/11(土) 00:45:18.14 ID:zV3JZ0tb0
>>77 そこバリバリあるで〜
特に岸和田のだんじり祭りは
連想させるよな・・・
マジレスすると近畿でBないとこ探す方が難しい。
>>73-75 これ全く正反対の事書いてるが、実際のところはどうなのよ?
というか73、75はにわかには信じがたいんだけど。
夙が賎視されてたことを示す史料は多いよ。
一般的な農村であったとか言われてもねえ・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/7655275.html >他には、「舞村」 「志く村」 「細工村」が鳳地区には在ります。
>地域の差別村で、大道芸人や宿の提供者が住んでいる所で、被差別部落とは違います。
>「細工村」は竹細工をして、土地が無いので、売り歩いて生計を立てる人達が住んでいました。
>熊野街道沿いには、「取石宿(とりいし)」と言う中世の非人宿が在って、分解して独立していきました。
>非人宿(取石)が高石市に存在しています。歴史的な表現としては、非人宿を「賎民宿」と訂正しています。
>近世以降には村には成っていません。
近畿でBないとこなんかないだろ情弱
昔、狭山市長が当選時 B地区ないから やりやすい言うて糾弾されたぞ
>>85 wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/12(日) 14:02:30.85 ID:tNF4t3GB0
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/12(日) 22:46:23.55 ID:MSuB04980
岸和田に同和地区はない
これ常識
岸和田にB地区はないよ
役所に人権推進課があるから市内に地区があるとは限らないしな
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/13(月) 10:20:39.75 ID:27/lqnNX0
>>87 80の方が言っておられるように、富木について「取石宿」は近世以降村となっていません。
つまり、現在の富木は以前の「取石宿」とは別のものと考えるべきです。
あと、加茂は開発されまくって、その当時から住んでおられる人は少ないのではないかと思います。
>>91 なるほど。しかし80の
>近世以降には村には成っていません。
これがどういうことを指しているかだよね。ただ単に独立村では
ないことを言っているのか、中世非人宿と何の連続性もないということなのか。
ここの個別の事情は把握してないけど、一般論で言えば中世非人宿の
実体は戦国期直前くらいまではあったわけで、さらに一般的には
そのころの集落の多くはそのまま江戸期の村に連続すると言われてて、
実際同じ場所に集落があれば何らかの連続性はあるとまずは考える
のが普通だからね。
天明2年に起こった農民一揆 千原騒動の指導者の一人
土井忠兵衛が富木村の組頭ですな
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/13(月) 19:57:56.64 ID:27/lqnNX0
>>92 「一般論で言えば中世非人宿の実体は戦国期直前くらいまではあったわけで」とおっしゃっていますが、
戦国期まで取石宿があったのでしょうか?
かつて富木村の庄屋であった石田氏は「京から派遣された荘官」と言われており、
そんな家が被差別部落に住み着くとは思えませんがねえ・・・
被差別部落の正体は、武士の役目を行う身分の人たちと今の歴史学ではなりました。
つまり、武士であり庶民でもあるということ。
>>95 いや、上にも書いてるように取石宿がいつまであったのか知りませんよ。
ただ、中世非人宿の救ライ施設という実体が失われて解体して
いったのが戦国期前くらいだろうといわれているということです。
そうして、宿のあったところで近世に非人はいなくなるんだけど
非人を管理していた側の人間は、そのままそこに留まって、それが
近世の夙村になったと言われているという一般論です。
だから富木では違うという明確な史料なりがあるんなら
そうなんでしょう。
>>62 >>74 の人みたいに、今現在言う人も何の根拠もなく言ってるとも思えないので。
まあ富木が江戸時代に夙村として分類されていたのかくらいの事は
ちゃんとした文献調べればわかる話なんですが。
あなたは夙村ではなかったとおっしゃりたいの?
それとも夙村ではあったが差別はなかったということですか?
なんか富木村が夙かどうかという話になってるようだが
随分前に大阪府スレで見た時には、夙は取石村で
駅西側の府営住宅が建っているあたりのことだと書いてたで
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/14(火) 09:33:19.24 ID:zgduV3+P0
福島区 玉川
住之江区 敷津浦
柏原 青谷
港区 八幡屋 港晴 池島
狭山市 山本中(隠)
泉大津市 助松
阪南市 舞
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/14(火) 10:37:26.57 ID:8YEZqBVI0
夙は取石村、だなんて間違いも甚だしい。
住んでるからあれなんだが、
あそこらへんに、夙っていうか、そんなあからさまな被差別部落はないと思うんだけどなあ・・・・
信太の南()村はそういうところとして、有名やけどね。
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/14(火) 13:40:25.31 ID:8YEZqBVI0
>>101 ああ、これですね
ここの村民は、大正あたりまでは外に出ることを警察に禁じられていたらしいです。
>>97 富木の隣村に自分は住んでいるのですが、
富木がそういう村であったという話は祖父母に聞いても全くありませんでした。
古くから住んでいるので、周知の事実なのであれば、それを知らないということはあり得ないので、
自分としては、何とも信じがたいことです・・・
少なくとも、富木の人に対する差別はなかったと思います。
本当に、取石宿が富木と関連性があるのか、そこが一番気になっていることですね。
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/14(火) 17:16:05.54 ID:iT/OsM290
>>99 柏原 青谷
って、大和川に吊橋が掛かっているところ?
ほんまかいな?
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/14(火) 17:40:06.34 ID:c0+Kwf8c0
>>24 東日本出身者が安心して住める街は無い。
東日本より安全な街はたくさんあるけどね。
北摂も大概ガラ悪いで。
http://sano567.my.coocan.jp/nodajyou/ >今日、野田城の遺構は残存しないが、福島区玉川の一帯は、江戸時代より町屋が発達し、
>「城ノ内」 「奥」 「弓場」 「東」 「北」 「堤」の6町から成っていた。
>明治以降もそれらが字名として残ってきた所で、周囲より一段と地盤が高く、
>水路がまわりをとりまいているなど、野田城跡の伝承を裏付けている。
http://www.nodasho.co.jp/tidbit/p08/ >江戸時代後期の野田村は奥ノ町・東ノ町・城ノ内町・弓場(ゆば)町(又は弓ノ町)・堤町・北ノ町の
>6町から成っていた(福島区円満寺文書による)。農村なのに町名がついているのが注目される。
>明治20年頃の地図には、それが字(あざ)奥・字村東・字城ノ内・字弓場・字堤・字大北となっている。
>大坂でははじめての実測図で、5000分の1の精度の高いものであるが、この地図を見ると昔の
>野田の地形が非常にはっきりわかる。右の字名(あざめい)の区域だけが住宅地で1カ所に集中し、
>周囲は水路(井路(いじ))で取り囲まれ、この区域のまわりはほとんど田畑である。
>字村東(昔の東ノ町)の一部と字堤(昔の堤町)をのぞけば、この区域は現在でも野田・玉川一帯のうちで一番地盤の高い所である。
>しかも昔から続いてきた地名(町名・字名)は一見してそれとわかるように城と縁の深いものばかりである。
>おそらく、城ノ内町と奥ノ町とが、かつての野田城の中心部、せまい意味での城内にあたる部分なのであろう。
>弓場町は文字通り弓の訓練場の名残りで、東ノ町は城の東に隣接した町なのであろう。
>野田戎や円満寺、極楽寺などのある区域にあたる。また、堤町の西南には馬洗池があった。
>これも城と関係の深い名称である。井路は今日では埋められて道路にかわっているが、かつての堀の名残りと見てよいかもしれない。
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/15(水) 08:40:00.18 ID:+ilvsNog0
もっこすは陰陽師村は差別されてないというが
摂津市の鳥飼野々は陰陽師村だが最近まで指定されてなかったか
今あるかどうか わからんが
ハーモニカ長屋風の改良住宅らしきものがあったような
差別されてないものがなんで指定されるのかと問いたい
後摂津市は味舌も夙だったな
大阪の被差別史とかいう書物に府内の陰陽師が30ヶ所 夙が20ヶ所ほど
あると書かれてたんだが なんで被差別の本に地名まで載せられてるのかと
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/15(水) 08:56:14.47 ID:+ilvsNog0
>>103 村に入ったらわかるよ
いわゆる郊外の部落とかを何度も散策していると
家の造りとか路地の入り組み方なんかに法則性が感じられるようになる
そうなると普通に知らない町を歩いていても そういう地区に来ると
パッと空気感の変わる瞬間がわかるようになる
後は図書館や本屋でその地区の被差別史の本を立ち読みしてみると
ああやっぱりと いうことになる
人間の五感というか六感はすごいもんだと思う
青谷の山の上の方には羽曳野のハンナンの冷凍車のコンテナが置いてあって
なぜか向野と林の地名が書いてあるのにわろた
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/15(水) 09:09:33.48 ID:3J2BZ8NG0
>>108 同感。
最近は、街中ででも、散歩していて、その家の前に来るとイヤーな感覚に襲われます。
そのような、なんというか一種名状し難い感覚を察知する能力が基本的に人間に備わっている
ように思われます。(古人の衆智のたまものか、穢多という名称は感覚的なものを内包していると思う)。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/15(水) 09:13:31.13 ID:aTnBWf790
>>108 忘れてました。
「青谷」のこと、ありがとうございます。
明神山から下りてきて、生駒に接続するのは、その辺りなんですが、
そうなんですか!
行ってみます。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/15(水) 09:37:38.78 ID:mYh7hQiX0
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/15(水) 09:40:06.82 ID:+ilvsNog0
図書館に行けばわかる
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/15(水) 09:44:24.02 ID:mYh7hQiX0
書籍名は?
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/15(水) 10:54:38.07 ID:+ilvsNog0
大阪の部落史 大阪の被差別史とかだいたい載ってるよ
>>98 これ自分も見た記憶あるよ。というか思いだした。
やたらと詳しそうな人が、そんなに有名ではない村の位置を
いくつもピンポイントで挙げてたね。全部すぐにあぼーんされてたけど。
その時はここが夙だということについて別に反論は出てなかったような。
>>102 なるほど。ずっと住んでる高齢の方がそう意識してないというなら
富木ということはないでしょうね。やはり取石宿の後身の夙は98に
ある場所ということなのかな?
全部が全部ではないでしょうが、中世非人宿の所在地に江戸期の夙村が
あるという例が多いのは事実ですから。ここについては全く調べた事が
ないのでわかりませんけど。
>>103 そこについても同じスレで多分同じ人が挙げてた。
いい加減な事書くなと反論が出てたが、「自分は文献を調べた上で
書いてる。ここは転びキリシタンの非人部落」とのことだったよ。
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/15(水) 23:14:53.13 ID:+ilvsNog0
夙は取石2丁目
実際に行ってみればわかる
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/15(水) 23:21:39.35 ID:+ilvsNog0
原田では鳳高校敷地が夙村の壮観な集落だったと思うんだが
住民はどこに移動したんだろうか
草部には市営住宅がある 一階部分が喫茶店やお好み焼き屋などになっていて
部落地区にある改良住宅と似てる
草部には雇用促進住宅もあるがあのあたりに移住したんじゃなかろうか
山田の福泉市営住宅もかなり怪しい
小阪の市営住宅は協和町に引越ししたものも多いので 確定と言ってもいいんだが
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/15(水) 23:39:21.96 ID:mYh7hQiX0
天明の千原騒動は夙村である富木村が起こした百姓一揆だったのか
文献で見たら普通に岸和田もBなんだが・・・
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/16(木) 12:42:43.65 ID:zkAfmi5C0
千原騒動に被差別部落民がかかわってたのは事実だが、
最初の発起人は新家・土生・富木の組頭とか村役にあった家の人。
中には庄屋が加担している村もあったはず。
「南王○村も千原騒動にかかわってはいたけど、処罰される段階において他の村と比べて明らかに不当な扱いを受けた」
って内容で確か本が出てたのを見たことがある。
南○子村は被差別部落だから不当な扱いを受けたんだが、富木に同様のことは起こってない。
そこから考えても、富木は夙じゃないと言えるんではないかと。
不当?
武士の役儀を務める村が。
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/16(木) 16:11:31.09 ID:zkAfmi5C0
不当というか、千原騒動自体大鳥組が中心となって起こったものあるにもかかわらず、
府中組に属するはずの南○子村で処罰を受ける人が沢山いたり、最初に名指しで検挙されたりってことです。
南王子村は、どこの殿様支配だっけ?
一橋徳川家
あちゃ〜!
自分たちの主筋に逆らったのか。
死罪ものだね。
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/17(金) 01:53:51.61 ID:+wizkj6Z0
さあねえ。
はいはい、どうせ俺は地方豪族の末裔ですよ、とか言わせたいのかな?
まぁそうなんだけど、だから何なの? と思うけどね。
英語を普段使ってないから、ジャクリーンさんには悪いことしたな。
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/17(金) 18:53:54.54 ID:+wizkj6Z0
たぶん、この人の家も地方豪族の末裔だと思うけどね・・・
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/18(土) 11:45:46.59 ID:fnuw+sdi0
>>116 その通り、現地の空気感大事ですよね。
山◯さんって名字が目立って・・・
結構有名やと思いますが、富木の山◯さん。
やはり富木ということになってますが・・・
そうすると
>>102の高齢の方がそう認識してないというのは
どういうことだろう?
富木の庄屋家が筋目のはっきりしてる家だというのは、
富木村全体が夙ではなく、富木村之内○○が夙だということで
納得いきそうだが、隣村に住んでて隣にそういう一画が
あるということを認識していないというのは考えにくいと思うけどね。
自分の場合は逆に空気感というのはそれほどあてにならないわ。
実際自分の住んでる近くで、文献から穢多村だと分かった地区を
改めて歩いてみてもそう感じないところもある。
特に夙村に関しては、穢多村のような理由の説明がつく景観の違いって
何かあるんだろうか?
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/18(土) 13:02:18.11 ID:2uT1WgHp0
開発が進んでいまではそう感じられないところも多いですからね。
あと、富木の山○さんに関して、できる限り調べましたが、天明年間には富木組頭・庄屋を務めている記録がありました。
ほかにも年寄も務めているようでした。
高石町の町議会副議長も輩出している家ですが、
>>116さんのおっしゃるようなことはどうなんでしょうか。
山○さんにも2種類あったりするんでしょうかね・・・
参考文献として、大阪府行政百年の泉北の旧家名鑑みたいな本を使いました。
非売品というか、これに名を連ねた家にしか配られていない様です。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/18(土) 13:04:25.11 ID:2uT1WgHp0
失礼しました。
>>135 配られたのではなく、限定出版でした。
図書館にはあるんでしょうかねえ・・・
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/18(土) 14:14:08.05 ID:2uT1WgHp0
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/22(水) 13:23:44.49 ID:fkkHEmQ40
山内 北口 沼守 石田
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/22(水) 21:26:45.51 ID:0P3w+gwl0
石田さんは、典型的な荘園領主だった家ですよ。
>>95で言いましたようにね。
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/26(日) 09:31:22.73 ID:extYMrZ90
夙は政治的には農民だよ
ただ社会的には周辺住民から差別されてた存在なんだよ
だから雑種賤民と言われてた
そんなことはわかってるんだよ。
今の焦点は富木がその夙かどうかだ。
近隣に住んでて、それなりの事実に基づいて夙ではないと思うと
主張する139氏と、「空気感」とかほとんどオカルトな根拠で夙だと
言ってる数名という構図。
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/26(日) 12:44:52.04 ID:extYMrZ90
村全部が夙っていうのは原田村くらいだろ
富木村の一部が夙だったということだろ
だから取石2がそうだと言ってんだよ
あそこだけちがうだろ
古い木造の崩壊寸前の家とか路地が入り組んでたり
平屋が多かったり
岸和田はどこにあんのや
空気感で分かるかな
浄土真宗本願寺派 古今山楷定寺
江戸時代中期の元文年間(1736?1740年)陽柳法師による創建と伝えられる。
現在の本堂は、江戸時代後期の文化十年(1813年)に建立。
本尊の阿弥陀如来立像は、江戸時代に制作された高さ61.5?の寄木造り。
境内には江戸時代後期の天明二年(1782年)に起こった農民一揆の「千原騒動」の指導者、土井忠兵衛の墓が残り、
墓石には忠兵衛の威徳を讃え「その真心は末の世のいしふみに咲く、うもれ木の花」という詩が刻まれる。
毎年1月9日には忠兵衛を偲ぶ法要が今も執り行われている。
大阪府高石市取石2丁目24-11
富木村の指導者層の墓が村内の夙村にあるのか
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/26(日) 16:40:23.61 ID:wnMF8dbP0
富木村の一部が夙であり、それで取石2丁目だとおっしゃってるのですか?
取石2丁目は富木村のおおよそ中心部であり、
土生・新家・綾井・大園村の各村の鎮守の神社を合祀している等乃伎神社神社があります。
さすがに夙村にある神社にわざわざまとめようとはしないと思いますがねえ・・・
千原騒動といえば、了意さんのお墓も土生の西光寺の中にありましたね。
やはり
>>98にある府営住宅のあるところというのが真相かもしれんね
その詳しそうな人は、きっちり文献に当たって、古地図等も参照して
たようだから
取石宿の後身夙村は団地になって往時の面影はありませんってとこか・・・
鳥取ループにも取石2丁目(山◯)とハッキリ書かれてるし
空気感で判断してる人も取石2丁目だけ他と空気や町並みが違うから
取石2丁目だと判断してるんだろ
でも調べれば調べるほど取石2丁目が被差別部落じゃないことがわかる
鳥取ループはどこが被差別部落なのかは興味無いんよ
ネットに転がってる情報を載せてるだけ
139氏の祖父母が全く知らないというのが大きいな。
俺は奈良だけど、今の70才以上ぐらいの地の人はやっぱり近くの
そういう由緒って大抵知ってるんだよ。
それが知らないというのは、相当早い時期にもう跡形もなかったてのが
一番あり得る線かと思う。となると府営住宅の場所だったということで
納得いくけどね。
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/27(月) 19:38:10.32 ID:GEdqsxE00
なんとはた迷惑な・・・・
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/28(火) 02:06:02.59 ID:SJDN4GAp0
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/28(火) 23:00:03.78 ID:mfI8sVx60
>>153 いや、うちの当りでの、その陰陽師家に対しての評価というか、そういうものは
「あそこは、隣村の村役やってる陣内さんと言うて、
かつて平安朝のころ暦を作ってはったんやとか・・・。古い家らしいなあ。」
って感じです。
遠ざけるというよりも、どちらかというと歴史が古い家であるというだけで、それ以外別に「近寄ってはいけない」だとか
そういうことはしていなかったようです。
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/28(火) 23:32:45.60 ID:6zfhMdO70
幸徳秋水も陰陽師の家系みたいですな
幸徳井家の傍流の末裔とか
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/29(水) 18:30:08.84 ID:cUIXkQa90
今もたまに地図であるが錯雑地というのは歴史的にどうなのか?
単純にどこの領域か線引きが出来ていないのか?どうなんだろ
かつては晴明神社のある阿倍野元町とか・・・
信太山のあの地域もそういう扱いだったので気になるところ
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/29(水) 18:53:44.45 ID:AtKFbxpbO
>>99 隠地区は大阪狭山市山本中の一部も含まれてるけど
どちらかというと堺市中区陶器北〜堺市中区福田の扱いだろ
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/29(水) 19:53:38.80 ID:EX1D4hfr0
>>156 >晴明神社のある阿倍野元町とか・
その晴明神社の前の道を進んで、チン電の線路にぶち当たる手前の「家」(表札は三村とある)の
謄本を取ろうとしたら、登記所の係官から、「そこは番地がありませんが」といわれた。
その家は、部落民がブラク専門の不動産会社から斡旋を受けて「タダ」(同和補助に依る)で
手に入れている(自分の娘用、本人は堺の協和町出身)。
>>158 登記所に江戸時代の絵図があるから見て。
多分、埋め立て地。
池か、沼だったと思う。
隠【かくれ】
現在の地名でいうと堺市の陶器北、福田、大阪狭山市の山本北・山本中にまたがる地域で、
町名としてはなくなっているが、自治会活動やだんじりなどの祭礼では元の「かくれ(隠)」が今も用いられる。
西高野街道が村を通っているが、高野山に参りに行く人がこの村にさしかかると、不思議なことに金剛山が見えなくなる。
村の東側が少し高くなっているためで、そのため「金剛背隠(せがくれ)」と呼ばれ、それが「金剛隠」「隠」となった。
この地名は戦国時代から使われているという。
岸和田の山手に所々にある、突然現れる平屋トタン屋根のボロアパート群とか大丈夫なん?
今○町の川沿い・岡○町の菅原神社の前・下○田町の村中・岸和田消防署の周辺
今○の川沿いなんて異様やで。
急に空気変わるし、紡績の出稼ぎ労働者の収容施設か何かの名残なのかね?
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/04(火) 07:50:34.45 ID:+6yOENnM0
平屋トタン屋根の府営住宅は昔はそこらじゅうにあったんだが
六反みたいな未指定にもあったけど 今でもあるとわな
チョンブラか 興味があるね
Bと言えば大阪よりオ奈良のイメージが強いなw
近畿地区以外の出身の奴に聞いてもBと言えば奈良らしい(笑)
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/07(金) 08:34:33.71 ID:2U/Qe64D0
奈良県出身は部落と思えといわれるからね
奈良名物 大仏 鹿せんべい 新平民というのもあったわな
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/07(金) 09:53:39.88 ID:a5hHxod30
しかし香芝市には同和地区はない
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/07(金) 09:55:30.18 ID:2U/Qe64D0
同和地区はないけど未指定は数カ所あるよ
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/07(金) 10:01:09.93 ID:a5hHxod30
どこ?
>>167 それな。
それでも香芝と斑鳩は、奈良の他の地域に比べると格段に同和地区少ないけどな
香芝と斑鳩は奈良の中でも聖域だからな。
未指定あるある詐欺
香芝と斑鳩は奈良の中でも優良地区。
(前略)小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘されておられます。
その中で私(網野善彦)がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びととがきわめてよく似ており、形質上は同じであると指摘されている点です。
そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人との違いに比べて、はるかに大きく、
東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。
これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、さらに衝撃的だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。
小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、関西では少なからずあったと思います。
これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。
小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。
(網野善彦『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(岩波現代文庫,2013)137-138頁)
>>162 これは単に木造市営住宅の払い下げのパターンだろ
「ホンモノ」はこんなに整然としてないしもっと悲惨だ改良住宅の改良以前とかな
写真集「部落」のような悲惨さ劣悪さはもう残っていないだろ
広島県中部のあそこを除いては
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/05(金) 22:45:42.90 ID:VD1kvnyR0
向日市鶏冠井町大極殿 筧勇夫 筧千佐子
岸和田は春木競馬場のあった辺りがBだぞ
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/07(日) 23:35:53.34 ID:OmVk0oww0
元B地区に朝鮮人が住み着くというのはよくあるパターン
生野区なんかも昔は部落が点在してたんやろな
歴史的なB地区なら古地図や古文書に記載されてる
それらに載ってないならB地区とは関係ない
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/08(月) 20:05:38.15 ID:y/sGIfQA0
ビーチクではなく周辺にケーが住むというのが基本パターンです
生野にはなく東大阪の にあって、そのあたりで使われていたり
西成西部の に渡船の大正区から使用人として琉球の人が
こきつかわれていましたね
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/21(日) 19:49:40.88 ID:UFOffC2N0
近畿でBじゃないところはないやろ〜
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/22(月) 02:51:04.33 ID:HTJ/xXw50
>>151 熊野街道沿いならやはり取石2丁目か?
そして、等乃伎神社の宮司は石田氏
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/22(月) 14:36:07.24 ID:t+SqlKvG0
>>182 ちゃんとログを読んでますか?
2丁目にある等乃伎神社の宮司さんは確かに石田氏です。
前にも申しましたように、石田氏は荘園領主であった家です。
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/22(月) 19:15:45.58 ID:gIUi3No40
> 関西大学社会学部教授
> 石元清英
> 江戸時代になりまして身分制度が整えられたときに、この夙の人たちは百姓身分になるのです。
> 賤民身分にはなりませんでした。百姓身分になるのですが、周りの百姓たちは自分たちとは違う、夙だと。
> 従来どおり結婚の行き来はしない、普段のつき合いも制限する、そういう態度を変えなかったのです。
> その結果、現在、夙村であったところで部落になっているというところがたくさんあります。
> 特に、京都府、奈良県、和歌山県は夙系の部落というのが非常にたくさんあって、
> やはり穢多系の部落と全く同様の結婚差別事件というのが起こったりしています。
> 大阪にも夙村があったという記録があるのですが、大阪の場合はどうも部落になっていないようです。
> 理由はよくわかりません。調べようもないですし、どうも余り聞かないのですね。
> 明治以降の経済状況だとか、力関係だとか、さまざまなものが影響するのでしょうけれども、
> 部落になっていたり、なっていなかったりする。
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/02(金) 19:54:54.44 ID:JbrQCike0
父親:吉松朝一 交通事故死
↑
昭和50年頃に離婚 2人とも九州出身
↓
母親:下尾ヤス子 アル中!、病死
長男:吉松裕治 神奈川県茅ヶ崎市菱沼 2-1-31
次男:吉松文人 東京都葛飾区柴又から行方不明!
三男:吉松保 大阪市城東区
四男:吉松実 大阪市港区池島3-10-17 2階建軒続きボロ住宅
長女:吉松恵 大阪市港区池島3丁目 武田アパート(立替中)で育つ。昭
吉松恵
昭和45年4月5日生 「中絶3回!」 行方不明! 幼稚、アイドル-芸能界のオタク。大々バカ!!
吉松恵の口癖「しんどい、だるい、そんなのできへん、私には無理!」「兄ちゃん、兄ちゃんが・・・・」、これが決まり文句。
何でも、スグに「兄ちゃ潤オん!!」 ファザコンならぬ、兄コン?
吉松恵の二十歳の頃は、会社の人に衣服やバックを沢山買って貰ってた。犬を飼い、犬と芸能人の話ばかり。弁済能力がないが、他人の借金返済保証人になり弁済する羽目に。
成人式、着物を借りずに高額ローンで買う!!着たのは、一回だけ!!大バカ!!
不細工、二十歳の頃は極度の肥満体!! 肉類のみを好み、凄まじい間食と菓子類を頬張る。若い時は、極度の肥満体!!
高校卒で就職した会社の人達と、大正区のホテルを頻繁に利用。大和産婦人科で「中絶3回!」 子供なんか要らんねん!本当は。
生活保護を、容易に受け続けるには子供は必要やねん!中絶3回だし。
私、吉松恵(42)を見つけて確認してね!!
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/04(日) 20:44:19.05 ID:Mgk+EO0e0
池島って水上生活のハシケのところか
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/07(水) 08:22:19.66 ID:/0FhJdwG0
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/08(木) 21:59:34.65 ID:KUOJ8Zl/0
与論島出身者が集まるコミュニティーもあるでよ
大阪港区には
あの辺りは水上生活者がいた事も有名だが。映画にもなった記憶が
殆どがそういう南九州の離島出身なのか
よっぽど金が無かったのかね
余所から来た出稼ぎでも格差はあったのは確かだろうけど
港区 此花 大正辺りに来て中央市場とかの職にありつけて
狭くてもトタンとかバラック以上の家に住めれば有り難たい時代やな
同和問題と関係ない話になるな結局
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/08(木) 23:08:44.79 ID:CKrz7ojA0
伝法とかもガラ悪いで
西成区 港区 浪速区は人の住むとこやない
阪神の難波線?
あの各駅も濃い
>>190 伝法も広いからな。正蓮寺川沿いに団地群が連なってたな
今でも古ぼけた団地は残ってる。阪神の千鳥橋駅のホームから見えるだろ
>>191 難波線にそんな駅あるか?
千鳥橋駅から見える川沿い団地群くらいしか
福駅とか単なる工場街にしか見えない
でも1番濃いのは尼だろ色んな意味で
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/10(土) 07:19:15.12 ID:KeqfpPepO
福駅から43号線を越えた海側は朝鮮部落
水上生活者という単語を見て
泥の河にアパッチ(現某環状線高架下)を題材にした日本三文オペラ
この二つをメインで取り上げた「都市大阪 文学の風景」を思い出した。
かなりマイナーだがおすすめの一冊や。
難波線の話題ついでに言うけど。あそこの沿線を何度か利用した事がある
電車から見える風景もたいして香ばしくもない。でも淀川越えるとちょっと変わる
西淀はあまり知られてないが朝鮮初級学校があるんだよ
環境局の工場もあるし。佃に工場ばかりに囲まれた火葬場もある
尼崎の隣だけあるわなと思うわ
大阪に香ばしくない処など無い
元総理に痰壺と言われた町だけの事はある
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/11(日) 11:26:36.31 ID:nf5EjOMl0
西淀は鼻川だったかな
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/17(土) 13:23:53.22 ID:mja6kRBy0
大阪で無いというと熊取町 千早赤阪くらいか
奈良はどこにでもあるからな斑鳩にはないという説もあるけども どんかな
まあ日本一下品で民度が低いことは確かだと思う
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/18(日) 10:41:10.72 ID:E3n773nm0
千早赤阪にもあるんじゃないか?
バス停(金剛バス)のところに「聖教新聞」が置いてあり、ご自由にお持ち下さい、とあるし。
・・・・それ以上はいわんが、村長さんは大丈夫か?
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/19(月) 19:15:30.07 ID:nP/TK/jV0
花川は違うんやで 大阪春秋のバックナンバー参照
ネットにつられずに古典を読まなあかんで
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/07(土) 06:37:39.63 ID:ZDA6kEjI0
取石2丁目のすぐ近く
大阪府泉北郡鳳町新在家部落經濟事情調査
近畿六府縣聯絡經濟委員會 [編]
近畿六府縣聯絡經濟委員會 1938 近郊農村經濟事情調査 第2輯
所蔵館2館
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/07(土) 06:41:34.48 ID:ZDA6kEjI0
国道26号の西側から東側へ引っ越すだけで村を出たなどと珍しがられた
そうだ。
結婚差別もあったと聞く。
古い池が埋め立てられた 新公園 周辺
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/08(日) 14:00:48.18 ID:EPhJFlQP0
夙はたしかにほかの村とは結婚はあまりなかったと聞いている
「縁づきがなかった」という表現で、よく検証されているね
夙は百姓身分だから結婚は自由でしょ
遠方の村と通婚してたんじゃないの?
>>203の「ほかの村とは」は「素人村とは」の意味だろ
夙は夙同士でというのが基本
206 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/16(月) 23:31:05.98 ID:73CG5vBR0
>>201 中身を閲覧するのは、可能なのでしょうか
あと、新在家と取石ではあまりに離れすぎていますが、本当に記載があるのでしょうか
>>202 国道26号線の西で古い池が埋め立てられたってことは
加茂公園のことでしょうか?
加茂は、被差別地域であったとは、今手元に資料がないので言い切れませんが、
確かにあのあたりであれば差別はあると思います
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/16(月) 23:45:09.53 ID:GW1ZV6ud0
結婚差別は酷いよねー
カワタ身分て、武士に近いからね。
夙は百姓身分だよ。
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/17(火) 12:40:36.77 ID:CTbualMn0
>>209 いくら百姓身分となっていたとはいえ、やはり、何らかの区別はつけられていたようです。
現に、近所で「夙村」というと「ああ、あそことあそこやな。あんまりええところとちゃうさかいに近づきなや」
などと言われたことがあります。
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/17(火) 15:18:52.51 ID:v/y3DBWq0
夙は百姓身分って言う表現自体がおかしいだろ。
非人は百姓身分だって言いたいのか?
もしそうであるなら間違い。 非人は非人、百姓身分ではない。
夙が非人だったのは中世までで江戸時代の身分制度では百姓身分(平民)。
清水坂の犬神人も江戸時代には町人身分になってて身分制度上では平民扱い。
ただ脱賤化したとは言え周囲から結婚差別など何らかの差別を受けてただろうことは間違いない。
陰陽師も身分制度では百姓身分となったが周囲の百姓から差別を受けてたと聞く。
これは身分制度による差別ではないから穢多非人より差別は緩かったと思うが。
陰陽師の持つ天文の知識は、百姓からしたら畏怖だったでしょう。
彼らの売る暦が農作業の指針だったのだから。
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/18(水) 00:25:22.80 ID:+R7gZLbL0
江戸時代はともかく、今ではもう夙村も穢多非人村もほとんど一括して「被差別部落」と称しているんじゃないでしょうか。
しかし、陰陽師というのはいろいろあるようですね。
近所でかつて陰陽師であった家の御当主は、常に袴を着けて毅然としていたと聞いております。
どこの陰陽師も、普段は農業やってたんでしょうか。
京都女子大学文学部史学科准教授 梅田千尋
山城国綴喜郡北谷村の歴代組陰陽師村を取り上げ、この村の陰陽師たちは、中世の荘園(朱智庄)を母体とし、
近世に入ると、領主からは百姓身分として把握されたが、近世に至ってなお神事や首座を介して結ばれていた
普賢寺郷という郷村において、「キヨメ」的役割を坦い、差別の対象となった村の内の一つである。
また、本村に従属する枝郷として位置付けられた北谷ではあるが、村の経済状況を示す石高分析からは、
陰陽師である西尾家の本村を凌ぐ富の集積が明らかとなり、同氏が枝郷庄屋であった事実とともに、
本村─枝郷という序列が、陰陽師村に対する決定的な支配となりえない側面を指摘した。
いっぽう本所土御門家が認可した北谷陰陽師への名字帯刀が本村の訴えで否定されたように、
土御門家の支配も地域社会を規定するほどの影響を持ち得なかったこと、比較的古くから土御門家の配下で
あった北谷の陰陽師は、近世後期、組頭の西尾氏が陰陽師組織の重職に就くなど、土御門家との関係を
いっそう強めていったこと、また婚姻関係で結ばれた「仲間村」が、寛政年間以降、貢納金の徴収単位として
組織されたこと、従来の研究で土御門家主宰の宮廷陰陽道に参加する特権を持った陰陽師を「歴代組」と
呼んできたが、その公認は嘉永期に寺社奉行によってなされたこと、を明らかにした。
さらに政治的賤民ではなかった陰陽師への賤視は、職能による蔑視というよりは、種姓的な「筋目」=血筋
そのものへの忌避として周囲の百姓に意識され、それゆえに「ケガレ」観に基づく習俗的差別の対象となっていた
こと、こうした状況に対し陰陽師たちは土御門家の権威を利用することによって賤視からの脱却を図ったと論じる。
近世京都の陰陽師について
http://blhrri.org/kenkyu/bukai/rekishi/rekishi/rekishi_0029.html 最後に京都周辺の在地の陰陽師(歴代組)について考察する。
天和時代(1681〜1684)には、土御門家に仕えて祭祀の「具官」をしていて、
仲間組(摂津・河内では枝郷化していた)間での通婚が行われていたことがわかっている。
時代が降って寛延時代(1748〜1750)には摂津で、梓神子との縁組、人別帳の肩書などをめぐって各地で争論がおこった。
さらに嘉永六年(1853)には寺社奉行所が歴代組陰陽師の身分の帰属を調査したり、
次の安政年間には歴代組の帯刀や絵符提灯使用をめぐって争論がおこり、地域との対立が生じたところもある。
カワタの百姓監視は公然のもので、百姓を圧迫していたことは想像できる。
だからこそ、松方デフレで困窮したカワタを差別し始めたものだろう。
陰陽師村って、街並に何か特徴ありますか、黒塗りの壁の家が多い程度で他とあまり変わらないと思うのですが
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/18(水) 06:47:08.14 ID:QuLrS9nV0
政治的には百姓身分でも
社会的には差別されていたのはまちがいない
摂津の鳥飼野々みたいに指定されていたところもあるんだからね
今でもハーモニカ長屋風の建物があるけど
あれなんか昔の改良の名残やろ
平安時代は公職だろ?
味噌と糞をごっちゃにするアホ
基本的な知識が足りてない
額田の鎮宅霊符社
http://blogs.yahoo.co.jp/bao1gua4/45868242.html 土御門家(安倍家)は応仁の乱の戦火を逃れ、一時期領地であった福井の名田庄へ移り住んでいたのですが、
三十一代目当主土御門久脩の京都還住の折、摂津、河内、山城などの陰陽師たちがこれを補佐しました。
彼らのように古くから土御門家に師事し、その門下にあって祭儀の折には「具官」として奉仕した陰陽師たちを「歴代組」と言うのですが、
現在でもその末裔の人々によって守り継がれているのが、この額田の鎮宅霊符神社なのです。
詳しい来歴は定かではありませんが、伝承では応仁の乱頃の勧請、ということになっています。
明治に入り陰陽道が禁止された際、土御門家は暦の技術と権利を政府に委譲し、引き換えに金五百円と子爵の位を得ました。
しかし、土御門配下の陰陽師達の殆どはこの時、何の対応もなされませんでした。
そこで歴代組の人々は秩禄でも給禄でもなく、ただ自分たちの名誉のために士族編入を願い出た請願書を幾度も提出し、
また土御門家の家司を中心に土御門神道の復興の為奔走したり、自分達の来歴を語る史料を収集・保存するなど種々の努力をなしたのですが、
中々思うようには進まなかったという苦しい歴史があります。
明治三三年(一九○○)、摂津と河内の旧歴代組一三ヵ村が士族編入の運動を起した。
願いは却下されたが、この事件は、その時点においてもなお旧歴代組は周辺の地域に違和感を抱き、
同時に彼らが他の一般農民とは違うという「選民」意識を持っていたことをうかがわせる。
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/18(水) 17:40:41.57 ID:TkiqD+160
>>222 日本共産党のアホ。
だから、やらしといたらええねん。
カラスをサギというような「教条主義」(狂情手技)のかっこうのサンプル!
>>223 このあたりの話が非常におもしろいというか矛盾を内包してるんだよな
夙系陰陽師系の村が領主とか幕府の出先機関に周囲の村からの卑賎視を
やめさせるべく訴える時には、政治的には賤民ではなく領主からは一般の百姓
と変わらず把握されているということを強調するんだが、一方では
土御門家や五条家の権威を利用したり、由緒話をでっちあげたりして
自分たちは高貴だというアピールもしてる。
それが一定の効果を発揮してて、俺は奈良だけど年寄りの中には
今でも夙を指して「あそこは下々とは違う筋目らしいで」とか言う人もいる。
>>215に書いてることも同様のことだろ。ところがその場合でも
敬して遠ざける的にやっぱり一般とは違う村という扱いを払拭できてない。
卑賎視はされなくとも差別は残るというね・・・戦略ミスじゃないのかなあ?
百姓に暦は作れん。
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/18(水) 21:30:43.83 ID:V1q3ZDLc0
夙はたしかに結婚は避けられていたな
いわゆるムラではないにせよ
「ややこしい所やけど大丈夫か?」と親戚に言われたりする
逆に夙とムラの通婚は結構あったと聞いた それもマレではあるが・・・
陰陽師とカワタは同格だからでしょ。
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/19(木) 02:03:16.48 ID:3Mac+4Ym0
角田美代子の事件が起こった尼崎市のJR立花駅近くの深江医院の医院長の深江卓司です。
今年も患者の病名を喋り捲って、お騒がせをしますが、宜しくお願いします。
また、在日の患者を「半島の人」と吹聴しまくって、深江医院の近くの同和地区出身の
患者の事を「ETA」と吹聴しまくっていますが、御免なさいね。
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/19(木) 07:52:41.45 ID:I4cUVpDO0
結局モルモン教徒と同じで
キモイ風習を引きずった集団は差別されるんだよ
陰陽師と言っても夙と同一視されていた村もあるし
本当に由緒正しい土御門家(安倍家)かどうかも怪しい
青屋にしても陰陽師にしても関西以外では差別されてないからな
大陸遺伝子が濃厚な関西人が差別主義者なだけだろ
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/19(木) 23:31:58.84 ID:ZbkMe0Pi0
百何年前までは京都が首都だったから
蝦夷その他の人間が言うことには何の重みもない
滋賀の某青屋部落は近隣のカワタ系部落を差別しておった。
ちなみに青屋もカワタも同じ指定地区で同対がなされとる。
>>232 青屋をただの染物屋と思ってないか?
青屋は穢多から分化した集団だから、差別されてたのも理解できる
上の方のコピペにあった職能差別というより筋目の差別という例
陰陽師が関西以外で差別されてなかったのかどうかは知らんが・・・
こないだのファミリーヒストリーでテリー伊藤の先祖が陰陽師というの
やってたな。録画してまだ見てないけど。
まあ「陰陽師」と呼ばれてなくても、各地域で差別されてた民間宗教者は
いただろ。鉦叩き、鉢屋、ササラとか。地域地域で分化の態様が
違うだけで、本質的にはどこも変わらんよ。
関西だけどか言ってるのはアホだろ。
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/20(金) 08:29:44.19 ID:1eXgJEn50
青屋で思い出しました。
今やっているNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で、吉田寅次郎(松蔭)と一緒に「黒船」に
行った人、「金子」なんですが、ドラマ中でしていましたが家業が「青屋」でサムライ株買って侍に。
身分は最低だから、別の獄につながれて獄死。
(わざわざ、染色やってる現場まで放映していましたので、妙に不思議な感覚が残っています)。
青屋は三好氏が支配してた頃の阿波でも賤視されてたが江戸時代には賤民になってない。
幸徳秋水も陰陽師の家系らしいが地域の有力者で特に差別を受けてる印象はないな。
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/20(金) 11:46:14.82 ID:1eXgJEn50
それなら、
京都の、「西陣」は、どうですねん?
全部、(非公式だが)ブラクですがぁ〜
「私は、被差別部落に移住した韓人は、先住部落民の生業を模倣したという仮説を主張しています。
その大前提となるのは、田中部落の先住部落民の洛北友禅染め工業への就労実績です。」
ttp://ch.nicovideo. jp/masayukisatomura/blomaga/ar264747
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/20(金) 21:27:59.79 ID:IDsmZnUP0
カワタの世界の頂点に立つのはエルメス・シャネル
日本では芦原橋の太鼓正
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/21(土) 10:00:07.49 ID:408D3NXo0
ちなみに南海の水間鉄道の森〜三ツ松間も青屋だらけ
苗字はほとんどが南 奥野
例の取石2と加茂も青屋だらけ
全部夙
近所のもんはあそこはどエッタと言ってますが
青屋はカワタ身分と同様に牢番などに携わる制度的賤民身分で
夙は制度的には百姓身分だが周囲から差別されてた人たちだろ
「差別」とは違うね。
異能を避けるというか、畏怖の眼で見てたんだ。
低学歴の人が、高学歴の人との付き合いを避けるみたいなもんね。
徳島でも青屋は賤視の対象となっていたが近世に入ると賤民にもなってないし被差別部落にもなってない
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/22(日) 10:54:54.67 ID:w92MALNC0
もっこすという人は歴史をねじ曲げようとしている
エタが百姓より上だとか、夙や陰陽師が尊敬の目で見られていたとか
事実を捻じ曲げるということは差別よりも悪いことだよ
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/22(日) 11:19:11.49 ID:9qeDx7WG0
>>247 「もっこす」は、ずっと前からこの板に常駐。
バージョン(人間)は変転していますが、日本共産党の「民青」のひとです。
共産党の確立したイデオロギーに従って、(メシ喰うために)やっている、
ニッキョウのプロパガンダです。
放置しています、この板の住民は。
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/22(日) 14:37:39.24 ID:ODL1f0TV0
>>247 皮多が百姓より上だったのは事実。
もっとよく勉強してから発言しなさい。
Bじゃないのに超ガラが悪いってすごすぎ
岸和田とか泉州
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/22(日) 17:07:40.62 ID:w92MALNC0
士農工商えたひにんという身分制があったのを知らんのか
通婚も許されなかったんだぜ、おかしな髪型や身なりをさせられてたんだよ
何をアホなことを言ってるんだ
確かに犯罪者を捕獲したり牢番になったりという汚れ仕事は
あっただろうけども、それは同心とかの武士の命令でやらされてたんだろ
何バカなこと言ってんだ
http://existenz.seesaa.net/article/310455536.html 穢多・非人身分と「目明し」役や行刑役の関わりは地域によっての「相違」は大きいが,
「非人番」も含め,武士の下働きとしての役目であったと思う。
「下働き」を職務からとらえるか,身分制度下の職制としてとらえるかで実態の解釈も異なってくると考える。
また,平人身分の人々が穢多・非人身分の人々をどのように見ていたのか,接していたのか,
それが明らかになることによって江戸時代の身分制社会の実相も明らかになる。
長崎人権研究所の阿南氏から,「穢多」身分・「非人」身分ともに「胡乱者」対策(市中見廻り)に従事していること,
キリシタン迫害期に「かわた」(皮屋)が,処刑等の手伝いを命じられていること(但し,彼らの本業は履き物づくり),
浦上四番崩れの際に皮屋町(穢多身分)住民が潜伏キリシタンの捕縛にあたっていることなどを教示してもらった。
どちらにせよ,彼らが主体となって「詮索」「捕縛」「行刑」「牢番」を行っているのではない。
「役目」として命じられ,与力や同心の指揮命令下で行っている。
単純に,これらの「役目」と現在の警察機構(警察業務)とを同じと考えるのは早計であると思う。
体制や機構,給金体系など,社会制度や社会意識がちがう。
総合的に考察する必要があると考えている。
「衣服統制」や「身分札掲示」は,黒川みどり氏の言う「徴」としてとらえることができる。
つまり,本人以外の者(立場)から本人が望まない(むしろ嫌がる・拒否する)「目印」を強要されることである。
この「目印」は一見して穢多・非人身分と識別できるものであり,他身分には強制されない。
寛政七(1795)年の長崎(対馬藩)の史料では,穢多である札を帯に付けさせ,
さらに編笠も末々の者と紛れぬように「手安き仕形」で素人の目に付くように印を付けるように命じられている。
「札」や「半襟」などが「目明し」としての印(警察手帳や階級章)という考えもあるだろうが,
そうであれば,なぜ「御用」の際には付けなくてもよいとか懐中に入れておいても構わないと申し渡すのだろうか。
捜査の支障になるからが理由であれば,「目明し」としての印ではないことになる。
つまり,「衣服統制」は穢多・非人身分の「役目」上の規制・命令ではなく,
身分制社会を維持していくために身分の明確化を明示する目的で出されたのである。
差別とは,本人の意図しない「分け隔て」である。
身分制社会であっても,身分による分け隔ては「差別」である。
穢多・非人身分が百姓・町人よりも厳しい統制を受けたのは,彼らが「目明し」役に従事していたからではなく,
平人身分と交わり混同していくことで身分の差異が「紛らわしい」状態になることを身分制社会の崩壊につながると危惧したからである。
「衣服統制」は身分制社会の根幹である「身分相応」を守るために命じられたのだ。
京都産業大学文化学部教授 灘本昌久
江戸時代の半ばから、穢多村の経済は急激に成長し、人口も増大する。
京都近辺の11カ村の合計でみても、1715年(正徳5)に386戸2,064人であったものが、1870年(明治3)にはおよそ2倍強に増加する。
その原動力の最大のものが、雪踏を中心とする履物業の興隆である。
竹皮の裏に牛馬の皮を張って補強した履物である雪踏は、元来身分の高い人の履物であったが、
商品経済の発展とともに台頭してきた町人階級の間で流行しはじめる。
そして、年老いて死んだ牛馬の独占的取得権=斃牛馬処理権=当時の名称で「草場」を身分固有の権利として持つ穢多村は、
戦国大名に軍事物資として皮革を供給していた時代以来の、新たな皮革の需要と皮革関連製造業の発展にわいた。
この経済成長は、1881年(明治14)に西南戦争以来の不換紙幣の増発によるインフレ退治のため行われた松方デフレ政策による、
部落産業の崩壊までつづく。
そして、幕府や各藩が町人と穢多身分の成長を座視できなくなって、身分統制に動くのも江戸後期である。
身分制度が揺らぎ始めた、象徴的な事件が1777年(安永6)に起こった。武蔵国榛沢郡新戒村より、地元の穢多身分の者が、
医療技術にたけているので、平人に引き上げたいという申し出があったのである。
奉行所が、弾左衛門に問い合わせたところ、昔からの慣例を理由に引き上げは不可の回答をしたため、実現しなかったが、
身分を人為的に変更できるという考えが浮かんでくること自体が、時代の変化を感じさせる。
そして、危機感をもった幕府は、1778年(安永7)に有名な風俗取り締まり令を発する。
穢多非人が百姓のようなファッションでレジャーやショッピングに出歩くのはけしからんというお達しで、
幕府が賤民身分に関連して意思表明した最初の法令とされる。
これに引き続いて、各藩で風俗取り締まりが強化される。ただ、従来、こうした風俗取り締まりの解釈として、
幕藩体制が動揺してきて百姓への搾取が強化され、その矛盾のはけ口として穢多身分を統制したとする議論が多かったが、疑問である。
幕府や藩は、昔どおりの秩序を維持しようとしただけで、特別穢多身分を圧迫しようとしたわけではない。
風俗取締り事件として有名な岡山の「渋染め一揆」(1856年)にしても、渋染め・藍染めの色を強制したのは、「おとしめる色」ではなく、
百姓町人並みの服装を要求したに過ぎないという説もあり、傾聴に値する(住本健次「渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か」)。
しかし、こうした圧迫にもかかわらず、穢多村の発展は続く。農業への進出は、持続的に続いたため、
丹波地方などで一般の百姓との入会山の用益権をめぐっての争いが頻発した。
また、部落寺院への本願寺の取り扱いも、変化した。形式上、一般村のようには部落寺院を正式の寺としては認めなかったが、
正式の寺格を持つ寺院にのみ認めていた色衣や袈裟を穢多村の自坊でのみではあるが許可するようになった(ただし、料金は5割増しなどの高額)。
この他、1812年(文化9)には天部村から伊勢参りツアーにでかけた21人の一行が、旅から帰った後になって、旅行の事実が発覚し、
泊めた宿の主人と参加者が咎めを受けるという事件が起きている。
風俗の取り締まりを受けながらも、「わかっちゃいるけど、やめられない♪♪」というわけである。
こうして、穢多村は江戸時代を通じて、特に後半には一般の百姓を凌ぐ力を蓄えながら、明治維新という革命を迎えた。(完)
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/22(日) 18:36:00.03 ID:7Pyk7McO0
>>252-255 いちど、塚田孝著「大坂の非人ー乞食・四天王寺・転びキリシタン」(ちくま新書、2013.10)
をお読み下さい。
地域によって、相異します。
弾左衛門支配とは異なる態様が、いろいろとあります。
京都産業大学文化学部教授 灘本昌久
政治利用論
能のことは、まだ目をつぶるとして、江戸時代初頭の身分制の確立のところで、多くの教科書が、
「穢多・非人身分=分裂支配の道具論」を採用していることにはびっくりさせられる。
武士に向かう農民の不満を下に向けさせるという論理なのだが、江戸時代の幕藩体制の成立と身分制の確立を罪悪視するところからくる誤解だろう。
もうすこし、戦国の動乱を終わらせ、二百数十年の平和と安定をもたらした江戸時代、そしてその基礎をなした身分制を積極的に評価するべきである。
下剋上を終わらせた(下剋上自体は、農民の上にのしかかっていた重層的な所領関係を一掃し、
領主―領民のシンプルな関係にした点でプラスであるが)ことは、多くの庶民にとっても福音であったはずで、
であればこそ、江戸時代にあれだけの経済・教育・文化などさまざまな面での素晴らしい発展があったのである
(梅棹忠夫『日本とは何か―近代日本文明の形成と発展』日本放送出版協会,1986年)。
江戸時代の初めに、身分制度の確立のため締め付けられたのは、第一には諸大名であったし、武士も身分制度の枠をがっちりとはめられた。
マルクス主義的な階級闘争史観を克服するためにという触れ込みで編纂されたはずの扶桑社版の教科書までが
「百姓や町人に自分たちとは別の恵まれない者がいると思わせ、不満をそらせることになったといわれる」という具合に、
ばりばりの「政治支配の道具論」を採用していることには苦笑させられる。
こうした誤解と連動して、江戸の後半に起こってくる穢多身分に対する風俗統制にも大きな誤解がある。
多くの教科書が「長年差別に苦しんできた穢多身分の人々が、江戸の終わりころについに立ち上がった」、
あるいは、「財政難に陥った藩が、倹約を命じ、穢多身分の風俗を統制した」という趣旨のことを書いているが、
むしろ、江戸時代の平和と安定の中で、商品経済が発展し、町人向けの履物製造業が繁盛するなどの追い風を受けた穢多身分が、
百姓身分を凌駕するまでに成長してきたので、旧体制である幕府や藩は、古い殻に閉じ込めようとして、風俗統制を強化したのである。
穢多身分の経済発展と人口の増加があれほどでなければ、風俗統制のために必死になる必要はなかった。
ありがとう。
教科書が替わった学会的背景ですね。
続けてください。
>>251 それは、儒教での言い回しで日本では違います。
武士の下にカワタ、そして庶民ですね。
これが、今どきの歴史学会の常識です。
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/23(月) 01:19:10.09 ID:57hSBoGN0
>>259 学術的にそうであったとしても、やはり、庄屋や名田主などの本百姓よりも下という
風に受け取られてしまう言い方に問題があると思います。
武士の下働きと本百姓に上下差をつけるのはおかしな話であると思います。
そして、いくら学術的にそうあったとしても世間一般との差が大きすぎて、
信ずるに値しないことであるのは確かではないかと思いますがいかがですか。
>>260 侍と共に転戦してきた人たちと、百姓を一緒くたにしないでください。
学術的にもそうじゃないし
うん。学術的だの学会の常識だのいうくせにいっこうに具体的な事をいわない
もっこすがよく引き合いに出す塚田先生もそんな事は言ってないぞw
カワタが庶民より上なら、弾左衛門が身分を引き上げられて「平人」に
なったことはどう解釈するのさ?
カワタ村に枝郷が多かったことは?
身分が上だったのに本村の百姓に支配されてたの?
美作血税一揆で「旧穢多」が襲撃側に差し入れたわび状は?
「御百姓様」と書いてあるが?
全部説明してみろよ
馬鹿相手に下手に出るのは常道で御座いますだ。
お百姓様。(^O^)
また茶化して終わりだw
あんたは細部を疎かにしすぎなんだよ
細かいとこをいちいち見ていけばカワタが庶民より身分が上なんて
絶対言えないはずなんだよ
むしろ、武士と百姓に違いなんて無い
惣領と庶子の違い程度にすぎない
どの身分からも一番遠いのが穢多だ
百姓と武士の関係がどんなものであったか歴史資料に書いてあるでしょ?
読んでないの?
対等とでも勘違いしてない?
支配者が武士なの。
>>267 勉強して下さいとしか言いようがないな
中学からやり直せ
269 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2015/02/23(月) 17:18:38.72 ID:hTF9lGTe0
君らじゃ、教科書の書き換えということが理解できないんだね。
所詮、市井の人。
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/24(火) 01:36:24.62 ID:vh4hoZwt0
>>269 なぜそこまで被差別部落に対して肩入れするのか理解ができない
いや、決して「差別するべきだ」とかいうわけではないけれども、
そんな言い方していてはまるで「私はそういうところの生まれなのです。自分たちはそうじゃないんです」とでも言いたいかのように思われますよ
まあ、よくよく考えたら僕の今の発言も問題なのですが・・・・
兎にも角にも、経済的に裕福であったから、庶民よりも上はおかしいですね
「かわた」が「かわた」である由縁は、その仕事にありましょう
そういう獣を扱うのは、社会の常識として、やはり卑しいことなのです
髭の意休の扱いを見れば穢多が庶民からどう思われていたか分かるだろうに
生粋の貧乏人は伝芸や古典に疎いね
273 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2015/02/24(火) 03:05:49.18 ID:mbqgG4Hc0
>>271 被害も受けたが、調べていくうちに水平社結成にあたしの一族からも参加している。
その功績で少人数の熊本から解同中央委員を出すことになっている。
あたしの系統は足軽に潜り込んだ家系だ。
島原の乱の戦死者を補充するとき、足軽やカワタに潜り込んだらしい。
元々、有田陶工だが、朝鮮人陶工に追い出された。
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/24(火) 08:39:57.91 ID:R8jhJsMp0
「あのカラスは、白い」っと、
北朝鮮なり、中国共産党が定義・規定してしまえば、
党員は、カラスは黒い とは決して言えない。
というか、殺されるか、監獄にぶち込まれるか、飯が食えなくなるか、
そーいうことなんです。
完璧な、無駄、論争は。
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/24(火) 11:13:29.69 ID:kkgtn8y60
>>273 なるほど、それは色々と苦労なさったことでしょう
残念ながら、今の世では四民の下の・・・いや、四民の外の人たちが差別を受けるというのは
江戸時代の社会構造上やむなかったことであり、それは事実です
色々厳しいことを我々は言うかも知れませんが、これが世間一般でのそういった身分の人たちへの反応です。
このスレにいらっしゃる以上覚悟はしておいでだと思いますが・・・
277 :
もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q :2015/02/27(金) 03:00:58.14 ID:m9CnczKK0
>>275 先祖は、その後細川家に仕官して武士になっています。
その他の一族も城下で生き延びたようです。
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/27(金) 18:03:40.93 ID:KHusyOOk0
>>171 奈良市内在住でたまに出かける者の印象として香芝は田舎のヤンキーや出稼ぎ外国人労働者、斑鳩は古都の観光地にいるようないけずで閉鎖的な人がいるような感じたが、住民目線ではどう?
市内より環境良いなら引っ越したい、、、
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/27(金) 23:22:08.14 ID:QqJcYjhs0
香芝は地元の平和なおっさん(畑を耕す)とその息子たちのたくましいヤンキー、
それと奈良府民で五位堂から通勤する「ニューファミリー」が
いますね
>>279 ありがとうございます。
農家のヤンキーは無害かな?
となるとJR五位堂・香芝駅あたりの利用者はヤンキー率が高いんですか?