1 :
没個性化されたレス↓:
そのあたりの発生らへんを詳しく
進化論をふまえると「コピー」という概念は極めて普遍的なものだな。
DNAのコピー圧力がここまで複雑な生物を構築してきた。
極端な話、原子のレベルから交換やコピーの概念って続いてるから
この世界にオリジナルのものって無いんだよね。
これらのコピー圧力から逃げることはできん。
自我とて同じだ。
3 :
没個性化されたレス↓:2006/08/09(水) 13:31:16
食用のバナナは種がないので枝を土に植えて殖やす。
つまり、その種類のバナナは遺伝子がみんな同じ。
これによる欠点は、この遺伝子で対抗できない病気が
流行ると全滅する点だ。
4 :
没個性化されたレス↓:2006/08/09(水) 14:18:44
遺伝子は別に病気に対抗するわけじゃないよ。
偶然かかりやすい遺伝子とかかりにくい遺伝子があるだけ。
遺伝子と環境との関係は確率の問題。目的論みたいのを
混ぜ込んじゃってる時点で失格。
6 :
没個性化されたレス↓:2006/08/09(水) 23:17:39
自我をコピーするという事は他者の内部にある文化をコピーするという事ではないでしょうか。
遺伝子などのレベルのコピーとはあまり関係ないと思います。
7 :
没個性化されたレス↓:2006/08/09(水) 23:28:06
狼少女になるくらいだからなあ。。
ロボをコピーするとドナになるようなもんだ
つまり親が変な奴だと子供も変な奴になる
10 :
没個性化されたレス↓:2006/08/10(木) 12:25:52
>>9 子どもは世代を経るにつれ確実にだんだん変じゃなくなる
回帰という現象について大学で習わなかった?
回帰により進化は止まる。まことに複雑怪奇なり。
12 :
没個性化されたレス↓:2006/08/10(木) 12:55:26
止まらないよ。
まず教科書を読め。
13 :
没個性化されたレス↓:2006/08/10(木) 13:26:00
自我は他者の自我のコピーです。
いろいろな他者のいろいろなコピーの集積が私の自我です。
では、どういう場合に他者の自我をコピーするのでしょうか?
誰の自我をコピーするのでしょうか?
14 :
没個性化されたレス↓:2006/08/10(木) 13:34:12
コピーするのはキャノンが良いですか・・・?
それともエプソン・・・リコー・・・?
15 :
没個性化されたレス↓:2006/08/10(木) 14:48:26
ゼロックス
つまり俺に責任はない。俺が変なのは親が変な奴だったからで子供は親を選べないので俺は悪くない。
>>16 責任はあります。親が変だからと言ってすべてが免責される訳ではないでしょう。
同情に値するケースもありますが、責任は責任でしょう。
18 :
没個性化されたレス↓:2006/08/12(土) 11:44:33
>>13 一つは、攻撃された場合ですね。
攻撃と言っても物理的な攻撃というより精神的な攻撃です。
もちろん精神的な攻撃に物理的なモノが伴っていても構いませんが・・・。
攻撃が自我に響けば、それは自我のコピーに結びつきます。
教育やしつけはこのメカニズムを利用して行われています。
教育やしつけの際に子供を叱るのは、「叱る」という攻撃を契機として
子供に何かが伝わるからです。何かを伝えるために叱るのです。
ですから、子供を叱らない教育は子供をなかなか成長させられないでしょう。
問題は叱る叱らないではなく一貫性があるかないか。
>>19 親の自我に一貫性がなくても子供はその自我をコピーすると思いますが・・・。
ある他者の自我をコピーするためにはその他者と何らかの形で人間関係を持たなければ
ならないと思いますがどうでしょうか。
まったく人間関係を持たない他者の自我をコピーするというのは考えにくいですよね。
自我に一貫性があるかないかよりその他者とどういう関係を結んだかの方が
意味があるのではないでしょうか。
自我は自分より安定しているように見える自我をコピーしますよね。
誰かをモデルとした自我のコピーですね。
自我は他者の自我のコピーです。あちこちでいろんな人の自我のいろんな部分をコピーします。
ですからそうやって出来た自我には一貫性がありません。矛盾だらけになります。
自我が矛盾だらけでは行動できませんから、他者からコピーした自我の要素同士でできるだけ
一貫性を取れるように自我は調節します。その為には自我から排除しなければならない要素も
出て来るでしょう。そういう要素は自我から追い出してエスの落とす事になります。
そうやって自我の一貫性を保とうとします。
うるせーピーコ
24 :
没個性化されたレス↓:2006/10/26(木) 22:21:30
だまりなさいおすぎ
_,,t-‐‐-、,-‐‐-、
三'::::::............... .....::::::`y,.
ナ::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::ヾ
| ̄| V::::::::::::::::_{{ ({∫∬ノノjヾ:::::{
| ̄| | ̄| ナ::::::::::::::i`__,,,,,,,ァ_ _,,,,,_ t;;:ヌ
| | | | イヘ::::::(ヾ~!,ャt、 !'''i ィtン )=f }f バカが集まったな
| | | | i {t)テ" ヘ' '___,イ ヽ_/ 介'
| | | | _,rヘ_,j|!' /ー--''! |'
|,.ィ―'''' ̄ /| | /二ク !
/;;:::'';;::''::;;:/ { ! 、 ヾニン ノ\
/'''::::;r|''':::;;;| | ! \ _,,./|::;;'''\
/:;;/ |;;;''::;;| 丶\ `__>-ー´ !;;;:'''::iヽ、
i/ |'::;;;;''| 三 ―''" !''::;;;;| /ヽ
/⌒ヽ |;;''':::;| \ !;;::''|/ i
/ \{'';;;::''}  ̄二ニ= !::;;| |
/ヘ |;;:::::;{ ‐- !/ |
/ i |:::;;;''! ー ! / |
/ l |;;'';イ } {、
〉、 ∧テ{ ヽ _ _,,,,;;;;;:::-==ニ;;;_ ノ __,イ´
/ \_ //レ!  ̄  ̄ { ̄ |
>>20 しかし、自我というモノはある程度一貫性のあるものだと思いますね。
自我に一貫性がなければ自我としての役に立ちませんから。
行動に一貫性がなくなり、行動がバラバラになってしまいますから。
>>1 人間の自我がどのように発生したかは分かりませんが、個人の自我は
まずその親の自我をコピーして、その基盤の上に次々と他者の自我のコピーを
積み重ねていってできているものでしょう。
>>18 近頃は子どもを叱らない親がいるそうですが、
そんな事をすれば、子供の自我は育たず、とんでもない人間になってしまうでしょう。
自我は他者のコピーの集大成。
自我は安定している他者をコピーする。
他者の振るまいが精神に響くことによって自我が変わる。
自我は自我を調節する(一貫性を持たせる)機能がある。
自我が一貫していないと行動できない。
責任は責任で、悪い振る舞いは、あなたの責任。
要約
自我は他者のコピーの集大成である。
自我はただ受身的に他者をコピーするのではなく、
安定している他者を見つけそれを優先的にコピーする。
また、他者によって自我が変わる場合は
他者の振るまいが“精神に響く”ことが起きなくてはならない。
他者のコピーである自我は、そのままでは一貫性がない。
一貫性がなければ、行動できないが
自我には、一貫性を生み出すための調節機能がある。
面白いのだが腑に落ちない部分がたくさんある。
質問
1.自我はどこにあるのか。
2.自我を調節する自我の機能は生得か、他者によって作られるのか、両方か。
3.自我の変化は精神(の響き)を通して行われるが、その精神とは何処にあるのか。
4.自我を左右する精神はどうやって作られるのか。
5.精神を作るそれはどうやって生み出されるのか。
6.安定した他者を見つける自我の機能は、どのようなシステムで成り立っているのか。
7.そのシステムを動かす者は何か。
30 :
13:2006/11/24(金) 23:48:01
>>29 >>29 >1.自我はどこにあるのか。
どこにあるのでしょうか?
そういう事をあまり考えたことがないのでよく分かりませんが、
脳のどこかの領域を占めているというようなモンじゃあないでしょうね。
自我は幻想(=観念)ですからねえ。実体がある訳ではないと思います。
私の抱く観念の中に私の「自我」も私の外部の「世界」も含まれています。
あらゆるモノが私の内部に観念として存在しています。私の内部にすべてがあります。
自我はそのすべての幻想の一部分です。
32 :
13:2006/11/25(土) 00:20:14
>>29 > 2.自我を調節する自我の機能は生得か、他者によって作られるのか、両方か。
自我を調節する機能とはどういう機能のことを指しているのでしょうか?
自我の一貫性を維持しようとする機能のことでしょうか?
自我の一貫性の邪魔になる要素をエスへと追いやって抑圧し自我の形を維持しようとする機能
のことですか?
もしそれだとして、どういう力が働いて自我の形を維持しているのでしょうね。
一貫性を維持すると言えば聞こえはいいですが、要は自分の見たくないモノは見ないようにしよう、
都合の悪いモノは見えない所に追いやっておこうという事ですが・・・。
自我がそのようにして諸々の観念の内容をチェックして取捨選択しているという事ですから、
生得的なモノとは考えにくいですね。自我のそういう機能も他者からコピーするんでしょうかねえ。
そのあたりは分かりませんねえ。
ただ、自我の形を維持しようとする原動力は生得的な何かのような気がします。
例えば、もし、動物に生きる事を目指す本能的なエネルギーのようなモノが存在するとすれば
そういうエネルギーに近いものが自我の一貫性を維持しようとする力になりそうな気はしますが・・・。
33 :
13:2006/11/25(土) 00:25:19
自我の機能は大きく分けて2つあるでしょうね。
1つは現実に適応する事で、もう1つは自尊心を守って自我の一貫性を保つ事だと思いますね。
この2つの機能はしばしば矛盾するので自我はその対処にその都度苦慮する事になります。
>>29 > 3.自我の変化は精神(の響き)を通して行われるが、その精神とは何処にあるのか。
これは「心はどこにあるのか。」というのと同じ質問ですよね。
人間の精神全体、パーソナリティー全体は、生まれてから現在までのすべての記憶によって
構成されている1つの記憶体系だと考えられます。
その記憶体系の一部分が自我として現実に向き合っていて、
その他の大きな部分がエスとして現実から遮断された状態で存在するという事ではないでしょうか。
>>29 > 4.自我を左右する精神はどうやって作られるのか。
生まれてから現在までのすべての記憶が精神を形作っているのだと思います。
>>29 > 5.精神を作るそれはどうやって生み出されるのか。
「それ」が何を指しているのかよく分かりません。
自我のコピーには攻撃者との同一視と言うメカニズムが働いていると言われています。
>>29 1.自我はどこにあるのか。
自我は自分と相手との人間関係の中に存在します。
自我が他者の自我のコピーであるという事は、欲望が他者の欲望のコピーであるという事と
同じ事なのかな。
40 :
没個性化されたレス↓:2007/06/10(日) 22:19:06
それはなんかおかしいぞwwじゃあ最初の自我はだれの自我のコピーなんだ?ww
仏の話みたいだなww
41 :
没個性化されたレス↓:2007/06/10(日) 22:23:25
・
自然界の模写です
都道府県ひとつぐらい買えそうだな
なめるなよ
45 :
没個性化されたレス↓:2007/06/21(木) 04:17:59
フリーメーソンであるユダヤ人フロイトは、積年のライバルであるクリスチヤンの欧米人を心理的に支配するために 十字架の縦横の象徴を、心理に適用しスーパーエゴ(神、先祖の教え)、エゴ(自身の存在)、イド(自身の主観的客体の立場)とリビドー(各人の欲求や欲求的妄想)の4つに分断した 。
ちょっとまて。他者の自我ってなんだ?関係性か?
性格みたいなことを指していってるのか?
47 :
没個性化されたレス↓:2007/07/06(金) 00:01:00
自意識イドと心的願望リビドーは、同レベルで横軸、自我エゴと超自我スーパーエゴは同レベルで縦軸にあり、各点の結ぶ四角形の評価で総合判断される。
49 :
没個性化されたレス↓:2007/07/08(日) 14:34:37
イドとリビドの本質の違いは?
50 :
没個性化されたレス↓:2007/10/16(火) 00:24:28
まさにコピー
>>49 リビドーは衝動のエネルギーのようなモノでしょう。
イドは、その貯蔵庫でしょう。
自我は他者の自我のコピーって
ま、これってラカンとその信者がほざいてる虚妄だけど、
発達に関する研究が進んだ現在では全く意味ないね。
まあラカンを読み解く作業をこちこち頑張って下さい。
53 :
没個性化されたレス↓:2007/11/16(金) 19:56:45
赤ん坊は、まっさらの状態で生まれてきて、
いろんな情報を集めながら成長するが、
他者の自我がモザイク状に加わって成長しても、
不思議じゃない気がするが、どうなんでしょ、
偉い人、どぞ。
54 :
没個性化されたレス↓:2007/11/17(土) 10:17:04
人間は動物とは違って他者の欲望を欲望するってマジ?
しかし現代の人間は欲望の回路が閉じちゃってるってマジ?
それが今引きこもりが増えてる原因ってまじ?
心配することはありません。
戦時中は皆引きこもりでしたから。
>>53 偉く無いけどヒトの子供が「まっさらな状態」で生まれて来るというのは
間違いだという事は数々の研究が明らかにしている。
実際にはヒトには遺伝的にプログラムされた生得的行動がかなりあるということ。
自我が他者の自我のコピーに見えるというのは
遺伝的プログラムが似通っているという事でそうみえるだけでは。
>>54 というわけでラカン派は間違いなので
引きこもりの原因も他にあり。
>>55 ふーん戦時中の人は皆親に食わせてもらってたんだ。
57 :
没個性化されたレス↓:2007/11/17(土) 12:45:40
スレもろくに読まずにカキコすいません。
そもそも「自我」ってなんでしょうか?
自分なりの考えだと「自分が存在する」と認知できるモノ。
と考えています。
なにか考察があればお願いします。
58 :
没個性化されたレス↓:2007/11/17(土) 13:17:59
59 :
53:2007/11/17(土) 22:24:22
>>56 Thx, そうなのか、多分にそういう面はあるんだろうね
、心情的には生まれたときに自分の可能性が
限定的だとは思いたくないです、、。
この問題は哲学的なものと、心理学的なもの
そして物理的なものと別けて考えるべきでしょう。
ごちゃにすると意味が通じなくなる
61 :
没個性化されたレス↓:2007/11/24(土) 23:15:04
哲学的なもの→「自分が存在する」と認知できるモノ
心理学的な物→?
物理学的な物→?
わかんねーよー。誰かエロイ人考察頼む。
>>61 自分を中心としてそれ以外とそれを区別して感じる能力
特定の物の範囲と、それと因果関係が無いと思われる物との物質を別ける敷居
63 :
27:2007/12/16(日) 13:34:10
>>46 自我とは、当人が「これが私だ。」と思っているところのモノの全体かな。
「自分は男だ。」とか「自分は○○社の社員だ。」とかいった自己に対する認識も
自我の一部でしょう。性格についても、当人が自分はこういう性格だと思っている
モノがあれば、それも自我の要素になっていると言えるでしょう。
>>52 発達に関する研究が進んで、具体的にどういう事が分かったのですか?
「自我は他者の自我のコピーだ。」という主張を否定するようなどのような
研究結果があるのでしょうか?
>>56 >自我が他者の自我のコピーに見えるというのは
>遺伝的プログラムが似通っているという事でそうみえるだけでは。
自我は文化的な産物のように思えます。
文化は遺伝によるモノではないでしょうから、
「自我が他者のコピーに見えるだけで実は遺伝的プログラムによるモノだ。」
とはいえないような気がしますが・・・。
>>54 人間の欲望は他者の欲望のコピーです。
>現代の人間は欲望の回路が閉じちゃってるってマジ?
欲望の回路が閉じているとは具体的にどのような状態を指しているのでしょうか?
>>53 >赤ん坊は、まっさらの状態で生まれてきて、
>いろんな情報を集めながら成長するが、
>他者の自我がモザイク状に加わって成長しても、
>不思議じゃない気がするが、どうなんでしょ、
人間の赤ん坊は、文化的には「まっさらの状態」だと言ってもいいと思います。
そして、人間は他者との人間関係を通して、相手の自我をコピーするのだと
思います。
人間は常に精神の安定を目指していて、自分より安定している他者を見れば
その他者の自我をコピーしてより安定しようとするのではないかと思います。
68 :
没個性化されたレス↓:2007/12/17(月) 20:26:02
Thanks.よくぞいってくれた。
読んで安心する人、多いかと。
馬鹿が通れば道理が引っ込み
馬鹿安心。
精神分析では、個人は生まれた時、自分と他者、現実と空想の区別のない世界に住んでいて、
1年後ぐらいから、それらの区別がだんだんとつくようになり、自我が出来てくる・・・という事に
なっているそうです。
自我ができる時に最も影響を与えるのが、常に一番身近にいる母親です。赤ちゃんは母親の
自我をコピーします。もう少し詳しく言うと、母親が規定したイメージを個人が取り入れて、それ
が当人の現実我となります。また、母親を全能だと思い込んで(赤ちゃんから見れば母親は
全能に見える)、その全能な母親のイメージを取り入れて、それが当人の幻想我となります。
大雑把に言えば、幻想我=全知全能の自分、現実我=無知無能の自分。
そのうち、現実の世界でいろいろな経験(=挫折の経験)をしていく中で、幻想我の誇大妄想的
な部分が切り捨てられ(抑圧され)、また、現実我の方も現実的な能力を手に入れたために
無能な自分からある程度脱して、現実に適応する自我の大事な一部分に成長し、両者が手を
結んで、ある程度まとまりのある自我になっていくのだと思われます。
幻想我も自我の一部となって、自尊心を守るという役割を担い、
現実我も自我の一部となって、現実に適応するという役割を担うようになるのだと思われます。
>>70 精神分析はもう否定され忘れられた学問です。
(一部好事家によりほそぼそと続けられていますが)
よって精神分析の前提の立ついかなる議論も正しくありません。
偶然正しい事もあるかもしれませんが、
それ以上の意味はありません。
>>72 記述の恣意性と非再帰性
発達心理学の知見によるモデルの否定
認知心理学の知見によるモデルの否定
治験による医学的有効性の否定
意味で捕らえようとすることが、実に愚かな考えです。
>>73 自然科学ではないで済むじゃん。
そして、(マトモな)精神分析家は、精神分析を自然科学のように言わないものだ。
>>75 自然科学でない学問であっても理論と結果の整合性が求められるのは学問の宿命だ。
社会学然り、経済学然り、法学然り、哲学然り、文学然り、
フロイドの創始した精神分析は精神のある種の問題を治療するといいながらいまだに治験をパスしていない。
これは学問として理論と結果の整合性をクリアしていないという事だ。
まあ
>>75が精神分析は学問でないといいたいのであれば、
それは同意せざるを得ないが。
77 :
残酷校歌:2008/10/15(水) 21:00:21
心理学って自然科学ではなく人文科学だと括られることが多いのでしょうか。
人文科学=人間が作ったものの研究
自然科学=人間が発生する前からあったものの研究
・・・なのかな?最初聞いた時は意外だったんですが。
……(-_-) (_- ) (- ) ( ) ( ノ) ( ノ_) ( ノ_・ ) (ノ_・。) (ノ_<。)……
ところで、余談で申し訳ないんですが・・・
現在、地元で中高生中心に流行している噂話(通称「残酷校歌」)の
真偽及び噂の発信源を追及するという試みのブログをやっております。
考察してゆくにあたり、
●心理学的観点: (児童心理や情報伝播の心理について)
●民俗学・神話学的観点: (噂話・流言の発生、および流布の過程ついて)
●オカルト的観点: (内容や流行形態が似ている都市伝説の例)
の三つの観点を意識しています。興味のある方は覗いてみてください。
たまにそれぞれの分野で腕に覚えのある方がアドバイスをくれたりして、涙です。
ttp://zankokukouka.cocolog-nifty.com/blog/
78 :
没個性化されたレス↓:2008/11/11(火) 18:14:04
フロイドは人格を超自我、自我、エスの3層構造と捉えた。超自我は当人の
道徳規範であり、エスは当人の衝動や欲望であり、自我はそれらをとりまとめて
現実に対応する。しかし、現実に対応するためには道徳規範は必要不可欠であり、
道徳規範なしに現実に対応する事はあり得ない。すなわち、超自我と自我は
一体となって機能するのであり、両者を区別する事はできない。そういう訳で、
岸田秀は、人格を自我(フロイドの言う超自我も含めて)とエスの2層構造で捉えた。
全人格=自我+エス
この自我は、生まれてから現在までに関わりをもった他者の自我のコピーの集積だと
考えられます。
それは、右脳と左脳と脳幹の作用の事かな?
感覚支配脳と思考支配脳と生命支配脳の三つのせめぎあいで脳髄は成り立っているって話だね
80 :
没個性化されたレス↓:2008/11/12(水) 00:31:40
自我が他者との関係性や差異によるものだとしたら
言葉によって自我は生まれたって考えて良いの?
81 :
没個性化されたレス↓:2008/11/13(木) 18:56:51
age
82 :
没個性化されたレス↓:2008/11/15(土) 13:50:39
ぬ
精神科医が相手に会わずに薬を処方し、薬の副作用で福島母親の首切断事件
84 :
没個性化されたレス↓:2008/11/16(日) 18:33:37
>>80 人間は、「あっ、信号が赤になった。」とか「雨が降ってきたな。」とか、
状況を言葉で切り取って初めて「知覚」というか「認識」と言うかができる訳ですから、
そういう認識を元にしていろいろ考え自分の行動を決めるのが自我ですから、
やはり、言葉がなければ自我はなかったでしょうね。
>>84 というのが昔のラカン派のいいぶんでしたが
それでは現代の発達心理学で発見されている、
乳児の母親の顔の認識や物理法則の認識を説明できません。
乳児が母親の顔を選択的に認識することは
「母親」や「顔」という言葉を認識してその結果行動しているとは
考えにくいですね。
そういうわけで今はラカン派の言い分のほとんど、
「自我は他者の自我のコピー」は否定というか
ラカン派以外誰もマジメに検討しない概念になってしまいました。
現代では「自我は遺伝子のコピー」ではないのかというのが
積極的に検討されています。
86 :
没個性化されたレス↓:2008/11/29(土) 01:44:05
欲望は他社の欲望のコピー説はどうなったんですか?
87 :
没個性化されたレス↓:2008/12/26(金) 08:47:06
人は皆誰かをまねて生きているといいますよね。
>70
親や親に代わる保護者が許容量小さければ子供も自然とそうなってしまうわけでしょう。
子が親に似たくなければ子は親以外の誰かの自我を取り入れながら
自我を作りなおしてゆく必要があるわけですよね。
88 :
没個性化されたレス↓:2008/12/26(金) 13:22:38
知覚と認識は違うから。
89 :
没個性化されたレス↓:2008/12/27(土) 00:38:14
違うね確かに。
フロイドやラカン派は知覚したものを正しく認識できなかったわけだ。
>>87 >子が親に似たくなければ子は親以外の誰かの自我を取り入れながら
>自我を作りなおしてゆく必要があるわけですよね。
そうだと思います。
これは言うほど簡単な事ではありませんが・・・。
そういう必要を感じる事が非常に困難ですね。
普通は感じない・・・。
>>89 フロイドやラカン派の人々だけではなく、すべての人がそうです。
人間の特技は、知覚したモノを認識しないという事ですから。
知覚していてもそれを自我に含めない・・・あるいは、
それを見ないでエスに落としてしまう・・・という事が人間には可能です。
というより、すべての人間がそれをしています。
92 :
お前名無しだろ:2008/12/28(日) 22:56:01
93 :
おたく、名無しさん?:2008/12/28(日) 22:57:15
>>84 自分の心の中で「言語化できる部分」が「自我」で
「言語化できない部分」が「エス」という事になるのかな。
>>80 そうじゃないですか。
個人の精神の内で、言語化された部分が自我と言えるのでは・・・。
自我の大部分は無意識の領域だといわれますが・・・。
>>86 「欲望は他者の欲望のコピー」でいいと思いますね。
97 :
没個性化されたレス↓:2009/08/09(日) 18:46:14
>>86 >欲望は他「者」の欲望のコピー説はどうなったんですか?
その説は正しいですね。
98 :
預金残高1,200円:2009/08/09(日) 19:26:49
99 :
没個性化されたレス↓:2009/08/09(日) 20:36:52
コピー同士がなんでこんなに分かり会えないの?
教えて!ラカンな人
100 :
没個性化されたレス↓:2009/08/09(日) 23:08:57
まあ結論から言うとラカンが「欲望は他者の欲望のコピーである」と言ったわけです。
別に何の科学的根拠もない思いつきてですけど。
でも精神分析って師匠の言った事はオウムのアサハラなみに絶対真実なので
ラカン派の精神分析家は無批判にアホみたいに欲望は他者の欲望のコピーであると信じて
そんな事を言っておくと精神分析家という称号が貰えたわけです。
でも今ではそんなオウムの精神分析は取り残され現代の精神医学ではつかわれていません。
>1
の「自我は他者の自我のコピー」って誰が言ったか知りませんが、
「欲望は他者の欲望のコピー」のミスコピーなんじゃないですか。
101 :
没個性化されたレス↓:2009/08/09(日) 23:28:06
不細工な夫婦が仲を自慢してきたら嫉妬の演技をせよということである
102 :
没個性化されたレス↓:2009/08/10(月) 13:51:02
>>100 >「自我は他者の自我のコピー」って誰が言ったか知りませんが、
>「欲望は他者の欲望のコピー」のミスコピーなんじゃないですか。
私の自我は親や周囲の大人や友達などの自我のコピーの集積です。
考えればすぐ分ることですが、私の周りに「自我」を持っている人が
1人もいなければ、私は今のように「自我」を持つ事は不可能だったでしょう。
ははあ。
でコピー同士がなんでこんなに分かり会えず
殺しあったりするんですか?
自我コピーロボットなのはあんたんちの
異常家族だけではないという客観的証拠は
どこかにあるんですか?
104 :
没個性化されたレス↓:2009/08/11(火) 16:35:54
>>103 あなたの自我はどうやってできたの?
あなたの親や周りの人間が自我を持っていたからでしょ。
あなたは言葉をどうやって覚えたの?
あなたの親や周りの人間が誰も言葉を知らなければ
あなたが言葉を覚える事は出来なかったのでは。
自我のコピーが「異常」と決めつける理由が分かりませんね。
105 :
没個性化されたレス↓:2009/08/11(火) 16:44:45
それは言語をコピーしているだけでは。
言語をコピーしているだけで自我がまるまるコピーされるなんて
結論になる異常さは理解出来ませんね。
106 :
没個性化されたレス↓:2009/08/11(火) 22:48:33
>>105 言語を用いているのは自我です。
自我とは、個人の人格全体の内で言語化された部分だと思われます。
だから言語をコピーしているという事は自我をコピーしているという事に繋がります。
へーじゃあ物を食ったり歌を歌ったりスポーツしたり身体を動かすのは自我の働きじゃあないのかね。
言葉をしゃべれない人は自我がないのかね
あんまり笑わさないででくれよ。
>>107 >へーじゃあ物を食ったり歌を歌ったりスポーツしたり身体を動かすのは
>自我の働きじゃあないのかね。
言葉で語れるものは自我の働きだろう。身体言語とか言うし。
それらも言語的な思考がなければ認識できない。
>言葉をしゃべれない人は自我がないのかね
言語で思考していないなら自我は無いだろうね。
しゃべれないだけで、言語で思考できるなら自我はある。
109 :
没個性化されたレス↓:2009/08/12(水) 00:50:50
ふーん。まあじゃあ音楽の話からしようか。
音楽はほとんど言語化はできていない。
せいぜい楽譜程度なんだけど、演奏家によって驚くほど違うよね。
これは演奏家の自我の違いではないのかな。
こうした言語が個人の自我や社会の文化を規定してるって説は
ずいぶん昔に流行ったらしいけど
今は完膚無きまで論破されて消えたらしいね。
111 :
102:2009/08/12(水) 17:21:24
>>109 >これは演奏家の自我の違いではないのかな。
そうでしょう。でも、その演奏家にしても周囲に自我を持つ人がいなければ、その
ように自我を持つことはできなかったでしょう。その演奏家の自我は、その演奏家
の中から発生してきたものではないでしょう。その人の中に自我の種(たね)が
あって、植物に水をやれば芽が出るように、そのうち自我の「芽」が出てだんだん
自我に育っていく・・・というようなモノではないでしょう。
自我の要素はどれをとっても外の誰かの自我の要素のコピーである事は間違いない
と思います。
(私は、「個人が誰か他人の自我をまるまるコピーしてその人と同じような自我を持つ」
というような主張をしているのではありません。個人の自我は自分が出会ったいろいろな
人の自我のコピーの集積だと言っています。)
112 :
没個性化されたレス↓:2009/08/12(水) 21:25:51
>>110 人間の文化の根本は言語です。言語がなければ人間の文化も何も
なかったでしょう。言語はいわば一次的産物で、文化はその副産物とでも
言えるものでしょう。ですから、言語によって文化は規定されていると思わ
れますが、どのように「論破」されたのか教えていただけませんか。
>>111 ちょまてよお前はw
全くいい加減なやつだなあお前は。
一体誰のコピーなんだそのいい加減さはw
じゃあお前は自我には言語化不可能な部分があると言うことを認めたんだな。
>>106は論破され完全に否定されたと
>>111で書いたわけだ。
なんか百年くらい前の馬鹿に
家庭教師してる気分だ。
授業料いただきたいものだ。
根拠も示さずに、なにを偉そうに
116 :
没個性化されたレス↓:2009/08/13(木) 16:54:59
>>113 自我は言語化できる部分を中心として言語化できない部分も含んでいると考えられます。
それもコピーされると考えていますが・・・。
要するに、自我は他者の自我のコピーの集積だという事です。それには異論ありませんか。
>>106が否定されたので議論は
>>105に戻る。
言語をコピーしたところで自我はコピーされない
例えば甲が乙の知らない外国語の「ありがとう」と言う意味の知っているとする。
甲が乙にその単語を教えたところで「自我の一部がコピーされた」とは言えない。
単語の知識は単なる記憶であり
自我とはその単語をいかに使うかを決定する心の働きまで含んだ言葉である
甲と乙の心の中で共通なのはその単語だけだ
そして甲が乙にいくら沢山の外国語の単語を教えたところでこれは変わらない。
そして甲が乙に文法を教えたところでもやはり自我がコピーされたとは言えない。
なぜなら文法をいかに用いるかも自我の働きであり
甲は文法という言語化された知識を教えただけだからだ。
言語がコピーされたところで自我がコピーされたと言うことは不可能なのだが
一体この世の中のどこで自我のコピーが起こっているというのだろうか。
118 :
没個性化されたレス↓:2009/08/14(金) 06:42:37
>>117 それは、その場合には甲の自我を乙がコピーしなかっただけ。
その特殊な例を持って来て、一般に「他者の自我をコピーしない。」という
一般的な結論を導くのは頭悪過ぎと言われても仕方がないだろう。
その悪い頭でゆっくり考えてみてくれよ。
子どもは親の自我をコピーして、自分の自我を作っていくの。
そして、その次には他の大人や友人など、周囲の色々な人の自我をコピーし続けるの。
119 :
没個性化されたレス↓:2009/08/14(金) 06:53:55
>>118 いやいや、この場合だって自我をコピーしているんだって。
乙が甲の覚えている外国語の単語を覚えたとすれば、甲がその外国が好きで
その外国語を覚えたくて、その単語を覚えたって事は乙に伝わっているの。
それで、乙がその単語を覚えたって事は、甲のその気持ちがコピーされたって事なの。
甲がその外国が好きだ、その単語を覚えたいって気持ちが伝わらなければ、乙は
その単語を覚える事はないの。
もし、いくら甲がその単語を教えても乙が覚えないとすれば、甲がその外国を好きだという
気持ちを乙が否定的に捉えていて「そんな単語覚える必要なし。」って思っているという事。
この場合でも、甲の自我は否定的に乙にコピーされていると考えられます。
要するに、人間関係を持つって事は、両者の自我が関わるって事だから、互いに影響を
与えないって事はないの。
120 :
117:2009/08/15(土) 01:17:14
>>118 >>117を特殊な例であるが成立すると言明するということは、
「言語をコピーしたところで自我をコピーしない場合がある」ということを認めたということだ。
これでまた言語と自我の距離は遠くなった。
それを踏まえて言うが子供が成長する過程ではいろいろな要素がありすぎる。
子供が「親の話ている言語を習得し、しかも親と似た行動をしている」
ということだけで「自我がコピーされた」と結論付ける事はできない。
なぜなら「子供が親に似るのは遺伝子のせいである」という説もあるからだ。
遺伝子は親の細胞をコピーしており、しかもその遺伝子にあらかじめ組み込まれた
言語習得機能をもコピーしている可能性もある
これを否定しない限り親の言語をその子供が習得したからと言って
「言語習得により自我がコピーされた」と単純に結論づけることはできない。
>>119 コピーという言葉を恣意的に使いすぎだろう。
「影響を与えた」と「コピーされた」は違う状態を指す。
コピーとは少なくとも全ての情報が保全されるくらいの複製を指す。
たとえばトナーが足りなくなったコピー機でどこかがかすれて読めなくなったら
それはコピーされたとは言えない。
だが全てのトナーが使い尽くされて紙が温まったままのコピー紙が出てきても
それは「紙になんらかの影響を与えた」と言う事はできる。
「影響を与えた」と「コピーされた」では日常で使われる範囲がまるで違う。
ましてや「否定的なコピー」となると訳がわからない。
「否定的なコピー」とはどのような状態だろうか。
ある人の名前も知らず、会ったこともなく、生きた時代すら違っても
「否定的なコピー」ならできそうに思える。
なぜなら私はその人を何もコピーしていないからだ。
121 :
119:2009/08/15(土) 19:07:57
>>120 >子供が「親の話ている言語を習得し、しかも親と似た行動をしている」
>ということだけで「自我がコピーされた」と結論付ける事はできない。
>なぜなら「子供が親に似るのは遺伝子のせいである」という説もあるからだ。
自我は文化だから遺伝するモノではないと思います。
122 :
118:2009/08/15(土) 19:20:40
>>119 >もし、いくら甲がその単語を教えても乙が覚えないとすれば、甲がその外国を好きだという
>気持ちを乙が否定的に捉えていて「そんな単語覚える必要なし。」って思っているという事。
>この場合でも、甲の自我は否定的に乙にコピーされていると考えられます。
甲が単語を教えても乙が覚えないとすれば、乙は乙自身が今まで築いてきた自我の体系に
甲の教える単語が、あるいはその外国語を好きだという観念が必要ないと無意識的に
判定しているんじゃないですか。だからコピーしたとは言えないのではないですか。
ただ、甲がその外国語が好きだと思っている事を乙が知る事は無意味ではないと思いますね。
「そういう人間もいるのだ。」と感じて何かしらの影響は受けたでしょうね。それを
「否定的にコピー」と言えるかどうかは分かりませんが。
123 :
119:2009/08/15(土) 20:47:49
>>120 >「影響を与えた」と「コピーされた」は違う状態を指す。
同じですよ。親の自我が子どもの自我に影響を与えたという事は
子どもが親の自我の一部をコピーしたという事になるでしょ。
自我は当人の行動の規範(指針)です。自我がモノを考え行動
を決定します。その自我が親の影響を受けたという事は、親の
規範を一部受け入れたという事でしょ。親の価値観を一部受け
入れて同じような判断をするようになったという事ですよ。これを
「自我のコピー」と呼んでいるんですよ。
「子どもは親の影響を受けたけれど、自我はコピーしていない。」
なんて事はあり得ないでしょ。
124 :
117:2009/08/16(日) 11:51:49
皆さん熱くなってるようでだいぶ用語の混乱が見受けられます。
まず
>>121 文化と自我は別物です
【自我】(大辞泉)
1 自分。自己。
2 哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。⇔非我。
3心理学で、行動や意識の主体。自我意識。
精神分析で、イド・超自我を統制して現実への適応を行わせる精神の一側面。エゴ。
【文化】(大辞泉)
1 人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の―」「東西の―の交流」
2 1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。
3 世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「―住宅」
自我が働き人間を動かした結果が文化です。文化勲章と言いますが自我勲章とは言えません、
文化祭とは言いますがそれを自我祭と言い換えるとなんだか嫌な感じです。
125 :
117:2009/08/16(日) 11:58:38
>>123 「コピーする」と「影響を与える」もやはり別物です、
コピー【copy】(大辞泉)
1 写し取ること。複写。模写。また、そのもの。「―を取る」「資料を―する」
2 コンピューターで、ペーストを目的として、文章・図形などのデータを一時的にメモリー上に複写すること。
また、デジタルデータを複製すること。ハードディスク、光ディスク、メモリーカードなどのデータを、
ある記憶媒体から別の記憶媒体に複製すること。→ムーブ →コピーワンス →ダビング10
3 物まね。模倣。「ブランド品の―」
【影響】(大辞泉)
1 物事の力や作用が他のものにまで及ぶこと。また、その結果。「環境に―を及ばす」「大勢に―しない」「―力」
2 影と響き。また、物事の関係が密接なこと。
これを読むと「影響は与えたがコピーされてはいない」という状態はいくらでもありそうです。
ただ「影響を与えた結果コピーされた」という状態を考えることは可能です。
ただ私は人間関係で「自我がコピーされる」という状態があるということには懐疑的です。
それをこれから議論して行きたいと思います。
126 :
119:2009/08/16(日) 19:44:54
>>125 今ココで問題にしているのは「自我」のコピーであり、自我が
自我に影響を与えるという事です。国語辞典で意味を調べて
違いを並べても意味はないと思います。
自我は記憶体系であり、1つの価値の体系です。個人は、
価値観の体系である自我の判断に従って行動します。
ですから、他者の自我に影響を受けたという事は、他者の
自我の影響を受けて当人の行動が変化したという事です。
当人の行動が変化したという事は、その行動を決定した
自我が変化したという事です。
他者の価値観の影響を受けて自分の価値観を変更した
という事です。
これは他者の価値観を一部受け入れたという事ですから
その部分について他者の自我をコピーしたと言えると思います。
127 :
没個性化されたレス↓:2009/08/17(月) 07:51:46
個人の自我はどんどん変化していくんですね。
「生きている=自我が変化する」というぐらい・・・。
人間の自我は変化し続けるんですね。それは人間関係によるんです。
つねにコピーし続けるんですね。
引きこもりのまずい所はここにあるんです。自我が変化しない。
家に引きこもっているから自我が変わらないんです。
文化の荒廃です。それが問題なんです。
128 :
117:2009/08/17(月) 23:36:28
>>126 それだったら親の行動に反感を持ち「ぜったいあんな風にはならない」
と思ってそう行動しても「親の自我をコピーした」ということでしょうか?
ずいぶん実感とかけ離れた考え方ですねw
言葉をあまり自分の思い通りに使って強弁するのも考えものです。
お花畑板とかにはそういう人は沢山いますが
なにしろここは一応学問板ですから
言葉の定義は厳密にした方がいいのでは。
なにしろあなた以外の人は皆「コピーと影響は違うもの」
と思って暮らしているのですから。
129 :
117:2009/08/18(火) 00:23:24
私も言い過ぎました。
130 :
119:2009/08/19(水) 02:52:44
>>128 >それだったら親の行動に反感を持ち「ぜったいあんな風にはならない」
>と思ってそう行動しても「親の自我をコピーした」ということでしょうか?
意識的な決意でコピーしたりコピーしなかったりという風には
行かないと思います。 親の事が嫌いなのに親にそっくりな奴になって
しまっているという事もあります。・・・というか、そうなるケースの方が多分
多いでしょう。
多分、自我のコピーは無意識的な学習だと思います。だから、個人の意識的な
決心でどうにもならない部分が大きいと思います。
131 :
119:2009/08/19(水) 03:06:18
>>128 それから、上でも書きましたが・・・
例えば、2人の人間をA,Bとして、
「AがBに影響を与えた」
という事は、Aの行動なり考え方なりがBに影響を与えたという事であり、
影響を与えたという事は、その結果、Bの行動なり考え方に変化が
あったという事です。ここで、Bの行動なり考え方なりが変化したと
いう事と「Bの自我」が変化したという事とは同じ事です。
そして、この「Bの自我の変化」はBが「Aの自我」に接してAの行動なり
考え方なりがいいと思ってそれを真似した事に発していますから、これは
「Bの自我がAの自我をコピーした」
と言い得ると思っています。
個人の行動に変化があるという事は、その行動を先導(決定)する
「当人の価値観」に変化があったという事です。
「当人の価値観」に変化があったという事は「当人の自我」に変化が
あったという事です。
132 :
没個性化されたレス↓:2009/08/19(水) 03:08:34
>>129 いえ。別にあなたが言い過ぎたとは思いませんので・・・。
133 :
117:2009/08/22(土) 00:45:34
確かに言い過ぎました恐れいりました。
影響も変化も全部コピーだと強弁する無理矢理さに恐れいりました。
つきましては自我のコピーの具体例を伺いたく存じます。
拙者が例として挙げた親子の確執やその他人間関係で
一体何がコピーされているのか
詳細にご教示ねがえればと思います。
コピーというと複製か模倣しか思い描けないやつがれには、
到底思い及ばない真理をご開示いただけるものと信じます。
どうか個人の自我にたいしての他人の自我のの影響や変化が
コピーと言いうるのかその深い洞察を
詳細に伺えればと思います。
今はただ辞書的アカデミズム、
そして哲学的心理学的アカデミズムも卑小に思えます。
影響も変化もただそれはコピーの異なる位相であるという。
絶対的真実の開示にひれ伏すのみでございます。
135 :
没個性化されたレス↓:2009/08/28(金) 23:43:20
苦しいい時に親にかばってもらえなかった経験に対する気持ちが未消化で整理されていないまま
親になると子供に同じことを繰り返すんでしょうね。
親自身が誰かに理解されているという感覚が持てないほど
親に虐待された子供は自分の子供を虐待する運命にあると言われる、
いわゆる「虐待の連鎖」が存在するという証拠はない。
被虐待児の追跡調査では
親から虐待されたけど子供を虐待しない人も多くいる。
虐待の連鎖が喧伝されるのはそうしたケースが騒がれ
また虐待してる本人も騒いだりして注目されるからだ。
親から虐待されたけれども自分の子供を虐待しない人は
平穏無事に暮らしている。
そうしたケースが騒がれマスコミになどに
取り上げられないため「虐待の連鎖」という虚構が作りあげられた。
137 :
没個性化されたレス↓:2009/08/31(月) 23:58:30
虐待している自分を客観的に見ているもう一人の自分がいるかどうかではないですか。
セルフコントロール力というのはそれにかかっているのでは。
>>133 亀レス失礼。
>>131 の話で
BはAの価値観をコピーしています。
価値観のコピーは自我のコピーです。
例えば、親に正しいお箸の持ち方を教わって、そのお箸の持ち方がいいと思い、
練習して正しいお箸の持ち方を覚えたとします。
このとき、当人は「お箸を正しく持てる方がいい」という親の価値観をコピーして
自分も親のように正しく箸を持ちたいと思って練習したのでしょう。
これは親の価値観のコピーであり、それは親の自我をコピーしたという事になると思います。
>>136 親から虐待された経験はあまりにつらく、そのまま受け入れることは難しい。
だから子供は、親から虐待された事実を捻じ曲げて、親の態度は変だったけれども
あれはあれなりに親の愛情の表現であって、その表現の仕方がちょっと
間違っていただけだとか、ちょっと行き過ぎることはあったかもしれないけれども
基本的に親は親なりに自分のことを大切に思っていてくれたはずだとか考えて、
自分が虐待された事実をできるだけ見ないように努力します。
そうしないと、自分が実は親に愛されていなかったという事実と直面しなければ
ならなくなり、非常に危険なことになります。
ですから、虐待された子供は自分が虐待されたことに気付かず育っている場合が
多いのです。その場合、虐待された子供は虐待された事を気づかずに生きていますから
「自分は愛されて育ったのだ」と勘違いしています。
そんな人間が親になった場合、自分が「愛された」通りに子供を「愛そう」と思います。
しかし、当人が「愛情」だと思っているモノは実は「虐待」なのです。
自分の親が自分を「愛した」ように、自分の子供を「愛そう」と思えばそれは不可避的に
「虐待」になってしまうのです。そして、その事を当人は気づきません。
そういう訳で、「虐待」というものは当人が知らないうちに連鎖が起こってしまうのです。
子供は虐待する親の自我をコピーしますから、自分も親になったときには
子供を虐待する親になるということですね。