1 :
没個性化されたレス↓ :
04/10/31 21:42:01 臨床心理学は今後、身体性や宗教性を追及していかざるをえな い、というメタ臨床心理学者の實川幹朗さんのご主張を、臨床 心理学者の方々はどのように評価していらっしゃるのでしょう か?率直なご意見を賜りますよう、よろしくお願い申し上げま す。
2 :
没個性化されたレス↓ :04/10/31 21:51:44
それ知らないけど、和紙もそう思う。 科学的に心理臨床の効果とは何かを突き詰めると、 最終的にそのようなアプローチでも構わないことがわかると思う。 いや、むしろそのような身体性・宗教性アプローチのほうが、 我々文化的にもなじみやすく効果的でもあるだろう。
>>1 その實川氏の「身体性」と「宗教性」はどういう意味合いか?
簡単に紹介されよ。
現行宗教に、宗教臨床心理学が、勝つ見込みがあるの? 科学に頼らなければ落ちぶれるんじゃない?
宗教というか、何かを信仰するということに対する認知的側面の 影響みたいなもんを科学的に示してやればいいんだよ
>>4 カルト教団として細々とやっていくか。
科学を名乗り、医療として大きくなることを望むか。
ってことか?折衷だよ折衷。
7 :
没個性化されたレス↓ :04/10/31 22:17:49
ああ、そうか。 最近出た本だよな。 心理本マニアの俺としたことが。。 パラパラめくっただけで流し読みしわすれてた。
「心の諸問題考究会」の設立者なんだね。 この会は、すごいおもしろそうな人がいっぱいいるよ。
タモリとか?
タモリはおらん! でも、オランウータン長官はいる。
11 :
没個性化されたレス↓ :04/10/31 23:33:44
1は逃げたか
12 :
没個性化されたレス↓ :04/10/31 23:45:35
>>1 必然だろうな
もともと宗教の現代化・心理学化みたいな側面がありそう
科学妄信か、折衷かの二択でしょ? 科学排除とか言い出すやつは、いないよね?
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4062583119/reviews/ref=cm_rev_more/249-3851587-2020328#3 「無意識の発見」は無かった・・・意識が「発明」された! 中世神学からフロイトへ・・・意識と無意識の役回りが逆転。
臨床心理学を産み出したのは、19世紀の「意識革命」であった。意識の絶対視、言葉と意識の結びつきを軸とする理論は
この時代に、歴史の中で初めて産まれた心の捉え方である。「心」と「個人の内面」との同一視も、まだ百年あまりの新しい
着想にすぎない。 西洋近代文明の申し子・臨床心理学の「意識」観は、有史以前からの無意識の優位を覆す革命だった
・・・・・その根拠はどこに求められるのか。臨床心理学は「心の専門家」による「無意識の科学」なのか、それとも意識をめぐる
宗教思想なのか・・・ 「意識の病理に意識を処方する同毒療法」との斬新な視点が、臨床心理学の根本性格を洗い出す。
日本人だから書けた西洋思想史。
治療者の魂の次元の問われる臨床心理学を、思想史全体のなかに位置づける初の試み。 単なる解説・年代記ではなく、
思想の流れを立体的に再構成。
實川 幹朗(じつかわ みきろう)
哲学、心理学、宗教学、民俗学を総合した「世界学」を提唱。 「心の諸問題考究会」を設立し事務長を務める。
著書 『こころ覓ぎ - 近代自我を越え心のありかへ』(誠信書房) 『癒しの森』(共著・創元社)など 訳書 ヒルマン
『夢はよみの国から』(青土社)
リンク先には、プロローグと第一章の抜粋あり
ごめん、改行が悪かった。。。 読みにくいのをゆるしてちょ。 プロローグを呼んだ感想としては、、、、、思い込み強そうな著書だね。。。
>>14 目次にある、
第四章、2. 新しい二元論は「心の囲い込み」
―行動療法は財布を拾いに行かない
の内容が気になる。
ん で ? 結 局 、 心 理 学 と は な ん だ ろ う ? 心理学かじってるひと、現時点でどんな風に捉えてますか? 又は、心理学に精通している学者などが過去に表現した、 心理学についてのイケテル短い言葉などキボンヌ
18 :
没個性化されたレス↓ :04/11/01 00:39:43
實川先生って、学会にも和服で登場したりして、ユニークだよね。 総会とかでも、しっかり批判したりする。 遠目で見てるところでは、嫌いじゃないな。
すまん!!スレッドまちがえた。。
東方では、様々な人間の体験を集約し、それを共有する ための神学思想が追求されていたが、 西方では体験と思想が分離する傾向が強まった。むず かしくいえば、体験知と理論知の乖離である。このことが 近代世界を作り出す大きな前提だったのである。この 中世西ヨーロッパ的な思想のあり方は、近代的学問の 基本的な枠組になった。つまり、西欧では、神という 「存在の根拠」について、それを純理論的に考察しよう とする神学・スコラ哲学と、それを体験知として直接に 理解しようとする、いわゆる神秘主義が対立する構造を 示していたことが大きな特徴をなしており、 これは東方キリスト教やインド系の思想・宗教には見ら れないものであった。 このように、西欧における思想・学問のあり方が、世界 思想史的に見て、ある歴史的事情によって成立した特異 なものであり、それを普遍化することはできないということ を、ここでは理解すればよい。
さらに、フーコーが指摘するような「非理性の囲い込み」 によって、「内的経験の地平」が思想へと表現されていく 経路が断ち切られることになった。 物質世界が「均質的な時空の延長」というデカルト的形式 で考えられるようになると、同時に、人間経験の世界も また均質的なものと見なされるようになった。時空構造を 均質的なものと見る自然観と、人間を均質とみる人間観が 連動しており、これが近代の市民社会の基礎となっている。 人間を均質と見るという意味は、「人間は誰でも同じ」と いう原則であり、これは一方では「平等」の理想を生み 出す。また他方で、「すべての人間においてあてはまる こと」のみを「人間にとって真理であること」と同一視する ことでもあった。 これが近代世界の両刃の剣なのである。こうした近代 世界の特徴を「フラットランド」という名称で呼ぶことが できる。
実川のほんは読んだが、 彼はまるきりフロイトもユングも読めていないとみた。 たんなるはねあがりのようにしかみえない。
まあ言ってることは面白い。
漫談だと思えば。
>>25 あんたはフロイトとユングだけ読めていればよろしい。
ふふふふふふふふふふふふ
>23 しかし、あんたもしかして フロイトとユングしか知らなかったりするのような人?
29 :
没個性化されたレス↓ :04/11/01 02:24:30
1ですが、實川さんの著書の要約をいたします。 近代臨床心理学は19世紀の「意識革命」を経て構築された意識中心 主義と「心の囲い込み」を前提として成立している、と實川さんは述 べています。意識中心主義というのは、無意識を意識化すれば(とりわけ言語化 すれば)症状は消えうせる(万能の妙薬としての意識)という、意識 重視の考え方です。また、「心の囲い込み」とは、意識が個人のもの であるという考え方、すなわち心が個人の内面に閉じ込められていて、 他の人には知られず、無意識は自分のことなのによくわからない、と いう捉え方です。こうした前提の下に、臨床心理学は「科学」の方向をめざし、臨床 場面において生じてくる「現象」を研究することとなり、経験できな い形而上学的なものを排除しようとした、というわけです。 しかし、臨床場面で得られる現象やデータは患者と治療者との共同 作業による「物語」の創作ではないか、しかもその創作は治療者が仕 掛けている可能性が高い、と實川さんはいうのです。個の物語は、実は 患者と治療者の共同制作した物語なのだと。臨床心理のじっさいは、タテマエとは異なり、宗教家的な側面(人 生の薀蓄)が問われる。臨床心理学の理論は創始者の個性を帯びた理 論(治療者の物語)という性格をもち、それゆえ、多くの学派(宗派 ないし教会?)が並存するというのです。これはある意味では、霊能者や拝み屋と呼ばれている現代のシャーマ ン(沖縄のユタなどの宗教家)と類似しています。ただし、物語の免許 状をつくり、宗派をつくったところが、市井の宗教家とは異なるのです 。心が個人の中に閉ざされたものではなく、他者とのつながりの中に開 かれていて、意識が万能の妙薬ではないとすれば、非意識的(無意識的 ?)な技法、身体的な技法(たとえば、遊戯療法・箱庭療法・瞑想法な ど)が今後追求されるはずだとされます。そして、臨床心理学がシャー マニズムなどと同じように、物語の無意識的な共同制作による治療を行 っていること、すなわち、本来の宗教性が明確になっていくだろう、と いうのです。実際に現在の心理療法に身体的要素や宗教的要素が現れはじめている 、と實川さんは結んでいます。
30 :
没個性化されたレス↓ :04/11/01 03:20:37
これは学問というよりオタの世界だな。
学問を定義せよ
32 :
没個性化されたレス↓ :04/11/01 10:28:21
心の専門家を訪れる人々が必要としているのは、「心(意識)のケア」だけで はなく、トータルな「人生のケア」が必要なのではないか? かれらは心の問題について悩んでいるというよりもむしろ、人生の問題につい て悩んでいるのではないか? そう考える時、宗教や哲学や思想の導入、そして身体や無意識への非言語的 働きかけも必要になってくるのではないか、という読後感を持ちました。
日常生活のケアじゃないんか、必要なのは。それが人生を構成するわけだし。
34 :
没個性化されたレス↓ :04/11/01 10:35:28
そして、飲み屋のママや(夜回り先生のような)熱血教師のほうが、心 の専門家よりもすぐれたカウンセラーだ、という印象を持つ人々が少な くないのは、ママや熱血先生が人生の薀蓄を語ってくれるからではない か、と思うのです。そして悩んでいる人の人生をトータルに受け止めて くれるからではないでしょうか?
35 :
没個性化されたレス↓ :04/11/01 10:38:42
>33 そうです。もちろん、日常生活のケアも含めてトータルな人生の ケアが必要なのではないかと考えます。 生活世界の脱植民地化が求められているのかもしれません。
>>29 >心が個人の中に閉ざされたものではなく、他者とのつながりの中に開
>かれていて、意識が万能の妙薬ではないとすれば、非意識的(無意識的
>?)な技法、身体的な技法が今後追求されるはずだとされます。
これだけ読むと、行動療法なんだがな。
37 :
没個性化されたレス↓ :04/11/03 15:21:14
読んでみました。 意識を万能視するのがおかしいとは言っているけど、行動療法がいいと 言っているでもないと思います。 理論的には「意識革命」というのが新しい視点で、「無意識の発見」じゃ なくて「意識の発明」なんだ、無意識という言葉がなかったのは前だったから なんだと言われると、なるほどと思ってしまう。 無意識療法にしよう、っていうんじゃないんだろうか。 個人的には、思想史のいろんなトリビアが面白い。ニュートンとか、自然科学 にまでつなげて書いてある本は、あまりないんじゃないか。無意識のほうを 信じていたというデカルトの解釈も、さらりと書いてあるけど、新しいのかも しれないし。 臨床的には、宗教だから危険だというんじゃなくて、宗教であたり前だという 主張に取れる。ただ、宗教の仲間とすると未熟だし、宗教だったら国家資格は ふさわしくないじゃないかという問題提起があって、臨床心理士を敵に まわすつもりなんだろうか? いろんな意味で、かなり危険な本だと思います。
いくつになっても目立ちたがりな人なんだよね、 この実川ってひと。
39 :
没個性化されたレス↓ :04/11/03 18:03:24
38 は関西人? 実川は >目立ちたがりな人 だよな! でも、いままで全国区じゃなかった。 東京方面では知名度なかったからな。 この本出したから、こんどはかなり目立てるんかもね??
バカな雑魚ほど「主張の内容」ではなく、 主張者の人格議論に終始するというが、、、、、、
41 :
没個性化されたレス↓ :04/11/04 14:10:38
目立ちたがりでも、いいんじゃない?
鋭い学問的な主張で目立つんだったら、だれもケチはつけられないでしょ。
(それでも言うなら、やっかみだね)
「意識の病理に意識を処方する同毒療法」っていうのはびっくり。
もし意識が万能の妙薬でないんなら、フロイトとユングの理論的な基礎がゆらぐんじゃないのか。(臨床現場ではとっくにゆらいでるけどね。)
心理屋さんというのは、あんまりそういうこと考えないでやってる人多いけども、そんな現状への批判にもなっている。
2-3章が主張の中心で、4章は付録みたいな位置づけだろう。(本人は楽しんで書いてるようだが。)
「主張の内容」をもっと謙虚に読んだほうがいいっていうのは、賛成だ。
解説書やハウツー物ばっかりの臨床心理の本の中で、こう言う思想書は光っているし、待たれていたものだろう。
(臨床、臨床とお経のように言っている人こそ読むべし。)
インパクトはそうとうあると思うな。読んでみて「脳が悪くなりそうな気がしたので」ストップした人がいる。
こりゃ、誉めているのかもしれない。
http://www.geocities.jp/kawasakisoichi2004/diary200410.html >37の「思想史のトリビア」っていうとらえ方は、まだ浅い。
コントの妻は娼婦だったなんてトリビアも書いてあったけど、あの本のすごいところは、「客観的な技術」だと宣伝している心理臨床が
どれだけ西欧の宗教思想と繋がっているかを、しっかり証拠を上げて書いたところだろう。哲学科出身の實川氏でなければできない仕事だ。
(誉めすぎたかな?)
>>29 >心が個人の中に閉ざされたものではなく、他者とのつながり
>の中に開 かれていて、意識が万能の妙薬ではないとすれば、
>非意識的(無意識的?)な技法、身体的な技法(たとえば、
>遊戯療法・箱庭療法・瞑想法など)が今後追求されるはず
>だとされます。実際に現在の心理療法に身体的要素や
>宗教的要素が現れはじめている、と實川さんは結んでいます。
その方向はもはや必然だろう。私もユングなどは過渡的な
ものと考えており、日本でのユングはちょっと過大評価だと
いうのが率直な意見である。ユング学者はたくさんいるが、
結局、河合隼雄を超える人材はいないではないか、と言い
たい。それこそこの實川幹朗が訳書を出しているヒルマンを、
もっと評価すべきであろう。彼もこの立場から言っている。
ヒルマンはユング派の流れを受け継ぐ、元型心理学の 創始者であり代表ともいうべき心理学者だが、やはり 現代的な心理学と心理療法に対して批判している。 手短かに述べるなら、現代的な心理療法は、経験を 「人間的なもの」や「人物的なもの」に還元している。 心理学のいにしえの起源、つまり、魂の言葉(the logos of soul)に遡ってみれば、心を「人物的なもの」に還元でき ない。 ヒルマンのアプローチは、魂、そして、真の心理学を 再発見することを目指すものである。ヒルマンは、キーツの 言葉を借りて、この視座の転換を「魂作り(soul-making)」 と呼ぶ。主観的にでもなく客観的にでもなく、魂の観点から 物事を眺めることが、魂作りというプロセスである。 このテーマに関するヒルマンの主たる著作が、「魂の 心理学(Re-visioning Psychology)」である。この印象的な 著作は、魂と魂作りについて論じたものであり、魂の活動 の4つの側面について、各側面に一つの章をさいて議論 している。 この4つの側面こそが、魂の機能の中で最も重要なもの であり、ヒルマンは、これらの機能を人物化、病理化、 心理学化、脱人間化という用語で言い表わしている。
それでハイデッガー全集の『ヘラクレイトス』を思い出した が、ぱらっとめくったところに、「ギリシアには心理学などは なかった」と書いてある。まったくその通り。心理学という ものは「主観」が成立した近代的地平に属するものだからだ。 その意味で心理学というものはひじょうにうさんくさいもので、 信用しない方がよろしい。「心理」なんてものが実在すると 思ったら大間違いである。 では、實川幹朗の訳書にもあるが、ジェイムス・ヒルマンの いう「魂」とは何かというと、ハイデガーも懸命に、その実体 視を徹底的に回避しながら、ヘラクレイトスの思考の地平に 迫ろうとしている。 ここには、同時代の科学のことも、社会問題のことも何も 出てこないで、一見地味に、ひたすら古代のテキストの 解釈を何百ページにわたって徹底的に遂行しているのだが、 この姿勢がなかなかかっこいいと思えてしまう。うーん、 「クール」ですね。その渋さは抵抗できないほど魅力がある。 実はこれこそ、本当の意味で「近代的地平」を突破する 底力のある思索なのである。 唯識、ヒルマンの元型心理学、東方キリスト教につづく柱 となるかもしれない。魂とは何か、ロゴスとは何か、そこには すごいことが思索されているという直観をいだく。
>>44 そもそも、心理学が、「心理」を研究する学問であると思わないほうがよろしい。
残念ながら?多くの心理学者は「心理」を研究することは(現状では)放棄している。
47 :
没個性化されたレス↓ :04/11/04 16:58:43
ヒルマンはですね、「心理学化、脱人間化」とは言っても、 そこからイデアに行くわけですね。 非物質的な精神性が「魂」だってことだから、 ほんとにユダヤーキリスト教を超えられているんか、 チョー疑問どす。
ま、その調子でやっとくれやす。
49 :
没個性化されたレス↓ :04/11/05 12:45:01
なんか、話がそれてるような気がするんですけど。 この本はまだあんまり読まれていないってことですかね。 もう少し、気長に待つとしませう。
50 :
没個性化されたレス↓ :04/11/05 20:55:41
先日の朝日新聞によれば、最近のカウンセリングでは、硬くなった体を ほぐすことによって、心を癒す臨床動作法が取り入れられているそうで す。 体の力を抜かせて、ほぐしてあげることで自己肯定感が芽生え、心 も落ちついてくるのだそうです。実際に不登校の子供が学校に通えるよ うになったということです。 こうした記事などを目にすると、實川さんの主張が正しいように門外漢 には思えるのですね。
疲れない状態を体験(学習)させる方法としてバイオフィードバックが最注目されるかもね。
>>52 訂正
×最注目→○再注目
心の疲れは身体(脳みそフル回転とかもね)の疲れからくるものも多いと思われ。
脳という器官が疲れるわけじゃない。疲れというのは 全体の働かせ方、そのアンバランスが部分的な緊張 として表れたものといえる。 よって、心=意識=脳へと還元しない、全体的なアプ ローチによってバランスを回復することが理想的である。 そういう意味では「意識とそれ以外」としてとらえるその 「思想=思考」自体から問い直している實川氏は、 かなりラディカルといえる。
>>54 >脳という器官が疲れるわけじゃない。
正直、君の上記の主張は信じられないな。
脳みそ(解体したら個々のニューロン)は永久機関だったのかい?
エネルギーも使うし、老廃物も出すでしょ。筋肉と同じなんじゃないのかい?
脳みそに疲労を筋肉の疲労のように痛みで感じることはないかもしれないが
疲労しないという発想は、すんなり受け入れられない。
わがままですまん。
56 :
没個性化されたレス↓ :04/11/06 11:42:34
はたしてそうかな?
>>54 >疲れというのは全体の働かせ方、そのアンバランスが部分的な緊張
>として表れたものといえる。
特定の部位を集中的に使用して生まれた緊張によるアンバランスってのもあるよね。
この場合、全体を調整する必要はないんじゃないかな?
特定の部位の緊張を回復すれば、全身のバランスは回復されるよ。
蛇足かな。
おっと、 52=53=55=57は同一人物なので まとめて、処理しちゃってください。
いろいろ考えたので、再び書き込ませてもらいます。 全体の安定性は、全体で作られていると、 一部が極度に緊張して、全体の安定性が悪くなっている。 極度な緊張部位につられて、他の部位も緊張してくると。 それならば、緊張な疲労部位を回復したら、他の緊張部位も回復に向っていく。 別に、全体を回復する必要はない場合もあると。 俺の発想は、問題を引き起こしている部位を特定し、そこを回復、また強化すれば 問題は二度と起こらないだろうという発想かな。 俺の指摘の問題点 どこが、緊張を生み出す力点になっているのかわからない場合もおおかろう。 また、複数が力点になっている場合もあろう。 →だから、全体的にやっておけ。
訂正 ×強化→○補強
うわ、用語の統一性がないなおれ。アホ丸出し。雰囲気でよろしく・・・
最低限の訂正を
×緊張な疲労部位を回復したら→○極度な疲労部位を回復したら
>>60 訂正ありがとう。
>>55 >>57-59 >>61 臨床については、むしろ、複雑系とかホメオスタシスとか
いう発想から入っていったほうが、より理解しやすいかも
しれない。
例えば?
私がこれから言おうとすることは「許容限界」を超えたもの だと感じるかもしれない。まずはっきりしているのは、信じら れるかどうかの限界だが、たぶん、礼儀作法の限界もある だろう。 というのも、私は、進歩とは幻想であると言おうとしている。 未来の進歩が幻想だというだけでなく、過去の進歩も幻想 だと主張しようとしている。この過去の進歩の部分には条件 をつけねばならないだろうが、本質的には正しいと思って いる。ユートピアとは夢である。進化とは神話である。 もし、西洋の人間が、この進歩と進化という神は偽者の神 であることを見れば、言いかえればフィクションであり、一度 も起こったことはなかったし、これから起こることもないと 理解するなら、そのときに近代という時代は終わりを告げる。 というのも、この考えは近代にとって最重要の土台をなす ものなので、これが崩れてしまえば、新しい建物に建て 替えるしかないからだ。同じ理由で、この考えに異議申し 立てをすることも難しい。ある時代全体の土台となっている 考え方を解体するというのは容易なことではないからだ。 生態系の危機やエネルギーの枯渇、システムを分析する 人々は、コンピュータのデータを総合して、私たちは破滅 へのコースをたどっていると言う。ダーウィンを哲学化した ベルクソンでさえ、最終的には、人間は「自らの巨大な進歩 に押しつぶされている」という見方に至ったのだ。サルトルは 深みのある思想家ではないが、現象を見る目は鋭いもの がある。そして、彼の仕事である実存のレベルにおいて、 「希望なしに生きることを学ばねばならない」と忠告してくれる。
だが、未来が悲惨なものであっても、過去はよかったので はないか。現在までの進歩、泥の中の生命体から、知性に いたるまでの進歩は、やはり大した記録なのではないか。 それを見てみよう。 私は近い過去から始めよう。ホモ・サピエンス自身の経歴 である。進化論の信奉者は、人間は大きなデザインにそって 来ていると言う。人間という種は猿人に始まり、未開の原始人 となり、ついには今のような知的生物となった。こういう見方 はあまりにも当然のこととされている。 そこで、一流の博物館の館長が「石器時代から現在に至る 歴史は、退歩の歴史ですね」と言ったとしたら、警句をひね っているのだろうと思うか、あるいは考古学の研究には自信 のあるその博物館を自慢したいと考えるだろう。たぶん、 ネアンデルタール人の脳が現代人よりも大きいということが 発見されたので、そういう考えはもっとまじめに受け取られ るようになっていくだろう。
また、レヴィ=ストロースの評価では、人間と自然とのバラ ンスという点でいえば、それが結局は最も大切な問題に なるのだが、人間の黄金時代は、新石器時代のあたりに あるということだ。もし、エコロジーという観点から知性という 観点に変えてみたとしても、人間は特に進歩はしていない、 とレヴィ=ストロースは言うのである。ある意味では、彼の 研究のすべては、「野生の精神」は現代人と同じくらい複雑 であり合理的であることを明らかにするためのものであった。 そして、彼は最後までついていき、理性にとどまらず、その 理性の使い方を決める動機というところまで見ていくと、 そこには退歩が見られるという。その分析的思考(人間が やっているような種類の)は、その中に見えざる暴力性を 秘めているのであろうか?と彼は問う。 あるいは、人間はエデンの楽園に対して、わけのわから ない怒りにとりつかれているのだろうか。人間はかすかに エデンの楽園を記憶しており、それを喪失したことを無意識 では知っているのではないか。その理由は何であれ、人間 はその失われた無垢の世界を思い出させるような風景とか 社会に出くわすと、襲い掛かり、それを滅ぼしてしまう。 レヴィ=ストロースは自分自身とその学問も例外とはして いない。西洋人のもつ知への欲求、底の底まで分析的で 客観的である知を追い求めるということは、そこに暴力性 を秘めているのだ。というのは、ものごとを分析的に知る ということは、知ろうとしているものがどんなに重要かつ 複雑なものであっても、「対象」に還元するということである。
人間の過去だけではなく、それを超えて生命の歴史全体 にまで目を向けてみよう。すると、古典的、ダーウィン的な 意味での進化の問題に至る。これが核心の問題なのだ。 というのも、進歩と進化は、生物の進化を前提としている からだ。その基盤であり、最も重要な基礎なのである。 生物学者のルイス・トーマスが言っているように、「進化 とは、現在もっとも影響力のある物語であり、普遍的な 神話ともいえるものになっている」。 人間の過去だけではなく、それを超えて生命の歴史全体 にまで目を向けてみよう。すると、古典的、ダーウィン的な 意味での進化の問題に至る。これが核心の問題なのだ。 というのも、進歩と進化は、生物の進化を前提としている からだ。その基盤であり、最も重要な基礎なのである。 生物学者のルイス・トーマスが言っているように、「進化 とは、現在もっとも影響力のある物語であり、普遍的な 神話ともいえるものになっている」。
マイケル・ポランニーの『個人的知識』は、ノーム・チョム スキーがかつて、科学哲学について書かれた最良の本 だと推薦していた本である。その中でポランニーは、ネオ ・ダーウィン主義への批判を、次のようなはっとする言葉で 始めている。「私は進化論に反しているひじょうに初歩的 な事実を述べようとしている。こうした事実が曖昧になって いるのは、ほかでもなく、天才的な偏見によるのである」。 ここで、ポランニーの議論を詳しく再現する紙幅はない。 要約するだけでよしとしよう。自然の歴史は、「高度な 組織化のレベルへ向かって、累積的に変化が積み重なっ ていく傾向をもっている。その中でも、知覚や意識の能力 の深まり、思考能力の誕生は、最も歴然としたものである」 「この壮大なプロセスの各段階において、前の段階では 考えられない、ある新しい働きが生まれている」たとえば、 「原則的には、量子力学は化学反応をすべて説明する ことができるはずだが、それでも、化学の知識にとって かわることはできない」。もちろん同じことは生物学と化学 との関係にもいえるし、心理学と生物学の関係などその他 もろもろについて当てはまる。さらに、
長期にわたる進化のそれぞれの段階は、意識が誕生した ことと同じように、単に、適応のため有利だったことだけで 決まっているのではない。どういう方向に対して有利だった のかということが問題だ。つまり、進化のプロセスにはある 一定の方向性があり、その方向にとって有利であったと いうことなのだ。こうした、全体の秩序を決めているような ものが、次々と新しいものを創造していくプロセスの背後で 働いている。このことは、自然淘汰の理論では見過ごされ、 否定されている。こうした全体を統御しているものを認め るとすれば、突然変異と淘汰は、その本来の姿で理解でき ることになる。つまり、それは単に、進化していく力を解き 放ち、支えていくだけなのだ。こうした進化を推進する力 によって、進化における大きな達成が成し遂げられてきた のである。 人間が誕生したことは、現在、物理学と化学で知られてい る原理だけでは理解することができない。そのほかに何 かがある。これは生命力なのだろうか。生命力とは我々 にとって当たり前の考え方である。それを無視するのは、 頭が固く時代遅れの機械論者だけだろう。 物質的なシステムからどのようにして、意識と責任感をも つ人間というものができあがったのか、それについて何 もわかっていないというなら、人間の起源について説明 できていると考えたがるのはどうかしていることになる。
ダーウィン主義は、百年もの間、人間の起源という問題 から目をそらさせて、進化の「条件」を研究してきた。そし て、進化が実際に何をやっているのかを見過ごしてきた。 進化は、一挙に何かが出現することだと理解するほかな いはずである。 この最後の言葉、「出現(エマージェンス)」は、ポランニーが ダーウィン主義に代わるものとして提示しているものをよく 表している。それは、ポランニーも認めている彼の先駆者、 ロイド・モーガンとサミュエル・アレクサンダーにつながって いくものである。 ポランニーの哲学に関する仕事はすべて、還元主義に対抗 することに向けられている。還元主義とは、高次のものを すべて低次のもので、全体を部分によって説明しようという 試みである。こういう還元主義を否定することについては、 ポランニーは確実な議論を進めている。
問題は、ポランニーが出している代替案である。出現という のはいい。しかしどこから出現するのだろう?どこから、彼が 繰り返し言っている「全体を支配する創発的な原理」は やってくるのだろうか。もし、より単純な、先行するものが それを説明できないというなら、「無」、何もない空間、という ほうが、その源としてもっとありそうになるのだろうか。源 として「無」や「何もない空間」があるからこそ出現という こともあるわけだ。「ただいえることは、ある時点では何も なく、そして次に何かがあるということだ」と、ホイルは、 彼の定常状態理論では水素はどこから来たのかという問題 について、述べている。語源からいえば、出現とはそれ 以上のことを言ってはいないのである。 無から何かが生まれることがあるのだろうか。小川はその 水源より高い場所を流れるのだろうか。ここで話は、つねに 存在してきた、思考不可能の問題にぶつかる。ここまで 根源的な問題、その根本そして本質において存在論的な 感性に近づいてくる問題については、どんな議論を持って きても決定的な答えとはなりえない。というわけで、私も そういう議論には入らない。その代わり、この状況をその まま描くにとどめる。
もし、出現ということが、小川はその水源よりも高い方へ 流れることはないことを示すのならば、より単純なものを 創造する原理は、より複雑なものを説明することはでき ない、という意味だが、こういう考え方は、根源的なもの の見方と一致しているのである。そして、始原的な見方は さらに、何ものかが無から出てくることはない、ということも 示している。何事も無より創造されることなし。 このことは、進化とどういう関係があるのか。それは、時間 的な順序において、単純なものは複雑なものに先立つと いう事実を否定するわけではない。最初、ウィルスのような 微小な生物が生まれた。それから、生存に役立つ身体的 機能をそなえたバクテリアが誕生した。それから、自分で 動くことができ、目的にそった行動ができる原生生物。 そして、多細胞生物ができ、性的な生殖システムをもち、 神経組織はどんどん複雑化し、感覚器官の発達は、その 環境世界とさらに深く関われるようにしていった。意識という ものがどこでこの進化系列に入ってきたのか、よくわかって いない。だが、思考そのものは言語とともに誕生したので あり、それは人間に限られている。炭素測定法が徐々に 明らかにしてきたものごとの順番について、何も否定する 必要はないだろう。「創世記」はすでに、その創造の原理 について語っている。聖典やその注釈は、みなそのことを 語ってきたのだ。グレゴリオ・パラマスはこう言っている。
人間とは、より小さな世界の中に入っている大きな世界 であり、あらゆるすべてである一つの全体として集中した ものであり、神が創造したすべてのものの縮図である。 だから、人間は最後に創られたのである。だからこそ 我々も最後の結論としてこれを語るのである。 生命の進歩を否定するどころではなく、伝統は生命の進歩 の理由を示している(もちろん、それ独特の説明のしかた ではあるが)。小宇宙(ミクロコスモス)は大宇宙(マクロ コスモス)を鏡のように映す。だが、その鏡は逆さまの鏡 である。ここでの結論として言えば、存在論的順序において 最初のものは、時間的順序においては最後であるように 見えるのである。 伝統が否定しているのは、より高いものが、より低いものの 後に現われるということではなく、より高いものは、より低い ものによって生みだされるということである。そう否定する ことにより、伝統は現代の支配的な気分に反対する。 革命から秩序が生まれる(マルクス)、イドからエゴが(フロ イト)、原初の泥水から生命が生まれる(ダーウィン)。いた るところで、反射的衝動のように、より大なるものが、より 小なるものから導かれている。だが伝統はこれと反対方向 に物事を見ている。 どちらの方向であれ、どんな違いがあるのか、説明のため に、上を見るのか、下を見るのかでどこが変わってくるのか。 こういう問いをはっきりと立てる必要がある。そうでなけれ ば、ここで失望させてしまうだろう。
私はこれまで、生命の起源という問題について人の度肝を 抜くようなことを言おうとしているぞ、とたびたび示唆してき た。こうしたもったいぶった前置きがどんな期待を引き起こ すものか、想像に難しくはない。塵から直接に形づくられた のか?こうした期待がふくらんだあとの、驚きの答えという のは、実はちっとも驚きではないのである。 進化の順序というものは否定されない。最初はまちがいな くアメーバから始まった。生命はたしかに進歩している。 唯一の違いとは、一見すると二次的な問題のように思える ことにかかわっている。つまり、そうした進化が実現される、 その方法である。ほかの全ての点については、いま支配的 な見方を承認する。そうすると、衝撃波とされていたものは、 実はさざ波にすぎないことになる。生命はたしかに進化する。 いや、そうではないのだ。ここで問題になっているのは、 枝葉の部分ではなく、またどういう意味でも二次的な問題 なのではない。なぜなら、進化論とは単なる年代記、年表 ではなく、学芸員が化石を年代順に並べていくことを意味 しているのではないのだ。進化論は、説明原理となろうと しているものだる。進化論とは、人間にかかわるすべて、 人間の能力や潜在能力のあらゆるものが、一つのプロセス、 つまり自然淘汰によって説明できる、という主張なのである。
自然淘汰は、突然変異に対して機械的に働くものだ。これ について、最近では最も著名なスポークスマンに語って いただくことにしよう。「進化とは、自然淘汰が裁量してい る巨大な『くじ』によるものである。それは、まったくでたら めに引いた数字のなかから、わずかな勝者をめくらめっぽ うに選び出す、こうした考え方はそれだけでも事実と適合 している。奇跡は『説明』されているのだ」。 この最後の「説明」という言葉につけられた括弧は興味深い ものだ。それは、モノー自身が、ここで「説明」という言葉を 一般的ではない意味で使っていることを認めていることを 示す。モノーは、自分の心にあるその特殊な意味について 書いてはいない。だが、私から見れば、それは著しく普通の 用法から逸脱しているといえる。最初から進化論に対して 好意的な見方に傾いている人でない限り、モノーのいう 「説明」とは、まったく説明にはなっていないと思えるのだ。 彼の本を読み、進化論についていろいろと知ったとしても、 なお謎は残されたままである。
ここで、私がやろうとしていることをはっきりさせておこう。 なぜ、進化論についてこれほどのスペースを割いている のであろうか。それは、進化論はまさにこのテーマに決定 的にかかわってくるからである。希望は人間の幸福にとって 重要だからという理由ばかりではない。希望こそが、現代 の思想が最も混乱し、誤っているテーマであるからだ。 その誤りとは、希望を集合的な未来、人生の質を高めて いく未来の上におこうというところにある。こういう誤りが 生じた原因は二つある。一番目は、科学と技術がまざり あったことであり、もう一つの問題が残っている。それが 進化論である。 私は進化論を、現代精神の本丸と呼ぶ。それは、現代精神 の観点からすれば、あまりに多くのものがそこに基礎をおく ようになっており、希望そのものでさえも、これほどまでに 多くがつぎこまれている理論はほかにないからだ。このこと だけでも、進化論について警戒する必要があるだろう。 欲望は、その浴する方へと証拠を都合よく解釈するという ことを、私たちは知っているからだ。 平たく言えば、自然の中に働いている原理があり、自然淘汰、 それはより低いものからより高いものを生み出すように働く と信じることができる限りは、私たちは希望をもつことができ るのだ。神は復権したのだ。たしかに前とは違う神ではある。 だが「彼」もまた、ものごとがすべてうまくいくよう気をつけて いるという点では、似てもいる。その神は、昔の神と同様、 スタートのフライングも妨げることはない。だが、最終的な 勝利は約束されている。私たちは、よき手によって守られ ているのだ。
事実、最後の文は本当のことである。これまでの「希望」と いうテーマが暗に示している。だが、この「よき手」は、 幸いにも、自然淘汰の手ではない。「幸いにも」というのは、 自然淘汰説のもろさを考えれば、そう言わざるを得ない だろう。 ここでは、進化論についての本格的な論評に入っていく つもりはない。私の個人的な評価とはこうである。現代精神 がこれほど少ない証拠の上に、これほど多くの信頼をよせて いる科学理論はほかにないだろう。少ない証拠とは、その 理論を信仰しようという意志がないところで、その理論を 定立するために必要な証拠の量としては、あまりに些少 であるということだ。進化論の仮説は、その標準的な形に おいては、現代の西洋人にとっては受け入れられた信仰 に近く、その仮説を信仰しようとする意志によってどれだけ 支えられているのか、見えにくくなっている。だが、ここで その仮説を拡大してみるならば、そういう「意志」が、はっ きり浮かび上がってくるのだ。 進化論支持者である生物学者の判断を見てみることに しよう。ジャン・ロスタンはこう書いている。 私は、哺乳類は爬虫類から由来し、そして爬虫類は魚類 から生まれたと、かたく信じている。そうしたことを考えた とき、私はそれが理解できないほど法外なものであること から目をそらさないようにしている。とてもありそうにはない ということに加えて、くだらない解釈をつけ加えてしまう よりは、このわけのわからない変態がどこから始まって いるのか、謎のままに残しておくほうがましだと思う。
これはプロの発言としての価値はあるが、これもまた眉に つばをつける余地はある。ロスタンはたくさんいる生物学者 の一人に過ぎないのだ。彼は生物学者という組合のどの くらいの部分を代弁しているのだろうか。 というわけで、この問題の締めとして一つの予測を書くこと にしよう。これから百年後には、多分それよりも早く、進化 論という仮説の運命は、トマス・クーンが『科学革命の構造』 で提唱したテーゼの、最も興味深い実例となっていること であろう。 そのテーゼとはこうだ。科学者は、そのデータを理解する ために、その時支配的な枠組(パラダイム)にその事実を 注ぎ込みつづける。それは、それに代わる枠組が作られ、 そのデータをもっとなめらかに説明できるようになる時まで つづくのである。 その変化が起こる時は、かなり急激に変わる。ある視覚的 なゲシュタルトがほかのものに変わる時のように、「ぱっ」 と変わるのである。 こうした予測をしておいた上で、進化論問題の実証的な面 は終わりとしておこう。ふるいにかけられるべきデータは、 ここで論ずるにはあまりに膨大すぎる。
だが、形式という面からすると、もう一つのポイントがここで 注意される。もし、進化論仮説にその見せかけの信憑性を 与えているのが完全に証拠ではないというなら、そういう 見せかけの信憑性はどこから来ているのだろうか。すでに、 一つの説明として、人間は希望を必要としているということ に触れた。これについて、もう一つの説明として、科学という 営み自体に関わることをつけ加えておかねばならない。 あるケンブリッジ大学の教授がそれを指摘している。20世 紀半ば頃に出た自然淘汰についての本を論評して、サー・ ジェームズ・グレイがこう書いている。「どんなに議論を積み 重ねても、気の利いた警句をひねっても、この正統的な 進化論がありえないものだということは、隠しようがない。 だが、ほとんどの生物学者は、まったく考えないよりは、 ありえないことを考えるほうがましだと思っている」。 「考えない」ための一番良い方法のひとつは、論点となって いることを真理と仮定すること(論点先取)だ、というのが 科学においては公理である。つまり、あることを証明できて いるという主張のなかに、その証明すべきことがあらかじめ 前提されているということだ。
生命の起源を科学的に説明するための最初のテストは、 その説明においては、そこに働く力はそれ自体としては 生命という特徴を持っていないということである。この最初 のテストには、ダーウィン説は見事にパスする。「偶然」に も、「適者生存」にも、まったく意志や目的論は前提とされ ていない。そして、自然淘汰というものが、このテストに合格 しているただ唯一の、生命の起源についての仮説である ため、たとえ、それに続くテストであちこち失敗したとしても (それを支持する実証的な証拠はあるのか?それと相反 している事実を説明できているのか?)、お山の大将として の地位を失わないでいられるわけだ。生物学者といっても 普通の人と変わらない。ジェームズ卿が言っているように、 まったく何も考えない(彼らの基準において)くらいなら、 ありえないことの肩を持つほうを選ぶのである。
D・C・デネットは、心理哲学学会の創立大会(マサチュー セッツ工科大学、1974年10月26日)にすばらしい論文 を発表した。「なぜ効果の法則は消え去らないのか」と題 されたその論文では、特に認知心理学に焦点を当てている。 だがここで重要なのは、その論文が効果の法則とダーウ ィン主義との関連を明示しているところである。 ソーンダイクが紹介しているように、一般的に言えば、 効果の法則とは、成功した行動は繰り返される、という 主張である。それは、特に素晴らしい法則とはいえない。 デネットが言うように、その法則は、「十分な成果を収める ことに繰り返し失敗しつづけ、その失敗の仕方がだんだん 精緻になっている」という歴史をたどってきているのだ。 それにもかかわらず、そのしぶとさは老将軍以上のものが ある。引退するどころか、その影響力をまだまだ手放して いない。折りに触れて新しい称号があたえられる、一次的 強化の法則(ハル)、オペラント条件付けの原理(スキナー)。 だが、その仕事ぶりがよくなっているというよりは、むしろ この敬称は、いわば階段を転げ落ちてくるのを足で蹴飛 ばして上に戻しているようなものだろう。 では、その異常なまでの先取特権はどこから来ているの だろうか。
デネットは言う、「行動主義がほかの、もっと力のある基本 原理を探そうとしないのは、単にラバのような強情さや、 既得権への特権意識からだけではない。それはむしろ、 効果の法則は一つのよい考えだというのではなく、(知性に ついて説明するための)唯一のありうべき考え方だという、 強い確信のようなものがそこにある」。 デネットは続ける、「こういう確信には、正しいところもある」。 その正しいところというのは、それは、提案されている説の 中では、論点先取を犯していない唯一の説だということだ。 だが、この説にはまた、間違っているところもある。 その間違いは、皮肉な結果をもたらしてきた。行動主義や 末梢論(心理現象を身体の末梢的器官の機能や変化に よって客観的に説明しようとする考え方)によっている 「効果の法則」が論点先取を犯さないようにするために、 心理学者たちは、そこここで「小さな論点先取」を犯さざる をえなかった。理論に矛盾する事例が出てくるたびに、 その場しのぎの強化刺激やら、刺激の経歴やらの説を 持ち出して、効果の法則を「救おう」とする。だが、こうした ものには、理論的にそれが要求されるという以外、何の 根拠もないのである。
このように心理学の例を参照したのは、繰り返して言うが、 「効果の法則は、自然淘汰説の原理に非常によく似ている」 という理由からだ。実際のところ、効果の法則は、意識的に 自然淘汰説をモデルにして考え出されたものである。刺激 -反応というペアの「母集団」から、偶然にある刺激に対する 反応が生まれ、神経組織はそのうち最も適応性のある刺激 -反応のペアを強化する、というわけだ。神経組織は、それ が再現される確率を増やすことによって、それを「選ぶ」。 そして、「その一方で、適応性のない、あるいは単にどちら でもない刺激-反応は『絶滅』してしまう。それは、『殺される』 からではなく(すべての刺激・反応のペアは、すぐに終わって しまう)、『再現されない』ためである。(ダーウィン主義との) 類似は非常にはっきりしているもので、彼らはそれに満足 し、親しんでいる」。 こうした類似は、学習や知性についての生物学的、あるいは 「ウェット」なアプローチだけでなく、いわば「ドライ」なアプ ローチにも当てはまる。つまり、人工知能の研究であり、 「思考機械」を扱うものである。これもまた、ハーバート・ サイモンが指摘するように、自然淘汰である。人工知能と 認知心理学は、両極端の場所からスタートしている。 人工知能はあきらかに知性をもっていないメカニズムから 出発し、そこから知性を組み立てようとする。その一方、 認知心理学は、明らかに知性を持っている生物からスタート し、それをニューロンの点火、神経の反射、そしてコンピュー タの作用と同じような選択メカニズムにまで還元しようと する。だが、前に進むのであれ、後ろに進むのであれ、 その目的は同じなのだ。知性というものを、それをまったく もっていないものから導き出そうとするわけだ。
というのも、心理学はもちろん論点先取であってはなら ないからだ。知性を説明するために、知性を持ち出しては ならない。たとえば、知性が存在しているのは、知性ある 創造主が気前良くも生物に分け与えてくれたためだ、とか、 神経組織のコントロールパネルに賢いホムンクルスが 入っているなどと言ってはいけない、ということである。 もし、心理学がその程度のことしかできないとするなら、 心理学はその義務を果たしていないことになるだろう。 同じことは生物学にもいえる。こうした試みが、全体として どこまで成功するのか、生物を無生物から、知性を知性の ないところから説明すること、説明されるべきものがその 説明の中にまったく入っていないような説明を考えること、 この問題は、根源的なものである。ある意味で、伝統社会 から近代社会への転換すべてが、この問題に集約されて いるともいえる。
そして、私の目的は、レバーを昔の、もっと自然な(と私は 主張するが)ポジションに戻そうということなのである。 ここで、論点先取だという批判は何の解決ももたらさない。 というのも、あることを前提とするのは、議論の形式として は誤りであるとはいえないのだ。その議論の事実として 前提していることや、はっきり言葉にされていない仮定が 真理かどうかが問題になっているときに、論点先取という 非難を持ち出すことは、まさにその論点先取そのものを 犯していることになる。事実かどうかの吟味は別としても、 そもそもの論点先取の誤りとは何なのか、それをはっきり 述べることができるかどうかも疑わしい。私は論理学専門 の同僚に、論点先取の誤りはどう定義されるかをたずねて みた。「もし学生が来て、その誤りとはいったいどういう ものか、単刀直入に質問したら、どう答えますか」と聞いて みた。彼はこう答えた、「それについては、はっきりとした 定式は存在していない、と答えますね」。
私は、進化論仮説がなぜ肥大した地位を保っているのか、 それを説明しようとしてきた。そしてこれまで、それが希望 の基礎になっているということ以外に、方法論にかかわる 理由を見出した。つまり、進化論は、科学的であると認め られるような形式を備えている唯一の候補であるので、 本当はそこに要求されるはずの量のデータをもっていない のに、理論として通用してしまっているのだ。それに対応 する存在論的な理由としては、科学が研究をしている世界 では、ほかのどこにも、生命の起源を探す場所はないという ことがある。前に引用したジェームズ卿の言葉をわかりや すく言い換えれば、科学者はまったくなにも考えないよりは、 ありえないことを考えるほうを好む。だとするなら、帽子から ウサギが出てきたほうが、何もないところ、文字通り「無」 から出てくるよりはましだと思うだろう、というわけだ。
進化論の力は、近代科学に特有な、純粋に物質的次元 以外に、いかなるリアリティの『次元性』も考えることが できないということに由来する。近代科学は、種が『垂直に』 生成するということを理解することができない。 この、種が垂直に生成するというのはどういうことか。もし 「神」だと答えるなら、それは不正確だというわけではない だろう。だが、「特別に創造された」という説はあまりに 擬人的なイメージがつきまとっているので、もっと非人格論 的に言いかえるなら、それはエマネーション(流出論)で ある。 天上の領域においても、種は決して存在していないのでは ない。種の本質的な形、その原型は、限りなき始原の時 からそこに存在し続けている。大地がそれを受け入れる ほどに成熟したとき、それぞれの種は順番に地上に降下 してきて、世界に彩りを与え、新しい生命の形を生み出す のだ。種の起源とは、形而上学的なものである。
初めに、生存が可能である環境が準備されねばならない。 そこで、無機的な宇宙が成熟し、生命を支えられるほど までくる。そして生命体が到着するとき、比較的に未分化 な有機体から、複雑なものへというおおよその順序がある。 未分化といっても、決して単純ではない。電子顕微鏡で 見れば、単細胞生物は、驚くほど複雑なものだ。だが、 化石の資料からは、単線的な、連続したラインを思い描く ことはできない。無理にそうすることもない。たとえ、飛躍 が生ずる、それとわかるような生命の形、たとえば昆虫、 魚、爬虫類、鳥類、哺乳類などをつなげる一本の糸を想定 して、仮説の数を増やす必要はないのである。ある種の 魚が陸に上がって進むときに、ひれを使うとしても、その ひれに手や足になっていくような原始的な形を見たりする 必要は無い。鳥と爬虫類とが似ている点を誇大に考えて、 鳥は爬虫類から生まれたことを証明しようとする必要も ない。鳥と爬虫類は、骨格がまぎれもなく違っているし、 聴覚器官が作られている機構も全然違うものなのだ。もし、 クモがその獲物となるものと同時に出現し、その巣作りの 能力が完全に発達した状態であったとしても、そういう 事実にとまどう必要はなく、笑って受け入れることができる だろう。
ダーウィン主義は、種から種への変異についての仮説を 組み立てるために、突然変異種を使うわけだが、これに ついてはどうか。形而上学的な観点から言えば、こうした 突然変異は、その種が許容した変異だということになる。 それはあたかも、自然はこれまで考えていたよりもずっと 多産的で、生命を愛しており、まずはっきりと、ほかと区別 できる形の種を作り出し、そしてそれから、そこに変化を つけようとするかのようだ。自然は、その種の本質的な 限界を踏み越えない範囲で、ほかの種の形をそこに映し 出そうとしている。こうしてみると、突然変異とは、新しい 種を作り出すものではない。たとえば、イルカは何から 何の種になろうとしているのか、まだ証明されていない。 それはむしろものまねなのだ。ある種は、それとは本質的 に異なる種のやり方や姿を模倣しているのである。それは、 単に適応や生存のための、功利的な理由からだけでは ない。部分的には、多くの部分だが、それは「遊び」なのだ。 純粋な形を変えること自体の喜びなのだ。存在はそれ自体 とても良きものなり、ということで、神はその存在の可能性 を試してみる誘惑に勝てない。イルカやクジラは、もし魚 であったらどういう感じだろうかと思っている、原型的な 哺乳類なのだ。アルマジロは、「もしウロコをつけて、哺乳 類を演じたら面白いのじゃないか」と考えた結果、ああな っている。こういうイメージをさらにすすめれば、エサをつい ばみ飛び回っている虹色のハチドリは、自分が蝶であると 想像している鳥である。それはインドラの網のようでもある。 すべての宝石はほかの宝石と、互いを映しあっている。 それは「万物照応(コレスポンデンス)」である。
私はここでコンピュータの生成ユニットのようなことをして おり、テストユニットではないということは認めよう。だが、 ここでさらに踏み込んでいうならば、進化論者が人間の 前段階だと考えている骨は、もしかすると人間ができた 以後のものかもしれない。それは退化した派生種の残した ものかもしれない。初期の人類のサイクルが終息に迎え た、その一番最後の姿だということもありうる。実際、神話 が語るのは進化ではなく退化である。そして、後代の人間 の姿は、必ずしも進んでいるわけではないことも周知の 事実だ。シュタインハイム人はネアンデルタール人より前 にいたが、もっと「進化」している。 これはあまりに幻想的だと思うかもしれない。だが私は、 人間の起源という問題に入るにあたって、衝撃的なことを 言うと約束したはずだ。もしこれはいきすぎだとするなら、 それも考えがあってのことである。弁護のためには、こう 言えば十分だろう。私は何事も無責任に述べてきたわけ ではないが、最も確信をもって言えることは、次のことで ある。
現代の生物学モデルは、抗生物質を発見するなど、役に 立つところはあるが、生命の「理解」ということに関しては、 こうしたモデルはほとんど役に立たない。もっと言えば、 有害ですらある。諸科学において、物理学は存在論的に は最も低次のものである。物理学は、その最も原始的な 姿において物質を扱っている。それとともに、物理学は その世界を「見通して」、その輝ける彼方の世界を見ること において、経験科学のうち第一のものである。物理学は、 時間や空間が、二次的なものであることを「知っている」。 リアルであることの、想像を超えた、超越的な性質を 「知っている」。 もし、私がここで論じたことの細かい点が間違っていたと 仮定したとしても、これだけは確かだと思う、もし近代科学 が存続していくなら、ダーウィン主義を含め、今の生物学 における理論は、そのうちに(たぶん短い間に)、ニュート ン物理学と同様、不適切なものであることが明らかになる だろう。 生命科学は、音速の壁のように、その壁を突破していく だろう。その喜ばしい日に、生物学者たちは物理学者の ように語り始めるだろう。リチャード・ファインマンのように、 こう言うだろう、「私たちは、新しい世界観を見出さねば ならない」。あるいはフリーマン・ダイソンのように、「一見 したところ気が狂ったように見えないような考えには、 望みはない」。
にゃははは。
ここでようやく進化論についての議論を終えることができ たようである。進歩という考えは科学と技術に支えられて いるが、その最も主要な支えは進化論だったのである。 こういう支えに文句をつけることには気が進まないという 人もいるだろう。というのも、それ以外に希望を見出すべき 場所をすべて封印してしまった時代にあっては、進化を 攻撃すること、進歩のため残された最後の支えを無力化 しようとすることは、希望そのものを無力化することになる。 近代世界では、進歩とは、希望に許された唯一の形に なっているからだ。希望は人間の幸福にとってなくては ならないものである。 だが真理を取るのか、それともその結果が意味することを 考えて、真理から目をそらすのか、そのどちらかを選ばな ければならないとき、少なくとも、知識(グノーシス)の道に よって、神(リアリティ)に近づこうとする人々は、真理を 選ばざるを得ないことがわかるだろう。
94 :
没個性化されたレス↓ :04/11/06 21:53:00
なんだこれ? オリジナルの文章だろうな? 引用だったら通報するぞ
とりあえず張っときますね r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/ >::::::::::ヽ . 〃 ヽル1'´ ∠:::::::::::::::::i i′ ___, - ,. = -一  ̄l:::::::::::::::l . ! , -==、´r' l::::::/,ニ.ヽ l _,, -‐''二ゝ l::::l f゙ヽ |、 ここはお前の日記帳じゃねえんだ レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_ !:::l ) } ト ヾ¨'7"ry、` ー゙='ニ,,,` }::ヽ(ノ チラシの裏にでも書いてろ :ーゝヽ、 !´ " ̄ 'l,;;;;,,,.、 ,i:::::::ミ ::::::::::::::::ヽ.-‐ ト、 r'_{ __)`ニゝ、 ,,iリ::::::::ミ ::::::::::::::::::::Vi/l:::V'´;ッ`ニ´ー-ッ-,、:::::`"::::::::::::::;゙ , な! :::::::::::::::::::::::::N. ゙、::::ヾ,.`二ニ´∠,,.i::::::::::::::::::::/// :::::::::::::::::::::::::::::l ヽ;:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ / ::::::::::::::::::::::::::::::! :|.\;::::::::::::::::::::::::::::::/ /
身体張ってくれ!
97 :
没個性化されたレス↓ :04/11/06 22:16:25
なあ、この本って、そんなにみんなが書き込むほどの本か?
>>97 みんなって言っても案外,2,3名だったりすることはあるわけで。
個人的に,
>>29 だけよんで著者に感想をひとつ。
「テメエの知ってる『臨床心理』がすべてと思うんじゃねえぞ,この京大野郎」
有象無象のとりまく心理臨床業界について語るには百年はええや。けっ。
なんだかなぁ。
100
101 :
没個性化されたレス↓ :04/11/07 00:37:35
>98 その2,3人のうち一人は著者本人だよなぁw
>その2,3人のうち一人は著者本人だよなぁw だったら是非出てきて,あたしにご教授いただきたいですよ。 少なくとも,あたしが面白いと思えば,数十人の学生さんは買ったりするかもよ(w
103 :
没個性化されたレス↓ :04/11/07 11:21:50
>>98-102 しかしこの人も、
>>29 だけで書いちゃうなんて
あんまり誠実な人間でもなさそうだな。
自作自演だか知らないが、勝手に2,3人になっちゃって、
しかもその一人が著者本人だという。
だったらもっと盛り上がってるだろ。
しかもなんか威張っているわりには
よく読むとどうでもいいことしか書いて無いし。
この人のいう臨床心理とやらを
じっくり開陳してもらいたかったのだが。
まだほかの人のほうがまだ意見があって参考になるぞ。
言いたいことがあるならせめて読んでから書けや。
そしたら愚痴を聞いてやるよw
103は本人
105 :
没個性化されたレス↓ :04/11/07 11:30:09
まあ、心理学も 他学問の人から色々提案されてるってこったろ? 心理学にも望みがあって健全なことじゃないか
107 :
本人 :04/11/07 18:46:28
私が著者本人です。 106まで読ませていただきました。 まず、このようなスレッドをたてて下さった篤志家の方に御礼申し上げます。 インターネットが無ければ出来ない議論ですので、時代の変化が味わい深く思われます。 またこの2ちゃんねるという途方もないサイトを作られた方の、志に感動します。 さて、内容についてですが、どこかに書かれていました感想と同じで、 あまり読まれていないのだなあと、感じます。 29でしていただいた要約は、問題提起の部分と4章が中心ですが、 これはおそらくこの方が臨床家であり、臨床面の方向性を大事に 思われたからでしょう。もちろん、この結論を受けとめていただいたことは、幸いに存じます。 ただし、著者の関心と致しましては、41の方の書かれた通り、 2章と3章に重点があることは事実です。(それを「どうでもいいこと」と受け取られる方がいたとしても。)
108 :
本人 :04/11/07 18:47:03
2章と3章で言いたかったことを手短かに要約すれば、次の通りです。 ・19世紀後半以降の西洋以外の世界では、心の働きは無意識が あたり前だということ(これを最近のわが国でも輸入) したがって、「無意識の発見は無かった」 ・19世紀の中ごろに、西洋では意識を特別視、ないし万能視する思想 が産まれた。これが「意識革命」ないし「意識の発明」で、精神分析は この思想の一つの具現化である。 ・しかし「意識革命」は、特殊な思想史的事情から生じた特殊な思想で あり、その妥当性には疑問がある。 ・また「意識革命」は、内容的にはユダヤ=キリスト教思想を強く 引き継いでおり、宗教的に中立ではない。 以上の論拠に立って、4章の結論が導かれます。 結論には自信がありますが、著者としては、そこに至る論証の過程を 評価していただきたく思ってもおります。 なお、精神分析ないしその流れをくむ方法を中心に採り上げているのが 一つの片寄りだということは承知しています。(行動療法もじつはこの 仲間なのだという見解も含まれていますが、本書ではじゅうぶんに展開 できませんでした。) しかし、わが国の現状を見ますと、これらの心理療法を代表として 論ずることで、問題がわかりやすくなると考えました。 今回は、以上です。 今後ともよろしくお願い申し上げます。
わざわざ便所の落書きと言われる言いたい放題の 無責任な2チャンにお越しいただけるとは。 それと、あまりここに深入りしないほうがよいかと思います。 とりあえず興味深いので本を買って読んでみます。 ありがとうございました。
110 :
没個性化されたレス↓ :04/11/07 21:43:46
>じっちゃん あいかわらず、無防備ですね。でも、あなたなら、ここでもボウジャク無人に 大丈夫でしょう。あまり有益な議論になるとは思えないけど、がんばってください。
111 :
没個性化されたレス↓ :04/11/07 22:00:48
>著者としては、そこに至る論証の過程を 評価していただきたく思ってもおります。 1ですが、偏った要約をしまして、失礼いた しました。私も論証の過程に實川さんの 学問と人となりがよく表れていて、とても 興味深く読ませていただきました。 ただ、この板が心理板ということもあって 第二章、三章の紹介はあえてしませんでし た。申し訳ありません。 おそらくこうした著者ご自身とのやりとり は、匿名掲示板ではなく、ソーシャル・ネ ットワーキングにおけるような実名掲示板 のほうが適切なのかもしれませんね。 實川さんの所属されている研究会ないし 学会でそうした実名掲示板など開設され ているのでしたら、ぜひご教示ください。
>>111 >實川さんの所属されている研究会ないし学会でそうした実名掲示板など開設され
深く考えずに、レスしますね。心の諸問題考究会のホームページにありましたよ。
おいw、苦悩するドナ、見てないわけはないだろ? でも、いまさら出て来れないだろうけどw
114 :
没個性化されたレス↓ :04/11/07 23:46:21
>108 ここの記述だけ読んでの感想ですが、19世紀の西欧においてはじめて「意識革命」が 成立したという点には概ね賛成です(ただ、これはかなり普遍的にいわれていること ですよね。オリジナルな見解ではないと思います)。また、精神分析がその中においてはじめて あらわれたのもよくわかります(これも従来の識者からの指摘が多数あります) しかし、 >しかし「意識革命」は、特殊な思想史的事情から生じた特殊な思想で >あり、その妥当性には疑問がある。 のところですが、すべてのことがらはある「特殊な思想史的」パラダイムからしか 生じないのですから、この点で「妥当」うんぬんということばを使うのはおかしいの ではないでしょうか。では、なにが「普遍的」に妥当なのでしょうか。 そういう「普遍的な妥当性」を連想させるようなことば使い自体が、19世紀以降の 西欧近代的主体に特徴的なものいいではないのでしょうか?
115 :
没個性化されたレス↓ :04/11/07 23:49:08
↑ あ、「宗教的に中立ではない」というのも同じです。「中立」な立場など あるのでしょうか そのような超越論的な視点こそが、19世紀近代的発送で、あなたが 批判しているところではないのでしょうか
116 :
没個性化されたレス↓ :04/11/07 23:58:10
>112 そうでしたか。やはりその研究会に 掲示板がありましたか。確認すべきでしたね。
117 :
没個性化されたレス↓ :04/11/08 00:04:34
>112 「深く考えずに・・・」とかそ ういう失礼な言い方はやめろ。ただ、指摘 すればいいだけだ。お前のほうが相手の気 持ちを深く考えずにレスしていることに気 づくべきだな。
もうここではやめてください しかるべき所で議論してください
誤解があったようなので、誤りながら、訂正をします。 訂正 他者の掲示板の場所を、その掲示板の管理者に無断で2ちゃんねる上にさらすことに 私は抵抗を感じます。しかし、あなたがその情報を強く望んでいるようなので 深く考えないことにして、掲示板に関する情報をあなたにレスしますね。 その掲示板は、心の諸問題考究会のホームページにありましたよ。
120 :
没個性化されたレス↓ :04/11/08 22:53:37
>114
>(ただ、これはかなり普遍的にいわれていること
>ですよね。オリジナルな見解ではないと思います)。
>(これも従来の識者からの指摘が多数あります)
だとすると、ちょっと困りますが・・・・
ただ、もう少し具体的な著作と場所を挙げていただかないと、私には
わかりませんので、お願い致します。
>この点で「妥当」うんぬんということばを使うのはおかしいのではないでしょうか。
ここで妥当性を言ったのは、これらの知識が「学問的に立証された」ものだ
という主張がけっこうあるので、それへの警鐘です。
また、そのような一群の知識を持った人にのみ
心理臨床業務を行う免許を与え、それ以外の人を排除しようとする運動への
疑問の提示です。
つまり、独占的な免許制を目指すかぎりは、それを裏付ける妥当性が必要な
はずではないかという指摘であって、逆に、独占を正当化するほどの妥当性を
私が心理学に求めたのではありません。
なお、心の諸問題考究会のメーリングリストへの御参加は、歓迎いたします。
http://www.h4.dion.ne.jp/~kokoro_s/
121 :
没個性化されたレス↓ :04/11/11 16:32:51
魂とは,宇宙の森羅万象を駆動させている摂理そのものなのですよ
122 :
没個性化されたレス↓ :04/11/11 17:39:51
あいつが死んだら宇宙はおわりかよ、それなら?
あいつも君も、魂=宇宙のなかにあるのである
124 :
没個性化されたレス↓ :04/11/11 19:20:57
信じなくても魂=宇宙は目の前にちゃんとある
126 :
没個性化されたレス↓ :04/11/11 19:40:15
見えないんだが。。。見えるやつは幸せなやつなんだろうなあ。
127 :
没個性化されたレス↓ :04/11/11 19:42:03
カルマ落としとか始めるのか。www
128 :
没個性化されたレス↓ :04/11/11 22:05:56
こんなスレがたつたのですね。おまけにご本人?が書き込みされているなんて! 先生の和服がとてもお似合いで素敵です。それから苦悩する何とかさんの一言には とてもがっかりしました。ずっとドナしててね。 来年また先生のお話を聞きに学会にまいります。「心理学の哲学」所収の御論文の 延長線上にあるのが今回のこの著作のように感じたのですが、哲学と臨床心理学を 修めた先生以外には深められない領域であると思います。今後もご活躍をお祈り しております。
129 :
没個性化されたレス↓ :04/11/12 19:04:10
苦悩するドナあげ
☆ウガンダの人祖であるアナルファック好きの高橋浩二の娘の馬ナンビ☆ このコピペを見た人は、4分以内に5つ他のスレに貼り付けなければ色々大変な事になります。 また、このコピペの持つ意味が何であるかを議論しても、色々大変な事になります。 ちゃんと貼り付けると、とにかく色々凄く良い事ばっかりです。凄くとっても。 ヒャアアアアア助けてうっほおーーーーーーーわえふぁ!くぁwせdrftgyふじこlp;@:「」 ☆ウガンダの人祖であるアナルファック好きの高橋浩二の娘の馬ナンビ☆
あらびっくり,ホンマかどうかはともかく,自称「ご本人」さまご光臨でしたの?
>>107 >あまり読まれていないのだなあと、感じます。
すみません。読んでません。
たしかに,
>>103 のいうように,「失礼」なことではあるでしょうけれど,
それも,
>>109 にあるように,ここは「とりあえず噛み付く」のが礼儀な場なもんで。
で,もうご光臨されないかとは思われますが,
>>29 でも,
>>107-108 でも,そもそも前提が異なるように思われますので,
「臨床心理」とはなにかということにお答えいただければ,僥倖の極みにございます。
>>113 今見たよ(w
いや、降臨はないだろうし、やめたほうがいい。 気になるなら、ドナは本読め。
133 :
没個性化されたレス↓ :04/11/13 22:49:31
134 :
没個性化されたレス↓ :04/11/13 22:51:12
>>131 光臨するかもしれないから
今のうちちゃんと読んでおけ
ってゆーか,そんなに面白いの? むぅ,ヨパライで絡んだことをとりあえず,謝罪すると共に, そのうち買ってみるですよ。 読まねばならんのが山積みですので,いつ読めるかまではわからんですが。 そもそも,俺の頭で理解できるかもわからんち(w
わははは、死んでから読んでもおそくはないさ。
何をよんどる?
138 :
没個性化されたレス↓ :04/11/13 23:07:04
いや、あの人の性格上、たぶんまちがいなく本人で、また「光臨」すると思うよ
買ってみるかな。と思いつつ,amazonにいくと >哲学、心理学、宗教学、民俗学を総合した「世界学」を提唱。 ってあるので。それでなんかトンデモ臭を感じるのですけれど..... そもそも,現時点で「哲学」や「心理学」など個々の領域そのものを統合することすら不可能に思えるのだが...
140 :
没個性化されたレス↓ :04/11/13 23:11:08
ドナさらし(ゴメン)&本人降臨祈願あげ
きょだい妄想の著者のご交霊を待ち望もうか。
實ちゃんと呼ぶ香具師がいたり、あの人の性格上などという香具師がいたりで、 けっこう本人とつながりのある心理学者が書き込んでるようだな。 でも實川さん、ここは霊的な世界を粗末に煽る香具師ばかりだから、 もう光臨しないほうがいいかもしれませんよ。よってさげ。
>>142 >ここは霊的な世界を粗末に煽る香具師ばかりだから
むぅ,人の意見に惑わされてばかりですよ。
まぁ,とりあえず自分の目で見てみなきゃ分からんですな。
ということで,スレ汚し失礼。拝読させていただいて,感銘を受けたら
またお邪魔しますね。
144 :
没個性化されたレス↓ :04/11/13 23:27:10
880 :苦悩するドナ ◆oyDevpsyVg :04/11/13 22:57:04 sage
>だから、何所まで確からしいのか?
>という質問が絶えないんだろうね。
そして,「確からしさ」ということについては,
ヤパーリ,「科学的手続き」とか「論理的思考」ということが
必要なのだろうなぁと思うドナですけど。
血液型占いを信奉する学生さんならまだしも,
素朴なヒューリスティックを振り舞わず大先生にはゲンナリしてるですよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1082512577/880n ここまで言われて反論しない大先生ではないだろう
読まずに言いたい放題、ドナのホンネ、あげ
気にしなくて良い ドナだから
>>144 あははは,おっしゃるとおりですな。
まぁ,それこそ日常では誰しもがヒューリスティックを振りかざすってもので,
あ,言い訳になってねえ罠。
ということで,
>>143 に戻るですよ。
だって,名のある先生の本だって,トンデモなのが多いもの。
特に2chではってゆー,漏れの利用可能性ヒューリスティックなのですた。
>>146 ところで、ドナはなぜ、何を苦悩するのだ?
>>147 このスレで語ることではないので,膨大な過去スレを漁って欲しいのこころよ。
心理板、もうお終いって感じだね。誰もバカ相手にする気分じゃないみたいだし。 そういう時代なんだから、しばらく、バカどもの嘔吐物で飾っておくかねぇ。。
やっぱり、2チャンネルなんだよね。 まともな論議ができると思う方がおかしいんだね、きっと。
そうかもなー。。。。
『思想史のなかの臨床心理学』を拾い読みしてみて思ったのだが、 「無意識」「意識」の虚構性という点では、『臨床行動心理学の基礎』に 書かれている「無意識」「意識」についての考え方と似ているところがある。 全然違う傾向の本だし、考え方も違うのだろうけど、共通項があるのが 興味深いと思うな。意識の時代ということなのだろうか。。
>>81 etc
デネットの行動主義に対する考え方は、いつもよくわからない。
批判するかと思うと擁護している。そういう両義的な論じ方は何かの
意味があるのだろうが、それが何であるかが今ひとつはっきりしない。
なぜなのだろうか?デネットは志向性をどういう方向に伸ばそうと
考えているのだろうか?わかっている人がいたら教えてほしい。
『思想史のなかの臨床心理学』の著者が、行動主義もフロイト以降の臨床心理学(?)の 仲間だと考えているのだ、というレスがあったが、本にはそのことはあまり明確に書かれて いないように思うのだが。その辺りが、どのような場所であれ、明らかにされるといいと 思うのだが、どうだろうか?
ポランニー的な行き方がどこまでのばせるかとも関係あるのか、それ?
156 :
没個性化されたレス↓ :04/11/20 00:23:36
あげろよ。 漏れも買ったよこの本。 結局、村本さんの思想とどこが違うのよ。 まだ主観的な印象のレベルだけど、村本>實川かな? うーん、もう一度読み直してみるわ。そうしたら村本=實川になるかな。
157 :
没個性化されたレス↓ :04/11/20 04:31:29
個人のHPあるからググってください。
みんな、はやく、くたばれ
160 :
没個性化されたレス↓ :04/11/24 00:33:32
>>156 二人の考え方はちょっと違うのでは?
ニュートン派・實川 ゲーテ派・村本
ってな感じかな。中村の『臨床の知』嫁よ
本人はもう来ないの?ってか、誰も来ないな。 無意識を意識化してもだめ、ってことで論述されているが、 それはフロイトがすでに分かっていたことで、だからこそ徹底操作という概念が でてきたわけで。パーソナリティが変化するときには、いわゆる洞察とか気づきが 起こっているというのは学派を超えたコンセンサスになっているような。
162 :
本人でない :04/11/26 12:20:02
>徹底操作 は、意識化の徹底のことじゃないの? >洞察とか気づき も、理論的には意識化の深まりによって起こるように書いてある。
徹底操作はワーキング・スルーの訳語だからね 徹底するのはさまざまな抵抗の克服じゃなかったっけ で、結局幼児期の記憶を想起して・・・やっぱり意識化か 私の経験だと、何を意識化したわけでもなく、ある日突然「なおった」 っていう人がいたな。なおった理由がぜんぜん分からないんだけど、 神田橋大先生が症状を聞かないで直してみたってのを、知らないうちに やってたのかな。中井大先生も、いつもと雰囲気が違うんで「直った?」 って聞いたら「はい」って肯定したClのこと書いてたな。 結局なんでよくなるのかな〜関係の中の洞察では説明のつかない事例が多いね。
164 :
没個性化されたレス↓ :04/11/28 15:44:02
脳内の電気信号を全て捕捉し記述し解釈できるようになれば この種の論議は不要になるぞw
165 :
没個性化されたレス↓ :04/11/28 16:40:23
臨床心理士って何ですか?
>>164 > 脳内の電気信号を全て捕捉し記述し解釈できるようになれば
> この種の論議は不要になるぞw
馬鹿こくなよ。コンピュータの電気信号すべて測定できるが、それで、
そこで機能しているソフトウェアの動きがわかるなんて言ったら笑われるぜ。
167 :
没個性化されたレス↓ :04/11/29 12:58:24
話題提供なんだし そうすぐ否定せんと いろいろ理屈をこねてみてよー みなの衆
168 :
没個性化されたレス↓ :04/12/28 12:05:02
というわけで, 愛のあげ津波。
169 :
没個性化されたレス↓ :04/12/29 13:35:05
精神病の真実 (政治板)
http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1102516267/l50 世界大百科事典 精神分裂病と向精神薬 より抜粋
「分裂病の原因はなお不明だが〜発生頻度はあらゆる民族,あらゆ
る時代を通じ不変で, 0.7 〜 0.9 %程度とされ,日本でも同様だが,
1963 年の全国調査以後は信頼できる統計がなく,近年の頻度に増減が
あるか否かは明らかではない。」
「精神分裂病には抗精神病薬を数年にわたって長期与薬しなければなら
ぬが,あまり長くなると口や舌がもぞもぞと動いてしまう遅発性ジスキ
ネジアと呼ぶ副作用が出る。これを治すのは難しい。」
「向精神薬が脳のどこへどのように働くかについてはまだよくわからない」
「病気の機序が不明なところへ,作用のしくみがよくわかっていない
精神治療薬を与えて治そうというのには無理がある。」
170 :
没個性化されたレス↓ :05/03/19 12:06:57
これもなかなか良スレ。
バートランド・ラッセルはこう認めていた。「価値の領域は、 科学の外側にある。ただ、科学が知識の追求によって成立 しているという点だけは除く」。ラッセルが設けた例外も、 本当に例外といえるものではない。というのは、知識を 追求することの価値もまた、科学の前提とはなっているが、 それ自体は科学的に導かれた価値ではないからだ。 科学は、道具としての価値には関わるが、本来的な価値 には関わっていない。もし健康ということが目先の身体的 満足よりも価値があるとするなら喫煙は悪いことである。 だがその「もし」自体が正当であるかどうかを、科学は決定 することができない。言い換えれば、科学はものごとの状態 を正確に記述するという価値には関わるが、ものごとが こうあるべきだという価値には関わりがないのである。 科学は、その人間は本当のところ何を大事にしているもの かを言うことはできるが、人間は何を大事にすべきなのか を言うことはできない。市場調査や世論調査は科学である。 だが今の科学という言葉の使い方に関する限り、「最高の 善とは何か」の科学というものはありえない。規範的価値は 科学の守備範囲を超える。
価値、意味、目的に力があるのは、そこには質という要素 が含まれているからである。ある種の質(たとえば色など) は計量化可能な基盤(ある波長の光線)とつながっている ものの、その質自体は計量できないものである。知覚した ものがこうである、こうではないなどと言ったところで、 それを直接知覚していない人に対して、その性質を伝える ことはできないのだ。せいぜいできることは、ある質を持って いるものを、その質を持っていないものと比べることでしか ない。そしてその比較でさえも、そこで問題となっている 質がどのようなものか経験から知っている人に対してだけ、 意味を持つのだ。「計量できない質と関わることが不可能 である」ということは、科学は、ルイス・マンフォードが「質を 除去した宇宙」と呼ぶものと関わっていることになるわけだ。 価値、人生の意味、目的、質。これらは、海水が漁師の 網をすり抜けるように、科学をすり抜けていく。だが、人間 はこの海で泳いでいるのであり、それを視界からとり除く ことはできない。よって、科学的な「世界」観というものは 原則からしてありえない。その全体から見てみれば、 世界は、科学が世界だとしているものと同じではない。 世界とは、科学、哲学、宗教、芸術、そして日常会話が 世界だとしているものである。科学ではなく、人間のシン ボル体系の総和が、ものごとを測るものさしである。その 中において、科学はシンボル体系の一つにすぎない。
その意味における科学それ自体に科学がおさまっている 限り、科学に文句をつけるところはないのだ。だが、科学 主義となると話は別である。科学はその発見を報告する ことに満足している限りではよいものであるが、科学主義 は悪いものである。 科学主義は、科学が実際に発見したことを踏み越え、知識 に対するほかのアプローチが有効であることを認めず真理 には科学的真理以外の真理もあるということを否定する。 そうすることで科学主義は科学であることをやめ、形而上学 になる。しかも形而上学としても悪い形而上学である。 というのも、科学的真理以外の真理は存在しないという 主張は、「それ自体としては科学的真理ではない」のだから、 科学主義は自己矛盾に陥っていることになる。 科学主義はまた、宗教のようにもなっている。科学を過大 に解釈することによる世俗宗教である。その信奉者の中に、 偉大な科学者が含まれていたためしはほとんどない。
問題は近代科学であり、それを誤って解釈したことである。 ことの原因が科学それ自体だったとすれば、むしろ一つの 飛躍的前進であったといえたかもしれない。つまり、人類 にとっての新たなる旅立ちであり、無知と迷信の長い夜を へて新たな一日の始まりを迎えたということだったのかも しれない。 しかし原因は科学を誤って解釈したことにあった。しがたって 私たちは正しい道を外れてしまったのである。それを正す ことができたら、私たちは再び人類に合流することができる。 私たちの過ちは、科学が世界観を与えてくれると期待した ことにあった。今となっては、それが世界の反面、物質的で、 計量可能で、検証可能で、明確にコントロール可能な反面、 しか見せてくれないことが明らかになった。その反面でさえ、 いまや明確に描いてみることはできない。「視覚化」すること ができないのである。
科学はもはや、半分の世界についても、そのモデルを提示 することができない。二千年のあいだ、ヨーロッパ人はアリ ストテレスにならい、知性のある透明な天体に何層も囲ま れたものとして地球をイメージしてきたが、近代科学はその モデルを機械仕掛けの宇宙によって置き換えてしまった。 ポストモダンの科学はもうひとつの宇宙モデルどころか、 何のモデルも提示しない。「自然はどうしてこういうふうに なっているのか、そういう質問はご法度だ」、リチャードファ インマンはその人生を閉じようとする頃、学生に向かって そういうのであった。 科学を歴史の勝者として描く見方は、ほとんど近代の時代 精神になりかけていた。この見方はもう終わっている。その 理由は二つある。 一つは、科学はある特定の領域においては強力なもので あるにしても、価値や質など、経験的な方法では扱うことが できない他の領域が存在する、ということに私たちは気が 付いているからである。 もう一つは、科学が扱いうるものごとは、自然についてさえも、 意味のある一つのモデルに収斂することはもはやないと いうことである。
近代科学はただ一つの存在論的レベルしか必要としない。 つまり物質レベルである。このレベルの中において、科学は 知覚可能な物質からはじめ、そして最後にはまた知覚可能 な物質へと戻る。というのも、その仮説をいかに拡張して いったところで、ついには、それを証明するためには、測定 値を読み取ることへと戻って行かざるをえないからである。 その始まりと終わりの間に、仮説は見知らぬ世界へと入って いくかもしれない。その最もミクロな世界、マクロの世界に おいては、物質は奇妙な動き方をするからである。 だが、そうだとしても、その仮説が扱っている物質(あるいは 物質=エネルギー)は、最初から最後まで、時間と空間と いう構図の中に存在するものだ、という事実は変わらない。 たとえ、その時間と空間をいかに定義しなおそうと同じである。 宇宙のどんな片隅まで調べ上げても、ある意味で科学の 基本的な枠組を守っていることになる。つまり、時間、空間、 そして相互に転換可能な物質=エネルギーである。 科学が完全にこうした枠組に収まってしまうという事実が あるために、その中にあるものも、最終的にはそういう 性質のものとされることになる。 時空間的にあるという状態は、あくまで時空間的に存在 する状態である。あるいは、もっと抽象度の高いレベルで いうなら、数は数である。そして、数は科学の言葉である。 物体は大きいか小さいかであり、力は強いか弱いかであり、 持続時間は長いか短いかである。これはすべて数的に把握 できることである。
科学的な見方が、カール・ベッカーの言葉で言えば、近代 人の精神に「暴行を加えた」としても、それは完全に理解 できることである。 テクノロジーを通して、科学は奇跡を起こした。それに加え てその初期の段階では、こうした奇跡は人々の心が望む 方向にあったのだ。純粋科学がうち立てた知識の殿堂は 壮大なものであったが、何よりもそこには方法論があった。 証明することができるので、すべての人が真理に同意する ことができる。このため、この方法論は知識の累積を生み 出し、知識は進歩していくことができた。 人間がこれに改宗したとしても驚くにはあたるまい。この改 宗は強制されたものではない。科学者が帝国主義的であっ たからそうなったのではない。科学の業績はあまりに印象 的なものであり、その行進をせよという命令は心をわくわく させるものだった。そこで競ってその隊列に加わったので ある。 私も一度はその数の中に入っていった。そして、もします ます黙視できなくなっている事実が出てこなければ、今でも そのままでいただろう。
厳密に言えば、科学的世界観というものはありえない。 それは言葉の矛盾である。その理由は、科学は世界を 扱っているのではないからだ。科学が扱うのは世界の 一部分だけである。一回の一つの世界だ、と言うかも しれない。その通りではあるが、世界の半分にもならない。 それが科学の提供できるすべてである。 人間が「科学的世界観」に改宗したことは心理的に理解 できることであるが、論理的には、はっきりとした間違いが そこにある、ということだ。 科学的なリアリティ観の中に生きようとすることは、工事 現場の足場の中に住むようなものである。精神を理性に よって導いていこうとするかぎり、これは見やすい道理 である。
ノバート・ウィナーは次のように言う。「宇宙からのメッセ ージは『関係者各位』という宛先しか書いていない状態で 届く。科学者は自分に関係していると思ったメッセージだけ を開封するのである」。このように開封されるメッセージは ごく一部だけが選択されたものにすぎず、そうしたものから 作られたモザイクのような宇宙像が、宇宙全体をとらえて いるということはありえないだろう。 科学が物質の理解に成功したように、人間の理解も成功 させていこうという欲求、その間違いとは、物質を理解する ための道具は、人間の理解のためには非常に限られた 有効性しかないということが見えていないことである。 そして、人間のことを、科学という道具がぴったり来るよう な対象として理解しようとすることが、まず人間を低く見る ことにつながり、そういう道具では見ることのできないいろ いろな特性を視界から見失うことになるということ、これも 見えていない。
私たちはここで、科学の限界とはどのようなものか、見わ たせる場所に来た。 ものごとのありようを探求してきて、近代においてリアリティ が単一の存在論的レベルに還元されてしまったのは、 科学のもたらした結果であることがわかった。だが、その 論理的な結果ではなく心理的な結果である。これがさらに 明らかになったことであった。科学が発見したことのうち、 科学が扱っている領域以外の存在領域があることを反証 するようなものは、何もないのである。 また一方で、科学的方法について理解が進んでいくにつれ、 科学が置き去りにしているものごとがあることも明らかに なった。その無視されたものごとは、別種の存在階梯に属 しているのかどうか、科学はもちろん言うことはできない。 科学はそういうことについては何も語らないのである。科学 の方法ではそれらをすくい上げることができないという事実 は、ただそれらが、科学が記録するようなデータとはある点 において違った性質のものだ、ということを示すだけである。
近代文明が科学のふりをしているだけで実際には科学主義 にすぎない見方にとらわれている限り、リアリティは、科学が 映し出している姿のままに理解されてしまうだろう。 科学は視野の限られたファインダーをのぞいているにすぎ ないということが明らかになった以上、私たちはこうした誤 った観念から開放されたはずだ。 視野の限られたファインダーから見る景色は、限られた景 色である。
183 :
著者です :2005/05/21(土) 13:20:21
171-181に書かれていることに、おおむね賛同します。 私の書きたかったのには、こういう科学思想の背後に意識信仰があるということもあります。 もうちょっと整理、拡充して『心の諸問題論叢』に投稿していただけると嬉しいですが。
これと同じ流れにあるものとして、イタリアの精神医学・ 心理学者ロベルト・アサジョーリが作り出した「サイコシン セシス」という新しい心理学について紹介しておこう。 ユングでは、無意識はすべて一括して扱われていたが、 アサジョーリは、上位・中位・下位無意識を明確に区別 する。そして、上位無意識に「トランスパーソナルセルフ」、 つまり「高次の自己」があると考えられる。 サイコシンセシスの究極目的は、このトランスパーソナル セルフとつながることである。そうすると、万物のつながり、 圧倒的な愛の存在などが感じられ、他者への深い共感も 生まれてくるという。そのためには、私たちはパーソナル セルフ(通常の自我)への同一化を一時停止する必要が ある。
有効期限は何年ですか?
186 :
没個性化されたレス↓ :2005/07/19(火) 06:30:25
体験してみればすべての本質がわかる
著者は、精神分析が「発見した」無意識という領域を、 ユダヤ=キリスト教に由来する西洋思想の伝統から解釈する。 精神分析の科学としての自負の根拠などを解き明かし、 19世紀からの実証主義や、現象学における意識への還元も、 どれも実は、精神分析と表裏一体のものであったことを示す。 そして、その上で、精神分析すなわち臨床心理学は、 歴史において宗教が担ってきた重い課題を引き受けつつある ことを、率直に認める。 我々に深い反省を促す書だ。
一時期は、全国大学生協の人文書の15位あたりに位置し、 茂木健一郎氏もわずかにしのぐほどの売れ行きだった。 氏もこの本を買われ、読まれたそうだ。
をや? 實川さん,このスレに来てたのか。 ご苦労様です。
190 :
没個性化されたレス↓ :2005/07/23(土) 01:23:16
オモシロイですな
191 :
@ :2005/07/25(月) 22:23:34
代替医療の世界的な流れとして、まず1996年に、世界保健
機関(WHO)が、鍼灸における適応疾患を起草した。次に1997
年に、国立衛生研究所(NIH)が鍼治療の合意形成声明書を
発表した。ここは、アメリカの医学・バイオ研究の中心である。
そして、アメリカ政府は、代替医療分野の有効性を検証研究
するため、NIHの下部組織として、NCCAM(前身、OAM)に、
「アメリカ国立補完代替医療センター(
http://nccam.nih.gov/ )」
を設立した。
相補・代替医療(CAM)においては、そのいくつかをエネルギー
医療(Energy Medicine)と呼び、総体的に捉えられるように
なってきた。これは存在が推定される、エネルギーフィールドに
対処しようとする治療法である。
これは、人間という存在に、微細(subtle)なエネルギーが吹き
込まれているという概念に基づく。こうした生命力はこれまで、
異なる文化で知られてきた。
・中国では、中国伝統医学の気(qi)
・日本では、漢方医学の気
・インドでは、アーユルヴェーダのドーシャ
・プラーナ、オルゴン、マナ、ホメオパティックレゾナンス
それは人体を通して流れていると考えられている。だがそれは
従来の計測機器では明確には測定できない。セラピストは、
この考え方に基づき、実際に身体的な変化をもたらしている。
192 :
@ :2005/07/25(月) 22:26:28
こうしたエネルギー医療の開業医は、病気がこれらの微妙な エネルギーが阻害されることで生じると考えている。二千年以上、 アジアの開業医は、エネルギーの流れと均衡が健康を維持する ために必要であると仮定してきた。 ハーブ療法(Herbal medicine)、鍼(acupuncture)、指圧 (acupressure)、灸(moxibustion)、吸角法(cupping)、 どれも、例えば健康になるために、経絡(英語では子午線 meridianと呼ぶ)を通って、気(qi)の流れを回復させることで、 内部のバイオフィールドのアンバランスが補正される。また、 外気功(external qi)は、受信者に送信すると考えられている。 エネルギーフィールドの考え方を含んでいる代表例は以下の とおりである。 ・日本起源の霊気(Reiki)と浄霊(Johrei) ・中国の気功(Qi gong)の実践 ・手かざし療法 ・祈りの治癒効果、祈祷療法 エネルギー医療はアメリカの市場に好評を博しており、若干の アカデミックな医療センターの調査の対象になっている。最近の 全国健康統計センター調査は、参加者のおよそ1%がレイキを 利用し、0.5%が気功を使い、4.6%が何らかの治療儀式を 使った、そして、およそ30%が祈祷をした。
193 :
@ :2005/07/25(月) 22:34:40
推定されるエネルギーの存在の研究では、一人の人からの
エネルギーフィールドが重なることができ、他の人のエネルギー
フィールドと相互作用できることを示唆している。たとえば、
一方がさわると、もう一方の人の心電図信号は、その他の人の
脳波(EEG)と一致する。他には、二人が互いの反対側に静か
に座ったとき、心臓信号はもう一つのEEG記録において一致
する(ゲーリー・シュワルツらの研究)。
Russek L, Schwartz G.
Energy cardiology: a dynamical energy systems approach
for integrating conventional and alternative medicine.
Advances: The Journal of Mind-Body Health. 1996;12(4):4-24.
ロシアの研究者による理論では、「ねじれ場(torsion fields)」が
存在し、真空中の10の9乗の時間における光速を通して、通常
のエネルギーを伝導することなく情報を伝達すると主張する。
理論的にはともかく、現時点では、電磁気のエネルギーが示さ
れ、エネルギー治療者と患者との間のエネルギーであると仮定
された。しかし、このエネルギーの正確な性質は、まだ明白では
ない。
http://nccam.nih.gov/health/backgrounds/energymed.htm
194 :
@ :2005/07/25(月) 22:39:41
概念空間の境界で事象ポテンシャルが規定され(多くの場合 それは0)、外界とのポテンシャルの出入りがない世界を 「ディリクレ世界」、境界で事象ポテンシャルのフラックス(流れ) が規定され、外界とのポテンシャルの出入りがある世界を 「ノイマン世界」と定義してみよう。 我々の知覚できる世界は多くの場合(並列世界を仮定しない 現世界において)ディリクレ世界であるが、まれに並列世界 との間に干渉が起これば、それらはノイマン世界となる。 ディリクレ世界では閉じた系の中で事象ポテンシャルは保存 され、特に因果律については系内で完全に通用する(物理 法則が成り立つ)。しかしノイマン世界においては、領域境界 での因果律の流入、流出が行われ、系内でのみ通用していた 因果律は破綻する。例えば、遠く離れた地点で友人の死を 関知する(共時性の発現)。そうしたものは科学では説明でき ないと考えられてきたが、ノイマン世界においては、系内の 因果律の破綻は当然である。 またまったく同様に、個々の人間をひとつの系と見なし、人間 同士の接触を概念空間のそれと見なして、人間をノイマン世界 と考えることもできる。 つまり人間は、絶えず他人から因果律の流入を受け、自己の 因果律を修正しながらバランスを保って生きている。また内なる 無意識の刺激により、内的な因果律更新も行っている。
195 :
@ :2005/07/25(月) 22:42:35
自然科学が扱う自然法則は統計学上の真理であり、我々が 巨視的物理量を扱っているとき、それは完全に成立する。 我々は、主にこれを(我々の系内でいう)因果律と呼んでいる。 しかし、これがごく微量の領域においては通用しないことは ハイゼンベルクらの近代物理学によって既に明らかになって きているのは周知の通りである。 自然法則についての概念の根底には哲学的原理として因果性 が横たわっている。事象同士のつながりには、因果的なものが 接着剤として働いているという説明原理である。それでは、 非因果的なものとはなんだろうか。それは自然法則のカテゴリー に含まれない、統計学上捨てられる事象-事象間のつながり のないもの、すなわち一回性の偶然が挙げられるだろう。 我々は人生におけるさまざまな局面において意識的もしくは 無意識的に、様々な選択をする(もしくは様々な事象に出会う)。 これらのほとんどは一回きりのものであり、それらの選択ある いは事象の背景にはほとんどの場合、因果的なものは見受け られない。すなわち、我々は偶然に様々な道を歩み、偶然に 様々な事象を観測するのである。これは非因果的な事象の つながりと言えるのではないだろうか。 この問いには科学的手法では答えられない。なぜなら科学の 扱う自然法則は、上に述べたそれ自身の定義によるかぎりは、 統計学上の例外である偶然を扱うことができないからである。
196 :
@ :2005/07/25(月) 22:43:47
こういった例がある。ある日昼食に魚を食べる。その日誰かが たまたま、誰かを「四月の魚」にする(エイプリルフールでこけに する)習慣について話す。同じ晩、自分の論文中に魚に関する 記述を書く。ある患者が、印象的な魚の絵を数枚見せてくれ、 別の患者は大きな魚の夢を見たと報告する(ユング『自然現象 と心の構造』)。ユングはこれを意味のある偶然の一致、つまり 非因果的連関の事例と呼んだ。ユングはこれを、因果律の連鎖 とは別の、意味ある連鎖と考えた。 同じような事例を、フロイトも報告している。ただしフロイトは これらの偶然の一致を、無意識領域の記憶として説明した。 我々の行動は、我々の知らない因果律以外のものによるの ではなく、自我が失った記憶を無意識が持ち続け、我々が 無意識の記憶によって行動した結果、自我にとって因果的に とらえられない事象のつながり、すなわち偶然の一致が生じた と考えたのである。 この「偶然の一致」に対する、我々の回答は何であろうか。 我々はこの回答に用いる駒をすでに述べた。これを持ちいれ ば、我々の結果は自ずから明らかになろう。 我々の結論では、すべての事象発現は因果的である。しかし これは、ユングを放棄してフロイトに与するものではなく、その どちらも正しい、とするのが最も近いであろう。
197 :
@ :2005/07/25(月) 22:45:39
フロイトの事例では、事象同士には無意識が知るところの、 明らかな因果関係がある。だがユングの場合、本人が無意識 の記憶を知覚できない以上、因果律の実証ができない。 ではユングの場合、なにか別の必然性が彼にその行動を起こ させたと考えるのは正しいのだろうか。正しいのである。概念的 に考えると、この場合ユングはひとつのノイマン世界となって おり、領域境界から明らかに事象ポテンシャルの流入を受けて いる。ユングの述べる因果律とは彼の「系内の」因果律であり、 事象ポテンシャルの流入を受けている以上、系内の因果律は 完全には通用しない。そしてユングのいう意味ある連結、すな わち非因果的連関とは、系内に流入した事象ポテンシャルに より系内に新たに生成された因果律(外的要因による因果律) そのものなのである。 それではフロイトの場合はどうであろうか。この場合も、フロイト はノイマン世界となっており、事象ポテンシャルは自らの無意識 から流入する。彼の知らなかった因果律は彼の無意識からの 事象ポテンシャル流入で生成された内的要因による因果律で あり、フロイトはこの新しい因果律を自らの系内に取り込むこと により、事象同士のつながりを因果的にとらえることができた のである。
198 :
@ :2005/07/25(月) 22:58:03
ここで物理学的な概念に限定して整理しておこう。 量子力学では、遠く離れた2つの粒子が、エンタングルメント (絡み合い)とよばれるノンローカル(非局所的)な相関をもつ ことが、1964年、ベルの定理が破れることで、確定した。これ は数学的証明であるので、その意味は重大である。それは 実際に実験でも観測される。それがEPRペアとEPR相関である。 それまでの相対論では、光速度が規定する光の拡散の限界、 光円錐(ライトコーン)内の事象における因果律を重視するが、 量子力学では、光円錐外の事象における相関を重視する。 相対論は、ある時空点の状態の影響が光円錐の外に及ぶこと を禁止するが、光円錐の外にある二つの事象が実際に一致 することが確認されたのである。これを因果関係ではなく相関 とするならば、相対論では禁止できないし、実際に相関は確認 されたのである。 「エーテルは観測に現れてこないが、その幕の背後で何かが 超光速で伝わっている」とベルは説明する。そのときの量子 力学的作用は、例えば、「虚数を導入した拡張時空理論」や、 「隠れた変数(普遍的確率法則)」のような、通常の物理学的 作用で記述できないことに注意したい。 ではなぜこうした相関があるかと問われても、そこでは通常の 因果律が成立していない。相関関係はあるが、物理学的には 偶然であり、それそのものには量子論の適用は不可能である。
199 :
@ :2005/07/25(月) 23:09:26
無意識の存在は、意識よりも優位になり、晩年にはフロイト、 ユングいずれも、これら無意識のすべてを意識化するのは 不可能だと認めざるをえなかった。 ユングは、人類に共通の無意識を、身体に見いだそうとした。 それを裏切りとみて関係を絶ったフロイトもまた、晩年には、 ユングの影響を受けつつ、人類に共通の無意識の源を導入 したのだった。それもまた、身体に見いだされた。 フロイト最晩年の著作、『精神分析概説』につけた心の構造の 図では、身体と物質に通じる底の部分が開かれている。エスを提唱 した当時、閉じていた部分である。フロイトが「テレパシー」の 存在を認めたことに関係している。『続精神分析入門』によると、 母親と子供を同時に精神分析した結果、思考が直接伝わった としか考えられない事例に出会ったのである。フロイトのこの 「転向」は、弟子たちのあいだで激しい議論を巻き起こした。 フロイトとユングは、ともに近代科学的な立場との共存をはか ろうと努力した。少なくとも「意識的」にはそうだった。にもかか わらず、ともにそれは「身体の無意識」を基本とするような 心理学へと向かわざるをえなかった。
200 :
@ :2005/07/26(火) 00:19:19
日本の伝統的な宗教的治療である「祈祷」において、患者の 話も聞かずに祈祷してしまうのは、カトリックの告解が信者に よる「罪」の告白にこだわるのと好対照をなしている。言語と 意識を一体化するのは、臨床心理学が「原罪」のように背負う、 ユダヤ=キリスト教的伝統なのである。いや、精神分析だけ ではない。19世紀からの実証主義、現象学の意識への還元、 どれも歴史的には、ユダヤ=キリスト教的伝統なのである。 臨床心理学誕生の時代、イギリスのマイヤーズらは、スピリチュ アリズムと呼ばれる、霊魂の存在を科学的に実証しようとする 研究を行い始めた。臨床心理学も、これらのあいだをぬって、 自然科学のいまや正統派となった路線にできるだけ沿おうと 努力した。こうした多くの科学者が、無意識のすべてを意識化 するのは不可能だと認めてきた。 こういった例からわかるように、因果律は絶えず変容を繰り返し、 変化の中には当事者に知覚されない場合も多い。ならば領域 全体で知覚されない因果律、すなわち領域内では誰も知らない 事象の発現(領域内の何の事象とも連関しない事象の発現、 必然的に領域外での発現)が存在するのはむしろ当然である。 それは我々が選んだ選択肢の中の他の可能性であり、我々は その領域外の事象発現領域を、一般的な呼び名にならい、 「並列世界(パラレルワールド)」と呼ぶことができる。
201 :
@ :2005/07/26(火) 00:48:05
これまで紹介してきたように、アメリカでは、外気功、セラピュー ティックタッチ、レイキなどが、中国や日本から紹介され、現実に それは医療現場に広まりつつある。つまり、こうした新しい療法 が、欧米では近年、急速に普及しつつあり、心理療法も、瞑想の 指導に通じるような進展を見せている。 こうした動向についてニードルマンは、「現代人は、もはや心理 療法を求めているのか、スピリチュアリティを求めているのか、 わからなくなっている」と述べている。もしもこの方向に精神分析 が進むなら、そこで出会う無意識は実際広大であって、これまで の意識中心の理論を、根底からくつがえす可能性すらある。 こうして、「心の病」を癒すためには、全人格的な「人の生き方」 に触れないわけにはいかない。人類の長い歴史において宗教 が担い続けた役割の一部を、臨床心理学が担いつつある、それ が現実である。近代的なものをすべて否定できない。しかし、 前近代的なものよりすべて良くなっているわけでもない。それ ゆえ臨床心理学は多様性を持つべきといえよう。人間の知恵は、 自ら唯一の正統を決められるほどには鋭くない、その認識こそが、 我々の健全な懐疑論となる。 いずせにせよ、我々はここで、問題があるからといって、臨床 心理学を捨てることはできない。日本の文化の中ではまた、 言語と意識の異なる関係に基づく、新しい臨床心理学の可能性 を模索することもできる。我々の理論は、例えば行動療法もまた、 新しい考え方に基づき、捉えなおすこともできるだろう。 氏の著作には、臨床心理学は「心」に限定されない、代替医療 や宗教的実践に分散吸収されていくような、遠い未来へと向けた、 力強い志向性がある。臨床心理学に未来への展望が開けると したら、このあたりからに違いない。
202 :
風俗嬢 :2005/08/31(水) 09:15:30
203 :
没個性化されたレス↓ :2005/08/31(水) 09:49:10
眠い。G氏の話を聴いてるのと同じくらい眠い
ガンガレ!じっちゃん!
いまだからこそ再度言おう。 ガンガレ!じっちゃん!
206 :
没個性化されたレス↓ :
2006/01/30(月) 16:03:41 みんな! 一気にあげるよーーー