1 :
没個性化されたレス↓ :
04/08/23 12:26 最近、トランスパーソナル心理学ってよく聞きますけど、 日本でも学会活動とか活発に始まっているみたいですね。 誰か詳しい方おられませんか。 ウィルバーの本を読んだんですけど、 これは思想的にも間違いなく最先端をいってますね。。
ウィルバー・・・...φ(..)
4 :
没個性化されたレス↓ :04/08/23 15:14
頼む。。。。 これ以上心理板をどーーしようとゆうの?
5 :
没個性化されたレス↓ :04/08/24 18:08
>>4 ???
漏れも最近興味ある…
どの本から勉強したらいいですか?
お勧めの本がありましたらおしえてください
6 :
没個性化されたレス↓ :04/08/24 18:26
ついこの間まであったトラパスレは なんで消滅してしまったの?
書き込みなかったからじゃないの?
>>5 吉福伸逸『トランスパーソナルとは何か』
ウィルバー『無境界』
10 :
没個性化されたレス↓ :04/08/25 21:32
11 :
没個性化されたレス↓ :04/08/25 22:00
>>7 コピペの嵐で容量ギリになり、
>>966 を最後に書き込みが出来なくなったんよ・・・
12 :
没個性化されたレス↓ :04/08/27 00:06
>>10 >>12 こういうのを高校で習いたかったなぁ…面白いじゃん
つまんねー勉強に反発してたあの頃
15 :
没個性化されたレス↓ :04/08/29 05:52
何か本無いの?
16 :
没個性化されたレス↓ :04/08/29 15:35
>>15 現代のエスプリ435号(2003年9月15日発売?)が入門にはいいかも。
大きい本屋ならバックナンバーがおいてある。
17 :
没個性化されたレス↓ :04/08/29 23:42
今、菅靖彦がラジオ第2で父性についてラジオ講座やってるyp
18 :
没個性化されたレス↓ :04/08/30 03:09
>>15 『テキスト/トランスパーソナル精神医学・心理学』(日本評論社刊)
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jatp/textbook.htm これは、教科書として、アメリカで近年出版された
”Textbook of Transpersonal Psychiatry and Psychology,
Basic Books, 1996”の翻訳で、学会で案内されてるもの。
これで現在の状況の全体像がだいたいわかる。
ただ、とにかくいろいろあるから、
気になったものをどんどん読んでいったほうが面白い。
ここまで出たURLの先でも、かなり充実しているから、
そこからどんどん読んでいけば、いいと思う。
19 :
没個性化されたレス↓ :04/08/30 10:16
20 :
没個性化されたレス↓ :04/08/30 11:42
宗教の心理学はあっていいと思いますよ。でも、心理学の宗教はねぇ。。
まずは、自分の行動を意識化だ。 話はそれからだ。 これがないと夢の内容をただ語るだけになってしまうぞ。
22 :
没個性化されたレス↓ :04/08/31 05:40
>>20 あっていいとかで物事は進みませんから。
まずは現実です。
23 :
没個性化されたレス↓ :04/08/31 05:41
>>21 まずはあなたがどういう理解に基づいているか
話はそれからだ。
それがないと自分の思い込みをただ語るだけになってしまうぞ。
釣り釣られ
25 :
次回出演9.5 :04/09/01 16:46
菅靖彦はどう? こころをよむ 自由に生きる 創造的に生きる(下) 本当の大人になるには 菅靖彦 講師 ラジオ第2=日 午後1:20〜午後2:00 ラジオ第2=日 午後11:15〜午後11:55 (再放送)翌週 NHKブックス No.753 心はどこに向かうのか トランスパーソナルの視点 菅靖彦 著 1995年11月1日 866円 (本体825円) B6判
26 :
次回出演9.5 :04/09/01 16:50
NHKラジオ第二で4月からずっと放送中 9.5は黒澤明の「生きる」について 誰かのために動くのではなく「生きいきしたプロセス」 受身から能動へ 意識の転換=トランスパーソナル
<<23 君がこの書き込みに至った意識の流れを意識できるように なること。 また、人にまねをされた過去の苦痛の体験について意識できるように なること。 まず、話はそれからだ。 それがないと私をはじめとして、他者の精神的な餌食となってしまうぞ。 というかなっているぞ。
>>25 菅靖彦は三番煎じぐらいの人。もともと下手な翻訳家で、自分で
トラパを研究してるわけじゃないでしょ。ドラッグ経験は豊富かも
しれないけど。
この界隈はジャンキーだらけですか?
ビーフ・ジャーアキーね。
日本にトランスパーソナル心理学を紹介した吉福伸逸自身がジャンキーだもん。
あんたは、やんキー?
コピペ。宗教板で見つけた。 >ドラッグでも使う人間の資質と使い様によっては かなり深い所まで行けちゃうみたい。 日本に最初にトランスパーソナル心理学を紹介したY氏 はカリフォルニア在住時代にLSDで深層世界へのダイブを 無数に経験し悟りを得た、とか言われていますね。 また、京都大学医学部の元教授・精神医学者のK先生も LSD合法時代に10年近く自分自身を用いた実験を繰り返し、 精神科医というよりも教祖にでもなれるほどの深い洞察力と サイキックをお持ちになることで有名ですね。 私はドラッグを肯定するわけではありませんし、違法なことを するつもりもありませんが、こういった人間の本質的進化の 触媒となる可能性のある物質は合法的に研究されるべきもの だと思います。 そういえば、1987年ごろ開かれた日本人間性心理学会では上述の Y氏がゲストとして招かれていて人間性心理学会会長水島恵一教授 から「Yさんは今どのような境地を生きておられるのでしょうか?」 と質問されたことがありました。 Y氏いわく「無風の地平にヴェーダンタ哲学で言うような一条の風が 吹き渡った状態でしょうか」といった応答をされていました。 満場の心理学者たちの羨望のため息がフーッと吹き抜けた会場でした。
>>33 Y氏=吉福氏を神格化したい向きがあるようですね。
実際の彼はカリスマ性はあるけど、かなりエゴの強い人物ですよ。
35 :
没個性化されたレス↓ :04/09/03 12:28
>私はドラッグを肯定するわけではありませんし、違法なことを >するつもりもありませんが、こういった人間の本質的進化の >触媒となる可能性のある物質は合法的に研究されるべきもの >だと思います。 こういう言い方って虫酸が走るなぁ。本当は肯定しているくせに、 どこかで合法化して研究してくれって依存して、自分はいいこぶって安全圏。
37 :
没個性化されたレス↓ :04/09/03 21:35
38 :
没個性化されたレス↓ :04/09/03 21:49
>>20! ちょっとまったーーーーーーーーー!!!! その島薗て「精神世界のゆくえ」 とか書いてたのか?違った奴だっけ? なんかアレ微妙に懐疑派入ってなかったけ?いい本であった んなのに > (日本トランスパーソナル心理学/精神医学会顧問) ↑↑↑ みたいなカルトかぁ? 残念やな
島薗は新宗教ネタの関連でこっちに出入りしてるだけで トランスパーソナル自体とはそんなに関係ないんじゃないの? といってもあんまり氏の本読んでないからよく知らないけど せっかくだから俺も引用。旧NIFTYの96年ログ(発言者はサブカル系デザイナーの神崎夢現) ------------- 主幹はドラッグの中でもLSDを積極的に賛美していた。その為に●+■内部で は、LSDに対する盲目的信仰に近いものがあり、私も例外ではなかった。以下に、 『トランスパーソナル心理学の理論と実践・講義録』を一部引用する。ここにトラ ンスパーソナル関係者のLSD観を垣間見ることができるだろう。 「(…略…)もちろん、サイケデリックな方法(注・LSDを 摂取すること)ができれば、ほとんどの人がある種、非常に深い ところを体験できるのですから、それに越したことはないと思い ますけど、その無理やりにやりますと、その準備ができていない 場合には、逆にそのセッションをとおして精神的外傷をつくって しまう場合もあるんですね(…略…)」 しかし、実際には準備が出来ているかどうか、という判断自体が独善的であった 上に、かなり適当に関係者へLSDがバラ蒔かれていたことは確かで、私も良質の LSDを何度か受け取ったものだったし、私が持ち込むこともしばしばだった。だ からと言って、LSDによって当時の私や関係者全員の誰もが、素晴らしい人間に なったわけではなかったのだ。主幹はスタッフには仕事のギャラを事務所に入れろ と言っていたのに、自分のギャラは事務所にではなく自らの懐に入れてしまってい たし、こういった数々の現実は、トランスパーソナル心理学の実践には、あまりに 程遠いものでしかなかったというのが、Aと私との共通見解だった。
YはLSDだけじゃなく覚醒剤も使ってたよ。 それからYの我流の「セラピー」で精神に障害を来した者も 何人かいる。
トラパ=ドラッグがらみと批判するアカデミズムは糞。 60年代のLSD合法時代にはいろいろ不幸な事故や事件も あったけれど、日本の各地の大学医学部でもいろいろ 臨床実験やってたじゃない。 その結果(善しにつけ悪しきにつけ)人生観かわって しまった人も多かった。 漏れの恩師(本業は精神科医)も学生時代に臨床実験志願 して人生観かわったらしい。 定年退官したら出家して瞑想生活を送りたいと言ってた。 どんな体験だったのか聞けなかったけれど相当トラパ的な 深い体験だったのだと思う。 個人的には、核エネルギーの利用がOKならばLSD利用も OKにしなければ人類のテクノロジーと叡智のアンバランス は永遠に直らないだろうと思う。
42 :
没個性化されたレス↓ :04/09/04 12:47
>>41 最後の3行はすごい言い方ですね。でも、ブレスワークは
LSDではないいわば漢方薬ですね。
>>41 そういう君はつい2,3年前まで合法だった向精神性のキノコは当然食べただろうね。
44 :
没個性化されたレス↓ :04/09/04 18:57
クンクン・・・ 自演臭いな。。 クンクン・・
45 :
没個性化されたレス↓ :04/09/04 22:20
>>44 気のせいだ。病気だ。
「相容れない考えがたった一人に見えてしまう心理」スレへどうぞ。
>>43 合法時代にキノコ食ってトラパに目覚めました。
今は素で瞑想するのみですが、瞑想で深い理解に
至るまでにはまだ修行できてません。
まぁ、この辺の領域はライフワークとして死ぬ瞬間
まで見つめ続けていきたいと思っています。
カレン・アームストロングの『神の歴史――ユダヤ・キリスト・イスラーム 教全史』(柏書房)を読み終えたが、大変参考になる本であると同時に、 限界も見えた。歴史というのは結局著者の世界観の表明である。 要するに、著者のカレンさんは、人格神への信仰を失っている。つまり、 ペルソナをもって人間に語りかけ、また歴史を動かし、ついには地上天国 を樹立すべく宇宙を「経綸」するものだ、という、ユダヤ・キリスト・イスラ ームの伝統的な神観を放棄している。というより端的にそれは「信じられ ない」と感じていて、仏教のように、「内面に見出される神」のみを受け 入れている。
『教父と東方の霊性』では、プロティノスについて次のように書いている が、これは妥当な見解である。 「神の超越と善性、および生ける神という理解はヘレニズム思想の内に 同化できたが、それに対し位格神、その愛が個々の人格を自由に喚び 起こし、探し求め、再び見出し、回復するところの、そして個々の人格の 自由が神の自由の中で開花する、そのような位格的な神は十分に 考察しえなかったのである」p.218 こういう限界が「トラパ」の中にもあることは容易にわかるであろう。 また、日本人の霊性の歴史において、この、「人格的な交わりの内に 決断を促す神との対話」ということがどれだけ存在してきたのか、 私たちはいまだ、キリスト教的霊性をほとんど理解できていない。 しかし、現代西洋のインテリも理解できなくなったことが、「トラパ」の 非キリスト教的性格を生み出していることもある。 現在、大衆的な支持を受けている『神との対話』シリーズにせよ、また エドガー・ケイシーにせよ、それはいずれもカルマや、輪廻を通じての 霊的進化を説くことによって、多くの人に神への信仰を回復させたので ある。しかしこういう流れを、カレンさんは無視している。そこが、まだ 近代的地平を超えられないところである。
もう一つ指摘したいのは、やはり彼女は、「物質世界は自然法則に よって運行され、その外部次元からの介入は一切ありえない」という 「閉じたニュートン宇宙」を信じている。ここがひじょうに近代知性的 である。 「精神の力により物質的な秩序が変更されることもあり得る」という ことは絶対、認めないであろう。まさにこれが、超心理学へのバッシ ングの原因となっている、根深い「近代的信念」である。 つまり、外界は外界、内界は内界で、宗教や神の問題は外界と無関 係な内界の問題として考える。これがカレンさんの立場でもあるが、 はっきり言うと、こういう発想でも、もう行き詰まっている。 超心理学をどれだけ真剣に受け取るか、というテーマが近代的知性 には課せられている。これでは「創造する神」への信仰が持てない のは当然のことである。
超心理学(その先駆としてのイギリスの心霊研究などを含め)のほか に、もう一つこの本で「書いていないこと」がある。それはスウェーデン ボルグである。彼の「霊界リポート」は西欧の精神世界に大きな影響 を与えたが、これが全く無視されている。 実は現代は、この種の「霊界リポート」が大量に出回っており、それが 大衆レベルでの宗教意識にかなり影響を与えている。しかしこれは インテリ層はすべて「ニューエイジ」の名の下に強く抑圧しようとする ものである。それは最初から「いかがわしい」ものである。たしかに いかがわしいものも多い。しかしすべてにアレルギーを起こすだけでは 弁別能力もついてこないだろう。 というわけで、『神の歴史』は、その神への理解という点では、いま 精神世界をいろいろ勉強している人々にとっては、ひじょうに保守的 な「近代的インテリ」の限界を超えるものではない。しかし、そういう 精神世界もいまだ十分に知性的な言葉を見出していないわけで、 その辺が私の取り組むべき課題なのである。
いろいろコムツカシイ言い方をするが、要するに言いたいことは、 「近代的な知的世界の内部からは、真実をついた言葉は出てこない」 ということである。 それどころか、うっかり真実を言うと袋だたきに会いかねないという コワイ状況も存在していたりする。私が時々難しい言葉で武装するのは、 飛んでくる弓矢や槍を避けるための「盾」のようなものであり、そういう 厳しい白兵戦の世界における武具なのである。だから一般の人が それを読んでわからんと落胆することはない。わざとわかりにくく書いて いるのだから(笑) 一般の人には、私の戦いがいかに厳しいものか 想像もできないであろう・・ 隙あらば斬られるのである。 とまあ、時にはオドカシをかますのも楽しいものである。ともあれ、 多くの人は「宇宙的な真実」をついた言葉を求めているのだというのは 私が実感することである。 本離れといっても『神との対話』や『聖なる予言』など、ある真実の ヴィジョンを示そうとした本はちゃんと売れているのだから、読者は きちんと「良書」を選択しているのだと思う。 出版社が出す本が読者のニーズに合っていないということで、 編集者の頭が古すぎるのだ。
そんなわけで気分転換に『神との対話3』を取り上げて適当に開き、 読み始めた。 この世を去ったばかりの魂は、注意深く思考を監視することを学ぶ。 ・・ 物質的な世界の魂が、霊的な魂と同じくらいすばやく効果的に 思考をコントロールする方法を学べば、人生はがらりと変わるだろう。 個々の現実の創造に関しては、思考のコントロールがすべてなのだよ。 思考のコントロールとは、最高のかたちの祈りだ。だから、良いこと、 正しいことだけを考えなさい。否定的なことにこだわり、闇のなかにいて はいけない。たとえ、ものごとが荒涼として見ても、いや、そういう ときこそ、完璧さだけを見つけ、偉大さだけを表現し、それから、つぎ にはどんな完璧さの実現を選択しようかということだけを考えなさい。 これは真実だと思う。だが、今までの哲学思想では、このことは完全に 表現できないようだ。しかし、「自分の現実は自分で作り出す」ということ は、唯識思想の中に明確に存在する。さらに重要なのは次のことだろう。 生命にはつねに、三つの選択肢がある。 @コントロールのきかない考えに「いま」を創造させる。 A自分の創造的意識に「いま」を創造させる。 B集合的意識に「いま」を創造させる。 『神との対話3』は実にすごい本であると思う。そこで語っているのが 本当に「神」であるのかどうかは、さしあたりどうでもいい。語られている ことが真実であることが直観できるのである。私がこれまで学んできた ことと矛盾することは一点もなく、さらに見事な表現ができている。
この前から、「Modern Esoteric Spirituality」の、Antoine Faivre による 「Ancient and Medieval Sources of Modern Esoteric Movement」を 少しずつ読み進めている。ギリシャからヨーロッパへの精神史的な 連続性が一望の下に明らかになる感じで、久々の知的興奮である。 私はようやく、学校などで教えられてきたヨーロッパ像から完全に脱却し、 「叡知的世界」の関わりのうちに、どのように人々が真理をめざしてきたか という視点においてヨーロッパ思想史を眺めることのできる地点に達した という感じである。 ここまで来るにはおそろしい量の勉強が必要だったが、既成観念を くつがえすのはそれだけ難しいということだ。 「権威」によって執筆されている「倫理社会」の教科書を初めとする 「公式的思想史」では、現在の我々自身の探求とダイレクトに結びつく ことがない。公式的思想史は、もはやインテリの陥った袋小路のような 「ポストモダン」で行き止まりになるしかない。 それではなく、ギリシャの叡知的伝統から始まり、キリスト教思想と絡み 合いながら、近代の神智学が成立し、それがまたドイツ観念論などとも かかわりつつ発展し、それがアメリカの超越主義に続き、現在のニュー エイジ思想へと連続していく・・・そして、ここに東洋的霊性とのブレンドが 入ってくる・・ というふうな一貫した流れで把握することが必要だ。 そうした中で、日本的霊性、あるいはアジア的霊性(これにもいろいろな ものがある)をどう受け止めるかという問いが入ってくる。 もちろん私がめざすのは思想史を書くことではなくて思想そのもので ある。しかしそれは、過去の思想を「人類の、真理への努力の歴史」 としてどう受け止めるかということと切り離すことはできない。
どうしても、「本物」を知っている人、ということになると、ヤコブ・ベーメ とかシュタイナー、ということになってしまう。それを繰り返し読む方が 得るものは多いなあ、と感ずる。 ベーメは錬金術の語彙がハードルで、なかなか近づきがたい。 シュタイナーでは『神智学』『いかにして・・』『神秘学概論』の三部作を 徹底して読むというのがやはりよい。それと、いまの日本の思想家 では、私は高橋巌が最高だと思っている。 岩波書店などの本は一切読まなくてさしつかえない。 それから、『神との対話』シリーズとか、そういうものが現代における 「Good News」(=福音)の媒体となっているというところもある。 要するに〈イデー〉にまで高まっていない「概念」だけを使ってコトバの 構築をするというゲームからはとっくに降りているということだ。 本当に、お金を出して買うほどの本は少ない。私は商売なので、 いちおう今出ている本には何が書いてあるか知る必要があるから そうしているので、ふつうの人は、ごく少数の「これは」という本だけを 繰り返し読んでいればそれでいいと思う。自分で買うほどとも思え ない本は、研究費で買っているわけだ。
霊的思想のソース 顕教的に 玉城康四郎−−これからの仏教論の基礎。 井筒俊彦−−東洋の霊的思想復権。やや、新プラトン主義的な理解で あるかもしれないが、日本で初めて階層的存在論を展開した。問題は そこの「本質論的バイアス」をはずして、エネルゲイア論的に捉え直す ことである。 ウラジミール・ロースキー−−キリスト教の霊的エッセンスを学んだ。 キリスト教の霊性はここに集約されている。 マイケル・マーフィー−−人間のさらなる進化方向を示唆する。 コルバン−ヒルマン−フェーブルのライン−−「イマジナル」の世界を確立。 ケン・ウィルバー−−全体としては疑問が多いが、その中で認識論、 世界空間論だけは取り上げるに足る。 唯識−−心と世界の成立について整理した理解を与える。 ヨーガ・気功などの伝統的な微細身体論・微細エネルギー論 (かなり密教的か??) 密教的に(詳しいコメントは避ける) 本山博、五井昌久、高橋巌、シュタイナー、ホワイト・イーグル、 ヨガナンダ、「神との対話」シリーズ、「黎明」、ダスカロス・・ ・・このあたりは、「どの程度まですくい上げることができるか」 ということである。 見渡してみると、まだ、「気」についての思想的深化というものがなされ ていない、という気がする。つまりは、「タオの哲学」ということでもある。 その現代的展開がまだないのだ。これを「霊的エネルギー論」として 純化し、キリスト教の「神のエネルゲイア」論をも包括するというのが、 私の計画だ。
ペイゲルスの『アダムとイブと蛇』を少し読んでいて、アウグスティヌスの 話などが出ているが、その霊的理解力のレベルの低さにはあきれて しまった。ここまで真理からはずれた思想が西欧世界を支配してしまった とは、まさに暗黒時代といわずして何であろうか。西欧はそれからなか なか立ち直れなかったということだろう。 いまだに、『神との対話』などが、性への罪悪感を払拭しようと一生懸命 であることでもわかる。 私にはアウグスティヌスの暗い人間観はまったく許し難いものだが、 すべての西欧人がそういう影響を受けていたというわけでもない。 たとえばハイドンの「天地創造」などは、そのような伝統キリスト教の 暗さなどは微塵もない、「神の栄光への賛美」をつらぬいている音楽で、 こういう霊性はネイティブ・ピープルでも理解できるものである。 それで思い出したが、バッハの「マタイ受難曲」を最大の曲だという人が いるが、私には賛成できない。ここでのキリスト教のとらえ方は「西欧的、 あまりに西欧的」であり、イエスの受難の苦しみをこれでもかと描いていく 音楽で、この感性についていける日本人というのは私には不思議に思える。 バッハのカンタータにしてもあまりに「原罪」の意識が強く出過ぎてついて いけないものが多い。つまり、私は神学的にバッハには全面的に賛同 できないのである。たしかにそれが、人間精神のある一面だとしても。 147番のカンタータは私の好きなものだが、歌詞には「救い主を言い表さ ない者には、恐ろしい裁きが待っている」などという嘘八百が述べられて いる(バッハが作詞したものではないが)。こういうところが気に入らない。 私はそこで「こういうものを理解しないと西欧文化は理解できないな」 などと殊勝に構えたりはしない。間違っているものはあくまで間違って いるのだ。
プロティノスを読んでいた。残念ながらいま「プロティノス全集」は絶版、 古本はなんとセットで六万円もする。そこで「世界の名著」版だけしかも っていないのだが、これに出ていない論文については、英訳で読むこと にした。これはマッケンナによるものが、フリーテキストとしてインターネ ットに出回っているのである。そこから、魂に関する論考などをあれこれ 読む。 結論から言えば、プロティノスにはほとんどすべてがわかっていたという ことだ。 プロティノスが昔からあまりはやっていないのは、読む人にそれだけの 理解力がなかったからなのでは? と思わせる。幸いにして、私が書 いた原稿には、プロティノスが書いたことと矛盾することはまったくなか った。 きょう読んだものには、カルマと再生のことがたくさん出ていた。これも 仏教の教説と本質的に違うところは発見できなかった。 というわけで、私としてはだいたいそのラインのものを、これまでの人類 の思想のなかで最も真理に近接したものと見なしてさしつかえないだろ うと考える。
最近の精神世界本の中で、そういう古来の真理と最も近い水準に達して いるのは、なんと言っても『神との対話』シリーズであろう。 これは、プロティノスとも根本的な矛盾は何もない。それは読めばわかる。 この本にぴんと来ないという人は、失礼ながら、まだ本当に「神」に向き 合う準備ができていない人ではなかろうかと私は思う。それほどにこの レベルは高い。 あとは、シルバー・バーチ、ホワイト・イーグル、五井昌久、本山博、そして シュタイナーである。このあたりを読んでいれば、自然とわかってくるもの があるだろう。これらのいずれも、プロティノスと矛盾する点は見出せない のである。 ブラバツキーなどにはあまり手を出さない方が賢明であろう。 しかしまあ、私から見ると「なんであんな本がいいの?」というのを一生 懸命読んでいる人を否定することもできないだろう。
「すべては完全、必然である」という、ニューエイジでよく言われる言葉 がある。しかしこれは考えようによってはとても危険な思想でもある。 たとえば、道に誰かが倒れて、苦しんでいたとしよう。その時、「これは、 この人にとって最善のことが起こっているんだから、いいのよ」とつぶや いて、その横をスタスタと通り過ぎていく人というのを想像してみるとよい。 あるいはここで、「苦しむのは、自分が苦しみたいから苦しんでいるんで しょ」という言葉をさらに言ってもいいであろう。という調子で、どんなこと でも、自分に都合のいいように使えてしまう。 ・・・何かがおかしい、何かが間違っている、という感じがしないだろうか。 それは、この人の心には少しも「愛」が存在しないからである。ただ、 助けるのは嫌だ、という利己的(自己保存的)な欲求を、いかにも真理 めいた言葉で正当化する行為にすぎないだろう。
「すべては必然、最善が起こっている」というのはある意味では正しい。 しかしこれは、人間のスケールを超える「愛」によって魂が満たされたと きに初めて口にすることのできる言葉なのである。これは計り知れない 神愛の偉大さを受け入れ、そこに自ずからなる感謝がわき起こるときに 言える言葉なのだ。もしそうでないときは、果てしない自己欺瞞に陥る 危険性を秘めてもいるのだ。 もう一つは、「すべてが完全」と言う前に、『ヨブ記』を読んでもらいたい、 と言いたい。「すべては完全」というのは、全くの逆説としてある言葉で ある。この世はどう見ても完全ではないからだ。ヨブ記のようなことは、 この瞬間にも多くの人々に起こっている。そこまで打ちのめされても、 神愛への信頼を持ち続けることができるのか、これは、最も厳しい試練 なのである。それをくぐり抜けて、「そう、主のされることはすべて最善で す」と言うことができるのかどうか。 「すべてが完全、最善」とは実は最大のパラドックスであり、神の示した 「謎」なのである。世にある、限りない罪、悲惨、汚れ・・・それに直面し、 共感した上で人間を見ているのか、それが本物の霊性かどうかの分か れ道である。
人から勧められたのだが、チャック・スペザーノのヴィジョン心理学という のはなかなかいい。 スピリチュアルな内容でありながら、シンプルかつプラクティカルにまとめ ていて、実践しやすい。内容としては、ジャルポンスキーとも似ている。 両者とも、そのソースは Courses in Miracles だといえば、「なるほど」 という感じだろう。 これを読むと痛感するが、いたずらに「いかにも」という感じの神秘主義 を追い求めていても、まず自分の心に、罪悪感とか無価値感とか、そう いうものを抱えていては、瞑想などしても進歩は遅々たるものだし、袋 小路にはまる場合も多い。 まず、基本的な、「存在していることの幸福感」をはっきりつかまないと、 スピリチュアルな道は始まっていかないのだ。 スペザーノを読んで、それをあらためて確認。しっかりと、自我やシャドウ レベルに取り組むことだ。やはり、伝統的修行ではその方面のケアが 薄いことはたしかで、ここでも「東西の融合」の必要を感じる。 ヴィジョン心理学のようなものをニューエイジと言って、読みもしないで 軽蔑している人もいるが、そういう人の多くに、心をオープンにすること への恐れがひそんでいることを観察することができる。ハートを開くには 勇気がいるのだ。
現代では、実に多くの人が神秘的な経験をしており、また「光」によって 生き方が一変した人もたくさんいる。ところがいまは、それを受け止める 思想がないのだ。 一方には、それはすべて精神病の一種だとか、すぐにカルトの危険とか 言いたがる自称合理主義者がある(実は、その主張はほとんど非合理 的なまでに「自己の根拠への吟味」を欠いているが)。 もちろん、キリスト教でも仏教でも、それなりの体系はあるのだが、いま は、そうした枠に限定されない形で霊性が浮上している。しかし、そういう 伝統的な枠を超えた、霊性を受け止める思想が不足しているわけである。 私は、ニューエイジ運動の中に真正な霊性への憧れを認める者だが、 しばしば、そこには思想が欠けているのが問題である。ここで思想という のは、神学的なものである。つまり、自分の体験していること、しつつある ことは、大きな霊性の枠組の中でどこに位置するのかを認識することが できるというものだ。ニューエイジの危うさは、「伝統からの遊離」である。 人類がこれまで培ってきた霊性探求の歴史の総体を参照枠とできるよう な、そういう思想が求められているように思う。その意味でニューエイジ は過渡的な形態であろう。 ケン・ウィルバーの思想は、そういう思想を提供する試みとして評価する ことはできるが、実際には、それは霊性のすべてを受け止めるだけの パワーはない。要するに、それでは「生きることができない」のである。
東洋では意識魂の文化が発達しなかった、つまり意識魂に目覚めた人 は社会から離脱せざるを得なかったという状況。中国の「隠者」の理想 とか、ヨーギとか、あの時代において自由を追求した人が存在し得た形 なのである。しかしこれだけでは、現代にそのままつながらない。 これは、東洋の霊的形而上学が、霊的合一を歌い上げながら、同時に、 「現在ある世界はそのままで絶対である」という肯定に終わるという問題 ともなる。ある意味、ある次元ではまったくその通りであろう。 しかし、地球はまだ完全な神化の状態に至っていないことも事実では ないだろうか。地球、人類は、神化の過程にある中途の存在であると いうこともまた否定できないのだ。その面の思想は、東洋ではあまり 発達しなかった。 これが最も強烈に現れたのは、東方キリスト教であった。ニューエイジ でも霊的進化論は大きなテーマである。それはたしかにキリスト教的な 思想である。しかし、それが最もキリスト教に学ぶべきポイントなのだ。 地球はまだ完成していない、私たちがそれを完成させる者であるという 理想である。これは、東洋では、法華経に見られるものだ。大乗仏教の 成立とキリストの出現とは、連関がある。つまりそれは、この時代に 人類史に出現した「キリスト衝動」と呼ぶべきものの作用なのだ。 プラトン主義も、個人の救いにとどまっている。だが、地球そのものを 神化しようという目的が、宇宙には存在している。それを深く感じること は、現代における霊的責任の一つである。
分厚いが興味深い本が2冊ある。 一つは、New Age Religion and Western Culture 「ニューエイジ宗教と 西洋文化」で、ニューエイジ文化を総括し、それを西洋のエソテリシズム の思想的系譜にあることを示す、という趣旨であるらしい。客観的であり つつ、ニューエイジ思想の内在的理解につとめている姿勢がうかがえ、 好感を抱く。 たとえば、チャネリングにしたって、ヘブライ以来の西洋宗教の伝統には 違いないわけである。そういう視点が重要だ。 ニューエイジとかトランスパーソナルにどっぷりつかるのではなく、「西洋 の神智学的な思想伝統」を総体としてみる視点は、最も必要なものだと 思うので、500ページもするこの本を読破せねばならない。 もう一つは、そのものずばりの Modern Esoteric Spirituality 「近代の 秘教的霊性」で、総合的な概説書である。アジアの伝統そのものをその ままやるわけにもいかないし、現在の私たちの霊性のあり方を考えるに 当たって、近代社会に対応した形で霊性を追求してきた、モダン・ エソテリックのことを十分に勉強しなくてはならない。 そんなわけでこの2冊は私にとっては重要である。
ニューエイジにはたしかに変なところもあるし、思い込みがかなり混入も している。しかし全体としてみれば、これまで現れた宗教の教えと比較 しても、最もよくできたシステムがあると思う。 これが究極的な真理ではないが、伝統的な宗教に比べればかなり 真理に近づいた部分がある。 べつに永遠の真理を理解する必要はない。21世紀初頭の人間のレベル で理解できる限りのことを理解すればよい。そこで、ニューエイジのよい 部分というのは継承していくべきだと思う。 ウィルバーはそういう努力をしているが、なお(あえて?)欠落させてい る部分があるので(特に天使論と転生・カルマ論、微細身論の領域に おいて)、なお、別種の知的フォーミュレーションを試みる余地は残され ている。
転生とカルマの思想がアジア宗教で発達したといっても、伝統的には それは、輪廻の鎖からの解放として解脱を求めるということであって、 魂が転生を通して成長していくというヴィジョンは十分に発展していな かったと思う。 そのような見方は、いわゆるニューエイジ的な思想において、エドガー ・ケイシーなどの影響によって確立してきたものだと思う(ちなみに ハーネグラフのニューエイジ宗教論ではどうもケイシーを軽視しすぎて いるように思われる)。 つまり、この20世紀末期の宗教思想において、「神の宇宙経綸」と 「カルマと再生」を、「魂の段階的成長」というヴィジョンによって統一して 理解する見方が確立した。それはケイシーやシルバー・バーチの本に はっきりと述べられており、現在のほとんどのニューエイジ的な思想家 (レッドフィールド、ウォルシュなど)はこのような理解に立っている。 もちろんこの理解が「究極」のものではないし、それはあり得ない。 しかし、現段階の人類としては、もっとも真理に近づいている理解の 仕方だと私は考えている。ま、そう判断するのは個人の価値観であって、 「証明」したりする性質のものではないが。
ハーネグラフは、魂の進化と地球の霊的進歩という思想は、進化論の 影響を受けた近代主義的な発想だとするが、私はそうは思わない。 ハーネグラフは、東方キリスト教の「地球全体を神化にみちびく神の 宇宙的経綸(オイコノミア)」という思想をよく知らないのである。 実はそれがキリスト教の最も貴重なエッセンスなのだ。それを深く理解 して、かつ、魂が再生するという問題を真剣に受け止めれば、魂と地球 が霊的に進歩していくことが宇宙経綸だという理解に到達するのは、 論理的必然といってもいいのである。 この〈イデー〉が私の思想の中核である。 だから、そういう〈イデー〉に理解を示さない思想家(ウィルバーもそう だが)には何の興味も持てなくなってしまったのである。 もちろん、否定、論争は無益だからそんなことはしない。だが、「神の 愛を感じたい」という、多くの魂の奥に潜む願望を満たしてくれる思想 が、いま、存在しているであろうか。ないのならば、それはいつか表現 されねばならない。
レッドフィールドといえば、Redfield / Murphy の「God and the Evolving Universe」で、どうも、思想的にはほとんどマーフィーのものではないか と思う。 内容は、最前衛だ。 超感覚の例や、スポーツ選手の奇跡的パフォーマンスなど、人間能力 の可能性を論じている。さらに臨死体験、体外離脱からなんと天使や 天界の話まであるのには驚いた。もちろん神秘的合一体験やクンダリ ニー、気のことも書いてある。社会のあり方にも触れていて、バランスの よい目配りというのが印象的。しかしそれだけなら精神世界になじみの 読者なら「ふつー」の話だろう。 この本での思想的な面でのポイントは、「栄光の身体」glorified body というイデーを提示していることだ。 つまり、人間のさらなる進化(という言葉が嫌いなら「成長」)というのは 単に霊的、心的な面(つまりいわゆる「内面」)にとどまるものではない。 同時に、私たちの感覚能力、運動能力をも飛躍的に変容するということ なのである。 この「栄光の身体」というのはもちろんキリスト教の伝統でもあるし、 コルバンがスーフィズムに指摘しているものでもある。また、ヨーガ行者 の驚くべき身体能力や、チベットの修行者が風のように歩く話など。
これはきわめて重要なポイントをついている。 私は身体というものを実体とは考えない。さまざまな知覚・運動が生起 する「場」のようなものと解する。その「場」のあり方が人間のあり方を 決定しているわけだが、このようなものもまた変容しうるということである。 ただ、この本に欠けているところといえば、「闇との対決」というテーマ であり、闇というものが超個的な存在としてある次元での実体性を もっており、いずれはそれと対峙しなければならないということだ。 この点を抜かしているのは、ニューエイジ的楽観性がまだ残っている といわねばならない。しかし、そういう限界はあるが、一つのパラダイム の提示として完成度は高いと思う。翻訳が出るとよいと思うが。
また、The Cultural Creatives という本がある。How 50 million people are changing the world という副題で、Paul Ray / Sherry Ruth Anderson の共著である。アメリカに新しい文化が生まれつつあることを論じた、 社会学的な本であるが、読みやすい。 つまり、新しい意識の目覚めに関心を持ち、また同時に、環境問題、 女性問題・・等々にも新しい意識を有している、という社会層の人々だ。 それが今や5000万人に達するといっている。 これは従来「ニューエイジ」と呼ばれてきたものに近いが、現在では 「ニューエイジ」という言葉は蔑称になっており、だいたいにおいて、 そういう動きが気に入らない人が、その最もオカルト的な部分を誇大 に捉えて馬鹿にするための言葉になっている。 たとえばすぐ「プレイアデス星人からのチャネリング」などという類の ものを連想させてしまうわけだ。 まともに意識の成長を考える人々は――私を含め、ここを読んでいる 人の大多数はそうだと思うが――自分をニューエイジと呼ばれたくは ないだろう。 ところがそういうグループをどう呼ぶかというほかの名前がなかったの だが、この本ではそれを明確に「cultural creatives」という名前を与え た。 名前をつけたということがいちばん重要なことだろう。
ハーネグラフの研究にしても、何をもってニューエイジとするかという のが、いろいろ説明はしているものの今ひとつ納得できないものが あり、著者の恣意で線引きをしているのではという疑念を消すことが できなかった。 また日本の島薗などは新宗教運動を合わせて考えているが、 これも納得しがたい。 つまり、「自分とほぼ価値観の近いグループ」というものができつつ あると私たちは感じているわけで、それがそういうものと一緒に扱わ れるのはかなり違うという印象を受けるわけである。 しかし、この「cultural creatives」というのは、その点、新宗教とも オカルト好みともはっきり異なる、ある価値観を共有するグループ として際だたせることに成功している。 つまり私たちは自分たちのアイデンティティを確認し、その名前を持つ ことができたという意味で、この本は画期的だと思う。 そういうグループの人自身の自己確認には最適であるし、また社会学 者や宗教学者もこれを読んで勉強していただきたいものだ。
またフランス語ではあるが、ヴェルネットによるクセジュ文庫の『ニュー エイジ』というもの。 これは、非常に冷静、客観的でありながら、ニューエイジがエゾテリスム の大衆化であることをしっかり抑えているし、ある程度の共感もある。 概説書としては文句なしであろう。 フランス語も平明で、フランス伝統の明晰なる知性のお手本みたいな クセジュ文庫の一冊である。しかし、クセジュの翻訳権を独占している 白水社はこういうテーマに共感がないようなので、翻訳は出ないでしょ うねえ(出てるのかもしれないが)。
現代では、憲法上は思想や価値観の完全な自由が保障されている。 北朝鮮だって、憲法にはそう書いてあるはずだ。 だが、ある社会制度を作る時、なぜその制度であってほかの制度では ないのか、そこには明らかに一つの価値観が作用している。 社会政策が家族単位にして設計されているとしたら、それはある「理想 の家族像」というものがあって、それに従って生きることが幸福へ導く、 という考えがある。 すべての制度は、「誰かが思い描いた理想」に従って設計されている のだ。従って、その理想を疑わず、そのままに受け入れて自分の価値観 としている人は、こうした社会では生きやすい。その価値観に抵抗が ある人は、その社会では生きにくい。つまり、割を食う。 つまり、さまざまな価値観は、法的には平等であるが、政治的には平等 ではない。これはよく考えればわかることだろう。こうした政治的不平等 はどのような社会でもなくなることはない。 こういうことを意識せず、論理的次元だけで論じてもしかたないのである。
たとえば精神医学というものが社会の中に制度化されていれば、それは 当然、精神医学の中に含まれている価値観や世界観が、一種の社会的 権威を獲得し、政治的な力を得ているということになる(あらゆる学問は、 価値観・世界観の制約から完全に自由ではない)。 このことが、いわゆる「変性意識」や「異次元の体験」に対する社会的 抑圧を生み出している。 このような観点はいわば知識社会学的な視点というのだが、思想とは ニュートラルなものではなく、政治的(マクロ・ミクロ次元の)な権力作用と 無関係ではない。まあ、こんなことはミシェル・フーコーでも勉強すれば わかることだろう。 古い言葉だが、そのような権力作用と関係している思想・価値観を 「イデオロギー」というのである。この意味で、唯物論は現代社会の イデオロギーなのである。 この意味で、スピリチュアリティーの価値を主張することは、「戦う」ことで もある。それは政治的な戦いでもある(なお、ここでいう政治的というのは、 マクロ・ミクロの権力現象を見抜き、それに揺さぶりをかけるという意味 であり、決して、選挙や政党に関係することだけを言うのではない。 こう いう「ミクロの権力現象を見抜く」ということは、大学を卒業した人なら、 メディア・リテラシーとあわせて、どんな専攻であれ一般教養として知って おいてほしいことである)
東方キリスト教に関して、英語が読める人には、以下の本を推薦。 Kyriacos Markides -- Riding with the Lion : In Search of the Mystical Christianity. Kyriacos Markides -- The Mountain of Silence: A Search for Orthodox Spirituality. John Meyendorff -- St. Gregory Palamas and Orthodox Christianity. マルキデスはご存じ「ダスカロス」シリーズでおなじみだが、最初の本 では聖地アトス山を訪問。二番目のでは、キプロスに来た聖者に密着 取材である。霊的な道というものは何か、というものが、それに付随 する超常的現象をも含めて詳細に語られているといってもいいだろう。 霊性に関しては、自分の思いやイメージを投影して語られている場合 があまりに多いので、「事実」をしっかり知っておくことが必要だ。 『沈黙の山』に書かれているようなことは、私も実際に見聞したことが あるのだから。機会があれば翻訳紹介したいと考えている。 三番目はわかりやすい入門書。邦訳が出ている『聖グレゴリオス・ パラマス―東方キリスト教会の神秘生活』(中央出版社)とあわせ読む とよい。 なぜ私が熱心にこんなことを書くかというと、その「神化の理想」という 観点から仏教、神道的伝統を逆照射し、再発見するということが、 いまの日本の霊性にとって大きな意義があると考えているからである。 それは逆にいえば、いまの一般的な仏教理解、あるいは「悟り」理解は、 その本来の意味を理解できないために矮小化させた理解にすぎない (つまり自分の理解できる範囲まで小さくしている)ということでもある。
すべての伝統を「正しい」と認めるのは無理があるということだ。 輪廻説はイスラムやキリスト教にはないとすれば、それはまだ「完全な 真理の開示」ではないからである。そう見るのが不満だとしたら、そこに 限界があるとも言える。それぞれの世界宗教は、みな人類への贈り物 をもって出現したわけだが、真理の全体があまねく開示されている宗教 伝統は今までに一つもない、すべて「パーシャルな真理」にすぎないのだ。 ごく最近になって急速にスピリチュアルな情報が開示され始めており、 もはや、受け取る用意のできた人には、霊的世界観の基本的なことを だいたい理解するのはそれほどむずかしいことではなくなっている。 ただそうした情報のほとんどは、アカデミズムが扱う範囲にはない。 人文系アカデミズムが拠って立つ「古典」というものが、もはや前世紀 の基準となりつつあり、本当に今読むべきものは、そういうリストから ずれてきていると私は痛感しているのである。どんどん本を読んでいけ ば数年でだいたい見通しはついてくる。 こういう本を読んでると周囲から浮いてきちゃうんじゃない? と心配 する人がいるかもしれないが、浮いてしまうというのはそれだけ自分が 足りない証拠である。もしくはその情報がオカルトすぎて本来のところ から外れている可能性もある。実際、「枝道系霊的情報」ばかり知りす ぎておかしくなってきた人というのはあるし、そういう危険は常に警戒し ていないと。 本当に知らなければならないのはどういうことか、という判断の問題で ある。
こんな文章よりまずシュタイナーの『神智学』を読め、という趣旨という わけでもないのだが、その序文には参考になると思われる言葉がある ので読んでみていただきたい。 今日、超感覚的諸事実の表現を行う人は、二つの点をはっきり知って おく必要がある。 第一に、われわれの時代が超感覚的認識の育成を必要としているこ と、しかし第二に、今日の精神生活の中には、このような表現を、まさ にとりとめのない幻想、夢想であると思わせる考え方、感じ方が充満 していることである。 現代が超感覚的認識を必要としているのは、通常の仕方で人が世界 と人生を経験する場合、その経験内容がその人の中に、超感覚的真 実を通してしか答えることのできぬ無数の問題を喚び起すからである。 人が存在の基礎について今日の精神潮流の内部で学べることは、 より深く感じとる魂にとっては、世界と人生の大きな謎に対する解答 ではなく、問いでしかない。しばらくの間は、「厳密な科学的事実が 教えること」や現代の何人かの思想家の諸説の中に、存在の謎を 解決してくれるものがあると信じることができるかもしれない。しかし 魂が、自分自身を本当に理解しはじめるときに入って行かねばなら ぬ、あの深層にまで入っていくなら、はじめ解決のように見えたもの が、真の問題のための問題提起に過ぎなかったように思われてくる。
他面、今日の多くの人は、もっとも必要としているものを、もっとも烈し く退けようとしている。「確実な科学的経験」の基礎の上に打ち立てら れた多くの見解の強制力があまりに大きいために、人々は本書のよ うな書物の内容を、根拠のないナンセンスと取ること以外何もできな いでいる。 (中略)人は、このような者の主張に対して「誰も非難できない」ような 証明をして見せよと要求してくるだろう。だが、こう要求することで、ひ とつの錯覚に陥っていることに、人は気づこうとしていない。なぜなら、 人は事柄の中に存する証明ではなく、自分が認めたがっているもの、 もしくは認めることのできるものを無意識に要求しているだけなのだか ら。 (中略)議論は、それが自分の思考方法の中に存する論拠だけを通 用させようとする人との間で交わされるなら、不毛でしかない。「証明 すること」の本質をよく知っている人は、人間の魂が真なるものを発見 するのは、そういう議論とは異なる道の上においてである、ということ をよく知っている。ちくま学芸文庫版 P11〜14
実際、「確実な科学的基礎」なるものの延長線上で、根本的な存在の 問題が解明できるのではないかと期待している人はたしかに多い。 だからこそ脳科学の啓蒙書などが多数出版されたりしているだろう。 つまり現在の学校教育だけしか知の世界を知らない人は、「確実に 考えるとはどういうことか」というとき、「科学的に考えることだ」という 答え以外、知らないし、自分の中から出てこないのである。そこで、 そういう学問がどこかの大学などで行われていると信じ、それを学べ ばよいと考えたりしてしまう。これは、無意識のうちに「国定カリキュラム」 というものが人々の知のあり方についてある強制力を持っていることを 意味していないだろうか。つまり、「存在の基礎について考えるという のはどういうことか」ということを全く知らないし、考えたこともない人が 大部分だ。たしかに、これはカリキュラムとして教えることはできない。 ただ、その問いを生きている人間の存在によって示すことができる だけであろう。 文部科学省によって作られた「勉強のスタイル」の延長線上で存在 問題を考えてしまう姿勢が、いまだ世の中の大勢を占める。シュタイナ ーの時代とさほど変わってはいないわけだ。
そういうわけで、一度はっきり書いておいた方がいいと思うが、私個人 は決して「霊性について科学的に研究する立場」ではない、ということ である。そんなことは一瞬たりとも夢想したことはない。 むしろ、「信頼に値する知というのは、科学だけなんですか?」という ことから始まっているということだ。これは、私がいまでは批判している トランスパーソナルにしてもそうなのである。 あくまで、現代では無視されている「霊的な知というスタイル」の復権を めざしているのであって、そういうものを排除したところに成り立ってい る現代のアカデミックな知にすり寄り、何とかそこで認めてもらいたいと いう発想には立っていないということである(ただ残念ながら、日本の トランスパーソナル関係者の中には、若干そういう「すり寄り」の姿勢を 見せている人もいるにはいる)。
「知」というのは、現代社会が許容しているよりももっと広範なものだ。 トランスパーソナルは、現存している「知」の体制についての、知識社会 学的な批判を含んでいるわけである。わかりやすくいえば、現存の「知」 は、ある前提を無批判に受容した上で成り立っている一つのイデオロギ ーではないのか、という視点である。 たしかに、ポスト構造主義思想は、ある程度こういう「知」のクリティック をやってくれた。ミシェル・フーコーやドゥルーズ、デリダなどの業績である。 それはそれで高く評価したい。 ただあれは、あくまで「アンチ」の立場に止まっているもので、21世紀的 な知を切り開く視点は持ってはいないのだが。 それでも、ニーチェに始まったことが一つの完成に達したことは評価でき る。 つまり、一言でいえば、私たちは知においてまったく「自由」なのだとい うことである。 その「自由」に気づいている人が少ない。 ほとんどの人はなんらかの「縛り」を求め、縛られることをむしろ喜んで いる。
引き続き、シュタイナーの『神智学』を読んでみよう。 というのは、そもそも「霊的な思想」とは何か、という基本問題である。 それについては、この本の「認識の小道」という章の最初を見るとよい。 「高次の世界の思考像を提供する」と書いてある。まさにその通りで ある。 高橋巌もいっていることだが、この『神智学』は徹底的に「思考」の意味 を考えるところから始まっている。それは『自由の哲学』の延長上にある ことだが。 日本人の霊的文化は伝統的に「反知性主義」である。シュタイナーに しても、あるいはウィルバーにしても、日本人の拒否反応の多くは、 「霊的なことは、ただ体験すりゃいいんじゃ。何をつべこべ理屈ぬかし とるんやあんたらは」というようなものであろう。まあ、こういう品の 悪い言葉ではないにしても、そういう気分を持っている人はかなり多い はずだ。 しかし、これは「真の思考」の持つ力を知らないということなのである。 ここで「思考」というのは、決して記号操作のことではない。私の言葉 でいえば「自己の内部に《イデー》を受け取り、成長させること」である。
みずから見霊能力を獲得するための第一歩は、このような思考像を 把握することにあるのだ。なぜなら、人間は思考存在なのであって、 思考から出発するときにのみ、自分の歩む認識の小道を自分で見つ け出すことができるからである。人間の理解力に高次の世界の思考 像を提供することは、はじめはその像がいわば霊的諸事実について の単なる物語に過ぎず、まだその諸事実を自分の眼で観ているので はないとしても、不毛なことではない。なぜなら、思考内容は、それ 自身、力となって作用し続けるからである。この力は理解力に働きか け、まどろんでいる素質を目覚めさせてくれる。だからそのような思考 像に傾倒するのは余計なことだ、という意見は間違っている。そう 考える人は、思考内容の中に実体のないもの、抽象的なものしか 見ていない。 P191 霊的世界、霊的原理、宇宙法則などについてのできるだけ正確な思考 像を得るということは、そのようなことを実際に体験するための不可欠 な準備である。ちょっと仏教的にいえば、「成道」のためにはまず「聞法」 から始めよ、ということである。その「言葉に含まれる力」を無視しては いけない。言葉は単なる記号ではない。霊的なるものの物質界におけ る媒体(メディア)ともなりうる力を秘めているのである。そこから出発し なくてはいけない。
思想の根底には、生きた力が存在している。霊視内容を表現した 思考内容なら、それを伝達することは、伝達された者の中で、実りを もたらす萌芽となって作用する筈である。 P192 つまり、本当に霊的な何かをつかんだ人が、それを思考表現としてアウ トプットするとき、それは、何事かを、受け取る人の魂に伝える。そういう ことがありうると想像できないとしたら、それはその人のいままでの人生 経験にはそういう経験が全くなく、またその可能性ついて聴いたことも ないということで、不幸な事態といわねばならない。
自分の無意識の中の知識が、他者によって見出された霊的事実に 反応を示すのである。そしてこの反応は、盲目的信仰なのではなく、 健全な常識な正常な働きなのである。 P193 つまり、霊的真実の世界に由来する《イデー》が浸透した思考像に接す るときに、「あっこれは本当なんだ」とわかる、直覚するものが魂の中に はあるということだ。人が存在についての真実を知るのは常にそういう 《イデー》の力によるのであり、そこから自分自身による体験の世界へ と導かれるのである。 その意味で、霊的真実について語るというのはきわめて重要なことで ある。生半可に禅などを振り回して語ることを否定するのは、一知半解 の愚者といわねばならない。
ただし、その《イデー》によってそこに霊的真実が含まれていることを 直覚したからといって、その人の語ることのすべてが霊的な真実である とは限らない。その《イデー》に感激するあまり、つい、それを語った人は すべての真実を知っていると考えてしまい、盲目的信仰に陥る場合が ある。 実は、いままでの宗教、宗派というものはそういうふうにしてできたもの だといってもいいだろう。たとえばS学会にしろ、G教会にしろ、その教え の中には確かに霊的真実が含まれていることは事実なのだ。ただ、 真実ではないものも若干交じっている。しかしそれは、もっと伝統ある カトリックなどだって程度の差はあれ同じことで、伝統的な教義の中に は、霊的な真実と、そこからちょっとそれているものが混淆しているの である。 宗教の問題は、そこに含まれる霊的真実のイデーに感激するあまり、 その宗教の教えが100%正しいと無条件に思ってしまうということである。
そういう人に対し、そこに含まれる一部の霊的イデーに対する感性を 持っていない人が、いくらそんな宗教はやめろと言ってもなんの効果も ない。むしろ逆効果である。 だいたい、世の中の宗教にまつわる騒ぎというのはその程度のレベル のものであろう。 だから、そこに含まれる《イデー》を尊重しつつも、その一面性を乗りこ え、他の宗教にも含まれている霊的真実も受け入れられるように、より 普遍的な霊的真実の方へと導いていくのでなければ、カルト信者の ケアはできないと言えよう。 その意味でも、霊的真実を特定の宗派的枠組から解放した「普遍的 霊性」の思考像を構築する意味が大きいと言える。
映画『華氏911』でも周知のように、数年前に、憎悪の波動が大規模 に現象化するという事件が起こった。それぞれの人がこれをどう受け 止めたかということを、CNNを通して見ていた。最初は放送する人自体 が強い衝撃を受けていることがありありと見えた。 しかし、大統領の「必ず報復する」という言葉を聞いて、「これは滅びへ の道ではないのか?」と思った。そもそもブッシュ政権は当初から、 一億人ばかりの支持者の利益のためには、地球全体の利益はどうでも いいという政策を続けており、世界に不調和な波動をばらまいている。 責任の一端は大統領自身にもあるということは夢にも思い及ばない らしい。もしアメリカという国が真剣に世界の調和を願い、地球環境問題 にもパレスチナ問題にも真摯に取り組んでいたら、これほどまで大規模 な現象化があったであろうか、と思う。 しかしメディアからは、衝撃・恐怖・不安・憎悪といったネガティブな波動 しか来ないことがわかって、見るのを止めたわけだ。
「奇蹟のコース」とか「神との対話」などを読んで、霊的な世界観に目覚 めつつある人々はどのように受け止めているのか、と思って、ニュー エイジ系サイトをいくつか見てみた。 すると、もう多くのメッセージが書き込まれている。いずれも「このような ときこそ、愛の波動の中にとどまり続けることが重要だ」と言っている。 「これは wake-up callなのだ」という言葉も何回も出てきた。 James Redfield や Neale Donald Walsh のメッセージもあった。 実に多くの人々が、「悪いのは奴らだ」という分離意識の誤りを知り、 人類の意識を全体として考え、その癒しを真剣に祈っているのであった。 このように「敵を愛する」というキリスト的メッセージを多くの人が実行 しようと努めていることに、地球的な意識変革がたしかに進んでいる ことを実感したのである。 ともあれ、テレビや新聞は、まだまだ主流である古いパラダイムに 基づいて見ているものなので、そういうものを見過ぎず、高い意識から これを受け止めようと努力している人々の声に耳を傾けたいものである。 しかし思うに、恐怖にとらわれて分離意識に陥ってしまうのは、肉体 意識のみが人間だと思っているからである。つまり、真に「恐怖に基づ いたパラダイム」を超えるためには、人間の本体が霊的なものである ことを知り、いつでも肉体から去るという覚悟が出来ていなくてはなら ない。厳しいものなのである。
神愛だが、文字通り「神の絶対的愛」を確信し、魂次元で感じる、知る ということである。これは観念ではない。魂における絶対的現実である。 神愛を実感するということが、魂の浄化がある程度まで進んだことを 意味すると言ってもいいだろうと思う。 もちろん「神」という概念が必要なわけではない。むしろ「宇宙的な愛」 とか「宇宙の絶対調和」などという言葉もあるかもしれない。 近代の知は深くニヒリズムに侵されているといってもいいだろう。宇宙 には何の意味もない、人間は意味がない、という思想だ。意味がない というより、意味があるように「思えない」「感じられない」ということで、 魂の問題だろう。実存主義というのはこういうニヒリズムから出発して いる思想である。実存主義は現在の流行思想ではないが、ニヒリズム はますます社会全体を覆っているようにも見える。 いわゆる「識者」は、援助交際とかいろいろな社会の頽廃現象をあげ つらっているが、そもそも今の「知識人」全体として、人間や世界の存在 意義を明らかにできるような思想を提示し得ていないという怠慢・失敗 の責任を自覚しているようには見えない。
たしかに20世紀は大量虐殺の世紀であり、アウシュヴィッツや原爆など の現実を前にして「宇宙の絶対的調和」という思想を持つことはむずか しいのかもしれない。 しかしそれは、結局、ものごとを「一つの平面」だけで考えるから、そう いうことの意味を理解できないということでもある。 ものごとが起こる「因果」というものは、物質次元だけでは完結していな い。多次元なる宇宙全体を見わたしてはじめて、すべてが完璧なる 法則で動いていることが理解できる。 つまり、一次元的な世界観では、決して宇宙調和を理解することができ ず、ニヒリズムに行き着くしかないのである。これがウィルバーのいう、 「フラットランド」である。 この意味で、非物質次元と物質次元を貫いて原因結果の法則が働く という「カルマの法則」の理解は、宇宙調和を理解するために欠かせ ない視点といえる。 それが欠如しているような思想は力を持てない。というかはっきり言っ て真実が見えていない。カルマと輪廻転生を前提にすれば、神の宇宙 的な愛を実感することははるかに容易になる。
ある時、私の研究室に、「地球と環境の哲学」(オギュスタン・ベルク著) という本があったのを見て、「こんなの、やってることに関係あるの?」 なんてマジに質問してきた人がいたのには参った。 それはちょっと認識不足でしょう? スピリチュアルなことと環境問題が 無関係だと思っているなんて、それはちょっと、そういう「スピリチュアル」 の理解の仕方に限界があるんじゃない? と言いたくなってしまうな。 現代において霊的な思想を提示するってことは、人類と地球とか同時 に救われなければならない、ってことを意味せざるを得ない。当然、 人間と他の生物・無生物を含めた「地球」というものは霊的にどういう 意味をもっているのか−−ということは「地球まるごとの救済」である。 いや、救済と言うより「神化」といった方がいいかも。 自分だけの救済を求めても意味はない。 重要なことは「スピリットというものが実在する、ということを視野に入れ てすべてのことをする」ということだ、という理解に到達したのである。 それは、日常のささいなことから、一見すると霊とは何の関わりもない 「世俗的」と見える行為まで、すべてはスピリットと切り離されていない ということだ。 スピリットとはホリスティック(全体論的)であるからだ。それはすべての 分野につながる。シュタイナーが、教育、医療、経済、環境などすべての 分野で活動したのをみてもわかる。スピリチュアルということは全体に 関わるもので、「これはスピリチュアルとは関係ない」ということはありえ ないのである。そう考える人がいたとしたら、そのスピリチュアル理解は 浅薄だと言わざるをえないと思う。
人間を「霊魂体」の統合としてホリスティックに捉える立場から、 何が生まれるか。具体的な場面への応用を考えると。 まず第一は、環境問題である。エコロジーへのスピリチュアルなアプロ ーチとしての「エコソフィア」への展開。たとえば「気のエコロジー」とい った、「ユニバーサル・エネルギー・フィールド」のパラダイムに基づく 新しい環境思想を樹立することを、これから1〜2年のうちにやってい きたい。 第二は、代替・相補医療について。ホリスティック医学の動向。「ヒーリ ング」というのはきわめて本質的なパラダイムではないか。エコソフィー というのも結局は「地球のヒーリング」にほかならないのだ。 これと関連して、ホリスティック教育というテーマもある。 これはもちろんシュタイナーの本質的なテーマだが、そもそもコメニウス やフレーベルなど、優れた教育学者はすべて神秘学者でもあった。 というのも神秘学は総合の学だからであり、すべてにスピリットが宿る ことを前提とするからだ。
アラン・ドレングソン・井上有一編『ディープ・エコロジー』(昭和堂)は よい本である。ディープ・エコロジーについての基礎的な知識はこれで 得られる。 これで、「エコステリー」というコンセプトのことを知る。これは、エコロジ ーとモナステリー(僧院)との造語で、エコ思想やライフスタイルについて 学ぶセンターのようなものを言う。そのHPもあるというので見てみると、 充実している。特に文献リストとWEBリンクは有益だ。アメリカのエコ ソフィー運動はかなり腰の据わったものだという印象を強くする。 それにひきかえ日本のWEBでは・・数が圧倒的に少ないのだが、その 中で、京都精華大学の環境社会学科というものがあることを知ったの は収穫。エコロジー思想や環境保護運動について総合的に学べる 専門学科ということで画期的だろう。井上有一氏もここの教員である。 ただやはり「環境社会学」であるから、ディープ・エコロジーが持っている スピリチュアル志向の側面はあまり出ていないと思えた。 これは日本の状況の反映でもあるなあ、と思った。 つまりアメリカでは、ニューエイジ的なスピリチュアル志向と、環境保護 運動は密接に結びついているのだが、日本ではエコロジー運動と 「精神世界」運動はそういう結びつきが弱いようなのだ(ないとは言わ ない)。 エコステリーのHPにしても、文献リストの三割くらいはタオだとかカス タネダ、女神といった本が入っている。日本の環境保護運動は住民 運動という文脈が多いというのは悪いことではないが、「精神世界」派 の方が内向きすぎるのではないか? というところも感じる。 とにかくエコロジーとスピリチュアルを切り離せないものとして認識する という知的風土はまだ弱い。
それを抑えつつ、なおも中核には人間が経験しうるスピリチュアルな 経験の意義というものがあり、これは「スピリチュアル・エマージェンシー」 を視野に入れ、臨死体験・至高体験・クンダリニー覚醒など「特異な 体験」のうちに人類の可能性と未来を見るという基本的視座を持つ。 もちろんネガティブな体験をも包括するようなモデルが必要である。 そこを視野に入れると、「エコ陣営には超越が不足している」という ウィルバーの批判もたしかにわからなくはないのである。超越体験と エコソフィー、これが問題になってくる。医療や教育もそうだが、超越 の問題は常に見え隠れしているのだ。 「癒し」というのは「全体と結びつく」という意味である。 「地球と人類の癒し」というのはそういうことである。 そこで、全体意識の経験を中心として、ほかの諸分野が位置づけられ てくるのだ。
ある時に研究室に学生が来て「自分のやりたいことが見つからない」 などと相談されて困ってしまった。私にはそういう状態が全然想像でき ないからである。「やりたいことが多すぎてどう整理していいのかわか らない」というならおなじみであるが・・ あるいは、「やりたいことはあるが、それをやらせてくれる場所がない」 というのはわかる。それは結局、自分で切り開くしかないということだ。 ところが、「やりたいことがない」というのがいちばん困ったことで、これ はつまり「理想を思い描くエネルギー」が弱いということである。聞いて みると、特に自分の好きな「場所」というものがなく、ほとんどどこにも 行ったことがないという。「伊勢神宮なんかいいよ」といえば、「伊勢って どこにあるんですか」と来るので困ってしまうのである。しようがないので、 「やりたいことがないなら、いっそ徹底的にカラッポになってしまって、 スタートし直したらどうか」と、ヴィパッサナ瞑想10日コースをすすめて しまったが、意外と乗り気だった。
最近になって、一人で森へ行ったりし始め、「これまではいつも誰かと 一緒だったのに、最近は一人のことが多くて、ほかの人には話せない ような感情や感覚が生まれてきて、それには寂しさを感じる」というよう なことを言っていた。 それはようやく魂が目覚め始めたという徴なので、成長という意味では よいことである、できればそれは17,8歳くらいの時に経験しておけば よかった、大学4年ではちょっと遅かったね、などと言った。 たぶん、「やることがない」というのも、これまで「これをやるんだ」と思っ ていたのが実は誰か他人の価値観を借りていたにすぎないもので、 本当に自分のやりたいことではなかったことに気づいたのだろう。 4年で気づくのは遅いのだが、卒研テーマを決める時にこれに気づく 学生はけっこう多いものである。もっとも、そういう迷いがないというのも、 借り物を一回も疑わない生き方であるということも多いので、いちがいに いいとも言えない。
しかし、いままで何の疑問も抱かずに過ごしてきたので、現状を否定 して「理想」をイメージする力が弱いし、イマジネーションが極度に不足 している。すぐにどうこうできるというものではない。 もし何の制約条件もないと仮定するなら、休学して一年間全国、世界を 放浪の旅するといい、などと言った。無責任のようだがこれが正論では ないかと思える。理想をイメージする力は、豊かな経験からしか生まれ ないと思うのだ(経験というのは、読書や芸術の体験も含まれる)。 環境ボランティアやNPOにも関心があるというのだが、実際には環境 問題についてほとんど知らないので、自分の空虚さを埋めるために 「何でもいいから社会的活動をしたい」というのはよく考えた方がいい とも言った。そういう動機で運動に入ると教条的になったりしなやかさが なくなる人がいるので、あくまで「自分の暮らしたいスタイル」を求める 過程でかかわっていくのが基本だと思う。 だから、「どのように生きたいのか」が入っていないと危ういわけだ。
森岡正博の『生命観を問いなおす』、この本で面白いのは、「生命 主義思想」への批判である。私が生命主義思想に感じている「安易さ」 をうまく指摘していると思う。要するに、「いのちというけど、いのちと いうのは他のいのちを殺さなければいけないものでしょ?それが わかってるの?」ということなのだが、私もまったくそれには賛成である。 この点をおさえているのは鳥山敏子だといって、それを最も高く評価 している。私が思い出すのは宮澤賢治の「よたかの星」の世界である。 当然、上田紀行などは批判的に論じられる。「上田のいのち論は、 たいへん明るいものです。みんなで生き生きすれば、地球はきっと よくなってゆくよ、と言わんばかりの明るさと素朴さが支配しています。 そのナイーブなきらめきに、多くの人々は打たれるのだとも思います。 それは、消費社会が行き着くところまでゆき、こころの癒しまでもが パッケージに詰めて「商品化」されはじめた八〇年代日本がはらんで いた、根拠のない明るさを反映しているのかもしれません」 と、要する に、「よくもそんな甘チャンの思想を口にできまんなあ。わたしゃとても ついていけませんわ」と言っているわけである。 つまりは、「内なる煩悩への取り組みなき生命主義思想は、薄っぺ らい」というふうに要約できるだろう。これには、まったく賛成である。 私も、中沢新一の霊性論に、「内なる罪の自覚と救済という契機を 欠いた、『救済論なきキリスト教論』だ」と思う。永沢哲も同じで、 煩悩への取り組みという点を薄めた仏教論になっている。こういう 薄っぺらさを撃つための砦の一つとして、森岡の論は使える。
ただ、ディープ・エコロジー思想も、ともすればこういう生命主義的に とらえられがちだが、ジェームズ・スワンなどは「狩猟論」を書いているし、 生き物のと共存とは「殺すものと殺されるものとの共存」だということ を理解している。 そのような冷徹な事実の認識の上に、生命をとらえるのは、アイヌや マタギなどの人々はよく理解していたことだ。
キャロリン・マーチャント『自然の死』(工作舎)、分厚い本だが、言って いることは簡潔で、要するに有機体論世界観から機械論的世界観に 変わったことの問題点を指摘している。その世界観の転換を歴史的に 書いたものである。まとめ方としてわかりやすい。参考になる。 彼女によればライプニッツが有機体論に立っている思想だという。 マーチャントはこの『自然の死』を踏まえた『ラディカル・エコロジー』の 著書がある。 私が今度展開しようとしているのも、ニューライプニッツ的なものである。 私は実体ではなくて、知覚器官とその知覚領域をゲシュタルトとして 把握し、それを「場所」的なものと理解し、そうした場所性の拡張と交差 が宇宙を形成しているという世界観である。 それから『自然の死』と同じような路線と思われるのがモリス・バーマン の『デカルトからベイトソンへ−−世界の再魔術化』(国文社)である。 ここでは「参加する意識」から「参加しない意識」への転換というふうに 論を立てている。つまり、世界や自然から自分を切り離し、外側に立つ ものとして自分を捉えるということだ。これがいわゆる「客観性」という 神話である。それはまた「傍観者」ということでもある。 このことは、ウィルバーが「モノローグ的」と「ディアローグ的」という 「知のモード」の問題として述べていることとほぼ同じである。
加藤尚武『環境倫理学のすすめ』という本は、野蛮に感想をいえば 加藤氏というのは、魂の深みというものをまったく知らず、自分の知性 に思い上がっている大学の先生というものの典型であろう。 まあ、参考になるところもある。しかしいろいろ屁理屈も多く、感服しな かった。要するに「自然観のパラダイム変換」というような発想をこき 下ろそうとしているのだが、彼自身の立っている地平が近代そのもの なので、「近代を超えようという思想は、近代の価値観を否定するから いかん」というトートロジーの構造ではないかと思えた。 考えてみるに、「自然観における転換」と、「自然保護をいかに進める か」ということがなんとなく同一視されているような状況は、やはり少し 問題だろう。自然保護を公共政策やまた市民運動という視点で行うなら、 ある目的を達成するのに効率的な手段は何かということを考えるわけ だし、その時点で言えばたしかに主観−客観という構図でものを考えて いる。
主観−客観ということが悪いわけではなく、問題は「そのほかにももの ごとを理解する『モード』というものがある」ということを否定しようとする イデオロギーであるのだ。 自然に対する深いコミットメントを進めようとする自然思想は、そういう 「異なるモード」の存在を認知させようというものであり、それはロマン 主義の思想の流れにある。つまり「交感的なモード」である。このモード に入っている時は、知性を超えた魂的な感覚になっている。自然保護 の具体的な方策を考えるのは、そのモードからいったん出たあとである。 しかしこの「深いモード」は、自然に対するコミットの深い動機づけとして 作用するであろう。 加藤は、具体的な人間というものはどういうものかという問いを抜きにして、 合理的推論のみで「いかにするべきか」を規定できるという前提に立って いる。 これが倫理学というものだとしたら、そもそも私はこの立場自体の価値 を評価できない。 大事なのは、事実を知ることである。魂次元の事実だ。 つまりユング的な心理学である。
加藤尚武は、いっさいの「自然観の再検討」を拒否して、それとは 無関係なところに環境倫理を定立しようとしているかに見えるが、 このような立場は環境倫理としては少数派と言ってよいだろうと思う。 やはり、近代の自然観を再検討することと結びつけて考えていく方が 多数派なのだ。 『見える自然と見えない自然』とか、それから『自然観の構造と環境 倫理学』などという本もある。エコロジーを思想としてとらえるものとして はキャロリン・マーチャントの『ラディカル・エコロジー』がいちばんまと まっていて、これも自然観の問題から、ディープエコロジーとソーシャル エコロジーを取り上げている。ディープ・エコロジーの入門としては井上 有一+ドレングソンの『ディープ・エコロジー』がすすめられる。また 現代的な環境倫理の考え方としては鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』 がいちばんわかりよいと思う。
加藤尚武の本は『環境倫理学のすすめ』などと入門書ぽいタイトルが
ついているが、環境思想の基本的な流れからは外れており、その外側
に立って小馬鹿にしているような態度で書かれている。
これは、そこの「環境倫理学の三つの主張」というところだけ参考にして、
あとはあまり気にしないのがよい。要するにこれを入門書だと思わないように、という
ことである。
自然観の検討を拒否するということは、今の常識を疑う必要はないと
言っていることになるのだ。
環境思想の本については、京都精華大学の人文学部環境社会学科の
HPにあるブックガイドをすすめる。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/ それから先の『ディープ・エコロジー』の巻末の文献案内と、石弘之編
『必読・環境本100』がよい。
田村正勝『見える自然と見えない自然』という自然哲学を扱った本は、 あまり期待していなかったが、けっこう面白かった。哲学の本で面白か ったのは久々で、これは著者が狭義の哲学専門家ではなく社会哲学 の出身で、常に現実の問題を見ながら思想をやっていることとも関係 しているだろう。 この場合は環境問題だ。そこで「人間は生きる限りにおいて何らかの 形而上学を持たざるを得ない」ということが書いてあったが、その通り だと思う。 魂や霊の世界というものはないんだ、というのも一つの形而上学である。 それが「合理的」などと思われているのは、社会通念がそういう形而上 学を「本当らしい」と思っているだけで、決してそれが「証明」されている からではないのである。 つまり文化的選択の問題である。 ほとんどの「学問」は、こういう暗黙の形而上学的前提を問わず、社会 通念の上に乗って独自のサブカルチャーを形成しているにすぎない。 多くの場合、近代社会が前提としている形而上学前提を問うことを回避 した上で、それをいかに近代の学問文化という文脈に理解可能なもの として「説明」をつけるか、という努力が営々としてつづけられるわけだが、 「そんなもの、意味あるの?」と素朴な反問をしたくなってくる。 前提が脆弱だという印象をぬぐえない。
たとえば、シャーマニズムをどう見るかというような場合に、論ずる人が 自らの「現実」という観念を再検討することを怠ってはならないということ だ。 そこで近代西欧的な「現実」観念を無前提に普遍とおいてしまうと、 知的植民地主義に陥るということである。 中井久夫の『治療文化論−−精神医学的再構築の試み』を読んでみた が、これも当時としては最先端だったんだろうな、ということである。 近代西欧の「普遍性」なる主張を疑おうという姿勢は悪くはない。 しかしもっとはるかに先に進みたい。 トランスパーソナル心理学というものがいかにラジカルであったかという ことが、逆によくわかる。 近代西欧は「普遍」ではなく、人類史的に見れば「特殊」なのだ。
鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』(ちくま新書)は、自然・人間という 二項対立的思考から抜けて、「ネットワーク」として考えていくべき と主張している。ホリスティックな関係論である。これには全く賛成で、 特に「切り身」と「生身」という議論は面白かった。 しかし、彼はディープ・エコロジーを「人間と切り離された自然を理想化 している」と批判しているらしいが、はたしてディープ・エコロジーとは 本当にそういうものであろうか。むしろ、ホリスティックな関係性のうち に「自己」を捉え、そのネットワークの自覚を拡張していくことを主張する ものなのではないだろうか。したがって、鬼頭が理解するように、ディ ープ・エコロジーとバイオリージョニズムとは思想的に異なるものでは なく、密接な関係があるのだ。たしかに、ミューアなどの「原生自然」の 保護というシエラ・クラブ的な自然保護思想の影響は受けていることは たしかだが、それの直系とみなすべきではなく、多様な源流の一つと 解釈すべきものだ。
思想史としては、思想界全体におけるホリスティックな思考の興隆は、 基本的に文化・自然の二項対立を克服しようとするものであり、 ベイトソン的な「全関係性の自覚」という方向に行こうとしているもの である。 ディープ・エコロジーもあくまでそうした方向において理解すべきもの である。 というわけで、近代思想史全体から位置づけるという点においては いま一歩だと思われた。 しかし結論として、オギュスタン・ベルク的な「風土性」の自覚、ローカ ルな特性を前提として文化−自然関係性を重視するという立場は、 支持できる。
基本的に日本というのは貧しい社会なのではないかと思われた。 欠陥ある医療制度の問題にも言えるが、生きていることについての 基本的なしくみにおいて、貧しいのだ。 これはまず、私たちが「豊かな暮らし」とは何であるかということの ヴィジョンを、スピリチュアルな次元を含めてしっかり持った上で、その 上で社会経済的・制度的なシステムの改革に着手しなければなら ない、ということである。 精神医学の問題は最も尖鋭である。たとえば憑依という現象がある。 ここで、「宇宙は霊的存在に満ちている」という世界観に立てば、憑依 を癒すには霊を諭し、悟らせることが最善である。ところが医学は決して 「霊」の存在を認めない。なぜか。その絶対的根拠はない。それが彼ら の「文化」だからだ。近代社会の形而上学的前提だからである。彼らは その枠から出ることができない。 中井の『治療文化論』に、ある若い女性が突然「自分は普賢菩薩である」 と名乗って部屋に閉じこもり、家族に礼拝を強要するという事例が出て いた。霊的世界観に生きている人間から見れば、これは「低級霊が 憑依したな」と明白にわかるケースである。これは力のある宗教者なら 簡単に解決できる。
何を根拠に「霊は存在しない」という形而上学的仮定が正当化されて いるのかは明白ではない。 ここで明らかになるのは、たしかに思想の自由というものがあり、いか なる世界観を持とうとも法的に処罰されることはないが、いろいろな 世界観には、明らかに社会的ステータスの違いというものが存在して いることである。 問題は、社会学的、社会心理学的なものである。
つまり、「霊はない」という近代医学者、近代アカデミズムの世界観は 社会的ステータスが高く、霊能者や宗教者の霊的世界観は、社会的 ステータスが低いのである。逆に言えば、ある特定の世界観を奉じる ことが、高い社会的ステータスを獲得する条件にもなっているという 社会構造が見られる。ここから、近代的世界観に基づく医療文化が 享受している権威に比較して、霊能者の属する治療文化の社会的 地位は極端に低い。 しかし、英国では霊的ヒーラーの社会的地位が認められ、1500の病院 でヒーラーの治療が受けられる。治療師の連盟もあり、健康保険もきく。 社会的ステータスが認められているのである。英国はやはり「スピリ チュアリズム」の国なのだ。 日本において、極端に西欧合理主義への信奉が見られるのは、 非西洋世界における「植民地的エリート」の心性の名残だと思う。 つまり、現地の伝統文化を脱して、いかに近代西欧型の世界観を 身につけるかが、植民地における現地人エリートの社会的上昇を 保証することだったのである。 つまり、思想は平等の条件で競っているのではない。思想・世界観には 中心と周縁、強者と弱者が存在する。それが現実である。社会通念を 変えることを考えねばならない。
天外伺朗の『深美意識の世界』では現在の病院に代わる、ホリスティ ックな健康と成長のためのセンターを構想しているが、これは注目され てよい。 医学でも特に、現在の精神医学の持つ権威性に挑戦していかねばな らない。個々の精神科医には善意の人が多いだろう。だが体制として はきわめて反動的な体質を持っている。それは結局、異次元を拒絶し、 魂の欲求を封殺するからだ。これについては、トランスパーソナル精神 医学の学会を拠点としつつ、スピリチュアル・エマージェンス・ネットワー クをNPOとして活動していくという方策が考えられよう。 具体的な運動方法としては、NPOを中心とするのがよいだろう。官僚 主導の構造を変えていくためには市民参加型のNPOの役割が大きく なっていかなければならない。これは全ての分野における構造転換と して必要なことである。そして市民運動と結びついた議員などを巻きこ んで政治運動化していくことが考えられる。代替医療なども、NPOとし て動き出しているようである。既に、行政も自分が直接やりにくいことは NPOに委託して、補助金などを出してやってもらう、ということが多くの 分野で成立している。 だがそれと共にオピニオン・リーダー的な存在も必要になってくるだろう。 新しい社会のヴィジョンを示すことだ。 よい政治とは、上からいろいろ世話を焼いてあげることだけではなくて、 多くの人に「よい世界を作っていこう」という欲求を呼び覚ますことでは ないか、と思う。そういうエネルギーを放射することが必要だ。
それにしても、人類社会はどこへ向かっているのか。『神との対話3』で 描かれているような、進化した惑星への道を歩んでいるのか? ともあれ理想社会とはどういうものなのか、と考える人は大事で、理想 がなければ進歩はない。天外伺朗は理想社会を提示しようとしている。 このこと自体がスピリチュアルなことだ。私もこの理想社会像にはかなり 共感できる。 さらにもっと究極的なものは、『神との対話3』に出てくる。たしかに地球 以外の星ではこういう文明もある。こういう風に地球外の進化した文明 とは何か、と思索することも大事で、それは私たちの中にある理想(イデ ー)を呼び起こす。その完成された社会のイデーは魂の中に眠っている はずだ。 一人でも多くの人が、霊的次元には既に完成している、「完成された 人類社会」がいかに光に満ちたものであるか、それを直観できれば よいのに、と思う。 それを見てしまったら、「この世にその社会を実現するために働こう」と いうエネルギーが出てくる。 もしそうならないとすれば、そんな霊性は本物ではない。 幸いなことに、今の地球には、そうしたヴィジョンを感じている人が多く いると思う。そうして、少しずつ地球のカルマは浄められてゆく。
「自分」というものを自我とイコールとおいているというのが近代知の 誤りの一つだ。 自我は二元対立を建てようとしている自己意識のあり方である。それ はいいとして、ではそういう自我を離れたところで、自分そのものという ものを考えることはできないのか。そこでまた、一足飛びに「無我」など へ飛んでしまうのは、発想が凡庸なのである。それは頭だけで思考し ている証拠だ。 二元的な自我を離れても、なお純粋なる自分の意識はある。それが シュタイナーの言う「意識魂」であり、「トランスパーソナル・セルフ」なの だ。そこを視界に捉えていないと、ヨーロッパ文化のとらえ方が薄くなる。 バーマンが提示しようとしているヴィジョンは、「宇宙に組み入れられた 意識」 cosmos-embedded consciousness とでもいうか−−宇宙全体 と、無数の網目によって結ばれたオープン・システムとしての自己、 そして人間世界ということであろう。 これがエコロジカルな意識へとつながっていくのである。 つまり、web of life という基本発想に立つ。これには全く賛成なのだが、 なおそこに、全体性のレベルとしての次元性を考慮に入れていく必要 があるだろう。というのは、スピリチュアルな体験というのは、「次元交差」 であって、通常は経験することのないエネルギー次元に接触すること であるからだ。
ごくざっくりと言ってしまえば、要は、「見えない次元の世界」がリアリティ として存在するのかどうか、つきつめればそういうことだ。 それを「ない」と考えれば唯物論。「あるかもしれないが、人間には不可 知である」とすればカント的な地平。これに対して、「イマジネーションの 眼によって、見えない次元を認識することは可能」と考えるかどうかだ。 いや、これは正確な表現ではないので、厳密に言えば、主観と客観が まず存在するのではなく、それは「識」の作用によって、その「事後」に、 その両端に存在するかのように見えるものである。それはいいとして、 実は「識」はそれだけではないんだ、他にも識というのはあって、その レベルの識に見合う「主観」と「客観」世界が成立しているんだよ、という ことなのだ。これがウィルバーの言う「世界空間」ということですね。 だから、「見えない世界」――身も蓋もなく言えば、「あの世」――が 存在するかどうかというのは、「知覚や第六識以外にも識作用は存在 するか」という命題に置き換えられることになる。 ここで、元型心理学の言う想像力とは、「より根源的な識作用である」と 主張されているということになる。実はこれは、コールリッジやらシュレ ーゲルなどの、ロマン主義的思想の命脈につながる考え方である。 つまりその根源的な識作用こそが、世界と自己を生成させている根源 的な作用ということになる。この立場に定位するということが、重要な ことだ。難しい話だが、これはどうしてもわかってもらわなくてはならない。
東方キリスト教神学において「神の本質」と「エネルゲイア」の区別が なされた。神の本質は絶対に知りえない。このような絶対不可知論に 立つことが霊的には健康である。 しかし同時に、神の救済の働きが私たちに光として、エネルギーとして 現れることもある。だから、こういう場合に安易にそれを「悟った」と 自力的に理解してしまうのではなく、「神の恵み」という視点でそれを 頂くという姿勢が大切だということである。このような「恩恵と救済」 というパラダイムが欠如している、といわないまでもいささか弱いことが、 日本の精神風土における一つの危ういところだろうな、と私は思って いるわけだ。 ともあれ、臨死体験とか、いわゆる前世退行による「マスターとの出会 い」などというような体験が生じうるということ自体は事実である。事実 であることは動かせないので、それをどう解釈するかという枠組の問題 である。ではマスターというのは何だという話にもなる。ここで思想的 には「天使論」の領域に至るのである。
東方キリスト教思想では、人間よりも高次の知性・霊性を持っている 存在があることは自明と考えられている。この思想的枠組に従えば、 マスターの出会いなるものがどういう意味なのかは理解できる。つまり マスターは神そのものではない。いわば天使であり、人間よりも霊的 視力を持ち、神を人間よりも理解しうるものである。 東方キリスト教によれば「神の本質は知り得ない絶対的な不可知で ある。人間や天使などの被造物は、その霊的能力に従って、その理解 力の限りにおいて神を理解する」。そもそも、「何が見えるのか」という ことはその存在者の能力限界において決定されているので、人間に 見えている世界そのものはあくまで人間にとってのみリアリティであっ て、天使にはまた天使のリアリティがある。ということは臨死体験や 前世退行において起こっているのは、こうした人間的限界の一時的 拡張であると理解できるのである。 こうした光体験や「新しい魂の目覚め」が大規模に発生しつつあること 自体、人類に大きな変化が起こりつつあることを示しているだろうが、 その光は究極的にどこから発出しているかという思想的問いがそこで 要請される。 もちろん、そこに「神」−−あるいは、絶対的根源というものと対峙する 時が来たということなのだ。 これまでインテリは何の霊的体験もなく抽象的に神や救済について 考えていたが、思想は体験と表裏一体のものであるべきだ。光があり、 マスターとの出会いがあるというなら、その事実をふまえて、神と人間 について考えねばならない。私にはまったく当然のことであるように 思われるのだが。 なお、ブライアン・ワイスの『前世療法』『前世療法2』『魂の伴侶』(以上 PHP文庫)、そして『魂の療法』(PHP)いずれもお勧めである。
唯識のアサンガは、次のようにいっている。 アーラヤ識の転換はどのようにして起こるか。それは、「最清浄法界より 流るる所の正聞熏習、種子となるが故に、出世心、生ずることを得」、 私の言葉で言えば、これは、「神の光」による照明を浴びて、自己意識 の根源が照らされると、根本的な魂の「転回」が起こるということである。 これが「回心」である。 アサンガは、そのように、照明を浴びなければ深い我執の海からは 逃れられない、と言っているわけである。 しかし神の光は神そのものではない。神は絶対的に不可知である。 正確に言えば、この光とは神のエネルゲイアであって、神そのものでは ない。よく「根源的いのち」などと言われるのはそれである。 これにもいろいろ段階があるようだ。
霊的な方面では、「光」の体験に基づくキリスト教東方神学、ロースキ ーの本を熟読して、そのエッセンスは理解できる。 そこでいちばん重要なのは「ペルソナの神秘」ということであった。 私たちが、なぜ「個」として存在するのか、その根源は何かということだ。 このことを「イデー」のレベルで把握できたのは大きかった。 また「光」についてだが、これにも無限の階梯がある。たしかにそれに 執着すると魔境にもなりうるのだが、これは光そのものというよりその 受け入れ方の問題である(もちろんアストラル的な偽の光というのも あるが、それは見分けられない方が悪いのだからしかたがない)。 光が恩寵であるということは多くの臨死者や催眠退行での経験者も 語っていることである。
そのような次元の光を見るということは、そうしょっちゅうできることでは なく、それを繰り返そうとすることはあまり意味がない。しかし、一度光が 通ってしまうと、宇宙にはエネルギーが満ちていることが何となくわかる し、そのエネルギーにつながるということが何を意味するかも理解できる ようになるようである。何よりも、自分が存在するということ自体に、 無限の愛・恩寵が注がれているということが体験的事実としてわかる ということである。そういうことがわからないということは、まだ本当の 意味での光を体験していないのではないか。 東方キリスト教で、光を見ることと恩寵の道がイコールにおかれている のは、体験的事実として当然のことであろうと思われる。そしてこの光 は、タボル山上のキリストの変容において現れたのである。そのことも また疑いようのない霊的事実なのである。 世界を光に浸されたものとして見よう、ということは、光によって促され た聖なる意志なのだと思う。そのように生きるようにと、光が人を導いて いるのである。そのことを霊的事実として確認するのが、東方神学の 道なのである。
カレン・アームストロングの『神の歴史――ユダヤ・キリスト・イスラーム 教全史』(柏書房)は「神の絶対的不可知性」を擁護する立場に立ち、 我々に知られるものはすべて神のエネルゲイアである、と考えている らしいが、これは私が到達した考えと一致する。 これは、西欧のキリスト教への徹底的な批判ということも意味している わけである。 また、ユダヤ・キリスト・イスラームを統合して見ると、これが「西方思想」 の全体を統一的に見る視野を与える。哲学史などというともう幅が狭く なるわけで、問題は、西方世界において人々はどのように「神」と向き 合ってきたかということであり、狭義の哲学もそのバリエーションなのだ。 ここではプラトン主義も西方における神の追求の一形態と捉えることが 特に大切である。 哲学と宗教が別々ものであるという近代的常識(それが現在の学問 分類にも反映しているわけだが)を離れなくてはいけない。
『忘れられた真理』、これも、「学者としては相当の線まで行っている」 という種類の書物であろうと思う。 日本ではウィルバーばかりがもてはやされているが(グロフなどはほと んど影響力がない)、ウィルバーのいちばんいけないところは、自分が 究極まで悟っていると思っているらしいことである。何が問題だといって、 これほど許し難いことはないと思う。ま、彼にも役目があるのはたしかな ので、自分は悟っていると思ってさえいなければ私ももっと好意的に 書くところであるが。 ヒューストン・スミスは自分が悟っているなどと微塵も思ってなくて、 知性の限界を知っているところがある。そして、スミスは「永遠の哲学」 にきわめて忠実にそれを知性言語で語っている。 それとウィルバーの著作を比較すると、ウィルバーが永遠の哲学を ベースにしつつ、それに独自のものをつけ加えて体系化しようとして いるのがわかる。その「独自のもの」が、私には余計ものだと思う。 たとえば彼が言う「プレパーソナル」なるものは存在論的にどう位置 づけられるのか。
彼のいけないところは、この物質世界と 霊的世界では霊的世界の 方が先にあって、霊的世界に浮遊している特殊領域が物質世界だ ということが十分にわかっていない(もしくは論理化されていない) ことである。 つまり、日本ではウィルバーから入ってしまったために、永遠の哲学 の本来のヴィジョンが「ウィルバー流」にゆがめられたものが流通して いると思う。 あくまでウィルバー思想は彼独自のもので、伝統的霊性から飛躍、 逸脱したところを持っていることを認識しつつ受けとめるべきだろう。 この意味でウィルバーは過大評価されていると私は考える。いいか げんウィルバー一辺倒から目を覚ますべきだろう。
日本人が思想を作ろうとするとたいていは東洋的無とか、そういう方に いってしまう。だがこれは、実際に無や空を体験したわけではなくて (それは生やさしいことではない)、観念で言っているにすぎない場合が 多いのである。 西田幾多郎にしても、実際に空に入ったわけではなく、見性はあったに しても霊的覚醒としては中途段階にすぎなかったと私は思っている。 それに西田哲学には、魂が覚醒し始めたときの喜びというものがまった く入っていないので、彼の体験というものもある限定されたものと見る のが妥当であろう。 一足飛びに空に行ってしまうのは、まず観念で書いていると思って間違 いない。その途中のプロセスを実際に知らない人は信用しない方がいい。 私は空は語らない。自分が体験していないことは沈黙するのだ。
私は、インドのバクティ・ヨーガやキリスト教の神秘体験などに、自分と 共通する要素をかなり見出している。そこで、「魂」の自覚と、それが 神的な交わりへと進んでいくということに最も興味をいだいている。 不思議なことに日本の思想では魂について深く考察したものは見られ ない。魂は「ある地平から見れば」実在であるということ、それはつまり、 肉体を超えて存続するある「もう一つの自分」が存在するということで あり、それは体験の地平としてたしかに存在するものだ。これはまた、 自分のほかにも魂は存在していることを意味してもいて、つまり宇宙は 魂で充満しているとも言える。魂は様々な存在レベルにおいて実在 する。つまり大地の魂とか地球の魂というものもあるわけだ。それを 神々と呼んでもかまわないわけだが。 つまり魂の実在性を確定する思想は、同時に、天使、妖精、神々と いった諸存在の「相対的実在性」の可能性をも肯定するのである。 このような、人間と共に宇宙に住んでいる存在を知らしめるということも、 重要なテーマである。 これについては、シェルドレイクとマシュー・フォックスの対談本『天使の 自然学』が興味深い。それは、「コレスポンデンスの宇宙」を描こうとす るものなのだ。
斎藤は一貫して「あまり神秘的なことに興味を持ちすぎないようにする こと」と言っているが、これも一理ある。 健康な現実感覚を持てず、バランスが悪くてフラフラしているような若者 が霊的世界に興味を持ったりするケースがかなり多いことは私も実際に 見聞しているからである。 特に若い男性に多いのだが、何かとてつもないすごい体験がどーんと 来て、その瞬間に全てを悟ってしまうような体験を期待している人が ある。そして、そういう体験が自分にはないことに悩んだり焦ったりする ケースがよくある。これもまた、オウム的なるものにひっかかりやすい パターンなので十分な注意を要する(女性の場合は、身体によって この世界に存在しているという感覚に完全に鈍感になることが比較的 少ないのかもしれない)。 たしかにそういうすごい体験というものが世の中にないわけではない。 しかしそれは恩寵ともいうべきものであろう。それはスピリチュアルなる ものが存在する唯一の形ではない。 むしろ、こう言いたい。あなたは、この一日の中で、どのくらい「美」を 発見しましたか? と。今日の空に、面白い形の雲はありましたか? 家から駅までの道に、何種類の花が咲いていたか覚えていますか? ――たとえばもし、道ばたに赤い花の野草があって、その茎にかたい 棘がいっぱい生えていることに気づいて、そして図鑑を見てその名前 が「ママコノシリヌグイ」であるということを発見する、ということは 「スピリチュアル」とは何の関係もないことなのであろうか? 世界をきちんと感じることが、あらゆるスピリチュアルの出発点である べきではなかろうか。だから、シュタイナーのシステムにもオイリュトミ ーがあり、幼児教育の基礎となっているのだろう。
「魂の感覚」というものがわかるようになるのはべつにむずかしいこと ではない。本来誰でもわかるものをたまたま忘れてしまっているだけだ からだ。 思い出すようにするのは簡単なことで、よい文学を読み、よい音楽を 聴く。よい美術やアート作品を見る。金のためにいやな仕事はしない。 頭だけでひねくったような本は読まない。変なテレビは見ない。自然に 親しむ。疲れたら休む。食べ物を味わって食べる。部屋の中に置くもの も、美しいデザインで作った人の心が感じられるものにする・・こうして いれば、感じないというほうがおかしい、と思うのだが・・ とかく大人の読書人の世界は、「人間なんて駄目なもんだ」ということを 暗く書いたような作品が評価を受ける傾向があるが、子供の本の世界 はそういう変な癖がついていないのでいいということもありそうだ。 子供の時に「よい子供の本」をたくさん読んで育った人は「魂にいいもの」 はなんであるかわかるし、決してオウムのようなものにだまされることは ない。オウムなどは「美的に耐えがたい」と感じるはずだ。 美しいものがなんであるか知っていることが重要で、哲学はその次に 来る。 美的な世界感覚という基礎がなくて思想を論ずるのは虚しいことだが、 今の大学教授などの8割方は基礎がない砂上の楼閣の世界に生きて いる(これは多少甘く見積もった数字である)。
シュタイナーの『神智学』、やはりこれが、徹底的に知的アプローチで 霊的事象を解明しようとする本としては、最高峰であろうと思う。 「私には体験が何もないから」ということを気にする人が多いことは 知っている。しかし、徹底して思考によって霊的世界の構造を把握する ことはひじょうに重要なことである。このことをシュタイナーは強調して いる。もし、そういう知的な理解が先行しておらず、いきなり体験の大波 が押し寄せてきたら、間違いなくそれに溺れて道を失うか、または自分 が悟ったと思い込んで教祖のようになってしまうだろう。ある体験が いきなりどーんと来て、その瞬間にすべてがわかってしまうことを期待 しない方がいいと思う。そういう瞬間もあるにはあるが、その前提として 長い準備期間があるのだ(ないように見えても、前世にはある)。たとえ 今生ではそれを体験的に知ることができなくても、魂のライフサイクル から見ればそれはたいしたことではない。部分的にでも真理をとらえて いる「イデー」には霊的な力がある。その力を魂に受け止め、育てると いうことが非常に大切なのだ。 逆に、ちょっとばかりの体験に有頂天になって、それを正確に位置づけ るための「霊的思考」の作業を怠っていると、かえってそれ以上の進歩 が阻害されるケースも少なくないと言えよう。「私は宇宙の真理を見ま した」というようなメールもたまに来たりするが、だいたい、霊界をほんの 少しかいま見たようなものばかりである。たしかにそれは一つの「恩寵」 としてありがたく頂くべきものだが、それ以上に大切なのは、それを道標 として正しい道を歩むということである。
なぜ私が教父とか東方とかに関心を持っているかというと、それは 『キリスト教神秘思想の源流』の訳者の解説が的を得ている。つまり、 近代の「知」で自明の前提とされている、「哲学と神学」「神学と霊性」 の分離がそこにはないということ、そこから、新しい知の地平へのヒント が得られるということだ。神秘体験を中核にして、そこからどのような ロゴスが可能になるのか−−これはトランスパーソナルでも中心となる テーマだろう。 それから、訳者の水落健治氏は、「日本人の宗教意識が宗教経験の ロゴス化を拒否する」傾向を指摘する。神秘体験をしたら沈黙するのが 当たり前で、いろいろしゃべる奴は信用できない、という風潮は私にも 思い当たる。私が経験を話すと、そのようにはっきり断言した人も数人 いた。もっとも、神秘体験に接するのに、日本人は依然として「禅」という フィルターしか持っていない、ということの現れである。同じ東洋的瞑想 でも、ヨーガは受容されず、うっかり「チャクラ」などというとオウムの シンパと思われかねないという偏見はまだ多いのである。 ハーネグラフのニューエイジ文化論は、歴史家、宗教史家という立場 から見られたものである。しかし、これはあえて価値中立的な立場を 保持しているので、これだけでは、たとえば、オウム的なものとまっとう なエソテリック・サークルとの区別がつけにくいのではなかろうか。そこで、 こうした歴史的研究をふまえつつ、価値判断の領域にも踏み込んで いくことは、トランスパーソナルという立場からは必要なことではないか、 とも思うのである。オウムのどこが間違っていたのかを本当に明らかに するには、外面的な考察だけではダメであり、霊的な領域に踏み込ま ないといけないのだ。それは、歴史家の立場を超えている。
今出ているかどうか、私が別冊宝島の『東洋体育の本』(津村喬著)と 出会った衝撃は大きかった。「深層体育」というコンセプトは、まったく 新しく自分の身体を発見するきっかけとなったのである。その次の 『太極拳第一歩』もすごかった。それから私はいろいろと「気の世界」の 遍歴を始め、太極拳の教室に通うまでになったのだからわからない ものである。いろいろ習った型はだいぶ忘れてしまい、今ではベーシッ クな「簡化太極拳24式」しかできないが、それでも私が太極拳の世界 から学んだことは計り知れないのである。オイリュトミーに触れたときも、 これは太極拳と同様、自分のまわりの「気」(=エーテル体)を味わう ことからスタートするのだな、とすぐ理解できた。講師のヘルガさんは、 「Feel the space!」と何度も言っていたが。 そうして私は、霊性について頭であれこれ考えるという袋小路に陥る ことを回避することができたように思う。 「上にあがろう」と気張る前に、まず自分の深層的身体としっかりと向き 合い、受け止めることができていなければならない、ということも体感的 にわかっているつもりである。
つまり、気、エーテル体の体感からスタートすべきである。 シュタイナー教育で、まず体の感覚から入っていくのはまさにそういう ことである。しかしシュタイナーをやっている人々が、地元東洋の 「気の文化」について無知なままでいるのはもったいないことだと思う。 「気」から見れば、シュタイナー教育がよくわかるという面もありそうだ。 自分の身体を疎外している人がいたずらに「霊性」を求めても、それは 自己へのネガティブなイメージの代償を「別世界」に求めているにすぎ ず、こういう人々はオウムのようなものの格好の餌食にもなりかねない のである。 自分を受け止めず、「こっちの世界で偉くなってやる」というようなノリで 「修行」に興味を持つ人々もしばしば目にしたが、しかしまあ、観音様な どはそういう人達をも受け入れているのだから、私がつべこべ言う資格 もないのだが。 ともあれ、自分の中の「存在の核」を身体知として理解できれば、 外側の権威にひれ伏すことがあるはずもない。
考えてみれば、べつにトランスパーソナルが悪いわけではなく、それを いかにも「軽く」言ってしまう風潮が疑問であるわけで、要は、どれだけ 魂の言葉になりえているか、というその点しかないのだろう。「言葉が 上滑りしていないか」を警戒すること。「言葉に光が入っているか」をよく 見る。表面の意味だけにとらわれないことだ。もちろん自分で発する 言葉を含めてである。 中沢は、やはりオウムを見抜けなかったということがひっかかる。その ような力のない思想は、どこか本物でないと思えてしまう。(この中沢・ 島田のオウム評価でのしくじり以来、世間での宗教学者の評価は地に 落ちたという) 加藤清・鎌田東二『霊性の時代』を読む。前作の『この世とあの世の風 通し』に比べると、鎌田がよくしゃべって、加藤清の考えがあまり出て こないので、面白さの点では及ばない。とこどこ面白い箇所はあるが、 「超宗教」というか、霊性の時代を切り開こうとする気持は伝わるのだが、 まだあまり具体的には見えてこないなあという感じ。「ものすごく行きづ まっている」という感覚だけは鮮明に表れていた。
自分の魂から語ることを認められない思想のあり方というのはいったい なんだろうと、西洋哲学やアカデミズムのあり方そのものが根本的に 私には疑問のままである。それは、哲学者自身が、自分の生というもの について曖昧な行き方をしている人が多いということだ。 もう権威は解体している。「人」が見られている時代である。 どうも本ばかり読みすぎるといけないので、自分がやりたいことをもう 一度よく瞑想してみると、それは「魂が、その本来の輝きの中に生きる ことができるための、具体的な指針」を知るということだ、と思えてくる。 これが広い意味での、「癒しの哲学、癒しの思想」ということである。 癒しということの根本を、「魂が光とつながること」と考える。これが霊性 であり、超宗教でもある。 そのような方向が見えていない本は、注意して取り扱わないといけな い。向こうのペースに巻き込まれてはならない。
>>47 ~121
大変興味深い論考のアップありがとうございました。
霊性を基盤とした心理学、社会、環境へのアプローチ
は非常に目配りが利いていてなるほどとうなづけることが
多かったです。
私も現在のニューエイジ的思想には疑問とするものが多々あり
その危うい面を危惧していましたので
>>59 ~60あたりは自分の
言いたかったことを的確に表現されていました。
ただ、こういった思考はニューエイジだけでなく、日本においては
伝統的に仏教的因果応報的思考として根強く定着していますね。
特に戦前生まれの世代ではごく普通にこういった「愛」のない利己的
欺まん的発想をとる人が多いように思います。
これは日本の仏教的伝統が真の霊性を大衆に伝えることを怠ってきた、
あるいは日本の仏教者は超越的「愛」を知らない者が多かったという
ことなのかなと感じています。
とりあえず、森岡正博の生命論は面白そうなので読んでみようと思います。
また、「神との対話」はニューエイジ的な浅薄なものだろうと思い込んで
いていまだ手に取ったことがなかったので今さらながらに読んでみようと
思います。
斎藤孝といえば最近の超売れっ子であるが、その中でも『自然体の つくり方』というのが役に立った。そこで、現在では身体感覚が衰えて いるという説は納得がいく。 斎藤の言う「中心感覚」があって、そこからくる自己肯定感や、また 大きな宇宙とつながっているという感じが何と なくわかるということが、 全ての基礎ではないかと思える。 つまりは「存在しているという感覚」だ。「マクロコスモスとミクロコスモス の対応が・・」とか言っても、それが直観的にわかるような身体感覚と いうものがあるので、まずその感覚が分からない人にいくら話して聞か せてもわかるものではないはずだ。 そこで斎藤孝は丹田や中心軸の感覚という「中心感覚」と、それをベー スに他者との間隔を直観する「距離感覚」を身体感覚の基礎に据えて、 それを具体的に訓練する(斎藤は「技化する」という)方法論を教えて いる。 ある意味では『身体感覚を取り戻す』で概論として述べたことの発展で あるが、こっちの『自然体のつくり方』のほうがずっとわかりやすく具体 的なメソードも書いてあるのでなかなかよい。 私もそういえば最近身体トレーニングがおろそかになっていると感じ、 この本にも書いてあるスワイショウなどをやってみたりした。
考えてみれば、科学の方法に載らないものをすべて「主観的」として 切り捨ててしまった近代文化に対して、身体文化というものは「自分と 宇宙とをむすぶ微妙な感覚」を「型」を通して鍛え、それを共有する という文化なのである。 これこそ本当の現代の思想である。つまり、これからの思想は身体 感覚に支えられねばならない。これがもともと東洋文化であった。 身体を捨象して、自分というものを「脳内現象」の立場に置いてのみ 見るという西洋思想の限界がはっきりしたということだ。 身体感覚が衰弱し、「存在することの幸福」が理解できなくなった人が いくら「スピリチュアル」とか言っても始まらない――というのが私の 基本的な考え方である。 そういった、健康な身体性に基づく自己肯定感が欠けているような 人が、その欠損を補うために霊的な世界に興味を示すというのは、 危険なところがある。さらにバランスを崩しやすいのだ。
霊的な経験は、あらゆる文化を突破する。 しかし、同時に、それを方向付ける文化の力というものがある。 現代では、そういう霊的方向づけ(オリエンテーション)の力が失われた のだ。それが、オウム的な危うさをもたらす。つまり、エクスタシーは、 霊的共同体(これはキリスト教では教会共同体であり、仏教ではサンガ である)に支えられて初めて意味をもつ。そこには、古典、伝承、長老 といった存在が不可欠である。 霊的な共同体はいかにして成立するのか。それが根本の問題である。 ケン・ウィルバーは、それを理論的には示しているが、実際にどのよう に展開するものなのか、その展望を書いてはいない。 つまり、霊的な体験「のみ」に依存することはできないし、それは危険 だということだ。体験のみを重視する禅でも、禅の伝統それ自体が支え になっている。 大事なのは「サニワ」であり、その体験はどのような意味をもち、どこへ 導くのかというガイダンスである。
この点で、シュタイナーはきわめて楽観的である。 『いかにして超感覚界の認識を獲得するか』では、そういうことを正しく 判断できる力はもともと自分の中に備わっており、間違いなくやってい ればわかるのだ、と言っている。 たしかにそうかもしれない。正論ではあろうが、現実にはなかなか困難 な問題である。 しかし、シュタイナーがはっきり書いているように、現在では、個々人が 自分の道を確認しつつ進むという霊性のあり方以外には、ありえない のである。 そこで、霊的認識が開きつつある人々のゆるやかなネットワークという ものを構想せざるを得ないだろう。 その時に、インターネットなど電子メディアの活用ということも視野に 入ってくるかもしれない。
第二回 意識・新医療・新エネルギー国際シンポジウム オープニングレクチャー 「超常現象とプラトン世界」 (ノーベル賞物理学者 ブライアン・ジョセフソン) オープニング・レクチャーをさせていただきまして、ありがとうございます。 このシンポジウム組織委員会の皆さんに感謝いたします。 私はケンブリッジ大学物理学科にいる普通の科学者です。由緒ある組織 ですが、私の興味はそれほど皆さんには理解されているものではないと 思います。 私は思っているほど科学者は世界を理解しているわけではないという ことがだんだんわかってきました。いろいろ研究しているというわけでは ありませんが、私は物の働きを理解しようとしています。 しかし、超常現象に全く出会ったことがないというわけではありません。 まず私の個人的な関わりから説明したいと思います
ケンブリッジ大学トリニティカレッジの同僚ジョージ・オーウェンは遺伝学 を勉強していました。しかし彼はポルターガイスト現象、幽霊屋敷、超常 現象に大変関心があり、自分の時間にそれらを研究していたのです。 彼は私に超常現象について話してくれまして、それで私はそれらのもつ 可能性にとても興味をもったのです。 とても興味深いのは超常現象は量子の世界に共通する点です。そして これらの超常現象は必ずしも非科学的ではないと思いました。科学者も かなり変わったことを発見していたのです。 ジョージ・オーウェンはその後トロントに移り、数学の博士になりました。 トロントのサイコ・リサーチ学会の長になりまして、彼は私をサイコキネ シスの学会に呼んでくれました。そこではサイコキネシスの学会論文の 他、様々なデモンストレーションが行われまして、マシュー・マニングは いろいろな変わったことを見せてくれました。 彼がコンパスの針を手にかざすと、コンパスの針は動き始めました。 もしかしたら磁石を使っていたのかもわかりませんが、私は彼を信頼の おける人物で物を動かす力をもっているのではないかと思いました。 彼の説明によると、身体の中にエネルギーを集め、そのエネルギーを 指の先に集中させて、動かしたい物の上に手をかざすだけで動かすこと ができ、また金属も曲げることができるというのです。彼は私の持って いた鍵を曲げました。その鍵をしばらく手の中に持ち、机に置くと、曲がり 始めました。 これはトリックではできるものではないと思いました。私の鍵はとても 頑丈な物だったので、トリックで曲げるにはとても難しかったと思います。 信じられない人もいるでしょうが、私はこれらの能力は実際あると確信 しました。
この学会で皆さんに披露するのは私のものの見方です。超常現象に 批判的な科学誌「ネイチャー」のような現状維持の人たちは、名前を 挙げるならば、スティーヴン・ワインバーグなどが思いつくのですが、 彼なんかはテレパシーに関する論文など読もうともしません。 私の研究についてもう少しお話しますと、私自身こういう超常現象を 起こすことができたことがあります。 この分野にはかなり否定的なリチャード・ワイズマンが学生の前で テレパシー実験のデモンストレーションをしました。彼は学生たちに、 一人の学生にしか見えない絵をテレパシーで当てさせようとしました。 私はその学生の心に統合しようとしたのです。するとその瞬間、頭の 中に一瞬絵がよぎったのです。いくつかの線と壁の絵でした。講演者 がいくつかの絵を見せたのですが、その絵の一つは私が見た絵と 似ていました。講演者が私たちにその学生が見ていたのはどの絵 なのかと尋ねたので、私は一枚の絵に手を挙げたのです。講演者は OHPの透明シートを逆に向けていましたので、実際に学生が見ていた 絵は私が一瞬脳裏で見たものと同じものでした。私は自分が特に テレパシーがあると思ってはいませんが、このような実験でテレパシー が実在することを実感したのです。 私自身に起こった不思議な体験、他の人たちが体験したことなどは、 超常現象の実在を私に実感させるには十分でした。 超常現象がナンセンスだという人も多いのですが、現在は説明でき なくとも、将来的に科学がこういったものを証明することになるでしょう。
実験によって出た証拠をいくつかお見せしたいと思います。これはこの 道の権威の方々によって行われた実験なのですけれども、テレパシー 実験の結果です。 一つ難しいことは、超能力というのは統計的なものが多い。つまり実験 を何回も行わなければ実証することはできないということです。かなり 多くの実験を積み重ねなければ、データが集まりません。でもこの現象 を信じない人はそういう実験をしたがらないのです。 成功例は偶然に過ぎないということも多いのですが、積み重ねられた 結果はただの偶然では説明がつきません。つまりテレパシー実験の 結果はテレパシーの存在をかなり証明するものです。 これはサイコキネシスの同じような実験結果なのですが、サイコキネ シスは精神を使ってものごとを早めたり、遅らせたりすることなんです。 超常現象における科学的実証はこういった実験例においてなされて いるのです。 このような証拠で科学者も超常現象を真実だと認めるのではないか と思うのですが、残念ながらこのような結果を科学的に認めていただく のは難しいようです。 私がお見せした二つのスライドは、ディーン・ラディン先生の著書「意識 する宇宙」(The Conscious Universe)から抜粋したものです。 これはかなり学術的な研究に基づく本で、超常現象を実証する確固 たる研究なのですが、ほとんどの学術誌に無視されております。
ネイチャー誌は無視はしませんが、その代わりに欠点を見つけ、この 本が間違っているということを記事にして出版しようという結論に達し ました。ネイチャー誌は以前、ホメオパシーに関してもこのような否定 的な結論を出したのですが、今回はディーン・ラディンの著書に決定 的な欠点があると批判しました。統計分析の権威I・J・グッドに頼んで ラディンの本の書評を書かせたのです。 著者が3300という結果に到達し、書評者グッドが13とか8という数字 であるべきだといったとすると、この数字は都合のよい結果だけ出した ことになります。ラディンの結果を間違っていると証明したといっても、 実は書評者が意味をわかっていなかっただけかもしれません。 ネイチャー誌はグッドが間違っていれば、その訂正記事を載せなくては ならないのですが、不思議にもネイチャーの編集者はその訂正記事を 出さずに、ラディンの本に決定的な欠陥があると読者に思わせ続けた のです。編集者はなぜその訂正を行わなかったのか? それはわから ないのですけれども、その後かなり時間がたって訂正が行われました。
ネイチャー誌の犯した間違いについて、私そして私以外の人たちも含め 論じた結果、ようやく訂正記事が出ました。ネイチャー誌はそろそろ訂正 を出そうと思っていたんだというふうにいいましたが、ラディン博士による 手紙の他、書評者グッドの手紙も掲載しています。 グッドは科学的ではないコメントをたくさん述べ、ラディンを激しく攻撃し ました。ラディンは本の中でそうとうわかりにくいことを述べ、そしていくつ かの点を故意に抜かしていたと攻撃したのです。ネイチャー誌は最後 までこのラディンの本が適切なものではないと読者に思わせたかった のでしょう。 近い将来、私のいくつかの論文を掲載してくれたハイエデュケーショナル ・サプリメント誌にネイチャー誌とラディン博士とのこれらの経緯を発表 します。 正統派科学が否定することが実在すると出版されると、たとえばネイチャ ー誌はこのように行動するんだという経緯を公表する記事が間もなく 出るというわけです。
科学の変化について話を移したいと思います。 初めに述べましたように、科学でも様々な変化が起こっていまして、 いずれ超常現象について科学的な説明がなされるのではないかという 希望が見えてきました。 私が当初超常現象に興味をもったのは、トリニティでジョージ・オーウェン 氏と夕食をとりながら話していたとき、量子力学で起こっている不思議な 現象にかなり似ていると思ったことに始まります。 量子力学は二つの全く同じシステムが全く同じであり、全く違うといった 性質をもっています。普通の世界では全く同じというものはありません。 かなり近いものはありますが、そしてかなり違うものはありますが、量子 力学では二つのものは全く同じというようにいえます。 原子スペクトルでいくつかの線が抜けているということもありますが、 私が当初興味をもったのはそのようなところにあったのです。
超常現象でよくいわれるのが非局所性(non locality)です。量子論に よくこの言葉が出てきます。 学生の講義ではG、H、Z(グリーンバーグ、ホーン、ゼイリンガ)という 三人の名前のイニシャルがついた実験のことを話します。一つの粒子 が非局所的作用をもつということが仮定されないと説明がつかないこと になるわけです。 ジョン・ベルは1964年に量子論には通常の物理学では説明のできない ものがあると証明しています。すなわち何らかの関係が遠隔地において 作用していることが保証されたというのです。 これはいってみれば超常現象的なものなわけで、これが科学の分野 から出てきたのです。それが古典的な物理では全くないということは 非常に驚くべきことではないかと思います。アインシュタイン他二名の 研究者が、一つの系が二つに分岐するところで奇妙なことが起こって いると報告しております。 通常の場合にはノイズが存在し、従ってものを見ることができなくなる 可能性があるのですが、別の形では自然の振る舞いが全く異なって しまって、通常のものとは違う現象が生ずることがあり得るという説明が 可能になるわけです。
科学者がこの理論を理解することができれば、もしかしたら実際に超常 現象を取り出すことができるかもしれません。この分野は急速に発展 しておりまして、量子情報という考え方が出て参りました。理解すること のできない状況についても説明されるようになってきました。計算して、 その効果を取り出し、実験で確認できるのです。 この中でちょっと奇妙なことをお話ししましょう。それは量子テレポーテー ションです。テレポーテーションは物を一つの場所からもう一つの場所に 移動させることですが、お借りした知人の講義資料によりますと、物を 一つの場所からもう一つの場所へと実際に運ぶことなく、移動することが できることを示しています。 FAXですと、読みとった信号を別のところに伝達して、そこのプリンター が同じものをコピーして、プリントアウトするわけです。これを私たちは 実際に使っています。この場合は一枚の紙でやっていますが、たとえば 電子を一ヶ所から別の場所に移動させ、完全なコピーをしたいとしましょ う。FAXの方法論ですと、うまくいきません。紙に書かれている情報は 読みとれても、電子という粒子の状態を正確に読みとることはできない のです。従って電子の移動は同じ方法論ではできないということになり ます。 チャールス・フェネット他数人の科学者が非常に奇妙なやり方ですけれ ども、電子の移動の方法を考えました。一つの系を二つに分けて、観察 結果の情報を移動させる。量子力学の非局所性を使って移動させた 観察結果の情報をもとの系に復元させるというわけです。 こういった量子力学の方法は実験室で検証されてきていまして、これは 神秘主義的な現象であって、超常現象的なものに関わりがあるのでは ないかと思われます。この量子情報についてはより理解を深めていく 必要があります。
それではちょっと別の観点、カリフォルニア大学バークレー校のヘンリー ・スタップの提唱する量子論の考え方を見ていきたいと思います。 スタップによりますと、量子は「心」の状態に関わり、見る度にその状態 が変わるのは量子の状態変化が実際に「心」の作用で引き起こされて いるからだというのです。 つまり古典的な物理学では「心」の入るべき場所はないのですけれども、 量子論の場合はそうではないと主張しています。量子論は物理学である けれども、「心」を入れることのできる全く新しいものであるというのです。 そして知識というのは自然の不可欠の宇宙部分であり、量子論の知識 は自然の不可欠の構成要素ということを私たちに伝えるものであると いう提起をしているのです。
量子論はそれくらいにしまして、それ以外の科学の分野における最近の 展開について少しご紹介したいと思います。それは最近展開をみた分野で、 超常現象に関わり合いのある複雑系(complexity)と呼ばれるものです。 現在その理解は深まってきていますが、必ずしも全ての科学者が理解 しているわけではありません。科学は非常に大きな分野ですから、一人 の専門科学者が他の分野に通じているわけではないので、複雑系という 考え方について知らない科学者も多くいると思います。 その提唱されている一般的な考え方というのは、非常に複雑な系がある ときにはこれまでとは異なる科学的体系が必要なのではないかという ことです。それではこの説明を少ししてみたいと思います。 科学がどう機能するかをみますと、研究したい系について科学的な記述 を行う必要があります。光については電気と磁気で、物質については 電子とか核といった観点から記述することになります。そして数学的記述 を使って、理論を創っていきます。それに基づいて予測をしていきます。 簡単に申し上げますと、これが基本的な科学の在り方となるわけです。 しかしロバート・ローゼンは「ライフ・イットセルフ」という本の中でこのよう に述べています。「一つの自然を研究するような方法論は特に複雑系を 対象にしている限りうまくいかない可能性がある!」と。そしていろいろな 方法で記述する可能性があるということを指摘しています。 ということは実際にどの記述を使うのが適切なのかわからない場合が あるということです。単純系では曖昧性はありませんが、複雑系は 基本的には非常に曖昧なものです。
カオスという考え方もあり、バタフライ効果はよく知られております。蝶の 羽ばたきのような微小な変化が非常に大きな影響を及ぼす可能性が あり、予測がしがたいことを意味します。 複雑系においても予測はなかなか難しく、何らかの現象が起こる可能性 があります。全く予想外のことになる可能性がありますが、それは科学に 反することではなく、私たちの科学的方法に疑問を投げかけているので す。すなわち複雑系は様々な形で語ることができるものなのです。 複雑系の理解には組織化あるいは関連性といった、また違った観点を もつ必要があります。いわゆる普通の古典的な原則は適用されないと いうことです。 たとえばゲノム解読プロジェクトがありますが、これはもしかしたら人間 が予想しているほど成功をおさめないかもしれません。 つまり生命体というのは非常に複雑であって、遺伝子の観点で完全に 理解できてしまうような対象では全くない、ということが明らかになるか もしれないからです。
複雑系の一つとしてガイアという考え方があります。ガイアとは地球を 一つの有機体ととらえる考え方です。この考え方の基礎にあるものは、 その対象が生命体だということだけではなくて、環境の中における生命 体について思考する必要があると提唱することです。 生命体は単に環境を一時的に占拠するものではなくて、さらには環境 を変化させ、その生命体にとってよりよいものへと変化させうる力をもつ ものであるというのです。 ジェームズ・ラブロックはこのように提唱していますが、実際に生命体が 環境に影響を与える実証的事実があるのです。たとえば海洋生物が 大気の成分を変え、気候を変動させる可能性があることは実証されて います。これは単に偶然によって起こるわけではなく、生命体が進化し、 その過程でどういったことが好ましいかということについて学習してゆく わけです。このような理論は馬鹿げているといわれましたが、今では 受け入れられるようになってきています。 これは通常の科学の方法論には矛盾するものです。私たちはものを 分断することによって研究するわけですから、ガイアのようにむしろ 全体を対象にしたもののとらえ方は全くアプローチが違うのです。
似てはいますが、もう一つの別の考え方が非常に重要なある本の中で 説明されています。これはあまり注目を浴びてきませんでしたが、大変 重要な本だと私は思っております。 ルシャンの著書「クレアヴォイアント・リアリティ(透視的現実)」です。 このルシャンの考え方は大変面白いものです。 科学者は現実に対してあるものの見方をしていまして、私自身研究して きてよくわかっています。しかし神秘家や超能力者は現実の考え方が 全く異なっているということをいうのです。 科学は部分と部分が相互作用をもつと考えていますが、これに対して より大きな全体像があると想定する考え方もあります。これは科学者が 通常考えてきたものではありませんが、複雑系の理論を考えますと、 もしかすると実際に自然の作用しているその在り方というのは、この 全体論的なものかもしれないと考えざるを得ない。 すなわち全体というものがあるのですが、私たちはそれについて知ら ないだけなのかもしれません。何らかの統御する単位があって、そこで 統御されているものが実際に私たちの目にとまるだけなのかもしれない のです。 従って、科学の進むべき道、そしてルシャンのいう神秘家の世界には 共通するものがあると思うのです。
ちょっとプラトンの世界にも触れたいと思います。 プラトンの世界とは何でしょう?プラトンによれば、私たちが目に見る ことのできない形態をこの真の世界はもっているというわけです。 ロジャー・ペンローズは最近、私たちは数学的な真理にどのように到達 するのかという関連で論文を書いています。プラトンのように、ペンロー ズは別の異なる世界との接触によって数学的な真理を知るのだと考え、 実証しようとしたのです。新しい過程を創ることなしに数学的仮説を証明 することができるといったのですが、いろいろな人がその方法が間違っ ているといいました。しかし私は、その方法論は分かりませんけれども、 結論は正しいのではないかと思っています。 実際に数学がどのような作用をもっているかを考えますと、私たちは 過ちを犯す存在でもあるということを忘れてはいけないわけで、真理との 接触がある中で、精神を正しい適切な状態におくことができなかった故に ミスを犯すと思うわけです。つまり真理に関連した特定の特性を得るため には、特定の精神状態に自分をおかなければならないということになると 思います。
この数学の問題は音楽との関連で解決することができるのではないか と思います。そこで私は音楽の専門家との話し合いを始めたわけです。 簡単にエッセンスだけを申しあげます。心理学者の使っているような理論 では音楽を説明することができません。音楽は非常に根本的なところに 触れるものがあり、基本的には非常に基礎的な言語であって、プラトン的 な世界がこの言語に反応するのだろうと思うわけです。 私たちはおそらく第一歩として、音楽とは何かという理論を構築し、展開 することができるはずだと思うのです。プラトン的な世界で音楽が精製 されるとする聖アウグスチヌスに反対する理論も最近出てきております。 この会議は科学者が通常拒絶しがちな考え方をテーマにしておりますが、 科学の向かう方向性を見ますと、おそらくはこういった考え方もとらなく てはならないというところにきていると思います。 数年の間に科学と超心理学との橋かけができてくるのではないかと 期待しております。 以上です。ありがとうございました。
(これは1998年11月に、早稲田大学で行われたジョセフソンの 講演内容である。「意識が拓く時空の科学」(2000)に所収。) その他の著書: 「量子力学と意識の役割」(1984) ジョセフソン,カプラ,ボールギャール,マトック,ボーム 「科学は心霊現象をいかにとらえるか」(1997) ジョセフソン、茂木健一郎訳 ●ブライアン・ジョセフソン (Brian D. Josephson) ケンブリッジ大学物理学科教授。同キャベンディッシュ研究所 濃縮物質理論グループ・精神-物質統合プロジェクト所長。 ジョセフソン効果(薄い絶縁体膜を挟んでサンドイッチ構造にした 超伝導体における電子対のトンネル効果)を理論的に予言したことで、 (『理科年表』「物理学上のおもな発明および発見」1962年) 30代でノーベル物理学賞を受賞。 その後、デヴィッド・ボーム(ロンドン大学教授)らと共に、 意識と科学の問題を研究。 1990年以降、電圧標準と抵抗標準はそれぞれジョセフソン効果と 量子ホール効果を用いて表現されている。
広く超常現象研究の起源は,中世ヨーロッパのルネサンスにさかのぼ れる。16世紀から17世紀にかけて,魔術やオカルト,錬金術の類がさ かんに研究された。 この時代は同時に,今日の科学のルーツでもある。ガリレオやニュー トンやボイルが自然科学への道筋をつけたのもこの時代である(ニュー トンとボイルは錬金術にも手を出していたが)。 今日では哲学者として知られる,デカルト,ホッブズ,スピノザ,ライプ ニッツらも,こうした時代において,「自然哲学」から「自然科学」が 生まれるのに貢献した。 いわば,「科学」と「擬似科学」を区別する「境界設定」がなされ始めた ということだろう。その境界によって,超常現象研究のほとんどは科学 から排除されるという歴史をたどる。 超心理学のルーツは18世紀のメスメリズムである。ウィーンの医師ア ントン・メスメルは,「動物磁気」という一種の生体エネルギーによって 我々の健康が支配されるという理論に基づき,磁石や手かざしによっ て治療を行なった。そうした治療の過程でトランス状態になる患者が 現れ,たとえば無痛手術にも応用されたという。これはまさに今日の 催眠の起源でもある。 一方,超心理学上の興味は,このトランス状態の患者がしばしば高度 のESP現象を起こした,と報告されている点にある。
超心理学の基本的方法論は,19世紀の心霊主義(スピリチュアリズム) のなかで培われた。心霊主義は,人間は死後にもその魂が引き続き 存在し(これ自体は古くからの伝統的考えである),ときには生者がそ の魂と交信できるとする考え方である。交信の可能性を初めて主張した のは,18世紀のスウェーデンの予言者,スウェーデンボルグである。 彼は,歴史上の人物の魂と交わったとして,教義を広めた。 19世紀には,誰でもが交霊会を通して魂と交信できるという考え方が 一般的となった。交霊会では,通常「霊媒」と呼ばれる「特異能力者」が 鍵となり,死者の魂からの交信を受けたり,テーブル浮遊や物資化現象 を起こしたりしたという。交霊会において,かなり大掛かりで奇妙なPK 現象が報告されたために,多くの科学者を巻き込んだ心霊研究へと 展開していくのである。 1882年には,最初の学術団体である心霊研究協会(SPR)がロンドン に設立された。会長はオックスフォード大学の倫理学の教授,シジウィ ックであったが,評議員には,著名な科学者が多数,名を連ねた。テレ ビ表示装置の原理を発見した物理学者のクルックス,ダーウィンと平行 して進化論を唱えた博物学者のウォーレス,ノーベル物理学賞を受賞 したアルゴンガスの発見者レイリー卿,同じくノーベル物理学賞を受賞 した電子の発見者トムソンらである。続いて,ニューヨークに米国心霊 研究協会(ASPR)が,パリに国際心霊研究会が設立された。アメリカ では,ウィリアム・ジェームズやガードナー・マーフィなどの著名な心理 学者が,フランスではノーベル生理学賞を受賞したシャルル・リシェらが 研究を推進した。リシェは実験に初めて統計的分析を導入した。 1882年からの40年間ほどが,この種の研究の社会的認知が歴史上 もっとも高まった時期であった。しかし心霊研究は,交霊会の事例を積 み上げるものの,さしたる発展が得られず(ときにはインチキが指摘さ れ),世代交代とともに著名な科学者の参加も次第に減っていってしま ったのである。
1920年代からの停滞期を救ったのがJ・B・ラインであった。 1920年代からおよそ30年間,アメリカの心理学界はワトソンの提唱する 行動主義心理学に席巻される。行動主義心理学とは,刺激と行動の対 応関係を探れば,人間の心的活動の究明には十分であり,心の中の 状態などは一切問題としない心理学であった。これにより心理学は, 旧来の人間の内観報告による研究から,ネズミを使った行動の条件づ け学習の研究へと,大きく方向転換した。同時に統計学の手法が導入 され,実験心理学の方法論も広く普及した時期でもあった。こうした時 代背景から見ると,ラインが超心理学の実験研究方法をこの時期に確 立したのもうなずける。 ラインは植物学の研究者としてウエスト・バージニア大学にいたが,19 28年,心理学者のマクドゥーガルの招きで,デューク大学に赴任した。 マクドゥーガル自身も心霊研究に力を入れようと,前年にハーバード大 学からデューク大学へ転勤してきたばかりであった。ラインは交霊会に 参加してはみたものの,その研究方法には疑問を抱いていた。そこで, カード当てを繰返してその結果を統計的に分析する方法で,新たな研 究路線を模索した。トランプ当て実験などはそれ以前にもあったが, ラインは5種類の図柄を印刷したESPカードを開発して,おもに一般人 を対象に実験を行なった(図柄は同僚のゼナーによってデザインされた)。 分析の結果,ESPの存在が有意に示されたのである。ラインは1934年, 文字通り『ESP』という著書でその結果を発表し,世界の注目を集めた。 「超心理学(parapsychology)」という言葉もこの頃から使われ始めた。 1937年には,マクドゥーガルとラインによって,超心理学誌(JP)という 論文誌の発行が開始され,デューク大学が世界の超心理研究の中心 地となっていくのである。なお,ラインの研究資料や書簡など25万点は, 約700箱に収められてデューク大学パーキンス図書館特別収集部門に 保管されている。
1965年にラインはデューク大学を退官し,自ら設立していたFRNM(The Foundation for Research into the Nature of Man)という財団で研究を 続ける。 また,1957年に設立されていた超心理学協会(PA)は,1969年,ガー ドナー・マーフィーらの尽力で全米科学振興協会(AAAS)に登録され, 学術団体として認知される。 そのころには,超心理学の研究拠点は全米各地に拡大していた。それ に伴って,ライン流の画一的な実験方法から脱皮し,新たな方法論を 模索する動きが現れた。マイモニデス医療センターで行なわれたドリー ムテレパシー実験,スタンフォード研究所などで行なわれたリモートビュ ーイング実験,プリンストンの精神物理学研究所(PRL)などで行なわ れたガンツフェルト実験などは,どれも被験者に自由に内観報告させる ものである。 心理学の分野では1950年代に「認知革命」が起きており,それまでの 行動主義心理学から,認知心理学へと方法論の転換がなされていた。 行動を引き起こす心の内的状態(あるいは脳状態)を想定し,コンピュ ータモデルでもって人間の心的働きを機能的に解明しようという方法で ある。超心理学の分野にもそうした影響が及ぼされたと見ることができ よう。 またこの時期には,変性意識状態との関連性など,PSIの特性に関する 多くの研究がなされた。そうしたデータが集まるなかで,PSIの機構を説 明しようとする理論構築の試みがされ始めた。一方では,懐疑論者たち の批判も最高潮に達し,CSICOPという懐疑論者の団体も設立された。
1990年代に入ると,コンピュータ技術の発展により,超心理学実験も コンピュータシステムによる自動化がなされてきた。 生理学指標の測定技術や乱数発生器の技術も一般化し,PSIが存在 するという有力な証拠を提示する実験手法が確立されてきた。 統計学の「メタ分析」が超心理学に導入され,統計学的な証明も強固 なものになってきた。 さらには,新たなシステム論的理論も提案され始め,理論的な進展の 兆しが見えてきた。 超心理学の研究コミュニティーは,最近のアメリカではやや縮小ぎみ であるが,ヨーロッパではやや拡大している。これは実用を重んじる アメリカで,超心理学の応用はまだ遠いとして研究費がとりにくくなっ ているためと思われる。ただ,代替医療などの周辺領域では研究費 が増えているという指摘もある。 周辺領域の科学の発展により,超心理学が周辺領域の科学と融合 する動きも感じられる。
認知に関する実験心理学に,脳神経生理学と,コンピュータによる認知 機能のモデル化研究とを加えた研究領域を,認知科学と言う。だが最近 では,心を研究対象とする分野を,学際領域まで含めてもっと広く「心の 科学(マインドサイエンス)」と呼ぶ傾向も現われてきている。 それに対して,「意識科学」を標榜する動きも出てきている。アリゾナ州 ツーソンで1994年から隔年で開催されている「意識科学に向けて」とい う国際会議である。 この国際会議には,心理学者はもとより,生理学者,生物学者,物理学 者,コンピュータ科学者から,社会学者,哲学者,宗教学者までが数百 人規模で集まり,意識に関するさまざまな話題を議論する場である。 研究領域は「心の科学」と大部分重なっているが,「意識科学」という だけに,哲学的な研究が多く含まれている。国際会議の主催は,アリ ゾナ大学の意識研究センターであるが,そこでは意識研究誌(JCS) と言う論文誌も発行しており,そちらの内容はかなり哲学に重点が 置かれている。 さらに1997年からは,意識の科学的研究学会が結成された。こちらも 哲学者が中心になっているようである。 意識や心の科学というのは,まだはっきりとした「科学」になっていない ために,研究コミュニティや研究アプローチが混沌とした状態である。
現在模索されている「意識科学」の営みには,科学と非科学の境界を 再設定しようとする狙いが含まれている。そうでなければ,意識は科学 の対象にはならない。この境界再設定に伴って,超心理学が科学と 扱われる可能性があるかもしれない。 実際,「意識科学に向けて」の国際会議では,超心理学のセッションが 設けられ,数人の超心理学者が研究報告している(2002年の会議では, マリリン・シュリッツを座長にした5件の発表と,チャールズ・タートらによ るワークショップが開催された)。このように超心理学は,意識科学とい う大きな傘の下に居場所を見つけようとしている。 けれども他方では,意識研究と超心理学の結びつきに疑問を呈するこ ともできる。PSIの能力発揮は無意識に行なわれる傾向が強く,意識が むしろ邪魔になるようでもある。 ホーンティング事例のように,人間を介在しないような現象もみられ, 物理学や工学出身の超心理学者には,物質的な説明体系の内に 超心理現象を収めようとする者もいる。
超心理学者チャールズ・タートの試みを紹介しよう。 彼は1972年に,意識状態に特異的な諸科学が形成可能であると指摘 した。科学の合理性は我々の認識によって正当化されるのであるから, 我々の認識形態に多様性がある場合,それら各々に対応した科学が それぞれ存在すると言うのだ。 その指摘のうえで彼は,現在の本流科学は通常の「覚醒した」意識状 態に対応する科学に過ぎず,変性意識状態には別な固有の科学が存 在すると主張する。最先端の物理学の理解は,特別な学問体系を6,7 年かけて学んだ一部の人間にのみ可能であるが,同じようにPSIが可 能な世界を理解できる意識状態に至るのに,6,7年の訓練が必要であ っても何も不思議ではない,と言う。 こうしてタートは,変性意識状態を探究する学問として,トランスパーソ ナル心理学を推進したのである。トランスパーソナル心理学とは,個の 垣根を超えて全体論的な世界観に至ることを目指す,実践的な心理学 であり,PSIの理解を実現する研究に当たるのだろう。 彼のアプローチでは,実証主義の科学的方法論をそのまま残したうえ で,観察・理論化・検証の各段階で適用される我々の認識のほうを, PSIに適うよう変更すべきであるとした。 状態特異科学は,超心理学を推進する1つの方向性を示していると言 えよう。
75年前、物理学者のニールズ・ボーアは「量子論に衝撃を受けない
としたら、量子論を解していない証拠だ」と言った。
今日では衝撃的な報道が氾濫し、だれもがショッキングということに
麻痺しているが、ミシガン大学の主催で開催中の量子論会議では、
この現代においてさえボーアの言葉が蘇るような衝撃的な議論が
続出している。
『第1回量子応用シンポジウム』(
http://www.erim.org/qas2001 )は、
「量子論の成果は21世紀の技術の発展を支配するだろうか?」という
疑問に取り組もうというものだ。
2001年7月1日から3日まで(米国時間)開かれているこの会議の講演
者の顔ぶれから察するところ、上の疑問に対する答えは「イエス」と
決まっているようだ。本当の疑問はむしろ、「イエス」のあとにいくつ
「!」がつくかという点らしい。
講演のおよそ半分は量子コンピューティングに関するもの。講演者は
オックスフォード大学量子コンピューテーション・センターのデビッド・
ドイチュ氏、ケンブリッジ大学のブライアン・ジョセフソン氏、米ルーセ
ント・テクノロジー社ベル研究所のフィル・プラッツマン氏といった著名
な面々だ。
「脳は1000億のニューロン(神経細胞)でできているが、ほとんどの人は、 1本のニューロンや1つのシナプスの相互作用が情報の基礎単位だと 考えている。だが、たとえばゾウリムシのような単細胞生物を見てほしい。 ゾウリムシも泳いだり、食べ物を探したり、仲間を見つけたり、生殖を 行なったりとさまざまなことをする。それでも、標準的なパラダイムに よれば、ゾウリムシの個体は1つのスイッチにすぎないということになる」 1995年以来、ハメロフ氏とオックスフォード大学の数学者、ロジャー・ ペンローズ氏は、人間や動物の意識の本質は、ニューロンの奥深く―― つまりゾウリムシの個体内部――の量子過程の中にあるとする一連の 論文を発表してきた。 両氏の主張にはなお議論の余地があるものの、この理論が現実の成果に つながるとすれば、人間の知性、人間の経験というものを理解するうえでの 次の大きな「量子飛躍」の踏み台は、脳のニューロンのごく小さな構造 である「微小管(マイクロチューブリン)」にあるのかもしれない。
「全身麻酔ガスは、非常に微妙な量子力学によって完全に、そして可逆 的に意識を消す」と、アリゾナ大学で麻酔学と心理学の教鞭もとっている ハメロフ氏は語った。 「化学結合、イオン結合といったことは一切起こさない。ただ、とても弱い 量子力学的力によって麻酔は作用するのだ。つまり、つきつめて言え ば、脳は量子力学的な力で機能しているということだ」 ハメロフ氏の微小管理論は、量子薬理学の道をひらき、アルツハイマー といった神経障害の治療などにも応用できるかもしれない。しかし、 ハメロフ−ペンローズ理論は意識そのものの謎に迫るものだと言われる と、医療的応用の可能性すらも色あせて見えてしまう。 「夢、陶酔状態、幻覚、それにたぶん精神分裂状態も、われわれが量子 的に重なった状態――情報が濃密になっている状態――にあるときに 生じる。その量子の重なりが壊れると、それがわれわれの現実、知覚、 感覚を決める。これが1秒に40回起こるとしたら、意識とはそれらがつ ながったものと言える」
1998年の10月3日と4日、千葉県稲毛市と東京都の新宿区で、アメリ カから来日したスチュアート・R・ハメロフ博士の特別講演会が開催され た。その後、名古屋、大阪の各地で同様の講演が開かれた。 その目的は、来年国連大学国際会議場で開催される予定の「脳と意識 に関するtokyo'99」のプレコンファレンスであり、演題は「量子脳理論と 意識(Quantum Brain Theory and Consciousness)」であった。 麻酔科医で心理学科教授でもあるハメロフ博士は、アリゾナ大学のヘ ルス・サイエンス・センターで半分は手術室での治療と講義に充て、 その半分は「意識のメカニズム」について研究を行ってきた。 千葉では科学技術庁放射線医学研究所の重粒子治療推進棟2階の 大会議室が講演会場にあてられた。翌日の東京講演は、新宿の工学 院大学の高層煉で行われた。 講師陣には、玉川大学の学術研究所量子通信研究部門の大崎正雄 博士が加わった。 演題は「量子情報通信研究と意識コンピューターの展望」であり、生命 科学、数理科学、情報科学の接点を目指してという副題がついていた。
ところで、脳量子理論は、一体どんな理論だろう。その話をする前に、 心と意識の問題に物理的アプローチを行った一人の科学者に触れて おきたい。 それは1995年に『心への階梯(Starway to the Mind)』を記した非線 形力学の先駆者であるアルウィン・スコット博士である。彼はアリゾナ 大学数学科、デンマーク・リングビ−工科大学数理モデル研究所教授 で、「ソリトン」という非線形現象研究の第一人者でもある。 彼は脳細胞のニューロンは、単体で動くのではなく、集合体として働く と考えた。そして、その集合体は非線形として働くため、心や意識が 階層構造を持つという認識を持っている。人工知能の研究からスタート した機能主義的な考え方から導かれた結論は、脳の活動は、ある アルゴリズムによって置き変える事が可能であり、原理的にはコンピ ュータで再現することが可能であると考えた。 しかし、ペンローズはその考え方に真っ向から反論をした。ベストセラ ーになった『皇帝の新しい心(The Emperor's New Mind)』(裸の王様 のパロディで、王様とは機能主義者達を指す)の中で、これらの機能 主義を徹底的に批判している。
ペンローズによれば「意識」はアルゴリズミックでない。したがってアル ゴリズミックなマシンであるコンピュータが、意識をもつことはあり得ない というのが、この本の主題となっている。 彼は、その例として、数学上のアイデアを思いつく際の経験について 述べる。たとえば数学の定理というのは『発明されるのではなく、発見 されるものである』という。発見されたばかりの数学概念は、まず漠然 としたイメージで語られるのであり、厳密な形式的記述が与えられるの は、その後だというのだ。 1989年、「意識は量子の波動から生まれる」、つまり「量子力学が人間 の意識を生み出す」という大胆な仮説を世界に広めたのは、ペンローズ 博士が最初だった。 彼の論文や著書「皇帝の新しい心」、「心の影」に記された共通の主張は、 心の動きには非計算的な部分があるに違いない。そして、人工知能の 実現性はなく、脳についての現在の理解は、不完全であるという考え方 であった。そして新たなパラメーター(量子重力論)を用いて量子論と 一般相対性理論の統合を唱える。 ペンローズの主張や理論を数学や論理学に精通していない一般人が、 その理論を理解し、素直に受け入れることは容易なことではない。なぜ なら彼のバックグランドとなった数学や理論物理学の歴史的背景を熟知 した上で、彼のいわんとしている事を、解釈しなければならないからだ。 実際にペンローズは「心の影」に事あるごとに反論してきた科学者達 にでですら、議論の論点がずれていると指摘する。
またペンローズは「数学的理解力は非計算的だと」いう彼の主張が、 しばしば数学世界だけの話であるという風に解釈され誤解されている という。 彼の議論のポイントは、「もし数学において、我々が行う計算に収まら ないことが存在するならば、それは計算外の事柄が実際に起こってい るからだ」と、理論展開を行う。 そして、心や意識にある種の非アルゴリズム(計算手順)的な物理作用 が含まれている事を、彼独特の数学的解釈や新しいルールに従って、 まるでボクシングのジャブのように説明を繰り返す。 彼は、我々が棲むこの世界が、計算によって捉えられない様々な事象 が存在すると考える。それは認識力であり、質感であり、感情である。 これらは非計算の作用であると力説するのである。 その思考仮定の源には「ゲーテルの不完全性定理」と「チューリング・ マシン(Turing machine)」の問題があった。 この二つの定理は等価であり。ペンローズのいう「機械にできる事と」と 「人間にしかできない事」の理由の原点である。
ゲーテルの不完全性定理とは、1930年に数学者のクルト・ゲーテル が数学界に大波紋を投じた定理である。それは自分が無矛盾である 限り、自分が無矛盾であることを知らないだけでなく、その論理体系の 中には、真であるか否かを決定できない命題(定理)があるという数学 上の言明であった。 その定理のアナロジーとして、「エピメニデスのパラドックス(嘘つきの パラドックス)」がある。ある時クレタ人の古代ギリシア人である哲学者 エピメニデスが、「クレタ人は嘘つきだ」と言ったとする。もしこの「言葉」 が真実であれば、自分自身が嘘つきであることになり、その言葉も信用 できない。一方これが嘘だとすれば、クレタ人は正直という事になり、 嘘をついたエピメニデス自身が、クレタ人であることに反してしまう。 つまり、エピネデスの言葉が、正しくても、嘘でも、自分自身の真偽を 確かめようとするとき問題が生じてくるという考え方なのだ。これは一般 に「自己言及のパラドックス」といわれている。 これらの定理は、数学 とは完全に論理的で、矛盾がまったくないと信じていた当時の数学界に 大きなインパクトを与えた。 またチューリング‐マシンとは、イギリス、オックスフォード大学の数学者 アラン・チューリングが、1936年に提案した普遍的計算機の数学モデ ルで、有限記憶媒体とその外部記憶媒体として、一次元無限長のデー ター記憶テープで構成されているものである。 この装置はテープの長さに制限がなく、仮にある解法が存在するならば、 マシンによってすべて解けるはずだと考えを基に仮想の装置である。 しかし、任意のチューリングマシンに空白のテープを与えた場合、その マシンが結果的に停止するか、つまり解が与えられるかどうかについては、 それを決定できるマシンは存在しないこともチューリング自身が証明して いる。
つまり、ペンローズは「数学によってのみ、<意識活動の一部分は計算 できないことを証明できる>可能性がある」と、言葉は控えめであるが、 強く確信しているのである。 そして人間の意識はこれらの問題を超越している。従ってコンピューター に意識は生まれないと考えるのである。 もちろん彼は夢想家ではなく、神秘主義者でもない。 彼の議論は数学的基盤に基づいて、人間はただの機械ではないことを 証明し、さらに「量子重力理論」を中心に、医学、心理学、哲学、生物学、 天体物理学等、あらゆる分野の科学者達を巻き込んで、脳と意識の問 題について、量子力学の分野から革命を起こそうとしているのである。 ペンローズは始め脳細胞(ニューロン)内部で、何らかの量子力学的 作用が生じる結果、意識が生まれると推測した。脳細胞どうしは電気的 なインパルス(信号)を交換することによって情報処理を行う。そして これらの信号は、無数の異なったパターンが量子力学的干渉によって 生じると考えたのだった。だかこの仮定には大きな問題があった。生体 の1個の細胞には、活動的な分子と原子が満ちあふれており、それらが 出す熱的なノイズ(背景雑音)により、量子力学的作用は、簡単にかき 消されてしまうはずである。ペンローズは、すぐにジレンマに落ちいって いたしまったのだ。 そこに登場したのが、ハメロフのニューロンの微小管の研究である。
微小管は8ナノミクロンと4ナノミクロンのチューブリンという二種類の立 体構造を持つ蛋白質からできている。チューブリンは変形した空豆状の 格好をしていて、αとβという二つの部分から成り立つ。それが管の円 周部分に13列並び、積み重なって微小管が形成されているのである。 微小管の内部では、チューブリンが2つの状態を行ったり来たりしており、 これがセル・オートマトンのように振る舞い、微小管に沿って複雑な信 号を走らせることになる。この仮説に従うと、その配座の状態は質量運 動を生じる。つまり、これがペンローズが指摘する量子系の干渉に相当 するのである。 一般の科学者や人工知能の研究者達は、脳は100億個のニューロン というスイッチが繋がったものであると考えている。 ところがハメロフに言わせると、シナプスを調整したり実際の情報処理 を行うためには100億台のコンピューターが必要だという。 ではそのコンピューター部分はニューロンのどこにあるのか。その答え が微小管なのである。 また微小管で量子干渉が起こっているという仮説はは検証が可能であ るという。
その理由の一つは1981年にフランスの物理学者アラン・アスペが偏光 させた2個の光子使って、「非局所的な量子干渉」が起こることを実証し ていることであり、この種の実験を微小管(チューブリン)で、ある条件を 設定して行うことを博士は提言している。 そして、ギャップ結合で繋がった、数千数百という異なるニューロン群の チューブリンで、光子を観測することが、マクロスケールでも量子干渉が 起こっているという仮説の検証となるというのである。 実際の量子干渉は3.5ナノメートルという長さのギャップ結合で起こっ ているらしいとの予測をハメロフは立てている。つまり、電気的なギャッ プ結合と同時発火する皮質ニューロン・ネットワークとの関連性が証明 できれば、意識の事象に関与していると説明できるというのだ。 一方、日本でもノートルダム清心女子大学情報理学研究所講師の治 部眞里女史がギャップ結合で繋がった40ヘルツの神経ネットの存在を 予言している。 これらの実験は、ペンローズの主張(重力量子論)や他の科学者のまっ たく異なる研究から得られたデーター(特に脳内における40ヘルツの 振動の話)と一致するらしい。 それ以外にもハメロフは、PETを使った実験も計画中とのことである。 また、前述の治部女史は同研究所所長の保江教授と共著「脳と心の 量子論」を書いているが、脳細胞の水の電気双極子の凝集場が、 電磁場の波動運動とシンクロしてダイナミカルな秩序を生み出すという 仮説を立てている。
(文部科学省所管)独立行政法人 放射線医学総合研究所(NIRS)
山本生体放射研究室
http://wwwsoc.nii.ac.jp/islis/belabo/belaboJ.htm ●科学技術庁の5ヶ年プロジェクト (1995年9月〜)
科学技術庁 放射線医学総合研究所において、1995年9月より、
科学技術振興費(5年間で1億円)による5ヶ年プロジェクト、
官民特定共同研究「多様同時計測による生体機能解析法の研究」
を行い、多くの実験を行いました。
1.感覚遮断状態での対人遠隔作用実験
2.感覚外情報伝達に関する脳波測定実験
3.下意識に於ける未知情報伝達に関する聴覚誘発電位実験
4.感覚外情報伝達に関する脳波測定実験(そのII)
5.感覚遮断状態での対人遠隔作用実験(そのII)
6.動物培養細胞に対するヒトの非接触作用効果検出実験系の検討
●多様計測による特殊生体機能に関する研究 (2000年6月1日〜)
平成12年度より、科学技術庁交付金に基づく
「試行的研究プログラム−新パラダイム創成に向けて−」
がスタートしました。
この研究の課題
「潜在能力の物理生理学による実証的研究」のうち、
当研究室では、
「多様計測による特殊生体機能に関する研究」をテーマに
研究を開始しました。
●量子脳理論と意識
ハメロフ教授来日記念講演会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/islis/belabo/semi98J2.htm 共催: 文部科学省
場所: 文部科学省 放射線医学総合研究所
講師: スチュアート・ハメロフ教授、アリゾナ大学医学部教授
ハメロフ教授は、25年間、ニューロンをはじめとする生細胞の中で
蛋白質高分子のネットワークがいかにして情報を処理し、活動を
制御するかを研究してこられた。
特に、ニューロンの中の微小管が脳の活動の中で重要な役割を
果たしていると考え、ロジャー・ペンローズ教授(オックスフォード大学
数学教授)と共に、
微小管における量子干渉の重ねあわせ状態が自己収縮を起こし、
我々の意識の流れを作っているというPenrose-Hameroffモデルを
提唱している。
(1) 感覚遮断状態での対人遠隔作用実験(そのII) 「遠当て」と呼ばれる現象では、気功熟練者が非接触で離れた相手を 激しく後退させる。我々は、両者間の感覚伝達を遮断した 無作為・盲検実験で、暗示等の心理効果を取り除いた後でも、 本現象が統計的有意に生起することを、 第1回生命情報科学シンポジウムで発表した(初報)。 本報では、本現象に関し、さらに詳細な次の3実験を行い、 前回の報告を支持する結果を得た。 未知な情報伝達機構の存在が示唆される。 実験1)通常の感覚伝達を遮断したビルの1階と4階の2部屋に発気する 気功師(送信者)と弟子(受信者)を配置し、遠当て時の送信者の 発気動作時刻と受信者の反応動作時刻を記録した。 時間差5.5秒以内で両者が一致したものが、 49試行中16試行あり(期待値 7.88 試行)、 統計的に高度に有意であった(危険率 0.0008)。 実験2)遠当てによる通常感覚伝達遮断状態での情報伝達を試み、 その時の受信者の脳波を測定した。発気動作(送信動作)は、 1分間内の無作為に選ばれた一瞬において行われる。 57試行の結果、送信動作時と非送信動作時の受信者脳波の α波平均振幅の間に、右前頭部で統計的に有意な差が見られた。 さらに、遠当てにおける通常感覚伝達遮断状態での情報伝達 において脳の右前頭部が関与している可能性が示唆された。
実験3)送信者と受信者が同室にいる場合と別室にいる場合について 実験した。送信者と受信者の遠当て時の脳波を同時に測定し、 両者の脳波の遠当て前後にわたる意識変化を 複数の指標を用いて推定した。 両者とも安静時より遠当て時の方がリラックスしている場合と同様の、 また遠当て時にはイメージ想起を行っている場合と同様の、 指標傾向が見られた。さらに、遠当て時のβ波平均振幅トポグラフ に両者間においてパターン類似性がみられた。 (2)感覚外情報伝達に関する脳波測定実験(そのII) 情報送信者と情報受信者を感覚伝達を遮断した2部屋に配置し、 感覚外情報伝達を試み、その時の両者の脳波を測定した。 感覚外情報送信は継続した2分間の内の 無作為に選ばれた前半または後半において行い、 受信者はその送信時間帯と送信内容を推測する。 20回の試行の結果、受信者は送信時間帯を 統計的に有意に推測することができなかったが、 感覚外情報送信時と非送信時の脳波のα波平均振幅の間には 統計的に有意な差がみられ、下意識における感覚外情報伝達の 存在が示唆された。その感覚外情報伝達は、送信者の脳での 反応直後に完了するものではなく、受信者の脳で、まず、 後頭野から頭頂野にかけての反応があり、 次に、右前頭野での反応が起こるという経過を経て構成される。
1) 山本 : 応用物理学会放射線分科会 第8回「放射線夏の学校」 テキスト, 25-38, 1996. 2) Hirasawa M, Yamamoto M, Kawano K, Yasuda N, Furukawa A : J Int SocLife Info Sci, 14, 185-195, 1996. 3) Yamamoto M, Hirasawa M, Kawano K, Yasuda N, Furukawa A : J Int SocLife Info Sci, 14, 228-248, 1996. 4) Yamauchi M, Saito T, Yamamoto M, Hirasawa M : J Int Soc Life InfoSci, 14,266-277, 1996. 5) Yamamoto M, Hirasawa M , Kokubo H, Yasuda N, Furukawa A, Furukawa M Yamauchi M, Matsumoto T, Fukuda N , Kurano M, Kokado T, Nishikawa M, KawanoK, Machi Y, Hirata T : The 3rd World Conf. on Medical Qigong (Abstract of presentations), 115-116,Beijing, 1996.9. 6) Yamamoto M, Hirasawa M, Kawano K, Yasuda N, Furukawa A : Proc. of the 6th Int.Symp. on Qigong, 114-117, Shanghai, 1996.9. 7) 山本, 平澤, 河野 , 小久保 , 古川, 安田, 古川, 福田, 蔵野 , 古角, 西川, 平田 : 人体科学会第6回大会研究発表抄録集, 37-38,1996.
8) 山本 : アジア気功科学研究会, 大宮, 1996.12. 9) 小久保, 山本, 平澤, 河野, 古角, 平田, 安田, 古川 : 日本超心理学会第29回大会発表論文集, 20-23, 1996. 10) Yamamoto M, Hirasawa M, Kokubo H, Kawano K, Kokado T, Hirata T, Yasuda N : J Int Soc Life Info Sci, 15, 88-96, 1997. 11) Kokubo H, Hirata T, Hirasawa M, Hirafuji M, Ohta T, Ito S, Kokado T, Yamamoto M : J Int Soc Life Info Sci, 15, 97-108, 1997. 12) Kawano K, Yamamoto M, Hirasawa M, Kokubo H, Yasuda N : J Int Soc Life Info Sci, 15,109-114, 1997. 13) Kokubo H, Furukawa A, Yamamoto M : J Int Soc Life Info Sci, 15, 115-118, 1997. 14) Yamamoto M, Machi Y, Kawano K, Obitsu R : J Int Soc Life Info Sci, 15, 167, 1997. 15) Hirasawa M, Furukawa A, Yamamoto M : J Int Soc Life Info Sci, 15, 252-258, 1997. 16) 山本 幹男, 平澤 雅彦, 河野 貴美子, 古川 章, 安田 仲宏 : 第44回応用物理学関係連合講演会講演予稿集1, 378, 1997.3 17) 小久保 秀之, 山本 幹男, 平澤 雅彦, 河野 貴美子, 古角 智子, 安田 仲宏, 古川 章, 福田 信男, 平田 剛 : 第44回応用物理学関係連合講演会講演予稿集1, 379, 1997.3
これから,PSIの理論構築を目指した超心理学者のアプローチを解説する。 PSIの理論とは,PSIがどのように現われるかを説明するものである。 そうした説明は,ラインが指摘したように,社会学,心理学,生物学, 物理学の全領域に渡ったものである必要がある。 PSIは,社会的・心理的条件によって発現が左右されるように見える。 PSIは,生物学的能力のように見えるし,それが発揮されると現在の 物理法則に反するようでもある。PSIの理論は,多くの研究分野の知見 を基礎として,それらと整合的に展開されねばならないのだ。 「良い」理論とはどのような理論かは,厳密には科学哲学の議論にな るが,次のような評価ポイントが挙げられる。第1に,これまでの観察 結果が説明できること,第2に,訓練を積んだ専門家ならば説明が 理解できること,第3に,将来の観察結果を予測できること,である。 反証可能性の高い理論ほど,精度の高い予測ができるので,より実用 的理論となる。 超心理学では,それに向けた理論化の努力がなされている途上と 言える。ここでは,そうした努力をいくつかの角度から概観してみる。
まず最初に,PSIが存在するならば何故日常的に現われて来ないか, 微小な電流変化に敏感な情報機器が,何故PKによって損なわれない か,という観点の検討をする。 次に,PSIの発揮主体が,我々人間個人であるとすると,その超能力 にはどのような進化生物学的意義があるのかを考える。 そして,心理学的な知見を踏まえてPSI実験の結果を説明するPMIR 理論を,続いて,ESPをもとにPSIを一元的に捉えるDAT理論を解説 する。 その次には,物理的視点から構築される理論を概観する。物理的理論 は一般に,心理学的知見が盛り込みにくい問題がある。そこを改善する 試みとして,量子論における観測問題を手がかりにして心理学的要素 (意識)を導入する理論が現われた。それはさらに,情報を鍵概念にした システム論的理論へと展開する。 最後に,古典的な理論ではあるが,今でも多大な影響力を持っている ユングの理論について述べる。
PSIは厳密な実験を行なうと姿を消してしまう。PSIには「とらえにくさ」 という性質が伴っているように見える。これは懐疑論者から見れば, トリックが行なえない状況になって「姿を消した」に過ぎず,まさに 「インチキの証し」である。だが,もしPSIが存在するならば,PSIが自ら を隠蔽するような性質を結果的に示しているのは,ほとんど確実で ある。PSIの理論は,この「隠蔽効果」を説明する内容を含むことが 必要であろう。 笠原は,この点に注目して,次の分厚い(なんと800ページ以上もある) 文献を編集している。 笠原敏雄編著訳『超常現象のとらえにくさ』(春秋社)
ケネス・バチェルダーは,長らく「会席者グループ」の研究を続けていた。 会席者グループとは,複数の参加者を部屋に集め,交霊会に似た状況 設定でマクロPK現象が起きるよう促すものである。その過程で,マクロ PK現象が参加者に混乱を与え,さまざまな心理的防衛反応を引出すこ と,またそれによって,さらなるPK現象が起きにくくなることを見出した。 1970年頃,彼は,そのPSIに対する防衛反応に,「保有抵抗」と「目撃 抑制」とがあると指摘した。 前者は,自分がPSI能力を持つこと,あるいは持っていることが知られる ことへの心理的抵抗であり,後者は,PSI現象を目撃したという経験を 否定しようとする傾向,あるいは目撃をしないようにする傾向である。 どちらも,未知のものや制御できないものへの恐怖に起因すると言う。 この理論によれば,PSIはこうした恐怖を最小化することで現われ易くなる。 たとえば,PSIを発揮したり,目撃したりしても重大なことではないという, 気楽な雰囲気を部屋の中に形成すると良い。
チャールズ・タートは1982年,周囲の人間の考えていることや感じている ことが分かるというESPを保有した状況,あるいは,周囲にあるものを手を 使わずとも自由に動かせるというPKを保有した状況を想像させると,被験 者が多くの恐怖と,保有抵抗とを報告することを確認した。 超心理学者でさえも,こうした潜在的恐怖に気づかずにいると言う。 PSIの無制限な発揮は,自他の幻想を打ち砕き,自分と他者という社会 制度上の基礎を失わせる。そうしたものに対する恐怖は,死に対する 恐怖に近いものがあるだろう。その結果,PSIは存在しないものとして, あるいは特殊な場面にしか起きない形に抑制されてしまう。 PSIに携わる者は,そうした恐怖を克服せねばならない。 バチェルダーの言うような一時的な回避だけでは十分でない。 まず恐怖があることを是認し,その否定的側面を受容れ,人格的成長 を遂げる中で,恐怖に対処可能となることが理想である,とタートは語る。
PSIの抑圧が社会的要因で起きるとすると,PSIの現われ方と,社会の 文化的側面(いかにPSIを許容しているか)との間には,深い関連が 見られると予想できる。 ジェームス・マクレノンは1991年,こうした観点からの社会学的研究に, 大きな成果が期待できると主張している。 非再現性や実験者効果に思い悩むよりも,実験室からフィールドへ 出ようという勧めである。
ここでは,我々がPSIという能力を持っていると仮定した場合,進化生物 学から考えて,その性質はどのようなものかを検討する。
ESPが五感と同様に人間の知覚能力の一部であり,PKが手足と同様に 人間の運動能力の一部である,としてみよう。生物学的に考えれば, 人間の能力は進化的に獲得されてきた。すなわち,生存競争に勝ち残る ことによって,多くの変異種の中から環境に適応した種が繁栄する,その プロセスで,必要な能力が獲得されるのだ。PSIが生物学的な能力である ならば,PSIは環境に適応的な役割を果たしていたので,我々に備わった ことになる。他の個体よりも生存競争で優位に立ち,遺伝子を後世に残す のにPSIが利用されていたに違いない。 確かに,ESP能力は食べ物を探すのに利用できるし,PK能力は食べ物を 獲得するのに利用できる。PSI能力は高ければ高いほど,生存競争に有利 であろう。ならば,何故我々は高いPSI能力を持っていないのだろうか。 強靭な手足の筋力は生存競争に有利ではあるが,それを維持するのに 多くのエネルギーが(すなわち多くの食べ物が)必要であるから,結局は 進化の過程で最も効率が良い(現在の)手足の筋力に落ち着いたと考え られる。それと同じように,PSI能力の維持にエネルギーがいるのだろうか。 残念ながら,PSIと物理的なエネルギーの関連は見出されていない(むしろ 関係が無いと考える超心理学者が多い)。 では,PSI能力の低さは,生物学的にどのように説明できるだろうか。 そのひとつの可能性は進化的安定戦略である。
進化的安定戦略とは,進化生物学者のメイナードスミスが理論的に 導いた,進化上獲得される行動形態のことである。直感的に言えば, ある行動形態は,その戦略をとる個体が増えても安定であり,かつ その増えた状態で他の戦略をとる個体が優位にならない場合に, 進化的に安定な戦略として,生き残るのである。 戦いを好む個体(タカ派)と,好まない個体(ハト派)の例で考えてみよう。 力が強く戦いを好むタカは,生存競争に勝ち残り子孫を増やす。ところ が,タカが大勢を占めるようになると,戦いばかりが発生し,互いに傷つけ 合って安定した繁栄が望めない。一方で,戦いを好まないハトは,大勢に なっても問題は少ないが,その状態にタカが現われると,食べ物を独占 できてハトが追われてしまう。タカもハトも進化的安定戦略ではなく, 進化上は,タカとハトが混在した状態で推移する。 しかし,それらの中間的な行動形態には,かなり進化的に安定な戦略 がある。それはナワバリ派であり,自分のナワバリの内側ではタカとして 振舞い,他の個体の進入に対して戦いで排除しようとする一方,ナワバリ の外側ではハトとして振舞って,他の個体に資源(食べ物,水,住居など) を譲るのである。ナワバリ派は,同一戦略を取る子孫が増えても,ナワ バリに十分な資源がある間は繁栄を続けられるし,単純なタカやハトより, 通常は進化的に優位である。
PSI能力は,進化的安定戦略として,ある種のナワバリの内側でのみ有効 に働くように抑制されているのでないか,という可能性が考えられる。 PSI能力を使って資源を奪い合う個体群は絶滅し,個体の周囲に限って, あるいはまさかの時のみにPSIが発揮されるような謙虚な個体群が, 現に今,生き残っているとされる。この理論に基づいて想像力をたくましく すれば,ナワバリの外側でPSIを発揮する個体がいたら,皆がPSIを働か せてやっつけてしまうというプロセスで,隠蔽効果も説明できよう。また, PSIが意識的には働きにくいという観察事実も,意識的に働かせることに よって破滅的結果を招いた進化の歴史上の必然から,意識とPSIとを切り 離す突然変異が起きたとも説明できよう。
一方でPSIは,五感や手足のような原始的能力ではない可能性がある。 PSIは,あまりに微弱(あるいは制御不能)であるため,進化上の環境 適応手段として用いられてこなかった。 ところが,人間が進化して意識が現われた進化の段階で,何らかの 進化上の偶然で顔を出し始めた「高級な能力」なのかもしれない。 こうした方向の研究は,意識の探究を進めた上で,初めて取組めるもの だろう。現在は「意識」の進化的説明に諸説が立てられている段階で ある。 例えば,生化学者ケアンズスミスの『心はなぜ進化するのか : 心・脳・ 意識の起源』(青土社)を参照されたい。
そもそもPSIが存在するのであれば,生存競争に基づく進化の原理は 修正されねばならないという議論も成立つ。 タートが唱えるように,PSIによって自他の分離が消えるならば,個体の 環境適応度は,その個体の持つ遺伝子に直接起因するわけではなく なる。 またスタンフォードやシュミットらが主張するように,PSIに目的指向性が あるとすると,進化生物学が葬ったラマルクの獲得形質遺伝説が,一転 して現実味を帯びてくる。 エジンバラ大学に超心理学講座を寄付したケストラーは,ラマルク説を あからさまに支持していた(『サンバガエルの謎 : 獲得形質は遺伝する か』サイマル出版会)し,デューク大学に赴任した頃のラインは,マクドゥ ーガルとともにネズミの迷路学習の実験を行ない,獲得形質の遺伝に 対して肯定的な結果(迷路の学習が速くなる)を得ていた。
ここからは,超心理学の知見からボトムアップに生まれた,最も洗練 された理論と言われる,PMIRを解説する。
レックス・スタンフォードは,テキサス州オースティンにあった超心理学 研究センターで,無意識に働くPSIに注目した研究を行なった(現在は セント・ジョーンズ大学)。 彼は1974年,「PSI媒介道具的反応(PMIR)」という理論を提唱した。 「道具的反応」とは,何らかの目的を達成するための手段(途中段階) として現われるプロセスであり,PMIRでは,そこにPSIが働くとしている。 彼がPMIRの着想に至った手がかりは,第1に,PSIは,意図せずに無意識 に働く傾向があること,第2に,複雑な機構にも問題なくPSIが働くこと, 第3に,PSIは,必要性,目的,報酬,動機づけなどがあるところに現われ ることであった。 PMIRでは,PSIは常に主体から世界へと(環境をスキャニングするように) 広がっており,目的を達成する最も「倹約的な」プロセスを発見して働くと 見なされる。最も倹約的プロセスを選ぶので,PSIは結果的に,意識的に 自覚されることさえも回避すると言う。 これは例えば,歩行時に足の出し方が意識されると歩き方がぎこちなく なるので,歩行運動が無意識的に行なわれるのと類似した事柄である。
スタンフォードは,PMIRが次のような要因に影響されるとした。 促進要因は,目的を達成する必要性の高さや報酬への動機づけの高さ である。抑制要因は,PSIに対する心配や不安,恐怖や罪の意識である。 PSIは,こうした要因のバランスで,働いたり働かなかったりする。 また,PSI発揮主体とターゲットとの間が,時空間上で近接している場合 ほど起きやすいともされる。 「意識すること」は多くの場合,抑制要因になるので,あまり意識しない ときに偶発的にESPが働いたり,努力をやめたときにPKが発揮されたり するのだ。 PSI発揮に対して責任を回避できる状態も,罪の意識が低くなりPSIが 発揮されやすい。 予感実験でPSIが検出されやすいことは,PMIRの観点からうまく説明で きる。予感実験では,無意識に起きるPSIを捉えようとしているし,誘引 動機が高い性的なターゲットや,排除動機が高い死にまつわるターゲッ トを使用している。
脳が,五感を通じて外界の情報を収集し,身体運動を制御して行動を 生み出しているという考え方を,サイバネティック・モデルと呼ぶ。 これは情報工学における典型的な人間の捉え方であり,脳は情報処理 の拠点となるコンピュータで,身体はあたかもロボットのように,脳の指令 によって動作すると考えられる。 PSIをこのモデルに当てはめて考えると,外界の情報がESPを通じて脳に 運ばれ,脳の意図はPKによって外界に影響するとなる。サイバネティック ・モデルは,我々にとって理解しやすく,超心理学者の多くも,PSIはその ように働くと漠然と考えている。 けれどもPSIの性質を深く考えると,サイバネティック・モデルでは不適当 な点が見受けられる。PMIRも基本的にはサイバネティック・モデルに沿っ ており,あたかも脳がESPで環境をスキャニングして,目的を達成する 手段がないかどうかいちいち調べている,というようなメカニズムが想定 されている。しかし,そう考えると,脳の負荷が高すぎる。目的を達成する 手段が複雑ならば,脳は複雑な処理を行なわねばならないだろう。これ では,複雑な機構にも問題なくPSIが働くという点との矛盾が感じられる。 スタンフォードはPMIRを改訂して,サイバネティック・モデルを脱却した 「適合行動理論」を提唱した。
1978年にスタンフォードが提唱した適合行動理論によると,変動が大きく, 非決定的な物理系は,「傾向性を持つシステム」の傾向性(主体にとって の必要性や目的を外的見方に言い替えた用語)に適合するよう,自然に 決定づけられるとした。 すなわち,傾向性という目的を動因として(PSIによって)適合行動が 生まれるという,目的指向性の強い理論である。適合行動理論によれば, この決定づけこそがPSIなのであり,ESPもPKも一元的に理解される。 適合行動理論の内容を具体的に説明しよう。スタンフォードは,非決定的 な物理系の代表として乱数発生器を挙げている。乱数発生器にミクロPK が働いたように見えるのは,PKを働かせたいと希望する人間(傾向性を 持つシステム)の傾向性に駆動されて,乱数発生器が,その希望にかなう 状態に適合するのである。テレパシーの場合は,例えば,送り手の希望 により,受け手の脳の非決定的な物理系が,自然に,ターゲットのイメージ を写し出した状態になると理解される。言わば脳は大きな「乱数発生器」 であるのだ。透視の場合は,希望する人間と,脳という「乱数発生器」を 持っている人間とが,たまたま同じである,と考えれば良い。 なお,乱数発生器の状態がどのようにして傾向性に適合するか,は示 されてない。スタンフォードは,とにかく「そうなるのだ」ということを「万有 引力はあるのだ」と同じように,そっくり受け入れたうえで考えようとして いる。
適合行動理論は,目的や希望というような心的世界から,物的世界への 「ある種」の因果性を認める方向性を持っており,心身問題の解決の観点 から興味深い。 また,傾向性を持つシステムは,人間である必要はなく,原始生物や 機械でもよさそうである。傾向性を物質から定義し,適合行動が物理的 な法則として記述できれば,唯物論としての包括的な理解に到達する 可能性もあろう。哲学者であり超心理学者のエッジは,適合行動理論 の哲学的妥当性を議論している。 だが,適合行動理論は,哲学的含蓄は深いものの,超心理学の実験結果 を説明する度合いという点では,PMIR理論と大差ない。スタンフォードは, 他の超心理学者の反応がかんばしくないためか,その後は適合行動理論 を強くは主張しなくなってしまった。 代わりに1982年と1990年には,PMIR理論における「必要性」を「傾向性」 に,「道具的反応」を「目的に合う反応」と言い換えた。PMIR理論の方を 適合行動理論へと若干近づけたと言えよう。
ここからは,ESPをもとにPSIを一元的に捉える理論である,DATについ て概説する。
長らくリモートビューイング実験に取組んでいだエドウィン・メイは,1995年 に「決定増大理論(DAT)」を提唱した(ただし,当初は「直観的データ分類」 とも呼んでいた)。 DATによれば,我々が意思決定をするときには,ESPによって将来の結果 を(無意識のうちに)ある程度感知して,自分の希望に合うような選択を (ときには無意識に)行なっている,となる。 DATは,乱数発生器に現われるミクロPKの解釈から生まれた。乱数発生 器の出力をPKで操作できるというのは,その出力が出ることを予知して, うまいタイミングでボタンを押しているのに違いない,と言うのだ。 より複雑な過去遡及的PK実験などの場合は,実験者がターゲットを作成 するときにすでに,未来に渡って予知が働いて,実験が興味深い結果に なるようにターゲットが選ばれている,となる。 DATを受け入れると,PSIとは人間の意思決定時に働く情報論的な性質を 持つ能力であり,自然界にはそれ以外,PKなどのPSIは存在しないという 描像が成立する。
DATは,超心理学はもとより,通常科学の実験に実験者効果が潜在 することを,明確に指摘する。 例えば,ヒーリングや新薬の効果を実験的に示そうと,複数の患者を 実験群と対照群に分ける時に,予知による選択が起きる可能性がある。 近々快方に向かう患者を実験群へ,なかなか自然治癒しない患者を 対照群へと,知らず知らずに入れてしまうのだ。そうすれば,治療には 効果がないにもかかわらず,効果があるような実験結果が得られる。 グループ分けに伴う無作為化の方法を工夫してもダメである。その 方法の選択自体から予知が働く可能性を排除しきれないからだ。グル ープ分けをする人も実験について知らないという,「トリプルブラインド」 とも言えるような実験設定をすると,かなり改善できよう。
乱数発生器の実験を工夫すると,PKかDATかをある程度,実験的に 区別できる。乱数発生器で生成される乱数列の長さを次々と変動させて, 被験者にPSIを働かせるのである。例えば,0/1の二値出力の乱数 発生器で,1が出るように念じるとしよう。もしPKが働いているとすると, 乱数は短くても長くても,1文字ごとに1が出るように働くと考えられる から,長い乱数列になればなるほど,1回当たりのPSIの検出可能性が 単調に増加するはずである。一方,DATに従うと,念じても乱数列は 変化しないとされる。ただ被験者が,1が多く続いて発生するタイミング を予知で見はからってボタンを押している,と想定されるのだ。すると, 乱数列が長くなると,それだけ多くの1が集中して現われるタイミングで ボタンを押さなくてはならなくなる。だが,0/1は確率的に均等なので, 限定された時間内にそれほど1が集中することはない。よって,1回 当たりのPSIの検出可能性は乱数の長さによらず一定となるのである。 メイは,この比較実験を行なったところ,データはかなりバラついたが, PKよりもDATを支持する結果が得られたと主張している。WEBを利用 したポ−ル・スティーヴンスの実験では,逆にPKを支持するデータが 得られている。引続き検証実験が期待されている。
DATは,PSIをESPに一元化する点で,興味深い理論である。これまで の物理理論をそのままにして,情報論的理論を加えることでPSIが説明 できる可能性が生まれるからだ。 だが,その代わりに,かなり説明の難しい高度な予知能力を認めなけれ ばならない。この予知能力の説明は,PKの説明に比べて果たして易しい のかという疑問がある。 また,リチャード・ブラウトンは「DATは,従来から指摘されている問題を 表現し直しただけで,真の理論とは言いにくい」と批評している。 さらにDATがはらむ問題は,ミクロPKは説明できるが,マクロPKが説明 できない点である。マクロPKが存在すると,結局PKを説明せねばならず, DATの興味が失われてしまう。 確かに超心理学者であっても,マクロPKに疑問を呈している者は多い。 だが,理論の延命のためにPSI現象の一部の存在を疑うのであれば, 不健全な態度だろう。 (メイ自身,「マクロPKは,無いものと考える」と,SSPで歯切れの悪い 発言をしていた。)
ここからは,物理的性質を持つ「場」によってPSIが達成されるとする 諸理論を概観する。
ESPは電磁波に乗って情報が伝わるとか,PKは電磁波によって力が 伝わるなどという「PSIの電磁波モデル」が,古くから提案されている。 ロシアの科学者ワシリエフは1963年,テレパシーは電磁波によって 実現されるとした。コーガンは1966年,超長波(低周波)の電磁波が テレパシー情報を伝達するとした。最近ではパーシンジャーが1979年, 地磁気の源から発生するそうした電磁波がテレパシーを媒介する,と 提唱している。 PSIの電磁波モデルは,イメージは湧きやすいが,多くの困難を抱える。 まず,脳は,遠距離を伝達するほどの電磁波を発生させるパワーに 欠けている。仮に電磁波を発生させたとしても,情報はどのように電磁波 に込められて(符号化されて)いるのだろうか。情報の受け手はどのように, その情報源を判定(周波数同調)し,その情報を解読しているのだろうか, 妥当な説明はつかない。そもそも遠距離に隔離された実験でもPSIが 働くこと,予知も見られることなどが,PSIは電磁波ではないことを明示して いるように思われる。 ただ,カーリス・オシスの1965年の分析では,距離が増大するとESPスコア の低減傾向(およそ5分の2乗の減衰)が見られており,時空間の近接性が 物理的(あるいは心理的)に何らかの影響があることは否めない。 他方で,地磁気や地方恒星時とPSIとが相関することは,電磁波がPSIと 関わりがある可能性を示唆する。
物理的な電磁波に問題があるならば,電磁波に似た,PSIを媒介する 超常的な「場」を想定すれば,一応整合的な理論にはなる。このように, 何か特異的な「場」を導入する理論(もどき)は数多い。 脳波の研究者であるバーガーは,1940年,時空間に制限されないサイ キック・エネルギーが,被験者の脳波を共鳴させることでテレパシーが 起きると考えた。ヒーリングの説明では,生体エネルギーであるとか, オーラと呼ばれるエネルギー場がしばしば登場する。 数学者のワッサーマンは1959年,超心理学のみならず,生物学や心理 学の現象を説明する,数学的な場の理論を提唱した。彼は1993年には, 影の物質がPSIの担い手であると主張した。 1965年にはドブズが,PSI媒介粒子を想定し,それをサイトロンと命名した。
ロルは1966年,「PSI場」を導入した。彼は,予知はPKで実現されるとして, 物理的な因果性を保持した。さらに彼は,記憶はPSI場の一部であり, 人体を離れて存在・伝達し,それがPSI現象を引き起こすとする,ある種の 「汎記憶理論」を提唱した。ホーンティングなどのPSIが起きやすい場とか, 物品に込められた歴史を知るサイコメトリーなどの現象を説明しようとした のである。 場の理論はどれも,その「場」が存在する積極的な証拠を持ち合わせて いない。しかし何よりも,それらの理論は漠然としており,奇妙な現象の ほとんどを理論を補強することによって「説明」できてしまう。それゆえに, 将来の観察結果を予測できない無意味な理論となりがちである。同様の 批判は多くの,多次元空間理論や共鳴理論,超微細粒子理論にも当て はまる(場の理論は,表現を少し変えることで,容易にそうした別種の 理論に変身できる)。 ただし,ロルの「PSI場」は,長期記憶を介してESPをもたらすという部分 では検証可能であり,1970年代に検証実験が試みられ,いくつかの 肯定的結果が得られている。しかしそれでも,場の理論の本質部分は 検証不能のように思われる。
検証可能な特異的場の理論として,ルパート・シェルドレイクが唱えた
「形態形成場」が挙げられる(『生命のニューサイエンス』工作舎)。この
理論はまた,「形態共鳴」という共鳴理論として解釈されることもある。
形態形成場はもともと,獲得形質が遺伝するように見える現象を説明
しようとした生物学の理論である(だが,生気論の復活と見なされて
抑圧された)が,PSI現象の説明にも適している。
シェルドレイクのホームページ:
http://www.sheldrake.org/ 形態形成場は,広い意味での「形態」を一定のものへと導く,特異的
場である。形態とは,生物の体型や細胞組織の形状,タンパク質の
折畳みなどから,生物の行動・思考パターンまでをも含む,広い概念で
ある。形態形成場は,「同じものは同じ形態になりやすくなる」原理
(形態共鳴)や,「繰返し起きたことは将来も起きやすくなる」原理を
実現するものとして,捉えることができる。形態形成場の効果によって,
生物の体型や行動は,過去から現在に至るまでの同じ生物が取って
きたものと類似のものとなる。
この理論は実験的な検証ができる。例えば,難しいパズル課題を作成
し,多くの人間が解答を知る前の実験と後の実験では,後の実験の
方がパズルの正答率が高まると予想される。この着想は,「隠し絵」
から隠されている絵を探す課題で実行に移され,実際に正答率が
高まった結果が得られた。この実験はもちろん,後の実験に参加する
人は事前に解答を知り得ない,という状態を維持した環境で行なわね
ばならない。
形態形成場の評価は別にして,ここではPSIの理論と比較してみたい。 少し考えれば,形態形成場が適応行動理論と良く似ているのが分かる。 どのような形態でも取り得る可能性のあるものが,形態形成場によって 一定の形態になる点は,適応行動理論において,非決定的な物理系が PSIによって決定づけられるのに類似している。そう考えると,適応行動 理論の傾向性は,形態形成場では,過去の形態パターンの蓄積に相当 する。形態形成場は,過去のパターンを踏襲するので,新規のパターン が生まれにくい。その点で,むしろPSIが起きないことの良い説明になる かも知れない。さらに形態形成場は,上述の汎記憶理論とも似ている。 過去の形態パターンの蓄積は,一種の「場としての」記憶として捉える ことができ,その「記憶」が,次の同様な現象を繰返すとも解釈できる。 形態形成場をPSIの理論とするためには,生物個体間の形態共鳴現象 だけでなく,出来事間の形態共鳴へと拡張しなければならない。そうす ると何が「同じ」出来事であるかという同一性の基準を導入せねばなら ない。これはまた,大きな議論の対象となる。ユングならば,それを 「元型としての意味である」と言うのだろう。
物理学と整合的なPSI理論の構築のため,超心理学者は量子論に 発生する観測問題に着目した。 観測問題に関係するところでPSIが起きるとして理論構築すると, 現代物理学を大きく修正することなしに済ませられるからだ。
最初に本流物理学で起きている観測問題を概説する。 ミクロな世界の現象を記述する量子論は,1926年シュレーディンガーの 波動方程式により,形式化された。 この波動方程式では,物理系が取り得る複数の状態が「重ね合わされ た」状態で表現され,時間経過とともに,その状態がどう変化するかが 記述されている。波動方程式は,観測が行なわれた時に(重ね合わさ れていた)複数の状態のうちの各状態が観測される確率を与える。 例えば,電子が発射され,経路Aと経路Bの2つの経路のいずれかを 通る可能性があるとしよう。波動方程式は,2つの経路が重ね合わさっ た状態を記述し,経路Aを通るのが20%の確率で観測され,経路Bを 通るのが80%の確率で観測されるなどと予測する。波動方程式の 予測は極めて精確であり,同一の波動方程式で記述される状態を 多数回観測すると,統計的な誤差の範囲で正しく20%と80%の頻度 で観測される。 さて,ここで問題となるのが,その観測の直前に電子はどこにいたか である。我々の日常的な世界観によると,電子が経路Aに観測された ならば,その直前には当然ながら,経路Aを走っていたと考えるだろう。 ところが,そう考えると矛盾が起きるのである。観測をしないと(あるい は観測する前は),電子はあたかも「波」のように両方の経路に広がっ ており,ある種の干渉現象を起こすことが,波動方程式によって導かれ, またそれは実験によっても裏づけられるのである。すなわち,観測を するまでの間,物理系は複数の取り得る状態が重なり合った奇妙な 状態のままでいる,などと考えざるを得ないのである。
どうせミクロの世界の話なのだからどうでもよい,などと事は済まない。 何故なら,「観測」がいつどこで起きるかが量子論からは導けないので, マクロの世界に関わる可能性があるのだ。「観測」という行為を分解 すると,そこには「測定装置」があり,観測する人間がいる。電子が 経路Aと経路Bのどちらを通るかを測定する装置を作り,経路Aに検出 されたら針が右に振れ,経路Bに検出されたら針が左に振れるように しよう。すると,波動方程式では,経路Aに検出されて針が右に振れる 状態と,経路Bに検出されて針が左に振れる状態とが,依然として 重ね合わせた状態のままであり,どちらかには決まらないのである。 さらに,測定装置の針が右に振れたら近くの猫が死ぬような仕掛けを して置くと(あくまで思考実験である),猫が死んだ状態と生きている 状態が重なり合うという,実に奇妙な状態を想定せねばならない (シュレーディンガーの猫)。 これが観測問題である。 物理学者は奇妙な現象をミクロな世界に封じ込めるため,なんとか マクロの測定装置あたりでどちらかの状態に「決定」されるよう,量子 論の拡張を試みるが,うまい理論が作れない。 そうした中で,1980年代には,数メートルという十分マクロの大きさに おいても,ある種の物理系が重ね合わせ状態にあることが,実験的に 確かめられた。
一方で,物理系でないものが関与する時に「観測」が起きるとすれば, 量子論の整合性が保たれるとして,ウィグナーやウィーラーは,観測者 の「意識」が物理状態を決定していると想定した。 意識が関わる前までは,複数の状態が重ね合わされているが,誰かの 意識がその物理系を観測すると,波動方程式に示された確率に従って, いずれかの状態に決定するという。 また,エヴェレットは,「観測」はそもそも起きていないとする「可能世界 論」によって量子論の整合性を保とうとした。 可能世界論では,電子が経路Aに検出されて針が右に振れ猫が死んで いるのを観測する世界と,電子が経路Bに検出されて針が左に振れ猫が 生きているのを観測する世界とが,それぞれ別個に存在するとされる。 波動方程式により,日常的にほとんど無限個の世界が生成されるのだ。 このようにして,観測者は多数の可能世界に複製されるが,その意識は, 意識の存在する特別な世界を認識する。つまり,死んだ猫を観測する 世界の意識と,生きた猫を観測する世界の意識とが,互いに交流もなく それぞれ存在するので,我々は常にどちらか一方を認識するという。 観測問題は解消されるが,代わりに我々は,可能世界の迷宮へと追い 込まれる。
エヴァン・ハリス・ウォーカーは1974年,量子論の観測問題の部分で
PSIが起きるとする観測理論を提唱した。
彼の観測理論では,現実の重ね合わされた状態に加えて,想像による
状態という新たな物理状態が導入される(物理学で言う「隠れた変数」
である)。その想像による状態が,いわゆる意識に相当する(つまり意識
は特殊な物理状態とされる)。重ね合わされた状態は,意識と関わること
で1つの状態に決定されるが,その観測の時点で,意識の想像状態と
合致する状態が選ばれるという。これにより,願望や意志(これらは意識
の想像状態とされる)に合った物理状態が結果として選択されることとなる。
例えば,サイコロは回転中に6つの目に対応する6つの状態が重ね合わ
せになるが,意識で特定の目を念じていると,その目の想像状態と合致
する状態が現実に選ばれやすくなる,としてPKが説明される。ESPは逆に,
コールにつながる想像状態の方が重ね合わせになっており,ターゲットの
現実状態が意識と関わる時に,ターゲットに合うコールの想像状態が
選ばれやすくなる,と(やや複雑だが)説明される。
ウォーカーの論文:
http://users.erols.com/wcri/CONSCIOUSNESS.html http://users.erols.com/wcri/QMcons1970.html
乱数発生器の実験手法を開発したヘルムート・シュミットは1975,1978年, 目的論的性格を持つ観測理論を提唱した。 この理論では,PSIの源である人間は,時空を越えたPSIを発揮すると して,PSI独自の世界を先に認めてしまう。そして,PSIを評価するとき (コールがどれくらい当たったかを調べるとき)に,高スコアを望む目的 に沿って評価者がPSIを発揮し,過去に向かってPKが働くとする。PSI の源となる評価者とは,被験者に実験結果のフィードバックが与えられ るときは,被験者自身に相当するが,与えられないときは結果を照合 する実験者となる。過去に働くPKは,重ね合わせの状態から1つの状態 が決定する,量子論的観測時に,将来の目的に沿った状態が選ばれ やすくなることで実現される。 彼が得意とする乱数発生器の例で説明しよう。乱数発生器の出力は 「未来」の,良いスコアを残したいという目的に沿って出力が決まる。 これは,特定の出力と合致する場合はPKとなり,コールと合致する 場合はESPとなるが,基本的に未来からのPKという原理で実現される。
この点はDATとは,ちょうど逆の構図であることに留意されたい。DAT では,ターゲットを選ぶときに選ぶ人間の予知で,将来の目的に合致 したものが選ばれた。シュミットの理論では,コールを評価するときに 評価者のPKで,過去のターゲット選択が目的に合致するように選ばれ るのである。 この理論によれば,彼が実験的に掴んだ過去遡及的PKも,自動的に 説明される。目的指向性を持つので,たとえ複雑な構造を持つ乱数 発生器であっても,PSIが困難になることがない。 この理論は,量子論と極めて整合的である。
ここからは,ラカドウが提唱する,PSIの情報システム理論について 解説する。
ドイツの物理学者(かつ心理学者)のウォルター・フォン・ラカドウは, 量子論の理論構造を情報システムのレベルに適用することで,PSIの 性質,とくにその「とらえにくさ」を説明できると考えた。 量子論とPSIは,類似したところがある。 観測前の重ね合わせの状態が持つ大局的性質は,PSIの現われ方と 類似している。また,観測することが状態を決定するところは,PSIの 実験者効果を連想させる。 だから,量子論とPSIの理論を組合わせるアプローチは魅力があり, 物理学に詳しい超心理学者の多くは,観測理論に注目するのであった。 しかしラカドウは,物理状態がどのようにPSIと関わるかといった物理学 的レベルや,PSIがPSIの源の心理状態とどのように関わるかといった 心理学的レベルは,理論の対象とはしない。 代わりに,実験装置や被験者や実験者などをひとまとまりの「システム」 と捉え,その「システム」に流入する情報と,PSIの性質との関連性を 見つけるアプローチを取った。 そのときの理論化の道具が量子論の理論構造である。 彼の初期の着想はドイツ語の論文にあるが,最初の英語の論文は 1983年に発表され,これは『超常現象のとらえにくさ』の第30章に邦訳 が収録されている。より包括的な論文は1995年のEJPにある。
ラカドウがPSIの説明に一定の寄与をするだろうと着目したのは,語用 論的情報である。 旧来のシャノンの情報理論は,符号化の理論であり,意味論的側面に 欠けている。我々は,メッセージに込められている「意味」によって行動 するのであるから,意味を扱えない情報理論では不十分である,という のは現代の情報学において確認されている事項である。 ところが,意味というのは,他の情報や信念と関わった,文脈性の高い ものであるため,情報理論として定式化が困難である。 しかし,語用論的情報ならば,意味論的側面を部分的に含んだ検討が 可能であるという。 語用論的情報はワイツゼッカーによって1974年に提案された。それは, 確認性と新奇性との積によって表わされる。情報は理解されねばなら ない(確認性)し,行動の変化を引き起こさねばならない(新奇性)という, 両方の性質を同時に含む必要があることを示している。未知の外国語 の情報が来ても,分からないので情報量はゼロ(確認性がゼロ)である し,すでに知っている情報が来ても意味がないので情報量はゼロ(新奇 性がゼロ)である。 ラカドウはさらに,確認性と新奇性の間には不確定性関係があり,語用 論的情報は離散的であると,量子論になぞらえた議論を展開するが, ここでは省略する。
ラカドウによると,システムに語用論的情報が加わるときにPSIが起きる という。これによって,PSIの下降効果が説明される。つまり,被験者が 新たなPSI実験方法を経験するときに,その被験者を含むシステムに, 語用論的情報が加わる。するとPSIが発生するが,何度も繰返している うちに,語用論的情報が加わらなくなり,PSIは現われなくなるのだ。 ジョークが最初だけ面白く感じるのも,同様の語用論的情報の流入に よって説明される。 PSIの実験者効果は次のように説明される。PSI実験をする被験者の システムに実験者が加わることで,大きな語用論的情報をもたらすと, 実験者の影響でPSIが起きることになる。実験の全貌が被験者に知ら されていれば,被験者のシステムが語用論的情報の観点で「閉じて」 いるので,実験者が加わることでPSIが起きることはまず無い。ただし その際には,被験者が理解できる情報が知らされてなくてはならない。 これは,乱数発生手順と種数とを知っていても,問題なく過去遡及的 PKが起きた実験結果を説明する。それらを知らされていても,語用論 的情報の全貌を知らされたことにならないからである。 つまり,PSIは語用論的情報を取得した人間のところで起きることになり, 「意識」が観測状態を決定するとした観測理論と同様の議論となる。
けれども,語用論的情報に基づく理論は,観測理論と違って,PSIの 限界を示す。語用論的情報が新たに加わるかどうかが,PSIの発生の 鍵となると想定しているからである。 端的に言えば,信頼性のある確実で安定したシステムは(すなわち システムが既知になってしまうと)PSIは起きず,常に新しい挑戦をする 自律的なシステムであると,PSIが起きるのである。 科学的解明とは,解明するとき(すなわち創造的発見のとき)にはPSI が起きるが,解明された後はPSIが起きにくくなると言えるだろう。科学 の発展は,PSIをますます「とらえにくく」しているのだろうか。
ここからは,シンクロニシティの理論と,それを提唱した深層心理学の 大家,カール・グスタフ・ユングについて述べる。
ユングは,患者の深層心理を分析する過程で,何度もPSI現象を体験 していた。とくに治療が良い方向へと向かい始めるときに,PSI現象が 起きやすいという。その一端は,彼の死後に刊行された『ユング自伝』 (みすず書房)にも記されている。 彼は超心理学にたいへんな関心を寄せていたが,超心理学の論文を 著してはいないし,超心理学のコミュニティに積極的に参加することも なかった。 ラインは,ユングに対し再三,PSI現象の体験や,それに対する考えを 発表してくれるように書簡で依頼していたが,臨床上の知見では, 専門外の人は説得できないと,断っていたのである。ユングとラインの 書簡の遣り取りは1934年から1954年まであり,ユングの姿勢は次の 書簡集からはっきりと読み取ることができる。 湯浅泰雄著訳『ユング超心理学書簡』(白亜書房) ユングは分析のうえで,集合的無意識に注目していた。その集合性 とは,我々人間が皆,無意識の深い部分で共有している,歴史的・ 社会的・生物的部分である。PSIの見方も,集合的無意識との関連性 に重きが置かれていたようである。例えば,PSI現象は,被験者個人 の性格とは無関係であると断定している。 そうしたユングが,初めて超心理学を視野に入れて発表した理論が, 1952年のシンクロニシティであった(『自然現象と心の構造』海鳴社)。 この立論にあたっては,スイス連邦工科大学の同僚であるパウリの 影響があった。パウリは量子の排他原理でノーベル賞を受賞した 物理学者であるが,自分自身にPSI体験があり,ユングの心理分析も 受けていた。
シンクロニシティは「共時性」とも訳され,複数の出来事が非因果的に 意味的関連を呈して同時に起きる(共起する)こと,である。 シンクロニシティの正確な理解は難しい。何故なら,「出来事」,「因果」, 「意味」,「同時」とは何かについて,議論が必要だからである。言い換え れば,解釈の余地が残されている理論である。 まずは単純な例で考えてみる。「花瓶が割れた」,その時,「病院で祖母 が亡くなった」というのが,シンクロニシティであるとしてみよう。出来事と いうのは,単純な物理現象ではない。祖母が粘土から作って大切にして いた花瓶(歴史性)が突然奇妙な音とともに割れ(状況性),居合わせた 人々が不吉に思った(体験)というような事柄全体が,1つの出来事となる。 シンクロニシティである場合には,そうした「花瓶が割れた」という出来事 と,「病院で祖母が亡くなった」という出来事との間に,通常の因果関係が ない(一方が他方の原因になっていたり,共通の原因から両者が派生して いたりしない)必要がある。因果から考えると,同時に起きたのは全くの 偶然であり,両者は1日違っていても1週間違っても構わない。因果関係 がない代わりに,それらの出来事は共起することに,意味があるのだ。 花瓶というのは祖母の象徴であり,割れることは形を失うことである。 意味的関連が両者の出来事を橋渡ししている。 シンクロニシティは,それが起きることで「意味」を生成している,と捉え ることができる。ユングは,シンクロニシティに現われる意味は,もっぱら 元型(アーキタイプ)であると主張した。元型とは,「影」,「アニマ」,「老賢人」 などの,集合的無意識に由来する象徴であり,ユング心理学における 中核概念である。
上では,シンクロニシティは,通常の因果関係にない出来事に起きると したが,実は因果関係自体が哲学的議論になっている。因果関係を 科学的に定義すれば,過去の物理事象が未来の物理事象に影響する ことである。だが,この定義では,心的世界から物的世界への影響は 除かれ,「私が手を挙げようと思った」から「私の手が挙がった」という のは,因果関係ではなくなってしまう。我々の日常の直感に基づいて, これも因果関係に入れる拡張した立場もある。シンクロニシティで比較 される「通常の因果関係」とは,この拡張した因果関係を指すのであろう。 ちなみに,心的世界から物的世界への影響は,科学的世界観(唯物論) では認められない。だから,「私の手が挙がった」原因は,特定の生理学 的脳状態であり,「私が手を挙げようと思った」という意志は全くの幻想 であるか,良くてもその脳状態に伴う随伴現象(エピフェノメナ)であって, 手の運動には何ら影響を与えることができない,とされる。 ところが「目的因」という,さらに変則的な因果を考えることもできる。 これは古代アリストテレスが提唱した概念で,万物は目的を持ち,その 目的が原因となって,目的を達成するように変化するとされる。アリスト テレスは,今日の科学的因果関係に相当する「運動因」とともに,2つの 因果関係があるとした。 この考えを発展させたのが,ライプニッツのモナド論である。モナドは 自然界を構成する最小単位であるが,心的性質を合せ持ち,それらは 全体として,あらかじめ定められた調和的関係を反映するとした(予定 調和説)。 中込照明は,このモナド論をもとにした物理理論によって,観測問題が 解決できると主張している(『唯心論物理学の誕生』海鳴社)。
ユングは自ら,モナド論からシンクロニシティの着想を得たと語っている。 彼は,過去から未来へと時間発展する因果性と,同一空間を意味で 折り合わせる共時性との2つの原理から世界は構成されるとしたのだ。 こうした歴史から判断するに,シンクロニシティを変則的因果と見ること もできる。実際,ホワイトマンは,シンクロニシティを上位の階層における 目的論的因果関係であると解釈している。ブラウディは,ユング自身が 「元型がシンクロニシティを引き起こす」とも述べていることを指摘し, シンクロニシティは因果的理論であると主張している。 スタンフォードは,適合行動理論を提唱するに当たり,シンクロニシティ と違って「因果的」理論であるとして,適合行動理論の独自性を主張した。 ところが,シンクロニシティに目的因を見て取れば,適合行動理論の 「傾向性」を,シンクロニシティの「意味」の一部と見なすことで,適合 行動理論がシンクロニシティに包含される。両者は極めて類似した 性格の理論である。
シンクロニシティにおける「同時」という概念を文字通り取ると,困った ことが起きる。超心理学においては,予知の説明に不都合が起きる。 予知を行なうという出来事と,予知された現象の出来事とは同時では ないので,シンクロニシティであると容易には見なせない。 物理学においては,そもそも同時性を絶対的に定義することが不可能 である。(アインシュタインの)相対論的時空間では,同時刻の現象も, 異なる速度で移動する系から捉えれば,異なる時刻になってしまう。 どうも「同時」とは,何か意味論的な概念と捉えるのが良さそうだ。 「同時」を,物理的な「時間軸上の距離がゼロの関係」から脱却し, 「抽象空間上の意味距離がゼロの関係」などとするのが,シンクロニシ ティの本来の意図を汲んだ解釈なのかも知れない。シンクロニシティは 本来,共鳴理論であるが,多次元空間理論とも,場の理論とも捉える ことができる。 ロルの汎記憶理論は,記憶が世界に広がっていて,広がった先で関連 したPSI現象を起こすというものであったが,その記憶主体の出来事と, PSI現象とされる出来事が,記憶の内容を意味的関連にして共起する と見なせば,シンクロニシティに相当する。長期記憶と集合的無意識 との間に類似性を見つけるのも難しくはない。また,シェルドレイクの 形態形成も,反復性を意味の1つと見なし,同時性を拡大解釈すると, まさにシンクロニシティであると言えよう。 シンクロニシティは一見突飛な理論に見えるが,深く考えると,超心理学 の諸理論と関係づけられ,理論を整理するうえで有効なものである。
乱数発生器を用いたPK実験は,わずかな物理効果を厳密に検出する のに向いており,PSI研究の物理的アプローチの主流となっている。 乱数発生器(以下RNG)を製作し,PSI実験に活用し始めたのはボーイ ング社の物理学者ヘルムート・シュミットであった。彼は1969年にライン のFRNMに異動し,初期のRNG実験は主にそこで行なわれた(1972年 からはマインド・サイエンス財団へ異動し実験を続けた)。 彼の初期の研究では,プラス/マイナスの2値出力のRNGを用いて, その出力に応じて円状に配列した9個の電球を点滅させる実験システム を作成した。9個の電球のうち1つだけが点灯しているのであるが,RNG からプラスが出力されると点灯位置が1つだけ時計回りに移動し,マイ ナスが出力されると逆方向に移動する。被験者はどちらかの方向に 電球の点灯が回転移動するよう念力をかける。 15人の被験者について実験し,Z=3.33の有意に偏った結果を得た。 しかし,この実験はESPとの判別がつかない設定であった。というのは, 所定の方向に点灯が移動するタイミングをESPで察知して,実験を開始 している可能性があったからである。
そこで彼は,PKとESPとを区別する実験を行なった(それでも完全では なかったが)。 4つの電球が横に並び,その下に4つのボタンが並んだボックスを作成 し,1〜4の4値出力のRNGに接続した。被験者には,4つのボタンのうち いずれかを押し,その上の電球が点灯したら当たりであると言うが, 内部の仕組みは,ESPモードとPKモードで異なっていた。ESPモードでは, RNGの出力が1であれば一番左の電球がつき,4であれば一番右の 電球がつくようになっていた。PKモードであるとRNGの出力が4のとき, 被験者が押したボタンの上の電球がつき,1〜3のときはそれ以外の 電球がつくようになっていた。PKモードのときは,RNGが4をたくさん 出さねば有意な結果が得られない。 この比較実験では,どちらのモードでも,同様に有意な結果が得られた。 シュミットは,PSIは対象物の仕組みによらずに,結果に直接働くのでは ないかと考えるようになる。
次に彼は,低速RNGと高速RNGを比較実験した。 低速RNGは1秒間に30個の2値出力を発生し,高速RNGは1秒間に300 個を発生する。被験者は,その出力によって得られるクリック音を聞き ながら念力をかけるか,またはペンレコーダーが描くグラフを見て念力を かける。10人の被験者による実験の結果,クリック音を聞いての実験も, グラフを見ての実験も同様に,高速RNG(ヒット率=50.4%)よりも低速RNG (ヒット率=51.6%)のほうが,平均(50.0%)からの偏りが大きかった(ただし, 高速RNGのほうがデータを多くとれるので,統計的有意性を示すには, 高速RNGのほうが短時間で効率のよい実験が行なえる可能性がある)。 彼はさらに,単純RNG(ストロンチウム90による2値出力RNG)と複雑 RNG(電子雑音RNGによる2値出力を100回ほど行なってその結果を 多数決で最終2値出力にするもの)をも比較した。 被験者にも実験者にも分からないように両者は切り替えられた。35人 の訪問者が被験者になったが,結果は,単純RNGではp<0.00001, 複雑RNGではp<0.001となり,単純RNGのほうが効果が大きかった。 だがシュミットは,複雑RNGでも問題なく効果が出たことに注目し, 複雑さはPSIの妨げにならないと結論した。 こうした初期のシュミットの成功に対して,懐疑論者のハンセルは, 「シュミットはいつも独りで実験している」と,シュミットが不正を働いて いる可能性をほのめかした。懐疑論者のオルコックは,事前に実験の 長さが決められておらず,調子がよくなったら実験が開始されて,調子 のいい間に実験が打ち切られたのでないかという疑いを表明した。 シュミットは,こうした批判を受けて,より厳格な実験を行なっていくの である。
シュミットは1976年,PKの効果が過去のターゲットにも及ぶ可能性を 示す実験を行なった。 この実験では被験者が知らない間に,一部のRNGターゲットが,すでに 事前に生成・記録されてあった乱数に入換えられていた。ところが, それでもPKの効果が出るのである(ときには事前生成の乱数を使った ほうがスコアが良かった)。このPK効果は,被験者がPKをかける「前」 に実験者が記録された乱数を閲覧すると現われなくなる。驚くべきこと に,RNGの乱数でなく,コンピュータの乱数発生ソフトウェアを用いた 擬似乱数でも(最初の種数が決まれば将来に渡って乱数が「決定」 されているにもかかわらず),同様に過去遡及的PKが起きることを 示した。またその際には,実験者が事前に乱数発生手順と種数とを 知っていても,問題なく過去遡及的PKが起きるという。 シュミットは,この現象を「観測理論」で説明しようとした。
さらに彼は,この過去遡及的PKを,PSIの存在を証明する厳格な実験 設定に利用した。 その一連の実験では,部外者(ときにはPSIに懐疑的な人物)に実験 監視者になってもらい,次の仕事をお願いするのである。実験者は, 2値出力RNG(あるいは乱数発生ソフトウェア)によってあらかじめ発生 した乱数系列のプリントアウトをコピーして,(本人を含めて)誰も見ない ように封をしたまま実験監視者に送る。実験監視者はその封筒を受け 取ったら,実験を構成する複数のセッションごとに,プラスをターゲットに するかマイナスをターゲットにするかを,それぞれ無作為に指定し, 実験者に伝える(封筒は開封せずに厳重に管理する)。実験者は, その指定されたターゲットに応じたPK実験を,記録されている乱数を 用いて被験者に対して行なう。実験結果が集計されたら(この時点で PKが働いたかどうかが分かる),実験監視者に結果を送付する。実験 監視者は,事前に受け取っていた封筒を開封し,事前に決まっていた 乱数によって実験が行なわれていたことを確かめる。 シュミットは,この種の実験を1986年から1993年に渡って5回行ない, その結果を総計すると,Z=3.67(p値にして約8000分の1)で極めて有意 になることを示した。 実験監視者が信用のおける人物であれば,この種の実験は極めて 厳格にPSIの存在を示すことになる。
シュミットは,注意深く実験設定を工夫し,被験者も精選して実験を進め る方法をとった。 一方で1980年代には,RNGを作成して大規模に実験をする研究者が 次々に現われた。なかでも代表的なのは,プリンストン大学工学部の PEARプロジェクトで,ロバート・ジャンらが行なったものである。彼らは, 大勢の協力者を被験者に使って,多数回のRNG実験を,12年間に 渡って積み重ねた。 彼らは1秒間に100〜1000個の2値乱数を発生する高速RNGを用いて, 乱数の累積値をプラスに偏らせる,マイナスに偏らせる,何もしないと いう3つの条件でPK実験を行なった。彼らの実験の概要は次の文献で 日本語で読める。 ジャンほか著 『実在の境界領域』 笠原敏雄訳(技術出版) ジャンらは7800万回のPK試行全体で,50.02%のヒットを得て,p値は 0.0003で有意であった。この結果はシュミットのヒット率である50.53% に比べれば,かなり低い。 懐疑論者のオルコックは,PEARの有意な結果が一部の被験者に集中 しているのを見て,そこでは「事後的」に,プラスに偏らせるか,マイナス に偏らせるかを決めるインチキがなされたとか,実験者グループの人物 が被験者になっているとして,暗に実験者による不正があったとかと 批判した。
RNG実験全体のメタ分析は,ラディンとネルソンによって,1989年および
2000年に発表された(1989年の論文は基礎物理学分野の論文誌に
掲載された)。
1959年から2000年までの215の報告(91の異なる研究者による515の
実験)に渡って分析したところ,エフェクトサイズは0.007と小さいが,
Z=16.1と,p値にして10の50乗分の1の有意性となった。
これらの実験が,不成功に終わった実験が隠されることで有意になって
いるにすぎない(引出し効果)と仮定すると,報告されない5240の実験が
存在したことになる。これは,研究者と実験設備の数からして現実離れ
した数字である。
またラディンとネルソンは,懐疑論者が指摘するような実験上の欠陥を
16箇所あげ,実験がもつ欠陥の数と実験結果の有意性との相関を調べ
たが,無相関であることがわかった。
懐疑論者は,実験上の欠陥がゆえに有意な結果が出ていると批判する
が,そういった欠陥を取り除いた最近の実験でも,同じように有意な結果
が得られているし,過去の実験であっても,欠陥があるからといって有意
な結果になっているわけではないことが示された。
この報告は,次のWEBサイトに公開されている。
http://www.boundaryinstitute.org/articles/rngma.pdf
何かイベントがあると,そこのフィールド乱数に偏りが生じるのなら,
それを地球規模で行なったらどうであろうか。そうした発想でラディンら
が始めたのが,地球意識プロジェクト(GCP)である。GCPは,世界各地
にRNGを設置して乱数を記録し,その偏りと地球規模の出来事との
対応関係を見ようというものである。
プロジェクトリーダーは,プリンストン大学工学部のロジャー・ネルソン
教授である。RNGを設置したサイトでは,毎秒200ビットのRNGの出力を
記録し,自動的にプリンストン大学へデータを送付する。プリンストン
大学では収集されたデータを随時公開し,誰でもが解析できるように
なっている。次のWEBサイトを参照されたい。
http://noosphere.princeton.edu/ GCPが本格的にスタートしたのは1999年であり,以来,サイトも次第に
全世界に広がって,今や50か所以上になっている。明治大学では情報
科学センターにおいて,2002年1月よりGCPに協力し,RNGサイトを運営
している。現在のところ,日本で唯一のサイトである。
これまでも,オリンピックやニューイヤーなどの世界的なイベントがある と,たびたび乱数が偏るという観測結果が報告されている。 なかでも2001年9月11日のテロ事件の日には,極端な変動が観測され た。第1に,全RNGの変動の相関が1年中でその日がもっとも高かった。 第2に,累積変動がテロの時刻から極端にプラス方向に振れ,その後 マイナス方向に落ち込んだ。この変動は標準偏差の6.5倍にも及んだ。 第3に,テロ時刻付近に移動平均のピークが観測され,この偶然に対する 比は,1千万分の1であった。これらの結果は,6人の統計学者によって 独立に解析されて一致した結論が得られていると言う。 RNGの地球規模の偏りがどのようなメカニズムで起きるかについては, これまでのところ具体的な仮説は立てられていない。詩的な表現を好む 人は,「地球(ガイア)の息吹」が偏りとして現われるのだという。 一方,超心理学者の多くは,この乱数の偏りも実験者効果だろうと推測 している。それに対してネルソンは,世界中で多くの実験者がかかわっ ているので,特定の実験者の効果とは言えないのではないか,と答え ている。
行方不明になったペットの犬や猫が,遠く離れた元の飼い主のところに 現われたという話が多くある。またペットたちは,大好きなご主人の帰宅 が事前に分かるとも言われる。最近では,ルパート・シェルドレイクらが 特定の犬と飼い主のペアの実験で,肯定的な結果を出している。また, そのデータについてラディンが,地球物理学的指標との相関を調べて いる。 こうした動物(アニマル)の発揮するPSIを,特別に「ANPSI」と呼ぶ。 ANPSIは,動物が「発揮する」PSIであり,動物をPSIの「対象とする」 生体効果と区別する必要がある。しかし,ご主人の帰宅が事前に 分かるといっても,犬のPSIではなく,ご主人のPSIである可能性も 考えられ,両者を区別できない場合も多くある。 ANPSIに関する厳密な実験は,次に示すように,乱数発生器(以下 RNG)を用いて行なわれている。
RNGを開発したヘルムート・シュミットは,1970年代にANPSIの実験装置 を作成して,多くの実験を行なった。 彼の実験装置は,動物を入れるオリが二等分されており,それぞれの 区画に電流が流せるようになっている。オリの中の動物は2つの区画を 自由に行き来できるが,あるタイミングでRNGが動作し,どちらから一方 の区画に無作為に電流が流れる。もし電流が流された区画に動物が いたら,電気ショックを受ける。電流が流された区画と,そのとき動物が いた区画は,コンピュータで自動記録される。動物にとって電気ショック が不快であり,かつ動物にPSIがあるならば,予知(またはPK)を働か せて,電気ショックを避けるというのである。 シュミットは,ハムスター,テンジクネズミ,アレチネズミ,ドブネズミ, そしてオオエビなどを被験動物にして実験したところ,それぞれについて 統計的に有意に電気ショックを避けたと報告した。 同じころワトキンスも,トカゲを被験動物にして,無作為に一方の区画を 白熱灯で照明する実験を行なった。トカゲは,実験室の気圧や湿度の 状況によって,白熱灯を必要とするときは白熱灯が点灯する区画にいる ことが多く,逆のときは点灯しない区画にいることが多かったという。 シュミットも,猫を使った白熱灯実験で肯定的な結果を残している。 さらにシャウテンは,ネズミに明るい円の下のバーを押すと餌がもらえる のを条件学習させ,隠れた明るい円をターゲットにしたANPSI実験に成功 している。
より最近のANPSI実験で際立った成果を上げているのは,フランスの ルネ・ピオックが1980年から取り組んでいるヒヨコを用いた実験である。 この実験では,ピエール・ジャニンが1977年に設計した自律走行型 ロボット「タイコスコープ」を使用している。タイコスコープはネズミ程度の 大きさの円筒形の物体であり,RNG(電子雑音式)の出力に従って ランダムな方向にランダムな距離だけ動く。 彼は,ヒヨコたちをタイコスコープが母親であるかのように「刷り込み」 した(生まれてすぐにタイコスコープを動かして見せる)うえで,オリに 入れておく。その脇にタイコスコープを動作状態でおいておくと,初期 の実験では,タイコスコープはオリが空の状態のよりも,2.5倍もの 時間接近していたという。 一方で,刷り込みをしていないヒヨコの場合は,偶然平均であった。
また1986年にレミー・ショーバンは,タイコスコープを使ったネズミの ANPSI実験を報告している。こちらでは,ネズミがタイコスコープを 恐れるので,タイコスコープはオリから遠ざかる傾向が見られている。 ピオックらは,第二世代のタイコスコープとして,RNGを本体から切り 離して,データを自動記録するコンピュータに入れ,そこからタイコ スコープの動作を無線制御するシステムを作成した。さらにヒヨコの 誘引性を上げるために,タイコスコープの上にロウソクを灯し,部屋を 暗くして実験した。ヒヨコ15匹を80組に分けて(総計1200匹)実験した ところ,71%の場合に,タイコスコープはオリに近いところにより多くの 時間滞在した(p<0.01)。 なお,RGと呼ばれる「人間の」被験者は,刷り込みされたヒヨコと同様 に,タイコスコープの存在位置を偏らせることに成功したという。
小久保秀之(1995)は日本超心理学会第27回年次大会シンポジウム 「21世紀の超心理学を考える」において、物理学の超心理学に対する 貢献可能性としてカオスと量子力学の研究が注目されると述べている。 すなわち、 『カオスの微小効果の指数関数的時間発展は,超心理学的効果の特徴を 説明するのに 適当かもしれない。量子力学では従来からある観測問題 だけでなく,メゾスコピック系の物理が注目されている。また,量子生物学 や意識の量子力学モデルなどは,急速に研究者の数が増えつつある』 超心理現象に対する量子力学的アプローチは有望であるという印象が ある。また、小久保(1995)は最近の生物学的研究において、通常の 5感以外にさまざまな方法を使って生物は情報を伝達していることが わかっていると述べており、理論的には量子力学的効果が生物レベルで 発生していることが検討されるようになってきている。 * 2001年2月17日から19日、神奈川県葉山町の湘南国際村において、 文部科学省の外郭団体である科学技術振興事業団主催の異分野 研究者フォーラム「心と精神の関与する科学技術」が開催されている。 文部科学省は、将来的には恒常的な専門教育・研究機関である 「潜在能力科学研究所」や大学院・大学の設置も射程においた、 わが国のニューサイエンスの拠点づくりも構想しているという。
本超心理学講座の著作権は,筆者である石川幹人に帰属します。 筆者の許諾のない複製は,お断りいたします。
ここに掲載するのは、アレクシス・ド・トックビルの名著「アメリカの民主 政治」からの名言の抜粋です。 何と言っても、本書はアメリカという国の真の姿を知るための最高の 古典的バイブルであると共に、この中には社会学において人類が 今までに到達した最高のものが集約されており、読者が社会学という ものを把握するための最短のルートが提供されているからです。 それゆえ読者は、以下をプリントアウトして本と突き合わせ、書かれて いる場所を照合して抜粋部分の前後の文脈に目を通す作業を行ない さえすれば、もうそれだけで他のたくさんの本を読んだり大学へ行った りせずとも、社会学の最高到達点のエッセンスを吸収できるのだと、 私は敢えて断言してはばかりません。 そこまで確信をもって推す理由はまず第一に、ただでさえ本書の内容 それ自体が驚異的に高いレベルにあり、現代の大衆社会の病理の 構造を示した本として本書以上のものが現代でも他にほとんど見当ら ないことです。
そして第二のもっと大きな理由は、本書が書かれたのが驚くべきことに 実に160年以上も昔だったということです。そしてそれにもかかわらず ここまで正確に現代を洞察できたということは、要するに本書の基本的 な分析が如何に正しかったかの何よりも動かしがたい証拠なのです。 一般に科学においては、ある理論が信用できるかどうかは「予言に成功 したか」ということが大きな判断基準の一つとなります。その点からする と、現在大学などの中にあるどんな「最先端の社会学の論文」といえども、 せいぜい10年程度の予言によってしか信頼性を実証しておらず、本書 が160年前に正しく現代を予測し、1世紀半を生き延びてきたというその 驚嘆すべき実績の重みの前では、本当ならそれらはまだ対等の立場で 本書に向かうことを許されていないはずなのです。 ともあれそれらを合わせて考えると、本書と肩を並べうる社会学の著作 はこの地上にまずほとんど1冊も存在しないと言えるでしょう。 その割には本書は、一般の知名度という点では必ずしもトップではあり ませんが、しかしむしろその理由は、むしろどうもこの本の洞察が余りに も突出して凄すぎたため、最近になって現代的な大衆社会の病が現実 となってくるまで、その真価がどれほどのものかが十分理解されなかった ことにあるようです。 (何しろマルクスの「資本論」が出版されたのが本書の32年後であり、 その後百年間、世の中はそれにうつつを抜かしていたのですから。) そして知名度でトップでないところへもってきて、かなり分厚い本である ため、とかく敬遠されがちで真価がなかなか世の中に浸透しないという のが実情です。そのためここでは、現代的観点からみて最も重要と 思われる部分を厳選して抜粋し、とにかくこれだけを読めばその最高の エッセンスを修得できるよう、工夫されています。
なおテキストは講談社学術文庫「アメリカの民主政治(上・中・下)」で、 ページの指定もこの文庫版のページを指します。(もっとも以下の抜粋は もっぱら中および下巻に集中していますが。) そして作用マトリックスとハーモニック・コスモス信仰(個人主義。大きく はデカルト的還元主義)についてご存じならば、トックビルが指摘する 多くの現象の背後にそれが横たわっていたことをどこかでお感じになる ことでしょう。実際その多くは、その気になればそれを用いた数学的 再解釈も十分可能であり、われわれが本書にあらためて現代的な数学 的基礎を与えていくことも、あるいは可能かと思われます。 ただ、やはり何と言っても抜粋の文章だけでは内容の深さが表現しきれ ないため、できれば文庫版と突き合わせて前後との関係を眺めると、 さらにその恐るべき洞察の深さがわかることでしょう。 とにかく以下のほんの10ページほどの内容についてそれを実行する ことは、下手な本十余冊をだらだら読むことを優に上回る効果があり ますので、是非試みてください。
「アメリカは世界中で最も少ししかデカルトが読まれていない国であるが、 しかしデカルトの教訓が世界中で最もよく遵法されている国である。」 (下巻・22頁。これは、アメリカ文明の根幹にハーモニック・コスモス信仰 が侵入しているということを、すでにトックビルが認識していたことを はっきりと示した語句として重要である。) 「今日、地上には異なる地点から出発して同一目的に向かって進んで いるように見える、二大民族がいる。それは、ロシア人とアメリカ人と である。・・・これら量民族は共に誰にも気づかれずに大きく成長した ・・・・両民族の出発点は異なっているし、道程もまちまちである。 それにもかかわらずこれら両民族は、神の秘められた意志によって、 いつか世界の半分ずつの運命を自らの手に掌握するように定められ ているように思われる。(中巻・498頁) (しかしこれが何と1835年に行われた予言であったことには、誰しも 驚嘆のほかないであろう。それが実現するのは110年後であるが、 逆にそのことからわれわれは、例えばソ連の超大国化に関しては 共産主義革命は最大の原因ではなく、背後にさらに大きな構造的 要因があったことなどをはっきり知ることができる。予言の力とは そこまで大きいのである。なお、これは中巻の最後の文章であり、 米国が唯一の超大国化した後のことはむしろ5年後に出版された 下巻の方に多く記されている。)
「多数者の道徳的支配は、ただ一人の卓越した個人においてよりも 多数の人々において、より大なる知識経験と英知があるという観念 に一部基づいている(中巻・164頁)」 (なお「多数者の専制」とは、われわれの言葉で言えば「多数者の短期 的願望が多数者自身の長期的願望を駆逐している状態」のことである。 また、文庫版では下巻37頁の訳註にルソーの「一般意志」の説明が あるので、こちらも参照されたい。「一般意志」と「すべての者の意志 (全般意志)」のどこがどう違うのかは、政治学の中で最も難解な概念 とされているが、要するに前者が多数者の長期的願望、後者が短期 的願望のことを意味しており、これは作用マトリックスと縮退の概念を 知る者にとっては一目瞭然のことである。) 「一般に、アメリカにおけるほどに精神の独立と真の言論の自由の少な い国は他にはないのである。(中巻・179頁「アメリカで多数者が思想 に対して行使する権力について」)」 「民主的民族では、大衆の恩顧は、人々が呼吸している空気と同じよう に必要なもののように思われる。そしてそこでは、大衆と不一致であ ることは、いわば生きていかないということである。大衆は、大衆と同 じように考えない人々を屈服させるために法律を用いる必要はない。 大衆にとっては、そのような人々を否認するだけで十分である。その 人々の孤立感と無力感は、彼らを押し潰し絶望させる。(下巻・463 頁)」 「民主国では、圧制は肉体を放任したままにしておいて、魂に直進する。 ・・・そしてアメリカには精神の自由というものはないのである。(中巻 ・181頁)」
「民主的社会という場所は、理念や事物など様々なものが常に変化し 続ける、不断の変動の時代であると、一般には信じられている。しかし それは本当なのだろうか。(下巻・446頁「大革命はなぜ稀になるの か」。以下いくつかは、この問いの結論)」 「商業は、人々の自由を促進するが、人々を革命から遠ざける。・・・ 不動産は革命によっては一時的に危機にさらされるのみだが、動産 は完全に消滅してしまう恐れがある。・・・それゆえある民族で動産が 多くなっており、動産所有者の数が多くなっているほど、その民族は 革命に反対する気分を多くもっている。(下巻・451頁)」 「民主的民族の欲望と自然的本能とを、よく注意して吟味すればする ほど、この世界に平等が一般的に恒久的に確立されるならば、知的 並びに政治的大革命は、想像されているよりも遥かに難しく、そして 稀になっていくことがわかるだろう。・・・・・・そのときには人々はあら ゆる革新を、煩わしい厄介な革命の第一歩として見なすようになり、 それに引き入られることを恐れて、身動きすることを拒むようになる かもしれない。そのようになることを、私は恐れずにはいられない。 ・・・・・そして人々は、ついには現在の享楽に臆病にも耽るだけの ものが持てれば良いと思うようになり、自分たちの将来の利益と自分 たちの子孫の利益は、無視され消滅することになるかもしれない。 ・・・・・そしてまた人々は、自分たちの境遇を改善するため精力的に 努力するよりも、自分たちの運命の流れに無気力に屈従することを 好むようになるかもしれない。そのことを思うと、私はぞっと身震いが する。(下巻・466頁)」
「新社会は、日に日に変貌していると信じられているが、私は新社会は ついには同一制度、同一偏見、同一風習にあまりに不変に固着して しまって、動かなくなってしまいはしないかを恐れている。その場合 には人類は停止し、ゆきづまり、精神は新しい理念を生み出すことなく、 永続的に自らの限界にとじこもり、その屈従を続けるのである。また その場合には、人間は孤独な不毛な小さな運動に力を消耗してしまう し、そして人類は、絶えず動いていながらも、少しも前進しないので ある。(下巻・468頁)」 (これらは、コラプサーとは如何なる状態かについてその本質を述べて いると考えられる部分である。病に例えれば、これは絶対回復不能 な痴呆状態に陥ったまま死ぬこともかなわず永久に生き続けるよう なものであり、それに比べれば一時的な騒乱や戦争などは、いわば 活力や回復力が残っていることの裏返しであって、さして戦慄すべき ものではないというのが、トックビルの認識のようである。また、それ が不可逆過程である可能性が高いということが早くも示唆されている のも注目すべき点であろう。いずれにせよ、これは本全体の中で 人類の未来にとっての最大の脅威として位置付けられており、その 予言能力からみてこの優先順位は信頼すべきものと考えられる。)
「民主的時代の著しい特徴の一つは、すべての人々が容易な成功と、 目前の享楽に憧れていることである。・・・彼らは直ちに大成功をかち えたがってはいるが、大きな努力を払わないですましたいと思ってい る。(下巻・45頁)」 「民主的民族は、自由に対してよりも平等に対して、より一層熱烈な、 そして一層執拗な愛情を示しているようである。(下巻・179頁「民主 的民族は何故に自由に対してよりも平等に対して、より一層熱烈な そしてより一層持続的な愛情をあらわすのであろうか」)」
コピペの嵐で今回のスレもレス1000はるか手前で容量オーバー沈没確定。 こまめに保存しとかないと読めなくなる。
「多様性は、人類のうちでは消滅するであろう。同一の行動様式、同一 の思考様式、同一の感情様式は世界のどこの隅にも同じように見出さ れ、すべての民族が同一のことをますます実行するようになっていく。 ・・・・すべての民族は、特に互いに模倣しあったわけではなくても、 自然に似通ったものになっていく。・・・彼らは知らず知らずのうちに 互いに接近しあうのであり、そして彼らはついにはいつの間にか同一 の場所に集結しているのを見出して、びっくりすることであろう。(下巻 ・405頁)」 「私が平等社会について非難しているのは、平等が人々を禁止的享楽 に誘い込むことになっている点ではない。そうではなく、それは平等が 人々を許容的享楽の追求ばかりに、全く耽溺させる点である。(下巻・ 242頁「民主主義時代に物質的享楽欲が作り出している特殊な諸効 果について」)」 「そういうわけで、やがてこの世には、魂を腐敗堕落させることはないで あろうが、これを軟弱にして、魂のすべての原動力を弛緩させてしまう、 一種の誠実な唯物論が確立されるだろう。」 (下巻・242頁。現実を見ても、彼が言うこの「誠実な唯物論」は世界を 覆いつつあり、そしてそれは短期的には無害だが長期的には文明に とって麻薬よりもさらに危険で致命的なものになりかねないということ になる。)
「「個人主義」は民主主義時代の特徴であるが、これは次の点で利己 主義と異なる。利己主義は人間の本能に根ざすもので極めて古くから 存在する悪徳だが、個人主義は新しい民主主主義的起源のもので、 地位の平等化に伴って発展してきた。・・・・利己主義は過度に偏重 された盲目的な自己愛から来る積極的な感情である。一方個人主義 は消極的で平和的な感情であり、各自を大衆の中から自発的に孤立 させて周囲の小さな社会に引きこもらせようとするものである。・・・・ 利己主義は即座にすべての美徳を枯らしてしまうが、個人主義は 初めに公徳の源泉だけを枯らす。けれどもしまいには、個人主義は 他のすべてのものを攻撃し、破壊し、そして最後に利己主義の中に 呑み込まれることになる。(下巻・187頁「民主国における個人主義 について)」
「民主的民族が将来襲われるかもしれない種類の圧政とは何かを想像 するとき、それは過去の圧政とは全く似ていないと私は考えている。 ・・・・そもそも独裁制と圧政という古い言葉も、今やそれを表現する 適切な用語ではない。・・・・まずそこでは、無数の類似した平等な人々 の群れが、小さな卑俗な快楽を手に入れようとしてあくせくめいめいに 活動している。・・・そして彼らにとってはほんの身近な周囲が世界の すべてであり、その外の世界には無関心である。そういった意味では、 彼らはもはや祖国をもっていないと言える。・・・・そしてこのような人々 から成る世界の上に、これらの人々の享楽を保証し、そしてこれらの 人々の運命を監視する、巨大な後見的な唯一の権力がそびえ立って いる。・・・・この権力は、人々を決定的に幼時期に釘づけすることだけ を求めている。そして日に日に市民たちの自由意志を無用なものにし、 成立し難いものとしている。・・・そしてそれが推進する平等化によって、 どんな独創的な精神も、どんな強力な魂も、群衆を超えて真に頭角を あらわすことはできなくされてしまう。・・・そしてこの「主権者」は、市民 たちに何かを強制する圧政は行わないが、それを無気力にし、麻痺 させる。またそれは、積極的に何かを破壊することは行わないが、ただ 何か真に新しいものが生まれてくることを困難にし、不可能とさせる。 ・・・そして「主権者」はついに各国民を臆病なよく働く動物の一群の ようなものにしてしまって、それぞれの政府にこれを指導させるので ある。(下巻・558頁「民主的民族が恐れなければならない独裁制は、 どのような種類のものであろうか」)」
「地位が平等になればなるほど、人々は個人的に一層弱くなり、そして 新聞は、人々が個人的に一層弱くなればなるほど、たやすく人々を 誘いこむようになる。・・・それゆえに新聞の天下は、人々が平等化 するにしたがって、拡大するに違いない。 (下巻・213頁。なお、「ニューヨーク・タイムズ」紙の創刊はこの予言の 11年後、「ワシントン・ポスト」紙の創刊が37年後であり、本書が 書かれた時点では両紙ともまだこの世に存在していない。)」 「アメリカではジャーナリストの精神は、人々にぶしつけに無謀に拙劣 に襲いかかり、人々をとらえるのに諸原則だけをぶちまけ、人々の 私生活に入り込み、人々の弱点と悪徳を丸裸にすることである。 このような思想の濫用は慨嘆すべきことである。(中巻・38頁)」
「アメリカでは、ヨーロッパではほとんど見られないほど激しい過激な 精神主義を特徴とする宗教の熱狂的な信者が、少数ながらむしろ 一部に見られる。・・・それはアメリカでは大多数の人々の精神が 物質的福利の追求に向かっているため、若干の人々の心の中では 大きな反動が起こって、その物質主義の外へ出ようとするためである。 ところが彼らが一旦その線を越えると、もう彼らを押し留めるものが ないため、常識の限界を超えてどこまでも行こうとするのである。 ・・・逆に社会全体がこれほど物質主義的でないとすれば、人々は 宗教や信仰においてももっと節度的・社会常識的に振る舞うだろう。 (下巻・243頁「若干のアメリカ人は何故に非常に熱狂的な精神 主義をあらわしているのだろうか」)」 「(平等がもたらす)不信仰の時代に恐れるべきことは、人々があまり にも日常的で短期的な願望を求めるため、永続的で偉大なものを 全く作り出そうとしなくなることである。・・・・一方常にあの世のことを 考えている宗教的民族は、将来を目指して永続的に行動する習性を もつため、結果的にしばしばこの世でも偉大な物事を完成させている。 ・・・これは宗教の偉大な政治的側面である。(下巻・274頁。)」 「唯物論者たちは、自分たちが動物でしかないことを証明することで、 自分が神になったと信じ込んでいる。・・・・唯物論は本来どんな社会 にとっても人間精神の危険な病だが、ことに民主社会にとってそれは 最も危険である。なぜならそれは民主社会特有の病と非常によく結び ついてそれを強化するからである。・・・・民主主義はそこに生きる 人々を物質的享楽に誘い込みがちであるが、唯物論はさらにそれを 思想的にも促進させる効果があり、相乗効果の悪循環を作り出しがち である。(下巻・266頁)」
「ソクラテスとその学派がはっきりともっていた唯一の信仰は、霊魂が 肉体と共通なものを全くもっていないということ、そして霊魂が肉体の 死滅後にも不滅なものとして生き残るということである。この信仰は、 プラトン的哲学に崇高な飛躍を与えることになった。・・・霊魂不滅の 信条は、むしろ民主主義の時代においてこそ何より重要となっている。 ・・・・・宗教の多くは、霊魂不滅を人々に教えるための最も標準的な 手段に過ぎない。(下巻・268頁)」 「人間は、もし肉体の死と共に自分のすべてが消滅すると考えるように なると、次第に将来のことを考えようとする習慣そのものを失っていき、 そしてその習慣を失うや否や、自分たちの小さな願望を、忍耐なしに 直ちに実現しようとする。・・・・つまり彼らは永遠に生きることを断念 した途端に、今度はわずか一日しか生きられないかのように行動する ようである。(下巻・274頁)」
(実のところ未来を構想するに際して、これらほど頭の痛い問題はない と言える。人類は19世紀の諸革命以来、それまで人間精神が住んで いた来世的世界の部分を引きはらって、そこの全部を現世の物質的 世界に移住させ、霊魂不滅の教義は滅亡するに任せた。しかしその 代償を提供するため、文明世界は人々に不断に拡大していく物質的 繁栄と人間の無限の進歩を約束せねばならず、そしてそれでも埋め られない精神部分の空白はしばしば国家主義という擬似宗教で補わ れた。だが今やそれは限界に達し、世界はそれらの大半を捨てること を余儀なくされている。 そうなるとわれわれは、宗教や身分制度の力によらずに「社会的秩序 という奇跡」を実現する、これまで全く知られていなかった新しい社会 運営技術を発明するか、 それとも唯物論が科学的に誤りだったことを証明して何らかの形で 健全な宗教を復活させるか、 という、いずれも前代未聞という点では甲乙つけがたい二つの手段の、 少なくとも一方を実行せねばならない事態に結局は追い込まれる 可能性が高い。 どちらをとるにせよ、全く大変なことになったものである。)
「アメリカではどこへ行っても「団体」というもの(政治団体のみならず 宗教、思想、その他こまごましたことを目的とするものに至るまで)が 見られる。・・・一般に平等が進むと各市民が個人的に弱くなり、相互 の糸が失われて皆が孤立するため、団体はそれを補うために不可欠 なものである。・・・イギリスのような貴族社会では大領主が担って いた役割を、アメリカでは団体が担っている。(下巻・200頁「アメリカ 人が市民生活で行っている団体の使用について」)」 「イギリスで貴族たちが団体を作ろうとするとき、構成員一人一人の力 が強いため、その団員数は少なくて良い。だが民主的国民の場合、 一人一人の力が弱いため、団体の人数は極めて多いことが常に必要 である。(下巻・203頁)」 「もし政府があらゆる場合(つまり道徳的・知的・商工業の活動などの いろいろな面で)について、これらの多数の自発的団体の役割にとっ てかわろうとすると、民主社会は大変な危機に遭遇するだろう。・・・・ なぜならそれは市民の自発的団結力を衰弱させ、その結果無力化 した市民は次第に政府に助けてもらおうとする欲望をもつようになり、 政府はさらに多くの団体にとってかわらねばならない悪循環を生む からである。(下巻・204頁)」 「次の法則は、人間社会を管理する諸法則の一つとして極めて明瞭 かつ重要なものである。すなわちそれは、人間が文明人であり続け るためには、社会内部で平等化が増大するのに正比例して、人々の 団結の術が発展し、そして完成することが必要だということである。 (下巻・208頁。なおこの部分も、その「団結の術」という部分に 「マスメディアの支配力に依らない形での」という但し書きがついて いないと、現代ではあまり意味がない。)」
「私はアメリカで、世界中で最も自由で豊かな境遇に恵まれている人々 に会ったが、ところがおしなべて彼らの表情は常に暗雲のような不安 に包まれており、中にはほとんど悲痛なおももちを見せていることさえ あった。・・・一方私は旧世界で、極めて貧困で無知で不自由な境遇 に置かれた民族に会ったが、ところが多くの場合、むしろ彼らの容貌の 方が晴れ晴れとしており、陽気な気分に満ちていた。・・・・アメリカ人 たちは、この世の幸福の中にあるにもかかわらず、それを味わうこと ができずになお新しい幸福を求め、それを生きているうちに捉え損ね るのではないかとの不安に苛まれている。・・・・彼らは、老後のため に立派な家を建てようとするが、棟上げが行われている最中に彼は それを人に売るのである。また彼は庭に果樹を植えるが、果実が味わ えそうになった時にはこの果樹園を他人に貸してしまうのである。・・・ 彼はこのようにして、その不安な幸福をまぎらわすために次から次へ と場所を変え、何百マイルもの旅に出かけていく。」 (下巻・246頁「何故アメリカ人はその福祉のさなかで、非常な不安を あらわしているのであろうか」。この現象を指摘したのは、恐らく近代 西欧においてはトックビルが最初ではあるまいかと思われる。なお われわれの場合、これに関しては碁石理論による再解釈や説明が 可能であろう。)
「アメリカでは、人々は献身的であることは稀であるが、すべての人々 は奉仕的である。(下巻・317頁)」 「分業の原理が一層完全に適用されるにしたがって、労働者は一層 弱くなり、一層制限され、一層隷属的になる。・・・今日の製造業的 貴族は、自らの使用人たちを貧乏にし愚かにしたのちに、恐慌の時 に彼らを養ってもらうために、公共的慈善に引き渡すのである。 (下巻・289頁)」
「民主的国民の間では、人々が互いに一層類似したものになっていく にしたがって、誰か特定の一人の人が、他のすべての人々よりも知的 な優越をもつことができるという通念も、まもなく消滅していくのである。 ・・・・その場合には革新者がどのような者であろうと、民衆の精神に 対して偉大な影響力を及ぼすことはますます難しくなっていく。それ ゆえにそのような社会では、突然な知的革命は稀である。(下巻・ 460頁)」 「貴族的社会では、何か説得を行うに際しては数人の精神に働きかけ るだけで十分であって、あとの人々はこれらの数人についていく。 ところが民主的社会では、人々は互いにどんな紐帯によっても結び 付けられていないので、説得するとなると一人一人を全部説得しな ければならないことになる。・・・かつてルターは領主たちを説得する ことで宗教改革を実現したが、彼が平等の時代に生まれていたなら、 ヨーロッパを変貌させるのに遥かに大きな困難を感じたことだろう。 (下巻・461頁)」 「知性の大革命に適した社会状態がどのようなものかを考えると、それ は絶対的平等社会と絶対的階級社会の間のどこかの状態のうちに 存在する。・・・絶対的平等社会と絶対的階級社会は、完全に両極端 な社会状態であるが、ただそこでは人間精神の大革命は起こりにくい という一点においては共通する。・・・・けれども民族史上のこれらの 両極端の間には、中間的な時代、光輝ある苦悩の時代が見出される。 ・・・強力な改革者たちが出現し、新しい理念が世界の表面を一挙に 変えるのは、そのときである。(下巻・468頁の註。)」
なお、この468頁の註の抜粋でこの名言集を締めくくった理由を、 「編者あとがき」というわけではありませんが、私見を交えて述べて おきましょう。ひょっとするとお読みになって思いもかけない光景に 気づかれる場合もあるかもしれません。 トックビルはその全般的な論調において、社会と大衆の均質化が進み 過ぎると、社会が「多数者の短期的願望の極大化」によってコラプサー 化するのみならず、そこから脱出するための変革や知的革命さえも不 可能になってしまうことを懸念しています。 そして現在の社会(ただしイスラム世界を除く)を見ると、トックビルが 言うように確かに人々や大衆が完全に均質化して液状化してしまって おり、彼のいう如く、回復のための大きな知的革命は不可能であること がほとんど明白という、憂うべき状況となっています。 そうだとすれば、逆に言えばどこかにその均質化を免れた小集団が 存在しない限り、脱出のための如何なる戦略も最初から立てようが ないことになり、まずそれを何とかして探し出すことが死活的な鍵だと いうことになります。
ところがその中にあって理系専門家の集団というものを見るとき、それ はいささか盲目的なギルドと化しつつも、それでも大衆とは異質な知的 小集団を維持しており、なおかつ名目的にはまだ敬意を払われている という点で、今やこの大衆社会の中に僅かに残された最後の独立集団 となりつつあるように私には思われます。 ただし、トックビルのこの註の内容に照らして見る限り、今のままでは それは全く力にはならないことがわかります。それというのも、現在の 知的状況というものは、まず大衆同士の相互関係について見てみると、 そこでは平均化が進んで、先ほど引用した部分の「絶対的平等社会」 に近い状況が見られます。 しかし一方、大衆と専門家(特に理系の)の関係についてみると、そこ には大衆が越えられないとされる知的な壁が存在して、専門家たちは その中に守られて安住しており、その点に関する限りでは一種の「絶対 的階級社会」に近い状態が見られます。つまり双方が別個に安定状態 を作っていて、その外には出ようとしないからです。
ところがこれまでこの理系小集団は、唯物論的世界観というものをその 共通信仰としてもっており、それが少なからずこの安定状態に寄与して いました。 (そしてそれにいまだにしがみついていることが、もはや社会の中で真の 尊敬を得られなくなっていることの最大の理由です。) しかしもしそれが単なる信仰に過ぎなかったことが数学的に証明された 場合、恐らくその信仰が揺らぐことで一時的にせよ、その内部と周囲に 何かが起こる可能性が高いと言えます。 つまり、ごく短い間ではありますが、トックビルの言うその「光輝ある苦悩 の時代」が、この世界に生じる可能性があるわけです。
一般に歴史的に見ても、社会の中に存在していたある階級や集団が 壊れたり揺らいだりするとき、その集団の中と外の双方に力が生まれて、 しばしばそれが壊れる瞬間に(原子核が壊れる場合に似て)大きな光と エネルギーを放つものです。 (さしずめ明治維新などは、武士階級そのものが壊れて消滅する際の エネルギーが最大限に輝かしく燃焼させられた例でしょう。) しかしそのエネルギーはただ無駄に燃やされてしまう場合もあります。 われわれの場合も、それが無自覚にただ専門家の権威を失墜させる ことのみを目的に、大衆社会に雑文を売るぐらいのことに終始した場合、 ただハーモニック・コスモス信仰を自然消滅させて、この社会に残って いた最後の独立集団を抜け殻のようなギルドに変えるだけのつまらない 結果に終わるでしょう。 そしてそれが魂を失って単なる職人として大衆社会の中に最終的に 埋没した後は、例えば日本のような国で何か一つでもトックビルの言う 特殊な小集団が残るかははなはだ疑問と言わざるを得ません。 かと言って、唯物論信仰の滅亡それ自体はもはや予定された避けが たい運命で、遅かれ早かれ必ずやってくることです。
そうなると、この人類社会に最後に残った貴重な閉鎖的小集団の存在 を最大限に利用し、その精神的コアの一部が壊れる瞬間を捉えて如何 に大きなエネルギーに変換させるかは、今や余りにも重要なこととなって しまっています。 そして同時に、われわれが文明社会のどれほど死活的で重要な最後の 一線付近に立たされているのか、そしてもしそれを逸すれば、後に広がる 不気味な底なし沼が如何ほどのものかを、トックビルを読むたびに自覚 させられていささか目眩いを覚えるのです。 ところがそうは言うもののいざ現実に周囲を眺めてみると、大衆社会も 専門家社会の中もこの光景自体を見ようともしない大勢の人々で満ち ており、そのため行く手に何があるかを見てしまった一握りの人間は、 必ずその面でも苦悩を強いられることになるでしょう。 しかしそんな時、実は自分たちが今見ているものこそが、まさしくトック ビルの言う「光輝ある苦悩の時代」の光景そのものなのであり、これは 皮肉にもその真っ只中にいるが故の苦悩なのではあるまいかと気づか されて、かえってある種の確信をもつこともしばしばあるのです。
270 :
没個性化されたレス↓ :04/09/06 22:57
ageとこう ところで、このコピペって誰の文なの? >なお、この468頁の註の抜粋でこの名言集を締めくくった理由を、 「編者あとがき」というわけではありませんが、私見を交えて述べて おきましょう。 いったい・・
>>253 の言葉に見向きもしないって、すごくこわい。
こわいよ。ぞっとした。
272 :
没個性化されたレス↓ :04/09/07 01:56
@って誰の本?? ぜひ読みたいのだけれど。。
274 :
没個性化されたレス↓ :04/09/07 02:15
>>273 違うよ、ざっと読んでみて面白かったから。
でもこの人、答えてくれないだろうなw
275 :
没個性化されたレス↓ :04/09/07 02:24
しかし、どう見ても、統合失調症的文章だけどな
276 :
没個性化されたレス↓ :04/09/07 02:33
神経症なら構わないのだが。。。
278 :
没個性化されたレス↓ :04/09/07 11:14
>>277 昨晩、パソコン閉じて、布団に入ってこのスレのこと考えたら、「切り裂かれたイメージ」
を感じて、なんか言いようもない不快感をを感じたよ。
それが「分裂病(統合失調症)的」ということなんだろうな、と思いますた。
こんなものを突き詰めてはいけない。強く直観しました。
それに即座に気づいたアンタはえらいw!
279 :
没個性化されたレス↓ :04/09/07 11:50
>>277 色々な概念それぞれの関係が具体的に考えられた節がなく、
バラバラに気になったものがくっついている感じでしょ?
280 :
没個性化されたレス↓ :04/09/07 11:57
具体像を論議すると、突然崩壊してしまうような体系というか。。。
分裂病(統合失調症)の方で、一見ものすごく論理的に見えることを わぁっと強迫的に述べる人がいます。圧倒されちゃうけど、よくよく 話を聞いていくと、全然具体性がない。 でも、そういう思考の中に、ときには素晴らしいアイデアがある場合も あって、狂気と正気の区別ってとても難しい。
問題は、「現実」ということがすでにある地平によって成立している ものであってみれば、そこには不協約性(相互に通じ合わないこと) が存在する。 バーマンは、「異質の現実世界を相手にしたときの近代の思考は、 無力さをさらけ出している」という(p.100)。ユングも結局のところ 妥協主義者で駄目だとこきおろしているのは、「よくぞ言ってくれた」 と言いますか。 近代人が思い及ばないのは、現実構成というものは相互に不協約 であり、無数の現実が存在するということだ。つまり異質な現実構成 の世界は、パラレルワールドなのである。 本当は時間も空間もない、何もない世界の上に、いくつもの現実 構成が島のように漂っているだけだ。頭上にも足の下にも本当は 虚空があるばかりである。 無数のパラレルワールドが共存する世界ということを自分の「世界 感覚」のレベルで理解するところまで行かなくては、ことの核心は 見えてこない。 日本の学者では、見田宗介の『時間の比較社会学』が、かすかに それに気づきかけているところを感じさせる。あとは、わかっている と思えるのは、中沢新一くらいのものか。 本当は、そこまでわかっていないと、私が言おうとすることは通じない のである。だから、ほとんどの人にはわからないかもしれないと思う のだが、それでも書かざるを得ない。何かに気づくきっかけが書物 から得られることもある、ということは事実だろうから。
あるミュージシャンが、「音楽をいつも聴いている人というのは何となく わかりますね。つまり何というか、存在すること自体のエロスというか、 そういう感覚がある」というようなことを言っていたのが印象に残って いるのだが、言いたいことはだいたいわかる。言いかえれば、エーテル 体、アストラル体が発達しているということである。 シュタイナー教育で、その最大の眼目は、まずエーテル体の教育から 入り(具体的には身体感覚などである)、アストラル体を十分に豊かに し、そのうえで概念的な勉強に入る、という段階を踏むことである。 これはとても大切なことで、言いかえれば、現在の公教育というのは、 エーテル体、アストラル体をなおざりにしたまま概念的勉強へと突入して しまう。 エーテル体・アストラル体の豊かさがあるなら、「世の中は全部きっちり と説明されている」なんて感覚は絶対に生じないのである。 そういうのは、そういう「既に誰か専門家が説明してくれている知識」 を体系化した教科書を、知識として覚えることが勉強だという印象を 刷り込まれているわけで、知識とは無限の未知に接して、その無限の 荒野に道をつけながら進むものなのだという感覚を得られていない とするなら、残念ながらそれは今までにいい先生に出会えていない のだと思ったほうがいいのですぞ。 超一流の科学者なら誰でも今言ったような感覚をもっていると思う。 アインシュタインの語録を読んでみい。
また、世界には無限の次元があるという感覚も、結局は、自分の奥深 い中心点という感覚が分かってこない人には本当には理解できないと 思う。 それが分からなければ、世界とはこの物質的な時間空間の世界しか ないのだと思えてしまったとしてもやむを得ないのである。 言いたいことがわかるかな? 「存在すること自体のエロス」ってどう いう意味だと思う? 考えてみてほしい。
http://www.1101.com/watch/ 「藤原さんはいつから論理と情緒について
話をされているんですか」
「もともとは、奈良女子大に岡潔(おかきよし)
という大天才数学者がいて、
彼が情緒が大事だと言い出したんです。
彼の言う情緒と僕の情緒とはちょっと違いますけどね」
「岡潔さんも数学者なのに、情緒が大事だと?」
「彼は仏教なんかにも詳しくて、
美的感受性を大事にしていました。
だいたい、論理で数学の発見はできないんです」
「論理で数学の発見はできない?」
「そう、大事なのは『美的感受性』と
『調和感』とでも言いますか、
そういうものがないと新しい発見はできない。
じゃあ数学の発見をするとはどういうことか。
高い山のいただきにある美しい花を
取りに行くようなものです。
もともと美的感受性がないと、
花を手に入れようとも思わない。
そこに花があることにも気づかないし、
登っていく意欲も湧かないでしょう」
「人間は論理に弱いんですね。 例えば国際化の名の下に 小学校から英語を教えようと言われると、 一見筋が通っているから皆賛成する。 情報化時代だから子供の頃からパソコンを教えましょう。 これも筋が通っているから賛成する。 でもこれは間違っています。 人は論理に弱い。 だから国民に政治をするのは無理なんです。 政治はエリートがしなければならないんです」 藤原は真のエリートには ふたつの資質がなければならないと言う。 「まず、文学、歴史、思想、芸術など 役にも立たない教養を身につけていることです。 役にたつものは情報と呼ばれます。 教養はまったく役に立たないものです。 ですが、こうした役にたたない教養を 持っている人間だけが、 圧倒的総合判断力を持つことができるんです」 「そしてもうひとつエリートに必要な資質は、 いざというときに国民の為なら 自分の命を捨てるだけの覚悟があるということです」
「じゃあ今の日本の官僚はというと、 省庁の利益しか考えない、 つまり自分の立身出世を求めるだけの 人間ばかりになってます。 これはもう『エリートなき民主主義国家の悲劇』です。 論理にだまされることなく、 道を選択していくことが大事なのに、 情緒を身につけた真のエリートがいないんです」 「北朝鮮の反日攻撃にしても論は彼らなりに通っている。 100年前に帝国主義を否定する人は居なかった。 劣等民族のために優秀な民族が 支配してあげるという理屈は、 あのころはすばらしい論理だった。 共産主義だって論理は通っていたんですよ」 藤原は一呼吸置き、あきれた口調で続けた。 「論理はあとになれば、ただの笑い話です」
競争を重視した今の社会の傾向も いずれは笑い話になる類のものだと藤原は言う。 だが日本の最大の問題は『教養の衰退』だという。 「子供の頃友人が読んだ古典を自分が読んでないと 恥ずかしくて言えなかったものです。 でもいまはそんなことないでしょう。 教養が衰退すると何がいけないのか。 長期的視野が失われるんです。 長期的視野は教養からしか生まれない。 教養の衰退は文化の衰退につながっていく。 テレビで教養を伝えられますか。 テレビは情報は伝えられても、 教養は伝えられないんです。 教養は活字を追うことでしか得られないんです」 ここから藤原の言う 『読書離れが国を滅ぼす』という考えに つながっていく。 読書離れが、教養の衰退に繋がり、 教養なき指導者には 論理に騙されずに道を選択する能力が欠如し、 国を誤った方向に持っていってしまう。
「日本は真のエリートをつくらなくなった。 旧制高校は教養主義のメッカだったんですよ。 それが戦後なくなってしまった。 日本が2度と立ちあがって アメリカに立ち向かわないようにという アメリカの思惑があった。 当時の教育を受けた人たちが、 15年前に引退し始めた。 そのころから日本はダメになってきてますよ。 学者と学識経験者が最後の砦だったのに、 それもここ10年危うくなってきている。 テレビに出た学識経験者が何を言ったか 検証してみればわかる。むちゃくちゃだ。 特に教育学者とエコノミスト。 自分が言ったことが間違っていることがわかっても、 反省もない。 自然科学からみると信じられない。 恐るべき傲慢さだよね」
「なぜ最後の砦までダメになったんでしょう?」 「学者自身も教養を亡くした。特に理系。 文部省にひざまづいて、学問の自治も、誰も言わない。 研究費をもらうために意地汚くなっている。 他の省庁は力が落ちているのに、 逆に文部省は力が強くなっているんですよ。 国立大学も大学の自治について議論すらしない。 ノーベル賞だって、あれは過去の人。 過去の業績で今もらっているんですよ。 小柴さんも旧制高校で育った人です」
「最後の砦もダメとすると、日本はどうすれば?」 「日本はあがいています。 もう対症療法ではうまくいかない。 GHQのやりたい通りになった。 旧制高校で育った75歳以上はいいが、 65歳以下はろくなのがいない。 65歳から75歳はグレーだ。 教育を立て直すしかないんです。 例えばいじめをなくすには、 『ひきょう』を教えるのが手っ取り早い。 小学校でけんかを見て見ぬ振りをしたときに、 ひきょうだと教えることもできる。 『他人の不幸への敏感さ』は 貧困から学ぶことができる。 僕らの子供の頃、クラスには必ずひとりふたり、 弁当を持って来られなくて、 お昼になると外に出てしまう子供がいた。 そういうところから 他人の不幸への敏感さを学んでいけた。 だが、いまはきれいごとばかり。 日本の教育学者もアメリカが失敗したことを 遅れていま日本でやっている。 教育界はまったく荒れ果てています」
「何から手をつければいいでしょう」 「答えを教えましょう」 藤原はかすかに身を乗り出して続けた。 「初等教育の国語なんです。 いまは実質3〜4時間。 これをもっと増やすことです。繰り返しますが、 情緒は活字を追うことでついていきます。 読書をすることで教養も自然に身についていきます。 『もののあはれ』『貧困への思いやり』 『美的感受性』などです。 その人たちがいい親になり、いい先生になる。 そうすれば変わっていきます。 孫の世代で立て直せます」 「情緒力ではアジアは強みがあるのでは?」 「例えばアジアは親孝行の意識がある。 だがアングロサクソンには薄い。 日本的情緒を身につける。 それは国際人になることでもある。 国際人とは英語の力ではないんです。 グローバリズムと言うが、 21世紀はローカリズムの時代です。 すぐ世界を便利にと言うが便利にしてはいけないんです。 その地域地域の文化を残していくことこそ必要です」
最初は疲れているように見えた藤原の言葉は 次第に熱を帯びた。 「グローバリスムはアメリカの国益になるから アメリカは主張しているんです。 グローバリズムにのせられて、 日本はアメリカにしてやられた。 例えばアングロサクソンは 顔色ひとつ変えずに人を殺せるが、 ラテンは泣きながら人を殺す。 ラテンの方が人間らしいとも言えるが、 敵にしてはいけないのはアングロサクソンです。 彼らは相手をやっつけるのに、 100年計画すらたてるほどです」
「日本とイギリスはよく似てるんですね。 イギリスはヨーロッパのまま子。 ヨーロッパでありながら、ヨーロッパじゃない。 日本もアジアのまま子。アジアでありながら、 周りも自分もアジアの意識が薄い。 ふたつの国ともに中途半端。 かつての日英同盟はすばらしい同盟だった。 当時はアメリカの陰謀で解消せざるを得なかった。 似たもの同士、日英同盟を結ぶのもいいかもしれません。 軍事ではなく、文化や経済でもいい」 イギリスにも留学経験がある藤原はそう言って微笑んだ。
台風だってのに、それにも気づかずにやってるの?
日本を変えるのにいま始めたとすると 何年かかりますかという質問に対し、 藤原は40年と答えた後、強い口調でこう話した。 「日本人には独創性があります。 特に文学と数学です。 もし数学にノーベル賞があったら、 20以上はとれていたと思いますよ。 少なく見積もっても10は堅いでしょう。 文学と数学は特に美的感受性が必要なんです。 日本人にはそれがある。 自然への繊細な情緒を持っているんです」
「小さい頃、庭に草の露がきらきら光っていると、 父は光の屈折率の話をしてくれました。 父は気象庁に勤めていましたから。 それと同時に、露を見て即興で俳句をつくろうと言って 一緒に作ったりもしました。 父がそうした教育をしてくれてよかったと 感謝しています」 時間が来て僕が礼を述べた後も、藤原は話を続けた。 藤原は、日本の行く末をこれほど 憂いている人間はいませんからと微笑み、 でも僕の言うことは極端ですからと、 いたずらっぽく付け加えることも忘れなかった。 そして最後に言った。 「どの国も帝国になってはダメなんです。 世界がチューリップだけになってはいけない。 世界はいろいろな花があってこそ美しいんです」
よくやるよね、この人。がんばあ〜
http://www012.upp.so-net.ne.jp/ppt-3rd/kasoutaidann2.html Y 今まで我々は「縮退均衡=コラプサ−」を文明において避けるべき
最も優先順位の高い状態と認識して、社会や人間の精神がこの状態
に陥ることを防止することを、いわば最大の目的・使命として活動して
いたわけですよね。しかし、実際にはこの概念、意外にイメージし難い
らしく、周囲から質問を受けたり誤解されることが度々あるんですよ。
そこで今回は、長沼さんに、この辺りをお伺いしてみたいと思うのです
が。
長沼 まず前提として、コラプサ−概念について説明するとき、数学的
に追っていく理系の人間を対象とした場合と、それ以外の直観的な方
法を術とする方々を対象とする場合が考えられますね。そして、次の段
階として、こうした状態がなぜ「最も避けるべき優先順位の高い現象な
のか」、という価値判断について説明する必要があるでしょう。
Y では、概念説明からいきましょうか。まず理系を対象とする解説とい
うのは、当然、作用マトリックスを用いて純数学的に、系が回復不可能
な縮退均衡となることを示すということですよね。
長沼 まぁ、大枠はもちろんそうなります。たとえば社会なり、何なりの
系を作用マトリックスを用いて表現した場合、内部の構成要素間−こ
の場合、社会ならば個人、人体ならば細胞であったり器官になるので
しょうが−の相互作用が、きわめて絶妙な値に設定されていることが、
その系の成立条件だということです。
となると確率論的に、複雑な相互作用の上に成立する系はきわめて
希少で存在しがたく、逆に短絡化した相互作用の状態でバランスを保
った系だけが生き残る。これを我々は「コラプサ−=縮退均衡」と呼ん
でいるわけでしたね。
Y 一昔前に、熱・統計力学の術語であるエントロピーという言葉が、 かなりの誤解を孕みつつ社会科学系から多用されたことがありました ね。その中で「熱死」という概念がありましたけど、いわば縮退均衡は エントロピーが高い状態、放っておけば必ず帰着する状態と考えてよ ろしいでしょうか? 長沼 概略的にはそう考えていいでしょう。結論としての縮退均衡と 熱死概念は表面上類似します。が、作用マトリックス理論自体は、 固有値を算出またはスイッチ演算子の分布状態を把握することで、 系に微小変化を加えたとき、全体にどの程度の影響が出てくるのか、 ある程度予測可能ですから。その点は熱・統計力学とはまったく違う。 この辺りは「物理数学の直観的方法・第二版」で述べた通りです。 Y さらに思想的な面からいえば、作用マトリックスは全体論をも論じる 重要なツールとなりうる、ということも重要ですね。 長沼 その点は強調しても、し足りないと思いますよ。デカルト的分析 主義に対抗する思想というのは、現在、残念ながら見当たらない状況 ですし、その果実を認めるのには私とて吝かでありません。が、その 行き過ぎもまた多くの人の心中に存在するでしょうしね。 ともあれ、理系の人間には、作用マトリックスを用いての説明が、明確 かつすっきり腑に落ちるのではないでしょうか。そもそも作用マトリック ス自体、習得するのに多少数学に自信のある高校生なら十分可能で しょうしね。
Y なるほど。では、次に一般を対象とした場合に、イメージしてもらうに はどうしたらいいか、なんですが。 長沼 これは次の問題である「コラプサ−」に対する価値判断と絡めて 説明していくのがいいんじゃないでしょうか。 実際、改めていうまでもありませんが、悪か善かなどは相対的な代物 であって、さすがに我々も数学的に証明するわけにはいかない。ただし、 縮退が不可逆過程であることを前面に押し出していくというのが、ひと つの戦略ではないか、と思うんですよね。 以前にも、お話したかと思うんですが、世界が縮退し永遠に変化しない となると、いま刹那的な生活をして何が悪いのか、という開き直りに 根拠を与えてしまうことになる。そうすると、いわば精神世界の脳死状態 が訪れる可能性が非常に高い。そうした虚無に果たして我々人類は 耐えられるのか。そういう意味では私は人類に懐疑的です。必ずしも 理系の人間でなくても十分イメージ化できると思うんですよね。 そして、もうひとつの説明方法は「碁石理論」を援用することでしょう。 縮退状態というのは基本的に、平等な人間が非常に孤立している状態、 相互作用が存在する共同体が瓦解した状態ですから、こうした状態を 可視化するなりして、まぁ言葉は悪いのでしょうが、コラプサ−へ対する 恐怖を植え付けるというのも手かもしれません。 碁石理論は縮退を防止するための最大の武器といってもいいでしょう。 さらにもうひとつ。身のまわりにある、縮退状態をいろいろ挙げていくの もいいかと思うんです。
Y たとえば、どのようなものでしょうか? 長沼 よくある例としては、伝統的な商店街に、大規模ショッピングモー ルが作られることがあるじゃないですか。当初は、経済波及効果を狙 っているのですが、結局生き残るのはそのショッピングモールだけで、 商店街のほうは廃れて閑古鳥が鳴く状態になりますよね。これは地域 経済の相互作用、この場合は資本の流れといってもいいでしょうが、 それが極めて短絡化して、系が縮退しているわけですよ。 Y なるほど。大きい視点からは南北の経済格差も同じ伝で説明でき そうですね。卑近な例ではTDLの隆盛と地方テーマパークの没落とか。 長沼 私はその辺りは必ずしも、冗談話に終わらないと思うのですよね。 厳密に数学的には立式・解析は難しくても、大枠の理解では作用マト リックスの概念の援用ですから。 あと、ガン細胞が周囲の正常細胞との相互作用を無視して増殖し、 全体系である個体を死に至らしめるなんていうのもどうでしょうかね。 さらには、細胞が生きているにもかかわらず、個体が不可逆的な死を 迎えている脳死などは、典型的なコラプサ―でしょうね。
Y わかりました。その辺りの具体例をいくつか列挙するのはイメージを 精緻化するのに有益かもしれませんね。 また前後しますが、価値判断・精神的な面から話を進めるというのも 非常によく同意できる点ではあります。 以前お話を伺ったときにも、長沼さんがコラプサ−の概念を構築したの は、A・トックヴィルの「アメリカの民主主義」と、もうひとつ魯迅の「阿Q 正伝」ということでしたが、あの本の中での、中国の姿は、我々に言葉 にならない絶望を喚起するものでしたよね。ああいう例を挙げていくの は文系知識人にも比較的容易でしょうし。 で、これは私見で、前にお伺いしたと思うのですが、日本人のようにい わば「神の視点」を欠いた民族は、いったい何を行動基準にするのか、 という大きな問題がありますよね。 日本では、神は死んだわけじゃなく、最初からいない。となると歴史、 過去にせよ未来にせよ、大きな時間軸に自分を置いて、自らの振る 舞いを考える必要があるのではないかと思うんですよ。 まぁ、半分ふざけていうとインテリは端金には強くとも、民衆からの嘲笑 には弱いから。こうした点も同時に論じていく価値はないでしょうか。 長沼 それも一考でしょうね。やりすぎるのは考えものですが、縮退を 防止することが文明への義務であるということは、スローガンとして 必要かもしれません。話し方次第で、縮退が避けるべき状態だという ことは十分浸透すると私は考えてます。
Y で、最後にちょっと話は変わるのですが、一部の社会学者には留保 付きながら、社会がこうした縮退均衡になるのを近代社会の不可避的・ 終局的結末として、評価とまではいかなくとも、やむなしと考えている方 も散見されますよね。それも決して、国家などを否定する過激な左派で はなく、純粋な理念的民主主義者に。 長沼 Y君は、また、いつものように宮台真司先生のことを言っている のかな(笑)。 Y いや、まったくそのとおりなんですが・・・(苦笑)。実は某評論家に 言わせると、彼は一部で誤解されてるような左翼ではなくて、ある意味、 正統的民主主義者なんだという評価がありまして、私もその意見に 賛成なんです。だから大衆は「大いなる物語」に参加せずマッタリ生き ろと言いつつ、社会を管理するエリート層の必要性を唱えていたことも あるし。ついでに師匠も小室直樹氏です。 長沼 実は、私は宮台先生については、それほど詳しくは存じ上げない ので、Y君の言葉からしか判断せざるを得ないのですが・・・。 エリート云々はともかく、「大いなる物語」を捨てマッタリ生きろという 言い分には、賛同できませんね。 少なくとも言えることは、「私だったらそんな世界には、生きていたくない」 ということです。いささか合理的じゃないかもしれませんが。 20世紀には国家主義という擬似宗教が君臨していたわけですよ。 埋められない精神部分の空白を人類が悟りよろしく放擲できるとは 思えませんね。
しかしですね、Y君。重要なことを忘れてはいませんか?民主主義の 大きなよりどころでもある、個人主義。大きくはデカルト的還元主義、 この理論は我々の作用マトリックス理論によって限界が示されている ことを。戦えば我々に分があるのは火を見るより明らかじゃないでしょ うかね。 Y なるほど。今回も最後は、戦略の重要性で結論となりましたね。 ありがとうございました。
306 :
没個性化されたレス↓ :04/09/07 20:18
定期的にageないと沈んじまうw
ほっとけば。それとも読んでるわけ?うんと書いて沈没するの待たない?
308 :
没個性化されたレス↓ :04/09/07 21:06
いや、読みたい。
あ、では、ご自由に。
310 :
没個性化されたレス↓ :04/09/07 21:12
蓼食う虫も好き(ry
戦略検討のために、答案からいまの学生の宇宙イメージのありようを 分析してみた。 1.宇宙と人間とのつながりが見出せず、人間(自分)を宇宙において きわめてちっぽけなものと見なす世界観。 最初に書いたのはこれだが、これがいちばん数としては多い。自然 科学的宇宙イメージの影響が大きく、それをほとんど内在化している グループだ。 これに関してはシュタイナーの『教育の基礎としての一般人間学』です でに言われている。 人びとは魂を通して宇宙全体と結びつく可能性を完全に失っています。 人びとは人間の魂の本質が全宇宙と関連しているということを理解 することができないのです。ひとりの人間と宇宙全体との関連が明ら かに理解できた時はじめて、人間本性そのものについての理解が 生じてくるのです。 P21-22 一部改変
これは「唯物主義的ニヒリズム」である。私は文章を通して、魂レベルの 不安や戸惑いを感ずる。「なぜ私はここにいるの?」という魂の声が 聞こえ、それがまた「いったいお前は何をなしえたのだ?」という声が 無数の黒い鳥のように私の頭を旋回し始めるという悪夢がイメージされ る。まあこれが「がっくし」の最大の原因であった。私は「人間と宇宙は 無関係ではなく、宇宙において人間は確固たる存在の意味を持って いる」ことを示す霊的な義務があったのである。そのことを自覚できな かったのは大きな失点であった。 唯物主義的ニヒリズムに影響されてしまうのは、つまり世界観的に 素朴実在論から離陸することができていないからである。素朴実在論 が科学理論信仰と結合しているのが現代の唯物主義の特徴である。 したがってこのグループに対する戦略は、素朴実在論を徹底的に解体 することによって、「存在の問い」という疑念を魂に呼び起こすことである。 すべて理解できる者はおそらくいないであろう。しかし、少なくともその 「問い」だけでも魂の中に呼び起こせるならば、いつか自分自身でその 答えを見出すこともできるに違いない。それは、今生という範囲のことか はわからないが、そのように「種を蒔く」ことが私の任務でもある。
田で食う虫も好き? どういう味?
そのニヒリズムだが、「高校教師」というテレビドラマの一場面を思い 出す。いや、いまやっているリメイク版ではなく、オリジナルの桜井幸子、 真田広之が出ていたやつである。 あれは、「いまの世界に生きていることに対する『魂の叫び』」を表現 したものだ、と私は受け取っていた。つまり、「ここは一体何? 私は いったいどういう世界に来てしまったの?」ということで、この世に来た 魂が、この世そのものが「狂気」なのではないかという発見に悲鳴を 上げているのである。 (ちなみに、いまはあまり転生経験の少ない魂も来ているらしく、そう いう魂はこの世界があちらと比べてあまりに狂っているので、もの すごい恐怖を覚える場合があるらしい。引きこもりと言われるケース はそういう魂のことが多いような気がする。この問題は、こういう 霊的視点がなければ本質的には解決しないだろう。性同一性障害 の問題も魂と世界との違和が問題の本質である。「この世界はどこ か根本的に狂っている。そういう狂った世界で生きざるを得ないこと が現在の人間の本質である」と言うことができない者は、思想家たる 資格はない。人間が宇宙原則を見失ったという「喪失」の絶望を知ら ない者を、私は思想家とは見なさない)
で、そのドラマで主人公の生物教師は、池に泳ぐ鳥たちを見ながら、 「生物学的には、生きるということには、何の意味もないんだよ」と 言う。それを聞いて、女子生徒(桜井幸子)はさめざめと泣く、という シーンである。 宇宙と人間とのつながりを理解させるどころか、そのつながりの感覚 を崩壊させる学問など、どのような意味があるのだろう。 しかしもちろん、自然科学はダメだということがここでの趣旨なのでは ない。あの生物教師の言葉は、「なぜこの世界は、生きていることの 意味を全く教えてくれないのか?」という魂の叫びだったのではない か、と感じたということだ。その「もがき苦しみ」を過激に描いたのが あのドラマだったのだ(少々過激すぎるが)。
世界イメージのその二だが、 2.世界はすべてつながっている、という直観を持っている。その無限 の連鎖の中で、自分はきわめてささやかではあるが、不可欠のある 部分を担っている。自分はいかにも小さいけれども、宇宙において ある大切な役割を持っているに違いない、と感ずる。 このグループの学生は魂が健全である。宇宙とのつながりを直観する ことができている。このグループは、必然的に、「エコ」志向になる。 いわゆる「ジブリ系」でもある。また卒業研究に宮澤賢治を取り上げる 学生もけっこういるのだが(デザイン学科なので、絵本とかを作るの だが)、たぶん彼女らもこのグループだろう。あるいは、自然の豊かな 田舎で育ったのかもしれないが、そこまでは確認できない。しかし 大都市の学生には少ないタイプと思われる。 このグループに対しては、「ホーリズム」、すべてがつながっていると いうことが現代思想からも強く出てきていることを伝えれば、自分たち の直観の理論的サポートとして受け止めることができるだろうと思わ れる。私の講義が最も効果を生み出しそうなグループである。「三千 大千世界パラダイム」のイデーも、自分らの宇宙直観と近いので、 素直に受け止めることができるであろう。 ただし、この1と2のグループはオーバーラップしている。その間で揺れ 動いているような学生もかなりある。それに対しては、素朴実在論を 打破する手助けをしてやれば、2の世界観に移行できる確率が高く なるであろう。
和田さん、頑張って〜
3.世界とはすべて夢、幻のようなものではないのか? おそらく、 誰かが生みだしているものだ。その生み出すものは、ある宇宙的 存在なのか、それとも自分の脳なのか? 世界とは、宇宙の何者 かがプレーしているゲームなのではないのか? これは「マトリックス」などに最も反応するグループである。数としては 多数派とは言えない。しかし、宇宙的存在がプレーしているテレビゲー ムの画面がこの世なのではないか? という世界感覚は毎年必ず何 人かはある。 もちろん世界を生みだしているのは「自分の脳」であるという理解は、 哲学的に見れば誤謬であり、自己矛盾した思想である。 しかしいまはそれはどうでもいい。問題は、こういう魂は「世界が夢で あり、仮構である」という直覚を持っていることである。 しかしこの感覚は決して最近になって出てきたものではない。私が 思い出すものに手塚治虫のマンガがある。題名は忘れたが、その マンガでは、ある少年の一生そのものが、ある別次元世界で映写 されている映画そのものなのだった。その少年の部屋に蝶がひらひら と舞い込んでくる。実はそれは、自分が俳優であり演技をしていること を忘れてしまった少年にメッセージを伝えるための、異次元から送られ た使者なのであった――という話である。 (いまこうして思い出してみると、私が子どもの頃に手塚から受けた 影響はかなり大きいのかもしれない。最もショックだったのは「0次元 の丘」という作品だった。私はこの異次元世界のイメージが頭に焼き 付いて何日も寝られなかった。やはり手塚は魂の深い部分をイメージ 化する天才だったのであろう)
さてこのグループには「共同主観論パラダイム」、つまり世界とは共同 の夢であるという世界観はすんなり理解できるものである。同時に、 「その夢を見ているのは本当は誰なのだろう?」という問いも、魂に 食い込んでいけるかもしれない。現代思想が用意する「それは共同 主観だ」という答えは、本当の答えではないことを直観することは 不可能ではないはずだ。つまりそこから、「存在の問い」ということの 意味を魂次元で理解していく道筋がつけられるかもしれない。 「脳」と言っているのは、まだ科学理論信仰から脱し切れていないので、 何となく科学っぽい言い方で、こういう魂の感覚を表現しているにすぎ ない。世の「唯脳論ファン」もだいたいそんなところだろう。だからといっ てそういう人々を唯物主義なのだと勘違いしてはいけない。1のタイプ とは違うのである。表層の言葉は、哲学を勉強していない限り、拙いの が当然である。それを見通して、その根底にある魂の感覚を理解する ことができなくてはいけない。そうできなければ、思想について教える 資格などないのである。 つまり、このグループについては、「脳」を「世界生成プログラム」の根拠 にするのは誤謬であることを明らかにし、「プログラムを生み出す者は 何か」という問いをオープンにしていくのである。そこから、より深い解答 への道が開かれる。 というわけで、初めは「がっくし」であったが、こうして整理して考えて いくと、徐々に希望も見出されて来たような気がする。
もっと〜
321 :
没個性化されたレス↓ :04/09/07 23:04
>>314 >「この世界はどこ
>か根本的に狂っている。そういう狂った世界で生きざるを得ないこと
>が現在の人間の本質である」と言うことができない者は、思想家たる
>資格はない。人間が宇宙原則を見失ったという「喪失」の絶望を知ら
>ない者を、私は思想家とは見なさない)
あ〜とてもこころづよい言葉だなぁ〜
そう明快に言い切ってくれる人がいてくれてなんだか少しラクになった。
著作権大丈夫?
著作ゴンの太夫?
先日、池田晶子『14歳からの哲学』というものを読んでみた。結論から 言えば、大したことない。というか、なんでこういうのがはやるのかなあ ・・と思った。たしかに凡庸な哲学研究者(哲学者になりたくてもなれな い人たち)に比較すれば、何かを見ているとはいえる。彼女がたしかに 理解した哲学的経験とは何か・・それは、「自分とは、この現象界には 属していない」という発見だった、と私は推測した。たぶん間違いない と思う。それを「存在の神秘」と呼んでいる。だが、そこまで。それ以上 は何も知らない。それが、この人の立っているポジションだ。「私はたし かに存在する。私が存在するということの謎は、現象界を調べることに よっては決して到達できない永遠の謎である」というのが、この本の基 本であり、その謎を味わうことが考えるということだ、と論じて、考える ことをすすめているわけだ。 池田晶子には埴谷雄高に関する本もある。自意識の存在が謎である という問題に向かっていることはわかる。だが、それと同じ場所に、14 歳の少年少女を導こうというのには、正直、危険を感じる。この本のい うことを鵜呑みにして、こういう形で「考える」ことはしない方がいいと 思う。馬鹿正直にそうしていたら、独我論的な世界に陥って、精神に 異常をきたす子供が出てこないか、それが心配だ。つまり、池田が導 こうとしているのは近代精神の袋小路に過ぎない。デカルトの自意識 は、神に支えられていた。だが池田には神もない。「仏陀も答えを出し たわけではない。ただ存在の永遠の謎に触れただけだ」などという意 味のことが書いてあったが、「馬鹿も休み休み言いなさい」と言いたく なった。自分が答えを出せないからといって、全人類から答えを出す 権利を奪ってはいけません。
考えるといっても、結局は自分の中にあるものしか出て来ない。 若い人はむしろ、「世界とはいかに多様であるのか。人間にはどんな 経験が可能であるのか」という方向でものを考える方をすすめる。 その経験というのは、たとえば臨死体験やシャーマニズム的体験など も含める。 「人間が経験しうることを、その最大の振り幅を持って理解する」という ことだ。 最も邪悪かつ残酷なことから、宇宙叡智との合一の神秘まで、すべて 人間に開かれた地平ではないか。
もっと、ちょうだい!
ともあれ、できるだけいろいろな体験について知ることは重要だ。とも すると、ちょっと「ぶっ飛び」の体験をした人は、ついその体験に執着し てしまいがちだ。たいていは、その体験の価値を過大評価する傾向が ある。宇宙の真理とか、空とか、そんなに簡単に体験できるはずがな い。それを体験するような人が、私なんかに相談をもちかけるはずは ないでしょう。もっと自分でいろいろとわかるようになっているはず。 その意味では、伝統的な哲学なんかにかじりついているよりは、グロ フの『脳を超えて』とか、人間の意識体験とはかくも多様であるか、と いうことを教えてくれるものをたくさん読むことの方が、いろいろわかっ てくるスピードが速いだろうと思う。現代は、そういう体験について黙 して語らなかったという封印が解けた時代といえる。これほどの規模で、 霊的体験や記憶がシェアされはじめた時代はない。もう、過去の基準 による「古典」などに執着すべきではない。21世紀のスタンダードとい うものをあらたに樹立していかねばならないだろう。時代は急速に変 化している。
極端な例をあげれば、死んだからといって霊的世界のことがすべてわ かるようになるわけではない。既にご存じと思うが、肉体を離脱しても、 自分の波動にあったごくわずかな波動領域しか経験されないことが 多い。ほとんどの人は、アストラル次元よりも上の世界があることを知 らないで、死んですぐ行く世界こそが天界なのだと信じることになるが、 こうなるとむしろ進歩は遅々たるものになるかもしれない。宇宙はアス トラル次元と物質次元だけではないという知識は、この地上界に来た からこそわかるチャンスがあるというものだ。なおかつ、アストラル界 を超えた次元から来るエネルギー、光とはどういうものであるかを少し でも理解できたとしたら、その達成の意味は、むしろ死後においてはっ きりと理解されてくるはずなのである。 その意味で、ウィリアム・ブールマンが、アストラルは大したことがない、 その先へこそ行かねばならないと強調し、OBEによる探求の最終目 的を、アストラルを超えることだと書いているのには大いに共感したの である。こういう視点をはっきりと打ち出しているOBE本は他にあまり 例がない。
ちなみに講義でたまに、「死後の世界のイメージ」を書かせることがあ るが、だいたい全学生の5〜10%が「何もない闇」というイメージを答 える。これが恐ろしい無なのかと思ったら、そうでもなくあまり怖くない らしい。このように思っていたら本当にそういう世界に行ってしまうの ではないかという余計な心配もするが、こういう無という世界も魂の中 の原型としてたしかに実在するのだ。 ついでにいえば看護学生は花園や三途の川、祖父母との再会などの わりあい伝統型のイメージを書く。 これに対して造形学部ではもっと内面的というか屈折しているというか、 そういう楽観的な他界イメージが少ない。世界や意識とはバーチャル リアリティであるというような話が多いようだ。映画「マトリックス」の 宇宙船みたいなものを考える人もいる。しかし、美大生にしてはイマジ ネーションが不足しているのではないかと感じることもある。
クリストファー・バックは、魂の死と再生という原型構造としてグロフの ペリネイタル・マトリックス理論をとらえ直した上で、こうしたFNDEを 自我の死という過程と位置づける。まあ、いわれてみれば当たり前の ようにもきこえるが。地獄というのは罰ではなく浄化の場である、つまり キリスト教でいう永遠の罰という意味での地獄は存在せず、ただある のは煉獄のみである。このことは非キリスト教徒には当たり前の話で あるかもしれない。だから闇にも意味があるので、ただ闇に執着したり しなければいい。自我の死はいろいろな形を取るので、特定の闇の 形を絶対的なプロセスと見なすことは誤りである。私とて光の経験の 直前には絶体絶命まで追いつめられる経験があったものだ。 ただバックは、FNDEは全NDEのうちわずか1%程度しかないという 事実については、十分に説明しているとは思わない。それは、NDEは 蘇生者のデータであるので、FNDEは蘇生の確率がきわめて低いの だというのが私の仮説である。しかし他の霊的情報から判断して、 そういう恐ろしい世界に行く人の率はそんなに多くないという印象を もつが、たしかな確率などは言えない。
331 :
没個性化されたレス↓ :04/09/08 03:56
和田さんて誰?
332 :
没個性化されたレス↓ :04/09/08 03:59
この人の文章、面白いんだけど、グラウンドの真ん中で時たま方向を変えながらいいたいことをしゃべっている様な感じ。 向かい合っているそぶりがないw
だってそれコピペだろ・・・
シュタイナー『自由の哲学』では、素朴実在論はもちろんのこと、認識 を脳の過程として説明する理論もあっさりと撃沈される。そのような立場 は思考の本質を徹底して考えていないことが暴露される。脳内現象説 とかいうものが哲学的にはタワゴトであることもわかるであろう。 しかし、最も重要なポイントは、「思考とは、主観と客観を超えた働きで あり、思考が存在してはじめて主観が成立する」ということだ。これは、 唯識的な発想である。だからこそ西洋ではほとんど理解されない。 東洋思想的にいえば「識」について考えようとしている、と理解すれば よいだろう。つまり西洋思想が袋小路に入ったのは、思考を主観の 働きと解釈してしまったからだ。ここに根本的錯誤がある。 またここから、「知覚された世界は私の表象である」というカント、ショ ーペンハウアー的な命題も誤りであることが明らかとなる。なぜか。 世界を生みだしているのは、いま私が自己の主観として認識している ものではない、ということである。つまり、世界を生成しているのは、 「私がいまだその実在をたしかに自覚化(意識化)することのできない、 ある思考作用である」という意味である。そしてまた、その思考作用 とは一つの宇宙過程なのだ、ということでもある。だがもちろん、現在 は自覚化されない思考作用を自覚領域にもたらすこともできる。その 時私は、「私とは、これまで私と思っていたもの以上のものであった」 ということを知る。
↑まだ、事態がわからん奴らもいるらしい。
『意識は科学で解き明かせるか』では、特に第四章で意識の問題に なって、天外伺朗が茂木に激しく切りこんでいくところで結局、茂木が 「参った」という形になっている。天外が冴えている。茂木自身が、 脳科学の前提について「これでいいのだろうか?」という疑いをもち つつ揺れている人なので、そこに鋭く斬りこまれたという感じなのだ。 そこで最後には脳科学の拠って立つ「暗黙の前提」があぶり出され、 その根拠を問われる地点まで行った。数ある天外本の中でも出色の 出来だ。 しかし、この本では、脳科学というものがどこまでわかっていて、 何がわかっていないのかというのがひじょうに明瞭に理解できる。 そのへんを語る茂木の率直さも大いに称賛したいところ。簡単にいう と「ほとんど何もわかっていない」に等しい、ということになる。脳科学 を気にしている皆さん、今の脳科学なんて恐るるに足りません。 大したことないよ、ってのがわかる。 だが、茂木はこの中で、脳の機能を「場」としてとらえる見方に言及 している。最後に天外伺朗につっこまれたのは、その「場」というもの がシナプスという物理的根拠を有するものと考えると矛盾に陥る、 という論点なのだ。茂木はこの論鋒をかわせずに完全に一本取られ た。天外伺朗の意図は、シナプスの同時発火を「場」としてとらえる 見方は、その「場」を非物理的な存在性格を持つものと理解しなけれ ばならない、という方向を示すことだった、と見た。つまりこの論点から、 脳科学のもつ根本的な「唯物論的前提」を突き崩そうという戦略だ。 脳科学者の誰もそこまで考えていない、ということを茂木は率直に 認めている。
そして天外は唯識への方向性を示す。唯識とはつまり「始めに意識場 ありき」という発想なのだ(この本ではそこまで言ってはいないが)。 ペンローズの量子脳仮説なども知るに値することである。 それと、喰代栄一の『魂の記憶』は、シュオルツの仮説を紹介している が、この原著の Living Energy Universe (だったっけか?)は私も 一昨年くらいに読んで、自分の考えていることに近いな、と思った。 つまり「宇宙とは意識場である」という説である。
天外伺朗はこの本の中で変性意識の問題をとりあげている。茂木も それの存在を認めているが、今の脳科学、神経科学はそこまではまっ たくお手上げだと言っている。 要するに、SIXTH SENSE というものがあるかどうかだ。その問題に 結局は帰着する。それは、通俗的なテレビ番組で言うような単なる 超能力ではなくて、人間は霊的世界や神を知ることができるのか、 という哲学的・形而上学的問題である。むしろ、そういう哲学的問い が、「超能力はウソかホントか」というような問題設定に矮小化されて いる状況が精神の貧しさというべきではないか。霊性とオカルトの 区別がつかないわけだ。それはインターネットの検索サイトやオンラ イン書店でも、しばしば精神世界が「エンターテインメント」の項に入れ られてしまっているという状況にも表れている。世間の霊性に対する 理解はその程度のものなのである。
もっと、もっと、どうぞ。おねがい。
天外伺朗の部分、前も転載されていたな。 ということは、今までのものが何度も登場するのですね。
そりゃそうですよ、何度も掻くんです。満足するまで。
レスしようとしたら、該当のものが遥か遠くへ霞んでしまった。
♪別れ上手な ふた〜りの 戯れ劇と笑ってよ〜
344 :
没個性化されたレス↓ :04/09/08 18:42
345 :
没個性化されたレス↓ :04/09/08 18:45
サイズが496KBを超えています。512KBを超えると表示できなくなるよ。 の失敗を繰り返すのだろうか。
347 :
没個性化されたレス↓ :04/09/08 23:14
茂木がテンゲのアフォさかげんに、途中でようやく気づいたということじゃないのか?
天外伺朗のどこがアフォなのですか?
349 :
没個性化されたレス↓ :04/09/09 03:41
天外はオカルトを極めれば必ず救われる、みたいなところがある。 あんまり暴走してほしくない。土井さんには・・おっと。。
超越が不可欠なこの分野で、暴走せずほどほどに常識の範囲で、っていうのが
わからないな。
まっ、
>>349 の言葉の表面だけで感じたんだけど。
351 :
没個性化されたレス↓ :04/09/09 15:44
>>350 あの手の人が傲慢に思えるのは、みんなが超越を必要としていると何となく思い込んでいること。
超越したい人は勝手にやればよい。それが資本商業主義に結びつくとき、それは暴力となる。
ソニーの開発したAIBoのような高額な商品で救われた人はどれほどいるのでしょう。金銭の所持不所持による格差が広まっただけなのでは
352 :
没個性化されたレス↓ :04/09/09 23:51
今日はコピペないのか・・と期待する自分がいる。。 otz
353 :
諸富氏は面白いよ :04/09/10 00:38
水島恵一ってけっこうトランスパーソナルだよね。
355 :
没個性化されたレス↓ :04/09/10 17:58:44
356 :
sage :04/09/10 20:03:21
薬・違法板アシッドスレにあった。 フィクションにしては妙にリアルだけど だれかモデルになった研究者っているんでしょうか? 252 名前:名無しさん@_@ 投稿日:04/08/23 03:07 ID:uHVuovAM >244 なぜかバキ・バキ夫さんのカキコを保存してあったので参考age。 バキ夫さん元気だろうか。 769 :バキ・バキ夫 :02/05/27 04:13 ID:pnkQyJD0 >760 ボキは1946年浅草生まれ千住育ちで、東大で物理学を専攻していたけれども熱中できず、うつ気味になって3年間休学している間、 学生運動やヒッピームーブメントに感化されて、元気を取り戻した勢い(+ヒロポン)で博士課程まで出てしまったけど、仕事をするの がイヤで30まで翻訳のアルバイトをしたり、塾の先生をしたり、ヌルい青春時代を過ごしていました。 初体験は26歳で、結局その時の相手とずっと付き合って31歳で結婚し、翌年に娘が出来てこりゃ本気で働かねばと、一念発起して とある電機メーカーに就職して半導体プロセスの開発にずっと携わっていました。子供はいつの間にか3人になってしまったのです が、3人とも娘で今は全員結婚してどっかへ行ってしまいました。また10年前嫁を子宮頸がんで亡くしているので今は一人ぼっちで す。持ち家も無かったので今は会社の独身寮に入っています。まぁ、数年で定年だし、寮でコソコソLでもキめてささやかに生きて 行こうと思っています。 今でも普段着はフレアパンツとクルタがメインです。死ぬまでヒッピー貫くつもりです。昔は娘達に「お父さんと一緒に歩きたくない」 とか言われたものですが、最近は自分からとついだ先のご家族に紹介してくれたりするところを考えると、ボキのライフスタイルとか ファッションを理解してくれたんだろうと、うれしく思っています。 で、別にLは山ほど持っているからいらないけどね…760さん。嫁はLのせいでガンになったのかなぁ?んなわけないか。死ぬ間際に ガンの痛みでうなされて「バキ夫さん、バキ夫さん」って呼ばれるんだけど、手を握ってやるくらいしか出来ない自分を本当に情けな く感じたもんだ。今でもそれが心の傷になって、キめると必ずBAD入っちまう…誰か助けて。
シュタイナーの『神秘学概論』の、「神秘学の性格」という方法論の章を 読むと、これはウィルバーの認識論とほぼ同じことを言っている。 そもそもウィルバーの主張自体が、「超感覚的な世界を理解するには、 超感覚的な知覚器官を発達させることが前提になる」というものであって、 これは完全に神秘学的な発想なのである。 これに対して、アカデミズムを初めとする現代社会の基本思想は「五感 によって確認し得る世界のみが、正確な知識の対象であり得る」という ものなので、このきわめて根本的な「知」に対する姿勢の相違はそう 簡単に埋められるものではなさそうである。 これは、伝統的な西欧社会が「超感覚的な世界については、人間が 直接知ることができず、ただ信仰によってのみ理解しうる」と考えていた ことの歴史的結果である。その「信仰」も分離され、消滅しつつあり、 ただ実証主義的な知識観のみが残された。 それで、またパラマスについての本を読んでいるのだが、こういう西欧的 知識観と東方的知識観の激突が、14世紀のパラマスとバーラームの 論争にはっきりと示されているのだ。 この東西の分岐は、アウグスティヌスに始まっている。それまでのヘレ ニズム世界は、基本的に霊的認識(広義のグノーシス)の可能性を 承認していた。
ヨーロッパ思想の成立で、キリスト教の東西の分裂、ラテン的な西方 キリスト教が「神と人間との一致」の可能性を否定したことが重要な 意味をもつ。 つまり、神秘主義という名のもとに一括されている、「自己の中に宇宙 的なプロセスを体験することをベースにした思想」というものこそ人類 思想史の本道なのであって、それを否定している「ヨーロッパ思想= 哲学」というものこそ特殊な存在である。 古代思想の「宇宙中心主義」から近代の「人間中心主義」への移行。 啓蒙主義は人間の理性への信頼であると同時に「人間を超える知性 が存在することの否定」をも意味している。このような宇宙観の「フラッ トランド化」と共に、「自己の中に宇宙的なプロセスが存在する」という 経験の地平もまた、「異常」の名の下に葬り去られるようになっていっ たのである。 そのような地平を追求し、保持しようとする運動が「エゾテリスム」であ り、ロマン主義もまたその一部なのである。 このように、おおざっぱにいえば、近代思想は、フラットランド化の思想 と、それに対抗し「宇宙的な体験」を重要視する対抗文化としてのエゾ テリスムとに分極化した。 問題は、近代の大学アカデミズム自体がフラットランド化的思潮の流れ にあるということだ。それを自省しない「学問」は、結局、知的植民地 主義に終わる。「宗教学」がそのよい例だ。そこでよく考えてやらない と、「知の帝国主義」に巻き込まれ、近代世界的パラダイムの中にいか に取り込むかに腐心することになる。
「自分の中に宇宙的プロセスが流れている」というのは、自分と宇宙と の一体性を体感するということでもある。思想と体感とはなぜ分離して しまったのか。それは西欧におけるスコラ哲学の伝統までさかのぼる のだが、それは詳しく触れない。 そのことを、あんまり「神秘」と考えない方がいい。人間にとってノーマル な状態だということだ。「神秘主義」という言葉自体が、「理論」の方が 体感よりも上だと考えるヨーロッパの知的伝統からする偏見の産物 である。 天人合一、ということだが、それは、自分のまわりの「気」(=エーテル 体)の感覚から始まる。それによって、「からだの深層」に降りていく時 に、宇宙が広がっているのを発見する。そのためには、「緩める」ことが 大切だ、というのが気功から学んだことだった。「修行」につきものの 「ガンバリズム」では逆に緊張ばかり増えてしまう。 「上にあがろう」という意識を捨てて、「カラになる」ことが大切だ。禅も、 もともとはそういうことを教えているはずだ。現実には禅寺の修行は 緊張した身振りを強いるところもあるが。 水草が流れに揺らぐごとく、宇宙的プロセスの中で静かに呼吸している 自分を味わうということだ。それがアジア的な宇宙的感性のエッセンス だと思うのだ。
結局、今の学校体育というものが、勉強の面と同様、「ある決められた 枠組の中で、いかにしていい成績を収めることができるか」という、 「優等生」を優遇するしくみにはめこまれているのだ、ということである。 企業社会もまた、生産力だけで人を評価しようというのだから、学校の 文化と基本的にはいっしょである(というより、よき企業人を育てると いう目的で、学校教育が成立しているわけだが)。 ある「ゲームのルール」があって初めて、そこに「勝者」と「敗者」が 成立するわけだが、そもそも、いかなるゲームもそこに存在しない、 ただ「存在していること」だけがある状態を知ることの訓練は、なにも なされていない。優秀も劣等も、すべてはゲームである。それを 見きわめることが、「空」を根本におく仏教の智恵でもある。 ゲームの達人をめざすのもいいが、あらゆるゲームがまだ開始されて いない「ゼロ」の地点に立てるということが、人間としての基本的な 「生命の力」を自覚するということだろう。 「スポ根的修行」に私が疑念を抱くのは、本来そうした「ゼロ」をめざす べき技法であったものが、いつのまにか、「誰がどのくらい進んでいる か」ということを競うという新たなゲームになってしまい、そこにおいて いかにして「優等生」になるか、という争いと化す危険があるという ことだ。
「私はこんなにすごい修行をした。それで、こういう境地に達した。 こんなすばらしいものを知らないとは残念だから、あなたも一生懸命 に修行しなさい」というようなことを人に言われたこともある。しかし どうも、その人がまだ、そうやって得た「境地」に執着しているようにも 感じたのである。というのはその人は、いまだ、自分の厳しい修行の 「代価」として、苦しみの日々の末につかんだ「巨人の星」のごとき ものとしてその境地を見ているように思えたのであった。 しかし、魂の感覚や、霊的な光の体験などは、なんの修行も特にして いない人にも「恩恵」として現れることもある。 ウィルバーをみても「修行してない奴はダメだ」的なノリが強くて抵抗が ある。こういいかえた方がいい。「宇宙と親しみ、存在の基本感覚へと 自分を開いていくためのいろいろな技法をやってみる」――これを 「修行」という言葉のかわりに使ってみよう。
362 :
没個性化されたレス↓ :04/09/11 10:53:50
トランスパーソナルな映画は何ですか? もちろんそれを意図したものでなく、通じるものがある作品についてだけど。 したがって、一つでなく複数あげると、通じるものが見えてくるかも。
>>362 アレハンドロ・ホドロフスキー「エルトポ」「ホーリーマウンテン」とか
ケネス・アンガー「快楽殿の創造」とか
ベルナルド・ベルトリッチ「シェルタリングスカイ」とか
テレンス・マリック「シン・レッド・ライン」とかなんて根底に
トランスパーソナルな世界観がある気がする。
364 :
没個性化されたレス↓ :04/09/11 13:01:22
>>363 ありがとう。どれも知らないのでメモしておきます。
こういう話題が時々はさまれると、このスレもイキイキしてくると思うけど。
映画でも小説でも。
前にポストモダン思想について一定の評価をしたが、ある面では大変 不満を持っている。というか、根本的な錯誤をしている部分もあると 感じる。ポストモダンでは「差異」を前面に出す。これはソシュールから 来ているものだが、差異ということを、伝統的なイデアリズムを否定する ために用いているような気がする。やはりその点が、「反プラトン」なの である。差異という根本概念から存在を考えようとする姿勢はわかるが、 このパラダイムでは結局「イデー」ということがいつまでもわからない のではないかと思う。 しかし、「アンチ現代思想」というようなテーマ設定はしない。神秘学の 立場は、決して「アンチ」という立場に自分をおかないのである。 何ものかを否定することによってはじめて存立する立場などは、 つまらないものである。 そういう差異の思想的パラダイムと、神秘学的地平を結ぼうとしたのが 中沢新一だが、私は、それほど成功したとは思っていない(一定の 成果はあったと認めるが)。彼自身も最近では、フランス現代思想と 交差させるということには興味を失っていると思われる(最近読んで いないから詳しく知らないが)。
>>364 思い付くまま映画名書いちゃったけど、
「ホーリーマウンテン」はトランスパーソナルというよりはスピリチュアルな
錬金術の寓話。「エルトポ」はトランスパーソナルな寓話と言っても許されるかな?
アンガーの「快楽殿の創造」は世界観がトラパというよりは、映像表現が喚起する
イメージがトランスパーソナルなビジュアルの世界。
「シェルタリングスカイ」は実存文学の傑作の映画化だけど、前半の西欧的近代的
自我が後半サハラ砂漠の未開の文明の中で崩壊して新しく生まれ変わる、いわば
死と再生の物語となっている。ベルトリッチの映画の中ではモロ仏教トラパ映画
「リトルブッダ」よりもトランスパーソナルな世界だと思える。
「シン・レッド・ライン」はガダルカナル島での日本軍と連合軍の戦いを描いた
いわば戦争ものだけれど、監督の意図は悠久の大自然の中でちっぽけな人間という
存在が殺しあうその不条理を「神が自らを認識するその体験の一部」というような
世界観で描いている。登場人物たちのモノローグが交差し、個々の登場人物たちの
根底に集合無意識が存在していることを表現しているように思えた。
「報復」を叫ぶ欧米の指導者たちもそうだが、アラブ諸国では「ざまあ みろ」と大喜びしている様子がテレビに映っていた。正直いって、こん なことで人類は大丈夫なのだろうか、とかなり本気で心配になってくる。 このような反応ばかりでは滅びの道に至る、という徴なのであろうか。 このような分離的な意識にある人々を見ると、痛みを感ずる。馬鹿な 奴らだ、と突き放すというのではなく、自分の指先や関節が痛むように 「痛い」というか。いかなるネガティブな波動や表現にも屈せず、普遍 意識にフォーカスしつづけるには、強さと勇気を必要とする。それが真の、 スピリチュアルな「Warrior(戦士)の道」なのだということを、私はチョギャ ム・トゥルンパの『シャンバラ』という本から学んだのであった。それを 思い出す。 地球全体、人類全体が救済――つまり、神化されねばならない。この 深遠な、東方キリスト教の思想をよくかみしめてみる。さらに、イエス・ キリストという存在はなぜ地球に登場したのか、という思いに深く入っ ていくと、一つの〈イデー〉が、はっきりした力を持って、魂の中に浮か び上がってくるようである。それは、遠い未来の、「愛の力が勝利した 地球」のヴィジョンであるようにも思われたのである。 私がここまでに到達した考えは、思想というものは先人の偉大な 〈イデー〉〈ヴィジョン〉を魂の次元で理解し、それを同時代の人々に わかるような表現で伝えるということである。偉大なイデーは人間では なく、もっと高い世界からもたらされるのかもしれない。偉大なイデー こそが人類を変容させるのではないか、と思われるのだ。イデーとは 理知的頭脳ではなくて「ハート」によって理解されるものかもしれない。 魂の心理学と言っている人があるが、私は「魂の思想」というものが 生み出せないか、と考えているのである。魂のレベルに訴えかけない 思想は無力だが、魂に響くものは、現実を変える力をもつからである。 たとえば、ジェームズ・レッドフィールドなども、今の世界でそういう 〈ヴィジョン〉を示すという役割をしている一人なのだろう。
シュタイナーもどこかで書いていたが、「ライ麦と大麦の区別を知って いるというのは決してどうでもよいことではない」。まあ麦食民族では ないからその区別は私も知らないが、世の中にはオオミスミソウや ショウジョウバカマさえ知らない人がいるのだから驚く(あたりまえだ、 と言われそうだが)。 この前ある人が言ったところでは、「現代に普通に暮らしていると、 すべてのことはきっちりと科学的に研究され、説明されているという 感覚をもってしまう」そうだが、これは都会に暮らしている人の言う ことだろう。環境のほとんどを人工物に囲まれて、そして多量のマス メディアに晒されて生きている人でないとそういう感覚は生じない。 なぜかといえば、自然界(植物界、動物界、鉱物界)と接して生きて いる人間は、つねに「無限」と隣り合っているという確実な感性を はぐくみつつ生きることができるのだ。自然の豊かな環境で育った 子供は基本的な「存在すること自体の無限性」への感性が身につき やすい(魂の性向もあるので全部ではないだろうが)。 都会に住んでいるなら、芸術や音楽を一生懸命やるといいと思う。 というか、意図的にそうしないとものすごく魂が枯渇してくるのでは ないか。大事なのは「無限性の感覚」を育むことである。教科書を 覚える勉強だけでは育たないのはあたりまえだ。
369 :
没個性化されたレス↓ :04/09/11 22:55:34
>@ 菅原浩さんにメールしときました。
ついでにパソコンを壊して、魂の瞑想に耽りなさい。
>>370 なんだ、確信犯じゃなかったのか。へたれな香具師。
ほしゅあげ
痛感したのは、ヴェーダーンタ的な世界観の限界。物質界は幻だ、 というのは半面の真理であろう。さらに、現代に至るまでの西洋思想 が、いかに唯名論に侵されているかということである。つまり世界を 構成するのは私たちの主観の働きだというのだ。これはカントに代表 されるが、結局は、現代思想はみなそのバリエーションにすぎない。 ソシュールの言語学、レヴィ=ストロースの人類学は、主観を共同 主観的な「構造」に置き換えただけだし、また現在の認知科学も、 その路線の延長線上を超えてはいないように思われる。そのあたり でヴェーダーンタ的なものがわかるようになって、仏教の無我説に 接近したりするのも、意義がないとはいえないが、しょせんは唯名論 的伝統に縛られていることには変わりない。つまり、物質界、外界 というものの存在意義を見失っている。 プラトンがイデア説を唱えたのは、プラトンはイデアを見ることができた からである。つまり超感覚界に物質界に存在するものの「原像」がある ことを高次の認識で了解したのである。 ところが、現代人はそれを信じない。たとえば、「ネコ」という言葉が もし存在しなければ、「ネコ」というものは存在しないのだ、と多くの 学者は信じている。この意味で「ネコ」は実在するものではなく、我々 の概念によって形作られているという。これが常識にとっていかに 奇妙でも、それが「現代の知識人の常識」である。いま、学問はそう いう状況にあることを理解していただきたい。
しかし、ネコというものの原像が霊的世界に実在し、その個々の表現 としていろいろなネコの個体があるのだ、と考えればこれがプラトニズム である。古代人は動物には動物の精霊があり、また物にも物の霊が あると思っていた。プラトンはそういう古代的直観の世界を洗練させた だけである。 霊的世界観に従えば、こうなる。人間は霊的世界にその故郷を有し、 ある理由で物質界に降下して住まうようになった。そのとき、人間に とっての物質界もまた同時に与えられたのであり、そこには、霊的 世界にあった原像の射影が植え付けられた。こうしてさまざまな自然、 動物界と鉱物界が人間と共に存在するようになった・・・ということで ある。 この原像は人間に与えられている世界において完璧に実現しており、 それを解読することが人間の霊的使命だ・・・こう考えたのがアリスト テレスだったのである。
さて今日は、『シュタイナー教育の方法』につづいて『シュタイナーの 治療教育』の読み直し。特に「概念感覚」のこと。言葉を記号として 理解するという発想法が知の世界を席巻してしまったことが、叡智を 矮小化させているということを痛感する。高橋巌の中でも『治療教育』 は特に尖鋭な問題提起があり、刺激に富む本である。けっこうすごい ところまで語ってしまっているという意味だ。カルマのことも出てくる。 これは「霊学」とも「神秘学」とも言われるが、「学」といっても既存の アカデミズムの中に入っていこうと頑張ろうとするということではない。 もちろん、入ってくださいと言われたら意地を張って拒否するという わけではない。つまり私が言いたいのは、「そもそも『ものごとを知る』 というのはどういうことなのか」という問いから始める、ということである。 「知るっていうのはこういうことでしょ」と、既存の体制の中で常識化 されている答えを疑う、その自明性を問いなおすという意味である。 そういう作業がまず前提にあるということだ。いま、「知る」ということ の本来の意味が忘却され、単なる「記号的記憶の蓄積」になってしま っていることが魂の危機をもたらしている、という認識に立つべきだ と言いたいわけである。
ともあれ「概念感覚」ということを深く考えてみる価値はある(ここで また、「考える」というのはどういう意味か、という問題も出てくるわけ だが)。それは「わかる、というのはどういうことか」でもある。そこから 話を始めないと駄目である。そこをすっとばして、すでにできあがって いる体系を学び、そこでいい成績をあげようというのはいわゆる 「優等生」の立場であり、こういう優等生的な勉強がいったんザセツ するという経験がなかった人には、何を言ってもわからないところが ある(これは経験から言っている)。 ともあれ、概念とは言語によって社会的、文化的に作り上げられる もの、というような考えが人文、社会科学者に広まっているが、こうした 「ソシュールの呪縛」を解かない限り、魂の学問はなんら見えてこない であろう。唯名論は、魂の敵である。魂の学(ロゴス)は、実念論に 立たねばならない。これは自明のことである。
『自由の哲学』をいちおう読み終わった。思ったのは、要するにこれは 「イデーとは現実的なものである」ということを言おうとした本ではないか、 ということである。 そう考えてみると、唯物論と唯名論は通じ合っている。20世紀の学問は、 結局のところ唯名論だ。構造主義はその最たるものだろう。 日本の知識人がダメなのは、「イデーの現実性」を理解できないからだ。 それが、丸山真男が半世紀も前に指摘していた「実感信仰」という日本 的唯物論の土壌になっており、無反省な自然科学者がこの思想的風土 の上に立ってレベルの低い議論を展開する、という図はいまだに変わっ ていない。 『魂のロゴス』でも、最も重要なテーマの一つは「イデーの現実性」にある。 しかし、論述の展開は『自由の哲学』とはだいぶ違っている。むしろ 新プラトン主義的に表現している部分もある。私は、イデーとは宇宙から 贈られているものだと書いているが、シュタイナーは、イデーとは私たちが 自分の内に見出すものであると言う。しかし、この二つは、究極的には 同じことである。私は、「途上にある人間」の立場から見ているのであり、 彼は究極的なことを論理的に述べているのである。このことは「神は 外にあり、そして内にある」ということでもあることは言うまでもあるまい。 神とはものではなく、イデーなのだから。
私の大学時代の修業をふりかえってみても、現在の知的世界では 基本的に、概念とは道具であり、抽象である、という唯名論の文化が 支配している。その考え方を身につけないと知的世界で成功すること ができないしくみである。こういう「洗脳」「マインドコントロール」(と、 敢えて言うが)から脱して、イデーとは現実性であり、そう考えなけれ ば精神文化というものは崩壊するということに気がつかなければなら ないのである。 これはひいて言えば、「人間とは宇宙的なイデーである」ということ である。これが「アントローポス」であり、ユングがアントローポスの 元型などと言っているときは、そういうことを必死で考えようとしたの であろう。 人間がイデーであることがわからなければいかなる哲学も思想もない。 それはすべての根底である。と、私は考えている。
意識のモデルなどというものも、私自身としてはすでに発想的に古いと 感じていて、今は、「魂の感覚」というものから出発して行くことに興味が 移っている。魂の感覚とは何かといえば、「肉体の感覚から離れたところ に、何も肉体感覚がなくてもなお存在し続ける『自分』」の意識というか、 感覚というかそういうものである。そういう肉体に依存しないものを見出 すというのがシュタイナーの『いかにして』のテーマでもあるわけだ。 まずは、それがまったくわからないというのでは話にならないので、 ともかく何が何でもそれがおぼろげにでもわかるというところまで行く しかない。すべて話はそれからである。最近それを痛感する。その 感覚をベーシックなものとして共有できて初めて「魂の話」が可能に なるのである。 そういう「魂」というものをはっきりと経験の地平としてつかんでしまえば、 「最先端の科学理論とトランスパーソナルとはどう関わるのか」などと いうのがカテゴリー・エラー以外のなにものでもないこともわかるであろう。 つまり科学というのは感覚に依拠しているわけで、認知科学というのも 要するにそのレベルの「知覚と連動している意識作用」を扱っているに 過ぎない。それは唯識では「第六識」というものである。そのレベルでは ない心というものがあるという前提に立たないと、霊性についての議論 の一切は始まらない。 魂の感覚というものが「深層的身体感覚」と連動しているらしい、という ことも気づいていることである。身体感覚の深まりが魂の感覚とむすび つくのである。
思想とは、現代とは抽象的な概念によって作られたものと考えられて いるが、近代以前ではそうではなかった。日常生活の中では体験し 得ない、ある「深い経験」をした人々が、それを言葉という媒体で表現 しようとしたものである。したがって、言葉を通してその源にある「深い 経験」を理解しようとすることが、思想に対する態度である。重要なこと は、人間というものの可能性を、現在の自分を基準にして考えること には限界があるということである。自分はまだ知らない「深い世界経験」 があるということに、畏敬の念をもつということも大切である。 古代的な思想に共通しているのは、「肉体感覚以外の、もう少し奥に ある自分の感覚」を追求していることである。これを古い言葉では「魂」 (プシュケー、アートマン)と呼ぶ。つまり人間は肉体ともう一つ魂からなる 多次元的な存在だという見方になる。 このような「感覚を超えた世界」がまず最初に存在し、そこから感覚の 世界が派生してきた、と考えるのが古代的な思想の特徴である。さらに、 感覚を超えた世界をさかのぼっていくと、「存在の源」というべき次元に 到達する。これがブラーマン、「一者」の世界である。
ギリシャ思想、インド思想などは、そうした「存在の源」を人間は理解 できるものと考えた。つまり、これらは「人間が神になる(戻る)」道を 教えるものであった。現代人には想像できないかもしれないが、その ような可能性を認めるところから思想が出発するのである。特にインド では、そのための方法論が準備されていった。 ところが、キリスト教は、そのような可能性に対する絶望から出発する。 そのような可能性は、普通の人間には閉ざされているという感覚が あった。そこで、そのような人間のために、神が救済の計画を抱き、 キリストを地上に降ろしたと考えた。「ヨハネ福音書」によれば、「はじめ にロゴスがあった。ロゴスは神であった」とされ、そのロゴスが受肉して 地上に降りたのがキリストだと書かれている。ここに「神が人間になる」 という思想が成立した。 初期のキリスト教には奇跡や神秘体験の話が満ちている。人々は 「魂の感覚」でキリストの存在に何かを感じ、キリスト教に入っていった のである。パウロの「キリストが私の中で生きている」というのは、 実体験から生まれた言葉であった。それは「魂が光で照明される」 という経験であり、そこで人間の次元を超えた「愛」を体感するという ものであったらしい。 しかし、アウグスティヌスを境として、西方ラテン的なキリスト教は、 「人間が神になる(近づく)」可能性に対して否定的になっていった。 これに対して東方ギリシャ的なキリスト教は、その「人間が神になる」 と「神が人間になる」のバランスを追求していったと言える。
一方で、イスラム教が成立すると、イスラムの文化において、アリスト テレスとイスラム教の融合が試みられ、「存在の大いなる連鎖」という 世界観が成立し、12世紀頃に西ヨーロッパに入ってきた。そこでトマス ・アクィナスの神学が成立したが、その結論は、人間には神は知り得 ないというものであった。これに対してギリシャ的キリスト教では、 神学思想にはあまりアリストテレスは影響しなかった。むしろ実際の 神経験に関心が寄せられ、シメオンの「光の体験」などが知られている。 西ヨーロッパでも、エックハルトなどの神秘主義者が現れたが、正統派 の神学思想には影響を及ぼさず、異端と見なされた。この、思想と 体験との分裂が、西ヨーロッパ的な思想の特徴となっていく。 15世紀のルネサンスでプラトン思想が西ヨーロッパに入り、同時に 錬金術・カバラなどのいわゆる「ヘルメス思想」が流行した。これは、 「エゾテリスム」といわれる流れを作り出していった。代表的な人物に パラケルススがある。ここには中国でいう「気」の感覚や、シャーマ ニズムにも見出されるような現象も現れてきている。古代的な世界 感覚の復興という性格も強いものであった。そこではいわば、「存在 の源」とこの感覚世界の中間にある世界を体験しようという衝動が あった。つまり「人間を神化させる道」を模索していたということも できよう。こうした動きがキリスト教の神秘主義の流れと結びつき、 ベーメなどの「神智学」という思想も生まれた。
草創期の科学はエゾテリスムと結びついている側面があった。なぜなら 正統的な学問である神学やスコラ哲学は、思考のみを尊重し、世界を 経験するということへの関心を欠いていたからである。ニュートンをはじめ 多くの科学者が錬金術に関心を寄せていた。 しかし、ニュートンやケプラーなどによって、宇宙を数学的な秩序として 記述する理論が大成功を収めると、「宇宙とは完璧なメカニズムである」 という機械論のモデルが勢力を増したため、「神が、その救済計画の ために、人間の歴史に介入する」というキリスト教の教えはナンセンス であると見なされるようになり、キリスト教と科学との思想闘争が始まっ た。これは最終的に科学の勝利に終わり、それに伴って、神など「人間 よりも高次の知性」の存在は無視され、否定されることになった。 神といっても、厳密な「法則としての神」だけが認知された(これを理神論 という)。人間の理性を頂点と考える啓蒙主義の成立である。 --- 「講義みたいな硬い文章だ」という文句を言う人があるが、講義なのだ からしかたがない。そういうことは言いっこなしである。私のねらいとして は、「思想というものの全文明史的なパースペクティブ」の獲得ということ がある。つまり、心理学とか哲学とか、そういう近代的学問を自明の前提 として出発するのではなく、そもそも心理学なら心理学という立場その ものが生み出されたヨーロッパ文明の歴史的特質を問題にしていくので ある。歴史を考察するのは、あくまでも、今ある自明の地平を解体、 相対化するねらいである。
結局、最も中核をなすことは、肉体の感覚とは関わりないところにある 「自分」を感覚としてつかむということだ。身体感覚ではない感覚という ものがある。シュタイナーや高橋巌の本は、繰り返しそのことを言い続け ているということがわかってきた。これは、ユングなどをいくら読んでも わからなかったことだった。「超感覚」などと書くとオカルトめいた誤解を 与えてしまうが、身体を超えた自分というものがあるという実感、確信 というものが、インドやギリシャなどの古代的な霊性の核になっていた のだった。そのことがはっきりわかってしまうと、それをはっきりと言って いない「心理学」などばかばかしくて読んでいられなくなる。 それがわかるということがすべて霊性というものの出発点だ。それが わからないうちは、まだ門に入ってはおらず、門の外を興味ありげに うろうろしている段階にすぎない。このことはきわめて明瞭に理解され てきたのである。 そのことをはっきり言っていない心理学、あるいは哲学、宗教学の類は みな偽物、とはいわないまでも上っ面の言葉を並べたものにすぎない。 いくら世間で権威といわれていてもダメなものはあくまでダメだ。逆に、 このことを完全に確信できるならば、世間のいかなる権威にもだまされ ることはなく、本物を見分けることができるのではないだろうか。その人 は「それ」を本当に知っているのか? その地平からものを言っている のか? それを見極めればよいのである。
高橋巌『シュタイナー哲学入門』を読み返す。今回気がついたのは、 この本の一貫したテーマは、「自我が自分自身を定立する」というフィ ヒテのテーゼであるということだ。最後の方に書いてある次の文章が 全体を示している。 --- ここまでデカルトからシュタイナーにいたる近代哲学の諸問題を辿って まいりましたが、あらためてそのプロセスをふりかえってみますと、 まるで近代思想史の流れの地下を、別の潮流が流れていたような 感じがします。意識的にせよ、無意識的にせよ、ほとんどすべての 哲学者の魂の奥深くに、共通した衝動がはたらいていました。その衝動は、 ひと口でいえば、「自己意識的な自我」、つまり自分を自分のなかに 定立した近代的自我の「自分」のなかには、外なる宇宙のなかにこめ られた叡智の内実がすべて含まれているのではないか、という予感 です。みずからの内なるこの予感に対して、当の哲学者が否定的、 反抗的な態度を、ときには憎悪さえも抱いたとしても、この予感は すべての近代人にとって、無縁ではありえないのではないかと思う のです。そしてこの感情と真正面から取り組むことが、「近代」もしくは 「現代」の本来の霊的な課題なのではないかと思うのです。(中略)
シュタイナーは、人間という存在の不思議さについて、いろいろと語って いましたが、特に人間自我のなかに一切の宇宙叡智が込められており、 もし人間が、思い出す行為を通して、少しずつでもそれを意識化する ことができたら、その意識化された叡智の部分は、これまでのように 物質のなかに組み込まれていたときとはまったく異なる在り方をする ようになるということに、人びとの注意をうながしました。叡智が内面化 されるというのです。そしてその内面化された叡智は、人間自我のなか で、「愛の衝動」となって甦るのだというのです。宇宙叡智は個人の 自我のなかで、愛にまでメタモルフォーゼを遂げるというのです。この ことをシュタイナーは、もっとも重要な人間認識の観点と考えていました。 p.224-5
ここに紹介するのは、千葉大学助教授でカウンセラーの諸富祥彦氏の 「危機的体験」 とそれを乗り越えた体験を氏自身が綴ったものである。 ご本人のいくつかの著作に紹介されているので、すでにご存じの方も 多いかもしれない。ここでは最初に 『自分を変える〈哲学〉』 の 「エピローグ」から紹介する。 --- 最後に、私自身の個人的な体験について少しばかり補足的に触れさせ ていただきたい。すでに幾度か触れた例の「危機的体験」についてである。 一〇代半ばから二〇代前半にかけての私は、いつ果てるとも知れない 「哲学神経症」の苦しみにのたうち回っていた。そのきっかけは、ほんの 些細なことだった。 中学三年のある春の夜。不眠がちだった私は、枕元においてあった太宰治 『人間失格』を手にした。一気に読み終えた私は、明け方の光りが差し込む のを確認するとともに、自分の内側で奇妙な感覚がうごめくのを感じた。 「ああ、このままではいられなくなる」 それは、それまで長い間慣れ親しみ、すでに自分の一部になっていたある ものが、突然やってきた風の力で、はるか遠くに吹き飛ばされてしまった ような、抵抗しようのない感覚であった。 なす術のない私は、ただ荘然とするばかりであった。最初はとるに足らない ものとして、打ち消してしまおうとしていたこの感覚は、しかし次第に、どれ ほど打ち消しても打ち消しえないものとなっていった。
「私は、もとには戻れないのだ」 それまでの自分ではいられなくなった私は、自分にとってなくてはならない 一切のものを、つまり思考と行動の一切の基準を奪い取られて、そのまま そこに放り出された。 そしてその後、私は、一〇年近くもの間、「どう生きなければならないか」 「本当にそれでよいのか」という抽象的な問いにさいなまれ続けることに なった。 この問いは、いつでもどこでも、遠慮なく、私の生活に侵入してきた。 たとえば食事中に。たとえば友人や恋人との会話の途中に。たとえば試験 を受けている最中に。 そして、この問いが浮かぶや否や、私はその活動の一切を停止して、この 問いを考えることに専念しなくてはならなくなるのだった。 試験を受けている最中にこの問いが浮かんでくるとする。すると私は、 即座に答案用紙を裏返し、その問いをめぐるあれこれの思索をメモ しなければならなくなった。私には、そうしなけれ ばならない「義務」が あると感じられたのだ。 「この問いに対する納得のいく答えが得られるまでは、一切のことが 許されない」 私の問題は同時に人類全体の問題でもあり、したがって自分には人類の 意識変革の旗手となる使命があると感じていた私は、その都度の思索の 結果を『二十一世紀旗手』と題されたノートに綴っていった。
当然、受験勉強などする余裕はまるでなく、中学生のとき東大志望だった 私は、高校では完全な落ちこぼれとなっていった。 「死ねばこの苦しみの一切から解放される」――そんな思いに取りつかれて、 死の誘惑にかられたことも、一度ではなかった。 こうして私は、「哲学する病」のために、まさに青春をまるごと棒に振って しまった。そして一〇年近く続いたこの苦しみの、いわば極限において、 私は救われたのである。 大学三年の秋のある日曜の午後。前日の晩、例によって「あの問い」に とらわれてから一睡もせず、十数時間もその問いを間い続けたため ほとほと疲れ果てていた私は、ついに観念して、その問いを放り出して しまった。「もうどうにでもなれ」と。 するとどうであろう。ついに力尽き、朽ち果てたはずの私は、なおも倒れる ことな<、立つことができているのであった。 しかもその立ち方は、「自分が立つ」という通常の立ち方ではなく、自分が 一切の力を抜いても立っていられるという――むしろ自分の根底に与え られた「いのちの働き」そのものが立っているという――そのような仕方で 立つことができているのであった。 これは、驚きであった。 また、新たな発見でもあった。
それは、人間とは本来何であるかを、そして「生きる」とはどういうことかを 「初めて知った」という感慨であった。 私は一以前とはすっかり変わり果てた自分自身の姿への気づきを通して、 人間とは本来何であり、生きるとはどういうことであるかを初めて「告げ 知らされた」のである。 私は今、もし自分がこのような経験をすることがなかったらと思うと、 寒々しい思いがする。せっかく人間として生まれたのに、人間とは本来 何であり、生きるとはどういうことかを、一度も知ることなく、生涯を過ごす ことになったのだから。 たしかに私は、「哲学する病」のために青春を丸ごと棒に振ってしまった。 けれども、「このような経験をすることができて本当によかった」という思い が、今、私にはある。だから私は、自分がやった方法を、他の人にも試して みてほしいと思う。 私は何も、私の個人的体験を絶対化するつもりはない。人に押しつけたい とも思わない。そん なことをすれば、神秘体験を絶対化したオウムの信者 と同じになってしまう。 けれども、本書(とくに第四章)で提示した哲学的自己変革の方法を徹底 するなら自分がどう変わっていくかを、各自で確かめてみてほしい、という 気持ちはある。本書の隠れた執筆動機の一つは、実はこんなところにある のである。 ( 『カウンセラーが語る・自分を変える〈哲学〉』 より)
最近の学生を見ると、動機付けが弱いですね。何のために勉強して、
何のために働くのかが分かっていない。今の世の中、勉強しなくたって、
フリーターになったって、車は持ってるし、海外旅行にもいけるし
となってくると、「何故勉強するのか」 を実感させるのは、非常に難しい
ですね。世のため、人のためと言ったって無理です。
とすると 「夢」 とか 「使命感」 です。人権とか、環境とか、「これは
世の中大変だ」 と思うようなことを知らせる。 「私、ちょっと頑張って
勉強して、こういう仕事に携わってなんとかしたいよ」 と思う使命感。
そういうものを持たせる 「使命感の教育」 は、すごく大事だと思います。
日本は、いま問題が山積みじゃないですか。 「俺がやらなければ、誰が
やる」 という教育。そういうときは、「問題を発見する力」 が大事なんです。
学校の試験みたいに、「はい、これが問題です」 っていうようには世の中は
問題を提示してくれない。だから 「何が問題なのか」 を見極める力は、
すごく大事になってきます。
http://web.archive.org/web/20031230024405/ http://daigakushinbun.gr.jp/sinnen5.htm 諸富祥彦
1963年福岡県生まれ。1986年筑波大学人間学類、1992年同大学博士
課程修了。英国イーストアングリア大学、米国トランスパーソナル心理学
研究所客員研究員を経て、現在、千葉大教育学部助教授。教育学博士。
2004年4月から明治大学文学部助教授。臨床心理士。日本トランス
パーソナル学会会長。
ヴァレラ『身体化された心』は、「識一元論」パラダイムの認知科学的 裏付けとして使えるのでは、という期待を抱かせる。しかし、私はむしろ アフォーダンス理論のような「外界」の存在も認めていった方がいいと いう考えもある。 アフォーダンスの本ももう少し必要だが、これをやっている人はちょっと 「お利口ゲーム」の世界に入っているなと思わせるところもある。扱い には注意が必要だ。 ペースに巻き込まれてはならない。 学問の世界、「お利口ゲーム」の人が大半である。 著者から「魂の実質」を見通すというトレーニングを一方で忘れないよう にすることは重要だ。 要するに、三種類あって、 1.本当のことがわかってしまって、人に伝える戦略として書いている人。 2.書きながら徐々に、おぼろげな直観をたしかなものにしていく人。 3.「お利口」であることで人の上に立とうと頑張っている人。 というわけだ。私は現在2のタイプである(つもり)。
さて、ヴァレラの『身体化された心』(工作舎)をざっと見た。もちろん端か ら端まで読むのではない。とりあえずエッセンスだけわかればいいのだ。 いろいろ書いているが、本質的には単純なことだ。つまり、最初にある のは「経験」であって、主体と世界はそこから生起するということである らしい。とすれば、ヴァレラは西谷啓治をひいているが、基本的には 西田の「純粋経験」に近い立場ではあるまいか。ヴァレラは「構造的 カップリング」というが、これは唯識で言う、見分・相分の二つを生み 出す「識」なのではないか。 ヴァレラはアフォーダンスにも触れていて、それは環境の実在性を肯定 してしまうと言って批判している。しかし私が思うに、それは環境の 「客観性」を示すものと受け取る必要はなく、そのように生物によって 「読み出される潜在的可能性」を有すると解釈することもできるのでは ないか。 まあ、率直に言わせてもらえば、この程度のことがわかるために認知 科学に一生かけなくたっていいよな、という感想である。唯識はもっと 深い。 また、翻訳だが、mindfulness を「三昧」と訳しているのは、ちょっと問題 あり。mindful meditation が「三昧瞑想」? これは日本で普通「ヴィパ ッサナ瞑想」と言われているもののことである。訳者は、仏教の知識は 十分でないようだ。 とはいっても、「識のみ」という認識論が認知科学でも肯定されている というのは、一つのサポートではある。しかし、ヴァレラの立場では、 まだ「阿頼耶識」の問題は解けない。重要なことは、さらに先にある。
一方また、『死を超えて生きるもの』(春秋社)は、「霊魂の永遠性に ついて」という副題がついていて、死後存続の可能性を論じたもの。 グロフやクリップナー、タート、シェルドレイクなどおなじみのメンバー によるアンソロジー。これはかなり「ぶっ飛び」とも言えるが、ほとんど は死後存続肯定の立場である。 私が好感を持てるところは、「人間が経験しうること」を最大の振り幅 を持ってとりあげ、「人間がこのようなことを経験するとは、いったい どういう意味があるのか」と真摯に考えてゆく姿勢である。 私も基本的に、こういうアプローチを取る。その意味では大変参考に なるものである。
397 :
没個性化されたレス↓ :04/09/12 21:16:28
懲りない奴だな! アンチ菅原なのか? メール出したっていうのに・・・ あんた、もうやめるって言っただろ?
霊的思想と呼びうるものの要点は、「霊的な知覚器官を発達させる 必要性」を認知しているかどうかにある。つまり、ただ世界はこうだと 言うだけではなく、「いかにしてそれは実際に知りうるか」という視点 を合わせて持っているということ。 そこを欠いてしまっては、メタフィジックに終わる。 いろいろ批判は多くあるのだが、ウィルバーなどの思想はいちおう それはおさえている。 それがないということは、自分は実際に知らないことを書いている という可能性が高いのである。
399 :
没個性化されたレス↓ :04/09/12 21:27:07
漏れはもっと読みたい
400
現代社会では「感覚次元を超えた世界次元」が存在し、時に私たちは そういう次元と交差する経験を持つ(正確には、そういう次元もすべて 私たちの中にあるのだが)ということが「事実」として認知されてはいな い。それが「常識」となっている。 学問というのはソクラテス以来、世間の常識の根拠を問いただし、真実 を追究するものであるはずだが、現存の学問の99%は、こうした現代 社会の常識を前提として、その上に成り立っている。常識を疑い、破っ ていけるような人間はごく少数の天才だけなのだ。それはいつの時代 にもかわりはない。学者といっても、ほとんどは凡才であって、人よりち ょっぴり頭がいいという程度にすぎない。――おっと、こういう論法で行 くと、まるで私が天才だと言っているみたいに聞こえるが(笑) 決して そういう意図はない。それに、こういう才能というのは、学校の勉強で いい点をとるというのとは全く違う性質のものなのだ。 ただ、私としても、既存のアカデミックな学問が究極的には「無根拠」で あることに20代で気づいたのは大きなことだったとは思う。これには ポストモダン思想の恩恵もあったのだが。それ以来アカデミックなキャ リアというのは全く無関心になった。就職さえしてしまえばこっちのもの である。
ともあれ、私がいつもすすめているのは、理論から入るのではなく、 「人間には何が起こりえるのか」ということをできるだけ大きな振り幅の なかで知るということである。古代の名言で言う、「われは人間なれば、 すべて人間的なるもの、われに無縁ならず」である。 私は90年代から気功やヨーガなどにも手を染めるようになり、現代では 認知されていない現実領域について少し体験的理解を得るようになった。 その結果、90年代初めには、現象学−構造論によって世界地平論を 展開することの思想的限界を自覚していた。そこで、日常世界がある 「識」によって生起しているなら、たとえば気の体験などの現実世界は また別種の「識」がそこに生成する(もしくは眠りから覚める」というに なるわけだから、つまり異次元、多次元の現実といってもそれは識の 拡張、そして知覚能力の拡張として理解できることになる。ウィルバー の『進化の構造』にはこうした考え方がはっきり述べられている。 私のそれまでの世界観は崩壊し、新たに、「こういう体験が存在しうる ことを前提にした世界観」へのシフトが余儀ないものとなるのである。
403 :
没個性化されたレス↓ :04/09/12 22:22:15
ううむ
詳しいことは『魂のロゴス』にみな書いてあるのでそちらを読んでいた だきたい。ここでは臨死体験ももちろん触れてある。そこでは脳内現象 説などは初めから問題にしていない、というか、そういう見方の成り立つ 世界観的前提を問いただすという姿勢に立っている。つまり、「存在論 的問題に対して存在の世界にある一項から説明しようとしている」という 矛盾があるものと考えているのだ。この問題は、現実であるか否かを どちらかに決定しようという問いの立て方そのものが誤っているのであり、 問題は解釈学的地平にあると書いている。私は「脳」というものが本当 にあるのかどうかは絶対的に決定できない、という思想的立場に立って いる。つまり、私たちが「脳」というものが実在すると認知していること 自体が、私たちの共有している解釈学的地平に依存している現象なの であり、脳というものはあくまでそうした一つの世界分節の中の一項に すぎない。それを基点として存在論的問題を論じるのは論理階梯のエラ ーとなるのだ。 ・・なお、大急ぎで断っておくが、本そのものは、上のようにむずかしい 言い方で書いてあるわけではない。手短に書こうと思うとかえってむず かしくなるのだ。そこは専門語というものの効用でもあるわけだが。
そういえばモンローのヘミシンクというものがあった(いきなりだが)。 最近モンロー研究所のワークショップ内容を記した本がベストセラーに なっているそうだ。私はどうもベストセラーというとかえって読む気がし ないのだが、ああいう情報が世の中に知れるのは悪いことだとは思わ ない。モンローの本はずいぶん昔にアメリカでベストセラーになっている のだ。 こういう意識体験があることを認知するのはよいことだ。そういうものが 実在するということが事実として認知されれば、これまでの哲学や学問 の体系は根本から揺らいでくる。アカデミズムはそれに反応はしない だろうが、一般の人はますます、事実に気づいてくる。それはよいこと である。そこで私の役割も徐々に変化してくるだろう。それがどういう ものかはまだ明確にわかっていない。 次作は、もっと広い読者層を獲得することを視野に入れて書きたいと 思っている。だが、あまり拙速に事を運ぶつもりはなく、私自身が新しい ステージに入ることがまず先決である。
406 :
没個性化されたレス↓ :04/09/12 23:05:44
ううむ
407 :
没個性化されたレス↓ :04/09/12 23:15:54
菅靖彦ラジオ出演age
408 :
没個性化されたレス↓ :04/09/12 23:37:44
409 :
没個性化されたレス↓ :04/09/13 00:23:31
408の日記からのコピペ __________________________________ ところでアマゾンで江原氏の「スピリチュアル・ブック」のページを見ると 、絶賛するコメントが並んでいるなかで、一人だけ酷評しているものがあっ た。 すると、「ははあ、これはエネルギー防衛に入ったな」ということがわかる のである。江原氏のエネルギーに対して自分の殻を強化してブロックしよう としているのである。そのエネルギーを入れると今の自分のあり方を変えね ばならなくなるのに、無意識に抵抗している。そして、「スピリチュアル」 ということを、違うイメージで理解しようとしている。しかし、今ここで、 巨大な愛のエネルギーに対してオープンになること以上に、スピリチュアル なことというものはない。この人は、それがわかっていなくて、スピリチュ アルを「いかにも」というイメージでとらえようとしているのではないか。 __________________________________ ↑ 「日記」を読んでると、ちょっと傲慢なとこがあるね。 やたら「波動」ということばでうやむやにしてる気がする。
410 :
没個性化されたレス↓ :04/09/13 00:27:17
江原みたいなアル中ぽいひとの言葉を真に受けるなんて信じられない
411 :
没個性化されたレス↓ :04/09/13 00:43:18
>>410 ちなみにコピペした部分は
<2002/05/01 (水) サニワ>
です。他にもいくつか鼻につく部分があります。
まぁ、批判するとSH氏は
「ははあ、これはエネルギー防衛に入ったな」
とどうせ思うんだろうけど。
それでもSH氏のHPや日記は参考になる部分が多い。
しかし、「はぁ?何炒ってんの?」と思うところも少なくない。
この人を通して高橋巌氏の著作を読むようになったの収穫ではあったが。
412 :
没個性化されたレス↓ :04/09/13 01:00:01
>>411 たしかに、日記に「霊的修行をすると、家族に影響が及ぶことがある」などと書いてあったのは少し思い当たったので参考になりました。
ただ、この人は縦思考が強いんだろうな、と感じさせることが多く(やたらと星3つなど評価をつけたがる)、そこが少し気になる。
413 :
没個性化されたレス↓ :04/09/13 02:07:00
677 名前:名無しさん@占い修業中 :04/09/13 00:07:22 ID:??? 世界ヒーリング連盟会員。 和光大学人文学部芸術学科を経て國學院大学別科神道専修II類修了。 1989年にスピリチュアリズム研究所を設立。 英国で学んだスピリチュアリズムを取り入れ、カウンセリングを行う。 また、『an・an』などの雑誌誌上で恋愛や結婚、仕事、人間関係などについてアドバイスもする。 また、武蔵野音楽大学で声楽を学び、音楽の分野での才能も発揮している。 主な著書に『幸運を引きよせるスピリチュアル・ブック』『人はなぜ生まれいかに生きるのか』 作家の佐藤愛子女史との共著『あの世の話』、その他『江原啓之のスピリチュアル子育て』、 『愛のスピリチュアル・バイブル』、『スピリチュアルメッセージ』など、著書多数。 肩書き大好き江原さん♪ 肩書き自慢優越感♪ 大きく見せたい江原さん♪ 世界ヒーリング連盟ってなに江原さん♪ 肩書き大好き江原さん♪ 肩書き重視江原さん♪
414 :
406 :04/09/13 11:57:13
>>408 >煽るんじゃないって。@のやってることは↑のコピペ作業だからさ。
>わかったかコノヤロー!
煽っていると思ったの?
「ううむ、困ったものよのぉ。言って改善される相手ではないし。
ううむと唸るしかすべがないのか、おうむ。」
415 :
没個性化されたレス↓ :04/09/13 15:52:42
SHサン、ブログになってからのほうが文章の質が良くなったね。。 さるさるの方はボヤきが多すぎて読みづらい・・
416 :
没個性化されたレス↓ :04/09/13 23:36:38
それにしてもSH氏は江原氏の某掲示板での自作自演事件をしらないの だろうか?このことを知りたいひとは占術理論実践板の江原スレの住人に 聞いてみるといいでしょう。 私は自作自演と思われるカキコを見たものです(もうけされた可能性がある)。 データを保存してる人もいるようなので江原スレで聞いてみるといいでしょう。 スレ違いすいません。 SH氏の「サニワ」はあてにしすぎないで、自分で判断すべきでしょう。
417 :
没個性化されたレス↓ :04/09/14 09:09:17
参考にしてください。江原 part6からのコピペ(キャッシュなら読めます)
江原啓之とY塾(2)
スピリチュアリズムを騙る霊能タレントの実像〈資料編〉
ttp://www.paperbirch.com/kaleidoscope/kaleido011.html まずはY塾掲示板#0488[02/10/14<月>-02:58] の『私の感想』というタイトルの発言。江原啓之名義での投稿です。
「第一印象(中略)
しかし書き込ませていただく以上もう少し深く考察させていただかなければとも思い、失礼ながら少し霊的に調査
させていただきました。
そのために、スピリチュアリズムの実践を第一にしている、経験豊な大御所霊能者3人とサニワ1人のご協力を得て、
そして僭越ながら私の計5人により霊査ならびに分析をさせていただきました。
その結果、今は不安定(理由はのちほど)ながらも、高次からのメッセージを受けているとの結論にいたりました。
このような世界に多い思い込みによる一人芝居のメッセージではなく、確かに霊的世界よりの働きかけがある。
ということを4人それぞれ霊能者が霊視。
また内容についても、歴史的通信そして過去日本で研究された通信なども参考にして、サニワが中心となり5人で
分析し高次の働きがけがあると判断しました。
またこの場で明かす必要も無いので書きませんが、どのような霊からのメッセージであるかも確認いたしました。
(勝手に調査してしまい、申し訳ありません。また霊能者ならびにサニワの名前もこの場では公表いたしません。
ご了承ください。ご希望あればY塾さんには、お伝えいたします。)」
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↑「スピリチュアリズムの実践を第一にしている、経験豊な大御所霊能者3人とサニワ1人」って
誰だろう?
本当に実在している人間なのか、それとも江原さんの脳内にしかいない人間なのか???
つーかY塾の掲示板で江原さんが自我自賛の自作自演をしたことがIPでばれた事件があるから
江原ファンには悪いけど、脳内人間としか思えない…。
418 :
没個性化されたレス↓ :04/09/14 17:17:07
誰か、パラトラパ雅さんのさるさる日記のURL教えてくれませんか?
419 :
没個性化されたレス↓ :04/09/14 21:44:09
あ
420 :
没個性化されたレス↓ :04/09/15 01:11:20
このスレの固有名詞の部分、ぜんぜんわからない みんな、わかって読んでいるの? トランス固有 のはずなのに
422 :
420 :04/09/15 11:35:54
はっきり言ってしまえば、日本の人名。
>>420 固有名詞、ほとんどわかるけどな。
まだ若いんでしょう。ガンガレ。
424 :
没個性化されたレス↓ :04/09/15 15:17:40
SH氏の日記にも書いてあったけど、霊的なことに携わってる人って、 ウイルスメールなどのアタックを受けやすいよね。 まあ、多少有名になればみんなそうなのかもしれないが・・
425 :
没個性化されたレス↓ :04/09/15 16:10:47
yp
ギャグ?
427 :
没個性化されたレス↓ :04/09/16 21:06:09
なにが?