1 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
01/12/17 17:15 これって心理学なんでしょうか? 確かに面白いんだけれど。 どこまで信じていいのやら。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/17 17:16
心理学ではないので、無視しましょう
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/17 17:28
「心理学」に拘り続けるから、心理学者はいつまで経っても、 社会学者や医学者に小馬鹿にされる。 それどころか、相手にもされていない。事実、社会的な出来事や 事件に際して、有力な発言を行っている心理学者と いうのは存在するだろうか? 発言しているのは、殆どが 精神医学者や社会学者、教育学者であり、哲学者以上に心理学者は 社会の関心事に対して、何ら発言をすることが出来ないでいる。 仮に発言している心理学者がいたとしても、河合のように 他の学問出身であったり、あるいは他の学問(文化学など)と 兼業している学者が多い。 新しいパラダイムを構築することが、常に科学にとっては 必要であり、「心の科学」たる心理学にとっても、 心理学の範疇を超える動きが必要であるように思われる。 その意味では、諸学の融合を目指すトランスパーソナルの潮流を、 私としては支持したい。
>>3 9割は、同意。非常に大切なことを言っていると思います。
ただ、トランスパーソナル心理学って、私にはオカルトにしか
思えないんですけどね。あくまでも私的な考えですけどね。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/17 21:29
心理学をココロの科学とする場合の、ココロの定義を問いつめたい所ですが、小一時間ほど。 まあ、それはおいといて。 心理学の大部分は、もともと「社会的な出来事」なるものへの発言を志向していないですから。 心理学者のほとんど誰もそんなこと気にしてないだろう。 さもそれがステータスであるような言い方は、ちょっと嫌だなぁ。 しかも、心理学、と一括りにする辺りも、ちょっと古いデスネ。 まあ、2chに来る人の大部分がそうなので、しかも板が分けられている以上、仕方ないのかもしれないですが。 学際的にやってますよ、心理学も。少なくとも、私の周りでは。 拙すぎる私の学部卒業論文ですが、引用文献の中にけっこう医学や社会学のものが混じってた。 混じらざるを得なかった、と言った方が正確ですが。 私ですらそうなのだから、他の一流と言える研究者は、言われるまでもなく新しいパラダイムを模索してますよ。
例えばまあ、物理学者や生物学者が、 社会問題について論じるのは何だかナンセンス。ということですが。
>>5 私も、医療系や社会学の論文は、卒論でも修論でも使って
いますよ(苦笑)。
>>5 追加
それに加え、教育、マスコミ系の論文は、卒論でも修論でも使っていま
すよ(苦笑)。しかも、その論文の一部は、来年の2月に、京都の某大
手出版社(ナカ○○ヤ)から、出版予定です。
あ、文章が、変。まぁいいや。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/17 21:51
ほう? ナカニシヤ……。興味ありですねぇ。良ければ書名を……こそっと。 分野とヒントでも教えていただければ、探し出しますが。 あそこなら、まあマトモな本になると思いますので、頑張って下さいね。(権威主義?) ええ、当然、普通にちゃんとやってるとこなら、卒論ですら他分野の論文が出てくる。 ので、3の視点はちょっと古いなぁ、論点も微妙にずれてるかなぁ。。。と。 トランスパーソナルに関しては、詳しくやったことがないので言及しませんが、 社会への発言力=その学問の意義、というのは、どうかと思っただけ。あしからず。
>>10 いえ、ナカノミヤです。 ← どこやねん。
はい、たぶん、ご想像されている出版社です(笑)。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/17 22:01
書名……まあ、2月まで覚えていたら、探して見ましょう。 何屋さんですか? ちなみに私、最近ちょっと、極端すぎるスキナリアンに手を焼いている、社会心理屋ですが。 ああいう輩が、学問の裾野を狭め、孤立させ、閉塞させる元凶なのだと、痛感中です。 しかもそれを、良いことだとカンチガイ。救いがない……。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/17 22:10
スキナリアンとは?
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/18 00:38
トランスパーソナルは、科学的なオカルトです。。 しかし、臨床的知見や研究結果に裏付けられていますので、 その意味では従来的なオカルトとは一線を画すように思われます。 それに、別にオカルトであっても良いではないですか。 心理学は客観的な立場に徹しようとするあまり、 人間の心というものを、あまりにも細分的に捉えてきたように 思われます。皆さんも心理学を研究していて、 あたかも理論やモデルごとの人間が存在するかのような感覚を 感じたことはないでしょうか? 人間の心理とは、そんなに簡単な ものではないはずなのに。そういった意味では、トランスパーソナルの 研究動向は、非常に注目されると思われます。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/18 00:56
トランスパーソナル心理学ですか。 私の考えでは、トラパーは、人間性心理学の、誤った進化型ですね。 私のトランスパーソナルについての知識は新しいものではないのですが 、その、私の知っている範囲内で説明します。 まず、薬物による幻覚と、至高体験による「悟り」とは現在の科学では 区別できない。 しかしながら、この両者が同じものであるともいえない。 しかしながら、トランスパーソナル学者は、この両者を混同している。 また、 「悟り」なるものを支える下部構造の研究が、トランスパーソナル学で は、全くと言っていいほどなされていまい。 との旨のことを、某トランスパーソナルの創始者の一人がおっしゃって ます。 つまり、トランスパーソナル学は、その学的根拠をすでに失っていると 言うべきでしょう。 でもまあ、治療に役立つらしいから、いいことにしましょう。 だけど、「学問だ学問だ」と騒いでしまうのは、どうか。 別にアカデミズムに浸っているわけでもないけど、トラパー学会って まともな学者があんまりいないんですよね。 ジャーナリストとか、音楽家とか、シャーマンとか、つまり学問的に はアマチュアの集団なのでは。 だから、学問的な地位を勝ち取るのは、難しいと思いますよ。
>>12 どう狭めているのか、興味深いところです。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/18 11:47
ということは、学問としては?マークがつくけれども 臨床においては有効である、というところですかね。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/19 02:14
前スレは何処行った?
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/19 15:53
ケン・ウィルバーって天才なの?
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/22 12:04
>>15 いや、学的根拠はあると思うよ。私にはトランスパーソナル心理学が、
現象学と批判心理学の延長線上にあるように見受けられる。
いかなる学問でも黎明期には、自らの学的アイデンティティを
確立するために、他の様々な学問や実践を
貪欲に取り入れようとする動きがある。現在のトランスパーソナル学会が
心理学者のみならず、哲学者や宗教家、ジャーナリスト等で占められているのは
黎明期に特有のそのような動きの中にあるからではなかろうか?
むしろ見方を考えれば、いまのトランスパーソナルは、従来の心理学を超え、
新たな学的潮流を創生しようとする気概を有しているのではなかろうか?
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/24 17:01
ケン・ウイルバーは天才。 でも最近は、やりすぎでは。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/24 23:55
ドラッグのやり過ぎでパラノイアになったりしないだろうか。(キグ
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/25 18:55
LSD研究等は30年ほど前。法律で禁止されてからは勿論やってません。(個人的には再開して欲しいが。)
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/14 16:29
少なくともトラパは科学的であることに拘泥していないな。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/14 18:28
>>24 科学の相対化なんて運動も今時はあるしね。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/30 20:41
トラパは心理学の第4勢力です。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/30 22:53
漏れ諸富せんせの本、序文読んだだけで 怖くなって読むの止めた。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/30 23:28
御愁傷様
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/31 00:16
実験屋だけど、トラパは興味あるよ。 内的な整合性がありさえすれば実証不能でも学問としてOKだ。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/02 01:50
トラパを教えている大学や大学院、 教授陣はどうでしょう? 千葉大の諸富さん 文教大の土沼さん 茨城基督教大の鈴木さん 他に居られるかな? 現状とか研究内容・状況・学生の扱いとか・・・ 詳細きぼん!
^ ^ ● ● ● 人 メンヘルで、某大学の助教授が 面白いことやってるよ。 「物事を難解に」の250あたりから 読んでみて。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/18 01:58
>>31 茨城キリスト教大学って・・・
むかし茨城の私立大学でアカハラがあって自殺者まで
出たって聞いたけど、ここじゃないよね?
茨城のドコの大学ですか?>アカハラ大学・・・
輪廻転生をそうなんだと決め付けるあたりは好きになれない。 トランスパーソナル(個と個のあいだ)を追求するのは好きなんだけどな。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/01 03:12
理論的には、トラパーって壮大で見栄えは するのだが、果たして、臨床現場における実効性 の方はどうなのですか?確か、読んではいないのですが、 諸富先生が治療法に関する著作物を出してはいたみたいだ けれど・・・ それから、今春に実施される予定?なのかな、諸富先生が 中心になって実施するE.Gみたいな国際的な集まりって どうなっているのかな?参加しようとも思ったけれど、金 なくってやめたんだけれど・・・
>(個と個のあいだ) え?個を超えた、って意味じゃないの?トランスパーソナルって。 それは、イントラパーソナルだと思ってたよ。 イントラサイキック<イントラパーソナル<トランスパーソナル って具合にね。
私としては個と個のあいだ、に興味があるので、トランスパーソナルの個を超えた というところまではかなり参考になる、ということであります。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/05 06:24
でも、確かに日本でのトラパ研究や教育の現状ってどうなってるんでしょう? 誰か経験者、知り合いにでもいませんかね?
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/05 06:27
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/05 11:17
C+Fはどうなん?
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/05 22:25
何故トランスパーソナル学会と 日本トランスパーソナル心理学/精神医学会 は何故、別れたんだろう? 御存知の方います?
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/31 00:37
諸富くん,4月からNHKの人間大学だかなんだかに出るよね?
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/31 17:12
>42 NHK第二放送ラジオですよ
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/04/07 13:12
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/05/05 03:02
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/05/21 03:57
トラパは友達に勧められたけど、まだ勉強してない。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/05/21 04:49
アカデミックな世界では猛烈に叩かれている分野みたいだけど ここのみなさん大丈夫? テレパシーなどアポロ計画でも公開実験あったくらいだし、もう少し認められてもいいのにな。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/05/21 05:15
トラパの源流ってやっぱユング?
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/05/21 05:22
>>48 直接の源流はマズローらいわゆる人間性心理学だろう。
ユングは後知恵みたいな形で繰り込まれたのでは?
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/05/23 05:40
霊的世界観の哲学的根拠
http://www.nct9.ne.jp/mandala/study.html > スピリチュアルな世界観というものを、知的にも納得のいく形で理解して行くには、
> どのような勉強をしたらよいのか? という声がよく寄せられます。
> そこで、ここではこれまでの経験に基づいて、そのポイントを解説いたします。
> しかしどうしても、これ以上簡単には説明できません。私が準備中の本では、
> もっとわかりやすい説明を考えていますが、ここではコンパクトにまとめています。
> そもそも私が以下の立場に到達するには10年程度の研究が必要でしたので、
> 数十分でわかってもらえるとは思っていないのです(笑)
> 本当にこのような勉強が必要なのでしょうか? 私の考えは、「誰にとっても
> 必要だとは思わない。しかし、役に立つという人もいるだろう」ということです。
1.科学のパラダイム論を知り、科学万能主義を超えること
2.量子物理学を知り、ニュートン的世界観がすでに超えられていることを知ること
3.「現実」とは共同主観的に構成されるものであるという考え方を知ること
4.私たちの「現実」は共同主観性を超えて存在しうる可能性を考えること
5.神秘学の伝統を参照しつつ、私たちの経験可能性を考えること
6.さらにその先の展開
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/05/23 17:00
>>50 1から3までは,
トラパじゃなくても人間を対象とする学問を学ぶ者にとって必要な基礎的教養だろう。
ただし,2の「ニュートン的世界観がすでに超えられている」という言い方は
初学者の誤解を招きやすいので避けた方がいい。
4から6は...何とも言えんな。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/10 22:20
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/23 18:28
C+Fワークショップが朝日カルチャーセンターセンターの通信講座で「自己探求の心理学」というのをやってます。 面白そうなので申し込んでみました。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/24 18:18
講座が届いて、今一つ目のワークをやりました。これは自分の人生を、運命の神様とい う視点から書くものです。自分史を書いたことはあるのですが、辛かったことを中心 に書いてしまい、自分の人生の見方が一面的になってしまっていました。運命の神様 という視点で書くことによって、自分の経験を肯定的な意味と目的があるのだという 見方で見ることが出来ると分かって、やってみて驚いています。例として載っていた ものを書いてみると、 「高岡よし子を1960年に鹿児島県薬師町で生まれさせたのは、まず暖かい土地で のんびりとした子供時代を送って欲しかったからだ。(略)薬師町というのは、英語 で言うとメディスンマン。後にこの子は「癒し」に関わる仕事をすることになるが、 その運命を自覚させるためにこのような地名を選んだ。・・・」という感じで、想像 力をフルに使って書いていきます。 トランスパーソナル講座、なかなか面白いですよ。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/03 03:11
そなことやとる暇あったらいい治療法みつけよ
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/03 21:04
「学問的にはトンデモだけど、臨床的にはOK」 というのはすべての臨床心理学に当てはまると思われ。 トラパー好きだけど、心理板じゃなくて精神世界板みたいのが 2ちゃんにあればいいのにね。
>56 反証:系統的脱感作(別に何でもいいが代表例として)は 臨床心理学であり、臨床的にOKであり、かつ学問的にもOKである
58 :
ホワイトノイズ :02/07/03 22:28
C+Fワークショップ、ブレスワークを一昨年前に体験しました。 2〜3歳頃の私の悲しい思い出を思い出しました。 この出来事を私はその後数十年意識の下層に押し込んで、抑圧していたのだと思いました。 今となっては、何の意味もないことなので、その気持ちを癒すまでもありませんでした。 それからは、今の身の回りの些細な出来事が凄くリアルに感じられるようになりました。 いいことも、腹の立つことも、残念なことも全て、めでて、味わえます。
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/03 23:25
>>57 そうかなあ…
臨床心理学の「正当性」は治療結果の統計的有意性しかない
(治らなきゃ正しくないが治れば正しい)
のだから、学問的には反証不可能でしょう。
#学問的に正しいが治らない、なんてのは臨床心理学として認められない
学問の「正統性」を反証可能性におくとしたら、
厳密には臨床心理学は学問とはいえない。
#学問というか科学か
わかりやすくいうと、療法Aが内部的整合性を保っており(学問的にOK)
かつ臨床的にOKであるときに、療法Aと治療との間には因果性があるが、
その因果性と療法Aが想定する因果性が等しいとは限らない。
(意図に反して治ってしまうことがありうる)
自己レス。 学問か否かの話しをしているのであって 科学か否かの話しではないのだった。 内的整合性があれば反証不可能でも理論としてはOKなんだな。 ただし、そうはいっても臨床心理学は治療という「目的」を 持ってしまっているがゆえにすべての理論は「因果的説明」の形式を 強いられるのではないか。 だとするとやはり「療法と治療との間の因果が、当該療法の想定する 因果性が等しいとは限らない」という批判は妥当ではないか。 さらに自己レス。 臨床心理学の学問的準拠を「臨床実践の自己記述」におくことにしてみる。 さてそうすると、「トランスパーソナルは学問的にNGで〜〜は学問的にOK」 という「判断」はいかにして可能なのか。 トラパーは記述の構成要素間の関係が複雑なだけではないか。
61 :
没個性化されたレス↓ :02/07/05 02:49
トラパーの治療法教えて欲しいです。 実際的な存在意義がないと、生き残れないように思えます。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/06 22:23
>>60 まっ、ようするに資料が検討の材料になりにくいってことだろ。
非行少年とユタ(シャーマン)というのを今放送大学でやってる
64 :
没個性化されたレス↓ :02/07/07 00:13
65 :
没個性化されたレス↓ :02/07/13 08:31
トランスパーソナルを勉強するためには、何処の大学がいいでしょう?
66 :
没個性化されたレス↓ :02/07/13 09:05
>>60 なるほど、たしかに科学ではなくても学問、てェ場合はありえますな。
哲学とか神学とか。
67 :
没個性化されたレス↓ :02/07/13 09:31
>>65 文教大学の臨床心理やってますが、土沼先生はその道で結構
有名かな?結構個性あって面白いかも 私には合いませんでしたがw
68 :
没個性化されたレス↓ :02/07/13 09:51
日本ではトランスパーソナルと打ち出して勉強できる大学はありません。一部有志の先生が軽く触れる程度でしょう。本格的に学ぶには、例えばサンフランシスコ周辺の特定の大学院に行くしかないです。
69 :
没個性化されたレス↓ :02/07/13 12:42
70 :
没個性化されたレス↓ :02/07/13 12:55
トランスパーソナル学を学ぶには 〜 進学・学習ガイド
http://homepage1.nifty.com/mandala/guide.html トランスパーソナル系進学ガイド
http://homepage1.nifty.com/paratorapa/sinro.htm これを参考にするとよいでしょう。すでに移転元の情報で
いずれ消えるかもしれないので、国内の情報を引用しておきます。
以下はいずれも学会の理事の方ですから、ずっと話が通じます。
● 文教大学 人間科学部臨床心理学科 (土沼雅子教授)
臨床心理としてトランスパーソナルを学ぶには、
日本で最も適した環境だといえます。
土沼教授は日本トランスパーソナル心理学/精神医学会の副会長であり、
トランスパーソナル心理臨床においては代表的存在です。
臨床心理士の資格が得られます。
ただし、学部・大学院とも競争率はきわめて熾烈なものがあります。
● 茨城キリスト教大学 (鈴木研二教授)
鈴木教授も臨床心理の専門家で、
日本トランスパーソナル心理学/精神医学会の理事です。
ここの院生には、日本トランスパーソナル心理学/精神医学会の
会員になっている人が多くいます。
かなり自由にやらせてくれるようです。
71 :
没個性化されたレス↓ :02/07/13 12:56
● 千葉大学 教育学部 (諸富祥彦助教授) 諸富助教授も、トランスパーソナル心理臨床の数少ない専門家で、 日本トランスパーソナル心理学/精神医学会の理事です。 ただし、大学・大学院レベルでどの程度トランスパーソナルを 教えているかは、よく知りません。確認してください。 ● 愛媛大学 大学院教育学研究科 (中村雅彦助教授) ここでは、超心理学などとも関連させて、 トランスパーソナルについて研究することができます。 中村助教授は『臨死体験の世界』『超心理学入門』などの著者で、 日本トランスパーソナル心理学/精神医学会の理事です。
紹介アリガトさん<(_ _)> 当方、真に進学を考えております。 とはいっても、某私大の心理を出ただけでそんなに素養もないのですが。 いまは福祉系の痴呆公務員やってます。 今回は仕事を1時中断しても行くつもりです。できれば名古屋あたりだと通学できる ので助かりますが、無いでしょうかね。
73 :
没個性化されたレス↓ :02/07/13 22:05
旅々アリガトウ
>>73 なるほどね。
お手間取らせました。
ところでブレスワーク、c+fワークショップに出たことあるんだけど
なーんもどうってこと無かったんです。
意識、自我を超えたいなーと。
今度のお願いは無理でしょうか?
厨房ゴメソ。 c+fってなに?
77 :
没個性化されたレス↓ :02/07/18 23:56
78 :
没個性化されたレス↓ :02/07/31 04:28
保守あげ
79 :
没個性化されたレス↓ :02/08/08 23:47
看護学生のための文化人類学入門
http://www.nct9.ne.jp/mandala/jinrui.html > 某看護専門学校における「文化人類学」の講義テキストを再編集したものです。
> もちろん文化人類学の専門家ではありませんが、
> 既存の文化人類学に疑問を呈し、そのデータを用いながら
> 私なりに「伝統社会の世界観」を再構成することを試みています。
> 同時に、看護学生を念頭に置いて、
> 現代の医療や「死」のあり方に問題を投げかける視点を入れてみました。
-------風俗の総合商社・MTTどこでも-------
〇デリバリーヘルス〇デートクラブ〇女性専用ホストクラブ〇
〇ハードSM奴隷クラブ〇レズビアン倶楽部〇ホモ・オカマ倶楽部
〇変態痴女と遊ぶ会〇痴漢・覗き趣味の会〇変態同好会・各種!
●楽しく遊べます! 090-8002-8356番
-----------美男・美女会員など多数在籍中-----------
http://www.mttdocomo.jp/ -----女性アルバイト随時募集・高収入(日払い)月100万円可能-----
-----レズビアン・スタッフ●ホモスタッフ●女性専用ホストスタッフ同募-----
http://www.mttdocomo.jp/ ------------------------------------------------
幻覚性の薬物なんかを入れてやると、抗暗示性が弱くなるのかな。
82 :
没個性化されたレス↓ :02/08/09 00:13
70年代のカウンターカルチャーの生き残り? ヒッピー、セックス、ドラッグ、ロックン・ロール ナツカシ・・・・・・・・。。。。。。。。。
83 :
没個性化されたレス↓ :02/08/09 01:39
>>82 過去のイメージ引きずってる勘違い野郎発見
84 :
没個性化されたレス↓ :02/08/19 22:44
>>83 ただ、やはりドラッグ抜きにはこの分野は語れない
ような気がする。
今流行りの野外レイヴなんかもそんな感じだし・・・
85 :
2チャンねるで超有名サイト :02/08/19 22:48
>83 「過去のもの」ということがいいたかったなですが・・・・。 過去を引きずってるわけではありません。
87 :
没個性化されたレス↓ :02/09/05 23:05
私も一人のサラリーマンですが、トラパー系の本は(特に春秋社刊)は何冊も読みましたが、一種の哲学ではないでしょうか?部外者ですみません。
88 :
没個性化されたレス↓ :02/09/06 20:18
age
89 :
没個性化されたレス↓ :02/09/09 23:20
90 :
没個性化されたレス↓ :02/09/13 18:30
うむ。心理学だね。
異端中の異端だが、心理学といえば心理学には違いない
ってか。。タマでしょ。。悟りも仏も哲学も。。。 輪廻転生、永劫回帰、、全部タマで一瞬にして理解できる。 でも、それは文章なんかじゃ宇宙の塵のより多くの文字が必要で とてもじゃないけど書ききれない。 だから抽象的な教典や絵画や音楽で表現される。 全部タマタマタマ。タマで全てを見れる。 心理学は別かもネ。。
94 :
没個性化されたレス↓ :02/09/27 15:35
タマって何
トランスパーソナルかあ。 本気でやると、宗教に行き着くよね。 オウムの事件で、その方面から足を洗ったよ。
97 :
没個性化されたレス↓ :02/10/06 01:34
逆に、多くの人がカルトに走らないために、トラパがあるのです。毒薬も良薬も薬である点、効き目がある点では共通ですが、全く違うもの。オームとかの似非宗教とトラパもそのようなもので、全く違います。
98 :
没個性化されたレス↓ :02/10/06 06:20
だれかトラパーの現場での心理臨床の事例研究あったら 教えてくらはい。 それから、トラパー学会って機関紙出していたっけ そこに掲載されてそうなんだが
うーん、オカルトってこんな面白いんだなあ。 まあ密教って知れば知るほど面白いしなあ。 ただ、時々現世に帰らないといかんよな。 モノ書いてるとき、もう俺はどこか行ってるし。
101 :
没個性化されたレス↓ :02/10/06 15:33
たまにトラパ好きの中にはいっちゃってる人もいる。スピリチュアルというのを頭から上のものとして偏重して捉えるから? 大切なのは、ボディ、マインド、スピリチュアルの領域をバランスよく学ぶこと。 地に足を着けながら、同時に理性、霊性に開いていること。 欧米ではこの4,5年でボディ・サイコセラピーという分野が急速に伸びてきており、ボディワーク、コンベンショナルな療法、トラパ療法との統合が模索されている。
102 :
没個性化されたレス↓ :02/11/13 14:59
なんだかなーと思いつつ 保全あげ。
103 :
没個性化されたレス↓ :02/12/15 20:54
ほしゅあげ
104 :
没個性化されたレス↓ :02/12/17 03:21
あげ
最近トラパー関連の本を読んで発想が結構興味深かったんだけど、 結局この分野はこの先どうなるんだろう? 神秘体験は別にして、各宗教(キリスト教、仏教、イスラム教など)の人生観を、 臨床の場でも生かそうというのが目的? 河合氏の「宗教と科学の接点」の中で仏教は宗教、哲学、科学が未分化のまま内包されてるとの記述があったけど、 もう少し詳しく書いてもらいたかったな。 哲学ってのはわかるけど、仏教のどのあたりが科学の面かがよくわからんかったもので。
(^^)
107 :
没個性化されたレス↓ :03/01/14 11:18
トラパーの神、山崎渉
105 河合さんのその本ではトランスパーソナルの魅力はあまり 書かれていませんよ。河合センセはユング心理学のひとですからね。 トランスパーソナルは評価してるみたいですけど、彼の本からは 積極的な姿勢はかんじられないな。トラパーの歴史、流れ、これからの展望 なんかをコンパクトにまとまっている本に「コスモロジーの創造」法蔵館 岡野守也 というほんがあります。彼は吉福伸逸氏とともにトランスパーソナルを 日本に導入した人。また仏教の科学的な面についても「唯識」「禅」を 用いながら語られています。まあ、トラパー学会もまとまりがつかないみたいですからね 停滞期といっていいのでは
『魂のロゴス――宇宙と叡智をめぐる対話』 3月17日出版決定
http://www.nct9.ne.jp/mandala/kikaku.html 著者: 菅原 浩 (長岡造形大学助教授)
日本トランスパーソナル心理学/精神医学会(理事)
人間がこれまでの歴史の中で、最も強く求めつづけてきたものは何だろうか。
そして、最も「知るに値すること」とは何であろうか。「知」というものが綿々と
積み重ねられてきた。しかし、いまの社会で教えられ、学ばれている知には、
最も「知るに値すること」は含まれているのだろうか。本質的であることは何も
教えられず、学校や大学の教科にもない。敏感な子どもたちはすでに、
そのような本質的なもののない「勉強」の空しさに気がついている。
人間は時として、深い「魂の憧れ」を覚えることがある。茜色の雲を見ている時、
群青の海原を眺めている時、不思議な郷愁が人を襲う。そして――人間は、
不思議な体験をする。自分の魂のうちに、何かが存在し、それが開かれていく
時――その時、魂の戦慄とともに、ある大きな宇宙をのぞき見ることもある。
あるいは、その宇宙の深奥へと入っていくことも――。
そのような「魂の体験」がある。それを、現在の知的世界はとらえることが
できない。「魂」は学術用語ではないといわれる。かわりにあるものは「心理学」だ。
だが、「魂についての探求」というものが、「心理学」という用語に置きかえられ、
アカデミズムに組み込まれた時、魂について語る行為は封印されてしまった。
人間がこれまでに魂の体験を追求し、そして、さらに魂の故郷である世界を
見出そうと努力してきたこと、その蓄積を受けとめ、それを今日における知の
カタチとして再創造すること。それがいま、必要ではないかと思える。
魂とは何か。魂はどこから来て、どこへ行くのか。そして魂が存在し、地球に 生きていることの意味は何か。魂は体とは異なる存在なのか。答えなどある はずないと思うかもしれない。しかし、人間のこれまでの探求の歴史をふまえ、 それをつなぎ合わせていくと、ある程度のヴィジョンが開けて来るようにも見える。 魂とは実在する。そして、魂を生み出している「源」の世界がある。そして、 魂が生み出している「現実」の世界もある。これらはどのような関係にあるのか。 魂を語ることは、宇宙を語ることでもある。そのことを、言葉として整理し、理解 しようとする――それが「魂のロゴス」である。それは同時に、「宇宙のロゴス」 でもあるはずだ。私はここで、「宇宙」というイメージを科学から解き放ち、 魂の現実として示したいと思う。 ここでは、現代のアカデミズムが恐れて近寄ることがない、本質的な問題が 追求されている。魂が身体とは異なる独自の生を生きていること、その「源」で ある霊的な光の世界、魂の転生、宇宙の存在目的、悪の起源、そして、 人間以外にこの宇宙に住まう存在たちなど。これらはこれまでの歴史において 真剣に探求されてきたことであり、魂について本質的に考える場合には不可欠 のテーマである。決して「ぶっ飛び話」でも「怪しい話」でもない。これらの テーマに対し何らかの態度を決定することなしに、本質的な思想はありえない。 過去の仏教、キリスト教、さまざまな神秘主義の流れ、そして現代において 発見された、臨死体験や至高体験の地平――。これまでの心理学や哲学では とらえることのできなかった、こうした魂の本質に関わるテーマを考えること―― 『魂のロゴス』では、それを可能にする「知のカタチ」を創造しようと願っている。 地球にある魂は、これからどのような世界へ向かっていくのか――その、 はるかな遠い未来に、何が待っているのであろうか――。果てしなき過去から、 果てしなき未来へ、そして過去も未来も同時に存在する場所へ――。 「遠い未来の思い出」が、よみがえる。
『魂のロゴス』出版記念特別企画 プロローグのプロローグ
http://www.nct9.ne.jp/mandala/zenza.html > たとえば心理学という言葉があります。これは語源をたどれば、英語の psychology ですが、
> これは psyche + logos というギリシャ語の組み合わせです。
> プシュケー (psyche) とは「魂」であり、ロゴス (logos) とは言葉という意味ですよね。
> つまり、もともとプシュケーのロゴス、「魂の話」なのです。
> またロゴスという語は単に「言葉」だけではなく、漢語で言えば「理」といいますか、
> ものごとの基本的な筋道を示しています。つまり私なりに解釈するなら、プシュケーのロゴスとは、
> 魂の本質を探究しようとし、それを言葉にもたらすということを意味すると思います。
> その意味でロゴスという言葉をあえて訳さず、「魂のロゴス」と呼んでみたいのですね。
> これに対していまの「心理学」の大多数は、
> もはや、魂の地平を忘れ去ってしまったのではないでしょうか。
> つまり、叡智への意志に基礎づけられていない学問にすぎないのではないか、と思えてしまうのです。
> 学問の世界というものも、その内情を知るものからすれば、
> 業界の利益のために自己正当化の論理に明け暮れているという側面もないことはないのです。
112 :
没個性化されたレス↓ :03/03/01 17:33
http://www2.diary.ne.jp/user/64609/ > 最近知った情報だが、『魂のロゴス』と相前後して、あのパラトラパ雅氏が本を出すそうだ。
> そのタイトルもなんと『呪いの研究−拡張する意識と霊性』である。トランスビューから4月5日刊。
> パラトラパ氏(リアルワールド名中村雅彦)は、一時期まんだら浩とも共同歩調を取っていたことが
> あったが、その後本格的な霊的修行の道に入り、ついに神職の資格も取ったそうである。
> 神職といってもタダの神主ではなく、彼が修行したのは知る人ぞ知る、四国の山奥にある
> 本格的な場所なのである。そこでは特に、呪いに対抗する「祓い」の能力を鍛錬するらしい。
> 要するに、ハリー・ポッターの魔法学校のようなものが本当にあると思えばいい。まさかそんな・・
> と言う人はまだまだ甘い。世間はあなたが思っているより広く深いのである。つまりパラトラパ氏が
> そこをめでたく卒業したということは、彼は実際に呪いや祓いというサイキック・ワールドに
> 現実に生きており、そこでいろいろなことが「できる」ということを意味している。
> そこで『呪いの研究』では、ついにそういうことを包み隠さず、はっきりと書いてしまっているらしいのである。
> う〜〜む。いちおう彼も大学の心理学助教授ですからね。ついにここまで言ってしまうか〜。
> まあたぶん、そういう世界があるということをはっきりと世に知らせるというのが彼の役割なんでしょうね。
113 :
没個性化されたレス↓ :03/03/02 06:20
仏教などを心理学と結びつけるというアイデアは大賛成だが、 「トランスパーソナル心理学」という名前はいただけないね。 いかにも亜流。
114 :
没個性化されたレス↓ :03/03/02 06:22
自分たちを「超自己心理学」なんて呼ぶんじゃなくて 普通に「心理学」とし、伝統的西洋心理学を「自己中 心理学」なんて呼べばいいんじゃないかな。
115 :
没個性化されたレス↓ :03/03/02 14:43
ニュートン物理学が何の問題なく通用するレベルにずっといるならいいけど、 それでは通用しないレベル(外宇宙)を知ってしまった時点で、ニュートン物理学 に代わる語彙が必要になってくる。 一般レベルではニュートン物理学で支障なく生活できるけど、 それじゃ説明できないレベルを発見(意識)した者には、区別させる言葉が必要なのよ。
116 :
没個性化されたレス↓ :03/03/12 06:38
age
117 :
没個性化されたレス↓ :03/03/13 00:37
どうですか?この考え ありですか?
ありです! これを排除したら世の中おもしろみが なくなります。
119 :
没個性化されたレス↓ :03/03/13 01:01
120 :
没個性化されたレス↓ :03/03/13 03:33
>>115 いやそれでも物理学は物理学だろ。
ニュートン物理学という言葉は超ニュートン物理学の出現によって
作られたわけでしょ?
従来の心理学はパーソナル心理学か?
121 :
没個性化されたレス↓ :03/03/13 03:34
いや、ひょっとしてネットにつなぎまくりのコンピュータは トランスパーソナル・コンピュータか。
(^^)
123 :
没個性化されたレス↓ :03/03/26 08:21
ほしゅほしゅ
124 :
没個性化されたレス↓ :03/03/28 01:43
みなさんはACIDの経験ありますか?
125 :
没個性化されたレス↓ :03/03/29 00:21
あなたは無いのですか? そんなにいいもんじゃあないし勧めないよ。 アシッドに期待しても何も得られない。 結局効きが終わったら元の世界だしね。 ていうかこのスレまだ生きてたの?
電磁波でトリップできますか
127 :
没個性化されたレス↓ :03/03/29 13:25
>>125 > 何も得られない。
あなたが「得られなかった」だけじゃないの?
意識を変えた人はいるみたいだし。
私の独断だけど、ジョンレノンの「イマジン」などは、ただ平和をイメージするという
ことじゃなく、個の縄張りを消し去った境地を歌っているのではないかと。
つまりトランスパーソナルね。「マインドゲーム」という言葉も。
あっいや、私はジョンレノンのCDは一枚も持ってないがね。
詳しい方はいます?
128 :
没個性化されたレス↓ :03/03/29 13:56
ここはキチ○イともが集うスレですか?
違います。 ですが、あなたがそう思うのは自由です。 よろしければ、何をもってして キチ○イと判断するのか 書きこんでおいてください。
130 :
没個性化されたレス↓ :03/03/29 14:09
あ、キチ○イだ!
実験終了
132 :
没個性化されたレス↓ :03/03/29 16:18
>>93 タマが何かぜんぜんわからんが、
>とてもじゃないけど書ききれない。
>だから抽象的な教典や絵画や音楽で表現される。
というのは真理だと思う。
それは心理学とは別というのもそうだろうけど、全く別物ってわけではないだろう。
ある程度の枠組みを理屈で説明したいものだ。
ただ、学者は絵画や音楽にうとくて困る。
ここのスレはトランスパーソナルな体験すら持たないでそれを把握しようとしたり
不審を抱いたりで、笑えるなぁ。
アシッド体験=トランスパーソナルな体験 ではないぞ。
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私が言いたかったのはACIDを学術的領域で使った事があるかと。 音楽とか芸術にACIDを使うのはそこらのヒッピーにまかせるとして、 現にどっかの学者が自分の論文書くのにLSDを使っていたって ことをカミンアウトしたってこの前ニュースででた。
>>134 なるほど、学術的領域の人に質問をしたわけですね。
でもヒッピーと学者の境界はないんじゃないかな、欧米では。
LSDを精神医学の研究や臨床に使ったのはスタニスラフ・グロフだ。
もっともそれは禁止される前の話。
カミンアウトしたっていうのは、最近のニュースですね。それは知りません。
私自身は一切経験ありませんが。
あぼーん
138 :
没個性化されたレス↓ :03/04/03 07:24
米国のヒッピー文化もピンキリだったと思いますけれど、 あの当時、禅思想、とりわけ鈴木大拙(でしたよね)の著書が流行ったらしいですね。 でも、学者の意図せんとしたものとヒッピー文化のキリの部分に位置するものが 同等であったとは思えません。
139 :
没個性化されたレス↓ :03/04/03 10:04
最近出てた、ミンデルの「紛争の心理学」だったっけ。 あれは、トラパーとなんか関係あるのでしょうか?
140 :
没個性化されたレス↓ :03/04/03 17:06
>>138 ACIDを学術的領域で使った、ヒッピー文化のピンはカプラでしょう。
141 :
bloom :03/04/03 17:25
青山正明を悼む。(今ごろ) 何故死んだ!!
143 :
没個性化されたレス↓ :03/04/04 05:48
144 :
没個性化されたレス↓ :03/04/04 15:42
>>143 「いかがわしい」と言う人は例外なく「体験」がない。
グロフの特質は体験が理論に先行してるところだろう。
>グロフのLSDおよび呼吸法
>(ホロトロピック・ブリージング)のセラピーから得られた変成意識データを
>どう評価するのかは、最も重要な問題の一つである。
同感です。そこを評価せずトランスパーソナルを把握するのはどだい無理な話。
145 :
没個性化されたレス↓ :03/04/07 15:07
147 :
没個性化されたレス↓ :03/04/08 19:40
体験か。 これ見逃してたけど、 すごい深いことですね。
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
150 :
没個性化されたレス↓ :03/05/03 17:08
ほしゅ
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
152 :
没個性化されたレス↓ :03/05/22 20:20
トランスパーソナルのトランスって 接頭辞trans-? 恍惚のtrance?
しまった。アゲちった。
156 :
政治家にはだまされるなー!!有事法制反対!! :03/05/23 00:02
有事法制(戦争法)は必要ありません!!! 有事法制ができて、得する人たち(その理由) 1、日本政府 ―軍事的にアメリカ政府に良く思われる。市民の行動を監視し、命令どおりに従わせることができる。 2、アメリカ政府―アメリカが気に入らない国を攻撃するときに、日本に軍事的、経済的支援してもらえる。 3、政治家 ―アジアに対する軍事的支配を実現させる。愛国心をあおって、政治家としての地位を確実なものにする。 4、自衛隊 ―有りあまる武器を実戦で使うことができる。戦争ができる。 有事法制ができて、損する人たち(その理由) 1、日本国民 ―市民は日常生活における自由を制限され、財産は国家の所有物と化す。 戦争に協力しなかったり、反対すると犯罪になり、懲役や罰金が科せられることもある。 自分の家が軍事戦略的に邪魔なときは、没収、解体される。 医療現場では兵士が優先的に治療され、市民は後回しにされる。 2、アジア ―軍事大国である日本が、軍事的にアジアを威嚇することになり、アジア全体に軍事武装強化の動きが強まる。 3、世界 ―9.11以降、世界的に軍事的な緊張が高まるなか、さらに戦争やテロに依存する傾向が強まる。 4、平和にとって―話し合いによって進めてきた過去の平和外交を大きく否定することになる。 どちらでもない 1、北朝鮮 ―日本を攻撃する理由はない。戦争するための軍備も金も、資源も食糧もない。 有事法制は北朝鮮に対して、軍事的に大きく刺激してしまうことになる。 有事法制ができてしまうと、市民の人権や、生活の自由は大きく制限される。 有事法制は、国を守って市民を守らないものだという事を政治家が言っている。 北朝鮮は全然、戦争する気はないのだが、 北朝鮮問題を利用して、知らないに国会では、政治家や日本政府、アメリカ政府や 自衛隊などの権力者のための法律を作ろうとしています。 (武力に頼らない)本当の平和のために、市民の自由のために 有事法制は反対だ!と声を上げていきましょう!!!!!!! もう、政治家にダマサレていてはダメ!!!!!!!!!!!!
157 :
没個性化されたレス↓ :03/05/23 04:25
そのとおり。あげ
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
160 :
没個性化されたレス↓ :03/06/03 09:31
トランスパーソナル心理学は神 これほど崇高な学問は見たことない
超心理学会の雑誌、「超心理学研究」はどこに行けば読めますか?
162 :
没個性化されたレス↓ :03/06/13 20:10
よし、再開だ。
オススメの本を教えてくだちい トラパ初心者でふ
165 :
没個性化されたレス↓ :03/06/29 13:41
ここってメンヘル板みたいな相談は乗ってもらえないんですか? かなりオカルト的なんでオカ板行けといわれそうなのですが… ある日変性意識状態に一度入ってから人生観が全く変わりました。 その後例によって宗教本や心理学本(そしてトランスパーソナル心理学とか) 量子力学などの本を読んだりしました。それまでははっきり言ってチンプンカンプン で興味もあまり無かったのですが、統一性を見出して面白く読んでました。 しかしその後、ある人間から、恐ろしいオカルト的な攻撃をされました。 これは呪いとか超能力系の事で実際信じてもらうのは難しいと思います。 (これは自分でもなかなか信じられなかったが、実際体験したのでびっくりした) このことがかなりショックで、今もまだその「攻撃」をうけているんでは 無いか、とか精神的にかなり不安定になってしまいました。 基本的にはそれが自分の脳内で起こっていると思いたいんですが、 一度変性意識状態を体験しているため、一概にはそうとは言えないと 思ってしまうんです。 下手に知識を入れてしまったのもあると思うんですけど、病院にもなかなか 行けずにいます。 トランスパーソナル心理学を基本的に信頼するので、出来れば何か アドバイスよろしくお願いします。
幻魔大戦
自分の感情のフタを開けちゃったんじゃないの? 自分の負の感情とかが人格化されて投影されてると
ホロトロピックしんど過ぎてやる気しない・・・
170 :
没個性化されたレス↓ :03/07/11 00:46
激しい呼吸続けるから
>>171 自伝的領域にアクセスできなかったんですか? 何回しましたか?
手足がしびれるのは気持ちいいと思う。
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
175 :
没個性化されたレス↓ :03/07/20 23:00
諸富マンセー
178 :
没個性化されたレス↓ :03/07/20 23:24
ケン・ウィルバーの本を買ってください by 一翻訳者
180 :
没個性化されたレス↓ :03/07/25 16:57
ケン・ウィルバー、持ってるよ。
181 :
ビッグバン宇宙論は完全に間違いだった!!!!! :03/07/25 20:00
科学者よ、恥を知れ! ビッグバン宇宙論は完全に間違いだった! 科学の原則を無視した、デタラメのインチキ理論だったのだ。 そして、そのビッグバン宇宙論の世界的な浸透は アメリカ、ユダヤ・キリスト教勢力による世界支配のための思想的な戦略だったのだ! また、ビッグバン宇宙論の思想によって戦争が起こり、 貧富の差がひらき、終末的な絶望感が世界に蔓延しているのだ。 ビッグバン宇宙論は世界の平和を揺るがす、悪の元凶となっているのだ。 ビッグバン宇宙論とは、 「宇宙は『無』からビッグバン(大爆発)によって誕生した」という理論である。 この理論は、ユダヤ・キリスト教の創造神話(神が天地を創造した)そのものである。 ビッグバン宇宙論の実態は、科学理論ではなく宗教思想なのである。 『無』は科学的に証明できるものではなく、 そして、『無からの誕生』も科学では証明できるものではないのだ。 ビッグバン宇宙論が科学の正統であるという思想を、世界中の人々に 浸透させる戦略が成功したことにより、ユダヤ・キリスト教勢力の 世界における優位性が確立されていったのだ。(20世紀に) そして、その思想的支配の最大の例が、アメリカやイギリスによる イラク戦争なのだ。 ビッグバン宇宙論の浸透により、世界中に終末思想(世界の終わり)が 蔓延してしまっている。 そのことにより、自己中心的、せつな的、短絡的な考え方が 社会に広がっている。 科学的に間違っているビッグバン宇宙論から脱却しなければならない。 そして、宇宙は無限だということを理解しなければならない。 人間は本当の宇宙観、世界観を構築し、 新しい時代に進んでいかなければならないのだ。 ビッグバン宇宙論が世界を支配している限り、平和な世界にはならないのだ。 そのことを科学者は重く受けとめるべきである。 平和を返せ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
182 :
没個性化されたレス↓ :03/08/03 04:19
age
184 :
進化の構造 :03/08/04 00:47
トランスパーソナル心理学をかじっての感想 究極的には、近代の抱える限界=エゴイズム・ニヒリズムというものが 引き起こす地球全体レベルでの環境危機や 戦争などを、自我を超えることで乗り越えようと、いうようなものと 思われます。 近代の根本的な限界とは私はこう理解します。 自分=一番大事 死んだらどうなる?→無・灰になる 一番大事な自分は死ぬ 死ぬことを考えるとむなしくなるから考えず とりあえず自分の楽しみを追及する =エゴイズム 学校では、人間をはじめ、あらゆるものは元素から出来ていることを学ぶ とどのつまり人も物質・究極のところ物質の運動に意味はない ・人生にも意味がない=ニヒリズム その近代の抱える問題に対して、従来の哲学・心理学などの既成アカデミズムは 有効な方向性を指ししめていないとおもうのですがね。そのようなものがあれば教えて欲しいです。 まあ、そんな状況の中、トランスパーソナルは有効な潮流なのではないでしょうか トランスパーソナルとは何か トランスパーソナル心理学 という2冊の入門書を参考にかんがえました
>>184 自我を乗り越えて、他人の自我と一体となり、真の意味での他者との平等をはかる。
こら大変だ・・・この時点で考えナならん事めっちゃいっぱいあるな〜
そもそも、自我が形成されたと本人は思っているだろうが、その自我は宗教性を背景
としていないか?その宗教は世界において数多くあるわけで、またその宗教の捉え方
も各宗派によって様々なわけで・・・
自我を超越したと思っていても、他の宗教への寛容さは生まれえる事なのだろうか。
他の宗教への不寛容さは「戦争」にも繋がるわけだよな〜
女の子たちのおすすめです
187 :
没個性化されたレス↓ :03/08/17 05:16
トランスパーソナルは現在心理学でどういう立場にあるの?
ニュー・エイジ・ムーブメントに乗ってトランス・パーソナル心理学は 発生しましたが、トランス(意識変容)とあるように、ピッピー文化の 代名詞の扱いを受けています。 エサレン派のケン・ウィルバーの 「アートマン・プロジェクト」はポスト・ユング派であるため、 個我過程の入り口に立った人以外にはお勧め出来ない本です。 そしてそこにへ立った人には意味がない本でもあります。 同じエサレン派でもグロフはハイパー・ベンチレーション(過呼吸と同) で酸素過多で脳内が酸素吸収を遮断するメカニズムを利用し、 酸欠状態で幻覚を、見るというLSD(アシッド)の代用という方法を 勧めるという、恐ろし方法を確立した人物です(LSD25は200 マイクロ・グラムでサイケデリックという状態を引き起こします。 1マイクロg=1g)。精神のダメージはどうなのかはわかりかねます。 しかし脳へのダメージではグロフの方法により深刻であることは明白で あると思います。
あぼーん
ケン・ウィルバ−の足跡を見るに個我過程に幻想を持たない方が健康的 である気がします。神話のモチーフで言う親殺し=神殺しが実感として 訪れた場合、すがるものを失った人の行動は、己を神と僭称するケース が圧倒的に多いからです。そこは人間の底辺ではないのでしょうか? おこがましい意見で済みません。でも幻覚剤使用を中心した心理学から 何かを学べるなという思考は、LSD25ですごい音楽を創れるという 願望に似ている気がするのは、私の気のせいでしょうか?
192 :
没個性化されたレス↓ :03/08/17 13:04
トランスパーソナルはオカルトの一言でかたずけられるのだろうか? 確かにトラパな精神状態は存在するわけだし
>>192 あなたの考えるオカルトの定義とはどういうものでしょうか?
194 :
没個性化されたレス↓ :03/08/17 14:07
一般的にはオカルトって科学的根拠のない霊的・宗教的な物 じゃないの?
195 :
没個性化されたレス↓ :03/08/21 22:40
>>191 >幻覚剤使用を中心した心理学
グロフのLSD使用は60年代のことです。
また、それによって見る幻覚/幻想/妄想を追究してもしょうがないでしょ。
そうではなく、無意識=本人の真実、つまり日常から離れたリアリティ
を追究するものでしょう。
196 :
没個性化されたレス↓ :03/09/02 15:47
age
197 :
没個性化されたレス↓ :03/09/14 01:53
198 :
没個性化されたレス↓ :03/09/14 02:05
>>194 霊的・宗教的なものに科学的根拠がないのは当たり前。
科学で証明されないものはみんなオカルトなの? それは科学教信者の論理だよ。
むしろオカルトとは、「霊的・宗教的現象に興味本位で接近すること」だと思うね。
トラパのいう変性意識というのは 脳科学でも認めることですよね。
>>165 病院なんか行っちゃいかん。既知外にされるだけ。
トラパは「呪い」を理解する力なんかないよ。パラトラパ氏ならわかるだろうが。
こんなのはいい霊能者とこ行けばいいの。でもそれ探すのが大変だわな。
下手なのに当たるとコワイからな。
>>199 意識の変化に対応する脳の変化がある、というのは言えるわな。
ただそれは脳波の変化ということでしかはかれんだろう。内容には立ち入れない。
脳の状態が精神状態と対応することは事実だがね。
それを、みんな脳から説明しようとするのがどうなのかね。
みんな脳があると思っているが、それも共同幻想かもしれん。
みんなが見ている夢が現実とされるんぢゃ。
>>200 しかし、「既知外」とは言いえて妙だねえ。
「既知の外」なんだよ。社会は「既知の外」を排除するってこと。
だから、「外」だと思ってたのを「既知」にするのがトラパなんだよ。
203 :
没個性化されたレス↓ :03/09/15 23:39
>>195 >幻覚剤
という言い方が偏見があるよな。確かにドラッグには感覚的
幻覚作用がつきものだが、それが心理的に働くとき、例外的
な作用を及ぼす。
俺がまだMMが合法だった時に誤食した時の話だが、俗に
言う強烈なバッド体験があった。その時、俺はそんなバカな
脳に耐えきれず、抵抗(脳の働き)を諦めた。すると急になん
とも言えない気分に満ちあふれた。
これは単純に幻覚作用からとは言い難い。
204 :
通りすがりの卒業生 :03/10/07 19:52
土沼雅子(文教大学)先生に関して。 「土沼先生は本当に好きになって、土沼教の信者になるか、 もう、土沼の土の字も見たくないになるかのどちらかだよね」というのを よく在学中耳にした覚えがあります。土沼先生は学問に関しても、 人に対しても好き・嫌いのかなりはっきりされている方の印象を受けるので、 本当にトランスパーソナルをやりたくて、土沼先生を考えるというなら、 一度、お会いして、もしくは、授業をもぐって、本当に自分に合う先生かを確かめたほうが、 無難な気がします。
205 :
没個性化されたレス↓ :03/10/09 08:51
NEWS! 翻訳書『忘れられた真理』(仮題)が今秋発売予定
ヒューストン・スミス著(菅原浩訳)
『忘れられた真理――世界宗教に共通するヴィジョン』(仮題)が
2003年秋に翻訳出版される予定です。
出版社は『魂のロゴス』と同様、アルテ(星雲社発売)です。
この本は、1976年に出版され、英語圏ではすでにスタンダードとしての評価を受けている著作で、
伝統社会の持っていた「多元的世界観」を復権しようとする思想書です。
いわゆる「永遠の哲学」と呼ばれる思想的立場に立つ思想書として代表的なものです。
科学に対する過大評価によって、唯物論に陥り、霊性への道筋を失った現代社会に対して、
真っ向から「霊性」の復権をめざした思想的挑戦の書と言えます。
「精神世界の思想的な位置づけ」として必読文献の一つです。
翻訳は1992年の新版によります。
この本が今まで翻訳されていなかったのは、
日本の思想界における何らかの欠落を物語っているように思われます。
ヒューストン・スミスは、マサチューセッツ工科大学、
カリフォルニア大学バークレー校などで哲学・宗教を教えた経歴があり、
ほかの著作に『ポストモダン精神を超えて』『世界の宗教』
『なぜ宗教が大切なのか』などがあります。現在のアメリカでは、
「老賢者」のイメージが投影される存在となっているようです。
内容: 世界と自己の諸レベル、科学主義批判、科学と霊性との関係、
進化論批判、サイケデリック的変性意識の位置づけ、など
原題: Huston Smith - Forgotten Truth :
The Common Vision of the World's Religions, HarperSanFrancisco, 1992.
http://www.nct9.ne.jp/mandala/
206 :
没個性化されたレス↓ :03/10/22 14:40
私はこのところ、トランスパーソナル関係のキーワードを検索にかけて いろいろ眺めている。 トランスパーソナルの示している概念に抵抗や不審はまったくない。 だけど、ネットで検索してうんざりしてしまった。 次に、同様に英語サイトを検索して、膨大なページをウェブ翻訳してみた。 うんざり・・・。 ヒットするのは、トランスパーソナル関係の書評と、大学教授とセラピストの 論文ページだけ。 人類5000年の知の最高峰であり、進化の鍵を握るトラパーが、 頭のいい大学教授の部屋だけに納まっているんだね。 庶民のトラパーがあってはいけないんだろうか。 ブレスワークの被験者(つまり庶民)が体験を語ったり、その後の経過を発展したり しないとしたら、一部の机上のもので終ってしまう。 非日常の意識は日常の、ささいな犯罪をも説明しないと意味がない。
207 :
気付き@幸せ掴む :03/10/22 18:43
人は豊富な物に取り囲まれて生活をしていても、精神的な不安や満たされない感じが強くなり、
何かを求めようと奔走しますが心の空しさは消えないものです。多くの人々は安心できる何かを
求めようと金品があるに任せて享楽ばかり貪っていても魂が満足しませんから、それを紛らわす
ために次々と奔走し、さらに変わった快楽を求めて享楽に身を持ち崩すのです。ところが、それ
でも心の空しさは消えず絶望感や孤独感に襲われるというジレンマに陥るのです。
人として人格の品性を高め徳を積まないと、激動する社会の流れや流動する資産などに心を奪わ
れて、自らを見失い本来持っている能力さえも発揮できなくて大切なチャンスを逃すものです。
様々な災難から逃れ幸せを掴むには、何時、如何なる場合も人格や品性、徳の高さが要求される。
この件に関する出典の説明があるHP↓に注目。参考にしよう。危機が近し心して暮らそう。
ttp://www.d7.dion.ne.jp/~tohmatsu/
仏教の受け売りだね。
209 :
没個性化されたレス↓ :03/10/22 23:32
>>208 仏教用語を並べるよりましだよ。葬式のときだけ仏教国になるよりずっとまし。
仏教は葬式産業ではなく、もともとトランスパーソナル心理学だった。
210 :
没個性化されたレス↓ :03/10/23 19:41
↑コピペにマジレスはしなくていいですよ。
211 :
没個性化されたレス↓ :03/10/23 20:09
>>209 はコピペ本人だって。w
「仏教の受け売り」に対する反論になんにもなってないね。
「仏教用語を並べる」だの「葬式のときだけ仏教国」だの
勝手に比較相手を限定するなよ。
>>211 コピペ本人だって決めつけるなよ。別だ。
213 :
没個性化されたレス↓ :03/10/23 22:21
↑コピペにマジレスはしなくていいですよ。
214 :
没個性化されたレス↓ :03/10/24 17:00
>>210-211 >反論になんにもなってないね。
好んで、コピペにマジレスしてる状況にしているのはお二人。
215 :
没個性化されたレス↓ :03/10/24 20:47
↑まともな反論になっていない上に品性の下劣さがにじみ出たなかなか良いレスだな。 パパとママの愛情が足りなかったのか?それとも努力した結果か?
よろしい それでは、話しをすすめたまえ
217 :
没個性化されたレス↓ :03/10/25 02:31
わけのわからんスレだ
age
219 :
◆tr.t4dJfuU :03/10/25 18:33
oge
age
221 :
没個性化されたレス↓ :03/10/28 12:12
話をすすめたまえ、コピペにマジレス以外に。
222 :
没個性化されたレス↓ :03/10/31 01:38
>>197 のリンク、凄いねえ。呪詛戦には驚きました。
何しろ本人もサイトや出版によって、さる筋からの
サイキック攻撃を受けていると書いているぐらいだから
命がけですね。
オカルトって電波かぁと思っていたけど…
223 :
没個性化されたレス↓ :03/10/31 18:08
>オカルトって電波かぁと思っていたけど… そりゃないでしょ、このスレに来て。
>223 いやさあ、「あの世界」を真実として認めるということは、 自分にとってはパラダイムの変換を強いられることなのです。 だって原因不明の熱が出たとき、「もしや…」という可能性を 考慮に入れるなんてねえ。 ぼくにはちょっと困難なところがあるのです。
225 :
没個性化されたレス↓ :03/11/01 15:24
この中で例の変性意識を体験した人っているのかな?
薬物によるもの以外で。
>>206 トランスパーソナル学会に出たことがあるんだけど(俺も庶民)
一般の人も多かった。むしろ学者のほうが少なかったような。。。
変性意識を迎えて、その体験を語る、スナック経営の人なんかもいた。
226 :
没個性化されたレス↓ :03/11/01 15:29
所詮はカルトと似たようなもの。集まる連中を見れば。 そもそも学会の目的が理解できない。何したいのよ。 ウィルバーの信者っつうだけじゃない?
227 :
没個性化されたレス↓ :03/11/01 15:40
>>226 ウィルバーは悟り至高の人らしく、学会ではウィルバーの名前はあまり出てこなかった。
みんなついて来れないらしい。笑
それよりも最近の癒し系ブームにむすびついていたような印象を持った。
目的は人それぞれだと思うけど、
俺は「コミュニケーションスキル向上」のための心理学だと思うな。
トランスパーソナル「心理学」って言っちゃえばそうなるんかな?
けど大前提として「魂は進化に向かう」みたいな哲学を受け入れる必要が
あるんじゃなかったっけ?>トラパ心理学
その哲学さえ受け入れていれば、技術的には何使ってもかまわない、みたいな
感じだったと思うYO
トランスパーソナルセラピーになると・・・
>>227 みたいな感じになってくるんかな?
トラパって概念としては『思想』に近いと思うね。
心理学としてはユングやマズローの系譜、と解釈すればいいんだろうか?
229 :
没個性化されたレス↓ :03/11/02 13:17
「超越」全般だと思う。(w 意識と物質、心と体、脳医学とも関連すると、「心理学」からはみ出るよね。 ユングはそこまで広げなかったから心理学だけど。
何はともあれ、日本でトラパってゆーとニューエイジの一つみたいな 捉えられ方をしてるような気がしてならない。入門書としてケン・ウィルバーの 著作を読むよりも先に「トランスパーソナル心理学・精神医学」日本評論者刊 を先に読むべきかもしれない。
231 :
没個性化されたレス↓ :03/11/12 02:22
233 :
没個性化されたレス↓ :03/11/17 01:58
>>233 自画自賛や自己宣伝じゃなくて、232は「評判」を尋ねているのです。
つまりは「無視されている」ということですか。
236 :
没個性化されたレス↓ :03/11/17 09:57
トラパ学会会長のカリスマ先生の本より ”傷つくことを恐れないで、自分に正直になって・・・”!?!?!?! ”ガチンコ体質の僕たちは、社会を変える使命”!?!?!?!?!?! このごろどうかしちゃってるの?好きな本があるのに。 くわしいひとがいたらおしえてください。
237 :
没個性化されたレス↓ :03/11/17 09:59
それって、安藤治氏?
>>238 そう思う根拠を述べよ。
電波の定義を述べよ。
トラパと電波の違いは何か述べよ。
240 :
没個性化されたレス↓ :03/11/18 17:11
「日本トランスパーソナル学会」と「日本トランスパーソナル心理学/精神医学会」 の違いを教えて下さい。
241 :
没個性化されたレス↓ :03/11/23 06:41
>>237 諸冨なんたらという人。
>>240 最初、安藤治氏が前者を立ち上げたが、いろいろ内紛があり、
嫌気が差した同氏が学者中心の後者を組織した。
to.237.241 ...これどうやっていれるのか、わかんない。 だけど、気持ちがおさまりました。ありがとう。
243 :
没個性化されたレス↓ :03/11/23 16:37
>>241 ありがとうございます。
最近安藤治氏の「心理療法としての仏教」が目に留まったので
少し読んでみました。彼の問題意識はその通りだと思いました。
一方で仏教への心理学的アプローチにはもっといろいろ面白い
話があるのにな、とも思いました。
244 :
没個性化されたレス↓ :03/11/29 15:54
トランスパーソナルのメーリングリストを購読しているのだけど、 年に2〜3回しか来ないし、来ても「メールアドレス変更しました」みたいな ものばかり。くやしいけど、トラパーは終っているのかな。
245 :
没個性化されたレス↓ :03/11/29 15:57
246 :
没個性化されたレス↓ :03/11/29 20:03
僕は法学部で法務教官を志望しています。 法務教官には心理学的知識もひつようなのですが、 僕は一年で心理学まで手が回りません。 トランスパーソナル心理学とはなんですか? おしえてください。
>>246 法務教官になるには必要のない心理学の一種
臨床心理学や社会心理学を勉強しなさい
248 :
没個性化されたレス↓ :03/12/03 19:35
うんこー
249 :
没個性化されたレス↓ :03/12/04 15:53
250 :
諸富なんたら :03/12/11 02:54
来年の5/29−30に伊豆で日本トランスパーソナル学会があります。どうぞ、いらしてください。 学会ホームページからどうぞ
251 :
没個性化されたレス↓ :03/12/31 21:46
放送大学の「心理臨床の世界」でやってたけど、 なんか新興宗教みたいだった
あげ てあr
253 :
没個性化されたレス↓ :04/01/07 12:12
何か役割を持っていることはいるんでしょう。 学問とオカルトの中間にあって、研究者の知識と大衆の知恵を媒介している。 だけど日本では、どうあがいても擬似心理学的な位置づけになってしまうんじゃ ないかな。 擬似的だからこそ、大衆には分かりやすく、主観主義的哲学の思考が浸透する 可能性がある。良かれ悪しかれ。 しかし、擬似的である限りは、学問足り得ない。 どうしても「サブ」という印象を拭い去ることはできない。 だが、「サブ」は「メイン」を補償している面があるので、「メイン」の立場 から「サブ」を見下していると、そのうち痛い目に遭うかもしれない。あるいは 思いもよらない時に救われたりとかね。 新宗教やオカルティズム、心霊主義、神智学などから毒抜きして、アメリカ産の 擬似的東洋思想主義や近代スピリチュアリスムをピュアな「心理学」にしようと 必死になっている感がある。それももともと無理な話だと思うのだが、トランス パーソナルの魅力も限界もそのへんにあるのではなかろうか。 とにかく、定義が難しい上に、定義を与えるほどの実質もあるのかどうかも未だ わからない。 自分は関わる気はないが、別にあってもなくてもいいもの、やりたい人がやれば よい。
2004 2/22(日)銀座ヤマハホールで、ホロトロピック・ワールド―「医」を超える という講演会で、何とハワイ在住の伝説のセラピスト、吉福伸逸さんが講演なさるという。どんなお話が聞けるのか、興味津々!
255 :
没個性化されたレス↓ :04/01/09 21:50
トラパ学会で聞いた吉福伸逸氏の話、チョーつまんなかった。 「伝説のセラピスト」と持ち上げるほどの人か? ニューヨークでジャズに挫折した当時の話を真剣にしてくれるなら、 聞きたいと思うけどね。
心理学? せせこましいとこをちょろちょろしている感じ。 心理学には発展性はないが、トラパーのこれからの展開はおもしろいんじゃない。
そうか? もうあきちゃったよ。 20〜30年前からなんも大きな展開が無いように思うのだが。
258 :
没個性化されたレス↓ :04/01/16 22:00
日本でトラパがなぜ駄目か? 真剣にサイケデリックスを自ら探求するやつも 真剣に修行に打ち込むやつもいないから。とくにインテリの中に。
259 :
没個性化されたレス↓ :04/01/16 23:25
つまりインテリ以外が探求したり打ち込んだりしてるの
>>236 > このごろどうかしちゃってるの?
相変わらずですよ(笑)
>>253 > やりたい人がやればよい。
激しく同意。別にどっちでもいいと漏れも思う。
困るのは、それが明らかに正しいと訴える人。
現代のエスプリのトラパ号でカワイ大先生も、悔しいがイイコト言ってた。
(でも彼は「自称:文化人」なんだって。文化庁人じゃないのか、と思ったり)
>>254 > 吉福伸逸さんが講演
ほー、そうなんだ?なーんか春には仏教カウンセリングの人がイギリスかどっかから
やってらしいよ。学会もあるし、すごそうな一年っぽい。
261 :
没個性化されたレス↓ :04/01/23 19:16
過去世、前世の記憶というのは受け継がれてきたDNAの記憶だと思う。 そういう幻覚を見た。未来の弟の子孫が色々話し掛けてきた。性交渉のある人間同士でもDNAの交換は行われるらしい。 人間はウイルスに媒介されてDNAを交換、保存しているのだそうだ。 もちろん子孫にも保存されるが、関わった人間とも交換するらしい。
そしてその根源はおそらく過去の微生物だ。 それが何体いたか分からないが、根源が一つの生命体だとするならば、リチャード・バックの「ONE」が語っているように、すべての存在の源は一つだ。 さらに過去に振り返るならば、それは原始の太陽の母胎であり、太陽自身が源となってすべての存在を生み出している事となるし、さらに振り返るなら、ビッグバンと呼ばれる現象がすべての源となる。 そこまでの記憶を振り返る事もできるかもしれないが、人生にとっては未来を夢見、子孫を作って未来を託すことが重要ではないか? 仏教徒の子供を作らないという戦略は、遺伝子にとっては有害であっただろう。我々は未来を夢見るDNAなのだ。
そして我々がすべての源において一つならば、すべての存在の記憶を共有することも不可能ではなくなるわけだ。 そして過去世という現象が起こる事も理解できる。源は一つであり、我々はその分岐した枝なのだ。士郎正宗の「攻殻機動隊(マンガ版)」風に言えば、枝の先になった果実だ。 我々は可能ならその枝をさらに伸ばすだろう。過去を振り返るのは今を生きずに、遺伝子を残して枝、果実を残す事を拒否した存在かもしれない。我々は未来を見るべきだ。
私は過去を振り返るのに疲れた。
私が見た未来の地球では物質化学、ナノテクノロジー、バイオメカニックなどが発達していて、人々は幸せに暮らしていた。 心理学より物質科学を発達させて、人々が真に幸せに暮らせる道を模索すべきではないかとも思う。 宮沢賢治が言うように、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」のである。 我々の源は一つなのだから。つながっているのである。なぜか訳もなく苦しい人がいるならば、それは枝の分岐点で、誰かの苦しみを共有しているのであろう。
我々は遺伝子の運び手かと思われるかもしれないが、遺伝子自体宇宙、すなわち神と呼ばれている存在の一部なのだ。
訂正、宇宙自体を神だと言ったが、宇宙の作り手を神というべきかも知れない。 すなわちビッグバンを生じさせて、宇宙自体をやっている存在が神なのである。 この辺は「神との対話」を読めば分かるかもしれない。 すなわち我々自身が宇宙なのであり、神なのである。
間違いを書いた。 宇宙自体が自ら生じたのである。それがビッグバンだ。宇宙自体に生成力があった。 神が外側から作り出したのではない。宇宙自体が自ら噴出したのである。 と思われるが、今後の科学の発展が事実を解き明かすだろう。
宇宙自体が生成したというのは中沢新一氏の著作に詳しいと思う。
しかし宇宙自体がなぜ存在したのかは、神の遊び(リーラ)などといわれるが、実際のところ良く分かっていないのだ。 士郎正宗氏などは多様化するために分化したと書いている。私は幻覚の中で、牛を殺して今楽しんでいる現実を見ている。 2chにこれを書いたせいだと言われている。神の使いである牛を殺しているという幻覚と、2chにこれを書いているという現実はリンクしているのだろうか?
宇宙はおそらく自分がどこまでやれるのかチャレンジしているのだ。それを試されているのが我々すべての存在だ。
272 :
没個性化されたレス↓ :04/01/23 23:20
人間は物質を経て心をもち、物質から心、魂までを創造する神へと帰っていくのだ。 このあたりは菅原浩先生の「魂のロゴス」に詳しい。
ツンボにテレパシーで声を送る実験です!
275 :
没個性化されたレス↓ :04/01/29 00:54
アメリカ人やかぶれの日本人がTranspersonalって言ってるの全部Prepersonalだと思う。
276 :
没個性化されたレス↓ :04/02/04 11:58
「アルケミスト 夢を旅した少年」(パウロ・コエーリャ著、山川紘矢・亜希子訳) この著者ってトランスパーソナルの人?
277 :
没個性化されたレス↓ :04/02/24 02:53
278 :
没個性化されたレス↓ :04/02/25 00:32
279 :
没個性化されたレス↓ :04/02/26 17:54
280 :
没個性化されたレス↓ :04/02/27 02:53
282 :
没個性化されたレス↓ :04/03/11 06:05
トランスパーソナル心理学は きたるべきポスト・ポストモダンの最有力候補である。 我々はもう、過去には戻れない。 とするならば、次へと踏めるステップとしては いまだ具体的にはこれしか候補が存在していないのだ。 現代思想の動向を読めば、その追い詰められた先には トランスパーソナル心理学しか残らないことが分かる。 ポストモダンを克服し、未来を解決へと導くのは、結局、 ウィルバーという天才による あまりに早過ぎた理論しかありえないのだ。 それは「心理学」を超え、 心理学があらゆる諸学を統合してしまう可能性すら秘めている。
15年前には自分もそう思っていたが(もちろん本の受け売り)。 もっと他の分野の本も読めよ。 視野が狭くなってるぞ。
284 :
没個性化されたレス↓ :04/03/11 14:37
選択肢、候補の一つではあるだろな。 >心理学があらゆる諸学を統合してしまう可能性すら秘めている。 それは過大評価。
ロジャースの言ってることがトラパー気質だというのはどうでしょうか?
286 :
闘うカウンセラー、諸富祥彦 :04/03/16 13:59
287 :
没個性化されたレス↓ :04/03/24 09:10
ここでは「世界観」を問題にする。「世界観」とは、それを思想的に反省する 以前では、人々が暗黙のうちに、「世界とはこういうものだ」と思っている 「思い込み」としてある。たとえば、私たちは普通、時間というのは常に過去 から未来へと一方的に流れていると考えているし、また空間は遠い銀河系 の彼方へ無限につづいているように感じている。しかしこうした「常識」は、 ごく最近になって形成されたものにすぎない。人々が持っている「世界」の イメージは、時代・文化により大きく変動しているのである。 このような、暗黙のうちに存在している世界観を自覚化し、それがどの程度 現実と符合しているのかを反省することが、思想というものの役割である。 「世間の常識」とは、実はさしたる根拠がなく、みんなが本当と思っている から本当のものとされているにすぎない。このように指摘したのは、古代 ギリシャのソクラテスであった。 この「思い込み」としての世界観は、どんなものを信じようと自由ではないか、 という見方もあるだろう。しかし世界観は必然的に、「常識」と「非常識」 あるいは「正常」と「不正常」といった区別・差別を行っているのだ。思い込み としての世界観は、現実には一種の権力を持っており、それに反する者や 意見を抑圧し、排除するという一面を持っていることを見逃してはならない。 世界観は行動に結びつき、それは、他者や自然などに対する態度と直結 してくる。 ここでいう思想とは、まず、現在私たちが常識的に持っている思い込みと しての世界観を自覚化し、それが人類の思想史の上でどのような意味を 持つのかを考えてみるということである。そこで、現代に固有の「排除の構造」 が明らかとなってくるだろう。そして、そうした近代の世界観の限界を超えよう としている試みの数々を紹介し、それがどのような新しい世界の見方を提示 しているか、を論じていくことになる。その中で、現在の公式的世界観において 権威を持っている「科学的世界観」の特質を明らかにし、その限界と代替案 を検討してみる。
世界観とは単に「頭だけ」の知識ではなく、その人の「生き方」を規定する ものともなる。また社会的な運動、力として現れていることを無視しては ならない。無反省でいることは、すなわち、社会的な「思い込み」を無批判 に受け入れるということになる。さらに、世界観というものは、「正当な知と は何か」という考え方まで含んでいるということも指摘しておきたい。つまり、 「考える方法」そのものがその世界観に規定されているのである。 このような「見えざる枠組み」を自覚化した上で、次のような問題を考えて みることにしたい。 1.現代社会が公式的に持っている世界観は、近代特有の前提に依存して おり、決して人類普遍の考え方ではない。これは、何をもって「現実」と 見なすか、という人々の理解が、その他の社会とは異なっているという ことを意味している。 2.「科学的方法」と「科学的世界観」とは異なるものであることを理解する こと。科学は本質的に方法であり、「世界観」ではない。世界観それ自体 は、科学的に証明することができないのであり、思想の問題である。 3.近代以前の文明はすべての面において遅れているものかどうか。 現代の思想は、古代的な知に含まれていた真理を再発見しようとして いるのかもしれない。 4.現代の文化は、「人間の経験の可能性」をあまりに狭く限定している のではないか。これまでに、人間の経験としてどういうものが知られていて、 それはどのように受け止められていたのか。
5.「知識」というものがどういう問に答えようとしているか、という問題。そこに、 古代と比べて、近代の知の「矮小化」が存在しないであろうか。たとえば、 人間はなぜ存在しているのか、死後はどうなるか、といった問題。 6.私たちは、日本、あるいはアジア(東洋)という伝統の中にいるわけだが、 明治以来の近代化政策は、あまりに一方的に西洋近代的な世界観を 受け入れ、伝統的な世界観を否定してきたのではないか。 言い換えれば、次のようなことだとも言える。 ・ 無自覚な世界観を自覚化する → その世界観の妥当性を検討する ・ その世界観では理解不能な現象(経験)の中に、実は重要なものが 含まれていないか ・ これまでの人類の歴史の中で、努力の末獲得してきたものがすべて 活用されているか そこで、近代から「脱近代」の思想は、次のような特徴を持っている。 1は「宇宙論」であり、2は「意識論」とも言える。 1.「実体」としてのモノの存在を否定し、世界は一種の「情報」ともいうべき 非物質的なものの作用によって存在していると考える。(宇宙情報システム) 2.人間の心(意識)には、日常意識よりも深いレベルが存在しており、 そのレベルにおいては、「個体」という限界が超えられ、他の存在・ 宇宙そのものと結びついている、という考えがある。また、その深い レベルは普通無意識であるが、これを意識化できる可能性もあると 言われている。
ヨーロッパ中世では、近代とは根本的に異なった世界観をもっていた。 それは、「存在の大いなる連鎖」Great Chain of Beingと言われている ものである。これはまず、世界を多元的と考え、それが連鎖状に連なって いると見る。そしてその究極に神があるとするのである。こうした世界観を 代表するものが、ダンテの『神曲』である。この世界観では、それぞれ 閉じられた世界が多数あり、五感によって理解できる世界はそのうち 一つにすぎないと考えられた。 また、こうした多元的な世界観は、中世ヨーロッパのみならず、近代以前 の多くの文明に共有されていた思想でもあった。すなわち、「存在の 大いなる連鎖」は、かなり普遍的に見られるものと言うことができる。 伝統的な文明では、世界の「垂直的な次元」が考えられ、究極的な原理 との結びつきにおいて人間世界をとらえていた。また、文明以前の社会 においては、シャーマニズムといわれる現象が見られ、異次元世界が 強く意識されてきた。 このように、近代以前の世界観では、現実世界は多くの異界に取り囲ま れて存在するものであったということができる。
近代世界を特徴づけるのは、何といっても近代科学の発展であり、 それによる中世キリスト教世界の崩壊である。 ヨーロッパでは、世界は神の創造した「法則」によって支配されている という考えが伝統的にあった。ケプラーの天文学もそうした考えのもとに 作られたものである。 ニュートン力学もそうした思想を背景としている。ニュートンの力学は 圧倒的な成功を収め、なおも現代人の日常的世界観の基本となっている。 その特徴は、@均質的な時間と空間の広がり、A質点としての物質、 というものである。つまり、何もない空の時空間があり、そこに「物」として の物体が存在する、と考える。これは私たちの日常的な「見え」の世界を 作っていると考えてよい。そこに「自然法則」という思想が確立している ことに注目できる。そこで、世界は、自動運動をする機械として理解され、 神はこの「時計仕掛けの宇宙」を創造した後、一切そこに介入しないもの だという考えが常識となる。これが機械論である。そしてしだいに、神は 不必要なものとされ、神抜きの世界観が優勢となった。これが唯物論の 始まりといえる。
また、近代科学を基礎づける思想として登場してきたのが、デカルトの 思想である。 デカルトの思想の特徴は、物心二元論である。彼は「われ思う、故に われあり」という有名な言葉を残している。彼によれば、物質は延長であり、 心(意識)とはすなわち思惟のことである。その二つは全く別の秩序に 属するものと考えた。これは、物質とその経験の世界の独立性を主張し、 近代科学の立場を確立しようとする意図に基づいていた。同時に、 内面性の次元を尊重しようという考えもある。それはデカルトにおいては 神と結びついたものであった。思想家デカルトの内面性の問題は、 それ以降の物心二元論の発展とは切り離して考えるべきものである。 こうした、デカルトによる「延長としての物質」の思想がニュートン物理学 と結びつき、近代の機械論、唯物論の思想が生まれた。すなわち、 物心二元論から、さらに物質一元論になっていったのである。 (物質一元論と唯物論は同じ意味である) しかし、デカルト思想には本来神の要素があったし、またニュートンも 錬金術や神秘思想の研究に熱中するという側面もあった。つまり、 のちに成立した機械論、唯物論はデカルト・ニュートンの思想そのもの ではなく、その一部を拡大して解釈したものなのである。
近代世界のもう一つの基本となっているのが、啓蒙主義である。啓蒙主義とは、 「理性が人間の最高価値であり、理性によって社会を建設すべきである」 という理念であり、これが民主主義その他の近代社会秩序の基礎となっている。 この「理性」は合理性と同一視された。また、人間は自分自身の価値観に立ち、 自由に判断を下す力があると見なされた。「自分」の独自性という「個の意識」 が重要視された。これは、近代以前には例外的にしか見られなかった発想 であった。ここに近代的個人主義が成立し、近代国家、近代的市民社会の 根拠となっている。 ここで注意するべきなのは、本来の「理性」の捉え方と、啓蒙主義的な 理性の見方との相違である。「理性」とは、本来は、日常的なレベルを 超える「英知」を知る働きであり、神的なものと考えられていた。啓蒙主義は、 その理性を世俗的に捉えている。理性は「筋道を立てて公平にものを 考える能力」とされるが、これは近代以前の意味とはまったく異なるもの であった。そういう世俗化された理性は、すべて「わけのわからないもの」 を排除しようとする傾向をもっている。こういった啓蒙主義的な人間観が、 現在でもなお存在している。 このように、近代社会は、思想の自由が認められているとはいえ、暗黙の うちに、デカルト=ニュートン的な世界モデルの影響を強く受けている。 そして、社会・政治的には啓蒙主義がその原則となっている。しかしながら、 こうした公式の世界観は、人間の深い精神的欲求を満足させず、どこか 抑圧するものを持っているように感じてきた人々も多い。 ここから、近代社会のもつ世界観が、人間のもつ潜在的な能力あるいは 欲求にたいして、あまりにも幅の狭いものではないかという不満がしだいに 明らかになってきた。そこで、19世紀以降の思想、文学、芸術などは、 こうした啓蒙主義的世界観への反発と克服という形で進んでいくことになる。
デカルト(1596〜1650)によって、物心二元論が確立した。「物」の次元は 無限の延長と考えられ、「物」の次元はそれ自身で完結しているとされた (不介入の原則)。またニュートン(1642/43〜1727)は、この次元が自然 法則に支配されているという見方を成立させ、これは機械論的唯物論を 生むことになった。これが近代科学的な世界観の基礎となる。さらに、 啓蒙主義思想によって、人間を超える超越的次元は最終的に追放され、 理性を最高価値とする近代社会的価値観が成立した。つまり「世界の 世俗化」、公的な場面から「聖」の次元が撤去されることが、近代社会の 世界観的特徴である。 近代以前の世界観は、存在の大いなる連鎖といわれる、段階を持った 多数の世界次元が重なっているという多次元的世界観を特徴としていた。 これに対して古典的な意味での近代科学的世界観は一次元的世界観 であることを大きな特徴としている。 これはまた、支配・制御を基本価値とする文化であるとも言える。これが 自然に対する抑圧的な姿勢を生み出し、今日の生態系的危機の原因と なっているという指摘もある。また、社会的には人間に対する管理・制御 の体制をもたらすことになった。
近代で成立した近代科学の方法は、どういう意味を持っているのか。また、 それは近代的世界観とどのように関係しているのか。これをさらに考えて みよう。 近代科学の方法は、実は、近代的な唯物論的世界観を必然的な前提と するものではない。科学は、 データの観察 → そのデータを完全に説明しうる仮説の形成 → 仮説の検証 というプロセスで確実な知識を得るという考えに立つものである。ここで 注意すべきことは、この「仮説の形成」の段階においては、観察されている データを説明しうる限り、原理的にはどのような仮説も許容されている ということである。事実、量子物理学においては、まったく常識を超えた 仮説が多数形成され、論じられているのである。 しかし現実には、近代に成立した「唯物論」の世界観が科学を支配し、 それに反する仮説は「非科学的」であるという反応が多く見られる。これは 一般人だけではなく科学者においてもそうである。ここには、科学とある 特定の世界観を同一視するという誤りがある。
科学史家トマス・クーンの『科学革命の構造』によると、科学は一つの パラダイムを前提にしている。パラダイムとは、「基本的な考え方の枠組」 のことであり、世界観と密接に関係している。科学は、一度パラダイムが 確立すると、それを自明の前提として進んでいくが、それと矛盾する データが発見されたり、パラダイムを支えている世界観そのものが勢力を 失うと、全く新しいパラダイムが提唱され、古いパラダイムとの闘争が 起こる。科学はそのように不連続的に進んでいくというのがクーンの説で あり、現在では広く受け入れられている。新しいパラダイムは、通常、 感情的な反発を受け、攻撃されるが、世代が交代するにつれ次第に勢力を 増してくる。 従って、近代科学の多くが前提としてきた唯物論のパラダイムは、 科学そのものではなく、科学を支配してきたパラダイムの一つである。 逆に言えば、唯物論に立たないものは科学ではない、と言うことはできない のである。異なるパラダイムのものであっても、科学の要件を満たしている ということはありうるのである。近代科学の方法そのものと近代的な世界観 は別の次元のものであり、世界観が変化しても科学的方法そのものは 残る可能性を持っている。 近代科学がこれまで前提としてきたパラダイムは、デカルトの物心二元論 から発展した唯物論的前提の他、次のようなものがある。 1.要素還元主義。これは、物質を最小の単位に分割し、その要素の構造 としてものを考えようとする態度である。これは「原子論」ともつながって いる。また科学の専門分化を推進する力となっている。 2.数量主義。データは数値として示されねばならないものとする。
3.客観主義。「心」の領域は物心二元論によって「主観」の領域とされ、 データとして考慮するに値しないものと評価される傾向にある。 4.実証主義。感覚手段によって確認できる「事実」のみが妥当な知識である。 ここで重要なことは、つねに、パラダイムから完全に自由な認識というもの はないということである。つまり、ものの認識というのはつねにある特定の 見方を前提として成り立つ。パラダイムそのものが絶対的に正しいことは 証明できない。これは、数学者ゲーデルによる「不完全性定理」として 知られているものと関係する。例としては、数学の公理系がある。また、 光の速度がつねに一定であるという物理学の定理も、それ自身証明されて いるものではない。 したがって、科学とはまず方法論であり、人間の「知」の一部であって その全体ではないことに注意しなければならない。科学とは厳密に 方法論が規定されているものであり、その方法論にはまらないものは 科学の対象とはならないのである。しかしこのことは、「すべては科学に よって説明されねばならない」とか、「科学理論に合致しないものは誤り である」ということを意味するわけではない。そのような主張は、科学 そのものではなく、ひとつの価値観、世界観の表明である。それが 科学の名のもとにあたかも客観的・普遍的な価値のように誤認されて いることが大きな問題であるといえる。
従来の「哲学」ではほとんど近代のヨーロッパの思想のみが問題とされるが、 現在、地球的な規模で世界観の問題を考えるためには、思想の歴史に ついても地球的規模で考える必要があるだろう。そこで、きわめて簡単で はあるが、他の文明社会では思想というものはどのように理解されていたか を見てみよう。それによって、近代ヨーロッパ的な意味での思想の特徴が 理解できるだろう。また、脱近代をめざす思想において、こうした非ヨーロ ッパ思想への接近が見られることにも注意したい。 まず、インドでは、思想というものは心の内面世界に向かう傾向があった。 そして、心の内側と宇宙とはつながっていると考えていた。なぜならば、 世界は心が創造しているものであって、私たちが現実と思っているのは、 すべて夢のごときものなのである。 宇宙の究極とされるものが、「ブラフマン」であり、これは究極意識、 宇宙意識ともいうべきものとされる。さらに、人間にはそれぞれ、 ブラフマンの分有である霊的なものを持っており、これが「アートマン」 である。つまり、自分が自分である、という意識は根本的にはこのアート マンの働きである。そしてブラフマンとアートマンは究極的に一致する。 この一致を実際に自分自身で体験しようというのが、ヨーガの立場である。 ヨーガとは、体操だけではなく、基本的には瞑想である。(このように、 神あるいは究極的リアリティを直接的に経験することが可能だ、とする 立場を、西洋哲学では「神秘主義」と呼ぶ。インドをはじめ東洋の思想の ほとんどは神秘主義的であり、西洋ではグノーシス思想、新プラトン 主義などがこれにあたる) そして、究極である宇宙意識(神)と、物質的現実の間には、いくつかの 中間的な次元があると想定される。大別すれば、それは、通常の意識の 世界、夢の世界、夢のない眠りの世界、第四の世界、とも呼ばれる。 つまり、世界というのは、意識のあり方によってそこに展開されるものだ、 という基本的な考え方がそこにある。
インド思想は、ウパニシャッドにおいて本格的に始まり、のちにヒンドゥー 教、仏教が生まれた。しかし、インド思想としての一貫した性質も、そこに 見ることができる。 その特徴を挙げてみると、@哲学と宗教の分離がない、A真理とは人間 が経験的に知ることのできるものとされている、B経験的に知るための 実践体系を持っている、C人間の魂は輪廻転生するという考え、D見え ない次元の存在を肯定し、それが階層化されていると考える、E宇宙の 究極は物質ではなく意識であり、それが世界を作り出している(唯心論)、 などがある。 先に紹介したヨーロッパ中世の思想と対比してみると、インドと共通して いるのはDEの要素である。これに対して、@〜Cはヨーロッパには 存在していない要素である。実はここに、ヨーロッパという文明の性格を 見ることができるのであり、その後の近代・現代のヨーロッパ思想も、 ほとんど@〜Cの要素は無視されているのである。これが近代的世界観 のひとつの特徴をなしているのである。つまり思想というもののあり方 自体にかかわる考え方の相違がある。ヨーロッパでは思想とは「考えら れたもの」であるのに対し、インドでは考えるだけではなく、実践し、自ら 発見するものとして捉える。つまり、「真理は経験的にも理解されねば ならない」とする。そこで、知性だけではなく、いわば超知性というものを 想定し、それが人間の可能性として潜在していると主張されるのである。
また、中国ではどうであろうか。中国思想のキーワードとなるのが、 「道(タオ)」そして「気」である。「タオ」とは、とらえがたいものであるが、 宇宙の根本であり、インドのブラフマンにも似たものであろう。もうひとつ の「気」というのは、宇宙万物を作り出しているエネルギーである。気が 集まって物ができる、と考えられている。 中国では儒教と道教という二つがあり、いろいろな意味で対照的である。 しかしタオや気など基本的な思想は共通している。道教には、かなり インドの影響もあり、ヨーガと同等のものが成立している。また仏教も その後入ってきた。中国では、儒教・道教・仏教は「同じことを三通りの 方法で言っているもの」と理解されることが多く、いずれも「タオ」に至る 道であると考えられていた。そして「気」というものは、単に理論的に 考えられたものではなく、体験されるものであった。 なお日本でも、明治以降の近代化以前は、そのような発想は広く見ら れた。日本では儒教・道教はあまり発展せず、仏教と神道が支配し、 それらが一体として混じり合ったものを、伝統的世界観として持っていた。 また、イスラムの世界では、思想は二重構造になっている。つまり、 正統的なイスラム教は唯一神への信仰を基本としたものであるが、 これと同時に神秘主義的伝統があり、スーフィズムと呼ばれる。 スーフィズムでは、神と人間の合一を理想とする。また、神と物質界の 間に中間的段階(天使の世界など)を想定する多次元的宇宙観も共通 している。 このように、非西洋世界の思想は、いずれも宗教と不可分である。その 特徴は、多次元的な世界観であり、また宇宙の究極的原理を想定し、 それと合一する可能性が人間にはあるとする発想である。さらに、 そのための実践体系を考案しようとするところも、西洋にはない要素である。
こうしてみると、西洋思想というものは、思想というもののひじょうに限定 された在り方を示しているようにも思える。それは、@人間の可能性を 非常に狭く捉える、A常識を超えた次元の理解力の存在を認めない、 B思想を検証するための実践体系を持たない、という特徴がある。これ が近現代のすべての思想の限界となっており、それが大学において 哲学科として制度化され、社会的権威を持っているという現実がある。 さらに近代の唯物論・機械論が、人類の思想においてどのくらい特殊な ものであるかも、既に明らかであろう。なぜならそれは結局、「心」をとり あげることがないからである。近代科学を至上とする価値観は、人間が 経験という手段によって、未知の世界を探求するという可能性を否定 あるいは過小評価しているのである。
思想というものに対する、西洋と東洋との大きな相違について話して来た。 インド思想についてその特徴を挙げてみると、@哲学と宗教の分離がない、 A真理とは人間が経験的に知ることのできるものとされている、B経験的 に知るための実践体系を持っている、C人間の魂は輪廻転生するという 考え、D見えない次元の存在を肯定し、それが階層化されていると考える、 E宇宙の究極は物質ではなく意識であり、それが世界を作り出している (唯心論)、などがある。 これをヨーロッパの思想と対比してみると、@〜Cは一貫して存在せず、 またDEは、近代以前には存在したが、近代になって消滅した要素である といえる(ただし、Eを主張する哲学思想は存在する。特に「ドイツ観念論」 と呼ばれるものがそれにあたる。思想家としては、フィヒテ、シェリング、 ヘーゲルなどがあげられる)。 また中国には「タオ」の思想を中心とする世界観があり、中国人の多くは、 儒教・道教・仏教の三者を「タオについての三種類の表現」として、本来 同一のものと見ていた。 日本では、いくつかの例外を除き、体系的な思想は発展しなかった。 日本における世界観は、むしろ「世界感覚」として、文学や芸術に表現 されることが多かった。たとえば、「幽玄」という美的理想は、一つの世界 感覚に基づいている。 もちろん、日本といっても多様なものがあるが、日本独自の文化が確立 した平安時代からは、仏教の思想が中心的位置を占め、それに神道的な ものが混ざり合った形態が多かった。これは、古今集・新古今集・源氏 物語から、松尾芭蕉まで続いている。その基本的な世界感覚は、世界とは 夢であるというものであった。概念というより世界感覚として思想を理解 する方法は中国と共通したものがある。
東洋的な思想の特徴として、次のようなものがある。これは、インド思想、 中国思想にかなり共通した要素である。 1.実体は存在しない。すべては経験である。世界はそれ自体として実体 のあるものとは考えられない。世界というものがあり、それを見る私たち というものがある、という考えは、二つの実体を想定するものであり、 物心二元論ということになる。これに対して、東洋では、世界というものは それ自体存在せず、ただ「世界があるように見える経験」が起こっている と考える。物というものも実体はなく、ただ物があるように感じられる経験 がそこにあるというだけである。同様に、私たちの肉体というものもなく、 肉体があるように感じる経験が起こっている。物質的な現実世界という のは、私たちの心が共同して作り上げている、共同の夢のようなものだ、 と考えられている。つまり、心が現実を創造している。 2.世界は、心の多次元的な働きの結果生まれる。心が現実を創造する ことは、何も物質世界に限ったことではない。多次元にわたって展開 されていることであり、その結果、多数の世界が宇宙には存在している。 私たちは通常、そのうち一つだけを見ているにすぎない。しかし、心の 訓練に熟達した人は、多数の世界を自在に経験できると考えられている。 3.心の本質は、宇宙的なものである。心というものは、物質に束縛されて はいない。普通の人間が心と考えているものは、ごく表層的なものに すぎない。心とは本来、宇宙的なものである。インド思想で言えば、 アートマンである。さまざまな現実世界は、その永遠のアートマンが、 いろいろな経験をしようとして作り出したものであり、個別的な自我意識 もそのようにして生まれた幻想であるとされる。 このような考えの真偽は、各自が自らそれを体験的に知ることによってのみ 確かめられるとされている。すなわち、心の本質に気がつくことが最終的 目標なのである。
なお、イスラムの世界について述べると、思想は二重構造になっている。 つまり、正統的なイスラム教は唯一神への信仰を基本としたものであるが、 これと同時に神秘主義的伝統があり、スーフィズムと呼ばれる。スーフィ ズムでは、神と人間の合一を理想とする。また、神と物質界の間に中間的 段階(天使の世界など)を想定する多次元的宇宙観も共通している。 このように、非西洋世界の思想は、いずれも宗教と不可分である。その 特徴は、多次元的な世界観であり、また宇宙の究極的原理を想定し、 それと合一する可能性が人間にはあるとする発想である。さらに、 そのための実践体系を考案しようとするところも、西洋にはない要素である。 こうしてみると、西洋思想というものは、思想というもののひじょうに限定 された在り方を示しているようにも思える。それは、@人間の可能性を 非常に狭く捉える、A常識を超えた次元の理解力の存在を認めない、 B思想を検証するための実践体系を持たない、という特徴がある。 これが近現代のすべての思想の限界となっている。 東洋の文化が元々もっていた世界観をよく知った上で、近代の唯物論・ 機械論を眺めてみると、そのあまりの違いに驚くであろう。なお、唯物論 が「科学的に証明されている」と考えることの誤りについては、既に述べた。 そこで、西洋の思想が、その唯物論、デカルト=ニュートン的世界モデル の制約を乗り越えようとするとき、そこに東洋思想への接近ということが、 しばしば見られる。 近代を超える試みとして、大きくいうと次のようなものがある。以降、 これを順次検討していきたい。その際、東洋思想というものを一方に おいて考えるという視点をとりたい。 1.ロマン主義思想 2.深層心理学の発展 3.新しい科学理論のパラダイム 4.トランスパーソナル思想
理性中心主義の文化に対して、人間の根本的な心の欲求を満たして いないという感覚は、当初からあった。そうした違和感を持つ人間が 最初に反抗を行ったのは、ロマン主義と呼ばれる文学・芸術運動に おいてである。また思想の世界でもこれに同調する動きが見られた。 イギリスの詩人ウィリアム・ブレイク(1757〜1827)は、想像力の価値を 絶対とし、ニュートンのもたらした一次元的世界観を “single vision”と 呼び激しく攻撃した。そして「幻視書」と呼ばれる奇怪な挿し絵を持つ 詩編を制作した。またコールリッジ(1772〜1834)は、阿片を吸引した 幻視を詩に書いた。このほか、ドイツのノヴァーリス(1772〜1801)、 ホフマン(1776〜1822)、フランスのネルヴァル(1808〜1855)などが ロマン主義の文学者として著名である。これはのちにランボー(1854 〜1891)などの「象徴主義」につながるものであった。またアメリカに おけるエマーソン(1803〜1882)、ソロー(1817〜1862)なども、ロマン 主義のアメリカ的な展開と見ることもできる。 ロマン主義は、理性に対抗し、感情・感覚・想像力を重視し、「現実」の 価値を転倒させ、「夢」の世界の価値を主張した。夢の世界にこそ宇宙 の真実が開示されるという見方が強く見られた。これは、理性で捉えら れる世界のみしか扱わない近代の知の秩序に対して、理性とは異なる 「魂の世界」を自覚しようとする試みとも言える。また神話や古代的な 知のあり方に対する関心もまた盛んになってきた。加えて、東洋的な 知(中国・インドなど)もヨーロッパの思想家に影響を与え始めていた。 そこに共通してあったのは、「超感覚的(非理性的)な領域を含めた、 宇宙・人間についての全体的な知」への欲求であった。この場合の 「知」には感じること、経験することも含まれる。19世紀以降の芸術や学 問は、こうしたテーマを軸に展開していった。一方、近代科学は、引き 続き機械論的なパラダイムを維持したまま発展を続けていた。ここに、 物質科学と精神文化の分離という問題が深刻になってきた。
ロマン主義芸術はワグナー(1813〜1883)の楽劇において頂点に達した。 「一次元的世界の超越」および「聖なるものの探究」「神話の復権」という テーマは、特に最後の作品「パルジファル」(1882)において明瞭に現れて いる。これはきわめて神秘主義的な作品である。 ここで、狭い意味での思想に目を転じると、ロマン主義そのものとはいえ ないものの、それに同調して、唯物論とはまったく異なる思想の展開が 見られる。カント(1724〜1804)は、世界の認識は経験以前のパターン (先験的形式)に基づいて成り立つと考え、理性には「物自体」は不可知 だとした。カントの試みは理性の可能性と限界を明らかにしようとしたもの である。すなわちカントによれば、超感覚的な世界は理性では認識でき ないことが明らかであり、それは理性の限界を示すものでもあったの である。しかしカントは、理性による認識を越えた世界については不可知 論にとどまった。 カント以降のドイツ哲学(ドイツ観念論と呼ばれる)においては、理性を 超えた「知的直観」の立場などが説かれていた。フィヒテ(1762〜1814)、 シェリング(1775〜1854)、ショーペンハウアー(1788〜1860)などの思想が その代表的なものである。ヘーゲル(1770〜1831)においては、理性の 自己回帰運動として世界を把握しようとしたが、既にここでいう理性は、 啓蒙主義的な理性とは全く異なるものであり、神秘的内容を帯びるに 至っている。むしろ「宇宙論的ヴィジョン」に近い性質がある。ヘーゲルの ヴィジョンは、アートマンの自己回帰という、インド思想に近似してくる ところもある。
こうした思想運動全体を通してみると、そこには、物質的・感覚的宇宙 のみを実在と見ることを拒否し、「より大きな宇宙のヴィジョン」の中に 自分を位置づけたいという衝動が見て取れる。しかし同時に、そこには、 前回に指摘した西洋思想の枠組みから出られないという要素もある。 たとえば、ヘーゲルの思想がインド的であるにしても、ヘーゲルには それを「経験的に実証する」という発想はなく、ましてそのための技法 体系(ヨーガ)ということは考えもつかなかった。このため、単なる理論 にとどまり、その真偽は永遠に証明不可能である。ここで、思想(哲学) と科学との分離という、近代西洋文明に特有の問題が解決されないまま になっているわけである。 なお、共産主義思想のもととなったマルクス(1818〜1883)の思想は、 ヘーゲルの思想を「転倒」させ、唯物論としたものである。マルクスに よれば、世界は「物質の自己進化」により発展するもので、共産主義 への移行は歴史的必然なのであった。マルクスの思想は、20世紀の 人類社会に巨大な影響を及ぼした。しかし、すでに過去のものになり つつある。
19世紀後半から20世紀になると、近代の理性中心主義が「聖なる次元」 を喪失させたという問題点は明瞭になっていた。このような時、フロイト (1856〜1939)の精神分析が登場した。フロイトの『夢判断』(1900)が 「無意識の発見」の始まりを告げるものであった。 夢の世界の独自性は、既にロマン主義芸術で提示されているテーマ である。フロイトは、意識は人間にとって心の一部を占めるに過ぎず、 心の大部分は無意識という領域が占めていると考える。フロイトに 特徴的なところは、心の根源的エネルギーとして「リビドー」というものを 想定し、これを性的エネルギーと考えたところである。すなわち、無意識 の内容は基本的には性的なものであり、無意識の抑圧は性的抑圧が 生み出したものであった。 フロイトが20世紀の学問や芸術に与えた影響はきわめて大きい。つまり それは、ここではじめて人間の非理性的な領域が学問の視野の中に 入ってきたということを意味したのである。それは「サイエンス」という ものの枠組の拡大であった。なぜなら、それは近代の意識中心の立場 を転倒させる要素をもっていたからである。「理性」中心の人間観がその 根本から修正を迫られることになった。しかしフロイトにおいては、「聖」 の次元が存在しなかった。近代特有の「聖の次元を入れることは科学的 ではない」という考えがそこにあったのである。そこに近代的知識人に 共通の問題がある。というのは、「人間とは基本的に駄目なものである」 という感覚が、近代知識人の見方の「癖」として定着したのである。
無意識をすべて性的なものであるという理論は極端なものであるとして、 反対する声が起こってきた。その代表的なものが、カール・グスタフ・ ユング(1875〜1961)である。 ユングの仕事は心理学という枠を超えて大きな思想的影響をもつように なった。 1.集合的無意識の理論 ユングは、個人レベルを超えた無意識が存在すると考え、集合的 無意識を仮定した。これは簡単に言えば、心というものは個人という 枠に収まっていないものだということを意味する。つまり心は身体の 枠を超える広がりを持つことを示唆している。ユングは明確にして いないが、ユングの理論はデカルト=ニュートン的な世界観とは なじまない。むしろ唯心論的な世界観を示唆している。 2.心的エネルギーの理論 フロイトにおいて「リビドー」として想定されていたものは、ユングでは 「心的エネルギー」とし、性よりも根源的な生命エネルギーのような ものとして考えられた。これはある意味では東洋的な「気」「プラーナ」 の概念とも類似したものがある。つまりユングでは心=エネルギーで あって、限界のない状態であると想定される。これは、アインシュタイン の相対性理論とも近似している。心理学における「相対論革命」とも 言える。これはフロイトにおいて先駆的な形で見られたものだが、 フロイトはそれを「性」という枠に押し込めようとした。
3.元型の理論 集合的無意識と並んで重要な概念が「元型」(アーキタイプ)である。 これは、心的エネルギーのあるパターンのことであり、それが普遍的 に同じようなタイプのイメージを生み出す働きがあるという。その 代表的なものとして、アニマ・アニムス・影・老賢者・永遠の少年、 などがある。ユング心理学において確立した「象徴を通じて無意識の 世界を探る」という方法は、ロマン派が「夢の世界」に向けていた関心 を理論的に表現する道を開いたものだといえる。その世界は個人の 領域を超えた広がりを持つものとして捉えられたのである。 4.タイプ論 ユングの心理学は人間の心を全体的に捉えることを重視した。彼は 心の主要な機能を、内向型・外向型、そして思考・感情・感覚・直観の 4機能に分類した。人間はその一つが主要なものとしてあるが、他の 機能も潜在的に常に存在しているという。また実際の臨床に当たっても 知性的分析に偏ることを避け、狭い意味での科学というより一種の アートであるという立場をとっている。これは近代的な知における 「思考偏重」を戒めたものといえる。
5.魂の成長と「自己」の概念 フロイトの精神分析が患者を社会に再適応させることを目的とした のに対し、ユングにおいては心(魂)の成長というテーマが登場して きた。彼は、魂には自己を癒す能力が本質的に備わっていると考え、 そのプロセスが展開するのを援助することが心理療法の課題である とした。こういう成長のプロセスの目的として、ユングは「自己」Selfを 想定する。これは自我egoとは異なり、より深い次元の魂の全体性を 示すものである。「自己」に向かって魂が変容していくプロセスを ユングは「個性化」individuationと呼んでいる。これは、仏教などの 東洋宗教の世界とかなり接近してきている。フロイトによる理性中心 人間観の破壊は、ユングに至って、人間の中にある「人間を超えた 世界」を発見する入り口のところまで来たといえる。そこには「聖」の 世界があり、同時に悪魔的なものも存在していたのである。それは 近代ヨーロッパ的な意味での知の秩序から大幅にはみ出すもので あった。またそれは近代以前に存在していた宗教的世界観の現代的 復活という面も持っている。 6.共時性の理論 もう一つ、ユングの説の中で現在注目されているのが「共時性」 synchronicityの仮説である。これは「意味ある一致」に注目したもので、 デカルト=ニュートン的な均質的な宇宙とは全く違う宇宙観を提示する ものであった。ここには「現実とは心が創造しているものである」という 世界の捉え方がある。この理論は、心とは無関係な客観的現実がある という近代的常識に真っ向から挑戦するものであり、大きな論議を 呼んでいる。
7.心的現実の世界観 ユングによれば、現実とはすべて心的現実である。つまり心の作用に よって現象として出現するものである。この現実についての捉え方は、 東洋的な見方とひじょうに近い。ユングは、カントの認識批判を自分流 に拡大することによって、この立場に到達した。ユングの心理学は 近代的な唯物論ではなく、東洋的な唯心論の方に近いのである。 ユングの場合、この世界観ははっきりと明示されておらず、暗黙の 前提となっている。彼自身は「科学」をめざしていると考えていたが、 それは近代的な学問秩序の前提であるデカルト=ニュートン的な 世界観を大きく逸脱するものであった。
フロイトによって、心=意識という前提が覆された。ユングに至ると、 「現実」という概念そのものが変容しつつある。一言でいうと、現実に ついての実体主義の否定が進んでいる。実は、これが20世紀の知の 主要な方向であったと言ってよい。すなわち、現実とは「意識作用の 結果による意識経験」としてのみ与えられているという見方である。 言い換えれば、「世界そのものは存在しない。世界の経験があるのみだ」 ということになる。したがって、デカルト=ニュートン的な世界観も、 世界の客観的現実を反映したものというよりは、そのように世界を 把握する枠組み(ゲシュタルト)が我々に与えられている、と考えるのが 20世紀思想の大きな流れとしてある。この問題は再三出現してくる。
自然科学は方法論であり、世界観そのものではないことは既に説明した。 正確には、特定の科学理論はあるパラダイムによって支配されており、 そのパラダイムはある世界の見方に基づいている。ある科学理論から、 世界観的な問題を引き出すことは科学そのものではなく、思想の問題 であるということになる。 20世紀の自然科学における大きな変革は、@相対性理論、A量子力学 (量子物理学、量子論ともいう)の二つである。(なお、以下の説明は、 科学的説明としては厳密ではない部分もあるが、世界観的意味を考える という目的でまとめたものである) 相対性理論:1.アインシュタインの公式、E=mc2 については知られて いるだろう。これは、エネルギーと物質は変換可能であることを意味して いる。いいかえれば、物質は凝固したエネルギーである、ということになる。 つまり、固定した実体としての物質はどこにも存在していない。 2.時間と空間は相対的である。直線的に連続している時間、空間という ものは存在しない。すなわち、デカルト的な「延長としての物質世界」 という概念は明確に否定されている。 3.相対性理論は、ニュートン物理学を否定するのではなく、それを包含 する。つまりニュートン的宇宙は一つの特殊な場合として相対性理論 でも説明できる。
ここで1に関して、エネルギーという概念に注意してみよう。これは熱力学 や電磁気の理論として登場したものだが、ここには既に、「無限の何も ない空間と、そこに存在する質点としての物質」というニュートン物理学 とは異質の考えが含まれている。エネルギーとは、実体的につかまえる ことができない。むしろ、「ある作用をもたらす性質をもった場」と考える ほうが妥当である。この、場 fieldという概念はひじょうに重要である。 量子力学の意味するところはさらに近代的な前提を覆している。量子力学 の世界観的意味については、カプラ『タオ自然学』やズーカフ『踊る物理学 者』など、多く論じられている。しかし、なかなか、社会一般の世界観に 影響するまでには至っていない。 1.物質は、波動でもありまた粒子でもある。極小の物質は、粒子として の性質と同時に、波動としての性質ももつ。そのどちらかに限定する ことができない。これを相補性と呼んでいる。 2.観察する行為が、対象に影響を及ぼす。つまり、絶対的な意味での 客観性というものが存在しない。いいかえれば、何が「現実」であるか は、観察する者の行為によって変わってくるということである。ここに、 物質世界の客観性という概念が崩壊する。 3.物質の存在は、確率的にしか表すことができない。つまり、「実在」 というものは曖昧なものである。物質とは、時空連続体の場の中に 生成する粒子的なパターンであるともいえる。そのパターンはめま ぐるしく変動する。波動とは、場の働きによるものである。物質は、 ボールのような堅固な実体ではなく、「場」の特異な性質として考え られる。「量子的な場」のみが唯一のリアリティであり、粒子はその 一つの様態にすぎない。
量子的世界では、粒子はものすごい速度で相互作用をくりかえしている。 しかしこれも、ビリヤードのボールがぶつかって動くというようなイメージ とはまったく異なるものである。粒子はあくまで存在する傾向を示すだけ であり、生成したり消滅したりする。 ベルの定理によれば、@量子の世界では、ひとたび接触をもった存在 同士はその後どれだけ距離が隔たっても互いに瞬時に反応しあう、 Aただし、同定理に基づく無媒介の情報伝達は、その内容を事前に知る ことができない――とされている。 要約すれば、量子的な世界では、明確に分離した実体は存在せず、全体 が一つの量子的な場として存在している。つまり粒子というものはつねに 全体の中でのみリアリティを獲得するものであって、それ自身で独立して 存在するわけではない。いわば巨大なネットワークの一部である。そこで は、日常的な時空の概念は飛び越えられてしまう。「ノンローカル」の世界 なのである。宇宙にはどこにも切れ目がないということになる。
さらに、一つの仮説として、デヴィッド・ボームの説を紹介しておく。それは、 「顕在秩序(明在系)」explicate orderと、「内蔵秩序(暗在系)」implicate orderという概念である。ボームによれば、観察可能な物理的秩序は、内蔵 秩序から「拓き出されてくる」ものである。その内蔵秩序は、時間も空間も 超えた、見えざる世界である。実在するように見えるものは、相対的に安定 したパターンがある期間持続しているに過ぎず、実際は、すべては流れの 中にある。このボームの宇宙理解は、さらに東洋的なものに接近している ことがわかる。この、東洋思想への接近についてはカプラが詳しく指摘して いる。このことは、科学理論そのものの問題ではないが、科学理論に 含まれる世界観的な意味を思想的に考えると、必然的に出てくるテーマ であろう。 似たような思想を展開しているのは、科学思想家のアーウィン・ラズロ である。ラズロは「量子的真空」とよぶ、いわば「空」の世界がすべての 世界の根源にあると考えている。ここで、インド思想的な「空」の思想が クローズアップされてきている。
物理学の発展が、これまでのニュートン的な世界観の絶対性をうち崩した ことを見た。古典物理学の世界観は、私たちの日常世界の常識となって いるが、それは決して普遍妥当するものではないことが示されたのである。 量子物理学で示唆されたものは、「ノンローカルな世界観」である。つまり、 物は単体で独立しているのではなく、「場」によって相互に連結している。 というよりも、そうした「場」における波動的な作用が、独立した物質が存在 するかのような見かけを作り出している、ということになる。つまり、ローカル な世界観から、ノンローカルな世界観への移行がそこにあった。これは、 また、西洋科学の伝統であった要素還元主義の破綻をも意味する。 それにかわって、「世界はすべて何らかの形で連結しており、はっきりと 分割することができない」という「全体の場」の発想が主流になりつつある。 これを全体論、ホーリズム (holism)という。 本来、宇宙には時間も空間もない絶対的な世界があったが、そこから、 ある秩序を存在せしめる「マトリックス」が生まれ、それがある秩序を持った 世界を生成させる。しかしそのマトリックスは固定的なものではなく、 絶えず変動する「プロセス」の中にある。宇宙は本来ノンローカルなもの であり、ローカルに見える世界は、一つのマトリックスの作用で成立して いるに過ぎない。――これが、新しい世界の見方の特徴である。
ここで、ユングの心理学を振り返ってみると、すでにそこにノンローカルな 発想を顕著に認めることができる。ユングは、心の世界を一種の「心的 エネルギーの海」のような広がりであるというイメージを持っていた。 それが「集合的無意識」という世界であり、ユングはそれを心の宇宙 そのものと考えていた。そして、さまざまな心の内容は、そうしたエネルギー の海から浮かび上がってくる「島」のようなものなのである。これがユング の「コンプレックス」という概念である。ユングによれば、自我もまた一つ のコンプレックスである。しかし現代人は、自我のもともとの世界である 無意識の海を忘れてしまっている、とユングは警告するのである。なお ここで強調しておきたいことは、こうした考えは、単に頭だけの理論として 生まれたものではなく、ユング自身の体験および臨床体験という経験 データをもっとも矛盾なく説明できるモデルとして考えられたものだ ということである。つまり、「心的現実」の世界にそれなりの実証的基盤を 持つものである。ユングの心理学は、心理学の世界におけるノンローカル なパラダイムの始まりであり、それは物理学における展開と平行する 現象といえる。そこに20世紀の一つの知的潮流を見ることができる。 また、ここでさらに問題になってくるのが、いわゆる超常現象と呼ばれる ものである。これは、透視、テレパシー、予知、念力などの現象であり、 「超心理学」と呼ばれる学問の対象である(超心理学とは現在すでに 確立した学問分野であり、この研究自体は決して怪しげなものではない)。 多くの人は、こうした現象を受け入れるについて心理的抵抗を示すことが 多い。それは、こうした現象がニュートン物理学の常識に反しているから である。しかし、世界のノンローカルな性質を示している量子物理学の 理論に従えば、古典的な時空概念を超える作用がありうることは、 科学的知識に矛盾することはないのである。現在、量子論と超常現象の 関係はさかんに議論されている。
もう一つのノンローカルな科学理論に、ルパート・シェルドレイクによる 「形態形成場」の理論である。これは生物学において、量子論的な 「ノンローカルな場」の概念を適用して、それまで説明不可能であった データを解釈しようとするものである。 また、興味深い研究に、「祈り」の治療効果についての研究がある。 ラリー・ドッシーが『癒しのことば』にまとめたところによると、祈りを 患者に対して行った場合、その治療効果には明らかに有意の差がある ことが、科学的方法で立証されている。ドッシーは、この現象はノン ローカルなパラダイムに立てば理解できるとしている。物質および心には いずれもノンローカルな性質があることが確かめられているので、 何らかの形で物質と心が相互作用することも想定することは可能である。 あるいは、物質と心というものは、同じプロセス、場の異なった側面である という考え方をする人々も少なくない。デカルトのように、その二つを完全 に分離したものと考えると、祈りの実験や超心理学の示すデータは理解 不能になってしまうだろう。 ホーリズムは、カプラも指摘するように、東洋においては支配的な思考 パターンであった。西洋科学の要素還元主義は古代ギリシャに由来する ものである。現在のホーリズムへのシフトは、文明としての転換であると 見ることもできるであろう。ホーリズムの思考は、システム理論の発展にも 現れている。 なお、ホーリズムの傾向は、エコロジー思想においても現れている。また、 医療分野においては、「ホリスティック医学」が登場している。これに ついては、改めて述べることにする。
そこで、「情報」という考えが重要なものとなっている。情報とは、ある秩序 を与えるものであるが、実体としての「もの」ではない。非物質的なもので ある。情報が、エネルギーの場に秩序を与え、そこに一つのシステムが 生成する。この情報パターンは、特定の物質に属しているものではない。 例としては、臓器移植を行った患者が、しばしば、ドナーの記憶を意識する ケースが知られている。また、ホメオパシーと言われる療法では、実質的 にはその物質の分子が存在しない状態であるのに、その物質の情報が 溶媒に含まれているという事実がある。これらは、情報パターンが物質 次元とは独立して存在することを示唆するものといえる。シェルドレイクの 形態形成場理論もそのように理解することができる。
ここで、近代を超えようとするもう一つの流れである「トランスパーソナル 思想」をみていこう。心理学においては、第二次大戦後のアメリカにおいて、 A・マスローを中心として、人間性心理学 humanistic psychologyが 起こってきた。これは、それまでの心理療法が、もっぱら病的な人を 「正常」の状態に戻すことを行ってきたのに対し、いわゆる「正常」よりも さらに高い次元に至る心の発達があるのではないか、と考える心理学 である。ここで注目されたものが、至高体験peak experienceである。 マスローは、こうした経験は何ら異常、病的なものではなく、通常よりも 高い心の発達段階を示すのではないか、と考えた。そして、人間には 普遍的に「超越欲求」があるという仮説を立てた。 人間性心理学は、心の学問における大きな価値転換を意味している。 これは、ユングにもすでに存在していた、「心の発達」に明確に肯定的 価値を与える立場に立つ心理学であった。すなわち、これは、西洋の 近代的学問において初めて、東洋の伝統的な思想のような「社会的 標準よりも高次のレベルまで心が発達しうるという可能性を認め、 そうした発達を支持するための学問」という姿勢を明確にしたもので あった。そして、こうした高次の発達が、さまざまな学問分野で示されて きた「ホーリズム」の世界観と密接に関連することも、次第に明らかと なっていった。
マスローの人間性心理学と同じ流れにあるものとして、イタリアの精神医学 ・心理学者ロベルト・アサジョーリが作り出したサイコシンセシスという 新しい心理学について紹介しておこう。 ユングでは、無意識はすべて一括して扱われていたが、アサジョーリは、 上位・中位・下位無意識を明確に区別する。そして、上位無意識に 「トランスパーソナル・セルフ」、つまり私たちの中の「高次の自己」がある と考えられる。サイコシンセシスの究極目的は、このトランスパーソナル ・セルフとつながることである。そうすると、万物のつながり、圧倒的な 愛の存在などが感じられ、他者への深い共感も生まれてくるという。 そのためには、私たちはパーソナル・セルフ(通常の自我)への同一化を 一時停止する必要がある。アサジョーリは、こうした心的発達のために、 イメージ技法を中心としてさまざまな方法を考え出している。こうして パーソナル・セルフとは別の、「純粋自己」とでもいうべき自覚が生じる。 これが心的発達のためのひじょうに重要なステップなのである。 アサジョーリが見出したトランスパーソナル・セルフの心的経験は、古来 から宗教体験・神秘体験として知られてきたものを脱宗教的な文脈で 捉え直したものといえる。また、ユングでは曖昧なままにとまっていた 上位・下位の無意識を明確に区別したことには特に注目される。無意識 の中には、心の成長につながるポジティブなものと、危険でダークなもの との双方が含まれているという洞察がそこにある。
このような、マスロー、アサジョーリなど平均レベルを超える心の発達を 明確に認める立場を基礎として、1970年ころに「トランスパーソナル心理学」 という心理学の一派が生まれてきた。trans-personalとは、文字通り 「個を超える」ということである。この心理学は、欧米においてはある程度 の学問的な地歩を占めており、大学院レベルの研究教育機関もいくつか 存在している。その特徴としては、次のようなものがある。 1.日常的・平均的な「個」の意識を超える心的経験の存在を確認する。 2.デカルト=ニュートン的な世界観が絶対ではないことを理解し、 それを超える世界観を前提とする。つまり、一次元的世界観の否定、 多次元的世界観の立場がある。これは近代的世界観に対する 「異議申立て」の意味を持っている。 3.これらは、量子論や相対論に関連する「ホーリズム」と関係が深い ことが意識されている。 4.これまで宗教においてアプローチされてきた領域を、心理学の手法 によって探求する姿勢。つまり、特定宗教の枠組みから自由な立場 において考える。 思想史的に見るならば、トランスパーソナル思想は、東洋思想への接近 と考えることができる。特に、日常的体験を超えた次元について、体験的 にこれを探求するという姿勢は、それまでの西洋思想に欠けていた視点 である。
トランスパーソナル心理学の当初から関わってきた代表的人物に、 スタニスラフ・グロフ(1931〜)がある。彼の研究は「意識の作図学」 cartography of consciousnessとして知られており、主著『脳を超えて』 (邦訳・春秋社刊)の中で詳細に説明されている。 グロフは、精神疾患の患者にLSDを投与する治療法の研究を行った。 グロフはこの薬物を、無意識の過程を活性化させる作用があるものと 考えている。これがいわゆる「サイケデリック体験」であり、グロフは その体験が人間にとって持つ意味を考えようとしたと言える。この薬物は、 その乱用が問題となったため後に使用を禁止されたが、グロフはその 代替物として、特殊な呼吸法を用いた技法を開発し、研究を継続している。 そこで、きわめて強烈なヴィジョン体験が観察された。グロフはこれを 分類し、「意識の地図」を作ることを試みた。その結果、無意識の中には、 次のような心的体験の領域があることが確認された。 1. 自伝的レベル 2. 基本的分娩前後のマトリックス(Basic Perinatal Matrices) 3. トランスパーソナルの領域
自伝的なレベルとは、フロイト的な個人的無意識の領域である。 基本的分娩前後のマトリックス(BPM)とはグロフ独自の理論で、出生に 関わる心的経験が大きな位置を占めているとするものである。BPMは 4つの段階に分かれ、@母親との融合、A分離の始まり、B闘争、 C再生の段階があり、それぞれ強烈な心理体験が付随する。人間の 歴史において示されてきた多くの「悪」は、このBPMの領域に起源を持つ のではないか、とグロフは考えている。 第三のトランスパーソナルの領域とは、BPMを超え、時間空間を超越した 様々な体験をするものである。例えばそれには、祖先の体験、ユング的 な集合的無意識の諸要素、いわゆる「過去生の記憶」、他の動植物との 同化、テレパシー・透視などの超常現象、などが含まれる。さらには、 宇宙の根元としての「空」や「無」を経験する場合もあるという。そして、 こうした「非日常的意識体験」Nonordinary States of Consciousness といわれるものが、精神疾患の治療において劇的な効果を持つ場合が 少なくないことを、グロフは膨大な臨床データによって証明したのである。
グロフは、人間の意識のあり方には大きく言って二つのモードがあると 述べている。それは、@向物質性モード(ハイロトロピック・モード)、 A向全体性モード(ホロトロピック・モード)である。グロフによれば、 ほとんどの神経症・精神病は、この二つのモードの間の不調和による ものである。この二つをどのように統合するかが重要なことであるという。 グロフの研究の意味は、次のようなものが考えられる。 1.ユングが発見したよりもさらに広大な心的経験の地平を見出したこと。 人間の心的経験は、近代の機械論的世界観では全く理解し得ない 広がりを持っていることは、すでにユングの心理学において明らかと なっていたが、グロフの理論はそうした超時空的な体験をさらに細かく 調べ、分類したものといえる。これらは、人間の経験しうる心的経験の レパートリーがいかに広大であるかを示したものである。これは、 人間の心的世界を考える上での基礎的データとなる。 2.そうした体験に対して、すべてこれを否定的なものと考え「精神病」 というレッテルを貼ろうとする精神医学に対する強い疑問がそこに 生じる。 3.人間の持っている「悪」についての深い洞察を可能にする。 このグロフの発見の結果、個(パーソナル)を超える次元の経験が存在し、 そこにおいては、日常の時空間の概念を超越するつながりが生じてくる ことが明らかになった。つまり、ホーリズム的な世界は、実際に経験され うるものだということになる。またそこで重要なことは、意識・心というものが 物質的な時空に束縛されない性質を持っていることが示されたことである。 意識は「個」という領域を超えているのである。
しかしここで、LSDや呼吸法などによる経験が、そのまま「心の発達」を 意味するのか疑問が当然出て来るであろう。だが、もちろんそうではない。 その問題に関連して、次回以降、ケン・ウィルバーの思想について見て いくことにする。
今回はケン・ウィルバーについて考えてみる。ウィルバーは、現代を代表 する思想家の一人となっているが、いまだに一般に知られるところが 少ない。簡単にいうと、彼は「西洋と東洋の融合」を試み、一つの新しい 宇宙観を提示することを試みている。 ウィルバー思想の背景としては、まずこれまでこの講義で見てきたような、 デカルト=ニュートン的な世界観の絶対性が崩壊したという事実がある。 第二は、心理学における展開から、「ノーマルを超える自己成長」という 視点が登場してきたという流れである。またグロフなどによる、機械論的 枠組みでは理解不能な心的経験が発見され、心というものが通常考え られている以上の広がりをもつという可能性が見出されたことがある。 そして第三には、さまざまな宗教における神秘体験の共通性に注目し、 「諸宗教の超越的一致」という立場に立つ宗教思想の台頭という要素が ある。これは、オルダス・ハックスレーの『永遠の哲学』Perennial Philosophy という書に代表され、ここからペレニアリズムperennialismとも呼ばれて いる。それは、西洋近代の唯物思想に反対して、伝統的な宇宙観の 価値を復興させようとするものである。ただしそれを教義としてではなく、 その中核には経験があり、それに基礎をおいているものと見なすのである。 最後に、キリスト教を背景とした、テイヤール・ド・シャルダンなどの意識 進化論の思想もあげられる。 ウィルバーは、このような流れを受け、東洋(正確に言えば、非近代西洋) の伝統における「叡知」の立場と、西洋心理学を接合することによって、 より包括的なパラダイムを提示できると考えた。また、全体としては 「意識進化史観」という枠組みがあり、これは東洋にはなかったものである。
その特徴は、これまで発見されてきた、人間が持ちうる心的経験を階層的 に位置づけた「スペクトル・モデル」にある。ウィルバーの理論は時間と共に 発展しているが、今は『アートマン・プロジェクト』(Atman Project, 1980)を 中心にして見てみよう。ただし、理解しやすくするため若干簡略化してある。 意識の発達段階のモデル:ウィルバーによれば、人間の意識の発達 可能性は、次のように整理することができるという。
1.前自我的段階 (pre-egoic) これは、さらにいくつかの段階に分けることができる。要するに、 乳児から幼児期の意識であり、自我が未発達な段階である。 自分というものを明確に意識していない。基本的には身体感覚のみ で動いている。 2.神話−共同体段階 (mythic-membership) ある集団に同一化している意識状態。自分と集団を明確に分離して いない。ものの見方は呪術的・魔術的である。 3.自我段階 (mental-egoic) 他者と異なる自我の意識が明確に現れた段階。現在の人類の 標準的な意識水準である。合理的・論理的な判断力がある。 4.ケンタウロス段階 (centauric) 「純粋意識」とも言うべきもの。つまり、自我の制約を超えた意識 であり、想念や感情とは異なる「自分そのもの」の自覚。 5.微細段階 (subtle) 時間空間の制約を超える。元型的イメージの世界。超感覚の発生。 6.元因段階 (causal) 純粋な形、理念の世界。いわゆる神仏。光明、絶対的な愛など。 7.究極(非二元)段階 (ultimate, nondual) すべてをこえた「絶対」そのものとの一致。究極的な覚醒。宇宙との合一。
1〜3は精神分析に始まる現代心理学で発見されてきた領域である。 また4の段階は、フッサールやベルグソンなどの「純粋意識」の思想家、 およびアサジョーリによって明確に捉えられた意識経験といえる。 5〜7については、それまでの西洋文明における学問の中で語られた ことのないものだが(異端的なものとしては、キリスト教・ユダヤ教 神秘主義の伝統の中でいわれていた)、東洋の思想的な伝統では かなり普遍的に見られるものである。 近代的学問という文脈の中で、こうした意識領域の存在について正面 切って語ったのはウィルバーが初めてである。この部分は、東洋を中心 とする伝統――ヒンドゥー教、仏教、道教、イスラム教・ユダヤ教の 神秘主義など――から取り入れられたものである。こうした伝統では、 人間は誰しも、宇宙との究極的な合一に至るまでに意識を発達させる ことのできる可能性を持っているという考えで一致している。ウィルバー はそれを仮説として受け入れ、西洋のそれまでの心についての理論と 合体させたのである。 「構造」と「状態」: こうした上位の意識状態の存在については、伝統的 な文献にいろいろと記述されており、グロフによるサイケデリック・ セッションでもそれに近いような経験が報告されている。しかし、 そのようなセッションにおける経験は一時的なものであり、自分で明確 にコントロールすることができない。そのような一時的状態は、その段階 に意識が発達したということとは異なる。ウィルバーはそこで、そうした 一時的なものを「意識状態」と呼び、それを完全に自己のものとしている ことを「意識構造」が変化、拡大したという言葉で言っている。
三つの眼: ウィルバーは、5〜7のような高い段階の意識の存在も、 「経験」として確認しうるものであり、その意味で検証可能性があることを 強調する。彼によれば、ものを知るということには三つのモードがある。 それを「三つの眼」と言っている。それは、肉の眼、心の眼、霊の眼の 三つである。 肉の眼とは物質的感覚(五感)によって確認する知であり、心の眼とは 心理学がそれに該当し、「心的現実」を扱う知である。そしてもう一つ 霊の眼があり、神秘的直観によって世界の奥深いリアリティを知ること である。この三つは、モードこそ異なるが、いずれも「観察 → 仮説 形成 → グループによる検証」という手続きを経るものであり、 サイエンスという精神に合致したものである。これらは、「どのように すれば検証できるか」という方法を提示しなければならない。そうした 反証可能性が存在する限りは、それは学問としての基準を満たしている、 とウィルバーは考えるのである。霊の眼で扱われる領域については、 瞑想の実践がその検証方法に該当する、と彼は述べている。 だが、理論的な可能性としてはともかく、現実には、心理学は現在4 「ケンタウロス」の段階に到達しつつある状況であり、それ以上の諸段階 については、これを実証的に検証する段階にはまだ遠いものがある。
金属曲げの論文: 佐々木茂美,小林明,小林正幸,越智保雄,伊藤文雄: 非金属材料に及ぼすPKの影響(単純梁式支持の竹材と木材の場合) ,1976,サイ科学,1(3),15-20 佐々木茂美,越智保雄: PKによる金属材料の変形現象について ,1976,サイ科学,1(2),8-15 佐々木茂美,越智保雄,高岡哲久: 念力によって破断した金属破面の走査形電子顕微鏡による観察 ,1977,サイ科学,2(2),15-19 佐々木茂美,越智保雄,丸田一雄,高岡哲久 アルミニウム板の硬さに及ぼすPKの影響 ,1978,サイ科学,3(1),3-9 小川雄二,佐々木茂美: 念写過程で暗缶内に発生した念場の物理的特性(波形分析 その1) ,1979,サイ科学,4(1),2-9 小川雄二,佐々木茂美: 念写過程で暗缶内に発生した念場の物理的特性(波形分析、その3) ,1981,サイ科学,5(3),41-43
研究発表: 大谷宗司 他: 念力により変形したスプ−ンの材料工学的検査 ,1983,日本超心理学会第16回大会発表プリント集 呂芳一: 金属曲げ現象における変形および破断過程 ,1986,日本超心理学会第19回大会発表論文抄録集 呂芳一: 金属曲げ現象における変形および破壊について(その2) ,1987,日本超心理学会第20大会発表論文集 「Failure analysis of a spoon broken by a parapsychic person」 W.J.D.Shaw:Microstruct Sci.,18(1990),517.
・1991年、「気」の研究を中心とした「人体科学会」が創設される。 ・1992年、エジンバラ大学超心理学ケストラー講座ロバート・L・モリス 教授が8月に来日、日本超心理学会大会で講演する。 ・1995年、生体機能、脳生理学、精神活動、東洋医学、伝統医学、生体放射、 気、気功、精神集中、潜在能力、感覚外認識、精神的物理現象などの 実証的解明を目的とする「国際生命情報科学会」が創設される。 小久保秀之(1995)は日本超心理学会第27回年次大会シンポジウム 「21世紀の超心理学を考える」において、物理学の超心理学に対する 貢献可能性としてカオスと量子力学の研究が注目されると述べている。 すなわち、 『カオスの微小効果の指数関数的時間発展は,超心理学的効果の特徴を 説明するのに 適当かもしれない。量子力学では従来からある観測問題 だけでなく,メゾスコピック系の物理が注目されている。また,量子生物学 や意識の量子力学モデルなどは,急速に研究者の数が増えつつある』 というのである。超心理現象に対する量子力学的アプローチは有望である という印象がある。また、小久保(1995)は最近の生物学的研究において、 通常の5感以外にさまざまな方法を使って生物は情報を伝達していること がわかっていると述べており、理論的には量子力学的効果が生物レベルで 発生していることが検討されるようになってきている。
・1995年、科学技術庁は「理化学研究所」に「脳科学総合研究センター」を設置、 さらに「放射線医学総合研究所」で「気功研究」を開始。 「遠当て」と呼ばれる現象では、気功熟練者が非接触で離れた相手を 激しく後退させる。両者間の感覚伝達を遮断した無作為・盲検実験で、 暗示等の心理効果を取り除いた後でも、この現象が統計的有意に生起する ことが、生命情報科学シンポジウムで発表された。さらに詳細な3つの 実験を行ったところ、前回の報告を支持する結果を得た。 「未知の情報伝達機構の存在」が示唆される。気はかなり離れた距離でも 送ることができ、たとえば東京と京都の距離でも届くことが確かめられた。 他にも興味深い成果がでており、応用物理学会などで発表されている。 ・2001年2月17日から19日、神奈川県葉山町の湘南国際村において、 文部科学省の外郭団体である科学技術振興事業団主催の異分野研究者 フォーラム「心と精神の関与する科学技術」が開催。 文部科学省は、将来的には恒常的な専門教育・研究機関である 「潜在能力科学研究所」や大学院・大学の設置も射程においた、 わが国のニューサイエンスの拠点づくりも構想しているという。
・1996年、「日本トランスパーソナル学会」が創設される。 これまで近代合理主義の枠組みの中から外れたり、軽視されてきた 諸側面にもタブー視することなく光を当て、検証することにより、 人間経験の本質や世界のリアリティに、より豊かで包括的な視座を提供。 ・1998年11月、日本の「意識・新医療・新エネルギー国際シンポジウム」で ノーベル賞物理学者のブライアン・ジョセフソンは「超常現象の発見は 正統な物理学が既に限界に達していることを呈示した」と宣言。 ・1999年、「日本トランスパーソナル心理学/精神医学会」が創設される。 ・同年、「世界保健機関(WHO)」の「健康の定義」に 「スピリチュアル(霊性)」の文字を加えることが提案される。
ウィルバー思想の評価: ウィルバーの思想は、東洋思想的なアプローチ を大胆に取り入れた点で、西欧近代思想の前提を超えているところがある。 したがって、近代的前提に基づくアカデミズムの立場からは、思想としての 体裁をしていないということにもなる。だが、ウィルバーの理論の妥当性は、 理論そのものではなく、実際の「知覚」によって検証されるものであり、 そのように作られている。 つまり、人間は日常生活的な常識を超える体験をするものであるという 事実をふまえて、その体験データを統合的に説明するモデルとして ウィルバー理論は作られている。たとえば、臨死体験、退行催眠による 前世経験、至高体験、超心理現象など、こうした体験例を調査し、それと ウィルバー理論とにどの程度の整合性があるかという観点から、検証を 進めなければならない。 このような視点から見て、ウィルバー理論には若干の問題点が見出される。 まず、彼の理論によれば、すべて、ある次元の意識構造は、それ以前の 発達ステージの意識を十分に発達させてはじめて到達されるものと考え られている。そこで、ステージ5の「微細」次元の知覚能力は、それ以前の 自我やケンタウロスの段階の上に来ると考えられている。 しかし、多くの体験例によると、個を超える次元の経験には必ずしも肯定的、 超越的ではないネガティブな経験も多数報告されているのである。 ウィルバーは、それはすべて自我以前の段階に属するものと考えるかも しれないが、それには無理がある。「個を超える、ネガティブな体験世界」 は、ユング、グロフ、アサジョーリなどにも知られており、ウィルバーは これを軽視しているようである。したがって、ウィルバーの「微細」次元の 位置づけは問題があるといえよう。
この点で、アサジョーリの卵形のモデルが、より体験データの正確な理解 につながるものと考える。アサジョーリの言う、上位・中位・下位を含めた 「無意識」世界全体が、一つの体験領域という点で、「微細 (subtle)」の次元 をなしている。ウィルバーは、上位無意識のみを問題にして下位無意識な どを無視している。そして、アサジョーリの言う意識の領野が、日常的な 体験世界であり、その統合中心が自我(パーソナル・セルフ)であると考え ることができる。そして、おそらくこの卵形の外側というものがあり、それが 微細を超える次元世界である。アサジョーリの言う「トランスパーソナル・ セルフ」とは、そうした微細以上の次元(ウィルバー的に言えば「元因」)と 接触する経験かもしれない。 微細・元因・非二元の領域区分については、表現は異なるが過去の東洋 思想にも共通してある考えであり、多くの神秘主義的伝統では一致している。 しかし、微細次元は、必ずしも自我次元よりも無条件で「上位」とは言えない。 むしろ、ユングやアサジョーリが指摘するように、善も悪も、光も闇も共存 していると考えるほうがよい。したがって、こうした領域を知覚する能力は、 必ずしも成長を意味するとは限らない。結局、ウィルバーのように、前自我 →自我→自我を超える次元、と単線的なモデルを作ることに問題がある。 むしろ、アサジョーリのように、自我次元は、無意識としての微細次元に 包囲されているというモデルが、さまざまな心的経験によく適合するのである。
さらに、ウィルバーのほかの問題点としては、彼が回答を回避している問題 が存在するということがある。その大きなものは、@意識の死後存続の問題、 であるが、これは最終的には、A物質次元に基盤を持たない意識が存在 しうるか、という問題に帰着する。つまり物心の関係という問題である。 ウィルバーは、より上位の次元は、下位の次元を包含していると述べている。 しかし彼は、その次元世界全体と、その次元世界に個別的に存在するもの との区別を曖昧にしているようである。これはトランスパーソナル思想の中 でも微妙な問題といえる。ここで注意することは、これは本質論ではなく、 「そのような意識経験が存在しうる」という心的現実を認めることから出発 する必要があるということである。また、量子論も教えるように、存在とは すべて相対的なものであり、「どの視点から見るか」によって異なってくる とも言える。
これまで、さまざまな形で、近代的世界観の限界を破る思想的な動きに ついて述べてきた。その中で、重要と思われるポイントを要約してみよう。 1.物質を実体と見る見方から、すべて現実は「世界の見方」によって 構成されているという見方に変化している。つまり、現実とは構成される ものであるという視点を持つようになっている。したがって、その構成 のしかたによって、現実は多様に変わりうるものである。ここから、 現実の多次元性を考える余地が生まれる。 2.知識を得る方法について、自然科学的方法のみが絶対とする見方が 揺らいでいる。その方法は、デカルト的物心二元論を前提としていた。 これに対し、「体験された世界」を重視する「心的現実」の立場が登場 してきた。 3.日常的体験の範囲を逸脱した体験について、それが人間にとってもつ 意味を真剣に捉え、そうした体験をも含めた、「意識の地図」を作ろう とする試みが見られたこと。 4.こうした一連の流れの中で、近代的な知識のあり方が見直されると 同時に、東洋思想が再評価され、東西の思想の融合が試みられる ようになった。 こうした見方の転換は、単に観念のレベルにとどまるものではない。 それは具体的な応用として社会の多くの部分を変革していく。いくつか 例をあげてみよう。
WHOは、新たな「健康」の定義として、spiritualな次元の健康という定義 を採用することを検討した。これは、人間にはbody, mind, spiritの三つの 部分があり、それが統合されている状態が健康の前提だというものである。 また、アメリカの医師ラリー・ドッシーは、『医学の再創造』という著書の中 で、医学の歴史を、第1期:機械論的医学、第2期:心身医学、第3期:ノン ノーカルの医学と分類し、第3期が現在始まりつつあると論じている。 ドッシーは特に「『祈り』の治癒効果」に注目している。また、Therapeutic Touchや気功法、鍼灸など、「気」のエネルギーを用いる治療法がかなり 認知されてきており、エネルギー医学と呼ばれている。これは、東洋医学、 そしてその背景となっている東洋思想を取り入れる試みといえる。これら は、人間は単なる肉体のみではなく、多重次元の存在であるという 人間観を前提としたものである。また、アメリカ政府は正式にこれらの 「代替医療」を研究する部門を設立した。 また特に、心理療法、精神医学の分野においては、いわゆる超常的な 経験を含めて、ノーマルではない意識状態を経験した人を、すべて 「精神病」と見なすことの問題が浮上してくる。むしろそれは、人間の 隠れた可能性を示すものが含まれているという考えに立つと、こうした 人をすべて精神病院に送り込むことは大きな社会問題ともなる。近代 医学の多くは、以前としてデカルト・ニュートン的世界観の中にあり、 機械論的に人間を見ていることの限界が明らかになってきている。
従来のエコロジー(生態学)から発展して、エコソフィー、あるいはディープ ・エコロジーと呼ばれる思想が登場している。これは簡単にいえば、自然の 中に「聖なる次元」があることを認め、それと人間との深いつながりを回復 しようとする思想運動であろう。またそれは、これまでの近代文明が、 そうした自然の聖性を無視し、破壊する傾向があったことを厳しく批判する という面もある。これは、フェミニズム思想と密接に結びついている。つまり、 自然、環境をすべて人間が支配し、コントロールするという近代的な思想は、 「女性的なもの」を無視し、抑圧するものであったと考える人々も多い。 エコソフィーは、特に人間の内面性を重視する。 ディープエコロジーの始まりといわれるのは、アルネ・ネスの『ディープ・ エコロジーとは何か』(文化書房博文社)である。ここでネスは、人間と自然 を分離して考えるのではなく、その双方を含みこむ、いわば「大きな アイデンティティ」の方向へ人間自身が自分を変革することの重要性を 指摘している。その基本となるのは、@自己実現 (self-realization) A生命中心的平等性 (biocentric equality)である。ネスは、すべての 生命は一つにつながった全体の一部であるという見方から、すべての 生命の平等性をとらえ、生命の多様性と個性を破壊する行為を否定する という倫理が導き出す。これは「人間中心主義」に対置されるものである。 つまり、エコソフィーは、自然を含みこむ「拡張された自分」を実際に 感じるということを重視する。
また最近、ジェームズ・スワンの思想が紹介された(『自然のおしえ 自然の癒し』日本教文社、『聖なる場所』春秋社)。スワンは、特に「聖地」 に注目し、そこで人間と自然とのスピリチュアルな交感としての聖なる 体験が起こることを述べている。つまり、人間が、日常よりも大きな リアリティの存在を体験する特別の場所が聖地であったのである。 スワンは、これまでの聖地のタイプや、そこにおいて発生する非日常的 な体験を研究し、それに基づいて、現代において聖地を復権させる 社会的な運動を構想する。 たとえば、北海道の二風谷ダム建設などに見られるように、聖地という スピリチュアルな価値観は、科学的に評価できないため、行政から 無視されることもしばしばである。このように、効率優先の価値観に おいては、聖地における自然との神秘的な一体感というものの価値は 理解されないのである。世界観の変革が価値観の変化に結びつき、 それによって社会が変化していくことの必要性が感じられる。 聖地、あるいは聖なる場所、空間という思想は、現代の多くの建築家、 ランドスケープアーキテクトによって注目され、その世界観に立って 数多くの新しい空間創造の試みが存在している。 これらは、新しいホーリズム的世界観を前提としている。そこでは、 人間と環境を不可分の全体と考える発想(人間が環境を一方的に 制御するのではなく)とともに、人間には物質次元だけでなく、 mind, spiritの次元の欲求も基本的なものとしてあり、そうした 「スピリチュアルなニーズ」を満たすことが、これからの文化的創造 には求められるという価値観が共有されているのである。自然に対する 聖なる関係とは、人間のそうした必要の一部であるというのが、 エコソフィーの提示する価値観である。
「ホリスティック教育」の運動がある。川崎小学校の森は有名である。また、 その先駆者としてシュタイナー教育も注目されている。これらは、 スピリチュアルな次元を含めた人間の全体性を重視し、これまでの知識 中心の教育に反対している。
20世紀に支配的となった唯物論的近代科学の見方は、現在の初等・中等 教育をほぼ完全に支配しているので、なお強い影響力を持っている。 文部省など政府機関が世界観の転換をはかるのは常に大きなタイムラグ があるので、現在人々が求めるものを提供できないのはやむを得ない かもしれない。 21世紀の宇宙観は、ポスト近代の宇宙観ということになるが、それはまだ 完全な形で姿を現してはいない。しかしいずれにしても、古代的宇宙観と 近代のポジティブな面を統合していく必要があるだろう。 近代の否定的な部分を紹介することが多かったが、近代の肯定的要素に ついてまとめてみよう。 1.機械論的な科学体系も、ある局部的な現象を分析し、予測するには 大きな威力があることは事実である。工学技術や西洋医学もその例 であろう。 2.近代以前の世界観は権威をもって押しつけられており、個人の自由 な探求を圧迫する傾向もかなり見られた。「個人」を単位とした権利 という意識は近代まで存在しなかった。「科学」も、先入観にとらわれず 自由にものを探求する精神としてとらえ、特定の世界観と結びついて いないものと考えれば、積極的に肯定できるものであろう。また宗教に ついても、近代以前は集団的であり、個人をベースとしたものではない。
一方、古代的(非近代的)世界観から学ぶべき要素は、次のようなもので あろう。 1.感覚に見える次元のみでなく、見えない次元の存在を認め、その価値 を認識すること。また、通常見えない次元が感覚される「超感覚」の 存在を承認すること。 2.人間も、宇宙と同様、意識・身体の両面において多次元的な存在で あるという認識。それら見えない次元は、エネルギーという性質を帯びる。 この多次元的世界はスペクトル状態となっており、段階の違いがある。 3.人間は、自己の状態を自ら変容させ、内にある多次元性を覚醒させる 可能性を持っているという考え。 4.人間は、目に見える自然・見えない自然と複雑なネットワークでつな がっているという感覚。 21世紀の宇宙観は、古代・近代いずれも包含するものであり、「あれか これか」の発想ではない。包括性というのが重要な要素である。また、 古代は一部を除いて集団性が支配的であり、近代によって個人性が 強調された。そうした遺産を受け継ぎつつ、「超個人性」の要素を追求 していくのがこれからの問題となってくる。
こうした宇宙観を前提として、近代科学一辺倒であった「知」の体制も変容 していくことになるだろう。 1.見えない次元の現象、意識、超感覚の可能性に対して開かれた態度 で研究すること。つまり、本来の科学精神を唯物論から切り離し、 解放すること。 2.自らの経験として、多次元的な意識の可能性を追求し、それを持ち 寄って吟味すること。つまり、定量的・統計的な方法だけでなく、 経験をもとにした探求もまっとうな知のありかたとして確立させること。 3.また、こうした実際の経験に基づいて、宗派を超えた普遍的世界宗教 を作っていくこと。 つまり、サイエンスとソフィアをバランスさせた統合的なヴィジョンを示して いくことが、21世紀の知的課題となると予想されるのである。
351 :
没個性化されたレス↓ :04/03/25 12:37
トラパの本は諸富さんの入門書で読んだだけだが、 そのあとで「七つの習慣」を読んで内容が酷似していて驚いた。 (あっちもマズロー先生だし) 門外漢の意見で悪いんだが、案外経営学に飛び火してるんじゃないか?
経営学や看護学の分野では 今でもマズローへの言及が多いというのは本当。 今頃になって行動科学がありがたがられているのもこれらの分野。
オープニング・レクチャーをさせていただきまして、ありがとうございます。 このシンポジウム組織委員会の皆さんに感謝いたします。私はケンブリッジ 大学物理学科にいる普通の科学者です。由緒ある組織ですが、私の 興味はそれほど皆さんには理解されているものではないと思います。 私は思っているほど科学者は世界を理解しているわけではないということ がだんだんわかってきました。いろいろ研究しているというわけではあり ませんが、私は物の働きを理解しようとしています。しかし超常現象に 全く出会ったことがないというわけではありません。まず私の個人的な 関わりから説明したいと思います。
ケンブリッジ大学トリニティカレッジの同僚ジョージ・オーウェンは遺伝学を 勉強していました。しかし彼はポルターガイスト現象、幽霊屋敷、超常現象 に大変関心があり、自分の時間にそれらを研究していたのです。彼は 私に超常現象について話してくれまして、それで私はそれらのもつ可能性 にとても興味をもったのです。 とても興味深いのは超常現象は量子の世界に共通する点です。そして これらの超常現象は必ずしも非科学的ではないと思いました。科学者も かなり変わったことを発見していたのです。 ジョージ・オーウェンはその後トロントに移り、数学の博士になりました。 トロントのサイコ・リサーチ学会の長になりまして、彼は私をサイコキネシス の学会に呼んでくれました。そこではサイコキネシスの学会論文の他、 様々なデモンストレーションが行われまして、マシュー・マニングはいろいろ な変わったことを見せてくれました。 彼がコンパスの針を手にかざすと、コンパスの針は動き始めました。 もしかしたら磁石を使っていたのかもわかりませんが、私は彼を信頼の おける人物で物を動かす力をもっているのではないかと思いました。 彼の説明によると、身体の中にエネルギーを集め、そのエネルギーを 指の先に集中させて、動かしたい物の上に手をかざすだけで動かすこと ができ、また金属も曲げることができるというのです。彼は私の持って いた鍵を曲げました。その鍵をしばらく手の中に持ち、机に置くと、曲がり 始めました。これはトリックではできるものではないと思いました。私の 鍵はとても頑丈な物だったので、トリックで曲げるにはとても難しかった と思います。信じられない人もいるでしょうが、私はこれらの能力は実際 あると確信しました。
この学会で皆さんに披露するのは私のものの見方です。超常現象に 批判的な科学誌「ネイチャー」のような現状維持の人たちは、名前を 挙げるならば、スティーヴン・ワインバーグなどが思いつくのですが、 彼なんかはテレパシーに関する論文など読もうともしません。 私の研究についてもう少しお話しますと、私自身こういう超常現象を 起こすことができたことがあります。 この分野にはかなり否定的なリチャード・ワイズマンが学生の前で テレパシー実験のデモンストレーションをしました。彼は学生たちに、 一人の学生にしか見えない絵をテレパシーで当てさせようとしました。 私はその学生の心に統合しようとしたのです。するとその瞬間、頭の 中に一瞬絵がよぎったのです。いくつかの線と壁の絵でした。講演者が いくつかの絵を見せたのですが、その絵の一つは私が見た絵と似て いました。講演者が私たちにその学生が見ていたのはどの絵なのか と尋ねたので、私は一枚の絵に手を挙げたのです。講演者はOHPの 透明シートを逆に向けていましたので、実際に学生が見ていた絵は 私が一瞬脳裏で見たものと同じものでした。 私は自分が特にテレパシーがあると思ってはいませんが、このような 実験でテレパシーが実在することを実感したのです。私自身に起こった 不思議な体験、他の人たちが体験したことなどは、超常現象の実在を 私に実感させるには十分でした。超常現象がナンセンスだという人も 多いのですが、現在は説明できなくとも、将来的に科学がこういった ものを証明することになるでしょう。
実験によって出た証拠をいくつかお見せしたいと思います。これはこの道 の権威の方々によって行われた実験なのですけれども、テレパシー実験 の結果です。一つ難しいことは、念力というのは統計的なものが多い。 つまり実験を何回も行わなければ実証することはできないということです。 かなり多くの実験を積み重ねなければ、データが集まりません。でもこの 現象を信じない人はそういう実験をしたがらないのです。 成功例は偶然に過ぎないということも多いのですが、積み重ねられた結果 はただの偶然では説明がつきません。つまりテレパシー実験の結果は テレパシーの存在をかなり証明するものです。 これはサイコキネシスの同じような実験結果なのですが、サイコキネシス は精神を使ってものごとを早めたり、遅らせたりすることなんです。超常 現象における科学的実証はこういった実験例においてなされているのです。 このような証拠で科学者も超常現象を真実だと認めるのではないかと思う のですが、残念ながらこのような結果を科学的に認めていただくのは 難しいようです。私がお見せした二つのスライドは、ディーン・ラディン先生 の著書「意識する宇宙(The Conscious Universe)」から抜粋したものです。 これはかなり学術的な研究に基づく本で、超常現象を実証する確固たる 研究なのですが、ほとんどの学術誌に否定されております。
ネイチャー誌は無視はしませんが、その代わりに欠点を見つけ、この本が 間違っているということを記事にして出版しようという結論に達しました。 ネイチャー誌は以前ホメオパシーに関してもこのような否定的な結論を 出したのですが、今回はディーン・ラディンの著書に決定的な欠点がある と批判しました。統計分析の権威I・J・グッドに頼んでラディンの本の書評 を書かせたのです。 著者が3300という結果に到達し、書評者グッドが13とか8という数字で あるべきだといったとすると、この数字は都合のよい結果だけ出したことに なります。ラディンの結果を間違っていると証明したといっても、実は書評 者が意味をわかっていなかっただけかもしれません。ネイチャー誌は グッドが間違っていれば、その訂正記事を載せなくてはならないのですが、 不思議にもネイチャーの編集者はその訂正記事を出さずに、ラディンの 本に決定的な欠陥があると読者に思わせ続けたのです。編集者はなぜ その訂正を行わなかったのか? それはわからないのですけれども、 その後かなり時間がたって訂正が行われました。 ネイチャー誌の犯した間違いについて私そして私以外の人たちも含め 論じた結果、ようやく訂正記事が出ました。ネイチャー誌はそろそろ訂正を 出そうと思っていたんだというふうにいいましたが、ラディン博士による 手紙の他、書評者グッドの手紙も掲載しています。グッドは科学的ではない コメントをたくさん述べ、ラディンを激しく攻撃しました。ラディンは本の中で そうとうわかりにくいことを述べ、そしていくつかの点を故意に抜かしていた と攻撃したのです。ネイチャー誌は最後までこのラディンの本が適切なもの ではないと読者に思わせたかったのでしょう。 近い将来、私のいくつかの論文を掲載してくれたハイエデュケーショナル・ サプリメント誌にネイチャー誌とラディン博士とのこれらの経緯を発表します。 正統派科学が否定することが実在すると出版されると、たとえばネイチャー 誌はこのように行動するんだという経緯を公表する記事が間もなく出る というわけです。
科学の変化について話を移したいと思います。初めに述べましたように、 科学でも様々な変化が起こっていまして、いずれ超常現象について科学的 な説明がなされるのではないかという希望が見えてきました。 私が当初超常現象に興味をもったのは、トリニティでジョージ・オーウェン 氏と夕食をとりながら話していたとき、量子力学で起こっている不思議な 現象にかなり似ていると思ったことに始まります。 量子力学は二つの全く同じシステムが全く同じであり、全く違うといった 性質をもっています。普通の世界では全く同じというものはありません。 かなり近いものはありますが、そしてかなり違うものはありますが、量子 力学では二つのものは全く同じというようにいえます。原子スペクトルで いくつかの線が抜けているということもありますが、私が当初興味をもった のはそのようなところにあったのです。
超常現象でよくいわれるのが非局所性(non locality)です。量子論によく この言葉が出てきます。学生の講義ではG、H、Z(グリーンバーグ、 ホーン、ゼイリンガ)という三人の名前のイニシャルがついた実験のことを 話します。一つの粒子が非局所的作用をもつということが仮定されない と説明がつかないことになるわけです。 ジョン・ベルは1964年に量子論には通常の物理学では説明のできない ものがあると証明しています。すなわち何らかの関係が遠隔地において 作用していることが保証されたというのです。これはいってみれば超常 現象的なものなわけで、これが科学の分野から出てきたのです。それが 古典的な物理では全くないということは非常に驚くべきことではないかと 思います。アインシュタイン他二名の研究者が、一つの系が二つに分岐 するところで奇妙なことが起こっていると報告しております。 通常の場合にはノイズが存在し、従ってものを見ることができなくなる 可能性があるのですが、別の形では自然の振る舞いが全く異なって しまって、通常のものとは違う現象が生ずることがあり得るという説明が 可能になるわけです。
科学者がこの理論を理解することができれば、もしかしたら実際に超常 現象を取り出すことができるかもしれません。この分野は急速に発展して おりまして、量子情報という考え方が出て参りました。理解することの できない状況についても説明されるようになってきました。計算して、 その効果を取り出し、実験で確認できるのです。 この中でちょっと奇妙なことをお話ししましょう。それは量子テレポーテー ションです。テレポーテーションは物を一つの場所からもう一つの場所に 移動させることですが、お借りした知人の講義資料によりますと、物を 一つの場所からもう一つの場所へと実際に運ぶことなく、移動することが できることを示しています。 FAXですと、読みとった信号を別のところに伝達して、そこのプリンター が同じものをコピーして、プリントアウトするわけです。これを私たちは 実際に使っています。この場合は一枚の紙でやっていますが、たとえば 電子を一ヶ所から別の場所に移動させ、完全なコピーをしたいとしましょう。 FAXの方法論ですと、うまくいきません。紙に書かれている情報は読み とれても、電子という粒子の状態を正確に読みとることはできないのです。 従って電子の移動は同じ方法論ではできないということになります。 チャールス・フェネット他数人の科学者が非常に奇妙なやり方ですけれ ども、電子の移動の方法を考えました。一つの系を二つに分けて、観察 結果の情報を移動させる。量子力学の非局所性を使って移動させた観察 結果の情報をもとの系に復元させるというわけです。こういった量子力学 の方法は実験室で検証されてきていまして、これは神秘主義的な現象 であって、超常現象的なものに関わりがあるのではないかと思われます。 この量子情報についてはより理解を深めていく必要があります。
それではちょっと別の観点、カリフォルニア大学バークレー校のヘンリー ・スタップの提唱する量子論の考え方を見ていきたいと思います。 スタップによりますと、量子は「心」の状態に関わり、見る度にその状態が 変わるのは量子の状態変化が実際に「心」の作用で引き起こされている からだというのです。つまり古典的な物理学では「心」の入るべき場所は ないのですけれども、量子論の場合はそうではないと主張しています。 量子論は物理学であるけれども、「心」を入れることのできる全く新しい ものであるというのです。そして知識というのは自然の不可欠の宇宙部分 であり、量子論の知識は自然の不可欠の構成要素ということを私たちに 伝えるものであるという提起をしているのです。
量子論はそれくらいにしまして、それ以外の科学の分野における最近の 展開について少しご紹介したいと思います。それは最近展開をみた分野で、 超常現象に関わり合いのある複雑系(complexity)と呼ばれるものです。 現在その理解は深まってきていますが、必ずしも全ての科学者が理解 しているわけではありません。科学は非常に大きな分野ですから、一人 の専門科学者が他の分野に通じているわけではないので、複雑系という 考え方について知らない科学者も多くいると思います。 その提唱されている一般的な考え方というのは、非常に複雑な系がある ときにはこれまでとは異なる科学的体系が必要なのではないかという ことです。それではこの説明を少ししてみたいと思います。 科学がどう機能するかをみますと、研究したい系について科学的な記述 を行う必要があります。光については電気と磁気で、物質については電子 とか核といった観点から記述することになります。そして数学的記述を 使って、理論を創っていきます。それに基づいて予測をしていきます。 簡単に申し上げますと、これが基本的な科学の在り方となるわけです。 しかしロバート・ローゼンは「ライフ・イットセルフ」という本の中でこのように 述べています。「一つの自然を研究するような方法論は特に複雑系を対象 にしている限りうまくいかない可能性がある!」と。そしていろいろな方法 で記述する可能性があるということを指摘しています。ということは実際に どの記述を使うのが適切なのかわからない場合があるということです。 単純系では曖昧性はありませんが、複雑系は基本的には非常に曖昧な ものです。
カオスという考え方もあり、バタフライ効果はよく知られております。蝶の 羽ばたきのような微小な変化が非常に大きな影響を及ぼす可能性があり、 予測がしがたいことを意味します。複雑系においても予測はなかなか 難しく、何らかの現象が起こる可能性があります。全く予想外のことになる 可能性がありますが、それは科学に反することではなく、私たちの科学的 方法に疑問を投げかけているのです。すなわち複雑系は様々な形で語る ことができるものなのです。 複雑系の理解には組織化あるいは関連性といったまた違った観点をもつ 必要があります。いわゆる普通の古典的な原則は適用されないということ です。 たとえばゲノム解読プロジェクトがありますが、これはもしかしたら人間が 予想しているほど成功をおさめないかもしれません。つまり生命体という のは非常に複雑であって、遺伝子の観点で完全に理解できてしまうような 対象では全くない、ということが明らかになるかもしれないからです。
複雑系の一つとしてガイアという考え方があります。ガイアとは地球を 一つの有機体ととらえる考え方です。この考え方の基礎にあるものは、 その対象が生命体だということだけではなくて、環境の中における生命体 について思考する必要があると提唱することです。生命体は単に環境を 一時的に占拠するものではなくて、さらには環境を変化させ、その生命体 にとってよりよいものへと変化させうる力をもつものであるというのです。 ジェームズ・ラブロックはこのように提唱していますが、実際に生命体が 環境に影響を与える実証的事実があるのです。たとえば海洋生物が 大気の成分を変え、気候を変動させる可能性があることは実証されて います。これは単に偶然によって起こるわけではなく、生命体が進化し、 その過程でどういったことが好ましいかということについて学習してゆく わけです。 このような理論は馬鹿げているといわれましたが、今では受け入れられる ようになってきています。これは通常の科学の方法論には矛盾するもの です。私たちはものを分断することによって研究するわけですから、 ガイアのようにむしろ全体を対象にしたもののとらえ方は全くアプローチ が違うのです。
似てはいますが、もう一つの別の考え方が非常に重要なある本の中で 説明されています。これはあまり注目を浴びてきませんでしたが、大変 重要な本だと私は思っております。ルシャンの著書「クレアヴォイアント ・リアリティ」(透視的現実)です。このルシャンの考え方は大変面白い ものです。 科学者は現実に対してあるものの見方をしていまして、私自身研究して きてよくわかっています。しかし神秘家や超能力者は現実の考え方が 全く異なっているということをいうのです。科学は部分と部分が相互作用 をもつと考えていますが、これに対してより大きな全体像があると想定 する考え方もあります。これは科学者が通常考えてきたものではあり ませんが、複雑系の理論を考えますと、もしかすると実際に自然の作用 しているその在り方というのは、この全体論的なものかもしれないと考え ざるを得ない。すなわち全体というものがあるのですが、私たちはそれに ついて知らないだけなのかもしれません。何らかの統御する単位があって、 そこで統御されているものが実際に私たちの目にとまるだけなのかも しれないのです。 従って、科学の進むべき道、そしてルシャンのいう神秘家の世界には 共通するものがあると思うのです。
ちょっとプラトンの世界にも触れたいと思います。プラトンの世界とは何で しょう? プラトンによれば、私たちが目に見ることのできない形態をこの 真の世界はもっているというわけです。 ロジャー・ペンローズは最近、私たちは数学的な真理にどのように到達 するのかという関連で論文を書いています。プラトンのように、ペンローズ は別の異なる世界との接触によって数学的な真理を知るのだと考え、 実証しようとしたのです。新しい過程を創ることなしに数学的仮説を証明 することができるといったのですが、いろいろな人がその方法が間違って いるといいました。しかし私は、その方法論は間違っているかもしれない けれども、結論は正しいのではないかと思っています。 実際に数学がどのような作用をもっているかを考えますと、私たちは過ち を犯す存在でもあるということを忘れてはいけないわけで、真理との接触 がある中で、精神を正しい適切な状態におくことができなかった故にミス を犯すと思うわけです。つまり真理に関連した特定の特性を得るためには、 特定の精神状態に自分をおかなければならないということになると思います。 この数学の問題は音楽との関連で解決することができるのではないかと 思います。そこで私は音楽の専門家との話し合いを始めたわけです。 簡単にエッセンスだけを申しあげます。心理学者の使っているような理論 では音楽を説明することができません。音楽は非常に根本的なところに 触れるものがあり、基本的には非常に基礎的な言語であって、プラトン的 な世界がこの言語に反応するのだろうと思うわけです。 私たちはおそらく第一歩として、音楽とは何かという理論を構築し、展開 することができるはずだと思うのです。プラトン的な世界で音楽が精製 されるとする聖アウグスチヌスに反対する理論も最近出てきております。
この会議は科学者が通常拒絶しがちな考え方をテーマにしておりますが、 科学の向かう方向性を見ますと、おそらくはこういった考え方もとらえなく てはならないというところにきていると思います。 数年の間に科学と意識工学との橋かけができてくるのではないかと期待 しております。以上です。ありがとうございました。 ※この「超常現象とプラトン世界」は、1998年11月に早稲田大学で 開催された「第二回意識・新医療・新エネルギー国際シンポジウム」での ジョセフソンによるオープニングレクチャーである。 ※ブライアン・ジョセフソン (Brian D. Josephson) ケンブリッジ大学物理学科教授。同キャベンディッシュ研究所 濃縮物質理論グループ・精神-物質統合プロジェクト所長。 ジョセフソン効果(薄い絶縁体膜を挟んでサンドイッチ構造にした 超伝導体における電子対のトンネル効果)を理論的に予言したことで、 (『理科年表』「物理学上のおもな発明および発見」1962年) 30代でノーベル物理学賞を受賞。その後、デヴィッド・ボーム (ロンドン大学教授)らと共に、意識と科学の問題を研究。 超常現象を支持している。なお、1990年以降、電圧標準と 抵抗標準はそれぞれジョセフソン効果と量子ホール効果を用いて 表現されている。 ※著書:「量子力学と意識の役割」(1984) ジョセフソン,カプラ,ボーム他 「科学は心霊現象をいかにとらえるか」(1997) ジョセフソン、茂木健一郎訳 「意識が拓く時空の科学」(2000) ジョセフソン,ロリマー,リュービック他
75年前、物理学者のニールズ・ボーアは「量子論に衝撃を受けないとしたら、 量子論を解していない証拠だ」と言った。ストッキングがちらりと見えるだけ でも十分に衝撃的だったころからさほど時を経ていない時代のことだ。 今日では衝撃的な報道が氾濫し、だれもがショッキングということに麻痺 しているが、ミシガン大学の主催で開催中の量子論会議では、この現代に おいてさえボーアの言葉が蘇るような衝撃的な議論が続出している。 この会議、『第1回量子応用シンポジウム』は、「量子論の成果は21世紀の 技術の発展を支配するだろうか?」という疑問に取り組もうというものだ。 7月1日から3日まで(米国時間)開かれているこの会議の講演者の顔ぶれ から察するところ、上の疑問に対する答えは「イエス」と決まっているようだ。 本当の疑問はむしろ、「イエス」のあとにいくつ「!」がつくかという点らしい。 講演のおよそ半分は量子コンピューティング(日本語版記事)に関するもの。 講演者はオックスフォード大学量子コンピューテーション・センターの デビッド・ドイチュ氏、ケンブリッジ大学のブライアン・ジョセフソン氏、 米ルーセント・テクノロジー社ベル研究所のフィル・プラッツマン氏といった 著名な面々だ。
おそらく、何よりも好奇心をそそるのは中止になってしまった講演だろう。 2日のプログラムには、アリゾナ大学意識科学研究センターの副責任者、 スチュアート・ハメロフ氏による講演も含まれていた。個人的理由で直前 になって会議への出席をキャンセルしたホメロフ氏は、センターでの量子 神経学に関する研究について、ワイアードニュースに次のように語った。 「脳は1000億のニューロン(神経細胞)でできているが、ほとんどの人は、 1本のニューロンや1つのシナプスの相互作用が情報の基礎単位だと 考えている。だが、たとえばゾウリムシのような単細胞生物を見てほしい。 ゾウリムシも泳いだり、食べ物を探したり、仲間を見つけたり、生殖を 行なったりとさまざまなことをする。それでも、標準的なパラダイムに よれば、ゾウリムシの個体は1つのスイッチにすぎないということになる」 1995年以来、ハメロフ氏とオックスフォード大学の数学者、ロジャー・ ペンローズ氏は、人間や動物の意識の本質は、ニューロンの奥深く―― つまりゾウリムシの個体内部――の量子過程の中にあるとする一連の 論文を発表してきた。両氏の主張にはなお議論の余地があるものの、 この理論が現実の成果につながるとすれば、人間の知性、人間の経験 というものを理解するうえでの次の大きな「量子飛躍」(革新的な発展)の 踏み台は、脳のニューロンのごく小さな構造である「微小管」にある のかもしれない。
「全身麻酔ガスは、非常に微妙な量子力学によって完全に、そして可逆的 に意識を消す」と、アリゾナ大学で麻酔学と心理学の教鞭もとっている ハメロフ氏は語った。「化学結合、イオン結合といったことは一切起こさない。 ただ、とても弱い量子力学的力によって麻酔は作用するのだ。つまり、 つきつめて言えば、脳は量子力学的な力で機能しているということだ」 ハメロフ氏の微小管理論は、量子薬理学の道をひらき、アルツハイマー といった神経障害の治療などにも応用できるかもしれない。しかし、 ハメロフ−ペンローズ理論は意識そのものの謎に迫るものだと言われる と、医療的応用の可能性すらも色あせて見えてしまう。 「夢、陶酔状態、幻覚、それにたぶん精神分裂状態も、われわれが量子的 に重なった状態――情報が濃密になっている状態――にあるときに生じる。 その量子の重なりが壊れると、それがわれわれの現実、知覚、感覚を 決める。これが1秒に40回起こるとしたら、意識とはそれらがつながった ものと言える」
最近の学生を見ると、動機付けが弱いですね。何のために勉強して、
何のために働くのかが分かっていない。今の世の中、勉強しなくたって、
フリーターになったって、車は持ってるし、海外旅行にもいけるし
となってくると、「何故勉強するのか」 を実感させるのは、非常に難しい
ですね。世のため、人のためと言ったって無理です。
とすると 「夢」 とか 「使命感」 です。人権とか、環境とか、「これは
世の中大変だ」 と思うようなことを知らせる。 「私、ちょっと頑張って
勉強して、こういう仕事に携わってなんとかしたいよ」 と思う使命感。
そういうものを持たせる 「使命感の教育」 は、すごく大事だと思います。
日本は、いま問題が山積みじゃないですか。 「俺がやらなければ、誰が
やる」 という教育。そういうときは、「問題を発見する力」 が大事なんです。
学校の試験みたいに、「はい、これが問題です」 っていうようには世の中は
問題を提示してくれない。だから 「何が問題なのか」 を見極める力は、
すごく大事になってきます。
http://www.daigakushinbun.gr.jp/sinnen5.htm 諸富祥彦
1963年福岡県生まれ。1986年筑波大学人間学類、1992年同大学博士
課程修了。英国イーストアングリア大学、米国トランスパーソナル心理学
研究所客員研究員を経て、現在、千葉大教育学部助教授。教育学博士。
2004年4月から明治大学文学部助教授。臨床心理士。日本トランス
パーソナル学会会長。
ここに紹介するのは、千葉大学助教授でカウンセラーの諸富祥彦氏の 「危機的体験」 とそれを乗り越えた体験を氏自身が綴ったものである。 ご本人のいくつかの著作に紹介されているので、すでにご存じの方も 多いかもしれない。ここでは最初に 『自分を変える〈哲学〉』 の 「エピローグ」から紹介する。 --- 最後に、私自身の個人的な体験について少しばかり補足的に触れさせ ていただきたい。すでに幾度か触れた例の「危機的体験」についてである。 一〇代半ばから二〇代前半にかけての私は、いつ果てるとも知れない 「哲学神経症」の苦しみにのたうち回っていた。そのきっかけは、ほんの 些細なことだった。 中学三年のある春の夜。不眠がちだった私は、枕元においてあった太宰治 『人間失格』を手にした。一気に読み終えた私は、明け方の光りが差し込む のを確認するとともに、自分の内側で奇妙な感覚がうごめくのを感じた。 「ああ、このままではいられなくなる」 それは、それまで長い間慣れ親しみ、すでに自分の一部になっていたある ものが、突然やってきた風の力で、はるか遠くに吹き飛ばされてしまった ような、抵抗しようのない感覚であった。 なす術のない私は、ただ荘然とするばかりであった。最初はとるに足らない ものとして、打ち消してしまおうとしていたこの感覚は、しかし次第に、どれ ほど打ち消しても打ち消しえないものとなっていった。
「私は、もとには戻れないのだ」 それまでの自分ではいられなくなった私は、自分にとってなくてはならない 一切のものを、つまり思考と行動の一切の基準を奪い取られて、そのまま そこに放り出された。 そしてその後、私は、一〇年近くもの間、「どう生きなければならないか」 「本当にそれでよいのか」という抽象的な問いにさいなまれ続けることに なった。 この問いは、いつでもどこでも、遠慮なく、私の生活に侵入してきた。 たとえば食事中に。たとえば友人や恋人との会話の途中に。たとえば試験 を受けている最中に。 そして、この問いが浮かぶや否や、私はその活動の一切を停止して、この 問いを考えることに専念しなくてはならなくなるのだった。 試験を受けている最中にこの問いが浮かんでくるとする。すると私は、 即座に答案用紙を裏返し、その問いをめぐるあれこれの思索をメモ しなければならなくなった。私には、そうしなけれ ばならない「義務」が あると感じられたのだ。 「この問いに対する納得のいく答えが得られるまでは、一切のことが 許されない」 私の問題は同時に人類全体の問題でもあり、したがって自分には人類の 意識変革の旗手となる使命があると感じていた私は、その都度の思索の 結果を『二十一世紀旗手』と題されたノートに綴っていった。
当然、受験勉強などする余裕はまるでなく、中学生のとき東大志望だった 私は、高校では完全な落ちこぼれとなっていった。 「死ねばこの苦しみの一切から解放される」――そんな思いに取りつかれて、 死の誘惑にかられたことも、一度ではなかった。 こうして私は、「哲学する病」のために、まさに青春をまるごと棒に振って しまった。そして一〇年近く続いたこの苦しみの、いわば極限において、 私は救われたのである。 大学三年の秋のある日曜の午後。前日の晩、例によって「あの問い」に とらわれてから一睡もせず、十数時間もその問いを間い続けたため ほとほと疲れ果てていた私は、ついに観念して、その問いを放り出して しまった。「もうどうにでもなれ」と。 するとどうであろう。ついに力尽き、朽ち果てたはずの私は、なおも倒れる ことな<、立つことができているのであった。 しかもその立ち方は、「自分が立つ」という通常の立ち方ではなく、自分が 一切の力を抜いても立っていられるという――むしろ自分の根底に与え られた「いのちの働き」そのものが立っているという――そのような仕方で 立つことができているのであった。 これは、驚きであった。 また、新たな発見でもあった。
それは、人間とは本来何であるかを、そして「生きる」とはどういうことかを 「初めて知った」という感慨であった。 私は一以前とはすっかり変わり果てた自分自身の姿への気づきを通して、 人間とは本来何であり、生きるとはどういうことであるかを初めて「告げ 知らされた」のである。 私は今、もし自分がこのような経験をすることがなかったらと思うと、 寒々しい思いがする。せっかく人間として生まれたのに、人間とは本来 何であり、生きるとはどういうことかを、一度も知ることなく、生涯を過ごす ことになったのだから。 たしかに私は、「哲学する病」のために青春を丸ごと棒に振ってしまった。 けれども、「このような経験をすることができて本当によかった」という思い が、今、私にはある。だから私は、自分がやった方法を、他の人にも試して みてほしいと思う。 私は何も、私の個人的体験を絶対化するつもりはない。人に押しつけたい とも思わない。そん なことをすれば、神秘体験を絶対化したオウムの信者 と同じになってしまう。 けれども、本書(とくに第四章)で提示した哲学的自己変革の方法を徹底 するなら自分がどう変わっていくかを、各自で確かめてみてほしい、という 気持ちはある。本書の隠れた執筆動機の一つは、実はこんなところにある のである。 ( 『カウンセラーが騙る・自分を変える〈哲学〉』 より)
次に同じ体験をやや別の角度から、より簡潔にまとめたものを『フランクル 心理学入門・どんな時にも人生には意味がある』の「おわりに」から収録する。 --- ……思春期から青年期にかけての私には、どう生きるべきか、どう生きれ ばよいのかわからず、悩み苦しんでいた時期がありました。いくら問うても 答えが得られず、半ば自暴自棄になりかけていたのです。 その私を救ってくれた一人が、やはりフランクルでした。 大学三年のある秋の日の午後。前日の晩、「どう生きるべきか、どう生きれ ばよいか」という問いに捕らわれてから一睡もできず、十数時間もその問い を問い続けていた私は、さすがにほとほと疲れ果ててしまっていました。 それでも答えが得られなかった私は、ついに観念して、七年間もこだわり 続けたその問いをとうとう放り出してしまったのです。 「もう、どうにでもなれ」と。 やけになってすべてを投げ出してしまった私が、けれどもその時そこに 見たのは、なぜか崩れることも倒れることもなく、立っていられる自分の姿 でした。それが得られなければもう生きていくことはできないと、必死で 求め続けたその答えをついに断念したにもかかわらず、そのままの姿で 一切を許され立っていられる自分の姿を、私はただ驚きの眼差しで見つめ るよりほかありませんでした。 と同時に私は、それまで自分が何年にもわたって求め続けてきたその問い の答えが、なぜかそこに、既に与えられているということに気づかされた のです。それはつまり、こういうことです。
「どう生きるべきか」「どう生きればよいか」と、いくら問い求めても答えが 得られず、ただ途方に暮れてたたずむことしかできなかった私。けれども、 その問いを手放してみてはじめてわかったことなのですが、その問いの 答えは、実はそれ以前からずっと、常に既に私の足下に与えられてきて いたのです。私がそれに気づかなかっただけで、私の「なすべきこと」は、 私を超えた「向こう」から、常に既に送り与えられてきていたのです。 だから私は、ほんとうは、「どう生きるべきか」「どう生きればよいか」と思い 悩む必要は、一切なかったのです。私がしなければならないこと、それは、 その都度私に送り与えられてくるこの「なすべきこと」「実現すべき意味」 を見つけ出し、実現することだけなのですから。 こうして私は、七年にわたる地獄の苦しみからついに救い出されました。 この宇宙の中、この世界の中に、この私がこうして与え置かれているという 謎に満ちた事実。それをフランクル流に解釈すると、私の「なすべきこと」 は私を超えた「向こう」から送り与えられてきているというイメージが、 リアルなものとして実感されてきます。 そしてこのイメージが自分の中に定着するにつれて、「どう生きるべきか」 「どう生きればよいか」という私の問いは消え去りました。それを問う必要 がなくなったのです。 「なすべきことは私を超えた向こうから、常に既に送り与えられてきている」 というフランクル心理学のメッセージ。それはこのように、「どう生きるべきか」 「どう生きればよいか」という思い悩みを、直ちに消し去ってしまう力を 持っているのです。 (『フランクル心理学入門・どんな時にも人生には意味がある』より)
1998年の10月3日と4日、千葉県稲毛市と東京都の新宿区で、アメリカ から来日したスチュアート・R・ハメロフ(Stuart R Hameroff )博士の特別 講演会が開催された。その後、名古屋、大阪の各地で同様の講演が 開かれた。 その目的は、来年国連大学国際会議場で開催される予定の「脳と意識に 関するtokyo'99」のプレコンファレンスであり、演題は「量子脳理論と意識 (Quantum Brain Theory and Consciousness)」であった。 麻酔科医で心理学科教授でもあるハメロフ博士は、アリゾナ大学のヘルス ・サイエンス・センターで半分は手術室での治療と講義に充て、その半分 は「意識のメカニズム」について研究を行ってきた。 千葉では科学技術庁放射線医学研究所の重粒子治療推進棟2階の 大会議室が講演会場にあてられた。翌日の東京講演は、新宿の工学院 大学の高層煉で行われた。講師陣には、玉川大学の学術研究所量子 通信研究部門の大崎正雄博士が加わった。演題は「量子情報通信研究 と意識コンピューターの展望」であり、生命科学、数理科学、情報科学の 接点を目指してという副題がついていた。
ところで、脳量子理論は、一体どんな理論だろう。その話をする前に、 心と意識の問題に物理的アプローチを行った一人の科学者に触れて おきたい。 それは1995年に『心への階梯(Starway to the Mind)』を記した非線形 力学の先駆者であるアルウィン・スコット(Alwyn Scott)博士である。 彼はアリゾナ大学数学科、デンマーク・リングビ−工科大学数理モデル 研究所教授で、「ソリトン」という非線形現象研究の第一人者でもある。 彼は脳細胞のニューロンは、単体で動くのではなく、集合体として働くと 考えた。そして、その集合体は非線形として働くため、心や意識が階層 構造を持つという認識を持っている。人工知能の研究からスタートした 機能主義的な考え方から導かれた結論は、脳の活動は、あるアルゴリ ズムによって置き変える事が可能であり、原理的にはコンピュータで 再現することが可能であると考えた。 しかし、ペンローズはその考え方に真っ向から反論をした。ベスト・セラー になった『皇帝の新しい心(The Emperor's New Mind)』(裸の王様の パロディで、王様とは機能主義者達を指す)の中で、これらの機能主義 を徹底的に批判している。
ペンローズによれば「意識」はアルゴリズミックでない。したがってアルゴ リズミックなマシンであるコンピュータが、意識をもつことはあり得ない というのが、この本の主題となっている。 彼は、その例として、数学上のアイデアを思いつく際の経験について 述べる。たとえば数学の定理というのは『発明されるのではなく、発見 されるものである』という。発見されたばかりの数学概念は、まず漠然 としたイメージで語られるのであり、厳密な形式的記述が与えられるのは、 その後だというのだ。 1989年、「意識は量子の波動から生まれる」、つまり「量子力学が人間 の意識を生み出す」という大胆な仮説を世界に広めたのは、ペンローズ 博士が最初だった。 彼の論文や著書「皇帝の新しい心」、「心の投影(Shadows of the mind)」 に記された共通の主張は、心の動きには非計算的(non-computat ional) な部分があるに違いない。そして、人工知能の実現性はなく、脳について の現在の理解は、不完全であるという考え方であった。そして新たな パラメーター(量子重力論)を用いて量子論と一般相対性理論の統合を 唱える。 ペンローズの主張や理論を数学や論理学に精通していない一般人が、 その理論を理解し、素直に受け入れることは容易なことではない。なぜ なら彼のバックグランドとなった数学や理論物理学の歴史的背景を熟知 した上で、彼のいわんとしている事を、解釈しなければならないからだ。 実際にペンローズは「心の投影」に事あるごとに反論してきた科学者達 にでですら、議論の論点がずれていると指摘する。
またペンローズは「数学的理解力は非計算的だと」いう彼の主張が、 しばしば数学世界だけの話であるという風に解釈され誤解されている という。彼の議論のポイントは、「もし数学において、我々が行う計算に 収まらないことが存在するならば、それは計算外の事柄が実際に 起こっているからだ」と、理論展開を行う。そして、心や意識にある種の 非アルゴリズム(計算手順)的な物理作用が含まれている事を、 彼独特の数学的解釈や新しいルールに従って、まるでボクシングの ジャブのように説明を繰り返す。 彼は、我々が棲むこの世界が、計算によって捉えられない様々な事象 が存在すると考える。それは認識力であり、質感であり、感情である。 これらは非計算の作用であると力説するのである。 その思考仮定の源には「ゲーテルの不完全性定理」と「チューリング・ マシン(Turing machine)」の問題があった。この二つの定理は等価 であり。ペンローズのいう「機械にできる事と」と「人間にしかできない事」 の理由の原点である。
ゲーテルの不完全性定理とは、1930年に数学者のクルト・ゲーテル が数学界に大波紋を投じた定理である。それは自分が無矛盾である 限り、自分が無矛盾であることを知らないだけでなく、その論理体系の 中には、真であるか否かを決定できない命題(定理)があるという数学 上の言明であった。 その定理のアナロジーとして、「エピメニデスのパラドックス(嘘つきの パラドックス)」がある。ある時クレタ人の古代ギリシア人である哲学者 エピメニデスが、「クレタ人は嘘つきだ」と言ったとする。もしこの「言葉」 が真実であれば、自分自身が嘘つきであることになり、その言葉も信用 できない。一方これが嘘だとすれば、クレタ人は正直という事になり、 嘘をついたエピメニデス自身が、クレタ人であることに反してしまう。 つまり、エピネデスの言葉が、正しくても、嘘でも、自分自身の真偽を 確かめようとするとき問題が生じてくるという考え方なのだ。これは一般 に「自己言及のパラドックス」といわれている。 これらの定理は、数学 とは完全に論理的で、矛盾がまったくないと信じていた当時の数学界に 大きなインパクトを与えた。 またチューリング‐マシンとは、イギリス、オックスフォード大学の数学者 アラン・チューリングが、1936年に提案した普遍的計算機の数学 モデルで、有限記憶媒体とその外部記憶媒体として、一次元無限長の データー記憶テープで構成されているものである。 この装置はテープの長さに制限がなく、仮にある解法が存在するならば、 マシンによってすべて解けるはずだと考えを基に仮想の装置である。 しかし、任意のチューリングマシンに空白のテープを与えた場合、その マシンが結果的に停止するか、つまり解が与えられるかどうかについては、 それを決定できるマシンは存在しないこともチューリング自身が証明して いる。
つまり、ペンローズは「数学によってのみ、<意識活動の一部分は計算 できないことを証明できる>可能性がある」と、言葉は控えめであるが、 強く確信しているのである。 そして人間の意識はこれらの問題を超越している。従ってコンピューター に意識は生まれないと考えるのである。もちろん彼は夢想家ではなく、 神秘主義者でもない。彼の議論は数学的基盤に基づいて、人間はただ の機械ではないことを証明し、さらに「量子重力理論」を中心に、医学、 心理学、哲学、生物学、天体物理学等、あらゆる分野の科学者達を巻き 込んで、脳と意識の問題について、量子力学の分野から革命を起こそう としているのである。 ペンローズは始め脳細胞(ニューロン)内部で、何らかの量子力学的 作用が生じる結果、意識が生まれると推測した。脳細胞どうしは電気的 なインパルス(信号)を交換することによって情報処理を行う。そして これらの信号は、無数の異なったパターンが量子力学的干渉によって 生じると考えたのだった。だかこの仮定には大きな問題があった。生体 の1個の細胞には、活動的な分子と原子が満ちあふれており、それらが 出す熱的なノイズ(背景雑音)により、量子力学的作用は、簡単にかき 消されてしまうはずである。ペンローズは、すぐにジレンマに落ちいって いたしまったのだ。 そこに登場したのが、前述のハメロフのニューロンの微小管の研究である。
微小管は8ナノミクロンと4ナノミクロンのチューブリンという二種類の立体 構造を持つ蛋白質からできている。チューブリンは変形した空豆状の格好 をしていて、αとβという二つの部分から成り立つ。それが管の円周部分 に13列並び、積み重なって微小管が形成されているのである。 微小管の内部では、チューブリンが2つの状態を行ったり来たりしており、 これがセル・オートマトンのように振る舞い、微小管に沿って複雑な信号を 走らせることになる。この仮説に従うと、その配座の状態は質量運動を 生じる。つまり、これがペンローズが指摘する量子系の干渉に相当する のである。 一般の科学者や人工知能の研究者達は、脳は100億個のニューロン というスイッチが繋がったものであると考えている。ところがハメロフに 言わせると、シナプスを調整したり実際の情報処理を行うためには 100億台のコンピューターが必要だという。ではそのコンピューター部分 はニューロンのどこにあるのか。その答えが微小管なのである。 また微小管で量子干渉が起こっているという仮説はは検証が可能である という。
その理由の一つは1981年にフランスの物理学者アラン・アスペが偏光 させた2個の光子使って、「非局所的な量子干渉」が起こることを実証して いることであり、この種の実験を微小管(チューブリン)で、ある条件を設定 して行うことを博士は提言している。 そして、ギャップ結合で繋がった、数千数百という異なるニューロン群の チューブリンで、光子を観測することが、マクロスケールでも量子干渉が 起こっているという仮説の検証となるというのである。 実際の量子干渉は3.5ナノメートルという長さのギャップ結合で起こって いるらしいとの予測をハメロフは立てている。つまり、電気的なギャップ 結合と同時発火する皮質ニューロン・ネットワークとの関連性が証明でき れば、意識の事象に関与していると説明できるというのだ。 一方、日本でもノートルダム清心女子大学情報理学研究所講師の治部 眞里女史がギャップ結合で繋がった40ヘルツの神経ネットの存在を予言 している。 これらの実験は、ペンローズの主張(重力量子論)や他の科学者のまったく 異なる研究から得られたデーター(特に脳内における40ヘルツの振動の 話)と一致するらしい。 それ以外にもハメロフは、PETを使った実験も計画中とのことである。 前述の治部女史は同研究所所長の保江教授と共著「脳と心の量子論」を 書いているが、脳細胞の水の電気双極子の凝集場が、電磁場の波動運動 とシンクロしてダイナミカルな秩序を生み出すという仮説を立てている。 水が意識を持つ。それはまるで「ソラリスの海」を連想する。
387 :
没個性化されたレス↓ :04/04/28 05:57
ほしゅあげ
388 :
没個性化されたレス↓ :04/04/30 16:14
政治家、官僚の意識が変わらない限り世の中変わんないよね。 トラパの本場アメリカがやってることがあれだもん。 トラパ関係者で政治にタッチしよう(してる)って人いる? 一般人がいくら自己実現したり自己超越したりして「全体の利益を考える良い人」になったってできることは知れてるよ。 政治家にセラピーを受けさせられるか、全体の利益を考えられる人を政治家にするか、どちらかが必要と思う。
389 :
没個性化されたレス↓ :04/05/13 10:18
>>388 政治は政治。いきなりすべては変わらない。
そう思って周囲が変わるのを待っていても、変わるものも変わらない。
自分から変わることなしに、周囲は変わりようがない。
というのが、トランスパーソナル=個人から超えていく、だろう。
日本では、学術的な学会ができたばかり。
そうなると、無視できないだけの一定の影響力は持ち続けるから、
結果はおのずとあとから付いてくる。
トランスパーソナルもホリスティックも大風呂敷すぎて、ほとんど無意味に近い。 ところでウィルバーの新しい翻訳が出たね。
>>390 それはいつまでも実践抜きで考えているから。
心理学というのはどれも実践ありき。
ひとつでもなにか継続して実践してみろ。
それなくして意味も無意味もないとわかるはず。
>>391 トランスパーソナルやホリスティックという括り方のことを言っている。
各論としては有意義なものはあるだろうし、私自身も実践派です。
放送大学でウイルバーの意識変容論がやってる
あの講師はヨガをやるべきだった
396 :
没個性化されたレス↓ :04/06/09 21:59
諸富さんが一種の「見性体験」のようなものを体験して 人生観が大きく変化したのはわかるけど、彼の書くもの 読んでどうしてもトランスパーソナルの本質の部分を彼が わかっているようには思えない。 PHP出版とか向いていそうだし、加藤諦三と同じジャンルに 入りそうだ。
397 :
没個性化されたレス↓ :04/06/30 16:13
自我を手放し、自我をなくすことによって、 大いなる自己と一体化するのが、個人の救済であり、 すべての人間がそうすることによって世界が救済されるのである。 これが真理。
399 :
没個性化されたレス↓ :04/06/30 16:21
>>398 本質が分かっていない者にかぎって他人をバカ呼ばわりするもの也。
個人の不幸も他人の不幸も、人間が自我を持っていることに由来する。
すべての人間が自我をなくすことさえできれば、世界はどんなに平和になるであろうか。
他人を安易にバカ呼ばわりするのも自我の働きだ。
400 :
没個性化されたレス↓ :04/06/30 16:22
すべての人間が自我をなくせば、 すべての人間の意識がひとつになり、 宇宙と合一して、 偉大なる唯一の意志のもとにすべてが調和するのである。
401 :
没個性化されたレス↓ :04/06/30 16:26
もちろん、当面は自我をなくすわけにはいかないが、 便宜的なものであって、究極は自我をなくすことにある。 自我は日常生活の便宜のために必要なだけで、本質的価値はない。 むしろ必要悪ともいえよう。 自我はその本質において悪なのだから。
402 :
没個性化されたレス↓ :04/06/30 16:31
くだらぬ自分探しなどを止め、自分の小さな感情に注意を向けることなく、 偉大なもののために献身することで我を忘れるべきである。 また自分のつまらぬ不幸にとらわれず、他人の不幸を救うために働けば、 自分の不幸から救われる。 すべてはひとつであり、自分とは幻想にすぎない。
403 :
没個性化されたレス↓ :04/06/30 16:37
すべての肉体的病はパーソナルな心理から生じる。 つまり自我にこだわることによって起こる。 トラウマやPTSDなど、自我が傷つけられたというこだわりから生ずる。 自我のつまらなさを理解し、人生のすべてを許して受け入れれば、 肉体の病も消える。 瞑想によって自我を消すことを目指すべきである。 現代の心理学は自我による無意識の統合を目指しているので自我中心である。 それでは何の解決にもならないのである。以上。
404 :
没個性化されたレス↓ :04/06/30 23:14
しかし自我の無くなった人は、つまらん気が・・ ウィルバーも自我は否定してないでしょう。 しかし、諸富さんは、馬鹿なんでしょうか?うまく言えない けど、わかってない感じが。ミンデルもがっかりだろう(?)
405 :
没個性化されたレス↓ :04/07/01 01:53
>>399 は、「バカ」にこめられた愛情がわからぬバカ。
超越方向のプロセスしか知らぬバカ。
いまここにおいても自我は不断に生き死にを繰り返していることを知らぬバカ。
バカはバカとして悟っていることに気づかぬバカ。
407 :
没個性化されたレス↓ :04/07/01 23:37
>>405 うーん、「自我の消滅」って微妙な表現だね・・
自我が全くないと、廃人というか。
ウィルバーの日記が本になってるけど、人間性とか、自我も
大事にしているみたい。
自我を捨てることによって、初めて自我を十全に生きる
ことができるのだと解釈しております。
捨てるような自我などそもそもなかったのだと気づくことが 「自我を捨てる」こと。
>>408 そこに気づくまでは修行ごっこが終わらないんだよね。
410 :
没個性化されたレス↓ :04/07/02 23:25
自我を捨てる立場からすると、 被虐待児が自我を立て直すというのはどういう位置付け? どんなに大変な作業でも、 最終的に捨てるべきもののために頑張っているということかな。 子供時代に不遇だったのをバネにした芸術家とか、偉人が多いけど、 そういう人たちは究極的には「次元の低い」仕事をしたのかなあ。 アダルトチャイルドで、依存症と生涯戦いながら凄い作品を残したとか。 なんか、ひとつの境地を「究極」として、 そこへ向かえば向かうほど高い境地、という考え方って貧しいような気がする。
いやさ、このスレの人がどういう意見かちょっと分からないんだけど、 どこかで読んだ本で、 意識というのは段階があって、日常というのは一番低くて、 哲学や芸術も程度が低く、 さらに瞑想にもいろんな程度があって云々、 一般人は日常しか知らないから最も意識が低い、みたいなことが書いてあって。 そういうランク付けをする態度が、いちばん程度が低いような気がした。
>>411 そんなナイーブなことを言うのは麻原ぐらいじゃないの。
オレの見るところ、いちばん意識の低いのは中途半端な知識人。
福島瑞穂とか。
413 :
没個性化されたレス↓ :04/07/03 01:36
414 :
没個性化されたレス↓ :04/07/03 01:43
415 :
東郷ターン :04/07/03 10:59
みんな、選挙だね・・・。
416 :
没個性化されたレス↓ :04/07/03 23:11
>>411-412 >日常というのは一番低くて、
>哲学や芸術も程度が低く、
>そういうランク付けをする態度が、いちばん程度が低いような気がした。
何もかも低いとすると・・・じゃあんたらが一番高いんだ。
417 :
没個性化されたレス↓ :04/07/05 23:07
というか、高い低いというのもなくなる。 全部正しい。だから迷うなと。 しかし、言葉で伝えるのは難しい世界だね・・ いくらでも突っ込めるもんね。 だからとりあえず思考を一回完全にとめてみないと。 ・・って話が進まないじゃんっていうのが困るんだよね。 まあ禅とかでよく言われてるけども。
418 :
没個性化されたレス↓ :04/07/06 01:58
>>413 ttp://www.nct9.ne.jp/mandala/basics.html に
>いわゆる高次の意識というものが「エゴの肥大」ではないか、という疑念に対しては、
>そういう意識状態を現象学的に観察した結果から、そうではないと断言できると考えます。
とあるんですが、「エゴの肥大」というのは柄谷行人という人の言っていることですね?
私は柄谷行人を全然知らないんですが、要するにトランスパーソナル批判の人ですか?
私は高次の意識は「エゴの肥大」だと思うし、「いけませんか?」と居直っているんですが、
高次の意識と「エゴの肥大」は違うんですか?
419 :
没個性化されたレス↓ :04/07/06 02:25
>>418 > 珍:しかし、「宇宙との合一といっても、それは世間に
> 無関心となって、自分一人だけの悟りに安住している
> ようなことでよいのだろうか」という疑問を持つ人も多い
> ようですが。
> ま:まあそれはFAQ(よくある質問)ですよね。しかしそ
> れは、単に自分の持っている「悟りについてのイメージ」
> を投影した上でものをいっているにすぎないような気が
> しますね。たとえば、「宇宙との合一とは、世間に無関
> 心となることである」といったいどうしてわかったんでしょ
> うか? そういう前提そのものは、果たして、そういう
> 合一経験をあまねく現象学的に研究した上で下された
> 結論といえるのですか? ここでも、「リアル」なものを
> まず研究することより先に、「自分のイメージ」に合致す
> るかどうかで価値判断を下してしまっていることを指摘
> したいと思います。つまり、実際にそういう心的経験は
> どのようなものか、できる限り調べてみないと、それに
> 対する判断はできるはずがないと思うのです。いわゆ
> る高次の意識というものが「エゴの肥大」ではないか、
> という疑念に対しては、そういう意識状態を現象学的に
> 観察した結果から、そうではないと断言できると考え
> ます。そのような批判をしたがる人は、そういう意識に
> ついてきちんと研究したことがないのは確実ですし、
> もちろん自分ではそういう経験が全くないのではない
> かと思います。自分のイメージで「こういうものだろう」
> と決めつけた上でそれについて文句を言うような人が
> ひじょうに多いですね。
>>419 「バカはこれを読め」という意味だと思いますが、それを読んでわからなかったので
質問したんですが。
「エゴの肥大」を私は「自我の拡大=宇宙との合一」ととらえているんですが、
ひょっとして批判派は「エゴイズムの肥大」としか理解できないという意味
ですか?
>>420 「エゴの肥大 ego inflation」は、普通、君の言うような意味では使わない。
自己流の語義ではコミュニケーションできないよ。
422 :
没個性化されたレス↓ :04/07/07 14:56
418じゃないけど、 言葉なんて言葉でしかないんだし、 そういうものにとらわれる意識は低いと思う。 言葉が意識を縛っている状態というか。 その程度のものにすぎない言葉というものについて、 どの言い方が正しいとか正しくないとか言うのは、 それこそ自我にとらわれている人じゃないかな。 もっと他者に対して意識を開くべきだと思う。
423 :
没個性化されたレス↓ :04/07/07 15:09
他者に対して意識を開くためには、 コミュニケーションのための言葉が、 共有されないといけないと言われるかもしれないけど、 トラパっていうのは、そういうものを超えた、 非言語的なコミュニケーションの可能性、 たとえばだけど直観的な洞察とか、テレパシー的なもの、 そういうものに意識を開いていくことじゃないかな、 だったら言葉について何が正しいとか議論するのはトラパと違うな、 意識の進化ということでいうと、後退でしかないな、というのが、 率直なところ、私めの認識であったりするわけですよ、ハイ。
>>422-423 だったら、こんな掲示板に来ることないのでは。
それに、あなたは言葉が有用な次元と、言葉を超越した次元を
知ってか知らずか混同して書いている。
トランスパーソナル心理学に関心があるのなら、「カテゴリー・エラー」
という言葉をご存知ですか。
ケン・ウィルバー読み込んでから出ておいで。
425 :
没個性化されたレス↓ :04/07/07 15:45
なんか・・・
>>424 って自我の強い人ですね。
もっと自由に他人の意見を受け入れて変化してもいいんじゃないでしょうか。
さまざまな意見を防衛なく受け入れて、
自我の固定された枠組みから抜け出すことが本当の自由だと思いますよ。
>>425 ご自分は私の意見を受け入れられないの?
私の意見を受け入れて変化できないの?
「ダブル・スタンダード」という言葉も提示しておきます。
>>421 私は質問しただけですよ。ただ訊ねただけでなく、
AともBとも考えがあるが、どっちが正しいか?と。
そうしたら「お話にならない」とレスされただけなんですよ。
私は自分の専門のスレで、私から「お話にならない」とレスすることは
考えられない。レスはお話になる連中に任せる。私が座長ではないから。
または「それは誤解だ、本当は○○だ」と口出しすることもあるだろう。
しかし、わざわざ「お話にならない」とだけ言うために出てくる
精神構造が解せない。
これを質問にいたします。
>>427 まず、「お話にならない」という軽べつ的なニュアンスを持った表現は
使っていませんよ。
>>418 は、ただ質問しているだけでなく
> 私は高次の意識は「エゴの肥大」だと思うし、「いけませんか?」と
> 居直っている」
わけでしょう。
居直るより先に、どうしてそう思うのかを言ってくれなきゃ、話に
ならない。人の精神構造を云々する10年後にしてくれ。
いや、「お話にならない」と言っていると思いますよ。ほぼ同義だと思います。 特に最後の1行「10年後にしてくれ」は完璧に同義です。 お話にならないから、やめますね。
あなたは人の話の論理をすりかえる名人だな。 高次の意識=エゴの肥大、の理由を聞きたかったのに、残念。
431 :
没個性化されたレス↓ :04/07/08 00:45
>>430 420で「エゴの肥大→自我の拡大→宇宙との合一」と言っているじゃん。
かたや、あなたの「聞きたかったのに」というニュアンスはどこにもない。
確かに、418はどうしようもないな。 自分のすり替えに気づいていないとしたら天然だぞ。
> ま:まあ、そうですね。ケン・ウィルバーなんかでも、 > 本はたくさん出てますが、きちんと読んで理解した上で > 論じている人はひじょうに少ないです。というか、みんな > 自分のイメージを勝手に投影してトランスパーソナルを > 論じてしまっているような印象が強いですね。こんな > 状況ばかりじゃ、いつまでたっても「トランスパーソナル > とはニューエイジの一派だ」というような誤解がなくなら > ないですね。
> ま:ええ。まず簡単にいってしまえば、近代的な「学問」 > の文脈において、個のレベルを超える成長が語られ > 始めた、ということが画期的なわけですね。それは、 > 「宗教」としては、以前から存在していたわけです。しかし、 > 近代的な学問では、個を超える、スピリチュアルな次元 > についてはこれを「形而上学」として退け、語っては > いけないこととされてきました。しかし、これを積極的に > 語ることのできる学問を創造しようというのがトランス > パーソナルなんです。 > 珍:ということは、まず第一に「学問」であると? > ま:そうです。しかしもちろん物理学のような物質科学 > とは違います。まあ人文科学の中に入れるべきだと > 思いますが、アカデミック・ディシプリンとして成立して > いるということですね。カリフォルニア州では、トランス > パーソナル心理学で博士号もとれるわけですし、専門 > 学科もあります。すでにアカデミックな世界で地位を > 確立しているのです。ここのところが、日本ではいち > ばん理解されてないことなんですね。
> ま:ええ。そこで書いているように、私はニューエイジを > 一括して駄目と言っているわけではないのです。ただ、 > ニューエイジは大衆文化レベルのものであり、トランス > パーソナル学は学問であるという、「知」のあり方が > 異なるものであると言っているだけですので、その点は > 誤解のないようお願いしたいですね。ただ、もちろん、 > トランスパーソナルを背景として、ニューエイジ的な活動、 > ワークショップなどを行う個人やグループも存在します。 > それはそれで役目があり、否定する必要はないと思う > のです。 > 珍:しかし、トランスパーソナル学というのも、大きな文化 > 的変容に伴って生まれてきたものなのですから、「学問」 > という枠でのみ閉じていこうとすることには、限界がある > ように思いますが。 > ま:その意見も理解はできます。しかし日本の現状では、 > まずトランスパーソナル学をアカデミックに確立すること > が優先課題だという判断だということですね。
> 珍:しかし、そこでいう「学問」は、従来の意味でのもの > とはちょっと違う・・・ > ま:そこなんですね。従来の学問と違うのは、単なる > 論理だけではなく、「ヴィジョン・ロジック」という原理に > 立って構成される、ということでしょう。 > 珍:ヴィジョン・ロジック? 何ですかそれは? > ま:これはウィルバーの言葉でして、従来の論理よりも > 高次な表現形態とでも言いますか。つまり、論理のみで > つじつまを合わせるのではなく、イメージ的、象徴的な > 言葉の喚起力をフルに活用して、より包括的なリアリティ > の「ヴィジョン」を伝えようとする、ということです。 > 珍:なんだか、わかったようなわからないような・・ > ま:一つには、これまでの学問がもっている「文体」の > 限界というふうにも理解したらいいと思います。実は、 > 「文体」の問題は、ポストモダンでも多いに問題とされた > ことです。つまり簡単にいってしまうと、学問と学問 > でないものをどこで分けているかと言えば、それは > 「文体」に帰着するという考えですね。ある文体のもの > のみを学問と認め、そうでないものを排除する、という > わけです。こういう文体の問題は、ニーチェによって > 始めて提示され、「言語」をめぐる現代思想の渦の中で、 > 議論が沸騰しつつあるわけですね。
> 珍:そうすると、ヴィジョンロジックというのは、学問的 > 文体の拡張という意味で、ポストモダンとも一脈通ずる、 > ということですか。 > ま:そうですね。あくまで「一脈」にすぎませんが(笑)。 > ポストモダニストがウィルバーを認めるわけはない > でしょう。それはトランスパーソナル学のもう一つの要素 > が、ポストモダンには欠けているからです。 > 珍:そのもう一つの要素というのは? > ま:「経験」です。 > 珍:「経験」? > ま:ええ。ラジカルな経験主義、それがトランスパーソナル > の核にあるものです。フランスなんかのポストモダンは、 > 結局のところ、言葉、言葉、言葉の世界です。言葉だけで > 世界が理解できると思っている人たちですが、トランス > パーソナルはそうは考えません。人間が経験しうること > すべて、その限界までをすべて引き受けていくという立場です。
> 珍:その経験というのが、つまり普通の学問からすれば > 「ぶっ飛び」の内容を含んでいるというわけですか。 > ま:ぶっ飛びといいますか・・ 要するに「意識」に関連して、 > 人間は驚くべき多様な経験をするものである、という認識 > ですね。人間の経験可能性は、現代の「日常性」や、 > またそれに依拠する多くの学問の理解の範囲を遠く > はみ出すものがあるのではないか、というわけです。 > そのような経験を「異常」とかいって排除せず、まずそれを > 「人間の経験可能性」の領域として認知することから > スタートしてはどうか、というのです。 > 珍:なるほど。たとえば? > ま:まず、多くの文化伝統が承認してきた「聖なる次元」 > と言われている経験領域があります。たとえば、神、仏、 > 精霊といった人間よりも「高い」と感じられる存在と > 出会ったり、あるいはそれと一体になったり、といった > 経験があります。 > 珍:それから、「悟り」とよばれる経験もありますね。 > ま:それは人によって定義がまちまちな、曖昧な言葉 > ですが・・・ 神仏とかでなく、「空」とか「無」というような、 > 非人格的なものとの出会い、一致といった経験もまた > 報告されていますね。つまり、聖なる次元の経験には、 > 人格的、非人格的の別がありますが・・・これは宗教 > 現象学でもすでに言われていることです。
> 珍:わかりました。他にはありますか? > ま:もう少しサイキックというか・・・ いわゆるESP(超能力) > 的な世界もあります。通常の時空概念、古典物理学的な > 世界観では理解しがたい経験・・たとえば、遠隔治療なんか > もその一つですし、もっとダークな、「呪い」といったような > ものもあります。 > 珍:それは「超心理学」と言われる領域でもありますね。 > ま:ええ。「個を超える領域」であるからといって、必ずしも > 光に輝くすばらしい世界ばかりとは限らないのです。もっと > 曖昧な領域もあり、はっきりダークというべき領域もまた > あるように思います。これはさまざまな心的経験を虚心に > 観察した結果言えることです。 > ま:まだまだ、こうした研究は始まったばかりです。遠隔 > 治療については、すでに科学的方法による実証データが > 得られています。ラリー・ドッシーの『癒しのことば』(春秋 > 社)をぜひお読みになることをおすすめします。すでに、 > 遠隔治療がある、ないという議論は決着したものと考え > ます。あるという事実をふまえて、それがあるという世界 > はどういうものなのかを考える時期に至っているという > ことです。
>>431 > 420で「エゴの肥大→自我の拡大→宇宙との合一」と言っているじゃん。
だから、その理由を述べよと言ってんの。
ただし、その前に、「エゴの肥大」ということであなたが何を
意味しているのかを提示しなければ、話は通じないよ、ということが、そもそもの発端。
それをケンカ売られたかのように受け取った(
>>427 ね)ご自身の
狭量さを考えてみられたし。
> 珍:えーと、つまり気とトランスパーソナルというのは > どういう関係になるのですか? > ま:トランスパーソナルは、まず心的経験として把握しよう > というのが基本的態度です。「気」ないし微細エネルギー > には、「もの」として研究しうる側面もあります。しかし > トランスパーソナルでは、もっぱらそれが心的経験として > どのように現れるかを、経験の現象学としてまず把握し、 > それに基づいてリアリティのモデルを構成していこうとする > でしょう。この意味で、トランスパーソナルと微細エネルギー > 研究は相補的なものだと考えています。 > 珍:「気」の心的経験とは具体的にはどういうものなんでしょうか? > ま:そうですね。たとえば気功やヨーガを行うときの、 > 体の内部に生じるエネルギー的経験というものがあります。 > さらに、修行法レベルになりますと、そうしたエネルギー > 感覚をさらに微細なものに精錬していき、それを媒介 > として意識の変容を促すという考え方、技法が存在します。 > そういう面はトランスパーソナルの研究範囲ですね。
> 珍:なるほど。だんだんわかってきたのは、トランス > パーソナルはまず「心的経験の現象学」、つまりとらわれ > ない態度で現象そのものを見る、ということが大事らしい > ですね。 > ま:そうそう。それがもっとも大事なポイントなんです。 > 要は、「リアルにそこにあるものを見る」ことなんです。 > 問題は、それは普通の人の日常生活の範囲内にはない > ので、自分が経験したことのないものについては、 > 「そんな馬鹿な」という反応になりがちということですね。 > たしかにこの世界には、自分で経験しない限りとても > 信じがたいような話が多いのは事実なんです。しかし > ここで、自分が経験したことがないからといって、「経験 > した」という話を「そんなの嘘だ」と決めつけることは > 許されるのであろうか、ということなんですね。それは > つまり「自分の持っている世界観で理解できない現象を > 拒絶する」ということをしているということになるんです。 > それを認めてしまうと、自分の持っているそれまでの > 世界観が揺らいでしまうので、認めたくない、ということ > があるんですよ。
> 珍:実際は、虚心に経験を認めるということ自体が難しい、と。 > ま:すごく難しいです。これは一般の人だけじゃなくて、 > 学者という人もね。学者の方がひどいかな(笑)。まあ > その区別よりも、要するに自分の「考え」に強く執着する > 性質の人は抵抗しますね、必ず。プラクティカルな人、 > つまり「リアル」をありのままに見ることのできる人で > なくてはね。それはトランスパーソナルをやる人の一つ > の条件でしょうかね。「世界はこうであるべきだ」という > 観念をもたず、「この世界は基本的に何でもありだ。 > 私たちはそのごくごく一部しか知ってはいない」という > 発想ができないと、トランスパーソナル学というものを > 受け入れることはできないと思います。学問的検討 > というより、まずその前の段階で感情的抵抗を示して > しまう人が多いと思います。つまりそれは、自我防衛 > 反応なんですけどね。平たくいってしまうと心が固い > んです。
> 珍:しかし、そこでですね、「経験した」という話をぜんぶ > 頭から信じるというのとは、違うのでしょう? > ま:ええそうですね。「すぐに否定はしない」というのは > 「すぐに信じる」とは違いますね。「そういうこともあるのか > もしれない」という「可能性」を認知する、ということでしょう。 > 珍:「常識」から離れた経験については、それが実在する > という「証明」がされない限り、主張してはならないと考える > 人もあるようですね。 > ま:つまり「立証責任」はお前にある、ということらしい > ですね。これは「証明されないものは否定する権利がある」 > という論法ですね。しかしこれは、学問としては自殺行為 > です。証明されてしまっているものは研究する必要はない > のです。「あるかもしれない」から、研究するわけですね。 > それを始めから、「あることは証明されていないから、 > ないのだ。だから研究の対象にはなりえない」というのは > 自己破綻している論理だと思います。「そういう心的経験 > をもった人がいた」ということ自体は事実そのものですね。 > それが現在の「常識」と呼ばれる世界観で理解不能で > あったとしても、経験そのものが間違っているわけでは > ないのです。そもそも「間違った経験」というものは > あり得ません。経験したということ自体はすべて心的な > リアリティです。そうした「ラジカルな心的経験主義」が > トランスパーソナルの基本にあるものです。「自分の > 世界観に合致しない場合は、他者のリアリティを否定して > よい」という論理は誤りだと思います。それは許されません。 > しかし多くの場合、そのように行動する人が多いようです。
446 :
没個性化されたレス↓ :04/07/08 17:37
唯識派のニューエイジ的実践だろ。
> 領域横断的に大量に読んでいると、思わぬところでつな > がってくることを発見したりもする。いま私が読んでいるのは、 > 「存在の問い」を中心にした哲学(現象学を含む)、それと > 身体論・身体感覚に関するものが中心だ。これは密接に > 関連しているわけで、つまり、ある身体感覚が健全に発達 > していないと、またある存在の感覚も失われてしまうのだ。 > 物質次元以外の世界があることを認めさせようと、徹底して > 論理で相手をやりこめようとするケン・ウィルバーみたいな > のも結構ではあるが、結局のところ、相手が納得するしない > というのは論理だけの問題ではないのである。実のところ、 > 私たちの大半は、「論理」によって自分の信じていないことを > 信じるようになるわけではない。人間はそういうふうにできて > はいないので、日本語で「すとんと落ちる」という言い方を > するように、それが「自分の中に収まる」という微妙な身体 > 感覚が重要なことなのである。
> この前追加した『魂のロゴス』の感想で「ウィルバーを > 読むと相手を論破したくなってくる」というような意味の > 言葉があったが、およそスピリチュアルな世界において、 > 「相手を論破したい」という欲求を抱くということは、 > どこかに問題があると考えるべきではないか、と私は思う。 > 私はウィルバーが嫌いであると何回も書いていると思うが、 > それは彼の持つこうした波動的な質への違和感という > べきかもしれない。論破したくなるのはそれだけ自分が > 未熟である証拠である、とはっきり書いてもいいかも > しれない。よく、スピリチュアルな世界に入り立ての人ほど > そういう欲求を抱きたくなるが、これは危険な傾向なので > ある。宗教に入信して一生懸命に「折伏」を始めようと > するのとたいして差はないように感じる。スピリチュアルな > ことがらは「魂が満ちあふれる経験を共有する」ことを > 基本として広まるべきものなのであって、「おまえは > 間違っている」式のノリでいくのは根本的に何かが間違 > っている。大槻教授みたいなものは無視していればいい > のであって、ムキになってそれを批判しようとするあまり > 自分の波動を下げてしまっているような部分が、 > ウィルバーの文体にはちょっとあるわけだ。ウィルバー > 自身は真摯な人であることを疑うものではないが、論理の > キレのよさにもし「力を行使する快感」を感じてしまうなら、 > それは危険な頽廃への道がひそむことなのである。
> 「わからない部分がある本にチャレンジしていくのは > やりがいのあることである」とも言っているが、きのうから > 読み始めた、ミシェル・アンリの『精神分析の系譜学』は > まさにそのような本である。このところすっかりアンリの > ファンなのだが、『受肉』をフランス語で読み始めて、 > 途中で、ほとんど同じことがくり返し書いてあることに > 気づいてちょっとお休みし、こちらの『精神分析の系譜学』 > を始めたわけだが(これは英訳本である。日本語訳も > あるが、アンリの日本語訳は信用できないと思う。それに > 西洋哲学は西洋語で読む方がわかりやすいものである)、 > これは心理学の本ではなく、哲学の本である。第一章は > デカルトのコギトとは何だったかという話で、そこに > 現象学的な思考の始まりと、その次の瞬間に隠蔽される > 様を描き出そうとしている・・らしい(全部わかったわけ > ではないので「らしい」なのだが)。これはつまり、〈私〉とは > その根源においては〈世界〉には属していない、という > 直観のことを問題にしているのである。それがコギトである。 > 「我思う」というのはもちろん言葉や論理であれこれ考える > ということではない。
> これは何の分野でも、スポーツでも将棋や囲碁なんかでも > そうだと思うが、「中級」に進んだ人にのみ理解できる > 面白さというものがあるわけである。このアンリの本などは、 > まったく哲学書を読んだことがない人が手にとっても、 > まず一ページも、いや三行も理解できないだろうと思う。 > しかし、現象学やハイデガーのことなどを多少勉強すれば > その面白さがわかってくるのだ。 > どこが面白いのかって、それを端的に言えば、これは、 > 魂(つまり絶対的内面性とでもいうべきもの)があるという > こと、それが世界が成立している根拠であるということを、 > この上なくラジカルに明示しようとしているから、ということ > である。本物の哲学者の凄さというのを感じますなあ。 > こういう、最も徹底してラジカルな思考という基盤があって > はじめて、非日常的な経験というものの意味が明らかに > なると思うが・・つまり、そもそも「リアリティとは何か、その > リアリティと〈私〉との関係は何なのか」という根本問題が > 解明されないと、ノンコンセンサス・リアリティをどう位置 > づけるかということはわからないはずなのである。それに > 斬りこんでいけるのは、今のところ、現象学、唯識、西田 > 哲学くらいしかないのだ。私の見るところ、トランスパーソ > ナル学派はどうもそういう哲学的思考がまだ弱い。 > 「リアリティとは何か」がまだ徹底して考えられていない。
> ひきつづきアンリの『精神分析の系譜学』を読む。いや、 > まったく面白いが、私がこれを面白がるのは日本の > 「媒体性の現象学」や西田哲学に通ずるものというか、 > 同じことを見ていることを感じるからで、「結局はそれを > 見るかどうかなのだ」というところへ行き着くわけだ(逆に > 言えば西田哲学を相対化することにもなる)。それが > 最終的には「魂の場所」を明らかにすることがわかって > いるからだ。 > 私は23〜25歳くらいの時にかなりデリダに興味を持って > いたが、なぜ私がデリダを面白がったのか(それも、 > 『ディセミナシオン』という本のファルマコス論などを)、 > 今となってはその理由がわかる。この話は前にも書いた > かな? デリダを、フーコーやドゥルーズなどと並べて > 「フランス現代思想」などという枠に入れてしまう定型から > その当時の私は自由でなく、自分が何を求めているかを > 完全に自覚していなかったのである。それは「現象学的 > 思考に含まれる『存在そのものへの問い』であった」 > ということが今ではわかる。その当時はやった『構造と力』 > には、そんな存在への問いなんてことは出てこなかった > でしょ? あれがすごくミスリーディングだった。中沢新一 > だってそういう枠組にはまっていた。それは違うんだ、 > ということで、その当時に既にあった新田義弘の書物など > に誰かが導いてくれたら、そういう指導者がいれば私も > こんなに回り道をしないですんだかもしれない。いや、 > 今でもデリダというのは完全にはわからないが、私が > 求めていたものはデリダにも含まれてはいたけれども、 > むしろもっと他をあたったほうがはっきりとつかむことが > できたものだったのである。
> ともあれ今となっては、二十世紀思想が基本的に求めて > いた方向性がつかめてきたわけで、そうした徹底した思考 > の立場に立てば、科学主義にもとづく唯物論などまったく > 問題にもならないのである。フラットランド思想批判として > 根底的なものは、フッサールの『危機』やアンリの『野蛮』 > などなのである。 > というわけでいま私は、フラットランド思考を真に解体する > ものは、とぎすまされた哲学的思考なのだ、と思っている。 > トランスパーソナル的体験をそこにもってきても、結局 > 「経験とリアリティとはどういう関係があるのか」というのは > 哲学的問題なのだから、こういう体験があるけどこれは > 唯物論では説明できないだろう? などという論法では > だめなのである。 > つまり、トランスパーソナル心理学というのはやはりユング > 心理学の延長、というかマスローの人間性心理学とユング > との合体プラスインド的世界観、という形でできあがって > いるので、それは経験や〈私〉の本質について根源的に > 考究するという性格のものではなく、むしろ、ユングのように、 > ある「大きな神話」を立てることによって魂の癒しを確保 > しようとする戦略に属する知なのだと思う。 > これが間違っているというわけではない。『魂のロゴス』に > したってかなりの部分神話的に語っていることは事実だし。 > しかしそれが神話であることは自覚している必要がある > だろう。
> たしかに、身体技法の世界について「一切語れない」 > という反知性主義はもはや時代遅れである。見えない > 世界を探究するにも、そこで体験される世界に「道標を > うつ」ということは決定的に重要で、そういう言語化に > よってそこへの道筋が「地図化」され、共有化されうる > のである。一切の地図つくりを拒否して「とにかくやって > みればわかる」という姿勢は、カルトにひっかかりやすい > 性質だと思われる。特にこのオウム以後の時代にあって > は、「つべこべ言ってないでやれ」という姿勢は絶対ダメ > であることをここで強調しておきたい。今の時代、うっかり > 「やってみた」「はまった」で大変なことになっていくアブ > ナイ団体は無数に存在することをキモに銘じてほしい。 > 何をやったらどうなるかの情報開示をちゃんとしている > かを吟味することが必要だ。ふだん「頭がいい」という人 > の中には、どこかにそういう秀才的な自分を過激に破壊 > したいという、強烈なエクスタシーへの衝動を秘めている > 場合があり、強烈な体験があるとそれに没入して、 > それについては一切の理性的判断を拒否してそれに > 身を委ねてしまう場合がある。場合によってはアブノー > マルなセックスの世界だったり、カルト的団体だったり > する。シュタイナーだって、神秘的な世界について > 「徹底的に、可能な限界まで理性的に語る」ことの意義を > 理解していた。これは神秘を理性に還元するということ > ではなく、「道標をうつ」ということだと私は解釈している > のだ。神秘学の道における最大の落とし穴は、こうした > 体験至上主義、反知性主義かもしれない。
> 禅における不立文字は、老師が覚者であるということを > 絶対条件としてのみ成り立つものである。そうでなければ、 > 自分がよくわかっていないことを「語れない」といって > ごまかすことはきわめて簡単である。覚者となった老師が、 > 弟子に覚者を出すことができなかったら、その瞬間に禅は > 終わるのである。では現代に本当の禅は生き残っている > のだろうか? だから私は、禅のように「いっさい語るな」 > というのは現代にあっては危険なやり方になると思う。 > シュタイナー的な発想が現代人にはふさわしいのである。 > 神秘の世界を文化の外におくのではなく、文化の中にそれを > 組み入れるためには、それを語り、地図化しなければなら > ない。 > それが「神話」であってもさしつかえないのである。もちろん、 > 神話であらざるをえないだろう。神秘体験の絶対化、それ > への一切の理性的判断、位置づけの努力を放棄した思考 > 停止こそが、オウム的なるものを生み出す一要因である > ことを忘れてはならないのである。 > これは邪推かもしれないが、「語れない」と言い続ける人は、 > そういう体験の地平を他のさまざまな体験と比較検討して > 「位置づけ」を行うという作業自体を拒否したいという部分が > あるのかもしれない。つまりそれによって、その体験の > 「絶対性」が否定される可能性が生じることを忌避している > のではないか。つまりそれだけ体験に執着しているのかも > しれない。
> もしそれが本当にスピリチュアルな体験だったら、本当には > 語れないし理解もされないことは重々承知していながらも、 > 何とかそれをほかの人に伝えよう、共有しようというコミュ > ニケーションへの欲求が生まれるのではなかろうか。 > ブッダの伝説における「ブラフマンの勧請」はそのことを > 意味している(この話は手塚治虫の『ブッダ』にも出ている)。 > そういう欲求もなくただ自分がそこに浸っていたいという > 自己満足的なものがあるのは、その体験次元がせいぜい > アストラル上界くらいのものではなかろうか、と私には > 思えるのだが。 > まあとにかく身体技法の世界は深く、おもしろい。これから > ますます身体技法の本を買い集めることになりそうだ。 > だいたい、一冊だけ読んでそれを信用してすべてを賭ける > のは危険きわまりない。幅広く情報を集めて、比較検討し、 > 自分にとってよいと思えるものを判断できることが大切 > である。たくさん見ていけば徐々に、基本パターンという > ものがわかってくる。その基本文法をつかむということは、 > 津村喬も斎藤孝も言っていることだ。それにしても、斎藤孝 > や古武術などがはやるのは、やはり「身体文化の復興」の > 方向に時代が向かいつつあるということではあるまいか。 > 一方でまた、ミンデルや上野圭一などの「見えない身体」 > があり、そこから展開されるエネルギー医療の問題もあり、 > 哲学的にはメルロ=ポンティやアンリの身体現象学があり・・ > ということは何ら偶然ではない。そういう諸分野の「見えざる > 連関」を感じざるを得ないのである。
456 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 10:52
トランスパーソナル心理学に興味あるんだけど、 ITP (Institute of Transpersonal Psychology) って 教育機関としてはどうなの? 今度からアメリカの大学の修士課程に入るんだけど、 その後のこともはやめにきめておきたいんで。
458 :
没個性化されたレス↓ :04/07/11 20:20
菅原浩オタクうざい かれは現代の抱える課題がわかってない
459 :
没個性化されたレス↓ :04/07/11 20:23
460 :
没個性化されたレス↓ :04/07/12 02:07
> 最近、小学生などによる殺人や傷害事件がたくさん > 起こっていて、そのたびに「命を大事にする教育を」などと > いう自称・識者が登場するが、いったい具体的にどういう > ことをやればいいというのであろうか。まさか、「命を大切 > にしましょう」と授業で教師が教えればいいのだ、などと > 考えているわけではあるまい(そうだとしたら相当の・・ > と、思わず人をバカにする言葉を使ってしまいたくなって > しまうな。これでは自己矛盾である)。かんじんなことは、 > そういう事件を起こすようなこどもは、どういうからだの > 状態をしていたのか、日ごろ、どういうものをどんなふうに > 食べていたのか、というふうに見ることなのだが、 > 新聞などにはほとんどそういう情報はない。そういうことに > 関心が向かわなきゃいけないのだ。つまり、正常な自己 > コントロール能力が失われているということは、まず、 > どこかに身体感覚のゆがみが生じていることを条件として > いるはずなのだ。命を大事にするとは、自分の身体の > 世界を大事にすることから始まらざるをえないだろう。 > はっきり言ってファストフードや冷凍食品ばかり食べて > いたら精神がおかしくなるのはあたりまえの話だ。 > 自分が存在していること自体について肯定的な身体 > 感覚を持ちえていれば、そんなに大きく崩れることはない > はずなのである。(なお、こうした視点については、 > 斎藤孝『子どもたちはなぜキレるのか』をおすすめする)
> シュタイナー教育では、まずエーテル体の教育から始めて、 > アストラル体の教育へ進み、そののちに始めて抽象思考を > 導入するのだが、この順序が非常に重要だ(高橋巌 > 『シュタイナー教育入門』参照)。「命を大事にしましょう」 > といくら言葉で教えたところで、命が自然と大事になって > くるような身体が作られていなければ、決してそういう > 言葉は「入っていかない」ということになる。「体をつくる」 > という言葉が、単に体力だけ、物理的身体にかかわる > トレーニングのことだけしか意味していないとすれば、 > これは斎藤孝が言う「身体文化の衰弱」そのものである > だろう。 > また、エーテル体、アストラル体の発達がゆがんでしまっ > ている人が、その代償を「精神世界」に求めようとする > 傾向が出てくると、これは危険なカルト的方向へ行って > しまったり、超能力に異常に興味を燃やしてそれを得る > ための修行をする、などという邪道に陥りかねない。 > 「ここに生きていることの健全な肯定感」から出発できない > スピリチュアル論は駄目だということである。古代のグノ > ーシス主義にはそういう危険が一部にあったわけだが、 > 同様の精神状態はいつの世にも起こりうる。 > つまり、このようにつねに身体感覚とともに問題を考えて > いく姿勢が「ホリスティック」ということなのだ、と思う。 > 人間のまるごと全体から始めるということである。なお > ここで、私が身体といっているのは、単純な「肉体」だけの > ことではないということもおわかりだろう。このまえ紹介 > した、メルロ=ポンティやアンリが語っている、フランス語の > 「シェール」に近いものなのだ。「もの」ではなく「こと」の > 身体であって、いってみれば物質よりももう少しエーテル的、 > エネルギー的な事象のことをいうのである。
>>457 教育機関として、ということだけど、ITP(トランスパーソナル
心理学研究所)は大学院大学で、カリフォルニア・シリコン
バレーのパルアルトだったかな、ここが発祥の地だったと思う。
ここで、様々な技法も生み出されたのではなかったかな。
確かに、トランスパーソナル心理学を中心にすえて、もっとも
体系的に学べるところだと思う。もしここに入れるのなら、
本格的に研究させてくれるのは間違いないでしょう。
臨死体験(OBE)の研究プロジェクトに参加した人もいる。
ただ、社会経験とか問われるかもしれないので、そこは
よく調べたほうがいいと思う。
ただ、興味ある、だけでは、あまりにも情報が足りない
ので、アドバイスしにくい。専門のカウンセラーやセラピ
ストとして活動していきたいのか、それとも、教養として、
自己の専門と結びつけて幅を広げたいのか、でも違う。
教養としてなら、日本からでもITPの通信講座は受け
られるし、かなり本格的に課題が出されたりするようだ。
某国立大学で社会心理学を専門にしている某助教授の
人も、現地の最新の内容をより専門的に取り入れるために、
通信講座を受け始めたらしいし。そういう形もある。ただ、
臨床的な技法を身につけるには、やはり現地に行くか、
行った人から学ぶことになると思う。日本トランスパーソ
ナル学界会長で明治大学助教授の諸富氏も、筑波大学
の院を出てからだけど、行っていたと思うよ。
464 :
没個性化されたレス↓ :04/07/12 10:54
465 :
没個性化されたレス↓ :04/07/12 11:25
466 :
没個性化されたレス↓ :04/07/12 12:44
>>457 http://plaza.rakuten.co.jp/angeleyes/ この方は、アメリカ東海岸で高校・大学と生活を送ってから
帰国し、その後、アメリカ西海岸に舞いもどり、トランス
パーソナル心理学や、カウンセリング心理学を学んで
いる院生の方、だそうです。
どの大学院かは知りませんが、カウンセリングやセラピーの
クラスについて日記で書かれているので参考になるかも
しれません。2003年から行っているそうです。
467 :
没個性化されたレス↓ :04/07/12 13:08
話しづらいスレだこと。
469 :
没個性化されたレス↓ :04/07/15 23:31
全くだ。
468−469=-1
472 :
没個性化されたレス↓ :04/07/18 00:13
POPを体験した人っていますか? 実際うまくいくんだろうか・・
473 :
没個性化されたレス↓ :04/07/18 16:26
474 :
没個性化されたレス↓ :04/07/19 12:17
アメリカでは先にあげられた4大学を中心に、トランスパーソナル学も含む、 ホリスティック学という大きなくくりで様々な教育、研究がなされています。 TP以外では(勿論相互に関連がありますが)、意識学、インテグラル学(主にウイルバー、一部オーロビンド)、 ソマティック心理学(含む、ボディーワーク、ムーヴメント)、意識変容アート学、 ホリスティック教育学、仏教心理学(ナロパ)などが学べます。
>>472 ミンデルのワークショップに参加したことあるけど、面白かったよ。
心理学というより、シャーマニズムの現代版だね。
うまくいくかどうか? は知らん。
>>475 >うまくいくかどうか?
他にもブレスワークについてずっと前にもカキコあったけど、
うまくいった体験談って、ここで期待してはいけないのだろうか。
>>476 ってゆうか、何か訊きたいならもう少し適切な質問をしてくれないと。
「POP、実際うまくいくんだろうか?」って訊かれてもねえ。
変性意識状態に入って2次プロセスにチャネルする手段としては
なかなか使えると思ったけど。
トランスパーソナル心理学とは何か、ものすごく簡単にいう なら、西洋の心理学と東洋的な「道」をミックスさせ、それを 宗教ではなく、知的にもある程度理解可能な「学問」として も追求していこうという姿勢のことです。東洋的な「道」とい うのは、自己とか、世界とかの真実の姿を追求する「魂の 探求」というようなものです。もちろんそれは狭い意味での 「学問」を超えています。単に知的にのみ理解できるような ものではありません。しかし、情報があふれている現代人 にとっては、昔のように「理屈はどうでもいいから黙って坐 れ」という指導法が合わなくなっている場合も多いのです。 そこで、「わかって坐れ」という、知的にも十分納得した上 で「道」を受け止めるということが要請されるようになってき ました。この「わかって」の部分を、宗教の教義という形で なく、ある程度学問的なものとして示すことができるかもし れない――トランスパーソナル心理学の一つの狙いは、 そんなところにあります。 そしてまたもう一つの柱は、西洋の心理学との融合という ことにあります。これは主として心理臨床のことで、心のい ろいろな問題に気づかせるということです。実は、心の問 題を抱えながら、その問題との直面を避けるために「精神 的」なことに逃げ込んでしまうようなことは、かなり多いので す。そういう場合にいきなり修行めいたことを始めたとして も、あまり進歩がないだけでなく、心のひずみが大きくなっ ていく場合さえあります。こうした場合は、心理療法が効果 的であるわけです。
これまでの心理学は、ともすると、心理学というもので心の 全部がわかったかのような幻想にとらわれている部分が ありました。しかし、心というのはとらえがたいものであり、 その深みは神秘的なものであります。そのような深みを率 直に認めて、西洋の近代文化ではそのような深みを追求 して来なかったことも率直に認める――そんな中で、古来 からの「心の探究」に最大の敬意を払おうとする姿勢が生 まれてきました。これもトランスパーソナルの重要な要素で す。 つまり、トランスパーソナル心理学とは、以上のような「姿 勢」を持った学問であって、特定の理論とか技法とかによ って定義されているグループではないのです。その意味で、 「ユング心理学」とか「アドラー心理学」などという呼称とは 違うのです。
ここで、ちょっと整理しておきましょう。私の見るところ、 いま、トランスパーソナルというものに対し二通りの要求が 存在しているように思うのです。 1.心理療法において、個人を超えた意味の次元に気づ かせる、という成長志向型セラピーの方向。 2.これまで公的には学問から排除されてきた、スピリチュ アルな伝統の復権、新しい超宗派的な統合への方向。 ウィルバーのパラダイムにはこの二つが包含されている、 と見ます。もっぱら1の要素を求めている人は、私のように 2の文脈に深入りしている人間に「なんでそこまでやる必要 があるのか」という疑念をもたれることになるのでしょう。 ここで、トランスパーソナルに対してはこの相異なる二つの 方向が併存していることを確認しておくことは有益だと思い ます。
1については、ほぼ諸富さんが書いている範囲でカバーさ れると思います(参照:諸富祥彦『トランスパーソナル心理 学入門』)。これはカウンセリングの場面が中心になり、従 来の、プレパーソナルからパーソナルへの統合をめざす技 法に加えて、ケンタウロスレベルの自覚をトレーニングする、 フォーカシング・サイコシンセシス・瞑想法の併用、などの 技法が追加されるというイメージで捉えればよいと思います。 瞑想法というのは、アメリカでは技法の一つとしてヴィパッ サナ瞑想などをクライアントにすすめる事例が多いのです。 脱宗教的な文脈で行う瞑想法をセラピーのレパートリーに 加えるということです。 この場合、ケンタウロス以上の発達は考える必要はないし、 セラピストの扱う範囲を超えます。それ以上の次元について は、多くの人が「なんでそこまでやる必要があるの?」とい う感覚を持つでしょう。この点で、トランスパーソナル・セラピ ーへの疑問の多くは、それが2の領域までクライアントに要 求するものだと誤解していたことに基づいていると思います。 (もう一つの誤解の主因は、地図と現実のレベルの混同と いうことにあります)
これに対して、カウンセリングではなく精神医療の場面に なると、サイキック次元についての知識が必要となってこざ るを得ないでしょう。そうでないと、精神病とスピリチュアル ・エマージェンシーとの区別がつきませんし、霊的原因に発 する症状を診断することもできません。 現状では、そういうサイキック次元がわかる精神科医はほ とんどないので、おかしいと思った患者は霊能者などのとこ ろに行くほかなかったりするのでしょう。 つまり、2においては、サイキック次元以降の段階について の探求が必要となってくるといえます。2は、セラピーを超え る問題の次元であり、修行または霊障の場面で必要とされ る知識にかかわる、と考えることができます。
1=セラピー=ケンタウロス 2=修行・霊障など=サイキック以降 この、基本的に別種の二つの問題がトランスパーソナル心 理学には包含されている、ということをはっきりと意識して いく必要があるようですね。 1と2の人がそれぞれ相手のことを「そんなのはトランスパ ーソナルじゃない」といっているような状況も一部あるような 気がします。 1と2はより大きな枠組に包括されねばなりません。この意 味で、1の世界しか知らない諸富さんの立場は、トランスパ ーソナル全体から見るとやはり部分的だと言えるでしょう。 ですから、たしかにケンタウロスとサイキック以降の段階を 明確に区別することがトランスパーソナル心理学は必要だ と思います。それはまた、ケンタウロスレベルの経験を究極 的なスピリチュアリティーに祭り上げるような上田諸富路線 を批判することでもあらざるを得ないようです。 同時にまた、こうした区別をする体系をもたないユングや ウォシュバーンの理論は、こういう場面においては有効では ないということも確認せざるを得ません。ヒエラルキー的な 次元性を想定するモデルは、それなりのプラクティカル・ バリューをもっているということをここで強調しておきます。
※注1 ケンタウロス次元: ケン・ウィルバーのパラダイム において、理性的自我の次の発達段階とされる次元のこと。 ここでは、意識は自我的な心の「内容」から脱同一化した 「純粋意識」の状態にあり、自己の自我意識と身体を眺める ことができる「純粋観照者」の視点を獲得する。ウィルバー によれば、この段階を経過しないトランスパーソナル的発達 というものはありえないとされる。サイコシンセシスやフォー カシングなどはこの次元の自覚をトレーニングするものであ る。また武道・スポーツなどにおける「心身一如」の経験も、 ケンタウロス次元の意識段階と考えることができる。 ※注2 サイキック次元: ウィルバーのパラダイムにおいて、 ケンタウロス次元の次の発達段階とされる。「心霊」レベル とも訳される。ここでは、物理的な時空を超えて意識が拡大 するが、なお完全にそれと分離はしていない、過渡的段階 にあるとされる。このため、ESP、体外離脱などの経験も生 じるレベルと考えられる。その他さまざまな超心理的、いわ ゆる「霊的」な現象が起こるレベルであり、この次元の取り 扱いは細心の注意を要する。
この質問もFAQかもしれません。ところで「ニューエイジとは 何か」というのも人によってぜんぜん違う定義がされていま す。ニューエイジという呼び方には馬鹿にしている響きがあ る場合も多いので、多くの人は自分はニューエイジではない、 と言います。 多くの場合、同じ言葉によって人それぞれのことが意味され ていて、それに個人的な情念やイメージが付着していること が、不毛な議論を生んでいるようです。そこでまず、この言 葉の意味をはっきりさせましょう。このような手続きなしに議 論をすることは避けたいものです。 ここでは、ニューエイジとは、「80年代以降にアメリカ、およ び西欧諸国において勢力を持ってきた、スピリチュアルな 価値を追求する大衆的な文化運動」と理解します。この見 方はいわば社会学的なもので、いいとも悪いとも言ってい ません。
あるところで、「ユング心理学などには方法論があるが、 ニューエイジには方法論がない。だからニューエイジは 駄目だ」という意見を耳にしましたが、ニューエイジは本来 大衆文化であり、学問ではないので、学問的な方法論を 持たないのは当然です。それを要求するのは、カテゴリー エラーに陥った議論というべきでしょう。学問でないから 駄目だというのは、学問をやる人間の傲慢でしかありま せん。私の見るところ、多くのニューエイジ的な文化は、 それなりの方法論を持っているのですが、それが学問的 な方法論ではないというだけです。学問だけが絶対の 価値だという論法はきわめて愚かしい発想でしょう。
ここでスピリチュアルな価値というのは、ニューエイジ文化 においては、近代社会の主流となっている近代的合理主義 と唯物的科学思想、そしてもう一つの極である伝統的キリ スト教の思想のいずれにも属さない、「第三の価値」を追求 したいという欲求によるものであるようです。 そこで、近代合理主義では物質次元の世界しかリアリティ を認めていないのに対して、スピリチュアルな次元のリアリ ティというものがある、という世界観に立とうとするのがニュ ーエイジの特徴でしょう。しかしそれを、伝統的キリスト教の ように「教えを信じる」という姿勢ではなく、そうしたスピリチ ュアルな次元のリアリティを自分なりに体験的に理解したい という欲求があるように見えます。 これは、言うなれば、近代合理主義に反発して始まった、 ロマン主義運動の延長であり、それが大衆的レベルにおい て展開されたものといえます。これを「新霊性運動」などと 形容する人もあります。 こうした欲求は極めてまっとうなものであり、近代の価値観 に対するラディカルな批判を含んだものと言うことができます。
488 :
没個性化されたレス↓ :04/07/20 05:02
コピペが繰り返されるのは 自我を手放して他者に対して完全にオープンになったからですね 素晴らしいことだと思います
ただ、一般にニューエイジがあまりよい眼で見られないこと があるというのは、スピリチュアルな次元の体験というもの がひじょうに「お手軽」に扱われる傾向が一部にあるという ことでしょう。 現代は情報消費社会ですから、その社会傾向に乗って、 見かけはよいが内容の薄いものが商品として流通してしま うという側面もあるわけです。 また「体験」を重視するあまり、そういう体験を日常からの 逃避として追求してしまう傾向の人もあり、そのへんに問題 があるといえます。 こうした一部の傾向を見て、ニューエイジ全体に否定的な 目を向ける人も多くいるというわけです。 しかし、バランスの取れた見方をするならば、ニューエイジ にうちにあるロマン主義的な近代批判の部分はきちんと 受け止めないといけないと思います。 一部の傾向だけでそれを全面否定するのは、「木を見て 森を見ない」ということではないでしょうか。
以上、ニューエイジについて整理してみましたが、そこで トランスパーソナルとはどうなのか? ということです。 まず、大きな違いは、ニューエイジとは大衆文化であり、 トランスパーソナル心理学とは学問である、ということです。 これが基本的な違いです。 学問というのは、理論や実践体系があり、また大学や大学 院などの学科やコースがあり、学術研究団体があり、学術 大会や学術誌がある、ということです。アメリカではそういう ものとして存在しています。 ところが日本ではそういう学術的なシステムが全くありませ んでした。トランスパーソナル心理学は、これまで、学術方面 ではない人によって、ワークショップのような形で提供されて いるのみであったので、アメリカの実状を知らない人は、 これがニューエイジ文化系のワークショップとほとんど区別 できなかったというのも無理からぬところであったかもしれ ません。 また、1996年、97年に南伊豆で行われたトランスパーソナル 学会なども、トランスパーソナルの存在を知らしめたという 功績はあったにせよ、ある意味でトランスパーソナル=ニュ ーエイジという誤解をさらに強めてしまった要素もあったと いう意味で、功罪半ばしたという面もあったのかもしれません。
もちろん、トランスパーソナル心理学とニューエイジ文化は、 同じ時代、同じ地域の「時代精神」を共有していることは 疑いありません。 その根底はやはりロマン主義的近代批判ということです。 ロマン主義は近代的な知のシステムに反抗しました。ここ で、単に反抗するだけでなく、反知性主義に陥らず、代替 案としての「新しい知のシステム」を作ろうという運動があっ たわけです。近代的学問を無視するのではなく、その遺産 を受け止めつつ、近代の限界を越え、スピリチュアルな価値 観を含んだ「新しい学問」をもって代替させようというのです。 これがトランスパーソナルというものの基本姿勢であると いえます。 それは、先に言ったように、知的にアプローチしえない領域 の存在を積極的に認めます。つまり、知の限界をはっきり 知っています。しかし、いちおう、知的に理解できるぎりぎり のところまではやっていこうという姿勢ということです。
スピリチュアルな価値の復興ということも、大衆文化レベル だけにとどまっていては、いわゆるエスタブリッシュメントを 動かすことはできないわけです。 しかし、アカデミックな学問という形で存在するようになる ならば、それは社会的に影響力を持ち得るわけです。 そして、近代のシステムの中で、これまで暗黙のうちに スピリチュアルなものを抑圧している構造がなかったか どうか、という反省を促すことが可能になります。 それは、たとえば学校教育のカリキュラムとか、文化政策 のいろいろな場面、アカデミックな世界の再編成などと いった大きな社会変革につながる可能性を持つことになり ます。 学問というベースにスピリチュアルな次元の世界というもの が乗っていくということは、短期的には意味が少ないように 見えても、長期的には計り知れない影響を持つことになる という可能性を忘れないでいただきたいわけです。 現在、学校で「常識」のように教えられている世界観・価値 観も、もともと、その当時のきわめて先端的な思想家が生み 出した前衛理論だったのです。
ただ、先ほど言ったように、学問が絶対だという価値観は 危険であり、捨て去るべきだと思います。 あくまで、社会において学問というものが果たす役割が あり、そこにスピリチュアルな価値観が根付いていくのは 重要なことだ、という意味なのです。 スピリチュアルな探求は、本来、学問の枠を超えています。 それにはまたそれ固有の方法論があるのであって、それを 学問でないからと退けるのは愚者の行為だと思います。
494 :
没個性化されたレス↓ :04/07/20 05:52
コピペが繰り返されるのは 自我を手放して他者に対して完全にオープンになったからですね 素晴らしいことだと思います
NLPは、ゲシュタルト療法のどこをどう使用しているのですか?
497 :
没個性化されたレス↓ :04/07/21 00:56
菅原なんとかは喋り過ぎだ。
>スピリチュアルな探求は、本来、学問の枠を超えています。 >それにはまたそれ固有の方法論があるのであって、それを >学問でないからと退けるのは愚者の行為だと思います。 そのまま返してさしあげます。 ニューエイジより
499 :
没個性化されたレス↓ :04/07/21 05:28
コピペは「トラパはニューエイジの学問版だ」という意味だろ
>>477 机上の理論ばかりでなく、生々しい体験談も聞いてみたいんだよね。
そういう話をすると世間じゃすぐ「宗教みたい」と言われてしまうけど。
「宗教でなく学問だ」とするのは逃げっぽくない?
ベースは体験だと思うよ。
珍:宗教とトランスパーソナルというのは、もともとどういう 関係にあるのでしょうか? ま:それはもちろん、トランスパーソナルは、ウィルバーの 立場にもはっきりあらわれている通り、西洋の心理学と 東洋の霊的伝統をミックスさせようという動機から発して います。つまり、トランスパーソナルは、従来の「近代科学」 の延長線上にあることを拒否しています。 昔ながらの「東洋学」は、ヨーロッパ的な価値観を基準に してアジアのことを研究する態度に終始し、それが「オリ エンタリズム」という西洋中心主義だとして批判されたりして きました。ここで東洋っていうのは、仏教でありヒンドゥー 教であり、イスラム教、儒教、道教など、いずれも宗教的 な伝統であるわけでしょう。 ウィルバーが革命的だったのは、こうした東洋の宗教を きわめた「賢者」たちが体験したものが「真理」である、 という仮定から出発したということです。
珍:「真理」ですって? すごい言葉が出てきましたね。 ま:西洋で宗教っていうとキリスト教でしょう。キリスト教 というのは、少なくとも公式のものでは、「信じる宗教」 なんですよね。ある教えを信じ、それに基づいて生活しよう とするのが宗教だというわけです。 珍:当然そうだと思うのですが、東洋ではそうではない のですか? ま:もちろんそういう要素もあるのですが、東洋的な宗教 −−イスラムでは、公式にはキリスト教と同様ですが−− というのは、「教え」を信じることが目的ではないのです。 「悟る」こと、つまり神仏と一致し、みずから神仏そのもの になることをめざすわけです。教えというのは、そのため の道具にすぎません。言葉としての教えそのものは、 真理そのものではなく、真理に至るための道しるべなの です。ところがユダヤ−キリスト教的伝統では、教え そのものが絶対とされ、それを信じるか、信じないかが 問題になってきました。 ですから宗教を語るというときには、「宗教」という言葉で どういうものをイメージしているのか、明らかにしておか なくてはなりませんね。 私のみるところ、どうも現在の一般的な日本人は、宗教 というとキリスト教のような「特定の教えを信じる団体」 に入ること、を連想するように思います。
珍:それは心当たりがあります。多くの日本人は、「特定の 宗教を信じていない」、つまり「無宗教」だと言いますよね。 だけれど、初詣には行ったり、仏教で葬式をやったりする。 それはつまり、宗教というのが、特定の宗教団体、たとえば 創価学会みたいなものに入ることだというイメージがあるので、 自分は特にやってない、と言うわけですね。 ま:そういうことだと思うのです。そういう宗教観は、明治 以来のキリスト教の影響だと思います。つまり教団宗教 ですね。ところが伝統的な日本人の信仰というのは、多くの 場合、無教団信仰なのです。ですから舶来の「宗教」という カテゴリーで日本人の信仰生活を語ると間違えてきますね。 珍:そうですね。たとえば「禅」なども、西洋的な基準で 宗教といえるかどうか疑問ですね。
ま:しかしまあ、定義の問題など不毛ですからまあいいと しましょう。 要するにここでの問題はですね、宗教は「信じる」ことだ、 という理解は、必ずしも普遍的なものではないよ、という ことになりますかね。 東洋的な宗教はむしろ「道」であるとも言えますね。神、 絶対との合一をめざす修行の体系としての霊的伝統、 と捉えるべきでしょう。 どうもこういう、東洋の「道」の伝統に対する知識そのもの が、いいか悪いかは別として、決定的に今、日本人から 欠落しつつあるもののように思います。 自分たちの祖先が、一心に何を求め続けてきたのか、 そのくらい知っていてもいいのじゃないでしょうか。珍太郎 さん、いままでのあなたの受けてきた教育の中で、こうした 問題が何かありましたでしょうか。 珍:いや、残念ながら。
505 :
没個性化されたレス↓ :04/07/21 18:00
コピペが繰り返されるのは 自我を手放して他者に対して完全にオープンになったからですね 素晴らしいことだと思います
ま:そうでしょう。ま、人間の生きる目的は何かなんて考え てたら、入試に受かりませんからねえ。私に言わせりゃ、 学校教育ってのは、もはや決定的に古くなってしまった、 唯物主義的世界観に子供を洗脳するシステムなんですがね。 珍:洗脳とは、穏やかじゃありませんね。 ま:いやすみません、私なんかからしますと、「魂」とか「霊」 などといった当たり前のことを口にするだけで変わり者と 見なされるという風潮にやりきれないんですよ。 みんな学校でニュートン=デカルト的世界観に洗脳されて ますからねえ。それとは違っていると異端とされてしまう わけです。 そこに私の苦難の道があったわけでして、女性には敬遠 されるし・・ 珍:それはまた別の原因があったかと愚考いたしますが・・
ま:(あわてて)えーとそれでウィルバーの話でしたかね、 そこでウィルバーは、東洋のそうした霊的伝統の価値を 一度完全に承認してしまい、それが真理であるという仮定 から出発した、と言いましたっけね。 珍:そうです。 ま:つまり、「悟り」というものは確かにあるのだ、その状態 に達すれば、宇宙について、人類についての真理が明らか になるのだ、という立場ですね。 逆に言いますと、真理とはそうした体験によって直接に つかむものであって、論理をあやつったり本を読んだりした だけでは永遠に何もわからない、ということでもあります。 西洋の哲学なんかはそれだけでしょう。 つまり、真理は論理的な言葉によって明らかにできる、 という仮定から出発したのが西洋哲学です。そしてその 仮定が誤りであったことが決定的に明白になったのが、 20世紀の哲学の現況でしょう。 とはいっても、哲学はなお惰性で続いてはいまして、 大学の講義要項なんかみるといかにも哲学という学問が ちゃんとあるように見えますが、実は哲学というのはもう とっくに終わっているんです。それはちょっと勉強した人 なら誰でも知ってるんですよ。大学のポストがなくなると 困るので黙ってますがね。
仏教の言葉では、いわゆる普通の学問による真理を 「世俗諦」といいます。そして、そうした学問を飛び越えて、 直接につかむしかない絶対の真理を「勝義諦」と言うんですね。 珍:つまりウィルバーは、その「勝義諦」を認めるということ ですね。 ま:その通り。直接に真理を把握する体験があるのだ、 そしてそれが人間が求めうる最高の境地なのだ、という ことを承認するのです。もっとも盲目的に「信じる」という のとはまた違うのです。いわば、「不信の停止」といいます かね。 珍:不信の停止? ま:ええ、これはキリスト教的な「教義」ではないのです。 むしろこれは「仮説」なんです。つまりそれが本当かどうかは、 自らその道に入り、実際にいろいろ修行をやってみて、 自分でその体験をしてはじめて明らかになるわけです。 そのように人の言うことを信じることで満足するのではなくて、 自ら証明する、ということが目標とされるのですね。しかし、 最初から「そんなのウソに決まってる」としてしまえば、 永久にそういう体験は得られないわけでして、ですから まずそれを真理だと「仮定」して、その通りにやってみる、 ということが必要となるわけです。実際に、過去の賢者・ 覚者と言われる人たちが、そうした悟りを得たというのは 嘘である、という証明も不可能な話でしょう。 珍:そりゃそうですが。
509 :
没個性化されたレス↓ :04/07/21 18:09
コピペが繰り返されるのは、 自分の知の限界を理解し、 自分の思考に頼ることを止めて、 真理にオープンになった結果だと理解します。
ま:ですから、それを仮定として承認するかどうかは、 個々人の価値判断であって、科学者などが出る幕じゃない ですね。・・いま私が言っているのは、ウィルバーの認識論 をかみくだいて説明しているわけです。 つまり、霊的な方面の認識については、まず個人個人が その体験によって証明する、というのが唯一の探求手段 なんだということですよ。 珍:それがトランスパーソナルという立場の前提なんだと いうことですか。 ま:私はそう思うんですがねえ。 世間にはなにか、トランスパーソナルとニューサイエンスを ごっちゃにして、それでそういう霊的・超常的なことを 「科学的」に解明するという学問なんだと勘違いしている人 がいるみたいなんですが、まずウィルバーをしっかり読めば そういう誤解はないはずです。
511 :
没個性化されたレス↓ :04/07/21 18:16
コピペが繰り返されるのは、 自分の知の限界を理解し、 自分の思考に頼ることを止めて、 真理にオープンになった結果だと理解します。
珍:ここまでのお話をまとめますと、トランスパーソナルの 前提には、まず東洋的な霊的伝統を「真理として仮定する」 ということがある、ということですよね。 つまりトランスパーソナルとは、そういう意味で、従来の 「学問」とは一線を画していますね。 ま:そうなのです。これは従来の意味での「科学」であろう とはしていません。「悟り」があり、人間は究極的にはそれを めざして生きるものである、という確乎とした価値判断が あるということをまず理解してください。 珍:それに賛成しないとトランスパーソナルとは言えない わけですか? ま:うーん、まあ、別の価値観に立って、霊的なことに対する 一つの見方を提示する学問を独自に作り、それにトランス パーソナルの名を冠することは個人の自由ですが、少なく ともここでいうトランスパーソナルと同じものではありません。
513 :
没個性化されたレス↓ :04/07/21 18:19
コピペが繰り返されるのは、 自分の知の限界を理解し、 自分の思考に頼ることを止めて、 真理にオープンになった結果だと理解します。
珍:なるほど。で、まんだら浩さんの宗教論の要点はそう いうことですね。 ま:いやそれは違います(笑)。今まで言ったのは、トランス パーソナルについての基本的な理解の問題で、私の宗教論 というのは、そうしたトランスパーソナルの「彼方」にあるもの なんです。つまり今のトランスパーソナルの学問ではまだ 扱うことのできない、ディープなレベルのものです。 珍:むっ、「ディープ」と来ましたか。これは面白くなりそうですな。 ま:私はつねづね思うのですが、世の中のトランスパーソナル に関わる人々ってのには、二種類あるんです。 まず一つは、実際に霊的な世界のことに入り込み、実に さまざまなことを見聞し、それをなんとか「学問」の形の中に 入れていこうとして、書ける部分、まだ書けない部分を いろいろ考えながら、トランスパーソナルの学問を押し進め ようとしている人です。 もう一つは、そうしたディープなことをまったく知らず、 トランスパーソナル系の本に書かれていることを読んで、 その知識をもとに、たとえばそれを他の心理学やニュー サイエンスなどと組み合わせていろいろなことを言う人たち ですね。
まあ例を出したら悪いんですけど、西平直さんの『魂のライフ サイクル』(東大出版会)ね、あれは後者の典型ですね。 ひじょうに真面目な人で、ウィルバーとユングとシュタイナー の本を一生懸命読んで、比較してるんですけど、いかんせん、 本で読んだことがこの人の知識のすべてなんですね。 つまりですね、前者のカテゴリーの属する人は、書くときに、 「まだ時期尚早で書けない」実にたくさんのことについて 黙っているんです。知っているんだけれど、書けない、という ことがもう仰山あるんですよ。 そういった、まだ世間に抵抗ありそうなことは全部削る、 書かない、ということで、そういう人の本が成立している んですよ。 西平さんは、そのへんのことがわかっとるんかいな、 と正直感じたのです。
516 :
没個性化されたレス↓ :04/07/21 18:28
コピペが繰り返されるのは、 自分の知の限界を理解し、 自分の思考に頼ることを止めて、 真理にオープンになった結果だと理解します。
珍:なるほどね、そこがディープとか彼方という所以ですか。 しかしね、どうですかね、まんだらさんは、ウィルバーは 悟っていない、と別のところで言ってたのじゃなかったですか? ま:それは確かにそう思うんですが、それでも「黙っている」 部分はあるんだろうと思いますよ。 珍:じゃ今回はいよいよ、まんだら浩さんがそうしたディープ なことを一挙公開してくださるというわけでしょうな? ま:むっ、迫ってきましたね(笑)。いや私はそう詳しいわけ ではないのですが・・ 珍:いや、ここまで来て、それはないでしょう。 ま:まぁ、「まんだら浩、宗教を語る」ですから、今のトランス パーソナルの見方が、なお「宗教」の本質にまで届いていない というところから話を始めてみましょうか。 珍:それじゃまあ、それでも結構です。どうぞ。
ま:珍太郎さんも気がついたかもしれませんが、現実の宗教 っていうのは、ウィルバーの本のようなすっきりしたものでは なくて、なんかこう、もっとドロドロした部分があると思いま せんか。 珍:あ、それは感じてました。水子地蔵とかね、まったく、 人の弱みにつけこんでカネをむしりとるとんでもない坊主が いるんですよねぇ、まったく困ったもんで・・ ま:あれ、珍太郎さんは水子の霊なんてないと思っている んですか? そして、供養ということも幻想だと? 珍:うーんそれはどうですかね、見たわけじゃないし、 わからないとしか言いようがないんですが。トランスパー ソナルではそうしたものの存在は肯定されるんでしょうか。 ま:いや、そこなんですね。どうもね、今のトランスパーソナル の学問では、やっぱり、あるともないとも言いようがないん ですね。 珍:えっ、そうなんですか?
519 :
没個性化されたレス↓ :04/07/21 18:32
ま:私はつねづね思うのですが、世の中のトランスパーソナル に関わる人々ってのには、三種類あるんです。 まず一つは、実際に霊的な世界のことに入り込み、実に さまざまなことを見聞し、それをなんとか「学問」の形の中に 入れていこうとして、書ける部分、まだ書けない部分を いろいろ考えながら、トランスパーソナルの学問を押し進め ようとしている人です。 もう一つは、そうしたディープなことをまったく知らず、 トランスパーソナル系の本に書かれていることを読んで、 その知識をもとに、たとえばそれを他の心理学やニュー サイエンスなどと組み合わせていろいろなことを言う人たち ですね。 あと一つは、そうしたディープなことをまったく知らず、 まんだら浩のHPゃ本に書かれていることを読んで、 その知識をもとに、たとえばそれを他の心理学やニュー サイエンスなどと組み合わせることさえせず、書かれてい ることをそのままトラパスレに連続コピペする人ですね。
ま:そうです。「悟り」とか瞑想とか、そのへんはいろいろ 語るんですけど、そういった「霊」のレベルになりますと、 避けてしまってますね。まあ、禅で言う「魔境」ということ なのでしょうけど。『意識のスペクトル』でも、はっきり、 ここは避けておくって書いてますね。 珍:なんだぁ、やっぱり逃げるんですねえ、ちょっとやばく なるとね。 ま:あんまり「霊」のことをかかずりあうと、本来の「悟り」 への修行がおろそかになるっていうのはある程度真実 なんですけど、それでも、はっきりしたところはどうなんだ というのは知りたいですよね。それに私がこれを言うのは、 トランスパーソナルは、「霊」を避けると同時に、いやその 必然的な帰結として、「神」も避けているということなのです。 珍:トランスパーソナルは神を語らない、ですか。 ま:ええ。ここで言うのは、無相の神、つまり形を超越した 宇宙の絶対者としての神ではありません。それならトランス パーソナルは多くを語っています。 そうではなく、「有相の神」です。
>>519 HPのコピペではありませんよ。数年前に削除された
ものなので、もうどこでも読めません。私のように
たまたまそれをHDDに保存することができた人しか
持っていません。グレーゾーンは承知ですが参考です。
珍:ゆーそーのかみ、って何です? ま:ペルソナを持った神、Personal God ですね。「人格」 というとちょっと違うのですが、何らかの個性を持った神です。 そして重要なことは、人間の呼びかけに対して応えてくれる 神だということです。マルチン・ブーバーの言葉を借りれば 「我と汝」の関係を結ぶ、ということになりますか。キリスト教 の神もそうですが、さらに日本のアマテラス、オオクニヌシ といった神々や、インドのシヴァ、ヴィシュヌ、ガネーシャ、 仏教の大日如来、阿弥陀如来、観音菩薩、弘法大師といった 存在です。こういう神々に対する信仰ということが、実際の 宗教ではひじょうに大きい割合を占めていますよね。 ところが、こうしたペルソナを持った神に対する信仰という ことが、トランスパーソナルの文脈ではどういう意味を持つ のか、あまり明らかではないんですよね。 ウィルバーのモデルを見ると、ひじょうに個人的なんですよ ねえ。実際の修行にあたっては、神仏の守護、いわゆる 「お導き」ということが決定的に重要であるにも関わらず、 そこが抜け落ちているような気がするんです。それはやっ ぱり、西洋人が見た東洋なんだ、という感覚がしますね。 というのも、彼らは、キリスト教の神を信じられなくなった ことが出発点としてあって、それで東洋に向かったんですね。 珍:信じられなくなったというのは・・
ま:いや、文字通りでして、つまりパーソナルな関係を 持った神、というものを心の中に抱くことができない、 実感がどうしてもわかないんですね。これは近代的な 教育を受け、いわば近代的世界観の洗脳を受けると、 どうしてもそうなるんですよね。神ということなしに、 いわば「神は自分の中にある」と言われれば納得できる、 そこでまさに東洋の伝統はそういうものだと考えるわけ ですね。不幸にして彼らは、イエスが復活したことも 信じられない人たちですから・・ 珍:え? あれは伝説でしょう? まさか本当に復活した わけがないじゃないですか。 ま:どうですかねぇ(にやりと笑う)。まあそれは後の話 としましょう。しかしまあ、後期ウィルバーの「ホラーキー 理論」、つまりホロンの重畳として世界、という世界認識 には、当然、人間とは別のホロン、つまり異次元の存在者 というものを仮定しても矛盾はないはずですね。
珍:え? 急にむずかしくなったみたいですが、つまり 人間以外の存在ですか? それは霊とか、天使とかいう ものですか。 ま:西洋の伝統では「天使学」angelology というものが ありました。神と人間との中間に位置する存在について 語る学問です。 珍:つまりトランスパーソナルにはまだ天使学がない、 とまんだら浩さんは言いたいのですね。 ま:ええ。天使学だけでなく、神学 theologyも、悪魔学 demonologyもありません。あるのは魂の学(心理学) psychologyと、人間学 anthropologyでしょうか。 珍:まんだらさんが前に言った、「まだ書けない部分」 というのは、こういった中間的な、神だの天使だの霊魂 だの、っていう部分なんですね。 ま:そうです。ただ私はウィルバーの戦略を支持しますよ。 初めからそういうものを出したら「いかがわしい奴」とされて 一顧もされないのは目に見えてます。 そこを巧みな出し方をして、ともかくも「学問」と見なされる ことに成功した、っていうのは大変なことですよ。
話の流れとの関係で、ここまでとします。
526 :
没個性化されたレス↓ :04/07/21 19:52
あーあ からかいすぎて逝っちゃったよ。。。
527 :
没個性化されたレス↓ :04/07/21 22:55
笑える。思考停止。
ま:まず大きな流れとして捉えると、「学問とは何か」という ところから始まりますが・・ 珍:えっ、そんな大きなところからですか。 ま:そうです、まず私たちが通常「学問」として認識している もの、そうした「知の枠組み」の起源はどこにあると思います か? 珍:いきなり大上段に来ましたね。 ま:これは村上陽一郎さんの一連の科学史の本を読んで もわかると思うのですが、いま通用している「学問」とか 「科学」というのは、けっして万人に妥当する「普遍的」な ものではなく、一つの「パラダイム」を前提とした知の秩序 であるということです。このことをまずしっかり理解していた だかないと、これからの話がわからなくなります。
珍:パラダイムですか? なんか聞いたことはあるな。 ま:通常、学校で習うような「科学」というのは、データの 実証に基づいて「客観的に正しい」理論を解明しようとする もの、と理解されています。しかし現実には、「パラダイム」 という、いわば科学の方向を示す「基本的なものの見方」 --あるいは、「パースペクティブ」といえばいいですかね-- があって、それが科学を創り出しているのです。これは 科学史家のトマス・クーンの説ですが、現在は基本的に これが受け入れられています。 珍:つまりそれは、科学というのは「客観的な」ものでは なく、「一つの見方」にすぎない、ということでしょうか? ま:「すぎない」というのは一つの価値判断なので妥当な 言葉ではありませんが、客観性というのは実は、科学者 の間の「共同主観性」に他ならないのだ、というのが、 現在の科学認識論の基本前提なのです。ですからここで は、生の「データ」というものは存在しないのです。「データ」 というのは「パラダイム」があって初めて意味を持つのです。
珍:というと、「データに基づいて仮説を検証する」という 考えは誤りなのですか。 ま:そうではありません。どういう「データ」を収集するのか 指示するのはパラダイムの役割なのですが、その結果 集まったデータがパラダイムと矛盾する場合が出てきます。 そういうときは、なんとか既存のパラダイムでそのデータを 解釈しようとするのですが、それも限界に来ると、パラダイム そのものの見直しが行われます。 珍:そうやって進歩して行くわけですね。 ま:そういうことですね。ここでのポイントは「すべての科学 的認識は一つのパラダイムを前提としており、いかなる パラダイムからも自由な絶対的客観性というものは存在 しない」ということになります。ここまではいいですね? 珍:まあだいたいは。
ま:この「パラダイム論」は、トランスパーソナルを理解する ための一つの前提です。このことがわかってないと、トランス パーソナルは「科学的でない」という発想が出てきてしまう のですね。まず、何をもって「科学」とするのかどうか、 ということでコンセンサスがないと議論は不毛ですね。 今の自然科学者の多くはパラダイム認識論を理解していない 人が多く、現在自分たちがやっている科学のパラダイムを 「客観的なもの」と考えています。具体的に言えば、「物質 至上主義」といいますか・・ 珍:そのへんは少し詳しく説明してください。 ま:つまり、自然科学者の多く、そして一般的な学校教育を 受けた現代日本人の「科学」の見方はひじょうに限られた ものだということを自覚する必要があるということですね。 多くの人は「あらゆる現象を物質の次元に還元する」ことが 科学的である、という見方に立っています。つまり、意識と か心の現象は、「脳」という物質的な器官の産物だという ことになります。また、世界のすべての現象は「必ず」物理的 法則に従わなければならない、ということになります。 「物質の世界」--五官およびその延長として計測機械で 知覚しうる範囲の世界が唯一の実在であり、それ以外の、 心や意識の世界は、その派生物であるということになります。 そういう見方をすることが「科学的」であるという理解が、 かなり蔓延しているように思います。
珍:つまり唯物論ということでしょうか? ま:まあ、「唯物論」という言葉をどのように理解するかにも よりますが、一般的に言う意味での、つまり物質次元を 唯一の実在と考える立場、と解すれば、そういうことになる でしょう。 この立場から「心」を見るのが、いま大学で一般に教えら れている「心理学」ですね。 これは「行動心理学」と呼ばれ、人間の心理を「刺激と反応」 というパラダイムで捉えようとするものです。 しばしばネズミによる実験で人間の行動を研究しようという ので、擬人主義 anthropomorphism になぞらえて 擬鼠 主義 ratomorphism という悪口を言う人もいますが(たとえば 村上陽一郎先生ですが・・)。 ま、「心」は物質の派生物という見方に立てばそういう心理学 が成立することになりますが、「心」にかんする研究をしたい と思って心理学を専攻した学生は、大いに失望を味わうこと になるでしょう。
珍:それでトランスパーソナルというのはそういう見方に 反対するわけですね。 ま:まあそうですが、話は順番に。まず、このような物質へ 還元する見方は、「物心二元論」というデカルトによって 完成した世界観に基づいていること、このことも思想史的な 常識として知っておいてください。 デカルトは精神を物質に還元しようというつもりはなかった のです。むしろ精神の領域を純粋なまま守ろうとしたのでし たが、あとの科学者たちは物質の名の下に精神を否定する ところまで行ってしまいました。 近代ヨーロッパの思想史は、こうした激しい科学的唯物論 の進展と、それに対抗しようとするさまざまな思想運動、 という図式をとります。それは現在も継続しています。 ここで押さえておくべきことは、科学的唯物論も一つの 「思想」であり、一つの立場であるという点です。もしそれを 「客観的」だと考えるならば、それは一つの思想的立場を 無批判的に真理として受容しているということに他なりません。
珍:どうも言い方がすこしむずかしいような気がしますが、 なんとなくはわかります。 それで、唯物論に対抗する思想運動というのは?トランス パーソナルもその流れの中にあると言いたいらしいですが。 ま:さすが珍太郎さんですね。しかしこれを全部語ると 「現代思想史講義」になってしまって、いつになったら トランスパーソナルにたどり着くことやら、ですね。 まあ、カントにはじまる批判的認識論により、唯物論の根拠は 成り立たなくなっています。カントの要点は「物そのもの というのは認識の対象とはならない」ということですが、 唯物論は物質と言っているが、それはあくまで「こういうの が物質だ」という一つの見方によって成立しているのに すぎない、というわけですね。 つまり唯物論者の言う物とは実は観念なのであって、 物それ自体をつかまえているわけではないのです。 珍:物とは観念である? ・・なんだかわからなくなって きたぞ。
ま:このカントの認識批判は後期フッサールにおいて一つの 帰結を見たようですね。 物は観念と言いましたが、もっと正確に言えば「共同主観」 なのだ、ということになりますですね。これは科学者の認識 に限りません。あらゆる認識は「共同主観」という枠組みの 中で成立する、と喝破されたのです。 これが「パラダイム論」の哲学的根拠です。つまり、私たち が「実在」だとしているものが、私たちが実在すると思って いるからあるのだ、ということです。言うなれば、「我々思う、 故にそれあり」 cogitamus ergo est というわけです。 珍:うーん、ちょっと教養をひけらかしすぎか、という感じも ありますが。しかしそれはちょっと、仏教で言う「世界は幻で ある」ということと似ているような気がしないでもないですね。
ま:まさにそうなのです。そのことは後ほどとりあげましょう。 ま、こういう「共同主観的認識論=存在論」が現代の哲学の テーマであり、私はよく読んでいませんが廣松渉なども そういう思想を展開したことはご存じかもしれません。 これはまたレヴィ=ストロースや山口昌男、ビクター・ターナ ーなどの構造主義や文化記号論(まだその先駆としての フランス社会学派)、シュッツやピーター・バーガーなどの 現象学的社会学といった学問を生み出していることも指摘 できますね。 ですからクーンのパラダイム論も、こうした大きな思想潮流 の中で、当然出てきたものだと思うのですよ。 一部の自然科学者はいざ知らず、こうした人文諸科学では、 すでに主観・客観、精神・物質という二元論で思考しては いません。 そういった「何が精神で、何が物質なのか」というカテゴリー 化そのものを決定しているのが、共同主観的な認識の枠組み としてのパラダイムなのだ、と考えられるのです。
珍:しかしそうすると、どういうパラダイムをとるかは、まったく 根拠なく、各自(あるいは各社会)の恣意的選択だということ になりませんか。 ま:恣意というか、自由だということでしょう。そこに「価値」 の問題が出てきます。ある時点、ある場所において、Aの パラダイムよりBのパラダイムのほうがよい、という判断は、 究極的には価値判断です。もちろん、データとの対応が まったくでたらめであるパラダイムは駄目ですが、どういう データが重要なのか、説明されねばならないのか、という こともパラダイムが決定します。 たとえば「超能力」ということが十分に説明されるべきだ、 と考えるパラダイムもあれば、そうではないパラダイムも あるでしょう。そもそもデータとして認めるかどうかさえ パラダイムにより異なります。まあ最終的には「神々の闘争」 であって、客観的にどれが正しいか決めることはできません。 根本的には個々人の価値の問題であり、その価値がどこ まで多くの人と共有されるのか、ということになります。 価値判断の介在しない認識などありえないのです。もし 「価値から自由なのが科学だ」などと言うなら、その人は 20世紀の知の流れを全く勉強していないとしか思えません。
珍:それはわかりましたが、まだトランスパーソナルの話に はならないんでしょうか? ま:今から始めます(笑)。ただ、あまりにも多くの人が無批判 的な科学至上主義に埋没していますので、そこをよく考えて もらわないとトランスパーソナルに対する正しい判断はでき ないと思ったのです。まあ村上陽一郎の本をよく読んでくだ さい。科学至上主義の解毒をしないと、なかなかトランス パーソナルのような根本的に異なるパラダイムを理解する のは難しいでしょうから。 ・・さて、そこでですが、さきほど、行動心理学のことを話し ましたね。 珍:ええ。たしかにああいう心理学はつまらないですねえ。 ま:それが価値判断です。・・まあそう考える人ははなはだ 多いですね。そこで、フロイトやユングのことは聞いたことが あると思います。 珍:ええ。「無意識」ってことですね。
ま:行動心理学では刺激・反応だけで考える(外側から 観察しうる対象のみを扱う)ということですので、心の中身 はブラックボックスなのですね。 心の内側に入っていく方向がフロイトによって始まったわけ です。無意識の発見ですね。そこで、フロイトは主に無意識 を幼児期の性的抑圧によるものと考え、ユングはそれよりも 幅広く、「個人的無意識」に加えて「集合的無意識」があると 考えた、ということもご存じですね。 珍:私は知ってますが、読者みんなが知っているとは限ら ないと思いますが。 ま:そういう人はここまで読み進む前に投げ出しているに 違いない(笑)と思うんですが・・ まあ、フロイト・ユングは こうした学問を「科学」として認めてもらいたいという指向が 強かったのですね。 ユングなぞは完全に霊媒的資質を持っていて、いろいろ 霊的体験をしているのですが、それを表に出さず科学の かっこうを作ろうと苦労したようです。 それでもユングの心理学はそれまでの「科学」(これは括弧 つき、つまり「体制科学」を言います)をずいぶんハデにはみ 出しているようですが。 珍:そういう話は聞きますが、たとえばどんな点が?
ま:要するに、ユングの理論をつきつめていくと、「心という のは個人の枠を超えて拡がっている」ということになります。 集合的無意識とはそういうことですよね。 珍:ということは、「個人のレベルを超えた普遍的な心」が 存在する、ということに・・ ま:当然、それを前提としてるわけですよね。まあ、心というか、 「意識」と言ってもいいかもしれません。あるいは、意識という 言葉が「人間の覚醒時の意識状態」を指すのならば、 「超意識」と言ってもいいかもしれませんが。そして個人 個人の心は、この超意識から派生してきているという見方も できます。 珍:それはすごいですね。 ま:確かに近代的な学問からすればすごい発想なのですが、 実は科学以前の思想にはかなり普遍的にこういう考えは あります。ユングは直接的には、錬金術やグノーシスの研究 を通して新プラトン主義の思想の影響を受けたと思うんです。 元型という概念も新プラトン主義から来ているように思います。 珍:そういうところが、ユングがトランスパーソナル運動の 母胎だとも言われる点なのですね。
ま:その通りです。ユングには、トランスパーソナルの主要 なポイントの多くが萌芽として含まれていますね。 まず、「個人レベルを超えた意識の層」が存在するという 仮説--これが trans-personal という言葉そのものが意味 するところですよね。 もう一つは、その層というのが「霊性」(これは spirituality という言葉の訳語として使います)の次元であるということ。 ユングは人間の「霊的次元を含めた自己変容」を中心テー マとして設定した、ということです。これもフロイトにはなく、 ユングで確立した視点です。 三番目は、それに関連して「過去の霊的伝統の再評価」 というテーマが浮上してきた、ということですね。これに ついては、湯浅泰雄先生の『ユングとキリスト教』(講談社 学術文庫)および『ユングとヨーロッパ精神』『ユングと東洋』 (ともに人文書院)という名著がありますので参照していた だくとしまして・・(この視点は臨床をやる人にはあまり受け 継がれていないようなので、ユングの今日的意味を考える ために湯浅さんの仕事を十分参照したいと思いますね)。
珍:それをひっくるめて私は「スピリチュアル・ルネッサンス」 と名づけたいのですが、どうでしょうか。 ま:おっ、いいですねえ(笑)。それと私はもう一つポイントを 指摘しておきたいと思います。それは、ユングは「魂の次元」 に固有な認識というものを打ち出していくという意味も持って いたと思うんです。つまり、魂の次元は、物質の次元と研究 するのとは全く違った方法論と、パラダイム、認識枠組みが 必要である、ということがユングにおいて明確になったと 思います。 珍:魂の次元と物質の次元が違うのは、当たり前じゃあり ませんか。 ま:それが当たり前と思わない人がいるのですよ。物質次元 の認識方法でわからないものは駄目だし、科学的じゃない というのですからね。まあ別に「科学」という呼称にこだわる 必要はありません。問題は内実ですから。 事実、ユング派の分析は一つの「アート」であって、同じもの を分析しても、人によってぜんぜん違ったものになるのは 当たり前とされます。 物質科学の方法は「反復可能性」と「数量化」なのですが、 魂の次元の学問はそうした基準にこだわる必要はない、 ということです。
珍:トランスパーソナルというのは、だいたいそういう流れの 延長線上にあるということでしょうか。 ま:だいたいはそういうことです。これはいわば文明論的な 「霊性復興運動」の一環であると私は理解しているわけです。 ごく簡単に言えば近代ヨーロッパの著しく唯物的な知の体系 への挑戦であるということです。その意味で言えばロマン 主義的な衝動を受け継いでいます。 そこで先にちょっと触れたように、仏教と似たようなところが 出てくるのは当然なのですね。なぜかといえば、伝統的な 世界観に含まれていた「意識は存在に先行する」という 発想が、そこには組み込まれているのですから。 珍:「意識」というのは、普通言う意味とはちょっと違って、 「超意識」のようなものだとさっき言ったと思いますが、 それはもしかして「霊的」なものと関係しませんか。 ま:そこがトランスパーソナルの最大のポイントということに なります。ユングにおいては「おそるおそる」カモフラージュ された形で出ていたものが前面に出てきた、と言いますかね。 これはやはり、60年代のアメリカという環境が無視できない 影響をもっているんでしょうね。いわゆる「ヒッピー文化」に おける、異質な意識経験への関心というものです。もっと 言えばドラッグによる精神変容の経験ですが。 この辺については初めにあげた吉福伸逸さんの本を一読 することをおすすめいたします。
珍:ドラッグによる「サイケデリック」な経験というのは、 過去の霊的伝統からすれば邪道なのでしょう。 ま:それはもちろんです。邪道であることは事実ですが、 シャーマニズム、とくに中南米では、幻覚性植物をとる ということが、一つの意識変成のきっかけとして用いられて きました。カスタネダのドン・ファンものにも出てきますし、 まだLSDを使った変成意識研究で業績をあげたスタニスラフ ・グロフの例もあります。 いずれにせよ、60年代は、既成の文化価値に対する真正 面からの挑戦がありました。トランスパーソナル運動も、 そういうカウンター・カルチャー的な側面があります。 しかし、トランスパーソナル運動は、少なくともその本質的 な部分においては、ドラッグでラリっているようなものでは なくて、近代西洋の「知」の秩序に対する挑戦、そして過去 の霊的伝統の再評価というテーマを持っていました。 これはカウンター・カルチャーの代表的思想家セオドア・ ローザクも指摘することですが、こうした運動はすでに 19世紀のヨーロッパのロマン主義運動に始まっています。 ウィリアム・ブレイクなどが、霊性の立場から近代文明の 「霊性の忘却」を批判したものとして代表的ですね。 60年代は、こうしたロマン主義的霊性復古がいわば大衆的 規模で(当然、大衆化に伴う質の悪化をも含みますが)展開 した物だと捉えることができるでしょう。 ユングも大きく見ればロマン主義の一環として出てきたもので、 ユング再評価が問題になるのも当然と言えましょう。
珍:「霊性復古」といいますが、さっきから話に出ている 「過去の霊的伝統」について少し説明が必要なのでは? ま:そうですね、近代以前に花開いた霊的伝統というのは、 具体的には東洋の宗教的伝統、ヒンドゥー教、仏教、道教、 あるいは神道など。これはヨーガ、仙道、禅、チベット密教、 修験道なども含んでますし、イスラム神秘主義であるスー フィズムもここに入ります。西洋では新プラトン主義やグノ ーシス、ユダヤ神秘主義(カバラ)、それに錬金術などです。 これらはいずれも、ユングのところで触れた、「霊的次元に おける人間の変容」をテーマとしています。まず人間は 「霊的な次元」を内在させているものと見ます。人間の個の 意識は、絶対的な「宇宙意識」に起源をもっているが、 人間はそうした「霊的な起源」を忘却しているもの、という 人間観に立ちます。人間の目的は、そうした霊的な自己 本来の姿を想起し、神=絶対と究極的には合一すること である、とされます。つまり神秘主義といわれるものですね。 これを、「永遠の哲学」と呼ぶことがあります。 珍:それはいわゆる「宗教」とは違うのですね。
ま:宗教のうちに含まれていますが、いわばこれは「密教」 ですね。宗教には「顕教」と「密教」がある、という視点は ご存じでしょうか。いわゆる普通の宗教、何かの教団に入り、 その教えを守って信仰生活をする、というのが顕教です。 密教とは、それにとどまらず、「行」をし、自ら神と合一する ことを目的とします。密教は仏教の専売特許ではありません。 キリスト教は密教を切り捨てた宗教ですが、キリスト教以外 のメジャーな宗教にはほとんど密教的な伝統が存在して います。そこでは神意識に達するための具体的な修行体系 も存在していたのです。近代ヨーロッパ文明が密教的な 部分を切り捨てたのは、もともとヨーロッパの母胎となって いるキリスト教が密教を敵視する宗教だった、という特異性の 問題もあります。科学主義(「科学」そのものではありません) はキリスト教を倒して文明の首座に立ったわけですが、 密教的な部分を欠落させるという点では同じだったのです。 これはヨーロッパ文明に内在する問題点でした。つまり ヨーロッパは「知」を「体験」(広い意味でこれを「行」と言い ます)を分離させるという体質を持っており、これが科学 主義的な近代的学問体系にも受け継がれています。 珍:東洋は「知行合一」だったと言うわけですか。 ま:理想としては、ですけどね。
珍:そうすると、霊性復古運動というのは近代にとどまらず、 西洋文明そのものへの批判ということになりますか。 ま:その通りですね。つまりここではっきり意識してもらいたい ことは、トランスパーソナル運動は文明批判である、という ことです。近代的な科学主義世界観は受け入れませんよ、 という前提に立っているんですから、科学主義をなんら 疑わないという場所からいくら何を言っても始まらないん ですよ。まず価値観の変革からスタートしているわけなん ですから。 珍:トランスパーソナルは、そうした霊的伝統を初めから 「正しい」とする前提からスタートしている、と批判する人も ありますが。 ま:それはまったくその通りです。そういう前提をあえて とっているわけです。「だから駄目だ」というのは一つの 価値判断にすぎません。私たちは「だからいいのだ」と 言うわけです。よってそういう人たちと議論しても無駄です。 問題はそういう人たちが「霊的な諸伝統の正しさを仮定 するのは科学的ではない」と考えていることですが、 それは自分たちの科学観を受け入れないから怒っている ということであって、そもそもその点において反逆すること から始まっているんですから、「全員が自分と同じ考えを しないと気に入らない」という幼児的な困った人たちだと 言うしかないですねえ。 珍:そこまで言っていいんでしょうか・・
ま:まあ、ユングのところで出た、物の次元と魂の次元、 ということを思い出してください。魂の次元には独自の探求 方法が必要だ、ということでしたね。 トランスパーソナルはさらに、これに「霊の次元」を自覚的 につけ加えます。伝統的な霊的探求の見方と、ユング以来 の心理学の流れをまとめて一つの「意識の地図」を作った のが、ケン・ウィルバーの『意識のスペクトル』(邦訳・ 春秋社)でした。 この作品をもってトランスパーソナルの始まりと見なしてよい と思います。いろいろ批判はありますが、基本的にはこの ウィルバーの枠組みを中心に動いてきましたし、今後も そうだと思います。 ですからトランスパーソナルの研究も、まずもってこの本を 読むことから始まるのです(ただ、ウィルバーのそのあとの 著作には、やや図式的すぎるという批判が当てはまる部分 もあるかもしれないですがね)。
珍:それでは、ウィルバーの意識のスペクトル論をちょっと 解説してみてください。 ま:そうですねえ、ウィルバーとパラレルな知的現象として、 故井筒俊彦氏による「東洋思想の共時的構造化」の試み があります。岩波から出た『意識と本質』(今は岩波文庫に 入っている)ですが・・ 井筒によれば、東洋思想は共通して、 階層的存在=意識論を持っているんですね。ウィルバーも それを基本として押さえ、それと西洋の心理学を比較照合 していったということでしょう。 珍:階層的意識=存在論? ま:ええ。意識=存在論と等号でつなげているのは、意識 のレベルが存在のあり方を決める、という基本的発想に よります。まあこれは、さっき話した共同主観の問題と多少 関係はありますが、それよりはもっと間口の広いものです。 この背景には、involution と evolution というテーマがあります。 珍:何ですかそれは?
ま:ウィルバーのベースの一つになっている、近代インドの 生んだ偉大な思想家、オーロビンドの思想に出てくるもの です。しかしこれは一般に東洋思想的発想を代表する基本 テーマということもできましょう。 簡単に言えば、 involution とは、「絶対」の宇宙意識が自ら の波動レベルを落として、さまざまなレベルの存在物を生成 するプロセスのことです。人間の意識もこのプロセスにおいて 発生します。 evolution というのは、そうして発生した個的な意識が、 次第に成長して意識の次元を高くし、ついには再び「絶対」 に帰るというプロセスです。 これが宇宙の存在する目的である、というのが東洋の霊的 伝統の基本的な見解なのですね。 珍:何とも壮大ですねえ。 ま:これと似た発想はヘーゲルの精神の現象学にもある でしょう? これはヘーゲルがドイツ神秘主義を読んでいた ことに基づくという見方もありますがね。 まあオーロビンドの言うような「宇宙目的論」は伝統的 インドの思想にはあまり出てこないという指摘もありますが、 こうした見方は「永遠の哲学」とよばれる、人類の普遍的な 霊的伝統の中には確固として存在しているものでしょう。
珍:ウィルバーは自覚的に、過去の密教的伝統の枠組みを 採用した、と言っていいのですか。 ま:ええ、そう思います。これは一つの価値観に基づく パラダイム形成の作業ということになります。 さてそこで、involution - evolution という見方に立てば、 存在は一つの意識の波動に対応する、という理解が そこから導かれます。 珍:え、何ですって? ま:宇宙はすべて「絶対意識」の様々な波動の顕現である、 という宇宙観がそこから出てくるのじゃありませんか? その宇宙には、人間と絶対との二つしか存在しない、という わけではないでしょう。その中間の段階が想定されるわけ です。そして、東洋の密教的伝統は、そうした段階のことも いろいろと述べているんですね。そしてその段階というのも、 いろいろ比較してみるとある程度一致するもののようです。 その辺をウィルバーはまとめているわけです。 ここで以前に私が書いたものをまとめとして引用しますと・・
[トランスパーソナルとは] 伝統的な宗教で言われている 「階層的意識存在論」を復権させる、という風にも言えま しょう。 まず前提として、「意識が存在を創り出す」という基本的な 考え方があります。正確に言えば、ある次元の世界は、 一つの意識状態に対応している、ということです。つまり、 私たちがふつう生きている物質世界にあっては、物質界に 対応した意識が作用している、ということになります。 したがって、別の意識状態(意識変容状態)では、別の 世界が見えてくる、ということになります。 私たちは、物質世界以外には世界は存在しないと考えて きました。それらは「幻想」である、というのが、近代社会 の見方です。 しかし、トランスパーソナルの立場は、世界は多重構造を なしている、と考えます。実はこれは、仏教・ヒンドゥー教を はじめとする、伝統的な神秘主義的宗教の基本前提だった のです。 ・・・ここまではだいたい理解できたと思うのですが。
珍:これは「パラダイム」として提示されているのですね。 ま:そうです。しかもこれは、「物・魂・霊」の三つの次元に わたるものですね。これが「科学」かどうか、という問いは、 科学ということの定義の問題ですからどうでもいいんですが、 少なくとも「学問」は志向しています。つまり「知のパラダイム」 としてですね。学問は「霊的次元」を扱ってはならない、 というのも一つの価値判断でありまして、究極的根拠は ありません。しかし、ここがもっとも大きな抵抗を受ける部分 なんです。 珍:「検証」の問題はどうなるんでしょうか。パラダイムという からには、そう思う、というだけでは駄目なわけでしょう。 ま:ここで重要になってくるのが「認識カテゴリー」の問題 です。批判者は、魂・霊の次元の事象においても、物質科学 的な意味での検証を求めますが、これは「カテゴリー・エラー」 なんですね。 たとえば魂の次元の問題は、精神分析を実際にやるなど、 ある程度の経験をもち、それを他の人の経験と比較検証 することで、妥当性を判断することができます。あくまで 「心的現実」のレベルに固有の認識方法があるわけです。
それと同様、霊的なレベルについては、実際にそうした経験 をもたらすとされる「修行」をやってみるしかありません。 そこで得たものを、他の人の経験と比較検証することは 可能なのです。霊的レベルにおける検証は、あくまで霊的 体験以外にはありえません。しかし、そうした探求を促す ということにおいて、トランスパーソナル理論はパラダイム として役割を果たしているわけです。 トランスパーソナル理論はあくまで体験によって検証される べき仮説であり、信仰する必要はありません。また別の仮説 に立ってそれを検証しようとすることも完全に自由です。 しかし、「変容意識」と呼ばれる、通常の意識状態とは異なる 意識を人間経験の一部として認めること、そして、過去の 伝統をも、文献学的にではなく、その中核となる「経験」に 着目して再認識していこうという方向付けは、そこで明確に 示されていますね。 珍:どうも、聞いていますと、伝統的な宗教とはちょっと アプローチが違いますね。何か、「純粋抽出」してるっていう 印象を受けますが。 ま:トランスパーソナルとは、まさにそういうものであろうと しているのですね。それはまた、そうした霊的伝統への アプローチに仕方としても、新しいものを提示しているわけ です。たとえば、そうした思想に対する、体験のない文献学 的研究などは根本的に批判されるわけですし。また各地の 密教的伝統を比較して、本質的部分とそうでない部分を 腑分けするということも出てきますね。
珍:最後に、トランスパーソナル運動の現状はどういうもの でしょうか。 ま:アメリカでは、ユング心理学者などがトランスパーソナル 心理学に移行する例も多く、トランスパーソナルは一つの 流れとして定着していますね。 博士や修士の学位が取得できる大学院レベルの教育機関も、 既にかなりあります。メジャーではないが、一角に地歩を 占めた、って感じでしょうか? 珍:日本では? ま:日本は、アメリカと知的バックグラウンドが違いますので、 またいろいろ説明しないといけないんですが・・私は日本に おけるトランスパーソナル運動は、アメリカと同じやり方で 展開することはあり得ない、と思っているんですね。 まず、アメリカにとって「永遠の哲学」は異文化であったが、 日本では伝統の一部であること。そして、日本の学問の 中で展開されてきたユング研究の基礎、また筑波における 「気のシンポジウム」やその流れを汲む「人体科学会」の活動、 「気功」の定着と「気の科学」の研究、などといった状況が いろいろあります。
もちろんアメリカのトランスパーソナル心理学の導入は 進んでいるのですが、それだけを見て「日本のトランス パーソナル運動」を論じるのは早計であろうと考えます。 でも長くなるので今日はあまり深く触れるつもりはありません。 日本における今後の展開の見通しについてはいずれ専門 のページを用意したいと思います。 ま:いやまあそういうことで、今後の展開をお楽しみに。
557 :
没個性化されたレス↓ :04/07/22 07:03
ま、ごくろうさんなことだけど。 結局、非科学的だからダメだというんじゃないんだよね。 こうして、前置きも自分の意見もなく、 ひたすらコピペしている様子が、狂信的に見えて、 やっぱトラパにはまる人って危ない、という印象を与えちゃうんだな。 それともコピペは古典的実践における写経と同じ意味を持つのか?
>>557 まあ、あんま細かいことは気にスンナ。
あんた自意識過剰だ。
>>557 それにしても毎回、気づくの早いな。
毎回、コピペ中に気づいては反応してないか?
漏れ的にも、その習性が興味深くて仕方なかった
ことだけは、言っておくよ。
もしかしたらあんてのチェック頻度探るように、
がんばってしまったのかもしれないな。
まあそれも、暇があったからなんだ。
HDDにあったからなんだ。
あ、もうほんとのとこ、コピペは自粛するわ。 掘り返してて面白かったのでついついアップしちゃったけど、 さすがにそう言われてまではもうね。ということで、 まったりモードで続きをどうぞ。
561 :
没個性化されたレス↓ :04/07/22 22:08
おいおい、もうちょっとがんばってくれよ。 拍子抜けだよ。
562 :
没個性化されたレス↓ :04/07/22 23:06
>>558-560 がんばってください。応援しています。まだ大いなる無と合一するには早いです。
563 :
没個性化されたレス↓ :04/07/23 22:20
>>521 >HPのコピペではありませんよ。数年前に削除された
>ものなので、もうどこでも読めません。私のように
>たまたまそれをHDDに保存することができた人しか
>持っていません。グレーゾーンは承知ですが参考です。
それをコピペと言うのですが。
トランスパーソナル学とは、簡単に言えば、「自我段階よりも高次の スピリチュアルな成長というものがありうる」ということを認めようとする パラダイムであり、それに基づいて諸学問の再構成を行うという立場で ある、ということはよろしいかと思います。 これには、そういうスピリチュアルな成長というものが「望ましいもの」 であり――もちろん、そこで「押しつけ」は問題外としても――そういう 可能性を抑圧する社会とか、知の在り方というのはどこか間違っている のじゃないか、という基本的な姿勢もまた内在しているということです。 ここで扱っているトランスパーソナル学というのは、「セラピー」の問題 にとどまるものではありません。それは世界観・人間観全体に係わる 問題なのです。トランスパーソナル学――特にケン・ウィルバーのそれ ――は、新しいセラピーの提案というよりは、東西に伝わっている「霊性」 (スピリチュアリティー)の伝統の復権という思想的要素が大きいと言え ます。 そうした伝統と、西洋の心理学が結合させ、人間の心についてのより 全体的な見方に達しよう――というのが、簡単にいってしまえば、 トランスパーソナル学の存在目的ということになります。そうした大きな パラダイムに展開にもとづいて、どのような新しいセラピーを作っていく のかは、それぞれのセラピスト個々の課題として認識されるべきでしょう。 もちろん、それは従来の意味でのセラピーの限界を知るということでも あり、また伝統的な「霊的訓練」(スピリチュアル・ディシプリン)をどの ように「宗教」から引き離し、普遍化・現代化させるかという課題とも 連携してくるというわけです。 ですから、トランスパーソナル学を「セラピー」の側だけから見るのは 一面的であることを理解する必要があります。
まずユングの心理学についてですが、これについては、トランスパーソ ナルの立場からは「前・超の虚偽」問題がつねに出てきます。 ユングには超意識と下位の無意識との明確な理論的区別がなく、 すべてが「無意識」という概念に包み込まれている、ということです。 つまり、ユングの世界観的枠組には、東西の伝統がもっていた「階層 的存在論」が否定されています。 ユングの作ったものはあくまでセラピーを主目的とした体系であり、 「超意識」の次元に意識を進化させるといった目的意識は、基本的に 不在でした。 彼の目的は、人間を自我を超えた領域へと発達させることではあり ません。ユングは、西洋人(現代人)の意識がきわめて無意識から 疎外されていることに危機を感じ、その疎外されたものを明るみに出し、 それを統合することを仕事の第一と考えました。つまり、西洋人の意識 は健全な発達をしておらず、その過程において、無意識の層をあまり に抑圧してきたのです。そうした問題を手当てするのがユングの目的 であるのです。 つまり、ユングのセラピーは、発達の段階において自我の次に来る べきものを求めるのではなく、自我が発達する過程で通過したはずの、 「心の古層」を発掘するという方向を取ることになります。考古学的な 姿勢です。 この考え方は、フロイトと基本的に同じです。フロイトもまた、人間の 心の古層には神話的、イメージ的な思考の世界があり、その古層を 抑圧せず統合することが重要であることを、著書で何度も強調して います。この点について、フロイトとユングには相違はありませんでした。
つまり、「基本的には」、ユングのセラピーは、心の「古層」である神話 的イメージの世界――ウィルバーのいう「魔術−神話的段階」――の 集合的な無意識のレベルと、パーソナルな自我のレベルを融和させ、 協調させるということを主目的としたものだといえます。 ここには、基本的にトランスパーソナル的な要素は含まれていません。 「自我を超える」ことではなく、「無意識と解離した不健全な自我」を 「無意識と調和した健全な自我」にすることがユングのセラピーであり ます。 ウィルバーは次のように述べています。 ユングの元型(アーキタイプ)は、ほとんどが、魔術−神話的なモチ ーフや「太古のイメージ」である。それはむしろ「プロトタイプ」と 呼ばれるべきだろう。過去の発達状態から集合的に受け継いで いるものであり、太古的ホロンが今の個人の一部となっている ものだ。こうした太古的ホロンと折り合いをつけること、こうした プロトタイプに親しみ、分化/統合することは、有用な試みであろう。 というのは、それが超・理性的な未来だからではなく、前・理性的 な過去だからである。この古代の遺産を分化し統合することの 必要については、私はユングに完全に同意する。だが、それが 本当の神秘主義的な霊性と関係があるものだとは、一分たりとも 思っていない。 Sex, Ecology, Spirituality p.248 もちろんこれは、多面的なユングという存在の一部を論じたに過ぎない と言うこともできるでしょう。 しかし、ユングのセラピーの主目的がそういうものであり、そこには トランスパーソナル的な要素は含まれないし、またユング自身もそれを 意図してはいなかったということは否定できない事実でしょう。
集合的無意識というものが存在し、それは常識的な時空の概念を 超えているという発見は、そのまま受け止めることができます。次第に 彼は、意識の領域というものは、無意識という大海に浮かんでいる 島のようなものだ、と考えるに至りました。そして、この無意識という 海は、時間も空間も超えて、無限に広がるものであり、すべての現象 はそこから出現してくる、というイメージを抱くようになったのです。 これが、「ウヌス・ムンドゥス」という世界観です。この世界観を基礎 として、「共時性」の問題も語られるようになったわけです。ウヌス・ ムンドゥスとは、「一の世界」です。これは伝統的な霊的世界観で 語られていたことです。
トランスパーソナルの立場からすると、すべての世界観的な主張は、 経験的にも実証可能なものでなければなりません。 つまり、「ウヌス・ムンドゥス」というレベルのリアリティがあると主張 するなら、実際に「ウヌス・ムンドゥス」のリアリティを経験することが 可能であること、そしてそれをどのように経験することができるかという 「方法」が示されねばならないのです。 これがトランスパーソナル学と形而上学を分けることがらです。 「方法」が示されるならば、実際にそれを試してみて、たしかに言って いるとおりのリアリティが経験されるということを、望む人は誰でも 確かめることが可能になります。ヨーガや仙道などはそういうものです。 それは理論が主張していることを実証するためのメソードなのです。 それは、正しい方法でやるなら誰でもある程度同じ結果が生じるもの でなければなりません。 もしこのようなメソードがなく、単にある世界観を主張するだけであると、 それを受け入れるか受け入れないか、端的に言えば信じるか信じない かの問題になってしまいます。 ユングの「ウヌス・ムンドゥス」説は、こうしたトランスパーソナルの 要求する要件を満たしていません。
しかし、現代人の意識の一面性を批判していく過程で、近代のドグマ であるニュートン的均質時空間の世界概念の限界に気がついたと いうことであって、それはもちろんフロイトという先駆者が開いた道 ですが、やはりユングの才能を示すものだと思います。 しかし、井筒俊彦、ホセイン・ナスル、そしてウィルバーなどによる、 神秘主義思想の比較により普遍的な構造を見出す試みが進んだ 現在では、いつまでもユングの言うことのみをありがたがっている 必要はあるまいというのが、率直な感想です。 近代的世界観の批判に関しては、ユング以来ひじょうな学問的進歩 があるのです。それを考慮に入れないのは理解できないことです。 また別の言い方をすれば、この点でユングはトランスパーソナルの 先駆者とも言えるわけです。 心の健全な統合のためには、近代の世界観の批判、相対化に 進まなければならないというユングの直観は正しかったわけです。
ユングを評価すべきこととしては、要するにそれは現代人のもつ 「一次元的世界」の常識をうち破り、世界とは多次元であるということを、 理論的のみならず経験知として理解することの必要性を説いたという ことでしょう。 つまり、「この世以外にはいかなるリアリティもない」という「フラット ランド」的な世界観が大きな心の抑圧を生み、現代人の心に障害が 生じているという事態を見抜いたのです。 そして、「集合的無意識」という形で、現代が唯一正統と認めている ニュートン的な均質時空間の世界以外にも、別の次元が同時に存在 していること、その次元の存在をつねに感じつつ生きることが、魂に とっての健康であることを説いたということです。 ユングの言う「個性化」というのは、結局そういうことであったろうと 思います。それは決して、神秘主義的な「悟り」ではないのです。 むしろ、「異次元の存在を意識し、それと解離していない、健全な 自己性」と捉えるのが妥当であると思います。ユングの言う「自己」 Selbst, Self に、それ以上の神秘性を求めるのは誤りです。それは、 たとえばアサジョーリの言うような「トランスパーソナル・セルフ」とは 別のものです。 ユングの意図したことは、現代人の意識発達の一面性を修正する ことにあるのです。神秘主義的伝統でいうような、自我意識のレベル をはるかに超える領域に人を導くということは、ユングの関心の範囲 外にあったはずです。 神秘主義は、ユングの終わったところから始まるという言い方もできる でしょう。そのように言うことは、ユングの意義をおとしめることには ならないはずです。
このように見ますと、ユングのセラピーは、基本的には、自我以前の 太古的段階を意識し、それを統合するという意味で、「退行的セラピー」 であると言うことができます。 「退行的」というのは、別に軽蔑しているという意味は全くないのです。 現代人は誰しも、太古的な無意識との解離をもっており、時たまその 意識層に退行し、統合することは必要不可欠なのです。 このようなセラピーは、おそらく、前近代の人、文明化されていない 人々には必要のないことでしょう。この人たちは、初めから、世界の 多次元性を常に意識しており、自我意識はきわめて不安定なもので、 無意識という大海に浮かぶ小舟のようなものだという感覚を備えて いたはずです。無意識という、時間も空間も超えた巨大な広がりが、 既知の世界を包囲しているという感覚とともに生きていたのです。 意識の一面性に苦しむ現代人は、こうした太古の人々に学ぶ必要が あるというのが、ユングの基本的な考えでした。それはひじょうに正しい ことだと思います。 要するに、ユングにおいては、「超意識」はさしたる関心事ではなかっ た――と言って言い過ぎだとしても、少なくとも自分の仕事の対象とは 見なしていなかったということでしょう。 したがって、下位の無意識と上位の無意識(超意識)を区分する必要 を感じなかったのです。その意味では、前・超の虚偽という問題は たしかにあります。 しかし、超意識への道筋というものをユングに求めようとすること 自体が、本来ユングの意図したことにないものを求めているという 点で、八百屋に行って魚を買おうとするようなものだと言うことも できるでしょう。
なおここで、ユングにおいては、霊的現象とされるものが「無意識の コンプレックス」と解釈されているという傾向について、述べておき ましょう。 ここでユングをあまり知らない人のためにも言いますと、ここでの 「コンプレックス」というのは日本語で言う劣等感みたいなものの意味 ではありません。ユングは、魂の未知の部分として茫洋たる広がりを 考えており、それは「心的エネルギー」の海のようなものです。 そこから、エネルギーが動いてある秩序を形成したのが「コンプレッ クス」です。この意味で、自我もまたコンプレックスの一種だと考えます。 従って、自我以外のさまざまなコンプレックスは、自我から独立して いるのです。アニマとか、プエルとかですね、これらは魂の未知の 部分(集合的無意識)からやって来て、またそこへ去っていくのです。 ユングのコンプレックスとは、本来のイメージとしては、ボームの「明在 系」に近い発想のような気がします。集合的無意識・コンプレックスは、 暗在系・明在系の関係に近いと思います。だからユング自身のイメージ としては、コンプレックスは「個人」の生み出すものであるという考えは 少ないと思います。
霊はコンプレックスだというのは、むしろ、「集合的無意識から出現 してくる、個人的な心とは相対的に独立した心的形象」と考えるべきで、 霊を「もの」としての実体ではなく、心的現実の一種として認知する 考え方であると思います。 ユング的なコンプレックスというのは、決して主観的な投影ではなくて、 むしろ超主観的な現れ方をするものと言えるでしょう。 もちろん、ユング学者の中には、「霊現象は無意識の現れである」 という命題について、「霊というものが客観的に存在するわけではなく、 それは心理の投影に過ぎない」という解釈をする人もありますが、正直 言いましてこれは通俗的な理解に過ぎず、ユングにおける「世界観の 問題」を正面から扱うことを回避した思考停止が見られるように感じます。 といいますのは、ユングが言う「無意識」というものは、いわゆる「内界」 と同一のものではありません。また、「霊」というもの自体、そもそも「物」 と同じ次元において「存在する」という性質のものではないわけです。
ユングの世界観に即すならば、上のように理解することができます。 しかしこれは、トランスパーソナルの立場からは、「次元性」の問題を 無視しているという批判があるところです。 トランスパーソナルでは、ユングのように、「自我−無意識」という 二つの極、領域においてものを考えることはしません。 そもそもユングの「無意識」という概念は、「無限包括的な全体者」 という、風呂敷みたいな概念でありまして、そこには何でも入ってしまう わけです。ユングの世界観においては、物の世界でさえもそこに入って しまうわけで、要するに「すべて」なのです。だとすれば当然、瞑想や 神秘体験で経験する世界もすべて「無意識の現れ」と名づけて間違い ではないのです。 しかし、このようにすべてを包括する概念というのは、ともすれば何も 説明していないことにもなります。それは、「意識では理解できない もの」すべてを指します。その中にすべてが入ってしまうのです。
もちろん、そういう包括的な概念が有効である場面もあります。特に、 ユングの体系はあくまで治療を目的として作られているものであり、 その場面における妥当性を最も重視しているわけです。 ですから、その他の場面において、こうした包括的な無意識概念が 説明原理として妥当しないケースも多々あることは当然想定しなけ ればなりません。 そして、私の見るところ、瞑想や、それによって経験されるトランス パーソナル的諸経験の地平は、ユングの無意識概念では何も説明 できない種類のものだと思います。 なぜならば、「超越」というものには「次元性」の概念が内包されて います。次元性の相違をすべて無にしてしまう無限包括的な概念に よっては、次々と次元性を超越していくトランスパーソナル的な発達を 理解する枠組が得られるはずはないのです。 ここで私は、激しい批判を覚悟の上で、「ユングの無意識概念は あまりにも茫漠としており、トランスパーソナル的発達の諸過程を 説明する原理としては役に立たない」と断言したいと思います。 (なお、ウォシュバーンの「力動的基盤」という概念も、ユングの無意識 と同様、無限包括的全体者概念であるという点で、批判したいところ です)
繰り返すようですが、、ユングの心理学の体系の中心は、「一面的に 発達した自我性が、抑圧していた魔術−神話的領域を統合する」 という過程であって、 そのように健全となった自我性をさらに超越するような地平は、残念 ながらユングの心理学の範疇外にあります。 ここでまた、「ユングの心理学は、トランスパーソナル心理学とは全く 異なるものであり、その一部であると見なすことはできない」と断定 すると、またごうごうたる批判を浴びることになるのでしょうか。 それもやむをえません。 ユングの心理学がトランスパーソナル的発達について語っていると 考えている人々は、自我性を超える神秘主義的経験とはどういうもの であるか、正確な知識を持っていないのだと思います。
最後にユングの「自我」概念について述べておきます。 ユングは、多くの場合、自我という言葉で「分析的理性」に基づく分別 の働きをイメージしているようです。 そして、「自己」というのは、もっと無意識と親和性をもった自己統合 原理であって、これは元型として出現するという見方です。 ここで気がつくのは、こうしたユングの「自我」概念が、まさに近代西洋人 を基準にしたひじょうに狭い概念なのではないか、ということです。 果たして、自我とは、単に「あれかこれか」を分別するというタイプの 心的作用だけを指すものなのでしょうか。 ユングは、こうした狭い自我概念を持っており、それを「意識」と同一視 していたために、トランスパーソナル的体験の理解に障害をきたした という面もあるように思います。 つまり、そうした体験は自我を超えるものであるので、必然的にそれは 無意識の体験ということになります。そのようにユングは『東洋的瞑想 の心理学』で述べています。 しかし、ここでの問題は、ユングがこうした体験を語るに当たっては、 「自我=意識」と「無意識」という語彙しか持ち合わせていないという ことなのです。 そういう概念しか持っていないのなら、当然、ユングの言ったような 解釈しかできないことになります。
ここで、サイコシンセシスの「自我」概念と対比してみましょう。 サイコシンセシスは「自我(エゴ)」という語のかわりに、「パーソナル・ セルフ」という言葉を使います。 そこで、パーソナル・セルフとは、その本質としては、さまざまな思考・ 感情・その他の心的作用とは独立した「純粋なるわたし」という意識 としてあるものだ、とされます。通常、「わたし」の感覚は、そこに存在 する思考や感情と同一化した状態にあります。 サイコシンセシスでは、そうした同一化をはずすこと、つまり「脱同一 化」によって、いかなる思考や感情からも離れ、それを純粋に「見る」 ことのできる「純粋観照者」としての「わたし」を見出すことをめざします。 observing self(観察する自己)、pure Witness (純粋観照者)です。 サイコシンセシスの創始者アサジョーリは、こうした純粋意識としての パーソナル・セルフの自覚が、トランスパーソナル的発達の出発点 であるとしています。
この見方は、トランスパーソナルの立場と一致します。 サイコシンセシスの「純粋なるわたし」としてのパーソナル・セルフは、 ウィルバーのパラダイムにおいては、理性的自我の次の段階である 「ケンタウロス・レベル」とほぼ同じものです。 このような、決して疑いようもない「わたし」の感覚――つまり、「わたし」 そのものは、この時空間の秩序に属しているのではなく、それを超えた 次元から、それを「見ている」存在であるという直観――これこそ、 デカルトが見出した明証性なのです。 デカルトは近代的二元論の創始者として激しいバッシングを浴びている ところですが、実はデカルトは、こうした「純粋なるわたしとは、世界に 属していない」ということを経験的に発見したのです。 そこで、「わたし」の属する領域と、その他の世界とは全く別の次元に あることを定式化したのです。 それ自体はたいへん素晴らしい発見なのですが、なぜそれが結果的 に唯物主義を生み出すことになったのかは、歴史の皮肉というもの でしょう。
その理由についてはこの文章の範囲を超えるので詳しく述べませんが、 一つには、こうした「わたし」そのものの明証性は、ほんの入り口であり、 そこから「トランスパーソナル・セルフ」の自覚へと移行していくべきもの であるということです。デカルトはまだ中途半端であるということです。 もう一つはデカルトには「神」は自明なものであったということもあります。 デカルト自身ではなく、「デカルト主義」なるものは、「純粋なわたしの 自覚」という部分は「主観性」に属することであると切り捨て、物だけを 扱っていけばいいという科学至上主義に移行していったということです。
ユングには、こうしたケンタウロス的な段階の意識というものを見出す ことができません。 ケンタウロス的な「純粋なわたし」は、さらに深まって、その「純粋な わたし」を見ているまたさらに深い次元の「わたし」を見出す・・という 具合に進んでいきます。 ユングには、そうしたトランスパーソナル的発達の段階についての 記述を見出すことはできないのです。 私がここで、ユングの心理学について、「自我以前の段階の再統合に かかわるセラピーである」と理解するのは、そうした理由によるもの なのです。 従って、ユングの心理学を仏教の「悟り」と結びつけたりする一連の 議論についても、そもそもそれはトランスパーソナル的発達の実際に ついてよく理解していない上でなされている見方である、と考えるほか ないのです。
ここで断っておきますが、ユング的セラピーの実際において、トランス パーソナル的発達が促されたり、そうした方向が刺激される、といった ことが決して起こらないということを言っているのではないのです。 また、セラピーの過程において、一時的にも、トランスパーソナル的 意識状態が経験されることもあり、それが深い治癒効果をもたらすこと があるということも、完全に認めることができます。 むしろ、ユング的セラピーは、そういう経験の出現をサポートするような 面があり、そこにこのセラピーの生命力もあるのだ、という見方もできる でしょう。 ただし、一時的な意識状態として経験されるものは、あくまで一時的 であって、永続的なものではないのです。 この問題は、意識発達における、一時的な「状態」と、永続的な「構造」 の違いというテーマです。
今、それを詳しく述べることはできません。 しかし簡単に言うならば、トランスパーソナル的な意識状態を一時的に 経験することは、誰にも、いつでも可能性のあることなのです。 それは閉ざされているわけではなく、今ここに存在しているが、 適切な知覚手段を発達させていないために見ることができないものです。 何かの拍子にそういう次元が開いて、見えてしまう、といったことも 時々はあります。 こういう経験がセラピーの最中にひんぱんに起こってくる、といったことも それほど珍しいことではないと思います。 ユングはこうした現象に敏感であったと考えられますが、彼はそれを 「無意識」という形で把握し、統合しようとしたのです。実際、そういう 経験を人格に統合させるためには、そういう包括的な概念が適していた ということでしょう。 真にトランスパーソナル的体験を「その次元において」統合するためには、 まず、ケンタウロス的な「純粋観照者」の自覚が生じることから始まる ことが必要です。そうしないと、結局トランスパーソナル的な次元の リアリティやエネルギーを適切にコントロールすることが難しいわけです。 ですから、ユングにおいては、そういうリアリティそのものをそれ自身 として扱うような方法ではないのです。それは、クライアントそして セラピスト自身がトランスパーソナル的次元にまで意識発達を完成 させないと、根本的には不可能なことなのです。
ですから彼はそれを、魔術−神話的次元において解釈し、その段階の 意識構造の中へ組み込むという手法を選んだのです。あくまでそれを 「無意識」と見なすことにより、意識(ユングにあっては意識=自我 ですが)を脅かすことなくそれらを統合する道が開けるというわけです。 ユングのセラピーにおいて、トランスパーソナル次元の覚醒が生じる ということは実際的に不可能なことです。セラピストとしては、クライアント がコントロールすることのできる意識構造の範囲でそうしたものを処理 するしかありません。 そこでユングは、自我段階に達した人なら必ず潜在させているはずの、 魔術−神話的意識構造を利用して、そこにトランスパーソナル的な 次元の現象を組み込み、人格統合を維持しようとした――これが、 ユング的なセラピーの内情ではなかったかと考えます。 したがって、ユング的なセラピーの体系は、もし人が、根本的にトランス パーソナル的次元にまで意識発達をすることなく、なおかつ自我が理解 できる範囲を超える経験が生じたときにはどうすればいいか――という 問題に対する解答なのだと私は理解します。 つまりその答えが「集合的無意識」という概念だったということです。
それは、現代人の平均的発達段階に適合した、統合の方法であったと 考えることができるのです。 言いかえるならば、ユングにおいては、トランスパーソナル的な次元の 現象・経験をそれ自身として理解する枠組を欠いているので、 それを、自我以前にあって、一面的な発達によって抑圧されていた 魔術−神話的なイメージ世界と同一のレベルにおいて処理しようと 試みたということになります。 ユングの「無意識」概念が、魔術−神話的レベルとトランスパーソナル 的レベルを混在させた無限包括的な概念になったのはそのためです。 それは、ユング的セラピーの文脈においては、きわめて有効に機能 するものであったと言うことができます。 [EOF]
あ、もうほんとのとこ、コピペは自粛するわ。 あ、もうほんとのとこ、コピペは自粛するわ。
クリストファー・バックの『暗い夜、早い曙』(Christopher Bache: Dark Night Early Dawn)を読み始める。これ、「steps to a deep ecology of Mind」という副題で、分かる人には分かるか、これはベイトソンの 本のもじりである。 さてこの本はグロフの路線を更に押し進めている。私がこれはと思った のは、カルマや再生の問題もはっきりと扱われていること。それは当然、 死後の意識存続も前提としているわけだ。 「ついにここまで来たか」という感じで、こういう議論ができるようなら、 あえて私も「トランスパーソナル批判」などをする必要はなかったの かもしれない。ともかく、この人は今いちばん先端的なところにいる。 バックの Dark Night Early Dawn は読むほどにすごい本だとわかって きた。これは、ウィルバー、グロフ級のものだ。 グロフ以来の最も重要なトランスパーソナル理論への貢献だ。それも、 ちょうど私がグロフに対して持っていた理論的疑問を、みごとに解決 してくれている。しかも臨死体験や体外離脱はもちろんカルマや転生 まではっきり言いきっているし、これからのスタンダードをなすものに なりそうだ。 ますます、これを読んでいたら「トランスパーソナル大批判」をする 必要はなかったと思う。 バックの本は、人類の集合的目覚めのヴィジョンを描いて完結している。
589 :
没個性化されたレス↓ :04/07/25 00:05
やっぱりがんばらなくていいよ。 読むのが面倒だ。 3行くらいでまとめてくれ。
バックの本は、今までのトランスパーソナルからするとかなり思い切って いるところが多く、共感するが、その中でも一つ注目できるのが、 ロバート・モンローの体外離脱体験を大きく取り上げたことがある。 モンローの『究極の旅』など、かなりぶっ飛びものであるが、サイケ デリック体験と比較すればまだ大したことはないのだという。 それほどサイケデリック体験は猛烈なのだ。やはりグロフのあの実験は、 人類史上画期的なことだったのかもしれない。 神秘体験というのはこれまで深く隠されてきたが、それがおおっぴらに 公開されはじめたのが現代の状況である。スウェーデンボルグなども その始まりの一つだ。そういう霊的経験の報告を、どう受け止めるのか というのが、こういう神秘思想に関わる人間には課題としてある。 いまそれは、臨死体験、体外離脱体験や、グロフによるサイケデリック 体験の研究などがインパクトのあるものとしてある。いま、これをどう 受け止めるかということを抜きに、神学的思考もないのである。
その課題は、トランスパーソナル運動が担ってきたのだが、その 理論的成果にはまだ欠けたところがある。 それは、「ペルソナとしての神」と「神のオイコノミア」の思想がまだ 足りないということである。たしかに「無としての神」は射程に入れて いるが、現実には人間は「恩恵」によって神化への道を歩むのであり、 その側面がカヴァーされていないと感じるのだ。 もう一つ、私が東方キリスト教の「神のエネルゲイア」の思想に注目 したのは、いうまでもなく、そこに「気の思想」との接点を見出したから である。 むろん「気」は単なる概念ではなく具体的な経験に基づいていて、 それは「エネルゲイア」がたしかな神による照明体験に依拠している のと同様なのである。 気功法による気の体験はごく入口のものだが、それが深まっていくと、 ひじょうに深い世界が出現してくる。 東方キリスト教の聖グレゴリオス・パラマスなども、ヘシカズムという 修行法をやっており、それは呼吸法などを伴って、道教の修行法にも 近いものである。エネルゲイアの思想は、そういうところから来ている。 そこで、日本人などにはなじみやすい「気の思想」を、神との一致という 神秘体験にまで高まるものとして位置づけるときにエネルゲイアの思想 はひじょうに有効である。 これまでトランスパーソナルは気の概念を完全に統合していないが、 ここに突破口がありそうな気がする。
さらにもう一つ・・・「恩恵」は重要なテーマである。 つまり、人間神化というのは、人間の側の上昇しようという意志と、 神からの下へのエネルギーが一致・協力して達成されるものだという ことだ。その二つが出会うのが人間の個のペルソナなのだ。 どうも、ウィルバーを読むと、一方的な上昇志向ばかりが目立って、 神的エネルギーの下降についてふれていないのは、何かが欠けて いるという感じがしてしまう。これは、霊的な道の一面しか捉えて いないように感じる。 もう一つは、輪廻転生を通しての霊的成長というテーマである。そして、 その前提として、魂は肉体とは別に存在しているという「魂の先在」 という問題がある。 ウィルバーはこの問題を回避している、というのが、私の「トランス パーソナル大批判」につながったわけだが、最近クリストファー・ バックの『暗い夜、曙』に詳細に扱われているのを読んで、「トランス パーソナルは・・・」という言い方はやめた。 魂は肉体に先立って存在する−−というよりむしろ、人間の本体は 魂であって、肉体の方がより偶発的なものだという「魂第一主義」 である。これは当然、「意識は肉体がなくとも存続する」ということ になり、死後存続はもちろん、人間以外の「物質界に表現形態を 持たない意識存在」の存在を認めることにつながり、つまりそこで、 伝統的な神学の「天使論」の問題が浮上することになる。 そこまでいかなくては、この宇宙の記述として十分なものとは言えない。 それぞれの世界宗教は、みな人類への贈り物をもって出現したわけ だが、真理の全体があまねく開示されている宗教伝統は今までに 一つもない、すべて「パーシャルな真理」にすぎないのだ。
一日かかって、『キリスト教神秘思想の源流』を読んでしまった。一気に 読んだので、疲労困憊、終わったら畳の上で眠り込んでしまったが、 得るものは多かった。 一つのテーマは、アタナシウスを境として「神と被造物との間の絶対的 断絶」がもたらされ、それがプラトン主義との分岐点になったということが ある。私は、東洋の霊性に育った者であるから、究極的に正しいのは プラトンの方であると思う。魂は本来神と等しいものであり、神との合一 を経験できる。だがそれは、きわめて限られたエリートの道であり、 合一が可能になるまでは、とりあえず「神との間の深淵」を経験するのが 平凡な人間のあり方である。そのためには、ペルソナを持つ神による 恩恵のエネルギーがそそがれる必要がある。 また、実際に神へ向かって進むためには、一度「死ぬ」必要がある。 体の死ではなく、心の死である。ここに「死と再生」という元型的構造の 根拠がある。ニュッサのグレゴリウスが「神の暗闇に入る」と言い、 十字架の聖ヨハネが「魂の暗夜」を語るのは、この死の門のことを言う のであろう。 「死と再生」の普遍性はグロフによっても見出されたが、それを生物学 的な誕生プロセスに結びつけてしまったことをバックは批判する。 そして、それは魂が自我の檻を破って個を超えた世界に飛躍するため のプロセスであると言う。 これは、私が日頃から感じていたことを見事に言語化してくれたという 感じがした。つまり「死と再生」の元型構造は、分娩という物質的プロ セスから切り離して魂の変容の基本的構造として理解すべきである。 バックの理論は、ウォッシュバーン的なテーマも包摂しているし、もう ウォシュバーンは超えられてしまったと私は考えている。
トラパのいかがわしさというものがあるとすれば、それはグロフの問題で ある。つまり、端的に言うと、LSDや呼吸法の意識体験を、真正の体験 データとして見なすことができるかどうか、である。 クリストファー・バックもその前提の上に理論を構築しているわけで、 ウィルバーも理論には入れていないが、グロフの体験を意識体験として は認めている。つまり、それは「まだ自分のものとはしていない」が、 「垣間見た」ことには違いない、という立場をとるのである。 もし、グロフの意識体験を「非物質次元のリアリティを体験したもの」と 仮定することができるのなら、私たちのこうしたリアリティにたいする 知見は一挙に拡大すると言える。 だからトラパが成立するかどうかは、これを認めるかどうかにかかって いるといっても過言ではないほどだ。 だが、当然、伝統的なキリスト教神学者や仏教者は、絶対、これを 認めないであろう。ただ、みな一様に否定はするが、彼らは実際に グロフの著書にあたって検討したわけではない。そういう人はほとんど いない。ほとんど、単発的な一二の例を挙げるだけだし、また、乱用者 の情報であって、厳密な臨床的試験のデータではない。 ただ私も、グロフのあげる意識体験が、宗教的意識体験と同じである のか、まだ決定できないでいる。たとえばグロフのセッションでは、 「空」や「無」も経験してしまうのだが、それが神秘主義でいう究極の 神秘の「空」と同じものであるのか、それは、LSDと伝統的な修行法の 両者でそれを経験した人以外、本当には判断できないであろう。 だがもちろん、そういう人は地球上に一人もいないのである。 私は、グロフの臨床例に魅惑を覚えながらも、それによって宇宙の神秘 を語ってしまうことに、「いいのかな?」という不安を拭えないでいる。
LSD意識体験の問題は、トラパのもつ最も「やばい」側面であって、 この点を攻めれば、「トラパは危ない」という印象を世間に与えることは 実に簡単である。 これを隠そうとする人もいるが、トラパの成立の背景に、ドラッグ体験 による「異次元の発見」があったことは歴史的に見て否定できない のである。 日本でも、まずトラパが入ってきたのが、グロフのホロトロピック・ブリー ジングのワークショップであったわけで、そこには、「呼吸をするだけで 悟りみたいな体験が得られる!」という期待でたくさんの人が集まった のもまた事実であり、そういうものが世間に「危うさ」の印象を与えた ことはやむを得ないであろう。 しかしまた、ここでもデータをして語らせねばならないわけで、この メソードによって「魂のポジティブな変容」が多数もたらされたことを 否定する根拠は何もないのである。
そこで、私がいまどう見ているのかというと、こうした技法によって、 「アストラル・リアリティ」が体験されるのは事実であると思う。 しかし、それ以上の、コーザル以上の次元が体験できるのかどうかは、 留保する。 たとえば高次の存在や、また「無」を経験したとしても、それが高度な 修行の末に体験される境地と同じであるか、まだ断定はできない。 私は、それは「アストラル次元において、他次元の体験のシミュレー ション的な経験が起こる」のかもしれない、とも考えている。 つまり、「無」といっても、それは究極そのものではなく、アストラル 次元において「無」を疑似体験しているのかもしれない、と思うのだ。 しかし、さまざまな超心理学的な現象が発生することからして、アス トラルに接触していることは間違いない、と断定できる。私にわかる のは、今そこまでである。
>>595 >それは、LSDと伝統的な修行法の
>両者でそれを経験した人以外、本当には判断できないであろう。
>だがもちろん、そういう人は地球上に一人もいないのである。
どうして「地球上に一人もいない」と断言できるの?
いっぱいいると思っていたけど。
あなたはだめなの? ウィルバーはだめなの?
ちょっと過激な内容か? しかしこの程度で驚いているようではね・・ そういう意味においては、トランスパーソナルは、60年代のドラッグ文化 における変性意識体験をバックにおいていることは紛れもない事実です。 グロフのワークだってLSDの代替であるとはっきり言っているんです から。まあ私は、トラパの評価は結局、グロフのLSD変性意識を正当 な神秘体験と同一、でなくても「同質」のものと認めるかどうか、という 点にかかっているように思えてなりません。そのデータが「霊的体験= 世界空間拡張経験」の現象学として使えるのか、使えないのかという ことになるわけで、もし「使えない」となれば、トラパのいう「現象学的 検証」などは実質ほとんど存在しないと言ってもいいわけですから。 「魔境」の蓋を開けてしまったことに、どういう反応をしたらいいか・・・ ですね。仏教の人には、ごく少数の「知ってても、言わない」人と、 「全然知らない」「知識としては知っている」という人がいたはずですが、 「ハッキリと言ってしまう」人はいませんでしたからね。 ウィルバーは「口ごもってる」っていう感じですが。魔術の世界は あくまで、正統的な知の世界からは封印されてきた長い歴史があり ます。しかしだからこそ、ルネサンスのような、その仕切がはずれた 文化が注目されもするのです。想像界の復興は、実は、魔術の復興 でもある、と。ヒルマンも、その方向を指しているのです。
西洋世界でも、少しずつ転生とカルマについての理解が進みつつある。 学問の枠組で取り上げたのはクリストファー・バックくらいなものである。 しかし考えてみれば、これは現存の学問的枠組というものが近代ヨー ロッパ文化の所産であり、そこにはこういう考え方が存在していなかっ たためにすぎない。 アジア的な知の系譜の中では、転生やカルマはべつに異端でもオカルト でも何でもない。 「知」というものについて、近代の常識からスルリと自由な立場に身を 置きたい。シャーマニズムから古代以来の思想や実践の系譜、歴史 そのものを自分自身の過去として引き受けるということ。それをあたかも 外側から傍観者のように見る「学問的客観性」なるものの虚構性を 自覚するということだ。 つまり現代はもはや「太古以来の人類思想の総決算」の時期に来て いるのだ。
ニューエイジにはたしかに変なところもあるし、思い込みがかなり混入も している。しかし全体としてみれば、これまで現れた宗教の教えと比較 しても、最もよくできたシステムがあると思う。これが究極的な真理では ないが、伝統的な宗教に比べればかなり真理に近づいた部分がある。 べつに永遠の真理を理解する必要はない。21世紀初頭の人間のレベル で理解できる限りのことを理解すればよい。そこで、ニューエイジのよい 部分というのは継承していくべきだと思う。 ウィルバーはそういう努力をしているが、なお(あえて?)欠落させて いる部分があるので(特に天使論と転生・カルマ論、微細身論の領域に おいて)、なお、別種の知的フォーミュレーションを試みる余地は残されて いる。 「魂はすべてが地上に降下するのではなく、その一部は永遠の世界 にとどまり続ける」とは、プロティノスも述べていることである。どうも 彼は、実際にそれを見うる地点まで行ったらしい。最近ではクリストファ ー・バックも同様の議論を展開している。 類魂だが、これは転生に関する最も納得のいく説明であると私は思う。 つまり、魂はリニアな形で、次から次へと肉体を替えるというのではない。 私たちの本体はもっと大きなものなので、そのごく一部が肉体界に 入って経験を積む。しかし私の根本存在は常に霊界にとどまりつづけて いる。このことはすでにプロティノスがそれを示唆することを書いている が、最近転生問題を論じたクリストファー・バックも同様の見解を取って いる。
>>599 >ちょっと過激な内容か? しかしこの程度で驚いているようではね・・
だれが驚いている? コピペには驚いているけど。
さて、ヴァレラの『身体化された心』(工作舎)をざっと見た。もちろん端から 端まで読むのではない。とりあえずエッセンスだけわかればいいのだ。 いろいろ書いているが、本質的には単純なことだ。つまり、最初にある のは「経験」であって、主体と世界はそこから生起するということである らしい。とすれば、ヴァレラは西谷啓治をひいているが、基本的には 西田の「純粋経験」に近い立場ではあるまいか。ヴァレラは「構造的 カップリング」というが、これは唯識で言う、見分・相分の二つを生み出す 「識」なのではないか。 ヴァレラはアフォーダンスにも触れていて、それは環境の実在性を肯定 してしまうと言って批判している。しかし私が思うに、それは環境の 「客観性」を示すものと受け取る必要はなく、そのように生物によって 「読み出される潜在的可能性」を有すると解釈することもできるのでは ないか。 まあ、率直に言わせてもらえば、この程度のことがわかるために認知 科学に一生かけなくたっていいよな、という感想である。唯識はもっと 深い。 とはいっても、「識のみ」という認識論が認知科学でも肯定されている というのは、一つのサポートではある。しかし、ヴァレラの立場では、 まだ「阿頼耶識」の問題は解けない。重要なことは、さらに先にある。
Christopher Bache : Dark Night Early Dawn -- Steps to a Deep Ecology of Mind(SUNY) の一部を読みかえしてみた。 すると、やっぱりこれが最前衛かな、という感じでかなり興奮を覚える。 ということで彼のランキングも五つ星にアップ。いま、真の哲学はこういう 場所にあり! 決して哲学科などにはない。 副題の「精神のディープ・エコロジー」というのは、ベイトソンの本の 「Steps to an ecology of Mind」という題のもじりである。これは意識 というものを「関係性のネットワーク」として理解するという本だが、 まさにそのテーマを「ディープ」なレベルにおいて追求している。 要するに言っていることは、私たちの魂は個であると同時に人類という グループソウル(類魂)の一部だということだ。私たちの成長は人類 全体の成長である。同時にこの原理をカルマにも適用する。個人的 カルマだけではなく人類のグループカルマというものがあり、それに 取り組むという全体としての課題があり、個々の魂はその中で役割を 果たしていく。 これはもっともなことで全面的に賛成である。
これはバックは触れていないが、西洋的霊性の重要な部分を取り 込むことに成功している。 というのは、私も再三ふれているキリスト教東方神学は、人類共同体 という単位でものを考え、それが全体として神化へ向かっていくと 考える。こういう共同体的アスペクトが、東洋の宗教にはやや欠けて いるのだ(法華経思想――その流れをくむ日蓮――にはあるが)。 人類そして地球全体が浄化され、神化へ向かうことと、個々の魂の 浄化とは切り離せないのである。 そう考えてみると、バックも引用しているがピーター・ラッセルの「グロー バル・ブレイン」も大事なところをついているのかもしれない。二つ星 にしたが、再考してもいいだろう。 ただ、個と人類という二つのレベルだけではなく、そこには当然その 中間のグループレベルを想定すべきだと思う。たとえば国、民族、土地、 家、といったレベルのカルマも当然ある(それはもちろん簡単に分け られず、なにせ神の業であるから無限に複雑であるが)。またここに スピリチュアリズムでいわれている類魂の問題もあるが、特に親しみ のある魂のつながりというのは、文化によってもまたあり方が多少 違うだろう。西洋と東洋は違っているはずだ。 いずれ、著者に直接コンタクトを取ってみたいと思う。
そんなわけで、バック博士はこの本では否定しているが、前作の 「Lifecycles」で提出された、個の魂の霊的本体ともいうべき Oversoul という概念もあながち簡単に放棄できないのではないかと思う。 もちろんその独立性・自律性はあくまで相対的なもので、他のレベルの 意識場とのネットワークによって成立しているが、それをある程度自律的 なものと見るという視点もまた、宇宙のある領域からはありえるわけである。 それから、『ダークナイト・・』の面白いところは、ロバート・モンローの 体外離脱体験や、またネガティブな臨死体験の問題を正面から取り上げ ていること。 モンローはまたあとにするが、ネガティブな臨死体験 [FNDE: Fearful Near-Death Experiences] をどう解釈するかというのは、私たちの認識を さらにすすめる上において最大のポイントだと思う。 キューブラー=ロスやケネス・リングは、まず「光の体験」がリアルであり、 肉体死亡後にも意識経験が存続することを示唆するというところまで 認識を導いた。 しかしもはや、次のステップが求められている(「光は本当にあります」 というのは1990年代前半ごろまでに確立したことで、それでも信じない人 は勝手にしていればいいのだ)。 そこでコアになるのがFNDEの問題だ。
正直言うと、これをまともに説明できないのでは、2002年にもなって 臨死体験を論じる意味はないと思う。 バックはこのFNDEを、グロフの理論を修正する(つまり脱字義化する ということだと思うのだが)ことによって、かなり説得的に示している。 これについてはウィルバーの説も批判しているが、私はバックに軍配を あげる。 いずれにせよ、「死後は大いなる光に融合していくんです」という見方が まだ単純すぎることに、世界は徐々に気づいてくるだろう。 FNDEを考慮に入れるということは「アストラル・リアリティ」の複雑さを 正しく理解するということだが、その点ではバックの理解度にはかなり の信頼を置ける。 この点ウィルバーには「わかってないなあ」といらつかされることが 多かったので、バックの存在にはほっとした(グロフはちゃんと理解して いる)。 というわけで、私の知る限り、現在最も「本当のこと」に接近しえた 理論家だと私は思っている。 ただ、先にも言ったが類魂のレベル(ホロン階層)の問題はなお解決 すべきだが。しかし共同的なリアリティ形成の問題も、かなり解けて きそうだ。
FNDEの例ではいわゆる「地獄」的な体験の他、「意味のない無」の 体験というのも報告されている。これは充実した、すべての創造の源 としての空や無ではなく、恐ろしい、何もない闇としての無である。 バックは、魂の死と再生という原型構造としてグロフのペリネイタル・ マトリックス理論をとらえ直した上で、こうしたFNDEを自我の死という 過程と位置づける。まあ、いわれてみれば当たり前のようにもきこえる が。地獄というのは罰ではなく浄化の場である、つまりキリスト教でいう 永遠の罰という意味での地獄は存在せず、ただあるのは煉獄のみで ある。このことは非キリスト教徒には当たり前の話であるかもしれない。 だから闇にも意味があるので、ただ闇に執着したりしなければいい。 自我の死はいろいろな形を取るので、特定の闇の形を絶対的なプロ セスと見なすことは誤りである。私とて光の経験の直前には絶体絶命 まで追いつめられる経験があったものだ。 ただバックは、FNDEは全NDEのうちわずか1%程度しかないという 事実については、十分に説明しているとは思わない。 それは、NDEは蘇生者のデータであるので、FNDEは蘇生の確率が きわめて低いのだというのが私の仮説である。 しかし他の霊的情報から判断して、そういう恐ろしい世界に行く人の 率はそんなに多くないという印象をもつが、たしかな確率などは言え ない。
バックに欠けている重要なテーマとしては「天使論」だろうと思う。つまり 宇宙における、私たち以外の知性体・叡智体の存在についての問題だ。 私たちはノンコンセンサス・リアリティにおいて、こうした他次元の存在 との交わりと思われる経験をもつのだが、それはどう考えたらよいのか、 ということである。 キューブラー=ロスも、こうした霊的存在(と思われるもの)との会話を はっきりと書いてしまっている。そろそろ天使論の機運も熟してきた。 もちろん天使論は同時に死者論でもある。それは、存在レベルの違い があるが、同種の問題である。 それから、バックのことからは離れるが、臨死研究で気がついたこと。 心霊力と霊視力。思うにNDE研究における、病室の光景が見えた というような証明は、サイキック(心霊的)な能力の存在を示唆するもの であり、つまりアストラル次元から物質次元を見えるという体験の存在を 意味する。 しかしアストラルやそれ以上の次元で、物質的リアリティとは関わりない リアリティ領域を見るということがあるのかどうか、ということはNDEの 科学的研究から証明することはできない。科学は物質領域における 対応物を持たない限り方法論的に研究不可能である。 そういうスピリチュアル・ヴィジョン(霊視力)の存在有無ということに ついては、問題は認識論的なレベルにあり、そこではまずウィルバー の「三つの目論」が参照されねばならない。
書物ということに限定していえば、私が衝撃を受けたのはやはりグロフの 意識研究であった。 特に『脳を超えて』などに記された、変性意識体験のカタログ。私は、 この本は100年後にも記憶されているであろうと述べた。それくらい、 この「人間に可能であることのカタログ」の壮大さは圧倒的なものだった。 これは絶対に読まなければならない。こういう人間経験があるという ことを知っているのと、知らないのでは天地の差である。これを読まない まま死んでいく人は気の毒だとさえ思う。 もちろん、ここには「空」や「無」、あるいは宇宙大生命とも言うべき 「全一」の世界との一致という経験も、入っている。人間はなぜこのような 世界を体験できるのであろうか。私が考えるにそれは「恩寵」であると 思う。しかし、これは決して終着点なのでもない。こういう体験をする人は けっこういるものだが、これもまた、LSDセッションやホロトロピック・ ブリージングの技法の中でも体験する可能性のあるものだと知れば、 決してそれを「究極の悟り」などとは思わなくなるだろう。霊的知識を 持たぬまま大きな体験をしてしまう人の危険は、自分の経験を正確に 位置づけることができず、自分が「悟った」と思い込んで自我インフレに 陥ることである。このことはユングも再三警告を発していた。
だからといってこういう経験はLSDのような薬物の影響による幻覚だと 言っているのではない。薬物はこの場合単なる触媒であり、自分の中に すでに存在しているある領域を経験したのに過ぎないのだ。 それまで霊的なことには何の関係もない人が、突如として大きな体験を して、霊的世界に投げこまれるということはしばしばある。臨死体験も その一種であろう。これは基本的には「恩寵」であり、その人の生き方を 大きく変えるため、霊的次元において仕組まれている計画の一環である と理解するのが妥当である。 このように「自分を導いているある霊的な働き」の存在を確かに感ずる ことができるか、というのは一つの示標となるもので、それがわかって くるようだと、霊的な道を進むことはかなり確かなものになってくる。自分を 支えている恩寵の働きというのが何もわからなくて、自分は悟ったと 思っているというのはレベルが高くないのだと思って間違いないのだ。 このような、自分を指導する霊的ヒエラルヒアというものがわかるのは 非常に大事なのだ。
ともあれ、できるだけいろいろな体験について知ることは重要だ。 ともすると、ちょっと「ぶっ飛び」の体験をした人は、ついその体験に 執着してしまいがちだ。たいていは、その体験の価値を過大評価する 傾向がある。宇宙の真理とか、空とか、そんなに簡単に体験できる はずがない。それを体験するような人が、私なんかに相談をもちかける はずはないでしょう。もっと自分でいろいろとわかるようになっている はず。 その意味では、伝統的な哲学なんかにかじりついているよりは、 グロフの『脳を超えて』とか、人間の意識体験とはかくも多様であるか、 ということを教えてくれるものをたくさん読むことの方が、いろいろ わかってくるスピードが速いだろうと思う。 現代は、そういう体験について黙して語らなかったという封印が解けた 時代といえる。これほどの規模で、霊的体験や記憶がシェアされはじめた 時代はない。 もう、過去の基準による「古典」などに執着すべきではない。21世紀の スタンダードというものをあらたに樹立していかねばならないだろう。 時代は急速に変化している。
極端な例をあげれば、死んだからといって霊的世界のことがすべて わかるようになるわけではない。既にご存じと思うが、肉体を離脱しても、 自分の波動にあったごくわずかな波動領域しか経験されないことが多い。 ほとんどの人は、アストラル次元よりも上の世界があることを知らないで、 死んですぐ行く世界こそが天界なのだと信じることになるが、こうなると むしろ進歩は遅々たるものになるかもしれない。 宇宙はアストラル次元と物質次元だけではないという知識は、この 地上界に来たからこそわかるチャンスがあるというものだ。 なおかつ、アストラル界を超えた次元から来るエネルギー、光とはどう いうものであるかを少しでも理解できたとしたら、その達成の意味は、 むしろ死後においてはっきりと理解されてくるはずなのである。 その意味で、ウィリアム・ブールマンが、アストラルは大したことがない、 その先へこそ行かねばならないと強調し、OBEによる探求の最終目的を、 アストラルを超えることだと書いているのには大いに共感したのである。 こういう視点をはっきりと打ち出しているOBE本は他にあまり例がない。
私は、自分がスピリチュアルに求めるものが、学問によって得られる とは思っていない。まあ、学問ということの定義にもよるが、本を読む ことによって真理は得られないことは初めから承知の上である。 ただ、方向付けとしては役立つが。 学問、あるいは知的枠組で表現するという仕事は、自分のためでは なく、世のため人のためだと思っている。 つまり、一面的で、スピリチュアルなことにともすれば敵対する近代的 世界観を相対化し、より「霊的成長」にフォーカスした価値観を社会に 生み出すためのものである。 それによって多くの人が救われるし、それが結局な自分のためにも なるということだ。
[EOF]
>>602 そうだよね。ここでコピペしている内容って、トラパ概説であって、
この世界に興味を持つ人なら、特に目新しくもない。
なぜ、ここまで執拗にコピペを繰り返すのか分からないが、
>ちょっと過激な内容か? しかしこの程度で驚いているようではね・・
この部分が、コピペの一部ではなくコピペ厨による附加なら、
おおよそコピペの動機を察することはできる。
618 :
没個性化されたレス↓ :04/07/25 10:32
もうだんだかかんだかさっぱりわかりません コピペの引用符とか出典を省略無視したら、本人にしかわかりません
619 :
没個性化されたレス↓ :04/07/25 11:42
>>617 なんだかあんたの意図がわかってきた気がするよ。
というか菅原の意図か・・・
しかし個性をもった神まででてくると、どうしていいか
さっぱり分からんです。。
620 :
梅田 聡一郎 :04/07/25 12:09
昨日はレスポンデント行動学とその幅について、そして、スーパービジョン の行使方法や行使資格のまとめをしていました。今日、トランスと出会えるとは 、、、。 トランスパーソナル現象とは、なんでしたっけ!?内面変化というか、パソコン と相通ずる感覚でしょうか、、。不思議だ、、、。
621 :
梅田 聡一郎 :04/07/25 12:13
トランスパーソナル心理学と、レスポンデント行動学と、スーパービジョン 。後1つくらいの知識が今日欲しい、、、。
622 :
没個性化されたレス↓ :04/07/25 19:17
コピペで答えてやれ。
霊的思想と呼びうるものの要点は、「霊的な知覚器官を発達させる 必要性」を認知しているかどうかにある。 つまり、ただ世界はこうだと言うだけではなく、「いかにしてそれは 実際に知りうるか」という視点を合わせて持っているということ。 そこを欠いてしまっては、メタフィジックに終わる。 いろいろ批判は多くあるのだが、ウィルバーなどの思想はいちおう それはおさえている。それがないということは、自分は実際に知ら ないことを書いているという可能性が高いのである。 さて私は90年代から気功やヨーガなどにも手を染めるようになり、 現代では認知されていない現実領域について少し体験的理解を得る ようになった。その結果、90年代初めには、現象学−構造論によって 世界地平論を展開することの思想的限界を自覚していた。 そこで、日常世界がある「識」によって生起しているなら、たとえば 気の体験などの現実世界はまた別種の「識」がそこに生成する (もしくは眠りから覚める」というになるわけだから、つまり異次元、 多次元の現実といってもそれは識の拡張、そして知覚能力の拡張 として理解できることになる。 ウィルバーの『進化の構造』にはこうした考え方がはっきり述べられ ている。
近代的学問=近代的人間観を前提とする、ということがあり、そうでない ものを「非学問」として排除してきた、という構造が見えてくる。この意味 で、たとえばトランスパーソナルは近代的学問の地平にはないので あって、それを学問でないと批判するのは、私がよく言う「ラグビーを やろうとしている人間に『ハンド』と言う」の類である。 それがウィルバーの言う「フラットランド」の世界観、要するに素朴実在論 をデカルト=ニュートン的パラダイムにおいて「科学的」と理解している 見方ということである。なぜこういう事態が生じたか? ということで、 科学史の書き直しというものがまず前提にないといけないと思った。 この分野で最良の導き手は、村上陽一郎の本である。 というわけで、今回また、村上氏の本をまとめて読むことにした。科学に 対するスタンスを決めないと、現在において思想を展開することは むずかしい。また、「科学の最先端」というブランド志向に流されないため にも、科学論をしっかり持っていることが大切である。 ということで、まずは『科学史の逆遠近法』の再読からはじめ、以下、 7,8冊を一ヶ月以内に読むことを計画している。
科学論を踏まえて、科学を相対化し、思想全体の文脈に位置づける という部分が必要で、まず科学至上主義の毒抜きは不可欠である。 問題は、科学そのものではなく、啓蒙思想と科学を一体のものと見る イデオロギーなのだ、ということが、村上陽一郎から学んだポイント。 それから、村上陽一郎の『新しい科学論』を読み、次に『近代科学を 超えて』にとりかかる。 すでに学んではいるものだが、改めてこの科学論を復習していると、 気がついたことがあった。それは、ウィルバーの『科学と宗教の結合』 などに見られる「三つの眼」の認識論・方法論も、結局のところ、「神学 ・哲学・科学の分離」という近代社会的常識に則ったものにとどまるの ではないか、ということである。つまり、科学が物質の世界を「客観的」 に探求するという資格を持っているということが、前提されてしまって いる。だが、村上陽一郎を読むと決してそうではなく、科学理論の パラダイムとして何が優勢となるかは、社会全体の価値観・世界観の 枠組の影響を色濃く受けていることは明らかだとされる。近代科学が 唯物論的であるのは、社会全体が、物質的なことのみに関心を持つ 価値観が優位になったのと、どちらが先でどちらが後とも言えない、 相互関係があるのだろう。
しかし、科学であるからといって唯物論をとらねばならないという決まり はなく、それは科学史を見れば明らかなことである。とすれば、いわゆる ニューサイエンスというものは、科学に対して新たな価値論的枠組を 付与しようとする試みだということになるだろう。科学の最新パラダイム の中には、スピリチュアルな世界観と並立する、あるいは「同型構造」 を持とうとしているものもある。そのことは、それが科学であることを 何ら妨げるものではないのである。 だから、もちろん科学(たとえば物理理論)がある霊的な思想を「証明 する」というような関係ではない。そのような物質科学の特権性は 認められない。カプラが行ったのも、あくまで「同型性」の指摘である。 科学とは唯物論思想を前提とする、という常識的思い込みがはびこっ ている中で、カプラは、「量子理論は東洋の霊的思想と共存しうる理論 だ」ということを発見して、素朴に喜んだのである。それは、17世紀に おいて、新プラトン主義がコペルニクスの太陽中心説に影響を与えた のと同じことである。量子論が東洋思想と関わりを持つことは、文明 全体が唯物論イデオロギーから離れ始め、東洋思想の影響が本格化 しつつあることの反映として考えることができる。
ピュタゴラスと「世界の秩序」の理念、それにインドの神秘思想などの 話をしているうちに時間になった。先週はどうも自分で話の方向性が 見えにくい感じがしたが、だんだん明確になってきた。 つまり、「世界の秩序、意味」を問うのが思想である、という基本理念 である。そこで、「科学は最初から計測不能なものを対象から外して いるので、世界全体の意味を問うという世界観を形成することはでき ない」と論じ、つまり「本来の意味での世界観は、現代には存在しない」 という結論になり、その結果として、世界には意味がないというニヒリ ズムや実存主義の思想が生まれた、というふうに話が進んだ。 そこで、「21世紀の思想の課題は、いかにしてこの世界には秩序と 意味があるかという問いを再び復活させること」というふうに、かなり 明確に目的を捉えることができたのである。
「現実」が構成されたものであって「ありのまま」では決してないという ことを、コンピュータのプログラムがある信号を変換して文字などの形に 映し出すというアナロジーで説明してみた。しかしこれは正確な比喩 ではないかもしれない。いずれにしても、そのプログラムとは「意識」で あろうと思う(脳というのは、意識の「一部」の物質的対応物である)。 そして、プログラムというものは固定されているものではなく、変動しうる。 プログラムを変えれば、それまでは知覚されていなかったものが見えて 来るというのは有り得るのだということである。これはたとえば、Word というソフトがなければWordのファイルは見られないとか、あるいは テレビのチャンネル、ラジオの周波数という比喩もあるかもしれない。 あるいは、コウモリが超音波を知覚したりとか、そういう例もある。 「魂の感覚」というものから出発して行くことに興味が移っている。 魂の感覚とは何かといえば、「肉体の感覚から離れたところに、何も 肉体感覚がなくてもなお存在し続ける『自分』」の意識というか、感覚 というかそういうものである。そういう肉体に依存しないものを見出す というのがシュタイナーの『いかにして』のテーマでもあるわけだ。 まずは、それがまったくわからないというのでは話にならないので、 ともかく何が何でもそれがおぼろげにでもわかるというところまで行く しかない。すべて話はそれからである。最近それを痛感する。その感覚 をベーシックなものとして共有できて初めて「魂の話」が可能になるの である。
そういう「魂」というものをはっきりと経験の地平としてつかんでしまえば、 「最先端の科学理論とトランスパーソナルとはどう関わるのか」などと いうのがカテゴリー・エラー以外のなにものでもないこともわかるであろう。 つまり科学というのは感覚に依拠しているわけで、認知科学というのも 要するにそのレベルの「知覚と連動している意識作用」を扱っているに 過ぎない。それは唯識では「第六識」というものである。そのレベルでは ない心というものがあるという前提に立たないと、霊性についての議論 の一切は始まらない。 魂の感覚というものが「深層的身体感覚」と連動しているらしい、という ことも気づいていることである。身体感覚の深まりが魂の感覚とむすび つくのである。これはどういうことであるのか、少し考えてみよう。
思想はまず、素朴実在論からの脱却から始まる。思想の訓練を受けて いない学生は、「素朴唯物論」か「素朴物心二元論」あたりの世界観を 持っている。 少し知的な傾向の学生は唯物論に傾き、看護学生などは素朴物心 二元論に近い。死後のイメージを書かせると、前者は「何もない、無」 という解答が多く、後者は三途の川や花園など、わりと伝統的な死後 イメージが多いというのが面白い。今の学校教育でいい点を取ろうと しすぎると唯物論を刷り込まれてしまうというのはいささか恐いところ である。 思想とか世界観というものは証明はできない。それに「納得」するという のは全人格的な行為であり、それに沿って生きてみたときの「実り」に よって思想の価値は決まる、と私は思っている。 私がいろいろな思想を紹介すると「それは証明されていないから信じ られない」という学生が、最初の年に多かった。彼らは、「科学的世界観」 すなわち唯物論ならば「科学的に証明されている」と思っているのである。
そこで、まず、「科学理論は証明できるが、科学的世界観は証明でき ない」ということを理解させねばならなかった。以来毎年、このことに 力を入れている。 霊的グノーシスを認める思想では、感覚以外の知覚によって超感覚的 リアリティが直接経験できるとしている。このことは「やってみる」以外に 確認することはできない。もちろん科学的に証明するというものではない。 科学は方法論であるが、科学的世界観とは、「科学で認識できる領域 のみが唯一のリアリティである」という思想的な主張であり、科学その ものではない。 高校ではどこもこれを教えないので、できる学生ほど科学の権威を受け 入れ、「科学的に証明されるということが『正確な知識』の基準なのだ」 と思ってしまう。「正しい知識とはどのような方法でえられるのか」と 考えることから思想がスタートする。これは超能力の話ほど面白くないが、 ここをクリアしないとそれも卑俗なオカルトになってしまうのである (消費文化に組み入れられてしまう)。
そこでこんな風に言ってみた。 −−「科学的に証明しうるものだけが真理である」ということについて 考えてみよう。このこと自体は、物であろうか、それとも観念であろうか。 これ自体は手で触ることも見ることもできない。これは観念である。 では、この「科学的に証明しうるものだけが真理である」ということ自体を 科学的に証明できる実験を誰か考えてもらいたい。わかるように、 これは観察することも実験することもできないので、これ自体を科学的に 証明する方法はないのである。とすれば、「科学的に証明しうるものだけ が真理である」という命題自体は、科学的に証明できないことになり、 従って自己矛盾である。もし、「科学的に証明しうるものだけが真理で ある」ということは、科学的に証明しなくても自明の真実である、と主張 するならば、やはり「科学的に証明しうるものだけが真理である」という ことと矛盾することになる。−− つまりこれは「クレタ人の言うことは嘘である、とクレタ人が言う」という 類の自己矛盾なのだ・・・と説明するのである。要するに「認識のカテ ゴリーエラー」を説明しているのである。 このことは印象深かったとみえて、かなり多くの学生が答案に書いて いた。
頼んでおいた本が大量に来た。これから少し読みふけることになるが、 そこで自分の方向を失わないようにしたいもの。ヴァレラ『身体化された 心』は、「識一元論」パラダイムの認知科学的裏付けとして使えるのでは、 という期待を抱かせる。しかし、私はむしろアフォーダンス理論のような 「外界」の存在も認めていった方がいいという考えもある。アフォーダンス の本ももう少し必要だが、これをやっている人はちょっと「お利口ゲーム」 の世界に入っているなと思わせるところもある。扱いには注意が必要だ。 ペースに巻き込まれてはならない。 学問の世界、「お利口ゲーム」の人が大半である。著者から「魂の実質」 を見通すというトレーニングを一方で忘れないようにすることは重要だ。 要するに、三種類あって、 1.本当のことがわかってしまって、人に伝える戦略として書いている人。 2.書きながら徐々に、おぼろげな直観をたしかなものにしていく人。 3.「お利口」であることで人の上に立とうと頑張っている人。 というわけだ。私は現在2のタイプである(つもり)。
日本で科学信仰が強いと言われているのは、要するに、素朴実在論が 支配しているということである。 素朴実在論はいちばんわかりやすい。思想的にものを考えるという習慣 をつけず、ほっておけば人間は素朴実在論的に世界を考えてしまう性質 を持つのかもしれない。シュタイナーの時代にも素朴実在論は猛威を ふるっていたのである。宗教なども素朴な発想で、神や精霊が物質と 同じように存在していると考えるならば、やはり素朴実在論の一種であろう。 つまり、素朴実在論はどこにでもある。自然科学者といっても、その教育 の中で思想的に考えることを一度も勉強していなければ、世界観的には 素朴実在論のまま研究者、学者として通用してしまうことになる。そういう 人が名前が知られてくると、本来科学の扱えない領域のことまで、 素朴実在論的な説明を「科学的説明」の名の下に展開するということに なる。それはまあ、そういう知性のレベルなのだから仕方ないことだが、 問題は、そういうものが通用してしまっている日本の知的世界のレベル が低いということではないのだろうか。つまり、そういう次元のものに 権威を与えてしまっているところに問題があるのだ。つきつめれば、 日本では、思想哲学の力があまりに弱く、ほとんど文化に影響を与えて いないということが明らかになってくる。素朴実在論が跳梁するのを 許しているのは、哲学者の怠慢と無力のせいである、と私は考えている。
戦略検討のために、答案からいまの学生の宇宙イメージのありようを 分析してみた。 1.宇宙と人間とのつながりが見出せず、人間(自分)を宇宙において きわめてちっぽけなものと見なす世界観。 最初に書いたのはこれだが、これがいちばん数としては多い。自然科学 的宇宙イメージの影響が大きく、それをほとんど内在化しているグループ だ。 これに関してはシュタイナーの『教育の基礎としての一般人間学』で すでに言われている。 人びとは魂を通して宇宙全体と結びつく可能性を完全に失っています。 人びとは人間の魂の本質が全宇宙と関連しているということを理解する ことができないのです。ひとりの人間と宇宙全体との関連が明らかに 理解できた時はじめて、人間本性そのものについての理解が生じてくる のです。 P21-22 一部改変 これは「唯物主義的ニヒリズム」である。私は文章を通して、魂レベルの 不安や戸惑いを感ずる。「なぜ私はここにいるの?」という魂の声が聞こえ、 それがまた「いったいお前は何をなしえたのだ?」という声が無数の黒い 鳥のように私の頭を旋回し始めるという悪夢がイメージされる。
まあこれが「がっくし」の最大の原因であった。 私は「人間と宇宙は無関係ではなく、宇宙において人間は確固たる 存在の意味を持っている」ことを示す霊的な義務があったのである。 そのことを自覚できなかったのは大きな失点であった。 唯物主義的ニヒリズムに影響されてしまうのは、つまり世界観的に 素朴実在論から離陸することができていないからである。素朴実在論 が科学理論信仰と結合しているのが現代の唯物主義の特徴である。 したがってこのグループに対する戦略は、素朴実在論を徹底的に 解体することによって、「存在の問い」という疑念を魂に呼び起こすこと である。 すべて理解できる者はおそらくいないであろう。しかし、少なくとも その「問い」だけでも魂の中に呼び起こせるならば、いつか自分自身 でその答えを見出すこともできるに違いない。それは、今生という 範囲のことかはわからないが、そのように「種を蒔く」ことが私の任務 でもある。
そのニヒリズムだが、「高校教師」というテレビドラマの一場面を思い 出す。いや、いまやっているリメイク版ではなく、オリジナルの桜井幸子、 真田広之が出ていたやつである。あれは、「いまの世界に生きている ことに対する『魂の叫び』」を表現したものだ、と私は受け取っていた。 つまり、「ここは一体何? 私はいったいどういう世界に来てしまったの?」 ということで、この世に来た魂が、この世そのものが「狂気」なのでは ないかという発見に悲鳴を上げているのである。 (ちなみに、いまはあまり転生経験の少ない魂も来ているらしく、そう いう魂はこの世界があちらと比べてあまりに狂っているので、もの すごい恐怖を覚える場合があるらしい。引きこもりと言われるケースは そういう魂のことが多いような気がする。この問題は、こういう霊的視点 がなければ本質的には解決しないだろう。性同一性障害の問題も魂と 世界との違和が問題の本質である。「この世界はどこか根本的に狂って いる。そういう狂った世界で生きざるを得ないことが現在の人間の本質 である」と言うことができない者は、思想家たる資格はない。人間が 宇宙原則を見失ったという「喪失」の絶望を知らない者を、私は思想家 とは見なさない) で、そのドラマで主人公の生物教師は、池に泳ぐ鳥たちを見ながら、 「生物学的には、生きるということには、何の意味もないんだよ」と言う。 それを聞いて、女子生徒(桜井幸子)はさめざめと泣く、というシーンである。 宇宙と人間とのつながりを理解させるどころか、そのつながりの感覚を 崩壊させる学問など、どのような意味があるのだろう。しかしもちろん、 自然科学はダメだということがここでの趣旨なのではない。あの生物 教師の言葉は、「なぜこの世界は、生きていることの意味を全く教えて くれないのか?」という魂の叫びだったのではないか、と感じたという ことだ。その「もがき苦しみ」を過激に描いたのがあのドラマだったのだ (少々過激すぎるが)。
で、世界イメージのその二だが、 2.世界はすべてつながっている、という直観を持っている。その無限の 連鎖の中で、自分はきわめてささやかではあるが、不可欠のある 部分を担っている。自分はいかにも小さいけれども、宇宙において ある大切な役割を持っているに違いない、と感ずる。 このグループの学生は魂が健全である。宇宙とのつながりを直観する ことができている。このグループは、必然的に、「エコ」志向になる。 いわゆる「ジブリ系」でもある。また卒業研究に宮澤賢治を取り上げる 学生もけっこういるのだが(デザイン学科なので、絵本とかを作るのだが)、 たぶん彼女らもこのグループだろう。あるいは、自然の豊かな田舎で 育ったのかもしれないが、そこまでは確認できない。しかし大都市の 学生には少ないタイプと思われる。 このグループに対しては、「ホーリズム」、すべてがつながっていると いうことが現代思想からも強く出てきていることを伝えれば、自分たちの 直観の理論的サポートとして受け止めることができるだろうと思われる。 私の講義が最も効果を生み出しそうなグループである。「三千大千 世界パラダイム」のイデーも、自分らの宇宙直観と近いので、素直に 受け止めることができるであろう。 ただし、この1と2のグループはオーバーラップしている。その間で揺れ 動いているような学生もかなりある。それに対しては、素朴実在論を 打破する手助けをしてやれば、2の世界観に移行できる確率が高くなる であろう。
3.世界とはすべて夢、幻のようなものではないのか? おそらく、 誰かが生みだしているものだ。その生み出すものは、ある宇宙的 存在なのか、それとも自分の脳なのか? 世界とは、宇宙の何者 かがプレーしているゲームなのではないのか? これは「マトリックス」などに最も反応するグループである。数としては 多数派とは言えない。しかし、宇宙的存在がプレーしているテレビ ゲームの画面がこの世なのではないか? という世界感覚は毎年 必ず何人かはある。 もちろん世界を生みだしているのは「自分の脳」であるという理解は、 哲学的に見れば誤謬であり、自己矛盾した思想である。しかしいまは それはどうでもいい。問題は、こういう魂は「世界が夢であり、仮構 である」という直覚を持っていることである。 しかしこの感覚は決して最近になって出てきたものではない。私が 思い出すものに手塚治虫のマンガがある。題名は忘れたが、その マンガでは、ある少年の一生そのものが、ある別次元世界で映写 されている映画そのものなのだった。その少年の部屋に蝶がひらひら と舞い込んでくる。実はそれは、自分が俳優であり演技をしている ことを忘れてしまった少年にメッセージを伝えるための、異次元から 送られた使者なのであった――という話である。(いまこうして思い 出してみると、私が子どもの頃に手塚から受けた影響はかなり大きい のかもしれない。最もショックだったのは「0次元の丘」という作品 だった。私はこの異次元世界のイメージが頭に焼き付いて何日も 寝られなかった。やはり手塚は魂の深い部分をイメージ化する天才 だったのであろう)
さてこのグループには「共同主観論パラダイム」、つまり世界とは共同の 夢であるという世界観はすんなり理解できるものである。同時に、「その 夢を見ているのは本当は誰なのだろう?」という問いも、魂に食い込んで いけるかもしれない。現代思想が用意する「それは共同主観だ」という 答えは、本当の答えではないことを直観することは不可能ではないはず だ。つまりそこから、「存在の問い」ということの意味を魂次元で理解して いく道筋がつけられるかもしれない。 「脳」と言っているのは、まだ科学理論信仰から脱し切れていないので、 何となく科学っぽい言い方で、こういう魂の感覚を表現しているに すぎない。世の「唯脳論ファン」もだいたいそんなところだろう。だから といってそういう人々を唯物主義なのだと勘違いしてはいけない。1の タイプとは違うのである。表層の言葉は、哲学を勉強していない限り、 拙いのが当然である。それを見通して、その根底にある魂の感覚を 理解することができなくてはいけない。そうできなければ、思想について 教える資格などないのである。 つまり、このグループについては、「脳」を「世界生成プログラム」の 根拠にするのは誤謬であることを明らかにし、「プログラムを生み出す 者は何か」という問いをオープンにしていくのである。そこから、より深い 解答への道が開かれる。 というわけで、初めは「がっくし」であったが、こうして整理して考えて いくと、徐々に希望も見出されて来たような気がする。
さて茂木健一郎の『意識とは何か』(ちくま新書)なのだが、まず最初で、 「結局、脳科学ではなぜ心というものがあるのか説明できない」とはっきり 言ってしまっている。脳科学者がはっきりこう断定しているということを 知っただけでも収穫であった。 そこで、クオリア(質感)の問題が登場し、これは主観性の問題と切り 離せないという。なるほど、であって、著者はそこから脳科学というよりは 哲学的考察に入っていくようである。が、はっきりした結論は何も出て いない。哲学の本としてみれば、それほど独創的なことは書いていない。 突破口がつかめていないような状況で終わっている。「私があることの 不思議」に執拗にとりついていこうという姿勢は買えるのだが、出口が 見えない。 だが私は、結局彼の議論も懐疑が不徹底であると思う。なぜかと言えば、 そもそも本当に脳というものが実在するのか? 脳というもの自体が 世界の一事象であってみれば、「私」という主観性の生み出すクオリア なしではその実在性を確認できる範疇にはないということは、論理的 必然であるように思えるが。なぜその前提だけは疑わないのだろう。 これが哲学としては限界だと思うし、結局「脳科学ってその程度なの?」 と思われてしまうわけだ。これではデカルトより進歩しているとは言い がたい。どうしても疑いえないものは脳ではなく、脳その他世界を経験 する主観性(私)が実在するという事実だ。
いろいろ本が出ているが、その中でトリッキーだと思うのはスピリチュアル と科学とを関係づけようとするものである。科学は厳密な方法論に基づく ものだが、その方法論の制約のために感覚的世界のみしか検証できない。 だがスピリチュアルとは要するに「超感覚」に基づくものである。人間には 五感以外の直観的認識能力があり、それによって霊的リアリティの実在を 知覚できる、とする立場を受け容れられるかどうかは、科学的方法によって は判断不能である。それはむしろ実存的、全人格的決断に属すること である。 このような認識カテゴリーの厳密な区分というものが、スピリチュアルな ことがらを知的に取り扱おうとする場合には不可欠の前提となる。これは ウィルバーの認識論に明確にされていることだが、スミスの『忘れられた 真理』でも詳しく論じられている。言っていることはわかるが、あまりに 安易に「これは科学的だ」と言うので信用を落としているものが多いような 気がする。スミスの本によると、テイヤール・ド・シャルダンも「これは科学 的だ」と主張していたそうだが。 とはいっても、現存科学の常識を越えた新パラダイムによる科学が成り 立ち得ない、というわけではもちろんないわけで、人体科学会や国際 生命情報科学会などの地道な活動を無視してよいわけでもない。しかし トリッキーな部分が多いので注意を要するということだ。カテゴリーエラー を常に警戒すべきであろう。 天外伺朗・茂木健一郎という組み合わせにひかれて『意識は科学で 解き明かせるか』を注文してしまったのだが、どういう議論が展開されて いるのか。まあ、期待しすぎないようにしたいが。脳の本が売れている らしい。みんな、脳の研究で何かがわかるのかと期待して読むのだが、 茂木の本を見ても結局「脳からなぜ意識が生まれるのかまったくわかっ ていない」と書いてあるだけである。そもそもその前提そのものが実証 されていないし、デカルト的に疑えば疑えてしまう曖昧なテーゼである。
それと、天外伺朗・茂木健一郎の『意識は科学で解き明かせるか』を 読み始めたが、これはひじょうに面白い。天外一人が書いているのでは なくて、二人でやりあっているので緊張感があるのもよい。ちょっと感じた が茂木というのはけっこう柔軟な考え方のできる人である。つまり今の 科学を絶対視するところがなくて、別の視点から現状の科学を相対化 する視点へと、ひらりと移ることができるようなところがある。最近、論客 として活躍しているのは彼のこういう資質によるところがあるのだろう。 私も数日前に、科学と精神世界とを安易に結びつけることのトリッキーさ を警戒すると書いたのだが、私もそういう可能性を無視しているわけでは なく、安易でない扱い方というのはあると思っている。『魂のロゴス』では あくまで認識カテゴリー論にこだわって科学については対象外としたのだ が、科学と宗教が統一されていくのがこれからの人類の進化方向である ことはたしかなのだ(ただ、統一といっても同じというのではなく、その 領域の明確化もあるだろう)。 そんなわけで科学の勉強もある程度はしている。 それから本棚を見ていたら、前に読んだ本だが、シェルドレイクと マシュー・フォックスの『天使の自然学』 Physics of Angels が目に 留まった。これは、「微細情報場仮説」から天使的存在に迫るという、 スリリングな内容で、私の微細情報場の考えも実はシェルドレイクが 重要なヒントになっている。ここで、フロンティア科学との接点も生じて くるので、このテーマは大変面白いのである。
ペンローズの量子脳仮説なども知るに値することである。 『魂の記憶』は、シュオルツの仮説を紹介しているが、この原著の Living Energy Universe (だったっけか?)は私も一昨年くらいに 読んで、自分の考えていることに近いな、と思った。つまり「宇宙とは 意識場である」という説であり、アイデアとしては基本的に『魂のロゴス』 と同じ。 ただ意識場と唯識と結びつけて、さらに永遠の哲学的な階層宇宙論 まで統合したのは私だけで、本当は『魂のロゴス』は世界で最も進んだ 世界観であるはずなのだ(ほんとか?)。ともあれ『魂のロゴス』でそれを 美的に表現するという欲求は満たされたので、次にはこうしたシュオルツ の仮説とかボームの量子論だとか、科学との連関もとりあげつつ、 できるだけわかりやすく展開した本を書こうと思っている。 それと『地球は心をもっている』は、地球意識場仮説である。実は、 『魂のロゴス』を書いたときにはこのことを知らず、地球意識場の存在 は論理的に(そして直観的に)導かれたものであったのだが、やっぱり 同じことを考える人はいるんですね。しかし、21世紀の世界観は明らか にこういう「意識場」の方向へ進むことは間違いないのだ。十何年 すれば『魂のロゴス』の意味が理解されてくるだろう。 ラリー・ドッシーの『空間・時間・医療』『魂の再発見』、ガーバーの 『バイブレーショナル・メディスン』だって完全に意識場パラダイム ですからね。いっそ、『意識場パラダイムが世界を変える』なんてノリ の方がいいのか。でもこれじゃ、徳間書店になってしまうな(^^;
さて、『意識は科学で解き明かせるか』を読んだが、一言でいうと・・いや ーーこれは面白い!!ということです。 特に第四章で意識の問題になって、天外伺朗が茂木に激しく切りこんで いくところはもう一級の知的エンターテインメントである。で結局、茂木が 「参った」という形になっている。天外が冴えている。茂木自身が、 脳科学の前提について「これでいいのだろうか?」という疑いをもちつつ 揺れている人なので、そこに鋭く斬りこまれたという感じなのだ。そこで 最後には脳科学の拠って立つ「暗黙の前提」があぶり出され、その根拠 を問われる地点まで行った。数ある天外本の中でも出色の出来だ。 しかし、この本では、脳科学というものがどこまでわかっていて、何が わかっていないのかというのがひじょうに明瞭に理解できる。そのへんを 語る茂木の率直さも大いに称賛したいところ。簡単にいうと「ほとんど 何もわかっていない」に等しい、ということになる。脳科学を気にしている 皆さん、今の脳科学なんて恐るるに足りません。大したことないよ、って のがわかる。
だが、茂木はこの中で、脳の機能を「場」としてとらえる見方に言及して いる。最後に天外伺朗につっこまれたのは、その「場」というものが シナプスという物理的根拠を有するものと考えると矛盾に陥る、という 論点なのだ。茂木はこの論鋒をかわせずに完全に一本取られた。天外 伺朗の意図は、シナプスの同時発火を「場」としてとらえる見方は、その 「場」を非物理的な存在性格を持つものと理解しなければならない、 という方向を示すことだった、と見た。つまりこの論点から、脳科学の もつ根本的な「唯物論的前提」を突き崩そうという戦略だ。脳科学者の 誰もそこまで考えていない、ということを茂木は率直に認めている。 そして天外は唯識への方向性を示す。唯識とはつまり「始めに意識場 ありき」という発想なのだ(この本ではそこまで言ってはいないが)。 と、こういう議論は一般読者にはむずかしいかもしれない。しかしもし理解 できるならばこれほど面白いものも少ないということがわかるはずだ。
前項のつづきだが、天外伺朗はこの本の中で変性意識の問題をとり あげている。茂木もそれの存在を認めているが、今の脳科学、 神経科学はそこまではまったくお手上げだと言っている。ますます、 「恐るるに足らず」である。 要するに、SIXTH SENSE というものがあるかどうかだ。その問題に 結局は帰着する。それは、通俗的なテレビ番組で言うような単なる 超能力ではなくて、人間は霊的世界や神を知ることができるのか、 という哲学的・形而上学的問題である。むしろ、そういう哲学的問いが、 「超能力はウソかホントか」というような問題設定に矮小化されている 状況が精神の貧しさというべきではないか。霊性とオカルトの区別が つかないわけだ。それはインターネットの検索サイトやオンライン書店 でも、しばしば精神世界が「エンターテインメント」の項に入れられて しまっているという状況にも表れている。世間の霊性に対する理解は その程度のものなのである。ちなみに『魂のロゴス』もまた「心霊研究」 に分類されてしまい、オカルト話と一緒にされている。(ここでオカルト とは、超感覚的世界を興味本位に扱う態度を言っている。シュタイナー 的な意味での「オカルティズム」とは異なる)
「五感以外の霊的感覚というものが存在する」という主張はオカルト ではない。それは、霊性の確乎たる存在を主張する言明なのである。 これは、この間読んだボナヴェントゥーラの思想にある考え方であり、 ケン・ウィルバーの霊的認識論もボナヴェントゥーラを下敷きにして いるのである。 ゲーリー・ズーカフの『魂との対話』は、こうした霊的知覚力をはっきりと 承認したところを出発点としている。ズーカフはそれを「証明」しようなど とは考えず、初めからその地点から話を始める。こうまで割り切って しまうのも潔いともいえるが・・ 変性意識、超感覚とはたしかにあるものだが、それを「ない」と言い張る のは、自分に体験のないことに価値を認めなくないという自己保身的 衝動によるものである。 ともあれ、「意識と存在の問題に関して何かを語るほど科学は大した ものではない」ということが、天外・茂木の本を読んで納得できたこと だった。これはやはり、哲学・形而上学としてのみ扱いうることなのだ、 と再確認したのである。
OBEの本というとモンローが有名だが、昔読んだ印象だと、面白かった が、この体験はほとんどアストラル次元(『忘れられた真理』で言えば 「中間界」)に限定されてないだろうか? と思った。またモンローの語り 自体に、何となく霊性的なものが多くないような気がしたのだった。 これはずいぶん前のことで、それから読み直してないのでもしかすると 違うのかもしれないが。しかし今度読んでいるOBEの本はモンローと 違い、完全にスピリチュアルな経験として語っている。つまり、自分が 徐々に真理に近づいていく道として語っているのである。それが、 知的ではあるが、ごく普通のアメリカ人のおじさんという感じなのだ。 それを読んで私は、やはり「多次元エネルギー場」という理解こそ宇宙の 姿を(現在の人類の理解能力において)最も正確に反映するものだ、 という確信を強めた。それは結局、仏教で言う「華厳」である。華厳は 真理である。これは私の不動の確信である。『魂のロゴス』は華厳の 現代化を試みたものなのである。 シュワルツの仮説はその方向へ進んだものではあるが、現実としては 「まだまだ」である。OBE本を読み、その直接的な宇宙体験に接していると、 「やっぱり今の科学なんかでは逆立ちしても理解できっこないよ」と思う。 今の科学はあまりに未熟なので、それとスピリチュアルな体験から来た ことがらを結びつけて統一しようということには本質的に無理がある。 そういう場合は体験的真理を優先するしかない。科学と結びつけること を過度に期待する人のたいていは、スピリチュアルな体験がほとんどない 人である。体験してしまえば、物質的な脳のことを一生懸命やっている 脳科学なんか馬鹿らしくて相手にしてられなくなることも事実なのである。 科学に「引け目」を感じているようではまだまだ自分がダメだということだ。 もっとそこに自信というものが出てこないと本物とは言いがたいのである。
それから思ったことは、こういう意識のフロンティアについて研究したい 人は、ともかく、【英語を勉強しよう】ということである。残念ながら、英語 による情報量は日本語とは桁違いである。日本語しか読めない人は、 日本では無視されがちな領域についての情報を得ることはできない。 英語の勉強に投資すれば、その報いは何十倍にもなる。英語が読める ようになることが肝心である
読んだ中では、William Buhlman, Adventures Beyond the Body がいい。 それから、Albert Taylor, Soul Traveler も短いがなかなかだった。 そろそろまたたくさん届く。 ブールマンのは、体験自体がかなりすごい次元まで行っているらしくて 読みごたえあるが、さらに、その体験に基づいて宇宙の多次元エネルギー 場モデルを説明しているところもコンパクトにまとまっていてなかなかの ものだった。さらにプラクティカルなアドバイスも詳細。というわけでこれは かなりのレベルにありますね。 それにしてもこういう宇宙モデルもかなり煮つまってきたというか、 だいたい、このへんのところまで明らかになってきたな、という感がある。 これが21世紀のスタンダードとなっていくのではないか。 また、Robert Peterson, Out of Body Experiences だが、この人の体験 レベルはあまり深くなくて、物質次元の隣くらいしか見てないので、どうも 物足りなかった。
Jane Katra & Russell Targ, The Heart of the Mind は、前作 Miracles of the Mind の続編であり、意識のノンローカル性についての最新の 科学的知見と、永遠の哲学に基づくスピリチュアルな視点を合わせて 提示しようというもの。 データ的な部分ではかなり使えるところもあり、講義の役に立ちそう。 スピリチュアリティーの部分には特に独創的なところはない。まあ、 こういうのは独創的である必要はないのだが、ちょっと体験的な記述 が少なく、霊的波動という点から見てもう一つかなと感じた。 ちなみにターグはCIAでリモート・ビューイングの軍事的研究をやって いた人であり、ジェーンはアカデミックな経歴を捨ててスピリチュアル・ ヒーラーになった人である。考えてみたらこんな人材って日本にはまず いない。日本には、リモート・ビューイングなど「あるわけない!」と テレビに出て吠えて金をもうけている人もいるが、CIAはそんな馬鹿 じゃない。もしそれが本当で、ソ連が先にそれを開発したらどうするのか? とプラクティカルに考えたからね。
少し本格的に、系統的にやりたいのが変性意識の問題。明晰夢、 体外離脱、リモート・ビューイングなど。こういう文献を集めている。ま、 個人的体験は基本的にここには書かないのでそういう期待は持たない でいただきたいが・・それからもう一つは永遠の哲学関係である。 かなり本格的な哲学的表現である。この両者を両輪のごとく進めていく のが、これからの私のスタイルである。 「人間は何を体験しうるのか」という幅広い知識なしに、人間とは存在 とはと難しく論じ合っていてもらちがあかないのである。 まずは知ること。 そこから始まる。 そして今は、昔はほとんど狭いサークルに封印されていた、そういう 人間の体験可能性の限界がものすごい量でシェアされ始めた時代 である。
普通の哲学思想界はそれについていけてない。 思想においても革命が必要なのである。 でも今の日本にはそれを担える人材がない、と感じる。中沢新一は もはやスピリチュアル知識人とはいえないし(もう彼に何かを期待する のは間違っている)、鎌田東二は神道に偏り過ぎかな、という感じで。 人々が知識人に求めるものを、思想界は提供できていないのでは ないか。 だから飯田史彦や上田紀行程度のものが(失礼)引っぱり出される のではなかろうか。上田なんかは、「スピリチュアルにはちょっと興味 あるけどあまり深くは踏み込む勇気がない」というタイプの人にちょうど のよい気持ちよさを与えてくれるということかもしれんですね。 それはそれで存在意義はあると思っているが、これはカウンターカル チャーのインパクトを受け止めるには弱すぎる思想だと思っている。 日本にカウンターカルチャーがなかったことが、スピリチュアルに対する 「及び腰」をもたらしているとは断言できる。
まあこんなことまで言う人は誰もいないが、アカデミズムなんかまったく 恐くなくなったので、そういう恐さがなくなってしまうと自由で、楽しいもん ですよ。アカデミズムにどう思われようと定年までは食えるんだからね、 私は。 というわけでHPでは今後、ダメなアカデミズムに対しては仮借のない クリティックを展開していく予定。 結局、同業利益団体で、「そもそもそんなもの存在してる価値あるの?」 という批判を発し得ないのがアカデミズムなんだから。 (なお、もちろんすべての学会を否定してるわけではない。念のため)
656 :
没個性化されたレス↓ :04/07/26 17:26
ポカーン
657 :
没個性化されたレス↓ :04/07/26 17:38
トランスパーソナルどうこう以前にパーソナルをしっかりしなきゃね 性格悪い人が個我を越えた高い境地をめざしたってなんだかもう
コピペせんでも、なんかどっかにまとめてうpしてくれりゃあいいのに
659 :
没個性化されたレス↓ :04/07/26 22:04
一度はやめそうになったんだけどね・・・ コピペという言葉を見るたびに燃えるんだ、こいつは。
660 :
没個性化されたレス↓ :04/07/26 22:35
コピペ=著作権違反
661 :
没個性化されたレス↓ :04/07/27 16:39
いいな いいな なれたらいいな いいな いいな なれたらいいな みんな いっしょに みんな いっしょに あ・い・うー
662 :
没個性化されたレス↓ :04/07/28 20:25
NHKラジオ第2で菅靖彦という人が講座やってますね
663 :
没個性化されたレス↓ :04/07/28 21:41
664 :
没個性化されたレス↓ :04/07/29 01:32
>>663 NHKこころをよむ
自由に生きる 創造的に生きる-本当の大人になるには-
放送日/日曜日 午後1:20〜2:00
再放送/翌週日曜日 午後11:15〜11:55
菅靖彦なんていう中途半端な男が「本当の大人になるには」だって。w
666 :
没個性化されたレス↓ :04/07/29 12:43
どうして笑うの? 本当の大人になった人は、そういう演題を考えないよ。 それにここの文脈では、世間一般の「大人」ではないでしょ(想像)。 それよりも、2ちゃんねらーが中途半端な男を笑ってどうする。
>>666 いまどき「2ちゃんねらー」なんて言っても何も意味しないよ。
トラパと同じで、その内実は広範、多種多様。
自分を投影しちゃだめ。
菅氏の講演を何度か聞いたことあるけど、著しくつまんない。
見てくれはちょっと俳優のようでかっこいいんだけどね。
翻訳もたくさんしているけど、へたくそ。
世渡り上手なんだろうな。
668 :
没個性化されたレス↓ :04/07/29 14:36
菅氏は実際に見たことないけど、翻訳は好きですよ。 まあ、翻訳文化の典型みたいな印象だけど。これは彼だけに限らないか。 サイケデリックが専門なのかな>菅氏
669 :
没個性化されたレス↓ :04/07/29 14:43
670 :
没個性化されたレス↓ :04/07/29 15:33
>>667 自己愛が入ってる気がする。
トラスンパーソナルを始めた動機も、
どことなく「完璧な俺になる」のような不純な欲望が入っていそう。
文体などのイメージからそんな気がするんだな。
キリスト教東方の霊性の研究とともに、東洋思想では「大乗起信論」を 中心にして勉強してみようと思う。仏教に期待するのは「自己構造論」 である。 で、まず井筒俊彦の『意識の形而上学』を手元に置いてみるのだが・・・ 井筒は、現代日本最高の哲学者とみなされている。しかし、不遜を承知で 言わせてもらうと、「最高でこのくらいか・・・」という歎息も感じるのである。 つまり、本当に全人間を打ち込んだ「道」への参究ということが、どのくらい なされたというのだろうか。 井筒の処女作はプロティノスの神秘哲学についてであったが、結局井筒 哲学は、プロティノスの枠を超えることができなかったような気がする。 というのもその思想は、永遠不動の秩序を前提とする世界を反映したもの で、「存在するものはすべてよし」という全肯定に導くのだが、ここでは、 現存の世界が「神の栄光が現れる過程である」という歴史性の把握が 曖昧になる。これは、インド系の霊性、イスラム的霊性の限界を反映した ものかもしれない。それは、「物質的地球そのものが神の王国に変容する」 ということを信じ切れない知性の産物ではないだろうか。
また、神とのパーソナルな関係に基づく実存的呼びかけということも、 彼は経験しなかったもののようである。 『教父と東方の霊性』では、プロティノスについて次のように書いているが、 これは妥当な見解である。 「神の超越と善性、および生ける神という理解はヘレニズム思想の内に 同化できたが、それに対し位格神、その愛が個々の人格を自由に喚び 起こし、探し求め、再び見出し、回復するところの、そして個々の人格の 自由が神の自由の中で開花する、そのような位格的な神は十分に考察 しえなかったのである」p.218 こういう限界が「トラパ」の中にもあることは容易にわかるであろう。また、 日本人の霊性の歴史において、この、「人格的な交わりの内に決断を 促す神との対話」ということがどれだけ存在してきたのか、私たちはいまだ、 キリスト教的霊性をほとんど理解できていない。しかし、現代西洋のイン テリも理解できなくなったことが、「トラパ」の非キリスト教的性格を生み 出していることもある。 ここで、神のペルソナ、オイコノミア、エネルゲイアということを、統合して いく必要性が出てくるのである。
今日から『キリスト教神秘思想史・1 教父と東方の霊性』をスタートさせた。 この本には、「霊性」の定義が出ている。悪くないと思うので、引用して みよう。 「フランス語 spiritualite' の訳語。主観側からみた人間の宗教性を意味 する。生活における宗教性の具体的実現の仕方と、それに関する理論 を指す。霊性は、人間の宗教性のあらゆる次元に関わるため、教義学・ 典礼学・神学的倫理学などの神学的諸学とともに、心理学・社会学など の諸学がその解明に寄与しうる。その中心的主題となるのは、祈り・ 瞑想などの宗教的行為と、その発展の諸段階および指導理念、そして 超越に向かう人間の方法的努力(修得修行)およびその経験(神秘 体験)である。」p.43 これは私の考えに近い。それは「神学を含む」とはっきり言っているし、 神秘体験を中心テーマとすることも述べられている。
見渡せば、キリスト教神学、そして仏教学の分野では、まだ霊性学的な 立場の研究はあることはある。それらは、神父(牧師)や僧侶が、その 系統の大学などでやっているわけである。ただ、その宗教の枠から なかなか出にくいのは当然だろう。しかし、霊性というものがあること、 そして修行の意義、神秘体験の価値を認めることなどにおいて、こうした 伝統的学問を「お友達」と考え、そこから学ぶ姿勢をとっていた方がいい であろう。 なお、「そういうものなら宗教学があるではないか」と思うかもしれないが、 宗教学には限界がある。なぜならそれが近代的な学であるかぎり、そこに 「神学」が含まれるのを拒絶せざるを得ないからだ。私は大学で宗教学を 専攻しようと思って、失望してやめたことがあるから、間違いない。ヨーロッ パにおける宗教学の成立そのものが、近代知性による、過去の宗教行為 に対する一種のオリエンタリズムの性格を帯びているものであった。ただし、 エリアーデなどにはこれに対する反省があって、その近代的限界を超えて いる。その反省がない宗教学者みな駄目である。つまり、「自分自身は どういう世界の地平に立つのか」という問いを回避するところに思想はない し、思想のない宗教学は単なる官僚的アカデミズムにすぎない。そこで 偉くなっても、それは官庁で出世するのと同じ生き方なのである。
このところ勉強の日々であったので、きょうは本を読むのを休んだ。で、
来月のシンポジウムに備え、ウィルバーへの疑問などをまとめたりした。
ところで、シンポジウムと言っているが、まだ知らない人もいるかもしれ
ないので、いちおう書いておく。次の場所を見ていただきたい。
第3回公開シンポジウムのお知らせ
わが国におけるトランスパーソナル心理学/精神医学の未来
〜ウィルバー理論の再検討を中心に、今後の研究の方向性を探る〜
http://web.archive.org/web/20010405151041/ http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/jatp/sympo3.htm ウィルバーの理論をめぐってということらしい。実は、私はウィルバーが
嫌いである。どうしてそんなにもてはやされるのか、と思う。少しでも霊的
な世界のことが分かってきた人は、あれをいいと思うはずはないと思う
のだが。だから、今回はもう徹底的にウィルバーを批判しまくるつもりだ。
持ち時間が足りないくらい言いたいことはいっぱいある。
私は、西洋の近代心理学と東洋の霊性を融合させる必要はないと思って
いる。近代心理学にそれほどの力はない。まだ、ユングやヒルマンなら
多少はつきあいもするが、ウィルバーが評価しているようなピアジェなどは、
まったく、勉強する気はない。というのは、それは物質科学的な方法で
観察した結果に過ぎないもので、霊性的な探求とは全く相容れないもの
だと思う。
私にはっきりとわかることは、ウィルバーは「魂でものを見る」ということを、 理論的には推奨しているが、自分はほとんどそういう見方をしないという ことがある。たとえば、子供とか、あるいは知的障害者なども、確かに 自我は未発達であるのだが、魂はひじょうに輝いていて、霊性が高く、 周囲の人をその波動で浄化しているような例はたくさんあるのだ。ところが ウィルバーの理論ではそれはすべて、自我が未発達だから駄目なのである。 そんなばかなことはない。それは子供というものを「魂の目」で見ればわかる ことであって、それをピアジェの目などを借りようとするからわからないだけだ。 これはどうしてそうなるかといえば、結局の所、「人間の本体は魂にある」 とはっきり認識していないのではないかと思える。「社会性をもって、 社会に活動しながら霊性を表す」ためには、自我をよく発達させたまま 霊的にも自覚することが望ましいのは言うまでもない。それを否定する つもりはまったくない。だが結局、魂がこちらにくる目的やそのコースは、 もっと多様なのである。生まれて三日目に死ぬ子供も魂の目的をもって そうしているのだ。
この問題をつきつめていくと、魂がこの世に生きている目的は何か、何が それを決めているかということになる。これが、心理学で解決できることと は思えないのである。そこで、思想的には「魂の先在」を考えねばならない のだ。つまり、人間は生まれる前にもいたのであり、死んだあとにもいる であろう、それをぶっ通しにして生きているのが魂だという理解である。 魂こそ主体である(もっと奥深く言えば、霊が主体だが)。そして自我とは、 この世に肉体をもっているときに、社会で機能するために必要な一種の 「心の衣」の如きものである。そしてまた、人間は、この世に物質的に 生きていながら、同時に、また霊の世界、魂の世界にも生きており、自分 の一部はつねに、永遠にそこにいつづける。そういう部分があるということ である。 ウィルバーもそういう永遠の部分があることは理解しているが、それは 深い無意識に眠っていると考えている。それはその通りだが、意識でき ないからといって、決して作用していないわけではない。それどころか、 つねに、霊や魂の次元は働きつづけているのだ。そのへんが、わかって いるようであんまりわかっていないのが悲しいところである。これが分から ない人が悟っているはずがないでしょう。 そういう、日常に生きている人を見て、魂や霊の次元ではこの人はどう なのか、わかる、というのも、「魂の目」「霊の眼」ということの意味である。 ところがウィルバーは、そうした目を、瞑想中にどういう体験をするか、 というレベルで捉える傾向があり、本当にそういう目ですべてを見ること ができてはいないようだ。
この意味で、彼の言う「プレパーソナル」というものも実体としてあるわけ ではない。自我が機能しないというだけでいえば、それは憑依の場合も あるわけだし、心理学の抽象概念だと思う。私の理解で言えば、いわゆる プレパーソナルとは、「アストラル体に蓄積した想念形態が強化しすぎ、 自我が機能できなくなった状態。あるいは、他の『アストラル的意識場』の 影響を受けて主体性を喪失した状態」だと考える。ウロボロスだのなんだの というのはすべて抽象概念であって、アストラル体という概念がないから そういう解釈をするのだという気がする。 プレパーソナルなどというものは存在しない。それは単に、社会的自我と アストラル次元の意識体がまだ調和していない状態である。 プレパーソナル−パーソナル−トランスパーソナルという段階説は私は 放棄する。まず第一に、プレパーソナルというものはない。第二に、トランス パーソナル=いいもの、という価値判断が基本的に間違っている。個を 超えた世界は、「善悪何でもあり」の世界だということがわからないとは、 ちょっと信じがたい感じだ。これがいちばん駄目な部分。こう思っている かぎりウィルバーを評価することはできない。 では個人的・集合的無意識の問題をどう考えるのかと言えば、ユングの コンプレックス論が再評価できるというアイデアが私にはある。つまり、 ユングが抱いていたのは「物質次元を超えた領域において、無限定の 心の領域の広がりがあって、その全体が魂である。その大きな場の中に 『塊』のようなものがあり、それがコンプレックスである」という理解。この 「大きな場」というものを、「魂のアストラル的次元」、仏教的にいえば 「マナ識」と想定すれば、ユングのコンプレックス論がまた生きているの である。これは輪廻の概念とも矛盾しない。 そこで、こうした自己の深層構造論として、「大乗起信論」がひじょうに 有効ではなかろうかと、目を付けているのである。
少し整理してみよう。シンポでの論点は、 1.ウィルバーは悟っていない。彼が言う究極の状態は全然究極ではない。 悟りとは神人合一のことだが、彼はそれを抽象的にしか理解していない。 (ウィルバー自身の霊性の問題、神の超絶性の問題) 2.プレパーソナル−パーソナル−トランスパーソナルという発達段階 というものは実在しない。「前/超の虚偽」に関しては、ユング的な 理解の方がよい。(発達論の問題) 3.人間の本体は魂であり、肉体は「魂の内に住まっている」ものである。 ただし、「身体」は物質ではない。「身体」は、物質的身体と微細身体の 両側面がある。魂は不死である。また魂は何度も肉体を身にまとう。 肉体経験は魂に刻印されていく。(魂と肉体の関係、さらには輪廻、 カルマの問題) 4.ウィルバーは西洋的(キリスト教)的な霊性を統合することを拒否 (無視?)している。このため、普遍的霊性になってはいない。 (ペルソナ的神、オイコノミアの思想の欠如) まあ、ウィルバー批判はこれくらいにしよう。
というわけで、今度は『イスラーム哲学の原像』に行ってみた。イブン・ アラビーやスフラワルディーなどにも、神秘体験を核としてそこから存在 領域について記述する神秘思想が成立しているわけだ。また、起信論 にしても唯識にしても、それぞれ、その目的にとっては見事に完成されて いる。と、そうみてくると、やっぱり、西洋心理学と融合する必要なんか ないじゃん、という気になってくる。優れた神秘思想というものはたくさん あるのだから。というのは、トラパの前提は、自我よりも上位の領域は 東洋思想だが、自我よりも下位については西洋心理学なんだ、という ことである。 私は、個人的無意識なるものは、その肉体経験に由来する「凝固した 意味的カルマ」がマナ識に蓄積されたものとして考える。そして集合的 無意識とは、それが必ずしもその肉体経験に由来せず、別のソースを 持っているものを指す、と思われる。つまりこれらは、マナ識に存在する 意味的カルマの「汚れ」として、唯識的パラダイムにおいて理解できる ものと思う。
ウィルバーの『アートマン・プロジェクト』の前提となっているノイマンの 発達論にはかなり疑問を持っている。というのは、これは、本来「魂の 無時間・無空間的な広がり」というユングの基本的アイデアをあまり理解 せず、無理やりに発達論的枠組を作ろうとしたものだ。ウロボロスとか、 そういう意識領域は現象的にそう見えるだけで、存在論・意識論の レベルでは実在しないものだと思う。 我々の日常意識と表裏一体に、この「無時間・無空間的な意識エネ ルギー場」があり、そこにあらゆる経験に由来する因子(それが業なのだが) が貯蔵されるのである。これは唯識的洞察を現代風に表現したものに 過ぎず、アイデアとしては古いものである。いわゆる無意識とはそういう ことであって、プレパーソナルといわれるのは、単に、そうした心の本体 の働きを十分に肉体経験と統合できない状態を表しているにすぎない。 したがってプレパーソナルとは、言いうるとしても機能的なものであり、 実体的な意識領域と考える必要はないのである。
なぜこの前/超の虚偽という問題が出てくるかというと、それは、「超」、 つまり個を超えるものはよいものだ、という不動の前提があるからだ。 そこを常に、一貫してウィルバーは間違えている。 実は、個を超えたからといって、「いいもの」とは限らないのである。ここ で何度も言っているが、悪魔、悪霊だって個を超えているには違いない のである。 それがわからなくて、「超」は自我よりいいものだと信じ切っているから、 そうでない、変なものが現れたときはそれを「前個」と解釈するしか、 つじつまがあわなくなるのである。すべては、アストラル次元の善悪両義 性を把握し損なったところから、狂ってきている。この点、ユングの方が 正確な理解をしていた、と思う。ユングは、両義性ということが深層意識 の基本性格であることを熟知していた。結局、重要なのはそこで「自我 機能を喪失しない」ということであった。「行ったきり」になっちゃ駄目だ、 ということである、簡単に言えば。 従って、それが前個か超個か、という問題設定ではなく、 1.出てきたものの見極め。それは、さらなる成長につながるものか、 それともそうでないのか。 2.この次元に呑み込まれず、コンセンサス・リアリティに戻ってこれること。
「魂」の実際に関しての知識は、ユングの方がはるかに正確なものがある。 あまり書いてはいないが、個人的には、アストラルより上の次元も知って いたらしい、という情報もある。ユングの魂の概念を、微細意識フィールド 論によって捉え直してみることが面白そうである。 魂が肉体をまとうときには、この微細意識フィールドの内部に、特殊領域 として肉体とともに機能するような「日常自我」の領域を形成する。つまり 肉体があるときはその領域だけよぶんの意識層がある。肉体がなくなれば それは消滅する(といっても依然として多層的ではある)。前個(プレパー ソナル)といわれるものは、この日常自我領域の形成が未発達、もしくは 何らかの原因で阻害されている状態である。しかし、たとえそれが未発達、 機能不全であっても、微細意識フィールドの次元においては完全であり うるのである。わかりやすくいえば、赤ん坊や子供、知能障害者において も、魂次元では成熟しているのである。その次元では活発に作用している ということがあるのである。
横山紘一『唯識の哲学』(平楽寺書店)で、唯識を勉強しつつ、自分の モデルについて吟味していた。この本はなかなか地味だが、けっこう 内容はすごい。何より、唯識がヨーガ行の深みから取り出されてきた 思想であることを明確に把握しているのがよい。単なる理論ではなく 常に実践へのまなざしがある。もっともかなり難解ではあるので、一般 の人にはおすすめしないが。 唯識哲学は、自我意識というものの根源を突き詰めることにおいて、 無上の深みに達している。世界の思想にこれを超えるものはないと 思う。そこで、自己構造論については基本的に唯識をベースとして 考えていくべきだ。
また、西洋の心理学の限界がどこにあるかも明瞭になった。それは 「自我」の把握である。これが根本的に浅いのである。唯識でいえば 「第六識」または第一識から第六識までの統合体、を自我と呼んでいる のではないか。それを、「個」の意識の中心と見てしまう。そして、それ 以外の心的プロセスは、「個」ではないと考える。これが全然違っている。 唯識では、無意識も「個」に捉えられているものと見るのである。 ウィルバーの理論は、結局、こうした西洋的な自我概念を「個」として 位置づけ、その「上」と「下」があると考えて、「上」には東洋思想を 持ってきて、「下」にはフロイトやユングの無意識を当てはめる、という 操作でできあがっていることがわかる。そしてそれを線でつなぎ、 それを発達理論として提示するのである。 こういった思考のうちには、「魂」の実在にぶちあたるという体験が含まれ ていないのではないだろうか。つまり、いかなる通常意識や感覚も滅した ところに、なお「我」の意識が残っている。それを超えなければ「光」に 到達しないということが、瞑想者にははっきりと自覚できるのである。 このことをはっきりと書いているのが、玉城『東西思想の根底にあるもの』 のなかの「全人格的思惟と分析心理学」である。自我にも表層と深層が あり、重層的であるという理解はひじょうに重要なものだと思う。
ただヒルマンは「魂の自覚」ということはわかっているが(これがわかって いない人が実に多いので、これは貴重である)、「霊の自覚」は理解でき ないようだ。それは読めばわかる。そこで、実は「魂」もまた一つの自己性 なのであって、乗り越えねばならないという唯識の地平が出てくるのである。 こういう、「魂の自覚」にも満足できないというものは、その魂の世界の 「彼方」を垣間見たときに初めて生じてくる。そこに「光」が見えるのだ。 しかしその「光」と自分を隔てているものがある。それが深層的な自己 意識である。これを玉城氏は「業熟体」と呼んだらしい。 ヒルマンが病理化を重視するのは重要なポイントだ。ウィルバーの発達論 の薄っぺらさがわかろうというものだ。病理とは死を意識することであり、 まさにそれをくぐり抜けて魂の自覚が生じる。このことは、クリストファー・ バックが、グロフのBPM論を捉えなおして、自己変容の必然的過程として 「死と再生の元型」を位置づけたこととも関連させることができる。これは また「超越に奉仕する退行」ともいわれるもので、これはウィルバーが 考える以上に重要な、本質的なものだということである。
で、訳書『忘れられた真理』の方は予定通りに原稿ができているので、 10月頃には出版される見込みである。これも、「学者としては相当の線 まで行っている」という種類の書物であろうと思う。日本ではウィルバー ばかりがもてはやされているが(グロフなどはほとんど影響力がない)、 ウィルバーのいちばんいけないところは、自分が究極まで悟っていると 思っているらしいことである。何が問題だといって、これほど許し難いこと はないと思う。ウィルバーの肉体が死んで霊界に移行したら、その誤り をたっぷりと思い知らされることになるぞ、と私は心配なのである。ま、 彼にも役目があるのはたしかなので、自分は悟っていると思ってさえ いなければ私ももっと好意的に書くところであるが。ヒューストン・スミス は自分が悟っているなどと微塵も思ってなくて、知性の限界を知って いるところがある。そして、スミスは「永遠の哲学」にきわめて忠実に それを知性言語で語っている。それとウィルバーの著作を比較すると、 ウィルバーが永遠の哲学をベースにしつつ、それに独自のものをつけ 加えて体系化しようとしているのがわかる。その「独自のもの」が、 私には余計ものだと思う。たとえば彼が言う「プレパーソナル」なるもの は存在論的にどう位置づけられるのか。彼のいけないところは、この 物質世界と霊的世界では霊的世界の方が先にあって、霊的世界に 浮遊している特殊領域が物質世界だということが十分にわかっていない (もしくは論理化されていない)ことである。 つまり、日本ではウィルバーから入ってしまったために、永遠の哲学の 本来のヴィジョンが「ウィルバー流」にゆがめられたものが流通している と思う。あくまでウィルバー思想は彼独自のもので、伝統的霊性から 飛躍、逸脱したところを持っていることを認識しつつ受けとめるべきだろう。 この意味でウィルバーは過大評価されていると私は考える。いいかげん ウィルバー一辺倒から目を覚ますべきだろう。
この前から、「Modern Esoteric Spirituality」の、Antoine Faivre による 「Ancient and Medieval Sources of Modern Esoteric Movement」を少し ずつ読み進めている。ギリシャからヨーロッパへの精神史的な連続性が 一望の下に明らかになる感じで、久々の知的興奮である。私はようやく、 学校などで教えられてきたヨーロッパ像から完全に脱却し、「叡知的世界」 の関わりのうちに、どのように人々が真理をめざしてきたかという視点に おいてヨーロッパ思想史を眺めることのできる地点に達したという感じで ある。ここまで来るにはおそろしい量の勉強が必要だったが、既成観念 をくつがえすのはそれだけ難しいということだ。 「権威」によって執筆されている「倫理社会」の教科書を初めとする「公式 的思想史」では、現在の我々自身の探求とダイレクトに結びつくことがない。 公式的思想史は、もはやインテリの陥った袋小路のような「ポストモダン」 で行き止まりになるしかない。 それではなく、ギリシャの叡知的伝統から始まり、キリスト教思想と絡み 合いながら、近代の神智学が成立し、それがまたドイツ観念論などとも かかわりつつ発展し、それがアメリカの超越主義に続き、現在のニュー エイジ思想へと連続していく・・・そして、ここに東洋的霊性とのブレンドが 入ってくる・・ というふうな一貫した流れで把握することが必要だ。そうした 中で、日本的霊性、あるいはアジア的霊性(これにもいろいろなものが ある)をどう受け止めるかという問いが入ってくる。 それは、過去の思想を「人類の、真理への努力の歴史」としてどう受け 止めるかということと切り離すことはできない。
『自由の哲学』をいちおう読み終わった。思ったのは、要するにこれは 「イデーとは現実的なものである」ということを言おうとした本ではないか、 ということである。 そう考えてみると、唯物論と唯名論は通じ合っている。20世紀の学問は、 結局のところ唯名論だ。構造主義はその最たるものだろう。日本の知識人 がダメなのは、「イデーの現実性」を理解できないからだ。それが、丸山 真男が半世紀も前に指摘していた「実感信仰」という日本的唯物論の 土壌になっており、無反省な自然科学者がこの思想的風土の上に立って レベルの低い議論を展開する、という図はいまだに変わっていない。 私の大学時代の修業をふりかえってみても、現在の知的世界では基本的 に、概念とは道具であり、抽象である、という唯名論の文化が支配している。 その考え方を身につけないと知的世界で成功することができないしくみ である。こういう「洗脳」「マインドコントロール」(と、敢えて言うが)から 脱して、イデーとは現実性であり、そう考えなければ精神文化というものは 崩壊するということに気がつかなければならないのである。 これはひいて言えば、「人間とは宇宙的なイデーである」ということである。 これが「アントローポス」であり、ユングがアントローポスの元型などと 言っているときは、そういうことを必死で考えようとしたのであろう。 人間がイデーであることがわからなければいかなる哲学も思想もない。 それはすべての根底である。と、私は考えている。
『脳はいかにして神を見るか』という本があるそうで、その紹介を読むと、 自他未分の感覚を生み出す脳の機能があるのだという。 しかしそもそも宗教体験とはそうした自我融解的な感覚であるという前提 はどこから来ているのか。それは著者たちの宗教体験に対する理解の 未熟さを示しているにすぎないと思われる。 というのは実際に神人合一的な意識に達すると、実際に色々なことが 「わかる」のだ。つまり全知を得るのである。これが著者たちには想像の 外であることは疑いない。実際にそういう覚醒意識に達した人を知らない し、もちろんそういう人を対象に研究をしたわけでもないのに、これで 宗教体験を解明したと思いこむ。 一年もたてば忘れ去られるような本にすぎないと思う・・結局それは、 世の中全体が、覚醒体験というのは単に「内的」な体験であるという不動 の前提を信じこんでいて、高次意識に達する人間は物質系の制約を 超えた智恵や力を有するようになる、という宗教理解を受け容れられない、 という状況をよく表すものではある。
N氏は臨死体験に興味を持って研究し、それを一冊の本にまとめて出版
にトライしているところである。というわけでいちおうこちらからも紹介して
おく。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/1702/ というわけで少しは私の意見も書いておこう。率直にいうと「光」を知って
しまうと、それが脳内現象であるなどという意見はあまりにバカらしくて問題
にならない。そういうひとは単に自己防衛反応をしているにすぎないことは
明白である。また、「光」の体験について読むと、それを受容できる人には
魂レベルの直観として「本当」であることがわかる。わからない人は、それを
受容することでこれまでの自分の枠が壊れるのが怖いのである。キューブラ
ー=ロスも言っているように、信じたくない人は信じられない理由をいくらでも
探し出すものである。であるから、これは合理的説得には限界がある。
ロスは、「わかろうとしないのはその人の問題なので、私には説得する
義務はない」と言い放っているが、私もその考えに近い。
だから、魂レベルで直観的に「光」を感じる人は、脳内現象説の批判などを
いちいち検討する必要を感じないだろうし、また信じようとしない人は、どんな
証拠がそこにあろうと信じないであろう。そういう意味で、N氏の本はター
ゲットの取り方がむずかしいと思うが、「もしかしたら本当かもしれないと
思うが、それをもっとはっきり確かめたい」という人には好適だということに
なるだろう。その意味で、N氏の本はケネス・リングの研究などで明らかに
なったことを要領よくまとめていると言える。
この本の出版が難航しているのは、臨死研究も日本で知られるように なって久しいので、すでに、「光を信じ、スピリチュアルな世界観を受容 したグループ」と、「どうあっても受け入れる気のないグループ」ははっきり 分化しつつあり、「もしもっと証拠があれば信じるのだが」という中間グル ープは少なくなっているということがあるかもしれない。 最初のスピリチュアル・グループは、そのような霊的世界観をどのように 生活の中に行かすかという方へ関心を向けつつある。こういう人々は、 光があることは自明のものとしてわかっているので、「科学的批判を検討 する」必要はべつに感じず、N氏の本のようなものは買わないだろう。 そこが、ターゲットの設定がむずかしいところだということである。出版社 の方も、はっきり分かれてきている傾向がある。この本は中間層にター ゲットがあるのだが、そのマーケットが縮小しているのである。最近の 傾向から見て、そういう感じがする。精神世界系読者からは「どうもむず かしそうだ」と思われ、唯物主義陣営からは「いかがわしい」と思われて しまうのだ(もっともこれは私の場合にも言えることなのだが)。 前者のグループは、合理的推論よりも、「その本からは気持ちのいい波動 が発しているか」を基準に本を選ぶ傾向がある。今、人気のあるのは、 それを日常生活にプラクティカルに応用していく方法を書いた本である。 たとえば呼吸法とかアロマとか、「こういう場合はこうする」というものである。
石井登『臨死体験研究読本』(アルファポリス)というのが出た。近く入手 するつもりだが、まだ読んではいない。しかし、この原稿のほとんどの 部分はすでにWEBなどで発表されているのでだいたいは知っている。 要するに、「臨死体験の脳内現象説は成り立たない」という証明を試み たもの。ケネス・リングの『光のレッスン』が訳されていない現在にあって は、この種のもので日本語で読める唯一の文献か。もちろんリングは 世界的権威だし、石井氏はアマチュアなので、比較するのも酷なのだが、 それでも読むに値するのではなかろうか。非常にオリジナルなものという より、リングなど欧米の臨死研究者にはすでに常識化されている知識を まとめたもの、という位置づけだ。もちろん、本当にやろうとするなら、 アメリカの臨死体験研究センターに蓄積された膨大な情報を参照する ということまでやらねばならないが、そこまで求めるつもりはない。ただ、 一部を除き、かなりな量にのぼる英語文献をあまり参照しておらず、 これまで日本語で出た二次文献に頼っている点は、やや残念ではある。 リングの『光のレッスン』をさらに一般向きにかみくだき、それと仏教など との関連についてちょっと考察してみた、という感じのものだといえそうだ。 しかし、脳内現象説はすでに破綻していることを一般に啓蒙するという 役割は果たしてくれるのではないかと期待できる。
さて石井氏は、脳内現象説の内部矛盾を指摘するところはリングの本 から取ったのではなくオリジナルである、と書いているが、もちろんリング が同じことを書いているわけではないことは、私も知っていることである。 確かに読みかえしてみるとリングの本を下敷きにしているように見えて しまったようだが、私が言おうとしたのは、臨死体験の「光」から重要な ことを学ぶというコンセプトにおいてリングと同じではないか、ということ である。そういうコンセプトのものとしては日本には類書がない、という ことだ。リングの本を一般向きに展開したというのはそういう意味である。 欧米においては脳内現象説は現在、破綻がはっきりしてきており、すで に力を持たなくなっているのではないだろうか。 この前は疲れてきたので途中で話が終わってしまったのだが、実は、 石井氏の『臨死体験研究読本』でいちばん物足りないのは、「現実とは 何か」という哲学的問いにあまり踏みこんでいないと思えることだ。そう なると、「確かに脳内現象説は破綻している、それならこの経験の本質 はいったい何?」ということが謎のまま残されてしまう。石井氏は最近の、 立花隆への批判では、「脳内現象説と実在説との二項対立を超えること」 の必要性を指摘しているが、この方面はこの本では十分に展開されて いないようにも見える。プロフィールを見ると石井氏は現象学も研究した ことがあるそうなのだが、そういうところをもう少し生かした考察があって もよかったように思える。 というのは、「現実とは何か」というのは、20世紀思想の主要テーマとも 言えるものであった。あるいは、さかのぼればカントからすでにそうであ ったかもしれないが。20世紀において、「現実」というものの曖昧さが 指摘され、考察されてきた経緯がある。私は、臨死体験の現実性という のは、結局、「内的経験の現実性」という問題に帰着すると考えている。 内的世界が実在性をもつというパラダイムに立たない限り、臨死体験も 思想的に考察できない。いや、そもそもそういう「内・外」という分類その ものがある世界観的枠組に依存した相対的な世界分節でしかない。 このようなところまで論じていきたいものである。
今日の多くの人は、もっとも必要としているものを、もっとも烈しく退け ようとしている。「確実な科学的経験」の基礎の上に打ち立てられた 多くの見解の強制力があまりに大きいために、人々は本書のような 書物の内容を、根拠のないナンセンスと取ること以外何もできないで いる。(中略)人は、このような者の主張に対して「誰も非難できない」 ような証明をして見せよと要求してくるだろう。だが、こう要求すること で、ひとつの錯覚に陥っていることに、人は気づこうとしていない。なぜ なら、人は事柄の中に存する証明ではなく、自分が認めたがっている もの、もしくは認めることのできるものを無意識に要求しているだけ なのだから。(中略)議論は、それが自分の思考方法の中に存する 論拠だけを通用させようとする人との間で交わされるなら、不毛でしか ない。「証明すること」の本質をよく知っている人は、人間の魂が真なる ものを発見するのは、そういう議論とは異なる道の上においてである、 ということをよく知っている。(『神智学』ちくま学芸文庫版 P11〜14) 実際、「確実な科学的基礎」なるものの延長線上で、根本的な存在の 問題が解明できるのではないかと期待している人はたしかに多い。 だからこそ脳科学の啓蒙書などが多数出版されたりしているだろう。
つまり現在の学校教育だけしか知の世界を知らない人は、「確実に考え るとはどういうことか」というとき、「科学的に考えることだ」という答え以外、 知らないし、自分の中から出てこないのである。そこで、そういう学問が どこかの大学などで行われていると信じ、それを学べばよいと考えたり してしまう。これは、無意識のうちに「国定カリキュラム」というものが人々 の知のあり方についてある強制力を持っていることを意味していない だろうか。つまり、「存在の基礎について考えるというのはどういうことか」 ということを全く知らないし、考えたこともない人が大部分だ。たしかに、 これはカリキュラムとして教えることはできない。ただ、その問いを生きて いる人間の存在によって示すことができるだけであろう。 文部科学省によって作られた「勉強のスタイル」の延長線上で存在問題 を考えてしまう姿勢が、いまだ世の中の大勢を占める。シュタイナーの 時代とさほど変わってはいないわけだ。
『自由の哲学』は面白いぞ〜というわけで読み返しているが、まだ最初の 方。しかし、素朴実在論はもちろんのこと、認識を脳の過程として説明する 理論もあっさりと撃沈される。そのような立場は思考の本質を徹底して 考えていないことが暴露される。脳内現象説とかいうものが哲学的には タワゴトであることもわかるであろう。 しかし、最も重要なポイントは、「思考とは、主観と客観を超えた働きであり、 思考が存在してはじめて主観が成立する」ということだ。これは、唯識的な 発想である。だからこそ西洋ではほとんど理解されない。東洋思想的に いえば「識」について考えようとしている、と理解すればよいだろう。つまり 西洋思想が袋小路に入ったのは、思考を主観の働きと解釈してしまった からだ。ここに根本的錯誤がある。
またここから、「知覚された世界は私の表象である」というカント、ショーペン ハウアー的な命題も誤りであることが明らかとなる。なぜか。世界を生み だしているのは、いま私が自己の主観として認識しているものではない、 ということである。つまり、世界を生成しているのは、「私がいまだその実在 をたしかに自覚化(意識化)することのできない、ある思考作用である」 という意味である。これは私の解釈であるが、私はそのような理解に立って 「魂のロゴス」の世界観を構築した。そしてまた、その思考作用とは一つの 宇宙過程なのだ、ということでもある。だがもちろん、現在は自覚化されない 思考作用を自覚領域にもたらすこともできる。その時私は、「私とは、これ まで私と思っていたもの以上のものであった」ということを知る。 しかしまあ、『魂のロゴス』は、それほど厳密に理論的なものではない。 かなりフィーリングで書いてしまっている。そこで『自由の哲学』で厳密に 構築された論理によって根拠づけられることも心強いだろう。書いてる時 はそれほどこの本を意識しているわけではないのだが、『魂のロゴス』で 描いたヴィジョンを前提としてみると、『自由の哲学』はあまり難解ではなく、 何をやろうとしているのが明確に理解できてくる。実際、「う〜ん、もしかして 日本でこのくらい『自由の哲学』を理解できる人は私のほかそんなにいない かもね」などという妄想に陥るくらいのことはある。全くもって、「イデア リズムの輝かしい勝利」と呼びたい。
『人間理解からの教育』を読む。読みやすいので一日で終わる。この本も、 「イデーの現実性」を強調しているということがわかる。イデーと現実的な ものを結びつけることが重要視されている。 つまり、「概念感覚」、生きた概念を与えることだ。抽象的な、記号操作的 な勉強が、魂の力を弱めるのである。こういうシュタイナー教育のいちばん 基本的な部分が非常にわかりやすく書かれているので、お勧めであろう。 同時に、今の教育のシステムがいかにひどいものか、ということも見えて くる。このような悪い教育を強制されている状況がある以上、この国全体 の精神文化が衰えているのも当然だろう。精神文化は、つまりは魂の力 の表現なのだから。 またこれは、高橋巌が『シュタイナー教育の方法』で語っているように、 現代社会が「ドクトールの文化」になってしまったということでもある。 つまり、抽象的な知識の量を増やし、記号操作に巧みである者が成績が よいとされ、社会的に尊重される風土である。こういうばかげた教育シス テムがなければ、唯脳論などというくだらないものがもてはやされるよう な状況が出てくるはずがない。魂や、魂の力について考えるという能力を 失った人間が大量に出てきているというところに危機があるのだ。
臨死体験に限らないが、すべて霊的な体験というのは要するに「それまで 自明と考えられてきた『世界の地平』を超えて体験が起こること」を本質と している。 「世界の地平」という概念なしに、その体験の「現実性」を云々することに 意味があるのであろうか、と思うわけだ。現象学をまず前提としておかなく てはならない。 脳内現象説など哲学に無知な人間のタワゴトである。要するに私は、脳内 現象説など大した「敵」だとは思っていないのである。あまりムキになって 反論するほどのエネルギーも必要ないと思える。
ウィルバーに関しては今では新刊で手に入らない『眼には眼を』を私は 最も評価する。この「認識論・方法論」は読むに値するものだが、一般 向きではない。もし一冊だけ薦めるとすれば『科学と宗教との統合』(春 秋社)であろう。 しかし、ウィルバーの反ロマン主義というのもちょっと底が浅すぎるので ある。ロマン主義は彼が主張しているような「源泉への回帰」ではない。 すくなくともそれだけではない。むしろ「霊的進化」のパラダイムをはっき りと定着させたのはロマン主義である。ここは、「ネオ・ロマン主義思想 家」を標榜する私としてはいいたいところである。
森岡正博の『生命観を問いなおす』が手に入った。この本で面白いのは、 「生命主義思想」への批判である。私が生命主義思想に感じている「安易 さ」をうまく指摘していると思う。要するに、「いのちというけど、いのちという のは他のいのちを殺さなければいけないものでしょ? それがわかってる の?」ということなのだが、私もまったくそれには賛成である。この点をおさ えているのは鳥山敏子だといって、それを最も高く評価している。私が思い 出すのは宮澤賢治の「よたかの星」の世界である。 当然、上田紀行などは批判的に論じられる。「上田のいのち論は、たい へん明るいものです。みんなで生き生きすれば、地球はきっとよくなって ゆくよ、と言わんばかりの明るさと素朴さが支配しています。そのナイーブ なきらめきに、多くの人々は打たれるのだとも思います。それは、消費 社会が行き着くところまでゆき、こころの癒しまでもがパッケージに詰めて 「商品化」されはじめた八〇年代日本がはらんでいた、根拠のない明るさ を反映しているのかもしれません」 と、要するに、「よくもそんな甘チャン の思想を口にできまんなあ。わたしゃとてもついていけませんわ」と言って いるわけである。 つまりは、「内なる煩悩への取り組みなき生命主義思想は、薄っぺらい」 というふうに要約できるだろう。これには、まったく賛成である。私も、中沢 新一の霊性論に、「内なる罪の自覚と救済という契機を欠いた、『救済論 なきキリスト教論』だ」と書いたことがあると思う。永沢哲も同じで、煩悩へ の取り組みという点を薄めた仏教論になっている。こういう薄っぺらさを 撃つための砦の一つとして、森岡の論は使える。
ディープ・エコロジー思想も、ともすればこういう生命主義的にとらえられ がちだが、ジェームズ・スワンなどは「狩猟論」を書いているし、生き物の と共存とは「殺すものと殺されるものとの共存」だということを理解している。 そのような冷徹な事実の認識の上に、生命をとらえるのは、アイヌや マタギなどの人々はよく理解していたことだ。「いのちってすばらしいです ね」と言っている人は、一度、自分の手で鶏を殺して食べてみる必要が あるだろう。 それはそれとして。ふとしたところから森岡正博の「生命学」のHPという のをのぞいてみた。論文ばかりじゃなくて、精神の軌跡のようなものも 書いてあって、面白い。何でも、一時、オウムとかなり近い精神状態に あって、それへの自己批判からその後の活動を展開しているらしい。 一時「神秘体験」があって、その危うさを自覚したということだ。しかし、 たしかに危ういにしても、その神秘体験なるものを、伝統の上で吟味する ということはなされているのかな? という気もする。「私とは何か」をいろ いろと論じている文章もある。しかし、ざっと見た限り、どうも突き抜けて いない。思索の深さという点では不満でありますね。
私がどういうふうに思想を眺めるかというと、基本的には「この人は、 何を見たのか」、あるいは、見えているのか、ということ。どういう世界を 切り開いたのであろうか、ということなのだが。 そこが森岡は、要するに「ちょっとした神秘体験があったが、怖くなって そこから引いてしまい、霊的な事柄にアンビヴァレントな感覚を残したまま、 何とか生命について考えようとしている人の思想」ということになる。 それ以上でもそれ以下でもないなあ、ということですね。一つの魂の軌跡 としては興味あるが、私が啓発されるところがあるわけではない。この人 も、たしかなものをつかみたくて哲学の道に進んだのだろうが、ついに つかむことができず、「たしかなものはない」ということを前提にして考えて いくしかない、と思ってしまったのかな、と感じた。 しかし、ユングなども少しも出てこないし、少々、考えの幅が狭すぎる。 輪廻問題については、輪廻というのは「他の動物への生まれ変わり」の ことだと思っている。かなり不勉強。困りますねえ。
最近のファンタジー・ブーム――陰陽師、千と千尋、ハリーポッターなど ――について考えてみると、やはり「豊饒なる世界感覚」を求める気分 というものが高まってきていると思う。これは何も最近数年のことでは なくて、もともとロマン主義というものがファンタジーをその本質として とらえていたわけで、それは近代世界の、「世界観レベルの構造的欠陥」 に由来している、その反動なのだということ。ん? なんか急に講義口調 になって恐縮だが、ここでいいたいのは、そういうファンタジーブームに ついてウダウダ文句を言う人(というのをちょっと新聞で見たので)に 対して、私は以下のような態度を取るということ。 アナタは、人が「どこから来て、どこへ行くか」という問いに対して明確な 確信を持って答えることができるか。できないのならば、「できないのが 当たり前だ」と開き直る無神経さではなく、その自分の「無知」を徹底的 に自覚し、それにとことん絶望したところから自分の問いをスタートする ことができているか、それを問題にしたい。 人知を超える宇宙の無限連関、その奥深さへの「畏敬」を持っているか ――それを見れば、その人がどの程度霊的感受性があるかは一目瞭然 だ。
現代社会で、何の疑問を持たず学校教育を受け、日々マスメディアに どっぷり浸かっていると、あたかも「世界のすべてのことが、誰か『専門家』 がいて、解明されている」かのような錯覚に陥りやすい。 古代人と現代人の最大の違いはそれで、「未知」が現存していることを 忘れ、「未知」が出てくるとそれに不安を感じ、それを抹殺したいという 欲求を起こすのが現代人だ。 これがいわゆる「オカルト」的なものに対する魔女狩りを生む。 科学者でも超一流の人は「未知の感覚」を深く持っているものだが、 自分でフロンティアを開拓せず、人の敷いたレールの上でいい成績を あげようとする「優等生」が始末に負えないのである。 そんな枠組やら常識やらはぜんぶ幻想である。 この、「すべての認識はある枠組に依存して生ずる」というのはムズカシイ ようだが、そういうことが思考および感覚のレベルでわかると「未知の感覚」 が復活して、世界が謎に満ち、それ故に不可思議な光に浸されている ように感じられてくるのである。
近代の知は深くニヒリズムに侵されているといってもいいだろう。 宇宙には何の意味もない、人間は意味がない、という思想だ。 意味がないというより、意味があるように「思えない」「感じられない」 ということで、魂の問題だろう。 実存主義というのはこういうニヒリズムから出発している思想である。 実存主義は現在の流行思想ではないが、ニヒリズムはますます社会 全体を覆っているようにも見える。 いわゆる「識者」は、援助交際とかいろいろな社会の頽廃現象をあげつら っているが、そもそも今の「知識人」全体として、人間や世界の存在意義 を明らかにできるような思想を提示し得ていないという怠慢・失敗の責任 を自覚しているようには見えない。
私たちが戦わねばならないものは、ニヒリズムである。 「どうせ人間こんなもの」という現代インテリ的な絶望を拒絶することである。 スピリチュアリティーは、単に「心の持ち方」を変えることではない。 新しい意識にふさわしい社会秩序の生成を含むのである。 スピリチュアリティーは、「希望」を与えなければならない。 未来世において人類が理想の文明に達する可能性を信じられるようにすること、 その燃える火としてのイデーを点火しなければならないのである。
711 :
没個性化されたレス↓ :04/07/30 15:49
このコピペ、かなり古いですね。。 ご本人でしょうか?教授がこんなとこでぼやいているの?w
sage
714 :
没個性化されたレス↓ :04/07/30 22:58
お、久しぶりのコピペ。
715 :
没個性化されたレス↓ :04/07/31 01:34
トラパage
716 :
没個性化されたレス↓ :04/07/31 01:35
江原啓之ってトラパから見たらどうなんだろ。 菅原浩的に言って、アストラル次元の凄い人みたいな感じなのか? っていうか、啓之とウィルバーってどっちが偉いの? ウィルバーのほうが深いってことになりそうだけど、浄霊とか できなそうだし・・・
717 :
没個性化されたレス↓ :04/07/31 03:13
まんだら浩ねえ。。 トラパ全体そうなんだが、この御仁も、 どうも問題意識の根源がよく分からない。 この人のこういう文章を読むと。。 なんか「俺サマ」的おごりが漂うというか。 悟りとか解脱とかに対して、我欲レベルで執着しているような? >SH: はい。つまりこういうことです。「高い意識に達した >人には、必ず霊能力が存在する」ということです。しかし、そ >の逆の命題、「霊能力があれば、その人は高い意識に達してい >る」というのは間違いです。 >珍: ということですと、もし霊能力がない、というならば、 >いくら「悟った」と言っても・・ >SH: はい、本物ではないです。それは「悟ったと思ってい >る」だけのことですね。実際に、いろいろなことがわかったり、 >起こしたりすることができなくてはいけません。悟りというの >は「心の持ち方が変わる」ということではありません。そんな >ことを言っている坊さんなどのお説教はみな偽物です。
>>717 都合よく引用したり説明するのはよしてください。
科学と超常現象 正統派科学が支持する世界観が不適当であり、様々な道に拡張する必要 があるという証拠は次第に集積されつつある。これが長年私が自身の中で 関心を持ち続けていた問題なのである。 私は個人的にそれらの実験をするよりも、これらの現象を理解しようとする 知的挑戦に関わってきている。しかしながら、私がその現象に全く関わって いないというわけではない。もし分別ある結論に達しようとするならば、私は その現象というのは重要だと考えている。 1974年、ジョージ・オーウェン教授のお招きで、サイコキネシスに関する トロント会議に出席した。彼はトロント大学に移る前はケンブリッジ大学トリ ニティカレッジでの私の同僚であった。この会議で前からヒーラーだった 超能力者マシュー・マニングは、金属曲げや磁石の針を離れて動かす能力 を見せたのであった。 時に私は、超能力者の一撃を体験し、全く驚くべき結果を得た。偶然の一致 でないといった可能性は閉め出せなかったけれども。一つの面白い体験は 訪れた講演者がケンブリッジの学生物理協会で話したことに関わっている。 彼はテレパシー実験の非公式な実証をした。まさに重要な瞬間に私は送り手 の「心」に接触しようと試してみたのだ。すると一瞬ピカッと光る光景を見た ような体験をした。私のちょっとした「心」のイメージが後になって評価のため 見せられた絵の一つと一致するばかりか、驚いたことには、対角線が反対に なっているのが実は講演者がOHPの透明シートを左右逆向きに置いてしま ったことで説明が付いてしまったのだ。
これらの体験はこの問題の文献(後述)と同じで懐疑論者の注釈であまり うまく論駁されていないわけで、私にはどうにかしてその現象を科学に適合 させるよう試みることはやってみるだけの価値があると悟ったのである。 私が関わってきた限りの重要なことというのは、 その現象を正統科学にぶつけ結びつけることである。 科学が実際は真実であることを真実ではないと見なしている状況というのは、 不満足であると私は考えるのである。 西洋ではとにかく科学者たちはこれらの事柄にとても混乱しており、 非科学的とか間違っているのだとか、同じものとして科学に統合されるもの として必ずしもみなしていない傾向があるのである。 そのようなわけで、普通ではないこれらの現象を科学に統合することは 重要な課題となる。
科学への統合の一つは、実験といった科学的アプローチを適用することで ある。多様な超常現象(例えばESPとかサイコキネシス)や、水の記憶と いった興味をそそる現象で、かなり実験が成功してきている。 あまり馴染みがないようなので、後者に立ち入ることにしよう。 ホメオパシー医学、何回も薄めた溶液を使う医学分野での研究から、水の 記憶といった話題がのぼっている。使用する溶液は残存する分子が恐らく はないぐらい十分に処理されている。これでは生物学的効果などないはず だと不適当に考えられてきたが、水の中でも確かに電磁場は存在しうるの だから、その基準では電磁場に依存するラジオ、テレビ、ほとんどの電子 機器を除外してしまうだろう。ベンヴェニスト、シリル・スミス他の研究が示す のは、水が電磁信号を記憶することができるということである。つまり生物学 的に活動的な分子から信号を取り出して、水に伝え、様々な生物学的試験 で活性化する水にすることができるのである。 どう理解して良いものなのか? ありえる答えは、水が複雑系であり、 複雑系は単純系で理解されているのとは異なる行動ができると分かり始めて いるといった事実に関係する(このことについては後ほど詳しく触れよう)。 事実、ある種の液体(液晶、超流動)は流れているという事実にも関わらず、 記憶を保持できる秩序化された構造を持つと知られているのである。
科学的偏見との戦い 不幸なことだが、科学実験を行うことで受容を保証するに十分だということ にはならない。我々はここで情報操作と検閲の現象に立ち向かっているのだ。 ネイチャー誌はある時期、ベンヴェニストに対し、そしてごく最近では本に 対して、情報操作と検閲のキャンペーンを展開中である。 ディーン・ラディン「意識する宇宙(The Conscious Universe)」は、超常現象 の証明を考察し、肯定的結論に至っている。 ネイチャー誌は、敵対する評論家に書評するように命じ、自分に都合のよい 誤解に基づいて、「その本には決定的な間違いがある」といった結論を印刷 してしまった。その当時は訂正するのを拒み、数ヶ月が経ち、ようやく検閲 結果として印刷されるべき連絡をインターネットにて流したのであった。それ から、この訂正と評論家の非科学的攻撃を組み合わせて、偏見に満ちた 本の紹介をし続け、攻撃についてのコメントは印刷拒否したのであった。 現在、広範な人々に、これらの全ての活動を暴露する一つの記事が準備 されているのである。
科学の進化 (量子の非局所性と情報) 科学に話を戻すと、科学は現在、革命とまではいかなくとも進化を遂げつ つある。私はいくつか立ち入ってみたいと思う。量子の非局所性と情報、 複雑系と創出について。 量子の非局所性---我々は離れた部分に分断された系を持っており、 我々は部分を観察している。もし一つの部分を観察することが他の部分に 遠隔効果がないと仮定するならば、我々がそう選択するかもしれない多様 でありえる観察結果が矛盾することが分かる。 推論はこうである、非局所的作用(遠隔作用)があるに違いないということ である。 不幸にも(標準理論では)我々はメッセージを送るのにこれを使うことができ ないでいる。これができないということを介入している宇宙のランダムな影響 に帰するいくつもの理論はある。もしこれがある十分強力に連結した系に 押し込めることができれば、信号の伝達は可能であろう。しかし、これをする やり方が実際には分からないのである。
実験室内でうまく実験できる量子の非局所性の一応用がある。それが いわゆる量子テレポーテーションだ。 これでは、適当な系が二つの部分に分かれていて、AとBが各自一つの 部分を成す。Aは自分の部分の系をテレポートしたい系に連結させ、ある 観察をすることでBにテレポートできる(実際にはBにAと同じ系を供給する のだ)。量子情報はすぐにBの系に伝達され、これは複製されるために 使われ、より多量の情報が過程を完結させる他の方法で送らねばならない ということなのだ。この種の過程はかなり難しく、その十分な意味合いが まだ実際には理解されていないのである。 バークレーのヘンリースタップは違う方法で量子論の論理を検証している。 彼の考えではこうだ。観察時に起こるとされる波動崩壊過程は「心」が物理 に入るその点である。 我々は「心」が作用するとき変化する知識を波動機能と同定することが できる。 彼にとっては、知識とは自然の基本的側面であり、我々が行っている科学 の方法では隠されてしまう。
科学の進化 (複雑系と創出) 複雑系と創出は、通常の(非量子的)系でさえ起こる事柄である。 何が起こっているのかを論及することは、通常の言葉で物理系を表現する 問題に関わってくる。 一般的な通念では、物理系の振る舞いを表すのに方程式を書き下ろし、 それを使って計算してゆく。初期状態に微妙な関わり(カオス、バタフライ 効果)があるような時、問題が生じる。というのも我々は正確な予言ができ るほど十分には初期状態を知ることができないからである。複雑系では 状況が悪く、我々が使うのに必要な描写を決定する一般系の現象が微妙 に初期状態に依存しているのである。 結果は一つの系の部分が予言できず、予期すらできない方法で自己組織 化するのだ。 そして系が自己組織する仕方に依存しつつ、我々は全く違う現象に直面 させられるのである。 複雑系に関しては、主に組織化と関係性に基づいてとても異なる理解が 使われるべきだと結論することができる。 複雑系は、物理では馴染みのない方法で、系の微妙なところに影響を 与えることだろう。 生体系と社会系の文脈では馴染みやすいのであるが。
プラトン世界 この主題の適当な実例を挙げてみよう。 (1)ガイア---正統派になりつつあるが、生体システムと生態システムが 統一した全体を形作っているというわけだ。生体システムは環境を制御 できるまでに進化しうる。 (2)クレアヴォイヤント・リアリティ(透視的現実)---ルシャンは神秘家や 超能力者に自分たちの現実を述べるようお願いし、それが科学者の 現実と異なる原理で働いていることを見出した。全体への組織化は 時空さえ超越し、基本的に分離しているが相互作用するサブシステム の概念よりも、もっと重要である。
プラトン世界 (心の一般理論) 心の一般理論。私は心と認知の一般理論について目下研究している。 科学ではまだ理解されていない組織の可能な形態を含み入れる、自然に おける組織化の一般理解を与えることができればと思うのだ。 「心」とは相互支持を提供する真に特殊な過程の集合として特徴付けられ ると主張する。これらのいくつかは、科学では普通考慮されていない能力に 対応しているのだろう。 結局、私はいわゆるプラトン世界に注意を向けるのである。これはロジャー ・ペンローズによって数学的直観に関連して大いに論じられている。私も 可能な音楽の応用に関して、音楽学者と共同研究してきている。
ペンローズはいかにして我々が数学概念を理解し、どのようにして数学的 真理に到達するかに関わってきている。 一つの見方は、我々の心はプラトン世界に接触しており、そこから知識を 取り出すことができるといったものである。ペンローズはゲーデルの定理 から次のことを示そうとしている。数学的能力の原因であると通常理解され るような手続きはありえないが、論理が間違っている(例えばいかにして 我々の心が働いているのかといったことについての悪いモデル)といった 一般的な意見はあるのだと。 デイヴィスとハーシュは異なる見解を持ち、それによって新しい概念が 生まれる難しい経験の性質や過程の固有の誤謬性を強調している。彼ら は数学を一つの経験科学のようであり、再現性は我々の思考過程に同期 する可能性から生じるのだと考えているのである。 しかし、私は違う理由でペンローズは正しいかもしれないと考えている。 直観の源泉は私たちには接触することの難しいある特殊な過程(いわば プラトン過程)に違いないだろう。数学的真理との接触は日中に金星を探す ようなものに違いない。これを成し遂げることは微妙な過程であり、接触 した者には結果は明白なのである。
音楽とプラトン世界 プラトン主義と数学の問題に関して、音楽学者テシス・カーペンターと私は 音楽に関連した問題を検討した。 我々が気づくのは、ややこしくさせる二つの異なる問題があるということだ。 一つの音の構造が全体として音楽として知覚されるのか、あるいは審美的 に有効および力強い音楽として体験させられるのかという問題だ。音楽に ついての心理学理論のほとんどは前者を特徴づけることに専心しているよう に思われ、ある種の音楽の文法を生み出している。 もう一方の問題は、音楽の効果および意味により関わるようにみえるのだ。 この問題をこなす方法は、音楽をある種のコードとして取り扱い、心理学者 が処理する構造(まるで言語の意味が意味とは全く関係のない統語論的 構造を通して効果があるように)を通して効果が組織化されてゆくとすること に思える。 我々が示唆したいことは、音楽は心の過程に密接に繋がっており、それら を再構成することができるということである。 これらの関連性は宇宙的側面があり(特殊なテーマはそれらの可能性に おいて特に力強いか多産である)、プラトン領域に帰するという新しい音楽 に対する我々の反応に基づいて、いくつかの論争がある。 それではもし存在するならばプラトン領域とは何か? 宇宙的なもの、心の ような側面を持ち合わせるものとは、現在語りうる全てであるが、心のような 過程の一般理論は、これを推敲するのに役立つであろう。
新しい段階に突入する科学 結論:科学は恐らく新しい段階に突入している。 「万物の理論」といった考えは奇妙にも廃れてしまうことだろう。 もっと人工的でない状況下で取り扱うべき組織化の複雑性が無視されて いるところで、非常に選択された一連の現象だけが理論化されていたのが 伝統であったのだ。 私たちに向き合っている挑戦とは、「超常現象とプラトン世界」という、 新しい状況にアプローチする方法を見いだすことである。 ※この「超常現象とプラトン世界」は、1998年11月に早稲田大学で開催 された「第二回意識・新医療・新エネルギー国際シンポジウム」のオープ ニングレクチャーのために用意された、ジョセフソンの論文である。 ブライアン・ジョセフソン (Brian D. Josephson) ケンブリッジ大学物理学科教授。同キャベンディッシュ研究所 濃縮物質理論グループ・精神-物質統合プロジェクト所長。 「ジョセフソン効果」で30代にしてノーベル物理学賞を受賞。 その後、デヴィッド・ボーム(ロンドン大学教授)らと共に、 意識と科学の問題を研究。 著書: 「量子力学と意識の役割」(1984) ジョセフソン,カプラ,ボールギャール,マトック,ボーム 「科学は心霊現象をいかにとらえるか」(1997) ジョセフソン、茂木健一郎訳 「意識が拓く時空の科学」(2000) ジョセフソン,ロリマー,リュービック他
「脳は1000億のニューロン(神経細胞)でできているが、ほとんどの人は、 1本のニューロンや1つのシナプスの相互作用が情報の基礎単位だと 考えている。だが、たとえばゾウリムシのような単細胞生物を見てほしい。 ゾウリムシも泳いだり、食べ物を探したり、仲間を見つけたり、生殖を 行なったりとさまざまなことをする。それでも、標準的なパラダイムに よれば、ゾウリムシの個体は1つのスイッチにすぎないということになる」 1995年以来、ハメロフ氏とオックスフォード大学の数学者、ロジャー・ ペンローズ氏は、人間や動物の意識の本質は、ニューロンの奥深く―― つまりゾウリムシの個体内部――の量子過程の中にあるとする一連の 論文を発表してきた。 両氏の主張にはなお議論の余地があるものの、この理論が現実の成果に つながるとすれば、人間の知性、人間の経験というものを理解するうえでの 次の大きな「量子飛躍」の踏み台は、脳のニューロンのごく小さな構造 である「微小管」にあるのかもしれない。
「全身麻酔ガスは、非常に微妙な量子力学によって完全に、そして可逆 的に意識を消す」と、アリゾナ大学で麻酔学と心理学の教鞭もとっている ハメロフ氏は語った。 「化学結合、イオン結合といったことは一切起こさない。ただ、とても弱い 量子力学的力によって麻酔は作用するのだ。つまり、つきつめて言えば、 脳は量子力学的な力で機能しているということだ」 ハメロフ氏の微小管理論は、量子薬理学の道をひらき、アルツハイマー といった神経障害の治療などにも応用できるかもしれない。しかし、 ハメロフ−ペンローズ理論は意識そのものの謎に迫るものだと言われる と、医療的応用の可能性すらも色あせて見えてしまう。 「夢、陶酔状態、幻覚、それにたぶん精神分裂状態も、われわれが量子的 に重なった状態――情報が濃密になっている状態――にあるときに生じる。 その量子の重なりが壊れると、それがわれわれの現実、知覚、感覚を 決める。これが1秒に40回起こるとしたら、意識とはそれらがつながった ものと言える」
「現代の科学では時間・空間を超えた見方をしているそうだが、その分野 や学者を教えてほしい」という質問が来た。アドレスが書いてないので こちらで答えるしかない――というか、基本的にQ&Aというのは共有の 財産としていきたいというのが私の考えで、純粋に個人的な質問には お答えしないのが原則である。私は霊的なマスターでもないし指導者でも ないので、その人の霊的次元を見なければ答えられないような問いには 答えることはできない。一般論的な話ならば、公開してはいけない理屈は ないわけである。 さてこれは「ニューサイエンス」というものの話なのだが、こういうのも知ら ない人は知らないのだな、と思う。一時期は、C+Fの『パラダイム・ブック』 とか、この手の情報を要領よくまとめたガイドブックもよく出ていたのだが、 新しいものはあまり出ていない。 で、まず基本書としてはカプラの『タオ自然学』(工作舎)である。これはまだ 色褪せてはいませんね。それからズーカフの『踊る物理学者たち』(青土社)、 この二冊が定番。 それから、ホログラフィーモデルについて詳細に語り、霊的な領域にも踏み こむタルボットの『ホログラフィック・ユニバース』(春秋社)がおすすめ―― ということだが、こんな名著が品切れ? 何を考えているのか春秋社はー ーというわけだが、もっと易しいものとしては天外伺朗『ここまで来た「あの 世」の科学』(祥伝社)は、物理学とユングとのドッキングを試みる。理論的 には粗すぎるが、入門としてある種の雰囲気を知るには役立つ。 それから、科学論として村上陽一郎『新しい科学論』(講談社ブルーバック ス)に眼を通しておくのをすすめる。これは「科学信仰」の毒抜きとして必須 科目である。それと、『パラダイム・ブック』(日本実業出版社)も96年の新版 があるのでそれもガイドとしてよい。
それからニューサイエンスではないが『魂のロゴス』の予備知識となる本 をいくつか。 まずユング心理学のことくらい知っていないと話にならない。これはマンガ が出てますぞ。石田おさむ『マンガ ユング深層心理学入門』(講談社)で ある。あとは河合隼雄のものとかを読む。 それからトランスパーソナルについては、吉福伸逸『トランスパーソナルと は何か』(春秋社)が、そのバックグラウンドなどをよく説明してあるというの でいいかも(何? これも品切れ?)。
それにしても・・この間の攻撃メールは、このページが存在することが面 白くない人物による意図的な嫌がらせなのかもしれない。 フリーメールアドレスから差し出されているし、堂々とした意見陳述では なく、嫌がらせと呼ぶしかない。そのような行為をする人間が霊性に ついて語る資格を欠くことは言うまでもなかろう。 私が時折いろいろなものの批判や悪口を書くので、その辺に気に入らな いところがあるのかもしれない。まあ、これ以上は言わないが。 私としてもあまり批判めいたことは書きたくはないし、書く場合はたしかに 自分の中にある傲慢性が刺激される場合もあるので、その点に細心の 注意が必要であることも自覚している。
だが、やはり批判すべきものはこの社会の中にたくさんある。 それはたとえば、自分の利権のために、 もっとよいものが育ってくるのを妨害する諸勢力である。 その代表例として、医学界とか大学界とかがあると考えている。 また自分の商売のためにあるものが存在すると具合が悪いので いろいろ妨害するという人々は世の中に決して少なくないのだ。
社会人をある程度やった人は、世間というものにどういう人間がいるのか よくご存じだろうと思う。 問題なのは、自分の生活のために(正確には生活レベルの維持のために) そういう行為に手を染めることをなかば強いられている状況におかれたとき どうするか、ということかもしれない。 霊性そのものを教えたり語ることはむずかしいが、 霊性の展開を妨げている諸条件が現代社会に存在することは事実であり、 それを撃破していくことは必要である、と考えている。 というわけでこれから多少形は変わる可能性はあるが、 自分の内なる傲慢性に注意を払いつつ批判すべきものは批判する、 という姿勢は維持するつもりなので、その点はご安心願いたい。
738 :
没個性化されたレス↓ :04/07/31 16:40
>>718 いや一例として挙げただけで、
まんだら浩の文章にはあちこちにそういう固さや狭さが感じられて、
どうも好きになれないということなんだが。
それに、
> 都合よく引用したり説明するのはよしてください。
と言われても、そもそもなにも説明していないわけで。
なんか変だ、なんかよく分からん、ということで書いたまで。
あんたこそ果てしもない「都合よく引用」を繰り返しているぞ。
>>738 いずれにしても抽象的な印象批判に益はありません。
>>738 また、それについては、このあたりのFAQ
>>485-493 をよく読んで
「役割」というものを理解してください。学問に乗せて、根本的に変革
していくには、戦略が必要なのです。
さてこのところ毎日ディスカバリーチャンネルを見ている。最近では前世 記憶や古代のシャーマンをテーマにしたものも。これがどうしてなかなかの 水準のものだ。前世問題ではハラルドソン博士、シャーマンではクリップナ ー、グロフ、それにモンロー研究所まで登場し、当代一流ばかりである。 モンロー研究所での、ヘミシンク技術による体外離脱の実験まで紹介して いた。いちおうたまに批判的な意見も入れたりするが、全体としてはこうした 「意識のフロンティア」の探求に対しかなり好意的な製作態度である。それ はもう日本の民放の興味本位、視聴率稼ぎの特番などとは比較になりよう もない。こういうテーマでこうしたレベルの番組は日本では決して作れない だろう。それはこうしたテーマを日本語で語れる人材があまりいないという こともあるが。 しかし意識のテーマに限らずディスカバリーで放送する番組にはみな、 「フロンティアの探検」に対する大きな興味というものを感じる。これは アメリカの文化が持っている長所の一つではなかろうか。奥地を探検 するのと、意識のフロンティアを探検するのを同じ目線でとらえている ところを感じさせる。「未知」に対する感性に健康なものがある。 思うに日本は北海道などを除いて、あまりに隅々まで開発されつくした のか。「未知」が少ない国土に住んでいてはそうした興味が高まらない のもやむを得ないのかもしれない。探検もせずに「・・ということはある はずない」などと決めつける人々ばかりだと、フロンティア・スピリットは 殺される。残念ながら、日本の放送人、ジャーナリストでさえそうした 人々がたくさんいるのではないか。
The Cultural Creatives という本がある。How 50 million people are changing the world という副題で、Paul Ray / Sherry Ruth Anderson の 共著である。 アメリカに新しい文化が生まれつつあることを論じた、社会学的な本である が、読みやすい。つまり、新しい意識の目覚めに関心を持ち、また同時に、 環境問題、女性問題・・等々にも新しい意識を有している、という社会層の 人々だ。それが今や5000万人に達するといっている。 これは従来「ニューエイジ」と呼ばれてきたものに近いが、現在では「ニュ ーエイジ」という言葉は蔑称になっており、だいたいにおいて、そういう動き が気に入らない人が、その最もオカルト的な部分を誇大に捉えて馬鹿に するための言葉になっている。たとえばすぐ「プレイアデス星人からのチャ ネリング」などという類のものを連想させてしまうわけだ。まともに意識の 成長を考える人々は――私を含め、ここを読んでいる人の大多数はそう だと思うが――自分をニューエイジと呼ばれたくはないだろう。 ところがそういうグループをどう呼ぶかというほかの名前がなかったのだが、 この本ではそれを明確に「cultural creatives」という名前を与えた。 名前をつけたということがいちばん重要なことだろう。
この日誌でも前に取り上げた Hanegraaf の研究にしても、何をもってニュ ーエイジとするかというのが、いろいろ説明はしているものの今ひとつ納得 できないものがあり、著者の恣意で線引きをしているのではという疑念を 消すことができなかった。また日本の島薗などは新宗教運動を合わせて 考えているが、これも納得しがたい。 つまり、「自分とほぼ価値観の近いグループ」というものができつつあると 私たちは感じているわけで、それがそういうものと一緒に扱われるのは かなり違うという印象を受けるわけである。 しかし、この「cultural creatives」というのは、その点、新宗教ともオカルト 好みともはっきり異なる、ある価値観を共有するグループとして際だたせる ことに成功している。 つまり私たちは自分たちのアイデンティティを確認し、その名前を持つことが できたという意味で、この本は画期的だと思う。 そういうグループの人自身の自己確認には最適であるし、また社会学者や 宗教学者もこれを読んで勉強していただきたいものだ。
というわけで、日本でもアメリカに数年遅れてはいるが、確実に cultural
creatives の層は増加していることは肌で感じることができる。
アメリカと違うのは、日本では知識人層がこれに対応できていないことだ。
この社会層の価値観を支え、リードしていくような知識人が数えるほどしか
いないのである。
たとえばその中核となる「新しい意識成長のあり方」について知的に論じる
ことのできる人材がどれだけあるのだろうか。出版界では翻訳物に頼らざる
を得ない状況だろう。たとえば私も二つ星をつけた中沢・鎌田といった人たち
も、ほかに人材がないから出てきてはいるが、みな彼らに決して満足して
いるわけではないのである。
日本ではアカデミズムの縛りが強いというか、正確に言えばスタンダード
からはみ出ることが怖くて自己規制してしまう人がほとんどなのだ。私も
「スピリチュアル知識人の研究」
http://www.nct9.ne.jp/mandala/ranking.html を書いてみて、日本の人材不足ってかなり深刻だと実感したのである。
新星が出現するのを待望する、という雰囲気がかなり高まりつつ、と見る
ことができる。
だが、アメリカに比べれば絶対的なマーケットはまだ小さく、向こうのよう
に講演やワークショップだけで生活できるという条件はない(アメリカの
cultural creatives をリードする知識人のほとんどは大学人ではなく、
そのようにして生活している)。
明日の準備の合間に書いているという次第。明日は「至高体験」をとりあ げる予定。ロマン主義から深層心理学への流れをおさえていく。 深層心理学と言っても、私はユングは過渡的なものと考えており、そこは 軽く飛ばすことにして、アサジョーリ、マスローを重視することにしたい。 日本でのユングはちょっと過大評価だというのが率直な意見である。 ユング学者はたくさんいるが、結局、河合隼雄を超える人材はいないでは ないか、と言いたい。アサジョーリをもっと評価すべきである。 講義では、トランスパーソナル・セルフ、つまり「自分の中核」というテーマ に切りこんでいく。
747 :
没個性化されたレス↓ :04/07/31 22:00
抽象論にすぎない、といって、またコピペに逃げる・・・ だめだこりゃ。 トラパってこんな奴ばかりなのか。まともなカキコする奴いないの?
748 :
没個性化されたレス↓ :04/07/31 22:05
著名人の書いたものを延々とコピペ。 つっこまれると「それは印象批評だ」「それは偽物だ」と、聞く耳持たず。 そしてまた延々とコピペ。 コピペやめろといわれると腹を立てるが、いったんやめたふりして再開。 トラパって自己愛性人格障害か?
749 :
没個性化されたレス↓ :04/07/31 22:30
なんか言ってやれ、コピペの人。 このままじゃトラパのイメージが最悪になるぞ。 むしろ戦略が失敗してるのでは?
もう遅いけれど、コピペだよとすぐわかる何かがあればよかったんだよ。 (引用符または出典表示) 自分はわかっているから平気なんだろうね。
>>747-748 一スレの事象でしかないことから、何らかの人格や行動を推測し、
「トラパって」という形で粗雑に一般化しようとするのは無理があるだろう。
ひとつの情報源にすぎないのだから、もし何か知りたいことがあれば、
一つの活用として、自分で調べてよく理解する必要があるだろう。
つっこまれるも、逃げるもなにも、そもそも、そういう具体的で
まともなものがあったわけでもない。様子をみるに、自らの想像の範囲で
なんとか存在を矮小化して、印象・結論づけようとする、そういう総括の
意図の書き込みが、3回ほど続いただけだ。心理学板、そもそも2chでは
よくある傾向ではある。
あまり自己を投影していてもしょうがない。まずは知ることだ。
>>749 たしかに、コピペは成り行き上、かなりやりすぎている。
ただどっちみち揶揄的なイメージを刷り込んでくる人はある。
そういう人ではなく、むしろ中間層に対して、情報に遭遇する確率を
上げて、いろいろ本人で触発されて気づくスピードを早めたい、
そういう実験的意図がある。
コピペしていて説得力ないが、安易な偏見をのりこえて、
情報として活用できれば活用していってほしい。
>>750 まあ、そもそも、コピペ自体の割合に根本的な問題があるかも
しれない。たしかにもう遅い。
754 :
没個性化されたレス↓ :04/08/01 22:53
>>752-753 おまえコピペマンか?
内容からしてそうだろうと思うが、どうもおまえの表現力は拙いな。
どうして「コピペ本人です」と一言添えられないんだ。
コピペにも断りがなかったしな。
たえず自分の本性を隠しながら偉そうに相手の高みから物を言おうとする。
そういうパーソナルレベルをなんとかしてからトラパでも始めればと思うが。
>>754 >>750 の「自分はわかっているから平気なんだろうね。」に書いたように、
本人は「コピペ本人です」とわかっているから、平気なんだ。
サイズが496KBを超えています。512KBを超えると表示できなくなるよ。 コピペ過多のための異状事態か。
>>754 そういう風に見えたということは心しておくが、
ただ、やはりいくつかあった人格批判もどうかと思うぞ。
一言で言うと一貫して「その前にパーソナルをどうこう」って
パターンだけど、正当化するわけでもないが、それを言うなら
このスレだけに当てはまるわけでもなくて、あたりを見回すと、
臨床に対する悪口など、いっぱい見えてくる。
あまりに独断的で一方的な見方すぎないかな、ということ。
あなたも人のこと言えないような高みから物をいうような
態度になっているのも説得力に欠ける。
>>755 固定ハンドル付けているならまだしも、
あなただって「自分はわかってるから平気」と思って
書いている側面はあるかもしれないよ。正直、
読んでもどこまで同一人物かもそれほど定かじゃない。
必ずしも一方的に言えるわけじゃないでしょ。
759 :
没個性化されたレス↓ :04/08/01 23:52
>サイズが496KBを超えています。512KBを超えると表示できなくなるよ。 ワラタ。こんなの始めてみたw。 コピペで唯一印象に残ったのが「補足」だけだった
>>758 ここで問題になっているのは固定ハンドルじゃなく、
コピペの人の言動、それだけなのだよ。
>>760 まあ、それだけならトラパとは切り離そう。
かなり多いね。 コピペはちょとおどろいたけど、わりと面白かった。 参考になり。
763 :
没個性化されたレス↓ :04/08/02 02:29
自演がいる模様ww」
764 :
没個性化されたレス↓ :04/08/02 10:18
コピペ、読みごたえあって面白いんだけれど 出典元のURLも入れてくれないかな? あまりこの分野知らないのでもっと網羅的に 読みたくなるんです。
内閣府が出している、「科学技術と社会に関する世論調査」 (2004年2月)の結果を見てみると興味深い。 2000名を越える回答者を対象に行われた調査で、 「科学技術に関する関心」の「世代差」がくっきり出ている。 「関心がある」割合は40歳代、50歳代ではまだ高いが、 「関心がない」割合は18〜29歳、70歳以上で、 さらに高くなっている。 科学技術に対する無関心は、 10代、20代の若い世代で、もはや過半数を超えている。 いわゆる「理系離れ」の現象は、確実に進行しているのだ。 これは学習指導要綱の問題というより率直な現実認識だろう。 実際、「科学技術の発展がわれわれの生活にもたらすプラス面と マイナス面」をみると、プラスとマイナスが「両方同じくらいである」 と答えた者の割合は、18〜29歳、30歳代で、 それぞれ高くなっている。 科学(近代合理主義)は、物質的経済的な豊かさの原動力になり、 生活の利便性をもたらしてはくれたが、一方で、社会に多くの歪みと 矛盾を作り出し、合理性と能率の過度の重視が、環境破壊や 人間疎外の原因となっている。 もう若い世代ほど、科学技術の限界や負の側面を認識し、 科学信仰のうそくささを、肌身で感じているということだろう。 こうした矛盾や問題を解決したい、という現代人の欲求の高まりが、 心理学など、人間への関心に結びついていると考える。 その意味で、従来のようなスタイルの科学は、これから現代人への 影響力を失っていくだろう。