正統派科学が支持する世界観が不適当であり、様々な道に拡張する必要があるという
証拠は次第に集積されつつある。これが長年私が自身の中で関心を持ち続けていた問題
なのである。私は個人的にそれらの実験をするよりも、これらの現象を理解しようと
する知的挑戦に関わってきている。しかしながら、私がその現象に全く関わっていない
というわけではない。もし分別ある結論に達しようとするならば、私はその現象という
のは重要だと考えている(これらの問題について分別ある結論に達していない者は
たくさんいるのだ)。
1974年、ジョージ・オーウェン教授のお招きで、サイコキネシスに関する
トロント会議に出席した。彼はトロント大学に移る前はケンブリッジ大学トリニティ
カレッジでの私の同僚であった。この会議で前からヒーラーだった超能力者マシュー
・マニングは、金属曲げや磁石の針を離れて動かす能力を見せたのであった(私がいわ
なければならないのは、これらの実証は十分管理されているとはいえないものの、
私には効果が事実であったような合理的な証拠を提供しているように思えたのである)。
時に私は、超能力者の一撃を体験し、全く驚くべき結果を得た。偶然の一致でない
といった可能性は閉め出せなかったけれども。一つの面白い体験は訪れた講演者が
ケンブリッジの学生物理協会で話したことに関わっている。彼はテレパシー実験の
非公式な実証をした。まさに重要な瞬間に私は送り手の「心」に接触しようと試して
みたのだ。すると一瞬ピカッと光る光景を見たような体験をした。私のちょっとした
「心」のイメージが後になって評価のため見せられた絵の一つと一致するばかりか、
驚いたことには、対角線が反対になっているのが実は講演者がOHPの透明シートを
左右逆向きに置いてしまったことで説明が付いてしまったのだ。
これらの体験はこの問題の文献(後述)と同じで懐疑論者の注釈であまりうまく論駁され
ていないわけで、私にはどうにかしてその現象を科学に適合させるよう試みることは
やってみるだけの価値があると悟ったのである。私が関わってきた限りの重要なことと
いうのは、その現象を正統科学にぶつけ結びつけることである。科学が実際は真実で
あることを真実ではないと見なしている状況というのは、不満足であると私は考えるの
である。西洋ではとにかく科学者たちはこれらの事柄にとても混乱しており、非科学的
とか間違っているのだとか、同じものとして科学に統合されるものとして必ずしも
みなしていない傾向があるのである。そのようなわけで、普通ではないこれらの現象を
科学に統合することは重要な課題となる。
科学への統合の一つは実験といった科学的アプローチを適用することである。多様な
超常現象(例えばESPとかサイコキネシス)や水の記憶といった興味をそそる現象で
かなり実験が成功してきている。あまり馴染みがないようなので、後者に立ち入る
ことにしよう。
ホメオパシー医学、何回も薄めた溶液を使う医学分野での研究から、水の記憶といった
話題がのぼっている。使用する溶液は残存する分子が恐らくはないぐらい十分に処理
されている。これでは生物学的効果などないはずだと不適当に考えられてきたが、
水の中でも確かに電磁場は存在しうるのだから、その基準では電磁場に依存する
ラジオ、テレビ、ほとんどの電子機器を除外してしまうだろう。ベンヴェニスト、
シリル・スミス他の研究が示すのは、水が電磁信号を記憶することができるという
ことである。つまり生物学的に活動的な分子から信号を取り出して、水に伝え、
様々な生物学的試験で活性化する水にすることができるのである。
どう理解して良いものなのか?ありえる答えは、水が複雑系であり、複雑系は単純系
で理解されているのとは異なる行動ができると分かり始めているといった事実に関係
する(このことについては後ほど詳しく触れよう)。事実、ある種の液体(液晶、超流動)
は流れているという事実にも関わらず、記憶を保持できる秩序化された構造を持つと
知られているのである。
不幸なことだが、科学実験を行うことで受容を保証するに十分だということにはなら
ない。我々はここで情報操作と検閲の現象に立ち向かっているのだ。ネイチャー誌は
ある時期ベンヴェニストに対し、そしてごく最近では本に対して、情報操作と検閲の
キャンペーンを展開中である。
ディーン・ラディン「意識する宇宙(The Conscious Universe)」は、超常現象の証明
を考察し、肯定的結論に至っている。ネイチャー誌は、敵対する評論家に書評するよう
に命じ、自分に都合のよい誤解に基づいて、「その本には決定的な間違いがある」と
いった結論を印刷してしまった。その当時は訂正するのを拒み、数ヶ月が経ち、よう
やく検閲結果として印刷されるべき連絡をインターネットにて流したのであった。
それから、この訂正と評論家の非科学的攻撃を組み合わせて、偏見に満ちた本の紹介
をし続け、攻撃についてのコメントは印刷拒否したのであった。
現在、広範な人々にこれらの全ての活動を暴露する一つの記事が準備されている
のである。
科学に話を戻すと、科学は現在、革命とまではいかなくとも進化を遂げつつある。私は
いくつか立ち入ってみたいと思う。量子の非局所性と情報、複雑系と創出について。
量子の非局所性---我々は離れた部分に分断された系を持っており、我々は部分を観察
している。もし一つの部分を観察することが他の部分に遠隔効果がないと仮定するなら
ば、我々がそう選択するかもしれない多様でありえる観察結果が矛盾することが分かる。
推論はこうである、非局所的作用(遠隔作用)があるに違いないということである。不幸
にも(標準理論では)我々はメッセージを送るのにこれを使うことができないでいる。
これができないということを介入している宇宙のランダムな影響に帰するいくつもの
理論はある。もしこれがある十分強力に連結した系に押し込めることができれば、
信号の伝達は可能であろう。しかし、これをするやり方が実際には分からないのである。
実験室内でうまく実験できる量子の非局所性の一応用がある。それがいわゆる量子テレ
ポーテーションだ。これでは、適当な系が二つの部分に分かれていて、AとBが各自
一つの部分を成す。Aは自分の部分の系をテレポートしたい系に連結させ、ある観察を
することでBにテレポートできる(実際にはBにAと同じ系を供給するのだ)。量子情報
はすぐにBの系に伝達され、これは複製されるために使われ、より多量の情報が過程を
完結させる他の方法で送らねばならないということなのだ。この種の過程はかなり
難しく、その十分な意味合いがまだ実際には理解されていないのである。
バークレーのヘンリー・スタップは違う方法で量子論の論理を検証している。彼の考え
ではこうだ。観察時に起こるとされる波動崩壊過程は「心」が物理に入るその点である。
我々は「心」が作用するとき変化する知識を波動機能と同定することができる。彼に
とっては、知識とは自然の基本的側面であり、我々が行っている科学の方法では隠され
てしまう。
複雑系と創出は通常の(非量子的)系でさえ起こる事柄である。何が起こっているのかを
論及することは通常の言葉で物理系を表現する問題に関わってくる。一般的な通念では、
物理系の振る舞いを表すのに方程式を書き下ろし、それを使って計算してゆく。初期
状態に微妙な関わり(カオス、バタフライ効果)があるような時、問題が生じる。という
のも我々は正確な予言ができるほど十分には初期状態を知ることができないからである。
複雑系では状況が悪く、我々が使うのに必要な描写を決定する一般系の現象が微妙に
初期状態に依存しているのである。
結果は一つの系の部分が予言できず、予期すらできない方法で自己組織化するのだ。
そして系が自己組織する仕方に依存しつつ、我々は全く違う現象に直面させられる
のである。
複雑系に関しては、主に組織化と関係性に基づいてとても異なる理解が使われるべき
だと結論することができる。複雑系は物理では馴染みのない方法で系の微妙なところ
に影響を与えることだろう。生体系と社会系の文脈では馴染みやすいのであるが。
この主題の適当な実例を挙げてみよう。
(1)ガイア---正統派になりつつあるが、生体システムと生態システムが統一した全体
を形作っているというわけだ。生体システムは環境を制御できるまでに進化しうる。
(2)クレアヴォイヤント・リアリティ(透視的現実)---ルシャンは神秘家や超能力者に
自分たちの現実を述べるようお願いし、それが科学者の現実と異なる原理で働いて
いることを見出した。全体への組織化は時空さえ超越し、基本的に分離しているが
相互作用するサブシステムの概念よりも、もっと重要である。
心の一般理論。私は心と認知の一般理論について目下研究している。科学ではまだ理解
されていない組織の可能な形態を含み入れる、自然における組織化の一般理解を与える
ことができればと思うのだ。「心」とは相互支持を提供する真に特殊な過程の集合と
して特徴付けられると主張する。これらのいくつかは、科学では普通考慮されていない
能力に対応しているのだろう。
結局、私はいわゆるプラトン世界に注意を向けるのである。これはロジャー・ペンローズ
によって数学的直観に関連して大いに論じられている。私も可能な音楽の応用に関して
音楽学者と共同研究してきている。
ペンローズはいかにして我々が数学概念を理解し、どのようにして数学的真理に到達する
かに関わってきている。一つの見方は、我々の心はプラトン世界に接触しており、そこ
から知識を取り出すことができるといったものである。ペンローズはゲーデルの定理から
次のことを示そうとしている。数学的能力の原因であると通常理解されるような手続き
はありえないが、論理が間違っている(例えばいかにして我々の心が働いているのかと
いったことについての悪いモデル)といった一般的な意見はあるのだと。デイヴィスと
ハーシュは異なる見解を持ち、それによって新しい概念が生まれる難しい経験の性質や
過程の固有の誤謬性を強調している。彼らは数学を一つの経験科学のようであり、
再現性は我々の思考過程に同期する可能性から生じるのだと考えているのである。
しかし、私は違う理由でペンローズは正しいかもしれないと考えている。直観の源泉は
私たちには接触することの難しいある特殊な過程(いわばプラトン過程)に違いない
だろう。数学的真理との接触は日中に金星を探すようなものに違いない。これを成し
遂げることは微妙な過程であり、接触した者には結果は明白なのである。
プラトン主義と数学の問題に関して、音楽学者テシス・カーペンターと私は音楽に
関連した問題を検討した。我々が気づくのは、ややこしくさせる二つの異なる問題が
あるということだ。一つの音の構造が全体として音楽として知覚されるのか、あるいは
審美的に有効および力強い音楽として体験させられるのかという問題だ。音楽について
の心理学理論のほとんどは前者を特徴づけることに専心しているように思われ、ある種の
音楽の文法を生み出している。もう一方の問題は、音楽の効果および意味により関わる
ようにみえるのだ。この問題をこなす方法は、音楽をある種のコードとして取り扱い、
心理学者が処理する構造(まるで言語の意味が意味とは全く関係のない統語論的構造を
通して効果があるように)を通して効果が組織化されてゆくとすることに思える。
我々が示唆したいことは、音楽は心の過程に密接に繋がっており、それらを再構成
することができるということである。これらの関連性は宇宙的側面があり(特殊な
テーマはそれらの可能性において特に力強いか多産である)、プラトン領域に帰する
という新しい音楽に対する我々の反応に基づいて、いくつかの論争がある。
それではもし存在するならばプラトン領域とは何か? 宇宙的なもの、心のような側面
を持ち合わせるものとは、現在語りうる全てであるが、心のような過程の一般理論は
これを推敲するのに役立つであろう。
結論:科学はおそらく新しい段階に突入している。「万物の理論」といった考えは
奇妙にも廃れてしまうことだろう。もっと人工的でない状況下で取り扱うべき組織化
の複雑性が無視されているところで、非常に選択された一連の現象だけが理論化され
ていたのが伝統であったのだ。私たちに向き合っている挑戦とは「超常現象と
プラトン世界」という新しい状況にアプローチする方法を見いだすことである。
※この「超常現象とプラトン世界」は、1998年11月に早稲田大学で開催された
「第二回意識・新医療・新エネルギー国際シンポジウム」のオープニングレクチャー
のために用意された、ジョセフソンの論文である。
ブライアン・ジョセフソン (Brian D. Josephson)
ケンブリッジ大学物理学科教授。同キャベンディッシュ研究所
濃縮物質理論グループ・精神-物質統合プロジェクト所長。
「ジョセフソン効果」で30代にしてノーベル物理学賞を受賞。
その後、デヴィッド・ボーム(ロンドン大学教授)らと共に、
意識と科学の問題を研究。超常現象を肯定するに至っている。
著書(ノンローカル意識論):
「量子力学と意識の役割」(1984) ジョセフソン,カプラ,ボールギャール,マトック,ボーム
「科学は心霊現象をいかにとらえるか」(1997) ジョセフソン、茂木健一郎訳
「意識が拓く時空の科学」(2000) ジョセフソン,ロリマー,リュービック他