1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
最近また再評価され始めている解釈的アプローチと質的分析。
実証的アプローチや量的分析の欠点をどこまで補えるのか。
認知主義に次ぐ新興勢力としてこのまま一定の地位を獲得するのか。
それともかつての内観法同様、再び葬り去られてゆくのか。
そもそもこれは心理学という枠組みに入るのか。
どうでしょうね。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/10/30 13:34
半構造化面接とかって心理学の領域でやる必要ないのでは。
もちろんそれでないと見えてこないこともあるけど
基本的に心理学の基本的な姿勢とは方法論的に異質だと思うけどなあ。
3 :
名無しさん@お腹いっぱい:01/10/30 20:51
実証主義の象牙の塔に閉じこもっても、「心理学」という言葉のもつひろがりをカバーできない。
こころをこころが実証できるのか、主観的体験を実証できるのか、という
謙虚な問いかけこそが心理学を豊かにする。
内観主義の象牙の塔に閉じこもっても、「心理学」という言葉のもつ客観性はカバーできない。
こころをこころが解釈できるのか、主観的体験を解釈できるのか、という
謙虚な問いかけこそが心理学を厳密なものにする。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい:01/10/30 23:16
主観的体験は解釈はできますよ。誰にでも。その解釈が妥当であるかは別にして。だって
それは毎日日常的に私たちがしていることだから。
でも実証はできません。原理的に無理です。主観だから、いや違う、と言われればおしまい。
3をもじろうとする4はそこで破綻している。
この辺が実証派の創造性のなさなのか、とつい思う門外漢。
主観的体験は解釈はできるでしょう。誰にでも。
しかしその解釈が妥当であるかどうかが学として非常に大事なこと。
主観だから、いや違う、と言われればおしまい。
そうならないように客観的データを取り、検証するのが心理学。
門外漢の5の学はそこで破綻している。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい:01/10/31 08:22
私が悲しいかどうか、どうやってデータをとるのか、心理学というのはそういう主観的
体験についてデータが取れるのか、門外漢としてはその方法論をしりたい。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/01 00:28
操作的に定義された、非の打ち所のない「悲しみ」の基準があったとして、
ある人がそれを客観的に満たしていなかったとしても
その人が「悲しいんだ」と言えばそれはその人は悲しみを感じていることになる。
この場合、言語報告しかデータはありえない。
そうした現象は学としての心理学は無視するべきなのか。
扱うとするならば何が最良の道なのか。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/01 00:33
まあ、どっちもやりましょう。ケンカしながら。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい:01/11/01 00:34
7です。私は物性物理なんかをやっているODなんですが、
私の言いたいことは8さんのいうことと同じですね。
心理学の実証的研究をやっている方に意見をきかせてもらいたいです。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい:01/11/01 00:36
6の方、お願いします。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい:01/11/01 08:32
主観的世界について心理学が何も語らない、無視する、という選択肢を取ったとき、
心理学は、神経科学や認知科学に吸収されて残らないのではないでしょうか。
心理学が残っていくことがあるとすれば、主観的なものに焦点化する必要があるのでは。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/01 12:03
たとえばスキナーは主観的世界も強化随伴性に制御されるという
点では「行動」だから,行動分析学の対象だと言っている。
主観的世界とか,精神世界とかいわれるものだって,外的世界と
無関係に成立し,機能しているわけじゃないだろう?
それに,精神世界が「なぜ存在するのか」については,
それがある方が生存や繁殖に有利であった,というような
「進化の中でみた機能」を抜きに語れないだろう?
主観的世界は実証不可能,科学の範囲外という考えも
ひとつの先入観にすぎないと思うが。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/01 13:03
>8
「悲しい」という言葉をどのように覚えたか考えると、
主観は真に本人だけの問題なのかと思うな。
>>14 そのとおり。言語の使用はその人が属する言語コミュニティによって
決定される。だから主観的世界が外的な客観世界と独立だなんて言えない。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/01 16:41
そう。だからそれを客観的データにしなければ話にならないんだ。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい:01/11/01 22:47
7なんですが、そのしかたを教えて。
私が悲しいかどうかをどう実証するのか。
もちろん主観的世界というのは外とつながっているにきまっているでしょう、素人でも
わかる。で、主観的体験をどう実証データとするのか、そして私の専門である、
自然科学の実証性と同じレベルなのか、そこを知りたいわけです。
13の方は、単に知識をもっているだけで本質的にものを考えていないのでは。
実証可能、という根拠を教えてくださらない限り、それは一種の教条に過ぎない、
科学ではない。
あの手の研究の楽しさが良くわかりません。
どういうところが、面白いのでしょうか?
あおりじゃないです。
>>17 逆に,こう考えてみて。
あなたが主観的に悲しいとして,外的には悲しくなる原因はなく,
そのことがあなたの外的な行動にも,言動にも,表情などにも,
生理的な指標からみても,悲しくない状態とまったく何の差も
生み出していないとして,それが「悲しい」というのはどういうことなの?
そうしたものが「純粋な主観」なんだろうけど,
実際にはそんなものは存在しない。たとえば悲しさの感情は
それを引き起こす外的な事象,それによって生じる生理的な喚起,
「泣く」などの行動と不可分なんだよ。それどころか,
「泣く(行動する)から悲しくなる(感情が生じる)」という説も有力だ。
主観といわれるものがそもそも外的事象や,その主観を
持つ個体が示す行動と不可分であるなら,「主観そのもの」
なんてものを想定すること自体がナンセンス。そして,
主観と不可分な外的事象や行動は客観的に観測,あるいは
統制できる。
だから,あなたが悲しいかどうかは,あなたが悲しくなるような
状況に置かれているかどうか,悲しさを構成するような顕在行動を
示しているかどうか,生理的喚起があるかどうかなどから実証可能。
そういったものがなくても感じている「悲しみ」というのは
たんなるエラー。本来の意味での「感情」ではない。
本来の意味での「悲しみ」の状態にいなくても
(もちろんそうであるときにも)
「悲しい」と表明するという言語行動が見られたならば、
そうすることによって周囲(環境)はどういう対応をしてくれるかを
見る必要があるでしょうね。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい:01/11/02 23:47
7ですが、詭弁ですね。18は。
ひとによって妙なことが悲しくなることがあるから人間なのであって、
あなたの言っているのは、人間性というものをあなたの理論に当てはめようとしている
ようです。ほんとうに18がいうようなものが実証なら、明日はないように思います。
主観と言うのは毎日私達が体験しているものです。
体験から遠いものを選んで研究したい、ということを(そのほうがらくだから)18は
いっているに過ぎません。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/03 01:52
>>21 お前頭悪いな〜自分でちゃんと
>>ひとによって妙なことが悲しくなることがある
って言ってるじゃん.
妙だろうが何だろうが、悲しくなるような状況に置かれたから
悲しくなるんだろ.18さんの文脈で取り扱うことは可能じゃんか.
自分で18さんの文脈に合うこと言っといて「詭弁」は失礼だろ(笑)
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/03 06:58
どうして理系のやつって、精神世界とか主観みたいなものを
やたらと特別視したがるかね。やっぱり、それについて考えたり、
取り扱ったりすることをまったく学んでないからだね。
「人によって妙なことが悲しくなる」にしてもそれは「妙な」外的
事象に随伴しているんだよ。それは個人内で法則性を持つだろう。
そもそも主観が法則性を持たないことを前提とするなら、それは科学の
対象ではないよ。法則がないんだから。
心理学者はふつう主観的状態も一定の法則性を持つと考えるし、
その法則は外的事象や、その「主観」が身体の状態や行動に
与える影響、それらが外的環境に与える影響といった観察可能な
事象と結びついて生じていると考える。もしそれを否定するのなら、
主観は科学の対象ではないということになるだろうな。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/03 07:02
ああ、それから「人によって」っていうのは個人差の問題だ。
個人差があるというとすぐに内的な問題(あるいは観察不能な問題)
にしてしまうのも理系っぽいまちがい。個人ごとに違う規則性が
あるというだけの話で、それはもちろん観察可能な外的事象と
不可分に結びついている。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい:01/11/03 08:11
原理的に観察不可能な現象があるとわたしは思うが。実験と言うのは
そういうことを前提としているよ。
23みたいなひとがいるから、心理学はあたまがわるい、と自然科学
から相手にされない。
科学についてもう少し、客観的に考えたほうがいいのでは。
>>25 あたまがいいとか,わるいとかではなく,
どこがどう間違っているのか,きちんと反論した方が良いね。
単に
>>23が言っていることが理解できないだけじゃない?
たぶん学部生だと思うけど、プリントアウトして先生に聞いてみたら?
>>26 25じゃないけど、23は、観察が観察対象に影響を及ぼすことがある、
という現代科学の常識が抜け落ちてるよ。
自分の盲点に無自覚なのはあまり頭がいいとはいえないね。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/03 11:56
>>27 この議論で,それがどういう論点になるの?
具体的にきぼんぬ。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/03 11:59
頭が悪いと言われてプライド傷ついちゃった? ごめんよぅ。
おりこうさんだからあんまり怒りや苛立ちを特徴付けるような行動はやめてね。
(^o^)←いちおう私微笑んでるからね。お得意の「操作的定義」とやらで好意と解釈してね。
人間は演技をするんだよ。
観察者が存在していることが明らかなときは特に。
台本で知っているはずのできごとに驚いているドラマの役者さんは本当に驚いてるのかな?
被観察者が観察者に対する語りかけとして表面化させる行動は、被観察者が観察者を観察して行う。
そのとき、観察者が観察する被観察者の行動は一体なんだろね?
メッセージは特定の行動に対して現れるものではなく、
観察者の想定する定義が反映しているんだから、自分を自分で観測しているようなもの。
また、たとえば自分が怒っていると演技で伝えようとするとき、
観察者が「怒った人はこういう行動を表面化するものだ」と望むように行動することがある。
もちろん、嘘は「コレハ嘘デアル」というメタメッセージを伴ったら意味が無い。
だから君が嘘であることを示す徴候を探して嘘と真実を峻別するたびに
嘘の態度は言葉の網をするりと抜けて新しい姿を見せるようになる。
要するにヒステリーの症候が定まらないのと同じ原理だね。
観察しているつもりで観察されちゃうおりこうさん。
行動主義に徹するのなら現象学に徹すべし。
間主観性の領域には踏み込まないがよろしかろ。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい:01/11/03 21:54
自分の領域にとじこもらず、科学哲学や科学論の言うことにも耳を貸したほうが、
心理学を豊かにする。
行動主義は「行動」学であって、「心理」学ではない。
門外漢から見るとそう見える。
しているみたいだ。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/03 23:19
まあまあ皆さん、あまりけんか腰にならずに。
>>30 行動主義・現象学と間主観性という対立軸について、
両者の相違点を詳しく教えてくれませんか?
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 08:38
>>30 で、それが「演技」であるかどうかは
何によって決まる、あるいは判別されるのかな?
たとえば、自分が演技しているか、あるいは
演技していないかを、行為者は外的事象を
全く参照しないで判断できるかな?
あるいは、自分のある行為が演技であるかどうかに
ついての行為者の判断は常に正しいか?
外的事象や言語コミュニティなしに意識や主観が
そもそも成立するのかという根本的問題だ。
とりあえずウイトゲンシュタイン読め。
それから帰ってきて
>>23などをもう一度読め。
自分の方が深い意見いってるように思うけど
実は無知なだけってことがあるぞ。
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 10:09
間主観性は心理学と関係ないだろ。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 10:35
>>33 >で、それが「演技」であるかどうかは
>何によって決まる、あるいは判別されるのかな?
できるわけないじゃん。●●だなぁ。
君が区別するたびに変化する、って言ってるんだよ?
一意に定まらないのに現象から判断できるわけがない。
しかしそれであっても人間は演技で嘘をつく。
現象を観察し、何かを他から区分しようとするたびに嘘が紛れ込む。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 10:36
>>34 まったく同感ですな。
心理学的手法で間主観性の分野に踏み込まないでほしいですな。
お互いのために。
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 14:12
>>35 だったら演技と演技でないもの,という区別自体に
どう言う意味があるの?
たんなる不可知論であるならこのスレの議論とは
関係がないのでは?
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 21:19
だからやっぱり,主観なんか科学としての心理学の対象じゃない,
で,いいんじゃない.行動学でいいじゃん.
39 :
名無しさん@お腹いっぱい:01/11/04 22:08
認知心理学の方、37みたいな馬鹿、ほっといていいの。
心理学は行動学でいいってさ。
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 22:35
>>37 要するに、君がこのスレに出てきて君の信じる理論で得意顔で語ろうとするのは
山でスイカ割りをするようなものだから黙ってなさいってこと。
どんな理論にも射程があります。
自分の理論の射程はどこまでなのか、よく考えることです。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 23:16
>>34,36
去年の日心のシンポジウムかなんかで
アメリカで活躍されてる知覚の大先生が
間主観性を強調されてたけど?
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/05 01:02
間主観性を強調されてたって?
何故なのか分かる?
まともな客観性を公に出来ないからさ。(笑)
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/05 09:06
>>39 37と38は別人だと思われ。
けっきょく
>>40他は何がいいたいのか.....
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/05 09:43
心理学では,内的過程など無視するのが基本.
科学的検証できない「主観」は存在しないも同然.
研究の対象にならない,
たとえそれで,隣接科学に吸収されても,構わない
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/05 13:14
44のような意見がほんとうに心理学者の一般見解なんですか。
私は科学哲学をやっているものですが、他の皆さんの見解を教えてください。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/05 13:53
>>45 44はちょっと行き過ぎですが、大筋では心理学の基本的姿勢と言っていいでしょう。
しかし文化心理学を中心に、文脈や主観を重視する立場もあります。
1で挙げられている言葉や構築主義などをキーワードに調べてみてください。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/05 16:40
>>45 言語的に表明された主観、というのは言語行動ですから
他の行動と同様に(客観的に)扱える、というのも心理学者の
一般的立場ではないでしょうか。
たとえば社会心理学における「態度」というのは
主観に属するものの概念ですが「態度測定」というのは
言語的に表明された態度を対象に行うわけです。
また、スキナー的な行動主義なら、(言語的に表明されないものも
含めて)主観も行動であり、強化随伴性の制御を受けるという点で
顕在的な行動と差はないと考えるでしょう。
ただ、それにしても言語的に表明されない主観をどう
ハンドリングするのかという根本的な問題は残ります。
これは心理学に限らず、主観というものを扱う学に共通の問題だし、
もし「科学的に(客観的に)扱う」ということを放棄したとしても
おなじことです。了解的、あるいは解釈的アプローチを
とったとしても、他者の、言語的に表明されない主観というものに
アクセスする方法などあるものでしょうか。
48 :
名乗るほどのものでわ:01/11/05 19:02
「内的過程」≠「主観」だと思われますな。。。念のため
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/05 19:09
>>48 おお,もちろんじゃ。
また,内的過程≠意識,内的過程≠心的表象であることも大切じゃ。
主観を扱わないこと,意識を扱わないことは,
どちらも内的過程を扱わないことと同義ではないのじゃ。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/05 19:16
あと「データとしての主観」と「研究手法としての主観」を
区別することも必要じゃ。もともとこのスレは
研究方法としての主観(研究者による事象の解釈)を
問題にしていたような気がするのじゃが,
ここしばらくはデータとしての主観が話題になっておる。
スマソ,
>>50の「データとしての主観」は
「研究対象,あるいはデータとしての主観」と
しておいたほうがよさそうじゃ。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/06 08:22
こういう問題を扱うのに対象論的に,あるいは方法論的に
心身二元論,あるいは精神世界と現象世界の二元論をとるのは
わかりやすいし,楽なのだが,もし
>>35がいうとおりなら,
認知心理学や認知科学も(外的な事象を記述の指標とする限り)
主観にはアクセスできないことになるな。
ただ,二元論をとったとしても,精神世界(主観,あるいは間主観)が
外的な現象世界とは独立に自己完結した世界だと考えることが
不可能なのも同時に事実だろう。もし,現象世界はたとえば行動主義的な
方法で記述しつくせる世界で,そこでの人の行動や社会的事象に精神世界が
なんの影響も与えていないなら,精神世界がなぜ存在するのか,
とくに生物としての人間がなぜ精神世界を持つのか,という疑問を
(っていうか,精神世界なんて無駄だろうという感想)を持たざるを得ない。
でも,そんなことはないだろう。
やはり,精神世界は生物としての人間の生存とか,人間と環境との関係に
おいてなんらかの機能をもっているから存在するのだと思う。
(主観,あるいは間主観そのものの性質や構造ではなく)その「機能」に
着目すれば,客観的な方法が有効な場合もたくさんあるだろうし,
また,機能という面での精神世界と現象世界のインターフェースの分析には
外的事象をピヴォットにすることが役に立つ(っていうか他の方法はない)
と思う。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/06 09:53
このスレ健全に育っているようですね。糞スレだらけのこの板では、唯一
知的刺激を感じます。
どこがだ。
心理学に間主観性は関係ないだろ。
それから精神世界なんて存在してないだろ。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/06 19:10
>>54 間主観性という言葉の用法の問題じゃないの?
間主観性というのが(表明された)複数の主観の関係とか一致って問題だったら、
たとえば測定の客観性の問題だって間主観性の問題だろ。
客観性というのは間主観性だって書いてある本読んだことあるぜ。
ただ上の方で言ってる間主観性はそれではないだろうけどな。
精神世界は存在しているとも、していないとも言えないんだよ。
テスト不可能なんだから。テスト不可能なものを「存在してないだろ」とはいえないよ。
でも少なくとも俺には俺の精神世界があるんだけど、
>>54には54の精神世界、ない?
わからない、ない人もいるのかも知れない、他人にこころがあるかは不可知だからな。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/06 22:50
精神世界ってなんだ?
わかりやすく説明してくれ、わからん。
>>52 えーと、おひさしぶり…、なのかな?
でもおにいさん、そのエニグマは昔からずっと考えられてきたことでして…。
現在も有効とされるような思想にはその部分をどうやって解決するかが含まれている。
ゲーム理論は知ってるよね?
あれは無限の手順をあらかじめ行ったとして妥当性から考える方法。
数学で言えばlimの操作と同じ。無限回目の行き先を定義で決めちゃうわけね。
その逆が思考ルーチンというやつで、探索時間や探索の深さに制限を設けて
有限の時間内に無限回の試行の近似解を取ろうという発想ですね。
どちらも理系的な発想だと思います。
文系的な発想法にも対策があって、うちらだと、無限の循環の方が本質で、
表に顕在化するものはその副産物に過ぎない、ってやるわけですね。
用語法が独特だから主張し始めるとバレバレです。
プリコジンの散逸構造を生命活動に適用しようとする発想はすでにスタンダードですね。
発想としては環境を fix して主体の見てやる発想だと思うです。
その逆がギブソンのアフォーダンスに代表されるような
主体を fix して環境の方を見てやろうという考え方ですね。
ちょっと話は外れるけど、生物の系統解析の話するね。
かつて、生物の分類は形質から行われていました。
「似ていれば近い種である」という考え方ですね。自然な発想です。
たとえば、トカゲ、ワニ、ハト、なら、トカゲとワニが近く
ハトはそのグループからは少し外れている、とやるわけです。
ところが、最近になって遺伝子解析を用いて生物の分類が進められるようになった。
その結果、ハトとワニが近く、トカゲは比較的遠い、ということがわかった。
形質から系統関係を完全に理解することはできない。近似解を出せるだけ。
また、遺伝子解析の結果から、どんな形質を持ったどんな生物になるかは分からない。
それは計算の精度の有限性が壁になるため、実際に試行してみる必要がある。
似たようなことが行動と神経組織の間にもいえます。
形質と行動、遺伝子と脳の神経細胞の対応関係を与えてやる。
つまり、脳細胞によって系統関係を調べて、それぞれの状態を分類して、
それから行動を元に考えていくのはまったく問題ないです。
でも23みたいに、行動から分析しようとすると問題が起こるわけです。
それは確かに限定的な所与の条件から最善の結果を導く手法ではある。
でも、自分で所与の条件を限定して分類を始めようとすると現実を無視することになる。
遺伝子解析の結果を無視してワニとトカゲがワニとハトよりも近しい関係であるとしてしまうように。
で、こいつは "見えていない"、"頭が良くない"、という評価につながっちゃうわけですな。
さりげなく読み返してみると23がタタリ神化してますねぇ(笑)。
ちなみにうちらだと「心的活動と見なされる活動を生み出す何らかの構造物」を指して
「精神」という語を用います。
いや、具体的に定義として習ったわけじゃないから、たぶんね。
「精神分析」というのはまさにそういう意味なわけですね。
「精神世界」という言葉は、私は口にしないけど、
一般には精神を組織する構造全体のことを指しているのでしょう。
何せ "world"「界」だからねぇ…。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 08:20
>>58 では「主観」や意識の問題について,系統分類における「遺伝子解析」の
役割をするものは,具体的になんですか?そういうものが実際に存在するのでしょうか?
脳科学的な分析がそこまで進んでいるとは到底思えませんが?
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 09:40
>>57=58
一見もっともらしいけど実は筋違いなアナロジー持ってくるのはヤメレ。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 10:29
こころ、というものをもっている、というのは多くの一般人の感覚であり、
それはひとつの錯覚かもしれない。主観的世界、といってもいいが。
でも「心理」学はあくまでそれにむけられるべきであって、
行動を相手にするのはその方策に過ぎないし、神経系をあいてにするのも
方策に過ぎない。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 11:38
>>62 で,やっと振り出しに戻るわけですが,
その「主観的世界」にどうやって「向け」ばいいのでしょう?
行動や神経系を引き合いに出すのはなんらかの「客観性」を
求めてのことだと思いますが,それではダメということですか?
客観性はあきらめて,了解と解釈の方法をとる以外はないという
意味ですか?
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 11:57
>>57 アフォーダンスが主体をfixするだなんて、アホも休み休みいえ。
それに、行動と神経組織の関係から、主観と行動との関係、
あるいは主観と神経組織との関係はそんな安易なアナロジーでは
語れないYO。
なんかひさしぶりに「知の欺瞞」の典型例を見たYO。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 12:55
>>62 要するにそういうことでしょう。
どう扱っていくかだけが問題で。
>>64 ギブソニアンたちが解釈学的循環をどう解決しているか考えてごらん。
あと、空疎な言いがかりじゃなくて対案を具体的にお願いね。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 13:29
もともと空疎な議論には対案など生まれないYO。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 13:31
対称性を感じていることに対し誤解・無理解に基づいていると主張するのなら
その部分をきちんと自分の言葉で説明してほしかったなぁ。
完全な論述になってなくても相手より蓋然性が高い説明で十分。
どっちが正しいかは読んでる人が自分で判断すればいいんだから。
ないものねだり、か。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 13:36
蓋然性が高いと思っているのは自分だけでも充分、か。
さて、証明も反論も不可能な主張は終わったようなので
もっと有意義な意見交換をしようよ。
結局言い逃げだったか…。
ていうか
>>57、
>>58みたいなタイプのレスは最初から
読み飛ばす人が多いと思われ。とりあえずちゃんと読んだ(?)
>>64とかは漏れに言わせればかなりの暇人。
恨みがあれば執念で読むかもね。
>>71 2ちゃん研究者厨房の法則
「自分に反論するレスはすべて同一人物からのものと考える」
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 14:46
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 15:46
勘違いの嘘っこアナロジー野郎はどうでもいいから、
>>50あたりに話を戻して、そこから続ききぼんだな(笑)
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 16:44
>>77 誰か「勝ち負け」なんて言ったか? どこかで勝負があったのか?
それともスレ違いか?
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 16:50
>>77 あれ、スレ違いですか?
どこかで勝負なんかあったんですか?
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/07 16:59
>>75 では研究手法として「研究者の主観」を排除しないアプローチ,
最近のフィールドワークなんかその色彩強いですが,
その辺の問題でも話題にしますか?
「対象,またはデータとしての主観」というネタは,荒れるし,
現状では議論しても得るもの少なそうですし。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/08 01:36
抽象論だけみたいだけど
具体的な研究ってどんなのがあるのさ。
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/08 08:56
典型的なのは伊藤哲司氏のフィールドワークみたいにベトナムへ行って街を見てきた,
ビデオもたくさんとってきた,私(研究者)はそれでこれこれこう思った,
ビデオを見たほかの研究者はこれこれこう思った,という話は「研究といえるのか」という問題。
本人もこれが研究と言えるか,ということについては悩んでいる。
でもまったくの素人でない研究者が,心理学的な多くの知識を前提に「こう思った」という
ことは,心理学の研究として一定の意味を持つのでないか?とも考えられるという話。
ドーデスカ?
82 :
名乗るほどのものでわ:01/11/08 10:35
>>81 日心期間中だけに、なにやらマッタリしとりますが。。。
伊藤氏の研究を知らないので、どういう目的で何をしたのかが
ピンとこないんですが、本当に81の内容だけだったら、
心理学の枠組みでは、なかなか受け入れ難い印象があります。
フィールドワークと一口で言っても、学問分野によって方法論は
異なると思うんだけど、少なくとも心理学的研究という文脈で
取り扱うのであれば、訓練を受けた複数の人間が同一の対象を
評価して一致した部分についてモノを言うべきでわないかと。。。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/09 10:13
>>81 それこそ、主観だから、いや違う、言われたらお終いな気がしますが。
>>82 >>83 その時に,いっしょにビデオを見た他の心理学者も
その「主観」に共感できた,あるいは納得した場合はどうですか?
85 :
名乗るほどのものでわ:01/11/09 11:55
>>84=81
フィールドワークだろうが実験室実験だろうが、研究には目的というものが
ありますよね? その目的に対して方法論的にどうかという問題だと思います。
その『「主観」に共感する』といいう表現は、わたしには適切だとは
思えません。「主観」というのは言い換えると、調査対象・目的に対する
一種の仮説だと考えられますから、その仮説が妥当かどうかという
アプローチに進むのが常道だと思うのですが、どうですか?
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/03 11:46
保全age
質的データの質問はここでいえ
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/07 00:47
伸び悩んでるな・・・
この板にいる心理屋は客観的アプローチに立つ実験屋か、
主観的アプローチは用いてもそれはあくまで患者の治療のためであって
それで何かを構築しようとしているわけではない臨床屋のどちらかだからなのかなあ。
客観性も一般性も求めない。求めるのは自分にとっての真実。
そうした営みの学問としての意義は何なのか。
実証的・客観的アプローチに凝り固まった自分としては
解釈を重んじる構築主義に立つ心理屋様にそのあたり
伺ってみたいところなんだけど、誰かいないものか。
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/07 01:59
このスレでこんな議論が展開されていたとは今まで知らなかった。
11月上旬は自然科学、科学哲学、行動主義、認知主義を含めていろんな
人がいたみたいだが、自然科学、科学哲学が見限って去ってしまい、
議論が成立しなくなってしまったようだな。アーメンだ。
89 :
sanbika:01/12/11 22:21
一連の「議論」に価値を見出しているプロがいるようだが、
私にはわからない。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/03 13:21
振り返りあげ
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/05 20:18
age
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/23 21:47
ナラティブなんかは解釈的アプローチに含めていもいいのでしょうか?
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/24 00:24
思いっきり含まれると思う。
ほっしゅほっしゅ
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/21 01:59
某スレのお騒がせ1くんは,
こういうのに関心はないのかな?
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/16 04:20
保全あげ
97 :
名無しさん@お腹いっぱい:02/04/16 05:34
結局、あれですな。
どんなアプローチがあっても良いと思うけれど、そのアプローチに基づいた
研究成果=論文or「ほほぉこれは確かに知らなかった」というあたらしい知見が
出てこない限り、何をいっても「解釈主義をうさんくさい」と思う人の考えを
変えることはできない、と。
>>30のような意見も良く聞くけれど、普段から実験をやっている人間から
見れば「ごちゃごちゃ言う前に実験やってみてから反論して見ろ」と言いたい。
「観察されている」ことに気づかれる、ないしは、実験の目的が見抜かれるような
あたまの悪い実験デザインを組む方が悪いんだ、と。
もちろん人間は「演技する」存在だけれど、それ自体が研究の対象となりこそすれ、
それは「洗練された実験を通じて得られた」知見を否定する論拠にはなりえない。
まあ、何も考えてなさそうな低レベルの卒論ならば、否定できるかもしれないけれど。
若いね。
観察されていることに気付かれている,
実験の目的が見抜かれているから
「うまくいってる」実験の方が,
おそらく多いんだよ。
実験心理学の実験結果も「客観的事実」
なんかではなく,実験する心理学者と
実験される被験者が共有する状況,
価値観,そして心理学者と被験者の
社会的関係によって作り出される
相対的なものかもしれないなんて,
考えて見たことある?
実験系でも経験を積んだ人はちゃんと
考えていること。もうしばらく勉強してみい。
そんなもん、まやかしの実験。(w
卍
∠ ̄\∩
|/゚U゚|丿
〜(`二⊃
( ヽ/
ノ>ノ
UU
+ 激しくジンジャー +
∠ ̄\
|/゚U゚|
〜(`二⊃┳⊃
( ヽ/┃
( |┃
UU┃
(◎) ̄))
102 :
名無しさん@お腹いっぱい:02/04/21 04:12
>>98 あなた、普段から実験とかやらない人でしょ。
というか、そういう主張って「定義により真」
だから、反証しようがないよ。というか、もっと
言えばそれって思想であって、確かめようがない
話よ。
103 :
名無しさん@お腹いっぱい:02/04/21 04:18
>実験系でも経験を積んだ人はちゃんと
>考えていること。もうしばらく勉強してみい。
本当におもしろい実験をやってる人たちは
それをわかった上で実験やってるんだけどな。
そこまで達することができず「俺って何やってるんだろう」
って思う人たちが解釈主義に流れるのだろうか?
「普段から実験とかやってる」から
実験しか見えなくなるんだろうね。
と信じたいんでしょうね。
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/05/10 12:26
>103
激しく同意。
実験系の人ってそういう遥かな高みに達した人か、あるいは
何も分かっていない厨房のどちらかだと思う。
中間に解釈主義に惹かれる人たちが多い、と。
引越しあげ
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
引越しあげリトライ