★☆浄土真宗の人いる??☆★

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874不断見
>>872のNBさんへ。

現に肉体を持ち、私達の目に表れ、肌で感じる事が出来る私達の母親と、目にも見えない、肌で感じない、その声すら聞く事が出来ない
「阿弥陀如来様」の本願を聞いて、それに私達自身の救われを求めてお念仏を唱える事は同じようで全くちがうように私には感じます。

私自身阿弥陀如来が本当に存在するのかどうかすら半信半疑なままでお念仏をとなえているのです。
そしてわたしのような人は沢山おられますよ。そのような人々が念仏を唱えるだけでは信心は得られない、とするのならば、
念仏の効力や功徳は一体どのようにして現れるのでしょうか?

「お念仏の称え方やら称える時の心構えやら新教やらは、他力のご信心には余計なはからいです・・・」とNBさんは言われましたが、
では、ただただ愚かなままで、信じられなくてもなんでもいいから、「お念仏」を称えさえすればよいのではありませんか。
お念仏を称えていて、信心を頂けば救われるのではなく、救われた姿が信心と名付ける、ともおっしゃられていますが、
私は念仏を称えていても「救われた実感」など有りません。半信半疑の信仰のままで念仏を称えています。
それともあなたは救われた実感がないままでも、念仏に出会えた事が既に救われであるから、その後の念仏は「御恩報謝のお念仏である」という蓮如上人の
お言葉を説かれるおつもりでしょうか。

救われた実感も感動もないのに、「救われた」と思わなければならず、感謝報恩の念仏をしなければならないのであるならば、私にはとても出来そうに有りません。
しかし、そのような私をもお救いくださるのが「お念仏」のはずです。
私はただ、この迷いと共に、悩みと共に「お念仏」を称えるしか無いと思っております。
それが偽らざる私の今の思いです。