>>733 >ここで、「まだ救われてはいないのだろうか?」の心を自力として、
>信後も起きると言っていますね。
解り易くはっきりさせておきます。
高森氏は「まだ救われていないのだろうか?」を自力としています。
私は「まだ救われていないのだろうか?」を煩悩の疑としています。
私は煩悩の疑は存続すると言いました。
だから「高森氏の解釈の自力」は残るぞ、と言いました。
凡夫は如来の親心である南無阿弥陀仏を戴きながらも
親の胸に杭を打ち込むようなこともしてしまうのです。
南無阿弥陀仏を喜ばぬ心や疑う心は絶えません。
しかしこれらは自力の心とは違います。
自力とは如来をたのまぬ「心」です。
自力とは他力ではない心、すなわち「南無阿弥陀仏」のない心です。