>>663 信仰が進んだかどうかはまったくわからない。
会長が信心決定してるかもわからない。
金剛心も当然ない。
必定地獄のあせりも微塵もない。
焦ってるフリはしてるが、実は何も感じてない心があるなあってのは何となく
わかるのでよけいに焦るのだ。
聴聞に逝く−>とりあえず形だけでも真剣に聞く−>感動する−>家へ帰る
−>次の日もう忘れている−>∞。
寺寺晴れ・・・、っちゅうヤツです。
>>665 :もし信前の者が信心について議論をするなどけしからん、ということであれば、
そんな馬鹿な。そうしたら蓮如上人が御文章で信心の沙汰を勧められてるのが
誤りとなってくる。しかし、他人の信心決定の道程を聞いてどうすんだ。そんなもの
自分の信心決定のアシストになるとは思えない。弥陀と自分との間の関係に
他人の介在する余地はないように思えるよ。この他人の部分に善知識が含まれるかどうか?
これは正直にいうと含まれないように思うよ。
>>668 真剣に聞ければ聞かない心が見えてくるだけ。
聴聞会場は決戦場。会長と自分との一対一の決戦場。(実は阿弥陀仏との
決戦場だろうと思ってる。)自力と他力のぶつかり合いだ。
他力信心=ゴールではない、というのは俺は正直ちょっとよくわからない。
:心を弘誓の仏地にたてなければだめなんです。
言い換えると、金剛の信心が先に立っているかと言うのが問題なわけで、
弥陀の誓願まことにおわしまさば、と信心から降りて来るモノということだな。
一般的常識とは逆になってるのがミソだよ。659さんは多分この説明をされるんだろうけど。