親鸞会はカルトだ!!

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(続き)
以上お分かりのように、私は信前の者です。
信仰のことで嘘をついても仕方ありません。
もし信前の者が信心について議論をするなどけしからん、ということであれば、残
念ながらそれまでとなってしまいます。
しかし他力信心というゴールが何なのか分からずして、それを求めることができる
でしょうか?
信心決定された方はどうか、そこまでの道程を語っていただければ幸いに存じます。

御聖教に依存しすぎ、ということですが、御聖教によらずして、どのように他力
信心を明らかにすることができるのでしょうか?
「義」とはどのようなことでしょうか。感情でしょうか、信仰でしょうか?
YahooのBBSで以前、「ひかりに救われた体験」があるという方がおられました。
御聖教の都合のいい部分だけを抜き出し、これが阿弥陀仏に救われた体験で、最後
はキリスト教とも同じようなもの、などと言い出して真宗でなく外道になってしま
いました。
念仏者の方が「それは違いますよ」といくら諭しても、自分の体験に固執するあま
り、まったく耳を貸そうとしませんでした。
御聖教に依らずば、このような過ちに陥ってしまう危険はありませんか?