四つ葉のクローバーと幸福

このエントリーをはてなブックマークに追加
390だみ
>>378 >>384
この私をを見て、心から笑っていた人がいました。
仏から開放された?ことから出る快心の笑いでしょう。
仏を拝むことが常識と教えられ、自らも疑わず信じてきた人にとって、
仏をたたくという行為は考えられないこと、全くの思考外である。
だから笑いが出たのでしょう。 無意識のうちに仏が間違っていると、
思っているかもしれません。 ただ、意識、無意識を問わず、「仏が間違い」
との思いを自分が打ち消す、また、まわりから打ち消される。(小さな頃から、
親におしえられてきたこともあって、打ち消しやすい)  いずれにせよ、
「仏が間違い」とはありえないことと、考え、安心する。
391だみ:2001/06/10(日) 12:04
言いかえれば、
「仏が正しい」と考えなければ、安心できない。一種の精神的な癖のようなもの
でしょうか。もし、自分が「仏が間違い」といえば、自分はどうなるか。まわりは
すべて「仏が正しい」とする人達、そんな中で「仏が間違い」といえば、自分は
どうなる。大げさに言えば、怖さ、のようなものがでてきて、なおさら、「仏が
間違い」との考えを発展さすどころか「あり得ない」と、何の根拠も無しに
否定する。とどのつまり、「仏の正、不正」を考えることなく、また、少々自分が
納得いかなくても、「仏が正しい」との結論に達するわけである。「仏」を信じ
なければ安心できないのである。これを、「無理に信じている」または「信じさせ
られている」状態、と私は思います。洗脳のようなもの。
このような人にとって、「仏が間違い」とのことは、
浮かぶ事すらないでしょう。眼前に、私のような者が出てきて打仏をすれば、
無意識に「仏が間違い」と思った事が出てきて、快心の笑いとなったのでしょう。
仏に反することをゆるされず、仏におさえつけられ、仏を信じさせられ、疑うこと
をなくされた人の私への同感の笑いでしょう
392だみ:2001/06/10(日) 12:09
「もしできるならば(仏を疑うこと等)、
私もしたい」と思ったかもしれない。
笑いは今まで仏に押さえられてきた人の快心の反撃ともいえるでしょう。
何事にもとらわれない、勿論仏にもとらわれない、心の底からの笑い
(純情無垢の笑いとでも言いましょうか)を感じます。
仏から開放された笑いとも思われます。