1 :
名無しさん@1周年:
禅は大きく分けて天台禅と達磨禅に、
達磨禅は南禅と北禅に分類できますが
なんで道臣さんは一番マイナーな北禅をチョイスしたんでしょうねぇ?
義和団と禅は関係ないよね??
本家の中国少林寺は現在曹洞宗(南禅)だとなんかで読んだし。不思議だ。
2 :
1:01/08/28 23:54 ID:YNM6322s
う〜ん、やっぱり板違い?
でもあっちは子供が多いんだよね〜
3 :
1:01/08/30 00:56 ID:kkWRgHRM
でも少林寺をなめちゃだめだ。
禅宗を標榜する宗教法人としてはむっちゃでかい勢力だぞ。
本気で信心してる人がいるかどうかは知らんけど。
とにかく今の日本に北禅の大きな宗派が存在しちゃっているというのは確か。
4 :
名無しさん@1周年:01/08/30 01:55 ID:rTFckAE2
5 :
1:01/08/30 22:31 ID:Ef0A4.2k
もうその話題終わっちゃってますねぇ。
言わずと知れた(?)日本少林寺拳法の開祖。
中国の少林寺とは無関係だとのグレーな噂もある。
ま、武道のルーツなんてどうせいいかげんだからいいんだけど
宗派、とくに禅のルーツはむっちゃ大事なはず。
だれか知らん?
6 :
名無しさん:01/08/31 11:23 ID:VY/PrKEo
禅のルーツはお釈迦さまが菩提樹の下で座禅を組んで
悟りを開いたのが仏教の始まりで座禅を組むのはお釈迦さまと直結する
行為だとテレビで見たよ。
武道の本を読んでいたら宗道臣と大山倍達は意見が合わなくて考え方が
全然違っていたが、一つだけ同意する意見があった。それは自分たちのやっている
武道のルーツは古代インドにありと・・・・
7 :
名無しさん@1周年:01/08/31 13:19 ID:8o8d/un6
「中国の少林寺とは無関係だとのグレーの噂」って...
無関係なのは既にはっきりしてる。というか開祖自身がとっくの昔に認めたでしょ。
今は中国と無関係な日本の武道を名乗っているが。
習いかじった空手と八光流柔術の中伝どまりの技を混ぜて一派を興したのはいいが、国交断絶をいいことに中国では武術は滅びて自分が唯一の中国拳法の伝承者だなどと言っていた基地外。
まともな研究者が反論すると、本部の行動部隊が大挙して押し寄せて脅してたのは有名な話。
今となっては馬鹿者の代表としてのエピソードだ。
一時泥縄で台湾人武術家にこっそり習おうとして大金を巻き上げられたのも笑い話の一つ。
こんなドキュソ団体をまともに取り上げるのは、無意味だよ
8 :
1:01/09/01 16:26 ID:VfOIkHPU
>7
もうそういうお話は聞き飽きたの。
誰か禅も語れるヒトっていないの?
9 :
ジェット・リー:01/09/01 17:30 ID:KRyqIKiE
禅の話はよくわからないが、
>>7の話は初耳。
幼い頃、少林寺拳法を少し習っていたのでショックだな〜。
日本の少林寺って、中国の少林寺と本当に関係ないの?
10 :
名無しさん@1周年:01/09/02 01:12 ID:Mai4ucm6
7のような話は良く聞くけど、憶測がいっぱい入っている。
そうじゃないと憶測しているひとも実はけっこういたりする。
もし興味があるなら武道版に行けばいい。少林寺のスレは荒れるW)
おいらは開祖の哲学、好きだよ。
11 :
1:01/09/02 21:36 ID:O7K6rTsg
宗道臣氏は、武術は金剛禅思想を啓蒙するための餌にすぎない、
といった意味の発言をしています。
金剛禅思想ってのはよーするに
半ばは他人の幸せを考え、実践できる心身を供えた人を
いっぱい育ててこの世に楽園を築こう、という
ほとんどプラグマティズムみたいな思想です。
この考え方は漸悟禅によって裏打ちされているらしいです。
12 :
1:01/09/04 00:19 ID:mnrgzb8g
敗戦後GHQの眼をかいくぐって拳法を布教するために
踊る宗教というたてまえで道場やってたそうです。
きっとそのころから宗教法人になったんだと思うんですが・・・。
13 :
1:01/09/05 01:13 ID:/E2ZHuVw
少林寺拳法における信仰の対象は
「大宇宙の大生命」ダーマです。
ダーマとはdharmaの英語読みのようです。
伝統仏教では「真理」を意味することは周知の通りです。
14 :
1:01/09/06 01:10 ID:uPo6aPMo
少林寺拳法は霊性を認める。
これは日本の禅には認められない特徴。
人は霊止であり、大宇宙の大生命ダーマの分霊である、
というのが少林寺拳法の教義の根本です。
宗教っぽい?
人間を特別視しているところが中国っぽくはあるような気がします。
日本では神道と混交して、
山川草木悉有仏性、的になってるからね。
15 :
ジェット・リー:01/09/06 16:59 ID:uqISK27g
レスありがとうございます。
なるほど武道板というのがあったんですね。
まだ行ったことなかったので行ってみます。
拳禅一如という四文字熟語は少林寺のうたい文句のひとつ。
これ、沢庵和尚の剣禅一如のパクリかとおもったら実はぜんぜん違う。
剣禅一如のほうは、剣と禅、極めれば同じ、相通ずるものが有る
くらいの意味かな。
一方少林寺の拳禅一如は、拳は肉体、禅は精神を意味していて、実は同根だと
いっている。微妙ながら一応は一元論になってる。
ちなみにたまに極真の人が拳禅一如を語るとき、何を勘違いしてか少林寺風の
説明をするときがあって笑っちゃいます。ますたつそーさいが泣くよ(w
宗道臣は白蓮教系の団体、義和団から拳技を持ち帰ったという。
んで、白蓮教といえば浄土宗仏教の呪術化した邪教として知られてます。
どっかで北禅と関係あんのかどうかはしんない。
弥勒信仰の浄土系宗教なんであんまし関係なさそうな・・・。
中国には道院・紅卍字会という道教系の宗教団体があった。
この名前を見た少林寺関係者はみ〜んな思うはずだ。
「うちんとことなんか関係あんの?」と。
私は未だに少林寺の道場をなぜ道院と呼称するのか知らない。
紅卍字会との関係も知らない。だれか知ってたら教えて!!
紅卍字会と日本の大本教はおんなじだ、というご神託が両団体で出たということで
もしかすると少林寺は大本と関係あったりするかもしれない。
そんなことあったりすると少林寺と会気会合気道は宗教上親類関係だってことに
なっちゃうかもしんない。
おもろくない?
19 :
名無しさん@1周年:01/09/09 00:10
そもそも少林寺拳法というネーミングがおかしいんじゃ?
中国拳法の少林拳とは流派も違うみたいだし。
>>19 いちおー本家の少林寺で向こうの拳法家さんから法統を受け継いだということに
なってはいますね。教範では。
ただ、少林寺で修行したとも少林拳を習ったとも書いていない。
技術体系は道臣氏のオリジナリティがたぶんふんだんに盛り込まれていて
原型をあまり残していないのかもしれない。
重要なのは氏が少林寺では得度していない(はず)ということ。
あの思想が全部オリジナルならそれはそれですごいと思うんだけど
そんなことないっしょ?
有段者だけが香川の本山への寄進によって手にできる少林寺拳法教範。
こんなんでも一応有段者なもんで頑張って本山にいって手に入れた。
その前半部は思想と宗教的な意味合いの記述で占められている。
割と一生懸命読んだつもりなんだけど、どーも開祖の悟りに対する記載がない。
拳法は易筋行という修行法なのだそうだけど少林寺拳法を習うと悟れるとも
書いてない。
禅は常に悟りを目標に誓願をたてるのだと思っていたのだがどんなもんなんでしょ。
読みが足らないのかな?
教範には六祖慧能と神秀のお話まで出てくる。
んで、拳法みたいなのはある日かつ然とできるようになるものじゃなくて
常に研鑚を怠らずに徐々に習得するしかないから漸悟禅の北禅なのだそうな。
ある掲示板の書き込み(2チャン以外)で、「中国にはまだ北禅(北宗禅)の
修行僧がたくさんいると聞いた」という拳士さんの書き込みを見たことが
あります。
でも北禅てのはとーの昔に廃れたはず・・・?
実は本場中国には北禅のお寺さんがけっこうあったりするのかな?
大体本場少林寺の坊さんってなんか拳法使えるのか?
23 :
名無しさん@1周年:01/09/11 03:21
天台禅と達磨禅、という分類はあまり意味がない。
もともと禅というのは「阿字観」という密教系の修行法が発展したもの
最澄は文字通り「修行法のひとつ」として日本に伝えたが、それを
教義そのものに昇華したのが達磨ことボーディダルマさん。
基本的にやることもやってることも同じ。
北宋禅と南宋禅の違いもそんなにはない、密教との兼学をするかしないか
兼学をどこまで重視するかしないかの差。
うれしー!はじめて宗教学的レスだーーー。
実は辛かったのよ(w
ところで天台と達磨の時間的関係が逆ですよ。
天台大師は達磨よりあとに生まれている。
天台の記した摩訶止観に、達磨禅でいう不立文字などの特徴的な概念が
含まれていないのは両者が独立に発展してきたことを示していると思います。
達磨以後、天台の概念がいわゆる禅宗に吸収されているけれど
天台の禅は禅宗のそれと比べてずっと具体的な修行法に富んでいるという
特徴がある。
私の知識はあってます?ソースは絶版の摩訶止観です。
ところで北禅は漸禅漸悟なんじゃないの?
これは南から見た偏見なのかな。
25 :
名無しさん@1周年:01/09/12 04:46
不立文字も教外別伝も義玄が創唱者だと思われ。
達磨がそれを言ったとする記録は乏しく怪しい。
最澄は「修行メソッドとしての禅」を伝えただけだから、
その部分が抜け落ちていて当然。
そも達磨自身が「宗派としての禅」の成立を意識していた
かどうか、ちょい怪しい。大乗仏教成立の過程で起きた
「専修」というムーブメントのなかで、数ある修行法のなかから
「これが合理的だからこれにしなさい」と強く勧めた程度では
ないか、とする考え方もある。
一宗派としての成立に至った原動力は、むしろ中国伝来以降の
熟成期間と中国人僧の精進にあり、とするのが宜しかろうか。
日本の少林寺って、宗教法人格もってたのか・・・
同意&勉強になるなあ。
最澄が持ち帰った禅法と禅宗のそれが質的にかなり異なっていることは
たぶんご存知でしょう。
天台では具体的なしきたりや道具立てが細かく設定されていて親切。
こうしたらこうなると言うことが書き記されている禅法最強の教科書
「摩訶止観」「小止観」もある。
一方不立文字、教外別伝がたてまえの禅宗ではそういう様式は師家によって
ぐんぐん変わる。ちなみに禅に阿字観を取り入れている禅宗宗派を私は知らない。
そんなわけで、禅の立場から見たら天台禅と達磨禅に分けて考えるのは
それほど無理ではないと思うのですがいかがでしょう?
>日本の少林寺って、宗教法人格もってたのか・・・
少林寺は3っつの顔を持っています。
宗教法人、学校法人、財団法人。技と同様多彩なのだ。
少林寺拳法で用いられる手印は二種類だけ。
合掌と結手である。
坐禅を組むときも結手。
法界定印を結ぶ拳士は見たことない。
この結手、臨済でも似たような印があったりする。
なんという名かはしらないけど初心者用らしい。
左親指を右手で握るか挟むかして、さらに左の4本で包み込む印。
でも実は結手はこの印とは微妙に違う。
両親指の腹どうしを絡めてから右で包み、上から左で包むと言うのが正しい決手。
私見だが、この少林寺独特の印は大極のシンボルを意味している。
金剛禅思想に出てくる用語も陰陽の影響を多く受けている。
両方とも中国道教由来でしょ。
きっとこの思想は道教の影響を色濃く受け継いでいるんじゃないかな?
↑
大極じゃなくて太極だった。
2ちゃんで誤字の修正は野暮か(w
ちなみに少林寺拳法と太極拳はホントに全く違う。
だいたい少林寺拳法には中国拳法に一般的な発勁などの勁に関わる技法は
(多分)ない。
”気”も使わないし合気もない。
あるのは「梃子の理」などの味気ないものばかり。
もっと神がかった技の方が道教っぽいような気もするのでやっぱ
関係ないかもね。
おかげ様で合気道創始者の植芝盛平は神がかった伝説の人なのに
宗道臣はただの人のまんまです。
30 :
名無しさん@1周年:01/09/15 04:54
あげ
31 :
名無しさん@1周年:01/09/15 20:51
1のスレの立て方が不味い。
これじゃ拳法と禅の両方に興味のある人しか寄ってこない、果たして
そんな人が何人いるのやら・・・だいたい少林武術のことは知っていても
崇山のことは知らない人の方が多いし、そも日本の少林寺が宗教法人として
活動していることも知らない人の方が多い。
この場合一番盛り上がるスレの立て方は、こうだ。
「拳法をエサに宗教活動をする日本の少林寺」
「えせ宗教、えせ拳法の開祖=宗道臣」
まあ、あれるけどね・・・
>>31 なるほどね。今後の参考にさせていただきます。
でもこのスレの方が情報の精度は高いぞ。
情報が集まらないというちょっとした欠点はあるが(w
>>29 崇山少林寺の門前には少林拳の専門学校があるという。
この学校、組織としてはお寺とは全く別個の団体。
少林寺の名声を聞いて中国各地から集まってくる若者どもを収容していると聞く。
お寺との関係は、多分大病院の門前薬局のようなもの。
あるいはアメリカの大学の語学学校みたいなものだと思います。
よーするに緩やかな経済的協力関係が成り立っているんだろうな。
語学学校の先生がPh.D.すら持っていないように(アメリカの大学では学位は必須)、
この最高師範とかいう人、得度なんかしていないと見ていい。
だって写真で髪の毛が生えてるんだもん(w
ま、日本にある団体と似たようなもんじゃないかな。
ただ、地の利がある分だけ本物っぽく見えちゃうけど。
私としては、拳法の修行を通して悟りを開いちゃったりしている
本当のお坊さんの存在を知りたい。
どっかにいないかな?
34 :
名無しさん@1周年:01/09/15 23:58
/⌒\
( )
| |
| |
/ ̄( ・∀・) < おはよう
~ヽ ̄ヽヽ ヽ
35 :
名無しさん@1周年:01/09/16 02:27
1はこのスレで何がやりたいのか。
1.拳法のはなし
2.禅宗のはなし
3.日本の少林寺を禅宗の一派として認めて欲しい、というPR
4.拳禅一如の思想による拳法の修行を「仏道修行」だと認めて欲しい、というPR
1.なら板違い。2.なら他スレへ。3.は努力次第。4.はムリでしょう。
そういう事情ですか
>得度なんかしていないと見ていい。
確かに出家ではなく、在家の弟子と書いてあります。
ただし真偽の程は分かりませんが、
崇山少林寺周辺の専門学校とは違うと受け取れる記述があります
それと写真集を見るとハッケイはあるみたいです。
日本の少林寺には気功はないのですか?
>>35 禅宗の話。というか少林寺拳法の思想の背景になっている宗教のお話。
PRの意思はま〜ったくございません。どんな結論でもアクセプトいたします。
>>36 気功はないです。
宗氏はリアリストです。
ただ、経絡を使うので「気」そのものは否定していないみたい。
38 :
名無しさん@1周年:01/09/16 11:48
少林寺ではないけど、武道と禅と両方嗜む方といえば、剣の達人、大森曹玄老師が居られました。
また鎌倉松ヶ岡文庫の鎌田茂雄博士も、合気道をやっておられました。
既にお二人とも亡くなられましたが、著書を読むと良いのでは?
それと北宗禅、南宗禅についてですが、南宗禅=曹洞系というのは誤りです。
勿論、日本道元宗の元である曹洞宗をはじめ、五家七宗は全て慧能門下の南宗禅ですが、
中国宋時代を代表するのは曹洞宗ではなく臨済宗です。
日本曹洞宗は、現在末派寺院数が最も多い伝統的仏教の包括宗教法人ですが、
禅思想、禅文化的には見るべきものは特にありません。
それと23も随分と勘違いしているが、天台智ギの『摩迦止観』や『天台小止観』が
様々な禅宗の『坐禅義』の大本になっているのは事実だが、智ギは597年に没している。
一方、菩提達磨が一人の人物かどうかは別として、基本的には536年没説が一般的である。
また日本天台宗の最澄が持ちかえった禅は、黄梅弘忍から玉泉神秀の系統、
つまり北宗禅の系列であり、嵩山普寂、瓦官道セン、行表と続いた流れである。
であるからこそ、最澄は比叡山に大乗戒壇の設立を悲願としたのであり、
彼が持ちかえった大乗戒は達磨の一心戒に他ならない。
つまり禅が密教の一部であるというのは勘違い、正確には日本には先に密教が入って
きただけの事。
仏教は本来、瞑想により自分の心を見つめて行く教えであり、むしろ護摩を焚いたり、
水をかぶったりするような、ヒンズーにも似た密教的儀式こそ後に加わったもの。
10数年前嵩山に登った、その当時も少林寺近辺には拳法の学校が沢山あったよ。
日本少林寺拳法が禅であるとは、多度津の連中を見ていてもとてもそうとは思えないが、
中国少林寺に拳法があることは事実。
南禅は黄梅弘忍より曹渓慧能に伝わった流れですが、中国禅五家七宗はすべてこちらになります。
それから、最澄が持ちかえった禅は、基本的に北禅です。
その為、最澄は
>38
極めて興味深いお話ばかりです。
>その為、最澄は
是非ぜひ続きをお聞かせください。お願いいたします。
40 :
名無しさん@1周年:01/09/16 14:48
失礼、下三行は消し忘れです。
他には特にありません。
>>38 いくつか教えていただきたいことがあります。
まず、最澄さんが持ち帰った禅が北禅だとのこと。
これは他所でも見たことがある内容です。
でも天台宗なのになんで?
日本に伝わる南禅とは手も足も組み方が逆。
坐禅前には五体倒地までしちゃうし阿字観も重要なメソッドのひとつ。
私はこれを両・止観に基づいた天台独特の禅法だと勝手に思い込んでいたの
ですが、実は北禅の特徴だったのでしょうか。
日本少林寺拳法は宗教法人を名乗っているのに宗教ではないちょっと変わった
団体だと思います。私を含め部員のほとんどは宗教に入っているという気持ちは
なく、単なる体育会系の部に入部しているという認識だったと思います。
(もう26年も前の話です。)
スレと関係ありませんが、なつかしかったので、ごめん。
>>1 いっぺんには長いので…。
>でも天台宗なのになんで?
先ず最澄が14歳で得度した時の師匠である近江国分寺の僧、行表(722〜797)は、
大和興福寺の瓦官道セン(702〜760)に付いて得度し、具足戒を授かっている。
道センは遣唐使に請われて中国からきた律宗の人だが、中国で嵩山普寂より北宗禅を学んでいる。
法相宗道昭に次いで、日本に禅を伝えた2番目の人。
行表もまた、道センから具足戒を授かり、律部、禅及び法相、華厳の教学を学ぶ。
最澄は入唐前に師である行表より三論戒律禅などを学んでいる。
中国仏教史から見れば、天台教学は華厳教学以前の古い教学であり、
遣唐使の時代には中国では半ば廃れていた。
中国での○○宗とか、南都六宗の○○宗と言う場合の「宗」の意味は、
今みたいなセクトではなく、強いて言えば、「○○専攻」みたいな
ニュアンスである。
で、最澄が何故、古い天台智ギを引っ張りだして来たかと言えば、
それは当時の南都の僧侶が権力と結びつき堕落していたからである。
純粋な青年であった最澄は、鑑真和上がもって来た
『摩迦止観』などを読み、智ギの説く思想に感銘を受けた。
智ギもまた、現実肯定である華厳教学に批判的であった一人であり、
だからこそ五時八教の教判で華厳を最初に持って来ている。
ただ、この華厳思想と天台(法華)思想との問題は、後の山家山外の
対立に繋がるなど、簡単にどちらが上とか下とか、いかない問題である。
で、最澄は大乗仏教には「大乗戒」が相応しい、と主張した、
最澄は入唐して龍興寺道邃から「大乗戒」を授かった。
しかし中国では比丘戒などを授かった上で、菩薩戒である大乗戒を
授かったのに対して、最澄は大乗仏教は菩薩戒のみで良いとしたのが
大きな特徴で、他に例を見ない。
ではこの「菩薩戒=大乗戒」とはいかなるものかというと、
『梵網経』や『持自瑜伽論』などに見られる「十重四十八禁戒」や
「三聚淨戒」がそれであるが、これらは「傳述一心戒文」として
菩提達磨がシナに持ってきたものを、天台智ギの師である南嶽慧思
が書写し伝えたと言われている。
五体投地の礼拝は禅宗では当たり前。
その為に袈裟には坐具が付いている。
脚の組み方だが、『天台小止観』と臨済の『坐禅儀』を比べてみると、
確かに結跏だと小止観は、先ず左の脚を右の足の上に載せ、
それから右の足を左のモモに載せると書いているが、
坐禅儀では先ず右の脚を左に乗せて云々と逆である。
しかし半跏の場合は、どちらも左の足を右の足に乗せるように
書かれていて、あんまりこの辺はどっちでも良いように思える。
詳細なお答えをありがとうございます。
五体投地は禅宗では当たり前なんですね。
日本の禅宗では行われていないようですが。
北の禅は漸悟禅との認識は正しいでしょうか?
これは「止観」とも共通しているようですが・・・
当然日本の禅宗も礼拝といえば、五体投地の礼拝であり、日常的礼拝には三拝が
行われている。
また儀式によっては九拝式や十八拝式もある。
北宗が漸悟で、南宗は頓悟というのは一般に言われていることですが、
ものごとはそうステレオタイプでは無い。
北宗にもそれまでの価値観から転換する頓悟の部分が当然ある筈ですし、
南宗だってコツコツと積み上げるからこそ、竹の音にハッと気付くわけで、
何もせずに寝転がっていて頓悟する訳じゃない。
強いていえば漸悟と言うことを大切にするのが北宗で、強いていえば頓悟の立場を
大切にするのが南宗と、解釈すべきだと思います。
よくわかりました。ありがとうございます。
五体投地に関しては私の全くの勘違いだったようです。
ホームページのサーフィンをして確認してきました。
>>38 >10数年前嵩山に登った、その当時も少林寺近辺には拳法の学校が沢山あったよ。
>日本少林寺拳法が禅であるとは、多度津の連中を見ていてもとてもそうとは思えないが、
>中国少林寺に拳法があることは事実。
素晴らしい!少林寺に実際にいらしたのですね。
現在の少林寺境内でも拳法が行われていそうな感じでしたか?
(映画、「少林寺」みたいに)
私の印象としては拳法家はお寺の外の建物にしかいないんじゃないかなという感じ。
私は嵩山に上ったことはありません。他からの情報からの感想ですが。
私が少林寺に行ったのは86年のこと。
少林寺の裏山、つまり嵩山五乳峰の頂上にある達磨面壁洞に登ったのが
大変印象に残っている。千段近い石段を登っていると、見晴らしも良く周囲の山々は
牧草地帯で牛の放牧も行われていた。
向うの山の山頂付近を、行者と見られる二人連れが歩いていたのも、何だかな?
という記憶がある。
少林寺自体はそれほど大きなお寺では無いが、境内の中にも観光客向けと思われる
臘人形展で見られるような僧侶の修行の様子が、人形によって紹介されていたが、
その中に、やはり拳法を行っている様子が在ったことを、今写真で確認した。
あと少林寺の印象は、寺の横に塔林と呼ばれる、大きなストゥーパ型のお墓が沢山
林立していて、それらは寺の歴代の住持のものと思われ、歴史をかんじさせた。
で、少林寺拳法の学校だが、仰せの通り寺の中では無く、門前に幾つもあるのだが
年齢層に依ってか、道の左右に幾つもあった。それもかなり広大な敷地で。
少林寺の中だが、我々は観光客が入れない寺の内部に通してもらってお茶を
頂いたが、拳法らしい部分はその人形しか見受けられなかった様に思われる。
詳細で私にとって大変貴重なレポートです。
極めて興味深く読ませていただきました。
嵩山少林寺そのものが重要な観光資源になっているのでしょうから
拳法をイメージした蝋人形があるのは至極当然のことと思いました。
もし現在も行としての拳法が引き継がれているのならば、このメディアの
発達した時代にもう少しクローズアップされていてもおかしくない様に
感じます。少林寺の修行僧による中国拳法の修行はすでに過去の話である
可能性が高いようですね。
ところで嵩山の宗派はやはり曹洞宗ということでよろしいですか?
>ところで嵩山の宗派はやはり曹洞宗ということでよろしいですか?
日本では曹洞宗が、最も数が多い教団なんで、禅といえば曹洞宗だと
勘違いされている向きもあるのでしょうが。
中国では唐時代から宋時代にかけて禅宗が全土を席巻しました。
特にこれは全て六祖慧能からの別れで、五家七宗といって南岳、馬祖、百丈
の流れから、イ仰宗、臨済宗黄龍派、臨済宗楊岐派が生まれ、
また青原、石頭のながれから雲門宗、法眼宗、曹洞宗が生まれ繁栄しました。
しかし宋時代後期になると、中国の禅は殆ど臨済宗楊岐派が占めるようになり、
他は滅んでいってしまいます。
その後、明時代になると、念仏と坐禅を併修する念仏禅へと変遷していきます。
江戸時代に渡来した隠元も念仏禅ですので、我が国では黄檗宗と名乗っていますが、
中国には黄檗宗なるものはありませんし、隠元の墨蹟の落款が「臨済正宗」と
押されていることからも、隠元は臨済宗楊岐派の僧侶であることが明らかです。
さて今日の中国では、文化大革命の法難を乗り越えて、伝統的仏教は大切に
されている様ですが、少林寺が何宗かは良く分かりません。
というのも宗派と言う概念が、中国では日本のようなセクト的概念と異なるからです。
ただ、今日の少林寺でも念仏禅が行われている様ですので、流れ的には臨済宗楊岐派の
流れを汲むと考えた方が自然でしょう。
そうしますと、私の聞きかじりの知識は間違いだったと言うことですね。
たぶん曹洞宗の方の文章の中で少林寺が紹介されていたのだと思います。
少林寺は全ての禅宗のふるさとですからね。
ところで現代中国において北宗禅はやはり滅んでいると考えたほうがよさそうですが
拳法修行をしていた時期の少林寺がどのような立場に属していたのかは
とても興味があるところです。
宗道臣氏の言うとおり漸悟禅を実修していたのでしょうか。
もうひとつ質問です。
>日本少林寺拳法が禅であるとは、多度津の連中を見ていてもとてもそうとは思えないが、
とありますが、「多度津の連中」のことはどの程度ご存知なのでしょうか。
一応彼らにも座る機会は設けられています。
私は5年ほど拳法を道院(町道場)で修行したことがあるけれど
ちゃんとした座り方の講義を受けたことはない。
でも座る機会そのものは幾度かあった。
なんとなく見よう見まねで過ごしてしまったので不正確ですが
少林寺の座り方は
@板の間に座布を用いないで直接座る
A半跏趺坐
B手印は結手
C数息観は用いないらしい
D調息と称する独特の呼吸法を使用する
E終了時には床に長い棒の全体をビシっと叩き付ける音で急速に覚醒させる
といった特徴があります。
少林寺拳法では坐禅とは書かずに座禅と書きます。
重要じゃないか・・・。
お返事遅くなりました。
多度津は父の出里で、もう30年ぐらい前になりますが、子供のころ夏休みになると
よく遊びにいきました。
拳法のある山のすぐ下のトンネル近くに禅寺があって、そこの尼僧さんに可愛がって
もらったので、お寺に泊ったりもしていました。
当時は拳法も全盛だったのか、良く少林寺拳法の旗をつけたジープが町を走りまわっていて、
その様子はあたかも映画で出てくるMPみたいで、子供心に怖かった思い出があります。
あそこの山の上には公園があって登っていったりもしましたが、「拳法のところには近づくな」
と言われていたように覚えていますので、当時かなり傍若無人であった様です。
さて数年前、知人が少林寺の有段者で、かなりの高段位を取る試験の話を伺いましたが、
演舞など実技以外に、禅的な内容のペーパーテストがあるそうで、
「これはどういう意味でしょう」と聞かれことが在ります。
内容は、初歩的なものであったと記憶していますが、一応説明しましたが彼は余り理解
できないでいるようでした。
そういう点から鑑みても、少林寺拳法は直接禅的境涯を養うものでは無いと言えます。
当時の少林寺は傍若無人・・・だったのですか。
近づくな、とはかなりのものですね。
昔の少林寺拳法の噂はどうやら本当らしい。
やーさんも手を出せない、腕に物言わせる様な集団だったそうです。
今みたいに小学校の先生が生徒をひっぱたいたらクビになっちゃうような
ご時世では想像すら難しい。
関係ないけど日本少林寺拳法は学校法人で高校とか運営してます。
どんな教育方針なんだろ?
ところで今の多度津は少林寺拳法で結構潤っているらしくて
少林寺饅頭なんてのも売られています。時代は変わった・・・。
さて、ペーパーテストのお話ですが、少林寺のペーパーテストは結構厳しい^^;
論文も書かなきゃいけないし一夜漬けくらいする拳士は多いんじゃないかな?
お知り合いの拳士さんは禅的な内容をよく理解できないようだということですが
普段の稽古は禅とは全く関係ないので当然なのです。
それどころか多分拳士の99%位は
>>42 のOBさんの様に宗門であるという意識さえ
持っていないと思います。
ただ、一応はそういった禅的問題を出題して採点をする側の人がいると言うことは
少林寺拳法が禅を目指していると言うことはできるのではないでしょうか?
ところで語句の説明を理解できないことと禅的境涯を養えていないことは
必ずしも一致しないのではないでしょうか。
まあ、その問題の内容にもよりますね。
あと、余談ですが学校の部活動のように宗教チックなものを導入し辛い環境の
場合、日本少林寺拳法は宗教の面をはずしてしまいます。
宗教行事として鎮魂行を行っているのですが学校では省略されるようです。
OBさんが宗教じゃないと仰るのも無理からぬことではあります。
>>1 なるほど〜、でもその人8段なんですよね〜。
〉ただ、一応はそういった禅的問題を出題して採点をする側の人がいると言うことは
〉少林寺拳法が禅を目指していると言うことはできるのではないでしょうか?
〉ところで語句の説明を理解できないことと禅的境涯を養えていないことは
〉必ずしも一致しないのではないでしょうか。
まぁ、無理矢理そういう風に解釈することも出来ますが、ではその採点をしている人に
禅的境涯が在るか否かが問題になりますし、在るとしたらそれは誰から証明されたものなのか?
と言うことが問題になります。
結局、創始者が剣術のテクニックは別にして、中国傳燈の禅を標榜するには、正しい法系に
のっとっている必要があるわけですが、それは北宗禅云々と言っている以上、
伝統禅的にも、仏教史学的にも、怪しいとしか言い様が在りません。
まぁ、自らを権威付ける為に持ち出してきたと考える方が、素直に理解できますね。
1さんのお話から窺える範囲では、少林寺拳法の主張している宗教性は、
専門家から見ればかなり怪しいです。
P.S>造船業も寂れて、多度津自体が今は過疎化して全く元気の無い町です。
そんな中、少林寺の本山が若干は町の経済に寄与しているかもしれません。
でも、少林寺本山自体にも昔の活気はありません。
最近は、東京や大阪など、大都市の支部のほうが力をつけているんじゃ無いですか?
そうですか。八段の方ですか・・・。
昇段して八段になられたのですね。
段位の意味のほとんどが技の習熟なんだ。
座る機会はあってもそれが見性に結びついたりはしていないと見て
間違いなさそうなんですね?
まあ、ペーパーテストで認める禅的境涯ってのも変なお話ですが。
>北宗禅云々と言っている以上、
>伝統禅的にも、仏教史学的にも、怪しいとしか言い様が在りません。
やはりそういうことになりますか。
現代に北宗禅はまずはまったく生きていないのですね。
確かに誰かに認可を与えられたと言う話はとんと聞いたことがありません。
そういう意味では伝統仏教を語るのはおかしいですね。
もっとも少林寺拳法は定義から言えば新興宗教なのでしょうが。
ところでお話ついでにその禅的境涯とはどんなものなのかお教え願えますでしょうか?
〉ところでお話ついでにその禅的境涯とはどんなものなのかお教え願えますでしょうか?
音を♪に置き換えても、その♪の示す音を知り得ないなら音を伝えることが出来ないのと同様、
心を記号に置き換えても、その記号の示す心を知り得ないなら伝える事は出来ません。
しかし同時に、今まで私がここでレスしてきた文章全てが、けして禅的境涯と無関係ではありません。
禅とはどう言うものかについて申し上げてきたつもりでもあります。
>現代に北宗禅はまずはまったく生きていないのですね。
ここで問題なのが北宗禅と南宗禅と言う従来の分け方なんですが、確かに神秀は
「心は明鏡台の如し云々」と言い、慧能は「本来無一物」と言った訳ですが、
慧能は神秀の後からコメントしていますので、そりゃ神秀が差別の相から書いてれば
自分は平等の立場から書くのは容易でありまして、ずるいと言えばずるいかもしれな
いんですよ。
前にも言ったように、仏教はそういうステレオタイプなものでは無くって、平等則差別
であると同時に、差別則平等であるからこそ不一不二なのであり、無であり、
中道であり、空である訳です。
勿論、家風と言う物は確かにそれぞれに存在しますが、北宗禅と南宗禅が断絶された
かのように見る現代の風潮は全くナンセンスです。どちらもそれぞれを含んでいるの
であって、その時の立場によって現れている面が違うだけに過ぎません。
〉そういう意味では伝統仏教を語るのはおかしいですね。
〉もっとも少林寺拳法は定義から言えば新興宗教なのでしょうが
宗教と言う概念が、明治以降の近代に入ってから西洋的な概念になり、
さらに昭和24年以降新宗教法人法施行以降は要件を満たせば宗教法人になり、
すなわち宗教の定義が形式的になったわけですが、宗教法人であっても本来の意味での
「宗なる教え」では無いものも多いし、宗教法人で無くってもマルチ商法やセミナーなど
西洋キリスト教的な意味においての、または社会学的な意味においての宗教じみたものは
枚挙にいとまありません。
となると、今日宗教であるか、否かはさしたる意味を持ち得ません。
要は、その人の人格が如何なるものか?が重要であって、仮にすばらしい人格者がいて
その人格を作り出したのが、特定の教えであったらばその教えを学べば良いのでしょう。
う〜ん。示せるのは月を指す指のみといったところですか。
確かに色盲に赤を言葉で説明するようなものなのでしょうが
例えばあったかい色なんだと教えていただければ私としても想像を膨らますことが
できて楽しかったかも。
大変でしょうからもちろん無理強いはいたしません。聞き流してください。
私はまた禅的境涯というのが宗家によって異なることもあるのではないかと
思ってお聞きしたのです。
臨済の岩頭の禅など曹洞からみれば無茶もいいところだと聞きます。
アプローチがことなればその結果得られる境涯もまた異質となると考えても
不自然ではないと思うのです。
少林寺拳法のアプローチの方法はそういう意味で日本の伝統禅のそれから
大きく逸脱していることは間違いないでしょう。
それともたどり着く山頂は常にひとつだと考えてよろしいのでしょうか。
>>61 このスレ黙ってROMしていましたが禅に関する38さんの書いてることってほとんど
本で読んだことそのまま丸写ししてるだけですよね。
そのネタ本に北宗禅と南宗禅は結局同じものだと書いてあったのでしょうか?
それは明らかに間違いです。
五祖弘忍は何故、神秀ではなく慧能を法嗣としたのかその点を考えないと。
二人の偈は表と裏の関係ではなく全く正反対のことを言っています。
厳しい言い方かもしれませんが38さんは禅のことを全く理解していませんね。
禅は学問や知識で理解するものではありません。
あなたもしばらく坐ってみてはいかがでしょう。
>>1 >私はまた禅的境涯というのが宗家によって異なることもあるのではないかと
>思ってお聞きしたのです。
>アプローチがことなればその結果得られる境涯もまた異質となると考えても
>不自然ではないと思うのです。
何度も言うように、それぞれに家風はありますが、禅とは一真実でありますから、
真実が異なることは有り得ません。
違うと言うのであれば、それはどちらかが真実ではないのでしょう。
〉少林寺拳法のアプローチの方法はそういう意味で日本の伝統禅のそれから
〉大きく逸脱していることは間違いないでしょう。
〉それともたどり着く山頂は常にひとつだと考えてよろしいのでしょうか。
上とは全く逆の質問ですね。アプローチが違えば得られるものも異なる筈だ、
と言いながらも、山頂は一つと言うのは可笑しな話です。
アプローチが違っても、得られるものが同じであるから山頂は一つである、
と言えるのではないでしょうか。
お話を伺っていると、1さんは少林寺拳法を学ぶことによって単に武術を習うのみ
ならず、宗教的な心の開発を行いたい様ですね。
私はそれをけして批判する者ではありませんが、禅僧である私の立場から言えば、
少林寺拳法に禅のエッセンスがあることは判りますが、拳法だけで禅を学ぼうと
するのには無理があります。
むしろ禅は禅で学ぶことによって、少林寺拳法がより深く理解できるのではない
でしょうか。同様のことは茶道などにも言えると思います。
>>64 こんにちは。ご指摘有難うございます、確かに史実などは辞書などを
参考しましたが、全て私の見解に基づいて書いたものであって、けして
受け売りではありません。
ただ未だ未熟者ですから見解が間違っていると言うご批判ならば甘んじて受けます。
さて、
>五祖弘忍は何故、神秀ではなく慧能を法嗣としたのかその点を考えないと。
>二人の偈は表と裏の関係ではなく全く正反対のことを言っています。
と言うことですが、私はけしてそうだとは思いません。
ひょっとしたら64さんは、ご自分の禅体験でいささかの信心脱落底を得て
六祖の方が、神秀よりも素晴らしいとお考えになったのかもしれませんが、
神秀もまた五祖の元で長年修行してきて、700名の雲水の首座となったお方です。
我々のような、というと貴方には失礼ですが、その程度の境涯であろう筈が
ございません。
それでも敢えて「時時努めて払拭せよ」というのが神秀の立場であった訳です。
それに六祖は全くの文盲であったという事になっていますが、それで何ゆえ
人が読む金剛経を理解したり、神秀の偈を読んでもらって、すかさず自分の偈を
作って書いてもらうことが出来たでしょうか。
それをそのまま鵜呑みにするのは、釈尊が摩耶夫人の右腋からうまれて、
すぐに七歩歩いて天上天下云々言った事を史実として信じるのと同様に、
無謬な事です。
六祖が本覚的立場であったのに対して、神秀は始覚的立場であったに過ぎない事。
これは唐末以来、曹洞が本覚的立場であったのに対して、臨済が始覚的立場であるのと同様です。
身心脱落、脱落身心、坐ってそれで良いとするから今のていたらくなのでしょう。
我々は、平等一枚を体験した後、差別の現実でどう働いていけるかを重んじます。
驚きました。私はあなたが一般の方だと思ったので易しい口調で言ったのですが
禅僧だったとは。だとすればもう少し厳しいことを言わねばなりません。
その文から察するにあなたは曹洞宗の方ですね。
昔から曹洞宗では悟りを得る方が少ないのは何故でしょう。
その点を考えたことはありますか?
>六祖の方が、神秀よりも素晴らしいとお考えになったのかもしれませんが、
>神秀もまた五祖の元で長年修行してきて、700名の雲水の首座となったお方です。
>我々のような、というと貴方には失礼ですが、その程度の境涯であろう筈が
>ございません。
弟子が700名いようが1000名いようがそのような権威主義では達磨の心など掴めません。
達磨には1人しか弟子は居なかったのですよ。
神秀が差別、慧能が平等で真理を答えたというのなら何故、五祖弘忍は慧能にだけ
印可を与えたのでしょうか。2人とも同じことを立場を変えて言っているだけなら
2人に印可を与えるはずです。まさか伝法衣が1つしかなかったからなどとは言わない
でしょうね。
あなたも本当に見性すれば達磨大師や六祖慧能の心に一足飛びに繋がります。
悟りに深浅はないのです。ただし、悟後の修行が出来ていないと単なる一枚悟りに
なってしまうだけです。
悟りに深浅なし。ただ悟後の修行に深浅があるのみ。
あなたが今やるべきことはこんな2CHで遊ぶことではないはず。
私が今2CHに居るのはあなたとは全く別の理由です。
老僧末上入(わしはまっさきに入る)
趙州の慈悲心は今でも生きていますぞ。
なんかエライ事になってきた。
私としてはもっともっと遊んでいてほしいのに(泣)
>>1 私遊んでるつもりではないですが…(^-^;
>>64 先ず、私は臨済宗のものです。
貴方は曹洞宗系の、それも原田老師系の方だと存じます。
仰る事すべて承知しました。
「ここで遊ぶ暇があったら他にする事があるやろ」
他でも色々とやっているのですが、「るつぼ」以来こういうところで色んな方に
出会うのも面白いのですよ。
貴方は2chのお地蔵さまを自負されているようなので、これからも頑張ってください。
>>69 >貴方は曹洞宗系の、それも原田老師系の方だと存じます。
私は臨済の系譜です。曹洞ではありません。
あなたが臨済宗だとすれば更に始末に追えない。
曹洞系であれば仕方がないと思っていたが
臨済系でそのていたらくとは。
あなたは一体どこの僧堂で修行をしていたのですか。
法身は透りましたか?
機関は透りましたか?
言詮は透りましたか?
まだまだ難透や向上もありますぞ。
最近の坊主は見性すらせず寺に帰っていく者もいると聞く。
これでは今世紀中に達磨の眼は潰れてしまうだろう。
あなたが一般の方であればこんな厳しいことは言わないが
禅僧なのだから。これでも随分手加減しているのですよ。
>38
>>69 そうですね。失礼いたしました。
あなたはいつも私の質問に真剣に答えてくれていました。
>64
>>67 私のような素人の衆生としては38さんのような方が
知識を分け与えてくれることはとってもありがたい。
禅の坊さんは時間を大切にすることは一応は知っているつもりですが
その生活は他人とのコミュニケートを犠牲にしなければ成り立たないような
ものなのですか?
>>私は臨済の系譜です。曹洞ではありません
そういう言いまわしはさしずめ人間禅ですか?
それとも正統の臨済なおでしょうか?
まぁどちらでも構いませんが、それだけ仰るのであれば貴方は一枚持ちなのでしょうが、
貴方の師はどなたですか?
>あなたは一体どこの僧堂で修行をしていたのですか。
虎渓です。
勿論、私は貴方のような師家分上のものではありませんが、丸っきりの無眼子とも
思っておりません。
ただ、いずれにせよ臨済の名を持ち出すのであれば、公案の数だけを数えてもそれが
実生活で生かされなければ何もならない事ぐらいは御存知の筈。
私の身の処し方をご心配頂いているようですが、それなりに布教活動もし、
時々僧堂にも通参しております。
上求菩提・下化衆生は一つのことと存じておりますので、ご心配には及びません。
臨済系の僧侶の方であればいずれお会いする機会もあるでしょう。
それよりあなたこそ、大丈夫ですか?
達磨の眼は潰れた。
この似非坊主の眼で。
これ以上の言葉は無し!
>64
あなた何言ってるの?
ごく客観的に言ってこの討論あなたのほうが分が悪い、というか変。
「禅問答」に逃げないできちんと答える練習をしましょう。
理もわからずに理外の理がわかってたまるものですか。
正直不愉快です。とっとと出て行って下さいませ。
さて、実は明日から海外転出の用がありまして、
多分1週間ほど書き込みができなくなります。
今度見たときこのスレがまだあったらまたお会いしましょう。
SeeYou〜
76 :
名無しさん@1周年:01/09/30 07:30
>>74 お前の主観だろ?
禅のぜの字も知らんのに客観的っておいおい。w
禅を知る人間から見ればどっちが正法かは一目瞭然。
38のような松原泰道もどきが禅をダメにした。
もう一度修行のやり直しだろうな。
まぁ、ネット上でゴチャゴチャ言ってるだけの人に何言われても構いませんよ。(*^^*)
78 :
名無しさん@1周年:01/09/30 12:17
俺も、64支持。
38のは禅じゃない。
顔の見えない相手を 罵倒する 誠実に答える。
宗派に関係なく人間としてどちらが優れているかは素人でも解る事だ
また、見識が広くある程度の域に達した人間は凡人の理解に苦しむ事を
言う事がある。
>>79 まあ一般人としてはそれがごく普通の感覚だろうな。
でもな、君がもう少し禅を知れば違う意見を言うだろう。
もし、私の話が嘘だと思うなら2人のやり取りを禅の師家に
見てもらえば一発で答えが出るよ。
見性した禅僧が一知半解の禅僧を罵倒する。殴る。蹴る。
こんなのは当たり前。
相手を悟らせるための方便。
その奥にある菩薩の心を見て取れなければどうにもならない。
64は一般人にそれをしてるわけじゃないからね。
禅僧に対しそれをしてるのです。
ハイ、有り難い事です。
かつて、ある老師が「托鉢とは下座行だ。」と提唱で仰ったと聞きました。
さしずめ私がこちらで叱咤罵倒して頂けるのも、皆様の老婆心からの事、
まさに現代の下座行をさせて頂いていると、感謝致しております。
ただ私はネット上で観念的に禅を語るものとは異なり、現実社会の中で
実際に人々と共に生きております。
老婆心ながら申し上げますと、ネットで「禅とは云々」と声高に語る輩には
お気をつけ下さい。魑魅魍魎の野狐がウロウロしております。
さて明日から私も京都、島根へ出張ですのでしばらく参れません。
1さん同様、又スレがあればお会いしましょう。
>>82 そんな棄て台詞言ってるようではお寒いかぎり。
表面上は冷静さを装っても心の地獄は隠せないよ。
本当に感謝してたら今ごろこんなところにいないはず。
こうして禅はだめになっていくのだろうな。
85 :
名無しさん@1周年:01/10/01 01:35
わーい!!禅と禅のケンカだあー!おもちろーい!!
86 :
名無しさん@1周年:01/10/01 02:56
こいつらホントに臨済僧なの?
この狭隘さは「騒動宗」のほうちゃう?
87 :
名無しさん@1周年:01/10/01 04:07
ネ申「¥¥―――――
>>86 彼はともかく、私はそうです。(恥)^-^;
>>84 ご指摘の通り、到らないのでスイマセン。
ただ話しを元に戻すと、であるからこそやはり「時時努めて払拭すべし」ところが
必要なのだと思います。
>>70で、彼が公案の体系を持ち出していますが、臨済にだって修行の段階はあるのです。
ただ南宗禅が頓悟を主張したのは、段階的カリキュラムさえこなしていけば、自動的に
悟りが開けるのでは無い、以前の精神とは次元の異なる価値の大転換が必要である、
と言う事を主張したのであり、けしてコツコツやる事を否定したのではありません。
一方、北宗禅だってコツコツやりさえすればそれで良いと思っていた訳では無く、
やはり進退極まってこそ新たな世界が開ける事ぐらいは承知していない筈が無いでは無いですか。
ただ見性したからと言ってそれで良しとして、以後無軌道に生活すればやはり元の木阿弥です。
神秀はそういった人間の心の弱さを見ていたのではないかと思います。
あ、バスの時間だ!それでは〜
臨済宗の僧は必ず専門の道場で一定期間修業しないと一寺の住職にはなれない。
38さんは虎渓という僧堂で修行していたとカキコしていたが
私の持ってる臨済宗の修行僧堂一覧みたいな本にはそんな僧堂
載ってないんだがなぁ。
どうも怪しいな。
神秀と慧能の話にしても現代の禅匠が聞いたら卒倒するようなこと言ってるし、
38さんは本物の禅僧か?
90 :
名無しさん@1周年:01/10/03 04:55
あげ
ども。お久しぶりです。なにやら盛り上がってたようで。
>>89 虎渓という僧堂は実在するみたいですよ。
>>93 ああ、岐阜の永保僧堂のことか。
いつから虎渓僧堂と呼ぶようになったんだろう。
虎渓という地名だからそう呼ぶのかな。
でもなんとなく見えてきましたわ。
私も結構、禅は勉強してるんですが白隠禅(臨済禅)は隱山派と卓州派に
分かれるようですね。臨済の宗風を最も残しているのが隱山派らしいです。
卓州派は中川宋淵老師の前後の法系以外はこれといって人物が出ていない
と聞きます。
虎渓僧堂はどうやら卓州派のようですね。
ま、これ以上の説明はヤボですね。
解る人には解るんでしょうから。
禅の話は面白いしためにもなるんだけど
誰か少林寺との関係とか教えてくれるともっと嬉しいんだけど・・・
>>65 >お話を伺っていると、1さんは少林寺拳法を学ぶことによって単に武術を習うのみ
>ならず、宗教的な心の開発を行いたい様ですね。
そ、それは誤解です。
私のは単なる興味本位な好奇心でして、少林寺拳法にそのような特徴が
あるかどうかを知りたかっただけです。
少林寺拳法をされている方の意見が全くないんで一応は経験者と言うことで
私見と可能性を述べているだけで気持ちの上では全くの中立のつもりです。
だいたい私ごときが少林寺拳法側に立って議論しようものなら結論は
見えてます。少林寺に申しわけなさすぎる。
できれば宗教としての少林寺拳法を理解している方の意見を聞ければなと
思って立ち上げたスレなんですが・・・。
そんな人いないのかな?
>>94 >いつから虎渓僧堂と呼ぶようになったんだろう。
開単以来です(藁
>>1 >私のは単なる興味本位な好奇心でして、少林寺拳法にそのような特徴が
>あるかどうかを知りたかっただけです。
了解。残念ながら少林寺やって無いので、ご質問に答えられずに残念です。
でも、花大にも少林寺あるから、誰か答えてくれるかも。デハ〜
>>96 >(藁
なんてレスつける禅僧がどの程度の者かは大体想像がつくでしょう。
解ったら引き上げますか。ご同輩。
爆藁!
少林寺の拳士は実際に坐る。
これは私が実際に経験したのだから間違いない。
でも私が言うのもなんだが、彼らは何を考えてこの作業をしているのだろう。
習慣か?精神統一にでも役立つと思っているのか?
拳士のひと〜、誰か見てんでしょ〜?おしぇーてよぉ。
だーれも見てなかったらシャレならんな。(汗
100 :
Syami:01/10/08 11:07
合掌
出遅れてしまいました。些かですが少林寺拳法と陳式太極拳を修行している者です。
勉学宜しゅう!
>> 27
金剛禅は、開祖のお話、経歴、門内での作法、道訓等から思うに
色々な思想のコンポジットで有ると思っています。
仏教をベースに、道教、儒教なども取り込んでいると思います。
例えば、「道院」と言う呼称。これは私が知る限り道教で使われる名前ですよね?
仏教でも「道院」と言う呼び方は有るのでしょうか?
また、結印に関しても常用するのは「結手印」ですが、これも道教で使われるものですね。
「火炎印」と少し似ているけれど、かなり違う。
法界定印は我々は行いませんね。これは武術的な意味合いから、揃えている拇指を
手で掴まれたら、相手の片手で我の両手を制されてしまいますからね。
これ以外に、以前は短時間の坐禅を行うときは外縛の独鈷印も使ってたんですよ。
真言も今より使ってたし。
「如意棒」にしても我々が使うのは道教で使われる物に似ていますね。
道訓に至っては更にいろんな物が混在している。
禅宗の方達にも、道教の方達にも宗教的には「うっさん臭い集団」と思われているのでは?
でも、言っている事は私は悪くないと思っていますし、面白いとも思っています。
でも私は少林寺拳法は禅宗と言うより原始仏教に近いと思うのですよ。
「気」については教範に有る通り。しかし、あの本に書かれてある坐禅の方法は
「気功」で学ぶ事と何ら変わりは有りませんね。また、「発勁」は高手の方は極普通に
お使いですよ。
101 :
名無しさん@1周年:01/10/08 18:49
ただ、その剄は内功によって得たものじゃないんでは?
102 :
名無しさん@1周年:01/10/08 21:08
少林寺の筆記かなりきついよね俺いつも追試だったよーでも少林寺の先生すごく
よわかったよーあんな細いからだでまともにまわしゲリがうてないやつが5段とかいっ
てた。いつもつかんでなげてた(柔道3段)柔道ばかにしてたけど、柔道のほうが
全然つよいよーあと、変な女が勘違いして男よりつよいとおもってんのがむかついた
103 :
名無しさん@1周年:01/10/08 21:11
そうそうそしたら、インチキは乱捕りはきんしされてるとかいいだすし、しかも
あのインチキ受身まじあぶねーあしくろすしたらあしおるってなんとかして
104 :
名無しさん@1周年:01/10/08 21:22
そうそう、少林寺は、日本拳法と合気道を騒動真がくみあわせたものだよ、
日本拳法の先生がいってた、昔客人ととして送同心がきてたってしかも日本拳法
わつくってたぽいひとがあれは、商売だっていわれたらしい、うんでもそのとおり
だとおもうよ演舞(感じわかんない)で本当に精神がきたえられないし最後の
黙想も意味不明俺の格闘人生で一番無駄だった、全もなにもないあるのわいんちき
だって目さまして
>>100 あなたのような人を私は待っていました(感涙)。
教えていただきたいのは、少林寺が禅でも道教でも良いのですが
坐ることによって何を目指しているのかです。
道教のことは禅のこと以上に知らないんですけれど
やっぱり同じように「悟り」を目指してるのでしょうか。
それと、基本的なことで申し訳ありませんが坐禅を組むとき
目は半眼ですか?
107 :
Syami:01/10/09 09:36
>> 106
こんにちは。今年の5月ぐらいから2ch遊びを始めた者です。武道版に居ます。
さて、我々が坐る事によって求めるもの?何でしょうねー?
私は、呼吸法と精神統一による心身調整と思っています。
実際、あの呼吸法は気功で中丹田と下丹田を意識させる初心者用の功法と全く変わりません。
あの「調息法」によって丹田の位置を意識し、その後に「周天法」に進みます。
我々はそこまでやりませんね。
さて、「悟り」?こちらで仰る「悟り」とは如何なるものなのでしょう?
道教の「悟り」は仏教の求めるところとは随分違うと思います。
乱暴に言ってしまうならば、仏教は自分の在り様を知るためのメソッド、
儒教は「仁」に代表されるように、対人関係における自分を学ぶためのメソッド。
道教は「自然」あるいは「宇宙」と自分との関係を知る為のメソッドと捕らえています。
もちろん私見です。
仏教も古い教典を見ると、宗教的かつまた神秘的な表現は少なく、実生活を通して「中道」の在るべき姿を
説いた一種「実用書」めいたところも在ると感じます。
それと、我々の坐禅の方法では目は瞑ります。
坐禅を修行のメインに据えている方々の中には、月輪観、日輪観、阿字観などを
なさる方もおいでですが、我々は自分の内側を意識することに酔って集中します。
一種の数息観と言っても良いかも?
>> 101
貴方の仰る「発勁」や「内功」とは如何なるものですか?
ま、これはスレ違いなので、武道版にでも行って語りましょう。
>> 31
確かにその様なタイトルにした方が人は集まったかも。
>>100 そうしますとやはり少林寺拳法の禅法は禅宗のそれとは違うと考えて良いのでしょう。
真言を唱える禅宗を私は知らない。
ただ、私が知らないだけかも知れない^^;
ここら辺はできたら38さんにでもご登場願えればと思うんですけど
まだいるかな〜?
少林寺で唱えていたという真言ってどんなものでしたでしょうか?
>>1 >まだいるかな〜?
仕事の合間に覗いてますよ〜(w
真言というと、真言宗や天台宗だけのように感じますが、要は呪であり陀羅尼でしょ?
禅宗の普段読むお経は殆どが呪や陀羅尼です。
また韋駄天諷経では、真言も唱えます。
むしろ真言でない経は般若経典系と甘露門だけの様な気がします。
思いつくまま大悲咒、消災呪、ブチンソンシン陀羅尼、ギャクオン神呪、リョウゴンシュウ、
皆呪文ですよ。
110 :
Syami:01/10/10 00:20
や、これは面白くなってきた。
現在我々が唱える真言は「ナム ダーマ」だけですね。
以前は「ノウマクサンマン ダーマ」と唱えていました。
もう一つあったけどなんだったかなー?
外縛独鈷印は坐禅以外に、活法や整法を行う時にも結んでいましたねー。
真言もこういう時に唱えていたとか。
あと、これは坐禅を組む時の観相の一つですが、吸気の時に
「宇宙の霊気我に入る。」
呼気の時に
「ダーマの霊性我より発す。」
と心中に唱えるように学びました。意密の一種??
111 :
名無しさん@1周年:01/10/10 01:16
僕も5年ほど前崇山少林寺行ったことありますよ。
近くで子供がサンドバッグ相手に拳法の練習してました。
しかしこんなところで高度な議論が続いてますね。珍しい。
禅系統のスレにはわけのわからんヒッピー禅に荒らされることが多いのですが。
しかし虎渓山を知らずにでかい顔してる人がいるとは失笑ですね。
南禅寺派で国宝の建物が2つもある名刹なのに・・・(笑。
歴史の資料にも載ってますよね。
すると38さんは私の先輩ですか、頑張って下さい。
なかなか内容的には難しくて大変です。
自作自演痛いw
38さん、解説有り難うございます。
Syamiさんの話を伺っていると少林寺拳法の禅は天台の禅法に
似ているような気がします。
あちらでも確か月輪観や阿字観のときには目を瞑っていると読んだことが
あるような。
もしかして開祖は天台から禅をピックアップしてきたのかも?
それだったら北禅を唱えても間違えではありませんよね。
道教の影響を受けているのは大陸で属していた団体のためでしょうか。
ところで外縛の独鈷印って、あのよくテレビで忍者が忍法使うときにやる
人差し指を合わせて伸ばす印のことですよね?
法界定印とおんなじで人に制せられる可能性があるので
使わなくなったのでしょうか。
なんにしても少林寺で印や真言まで使っていたなんて
初耳でわくわくしてしまいます。
>>111 ん?だれやろ〜?
こんなとこウロウロしてるのは、さしずめ○坊○さんかな?
あんまりここで身内の話すると顰蹙買うから止めときましょう。(藁
>しかし虎渓山を知らずに…云々
良いやん、別に。
多分彼らは東京の人でしょ。谷中とかで坐ってるんでしょ?
ま〜秋月系の人らだわ、物言いが。教団嫌いだからネ。
115 :
Syami:01/10/10 13:48
こんにちは。私は「禅を」深く学んだわけではないので、勉強になります。
私の仏教の師としては、増谷 文雄先生が上げられます。後は金岡 秀友先生。
つまり原始仏教や、密教系になる訳です。
以前台湾を旅行した時、見学に入った寺院では表には仏像があったものの、裏に回ったら
道教の神からヒンズーの神までがごっそり祭られていました。
そして現地の方々もこれらの像を分け隔てなく礼拝していました。
西遊記等を読んでも、仏様以外に道教の神仙が当たり前の様に出てきます。
あの時代にギリシャ神話やキリスト教が伝わっていたら、きっとキリストも顔を出したのでは??
要するに、中国での民間信仰としては「現世利益」を与えてくれるような神ならば
なんでも崇拝すると言った事の様です。
善し悪しは別にして、おおらかな事ですね。
開祖の著作にも在るように、開祖は中国で先ずは道教を学んでいます。
その後、世界紅卍会で色々な宗教、武術に触れ、これが金剛禅のバックボーンに
なっていると私は考えています。
金剛禅と名乗り、禅宗の一派を標榜するのは少林寺系の技法を多く学び、少林寺で
伝法の儀式を得、白衣殿でインスピレーションを受け、夢で達磨の教示を得たと言う
体験からこうしたとご本人にも仰っておいででした。
116 :
Syami:01/10/10 13:49
1さんは坐る事にちょっとこだわっておいでの様ですが、そもそも「禅」とは
「単」に「示」すであって、坐る事では無いですよね?
門外の者が言うのも難ですが、禅の修行者は、作務をしていても、食事をしていても
歩いていても、寝ていても「禅」だそうです。
我々も坐りますが、これは我々の修行の主たるところではありませんね?
以前は鎮魂行の時には真言を唱えていたのですが、最近まで唱えませんでした。
これは「宗教法人」以外の所から、宗教色を押さえたいと言う要望が出たからです。
最近になって復活したのは、宗教法人としての色をもっと出さざるを得なくなったからとの事。
ある意味で文部省対策が在ったかも知れません。
昔も真言は唱えていたものの、その説明は必ずしもされない道院が多かったですからネ。
個人的にはこの様に「混沌」とした所も少林寺拳法修行の面白いところだと思っています。
他の「ちゃんとした」門派の方々には随分「胡散臭い」宗教団体だと思われている事でしょうね?
これはある意味仕方が無いことだとも思っています。
ここで一つ私が日頃唱えている「げ」を記しておきます。
南伝 相応部教典 7,4
漢訳 雑阿含経 42,1153より。
邦訳 増谷 文雄先生
「もし人、故なくして、悪語を放ち、怒罵をあびせ
清浄にして無垢なる人を汚さんとせば、その悪かえって己に帰す。
たとえば
土をとってかの人に投ずるに、風に逆うてかえって自らを汚すがごとし。」
ご存じ瞋恚説法でした。
>>Syamiさん
はじめまして。私は少林寺拳法の事は判りません。
また金岡さんも『秘鍵』ぐらいしか読んだ事がありません。
ただ、心の置き場所について考えてみるのは面白そうです。
余談ですが、現在の臨済では坐る際の印を意識する事は殆どありません。
僧堂にもよりますが、単に両手を組み合わせるか、法界定印かのいずれかです。
呼吸法はいわゆる数息観を基本にしていますが、最近面白い事を聞きました。
それは、禅には二つの流れがある、という事です。
一つは、白隠が説いた様に臍下丹田に上気しようとする氣を、呼吸法で収めていく方法。
「氣は心」と言う様に、つまり丹田に心を置く方法です。
道元も『永平広録』で、師である如淨から「呼吸は臍下三寸でする」と教わったと
書いてます。
また如淨は道元に「淨曰く、元子、坐禅の時、心を左の掌の上に置くべし」と言われたと
聞きます。左の掌は坐禅すると臍下丹田になります。
これらは心を臍下丹田一箇所に集中する方法ですが、このような方法は、
何も禅に限らず中国では古来より神仙の丹錬術として行われていて、
古くは『黄帝内経』や『老子』『荘子』などにも見られるものです
もう一つは、心を一箇所に止めないグループです。
それは例えば、達磨であり、六祖であり、臨済であり、沢庵であります。
達磨は慧可に「心を持ち来れ」と言い、「心」が限定的で無い事を説き、六祖もまた、
神秀の「心は明鏡台の如し」に対して「本来無一物」と、心を固定化する事を否定しました。
また臨済は「心法無形」とか「眼に在っては見ると言い云々」と言って、心は
常に私達の面門より出たり入ったりしていると説きました。
そうして沢庵は『不動智神妙録』で「心の置所」をハッキリこう言ってます。
「心を臍の下に押しこんで働かないのも、不自由で用に立たぬとすれば、
どこに心を置いたらよろしいか。」
「右手に置いたら、右手に心を取られて、動きが自由にならぬ。
眼に置いたら眼に取られて働きが欠ける。〜云々〜
どこか一つ所に心を置けば、ほかの方がお留守になってしまう。」
「どこにも置かぬことだ〜中略〜心を一方に置かなければ、十方に行き渡るのだ」
では白隠や道元、或いはこのスレで話題になった(爆)
「心は鏡の様だから、毎日奇麗に磨かなイカン」と言った、神秀などは間違いか、
と言うとけしてそうでは在りません。
沢庵は言います。
「然れども仏法の向上の段より見れば、(心を)臍の下に押込めて余所にやらぬと云うは
段が卑しくし、向上に在らず。修行稽古の時の位なり。」
つまり、修行する時は臍下丹田に心を集中して坐るわけですが、働く時には心をどこにも
とどめずに、自由自在、活發發地に働かさなくてはならない、という事です。
私は、この心を「一心」としてとどめるグループと、心をどこにもとどめないグループを
比べた時、前者は中国的な思想であり(禅はよく学者に仏教ではなくシナ思想だと言われますが)
後者は仏教的な思想である様に感じます。
それは言いかえれば、天台本學思想と中論・空思想との対比にも似て、非常に興味深いのです。
121 :
Syami:01/10/11 00:22
38さんはじめまして。
一つご提案なのですが、番号の固定ハンドルは及びし難いので、何か他のハンドル名を
お作りになりませんか?
成る程、勉強になります。
「黄帝内経」と言うと「素門・霊枢」ですね。
私も少林寺拳法の整法を勉強する時に一通り読みました。
む、すると「坐禅」は道教からきたものと考えるべきなのですか?
また、御坊の仰る「心」とは意識とか意念と言うべきものなのでしょうか?
「不動智神妙録」は私も勉強しましたが、自由闊達な禅風は非常に面白いと思いました。
内に向く心、外に向く心、ひいては何処にでもあり、何処にもない、囚われない心とでも
申しましょうか?そんな印象を受けた事を覚えています。
ではまた、ご教示お願いいたします。
私Web上で使ってるハンドルは一つなので、余りコテハンを複数持ちたくありません。
よって上記のようにしました。同じ事ですが…(^-^;
「心」ですが、その時々に応じて様々な意味に使っていますが、
そのまま「心とは何か?」と問われれば、「生命の別名」と思います。
ただ、上記の場合は多分に「意識」と言うようなニュアンスが強い事は言うまでもありません。
スイマセン、土日に壇信徒の方を連れて京都行くので準備に追われてます。
月曜までレスできません。
心をどこかにとどめようとする、磨こうとする、というのは「心があると思う
我」を(心がここにある、という思いによって生じた)我の内にとどめ、その我
によって観想された心を磨く、ということのような気がします。それは正しい、
間違い、というよりも心を仮定した「主体」によって認識・意識しその結果生じ
ている「心」によってまた「心」を見ようとするような、ある種のもどかしさが
あるのかも。
丹田への気の集中は私も時々行いますね。もっとも、私の場合は禅ではなく
仙道で、丹田に集中させるより全身に熱と圧力となった「気」を巡らすことが
中心ですが(いわゆる小周天)。硬気功・武術にも一時興味を持っていたけど、
軟派な私にはあわず....。
光の子さん、こんにちは。
だんだん役者がそろってきた。
密教の人も来ないかな^^
125 :
Syami:01/10/12 10:34
密教と言えば…。
我々は高段者なると「法器」と称して錫杖、如意棒、金剛杵を使います。
如意棒と言っても雲形ではない短い棒状のものです。
これも道教から来ている様です。金剛杵は基本的に五寸の「独鈷杵」を使います。
(本山に在るのは1尺ぐらいあるけど。)
これは有名な密教の法具ですね。
他の宗派でもこのような「金剛杵」は使うのですか?
密教系の方、いらっしゃいませんねぇ。
まだどこかに頼みに行こうかな。
>125
ところで法器って拳法では武器に使用するのですよね?
他に用い方はあるのでしょうか。
道教や密教でも武器から発生したのかな?
いつのまにか紅卍字会のスレができてますねぇ。
思わずageてしまった(w
128 :
名無しさん@1周年:01/10/15 07:55
一点集中と言いますが、
下丹田に気が溜まっていく事によって
自我が消えていき、無我になるという話しがありますが?
129 :
名無しさん@1周年:01/10/15 07:56
腹脳というやつです
>>128 気が丹田にたまっていく事によって、というより一度丹田に集まった
気がそこから全身、さらに自分の周囲にまで広がっていく事によって、
という感じですかね、私の場合。
元、仙道連の人が書いた本に
そういう事が書いてあったので引用しました
腹脳を鍛えていく事が宇宙意識へとつながると
少林寺拳法で言うダーマ(Dharma)は大宇宙の大生命ってことになってるんだけど
この解釈はダルマ(Dharma)を法と訳する禅仏教でもOKなんでしょうか。
同じ事なの?
>>132 法(ダルマ)に限らず、心や仏性というような言葉も、全て生命という意味であり、
そういう解釈に陥りやすい訳です。また私もかつてはこんな風に理解していました。
自分の生命は大いなる生命から縁に依って取り出された生命、だから死んだら大いなる
生命に帰って行くと。
しかし、そうなると永遠不滅の大いなる生命が一つある、という風になってしまう
ので、これは諸法無我・諸行無常を唱える仏教では無くなってしまいます。
いわゆる本覚思想ですね。
正しくは、禅は空間的にも時間的にも、大いなる生命と自己の生命とを別に見るのでは
無くって、自己の生命がそのまま大いなる生命であると見るのです。
沢庵の『不動智神妙録』に「間、髪を入れず」という項がありますが、まさにこの事で
自己の生命と大いなる生命の間に「髪の毛一本も入る隙間が無い」というのが、
禅の生命観であり、法は十方に遍く満ちている、と言う事なのです。
>>133 なるほど。そうなりますってえと、個人の生命がダーマの
分霊だと考える金剛禅は禅じゃないってえことになるんですね?
こだわるようですが、天台の方ではどうなんでしょうか。
135 :
Syami:01/10/18 23:37
さてこそ?
我々の道訓の
「凡そ人心は神なり仏なり。神仏即ち霊なり。
心に恥ずるところ無くんば神仏にも恥ずるところなし。」
から解釈すると、まさに「禅の生命観」そのものと感じられるのですが?
>>135 でも少林寺では「分霊」という言葉を明確に使用していますよ。
わけみたま即ち禅じゃない、というのが134の解釈。
あるいは日本で発展した南禅的な禅じゃないというべきか。
137 :
Syami:01/10/20 09:05
ふーむふむ、成る程。わけみたまかー。成る程。
個人的には「分御霊」の場合は本当に別れているように思うのですが
我々の場合は分かれてはいるモノの、別れては居ないと言う様に
理解しています。この解釈は如何なものでしょうか?
>>その解釈はSyamiさんの解釈ですか。それとも少林寺拳法が
そう解釈していると受け取ってよろしいのでしょうか。
139 :
Syami:01/10/21 01:09
私の個人的な解釈です。
残念ながら、少林寺拳法の修行の中でこう言う議論は殆どされていませんね。
実は子供の頃に道訓の
「一動一静、総て神仏の観察するところ、報応昭々として豪厘も赦さざるなり」
と言うのを覚えた時にイメージしたものが未だに残ってるのです。
分かれたと言ってもつながっているから、これが可能なんだなーって。
レベルの低い話で申し訳ないです。
>レベルの低い話で申し訳ないです。
いえいえとんでもございません。
Syamiさんの教えて下さるいにしえの少林寺の修行内容は金剛禅のバックボーン
を知る手がかりとしてめっちゃくちゃ貴重です。
もっと他にも、今では消滅してしまったような修行法や道訓などはありませんか?
141 :
Syami:01/10/22 20:46
>>140 >今では消滅してしまったような修行法や道訓などはありませんか?
宗教的なと言う事ですよね?ならば、
行法として断食行、托鉢行、長時間の座禅など。
道訓は現バージョンしか知りませんが、以前は般若心経を読み下したものを
唱えていた時代もありました。
「観自在菩薩、真般若波羅密多を行ずる時五蘊は云々・・・」
と言うヤツですネ。
また、聖句は現行のものに加え、もうひとつ有りました。
「総て悪しき事を為さず、善き事を実践し
自己の心を清むる事、これ諸々の仏の教えなり。」
やー、流石に覚えているもんだなー。
このように以前は自己帰依を説く聖句が三つ並んでいたのです。
別に消さなくても良かったように思うんですけどネ。
有り難うございます。
断食までしていたのですね。拳法の修行というか体育とは正反対な修行法だ。
これは宗教ですね。
ところで世界紅卍字会のスレに注目すべき書き込みが有りました。
どう思われますか?
143 :
Syami:01/10/23 12:35
さぁて?ノーコメントですね。
コメントするほどの材料も無いことですし。
何か誤解してるだけじゃないかなぁ?
でも、中国でも「道院」と言う呼称は道教の修行場に対するものになってる様です。
仏教だったら「寺」とか「寺院」とか言ってますよ?
崇山近辺で道教もやってたかも知れないけど、少林寺でやってるとは思い難いなぁ?
…と、思います。
崇山の古いパンフに道院の文字があって引用したと卍字会のスレに書いてありました。
38改さん、ご存じない?
145 :
名無しさん@1周年:01/10/24 20:40
いわゆる少林寺珍宝はへたれによる、へたれのための、へたれの
拳法踊りだから、禅なんてどうでもいいのさ。
税金払いたくなかっただけさ。中野踊りの詐欺師め。
146 :
名無しさん@1周年:01/10/25 09:57
>>144 すみません。確認したら、道院ではなく、活佛院でした。記憶違いで、
お騒がせして申し訳ありません。達磨大師正統継承者とも書いてありま
した。
ところで、少林寺拳法は道院であり、禅宗なんですか?
147 :
名無しさん@1周年:01/10/25 20:44
少林寺は踊りの流派です。
148 :
名無しさん@1周年:01/10/25 22:50
○○流とか色んな流派はあるの?
少林寺拳法は一流一派です。分派したら少林寺は名乗れない。
商標登録してあるのだ。(マジ)
>>146 卍字のスレの方ですね。ようこそおいで下さいました。
もし達磨のことでもう少し詳しいことがわかったら教えてくれませんか?
少林寺拳法の言う道院は町道場くらいの意味だと思います。
(・・・よね、Syamiさん?)
でもとっても変な感じなので(禅を名乗っているから)このスレを立ててみました。
150 :
名無しさん@1周年:01/10/26 08:22
>>149 達磨寶巻という本ご存知ですか? 小さな本ですが、中国や韓国では結構
読まれているようです。日本語版は入手するのは極めてむずかしいですが。
私も持っていたのですが、内容がむずかしいので、専門家にプレゼントして
しまいました。
前半は、達磨大師がインドから中国へやってきて、武帝に会い、神光に法を
授けるまで、後半は、丹の練り方が書かれています。私のような無知な者が
読むと、どこが禅の開祖なのかとも思いますが、問題は、達磨大師がなぜ、
インドから中国に来たのか? そしていったい何を伝えたのか?ですね。
このあたりは、禅ではどのように説明されているのでしょう?
151 :
Syami:01/10/26 12:39
さて?でも、恐らくはそうであろうと思います。
開祖は中国において道教も学んでいたので、この辺の用語
または思想等は結構混沌としている様に感じています。
そこが私にはまた面白く感じられるのです。
他から見ると少々胡散臭く感じるかも知れませんが…。
152 :
名無しさん@1周年:01/10/26 14:49
私の言った嵩山少林寺は、禅宗ではなく、一貫道系の分派別派だと思われます
嵩山少林寺を語っているのかもしれませんし、あるいは門前市の拳法道場の如く
多少は縁があるのかもしれません。紅卍も多分、同じ流れだと思います。私達は
道院といえば、別派という感覚です。
そこでは、達磨大師は開祖ではなく、伏儀から始まる道統の祖師のお一人にすぎな
いのですね。もちろん天命をインドから中国に運んだ(戻した)という点では、重要
な分岐点ではあるのですが。
何を伝えたかというと、一般には正法という言葉で簡単に説明されてしまうのですが、
正法とは、正しい教えではなく、まさしく以心伝心、教外別伝、不立文字の超生了死の
法そのものであって、仏典や教義ではなかったのですね。単伝という厳しい時代であり、
一人にしかその法は伝えられなかった。禅家の6祖慧能祖でしたか、そこで天命継承は
禅家を離れ、儒家に移ったとされています。
これが一貫道の基本的なスタンスであり、そういう意味では、仏教とか道教とかの枠に
とらわれてはおりませんが、達磨大師から数えて18代目の弓長祖以降、普伝を機に、
いわゆる祖師はいなくなり、残念ながら唯一天命を伝えるはずの団体が、分裂して
しまっているという現状です。
主神の他に、弥勒(天盤)、南海観音(副天盤)、天然(道盤)の三佛を奉っており
ますので、すぐわかります。
153 :
名無しさん@1周年:01/10/26 18:11
少林拳と少林寺珍宝は無関係です。
後者は前者の名前を盗んだだけのまがい物です。
中野流の盆踊りです。
弱虫しかやってません。他の武道からは武道とは認められてません。
>>152 今の少林寺が一貫道系の分派別派である可能性があると仰っているのですか?
何にしても達磨さんが別の系統の宗祖でもあったなんて驚きです。
38改さん、知ってた?
久しぶりに覗いたら私へのフリがあったんで(^_^;
いや、知りませんでした。
ただ、例えばイエスキリストもユダヤ教では預言者の一人、
聖人の一人であった様に記憶していますが、そういう風に有名人を自分ところの
系譜に加えるというのは、色々な宗教でよく見られることです。
仏教における守護神としての天部も同様ですし、わが国では神仏習合でお寺の守護神
として、お稲荷さんやその他の神様も祭られています。
>>150さんへ
禅の事を系統立てて正確に知りたいのであれば、『禅への鍵』ティクナットハン春秋社
を読まれることをお勧めします。
>>150 五祖弘忍のあと、その天命というのは慧能には
伝わらずに儒家に移ったと言うことですね?
それとも慧能までは”天命”を知っていたのかな。
弘忍や慧能の弟子に儒者がいたって事??
正道の意味は禅と同じみたいですけれど。
157 :
名無しさん@1周年:01/10/29 09:59
1さん、38改さん
あまり禅に関係なさそうなので、一貫道という考え方もあるということで
ご理解ください。ただ、正法の意味は禅とは違うと思います。
表現しにくいのですが、たとえば仏教で最高の境地まで極めた方が、
最後にいただく涅槃への切符のようなもので、これは主神の命を受けた
明師から直接面授されなければ、自力では絶対得られないものと説きます。
昔は単伝という時代であり、当代随一の聖人にしか、その法を伝えることが
許されませんでした。だから釈尊は、迦葉尊者だけに正法眼蔵涅槃妙心の法
を伝え、達磨大師は神光だけに直指人心見性成仏の法を伝えました。
こういうとお叱りを受けると思いますが、道元禅師の時代には、すでに禅家に
天命はなく、それを素直に嘆かれたのが「眼横鼻直空手還郷」というお言葉なの
ですが、もちろん禅の方は、この言葉に深い意味を託されているのですが、
その法を受けると、眼横鼻直や直指人心の意味は簡単にわかってしまう(悟って
いるという意味でなく文字通りの意味)のです。
その法が、一貫道の名前の由来でもあります。
158 :
名無しさん@1周年:01/10/29 11:08
少林寺は武道じゃないって。
160 :
名無し娘。:01/10/29 20:38
161 :
名無しさん@1周年:01/10/30 08:17
>>157 わかりました。
まぁ、この件に関して私がこれ以上何も申し上げることはないです。
「解釈」というものは色々な立場がありますから…。
ただ我々は解釈に基づいていないのです。
自分の立場だけは明らかにしておきます。
少林寺の奴ってなんで弱そうな奴ばっかなの?
なんかチビが多いんだけど。
武道がどうのとか偉そうな事いってるけど、
掴んでパンチ一発でのびちゃったよ。
少林寺でなんかへんな踊りみたいのやってるけど、
あれで武道のつもりなんですか?
笑っちゃうんですけど。なんか空手みたいな服きて掛け声だけは
出してるけど、どついたら吹っ飛ぶような弱い奴ばっかじゃん。
笑っちゃうよ。
少林寺って。あいつら何なの?
164 :
名無しさん@1周年:01/10/30 11:47
解釈ではないのです。まあ、打ち止めと仰られましたので、これ以上は触れませんが、
道元禅師が、なぜ「眼横鼻直なることを認得」したと仰ったのか、なぜ得道と仰ら
なかったのか、お考えになったことはありますでしょうか?
眼横鼻直という言葉は、天機に触れてるんじゃないかと思うくらい、きわどい
言葉なんですが…。それをあたりまえのことを了解したと、禅宗では解釈されている
と知り、私が拍子ぬけしたほどです。
続き
少林寺って武道にあこがれている弱い奴の「空手ごっこ」っていう感じだわ。
運動神経いい奴は、野球とかバスケに行くから
少林寺始めるような奴って、他の体育会でレギュラーに
なれないような、チビとカスばっかりになっちゃうんだな。
まあ、そういうカスどもに、空手の真似みたいな健康体操やって
武道やった気分にさせてあげているんだから、
少林寺部っていうのも社会福祉には役立ってるか。笑
166 :
名無しさん@1周年:01/10/30 16:43
そういうところに目をつけた中野道臣は、金儲けとしては
うまいよな。
しかも、ネーミングがいい。「空手ごっこ」じゃだれも集まらないが、
少林寺拳法ときたもんだ。ぜんぜん少林拳とは関係ないのに、
そう言い切ってしまえるところが、詐欺師として一流だ。
道院とかいって宗教法人にして税金払わないところもすごい。
これは一種の「荒らし」さんなのだろうか。
ああ、このスレも荒らされるまでに成長したのだ。
感慨深い。
初めのころは寂しかったんだぞ〜(w
168 :
名無しさん@1周年:01/10/31 16:17
少林寺珍宝と禅が関係あるわけないだろ!?
くそへたれ集団め。
中国で禅と道教は混交しているとものの本で読みました。
道教の神様祭ってるとかじゃなくてもっと形而上学的にね。
宗道臣は混交している状態の禅をそのまんまもって帰ってきたのかも。
そしたら日本の、純粋培養されて洗練された禅から見たら
とってもうさんくさくなっちゃったんじゃないかな??
170 :
名無しさん@1周年:01/11/02 08:12
正統禅は、今韓国にあると言ってた人がいましたよ。韓国の新聞社の元社長ですが。
もっとも大中華、小中華ですから、話が膨らんでしまうのですが。
171 :
名無しさん@1周年:01/11/02 08:16
禅は、日本で純粋培養されたとのことですが、中国では禅というくくり
自体があまり一般的ではないのかな? 中国人の友人も少林寺は道院
だといってましたし、道院という言葉自体が幅広い気がします。
宗氏が、その状態のまま持ってきたということは、それはそれで興味
深いです。
172 :
Syami:01/11/02 13:55
>>169 ふむふむ、成る程。
>>171 >中国人の友人も少林寺は道院だといってましたし
>道院という言葉自体が幅広い気がします。
ほうほう、そうでしたか。これは実に興味深い。
禅などは、所詮効果なし
やはりヨーガが最高の修行法です
174 :
名無しさん@1周年:01/11/02 17:18
少林寺珍宝と禅が関係あるわけないだろ!?
くそへたれ集団め。
175 :
名無しさん@1周年:01/11/02 19:14
>>171 少林寺が道院なら少林寺拳法道場が道院なのも納得です。
>>173 禅とヨガでは瞑想時の脳波の波形が違うと言う研究結果があったそうな。
到達点からして違うのかもね。
>>175 しかけって何のこと?
ヨガとは瑜伽のことで、仏教では唯識派のことを瑜伽派というのよ。
瑜伽による三昧によって解脱を求むるを説いたのが『瑜伽論』。
もちろん瑜伽は仏教以前からウパニシャドにも書かれているし、
ジャイナ教でも用いられているが、外道の瑜伽は絶対唯一の神を念じて
解脱を得ようとするところが、空を説く仏教とは異なる。
カタカナだと違うものだと思うことが、現代日本人の浅はかさか?
178 :
名無しさん@1周年:01/11/05 11:49
ヨガを外道と決め付けるのが、空を説く仏教?
179 :
Syami:01/11/05 12:19
ここで38改さんの仰る「外道」とい言うのは「他の方法」と言う意味なのでは?
ははぁ?瑜伽と言うのは絶対唯一神を念じて解脱を得ようとするのですか。
この場合の「絶対唯一神」とは何になるのでしょうか?
寡聞にして識らずで、瑜伽は呼吸法と操体を以て瞑想する単なるメソッドと
思っていました。
仏道以外の思想・宗教を外道と言うのです。
現代日本語の概念と仏教語では自由、平等、差別などもすべて意味が異なります。
>ははぁ?瑜伽と言うのは絶対唯一神を念じて解脱を得ようとするのですか。
失礼、文脈が紛らわしかったようで、括弧付けます。
「外道の瑜伽」は絶対唯一の神を念じて解脱を得ようとするところが、空を説く仏教とは異なる。
>この場合の「絶対唯一神」とは何になるのでしょうか?
さぁ、良くわかりません。
『望月』によると自在神isvaraとしています。
181 :
名無しさん@1周年:01/11/06 08:15
>>180 一般人には、キリスト教以外の宗教は邪教と言ってるのと同じように
聞こえますよ。最後の文脈から言ってもそう取れます。
立場を明らかにするのは結構ですが、ご自分の歩んだ道が唯一絶対だと
いう雰囲気が漂っています。
ヨガにはうるさい方々が大勢いますので、ご自愛を。
ヨガの瞑想では目を閉じてしまうところが禅と区別できるところのひとつ。
禅瞑想中では畳に針の落ちる音でも知覚できるが、ヨガでは逆にあらゆる
外的刺激に反応しなくなる。
なんてことが脳波の研究からわかっていることだそうな。
ちなみに少林寺拳法の瞑想では目を瞑る。(とSyamiさんが仰っていた)
脳波見てみたいね^^
少林寺珍宝と禅が関係あるわけないだろ!?
くそへたれ集団め。
禅瞑想は自立訓練法とも区別されるそうな。
185 :
名無しさん@1周年:01/11/07 08:52
技法の差など大した意味はない。
禅もめざすところは同じじゃないの?
一の意味を知らずして、只管打坐しても瞑想しても
同じ。一に統べる、一に止まるから正。
外に神を求めるからわからない。
186 :
名無しさん@1周年:01/11/07 08:58
ただ只管打坐して瞑想している時じゃないけどね。
>1
それを言うなら「自律訓練法」だ。
確かに「インスタント禅」とも呼ばれるが、
禅とは区別すべきですな。
>>188 失礼、間違えました。2ちゃんでも誤字はいやだ(w
ところでインスタント禅といえば、LSD服用者の脳波と禅瞑想中の脳波もまた
区別されるそうな。
>>185 技法のせいかどうかわからないけど脳波で区別されるんだってば。
サイエンスの結果を無視しちゃいかんよ。
無視するつもりはないけど、だからどうなの?と
聞きたかったのです。区別してどちらが選れてるとか
区別すること自体にあまり意味はないと言っただけ。
それより、後段の文章には目がいかなかったのかな?
わざとわかりにくく書いたのに。
少しとげとげしくてゴメンなさいね。
191 :
マルコシアス:01/11/08 12:47
ほんまもんの少林拳は秘教みたいですよ。気功の訓練も当然する。
禅は座るだけと思ってる人も多いようだが、ダルマが行っていた禅は口伝に
よれば、仙道の内功と同じでシコシコとハラを練っていたようだ。
白隠にしろ、物外にしろハラのできた奴は、みんなシコシコしてる。
座るだけの奴も多くいただろうが、それでいっちゃった奴は天才だと思うね。
今や、ハラを無くした坊主達ばかりだが、そういう奴等は先達と同様、シコシコ
ハラを練ることをお薦めしたい。シコシコしなくては悟れんぜよ。
公案?無意味だ。そんなものは。
流派とかこだわる必要も全くないと思うな。いいとこは積極的にとってくべきだな。
どんどんスパイすべしだ。オカルトにもどんどん手をだすべきだ。
神秘現象なんかも面白いと思うなら無視する必要もなし。
インスタント禅も多いに結構。仙道なんかでは、外丹に属するものだろうが、
そういうものは悟りの一助になろう。シロシベだのダツラだの。いいよ、かなり。
気功も併用せねば大した効果はないだろうけど。
もともと、仏教にしても、仙道にしても、ヨーガにしても、秘伝に属するものでは
共通する修業法って多い。肝心要なのは、修業の本質的な部分を見極めることだな。
末端(例えば、ナニナニ流がどうしただとか、誰の道統だとか。こんなの無意味よ。
仏道が権威をもった時代ならともかく今は無用の長物よ。そんなことにこだわるなら、
東大に行けば良い。)に目を向けても何らも得るものはない。
じゃ、何が本質かといえば、シコシコすることよ。
シコシコさえすれば、弱者の集う少林寺拳法ですら、力を持った者を輩出すること
が可能となるだろう。
少林は弱者の群れと評したが、宗道臣じたいは優れた人だと思います。
それにしても、少林寺は金を横領したとか悪いウワサばかりだ。
192 :
名無しさん@1周年:01/11/08 13:02
おっと、やっとお話の通じそうな方がいらっしゃいましたね。
達磨さんが、伝えたものが禅といってる段階で、もう壁作ってる
ようなもんだからね。趣旨大賛成です。
少林拳が、達磨さんの痕跡を残しているとすれば、まさしく秘教だけど、
多分今は形だけだと思うな。それを道院だとか、禅だとか言ってるのを
聞いたら達磨さん、笑っているだろう。
それとハラをシコシコですが、私は実証したわけではないので、偉そうな
ことは言えないけど、気功と組み合わせるのは、先天と後天を組み合わせる
ためのもので、先天こそ達磨さんの伝えたもの、と伝承されてます。
>>191 >ダルマが行っていた禅は口伝によれば、仙道の内功と同じでシコシコとハラを練っていたようだ。
あなたがどう考えようとあなたの自由だが、誰もが知る有名な人物などの名を借りて、
自論を展開するのは如何なものか?
194 :
名無しさん@1周年:01/11/08 20:14
で、達磨大師って実在の人物なん?
>>190 >無視するつもりはないけど、だからどうなの?と
>聞きたかったのです。区別してどちらが選れてるとか
>区別すること自体にあまり意味はないと言っただけ。
方法論が違い、結果として脳波や環境への応答に相違が認められる。
普通の思考回路の人ならばここで両者が違う何者かを目指しているんでは
ないかと考えるのではないでしょうか?
みてくれは同じだけど内容が実は違うんだな、と具体的に示してくれたのが
この手の研究の面白いところだと思います。
区別して、だからどうなの、と言うことは簡単だけど、
その相違からいろんな可能性が導き出せるのは確かだし
いきなり「結局到達点は一緒だ」と結論してしまうのは少なくとも論理的では
ないでしょう。
私には未だにロジックが通用しない禅的思考法にはついていけないところが
あるのですが、多くの場合むしろロジックを避けて通るための方便に
禅的な会話が用いられているように思えてなりません。
>少しとげとげしくてゴメンなさいね。
いえいえ、こちらこそ。率直にやりましょう。^^
>>131 >ハラを練ることをお薦めしたい。シコシコしなくては悟れんぜよ。
これは、仙道の小周天で陽気を発生させる呼吸法(武息)を指していると
思いますが、仙道の「還虚」と禅の「悟り」はかなり性質が違うのかもしれ
ない。仙道はいわば「生死」に対する執着です。禅のように「生死」が生じ
る根源を悟って生死自体を離れるというよりも、絶対的な生命力を手に入れ
「永遠に生きる」という発想がある(それも、現世志向がきわめて強い)。
なお、仙道で「腹をシコシコ」するのはごく初期の段階が中心です。全身
に気が生じるようになると逆に極端に呼吸が深く幽かになる真息、さらには
呼吸がほぼ停止する胎息が中心になるとされているので。というか、大抵は
小周天をやっている段階で、すでに意識の集中だけで全身に強烈な熱と圧力
が生じるようになるのでいつまでも武息をやっていると熱にやられます(^^;。
197 :
名無しさん@1周年:01/11/09 08:34
>>193さん
聞く耳持たぬ人が、混沌とした2ちゃんで何求めてるの?
日本の常識や定説を論拠にする方が、私達にはよっぽど違和感があるよ。
熟成しすぎて危機感がない。だから既存の宗教に限界がでてきて、新宗教が
現れたんじゃないの? あなたの歩んだ道を否定するつもりなど、さらさら
ないけど、只管打坐で萬霊萬民をどう救うつもり?
1さん、論理的思考はもっともだけど、結論先に言わなければ、スタンスの
違いがわからないと思ったもので。決して禅問答のつもりはないです。
<私には未だにロジックが通用しない禅的思考法にはついていけないところが
<あるのですが、多くの場合むしろロジックを避けて通るための方便に
<禅的な会話が用いられているように思えてなりません。
おっしゃる通りです。でも、ロジックで理路整然と説明できるものなら、
大師も苦労されなかったはず。慧可も大師を数珠で殴りつけるような
ことはなさらなかったでしょう。ご興味なければ、無用の話ですので
また出直します。
>>196 仙道の解説かなり面白い。
私とはスタンスが違いますが、非常に参考になります。
>>196 おっとレスの番号は131ではなく191でしたね。仙道的な「気を練る」
内功や動功は、禅から見れば「悟り」とは直接関係のない(さらに言え
ば「生」への執着を強めかねない)「健康法」といった感じなのでしょ
うか。有用ではあっても、それ自体は悟りではなく「生」の世界のレベ
ルのもの、と。
200 :
マルコシアス:01/11/09 13:06
>光の子さん
>なお、仙道で「腹をシコシコ」するのはごく初期の段階が中心です。全身
>に気が生じるようになると逆に極端に呼吸が深く幽かになる真息、さらには
>呼吸がほぼ停止する胎息が中心になるとされているので。というか、大抵は
>小周天をやっている段階で、すでに意識の集中だけで全身に強烈な熱と圧力
>が生じるようになるのでいつまでも武息をやっていると熱にやられます(^^;。
いや、武息というのは、大周天が完成した後も、使えるものですよ。まあ、その
段階に至れば、文息という言い方が適当かもシレンガネ(笑)。
武息とは下腹を鍛えるものであり、ハラには様々なレベルがある。例えば、
植芝盛平と山岡鉄舟のハラ(丹田のことネ)は違うでしょ。
あれはね、大周天ができても丹田を練りつづけてんだ。
胎息に関してもレベルの深浅は当然ある。それは軸(主に衝脈を中心とする)と
ハラのでき如何に比例する。一時間程度しか息を止められない人もいれば、30日も
息を止めてられる人もいるでしょう?
あとね、熱にやれれるということに関しては、頭に入ってこないことと、冷性の気で
できた軸を確保していればまず大丈夫だと思うよ。
下丹田に関しても、熱でできたものだけとは限らないんだな、これが。ま、いいか。
基礎行法とされる小周天に関しても、あれにもレベルがある。背骨の運動性だ高まり、
細かく自由自在に背骨の一個一個を動かせるようでなくては小周天をしたかいはない。
武息をとことん深めた段階で小周天に挑めば、すぐにでも大周天ができるほどだ。
201 :
マルコシアス:01/11/09 13:07
悟りについては、その定義にもよるけど、丹田もなく軸もなく悟りだなどと抜かしている
のは、俺自身の考え(飽く迄、俺自身の考えだが)ではちゃんちゃらおかしい。
日本古来の悟りとはハラですよ。戦前までは庶民に至るまでアイツはハラができている
できていないなどと人を評価したものだ。よく、できた人とか評価するだろう。あれは
何ができたかというと、ハラだ。ハラができてるかどうかを見ているわけだ。
生死の極限を越えるものはハラだ。武士が禅を修したのも生死を超越するためだ。
仏像をみれば、分かるだろう。羅漢でもいい。何故あんな特徴のある腹をしているのかね?
絵画でも、ハラをクローズアップしたものが非常に多いということは周知の事実であろう。
肉体的には主に腸腰筋の発達によるものであるが(身体運動としても各段の飛躍が
あるため古来、インド拳法、中国武術、日本武術の秘伝的メソッドとして修されてきた。)
そこに秘密がある。神経系の活性化とも無関係ではない。
2ちゃんのような軽々しい場だから、ちょっと面白い話をしようと思うけど、
凄い丹田ができて呼吸の真に至ると、凄まじい現象に遭遇する(しない人もいるみたい。)。
それはね、一息ごとに宇宙が誕生し崩壊するとかいったものだ。確固たる実在的
基盤を持った世界が生成するわけだ。その広大無辺の世界を単なる目撃者にとどまることなく
「生きる」のである。ちなみに、植芝盛平はこの境地に達していた
これが最終到達点というわけではないが、仙道やハラを練る禅を弛まず励行すれば
こうした境地にも達するかも知れない。これは、健康法なんてレベルじゃないよなー。
別に信じろって言ってるわけじゃないが、仙道にしろヨーガにしろ禅にしろ、その真
に達したところは凄まじいものだと思いますよ。
202 :
名無しさん@1周年:01/11/09 14:19
凄い話だな。力んでないところに凄みを感じます。
マルコシアスさん自身は、どの辺まで進んでらっしゃるんですか?
>>191 >シコシコさえすれば、弱者の集う少林寺拳法ですら、力を持った者を輩出すること
>が可能となるだろう。
こんなとこにレスつけてまた荒れるのはやなんだけど一応ね。
私の認識では別に弱者が集っているようには思えませんけど。
ま、この手の話題は武道板で。
>>197 スタンスの違いはまあわかりました。
ただ、禅問答ではないと仰るのでしたら次にその結論に至った
筋道を教えていただきたいと思います。
禅的思考については理解できているとは言い難いですが興味はとーっても
あります。ほんと。でなけりゃこんなスレたてませんって。
>仙道なんかでは、外丹に属するものだろうが、
>そういうものは悟りの一助になろう。シロシベだのダツラだの。いいよ、かなり。
>気功も併用せねば大した効果はないだろうけど。
こんな話し聞いた事ありません。どうやって服するの?
ほんまものの鉱物の外丹精製できる人知ってますか?
206 :
名無しさん@1周年:01/11/10 08:48
シコシコって固有名詞?腹を練る事を指しているだけですよね?
マルコシアスさん
私は、丹田呼吸法と禅を併用してやっている。
まあ、それをドッキングして考えるのは大変面白い。私は接点はあるとしても、そこまでは考えていなかった。
丹田呼吸法、こちらは即効性がある。対人恐怖症の方は、それが顕著である。
まあ、それはそれ。「悟り」となるとイササカ私として認識不足かな?
「禅」は全く違う観点で捉えているので、そこのところも私の認識不足かな?
私としては疑問であるが、一応今後の課題としたい。
しかしねー、ハラ、と「悟り」。面白い考えであることは間違いない。
>>207 ハラと悟りというのはまともな気功、武術の世界では一般常識
ですよ。
文献を多く読み、知性があれば分かることですよ。
ハラの悟りねえ。腹が据わらせて、何をしたい?
サバイバル能力は確かにハラと密接な関係がある。
だが、生死を超えるのはハラじゃなかろう。
>>208 武術における「悟り」とは、覚悟の→「覚醒」→「悟り」。の「悟り」かと思う。
いわば、武術は覚悟が大事。
「禅」の「悟り」とは意味が違うのではないでしょうか?
どうも、そこが噛みあっていないような気がするのですが・・
それに、文献と知性がドッキングして「正解」の論法も早計かと思う。
まあ、自論を展開したまでの事で、すべてを否定している訳ではないが・・
>>200 >ハラのでき如何に比例する。一時間程度しか息を止められない人もいれば、30日も
>息を止めてられる人もいるでしょう?
本論には関係ないけど・・・
30日息止めてたら逝ってしまいます、絶対。
疑問持たないでそのまま信じられるのはちょっとやばいよ。
ダツラは危険だからやめとけ
>>205 気功やる人が、こういうの肯定してるのはかなり珍しくない?
214 :
名無しさん@1周年:01/11/12 08:35
>>204 まぁ、やめときましょう。私の考えでもありませんし。
私が興味あるのは、達磨大師が、何を運んできたかだけです。
禅には全く興味ありませんけど、禅の言葉の中には、本来の意味
が失われているけど、それを示す言葉がたくさんあります。
38改さん、大変失礼な言葉を連ねてしまい、申し訳ありません。
禅の方は、他スレでもそうですが、なかなかまともにご返事いただけ
ないですね。ちょっと残念でした。それでは。
215 :
名無しさん@1周年:01/11/12 17:36
内丹修行法に、「玄関一竅」というのが出てきます。
これについてどうお考えでしょうか?
>>214 >禅には全く興味ありませんけど、禅の言葉の中には、本来の意味
>が失われているけど、それを示す言葉がたくさんあります。
そうなんですか。例えばどんなのでしょう。
一貫道というのも座は組むのですか?
組み方は?目は瞑りますか?
そこから得られるものは最終的には禅と同質だと仰っているのですよね。
217 :
名無しさん@1周年:01/11/13 08:31
こんなこというと禅の方は怒るんだろうが、
正法眼蔵、直指人心、眼横鼻直、教外別伝、以心伝心、不立文字
三宝、…。私達は、身を持って理解しますよ。といっても悟っている
わけではなく、言葉の表面的な意味はね。いずれも、玄関一竅のことです。
詳しいことは天機ですからここでは語れませんが。
ちなみに他宗教でも同じ意味の言葉がたくさん残っています。
十字架、聖霊の宮、玄牝の門、谷神、橘の小戸、天の岩戸、…。
守玄という坐法があります。方法は内丹に近いですね。ただし、
最大の玄関が開いてますから、最終的に禅と同質とは言えません。
私は熟達しておりませんが。
んで、目は瞑りますか?
道教の座法も結跏趺坐なのですねぇ。
219 :
名無しさん@1周年:01/11/13 12:09
なんか、まじめに相手してませんね。
簡単に聞ける話じゃないのに(グスン)
オリジナルの大師の話に近いかも。本家に近いだけに。
やっぱり出直そうっと!
あれれ、言葉がわるかったかな?
私は本気で聞いていたのに・・・。
玄関の話にも興味はありますが、まず座法をと・・・。
これでもネットで調べてみたのですよ。
詳しくはわからなかったけれど。
221 :
名無しさん@1周年:01/11/14 10:07
座り方や眼はヨガや仙道と変わりませんよ。
ただ、玄関が開いてないと、中心がないですから、基本的に違います。
私達は、内功は、ご神仏との対話の時間です。法輪を転ずとは、玄関
を通して、ご神仏の世界と先天の気の交換をするんですね。
もちろん、仙道のような感覚も生じます。
ご神仏の世界というのは、気の世界ではありません。ヨガでも頭頂の
チャクラが開くと、気の世界との交流ができるようですが、根本的
に違います。
222 :
名無しさん@1周年:01/11/14 14:08
検索するとやたら、法輪功関係が出てきますが、玄関について具体的に触れて
いるところは、ぼかしている古書よりは驚きですが、どうも違う物を言って
いるようです。
しかし、法輪功をおそれる共産党の気持ちもわからないではないですね。
ただの気功集団ではなさそうです。
やっぱり目を開いて座るのは禅だけなんだ。
これは、金剛禅他宗教由来説に一票だな。
224 :
Syami:01/11/15 11:00
なんでも、開眼、もしくは半眼で坐ると集中によって偶に在らぬモノが
見える事があるので本門は瞑目とすると仰っていましたよ。
>>224 へー、そうなんですか。
昔は宗氏は開眼で座っていたと言うことでしょうか??
もしそうなら瞑目は宗道臣のオリジナル??
226 :
名無しさん@1周年:01/11/16 08:22
弱いたれそうどうじん
227 :
Syami:01/11/16 10:20
>>225 残念ながらその時は「はぁ、そんなものですか。」と聞き流してしまいました。
嵩山はどうなんでしょうね?
なんぼなんでも嵩山は開眼でしょう。
禅宗と銘打っているところで瞑目して坐禅している所なんてあるんだろうか??
少林寺拳法以外で。
1です。
38改さんに倣って1改と名前を変更させていただきます。
今後ともよろしく。
逆に禅以外で開眼しているとこってあるのだろうか・・・。
さて、それでは今までのまとめといきましょう。
1.少林寺拳法は宗教法人格を持つ。(学校法人、財団法人も併せ持つ)
2.その宗教性は現在かなり薄れつつあるが明らかに宗教である。印を組み真言を唱え断食まで行っていた。
3.少林寺拳法には独特の座法がある。調息なつ特殊な呼吸法と瞑目が特徴である。観法を行う拳士もいる。これらは道教及び天台と共通している。
4.その思想、行法は少なくとも日本の禅宗と一致しない点が多々ある。かなりうさんくさいらしい。
5.道教とのコンポジットである可能性は極めて強い。少なくともそれらの一部は道院・紅卍字会なる道教系組織に由来している。
6.禅宗の言うところの「悟り」は目指していない。
てなところでしょうか?
232 :
Syami:01/11/21 16:27
う〜ん、そんなところでしょうかねぇ。
敢えて申し上げるならば「少林寺拳法」を「金剛禅」と書いた方がより正確では?
ところで、浅学にして申し訳ないのですが、「禅宗の言うところの『悟り』」とは
如何なるものでしょうか?
自分は禅はやったこともなければ、歴史などについても全くの無知ですが、多分、〈無限〉に触れる、あるいは成る瞬間のこと、又、それを契機に起こる認識の変化のことではないでしょうか?
久々に通りがかったら…。
>>Syamiさん
>ところで、浅学にして申し訳ないのですが、「禅宗の言うところの『悟り』」とは
>如何なるものでしょうか?
貴方も人が悪いねぇ(^_^;
235 :
Syami:01/11/21 21:52
>>234 や、これは38改さん、お久しぶり。
>貴方も人が悪いねぇ(^_^;
いやいや、それは誤解です。
衷心から、この板でこれを問うたらどのような答えが得られるかと思ったモノで。
禅宗の言うところの悟りとは、自己が他者と(日本では山川草木を含む全てと)
区別のない本質を持っていると同時に自己がこの宇宙で絶対唯一の存在であること
を同時に理解した状態のことを指しています。
なんてことをしゃあしゃあと書いちゃあいけないんだろうな^^;
もちろん私は字面しか理解していません。
38改さん、こんなところでいいでしょうか?
金剛禅ではこういうわけのわからない(一般人にとってです。誤解の無いよう。)
目標を掲げるよりも、心身を鍛えて実社会でリーダーシップを取れ!そんときゃ
こういうアウトラインでおやんなさい、という極めて実践的な指導をしています。
ここらへんは昔から変わってませんよね?syamiさん。
237 :
Syami:01/11/22 14:28
>>236 そですねー。実に単純明快、且つ実践的で子供にもわかりやすい。
あっ、痛てっ!誰でいっ?石ぃ、投げたヤツぁ!?
はっ?あ、貴方は管長先生?冥界からお戻りで?
はい?単純明快で実践的だって言っても、実践しなけりゃ話にならんと??
うっ、ご、ごもっともで…。
いやー、しかし、幾ら嵩山少林寺がルーツだからって、無理やり「禅宗」を名乗らなくっても…
あ、いえ、私はこの名称は大好きなんですけどネ、教義から考えると無用の混乱が…
あっ、ごっごめんなさいぃっ!きゃ〜っ
^^;
239 :
名無しさん@1周年:01/11/25 05:29
age
住人がいなくなりましたね(w
悟りの内容に関してひと悶着位あると思っていたけれどそうでもないみたいね。
ま、本題と関係ないからここで話しても仕方ないけれど。
さて、この板でのスレの寿命も尽きたようですのでかねてからの密かな懸案を
実行いたします。
いえ、たいしたことはありません。このスレを武道版に移植してみるだけです。
さて、あれるかな?
もちろんこちらも下がりきるまでは見届けますので好きなこと書いてください。
話題を提供してくださった皆様方ありがとうございました。
ではでは〜〜
243 :
名無しさん@1周年:01/11/28 14:13
少林寺拳法って、社団法人じゃなかったけ?
>243
コピペで失礼
少林寺拳法の関係団体には、少林寺拳法の普及を通じて社会に寄与する
「 財団法人 少林寺拳法連盟」の他に、宗 道臣が提唱した金剛禅の教
えを広め、 門信徒を教化育成するための「宗教法人 金剛禅総本山少
林寺」、 少林寺拳法を通じて個人の資質の向上を図り、以って社会の福
祉に寄与できる指導的社会人を育成する「 学校法人 禅林学園/日本少
林寺武道専門学校」、そして世界各国での少林寺拳法の普及活動を統括し
、支援していく「 少林寺拳法世界連合(WSKO)」がある。
ちなみに、少林寺拳法連盟の登録会員は140万人。また、海外28ヶ
国にも普及し、WSKOによって各地区講習会や4年に一度の国際大会な
ども開催されている。
少なくとも昭和55年までは社団法人を名乗ってるけど、今は違うみたいね。
詳しいことはわからないけれど・・・。
武道版でこんな質問をされました。
>禅宗の悟りと古代仏教の悟りって、どこがどういう風に違うのですか?
違うのですか??
おぉ〜、めちゃ運良いと言うか、縁があると言うか…。
雅子様女児出産情報探しに、久々に立寄ったら「まだやってる〜」て覗いちゃいましたよ〜(^.^)
で、お答えします。
真理は普遍的であるから、違っちゃ真理じゃないのよ。
やっぱりそうなりますか>38改さん
でも各派で、これぞ真理!って言ってる境地が実はちょっとずつ
違っちゃってるなんて面白い話はありませんかねえ。
うむ。話が面白くなってきました。age.
心身学道
悟りを言葉で表現するというのはちょっとムリなんではないでしょうか?
そうなんでしょうね。
だからこの手の話題は誰も相手にしてくれない。
でも言葉にもあらわせないのに何を根拠に真理はひとつなんて言えるのだろう。
きっと座らなければわからないことがあるのだと思います。
掲示板じゃきついんでしょうね。
>>250 >だからこの手の話題は誰も相手にしてくれない。
言い表わす表現は、各各違っても帰結するところ同じかと思いますね。
ある共通点を見つけたら、そこのところを掘り下げますと、以外に共通項を見出せるかと思います。
言葉尻だけ捉えますと、全くそこのところは観えてこないですが・・。
どなたか水想観にお詳しい方おられますか??
禅で行われる観法と聞いたのですが・・・。
密教系の座法について教えていただけませんか?
このスレじゃ無理かな。