「信仰する」とは、どういう事か?

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1名無しさん@1周年
「神は居ない」も「マトモな宗教など無い」も「超能力者は居ない」
も、・・・中略・・・○○は絶対無いという命題が証明不能である
のはアタリマエの事。不在の証明が不能だからといって即座に存在
の証明と等価となるワケでもない。それも当然。

信仰の根拠の(恐らくは)最大のものであろう「神」の存在/非存在
が証明不可能である事が、この手の議論のもどかしさなのだが
そもそも信仰というのが、「そういうもの」なのだからソレは
しょうがない、として。

語り得るのは、凡夫たる我々が「信仰する」という事は、一体どういう
ことなのか、という事に尽きる。

信仰の定義を
「証明も否定もできない事柄を、それでも<在る>と前提する事」
とするならば、全く「信仰」の無い状態は有り得ないだろう。
或いは信仰を「創造者・人格をもった至高の存在に対するもの」等と
すれば、無神論者vsその他、という事にもなるだろう。
ヒマつぶしはヒマつぶしなりに、各々の立場から、真面目に批判的に
語りたい。正直、馬鹿だのチンコだのと、ただ罵り合うのにはアキタ。
2名無しさん@1周年:2001/07/28(土) 22:21
エポケ
3ヌマツダ:2001/07/28(土) 22:23
新約聖書 ヘブル人への手紙:11: 1
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
4名無しさん@1周年:2001/07/28(土) 22:24
>>1
信仰の定義を
「証明も否定もできない事柄を、それでも<在る>と前提する事」
とするならば、全く「信仰」の無い状態は有り得ないだろう。

「特定の事物について」の一句を付加すれば多いにありえるであろう。
5:2001/07/28(土) 22:34
>>4
その通りですね。
ただ、
A「俺には信仰など無い」
B「でも、自由意志は信じてるんデショ」
みたいなやりとりをあらかじめ牽制しておきたかったのです。
6名無しさん@1周年:2001/07/28(土) 22:47
そもそも信仰の前提であるはずの「宗教」という概念だって、
それこそ宗教学者の数だけあるとか言われているし、
信仰というものを定義づけることはそれよりもっと難しいのかもね。

「<脱>宗教のすすめ」というPHP新書の本にも
こういう話、少し出てくるよ
7鉄鼠:2001/07/28(土) 22:50
>>1>>4
信仰の定義を
「(特定の事物について)証明も否定もできない事柄を、それでも
<在る>と前提する事」
としてしまうと、適用範囲が広くなりすぎているのでは?
その定義では、極論すると
「このミカンが腐っていることは、証明も否定もできない。だけど、
<腐っていない>と前提して皮をむいてみる」
という行為まで、「信仰」になってしまいます。

「世界を認識する手段として、特定の宗教のドグマを最優先する事」
という定義はいかがでしょうか。
8名無しさん@1周年:2001/07/28(土) 22:51
>>3
新共同訳とほかのやくくらべてみ
9へへへ:2001/07/28(土) 23:14
こういうことだそうです

135 名前:警察逝ってよし 投稿日:2001/07/28(土) 22:56
職業は何でもいいよ。でも神社の神主や寺の住職がキリスト教の洗礼は受けられないだろ。
警察官は天皇制国家を護持する存在だから、広い意味で神道の一部なんだよ。
単なる公務員ならいいよ。人のために働いてるわけだからね。
でも警察は駄目だ。
10:2001/07/29(日) 03:51
>>7
>「世界を認識する手段として、特定の宗教のドグマを最優先する事」

「信仰」の定義をひとまず狭義のものに、いわゆる一般に流通している
「(神の存在をその理由とする)宗教」を対象とするものにした方が
よさそうですね。話が進んでいくにつれて、再度、定義を拡大して論じる
必要が出てくるでしょうが、それはまたその時に。

上記引用のドグマとは単純に「教義」と訳してよろしいか?或いは、
ドグマには独断的・独善的という風な否定的な意味合いも含まれますが
いわゆるファンダメンタリスト〜創造科学とか原理主義〜を最右翼に
そして、自然科学をその反対側に対置させたものと理解してよろしいでしょうか?
(続きはまた明晩)
11アビ:2001/07/29(日) 07:34
山本七平の「空気の研究」読むとわかるかも。
後、「日本人とユダヤ人」
12:2001/07/29(日) 20:57
>「世界を認識する手段として、特定の宗教のドグマを最優先する事」

10の書き直し。
つまり、ここで言うドグマとは
「それ自体は証明・検証の対象にはならない(しない)もの。」
ですね。

ならば、信仰の契機やそれを維持する動機とは何でしょうか。
何故、信仰できるのか?
何故、信仰せずにはおられないのか。

#余談ですが、「腐ったみかん」は<腐っているかどうか>を検証する
#方法を持っている者にとっては(例えば、剥いてみる)信仰にはならない
#ことになって、一件落着。
13カメル連合:2001/07/29(日) 22:17
>>8 名無しさん@1周年 さんへ、

新約聖書 ヘブル人への手紙:11: 1
>>3 のは【 新改訳 】です。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

【 新共同訳 】は、
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」です。

【 フランシスコ会聖書研究所訳 】は、
「さて、信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです。」です。

聖書辞典(新教出版社)では、
しんこう 信仰
神およびキリストへの信頼、
神は真実をもって人間と契約関係を結び、人間が信頼するように要求された。
アブラハムが神の約束を信じ、その命令にことごとく服従した。
ここに旧約における信仰の典型が示される。−以下省略−。

聖書辞典(いのちのことば社)では、
信仰
神に対する信頼と、そこから当然起こる神のことばに対する信頼を言う。−以下省略−。

新約聖書略解(日本基督教団出版局)1972年13版では、
−抜粋−
信仰は神と約束に基づくこと、それゆえ一方では強い希望と、
他の一方では神の全能に対する信頼から生ずる知識をもって
ささえられるゆえんを明らかにしている。
信仰はまことの存在、ほんとうの現実を知ることであって、
それは単に感覚に訴えられる表面的なものでないという事実を教える。
《確信し》《確認する》を他面からいえば、自ら証拠だてること、証人となることである。
信仰はわれわれをして神の現実存在とその恵みとを証言させる。
そういうわけで−略−われわれは
この人々(証人となった信仰の先人たち)の名を長く覚えているのである。

とあります。
14名無しさん:2001/07/29(日) 23:30
>>1 氏へ、
「証明も否定もできない事柄を、当然<ない>と前提する事」 は、
反信仰とでもいうのだろうか?
非ず非ずのアートマン(我)と同じく、<ない>と前提することも、
諸法非我と信ずる仏教のような。ある種の信仰ではなかろうか?
15名無しさん@1周年:2001/07/29(日) 23:44
あなたは牧畜されている肉牛とします。この牧場で牛はよく面倒を見てもらって、とっても幸せです。
ある日のこと・・・

肉牛A: おれなんか俺たちの飼い主様のことばがわかるようになっちゃった。
肉牛B:へーほんと?
肉牛A:なんか飼い主さまのいうには、よい肉をつける牛が良き牛らしいよ。
肉牛B:あら・・それが飼い主様のいう良い牛の真理か・・・じゃがんばってよい肉をつけよう。
肉牛A:そうすべきだね。それが真理だね。

僕にとっての信仰への解釈はこんな感じです。このとても不思議で厳しいが美しい世界に、なんかとても人間くっさい価値をくっつけて、しかも死んだあとのことでつると言う、生物の偉大さを踏みにじる矮小な考えのことですな。
161:2001/07/29(日) 23:57
>>14
んとですね。当方勉強不足にて後半部分が読解不十分なので
それについてのレスは置いといて・・・
在るにカッコをつけてあるのは、「在るとするか無いとするか」を問題と
してるんじゃなくて「前提する」事を〜すなわち〜そこから始める
という事を表現しての事だったのです。
そういう意味で<在る>を<無い>に代えても意味は同様です。
171:2001/07/30(月) 00:04
加えて、「証明も否定も出来ないもの」を研究の対象としない
のは、自然科学の方法ですが、この場合は文脈が異なります。
まぁ、まぜっかえす人も居ないでしょうが。

ああ・・・蛇足サゲ
18名無しさん:2001/07/30(月) 00:15
14 ですが、
>>16-17 1 氏、了解しました。

>>15 氏、確かにヨク判る比喩です。
それも「信仰」の真理の一つだと思います。
19名無しさん@1周年:2001/07/30(月) 00:30
親が子供に
「うそつくと閻魔様に舌をぬかれるぞ」
って言ってしつけるのは子供がまだ幼稚で何でも信用するのをうまく利用
しているだけで、いい大人が閻魔大王の存在なんて信じませよね?
もし閻魔大王が存在するなら人間全員舌ぬかれて地獄へ落とされちゃうよ。
所詮、宗教ってのは人間を扱いやすくする為の道具。
それを本気で信じてしまっては子供と一緒なんじゃないの?
20名無しさん@1周年:2001/07/31(火) 00:58
>>2
[(ギリシヤ) epokhē]
〔哲〕〔判断中止の意〕
(1)古代ギリシャの懐疑派の主張する哲学態度。
現象に対して一切の断定を留保すること。
(2)フッサールの現象学の基盤をなす方法。
純粋な事象そのものへ至るために、素朴な自然的態度を差し控えること。

・・・・で?それから?
21:2001/07/31(火) 01:11
>>19
>所詮、宗教ってのは人間を扱いやすくする為の道具。

これって、「自分が自分を」扱いやすくする為の「道具」
でもあるとも思えますが、たとえそうであっても使うべきでない
道具だと思いますか?
それは薬と同じように適量を問えるものでしょうか?
或いは、破滅的な副作用を必ず伴なうものでしょうか?

そもそも「道具」として使用せんとした瞬間に効力を失う類いの
ものでしょうか。
22鉄鼠:2001/07/31(火) 01:50
>>10
ここではドグマ=教義としてください。
用語の定義は掘り下げていくとキリがないので、おっしゃるように随時修正してい
けば良いと思います。
腐ったミカンはあまり良い例では無かったですね。

>>21
ありふれた言い方ですが、宗教とは麻薬やアルコールのようなものでしょう。
適切に使えば心の痛みを和らげ、ストレスを発散させることができると思います。
きちんと合理的思考方法を身につけた人間なら、おぼれることなく宗教を道具とし
て嗜めるのではないでしょうか。
23:2001/07/31(火) 02:11
>>13カメル連合さん
<信仰は、神への強い希望と、神の全能への信頼>
であり、また
>信仰はまことの存在、ほんとうの現実を知ることであって、
>それは単に感覚に訴えられる表面的なものでないという事実を教える。
とありますが、それが「事実」である事はどのように明らかにされるのか
と問えば、
>《確信し》《確認する》
ことだ・・・と。応えが返ってくる。そりゃあなんだと問えば、
>自ら証拠だてること、証人となることである。
>信仰はわれわれをして神の現実存在とその恵みとを証言させる。

なんだか、ぐるぐる回ってる。と、見えるのですが。
要するに、「信じたいから信じるのだ」と、一言で済んでしまうかも。
(アホでスイマセン。)
「信仰する」という事を対象化しようと試みるスレッドにしたいので
皆様、もう少しおつきあいを、オネガイします。
24鉄鼠:2001/07/31(火) 02:30
>>23
キリスト教の信仰は基本的にぐるぐる回っていますよ。
「聖書は完全無謬である。なぜなら聖書にそう書いてある」
というトートロジー(同義反復)に立脚しているような宗教ですから。
25不信仰は天国、信心深いものは地獄:2001/07/31(火) 02:45
信仰するって事は、自分が自分でなくなることよ。
オウムや統一協会やエホバみりゃ、そうだしさ。
カルトじゃなくても同じ事。
要するに自分で考える事が面倒で、
なんか権威に頼りたい依存人間の機械化人間。
本当に神を信じてる奴は宗教を信じたりはしないのだ。
26:2001/07/31(火) 03:09
>>24鉄鼠さん
そのようですね。まぁ、今しばらくクリスチャンの方の返答を
待ってから、「トートロジーで何故いけない?」みたいな方へ
行ってみますか。
>>25
うーむ、
>信仰するって事は、自分が自分でなくなることよ。

まず、自分というものが自明なものとして在る。
(自分であるという事においては完全である)
というのと、「神を信じる+宗教を信じない」が加わると・・・
(あ〜その、この「宗教」というのは「他人の示す教義」
 くらいの意味ととってます)・・・つまり「俺が神だ」と
言う事と同じになるのかな?・・・ってワケワカンネ。寝ます。サゲ。
27カガク的なのは偉いの?:2001/08/01(水) 03:03
例えば進化論を挙げてみても、
人間が神によって創られたのでなく、半ば機械的な偶然/必然によって生じた
と「信じる」事。・・・・それで何が救われるの?

科学的合理主義〜道具主義を選択する理由は何なのですか?

極端な話、地上が「球」じゃなくて平面だと思っていたとしても即座に生きていく
のが困難になる訳でもない、と思われるし。無論、全ての人が「この世は平面だ」
と思っていたら色々と不都合は出てくるだろうけども、しかし、<個人として>
「この世は球い」を(素朴な感覚に逆らって)選択する根拠はいずこにありや?
人類の知恵の総量を増加させる為、というのは、その動機としてあまりに遠い。

非宗教が宗教者を攻撃する時に言われる事〜「権威に盲従」〜が、そのまま
非宗教を標榜する者にも返ってくるんじゃないのかな?
28カガク的なのは偉いの?:2001/08/01(水) 05:17
age
29名無しさん@1周年:2001/08/01(水) 13:47
>>27
私は本当の事を知りたいのだ。
なぜなら、私は未だ本当の事を知っていない、と思っているからだ。
だから、可能な限り、本当の事に近づく為に合理的であろうとしているのだ。

合理主義(という言葉があるかどうかは知らないけど)・・・を信仰している
のか?と訊かれるのなら、ひとまずはそうだと答えます。
ただし、それは最新の科学の成果だ「から」それを信じるのではないし、
さらには、最新の科学の成果「を」信仰の対象としているわけでもないのです。
あえて、信仰していると呼ぶならば、それは人間の理性そのものであるし、また
合理的という「方法」を、なのです。
「間違いを指摘する事が出来る理論が科学の理論だ。」という理性の方法を。です。
30ブルネルス:2001/08/01(水) 14:59
>>1
(1)「信仰」という名詞について定義する前に、「信じる」という動詞について考えて
みることをお勧めします。(例えば私は新約聖書のピスティスというギリシア語を
「信仰」と訳すのはまずい、という意見に賛成なのでもありますが)

(2)「信じる」は(a)「・・・ということを信じる」場合と(b)「・・・という者を信じる」場
合とに大別されるでしょう。
  (a)の場合は、例えば「彼は無実だと信じる」「宇宙人は存在すると信じる」というような
    場合で、真であることが証拠だてられていないような(したがって、「知っている」と
    は言えないような)ものについて、それにもかかわらず、それを真だと「みなす」「思
    う」ことと言えましょう。こういう場合の「信じる」は「宇宙人はいると私は思う」と
    いう時に、通常はただ思っているだけで、だからどうなるというものでもないのですが、
    「pだと信じる」なら、「p」を真だと前提して自分の行動を選ぶという状況があって、
    そういう場面でこそ、「pだと信じる」ということが、信じる主体の態度として際だっ
    くるのでしょう。
  (b)の場合、つまりそれは「誰か(人格)を信じる」場合ですが、それは基本的には、コ
    ミュニケーションの当事者同士の間で成り立つはずの関係を基礎にして理解できること
    と思われます(今はこれ以上は省略)。(a)の「事柄を信じる」の起源を辿ると、多分
    このコミュニケーションの信頼できる相手が語ったことだからそのことを「信じ」、
    そのことを真だとする前提にたって、自分の行動を選択するというようなことになる
    のでしょう。
(3)例えばキリスト教の「信じる」は、これら(a)、(b)双方から成っていて、それなりの教義
についての信と、相手である神なりキリストなりという人格的存在への(対話する)姿勢と
しての信という両要素を押える必要があると思われます。
31鉄鼠:2001/08/01(水) 18:58
>>27
ネタなのかマジレスなのか理解しづらいのですが、一応真面目に返答します。
ただ、混乱を避けるため、レスを分割しました。

>人間が神によって創られたのでなく、半ば機械的な偶然/必然によって生じた
>と「信じる」事。・・・・それで何が救われるの?

人は「救われる」ために真実を探求している訳ではありません。
探求心を満たすため、そして、得た知識をフィードバックした技術で生活を
豊かにするために真実と知識を追い求めているだけです。

また、信仰者は教義を無批判に「信じ」ますが、生命が偶然に発生したこと
を根拠もなく「信じる」科学者はいませんのは。
そこに科学と宗教の大きな隔たりがあることを頭に入れておいてください。
32鉄鼠:2001/08/01(水) 19:00
31のつづき

>科学的合理主義〜道具主義を選択する理由は何なのですか?

>極端な話、地上が「球」じゃなくて平面だと思っていたとしても即座に生きていく
>のが困難になる訳でもない、と思われるし。無論、全ての人が「この世は平面だ」
>と思っていたら色々と不都合は出てくるだろうけども、しかし、<個人として>
>「この世は球い」を(素朴な感覚に逆らって)選択する根拠はいずこにありや?
>人類の知恵の総量を増加させる為、というのは、その動機としてあまりに遠い。

合理主義を選択する理由は
 1)それが世界の正しい姿を認識するもっとも優れた手段だから
 2)皆が科学的合理主義を身につけることは、人類の科学技術力
の底上げにつながるから
 3)疑似科学、似非科学による被害を少なくすることができるから
です。

もっとも、そのような利がなくても、人は合理主義を選択し、真
実を求めます。
27は、まるで科学的合理主義が不自然であるように書いています
が、現実は逆です。
自分の信仰していたものが非合理な虚構にすぎなかったことが明
らかになるのを恐れた一部の宗教者が、科学的合理主義を排斥し
ようとやっきになっているにすぎません。


#「道具主義」の意味が理解しにくいですが、「道具を用いた方
#が便利な状況では道具を使う」主義と判断させていただきまし
#た。
33鉄鼠:2001/08/01(水) 19:01
32のつづき

>非宗教が宗教者を攻撃する時に言われる事〜「権威に盲従」〜が、そのまま
>非宗教を標榜する者にも返ってくるんじゃないのかな?

返ってきません。

宗教者が自分の宗教の教義を無批判に受け入れ、合理性や現実か
ら目を逸らすありさまは「権威に盲従」していると非難されて当
然です。
ですが、それを非難する側は権威ではなく、合理性に従っており、
「権威に盲従」という表現は完全に的はずれです。
34名無しさん@1周年:2001/08/02(木) 00:19
age
35名無しさん@1周年:2001/08/02(木) 00:38
宗教者は「自分の宗教の教義を無批判に受け入れ」ているわけでは
無いと思うのですが・・・・・・・・・
無批判に受け入れているのならそれはカルト、ということで。
36鉄鼠:2001/08/02(木) 00:59
>>35
興味深い意見ですね。
教義を無批判に受け入れる宗教がカルトということは、イスラムやキリ
スト教では信者が教義を批判することが許されるているのですか?
371:2001/08/02(木) 01:06
>ブルネルスさん
このスレッドのタイトルを「信仰とは?」じゃなくて「信仰するとは」
という風にしたのは、信仰の動詞の部分から浮いてしまわないように
と思っての事だったのですが、まぁ、なかなかムツカシイわけで、
どうぞよろしく、という事でひとつ・・・・
ちょっと話はズレるかもですが、
どうしても「宗教」とか「信仰」とかを一般的全般的に語ろうとすると
大状況からのアプローチ(歴史的に見て、とか、世界的にとか)
に偏りがちで、私のような非力なモノにとっては話が結局うわっつべり
しちゃってどうにもスリリングさ(笑)に欠けるんで、もっと各々の個人的
な情況から信仰を照らし出したらどうか?と、
「信仰とは?」じゃなくて「<私が>信仰する、とは?」という動詞
への問いかけですな。
381:2001/08/02(木) 01:12
書いてるうちに先を越されてしまった・・・
>>35
カルトと(真っ当な)宗教の違い・・・というのも後でするとして、
ひとまず、教義への懐疑というのは、どのように解決されるのでしょうか?
その解決のよりどころとなるものは、どこにあるのでしょう。
鉄鼠さんとかぶってしまいましたかな?
それから>>27さん以下の科学哲学(?)系の議論については
27さんの再登場待ちとします。
39名無しさん@1周年:2001/08/02(木) 09:43
age
40名無しさん@1周年:2001/08/02(木) 11:04
>>36,>>1
宗教ではなくても、学説等を無批判に受け入れればカルト集団になりますよね。
経済学や精神分析でも、エライ教授が「こう」と言ったらひれ伏して追従する
グループや学派って発生しますよね。
自己批判の契機のない集団は内部から腐敗するでしょう。宗教も同じと考えます。
聖書では神の権威を疑い反抗し講義したヨブが良しとされて、神を批判するなど
もってのほかと主張したヨブの友人達が否定されていますね。
少なくともプロテスタントの一部では、教義や教会への批判は歓迎されます。
ただし批判の際に対話の態度が無ければダメだというのは、宗教の世界に
限らず一般的な事だと思いますが・・・・・・・・・・
あと、宗教者の中にも、無批判に盲進するタイプと、批判的・懐疑的に信仰の
可能性を探っていくタイプがいるようです。(これも宗教に限らないか・・・・・・)
41似非信者戯れ事師:2001/08/02(木) 11:16
「信仰する」とは何か?
な〜んて言っても、動詞だろうが名詞だろうが
そんな事は「言うまでも無く」「考えるまでも無く」明らかなのな。
馬鹿にもわかるように蛇足つけとくと、これは皮肉だよ。OK?

信仰するって何かといえば、信仰するって何?なんて事を考えないという事
なのよ。人間って何?宇宙って何?生きるって何?死んだらどうなるの?
等など、わかりそうに無い事をわからないままに置いておく事に耐えられないの。
そこで解答を欲しがる。どうせなら都合の良いヤツがいい。
本当にその答えで合ってるかどうかなんて、関係ない。そういう事を考えたくない
がための信仰なんだものあたりまえ。最終的には教祖や神様や救世主様がケツ拭いて
くれるしな。教えのままにあれば。
「信仰するなんてアホちゃうか?」という問いに対して「バチがあたるぞ」みたいな
次元の答えしか返してないじゃん。聖書やら仏典やらに「どう書いてあるか」みたいな
うわべの部分でこねくりまわしてるだけじゃん。
最も肝心な部分から目をそらすのが信仰のコツよ。思考停止。それだけ。
42名無しさん@1周年:2001/08/02(木) 11:38
>信仰するって何かといえば、信仰するって何?なんて事を考えないという事
>なのよ。人間って何?宇宙って何?生きるって何?死んだらどうなるの?
>等など、わかりそうに無い事をわからないままに置いておく事に耐えられないの。

あのー、多くの科学者や哲学者は信仰を持っていましたが、
しかも西洋中世においては科学者が聖職者ですらあったわけですが、
そういう「事実」と矛盾するなーとか考えたことあります?
43似非信者戯れ事師:2001/08/02(木) 11:47
コレハイッポントラレタネ。
退散しよう。確かに、エレェ奴ぁ、偉い。たいしたもんだと思う。
ただなぁ、カントでもホーキングでも
いいけどサ。彼らの信仰の質とそこらへんの人のを比べたら、どうよ。
水は低きに流れるよ。そういうのを「魂の救済」なんて思てる部分は
無視できないほどになってないかい??
44似非信者戯れ事師:2001/08/02(木) 12:57
本筋から離れるカナと思って書かなかったんだがナ、
>西洋中世においては科学者が聖職者ですらあった
については、当時読み書きできる程度の教育を受けられて
今と比べたら過酷な労働(農業とかね)をせずにも喰っていけたのは
王侯貴族や聖職者くらいのもんだったという「事実」もあるからな。
科学者という「職業」が有り得なかったんだから、しょうがないよ。

あと「神はサイコロ遊びをしない」なんて台詞が有名なアインシュタイン
にしてもさ、あの人の物凄い業績は、お祈りをして授けられたもんじゃなくて
彼が(あんまり得意じゃない)数学をそれでも必死にやりとげたから、なのよ。

ま、ジミ・ヘンドリックスにドラッグが「必要」だったようなもんさね。
45ブルネルス:2001/08/02(木) 17:04
>>37 1さん
|もっと各々の個人的
|な情況から信仰を照らし出したらどうか?と、
|「信仰とは?」じゃなくて「<私が>信仰する、とは?」という動詞
|への問いかけですな。

(1) 1さんは「私は信じる」と「私は信仰する」とを使い分けておられるの
ですか?私は「信仰する」というと、もう相手との上下関係や、宗教的色彩
が入ってきてしまい、例えばキリスト教思想の起源における「信じる」から
ずれてしまうことが嫌なんですね。
(2)〈こと〉を信じる場合、「この世界はずっと古くから存在している(私が
生まれる5分前にできたわけじゃあない)」と信じるのと、「神は存在する」
と信じるのとでは、「信じる」ということ自体に何か違いがあると思います
か?
(3)〈者〉を信じる場合、「私はあなたを信じる」と友人に向かって言う場合
と、「私は神を信じる」と神に向かって言う(祈る?)場合とではどうです
か。
461:2001/08/02(木) 23:25
>>45
この質問がどういう流れに向かっていくのかちょっと把握できてないので
的外れな答えになるかもですけど、フォローヨロシク。
1)意味の根っこの部分では同じだとは思います。使い分けてるか、というと
  まぁ、滅多に「信仰する」とは言わない・・・くらいで。言葉ってのは
  辞書的な意味に加えて様々なイメージを引き起こすものですから(だから
  豊かなのだ、ともいえますが)私が「信仰する」とあえて言う場合には
  その信じ方の度合いが強い(絶対に覆らない)・・のを表す場合かな。

  論理的な帰結としてではなく、私の恣意・選択の結果としての「信じる」
  それが何が起ころうと変更しないというオプション付きで「信仰する」かな。

2)信じるという事自体・・・には変わりないと思います。対象がなんであれ。
  ただ、その妥当性・普遍性、信じた結果起こりうる事態の評価という部分で
  違いというのが出てくるものだと、思います。

3)同じだと想像します。・・・・いや、ちょっと保留。

スレッド立てた者として、なるべく中立的に居るように心がけてますが
このレスを見てもらって判るように、私は所謂「無神論者」の範疇に居る
ものですから。3に答えるのはちと苦しいのです。
47鉄鼠:2001/08/03(金) 02:26
>>45,46
言葉の定義に厳密さを求めるのは程々にしておいた方がいいと思いますよ。
どこまでやってもきりがないし。
適宜やっていけばよいのでは?

この種の議論は苦手だけど、ちょっとだけフォロー(もどき)。

(1)信仰する=ある宗教の教義を「信じ」、実践すること
  信じる=何かを真実であると確信すること

(2)違います
  「この世界はずっと古くから存在していること」を信じるのは、論理的に考え
てそれが最も妥当だから。(反証不能論は議論の対象外)
  「神」を信じるのは、そうすることが最も都合がいいからであり、論理的妥当
性は無いか後付け。

(3)設問そのものに欠陥があるため回答不能(1の反応は概ね正解)
  友人に対して「君を信じているよ」と言うのも、神に対し「私は神を信じる」
  と言うのも、状況によって意味するところがマチマチ。(後者の場合、さらに
  宗派によっても意味するところが変わってくるのかな?)
  よって、両者の意味は比較不能。
48通りすがりQ:2001/08/04(土) 00:40
信仰とは、人の言葉を仰ぎたてまつると書きます。
その人にとって信じることの出来る「人」または「神仏」がいれば、
それが信仰の始りではないでしょうか?(単純すぎますか?)
49ブルネルス:2001/08/04(土) 01:13
>>46>>47
レス御礼。

(1)「信仰する」と「信じる」 1氏は信じる度合いによる区別。鉄鼠氏は前者を特に宗教
的なものと限定したということか。

(2)この世界が古くからあるという信念は、「論理的に考えてそれが最も妥当だから」で
しょうかねえ?「論理的に考えて最も妥当だ」と思うのは、それほどその信念が通常の
人間にとっていわば身体にしみついた、疑ったり、検討したりする余地のない信念となっ
ているからだということではないでしょうか。普通は誰も、他の考えと比較してみたが、
この考えが「もっとも論理的に妥当だ」などという理由を考えることなしに、ただ頭から
信じているのではないですか。そういう意味では、神を世界の背後に想定することも、
世界は古いという信念と同じような位置にある文化もあるでしょう。

(3)「設問そのものに欠陥がある」というのはその通りだと思います。だからこそ、その
空白を回答者が適当な状況設定で補って、回答してくれることを期待してましたが。

私だったら、現実のコミュニケーションの相手は、具体的に応答してくるが、神の場合は
具体的、現実的応答がないので、そこのところをこちらの側で補わないとならない(神の
応答にあたる部分を、こちらの側で代行してやらないとならない)ところが、特徴ではな
いか、とか思ってしまいます。
その際「神の沈黙」という応答のなさをそのまま認めて意義づけるという行き方と、現実
に応答があった(あるいは未来にあるぞ)とみなし、主張する行き方とに大別されるよう
に思われます。
501:2001/08/04(土) 03:07
>>49を受けて、返答を若干変更してみます。

2)に関連して、世界の認識について、ですが。
「世界5分前創世説の否定」も「神の存在」も、どちらも後天的な認識、
認識のレベルが一段上がった状態のもの、だと思われます。つまり、
「こうである」ではなく「こうでなくてはならないはずだ」というもの
なのではないか、と。
あらゆる経験に先立って我々が持つ信念はまず「この世は在る」で、次いで
時間の観念とあわさって「世界はこれまでも在った、これからも在る」となり
さらにレベルが一段上がって2の設問のような情況が可能になるのではないでしょうか。
くりかえしになりますが、
生まれ落ちてすぐに「この世はある」という(ある種の)信念を我々は持っていた
はずです。比べて、「神によって創造された」または「5分前から始まった」は
一定の<論理>の結果として出てくるものだと思います。「そうでなければならない
はずだ」という結果を選択する為の動機が経験が考察が、その認識の前に存在
するはずなのです。その点において「神の存在」を最も根源的な(?)認識とする事は
できないと考えます。

#「アプリオリな〜」とか使えばもっとスッキリまとまった文章になるんでしょうが
#あたしゃ、あんまり言葉を知らんので読みにくいでしょうが勘弁してくらさい。
51:2001/08/04(土) 04:12
>>48
その対象が「人」ならば実存在なのだけれど「神仏」だと
そうじゃない(少なくとも、人とは違う)ですよね。
その辺が>>49ブルネルスさんの設問3)と関連してくるかな。

さて、>>50の続きになるのだけれど、今度は3)に関連して考えると
殆どの宗教って、人でないものを人のように扱う傾向があるなぁ。
信仰って擬人化をその内深くに潜ませているのかも。
例を挙げれば、「良い事をすれば良い事が返ってくる」という教えは
人対人での事を世界の法則に拡大したものでしょ。
でも、擬人化てのは、あからさまに超えられない壁を作っちゃっうもん
だし、「わかりやすいけど欠点満載」だよなぁ、と。

#スンマセン>>49の流れとは関係ないレスになりました。
52鉄鼠:2001/08/05(日) 04:33
>>49
(2)はそういう意味の質問でしたか。
もっとも、「物事を深く考えない人々にとって違いがあるか」という意味であって
も、やはり「この二つは別物」です。理由は>>50と同じ。
53鉄鼠:2001/08/05(日) 04:35
停滞気味ですね。少し押しますか。

ボクにとって「信仰する」は、「麻薬を射つ」とほぼ同義です。
別の言い方をすれば「現実逃避」。
>>41の似非信者戯れ言師氏とかなり近い見解ですね。

その昔、腹痛で七転八倒している時に、医者にモルヒネを射ってもらっ
たことがあります。
それと同じように、心が苦しくてどうしようも無いときは適当な「信仰」
に逃げ込む場合もあるでしょう。
ただ、そのどちらにも慢性中毒になる程のめり込むつもりはサラサラあ
りません。
54ホーキング宇宙を語る:2001/08/05(日) 20:39
「超ひろい」
551:2001/08/06(月) 01:35
信仰する事と対象化するのは、やはり信仰を必要とする人にとっては
耐えがたい辛苦なのか。

と、負け惜しみ混じりに煽っても。
信仰者の方々にに放置されたまま、このスレッドは落ちていくのですね。

と、定期アゲ。
56訂正:2001/08/06(月) 01:53
信仰する事と対象化>>>>信仰する事「を」対象化
57鉄鼠:2001/08/06(月) 01:59
>>55
みんな自分の信仰に自信がないのでしょうね。
前に「信仰者は他の宗教どう捕らえているのですか」というスレを立
てたときも、信仰者からの書き込みはほとんど無かったし。

教科書に模範解答が書いてない質問には答えられないということか。
58名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 02:41
とてつもない不安に襲われるとき、自分をどこまでも受けいれてくれる対象を探すと、それは人間じゃなくて神ってことになるんじゃないですか?人間は誰かに頼って生きていかなくちゃココロが不安定になってしまいますからね。ただ、自分の信仰するものしか見えなくなってしまうのはどうかと思います。世の中に『これだけしかない』なんてものはほとんどないと思います。苦しいときの神頼みでも神は受け入れてくれるでしょう。なんたって神は全知全能ですから。
59名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 03:01
信仰は自由にしてくれていいが、布教しにくる平和バカにはムカつく。
いつも「帰れ!」と一蹴するが、懲りずにまたくる。
嫌がらせですかね?
60名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 03:03
そういう人間の弱い部分が神様と言う虚像を造りだしたのだと、
私は思います。確かに何かを信じる事で救われるのも解ります。
でも、信じるべきは神様よりも人間なのではないかと思うわけ
です。神様を信じるように、深く他人と信じあえた方が、ずっと
価値がある。だからこそ私は神様を信じる事ができません。
61名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 03:03
あまり良い言い方とはいえませんね。
「関心がないので」といえば帰ってくれますよ。
6260:2001/08/06(月) 03:04
あ、>58ですー。
63名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 03:07
>>61
だめだよ。俺だって最初は優しく断ってたんだから。
あいつらは丁寧に断ると、「この人ならわかってくれる」とかって勝手に思いこんで、
熱心に攻略しにくる。
64名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 03:12
日常のちょっとした不安なら原因がはっきりしていることが多いのでいいんだけど、何だか漠然とした不安、何ていえばいいのか恐怖みたいなのがあるでしょ。
もっとひどくなった人は病院に行くけど...
そんなときに神に頼っちゃうのでは?
ちょっとちがうかもしれないけど付き合ってた人と別れて落ち込んでるときに優しくされると、何の興味もなかった人にでも心が動いちゃうでしょ。
やっぱなんか違うかな?
ま、人間の欲求は「どこまでも」ですからね。
ごめんなさい、書いてることが支離滅裂だね...
6561:2001/08/06(月) 03:14
じゃぁ、無表情で言ってはどうでしょう ダメ?
66名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 03:14
>>63
確かに勧誘シツコイよね。なんちゅ−かしぶとい。
断るときに微笑んだり、笑ってはイカンぞ。
67名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 03:19
居留守が一番か?
68名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 03:22
>>64
気持ちはわかるんだけど・・。でも人間頼ってばっかじゃダメ
だと思うし。見通しが付かない不安は、誰しも抱えているもの
でしょう?自分だけが助かりたいと思うのは甘えだと思います。
とか言って、助かりたいと思ってる自分もいるけどね。

>>65
無表情な自分に笑っちゃいそう。
69鉄鼠:2001/08/06(月) 03:22
>>63
スレの本題とははずれるけど、ま、いいか。

エホ証の人でしょ?
しばらくウチにも来てましたが、理屈でコテンパンにしてやったら来な
くなりましたよ。
70名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 03:30
あの方達には配布冊子?とかのノルマみたいなのがあるのでしょうか?
71名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 03:34
>>68
でも、自分の状態がある程度安定していないと他人のことを十分に考える余裕がなくなるのでは?
なんかイライラしているときについひどいことを言ってしまうことがあるし...
72名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 03:41
>>71
それもよく解る。だけどそれを神様にぶつけるよりも、
そんな自分を受け入れてくれる人間を見つけられたら
その方がいいんじゃないかな、と思うのです。
7371:2001/08/06(月) 04:07
いや、私は神には頼ってませんよ。
ただ、そういう人も少なくないのではということです。
だから信仰をするのではないかと...
人の考えは十人十色ですから。
私はこれからも神ではなく人に頼ったり頼られたりするでしょう。
一人じゃ生きていけませんからね。
まぁ、頼るより頼られるほうがいいかな。
話を聞いてあげることぐらいしかできないけど...
74しじふぉす 煽る:2001/08/08(水) 17:31
ドッコイショ・・・

・・・で、宗教は(信仰)は麻薬のようなもんだ。ってことで仕舞いなのかなこの話。
麻薬でひっかかるなら鎮痛剤でも解熱薬でもいいや。
対症療法としての信仰。または、「食べる前に飲む!」→「悩む前に祈る!」

よござんすか?よござんすね??ホントーにいいんですね???
脱・力・感    もう神様が云々言う奴ァ逝ってよし。
751@粘着質:2001/08/08(水) 23:59
>>74
まだ終われません。
「信仰する」とはどういう事か?を問うのは同時に
(所謂)無宗教であるとはどういう事か。でもあるのですから。

「居もしないカミサマにお祈りなんかしてやがる。ヴァッカでぇ〜」
と、それで終われるのであれば、もとよりこの議論は必要ないワケで。

仮に信仰が非常事態に対するもの(<マトモでない>)と結論されたとしても、
神を信じない事がどれだけ<マトモ>なのか、は、まだそれほど明らかに
なっていないと思います。
76名無しさん:2001/08/09(木) 00:04
信仰ってのは人間の有限性の自覚から始まるんだ。
771:2001/08/09(木) 00:40
>>76
では、無信仰(無宗教・無神論者)で居られるのは、真の意味で有限性を
自覚できていないから。と、なるのか。
・・・という話と
では、有限性の自覚から始まって、どこへ行くのか。(どこへ行くべきなのか)
・・・という話が出来そうですね。
それとも、また別の方向がありましょうか?
自分は
>信仰ってのは人間の有限性の自覚から始まるんだ。
には、なるほど、もっともだなぁ。とは思いますが。その先ですよ。その先。
78わかぽん:2001/08/09(木) 01:19
幸せを求めること
ってことではないでしょうか?

こういう発言では、このスレッドには不適格?
79:2001/08/09(木) 01:27
>>78いや、歓迎。
80わかぽん:2001/08/09(木) 03:11
それでは調子に乗って、続きです。

幸せを求めること

人それぞれの幸せを見つけて、
それを 求め、
あるいは、
それを 思い込み、
しかるに
それを 人に押し付け、
あげくに、
それを 混沌とさせ、
それでもなお、
それを 求め、または、求めさせてしまうこと
81通りすがり:2001/08/10(金) 11:31
疑問を持たず献金できること。
82名無しさん@1周年:2001/08/12(日) 00:00
宗教って、まともに考えると本当にわからない。
考えるものじゃないんだ。というような答えがありそうだけど
なんだかそれは、嘘っぽい。
考えるものじゃないんだと言う答えは考えて出てくるものじゃないでしょう。きっと。
それは恋愛のようなものかもしれない。過ぎて我が身を滅ぼす事になる奴も多いだろ。
そうやって滅んでしまう事こそが、生きる事だと思ってるなら、それはそれで良い。

自分は巻き添えを食わぬように、出来るだけ正気を保っていられるように
するばかりだ。
83ブルネルス:2001/08/12(日) 01:45
神を信じる → 救われる
という連関の故に信じるというのは(つまり自分の幸福を目指して信じるという
ことは)、私は不純だと思う。

それでは、ご利益宗教と変わりない。
「神を信じる」のは、神が神であるが故にであり、神が具体的に私に応答をしよ
うがしまいが、そういうこととは関係なしに、ただ神を対話の相手とし、神の人
知を越えた活動を肯定する姿勢で、超越者に向かう(向かうといったって、相手
が見定められて、それへと向かうわけではなく、ただいわば虚無へと向かうのだ
が)、そしてその際に一切、みかえりを求めない、ということなのではないだろ
うか。
84聖書ビギナー:2001/08/12(日) 02:14
>>83
同感。
「信仰する」とは「認識する」ことであって
なにかを「前提とする」ことではない。
「科学的に証明」するということは世間的な体裁を
つくろうことに過ぎない。
85名無しさん@1周年:2001/08/12(日) 02:32
>>83
観念的すぎる。義人は一人もいないんだよ。
86鉄鼠:2001/08/12(日) 02:33
>>83
その行為になんの意味や価値があるのですか?
87名無しさん@1周年:2001/08/12(日) 02:38
>>83
そりゃ、ただ単に現実見てない人だよ。
あるいは現実なんてどうでもいい人。
88名無しさん@1周年:2001/08/12(日) 11:18
>>83
エックハルトみたいだね。
自分に実践可能かどうかはともかく、こういう主張には激しくリスペクトを覚えるよ。
この場合の「信じる」ってのは、自分が救われるかどうかとかじゃなくて、
「何が起こってもそれが神の意志でありそれが最善である」と信じる、
ということでいいのかな?
89聖書ビギナー:2001/08/12(日) 12:16
>>87
君の言う「現実」こそが、学校教育や世間のうわさ話なんかで
洗脳された結果の「仮想現実」かも知れないよ。
もっと確かな、心の奥底にヒットする「真実」に近づきたくはないかね?
90名無しさん@1周年:2001/08/12(日) 12:46
>>89
>もっと確かな、心の奥底にヒットする「真実」

・・・・これって、結局人間の日常的な認識のレベル〜イマジネーションの
ハードル、を一歩も越える事無しに全てが記述できるのだと安心したいだけじゃ
ないのかな。人の心に一番ヒットするのは「人間みたいなもの」として表された
描像だからなぁ。
「真実」だから心の奥底にヒットする。ていう考えはどうだろ?
そうであったら、そりゃ嬉しいけれども、どっちかというと人間の認識の枠組み
やら限界やらにブチ当たって当惑してる奴等の方が正直な気がするがなぁ。
91聖書ビギナー:2001/08/12(日) 13:37
>>90
>もっと確かな、心の奥底にヒットする「真実」に近づきたくはないかね?
などというと、私自身がその「真実」を完全に持っているように受け取られる
かも知れないが、そんなことを言いたいのではない。
ただ実体験として、突然「目からウロコ」ってことは何回かあって、
そのときの急に視界が開ける感じは、自分の想念の中で言葉を
いじくりまわしているだけでは得られない。やっぱり「神」のような
超越的な存在の方向よりやってくるのだと思わずにはいられない。
92堕靡泥の星:2001/08/12(日) 13:53
>>89
「目からウロコ」の世界がなぜ本当の世界だといえるのだ。
その世界すら仮想現実かもしれない。
93鉄鼠:2001/08/12(日) 20:34
>>91
自分の意に沿わない現実世界は無視して、自分に取って都合の良い世界観を与えて
くれる「神」だけを見つめていたいということか。
確かにそれは「信仰」の究極の形態だね。
941:2001/08/12(日) 22:32
>>84聖書ビギナー氏を引用しつつ

>「信仰する」とは「認識する」ことであって
>なにかを「前提とする」ことではない。

・・・なんとなく感触は伝わってくるのだが、自分がコレを正しく受け止めて
いるかどうかは、あやふやだ。(まぁ、だから感触なんだけど)
ただし、ここに議論が戻ってくる予感だけはある。

>「科学的に証明」するということは世間的な体裁を
>つくろうことに過ぎない。

「体裁を繕う」の語に含まれる否定的な意味合いを除けばその通りだと思う。
つまり、万人に共通のルールに従った記述による知識や概念・モデルの流通・共有だ、と。
そのようなルールによって表し得る記述(世界モデル)しか扱わない、扱えない。
「〜に過ぎない」とはまさに、その通りで、過ぎたら駄目だ。と思う。

しかし、その「過ぎる部分」てのは、在るのだろうか?という疑問が湧く。
それは言語化できるのか?そもそも認識できてるのか?と。
95聖書ビギナー:2001/08/12(日) 22:37
>>92 >>93
君らの言う「現実」って言っても結局お仕着せの
価値体系によって認識された「現実」でしかないんだよ・・・。

たとえば、クラスの中で
「やっぱ、公務員めざしたほうがいいよなー」
「だって安定してるもん。学生時代はせいぜい遊んで・・・」
みたいな会話とか、テレビ、雑誌、学校教育等から得た
情報を基にして形成された価値体系に過ぎなかったりして・・・

現実は確かに変わらんさ。しかし、突然諸々の事物の
意味がわかるってことはあるもんさ。
経験してみりゃわかるだろうが・・・・。

信仰すること(すなわち新しい価値体系に飛び込むこと)を必要以上に恐れるな。
生きる喜びが減っちゃうぞ。
96聖書ビギナー:2001/08/12(日) 22:54
>>94
>しかし、その「過ぎる部分」てのは、在るのだろうか?という疑問が湧く。
>それは言語化できるのか?そもそも認識できてるのか?と。

(きっちりと定義するのも私には過ぎた荷であるが)
言語化できずとも、存在するものの認識はできる。
それが「信仰」だ、と私はおもっとるが、
言語化されて万人に流通可能なものしか信じてはいけない、
という固定観念のほうが怪しげなカルトの教義のように見える。
すなわち、自己の内に確固たるリアリティも築けないまま、
押し付けられる諸々の決まりごとのように。
97鉄鼠:2001/08/13(月) 00:17
>君らの言う「現実」って言っても結局お仕着せの
>価値体系によって認識された「現実」でしかないんだよ・・・。

君の言う「信仰」って言っても結局お仕着せの
価値体系によって認識された「虚構」でしかないんだよ・・・。
98鉄鼠:2001/08/13(月) 01:22
ちと、用があったので、先ほど(97)は半端な書き込みで失礼。

>>95
わかりやすい現実逃避だな。
そんな劣等感を裏返しにした思い上がりを抱いていては、たしかに学校の勉強にも
ロクについていけないし、クラスメイトからもつまはじきにされるだろう。

どこが思い上がりか分からない?
キミはまだ学生(おそらく高校生)だろ。
親に衣食住をまかなってもらっている身分の人間が、
>経験して見りゃわかるだろうが・・・
だって?
笑わせなさんな。背伸びのしすぎだよ。
もしキミがちょっと幼児向け聖書を読んだオネショも止められない小学生から
「経験が足りないね」
なんて言われたら、感心するかね?それとも笑うかね?

現実と向き合うこと(すなわち苦しみやつらさに立ち向かうこと)を必要以上に恐れるな。
生きる喜びが減っちゃうぞ。
99ブルネルス:2001/08/13(月) 02:23
>>84>>88 およびそのほか >>83 に反応していただいた皆様、

どの宗教ということでなく、現世なり来世なりのみかえりを望んで(希望して)信じる
ことを宣伝し、かつ実践するレベルと並んで、そのような幸福追及の信を否定して、信
の純粋性を保とうとする部分が存在しているように思われます。

キリスト教においても、イスラム教においても。もちろん仏教においても。

ただキリスト教は、その成立のもともとのところで、旧約−ユダヤ教における神の
沈黙についての思索の中から、沈黙を積極的に肯定する方向とは逆に、「これまで
沈黙してきた神が今や沈黙をやぶって、積極的に介入してきた」と主張し、イエス
の復活―未来における信徒の復活を主張することによって、何か信が役に立つとい
う考えに全体として傾いているのではないか、と思ったりしたりして・・・
100堕靡泥の星:2001/08/13(月) 02:37
>>95
>信仰すること(すなわち新しい価値体系に飛び込むこと)を必要以上に恐れるな。
>生きる喜びが減っちゃうぞ。

あのなぁ。その新しい価値体系も、所詮「情報を基にして形成された価値体系」
にすぎないわけだろうが。

「新しい服に着替えたら、気持ちも変わってなんだか幸せな気分です」ってな程
度のことしか言ってないんだよ、あなたは。それを、「真実」「現実」「価値体
系」「言語化」「リアリティ」などといったもったいぶった言葉を使って意味あ
りげに思わせようとしているだけだ。
101伊作:2001/08/13(月) 03:34
鉄鼠氏という人に聞きたい。
俺は特定の宗教への入信はしてない人間だが、現実逃避、
という変に居丈高な決めつけには些かの反発心が湧く。
夫婦が、生まれたばかりの子供を殺されたとしよう。
犯人は逮捕され、刑罰を受ける。
だが当然、遺族の夫婦には納得がいく事態の解決ではない。
だって平凡な日常の中で、子供を殺されてしまう事態はあまりにも不条理だから。
彼らは悲しみの中で、縋るように何かの宗教に入信する。
すると、宗教は彼らを地獄のような苦しみから救う。
こうした場合、彼らの入信は「現実逃避」のひと言で済まされるのか?
宗教に走る人って、生まれつき宗教一家でもなければ、
現実と向き合う事を「必要以上に畏れる」のではなく、不条理な苦しみに耐えかねて、
現実の不条理に意味と秩序を見出そうとして入信する場合が多いんじゃないかな。
これは極端な例かもしれないけど、こういう立場にたって初めて「神よ!」という
叫びや有神論への積極的な思惟が築かれるような気がする。
また、聖書ビギナー氏の言う”目から鱗”は個人的にはバカにならないと思う。
この人は多分、説明のつかない霊的な経験をしてるよ。
俺もそうだからこの人が言ってることは何となく分かる気がする。
めげてないでもっと発言してよ、ビギナー氏。
102むわんかぁ:2001/08/13(月) 05:05
 なんか哲学板の出張板(宗教哲学板)って感じになっていますね。

 理詰めで考え抜いてもそこから溢れる場所がでるからこそ宗教が生まれたの
ではないでしょうか?エロスがアガペーにかわっただけの事なのでは?

 また現代人はエロスを求めよう回帰しようとしているのかな?

 人のキャパシティってそれぞれですから、それこそ思考停止と言われよう
が、ある一定の段階で思考を停止させ心の安定を図る知恵としての宗教は必
要ではないかな?その先に行ける人はどんどん行けばいいし。

 信仰による効果ってのはすべて悪い面だけではないですよ、狂信してしま
うから不幸になるんですよきっと。

 日本は教育の現場ではほとんど考えて信仰を選ぶ準備をさせていないです
から狂信者が増える温床になっちゃうんでしょうね。

 マイナスばかり語るととたんにつまらなく感じるからもっとプラスを想定
して語ってみれば?批判的に考えるだけでは見えない面があるのだし多角的
にものごとを捉えるって事が科学のスタンスじゃなかったのかな?
103小林秀雄『信仰について』:2001/08/13(月) 09:51
 「宗教は人類を救い得るか」という問題に関し意見を求められたが、私にはそんな大問題に答える資格はないと思う。そんな風に訊ねられると、私はただ困却するばかりです。徒らに大袈裟な問題だと感ずるばかりです。
 万人が考える通りに考える事は可能だし、そういう考え方が一番有力でもあるが、信仰という事になると、めいめいが、めいめいの流儀で信仰する他はなく、又そうであるからこそ考えるという事に対して信ずるという行為があるのであろう。こんな簡単な事が、徹底的に腹に這入っていないから、宗教問題がいつまでたっても埒があかないのだと思われます。
 「宗教は人類を救い得るか」という風に訊ねられる代りに「君は信仰を持っているか」と聞かれれば、私は言下に信仰を持っていると答えるでしょう。「君の信仰は君を救い得るか」と言われれば、それは解らぬと答える他はない。私は私自身を信じている。という事は、何も私自身が優れた人間だと考えているという意味ではない。自分で自分が信じられないという様な言葉が意味をなさぬという意味であります。本当に自分が信じられなければ、一日も生きていられる筈はないが、やっぱり生きていて、そんな事を言いたがる人が多いというのも、何事につけ意志というものを放棄するのはまことにやすい事だからである。生きようとする意志を放棄すれば進んで死ぬ事さえ出来ない。ただ生きている様な気がしている状態に落入る。まことにやすい事です。
 例えば、私は何かを欲する、欲する様な気がしているのではたまらぬ。欲する事が必然的に行為を生む様に、そういう風に欲する。つまり自分自身を信じているから欲する様に欲する。自分自身が先ず信じられるから、私は考え始める。そういう自覚を、いつも燃やしていなければならぬ必要を私は感じている。放って置けば火は消えるからだ。信仰は、私を救うか。私はこの自覚を不断に救い出すという事に努力しているだけである。
104小林秀雄『信仰について』:2001/08/13(月) 09:52
 後は、努力の深浅があるだけだ。他人には通じ様のない、自分自身にもはっきりしない努力の方法というものがあるだけだ。あらゆる宗教に秘義があるというのも、其処から来るのでしょう。私は宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄について、よく考える。あれはきっと奇蹟なんかではないでしょう。彼等の清らかな姿は、私にこういう事を考えさせる、自己はどんなにたくさんの自己でないものから成り立っているか、本当に内的なものを知った人の眼には、どれほど莫大なものが外的なものと映るか、それが恐らく魂という言葉の意味だ、と。神は人類から隠れているかどうかわからない。併し私の魂が私に隠れて存する事を疑う事が出来ぬ。富とか権力とかいう外的証拠を信用しないという事なら、そんなに難かしい事ではないだろうが、知識も正義も、いや愛や平和さえ、外的証拠に支えられている限り、一切信用する事が出来ないという処まで行く事は、何んと難かしい業だろう。懐疑派とは臆病な否定派に過ぎますまい。以上、御約束による早急な御返事、お答えにはなっておらぬ点は、御諒承下さい。
105名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 16:05
本当に答えてねえじゃねえか!
小林君!
1061:2001/08/13(月) 20:06
笑った。
小林秀雄と言う人が、もともとそういう属性(当り障りの無い事書かせたら
天下一品)を持ってるんだよね、と、風の噂に。
まぁ、「んなドキュソな質問にマトモに答えられっか」みたいな部分もあるのか?
ただ、
>懐疑派とは臆病な否定派に過ぎますまい。
と、ぽーんとコレだけ飛び出してるように読めた。「懐疑派」は何を指してる?
・・・って、これじゃ現国のテスト問題だな。小林だけに。
107鉄鼠:2001/08/13(月) 20:15
>>101
>現実逃避、という変に居丈高な決めつけには些かの反発心が湧く。
意図的に居丈高な文体にしました。
>>98を読んで不快感を感じられたとしたら申し訳ありません。
聖書ビギナー氏に「自分にとって口当たりの良い宗教を信仰するだ
けでは生きていけない。少しは自分を客観的に見つめて現実社会と
向き合いなさい」と伝えたかったのです。

>>101,>>102
ボクは過去スレで「子供を亡くした母親に対して科学ができること、
宗教ができること」に関する私見を述べています。
前後の流れを併せてご一読いただければ、ボクが宗教や信仰、現実
逃避を一概に否定しているわけではないことをご理解いただけると
思います。

【真面目な話、信仰って甘えでしょう。】
http://mentai.2ch.net/psy/kako/984/984320985.html
103番
1081@横道それ太:2001/08/13(月) 21:42
>>96聖書ビギナー氏
>言語化されて万人に流通可能なものしか信じてはいけない、
>という固定観念のほうが怪しげなカルトの教義のように見える。
と、いうかね、(「万人に流通可能なもの」てのにはレス元の「科学的に証明」
とかそういうのが入るんだけども)信じてはいけない、・・・という禁止を
読み取るより前に、なんつーか、「万人に〜」には、その真/偽を判定する方法が
各々の主張と同時に用意されているのだ、という部分に注目して欲しいのな。
と、言うのも、「もしコレコレであったらば、この主張・モデルは間違いだと
言う事が示される」と言う風に検証の可能性が開かれているのだから、間違いだと
証明されるまで、それを真だと仮定していく態度は容易に理解できるでしょ?

ココで「科学」が「信じて」いるのは、個々の主張というよりは、主張する方法
なのな。
109101:2001/08/13(月) 23:01
>>107
このスレ面白い!ありがとう!!
でも鉄鼠氏の意見は正直賛同しかねるな。
宗教が団体である限り、無論金を騙し取られたり、人心を惑わす、
なんてこともあるだろうけど、マリアってひとみたいに、
生まれつき内面世界において霊的な素質を持っている人もいるわけだ。
そういう人にとって宗教は当為ではなく自然だし、
なぜそれが批判されるのかも当人には全然わからないでしょう。
価値観のひとつ、として許容は出来るの?
1101@司会者鰤:2001/08/14(火) 00:34
1:信仰の効果  という面での議論。これは鉄鼠氏を軸に進んでいくと期待。
         現時点では「信仰は痛みを鎮める(麻)薬である。」を巡る話。

2:信の純粋性  ブルネルス氏が(ようやく?)本領発揮しつつあり。
         純粋=真または善・・・か、どうかについての判断はもとより
         純粋信仰について、さらに突っ込めるかなぁ、と、見。
         題して「純粋信仰批判」なんちて。

3:その他に進行中の議論の軸はあったっけ?
     内発的(自分の内側から出て来たもの)と思えるもの、直感、
     (神秘的な)体験、を重視する立場(それは疑い得ない)と、
     それを疑う立場・・・かな。潜在的にあるのは。

自分は「信仰とは<前提とする>ものではなく<認識>である。」について
考え中。
信仰が、そこから「故に○○である。〜すべき。」という結論を導きだす
ような前提ではない、のならば、論理の始点でないのならば、
教義として伝えられるものは一切なくなってしまうのではないかいな。と。
揚げ足取りじゃなくて、なんかスゲェと思うのだ。それって。よくわからんけど。
111鉄鼠:2001/08/14(火) 01:59
いや、そっち向きに期待されても困るのだが。

>>109 101氏
>価値観のひとつ、として許容は出来るの?
むろん、宗教という概念を否定する気はありません。
ボク自身は
 科学=世界を認識する、(現時点で)もっとも優れた手法
 宗教=ファンタジーの一種。ただし、それが有用となる場面もある
と思っていますが、他者が異なった価値観を持っていることは理解しており、それ
をむやみに否定・攻撃したりはしません。

ただ、次に挙げる二つは許容しません。徹底的に叩きます。
 1)科学を騙るいわゆる似非科学
 2)科学・合理性の蔑視
理化学系の教育を受け、人を喜ばせるために知識と技術を生かしている人間に取っ
て、これらの行為はケンカを売られているようなものだからです。
112考える槍:2001/08/14(火) 02:32
スレ読みました。
1と鉄鼠氏の論旨に同意します。

用語で宗教信仰派に論旨をごまかされないようにするため
簡単に確認すると、
『ここの議論では1の提起する「信仰」は、特定教義を持った宗教の信仰のこと。
つまり、一般に何かを確信してることまで含めてはいない。』
これでいいですか?
あちこちで「無宗教も、一種の信仰だ」みたいな非論理的発言が横行しがちなので
敢えてこんなことでも確認しておいた方がいいような気がして。

第二に、宗教(教義宗教)は、言語によって維持され伝播されるイデオロギーであることも確認したい。
つまり、宗教は言語なしでは存在しない。
人は、生まれてから、誰にも言語を介して特定宗教の教義をインプットされずに、ある宗教を信仰するようになることはあり得ない、という当然の事実を忘れるなかれ。
キリスト教を誰かに教わらないかぎり人間はキリスト教信仰者とはならない。
仏教を誰かに教わらないかぎり人間は仏教信仰者とはならない。
イスラームを誰かに教わらないかぎり人間はムスリムとはならない。
こんな単純な事実も、宗教が人間の創作したイデオロギーであることが強く示唆(ほとんど証明!)されてしまう。
113考える槍:2001/08/14(火) 02:33
>>1 & >>鉄鼠さん
しかし、無宗教者である私にも、今でもひっかかって自分の中でまだ整理できない
ある思想家の言葉があります。
『神に祈ること........神は存在しないと思いつつ』(シモーヌ・ヴェイユ)
神は存在しないと知りつつ祈る(信仰する)という行為があり得るとすれば、
1の提起が想定しないケースになるのではないでしょうか。
どのように思われますか。
114名無しさん@1周年:2001/08/14(火) 03:01
>112
>仏教を誰かに教わらないかぎり人間は仏教信仰者とはならない。

仏教を知らなくても悟ることは可能です。
ただ、それを「空」とかそういう仏教用語で表現しないだけです。
数学の定理を自分の力で発見するようなものです。
115考える槍:2001/08/14(火) 03:06
>>114
そうですね。
でも、結局、あなたのおっしゃる「悟る」をどういう意味で使うか次第で、
なんとでも言える、ということなのですよ。
それに、仏教用語で表現することのない「悟っている人」は、
悟っていても仏教信仰者ではありません。
(私の上述の112の定義ではそうなります。)

宗教の教義と、数学の定理は違いますよ。
仏教教義は言語で伝達されない限り、人がその教義を発見することはありません。
数学の定理は、人に教わらなくても発見できる可能性があります。
116鉄鼠:2001/08/14(火) 03:30
>>112 考える槍氏
おおむね賛同です。
ただ、「信仰」を定義する際に、定義中に「信仰」という言葉を入れてしまうと
同義反復じみてしまいますね。(意味は通っていますが)

>宗教(教義宗教)は、言語によって維持され伝播されるイデオロギーである
慧眼だと思います。

>>113
神を信じていなくても、祈っておけばとりあえず「安心」できる場合はあります。
「緊張」や「責任」を一部肩代わりしてもらうと言っても良いかな。
例えば、リーチを掛けた後に、白と中を鳴かれた時は
「お願い、カミサマ!發を回さないで!」
とツモるたびにお祈りしました。
117伊作:2001/08/14(火) 14:05
>>111
私達が科学力の恩恵にたっぷり授かっているのは自明だし、オウムを通過した以上、
信仰や宗教団体に対して人々が懐疑的になるのは当然と思う。
鉄鼠氏の意見には殆どの一般人が納得はすると思われる。

ただ、「科学・合理性の蔑視」はどうなんだろう。
いわば輸血を拒否して子供を殺してしまったエホバの証人のような場合ですよね?
つまり、自ら信じる教義に従って、明らかに合理性を無視した選択、非人間的と
思われるような行為が成される場合。誰がどう見てもその人は咎められる余地があります。
つまりこれは、科学や合理性を蔑視しているのではなく、無視する、或いは重きを置いていない
と見ることができる。
また、宗教者一家に育てられたのではなく、後天的に宗教に入る人の場合、かれは現世がすべてと思い、
科学や合理性のもたらす利便と歓びを十分味わいながら育ってくる。
それで何らかのきっかけで、尚且つそれらに明らかに反すると思われる宗教に入る。
来世に利益をつなげようとか、そういう浅ましい(これはこれで人間的だが)理由でなく
入信する者も居るわけです。
こうした場合、彼は一体なぜ科学に背を向け得るのでしょう?
宗教は麻薬や一時の鎮静剤ではなく、それがかれにとっての科学だった、という発想が
あるから、世の中にこれだけの神様と宗教団体があるのでは?
ん?
なんか一人だけ基本的なこといってる?
118名無しさん@1周年:2001/08/14(火) 14:34
>仏教教義は言語で伝達されない限り、人がその教義を発見することはありません。
こういうことは実際にはあると思う。宗教は既に知っていたことをあらためて発見する
ような所がある。
119名無しさん@1周年:2001/08/14(火) 14:36
教義を知らなくてもその精神を体現している人と接して影響を受ける
と言うことはあるしね。
12088:2001/08/14(火) 18:35
>>112
>『ここの議論では1の提起する「信仰」は、特定教義を持った宗教の信仰のこと。

うーん、それはちょっと範囲を狭めすぎのような気が。
特定教義や特定教団への批判なら他にいくらでもスレがあるし。
それに、「信仰」をそういう風に限定すると、>>110で1さんも挙げてる
『信の純粋性』ってのが考察不能になるのでは?
>>113で貴方自身が挙げてるヴェイユの信仰告白がまさにその例なのでは?

>あちこちで「無宗教も、一種の信仰だ」みたいな非論理的発言が横行しがちなので

私もまあ無宗教で、基本的には「神仏は尊し神仏をたのまず」ってスタンスだけど、
無宗教者にもいろいろいるしね。中には、狂信的無宗教者とでも言うのか、
宗教を根こそぎ否定しないと自分のアイデンティティが脅かされるかのように
ヒステリックなのもいる。あれはあれで宗教がかってると思う。
あ、もちろん貴方のことではないよ。このスレはみんな冷静だし。
でもまあ、信者の側から同類の臭いを嗅ぎつけられるようなたぐいの無宗教者は
信者もろとも放置でいいんでない? 連帯しないのが無宗教の無宗教たるゆえんなんだから。
121鉄鼠:2001/08/14(火) 19:02
>>120
考える槍氏は、特定の宗教を指しているわけではないでしょう。
この文中の「特定」とは「その宗教固有の」という意味ではあり
ませんか?

>信者もろとも放置でいいんでない?
狂信的無宗教者はうっとおしいから、あらかじめ牽制しておけるの
ならそれに越したことはありませんから。
ただ、ここは信者を放置するスレッドではありませんよ。
(というか無宗教者の比率が高すぎて議論のバランスが悪い)
122名無しさん@:2001/08/14(火) 19:38
 神にのみ仕える信仰を学びなさい。そうすれば、救われます。
その信仰とは、何事も疑うことをしないで信じることです。希望することです。
愛され、愛することです。人につまずきを与えないように努力してください。
123堕靡泥の星:2001/08/14(火) 20:10
>>122
なぜ、わざわざ疑うなというのか。それは、疑おうと思えばいくらでも
疑えるほど不確かな存在なのであると、自ら認めているからだ。
1241@無宗教信仰って?:2001/08/14(火) 21:59
言葉の定義について「こうでなければならない」というような事は
今のところ、無いですね。ただ、各々の主張はそこで使われている言葉の
定義を必要となれば明らかにする用意をしておこうネ。くらいです。

で、これまでの流れではひとまず信仰を狭い意味で使ってます。
混乱しない為と、まだそこまで話が行ってないために、です。

「無宗教も信仰の一種だ」と言うのも自分はアリだと思います。
ただ、「では、どのように同じでドコが違うのか」という提起と
一緒に言わないと、何が言いたかったのかワカリマセンよね。そういう事です。
ですから>>5で自分が「〜牽制しておきたかったのです」と書きましたが
今やこう言わないといけないでしょう。「その話をする用意もある。」と。

「無宗教も信仰の一種なのだから、そこから信仰批判をするのは矛盾している」
というのは、それだけでは意味を成さないと思います。
それは矛盾ではなく、意味が重層的であるだけなのです。
そして、その折り重なった意味を丹念に引き剥がしていくという暑苦しくも
鬱陶しい作業をするつもりでなければ、言えない台詞だと思います。
どうです?でも、なんかオモシロソウでしょ。
125堕靡泥の星:2001/08/14(火) 22:13
無神論も信仰の一種というならわかるが、
無信仰も信仰の一種という言い分は??だな。

無神論≠無宗教
最低限これは押さえておくべき。
1261:2001/08/14(火) 22:18
むはは。確かにそうだ。意味が通らなスギですな。thx。
無宗教を「組織に属さない」とか「既存の教義でない」という具合の
意味にとられると、さらにヤヤコシクなりますしね。
てなわけで、124は「無神論信仰」と読み替えてくださいませ。
127考えるチンカス:2001/08/14(火) 23:52
みなさん。さあむずぁしいことはやめて
テン離教に入ってください。
人生ばらチン色ですよ。
128考えるチンカス:2001/08/14(火) 23:55
みなさん。さあむずぁしいことはやめて
テン離教に入ってね。
人生ばらチン色ですよ。
さあ、実働の旬です、教会内用の充実です!
1291@うかれ気味:2001/08/15(水) 01:00
さぁ、バンバン同時進行で行きましょう。
んでもって、何度でも「基本」に戻りましょう。話は行きつ戻りつ、
その往還は決して無駄ではないハズ。(っていうか、瞬時に戻れないようではアカン)
途中参加も大歓迎。(スレッド全部読むのはタイヘンだしねぇ〜)

で、槍さんからまたお題を頂戴いたしましたが。
1:「宗教はイデオロギーである」
イデオロギーの意味はこちら
http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/dict_search.cgi?MT=%A5%A4%A5%C7%A5%AA%A5%ED%A5%AE%A1%BC&sw=2
なんだけども、まぁ「方針」と大雑把に言ってもいいかな。
焦点は「(宗教的)真理の実在・非実在」について。だと思うのだけれど。どうか。
それは発見されたものか、発明されたものか。数学の定理が引き合いに出されて
いたけど、算数屋の世界でも数学の実在派とそうでない派てのがあるらしいから
こりゃあ、手強い議題でっせ。むひょ〜(白目)
無理矢理いままでの流れに嵌め込むと、<信仰の効果について>に入る部分もあるかな。
そして
2:『神に祈ること........神は存在しないと思いつつ』
これは88さんが指摘の通り、<信の純粋性>で語られようとしている所ですね。
神の御利益を求めず祈る→神の応答を期待せず祈る→神が居なくても祈る
これを「非合理への逃避」以外の可能性を探る方向でひとつ。
130名無しさん@1周年:2001/08/15(水) 01:29

>>114です。

仏教では釈迦の教えを教わらなくても、
釈迦の教えと同じ悟りに到達する可能性を認めています。
(このようにして独自に悟った者をたしか独覚仏といったはず)

少なくとも仏教には独覚仏という教義がある以上、
>仏教を誰かに教わらないかぎり人間は仏教信仰者とはならない。
という主張の正否判定は正確には保留すべきものだと思います。

なぜ、この部分にこだわるかというと、
信仰の客観性についてもし議論するのであれば
ここに触れざるを得なくなると思うからです。

たいていの宗教の信仰には教義だけでなく信仰体験といったものが付随するはずです。
追体験可能な宗教体験(神秘体験とは限らない)があってこそ
最初は個人の主観的信仰に過ぎないものでも、
共有化され客観化され、普遍性を帯びてくるのだと考えます。

信仰とは何かといわれたら、教義についてを考察するだけでなく、
(教義が指し示す真理の)追体験可能な宗教体験の考察も重要だと思います。
131考える槍:2001/08/15(水) 01:45
幾人かの方からのレスありがとうございます。

私の112の『ここの議論では1の提起する「信仰」は、特定教義を持った宗教の信仰のこと。
つまり、一般に何かを確信してることまで含めてはいない。』 という整理は、
複数のご指摘の通り、やや単純化ないし狭すぎてましたね。
1ではもっと広く取っている。
それに、そもそも1は、単一の論点でなくいくつかの論点を「同時並行に」出しているようです。

ただ、私の(当面の部分的なものであるにせよ)論点整理の目的は、
オモシロイ議論をしてる間に、「無宗教(無信仰)も一種の宗教(信仰)だ」っていう
例の滅茶苦茶論理の主張が出てシラケないよう蓋をしておきたかったということ。
ここは皆さんに分かっていただきたく。
(別のスレで誰かが書いてたとおり、「無宗教(無信仰)も一種の宗教(信仰)だ」という発言は、
無職も一種の職業だ、とか、無理解も一種の理解だ、と言うのと同じことで、
non-A = A と主張してしまっているので、論理になってない。)
132考える槍:2001/08/15(水) 01:47
ヴェイユの言葉の関係では、>>83ブルネルス氏意見や>>88、ちょっと考えてみたいと思います。

私がヴェイユの言葉を引っ張り出したのは、1の初めの提起の
 >信仰の根拠の(恐らくは)最大のものであろう「神」の存在/非存在
という常識的理解を揺るがす言葉と思うから。

ヴェイユは、すでに近代的無神論の意識を持っている、と私は解釈する。
(ちなみに、この言葉のもう一つの解釈は、ナチズムや第2次大戦の悲惨を眼前にして、
神など居なかったのだ、という悲痛な叫び、という状況的解釈なのだが、そうであっても、
居ないと知っている神に祈るという言葉のインパクトはあまり変わらない。)
なお、ヴェイユにとっての神はカトリックの神で、「祈り」もそれに対するもの。
で、居ないとわかっているその神に対して、祈るのだ、と。

つまり、ヴェイユの意識の中の、理性の部分がどうしても無神論を支持している。
(彼女の中の近代人の意識は神の存在を信じたくても、もう純粋に信じることはできない。
というか、簡単に言うと、ホントは神様なんているわけない、って知っちゃってる。)
平凡の信者なら、そこで自分をごまかして、神の存在を「信じる」のであろうが、
これでは単なる精神の弱さの証左にほかならず、
このスレで相手にする価値のあまりない、精神的退廃に過ぎないだろう。
しかし、わたしのような宗教批判者にとっても、
「神など居ないと知りつつ祈る」宗教者は少々手強い。
つまり、「無神論のキリスト教徒」がそこにいるわけで。
133名無しさん@1周年:2001/08/15(水) 01:52
>132
てか、そこからが出発点やと思うし。
134考える槍:2001/08/15(水) 02:02
>>118 >>130
私も仏教が生み出した叡智には、深い敬意を持つものですが、
しかし、「待った!」です。
ご発言は、「宗教」と「信仰」の区別が曖昧かと思いますがどうでしょうか。

私の指摘は、「宗教」は(人間の)言語で作られたイデオロギーである、ということ。
この場合の「宗教」とは、個人の内的体験ではなく、平たく言えば教義の体系のことです。
言語を介して既存の教義を教わるか読むかしない限り、子供があるとき突然に
「イエスは神の子で、人類の罪を贖うため十字架上で死んだ」とか、
「アラーの他に神は無し」とか、
「南無阿弥陀仏と唱えれば成仏できる」などと
信じ始めることはないわけで。まずそれを確認しておこうということ。
全ての宗教の教義は、人工のイデオロギーだよ、ということくらいは前提として
押さえておかないと。このスレの議論を試みるならね。
で、そこから本題である、1の、「信仰」の議論に入ろうと。
135鉄鼠:2001/08/15(水) 02:37
>>130
『鉄鼠教』という宗教をたった今、作りました。教主はボクです。
その教義は、以下の2つ。

1.鉄鼠教は「信仰する」ことについて考察することで、知性を
  強化し、魂の位を高めることを目的とした宗教である。

2.『「信仰する」とは、どういう事か?』のスレッドに書き込んだ人
  は、全員「レス仏」と呼ぶ。

さて、130は首尾良く「レス仏」となりましたが、鉄鼠教の信者になった
のですか?
136鉄鼠:2001/08/15(水) 02:40
さて、130氏はまさか鉄鼠教の信者になったりはしないでしょうが、仮
に135の教義を読んで得心し、鉄鼠教を信仰しようと決心した人がいれ
ば、その人はまぎれもなく鉄鼠教信者であり、信仰心を持っていると言
えます。(教主であるボクが認めるのですから間違いありません)

ですが、135の発言を読んだことのない人が、鉄鼠教を信仰するなどと
いうことがあるでしょうか?
たまたま、世界のどこかに
「信仰について考えることで、知力が高まって、より高いレベルの人間
になれるのではなかろうか」
と、鉄鼠教の教義と同じ事を考えた人がいても、その人が鉄鼠教信者に
なったわけではありません。

これが考える槍氏の言われる、「宗教とは言語による媒介を必要とする
イデオロギーである」ということを説明する具体例です。
(よね?>>考える槍氏)
137考える槍:2001/08/15(水) 03:15
>>136 Yes.
でも、ここから先の「信仰」の問題が難しいですよね。
「信仰」....自分が信仰ないからなあ.....(笑)
今晩はおやすみなさい
138名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 00:31
むむむ?DQNな質問でスマンが・・・
「宗教=イデオロギー」に対して >>130で114氏が(ってヤヤコシイ)
個人の宗教体験の存在を理由にその保留を求めたんだけど、
>>134-136を見ると、そういう<体験・主観>の存非には関係なさそうですね。

「教義・聖典は<真理>を指し示さんとするものであって、真理そのものではない。」
と、言う事を「イデオロギー」と読むのであれば、130と言ってる事は同じに
なりますが。

ん〜む。しかし・・・教条主義批判とだけ見て取るのは「浅い」か?
さらに、「悟ってる僧侶」と「悟ってるけど仏教を知らん人」の違いって
なにか重大なものがあるのでしょうか?イマイチ把握できてない。
13988:2001/08/16(木) 01:05
>>134-136を読んで、さらに>>137を読むと、
考える槍さんはどうやら「宗教」でない「信仰」を主題にしようとしているように見える。
特定の「教義宗教」とは別のあり方で「神」を追い求めるような、そういうケースかな。
だとすると、>>130で挙がった独覚仏などはむしろそれに該当するのであって、
(結果的に合流したのであっても出発点は違う、つまり教義をお勉強することでスタートしたのではない)
そういうのを「教義宗教」の枠内で扱うのはかえってもったいない、ということになるのでは。
というか、考える槍さんがどうかというより、私にはそう思えるんですわ(笑

ちなみにヴェイユには、たしかこんな感じの言葉もあったと思う(うろ覚え)。
「“破門”という制度がある限り、私は社会的存在である教会の外にいるより他はない」
まあカトリックは異端とか破門とかうるさいみたいだけど、無宗教者にはそんなの関係ないし。
140考える槍:2001/08/16(木) 01:08
>>138
こんばんは。

>体験・主観の存非には関係なさそうですね
はい、そうです。体験それ自体はイデオロギーではないですから。

難しいことを言ってはいないのですよ。
議論の前提を整理しようとしてるだけですから。

教条主義批判ではなく宗教批判、と思ってくれればいいです。
(ここでいう宗教とは、何らかの教義の類を持っているものです。
要は、「キリスト教」とか「イスラーム」とか、そういう"religions"です。)
141鉄鼠:2001/08/16(木) 01:18
>>138
>さらに、「悟ってる僧侶」と「悟ってるけど仏教を知らん人」の違いって
>なにか重大なものがあるのでしょうか?

ひょっとしたら、その二つの違いという所に、このスレの目指すものがあったりして。
142考える槍:2001/08/16(木) 01:28
>>141
そうかも。
「信仰」という概念の意味が、まだこのスレでも曖昧ですね。
それに、「信仰する」と「祈る」の違いは?
内的な神秘体験(直感的悟り)はどう考えればいいか?
1431:2001/08/16(木) 02:18
了解しました。(したと思う、多分)
ああ、>>138書いたのは自分です。

しかし、なんだか凄い事になってきましたね。濃いです。
まさかこんな事になるとは・・・の心境。
自分などついて行くのがイッパイ・イッパイなんですが
なんかこう、ね、のどまで出かかってるのに出て来ないナニか。

宗教者の方々がもっと参加してくれるとイイナ。と上げて寝る。
14488:2001/08/16(木) 10:22
ゆうべ>>139を書いたあと>>138へのレスを考えてたらそのまま寝ちまいました(笑

「信仰する」と「悟る」がどういう位置関係にあるのか、
というのはなかなか一筋縄ではいかない問題だと思います。

たとえば禅仏教はそもそもこのスレでいう「宗教」からはみ出すようなところがある。
「不立文字」とかいって、言語による伝達可能性を拒否するようなところがあるし。
「仏に逢っては仏を殺せ」なんてことを言う連中の「信仰心」というのは、
事あるごとに「アラーは偉大なり」と唱えて祈りを捧げる連中などとは
どうもかなり違うものがあるのではないだろうか。

ただ、まだ悟っていない修行者は、そんなに変わらないのかもしれない、とも思う。
彼らはある意味「悟り」を信仰しているのだろうから。

>>143
>宗教者の方々がもっと参加してくれるとイイナ。

そうですね。個人的には特に指導者層の声が聞きたいです。
本物の禅僧の言葉は私には理解できないかもしれないけど。
145考える足:2001/08/16(木) 11:12
突然横からスミマセン。

「信仰する」は、信仰する人が「神」を求める行為だと思うのです。
どういう理由かはわからないが、その人が「神」がいてほしいと感じ
たということ。

「悟り」の立場からは、その時点で「待った」をかけるのです。その
人が求める「神」とは、その人が理解できる「神」にすぎず、いわば
自己中心的な「ひとりよがりな神」なのです。その「神」が実在する
(と仮定して)本当の神と同じものかは誰にもわからない。「悟り」
は、元々の人間の価値判断に疑問を持っている。いわば、人間は生まれ
つきサングラスをかけているので、サングラス越しに世界を見、それで
「神」を望んだとしても、それは碌な神ではなかろう、と考えるのです。

そこで、へんちくりんな神を担ぎ出すよりかは、いっそのこと、神なし
で行こう、というのが「悟り」の立場だと思います。それが「仏に遭う
ては仏を殺し」の意味ではないか。
146考える足:2001/08/16(木) 11:37
ついでに宗教体験について。

いくら宗教体験を持ったとしても、直接「神」を見るわけではない。
人はひとりひとり、自分の世界観を持っていますが、日常生活の中で
いろいろな矛盾に出会い、その世界観は「本物」ではないとうすうす、
感じているのです。そういう時に、特異な体験をして、その世界観を
超えた新しい世界観に出会うと、「これだ」と感じ、深い喜びを味わう
のです。これが宗教体験の本質だと私は思います。

たとえば、弱肉強食の世界観で日常を生きているが、何か心に満たされ
ないものがある。この時に、人間はお互いに助け合って生きるべきだ、
ということを認識するような経験をすることで、その人の世界観がグレー
ドアップし、かつての心の隙間が埋まるのです。

しかし、宗教体験といえども、それは「最終」ではない。世界観は、新た
な矛盾によって変更を余儀なくされます。また心に隙間ができる。そして、
新たな宗教体験によって矛盾が解決され、隙間が埋まる時、その人の世界
観はさらに上位へジャンプするのです。

残念なことに、ほとんどの宗教が宗教体験を1回きりのものに限定したが
ります。そこに宗教の持つ致命的な欠陥がある。本当の「神」に出会うため
には、それまでの「贋物の神」を順次捨てていかねばならないのです。
それこそが「悟り」であると私は考えています。
147名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 11:39
>残念なことに、ほとんどの宗教が宗教体験を1回きりのものに限定したが
>ります。
そんなことはないんじゃない?
具体例を述べよ。
148考える足:2001/08/16(木) 11:49
>147

うん。たとえば、キリスト教でなら、自分の原罪を認め、それが自分
自身では解決できないことを認め、それがキリストへの信仰義認に
よってのみ解決できる、としてしまうと、あとは何もやることがなく
なる。つまり、1回きりの宗教体験になってしまうのです。

私見ですが、たいていの宗教の教えとは「○○さえすれば救われる」
という主張なので、○○が究極のゴール=終着駅として自動的に設定
されてしまう。
149名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 11:58
>それがキリストへの信仰義認に
>よってのみ解決できる、としてしまうと、あとは何もやることがなく
>なる。
ただ単にキリスト教徒を名乗れれば満足な人ならまだしも、
普通は日々心底から祈り、聖霊の働きを実感し続け、自分を欺かないように
内省する事で忙しくて、何もやることがないと言うことはないんじゃないかな。
150名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 12:02
神は最初に世界を創造してそれっきり、というのではなくて、
日々刻々、一瞬ごとに新たに世界を創造し直していると言うね。
神は何も完璧な永久機関としての世界を創ったわけではないと。
151考える足:2001/08/16(木) 12:12
>149

もちろん、キリスト教の人にもいろいろいらっしゃると思いますよ。
そういう「真面目なキリスト教徒」の方は、思うに自分の心の隙間に
敏感で、それをなくそうと努力しておられるのでしょう。

これは全くの私見ですが、キリスト教で「よい人」というのは、仏教
から見ても「よい人」なので、これは世界の裏側へ行っても同じだと
思うのです。それで、その人が死ねば、どんな宗教の尺度から言って
も「天国」へ行くという結論になる。同じことは、「よくない人」に
も当てはまるので、「地獄」へ落ちるだろう人は、だいたい推測がつく。

こうなると、宗教の違いというのが意味をなさなくなる。本質的な問題
はすべて個人的な世界観に属するのじゃないか、と思えましてね。キリ
スト教での体験によって、世界観をアップする人もあれば、仏教に触れて
世界観をアップする人もいるでしょう。あるいは、いつまで経っても
世界観が発展しない人もある、キリスト教でも仏教でもそれは同じこと
でしょう。

宗教は、個人個人の体験や世界観に応じて説かれるわけではないので、
せいぜい、信者の「共通項」を取り扱うのがやっとです。その意味で、
本当に重要な宗教体験とは、個人の自助努力にかかっていると思います。
152信仰一路:2001/08/16(木) 12:26
信仰とは、天理教スレッドで、道の達人さんの話に
耳を傾ける事です。
すごくレベル高いですよ。天理教は。
もう、びっくりしちゃいますよ、教団側の道の達人のレベル。
153名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 12:34
>151
同意。私はクリスチャンだが、151の考えが無神論だというなら、
まあ無神論と呼ばれてもイイと思っている。信仰とは態度みたいなモンだからね。
154聖書ビギナー:2001/08/17(金) 00:43
>>98
>もしキミがちょっと幼児向け聖書を読んだオネショも止められない小学生から
>「経験が足りないね」なんて言われたら、感心するかね?それとも笑うかね?
「負うた子に教えられ」状況こそ大切だ。君は年上だとか上司の言うことしか
聞けないか?もしそうならそういう君のスタンスをこそ疑ってみたまえ。

>そんな劣等感を裏返しにした思い上がりを抱いていては、たしかに学校の勉強にも
>ロクについていけないし、クラスメイトからもつまはじきにされるだろう。
「学校の勉強」「クラスメイトとうまくやること」こういうのが君の言う
「現実」なのか・・・。君はさぞかし人気者でエリートであろうと思われるが、
そういう自分に疲れるというか、疑いを持つことはないのか?

ところで私なりの「信仰」の定義をしておこう:
「人間の科学では証明不能であり、かつ完全に言語化されていない
意思的かつ絶対的存在を、世間の法律・慣行・倫理等と独立に認識すること」
なにかまだ舌足らずな感じもあるが、一応こういうことで。
155鉄鼠:2001/08/17(金) 00:52
>>145
>「信仰する」は、信仰する人が「神」を求める行為だと思うのです。
7割ぐらい、同意できます。
ただ、「信仰とはなにか」ということが、今このスレッドで議論されて
いることであり、いきなり結論を出してそこから説を展開するのはいさ
さか性急なのではありませんか?

「悟り」に関する記述は大変興味深いモノです。
ただ、その見解には信仰を持たないボクでも疑問が湧きます。

145の「悟り」に関する書き込みは、要約すると
−−−−−
「人間の見る神は、しょせん不完全。だから神はいないことにしたほう
が良い」と考えるのが「悟り」である
−−−−−
という事のようですが、ロジックがおかしくありませんか?
既に存在している(と思っている人達がいる)神をそのような理由でい
ないことにしても仕方ないと思います。

その「悟り」に関する見解は、何という団体(あるいは人)のものなの
でしょうか。
156聖書ビギナー:2001/08/17(金) 00:59
>>151
>こうなると、宗教の違いというのが意味をなさなくなる。
>本質的な問題はすべて個人的な世界観に属するのじゃないか
とすると、「神(人類の普遍的潜在意識とか何とか言う人もいるだろう)」
が実在し、その存在についての記述の違いが宗教の違いということに
ならないだろうか?
1571:2001/08/17(金) 01:58
>>144
「悟り」を信仰しちゃったら駄目だ、求めたら駄目だ。・・・というのは
禅のエピソードでよく耳にする奴ですな。優等生が叱られるパターン。

ただ、禅はねぇ、(このスレッドの)信仰の文脈で語ろうとすると
ワケワカンナクなりませんか?
僕の興味を引く部分はあるんですけど、今は分けた方が無難かなぁ。

禅って「言語」と格闘してる、というか、
人間という動物(の脳味噌)が、ハードウェアとして生まれながらに
持っている「認識の枠組み」(=サングラス)というものが在るんだ、と、
ソレを非常に強く意識している・・・・んだろうなぁ、と自分は勝手に思ってる
んですけどね。(それほど良くは知らないのダ)
もしかすると、宗教的(神秘的)体験や内的な直観なんかも、
「ああ、ソレ?気のせいつーかね、人間てのはそういう風に受け止める傾向がネ
 備わっちゃってるんだよ。」
なんて言うのかも知れない。・・・・と、思うとトテモ興奮するんだけど。

#いやぁ、今回もズレた書き込みだなぁ。結論は「禅は置いとこう」です。(藁
1581:2001/08/17(金) 02:15
で、
>内的な神秘体験(直感的悟り)はどう考えればいいか?
ですけども、とりあえず自分の立場は今のところ「=気のせい」です。
じゃあ少なからぬ人達が同じような体験をする事はどう説明するのか?
追体験可能なのは、どういうワケだ?
と問われれば、そりゃ、同じ人間だもの脳の働きも似たようなもんでしょ。
と、答えられる。感覚の対象が実在するかどうかなんて問題じゃない、と。

そうした上で、なお「ヴァイユの告白」を凝視する。
また、<純粋信仰>というものが在り得るのなら、そりゃ一体ナンだ?と。
159考える足:2001/08/17(金) 09:25
>155

>ただ、「信仰とはなにか」ということが、今このスレッドで議論されて
>いることであり、いきなり結論を出してそこから説を展開するのはいさ
>さか性急なのではありませんか?

私は結論を出したつもりはなくて、出発点を示したつもりなのです。神があるか
ないか?そこで既に「前提」がはいる。今、とりあえず言えることは、「信仰」
という行為をなそうとする「私」がいる。そして、その私が「神なるもの」を求め
ている、ということです。「私」がいないとしても、「神なるもの」を求めていな
いとしても、信仰は成り立たない。だから、これは最低限の設定だと思います。

「神なるもの」に物理法則なんかを加えるかどうか、というのは議論の次の段階と
思います。

>既に存在している(と思っている人達がいる)神をそのような理由でい
>ないことにしても仕方ないと思います。

>その「悟り」に関する見解は、何という団体(あるいは人)のものなの
>でしょうか。

いわゆる、仏教思想の原点はここからスタートしていると私は思います。後世に
いたって、諸菩薩や諸天など、いらないものが付け加わりましたが。釈尊は、
「神」という前提を立てることを拒否しました。まずは「自分」だと。この思想
を割と忠実に伝えているのが禅だと思います。道元の『正法眼蔵』は、徹底した
唯物論です。いや、正確には非有神論、かつ非唯物論で、どちらとも断定してい
ない。わからないものには、いらぬ仮定を置かない、という徹底的な姿勢です。
160古手川ブー子:2001/08/17(金) 09:37
さて、このスレッドに関係ない私たちは、こっちに移動ざますわさ


『キリスト教派グレイスを語ろう!』

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=997976329&ls=50
161考える足:2001/08/17(金) 09:37
>156

そこで、「神を自分の外に求めるか、内に求めるか」が別れてくると
思います。もし、神を自分の外に求めるなら、ラッキーにも正しい神
に出くわす宗教もあれば、横道にそれて遭難してしまう不幸な宗教も
あって、「当たり外れ」が出てしまいます。私は、こういうのはイン
チキ臭いと感じてしまう。造物主のはからいとしては、あまりにチンケ
だという感じです。

神を自分の内に求めるなら、すべてのゴールが自分の心にあるのです
から、完全に平等です。また、禅のように「神」を保留して真理を求め
る人があっても、最終的にその人は神を「拾う」ことができます。そし
て、個人がその神の内容を、キリスト教の言葉で理解しようが、仏教の
言葉で理解しようが、同じということになります。私は、こちらの方が
もっともらしいと思っています。

このとき、

>「神(人類の普遍的潜在意識とか何とか言う人もいるだろう)」
>が実在し、その存在についての記述の違いが宗教の違いということに
>ならないだろうか?

は真実ということになると思います。
162鉄鼠:2001/08/17(金) 10:20
>>154
強くたたきすぎたせいで、もう戻ってこないかと心配していました。
おかえりなさい。
163考える足:2001/08/17(金) 10:40
過去のスレとの関連で、少し161を補足させていただくと、

>>15さんのたとえ話は、神を自分の外に求めた場合の「悲劇」です。

>>49さんの
>「論理的に考えてそれが最も妥当だから」

という基準に従えば、科学的教養を持ってしまった現代人は、目に見えぬ神の存在
を無批判に受け入れることは「論理的に妥当とは言えない」のです。目に見えぬか
ら存在しないとも言えないが、存在するとも言えない。存在するかどうかはわから
ない。わからないことは保留するというのが最も「良心的」な(誠のある)関わり
方なのではないか。ある人が宝くじを買って、「当たる」と確信する。これは論理
的ではない。一種の自己欺瞞です。当たるかどうかは、わからない。よって保留す
る。これが最も「論理的に妥当な判断」です。

この意味で言うと、禅以外の宗教は大なり小なり「時代遅れ」になっていて、特に
神を外に求める宗教は、心の隙間を完全に埋めるものではないと言えると思います。
そこには、自分でも触れたくないような自己欺瞞の塊がきっとある。
164これって王道?
豚肉を口にしないイスラーム
オナニーをしないカトリック
ベジタリアンオウム
ペンダントに縛られてる真光
カーストのヒンズー
猿と血を分け合ったと強調するダーウィン