1 :
名無しさん:
約2500年前、実在されていたゴータマ・ブッダが、
実際に人々に説いて廻られた言葉、阿含経(アーガマ)
について語るスレッドです。
このスレッドは阿含宗とは関係ありません。
阿含宗関連は別のスレッドでお願いします。
もちろん、阿含宗の人たち、他各宗派、
キリスト教、他各宗教の人の参加は歓迎しています。
議論に関係の無い、個人への攻撃はおやめください。
2 :
名無しさん@1周年:2001/05/25(金) 14:52
>このスレッドは阿含宗とは関係ありません。
怪しい。
3 :
名無しさん:2001/05/25(金) 15:15
4 :
名無しさん:2001/05/25(金) 15:30
中村元先生の岩波の文庫のどれがアーガマにあたるの?
5 :
名無しさん:2001/05/25(金) 16:11
>>4 『ブッダのことば:スッタニパータ』(岩波文庫 青-288) 岩波書店(1958) ※改訳(1984)
『原始仏教:その思想と生活』(NHKブックス 111) 日本放送出版協会(1970)
『ゴータマ・ブッダ:釈尊伝』増刷6刷 法蔵館(1972)
『原始仏典』(中村元編) 筑摩書房(1974)
『原始仏典を読む』(岩波セミナーブックス 10) 岩波書店(1985)
『ブッダ 神々との対話』(岩波文庫 青(33)-329-1 サンユッタ・ニカーヤ 1) 岩波書店(1986)
『ブッダ 悪魔との対話』(岩波文庫 青329-2 サンユッタ・ニカーヤ 2) 岩波書店(1986)
『ブッダ入門』 春秋社(1992)
『原始仏教の思想』1 春秋社(1993)
これくらいかな?
6 :
トマト:2001/05/25(金) 16:16
アゴンは、麻原の親玉で、ゴマたいて、金取る宗教だろ(藁
7 :
名無しさん@1周年:2001/05/25(金) 16:24
8 :
名無しさん@1周年:2001/05/25(金) 16:33
>>7 相手をするべからず
トマト 投稿日: 2001/05/25(金) 16:13
くだらんスレたてるなよ!氏ね!
トマト 投稿日: 2001/05/25(金) 16:13
キリスト教なんて馬鹿のあつまり。洗礼なんて水あびしてすくわれるとおもってるのか。めでたい奴らだ。(藁
トマト 投稿日: 2001/05/25(金) 16:17
何わけわかんねー話してんだよjノイローゼどもが!
トマト 投稿日: 2001/05/25(金) 16:19
創価学会は詐欺師集団、豆腐に頭ぶつけて氏ね(藁
トマト 投稿日: 2001/05/25(金) 16:22
しょせんビートルズはアホの集団、かねの使い道しらないので、
馬鹿にだまされるの!氏ねJ!
9 :
名無しさん@1周年:2001/05/25(金) 17:59
age
10 :
名無しさん@1周年:2001/05/25(金) 19:43
南伝 小部経典 如是語経 九二
たとえ わたしの裳をとって
わたしの後に随い来ようとも、
もし彼
欲をいだき、いかりをいだき、邪まの思いをいだき、
怠りにふけり、知解するところがなかったならば、
彼はわたしから 遠く離れており、
わたしは彼から 遠く離れておるのである。
なにとならば
かの比丘は 法を見ないからであり、
法を見ない者は わたしを見ないからである。
11 :
名無しさん@1周年:2001/05/25(金) 19:44
たとえ わたしを遠く離れて
百里のかなたにいようとも、
もし彼
欲をいだかず、いかりをいだかず、邪まの思いをいだかず、
放逸をすてて、知解し、確立することを得たならば、
彼はわたしのそばにおり、
わたしは彼のそばにおるのである。
なにとならば
かの比丘は 法を見るからであり、
法を見る者は わたしを見るからである。
厳しい人だったのですね
12 :
名無しさん@一周年:2001/05/25(金) 21:33
age
13 :
名無しさん@一周年:2001/05/25(金) 23:24
age
14 :
清浄:2001/05/25(金) 23:25
なんで、いまさら小乗仏教やるんだよ。
15 :
名無しさん@一周年:2001/05/25(金) 23:46
16 :
小乗の意味:2001/05/25(金) 23:51
小さい乗り物で独りしか乗れない
自分だけの救いだけしかえられず
他を救うことはできない。
17 :
名無しさん@一周年:2001/05/26(土) 00:05
>>16 説明ありがとうです。
でもなぜ、お釈迦様の説法が
>自分だけの救いだけしかえられず
>他を救うことはできない。
となるのですか?
他の人も自分の境地に到達してもらいたいから、
お釈迦様は死ぬまで説いて廻られたのではないですか?
18 :
:2001/05/26(土) 01:04
age
19 :
名無し組:2001/05/26(土) 01:13
阿含経が釈尊直説の経典であるというのは妄想です。
20 :
:2001/05/26(土) 01:18
21 :
74:2001/05/26(土) 01:47
華嚴、阿含、方等、般若は釈尊の方便。
22 :
名無しさん@一周年 :2001/05/26(土) 01:57
23 :
yocha:2001/05/26(土) 02:56
仏教とは自分を救う為のものではないのですか?
人を救うとすれば、それもやはり自分の為なのでは?
24 :
1:2001/05/26(土) 03:27
>>22 天台宗 智の「五時教判」のことでしょう。
概略はこうです
阿含経から大乗諸経典まで、経典の全てが「仏説」を主張していた。
その全経典を「釈尊一代における教法」とみなして、独自の解釈に基づきながら、それぞれの年代に諸経典を区分することが行なわれた。
それぞれの時代別に、
成道→(1)華厳時(華厳経)→(2)鹿苑時(阿含経)
→(3)方等時(維摩経等、大乗諸経典)→(4)般若時(般若経)
→(5)法華・涅槃時(法華・涅槃経)→入滅
と区分された。
客観的な資料が無かったその時代には、これは仕方が無かったかもしれない。
25 :
1:2001/05/26(土) 03:27
だが、仏教学が発展した現在、
実在した釈尊の説法は、阿含経にしか書かれていない
他の経典(大乗諸経典等)は、釈尊の死後、数百年経ってからの創作経典である
→「仏説」とうたっているが、少なくとも実在した釈尊の説法ではない
ことが明らかにされている。
しかし、阿含経にも問題は含んでいる。
約2500年に渡って伝えられているもので、少なからず改変・創作は見受けられる。
そこの所は、注意しなければならないだろう。
だが、実在した釈尊の説法は、阿含経にしか書かれていないことは確かな事である。
26 :
1:2001/05/26(土) 04:13
>>23 yochaさん
もともと仏教とは、釈迦が悟りの境地に達っし、
(これを当時のことばで 「ブッダ(仏陀)」=悟った者 といった。だから当時、自称ブッダは何人もいた)
その釈迦が、自分の悟りの境地はこうやったら得られるぞ、と手法・手段を教えたことが始まりです。
こう書くと小難しいので、山登りに例えてみるとします。
誰かが高い山の頂上まで登ったとします。
その人が、すごく清々しい気分になって、他の人にもこの気分を
味わらせてやりたいという気持ちになった。
山を降りて他の人に自分が登ったルートを説明した。
27 :
1:2001/05/26(土) 04:14
で、釈迦の指導で実際に悟りの境地に到達できた人は、あまりのすばらしさに他の人にもこれを伝えようとする。
こんなところかな。
初期の仏教はまず最初に自己完成があり、その後に他者救済があるので、上のレスの様に、大乗諸経典を信じている方から小乗と貶されるようになったのですね。
お釈迦様は言われました
盲人が、盲人の手を引くと二人とも穴に落ちる。
28 :
他力本願:2001/05/26(土) 07:45
古代人生哲学だった釈迦の説
仏教は日本において、親鸞上人により
宗教として完成されたのである。
29 :
名無しさん@一周年:2001/05/26(土) 08:14
>>28 ほんとかぁー?
どんな所が釈迦の時代に未完成だったのか書いてみれ
30 :
参禅者:2001/05/26(土) 09:35
>26-27
確かにそれは正しいと思うけど、もうひとつ大事なことがあると思うよ。
23さんが鋭い指摘をされているように、「自分が悟りを開きたい」という願望も
また、悟りを妨げる魔境なのです。釈尊が命を賭けた苦行を続けても悟りが開け
なかった鍵はここにあります。浄土門で、自力による成道が難易門だと説く真意
もここにある。「悟りを得よう」という願望で自縄自縛になるよりも、阿弥陀如来
に自分の一切を任せきった方が悟りやすい、ということです。
仏道修行は水泳の練習に似ています。手足に力を入れてもがけばもがくほど沈んで
いく。力を完全に抜いてリラックスしたときに水に浮きます。
釈尊の死後、原始経典が編纂されましたが、どんなに崇高な教えでも文字に固定化
すると、必ずそれに拘泥する人が現れる。そういう連中が集まって、悟りを唯物的
に分析した「アビダルマ哲学」を作り上げました。この時点で、仏教は哲学に堕して
しまい、宗教の心を失ってしまったのです。どこかの似非宗教団体が主張するよう
に、「悟り」はカリキュラムなどでは得られません。そもそも、カリキュラムを
作ろうとすること自体、私は外道ですと言いふらしているようなものです。
私の解釈ですが、大乗仏典の多くは、このように死骸化した仏教に心を蘇らせるた
めに、釈尊が多くの人の手を借りてこの世に出されたメッセージだと思います。
ただ、痛恨なことに、今度は大乗仏典の一字一句に拘泥する人が大量に現れたとい
うのが今の状態です。
31 :
真理システム:2001/05/26(土) 12:17
原始教典は、どのような人に、どのような目的で、説いたのかを
把握しながら読まないと、こんがらがてってくる。
大乗教典も、どのような集団に、どのような目的で、書かれたのか、
把握しないと、よくわからなくなる、 と思う。
32 :
30:2001/05/26(土) 12:49
うっかりしてミスをしてしまいました。
「難易門」でなくて、「聖道門」の誤りです。むしろ、「自力による
成道は難しいと説く真意も」とでもすべきでした。
>31
全く、おっしゃるとおりだと思います。
33 :
1:2001/05/26(土) 16:12
>>30 参禅者さん
前後逆転しますが、レスしてみたいと思います。
>釈尊の死後、原始経典が編纂されましたが、どんなに崇高な教えでも文字に固定化
>すると、必ずそれに拘泥する人が現れる。そういう連中が集まって、悟りを唯物的
>に分析した「アビダルマ哲学」を作り上げました。この時点で、仏教は哲学に堕して
>しまい、宗教の心を失ってしまったのです。
そうですね。この頃の仏教者達は僧院にこもりっきりになり、釈迦の言行をつぶさに研究する学者集団になっていましたね。(これを部派仏教時代と呼びます)
他の人に「悟り」を伝えようとせず、
(言われたことを実践しないで、研究するばかりでは悟りに達っしないのも当然)
自分の研究ばかりしている様では非難されて当り前です。
その学者集団に反発して、他者救済が大事なのだ!と袂を分けたのが、いわゆる「大乗」と称する人たちの起源です。
ですからこの頃の学者集団に対して「小乗」と貶されることは致しかた無いと思います。
ですが、この部派仏教時代と、釈尊が生きておられた時の初期仏教時代とは、分けて考えるべきだと思います。
34 :
1:2001/05/26(土) 16:12
>「悟り」はカリキュラムなどでは得られません。そもそも、カリキュラムを作ろうとすること自体、私は外道ですと言いふらしているようなものです。
阿含経に、このようにあります。参照してみてください。
南伝 相応部経典 三八、一、涅槃 / 漢訳 雑阿含経 一八、一、難等
かようにわたしは聞いた。
ある時、長老サーリプッタ(舎利弗)は、マガダ(摩掲陀)の国のナーラカ(那羅迦)という村に住していた。
その時、ジャンプカーダカ(閣浮車)なる遊行者が、長老サーリプツタを訪れてきて、たがいに会釈をかわし、親愛にして慇懃なる談話をまじえて、やがて傍らに坐した。
傍らに坐したジャンプカーダカは、長老サーリプツタにいった。
「友サーリプッタよ、涅槃、涅槃といわれるが、友よ、いったい、涅槃とはなんであろうか」
「友よ、およそ貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅、これを称して涅槃というのである」
「では、友よ、その涅槃を実現するに道があるであろうか。そこにいたる方法があるであろうか」
「友よ、その涅槃を実現するには道がある。そこにいたる方法があるのである」
「では、友よ、その涅槃を実現する道とはなにか。そこにいたる方法とはなんであろうか」
「友よ、聖なる八支の道こそは、その涅槃を実現する道である。それは、すなわち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、これがその涅槃を実現する道であり、そこにいたる方法なのである」
「友よ、この涅槃を実現する道は、まことに善い、そこにいたる方法は、まことに素晴らしい。友サーリプッタよ、それはまた勤めはげむに足る」
35 :
1:2001/05/26(土) 16:13
>23さんが鋭い指摘をされているように、「自分が悟りを開きたい」という願望も
>また、悟りを妨げる魔境なのです。釈尊が命を賭けた苦行を続けても悟りが開け
>なかった鍵はここにあります。
その通りですね。ここが一番の難関でしょう。
阿含経によると、釈尊は苦行を放棄され、後に菩提樹の下で禅定をする中で、成道された、とあります。
36 :
1:2001/05/26(土) 16:14
>浄土門で、自力による成道が聖道門だと説く真意
>もここにある。「悟りを得よう」という願望で自縄自縛になるよりも、阿弥陀如来
>に自分の一切を任せきった方が悟りやすい、ということです。
ここは私の言葉が追いつけないので、お釈迦様と、増谷文雄博士の言を借りたいと思います。
南伝 中部経典 一〇七 算数家目ノ連経 / 北伝 中阿含経 一四四 算数目ノ連経
より後半部分
「では、いかがであろうか。かように教え導かれた世尊の弟子たちは、みなよく涅槃を得るであろうか。それとも、得ないものもあるであろうか。」
「婆羅門よ、わたしの弟子の中にも、涅槃を得るものがあり、また得ないものがある。」
「では世尊よ、正しく涅槃は存し、涅槃にいたる道があり、世尊が導師としていますにもかかわらず、いかなる理由によって、あるものは涅槃を得、あるものは得ないのであろうか。」
「婆羅門よ、それについて、いまわたしからなんじに問いたいことがある。婆羅門よ、なんじはラージャガハ (王舎城)にいたる道を知っているか。」
「世尊よ、私はよく知っている。」
37 :
1:2001/05/26(土) 16:14
「では婆羅門よ、これをどう考えるか。ここにひとりの人があり、ラージャガハに行こうとして、なんじのもとに来って、その道をたずねたとせよ。そのときなんじは、彼に語って言うであろう、『君よ、この道がラージャガハに通じている。これをしばらく行きたまえ。しばらく行くと、かくかくの名の村がある。それをまたしばらく行きたまえ。しばらくすると、かくかくの名の町がある。それをまたしばらく行きたまえ。するとやがて、ラージャガハの美しい園や森や池が見えてくる』と。
かように教えられて、あるものは安全にラージャガハに到るが、あるものは道をまちがえ、あらぬ方に行くこともあろう。婆羅門よ、正しくラージャガハは存し、ラージャガハにいたる道があり、なんじが導者としてあるのに、いかなる理由によって、ある者は安全にラージャガハにいたり、ある者はあやまれる道を、あらぬ方に行くのであろうか。」
「世尊よ、それをわたしがどうすることができようか。私は道を教えるだけである。」
「婆羅門よ、その通りである。涅槃は正しく存し、涅槃にいたる道があり、私は導師としてあり、しかも、わが弟子の中には、あるものは涅槃にいたることを得、またある者はいたることを得ないが、それを、婆羅門よ、わたしがどうするということができようか。婆羅門よ、如来はただ道を教えるのである。」
38 :
1:2001/05/26(土) 16:15
おそらくは、その結びの言葉を、すこし冷たいと感ずる人もあるであろうと思う。だが、それを裏がえしてみると、そこには、ブッダの本領があかされている。ひいては、仏教そのものの本質が、そこに見えているのである。
「わたしは、ただ、道を教える者」という、そのことばを裏がえしてみると、ブッダとは、けっして、全知全能の救済者ではないということである。あるいは、神と人との間をとりもつ仲保者の役割を演ずる者でもないということである。したがって、信を表白して、この人を礼拝すれば、それで所願が成就するというわけにはいかない。この人の本領は、あくまでも、みずから課題を解決し、正道を実践して、それを人々に宣べ伝え、なんじらもまた、かく知見し、かく実践して、涅槃と称するこの境地を実現せよと教えるところにある。その意味において、この人の本領は、まさに導師、すなわち、智慧とその実践の先駆者であり、案内者である。
したがって、結局するところ、その智慧と実践についての最後の責任は、この師にしたがう人に帰するのはかはない。眼を開いて存在の真相を見るのは、彼らじしんでなければならない。
心を励ましてその道を歩まねばならないのは、彼らじしんである。ブッダは、かつて、聖句を誦する者を批判して、「他人の牛を数えるがごとし」といったことがある。自分じしんが智慧のまなこを開かねば、何にもならないのである。われとわが身をもって実践しなければ、何の用にもたたないのである。
39 :
1:2001/05/26(土) 16:21
表示文字数を多くする為に、改行を減らしています。
読み難いと思いますが、ひとつ、ご勘弁を。
40 :
名無しさん:2001/05/26(土) 16:23
漢訳の阿含経は、大乗経典の影響を受けて後世に追加された部分もあります。
南伝の大蔵経の方がお釈迦様の直接説かれた教えでしょう。
41 :
1:2001/05/26(土) 16:24
42 :
1:2001/05/26(土) 16:31
>>40 そうですね。南伝と漢訳に同じ経典があると、信頼度はもっと上がるでしょう。
43 :
名無しさん@1周年:2001/05/26(土) 16:36
質問です。
仏教とは無神論ではなのでしょうか?
それとも釈迦を仏(神)として信仰しているのですか?
44 :
名無しさん@1周年:2001/05/26(土) 16:43
45 :
名無しさん@1周年:2001/05/26(土) 16:48
いやぁ〜非常に難しい話ですよねぇ〜
少々勉強不足のようなので修行してまいります。
帰ってきた時はまたよろしく。
47 :
名無しさん@1周年:2001/05/26(土) 20:38
阿含経を日本で信奉しているのは阿含宗だけなのですか?
ほかにないとなればとても寂しいですね。
48 :
名無しさん@1周年:2001/05/26(土) 21:39
age
49 :
名無しさん@1周年:2001/05/26(土) 23:47
age
50 :
名無しさん@1周年:2001/05/27(日) 00:03
>47
残念ながら阿含宗だけです。
それだけ貴重な教団なのです。
51 :
名無しさん@1周年:2001/05/27(日) 13:02
マターリ・・・あげ
52 :
真理システム:2001/05/27(日) 22:37
アレフも、インド直輸入の教典持ってたかも? 真理システムの「真理」
はΩとは関係ないです、はい。
同意を頂いた、1さん、30さん、恐縮です。
岩波文庫のブッダのことばとか、読んでるのですが、古代インド当時の
出家修行者が存在しない(托鉢僧もバイトでやる時代)現代において、
原始教典にどういう意味が読み取れるかに興味があります。
53 :
参禅者(30):2001/05/28(月) 09:35
>50
私もあすこの教団に興味があって、教義をひと通り勉強したことがありますけど、
「阿含経」は看板だけで、修行者が「阿含経」の理念に沿って修行するでもなく、
現世利益をうたった新興宗教のひとつにすぎないことがわかり、早々と見捨てまし
た。お経というのは、もともと1さんがご指摘のように、「如来が指し示す道」
の地図なんですけど、あすこの教団は地図を崇めて礼拝しているだけだ、という
のが私の印象です。護摩の火に仏の姿が現れた、などと仏法に関係のないところで
大騒ぎをしている。こういう迷信こそ最も避けるべきものとして、釈尊は戒められ
たはずです。最近は、仏舎利を熱心に拝み始めた。もう完全なる外道です。
>52
アレフもダメですよ。彼らは「悟りのために」修行しているから、スタートから
して間違っている。阿含宗もまた、同じところで間違っているし、妄想で信者を
騙くらかしている点は、アレフよりもタチが悪い。
54 :
えせ参禅者へ:2001/05/28(月) 10:35
「悟りのために」修行ている・・・
アレフやあごんがどう考えているか知らないけれど
その事自体はお釈迦さん自身の考えかただろ?
知ったふうな口をきくな!
大乗仏教になって他者を救うというのが大きなテーマ
になった、釈迦にも多少はあったのだが。
55 :
TVで道元やってた:2001/05/28(月) 10:45
禅って大乗仏教だろ、阿含経とは関係ないんじゃ?
それに「悟りのために」って、それこそ禅宗が
修行する理由であって、釈迦は輪廻より解脱し
ニルバーナの境涯に入ることを説いたのでは?
56 :
電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/05/28(月) 11:18
阿含経典に大乘も小乘も関係ありません。唯識派や中観派の書物の中に
数多く引用され権威付けられています。大乗仏教でも阿含経典を否定す
れば仏教ではなくなると言うのが常識です。
ここでほざいてる阿含宗、アレフ信者たちよ。ええ加減にせい。
57 :
参禅者:2001/05/28(月) 12:59
>54
いやいや。お釈迦さんは最初、「欲望」を滅すればよい、と確信して
苦行されていたのですよ。それでは悟れなかった。少なくとも、禅を
やっている人で「悟りを開くために座る」人など居りませんよ。六祖
壇経にもある。人が修行して仏になるのなら、瓦を磨けば鏡になるだ
ろう、と。
>55
私も見ましたよ。なかなか、よくできていましたね(^^)。道元さんは、
阿含経も愛読していたんですよ。もし、輪廻より解脱するのが「成仏」
ならば、人間が空を飛ぼうとするようなものです。道元さんは、こう
書いていますよ。
「生死すなはち涅槃なりと覚了すべし。いまだ生死のほかに涅槃を談
ずることなし。生死は除くべき法ぞと思えるは、仏法を厭う罪となる。
慎まざらんや」(弁道話)
つまり、この生き死にの輪廻の中にこそ涅槃はあるので、輪廻から
脱しようとする心こそが「あるがままの生き方」に反するのです。
「今、ここ、自分」に徹して生きれば、死後の輪廻など他人事のよう
に無関心で居られるはずです。この時に初めて人は解脱するというの
が禅の考え方です。
58 :
関心持つ者より:2001/05/28(月) 17:44
おや?
ちょっと待って下さい!
>>57 について。
>いやいや。お釈迦さんは最初、「欲望」を滅すればよい、と確信して
>苦行されていたのですよ。それでは悟れなかった。少なくとも、禅を
>やっている人で「悟りを開くために座る」人など居りませんよ。・・・
何か、基本が飛ばされているような印象です。
仏陀(釈尊でもいいですが、こう呼ばせて頂きます)は、
もっと非常にシンプルで単純なことから出家し修行されました。
ことの始まりは、仏陀が自分の苦悩からの救いを求めてが最初だった。
その苦悩とは自己の「死への恐怖」であり、死ぬことが嫌だったからです。
決して、悟りや人々を救うという大それたものではなかった。
このような、ごく普通(に見える)私たちと変わらないような人間であったことに価値があるのです。
59 :
関心持つ者より:2001/05/28(月) 17:44
つまり「死の克服」が彼のテーマであり、
仏陀は当然、当時のインドの思想に触れて、その真義を確かめるべく深く学んだ筈なのです。
そこで、消滅するものとは肉体であってアートマンは永久に不滅なり、という伝統思想の追求に入った。
当然、自分で真義を確認するためです。
消滅する肉体(自己)に対するその不滅の自己とは一体何か?
つまりは「自己の探求」の道に入ったのです。
この段階で「解脱」を求めて、ということにもなる。
何故なら輪廻するものがアートマンであり、
自己意識がアートマンに在住することが転生からの解脱であると、
すでに説かれていたのですから。
60 :
関心持つ者より:2001/05/28(月) 17:45
ですから、
>つまり、この生き死にの輪廻の中にこそ涅槃はあるので、輪廻から
>脱しようとする心こそが「あるがままの生き方」に反するのです。
>「今、ここ、自分」に徹して生きれば、死後の輪廻など他人事のよう
>に無関心で居られるはずです。この時に初めて人は解脱するというの
>が禅の考え方です。
は、ちょっと違うと思われます。
仏陀の思想とバラモン、そしてヒンドゥーも共に「輪廻からの解脱」を目標とすることでは全く一致するのです。
一言でいうならば方法論の違い、ただそれだけです。
なるほど、それが禅かなという感じはします・・・。
解脱を求める思いも最終的には邪魔となることは仏陀も述べています。
最初から解脱を目指して道(修行)に入っても、それ自体は間違いとかいう問題ではないと思われます。
61 :
真理システム:2001/05/28(月) 19:20
>>57 参禅者 どの
>生き死にの輪廻の中にこそ涅槃はある
「輪廻」って、どういう意味なのでしょうか?
自分が、死後、誰かに生まれ変わること
自分のその時々の気持ちが、社会の中の誰かに伝わっていくこと
人間が、死後、地獄・畜生界や天界に行き、そこから再び生まれること
人によって、輪廻の意味が違うように使っている気もするのですが、、、
お釈迦様は「輪廻」を単一の意味で説かれたのでしょうか?
62 :
参禅者:2001/05/28(月) 20:01
>58-60
そうですね。私は道元禅師の教えを通じて仏教を見ているから、一種
のバイアスがかかっているかもしれません。道元さんは、はっきりと
悟りを求めるための座禅を否定しています。
「それ修証は一つにあらずと思える、すなわち外道の見なり。仏法には、
修証これ一等なり」(弁道話)
つまり、修(修行)と証(悟り)とは一つで等しいものである。修行して
悟りを得る、と別々に見るのは外道であると言います。
「かるが故に、修行の用心を授くるにも、修のほかに証を待つ思い
なかれと教う」(弁道話)
よって、修行のほかに悟りを期待する思いがあってはいけない、と
言います。
白隠さんも、死んで地獄へ落ちるのが怖くて出家しましたが、彼が
到達した境地とは、本来の自己は火にも焼けず、水にも朽ちず、死し
て地獄にも染まず、輪廻にも左右されないという事実を悟ったのです。
>61
道元禅師は、むしろ死後に霊魂のようなものが残って、輪廻するという
考えを否定しています。
「薪、灰となりぬるのち、さらに薪とならざるごとく、人の死ぬるのち、
さらに生とならず」(現成公案)
ここでは、死んだら終わり、と言っているのではなく、死んだら死んだ
時、生まれ変われば生まれ変わった時、その「時」に打ち込んで生きる
べし、ということだと思います。来世のことを念頭において生きれば、
それは「今」をおろそかにすることになるからでしょう。
道元禅師以外にも、盤珪禅師などは、輪廻を生まれ変わりよりも、心の
状態が変化することを指して、説法などに使っているようです。いずれ
にせよ、「今」にしか興味がない禅においては、輪廻があるかどうかな
ど、空言ということなのでしょうね。
63 :
関心持つ者より:2001/05/28(月) 21:41
>>62 参禅者さんへ
レスを頂きありがとうございました。
>道元さんは、はっきりと
>悟りを求めるための座禅を否定しています。
>修行して悟りを得る、と別々に見るのは外道であると言います。
これは道元禅師のみならず、
大乗仏教(小乗・大乗はあまり使いたくない表現ですが)全般の傾向です。
つまり、結果的に根本教典を小乗として否定し、仏陀の教説に従わないがために
輪廻からの解脱というアプローチをも到底困難で無理なものだと諦め、そして捨てたのです。
まー、私は根本教典以外はダメという考えではないが、
これが小乗として見下した結果の悲劇です。
>道元禅師は、むしろ死後に霊魂のようなものが残って、
>輪廻するという考えを否定しています。
後世の仏教者たちは誤解が生じ、
「無我説」の解釈に失敗したのではないか?という疑いがあります。
仏陀自らが宿命智通を得、ご自分の過去生(その存在)について主張している以上、
当然、魂の転生という現象は肯定していることになります。
仏陀は「異陰」という言葉で魂(とでも云わざるえないもの)を肯定しました。
ストレートに述べていないのは、
これまでのインドの伝統(あらゆるを含む)と同一視されるのを避けたい意図があったようです。
どなたか弁護、また補足できる方の参加を希望!(笑)
64 :
関心持つ者より:2001/05/28(月) 23:15
65 :
関心持つ者より:2001/05/28(月) 23:15
下記参考コピペ
【釈迦は輪廻転生を肯定してる?】より
…………………………………………………………………………
21 名前:釈尊は輪廻転生を肯定している! 投稿日:2001/03/15(木) 07:09
仏教で「輪廻転生」を認めなければ、根本から成り立ちません。
仏教で言う成仏の定義は何かと言うと、「成仏=輪廻転生から解脱する事」ですから、輪廻転生を否定するなら仏教の目的そのものを否定する事になります。
人間が死んだら、すべてが消滅して何も無くなってしまう、とするなら、これは釈尊が説かれた「断見」です。
釈尊の言説に極めて近いとされている根本仏教経典(アーガマ)の中の一つ「仙尼経」においてはっきりと輪廻転生を肯定しておられます。
釈尊は、霊魂という言葉は使っておられません。しかし、「身破れ命終して現世の五蘊が消滅しても、異蘊が生じて相続する。」とはっきりと述べられています。
この中で「異蘊」というのが、人が死んだ後に存在を受け継ぐものであると解釈されています。
…………………………………………………………………………
66 :
関心持つ者より:2001/05/28(月) 23:16
40 名前:釈尊は輪廻転生を肯定している! 投稿日:2001/03/15(木) 21:37
>>37 そう言う37は、S学会の信者では?
それはさておき、釈尊の言説に関して議論するなら、出典を明確にすべきではないでしょうか?
釈尊が輪廻転生について具体的に説法したものが残っています。「雑阿含経」第51巻11がそれです。以下、中村元先生の翻訳から、その一部を示します。
【このように四神足が修練され豊かにされたときに、種種なる過去の生涯を想いおこした。すなわち、1つの生涯、2つの生涯、3つの生涯、4つの生涯、5つの生涯、10の生涯、20の生涯、30の生涯、40の生涯、50の生涯、百の生涯、千の生涯、千百の生涯を、また、幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。
「われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカーストであり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死に方をした。そこで死んでから、かしこに生まれた。」と、このようにかたちや名称とともに種種なる過去の生涯を想いおこしたのである。
―中略―
このように清浄で超人的な天眼をもって、諸緒の生存者が死にまた生まれるのを見た。
すなわち、卑賎なるものと高貴なもの、美しいものと醜いもの、幸福なるものと不幸なもの、そして諸々の生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った。】
以上のように、極めて明快に輪廻転生を肯定しておられます。
…………………………………………………………………………
67 :
真理システム:2001/05/29(火) 09:34
>>63 >仏陀自らが宿命智通を得、ご自分の過去生(その存在)について主張
>している以上、当然、魂の転生という現象は肯定していることになります。
「魂」の定義と「転生」の定義はあいまいでしょうね。
また、輪廻転生を信じていた仏弟子に対し、相対的に主張したのか、
絶対的な教えとして説いたのかという問題もあるし、そもそも、原始
教典では、「特定の見解にとらわれるな」と説かれているわけですし、
文字通り信じるのは、危険な気がします。
そうそう、地震の話が、仏典にのっていましたが、あれは、まさに
方便ですよね。地震の原因を言いきっていましたけど、地震に対する
不安を取り除くための方便であることは、現代では、誰の目にも明らか
です。仏典には、方便が多くでてくるので、教えが、どのように人に
対し、どのような目的で説かれたのかを、把握しないことには、無意味な
気がします。
私は、転生、輪廻はあるとは思うけど、単純な話ではないと感じてます。
68 :
名無しんぼ:2001/05/29(火) 21:21
>>67 >そうそう、地震の話が、仏典にのっていましたが、あれは、まさに
>方便ですよね。地震の原因を言いきっていましたけど、地震に対する
>不安を取り除くための方便であることは、現代では、誰の目にも明らかです
仏典そのものをここに載せた方が、わかり易いと思います。
>誰の目にも明らかです
と言われても、読まないことには判断ができません。
>仏典には、方便が多くでてくるので、教えが、どのように人に対し、
>どのような目的で説かれたのかを、把握しないことには、無意味な気がします。
方便と思う・思わないは、人により、違います。
極端な例では、「阿含経そのものが方便であり、物の道理が解からぬ人々に教えるための、卑近な教えである。だから阿含経なんて価値の低いお経は、読むに値しない。」と堂々と語る僧侶・信者もいます。(1さんが
>>24-25で説明された、「五時教判」を信ずる人たちのことです)
ですので、なるべく仏典を載せて話をされた方が、良いと思います。
69 :
真理システム:2001/05/29(火) 22:46
>なるべく仏典を載せて話をされた方が、良いと思います。
文章そのまま載せると、著作権などの問題が起こるのかどうか良く分から
ないので、丸ごと何ページ分載せるのは、ちょっと不安ですが、地震の話に
ついては、岩波文庫「ブッダ最後の旅」72ページ〔大地震に関連して〕に
載っています。
アーナンダが「いったい大きな地震が起る原因は何なのでしょうか?」
と質問し、尊師は、「…まことに大きな風が吹くとき、大きな風が吹いて
水を動揺させるとき、動かされた水は地を動揺させる。これが大きな地震
が起るための第一の原因、第一の条件である。…」八つの原因、条件が
説かれています。方便でしょうが、受けとめ方によっては意味があると
思います。
70 :
1:2001/05/30(水) 00:13
>>56 電波男Ψ(´д`)Ψさん
私のことでしょうか?
もし私のレス中に、不愉快な個所があったなら、
申し訳ありません。
71 :
関心持つ者より:2001/05/30(水) 01:32
>>56 電波男Ψ(´д`)Ψさんへ
すみませんが、もう少し教えて下さい!
>阿含経典に大乘も小乘も関係ありません。
これは全くその通りです。
>唯識派や中観派の書物の中に
>数多く引用され権威付けられています。
もう少し云うと、これはどのような意味、或いは扱いとして権威的な扱いを受けていますか?
まー、学術的な教典の位置づけとしては、
直説教典か、又は少なくとも「根本(原初)教典」としては認められていますけど。
にも関わらず、
>大乗仏教でも阿含経典を否定すれば
>仏教ではなくなると言うのが常識です。
ということは必ずしも云えないのであり、
小乗教典として、方便として、
或いは最もレベルの低い教えとして扱っている仏教者(やグループ)が事実存在します。
たぶんに
>>68で述べられているように 、
教相判釈「五時教判(五時八教)」の影響を今だに受けているからでしょう。
何経を信奉しようと構わないけれども、
もう通用しない昔の過ちについて正しく教えることなく
今だに信徒たちに植え付けているのは勘弁願いたいですよね。
72 :
名無しさん@1周年:2001/05/30(水) 11:30
age
73 :
名無しさん@1周年:2001/05/30(水) 21:32
age
74 :
名無しさん@1周年:2001/05/30(水) 22:23
age
75 :
電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/05/30(水) 22:32
76 :
電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/05/30(水) 23:03
>>71 >もう少し云うと、これはどのような意味、或いは扱いとして権威的な扱いを受けていますか?
権威的というのは論書が撰述された当時、釈尊の言葉に従って理論を展開していると言う意味で経典を引用するのです。このことを教証(アーガマ)と言い、阿含経典、大乘経典の区別なく行われました。
>まー、学術的な教典の位置づけとしては、直説教典か、又は少なくとも「根本(原初)教典」としては認められていますけど。
釈尊直説の経典など存在しません。すべて後世に撰述され、増広付加されたものばかりなのです。阿含、ニカーヤのなかには大乗経典からの逆輸入も多く散見され、経典成立史的には比較的新しいものばかりで現存する写本も年代は新しいのです。
またパーリ仏典などは現存する経典で一番新しいものに分類されます。その理由はスリランカに上座部仏教が伝わった後、大乗仏教が輸入され、当時の為政者により、上座部仏教が一旦駆逐されて、その後再構築されたからなのです。経典も再構築され、古い形跡は一切残っておりません。ただ、思想的に原型を留めようとした意図が見受けられるだけです。
この歴史的事実を知らない仏教学者が非常に多く、原始仏教専門の人でさえ押さえきれていないのです。例えば種智院大学の馬鹿助教授は音韻論とかに夢中になり、歴史学、文献学の基礎を忘れ去っております。いや、知らないのかもしれない。
77 :
電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/05/30(水) 23:03
>>大乗仏教でも阿含経典を否定すれば
>>仏教ではなくなると言うのが常識です。
>ということは必ずしも云えないのであり、小乗教典として、方便として、或いは最もレベルの低い教えとして扱っている仏教者(やグループ)が事実存在します。
中国からの伝統で
阿含経典 → 小乘仏教所依の経典、大乗経典とは別物
という間違った固定観念が植え付けられ、現在にいたっております。三法印を基本とする仏教教義を大乗経典であっても超えていないのです。
瑜伽行唯識派では阿含経典、大乗経典ともに「経蔵」として大切にされているのです。瑜伽師地論で引用されている90%以上の経典は阿含経典です。無著や世親の著作でも半分以上が阿含経典です。
>たぶんに
>>68で述べられているように 、
>教相判釈「五時教判(五時八教)」の影響を今だに受けているからでしょう。
吉蔵に始まる仏教差別区分は天台の「五時八教」という経典差別へと変貌しました。法華経を優位づけるためのこの差別は思想の放棄に始まり、仏教を完全否定するという過ちを犯しています。
>何経を信奉しようと構わないけれども、
>もう通用しない昔の過ちについて正しく教えることなく
>今だに信徒たちに植え付けているのは勘弁願いたいですよね。
なにかの経典を信奉して他を顧みないというのはドグマである以前に盲信です。
78 :
名無しさん@1周年:2001/05/30(水) 23:19
>>76 それはお釈迦さんが当時、何を語られたのか、を阿含経典の中に求めることはできないということですか?
79 :
電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/05/30(水) 23:36
求めることが出来ても、それは類推でしかありません。
釈尊が大乗仏教を語ったかもしれないと言うぐらいの確立になる可能性も
あります。
それぐらい、阿含経典群も後世の付加増広が激しいのです。それはさっき
申し上げたように、大乘の阿含経への逆輸入と言う現象も思想的にあるの
です。阿含経典であるからより釈尊に近いと言う基準はもう崩れているの
です。
明らかに釈尊を神格化したような大乘仏典は現在のところ論外ですが、対
在家用の「おとぎ話」と考えられる面もあるのです。
80 :
78:2001/05/31(木) 00:12
>>79 では現在私たちは、お釈迦さんの示された道を探すことはできない、
歩むことはできない、ということですね。
なんか、とっても悲しい気持ちになりました。
81 :
名無しさん@1周年:2001/05/31(木) 00:45
>>76-77,
>>79 そのことは、仏教学者の本で確認できますか?
姉崎正治氏、宇井伯寿氏、水野弘元氏、増谷文雄氏、
中村 元氏、三枝充悳氏、前田恵学氏、 等々で。
82 :
関心持つ者より :2001/05/31(木) 01:01
>>76-77-79:電波男Ψ(´д`)Ψ さんへ
おおっ、凄いレスがついている。
大変、詳しい説明ありがとうございました。
しかし、ショッキングな印象も受けたし、
簡単には理解できません。難しいし・・・
私も中村 元氏や増谷文雄氏による解説書や翻訳教典を手にしてきているのですが、
それらは、源泉に近い仏陀の教えを求めて
より厳選されたものを提供していたのではなかったのですか??
繰り返しに成りますが、さらに優しく解説を希望!
いやー、
>>80さん同様、
ガックリきます。
83 :
電波が聞こえるわい:2001/05/31(木) 07:57
電波男Ψ(´д`)Ψ さんのレスでほぼつきますが・・・もう一言まとめて言えば。
1)部派が伝えた経典≒阿含經典には<歴史上の人物としての釈尊>の言葉
の痕跡が残されている可能性がある(まぁ、確実でしょう)。
2)しかし、現存の阿含の諸テキストのどの部分がその痕跡であるかを確か
めることは学問的には不可能(確か和辻哲郎)。
3)よって、阿含経典を歴史上の人物としての釈尊の教えとみなすことはで
きない。
ということになるわけですね。
初期仏教や部派仏教の研究者はどうしても2)の部分を過小評価したり、2)
から3)へ論理が進まないようで、その結果、「(阿含絶対)、大乗捏造」
のようなことをおっしゃることが多いようです。
>>82 さん、
増谷先生の場合、<ブッダとしての釈尊>ではなく<人間釈迦>へのあこが
れが基底にありますね。また、中村先生の研究のスタンスにもそういう面が
あって、<神秘的><非常識>な記述は後代の付加であるとみなして取り除
くという方法をおとりになっています(岩波文庫『ブッダ最期の旅』の解説)。
ただ、阿含經典に限らず、どんな仏典でも、それを伝えてきたのは釈尊を師
とかブッダとして仰ぐ人々が伝承してきたものであり、それ以上でもそれ以
下でもないのですから、中村先生が排除する部分にも古層として承認する部
分にも必ず伝承者の意図が反映されているはずです。
どんな仏典であれ、その伝承者(あるいは編纂者)の意図を意識しないで読
むなら、そこから<歴史的事実>をつかみ出すことすら不可能になることで
しょう。
84 :
電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/05/31(木) 09:19
>>80-82
私の仏教研究は部派仏教からはじまり、現在も部派と大乘を研究しています。両者の間に大きな隔たりは見出せません。むしろ中国以来の大小区別に大きな違和感を感じます。小乘についてのですが
● 部派仏教のスタンスを小乘と称したのではない
→ 部派に属する一部の頑固な姿勢を揶揄して小乘と称した
これは大乗経典に共通した記述です。
● 小乘に対する大乘ではなく、大乘に対する小乘
→ 部派の中で大乘的な傾向がある
様々な指摘がありますが、私の研究から少し説明いたします。
経量部世親の『釈軌論』(翻訳は無し、チベット語訳のみ)に
1 私は経量部のある一派である
2 大乗経典が釈尊在世より伝授されていたが、多くは散逸してしまった
3 大乘非仏説論が横行しているが、それには根拠が無い
とあります。このように経量部が小乘でないと言う根拠がすでに提示されており、さらに経量部世親の『成業論』では阿羅耶識を説いています。末那識を説いていないので教説としては未発達だとする馬鹿学者もいますがそんなものそれ以前の瑜伽師地論に嫌というほどでてきます。また「阿羅漢には末那識が無い」と言う定義が瑜伽師地論にあるので阿羅漢を対象とする『成業論』では敢えて説明する必要が無かったのです。
さて、釈尊に近づく方法ですが、阿含経典、大乗経典に述べられている共通項を探れば一番近いところに到達するはずです。共通項の第一とは【三法印】でしょう。これを外しているものは釈尊の教えに敵対しています。文献学的な精度を求めるのも好いですが、三法印を機軸としてこちらから経典に向かい合うというのも仏教徒が釈尊に近づく方法ではないでしょうか。
今回、私の言ったことの大筋は渡辺照宏の『新釈尊伝』にあります。
>>83さんもきっと共鳴するでしょう。というか読んでおられるのですね。
85 :
ぶりかえすようですが、:2001/05/31(木) 20:22
ひらたく言えば、道元さんは阿含経よりも
天台本覚思想の影響下にある。
86 :
:2001/06/02(土) 23:41
87 :
:2001/06/04(月) 15:57
88 :
¥:2001/06/07(木) 01:51
「三法印」とは一体なんですか。
89 :
名無しさん:2001/06/07(木) 16:44
で、原始教典の話はどうなったの? 終わったの?
90 :
名無しさん@1周年:2001/06/20(水) 23:47
age
91 :
名無しさん:2001/06/20(水) 23:53
でも、三法印の解釈も多種多様だからなぁ。
92 :
????:2001/06/28(木) 23:28
77さんの
>瑜伽行唯識派では阿含経典、大乗経典ともに「経蔵」として大切にされているのです。
瑜伽師地論で引用されている90%以上の経典は阿含経典です。無著や世親の著作でも半分以上が阿含経典です。
ほんとですか?!認識を改めました。
無着・世親も重視していたんですね。
93 :
名無しさん@1周年:2001/06/28(木) 23:32
さいあく
aiu
a
sage
97 :
名無しさん@1周年:2001/07/08(日) 14:31
age
a