なんで人を殺しちゃいけないの?in宗教板

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1名無しさん@1周年
まじめにかけよ
2連休一発。:2001/05/03(木) 09:46
それは、自分自身にとって不都合だからですよ。
まず、殺しに行ったはいいけど、包丁取り上げられて、殺されるかも知れない。
「殺した」は、いいけど警察に捕まるかも知れない。捕まらないかも知れない
けど、隠し通すことも大変骨が折れる。

殺すためには、一番いいのが、いったん殺したい奴と仲良くなって、解らない
ように毒殺することです。警察は動機筋から捜査をするので、動機をまず消す
のが大事。それから、アリバイも大事。証拠隠滅も大事。
3名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 09:50
>>2
捕まらなくても自分の罪の意識に苛まれるだろう
4satoukimiyo:2001/05/03(木) 10:59
なぜ、人を殺してはいけないか。
まずやられる方は、痛い、苦しい、怖いという恐怖感に襲われるで
あろう。誰でも殺されたいとはおもわないでしょう。平気で人を
殺してしまうということは、自分も同じめにあうし必ず何らかの
かたちで自分にかえるというみかたがあるでしょう。
生命の法則でしょう。・・・
5ふろ:2001/05/03(木) 11:28
生物はそもそも繁殖を行うことで種の存続を行ってきたわけで
同種の生物を殺すと言うことは、種の存続に多少なりとも悪影響を及ぼすからではないのだろうか。
6名無しさん@1周年 :2001/05/03(木) 11:35
人を殺すことを認めるということは
自分も殺されることを受け入れなくてはならないということ。
その先にあるのは、人類滅亡でしかない。
7マジメさん@1周年:2001/05/03(木) 13:04
「何故人を殺してはイケナイか?」俺自身に問いかけても、
「金積まれたって殺しなんてしたくないよ。」と思うばかり。
「殺す」なんて言うことは、他人事だけど「殺される」って
ことは、無きにしもあらずってことで、これは他人事じゃない。
だから、
「殺しちゃイケナイ」は、人に言う言葉だよね。
82です。連休一発。:2001/05/03(木) 13:09
殺すと罪の意識に苛まれ>>3
そう、そう、それも大きい。
殺したいヤツはいっぱい居るけど、殺すと損だからやらない。
それと
ホンネ言うと殺りたくないしね。
9正しい信仰:2001/05/03(木) 13:28
本当に人間はどう考えたいのか、どう行動したいのか、正しい信仰を持てば解ってくる。
創価学会こそがゆがんだ社会、人間性を正してくれます。
10これはどんな質問なの?1:2001/05/03(木) 14:38
前にスレがあったのまとめがあるよ。

1.幼稚なレスは期待していない質問  2.即座に終了(終了モナー)と思う質問 
3.「自分で考えろ」という質問  4.問うことが自体が幼稚すぎる質問  5.議論
して勝とうと思うのなら、本当に幼稚な質問  6.どんな答えを出しても納得されない
質問  7.宗教家の「倫理」に対する考え方を知るための質問  8.「幼稚」だと思
うなら、答えられる質問  9.簡単には答えられない質問  10.「知ってどうするの」
と聞きたくなる質問  11.言葉で答えようとするとすごくグチャグチャして、自分のな
かには答えがあるはずなのに、だんだん自信がなくなり、わからなくなってくる不思議な
質問  12.質問と回答に「陳腐」と感じる質問  13.「誰を殺したいのか」と疑って
しまう質問  14.自殺についての取り扱いに困る質問  15.「生命を奪う行為」とい
う広い概念を含む質問  16.「死生」を形而上学的に扱うことに不愉快になる質問 
17.「下らない事ばかり言っている」とWMに救霊を勧められる質問  18.理詰めでい
けば宗教家が追い詰められてしまう質問  19.質問者の意見は控えて、宗教家の方同士
で議論する方が生産的な質問  20.無宗教の人が自分で考えた答えは弱すぎる質問 
21.無宗教の人が、「宗教家はこういう質問に強い」と思う質問  22.人に問うばかり
ではなく、自らが問わなくてはいけない質問  23.「自分がわかっている問いを、なぜ
人に問うのか」と質問したくなる質問  24.安楽死や臓器移植など、牧師が宗教家とし
てまともにコメントできない質問  25.「人を殺してもいい」と仮定すれば、反対に答え
られるような気になる質問  26.宗教家にとって絶好のテーマだと思う質問  27.宗
教家の答えには、唯物主義者の煽りが来ると想定される質問  28.旧約聖書に矛盾点の
ある質問  29.「道徳とは何か。なぜ、守らなければならないのか」という問題に帰着
する質問  30.「人間を殺したい」と思った中学3年生が、「人を殺せば罪になるとい
う法律の正しさは疑わしい」と思ってしまう日本の社会でなされている質問 

11これはどんな質問なの?:2001/05/03(木) 14:40
31.「人を殺してはいけないというのは当たり前のこと」という前提でしか成り立たない
質問  32.いたずらに人を狭窄させる質問  33.常識を疑い始め、頭を使うようになっ
た人みんなが口にする質問  34.日本で近代化が終焉したサインとして問われている質
問  35.日常でフッと思う質問  36.「良心」という概念がキーワードとなる質問 
37.安易な倫理を超えてみたくなる質問  38.一種の文明病に対応する質問  39.質
問者に破壊衝動が見られる質問  40.答えを持つことが、現代の日本に生まれた者とし
ての矜持となる質問  41.神への挑戦、あるいは神への反逆となる質問  42.宗教家、
無宗教の人を問わず、人の生理に反した苦痛な質問  43.答えようとすれば、『鬼神に
横道なし』という態度になる質問  44.思想統制の問題を孕む質問  45.「殺せ」も
「殺すな」も言いたくない質問  46.現実を前にすると、うまくいかない答えになる質
問  47.答えを求めることに時間を使うのは無駄な質問  48.同種の事件を起こす予
備軍のために答える必要のある質問  49.お馬鹿な質問(ミニモナー)  50.共同体
の崩壊に伴い、共感的意識が成立しなくなった社会で問われる質問  51.唯物論的に善
悪を詰めていくと、相対的な善悪にしか到達できない質問  52.「人間としての(絶対
的な)善悪」が必要な質問  53.究極的に問題の核心を突くことができる唯物論的な考
え方ではなく、宗教を含めた精神文化である質問  54.「日本のラスコーリニコフ」に
理解できる答えでなければならない質問  55.「合理的こじつけ」の域を出ない質問 
56.「英雄願望」「社会正義」に繋がる質問  57.自分の答えが自分に不都合だから「間
違っている」と否定してくれる他人(父性)を求めている質問  58.自分自身への弁解
のための質問  59.生活していると、自分の答えに不安になるので「そのままでいい」と
受け容れてくれる誰か(母性)を求めた質問  60.自分の存在理由のための、死生を分か
つ質問 
12これはどんな質問なの?3:2001/05/03(木) 14:41
61.答えを出そうと頭を痛めることが、トホホとなる質問  62.生活するシーンと、理
解するシーンでは、答え方の異なる質問  63.質問者に神経症をもたらさないように、
「絶対にダメ」と答える質問  64.『脳化社会』が決定的なった『知化社会』での質問 
65.問い自体ナンセンスな質問  66.誤った解釈の個人主義が蔓延した社会で問われる
質問  67.日本人のアイデンティティーに関わる質問  68.考えるだけで神経症的循
環を伴う質問  69.近代合理主義により神威が否定された社会での質問  70.自我が
完成しつつあり、個人主義的な市民社会が形成されつつある社会での質問  71.文明論
的な進歩主義が妥当性を失った社会での質問  72.ネクロフィリアからバイオフィリア
への転換が難しくなった社会での質問  73.日本経済構造がインフレ経済から、デフレ
経済へ転換しつつあることに伴う質問  74.『庇護社会』の崩壊に伴う質問  75.『個』
の内発的感覚に翻訳文化ではズレが生じる一方で、『個』に対応した日本語がない社会で
の質問  76.「死生」、「命」の価値そのもの問われる質問  77.人生での成功のイ
メー ジが希薄となった社会での質問  78.ボーダーレス化、高度情報化により、人間の
『存在』、『生きる意味』が曖昧になった社会での質問  79.新たな共同体の意義が見
直されている時期に問われる質問  80.安楽死、尊厳死の是非が問われる社会での質問 
81.「心の問題」が大切にされ過ぎ、被害者意識が蔓延している社会での質問  82.神
戸少年連続殺傷事件で終結した「社会的な躁病」を見せ付けられた少年から生じた質問 
83.人に聞く問題じゃない質問  84.「人生・人間とは何か」と大いに悩んだ人が興味
を持つ質問  85.悪霊が跳梁跋扈している世界、現代で生じた質問  86.「人生・人
間とは何か」という話に嫌悪し、終結させようと答えを求める質問  87.多重人格的な
言動が増得ている社会での質問  88.過保護、過少保護、虐待を原因とするサディズム
が蔓延する社会での質問  89.性的未分化への誘因があり、人が性的な完成を遂げるこ
とに障害のある社会での質問  90.いかに「普通」であり続けるのかが思索対象である
社会での質問
13これはどんな質問なの?4:2001/05/03(木) 14:42
91.家族崩壊に伴い、一人で生きる人間が「ホーム(home)」を必要とする社会での質問 
92.神道的な考え方、「家」の制度が、無内容に「時代錯誤」と酷評される社会での質問 
93.知的な無宗教の人が、謝罪もできない傾向にある社会での質問  94.カルト、自己
啓発セミナー、勝手な神の創出にハマる無宗教の人が多数存在する社会での質問 
95.「愛情万能主義」・「愛情至上主義」社会での質問  96.愛情に飢えた人々が生活
する社会での質問  97.「神の意志」という共通認識を守り続けなければならない社会
での質問  98.「魂の救済」というエゴが昇華した社会での質問  99.「私は誰のた
めに何が出来るのか」という意識が欠落した社会での質問  100.極東軍事裁判により、
自国の手で、自国を裁く機会が失われたまま、戦後50年余りを経たわが国での質問 
101.「なぜ」という次元の答えが、文化的な認識として用意されていない社会での質問 
102.鈴木方漸さんが得意な質問  103.「所詮、哲学や心理学なんぞでは答えは出ない」
と思う質問  104.哲学や心理学など合理的なものの考え方しか通用しない質問 
105.行為の意味を重視してケース・バイ・ケースで考えるのが良い質問  106.昨今の
異常殺人事件の多発を経験した我々が抱える質問  107.「愛」、「心」、「魂」など
の心の問題からではなく、「言語的能力」からの答えしか通用しない質問  108.グローハ
゙ル・スタンダードに巻きこまれている日本の社会から生じた質問  109.最低な質問 
110.こんな問いかけをする子供や、大人がいることが情けない質問  111.大人が答え
られないのが、悲惨な質問  112.神や仏を信じずとも納得できる答えが、公の場にある
ことが大切な質問  113.前置きなんか置かずに、一言で答えて欲しい質問  114.宗
教以前の問題である質問  115.「生きる意味」と背反関係にある質問  116.大地性
を求めた質問  117.ナルチシズム・サディズム・母固着、ネクロフィリアを回避するた
めの質問  118.シビル・コントロールが実現したことがない社会での質問  119.壺
に来るような人間には氏んでもわからん質問  120.高尚な(?)時間つぶしにしかなら
ない質問  
14これはどんな質問なの?5:2001/05/03(木) 14:44
121.合理的に判断すれば、「殺す」という結論にはならないように、マテリアルを提示
するための質問  122.「本来なら、この問いかけのような疑問など起きるはずもない」
と思う質問  123.文字を濫用しても答えには到達せず、答えの回りを堂々巡りするが、
不思議なことに堂々巡りしている内にもわかる人が出てくる。わからない人はいつまでも
わからない。そんな質問  124.殺しても良いとする議論は、世の中に山ほどある質問 
125.「絶対に殺してはダメ」「人を殺してはいけないなんて当たり前のこと」を前提に
しての誇りある見解、内容が非常に少ない質問  126.「解答」はなく、「回答」があ
るだけの質問  127.「回答の中に、何を感じることができるのか。」また、「何かを
感じ取れるだけの回答が、どれだけ用意されているのか。」そういう質問  128.犯罪
者になりうる萌芽である少年時代の教育に話が及ぶ質問  129.「親」や、「家族」に
も触れざるを得ない質問  130.全ての事を人任せにしようとする怠惰な心の持ち主か
らの質問  131.「他から答えを与えてもらおう」と思うのがおかしい質問  132.子
供の事を考えず自分が気に入らないという理由で怒るような大人が多い社会での質問 
133.難題である質問  134.難題でも何でもない質問  135.言葉にならないけど、
自分の「心」に既に答えをもっている人間がほとんどの質問  136.他人の「心」に自
分と同じ答えがあるとは信用できない質問  137.本来なら、答えは、大人から子供へ
伝えられていくべきで、「他者から与えてもらえる」と考えるのが、子供にとっては当
たり前の質問  138.大人で、相手の立場に立って物事を考えられる人が少なくなって
きている社会の質問  139.「身体性」が失われた社会での質問  140.社会経済状
況が激変している社会での質問  141.健康の定義が、「肉体的、精神的、社会的、霊
的(スピリチュアル)に健全な状態」と改められようとしている社会での質問 
142.集団について確率的な答えになる質問  143.「社会的な場での殺人の位置付け
や善悪」と、「人間(または動物としての人間)一人の内部の問題としての位置付け」
に区別して、論じる方が良い質問  
15これはどんな質問なの?6:2001/05/03(木) 14:45
144.「日本の民族」と他民族のように認識されている「日本民族」での質問 
145.「良心」が不明確な社会での質問 146.個性尊重教育が行なわれてきた社会での
質問  147.「個」の存在に対応するのは、「日本民族」意識であるという認識自体が、
一般的ではなく、気づくのに相当の労力を要する社会での質問  148.異民族との接触
が希薄であった社会での質問  149.「超自我」が形成され難い社会での質問 
150〜.あなたはどう思うのでしょうか? 貴方の意見です。
16 :2001/05/03(木) 15:04
>>10-15 あなたのしていることは迷惑でしかありません。
17じゃあ殺せばいいじゃん:2001/05/03(木) 15:16
1.「人を殺してはいけない」なんて決まりはどこにもないんだよ  2.神様は人を殺
してもいいように創った  3.「日蓮宗」は異教徒を殺すことは認めている? 
4.「キリスト教」は、旧約では殺人を肯定し、新約では異教徒のみを肯定?  5.「阿
含宗」は殺人を肯定?  6.基本的な「人間性」が失われると「不義」(殺人)を生み出
しやすいということかも…  7.「殺すのはいけない」なんて「道徳」は所属している社
会・集団が変われば変わるのだ  8.後で後悔するような殺人はするな  9.人(被害
者、傍観者)は人(殺人者)を殺すのに理由をもたない  10.オウム真理教と阿含宗では
ポアは罪ではないので、人を殺しても「慈悲の行為」として誉められる?  11.人が人を
殺して楽しむなんて、当たり前のことだよ  12.人殺しは、別にダメじゃないでしょう 
13.日本語は、人を殺してはいけない理由に、意味ある言葉を用意できない。最悪 
14.何(殺人)をしたら悪いかということは、全ての行為について断言することはできませ
ん  15.私は「人を殺してはいけない」という考えは持ってません  16.殺人は、ケー
ス・バイ・ケース  17.「どんな場合にでも、絶対人を殺してはいけない」とは思って
はいないということ。死刑と安楽死の問題がある  18.TPOに応じた愚かな判断しか
できないが故に、殺人も、戦争も起きる  19.安楽死など、「愛の有無」によって殺す
かどうかも考えればよい  20.殺人が起るのは、「神の意思」だからだ。殺人者はその
「代行」をしているにすぎない  21.「家族」が殺されたら法律でどうのこうの言うよ
り私はそいつ殺るよ  22.現実に、人は人を殺すことが可能である、そこは「人を殺す
自由」も付与されている  23.社会学者の宮台真司氏は、人間にかかる二つの指令を、
「仲間は殺すな」 「仲間のために敵を殺せ」と表している  24.人間は「敵(人間)を
殺すとき 快楽を生じる」ように、遺伝子的にプログラムされている 
18じゃあ殺せばいじゃん:2001/05/03(木) 15:17
25.「人を殺してもよい」と思う(アカ、右翼、ヤクザ、国家権力は殺人している)
26.「人を殺したらダメ」と当然の前提のように考えるのは、頭が固い  27.法律上は、
「殺した場合の罰則があるが、それ覚悟の上でなら殺しても良い」ということになってし
まう  28.「殺される人が、痛いからです。殺されてみますか?普通の人間」「私は全
然痛くありません。殺してあげましょうか?ゴルゴ14」  29.「ならば、殺せば?」
事実が大事よ! ならば、別に制限ないし、機会があったら殺しちゃおう」と常に思って
れば?その方が思考的に楽なんじゃないの  30.「絶対に殺してはダメ」「人を殺して
はいけないなんて当たり前のことだ」を前提にしての誇りある見解、内容が非常に少ない 
31. ボサ〜としてる庶民は殺せても、強い奴は殺せまい  32.殺したかったら殺しなさ
い。でも、君が殺されても文句言わないでね。あ、死人に口なしだから、どっちにしろ無
理か  33.日本人における「良心」は、「なぜ人を殺してはダメなのか?」が問われる
程度に、不明確となっている  34.戦争中は、人を殺すと誉められるよ! 時と場合に
よっては殺人は善行です  35〜.「人を殺しても仕方がない場合がある」と思う貴方の
答えです 
19名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 15:21
>>16

迷惑でしかない。
殺される側は、いつもそうだろうね。
そして、いつも殺人は起こる…

迷惑でしかない、そんな言い草をしていれば、
人が迷惑なことをしないようになると信じている惨めさが、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問わせているんじゃないの?


20名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 16:25
また、始まったね。。
この手のスレは電波に注意!!無視するに限る!!

>>2 連休一発。
完全犯罪できるような奴が、昨今の短絡的な殺人を犯すはずないだろ?
ぬいぐるみの帽子かぶって、女子大生を通り魔的に殺すんだぞ!

>>3
罪の意識って、何よ?
誰でも持っているのかよ?

21名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 16:26
>>4 satoukimiyo
俺は人を殺しても、自分は全然痛くないぞ!
「自分に帰ってくる」っていうの、妄想か、脅しじゃないの?

>>5 ふろ
そして、人どうしの殺人は起こるんだよね。遺伝子論の限界ない?

22名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 16:27
>>6
俺は、殺人を認めても、人類滅亡には繋がらないと思うぞ!どうよ?

>>7 マジメさん@1周年
本当に「こいつ殺したろか?」って、思ったことないか?俺はあるぞ?
おかしいか?

>>8 2です。連休一発。
なら、得するときは、殺してもいいのか?

>>9 正しい信仰
逝ってよしだな。
23名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 16:33
なんで人をころしてはいけないのか?

俺は、結局、
「良心」と「社会的制裁」だけの問題
だと思う。
<浄土通信 : http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
<太字IPをアボーンしよう。 渡海 難の偽物が横行するので試験的に排除の標記します。見苦しい点を勘弁してください>

 なんで人を殺しちゃいけないの?。非常に面白い問いかけと思いますので、しばらく議論に参加します。
 なんで人を殺しちゃいけないの?こういう場合、そういう主張をしている根拠から考えていくのが順序でしょう。真っ先に気がつくのは刑法でしょう。刑法はどう言っているか。
 「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス(199条)」
 よく読むと、殺してはいけないという言葉はありません。人を殺した者は、国家の名で弾劾するということでしょう。刑法は、殺人が善か悪かそんなことは言っていない。悪いということは議論するまでもないというスタンスだ。
 その刑法も、次のように言う。殺しちゃいけないというのも、絶対的な規準じゃない。
「急迫不正ノ侵害ニ対シ自己又ハ他人ノ権利ヲ防衛スル為メ已ムコトヲ得サルニ出タル行為ハコレヲ罰セス(36条)」
「自己又ハ他人ノ生命、身体、自由若クハ財産ニ対スル現在ノ危難ヲ避クル為メ已ムコトヲ得サルニ出タル行為ハ其行為ヨリ生シタル害其避ケントシタル害ノ程度ヲ超エザル場合ニ限リ之ヲ罰セス但其程度ヲ超エタル行為ハ情状ニ因リ其刑ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得(37条)
「罪ヲ犯ス意ナキ行為ハ之ヲ罰セス(38条)」

 刑法のこうした規定の淵源は人権思想にあるものでしょう。例えば具体的には憲法十三条は次のように言います。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政上で、最大の尊重を必要とする」
 憲法前文はつぎのように言います。
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
 殺人は、平和のうちに生存する権利を脅かす典型的な例でしょう。
 渡海 難は、議論を今後も更に進めてみたいと希望しています。
25名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 18:20
>>24 そうだ浄土通信を見よう wrote渡海 難 (はあ、めんどくさ。。)

人権思想というが、人権とは何ぞや?
法律が定めているから、人権はあるのか?
法律がなければ、人権はないのか?
法的議論は、陳腐だぞ。。

それよりも、浄土系の人なら問いたい。
親鸞なら、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに、
いかにっ答えることが予想できるか?
あんたの憶測でいいから、教えてもらいたいな。。

><太字IPをアボーンしよう。 渡海 難の偽物が横行するので試験的に排除の標記します。
>見苦しい点を勘弁してください>
見苦しいどころか、煽りたくなるぞ。。
以後、謹んで欲しいな。。


26名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 18:38
>渡海難

なぜ人を殺してはいけないのか?
貴方が自分の子どもに聞かれたら、どう答えるの?
27名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 19:09

     ∧_∧____
    /(*゚ー゚) ./\
  /| ̄∪∪ ̄|\/        korosanaidene itaino iya …
    |____|/
     ,,,,∪∪,,,,,
<浄土通信 : http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/

>はあ、めんどくさ。。
     <苦笑>。 僕の称呼は「渡海 難」で十分ですよ。

>人権思想というが、人権とは何ぞや?

 まあ、結論は急ぎなさんな(笑)。簡単な問題じゃない。深い問題だ。
 ここで人権とは何ぞやと言う質問をまともに受けると、幹になる議論が不明確になる。

>法律が定めているから、人権はあるのか?
  人権があるから法律が定めた。人権は法律に先行する。

>法的議論は、陳腐だぞ。
  貴方には陳腐でも、避けることのできない道の一つだ。
  もともとこういう議論は陳腐な部分がある。人類発生以来のテーマだからね。古くて新しいのさ。

>親鸞なら、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに、いかにっ答えることが予想できるか? んたの憶測でいいから、教えてもらいたいな。

 人を殺してはいけないとは言わないでしょう。親鸞は、善悪の二つ総じてもて存知せずというスタンスですよ。この問題は、鑑真から釈迦までたどらないとならんと思う。だからしんどいのよ。ところが、現代の日本の社会でいきなり釈迦を持ち出しても話が噛み合わない。明治以降、日本の倫理規範は西洋から輸入した。キリスト教思想に触れ、キリスト教思想と対比的に議論していく必要がある。
<浄土通信 : http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/

 僕は、自分にとって始めての試論を展開してみようと思っている。整合性ある議論をできるか、途中で立ち往生するか、内心はビクビクさ。行き詰まれば、煽り騙りの中で、物笑いの種になるだろう(笑)。
 もともとこういう議論は、結論は大きな問題じゃない。殺人は悪だという結論になろうが、善だという結論になろうが、不明だという結論になろうが、それ以外でも大きな問題じゃない。大事なのは思考プロセスだ。自分はどう考えるかというところが大事なんだろう。
 僕も親鸞を尊敬する一人だ。だから「善悪の二つ総じてもて存知せず」という結論は大事にしたい。だけど、僕が同じことを言っても、多分、中身は月とスッポンだろう。「存知せず」の中身は全く違うだろう。親鸞が言う「善悪の二つ総じてもて存知せず」というところにどこまで肉薄できるかということも、自分としては大きな関心だけど、それ以上に、僕は親鸞に束縛されずに自分独自の議論を立てたい。親鸞と競争しても勝負は分かっているからね。僕は、負ける相手と競争はしないのよ(笑)。

>見苦しいどころか、煽りたくなるぞ。

 まあ、勘弁せいや。不愉快なら渡海 難の名を騙る不埒者に文句を言ってくれ。2茶が不埒者の存在を許容する限り、止むをえんだろう。あなたも、不埒者の存在を許容する掲示板で自分も発言しているということを忘れんで欲しい。他人のコテハンを騙る不埒な記載を削除してくれるようになればこんな馬鹿な標記はしないよ。それでも貴方が煽りたいというなら、貴方も騙りの仲間だろうと僕は考える。煽ってくれて結構だ。僕も2茶の枠の中で議論してるんだからネ。
 煽る人がいるならそれも結構だろう。僕にとって人殺しの問題はまだ結論に達していない。煽られなくても、勝手に自己矛盾を来して行き詰まるかもしれない。僕はここで自分のオリジナルの思想を表白する。大風呂敷は穴だらけだ。さまざまな煽り議論が錯綜する中で穴だらけの大風呂敷を慌てて取り繕いながら、大きな問題を思索できれば、失敗しても嬉しい限りさ。
<浄土通信 : http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/

>貴方が自分の子どもに聞かれたら、どう答えるの?
    難しい問題だね。
 こういう問いかけのときは、子供も相当追いつめられているときだろうと思う。そのときは、子供が殺したくないと言っても、「殺してこい」ということもあるかも知れないね。
 大事なのは、殺すことは善か悪かということじゃないと思う。殺し合わないで一緒に生きていける道(共生の道)をできるだけ探ろうという提案をしたいと思う。
31名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 22:37
>親鸞は、善悪の二つ総じてもて存知せずというスタンス
>鑑真から釈迦までたどらないとならんと思う。
>キリスト教思想と対比的に議論していく

これらの点から、どうやって答えをだすか?期待してるよ。

>こういう問いかけのときは、子供も相当追いつめられているときだろうと思う。

どういう追い詰められ方をしている子どもをイメージして、論じていくのかに興味があり。
軽く説明してもらえたら嬉しいな。。

>殺し合わないで一緒に生きていける道(共生の道)をできるだけ探ろうという
>提案をしたい

そのために必要なのが、「なぜ人を殺してはいけないのか?」の普遍性を持ち得
る答えなんだろうな。
単なる温故知新じゃなく、今の社会でも充分に理解されるものであることを願うよ。
32名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 23:29
>27
しぃちゃん、かわいー♪
33絶対に殺してはダメ:2001/05/04(金) 01:08
1.人の行動には、前提として「愛」があるから  2.「神様が望まない」から 
3.自分が人に殺されることを欲しないから  4.「良心」であり、「誇り」だから 
5.「種の保存」のため  6.「目覚め」が悪くなるから  7.「無間地獄」に落ち
るから  8.「法治国家」だから  9.「遺伝子」にすり込まれてるから  10.死
は無視し遠ざけるべきだから  11.怒られるから  12.痛いから  13.神道では、命
を奪うことを想定しないから  14.不自然な死は、的はずれ  15.殺すも、殺さない
も違いがないから  16.本当に納得のいく理由ではないから  17.殺した後で後悔す
るから  18.人間の知恵で殺人を正当化しても、良心の咎めがあるから  19.殺され
る人の命は、殺す人の所有ではないから  20.殺人を否定していれば、答えはすでに自
分の中にある  21.善悪は人間のDNAにすでに刷りこまれているから  22.子供には
幸せな一生を送ってほしいと願うから  23.殺人を認めたら、社会が成り立たないから 
24.脱することの出来ない神経症に罹るから  25.人の「身体性」を侵害するものだか
ら  26.殺人は、「自分を殺す」ということだから   27.自分が穢れるから 
28.人を殺したら、人には愛されないから  29.生得の善悪の尺度を担う者の声に反す
るから  30.社会的制裁がかかるから  31.他人の死の体験から、自分の死を意識す
るから  32.「生きている」ということを実感しているから  33.自分が殺されたく
ないので、人がそういうきまりを造ったから  34.殺すよりも、殺すのを避ける方が、
富の獲得が多いから  35.みんなが同じ国家に所属する同胞だから  36.人々は人を
殺した人間を絶対に許さないから  37.殺人者は自分の『死』を実感させられることに
なるから  38.共通項を抱いて努力を重ねた結果生まれる米を食べて命を長らえるから 
39.無にしてはならない、加害者・被害者の「命」への共感があるから  40.日本語は、
人を殺してはいけない理由に、意味ある言葉を用意できない。最悪。 
 
34絶対に殺してはダメ:2001/05/04(金) 01:09
41.分裂病的な世界での『存在』=精神の崩壊、精神の『死』=自分の『死』に至るから 
42.人はその生命の本質が神から来ているものだから  43.普通の人は悪事の後、「良
心に苛まれる」から  44.殺人はダメだと、神の子である私達は忘れてはいても、「魂
は知っている」から  45.人の生命を奪う権利を持つのは、「神」のみだから 
46.神の望みではないと「聖書」に書いてあるから  47.「愛」があれば人を殺したい
とは思わない  48.「神の意志とは何なのか」という共通認識があるから  49.「殺
さないという思いやり」があるから  50.「人を殺さないこと」という意識すべき思い
やりがあるから  51.殺人は、「愛のある行為ではない」から  52.普通なら「殺す
かどうか」を考える以前の段階で理解可能  53.如何なる人も、人を殺す特権や権限を
持っていないから  54.「愚か、否か」の問題だから  55.「自分が殺されたくない
ので、人を殺したくない」から  56.「罪と罰」の評、「自分が壊れるから」 
57.「時代錯誤」と称されるが、「家が滅びる」から  58.納税者が減るから 
59.人が人を食べないから  60.《多数決》、多くの人が「人を殺してはいけない」と
思っているから  61.不変的な「命の大切さ」に反するから  62.人を殺すのは「自
分をも殺す」と言うことだから  63.「己の死すなわち人の死」だから  64.自分が
殺されたらヤだから  65.みんなあなたと同じ「自我」を持っているから  66.生物
学的に、自分の利益にならないから  67.脳内の潜在意識で「殺してはいけない」という
意識、罪の意識を免れないから  68.殺す自由の中での殺し合いが嫌なので、殺人罪と
いう法律を作ったから  69.何の理屈もいらない  70.見性体験。人間は「仏」のよ
うな存在なので、むやみに人を殺すなんて考えられない  71.ふつう「殺したくねー」
から  72.「愛の鞭」によって与えられた「権威」を「畏怖」する心があるから  73.取
り戻した自分の心が本当に「人を殺してはいけない」と感じるから  74.自分が殺され
ないため  75.自分もされたくないことは、他人にもしてはいけないから
35絶対に殺してはダメ:2001/05/04(金) 01:09
76.神様がお決めになったことには従わなければいけないから。疑問は、一切ダメ 
77.自分より弱いものが認識できて、それを守ろうとする時に「良心」、誇りのような物
が働くから  78.「人を殺すな、殺すとヤバイ」と「身体」が感じるから  79.「日
本の民族意識に反する」から  80.「日本人としての良心」が赦さないから  81.殺
すと殺される。完全犯罪は割に合わないから  82.自分が殺されたらイヤだから 
83.法律で禁止されているから  84.モーザの10戒で禁じられているから  85.神
に対する反逆だから  86.殺人者は、必ず「自己処罰の情景を描く」から  87.殺人
の情景が繰り返し繰り返し再演されて、苦しまなければならないから  88.あの世での
殺人の再演からは逃れることができなから  89.殺人者は死へと誘導され、不慮の死を
遂げることになるから  90.「自分を殺そうとする奴が誰かいる」と疑心暗鬼になるか
ら  91.1人を殺ってる間に、他の大勢に殺られるかも知れないから  92.「集団の内
部での殺人は悪となっている」から  93.「汝、汝を愛するごとく、隣人を愛せよ」を
理解し、楽しみながら異文化と共存する、「日本人」だから  94.「他人からされたく
ない事は他人に対して行うな」って事だから  95〜.「人を殺すことは絶対にダメ」と
いう貴方の答えです。
36名無しさん@1周年 :2001/05/04(金) 01:27
人は殺すけど自分は殺されたくないってのはおかしくない?
37名無しさん@無宗教:2001/05/04(金) 01:41
>大事なのは、殺すことは善か悪かということじゃないと思う。
>殺し合わないで一緒に生きていける道(共生の道)を
>できるだけ探ろうという提案をしたいと思う。

同意。
なぜ、これが理解できないの?
どうしても善か悪か決めたいわけ?>>31

<浄土通信 : http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/

>>31 名前:名無しさん@1周年
>期待してるよ。
 そんな大袈裟なもんじゃないよ(笑)。他人の名前を騙る自由を主張する2茶で高尚な議論なんか不可能だ。高尚な議論は、他人を騙す自由ではなく、他人に騙されない自由が保証される場であって始めて行われるのさ。

>どういう追い詰められ方をしている子どもをイメージして、論じていくのか

 「なぜ人を殺してはいけないのか?」と、僕に質問してくるほどに追い詰められている子供をイメージしている。
 「なぜ人を殺してはいけないのか?」と聞いてくるのは、背景には、「人を殺してはいけない」と教えられてきたという実体がその子にあるんだろう。それにも関わらず聞いてくる。いわば二度目の質問だ。一回目の質問は、「殺人は善か悪か」というものだった。それに対しては「悪だと」答えた。次に、「なぜ悪なのか」と聞いてきた。「なぜ悪なのか」というのは二度目の質問だ。こういう場合は、一般論では解決がつかない大変な事態にあると僕は想像する。
 具体的な場面に直面して殺したい奴が出現してきた。そういう状況だろうと僕は思う。殺してやりたいんだけど、「人を殺してはいけない」という一般論と心の中で葛藤をしている。「人を殺してはいけない」という一般論がなければ、刃物を持って殺しに行っていたかも知れない。そういう状況をイメージしている。
 心が葛藤しているとき、きれい事は苦しみを増す可能性がある。心の囚われはほぐしてやらないといけない。そんなときは、「殺してもいいんだ『殺人は悪じゃない』」という言葉をかけてやる必要があるときも、具体的な場面ではあるかも知れないじゃないか(笑)。
 「人を殺してもいいんだ」という言葉をかけてやれば相手は安心するかもしれない。殺したいと思っている自分に本人が罪責感でも重なっていれば、そんな重荷は外してやらないと可哀想だ。大事なことは、罪責感を負って生きていくことじゃない。重荷は外してやって身軽にし、問題の本質に真正面から自由に向かわせることだ。不用な重荷を負っていれば、大事な問題と真正面から向き合う前にへばっちゃうからね(笑)。
<浄土通信 : http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/

 具体的な場面では、殺人は善か悪かという抽象的なことは問題じゃない。殺したい相手との心の衝突があるんなら、その心の衝突の実体と向き合うことが大事なんだ。殺したいような環境下にあるんなら、殺したくなる具体的な環境そのものが問題だろう。殺すというのは、問題解決の一つの選択肢だろう。いわば手段に過ぎない。殺すという選択肢を選べば、他の選択肢を選ばないで済む。問題そらしの可能性もある。
 確かに本人には殺すという選択肢しか残ってない場合かも知れない。でも、殺さないでも済む選択肢があれば、しかも、比較考量すれば具体的状況下でそっちの方が優れていれば、殺さないでも共に生きていける道を選ぼう。僕はそう提案すると思う。殺すという選択肢以外の選択肢は本当にないのか。本人だけでは考えられないなら、相手の囚われ、重荷を解きながら。一緒に考えてよろうとするだろう。それが親の責任というものだ。殺人は善か悪かという抽象的な問題の解決は、親の責任の本質じゃない。具体的な場面では、殺すという選択肢と第三の選択肢との個別的な優劣を具体的な場面の中で考えてやるのが親の責任だと思うのさ。
 人を殺すことは悪いことだ。そんな事は当たり前じゃないか。具体的な場ではいろいろあるかも知れない。正当防衛とか緊急避難とか、具体的な場ではやむを得ないときもある。でもそれ以外は悪いことだ。刑法はそう言っているのでしょう。なぜ当たり前なのか。殺人行為は、人を恐怖の極限に追いやり、平和のうちに生存する権利を脅かす。だから悪である。説明するまでもない。そういう価値観も、法律という場を例に採れば日本社会にはあるんだろうと思う。
 人は全て平和のうちに生存する権利がある。当たり前の話だ。しかし、当たり前と言われて議論をシャットアウトされると話は逆に難しくなる。難しい問題は古典にヒントを求めるというのが定石だ。
 現代の日本社会の倫理規範は、中国の律令、儒教、仏教よりも、むしろ西洋からの影響が強いと思う。現行憲法も終戦後占領軍が基礎は英文で作った。占領軍が作った憲法が根付いている。西洋の影響から先に考えて行きたい。
 人を殺してはいけない。この思想はどこまで遡れるのか。記録では紀元前十八世紀頃のハンムラビ法典が最古だろう。しかしこのハンムラビ法典は、旧約聖書のモーゼの十戒に何らかの影響を及ぼしているかも知れないが、現代への直接の影響は少ないだろう。むしろ現在の我々の価値観は、モーゼの十戒あたりが直接の起源に求めることかできると思う。その他、ローマ法、ナポレオン法も重要だろう。ローマ法やナポレオン法の検討になると、僕が負える領域じゃない(笑)。
 僕は僕なりにモーゼの十戒を考えてみたい。もっとも、この辺はキリスト教やユダヤ教の専門の方、アマチュアでもかなり勉強している方からは批判が出るだろう。素人の我流の試論として笑って戴ければ有り難い。
 続く。
41名無しさん@1周年:2001/05/04(金) 10:26
>36
おかしくなんかないよ。
自分が一番可愛いという価値観の人間ならばね。
42名無しさん@1周年:2001/05/04(金) 13:04
31>>37 名無しさん@無宗教

>>大事なのは、殺すことは善か悪かということじゃないと思う。
>>殺し合わないで一緒に生きていける道(共生の道)を
>>できるだけ探ろうという提案をしたいと思う。

>なぜ、これが理解できないの?
>どうしても善か悪か決めたいわけ?>>31

     ∧_∧
     (・∀・ ) ゴルァ!理解できない、決めたいって、勝手に決めるな!♪
 ̄| ̄ ̄U| ̄U ̄| ̄ ̄ ̄|. ̄ ̄ ̄|\
 ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄|\|
 ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄|\|
 ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄|\|なぜ人を殺してはいけないのか?
そんなことは、聞くまでもない、「当たり前のこと」だろうが…
そして、「その答えがわからない奴には、本当に分からない」ことも、分かってる。

そして、情けないことに、今、この国では、そんなことが本気で問われている。。。
情けないことに、「まじめにかけよ」といきり立っている1が、「なんで人を殺しちゃ
いけないの?in宗教板」というスレッドを立てている。。。

俺は、「言葉」にならない答えを実感してるし、それが理屈の善悪ではないことぐらい
は分かってるよ。。。
43名無しさん@1周年:2001/05/04(金) 14:10
>渡海難

>>二度の子どもの質問

少し見解が分かれるところだな。。
1度目の質問を、善悪だけとは思ってないんだ。
幼少期における心の形成の問題が、主だと思う。
主に親が子どもに「人を殺してはいけない」という言葉を使うことで、
子どもの方に「人を殺してはいけない」という心が形成される。

2度目の質問は、子どもの方からの「人を殺してはいけない」という心が未形成、
未確定であることの独白なのだと思う。

>>具体的な場面
>>殺すというのは、問題解決の一つの選択肢だろう。

殺してやりたい奴が出てくるのは、仕方がないだろうね。。どうしようもない。。
渡海難、お気を付けを!(^^)
しかし、そんな場合の選択肢が
>「人を殺してもいいんだ」という言葉をかけてやれば相手は安心するかもしれない。
がただちに連想されるのは、柔軟さに欠けると思うぞ。。
そして、その選択肢が余りにも欠落しているのが、現状の社会全体なのだと思う。

俺なら、「殺すな。ただし、殺したい奴が生きることには手を貸すな。共に生きるな」
と言いたいね。そんな心を持って欲しい。
相手を殺すより、自分の生活を築く方がはるかに大切だからね。
4443:2001/05/04(金) 14:11
>>不用な重荷を負っていれば、大事な問題と真正面から向き合う前にへばっちゃう
>>からね(笑)。

これは肯ける。。激しく同意!!
しかし、すでにへばっているのが、「なぜ人を殺してはいけないのか?」を問う子ども
のような気が…
快活に「なぜ人殺してはいけないのか?」を考えているガキの方が、はるかに怖いって…

>>問題そらしの可能性もある。

これは違うと思うぞ。。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」そんな問題など抱えずに生きていけるのなら、
そっちの方がはるかにいい。このテーマは、自分が当事者だと本当に苦しいからね。。

そんな疑問など持たずに生きていけるとは、生れ落ちた社会の側に答えが用意されている、
迷っても、多くの回答が用意されているということだと思う。

しかし、この社会は、今更ながらに、大の大人が「なぜ人を殺してはいけないのか?」の
答えを探そうとしている。。最低だね。しかし、現状で必要だね。。

>>他人を騙す自由ではなく、他人に騙されない自由が保証される場

すでに2ちゃんねるのことでは?
「他人に騙られてる」と思ってんの渡海難1人だと思うね。
まあ、いいや。ローカルルールスレ見たか?
偽者(太字)の削除について触れてたぞ。確認を。。。
45名無しさん@1周年:2001/05/04(金) 14:13
>>41

>自分が一番可愛いという価値観の人間ならばね。

全員が、そうじゃない?
オマエモナー、もちろん、オレモナー

46名無し不動さん:2001/05/04(金) 14:17
僕のレッサーパンダの帽子を返してください
47反天理教:2001/05/04(金) 14:25
>>1
共同体のボスが決めること。
ボスの判断で善でも悪でもある。
あくまで「殺人」の文脈で善悪が
決まるのであって「殺人」に善悪
は無い。ただし、「殺人」という
ルール違反は成立する。

ルール違反は「殺人」に付くが
善悪は付かないということ。

極論を言えば文脈によっては
天理教徒への殺人は悪ではない
ということ。
48:2001/05/04(金) 14:46
あっ、kだ(ワラ
49名無し:2001/05/04(金) 16:17
>>46 名前
 2CHの掲示板に言ってもしょうがないだろう。
 落とし物なら、自分で警察に返しに貰いに行け。
50じじ:2001/05/04(金) 16:25
↑おまえがけつをつつきながら歩け
51お気の毒:2001/05/05(土) 17:34
くだらん宗教的なご託をたくさん並べても意味ないぜ。
はっきりしていだろうことは、「どうして人を殺したらいけないのか?」と質問する
ような輩は、おそらく殺されてもしょーがないということだけだ。
自分が殺されてみるしか、分かりようがないのだろう。お気の毒!!
屁理屈は辞めて、さっさとこんな糞板は下げろ!!
<浄土通信 http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/

 >>51
「どうして人を殺したらいけないのか?」という質問は大事な質問でしょう。
 万人が考えていい。
 僕の議論は明日以降に行います。 
53 :2001/05/05(土) 18:48
ルソーでも読め
54名無しさん@1周年:2001/05/05(土) 19:08
↑ルソーをしっかり読め!

そんでもって、自分のガキにでも殺されとけ。。(w

55名無しさん@1周年:2001/05/05(土) 19:31
>>51 お気の毒

>「どうして人を殺したらいけないのか?」と質問する
>ような輩は、おそらく殺されてもしょーがないということだけだ。

質問を実行して、検証しようとするバカは、この先も出てくるだろうね。
しかし、殺されるのは、そいつ本人じゃないよ。。
まったくの無辜の人間だろうね。。

>屁理屈は辞めて、さっさとこんな糞板は下げろ!!

ずいぶん、自分だけを可愛がる人間の発言だね。。
議論が始まったばかりなのに、その発言は、言論封殺だよ。。
以後、控えられたし。。

56名無しさん@1周年:2001/05/05(土) 20:17
>>54
>↑ルソーをしっかり読め!
>そんでもって、自分のガキにでも殺されとけ。。(w
違うだろ?
ルソーをしっかり読んで、
ヒステリックに、「この子のため」とか訳の分からんことを言いながら、
不埒なガキを金属バットで撲殺するか、
ロープで首をしめるかして、
自分のガキを殺しちゃうんじゃないの?

57お気の毒:2001/05/06(日) 13:24
なんで今頃になって、「どうして人を殺したらいかんのか?」なんていう疑問を
出すような人間が出てきたんだ? 俺はそれが不思議だね。こんなことは、普通の
人間が理屈で考える必要のあることか? 理屈で考えて分かることか?
人間が本能として分かっていることじゃないのか? だから、こんな質問をする奴
は、そいつが殺されてみないと、人を殺しちゃいかんことは実感できないだろう。
「どうして人は生きているのか?」これを理屈で考えて解答が出せるのか? それと
同じことだぜ。殺しちゃいかん正確な解答もあるはずがない。
まあ、人間生来の本能的な気持ちを失っている人には、理屈しか生きる頼りがないのかも
しれんね。早い話が、基地外が増えたってことか? 本当にお気の毒だ。
せいぜい考えまくって、頭を悩ましてくれ。ますます狂って行くのかもしれないよ。
58名無しさん@1周年:2001/05/06(日) 17:36
>>57 お気の毒

>なんで今頃になって、「どうして人を殺したらいかんのか?」なんていう疑問を
>出すような人間が出てきたんだ? 俺はそれが不思議だね。こんなことは、普通の
>人間が理屈で考える必要のあることか? 理屈で考えて分かることか?

多分、ここ10年ぐらいで、「人を殺してはいけない」理由というのが、なくなったんだと思う。それ以前に通用していた、例えば、そんなことは「人非人」のすることだから、「自分が壊れるから」などという理由が実感として無くなってしまったんだと思われ。。

とは言っても、今の時代、社会でも、大多数の人が理屈ではなく、実感として分かっているように、今の時代でも実感として分かる「人を殺してはいけない理由」というのがあるはず。。それを発掘する作業が、求められているのだと思われ。。

ある種の人間には、理屈でしか分からないと思う。典型的には、アスペルガー障害のある人。。これは、障害とはいっても、どれぐらい項目に該当するかで判断されるもので、極端に多くの項目に該当する人は少ないけど、1つも当てはまらない人はいないといったもの。。つまり、1つの性格的傾向と考えられる。。実際の社会の中には多く潜んでいるかもです。。。
59名無しさん@1周年:2001/05/06(日) 17:36
>>57 お気の毒

>人間が本能として分かっていることじゃないのか?

人間が本能として持っているなら、殺人が、いつの時代でも、どこの社会でも起こるものであることを説明することができないと思われ。。本能は、人を殺すように人を指令している面も否定できないと思われ。。遺伝子論の取り扱いが問題になろうかと思う。。。

>こんな質問をする奴は、そいつが殺されてみないと、人を殺しちゃいかんことは実感できないだろう。

誰が、こんな質問をする奴を殺すのか?そいつは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」。。質問をする奴じゃなくて、実際に殺人を犯した人、特に少年法に対する死刑制度云々で、問題になるところだと思われ。。人は人を殺してはいけないが、国は人をころしても良いのか、戦争の是非は?が論点になると思われ。。。
60名無しさん@1周年:2001/05/06(日) 17:36
>>57 お気の毒

>「どうして人は生きているのか?」これを理屈で考えて解答が出せるのか?
>それと同じことだぜ。殺しちゃいかん正確な解答もあるはずがない。

それを検証しようとしているように思われ。。。俺は、「ある」と思う。。。それは、「人を殺してはいけない」という心が、社会の大多数の人々によって支えられているから。公的に支えられる心があるなら、「言葉」にすることもできるはず。。。

>早い話が、基地外が増えたってことか? 本当にお気の毒だ。
>せいぜい考えまくって、頭を悩ましてくれ。ますます狂って行くのかもしれないよ。

そして、あんたも、そんな社会に生きているということ。。。考える道筋を間違えれば、本当にサイコ野郎になるだろうね。。。すべては自己責任だと思われ。。。実際に殺さなければ分からないと思った奴は、その場で、このテーマから離れるなければならないと思う。。。
61ものんた:2001/05/06(日) 17:48
簡単ジャン。

人間だからだろう。
<浄土通信 http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/

 人を殺してはいけない。こういう考えを僕らに教えてくる最古の文献は旧約聖書だろう。旧約聖書は、ユダヤ教とキリスト教の聖典だが、西洋思想の母胎として極めて重要だ。
 「汝殺すなかれ(出20-12)」。この言葉は、言語の発音で非常に強い響きを持つということを聞いたことがある。聖書は次のようにも言う。「人もし故(ことさら)にその隣人を謀りて殺す時は汝これをわが壇(だん)よりも執(とら)へゆきて殺すべし(出21-14)」
 なぜ殺人は悪であるのか。
「汝らその住(すむ)ところの地すなはち我が居(おる)ところの地を汚すなかれ其(それ)は我、エホバ、イスラエルの子孫の中(うち)に居(おれ)ばなり(民35-34)」
 殺人は、神が与えてくれた土地を汚すことになるという説明が旧約聖書ではされている。
 注目すべきなのは、 聖書が禁止する殺人とは故意殺人であるということだ。しかも、隣人殺人であるということだ。隣人殺人とは、同族同士内殺人である。殺人一般を禁止するものではない。
「すなはち汝の神エホバかれらを汝に付(わた)して汝にこれを撃(うた)せたまはん時は汝かれらをことごとく滅すべしかれらと何の契約をもなすべからず彼らを憫(あはれ)むべからず(申7-2)」
 「この国々の邑々(まちまち)においては呼吸(いき)する者を一人も生(いか)し存(おく)べからず(申20-16)」
 旧約聖書が禁止する殺人は、戦争遂行と軍律保持を目的とした軍規と考えるべきだろう。愛という概念とは直結しない。
 殺人を普遍的に戒める思想は、西洋思想ではパウロに発するようだ。殺人に対する思想は、イエスとパウロとの間でさえズレがある。
 イエスとパウロとを比べて欲しい。パウロは言う。「人を愛する者は、律法を全うするなりそれ『〜殺すなかれ、〜』と云へるこの他なお誡命(いましめ)ありとも『おのれの如く隣を愛すべし』といふ言(ことば)の中にみな籠(こ)もるなり(ロマ13-9)」、と。イエスは言う。「『殺すなかれ』〜また『己の如く汝の隣人を愛すべし』(マタイ19-19)」、と。「汝の隣人を愛すべし」は、もともと、『殺すなかれ』とは併存的な別の文脈上にある(レビ19-18)。一方が他方を包括する概念ではない。イエスの言葉は、旧約聖書のこの文脈に合わせている。
 旧約聖書とパウロとの間に、思想上で大きな違いがあることは明らかだ。パウロは、殺人を愛という概念と相反的行為として考えているようだ。パウロは神と愛とを結びつけ、愛に最大の価値を置く。神と愛とを概念として結びつけるのは、パウロの独創ではない。「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり故にわれたえず汝をめぐむなり(エレミヤ31-2)」。神と愛が結びつく思想は、旧約聖書に起源がある。もともと神の愛は、アダムを共通の祖先とする同族同士内の団結を図るための助け合い思想と考えていいだろう。人的には同族同士内の極めて閉鎖的な愛である。そう考えると、パウロの愛も、もともとどこまで普遍的なものだったか疑わしい。パウロは、イエスの死後、愛と相反する概念として殺人行為を設定した。イエスを死に追いやった同族ユダヤのパリサイ人の行為に報いようとしているからではないか。愛と相反する概念とされた死は、もともと全ての者に普遍的なものである。死という普遍的な概念を愛の相反的概念にもってきたことで、愛も反射的に普遍化した。
 殺人と愛とは相反的である。殺人は神の意思に反する。これは、パウロにあって生じた考えだろう。パウロのこうした考えはどこまで普遍性を持つのか。パウロ以前のイエスにはない思想だ。イエスは、殺すという行為と愛するという行為を、相反的行為としては考えてない。
 パウロの思想は、近代西洋思想の人権思想ともずれがありそうだ。パウロの主張は、パウロ一人が納得し、どうも充分な説得力はなさそうに僕は思える。
 続く。
64名無しさん@1周年:2001/05/07(月) 00:29
>>62-63 渡海難

>旧約聖書が禁止する殺人は、戦争遂行と軍律保持を目的とした軍規と考える
>べきだろう。

ここ、間違ってない? 旧約聖書の神が、「アダムを共通の祖先とする同族同士」を殺すことは禁じていても、同属以外の者を殺すことは、むしろ命じているように読めるが…。つまり、旧約聖書の神は、「戦争遂行と軍律保持を目的」なら、虐殺と略奪を命じていると思われ。。。

では、なんで旧約聖書の神は、略奪や殺人を命じたりしたのか? この点は、ユダヤで見ることができると思う。ネタで言われることだけど、ヘブライ人種で、イスラエル国籍、そして、ユダヤ民族。民族を見る時は、言語の享有という点が重視される。。。

ヘブライという言葉には、「ユダヤ人への蔑称」あるいは「身分の低さ」の意味があるんだよね。。。ユダヤ人は、そのような人種として扱われてきた。。。そして、ユダヤ人の言葉、ヘブライ語なんだけど、これで、旧約聖書の大部分は書かれている。。。けれど、ヘブライ語は、ユダヤ人の日常生活ではほとんど使用されず、宗教用語としてしか使われてこなかったという経緯がある。。。現在のイスラエルの国語だけど。。。

これらの点から、侮蔑されたヘブライ人種が、旧約聖書の中のヘブライ語を使い、旧約聖書の神を信じ続けることで、民族として『ユダヤ人』を維持し続けてきたといえると思われ。。。つまり、ユダヤ人は「アダムを共通の祖先とする同族」社会を守るために、旧約聖書の神の虐殺と略奪の命を維持してきたのかも。。。
65名無しさん@1周年:2001/05/07(月) 00:33
>>62-63 渡海難

>もともと神の愛は、アダムを共通の祖先とする同族同士内の団結を図るための助け
>合い思想と考えていいだろう。
>殺人と愛とは相反的である。殺人は神の意思に反する。
>えはどこまで普遍性を持つのか。

「なぜ人を殺しては逝けないのか?」の答えに、どこまでの普遍性を持たせようとしているのかが疑問だぞ。。。もし、「同属」という観念を一切排除して、世界人類、古今東西すべての人間に妥当する答えを求めているなら、希薄な答えにしかならないように思われ。。。設定している答えの妥当範囲を教えてちょ!
66nanashi:2001/05/07(月) 00:40
人を殺す行為とか、もしくは、そう言う願望とか思想は、結局、利己的で、
自分の気に入らないものを抹殺するという破滅の思想のような気がします。
人間には自由意志と自由な思想を持つことが生まれながらにして許されているから
たとえ法律で禁止されていても、思うことはだれにも止められませんよね。
(自分で自制しないかぎり)そして、自分の破滅はもちろんのこと、他人の破滅を
願ったり、それを行動に移すことも可能ですよね。しかも可能なだけでなく、
その意志も限りなく強大になりえますよね。つまり、殺す相手はひとりではなく、
複数人でも殺したいと思えば殺せる。(実際には大量に殺す前に
自分が殺されることが多いけど、大量殺人することも決して
不可能ではないですよね)
でも、人間は共同で生きていくものだし、1人では生きていくことも、繁栄して
いくこともできない。
もしも、人を殺していいという思想が究極なレベルで広まって、
それぞれがそういうことを願ったとしたら、結局、みんな殺したり、
殺されたりということになって、おちおち眠れもしないし、ずっと以前に
人間と言う種は滅亡しているとおもう。
人を殺してはいけないというのは、つまり、自分も殺されないための
いわば、人間の種としてのルールじゃないでしょうか?
67名無しさん@1周年:2001/05/07(月) 00:40
>公的に支えられる心があるなら、「言葉」にすることもできるはず。。。

倫理学の本でも読め。

はい、終了。
68名無しさん@1周年:2001/05/07(月) 02:01
人を殺してはいけない理由を言うには
まず殺しては「いけない」と決めているのが何なのかをはっきりさせる必要がある
これが「人間社会」の時は「法律で決まってるから」とかその法律が決められた理由を言えばいいだろう
次に「自然界」の場合は「殺してはいけないとは決まっていない」と思う
そして「いけない」と決めているのが「自分自身」の場合、即ち「殺さない理由」
これはいろいろあると思うが共通するのは殺すと自分が損をするからだろうと思う。
俺は刑罰を受けないといけなくなる、自分が殺される可能性が増すなどあるが
一番思うのは殺すと嫌な気持ちになりそうだということだな
一生そんな気持ちで過ごすのも嫌だし
>>64 名前:名無しさん@1周年
>むしろ命じているように読めるが…。
      聖書のどこの文脈で読めるのですか?

>「戦争遂行と軍律保持を目的」なら、虐殺と略奪を命じていると思われ。。。

 戦争遂行と軍律保持を目的ばら、虐殺と略奪を命じているとどうして思われるんですか。
 およそ軍隊は、戦争遂行と軍律保持を目的に軍規があります。自衛隊にも、在日米軍にもあるでしょう。、虐殺と略奪を命じているというなら、在日米軍の場合は、どこの人々を虐殺し、略奪するよう命じられているのでしょうか。

>ネタで言われることだけど、〜維持してきたのかも。。。
     ??

>>65 名前:名無しさん@1周年
> 「同属」という観念を一切排除して、世界人類、古今東西すべての人間に妥当する答えを求めているなら、希薄な答えにしかならないように思われ。。。

 同族内外で異なった物差しを当てるダブルスタンダード規準を許容すれば、その方が希薄になるでしょう。なぜなら、物差しを切り替えるときの判断規準が複雑化し、論者は窮地に陥るでしょう。

>設定している答えの妥当範囲を教えてちょ!
     絶対的、普遍的な規準を捜します。
>>66 名前:nanashi
>破滅の思想のような気がします。
   なるほど。

>思うことはだれにも止められませんよね。
   なるほど。

>複数人でも殺したいと思えば殺せる。
   なるほど。

>人間と言う種は滅亡しているとおもう。
   なるほど。

>人間の種としてのルールじゃないでしょうか?
   なるほど。

>>67 名前:名無しさん@1周年
>はい、終了。
    大きなお世話。
>>68 名前:名無しさん@1周年
>人を殺してはいけない理由を言うにはまず殺しては「いけない」と決めているのが何なのかをはっきりさせる必要がある

 決めているのが何なのかをはっきりさせようとしています。

>その法律が決められた理由を言えばいいだろう。

     その法律が決めた理由を言ってみてください。しばらくあなたからの見解を待ちましょうか。

>次に「自然界」の場合は「殺してはいけないとは決まっていない」と思う

 理由は?
自然界の場合は殺してはいけないとは決まってないのに、殺してはいけないと法律が決めた理由は何?
<浄土通信 http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/

>殺すと自分が損をするからだろうと思う。

   殺して得をするなら殺してもいいのでしょうか?
   殺せば得をする場合も殺してはいけないのは何故かという普遍的な問題を提起しています。

>一番思うのは殺すと嫌な気持ちになりそうだということだな

 快楽殺人なら肯定されるという考えでしょうか。殺人に快楽を覚えても殺してはいけないのは何故かという普遍的な問題を提起しています。

>一生そんな気持ちで過ごすのも嫌だし

  他人を殺して幸せを得るなら、殺人は肯定されるという考えでしょうか。人を殺せば幸せになるとしても殺してはいけないのは何故かという普遍的な問題を提起しています。
73ふろ:2001/05/07(月) 23:38
私もこの問いに対する答えをあれこれ探ってみましたが、
果たして倫理的な立場からこの答えを導き出すことは
可能なのだろうかと疑問に感じる。
ていうか倫理って何? と私もよくは理解していませんが、
少なくとも全人類に疑いなく受け入れられ、
尚かつ「ヒト」という種が存在する限り成り立つ思想というのは
存在するのだろうかと思う。
よって私は生物的な見地からこの答えを探ってみようと思う。
>>21
移植医学に「拒絶反応」なんて言葉がありますが、
人を殺したいという欲望は端的に言うと「精神的な拒絶反応」ではないかと思う。
同じ種である人間の臓器でさえ、たとえそれが自分の腹から生まれてきた子供のものだとしても
何やらの型が合わずに拒絶反応を起こすことがある。
これと同じ事で、人間のこころに対してストレス等を与える存在は外敵と見なし
排除しようとする働きがあるのではないか、と思うのだがどうだろうか?
7421:2001/05/07(月) 23:46
>>73 ふろさん

>移植医学に「拒絶反応」なんて言葉がありますが、
>人を殺したいという欲望は端的に言うと「精神的な拒絶反応」ではないかと思う。
>同じ種である人間の臓器でさえ、たとえそれが自分の腹から生まれてきた子供のものだとしても
>何やらの型が合わずに拒絶反応を起こすことがある。
>これと同じ事で、人間のこころに対してストレス等を与える存在は外敵と見なし
>排除しようとする働きがあるのではないか、と思うのだがどうだろうか?

殺人の根源的な動機は、この点から来る情緒的感情だというのは、
その通りだと思います。

移植で、新生児のへその緒は、拒絶反応を示さないということに興味が湧きます。
<浄土通信 http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/

>>73 名前:ふろ
>倫理的な立場からこの答えを導き出すことは可能なのだろうかと疑問に感じる。

 人殺し罪悪説は倫理論的に肯定できないと考えるんですね。人殺しは反倫理ではないという立場でしょうか。
  <議論の運びが不明確。結論も賛成できないナー。殺人肯定論には生理的に嫌悪感を僕は感じる(笑)。>

>ていうか倫理って何?

 もともと世の中に倫理などというものはおよそ存在しないんじゃないかということでしょうか。だったら人を殺しても倫理に反しない。そういう考えでしょうか。倫理観の無い人ナノカシラ?

>「ヒト」という種が存在する限り成り立つ思想というのは存在するのだろうかと思う。
      ??
>生物的な見地からこの答えを探ってみようと思う。

 ?? ライオンや狼に倫理はないでしょう<倫理的な狼なんて、僕も聞いたことが無い>。
 ライオンや狼と同じ次元で考えるということでしょうか?ライオンや狼なら人を殺してもいい。ケダモノ並の人殺し肯定論ですか(笑)。

>人間のこころに対してストレス等を与える存在は外敵と見なし排除しようとする働きがあるのではないか、と思うのだがどうだろうか?

 だったら何がどうなるの?
 外敵と見なし排除しようとする働きがあればどうなるのかしら?外敵と見なし排除しようとする働きがあるんだから、人殺しはやむを得ないことということになるのかしら。人殺しもいいことだという考えなのかしら?<賛成できないナー。僕は殺人肯定論というのは、どうも生理的に嫌悪感を感じるよ(笑)。>
>>74 名前:21

>移植で、新生児のへその緒は、拒絶反応を示さないということに興味が湧きます。
  ?? すれ違い?医学か生物学の掲示板の問題だと思うよ。
  移植の拒絶反応は情緒的な問題なの ??
78名無しさん@1周年:2001/05/08(火) 23:57
>>75-76 渡海難

>殺人肯定論には生理的に嫌悪感を僕は感じる(笑)。

「ふろ」は、殺人否定論だと思うぞ。。

>そういう考えでしょうか。

曲解だぞ。。

>ケダモノ並の人殺し肯定論ですか(笑)。

動物は、例外もあるけど、基本的には同種の動物を殺さないよ。。
人間における「殺人」のようにはね。。

>だったら何がどうなるの?

人間において「殺意」が生じるのは否定できない、と理解できたぞ。。
同意。。それを否定するのは、偽善に過ぎない。。
79名無しさん@1周年:2001/05/08(火) 23:57
>>77 渡海難

>すれ違い?医学か生物学の掲示板の問題だと思うよ。

思い違いです。あしからず。嘘だと思うなら、お得意の削除依頼でも出してきな。。

>移植の拒絶反応は情緒的な問題なの ??

免疫系の話は大丈夫か?分からないなら、悪いけど、当分は口出さんでくれ。。


P.S.
削除依頼の出し方、もう少しなんとかならんか?
悪いけど、あの依頼じゃ、また削除されない思うぞ。。
削除依頼板の住民にも煽られてるし。。
削除人に倦厭されたら、削除依頼の処理がまたまた遅れてしまうだろが…
8068:2001/05/09(水) 05:23
>>71 渡海 難@
>>人を殺してはいけない理由を言うにはまず殺しては「いけない」と決めているのが何なのかをはっきりさせる必要がある
 >決めているのが何なのかをはっきりさせようとしています。

誤解が生じているかもしれないので「決めているのが何なのか」を説明しときます。

この場合「殺してはいけない」という禁止が発令されていて「その理由はなんなの?」っていう話だと思うんだけど
その禁止を発令したのが何(誰)なのかによってその理由は変わってくるだろうから
その禁止を「決めているのが何(誰)なのか」をはっきりはっきり区別する必要があるということです。
「どの次元で禁止されているのか」というふうにも言えるかもしれない

例えば「つまみ食いしてはいけません」っていう禁止事項があったとすると
これを禁止しているのが母親の場合、禁止された理由は「しつけのため」とか「食卓に並ぶ料理が減るから」などがあるけど
禁止しているのが自分自身の場合はその理由は「ダイエットのため」っていうこともあるよね。

こんな感じで禁止している存在によって禁止された理由も変わるから
何(誰)が禁止しているかによって場合わけをしないといけないと思うわけです
8168:2001/05/09(水) 05:24
>>71 渡海 難A
>>その法律が決められた理由を言えばいいだろう。
 >その法律が決めた理由を言ってみてください。

一般的に考えられているのは社会の秩序を維持するためだろうね
つまり自分が他人を殺すことを肯定してしまうと他人が自分を殺すこと否定できないわけで
自分が 殺される危険が出てくるよね
そうなると住みにくくなるから殺すのはやめようってみんなで申し合わせて法律ができたと思う

>>次に「自然界」の場合は「殺してはいけないとは決まっていない」と思う
 >理由は?
 >自然界の場合は殺してはいけないとは決まってないのに、殺してはいけないと法律が決めた理由は何?

自然界というと野生の動物の社会という意味も入ってきて適切な言葉じゃなかったかもしれないけど
僕が言いたかった自然界という次元は、地球とか宇宙全体のことで社会が形成されていないような
言ってみれば禁止事項を出す存在が何もないような次元のことを指しています。
禁止事項を出す存在がなければ「殺してはいけない」とも決められないでしょう
逆に人間は社会を形成しているので法律によって「殺してはいけない」と決めたともいえます。
82:2001/05/09(水) 06:00
83名のある名無しさん:2001/05/09(水) 13:27

何故人を食っちゃいけないか・・だと。
いいんじゃないの、獣だって熊だって人を食うんだから、でも心あるまともな人は
そんな質問すらしないな。そんな質問をするのは、ケダモノに成り下がった人間の
皮をかぶった未開人の言うことだな。前世は首刈族で未だ人間に成りきっていないみたいだな。
自分の手足の指を5−6本かじつて食べてみて、良いか悪いか判断してみるといいと
思うな。精神病院に入れられる前に一度試してみてね。
ただし、美味くなかったとか、血が出て云々・・と言っても当方は一切関知しないから
そのつもりでね。
84猫電波:2001/05/09(水) 16:48
タルムードだったかに曰く「それは一つの世界を壊すことだからである」
まぁ、殺された人にとっては「世界」の終わりって事だから
ハディースにも少し似た文章がある
85猫電波:2001/05/09(水) 16:54
ラビ系ユダヤ教挙げたのはやばかったかも
<浄土通信:http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/

>>78 名前: 名無しさん@1周年
>「ふろ」は、殺人否定論だと思うぞ。
   貴方の受け取りは分かりました。

>曲解だぞ。
 いろいろな受け取りがあるでしょう。
 人によって異なった様々な理解で受け取られる表現と、一様に受け取られる表現がある。

>動物は、例外もあるけど、基本的には同種の動物を殺さないよ。

 それがどうかしましたか?基本的には同種の動物を殺さないんだから、人間も動物並になりましょうという主張をしますか。動物並になりましょうといえばまともな議論にならんででしょう。
 狸や狐を信仰する宗教もあるそうだから、支持者はゼロでは無いかも知れない。僕は支持しない。

>人間において「殺意」が生じるのは否定できない、と理解できたぞ。

 なるほど。

>それを否定するのは、偽善に過ぎない。。

 「人間において『殺意』が生じるのは否定できる」という主張がもしあれば、その主張は偽善だという議論になるわけですか?
 荒削りの議論ですね。偽善は善を偽ると書く。偽られている善は何?。偽った結果はどうなるの?(笑)
79 名前: 名無しさん@1周年
>お得意の削除依頼でも出してきな。。

 すれ違い?と言われたのが気に障りましたか?毒にも薬にもならない議論に削除依頼を出すような暇人じゃない(笑)。

>免疫系の話は大丈夫か?分からないなら、悪いけど、当分は口出さんでくれ。

 人殺しを議論しようと言う宗教板で免疫系の話をしようというのは、あなただけでしょう。生化学とかバイオテクノロジーは、僕にとっては専門と関係の深い分野です。でも、サイドワークのこんなところで僕は自分の専門分野の議論をしようとは思わない(笑)。

>>80 名前: 68

>思うわけです    <どうぞご自由に。>
>>81 名前: 68

>住みにくくなるから殺すのはやめようってみんなで申し合わせて法律ができたと思う

 ま、そうかも知れないですね。でも、隣の居住者を殺せば自分の家族や自分の村はもっと住みやすくなると思える場合でも、殺すこといけない。嫌がらせをしてもいけない。何故か。その説明が必要な気が僕はします。

>自分が 殺される危険が出てくるよね

 自分を殺しに来そうな相手はこっちが先に殺せばいい。こっちが先に相手を殺せば、自分が殺される危険はなくなる。平清盛が幼い頼朝・義経を生かしておいたから、平家は滅ぼされた。自分が殺されない為には相手を殺さなければならない。そういう意味で豊臣秀次を殺害した。防衛措置は大事だ。でもやっぱり殺しちゃいけない。何故か。「自分が 殺される危険が出てくる」ということでは十分な説明ではないような気が僕はします。
>禁止事項を出す存在がなければ「殺してはいけない」とも決められないでしょう逆に人間は社会を形成しているので法律によって「殺してはいけない」と決めたともいえます。

 禁止事項を出す存在がない?。現在の法哲学主流の考えに反対する立場を採るのですね。主流の考えとは、僕の場合、自然法の存在を肯定する立場のことを指しています。
 現在の憲法学では、憲法改正を無制限に認める立場と、制限内でしか認められないという二つの考えがあるようです。制限論は、憲法を超えた法規、自然法の存在を肯定します。
 憲法の前文を見ましょう。「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」
 人類普遍の原理が自然法です。自然法の存在はアリストテレスが主張し、ヨーロッパでは長い伝統があるようです(西洋哲学史3 バートランド・ラッセル 著 みすず書房)。例えば、シェークスピアの芝居では、ベニスの商人が批判されています。銀行業は自然法に反するという、中世キリスト教界の主張がべースになっているようです。刑法の殺人罪規定は、自然法を根拠にした考えでしょう。
 自然法肯定の考えは欧米法の発想です。これに反対して自然法などは無いという立場があります。僕はこの立場を採ります。法哲学者の中では少数説のようです(僕が教わった先生は自然法支持者でした)。少数説は、何故多数の支持を受けられないのか。多数説は何故多数説なのか。この辺も考察しないと、自然法の存在を否定する貴方や私の考えは、社会的な支持を受けられないでしょう。
 自然法肯定論が主流なら、否定論者は否定する理由を主張しなければいけない。自然法なんて考えたこともないということじゃ話にならん。そんなものは存在しないんだから存在しないというだけでは、少数論者の中でさえ孤立する。
 自然法否定論者は、それに代わるものを提示しないといけない。人を殺してはいけないという根拠はどこにあるのか。牛さんや豚さんは互いに殺し合わないものだと、No78さんのように言っても説得力はないでしょう(笑)。
 僕は今、自然法そのものの存否を問うつもりはない。そこまで議論の風呂敷を広げるつもりはない。自然法肯定論のように、その存在を仮に肯定しても、殺人を否定する論理は自然法に基づくのかという点を吟味したい。
>>87
 サイドワーク?
    いや、違うな。ま、半分は本気だけど、半分は道楽というところだろう。
>>88
 誤 豊臣秀次を殺害した。
 正 豊臣秀吉は秀次を殺害した。
93名無しさん@1周年:2001/05/10(木) 01:09
>>86 渡海難

>貴方の受け取りは分かりました。

ホントに? この点は、全く期待してないけどね。それが渡海難の良さとも思われ。。

>いろいろな受け取りがあるでしょう。

「一様に受け取られる表現」だったね。曲解になってたよ。(笑)

>基本的には同種の動物を殺さないんだから、人間も動物並になりましょうと
>いう主張をしますか。

基本的には同種の動物を殺さないのに、どうして人間は同種の人間を殺すのか?
この問題提起も、大切なものだと思われ。。どうよ?

>偽った結果はどうなるの?(笑)

「なぜ人を殺しては逝けないのか?」の答えが、そっぽ向かれるものになるだけ。。
その点、大丈夫?ちょっと心配。。

>毒にも薬にもならない議論に削除依頼を出すような暇人じゃない(笑)。

なら、偽名に対するヒステリックな削除依頼も、以後、慎むよね?そんな暇人じゃないよね?
板の恥になるかと心配してたんだ。(笑)。

>あなただけでしょう。

違うと思うぞ。。
9478:2001/05/10(木) 01:10
>>90 渡海難

>牛さんや豚さんは互いに殺し合わないものだと、No78さんのように言っても説得力
>はないでしょう(笑)。

おいおい…、まいっか。渡海難だし…(^^)

俺は、教科書的には「自然法」を使うけど、法の適用場面を見るに、「法実証主義」に
近いと認識してるぞ。法の実務関係では、こっちの方が多いかも…、確認はとってない
けどね。

>>78の大風呂敷を広げている法思想史も、かなり???が混ざってるけど、
それも"オリジナリティー"ということで…。

その"オリジナリティー"から、今後、どう展開していくのか、楽しみにしてるよ。。
95ふろ:2001/05/10(木) 22:28
渡海難様
>人殺し罪悪説は倫理論的に肯定できないと考えるんですね。人殺しは反倫理ではないという立場でしょうか。
  というか何と申しましょうか。三省堂の国語辞典によると、倫理とは「行動の規範としての道徳観や善悪の基準」
とあります。しかしこの基準とはどのように決められたものなのでしょうか。いずれにせよ倫理観はこの定義の上だけでは
その時代その場所により移り変わるものだと思います。移り変わる倫理観の上で殺人は悪としてもそれは
永久不変ではなくなってしまいます。
渡海さんの考えでは倫理とは永久不変のものと認識されているのでしょうか?
私としましては倫理とは移り変わるものと捉え、「殺人は悪」という認識は全人類が共通に永久不変に持ち続けているものだと考えています。
ですから生物学上で捉えるのが最適かと考えた次第でございます。
96ふろ:2001/05/10(木) 22:39
渡海難様
 >>人間のこころに対してストレス等を与える存在は外敵と見なし排除しようとする働きがあるのではないか、と思うのだがどうだろうか
 >だったら何がどうなるの?
 >外敵と見なし排除しようとする働きがあればどうなるのかしら?外敵と見なし排除しようとする働きがあるんだから、人殺しはやむを得ないことということになるのかしら。人殺しもいいことだという考えなのかしら?<賛成できないナー。僕は殺人肯定論というのは、どうも生理的に嫌悪感を感じるよ(笑)。>
確かに、どうもなりませぬ。
しかし私は「人を殺してはいけない」という人類共通の認識(と信じる)はどこから来るものなのだろうかということが知りたい。
私としてはそれは先天的に持っているものだと考える。小学生の頃、飼っていたザリガニが共食いしていたことに妙な興奮を覚えた記憶がある。
近所の猫が夜な夜なニャゴニャゴ喧嘩している。朝になってその決闘場付近を調べてみても猫の死骸は出てこない。喧嘩はしても殺し合うまではいかない。
そういうリミッタを生物は元来備え持っているのではないかと思う。
97名のある名無しさん:2001/05/11(金) 00:46
何故人を殺していけないか・・・だって・・。
自分が他人にされていやなことは、他人にもしてはいけないからですよ。
迷惑がかかるでしょ。
自分が殺されるのがいやなら、人を殺してはいけないということですね。
自分が殺されてもいい、という人は、先ず自分が殺されてから、その後に
やってくださいね。
くれぐれも順番を間違えてはいけませんよ。
世の中には順番を間違えて、他人に迷惑をかける人が多いですからね。
わかりましたか、先ず己が熊にでも喰われて死ぬことですね。
その後でしたら、貴方の世界で何をおやりになってもいいんじゃないでしょうか。
98名無しさん :2001/05/11(金) 04:57
つきつめてゆくと、殺人がなぜ悪か・・は極めて難しい問題だ。
たとえば堕胎も殺人だし、死刑も殺人だし、戦争だって殺人だ。
これらは今現に我々が行っているのだ。
また大海原のまん中で難破したとき5人しか乗れない救命ボートに6人が乗り込
もうとしたら、1人を見殺しにせざるを得ないだろう。これだってある意味殺人
だ。山で遭難して飢え死にしそうなときに1人分の食料しかない場合自分が食べ
て、友人に与えなければこれも殺人だ。
殺人がいけない理由という言い方はおかしい。仏教からいえば殺人をすれば自分
も報いを受ける。悪果を受ける。というべきか・・・
99名無しさん@1周年:2001/05/11(金) 06:00
>>98 名無しさん

>仏教からいえば殺人をすれば自分
>も報いを受ける。悪果を受ける。というべきか・・・

人を殺したときの、報い、悪果を、どう説明されるのかに興味あります。。
教えていただけませんか?

自分の答えは、「良心の呵責」と「社会的制裁」となります。

この両者から、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」の質問には、
「心の働きを失うから。。」と回答します。。

100名無しさん:2001/05/11(金) 06:13
>>99
>人を殺したときの、報い、悪果を、どう説明されるのかに興味あります。
どういう報いかを特定することは困難でしょう。
仏教では善因善果・悪因悪果・自因自果の大原則に、さらに等流因等流果、
異熟因異熟果というのがあります。等流因等流果とは殺したら殺される、と
いうもの、異熟因異熟果とはあなたの言われる社会的制裁など含め、因とは
異なったすがたで結果が廻るものです。あと三世因果といい、因果は過去世
(生前)・現在世・未来世(死後)を通じて流れているもので、すぐに結果
がくるとは限らない(でもいつかは必ず受ける)。これら(まだありますが)
の要素が複雑にからあっていると教えます(重々無尽の因果)。
ただ殺人は仏教で教える十悪の一つですし、仏縁ある衆生を殺せば五逆罪と
いうさらに重い罪(結果がひどい)だと説かれています。
良心の呵責を受けない人も社会的制裁がない場合も、結果はいつか必ずめぐ
ってきます。・・・こんな感じです。
101名無しさん@1周年:2001/05/11(金) 06:22
>>100

ありがとうございました。
複雑で、理解できるかどうか…(^^ゞ

>良心の呵責を受けない人も社会的制裁がない場合

殺人を犯すときに、「良心の呵責」を受けない人はいても、
殺人を犯した後に、「良心の呵責」を受けない人はいないと思っています。

また、社会的制裁は、第三者には「ない」ように見えないかもしれませんが、
当人は、必ず、受けるものだと思っています。。

故に、「心の働きを失う」のは、必ず起こると確信しています。。

102名無しさん@1周年:2001/05/11(金) 06:24
>>101の訂正

× 第三者には「ない」ように見えないかもしれませんが、
○ 第三者には「ない」ように見えても、
103名無しさん:2001/05/11(金) 06:38
>>101
普通の我々の日常の範囲ではそうかも知れませんね。
まぁ極論ですがヒトラーは第2次大戦中600万人のユダヤ人を殺した
といわれます。良心の呵責云々を論ずるレベルを超えてます。心の働き
は確かに失ったかも知れませんがそれも犯した質量では比べることもで
きないでしょう。でも仏教から言えば彼は600万人分の殺人の報いは
いつか必ず受けるのですよ。
104nanasi:2001/05/11(金) 06:49
山田孝男板がたいへん!
105名無:2001/05/11(金) 13:42
97分かり易い。正解。ピンポン。
106名無しさん@1周年:2001/05/11(金) 15:44
>>103

>まぁ極論ですがヒトラーは第2次大戦中600万人のユダヤ人を殺した
>といわれます。
>でも仏教から言えば彼は600万人分の殺人の報いは
>いつか必ず受けるのですよ。

ヒトラーが、自らの手で殺した人間というのは、多分、数えるほどだと…

それでも、仏教的には、600万人分の殺人の報いを受けるのでしょうか?
107名無しさん :2001/05/11(金) 17:36
>>106
>ヒトラーが、自らの手で殺した人間というのは、多分、数えるほどだと…

>それでも、仏教的には、600万人分の殺人の報いを受けるのでしょうか?

仏教では生き物を殺す(人間だけではありません)ことを殺生罪といいますが、
殺生罪には@自殺A他殺B随喜同業の3種があります。自殺とは自らの手で殺す
こと。他殺とは他人に命じて殺すこと。随喜同業とは第3者が殺しているのを見
て楽しむ心がある状態で、この3つはすべて同罪であるとします。
3番目は仏教独特ですが2番目は法律の殺人罪にもあてはまります。
ヒトラーが大量殺人を行ったことはこの世の法から見てもそうですし、
仏教から見ても多大な殺生罪ですから、必ず報いを受けます。
>>93 名前:名無しさん@1周年
>ホントに?
    <疑い深いのね。人間は信じることも大事。疑いはもっと気が利いたところに挟んでね(笑)。>

>曲解になってたよ。(笑)   <単なる見解の相違でしょう>

>この問題提起も、大切なものだと思われ。。どうよ?

 動物園に幼稚園生でも引率する折りがあれば、そのとき子供達に話してあげてくださいな。きっと喜ぶでしょう。
 「動物たちは人間を檻の中に入れないのに、人間はどうして動物を檻の中に入れるんですか」と逆質問する園児がいれば、それは末恐ろしい天才児ですよ(笑)。

>「なぜ人を殺しては逝けないのか?」の答えが、そっぽ向かれるものになるだけ。その点、大丈夫?ちょっと心配。

 偽られているようなものがないのにそっぽ向くとすれば、最初からそっぽ向いてた人でしょう。
>偽名に対するヒステリックな削除依頼も、以後、慎むよね?

 自然法と実証主義との関係も分からんような人には問題の重要性は理解できないでしょう。
 世の中には社会的に影響の大きい事業をしている人がいる。そういう人でも、社会認識の程度が低い人はいる。社会的な影響は小さいけど、社会認識の程度が非常に高い人もいる。2茶の運営は、インターネットの時代、社会的に影響の大きい事業だと僕は思う。でも、その運営者は、社会認識の程度が低い人のようだ。人権とか、自由とか、著作権とかについての認識度が低い。それならそれで、こちらもそのつもりでいないといけない。
 僕は裁判で争うつもりはないけど、著名人の中には自分の社会的信用性を、金を使っても守ろうとする人は多いだろう。文句のある奴は訴状を送ってきて欲しいという記述があった。背中に棒を刺したような態度は、いずれ行き詰まるでしょう。

>板の恥になるかと心配してたんだ。(笑)。
    <そんな心配は、自然法と実証主義との関係が分かるような常識を身につけてからにしなさいよ(笑)。>

>違うと思うぞ。    <(笑)>
>>94 名前:78
>俺は、教科書的には「自然法」を使うけど、法の適用場面を見るに、「法実証主義」に近いと認識してるぞ。法の実務関係では、こっちの方が多いかも…、

 「自然法」と「法実証主義」とは、対立する概念ではありません。「法実証主義」の基盤にある原理が自然法です。「法実証主義」の適用があればそこでは「自然法」も適用されています。
 法の実務では、人を殺すことは善か悪かというようなことは問題になりません。人を殺すことは悪であることは当たり前だからです。だから、たとば殺人事件では、誰が犯したか、故意はあるのか無いのかというようなことが問題になるのです。現行法体系上で自然法は憲法に置き換わっています。自然法に反する規定が憲法に記載されていれば大問題ですが、その点を問題にする人はいないようです。仮に、自然法に反する規定が憲法にあっても、その場合は自然法に沿って憲法を解釈すればいいわけです。たしか、日照環境権訴訟では自然法が問題になったという話を聞いたような気がします(記憶違いならごめんなさい。判例に詳しい人がいれば教えてください)。
 法の実務関係では「法実証主義」が尊重されて当然です。「自然法」は、「法実証主義」に合理的な論拠を与える基盤です。「自然法」があるから「法実証主義」が正当性をもつと言うべきでしょう。

>その"オリジナリティー"から、今後、どう展開していくのか、楽しみにしてるよ。
        <ファンの方が増えてくださるのは嬉しいです。>
>>95 名前:ふろ
>三省堂の国語辞典によると、倫理とは「行動の規範としての道徳観や善悪の基準」とあります。しかしこの基準とはどのように決められたものなのでしょうか。

そのようなことは僕に聞かないで、三省堂に聞けばいいんじゃないですか。私は三省堂ではありません。

>倫理とは永久不変のものと認識されているのでしょうか?

 考えたことがありません。長い時間経ったけど、結果的に変わることがなかったという倫理はあるかもしれません。倫理も一種の価値観でしょう。価値観は時代、社会などに応じて変化すると思います。寿命の長い価値観というものはあるでしょう。

>私としましては倫理とは移り変わるものと捉え、「殺人は悪」という認識は全人類が共通に永久不変に持ち続けているものだと考えています。ですから生物学上で捉えるのが最適かと考えた次第でございます。

 「殺人は悪」というのは倫理ではない? 全人類が共通に永久不変に持ち続けている? それなら、世の中にどうして殺人事件が起こるのでしょうか? 「殺人は悪」という認識があれば、殺人を犯しても倫理には反しないということでしょうか。御主張の真意が伝わってきません。
>>96 名前:ふろ
>確かに、どうもなりませぬ。
      ?? 
   <拍子抜け (^^ゞポリポリ 議論はもう少しまともかと思った(笑)>

>しかし私は「人を殺してはいけない」という人類共通の認識(と信じる)はどこから来るものなのだろうかということが知りたい。

 御自分で御研究なさったらいかがですか。

>私としてはそれは先天的に持っているものだと考える。

 先天的に持っていたら何がどうなるのでしょうか? これまた「どうもなりませぬ」ということですか?何を仰りたいのか、お心が伝わってきません。

>そういうリミッタを生物は元来備え持っているのではないかと思う。

  人殺しをしない聖者のような猫、人殺しをしない聖者のようなザリガニ、そんなものに僕は関心がない。自分に関係ないことなら、水泳客を追いかけるジョーズなどに興味を持つ。
 鮫は共食いする。共食いする鮫より、ザリガニの方が偉いのかしら?御主張の真意が伝わってきません。
>>97 名前:名のある名無しさん

>迷惑がかかるでしょ。

 ひと思いに殺してしまえば迷惑と感じる主体もなくなるんで、迷惑がかかるということはないということも、机の上で理屈だけ動かせば言えてくるんじゃない?
 迷惑と感じる主体もなくなると考えても、やはり人を殺すことは悪いこと。それは何故かということでしょう。

>自分が他人にされていやなことは、他人にもしてはいけないからですよ。

 自分が他人にされていやなことは、他人にもしてはいけないというのは道徳律でしょう。この道徳律はどこに依拠するの?自然権を認めれば説明はつく。自然権思想は、ギリシャ哲学が起源らしいけど、キリスト教思想となじみがいい。クリスチャンならば論理は一貫する。神の存在を否定すれば、自然権は正当性の主張が苦しくなる。僕は、神の存在を前提にしないで殺人を弾劾できる議論を考えたい。
>>101 名前:名無しさん@1周年
>ありがとうございました。 複雑で、理解できるかどうか…(^^ゞ
   <「理解できるかどうか…」いやはや同感です(苦笑)>

>殺人を犯した後に、「良心の呵責」を受けない人はいないと思っています。

 「良心の呵責」を受けない人はいるかいないか、僕は分かりません。
 「良心の呵責」を受けても、やはり殺すべきだと思う人はいるでしょう。
 「良心の呵責」を受けてもやっぱり殺してよかったと思う人もいるでしょう。
 「良心の呵責」を恐れて殺さなかったのは自分の一生の不覚だったと、殺さなかったことで「良心の呵責」に悩む人もいるでしょう。
 平清盛は坊さんだった。幼い頼朝・義経に深情けをかけたため、逆に一族は悲劇を受けた。戦いの勝者は女子供も含めて敗者一族を皆殺しにするのがいくさの常道です。皆殺しにしなければ「良心の呵責」を受ける。

>当人は、必ず、受けるものだと思っています。
        <そうだといいですね。>

>故に、「心の働きを失う」のは、必ず起こると確信しています。
        <確信することだけはどなたも自由でしょう。>
>>103>>106-107

 ま、ヒットラー一人がどんな報いを受けるのか僕は知らんが、ヒットラー一人が今頃どんな報いを受けても、殺された600万人の悔しさ、600万人を囲むそれ以上の多くの人々の悲しさ、これらには全く関係ないでしょう。ヒットラー一人が何か報いを受けていると考えれば、2茶の愛好者の一時しのぎの溜飲をさげるかも知れない。死んだ人の大きな悲しさがいささかなりとも軽くなるなんてことは絶対にないでしょう。
 ヒットラー一人がどんな報いを受けるのかどうか、僕は知らない。ヒットラー一人にどんな報いがあるのかどうかも僕は知らない。でも、ヒットラー一人の出現を許してしまった人類は、その結果に対して永劫に渡って報いを受ける。人類は、もしあの悲劇を今後の教訓にしなければ、亡くなっていった無数の魂達の悲しさ、悔しさを、二倍にも、三倍にも膨らますことになる。僕らの責任は重大であり、僕らはそういう報いを受けている。僕らはそのことを忘れてはいけない。ユダヤ人虐殺は、ヒットラー一人の報いの問題ではない。問題を矮小化すれば、人類は永劫に渡って犠牲者からの悲しさに晒されるだろう。
 原爆、東京大空襲、南京虐殺、日本軍の玉砕、731部隊の悪魔の飽食、思い半ばでうめきながら死んでいった数限りない魂達の思いを僕らがきちんと受け止めなければ、人類は益々とんでもないことになる。きちんと受け止めなければ、人類は益々とんでもないことになっていく。人類はそういう報いを受けている。僕はそう感じます。
 ヒットラー一人がどんな報いを受けるのかどうか、僕は知らない。でも、僕はキリスト教徒に問いたい。彼らは、ヒットラーの行為から何を学んでいるんだろうか、と。クリスチャンは、二千年もの間、磔のイエス像を団結のシンボルにしてきた。あれは反ユダヤ主義のシンボルだ。つまり、ユダヤ教という一宗教宗派に向けたキリスト教徒の復讐のシンボルだ。磔のイエスを団結のシンボルから外さない限り、キリスト教徒とユダヤ教徒の確執は永久に止まることはない。現代の人類はそういう報いを受けていると僕は考える。
116名無しさん:2001/05/11(金) 19:05
みなさん、ショーペンハウエル「自殺について」をよみなさい。
117名無しさん :2001/05/11(金) 19:38
>>115
ヒトラーの出現を許してしまったのは人類社会の責任だ。という論点はよく
きかれますが、それだけでは「殺人」という行為にひそむ狂気を正しく分析
することはできないと思います。確かに人間社会の努力によりそういう行為
を起こりにくくすることはできますし必要です。ただ社会がどう変わろうと
努力しようと、「殺人」を犯す者は跡を絶たないと思うし、それは殺人する
もの本人に原因があるからです。殺人者とその受ける結果を正見すること、
それは全人類ひとりひとりが自ずから殺人という行為の根を見ることにつなが
る事だと思いますが・・・
118God"The Great":2001/05/11(金) 19:45
>>1
俺が、そう決めたからだ、
このばか。
119精神科医:2001/05/11(金) 22:35
>God"The Great"

 あらあら、また病院から抜け出てきちゃったのね。早く戻ってきなさい。
 治療は終わってないのよ。 
 人を殺してはいけない。常識的に考えれば、根拠は自然法に基づく。人を殺してはいけないというのは当たり前の話であり、議論以前の考えだ。こういう論法はギリシャ哲学に発する。ギリシャ哲学は幾何学を発展させた。幾何学は、論証不用の公理から定理を導き、定理から諸法則を説明する。憲法は言う。「全世界の国民は、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」。国民は、ひとしく恐怖から免れる権利を有するなら、人を殺す行為は罪悪である。人を殺す行為は、人を恐怖に陥れる行為であるからと言ってよいだろう。
 憲法は言う。「その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理」であると。議論の出発点となる公理は永久不変である。普遍の原理性こそ自然権の本質的な要素だろう。普遍性は神に由来する。自然権は神に由来する。ジョーン・ロック(1632〜1704)は、自然権が神に由来すると考えている。自然権は、万物の創造主に由来すると考えたとき、普遍の原理となる。
 現代における人類普遍の原理はいつごろ生まれたものか。
「<自然のままの状態は>自由の状態ではあっても、放縦の状態ではない。この状態にある人間は、自分の進退あるいは所有物を処理する制御しにくい自由をもっているが、自分自身を滅ぼす自由は持たないのであり、みずから所有するどのような被造物でも、それをただ保存することよりもより高尚な利用の途がそれを要求しないかぎり、その被造物を滅ぼす自由はもたないのである。自然のままの状態を支配するものは自然法であって、その法は万人を拘束している。そして自然法と同一であるところの理性は、それの指示を求めようとする全ての人間に、あらゆる人が平等で独立である故に、誰もが他人の生命、健康、自由、所有物に害を与えてはならない、ということを教えるのである」<なぜなら我々は全て神の財産であるから>≪アメリカ独立宣言  バートランドラッセル(西洋哲学史)加筆≫。
 現代の実質的な人類普遍の原理は、名誉革命(1688)、アメリカ独立戦争(1778)、フランス革命(1799)の時代に発しているようである。ロックは、イギリス名誉革命の精神的支柱となる。自然権は神によって制定され、その道徳律は聖書の中に見いだされる。ロックはそう考えている。我が国でこうした考えは、明治期に人権天賦説として自由民権運動を引き起こし、現行憲法の基礎として成文化した。
 それでは、人類普遍の原理は、近代以前、どのように考えられていたか。人類普遍の原理とは、高利貸しを断罪する原理であったようだ。シェクスピア(1616)が書いたベニスの商人は、当時の人類普遍の原理に基づいていた戯曲である。当時、教会の財産は土地であり、土地所有者は債権者であるよりも債務者であった。高利貸しは、教会にとって都合の悪い存在だったからだ。人類普遍の原理が変貌してきたのは、労働を重視するプロテスタント運動特にカルビン派の主張からだ。無論、現代では、カトリックといえども、銀行業を罪悪視する考えはない。
 現代における人類普遍の原理は、聖書から導けるのか。ロックは説く。「他人の血を流させる者は、他人によって己の血も流されるべし」と。これは正当防衛の論理である。「泥棒が私の財産を盗んでいればその泥棒を殺してもいい」という。現代では過剰防衛として認められない範囲も、正当防衛として認める。こうした考えは聖書から導けるか。
 新約聖書は言う。「悪しき者に抵抗(テムカ)ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。汝を訴へて下着を取らんとする者には、上衣をも取らせよ(マタイ5-39)」。人類普遍の原理は、少なくとも新約聖書から導かれる概念ではない。むしろ旧約聖書の世界だろう。しかし、旧約聖書の神は、アダムを共通の先祖とするユダヤ民族の氏神だ。異邦人に対しては殺戮を命じる。ユダヤ民族の氏神が普遍的な神になるには、イエスとパウロを媒介としなければならない。
 結局、人類普遍の原理は、様々に変貌してきた便宜的説明手法と言えないだろうか。世界史が前近代から近代に移行する際、革命家達にとって、旧体制者を殺戮することは許容されなければならなかった。新体制者を殺戮することは禁じられなければならなかった。人類普遍の原理とは、革命家達の自己保存と革命完結に向けての説明的概念だったのではないか。そう考えれば、今日において、自然権とは、現代体制を維持するための説明的概念とは言えないか。普遍の原理性は、本質的に虚構ではないだろうか。僕はそのように疑問を提起したい。
 では、人を殺してはならないと言う原理も、結局は現代体制を維持するための説明的概念から導かれるものか。仏教思想に聞いてみたい。
123名無のななし:2001/05/13(日) 02:12
>1
人の命は何よりも大切なものですからね、人を殺してはいけないのですよ。
わかりましたか、このスットコドッコイ。アンポンタン。
124名無しさん :2001/05/13(日) 11:12
>>123
     もしかしてこいつも坊主? (アハハ)
125名無しさん:2001/05/13(日) 13:51
>124
はずれ。おまえウジムシ。ハハハ。
126暇人:2001/05/13(日) 13:59
人を殺してはいけない理由
1.因果応報により自分も殺されるから
2.相手の痛みを思い知ると倫理的にできないから
3.軍隊同士の戦闘を除いては法で禁止されているから
4.罪無き人を殺したら祟られるから(水子供養)
しかし、これらの論理では説明できない事実が歴史上にたくさんある。例えば、
米国開拓時には罪無きインディアンが多数殺された。もちろん、アパッチ族等との
正当な戦争や、疫病の蔓延によりインディアンが自然と減った事実もあるが、民間の
罪無きインディアンの大量虐殺の事実は消えない。さて、これらによりアングロサクソンが
因果応報によりその後途絶えたか?これらの虐殺を行いつつ日曜には教会に行っていた
アングロサクソンは本当に相手の痛みを知ったのか?法で殺人は禁止されていたが、
にもかかわらずゴールドラッシュ時には法を侵した殺人がまかり通っていたではないか。
また、彼らは祟りを受けただろうか?
私が疑問に思うことは?
子供「どうして人を殺しちゃいけないの?」
親「それは○○だからだよ」
子供「じゃあ、インディアンの虐殺をした人たちはどうなるの?」
と問われた時に、矛盾が生じるのではないかということだ。
127坊主です:2001/05/13(日) 14:04
日本の悠久の歴史を振り返ってみても、1のような、「人を殺して何が悪いか・・」
などとという質問がまことしやかにおこなわれている時代があっただろうか。
戦争をしている時代ではないのだから、気をたしかに持ってくださいね。
1みたいのが通り魔事件を起こすのではないでしょうか。
いちど精神科へいってから、懺悔して後に出直してくる事をお勧めします。
128あなたのうしろに名無しさんが・・・:2001/05/13(日) 14:09
考えてみれば1のレスは可笑しいですよね。
まともにつきあえませんね、どう考えてもね。

よって、1は逝ってよし。sage
129うしろに名無しさんが・・・:2001/05/13(日) 14:11
1は通り魔の可能性あり。
警察に通報して尾行をつけてください。
130名無しさんが・・・:2001/05/13(日) 14:29
1の人を殺して何がわるいか・・って狂ってるわねこの人。
きもちわるー。
131名無しさん:2001/05/13(日) 14:32
人を殺していけないのと言うくらいだから、この人もう人を殺してるんじゃない?
やっば警察に知らせたほうがいいよ。
132名無しさん@1周年:2001/05/13(日) 17:01
人を殺すなという良心の命令は、経験に根ざすのではなく、
生物的本能とでもいうべき内的なものなのです。
それがなぜ今になって、あたりまえのことを疑問視するようになったのか?

それは、人間が増えすぎた為なのです。
あまりにも人間が増えすぎたために、人間種が持つ自己調整機能が働き、
自滅するようにスイッチが入ってしまったのです。

人類はいずれ殺し合いをはじめ、人類は激減するでしょう。
この状態を回避するには、なぜ人を殺してはいけないか、
その理由を、生物学的若しくは良心の要求レベルではなく、
理性によりさらに強固に意味付けし、意志の力で守っていくしかありません。

いまここで、自省してみてください。
自分に問い掛けてみてください。
なぜ、人を殺してはいけないかと。

おやおや、人を殺してはいけないという合理的でかつ理性的な理由が
あなたの中には見当たらないようですね。
そんなことをわざわざ考えるなど、ばかばかしいですって?
既に自滅のスイッチがオンになっているように思われます。

人類に残されているのは、理性をもって破局を耐え抜くか、
それとも、動物のように生物的本能に流されるまま自滅の運命を受け入れるのか
そのどちらかです。

あなたは、生き残りか自滅か、どちらの道を選びますか?
 多忙のため、2,3日休みます。
134じじ:2001/05/13(日) 18:27
ショーペンハウエル「自殺について」
135名無し:2001/05/14(月) 01:11
>132
それって何教ですか。あなたの話はいつもわからない。よってsage。
136名無しさん@1周年:2001/05/14(月) 21:44
AGE
137名無しさん@1周年:2001/05/15(火) 21:09
う〜ん、久し振りのレスだ。。。
よって、亀レス失礼。。

>>109 渡海難
>そんな心配は、自然法と実証主義との関係が分かるような常識を身につけて
>からにしなさいよ(笑)。
ああ、良かった。。常識的な見解を見に付けている俺は、渡海難の恥臭さを
ヴァカにしても良いということだね。。。と、煽りたいところだけど、
あんた、また出た偽者を放置したろ?。。。なら、煽る必要もない。。。
浄土真宗系スレでの煽りって、なんであんなに見苦しいの?教えてよ。(^^)

>>112 渡海難
>拍子抜け (^^ゞポリポリ 議論はもう少しまともかと思った(笑)
俺も。。(^^ゞ。今回は、免疫系からのアプローチは止めとくよ。。
138名無しさん@1周年:2001/05/15(火) 21:10
>>114 渡海難
俺の答えは、「良心の呵責」と「社会的制裁」をセットで頼むわ。。。

>「良心の呵責」を受けない人はいるかいないか、僕は分かりません。
俺には、分かります。受けます。。

>「良心の呵責」を受けても、やはり殺すべきだと思う人はいるでしょう。
いるでしょう。。そして、「心の働きを失うでしょう」。
「心の働きを失う」というのがどういうものか、先に肌身で分かっていれば、
殺すべきだという判断にはならないだろうけどね。。。

>「良心の呵責」を受けてもやっぱり殺してよかったと思う人もいるでしょう。
短期的にはいるでしょうね。。ただ、長期的にはいないと思われ。。。

>「良心の呵責」を恐れて殺さなかったのは自分の一生の不覚だったと、
>殺さなかったことで「良心の呵責」に悩む人もいるでしょう。
そして「良心の呵責」というものがどういうものかを知るとき、
彼は殺さずに良かったと「良心」に感謝すると思われ。。

>確信することだけはどなたも自由でしょう。
自由なだけでなく、自分の生に自負もできますしね。。
客観的妥当性のとれる答えに巡りあって、良かったと安堵してるよ。。。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」の答えを持ってないということは、
そいつに自分の命の価値を否定されてるということだからね。。。


139名無しさん@1周年:2001/05/15(火) 21:30
>>115 渡海難
>ユダヤ人虐殺は、ヒットラー一人の報いの問題ではない。
>問題を矮小化すれば、人類は永劫に渡って犠牲者からの
>悲しさに晒されるだろう。

珍しく同感だね。。。
ヒトラーが1人で、ナチスを作り、戦争を引き起こし、ユダヤ人の
虐殺を行なったというのは、とんでもないイメージだと思う。。
ヒトラーが何かスケープゴードになってしまう危惧がある。。。

例え、独裁者が支持したにしろ、個々が、それに抗う必要があるだけ。。

それは、日本の戦争にしても同じ。。
戦争から得た教訓と称されるものが、あまりにも情感的に流れ過ぎて、
まともな分析が行なわれてこなかったような気がする。。
結果、戦争などなかったかのよう。。。

なら現代で、それができるのかと言えば、無理だと思われ。。
なんしか「なぜ人を殺してはいけないのか?」なんてことを聞く
ガキが大量?発生してる社会なのだから。。。

日本の場合、「なぜ人を殺してはいけないのか?」「なぜ戦争は起き
たのか?」「なぜ戦争はいけないのか?」という問いかけを考えるとき、
極東軍事裁判までは遡る必要があると思われ。。。
140あなたのうしろに名無しさんが・・・:2001/05/15(火) 23:07
>139
相変わらず、何いってんのかわかりませーん。
141>140:2001/05/15(火) 23:40
頭を使って考えようね。
142名無しさん@無宗教:2001/05/16(水) 04:51
横レス&亀レス失礼しますー。

>>42さん、まだいるかな?「なんつースレじゃ、ゴルァ!」と思いながら
通りすがりにレスしてしまい、その後きれいさっぱり忘れてました。
決めつけって、すごく嫌ですよね。本当にごめんなさい。私も同意です。
叱ってくれてありがとう。(モララー付きがチョト嬉しかったんでスマソです。)
心からお詫びします。逝きます。
143無明:2001/05/16(水) 12:55
ちょっと感じたことを
特に「何でこんな当たり前のことを論議してるんだ」的発言の方々に
それでは「命を奪う」ということに対しての解釈はどうなんでしょう。
大概の宗教の一面として、人類が調和して共栄できるような基準を設けることで
罪刑法定主義に頼らない、いわゆる倫理の基礎になる働きがあると思います。
そうしたある意味、一種の科学によって、今までに見かけ上、人類は大繁栄を成し遂げました。
ところが、それが今や共倒れの危険にさらされています。
ここ数年、幸いにも世界の食糧の供給状態は非常に良好な状況にありますが、
もし、今後に3年続けて米国の穀物生産が半減するような事態があればどうなるでしょうね。
また、ヒトとヒトでないものの区別がつきにくいものを作ることが可能になっています。
(それとは別にに中絶等の例で、どこまでが命なのかという区別とかも論じられますが)
うんと長い目で見れば、いつか人類も外因的な絶滅するのは宿命でしょうが、
防ぐ手だてがあるのに防がずに成り行き任せで滅ぶのと、
何か考えて、最後まで悪あがきをするのと、どちらがよいのか考える時期に
さしかかっているのではないかと思うのです。
その点でこれは自殺の話に通じるものがあります。
善悪の定義は個人の問題と思うので是非には言及しませんが、
人間の命だけが中心の考えは、今の状況を考えると、自殺的ではあると思います。

通りがかりで斜め読みですが、既出でしたらすみません。
http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
 <渡海 難を名乗る偽物が横行していますので、しばらくの間、やや見苦しい標題を付けています。ご了承ください>

>>137 名前:名無しさん@1周年
>浄土真宗系スレでの煽りって、なんであんなに見苦しいの?教えてよ。(^^)

 しょうがない。プロのまともな人材がいない世界だということなんでしょう(笑)。

>俺の答えは、「良心の呵責」と「社会的制裁」をセットで頼むわ。。。
  ???
 人を殺してはいけない。日本人によるもので最も古い記録は律令ではないかと、個人的には思います。律令以前に、我が国の倫理規範としては聖徳太子の十七条の憲法があります。しかし、十七条の憲法には、正面切った直接的な記述として、人を殺してはいけないという規範はありません。間接的、背景的な思想としては感じられますが、直接的な記述は、律令からではないかと思います。
 しかし、律令発足当時、律令がどの程度国家規範として実質的機能を持っていたかよく分かりません。人を殺してはいけないという倫理規範は、鑑真和上と梵網経の来朝によって日本に根付いたものではないでしょうか。その意味で梵網経は、我が国の倫理規範として極めて重要な位置にあると想像します。なお付け加えれば、人を殺してはいけないという記述は、我が国では、自然権が自覚されるよりずっと以前から存在していたわけです。
 梵網経は十重四十八軽戒の先頭、第一重戒で殺生戒を説きます。
 「仏の言はく、「仏子、若(なんじ)自(みずか)ら殺し、人に教えて殺さしめ、方便して殺すことを讃歎し、作(な)すを見て随喜し、乃至、呪(じゅ)して殺さば、殺の因・殺の縁・殺の法・殺の業あり。乃至、一切の命ある者は、故(ことさ)らに殺すことを得ざれ。これ菩薩は、応に常住の慈悲心・孝順心を起し、方便して一切の衆生を救護(くご)すべし。しかるに自ら心を恣(ほしいまま)にし、意を快くして殺生せば、これ菩薩の波羅夷(はらい)罪なり」
 ここで注目すべきなのは、「故(ことさ)らに殺すことを得ざれ」つまり故意による殺生を禁止しているということでしょう。さらに、生きているもの全てを対象とします。人間に限定していないということも大事だと思います。
 それでは、この戒律を破ったらどうなるのか。梵網経は制裁については触れていません。梵網戒はどうあるべきものなのか。結文をみます。
 「菩薩戒を受持する者は、応(まさ)に仏性常住の戒巻を受持し読誦し解説し書写して、三世一切の衆生に流通し化化絶えざらしむべし。千仏に見(まみ)ゆることを得、仏仏、手を授け、世世、悪道・八難に堕せず、常に人道・天中に生ぜん。」
 つまり、戒巻の受持・読誦・解説・書写・流通という行為を要求しています。受持・読誦・解説・書写・流通という行為をすれば、悪道・八難に堕ちないといいます。
 次に、親鸞が書いた教行信証の中から注目すべき記述を紹介し、さらに往生要集を紹介しながら、日本浄土教というものの中での殺人観について試論を考察したいと思います。
147名無し@ななし:2001/05/16(水) 22:24
渡海 難さんへ、

まだレスほとんど読んでいないので、失礼な質問になるかもしれませんが、

「死刑制度」については、どのように考えておられますか?

148うしろに名無しさんが・・・:2001/05/16(水) 23:58
>141
俺も139の話しは良くわかんないよ。
あげたり、下げたり、煽ったりの連続だから、一人5役くらいやってんじゃ。
どこのレスも荒らしてるだろう、名無しさん@1周年は。
もう見え見えなんだよ。
149名無しさん@1周年:2001/05/17(木) 05:29
42>>142 名無しさん@無宗教さん

ひつこく、いまーす。
「なんつースレじゃ、ゴルァ!」、同感です。。。
イラツクんですよね、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問には…。

この質問は、聞かずとも分かるか、理屈を捏ね回すかのどちらかになると思う。理屈を捏ね回してる奴は、たいていの場合、答えが「分かんない」て言ってると思う。その点は、決めつけられても、仕方がないかも。。

けれど、今の社会は、ただ単にガキの挑発的な「なぜ人を殺していけないのか?」と、頭から答えの分かっている(言葉にはそうそうできない)大人が本気で答えるための「なぜ人を殺してはいけないのか?」が混在してるんだと思う。
渡海難氏や、俺が、このスレに出入りするのは、もちろん後者(そうだよね?>渡海難氏)。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」、その納得いく答えが、どう流布するかで、この国で生きていくときの「生」を見るアングルができると思う。相手方主体の答えなのか?自分方主体の答えなのか? 人の命・気持ちを大切にしなさい(和をもって尊びとなし形式)、自分が壊れるから(「罪と罰」形式)なのか。渡海難氏は、絶対普遍の答えを求めてるようで…。俺は、民族の域を超える普遍性は実感として無理だし、その域を超える普遍的な答えは希薄化してしまうと思ってる。
そんな点に、このスレの議論に楽しみを見出そうと思う。
150名無しさん@1周年:2001/05/17(木) 05:29
>>144-146 渡海難氏

>十七条の憲法には、正面切った直接的な記述として、人を殺してはいけないという規範はありません。間接的、背景的な思想としては感じられますが、直接的な記述は、律令からではないかと思います。

ここ、十七条の憲法に、接的、背景的な思想しかないことを渡海難氏がどう理解しているのか、もう少し説明が欲しいな。すごく重要なところだと思う。

>人を殺してはいけないという記述は、我が国では、自然権が自覚される
>よりずっと以前から存在していたわけです。

いつ日本で自然権が自覚されたと考えているの? 興味あり。
説明が欲しい。。時期尚早なら、スマソ。。。

>(人を殺しても)受持・読誦・解説・書写・流通という行為をすれば、悪道・八難に堕ちないといいます。

酷いなぁ…、そんなことが教えにあんのかよ。教行信証の方に期待!

>偽者の出現について

今の渡海難氏のHNでも、書いてあるものを見れば、本人かどうかは分かる(内容がダンチ)。けど、今のHNなら、コピペしたら、全く同じHNにできるんだよね。だから、(そうだ!浄土通信を読もう)の部分は本文に入れて、IP表示を進めるよ。それなら、少し慣れれば一見して分かるからよ。第三者の視点でした。。。
151名無しさん@無宗教:2001/05/17(木) 21:45
>149さん、わざわざお返事どうもです。
私が見たときは、後者として語られてたまっ最中だったんですねー。
ほんとに、その節は失礼しました。
149さんに同意で、やり方によってはこのスレも活きるんですよね。
早まりました。(汗

問うかい灘さん、
私もよくお見かけしてましたが、IP表示おすすめします。
せっかくのご意見も説得力ないですよ。
(そうだ!浄土通信を見よう<http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/>)

>>147 名前:名無し@ななし
>「死刑制度」については、どのように考えておられますか?

 原則肯定論。

>>149名前:名無しさん@1周年
>渡海難氏や、俺が、このスレに出入りするのは、もちろん後者

 最近、非常に殺人事件が多い。痛ましい限りです。人を殺しちゃいけない。このことを次の世代にきちんと伝えていくことは、今の僕ら大人世代の義務だと思う。僕は、僕らに伝えられてきていたはずのこの重要な価値観を、確実に次の世代に伝えていかなければいけない。僕は、この場を借りて自分の世代の義務をすこしばかりでも果たしたいと思っています。

>>150 名前:名無しさん@1周年

>もう少し説明が欲しいな。すごく重要なところだと思う。

 僕は専門家じゃないので十七条の憲法関係の資料はほとんど持っていません。乏しくても揃えられ得る資料をまず全て明らかにし、私見は、その資料から推論を重ねて展開します。今は資料を明らかにしている段階です。

>いつ日本で自然権が自覚されたと考えているの? 興味あり。

 明治期に紹介され、一般化したのは戦後のことだろうと思います。ただし、法律を専門に勉強した人や、西洋哲学を勉強した人などは御存じだろうと思いますが、それ以外の人々は、今でもまだなじみがないのじゃないかと思います。ただ、これは重要な思想です。

>>151
 表示方法は試行錯誤です。困ったもんです(苦笑)。
(そうだ!浄土通信を見よう<http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/>)

 AGE <続きは、明日の夜以降になります。>
154名無しさん:2001/05/19(土) 00:38
人を殺してもいいんじやないの、とくに1の名無しさん@1周年さんは即死刑です。
 (そうだ!浄土通信を見よう<http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/>)

先に往生要集を見たい。

 「等活地獄は、このわたしたちの住む世界の地下、一千由旬(由旬:距離の単位。一説によると14.4キロメートルともいう)のところにあって、縦横の広さが一万由旬である。…ここには人を殺した人が堕ちる。
 この地獄の四つの門のそとには、これに付属した十六の特別な場所がある。第一は屎泥処といって、極熱の糞がドブ泥になっている。…むかし、鹿や鳥を殺した者がこのなかに堕ちる。
 第二は刀輪処という。…むかし、物をむさぼり、生き物を殺した者がこのなかに堕ちる。…。
 黒縄地獄は、… 生き物を殺し、盗みを働いた者が堕ちる。 … 。(往生要集 東洋文庫 平凡社)」

 親鸞は、教行信証の信の巻で、涅槃経から阿闍世物語を引用している。
 かつてインドにマカダ国という大きな国があった。マカダ国の国王を阿闍世という。阿闍世は、先王の頻婆娑羅(びんばしゃら)の一人息子だった。阿闍世は、父を殺し、母を幽閉し、クーデターによって王位に就いた。やがて阿闍世は父を殺したことに悔いの念を抱き始め、病気になる。
 当時、マカダ国には七人の名医がいた。各名医に心惹かれる賢人弟子達が阿闍世の回りにいた。その一人に耆婆という人物がいた。阿闍世は耆婆に言う。
 我が父法王、法のごとく国を治む、実に辜(つみ)なし。横に悪逆を加す、魚の陸に処するがごとし。乃至 我昔かつて智者説きて言うことを聞きき、身口意業もし清浄ならずは当に知るべし、この人必ず地獄に堕せん、と。我またかくのごとし。いかんぞ当に安穏に眠ることを得べきや。今我また無上の大医なし、法薬を演説せんに、我が病苦を除きてんや。

「自分の父王は、正しく国を治めていた。間違ったことはしていなかった。自分は間違った考えで叛乱を起こした。魚を陸に引き揚げるようなことを行った。その昔、ある賢人が言っていた。行為と発言と意思を正さなければ、人はやがて必ずや地獄に堕ちると。自分はまさに見ての通りである。どうして安閑としていられようか。自分には自分を慰めてくれる医師はいない。正しい道理を語って今の自分の苦しみを除いて欲しい。」

 耆婆は、釈迦の元に行くように阿闍世に薦める。阿闍世は耆婆の進めに従って釈迦の元に行く。
 釈迦は次のように言う。
 大王、たとえば幻師の、四衢道の頭にして種種の男女・象馬・瓔珞・衣服を幻作するがごとし。愚痴の人は謂うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と思えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、たとえば山谷の響の声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂えり、有智の人はそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人の怨あるが詐り来りて親附するがごとし。愚痴の人は謂うて実に親しむとす、智者は了達すなわちそれ虚しく詐れりと知る。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂う、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人、鏡を執りて自ら面像を見るがごとし。愚痴の人は謂うて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂う、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、熱の時の炎のごとし。愚痴の人はこれはこれ水と謂わん、智者は了達してそれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂わん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人は謂うて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知せしめたまえり。大王、人の夢の中に五欲の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれを謂うて実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、殺法・殺業・殺者・殺果および解脱、我みなこれを了れり、すなわち罪あることなけん。王、殺を知るといえども、いかんぞ罪あらんや。大王、たとえば人主ありて酒を典れりと知れども、もしそれ飲まざればすなわちまた酔わざるがごとし。また火と知るといえども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといえども云何ぞ罪あらんや。大王、もろもろの衆生ありて、日の出ずる時において種種の罪を作る、月の出ずる時においてまた劫盗を行ぜん。日月出でざるに、すなわち罪を作らず。日月に因ってそれ罪を作らしむるといえども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。乃至
大王、たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといえども、慙愧の人はすなわちすなわち非有とす。無慙愧の人はすなわち非無とす。果報を受くる者、これを名づけて「有」とす。空見の人は、すなわち「非有」とす。有見の人は、すなわち「非無」とす。有有見の者は、また名づけて「有」とす。何をもってのゆえに、有有見の者は果報を得るがゆえに、無有見の者はすなわち果報なし。常見の人はすなわち「非有」とす。無常見の者はすなわち「非無」とす。常常見の者は「無」とすることを得ず。何をもってのゆえに、常常見の者は悪業果あるがゆえに、このゆえに常常見の者は「無」とすることを得ず。この義をもってのゆえに、非有非無にしてまたこれ有なりといえども、大王、それ「衆生」は出入の息に名づく、出入の息を断つがゆえに、名づけて「殺」とす。諸仏、俗に随いて、また説きて「殺」とす。乃至
(王、仏に白さく)世尊、我世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。我今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。「伊蘭子」は、我が身これなり。「栴檀樹」は、すなわちこれ我が心、無根の信なり。「無根」は、我初めて如来を恭敬せんことを知らず、法・僧を信ぜず、これを「無根」と名づく。世尊、我もし如来世尊に遇わずは、当に無量阿僧祇劫において、大地獄に在りて無量の苦を受くべし。我今仏を見たてまつる。これ仏を見るをもって得るところの功徳、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ、と。仏の言わく、「大王、善いかな、善いかな、我いま、汝必ずよく衆生の悪心を破壊することを知れり。」「世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。」その時に摩伽陀国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。かくのごときらの無量の人民、大心を発するをもってのゆえに、阿闍世王所有の重罪、すなわち微薄なることを得しむ。王および夫人、後宮・采女、ことごとくみな同じく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。その時に阿闍世王、耆婆に語りて言わまく、耆婆、我いま未だ死せざるにすでに天身を得たり。短命を捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ。

 釈迦の主張は、丁寧に検討していきたい。
160実習生さん:2001/05/19(土) 18:25
人を殺すと死体をかたずけるやくめの人が迷惑するから、
だからころすな。じさつもすんじゃねえ。
じぶんでかたずけやがれ!
161偽善者:2001/05/19(土) 18:28
>なぜ、殺人はいけないか?
それは殺人行為(尊厳死を除く)が、その人の最大の人権を剥奪・無視する行為
だからではないでしょうか?
162吾輩は名無しである:2001/05/19(土) 19:26
人殺すとねー、血が出てきて気持ち悪いでしょ〜。しかも変な体液も出てくるよ〜
そのままにしておくと気持ち悪いしさ。
だから殺したくないのよ。でも絞首刑のようにそんなに気持ち悪くないものは許容されるよ。
163偽善者:2001/05/19(土) 20:25
>>162
ですから、そういう人の人権を剥奪してしまうような人物は、
残念ながら、何らかの社会的制裁を下さないといけないのではないか?
と思います。
そうしなければ、また、他の人がそういう犯罪者によって人権を剥奪される(殺される)
だけですから。
164オマコしぁぶりこ:2001/05/19(土) 21:29
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
165名無しさん@1周年:2001/05/19(土) 21:38
>164
逝ってよーし!!!!
166爲善者:2001/05/19(土) 22:23
>>163
人権とは何だね?
そして
「人権を剥奪・無視する行為」ならば「おこなってはならない」
というロジックはどのように成立するのかね?
あなたの宗教におけるドグマかね?
さらに
「〜してはならない」
という言葉はあなたにとってどのような意味を持つのかね?
「〜してはならない」ならば「〜は起こらない」
というロジックが成立しない事は分かるだろう。
単に期待を表す言葉かね?
167162:2001/05/19(土) 22:32
人の体に刃物刺して臓物だらだら血いだらだら。
気持ち悪いことはしたくないただそれだけ。

日本の死刑も薬物注射にするか
168nyu:2001/05/19(土) 22:53
何で殺しちゃいけないかって、そりゃあ自分だって殺されたくないでしょ。
169名無しさん@1周年:2001/05/20(日) 23:38
>>151 名無しさん@無宗教さん

>後者として語られてたまっ最中だったんですねー。
>149さんに同意で、やり方によってはこのスレも活きるんですよね。

この観点で、このスレに書き込まれる回答もどきを見るとき、
この国、この社会の淋しさが見えて来るんじゃないでしょうか?
少なくとも、私はそうでしたし、それは現在進行形で進んでると思われ。

170名無しさん@1周年:2001/05/20(日) 23:39
>>155-159 渡海難氏

>釈迦の主張は、丁寧に検討していきたい。

原典を、原典そのままに読み、感じたところを大切にしようとする、
そんなスタンスはよく分かる。
けれど、人を殺してはいけない理由を問う子供には、少し難度が
高過ぎると思う。
この部分を引用した渡海難氏の1レス程度の意訳と、それをどう評価
しているのかが欲しいところ。。。頼めないかな?
171名無しさん@無宗教:2001/05/21(月) 01:30
テレホ突入2時間は、めちゃくちゃ重くないですかー?ここの板(汗

>この観点で、このスレに書き込まれる回答もどきを見るとき、
>この国、この社会の淋しさが見えて来るんじゃないでしょうか?
>少なくとも、私はそうでしたし、それは現在進行形で進んでると思われ。

同意ですが、しゃーないのかなー、とも思います。
ですが、見えないところで個々の変革も現在進行形なのではないでしょうか。
 (そうだ!浄土通信を見よう<http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/>)

>>170 名前:名無しさん@1周年
>人を殺してはいけない理由を問う子供には、少し難度が高過ぎると思う。

 御批判が出ることは予想していました。僕は、自分の手の内の全てを一度は明かしておきたかったんですよ。人殺しについて僕が議論するときのたたき台は、これが全てですという風に。

 人を殺してはなぜいけないのか。仏教学的にこれはかなり奥の深い難しいテーマです。難しいテーマを優しく考えることができるかどうかが、社会のオピニオンリーダであるか否かの分かれ目でしょう。
 親鸞が教行信証で引用している部分について、自分なりの考えを展開していきます。
 釈迦の殺人観で注目すべきなのは、話をする対象者によって釈迦は話の内容を変えているということにあると思います。これは一筋縄ではいかない。
 >>158を見て欲しい。釈迦は言う。「慙愧の人」とは「無慙愧の人」では話が異なる、と。ここの段落は原典の読み込みが非常に難しい。
 経典には、解釈が幾通りにも読める箇所が少なくない。現代の我々の規準で見るとかなり記載が粗雑だ。もともと経典は、寺に保管され、先生と一緒に読むものだ。書籍が書籍だけで独立して流通し、不特定多数者に読まれることは予想していない。教えは、先生の肉声が主である。経典は副である。そのため、書かれてある内容だけでは話が分かりにくい。釈迦の真意を汲みながら解釈していこう
 釈迦は言う。慙愧がある者には非有と説く。無慙愧の人には非無と説く。慙愧の有無で釈迦の話は百八十度異なってくる。議論としてここは抑えておく必要がある。ここでいう「有」とは、報いのことだ。つまり、慙愧がある者には報いはないと説くべきだ。。慙愧がない者には報いがあると説くべきだ。
 社会的に、殺人観については議論が分かれる。釈迦はそう説く。
 殺人観について論点は二つある。第一の論点について議論が分かれ、そこには空見論と有見論とがある。有見論は更に有有見論と無有見論とに分かれる。第二の論点についても議論が分かれ、そこには常見論と無常見と常常見論とがある。
 何が論点になっているか、経典の内容だけではよく分からない。おそらく、悪性論と報復論だろう。
 空見論者は悪性がないと説く。有見論者は悪性があると説く。なぜ悪性があるか。有有見論者は、報いがあるからだと説く。つまり、報いがあるから悪性であると説く。報いについて、無有見論者はないと説く。
 報いがあるのかないのかというのは、本質的には、悪性論とは別の扱いだ。常見論者は報いがないと説く。無常見論者は報いがあると説く。常常見論者は報いがあると説く。常見論は常住論に立つのだろう。変化というものを否定する。変化がなければ報いはない。無常見論者は無常に立つ。因果応報を肯定する。常常見論者は絶対に論に立つ。行為そのものが絶対的なものなら、必ずやそこには何らかの結果が起きる。そこで報いがあると言う。
 釈迦は何が言いたいのか。ひとつには、非常に議論が分かれているということだろう。結論的には、報いはあるとも無いとも言えない。報いはあるとも無いとも言えないが、自分はその上で敢えて報いはあると説く。敢えて報いはあると説きながら、今回は無いと説く。
 殺人には、悪性があるとも無いとも言えない。悪性があるとも無いとも言えないが、敢えて自分は悪性ありと説く。敢えて悪性ありと説きながら、今回は無いと説く。
 生きている者とは、息をしている者だ。出入りしている息を止めること、これを殺という。阿闍世は人を殺した。自分(釈迦)も、いちおう貴方(阿闍世)のことをそのように言う。しかし、殺したというのは、通俗的な人々に話を合わせているだけであって、今、自分は本心からそう思っているわけではない。
 釈迦の真意をまずこのように抑え、前の文章を読み、釈迦議論の狙いを考えていこう。
175無名:2001/05/21(月) 17:26
質問者、回答者共に、「なぜ?」や「いけない」の意味を
冷静に捉えなおすことをお勧めします。
端的に言って、議論の仕方から見ても間違ってるし、
教育的な方法論としても(応え方が)間違ってます。
176無名ふし:2001/05/22(火) 12:27
ゴルァ?
177名無しさん@1周年 :2001/05/23(水) 07:59
あげ
(そうだ!浄土通信を見よう<http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/>)

 大王、たとえば幻師(げんし)の、四衢道(しくどう)の頭(ほとり)にして種種の男女・象馬・瓔珞(ようらく)・衣服(えぶく)を幻作(げんさ)するがごとし。愚痴の人は謂(い)うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と思えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。

 なぜ人を殺してはいけないのか。では、人を殺してもいいのか。この問題の解決は難しい。難しいというとは、どうやら釈迦の時代に人々は既に気がついていたらしい。経典は、悟りの問題から考え方をシフトさせて議論している。言い換えれば、悟りの問題と同じくらい難しいのだ。経典はそう考えているらしい。
 幻師とは、大道手品師のようなものだろう。四衢道とは街の四つ角という意味らしい。手品師が、いろんな男女や動物、宝石、衣服を出したり引っ込めたりする。始めて見た人は、ホンモノの奇跡だと思う。分別のある人はまやかしだと思う。殺すという行為もこれに同じだ。分別がない人は、何か大変なことをしでかしたと思う。知恵ある人々は驚かない。
 人殺しは悪である。人を殺せば必ず報いがある。これが釈迦の通常時の主張だ。しかし、今ここでは敢えて人殺しは悪ではないと教える。報いは無いと教える。釈迦は阿闍世の慚愧を受け止め、慚愧のある者には、罪悪説、報復説を重ねて説くべきではないと考えている。
 大王、たとえば山谷の響の声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂えり、有智の人はそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。

 山の反響を聞くと、何も知らない人は、化け物か何かが出現したと思う。道理の分かっている人は、そのようなものの音ではないと理解する。殺すという行為もこれに同じだ。分別が無い人は、何か大変なことをしでかしたと思う。知恵ある人々は驚かない。

 大王、殺法・殺業・殺因・殺果および解脱、我みなこれを了れり、すなわち罪あることなけん。王、殺を知るといえども、いかんぞ罪あらんや。

 大王よ。釈迦は、生き物を殺す方法、殺すための具体的な手段、殺害に至らす基因、殺したことで生じる結果、これらをうち消す方法、全て認識している。全て認識しているからと言って、自分は殺人の罪を負う者ではない<板東本では、「殺因」は「殺者」になっているらしい。今回は教行信証講義 法蔵館 によった>。

 王もまたかくのごとし。また殺を知るといえども云何(いかん)ぞ罪あらんや。大王、もろもろの衆生ありて、日の出ずる時において種種の罪を作る、月の出ずる時においてまた劫盗(こうとう)を行ぜん。日月出でざるに、すなわち罪を作らず。日月に因ってそれ罪を作らしむるといえども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。

 王も同じようなものであろう。王が殺害について知見をもっていても、それだけでは何ら罪にはならない。犯罪は、通常、手元が明るいときに犯す。強盗は月夜の晩に行う。太陽も月も出なければ、人は犯罪を犯さない。太陽や月が出たときに犯罪を犯すからと言って、太陽や月が罪を負うと言うことはない。殺害も同じである。
 釈迦の主張はやや分かりにくい。阿闍世は直接殺害に手を下していない。釈迦はそう言っているのだ。部下に命じて父を殺させている。釈迦は、直接殺害に手を下していないというところを、表向きの議論の根拠にしているのだ。
 釈迦の議論の真意は、涅槃観に基づいている。釈迦は悟りを得た。分別の無い人から見れば、悟りを得るなどということは驚天動地の大変なことなのだ。しかし、知恵あるものにとっては、当たり前のことを当たり前に認識しただけのことである。何ら驚くに値しない。
 人を殺したと言うこと。これも同様に考えられる。分別の無い人から見ればそれは大変な事である。しかし、阿闍世は既に慚愧している。慚愧しているなら、もう驚くに値しない事柄ではないか。釈迦はそう考えているのだ。
釈迦の視点は、殺人という行為から離れ、別の所に向いている。更にこれを精査したい。
181SHOREA:2001/05/23(水) 20:52
39さんへ。私はかつて信者でした。分かる範囲内で質問にお答えしています。
名無しさん1周年さんにはこれ以上は逆らいません。
どうしても許せないのなら仕方ありませんが折角ここで知り合ったのも何かの縁です。これからは仲良くやっていきましょう。
さて友達がいるよ強迫神経症には私もなった事がありました。こんな事で悩む人もいますね。
学生の友人もよく考えてみると何人も残っていませんね。こんちは、さよならで人間生きていますね。
会社が変わると付き合いが残る人は何人もいません。宗教も同じでないかと。宗教やめてあ付き合いが残った人は私は3人くらいですかね。
この辺で手打ちしましょう。
182名無しさん@1周年:2001/05/23(水) 20:54
↑誤爆?
183七七四:2001/05/24(木) 22:32
 AGE
(そうだ!浄土通信を見よう<http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/>)

 釈迦の視点を探ってみよう。

 大王、善いかな、善いかな、我いま、汝必ずよく衆生の悪心を破壊することを知れり。

 大王よ。もう十分だ。あなたの心は、今後、多くの人々の間違った心を改めさせていくだろう。自分(釈迦)は貴方の心のその点に注目している。

 その時に摩伽陀(まかだ)国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)心を発(おこ)しき。かくのごときらの無量の人民、大心を発するをもってのゆえに、阿闍世王所有の重罪、すなわち微薄(みはく)なることを得しむ。

 この瞬間、阿闍世が統治している摩伽陀国の多くの人々が、心から菩提心を発した。多くの人々が、心から菩提心を発したことで、阿闍世は自らが犯した罪は、軽減された。
 親鸞が引用している涅槃経のこの部分の理解は難しい。釈迦の視点、阿闍世の視点、涅槃経著者の視点が錯綜しているからだ。しかも、教行信証に引用されているということで、親鸞の視点が加わっている。この関係をきちんと整理していかないと、釈迦の主張も、大乗仏教の主張も親鸞の主張も見えてこない。
 涅槃経著者の視点と釈迦の視点との切り分けがキーポイントだろう。この関係が切り分けられると、他の切り分けも自ずから見えてくる。
 涅槃経著者は、阿闍世を弾劾する立場を引きずっている。涅槃経中、阿闍世弾劾の立場を引きずっているのは涅槃経著者の視点だと気がつくと全体が見えてくる。釈迦には、阿闍世を弾劾する意思は無くなっている。そう見るべきだ。阿闍世の心はどうか。阿闍世の心は、そうした釈迦の心に反映させると見えてくる。親鸞の視点は、阿闍世の心から照らされてくる。こういう関係でそれぞれの立場を整理すると、全体が見えてくる。
 涅槃経著者は、阿闍世を弾劾する立場を引きずっている。これは、「阿闍世王所有の重罪、すなわち微薄なることを得しむ」という記述から見えてくる。弾劾の心が無ければ、微薄という言葉は出ないだろう。微薄とは、許してないということだ。涅槃経著者と釈迦では、両者間の視点が違う。釈迦は純粋に阿闍世に向いている。涅槃経著者は、釈迦の肩越しに読者を見ていると考えるべきだ。涅槃経著者にとっての関心事は、慚愧している阿闍世ではない。涅槃経の読者だ。人殺しは悪ではないなどという観念を読者が持つようなれば、涅槃経そのものの存在意義が問われる。涅槃経著者にはそういう配慮があるようだ。
 釈迦はどうか。阿闍世に直接対峙している釈迦は、阿闍世を完全に許していると考えるべきだろう。釈迦は一点の曇りもなく、阿闍世を完全に許している。なぜか。阿闍世の慚愧心が、人々に菩提心を起こさせるほどに澄み切っているという点に注目しているのだろう。釈迦の視線は大衆の菩提心に向いている。
1861周年:2001/05/29(火) 10:09
 あげ
187名無しさんが・・・:2001/05/29(火) 22:44
何故人を殺していけないか・・、それを実感として分かるには、自分にとって一番大切な
人、即ち、愛する親、愛する連れ合い、愛する子供、または自分自身を殺すという実体験
で分かって頂くことが一番でしょう。
この類の質問をする人は何を言っても受け入れないないでしょうから、自ら実体験をして
分かって頂く以外ないと思うからです。
まともな人間であれば、このような質問は考えることもしないでしょうし、自ずから、
その善し悪しが分かるはずです。
どんなことでも、実体験に勝るものはありません。
先ずご自分を殺すことから始めてください。そして是非あの世からお知らせ下さい。
 多分、数日間はカキコできません。
189無名:2001/06/01(金) 00:30
論理矛盾に厳しい宗教や法制度などを使わずに回答する場合であれば、状況に依存した回答方法があるということももっと考えるべきではないでしょうか。
つまり、相手の精神的状態や成長の程度、その他の状況に応じての(その場しのぎとも言える)回答を与えることも重要という考えです。
宗教や法制度などが、いかに論理的に正しくても、それが直ぐに理解できねば、(法曹や修行僧以外には)何の意味もないと考えます。
190無名:2001/06/01(金) 00:33
むずかしけりゃ ありがたいと思う人もいますけどね。
雰囲気の使い方についてはまた別のところで議論すべきかな。
191じさま:2001/06/01(金) 01:19
自分や自分に利益を与えるものが殺されたくない、というのは誰しもが思う気持ち。
ではどうしたら一番自分達が殺されにくいか?
武装して敵は抹殺する方法もある。
しかし、リスクが結構でかいし、みんながそんな方法とると、疑心暗鬼で暮らしにくい。
だから「俺も殺さないから、あんたも殺さないでね。」という契約を作った。
その契約をやぶった奴は当然制裁が加えられる。
192小林です:2001/06/01(金) 13:59
>187さんへ
良くわからさせていただきました。
こんなレスを立ち上げるなんて私は間違っていました。
今度、こういう気持ちになつた時は、真っ先に自分を殺すことから
始めようと思います。
そして、死んだら霊界から人を殺す事の是非を報告したいと存じます。
193名無しさん@1周年:2001/06/05(火) 06:33
>>171 名無しさん@無宗教さん
亀亀、スマソ。。。

>>この国、この社会の淋しさが見えて来るんじゃないでしょうか?
>>少なくとも、私はそうでしたし、それは現在進行形で進んでると思われ。
>同意ですが、しゃーないのかなー、とも思います。
>ですが、見えないところで個々の変革も現在進行形なのではないでしょうか。

そこで二極分化が起こってるのかもしれませんね。
命の大切さ(自分の命の大切さ)を考えようとする人と、
命の大切さ(他人の命に価値を払うことができなくても)を不必要なものとする人。

現時点で、社会的に有利なのは間違い無く、後者だとは思いますが…
194名無しさん@1周年:2001/06/05(火) 08:07
>>172 渡海難氏
俺のレスが無くて、淋しかったろ(笑)

>御批判が出ることは予想していました。僕は、自分の手の内の全てを一度は明かしておきたかったんですよ。人殺しについて僕が議論するときのたたき台は、これが全てですという風に。

了解!大枠を作ったということでいいのかな?

>難しいテーマを優しく考えることができるかどうかが、社会のオピニオンリーダであるか否かの分かれ目でしょう。

合ってるけど、これを「仏性」というなら反対だぞ(前にそう言っていたレスを見た記憶があるから)。。
195名無しさん@1周年:2001/06/05(火) 08:07
>>173 渡海難氏

頭爆発しそうだから、まとめとく。間違ってたら、訂正お願い。

>釈迦の教え1

○慙愧のある者 → 非有(報いなし)
○無慙愧の人  → 非無(報いがある)

*この場合の「慙愧」は、通常の意味でいいの?
 ざん‐き【慙愧・慚愧】
 1.恥じ入ること。「―に堪えない」
 2.悪口を言うこと。そしること。

>社会的に、殺人観については議論が分かれる。釈迦はそう説く。

○空見論(悪性がない)
○有見論(悪性がある)
 ・有有見論(報いがあるから、悪性である)
 ・無有見論(報いはないけど、悪性である)

●常見論者(報いがない)←常往論:変化否定=報いが生じない
●無常見論者(報いがある)←無常:変化肯定=因果応報の発生
●常常見論者(報いがある)←絶対論:行為は絶対=必然的な結果を想定

196名無しさん@1周年:2001/06/05(火) 08:08
>>174,>>178-180 渡海難氏

>釈迦の主張2

《本当の結論》
・(殺人の)報いはあるとも無いとも言えない。
・殺人には、悪性があるとも無いとも言えない。

《しかし主張》
・(殺人の)報いはあるとも無いとも言えないが、自分はその上で敢えて報いはある(と思う)。
 敢えて報いはあると説きながら、今回は(報いが)無いと説く。
・(殺人の)悪性があるとも無いとも言えないが、敢えて自分は悪性ありと説く。
 敢えて悪性ありと説きながら、今回は無いと説く。

《理由》
・「生」:息をしていること
・「殺」:出入りしている息を止めること
・「阿闍世の行為」:(通俗的な意味では)「殺した」。(釈迦は)本心からそう思わない。
197名無しさん@1周年:2001/06/05(火) 08:09
>>174,>>178-180 渡海難氏

>釈迦の主張3

《なぜ「阿闍世の行為」は「殺人」ではないのか?》
・釈迦の基本的な智慧:人殺しは悪である。人を殺せば必ず報いがある。
・釈迦の例外的な智慧:阿闍世の場合には、敢えて人殺しは悪ではなく、報いも無いとする。
・智慧の例外の必要性:慚愧のある者には、罪悪説、報復説を重ねて説くべきではない。
・智慧の例外の許容性:阿闍世は直接「殺害」に手を下していないから。
・「阿闍世の行為」 :部下に命じて父を殺させている。(おいおいマジかよ…)

《「阿闍世の行為」は「殺人」ではないとした釈迦の真意》
・涅槃観に基づく。
・悟りを得たものの智慧 = 阿闍世の慙愧はすでに悟り
  ∵ 双方にとって、(殺人は)もう驚くに値しない事柄であるから
・釈迦の視点は、殺人という行為から離れ、別の所に向いている。
198名無しさん@1周年:2001/06/05(火) 08:09
>>184-185 渡海難氏

>釈迦の主張4

《釈迦の視点》
・「阿闍世の慙愧」(あなたの心)は、今後、多くの人々の間違った心を改めさせていくだろう。
・阿闍世が統治している摩伽陀国の多くの人々が、心から菩提心を発した。多くの人々が、心から菩提心を発したことで、阿闍世は自らが犯した罪は、軽減された。

《阿闍世の話の錯綜、整理》
・釈迦の視点、阿闍世の視点、涅槃経著者の視点、親鸞の視点、(渡海難氏の視点)の錯綜
・整理のポイントは、涅槃経著者の視点と釈迦の視点との切り分け

《涅槃経著者の視点と釈迦の視点》
●涅槃経著者
・阿闍世を弾劾する立場
・涅槃経著者は、釈迦の肩越しに読者を見ている
・人殺しは悪ではないなどとすると、涅槃経そのものの存在意義が問われる。

●釈迦の視点
・阿闍世を弾劾する意思は無くなっている
・釈迦の心 ← 阿闍世の心 ←親鸞の心
・釈迦は純粋に阿闍世に向いている。
・阿闍世の慚愧心が、人々に菩提心を起こさせるほどに澄み切っている
・釈迦の視線は大衆の菩提心に向いている。
199キタカタ:2001/06/05(火) 13:05
>>1
お前、自分のかあちゃん殺されたら嫌だろ。
かあちゃんもお前が殺されたら嫌だと思ってる。

だから人殺しちゃいけないんだ。わかったか、小僧。
>>194 名前:名無しさん@1周年
>俺のレスが無くて、淋しかったろ(笑)

?? 突然こう書かれても分かりませんねぇ。「おれ」と言われても、「名無しさん@1周年」という名乗りで自分のことを分からせようとされても、困惑(笑)。

>合ってるけど、これを「仏性」というなら反対だぞ(前にそう言っていたレスを見た記憶があるから)。。
     <???>

>間違ってたら、訂正お願い。
    <僕には他人の考えを間違っているなどと評価できる資格はない>

>「慙愧」は、通常の意味でいいの?

  恥じ入ること」に近いでしょう。
  慙は自ら罪を作らず、愧は他を教えて作さしめず。慙は内に自ら羞恥す、愧は発露して人に向かう。慙は人に羞ず、愧は天に羞ず。これを慙愧と名づく。無慙愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす(信の巻)。
 言葉の意味はこの辺から、感じ取るべきでしょう。
>社会的に、殺人観については議論が分かれる。釈迦はそう説く。
    <多分、そうでしょうね。>

>(殺人の)報いはあるとも無いとも言えないが、自分はその上で敢えて報いはある(と思う)。
     <「と思う」という主張ではなく、「敢えて報いはあると説くのだ」という意味で解します。>

>「阿闍世の行為」:(通俗的な意味では)「殺した」。(釈迦は)本心からそう思わない。
      <ニュアンスの伝わり方に若干の不安がありますが、表現としてはそういうことでしょう。>

>智慧の例外の許容性:阿闍世は直接「殺害」に手を下していないから。「阿闍世の行為」部下に命じて父を殺させている。(おいおいマジかよ…)

 この辺は、涅槃経の著者が読者向けに挿入している説明的理由付けと解した方がいいかもしれません。釈迦の立場と涅槃経著者のいいわけ的な立場とが複雑に絡んでいます。
>《「阿闍世の行為」は「殺人」ではないとした釈迦の真意》・涅槃観に基づく。

 涅槃の説明に使用して、殺し論では余り使わない説明方法があるのでしょう。ここではその考えを敢えてシフトしていると思います。

>悟りを得たものの智慧 = 阿闍世の慙愧はすでに悟り

 悟りを求めようとする人々の一人に加わったという次元でしょう(菩提心)。悟りを求めようとする人々の一人に加わったということは、悟りを得たに等しいという主張があります。これは親鸞の視点の考えでしょう。

>∵ 双方にとって、(殺人は)もう驚くに値しない事柄であるから

 「双方にとって、」とは言えないでしょう。「驚くに値しない」というのは、釈迦の一貫した立場であって、「もう」という時間の要素は含まないでしょう。

>・釈迦の視点は、殺人という行為から離れ、別の所に向いている。

 そうそう。

>198 名前:名無しさん@1周年
      <概ねそうだと思います。>
 自論の論説に戻ります。

 大乗仏教における殺人観が、おぼろげに見えてきた感じがします。
 善であるか悪であるか。業報があるか、ないか。こういう問題は殺人についての本質的な問題ではない(空観)。おそらく釈迦はそういうニュートラルの立場にあるんだろう。しかし、釈迦は敢えて殺人は悪であるという。敢えて釈迦は業報があるという。敢えて言うということは、これは一定の価値観を創設した上での特定の目的を持った提案と考えるべきだろう。
 「殺」は無価値である。「殺」は無意味である。釈迦はそういう価値観を設定した。こういう価値観の設定はどこから出てくるのか。仏教発生原理から見直していきたい。
 正法念経はいう。生きている物を殺せば人は地獄に堕ちる。「殺」はどれほど無価値であるか。「殺」はどれほど無意味であるか。やがては本人が自分が地獄に堕ちていくほどの愚かなことである。地獄に堕ちていくほどという記述で、「殺」という行為に被せようとしている愚かさの大きさが象徴されている。僕はそう感じる。正法念経から、僕は、仏教が創設した価値観が見えてくる感じがする。
 生きている物を殺せば、本当に何かが物理的に地獄に移動するのか。実は、そんなことは二の次の問題だ。それでも、殺すという意思と行為には、自分(釈迦)はある価値観を観念できる。自らが地獄に転落していくようなことに等しいと、そのような愚かさを観念できる。正法念経はそう説いてるんだろう。
 釈迦は、自らの愚かさに気が付かれ、生涯を教育事業に捧げられた。昨日は有頂天だった者が、今日はケダモノとなり、あるいは餓鬼となって地獄の苦しみを受ける。馬鹿だった。馬鹿だった。ケダモノの心でケダモノの行為をする者はケダモノである。一時はケダモノとなったものが、自らの愚かさに恥じて人はしばしば後悔する。後悔しても後悔しても、直に餓鬼畜生に戻る者がいる。人は様々に意思と心を変えていく。ここには無知(無明)が内在する。これは大変なことだ。釈迦はそう観念した(十二因縁)。
 ことさらに生き物を殺すというその意思と行為に、仏教は、ケダモノや餓鬼に共通していく心、ケダモノや餓鬼に共通していく行為を見ているのではないか。ケダモノとは何か、餓鬼とは何か、それらは例えばことさらに生き物を殺す者、あるいははことさらに他人の物を盗む者、そういう心と行為のあり方の者と等価に見えているのではないか。
 真理に目覚めよう。ものの本質に目覚めよう。無明を断とう。智恵を持とう。釈迦は祇園精舎から世界中にそう提案した。互いに学び合い、教え合おう。そう提案した。ことさらに生き物を殺すのはやめよう。釈迦のこの提案は、仏教の原点である十二因縁の法理に内在する提案と、実は一体不可分の関係にある。そのように考えていいのではないか。僕はそう考える。(続く)
205名無しさん@1周年 :2001/06/07(木) 08:32
アゲ
206名無しさん@1周年:2001/06/09(土) 06:51
n
207名無しさん@1周年:2001/06/09(土) 09:30
>>200 渡海難氏

>困惑(笑)。
もう照屋さん。(笑)

>僕には他人の考えを間違っているなどと評価できる資格はない
これこれ、俺がずぼらにまとめたのは、渡海難氏の考えてると思われるところ。
だいたいあんな感じでよかったのかな?
細かい注釈どうも!
これからも勝手にまとめさせてもらうね。
ところどころまとめなければ、頭が爆発しちゃうからね。
208名無しさん@1周年:2001/06/09(土) 09:30
>>203 渡海難氏

>釈迦の価値観設定(正法念経)

・「殺」は無価値である。「殺」は無意味である。(空観)
・やがては本人が自分が地獄に堕ちていくほどの愚かなこと
 →「殺」という行為に被せようとしている愚かさの大きさが象徴されている。
・人は様々に意思と心を変えていく。ここには無知(無明)が内在する。
 これは大変なことだ。(十二因縁)

209ななしさん:2001/06/09(土) 09:46
    ミ        _______ドサッ
     ____/ ___\___\
 ミ  |     | ̄   ,ミ    |    ̄
    |     |  ミιΛΛ ! |
    |     | ベチャ ,(~Д゚)っ
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
「ねぇ、あれ捨て猫じゃない?」
「いいよ気持ち悪ィよ、どうせ死んでるって」

           ___________
          /__/ |      |\   /|
             ΛΛ|      |  |―-| |
              ( ι、|      |/   \|
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
210(*^_^*):2001/06/09(土) 12:54
人を殺してはいけないのは、神様がそのように命じるからです。
人間にその理由を考えることはできない。
自分中心で考えると、人を殺してはいけない理由は分らないでしょう。
でも、そもそも、そのような疑問を立てる事自体がはばかられてしまうというのが普通でしょうけど。
http://page.freett.com/wubf/top.htm
211名無しさん@無宗教:2001/06/09(土) 19:12
>>193
おひさです。ちょっと、こちらほったらかしでしたー。(甘えてゴメソー。)

一時的に、有利に見えるだけかもしれないよ。>後者のほう
いつかは行き詰まるか、しょっちゅう壁にぶつかると思う。
良いものも悪いものも、外に放ったものがいずれ自分に返ってくるのは
宇宙の理(ことわり)でしょ?

こんな時代だけど、どうせなら良い種を蒔いていきたいよね。
そうしたら結局は、自分も人も大切にできるという、
両方を生かせる合理的で一石二鳥(^^)なやり方だと思います。
できるだけ、実践していきたいな。

>そこで二極分化が起こってるのかもしれませんね。

うん。この先、少しずつどちらかに分かれてくるかもしれないね。
すさまじい時代だから、なおさら人はどっちに転ぶか・・・・?ですねー。
>>207 名前: 名無しさん@1周年
>ところどころまとめなければ、頭が爆発しちゃうからね。
     石が爆発したら恐いね(笑)

>>208 名前: 名無しさん@1周年

 僕が言いたかったこととは概ね一致しているみたいね。生き物殺すと地獄に堕ちる。こういう思想が正法念経にあるらしい。直接読んだ覚えはない。正法念経は、往生要集が引用している。生き物殺す(因)と地獄に堕ちる(果)。仏教の因果論は、僕らから見ると評価論に見えることがある。因で記述した内容の評価を、果という形で記述する。果という形で記述された評価の内実は、因という形で記述されている。
 念仏を称える者は、極楽浄土に往生して仏になる。念仏を称える者は尊い。どのくらい尊いか。極楽浄土に往生する人、仏になるような人、そういう人に匹敵するほど尊い。仏教は、そういう評価の仕方をするんだ。
 人殺しをした人は、百人が百人全て不幸になる訳じゃない。何万もの人を殺しながら、権力の頂点に立って栄耀栄華を誇る人もいる。むろん、遺族に復讐されて火炙り八つ裂きにされる人もいる。実際の社会での現れ方は様々だ。現れ方は縁による。縁が絡めば、天の喜びを得る者も、地獄の苦しみを得る者もある。縁の介在がなければどうなるか。現実社会で縁の介在がないという場面などはあり得ない。しかし、仏教は、縁の介在の無い因果を仮想する。表層の奥にある不動の本質を見極めようとするからだろう。縁の介在のない因果に照らして言う。「ことさらに生き物を殺せば地獄に堕ちる」と。縁で左右される表層の現象論ではなく、事実の奥に内在する不動の価値に着眼しようとする仏教的評価論だ。
 死んだら地獄に堕ちるという因果論は、縁の介在を排除した議論だ。仏教には、真実の因果論と呼ぶべきものと、迷いの因果論と呼ぶべきものとがあるようだ。まだ検討の余地はありそうだが、真実の因果論は、縁の介在を排除する。縁の介在を排除すると、果は因の本質が直接顕わになる。地獄とは、仏教の価値観に照らした表現方法だ。生き物を殺すという意思と行為とに内在する本質的愚かさを顕在化させて表現している。
 ことさらに生き物を殺すというその意思と行為には、愚かさが顕著に内在している。仏教はそう観念するんだろう。愚かさが顕著に内在していると観念するということは、何を意味するのか。本質的には常に不幸がことさら潜在しているとみなしているということだろう。可能性として潜在しうる不幸を、表層とは別に存在する不動の実体的無価値とみなし、地獄という表現でこれを象徴的に顕在化させる。無形の無価値性を視覚化、有形化しているようだ。
 生き物を殺すという行為・意思を考えてみよう。背後には、愚かさが顕著に内在している。仏教はこう考えるようだ。この考えは、可能性として潜在しうる不幸を、表層とは別に存在する不動の実体的無価値とみなすものだろう。生き物を殺すことは多くの不幸を招く。しかし、人類の歴史はしばしば、殺人者に国家の最高権力と巨万の富をもたらしてきた。人を殺すことへの一時のためらいで、逆に一族がことごとく不幸になった例もある。確かに、他人を殺しても幸福にはなれない。しかし、人を殺さなければ幸福になれるという話でもない。
 しかし、他人を殺せば殺さなかった場合より、より大きな多くの不幸を招く恐れはあるだろう。殺さなければ招かなかったより大きな不幸を、殺しという行為で招くこともある。仏教はこの無形の可能性を不動の実体的無価値とみなして顕在化しているのではないか。だからこそ釈迦は通常、人を殺してはならないと説く。それでは、親を殺した阿闍世を釈迦が許した理由は何か。ここを考えたい。
 生き物を殺すという行為・意思、そういうものの背後には、愚かさが顕著に内在している。では、背後とは何か。愚かさの所在は何か。仮説的に提唱してみたい。それは、生き物を殺すという行為の正当化(価値付け)にあるのではないか。すなわち、行為に向けた評価付けにあるのだろう。
 生き物を殺すという行為は現実的物理的事象だ。現実的物理的事象で考えれば、落雷に当たって死ぬ人もいる。海の荒波に飲まれて死ぬ人居る。それでも、落雷に罪はない。海の荒波に罪はない。しかし、死に至らす意思をもって殺す場合、行為者は通常、殺すという行為を正当視しているとは考えられないか。ことさら(故意に)殺すとは正当視しているという場合だろう。生き物を殺すという行為・意思の背後にある愚かさの所在は、この正当視(価値観)にあると考える。
 釈迦は阿闍世を許した。釈迦は阿闍世に慚愧を認めたからだ。慚愧には、ことさら(故意)に生き物を殺すことは愚かなことであるということへの気づきがある。愚かなことであるということに気づけば、釈迦は阿闍世に向けて何ら弾劾の根拠を持たなくなる。そう言っていいのではないか。また、ことさら(故意)に生き物を殺すことは愚かなことであるということへの一人の気づきは、他に影響を及ぼす。他の人を気づきに誘う。摩伽陀(まかだ)国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)心を発(おこ)しきというのは、そういうことを意味しているのだろう。
 では、人を殺しても慚愧すればいいのか。?人殺しは悪いことだと分かって実行する殺人は肯定されるのか?涅槃経の著者は釈迦の立場と異なる立場に立っている。釈迦の立場と異なる立場に立つ理由は何か。実は、釈迦の後に提起されてくるこの問題に内心で非常に苦しんでいるからだろう。
216サタン:2001/06/12(火) 18:07
人を殺しちゃいけない理由なんてない。
もっと殺そーぜ!
217名無しさん@1周年:2001/06/12(火) 18:56
みなさん、渡海難のカキコは無視しましょう。
見た目はいいことを言ってるようでも、この渡海難は電波な人間です。
宅間守の次に犯罪を起こしそうな人間なのでご注意を!
>人を殺しちゃいけない理由なんてない。

 人を殺していいという理由もないんだぜ。
 人を殺しちゃいけない理由はあるよ。国法が殺人を禁止しているだろう。国法が禁止しているというのは、立派な理由だ。
 殺人を容認する近代国家なんかあるわけないだろう(笑)。
 あなたは一体どこで生活しているんだい。国家を否定して生きているんかい?あんたは、宗教なんかに首を突っ込む前に、義務教育を学び直し、社会人としての常識を身につけんさい(笑)。
219ももたろうおさむらい:2001/06/12(火) 19:19
いきもんころしちゃいけないだったらわかるけどひとだけころしちゃいけないっていうのはわかんないよ
>>217
>渡海難のカキコは無視しましょう。
  <無視している奴などはゴマンといるわい。注目しているのはあんたぐらいだろう。>

>見た目はいいことを言ってるようでも、この渡海難は電波な人間です。
   <自分で鏡を見直してから言ってくれ>

 殺人ついて宗教論的にはニュートラルな立場に立った議論を吐くと、あんたには殺人傾向のある人間にみえるんか。
 殺人に対し、宗教論的にはニュートラルな立場に立っちゃいかんのか?
 人殺しはいけませんよなんてことも、宗教の立場から力説しなければいけないのが現代かい?
 あんたは何時代に生きているんだい? あんたにとって宗教とはなんなのさ? 警察官の捜査書か? 検察官の思想書か? 裁判官の判断基準か?
 宗教に倫理の基盤を求めるなら、イランかアフガンにでも行ってくれ。あそこじゃ、宗教が社会の規範の全てを縛って息苦しく、あんたにとっちゃ理想の国であるようだ。
>>219 名前:ももたろうおさむらい

 生まれてくるのが300年遅かった。
 昔、素晴らしい政治家がいた。徳川綱吉という。彼は生類哀れみの令と言う法律を発布した。
 あの時代に生きていたら、犬役人に取り立てられて出世したかもしれない。


222名無しさん@1周年:2001/06/12(火) 20:29
>渡海難氏

>>217は、このスレの冒頭から質問してる「名無しさん@1周年」じゃないよ。
俺はちょっと他のことが忙しいから、レスできないけど、読んでます。
話の展開がようやく佳境に向かってきたようだね。
そこで頼みがあるんだけど…
阿闍世の慙愧の念を釈迦が知ってるということは、
阿闍世の告白みたいなのが教典の中にあるはずなんだよね。
その部分をアップしてくれない?
凄く興味ある。お願い! m(__)m
223名無し@いってらっしゃい:2001/06/13(水) 13:27
渡海難って仏教を自分が救われるように改造しとるんだよな、一生懸命。彼は[人は−死ぬものだ]というような因果論に、因果関係無いものをはめこんで満足する。利用するだけにして、信用すんなよ。
224名無しさん@1周年:2001/06/13(水) 13:32
>>223
原典を紹介するところで、その難点はクリアしてるんじゃないの?
後は、渡海難氏の解釈(改造?)の是非を読む人が判断すれば
いいだけのことでは?

>利用するだけにして信用すんなよ
利用はしたり、されたり、それが掲示板では?
信用についてはすべてのレスに言えることでは?

>>222 名前:名無しさん@1周年 投稿日
>阿闍世の慙愧の念を釈迦が知ってるということは、阿闍世の告白みたいなのが教典の中にあるはずなんだよね。その部分をアップしてくれない?

 涅槃経 梵行品
 父の王辜(つみ)なきに横(おう)に逆害を加す。父を害するに因って、己が心に悔熱(けねつ)を生ず。乃至 心悔熱するがゆえに、遍体に瘡(そう)を生ず。その瘡臭穢にして附近すべからず。すなわち自ら念言すらく、「我今この身にすでに華報を受けたり、地獄の果報、将に近づきて遠からずとす。その時に、その母韋提希后、種種の薬をもってためにこれを塗る。その瘡ついに増すれども降損あることなし。王すなわち母に白さく、「かくのごときの瘡は、心よりして生ぜり。四大より起これるにあらず。もし衆生よく治することありと言わば、この処あることなけん。」

 「我今病重し。正法の王において悪逆害を興ず。一切の良医・妙薬・呪術・善巧瞻病の治することあたわざるところなり。何をもってのゆえに。我が父法王、法のごとく国を治む、実に辜なし。横に悪逆を加す、魚の陸に処するがごとし。乃至 我昔かつて智者説きて言うことを聞きき、身口意業もし清浄ならずは当に知るべし、この人必ず地獄に堕せん、と。我またかくのごとし。いかんぞ当に安穏に眠ることを得べきや。今我また無上の大医なし、法薬を演説せんに、我が病苦を除きてんや。」
 教行信証からの孫引きです。正確な記述は、宗門に中立な機関が出版した涅槃経を直接手にして読んでみてください。素人でも読める涅槃経としては、例えば国訳一切経(大東出版)などがあります。
 国訳一切経は、今はネットで購入できます。やや高い本です。国会図書館や大学などの図書館などには蔵書があるでしょう。お寺などでは蔵書しているところも少なくありません。東京の日比谷図書館にはなかったと思います。
 僕は在野の念仏者です。涅槃部を含む国訳一切経は蔵書していません。僕の仏教の立場は親鸞仏教に軸足があります。親鸞以前の仏教は、親鸞のフィルターを外して考えようと提唱していますが、僕には親鸞仏教を離れることはできません。教行信証を中核とする親鸞仏教の枠の中で思索しています。
 教行信証の引用は、随所に親鸞の書き直しがあります。親鸞仏教を離れて涅槃経と直接向き合おうとすれば、涅槃経そのものを直接読む外はありません。それは、親鸞に傾倒し親鸞仏教の解明をテーマとする在野の親鸞ファンの荷ではありません。ご了承下さい。
>>223 名前: 名無し@いってらっしゃい
 仏教特に親鸞仏教をよくご理解されてない方の自由な立場からの発言と推察します。

>仏教を自分が救われるように改造しとるんだ
>[人は−死ぬものだ]というような因果論に、因果関係無いものをはめこんで満足する

 素人の目でこのような感じをもたれたのはどの辺の記述か、具体的にご指摘くださると他の方も助かるでしょう。
228名無し:2001/06/13(水) 22:47
あげ
今日はアゲだけ
230名無しさん@1周年:2001/06/16(土) 13:46
>>225-226 渡海難氏

引用ありがとう。
今も昔も変わらないとの感想。
しかし、ここ数年は…、池田の宅間に同じことが起こるかどうか、少し不安。

ときに教行信証には、親鸞の書き直しがあるとのこと。
前にレスしたことがあると思うんだけど、絶対普遍を求める渡海難氏と、
民族を超えた普遍性は希薄化してしまうという俺には違いがあると。

教行信証で親鸞が涅槃経を書き直した部分を、
現在のアジアの仏教の行者はいかに思うのか?
その辺りで、渡海難氏と俺との違いが出てくると思う。

今回は、ここまで。なんしか、引用ありがとさん!

 法蔵(643-712) 瑜伽論 巻四一
 もし菩薩、劫盗の賊の、財を貪らんが為の故に、多くの生あるものを殺さんと欲し、或はまた大徳の声聞・独覚・菩薩を害せんと欲し、或はまた無間業を造らんと欲するを見、この事を見已って、心を起し、思惟す。「我、もしかの悪衆生の命を断たば、当に地獄に堕つべく、もしそれかの命を断たざれば、無間の業成じて、当に大苦を受くべし。我、寧(むし)ろ彼を殺して那落迦(ならか)に堕つるとも、終にその人をして無間の苦を受けしめざらん」と。かくの如く菩薩、意楽(いぎょう)し思惟して、かの衆生に於いて、或は善心をもって、或は無記心もて、この事を知り已って、当来の為の故に、深く慚愧を生じ、憐みん(れんみん)の心を以て、かの命を断つ。この因縁に由りて菩薩戒に於て違犯する所なく、多くの功徳を生ず。

 慚愧があれば殺人も許されるか。法蔵は肯定する。生かしておけば、無間業を犯しかねない相手は、慚愧と憐みん(あわれみ)の心をもって殺しても菩薩戒には反しない。法蔵はそういう。無間業とは、無間地獄に堕ちていく大罪として列挙されている行為を言う。那落迦とは奈落に同じ。つまり地獄である。「我、寧ろ彼を殺して那落迦に堕つるとも」とは、自分が相手を殺すことで相手の代わりに自分が地獄に堕ちていこう。これによって地獄に堕ちていく相手の行為を阻止し、相手が地獄に堕ちていくことを防ごうという考えだ。
 それでは、人を殺しても許されるような慚愧とはどういうものか。とんでもない悪事を犯しそうな相手なら、こっちに慚愧があれば殺してもいいのか。おそらくそれを許容する考えは、サリンに興味を持った宗派を除いて、少なくと真っ当な仏教議論の中で捜す限り、みつけることはできないだろう。自分に慚愧があるかないか。無間地獄に堕ちていく大罪として列挙されている行為をを犯しそうな相手かどうか。こんなことはおいそれと判断できるものではない。おいそれと判断できると考えれば、これは狂気の沙汰だろう。ただ、仏教は、絶対善や絶対悪の存在という考えだけは持たないらしいことに注意しておきたい。
誤 こっちに慚愧があれば
正 こっちには慚愧があると自分が判断すれば
233名無しさん@1周年:2001/06/16(土) 22:28
すっかり渡海のオナニースレに変わっちゃったな。
渡海のせいで誰もカキコできなくなったぞ!

渡海よ!このスレを一人占めにするのはやめなさい!
他の人に迷惑なんだから!

そしてとっとと2chから出て行けよ!
このゴキブリ教祖めが!
234名無しさん@1周年:2001/06/16(土) 22:46
>渡海難へ

お前は寄生虫みたいなキモイ奴だな。
他人が立てたスレなのに自分の物にしてしまうのはサイテーだぞ!
少しは他人のことを考えたらどうよ?
だからお前はこの板でウザがられてるんだよ!
だからお前はこの板で嫌われてるんだよ!
だからお前は最低の人間って呼ばれるんだよ!
お前なんか今すぐ回線切って首吊って氏んじゃえ!
 貴重な御議論 アゲ(笑)
236タッタ:2001/06/17(日) 02:10
「なんで人を殺しちゃいけないの?」・・・それは「止めなさい!」と周りの
人間が言うからだ。加害者がブタバコへ入れられることで、迷惑する家族、親
類がいるからだ。それと生理的に血を見ることが嫌いな人間がいるかもしれな
い。くそ忙しいのに葬儀に呼ばれるのが迷惑だという人間もいるだろう・・・
まあ、その程度の理由だと思う(-o-)y-゚゚゚。難解な宗教や哲学の理論を持ち出
すまでもないと思うね。”人を殺したい”やつがいるなら、やればいい!。後
の社会的責任をすべてしょいこむつもりがあるなら。どこまで逃げ切れるか警
察とバトルを繰り広げてみるのもいいかもしれない。小泉さんじゃないけど、
世の中やってみなければ、わからないことがあるものさ。
仮に社会的にそういう風潮が容認されることでもあれば、わが家のリホームの
際に、37mm 機関砲や赤外線対地ミサイルを窓やベランダにいっぱい装備して
みるね。おとなりさんとビールを呑みながら、その威力について語り明かすの
もいい!・・。家庭包丁を片手にまる裸で襲撃してくる人間に対してどれくら
いの破壊力があるのか見るのはとても興味深い(^*^)。深夜暴走族にはやっぱ
り対地ミサイルが効果的だろう。
そうしてどこかの激安店で 37mm 機関砲 50%引きなんて広告が出まわるように
でもなれば、なぜ”人を殺しちゃいけない”かの答えは見えてくると思うよ。

237名無しさん:2001/06/17(日) 16:50
こいつらオウムと一緒だね
あげ
239ファン:2001/06/20(水) 22:41
アゲ
240名無さん:2001/06/20(水) 23:04
みんなマジレスしてんのか半信半疑だけどマジレスしてみる。
人を殺したい、そう思ったことの無い奴には神を見ることができない。
世尊のお言葉。
『人を殺しては行けない。なぜなら、人を殺したいと思う気持ちは決して
殺人では報われないからだ。』
241らっしゃ:2001/06/20(水) 23:13
平和だわ…このスレがあればとりあえず渡海氏の家族は安心ね。彼もとても気持ち良さそう…
242タック:2001/06/20(水) 23:55
子供のとき、人を殺すことばかり考えていた。恐ろしい子供で
した。今は、相当歳を重ねた。あるとき、トンボを思いっきりた
くさんたたき殺した。昔はそれほどトンボがたくさんいたのだ。
そのとき、わたしの中で、取り返しのつかないことをしたという
思いが起こった。自分で作れないものをこわしてしまったという
気持ちだな。殺したい気持ちは続いたが、実際に人を殺しはしな
かった。殺すなと言われても、命の尊さを感じる体験がなければ
殺してしまうかもしれない。自分の生きていることに喜びや充実
感を感じていない人は、殺して命
243七瀬:2001/06/21(木) 00:24
>>240報われないから殺さない…じゃあ金のために殺すのは?あと第三世界から搾取して沢山見殺しにしてる我々は?
244名無しさん@1周年:2001/06/21(木) 01:23
意識のある生き物を殺してはいけません。なぜなら前世ではあなたを
生んでくれた母だったかもしれないからです。だから、
あなたを生んでくれた現世の母と同じように大切にしなければいけません。
245名無しさん@1周年:2001/06/21(木) 13:18
人を殺すと、地獄に行くというイメージが、心に生まれます。
すると、死を迎えたとき、魂は天国へ向えず、地獄に吸い寄せられます。
246名無しさん:2001/06/21(木) 13:30
>>243
人を殺しても心の平安は得られない。
どのような理由があろうとも。
 約1週間、カキコできないと思います。
248名無しさん@1周年 :2001/06/23(土) 20:50
アゲ
249名無しさん@1周年:2001/06/23(土) 22:47
>>247
それはよかった。スレを私物化する渡海難は永久に来ないで欲しい。
 人を殺すことは悪か。人に限らず、生きとし生ける物を殺すことは悪である。生きている物を殺せば、殺害に関わった者は地獄・餓鬼・畜生界に転落する。仏教には、こういう主張がある。
 人を殺すことは悪か。善でもなければ悪でもない。報いはあるというのも間違い。無いと言うのも間違い。仏教には、こういう主張もある。
 人を殺すことは悪か。仏教は、相手に応じて様々な法を説く。自らが地獄に堕ちることを覚悟しても相手の命を断て。このように説く場面すらある。では我々はどうすればいいのか。僕は親鸞に聞いてみたい。親鸞はこの問いを、曇鸞と善導に聞く。曇鸞と善導とは、いずれも中国浄土教の歴史的高僧である。
 「諸大乗に拠るに、難化の機を説けり。<複数の大乗経典には、文字通り救いがたい対象者についての言及がある>」
 「今大経には唯除五逆誹謗正法と言い、あるいは唯除造無間悪業誹謗正法及誹謗聖人と言えり<例えば、大無量寿経をみれば、五箇条の大罪者と正法の誹謗者とを挙げている。異訳本の如来会を見ると、無間地獄に堕ちていくような行為をした者と正法誹謗者と聖者を誹謗する者とを挙げている。>。
 観経には五逆の往生を明かして謗法を説かず<観無量寿経を見れば、五箇条の大罪者を挙げている。正法の誹謗者は挙げていない。>。
 涅槃経には、難治の機と病とを説けり<涅槃経には、治療の方法の無い器量の者と治療の方法の無い病者を挙げている。>。
 これらの真教、いかんが思量せんや。<いずれも、釈迦の教えである。経典間の議論の矛盾はどう考えればいいのか>」
 「論の註に曰わく<曇鸞は、論の註で次のように言う>」
 「一経には二種の重罪を具するをもってなり<大無量寿経は、二種類の重罪を犯した者を例示している。>」。
 「一つには五逆、二つには誹謗正法なり。この二種の罪をもってのゆえに、このゆえに往生を得ず。<一つは五箇条の大罪である。もう一つは、正法の誹謗である。二つも重要な罪を犯しているから、極楽浄土には往生できないと説く>」。
 「一経はただ、十悪・五逆等の罪を作ると言うて、正法を誹謗すと言わず。正法を謗せざるをもってのゆえに、このゆえに生を得しむ、と<観無量寿経では、十悪あるいは五箇条の大罪を犯した者が、十念の念仏で極楽浄土に往生できると説いている。観無量寿経は、五箇条の大罪を犯した者を挙げている。正法を誹謗したとは言ってない。まだ一つだけつまり、正法を誹謗していないので、十念の念仏だけで極楽浄土に往生できるのである。>」
 「もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや<もし、人々を教え育てる指導者がいなければどうなるか。人々が迷ったり誤ったりしないで済む方法を示し、人々を教え導くそういう人々がいなければどうなるか。仁・義・礼・智・信という中国思想の五徳は大切でも、人々はこうした徳の大切さを知ることができない。>。」
 「かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん<正しく教える者がいなければ、世間の倫理道徳は崩れていくだろう。迷ったり誤ったりしない賢人哲人は、世の中からいなくなるだろう>。」
「汝ただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆえに謗正法の人はその罪もっとも重なり、と。<五箇条の大罪は重大であると知っていても、五箇条の大罪は、世の中の正しい真実を知らないことが原因で起きることを知らないといけない。だからこそ、正しい法を謗ると言うことの方が、より大きな罪なのだ>」
 「光明寺の和尚云わく<光明寺に在住していた我らが敬愛の和尚すなわち善導大師は次のように言う>」
 「四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。<阿弥陀仏は四十八箇条の基本方針を述べる中で次のように言う。正しい法を誹謗する者と五箇条の大罪を犯す者は極楽浄土に迎えない、と。ここに言う二種類の行為は、本質的に極めて重大な行為である。人々がそのようなことを行えば、阿鼻叫喚地獄からほとんど永遠に出ることができないと言われても、理由がないことではない。」
 「ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて往生を得ずと言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。<ただ、阿弥陀仏は四十八箇条の基本方針の中で除いているというのは、考えがあって、仮に一応そう言っているに過ぎない。本気で言っている訳ではない>」
 「下品下生の中に、五逆を取りて謗法を除くことは、それ五逆は已に作れり、捨てて流転せしむべからず、還りて大悲を発して摂取して往生せしむ <観無量寿経の下品下生段は、五箇条の大罪を犯した者を扱っている。正法を誹謗する者について言及がない。五箇条の大罪は犯したが、正法は誹謗してない者、こういう人物を例示しているにすぎない。五箇条の大罪は犯したが、正法は誹謗してない者がいれば、こういう者を、引き続き過ちの世界に放置しておくことは許されない。だからこそ、誠意を尽くして極楽浄土に迎えようとしている>。」
 「しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めてもし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じと言う。<正法はまだ誹謗してないから、そういう者には正法は誹謗するなよと教えている。仮に正法を誹謗したらどうなるか。やはり、極楽浄土に迎えられると言うだろう。>
 曇鸞と善導の違いが面白い。曇鸞思想は曇鸞の立場で考えていかないといけない。善導思想は、善導の立場で考えていかないといけない。その上で、その中から親鸞主張を読み取り、僕らは自らの信念確立の重要な足がかりを捜して行きたいと思う。曇鸞と善導それぞれの思想の背景に議論を進めたい。
255カキッ:2001/06/27(水) 23:37
渡海難さん、アコギーッ!
もとえ、リチギーッ!
ジャスト1週間で、ご帰還!
 ちょっと蛇足だが、議論が分かりにくいので曇鸞と善導の主張の違いをもう少し述べておこう。
 曇鸞は言う。五箇条の大罪は重大だが、五箇条の大罪だけなら十念の念仏で極楽に往生できると説く。しかし、真理の法を誹謗する者は、極楽に往生できないと説く。すなわち地獄に堕ちると説く。
 善導は言う。五箇条の大罪を犯した者も、真理の法を誹謗する者も、ともに十念の念仏で極楽に往生できると説く。
 この議論の背景を探りながら親鸞の主張を推察し、僕は自らが信じる旨を論議したい。
257それがし:2001/06/27(水) 23:49
人を殺してはいけないという理由は,
単に人権調整のためだと思います.
258名無しさん@1周年:2001/06/28(木) 00:15
age
259霊視らっしゅ:2001/06/28(木) 00:45
渡海氏の今までの五逆罪が捨てられて…流転してる姿が見えるわ…
1 渡海氏は、これまで渡海氏自身がもっていた五逆罪の概念を捨てている。だから自分には渡海氏が流転してるようにが見えるわ…
2 従来観念されていた五逆罪の観念が、渡海氏の場合には捨てられている。だから自分には渡海氏が流転してるようにが見えるわ…

 どちらの意味なんでしょうね。判断は難しいけど、多分2番なんでしょう。2番と仮定すると「渡海氏の」の修飾関係があいまいだ。
 自分でも、あまりよく分かって無い人なんでしょう。

 霊視らっしゅさんを冷静に冷視しました(笑)。  
>>260
誤 ようにが見えるわ
正 ように見えるわ
262それがし:2001/06/28(木) 19:01
>>250
あの...
もしかすると,同じ質問がこのスレにあれば申し分けないんですが...
仏教のずぶの素人の質問になりますが堪忍してください.
前からずーと考えていた素朴な疑問なんですが,
生き物でも,殊に植物の殺生はどのように解釈されているのでしょうか?
>>262
>生き物でも,殊に植物の殺生はどのように解釈されているのでしょうか?

 ま、お好きなようになさればいいんじゃないですか。
 植物でも、むやみに殺せば可哀想でしょう。
 人は米などを食わねば死んでしまう。
 植物は、食われることで子孫を増やす。
 植物の殺生などは、解釈でどうなるという問題とも思えません。
 現実離れしていなければ、お好きなように考えていいんじゃないですか。仏教の全てを知り尽くしているという人はいないでしょう。
 全ての価値判断に仏教は回答を用意しているということでもない。仏教は、万能の立法権者でもなく、裁判官でも検察官でもないでしょう。 
264ミトラス教徒:2001/06/29(金) 18:34
ということは,
動物でもむやみに殺さなかったら仏陀さんもOKしてくれるんですね?
    ^^^
265それがし:2001/06/29(金) 18:35
済みません.
それがし=ミトラス教徒です.
266名無しさん@1周年:2001/06/29(金) 19:11
このスレッドは渡海難によって汚染されました。
267名無しさん@いってらっしゃい:2001/06/29(金) 20:16
渡海 難教祖による「なんちゃって仏教」スレになってしまいました。
268それがし:2001/06/29(金) 20:21
動物だって,健康のためには殺生も止むを得ないですよね.
植物との違いは何だろう?
269いってらっしゃい:2001/06/29(金) 22:35
>>268ミドリムシを例に…
こちらの主観による差別と思われ
270それがし:2001/06/29(金) 22:39
そう.
ミドリムシが在りましたね.
因みに,卵生む哺乳類って
カモノハシ,ハリモグラ,うん....
あと何か在りましたよね.
271名無しさん@1周年:2001/06/29(金) 22:46
たまたまみた・・・
よみかえした・・・
???
>>264 名前:ミトラス教徒
>仏陀さんもOKしてくれるんですね?

 仏陀さんなんか、OKしてもOKしなくても、どうにもならんでしょう(笑)。
 仏陀さんに誉めて貰えるいい子になりたいですか。仏陀さんに怒られたら恐いですか。OKしてくれてもOKしてくれなくても、本質は仏陀さんなんかにどうにもならん問題なんですよ。
 ただ、むやみに生き物を殺すのは止めようと言う仏陀さんの提案には、真剣に耳を傾けたいですね。具体的状況下では、一時の感情に流されない人、冷静沈着に判断できる人、そういう人になっていくことが大事だと僕は思います。
273それがし:2001/06/29(金) 23:01
>>272
そうですね.
偶にお肉食べたからといって,
仏陀さんが即怒るとは思えませんし.
274それがし:2001/06/29(金) 23:05
畜生道に進んで,
運悪くライオンに成ったら,
ずーーーーーーっと
畜生道に進まないといけませんしね.
うーーむ.
仏教は難しい.
275それがし:2001/06/29(金) 23:37
済みません.
卵を産む単孔目は
カモノハシ,ハリモグラ
だけでした.
276名無しさん@1周年:2001/06/30(土) 16:11
あげます
277名無しさん@1周年:2001/06/30(土) 22:02
>>1
お前に全くの罪悪感が無ければ殺人もやってよし。
但し、少しでも罪悪感があるんならやるなよ。
その時の答えはお前が知っているということだ。
>>277
No277名無しさん@1周年さん。貴方をNo1が殺しに向かっていってもいいんだということでしょうか?
全くの罪悪感がNo1に無ければ、貴方はNo1の刃の前で喜んで死んでやるということですか。
ライオンや鮫に殺されたなら、そんなところに出かけていった身の不運を嘆くほか無いでしょう。自分を殺しに向かってやってくる相手が人間なら、そうもいかんでしょう。違いますか?
279277:2001/07/01(日) 01:17
>>278

>全くの罪悪感がNo1に無ければ、貴方はNo1の刃の前で喜んで死んでやるということですか。

誰も喜んで死んでやるなんて一言もいってないだろ。
全くの罪悪感が彼に無くしかも俺を殺す必然性が彼の中にあれば誰も止める事はできないだろ?
それも因縁のなす業だからな。
俺は逆説的に全く罪悪感の無い人間なんて存在しないと言っているわけ。

>ライオンや鮫に殺されたなら、そんなところに出かけていった身の不運を嘆くほか無いでしょう。

今は人間の話をしているのであって獣の話をしているんじゃないでしょ?
話をすりかえないでください。
そうやって動物の話をするんなら俺の意見はこうです。
すなわち、あなたは蟻んこもなにもかも一切の生き物を不意にすら殺さないように
注意して生活しなければならないということです。
そんな事あなたにできますか?
>>279 名前:277
>誰も喜んで死んでやるなんて一言もいってないだろ。

 なるほど。正常な神経の人のようだ。やっぱり貴方だって命は惜しいんじゃろう。世の中に、ドブに捨てていいような命をもってる奴はおらん(笑)。殺人もやってよしなどと、安直に言いなさんなよ。

>全くの罪悪感が彼に無くしかも俺を殺す必然性が彼の中にあれば誰も止める事はできないだろ

 殺す必然性があれば、罪悪感があっても止める事ができないことはあるかも知れない。死刑執行官の手記を読んだとき、僕は彼らの仕事の大変さを感じた。
 僕は死刑廃止論者じゃない。でも、死刑執行官をやっていると死刑廃止論を主張したくなるという気持ちも分かる気がした。罪悪感があっても死刑執行官には、人を殺す仕事をして貰わなければ社会は困る。必然性はあるが、罪悪感もあるなら殺さないでいいよとは言えない。
>俺は逆説的に全く罪悪感の無い人間なんて存在しないと言っているわけ。

 なるほど。あなたが言いたいことは分かった。罪悪感の無い人間もいるだろう。僕はそう思うよ。例えば快楽殺人などは、罪悪感なくやるんだろう。
 快楽殺人じゃないが、僕は新聞に報道のあったある事件を覚えている。新宿である男がバスに放火した。多くの人が死んだ。男はすぐ逮捕になったが、精神病患者として不起訴になった。犯人に道義的な責任は無いと検察庁は判断した。その後、彼は精神病院に入れられたはずだが、その後どうなったか知らない。多分、今頃は退院してどこかで生活してるんだろう。
 今は、精神病患者の処遇が問題になっている。罪悪感がなければ殺してもいいか。そんなことはないんだ。

>それも因縁のなす業だからな。  <こんなところで因縁なんて言うもんじゃない。>

>話をすりかえないでください。  <なるほど。>

>あなたは蟻んこもなにもかも一切の生き物を不意にすら殺さないように注意して生活しなければならないということです。

 蟻でもむやみに殺せば可哀想だ。でも、人を殺すことと蟻を殺すことは次元が違う。人間には人格がある。元禄時代の生類哀れみの令は、歴史に名高い悪法だった。多くの人が苦しんだ。
 「故意に殺してはいけない」と、「殺してはいけない」と、「むやみに殺してはいけない」ということは、意味が違う。
282うんこ:2001/07/01(日) 12:48
なんで人を殺しちゃいけないか?

人を殺す事を許すと、真っ先に殺されるのは
神の名を使って悪事を行っている宗教家たちだから。
戒律で殺人を抑止しないと、自分らが怖いんでしょ。
283277:2001/07/01(日) 15:43
>>280

>罪悪感があっても死刑執行官には、人を殺す仕事をして貰わなければ社会は困る。
>必然性はあるが、罪悪感もあるなら殺さないでいいよとは言えない。

私が罪悪感がなく必然性があれば殺人してもいいといったのは道徳上の
問題であります。
殺ろしても良い悪いについては道徳上の問題であり、殺さなければならない
殺さなくても良いについては社会上の問題であります。
もしこれを社会的な問題にすりかえるのであるならば、必然性も罪悪感も
あるなら道徳的には殺してはならないが殺さざるをえないと言うことです。
要するに、その人の中で罪悪感と必然のどちらの比重が大きいかによって
殺人をするか殺人を断念するかが決定するのです。
284余白:2001/07/01(日) 15:59
>1
カトリックの立場から言うと、
命や人権は、天賦人権と訳されるように、
絶対他者(神・仏・自然なんと名指すかは問わず)から
一時的に貸し与えられたものと考えます。
ですから、他人の命は神がその人に特別に預けたものであって、
それを第三者である私が横から奪うことは許されないのです。
私の命も同様に預けられているものですから、
自殺も基本的に許されない、ということになります。
285277:2001/07/01(日) 16:14
>>281

>罪悪感の無い人間もいるだろう。僕はそう思うよ。
>例えば快楽殺人などは、罪悪感なくやるんだろう。

殺人しても罪悪感の無い人間なんてこの世に存在しません。
罪悪感が無い人間=人間ではない=獣 です。
前にもいいましたが、ここでは人間の話をしているのであって獣
の話をしているのではありません。

>精神病患者として不起訴になった。
>犯人に道義的な責任は無いと検察庁は判断した。

精神病=罪悪感はない=道義的な責任はない。
全く今まで私が主張してきた内容です。
(但し、私は道義的な責任はない=社会的責任はないとは言っていません)

>>278

>ライオンや鮫に殺されたなら、そんなところに出かけていった身の不運
>を嘆くほか無いでしょう。

この件に関しては私の勘違いで、あなたは別に動物に話をすりかえた
わけでも何でもありませんね。失礼しました。
286名無しさん@1周年:2001/07/01(日) 16:20
>>284
何ら合理的な説明になっていないんですが・・・
287名無しさん@1周年:2001/07/01(日) 19:43
>>284
聖地を取り戻すために異教徒を殺すのはいいんでしょ?
288名無しさん@1周年:2001/07/02(月) 18:50
age
289それがし:2001/07/02(月) 19:10
>>278
>ライオンや鮫に殺されたなら、そんなところに出かけていった身の不運
>を嘆くほか無いでしょう。
そうなのです.人を殺してはいけない理由はやはり,
「人権調整」のためなのです.
他の動植物にはあてはまりません.
>>285
>精神病=罪悪感はない=道義的な責任はない。

 道義的な責任はないということと、殺人もやってよし(>>277)とは違うでしょう。
 仏教的考え方に関する試論を続けます。
 善導と曇鸞とは、議論が立っている場所が違うようです。曇鸞の立場を推論してみましょう。
 ひとつの仮説として主張しておきます。曇鸞は、学園運営者という立場で考えているようです。大乗仏教は教育学です。浄土教は、釈迦をモデルに阿弥陀仏という架空の教育者を創作しました。曇鸞浄土教は、小乗の学問(基礎学問)を修得した若者に対し、阿弥陀仏を理想像として極楽浄土をモデルにした学校を創り、基礎学問の拡散を目指すようです。
 学園運営者はどこまでの人に入学を許すか。曇鸞にとって大きな課題です。物を盗んだことのある人、親を殺害してきたような過去のある者。こういう者に入学を許すべきか。教育学を専攻する若者に曇鸞は指導します。「あなた方の教場には、こういう者も差別無く入学を認めるべきである」、と。過去を問うべきではない。曇鸞はそういいます。
 ただし、真理を求めようとしない者、つまり真理を誹謗する者はこの限りではない。曇鸞はそう言います。なぜなら、学校は真理を求める場です。真理を真剣に求めようとしない者は入学を許さない。曇鸞の立場は非常に明白です。
292285:2001/07/05(木) 21:37
>>290

何回も言ってるんだけど、殺人を犯して罪悪感はない人間は存在しないと
言ってるでしょ。
 善導はどこに立っているのか。善導の専門は初等教育学のようだ。今まで、学問に縁がなかった者は、どこから学問の世界に入ればいいのか。善導は大乗仏教の高僧だ。大乗仏教は、人々を教育する教育者最高の価値を置く。入門者はどこから入門していくべきか。善導はそんな問題を考えている。
 釈迦は、かつて、自らの愚かさに気が付くと、互いに教え合い学び合うことを提唱する。大乗仏教は、釈迦のそんな提唱の中から、教育学を体系付けてきた。教育指導行為に人間にとっての最高の価値付けをする。新入生は、釈迦が定めた校則を守ることを誓って始めて入門を許される。
 校則は価値観である。価値観は時代・社会で変化する。三千年昔の南方の国々で妥当した価値観が、後の北方の国々で妥当するとは限らない。遠い昔の異国の価値観は現実の間尺に合わない。古い価値観に過度に縛られれば、今後、誰一人学問ができなくなる。善導は、釈迦の価値観からの脱皮を提唱する。釈迦の規則を逸脱する者がいても、真実を説く者を「ああ先生、南無阿弥陀仏」と念じる者である限り、自分は末法の世の最高位の高僧として、仏道修行者として認めるぞ。善導は、仏教入門者にそのように宣言する。
 学生の本質は何か。父殺し、母殺しをするような人物は学生と言えるのか。言えないのか。殺人を犯せば、人は法に基づく弾劾を受ける。所属する学校からも退学を余儀なくされるだろう。学校から退学を余儀なくされれば、学生は学生としての根拠を失う。僧侶も同じだ。殺人を犯すような僧侶は、法に基づく弾劾を受けるだろう。寺院・教団からも追放を受けるだろう。学校から、あるいは寺院・教団からも追放を受けた者は、真実を学ぶ資格はないのか。
 善導はあらたな主張を立てる。学校から退学を余儀なくされれも、あるいは寺院・教団から追放を受けても、追放を受けた者を、自分(善導)は重ねて弾劾しない。自分(善導)は、大乗仏教最高位の高僧として、被追放者を学生としてあるいは僧侶としてなお認め続けようじゃないか。人は、社会から弾劾を受けても、除籍されても、一人になっても真理を求める歩みを止めてはいけない。「ああ先生、南無阿弥陀仏」という思いを真実を説く者に寄せる限り、自分(善導)はその者を、真実を求める仲間のグループ(極楽)の一人として認めよう。殺人者であってもいい。死刑囚であってもいい。あるいは真理を誹謗する者であってもいい。真理を学ぶという崇高性の前にはそのようなことは問題ではない。
 学籍を除籍されてもいい。寺院・教団から追放を受けてもいい。社会の価値観は様々に変わりうる。古い価値観に縛られる必要はない。真実を説く者を「ああ先生、南無阿弥陀仏」と念じる者は、真理を求める自分たち仲間のグループ(極楽)の一人である。真実を説く者を「ああ先生、南無阿弥陀仏」と念じるという行為を学習の入り口(正定業)とし、我々の仲間の一人としてそこからひたすら真理を求めて行きなさい。善導は、初等教育学の権威として、このように説いているようだ。
295名無しさん@1周年:2001/07/07(土) 18:43
>>285

殺してはいけないと教えられなければ、人間には善悪の基準などはやすやすとは判らないものです。
人生観もさまざまです、仏教、神道、共産主義… どれが正しいかはいずれの方にも確かには判りませんし、試行錯誤の過程でいくらでも気付かぬ犯罪が生まれてしまう。
絶対平等の強制、告白の義務付け、でもこのようなことをしている方々は罪悪感と戦いながら動いているのではなく、本心から正しいと信じて活動を続けているのです。
これは、殺人や不倫にも適用できます。たとえ、はじめのうちは罪悪感に分類できる感情が伴なっても時間が経てば、それは薄れていきます。
しまいには、それが習慣となってしまい、そうせずには居られないタイプの人間が創られるのです。
296名無しさん@1周年:2001/07/10(火) 19:52
>>230以来だな。。
渡海難氏、頑張ってるみたいだね。
レスはしてないけど、ROMってるよ。

あげとこう。。。
297OOO:2001/07/10(火) 19:56
自分が殺されたくないから、人を殺さない!
298名無しさん@1周年:2001/07/10(火) 20:26
久しぶりに来たけど
このスレは渡海のゴキブリ教祖によって完全に汚染されたな。
 曇鸞と善導では、思想の立っている場が違う。場が違えば、結論は当然違ってくる。それでは、親鸞はどちらの思想を継承したのか。親鸞は両者いずれの思想をも継承した形を採りながら、実質は第三の選択をしたようだ。
 五箇条の大罪(五逆罪)も真理の否定(謗法罪)も、どちらも極めて重罪である。中でも、真理の否定は特に重罪である。親鸞は曇鸞からそのように学ぶ。しかし、そのような重罪を犯す者まで救おうとしている大きな働きがある。親鸞は善導からそう学ぶ。
 曇鸞と善導と親鸞とでは、立っている場が違うことに注意する必要がある。曇鸞にとって阿弥陀仏は、仏道修行者が修行によって到達する理想像であり、到達目標である。善導にとって阿弥陀仏は、師匠を持たない仏道修行が実在の師の代わりとして仰ぐ創作的観念的な師である。しかし、親鸞にとって阿弥陀仏とは、擬人化して捉えた真理そのものである。曇鸞・善導・親鸞の三者間で阿弥陀仏はこのように違うと考えていいだろう。
 植物学者は、花を先生と仰いで花から花の真実を学ぶ。地球物理学者は、石を先生と仰いで石から地球の起源を学ぶ。実にあらゆる者が、我々に向けてさまざまなことを教えようとしてくれている。かつて、コロンブスは大西洋の西の果てに魅せられて大西洋の荒波を越えた。野口英世は、黄熱病の克服に自分の命を賭けた。
 真理は、人々に情熱をたぎらせる。真理を求める者には、真理を求める喜びを与える。真理を求める者にはやがて自らの姿をそのものの前に現し、真理の開拓者としての名誉を与える。親鸞は、真理のそんなありかたに人格を認めそれを阿弥陀仏と呼んでいるようだ。阿弥陀仏はどんなパーソナリティをもっているのか。親鸞は、一般的には阿弥陀仏に釈迦の人格を重ね、具体的には曇鸞や善導が説いた阿弥陀仏観を重ねる。
 花を学ぼうとする者に、花の真実を明らかにしようと花に宿り、人格をもって行動してくる真理。石に地球の起源を学ぼうとしている者に、石の真実を明らかにしようと石に宿り、人格をもって行動してくる真理。それらはどういうポリシーで一体何を考えて行動してくるのか。五箇条の大罪(五逆罪)も真理の否定(謗法罪)も、どちらも極めて重罪である。中でも、真理の否定は特に重罪である。しかし、そのような重罪を犯す者まで救おうとしている。親鸞はそのような認識を持っているようだ。
 人を殺すことは何故悪いのか。僕らの近代の先輩達は、しばしばその答えを宗教の中に求めてきた。西洋では、自然権から人権天賦説を導いた。しかしこれは、前近代から近代に世界史が移り変わるときの便宜説であった様な気がしてならない。仏教は、時には空を説き、時には業報説、罪悪説を説く。しかし、相手の器を見たときは、殺人を命じる主張を展開するときもある。
 殺人は何故悪いのか。この最終的根拠は宗教に求めるべきではないだろう。宗教は、そのような価値判断の基準の提供者とはなり得ない。僕はそう思う。結局、国法に求める外はないだろう。国法が悪であると定めている限り、これは悪である。国法が全ての価値基準になるかどうかは、なお検討の余地はあるだろう。しかし、少なくとも、殺人の善悪は国法に求める外はないと僕は思う。
 国法は、民主的に、多くの人々の価値基準に沿って定めるべきだろう。国法は国の方向を決めるものだ。多くの人の共通の価値観は、しばしば先人の提唱に従っている。それなら、立法者は先人の提唱に耳を傾けるべきだろう。しかし、最終的価値基準の根拠は、あくまで立法者が決めたルールに依拠するものだ。
 人を殺した者は法の裁きを受ける。社会は、法の運用に躊躇してはならない。法の運用に躊躇すれば、国家は混乱する。殺人を犯した者は法に基づく弾劾を受ける。これは、我々自身が決めたルールである。
 しかし、僕らは社会のルールが全く関与してこない価値観を併せ持ちたい。いささかの弾劾も推奨も向けない世界、僕はこれを、精神的すなわち非社会的・観念的宗教的世界として堅持していきたい。僕はそう思っている。   (完)
301名無しさん@1周年:2001/07/11(水) 10:50
あげ
3022チャンネル委員会。:2001/07/11(水) 22:10
            o
            /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
           /   この議論は無事   /
           /  完結に至りました    /
          / ありがとうございました  /
          /                /
         /   2チャンネル委員会  /
         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/
  ∧_∧  /                /∧_∧
 ( ^∀^) /                /(^∀^ )
 (    )つ               ⊂(    )
 | | |                   | | |
 (__)_)                  (_(__)
303名無しさん@1周年 :2001/07/14(土) 12:53
age
304名無しさん@1周年:2001/07/14(土) 13:54
結局渡海難のオナニーで終わるんかい、このスレは?
305名無しさん@1周年:2001/07/14(土) 14:09
渡海難さんは、「人権調整」を別の言葉で言い換えてくれたわけです。
ありがとうございました。
306名無しさん@1周年:2001/07/14(土) 14:10
>>305
ゴキブリ教祖にお礼は必要なし!
そんなこと言うと奴がますます頭に乗るだけ!
307305:2001/07/14(土) 14:21
>>306
勿論、皮肉で言ったんですよ。
皮肉デ。
308名無しさん@1周年:2001/07/14(土) 16:35

     ______
    /_      |
    /. \ ̄ ̄ ̄ ̄|
  /  /  ― ― |
  |  /    -  - |
  ||| (6      > |
 | | |     ┏━┓|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | | |     ┃─┃|  < 正直、渡海のせいでこのスレは台無し。
|| | | |  \ ┃  ┃/    \______________
| || | |    ̄  ̄|
>>307 名前:305
>勿論、皮肉で言ったんですよ。皮肉デ。

 皮肉を言う必要でもありましたか?言いたいことは素直に仰ればいいんじゃないですか。言葉で奥歯にモノが挟まってモノが言えない貴方も、もしかするとやっぱりお坊さんですか?

>>308
このスレで何がしたかったんですか?何をしようとしてできなくなったんですか?
しようとしたことは、今からではもうできないことなんですか?
渡海 難がカキコをすると、貴方もモノが言えなくなる方ですか。
ご遠慮なさる必要はないんじゃないですか?
310名無しさん@1周年:2001/07/15(日) 12:12
>>308
>>309渡海難氏に同意。

>渡海難氏
余裕ができれば、貴方のレスに質問をさせていただきますので、
できれば答えてくださいね。
それまでは、このスレをチェックしててね。(笑)
311305:2001/07/17(火) 12:47
俺、坊主じゃないよ。
渡海難が言いたいのは、
「人を殺してはいけない」という社会規範が、
人間によって「人権調整」を目的に定められたものに
過ぎないってことでしょ。
ここまでは渡海難に同意。それに対し
あんなに長々と書かなくても分かるでしょ。
というのが、私の皮肉の意味。
>>311 名前:305

>人間によって「人権調整」を目的に定められたものに過ぎないってことでしょ。

 人間によって定められたものであるということです。それは「人権調整」というものではありません。人権は天が与えた生来の権利です。人権調整は、天が与えた生来の権利の中で衝突しあうものは強弱を付けて調整しようという考えでしょう。人権は宗教に起源します。宗教的な価値観は否定しようと言うのが試論のテーマです。
 「過ぎない」といえばこれは評価です。ここでは評価は含めていません。「過ぎない」ものか、「まさにそれほど偉大なもの」かは、個人の評価です。

>あんなに長々と書かなくても分かるでしょ。

 結論は極めてシンプルになったと思っています。万人が共有していい価値観は、シンプルでなければいけない。ただ、シンプルになったというのは、議論の結果です。議論で大事なのは結果ではない。万人を納得させられるどういう思考経路をたどっているかです。
 今回の議論は社会ルール説、あるいは民主説と名付けていいもんだろうと思っています。これに反して天賦人権起源説、宗教戒律起源説でもいいと思うんですよ。要は、より多くの人を納得させられる議論ができたかということが大事だろうと思います。
 人権調整という言葉を出してきた貴方には、僕の議論が分かって戴けた感じがしません。

>というのが、私の皮肉の意味。
     皮肉を言わなければいけない事情は、貴方の心の中にあるようですね。
>>311 名前:305
>俺、坊主じゃないよ。

 あ。そうでしたか。最近、僕は坊さんへの不信感で一杯になってしまっているんですね(笑)。もっとも、あなたが坊さんであっても、僕にとって別に悪いことでもいいことでもないんですよ。

>渡海難が言いたいのは、

 ぼくは、見ず知らずの人から呼びつけされなければいけない理由はないんですけどね。
314305:2001/07/18(水) 11:45
渡海難さん。
済みません。呼び捨てする積もり無かったんです。
>渡海難が言いたいのは、
については、誤字だと思っておいてください。

ところで、
>>300で、
>この最終的根拠は宗教に求めるべきではないだろう。
っと言ってましたが、
>>312
>人権は天が与えた生来の権利です。
の「天」って宗教的ですよね。
少なくとも科学的でも芸術的でもないですね。
論理的に矛盾してませんか?
私が、渡海難さんの書き込みを正確に理解していないせいかもしれませんが。
315305:2001/07/18(水) 12:01
>>314の訂正
済みません。間違えました。
渡海難の意見は人権は宗教的と意ってましたね。
人権は、法治国家などで保障されている自明な公準に過ぎないものではないでしょうか。
316305:2001/07/18(水) 12:05
>>315の訂正
渡海難−>渡海難さん
意ってましたね。−>言ってましたね。
>私が、渡海難さんの書き込みを正確に理解していないせいかもしれませんが。
      多分そうだと思います。

>人権は宗教的と意ってましたね。
      神の意思を擬制して正当化した便宜論だと考えています。

>人権は、法治国家などで保障されている自明な公準に過ぎないものではないでしょうか。
     これは貴方の考えですね。社会では多数説だと思います。私は不同意です。

>>312で僕は、社会ルール説と書きましたが、むしろ「律法説」と言うべきでしょうね。訂正しておきます。
318名無しさん@1周年:2001/07/18(水) 20:06
>渡海難氏
ごめんな。質問するて言っておいてなかなかできずに。
なかなか終わらんことがあってね。

質問は1週間後ぐらいになるかと。
回答はいつだっていいから。
のんびり、たまにチェックしてもらえたら嬉しいな。

ではでは。。。
319名無しさん@1周年:2001/07/18(水) 20:08
305さんへ。
これ以上ゴキブリ教祖の相手をするのはやめましょう。
あなたのためになりませんから。
バカを相手にするとあなたもバカになりますよ。
320319:2001/07/18(水) 20:09
>>318
あなたもです。
>>317
誤 律法説
正 立法説  m(_ _)m 
322名無しさん@1周年 :2001/07/19(木) 07:16
>1 人を殺す前にさっさと自殺してください
   できれば切腹でお願い(ワラ
323名無しさん@1周年:2001/07/19(木) 07:55
レスを全部読もうと思ったけど、疲れるのでやめた。既出ならスイマセン。

何故、人を殺しちゃいけないか?
ほとんどの人間は死にたくないと思っているし、ましてや
殺されたくないと思ってる…(統計を取ったわけじゃないが、間違い無い)
だから殺してはいけないんです。
だって、自分がされて嫌な事は、人にしちゃいけないでしょ
(これも論議を呼ぶかな…)
324名無しさん@1周年:2001/07/19(木) 07:58
>>323自己レス
最後の2行は無視してください。
325名無しさん@1周年:2001/07/19(木) 08:01
イスラエル軍は18日未明、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区周辺に戦車、歩兵部隊を集結させ臨戦態勢に入った。パレスチナ側が17日、イスラム原理主義組織ハマスの幹部ら4人が殺害されたことへの報復として、エルサレム近郊に迫撃砲弾を撃ち込んだことへの対抗措置。一触即発の事態となっている。(エルサレム支局)
326名無しさん@1周年 :2001/07/19(木) 08:19
>>325
ジューなの?
327305:2001/07/19(木) 11:58
渡海 難さんが「立法説」の言い換えを
長々としていることぐらい理解してます。
勿論、>>314での人権に宗教的意味はないというのは私の考えに過ぎません。
しかし、民主主義かつ法治国家の日本で、
殺人罪を「立法説」で説明すれば「人権調整」になるでしょ。
人権だって人間がオプティマイズして考えだしたことに過ぎません。
だから、ヨーロッパ源流の人権が全く宗教的背景の異なるの日本でも成り立つんです。
日本の法律家は人権という言葉を連発して使用してるじゃないですか。
即ち僕が言いたいのは、あんあに長々と書かなくても
「立法説」っていえば済むでしょってことです。
これが僕の皮肉の真意。のへへ。
328305:2001/07/19(木) 14:22
>>327
>これが僕の皮肉の真意。のへへ。
の補足。
「立法説」を説くのに、
西方浄土の阿弥陀仏だの真理の探求だの引っ張り出してくるような、
>>299の議論は全く無意味。
>>327
>ことぐらい理解してます。   <それがどうかしましたか?>
      
>人権に宗教的意味はないというのは私の考えに過ぎません。

 現代では宗教的な意味はないという意見のある方は外にもいらっしゃるでしょうね。
 宗教的意味があるということと、宗教起源の概念であるということとは意味が違います。起源は宗教であっても、既に変質しているから今では宗教ではないという主張は十分可能です。僕は宗教起源であると言っています。
>殺人罪を「立法説」で説明すれば「人権調整」になるでしょ。

 なりません。殺人を弾劾の対象としない法体系の存在は可能かという点で議論が分かれます。
 人権調整であれば、人権という概念の存在を容認します。殺人を弾劾の対象としない法体系は憲法違反になります。なぜなら、人の命は人権の一部であって、法律の有無に関わらず保護されなければならないということになるでしょう。国家は、処罰手続き規定がなければ、現実問題として処罰手続きがとれません。復讐を禁止し、処罰手続規定もなければ、その法は欠陥体系というということになるでしょう。殺人は善であると国会が決議しても、その決議は無効です。

 立法説というのは、殺人を弾劾の対象としない法体系も認めるという考えです。殺人禁止規定がなくても
、それ自体は欠陥法体系になりません。殺人は何故悪であるのか。法律でそう決めたから悪なのであるという考えです。悪ではないと法律で決めれば、殺人は悪でないことになります。殺人は悪ではないと法律で決めれば、殺人は悪ではないのであって、国民の合意があれば国会はそのように立法する自由があるということです。

>人権だって人間がオプティマイズして考えだしたことに過ぎません。   <??>

>ヨーロッパ源流の人権が全く宗教的背景の異なるの日本でも成り立つんです。   <??>

>日本の法律家は人権という言葉を連発して使用してるじゃないですか。   <??>
>即ち僕が言いたいのは、あんあに長々と書かなくても「立法説」っていえば済むでしょってことです。
これが僕の皮肉の真意。のへへ。

 あなたは議論の結論に興味があるようですね。私は結論などにはあまり興味がありません。あなたと僕とはそこが違います。
 「殺人は善である」という結論を他人が導いても、議論の運びに無理がなければ僕は問題にしません。大事なのは底の深い、幅の広い議論展開ができたかということです。「殺人は悪である」という結論を他人が導いても、議論の運びに無理があれば、僕は批判の対象にします。


>>328
>「立法説」を説くのに、西方浄土の阿弥陀仏だの真理の探求だの引っ張り出してくるような議論は全く無意味。

 貴重な御意見として承ります。
 底の深い幅の広い重厚な議論をしようとすれば、様々な論点を拾ってきて一つ一つを潰していかないといけません。重厚な議論に興味がなく、○か×かで直ちに結論が欲しいという方には無意味に感じられるでしょうね。
332305:2001/07/19(木) 21:35
>>329 >>330
>ヨーロッパ源流の人権が全く宗教的背景の異なるの日本でも成り立つんです。
で言いたかったことは、「人権」の概念がキリスト教を背景とした哲学や思想から生まれたにしろ、
日本のような神道または仏教国でも「人権」が法律上成り立っているということです。
もし、「人権」が絶対に宗教的な意味を持たねばならないのなら、
日本の弁護士もみんなクリスチャンにならなければなりません。
しかし実際はそうではありませんよね。
にも関わらず、弁護士は人権という言葉を用いています。
これは、人権が宗教的な意味は無くてもよいという立派な例外的根拠にならないでしょうか。

だから私は、「人間には人権を有する。」という命題は単なる法律上の公理のようなものであるといいたかったんです。
例えば「0×α=0;∀α(ゼロになに掛けてもゼロ)」みたいに。
これも人間が決めたことです。
かといって、「人間には人権を有する。」
という命題の宗教的な意味付けに反対する積もりはありません。
しかし、宗教的な意味付けをしても単なる言い換えになるだけです。

だから、
>殺人を弾劾の対象としない法体系の存在は可能か
「人間には人権を有する。」という命題さえ変更すれば、
十分可能だと思います。
実際にそのような法律や文化圏を古今東西から探せば、
枚挙に遑がないと思います。
従って、私が言いたいのは、渡海難さんと基本的に同じだと思います。
ここまで言っても、「立法説」⇒「人権調整」とは認めてくれない可能性が高いと思いませが。

ここまでクドクド書かないと渡海難さんには分かって貰えないのかな。
きっと、渡海難さんの頭の中もクドクドにちがいない。
>>332   <??>
334305:2001/07/19(木) 22:14
ごめんね。
渡海難さんのまねしちゃった。
335名無しさん@1周年:2001/07/19(木) 22:22
>>332
すげー分かりやすいぞ。うん。
しかし、多くの宗教馬鹿には理解できないだろう。

つまるところ
「人権の定義」が宗教的に発生しているか否かはおいといて、
命が人権に含まれる部分はコンセンサスがとれているっていうことが
大前提なんだね。
そのうえで、「人間には人権を有する」が変更可能かどうかだね。


ばっさり切り捨てて本質に迫ろう。
殺人は絶対悪ではない。
というかそもそも絶対悪とか絶対善なんて在りえない。
これを大前提として、善悪とは、
ある行為をある価値観で評価した結果だとする。
だとすると、法的に悪とされる行為は
「単なる大勢のコンセンサス」でしかない。
つまり大勢が何に洗脳されているか、どんな価値観か、
ということでしかない。
多くの場合、結局宗教的価値観だったり民族的価値観が
根底にあるわけだけど、だとすると、
「そもそも、なぜその宗教的価値観や民族的価値観は殺人を悪としてきたか」
というところに落ち着く。
もちろん殺人を悪としない価値観は多数存在する。
ある法体系がある宗教的価値観や民族的価値観をベースとした結果、
殺人が悪とされないケースは多数ある。
日本でもある条件を満たせば殺人は許可されるしわけだし。

ここまで来ると、もう各宗教や各民族における価値観を書くだけで済む。
336名無しさん@1周年:2001/07/19(木) 22:26
というわけで、あとは各宗教における考えが羅列されるわけだけど、
どれが絶対的に正しいとか、そういうのは在りえないよ。

馬鹿馬鹿しいのは、「ウチの宗教が正しい。オマエのとこは間違っている」
みたいな排他的思考。
そういうのは勘弁してね。

どうせ本質的には
「ウチの宗教では、こういう理由で殺人は悪なんだよね」
という書き込みにしかならないはずだし。
>>334
>ごめんね。渡海難さんのまねしちゃった。
     単なる独りよがりであって、こちらは真似されている感じがしない。
338名無しさん@1周年:2001/07/19(木) 23:56
ワラタ…
339305:2001/07/20(金) 00:01
そうね。
おこがましいこと、言いました。
確かに、クドクドさは渡海難さんよりまし。
>>339
>クドクドさは渡海難さんよりまし。

 クドいかどうか。よりましか、より悪いか。こんなことは主観によって見方が変わる。問題はそんなことじゃないと思う。あなたからは話の理屈が伝わって来ないんです。No335さんは「すげー分かりやすい」と言っている。No335さんは、あなたと同じような頭の構造の方なんでしょう。僕には理屈が伝わって来ない感じなんです。理屈が伝わって来ない感じということで、「独りよがりに感じられる」と申し上げました。
 因果関係、抽象概念と具体例、主張意見と根拠、他人の意見と自説など、くどくてもいいから自分なりにきちんと整理し、読み手が分かるように順序立てて説明してください。議論の運びはどこからどこに続くんだろうと、読み手が右往左往するような文章では困ります。議論が右往左往していれば、No335さんのような人にしか貴方の話は伝わらないでしょう。少なくとも頭の悪い僕には伝わらない(笑)。
 例えば、「確かに、〜よりまし。」とはどういうことでしょうか?。
 339さんは、直接的には誰に向かって話をしたいのですか?。「おこがましいこと、言いました」というカキコは、337を受けたカキコじゃないんですか?もしそうなら、次の文章の「確かに」はおかしい。逆説の論理として、「しかし」とか「そうは言っても」というような接続詞あるいは副詞がこないと、少なくとも337の相手には話が伝わりにくい。
 「確かに」を生かすなら、「渡海難さんのおっしゃることはごもっともです」という趣旨になるでしょう。「渡海難よりまし」とは、僕は全く思ってない。そんな意見はどこ捜しても書いてない。「クドクドさは渡海難よりまし」という考えで同意を求めるなら、渡海難ではなく、335,336さんでしょうか。
 「確かに」以下は、話相手を変えて、335,336さんに向かっているんでしょうか。もしそうなら、相手を切り替えたことを明示すべきでしょう。議論が右往左往しているというのは、例えばこういうところです。
 議論がどっちに向かっているのか分からない。335,336さんに向かうなら、「335,336さん。確かに、クドクドさは渡海難さんよりましですよね」と、書くべきでしょう。「ですよね」は、無くてもいいけど、これを加えるのは意味があります。話を向ける相手は、335,336さん、貴方ですよ、分かってくださいよ、と強調するためです。

 議論の筋道と流れを整理し、読み手が分かるように順序立てて説明してください。くどくても構いません。筋の分からない文は、読み手が疲れます。
339(305)さんへ。追伸
 僕のカキコに皮肉はありません。本気で書いています。皮肉と解されたら困ります。誤解しないでくださいね(苦笑)。
343名無しさん@1周年:2001/07/20(金) 12:41
>>341
厳密には>>340-341は正しいが、話をスムーズに進めるためには
相手の言動を論理的に解釈して、ある程度より低い可能性は
排除して相手の言動を能動的に理解する必要がある。
もし理解が間違っていたり、理解できない場合に限り、
相手に質問して自分と相手の理解の合意を得るべきである。

それを全くやらずに、全て「わからん」と言い、話の本筋を
進めさせないのは一般的にクドイと言われる。

議論の筋道と流れの理解を得るよう努め、
話の筋が分かりやすくなるように書いてください。
筋の分からない文は、読み手が疲れます。
344305:2001/07/20(金) 13:32
>>340
私のクドクドの発言について、わざわざレスがくるとは思いませんでした。
どうぞ好きな意味で捉えてください。
345名無しさん@1周年:2001/07/20(金) 13:37
みなさん、渡海難は無視しましょう。
彼は昔から宗教板でドキュソ発言を繰り返しているのです。
これ以上渡海を相手にすると宗教板全体がおかしくなってしまいます。
彼のためにも無視するのが一番です!
346305:2001/07/20(金) 13:38
書き忘れました。
>339さんは、直接的には誰に向かって話をしたいのですか?
>>339は、>>337に対するレスです。
ですから、渡海難に向かって話をしていることになります。
347名無しさん@1周年:2001/07/20(金) 13:44
>>346
だから渡海難を相手にしちゃ駄目だって言ってるでしょ?305さん。
キチガイ渡海のことはほっとけ!
348305:2001/07/20(金) 13:52
>>342
私は、論理的に完全に矛盾のないプログラム言語を書いているんではない。
そんな、揚げ足を取るような、文章の指摘をするなら、
「ですます調」か「だである調」くらい統一したらどうだ。
>>340
>No335さんは「すげー分かりやすい」と言っている。-> 「だである調」
>僕には理屈が伝わって来ない感じなんです。->「ですます調」
349305:2001/07/20(金) 14:19
>>341
それでは、>>339を以下のように書き換えます。

そうですね。
真似が出来たという、実におこがましいこと言ってしまいました。
確かに、クドクドさにおいて、渡海難さんにはおよびません。
>>343
>話をスムーズに進めるためには相手の言動を論理的に解釈して、ある程度より低い可能性は排除して相手の言動を能動的に理解する必要がある。

 掲示板のように簡単に送信できるツールでは、しばしば推敲しないで送信してしまう。「相手の言動を能動的理解(? 真意を冷静に積極的に類推?)する必要がある」という点には異存ありません。

>理解できない場合に限り、相手に質問して自分と相手の理解の合意を得るべきである。それを全くやらずに、全て「わからん」と言い、話の本筋を進めさせないのは一般的にクドイと言われる。

 趣旨は賛同しますが、「全くやらず、全て「わからん」」というのは、僕のことを指していますか?全てとは、>>341の僕の一回のカキコという意味ですか?。343さん、あなたは僕に噛みついてきていますか?(笑)。
 質問できるのは、こちらがある程度、相手の真意が分かったと思える場合でしょ(笑)。幾つかの選択肢が出てきた場合、どれですかとはじめて聞けるわけです。どういう脈絡で、どいう筋からでてきた議論か、手も足も出ない見当もつかない、選択肢も出ない場合には、質問のしようもない。質問していると言うことは、ある程度分かったということですよ。
 ことの原点は>>332にあります。>>332は、僕にとって、手も足も出ない見当もつかないカキコです。だから>>333は疑問符にしました。>>332に答えたつもりの>>333の<僕の言動は、論理的に解釈して、ある程度より低い可能性は排除して僕の言動を能動的に理解>してくれましたか?。343さん。>>333の疑問符の意味は理解してくれましたか?
 >>327-328に答えて僕は>>329-331を書きました。>>329-331は、<327-328(305)の言動は論理的に解釈して、ある程度より低い可能性は排除して327-328(305)の言動を能動的に理解>しているでしょう。>>332は、>>329-331に応答しているモノか、応答していないものか、僕にはサッパリ分からない。>>329-331とどうつながっていくのか。僕には脈絡が分からないんですよ。332(305)さんは、>>329-331を無視するのか、無視しないのか、サッパリ分からない。
 >>334(305)の「ごめんね。渡海難さんのまねしちゃった。」という返事はどういう意味ですか?。343さん。貴方には分かりますか?。<相手の言動を論理的に解釈して、ある程度より低い可能性は排除して相手の言動を能動的に理解>してみてください。343さん(笑)。
 ゴメンネというならそれは、僕(渡海)が言わなければいけないんじゃないですか?。「ごめんね、>>332がサッパリわからないんだよ」と。「渡海難さんのまねしちゃった」って、どういうことでしょうか?。

>相手に質問して自分と相手の理解の合意を得るべきである

 >>337の僕のカキコは、こちらの意識を伝えるものでした。カキコの意思は伝わりましたか?。343さん。>>337のカキコは、謝って貰う必要はありませんよという意味です。
「334(305)さん。自分だけの世界に入り込んでいませんか?<論理的に解釈して、ある程度より低い可能性は排除して僕(渡海)の言動を能動的に理解>してくださいよ」。そういう意味です。
 >>339の「そうね。」とは、こちらの見解に同意したというという意味ではないでしょうか。343さん。<相手の言動を論理的に解釈して、ある程度より低い可能性は排除して相手の言動を能動的に理解>し、僕の見解に同意したというという意味であると僕は解したんですよ。
 ところが、「そうね。」と同意しておいて「確かに、クドクドさは渡海難さんよりまし」というのはおかしいでしょう。343さん。334(305)さんは誰に向いていると思いますか。
>議論の筋道と流れの理解を得るよう努め、話の筋が分かりやすくなるように書いてください

 こちらは、議論の筋道と流れの理解を得るよう努めているつもりですよ。343さん(笑)。流れの理解を得るよう努め、こちらも流れを理解していただけるようにカキコしているつもりです。
 相手の言動を能動的に理解していない(>>343)というのは、僕のどこのカキコですか?.。<貴方≪343さん≫の言動を論理的に解釈して、ある程度より低い可能性は排除して貴方≪343さん≫の言動を能動的に理解>すれば、>>341ということでしょうね(笑)。
 >>341を読んで、渡海 難は能動的に理解していないと感じたら、それは貴方≪343さん≫が僕の真意を能動的に理解していないということでしょう(笑)。
 >>341は、渡海が(>>339)を能動的に理解しているからカキコできたんですよ。「渡海難よりまし(>>339)」というのは僕に向けている言葉ですよ。そんなことは分かっています。だから「そうね」というのも、ほんとは「そうね」じゃなく、「うるさいな」ということでしょう。339(305)さんの心情は、「皮肉>>307」という言葉が象徴していると思います。要は、理屈抜きで自分の不快感を伝えたいということじゃないですか?。そんな思いが僕に伝わってきています。多分、誇り高いお坊さんなんでしょう(笑)。議論の筋道と流れを理解して、貴方≪343さん≫には339(305)さんの心情が感じられていますか?
 僕に対する339(305)さんの感情は、皮肉でも不快感でもいいんですよ。構わないんですよ。皮肉でも不快感でもいいんだけど、不快感でない議論まで右往左往した議論になっているということが気になるんです。339(305)さんは、論理立てる思考訓練を受けてない方なんでしょう。こういう人はお坊さんに多い。風船のように議論が右往左往する。僕に対して皮肉や不快感を感じているというのも、議論の筋道がきちんと見えてないことも一因じゃないか。そんな仮説が僕(渡海)の中にあるんです。筋道立てた議論が見えてくると、僕に対する皮肉も不快感も無くなるんじゃないか。少なくとも、きちんと筋のたった議論が出来ない限り、この人は皮肉や不快感で終わるんじゃないかと思っているんですよ。
 不快感でない議論まで右往左往した議論になっているということを332(305)さんに僕は伝えたかったわけです。論理立てる思考訓練を受けてない相手に、事実を抽象的でなく伝ええたかったわけです。抽象的でないようにするなら、332(305)さんにも分かる具体例を挙げないといけない。だから、>>341では分かりやすい>>339を挙げました。議論の本道と、表面の言葉が不一致だということが、>>339なら誰にでも一目瞭然で納得できる。お陰で332(305)さんにも例示の範囲ではこちらの主張も分かって貰えた。ただ、論理立てる思考訓練を受けてないから、一を聞いて十を知るような、例示の範囲は超えてないようですね(笑)。
 343さん。ま、いろいろな誤解がありますわ。

>議論の筋道と流れの理解を得るよう努め、話の筋が分かりやすくなるように書いてください。

 冷やかし的言動にも、<相手の言動を論理的に解釈して、ある程度より低い可能性は排除して相手の言動を能動的に理解>して回答すれば疲れるワイ。(笑)。
>>346
>ですから、渡海難に向かって話をしていることになります。

 「読み手が右往左往するような文章では困ります」ということを伝えたくて、そのために書いた質問形の枝葉の例示に回答してくるとは思わなかったワイ(笑)。
 それより、>>333の<??>に答える方が先じゃないの?僕が理解に手も足も出なかったんだから。
 「殺人罪を「立法説」で説明すれば「人権調整」になるでしょ。 <なりません。>」なりませんという僕のこの見解は賛成できたの?賛成できないの?「西方浄土の阿弥陀仏だの真理の探求だの引っ張り出してくるような議論は全く無意味」に対する僕の反論には異存はないの?異存があるの?
 「オプティマイズ・全く宗教的背景の異なるの日本でも成り立つ・連発して使用して」などの議論に僕がつけた<?>に対しては、何の説明も無いの?
>>348 名前:305
>私は、論理的に完全に矛盾のないプログラム言語を書いているんではない。

 僕も随分大目に見ているでしょう。こちらだっておかしな文をかなり大目に見て貰っているという気持ちはあるんですよ。

>そんな、揚げ足を取るような、

 御立腹のご様子ですね。ご不快になりましたか?。お気位の高い方ですね。社会で一番お気位のお高い方は誰か。いつの世でも決まっている(笑)。
 揚げ足じゃない。議論が右往左往しているというのは、貴方の本質的な問題だから、一度は指摘しておかないといけないと思っただけですよ。親切でしょう(笑)。

>文章の指摘をするなら、「ですます調」か「だである調」くらい統一したらどうだ。

 読みにくいところがあれば、こちらも少し気を付けましょう。
>>349
>以下のように書き換えます

 意地でも張りたい気分のようですね?(笑)
 これについてはもう、十分でしょう。相手にとっくに分かってることをくり返し、くり返してもくり返してもやっぱり論理矛盾を掘る。病気だな。
 くどくどさでは、>>349(305)さんに僕は叶わないよ。もういいでしょう(笑)。
 ま、書き換えるくどさがあるんなら、>>329-331の僕のカキコにまともに返答してくださいよ。>>333にも答えてよ。murikana ?muridaroona(warai)。
>>356 349さんを含む皆々様へ
 最後のローマ字「murikana ?muridaroona(warai)」は無視してください。下書き段階の時のニュアンスと送信後のニュアンスが、大きくずれている感じです。
 この記述ばかりは自分でもどうも嫌らしく感じます。こちらの真意を十分表現できていない心配があります。今後は文章に十分気を付けます。
 済みませんが、このカキコはなかったことにしてください。(スマソ)m(_ _)m
 
358343:2001/07/20(金) 20:39
>>350
>343さん、あなたは僕に噛みついてきていますか?(笑)。

暇つぶしに餌撒いただけです。
359名無しさん@1周年 :2001/07/20(金) 21:04
age
>暇つぶしに餌撒いただけです。

 ま、冷やかしだろうと思っていました。僕はいつも真面目に答えています。「全てわからんと言う」などと、ぼくはインネンを付けられる覚えはない。
 ただ、冷やかしでも、相手の言動を論理的に解釈して、ある程度より低い可能性は排除して相手の言動を能動的に理解して回答しないと、冷やかしがいつ狼になるか分かりませんモンネ(笑)。
 ま、安全策をとりましたよ。餌を撒くなら、もう少し歯ごたえのあるのを撒いてね。貴方のオツム程度が露見するような餌は、疲れるだけだ。
 イケネー。sageる必要なかった。
362名無しさん@1周年:2001/07/20(金) 22:06
>>360
御立腹のご様子ですね。
ご不快になりましたか?。
お気位の高い方ですね。
社会で一番お気位のお高い方は誰か。
いつの世でも決まっている(笑)。
おっと偶然にも、渡海さんと全く同じ文章になってしまいました。
「冷やかし」と「餌を撒く」のは違いますよ。
冷やかさずに餌を撒いたのです。
貴方のオツム程度が露見するような返答は疲れるだけだ。
363名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 05:08
読みつかれ あげ
>>362
>偶然にも、渡海さんと全く同じ文章になってしまいました。

 そうですか。そうですか。渡海さんと全く同じ文章になってしまいましたか。心が通じ合うというのは、いいことかも知れませんね。こいうのを鏡の効果というんですかね。人が居合わせると、鏡に映したように違う人が同じ事を感じる。そういうこともあるかも知れませんね。ウンウン。

>冷やかさずに餌を撒いたのです。

 そうですか、そうですか。ウンウン。餌を撒いたつもりが、撒いた心の冷たさが相手に伝わり、冷やかしに感じられるということはあるかも知れませんね。心の問題ですから、何が伝わっているか、なかなか本人だけでは分かりませんね。難しいですね。
 暖かい心では暖かみが伝わる。冷たい心では、冷やかしに感じる。そういうことはあるかも知れませんね。

>貴方のオツム程度が露見するような返答は疲れるだけだ。

 そうですかそうですか。疲れることも必要な時はあるでしょうね。みなさん凡夫ですから、全員が仏様のようには行きませんね。ウンウン。
365名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 10:13
というわけで、結局渡海は
真面目だけどただの馬鹿

確信犯的な荒らし
といういずれかの可能性しかありません。

もし前者なら、fjをお勧めします。
366名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 10:32
>>365
前者でしょう。
確信犯的な荒らしには見えません。
彼は自分独自の世界に入ってるだけで、自分の思ったことを押しつけているだけのウザイ奴です。
>>365
>真面目だけどただの馬鹿

 あなたのチノーでは、真面目と馬鹿とが逆説関係のようですね。そうですか、そうですか。ウンウン。
 真面目なただの馬鹿ですよ(笑)。

>fjをお勧めします。  <?? 馬鹿には分かりませんね(笑)。>   

>>366
>前者でしょう。

 あなたのチノーも、真面目と馬鹿とが逆説関係のようですね。そうですか、そうですか。ウンウン。

>確信犯的な荒らしには見えません。    <そうですか、そうですか。ウンウン。>   

>自分独自の世界に入ってるだけで、自分の思ったことを押しつけているだけのウザイ奴です。

 ウザイ奴と思えば、他人は自分の思ったことを押しつけているだけに見える。
 自分の思ったことを押しつけているだけに見えれば、自分は独自の世界に入ってるだけになる。
 お気をつけ遊ばしなさいよ。ウンウン。


 他人を馬鹿という馬鹿よりも、馬鹿と呼ばれる馬鹿が上等(笑)。
368名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 13:03
>>367
真面目な渡海さんは、
スレッドに適切な話題の流れを意図的に作ることと、
書きたいことを書くことのどちらを重視しているのでしょうか?
もちろん内面における重視と、
それを外部への影響にどう反映させるかは別問題ですが。
369名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 13:04
渡海難の隣人です。先程渡海難の家の方から彼の「うあああああああ!」という
けたたましい叫び声と何かものが壊れるような「ガチャーン」という音が聞こえ
驚いて彼の家に行ってみました。出てきたのは彼の母親だったのですが、
余りにも突然のことにオロオロされておりました。
私も状況がよく把握できてませんでしたので、取りあえずお母様に
「どうしたのですか?」と尋ねたところ、
「それが解らないんです。いつものように部屋でパソコンをいじっていた
様なのですが、急に暴れ出して・・・・・」
と、涙ながらに困惑し果てた様子で答えました。
取りあえず私は彼の少ない理解者という事で、彼の様子を見に行ってみました。
私が彼の部屋のドアを開けると、そこにはパソコンと割れた窓ガラスが散乱しており、
件の彼は少し落ち着いたらしく、もう暴れはしておりませんでしたが
ベッドの上で頭から布団を被り、ブルブル震えながら泣いていました。
私は彼に「どうしたのか?」と尋ねたところ、
「誰もボクの言うことを聞いてくれない、それどころかみんなバカにするんだ」
と言いながら激しく泣き出してしまいました。

彼は元々情緒不安定なところがあり、その為に中高時代からずっと家に引き籠もり、
今でも特に仕事はしていなかったのです。
私はそんな彼を哀れに思い、暇を見つけては彼の話し相手になってあげてましたが、
最近は彼自身も自分自身に嫌気が差しているようで、何度か自殺未遂もしております。

この度のことで、2chの皆様には大変ご心配をお掛けいたしましたが、
元々彼は人と上手く付き合えるような人間ではなかったのです。
私も知人として彼のそう言った所を直そうと努力はしたのですが・・・・残念です。
370名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 13:06
>あなたのチノーでは、真面目と馬鹿とが逆説関係のようですね。
書き方の推敲が不十分で、「真面目、且つ、馬鹿」が「真面目だが馬鹿」と
なってしまったという可能性を排除してしまうのはいかがなものでしょう。
それこそチノー丸見えですよ。
371名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 13:06
>>368
アホにたいして「さん」づけは不要です。
あなた自身のためにもこれ以上彼に関わらないほうがいいと思います。
372名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 13:10
渡海難に付きまとわれている矢口真里です。
何だか嫌な予感がしてここに来てみれば、やっぱり渡海がこんなところにいたのか。
あ、すみません。ここにいる皆様には全く分からない話でしたね。
実は渡海難には半年程前からストーカー行為をされています。
その粘着さ、キモさをここで説明するにはちょっと長くなるのですが、印象の強い出来事を一つ。
それは渡海難から送られてきた小包のことです。
中には不透明な小瓶と、いびつな字で何やら書かれたカードが入ってました。その内容はこの通りです。
「まりっぺ、牛乳をたくさん飲まないと大きくなれないよ」
正直これだけでもちょっとキモかったのですが、小瓶のふたを開けてみて驚きました。
小瓶からはイカ臭い匂いが漂ってきたのです。
「うげぇ、まさか・・・」
中を覗いてみると、思った通り白くてドロドロした液体が入っていました。

私はよく婉曲に「ヲタきもい」発言をしていますが、それは別に皆様の事ではなく、
渡海難の事を言っていたのです。そこのところをどうかご理解ください。
アイドルという職業上あまりハッキリと言えなかったのですが、もう我慢の限界です。
言わせてください。
「おい、渡海!お前マジでキモいし臭ぇんだよ!つーか何でお前ミニモニTシャツ着てんの?
似合う似合わないの問題じゃねえよ、もう核汚染レベルなんじゃヴォケ!!
ミニモニのイメージ悪くするだけだっつーの!
お前氏んでも誰も悲しまないし、それがお前の唯一できる善行だからさっさと氏んでね。」
ああ・・・言いたい事言えてスッキリしました、皆様今までありがとうございます。
これからも私、矢口真里はモーニング娘。を頑張る所存です。
みんな応援してね。チュッ。
373名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 13:10
あなたのチノーでは、
ウザイ奴と思えば他人は自分の思ったことを押しつけているだけに見える
ということになってしまうのですか。
自分の思ったことを押しつけているだけに見えれば自分は独自の世界に入ってるだけになる
と考えているのか。お気をつけ遊ばしなさいよ。
うんうん。
374名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 13:11
渡海は自分の書き込みでスレが荒れる、この現実をどう考えているんだろう?
375名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 13:20
>>367
御立腹のご様子ですね。
ご不快になりましたか?。
お気位の高い方ですね。
知能と書かずにチノーと書く理由はなんですか?
御立腹ですか?

渡海のチノーでは>と<を文章中で乱用することが
相手に読み易いとお考えですか。そうですか。そうですか。ウンウン。ウンウン。
376305:2001/07/21(土) 13:24
>僕に対する339(305)さんの感情は、皮肉でも不快感でもいいんですよ。構わないんですよ。
>>309
>皮肉を言う必要でもありましたか?
という、質問をしたのは渡海難さんです。

>皮肉でも不快感でもいいんだけど、不快感でない議論まで右往左往した議論になっているということが気になるんです。
そう思って、指摘された私の書き込みだけ、>>349の様に訂正しました。

>339(305)さんは、論理立てる思考訓練を受けてない方なんでしょう。
そのような、結論もしくは仮説を出す前に、>>335に対して具体的に指摘をしたらどうでしょうか。
例えば、論理的な飛躍があるだの、他の推論の余地があるだの、根拠として示している主張にどのような反論するだのと。
そもそも、>>339の遊びとも冗談とも言える書き込みに、論理的厳密性を求めるような
渡海難さんこそ幼稚なころが見受けられます。
377名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 13:30
>>376
>そもそも、>>339の遊びとも冗談とも言える書き込みに、
>論理的厳密性を求めるような
>渡海難さんこそ幼稚なころが見受けられます。

彼は「悪気のない真性ヴァカ」か「確信犯的荒らし」の
いずれかの可能性しかないよ。
378305:2001/07/21(土) 13:31
追伸:
>>376は、>>353のレスです。
379305:2001/07/21(土) 13:36
>>376
結構、誤字脱字がありますんで、そこのところは適当に判断してね。
全部をいちいち訂正しませんから。
380305:2001/07/21(土) 13:41
>>377
>彼は「悪気のない真性ヴァカ」か「確信犯的荒らし」の
>いずれかの可能性しかないよ。
正にその通り。
彼は議論を稚拙な方向に誘導する真性ヴァカ的な性癖がありますね。
381名無しさん@1周年 :2001/07/22(日) 09:08
上げ
382305:2001/07/23(月) 11:49
>>354

>それより、>>333の<??>に答える方が先じゃないの?僕が理解に手も足も出なかったんだから。
<??>のような指摘では、渡海難さんが何をどう理解できなかったのか私も分かりません。

>「殺人罪を「立法説」で説明すれば「人権調整」になるでしょ。 <なりません。>」なりませんという僕のこの見解は賛成できたの?賛成できないの?
「賛成できない」というのが私の見解です。これは、私がもっと明確に述べるべきでした。
即ち、>>332
>従って、私が言いたいのは、渡海難さんと基本的に同じだと思います。
とは、殺人罪に関する渡海難さんの「立法説」で説明が、
私の「人権調整」の説明と論理的にほぼ同等になる意味でした。
この論理的にほぼ同等であることを示すために、
人権が宗教的意味を持つ渡海難さん見解に対する反論となる根拠を、
>>332の前半で述べました。

>西方浄土の阿弥陀仏だの真理の探求だの引っ張り出してくるような議論は全く無意味」に対する僕の反論には異存はないの?異存があるの?
これについては、渡海難さんの次の書き込み
>あなたは議論の結論に興味があるようですね。私は結論などにはあまり興味がありません。
から、単なる価値観の違いを述べているだけで反論ではないと判断し、レスをしませんでいた。

以上のことを考慮して、
>>332に対する具体的に指摘をしてみてください。(しても、しなくてもどっちでもいいですが)

尚、>>376に致命的な誤字がありましたので訂正します。
「誤」>そのような、結論もしくは仮説を出す前に、>>335に対して具体的に指摘をしたらどうでしょうか。
「正」>そのような、結論もしくは仮説を出す前に、>>332に対して具体的に指摘をしたらどうでしょうか。
383305:2001/07/23(月) 12:57
>>355
>>私は、論理的に完全に矛盾のないプログラム言語を書いているんではない。
>
> 僕も随分大目に見ているでしょう。こちらだっておかしな文をかなり大目に見て貰っているという気持ちはあるんですよ。
それなら、>>339のような、論理的な厳密性必要としない文章に対して、
>読み手が右往左往するような文章では困ります。
のような、レスを書く必要はないと思います。

> 御立腹のご様子ですね。ご不快になりましたか?。
議論の質を劣化させて、不快感を与えるのが、
渡海難さんのご趣味なんですね?

>>文章の指摘をするなら、「ですます調」か「だである調」くらい統一したらどうだ。
>
> 読みにくいところがあれば、こちらも少し気を付けましょう。
同じことを言いますが、<??>だけでは分かりません。レスの書きようがない。
ホント気を付けてくださいね。
384305:2001/07/23(月) 13:17
>>356

>>340
>あなたからは話の理屈が伝わって来ないんです。
さらに、>>341の論理的矛盾に関する指摘に対して、>>349と訂正してんですが、
それに対し、
>これについてはもう、十分でしょう。相手にとっくに分かってることを・・・
渡海難さんこそ、私の文章が「理解できた」のか、「理解できなかった」のかはっきりしない、
読み手が右往左往するような文章では困ります。

また、「理解できない」ことをまともに指摘してきたのが、>>339のみというのが情けない。
他は<??>のような不明なレスばっか。

これで一応、渡海難さには出来るだけ全部のレスを書いたつもりです。
385名無しさん@1周年:2001/07/23(月) 16:35
>渡海難氏

煽りにあんまり反応しないようにね。
内容のあるものにだけ返答すればいいよ。

冒頭でのやりとりが大切になってくると思う。
「ジンケンチョウセイセツ」の説明で、
「なんで人を殺しちゃいけないの?」と問う子供が納得するかどうかを想定すればいい。
「ジンケンチョウセイセツ」がリアルに感じられる人には、
「なんで人を殺しちゃいけないの?」なんて「当たり前」で終わるんだから。。。

もう一度、「なんで人を殺しちゃいけないの?」がなぜ改めて問われるようになったのか、
どう理解してる?
386305:2001/07/23(月) 18:09
渡海難さんへ。

<??>
という指摘において、
誤字脱字が著しいため判読が不能なのか、
文法的に誤りがあって判読が不能なのか、
語彙の意味や定義が不明なのか、
文意が一意的でないのか、
論理的に矛盾しているのか、
論理的飛躍があり、他の推論が存在する可能性があるのか、
などを、不明な箇所とその理由を具体的に述べるべきですね。
>>382
>332の前半で述べました。 <あ。そうですか。さっぱり分からん議論ですね。>
  
>レスをしませんでいた。 <あ。そうですか。さっぱり分からん議論ですね。>

>指摘をしてみてください。(しても、しなくてもどっちでもいいですが)
    <あ。そうですか。右往左往のさっぱり分からん議論ですね。>

>>383
>のような、レスを書く必要はないと思います。 <あ。そうですか。さっぱり分からん議論ですね。>

>渡海難さんのご趣味なんですね? <あ。そうですか。さっぱり分からん議論ですね。>

>ホント気を付けてくださいね。 <あ。そうですか。さっぱり分からん議論ですね。>


>>384
>読み手が右往左往するような文章では困ります。 <あ。そうですか。さっぱり分からん議論ですね。>

>これで一応、渡海難さには出来るだけ全部のレスを書いたつもりです。
  <あ。そうですか。さっぱり分からん議論でした。>

>>386
>などを、不明な箇所とその理由を具体的に述べるべきですね。

 そうですか、そうですか。それじゃ今度っからはそうしましょうかね。はいはい。
>>385
>煽りにあんまり反応しないようにね。
 一応、こちらも考えがあってやっているんですよ(笑)。

>内容のあるものにだけ返答すればいいよ。  <自分の考えに従っています。>


>冒頭でのやりとりが大切になってくると思う。  <なるほど。>

>「なんで人を殺しちゃいけないの?」と問う子供が納得するかどうかを想定すればいい。

   なるほど。

>「ジンケンチョウセイセツ」がリアルに感じられる人には、「なんで人を殺しちゃいけないの?」なんて「当たり前」で終わるんだから。。。

    なるほど

>もう一度、「なんで人を殺しちゃいけないの?」がなぜ改めて問われるようになったのか、どう理解してる?

 あなたはどなた?No1ですか?
 問われるようになったというのは、社会的にということを考えているんですか。2chのこの掲示板でということを考えているんですか。それとも、あなたが個人的にということを考えているんですか。
 それによって、こちらの腹が変わってきます。
389名無しさん@1周年:2001/07/23(月) 19:36
>>386
>>煽りにあんまり反応しないようにね。
> 一応、こちらも考えがあってやっているんですよ(笑)。
何も考えてないから、この人。(笑)
390名無しさん@1周年:2001/07/23(月) 19:49
>>388 渡海難氏
わりぃ、わりぃ、舌っ足らずだったようだね。

>>煽りにあんまり反応しないようにね。
>一応、こちらも考えがあってやっているんですよ(笑)。
あんまりやり過ぎんなよ。同類になっちゃうよ。(笑)

>あなたはどなた?No1ですか?
No1じゃなけど、同じ趣旨のスレを立ててもいいかなぁ…と思ってた人間。
「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いが私生活で問題になったことが
あるってところ。。

>>もう一度、「なんで人を殺しちゃいけないの?」がなぜ改めて問われるように
>>なったのか、どう理解してる?
>社会的にということを考えているんですか。
>2chのこの掲示板でということを考えているんですか。
>それとも、あなたが個人的にということを考えているんですか。
社会的にということを考えてます。25年ぐらい前なら、「なぜ人を殺してはいけ
なのか?」なんて子供のいっときの疑問にすぎなかったと思うんですね。
しかし、最近ではご承知の通り、【理由なき】殺人事件が頻発し、「なぜ人を殺し
てはいけないのか?」がメディアでもよく問われるようになってきてます。
「当たり前」という答えが通用しなくなってるんですよね。なぜ通用しなくなったのか?
そこをどう理解してるのかと思いまして、答えを用意しようとした渡海難氏に問うて
みた次第。
391名無しさん@1周年:2001/07/23(月) 19:50
>>389
こらこら。。。
392名無しさん@1周年:2001/07/23(月) 20:00
>>329で、渡海難さんは人権について
>僕は宗教起源であると言っています。
と言いました。
ここでいう宗教とは、どの宗教を指すのでしょうか。
393:2001/07/23(月) 20:09
>>1
なぜにひとを、殺さなければいけないのかな?
お互いに、存在していることが重要なのに
神が一番嫌うことだし、殺した人間は、苦界にゆき
その償いは、塑像を絶することになる
394名無しさん@1周年:2001/07/23(月) 20:11
結論から言うと渡海難はこのスレに来なくていいということです。仏教ヲタの渡海難はこのような総合的な議論には全く向いていません。
というよりむしろ「渡海難は2chに来るな!」ということです。
395名無しさん@1周年:2001/07/23(月) 20:14
殺されたくなければ、殺すな。
殺してみろ。そうすれば君は殺されるだろう。
396名無しさん@1周年:2001/07/23(月) 20:37
渡海難さんは、>>312で「人権」のことを
>人権は天が与えた生来の権利です。
と述べました。もしそうだとすると、
「天」の定義は宗教によって異なるため
「人権」の意味が一意的でなくなります。
>>329で渡海難さんが述べた宗教とは、
どの宗教を指すのか明らかにする必要があります。
397名無しさん@1周年:2001/07/23(月) 21:14
渡海難さん梨の礫。(笑)
>>390
  なるほど。
>>392>>396
>どの宗教を指すのでしょうか。
   キリスト教でしょう。新教各派が、旧教体制と摩擦する中で生まれてきたものと考えます。
399名無しさん@1周年:2001/07/24(火) 12:52
>>398
>>どの宗教を指すのでしょうか。
>   キリスト教でしょう。新教各派が、旧教体制と摩擦する中で生まれてきたものと考えます。

それなら、例えば日本の仏教徒もしくは、無宗教、唯物論者等の法律家(弁護士、裁判官、検察官)が、
法律の中かに記述されている「基本的人権」という語彙を裁判中で用いた場合、
渡海難さんが述べた>人権は天が与えた生来の権利です。
という命題によって、「人権」の意味が変化することにならないでしょうか。
もし、裁判中で用いられる「人権」という語彙の意味を不変にするためには、
法律家は全てキリスト教信者になるか、
もしくはキリスト教が教理などで定めている「天」の定義を容認する必要があります。
400390:2001/07/24(火) 17:28
>>398 渡海難氏
>なるほど。
これだけじゃなく、どんな風に理解してるか、教えてくんない?
>>399
 僕のコメントを待っていますか。馬鹿馬鹿しくて僕はまともにコメントする気にならない。
 キリスト教が教理などで定めている「天」の定義を容認するかどうかで、裁判が左右される? あー馬鹿馬鹿しい。あー馬鹿馬鹿しい。
 宗教議論の掲示板で僕は法律学なんかを講義するつもりはないのよ。中学の時の教科書でも勝手にめくって勉強し直して頂戴。ひょっとしてあんたも坊さん?あー、常識がない。常識がない。
>>400

 >>120-122の記載では不十分ですか?「教えてくんない?」と聞かれても、これだけなら>>120-122の焼き直しになるだけです。
403名無しさん@1周年:2001/07/24(火) 17:54
>>401

>僕のコメントを待っていますか。馬鹿馬鹿しくて僕はまともにコメントする気にならない。
>キリスト教が教理などで定めている「天」の定義を容認するかどうかで、裁判が左右される? あー馬鹿馬鹿しい。あー馬鹿馬鹿しい。
馬鹿馬鹿しいと思うのは、私も同様です。
この結果は、明らかに現実と矛盾したものです。
このような結果が導かれた理由は、
渡海難さんが以前に述べた
>人権は天が与えた生来の権利です。
という命題を容認したからです。

従って、「人権は天が与えた生来の権利です。」という渡海難さんの仮定が間違っていたことになります。
>>403
 あのねー。僕はアンタの家庭教師じゃないからゴチャゴチャいいたくない。
 中学の時の教科書でもひっくり返してゆっくり読み直しなさいよ。

(広辞苑 第五版より)
じん‐けん【人権】
 (human rights) 人間が人間として生れながらに持っている権利。実定法上の権利のように自由に剥奪または制限されない。基本的人権。

 てんぷ‐じんけん【天賦人権】
  天が人に対して平等に賦与した権利。

 てんぷ‐じんけん‐ろん【天賦人権論】
  すべて人間は生れながらにして自由・平等の生活を享受する権利(自然権)を有するという思想。17〜18世紀の自然法学者・啓蒙思想家によって主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において明文化された。日本では明治初期の啓蒙思想家・自由民権論者に継承された。
405名無しさん@1周年:2001/07/24(火) 18:28
>>404

>じん‐けん【人権】
> (human rights) 人間が人間として生れながらに持っている権利。実定法上の権利のように自由に剥奪または制限されない。基本的人権。

人権=基本的人権の根拠になりますね。
人権とは人間の権利というような文字通りの定義になっていますね。

> てんぷ‐じんけん【天賦人権】
>  天が人に対して平等に賦与した権利。
これは、単なる「天賦人権」の定義ですね。

> てんぷ‐じんけん‐ろん【天賦人権論】
>  すべて人間は生れながらにして自由・平等の生活を享受する権利(自然権)を有するという思想。17〜18世紀の自然法学者・啓蒙思想家によって主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において明文化された。日本では明治初期の啓蒙思想家・自由民権論者に継承された。

それなら、「人権」という語彙が、
「天賦人権論」という思想から発する「天が人に対して平等に賦与した権利。」
と等しい根拠を挙げてください。
すなわち、人権=天賦人権を示してください。
406名無しさん@1周年:2001/07/24(火) 18:57
>>404

念を押して言いますが、
「人権は天が与えた生来の権利です。」と、
「天賦人権は天が与えた生来の権利です。」
とは、意味が全然違いますからね。(笑)
407名無しさん@1周年:2001/07/24(火) 19:40
>>404

渡海難さんは、論理立てる思考訓練を受けてない方なんでしょう。
>>403
>従って、「人権は天が与えた生来の権利です。」という渡海難さんの仮定が間違っていたことになります。
という結論は、俳中律(P∨¬P)によって導かれたものです。あの背理法ってやつ。
それでも尚議論をしようなんて、渡海難さんは禅問答のような非論理的な議論がお好きですね。
まるでお坊さんみたい。(笑)
408名無しさん@1周年:2001/07/24(火) 19:48
 ┌─────────┐
 │               .|
 │ 渡海難は無視!  │
 │               .|
 └―――──――――┘
      ヽ(´ー`)ノ
         (  へ)
          く
>>405-406

 常識の無い人間と議論を始めると、カモにされてアリ地獄にはまっていく(苦笑)。
 基本的人権の人権とは、天賦人権思想に立脚した人権であり、これ以外にはないんですよ(苦笑)。


 ポツダム宣言は、わが国に対し「基本的人権ノ尊重」の確立を求め、それを具体化した「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」(一九四五年九月二二日)に基づき、総司令部は、人権制限法制の廃止をわが国に対して要請した。もっとも、ポツダム宣言にいう「基本的人権」という言葉のもつ意義について、わが国における当初のうけとめ方は必ずしも自覚的なものではなかったようにみうけられる。が、天賦人権思想に立脚するマッカーサ草案をわが国が結局受け入れ、日本国憲法が成立するに及んで、「基本的人権」の観念が国民の問に浸透するようになる。
    (現代法律学講座 憲法 佐藤幸治(京都大学教授 憲法学) 著 青林書院 新版 357頁)


 人権・天賦人権に対する回答は、これを最後にします。渡海 難は貴方の家庭教師ではないですから、後は自分で調べなさい。貴方は坊さんですか。坊さんでもね、中学生の常識程度は少し自分で勉強しなさい。
410名無しさん@1周年:2001/07/24(火) 20:04
>>409
渡海難さんみたいな人を家庭教師にしたら、みんな坊主にされちゃう。
411名無しさん@1周年:2001/07/24(火) 22:17
>>409

>天賦人権思想に立脚するマッカーサ草案をわが国が結局受け入れ
この文章から、「マッカーサ草案」自体は天賦人権思想に立脚していることは分かります。
以下の文は、「マッカーサ草案」の基本的人権に関する条文です。

「マッカーサ草案」
人民ノ権利及義務
第九条 日本国ノ人民ハ何等ノ干渉ヲ受クルコト無クシテ一切ノ基本的人権ヲ享有スル権利ヲ有ス
第十条 此ノ憲法ニ依リ日本国ノ人民ニ保障セラルル基本的人権ハ人類ノ自由タラントスル積年ノ闘争ノ結果ナリ時ト経験ノ坩堝ノ中ニ於テ永続性ニ対スル厳酷ナル試練ニ克ク耐ヘタルモノニシテ永世不可侵トシテ現在及将来ノ人民ニ神聖ナル委託ヲイテ賦与セラルルノモナリ

第十条では「神聖」という語彙を用いられており、
「マッカーサ草案」においては、基本的人権を天賦人権として定義していると考えられます。
この「マッカーサ草案」をわが国(日本)が受け入れたわけですね。
しかし、この文章は日本国がどのように受け入れたかまでを明らかにしていません。
天賦人権論に基づく「マッカーサ原案」から、単に人間が有する権利の内容だけを受け入れたとも考えられます。

実際に、「日本国憲法」には基本的人権が天が人に対して平等に賦与した権利であるような内容の記述は一切ありません。
従って、「日本国憲法」においては、「マッカーサ原案」から人間の有する権利の内容のみを取り入れたと考えられます。

>日本国憲法が成立するに及んで、「基本的人権」の観念が国民の問に浸透するようになる。
とは、
これは、「基本的人権」においての記述かもしれません。

渡海難さんは、以上の佐藤幸治氏の著書に対する解釈の余地がないことを示す必要があります。

また、>>409は,「>>392, >>396, >>399, >>403」の推論の過程を直接否定するものではありません。
412名無しさん@1周年:2001/07/24(火) 22:22
>>411の訂正。

誤:しかし、この文章は日本国がどのように受け入れたかまでを明らかにしていません。
正:しかし、この佐藤氏の文章は日本国がどのように受け入れたかまでを明らかにしていません。

誤:これは、「基本的人権」においての記述かもしれません。
正:これは、「基本的人権」のみにおいての記述かもしれません。
413名無しさん@1周年:2001/07/24(火) 22:48
>>441の追伸。

また、「マッカーサ草案」が天賦人権思想に立脚していることが、
「マッカーサ草案」が基本的人権を天賦人権として定義することを意味するとは限りません。
すなわち、「マッカーサ草案」で用いられている「神聖」の定義が問題になります。

大辞林 第二版 三省堂

しんせい 【神聖】
(名・形動)[文]ナリ
(1)けがれなく尊いこと。清らかで冒しがたいこと。また、そのさま。「―な場所」「―を汚す」「―にして冒すべからざる権利」
(2)「聖(せい)(2)」に同じ。

せい 【聖】
(名)
(1)
(ア)ひじり。聖人。
(イ)〔Saint〕聖人の名に付ける語。「―ヨハネ」
(2)非日常的で冒しがたい宗教独自の価値。神聖。日常的・一般的現象の価値である「俗」と対置される。
(3)清酒。中国で濁酒を「賢」というのに対していう。
(形動)[文]ナリ
けがれがなく、清らかで尊いさま。「―なる土地」
414名無しさん@1周年:2001/07/25(水) 10:06
>>441の追伸。
また、佐藤氏は著書の中で、
「天賦人権」という語彙を「広辞苑 第五版」の「天が人に対して平等に賦与した権利。」という定義を用いたとは限りません。
「大辞林 第二版」には、
てんぷ-じんけん 【天賦人権】
〔法〕 人が生まれながらにして有する権利。自然権。
しぜん-けん 【自然権】
国家およびその法律に先立って、個人に本来的に備わり、国家によって侵されることのないとされる諸権利。天賦(てんぷ)人権
という定義がされています。

佐藤氏の著書から
>基本的人権の人権とは、天賦人権思想に立脚した人権であり、これ以外にはないんですよ(苦笑)。
というには、佐藤氏が著書の中で「天賦人権」という語彙を「広辞苑 第五版」などによる定義に従って、
「天賦人権」を「天が人に対して平等に賦与した権利。」 として用いていることを示す必要があります。
415名無しさん@1周年:2001/07/25(水) 10:12
>>409
>基本的人権の人権とは、天賦人権思想に立脚した人権であり、これ以外にはないんですよ(苦笑)。
というには、>>411, >>413, >>414のいずれの推論の可能性も排除する必要があります。
416名無しさん@1周年:2001/07/25(水) 10:37
>>415の追伸
>基本的人権の人権とは、天賦人権思想に立脚した人権であり、これ以外にはないんですよ(苦笑)。
勿論、ここで「天賦人権思想」を「人権は天が人に対して平等に賦与した権利。」とする思想として捉えた場合です。
417名無しさん@1周年:2001/07/25(水) 13:55
どうなってるんだ、このスレは?
こんな議論だったら他の板でもできるじゃん!
心と宗教板らしい議論しろよ!
418名無しさん@1周年:2001/07/25(水) 15:55
歴史的観点において、人権が宗教起源を持つことは間違いありません。
しかし、人権は憲法のような法体系において定義されるもので、
特に人権が天賦人権として定義されている法体系のみにおいて、
人権は天が人に対して平等に賦与した権利と考えるべきです。
従って、法体系において人権を天賦人権として定義しない限り、
人権調整が天が与えた生来の権利の中で衝突しあうものは強弱を付けて調整しようという意味にはなりません。
419名無しさん@1周年:2001/07/25(水) 16:14
>>418
法体系における「人権調整」をオプティマイズ(人権の定義や人権に生存権を含むかどうかを定める)することによって、
殺人を弾劾の対象とするか否かが決定できます。
従って、渡海難さんの「立法説」に帰着しました。
420名無しさん@1周年:2001/07/25(水) 17:24
>>409
>人権・天賦人権に対する回答は、これを最後にします。
渡海難さんのこのスレへの書き込みも最後にしたらどうでしょうか。(苦笑)
421名無しさん@1周年:2001/07/25(水) 18:25
>>420
激しく同意。
早速他スレでも迷惑をかけてるようだね、渡海さんは。
422 :2001/07/25(水) 18:33
っつーか2chに来るな、渡海難!
お前みたいに2ch全体に迷惑をかけている者は氏ね!
423名無しさん@1周年:2001/07/26(木) 11:01
>>390

> しかし、最近ではご承知の通り、【理由なき】殺人事件が頻発し、「なぜ人を殺し
> てはいけないのか?」がメディアでもよく問われるようになってきてます。
> 「当たり前」という答えが通用しなくなってるんですよね。なぜ通用しなくなったのか?

渡海難氏のカキコも漸く無くなったようだし、
上記の切り口でこのスレの議論をし直しましょう。
424名無しさん@1周年:2001/07/26(木) 11:11
>>423
了解!

今後のためにも、参考までに渡海難の書き込みパターンについておさらいしましょう。


渡海難の書き込みパターン。

1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習するのを装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「親鸞会ですね」(このパターンが多い)か、「お坊さんですね」と親鸞会や寺批判で逃げ、誹謗発言をする。
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 開き直って「私は悪人です。私の言うことなんて……」と卑下発言。もしくは「仮説」に逃げる。
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をしてその顛末を浄土通信に掲載し、さらしage(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がり他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。

※補足 やり取りの合間に野次馬が浄土通信に来るのでアクセスが上がるが、大抵、その内容のアホさにあきれて二度と来ない。


とりあえず、今後渡海難がカキコしても相手にせず無視しましょう。
それがマターリとした議論をするための秘訣です。
425名無しチェケラッチョ♪:2001/07/26(木) 12:47
わかりやすく話そうぜ。
>>423
>なぜ通用しなくなったのか?

 もっと突っ込んだコメントを待っていましたか?
 これは難しい。僕の方からは何とも言えない。外の人の自由な発言を期待します。
427名無しさん@1周年:2001/07/26(木) 20:38
>僕の方からは何とも言えない。外の人の自由な発言を期待します。

渡海さん、しばらくこのスレから離れてください。
まともにコメントできないのに無理して議論に参加しないほうがいいと思いますので。
>まともにコメントできないのに無理して議論に参加しないほうがいいと思いますので。

 えらく差し出がましいコメントをする貴方はだーれ?(笑)。
429名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 00:37
>>428
>えらく差し出がましいコメントをする貴方はだーれ?(笑)。

オマエだよ。
ご立腹のご様子ですね、なんてご立腹しながら言うなよ(藁
>>429
>オマエだよ。ご立腹のご様子ですね、なんてご立腹しながら言うなよ(藁

 あなたも随分とガラの悪い言い方をなさる方ですね。「オマエだよ」などと。貴方もやはりお坊さんですか?。「ご立腹のご様子ですね」という言い方は、差し出がましい言い方ですか?。
 「ご立腹のご様子ですね」という言い方は、相手の心を心配し、おいたわり申し上げて言ってるんですよ。もし立腹なさっていれば「はい立腹していますよ」というご返事をなされば十分じゃないですか? 人間は立腹しちゃいけないなんて、そんな決まりはないんですよ。
 「ご立腹のご様子ですね」と、自分の方が立腹しながらどこかで僕が書いていましたか。自分が立腹しても、相手の心を心配してそういうことを書くことは、将来はあるかも知れないけど、今まではそういうことはなかったと思いますよ。自分が立腹すると、他人の心を心配する余裕は普通、ありませんからね。
 藁というのは、2CH特有の表現で、笑いという意味ですね。あのね、笑うというのは、目尻をほころばせ、口元にゆるみを持たせ、相手に優しさを振り向けて表現するもんなんですよ。貴方のように、目尻をこわばらせて唇を堅くすれば笑いにならないんですよ。インターネットでもね、顔は見えるんですよ。(笑)
431名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 18:28
>>430
やっぱり真性馬鹿か荒らしだな。
432くり:2001/07/27(金) 18:38
あのう、本題の「何故人を殺してはいけないのか」はいずこに・・・。
433とり:2001/07/27(金) 18:40
良い感じで進んでます。
434名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 18:40
 >>あなたも随分とガラの悪い言い方をなさる方ですね。「オマエだよ」などと。貴方もやはりお坊さんですか?。「ご立腹のご様子ですね」という言い方は、差し出がましい言い方ですか?。
 >>「ご立腹のご様子ですね」という言い方は、相手の心を心配し、おいたわり申し上げて言ってるんですよ。もし立腹なさっていれば「はい立腹していますよ」というご返事をなされば十分じゃないですか? 人間は立腹しちゃいけないなんて、そんな決まりはないんですよ。

そこまで人間の気持ちを汲み取れるのに、あえてそういう表現を使ったあなたの意図がわからないなあ。
あなたの本当の意図はともかく、一般的には「人をからかう悪趣味」だと言われてしまうだけだと思うよ。
どうして、あちこちで、あえて、他人の心に楔を打つような言葉ばかり使っているのかなあ。
それだと、せっかくあなたがいいことを言っても相手は頑なになるだけだし、
単に人間として余計な損をしてるだけだと思うなあ。

もちろん、それでもあえてその方法を選択したのだと言われてしまえば、これ以上何も言うことはないけどね。
435名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 18:44
>あのね、笑うというのは、目尻をほころばせ、
>口元にゆるみを持たせ、相手に優しさを振り向けて表現するもんなんですよ。

わらう

(1)おかしさ・うれしさ・きまり悪さなどから、やさしい目付きになったり、
口元をゆるめたりする。また、そうした気持ちで声を立てる。
(2)(「嗤う」とも書く)ばかにした気持ちを顔に表す。あざける。嘲笑す
る。

(2)の意味で使われていることが容易く想像できるにもかかわらず、
(1)の意味で否定するのは、馬鹿か荒らし(または煽り)。

>貴方のように、目尻をこわばらせて唇を堅くすれば笑いにならないんですよ。
>インターネットでもね、顔は見えるんですよ。(笑)

貴方のように、目尻をこわばらせて唇を堅くすれば笑いにならないんですよ。
インターネットでもね、顔は見えるんですよ。(嗤)
436名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 18:50
 「笑う」という表現もいろいろあるし。
冷笑とかさ、スケベデヘデヘ〜とかさん。なんかずれてる気がする
ぞ、海渡とやら。このレスもちょっとそれ系か(爆)。
437名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 18:52
渡海!おまえのせいで議論が滅茶苦茶じゃないか!!
いいかげんに本題に戻らせてくれよ!
438名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 18:55
渡海は本物の馬鹿なので、まともに相手しない方が良いでしょう。
そもそも渡海は>>24で、

>なんで人を殺しちゃいけないの?。非常に面白い問いかけと思いますので、
>しばらく議論に参加します。
>なんで人を殺しちゃいけないの?
>こういう場合、そういう主張をしている根拠から考えていくのが順序でしょう。
>真っ先に気がつくのは刑法でしょう。

という馬鹿な議論展開しているので、
思考の底が丸見えです。
この馬鹿な議論展開を指摘されて

>>法的議論は、陳腐だぞ。
>  貴方には陳腐でも、避けることのできない道の一つだ。

と、さらに馬鹿な展開を見せるような輩なので相手しても無駄です。

挙句、煽られたらひたすら煽り返しているし、
お約束どおり冷静を装うし、真性馬鹿の見本です。
439くり:2001/07/27(金) 19:02
 なぜ、人を殺してはいけないのか?宗教において、の限定ですか。
宗教において肯定される殺人って、どんなだろう。
440名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 19:07
宗教戦争とか
441くり:2001/07/27(金) 19:12
殺人を肯定している宗教って、なんなんだろ。
まあ、オウムとかはそうなんだろうけど。
教義の中に明文化されている宗教って、あるんですか?
442名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 19:17
宗教での話をしても信仰持ってない人もいるだろうからなあ。

てな訳で、
殺人した人がどういう人生送っているか無限のバージョン考えればいいよ。
1 呵責や葛藤にあえぐか、
2 それらがなくても、何時つかまらんかといつまでもビクビクして生きなきゃならんか、
3 1と2がまったくなくても、バレないように工作を続けることに無駄な時間を費やすことになるか
4 完全に発狂して何も感じない無神経になるか。
・・・などなど

まあ、どれも嫌だね。

人間が分別する性質を細胞のレベルにおいてまで持っているんだから、
まあ、殺人したことについて、心に影響が出ないはずはないだろうなあ。
443くり:2001/07/27(金) 19:25
 影響も千差万別ですよね、きっと。ふむ。
細胞の核からヨロコビ感じちゃう人もいるのかも。
>>434
>そこまで人間の気持ちを汲み取れるのに、あえてそういう表現を使ったあなたの意図がわからないなあ。

 藪の蛇掃除には、つつくのが一番でしょう。

>一般的には「人をからかう悪趣味」だと言われてしまうだけだと思うよ。

 行動するは我にあり。論ずるは他にあり。実験ですよ。結果は僕の死後に出るでしょう。後の人が、僕の屍の反省の上で行動してくれれば満足です。

>どうして、あちこちで、あえて、他人の心に楔を打つような言葉ばかり使っているのかなあ。

 楔を打つような言葉ばかりですか?。ばかりですか?

>せっかくあなたがいいことを言っても相手は頑なになる

 楔を打つような言葉ばかり言っていると思っているんですか? いいことを言っていると思っているんですか?

>単に人間として余計な損をしてるだけだと思うなあ。

 実験はやってみないと分からない。

>もちろん、それでもあえてその方法を選択したのだと言われてしまえば、これ以上何も言うことはないけどね。

 発言が及び腰の方には、ものの本質が見えないかもしれませんね。
445名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 19:46
善悪というのは、行動を価値観で評価した結果でしかない。
絶対的なものではない。
「殺人」という行動が「悪」とされる価値観が多いことは否めないが。
しかし人は簡単に洗脳される。ある条件可では大量殺人すら善と思うこともある。

と、ここまでが前提で、そのうえで

1)各法律、各宗教で、なぜ殺人が悪か、をそのほうや宗教の成り立ちと
  関連を意識しながら議論
  1−1)具体例
      1−1−1)宗教Aでは・・・
      1−1−2)宗教Bおよび、Bから派生している法Bでは・・・
      1−1−3)宗教Cでは・・・
  1−2)具体例からの一般化
      1−2−1)殺人を悪とする価値観における共通点
      1−2−2)殺人を悪としない価値観における共通点
      1−2−3)各種項目の相関関係

と議論展開すべき。



いきなり1−1−1日本ローカルな刑法を出して「避けて通れない話題」ねぇ・・・
「考えがあってやってる」とか言うだけなら誰でもできるよね。
ま、考えってのが荒らす、だとするなら効果的だったけどね。
446名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 19:51
> 後の人が、僕の屍の反省の上で行動してくれれば満足です。
> 発言が及び腰の方には、ものの本質が見えないかもしれませんね。

みんなそんなことは実験済みかもしれない。
少なくとも私は実験済み。
でも私はものの本質が見えているとは自分では思えない。

他人に「ものの本質が見えないかもしれませんね」なんて
言うことが、いかに傲慢なことか。

> 楔を打つような言葉ばかりですか?。ばかりですか?

ばかりかどうか知らないけど、多いね。
たとえば、「ばかりですか?。ばかりですか?」とか。
とても幼稚。

はやく実験終わらせてね。
>>446
>みんなそんなことは実験済みかもしれない。
    みんなって? かもしれない。(当てずっぽう(笑))。

>少なくとも私は実験済み。
   なんならその結果をみせて欲しい。はったりでは見せられない。

>でも    <「でも」という接続詞の意味は?>

>私はものの本質が見えているとは自分では思えない。  <なるほど。>    

>他人に「ものの本質が見えないかもしれませんね」なんて言うことが、いかに傲慢なことか。

 御自分の発言をもう一度読み直していただきたい。
 「あなたがいいことを言」っているという言葉と、「楔を打つような言葉ばかり」言っているという言葉は両立しない。これでは、ものの本質が見えないと言われても仕方ないでしょう。
 いいことを言っているという主張なら、「ばかり」という言葉は矛盾してくる。楔を打つような言葉ばかり言っているというなら、いいことを言っているとは言えない。
 僕は、貴方の言葉の表面的な論理矛盾を指摘しただけです。自分の論理矛盾を棚に上げ、相手を傲慢ということのいかに傲慢なことか(笑)。
>「ばかりですか?。ばかりですか?」とか。とても幼稚。

 くり返したのは、論理矛盾に気がついて欲しかったからです。それでもあなたは自分の論理矛盾に気が付かなかった。「とても」という相手に失礼な形容詞は僕は付けませんが、貴方は幼稚。

>はやく実験終わらせてね。

 他人からとやかく言われる覚えはありません。時期が来れば終わるでしょう。
 今までの2CHの登場者の中では、あなたは他の方々とは感触が違う。貴方のような方が、こちらの真剣さに真正面で呼応して下さって、こちらが発する楔目的の言葉といいこととを峻別するレスをくださるようになれば、少なくと藪をつつく必要はなくなるでしょう。
449名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 20:31
>>448 渡海難氏

質問するって言った「名無しさん」と、まだ質問してないけどゴメソ。。。

もう一人真摯に対応してる人がいることに注意。
450名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 20:57
>>447-448

やっぱり真性馬鹿だ(ワラ

> くり返したのは、論理矛盾に気がついて欲しかったからです。

その程度の頭で論理語るなよ(ワラ
>>438>>445、さらに>>24
オマエの論理的思考とチノー(爆笑)のレベルの低さは露呈しているんだからさ。
「避けて通れない道」????
>>445は、すげーわかりやすいし、実際に避けて通っているんだけど(爆笑
451名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 21:06
>>448

あのお・・・・私434を書いた者ですが、
446書いたのはは私じゃないんですけど・・・・・
すいませんね。ファイヤウォール設定の関係で、名前の書き込み欄表示されないんです。

434の書き込み以上にあなたに干渉する意志はないですよ。
あなたの選択なんでしょうから。
452名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 21:07
>    みんなって? かもしれない。(当てずっぽう(笑))。
「の可能性がある」を「かもしれない」とつい書いてしまっただけでしょう。
推敲不足の揚げ足とりは幼稚。
そういえば以前にも同じようなやりとりがあったような?

>   なんならその結果をみせて欲しい。はったりでは見せられない。
結果は既に見えているけど、それは実験中の人には理解できないものの
可能性もある。また、見せられる結果とも限らない。
可能性を無視したり、特定の方向だけに思考して
要求するのは幼稚。

僕は、貴方の言葉と行動の言動における論理矛盾を指摘しただけです。
言葉と言動の論理矛盾が見えないようでは、ものの本質が見えないと
言われても仕方ないでしょう。

渡海さん、あなたの「行動」と「言葉」を自らよーく見直してくださいね。

馬鹿か荒らしと言われる理由がそこにあります。
453名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 21:14
> くり返したのは、論理矛盾に気がついて欲しかったからです。
>それでもあなたは自分の論理矛盾に気が付かなかった。「とても」という相手に失礼な形容詞は僕は付けませんが、貴方は幼稚。

御立腹のご様子ですね。
ご不快になりましたか?。
他人からとやかく言われる覚えはありません。
御自分の発言をもう一度読み直していただきたい。  <?? 馬鹿には分かりませんね(笑)。>  
454名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 21:23
つーか、2ちゃんでIP晒してる時点でただのアホだろ。
IP晒して議論したけりゃニュース使えよ。
fj.life.religion逝けよ。
IP晒すなら2ちゃんより適切だろ。
455名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 21:32
私434ですけど、渡海難氏に余計なレスしたばっかりに
本題と外れることになってすいませんでした。
ちなみに、私は、434と451とこのコメントしか書いてません。
設定の関係で名前入れれません、すいません。
456:2001/07/27(金) 21:35
どう言う意味?
書きこみ状況を教えてちょ
>>452
>馬鹿か荒らしと言われる理由がそこにあります。
     <荒らしの452さんが荒らして言いたいことはそれだけですねー。>

>>453
>馬鹿には分かりませんね(笑)。
     <ほんとですねー(笑)>
458名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 22:34
>>457
やはり荒らしか。
>>455,>>451
 434さんへ。 446さんを434さんと間違えました。失礼しました。

>>449
 はい。注意します。
460名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 22:58
他人に「論理矛盾してる」といいながら、
言動が矛盾していることへの釈明は?
ニュース逝けって言われてるけどニュースって理解してる?
461名無しさん@1周年:2001/07/31(火) 17:56
>渡海難氏
遅れてご免ね。
前の通り、まとめてみた。
間違ってたら、構成お願い。

________________________________


今までにまとめた渡海難氏の主張

>>195-198
釈迦の教え1
釈迦の主張2
 《本当の結論》
 《しかし主張》
 《理由》
釈迦の主張3
 《なぜ「阿闍世の行為」は「殺人」ではないのか?》
 《「阿闍世の行為」は「殺人」ではないとした釈迦の真意》
釈迦の主張4
 《釈迦の視点》
 《阿闍世の話の錯綜、整理》
 《涅槃経著者の視点と釈迦の視点》

>>208
釈迦の価値観設定(正法念経)

付録
阿闍世の告白(>>225-226)
462名無しさん@1周年:2001/07/31(火) 17:57
>>212-215 渡海難氏

●正法念経(往生要集より)

・ 生き物殺すと地獄に堕ちる。(価値評価論:双方向性がある)
  A 生き物殺す(因:具体的内実) → 獄に堕ちる(果:記述的評価)
  B 獄に堕ちる(果:評価的内実) → 生き物殺す(因:記述的評価)

・ 仏教の評価の基本:念仏を称える者は、極楽浄土に往生して仏になる。だから尊い。
  A 念仏を唱えるものは尊い(因:具体的内実)
   → 極楽浄土に往生(仏になる)人のように尊い(記述的評価)
  B 極楽浄土に往生(仏になる)人のように尊い(果:評価的内実)
   →念仏を称える者は尊い(記述的内実)

・ 人殺しをした人は、 → 耀栄華を誇る人もいる or 火炙り八つ裂き(様々)
  ∵ 縁次第だから
  (1)縁の介在がある因果
・天の喜びを得ることも、地獄の苦しみを得ることも(様々)
  (2)縁の介在がない因果
・現実的でないが観念されている。←表層の奥にある不動の本質の見極め
・Ex.「ことさらに生き物を殺せば地獄に堕ちる」(不動の仏教的評価となる)
463名無しさん@1周年:2001/07/31(火) 17:58
>>212-215 渡海難氏

●仏教の因果論

・2つの因果論
  ・真実の因果論(縁の介在を排除する、不動的)   
  ・迷いの因果論(縁の介在が生じる、流動的)

・真実の因果論(縁の介在を排除する、不動的)
  ・果は因の本質が直接顕わになる
  ・Ex.「ことさらに生き物を殺せば地獄に堕ちる」
  ・「生き物を殺すという意思と行為」:(具体的内実)
  ・「地獄に堕ちる」:本質的(不動の)愚かさを顕在化させることの記述的評価

・「地獄」:仏教的価値の表現方法
  ・愚かさが顕著に内在していると観念する
   = 本質的には常に不幸がことさら潜在している
  ・可能性として潜在しうる不幸(表層とは無関係に存在する不動の実体的無価値)
   → 象徴的に顕在化 = 無形の無価値性を視覚化、有形化
464名無しさん@1周年:2001/07/31(火) 17:59
>>212-215 渡海難氏

●生き物と殺すという行為・意志の背後 阿闍世の「慙愧」

・生き物を殺すという行為・意思の背後
  ・愚かさの顕著な内在している
・可能性として潜在しうる不幸 = 不動の実体的無価値
・表層的観察では、人を殺すことと幸不幸に繋がりはない(様々)
・しかし、常態では、他人を殺せば、より大きな多くの不幸を招く恐れがある
・仏教はこの無形の可能性を不動の実体的無価値とみなして顕在化している
    ∴ 釈迦は通常、人を殺してはならないと説く。

・親を殺した阿闍世を釈迦が許した理由
  ・生き物を殺すことの背後に、愚かさが顕著に内在しているのは変わらない。
  ・「背後」「愚かさの所在」の仮説
・生き物を殺すという行為の正当化(価値付け) 行為に向けた評価付け
(論証)
・生き物を殺すという行為は「現実的物理的事象」(Ex.自然現象による死)
・死に至らす意思をもって殺す場合、行為者は通常、「殺すという行為を正当視」
・「愚かさの所在」は、「殺すという行為の正当視(価値観)」にある。
  ・阿闍世には「慚愧」が認められる
・(故意)に生き物を殺すことは愚かなことであるということへの気づきがある
  「慙愧」があれば、何ら弾劾の根拠を持たなくなる
・阿闍世の「慚愧」には、他に影響を及ぼす。他の人を気づきに誘う。
    ∴ よって、釈迦は親を殺した阿闍世を釈迦が許した。
  ・人を殺しても慚愧すればいいのか。?人殺しは悪いと認識して人を殺すのは肯定されるか?
・槃経の著者:釈迦の立場と異なる立場 内心で非常に苦しんでいる
465名無しさん@1周年:2001/07/31(火) 18:00
>>231-232 渡海難氏

● 法蔵(643-712) 瑜伽論 巻四一

・Q 慚愧があれば殺人も許されるか。 → A 法蔵:許される(肯定)
  ・許される殺人:(客体)無間業を犯しかねない相手 (主観)慚愧と憐みん(あわれみ)の心
  ∵ 菩薩戒には反しないから
  ・「無間業」
無間地獄に堕ちていく大罪として列挙されている行為
  ・「慚愧と憐みん(あわれみ)の心」
相手を殺すことで相手の代わりに自分が地獄に堕ちていこう。
地獄に堕ちていく相手の行為を阻止し、相手が地獄に堕ちていくことを防ぐ

・実際に許される慙愧のある殺人: 存在しない(真っ当な仏教議論) 存在する(狂信的仏教論)
  ∵ 「人を殺しても許されるような慚愧」
自分に慚愧があるかないか、無間業を犯しかねない相手かどうか、判別不能。

・法蔵はなぜ肯定したか?
  ・仏教の相対観:仏教は、絶対善や絶対悪の存在という考えだけは持たない。
466名無しさん@1周年:2001/07/31(火) 18:01
>>250-254 渡海難氏

●人を殺すことは悪か? 仏教の教え

1.悪である。
  ・人に限らず、生きとし生ける物を殺すことは悪である。
  ・殺害に関わった者は地獄・餓鬼・畜生界に転落する。

2.善でもなければ悪でもない。
  ・報いはあるというのも間違い。無いと言うのも間違い。

3.相手次第である。
  ・自らが地獄に堕ちることを覚悟しても相手の命を断てという教えもある。

《我々の選択》
  ・親鸞に聞こうと思えば、
我々 → 親鸞 → 曇鸞と善導(中国浄土教の歴史的高僧)


●問題提起:定期:経典の矛盾(すべて釈迦の教え)

・複数の大乗経典:救いがたい対象者についての言及
  ・大無量寿経
・ 五箇条の大罪者、正法の誹謗者
  ・異訳本の如来会
・ 無間地獄に堕ちていくような行為をした者、正法誹謗者、聖者を誹謗する者
  ・観無量寿経
・ 五箇条の大罪者のみ (正法の誹謗者は含まない)
  ・涅槃経
・ 治療の方法の無い器量の者、治療の方法の無い病者
467名無しさん@1周年:2001/07/31(火) 18:01
>>250-254 渡海難氏

●曇鸞の回答
  ・大無量寿経
・ 二種類の重罪を犯した者の例示:五箇条の大罪、正法の誹謗
→ 二つも重要な罪を犯しているから、極楽浄土には往生できない
  ・観無量寿経
・ 十悪あるいは五箇条の大罪を犯した者
→ 十念の念仏で極楽浄土に往生できる。
∵ 五箇条の大罪を犯した者:まだ正法を誹謗していない
  ・解釈の趣旨
もし指導者がいなければ、仁・義・礼・智・信という中国思想の五徳を人々が知る
ことができなくなるので、世間の倫理道徳は崩れていくし、賢人哲人が存在しなく
なってしまう。
五箇条の大罪は重大だが、五箇条の大罪を知らなければどうしようもない。だか
ら正しい法を謗ることの方がより大きな罪となる。

●善導の回答
  ・阿弥陀仏の四十八箇条基本方針
・ 正しい法を誹謗する者、五箇条の大罪を犯す者
→ 極楽浄土に迎えない
∵ このニ種類の行為は、本質的に極めて重大な行為である。阿鼻叫喚地獄から
  ほとんど永遠に出ることができないと言われても仕方がない。
  ・観無量寿経
・ 五箇条の大罪は犯したが、正法は誹謗してない者の例示
→ なんとか極楽浄土に迎えようとしている
∵ 引き続き過ちの世界に放置しておくことは許されない。
・ 正法は誹謗するなとの教え
・仮に正法を誹謗しても、やはり極楽浄土に迎えられると言うだろう。
  ・解釈の趣旨
阿弥陀仏は四十八箇条基本方針の中で除いているのは、考えがあって、
仮に一応そう言っているに過ぎない。本気で言っている訳ではない。
468名無しさん@1周年:2001/07/31(火) 18:03
>>256 渡海難氏

●曇鸞と善導の主張の違い

・曇鸞
  ・五箇条の大罪は重大だが、五箇条の大罪だけなら十念の念仏で極楽に往生できる
  ・真理の法を誹謗する者は、極楽に往生できない(地獄に堕ちる)。

・善導
  ・五箇条の大罪を犯した者も、真理の法を誹謗する者も、ともに十念の念仏で極楽に
    往生できる。

・曇鸞と善導の背景 → 親鸞の主張 → 自らが信じる旨


●曇鸞の立場:学園運営者という立場

・曇鸞浄土教の特徴
  ・大乗仏教:教育学
  ・浄土教:釈迦をモデルに阿弥陀仏という架空の教育者を創作
  ・曇鸞浄土教の対象:小乗の学問(基礎学問)を修得した若者
  ・曇鸞浄土教の方針:阿弥陀仏を理想像として極楽浄土をモデルにした学校を創ること
  ・曇鸞浄土教の目的:基礎学問の拡散

・曇鸞浄土教の入学要件
  ・物を盗んだことのある人、親を殺害してきたような過去のある者でも過去は問わない。
  ・教育学を専攻する若者なら、差別無く入学を認めるべきである
  ・学校は真理を求める場なので、真理を誹謗する者の入学は認められない。
469 :2001/07/31(火) 18:04

● 善導の立場:初等教育学の権威という立場

・善導の初等教育学
  ・入門者への道筋付け
  ・大乗仏教:人々を教育する教育者最高の価値を置く
  ・釈迦:自らの愚かさに気が付き、互いに教え合い学び合うことを提唱した。

・通常の入学の条件
  ・新入生:釈迦が定めた校則を守ることを誓って始めて入門。
  ・殺人を犯せば、人は法に基づく弾劾を受け、学校は退学となり、学生でなくなる。
  ・僧侶が殺人を犯せば、法に基づく弾劾を受け、寺院・教団から追放される。

・善導による釈迦の価値観からの脱皮
  ・古い価値観に過度に縛られれば、今後、誰一人学問ができなくなる
  ・「校則」は価値観であり、価値観は時代・社会で変化する。
  ・釈迦の規則を逸脱する者がいても、真実を説く者で念仏を唱える者なら入学を許可。
  ・そんなものでも末法の世の最高位の高僧として、仏道修行者として認められる。
  ・退学、追放を受けた者も善導は重ねて弾劾せず、学生、僧侶と認める。
  ・社会から弾劾を受け、除籍され、一人になっても真理を求める歩みを止めてはいけない
  ・真理を学ぶという崇高性にこそ最高の価値がある。
470名無しさん@1周年:2001/07/31(火) 18:05
>>299-300 渡海難氏

●親鸞における選択曇鸞と善導からの継承

・曇鸞からの継承
  ・箇条の大罪(五逆罪)、真理の否定(謗法罪)も、どちらも極めて重罪である。
  ・真理の否定は特に重罪である。

・善導からの承継
  ・五逆罪、謗法罪という重罪を犯す者まで救おうとしている大きな働きがある。

●曇鸞と善導と親鸞の立場の違い

・曇鸞にとって阿弥陀仏
  ・仏道修行者が修行によって到達する理想像、到達目標。

・善導にとって阿弥陀仏
  ・師匠を持たない仏道修行が実在の師の代わりとして仰ぐ創作的観念的な師

・親鸞にとって阿弥陀仏
  ・擬人化して捉えた真理そのもの

●親鸞と真理

・真理
  ・人々に情熱をたぎらせる
  ・真理を求める喜び
  ・やがて自らの姿をそのものの前に現し、真理の開拓者としての名誉を与える

・真理の人格化したもの=親鸞にとっての阿弥陀仏
471名無しさん@1周年:2001/07/31(火) 18:05
>>299-300 渡海難氏

●人を殺すことはなぜいけないのか?

・その答えは宗教に求められてきた。
  ・西洋
・自然権から人権天賦説を導く
・前近代から近代に世界史が移り変わるときの便宜説
  ・仏教
・時には空、時には業報説、罪悪説
・相手の器を見たときは、殺人を命じる主張もする

・最終的根拠は宗教に求めるべきではない
  ・宗教は、そのような価値判断の基準を提供できない。
  ・少なくとも、殺人の善悪は国法に求める外はない。

・最終的価値基準の根拠は、あくまで立法者が決めたルールに依拠するべき。
  ・国法は、民主的に、多くの人々の価値基準に沿って定めるべき。
  ・多くの人の共通の価値観は、しばしば先人の提唱に従っている。
  ・立法者は先人の提唱に耳を傾けるべき。

・殺人を犯した者は法に基づく弾劾を受ける。これが我々自身の持つ価値基準(ルール)。
  ・社会は、法の運用に躊躇してはならない。
  ・法の運用に躊躇すれば、国家は混乱する。

・社会のルールが全く関与してこない価値観を併せ持ちたい。
  ・弾劾も推奨も向けない世界、精神的すなわち非社会的・観念的宗教的世界の堅持。
472 :2001/07/31(火) 19:06
>>461-471
わざわざまとめる必要ってあるの?
>>461-471
 私の書き込みは非常に読みにくかったと思います。読みにくかったことをお詫びすると共に、それにも関わらず、僕の書き込みを丁寧に読んでくださったことに心から敬意を表します。
 貴方のまとめを拝見して、非常によく読んでくださったと、まず感動を覚えました。2,3箇所ですが、オヤと思うところが無いわけではありません。あるいは、そういう箇所も、本当は私が敢えてオヤと思うようなところでは無いのかも知れません。むしろ私の新たな誤解かも知れません。先行する私の表現力の拙さが原因だったのかも知れません。貴方がまとめてくださったところは、全て貴方の受けてくださったところです。貴方が受けたところとして正しいのでしょう。私がどうこういうことではないと思います。
 これだけまとめてくだされば、私の主張の内容で、おかしいと思うところ、変だと思うところも、私の気づかないところで見つけてくださっているかも知れません。おかしいと思うところ、変だと思うところがあれば、今後は、貴方がそこからご自分で自らの思索を深めていってくださると嬉しいです。きっと素晴らしいものを見つけてくださるでしょう。
 僕は、哲学・論理学は全くの素人です。在野の一親鸞ファンに過ぎません。親鸞以外は知りません。単なる一介の念仏者です。人を殺しては何故いけないのか。僕の議論では、例えば古代の律令、あるいは儒教・道教などの中国思想の視点が全くありません。この辺は僕の能力外の部分です。
 今後、あなたが更に思索を深めてくださるか、別の方に向かわれるか私には分かりません。しかし、僭越ながら私の議論をあなたの足下の踏み台の一角に少しでも加えてくださって、そこから更に進んでくだされば、これ以上の幸せはありません。
 非常に丁寧に読んでくださったことに心から感謝いたします。
474名無しさん@1周年:2001/08/01(水) 14:00
難しすぎ。
475名無しさん@1周年:2001/08/01(水) 14:30
>>474
無理に理解しなくてよし!
渡海難のカキコは意味不明なところが多いから。
476顔も名前も出さずに毎月100万円:2001/08/01(水) 16:11
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477名無しさん@1周年:2001/08/01(水) 17:37
なんで人を殺さなきゃいけないの?(前線でこの瞬間に戦っている多くの兵士、テロリストの問い。)
478名無しさん@1周年:2001/08/01(水) 21:35
>>473 渡海難氏

まずは大作 お疲れ様っす。
多分にオヤと思われたところ、自分の読みこみの浅さと、
タブが無視され列がずれてしまったことによる誤解が原因かと。

>私がどうこういうことではないと思います。
言ってもらった方が楽しいかも。。難氏の議論に対するまともな反論から、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題に対する様々な角度のアプローチが
提起されたのですから。。

レスを丁寧に読んだからとて、…
普段の…、察します。。(^-^;
479名無しさん@1周年:2001/08/01(水) 21:36
>渡海難氏

さて、渡海難氏以外のレスで自分が気になったものがいくつかありますので、
触れてみたいかと。ちょっと付き合ってもらえませんか?
まず下記 332 と 335 について。

>>332
>人権が宗教的な意味は無くてもよいという立派な例外的根拠にならないでしょうか
>「人間には人権を有する。」という命題は単なる法律上の公理のようなもの
>しかし、宗教的な意味付けをしても単なる言い換えになるだけ
> >殺人を弾劾の対象としない法体系の存在は可能か
>「人間には人権を有する。」という命題さえ変更すれば、十分可能だと思います。
>実際にそのような法律や文化圏を古今東西から探せば、枚挙に遑がないと思います。

332へのRe: >>335
>命が人権に含まれる部分はコンセンサスがとれているっていうことが大前提
>そのうえで、「人間には人権を有する」が変更可能かどうかだね。
>殺人は絶対悪ではない。というかそもそも絶対悪とか絶対善なんて在りえない。
>法的に悪とされる行為は「単なる大勢のコンセンサス」でしかない。
>何に洗脳されているか、どんな価値観か、ということでしかない。
>多くの場合、結局宗教的価値観だったり民族的価値観が根底にある
>「なぜその宗教的価値観や民族的価値観は殺人を悪としてきたか」
>ある法体系がある宗教的価値観や民族的価値観をベースとした結果、
>殺人が悪とされないケースは多数ある。
>ここまで来ると、もう各宗教や各民族における価値観を書くだけで済む。
480名無しさん@1周年:2001/08/01(水) 21:37
>渡海難氏  >>332,>>335 について

なるほど、俺的には 332氏と 335氏の意見にはすごく納得できますが、「なぜ人を殺しては
いけないのか?」と聞く10代への回答として見ると、【最悪】なものになると。理由は1つ、
殺すことを文脈の中で認めちゃってるんですよね。。
簡単に言えば、「なぜ人を殺してはいけないの?」と問う子供の目には、
 公理の検証 >>> 人の命
に映ってしまうかと。332氏、335氏の視点に欠けているのは、人格未形成の子供が聞く「なぜ
人を殺してはいけないのか?」という問いかけは、「オマエのイノチの価値って何や?なんで
オマエを殺したらアカンの?」という刃を付きつけるような切迫したものだということなんですね。。

比較して、難氏の親鸞研究のアプロ-チは法蔵の話を典型として「殺すことを認めてる」ように
見えますが、文脈的、あるいは他の人に対する渡海難氏のレスを勘案すると、その実質は「殺
人を一切認めてない」んですよね。。そのスタンスからの渡海難氏の議論なら回答(解答ではな
いけど)として成立すると思うんですね。。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」について納得のいく回答を聞き、知的な満足を得ようと
する子供の人格的態度と、渡海難の結論 >>299-300 (>>470)の人格的態度で、
 A 知的好奇心の満足 = B 真理を追究する喜び >>> C 殺人(無視ぐらいの扱い)
 A 子供が実感する命の価値 = B 渡海氏の実感する命の価値 >>>C 子供の殺人衝動

つまり、「なぜ人を殺してはいけなのか?」の回答を模索するとき、
大前提として「殺人は絶対に認められない、絶対悪である」とする必要があるかと思うのです。
しかし、>>335氏が指摘するように、「そもそも絶対悪とか絶対善なんて在りえない」というのが
社会通念です。
とすれば、「殺人は絶対悪である」ということを【擬制】して内容を構築するしかないと。

そこで、良いタイミングで >>477氏のレスが出ましたので、仮説的に、
「人が人を殺しても良いとされたことは、古今東西、一度もなかった」を考えてみるのも、
一興かもしれないと思うのです。。
この点、どのように思いますか?

まずはここまでっす。
481名無しさん@1周年:2001/08/02(木) 14:21
age
482名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 12:01
483名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 12:19
身内が殺されたら、殺してもよい。
484名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 13:35
ん、殺されて当然みたいな奴がいるのは確かだな。
しかし己の中に「何故人を殺してはいけないのか?」への解答を持っていれば、
復讐を思い立った時、そこで一歩立ち止まる事ができるのであろう。
最近はこういう事考えてない奴が多いからね・・・
「悪の殺人」というより「愚の殺人」ばっか。乱れた世俗の因果応報でしょうか?
485名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 21:02
age
486名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 11:42
どうも無視&放置されちゃったようですね。(^^ゞ
では、もう少し話を進めとくことにします。

自レスの>>480
>仮説的に、「人が人を殺しても良いとされたことは、古今東西、一度もなかった」と
>考えてみるのも、一興かもしれないと思うのです。。

一見、無茶なことを言ってると思われたかも。。

いまだかつて殺人が行われなかった社会は存在しなかったろうし、殺人を教義的に認め、
さらに殺人を尊いとした宗教もあったでしょう。
また、殺人を合法的に認めた法もありましたし、殺人を娯楽とした文化もあります。
殺戮と戦争が根絶したことなど、一度もありません。
各状況下では「人が人を殺しても良いとされ」ていたことは自明のようにも思えるからです。

しかし、俺的には、それらの状況下でも、「人が人を殺しても良い」とは誰も思ってなかった
と思うのです。
つまり、「人が人を殺す」(客観的事実)とき、自分(人)が【人】を殺しているという感覚(主観
的内面)はなかったのではないでしょうか? 【人ではないもの】を「殺して」いたのです。そう
でなければ「良心の呵責」が生じてしまうからです。
「良心の呵責」が生じてしまう、「殺す」相手を【人】と見るというのは、「彼にも家族があり、自
分達と同じような生活をしている。彼が死ねばどれだけの人が哀しむだろう。なぜ俺は彼を
殺さなければならないのか?殺さなければ、俺が殺されるからだ」などというものです。>>477

では、【人】(主観的内面)とは何をさすのかが問題になってくると思います。

今日はここまでっす。
>無視&放置されちゃったようですね。

 ROMしています。
488名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 12:34
>>487 渡海難氏

>ROMしています。
うぃっす。
489名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 12:35
自レス>>486
>では、【人】(主観的内面)とは何をさすのかが問題になってくると思います。

「人が人を殺しても良いとされたことは、古今東西、一度もなかった。」
しかし、現実的に殺人はいつの時代も行われてきました。
この点を、「人が人を殺す」(客観的事実)とき、自分(人)が【人】を殺している
という感覚(主観的内面)はなかったと理解しています。
ここから、殺人は、【人ではないもの】を殺す行為 だということになります。

実際に殺されてきたし、殺ししても構わない【人ではないもの】とは、誰か?
戦争・紛争では「敵」、宗教戦争では「異教徒」、忠臣蔵では「主人の敵」、
渡海難氏の議論から引用させてもらうなら、 「無間業を犯しかねない相手」
「正法誹謗者」(「外道」?)、因習でいうなら「人非人」、、、
これらの【人ではないもの】の共通性は、「普段の生活の中で、実感として自分
とは繋がりを一切感じられない者(主観的評価)」だと思うのです。殺人が行わ
れるときの主観は、だいたいこのようなものだったのではないでしょうか?この
主観を作れずに、人を殺したものは必ず「良心の呵責」に苦しんできたことでしょう。
ここから反対に解釈すれば、古今東西を通じて、絶対悪として殺してはいけな
かった【人】とは、「普段の生活の中で実感として自分と繋がりを感じる者(主観
的評価)」ぐらいに解釈できそうです。簡単に言えば「身内意識の持てるもの」で
す。もちろん、自分はいつも【人】に含まれます。
人は、【人でないもの】を殺すことはできても、【人】を殺しても良いとしたことは
一度もありません。間違って【人】を殺せば必ず「良心の呵責」に苦しむのです。
人が【人】を殺すことは絶対悪といえるものなのです。

では、何が人をして【人】を殺すことを絶対悪とするのか?
人権? 法? 俺的には民族という点で理解したいと思っています。

今日はここまでっす。
490名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 13:32
>>489
 なるほど。
 「民族という点」での理解って??
492名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 01:21
>>491 渡海難氏

>「民族という点」での理解って??

「なぜ人を殺してはいけないのか?」
この問いに答えるのに「民族」とう概念は外せないと思ったんですね。
しかし、「民族」の観点から説明しようとするとき、問題が生じます。
「民族」という言葉はよく聞くわりに、専門的に扱ったことのない人にとっては
理解しにくい言葉だと思うからです。
原因は、言葉に2重の意味が混ざってるからです。
  ・近代国家を形成するための概念装置だった意味(幻想)
  ・民族学で扱う意味(リアルさがポイントです)
「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対応するのは後者だと考えています。
この意味を誰にでも理解できるようにするため、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」を言及するに先立ち、
民俗・神話学板(当時は民族・神話学でした)に、「民族ってな〜に?」というスレを
素人観点で、概念比較の方法で立てました。
レス数は少ないですが、名スレとなってますので、是非ご一読のほどをお願いします。

民族って、な〜に?
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=min&key=980250373&ls=100

まずは返信まで。
493名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 10:12
渡海難氏。

親鸞は、解脱してないので、日本のお経を読むよりも、シャカ系統の仏典をお勧めいたします。
また、カルマって知ってますか?
あなたが今、様々なスレで叩かれているのも、あなたが他にやったことが返ってきてるんです。

あなたの言ってることが正しければ、いいのですが、残念ながら間違っています。
間違った法を広めたものは、地獄に落ちると、シャカも言ってることですし、
そろそろ、撤退されることを願ってやみません。
>シャカ系統の仏典をお勧めいたします。

  そうですか。そうですか。ご親切なご推薦ありがとうございます。でも、僕は間に合ってるんですよ。

>カルマって知ってますか?   <あなたが考えてくださいな>

>あなたが他にやったことが返ってきてるんです。
     <そうですか。そうですか。畏れ多いことですね。>

>残念ながら間違っています。  <なるほど。なるほど。畏れ多いことですね>

>地獄に落ちると、シャカも言ってることですし、

 ぼくのような人間まで地獄に落とせば、釈迦には天罰が下るでしょう。

>撤退されることを願ってやみません。  <僕は2CHが好きなんですよ。>
495名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 23:36
いいぞ渡海!(支援者もいるよ)
496名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 23:37
>>493
横レス失礼。

>親鸞は、解脱してないので、
そこが親鸞の良さなのではないでしょうか?
もし親鸞が「私は悟ってる」(彰光ちゃん風に)と公言してたら、
逆に親鸞の評価は落ちてるような気がします。

この国では、「悟り? 実は俺も知らんのや」ぐらいが
悟りあるものの言葉に思えます。
497名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 21:35
自レス>>489
>では、何が人をして【人】を殺すことを絶対悪とするのか?
>俺的には民族という点で理解したいと思っています。

「人が人を殺しても良いとされたことは、古今東西、一度もなかった。」
このように考えると、古今東西を通じて、絶対悪として殺してはいけなかった【人】とは、
  ・「普段の生活の中で実感として自分と繋がりを感じる者(主観的評価)」
  ・「身内意識の持てるもの」
ぐらいになります。
もしこれに反して【人】を殺せば、必ず「良心の呵責」に苦しむことになります。

では、人はどの範囲の人間に「普段の生活の中で実感として自分と繋がりを感じる者」と
主観的に評価をしているのか?
実はこの範囲こそ「民族」というカテゴリー(民族って、な〜に?24-25)なんですね。
つまり、「相互のアイデンティティに対する共感」(民族意識が享有される範囲)が【人】で
あり、古今東西、絶対悪として殺してはいけない【人】の集団なんですね。
民族意識が、人をして【人】を殺すことを絶対悪とするのです。
498名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 21:35
(続き)

では、なぜ民族意識は人をして【人】を殺すことを絶対悪とするのか?
これは同一民族を確定させる作業と同一の曖昧さが残ります。

鳥瞰すれば、言語、宗教、生活の仕方、社会制度(特に親族制度)、同じ血統であると
いう意識などを享有してる【人】を殺すということは、
  自分(殺人者)の生活 = 【人ではないもの】(殺された者)の生活
にしてしまうことになるから、と言えるかもしれません
(手塚治虫 「人を殺すということは自分を殺すということなんだ」)

よくでてくる遺伝子論に乗せると(個人的にはあまり好きではありません)、
「動物は遺伝子の指令にしたがう。遺伝子の指令とは、『種保存の欲求』と『生存の欲
求』である。人の社会生活がどんなに複雑化しても『種保存の欲求』と『生存の欲求』を
満たすためのものであることは変わらない。『身内意識の持てるもの』(不可避的に発生
する血縁妄想)を殺せば、遺伝子の指令、『種保存の欲求』と『生存の欲求』に背くこと
になる。遺伝子の指令が歪んだ人間は、遺伝子の指令に従う社会の中で『種保存の欲
求』と『生存の欲求』を満たせなくなるので、遺伝子の指令レベルで動く人が【人】を殺す
ことは絶対悪なのである」ぐらいになるでしょうか?

俺的には「もともと個人には、その個人特有の背景(アイデンティティ)があって、宗教・
言語・血筋などの要素だけで人間を分類することなど不可能であるはず。」(民族って、
な〜に? 24)という点を大切にして、
アイデンティティー(自分が自分である理由、実感できる自分の心)と言語(民族学で
考える『言語』よりも広い範囲になります)との関係で、【人】を殺せばどうなるのか(絶対
悪である理由)を考えてみたいと思っています。

民族って、な〜に?
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=min&key=980250373&ls=100
49933軒:2001/08/08(水) 21:36
殺そうが殺すまいが、あんたの勝手。

殺されると泣く人がいるだけ。
500名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 21:40
泣く人がいたからって、どうなの?
501 :2001/08/13(月) 08:20
502名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 14:55
keep
503名無しさん@1周年:2001/08/23(木) 00:20
自レス>>498の続き

>「もともと個人には、その個人特有の背景(アイデンティティ)があって、宗教・
>言語・血筋などの要素だけで人間を分類することなど不可能であるはず。」(民族って、
>な〜に? 24)という点を大切にして、
>アイデンティティーと言語との関係で、【人】を殺せばどうなるのかを考えてみたいと
>思っています。

今、アイデンティテーを意訳して「自分のリアルな心のありか」とします。
では、自分の心ってどこにあるのか?
家族、友人、会社、趣味…、例えそれを何に位置付けようとも、『心』は「言語」から自由
にはなり得ないと思うのです。心理学板を代表する名スレ、「心ってどこにあるの?」で、
徹底的行動主義に、ヴィトゲンシュタインを用いて、伍長氏が展開している立場がありま
す。俺も同じ立場からちょっくら参加してたりします…

心ってどこにあるの?
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=974569037
心ってどこにあるの? ・・・第2部じゃぞ
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=980862047
心ってどこにあるの? ・・・厨房よけに第3部
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=984638115
504 :2001/08/23(木) 00:21


「心(リアルに感じる自分の心)とはどこにあるか?」というテーマについて、伍長氏の要約
(第2部‐63)にあります。

【A】:「心はどこにあるのか?」「心とは何か?」等は偽問題であり、「カテゴリー間違い」の一例である。
【B】:この偽問題を解消するためには、「なぜ人は、『心』のような心的用語を使えるようになるのか? 二元論に陥らずに答えよ」と問うべき。
【C】:その答えは、「機能」と「それを支える機構」の2方向からのアプローチによってもたらされる。
【D】:脳研究は後者の中心であるが、脳レベル「だけ」で語ろうとする「脳至上主義」は間違っている。
【E】:「クオリア」「心の実在感」「(心が存在しているような)気がしている」などは、機能的には「私的事象に対する弁別反応」と見なされる。
【F】:「私的事象に対する弁別反応」は、言語共同体による分化強化によって間接的に形成・維持される。
【G】:ゆえに、「私的事象に対する弁別反応」は、定義上、言語行動的な性質を持つ。

この要約から第1部の内容を簡潔?に述べてみることにします。
505名無しさん@1周年:2001/08/23(木) 00:25

【A】:「心はどこにあるのか?」「心とは何か?」等は偽問題であり、「カテゴリー間違い」の一例である。
【B】:この偽問題を解消するためには、「なぜ人は、『心』のような心的用語を使えるように
   なるのか? 二元論に陥らずに答えよ」と問うべき。

「心ってどこにあるの?」、可愛い問いかけなんですけど、この「どこ」がいけない。心とは
いうのは「場所」を特定できるものでないんですよね。主に2つのアプローチが考えられま
す。1つは、「心」とは脳神経の働きであるというアプローチ。もう1つは、いかに「心」という
タームを使っているのかという「言語行動」の問題とするアプローチ。脳神経と言語、この
2つはハードとソフト、構造(機構)と機能の関係に対応します。
2つの考え方の違いを見てみます。
506 :2001/08/23(木) 00:26
「心」は脳神経の働きであるという立場を取れば、それは実体的な「構造」の観点から、「心」を
「意識のプロセス」として理解することになります。つまり、例えば、生物学的な身体構造、特
に脳構造。その生理的・化学的・物理的な仕組み。ハードウェア。抽象的な情報処理機構も。
環境(の刺激群)の物理的特性・構造。これらから「心」の生成を見る立場です。この見方で
は原始人も現代人もさして「心」というのは変わらないということになるでしょう。
「心」は言語行動の問題であるという立場をとれば、それは実体のない「機能」の観点から、
「心」を「意識の内容」として理解することになります。つまり、この立場では、「言語行動として
自発される際の行動随伴性を分析することによって、つまり、それが自発される際の条件を
記述することによって、より適切に得られる」ものとして、「心」の生成を見ていきます。ヴィト
ゲンシュタインは、この「心」の生成に2通り、スキナーは4通りの可能性を指摘しています。
この見方では原始人と現代人の「心」はまったく別物になるでしょう。
一般人にとって「心って、どこにあるの?」という設問の内容は「いかにして人(自分)が心的
用語で表現するものにリアルな存在、自己意識を感じるのか?」になるのではないでしょうか?
もちろん、脳神経がなくては「心」が存在しないことは当たり前です。しかし例えば、脳神経の
発するパルスだけを測定し、「心」を理解することはできないし、設問の答えにもならないでしょ
う。つまり質問者は実体として感じる心の形成・発生(機能)を聞いてるのに対し、脳の働き
(構造)で答えるのは、間の抜けた解答(カテゴリー間違い)となるのです。
507名無しさん@1周年:2001/08/23(木) 00:27
【C】:その答えは、「機能」と「それを支える機構」の2方向からのアプローチによってもたらされる。
【D】:脳研究は後者の中心であるが、脳レベル「だけ」で語ろうとする「脳至上主義」は間違っている。

昨今、主に生理学と心理学との間で「生理学の説明で心理学が扱ってきた内容はすべて
説明できてしまう」との考え方があります。その中でも特に「唯脳論」、脳神経の働きで説明
するアプローチが先鋭的です。心理学者はこれを「脳至上主義」として揶揄します。つまり、
生理学によって意識や行動に関係する生理的機構が完全に解明されても、心理学の扱う
話題、意識や行動の原因となる環境からの刺激と意識と行動との関係,環境と生体内機構
の相互作用の問題は何もわからないと考えるからです。
では、心理学の立場から機構を扱う脳研究などをどう位置付けているかといえば、心理学と
しては「心」の問題を言語行動として捉え、「その言語行動とそれが自発される際の諸条件と
の機能的関係を記述すること」と考えます。そして、機構を扱う生理学などは、上記言語行動
を説明する際の「諸条件の性質・仕組みを記述する」ものとして心理学の補強になるものと
考えます。
なぜなら、脳研究などの機構からの説明は、「心」を決定する諸条件が真であることを検証
することこそが、その研究の意義を保証するものだからです。故に、心理学の立場からは、
「脳至上主義」を揶揄し、否定することになります。
508名無しさん@1周年:2001/08/23(木) 00:30
【E】:「クオリア」「心の実在感」「(心が存在しているような)気がしている」などは、機能的には
    「私的事象に対する弁別反応」と見なされる。
【F】:「私的事象に対する弁別反応」は、言語共同体による分化強化によって間接的に形成・維持される。
【G】:ゆえに、「私的事象に対する弁別反応」は、定義上、言語行動的な性質を持つ。

さて、「いかにして人(自分)が『心』という言語で表現するものにリアルな存在を感じるのか?」
(心って、どこにあるの?)についての本論です。
509 :2001/08/23(木) 00:31
(前提)
普段、心的言語で表現される自己意識とはどんなものか? ヒトはヒト遺伝子の設計図に基
づいて身体を生得します。ヒトの身体には脳神経を主として複雑な神経系を備えらえています。
人が外界からの刺激をリアルに感じることができる(実存感を感じる)のは、神経系において、
外的刺激を電機信号に変え、脳内物質の伝達とともに、脳の感受器にまで伝達するからです。
その際に繋がりを持つニューロン細胞群はニューロン発火というものが時系列的に連鎖しま
す。そこでクオリア、実在感のようなもの生じます。この辺りのことはニューラルネットワークの
問題を中心に、現在盛んに研究されてるようです。
では、外的な刺激はすべて意識に上り「実在感」を持つのかと言えば、脳における情報処理
により取捨選択され、意識から外れるものもあります。そこで普段「心」として意識される自己
意識とはどのようなものなのか?が問題になります。
さて、該当スレの議論を見るに、意識となりうるものの中で最も「心」を広く捉えるのは、脳至
上主義者でしょう。そして順に、動物屋 > 芸術化、臨床医 > 行動屋
となるようです。それぞれの研究対象上の観点から、「心」と理解するものが違うから。
・脳神経の研究者 → ニューロン爆発の起こる過程があれば、そこに「心」を想定する傾向。
・動物屋 → 「心」は人間の専属?動物にもあるか?ないとすれば動物屋にとって研究から
  「心」は範疇外。可能性として【「心」がある】とするなら様々な角度から検証。
・臨床屋 → カウンセリングで患者の話すことから無意識下に影響してる要因なども考慮し
  て、患者の「心」の問題をケア。
・行動屋 → 基本は環境要因と被験者がアウトプットとして表出するものから「心」を理解。
私見では、こんな傾向を観察しています。もっとも一般的に「心」として表現されるものに近い
のは行動屋の「心」の捉え方ではないでしょうか?
510 :2001/08/23(木) 00:33

(行動分析屋の見解)
遺伝子プログラムは「種保存の欲求」と「生存の欲求」に応じて環境適応的に進化してきた
自然淘汰の経過的帰結です。遺伝子プログラムに設計されてるのは脳の言語野と呼ばれ
る部分もです。人が「言語」という象徴道具を使うのは自己保全の"本能"に基づくものだと
いえるでしょう。そんな本能に従い「言語」を使う中で、心的用語はあらゆる言語共同体で
使われています。人間が心的用語を使うのも自己保存本能からと考えて良いでしょう。
では、遺伝子的にプログラムされたどんな生得的欲求を満たすために人は行動をするか
(「言葉」を使うか)?といえば、行動屋はあまり深く言及しません。定義する際に、確立操作
として扱ってしまうからです。言語行動を支える機構(構造)の1つとして位置付けるわけです。
さて、言語行動に影響する諸条件のうち、人に刺激を齎しうる(人が直接、間接に反応する)
物理的(身体的)事象は、2つに区別できます。公的事象と私的事象です。日常世界におい
て、自分自身しか接近できないのが私的事象で、同じ共同体の他者も接近できるのが公的
事象です。双方、あくまでも物理的(身体的)事象です。接近可能かどうかは、日常生活に
おいて(双方の刺激に対して)直接、反応できるかどうかで区別します。例えば、歯痛(痛み
そのもの)は私的事象ですが、頬を押さえる行動は公的事象という区別になります。心的用
語で表現される自己意識は、共同体の第三者には直接に接近する可能性がないので、私
的事実となります
511 :2001/08/23(木) 00:34
私的事象の中にも、実在感を伴い自己意識になるものと、そうはならないものがあります。
ここで注意して欲しいのですが、実在感を伴い自己意識となる「モノ」は、私的事象としての
物理的(身体的)事象と論理的かつ厳格に対応していないということです。すなわち、「心の
モノ」は存在してないということです(当たり前ですが)。また、その存在しないはずの「心のモ
ノ」に実在感を感じます。「心のモノ」は存在しないのに、人間は「心のモノ」を心的用語で表
現し、「心のモノ」に実在感を感じてるのです。これは、私的事象の中から、実在感を伴い自
己意識になるものが生成されるメカニズムが前提となるのです。その前提とは「言語共同体
による分化強化により間接的に形成・維持され」ることにより、個体に「私的事象に対する弁
別反応」が生成されるというメカニズムです。そして、このメカニズム以外に、個体に実在感
を伴い心的用語で表現される自己意識が生じる余地はありません。
512 :2001/08/23(木) 00:35
「言語共同体による分化強化」といっても、まず個体側からの自発的反応がなければ強化は
無理です(強化は「先行反応の自発頻度を高める後続手続き」のこと)。その個体側からの自
発的反応は、遺伝子プログラムにより設計されている神経系の、環境からの刺激に対する自
己保存本能に基づく生得的反応であり、また私的事象を弁別し外界に向けて「言語」を用いて
表現(弁別反応)するのも、社会性を持つ人間の本能的行動と位置付けます。
言語の獲得と言語共同体の成立・発展によって、人間は私的事象に対して「言語」的に反応
できるようになります。時間的に先行または並立する事象は、後続または並立事象の原因と
見なされやすいという経験的事実もありますので、私的事象の感覚が行動の原因と見なされ
るようになります。アニミズムが人間自身の身体にも導入され、皮膚の内側に「心的なモノ」が
創り上げられます。そして人間は「心‐身」二元論的動物となりました。人間が二元論的言動
をとるのは、個体の自己保存本能、言語共同体に優位に働く強化を得やすいからとも考えら
れます。そこで「人間らしい」心身二元論的が推奨されることになります。こうして「言語共同体
による分化強化により間接的に形成・維持され」ることにより、個体の「私的事象に対する弁
別反応」が生成される基盤が整うことになります。
513 :2001/08/23(木) 00:36
霊長類の動物を観察するに、人間にも生得的で原始的で大雑把な私的事象に対する弁別
反応のようなものが生じると考えられます。だからこそ、危険に瀕したときに叫ぶなど外部
出力が可能になるわけです。外部に出力され顕現化した公的反応が言語共同体により分
化強化されると、公的事象に対しても私的事象に対しても、細かい弁別反応が可能となり
ます。同時に自己の公的反応と他者の公的事象との類似性から、他者の公的事象に対し
ても反応できるようになります。つまり、自己の私的事象に対する反応が般化して、他者の
公的事象への反応を通じて、他者の私的事象に対し「間接的」に反応できるのです。自分
がケガをしたときの「痛み」が他人のケガを見て「痛そうだな」と「心」が通じるわけです。
もちろん個体の弁別反応は言語的にだけでなく、非言語的にも強化されます。しかし「心」の
問題として重要なのは安定的な「私的事象の弁別反応」です。私的事象の弁別が「首尾一
貫」して安定的に行われるためには、外部の公的な基準が必要になります。ここで基準が
「公的」であるとは、共同体の「誰にとっても」という意味です。その基準は、生活様式を共有
する言語共同体の基準です。これがなければ、私的事象の「何を」「正しく」弁別しているの
かが分からなくなるわけです(弁別反応でなくなる)。
514 :2001/08/23(木) 00:37
では、なぜ言語共同体により強化された「私的事象に対する弁別反応」は維持されるのか?
また、言語的強化かどうか、非言語的強化かどうかに関わらず、なぜ強化された私的事象
に対する弁別反応は言語的なものになるのか?

事例A。「渇き」は「水を飲む」という行動になり、「水を飲む」という行動は「水」によって強化
されます。この行動の過程で「渇き」から「水場へ向かう」という行動も維持されることになり
ます。「水場へ向かう」という行動が学習されたわけです。「水場へ向かう」を学習するため
には、場所の弁別など「渇き」以外にも多くの弁別が必要になります。それらの弁別を含め
た学習は、共同体を必要としない非言語的強化でも可能ですし、実際にそういったものです。
しかし、「渇き」から「水場へ向かう」という非言語的な弁別反応が生じたとは言い難いもの
がありますし、「渇き」から「水を飲む」が生じるのも弁別反応とは言えないでしょう。これらは
人間以外の霊長類にもみられる「生得的で大雑把な弁別反応のようなもの」にすぎないから
です。
515 :2001/08/23(木) 00:38
事例B。「渇き」から「喉が渇いたぞ」と行動が強化されるのはなぜでしょうか?生得的な要
素の強い「水場に向かう」ならば不要ですが、「喉が渇いた」というのは共同体が前提となり
ます。また、「渇き」から「喉が渇いた」と行動するのは動物の生存上、必ずしも必要なもの
ではありません。しかし人間が社会の中で生きていく上では、自分の私的状態を弁別して外
部に出力することが効果的となったのです。自分で「水場に向かう」行動をしなくても、「他者
を介して」、「水」を得ることができるからです。しかもこの場合「水」は必ずしも強化を「直接」
もたらすとは限らず、「水」でなくても良い場合があります。「喉が渇いた」が成立、維持される
ためには、他者が接近可能な「基準」が必要となり、それは「公的」なものであることが必要と
なります。自分の私的事象を弁別するための基準と他者が私的事象を弁別するための基
準とが類似性を持ち、しかもお互い接近できる「公的」なものであれば、他者が「渇き」の状
態の時に「公的」基準から判断して他者に「水」を与えることができ、他者の「喉が渇いた」と
いう弁別反応は強化されます。ここから「喉が渇いた」という弁別反応は、別の他者にとって
も同様に学習可能であり、同様の強化をもたらすものとなります。よって、「喉が渇いたぞ」
という行動は、自分の私的事象の弁別反応であると同時に、他者による自分の私的事象の
間接的な弁別反応「喉が渇いてるみたいだね」にもなるのです。つまり「心」が通じる。
「同様の場面で、言語的にも非言語的にも相互に強化しあうことができること」が必要であり、
強化される弁別反応が言語行動的性質を持つとはこういうことなのです。「喉が渇いたぞ」と
いう行動(反応)を共同体の他の成員が強化しなければ、それは定義上言語行動ではない。
その場合、非言語的な発声行動が自発されたとしても、何らかの強化がなければすぐに消
去する。となると、強化される理由はないので、そのような行動(反応)が成立、維持されるこ
とは、通常の場合、あり得ません。
516 :2001/08/23(木) 00:38

事例C。「渇き」から「喉が渇いたという自己意識(「渇きの実在感」)を持つこと」のは、どん
な利得があって、どんな強化がなされるのか?これが「なぜ人は心の実在感」を持つのか
という本題に関わるものです。「自己意識」がなくても「水場に向かう」行動はできるので、
本来は「自己意識」を持つ必要はないはずです。それなのに「自己意識」が形成、維持され
ているのは、「自己意識」という「私的事象に対する私的な弁別反応」を相互に強化し合う
ことが、自己保存本能にとって効果的だからと考えられます。ところが「自己意識」という
弁別反応も私的事象なので、外部から「直接的に」強化することはできません。だから、
本来ならこのような「自己意識」は成立し得ないはずです。例え「自己意識」が「自然発生
的に」生じたとしても、それは非言語的な自発となり、何らかの強化がなされなければ、す
ぐに消失してしまうはずなのです。「自己意識」の成立・維持しているのは、「公的な」何かが
介在しているを得ないのです。その「公的」な何かというのが、ヴィトゲンのいう「公的基準」
であり、その「公的基準」に基づき、各自の私的事象に対する「公的な」弁別反応を成員同士
で強化し合うことができる。このときに各自に生じる弁別反応は定義上言語行動的なものに
なります。この言語行動的&顕現的な弁別反応が分化強化され、非顕現的レベルにまで般化
したものが「自己意識」なのです。だから、言語共同体なしには「自己意識」は成立せず、
この「自己意識」自体も定義上言語行動の一種となるのです。


「自己意識を持つということは、同時に他者の意識内容を推測するということができるという
こと」「自己の意識内容を自己と他者が共に理解可能になるということが、意識が成立・維持
するということ」「自己意識を持つことが社会生活上で有利になるから、自己意識を持てるよ
うになる」ただし、他者の(&自己の)意識内容を「本当に」知ることができるのか?に対して
は「否」ということになります。
517 :2001/08/23(木) 00:39
ここまで、言語発生と意識発生のシンクロを説明してきたのですが、「なぜ人は心的用語で
表される自己意識を持つのか?」の帰結が言語発生と意識発生のシンクロなのです。つま
り、実は意識発生に他のメカニズムは生じません。主な理由は2つ、(1)徹底的行動主義に
基づく論理的根拠(積極的根拠)(2)可能であるとする根拠を想像できない(消極的根拠)。

(1)の根拠について。個体が自分の私的事象を弁別するのは、自分の私的事象の弁別が
他者と関わりながら生存していく上で有利だから、淘汰の中で残ってきたと考えられます。
幼いA君には生得的に自分の私的事象が生じます。そのように生じた自分の私的事象を
A君は弁別していくのですが、それには外部からの首尾一貫して分化強化が必要になりま
す。外部から首尾一貫した分化強化をA君に施せるということは、そこに公的な基準がある
ということです。他者がその公的基準に基づきA君に分化強化を施すのは、そうすることに
より他者がA君から強化されるからです。
このような相互強化を可能とするには、両者が生活様式or行動様式を共有していかなけれ
ばなりません。それこそが共同体の公的基準となっているのです。共同体の公的基準に
基づく他者からの間接的な分化強化によって、自分の私的事象を弁別しているのです。こ
れが任意の成員(A君)における自己意識の成立です。他者によって間接的に分化強化さ
れて成立せざるを得ない任意の成員(A君)の弁別反応は、定義上言語行動となるのです。
よって、言語発生と意識発生のシンクロするのは帰結となるのです。
518 :2001/08/23(木) 00:40
(2)の根拠について。意識発生が言語発生とシンクロする以外にも可能である根拠は、私
的言語が成立することを立証しなければならないということです。ヴィトゲンシュタインは、
私的言語をあり得ないものといています。ヴィトゲンシュタインの懐疑は、それまでの「言語」
が「意味」を「別に」持ってると解釈する哲学のあり方です。そのような「言語」とは別に「意味」
を認めると、「私的言語の可能性」というものが想定されることになりますが、その存在は…。
その懐疑から、「言語」には、「言語」とは別の「意味」というものは存在せず、共同体の中で
獲得された規則に基づく「言葉」の関係性しかない、ってことを言い出したわけです。
例えば、実際にはあり得ないのですが、無人島で一人で育った少年が、独自に言語を獲得
したと想定してみます。仮にそんなことがあったとしたら、その少年の獲得した言語は私的
言語と呼べるでしょうか?よく考えてみると、彼の言語が何らかの形で我々の言葉に通訳で
きるものなら、当然、それは単に暗号化された言語というだけで、ちっとも私的言語ではない
し、翻訳できない場合はそもそも言語ではなく、私的言語でもありえないということです。
この考え方から、意識の発生が言語発生とシンクロする以外に、(私的事象に対する)弁別
反応は言語共同体による分化強化がなくても可能」であることを示すことが必要になります。
そのためには、
A:「『言語共同体による分化強化』以外の何らかの分化強化が私的事象に随伴する可能性」
   を示すことがまず第一に必要であり、さらにまた、
B:「分化強化を必要とせずに、1回の偶然的な強化によっても弁別反応が形成される可能性
   (般化によるものを除く)」
を示す事も必要となります。そして、そんな可能性は想定できないのです。


長くなっちゃったけど、以上です。
519名無しさん@1周年:2001/08/23(木) 00:41

どうででしょうか?拙い説明でしたが、だいたいは理解できたでしょうか?該当スレは

心理学板では「知的レベルの分岐点」としてみなされています。レベルとしては「大学の
学部生でそれなりに勉強したもの」ぐらいでしょうか?宗教板にも心理学を口にするもの
が多いようですので、是非、トライアルしてみてください。理解可能で興味があれば、第
2部へと進んでみてくださいな。
宗教板なのに、なぜ心理学の専門用語を連発したか?迷ったのですが、やはり渡海難
氏の回答(>>299-300)にあるよ「真理を求める喜び」を名スレと呼ばれるものの理解を
通して知って欲しいからです。そして、比較して「なぜ人を殺していけないのか?」という
好奇心を満たす【検証的実験】が、いかに下らないのかに気づいて欲しいのです。
520名無しさん@1周年:2001/08/23(木) 00:42
さて、「なんで人を殺しちゃいけないの?in宗教板」にテーマを戻します。

昨今の特に少年による異常な犯罪事件に付随して、「心の闇」「透明な存在」「心の空洞」
などと表現されます。要するに、自分の「心の実感」というものを感じ取り難くなったときに、
異常犯罪などを犯してしまうこともある、ってことですよね。そして、それに共感してしまう
少年も多いようです。
今の述べてきた行動分析から、「心の実感」というものは、その本質において「言語共同体
による間接的な分化強化によって形成、維持されている、私的事象に対する弁別反応」と
みなすことができます。一言で言えば、「心の実感」「自分とは何か?(その元となるのは、
自己意識)」は、「言語共同体」を離れては成立しないのです。
「心の闇」「心の空虚感」を感じたら、言語共同体、すなわち身近な人々との当たり前のやり
とりや、自分が刺激を受けてきもので誰もが手に取れる可能性があるものを蓄積すること
が必要になるのです。
日常生活の中で、人は、なぜ勉強するのか? なぜ本を読むのか? なぜニュースを見る
のか? なぜ働くのか? なぜ家族を大切にするのか? …
すべてに共通する答えが、■『心の実感』を失わないようにするため■なのです。
これが、私の立場からの「生きる目的とは何か?」に対する回答になります。
その他、「宗教における『(正)神』とは何か?」に対する回答にも繋がるのですが、それは
スレ違いということで。

そして、生活の営みの中で■『心の実感』を失わないようにするため■には、言語共同体の
「公的基準」、当たり前のルールを大切にすることが絶対条件となるのです。
521名無しさん@1周年:2001/08/23(木) 02:56
522名無しさん@1周年:2001/08/23(木) 04:25
関係ないけど「十一言神咒」これってどう読むか知ってるか?
523mj:01/08/30 23:27 ID:9hie8zpA
 なぜ人を殺してはいけないのか?
正当防衛や、戦争、凶悪犯罪者の処罰以外で人を殺すことは禁止されています。
 それはなぜでしょうか?
それは殺す側ではなく、殺される側になったとき、理由もなく突然に殺されるのは誰も望まないからです。
 なぜ人を殺してはいけないのか?という風に、あたかも自分は不死身で、どんな攻撃を受けても死なないという態度をとることはできません。
 そういう発言をするのは、不老不死になってから言うべきでしょう。
 なぜ人を殺してはいけないのかという傲慢な意見を述べる者が、瞬時に抹殺されても、誰も悲しまないでしょう。
 その質問の中には、人を殺すことは簡単で、しかも自分は無敵で、怖いものは何もないという思想が隠れています。
 しかし、どんな戦闘のプロでも、強靭な肉体を持ち、忍耐力に優れ、殺人術にたけて、強力な武器を所持していても、人間は不死身ではありません。
 それは死というものを理解してない、あまりにも無思慮な質問だといえるでしょう。
 よく法律を無視してどんな悪いことでもやるという人がいますが、そういう人でも法律で守られているのです。
 もしも法律がなければ、悪人も長生きはできません。
 他人の殺人を禁止するには、自分もそれを守らねばならず、やたらに人を殺すものは、正当防衛の原則により、すべての社会の人間が処刑する権利を持つことになります。
 つまり人を殺す者は、あまり長い期間がたたないうちに殺されるでしょう。
 解雇する者は、解雇されるし、いじめをする者は、いじめられるのです。
 それが基本ルールです。
524名無しさん@1周年:01/08/30 23:50 ID:9P0GElSw
痛いから(藁
525名無しさん@1周年:01/08/31 15:20 ID:uqIIl6gY
>なんで、人を殺してはいけないのか
と言う問いで必ず直接的に身体に危害を加えたこと
だけの議論で終わってしまうが、それなら、間接的に
人に危害を加え死に至らしめた場合は良んですか?
ストーカーなんて一種そういうものであるし精神的に追い詰めている
人の場合も、本当は人を殺して面白がっている部類に入るんじゃない?
例えば、殺人までには、至らなかったが、6〜7年前に起こった
朝鮮のミサイル実験を期に在日朝鮮人の学生に対してチィマチョゴリ
の制服破いたり脅しをかけたりとした事件について
在日朝鮮人はこのミサイル計画とはなんら関係ないし下手をすれば
自分も犠牲になるのだから、わざわざ、そんな事を支持するはずも
無いのに、ミサイル計画と関連ずけて危害を加えると言う事は、
人としてどうなんですか?
まるで、第二次世界大戦中に起きた関東大震災での朝鮮人が暴動を
起こすと言うデマで朝鮮人の大量虐殺が起きた事を彷彿させる事件
でしたが。
チィマチョゴリの一件も今は殺せば殺人罪に問われるから、しなかった
だけで殺したかっただろうと思いますね。
526名無しさん@1周年:01/08/31 15:23 ID:uqIIl6gY
本当の所、日本人って社会に対して危害を加えるような物と結びつきが在ろうが
無かろうが、事実であるかどうかとか、そんな事はどうでもよくて
自分が正当化できることであるなら人に危害を加えても許される、下手を
すると殺してもかまわないと言う考えを持っているのではないの?
本当の正義や人命尊重と言うのはこういう物?
本当にそうした物を貫くのなら事実関係をきちんと確認するべきでしょう。
日本は何年立ってもその辺の所は変わらぬままで本当に、偽善だと思いますね。
しかも、チィマチョゴリでそうした日本人の危険性を唱えていた人が
いたにもかかわらず、その後起きた松本サリン事件の河野さんの一件もそうした
国民性を色濃く出した一件、一例でしょ。
日本人は常に平和の誓いとか、人命尊重なんて言葉を口にするが
本当にそう思っている人の数はいるの?
法律がなければ人を殺したいと思っていたり、それが、面白いと思って
いる人の方が多いんじゃないの?
そうした、思いが在るからイジメとか在るんじゃないの?
後、人の命って尊く無いみたいだよね、人の命より
人に付いてくる付加価値の方がホントは大事じゃないの?
もう、無理に学校教育で現実離れした命の価値観教えないで
付加価値が大事だって教育すればいいのに。
実際価値の無い人間は必要ないでしょ?
又、価値の無い人間はいないって言う人いるけどそれ、
本気で言ってるの?
世間体気にしてるだけなんじゃない?
527名無しさん@1周年:01/08/31 15:44 ID:ajzD6Fqk
結局、日本人の言う人を殺してはいけないなんてことばや正義
と言うのは道徳的ものでなくて自分が正当化する為に存在する物
であって、自分が優越感に浸れるような物であれば嘘でも関係
なくともなんでもいいんじゃない?
世の中人殺しはいけないと言っておいて、人に死ねと言っている人は多いし、
そんな事を言ってるときの人間の顔って本当に楽しそうだからね。
なんで人を殺しては駄目なのかの答えは、社会的に正当化できれば
殺していいって事。
取り合えず、法律があるから、我慢してるだけで、自殺に追い込めば
法に問われず合法的だから、そういう手段を試行錯誤して皆さん
行っているというところでしょ。
もうそろそろ、口だけの偽善はやめたら?
こんな事、どこでも日常茶飯事に行われている事でしょ。
528名無しさん@1周年:01/08/31 15:44 ID:dWGeC5J6
もし人を殺してよいとしたらそれはどんな時にでしょうか?
529名無しさん@1周年:01/08/31 15:56 ID:dWGeC5J6
あと人を殺すより大きな悪があるとしたらそれはなんでしょうか?
530名無しさん@1周年:01/08/31 16:16 ID:oGLkpWKU
社会的に見て気に食わない人間がいることが
人を殺すより大きい悪。
この場合、その人間に対して気に食わないと思う共感する
人間が多ければ多いほど例えそいつを殺しても殺した人間は
社会的に同情、共感されるだろう。
人によっては殺す事が正義となるときがある。
殺す事は悪ではない。
531名無しさん@1周年:01/09/02 11:44 ID:gMdoc5co
keep
532TSJ:01/09/02 21:24 ID:FxQhzyv.
殺したいと思ったら殺せばいいんだ。
でも漏れだけは殺さないでね(藁
533あん:01/09/03 00:57 ID:obFTR.Kw
しぬ、しぬう〜
534名無しさん@1周年:01/09/03 09:16 ID:SO5.6wHg
渡海難の見解を求む
535昔話:01/09/03 20:16 ID:AVd2engA
私が子供のころのバアの話
人間にはそれぞれ二人の神様がついていて、一人はそのひとの良い行い、
もう一人は、悪い行いを記録しているそうな。
そしてその人が死んだときに、閻魔大王に行動のすべてを報告して
地獄にいくか極楽にいくかが決まるそうです。
その良い行いを教えたものが道徳だそうです。
人を殺すことは、その人が良い行いをしようとしているのを
じゃまするとても罪なことだそうな。
536名無しさん@1周年:01/09/04 16:58 ID:1A66SWns
人を殺さなくとも良い行いを邪魔する人間は
五万といます。
こういう人たちはころしていいんでしょ?
537名無しさん@1周年:01/09/04 17:09 ID:Y6tUn6QQ
全ての人にとって死は必然です。
よって、神は人殺しです。
死にたい人は殺してあげてもよいと思われます。
俺は今のところ死にたくないが。
538名無しさん@1周年
かなり容量がでかくなってしまいましたので、
次スレを立てさせていただきました。
移動してくださいな。


なんで人を殺してはいけないの?in宗教板2
http://61.121.247.239/~kikaku/post/test/read.cgi?bbs=psy&key=999658722&ls=50